金星の日面通過
 2004年6月8日(火) 金星の日面通過が日本で見られます。地球−金星−太陽と一直線に並んで、地球から見ると太陽面の中を金星が移動していく様子が見えるはずです。この現象は1882年以来122年ぶりの現象で、日本では1874年以来130年ぶりとなります。
 いったいどのように見えるのでしょうか? また1874年の日面通過のときには各国の観測隊が日本にやってきたという記録があります。昼間であれば世界中で見ることのできる現象を、なぜわざわざ日本にやってきて観測したのでしょう?

日面通過はいつおこる?

 太陽−金星−地球と並ぶとき 金星は「内合」であるといいます。金星と地球の会合周期は584日ですが、584日ごとに日面通過が起こるわけではありません。金星の軌道面は地球の軌道面に対して約3.4度傾いているので、たいていの場合太陽の北か南を通過してしまいます。これは新月毎に日食が起こらないのと同じ理由です。金星が太陽前面を通過するのは非常に稀ですが一定の周期で起こることが知られています。
 金星が地球の軌道面を南から北へ抜ける点を昇交点、北から南に抜ける点を降交点といいますが、昇交点通過は毎年12月上旬、降交点通過は毎年6月上旬です。ちょうどその時に金星が内合になれば日面通過が見られるというわけです。そして1回起こると8年後にまたおこります。しかしその次は100年以上の間隔があきます。したがって短期間に2回の日面通過がセットになっています。(絶対ではありませんが1518年以降3089年まで続きます)表の日付は世界時です。
 はじめて金星の日面通過を予報したのはヨハネス・ケプラー(Kepler, Johannes 1571−1630)です。彼は1631年12月6日と予報しましたが、予報が数時間ずれてヨーロッパでは観測できない時間に日面通過がおこりました。イギリス人のホロックス(Horrocks, Jeremiah 1619−1641)は1639年12月4日の予報を出し、自ら確かめてスケッチを残しています。余談ですがホロックスは若くして亡くなりました。もし長生きしていたらニュートンより先に引力の法則を完成させていたかもしれません。

間隔(年)    年 月 日       状況間隔(年)    年 月 日       状況
105 1631.12.06 昇交点通過後  8 1639.12.04 昇交点通過前
122 1761.06.05 降交点通過後  8 1769.06.03 降交点通過前
105 1874.12.08 昇交点通過後  8 1882.12.06 昇交点通過前
122 2004.06.08 降交点通過後  8 2012.06.05 降交点通過前
105 2117.12.10 昇交点通過後  8 2125.12.08 昇交点通過前

2004年はどう見える?

 上の表から2004年6月8日に日面通過がおこります。日本時間で6月8日(月)14時25分から20時16分の間と予想されます。(1分以内のズレがあるかも・・) 金星が最初に太陽面と接することを第1接触、金星が完全に太陽面に入った瞬間を第2接触、金星が太陽面から離れるとき最初に光球の縁に接することを第3接触、金星が完全に太陽から離れる時を第4接触といいます。
ステラナビゲータ6で計算した各接触時間の予報値をあげておきます。時間は日本標準時(JST)です。
 第1接触(外接) 14h11m20s
 第2接触(内接) 14h30m25s
 食の最大(中央) 17h13m55s
 第3接触(内接) 20h11m49s
 第4接触(外接) 20h30m55s
 このことから、第1、第2接触は観測できますが、金星が太陽面から出て行く第3、第4接触は日本からは観測できません。6月ということから北半球の東ヨーロッパから中央アジア、インド、中国などが観測の好適地でしょう。
 見え方は右の図のように見えますが、金星の光っている部分は見えません。金星の位置を示しているだけです。太陽面に黒いシミのようなものが見え、次第に大きくなっていきます。太陽の視半径は約16’ 金星の視半径は約32”(=約0.5’)ですから太陽の30分の1程度、太陽表面の黒点とほぼ同じ大きさに見えます。黒点は濃淡がありますが金星は真っ黒に見えます。図はステラナビゲータ6で作成しています。
 もちろん金星の日面通過を実際にみた人はいませんが、筆者は水星の日面通過を1970年、1986年、1993年と3回観測しましたので想像はできます。

