12/1 怪獣熱
月のはじめは生活にをささえるいろいろなことがあって、仕事でもなく創作でもないことごとに計画的に取り組むというリズムが出来上がっているらしい。ここ数日は買い物、掃除、下ろしたり振り込んだり。それから「HAMMER RECORDS」のいろいろでばたばたと。仕事は嫌いではなくむしろ好きなのだけれど、それにコンセントレーションを傾けすぎると生活とかが散漫になって、ハンカチにアイロンがあたってなかったり、卵やミルクを切らしてしまったりするので。
今日は休日なので会議にだけ出た後、梅田から恵美須町、なんば界隈をうろうろ。そういえば月末にSINGLESに行ったときもその話題でひそかに盛り上がったのだけれど、怪獣熱が昂じて、ケムラー、ガブラ、ササヒラー等等、いろいろ買ってしまった。本当に今日はなんだかそういう気分だったのだ。数日前、同僚の教員に深夜車で送ってもらった。部屋に上がってもらい、その翌日の会話。「なあ、うちの部屋、怪獣たくさんあったでしょ」「ありましたね」「ヤバいと思う?」「いいんちがいます?」「うん、…これでオレが小太りで眼鏡とかかけてて彼女もいなかったりしたらヤバいとは思うんだけどね」。
小説サイト『HAMMER RECORDS』では毎月、7人(現在1名休止中)で短編小説を書いている。もともとの既定では原稿用紙5枚から25枚だが、オーバーすることもしょっちゅう。原稿のやりとりはほぼすべてメールで行い、メンバー間でのやり取りや顔を合わせる機会というのはほとんどない。面識のない同士、一度も合ったことのない者同士もいる。このスタイル、実はとても楽で、そして楽しい。
いよいよ今年最後の月、スタート。
12/3 希望について
午前中からずいぶん時間の余裕があった一日。教室にむかう前にお茶を飲みながら、間断的に読み継いでいた『どこにでもある場所とどこにもいないわたし/村上龍』を読み終える。8本の「海外に出て行く人物を主人公」とした短編が収められている。「公園」「駅前」「空港」がよかった。この日、お茶を飲みながら最後に読み終えたのが「空港」で、泣けた。村上龍の小説を読んでいると、誰かにいってほしくてでも誰もいってくれないポジティヴなことをいってもらえた気になる。少し背中を押された気がする。そういう小説を書きたいと思うし、そういう小説を書くためには同じ希望とそれを作品としていえるだけの勇気がいるのだろうと思う。
この日、ひとつ嫌なことがあった。ある目的を達成するために一緒に作業に勤しんでいる仲間と、その工程のことで言い合いになった。嫌だったのは、その相手の言い分を理解できなかったことだ。いくつかエクスキューズをしてみたけれども、結局その主張される根拠がわからなくて、言い合いの合間もどかしい思いをずっとしていた。関係にズレが生じるということはないが、理解していると思っていた相手のいうことが「わからなく」なったのはショックだった。
帰りし、地下鉄で、ずいぶん会ってなかった友達に会う。互いの仕事の話と創作の話なんかをする。「最近、書いてる?」と訊ねると「しばらく書けてなかったんだけど、また書こうかと思えるきっかけがあった」という。
ある時期までは読者に対して攻撃的に、責めるように書いていたのだけれど、最近は生活が満たされてしまっているのか、書く必然がなくなっていた、と友達はいった。それで書けなくなっていた。そうしたらある人に「だったら希望を伝えるような前向きな作品を書いたらいいじゃないか」といわれて、再び書こうと思えるようになったのだと。それに対してシニックな僕は「書かずにすませられてたんなら無理に書かなくていいじゃないか」という。「希望なんか他人から教えてもらうものではないし」。
昼間、読み終えた村上龍とこの僕の物言いとに関連があるのかないのかは自分でも定かじゃないけど、希望を伝えたり満ち足りた生活を作品化したりするのは困難だと思っている。なにより読者自身が満ちたりている場合には小説も詩も必要とされていないと思うし、そして書き手の満ち足りた生活なんかはこれもまた読者には関係ないことだから。では希望はどうか、といえば、先に書いたように、後押しは出来るだろう。ただし他人の希望を後押しするにはその読者の求めているものを理解し、それにひとつの解答を出すつもりで準備しなければならないと思うのだけれど。なにより「理解」が必要で、なおかつ「共感」したフリもしなければならないのだと思った。
