大城好子
「ひめゆり学徒隊の手記(1)」

轟然と音がひびいたと思ったら、もうもうたる硝煙が壕をおおい、ぱっと青い光が目に映じた。
先生! 先生! とさけぶ声。
お母さん! お母さん! と呼ぶ声。
兵隊の怒号も入り交じった。安里千江子が、
「親泊先生! 外へ出ましょう。逃げましょう」とかすかな声。
外間安子の声。
「ああ苦しい。玉代勢先生! 東風平先生!」
「助けて! 新垣先生! 奥里先生!」
先生を呼び続けている。
「静かに! 最後までがんばるんだ。これくらいでおじけるな。大丈夫だ。気をしっかりしろ」
目もあけられなかった。
神谷ノブ子が私の手をしっかり握りしめていた。
「みんながんばるんだぞ。先生もいっしょだ」
玉代勢先生の声がした。近くに幼児の泣き声。ああこれが最後だ。親にもあえず人にもしられず、この洞窟に死んでいく。地の底にのめりこむようにして、意識はもうろうとなってしまった。
母が白いフロシキをひろげてもってくるような幻があらわれた……。

それからなん十時間たったであろうか。壕の入り口からさしてくるさわやかな光が、まぶたにふれ、幻のようにかすんだ意識がしだいによみがえり、こうこつとして夢からさめたようであった。
すっかり意識を回復して気がついてみると、私は尖った岩の上にのっかっていた。私の身体の上には兵隊の屍がのしかかっていた。屍にはウジがわき、くさった肉をウジの蚕食する音がはっきり聞きとれた。頭は石のように重く、手足の自由もきかず、身体中がずきずきいたんだ。
神谷さんがまだ手をしっかり握っていた。ゆりうごかしても返事がない。よく見ると神谷さんの頭はなかった。手を握っている神谷さんの頭はふっとんでしまっているのに、いったい自分はどうしてたすかったのだろうか。身体をさわってみたが、全然無傷であった。私はただぼうぜんとして恐怖もなく、涙も出なかった。幾十の屍の中にたったひとり生きているのであった。

ようやく孤独の感が身にせまり、私はわっと泣き出した。手を見ると、神谷さんの握っていたところは白くなっていた。はなした神谷さんの手はかたくなっていた。背中は痛み、寝返りもできない。声は全く出なかった。
やっと起きあがってすわってみた。銀バエがもっ黒く屍にたかっていた。ブーンと銀バエが飛び立ったので、振り向くと、屍がむくむくとうごきだした。私はぞっとしてあとずさり、身の毛がよだってぶるぶるふるえた。屍の間からほおけた髪があらわれたのである。なんというおそろしい面相であろう。なにか手まねきをして訴えているようだが、声はかすれて聞きとれなかった。
亡霊! 亡霊! とさけぼうとした。ああ、それは亡霊ではなく、守下ルリ子であった。だんだん近くにいざりより、のどをおさえながら水をもとめているのであった。鍾乳石のさきからしたたるしずくを、一滴一滴ためている茶碗のなかにウジがはいった。そのウジを取り払ってルリ子さんにあげると、ため息をつきながら飲み干して、ようやく生気をとりもどした。


山城信子
「ひめゆり学徒隊の手記(2)」

まっくらな壕が40あまりもずらりと並んでいた。壕の中にはランプが一つ二つ、夜昼となくともされていた。雨降りのあとのように、しずくがひっきりなしに頭の上にしたたり落ちた。歩くとばたばたとズボンのすそが泥だらけになった。地面から高さ10センチとない寝台がぎっしりといくつもならべられ、傷病兵が三、四十人もずらりと寝ころんでいた。寝台と言っても薬品の空箱や雨戸を利用したものばかりであった。
頭、顔、胸、腹、背、手、足とほうたいでまきつけられた負傷兵のうめき声は昼夜たえることはない。これが私たちの勤務する陸軍病院壕であった。各壕には四人ずつ割り当てられた。はじめのうちは二人ずつの交代勤務であった。
「便器を貸して下さい」
「尿器をお願いします」
と前後左右からひっきりなしに呼びつけられる。そのうちに、
「看護婦さん、すみませんがほうたいをとりかえてくださいませんか」
と弱々しい声。
行ってみると、ほうたいが膿みで表面まですっかりぬれている。ほうたいをときガーゼをはなしたとたん、膿が水のように流れ出た。いやな臭気がぷーんと鼻を突く。手も膿ですっかりぬれて、まるで水アメのようにねちゃねちゃする。
もっと患者の傷を清潔にしなければ……と心の中で深く念じても、壕にはほうたいはもちろんピンセット一本さえなかった。ましてや消毒液なんかあろうはずがなかった。ただ三日に一度、軍医の治療を待つしかほかがなかった。その治療も四日に一度、五日に一度とのびていった。

