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 [送年特集 | 今年 停年退任 教授 3人の ‘私の人生、私の学問’]
   
安秉直 ソウル大 名誉教授(経済学)
40年‘知的遍歴’の終着駅、自立的資本主義
親日残滓清算や統一も重要だが、韓国が中進国から先進国に発展するのが現代史の中心課題だと思う人は、経済成長史を歴史研究の主軸にするしかない。私は経済成長を成さなければ、どの様な現代史的課題も解決することが出来無いと信じたから、経済成長史を研究の核心で把握したのだ。
 
 
 
 
私が研究者に成る事に決心した直接的な切っ掛けは、1960年の4月革命だ。それ以前までは、考試を見つめて公務員に成るとか会社に就職しようと熱心に勉強した、貧しく平凡な農村出身学生に過ぎなかったが、 4月革命が私を社会に対して目覚めさせるようにした。言い換えれば、4月革命を切っ掛けにして小市民生活を志向する人間から、‘国家と民族の将来’を思う政治的人間に変わったのだ。

勿論、人間が小市民的人間から政治的人間に一瞬にして変わる事は出来ないだろう。変化の切っ掛けは一瞬にして与えられ得るとは言っても、その変化を確固とするには暮らしぶりの変化を伴わなければならない筈だ。広く知られた処の様に、朝鮮戦争以後の学生運動は4月革命が其の始発点と言える。だから私の政治的覚醒は、4月革命に触発されて学生運動の中から成長して行ったと言える。

この様に見れば、韓国民主化運動の主流である学生運動は、1961年の軍事革命で始まった近代化運動よりも先行した。そうだとは言っても、学生運動は近代化運動が与えられる事でその方向を取る事が可能になった。学生運動は其れ自体としてはまともに作られた‘国家建設のビジョン’を持つ事が出来ずに、既存政権の体制的欠陥に対して批判して抵抗する事を運動の主な目標にするからだ。この様な韓国学生運動の性格は、朝鮮後期の民衆運動、殖民地下独立運動の基本性格と脈を同じくする事だと言える。

 

朴玄埰先輩との出会い

兎にも角にも政治的人間に成った私が、易しく学生運動に巻きこまれて行くしか無かったのは、ある意味で必然的な事だった。いや、学生運動に巻きこまれたとするよりむしろ、音頭を取って学生運動に参加したと云うのが、更に正確な表現なのかも知れない。それ以前には図書館に閉じ篭もり座って勉強しか判らなかった学生が、4年生の始終を学生運動の渦の中で過ごした。私は母校の教授に成って以後にも、歳が五十に至るまでずっとこの運動に関与して来た。いわゆる‘民主化運動’という大義名分を持って。

そうではあるが、私は余り‘政治的’で在る事が出来なかったから、学生運動や民主化運動でリーダーの席に在った事が無い。良く言って、運動の構成員や助言者に過ぎなかった。ところがこの運動に対する私の関心は特別な処が有り、常に此の運動から去ることが出来なかった。だから私の様な人間が運動に参加する方法は、運動の目標と方向に対する知的探求以上の物に成る事が出来なかった。こんな事情が、本来、官吏や会社員を志望した私を、研究者へと変身させるようにした。

私は1962年に大学院に進学したが、その頃は丁度4月革命と軍事革命直後で、大学院に進学するには色々と有利な条件が揃っていた。4月革命による政治的荒波の中で大学教員席に多くの空白が生じたし、軍事政権が近代化政策を始めながら研究者に対する需要が増加したのだ。

私がこの様な事を明確に意識して大学院に進学した訳では無いが、この時に初めて研究所と言うものが生じ始めて、大学校生にも飯代稼ぎの機会が与えられたのだ。私は大学院に進学した日に、高麗大学校アジア問題研究所に助手席を得て、3年間勤めた。