ところで最近の僕はそういった読者の人格に踏み込んだり読者をどうこう高いところへ導こうとか、誰かが唯一のものとして待っているとかいう幻想は捨ててしまって、いまは楽しんでもらえばそれでいいと思ってます。主人公は共感の対象でも作者の代弁者でもなく、ただの快楽装置のボタンであれかし、と思っているので。
12/8 two エレメンツ
冬期講習が近い、それが終わればすぐに入試、終わると即座に次年度の開講、……といったふうで仕事が転がっていて、それはそれで楽しい。最近は小説にむかうモチベーションがなかなかに自分のなかでは高いので、折り合いをどうつけるかに腐心するのだけれども。実際には折り合いのつけようなんかはなく、仕事は減らすわけにはいかないし、減らす気なんかないし。
エラリイ・クイーンネタのムック本を見つけた(『エラリー・クイーンperfect
guide』ぶんか社)。秘密本もここまで出るかという感じだけれど、触発されてしまい、読んでいた『希望の国のエクソダス/村上龍』を放りだし、『フランス白粉の秘密』を読み出す。読み残してあるクイーンが何冊かある、それも少なくなってきた。誰かクイーンを語るような会をやらない? クイーンに限定した読書会をたまに催し、簡単な研究を発表するような。……いったい僕は何に飢えているんだろうかしら。
the yellow monkeyのベスト盤『MOTHER OF ALL THE BEST』、発売。ファンの集うbbsなんかでは賛否両論というより喧々諤々のやりとりがされているところもあるし、僕としてもYOSHII
LOVINSONは大好きだが切なさと喪失感とそして裏切られた気分は常につきまとっているのだけれど、彼らについての一切は10月号の「bridge」で一切不問に処すことにしたので、躊躇せず買った。ロビンの発言にはやや訝しさも働くけれども好きなんだからしょうがないよ、それよりもヒーセやエマにあんなこといわれちゃ許すしかないと思う、いや許すとかどうとかいっても仕方ないと思った。惚れたもの負けです。実際、購入したときには「もしかしたらしばらく聴けないかも」とも考えたんだけれど、実際には先刻からずっと部屋のなかで流れている。くそっ、それにしてもいいバンドだ。イエモンファンなんだけれど僕は「JAM」が好きではなかった。ケレンが勝ちすぎているし発売にまつわる挿話がなんだからしくなくってヤだったけれど、今回、認識を改めちゃったよ。
クイーンとthe yellow monkeyを頭のなかで掻き回し、焦がれながら今月の「HAMMER
RECORDS」の小説を書いてる。書くしか前に進まないので。書くことは、自分の指先から物語がこぼれだしていくのを目の当たりにするのはとても気持ちがいいことなので。
12/11 Nervous
発言が素晴らしく尖がってる理由はふたつ、ひとつは受験が近いこと。もうひとつは小説を書いていたから。自分の思考の純度が高くなるのが具体的に判る。それは心地よい。気取りもあるのは承知、それでもいい。普段の自分とは何か違って、スイッチがONになっている気分、確かに神経が鋭敏になってよくもわるくもいろんなことに気付くようになるんだ。
出勤前、立ち寄った本屋で見た。法月綸太郎氏、おめでとう。やった。
今日1日、頭のなかで流れていたのはこの曲。
暮れ行く太陽の下で祈りを捧げ
「快楽の中で死にたい」と囁いている
いたいけな欲望が悪い爪を欲しがる
True Love あわれみのsuicide
レクイエムは魔性の天使の歌声で
Make love 裏切るノスタルジー
ah baby 嘆くなり我が夜のFantasy
(「嘆くなり我が夜のFantasy/the yellow monkey」)
12/13 クチグセ
同人誌はじめるよりも以前、さる場所で僕はこういったことごとをいわれてきたのだった。「カタカナが多い」「漢字が多い」「マニアックな固有名詞が多い」。ひさびさにそれを思い出す出来事あり。まあ、いくらか成長しているので、かつていわれたことに納得している面もある。水準の問題だと思う。もういまから10年前後前のことなんだけど、当時は取捨選択せず確かにカタカナを使い、漢字を使い、していた。最近は主観で使い分けているので、まあその辺は理解してほしい。主人公たちを20歳のグランジなフリーターとかに設定していて特別な意図がなければ、彼らは「矜持」とか「滂沱」とかはいわないと思うし。でも三人称で書いていれば、神の視点で「自尊心が喜んだのだった」って書くかもしれないし。
