ときどきコラム 2017年8月5日開始 更新:2017.12.10

つれづれなるままに、日ぐらし、心にうつりゆくよしなし事をそこはかとなく書きつくります。


◎2017年12月10日

窓たち Windows

 毎日更新していたindex.htmlのページが12月9日はできなかった。

 窓たち、つまりWindowsから時々半強制的にダウンロードされてくる更新プログラムのせいだった。

 ページ編集の画面が真っ白けで編集ができなくなってしまっていた。あれやこれやとググッテみて色々試したが一向に解決せず、夜はいつしか白々と明けの空。外ではスズメがチュンチュン鳴いていた。最後の一手とばかりに復元ポイントまで戻したけど結果はカラブリ。もうこれでホントに最後の一手でWindowsの回復機能を使ってWin10の前のバージョン1703に戻した。

 見事ページ編集可能になって、今このコラムを書いているわけなのです。

 窓たちも最初のころはシンプルな機能で窓はしっかりしていてきれいだったが、年を重ねるごとに窓の数も花魁のかんざしのごとく枯れ木も山の賑わいのようになり、あちこちに破れや汚れが目立つようになってきた。最近では要らないものまで送りつけてくる始末だ。もうこの家は長くは住めないのかも知れない。


◎2017年12月5日

日本人における事実隠蔽の体質

 その 世界中のどの国、どの組織、どの人びとにおいても、競争原理上他に知られたくない秘密を持っているものである。秘密とされる事柄には政治的、経済的、科学技術的なものなど種々のものがある。そのような秘密事項においては本来隠すべきではないものも多く含まれている。隠すべきでないものを隠すことを”隠蔽”と言う。

 昔も今も日本人は恥の文化の中で生きている。日本人においては「恥」は、世間の「恥さらし」にならないためには徹底的に隠さなければならないものの一つである。人びとは誰しも多少の「恥」に当る問題を抱えているものである。「恥をさらす」ことは自分が所属する共同体で生存できないことを意味するため日本人においてはめったに自分から自分の「恥」を関係者に話したり公言することはない。そのため日常生活において発生するいろいろなもめごとに関しては徹底的に隠蔽することが日本人の習慣として身についている。そのような生活習慣の態度の延長線上にあるのが企業共同体における不始末の隠蔽行動である。近年における日本の企業共同体とくに大企業における数々の反社会的な事実の隠蔽は日本における組織共同体の劣化ないしは崩壊の前兆を感じさせるものがある。

 その

 法律違反の行為は「罪」であり道徳違反の行為は「恥」である。日本の共同体はこの「罪」と「恥」の二つの規範によってその秩序を維持してきた。一部の不良を「罪」で規制し、大多数の善良な人々を「恥」によって規制してきた。大多数の人びとの秩序を保持するという点において日本人における「恥による規制」は「罪による規制」よりはるかに大きな役割を果たしてきたものと言える。「恥による規制」は明文化されていない不文律であり、「罪による規制」は明文化された律法によっている。近年まで他の外国諸国に比べて日本の犯罪率が極端に低い理由は、その「恥による規制」が大きな役割を果たしてきたものと思われる。単に”正直”な日本人ということではないであろう。

 近年における企業による非社会的なあるいは反社会的な隠蔽事件の多発は、日本における「恥の規制」が緩んだ結果であるとしか思えない。とくに日本の各組織をリードしている組織長たちにおける「恥の規制」の劣化、すなわち「恥知らず」な行為や「恥さらし」の行為が露見しなければ問題ないという意識のもとに広く行われているという現実に直面する。

 このように極端な隠蔽体質を持っている日本における更なる秘密保護法は日本人における不正や不始末の徹底的な隠蔽を加速し、「由らしむべし知らしむべからず」の一億総盲目の過ちを再び犯す危険性が大きいと言わざるを得ない。われわれ日本人および日本の組織はその「恥の文化」ゆえに公表すべき不始末を隠蔽してしまう体質であることを強く認識しておく必要がある。


◎2017年11月22日

忖度(そんたく)と損得

 “忖度”という怪しげな言葉がマスコミを賑わわせているが、この言葉が日常会話で使われることはまずない。一昔前にもこの言葉と同様のニュアンスを持った言葉で、空気を読む略して“KY”という言葉が取り上げられたことはまだ記憶に新しい。

 これらの言葉に共通している意味は、相手や周囲の気持ちを推測し、それによって自分の判断や行動を行うと言う点にある。このような思考や行動には表と裏があり、表の面として現れたものは日本人の精神性の麗しい面の発揮となり、逆に裏の面として現れたものは日本人の精神の卑しい面の発揮となる。

 表裏の分かれ目は、相手や周囲の気持ちを推測する動機の違いにある。純粋に相手に喜んでもらいたいという動機ならば、それは日本人の麗しい美徳の発揮となり、それは友情・支援・おもてなしなどという形で他人を喜ばせることになる。一方、自分の利益だけや自分の安心安全だけという動機で行われた場合は不純な動機だと追求されても仕方がない。ましてこの不純な動機に基づいた行動が違法ないしは反道徳的なものであったとしたら、その行為に対する罰を免れることは許されない。

 明るい忖度は人々の間の信頼関係の元となり、暗い忖度すなわち自分の損得だけにこだわる行動は信頼関係を壊し、人の道を外れ、自他を共に不幸に陥れるものだと思った方がいい。

 そうは言っても、忖度のどこが悪いのかとか、空気を読んで何が悪いのかとか平然と言い放つような人間が恥も外聞もなく大手を振って闊歩しているのが昨今の世間の風潮であり、いつまで賢者は黙して語らず、を続けるつもりなのだろうか。


◎2017年10月31日

どこまでも譲れるものではない

 「売り手良し、買い手良し、世間良し」のいわゆる三方良しは良い仕事の基本と言える。更に良い仕事の条件は、やるべきことについて「1.決まっていること。2.理解していること。3.方法を知っていること。4.やるべき時にやっていること」および「5.やるべきでないことをやらないこと」だと言える。しかしながらこれらの原理原則を逸脱する企業が後を断たない。燃費制御システムの改ざん、大規模なエアバッグのリコール、建築基礎工事の手抜き、不正決算など枚挙に暇ない。いずれも有名ブランドを誇ってきた大会社がおかした事件である。企業の崩壊の裏に、それらの組織を率いたリーダーという人間たちの崩壊を見るようで正視に堪えない。まさに「貧すれば鈍す」の状況を呈している。

 ノーベル賞受賞者であるダニエル・カーネマン教授のプロスペクト理論が示すように、損失が出ている局面では、人は通常では決して選ばないような賭けの行為を選択してしまう、ということを実証しているかのようである。

 これらの人々に共通する気分は“あせり”である。利をあせり、成果をあせり、他人を出し抜くことだけで頭が一杯になっている。あせりが生み出す社会規範の逸脱行為は、最初に仕事の手抜きとなって現れる。協働作業として機能していた外注請負構造もいつしか丸投げ仕事の温床となり、仕事の責任の所在も不明となり、全階層の人すべてが「それは私の担当ではありません」の大合唱となっている。

 正常領域と異常領域の境界線のことをスレッシュホールドと呼び、二つの領域にはそれぞれ幅がある。仕事の品質を保つための正常領域における複数の条件を一つずつ外していくと品質は段々と低下して異常領域に近づく。そしてある最後の条件を外した時に異常領域に陥ることになる。この最後の条件だけは外すわけにはいかない。品質は妥協が可能だが、どこまでも譲れるものではない。


◎2017年10月21日

 「相互義務」の復活 その

 古来日本人は常に連帯を保ち、その共同体の上位の者も下位の者もともにその応分の責務を果たし、弱き者を援け、利己を廃し、義をもってその行動規範とし、この日本列島において幾多の天変地異や戦火をくぐり抜け数千年を生きのびてきた。共に手と手を携えて生きる精神の中にこそ日本人の生きる道があるということをその伝統的な行動規範の中に再度発見すべきである。優位の者こそ大きな義務を負うこと、すなわちノブレス・オブリージュの精神こそが繁栄の永続的な循環を生み出すことに気づくべきであろう。


