このページは、FMラジオ番組「Sound Museum」原田知世特集(NHK・FM/2008年1月26日放送)を書き起こしたものです。
小見出しや、《》内※印の補注は筆記者が追加したものです。
また、途中、言葉が聞き取れない箇所や省略されていると思われる箇所を()内に想像して補い、ところどころ文脈を整えるために語順を変えたり省略しています。
そうした部分の文責は筆記者にあり、もしかしたらかなり見当外れなことになっちゃっているかもしれないことをお含みおき下さい。
録音は出先からあわてて友人に依頼したもので、友人にはホント感謝です。ありがとう、ロック好きなロッカーでもあるKさん、これを機に原田知世もときどき聴いてくれ。

なお、このテキストには、冒頭部分や、テープ替えのところなど録音出来なかった欠落箇所があります。
覚えておられる方、録音された方で、この箇所を埋めていただける方、また本ページの間違いを指摘していただける方、ご連絡下さい。

【追記】
この後、O2さんから、録音テープを送っていただきました。
おかげで、欠落箇所をひととおり埋めることが出来た次第です。
いやあー、O2さん、本当にありがとうございました!










知世 「こんばんわ。原田知世です。
今から10時までの2時間40分は、音楽の美術館『Sound Museum』をお届けします。
開館日は、月に1回。月末の日曜日のこの時間です。
毎回さまざまなミュージシャンの魅力をご紹介するため、さまざまな展示室をご用意して、リスナーのみなさんのご来館をお待ちしております。
わたくし原田知世がお送りする2時間40分。この長い時間をいっしょにお付き合いいただくすばらしいゲストをご紹介します。
ムーンライダースの鈴木慶一さんです!」
慶一 「ハイ、どうも。
いきなりゲスト……(笑)。
2時間40分、長いですよ」
知世 「(笑)」
慶一 「ホントに長いと思いますよ」
知世 「そうですよねえ。よろしくお願いします。
えー、慶一さんとはですね、わたしが20代の頃に『Garden』というアルバムを作った(とき)に、プロデュースを……」
慶一 「そうですね、1990年代の初めの頃ですよね」
知世 「そうですね。(そのプロデュース)をお願いして、もうずっと長く、公私ともにお世話になっております」
知世
慶一
「(笑)」
慶一 「えー、さて2時間40分ですけれども、どのような番組になるんでしょうかね」
知世 「そうですね、今日はわたしの歌はもちろん、わたしのお気に入りの歌、そしてデビュー25周年の記念アルバム、昨年出ました『Music & Me』の中からたっぷり聴いていただきたいと(思います)」








慶一 「去年、デビュー25周年だよね」
知世 「そうです、そうです」
慶一 「んー、何かこう、期するものがありましたかね? 25年ていうと、4半世紀ですけど」
知世 「そうですよねえ。去年の1月ぐらいに『あれ、もしかして25周年?』て、気づいたぐらい、あまりこう年数に(こだわらないというか)」
慶一 「25だからね。30とか20っていうと、『あ、そうか』と思うけどね、ウン」
知世 「そうですね、あまり気にしてなかったのに、去年1年過ごしていくうちに、重みというか、そういうものをヒシヒシと感じました」
慶一 「そういうもんですよ。
『そうかァ、25年か』『そうかァ、30年か』と思っていろいろなことをやっているうちに、
だんだん『あ、さすが30年てのは長かったな』とか『25年てのは長かったな』とか、最後の方には思うんだけど(笑)」
《※ちなみにムーンライダースは2006年に結成30周年を迎えている。》
知世 「(笑)そうですね、ハイ、そんなもんですね」



