“スイーツ”と呼ばれるようになったのはいつのことだろうか。
それはおそらく21世紀という時代になってから。
湾岸地域がベイエリア、白金の奥さんがシロガネーゼ、政権公約がマニフェストなら、
「甘味」がスイーツとなるのは必然の流れだろう。
スイーツ、それは単なるデザートやおやつではない。糖分は人間にとって最も大切なエネルギー源なのだ。現にご飯は口の中でブドウ糖になる。
今こそ、あらためてスイーツと向き合ってみようと思う。そして言うのだ。
「スイーツ、こんにちわ」
駅構内にて、「イチゴワッフル」
ワッフルが放つ多彩なオーラ。行き交う人々の足を止める、その存在感。
東京・渋谷にて、「バーボフカ」
東欧・チェコの伝統的なスイーツ。食べる前に少し温めます。
一軒家のパティスリーにて、「コメッツ」
まるで何世紀もかけて積み重なった地層のよう。その深みあるたたずまいを目にした時、人は地質学者になる。
海辺のホテルにて、「イチゴのケーキ」
なんという気品。小柄ながら堂々たる立ち姿。凛とした角度で見上げる山頂のイチゴ。

 スイーツと私〜例えるなら、裸の付き合い






左のスイーツは千疋屋のモンブランである。
(写真・上) その名も「究極モンブラン」。値段は840円、こちらの財布も限界である。
なぜ作り手が“究極”とまで名前をつけたのか、それはこのスイーツにふんだんに使われた最高の素材にある。
それは、分かる。このスイーツに限らず、素材と製法にこだわれば、たどりつくところは“究極”であろう。 食にうるさい皆さんならば、この類のものには触れているはずだ。
わたしの場合、このモンブランに相対してまず目を魅かれたのは、その表面である。ぐるりと積み上げられた、クリームである。なんという丁寧な仕事。一部分に注目すると、まるで幾度も蛇行を繰り返しながら山頂へと向かう坂道のようである(写真・中)。
そしてそこには雪が降り積もっている。素晴らしい。私はしばしこのスイーツに見とれてしまった。
ハタと我に返ると、次に沸く興味は“この中身はいったいどうなっているのだろう”ということである。ここまでして丁寧に包まれたこのスイーツの真髄とは。私は息をのんでフォークを入れた。
現れたのは、まるで何千年も前に作られた壁画が一面を覆う洞窟、 そこには荘厳さが漂う。“栗が丸ごとひとつ”という期待にも応えて。
ここでスイーツは私に語りかける。
「さぁ、お前も見せてくれ」
私はなんの迷いもなく、服を脱ぐ。そして全裸でこのスイーツをいただく。私とスイーツはなんでも語り合う、裸の付き合いなのだ。

 哲学としてのスイーツ〜穏やかに私をたしなめる

スイーツは味わうのが基本。しかし時おり、出されたスイーツをガブリと一口で食べたくなる。一口で可能な大きさかは別として、ガブリとかぶりつきたい。実にぜいたくな衝動である。スイーツを語る人間としてはあまり大きな声では言えないが、家に持ち帰った時などは密かにガブリとやったりすることもある。店ではさすがに無理なので空想にとどめるが。
 “味わう”という行為とは対極の行為。そこにどんな心理が隠されているのかはフロイトにまかせるとして、右の写真を見てほしい。
このスイーツが目の前のテーブルに置かれた時、私はいつものようにガブリを妄想した。店内なので妄想した。テイクアウトだったら周りを覆う透明フィルムをとって実際にガブリとやっていたかもしれない。しかし次の瞬間気付いた。これはフィルムではない、硬いプラスティックなのだ。このままカブりつけないのはもちろん、プラスチックを取ることもできない。いただく際には、このままスプーンで中をすくう。つまりガブリは不可能なのである。この透明のヨロイに妄想を止められ、ハッとする自分がいた。
「そんなに生き急ぐな」
そう言われた気がした。またしても私はスイーツに教えられる。人生のなんたるかを。これが、スイーツが時に哲学となる瞬間である。