大学院に入る時には、私には漠然と研究をしなければ為らないと云う考えしかなかった様だ。韓国の将来に対する事を研究しなくてはいけないと言う考えは強烈だったが、実際にどの様な分野を専攻しなければ為らないと言う考えは明確では無かった。そうする内に私は偶然に、高麗大アジア問題研究所の助手公募場で朴玄埰先輩に遭った。朴先輩は私の人生に於いて、決して忘れる事が出来ない大きな影響を及ぼした。私は彼を通じてマルクス経済学に目覚める様に成ったのだ。

その為、偶に私は、朴先輩が私の人生行路を変えておいたと錯覚する事が多い。‘錯覚’と言ったのは、今回考えて見れば、私の人生行路は自らの生活リズムによって決まったと云う事が明白に見えるからだ。もし彼の影響で私の学問的進路を決めていたら、私は決して韓国近代史を専攻しなかった筈だ。

考えてみれば、彼の及ぼした影響は、私にとってマルクス経済学に目覚めるようにする事だけだったのではないかと思う。私が大学院を終えながら韓国近代経済史研究を志向した事は、結局、本来の関心、則ち韓国の将来に対する私の関心の為ではないかと思われる事だからだ。

私は1965年11月に、韓国経済史専攻でソウル大学校商科大学専任講師の発令を受けた。韓国経済史専攻者として発令を受けようとすれば、この分野に関する研究がなければならなかったが、それはアジア問題研究所助手であるうちにした日帝時代の貿易構造に対する分析で代用した。

その後、この方面に関する研究としては、日帝時代の国際収支と資本流出口に関する研究があるが、改めて読んで見れば実に恥ずかしい文であるだけだ。国際収支や資本に関する概念も明確では無いのみならず、資料の収集と整理も余りにも粗雑だった。それでも、それが読者達の注目を少しでも惹くことが出来るとしたら、そこに日本帝国主義の侵略を批判する強烈な民族主義意識が盛り込まれていた為だろう。

 

民族主義研究で外道

私の初研究が、そのように出発するしかなかったところには、それなりの理由がある。あの時まで、私は唯の一度も韓国経済史という講義を聞いてみた事が無かった。私の師匠の中にも韓国経済史専攻者はいなかった。当時、韓国経済史に関する教科書や研究書が全然無かったとまでは言えないが、碌なのが無かった事は事実だ。

更に言えば当時の大学には、専攻を何で決めて、研究はどの様にしなければならないか等に対して決まった慣行が定立されていなかった。一言で言えば、お互いにお互いの様子を伺いながら暗中模索する時代だったのだ。

学界の都合がそのような中、私の研究関心は日帝時代の貿易と国際収支に対する分析から、民族主義に関する研究に転換された。今思って見れば経済史研究者の出鱈目な外道だが、当時には全く意識することが出来なかった。ただ韓国の将来に対する知的欲求が、日本帝国主義の侵略に対する単純な批判だけでは性に満ちなかったのだ。

例え専攻は史学に置いてはいたが、韓国が将来に志向しなければならない国家の姿がどの様にあるべきなのかが、学問的関心の出発点だった。今もこの様な関心が誤った事だったとは思う事は無いが、学問と現実を余りにも直接的に連結してしまったという論理的欠陥に対しては弁解する当てが無い。

それで始めたのが、満海・韓龍雲(ハン・ヨンウン)と短才・申采浩(シン・チェホ)の民族主義に関する研究だった。我が国の指導的思想家に関して研究して見れば、民族が進まなければならない未来が正しく設定されるのではないのかと思ったからだ。

満海と短才の民族主義はその内容に多少違いはあるが、基本的には民衆的民族主義だ。彼らの民族主義はマルクス主義とはかなり違うが、民族主義と民衆主義で大きく変色された東アジア的マルクス主義とは相当な親和関係にあった。この様な点が今日の韓国でも、民族主義、民衆主義及びマルクス主義がごちゃ混ぜになって大衆の人気を呼ぶ理由だったりする。当時に発行した私の著書、「3・1運動」も爆発的な人気を呼んだ。

