▲天正3年の姿を残している本丸の土居と堀。堀の土はかき上げられて土居にした。堀には水を引き入れた。土居と堀は直線に進まず直線に近い出入りがある。この形はやがて近世の城郭へ移り変わる姿を見せている。
▼復原された馬防柵と設楽原古戦場
連吾川の西沿い2kmにわたって馬防柵(まぼうさく)を造り、勇猛な武田軍の騎兵隊に備えた。

【長篠城周辺図】
交通ガイド〜JR飯田線「長篠城駅」下車徒歩8分  ■地域別訪問城に戻る

武田氏家紋

織田氏家紋

徳川氏家紋

▼信玄塚

▲名和式「鉄砲構え」
設楽原決戦に備えて織田・徳川軍が構築した「鉄砲構え」乾堀と馬防柵と銃眼付きの身がくし(土塁)の三段構えであった。古文献と時代考証による復原。

▲馬防柵背後は弾正山

▼武田勝頼軍が長篠城を囲んだ布陣図

▼長篠城本丸から望む武田軍五つの砦

▲長篠戦図 天正3年5月21日未明 東西両軍の配陣 
=西軍(織田・徳川) =東軍(武田)
馬防柵再現地  設楽原歴史資料館  長篠城址史跡保存館

長篠の戦いの決戦場となった「設楽原(したらがはら)古戦場」信玄台地に建つ設楽原歴史資料館。
資料館へは、車で豊川インターから17km(約35分)、JR飯田線「三河東郷駅」から徒歩15分。

▲信玄公肖像画

▲鳥居強右衛門(とりいすねえもん)磔刑の図
武田軍に包囲された長篠城脱出し、岡崎城に行き、援軍要請に成功後、帰途敵陣に捕らわれ磔刑(たくけい)となった。

▲長篠合戦図

▲軍配団扇(ぐんばいうちわ)
軍を指揮する道具。柄が長い方は室町末期のもの。柄が短い方は江戸時代のもの。

▲火縄銃、弾丸

▲血染めの陣太鼓
長篠籠城の時に使った陣太鼓。当時の血がついている。奥平家第一の家宝であった。

▲別角度から見た本丸跡

▲本丸跡

▲主郭部土塁上に建つ長篠城碑

▲急峻に仕上げた主郭部(本丸)北側のこのような土塁を、今日では切岸と呼ぶ。

▲左写真の土塁全体像

▲主郭部(本丸)北側に残る土塁。この土塁を大土塁と呼んだ。

▲線路後方の野牛(やぎゅう)郭跡の物見櫓跡。現在城地の中心を、JR飯田線が通っている。

▲弾上(だんじょう)郭跡

▲主郭部(本丸)北側の土塁と堀

▲帯郭跡(二の丸)から見る主郭部(本丸)北側の土塁と堀

◆土居(土塁)と堀

▲本丸から見る豊川(寒狭川)

▲不忍の滝(しのばずのたき)
本流の豊川(寒狭川)に落ちこむ滝が少しづつ後退してできた滝で、侵食された本丸の西北の深い谷は、長篠城西側の天然の堀の役目をしている。

武田勝頼軍1万5千の猛攻に耐えた堅城・長篠城(ながしのじょう)<二の丸(帯郭)から本丸を望む>

左手には本丸の土居(土塁)と堀が残り、土橋状の道の奥の芝生部分は本丸跡。右手に門と土橋があり、続いて土居と堀が伸びていたが江戸時代に崩されて今はない。土塁は古くは土居と呼ばれた。後方の山は、武田軍が陣をしいた砦。

【所在地】 愛知県新城市長篠字市場

 ■長篠城は、元亀2年(1571)には一旦武田方に属したものの、2年後の天正元年には徳川方に降った城でもあり、天正3年5月に奪い返そうとして武田勝頼は長篠城を取り囲んだ。5月8日から毎日のように攻撃を仕掛けるものの、奥平貞昌以下500の城兵はよく戦って防ぐが、少人数で城を守るにも限りがあるため、貞昌は救援の使者として鳥居強右衛門を岡崎へ向かわせた。徳川家康はその報告を受け取ると、かねてからの約束通り織田信長の助けを借りて5月17日には設楽原へ出陣する。設楽原へ到着した織田・徳川連合軍の総数およそ38000は連吾川の西側に陣をしき、馬防柵を築く。これは当時日本一と恐れられていた武田軍を迎え撃つために、信長が考え出した戦法。つまり、武田軍を柵の前におびき寄せて、隠し持った鉄砲3000挺を撃ちかけて一気に勝敗を決しようとする方法。このため、信長ははるばる岐阜から柵木を持ち運ばせていた。
 