観測の意義

 金星の日面通過が注目されるようになったのはハレー彗星で有名なエドモンド・ハレー(Halley,Edmond(Edmund) 1656‐1742)です。1677年の水の星日面通過を観測した際、金星の日面通過を正確に測定すれば太陽と地球の距離(天文単位=AU)を求めることができると考えたのです。ケプラーの法則により惑星間の距離の比はわかっていましたが、実際にどれくらいの距離があるのかは知られていなかったのです。そして現代でも天文単位を正確に知ることは年周視差の基準であり、恒星の視差を正確に知ることに、ひいては宇宙全体のスケールを知る上での基準となっています。
 ハレー自身ははハレー彗星の回帰も金星の日面通過も見ることはできませんでしたが、後生に宿題を残したのです。
 太陽面上の金星の動きは太陽というスクリーンに投影された影のように見えます。内合時の地球−金星と金星−太陽の距離の比は約2.6倍なので、手前の金星の動きは約2.6倍拡大されて太陽面に投影されます。地球上のA点とB点の直線距離aがわかっているとき、A点とB点の観測でφを測ることができます。
φ  金星の視差θ=φ+σ です(σ:太陽視差)
V:地球と金星の距離  S:地球と太陽の距離(=1AU)とすると
σ=(V/S)θ=θ−φ
すなわち
φ=θ(1−(V/S)) となります。
θとaがわかっていればV そしてSが計算できます。実際には接触から接触までの時間を正確に計れば太陽視差を求めることがでしきます。

 当時としては天文学の一大イベントであり、当時の先進国は世界各地に観測隊を派遣したのです。
 1761年 待ち望んだ金星観測で各国の観測隊は太陽視差を8.6〜10.5”の範囲で求めました。20%もの誤差があるのは、ブラックドロップという現象で正確な時間が計れなかったからです。ブラックドロップは第2接触のとき、金星が太陽内部に入っても数十秒間も外部との間に橋がかかっているように見える現象で当時の望遠鏡の性能が悪かったためと地球大気ゆらぎのためにおこったと考えられています。接触時間が50秒ずれれば太陽視差は約1”変化します。
 1769年には世界各国で観測が成功し、ブラックドロップ現象にも余裕をもって対応し 8.5〜8.9”の値を得ました。なお当時の観測は他の観測地との時間差を知る正確な時計が無かったため第2接触と第3接触の継続時間を測ったと想像されます。そのためできるだけ南北に離れた観測地を選ぶ必要があり、北極地からタヒチ島まで幅広く観測隊が送られました。

1874年の金星観測

 1874年は105年後となり欧米各国が世界70ヶ所以上に観測隊を派遣しました。そして日本にはフランス隊、アメリカ隊、メキシコ隊がやってきたのです。
 当時の日本は明治7年 前年から太陽暦(グレゴリオ暦)が採用されたばかりでまだまだ江戸時代の名残をとどめていて、明治新政府も来日した観測隊の目的がよく理解できず右往左往した様子です。斉藤国治氏は天文月報に「科学の黒船」という表現を使って当時の事情を紹介しています。
 どうにか政府の了解をとりつけた3国の観測隊は、フランス隊が長崎、神戸 アメリカ隊が長崎 メキシコ隊が横浜と当時の主要港町に陣取って観測をしたようです。また日本独自で東京と函館で観測をしたと記録にありますが詳細は不明です。
 右の図は当時の金星の動きを示しています。図はステラナビゲータ6で作成しています。

長崎での観測
 アメリカ隊9名は9月25日に来日した後10月6日に長崎に到着しています。隊長のデビッドソン(Davidson ダビッドソンと書く書物も多い)は星取山(旧名は大平山ですが観測記念に改名されました)に観測点を設けて観測しましたが、当日は薄曇りで正確な観測はできませんでした。
 デビッドソンはロシアのウラジオストクとの電信測量で長崎とロンドン、ワシントンとの経度差を求める約束をしていて曇る確率が高いにもかかわらず長崎を動けなかったと伝えられています。経度観測は成功し、更に東京との経度差も測定したので技師の名をとり、日本の経度原点となるチトマン点を東京都港区麻布台に設けました。

 フランス隊8名は10月3日横浜に到着後長崎に移動しましたが、隊長のジャンサン(Janssen)は長崎の天候に不安を持ち別働隊を神戸に派遣しました。 ジャンサン自身はは金刀比羅山に観測所を設け観測しましたが薄曇りのなかで、第2接触、第3接触を肉眼で観測したものの写真は撮れませんでした。
 写真はフランス隊の観測記念碑で観測後すぐに建立されたものです。

神戸での観測
 神戸で観測したフランス別働隊はドラクルクと日本人留学生清水誠が諏訪山に拠点を設けて観測を実施し観測に成功しています。清水誠は15枚の金星写真を撮影しました。
 このときの観測成功を記念して名付けられたのが諏訪山公園の「金星台」で、更にその上に観光名所「ビーナスブリッジ」が作られました。神戸の異人館街から西に15分ほど歩いたところにあります。
 清水誠はその後日本のマッチ製造の祖となるため現在でもマッチ関係の企業がお参りにくることがあるそうです。
 石碑が建てられたのはそれからしばらく後になってからのことで、生田神社の折れた鳥居の一部を使ったとも伝えられています。
2008年5月3日に取材をおこないました。碑の前にある解説文には当時の観測状況の写真もありました。

