秋田地名研究年報、第18号
2002年版

論文の題名 著者  冒頭の部分の紹介
羽州街道・矢立峠超え・村々地名考 鷲谷  豊   羽州街道という街道名と、どこからどこまでという区間名については、藩政期においては定義が無いというのが私の持論である。いわゆる奥州街道桑折宿から分岐して、これが羽州街道の起点であるという断定の仕方は出来ないと思っている。終点は津軽外ケ浜の油川だということも藩政期にはあり得ない。
 幕府の定めた五街道のほかは、各々の領国各藩の責任に委ねられていた。区間・路線名が全国的になるのは、明治に入ってからであり、俗称としての街道名は、流動的といえる。
 各領国城下への上り下りで呼称が違うのも各領国の人々にとっては当然の感覚であったに違いない。このことは先の年報17号に書いた。
 出羽国即ち羽州内陸部を南から北へ縦断する街道は、上杉領米沢城下を発し、上ノ山、天童、新庄、佐竹領に入って院内から湯沢、横手、久保田城下に至り、更に大館城下へと続く。出羽国内陸部の南北縦断の基幹街道であり、各々の区間で各地の呼称を持ちながらも、総じていえば主要城下を連鎖する街道即ち羽州街道ということになるが、各領国の領民の日常呼称ではあり得なかった。
鹿角の古地名「毛馬内」稿(その一)       柳沢兌衛

 古地名とは単に古い時代からの地名というぐらいに考えておく。地名論的にいえば歴史学に表れる「古代」あたりにあった地名ということになるであろうか。これから対象とする地名は近世にも及んでいるが、その文化は古代にもつながっていると考えられるのでそのように表記した。

  関西地方にある「毛馬村」
 毛馬村…大阪府都島区毛馬町1-5丁目。
 毛馬村…兵庫県尼崎市

  奈良時代の出雲国にあった「毛間村」
 島根県大原郡大束町大字中湯石の中央部を流れる川を挟んで中屋という集落がある。この程、この周辺に古代の毛間村があったことを知った。それは、古代の「出雲国風土記」に記載されている。

  鹿角の「毛馬内」地名と集落の変遷
 秋田県の「毛馬内」地名は、鹿角市に一ケ所のみである。江戸時代には鹿角盆地(現、花輪盆地)の北半を行政圏にした「毛馬内通」を称した。

消えた「寺内」地名と中世村落         木村清幸

 「寺内」あるいは「寺内町」という地名は中世の地名だと言われています。この地名の分布は以外と少なく、秋田県内では秋田市の寺内と横手市の大屋寺内の二カ所だけより見当たりません。
 しかし、「寺内」という地名はもっと県内に存在していたのではないのか、明治になって消されてしまった地名ではないのか、といった疑問を持つ地名の一つです。
 その契機は石川理紀之助が行なった『扇渕村適産調』の中に、檜山川と並列して所在が分からぬ「寺内川」という川が記載されていたことにありました。
 能代市の古い資料を探してみると、『宝暦九年、鶴形絵図』の中に「寺内村」が描かれていて、「寺内川」はこの寺内村附近へ注ぐ、いまの「姥懐川」であることが分かりました。この絵図から「寺内」という地名は少なくとも能代市の鶴形地区には存在していたことが分かりました。

羽越のクニ境を歩く 佐藤貢

 先人の記した上方参りの道中記を読んでいるうちに、急に出羽と越後の国境を見たくなった。以前、車で通り過ぎたことはある。しかし、新潟県朝日町みどりの里「日本玩具歴史館」に立ち寄って休憩しただけのことであった。道中記など読み始める以前のことだったから、先人たちに思いを馳せることもなかった。
 道中記には例えば、文久二年(1862)八月二日・三日にここを通った、本庄町の今野於以登は次のように書いている。《一、根津ケ関、出羽・越後堺、御番所あり》。《一・武道峠・大難所なり、矢吹明神の巖ヤあり》。象潟と庄内の境の三崎山も難所だが、それにも増して葡萄峠は大難所であった。

見内のことなど、アイヌ語地名から思う 深田新一郎

 在京のアイヌ語研究者より秋田県の皿見内(秋田市)は「田んぼのある川」、浅見内(五城目町)は「糸底の川」という発表があったがほかの見内については説明がなかった。田んぼとは稲作のことであり、糸底とはロクロを使い土師器の底を糸切りすることであって、年代的には弥生以降平安時代ということになる。
 見内地名はほかに秋田県南部の横手盆地中央部に樽見内(平鹿町標高55m)大見内(雄物川町45m)板見内(仙北町40m)堀見内(仙北町30m)鑓見内(中仙町35m)羽見内(太田町48m)それに入見内川(角館町玉川合流点40m)があって、ほとんどが縄文晩期遣跡の下限ライン上に展開している。
 天明八年(1778)から寛政四年(1792)まで北海道にいた菅江真澄は樽見内についてはオタルミンナイでオタは砂、ルは道であり、オとンをはぶいてタルミナイになったというが、小樽はオタルナイ(砂浜の川)かオタナイ、オタルウンナイなどである。
 樽見内の地は湧水帯と古代皆瀬川の流路が交叉していたと推定されるところであるから内陸でも砂地があるのは当然である。大見内も同じ古代皆瀬川の流路にあたっており、湧水帯ではないが樽見内の下流(川尻方向をオという)に位置して近くには泥炭層がある。
 板見内は湧水帯にあり、菅江真澄はイタムギナイのイタムギとは椀のたぐいで地形などが飯椀に似ているのでつけたらしいと言っているが、果たして板見内の地にいかなる椀型の地形があったものかまったくわからない。

地名関係図書の紹介               編集部

 「地名の歴史学」服部英雄(著)
 角川叢書、2000年6月

 筆者を地名研究に駆り立てる理由は、意味の分からない地名の意味を分かりたいという願いから発している。そして、理解しがたい地名も、いくつかの類例を集めていけば、おのずから意味の分かる場合もあった、といわれる。筆者の研究は、文献資料による古地名と、現地に足を踏み入れての古老からの聞き取りによる。多くの小字を集め、文献資料と照合させることによって、地域の歴史を浮かび上がらせる方法である。

 『大江戸泉光院旅日記』石川英輔(著)
 請談社文庫、1997年5月

 江戸時代、全国を歩き回り、旅行記を書いた人々が多数いた。その中で、本県にも足を踏み入れたのは、あまりにも有名な松尾芭蕉・河合曽良師弟、古川古松軒・菅江真澄などであろうか。あまり知られていないのは、標記旅日記の著者・泉光院野田成亮である。

 
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