東北アイヌ語地名研究会

2010年6月26・27日

総会・研究会は秋田県北秋田市
(旧・阿仁町)で開催されました

 阿仁のアイヌ語地名

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旧・森吉町のアイヌ語地名

上小阿仁川流域のアイヌ語地名

秋田地名研究会

旧、阿仁町
(2004年11月12日版)
【図表はクリックすると拡大された表示になります】

  秋田県北秋田郡の阿仁川上流に沿った山あいの町である。総面積371.92kuのうち94.4%は森林である。近世には鉱山が盛んだった。人口の最も多かった1960年には11,330人に達したが、その後は過疎化により年々減少し2004年の人口は約4,200人。高齢化率は42,7%で7年間連続県内トップである。近年は観光振興に力を入れている。2005年には近隣3町との合併を目指す。

「銅山木山方絵図」は、藩政時代に1626年から1859年までの期間にわたって地形や沢の名前や境界などを記録した資料である。明治元年(1868)に写本が作られた。多数の旧地名が記録されている。1991年に阿仁町史料編として出版された。

   

 多数の絵図には、阿仁川水系の河川が細かく記録されており、人々の生業と山や川との関わりは重要なものであったことがわかる。

 阿仁の地名のなかには笑内(おかしない)などナイのつくものがあり、アイヌ語に近い古代語のnay(沢)が残ったものと考えられている。



糠内(ぬかない)

明治時代の地名の資料にある地名である。現在は用いられていないようだ。銅山木山方絵図(1-10p)には小様(こざま)村の南側に「ヌカ内沢」が記されている。その上流に「○板木沢」とあり○は鉱山の印である。
また銅山木山方絵図(1-10p)の小渕村には「間見内沢」らしい沢名がある。読み方は不明であるがマミナイザワとも読める。その上流の西の山地には「小沢ノアダコ、小沢境」とあり、銅山木山方絵図(1-17p)の小沢銅山の「愛宕」につながる。

小渕(こぶち)から坂を上りトンネルをぬけると小様の集落がある。

上流の方から小様(こざま)の集落に入っていく橋がある。橋の上から撮影した小様川。小石の川原をみることができる。

絵図では「ヌカ内沢」は小様村の南側となっている

銅山木山方絵図(1-10p)


 北海道中川郡幕別町には糠内という字があり糠内小中学校などがある。「広報まくべつ、2003年3月号No.614」(7p)には次のような地名解がのせられている。
noka-naiから転訛した「記念すべき模型物のある・沢」とnukan-naiから転訛した「小石の・沢」という説の二つが記されています。・・・・・糠内川の川筋を歩くと、実に砂利の多い川であることに気づきます

永田方正「北海道蝦夷語地名解」(338p)には、十勝国中川郡「Nukan nai 小石川、ヌカンハ最小ノ義取テ小石ノ義ニ用フ」とある。

比内沢(ひないざわ)

 姫ヶ岳登山口のバス停(元パチンコ店の廃屋の所)から15mほど南側で国道の下を潜って阿仁川に流れ落ちている川である。沢のまわりにはうっそうと草木が生えていて国道からは、よく見えないがこの川の川底は小石である。pi-nay[小石の沢]が当てはまる。

 

 

阿仁町営ジャンプ場入口、阿仁かざはり苑入口がある

比内沢は前方の白いガードレールがあって潅木が茂った所を流れている。
銅山木山方絵図(1-13p)
三右衛門沢之方 吉田村担、不っちや沢之方 湯口内村

阿仁町と上小阿仁村の境をなす姫ヶ岳の西側にも比内沢がある。山田(b-209p)は東北地方の比内はピッ・ナイ(小石・川)のようだとしている。
 銅山木山方絵図(1-13p)には姫ヶ岳に至る上流部の三右衛門沢などの沢名が記されている。上流部にナイのつく地名はない。
 
西木村上檜木内の比内沢川について、山田(a-81p)は小川または小石川と読んでよさそうだと述べている。上檜木内の比内沢では川口の宮田のあたりでは川底は野球か卓球のボールほどの石で、角張った大石はまれであった。

湯口内(ゆくちない)

 湯口内沢川は阿仁川西岸の湯口内の集落の南側で阿仁川に注いでいる。

 