そういったことごとを考えながら小説を書いていると、なんだか高性能のF1のパーツを厳選する行為にも似てきて、楽しい。僕がいままでの最大の褒め言葉だとして受け取っているのは、「まったくムダのない小説だった。走るためにだけ作られたフォーミュラーカーのように、研ぎ澄まされた小説だった」といわれたことだが、最近そこに近づけようとしている自分にはたと気付く。自惚れではなくこれは恥ずかしい告白なんだけれど。もう無理だと思っていたのだ。先の感想は『クリスタル』にむけられたものだった。これと前後する『誰かが、待ちながら』という2作品を書いたときがピークで、そしてそれ以上の前進が期待出来ないから、もう小説は趣味としてしか書けない、と思ったのだった。ただ最近はちょっと。
最近になって出来た口癖があって、まあこれはとても個人的な流行みたいなもんなんだけど、それは「精度を上げる」。問題を解く生徒たちにもいうし、昨日の合評でもいった。記述式解答の精度を上げる、作品の精度を上げる。そういった口癖は、実は自分がそのときいちばんに意識していることなのだろう、多分。
今日も頭のなかでは吉井ロビン和哉が唄っていたが、昨日、合評後にメンバーの1人がいった「『夏の憂鬱』ってどんな曲でしたっけ」という一言のせいで、朝の間は『heavenly』を聴いていた。キミ、こないだは「『JAM』、好きじゃないんですか」といってたやんけ。唄ってくれればよかったのに。
TSUTAYAで生まれて初めて延滞料金を払う。あれ、高すぎないか? といいたくなる。DVDを2枚借りてて1枚は観られなくて、それで延滞料金も含めると、映画料金並になった、とほほ。観られなかったのは韓国映画『H』。
また続けてクイーンを読む。
教室から帰ってきてネクタイと上着だけ脱いだワイシャツ姿で、缶ビールを空けながら料理に勤しんでいると、当たり前のことなんだが、昨日もご飯を食べて今日も食べて、そして1年後もご飯を食べているんだろう、とふと思う。いま装填しているコンタクトレンズについてときどき考えることでもあるんだけれど、1年、いや10年後にも同じ行為をしているんだろう、と考えるととても不思議な気持ちになる。10年前にはまだ子供だった女の子ときわどい言葉を交わしたり、僕がまだ子供だった頃から大人になっていた人たちと対等にいいあったり。そういった時間感覚を突然、無効にしてしまうことについて考えると、いままでとはちょっと変わった視点を獲得した気分になれる。それをもう少し推し進めると何かが新しく自分のものになる筈だ。そういえば、左腕に傷をつけたのはもう10年以上も前のことなのか。先日、さる女性とそんな話を。普段は忘れてるんだ、そんな自己満足でしかない挿話なんて。料理をしたり、ゴミを出したり、クリーニングやアイロンかけや、プリンターのインクを買わなきゃ、と思ってたり、教室の近くのブレッドショップのおばあちゃんと馴染みになったり、一応『文学界』をはじめ一通りの文芸誌を立ち読みして結局は『ロッキン・オン・JAPAN』を買ってしまったり。そういった日常のなかで小説について考えるのが好きだ。
12/21 choking on your alibis
小説を書くその現場で先に述べたような言葉を好んで用いる反面、気の会う人たちと飲む場で僕は「房事」や「クロッチ」や「スクスイ」という言葉を連発(はしないが)して他人を困惑させて喜ぶという趣向もあるらしい、そう同僚から指摘された。某日、ややワーカホリックの気がある6人で、日常の隙間を縫うようにして飲みにいく。
職場のメンバーは普段はまったく異なる教室に勤務している。週に1度の会議で顔を合わせ戦略的なことごとを積極的に決める。決めたら実行する。うち何人かとは音楽のとてもディープでコアな話もし、何人かとは小説を「読む」ではなく「書く」ということについて話もする。グチるものはいない。
某日、衝動買い。ハードディスク内臓のプレイヤーが欲しかった。ショップでいろいろ聞くだけのつもり、予算も1万前後のつもりだったのに。買ってしまったのはコレ(500ではなく100の方)。5GBもあるので、近頃聴いてなかったCDをどんどん放り込んでいく。the cureとかsuedeなんかをひさびさに聴いているのはそのせい。the dandysなんて一発屋も。ブリットポップの落し児的暗いアイドル顔と声とギターの音が心地よかったと思い出す。New Orderはヘッドフォーンで聴いていると気付いてなかった発見がたくさんあった。そしてthe killers! カッコよかった。めちゃめちゃポップだ。「嫉妬心が聖者を海に変えている/嘔吐のララバイのなかを泳ぎ/アリバイにむせてしまう/でもこれは償うべきもの/運命が僕を呼ぶ/この目を開いてくれ」だなんて。
