詳しい自己紹介
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昭和43年5月18日午前4時ぐらいに産まれたらしい。      
幼少期はとにかく。女の子によく間違われていたようです。

 3歳ぐらいの時の話らしいのですが、象の背中に乗って、象の背中の毛が異常に痛かった記
憶があります。
親の話によると、大阪で万国博覧会が行われた時に、家族で出かけ、タイだったか、インドだ
ったか、忘れましたが、どちらかの国のパレードで、その国のおねーさんに見初められ、本当
は乗せてはいけなかったらしいのですが、乗せてもらったらしのです。
その時のおねえさんの言った言葉が、カタコトの日本語で「かわいいおじょうチャンですね〜」


 またまた3歳ぐらいと思うのですが、僕自身まったく記憶の無い出来事ですが、家族旅行に
行った時の話です。今は亡き父の
恐ろしい性格の一部を聞いてください。
ある子供ずれの家族がいました、子供がたいそうしんどそうだったので、どうしたか聞いたとこ
ろ、旅の途中で「はしか」に感染した、と言う事でした。それを聞いた父が、僕がなめていた飴
を取り上げて、その子に舐めさせ、僕の口に戻したのです。翌日発症。
父の後日談、「病名がわかってるから、心配せんでええやろ」  

  さて次は4歳ぐらいの話、ある夜、僕が夜中にワンワン泣いていたそうです、なぜ泣いてい
たかはおぼえていませんが、父がたいそう怒り出し、家の外に僕をほうりだしました。
その当時、家族4人6畳一間、風呂なしのアパートに住んでいました。玄関はスリガラスで叩き
割ると簡単に泥棒が入れるような作りでした!まあそんなアパートに盗みに入っても盗むもの
なんか、ありゃあしませんが。
裸足で放り出されたにもかかわらず、そのガラスを蹴破って中に入り、足は血まみれ、母親オ
ロオロ、でも父は・・・・・・

 武勇伝をもう一つ。
ある日、母に連れられ買い物にでかけました(自転車二人乗りで)
まあ、毎日のように乗っていたと思いますが、いつも自転車の後ろに乗っている時に思ってい
た事がありました。
「回っている車輪に足を突っ込むとどうなるのだろう?」
その日遂に試してみました、いや〜大変な事になりました。
でもこの事はは誰にも言えませんでした、偶然に足が入ったと言う事になってます。
 

  小学生時代
 叔父が結婚した時の話です。
新婚旅行に行くといえば、たいがいの場合新郎新婦2人で行くと思いますが、成川家は少し違
った。
僕とこの家族4人に父や叔父の友達家族やら、団体で淡路島に出かけました。
そして泊まったホテルで子供は子供で集められて1つの部屋で寝かされた気がします、さて大
人は大人で集まって何をしていたか、
部屋にストリッパーを呼んで、宴会していたらしい。しょうがない大人たちでんなあ。

  小学5年ぐらいの時、母が「胸になんかしこりのような物が出来たと」と言っていた。
ある日近くの病院に診察にいきました。そこの医者はイマイチ病名が判らなかったらしいのだ
が、とりあえず、しこりの部分だけ手術で取り除く事になったらしく、しばらく入院していました。
無事手術を終えてしばらく元気に生活していたと思います。(ここの部分記憶がはっきりしない)
しばらくして、症状が悪化。
遠くの大学病院に入院してしまった。

僕は二人兄弟で兄がいます、兄は親父似で僕はたぶん、母似だと思います。当時二人ともそ
んなに深刻に考えては無かったと思うが、ある日、
父が「お母さんに手紙を書いてはげましたって」と言った時なんとなく子供心に「死」という言葉
が浮かんだ記憶があります。
最初の手術の時に医師が乳がんと認識して、しかるべき手術をおこなっていれば、そんなに深
刻な事態にならなかったらしいのですが。

 
 小学5年生と中学1年生の兄弟にとって、突然母がいなくなる、と言う事がどれほど大変なこ
とか、徐々に身にしみて行く事になります。
食器を洗うことさえまともに2人とも出来なかったのだから。

 どれくらい、入院していたか、全然憶えていないが、果てしなく長い日々に感じました。
でも遂に退院の日がやってた。
嬉しくて嬉しくてたまらなかったのに、それをうまく伝えられなかった。だめな息子だ。

 先日母の誕生日にプレゼントを贈った。おそらく、30年ぶりぐらいだろう。
その日のうちに、お礼の言葉が留守番電話に入っていた。ワンワン泣きながら一生懸命しゃ
べっていた。親こうこうは生きているうちにしか出来ない、父には出来なかった親こうこうをこれ
から母にはしていこう。と思っている今日この頃だ。

 ところで、小学5,6年は近所の相撲道場に通い、学校のクラブは読書クラブと、園芸クラブ
に所属!そろばん塾にも通っていた。まさにスーパー小学生だった?
 