その封印が解かれし時

慶一 「えー、では、まずはですね、原田知世さんの25周年を記念したニューアルバム『Music & Me』より、1曲お聴きいただきましょう。
いきなりですが、初期の代表作『時をかける少女』。
これはずぅーっと長年封印してたんじゃないかと、私は思うんですけど」
知世 「その通りです、ずっと。ハイ」
慶一 「でしょ?
それをカバーするということでございますけども。
何か『イイかな』っていうのがあったのかな。『もうイイかな』っていうか」
知世 「何ていうか、『時をかける少女』って自分の中でも鮮烈なイメージというか、その頃の自分の声とかが聞こえてきちゃうんですよね、サウンドとかも」
慶一 「なるほどねー」
知世 「で、どういうふうに歌っていいのかわからないっていうか、
どんどん年齢(とし)を重ねてきてるのにどういうふうに向き合っていいかわからなくて。
すごくいい曲だから、何となく中途半端に手を触れるのはよくないなって思って、あえてそこに触れなかったんですけど。
で、やっと、まあ、そろそろ、もしかしてイケるかも?っていう……」
慶一 「ねえ。だいぶ(たってるし)」
知世 「そうですねー、はい」
慶一 「私の友人のあがた森魚というのがいますけど、『赤色エレジー』というヒット曲があって、それをもう1回歌い直すのにね、35年かかったという」
《※慶一さんが本格的な音楽活動を始めたきっかけはあがた森魚さんとの出会いだったという。二人は「あがた精神病院」などの名前で活動し、1971年に「あがた森魚と蜂蜜ぱい」を結成。第三回全日本フォークジャンボリーで歌った「赤色エレジー」が評判を呼び、翌72年あがたさんが同曲でメジャーデビュー。一方、蜂蜜ぱいは“はちみつぱい”と名前を変え、ムーンライダースの前身となる。
ちなみに、あがたさんのデビュー35周年を記念して、「赤色エレジー」1曲のみをさまざまなアーティストがカバーしたオムニバス・アルバム「赤色エレジーマニア/2007年」が、慶一さん監修のもとに慶一さんの個人レーベル「Run, Rabbit, Run Records」からリリースされている。》
知世 「わぁー、そうなんですか!」
慶一 「去年35周年で、やっと歌い直したのかな。
歌い直したくないなあと言いつつも。何かそれぐらいかかるんですね、いろいろ」
知世 「思い入れが深ければ深いほどそうなるような気がしますねえ」
慶一 「ハイ。それではお聴きいただきましょう。じゃあ紹介して下さい」
知世 「はい。では聴いて下さい。原田知世で、『時をかける少女』」
「時をかける少女」流れる
慶一 「『Sound Museum』、まずお届けしたのは原田知世さんのニューアルバム『Music & Me』から『時をかける少女』でした。
セルフカバーですが……、強烈なメロディだからね、この曲はね」
知世 「そうですね。AメロとBメロの世界観が変わるし」
慶一 「それでサビが非常に強烈なサビなので、アプローチが難しかったんでしょうね、きっと」
知世 「ええ。プロデューサーの伊藤ゴローさん自らギターを弾かれてますけども、コードをいろいろ考えて、このボサノヴァのような感じに……」
慶一 「この間ライブを見て感じたんだけど、ゴローさんのコードの解釈ね、コードの付け方がほんとに素晴らしいんで、
いわゆる強烈なイメージのあるシングルヒットからまったく別のものに感じるね……」
知世 「そうですね、私も」
慶一 「だから歌えたような気がするね」
知世 「そうなんだと思います。
だから、それまでは、どうだろ、どうだろと思ってて、実際、『Music & Me』作っているときにいちばん最後になったんですね、この曲が。
二人の中で宿題を残すみたいになってて。
ゴローさん、すごくやりたがっていたのに、いちばんやっぱり悩まれて。
それで二人で歌っていたときに、ゴローさんのギターにひかれて歌い方が見つかったというか、聴きながら『あ、こう歌えばいいんだ』というのが……。
だから、ほんとおっしゃる通りですね」
慶一 「レコーディングされた音像もリビングルームでやっているような感じ?」
知世 「そうですね」
慶一 「リラックスした感じだね」
知世 「ええ。このシェイカーもその日入れるつもりがなかったので、何かないかなって探して、つまようじの容れ物にコーヒー豆を入れて、ドラムの葉子さん《※伊藤ゴロー夫人》が……」
慶一 「自作のシェイカーでね、なるほどね(笑)」
知世 「ええ、で、やりました(笑)、ハイ」



25年前、ニコニコして歩いていた

慶一 「デビュー当時の話とかした方がいいのかな。25年前の話とかしていきましょうか」
知世 「はい」
慶一 「まず、オーディションか」
知世 「そうです、82年、14歳の時にオーディションを受けて特別賞をいただいて。
『セーラー服と機関銃』という、薬師丸ひろ子さんが大ヒットされた映画のテレビ版ということでドラマをやらせていただいて、その後『時をかける少女』があって。
で、ずっとその後『愛情物語』とか『天国にいちばん近い島』『早春物語』など映画とともに主題歌というかたちで歌をを歌わせてもらう機会がありまして、
だからこの時代は、そうですね、テレビの歌番組とかも出たりして、すごく緊張して……」
慶一 「あ、印象に残ってるのあるの、知世ちゃん廊下を歩いていて、すっごくニコニコして歩いてるの(笑)」
知世 「ほんとですかぁ? 何でだろう?」
慶一 「愛想のよい感じで、うん」
知世 「ああ、そうですか、ウフフ」
慶一 「それがたぶん最初、お会いしたときだったと思う」
知世 「たぶんそれは『時をかける少女』なんですよ」
慶一 「そうだね」
知世 「当時は映画のキャンペーンとレコードのキャンペーンがいっしょだったので、あっちこっち、あっちこっち駆け回っていて、そのときに、
そう、一度慶一さんとはお会いしてるんですね」
慶一 「すごく覚えてる。ニコニコした子だなあって(笑)」
知世 「そうですかあ(笑)。15歳ですね」
慶一 「15歳か。じゃ、その頃の曲を1曲いってみましょうか」
知世 「そうですね、ハイ」
慶一 「1983年に発表された『地下鉄のザジ』を聴いていただきたいと思うんですけれど、これはどういった曲というトラエカタでしょうか?」
知世 「この曲はですね、『バースディアルバム』というアルバムを出しまして、その時に大貫妙子さんに曲を書いていただきまして。
えーと、フランスの有名なお話というかタイトルですけれども《※レーモン・クノー作の同名の小説。ルイ・マル監督で映画化されている。大貫妙子さんのイメージは映画によるものと思われる。》
とても可愛らしい曲で懐かしい、大好きな曲です」
慶一 「では、曲の紹介いきましょうか」
知世 「はい。では聴いて下さい。原田知世で『地下鉄のザジ』」
「地下鉄のザジ」流れる
慶一 「原田知世さんの16歳の誕生日に発表されたアルバム『バースディアルバム』より『地下鉄のザジ』を聞いていただきました。
こうやって今聞きますと、声の質が、何ていうんでしょう、今の方が深みを増してる。そりゃそうだよね、年月がたってる。
……ホメますよ、今日は。ホメます……。
今の方が深みを増してるというような気がします。この時がよくないというわけじゃなくてね」
知世 「ありがとうございます(笑)」
慶一 「その頃ヴォーカルのときって、レコーディングとかお付き合いするの? その現場に行ったりして」
知世 「いえいえ、その頃はもう歌入れのときだけ行く感じでした。
だから、ちゃんとキー合わせする時間もなかったりする時も中にはあったりして。
『思ったより、ちょっと高いなあ』って、『でも、もう戻れないなあ。録音されてるなあ』っていう状態とかもありはしましたが、ハイ。」