我が国の民族主義は、事実上、抵抗的民族主義だ。‘近代国民国家’を構想する民族主義ではなく、帝国主義の侵略に抵抗するという性格を持つものに過ぎない。それにも拘わらず国の将来を思う人々に、どうしてこの様な民族主義が根強く人気を得て来たのだろう。

私が見るには、植民地状況では現実が余りにも苛酷なので、帝国主義の現実を乗り越えなければ如何なる事も成立させることが出来ないと言う事情が、アジア的民族主義の性格を其の様に固定させたのではないかと思う。今日韓国の民族主義者と民衆主義者達も、現実が到底救済することが出来ない程に堕落していると看做す為に、現実を否定する事だけが進歩的という考えに捕らわれているのではないか。

 

資本主義萌芽論・民族資本論

しかし東アジアの近現代史は、民族主義者と民衆主義者達の期待に背を向けた。私は1980年代以来の社会主義諸国の没落と、北朝鮮という‘奇怪共和国’の存在が、これを如実に証明していると思う。帝国主義の侵略に対する批判自体が未来の理想的社会を保障するという、何らの保障が無かったのだ。

いや、むしろ抵抗的民族主義を持った勢力達が抵抗運動をすると、大抵、解放だとかの民主だの平等だのを主張する事で進歩的階級で見えるが、その本質に於いてはアジア的専制主義を乗り越えることが出来なかったのではないかと思う。これ如何に悲劇的な私達の現実なのか。

私は1980年代中盤以来、この様な現実を認識して、従来の私の考えに対して正面から対立して戦った。その過程で得た新しい認識は、未来に対する夢は現実が幾ら苛酷でも、現実の中で少しずつでも実践されると其の将来が保障されると云う事だ。現実と隔たった夢は空想であって、真の未来では無いと云う話だ。

こう云う観点は、史学研究をする為には少しも疎かに出来ない事だ。現実の歴史過程で未来を見付ける事だけが、未来の現実的実現の為の保障ではないのか。史学は未来の芽を具体的に研究しなければならないのだ。

この様な点に関して、韓国近代史研究に於いて大きく問題になった二つの研究仮説が有る。一つは朝鮮後期の「資本主義萌芽論」であり、他の一つは日帝時代の「民族資本論」である。二つの何れも非常に重要な研究分野ではあるが、現在の韓国近代史研究では、東アジア的民族主義という理念によって潤色されて、その論議が非常に観念的に展開されている。

もし、資本主義萌芽論や民族資本論が、現在の韓国資本主義の発展との関連下で論議されたのならば、非常に論理整合的な説明が可能だろう。しかし今の韓国史研究では、帝国主義の侵略を批判する媒介項に利用されているのに過ぎない。

そんな論議の論理的欠陥で先ず指摘する事が出来るのは、資本と民族が何らの媒介無しに直接結合されていると云う点だ。‘民族資本’と云う用語を作り上げたからといって、事情が良くなる事は無い。資本は何処までも資本で、民族は何処までも民族であるだけだからだ。

資本蓄積の条件が必ずしも民族的ではない事もある。そうであるから東アジアの近代史に於いては‘隷属資本’や‘買弁資本’概念が出現するしかなかったが、この様な現象は結局、学問の自己破綻をもたらした。‘資本主義萌芽論 → 民族資本論 → 韓国資本主義論’の論理的連鎖は非常に順調そうであるが、どうして未だこれに抵抗するのか解らない。

韓国近代史研究は民族主義という強いイデオロギーの為、過去に於いても、また今日に於いても酷い疲労病を病んでいる。韓国 近代史研究がその様に成った事に対しては、他人を咎めるつもりは厘毛も無い。私自ら、そう云う研究傾向を主導して来た面が無い訳では無いからだ。私は1980年代に至りながら、自らの研究態度に対して懐疑を持ち始めた。韓国現代史に対する私の展望が何処か間違っていると云う事実が、現実の歴史過程の中で次第に明らかになったからだ。

 

