1042.     2007.11.8      『箱舟の航海日誌』  ケネス・ウォーカー  光文社古典新訳文庫

 『聖書』の中でも有名な「ノアの箱舟」のエピソードを読むたびに、すごく気になることが一つあった。  ノアはすべての動物たちを一つがいずつ舟に乗せたというのだが、肉食獣も草食獣も一緒に舟に乗せたらだめなんじゃないのか、彼らの餌は、どんなふうに与えられたのだろう、ということだ。       もちろん神話なのだから、そんなことは超越して読めばいいのだろうけれども、一度気になると、どうしても頭から離れなくなる。 『箱舟の航海日誌』は、そんな懐疑的な人にうってつけの話である。

 大雨による大洪水以前、動物たちはみな同じものを食べ、みんな仲良く暮らしていた。と、ケネス・ウォーカーは説く。たわわになる果物は尽きることがなく、今では肉食の動物たちもその果物を食べて満足していた、と。                                                     ところが、山の向こう側に、やたらと大きな舟を作っているやつがいる。 そいつの言うところによると、やがて、‘雨’なるものが降り出して、今みんなが住んでいるところはすべてなくなってしまうという。  それまで雨などというものを見たこともなかった動物たちは、ノアの言葉を信じなかったが、ある日彼の言ったとおり雨が降り出し陸地は水浸しになり始めた。 動物たちは不安に駆られ、自分たちを救済してくれるというノアの箱舟に乗り込みに行く。                                    しかし、ノアがどんなに大きな舟を作ったにしても、世界中の動物たちをその舟に乗せようとしたら、動物たちがかなり窮屈な思いをするのは仕方のないことである。どうしたって、不平不満は起きてくる。 初めて見る雨は、毎日毎日降り続き、うっとおしくてたまらない。 昼には船を自由に歩き回っていいとは言われても、雨が降る前までいた広大な土地とは比べようもない。そして、すぐそばにいるたくさんの動物たち。                                                        最初は、この雨から助かっただけでもありがたいという感謝の念でいっぱいだが、やがて広い大地で自由に暮らしていたことばかりが思い出されて、動物たちは憤懣やるかたなく、怒りっぽくなってくる。 さらに不自由なのが食事である。 ノアは、動物たちのためにオートミール(オートミールというのが、現代的な神話といった感じでなかなか面白い)の食事を準備していた。 動物たちは、毎度毎度出されるオートミールにうんざりし、おいしかった陸地の果物を思い出してはため息をつく。

 こういった閉塞状態は、動物たちの心を不安定にする。そこには、あらゆる考えが忍び込みやすくなっている。 そういった状態の箱舟の中に、作者はスカブという悪を紛れ込ませる。             スカブは楽園だった地上において、唯一肉食の経験があり、肉食という禁断の実に己を委ねてしまったものである。 陸地にあっては陰に隠れ動物たちから厭われて離れて暮らしていたスカブも、箱舟の中では始終顔を合わせている気安さで動物たちから以前ほどは嫌がられないようになっている。 そして、それをいいことに、スカブはいろいろな動物たちの心にさまざまな言葉を撒き散らしていくのだ。   閉塞された世界。 未来が読めない不安。 現状に対するいらだち。 そういった中で、悪は少しずつ頭を持ち上げ、知らず知らずの内に動物たちの心を侵食していく。

 長く降り続いた雨もようやく止み、箱舟はやがて陸地に到着する。動物たちは箱舟を離れ、再び大地へと降りていく。  しかし、彼らは箱舟に乗る前の彼らではない。スカブによって撒き散らされた悪は、ネコ科の動物たちの心にしみこみ、草食動物たちは不安のあまり群れ集まる。 

 そもそも洪水は、おごり高ぶりはじめた人間たちを制裁するために神が起こしたものだった。その洪水によって、動物たちの心の中に悪が芽生えたとは、何と皮肉な解釈ではないだろうか。         それでも、緊張状態を強いられる緊急時の精神的不安を、この作品はとてもよく表わしていると思う。 これは、作者が医者であり、第一次世界大戦に軍医として従軍していたという経験も大きく影響しているのだろう。

 ところで、私には、もう一つの疑問が残っている。 ノアは、動物たちを一つがいずつ舟に乗せたのだが、世の中にはもちろん一つがいずつしか動物がいなかったわけではない。 いったいどうやってその一つがいを決めたのだろうか、そこには壮絶な戦いがあったはずではなかったか、ということである。でも、この疑問に答えてくれる人は、きっといないのだろうな。 

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