集落の中を流れる湯口内沢川、上流の方向 湯口内沢川の表示板

 湯口内銀山の開坑は阿仁の鉱山の中でもっとも古く1575年の発見と伝えられる。1614年の梅津政景日記には「幾口内」、「いくちない銀山」と記されている。

 銅山木山方絵図(1-15p)には天狗岳と姫ヶ岳の鞍部に至る上流部の沢名が記されている。湯口内沢を遡って行くと一番先の支流は湯ノ沢である。漢字表記上に関係がありそうである。銅山木山方絵図(1-15p)では湯口内沢が大又川(阿仁川)に注ぐ所が湯口内で、川口の南側に舟渡場がある。それより少し北側に湯口内村と記されている。
沢名と村名が少しずれている事例である。菅江真澄の「阿仁の沢水」には湯口内の渡し場の絵がある。

銅山木山方絵図(1-15p)
菅江真澄「阿仁の沢水」

湯口内のわたり

 湯口内沢川の川口では、遺跡14-1熊堂[水無字湯口内]から縄文土器片(中期)が出土している。阿仁川対岸の遺跡14-3上岱T・Uでは縄文土器片(中〜後期)と配石遺構が出土している。

 i-uk-ot-nay[それ(獲物、鹿)を取るのが常である沢]が考えられた。日常語では鹿を意味するyukは、知里(146p)によると i-ukであり、もとは獲物について熊も鹿も狢も意味したという。鹿を崖に追いつめて捕らえる場所が昔にあったのかもしれないが、今ではこの沢で何の獲物があったのかはわからない。
 春日(7)は、カモシカの多くいる沢であり「鹿・沢山いる・沢」と解している。

永田方正「北海道蝦夷語地名解」(148p)には、後志国島牧郡「Yuk ot nai 鹿川、鹿居ル川ノ意、ユコツナイト急言ス」とある。

粕内(かすない)

荒瀬の集落から阿仁川を渡った西岸である。上小阿仁村に通ずる林道がある。銅山木山方絵図(1-19p)には、大川目(阿仁川)にかかる粕内橋が描かれ、粕内は露熊川の川口付近の地名であることがわかる。

 

銅山木山方絵図(1-19p)露熊沢、一里余、水無村


 越前谷(110p)によると、明治時代には「荒瀬向いの湯」といって粕内地区に湯治場があった。Web資料(1)によると、露熊の集落は1975年に移転した。戦後最盛時には13戸があり冬季分校もあった。
 露熊では遺跡は発見されていないが、阿仁川対岸の遺跡14-5荒瀬[荒瀬字中野]では縄文土器片(晩期)が出土している。

山田(b-109p)はカシ・ナイ(仮小屋・川)で、露熊川がその川らしいとしている。



永田方正「北海道蝦夷語地名解」(120p)には、後志国積丹郡「Kash tomari 丸小屋ノ泊」、同(304p)には日高郡浦河郡「Kashuni 猟小屋」とある。

笑内(おかしない)

1647年には可笑内、1730年には笑内22軒と書かれている。鳥坂沢の銅山木山方絵図(1-25p)にはは、笑内村が書かれている。村には屋根の略図が三個描かれているだけである。沢の表示はない。

銅山木山方絵図(1-25p)鳥坂村、三里余、笑内村


 山田(b-108p)は、笑内はオ・カシ・ナイで「川尻に・仮小屋ある・川」としている。しかし笑内の集落には、現在これといった大きな沢は見当たらない。

 

 笑内の集落の中ではオオフド川とジデン川が合流してしている。写真右はオオフド川。また写真左は集落の南側を流れる段の沢である。あまり目立たない水路のような小川である。

笑内の集落の南側の段ノ沢

笑内の集落を流れるオオフド川

笑内がnay[沢]から命名された地名とすると、これらの小川の名前だったのだろうか。これらの小川は撮影地点のすぐ東側の内陸線の線路の下をくぐって阿仁川に流れ落ちている。

 越前谷(133p)によると、森吉山の前岳と奥岳の間の「オオフド」というところに放牧された馬が行くとある。フドはホトと類似し窪の意味であろう。笑内のオオフド川もこの意味か。ジデン川は「寺田」であろうか。

 むしろnay[沢]とすれば、笑内の隣りの鳥坂の集落を流れる鳥坂沢川が、古代のオカシナイであったのではないか。農地を切り開くため平坦地に人が移り住み、地名は移動した可能性が考えられた。鳥坂は「通り坂」の意味であろう。越前谷(132p)によると、馬の放牧が鳥坂沢国有林の「青草」というところで行われ、(162p)大正の中頃から昭和にかけて大々的に木炭生産が行われていたという。(176p)熊は出たようだ。