横浜での観測
 メキシコ隊5名はコバルビアス(Covarrubias)を隊長として11月9日に遅れて来日したため、移動日がとれず横浜で2ヶ所に分かれて観測したそうです。
 当日の横浜は快晴で観測は大成功し 技師のバローソが17枚の写真撮影に成功しています。またこのとき日本の海軍士官など数名が観測を手伝ったと記録にあります。この顛末は「ディアス・コバルビアス日本旅行記」(Viaje al Japon)に詳しく紹介されています。
 メキシコ隊は帰国時に日本の青年屋須弘平をともないました。屋須はメキシコからグアテマラに渡り写真家として生涯を終えたとあります。
写真は1974年 観測百周年を記念して神奈川県青少年センター内に立てられた記念碑です。

関連サイト

金星と水星の日面通過 天文ソフトGuideによる計算結果
長崎金星観測碑 府中天文同好会「星のない夜のページ」に長崎金星観測碑の記述があります(リンク切れ)
神戸金星観測碑 ビーナスブリッジの名前の由来となった神戸金星観測碑(リンク切れ)
横浜金星観測碑 神奈川県立青少年センター内にある金星観測碑

参考文献

斎藤国治 「科学における黒船、100年前の金星日面経過観測」1974年2月号,天文月報
斉藤国治 「星の古記録」 1982 岩波新書
森久保茂 「金星太陽面経過観測記念碑建設について」 1975年4月号,天文月報
ディアス・コバルビアス 大垣貴志郎、坂東省次(共訳)「ディアス・コバルビアス日本旅行記」1983 有松堂出版

2003.01.08
2003.12.30
2008.05.03

2012年の日面通過と過去の金星観測

 2012年6月6日(世界時では6月5日) 最初の記事を書いてから9年が経ち、実際に金星の日面通過を見ることができました。午前7時11分から欠け始め午後1時44分までの5時間半にわたって太陽の前を通過する金星を観測できました。
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過去の金星観測エピソード抜粋

 先人の記録に思いを馳せながら太陽と地球の距離測定物語を思い起こしました。
 はじめて太陽中の金星を見たのは1639年12月にイギリスのエレミア・ホロックス(Jeremiah Horrocks) とその友人のウィリアム・クラブトリー (William Crabtree)が最初です。ホロックスは金星の太陽面通過はおこらないとするケプラーの予測を自らの計算で退け、小さな望遠鏡がつくる15センチメートルの投影像のなかに金星を見たのです。また同日の日没直前にはクラブトリーが観測に成功しました。しかし残念なことにその記録は埋もれてしまい最初に日の目を見たのは1662年、さらにその公表記録も埋もれてしまいハーシェルが再び発表するまで200年もかかりました。
 17世紀のハレーが、金星観測を1天文単位の距離測定に利用できることを思いついたのは上に述べた通りですが、この現象を観測しようとした1761年と1769年の金星観測騒動は読んでいて涙が出てきそうです。
 1761年 金星食が最初から最後まで見られたのはシベリアからインド、東アジア地域でした。そのためヨーロッパから未開の地へ海や荒野を越えて観測隊が送られました。鉄道も舗装道路も無い当時の世界情勢からみれば地の果てに探検に行く感覚だったに違いありません。シベリアの道無き道を荷車に望遠鏡を積んで運んだら目的地に到着して望遠鏡が壊れていたという話、同じく望遠鏡を空に向けているところを現地人に誤解されで襲撃されすべてを捨てて逃げ帰った話など枚挙にいとまがありません。
 イギリス隊のメイソンとディクソンは戦争に巻き込まれ死傷者を出したあげく港に逃げ帰りその後出航すらできませんでした。(この二人の名前はメイソン・ディクソン線としてアメリカの地図でも有名です)
 フランスのルジャンティユはインドまで遠征し観測をしようと船で出航しましたが目的地がイギリスに占領されてしまい上陸できずに船上で金星を見ることになってしまいました。揺れる船の上では満足な結果も得られず、彼はインドに残って8年後の1769年に賭けることにしたのですが、1769年の当日は曇り空で彼の努力は無駄になってしまいました。失意のうちに11年ぶりに帰国した彼を待ち受けていたのは、自分自身の死亡通知とそれにともなって妻は再婚し財産はすべて親戚に分けられているという事実でした。
 1768年に出航したキャプテン・クックはタヒチへの途中でイースター島を発見するなど成果をあげ、タヒチでの金星観測にも成功しました。しかし多くの船員が原因不明の病気に罹り半数近くが命を落としました。現在ではビタミンCの欠乏による壊血病だとわかっていますが、帰国できた者も長い年月にわたって壊血病に苦しんだのです。
 18世紀から19世紀にかけてのフランスは測地学で世界をリードしていました。地球の大きさを正確に測定しメートル法を定めましたが、世界各地に送られた観測隊は危険な冒険を強いられ、インディ・ジョーンズを地で行くような活動をしたのです。金星観測もそうした数あるエピソードの一つにすぎません。

2012.06.11


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