雅楽研究

水谷川忠俊


君が代のひみつ

  「君が代」が国歌に制定されたが、その成立はあまり知られていない。

  「君が代」の歌詞の原型は、十世紀の<古今和歌集 巻第七 賀歌>に「我が君は千代にやちよに さざれ石の巌となりて苔のむすまで」としてみられ、十一世紀の<和漢朗詠集>下巻「祝いの部」には今の「君が代」の形で見られる。近世には、慶祝の歌として、江戸初期の流行歌だった隆達節や琴曲、地歌、長唄などに歌われ、特に薩摩地方では琵琶曲蓬莱山や民俗芸能の歌詞として広く親しまれていた。

  明治初年、薩摩藩士たちにに軍楽を教えていたイギリス軍人フェントンが日本国歌の制定を進言すると、砲兵隊長大山弥助(のち陸軍元帥大山巌)らが歌詞に「君が代」を選び、フェントンに作曲を依頼してできたのが初代国歌「君が代」である。日本語を深く理解していたとは思えないフェントンの「君が代」は珍妙奇天烈だったが、明治三年九月東京越中島での薩摩、長州、土佐、肥後四藩の大調練のさい、明治天皇御前で薩摩の軍楽伝習生によって演奏された。

  明治九年、海軍軍楽隊長中村祐庸は<天皇陛下ヲ祝スル楽譜改定ノ儀上申>し、西南戦争後の明治十年、海軍省が宮内省式部寮雅楽課に委嘱、楽師数人の作品の中から林広守の作品(一説には広守の子、広季と奥好義の合作とも言われている)が選定された。これが現行の「君が代」で曲想はかなり雅楽的である。

  雅楽の中には笙、ひちりき、龍笛等で演奏される器楽曲、「管弦」の外に、古代歌謡の「催馬楽」、「朗詠」がある。「催馬楽」は、九世紀から十世紀にかけて地方の風俗色豊かな民謡を題材にして歌われたもので、「朗詠」は和漢朗詠集の中の漢詩に節をつけて歌われた。ともに、今、日本で歌われている歌のように、歌詞と旋律が密接に関ってできている詞歌一致体とは非常にかけ離れたもので、「催馬楽」「朗詠」の歌唱から歌詞を聴きとることは至難である。

  これは、聴衆に歌詞のメッセージを伝えることを主眼にして西洋音楽の技法で作曲された近代日本歌謡と、「催馬楽」「朗詠」とでは根本的に成立が違うからである。「催馬楽」「朗詠」では歌詞と旋律フレーズの不一致は問題とされていなかったのだ。

  「君が代」が作曲された当時の宮内省の楽師たちは「催馬楽」「朗詠」など雅楽を最初に学び、後になって西洋音楽を学んだ人たちであるから、彼らの作った「君が代」が雅楽調になるのも当然だった。当時は、公式的な場での楽器演奏は雅楽器であったし、西洋音楽はまだ浸透していなかったから、雅楽調「君が代」は音楽的には何の抵抗もなく社会にうけいれられた。海軍軍楽隊などで西洋楽譜でも演奏できるよう編曲されてから、雅楽器で演奏されることが少なくなり、「君が代」は明治二十六年に文部省告示で学校の儀式、祝祭日唱歌八曲の一つに指定される。

  西洋音楽的な見地から「君が代」を批判すると、作曲家の中田喜直氏をはじめ多くの識者が指摘しているように、歌詞と旋律が一致していないことがあげられる。雅楽の世界に門外漢の一般国民にとって納得のいかない部分が多いのだ。

  始めの「君が代」は1フレーズであるが、旋律は「キミガー・ヨーワー」と、途中できれている。「キミガー」の「ガー」は本来、鼻濁音であるはずだが、たいていの子供はライオンの吠声のように「ガー」と発音する。「さざれ石の」も1フレーズであるが「サザレー・イシノー」となり、「サザレー」では何を意味しているのか解らず、「イシノー」の音型は<石の>でなく、<意志のに聴こえてしまう。

  今や日本人の大多数が第二次世界大戦後のすぐれた音楽教育を受けており、国民の音楽に対する感性は明治の「君が代」選定の時代とは格段の差がある。音楽的におかしいと直感的に感じている今の子供たちに、強制的に「君が代」を歌わせても、感動をもって歌うことはまずない。学校で「君が代」の斉唱を義務づける前に、国会ゆ各市町村議会の議会開始セレモニーなどで議員たちが歌い、範を示すべきであろう。

  「君が代」の歌詞は、江戸時代までは庶民の慶祝のために地歌や長唄、薩摩琵琶などで歌われていたもので、「君が代」が国家の慶祝歌に格上げされたのは明治政府によってである。雅楽の壱越調で作られた曲は音楽的内容的には威厳も感じられるが、英国国歌「ゴッド セーブ ザ クイーン」やフランス国歌「ラ マルセイエーズ」その他、ドイツ国歌、米国国歌と比べて、いかにも地味である。これでは二十一世紀を背負う若者たちが誇りと共感をもちにくい。もう少し現代的で歌いやすく親しみの持てる詞歌を公募し、「君が代」は「準国歌」として学校式典などで歌うようにすればよいのではなかろうか。 (作曲家)

Copyright
水谷川忠俊
掲載許可済み

水谷川忠俊氏のプロフィール
作曲家。
1935年12月9日、近衛秀麿氏の二男として東京に生まれる。
父方の叔父忠麿氏の養子となり、忠麿氏が奈良春日大社の宮司を務める水谷川家を継いだため奈良に居住。
奈良女子高等師範学校付属の小・中・高校を卒業。
神職の家の手習いとして雅楽器の「ひちりき」を習うが、西洋音楽、なかでもモーツァルトに魅了され音楽家を志して上京する。
音楽活動をしていた芸大生の山本直純氏のアシスタントをしながら、作曲に手を染める。
1963年、ベルリン市立音楽院に留学。
カラヤン全盛期のベルリン・フィルの演奏を1マルク(当時約90円)で聴く生活を5年続けた後、帰国。
NHKの連続テレビドラマのテーマ曲を作曲するなど幅広い音楽活動をする一方、
すでに演奏されなくなった雅楽曲の複曲、監修に取り組むなど、1400年の伝統をもつ雅楽の研究も続けている。

(財)春日顕彰会
萩原幸治
監修


HP Version Edit
Kuniaki OTOMO
編集
大友邦彰
籐裔会 会員
 No.2839
1997-2003

AMATO−NETWORK

SANTA MUSICA