◎2017年10月20

「相互義務」の復活 その

 日本の社会におけるさまざまな束縛やルールは本来その仲間の者たちとの連帯性を保つためのものであって、その義務は相互的なものであったはずである。しかしながらその日本的ルールが一方的な義務となっているのが今の日本の現状である。大企業は下請け企業にその義務と責任を「利」と交換に押し付け、道に外れた上司は部下にその義務と責任を押し付けている状況が広く日本全体を侵食している。

 自分さえ良ければいいというような行動規範は日本のものではない。そこには日本の伝統的な行動規範である、人を思いやる「仁」も、私利私欲に捉われない「義」も、敬意をもって他者と接する「礼」も、知恵を重んじる「智」も、誠実さである「信」のかけらさえ見ることはできない。今あるのはすべての善きものを「利」に換えている醜い日本人の姿であり、これらの行動が組織の根底を破壊し続けているということにすら気づかない日本のリーダーたちの決定的な愚かさを示していると言えよう。一方、このような仕打ちに耐えるだけの者たちも、本来のあるべき日本人の精神を知ることもなく、”仕方ない”というあきらめの深い淵の中であえぐのみで、これもまた同様に非常に愚かであると言わざるを得ない。少しの勇気を出し不条理を排し自己を再生するところに明日の希望が見えてくるはずである。

 


◎2017年10月18日

 蜂の社会と旧日本社会の共通性

その

 また外敵との戦いにおいては、働き蜂は巣を守るために、数匹や数百匹の犠牲を出しても戦うことをやめない。例えば、ミツバチはその天敵であるスズメバチが巣を襲った場合には、多数の犠牲が出るにもかかわらず、それを大勢のミツバチが取り囲み蜂球(ほうきゅう)とよばれる塊をつくり集団の体熱で敵を熱殺してしまうことはよく知られている。

 蜂の集団にとっては、個体の命よりも、自分たちの村落共同体である巣を、すなわち女王蜂、幼虫、たまごを守ることを本能的に優先しているのである。このことは昔の日本人における、共同体集団の存続を第一優先とし、己を空しくし、共同体の鉄の行動規範に従い、全身全霊を尽すこと、場合によっては自分の命をも犠牲にするという行動に共通点を感じる。

 これらの自己犠牲的な行為は、本心・本能で自発的に行われる場合は感動を呼び、強制的に行わされる場合は地獄を呼ぶ。


◎2017年10月18日

蜂の社会と旧日本社会の共通性

 その

 蜂の社会と人間社会にはおもしろい共通性を見つけることができる。 蜂は複数の個体で集団を形成しており、コローニーと呼ばれる独立した巣を持っている。人間社会で例えれば、複数の人間が集まって、一つの村落共同体を形成しているようなものである。

 また、蜂はその集団内で、それぞれ異なった役割を持っている。一匹の女王蜂および少数の雄蜂は、子孫を残す役割を担い、多数の働き蜂は蜜を集め、外敵から巣を守っている。女王蜂は、この集団を人間的な意味で統率君臨しているわけではないようであるが、いずれにしてもこの集団の命の継承の中心的存在として重要な位置を占めていることには間違いない。 人間の共同体は、それほど単純ではないが、やはりその共同体の構成は、その役割の重要な順にそれぞれの役割分担が決まっており、共同体の頭ないしは中心には頭目やリーダーが存在している。

 


◎2017年10月13

 その

 かくして、社内通報制度は誰も利用せず、もし社内に不都合な違法行為があったとしも、見て見ぬ振りや意識的な隠蔽が今後も続いていくのであろう。

 たとえ不正の指摘といえども、その共同体を危うくする行為は、共同体に対する敵対とみなされ、その敵対者に対しては徹底的な弾圧が加えられるのである。このことは何はさておいても共同体の存続が絶対優位の最高価値である日本の共同体における暗い負の局面である。この負の局面が一旦発揮されると、嘘が嘘を呼ぶと言われるように、負の思考と負の行動の悪循環の連鎖が進行拡大し、ついにはその共同体の破綻となる。この負の連鎖を断ち切るために古来から日本人が取ってきた対処方法は、いわゆる「殿ご乱心」という名目をつけることで、原因を作った主君を座敷牢に幽閉するか、相手が多数の場合は謀叛という形を取らざるを得なかった。現代流に言うと、経営トップの検査入院ないしは取締役会で突然の解任劇となるのであろう。


◎2017年10月12日

 その

 日本の会社における個人の行動に対する上司からの圧迫あるいは強制は非常な力を持っている。自分の会社とは、実は自分の上司そのものであるという考え方がその実態をよく表している。上司に逆らえば、まずその組織で生きて行くことは不可能である。上司を個人であると認識することは間違いである。自分の上司は、自分の階級の上の階級の力や権威の代表者として部下に接する者であるから、上司に逆らうということは、直ちに上の階級の全員と対決するということを意味するだろう。とても個人が対抗できるものではない。

 この教訓は現代でも有効である。会社の不正を正すために個人が社内のコンプライアンス担当の部署に通報するなどということは、日本の社会では危険極まりのない行動だと言える。日本の会社において、その不正を発見した場合の闘い方は、個人で通報したり行動したりすることではなく、多数の支持者を集めることから始めなければならないだろう。抵抗の形としては、個人として突出あるいは露出してはいけないということである。組織的抵抗、それ以外に方法はないといえるだろう。


◎2017年10月11日

現代の会社における、コンプライアンス社内通報制度の無意味さ

その

 多くの会社組織において不正行為が頻発するようになった頃から、遵法精神を高揚するためにコンプライアンスという言葉が使われ始め、それを所管する社内部門も整備され、不正についての社内通報制度が設けられるようになった。しかしながら、一向に会社における不正行為やその隠蔽事件は減る様子が見られない。

 なぜなら、その社内通報制度を利用することなど、会社組織の意味が分かっている普通の人間ならば、たとえ不正を目撃したとしても通報するということなどは考えもしないだろう。なぜならば、会社自体の不正ないしは上層の不正を通報するということは、ただちに会社そのものと闘うということを意味するからである。


◎2017年10月3

その

 しかしながらこの義務は常に相互義務的であり、職位の上から下位に一方的に押し付けるべきものであってはならない。職位の上なるものは下位なるものよりなお一層の義務の履行が必要である。この相互義務の思想は、日本の伝統的な行動規範であると同時に、欧米においてもノブレス・オブリージュの精神、すなわち「優位の者こそ大きな義務を負う」という重要な徳として知られている。 日本の共同体における優位の地位にあるものは、日本の伝統的な行動規範である、「弱きも強きもともに、その生涯を生き抜く」ことや、「人を思いやる『仁』、私利私欲に捉われない『義』、敬意をもって他者と接する『礼』、知恵を重んじる『智』、誠実さである『信』の心をもち、行動する」ことや、「亡くなった祖先を愛し、すべて生きとし生けるものに魂を感じ、あらゆる自然の恩恵に感謝する神道の心」の実践や、仏教の慈悲の心の実践を率先して行う重大な責務があることを忘れてはならない。

 本来のエリートとはこのような責務を担い、この国難を突破する者たちのことであって、自分の栄達を第一優先とするような者たちのことではない。


◎2017年10月2日

イジメという私的制裁を無くせない理由〜心の空洞化を埋める暴力とその無定見さ

その

 人間社会はその国の文化を母体とした行動規範を必ずもっている。行動規範をもたない共同体は早晩組織としての形態を保てなくなり崩壊する。学級崩壊とはまさにこの状態を的確に表現している。「イジメ」の根本的な原因は、その集団における行動規範の喪失にあると言え、「イジメ」を撲滅したければ、日本の伝統的な行動規範を取り戻すか、または新たな行動規範を創造しなければならない。教師一人では何もできないとか、一校長では無力であるとか、一地方の教育委員会ではどうしようもないなどと考えてはいけない。政府や文部科学省の指示や通達を待つまでもなく、一個人から日本の伝統的な行動規範の学習や実践をはじめるべきである。これらは子どもたちに教育をする以前に、大人である日本国民全員が実行すべき義務である。


