特別寄稿 奥尻島地震復興支援ボランティア体験記

 この物語は、私の高校時代の友人F君が当サイトの掲示板に書き込んでくれた体験談をまとめた物です。1993年奥尻島地震のとき、大手建設会社に勤めるF君は、仲間と共に現地に赴き、自分たちの技術をいかして集会所を建設しました。その費用すべて持ち出し、手弁当のボランティアです。ただ、並のボランティアとはひと味違う大きな事をやり遂げたために、感謝と共に少々の挫折感も味わうことになりました。

 しかし、かつて机を並べていた友人が、被災者のためにこれほどがむしゃらに頑張ったこと、また、けっして会社としての活動にはしなかった美意識は立派だと思いますし、こういう友を持ったことを私は誇りに感じます。これは、これからボランティアを行おうとする方々にとっても貴重な体験談となることでしょう。


 はじめに

 羽野君の掲示板を拝借し、12年前のボランティア体験を書きましょう。その前にひとこと誤解が無いように
前段で認識していただきたいことを記載します。

 私が所属する会社は1万人規模の全国区である。被災時のボランティアを会社がバックアップすれば、その規模を使い、いとも簡単に対応できると思う。しかしながら、それは何の意味もない。会社の宣伝をボランティアでやることぐらいみっともないことはないからである。さらには、そのプロジェクトに参加したいと手を挙げるであろう第三者の参加も阻害することになり、なお悪い。社名を伏せることが大前提。勿論会社としてのバックアップは期待できないという条件で実施された。あくまでも建設技術を持つ有志が、社内規定の枠の中で、個人の意思で参加していることが重要なのである。個人が知りうる範囲の関係者からのカンパと、代休有給休暇を消化しての参加でなくてはならない。統率する組織団体はなく、個人でできることを精一杯することしかないという基本的な原点を守ったものであった。その思想の上で、インターネットも普及していない時代に、これだけ大それたことができるという事例としてそして、その後の反省を紹介させていただきます。
様々な提供をしてくれた関係者も、すべて善意だけの参加であることをご承知おきください。

 ことの発端

 1993年7月12日の夜、奥尻に地震と津波が襲ったという記憶は既に薄れている。5,000人弱の島民の5%近くが帰らぬ人となり、その後のテレビの画面には被災状況が何度も映されていた。当時建設会社でまがりなりにも現場監督をしていた私は、勿論サラリーマン。無縁の島の出来事に、「いやぁ、大変な災害だな」と思いながらも、慌しく朝食を食べ出社する。当時の社内ネットワークは実験段階であり、200人ぐらいがモニターしているレベルであり、草の根BBS
に毛が生えた程度のお粗末なもの。たまたまその1ブロックの運営を私は任されていた。その社内ネットワークに、大阪の某現場の熊田所長(仮名)が、地震の直後にひとつの提案を書き込んできた。 
「災害が発生すると、お金や衣料の支援を提供することばかり。我々建設技術者しかできない支援は考えられないものだろうか。」とあった。賛同するが、何ができるのか全く思いつかない。

 血迷ったかもしれない

 それから数週間。いつもと変わらない生活を続けていたある日、また書き込みが・・。
「関西支店の設計部がボランティアで集会所を設計した。これを社員の手でつくろう!有志募る。」
 設計図には畳敷きの大広間、バストイレ、調理実習室などが盛り込まれている。Cパネルというものを使った半鉄筋コンクリート造2階建て、500坪強の建物が描いてある。頭大丈夫か?お金のこと、職人のこと、無数のハードルをどうやって越えるつもりなのか?当然のことながら賛同する社員は出てこない。気にはなるが、皆家族と生活を抱えているのだ。彼の書き込みはその後も続いた。猛烈なバイタリティーで、地震直後奥尻に乗り込み、今何が必要なのかをヒヤリングしたこと、北海道庁とも調整をしていること、などなど。事細かく報告されている。

 実はこの熊田所長、10年来の知り合いで、私もよく大阪に遊びに行き世話になっている。本来なら無視するのだが、心のしがらみ故に、どうしても内容を見てしまう。あまりの熱意に、夢物語と思いつつ。「ようし、やったろかい。」とキーボードを叩いてしまった。持ち前のおっちょこちょいが私の性分。血迷ったのは彼でなく私だったのかもしれない。

 さて、準備準備

 図面が自宅に送られてきて、日程の調整を電話でやりとりする。何も無いところに建物を作るというのは大変なことである。重機は?仮設事務所は?電気は?水は?コンクリートプラントは?確認申請は?とにかく、すべてが電話1本で揃う都会とは全くわけが違う。しかも離島。シラフになると、夢が夢のままに見えてしかたがない。ともかく、乗りかかった船は、岸壁を離れてしまった。職場に迷惑をかけると思いつつ、初めての有給休暇を申請。起工式を私が乗り込める9月15日にしようとなった。

 スケジュールが決まると、本格的な準備が必要。コツコツためた社内預金から貯金をおろし、愛車のタイヤを変え、キャリアーを購入し、トラブル無いよう整備。必要な資材をできるだけ買い揃える。今後のやり取りに必要なFAXを買い、現地に持ち組むパソコン、当時は主流だった2,400kボーのモデム。携帯電話もいる。現地では使えないが、途中の連絡が途絶えてはいけない。とにかく、今は何も無いところと思え。と言われているから、まるで無人島に出かけるほどの物資調達を行う。中には左官が使うコテやら、仮設事務所のブレーカー、電気のケーブルに木の杭、スチールテープや布バケツ、そのリストは300項目にも及び、我が家はまるでホームセンターのような状態になった。今思えば、発電機を調達していなかったことが悔やまれる。こういう時は必須かもしれない。ボランティア用の保険は熊田さんが手配済み。私の所属する会社には子会社で保険会社がある。そこで調整したようだ。

