前の記事 次の記事

1910年5月19日

 フレンマリオン氏は・・・(中略)・・・尾の内に含まれる水素が地球の空気中に存在する酸素と化合すれば、人類は皆窒息して死滅する。もしまたこの反対に空気中の窒素が減ずる場合には人類はいきおい狂気の極に達し、踊ったり跳ねたりして、ついにやはり死滅せねばならぬはずだと述べた。・・・・(中略)・・・・ハレー彗星の太陽面経過が我が国の真昼間に起こる以上、欧米の各国にあっては、この現象があたかも夜間に属する勘定。したがって欧米地方は裏側ないし横側から包まれるるわけで、頭上から直接に遣らるるのは我が国をはじめ、アジアの東部、豪州、マレーの方面のみといわねばならぬ。

大阪朝日新聞 明治43年5月19日

解説
 人類死滅説はフラマリオン(Flammarion,Nicolas Camille 1842‐1925)が言いだしました。フラマリオン(当時はフレンマリオンと呼んだらしい)は火星の観測者として火星の季節変化を記録したことでも有名な天文学者です。


 通過の時刻は十九日の午前十一時二十二分に太陽一縁からはいって、午後零時二十二分に終わる算定である・・・・地球に最も接近するのは二十日の午後九時頃だという。クロンメリン博士の計算では、その時地球との距離は千四百三十万マイルになるのである。しかし、彗星の尾が地球を包んで人畜に危害を及ぼすであろうと杞憂されておる。その時は何日の何時であるか予知する事ができない。

伊勢新聞 明治43年5月19日

解説
 クロンメリン(Crommelin, Andrew Claude de La Cherois 1865−1939)はイギリスの天文学者で、彗星と小惑星の軌道を研究し、1907−1908年にハレー彗星の軌道を紀元前にさかのぼって求め観測記録と対応させるなど、当時の軌道論の第一人者です。もちろん1910年のハレー彗星の回帰軌道を当時としては最高精度で正確に求めたのも彼です。
 太陽−彗星−地球と一直線に並び、地球から水星の日面通過が観測できる可能性を唱えたのは当然でしょう。彗星の尾は太陽と反対の方向にできますので当然地球は水星の尾に突入するのですが、尾には前述(5月4日)のように2種類あり、太いタイプUは湾曲しています。湾曲の形は今でこそシンクロン(等時放出曲線)とシンダイン(等斥力曲線)という関数で表せますが当時は予測不能でした。(もし計算式がわかってもコンピュータの無い時代には計算不可能な計算量の多さです。)

 唐天竺から渡って那須野ケ原の殺生石に化けたという野狐さんの尻尾も金々まんまんの立派なものであったあったろうが、いよいよ本日の午前十一時二十二分に太陽面を西の方から通り始めて、午後零時二十二分に通過し終わるハレー彗星の尻尾は、二千万マイルないし三千五百万マイルの長さを有するというドエライものだから、とても野狐さんの金々まんまんどころではない。長い軌道を大うねりにうねって七十五年目に漸く一回の出現、大変な長生きでもする人でなければ、二度と再びお目にかかることはできないから、十分の敬意を表して歓迎をしなければならぬ。なんでもアメリカのアイオワとかいう所の迷信家の一団隊は、このドエライ尻尾にぶつかっては大変だと大きな洞穴を造って逃げ込む支度に取りかかったので、新聞という新聞がこの文明の世に面白い現象だといって、昨今しきりに囃し立てているということだが、お近い所の韓国あたりでは、この彗星の出現をもって自国滅亡の前兆なりとし、夜の目も寝られぬ大心配。迷信にかけては世界一等の称ある清国ではいうまでもなく上下こぞって恐惶頓首。もひとつお近い所の信州諏訪の明神にはご同様の迷信家が除難の赤飯を献げるので、駒ケ岳がもひとつでき上がったという大騒ぎ。しかし実際がその尻尾はドエライものでも一向手ごたえのない軽いガス体のようなもので、学説通り地球をきれいに包んでしまったところが、地球の周囲におし詰まっている空気の密度が彗星の尻尾に比しては金鉄よりも堅いから、決して尻尾のガス体がその金鉄を破って我ら人類に毒害を与えるようなことはないから、洞穴に潜りこむことも、赤飯を炊くこともない。この前々、すなわち今から百五十年ばかり前に出現のおりも、火が降るという説が次から次へ伝えられて、アイオワ流に山や谷の中へ洞穴を造ったことがある。田舎などへ行ってみると今も立派に洞穴が遺っているが、その時の彗星と地球の距離は、今度の千四百万マイルに比しザッと三分の一の五百万マイルばかりであったというのに、一向人類も死滅せず今に連綿として続いていることをみれば、いよいよもって心配はない。ただ太陽面を通過する時に線光を遮るため、いくらか暗くなるかも知れぬ。

