清洲城

織田信長  雄飛の城

【所在地】愛知県清須市朝日城屋敷1番地1
【地 形】尾張平野のほぼ中央に位置する平城
【信長公の清須城下】
 
 このイラストは信長公が居城した時代の清須城とその城郭域を想像して描いたものです。信長公時代の清須城がどの位置にあったのか、正確なことはわかっていませんが、当地もしくは、五条川対岸の清洲城公園に主郭に相当する規模の建造物があったのではないかと考えられています。 

 信長公時代の清須城は、中世の守護の館の造りを踏襲したものであったと考えられています。

 館の周りには地形を利用して堀や土塁、土塀が巡らさられ、屋敷の要所には監視用の櫓が建てられていたようです。このイラストは中世の守護の館や当時の主郭域と推定される場所の地形などを参考に、信長公時代の清須城を想像して描きました。 
 大手橋と清洲城天主閣
 ■清洲城周辺案内


 清洲城の見どころは五条川をはさんで清洲城天主閣エリア、清洲公園エリア、清洲古城跡公園エリアの3か所に分かれる。金色に輝く鯱を屋根にいただく「清洲城天主閣」は、五条川に架かる赤い「大手橋」とともに清須市のシンボル。清洲公園には昭和11年、26歳桶狭間出陣の雄姿を模した信長公銅像が建てられた。清洲古城跡公園はかつての清洲城の天主がそびえていた旧跡で信長公を祀る社がある。

 「清須越」が完了したあと、尾張の政治・経済・司法の中心は清須から名古屋へ移り、清須城とともにその城下町は歴史から姿を消し去りました。清洲城跡は新田開発され、地上の遺構のほとんどが失われた。現在、城跡は公園に生まれ変わり「清洲城天主閣」が再建整備された。

 清洲古城跡公園・清洲公園は散策自由。清洲城天主閣は入館料(大人300円)、開館時間AM9:00〜PM4:30、休館日:月曜日

(地図は現地説明板より)

 

■再建清洲城

 平成元(1989)年「美しい歴史のまちづくり」をめざした清洲町の町制百周年記念事業として、16世紀の戦国の世の郷土の英雄、織田信長公の居城として、かつて「東海の巨鎮」、「天下の名城」と称えられた清洲城を再建しました。
 この清洲城は、日本古来の城郭様式を随所に取り入れ再建されました。城郭の周囲には古い様式の石積みや漆喰塀、大小の自然石を野面積みで構築した石垣、更に本瓦葺三層四階望楼付の天主閣がそびえます。

※「天主閣」の表記に関しては、現在通常使われる「天守閣」の語源にさまざまな説があり、「殿主」「殿守」「天主」などの表記が確認されています。信長公の事績を記した「信長公記」に「天主」と表記されていることから、再建にあたり「天主閣」の字をあてることにしました。

大手橋から見た清洲城天主閣
 勾欄廻廊付望楼型天主・3層4階建。本来の清洲城とは五条川を挟んだ対岸に建つ。


大手門
 形式は高麗門で、鉄筋コンクリート造り。


信長塀
 大手門の両わきは熱田神宮に現存する信長塀の様式を再現。土と石灰を油で練りかためて瓦を積み重ねた構造。


天主閣の石垣
 清洲城の石垣は、「清洲越し」にさいして名古屋城に転用されたという。石垣左側の門は搦手門。


(写真上・右)天主閣4階
 朱塗の勾欄廻廊造りの最上階は展望室となっており、眼下に新幹線・清洲の街並みや遠く名古屋城・小牧城が望める。

(右)桶狭間に出陣する前、「人間50年下天の内をくらぶれば夢もぼろしのごとくなり。一度生を得て滅せぬ者のあるべきか」と幸若舞(こうわかまい)の「敦盛(あつもり)」を舞う織田信長公像。
 桶狭間の戦いに勝利した信長公は、ここ清須から天下統一への第一歩を踏み出しました。

 桶狭間の戦いは、1560年(永禄3)5月、駿府から大軍を率いて尾張(愛知県西部)に出陣してきた今川義元を、織田信長が急襲、撃破した合戦。

■清洲古城跡公園

清洲古城跡公園(清洲城天主閣展望室から望む)
 写真手前の大手門をくぐり朱塗りの大手橋を渡った所が清洲古城跡公園。青屋根の建物は清洲ふるさとのやかた(無料休憩所)


織田信長公を祀る社
 天主台跡といわれる丘の上に鎮座。

(写真上)五条川から見た清洲古城跡公園
 左に清洲古城趾碑、右の建物は清洲ふるさとのやかた。さらにその右手には1996年(平成8)に五条川河畔で発見された野面積みの石垣が復元されている。
 清洲城が廃城となると、清洲城周辺はほどなく田畑に変わった。しかし、その後も清洲城の天主台址は尾張藩が管理。明治以降は宮内省付属地となったが、織田信長への正一位贈位を記念し、1922年(大正11)に清洲公園として開園した。

