コソボフィルハーモニー交響楽団

このページでは、柳澤氏が2007年に常任指揮者に就任したコソボフィルハーモニー交響楽団についてご紹介します。

2007年3月25日(日)
コソボ自治州プリシュティナ市:ユースセンター・レッドホール

〜モーツァルトのM。ナポレオンのN。そしてティトーのT!!

私の住むマケドニア共和国スコピエ市から10kmほど北上したところにセルビア共和国コソボ及びメトヒヤ自治州(通称コソボ)の国境がある。コソボは1999年のNATO空爆以降、国連コソボ暫定行政ミッション(UNMIK)の統治下にあって、現在は独立に向かっての最終決議が安全保障理事会によって行われている。もちろんパスポートに押される国印もセルビアではなくUNMIK。コソボの州都プリシュティナを見渡せば、当時破壊された警察署はそのままで、その脇に国連関係の建物が並び鉄格子によって守られている。UNと印の入った国連の車や、KFOR(国際安全保障部隊)の車が走り、警察官がそこら中に見え、ただ事ではない雰囲気だ。

コソボ紛争は1999年にNATOがベオグラードを空爆した事によって終戦。時の米大統領ビル・クリントンはコソボで英雄になりビル・クリントン・ストリートができ、彼の大きな写真が飾られている。街中の建物の壁に印刷されている文字はアルバニア語で独立に関するいかなる交渉にも応じないと書かれているようだ。こんな殺伐とした街にもオーケストラが存在するからまったく驚いてしまう。

コソボフィルハーモニー交響楽団は戦後2000年に設立された新しいオーケストラだ。1990年まではプリシュティナ放送交響楽団というのがあって当時コソボにいたアルバニア人、セルビア人、マケドニア人など他民族のオーケストラだったようだ。その後戦争に入りオーケストラは跡形もなくなくなった。戦争は音楽をも引き裂いたわけだ。

オーケストラの練習室に入って自己紹介もそこそこにリハーサルが始まる。「何語でリハーサルすればいいのですか?」と英語で聞いてみた。オーケストラの一人が「英語でもいいし、マケドニア語でもいいよ」と言ってきた。正直びっくりした。コソボでは一時期セルビア人の支配が強く、アルバニア人でありながらセルビア語(マケドニア語とほとんど同じ原語)を教育されていた時代があったからだ。セルビア語には未だに抵抗がある人もいて話せても話せないフリをする人も多いと聞いている。

とにかくマケドニア語・英語でのリハーサルは始まった。このオーケストラは若い人が多く、私の言葉を聞いてよく答えようとしてくれていた。オーケストラのリハーサルでは練習のためのアルファベットが楽譜に入っていて、AとかBとかが入っている。それでMやNは発音が聞き取りにくいのでモーツァルトのMからとかナポレオンのNからとか言うときがある。私が「東京。Tから。」というと楽団員の一人がニコニコしながら「マエストロ。ティトーを知ってるか?」と言ってきた。私は「えっ?」と言って彼の目を見たが、彼はまじめに「ここではTはティトーだ。」と言った。なるほど、バルカンの人間にとってティトーはモーツァルトやナポレオンよりも英雄なのだ。

ティトーは世界大戦中、ナチスドイツの侵略を彼のパルチザン部隊とともに救い、他民族ユーゴスラヴィアをまとめた英雄だ。ハーモニーという言葉には音楽的な和音という意味もあるが、ハーモニーには融和という意味もある。ティトーはユーゴで初めてハーモニーを作った英雄であると言える。その次は全ユーゴをワールドカップに導いた日本でもおなじみのオシムさんでしょうか?!口でいうのは簡単だがユーゴがひとつの事をしてまとまっていくなんてここに住んでいる人間からしてみるとまったく想像もつかない!!

『悲しみのミトロヴィッツァ。。。』

今回はテレビ局の取材で、スタッフとともにプリシュティナからミトロヴィッツァという街に行くことになっていた。リハーサルのない午前中に両都市を往復してしまおうという魂胆だ。ところが、いつまでたっても集合場所にスタッフが来ない。携帯電話で連絡すると、最初UNの車で行こうとしが、危険がともなうという現地コーディネーター の助言で別の車を探さなくてはならなくなったということだ。たしかにUN(国連)とプリシュティナ市民の対立・・・というよりは、いつまでも独立できない苛立ちから統治する国連への抗議で国連の車(UNのプリントが扉にある)のUNの前にFをつけ、UNの後にDをつけFUND、アルバニア語でもう終わりだ!という抗議をしていたのも記憶に新しい。。。