 笑内を通った菅江真澄は、阿仁にはナイのつく地名が多いので昔には蝦夷が住んでいたと考えた。また「すすきのいでゆ」のなかでマタギの山言葉のホロ(大きい)などを記録している。山言葉は多数あるが、そのなかでハッケ(頭)セタ(犬)ワッカ(水)の三つの単語はアイヌ語と共通する。マタギ言葉はアイヌ語集団との接触によって伝承されたものであるようだ。地名の伝承においても同様の経過があったのではないか。

笑内の西側の山地には根子の集落があり、マタギの村としてよく知られている。銅山木山方絵図(1-23p)には根子の備前又沢の上流に「カバキ内」と読める沢がある。根子では魚形文刻石(通称「サケ石」)が出土している。


 松本秀雄(110-114p)によると、1976年に159人のマタギの人々の血液型の調査が行われた。25種類の血液型について検討されたが日本人一般と有意な差は何も検出されなかった。
 しかし北海道のアイヌ人の血液型の調査では、日本人一般と出現頻度の一部に有意な違いが検出されている。

永田方正「北海道蝦夷語地名解」(167p)には、後志国奥尻郡「O kashi nai 丸小屋アル沢、川尻ニ丸小屋アリ故ニ、オト云フ」とある。


比立内(ひたちない)

1647年の出羽一国絵図には常陸内と書かれた。三梨(水無)に含まれていたが後には荒瀬村の枝郷となった。
銅山木山方絵図(1-29p)には牛滝沢(比立内川)から、西は川辺郡三内沢境、東は上檜木内鬼ノ又境にいたる広大な山岳地帯の沢名が細かく記入されている。
比立内は村名であり、比立内川は牛滝沢川と呼ばれていた。
銅山木山方絵図(2-81・83)には上比立内村とカラミ内沢が描かれている。

比立内川、牛滝橋より新牛滝橋を撮影
銅山木山方絵図(1-29p)比立内村牛滝沢之堺図

遺跡14-13家の前[比立内字家の後]からは縄文土器片(晩期)が出土している。

山田(b-210p)は『pit-ta-ush-nai「石ころ拾い採りに行く沢」の意だったか』と記している。
現在、牛滝橋からみた印象では写真のように川底は小石や砂利であるようだ。

春日(7)は、田代町にも比立内があるので「一度行ってみたが地形など似た感じはわからなかった」と述べている。

永田方正「北海道蝦夷語地名解」(353p)には、十勝国上川郡「Pitara ush nai カワラ川」とある。

からみ内

からみ内沢は、比立内川の上流部にあって、小岱倉沢との合流部より上流部の名称である。途中には不動の滝がある。2004年9月11日に現地を訪れ、滝の付近で川岸に降りてみると、川岸や川底には白砂や花崗岩からなる小石が見られた。比立内から河辺町まで河北林道がこの沢に沿って通っている。崩落により不通だが上流部のカラミナイ・キャンプ場までは通行可能という看板が出ていた。河北林道の道路状況についてはWeb資料(3)が参考になる。

   

  銅山木山方絵図(1-29p)ではからみ内沢は、小岱倉沢との合流部より上流である。銅山木山方絵図(2-83p)の「荒瀬村御札山」にはカラミ内川と仮名書きされている。

不動の滝、からみ内

 比立内川の西側の支流には小白沢と大白沢がある。春日(7)によると、上流の山の名前の白解森(しらさばきもり)は、地元ではシラサバッケ(白沢の頭)と呼ばれている。他にも穴沢(アナサ)バッケがあるという。
 さらに奥には様ノ沢が立様(たつさま、たっあま)の西側を流れている。比立内川の上流部の沢についてはWeb資料(4)が参考になる。
 阿仁には多くの鉱山があった。鉱滓を「からみ」といった。鉱石を臼でつき笊に入れ水につけて選鉱する作業を「からむ」という。菅江真澄の「紛本稿」には「石を砕いて金属をとる事をはくをからむと呼び(阿仁銅山)」、「十曲湖」には「鉱石を臼でつき、からむ音がきこえた(鉛山鉱山)」、「しげき山本」には「ざるあげをし、石からみ唄をうたう女の声(太良鉱山)」とある。
 越前谷(22p)によると、大正時代には遊山の宴で「からめ節」を唄ったり踊ったりしたとある。「阿仁からめ節」は1995年に町指定文化財となっている。
 また、ミナイのつく地名であるのでkar-mi・nay[(何かを)とる清水沢]とも解される。