「次はそちらの治療番です」
と隣の看護婦さんの声がすると、いっさいの仕事を二、三人のつきそい兵にまかせ、なにものかに追われるように全員がその準備にとりかかった。
「やあ、ありがたい、ありがたい」
「看護婦さん、なんとかおてやわらかに願いますよ」
と微笑する者。昼間の砲弾の音もこの一時は聞こえず、
「あいたった……うーん……」とうなるばかり。
「ばか! 軍人のくせに泣くやつがあるか!」
とどなる軍医の声にみんなしゅんとなった。少しでも丁寧にゆっくりと包帯をまいていては軍医の治療にまにあわない。
「こらっ!そんなのろのろもあて治療にまにあうか! さっさとやれ!」
怒鳴られて胸がどきどきして手がふるえる。
「この患者はもう少し切開する。足をつかまえておけ」
消毒液からメスとピンセットをとりだしたかと思うと、傷口から10センチくらいさっと切ってしまう。血の気がひいてふらふらする。
「これくらいで貧血を起こして看護婦と言えるか。バカヤロウ!」
軍医の声に、ハッとして気をとりもどす。地と膿が手から流れ落ちる。患者は泣き声をたてる。また軍医がどなる。すばやくふきとってほうたいをまく。
こうした患者が幾人かいる。三、四十人の治療も三、四十分ですんでしまう。まるで動物を料理するようで、我が身が切られるような思いがした。
治療がすむと、しばらく壕のなかはしーんと静まりかえり、まっ白いほうたいにまきかえられた患者は、すやすや寝入る。
もう10時をまわっている。つきそい兵の運んでくる夕飯がなによりもまちどうしいらしい。やがて、玄米のおにぎりが一つずつ順々に配られる。わずかの水でふいてもらったその手をさしのべて、子どもがおやつでももらうように、むしゃむしゃ舌をならしながら食べている。

五月になって戦いはますますはげしく、病院の丘の木という木、草という草も姿を消した。最初40人を収容した壕に7,80人が収容され、私たちもその頃から生徒壕には帰らず、負傷兵と一緒に住み込むようになった。
専任看護婦一人、生徒四人、寝る場所さえない。三日ぶりに三、四時間暗い空箱を利用して寝たこともあった。
いままでつきそっていた衛生兵も一人残らず原隊へ送られ、一切私たちだけでやらなければならない日がやってきた。壕の出入りは夜間でも安全ではなかった.しかし出なければならない仕事はかえって多くなった。昼間は二交代で寝て。夜間に起き出して、飯あげ、水くみ、埋葬、新患者の受け入れなど夜の明けるまで続いた。
傷兵の傷はいっこうよくなっていくようすが見えないばかりか、治療不十分と不潔、栄養不良のため日々衰弱していく。衣服が膿ですっかりぬれてくさり、そのうえシラミが、あまい砂糖にたかるアリのように全身にわいてくる。とくに患部にはひどく、ウジまでもわいた。とってもとっても減りはしない。骨と皮になり、目玉を大きく見開いて、息もとぎれとぎれになり、身動きすらもできず、シラミ、ウジのうごきにまかせてじっとしている患者も多くなった。
精神に異常をきたし、裸体になり傷の痛さも忘れてあるきまわってひとりごとを言い、隣の患者を打ったり、包帯をとったりする者や、どなっている者。
また薬不足から患者は、ほとんど破傷風、ガスエソとなって毎日毎日倒れていく者が多くなった。硬直した身体をけいれんさせながら。寝台から落ちて地べたで泥にまみれている破傷風患者。五分おきに寝台から落ちる。あげてやってもまた落ちる。もう根気が尽きて、とうとう自分まで泣いてしまった。