 突然の珍入者

 出発の日が近づいたある日、2つのメールが来た。一人は関東支店の茜ちゃん。(仮名)管理部にいる30代の独身女性。趣味はオペラで、本人も歌って踊る。「歌って踊れる土工さん。というのもいいでしょ。私も連れていってよ。」とあっさり。もう一人は東北支店の香保里ちゃん(仮名)。彼女も独身女性。2人ともネットワークの関係でやりとりしていた仲間である。「F(なんと呼び捨て)が行くなら、私も行く」というのである。昨今の女性は強い・・というか男性が元気無いというか・・
 私が知る香保里ちゃんの上司も「うちのお嬢を連れていってやってくれ」と、背中を押してくる。なんとも理解のある上司である。ありがたい申し出だが、いくら建設会社勤務とはいえ、2人の女性はさすがに足手まとい。まして、デスクワーク中心の管理部門に在籍しており、現場という世界を全く知らない。当然のことながら、二つ返事で了解できるわけがない。それよりもなによりも、彼女達を知っている私のつれあいも、亭主が独身女性二人と未知の島へ行き、数日寝食を共にすると思えば、心穏やかな状態にはならないだろう。こういうときは、亭主の常日頃の行動がその判断基準となるものだ。懺悔。

 渋る私の前で、大阪の熊田所長は大賛成。ウエルカムウエルカムである。渋る私の声は段々小さくなっていった。

 いざ北へ

 9月14日津波から2ヶ月目の朝、自宅近くまで来た茜ちゃんは、登山服姿にバックパックのザック。重装備であった。助手席に乗せ、いざ出発。東北道を北上、仙台へ向かう。音楽CDを何枚か持ってきており、退屈はしない。途中熊田所長から何度も連絡が入る。今富山、今新潟。彼は大阪から日本海ルートで車を走らせている。私の車はステーションワゴン。あとひとり乗せたら隙間が無くなるほどの資材を積んでいる。
 一方の熊田さんは、自家用車ではついに積みきれず。業者から1トン積みの1ボックスを借りて、ようやく荷物が入ったという。仙台の支店で香保里ちゃんを乗せ、途中にある大型土木現場に立ち寄る。ここの所長から資材の提供を受けた。もうどこにも入らないので全部屋根に載せる。愛車よがんばれ。現場を出るときは、全員が横に並び手を振ってくれた。なんとも出征兵士の気分に近い。八幡平あたりでどしゃぶりの雨を抜け、青森に到着したのは18時ちょうどであった。予定通り大阪からの熊田所長と合流。フェリーターミナルでは、話を聞きつけた青森営業所の社員数名が見送りに来てくれていた。香保里ちゃんは同じ東北支店でもあるから、何か差し入れをもらっている。20時のフェリーが函館に到着するのは0時半。青函フェリーに乗るのは、初めてであった。4時間半は結構長い。イカ釣漁船の幻想的な光を眺めながら少しだけまどろむ。

 揃った役者

 函館の港では、事前に飛行機で入った技術の介(仮名)部長が待っていた。社内ではとても偉い人だが、平社員が友達づきあいできるという気さくで小柄な技術者である。もうすぐ60というのに、柔道をたしなみ、その腕の力はとても私ごときには勝てない。握手の力だけでたじろぐ。この介さんとのつきあいも10年を越えている。立ち話ながら少し打ち合わせ。5人の社員と2台の車は深夜の陸路を江差へと向かう。
 函館から江差までは70キロ余り。たいした距離ではない。実は私は北海道上陸はこれが始めてである。ドライブが好きで沖縄、九州、四国とほとんど全国を車で走っている。しかしながら、何故か北海道だけは縁がなかった。あまり縁が無いものだから、反対に強引に行くのを止めていたのである。定年になったら、家内とゆっくり北海道を回ろうという計画をたて、あえて、保存をしていたと言っていい状態だった。よもや、こういうことで上陸になるとは・・・計算はうまくいかないものだ。少し残念。「熊が出るかもしれないよ」という道は、街灯も少なく異様に暗い。初日から事故は勘弁勘弁。

 最初のトラブル

 江差に到着したのは午前4時前。まだ暗い。全員、車の中でうたた寝をする。私は長距離を一人で運転し疲れているはずなのだが、気持ちが高ぶったまま眠ることができない。フェリー駐車場に出て気分転換をしていると、暗闇の中に大型トラックが2台いるのに気が付いた。荷台には畳んであるスチールハウスが乗っている。千葉にある某レンタル業者が無償で提供してくれたプレハブの仮設事務所である。予定通りで、なんとなくほっとする。売店にある食べ物はおにぎりだけ。開店と同時にほおばり乗船する。出航は6時だ。
 ここで、最初のトラブルが発生した。スチールハウスを積んだトラックが、フェリーに乗らないのである。荷物の高さが5センチほど高い。荷物を降ろす重機は無い。なんとかならないか。船員に詰め寄るも「諦めてください」との冷たい言葉が返ってくるだけ。大ピンチ!こういうトラブルの時は、冷静にならないといけない。あせりを排除すれば何か妙案!が浮かぶものである。
「奥尻にガソリンスタンドありますか?」と聞いた。港の近くにひとつあるという。なら決まり!
トラックのタイヤのエアーを抜こう。5センチ分タイヤを扁平にすれば入れるはずだ。多くの乗船客が見守る中、数ミリの隙間を残してトラックは舟に飲み込まれる。拍手喝采であった。

 初めて見た現地

 江差から奥尻までは2時間半。奥尻が近づくにつれ、港の正面に崩落した崖が大きくなる。テレビの映像で見るのとは桁違いに大きい。その下には半壊したタンクがまだそのままであった。桟橋はひび割れ傾き、地震の衝撃を物語る。港でレッカーと合流。地震直後に復興支援で来ていたというオペレーター。あの悲惨さに二度と奥尻には来たくなかった。と言う彼を頼み込んで無理やり再上陸させたのである。会社は函館にある。奥尻港から島の東側を南下。海はどこまでも綺麗で、気がつかないと地震や津波があったことを忘れさせるのどかなドライブである。「いいところだね」となごみながら会話をする。
 そんな気分は、青苗地区が近くなるにつれ消えていく。所々に家があったはずと思われる痕跡が見えはじめまさに青苗に入った時にはあまりのむごさに絶句してしまった。舟は打ち上げられ、家屋の跡すら無い。熊田所長は、既に何度か見ているようだが、我々にとってはまるで、原爆が落ちたのではないかと思うほどに衝撃的であった。瓦礫すらもほとんど流され、かろうじて残っているアスファルトの道路に沿って最南端の岬まで行く。ここから見た景色はおそらく一生忘れることはないだろう。荒野になった陸地と裏腹に、海はあくまでも美しい。このギャップが悲しさを増長させている。