◎2017年10月1日

イジメという私的制裁を無くせない理由〜心の空洞化を埋める暴力とその無定見さ

その

 今日の日本の学校における「イジメ」とい名の私的制裁は一向に収まる気配がない。いくらカウンセラーなどの相談窓口を作っても、いくら教育委員会や教師たちによる監視の眼を厳しくしたとしても、ほとんど効果は期待できないであろう。イジメの現場を見かけて、それをやめろと言ったとしても、その場は収まるだろうが、人目のない所で必ずまた行われるに違いない。 「イジメ」「パワハラ」「セクハラ」とかのようなカタカナ言葉での表現は、その陰惨さを覆い隠す役割を担った共犯者的な表現と言える。 今日の日本の学校における「イジメ」とい名の私的制裁が頻発する理由は明白である。個人あるいは集団における心の空洞化が問題の真因である。もともとその空洞を満たしていた日本の伝統的な倫理感や道徳感の喪失が真因である。

 子どもたちの集団であったとしても、それはいわば一つの共同体社会と同じものである。一個の共同体社会において健全な生活を成立させるためには、一貫した倫理感や道徳感に基づく行動規範というものが必要とされる。共同体における精神的空間を制御する行動規範というものが失われたあとの空間に入り込むものは、常に昔から、無定見な有形無形の暴力主義であったことを思い出すべきであろう。この暴力主義は最初に大人の世界から始まり、いまや神聖な子どもたちの世界をも破壊し続けているということである。


◎2017年9月30日

イジメという私的制裁を無くせない理由〜心の空洞化を埋める暴力とその無定見さ

その

 空洞化は何も産業構造の空洞化だけではないであろう。産業構造の空洞化と連動して、日本人および日本の組織の心の空洞化も進んでいるのである。飽くなき利の追求は産業構造のみならず個人および組織共同体の心の空洞化も招いているということに気がつくべきである。空洞化する前にその心を満たしていたものは、日本の伝統的な倫理感や道徳感などである。これらの心の空洞は決して「利」によって満たされるものではない。過去数千年間において、日本人やその共同体の心の中核を「利」が占めたことは、ただの一度もなかった。ましてや我欲が生み出す飽くなき利の追求は仏教においては、餓鬼畜生道に堕ちたものといわれ、その者たちの行き着く先は地獄だとされ、また儒教においては「利によりて行えば怨み多し」といわれた。利の飽くなき追求は、我々人類の生存を危うくするということが長年の歴史的な経験則からも自覚されてきたのである。

 


◎2017年9月27日

価値観の転換

 現在の我々のこれまでの状況を振り返ってみるに、現在までのやり方の延長線上には本当の解決は絶対にないだろうということが確信される。現在までのやり方である、経済拡大、経済成長以外に国家繁栄の道はないという成長神話に基づいた考え方および行動基準はもはや現在の閉塞状況の解決策にはなり得ないであろう。際限のない欲望に応えられる無尽蔵の資源はこの地球という星には存在しないのである。地球の資源は有限であることは誰もが知っている道理である。それに対して際限なき人間の欲望に応え続けるという経済成長路線自体、最初から破綻する運命にあるものと言っても過言ではないであろう。「まだ大丈夫だろう」ではなく、「もうだめだろう」なのである。

 我々が、これから成すべきことは欲の制御ということである。その手始めとして、まず不要不急なものを捨て、無駄をなくすことから始めなければならない。我々が本当に必要とするものは何かということについて、今こそ真剣に考えるべき時に至っているのではないだろうか。例えば、不要な物として、安いがすぐに故障するような物、不要な機能がたくさん付いている物、大型・大容量の物、今すぐは必要のない物、複数そろえる必要のない物、贅沢・華美な物、必要以上の物等などたくさんある。このような物を作り続けなければ繁栄を持続できないような繁栄は偽の繁栄であって、いつまでも続くものではない。もう何でもありの盛りだくさんで、高級機能という名の不要な機能や性能を追い続けるようなことは製造者も消費者もやめた方がよい。

 目指すべきは、安くはないが長期間故障しない物、必要な機能・性能のみを装備した物、適度な大きさに自由に変化できる物、すなわち簡素・質実剛健・長寿命・単機能特化・柔軟性・省資源などの特長を備えた、日常の簡素な生活に密着した妥当性の高い商品の開発・製造を日本の国土で日本人によって行うことに尽きるであろう。

 要点は、過度・華美に過ぎず、不足・貧弱どちらにもつかない妥当性の高いものの開発製造にシフトすべきであるということである。このような製品など日本にも世界にも余りないであろう。開発も困難を極めるであろう。価格競争に巻き込まれず、資源を無駄使いせず、簡単には真似ができず、本当に消費者に喜ばれ、人々の安心安全の役にたち、日本でしか創り出すことのできないものを目指すしか道はないであろう。


◎2017年9月26日

「選択と集中」という神話

 現在でも「選択と集中」を経営方針の中核に据えている企業の何と多いことであろうか。実に理に適ったいい考え方のように見える。ただしこの前提は、「選択が正しかったら」であろうということである。選択を間違えると集中した投資は全て無駄になり、その企業は即破産となる。「選択と集中」という言葉は実に魅力的であり、誘惑に満ちた言葉である。しかしながらエルピーダメモリーはDRAM技術の先端技術をもったまま倒産状態に陥り、シャープは世界に冠たる液晶技術を持ったまま経営危機に陥り、パナソニック・ソニー・NECなども同様に先端技術を持ったまま危機的な赤字を計上し、みな立ち枯れ状態に陥ってしまった。みな頭脳明晰な一流大学出の人材を抱えており、間違うはずの無かった組織のはずだったが、結果として「選択」を間違えてしまった。「選択と集中」の言葉から連想される言葉は、「一点突破全面展開」という言葉である。旧陸軍ないしは全共闘の玉砕覚悟の切り込み突撃の破れかぶれの戦術である。結果は、覚悟していた通りの悲惨な全員玉砕の結果ばかりであった。智を失い、理を失った挙句の自殺的行為で多くの兵は死んだ。現代の経営者たちは、旧日本軍の悲惨な失敗に何も学ぶことなく現在に至っているようである。

選択を誤らない保証などどこにもない。保証のないものに全財産を集中するという行為は、一種ばくちにも似た行為である。この行為は苦境に陥った個人や組織における末期症状とも言える病的な行為である。明治時代も現代においても、日本人の危機における極端な行動の選択は何も変っていないようである。一方、日立・三菱の2012年決算見通しは、数百億から数千億円の黒字という。この差は選択と集中的ばくちを行ったか否かにも一因があると思われる。黒字の家電メーカーはいずれも重電あるいはその他のインフラ事業を怠らず地道な経営を行っていた。選択と集中を行う前にもっとやるべきことがあったのではないか。自分の組織の足元をよく見、多くの無駄や無理なことを排除してきたのであろうか。貴重な技術やノウハウを将来の繁栄のために循環・継承してきたのであろうか。一つ一つの小さなものの積み重ねを行ってきたのであろうか。

絶好調を続けるアップル社のIPad・IPhoneには多くの日本メーカーの技術が採用されていると聞く。アップル社は、世界中の有用な技術をこまめに拾い集めシステム製品として結晶させたのであろう。大きな成功の裏には、必ず地道な小さな技術や努力の積み重ねが必要である。二宮金次郎の言う、積小為大とは、そういうことを言っているのである。コンビニのトップであるセブンイレブンも最初は一店舗から始まり、営々と努力を積み重ね、43年の歳月をかけて、現在の19,423店舗(2017年3月末)にまで成長してきたのであろう。


◎2017年9月25日

欲の最大化が行われた日本

 なぜ今日本は調子が悪くなったのかもう一度考えてみたい。本当の原因はどこにあるのであろうか。そもそも戦後の日本には何もなかった。全国の主要都市のほとんどは空襲により破壊し尽され丸焼け状態であった。食べるものも、着るものも、住む家にも、働く場所にも事欠いていた。 現在の日本の状況の何百倍も何千倍も悪い条件にあった。この最悪の状況を救ったものは、最初に米国による援助であり、次に朝鮮戦争による特需であった。敗戦によって三百十万もの命を失ったが、同時に旧体制を保持してきた既得権益者集団も既存組織の崩壊とともに消え、生き残った若者集団に新生日本が託された。当時の日本は、これ以上に失うものは何も持っていなかったのである。