東京で新しい史観定立

私は、韓国資本主義が外国資本に依って裏付されているから、1970年代末頃には外為危機で崩壊されると見通した。1979年の10・26事態は、一時私の展望の妥当性を裏付けてくれる事の様に見えた。しかし、その直後から、韓国現代史に対する私の展望が外れていると云う事実が、いよいよ明らかに成った。

1980年代初盤、光州虐殺と云う爆圧的な軍部独裁体制を経験した当時に、韓国経済の基本的弱点であるインフレーションが鎮まって国際収支も改善した。経済学を研究する人間としては、もはやこれ以上“韓国経済に見込みは無い”との言葉を言う事が出来なく成ったのだ。そしてその頃には、韓国経済が自立的資本主義として発展する可能性に対して、国内外的に肯定的な研究が発表され始めた。

この様な状況で1984年に、日本東京大学経済学部から客員教授として韓国経済史を講義してくれと云う提議が来た。 それで翌年から東京大学で講義をしたが、1985年末に東京大学経済学部長に、「今年は講義をしようとしたので、日本に於いて個人的にしたい研究をする事が出来なかった」と言ったら、1986年には東京大学正式教授に発令した。それで1985年3月から1987年2月までぶっ通しで2年間、東京大学経済学部で韓国経済史を講義したのだが、あの時の当惑感は一生忘れる事が出来ないものだった。

振り返えって見れば、私の人生で東京大学に留まった時ぐらい熱心に研究して、熱心に講義準備をした時は、かつて無かった。それにも拘わらず、講義時間に唯一度も自信ありげに講義をしたと感じた事が無かった。日本語で講義をしなければ為らなかった事もあるが、根本的には当時の韓国近代経済史講義内容が世界的普遍性を欠いたからだ。韓国でならば、歴史解釈で多少非論理的な点が有っても、民族主義的な国民感情に訴えればそれなりに講義が成り立つが、外国人達にはその様な非論理が通用する手段では無かったからだ。

率直に言って、私は東京大学に在った2年の間、教えたよりは学んだ事がもっと多い。一番大きく悟った事では、民族主義を持っていては普遍的な学問が成り立たないと云う事だ。講義は韓国から準備して行った教材でしたから、講義に於いて私の学問的立場が変わった事は無かったが、もうその時から従来の韓国近代史観を乗り越えて、新しい史観を定立しなければ駄目だと思った。当時、史観を切り替えるのに役立った世界史的動向は、韓国経済の自立的資本主義への発展と社会主義諸国の経済的停滞だった。

1980年代中盤ならば、誰も未だ社会主義諸国の崩壊をはっきりと見通す事が出来なかった。幸いにも私は韓国の将来に対する強烈な関心の為、東京で社会主義諸国の知識人達と会いながら、彼等の現実を直観的に観察する事が出来た。その頃の私は社会主義に対して相当な水準の理論的武装をしていたので、そんな出会いで得た、非常に制限された情報のみを以てしても社会主義諸国の困境を通察することが出来た。それに因り、韓国の将来に対する私の展望は、結局一つの幻想だったことを悟った。

韓国経済の自立的資本主義への発展展望も、韓国現代史に対する私の認識を画期的に変えていた。以前までは、韓国経済が帝国主義体制では自立的に展開される事が不可能だと考えたから、政府の近代化政策に正面から反対して出た。

しかし、東京で2年間収集した現代世界史の流れに対する多くの情報に拠れば、世界資本主義体制でも低開発国が自立的資本主義として発展する事が可能に見えた。しかも韓国経済は、そう云う世界史的動向の中心に立っていた。

その様な認識転換は、本当に私を大変に荒てさせるようにした。それが単純な観念の転換で終わるのなら大問題に成る事も無いが、もし私の生活全般の転換を要求するのなら、ただ事では無いからだ。それは観念の転換だけではなく、韓国近現代史に対する認識体系と、私の人間関係の再鼎立を不可欠で要求するより他なかった。