 はじまってしまった

 島民が避難する時の映像を映していたNHKの固定カメラを見、建設予定地に向かう。2度と流されない高台に奥尻町所有の土地がある。何も無い赤土の野っ原。雑草がそこここに生い茂る。少し離れて立派な特別擁護老人ホームがあった。さて、どこにつくるの?ハウスのトラックは午後の船で返さねばならない。ともかく荷下ろしをお願いし、私と熊田さんは今来た道をまた港の近く、奥尻町へ戻る。

 町の中に、小さな町役場がある。敬老の日、祝日であるにも関わらずほとんどの方が出勤しており、さっそく打ち合わせ。「どこにつくりますか?」「このあたりがいいね」実におおらかな会話。しかし、ここまでの段取りを一人でやっていた熊田さんは、いったいどういう社員なのだろう。付き合いは長いが、底が見えない人物である。建物の配置を図面に落とし、また戻る。今日の予定はとにかく仮設事務所を作ること。それと測量だ。熊田さんと私は測量。私が多用した頃のトランシットは原始的であり、なかなか愛着が持てたもの。年齢を重ねて久しぶりに触るトランシットは、いつのまにか高度なパソコンのようになり、これ1台で車が簡単に買える。最初の取り扱いでもたついた。女性2人と介さんは仮設事務所の組み立て。測量中に何度も聞きにくる。レッカーのオペレーターも運転しているより、彼女達のお守りの方が多いのじゃないかな。
 昨日出発して、ほとんど皆睡眠をとっていない状態にも関わらず、誰も眠くならないのが不思議でもあった。事務所を作っている途中で夕方になった。出来た事務所の屋根に全員あがる。西の海に沈む夕日が実に感動ものなのである。騒音もなく、風の音と海鳥の泣き声だけが我々を包んだ。津波がなかったらすばらしい島。「きちゃったね・・」と香保里ちゃん。明日も頑張ろう。

 記憶の薄いディナー

 町役場に段取りしていただいた民宿は現場から15分ぐらい。気さくな女将さんに迎えられた。風呂は小さく、2人も入ればいっぱいになる。2階からのポットン便所は実になつかしい。汗を流し、素朴な夕食。ご飯と味噌汁、それに缶詰。あと何かあったような気がするが、もう忘れた。奥尻に来て民宿に泊まってこの食事?確かに期待はしていなかったが、何も無いという現実を突きつけられるといささか悲しい。そういえば、今日の昼は何を食べたんだろう。何かを口にしているはずだが、これも忘れてしまった。食に固執していなかった証拠だろうな。これでも豪華だとレッカーのオペが言う。記憶が定かではないが、ビールが数本あったような気がする。のんべの私が覚えていないということはこれも大変なことだ。熊田さんはブルドックがいっぱいついたパジャマを持参。全員の笑いをかう。もう2ヶ月も経っているのに、その夜も小さな余震が少しあった。

 ころがる便所

 翌日は明るくなると同時に行動を開始した。仮設事務所に電気を段取りしなくてはならない。事前の北海道電力との打ち合わせも終わっており、現場までコンクリートの電柱を数本立てて電気を持ってきてくれる。災害復興対応の申請をしておくと、一般より遥かに早く電気の準備を始めてくれる。私は受電用の盤を取り付け、いつでもどうぞの受け入れ態勢。これで数日中に電気が入る。一方で災害復興の重機を段取り、掘削の準備となった。水は近くの老人ホームからバケツでいただく。奥尻というところは無類の強風地帯。特に現場は高台ということもあり、余計に風が強い。現場に設置した仮設トイレがそのままの形でゴロゴロ転がっていくのである。「あの中で用をたしていなくてよかった・・」と、胸をなでおろし、大笑い。
 2日がかりで、仮設事務所完成・・・の予定であったが、部屋の部品が欠落している。急遽民宿に戻り、電話を借りて手配するも、3日以上かかることとなった。しかたがない。しばらくは穴の開いた事務所で我慢するしかない。当時の奥尻は携帯電話が通じないのであるから、連絡が実に不便であった。午後より掘削工事開始。ユンボのオペレーターも気さくで、実によく動く。スタッフに恵まれたというべきだろう。

 ちょっと技術屋

 3日目は、掘削が中心。翌日からの段取りと調整がメインの作業となった。とにかくコンクリートを準備しなくてはならない。こういう災害の時は生コンプラントは第一番に復旧する。被災して2ヶ月も経っているのであるから、もう平常の状態。掘削時の測定の要領などを彼女達に教える。なんとか「歌って踊れる土工」に祭り上げ、さっそくプラントに出向き、配合の確認を行った。ここからは、いささか専門分野となるが、実は生コンの材料を見てびっくりした。関東地方でなじんだ私には想像できない粒度分布なのである。こんな分布があるとは知らなかった。Cパネル用の配合計画では、モルタルフローの測定器が必要。このプラントにはそれが無い。後日私が帰った後に、首都圏のプラントにお願いし測定器を借りている。

 島には数少ないポンプ車の手配など、調整とひとことで言うが電話ひとつないので結構大変である。もって来れなかった仮設の雑材を調達できる会社を探し、発注できる体勢を整える必要がある。熊田さんは近隣から、おばちゃん等、手助けしてくれそうな人を探し回る。これも無償となると、なかなか難しい。

 夜の奥尻

 現場の掘削は意外に時間がかかった。今日中に終わらないと明日からの作業が滞る。午後の船で東京の某OAメーカーの社員がやってくる。実は彼に廃棄予定のコピー機とFAXを探してもらっていたのである。彼も勿論ボランティアで、自分の車に積んで持ってきた。電気が無いので、調整はできない。置いて帰るという。問題は、船が1日2便しか無いことを知らなかったこと。午後の便で来たのだから今日は帰れない。民宿にお願いして食事を増やしてもらうこととなった。日が落ちてもなお、掘削は完了しない。OAメーカーの車と我々が乗ってきた車のヘッドライトを頼りに作業を継続する。あたりは漆黒の闇である。

