『キュア』感想

 

 役所広司さんの本格的ファンになってから増えた趣味に、「役所映画の脚本を読む」があります。映画のプログラムについていたり、映画雑誌や、雑誌『シナリオ』に掲載されている作品はバックナンバーでも探し当て読むようにしています。彼の映画は映画館や、ビデオで何度も観ますが、脚本で彼の映画を楽しむというのも又、格別です。セリフ一つとっても、役所さんがこれをどんな表情で、どんな声の調子で言ったか等を思い出しながら読むと、役所さんの演技を跡づけているような興奮と感動があるのです。

 

さて、『キュア』の場合もそうでした。この映画の脚本が、98年2月号の『シナリオ』に載ると早速買って何度も読み返しました。そして、思ったのは、彼の演じた高部刑事像は完璧だったな、です。難しい役だったと思います。日常のレベルから狂気の世界へと、徐々に、徐々に、変貌・変容を遂げていく過程を演じなければならなかったのですから。役所さんは、高部を演じた時は「表情の変化に気を使った」と、どこかで云っていましたが、興味あるコメントです。

 

映画前半の高部の日常も極めて起伏に富んだものでした。最初は事件をテキパキと処理する職業人の顔。続いて、家庭人として、心を病む妻を案じるやさしい夫の顔。そして、止めても又、空の洗濯機を回す妻に愕然とする不安げな別の夫の顔。これだけでも、物語として成立する設定なのに、『キュア』では、主人公の高部をとんでもない世界へと「飛翔」させていくのです。あの、萩原聖人さん演じる間宮邦彦との出会いによって。

 

家庭人としての深刻な悩みを内面に抱え込んでいても、職業人としては冷静に事件を捜査してきた高部が、あの病院の倉庫の薄暗がりのなかで、「あんた、誰?」と執拗に繰り返す間宮の質問に、「警視庁の高部だ。ふざけるのもいいかげんにしろよ。」と、突然声を荒げる瞬間に、高部の変容は始まります。これは映画を何度か観た後で気がついたのですが、その前の高部のセリフ、「誰かいますね」、「あなたにおうかがいしたいことがあります。」等は、何か装われた冷静さだったのではないかと。突然にキレたようなあのセリフは、実は高部が職業人として初めて発した肉声、苛立っていた心の内を始めてさらけ出した瞬間だったのではないでしょうか。もし、あのとき、部下の木村がシャッターを開けて介入して来なければ、高部と間宮の対話は続き、高部はもっと、もっと自己を語り始めていたのでないかと、そんな気がしました。この、何か壊れる寸前のような高部の内面の変化を役所さんは、激しい声の変化で見事に表現していたと思います。

 

それ以降の高部と間宮の攻防は息を飲む緊迫感があります。あの警察の取り調べ室での役所さんと萩原さんの場面は秀逸でした。互いの顔が半面ずつ組み合わせられたように映し出された時の高部の強い、強い眼差し。あの眼の表情のなかに、それまでの刑事としての顔にはなかった、容疑者への苛立ち、怒り、憎しみ、それを悟られまいとする自制心との葛藤が読みとれました。その自制心がついに怒りにうち負かされたとき、高部の脆さをこちらは感じ取り、胸が締め付けられる思いがしたものです。そして、あの警察病院の間宮が収監されている部屋での、今度は誰にも邪魔されない対決を迎えるのです。

 

頸動脈から胸にかけて十字に切り裂く殺人事件の記憶障害と診断された容疑者が、間宮邦彦という元精神医学の学生で、彼がメスマーという19世紀のヨーロッパで催眠療法を発見しながら、世間に認められなかったメスマーという人物を研究していた事実を突き止めた高部は、友人で精神科医の佐久間(うじきつよし)の制止を振り切って、間宮と直接対決に臨みます。

 

