Alexis Arguello (1)



私が今まで見たBoxingの試合で一番印象に残っているのは、川上と赤井の試合を除けば、青木勝利対エデル・ジョフレ戦。レバー一発のワンパンチKOだった。青木はファイティング・原田ほど知名度はないが、海老原と三人で三羽烏と言われていた。三人の中で一番甘いルックス、そしてハードパンチャー。エデル・ジョフレは、ガードが完璧で顔に傷はまったく無い。顔面にパンチを受けたことの無いBoxerかも知れない(ありえない!)。このエデル・ジョフレと同じものをAlexis Arguelloに感じた。

Alexisは当時史上初の4階級制覇、ジュニア・ウエルターのタイトルを狙っていた。フェザー級で4度、スーパーフェザー級で6度、ライト級で4度防衛していた。ジュニア・ウエルター級にくればいずれ赤井と対戦することになる。注目していた。
私がアメリカで見たのは1982年7月31日ニュージャージーのAtlantic Cityで行われた対Kevin Rooney戦。そういえばリング上でドナルド・トランプの顔も見たような気がする。第2ラウンドKO勝ち、このあっさり塩味勝利は前に書いた。

記録を見るとWBA Junior Welter級タイトルマッチをAaron Pryorと2度している。1982年11月12日(Miami,FL)と1983年9月9日(Las Vegas,NV)。私が雑誌で見たのは、おそらく後ろの方か?Alexisが負けていた。立とうと思えば立ち上がれるのに、余力を残して涙を流して屈辱を選んだように書かれていた。それはそれでチャンピオンの生き方として美しい。アメリカンドリームも充分手にしている。家族のことを思い次なる社会人としての人生を思えば、必要以上のダメージを、人間として機能しなくなるようなダメージを、あえて受けることは無い。屈辱と不名誉を選ぶのも、背負った荷の重さ、男の責任かもしれない。不様にリングに倒れているAlexisにとても心が痛んだ。そしてこの感動を誰彼と無く話したように思う。

しかし翌年何月号か忘れたが再びBoxing雑誌を見て、驚愕した。どうなってるんだろう?AlexisはNicaraguaに戻り、反政府ゲリラの一兵士として、銃を取って戦っていた。銃と爆撃の前に身を晒していた。


Alexis Arguello (2)



私の感動は頂点に達した。亡命してアメリカで身体ひとつで巨富を手に入れた男。アメリカンドリームを手中にした男。KOの山を築き3階級を軽々と制覇し、しかも防衛し続けた男。そして最後、家族のために涙を流し敢えて屈辱を選んだ男。その男があろうことか今度は祖国のために、富を捨て、身を捨て家族を省みず銃を取って戦っている!!聞く人が「まあ落ち着いて」と言うほど感動してまた誰彼と無く話した。
ただこの時点で彼がsandinistaの側なのかcontraの側なのかそんなことは考えなかった。祖国の内乱でギリシャから亡命したクセナキスやメリナ・メルクーリ等とイメージの中で同一線上にいた。

少し冷静になる。彼は何故負けたのだろうか?

まず'82年11月12日の試合。フロリダ州マイアミ、オレンジ・ボール。プロモーターBob Arumは「The Battle Of The Champions」と名づけた。Alexisは妻と家族を愛するクリーンなイメージの貴公子。新しい政権に身の危険を感じ米国に亡命したニカラグア人。一方Pryorは離婚訴訟中、薬物依存症、破綻した生活、ダーティなイメージ。Alexisのボクシング史上初の4階級制覇がかかったこの試合、人気も知名度もひとえにAlexisに負っている。
ただチャンピオン31勝0敗(29KO)、その中に26連続KO記録も含まれる。

ここでまた古い日活映画の様なことが起こる。Alexisを殺害するためにSandinistaが試合前に刺客を放ったのだ。どういうわけかチャレンジャー控え室に護衛の警官がいなかった。銃を持った男がAlexisに近づく。取り巻きが気づいて男を止める。Alexisはシャワールームに逃れる。男は逮捕され、調査の結果Sandinistaの企てが暴露されることとなる。