 その後の日本は、その持てる知恵・知識・組織力を発揮し、それらの若い力をもって世界が必要とする新製品を次々と生み出し、貿易立国によって国の繁栄を達成してきた。

 日本の繁栄の過程において、国民はその欲するところのものを次から次へと手に入れ、その欲望は限りのない所までいってしまったように思える。蛇口をひねれば大量の水がいつでもあふれ出すように、欲しいものがいつでもどこでも手に入れられ、大量消費が善とされ、お客様は神様ですというような言葉が巷に流布されるようになっていった。家庭においてはテレビ、洗濯機、冷蔵庫、エアコン、自家用車のある生活が当たり前になり、外では便利の極みのコンビニ店が普通に二十四時間営業を行うようになり、深夜営業の飲食店では毎夜の宴会がそこいら中で行われている。実際、家の中は物であふれかえっており、不要なものを捨てるのにお金を払う時代になってしまった。実に贅沢の極みであり、人間の欲もよくここまで肥大化したものだと思わざるを得ない。毎年千九百万トンにも及ぶ食品が食べられることもなく廃棄されており、一方に生活に困窮し安住すべき場を持たない人々が激増しているような社会に本当の繁栄や平安は訪れないような気がする。


◎2017年9月24日

悪魔のデススパイラル

 現在の日本における経済不況はデフレーションの悪循環に陥り、それから抜け出せないでいる。経済的な不況は、真っ先に労働者の賃金カットによる収入減に結びつき、収入の減った人々は支出を減らそうと一円でも安いものを買い求めようとする。その結果、企業はより安いものを供給しなければ生き残れないため、一層の労働賃金カットやより低コストの海外に生産拠点を移さざるを得なくなる。結局、日本国内においては労働者の賃金は下がり続け、非正規労働者は増加し続け、製造工場の海外移転はどんどんと進行していく悪魔のデススパイラルに陥ってしまうのは道理である。この流れは日本一国に限らず全世界的ないわゆるグローバル化によって引き起こされている点において解決をより困難なものにしている。コスト競争に勝ち抜けなければ生き残れないという強迫観念は企業の行動原理になっていると言える。この原理の行き着く先は国民の困窮であり、企業の衰亡であり、国家の衰退である。

 それではこの問題をどのように解決すればいいのであろうか。日本一国でも、一つの企業でも、一個人でも可能な解決策はないのであろうか。よく聞く提案として、成長戦略が必要だということを聞くが、一旦このようなデススパイラルに陥った状態で、日本の国のどこに新たな経済成長分野があるというのであろうか。たとえ成長分野が見つかったとしても世界中の企業がどこも同じようにその成長分野に目をつけていることであろう。日本の国にしかできない成長分野など存在しないと言っても言い過ぎではないであろう。新エネルギーだの、最先端技術だのと言ってみても、また新たなコスト競争を引き起こすだけであろう。ここ二十年で日本が世界の最先端を行っていたといわれるものが次々と破綻しているのをみんな見続けてきた。家電産業、集積回路産業、コンピュータ産業、造船業などなど、最先端義技術で遅れを取ったわけではなく、最先端の技術を保持したまま敗れ去っている場合が多いのである。会社更生法を適用されたエルピーダメモリーや危機的な経営状態に陥っているシャープなどはその典型的な例と言える。最先端技術を持ったまま立ち枯れていく日本の姿の象徴を見るようである。今の時代においては、最先端技術を持っているというだけでは会社の繁栄は維持継続できないということである。ではもう八方塞がりなのであろうか。


◎2017年9月22日

人間の経済的価値の復権

 欲に駆られて何でも安ければ良いというものではない。経済的世界においては物やサービスの価格が下がるということは、それに携わる人間の経済的な価値も下がるということを意味する。とくにお金が全てであるかのような価値観の世界では、人間の価値まで収入の多さの順にされてしまう。それでは収入のない人は価値ゼロ、人間ではないことになってしまう。事実、それぞれに事情は異なるであろうが、多くの職場において人としての尊厳を貶める行為が多く報道されている。陰湿な退職勧奨、パワハラ、異常に不利な配置転換、サービス残業の強要、企業犯罪の隠蔽、不正経理、脱税などなど毎日の新聞紙面に報道されている通りである。現在問題になっているイジメという名の犯罪などは、この大人の世界の反映であると言える。いつまでこんな愚劣なことを続ける積りなのであろうか。


◎2017年9月20日

共同体の破壊は日本人を無力化する

 日本が本当に恐るべきことは、人々の孤立分断化および企業の孤立分断化による共同体の破壊なのではないであろうか。利益共同体の破壊、地域共同体の破壊は現在も恐ろしい勢いで進んでいることであろう。更に恐ろしいことに、経済のグローバル化による利益至上主義は異常なコスト競争を招き、国内の企業は怒涛のごとくオフショア委託生産や生産拠点の海外移転を進めており、これらの動きは国内における分業体制を破壊し共同体の衰弱化を招いているだけではなく、企業内部における業務の分断化、孤立化を招いている。日本の企業は、その内部組織においても従業員の分断化、孤立化を促進しているといえる。このような孤立化、分断化の環境の下では、単独自立行動に弱い日本人および日本企業はその力量を発揮できずに衰退の道をたどらざるを得ないであろう。

 数千年来に渡って培われてきた日本人の文化は、その道徳規範をはじめ行動規範に至るまで明文化はされていないが、しっかりと日本人全員に根付いている。この道徳規範や行動規範は先の大戦による徹底的な破壊と敗北によっても決して消えることはなかった。これらの日本文化を欧米流に変えるとしたらさらに数千年の歳月が必要になることであろう。それは誰が考えても非現実的なことである。この日本文化は、この緑豊かな国土と大海に囲まれた環境に合わせて自然界との融合の中で生れてきたものであるから、目先の利益追求にあおられて欧米文化に塗り替えようとしても土台不自然かつ非合理的な行動に終始しかねない。日本人は日本人が持つ特性を十分に発揮しさえすれば国難ともいえるような問題をも解決できると確信する。このことはすでに、明治維新という大混乱の時代に欧米列強に侵略されることなく技術や知識の導入に成功しており、また先の大戦の大敗北後も日本人のやり方で見事な大復興を成し遂げたことで証明されていると言っていい。


◎2017年9月19日

幼弱性の発露による企業の過剰防衛反応

 人々の孤立化に端を発した幼弱性の発露による企業の過剰防衛反応の一つが、金として現れてきたものが406兆円にも積みあがった企業の内部留保金であり、雇用圧縮として現れてきたものが2016万人もの非正規労働者や60万人もの若年無業者や208万人もの完全失業者であり、それらの民力衰退の結果もたらされたものが、216万人もの生活保護受給者であり、100万人ものうつ病患者であり、3万人もの自殺者であり、12万人もの不登校児童生徒なのであろう。単純合計をすると、2615万人もの犠牲者を出しているのである。日本の人口一億二千八百五万人の約20%もの人々が虐げられた状態に陥っていることになる。総世帯数5195万の約50%、半分の世帯に必ず一人は犠牲者を抱えていることになる。実に恐ろしい数字ではなかろうか。

データ出典

・内部留保金;財務省「法人企業統計」2016年度

・非正規労働者数、完全失業者数;総務省「労働力調査」2016年度

・若年無業者数;総務省「労働力調査」2013年度

・生活保護受給者数;厚生労働省 平成26年10月20日

・うつ病患者数、自殺者数;厚生労働省 平成20年データ

・不登校児童生徒数;文部科学省 平成28年10月27日

・日本国人口、総世帯数;国勢調査2010年


◎2017年9月18日

幼弱化が不安を増幅させ過剰反応を招く

 日本人は集団としてまとまりをもっている状態においては非常に強固で効率性に富み、柔軟な思考および自律的な行動を発揮するものであるが、一たび孤立分断化された「個」あるいは「孤」の状態では、一気にその幼弱性を露呈させてしまう傾向が強いのである。それは個人においても組織においても同様である。その幼弱性により、不安やリスクに直面した場合にとる態度は極端に防衛的な思考や行動であったり、極端に臆病な態度であったり、その代償行為としての無意味な行動の繰り返しであったり、逆にとっぴで過激な行動であったりする。いずれも自滅的行為に走り勝ちなのである。太平洋戦争や近年における日本の組織の数々の失敗はこのことを強く示唆している。