某日、このサイトのtop変更。すっきりした。うれしい。リンク、近いうちに作り直して上げます。
12/24 drowing by Movies
merry cristmas! 他人の教養についてとやかくいえるとは思ってないのだけれど、最近は確かにそれがひどく気になる。もとより知性に関してコンプレックスはあるのだ。そんなにデキがいいほうではない。くわえて大学を出てからはフィジカルな実行力というものについて悩まされてもきていたのだし。それで攻撃的になっている。あまりよくない。階段をひとつ、またひとつと上るためにストィックにも求道的にもなることはいいことだが、それを周囲にも過度に要求するのは。
某日、劇場で『レディ・ジョーカー』。原作を熱愛しているのだけれど、告白すれば実は一読目では見えない部分があったのだ。知識の狭量ぶりのせいなんだが、間を置いて再読、そしてまた間を置いて三読したが、その度に発見し、手触りの厚さと良さを確認し、惹き込まれていった。もちろん映画と小説というアプローチのメソッドが異なる2つの表現を安易に比べはしないが、映画は、いい意味では小説のガイドでありダイジェストとして成立していると思い、悪くいえば、小説のなかにあったそれぞれの人物の見えない機微を省略し過ぎていると思った。表層的な事件は十分に描いていると思う。一例だが、小説のなかに流れる主要な旋律のひとつに、合田という刑事と城山という企業人との関係とその関係の変化があるのだが、そのダイナミズムはやや端っこに追いやられていた。映画という表現手段に変換してもそれは表現可能だっただろうが、時間的な制約もあったのだろう。製作者たちがそのことを歯痒く思ってくれていればいいな、というのが1ファンの希望である(ここでもまたクレジットに知人の名が散見していた。それがチーフ監督であったことをうれしく思う)。配役のイメージについて云々するのに意味はないけれど楽しい。小説を読んだ人だけが首肯してくれればいい。長塚京三の城山社長をはじめ、布川、白井といった面々はイメージ通りだった。陽ちゃんは原作では田口浩正のイメージなんだけど(小太りのオタク)それを裏切る加藤晴彦はとてもよかった、吉川晃司は高克己かな、と思っていたら半田だった。もうちょっと年齢をくってくたびれたイメージがあったのでやや違和感があった。吉川晃司の演技に不満があるわけではない、陽ちゃんほどにミスマッチの魅力を感じられなかっただけのことだ。惜しむらくはやはり合田で、『マークスの山』の印象から中井貴一を思い浮かべて原作を読み耽った僕が悪いのだろうが、経験も判断力ももう少し身に付けた振る舞いをしたなら厚みも増しただろうに。確かに映画と小説とは別物である。(余談だが、新宿鮫は真田広之である)。いきなり小説に手を伸ばすには重厚すぎる、映画では省略された部分が気になる、そういう意味で、ブッキッシュなフリークでもなくミステリー好きでもなく文体で小説を読んだりはしない人にまず観てもらえ、それから原作へのいいガイドになっているという点で、2つの『レディ・ジョーカー』は補完しあうのかも知れないと思った。小説が聖典であるのは僕にとっては揺るがないが。
さらにまた別の日、『ゴジラ ファイナルウォーズ』。人間ドラマに軸足を置きすぎ、最後のゴジラにも関わらず、その魅力を堪能は出来ない。ただ見せ場が少ない割には出てくる怪獣の量が多く、それを次から次へと倒して(焼き尽くして)いくので、圧倒的な強さだけが印象に残る。人間パートはマンガ的であるが、いい意味でこれが本来のゴジラ映画なんだろうと思えた。ショーン・コネリーの007だけが「007映画」なのではなく、ロジャー・ムーアのそれも「007」であるという理屈だ。しかし大人の観賞にも耐えうる娯楽作品にしようとはせず、子供の記憶に残るエンターティメント映画にしようという心意気はよし、だ。人間ドラマのパートに苦言を呈したが、それは「ゴジラ」を観たいからであり、役者の演技も描かれ方もそれなりにカッコよかった。北村一輝はいいな〜! しかし、実は『レディ・ジョーカー』を観たとき僕はある1人の中年のオッサン役者に魅了され、そして彼は『ゴジラ ファイナルウォーズ』でも渋い演技を見せていた。その名前を国村隼という。