患者は死のまぎわになると、一段と水をほしがる。しかし水桶に少しの水もないことが多い。七、八十人の患者に、朝と夕食後に配ってしまえばなくなってしまう。そのうえ、ときにはあまりの砲撃の激しさに一回もくみにゆけないことさえあった。いくら要求されてもどうすることもできなかった。
新里という防衛隊の兵隊がいた。発熱患者の頭を冷やすために使っていたよごれ水を、いつのまにはいよってきたのだろう。ガブガブと飲んでいる。かけつけて奪い取ろうとしても手をはなさない。
「看護婦さんどうもありがとう。もう何の願いも望みもありません。ほんとうにおいしかった。あなたのご恩は死んでも忘れません」と言い終わったかと思うと、しずかに息をひきとってしまった。
こうした死体は毎日平均死,五人。朝と夕方の空襲の合間を見いだして埋葬した。四、五メートルおきに弾痕がある。崩れかかった坂道をタンカで運ぶときの苦しさ。なんどか死体を落として、またタンカにのせた。そうした仕事は、私たちにとっては一日たりとも休むことは出来なかった。次の収容人員にさしつかえるからである。
毎日死亡者の数は増したが、それ以上に新患者が入ってくる。仕事が忙しくなるにつれ、傷つき戦死を遂げる学友も多くなった。


宮良ルリ(旧姓守下)
「私のひめゆり戦記」より

 学徒出陣壮行会
 昭和二十年に学徒出陣がありました。勉学中の学生には、徴兵延期が認められていたのですが、もはやそれも許されなくなり、入隊させられることになったのです。
 その時、八重山出身の生徒は現地入隊になるので、同郷の女子師範の生徒たちで壮行会をしてくれないかと野田貞雄校長からすすめられ、初めて公然と男女が会合を持つことになりました。
 私たちは敷布団カバーで千人針を作り、安里八幡や波上に行ってお守りをいただいてきました。小遣いを出しあい、校長先生にもいくらかカンパしていただき、下級生は農家をまわって料理の材料集めをしました。上級生は腕によりをかけて自慢の料理をこしらえ、首里大中町にいた本科一年の宮良永則さんの下宿で心のこもった壮行会が開かれました。
 その時、本科二年の宮良英加(みやらえいか)さんがお札の言葉をのべました。英加さんは成績が優秀で、短距離の学校代表選手でもあり、本当にすばらしい青年でした。英加さんのお礼の言葉を聞いて、場内はしーんと静まりかえりました。
「今日は大変ありがとうございました。私たちは入隊することになりましたが、故郷に帰ることもなく、息子を戦場に送る親の言葉を聞くこともなしに出陣することを考えると、残念でたまりません。しかし、この壮行会を開いていただいて、私たちの気分もいくらか紛れました。入隊するにあたり、一つ話しておきたいことがあります」と前置きしました。
「私は徴兵検査がくりさげになって十九歳から入隊しなければならないということを聞かされたとき、頭の先から爪先にかけて、鉄の棒をつきさされたようで、非常に残念でたまらなかった。師範学校に入学したからには、一度は生徒を教えてみたかった。年老いた両親が一枚の卒業証書を待ちこがれているのに、それを見せることもなく、勉学の途中で入隊しなければならないというのは非常に残念でならない。しかしいったん戦場に出たからには生きのびて帰れるとは思えない。女の人は男子より助かる機会が多いから、生き残ったら必ず伝えてほしい。戦争は非情なものだ。どんなに勉強したくてもできない。したいことがまだまだたくさんあったのに。戦争のない時代に生まれたかったということをのちのちの人に伝えてほしい」としめくくったあと、八重山地方の踊りを舞いました。
 戦争が終わったあと、初めて英加さんの言葉が私の胸の奥深く残っていたことに気づきました。
 全出陣学徒を代表して決意をのべたのもこの方でした。
 英加さんは、その後、沖縄戦で傷を負い、南風原陸軍病院に運ばれてきました。右手をやられ、切断しなければならなくなった時、「軍医殿、手は再生できないでありますか」と毅然として聞いていたそうです。
「ばかもん、きさまは学徒兵のくせして、それぐらいのことがわからんのか。手が再生できるもんか」とどなられたと聞きました。手を失うことはどんなにかつらかったことだろうと思います。英加さん重症というほどではなかったようですが、戦場などで多く発生するガスエソ菌が傷口から入り、その菌がからだにまわって、頭まで侵されてしまいました。
「アッバー、アッバー」と八重山方言で母親を呼びながら亡くなったということです。