◎2017年9月14日

孤立分断されると日本人は幼弱化する

 オリンピックに限らず、水泳や体操、その他の競技において日本人が得意とし多くのメダルを獲得したのは団体競技であり、個人戦においてはなかなか活躍できない。

 戦後の高度経済成長も集団の力の結集で達成されたことは間違いないことであろう。日本製品の品質改善に大きな貢献をしたQCサークルも、多数の企業における新製品の創造もみな集団の力の結集のたまものであった。日本人は昔から集団の中で生きるのは得意であるが、集団から切り離されて個人となると極端にその幼弱性を露呈してしまう。これは古くからの日本人の生活が集団による農業および漁業を中心に「ムラ」という運命共同体において営まれ、なによりもその集団の結束が最優先の掟となり、個人はそれに力を結集することを第一番の義務とされてきたせいなのかも知れない。聖徳太子の時代以来、なによりも「和を以って尊しとなす」であった。

 日本の現在の状況は、「孤立化」の時代である。これほど個々人が分断され孤立化している時代は過去の歴史上も余りなかったように思える。個人のみならず、多くの企業体、共同体、役所群などもそれぞれ孤立化してしまい、国としての統一的・共通的な目標を見失ってしまい、てんでに勝手に飽くなき自己の利益追求に暴走しているように思われる。個々の人々や個々の企業が孤立化した場合、それらが生き延びるために最も必要とされるその性格特徴は、自立性あるいは自律性だと思われる。定住地をもたずに大陸の大平原を渡り歩いてきた狩猟放牧民族である欧米諸国の人々は、いやがおうでも、単独でも生き延びるためには、自主・自立・独立の精神を必要としてきた。またそのような適性をもったものたちだけが生き延びられたと言ってもいいのであろう。それに対して日本人はどうであろうか。


◎2017年9月13日

日本人は十二歳の少年か〜一億総不安症の時代

 2017年における日本の状態を一言で言い表せば、一億総不安症の時代だといえそうである。不安症の最大の特徴は、その不安とする対象に対しての過剰なまでの防衛的な思考と行動にあるといえる。また不安症の性格的な特徴は、非自律的、非自立的、依存的あるいは幼弱性にある。一九四〇年に日本に進駐してきた占領軍総司令官のマッカーサーは、日本人はまだ十二歳の少年のようであると言ったそうである。

 いささか反論したくなる発言であるが、あながち間違いではない場合もあるような気がする。日本人はいつも十二歳の少年なのではないであろう。しかしある環境下に陥るとたしかに判断力を失った十二歳の子供のような振る舞いを往々にして行ってきたことも事実であろう。このことについて、どのような環境下で日本人は無力化されてしまうのかについて考えれば、現在の日本におけるさまざまな好ましくない状況の意味や対処方法が明らかになってくるであろう。


◎2017年9月3日〜 9月9日

失敗に学べない日本人

^いのは戦後の国家体制のせいなのか

 レジームとは国家体制のことを指している。すなわち日本における戦後レジームと1945年の敗戦後に築かれた政治・社会上の諸々の体制のことである。戦後レジームからの脱却とは一体何であろうか。なぜ脱却すべき対象が戦後の政治・社会体制なのか。戦後の政治・社会体制はバブル崩壊の1990年ごろまでは、日本を世界第2位の経済大国にまで成長させたほどの実績を誇っていたのにもかかわらずに、である。悪いのは体制のせいなのであろうか。

 ある一群の人々は、現在の日本の停滞ないしは衰亡は、先の大戦における勝利国によって戦後作られた日本の国家体制、すなわち現日本国憲法を初めとした政治・社会体制が現在の国際社会に不適合を起こしているためだと主張しており、まずは国家の基本法である日本国憲法を世界の趨勢に適合するように改めるべきだとしている。その改変の向かう先は、かつての明治帝国憲法であるかのようである。

 現在の日本の停滞や衰亡は本当にこの憲法や戦後の体制に原因があるのであろうか。現在の日本社会で発生している色々の不愉快な事件や事故はこの戦後レジームのせいなのだろうか。

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 日本人は自分の過ちを振りかえることが苦手である。特に日本人は起きてしまったことは、今さらとやかく言っても仕方のないことだとして「水に流す」ことにしてしまう性癖をもっている。精神の穢れさえ「みそぎ」によって落とすことができるものと信じている。このように過去の失敗に学ばない性癖が、せっかくの日本人の特性によって築きあげたものを一瞬にして崩壊させてきたことを全く学習しているとは思えない。過去の失敗を振返ることを自虐行為と呼ぶ人々があるが、過去の失敗から教訓を汲み取る行為は合理的な方法であり、欧米の列強は常にこの合理性によって進化し国力を増強してきた。自分たちの失敗を失敗だと認識したくない者たちは、二度三度と同じ破滅の道を歩くことになる。日本的な言い方をすれば、けじめをつけなければならないということである。

 敗戦の責任が裁かれた東京裁判を不公平な裁判だったと非難する人々は、敗戦の意味するところのことを全く理解していないのであろう。戦争裁判は正義を問う場ではないし、戦争で負けた国家のリーダーは有無を言わせず処刑されるというのが世界の歴史が示すところである。戦争においては義の有無はまったく意味のないことで、勝つか負けるかのどちらかしかないのである。

 そもそも先の大戦を大敗北に導いた主導者たちにおいては、おめおめ生き恥をさらして東京裁判にかけられたこと自体、日本の伝統的行動規範に反する行為ではなかったのか。300万人にものぼる国民を死に至らしめた責任を取ったとはとうてい言えないであろう。

 日本の伝統的行動規範の唯一の目的は「国家の永続的繁栄と、国民の安心安全の確保」であった。すなわち、弱き者も強き者もともに手を携えて、その生涯を生き抜くと言うことであった。

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 自分の振舞いは常に相対的なもの、すなわち他人との関係性の中にある、という認識のない人々の行いは常に独善的であり、専横的であり、私利私欲的になり、ついには自己ないしは共同体を衰亡・破滅に導くという歴史の事実にまったく気がついていないのである。特に力で優っている人々、頭脳で優っている人々、権力で優っている人々、金力で優っている人々においては、常にそのような傾向が強く、「利益は自分に、負担は他人へ」という欲まみれを是とし、成功の誉れは自分のもの失敗の原因は常に劣った他人のせいとしてしまうのである。

 このような思考性癖をもったものたちが政治・社会・経済の優位に立った場合には、その国家の主義主張が何であったとしても、必ずその国家や共同体集団には破滅の運命が待ち構えているということは歴史の証明するところである。

た隻は戦後に吹いた

 憲法は紙に書かれた文書にすぎない。一般の日本人は憲法の全部あるいは一部すらも読んでいない人も多いだろうし、昔学習したがもう何が書いてあったかのかも忘れてしまった人も多いことだろう。それでも戦後70年以上もの間日本人は外国と戦争をすることもなく、国内においても大騒乱を起こすこともなく、低犯罪率の世の中を維持し勤労に努め勉学に励み世界に冠たる繁栄を築き、諸外国から尊敬を受けないまでも安心安全な国家として一応の評価を受けるまでになった。多くの国民がこのように憲法をほとんど意識しないままの状態において何故このような奇跡的な繁栄を勝ち得たのか考えてみる必要があるだろう。政治家たちが一流の人材ばかりで世界に誇りうる高邁な理想と潔白な態度をもち国家を統治してきたからなのか。またエリート大学出身者で占められる官僚たちが常に国民のためを思い粉骨砕身の努力を続けてきたからなのか。はたまた会社の経営者たちが私利私欲をはなれ常に国民たちの幸福を願ってきたからなのか。いずれも否としか言いようがない。

 日本の戦後の大繁栄は社会の上位階層の者たちの力だけで成し遂げたなどとの思い上がりは早く捨てた方が良い。戦後の日本はある意味で幸運に恵まれていたのであり神風は戦後に吹いたのである。大敗北の直後の朝鮮戦争による特需、その後長く続いた激しい東西冷戦のはざまにあって、地政学的にその前線に位置していた不沈空母とも言える日本列島に欧米諸国は惜しげもなく大量の富を注ぎ込み、日本国民はその必要とされるものを自分たちの独特の伝統的な規範に基づいて知恵を出し合い粉骨砕身創り出し続けてきた。日本の戦後の繁栄の正体はこのことであり、一般国民の力の結集は日本国憲法の力だけではなく、数千年来の間にこの列島で蓄積洗練されてきた不文律的である日本人の伝統的行動規範であり日本の文化であったと言える。戦後の日本人は日本国憲法だけで繁栄を築いたわけではない。また日本国憲法によって国力の衰退を招いたわけでもない。

