「奇跡の船」と呼ばれた初代南極観測船『宗谷』

 南極観測船「宗谷」が第1次観測隊を乗せて、南極まで2万キロの航海に旅立ったのは昭和31年11月8日、今からちょうど50年前のことである。当時はまだ敗戦の影響が残っていて、国全体が貧しかった時代。それだけに南極計画を復興の糸口にしたいという国民の期待は大きく、現在のオリンピックやサッカー・ワールドカップの選手団以上の期待を背負っての旅立ちであった。大群衆に見送られ、港中の船がいっせいに汽笛を鳴らして門出を祝福したと言われる。

 この、大変重大な使命を帯びた宗谷という船、このために建造された船では無い。それどころか、この時すでに建造18年の老朽船だった。普通、船の寿命は20年ほどだと言われるのだから、引退間近のボロ船を、地球上で最も危険な海域への航海に使用したのである。仕方がない、国に費用が無かったのだから。

 宗谷の実物をごらんになった方ならお分かりだと思うが、宗谷は小さな船である。その小さな、しかも耐用年数ぎりぎりの、そんな船を精一杯改装して南極へ向かったのである。専門家の中には、南極までたどり着くのは無理だとの意見を述べる者もあった。普通に考えれば当然の判断であったろう。砕氷船で最も大切な能力は運動性能。それを支える宗谷の出力は4,800馬力。同時代アメリカの砕氷艦バートンアイランド号は13,000馬力、大人と子供ほどの差がある。その、非力な老朽船で「接岸不可能」と言われた難所〜昭和基地のあるプリンスハラルド海岸まで行こうというのだから、到達不可能と言われるのも当然である。

 しかし、宗谷は無事に南極へたどり着き、不可能を可能にした。これが、宗谷が「奇跡の船」と呼ばれる所以である。宗谷にはその数奇な運命とともに、不思議な「運」が付いていると言われる。それはこの、南極への航海だけではない。その歴史を、追ってみたいと思う。


 宗谷を建造したのは、長崎県の香焼島にあった川南工業という造船所。ここ、元々は松尾造船所という工場だったのが12年もの間閉鎖されたままになっていたのを、川南工業が買い取ったもの。この経緯にもドラマがある。

 昭和11年3月、この閉鎖されたままになっている工場のことを聞きつけて視察に来た川南工業社長、川南豊作の前にボロボロの守衛服を着た老人が立ちはだかり「入っちゃいかん、ここは松尾さんの工場だ!」と叫ぶ。実はこの老人、かつてこの造船所の守衛長をしていた人物で、工場が閉鎖されてからも恩義ある社長のために、手弁当で警備をしていたというのである。この話に感動した川南豊作は直ちにこの造船所を買い取ることを決め、この老人を再び守衛長に採用する。しかしこの老人は、自らの役目が終ったと感じたのか、間もなく病に倒れて死去。川南社長は社葬をもって弔ったという。

 宗谷は、再開したこの造船所で3番目の受注。発注元はソ連で、砕氷能力40センチという耐氷型貨物船として建造され、船名もロシア語で「ボロチャエベツ」となっていた。

 しかしこのころ日中戦争が長期化の様相を見せはじめ、国家総動員法の発令などにより、結局この船はソ連に引き渡されず、民間船会社の貨物船「地領丸」として、その船歴をスタートさせることになる。

 やがて、中国やロシア周辺で貨物輸送に従事していたこの船の、耐氷能力に目をつけたのが日本海軍。特務艦としての使用を目的に、昭和14年、海軍に買い上げられることになる。このとき船名も「宗谷」に変更。

 形ばかりの武装を施された宗谷は、それから海軍の艦船として働くことになるのであるが、昭和16年12月8日、大東亜戦争(太平洋戦争)が勃発。それからは敵艦に狙われる怖れのある南方の前線基地へと、食料や物資を運ぶ危険な任務に着くことになるのである。

 このころから宗谷の不思議な「運」が見えてくる。周りの艦船が大きな被害を受けているのに、なぜか宗谷だけは損害が軽微。昭和18年にはアメリカ潜水艦から魚雷を撃ち込まれるが、なんとこれが不発。ただちに爆雷を投下して、あべこべに潜水艦を沈めてしまうのである。

 その後もこの「幸運」は宗谷に味方し、危険な任務にも「宗谷だけは無事」ということが続いて行く。一説には、宗谷は砕氷船なので船脚が遅いのに、輪郭がずんぐりとしているため立てる波が大きくなる。それで敵の方が速度を読み誤って狙いが狂うのではないか〜と。

 こうして戦争を生き延びた宗谷は、終戦後間もなく、戦地や大陸からの帰還者を運ぶ引き揚げ船として働くことになる。甲板上に急ごしらえのトイレや洗面所を増設して、南方から中国、インドシナと休む間もなく駆け巡り、19,000名もの引き揚げ者を日本に送り届けたのである。

