◆小牧山城概要◆

■小牧山(国指定史跡)
 標高85.9m。面積約21万u。小牧山は、小牧市のほぼ中央、市街地の西側にあって、濃尾平野に孤立する小さな山で、昭和2年一般に公開、この年国より史跡の指定を受け、その後徳川家から小牧町(当時)へ寄付されました。

 この山は古くから桜の名所として親しまれ、今日では4月上旬に「小牧山さくらまつり」が催され、たくさんの見物客でにぎわいます。
■小牧市歴史館
 小牧山の頂上に建つ郷土資料館。昭和43年、平松茂翁(故人)が私財を投じて建設し小牧市に寄付されたもので、鉄筋コンクリート3層4階建て、高さ19.3m、秀吉が京都聚楽第に建てた飛雲閣(現西本願寺内)をモデルにして名古屋工業大学城戸久教授(故人)の設計によって建てられました。

 館内は市指定文化財の銅鐸、銅鏡をはじめ考古・民族・歴史資料や小牧・長久手合戦のパノラマなどが展示されて小牧市の歴史を知ることができます。4階は展望室となっており、信長の気分になって周囲の景色を一望することができます。

■歴史
 永禄6年(1563)織田信長が美濃(岐阜)に進出する大志のもとに、地の利を得たこの山に目を付け、清須(洲)城から移ると共に山全体を要塞にするため、山頂から麓まで5段の塁濠をつくり、山頂に屋敷、南側に大手道、北側に搦手道をつくりました。中腹には馬場をつくったり、井戸を掘ったり、また要所に重臣の邸宅を置きました。

 当時は、北側は池沼で自然の要害であったため工事は省かれましたが、南側は原野であったため大工事であって、あちこちに堀をつくりましたが、それらは今なお山中にみられます。その後信長は美濃に攻め入って岐阜稲葉城に移り住んだので、この山は自然廃城となりました。そして小牧・長久手の戦いで再び歴史の舞台に登場してきます。

■縄張

現在、帯曲輪地区は発掘調査の成果に基づいて、主として小牧・長久手の合戦当時の姿に復元整備されている。
大手口の所に小牧市役所が位置する。

■小牧山城の現況

芝生地部分が復元整備地域


合瀬川から見た小牧山

復元整備された小牧山城


曲輪跡(桜の馬場)
小牧市役所前から少し登った所。

小牧山城大手道
織田信長は、小牧山の山頂から麓まで塁濠をつくり、要所に重臣の館を置き、南側に大手道を開いたという。



堀跡

曲輪跡


主郭跡付近
頂上付近や大手道の調査では石垣が見つかり、従来考えられてきた土の城のイメージではなく、石の城であったことが判明している。



発掘調査の現場(平成22年2月現在)
史跡整備に伴う発掘調査中につき通行止めのため、迂回して南側から小牧市歴史館へと向う。

主郭跡
小牧市歴史館への石段。



小牧市歴史館4階展望室から見た主郭部

小牧市歴史館4階展望室より犬山城(左方上)方面を望む


展望室より名古屋駅(中央後方)方面を望む

◆小牧・長久手の戦い◆


小牧長久手合戦図屏風(小牧市歴史館写真パネルより)

■天正小牧山合戦
 天正10年(1582)の本能寺の変の後、信長の後継者問題で二男信雄と秀吉が対立、秀吉は信雄を懐柔しようとしますが、これに応ぜずかえって反逆したため北伊勢の居城を攻撃します。信雄は驚き家康に援助を求めたところ、信長に恩のある家康はこれを引き受け、自ら大軍を率いて清須(洲)城に入り、地の利第一の小牧山に軍を進めました。一方秀吉は大坂(阪)城を出て犬山に入り、市内の岩崎山を中心にこの付近各地に巾広く砦を築いて、小牧山の家康・信雄軍と対峙しました。この時の両軍の兵力は10万余と言われます。
 
 しかし、戦いは小ぜり合いを繰り返し、長く膠着状態が続きました。秀吉は、部下池田信輝の再三の進言によって、家康の居城である岡崎城を攻撃すれば一挙に解決するものと考え、軍の一部を密かに移動させますが家康軍に気付かれ、家康自ら秀吉軍を急進撃します。これが長久手を舞台に繰り広げられた長久手の戦いで、家康軍の完勝となりました。

            
■小牧・長久手の戦い西軍の武将
羽柴秀吉・三好秀次・池田恒興・森長可・池田元助

●羽柴秀吉
 戦国時代の末に全国を統一した武将。織田信秀(信長の父)の足軽木下弥右衛門を父とし、尾張中村に生まれた。幼名、日吉丸。

 織田信長に仕え認められた。本能寺の変で
信長死後、諸大名をおさえて政治の権力をにぎり関白太政大臣となった。
 
 小牧・長久手の戦いでは池田隊、森隊、堀隊、三好隊を岡崎城攻めの軍団とし、自らは楽田にとどまり、敗戦の報をうけて救援に向ったが家康が小幡城から小牧山に帰陣したのを聞き、楽田に引きかえした。その後家康と和睦した。
■小牧・長久手の戦い東軍の武将
徳川家康・織田信雄・酒井忠次・榊原康政・本多忠勝・井伊直政

