今治城

築城年 慶長7年(1602)6月11日に普請開始、慶長9年(1604)9月完成
築城者               
              
築城名人・藤堂高虎
縄張 今治城絵図(江戸時代)
  
安永八年(1779)に作成された今治城の絵図です。今治松平藩の武家屋敷が詳細に記され、城郭の有様が、青色は堀、緑色は土手・犬走り、黄色は道、ピンク色は櫓、濃ピンク色は土塀、という様に色分けされて描かれています。

 今治城を築城した藤堂高虎は、二十万石余の大大名でしたが、その跡を継いだ松平藩は三万五千石の小大名でした。

 城郭の規模の割には石高が少ない松平藩では、城郭の維持管理もままならず、壊れるにまかせて放置された建物もあったようです。

 この絵図は現存する今治城の絵図中で最も正確なもので、内堀、中堀、外堀の三重の堀を巡らせた広大な平城であって、堀の幅が大変に広い今治城の特色がよく判ります。堀には海水が引き込まれ、中堀の一部が舟入となり、海から船が出入り出来る様になっていました。

 広い堀、多聞櫓を建て回した本丸、犬走り、どれも藤堂高虎の築城の特徴であり、高虎が後々手がけた多くの城に応用されています。(説明板より)
 
 
かつての今治城は、内堀、中堀、外堀と三重の堀をめぐらせ、中堀の一部が舟入となり、外堀を通じて海へ漕ぎ出すことができた。現在の今治城は、中央の濃い青色部分、内堀に囲まれた本丸と二の丸が残る。
特徴  @今治城は、別名を吹揚城(ふきあげじょう)といいます。今治城が築かれたこの場所が、砂が吹き揚げられて出来た砂浜だったからです。初め藤堂高虎は、ここより南方約5キロにある国分山城に入城したのですが、そこを廃して地盤の軟弱な海浜にあえて築城した目的は、瀬戸内海航路の制海権にありました。それは、交易路として莫大な富をもたらせるという経済的意味と、西国大名の交通路を押さえるという軍事的重要性がありました。

 A堀と石垣の間に、犬走りがあります。犬が走れる程度の狭い空間という意味です。敵に攻められた場合に足場にされるという欠点がありますが、今治城のように、軟弱地盤の上に高石垣をともなった大城郭を構築する場合には、石垣の基礎部分を固める非常に有効な土木技術上の工夫でした。

 B堀の水は海水です。堀は海とつながっていて(北側・来島海峡大橋の見える側)、海水の満ち引きによって堀の水位が変わります。鯛やヒラメなどの海水魚が泳いでいますが、一番よく目につくのはチヌとボラで、他にサヨリやウナギや海老類が生息しています。
<城内説明板より転載>


石垣下と堀の間の犬走り



石垣下の周囲に設けられた犬走り

今も内堀に流れこむ瀬戸内の海水


今治城海水導水路
今治城の歴史<現地案内リーフレットより転載>

 ■戦国時代の今治地方の支配拠点は、唐子山山頂の国府城で、能島水軍の村上武吉が居城としていたが、天正13年(1585)秀吉による四国征伐で侵攻した小早川隆景に戦う事なく開城。伊予平定後の隆景に国府城を含む伊予国の大部分が与えられたが、天正15年筑前名島に転封。代わって福島正則が東予11万石を領し、翌年国府城に入城。8年後の文禄4年清洲城に転封。その後、池田景雄(慶長の役で1598年戦死)、小川祐忠(関ヶ原の合戦で西軍に加わり改易)と城主が変わり、慶長5年藤堂高虎が城主となった。

 ■高虎は浅井長政に仕えて、15歳で姉川の合戦に初陣。その後、天正4年羽柴秀長に仕えて、天正13年雑賀根来一揆征伐の功で1万石、同15年九州征伐の功で2万石を領するが、秀長、その嗣子秀俊が相次いで没し、高虎は二人の菩提を弔うために文禄4年高野山で出家。秀吉は才を惜しみ、同年7月招いて伊予宇和郡7万石を与えた。高虎は父と共に大洲に入城し、板島城(宇和島城)築城にかかる。慶長3年朝鮮再征の功で1万石加増。翌年諸侯に先んじて弟正高を人質に差出す。関ヶ原の合戦では、福島正則と共に徳川軍の先陣で活躍。その功で12万石加増され、伊豫半国20万石の大名として国府城に入城した。

 ■藤堂高虎は、発展性に乏しい山城の国府城を捨て、軍事的に要地で、且つ海陸の交通や経済発展にも便利な、20万石の大名に相応しい城郭と城下町を建設するため、城域を越智平野中央の今張に定めた。山城の戦略的城郭から、平城の政治的城郭へと脱皮を図ったのである。

