843.     2007.4.23      『芋粥』  芥川龍之介  新潮文庫

 『芋粥』は、『今昔物語』と『宇治拾遺物語』にその出典が見られる短編である。

 摂政藤原基経に仕えている五位が、話の主人公である。 彼は風采の上がらない男で、同位の者たちは、彼を格好のひやかし、いたずらの対象として翻弄している。 そればかりか、下位の者、道で遊んでいる子どもにまで馬鹿にされている。                                       貧相でだらしない感じのこの男は、数年前から芋粥に異常な執着を持っている。 当時、この芋粥は無上の佳味としてもてはやされており、五位のような身分のものにとっては、滅多に食べることのできないものだった。  それが、年に一度ほど、主人に臨時の客があったとき、主人が客のために用意した芋粥の残り物をいただけるときがある。 彼らのような下っ端に回ってくる量は僅かに喉を潤すに足るほどの少量でしかないのだが、それが何よりもの喜びなのだ。 五位は、いつしか、芋粥を飽きるほど飲んでみたいという夢想を持つようになり、このことが彼の唯一の欲望にさえなっていった。

 ところが、五位の思いもかけぬことに、彼のこの願望を聞きつけて、望みをかなえてやろうという男が現れてしまった。 その男は、はるばる五位を敦賀にまで連れて行く。                     どんなに「飽きるほど食べさせてやろう」と豪語しても、それが京の地であったなら、その量もたかだか知れていると思われる。 ところが、目的地は敦賀だという。 その長い旅の先の地は、いかにも、山芋がふんだんに手に入りそうな田舎である。                                     敦賀に着いた五位の心境は複雑である。  「我五位の心には、何となく釣合いのとれない不安があった。第一、時間のたっていくのが、待遠い。しかもそれと同時に、夜の明けると云う事が、ー芋粥を食う時になると云う事が、そう早く、来てはならないような心もちがする」  なぜなら、「折角今まで、何年となく、辛抱して待っていたのが、如何にも、無駄な骨折りのように、見えてしまう」からで、五位は、「出切る事なら、何か突然故障が起こって一旦、芋粥が飲めなくなってから、又、その故障がなくなって、今度は、やっとこれにありつけると云うような、そんな手続きに、万事を運ばせたい」と思う。

 ところが、彼を招待した利仁は無情である。そういった五位の心の機微など斟酌しない。 「飽きるほど食べたい」というのだから、本当に飽きるほど食べられるように準備するまでである。 かくして、敦賀の館の庭には山芋が二三千本以上も積み上げられ、大釜がいくつも火にかけられ、朝の膳に出た椀は一斗も入るかといった大きなもので、それに並々と芋粥が注がれている。

  五位が欲したのは、このような芋粥ではない。 確かに「飽きるほど食べたい」と彼は言ったが、その「飽きるほど食べる」は、このような食べ方ではないのである。 誰の家にもそんなにたくさんあるわけではない貴重な山芋で、だからこそ本当は自分のような身分の者になど手の届くはずのないものなのだが、それがどういった幸運からか自分のような者でもいただけることになった。 そのような芋粥を、少しずつ少しずつ有難がっていただく。 五位が欲した芋粥とは、そのような芋粥であったのだ。     その量は、何とも有難いことに自分が満腹と思うちょうど同じくらいか、それより少し多いぐらい。たくさんないものであるからこそそういった幸運に自分が預かるのがうれしいのであり、そういった事情を乗り越えて自分が掴み取った一椀を愛でながら食べるのが楽しいのである。 「飽きるほど食べたい」といったところで、実際に飽きるほどあったのでは、その芋粥のありがたみが、まったくなくなってしまうではないか。                                                           五位は、積みあげられた山芋を見、いくつも並んだ大釜を見た時点で、すでに芋粥に飽きてしまっている。 何千本とある山芋には、もはやありがたみなどないからだ。                      「五位は眼をつぶって、唯でさえ赤い鼻を、一層赤くしながら、堤に半分ばかりの芋粥を大きな土器(かわらけ)にすくって、いやいやながら飲み干した」  「始めから芋粥は、一椀も吸いたくない。それを今、我慢して、やっと堤に半分だけ平らげた」

 五位の悲しみは、もう一つある。 自分が長年大切に持っていた夢がかなえられてしまった、という悲しみである。                                                       「五位は、芋粥を飲んでいる狐を眺めながら、此処へ来ない前の彼自身を、なつかしく、心の中でふり返った。それは、多くの侍達に愚弄されている彼である。京童にさえ『何じゃ、この鼻赤めが』と罵られている彼である。色のさめた水干に、指貫をつけて、飼主のない尨犬のように、朱雀大路をうろついて歩く、憐れむ可き、孤独な彼である。しかし、同時に又、芋粥に飽きたいと云う慾望を、唯一人大事に守っていた、幸福な彼である」                                               夢がかなうのを待ちつづけている時間こそが、何よりも幸福な時間である。どんな小さな夢であれ、それがかなってしまったら、人は、いくらかの喪失感を感じずにはいないだろう。 そういったことを考えると、どんなに他人からはみすぼらしく見える人でも、何らかの夢を胸に抱いて生きている者は、幸福な人間であるといえるのかもしれない。

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