 もう十分すぎるほど働いた宗谷は廃船間近。その後は小樽に係船されていたのだが、昭和24年、まだ「使用可能」と判断されて改装工事を施され、海上保安庁の灯台補給船となる。全国の灯台を巡り、物資を届けて回るのだ。ちなみに灯台守を描いた映画「喜びも哀しみも幾年月」には、この頃の宗谷が登場するそうだ。

 この仕事が5年半ほど続いた後の昭和30年、「国際地球観測年」での南極計画に日本も参加することになり、南極観測船として宗谷が候補に上るのである。

 この南極観測船の候補には、同じく砕氷能力がある鉄道連絡船「宗谷丸」も候補に上げられたが、選ばれたのは「宗谷」。この候補の船がどちらも「宗谷」が船名に付いていたのは面白い偶然だと思う。

 しかしこの老朽船を、南極の厳しい条件に耐えうるように改造するのは大変なこと、しかも短期間に完了しなければならない。この設計図面は船舶設計協会が製作。この協会は、戦艦大和を設計した牧野茂など、かつて高い技術力を誇った日本海軍の技師の集まりで、極めて短期間に膨大な量の図面製作を見事にこなしている。

 改造工事を引き受けたのは横浜の浅野ドック。昭和31年3月12日の着工以来、昼夜兼行で7ヶ月に及ぶ作業の後、10月10日に引き渡されて東京に回航されるのだが、実はこの時まだ作業は終っておらず、作業員達は横浜から台船に乗って宗谷まで通い、ついに作業を完成させる。この場面、NHKの「プロジェクトX・宗谷発進」では、まだ横浜にあるうちに港中の作業員達が手弁当で駆けつけた事になっているが、それは感動を盛り上げるための演出。しかし作業員達が宗谷の使命を理解して、精一杯働いたことに違いはない。

 そしていよいよ前述のように11月8日、宗谷は旅立つのであるが、なにしろ「到達不可能」と言われたほどの危険な航海。乗組員の中には、家族と水杯の別れをしてきた者もいたという。しかし、だからと言って嫌々乗り組んだわけではないだろう。日本が世界に向けて新たな一歩を踏み出す、その一翼を担うために進んで引き受けたのに違いない。

 船にはビルジキールという、横揺れ防止のためのヒレが付けられているものだが、宗谷は氷に乗り上げて氷を割っていくので邪魔であろうと、これを外してしまった。だから、大変に揺れる船となった。ケープタウン沖の「暴風圏」に入ったときには最大62度まで傾いたという。私はこの「南極第1次観測」のエピソードを講談にまとめたご縁で、宗谷の舵をとっていた三田氏とお会いしたのだが、侍のような気骨を感じさせる人物だった。乗員たちの命と日本国民の期待を背負うのは、今の感覚なら大変なプレッシャーとなるのだろうが、三田氏は特攻隊の生き残り、ただ任務を成功させることのみを考えて舵を握っていたのではないか。

 そして1月24日、宗谷は南極へと到達。宗谷の強運はついに奇跡を起こしたと言えるのかもしれない。しかし運だけでこれほどの難事業を達成できるだろうか。この南極行きを成功させたのは、未知の世界への危険な航海をものともせず、なんとしても観測隊員を送り届けようと命懸けで臨んだ、松本船長以下77名の乗組員達の努力の賜物でもあったろう。

 宗谷はこの後、さらに改装を施されながら第6次観測までを南極観測船として働き、観測船としての役目を終了。それからは北海道第一管区所属の巡視船として、海難救助や冬期の北洋における医療活動に従事。救助船125隻、救助人数は1,000名にも及び「北の海の守り神」と呼ばれるほどの活躍をする。そして、ようやく引退したのは昭和53年、実に40年あまりも働き続けたことになる。これほど働き者の船は、おそらく前例が無いのではないか。

 このように、この「宗谷」という船の歴史は、そのまま昭和史の光と影、様々な部分で重なり合うように思える。宗谷にかかわった人々は皆この船を愛している、「健気な船だ」と言う。大昔の船乗りは「船霊様」〜船の魂を信じていたそうだが、宗谷には特に、人を引きつける何物かがあるのかもしれない。

 宗谷は現在、お台場にある「船の科学館」に展示されている。しかし今では船底の痛みが激しく、大修理しなければ沈んでしまうかもしれないそうだ。無理もない、建造されて68年にもなる。この船は歴史の生き証人のような船である。このまま朽ち果てさせるにはあまりにも惜しい。なんとしても保存してもらいたいとは思うが、まだ資金が十分では無いとのこと。一般の人々の協力と、また保存活動を盛り上げるため、船の科学館では「宗谷保存の募金」を行っている。宗谷という船に興味を持たれた方はぜひ、以下のH.P.をご覧いただきますよう。

「宗谷保存募金」