小学生の頃、鮒の解剖の授業があった。
命の尊さの観点からこの授業をおこなわない学校もあったと聞く。
命の尊さを説くなら屠殺(とさつ)場の見学に行ったり
保健所に行って野良犬や野良猫の末路を見るのもいいだろうと思うのだが。
昨今の日本では哺乳類を殺すシーンを大人は子供に見せたがらないようだ、
しかし魚類ならば子供に殺させていじくり回してゴミとして捨てる。昆虫類も同じような扱いか
な。
自分は教師に解剖を命じられた時拒否した。
しかし最終的には強制的にやらされたのだが、
その教師にも他の教師にも聞いた

「教科書に解体した写真が載っているのになんでわざわざ殺さなあかんの?」
ほとんどの教師は同じような回答をしていた。「お前は魚を食わないのか?同じことだろ」
自分は言う 「食うために殺すのと、ただ殺すのやったらぜんぜんちゃうやんか」
教師はこうだ 「屁理屈ばっかり言うとったらあかんぞ」


  中学時代


 そろそろ音楽にかかわって来ます。
始めてシングルレコードを買ったのはたしか中学1年生、杉良太郎の「すきま風」
遠山の金さんの大ファンでした。(シブイゼ〜)ちなみに、杉良太郎の金さんだけが好きでした。
その他の人たちは、ほとんど見なかったのです。

  始めて買ったLPレコードは中学3年だと思いますが、寺尾聡の「リフレクションズ」いまだに
ほとんどの曲を覚えてます。

  当時ツッパリ全盛期で僕の学校でも校内暴力の嵐が吹きあれていた。

  ちょう度、金八先生2が大人気で、「腐ったみかんの方程式」が一世を風靡し、加藤と松浦
が警察に連行されるシーンに誰もが涙した時代。
なめネコも大ブレーク!横浜銀蠅にダウンタウンブギウギバンドに矢沢永吉、
ロックンロール全盛期でもあった。
しかし、自分は中学2年生の時にアリスに目覚め、ギターを遂に始めたのだった。

 当然の事ながら、歌も歌ってました、弾き語りですな。
とにかく目指せ谷村新司で毎日毎日家で大声張り上げて練習の日々を送っていた。
当時弾き語りの出来るやつがあと2人いて、一人はさだまさしを目指しているやつ、もう一人は
オフコースを目指しているやつ、火花散るライバル関係でありながら、2年の文化祭で3人でバ
ンドを組み、出演することに決定した。

 たしか2,3曲演奏したと思いますが、アリスのチャンピオンしか覚えてない。
体育館に2年生約400人集合して、みんな静かに聴いていたのが妙におかしな文化祭だっ
た。
ちなみに全校生徒で1000人ぐらいのマンモス校だったので体育館に全員は入らなかったの
だ。
先生がマイクのセッティングにとまどって、あたふたしていたのも面白かった。
そうとう、うけていた気がするのだが・・・気のせいかもしれない。しばらく3人とも学校のヒーロ
ーになった、と思い込んでいただろう。


 さて、文化祭も終わり、そろそろ進路について考えはじめる2年生の秋、10月に突然剣道部
に入部。
3ヵ月後に2級10ヵ月後には1級を取得。
3年の9月には市の大会でベスト8入りを果たす。
(受験勉強しろよ〜)って感じだ!。
一応剣道は高校1年までつづずけるも、型にこだわる昇段試験に疑問を感じ退部する。
(日本の武道は基本的に型にこだわります。たとえば空手の極意は一撃必殺ですが、そのた
めに伝統的な型をひたすら鍛錬するようです、しかしK-Iのリングに上がるとキックボクサーの
ような試合をします、勝つために合理的なテクニックで勝負するためでしょう。伝統的な型は僕
にはむいていないようです)