 ■一方、武田勝頼は軍議の結果、一部を長篠城監視に残しておき、大部分の軍勢を引き連れて豊川を渡り設楽原へ出陣した。そして連吾川東岸の台地に敵陣を見下ろすような格好で陣地をしいた。設楽原決戦の行われた5月21日は、今の暦でいうと7月9日にあたる。前夜から密かに豊川を渡り吉川を通って、鳶ヶ巣山を目指していた酒井忠次は夜明けとともに武田軍陣地に襲いかかり、その喚声が遥かに聞こえてきた設楽原では、勇猛を誇る武田軍が連合軍陣地に殺到することで戦いの幕が開けられた。激しい攻撃が繰り返された結果、武田軍10000、連合軍6000、これがたった一日10時間足らずの戦闘で失われた尊い人命である。

長篠城本丸跡脇に建つ博物館
 現地に残された武具や出土品、参戦将士子孫からの提供品、他に古文書などを収蔵し、長篠の戦いの全容を展示資料で見ることができる。

要害の長篠城

◆要衝
 長篠の地は豊川をさかのぼって約25km、長野県、静岡県北部に通じる道中にあり、このあたりから平地は山に移っていく。江戸時代の豊川舟運も長篠城を超えるところで終点になる。
 戦国時代、武田軍と徳川軍がこの城を奪いあったいわゆる境目の城であった。(境目の城は、敵領との境に築かれた城)

◆要害

 長篠城の南面は宇連川、西は豊川、ともに50mの断崖である。なお本丸の西北は矢沢の険しい谷である。平地への面を水堀と土居、そして外郭は柵又は屏で囲んだ。平地へ移ってきてもできるだけ天険を利用した戦国末期の典型的な築城である。

◆豊川本流{寒狭川(かんさがわ)}と、宇連川(うれがわ)の合流点の断崖上にあり、本丸を囲むように帯曲輪(二の丸)、その隣に弾上(だんじょう)曲輪、本丸手前に野牛曲輪、うしろに巴(ともえ)曲輪、瓢(ふくべ)曲輪とつづいている。総面積約10ヘクタール。

◆本丸の土塁と堀の一部を今に残し、戦国末期の城郭の姿をよく見せている。

◆永正5年(1508)今川氏の将菅沼元成(すがぬまもとなり)築城。

◆天正3年(1575)2月徳川家康は、奥平貞昌(おくだいらさだまさ)を城主に任命し城郭整備。5月、武田勝頼の猛攻に耐える。

長篠城略史
馬防柵
 天正三年「設楽原の戦い」に用いられた馬防柵を再現したものである。当時天下無敵とうたわれた武田の騎馬隊をこの柵で防ぎ止め、その内側にあって鉄砲でねらい撃ちにするために造られた。
後方の丘陵地は信玄台地。武田軍が布陣した所。
 織田・徳川連合軍にとっては、勝利を呼ぶ重要な布石であり、逆に武田軍にとっては、勝利を阻む痛恨のしがらみとなった。
 ■戦国時代に、長篠城をめぐる戦いは三回おこなわれたが、ふつう「長篠の戦い」という場合は、天正三年(一五七五)五月の戦いを指す。そしてこの戦いは前の部分の「長篠城の攻防」と、後の部分の「設楽原の決戦」の二つに大きく分けることができる。
 甲斐の武田軍にとって長篠城は信州の山間を通って三河の平地に出るところにあり、やがて京都をのぞむためには、大事な拠点となる城と考えられていた。
長篠城の遺構
長篠城址史跡保存館
新城市設楽原歴史資料館
長篠の戦い
 天正3年(1575)5月、武田勝頼軍1万5千が、徳川家康の将奥平貞昌以下5百が守る長篠城を包囲して攻防約10日、織田信長3万・家康8千の援軍は、5月18日西方4キロの設楽原に到着して陣を築く。武田軍は20日長篠城の囲みを解いて設楽原へ進出、21日は夜明けとともに織田・徳川軍の陣地に突入し壮絶に戦うが、数千挺の銃撃にさらされ歴戦武勇の将士の多くを失った勝頼は数騎に守られて敗走した。