ミナイという地名は秋田県内に鑓見内(中仙町)、小波内(西木村)、籾内(比内町)など10個所ほどあり、すぐに飲料水に使えるような清流が多い。

永田方正「北海道蝦夷語地名解」(185p)には、胆振国山越郡『Hup kan nai トド松ヲ取ル澤、「カン」ハ「カラ」ニテ取ルノ意、「ラ」ノ音「ナ」ニ先立ツ時ハ「ン」ニ変化スルヲ常トス』とある。
知里真志保「アイヌ語入門」(170p)には、「tat+kar+nay(樺皮を採集する沢)が tat-kan-nayに転化する」とある。



万内沢(まんないさわ)

 五万分の一地図には万内沢、万内森が書かれている。国道105号線から南側の谷底を眺めることしかできないが、繋沢川に注ぐ沢である。

   

国道105号線の万内森橋

 しかし銅山木山方絵図(1-29p)の「比立内村牛滝沢之堺図」には繋沢の上流に赤倉沢や兵治沢が描かれているが、万内沢の名はない。人名にもありそうな名前でもある。

永田方正「北海道蝦夷語地名解」には、Makun nai 後川(529p)があり、Mak un pet 後背ノ川・後ノ川(114p、143p、188p、336p、470p、503p)は各地にあるようだ。

志渕内(しぶちない)

銅山木山方絵図(1-31p)には、上流の細かな沢名が書かれている。打当川は大川目と表記されている。打当川は本流筋(大川目)として認識されていた。

銅山木山方絵図(1-31p)

幸屋渡村志渕内沢之堺図


si-putu-nay(大きい沢口の沢)の意味が考えられた。古代人は川に沿って岸や河岸段丘の上を通行した。沢があるたびに沢底まで降り、小さな沢なら石や倒木を伝って飛び越える。水中に足を入れてジャブジャブと歩いて渡るような沢は大きな沢なのである。
 志渕内沢の川口から一番目の沢は大沢である。

 

志渕内沢橋、南側(右)には内陸線の鉄橋


 また、和名の「大沢」はよくある地名であるが、細い涸れたような小川が流れているだけのものもある。これは水面の脇の低湿地や側面の傾斜地が広いという意味なのである。「沢」は山間部の水面部分のみを指しているのではなく、V字型あるいはU字型の空間を意味しているのである。これはアイヌ語のナイも同様である。

 国道105号線の西木村との境界の大覚野峠付近にも志渕内橋の標識が二つある。これは志渕内沢のある所まで、山々を越えて通ずるところからつけられた名前であるとのことである。

戸鳥内(ととりない)

戸鳥内は集落名である。この集落の西側を流れる栩木沢川(とちのきさわがわ)の上流に戸鳥内沢川がある。

 

1805年に菅江真澄は戸鳥内で山畑から出土した人面のような土器をみた。人面の鎧の土器、頸の鎧「みかべのよろい」はこの時の日記の題名となった。
  銅山木山方絵図(1-39p)の「戸鳥内村担戸鳥内沢之堺図」に川口から森吉嶽(森吉山)にいたるまで細かな沢名が書かれている。


銅山木山方絵図(1-39p)

戸鳥内村担戸鳥内沢之堺図


tu-utur-nay[尾根の間の沢]と考えられた。栩木沢川の上流にはアマイケ(あ満池)があり札山の境になっていた。溜め池か自然の沼なのかは不明だがto[沼]を連想させる。
遺跡14-8戸鳥内[戸鳥内字家の前]からは縄文土器片(晩期)が出土している。

戸鳥内新橋、下を流れるのは栩木沢川 栩木沢川の銘板

打当内(うっとうない)

 打当内沢川は打当川に北側から注ぐ。下流部には遊遊ガーデンの広場がつくられている。

    

打当内川、遊遊ガーデン

 沢に沿った傾斜地に農家が散在し、広場の上流には秋田県水産振興センターの内水面試験池がある。打当内は森吉山への登山口の一つでもある。
 銅山木山方絵図(1-41p)には、森吉の連瀬沢境にいたる細かな沢名が書かれている。


銅山木山方絵図(1-41p)