 非情な別れ
 食糧探しに出ていたある日、ぐうぜん、一高女四年の真志喜ツルさんの家族に会いました。お父さんとお母さんが子供四人を引き連れ、鍋や釜を持って疲れきったようすでした。
 伊原に来てからの生徒には、看護活動はほとんどなかったので、両親が真志喜さんに「私たちといっしよに逃げてくれないか」と頼んでいました。そのことを真志喜さんが先生を通して鶴岡診療主任に告げたところ、宮崎婦長がかんかんに怒って、全員のいる前に真志喜さんを呼び出しました。
「なにを言っているか。ここは戦場だ。支那大陸だったらどうする。大陸で戦っている人が親といっしよになれるか。私たちは沖縄を守りにきているのに、沖縄人であるあなた方が逃げるとはどういうことか」と絶叫して、さんざんどなりちらしました。真志喜さんは泣く泣く家族と別れました。
 真志喜さんの家族は壕を見つけることもできず、近くのかこいだけが焼け残っていて、そばに木が一本立っているだけの山中小屋を、お金を出して借りて隠れたのです。少しでも砲弾から身を隠すことができればと思ったのでしょう。
 私たちと別れて四、五時間たったころでした。第三外科壕に真志喜さんの弟二人(三、四歳と六、七歳)が泣きわめきながらやってきました。
「姉さん、お父さん、お母さんが……」
 生徒のみんなは、「ええっ」と言って、すっ飛んで行きました。近くに爆弾が落ち、爆風でふき飛んできた粟石に両親はおしつぶされて即死です。あまりにも悲惨な惨状を見て、私たちは途方にくれてしまいました。両親にとりすがって泣いていた真志喜さんの姿が、四十年後のいまなお目の前に浮かんできて私を苦しめます。
「真志喜さん、あなたは残された二人の弟の面倒を見なければいけないからね」と全員で相談して、真志喜さんを逃しました。
 その途中、真志喜さんは弾に当たって亡くなりました。戦後、二人の弟は孤児院で生活しているという噂を聞いたのですが、確かな消息はわかりません。
 首里が落ち、南部へ逃れてきた住民は、年寄りや子供を引き連れ、煮炊きのための鍋釜を持ち、鉄の暴風の砲弾から少しでも身を隠せる所を探し歩いていたのです。住民が右往左往しているようす、母親は死んでいるのに、おぶさっている子供は生きている情景、血だらけになって死んでいる子供をおぶった母親、それらはまさに地獄絵そのものでした。
 やっと壕の中に入れても、子供が泣くと米軍にさとられるから出て行けと言われて、おろおろうろたえながら、嵐の吹き荒ぶような弾の飛びかう中にすごすごと出ていく母親、それはおよそ人間のすることとは思えず、人間が人間でなくなってしまっていたのです。こんな戦に巻き込まれた沖縄住民ほど悲惨な姿はありませんでした。

 さまよえる航空少年兵
 八重山中学三年生に通事正浩という生徒がいました。私と同じ登野城小学校出身で、私の後輩にあたります。
 通事さんは少年航空兵に合格し、土浦に入隊することになっていました。しかし、石垣港からの船便がなく、やっとの思いで那覇に着いたら、本島の合格者はすでに出発したあとだったのです。船に乗りおくれ、十・十空襲のあと、与儀に移っていた軍司令部に通いつづけて船を待っていたのですが、結局、泊の部隊に入って軍と行動を共にしていて、負傷してしまったのです。
 私たちが食糧探しに出かけている時、通事さんが第三外科にやってきて、壕に残っていた人に「自分は八重山中学の通事正浩です。八重山出身の守下ルリさんはいませんか」と書いた紙切れを手渡したので、私が呼ばれたのでした。頭から顔にかけて包帯をぐるぐる巻いて、目と鼻の下の部分だけをあけた状態でした。服は戦争中だというのに白地の浴衣姿でした。
 その姿を見た時には、誰だかわからず、近くに男子師範の生徒たちが来ていると聞いていたので、同郷の男子師範の方だろうと思っていました。白い包帯は血と泥にまみれて汚れ、目だけがぎょろぎょろと動いていました。南風原であれはどすごい傷を見てきたのですが、同郷ということで肉親のように思えて、思わずからだがふるえました。通事さんの声が出ないので、二人は筆談をしました。
「ぼくは通事正浩です。傷ついたので第一外科壕に石垣節さんをたずねて行き、手当てをしてもらったが、第一外科壕には患者を入れる余地はないということで、第三外科の守下をたずねるように教えてもらった」ということでした。
 そして、「波平の第一外科から伊原の第三外科に来るのに四日はかかった。どうか、この壕に置いてください」と書くのです。私はこれを読んでいて、涙がはらはらと流れ落ちました。部隊からはぐれ、地理もまったくわからないところで、おまけに負傷までしているのです。どんなに心細いだろうと思うと、胸がしめつけられるようでした。玉代勢先生にお願いし、先生から診療主任の許可をもらって壕に入れてもらうようにしました。
 包帯を解くとウジがぽろほろとこほれ落ちました。咳こむと口の中からウジが飛び出してきました 顎をやられ、歯はぐちやぐちやになって、重油ランプを近づけて傷口を見るとウジだらけです まるで便所の中でウジがうようよしているような感じでした。ピンセットを使って、ウジを一つ一つていねいに取ってやったら、さっぱりしたようすでした。
しかし、通事さんも結局、第三外科の壕でガス弾にやられて亡くなりました。