 夜おそく民宿に戻った時、女将さんが心配そうな顔で「大丈夫だったかい?」と聞く。そんなに心配するようなことじゃぁない。と思っていたのだが、そうではなかった。まず、夜間の外出禁止の状態が今でも一部続いているということ。もうひとつは夜、海から山に向かって多数の火の玉が流れるのを目撃している人が多いとのこと。その夜は津波直後の怖い話をいくつか聞くことになってしまった。島にいながら漁ができない。・・というより、漁をしてもとても口にできないのである。あの綺麗な海の底に、未だ行方がわからない島民がたくさん眠っている。

 何故、集会所なのか

 ところで、今回、何故「集会施設なのか」という意味が現地に入ってよくわかった。阪神の地震などで最近震災時に「トイレ」「風呂」が一番欲しい施設であることが段々周知されてきてはいるが、集会所はあまり聞かない。地震直後、全国から数多くの支援物資、主に衣料のたぐいが大量に奥尻に搬送されている。しかし島民は5,000人そこそこで、空港の近くの仮設住宅に住む人を除いてそれほど消費できるものではない。その結果送られてきた物資は、少ない学校の体育館などに山積にされることになる。こうなると、地域の住民がちょっと集まって話をしたり情報交換する場所がなくなってしまうのだ。学校の体育館は、避難所であり、資材倉庫であり、集会所であるのだが、ほとんどが資材倉庫になってしまった。ここまで書くと、多くの方が「なぁるほど」と納得する。都会と違い、ましてインターネットも普及していない地域でのコミュニケーションの場は、非常に貴重なものなのだろう。こういう話は現場でちゃんとヒヤリングしないとわからないものだ。「お金や物資で援助する」だけがボランティアではない、という意味はここにあった。後日談だが、このお金と物資と補助金のために多くの利権が動き、私たちがよく知る当時の町長は、残念ながら贈収賄で逮捕されることとなる。

 土方になった4日目

 さて、入島4日目。この日は一番苦しい日だった。資材を降ろす段取りのレッカーが故障。オイル漏れが激しい。函館で修理の必要があり一旦離島。熊田さんは函館の労働基準監督所へ、介さんも用事で函館へ。残された私と女性2人にとっては試練の10時間となった。まずは本体構造の一部を形成するCパネルが10トン車2台で搬入。午後の船で帰すため慌てながらの手降ろし作業。午前中で汗だくとなる。午後はいよいよ均しコンクリートの打設となる。その間、やっと電気と電話が入った。

 コンクリートを打ったことが無い方には分からないでしょうが、もし首都圏でこの作業をする場合、ポンプ車で2人、打設作業員が3〜4人、レベル測量で2人、均し左官が2人と、10人ぐらいの配置をすることになる。それをポンプ1人男1人女性2人の計4人でやらかそうと言うのだから、あまりにもふざけている。作業は遅々として進まず、プラントから来た生コン車は列なして待つことに。これもいつまでも待たせるわけにはいかない。コンクリートはすぐ固まる。段々やけくそに。ヘルメットをかなぐり捨て、上着を脱ぎ捨て裸になって身体を動かす。こういうとき女性は脱げないからつらいだろうな。私は本職ではないが、コテさばきはなんとかできる。唯一の左官屋だ。生コンの運転手の一人がポツリとつぶやいた。「正気の沙汰じゃないね」・・う〜ん言われたくないが、本人もそう思う。その言葉が聞こえたのか、東北のおとなしい香保里ちゃんが「だってぇ、やらなくっちゃ終わらないじゃないっ!」と、すごい剣幕でにらみつけた。そうなんだ。やらなくては終わらない。ちょっと元気が戻ってくる。彼女の言葉に触発されたのか、生コンの運転手が長靴を履いていっしょに作業してくれることになった。全く、どちらがボランティアなんだか分からないじゃないか。今日ばかりは、彼女達がいてくれてよかったと思う。

 怪しい関係

 作業が終わりの段階になって、ようやく2人が函館から帰ってきた。私は酒飲みで、どちらかというと甘い物は苦手な口である。しかしながら、今回彼らが持ってきた大福は甘さを感じることなく、ぺろり。こんなに美味いものが世の中にあったのかと思うほどの感動であった。「ねぇ、こんなことできたんだから、もう何だってできるような気がしない?」と茜ちゃん。まだ始まったばかりだぜ。と思ったが気分はそれに近いものがある。その夜、民宿では交互にマッサージ。まあ、都会でやると男女入り乱れの怪しい世界という感覚に陥るが、奥尻の空気は至って純真な気持ちにさせてくれるものがあった。翌朝の布団は、アンメルツの匂いがぷんぷん残る。

 翌朝、余震で目が覚める。地震という奴は、ゆらゆら横に揺れると思っていたら、裏切られた。直下型は自分の背中から真上に一発だけ、ゴンという音と共に、つきあげてくる。一瞬何が起こったのか、分からない。本日の仕事は、昨日打ったコンクリート上の測量。一般に基準墨出しと呼んでいる作業。トランシットを操作できない女性は事務所整理。その後は午後の船で鉄筋が入ってくる迄ぽっかり時間が空いてしまった。