“庭”の土を耕す

知世 「で、そんな10代がありまして、それで20代になってプロデューサー鈴木慶一さんとの出会いという……」
慶一 「90年代、1990年代ですね」
知世 「そうです。わたしが90年代の頭に、たまたまコマーシャルをやっていて《※National『エオリア』》それでコマーシャルソング《※『回る回るよスクロール』》も同時に歌いましょうということで……」
慶一 「そうそうそう、音楽の担当が私だった。それで作曲して、歌ってもらって……」
知世 「そうです、それがすごく印象に残るメロディで。うん。ね、歌詞がとにかく面白くて……ウフフ」
慶一 「ちょっとアジアっぽいというかね、そういう感じの曲でした」
知世 「ええ、アジアのテイストがあって、で、お会いして。
で、あ、鈴木慶一さん、きっと何かすごく面白い方だなと思って。アルバムとかも聴かせていただいたりしてて。
ちょうどわたしはその当時、女優もやってきて音楽もやってはいたんだけれども、デビューして……」
慶一 「20年くらい? あ、10年くらいか」
知世 「ええ、そうですね、10年くらいたってますね。
で、今の自分と、昔からのイメージがくっついている自分──パブリックイメージの自分というのが少し違和感を感じたり、
もっと等身大の自分を表現するにはどうしたらいいんだろうとかと思っていて。
で、音楽もやりたいと思っていたので、もしかしたら鈴木慶一さんにお願いしたら、
今のわたしを見てもらって、新しいもの、等身大のものが出来るんじゃないかな、というふうに思ってお願いしたわけなんですね」
慶一 「そうだね。
まず、じゃ、こういう曲作りましょうとかよりも、いっしょに何かモノを作りましょうというかたちでスタートしましたよね。
歌詞を作る場合も、使いたい言葉と絶対に使いたくない言葉と、ダァーっと大量に書いてもらった記憶があります。
使いたくない言葉には『ハイヒール』とか何とか入っていたような気も」
知世 「入ってましたね、そうです、そうです」
慶一 「そういうような、こと細かい、いわゆる“小道具”というかな、歌詞の中に登場(させ)たくないものとか……」
知世 「『君』と『僕』はいいんだけど、『俺』と『おまえ』はないとか、今考えたら当たり前なんですよね(笑)」
慶一 「知世ちゃんが『俺』と歌うわけがない(笑)」
知世 「ないですよね。だから表現としてそういう距離感の問題で、わかりやすいということですよね」
慶一 「あとは、曲を作ったりしつつ、その現場もいたもんね」
知世 「そうです、そうです、ずっといて、音作りってどういうふうに作られていくんだろうっていうのを見たかったし、
で、慶一さんも『この音好き?』とか言っていろんなサンプルの音を出してくれて、『この音どう思う?』って訊いてもらったんですね」
慶一 「そうそう、あのね、嫌いな音とか嫌いな言葉とか入ってるアルバムとかはイヤじゃない、ふつう」
知世 「ええ」
慶一 「そういうのを作りたくなかったので、その辺もちゃんとコミュニケーションをとろうと思ったんですよね。
一個一個音を決めるときに、この和音の音は『好きか嫌いかどう思う?』とかね、
だからけっこう朝までずっと一緒にやってましたね」
知世 「そうです、そうです。すごい楽しくって。
最初のアルバムを、だから音楽の“庭づくり”というか、ここから始めるんだなという気がして、『Garden』ていう……」
慶一 「まず土を耕すところから始めて」
知世 「そう、そこから始めた感じがしますよね。
なので、『Garden』というタイトルで、今考えてもほんとピッタリなタイトルだなあっていうふうに思います」
慶一 「そうだね。じゃ、『Garden』から1曲いきますか」
知世 「そうですね。ええと、これはとても印象に残っている……慶一さんがいちばん最初にわたしに書いて下さった、詞も曲も書いて下さった曲です。
聴いて下さい。『さよならを言いに』」
「さよならを言いに」流れる
慶一 「『Garden』より『さよならを言いに』を聴いていただきました。
いや、これは懐かしいですね」
知世 「懐かしいですね」
慶一 「そうですね、私もソロアルバム《※『SUZUKI白書』》を出した直後ぐらいだと思うんですよね。
それでいろいろアンビエントな音楽を大量に聴いていた時期なので、いろんな音が入ってますけどね」
知世 「今聴いてもわたしはとっても好きな曲ですね、これは」
慶一 「ありがとうございます。ちょっとアジアっぽいっていうかな。
こういう曲をまず提出したのは、コマーシャルのイメージもあるだろうしという意味でそういうふうに作ったんだと思うんだ。とっかかりとしてね」
知世 「ちょっとアジアっぽいメロディとか」
慶一 「そうそう。それでゆったりしたレゲエと……」
知世 「『レゲエ!?』。 最初に、『レゲエ?』って思って。やっぱり、わあー、スゴイ、慶一さんって面白いと思いました」
慶一 「ゆったりしたレゲエに知世ちゃんのこの声がノるといいんじゃないかというイメージがあったんですね」
知世 「で、せつないラブソングなんですよね」
慶一 「ということでございまして……、今日はホメ合う日ですかね?」
知世 「そうです、そうです。そういうことで行きましょう」
慶一 「2時間40分、ホメ合うと。スゴイな、それは(笑)」