(写真右)清洲古城跡石碑
 石碑には「右大臣織田信長公古城跡」と書かれている。

■清洲公園

明治19年4月には公園地内を貫いて東海道本線が敷設。その後、東海道新幹線が開通し城跡を分断する形となった。

清洲城から桶狭間に出陣しょうとする姿の「信長公出陣の像」と、左は「濃姫像」


(写真上)清洲公園の様子

(写真右)信長公出陣の像
 視線の先は桶狭間を見すえている。1936年(昭和11)に建立された。
 
■清洲城の石垣
 復元された本石垣は、平成8年に河川事業に伴い実施された遺跡調査により、清洲公園前の五条川右岸で発見されたもので、清洲越直前の本丸南側の石垣と考えられる。
 石垣の基礎は、軟弱な地盤に耐えられる様に松材を用いた「梯子胴木」と呼ばれる構造になっており、石材はこの基礎の上に「野面積み」と呼ばれる戦国時代にかけて用いられた技法により積まれている。

【メモ】木材は水に濡れると腐りやすいが、常に水に浸かった状態ではほとんど腐らない。特に松材は樹脂が多く水に強く、折れにくいので堀底の胴木としては最適である。しかし、堀の水が干しあがって胴木が乾燥すればたちどころに腐敗する。陸上の石垣には決して胴木を使ってはならない。
 

美濃路清洲宿本陣跡

 清洲宿は、はじめ一場桑名町に置かれたが、1668年火災に遭い、ここに移された。以来この本陣は、将軍上洛、大名参勤、勅使や朝鮮・琉球使節、お茶壷の参府、時には大象の下向などの休泊所となり、美濃路のなかで最も豪壮な建物であった。
 1878年明治天皇一行も小休した。1891年の濃尾地震で建物が倒壊、火災に遭い、わずかに逃れたこの正門のみが、縮小して再建され、唯一清洲宿本陣の名残となっている。

<交通アクセス>

東海道本線清洲駅より徒歩15分
※清洲駅より清洲城まで随所に案内標識が立っているのですぐ分かります。



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【清須城の機能】
 A天守閣
 天守閣を創始したのは織田信長公ですが、信長公時代の清須城に天守閣はなく、わが国で初めて天守閣が造られたのは安土城だといわれています。信長公は自分の目指す政治哲学の具現化を天守閣で表現し、実際に天守閣で生活をしていたとされています。しかしこの思想は豊臣・徳川時代を経て形骸化し、江戸時代には城郭の象徴的な意味だけをもった建造物へと変化していきます。


B土塁・石垣

 石垣は安土桃山時代に成立する近世城郭建築の特徴的な構造物です。戦国時代の城郭は、堀や土塁などで防御された「土の城」でした。このイメージを一新したのは信長公が建設した「安土城」だといわれており、石垣に囲まれ、瓦ぶきの天守閣をもった安土城以降、城郭様式が一変します。これを織田と豊臣の頭文字をとって「織豊系城郭」と呼びます。

 織豊系城郭の大きな特徴として@天守閣などの礎石建物A瓦ぶき屋根B石垣の建造が挙げられます。信雄が築いた巨大な清須城は、外堀や中堀を土塁で囲み、内堀や本丸、そして天守閣の土台となる天守台などに石垣を巡らせた、織豊系城郭の特徴を備える堅牢な城郭であったと考えられています。


C樹木屋敷

 最後の城主となる徳川義直の時代、城の北西に樹木屋敷が造営されます。これは藩主が珍しい樹木や植物を収集栽培して楽しむ、現代の植物園のようなものだと考えられています。高価で珍奇な樹木や植物に彩られ「江戸図屏風」の江戸城にもその姿が描かれている樹木屋敷は、巨大な財力を持つ限られた大大名の高尚な趣味であり、樹木屋敷を持つ清須城は、文化的規模においても国内屈指のレベルを誇っていたと考えられます。


D馬出

 城郭防衛の要である虎口の堀の対岸には馬出(うまだし)が設けられました。馬出は本来、防御施設である城郭に設けられた出撃型の設備でありB・C100年ごろにイギリスで築城されたドルイド城塞にも見られる、合理的かつ普遍的城塞設備です。


 ※ 江戸初期の清洲城は、本丸を中心に堀が3重に取りまき、大天守・小天守・居館・書院などが建ちならぶ東海屈指の巨城だった。

 
【清須会議前後の出来事】

 天正10年(1582)6月2日早暁、信長公は京都本能寺で「是非に及ばず」の言葉とともに紅蓮の炎に焼かれました。

 毛利氏と対陣していた羽柴秀吉は明智光秀から毛利氏へ送られた密使をとらえ、すぐ毛利氏と和睦。6日に高松城を立ち、一気に帰京し(中国大返し)6月13日に山崎の戦いで光秀を打ち破ります。この時、四国方面軍の織田信孝、丹羽長秀、近畿の池田恒興など主な武将を取り込むことで勝利をつかみ、後の発言権を得ることとなりました。

