《長篠の戦い》
 天正3年(1575)5月、武田勝頼軍1万5千が、徳川家康の将奥平貞昌以下5百が守る長篠城を包囲して攻防約10日、織田信長3万・家康8千の援軍は、5月18日西方4キロの設楽原(したらがはら)に到着して陣を築く。

 武田軍は20日長篠城の囲みを解いて設楽原へ進出、21日は夜明けとともに織田・徳川軍の陣地に突入し壮絶に戦うが、数千挺の銃撃(火縄銃)にさらされ歴戦武勇の将士の多くを失った、勝頼は数騎に守られて敗走した。
長篠城概略

◆長篠城は、豊川本流(寒狭川(かんさがわ))と、宇連川(うれがわ)の合流点の断崖上にあり、本丸・帯郭・野牛(やぎゅう)郭・巴城(はじょう)郭、瓢(ふくべ)郭・弾正(だんじょう)郭等、総面積約10ヘクタール。

長篠城の遺構
  
郭 跡


弾正郭
 長篠の戦いではここまで武田方の手に落ちた。石垣は後世のもの。

野牛郭
 JR飯田線の東側に本丸より一段低く築城されている。


二の丸帯郭
 本丸の北側にあたり長篠城址史跡保存館が建つ一帯。

本丸
 長篠城の立地は、豊川と宇連川との合流点の頂部に位置し、2本の川によって扇状の地形が形成されている。そのため、この地形に即して「末広城」の別名がある。本丸は、扇の要に当たる場所に配されている。
 長篠城は、平地に造られた平城であるが、西には豊川、南には宇連川が流れ、このふたつの川が削る河岸段丘は50m以上の断崖を形成している。

  
本丸の北東部にわずかに残る「土塁」と「堀」



土塁

急峻に仕上げたこのような土塁を今日では切岸と呼ぶ

土塁上から望む堀
 本丸と二の丸帯郭(写真上部)の間の堀。かつては水堀であった。


土塁上部
 
 野牛郭


野牛郭(線路左)と本丸の間を貫通するJR飯田線
 
線路右は本丸の土塁と堀。かつては線路上にも土塁が築かれていたと推定され、線路によって分断されている。


殿井(とのいど)
 河岸段丘の砂礫層と岩盤の境から湧き出る泉である。城兵の貴重な飲料水であった。


野牛郭
 物見櫓跡、厩跡とされる窪地や井戸があり、平坦部の大半は発掘調査で確認された貯水池的な遺構が占めている。

本丸から見下ろす野牛郭
 長篠城址の南端部になる野牛郭の前方は、宇連川と寒狭川の合流点で渡合(どあい)と呼ばれる所。向かいの橋は牛淵橋。上の白い道路は新東名高速道路。


 長篠城址史跡保存館


 現地に残された武具や出土品、参戦将士子孫からの提供品、他に古文書などを収蔵し、長篠の戦いの全容を展示資料で見ることができる。
 城跡は散策自由であるが、保存館は入場料要。

 
血染めの陣太鼓
 長篠籠城の時に使った陣太鼓。当時の血がついている。奥平家第一の家宝であった。
 
火縄銃と弾丸
 
軍配団扇(ぐんぱいうちわ)
 軍を指揮する道具。柄が長い方は室町末期のもの。柄が短い方は江戸時代のもの。

◆永正5年(1508) 今川氏の将 菅沼元成 築城。
◆天正3年(1575)11月徳川家康は、奥平貞昌を城主に任命し城郭整備。5月、武田勝頼の猛攻に耐える。
 (現地説明板より)

 ▼本丸の土塁と堀
  

【所在地】 愛知県新城市長篠字市場
【アクセス】 JR飯田線/長篠城駅下車徒歩10分
【訪問日】2016年6月再訪問
           

 国指定史跡
長篠城址

 《長篠城は、元亀2年(1571)には一旦武田方に属したものの、2年後の天正元年には徳川方に降った城でもあり、天正3年5月に奪い返そうとして武田勝頼は長篠城を取り囲んだ。
 5月8日から毎日のように攻撃を仕掛けるものの、奥平貞昌以下500の城兵はよく戦って防ぐが、少人数で城を守るにも限りがあるため、貞昌は救援の使者として鳥居強右衛門を岡崎へ向かわせた。
 徳川家康はその報告を受け取ると、かねてからの約束通り織田信長の助けを借りて5月17日には設楽原へ出陣する》