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 スイーツごめんね〜私は謝らなければならない

 スイーツは作品である。作品である以上、作者(=パティシエ)と私との関係は、表現する側とそれを受ける側の関係である。
作者が表現し、受け手がそれを感じて初めて作品が完成する。受け手が感性を研ぎ澄まさなければならないのは味覚だけではない。 スイーツを食するということは、絵画を鑑賞することとなんら変わりはないのである。
←このスイーツの名は「キャンドル」という。フレンチシェフ・石鍋氏率いる“パティスリークイーンアリス”による作品である。通りがかりに偶然見つけたテイクアウト専門の店で購入した。
実は、買った時点では
←写真のようにイチゴとケーキが別になっていた。食する際に自分でイチゴを載せるのである。
そして私は、一番上の写真のようにデコレートして食した。
しかし何か違う。と、気づいたのは食後のこと。
そう、私はひとつの重大なミスを犯していた。
なぜ作品名がキャンドルなのか。そのことを深く考えなかった。お気づきかと思うが、イチゴは炎を表し、ケーキ部分はロウソクを表しているのだ。
私のイチゴの載せ方は間違っていた。今一度、一番上の写真を見てほしい。炎が、あさってのほうを向いてずっこけている。本当はイチゴのヘタ側を下にしなければならない。炎は天に向かって燃え上がる。私の炎はいったい何をしているのだ。
なんということだ。スイーツを語らんとする私としたことが。しかしいくら後悔してもスイーツは跡形もない。あまりに悔しいので
←写真をパソコン上で無理やり加工して本来の形を再現してみた。これだ。まさにキャンドル。
私は、この作品を受け止めることが出来なかった。それはこのスイーツの半分も食していないことを意味する。いや、一片のかけらも口にしていないのかもしれない。
私は謝らなければならない。作者に、そして私の家に持ち帰られ、作品として昇華できなかったこのスイーツに。
まだまだ修行が足りない。自らの未熟さを嘆き、なお一層のスイーツ道に励もうと心に誓ったのであった。
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 そして幕が上がる〜そのスケールはオペラ座に匹敵する

名門・帝国ホテルのスイーツ、『ブッシュ・ド・ノエル』である。クリスマスシーズンにお目見えするロールケーキだ。 ご覧の通り、切り倒された木の幹をモチーフに作成されている。丁寧に再現された木肌にはツタが絡み、年輪がデザイン化された切り口には斧。この斧の持ち主だろうか、隣ではクリスマスを祝うようにサンタクロースがバンドネオンを奏でている。パティシエの仕事はロールケーキの部分にとどまらない。下に見えるクッキーの大地、さらに大地と丸太の間に住まうキノコにまで表現が及ぶ。
もはやこれはひとつの“物語”である。私が目にしているのは、パリ・オペラ座で開演される歌劇である。出してきた皿やフォークは棚に戻し、しばしこの歌劇を楽しむとしよう。
この木は、サンタと大きさの比からいって樹齢100年以上と推定される。これはサンタが切り倒したのだろうか。いや、そうではない。それはキノコが生えている方向で分かる。倒れて横になった木にキノコが住みついたのだ。
サンタは新しいソリを作るために木を求めて森へやってきた。本来ならば、立っている木を伐採してそこからソリを作るはずが、倒れているこの丸太を見つけた。幸運なことにサイズも質もソリに最適。伐採する手間がはぶけたサンタは喜びのバンドネオンを奏で、物語は終わる。
ブラボーである。「物事は、できれば苦労せずにすませたい」見る側の欲望をかなえた見事なストーリー。客席はスタンディングオベーションであろう。サンタが喝采に応えながら幕が下りる。ショーは終わった。歌劇は、終われば人々の記憶に残るだけで形には残らない。映画とは違い、いくらビデオや写真に撮っても舞台本来の醍醐味は伝わらないのだ。そこが“生”のエンターテイメントの素晴らしいところである。スイーツも同じ。幕が下りれば、優麗な装飾美術は解体され、あれほど華やかだった舞台は無機質なカラの空間に戻る。さぁ、観劇の記憶をとどめながらこのスイーツをいただこう。
スイーツと私
哲学としてのスイーツ
その甘さを超えて
スイーツごめんね
そして幕が上がるnew!
スイーツという生き方
執筆・川越フーコー
「どちらかと言うと、コーヒーより紅茶をいただきます」
川越フーコーとは
スイーツと飲み物が一対である以上、 その飲み物を注ぐカップにも 言及せざるをえないだろう。
私なら、マイセンのブルーオニオン。
しかし私はこれを所持していない。修行中の私にはまだ早い。いわゆる「百年早い」。つまり高嶺の花。要するに値段が高くて買えないのだ。