407. 2006.2.11 『ドリアン・グレイの肖像』 オスカー・ワイルド 新潮文庫
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ドリアン・グレイは、穢れを知らない純粋無垢な魂を持つ美貌の少年だったが、快楽主義者のヘンリ卿に「若さがある間に若さを楽しむんだよ」とそそのかされる。 画家バジルが描いた自分の肖像画は完璧なまでの美と若さにあふれており、それはドリアンを喜ばせもしたが、ヘンリ卿の言葉を聞いた後になっては、肖像画の不変の美しさは、「やがて自分は老いていき、この美貌を失ってしまうことになる」と苦悩するドリアンに、激しい嫉妬心をかきたたせる。 「『何というみじめなことだ!』と、自分の肖像画になおもじっと眼をこらしながら、ドリアン・グレイは低い声でいった。『まったくみじめな話だ!ぼくが年をとって醜悪そのものになろうとしているのに、この画はいつまでも若々しくしていられるのだ。今日のこの六月何日という日以上に年老いることはないのだ…これが逆だったらどんなによかろう!永久に若々しいのがぼくで、年老いていくのがこの画だったら!ーそのためならーぼくはあらゆるものを投げ出してもいい!そうだ、この世の中にあるものなら何だって惜しくはない。そのためにならぼくの魂でも投げ出してもいい!』」 ドリアンがこのように画に向かって叫んだとき、彼は、その魂を悪魔に売ってしまっていたのだ。 確かにドリアンはヘンリ卿の影響を多大に受けたが、ドリアンが何の抵抗もなく悪徳に染まっていったのは、ただにヘンリ卿のせいなだけではなく、ドリアンが自分の魂を画の中に投げ捨ててしまっていたからである。 ドリアンが初めて恋をした相手は、女優シビル・ヴェインだった。彼は、彼女の美しさと女優としての天賦の才能に魅了され、彼女と婚約する。 ところが、シビルは、女優としてその魂をすべてそこに打ち込んでいてこそ魅惑的で才能豊かな女優であり続けることができたのだが、彼女がひとたび恋に落ち生活ということを考え始めたとたん、彼女の女優としての才能は失われてしまい、その才能ゆえに彼女を愛したドリアンに捨てられて、破滅する。 これは、ワイルドの芸術至上主義を如実に現したエピソードとなっている。 画家のバジルもヘンリ卿も美を愛する者たちであったが、バジルが本質的な美を愛していたのに対して、ヘンリ卿は美のうわべだけを愛で快楽だけを追求している。(ヘンリ卿の退廃的な快楽主義はワイルド自身の生き方を映してもいるようでもある。) ヘンリ卿はドリアンにさんざん悪徳を勧めながらも、彼自身は傍観者的立場で常にドリアンを見ていて、ドリアンが岐路に立つとさらに悪徳の深みへと彼を導いていく、メフィストファレスのような役割を持っており、バジルはそれを阻止するいわば良心の象徴でもあるが、ヘンリ卿はバジルを‘退屈な男’と言い、ドリアン自身もその魂を自画像の中に捨ててしまっていたのであるから、本質的な美を愛する良心の象徴であるバジルとは一緒にいることができない。 ドリアンはバジルに自分の罪を打ち明けながらも、自分を救うことのできるただ一人の人物であるバジルを殺してしまうのである。 自分の良心を映す鏡である自画像がどんどん醜悪になっていくのに、一方自分自身の美しさは一向に衰えないことを喜び、悪徳の限りを尽くしながらも、ドリアンの心は決して幸福にはなれないし、満足感を得ることもできない。精神を捨ててしまった人間にとって、精神的な憩いは、もう望むことのできないものとなってしまっているからである。 絵のあまりの醜悪さにおびえ、 自分に付きまとう死の恐怖から逃れることを渇望するドリアンは、これからは善い行いをしよう、そうすれば画も少しずつ元に戻るのではないかと考えるが、自分が善行をしたと思って画を見に行くと、画には偽善的な表情が増えているばかりである。これは、魂をすでに売ってしまっている人間にとって、本当の善行などできるはずがないということを暗示している。 絶望に駆られたドリアンは肖像画にナイフを突き立てる。 ということは、やはり彼にはまだ一縷の良心が残っていたということなのだろうか。何にしても、彼にとっては、それが一番の救済であったのだろう。 |