 ちょっと観光

 どうだい、島を一回りしてみないか。熊田さんが突然提案する。願っても無い。奥尻島は周囲6〜70キロぐらいしかない。特に島の西側、津波が20mを越えたという状況をこの目で見てみたかった。西側の道路は海と山の狭にあり、奇岩が多い。美しい自然を見せている。しかし、よく見ると、崖の植物が、ある一線で変色している。あそこまで波がきたらしい。どうみても20mなんてレベルではない。もっと高い。道路に沿って立つ電柱の電線にも海草がこびりついたままだ。状況は把握できるのだが、どうしてもその時のイメージができない。奥尻は北海道では唯一温泉が出る島である。いくつもの温泉を目にしたが、どれも入れる状態ではなかった。
 道路は途中海から分かれ、東側の山に急勾配で登る。その山道もところどころ亀裂が入り、橋の欄干が落ちかけている。商売柄、結構細かいところまで気が付いてしまうものだ。幾度となく車を降りて観察をした。小さな島だが、川も多く水が美味い。高原?の草原はどことなくスコットランドの風景に酷似していて、気候が似ていることを感じさせた。島の中央に神威山がある。そばの自衛隊の基地は中に入ることができなかった。最北端、賽の河原まで行く道路は山の中で通行止め。やむなく一度奥尻町に出て西側を北上するルートで向かう。こういう時でなければ、なんの変哲も無い石がごろごろしているだけの海岸なのであるが、タイミングが悪い。本当に賽の河原に見え、空気が重たく感じられた。さてこれからは躯体工事。現場に戻り、午後便で来た鉄筋を下ろし、明日からの配筋作業に備える。

 短い休暇

 翌日は朝から配筋。鉄筋工事はお手の物。私は好きな工種のひとつ。しかし、残念ながら、取得した休暇は1週間。帰りの時間を考えると、今日の午後便で船に乗らなくてはならない。午前中に配筋作業をやり荷物を整理し、港に向かう。熊田さんと介さんは、まだ、アテの無い後続の社員が手をあげてやってくるのを待つという。後ろ髪を引かれる思いで14時の船に乗った。戻って、作業を継続したい・・。

 函館についたのは18時頃。「ねぇ、魚食べたくない?」彼女達が言う。「そういえば1週間近くも島にいて、1匹も魚食べてないな。よし、寿司屋に行こう。」と夕食は豪華にお寿司。たかがお寿司であるが、皆で記念写真まで撮るはしゃぎよう。フェリーまでの時間があるので、函館山へ夜のドライブ。久しぶりの町の灯りがまぶしい。午前1時すぎには青森。うたた寝していた彼女達が目を覚ました盛岡近辺のサービスエリアで、今度は肉が食べたくなる。朝からステーキをほおばる3人の姿はいささか異様であったと思う。そのまま東北と関東に彼女達を送り届け、帰宅となった。

 後方支援開始

 この事業は始まったばかりだ。帰ってきて終わりにはならない。その後私は昼は普通の仕事、夜は鉄筋の加工図を作成。函館にある鉄筋業者に指示手配をする後方支援部隊となる。いつもの仕事であれば、こういう資材は多少のゆとりを取ったり、予備を考えてちょっと多めにしたりと調整する。しかし、今回は離島。多めにしたため、車が大きくなったりすると、とてつもなく運搬費が高くなる。かと言って、気を許すと資材が不足して現場が弛緩する。1本1本の鉄筋をこれだけ細かく積算し、搬入調整したのは初めてであった。その他の建設資材、食料の調達も必要。現地での食費など、少しでも倹約しなくてはならない。ガソリンやペンキ1缶などが異常に高い。ちなみに江差から奥尻に一般乗用車で向かうと往復4万円は必要であり、ちょっとしたトラックになるとすぐ10万円になる。さらに、海が荒れると船は出ない。閉じ込められたら船
が出るまで現地滞在となる。これは全く余計な費用だ。これらがすべて現地の物価に反映されるのであるから、信じられない値段のものになっても仕方がない。陸続きの生活をしている人間には理解しずらいことのひとつだろう。橋が欲しいという願いは思ったより重たい。公共工事の是非論にも関わる話。もうひとつ、復興作業が開始された奥尻への足は、すぐに満車となった。それほど大きくない船であるから早い段階で予約を取り付けなくてはならない。これも後方支援の大切な業務。

 冬のさなか、話を聞きつけお忍びで会社の役員が奥尻に出向いた。しかしながら、冬の奥尻は荒れる。飛行機は飛ばない、船は出ない。遠くの海をただ見つめるだけで帰らざるを得なかったと聞いた。

 厳冬期の奥尻

 これは潤沢な資金がある事業ではない。多くの協力が無くてはとてもできない。国内にある草の根BBSのいくつかに協力を願うことも進め、必要とあればどこにでも出かけ状況を説明して回った。電話代はテレカでも支払える。カンパ願います。という具合。一番ありがたかったのは、名古屋にあるお坊さんのBBS。名古屋支店の黒ちゃんが見つけてくれた。早々説明に出かける。彼らは近所のお店まで回って説明してくれたようだ。ある日突然奥尻の現場に名古屋の商店街から大量の海老が届くという嬉しい話題もあった。当時にインターネットがあれば、どれだけ楽だったか。
 工事はそれでもどんどん進む。最初に乗り込んだ茜ちゃんは12月に単独で飛行機で再度島に入る。本来真冬の工事はほとんどできないはずであるが、とにかく急ぐのだ。遅くなれば意味がない。千葉仕様のスチールハウスは冬の寒さに勝てず、室内がつららだらけとなったと悲鳴が届く。北海道はさすがに寒冷地だ。
「寒いよぉ〜」という彼女のメールも凍っていた。
本来であれば、土地感がある北海道の支店がもう少し動くべきと思われるかもしれない。ただ、地元ということになれば、冒頭の話の通り、一つ間違えると売名行為になってしまう。建設業のデリケートな1面でもあり、悩ましい。

 ブルセラショップ??