テ本の伝統的な行動規範と憲法

 戦後70年近くを経て日本国の枠組みは確かに劣化しているであろう。しかしこの原因を現憲法にもとめることは大きな筋違いである。失敗の真因は常に人にある。日本の現状の表面的な枠組みは確かに「日本国憲法」である。しかしである、日本の深層的な枠組みは、日本における「伝統的な行動規範」にある。改め立て直すべきは「日本国憲法」ではなく崩れかけている「日本の伝統的な行動規範」なのである。ただし「伝統的な行動規範」が大日本帝国憲法にあるわけではない。伝統的な行動規範の基本理念はあくまでも「和を以て貴しとなす」であり、明治憲法の基本理念である「富国強兵」とは基本的に相容れないものである。富国を強兵、すなわち軍事力によって獲得するというような思想は現代の日本人ならずとも欧米諸国にも全く受け入れられないものである。

ζ本の伝統的な行動規範

 日本国憲法を変えて帝国憲法や王政復古に回帰したところで、崩れかけている日本の伝統的行動規範を立て直すことはできないであろう。 日本人ははるか昔から専横的な権力を嫌い、狂信的なイデオロギーを嫌ってきた。日本人は強圧的に権力者から押し付けられた規範に従順に従うような国民性はもっていなかった。日本人が伝統的にその忠誠を誓ってきたものは、自分や一族の生命を託することに「信」をおける共同体に対してのみであって、恐らくこの精神は現在においても大多数の一般国民の中に営々と流れ続けているものと思われる。この精神的な態度は封建制といわれる江戸時代においてはその領主に対して行われ、明治維新後は天皇にとって代わられ、戦後は終身雇用制・年功序列の「会社」といわれる運命共同体にとって代わられた。日本人の最高の価値観は太古の昔から、家族・一族の「安心・安全」であった。

 このようなことを何も理解しないまま現行憲法を変えても何も変えることはできないばかりか、70年以上もの長い間に慣れ親しんで意識すらしなかった国家の基本的な行動規範の突然の方向転換により社会構造のあらゆるところに致命的な傷を負わせ、日本社会をさらに衰亡の淵に貶めることになるであろう。

 戦後の日本の復活の真因とその後の停滞衰亡の真因について真剣な振り返りが行われなければ、単に押し付けの時代おくれの日本国憲法のせいだと主張しても何も得るところはないであろう。

 現日本国憲法はわが国の一つの「理想郷」を示した希望の星である。近年の日本人の上位層にある者たちの失政、失敗は目に余るものばかりであり、誰もその責任を取ろうとはしない。政策の失敗で何兆円の損失を出しても政治家も役人も「法律に則って執行しただけで、私には何ら責任はありません」という態度であり、大事故を起こした企業においては自然災害のせいだとか、「下のものが起こしたもので私の知るところではありません」という態度なのである。法に触れなければ良いだろうというのが、多くの道徳性を失った組織における「コンンプライアンス」の正体に違いない。

伝統的行動規範の復活を

 日本人が今必要とするものは、道理にかなった伝統的な道徳規範の復活であり日本国憲法の改変などではないはずである。近年悪徳企業で行われていることは、人間の奴隷的扱い、機械・ロボット的使役、取るべきでもないし取れもしない自己責任の要求という犯罪的な行為、社員の非正規化などをはじめとして、人の優しさの本分である「仁」を殺し、共に生きぬくための基本である「義」を捨て、円滑な人間関係の基である「礼」を失わせ、悪智は「智」を遠ざけ、社会活動の基本である「信」を破壊し続けているのである。大企業の景気対策に重点を置けばその恩恵は順に中小企業にも及びいつしか一般国民に及ぶだろうというような能天気なことを言っている内に、日本国民における失ってはならない伝統的行動規範が急激に失われてしまい、日本人そのものの精神的な拠り所が崩壊し、ついにはどのような政策を取っても二度と浮かび上がれない地獄の淵に落ちてしまうであろう。

 経済的な観点からだけみても、日本人における伝統的な行動規範こそ繁栄を生み出す金の卵であるという認識をもった政治家も経済人もほとんどいないようにみえる。金の卵をつぶした後にはもう卵を産む鶏は生まれないことは当たり前のことである。

 競争における勝利の原則は「力の集中とスピード」である。日本人においてこの「力の集中とスピード」を最大効率的に発揮させたものは所属共同体への最大限の信頼に基づく忠誠心であり、これらの精神的な源泉は日本人におけるその「伝統的な行動規範」であって、権力による強制力でもなければ暴力的な隷従でもない。

 憲法を変えても何も変わらない。日本を変えたければ使命感に乏しい政治家や官僚自身、利益しか頭にない企業の経営者自身、および他者依存性の強い労働者自身の精神と行動を変えなければ何も変わらないであろう。いっそのこと明治維新時や今次敗戦におけるように現体制の権力者層はその権力を全て後進の若い世代の者たちに譲るべきであろう。


◎2017年8月31日・9月1日

日本人における強烈な平等感

その

 日本人におけるその所属階層を越えた強烈な平等感はどこからきたのであろうか。例えば、金持ちだからといって威張るな、とか、横柄な役人の態度は常に非難の的とされることや、貧困であるがことを理由に他人から卑下侮辱されることを許さない態度は、いまでも広く一般に日本人の共通の心情的な態度である。

 日本人は、その共同体に対する絶対的な生存の保障という信頼感を基底にして、共同体の各階層における応分の義務を果たすこと、すなわちその絶対的相互義務の履行を果たさなければ、その共同体の上下ともども滅びるということを歴史的な体験に学んできた。その結果、地位身分の上下を問わず、それぞれ応分の義務を果たすべきだという強烈な平等感を育成してきた。それゆえに、応分の相互義務を果たさない専横独裁的なリーダーは必ず罷免、排除されてきた歴史をもつ。

その

 さらにまたこの強い平等感は、上古から続く信仰である神道によっても育成され続けてきたものと思われる。すなわちその共同体に対する絶対的な信頼感や死んだ人々はすべて神になるという信仰は、生きている人々においてもある種の平等感というものを植え付けたものと思われる。光かがやく太陽の神を筆頭に、清冽な命の水をもたらす山岳の神々、種々の実りをもたらす田畑の神々、あらゆる恩恵をもたらすその他の多くの神々の前には、死んでしまった者たちも、いまを生きている者たちも、ひいてはあらゆる命あるものも、すべて平等であったのであろう。

 日本の神々の前に、すなわち日本人の死んだ全ての祖先の前には、みな平等であるという信仰は、過去においてもまた現代においても、その社会の階層構造を越えて厳然とした全ての日本人がもつ生存の権利に関する平等意識の原点でもあろう。


◎2017年8月22日〜8月26日

折れず曲がらずよく切れる〜日本人の性格特徴を形づくったもの   

その

 ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)はその著書『日本』のなかで明治初期の日本人の様子について次のように語っている。「かれら(日本人)はどんな事情の下にあっても、うわべの快活さだけはけっして失われない。また、どんな難儀なことがあっても――暴風、火事、洪水、地震のようなものがおこっても、高笑いで挨拶をかわし、明るい笑顔で丁寧にお辞儀をしあい、心から慰問しあい、お互い同志相手を喜ばしたいという願いが、いつもこの世を美しいものにしている。」 (小泉八雲著、『日本』p181[死者の支配])

 なぜ個人の命をも犠牲にさせるほどの鉄の律則とも呼ばれる厳しい法律や不文律の下にあっても、日本の庶民は明るく陽気で、自分たちの人生を美しいものと見ることができたのであろうか。

 日本列島は、四方を豊かな海に囲まれ、また温暖湿潤な気候の下に緑なす美しい山々と清冽で豊富な水と肥沃な盆地に恵まれている。これらの、世界にもまれな自然環境の中にあって、それらがもたらす豊富な海山のめぐみは、日本人に生きる力を継続的に与えてきた。これらの美しくかつ豊かなめぐみは、日本人において、明るく楽天的で美を愛好する精神を育んできたといえる。