大阪朝日新聞 明治43年5月19日


 あたかも地球は彗星の尾の腹中に鵜呑みにされたという形になる、と聞いてみると、なまなかに天文などを解した人間が毒ガスのために全世界の生物は全滅するなどと騒ぎまわるも無理ならぬ事だ。 ▲人類は安全なり 現に気早い米国人などは、穴を掘って逃げ込む仕度をしているそうだが、実際は驚くべき問題でもなんでもないので、さきにも言ったごとく、彗星の尾は非常に小さい。つまり非常に稀薄で、核に近い所で十分の一ミリメートルの圧力を有するにすぎぬと計算されている。されば尾の末の方になれば、その稀薄な事お話にならぬくらいである。ところが地球の空気の圧力は通常七百六十ミリメートルである。もちろん、空気の百マイルもあるので、その外面はごく稀薄であるから、多少は彗星のガスが侵入するかもしれぬが、吾人の生存する地球の表面までは達せぬ事は分かり切った道理である。仮に達する(無論ないが)としても、彗星のガス体は炭素と水素の化合物、炭素と窒素の化合物、炭素と酸素の化合物との三者にナトリームと鉄とを含有しているので、人類には少しも有害でない。 ▲多少の変化あり よし有害であるとしたところで、全世界のすべての人が滅するのであるから、男らしく諦めて観念するが善いではないか。しかし、さいわい以上のごとく分かってみれば、臆病風に襲われた連中もさぞかし胸撫で下ろす事であろう。もっとも天空においては何か変化があるかもしれぬから、学者はもちろん、一般の人も天をにらんで大いに研究せねばならぬ。

中央新聞 明治43年5月19日

解説
 那須野ケ原の殺生石には、9尾の狐の妖怪が石に化けて近づく者に毒気を出して命を奪ったという伝説があります。野狐さんは「こんこんさん」と読みます。火山地帯ですので殺生石の周辺は硫黄のにおいがたちこめています。右は殺生石の写真です。
 日面通過当日になって、さすがに悲観的な憶説や流言飛語に責任を感じたのか、朝日新聞もマトモなことを書いて人心を落ち着かせようとしています。
 韓国人にとっては李王朝の滅亡、中国人にとっては翌年の辛亥革命での清朝滅亡と、まさにハレー彗星は凶星だったのかもしれません。王朝や体制の交代が200年ごとにおこるとして、世界に100の体制があるとすれば2年に一度は交代がおこりますので、世界中でなんらかの交代劇が起こっていることになります。
 1997年 香港返還・金正日総書記就任・世界同時株安
 1998年 アジア危機・インドパキスタン核実験・ドイツ社民党政権誕生
 1999年 東ティモール独立・インドネシア政権交代
 2000年 台湾の国民党支配終わる
 2001年 同時テロ事件・タリバン政権が終わる
これらはヘールボップ彗星の影響でしょうか・・・もちろん違いますね。