英語の人、フランス語の人、イタリア語の人

慶一 「ハイ。続いては1994年、カバーアルバムを一緒に作りました。
『カコ』というアルバム。
この『カコ』というタイトル自体が非常にダブルミーニングというかね、人の名前にもみえるし。
これ、知世ちゃんが付けたんでしょ。で、ジャケットのフォトグラフも……」
知世 「そうです、もともと植田正治さんがね、『カコ』という……」
慶一 「知世ちゃんが探して来て、それで使わしてもらったというかな。使用許可を得たんだね」
知世 「そうなんです。
アルバムを作るというのがあって、何となくどんなのがいいかなあと考えているときに、たまたま植田さんの写真展をやるという広告が新幹線か何かに乗ってたときに出てたんですよ、とにかく。
それで、(その写真展を)見て、とってもいい写真──、女の子が砂丘ですごく遠くを見つめてポツンと立っている写真で、『わぁー、いい写真。』と思って。
植田さんの娘さんが“カコ”さんとおっしゃって《※“カコ”は愛称で、本名は和子さん》、カタカナで『カコ』というタイトルで、あ、これはカバーアルバムをやるんだったらもちろん『過去』の曲をやるわけだし、これしかないと思って。
で、写真からこのカバーアルバムが始まったという記憶があって」
慶一 「そうね。それで選曲するにあたってですね、カバーアルバムって選曲が難しいんですよね」
知世 「ですよね!」
慶一 「これもやられちゃってるワとかさ、あるからね、誰もやってない曲をやりたかったりもするじゃない。
で、非常に個人の趣味とかも出るじゃない。
だから、ディレクターの方とか知世ちゃんとかそれぞれ提出して、それでしぼっていったという、『カコ』というアルバムね」
知世 「で、いろいろな国の曲を歌えたなって思って。フランス語もあったり」
慶一 「そうそう、発音指導の方がさ、何人も来てさ……」
知世 「英語の人……」
慶一
知世
「イタリア語の人……。フランス語の人」
慶一 「って来たもんね。それをやり遂げるのはタイヘンだなって……またホメますけど(笑)」
知世 「でも、すごく楽しいレコーディングでした」
慶一 「あれがもし自分だったとしたら、すごいプレッシャーだよね。
フランス語はやんなきゃいけない、イタリア語はやんなきゃいけないって。
見事にそれをやり遂げたわけですけどね(笑)」
知世 「(笑)では、ではですね、今日はそのアルバム『カコ』の中から慶一さんが選んでくれたんですけれども」
慶一 「日本語のタイトルは『砂に消えた涙』。ミーナの大ヒット曲ですね」
知世 「はい。では聴いて下さい、『UN BUCO NELLA SABBIA』」
「UN BUCO NELLA SABBIA」流れる
慶一 「ハイ。ミーナの『砂に消えた涙』のカバーでした。(原題は)私はちょっと言えないんで(笑)」
知世 「『UN BUCO NELLA SABBIA』(笑)」
慶一 「ということでございまして、『カコ』からお送りしました」