1,2,3,4回Pryorが優勢、観客は驚く。5回Alexisが応酬、6回は乱打戦となる。7,8,9回は激しい打ち合いのイーブン。この時点でPryorやや優勢。11回Alexisダウン寸前。12回Alexis挽回、有効打を放つ。コーナーに戻ったPryorダウン寸前。この時点で雑誌「Ring」によるとjudgeは124−124の完全イーブン。この直後怪しい出来事が起こる。

PryorのトレーナーPanama Lewisが助手のArtie Curleyが渡したビンを受け取らず「別のヤツ、調合したヤツ」と言い、別のいわくありげなビンをPryorに差し出す。(このトレーナー、後、別の試合で自分のboxerのグローブから緩衝材の詰め物を取り出し相手のboxerを死に至らしめ、有罪判決を受けた)Pryorは吐き出さず、それを飲み込む。
そのビンが実は試合中に外部からPryorのコーナーに持ち込まれたものだとある人が気づき、疑惑が表面化する。数ヶ月に渡った論争となる。WBAはこれを考慮し1983年9月15日の再試合をPryor側に要求することとなった。
ビンの中に何が入っていたのかは、未だミステリー。ただPryorは13回元気回復、全方向からAlexisにパンチを放つ。Alexis、明らかに後退、ダウン寸前。しかしここで耐える。14回必死に挽回をはかる。がPryorがロープにAlexisを追い詰める。そして強力パンチを19発(資料によっては23発)連続的中させる。Alexisの口が開き黒色のマウスピースが見え、顔全体がHalloweenのJack-o'-lanternに見える不気味さだ。眼は眼窩を飛び出たまま宙を舞う。防戦一方、立っているだけのAlexis。RefereeのStanley Christodoulou(南アフリカ)がストップをかけ、テクニカル・ノックアウト。
Alexisが覚醒するまでの4分間、23000の観衆は静まり返ったそうだ。Alexis、試合後入院。雑誌「RING」がPryorを「Fighter of the Year」に、この試合を「Fight of the Year」に、そして後に「Fight of the Decade」に認定、ボクシング史上、最高の試合のひとつとなった。

10ヶ月後ネバダ州ラスベガスで再試合が行われた。10ラウンド、AlexisのKO負け。
Alexis,Pryor両者とも、試合後引退を表明した。Pryorは試合後離婚している。

{参考資料:
「The Battle of the Champions」−Wikipedia,the free encyclopedia &
「Alexis Arguello」−nationalmaster.com,encyclopedia &
「Pryor-Arguello」−antekprizering.com,pryorargeullposter}

いやはや、とんでもない試合だったようだ。Pryorが飲み物の力を借りなければAlexisが負ける筈がない。2度目の試合など、本人はしたくなかったような気がする。

ここでもう一度冷静になる。銃を取って戦っている反政府ゲリラの写真が、どうして雑誌に掲載されるのか。これはひょっとしてpropagandaではないか。
Alexisは1年もたたないうちに引退を撤回、米国に戻り再びリングに立った。


Alexis Arguello (3)



AlexisもPryorもその後何度かカンバックした。

Aaron Pryorは1955年10月20日生まれ。Cincinnati,Ohio出身。ニックネイムはThe Hawk。1976年のMontrealオリンピックに出場している。プロデビューは1976年11月11日。1982年Alexisとの試合より前に、来日、亀田昭雄とタイトルマッチを行い6回KO勝ちしている(Pryor一回にダウンをうばわれているが勝利は一方的)
生涯成績は39勝1敗(35KO)。1996年ボクシング殿堂入り。
1990年代に入りBorn Again、ダーティーなイメージを払拭。クリスチャンになりCincinnatiで教会の牧師をする傍ら、ジムを開き青少年の教育、育成に力を入れている。(ワァ、すごい!!)