待ちに待ちこがれたハリー君が太陽面を通過する当日となった。朝来天は曇って日の光も鈍く、なんとのう世界の終焉を思わしむる
△いよいよハリー君が地球を尻ッ尾に巻いてしまうのかと、大いに勇んで天文台へ出掛けると、玄関には「十九日は繁忙につき、観測に関する来訪者の面会は午後一時よりと定めたり」と貼紙がしてある。
△時計を見ると午前九時だ。まア裏の広場へでも行ってハリー君を寝て待とうと裏手に回ると、平常はひっそりしている高台の広場も、今日はチラチラと人影が見ゆる △いつか天の一方より旭の光が見えて、日本晴れの好天気となった
△こんど新築された分光儀室にはヘンテコな器械が据えつけられて、時計仕掛けで微妙な音をたてて動いている。反射鏡より室内に反射した光線をまたヘンテコな器械に受けて、平山博士は何かコソコソやっている。台長寺尾博士は空を仰いで「やア天気がよくなったぞ」とニコニコ
△しばらくすると濱尾大学総長をはじめとして、新聞記者がドヤドヤやって来た。天文台も、台長以下小使いに至るまで顔揃いだ。「珍しく御歴々が揃ったね、これもハリー君の御引合わせだ」と某学士がいう
△広場に据えつけてある望遠鏡の側へ高橋、田代両助手がやって来て、白紙を広げて光線をとると、珍しい大きなスポットが点々と見ゆる。気の早い連中は、「これがハリーですか」と温気に逆上の気味だ
△平山博士は第一赤道儀室に入ったり、分光儀室から出たり、汗タラタラで駆け回る
△「さアもう二分だぞ」と皆騒ぎだす。「早く念仏を唱えろ、モウ二分の寿命だ」と、レンズの下に紙を広げて見ている。一分−−二分になったが、ただ雲の影がチラチラ映るのと、スポットが見えるばかり
△「ヤット生きのびたね」と野次っている間に、太陽写真機室では戸田氏がしきりにたいようを撮影している。「なにしろ一世一代だから、滅茶苦茶にウント写してやる」と、意気はなはだあがっている。なんでも十五分ごとに撮影するのだそうな △高橋助手は「どうも見えかねますね」と、赤道儀室から出てきた。「どうも駄目です、が時間が遅れたのかも知れません」という △「オヤオヤ十一時二十二分というのは間違いですか」と聞くと、「イヤそれはけっして間違いはないが、しかし遅れる事がないともいえぬ。ハリーが始めて見へた時には一月も違って地球から見えたが、後に二十日となり一日になって、今日では一分秒をも間違わさぬやうになったが、こんどの彗星の出現を計算したのに二ツの方法があって、一ツは一時間も遅れている」と。そこへ田代助手がやって来て、「十一時二十二分というのはベルリンで計ったので、諸方の観測も一致しているから間違いはないでしょう」という
△望遠鏡のレンズを見ていても、なんの現象も起きない。後には、一点の雲すらなくなった
△ドイツ人が二人やって来たが、なんだかわからぬものだから、直に帰ってしまった
△「おい品川でも見ようか」と記者連はレンズを品川沖に向けて、「やア首無しの首が浮かんだぞ」と、モウ飽きてきた
△午砲が鳴ってもなんのことはない。「モウ彗星の尾に入ったでせうか」と聞けば「無論入ったです」と、助手はいう。無論であろうが、我々には無論わからなんだ
△零時半になってもなんのことはなし。ただ時計の音がギーギー鳴るのみ「そろそろ腹がスイ星だ」
△一時になっても平山博士の手があきそうにないので、貼紙どおりの話も聞かれぬ。「全体ドウしたんです」と、皆高橋助手を包囲して迫ると、「ドウもわかりかねます。全体彗星の尾というものはいろいろ曲がっているが、今回はドウ折れているかわからない。尾の曲がり工合で太陽面を通過して後に地球が尾に入るのと、太陽面を通過せぬ前に尾に入るのとがある。今回はドッチかわからない。あるいは太陽面に入らぬ前に包まれたのかもしれません。もしまっすぐな尾なら、今頃は地球が中に包まれています」という。なるほど理屈は理屈だが、我々下界の者にはわからない。「では、入ったか入らぬかわからないンですね」と迫れば、「なんらの現象がないときにはわかりません」という。サアいよいよ平山博士をとっつかまえねばわからなくなった
△これだけ原稿を書いて電話口に行こうとすると、平山博士が助手に、「いまだ何も話すことはないから、面会を断ってくれたまえ」といい捨てて、ポイと器械室に逃げ込んで、ホイ逃がしたり
△満鉄の龍居頼三氏がやって来て、「見えませんね」とまぶしそうに天をにらんでいる。皆レンズの下に寝転んで天を見つめているが、スポット君が見えるばかり
△ドウかして平山博士をとらえようと苦心惨憺ヤット便所に擁すると、博士は手を洗いながらサテ曰く
△「どうも判りません、又判らないのが本当ですね」おやおや「はじめから東洋にある天文台のレンズでは迚も観測が出来まいと思っていましたが、果たしてそうでした。日本は観測の好位置を占めているけれども、残念ながらレンズのいいのがありません。此のレンズで見えたら不思議ですね、記録を破るものでせう」と手をふきふき、「なにしろ太陽の光線が強いものだから、彗星の稀薄な光は圧せられて見えないのです。残念ながら、太陽面に入ったか入らぬかも見られません」と笑いながら、「今夜ですか、まだ太陽に近いからしばらくは見えないでしょう」と、コソコソと去った。ああハリーの畜生、ついに見えやがらざるなり。