ポストに届けられた音楽のカケラたち

慶一 「次はですね、1995年に発表したアルバム『Egg Shell』なんですね。
この『Egg Shell』は、知世ちゃんもコンピュータを使ってデータを作ったりして、作曲したり、いろんなファイルを持って来たりしてた記憶があります」
知世 「その当時は家がご近所さんで」
慶一 「そうだ、そうだ」
知世 「それでそういったものを持ってですね、慶一さんところのポストに、かわいい一軒家のポストに入れて(笑)……ですよね」
慶一 「そうそう、ポストに、当時はフロッピーディスクが入ってる。『何だろう? これ!』と思うと、“原田知世”と書いてあって、“M-○○(いくつ)”と書いてある。
“M-”って何……っていうと、曲の番号ね」
知世 「Music」
慶一 「2番とか、3番とか」
知世 「そうですね」
慶一 「それで、こう開いてみると、データがいっぱい入ってるんですね。
というような、作詞も作曲もじっくりやったアルバム。知世ちゃんが自ら……」
知世 「そうです、そうです。『Garden』のときは、何人かのミュージシャンの方にも曲を書いていただいたり、参加していただいたりしましたけど。
この『Egg Shell』になってからは慶一さんとわたしと、それから博文さん《※もちろん慶一さんの弟にしてムーンライダーズのメンバーである鈴木博文氏》に詞を書いていただきましたけど、
何かすごくジックリ作ったっていうアルバムになってますね」
慶一 「何だろ、“プロデューサー原田知世”という人格が台頭してくるというか……」
知世 「そうですか?」
慶一 「たとえば、こういう曲があるからもうちょっと違う曲を作曲してみようかとか、この二つがあるからこの感じの曲はいらないやとか……というような発想が非常に見え隠れしていたんですけれども、うん」
知世 「はぁ……何か、そうだったのかなあ」
慶一 「だから私はね、プロデューサーなんだけど、時々逆にプロデュースされてるような(笑)」
知世 「スイマセンね(笑)」
慶一 「これはやらない方がいいんじゃないかというのは直接言うよりも、『これはどうでしょう』と代案を出してくるというのかな、
代案があるとこれは強い、わかりやすい。
あ、代案がある、じゃ、こっちの方がいいなと思ったりするわけです。
というふうに、アルバムを作るというのは、バランスを考えたり、曲順を考えたり、タイトルも考えたり、いろいろなことを考えなきゃいけないんだね。
ただ作曲して作詞するだけではない部分がたくさんある」
知世 「あ、すごく勉強になりました」
慶一 「そのへんも、このアルバム特に、知世ちゃんが自分でやってる部分がすごく多いと思いますよ」
知世 「そうですね、とっても勉強になっているなあって思います。
これからどんどん変化していくわけなんですけど、自分自身もその中で。
そうやって考えていくと、とっても大事な時期というか、大事な一枚だったんだなっていうのは(思います)」
慶一 「プロデューサー的なることをね、学ぶところってないんだよね、実は。
プロデューサーがプロデュースしてる現場に行く機会もないし。
されるとわかるというところもあるのかな。
……というアルバムから(1曲)いきましょうか」
知世 「そうですね、じゃ、その中から、これも慶一さんが詞、曲を書いて下さった曲です。『空から降って来た卵色のバカンス』」
「空から降って来た卵色のバカンス」流れる
慶一 「ハイ。アルバム『Egg Shell』より『空から降って来た卵色のバカンス』……という大変長いタイトル、長いタイトルつけるのがこの時はマイブームだったですね(笑)。
ということでございます」