●徳川家康
 江戸幕府の初代将軍、三河国岡崎の城主松平広忠の長子。少年時代に今川義元のもとで人質として成長。桶狭間の戦い後独立し、信長と同盟する。

 信長の死後、信長の次男信雄の請いに応じ小牧・長久手の戦いで羽柴秀吉の配した岡崎攻撃軍を打ち破って秀吉に負けない実力を天下に示した。
 
 その後秀吉と和睦し、1600年、関ヶ原の戦いに勝ち1603年、征夷大将軍となり江戸幕府を開いて270年の徳川政権の基礎をきづいた。
●織田信雄
 織田信長の次男。信長の死後、織田家の後継者を決める同盟から、羽柴秀吉の勢力が増大してきたのに不満を持ち、徳川家康と同盟を結び、小牧山砦を中心に秀吉軍と戦い、家康の長久手追撃にも予備隊として出陣した。
 
 信雄(のぶかつ)は家康、秀吉のいずれが勝者となっても、信長の後継者として天下をとることはできず不運な存在であった。



蟹清水砦跡と小牧御殿跡


蟹清水砦跡(かにしみずとりであと)
 蟹清水砦は、織田信長による小牧山への築城(小牧越し)の際には、信長の武将丹羽長秀の屋敷がおかれたと伝えられている。
 小牧・長久手の合戦には、小牧山に陣を敷いた織田信雄・徳川家康連合軍がこの砦を修復し、北外山砦、哥津(うたづ)砦とを結んで小牧山右翼の連砦を成して秀吉方の陣地に対抗し、交番で守備した。
 砦の規模は東西46間、南北61間と伝えられ、昭和20年代頃までは堀跡、土塁跡なども残っていた。
 砦は、江戸時代には小牧御殿の庭園の一角になっていて、清水が湧き、蟹がいたのでしょう、蟹清水と呼ばれていた。その後の開発によって周辺は宅地化され、現在は砦跡を示すものや清水は残っていない。



小牧御殿跡
 寛永2年に尾張藩祖徳川義直公(家康の第9子源敬公と稱う)小牧山を望む風光明美なこの地に別邸を営み小牧御殿として度々来遊されたが明治維新後は荒廃。今では小牧御殿龍神祠之碑が建立されている。

小牧山城周辺図
名鉄小牧線小牧駅付近から望む小牧山城

【小牧山城アクセス】
名鉄小牧線小牧駅よりバスで小牧市役所前下車。
または小牧駅から徒歩20分。
山頂まで徒歩15分。
〜復元整備された小牧山東麓を巡る〜

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◆小牧山年表◆
「所在地」小牧市堀の内一丁目地内
昭和2年10月26日 国指定史跡
戦国時代 永禄6年(1563) 織田信長が小牧山に築城。清須から移る。
小牧山南麓に城下町を整備。
永禄10年(1567) 信長、稲葉山城を攻略。岐阜と改称して、小牧山から居城を移す。
小牧山城は廃城となる。
小牧城下町は衰微するが、まだかなりの規模を持つ町場が存続する。江崎氏(小牧村庄屋)が小牧山守となる。
安土桃山時代 天正12年(1584) 豊臣秀吉と織田信雄・徳川家康連合軍が戦った、小牧・長久手の合戦がおこる。家康は、小牧山の信長の城跡を改修して、陣城を築く。
秋には和睦して再び廃城。
江戸時代 小牧山は尾張藩領となり、神君家康公ゆかりの地として、一般の入山を禁止。山守頭の江崎氏らにより、、大切に保護される。
元和9年(1623) 尾張藩は、居城を清須城から名古屋城へ移したことに伴い、街道の整備を計画。名古屋と中山道を結ぶ街道を開くため、小牧山南麓の町場を、東方の現在地へ移転させ、宿駅として整備。
明治時代 明治2年(1869) 明治の版籍奉還により、小牧山は国有地となる。
   6年(1873) 県立小牧公園として、一般に公開。
   21年(1888 県知事の発案で山頂付近に創垂館建設。
   22年(1889) 小牧山と尾張徳川家所有の旧第3師団北練兵場の土地を交換、小牧山は徳川家の所有となる。徳川家では、祖先の家康ゆかりの地として小牧山を保護するため、番人を置き、一般公開を止める。
   23年(1890) 徳川家園遊会小牧山で開催。
昭和時代 昭和2年(1927) 国の史跡に指定。指定にあたって地形測量図作成。
   5年(1930) 徳川家から小牧町へ小牧山を寄付。戦前は、桜の名所として親しまれる。
   22年(1947) 小牧山東麓を削平して小牧中学校建設。
   39年(1964) 小牧山中腹に青年の家建設。
   40年(1965) 小牧山南麓に小牧市役所本庁舎建設。
   43年(1968) 山頂に小牧市歴史館建設。
平成時代 平成10年(1998) 小牧中学校史跡地外へ移転。
   16年(2004) 小牧中学校跡地の史跡整備完成。