毎日電報 明治43年5月20日


 午前九時というに、急ぎ天文台に馳せ参じたる記者は、十時頃空晴れ渡りたるにこれぞ彗星日和よと、すぐさま庭前に据えつけたる望遠鏡の下に致して下より望めば、眼はさながら溶けんばかりの熱さ。ハッと驚き迷ううち、台員来たりてそは危うし、この望遠鏡は日光を透しあればかくせよと、白紙一枚取り出し、鏡口の下三、四寸のところに止むれば、太陽は強き光を投げて紙上に映る。瞳を定めてよく観れば、大陽の中心より少し上部に三、四点の黒きものあり。うち二点は大なり。これを太陽の斑点といい、常に太陽面を運動しつつあるものなりと。かくて時は流れて十一時二十分となり、二十一分となり、二分となる。息を沈め瞳を定めて見るに、斑点は依然として太陽面の中心上部にあり、今か今かとドキツク胸を押さえ、一同固唾をのみて見つめたり。このときたちまち見えたツと一声高く叫ぶ者あり。ハッと思いて紙上を見るに何事もなく、見ゆるは斑点の影のみ。何故かと問いただせば、後ればせの誰やらが景気付けの一声だというに、覚えず失笑しつ。十一時四十分に至れどなお変化なく、十二時に至れど同じく影も見えず。零時二十二分予定の通過し終る時刻にいたりて、ついに見えず。一時半、二時となるも、依然なんら変化も見出さず。

日本 明治43年5月20日


理科大 中村博士語りて曰く
 天文台ではついになんら発見するところがなかったという話であるが、あれは望遠鏡が八インチであるから、小さくて役に立たなかったのだ。十五インチならばよく見えたかもしれぬ。はなはだ遺憾なことをしたという人もあるが、十五インチの望遠鏡を持って来ても見えるものではない。我々ははじめから見えないと言っておったが、世間の人が迷信でヤレ地球が破壊するの人間がガスのために浮かれ出すのと騒ぎ出したから、我々も職務上、捨て置く訳には行かないから十八日からたえず観測しているが、写真だからこれを現像してこれを今日までに撮影したものと比較したその上でなければ、なんとも答えられない。いったいハリー彗星の尾は何でできているものか、ということがテンで解らないのであるからなんとも言うてみようがない。もし尾が気体でできているものとすれば、彗星が地球上の空気が極稀薄になっている位置をスッと通過するのであるから、稀薄の空気と気体の尾がグルグルッとなってズンズン走って行ってしまうのだから、地球に及ぼす影響はさほどあろうはずはない。しょせん、現れたときには天文学などあまり開けていなかったから、『ああであったろう』『こうであったろう』と互いに憶説を逞うして以前の記録を参照し、『こういう現象にもならぬか』また『こうもなろうか』とひたすら懸念していたのであった云々。