ここでの役所さんの長い独白は、迫力がありました。動きとセリフ回しはまるで、舞台劇を観ているようでした。妻のことを間宮に聞かれると、高部は、まるで、彼の告白を聞いてくれる人を長いこと待っていたように、関を切ったように話だすのです。「女房は俺の重荷だ。お前にいわれなくてもそんなことはわかってる。俺は刑事だ。どんな時にも絶対に感情を外に出すな、たとえ家族の前でも、そう教育された。その結果がこうだ。俺には、あいつの心がわからない、あいつにも俺のこの苦しみはわからない、そうなったのは、全部俺の責任だ。わかってる、そんなことは」 間宮に話させようとして、ライターに火をつけると、突然の雨で、天井から漏れてきた雨の滴でその炎はかき消され・・・恍惚と炎の消えたライターを見つめる高部。「・・・その水があんたを楽にする。気持ちいい・・・・からっぽだ・・・・生まれ変われ、俺みたいに ・・・・」 

 

その部屋から出てきた高部の目は明らかに以前と違っていました。目の焦点があっていない、どこか遠くを見つめる目に変わっていたのです。警察の査問会で、間宮と並んで座った時の、透き通ったガラス玉のような目は衝撃的でした。「刑事さん、俺の声聞こえてる?聞こえてるよね?・・・・それが、あんたが特別な人間である証拠だよ。・・・・」 間宮に共感を感じつつ、憎悪も募らせる役所さんの心象表現には圧倒されました。

 

ラストシーンの高部は変貌の到達点でしょうか。食事を終えて、タバコに火をつける高部の仕草、表情は、一見、ハードボイルド小説の刑事のように、格好いいのです。心の重荷だった妻は死に、(彼が殺したか、あるいは誰かに殺させたか)、間宮に関する事情を知り過ぎ、高部の捜査方法に批判的だった、友人の精神科医の佐久間は自殺し、(高部が殺して自殺とみせかけたのか、あるいは、自殺へと暗示をかけたのか)、干渉型のうるさい部下も死に、(間宮が殺したのか、高部が殺したのか)、そして何よりも、憎悪の対象だった間宮を山中の廃屋で射殺し、今の高部は全くの自由人に、見事に心のキュア、癒しを成し遂げた男として存在しているのです。

 

黒沢監督は役所さんに、「あなたは、四人殺したような芝居で結構です」と指示したのだそう。「そうは見えづらいかもしれないけれども、芝居としてはそれでやってくれと。」 『カイエ・デユ・シネマ・ジャポン』22号での、『キュア』をめぐっての座談会での黒沢監督の発言です。彼の言葉をもう少し引用すると、「何人殺したかというのは大した問題ではないんですが、間宮に一回カウンセリングを受けて昇華されて、空っぽになってからは、高部は、間宮と比べてもよりステージの高い崇高な人間になった。記憶もなくなりはしないし、平気で刑事を続けているという真の怪物になったということですね。そういう解釈で撮影を進めましょうといったことはあります。」と。監督はまた、こんなエピソードも披露しています。脚本の段階で、監督が映画の結末を思案していたときに、役所さんは、「高部はもっと、突き抜けてていいんじゃないか」、と云ったのだそうです。で、監督はそれにヒントを得て、あのレストランのラストシーンを思いついたのだとか。(『キネマ旬報』98年1月上旬号) こんな話を聞くと、役所さんが監督の意向受けて、どう高部像を構築していったのかを知る手がかりになったように思いましたが、どうでしょう。

 

最後に、『キュア』 では、役所さんばかりを見ていると、重要なポイントを見逃すという教訓を一つ。最初にこの映画を観たときには、カメラが思い切り引いたラストシーンで、私は役所さんの端正な横顔に見とれていて、あのレストランの奥で展開されていたことに気が付きませんでした。高部刑事の皿を下げに来た、前のシーンにも登場したウエイトレスは、同僚に何事か囁かれると、ナイフを握って店長の後を追いかけて行ったんですね。高部から何かの暗示を受けたかのように・・・(シナリオを読んで初めて気づきました。)

 

それから、これは脚本や小説版を読んでもわからない情報です。佐久間役のうじきつよしさんが、帽子を被ってあのラストシーンに出ていたのに気がつきましたか。これは、他ならぬ黒沢監督からの情報です。

 

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