中村担打当内沢之堺図


 ut-nay[脇沢]の意味などが考えられた。△-un-to(△がある沼)も当てはまりそうだ。小さな池のようなものも沼ということがある。現在の地形からは意
味の類推はむずかしい。

 銅山木山方絵図(2-85p・87p)では、打当川大又川と表記している。打当川は阿仁川と認識されていた。しかし銅山木山方絵図(1-29p)では牛滝沢との合流部を打当川落合としている。呼び方は統一されていない。

 銅山木山方絵図(2-87p)では、打当村と中村前郷には人家の略画が描かれているが、打当内沢に人家は描かれていない。戸数がわずかなので省略したのかもしれない。1730年の六郡郡邑記には「打当15軒」とある。

銅山木山方絵図(2-87p)


 打当村と打当内沢は、おそらく別々の地名ではなかったと考えられる。沢名から人が住んで村名となり、生産に適した場所に住民が移動したため村名は広域化し、さらに沢名と区別されるようになったものと考えられた。例えば、横手川が広域の横手市を流れているようなものである。
 

打当から十二段峠を通って檜木内戸沢の長沢(ちょう
ざわ、古くは丁沢とも書いた)に至る道もかつては利用されていた。この峠の途中には「つぶ沼」がある。春日克男さん(比立内在住)によるとウットウはこのto(沼)による可能性もあるとのことであった。

銅山木山方絵図(1-42p)の「打当村担山之略図」には、打当村より、南は檜木内の長沢境や戸沢境、東は湯渕内境(田沢湖町玉川湯淵沢)、北は檜葉倉嶽(ヒバクラ岳)にいたる沢名が細かく書かれている。


早瀬沢(そうぜざわ)
 早瀬沢は打当川に南東から注ぎ、近くには志渕内沢や戸鳥内沢がある。早瀬沢の最上流部は十二段峠に通ずる沢と、もう一方の沢は長滝沢である。早瀬沢はという名前は、このso(滝)と和名の瀬を合わせたものではないか。森吉町の小又川にも惣瀬があり上流は大滝沢となっている。

 


 しかし阿仁や森吉の山間部の沢では上流部に滝ノ沢という沢名はどこにでもあるといってよい。ナイがついていないと明らかとはいえない。

朝見沢(アサミザワ)
内陸線の阿仁マタギ駅の東北側には朝見沢がある。類似した地名には浅見内(五城目町)、浅内(能代市)があり、ナイを沢に取り替えたものではないか。


その他、コメント

 阿仁には崖を意味する方言のサマ(様、狭間)のつく地名があちこちにある。サマの語源は古代にさかのぼればsuma[岩場]と共通なのではないか。
 似た言葉で日本語の「そま」も山を意味する。
伝教大師「わが立つ杣に冥加あらせ給へ」(新古今集)木の生えた山(延暦寺)の印象である。

 越前谷(38p)によるとタタラとは水中の平らな岩場である。夜に腰まで水につかってヤスでカジカを突く。tattarke[水中に岩盤などあって川波の立ちさわぐ所]に意味が近いようだ。


参考文献
(1)阿仁町史料編さん室「銅山木山方絵図(一)」阿仁町史資料編第2集平成3
(2)阿仁町史料編さん室「銅山木山方絵図(二)」阿仁町史資料編第3集平成3年
(3)秋田県教育委員会「秋田県遺跡地図(県北版)」1991年

(4)菅江真澄「みかべのよろい」菅江真澄全集第4巻、未来社1973年
(5)永田方正「北海道蝦夷語地名解」復刻版、草風館1984年
(6)
山田秀三「アイヌ語地名の研究、第一巻」草風館1982年(a文献とする)
(7)山田秀三「アイヌ語地名の研究、第ニ巻」草風館1983年(b文献とする)
(8)山田秀三「アイヌ語地名の研究、第三巻」草風館1983年(c文献とする)
(9)山田秀三「アイヌ語地名の研究、第四巻」草風館1983年(d文献とする)
(10)山田秀三「東北・アイヌ語地名の研究」草風館1993年(e文献とする)
(11)知里真志保「地名アイヌ語小辞典」北海道出版企画センター1956年
(12)知里真志保「アイヌ語入門」北海道出版企画センター1956年
(13)春日克男「阿仁町の地名について(1)」秋田地名研究会年報2号1986年
(14)春日克男「秋田県阿仁地方におけるアイヌ語地名について」秋田地名研究会年報51989年
(15) 春日克男「阿仁の言葉から見た北の文化」雄物川と皆瀬川を考えるシンポジウム、(主催)雄物川町の歴史と地名を語る会他、2000年7月30日、(会場)十文字町町立総合文化センター
(16)伊藤正「縄文遺跡とアイヌ語地名、日本語の古層をたずねる」秋田地名研究会年報31987年
(17)虻川進一「秋田の渓流釣り」無明舎出版1991年
(18)越前谷武左衛門「山村の八十年 マタギの里」公人の友社1986年、242p
(19)松本秀雄「日本人は何処から来たか」日本放送出版協会1992年、110p