日本 明治43年5月20日

解説
 新聞記者の観望記です。毎日の記者が東京天文台(現国立天文台・当時は麻布にありました)で見たヘンテコな時計仕掛けの器械とはシーロスタットのようです。シーロスタットとは望遠鏡を暗い部屋の中に固定し、2枚の鏡を動かして天体の光を望遠鏡に導く装置です。分光器のように大きな装置は動かせないのでこのような装置が考え出されました。ただしどの方向でも見えるわけではないので、太陽や惑星などの黄道に近い天体の観測に用いられています。
 さて、彗星はたしかに日面を通過したのですが、正午近くなら尾の物質は希薄すぎて見えるはずもありません。では核はといえば、核の大きさは数キロメートルですから2千万キロメートル先では直径が10kmとしても100分の1秒角程度ですから、当時の世界最大の望遠鏡(口径100cm程度)でも観測するのは困難でしょう。望遠鏡を太陽に向けるのですから現代の技術でも地上から観測する技術はありません。理論上は可能ですが実際にやれば望遠鏡が壊れてしまいます。ハッブル宇宙望遠鏡もけっして太陽方向に向けられることはありません。太陽に大口径望遠鏡を向けるにはよほど特別の装置が必要になりますが、彗星探査機が飛ぶ時代にそのようなことをする必要はなくなりました。
 平山博士(平山信)が述べている日本最大の望遠鏡は1896年8月に北海道で起こった皆既日食を観測する目的で、米国のブラッシャー社から購入されたもので、口径8インチですから20cmです。現在であれば、ちょっと気の利いた高校ならもうすこしマシな望遠鏡が置いてあります。

 いずれも顔は平気であるが、心中不安の点があるとみえ、スタスタ歩きながらも時々まぶしい太陽を睨め上げ、いぶしガラスを持って立つところには見る見る数十の人足を止め、「どうです、見えますか」の質問が矢のごとく起こる。

鍛冶橋
 鍛冶橋の橋のたもとには柳の下に車夫が人を集めて、大いに新聞の受け売りを始め、黒点は見えるが動かぬところを見ると例の黒点であらうなんておおいに通がる。

日本橋富吉町
 薬種問屋では、大僧小僧が「見えた見えた」と頓狂声で喜んだため、せっかく所用で乗り込んだ乗客は電車からバラバラと降りて、問屋の前は一時身動きもならぬ混雑を起こしたが、結局見えたのが薄雲と知れて「なんだ」と、次の電車は満員となる。

本所
 本所の角力部屋は、稽古を終えた裸男二階から屋根に上って騒ぎ出し、角力協会の役員も御多分に漏れずいぶしガラスを順送りにして怪星の正体を人一倍の大目玉で突き止めようと努めたが、二所ケ関が眼を焼いたと聞いて、一同彗星の尾が目に入るくらいなら衝突しても大丈夫と大笑い。

追分辺の学校
 彗星の通過する時間内は生徒をいっさい校庭に出さぬといったから、彗星を怖れてのことと早合点して聞くと先生澄ました者で、「なに、怖ろしいわけはないが、生徒を外に出すと太陽を睨んで肝心の授業に差しつかえるから」との話。。

国民新聞 明治43年5月20日


 朝のうちはドンヨリと空が曇って不穏の状を呈していたから、サー何が起こるのだろうと、電車の内はハリー彗星の噂で持ちきっている。懐中時計はしばしば眺められる。窓から空をのぞいている神経家も少くない。

長野
 十九日午後十一時二十分より杉山、人の顔など、黄色に見えたり。多分彗星通過のためならん(十二時)

中央新聞 明治43年5月20日


新橋
 まず飛び込んだ玉の家栄太郎(三十三)方では十八日夜、いよいよ明日がお陀仏だというので、養女ポン太(十五)をはじめ一味のドラ猫、額を集めて大評定。無け無しの小遣い銭を気前よく投げ出して飲めや喰らえの大陽気。ついに夜を明かして十二時になっても何事もないので、口惜しそうに天を睨んでこの彗星と馬鹿呼ばわり。この散財しめて五円二十七銭也。下谷分君の家奴、神楽坂の小松葉金太などという面々は、暗いうちから飛び起きて神棚前に座込み、南無とアーメンと高天原の合唱に余念なかりし。