 ■慶長7年6月11日に普請を開始、慶長9年9月に完成。その広さはおよそ八町十六間四方、現在の金星川以南、旭町以東を城域とし、三重の堀に海水を引き入れ、南方は総社川、東方は瀬戸内海を自然の守りとした大規模な海城であった。本丸には高さ八間の石垣の上に五層高楼の天守があり、ニ之丸に藩主館、中堀以内に上級武士、外堀以内に侍屋敷が、要所要所には城門や櫓をもうけた。石積みは自然石をそのまま使う野面積みで、軟弱な地盤を補うために、本丸、ニ之丸の石垣の下に、犬走りを巡らせた。

 ■高虎は慶長11年に江戸城縄張の功で備中に2万石加増され、22万石となった。同年妻子を江戸に移り住まわせ、これが後の参勤交代の基になったといわれている。

 ■慶長13年(1608)高虎は伊賀一国と伊勢8郡に転封となり、今治2万石には藤堂高吉を処守で残し、伊勢津城に去った。そのさい天守は解体し、大阪まで運び、慶長15年(1610)天下普請の丹波亀山城に移築した。亀山(現亀岡市)は近畿の枢要地で、大阪城の豊臣秀頼に心を寄せる諸大名に備えて、要所を固めんとする家康の意図をくみ取り、伊賀上野城に移築するつもりの今治城天守を亀山城に移築した。

 ■高吉が約27年間処守を努めた後は、寛永12年(1635)家康の甥の松平定房が3万石で就封し、松平家の居城として明治維新を迎えた。
         
遺構 本丸、二の丸、内堀、石垣
現況 天守他、多門櫓、武具櫓、御金櫓、山里櫓、鉄御門(訪問時建造中)などが再建

県指定史跡

<概況>
天守櫓4基が復興されている。

高虎の築城以来約400年後の1980年10月(昭和55年)に市制60周年記念事業として天守、多聞櫓、武具櫓を、1985年3月(昭和60年)には御金櫓(おかねやぐら)を再建した。

さらに、1990年10月(平成2年)には市制70周年記念事業として、山里櫓(やまさとやぐら)を再建し、築城当時の雄姿を再現した。

3度目に訪問した
時は、鉄御門は再建中でした(平成19年竣工予定)。

遺構と再建造物

今治(いまばり)城と瀬戸内海今治国際ホテルから、かつての内堀と本丸・二の丸を望む

■築城名人・藤堂高虎像と天守
 今治城は、慶長9年(1604)9月に藤堂高虎によって完成された。普請の開始は慶長7年(1602)6月で、海岸近く、三重の堀をめぐらし、内濠まで海水を引き入れて、当時としては類のない平地平城を築城、開町後今張の浦を「今治」と改めた。

<参考>
 日本三水城として
 高松城・今治城・中津城(大分県中津市) があげられている。

唐子浜赤灯台

▲今治城天守より石鎚山を望む
 手前の山は、世田山、笠松山。

▲内堀と高石垣がよく残る今治城
 石垣は直線的で反りのない藤堂高虎流の石垣。石垣の足元には犬走りが取り巻いている。中央の建物は天守。

御金櫓

武具櫓。鉄御門が再建される前は単独の建物であった(初回訪問時)

▲天守から望む今治観光港と後方は来島海峡
 
手前は内堀と武具櫓。武具櫓周辺は、鉄御門再建の工事が行われていた
(2回目訪問時)

天守と多聞櫓

左より、山里櫓・天守・多聞櫓

天守下の本丸表門

▲左から山里櫓、天守、多聞櫓

■今治城天守(再建)
 現在の今治城天守は、昭和五十五年(一九八〇)
今治市制施行六十周年記念事業として再建された。
 望楼型、五重六階、鉄筋コンクリート造りの天守は、可能な限り史実に沿うため、丹波亀山城古写真(移築後の今治城天守が明治十年まで存続)、今治城古写真、貞享・安永の今治城絵図、藤堂家の家譜「宗国史」などの資料をもとにして再建。
(上)今治城天守から見た完成まじかの鉄御門
凹型の建物が鉄御門。その建物の左側は武具櫓。
(左)鉄門跡に再建中の鉄御門(くろがねごもん)
右端の武具櫓は単独の建造物であったが、鉄御門の再建に伴って多聞櫓で鉄御門と連結された。

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今治城

全国でもまれな
 海岸の平城・海城

【所在地】愛媛県今治市通町

<交通アクセス>
JR予讃線今治駅から徒歩20分。
内堀の北東側に有料駐車場有。