 また、その一方で鉄の律則ともいわれる日本社会の行動規範の下で、個人を空しくし、それに従順に従うような性格特徴はどのようにして形成されてきたのであろうか。

その

 毎年襲い来る台風、しばしば襲い来る地震、津波や飢饉疫病は、自然界はめぐみをもたらす反面、致命的な打撃も与えるものであるということを日本人に学ばせてきた。これらの苛酷な転変地異は、膨大な人的犠牲を生み出し、天然自然界は人智の及ばない強大な力をもっているということを日本人の精神の深いところに焼き付けていった。この天然自然に対する圧倒的な畏怖が日本人において現在、神道と呼ばれている宗教の原点になったのであろう。

 自然がもたらす豊かなめぐみと苛酷な災害が交互に繰り返されることによって、日本人の精神、信仰および行動規範が徐々に作り上げられてきたものであろう。繰り返される自然の恵みと苛酷な災害は、個人および共同体を鍛え上げ、進化させる役割を果たした。

 それはまさに日本刀の作刀工程と同じことが行われたことと似てはいないだろうか。「鍛錬」とは、日本刀の作刀工程の一つであるが、材料である熱した鋼を何度も折り返して鍛えること、すなわち鉄の結晶を微細化し、結晶の方向を整えることで、鋼に粘りをもたせ、強度を増し、不純物をたたき出し、炭素量を平均化する作業である。 また「焼入れ」は高熱の刀身を水で急冷することによって刃先の鉄の成分を最も硬度の高い状態に変質させるものである。ただし、この鍛錬も焼入れも度を過ぎると刀を折ってしまうということに留意すべきである。

その

 人間に襲い掛かる苛酷な自然災害は、まさにこの「鍛錬」や「焼入れ」という試練を日本人の共同体に与えるのと同じ効果を生み出したことであろう。強大な自然災害に遭遇して、われわれ日本人の共同体は、自然の脅威を克服するために、組織内の不純物を排除すること、すなわち個々の勝手な行動を規制し、その構成員の力を同じ方向にまとめ上げることによって力の最大化とスピード性を獲得してきたものと思われる。これらは集団として生き残るためのさまざまな知恵や行動規範という結晶体を生み出し、日本の共同体は、それらを継承発展させてきた。これらが、いわゆる日本の伝統的行動規範や信仰、文化を生み出す源になったのである。 また日本の共同体を守ってきたこれらの伝統的行動規範は、我々の先祖における人命を含む多大な犠牲によって産み出されたということを忘れてはならないだろう。

その

 このような性格特徴を身につけた日本共同体という刀は、折れず、曲がらず、よく切れる、いわば伝家の宝刀であると同時に、使い方を誤れば、身を滅ぼす妖刀にもなりうるという経歴をもっている。

 それは例えば、われわれ日本人は極端から極端に走りやすい国民だと言われているが、日本人および日本の共同体における性格特徴の極端な両面性は、次のようなことである。「集団行動から孤立分断へ」「協調的から予定調和へ」「寛容から排他的へ」「正直さから隠蔽へ」「恩情的から功利的へ」「恥を知るから恥知らずへ」「自律から指示待ちへ」と挙げたら切がない程の極端な変容振りである。これらの両面性は、時代の変転により、明るい面から暗い面へ、またその逆へと極端に振れる傾向をもっている。これらの日本人における陽気な調和性と、その真反対とも言える陰気な攻撃性は、日本人における極端な行動の原因ともなっている。これらのことは、日本人における性格特徴である潔癖性および審美眼がもたらすものであると考えられ、これらはまさに日本列島の豊かな自然と苛酷な自然が織りなして作り上げてきたものであり、同じ性格特徴が持つ正の局面と負の局面の由来であろう。


◎2017年8月19日

早離(そうり)と即離(そくり)の話

 ”怨み”と苦悩からの救いについての短い話を紹介したいと思う。

 『早離と即離は、幼い兄弟である。両親に早く死別したので毎日泣いていると、ある心のよくない男が、父母にあわせてやるからこの小舟に乗れと誘った。二人はだまされたとは知らずにその言に従う。小舟は沖あい遥かに浮かぶ名もない小島につけられて、幼児二人をおろすと、その男は舟を漕いでもとへ帰ってしまった。

 二人の子は、狭い島の中をかけめぐって親を探すが、いるわけがない。ついに飢えと疲れでその島で果てるのである。臨終にさいして弟の即離は、自分たち兄弟の薄命を嘆く。黙って聞いていた兄の早離は弟をなだめて言う。

 「わたしもはじめは世を呪い、人を怨んだが、この離れ小島ではどうにもならぬ。ただ身をもって学んだことは、親から早く分かれ、人にだまされることの悲しさと、飢えと疲れの苦しさである。されば、つぎにこの世に生まれてくるときには、この苦悩の体験を縁として、同じ悲運に泣く人たちを救ってゆこう。他をなぐさめることが、自分がなぐさめられる道理であることを、われらは学んだではないか」と。

 弟は、はじめて兄のことばを理解すると、はればれとした顔となり、互いに抱きあって、息絶えたが、二人の顔には静かな明るい微笑が浮かんでいた。

 兄が観世音菩薩、弟が勢至菩薩であった。この島が補陀落山(ポータラカ)である。』

[松原泰道著、般若心経入門、『南伝大蔵経』のシリーズの『華厳経』にある説話から]

注1.「早離」とは、「早くはなれる」の意味。「即離」とは、「すぐに別れる」の意味。生まれると間もなく、あるいは、ただちに親と別れた子どものことを指す。

注2.観世音菩薩

 衆生(しゆじよう)の声を聞き,その求めに応じて救いの手をさしのべる慈悲深い菩薩として多くの信仰を集めた。勢至菩薩とともに阿弥陀(あみだ)仏の脇侍。その住所は補陀落(ふだらく)とされ,日本では那智山であるとする。慈悲の無限なことに応じた多様な姿で説かれる。(三省堂 大辞林)

注3.勢至菩薩

 『観無量寿経』の中には「知恵を持って遍く一切を照らし、三途を離れしめて、無上の力を得せしむ故、大勢至と名ずく」とあり、火途・血途・刀途の三途、迷いと戦いの世界の苦しみから知恵を持って救い、その亡者を仏道に引き入れ、正しい行いをさせる菩薩とされる。(wikipedia)

注4.補陀落山(ポータラカ)

 補陀落(ふだらく)は、観音菩薩の住処、あるいは降り立つとされる山である。補陀落山とも称す。「補陀落」は、サンスクリット語(梵語)の「ポータラカ」(Potalaka)の音訳である。伝説によると、インドのはるか南方の海上にあり、八角の形状をした山であるといわれる。(wikipedia)


◎2017年8月16日

失敗の原因と結果の関係

 失敗の原因と結果の分析結果が示すところは次のようであった。

1.「組織」が原因の失敗による損害が約80%を占めている。

2.重大な事故は、ほとんどが「組織」が原因であり、被害の大きさの76%を占めている。

3.「個人」が原因の失敗による損害は約20%を占めているが、じ軾獣如↓ツ敢此Ω‘ど埖に

   よる失敗は、件数が最も多く、軽微から大きな障害まで広範囲に渡っている。

 「組織」とは、組織を構成する全員を漠然と指したものではない。「組織」の本質は、その組織の指揮権を握っている開発マネジメントすなわちプロマネであり、開発リーダーに他ならない。上記の分析数値はプロジェクトの失敗の原因の80%が開発マネジメントの人的品質にあることを物語っている。すなわちプロジェクトを成功させたいのなら、開発マネジメント、プロマネ、開発リーダーたちの人的品質、業務品質を向上させる必要がある。

 この分析結果は、失敗学研究者の畑村洋太郎氏作成の「機械設計における、失敗の原因と結果の関係」図を筆者にて数値化してみたものであるが、これは機械設計の分野のみならずソフトウェア開発の分野にもほぼ当てはまる内容だと直感される。

◎備考1.本図は、『だから失敗は起こる』(畑村洋太郎著、NHK日本放送出版協会、2006年8月1日発行)

p85の「機械設計における、失敗の原因と結果の関係」の図を基に作成。

◎備考2.被害結果の重み付けは、軽微なものAから順に、2の2乗の比例値を仮に適用した。

 重み付け: A:1、B:2、C:4、D:8、E:16、F:32

 注.この重み付けは、筆者の開発業務経験による感覚的なもので、データ的な根拠のあるものではない。


2017年8月11日

愚化(おろか) ⇒印刷用ファイル

 「貧すれば鈍す」と昔から言われているが、最近の人間は若きも老いたる者もみな一様に愚化が進んでいるように思えて仕方がない。 愚かさは暴力的な行動や発言となって暴発する。