牛込・神楽坂
 例の名物、市馬鹿が「芸者は午砲といっしょに死ぬ」と一軒残らず触れ歩いたとやら、びくびくものの猫ども驚くまいことか、なかにはワッと泣き出す騒ぎ。市馬鹿が大声をあげて触れ歩くと、その後から同じく名物、竹馬鹿が「彗星は逃げた」と怒鳴り歩く。それを見てワイワイ囃して騒ぐ野次馬もいいかげんな馬鹿。

夕刊やまと新聞 明治43年5月20日


白山神社
 ・・・・境内は樹木鬱蒼として昼なお暗い所である。おりから昨朝は曇天にして風さえ加わり、なんとなくものすごいような天候であったが、午前六時半、一人の老人がお百度を踏んでいる。孫の病気か子供の災難か、いずれ仔細あることと、お百度の済んだあとで聞いてみると、老人顔をしかめながら、「今夜から彗星と日本がぶつかって人が死ぬという話。家族の若い者はそんな事はないというけれど、なんとなく心持ちが悪いから、お百度を踏んでそんな事のないように家族の安全を祈るのです」と答えた。かかる種類はひとり白山神社のみではない。各所の神社仏閣でもあったとのことである。

二六新報 明治43年5月20日


浅草七軒町の府立第一高等女学校の一、二年の生徒はもう十日も前から、よるとさわると「十九日は私どうしたらいいんでしょう。死ぬなら皆さんと一緒に死にませうね」「わたし母さんや父さんと死んでよ」「だから勉強したってつまらないわ」いずれも小さな胸を痛めて、先生が何といわれても、その話ばかり夢中になっている。恐らく、今日の昼頃は、胸をドキドキさせてる事だろう。

読売新聞 明治43年5月19日

解説
 市井の庶民がハレー彗星についてどう感じていたか、どう行動したかを伝える記事です。おおかたの人々はさすがに死ぬなどとは思ってもいなかったようですが、なにか天変地異があるかもしれないと漠然とした不安を抱いていたようです。粗忽者があらわれホラをふれまわったり、それに迎合する庶民の姿がよくでています。長野では周囲が黄色に見えたとありますが、人間の心理状態を示しているのでしょうか。
 右の写真は大阪の千日前でハレー彗星を見る女性です。(大阪毎日新聞)
 相撲部屋(記事では角力)の力士や役員も見ていたのですが、まあシャレを飛ばす余裕はあったということなのでしょう。直接関係ありませんが二所ケ関を含む親方衆は翌年に総辞職したようです。現在と同じ年寄名も多いですね。(以下にその記事を載せます)


大相撲三日目の大紛糾の責任をとって検査役総辞職
 三日目大紛擾の結果は、わずかに平和に復したる角觝界は、またもや意外の大波瀾を倦き起し、協会は紛乱の渦中に陥りて、一昨夜来凝議の末、昨朝に至り雷、友綱両元締め及び検査役熊ケ谷、尾車、阿武ノ松、二十山、二所ケ関、待乳山、佐野山、花籠、浦風、関ノ戸等十名連袂辞職をなして、今回の責任を負う事となり、雷の手より、左の辞表を提出せり。
御届け(西方力士側に宛てたるもの)
当興行二日目土俵上の勝負に就き、役員の裁決に対し勝負の訂正、並びに各新聞紙上に役員の裁決の謬れることを公表すべしとの御請求に接し候処、既に天下に発表したる今日、はなはだその処置に苦しみ候次第にて、吾々の不徳を謝する外これなく、このたび責任を帯び、辞職仕り候間、この段御届け申し上げ候。 届書(また東方力士側へ宛てたるもの)
当大場所の興行を中止するのやむなきに至り候段、恐懼に堪えず。職を辞して天下に謝するの外なきを信じ、ここに連署を以って辞職御届け申し候なり。
雷、友綱、尾車、浦風、二十山、待乳山、阿武ノ松、花籠、熊ケ谷、関ノ戸、二所ケ関、佐野山。
なお平年寄へは、本場所興行前の紛擾ようやく解決したるに際し、またまたこのたび紛擾を醸したるは吾々不徳の致す所にて、辞職してその罪を謝す、しかし決算は責任を帯び居る事なれば、追って発表すべしと申し送りたり。

東京朝日新聞 明治44年2月8日

前の記事 次の記事


2002.9.23