Web資料

(1)「山釣り紀行」

http://www.asahi-net.or.jp/~jf3t-sgwr/

(2)「廃村と過疎の風景」より『秋田・消えた村の記録`99秋その3』
http://www.din.or.jp/~heyaneko/akita3.html


(3)「秋田市のバイクショップ、モト・ポイント」より
http://moto-point.no-ip.com/Top/阿仁鉱山群.htm


(4)「林道急行」より『2日目 秋田県北部の林道
http://terrano-3.hp.infoseek.co.jp/page017.html

(5)秋田県 阿仁川水系の岩魚と山女魚の釣れる渓流  

http://16.pro.tok2.com/~touhokutarou/33-amikawa-00.htm  (山奥の沢の情報) 

****** 追加資料 ******

――地域史・地誌・民俗――

【1】工藤由四郎『阿仁合町郷土史』1962年

【2】『森吉山麓菅江真澄の旅』建設省東北地方建設局森吉山ダム工事事務所1999年。

【3】川村公一(編著)『子孫に残す歴史の記録 森吉路 過去から未来へ』建設省東北地方建設局森吉山ダム工事事務所1993年

【4】新林佐助『熊と雪崩』秋田県森吉山麓の生活誌、無明舎、1983年。

(小又川流域の人々が昭和の前半にどのような生活をしていたかを紹介)

【5】黒川一男『イタズの町風土誌』秋田文化出版社、1988年。

――マタギ関連――

【6】秋田県文化財調査報告書441集『秋田県指定有形民俗文化財阿仁マタギ用具文化財収録作成調査報告書』2008年。県公式サイトの「県文化財調査報告書」にて公開中。

http://www.pref.akita.lg.jp/icity/browser?ActionCode=content&ContentID=1223539598434&SiteID=0

   (マタギの生活文化についての充実した資料)

――言語学――

【7】橋本学『名称論への学際的アプローチ─地名研究をケース・スタディとして─』

岩手大学人文社会学部「言語と文化・文学の諸相」2008年2月21日287〜306頁。

http://ir.iwate-u.ac.jp/dspace/handle/10140/3713

(日本語とアイヌ語の関係、栗(ヤム)を表す地名ヤマヤの分布を研究している)

【8】板橋義三(著)『マタギ語辞典』現代図書、2008年。

(マタギ語とアイヌ語の関係についても言及している)

――阿仁の鉱山――

【9】斎藤實則(著)『あきた鉱山盛衰記』94〜109頁、秋田魁新報社、2005年。

(阿仁の鉱山の歴史をコンパクトに解説)

――インターネット上の資料――

 【1】第20回ブナ林と狩人の会「マタギサミットin阿仁」2009年6月27日〜28日

http://tokuzo.fc2web.com/2009/matagi2009/matagi2009.html  (阿仁のマタギ文化)

【2】第18回ブナ林と狩人の会・マタギサミットin東京2007年6月30日

http://tokuzo.fc2web.com/2007/matagi/matagi2007.htm

【3】ウェッブサイト「気ままに鉱山・炭鉱めぐり」より「阿仁鉱山」

http://wing.zero.ad.jp/~zbc54213/ani-01.html    (鉱山の遺構を探訪)

【4】Yahoo!ブログ『ふるさとあに観光案内人の会』。 

http://blogs.yahoo.co.jp/furusato_ani_guide   (阿仁の歴史や伝説を紹介)

【5】秋田県 阿仁川水系の岩魚と山女魚の釣れる渓流  

http://16.pro.tok2.com/~touhokutarou/33-amikawa-00.htm  (山奥の沢の情報) 

【6】森吉山ダム工事事務所、タイムトラベル歴史探訪 

http://www.thr.mlit.go.jp/moriyosi/kids/rekishi/f_rekishi_index.html  (遺跡をコンパクトに紹介)

 

 

 

 

 




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