アナログなレコーダーとダイアナ妃のラブレター

慶一 「さてここからはですね、『原田知世の軌跡〜さらなる挑戦〜』……って(笑)、けっこう照れる台詞ですけれども、そういうコーナー行きましょう。
えーとですね、知世ちゃんにとっても私にとっても非常にビックリしたんですけれども、縁の深いプロデューサーとの出会いがありましたね」
知世 「はい」
慶一 「スウェーデンのプロデューサー、トーレ・ヨハンソン[Tore Johansson ]。この出会い。
これはどういうふうに始まったんでしたっけ?」
知世 「これは今さっきの『Egg Shell』を終えて、で、その後、たまたまその当時ディレクターをされていた方がラジオでよくカーディガンズ[Cardigans]を聴いていて……。
スウェーデンのバンドですね、トーレ・ヨハンソンさんがプロデュースしていた……。
そのカーディガンズの曲がすごく流れていて、アナログなサウンドが当時の日本では新鮮だったんですかねえ」
慶一 「すごい古〜い音なんだけど、ものすごい新鮮に。
90年代のまん中らへんでしょ? デジタルなサウンドの中で際立ってカッコいいサウンド、レトロ=フューチャーというか、昔の感じもするし、今の感じもする」
知世 「ええ、ていうのが流れているのを(ディレクターさんが)聴いて、
『このサウンド、知世ちゃんの声に合ってるんじゃないの?』っていう話になって、
なになに? スウェーデンって行ったことないし、スウェーデンでレコーディングしたことあるって人も周りにいなかったんですよね、当時は。
で、じゃあ、ちょっとトーレさんに、慶一さんとその当時作っていたアルバムをまとめて送ってオファーをしたら、『いいですよ』ってすぐ答えが返って来て。それからですね」
慶一 「そうだね。『カコ』というアルバムがすべて外国語なんで、それが結構効き目があったかなという気もしないでもない。その選曲のセンスとかね、そういうのも含めてね」
知世 「そうですね、じゃあここで1曲、その“キキメ”、たぶんトーレさんが『ムムッ!』と思ったであろう、『カコ』というアルバムの中からこれはフランス語で歌っていますが、聴いて下さい。
原田知世で、『T'EN VA PAS』」
「T'EN VA PAS」流れる
慶一 「ハイ、『カコ』よりですね、『T'EN VA PAS』聴いていただきました。
さて、トーレの話をしましょうか、もうちょっとね」
知世 「はい」
慶一 「見事にトントン拍子に話が進んでいって、ぜひやりたいというので、私も一緒にくっついてスウェーデンに行くわけですけども、
トーレのプロデュースはどんな感じだっけね?」
知世 「トーレさんは、まずあまり音を(作っていないときに歌う感じですね)。
日本でやる場合は、サウンドはある程度固めてそれで歌っていく……」
慶一 「途中で歌わされたね」
知世 「そうなんです、まだほとんどアレンジの方向とか見えないような、骨組みみたいなところで……」
慶一 「そうそうそう、ドラムとベースと何かギターだけの状態で歌わされてたね」
知世 「そう、それをずっとやって、1日に何曲も少しずつ進める。
1曲1曲ずつ完成させていくっていうやり方をわたし、けっこう日本でやってたんですけど……」
慶一 「ふつう、そうだよね」
知世 「だけど同時にちょっとずつ進めていって」
慶一 「違う曲に行くんだよね」
知世 「ふつう日本の人だと、声のその日の質で、つながらないからやめましょう、1曲はできるだけ1日でやりましょうというのがふつうですけど、
トーレさんはぜんぜん気にしない」
慶一 「禁じ手だよね、日本では禁じ手だったんですね。違う日だとほんとに声が変わっちゃう。
それがトーレの場合は、1曲歌ってある程度までいくと、別の曲にいく、で、また別の曲にいく。
1日に何曲も別の曲を歌わされるという……」
知世 「今、歌の完成があるとすると、何合目まで登ったのかわからないという状態でしたね。
でも、わたしタンバリン・スタジオで最初声を出したときに、
──もともと自分の声が細いのにコンプレックスがあって、もっとフワッと太った声がいいなあとずっと思ってたんですけど──、
あそこのスタジオで声を出したときに、とってもそういうふうに聞こえたんですよね」
慶一 「スタジオの部屋の鳴りとか、電圧とか、
あとアナログの16チャンネルのテープレコーダーなんで、
すごい古い、ワァ、こんなの20年前に見たきりだよというような、非常にアナログ、しかも古い機材を使って手作業で作る。
それでなんか声が変わる」
知世 「そうですかねえ。その声がとても心地よくて、歌ってて楽しくなったことをよく覚えています。
それで、またここで曲を聴いていただきたいんですけれど、96年のアルバム『clover』のトーレさんのプロデュース分に入ってますね、これは慶一さんが詞を書いていて。
この詞はわたしがそうやってレコーディングしている間に、スウェーデンのホテルで缶詰になり、
慶一さん、大変でしたね」
慶一 「あれはね、ダイアナ妃がラブレターを100通送ったとかナンとかそういうニュースをスウェーデンのテレビでやってたというような気がするのね。私の記憶によると。
英語だからちゃんと伝わってこないんだけど、“100(one hundred)love letters”っていいタイトルだなあと思って」
知世 「なるほど! あ、それ初めて聞きましたね」
慶一 「私も初めて言いますけど。
それでホテルの部屋で書き上げたんですね」
知世 「じゃ、あの部屋でなければ書けなかった」
慶一 「ということだと思います」
知世 「すごい。
ハイ、では、聴いて下さい。『100 LOVE-LETTERS』」
「100 LOVE-LETTERS」流れる
慶一 「ハイ、『100 LOVE-LETTERS』でした」