Alexis Arguelloは1952年4月19日生まれ。NicaraguaのManagua出身。16歳のデビュー戦で1回KO負けしている。3階級制覇はHenry Armstrong以来の当時41年目の世界タイ記録。 生涯成績は80勝8敗(64KO)。1992年ボクシング殿堂入り。
引退後はPryorとは逆に麻薬常習者となり、法的トラブルを起こし、離婚もした。(人生いろいろ)


1979年Sandinistaが長い反抗の末政権を取ったとき、Alexisは旧政権側の人間だったためか、所有財産及び銀行口座を没収されている。内戦で兄弟を一人Sandinistaに殺されている。(武器を取ってコントラのゲリラとなったのは、そのためか)1980年マイアミに転居、亡命者となる。カストロに怯えるマイアミに居るキューバ人達の間でAlexisはコミュニズムと戦う英雄に違いない。
Alexisでなくても革命は、どんな革命でも、望まない人にとっては、降ってわいた災難以外の何物でもない。フランス革命の時のフランス人、ロシア革命の時のロシア人、中国文化大革命の時の中国人・・。しかし、それ以前の社会が、あまりにも理不尽で、あまりにも残虐な独裁であれば・・・。


BoxingというSport (4)



いつ誰と誰のタイトルマッチかもう忘れたが、SKと府立体育館に試合を見に行った。あっという間のレフリーストップで日本人側が負けた。「早いんじゃないの」観客がほとんどいなくなった後2、30人が残りリングサイドに詰め寄っていた。別に抗議しているわけではないけれど、ハイハイと帰る気になれない。ちょっとした満員電車状態。首を横に振ると、そこにジョー・小泉氏の姿。
「ちょっと早いんじゃないですか」思わず言った。
「いや、選手に必要以上のダメージを与えないという観点から、最近は特に、あれ位で止めて、問題ないんですよ」思わず答えてくださった。その頃ビデオで毎週見ていたので、つい友達のようにカン違いしてしまう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「川上さん来はったよ」
近所の人と表で話していた祖母が玄関に駆け込んできた。えぇ?家の前に靴音が近づいてくる。新婚旅行中の川上選手の突然の来宅。「どうぞどうぞ、お上がりください。して奥様はいずこに?」「ホテルで買い物してるよ」

一番最初は私とchaperonの母を中ノ島のロイヤルホテルのフランス料理のフルコースに招待して下さった。兄には英国製缶入りビスケットのお土産。帰りはタクシーまで手配していただいた。部屋には一緒に休暇中の読売巨人軍柴田勲選手のバットがあった。
2度目は中学の修学旅行で行った東京の学生会館にフィアンセ同伴で会いに来て下さった。
「記念にBruxellesちゃんに何か買ってあげましょうよ」と二人で相談して赤とゴールドのオルゴールを買ってもらった。
英語の教師が走って来て「あれ、川上や、君、親戚か?」と興奮して言ったのを思い出す。
試合でも何度か会った。でもやり取りは手紙が中心。「喘息は転地療法がいいらしい。Bruxellesちゃんさえよければ、今度のフィリピン遠征、連れて行ってあげるよ。気候が変われば、よくなるかも知れない」・・こんな親切なことを言ってもらった人は他にはいない。思えば子供の頃、大沢さんといい、川上選手といい、思いがけない人達に大きな愛を頂いている。病気で生きた心地のしなかった子供時代、精神的には充分以上に人々に支えていただいた。
練習しているおもちゃのグローブを見せた。
「ボクシング教えてあげるよ」と、言ってもらった。
私には沢山のボクシングファンから手紙が来ていた。2年前ボクシング雑誌に書いた記事への囂囂たる反響だ。全部本人に見せた。彼は一通一通真剣に読んだ。

川上はボクシングファンほとんどの人の期待を受けて明大ボクシング部からプロに転向したハードパンチャーだった。’62年7月22日、日大大講堂で行われたサマート・ソンデン戦で9回試合を放棄した(右手骨折で)という理由でボクシング・コミッションから2ヶ月の出場停止処分を受けた。挫折を知らない川上の初めての屈辱。