 後方支援をしてい面白かったことがある。12月の現地報告に「使い古しで可。パンティーストッキング、大量に送られたし。」と仰天する記載があった。書き込んだのは再度現地に入っている介さんだ。あまりに寒いからなのか?と最初は素直に考えたが、「使い古しでも・・」というフレーズに首をかしげる。ともかく施工するにあたって、様々な工夫を凝らす部長さんであるから、躯体工事で使うであろうことは想像できる・・・しかし、パンストねぇ・・。後日談では、ある部位でのコンクリート止めに有効であったらしい。つまるところ、単なるストッキングで良かったではないか。パンティーをつけるからややこしくなる。尤も、単なるストッキングでは違うものだと言われれば返す言葉がない。東北にいる香保里ちゃんも、支店内をずいぶん回ってかき集めたようだが、これは男にはできん。突然必要だから脱げと言ったら張り倒される。それでも、「どうしたの?ブルセラショップでも開くの?」と随分と質問ぜめにあったとのこと。個別収集ではほとんど集まらないので、製造するメーカーに向かい、不良品の廃棄パンストをダンボールいっぱいもらうこととなった。当然のことながら、理由を説明するのに汗だくとなる。

 最大のピンチ

 その後大阪の熊田さん、一人で交代要員の隙間を自分で埋めていたがために、とうとう有給休暇、代休、病傷休暇を使い果たし、これ以上休むと休職になるという事態になってしまった。冒頭に書いた通り、会社の規約を逸脱するわけにはいかない。当然支店の総務も「無理です」の一点張り。熊田さんも「人が足らんのやから、仕方ないやろ。戻れんわいっ!」で埒があかない。社内でなんとか熊田さんを休職にしないで済むことができないかと議論になる。私は本業が佳境に入り、動けない。ともかく誰でもいい。一人でも社員が欲しい。社内で公にしないでボランティアしていたが、ついに社内の支店報に私が投稿した。頼む。誰かぁ・・。
 悪いことは立て続けにおきる。今度はいよいよ資金が底をつく。2階建てを半分削って平屋にしてしまおうとまで皆が真剣に考えた。救世主は千葉にいる土木現場の西所長さん(仮名)だった。協力業者の会で説明し、1社でも良い、一人でも良いからとカンパを頼んだ。この頃はバブルもはじけ、業者にもほとんど余力が無い。ともかく億のお金がまだ必要なのだ。無理を承知のお願いである。この西さんは、その後大学生の息子を連れて現地に入っている。

 話題 その他雑

 後方支援の努力の甲斐なのか、総勢30余人の社員、一部民間の有志などが交代で現地に入る。自腹で始発飛行機で奥尻に入り、翌日の最終便で戻るという離れ業で手伝ってくれる人もいた。奥尻はいかにも遠い。東京からでは、車でも飛行機でも交通費は馬鹿にならない。その10万円をカンパで欲しいか、人が欲しいか・・どちらも欲しい。それでも、沖縄の左官屋さんは防寒着を雪だるまのように着込んで作業していたり、どこで聞きつけたか、あの泉谷しげる殿も陣中見舞いに来られている。
 現地でのハプニングはまだまだいくつもある。現場から帰る作業員が江差と函館の間の道でスリップ。事故になったこともあった。保険の手続きをしなくてはならない事態も発生したこともある。某政治団体?から工事の妨害にもあった。「会社の売名行為をやっている」という具合。冗談ではない。社名の欠片も無い。妨害する暇あったら手伝えよ。
 突然、函館労働基準監督所の査察が入り、不備な足場を使っているため「使用禁止」のフダを貼られ是正勧告を受けることもあった。確かに、労働安全衛生法に違反した事実は認めるが、善意で、しかも必至に皆がやっていることを、杓子定規に手続きすることは無いだろう。遥か離れた函館へ書類を持って社員が往復しなくてはならないのだ。労働基準局は、法律を守るのではなく、労働者の生活の保護と危害を防止するためにあるのではないか。たまたま我々が見落としたのであるから、その場で指導、是正を促すことで完結できないものなのか。心の無い、実に不愉快な出来事であった。


 なんとかゴール

 3月になれば、また時間がとれる。そうすれば・・と密かに企てていた矢先、新たな報告が入る。「3月中旬完成しそう」の連絡。ん?それは無いんじゃないの?3月21日に落成記念パーティーをやることにしたという。最初に乗り込んだスタッフは強制参加となったが、内心実に不満タラタラであった。もっと俺に工事をさせろ。

 工事に携わったその他の社員も全員参加資格がある。しかしながら、残念なことに最初の5人と千葉の西さんだけしか集まることができなかった。今回は飛行機を使う。羽田から函館へ行き、函館で乗り換え奥尻空港へ。奥尻へ向かう飛行機の客席と操縦席はなんと木製の扉。体重を聞いて座席を振り分ける。強い風の島でもあり小さな飛行機は、まるで落ちる木の葉のようにふらふらと着陸した。出来上がった建物は荒野の中に燦然と輝き、全員が感動したものである。畳の大部屋で近所の方々30人ほどと祝賀パーティーをやる。どこからの寄付で大型テレビも置いてあった。調理実習室はあと食器などがあれば万全。吹き抜けのホールにはとても大きな絵画が飾ってある。この油絵は介部長のお父さんがこのためにわざわざ描かれたもの。もうすぐ90になるその方は絵画が趣味で、今でもキャンバスを持って突然家出するという。すごい行動力とパワーである。

 竜宮城か・・

 パーティーのあと、奥尻町の名前の入ったマイクロバスを借りて、前回行けなかった西側の温泉へ行く。鉄分の多いお湯で、タオルを漬けると茶色になるが、実に気分が良い露天風呂であった。私は温泉はそれほど好きではなかったのだが、この日を境に地方の温泉によく出かけることになる。それぐらい良かったのだ。その後、町の招待を受けての夕食会。夢にまで見た奥尻のウニなど、海の幸が所狭しと並べられる。漁業が再開できている証だろう。イカの新鮮さは絶品。奥尻のウニは利尻の高級品に匹敵する。これを惜しげもなく煮てしまう。・・・ああ・・もったいない・・。乗り込んだ時とは雲泥の差であった。
 2次会は近くのスナック。ママとママの娘を挟んで呑めや歌えのどんちゃん騒ぎとなった。トイレに立つと、その娘がついてくる。「なんだよぉ」と言うと、酔ってトイレを汚されると困るから、持ってあげる。という冗談ではない。こんな具合で、とても女性二人が一緒にいるグループの宴には思えない。放送禁止用語も飛び交い、ぐしゃぐしゃに暴れたような気がする。乙姫様の舞踊り、鯛やヒラメの・・・・奥尻の夜。

