日本福音キリスト教会連合
信仰告白

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[聖書]

聖書は、旧新約六十六巻からなり、すべて神によって霊感された、誤りのない神のことばである。 聖書は神が救いについて啓示しようとされたすべてを含み、信仰と生活との唯一絶対の規範である。

[神]

神は、唯一であり、霊なるお方である。その存在、知恵、力、聖、義、愛、真実において無限、永遠、不変である。 神は、その本質において一つであるが、父、子、聖霊の三位において永遠に存在しておられる。

[神のみわざ]

神はその主権によって万物を創造し、支配しておられる。 神は、みこころのままに、罪人を救うため、時至って御子を世に遣わされた。

[人間]

神は人を神のかたちに創造された。 最初の人アダムは神との正しい関係にあったが、サタンの誘惑により、神のみこころに背いて罪を犯し、堕落した。 すべての人はアダムにあって罪を犯したので、生まれながら罪の性質を持っており、神の御怒りのもとにある。

[キリスト]

主イエス・キリストは、まことの神であり、まことの人である。 主は、聖霊によってみごもった処女マリヤから生まれ、 人類の罪のために、身代わりとして十字架の上で死に、葬られ、三日目によみがえり、 天に昇られた。主は今、父なる神の右に座して大祭司の務めをしておられる。

[聖霊]

聖霊は、人に罪を認めさせ、新たに生まれさせて、神の子どもとされる。 聖霊は、キリストを信じる者の内に住み、その人々を、この世でキリストにあって生きる者とし、キリストのかたちに形造られる。

[救い]

救いは、キリストの身代わりの死を信じる者に与えられる神の恵みの賜物である。 罪が赦され、義と認められた者は、滅びることなく、永遠のいのちを与えられる。

[教会]

教会は、キリストをかしらとするからだであり、みことばの宣教により、聖霊によって新生した者の集まりである。 教会は、神のみこころに従い、神を礼拝し、聖書を学び、バプテスマと聖餐の礼典を守り、福音を宣教し、主のしもべとして互いに仕え、福音のために共に戦い、愛のわざにはげみ、主の再臨を待ち望む。

[再臨と最後の審判]

主イエス・キリストは、みからだをもって再び来られる。 死者はからだをもってよみがえり、すべての者がさばきの前に立つ。主は信じる者を永遠の祝福に、信じない者を永遠の刑罰に、分かち定められる。 主は終わりにすべてを新たにし、御国を父なる神に渡される。
 
 


信仰告白の解説

教会での学びのために週報に掲載した文章です。

中山信児
*旧約39巻、新約27巻、合わせて66巻の書からなる聖書は、神さまご自身に起源を持ち、すべての面で信頼できる「誤りのない神のことば」です。だからこそ、私たちに救いを示し、私たち自身が暗やみの中に迷うときにも、誤りなく私たちを照らし導くことができます。このような書物は他にありません。(IIテモテ3:16、詩篇119:105)

*私たちが神さまを信じて、神さまを喜び、神さまの栄光を現す生き方をしようとするなら、そのような生き方の基準は、神のことばである聖書以外にありません。聖書は、信仰だけでなく生活においても、そのような道を歩もうとする者にとって必要なすべてを含む「唯一絶対の規範」です。(使徒20:32、IIテモテ3:15)

*私たちが信じる神さまは、聖書に記されているただおひとりの神さまです。神さまは霊なるお方ですから、空間や時間に縛られません。霊である神さまは、知恵と愛に満ちた人格的なお方です。私たちは、いつでも、どこでも、どんな状況の中でも、この神さまを信じ、頼ることができるのです。(詩篇139:7:10、黙示録15:3)

*ここで告白している「三位一体」の教えは、父と子と聖霊を正しく礼拝するために必要不可欠な教えです。父と子と聖霊は等しく神です。しかし三人の神がいるのではなく、ただお一人の神がおられるだけです。そのお一人の神が、混同されない三つの位格を持っておられるのです。(マタイ28:19、IIコリント13:13)

*神はこの世界を善いものとして創られました。だから、人は、この世界が堕落によって損なわれた後も、罪や悪や悲惨のただ中で善いものにあこがれることができます。神は善い御心をもって、今もこの世界を支配しておられます。だから、人が神に善いものを祈り求めることは、決して空しいことではありません。(創世記1:1,31、詩篇121)

*聖書に「すべての人が罪の下にある」とあるように、罪人とは、私のことであり、あなたのことです。(ローマ3:9-10)。そして、御子イエスは、罪人である「すべての人」を救うために、この世に来てくださいました(ヨハネ3:16)。私たちは、自分が罪人であることをまず知らなければ、神が備えてくださったこの救いをいただくことができません(マルコ2:17)。

*C.S.ルイスの言葉を借りれば、アダムとエバの子孫であるということは「いと貧しい乞食の頭を昂然と上げさせるほどの名誉であると同時に、地上のいと偉大な皇帝の肩を屈めさせるほどの恥辱」でもあります。私たちは、「創造」について考えるとき「名誉」を覚えさせられ、「堕落」について考えるとき「恥辱」を覚えさせられます。救いとは、恥辱にまみれた名誉を回復する神の御業です。(使徒3:19-21)

*ここには神と人とサタンがでてきます。私たちは、この三者が単なる神話やたとえや象徴ではなく、実在することを信じます。人間を誘惑し、神のみこころから離れさせ、堕落させるサタンの働きは続いており、今も、この世に生きる信仰者たちを神との正しい関係から引き離そうと働いています。最初の人アダムは、このサタンの誘惑によって、神との正しい関係を失いました。これが罪の始まりです。