スウェーデン珍道中の巻

慶一 「初めてのスウェーデン旅行は……、“旅行”じゃないよ、初めてのスウェーデン“レコーディング”は、ほんとに珍道中でしたが」
知世 「そうですね(笑)」
慶一 「まあ、珍道中の始まりのノロシがあがったのは、私の遅刻です。
飛行機に乗り遅れました。
スイマセンッ、今もう1回謝ります。申し訳ないッ」
知世 「いえいえ(笑)」
慶一 「そして私のマネージャー、号泣!」
知世 「(笑)」
慶一 「飛行機の中で号泣。責任を感じてね。
私もね、急いで行ったんですけど間に合わなかったんですよ」
知世 「靴ひもが……」
慶一 「靴ひもがひっかかって転んで膝を痛めて、空港に着いてすぐにカウンターへ行けばよかったんですが、人を捜してしまって。
いるわけないよね、それ。みんな飛行機に乗ってるんだから待ってるわけはない。
なのに人を捜してキョロキョロ、何でいないんだろうとか思って。
アレ、すぐにカウンターに行ったらね、間に合った」
知世 「ホント、ギリギリでしたねえー」
慶一 「ホントに、『鈴木さん、あと1分早ければ』って(カウンターで言われて)……。
『飛行機の中に何かお伝えすることがあれば届きます』って言われたんで、『ゴメンナサイ』って(メッセージをお願いしたんです)」
知世 「(笑)」
慶一 「そして、なんと翌日、飛行機があったんですよ」
知世 「よかったですねえ」
慶一 「奇跡的に偶然、飛行機があって……」
知世 「日程自体がもう4日間とかそんなに長くなかったですからね。1週間後とか言われたら、もう……」
慶一 「そうそう、いないということだもんね。
で、着くのがデンマークなんですね。タンバリン・スタジオがあるのがマルメといって、スウェーデンの南の方で、デンマークのすぐそば。
ですから、あの空港は、何だっけ……」
知世 「コペンハーゲン」
慶一 「コペンハーゲンか。そこから船で渡る。
これね、私、遅刻した分際でヒドイこと言いますけどね、ホントに船、時間がかかる」
知世
「ああ」
慶一 「あのね、欠航になったんですよ。踏んだり蹴ったり!」
知世 「(笑)」
慶一 「デンマークに着いて船のチケットを買って並んでたら、その船が欠航になった(笑)」
知世 「なんかね、行かせないように誰かしているような」
慶一 「夕方4時に着いてるのに、知世ちゃんと会ったのが10時くらいですよ」
知世 「そうです。わたし、レストランで……、そうですよ、ヒラメにチョコレートソースのかかった、あ、違った、キャラメルソースのかかった謎の食べものを食べている頃に慶一さん、来ました(笑)」
慶一 「だから着いてるのに、目の前のこの海峡を越えればスウェーデンなのに」
知世 「近いですよ、40分ぐらいですよね、船の時間は」
《※2000年には、Oresund[オアスン]橋が開通し、コペンハーゲンからマルメまで電車で約30分ほどだという。》
慶一 「5時間ぐらいかかってる。
いや、あー、すいません、あれは遅れなきゃよかったんですけど。
で、着いて、レコーディングが始まり、そういうアナログなレコーディングを見たりして」
知世 「はい」
慶一 「で、トーレは、『よし! これから男の買い物だあ』なんて言って、連れてってくれたところが、電器屋さんという……」
知世 「(爆)」
慶一 「根っからのあの人、エンジニア気質なんだよね(笑)」
知世 「そうですよ、職人さんというか」
慶一 「何買いに行くんだろうなあって、ほのかなちょっと期待もあったりしてさ、着いたら電器屋さんです。
あとは、古いビンテージのシンセサイザーとか置いてある楽器屋とか」
知世 「ああ、行きましたね」
慶一 「あとはレコード屋。
もうとにかく、音楽に関係したところばっかり歩いてた。
私はね、レコード屋行ったときも、レコードいっぱい買ったし、よかったんですけれどね。
で、レコーディング自体も、圧倒的に違う感じで、さっきも言ったけど、1曲では終わらずに1日に4曲ぐらい、横にやる感じだよね。隣りの曲、隣りの曲、隣りの曲……って。
というような、非常に私はいい経験をしたんですけどね」
知世 「そうですね。わたしもすごく楽しくて、
最初に行ったとき冬で、クリスマスの前だったんですけど、
街の窓という窓に、キャンドルのかたちをしたランプが灯されてて、それがとっても綺麗なね、ロマンティックだったですね」
慶一 「ただ、朝、10時まで明るくならない。午後3時には暗くなってしまう。
いる間のうち、晴れたのは1日だけですよ、記憶に残っているのは。
あのフォトグラファーの人いたじゃない」
知世 「はいはいはい」
慶一 「あの人が写真を撮るんで桟橋のようなところに行きましたね。あのサウナがあるところ。
そのサウナ、まさにサウナ。サウナに入った後にそのまま海に飛び込む」
知世 「飛び込むんですよね、氷の海に。どうかしてますよ(笑)」
慶一 「いやあー、あれは健康にいいんだか悪いんだか(笑)。ドウカシテマスヨ」
知世 「でも、みんな、嬉しそうにおじいさんとかおばあさんが(全裸で)飛び込んでる写真が飾ってあって、なんかスゴイと思って」
慶一 「その時のフォトグラファーと話した記憶がある。
あの日だけ晴れたよねって言って、写真を撮る日も曇っていましたね、うん。
私が行ったのは、陰鬱なる景色のスウェーデンしかないんですけどもね」