 生きていてよかった

 店を出たのは午前1時頃ではなかっただろうか。3月の奥尻は、まだ防寒着がいる。そろそろ宿に戻るということで、マイクロバスへ。6人の中で、たまたま私が一番最後に乗ることになった。店に向かってひとこと挨拶をした瞬間、スナックのママに突然両手を抱きしめられた。顔を見るとあれほど馬鹿騒ぎしたママがひどく泣いている。その口からは、蚊のなくような声で、「奥尻を愛していただき、本当にありがとうございます。」と何度も何度もお礼をの言葉が出る。その横でチイママも涙をぬぐっている。酔っ払っている場合ではない。一気にしらふになる。人生40年、これほどまでに他人に感謝されたことがあっただろうか。胸が詰まって返す言葉がどうしても出てこない。勿論私個人の成果ではないのだ。まして彼女は私の名前すら知らない。それでもママはしばらく私の手を放すことは無かった。呼吸が止まり、食道ですら飲み込む唾液をこばむ。生きている価値が自分にあったと思うとき、心の中は無に近い状態になる。不覚にも目頭が熱くなる。
「お〜い、行くよう・・」バスの中から熊田さんが呼ぶ。肺に留まっていた空気が震えながら口から出た。後日、ネットワークで参加した皆に「島民からの感謝を僭越ながら代表して受けてきました」と報告する。

 それから1年

 それから1年。建物は1年次点検をしなくてはならない。また現地に集まろうという誘いがあった。今回は点検もあるが、実は、残った僅かのお金で、この建物を造るのに手伝っていただいた会社や個人名を銘板に彫った。これを建物に付けようという提案である。起案者の熊田所長、技術者の介部長、おっちょこちょいの私、関東の茜ちゃん、東北の香保里ちゃん、そして後方支援で汗流した西所長の6名が揃う。最初の乗り込みの時を思い出すべく、私は車で、他の者は飛行機で函館に集合。函館のホテルに全員泊まる。翌朝、西さんはジョギングが終わって一汗流していた。朝食後、皆は朝市へ。私は松前半島方面へのルートでドライブしながら江差へ向かう。初めて「ほっかいどぉだぁ」という気分。途中の小川はあくまでも透き通り、川魚がよく見える。
 1年半前を思い出す船旅はひとりでも楽しい。奥尻港では飛行機で先についている皆が出迎えてくれた。おまたせ。当時の仮設事務所は、提供品であったため、返せない。近くの方が無償で引き取り、道路脇で売店に改造して使ってくれている。建物を見るのは明日にして、とりあえずそちらに行って見よう。風雨にさらされ、冬の寒さで凍りついたプレハブハウスは、昔のままであった。工事を手伝ってくれた島の方が出てきて昔話に花が咲いた。何も変わってはいない。感覚が当時にタイムスリップする。その足でペンションへ。全員がとても心軽やかであった。

 既に遺跡?

 翌朝、現場に向かう。綺麗な海岸には不細工な防潮堤が続き、自然と対峙するかのような施設が整っている。不満は残るが背に腹はかえられないのだろう。少し残念。現場の周囲は田園調布と見紛うばかりの変化で、復興の速度の速さには驚かされる。どこに建てたかすら分かりづらくなっていた。そして、いざ建物の前に来たとき、6人全員がほとんど固まった。「これは・・」という同じ波長の思いが周りの空気に流れる。燦然と輝いた建物はみすぼらしく、見る影も無い。管理は?清掃は?保守は?誰がどうやっているのだろう。使われているらしい痕跡は残っているが、それにしても愕然とするほどの変わりようであった。奥尻の厳しい気候は、我々都会人の想像を越えていた。良かれと思いステンレスにした所が既に錆び
ている。恐ろしい潮風だ。船と同じに塗装すればよかった・・。真冬の力任せの施工がアダになっている部位も見える。補修するには、また多くの労力とコストが必要であることは、誰の目にも明らかだった。しかし、余力はもう残っていない。
 しばらく佇んだ後、気を取り直して銘板の取り付けをすることにした。銘板の表面にはずらりと名前が入れてあるが、我々社員の名前はひとつも入っていない。その他有志とある中の一部であり、初期の思想を貫徹した形にしてある。ただ、やはり未練は残るので、銘板の裏に一人ずつマジックで署名をする。私の車にはまだ工具が揃っており、壁に穴をあけ全員で取り付ける。これで本当に終わったんだ・・という気持ちになった。

 ボランティアって何だろう

 私が乗船する船は、その日の午後便。幸か不幸か海は静かで、定刻の出発だった。ともかく大騒ぎして、気を紛らわせることにした。私が一人フェリーに乗るときは、テープまで投げて周りの乗客があきれるほどに騒ぐ。昔々のハワイ航路。しかし、一人になると複雑な寂しさが襲ってきた。とても空虚なのである。この思いは皆同じで、私が去った島では全員お通夜みたいだったと後から聞く。

 フェリーに乗っている時間にいろいろな事を考えた。我々がしたことはものを作って残したこと。残ったものは、いつか不要となる。このとき、誰が誰に断って壊すのだろうか。作ったという事実、物が残ったという事実。残したものに対する作った側の責任はどうなる。壊す費用は誰が負担する。等等、考えれば考えるほど残した側の責任の甘さが目に付いてしかたがない。あの時は、誰もが必要だったはずである。だからと言って本当にやってよかったのだろうか。自己満足をしただけなのだろうか。いや、あんなに喜ばれたじゃないか。意味があったじゃないか。それでも、今噴出してくるこのむなしさは何なのだ。ボランティアって何だろう。徹夜で走る東北道で何度も何度も同じ疑問が木霊する。

 ボーダーラインはどこ?