コソボの北部にミトロヴィッツァという街がある。そこそこ大きな街だが、川を一本隔てて南にアルバニア人、北にセルビア人が住んでいる。一本の30mほどの橋が架かり、橋の手前には軍隊の見張り小屋がある。橋を行き来するものは、列を成す軍人。KFORやUNの車両。一般人の行き来は殆どない。アルバニア人側からセルビア側に橋を渡る。物凄い緊張感だ。この橋を渡れるのは私たちが日本人であるからにほかならない。

セルビア人側には露店が並んでいた。40歳代の花屋の女性にインタビューすることに決めた。インタビューに選ばれた女性はうれしそうだった。インタビューが始まって私が「こんにちは」と声をかけると「こんにちは。あっ・・・はい。2つで240ディナールです。」とか言ってお客さんに花を売ってインタビューに集中していない。ところが「この橋を渡った事がありますか?」と聞くと突然彼女の目から涙が溢れ「・・・残念ながらありません。」と言った。これにはテレビ局スタッフも通訳も私も本当に驚いてしまった。「私はここで生まれたのに、一度も渡ったことはないわ。」周りのセルビア人の目が私に集まる。正直怖くなった。「残念ながらこれからも私たちはこの橋を渡る事はないと思う」と言った。次にインタビューした人もその次にした人も同じ答えが帰ってくるばかりだった。「橋を渡れば自分の身が危ない。家族と幸せに暮らすためにこの橋は渡れない。」と言った。この取材は本当につらかった。

そういえば、オーケストラの一人(アルバニア人)に明日「ミトロヴィッツァに取材で行って来る。」と言ったら、最初に帰ってきた言葉は「どっち側にいくんだ?」 だった。そしてその後に続く言葉は何もなかった。後から知ったことだが、彼のお子さんもまた小学校1年生で戦死していた。。。

『プリシュティナ市民!国連!NATO軍!
    そして永遠なるベートーヴェン7番の響き!!』

演奏会は3月25日。今からちょうど50年前の同日、ローマ条約が結ばれ、ECの前身であるECC(ヨーロッパ経済共同体)が生まれた。今回の演奏会はローマ条約の50周年を記念したものだ。会場には日本のテレビ局のほか、コソボサイドのテレビ局が2社入り、プリシュティナ市民をはじめ、国連職員、また迷彩服に銃を下げたNATOの軍人で客席は埋め尽くされた。演奏会の前には永遠と要人の挨拶が続く。

ところで、コソボにはコンサートホールが無い。とても広い会議室に800から1000席はイスをならべ客席を作っていた。それでも大勢の立ち見があってこの演奏会の重要さを感じさせていた。

第2楽章に入ってミトロヴィッツァのことが思い出されて仕方なかった。ベートーヴェンの作品は彼の「第九」にあるように、全ての人が同胞(はらから)になるというメッセージを持っていると思う。もともとはフランス革命後の階級社会をなくしていこうというところから来ているのだが、これはベートーヴェンの人類に対する愛だ。ミトロヴィッツァを訪れたとき、ベートーヴェンが200年も前に抱いた人類が同胞になるという想いは未だ達成されず、そんな夢のような世界は永久に来ないと思った。「第九」が作曲されたオーストリアの隣国であったユーゴでは、今もなおその残された地雷で多くの人々が亡くなり、サラエボには数千もの身元不明の遺体がそのままになっている。コソボでも空爆時の劣化ウラニウムで土壌が安全かどうかも疑わしく、食べ物さえ落ち着いて食べられない。それが原因で白血病で亡くなった人もいると聞く。

日本からは遠い遠い国の話・・・?近年までは日本でも地雷が生産されていた事をご存知だったでしょうか?現在地球上に埋められている地雷を全部取り除くのにも西暦3100年までかかるとも言われています。きっと世界が平和になったら「第九」なんて歌う必要がなくなるのかも知れない。ミトロヴィッツァではそう思いました。。。

ベートーヴェン7番が終わって今まで味わった事がない様な嵐のような拍手を浴びた。みんな一斉に立って拍手をする。本当に嬉しかった。一番前の席に一列に並んでいた軍人たちが私をみて笑顔で拍手していた。

ベートーヴェンが言うように全ての人々が同胞になる日がいつか来るかも知れない。心からそう思った。小学校1年生でお子さんを戦死させてしまったオケのメンバーの方に何も言えなかった私がひとつできる事があるとすれば、音楽を続けて心を少しでも繋げていくこと。。。

ベートーヴェン7番を演奏するたび私は今日のことを思い出すだろう。


柳澤寿男 2007年4月26日

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