伊波(旧姓比嘉)園子
「ひめゆりの沖縄戦」より

「師範の生徒はぜったい捕虜になってはいけない。自決だ」
 私たちは結局どうにもならない最後のときには、いさぎよくりっぱに死ぬことを約して、時期を待つことにしました。海に入って死ぬ自信のない私は、隣の岩かげにいた中尉に、日本刀で切ってくれるように頼んでみました。「時期が来たら」とこころよくひき受けてくれましたが、八人だと言うと、「そんなにおおぜいはとても切れない、せいぜい三人までだ」と断られました。「死ぬときはみんないっしょでなければいやだ」というのがみんなの意見だったのです。
「与那嶺先生がすぐ隣の穴にいらっしゃるわ」
 目ざとい一人が告げました。今朝とうとう仲宗根先生のところへ行けなかった私たちは、与那嶺先生に聞こうと思ったのでした。
「一人のほうがいい」というみんなの意見で、また私が使者になりました。
「いまになっては、私からどうせよと言えるものではない。また言うべきでもないと思う。各自の意思にしたがったらよいとしか言えない。ただ、あなたがたは女の子だから、兵隊の立場とはちがうのではないだろうか。私としては、スパイ行為さえしなければ、出ていってかまわないのじゃないかと思う。しかしそうしなさいとは言えない。まあ、各自の意思にまかせることだ」
 静かに語る先生の言葉に、私は漠然とながらある一つの道を見いだしたような気がしました。

 6月22日、軍曹以下三人の兵隊と私たち四人は、今日一日をしのぐために、いろいろと偽装することをはかりました。入り口近くに倒れている兵隊をそのままにしておくこと、入り口はそのままあけて、横穴を小石でふさいで、その中に入っていることなどを話しているとき、すぐ近くでマイクが、
「ジュウミンハ、カイガンヘオリヨ。ケッシテウタナイカラ、アンシンシテアルケ」
 とくりかえしているのが聞こえてきました。しかしそんなことはどうでもよかったのです。ただ、いよいよきたなという気持で、からだがひきしまる感じがしました。しばらくすると、
「私たちも入れてください」
 と三、四人の友だちが入ってきました。あとから、あとから何組も何組もやってきました。兵隊たちは返事をしませんでした。しかし拒んだり、遠慮したりしているときではありませんでした。すぐ近くまで米兵がやってきていることが、だれの身にも感じられたからです。
 陽はもう中天高く昇り、まぶしい光を放っていました。
「比嘉さん、あぶないわ、そんなところでは」
 言われて気がつくと、いつのまにか横穴はいっぱいふさがっていて、私たち何人かは、正面の通路に腰掛けているのでした。
「きみたち、他人の穴に入ってきて、いい場所を占領しちゃ困る。席をあけてやれ」
 ふきげんな兵隊がどなりちらしました。
「いいえ、だいじょうぶ。たいしたことないわ」とは言いましたが、友だちはみんなで少しずつ寄り合って席をあけてくれたので、上半身だけをどうにか横穴に入れて、通路に出ている足をちぢめられるだけちぢめました。
 五分、十分、どのくらいときがたったのでしょうか。銃声はしだいに近くなり、靴音までが聞こえてきました。
 かたずをのみ、目をつぶった瞬間、ババンと銃声がとどろきました。
「あっ、見つかったのだ」
 息をつめて、10秒、20秒、二度目の銃声がして、岩の破片がバラバラと降ってきました。細く目をあけると、目の前は赤、青の火花がパチパチと飛び散っていました。と同時に息づまるようでした。
「ああ・・・う・・」
「苦しい、苦しい」
「出ましょうよ」
「外で死んだ方がいい」
 と苦しい声、声、声。
「比嘉さん、あなたから出てよ」
 奥のほうで島袋さんの声がしました。
「ええ、出るわ」
 つと立ち上がったとたん、私は前にのめりました。
「あっ、私やられている。島袋さん、あなた出てよ」
「それでは、私が出る」と島袋さんは、かきわけて出ていきました。「いま、みんな出るから撃たないでよ」と叫びながら。
 私が入り口まではっていったとき、だれかがうしろから抱き上げて岩の上に出してくれました。そのとき、
「出よというとき出ないから、こんなことになるのだ」
 そんな声が聞こえました。