韓国近代史に対する私達の認識は、多くの論理的矛盾を抱えている。韓国は先進資本主義諸国とはその発展の道が違うと言いながらも、先進資本主義が発展して来た道を唯一の発展のモデルであるかの様に教えるとか、「韓国資本主義の発展」を話しながらも韓国資本主義の発展展望に対しては何も提示する処が無くて、韓国では自立的資本主義が現実化するのが不可能だと強調する事等が其れだ。

そうであるから韓国近現代史の体系を再び立てようとすれば、二つの認識が必要だった。第一は、韓国の様に世界資本主義市場に低開発国として包攝されている国では、むしろ高度成長の様な、世界史でかつてその前例を捜してみることが出来ない自立的資本主義の発展が可能だと云う事であり、二番目は、資本主義の発展する道が先進資本主義とは違うと云う事だ。

 

経済成長史の利点

現代の世界史を帝国主義時代の様に理解してはいけない。第2次世界大戦以後の国際法秩序は全然新しい世界秩序として、幾ら弱小国家だと云えども、先進国がその主権を簡単に踏み躪る事が出来ない。この様な条件では、例え経済的に低開発国家だと云っても、経済開発の内的能力を持った国民ならば、自立的資本主義を建設する事が出来るのだ。新興工業国(NICs)と東南アジア国家連合(ASEAN)は、これを端的に実践していると見なければならないだろう。

先進資本主義諸国は、基本的に自生的資本主義の発展過程を経験した。ドイツ 日本 イタリア等の19世紀後進資本主義は、イギリスなど先進資本主義の影響の下で発展することはしたのだが、自国内でも自生的資本主義が発展したのが事実だ。しかし1960年代以後、NICsの経済発展は、先進資本主義から資本と技術を取り入れて、先進資本主義へ追い付く過程だった。だから両者は其の発展の道が全然違う。人々はこの点を理解する事が出来ないから、植民地や低開発国に於いて如何様に経済発展が可能かと駁する。経済発展だと言えば通例、自生的な事だけで認識するからだ。

私はこの様な認識を土台に、停年退任を控えて韓国近代経済史研究の為に次の二つの方向を提示した。

第一は、韓国近現代経済史を経済成長史で把握しようと云う事だ。経済成長史は先ず、統計資料の整理を土台として研究を進行するしか無いので、民族主義等のイデオロギー的影響を排除しながら韓国近現代史を科学的に研究する事が出来ると云う利点が有る。また朝鮮後期、日帝時代、解放以後を、その政治・経済体制如何に拘わらずに一貫される様に研究する事のみならず、世界的に普遍性を持つ韓国近現代史を定立する事が出来る。

二番目は、韓国近現代史を研究する為に必要な理論は、伝統的な資本主義発逹史では無く、後発性理論或いは経済発展の雁行形態論と云う事だ。韓国の経済発展が先進資本主義に追い付こうとする過程なら、この様な研究方向はその妥当性が誰にも明白なのだ。

講壇を発ちながら残す文ならば身辺雑記類があつらえ向きだと考えない訳でもないが、文が意外に重くなってしまった。それは私が一生を捧げて来た韓国近現代史研究の方向が、学界で未だまともに定立されることが出来ない事に対する罪責感の為だと理解して貰らえれば有り難い。

韓国近現代史の研究方向は、研究者が現代韓国の歴史的課題を何で認識するのかに依って決まる。未だ日帝の植民地残滓を清算する事が一番大きな歴史的課題だと思う人は、歴史研究の中心を日帝侵略に対する批判に置かなければならないと思うだろう。民族統一が至上の課題だと思う人は、統一運動史を研究の中心に置かなければならないと信じる筈だ。

しかし、親日残滓の清算や民族統一も重要だが、その様な事は副次的な問題で、韓国が中進国から先進国に発展する事が現代史の中心課題だと思う人は、経済成長史を歴史研究の中心軸に置こうと思うだろう。私は自主民主統一と云う現代史的課題は、経済成長が成らなければ何れも果たす事が出来ないと信じるので、経済成長史を韓国近現代史研究の核心で把握したのだ。

 
 
 
 
 
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