その『ゴジラ』の劇場を出たときのエレベータのなかで。父親と、兄ちゃん(推定・小学校5年生)弟(同じく2年生頃か)の会話。父「ゴジラ、カッコよかったか」弟「うん、……」兄「あんまり暴れてへんかったな〜」父「ホンマはもっと暴れるねんで。ゴジラ違ったな」弟「なんでゴジラあんまり出てけえへんかったん」父「……それどころやなかったんやろ」。この会話、映画観た人なら笑えると思う。確かにそれどころではなかったので。
クリスマスだというのに会議を終えると、そうそうに家まで戻ってきたのは、一週間程前から左腕と首の調子が悪いから。日増しにそれが痛みを増しているから。病院に行けるチャンスなんて今日を逃すと来年の10日過ぎまでない。整形で診てもらう、たいしたことないらしくてホッとする。そのまま駅近くのカフェでお茶して部屋に戻り、こうして日記を書いている。書き終えたら『詩学』のコラムにとりかからなくては! 明日から冬期講習。
12/27 Baby not ノスタルジア
左腕、結構調子悪い。黒板に背をむけて立ち生徒の方をむき、左腕で板書したポイントを指しながら話す、というポーズが割りとお気に入りだったのだが、それが出来ない。今日は不意の代講があった。国語ではなく社会、普段見ていない生徒(噂だけは伝わっていたらしく鳴り者入りの登場になっちゃったよ)相手に社会は緊張するけれど愉しみだった。充実した(つもり)。
mp3playerに古いCDを落とし込んでいる。デペッシュモードに続いてpetshop boysを入れていたら、その連鎖でelectronicが聴きたくなった。バーナード・サムナーとジョニー・マーだったっけ。90年の名盤、…とはちょっといい難いが当時、相当聴いていた。ニール・テナントがvocalをとっている曲があるんだけれど、これを当時、金子さんと外資系レコードショップで偶々聴いて「なんだかニューオーダーとpsb混ぜたみたいな曲だな」といってたら本当にそうだったので笑った覚えが。最近、曲の好みは激しく逆行している。映画と音楽はしかし世間の流行廃りに左右されないのでいい。かつてたいしたことないなと聴き流していたのに、ある日突然聴き返してみたら素晴らしかったことに気付いて愕然としたりしちゃうのも、なんだか得した気分でいい。
今日、教室の移動の合間にvirgin megastoreでYOSHII LOVINSONの『call me』を試聴。歌詞に痺れた。発売年明け、同日にラルクも『killing me』発売。奇しくも『〜me』対決。なぜ?
去年のM-1でアンタッチャブルの漫才を初めて見て、そのスピード感に圧倒された覚えがあった。昨夜、グランプリ授賞、おめでとう。相変わらずのスピード感。王道の漫才って感じもいい。けど1年ってはやいな。普段TVはほとんど観ないから、去年の記憶がまだ新しいままである。
ちょっと前、妄想系のエロ小説をプレゼントされたのだけれど、最近その続き(アンサーみたいな感じ)がなんとなく頭のなかで組み立てられつつあるので、来年の1本目は短いエロ小説になるかも。そろそろ今年のベスト1ムービー、重大事件、そして来年のテーマが頭のなかに降ってくる時期だ。
12/31 ランドスケープ
今年もこの日まで授業。静まり返った街を教室の窓から睥睨していたら、雨がみぞれに、それから雪に。2004年が終わりだということがぴんとこない。きっと、この子たちの受験が終わったときには、1年が終わったのだと感じる筈。世間との時間の流れにズレを感じ、それから、本当はそういった人たちが決して少なくないのだと想像する。クリスマスも年末も正月も共感装置だと思うと、参加できない自分がちょっとだけ残念だ。
法月綸太郎『生首に聞いてみろ』、年内読了。そしてここ数日、いおうとしていいそびれていたことを、どうにか年内に伝えられたかな。僕は傲慢で我侭だと思う。もういい年齢なんだけどな。
今年のベストムービーは『スパイダーマン2』も『ラストサムライ』も好きだがその緻密さで(誰がなんといおうと!)『ヴィレッジ』に決定。『ターミナル』は05年に持ち越し、未見。重大ニュースは「HAMMER RECORDS」サイトオープン、メンバーの新加入も素敵な出来事だったと思う。新しい書き手と出会う、あるいは新しい書き手の誕生に立ち会えるのは喜びです。で、来年のテーマ。数日前まで「love」だと思ってたんだけれど、いまは、reborn、「再生」だと思っている。何をって決まってるじゃないですか、2005年は小説をもっと。そして攻撃的なスタイルに。