 荒崎海岸の岩穴で、大兼久良子と島袋トミ、私が負傷、安富祖嘉子、仲本ミツ、上地一子、軍曹らが即死。二メートルも離れていない別の岩穴で、平良松四郎先生と九人の一高女生徒が手榴弾自決を果たしたことを、一年近くも後になって私は知ったのでした。

 母はしきりに、亡くなった友の家を訪れてお焼香してくるようにと言っていましたが、私はどうしてもそれができませんでした。
 一周忌の法事もとりおこなわれたと聞いたとき、いつまでもこのままでは申し訳ないと意を決して、まず隣り部落の仲本ミツさんのお宅へうかがったのですが、お母さんから、
「あなたは無事でよかったね。まだ戦争が終わったことを知らずにかくれている人たちがいるとのことだから、うちのミツちゃんだってきっとどこかの壕にかくれているにちがいないよね!」
 と言われて、私はもうなにも言えませんでした。
 名護の屋良ヨシさんんぽお宅へうかがったときも、やはりお母さんは同じようなことを言いました。
 戦死の通知が来て、終戦から二年近く経っても、遺族の方々には娘や息子、夫の死を確かめることはできなかったのです。じっさいに死に目に会っていない、死んだ場所もわからないでは、あきらめようにもあきらめきれないのでした。

ひめゆりの悲劇はなぜ起こったのか

 五月二五日、南風原を撤退したひめゆり学徒たちは、各外科ごとにそれぞれ南部のいろいろな地域の壕に入りました。本院は山城に、第一外科は波平に、第二外科は糸洲に、第三外科は伊原に、糸数壕にあった分院は伊原の第一外科壕にと分散していました。そのときはもう治療といえるような治療をほどこせるような状態ではありません。ひたすら砲弾の雨をさけて隠れていたといってよいでしょう。
 六月一八日、分院を解散するという命令が下ります。その日のうちに各壕に伝令が届きました。しかし、伊原の第三外科壕では翌一九日早朝、米軍のガス弾を受けて、学徒41人、教師5人が犠牲になりました。生き残った生徒はわずか5人に過ぎませんでした。
 仲宗根政善先生はつぎのように語っています。
「六月一七日、米軍司令官バックナーが牛島中将に降伏の勧告をした時点では、ひめゆり学徒の犠牲者は11名だった。その翌日、学徒隊は陸軍病院から解散を命ぜられた。一九日には、現在のひめゆりの壕で、ガス弾をほうりこまれて、職員正と5名が無惨な最後を遂げた。その他多くは、沖縄最南端の断崖に追いつめられて命をたったのである。ひめゆりの塔に祀られている学徒は194名。なんと悔しい思いか」
 牛島司令官は一九日「最後の一兵まで戦え」と最終命令をだし、二二日摩文仁で自決しました。
 住民の命を守らない軍隊は、民衆を巻き込み、軍民混在となって南部へと戦争をひきのばしたために、死ななくてもよい人たちが死んでいったのです。