 駅のポスターにはこう書いてある。「頭突きしてケガをさせる」「ネクタイを引っぱる」「ビールをかける」これらはすべて暴力です!。駅員に対する暴力事件は一向に減らない。 以前は「切れる若者」の話題が多かったが最近はさらに「切れる老人」の話題がマスコミを賑わせている。

 老いも若きもみな愚かになり、すぐに暴力に走ってしまうようになってしまったのだろうか。

 法社会学者の河合幹雄教授は、「犯罪の『稚拙化』に注目を」と題して次のように語っている。

 「非行少年を扱う家裁調査官たちの報告と、少年犯罪統計から見えてくる少年たちは、私の印象では凶悪というより、ひ弱で稚拙化している。 たとえばキーなしでもバイクを発進できれば、バイク窃盗は容易にできる。この「技能」がないために持ち主を引きずり下ろして奪うと強盗になる。窃盗が強盗となれば一見すれば凶悪化だが、実は手口の『伝承』がされず犯罪をする能力が落ちている。2人ぐらいで「金貸してくれ」とカツアゲ(恐喝)する技能がなく、大勢で囲んでいきなり襲いかかって金品を奪うのも、同様に強盗となる。熟慮されない『ヘタ』な犯罪は、被害者から見ればかえって怖く凶悪と言ってもよいが、加害少年たちは実に未熟である。 少年犯罪の低年齢化ということもよく聞くが、実態は、年齢や性別による「らしさ」の喪失である。20歳を超えた大人であるのに、内容的に「少年犯罪」を継続しているような幼稚な若者が、むしろ目立つ。

 私が重視するのは、88年のコンクリート詰め殺人事件あたりから「このぐらいで止めておこう」という歯止めがない事件が、ごく少数ながら散見されることである。これらの事件は、加害者が「やめ時」を知らない稚拙さゆえに重大な結果を招いてしまったと私は解釈する。

 加害者の人間性の欠如から出発して、その原因を学校や家庭に求める言説が多くある。しかし私がカギになると考えるのは、非行少年グループ内でのリーダー格の少年である。彼らこそが現場に居合わせ、いきりたつ仲間を止めることができる。犯罪の技能を教えてきたのも彼らである。このタイプのボスがいなくなったという、グループ単位の劣化が起きている」

(2007年2月12日、朝日新聞、河合幹雄、桐蔭横浜大学教授)

 この話のポイントは次の点にある。

.蝓璽澄爾砲茲詒蛤畊坩戮竜伺修療曽気なされなくなったために犯罪をする能力が落ちている。

▲蝓璽澄爾砲茲襦屬海里阿蕕い濃澆瓩討こう」という歯止めがないため凶悪な結果を招いている。

 これらの意味するところは、集団能力の弱体化およびリーダーの不存在が、稚拙で凶悪な犯罪の原因となっていると言うことになる。

 このような状況は何も犯罪の世界だけで起こっているわけではなく、同じ原因によって、現在の日本においては多くの基幹的企業組織のみならず政治勢力の能力も深層崩壊と言ってもよいほどの劣化が進んでいるものと思われる。崩壊した、ないしは崩壊しつつある組織の主な特徴は、技能やノウハウなどの真に価値あるものの伝承を地道に実行せずに目先の利益や検疫を確保することに血道をあげること及び無能なリーダーによる歯止めのない暴走にあると言える。

 一方、劣化した集団の低階層にある者たちや放逐されてしまった個人たちは、「切れる若者」や「切れる老人」や「ブラックな管理職」などにならざるを得ず、今日も駅や家庭や職場のどこかで暴力を振るっているのだろう。

 今日のソフトウェア開発組織の姿はどうであろうか。

 技術やノウハウや価値あるものごとの伝承や改善活動は組織内で地道に行われているだろうか。単に利益を確保することだけに血道を上げてはいないだろうか。組織の構成員たちを生きている人間として、その成長を促し、大切にしているだろうか。無理に無理を重ねさせ、ついには心身の破たんに追い込むことをしてはいないだろうか。熟慮のない「ヘタ」な開発行為が横行してはいないか。リーダー自らが無理筋を押し通そうとしてはいないか。


2017年8月5日

「する」と「なる」〜成功/失敗プロジェクトのパターン ⇒印刷用ファイル

 「する」という言葉は「意図的に行動する」ことを意味し、「なる」は「人為的ではなく自然の力で変化する」ことを意味している。

 わたしたちの社会における物を考えるときの基本的な思考として、意図的なことや恣意的なことを嫌う傾向があり、「いかにもそれらしく作られた物」よりも「自然にそうなったような物」をより好む傾向が強い。

 例えば盆栽や日本庭園はその代表的なもので、それらは決して自然にそうなったものではなく、多くの人手や細心の注意が長年にわたって払われてきたにもかかわらず、いかにも自然にそうなったかのような風情をたたえている。 現在においても、最高の物と日本人が評価するものはみなそのようであり、人の作為が表面に出ているような物は下品だとされる。意図や作為は決して表面に出てはならないというのが多くの日本人の美的感覚なのだと言える。

 この「する」と「なる」について山本七平はその著書の中で次のように述べている。

 「日本人の社会には、自然、不自然という探求しにくい規定がある。われわれは不自然はきらいで、すべて自然でなくてはいけない。これが日本文化の探索で少々困る点だが、それでいてこれはいわば基本的概念なのである。・・・・では『自然とは何なのか』。・・・・・この「自然」とは、日本的自然法というようなものであろう――もっとも「法」といえるかどうかは問題だが、法ないしは秩序意識であり、伝統的な行き方であり、共通する社会的な方式がある。だがそれも明確ではない。要するに人間は自然であればよろしく、『花は紅、柳は緑』などという言い方で説明する。ごく自然にそうなるのであり、どうせなるのなら、なるにきまっているようにしたらよく、作為の積み重ねで何かを『する』のはよくないという意識である。『する』より『なる』、これがおそらく『自然』という意識であろう。」

(「日本人的発想と政治文化」、p204「自然」「不自然」の文化、p207「する」より「なる」という意識、日本書籍社刊)

 この「する」と「なる」という概念はわたしたちのソフトウェア開発においても重要な意味を持っている。開発の工程をこの「する」と「なる」という概念でみた場合どうなるだろうか。

 結論を先に言えば、「する」が先行し「なる」が後に続く仕事は成功が多く、「なる」が先行し「する」が後に続く仕事は失敗が多いと言える。

 成功プロジェクトにおける先行する「する」とは、開発開始の前段階において強い意図のもとに基幹仕様の早期凍結およびそれに従った妥当な見積りによって必要な体制の準備や開発資金や期間を確保しておくことを意味し、「なる」とは、設計工程以降はすでに確定した要求仕様に基づいてたんたんと開発作業を進めていくことを意味している。

 その反対に、失敗プロジェクトにおける先行する「なる」とは、開発開始の前段階において顧客との交渉を意図的に強力にすすめることもせず、なりゆきまかせ的に流した結果、仕様は膨らみ、資金も期間も不十分な状態に陥り、間違いや不具合の修正などの不本意な「する」と言うよりも「せざるを得ない」状態に追い込まれ、最後は修正もテストも不十分なままの製品をタイムリミットの期日に無理やり出荷してしまうという事態を招いている。

 上記の成功事例と失敗事例を図に表すと次のようになる。

 なすべき時になすべき事を、すなわち開発の初期の段階において要求仕様を早期凍結し、妥当な見積りによって必要な開発期間および開発費を獲得していさえすれば、開発そのものはスムーズに進行し、品質・コストおよび納期の目標は自然に達成される可能性が非常に高い。

 一方、開発初期の段階においてなすべき事を実行せず、要求仕様の強い凍結意識もなく、なるがままに流されてしまった場合は二転三転する要求仕様に振り回され、想定に基づいて事前着手した設計・製造に多くの手戻りやバグを発生させてしまい、仕様未凍結状態で見積もった想定開発期間および開発費は大幅に超過してしまい、不良品をリリースしてしまうハメに陥る。

 これが成功プロジェクトと失敗プロジェクトの代表的なパターンである。