 今困っているから、今すぐに手を出さなくてはならない。今しか無い。という考え方は正しいと思う。遅れれば遅れるほど、努力の意味が薄くなる。しかし、そのときの有難さが残ってはいけなかった。ボランティアの本質は、瞬間芸であり、今困っている人を今だけ助けることにある。どこの誰か知らないが、困っている瞬間に風のようにやってきて、手を貸してくれたと思ったら消えていなくなる。どちらもしがらみが残らない形であるべきではないだろうか。我々はいささか未練がましかったかもしれない。背伸びしすぎたのかもしれない。

 継続でやっておられる方も数多い。そしてそれなりに皆さんは立派に実行されておられ、頭が下がる。しかし規模の大きいボランティアはその先に何が残って、どう責任を取ることになるのかを意識することも必要だと思う。ボランティアされる側の人生をも、実は変えるという爆弾があることに気が付いていなくてはならない。どこまで踏み込んで良いかのボーダーラインを意識するべきであろう。そうでないと、気が付かないうちに、取れない責任を背負うことになる。これは、ボランティアとは言わず「仕事」ではないだろうか。でもそのボーダーラインはどこに? 尤も裏腹に、そんなに深刻な話じゃないだろう・・・という気楽な言葉もまだ頭に残っている。考えすぎだよと言われれば、そうかもしれないと答えそうで、困ったな。


 それでも感謝

 たまに家内に、「お前とはボランティアで結婚した」と言うが、実はこれは意味が違う。確かに最初はそうだったのかもしれないが、長い同居生活は家内の人生を変え、私の人生が変わり、互いに責任が発生している。こうなると、ボランティアとはとても言えない。情報が氾濫する時代で、困っている人は星の数ほど見える。その中から手を出すべき人と出さない人との区別はどうやればいいのだろうか。どれだけ頑張っても助けられる人の数は限られる。その中で本当に何ができるのだろうか。いずれにしても迷うことの方が多い。今後具体的な事例に出会ったとき、その土俵を認識し、その意味を噛み締めて行動したい。今回のように、「なんとなく」では思わぬところに迷惑をかけて終わってしまう。もちろん、身の丈のボランティアを考えることも必要だろう。残したものを中途半端にしたままではあるが、こういうことを考えさせてくれた奥尻には感謝している。そして、この事業を共にした仲間と、島民の方々にあらためてお礼をいわねばならない。

 インターネットで検索すると、地域での「お元気サロン健康相談」とか「母子通園センター」等に、細々と使っていただいているようで、少し楽になる。個人的に時間が取れる地震から15年後の2008年、自分の足跡を見るためもう一度島を訪れようと企てている。その時、手がけた建物はどのように私を迎えてくれるだろうか・・・・。まだ残っているだろうか・・。

 あとがき1/2

 12年もの昔の話である。最初に乗り込んだ熊田所長は今管理部門の次長。介部長は既に退職し別会社の役員になった。西所長も定年退職、香保里ちゃんは無事に寿退職し、茜ちゃんは本社営業部に。まだ独身を貫いている。当時の私の子供は、2人が大学生、1人が高校生となった。

 実は、当時のBBS内の工事記録はA4版でプリントアウトされ、厚さにして8cmの冊子になり保存されている。ビデオも撮れば、数多くの写真も残っている。今回、私はそれを開くことなく投稿させていただいた。従って記憶が前後している内容のものがあったかもしれない。もし、関係者がこれを見る機会があったら、校正を促されるかもしれない。しかしながら、自分が記憶している歴史として書いてみたかった。

 当時のこの記録が外部に出たのは恐らくこれが初めてではないかと思う。ひょっとすると、忘れて風化させることがボランティアとして意味があるのかもしれないとも思ったりもした。長々書いた内容は、それほど意味は無い。具体的な段取りがどのようにして行われたかの記載が欠落しており、参考にはあまりならない。単なる事実の羅列にすぎない。この後、阪神淡路や新潟の地震など、いくつかの災害が日本で起こっている。残念ながら、私たちは誰も動いていない。何故奥尻だけなのか。私にもわからない。悲しいかな、それをいい加減と非難する人もいる。評論家の言うことはもっとわからん。

 実はその後、本質を探して、もうひとつのボランティアをやってみた。知的障害者を相手にするものだった。社内のある友人から、人が欠けて困っている。スポットでいいからという条件であった。10人ほどを相手に半年余り月2回ほどの対応し、脳障害が知覚だけでなく、運動機能や五感にも大きな影響を与えていたことを知る。ただ、長居すればするほど彼らは私を頼ってくる。責任の重さが日々増えたため、惜しまれながら途中で止めた。根性無しと言われればそれまでだが・・・・。相手が人間であっただけに、余計に重たかった。

 あとがき2/2

 物の支援は慎重に。北朝鮮への食料支援のようにどこに消えていくか分からないのでは全く無意味。反対に邪魔になるのも困る。提供したものが、最後にどうなってしまうのか見極める眼力が要る。形に残るものも同様であろう。これらの救援要請があれば、結果に思想を持っている人に賛同したい。人手の提供には、「自主的に活動できる人」などと奇麗事はいらない。先頭に居る機関車の指示に従うこと。先頭に居る人が困らないような、もしくは先導者へボランティアするつもりの意識の方が理にかなっている。人間相手は時に相手の人生を変える危険性がある。責任を背負う覚悟がいるのではないか。指示の間違いで半身不随にしてしまうことだってあるのだ。現金は一番手切れがいい。最も気楽で責任が希薄。心が見えないというが、それは情の話であり現実の話ではない。その一方、渡し方が一番難しい。人間の欲望に触れるという意味において、本来一番慎重になるべきだろう。そして、切り込み隊長を志願したのであれば、誰かを助けるために誰かの犠牲があっても構わないという、多少危険な、強い意志が必要と感じる。机上で分類すればこういう具合だろうが、それほど単純では無いことは分かっている。実際複合された環境がほとんどであるはずだ。特に、今回のような技術の提供となると、うまい言葉が浮かんでこない。私のボランティア理論はまだ完成していないのだから、これらのことを知った上で、今後機会があればできる範囲で、多少なりとも貢献できればと思っている。

 最後に
この掲示板を利用されている皆様にご迷惑をおかけしたことをお詫びすると共に、場を提供していただき、私事と考えを羅列し、公開する機会を与えていただいた羽野さんには感謝します。ありがとうございました。また、長々とお付き合いいただいた読者(というべきでしょうか?)の皆様にもお礼を申し上げます。

                                         お・し・ま・い