清洲城

▼公園内に設置の「清洲公園案内図」看板

「写真左」
朱の鮮やかな大手橋と、
望楼型天主閣。

「写真下」
五条川に架かる大手橋と、その先には大手門が建ち、後方に平成の天主閣がそびえる。
大手門左の建物は御殿。

【所在地】愛知県西春日井郡清洲町
【地 形】平城

織田信長  雄飛の城

よみがえった清洲城

『清洲城の沿革』
 ◇尾張守護の斯波義重(しばよししげ)が、1405年(応仁12)ごろ、この地に築く。その後、勢力を増してきた守護代の織田氏が、力を持つようになり、1555年(弘治1)、那古野城にあった織田信長は、叔父の信光とともに清洲織田家を討ち、清洲城を奪う。叔父の信光は信長に城を進上。信長は居城を那古野城から清洲に移す。信長はここを拠点として尾張から美濃へと進出していった。桶狭間の戦いでは清洲城から出陣、今川義元を破る。

 ◇その後、信長は、東美濃攻略のため小牧山城を築城。そののち清洲城から移る。信長の長男・信忠が清洲城主となる。1582年(天正10)、信長・信忠が本能寺の変で斃れると、清洲城で後継者と領地を議題に話し合う会議が開かれ(清洲会議)、次男信雄(のぶかつ)が清洲城主となる。

 ◇以後、変遷を重ねて、1610年(慶長15)の名古屋城築城開始とともに、清洲城の石材や木材が新城建設に転用され、城とともに住民までも含め名古屋へと移った(清洲越し)。清洲城は廃城となり、城跡は新田開発され、遺構のほとんどが失われた。まさに都から田園となった。現在、城跡は清洲公園となり、1989年(平成1)に「清洲城天主郭」が竣工し、清洲町の新しいシンボルとなった。

清洲古城跡(天主台エリア)の様子

名古屋城
御深井丸西北隅櫓

[メモ]木材は水に塗れると腐りやすいが、常に水に漬かった状態ではほとんど腐らない。特に松材は樹脂が多くて水に強く、折れにくいので堀底の胴木としては最適である。しかし、堀の水が干し上がって、胴木が乾燥すれば、たちどころに腐敗する。陸上の石垣には決して胴木を使ってはならない。

石垣の構造(水堀に築く石垣の場合)
 〜清洲城跡の説明看板図、石垣展示物より〜

清洲公園(本丸跡エリア)に建つ「信長公出陣の像」

清洲古城跡に建つ石碑

天主より大手橋、清洲古城跡を望む

■天主閣は、3重4階。入母屋屋根に望楼を載せた桃山時代の天守を再現。再建にあたっては、清洲城の天主に関する資料がないため、桃山時代の城郭資料を参考に設計。最上階には花頭窓を設けている。
大手門は、高麗門形式で、扉の外側は全面的に帯鉄を打ちつけている。大手橋が架かる五条川は、もともと清洲城の天然の堀の役割をしていた。

〈清洲城へのアクセス〉 名鉄名古屋本線新「清洲駅」下車、北へ川沿いに徒歩約15分。尚、無料駐車場有り

 五条川左岸の清洲文化広場には、平成の天主閣(1989年築城)がそびえる。かって天主が建っていた天主台跡エリア(清洲古城跡)には、1996年(平成8)の発掘調査で石垣の一部が発見され、展示されている。

 本丸跡(清洲公園)エリアには、桶狭間出陣の勇姿を再現した織田信長像が建つ。現在では、古城跡を分断するように東海道新幹線が敷設。

現在、清洲城には建造物の遺構はないが、名古屋城に移された西北隅櫓は、清洲城の遺構として知られる。


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◆発掘調査によってあきらかになった石垣の遺構