              ▼武田軍が長篠城を取り囲んだ武田軍五つの砦(長篠城本丸から望む)
              

(現地説明板より)

▼武田勝頼軍が長篠城を囲んだ布陣図
  戦国時代に、長篠城をめぐる戦いは3回行われたが、ふつう「長篠の戦い」という場合は、天正3年(1575)5月の戦いを指す。そしてこの戦いは前の部分の「長篠城の攻防」と、後の部分の「設楽原の決戦」の二つに大きく分けることができる。

 甲斐の武田軍にとって長篠城は、信州の山間を通って三河の平地に出るところにあり、やがて京都をのぞむためには、大事な拠点となる城と考えられていた。

(はりつけ)に散る烈士 鳥居強右衛門(とりいすねえもん)
 
鳥居強右衛門磔刑の図
(長篠城址史跡保存館展示品)
武田軍に包囲された長篠城を脱出し、岡崎城に行き、援軍
要請に成功後、帰途敵陣に捕らわれ磔刑(たくけい)となった。

  5月14日、武田軍は総攻撃をしかけた。城中の食料はあと4,5日分だけ。その夜、鳥居強右衛門は、徳川家康へ救援を依頼する使者として長篠城を抜けでた。梅雨の時、増水の寒狭川へおりて豊川をくだること4km。

 15日朝かんぼう山(雁峰山)で脱出成功の狼煙をあげ、岡崎へ走った。(長篠-岡崎は50km) 岡崎には援軍の織田信長も到着していた。家康、そして信長の前で城の危急を訴えまわりの人々も感動した。使命を果たして、休養をすすめられたが、彼はすぐ引き返した。

 16日の朝、再びかんぼう山で「援軍きたる」の狼煙3発。そして長篠城の対岸まできたが厳重に警戒する武田軍に捕らえられた。

 武田軍から「援軍はこない城を開け、武田軍は厚くもてなす」と呼ばるよう説得されて長篠城二の丸近くに立った。(この時城は本丸と二の丸だけ残る)しかし「援軍はくる。この眼で見てきた、あと2,3日、堅固に守れ」とさけんだので、対岸の篠場野の地で磔にされた。

 強右衛門その時36才。18日、織田、徳川3万8千の軍は設楽原に到着して陣をしいた。


鳥居強右衛門 磔死之趾
 この道の突き当りあたりで、強右衛門がはりつけにされた。樹木で見えませんが後方は長篠城跡。


 長篠城本丸のフエンスに掛けられた鳥居強右衛門の働きと、磔の場所の説明板。樹木が無ければ寒狭川と磔の場所(左写真)が見えるのですが。
 《設楽原へ到着した織田・徳川連合軍の総数およそ38000は連吾川の西側に陣をしき、馬防柵(まぼうさく)を築いた。これは当時日本一と恐れられていた武田軍を迎え撃つために、信長が考え出した戦法である。
 つまり、武田軍を柵の前におびき寄せて、隠し持った鉄砲3000挺(1000とも3000ともいわれている)を撃ちかけて一気に勝敗を決しようとする方法であり、このため、信長は、はるばる岐阜から柵木を持ち運ばせていた》

 
               ▼復原された馬防柵と設楽原古戦場
                連吾川の西沿い2kmにわたって馬防柵を造り、勇猛な武田軍の騎兵隊に備えた。
                
 馬防柵
 天正3年「設楽原の戦い」に用いられた馬防柵を再現したものである。当時、天下無敵とうたわれた武田の騎馬隊をこの柵で防ぎ止め、その内側にあって鉄砲でねらい撃ちにするために造られた。
 
