1910年のハレー彗星騒動

ハレー彗星とは

 エドモンド・ハレー(Edmund Halley 1656〜1742)は18世紀の天文学者です。彼は万有引力の発見者ニュートンの友人で、ニュートン力学を用い1531年、1607年、1682年に出現した彗星の軌道計算から、これは76年周期を持つ1個の彗星であると予測しました。ハレーの死後、1758年にこの彗星が予報通りに出現したので以後「ハレー彗星」の名が付いたのです。それまで放物線を描いて二度と戻ることがないと考えられていた彗星の中に周期的に回帰するものがあることがわかった瞬間です。
 その後彗星の研究は進み、多くの彗星が発見されましたが、たいていは発見者の名前が付いています。発見者ではなく研究者の名前が付いているのはハレー彗星以外にエンケ彗星、クロンメリン彗星などごくわずかです。

 ハレー彗星の名が人々の心に刻まれたのは1910年(明治43年)のことです。彗星は太陽から遠いところでは非常に小さな天体で大型の望遠鏡でも見えませんが、太陽に近づくと表面物質が吹き飛ばされて太陽と反対方向に長い尾が吹き出します。
 前年の1909年9月に発見されてからその軌道を調べると、1910年4月20日に近日点を通過した後、5月19日に地球に最接近し20日には彗星の尾の中を地球が通過することがわかったのです。当時は彗星の正体は小型の天体であることは分かっていましたが成分は不明ですし、尾には毒ガスが含まれているらしいという風説が流れ「この世の終わりになる」のではという社会不安が広がっていきました。
 しかし庶民がどの程度の不安を抱いていたかというと、まあそれほどでもなかったようです。西暦2000年の1月1日にコンピュータが暴走するという科学的な予言(いわゆる「Y2K」問題)と似たようなものだったのではないかと推察します。何かが起こるかもしれない不安とともに何が起こるか見てみたいという期待・・・そして過ぎてみれば「なーんだ」というような安堵と期待はずれ感が当時にもあったのでしょう。

 ここでは当時の日本の新聞記事からそのような社会現象を取り上げてみます。著作権については1948年に失効していますので各新聞社に了解は求めていません。
 記事中の漢字はできるだけ当用漢字になおしてあります。


讀賣新聞 明治43年5月21日より
Aは19日正午前後の位置
Bは20日午前2時42分の位置
1909年10月20日 1910年5月13日
1909年11月12日 1910年5月14日
1909年11月15日 1910年5月17日
1910年3月3日 1910年5月18日
1910年4月29日 1910年5月19日
1910年4月30日 1910年5月20日
1910年5月4日 1910年5月21日・22日
1910年5月6日 外電 その他

参考文献
神戸大学新聞記事文庫
中山茂 日本の天文学(岩波書店 1972)
中山茂 天文学人名辞典 (恒星社 1983)
明治四十三年 ハレー彗星顛末記(社会思想社 1986)
松村巧 近代日本雑学天文史(1991)
朝日新聞
毎日新聞

 1986年春 ハレー彗星は回帰しましたが、残念ながら1910年のような雄大な尾をみることはできませんでした。次回はどのような姿を見せてくれるのでしょうか。近日点を通過して約5年 1991年2月 太陽系の中心部から遠ざかりつつある時 ハレー彗星は急激な増光をしました。土星より遠くにあるため何が起きたのか分かりませんが、まるで核が分裂したかのような急激なエネルギー反応でした。2062年にはどんな姿を見せてくれるのでしょうか。

関連サイト

星の神殿 古天文のページにこれまでの回帰の記録があります。
つるちゃんのプラネタリウム 天文ソフト作家つるちゃんのサイトです。


2002.9.28


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