上原仁太郎
当時九才の少年だった人の体験記

昭和20年、小禄に海軍が陣地を作りましたが、私たちはそのちかくのお墓のなかにひと月くらい暮らしていました。
家族が女と子どもばかりのため、だれも相手にしてくれなかったので、人の出ていった後の防空壕に入りました。防空壕に移るのは、昼は空襲や艦砲がはげしいので、夜だけでした。
ちょうど雨季に入った頃、父が部隊から一時帰ってきました。母はとても喜んで、「もう部隊に行かないで」と言いましたが、「もし日本が戦争に勝ったら、自分は逃亡兵としてさらしものにされるから、そんなことはできない」と、母の引き留めるのも聞かないで、ははとおばあさんと幼い私たちを残して、戦場に行きました。(この少年の家族は父親が防衛隊に召集され、80歳の祖母と、母親、少年と、7歳、5歳、2歳、生後8か月の男の子ばかりの7人家族)
それから半月もしないうちに、おなじ小禄出身の人が部隊から逃げてきて、父の戦死を知らせてくれました。父は弾に当たって一度倒れてから起きあがり、「天皇陛下万歳」といって死んだそうです。一徹者の父なら、きっとそういう死に方をしたと思いますが、父の死を聞いた母は、半狂乱になっていました。

ある日、入り口に近い炊事場が艦砲にやられて、鍋が吹き飛んでしまったので、夕方、私と母は隣の壕に鍋や釜を借りに行きました。
そのころ米軍機の攻撃は夕方の五時ごろまでで、その後は偵察機のような小型機が飛んでいました。小型機に見つかると、すぐに艦砲射撃がはじまるのが常でした。
その日の夕方、私と母が小型機に見つかったかなと気付いたとたん、目の前に艦砲射撃の砲弾が雨あられのように飛んできました。アッと思う間に母の前に落ち、母は砲弾の煙の中に消えてしまいました。驚いて身を伏せ、艦砲がやんだ後、母に近づくと、母のふとももが砲弾で切り裂かれ、髪の毛は白く焼けただれて、手を触れるとその髪の毛がパサリと根本からくずれ落ちました。
夢中で母を壕の中に入れ、傷ついた太ももには、食用の豚の脂をぬってありあわせの布でしばりつけました。

母が負傷した後は、おばあは動けないし、弟たちは幼いし、私が食料のことを考えなければならないので、芋掘りに行きました。あるひ芋掘りにいっているとき、米軍機の機銃掃射を受けました。そのとき弟は大きな芋をみつけその芋を掘るのに夢中でしたが、私が投げたクワが弟の頭に当たり、弟の頭が割れて、血が出ないで白い脂みたいなものが出てきました。
防空壕に帰ってから弟の頭に、私は母の傷に手当をしたように、白い豚の脂を塗りましたが、熱の出ている弟の傷はみるまにその脂をとかしてしまいました。今度は芋の葉に味噌をぬって、弟の頭につけてやりました。そしたら不思議に弟の頭の傷は化膿もしないで、そのままかたまってしまいました。
そのころ、アメリカの飛行機からいろいろの物資が落下傘にtけて投下されていました。たぶん広報陣地への物資だと思います。
その箱を開けてみると、チョコレートやカンヅメ、タバコにガム、ビスケットばどがはいっていました。はじめは住民を毒殺するための食料だと思いましたが、食べ物もないし、どうせ死ぬなら何も食べないで死ぬよりも、食べて死ぬほうがよいと、食べてみると、おいしく、毒もないことがわかり、その食料をあつめて、壕の中に持ち帰り、二三日それでひもじい思いはしないですみました。

ところが八ヶ月になる赤ちゃんの食料はありません。拾ってきた食料は食べ尽くし、おばあが、「どうせ死ぬのなら自分の屋敷で死にたい」というので、近くにいたおばさん夫婦をよんできて、屋敷に近い壕に、母をオーダー(もっこ)にのせて、移りました。それから二、三日たって、急に母が悪くなったのです。私たちがいたずらをすると「そんなことをしてはいけない」と注意をするのです。そして私に、「お前は一番年上だから、弟たちの面倒をよく見なければいけないよ」と言いながら目をつぶりました。
母は息をひきとったのです。そして母が死んだとたんに、傷口から血がどくどくと吹き出してきました。母は重症の身で、気力だけで生きていたのだと思います。息を引き取ると同時に、体内にあった水と血が同時に吹きだしてきたのです。
母が死んでから、末の弟があまりのひもじさに泣きやまないので、母のおっぱいをみると丸くふくらんでいるので、ちょっと押してみると白いものが出てきました。私は弟にその乳をのませました。すでに息を引き取った母の死体の乳でしたが、死後二日目ぐらいまで弟はその乳を吸っていました。
母は負傷してから二週間くらい生きていました。死んでから三日くらいしてから、なんとか埋葬しようと思い、おじさん、おばさんを探して、防空壕の土を掘って埋めました。母の死体を埋めるとき、誰一人私たち兄弟は泣きませんでした。