話が前後する

  当時名前に誇りを持っていたかどうかは不明だが

中学1年の1学期の英語の授業ですべては決まった。
今でもそうなのかは知らない、始まりはおそらくは太平洋戦争終結後だと思う。
中学1年の義務教育、その英語の授業の始め、自己紹介をする時英語では姓と名を逆にする
と習う。
自分は教師に聞いてみた「アメリカ人が日本に来て日本語で自己紹介する時、名と姓を逆に
はしないのに、なんで日本人は逆にしないとあかんねん?」
すると教師の答えはこうだった「屁理屈ばっかり言うとったらあかんど」
自分の質問が屁理屈だとは今でも思えないが、その時に誓った、金輪際英語の勉強はしない
と。
という訳で中学生時代の英語のテストは0点〜10点くらいが平均点だった。
最高点をたたき出したのが中学3年生の2学期くらいだったろうか、高校受験が控えていたの
で初めて英語を勉強した、その結果30点くらいだった。
ちなみに英語で自己紹介する際に姓と名をひっくり返す国は日本くらいしか無いのではと推測
される。
中国人民も朝鮮民族もひっくり返す事はないようだ、誇り高き人たちだと思える。
その後数年前に駅前留学したが見事に留学先が倒産、約8万円くらいの授業料を踏み倒され
ることになる。
つくづく英語と縁が無いと思い知らされた。



  激動の高校時代
 
とにかく高校生活は色々あった。
入学した高校は工業高校で同級に女子は2人しかいなかった。
偏差値が高いとは言えない学校なのだが、異常なほどに校則が厳しく、教師のなかに、よく生
徒を殴り倒し、街中でもよく喧嘩をしてくる気合の入った人がいた。
今ならすぐにクビになるだろう。
 とりあえず自分は1年の2学期までは,まじめに勉強していた。
1学期の中間テストなど学年で10番以内に入った気がする。1年の3学期くらいから、
「餃子の王将」でアルバイトを初めて悪の道に染まりだすのであった。

  高校2年の時に軽音楽部に入部。ハードロックを始める。
当時コピーしていたバンドはアースシェイカー、44マグナム、聖飢魔U、子供ばんど、アルカト
ラス、デビットリーロス、などである。

 2年の時ほとんど授業に出なくなり部活だけに顔を出す。
それまでの時間はよく映画館に足を運んでいた。バイトで金も有るし、色んな映画を見た、一つ
だけどうしても忘れることの出来ない映画がある「レイザーバック」と言う映画だ巨大なイノシシ
が出てくる映画だ、あもりにも面白く無かったので強烈に憶えているのだ。
レンタルビデオ屋さんでも見かけた事がない。もし見かけたら是非見て欲しい一品である。
見ればたちまち忘れられない映画に成るでしょう。

  あと「ストリート オブ ファイヤー」という映画をみて主演のダイアン レインに恋もした。
(映画の内容はまったく覚えていない)相手役のマイケル パレがあまりにも男前なので打ちひ
しがれながら、いつかダイアンを俺のものにするで〜シャキナベイベ〜などと思ったかどうかは
定かではない。

そういえば中学2年の時にさよなら銀河鉄道999を映画館で見た時はメーテルに恋をして、1ヶ
月ぐらいは放心状態で生きていた。
小学校のときは山口百恵と絶対に結婚するつもりでいた。その後はピンクレディーのミーちゃ
ん命だった。
柏原芳江もそうとう好きだった。岩崎宏美、中森明菜、ナウシカ(風の谷の)も好きだった。
きりがないのでこの辺でやめておこう。

 授業にほとんど出ていなかったので当然進級できずに留年。
2回目の2年生の5月に事件は起こった。
出席するときはだいたい遅刻ぎりぎりの電車に乗って改札出てから踏み切りを渡らないといけ
ないのだが、大体踏み切りは降りている、ほとんどのやつは踏み切りをくぐり猛ダッシュで学校
に滑り込むのだが、大体自分はちゃんと踏み切りがあがるのを待ち悠々と遅刻していた。
そしてその日はたまたま新任の若い教師が守衛室で生徒を指導していた。
いつもはベテラン教師がいて軽く怒られて済むのだが、その日は少々違っていた。

 詳しいことは、ほとんど覚えていないが、とりあえず若い教師がいきなりキレたのだ。
軽い押し問答の後、いきなり殴りかかってきた、一応、元剣道部としては、反射的にパンチを
かわし、カウンターを入れてしまったらしい。
校則で教師への暴力は退学と決まっていたのであっさり退学になる。
それでも、担任の先生は色々と擁護してくれた。
「相手の教師をつるし上げて退学だけはならないように頑張る」とまで言ってくれた、嬉しかっ
た。
が、すでに辞める決心がついていたのでそのまま退学になった。

高校を退学になったのは18歳、東京の武蔵野音楽院に入学したのは23歳の年。

約5年間、仕事して呑んだくれる 日々を送っていた。(つづく)