 京に帰陣できなかった柴田勝家は織田家の跡目を決める会議を開くことを提案し、6月27日清須城において清須会議が執り行われました。跡目候補の次男織田信雄は誰からも擁立されず、三男信孝は勝家が擁立しましたが、二人とも一時期他家へ養子に出されていたことなどを理由に跡継ぎ候補から外れます。

 秀吉は信長公の嫡孫の三法師(秀信)を手なずけ、事前に上役の長秀を取り込み、山崎の戦いにも参戦した信長の乳兄弟で宿老ではなかった恒興を会議に参加させ味方を増やし、もう一人の宿老、滝川一益が戻らないうちに会議を始めたともいわれています。会議は秀吉の筋書き通りに進み、三法師を後継者に仕立て信雄、信孝は補佐役になることで決着します。結果、重臣筆頭勝家の影響力は弱まり秀吉が台頭していきます。

 この対立が翌年の賤ケ岳の戦いにつながり秀吉の天下へと時代は流れていきます。

 賤ケ岳の戦いの後、信孝、勝家は切腹。一益は蟄居と没落していきます。信雄も後に秀吉の勘気に触れ他家預かりの身に、長秀は大大名になりますが次代に小大名へと没落、秀吉自身も滅亡したことで織豊時代が終わり、徳川の世へと移り変わります。

 本能寺の変で信長公、嫡男信忠公を失ったことで戦国最強の覇者、織田家とその家臣団は一気に瓦解したのです。
よみがえった清洲城
<再建「清洲城天主閣」展示資料を参考にして作成(2017年5月)>
■清洲城の概要
 清洲城の始まりは、足利政権の尾張守護であった斯波義重(しばよししげ)が守護所下津城(現稲沢市)の別郭として鎌倉街道と伊勢街道が合流する要衝の清洲に築城されたと伝えられています。その後、文明8(1476)年に守護所下津城が戦乱で消失して以降、守護所は清洲城に移ったとされています。

 この時期には尾張国は守護代の織田氏が力を持つようになり、岩倉の織田氏が尾張の上四郡を、清洲の織田氏が下四郡を分割支配しました。清洲織田家当主信友が守護斯波義統を殺害したのをきっかけに、弘治元(1555)年、那古野城にあった織田信長は、清洲城を攻め信友を討ち、清洲城に入城し、尾張支配の本拠地とします。永禄3(1560)年に桶狭間の戦いに勝利するなど信長は近隣の大名を次々に倒し、着々と天下統一へ歩みを進めますが天正10(1582)年本能寺の変により雄図半ばで、その夢は断たれます。

 信長没後、天正10(1582)年の清洲会議の後は信長の次男信雄(のぶかつ)が尾張、伊勢、伊賀の領主となります。当初は伊勢長島に居城を構えていましたが、天正地震、木曽川洪水等を契機に本拠を清洲城に移します。この頃、清洲城は大改修が行われたと推測され、天守、居館始め門塀、三重の堀等を築き城郭の規模も東西1.6km南北2.8kmもあったといわれています。

 信雄以降、豊臣秀次・福島正則・松平忠吉・徳川義直という錚々たる武将が清洲城主となりましたが、慶長15(1610)年、徳川家康は清洲廃都、名古屋遷都を指令し、3年後には「清洲越し」が完了し、当時の歌として「思いがけない名古屋ができて、花の清洲は野となろう。」が残っています。清洲越しにより清洲城は廃城となり、石垣、橋、武家屋敷などの古材は名古屋城築城に利用され、名古屋城の西北隅櫓(清洲櫓)は清洲城を移築したとも伝えられています。

       
       西北隅櫓




■清洲城歴代城主

一、織田信長 二、織田信忠(のぶただ・信長長男) 三、織田信雄(信長二男) 四、豊臣秀次(ひでつぐ・秀吉の甥)
五、福島正則(秀吉子飼の大名) 六、松平忠吉(ただよし・家康四男/関ケ原の戦い後、城主) 七、徳川義直(よしなお・家康九男)

※「清須」と「清洲」の表記について
この城と建物は、平成元年(1989)旧清洲町の町制施行100周年を記念して、城が実在した当時の外観や規模を想像しながら建設され、長らく町民に親しまれた「清洲」の字をあてて「清洲城」と命名されました。しかしながら、この城や地名は、歴史的には長く「清須」の字をあてられており、明確な基準が存在しなかった時代には、同時代においても「清須」「清洲」が併行して使用されている例もあります。

そこで当館では、展示上の混乱を避けるため、展示要素に関する表記は、
 ■慶長15年(1610)の「清須越」以前に登場する地名、施設としての名称は「清須」「清須城」と表記。
 ■「清須越」以降から平成17年(2005)清須市誕生以前の宿名、村名、町名は「清洲」と表記。
 ■当施設の名称として使用する場合「清洲城」と表記。
 という基準に基づいて解説いたしております。