一番下の弟は母が亡くなってから食べさせるものがないので、毎日ワアワア泣いていました。
そのころ、日本兵が篤厚にいく前だと言って私たちの壕にきましたが、弟があまりに泣くものだから、自分があやしてやると、私から弟をひきとって連れていき、まもなく防空壕で変な声がしたので、いってみると、弟は殺されていました。首にタオルをまきつけられ、顔には紫の斑点があって、むごたらしい姿をしていました。
その兵隊は陸軍の兵隊でした。私たち兄弟は、母の死体の埋めてある場所を掘り起こして、そのそばに葬りました。そのとき弟が「お母さんかわいそう」と母の顔にタオルをかけ、母の胸に弟の死体を抱かせるようにして、埋葬しました。


宅島徳光
当時24歳の特攻隊員の恋人に宛てた手紙
(注)慶応大学生の学生で、海軍のパオロット。本土沖で戦死

 はっきり言う。俺はお前を愛している。しかし、俺の心は、今ではお前より大切なものを蔵するようになった。それはお前のように優しい乙女の住む国のことである。
 俺は昨日、静かな黄昏の田畑の中で、顔も見えない遠くから、パイロットの俺たちに頭を下げてくれた子供たちのいじらしさに、強く胸を打たれた。もし、それがお前に対する愛よりも遙かに強いものだといったら、お前は怒るだろうか。否、お前は俺の心を理解してくれるだろう。
 ほんとうに、あのように可愛い子供たちのためなら、命も決して惜しくはない。自我の強い俺のような男には、信仰というものがもてない。だから、このような自分の感動を行為の源泉として持ち続けていかねば生きて行けないことも、お前は解ってくれるだろう。俺の心にある、この宝を持って、俺は死にたい。


集団自決生存者の手記

(沖縄県史10巻より)

 鬼畜の如き米兵が、とび出して来て、男は殺し、女は辱しめると思うと、私は気も狂わんばかりに、渡嘉敷山へ、かけ登っていきました。私たちが着いた時は、すでに渡嘉敷の人もいて、雑木林の中は、人いきれで、異様な雰囲気でした。…村長の音頭で天皇陛下万才を唱和し、最後に別れの歌だといって「君が代」をみんなで歌いました。自決はこの時始まったのです。

 防衛隊の配った手榴弾を、私は、見様見まねで、発火させました。しかし、いくら、うったりたたいたりしてもいっこうに発火しない。渡嘉敷の人のグループでは、盛んにどかんどかんやっていました。…若い者が、私の手から手榴弾を奪いとって、パカパカくり返えすのですが、私のときと同じです。とうとう、この若者は、手榴弾を分解して粉をとり出し、皆に分けてパクパク食べてしまいました。私も火薬は大勢の人を殺すから、猛毒に違いないと思って食べたのですが、それでもだめでした。

私のそばで、若い娘が「渡嘉敷の人はみな死んだし、阿波連だけ生き残るのか−、誰か殺して−」とわめいていました。その時、私には「殺して−」という声には何か、そうだ、そうだと、早く私も殺してくれと呼びたくなるように共感の気持でした。

 意地のある男のいる世帯は早く死んだようでした。私はこの時になって、はじめて、出征していった夫の顔を思い出しました。夫が居たら、ひと思いに私は死ねたのにと、誰か殺してくれる人は居ないものかと左右に目をやった時です。私の頭部に一撃、クワのような大きな刃物を打ち込み、続けざまに、顔といわず頭といわず…。目を開いて、私は私を殺す人を見ていたのですが、誰だったか、わかりません。そのあと死んでいった私の義兄だったかも知りません。私は、殺されて私の側に寝ている二人の息子に、雨がっぱをかぶせました。