あまりロマンスじゃない「ロマンス」誕生秘話

知世 「その後、わたしが『I could be free』というアルバムを作ることになりまして、行ったのは夏のスウェーデンだったんですが、
そのときに作った曲を、それではここで聴いていただきましょう。
『I could be free』より『ロマンス』」
「ロマンス」流れる
慶一 「ハイ、『ロマンス』という曲でしたけどね。
こうやって、トーレの作ったサウンドを聴いてますとですね、生音の使い方、あとはタンバリン・スタジオの部屋の鳴り方、それがもう、すごく活かされてるね。
空間が見えますね。何か画期的に音が変わったという感じがします」
知世 「この『ロマンス』を作ったときは、わたしとマネージャーとディレクターの方と通訳の方だけで行ったんですね……」
慶一 「すごいね、少数精鋭というか、危険な香りがしますね。“煮詰まる”という言葉が、今、浮かんだんだけど(笑)」
知世 「(笑)その通りですね。
まあ、先ほどもお話ししました通り、サウンドがほとんど骨組みの部分しか出来てない状態で歌わなければいけないから、どんなふうに歌っていいのか、ちょっとわからなかったりして。
で、また同じように『じゃ、ストップ、次の曲』、『ストップ、次の曲』……って、
あんまりトーレさんも話さ(ないというか)、トーレさんはすごくあったかい人なんだけど、レコーディングになると厳しいというか」
慶一 「そうだね。冗談言わないよね」
知世 「ええ、言わないで、『No』『No』『No』って(笑)、
どこがどうだったんだろうかとイロイロ思いながら、言葉がうまく通じない分、ずーっとやってて、だんだん、だんだんわからなくなってきて。
で、途中、それこそほんとに“煮詰まり”ましたね」
慶一 「海外でのレコーディングの孤独感っていうのは、ちょっと底知れないね」
知世 「そうなんですよね、なんか遠いし、それで家でずっと長電話するわけにもいかないし」
慶一 「(レコーディングから戻っても)『さあ、家に帰ってきたぁー、さあ、帰ってきたぁーっ』て感じでもないしね、ホテルだしね」
知世 「途中、うちの姉《※貴和子さん》が遊びに来てくれたんです。嬉しくて、なんか気分が変わって。
で、姉が帰る日が来て、そしたら帰る日の朝、パッと(鏡を)見たら、顔中に湿疹が出来ていて、ジンマシンみたいな。あ、たぶん、これストレスだーと思って突然出来て(笑)。
そんなこともあり、トーレに『どうしたんだ、大丈夫か』って心配されて、『だいじょぶです、だいじょぶです』って言いながらやったわけなんですけれど」
慶一 「1ヶ月くらい?」
知世 「そうです、そうです。1ヶ月くらいいたんですけれど、
この『ロマンス』って今聴いてもらった曲は、結局わたしたちがレコーディングして帰るまでの間に全然、ただ歌を入れたっていうだけだったので……」
慶一 「あ、そう言ってたね。アレンジメントが決まってないって」
知世 「声だけサウンドとして残したっていう感じで、『まあ、待っててくれ』って言われて。
で、日本にこれを持ってトーレさんが来て、そのときのトーレさんの顔が忘れられなくってですね。
すっごいニコニコして、『これ、素晴らしいものが出来たから聴いてくれ』って言って。
で、これを聴いて、ほんとにこう歌っている時からは想像できないアレンジに」
慶一 「バッキングトラックが変わってるわけだよね」
知世 「ええ、まったく変わってたんで、わたしたちもちょっと鳥肌が立って、『ガンバってよかったねッ!』っていう……」
慶一 「ほぉーーーっ。不安だよね、それまでは。その録音したときの時点の音しか聴いてないからね」
知世 「そうですね」
慶一 「今でこそ、そういうレコーディングってすごくあるけどね。歌だけ入れて何とかしちゃおうという」
知世 「ああ、そうですね、うん」
慶一 「当時のスタイルとしては非常に画期的というか、危険というか、やったことのないような」
知世 「トーレさん自身エンジニアというか、自分で全部一から十までやるから、そういうことが可能だったんですかねえ」
慶一 「これって、プロモーション用の映像もあったんじゃなかったでしたっけ」
知世 「そうです。プロモーション用ビデオ、行ってる間に撮りました」
慶一 「これが、ほんっとに楽しそうに歌ってるんですね、実は。客観的に見るとね」
知世 「はい」
慶一 「でも、そうでもなっかたんだね(笑)」
知世 「そうなんです(笑)、その時はね、顔に何かブツブツが出来ていて、それで(ライティングで)スゴイとばしてもらって、笑顔で歌っている自分がこう……」
慶一 「何かスゴいな(笑)。ウルトラ笑顔な感じだったんだけどなあ。
そういうものですね」
知世 「そういうものですねー。
でも結果的には、とても名曲が生まれました」



プロデューサーとしての原田知世

知世 「それで、次に聴いていただくのは、その後ですね、また再度スウェーデンに渡り。
『ロマンス』を書いていただいたウルフ・トレッソン[Ulf Turesson]さんという方がいらっしゃいまして、
彼のストックホルムでのスタジオ《※ピンポン・スタジオ》で、その時トーレはいなくって、彼と一緒に作った曲です。
詞は、自分で書きました。聴いて下さい、『シンシア』」
「シンシア」流れる
慶一 「ハイ。シンシアでした。
トーレ・ヨハンソンのプロデュースを経てですね、音楽活動の幅を広げていったということですけれども、
その後2001年にはゴンチチ……」
知世 「ええ、ゴンチチさん、そして羽毛田丈文さんにプロデュースをお願いしまして、『Summer Breeze』という、『カコ』以来……『カコ』の次のカバー・アルバムを作りました」
慶一
「このアルバムを作るときの感じというのは(どういうふうだったのかな)。
これは日本でやったんだよね?」
知世 「そうですね。これは、選曲はもちろん相談したわけなんですけど、わたしが結構歌ってみたかった曲を選びまして、
それで全体を通して、ゴンチチさんのギターが心地よい中に歌が入って、
夏の1枚というか、そういったアルバムが出来るといいなあーと思ってやりました」
慶一 「だからプロデューサー原田知世というのがしっかりあるわけですね。すでにね。
いろんなプロデューサー……、私以前にもいろんな方とやってますね。
やっぱり、その都度その都度違うんですかね? プロデューサーのやることというのは」
知世 「違いますね。違いますし、そこでまた新たな自分の扉が開いて行くといいなあーというふうには思ったりはしていますけど」
慶一 「ど真ん中にね、プロデューサー原田知世というのがあるような気がするんですけどもね。
えー……、中盤にさしかかって結論めいたことになってしまいました」
知世 「なるほど(笑)……いえ、スイマセン」
慶一 「では、『Summer Breeze』より『Say You Love Me』を聴きたいと思うんですけど、これをカバーすることにしたのは、やっぱり好きな曲という?」
知世 「これってとても前から好きだったんですけど、意外とカバーされてる人がいなかったんですよね」
慶一 「そうか、そうか」
知世 「何でかなーと思って。……で、してみました」
慶一 「はい」
知世 「では、聴いて下さい。『Say You Love Me』、原田知世」
「Say You Love Me」流れる
(つづく)