鴨山城 / 鴨方藩陣屋跡
 
■鴨山城は、細川菅領家の後裔にあたる、細川満国(みつくに)によって応永14(1407)年に築かれたといわれ、慶長5(1600)年8代城主元通(もとみち)までの194年間細川氏8代の居城と伝えられる。(新しく編纂された『鴨方町史』では、諸史料によって、戦国末期の通董、元通2代のみの在城を確認している)
■7代城主通董(みちただ)は、天文4(1535)年伊予国(愛媛県)松山城に生まれた。毛利元就の幕下に属していた通董は、浅口郡(現・浅口市)の国人から大将として迎えられ、永禄2(1559)年25歳のとき祖父の旧領地であった備中国浅口郡に伊予国川之江城から移ってきた。『長川寺由緒記』によると、青佐山城7年間、竜王山城9年間在城し、天正3(1575)年に鴨山城に移って没年までこの城にたてこもったと伝えています。通董は長川寺の中興開基で、境内には正徳5(1715)年後裔細川元純が建立したという墓碑がある。
■8代城主元通は、慶長5(1600)年関ヶ原の戦いに毛利方に従い、敗北したあとは元通は備中の所領を失い長州に移り、鴨山城も廃城となった。

※鴨山城築城については、初代満国よりも前、南北朝時代細川義春が築いたとの説もある
※城主〜満国・持春・教春・政国・晴国・輝政・通董・元通。近年の研究では、通董、元通以外は城代を置き、当地に赴任しなかったとする見方もある
※青佐山城(おおさやまじょうと読む。笠岡市大島中) 竜王山城(鴨方町六条院)。<文は鴨方町教育委員会資料より>
▲一の丸跡から見た二の丸跡。中世(鎌倉期頃より)においては、攻めてくる敵を防ぐため、山や沼を利用して造った砦が城で、鴨山城には天守はなかった。天守を造るようになったのはもっとあとの事である

■鴨山城は、山頂の本丸を中心に郭は北と南東に「く」の字状に延びている。全長約250mほどの連郭式山城である。
■本丸の北に3つの郭、南東に4つの郭が設けられ、北の第一郭と第二郭の間に堀切があり、南東の第四郭は大きな石材を使用した野面積の石垣で囲んである。全体に簡単な縄張りであるが、天然の要害の地であり、堅固な構築が伺われる。鴨山城趾記念碑が建っているのは南東の第四郭である。
■鴨山城の別名は、鴨方城、加茂山城、清滝山城。遺構としては、何段かの削平地と、石積み、堀切が認められる。(文は「古探 下巻」より)
鴨方藩陣屋跡

鴨方藩陣屋跡。現在は、その屋敷跡に黒住教の教会所が建てられていて、当時の面影はほとんど無くなっている。陣屋跡の背後の山が鴨山城趾。
 鴨方藩(岡山新田藩)は、江戸時代、鴨方におかれた岡山藩の支藩。池田光政の次子政言(まさこと)が初代藩主で、1672(寛文12)年備中浅口・窪屋・小田3郡の地2万5000石を与えられ、新田藩として成立した。藩主は岡山城下の鴨方藩邸に住み、領内の重要な政務、財政は本藩に依存していた。時は移り、10代政保は、明治2年版籍奉還により鴨方藩知事に任じられ、1871(明治4)年の廃藩置県で東京に移り鴨方藩は1672年以来200年の歴史を閉じる。藩領は鴨方県、深津県、小田県を経て明治8年岡山県に編入された。

 鴨方藩陣屋は、鴨方藩所領支配の現地の拠点(役所・政務の場)であり、本来は御用場(ごようば)と呼ぶ。この御用場は、出張陣屋のようなもので、2万5000石の藩の陣屋としては簡素なものであった。鴨方藩主は岡山天神山(現県総合文化センター)にある鴨方藩邸に生活し鴨方で生活することはなかった。御用場は、古文書によると1769(明和6)年から1823(文政6)年の間に設置されたようであるが、年代は確定できていない。現在は、陣屋の石垣・井戸がわずかに当時の面影を残している。

 岡山大学附属図書館にある陣屋絵図面には、表御門、溜長屋、御座敷、吟味場、御囲米御蔵、牢番詰所等の建物が描かれ、屋敷は東西約56・8メートル、南北約32・7メートルであることが記されている。この御用場の北側には、本来の御陳(陣)屋が幕末の1864(元治元)年に造成され、稽古場・大砲置場・宿舎・射場などがあり、兵士の軍事訓練の場としての施設が造られていた。(文は現地説明板、鴨方町教育委員会資料を参考) 

(左)わずかに往時をしのばせる陣屋井戸
(上)陣屋の石垣はかなり補修されているものの当時の巨石が一部に残る
 周辺案内
 
鴨山城跡より見た鴨方の町並み。かもがた町屋公園、鴨方藩陣屋跡、長川寺あたりを望む
  この周辺は、かもがた町屋公園、鴨方城跡・鴨山の磨崖仏、鴨方藩陣屋跡、儒学者西山拙斎の居宅や碑、宮の石橋等の史跡や文化財があり、周辺の寺社とともに歴史的景観を保っている町の文化ゾーンとなっている。どの場所へも徒歩でゆっくり散策することができるエリアです。

<アクセス>
かもがた町屋公園は、JR鴨方駅より北へ2Km。山陽自動車道 鴨方I.Cより南約1km
<訪問日>2013年2月

かもがた町屋公園(日本の歴史公園百選)
 かもがた町屋公園は、江戸時代の岡山藩と鴨方支藩を結ぶ官道「旧鴨方往来」沿いにある。鴨方往来は、岡山城下の栄町千阿弥橋を起点として庭瀬、長尾、占見等を通って鴨方に入り、川手、本町、西町から里庄町を経て笠岡市の小田県庁(現在の笠岡小学校)に達する官道であった

宮の石橋
 板石6枚を反らせて整えた太鼓橋。里謡に「鴨方に過ぎたるものが3つある 拙斎(せっさい)・索我(さくが)・宮の石橋」と歌われた鴨方三奇の1つである

      


▲長川寺境内に残る鴨山城主7代・細川通董の墓といわれる墓石。天正15(1587)年豊臣秀吉の筑紫征討の際、毛利氏に随伴出陣、その帰途赤間関(下関)で客死
▲北第一郭から見た、一の丸(本丸)下の石積み
▲二の丸跡から見た、少し高く築かれている一の丸(本丸・一ノ壇)跡。南峰最高頂に位置する一の丸跡は、東西約21メートル、南北18メートルに及ぶ円形の平地である
▲五ノ壇跡。右上後方は、石積みと鴨山城趾記念碑。この奥(北側)が四ノ壇となる
▲城跡には、巨石に刻まれている磨崖仏(まがいぶつ)(自然の岩に彫った仏像のこと)が随所に点在
鴨山城近景