ここから山頂の「山上の丸」を目指します。
 「山上の丸」への道は「中坂道」とよばれ、ほとんど真上に登る急な石段です。
山頂登山口
山上への道「中坂道」
山頂まで約25分。
五合目にある大権現の祠
山上ノ丸「ニノ丸」跡
山上ノ丸「本丸」跡
天守台から見た本丸跡。
本丸の井戸跡「車井戸」
関ヶ原合戦後、城主となった池田長吉が1602年(慶長7)から行った城内大改築の時に掘った井戸と伝えられている。
山上ノ丸「天守台」石垣
久松山山頂、山上ノ丸の本丸西北隅に築かれた天守櫓跡。
石垣のみが残る。

<国指定史跡>

■久松山全景
鳥取市北東に位置する久松山(きゅうしょうざん・標高263m)。

鳥取城は、久松山の山頂と山麓に城郭が築かれ、山頂の戦国時代の山城(山上の丸)と、麓の近世城郭の平城(山下の丸)からなる城。

山上(さんじょう)の丸にはかって天守があったが、現在は天守台が残るだけで、遺構はほとんど失っている。
山下(さんげ)の丸は久松(きゅうしょう)公園として整備され、石垣が整然と並び、仁風閣(じんぷうかく)・県立博物館などが建つ。

■別名
久松城

■所在地
鳥取県鳥取市東町

[鳥取城の歴史]
 因幡を統治した山名氏の出城として、1545年(天文14)に山名誠通(やまなのぶみつ)が久松山に築いたと伝わる。1581年(天正9)、当時の鳥取城主山名豊国は、羽柴秀吉の鳥取城攻めによって、同盟を結ぶ毛利氏に背いて秀吉に降ったため、家臣に追放されたともいう。代わって城主に吉川経家(きっかわつねいえ)を迎えるが、秀吉の2回目の鳥取城攻めで落城し、経家は自刃。
 

 関ヶ原の合戦後、姫路城主池田輝政の弟・池田長吉(いけだながよし)が城主となり、山上・山下の城域を拡張した。
1632年(寛永9)、岡山城に転封した池田光政に代わって池田光仲(みつなか)が入り、以後、鳥取城下は光仲を藩祖とし、直系子孫によって明治まで12代238年間つづいた。

 尚、天守は池田綱清時代、1692年(元禄5)に落雷で焼失し、以後再建されなかった。その為、城の中心は二の丸となり、二の丸が「本丸」とよばれるようになり、御三階櫓が天守代用として鳥取城を象徴した。

▲鳥取城の場合、山頂の天守は軍事的には重要であったが、平和な時代が続くと次第に役割を失い、元禄年間の焼失以後再建されなかった。逆に、山麓の郭が整備され、藩政の中心としての役所が整備されてくる。二の丸が政治を行う場であり、三の丸が藩主の居住する場所であった。鳥取・津和野など古い時代には山頂に城を築く山城が多く、松江城のような平城は関ヶ原の戦い後の平和な時代の築城である。
(鳥取県立博物館にて撮影・一部加筆の上、転載)

▲山下の丸(鳥取城二の丸跡)に残る御三階櫓台と仁風閣
背後には久松山がそびえ立ち、山頂には2層天守(最初は3層)が建っていた。丸の内に建つ仁風閣は明治40年建立。

▲御三階櫓の石垣と仁風閣
御三階櫓は、山上の丸「天守」焼失後、天守の代りを果たした。

▲鳥取城跡「山下の丸」「山上の丸」を望む
内堀に沿った石垣上は丸の内、中腹には二の丸の石垣群が現存する。「山上の丸」には天守台、郭跡などが残る。

▲御三階櫓台

{鳥取城周辺図}

2000石の上級家臣、箕浦家にあった表門。もと鳥取城の堀端に建っていたが、1936年(昭和11)、鳥取県庁近くに移築。入母屋造りで、武者窓・海鼠壁の長屋門。

箕浦家武家門

天守台からの眺望「鳥取砂丘」

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【交通】
JR山陰本線鳥取駅下車。
バスで約5分〜10分(方面別、バス会社による)の裁判所前下車、又は西町下車、徒歩3分。

鳥取城
鳥取城跡探訪
麓の平城を巡る。藩政時代、内堀には「大手橋」と「北の御門橋(現在は宝珠橋)」が東西に架かっていた。「山下の丸」には櫓台の石垣が残り、近年復元整備されている。

遺構〜石垣、堀、井戸、天守台
再建造物〜城門

大手橋(復原)
登城口(中の御門)で欄干橋とも呼ばれた。


内堀に架かる大手橋

大手橋の北に位置する宝珠橋方向を眺める


宝珠橋を渡った所の「北の御門跡」

大手橋を渡った所に残る「中の御門跡」

仁風閣
二の丸麓に建つフレンチ・ルネサンス様式の建物。1907年(明治40)池田家14代仲博が建て、当時皇太子だった大正天皇の山陰行啓の宿舎として使用された。


宝隆院庭園側から見る仁風閣(重要文化財)

鳥取城で唯一の城門
1975年(昭和50)再建。宝珠橋から二の丸に至る途中にある。


二の丸側から見た城門

二の丸跡


二の丸の石垣

御三階櫓台


御三階櫓跡

天球丸
城主池田長吉の姉・天球院の居所があったことからこの名がつけられた。


二の丸から望む鳥取市街

仁風閣と鳥取市街
真中の道を真っ直ぐ行くとJR鳥取駅。