*ここには人間についての楽観的な見方はありません。もし、恵みによって罪が除かれなければ、すべての人は罪人であり、滅ぼされるべき者として神の怒りの元にあるのです。しかし、救いようのない者を救ってくださるのが、神の愛であり恵みです。私たちはこの恵みにより、信仰によって、暗やみの圧制から御子の支配へ、死からいのちへ移されるのです。(エペソ2:3-6)

*主イエス・キリストが「まことの神であり、まことの人である」という教え(二性一人格)は、理性で割り切れない教えであり、今も昔も異端の攻撃の的です。けれども、私たちのために十字架に死んでくださった主イエスが「まことの神」であることは、救いの確実さの土台です。また、私たちと父なる神との仲介者である主イエスが「まことの人」であることは、主イエスが私たちの弱さを良く知っていてくださることを表します。(Iペテロ1:18-20、ヘブル4:15-16)

*主イエスは、普通の生まれ方をした普通の人でも、荒唐無稽な生まれ方をした神話上の人物でもありません。そのどちらであっても人を救うことはできません。聖霊によって宿り、処女マリヤから生まれた「まことの神、まことの人」だからこそ、私たちを罪から救うことができるのです。これは旧約の預言の成就であり、一貫して変わらない神の救いのご計画を表します。(イザヤ7:14-15、マタイ1:18-25)

*十字架と復活は福音の中心です。私たちは、主イエス・キリストの十字架によって罪赦され、神との平和をいただいて、天の御国にふさわしく整えられます。主の復活によって、私たちは死の縄目から解放され、永遠のいのちをいただきます。神さまは、主イエス・キリストの十字架と復活という二つの御業を通して、私たちを救い、天の御国に入れてくださるのです。(ルカ24:46-47、ローマ4:25)

*復活されたイエスさまは、その体のままで天にあげられました。だから、イエスさまのなきがらを地上で見つけることはできません。天にあげられたイエスさまは、父なる神さまの右に座しておられます。「大祭司」は、聖なる神さまと罪ある人との仲立ちとなる立場です。「まことの神、まことの人」であるイエスさまだけが、この務めを完全に果たすことができるのです。(ヘブル7:24-27、Iテモテ2:5)

*聖霊は、三位一体の神さまの第三位格です。聖霊の最も大切なお働きは、私たちの心にイエスさまご自身とその御業を明らかにし、それにあずからせてくださるということです。救いの道を計画してくださったのは父なる神であり、実際に備えてくださったのはイエスさまであり、それを私たちひとりひとりに適用してくださるのは聖霊なる神さまです。(ヨハネ15:26、Iコリント12:3)

*聖霊は、いま私たちと直接に関わってくださる神さまです。聖霊なる神さまが私たちに臨んでくださるとき、私たちの人格の土台、人生の目的が変わります。それまで肉にあって生きていた者が、キリストにあって生きるものと変えられます。私たちを造り替えて、キリストが歩まれたように神の御心にそって生きる力をくださるのは、聖霊なる神さまなのです。(ローマ8:9, エペソ3:16)

*キリストは、私たちの罪の身代わりに十字架の上で死んでくださいました。信仰とは、私が罪人であって、キリストが身代わりに死んでくださらなければ、死ぬはずの者であったと認めることであり、キリストこそ私の救い主ですと、へりくだって素直に認めることです。救われるためには、このような信仰の他には何も必要ありません。これは「神の恵みの賜物」だからです。(使徒4:12、Iコリント1:18)

*救いについて知るには、人間の罪と滅びについて知らなければなりません。すべての人は罪の故に、死と死後のさばきを免れることができません。しかし、イエスさまを信じるなら、そのさばきにおいて無罪とされ、永遠のいのちをいただくことができます。救いとは、罪の中にあって滅びるしかなかった者が、赦されただけでなく、今までと正反対に豊かな恵みを受けることです。(ヘブル9:27,ヨハネ3:16)

*聖書は教会についてどんな理解を持っているでしょうか。第一に教会のかしらはキリストですから、教会はこの世のものではないし、この世の考えとは違う考え方をします。第二に教会はキリストの体ですから一致と平和を求め、かしらであるキリストの御心を行おうとします。第三に人を教会に加えてくださるのは聖霊のお働きです。聖霊が人を新しく生まれ変わらせ、教会のえだとしてくださるのです。

*教会の歩みは、ここにあげられている様々な働きにより特徴づけられ、主の再臨を目指しています。その中心には神がおられ、みことばと聖礼典を通して私たちを養い、教え導いてくださいます。また教会には、互いに仕え、共に戦いはげむ兄弟姉妹が与えられています。

*イエスさまは、天にあげられたときと「同じ有様で、またおいでになります」。それがいつなのかは父なる神さま以外だれも知りませんから、私たちは目を覚ましているようにと勧められています。イエスさまの再臨は、新しい天と新しい地が完成するときです。神さまによって創られたものすべてがきよめられ贖われて、神さまが「すべてにおいてすべてとなられ」ます。(使徒1:11、Iコリント15:24-28)

*イエスさまは「眠った者の初穂」としてよみがえってくださいましたから、すべての死者はイエスさまと同じようにからだをもってよみがえります。それから神さまの厳粛なさばきがあります。そこで問われる最も大切なことは、救い主イエス・キリストへの信仰があるかどうかと言うことです(ヨハネ3:16-17、黙示録20:11-21:4)。
 
 



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