 後方の丘陵地は信玄台地。武田軍が布陣した所。

 織田・徳川連合軍にとっては、勝利を呼ぶ重要な布石であり、逆に武田軍にとっては、勝利を阻む痛恨のしがらみとなった。
 
馬防柵背後は弾正山
 
名和式「鉄砲構え」
設楽原決戦に備えて織田・徳川軍が構築した「鉄砲構え」乾堀と、
馬防柵と、銃眼付きの身がくし(土塁)の三段構えであった。
古文献と時代考証による復原

 《一方、武田勝頼は軍議の結果、一部を長篠城監視に残しておき、大部分の軍勢を引き連れて豊川(寒狭川)を渡り設楽原へ出陣した。そして連吾川東岸の台地に敵陣を見下ろすような格好で陣地をしいた。設楽原決戦の行われた5月21日は、今の暦でいうと7月9日にあたる。
 前夜から密かに豊川を渡り吉川を通って、鳶ヶ巣山を目指していた酒井忠次は夜明けとともに武田軍陣地に襲いかかり、その喚声が遥かに聞こえてきた設楽原では、勇猛を誇る武田軍が連合軍陣地に殺到することで戦いの幕が開けられた。
 激しい攻撃が繰り返された結果、武田軍10000、連合軍6000、これがたった1日10時間足らずの戦闘で失われた尊い人命である》



              ▼長篠戦図 天正3年5月21日未明 織田・徳川連合軍対武田軍の配陣
              
               凸=織田・徳川連合軍  凸=武田勝頼軍
               ◆=馬防柵再現地  =設楽原歴史資料館 =長篠城址史跡保存館


 ▼信玄塚




 
新城市設楽原歴史資料館
 長篠の戦いの決戦場となった「設楽原(したらがはら)古戦場」信玄台地に建つ。資料館へは、車で豊川インターから17km(約35分)、JR飯田線「三河東郷駅」から徒歩15分。
 
新城市設楽歴史資料館
 
新城市設楽歴史資料館内部

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要害の長篠城

(上)牛淵橋から望む長篠城址全景<長篠城址の南端>
 豊川(寒狭川)と宇連川(三輪川)が合流する渡合(どあい)から望む。長篠城址は、豊川(左)と宇連川(右)の合流点にある切り立った断崖絶壁の地に築かれた。

(右)長篠城縄張概図
 現地説明板に追記し掲載。図は下側が「北」になります。現在は大手郭内を国道151号線が横切り、また本丸と野牛郭の間にJR飯田線が通っているため、本丸、野牛郭、弾正郭、二の丸以外はわかりにくくなっている。

▼二の丸側から望む「本丸北側虎口」~南西側以外の三方を土塁で囲み、北側虎口(写真中央)では堀に挟まれた盛土による土橋で連絡する構造であったことが確認されている。江戸時代に崩されて、現在、左手に唯一、本丸の土居(土塁)と堀が残存。後方の山は、長篠の戦いで武田軍が陣をしいた五砦。

◆要衝
 長篠の地は豊川をさかのぼって約25km、長野県、静岡県北部に通じる道中にあり、このあたりから平地は山に移っていく。江戸時代の豊川舟運も長篠城を超えるところで終点になる。
 戦国時代、武田軍と徳川軍がこの城を奪いあったいわゆる境目の城であった。(境目の城は、敵領との境に築かれた城)

◆要害

 
長篠城の南面は宇連川、西は豊川、ともに50mの断崖である。なお本丸の西北は矢沢の険しい谷である。平地への面を水堀と土居、そして外郭は柵又は屏で囲んだ。平地へ移ってきてもできるだけ天険を利用した戦国末期の典型的な築城である。

                  
                  宇連川~川の右側が長篠城址


◆土居と堀
 この正面に見えるのは、本丸の土居と堀で天正3年の姿を残している。右手に門と土橋があり、続いて土居と堀が伸びていたが江戸時代に崩されて今はない。
 堀の土はかき上げられて土居にした。堀には水を引き入れた。土居と堀は直線に進まず直線に近い出入りがある。この形はやがて近世の城郭へ移り変わる姿を見せている。
(現地説明板より)

                  
                  正面に見える本丸の土居と堀

◆本丸の土塁と堀の一部を今に残し、戦国末期の城郭の姿をよく見せている。
                      
                       
  本丸跡から見た土塁