ボクシングは殴り合いでも、殺し合いでもない、スポーツだ。玉砕が正しいわけではない。次へ向けての身体能力の保持、選手生命の管理、家族のためだけではない、プロとして、限界を見極め敗北を選び取る勇気も必要だと思う。
「試合に勝ちを望むのはボクシング界でもファンでもない。まず川上自身だ。(中略)一番悔しかったのは川上であろう。彼は自ら勝負を捨てた。卑怯者に見えるだろうか?私には勇気のある立派なボクサーに見える。また彼はそうであると、私は思っている(後略)」(プロレス&ボクシング、’62年10月号に中学1年のBruxellesが載せた拙文からの引用)

リング上で死人が出るたびに、世界のあちこちでボクシング廃止論が浮上する。殴り合いなど野蛮だと。しかしそれは見ている心が野蛮なのだろう。奴隷を死ぬまで戦わせる暴君ネロの心境がどこかにあるからだ。スポーツとしてルールを考え、選手の身体機能の保持を考え育成を考え、人生を鍛える格闘技としての「道」を考えれば、そして安全指導を徹底さえすれば、廃止などとんでもないことがわかるだろう。
ボクシングがあるからこそ、這い上がってこれる人、這い上がろうと努力する人、世界のあちこちにごまんといる。

涙を流して余力を残して立ち上がらなかった、ネバダ州ラスベガスのAlexisの姿。今から思えば、そこに、家族に対する男の責任や、美学を見て感動したのではない。ボクシングというスポーツに対する愛と、非難に耐える覚悟と、恥を選び取る勇気を見たのだと思う。


Alexis Arguello (5)



武器を捨て米国に戻りカンバックした後どんな人生を送ったのだろうか。85年、86年、94年それぞれ1試合のみ、それぞれ1勝。最後の試合は95年無名選手Scott Walkerに判定負け。さらにザッと資料をあさってみた。

今年の3月29日garnespot.com/ps/sports/knockoutkings2001/に意外な記事。
Alexis,Electronic ArtsとSonyとNintendoを訴えるという見出し。The knockout Kings2001というゲームソフトがあるらしい。登場するのは重量級ファイター、Muhammad Ali,Oscar de la Hoya,Evender Holyfield,Lennox Lewis,Naseem Hamed等。3年前の2001年ファンがそのゲイムソフトにサインをしてほしいと差し出すまでまさか中量級の自分がゲームのキャラクターに使用されているとは夢思わなかったらしい。Los Angeles Timesによると裁判は現在進行中。

もうひとつ。2002年2月25日、latinosportslegends.com/2002/によるとあくまでもこの時点の話だけれども、Alexisの伝記映画、制作予定とのニュース。Ron HammadのFor Ever Filmという会社が名乗りを上げた。Arguello役の俳優にはAntonio Banderasの名が上がっている。1974年Ruben Olivaresを下しWBAフェザー級チャンピオンに。その後ジュニア・ライト級とライト級の世界チャンピオン。ジュニア・ウエルター級のタイトルをかけたAaron Pryorとの2戦は以前に書いた。あれを思い出すだけでも確かに充分映画になりえる。

そして2000年、espn.go.com/boxing/columns/にTim Grahamの書いた記事、Arguello:I wanted to dieを発見、釘付けになる。wantedだからこの記事の時点では、立ち直っているわけだ。記事の中で、繰り返された自殺の試みが語られている。

BoxerとしてAlexisが残したイメージは高貴で勇敢、礼儀正しくハンサム、カリスマ性のある成功者、望むものすべてを手中にしていた。あまりの英雄ぶりにSandinistaはこれ以上人気が出ないよう、放送や印刷物に彼の名を出すことを禁止した。

しかし実際には彼は、酒と麻薬に溺れてゆく。

原因のひとつはもはや戦えない年齢の苦痛。スポットライトと人々の賞賛の喪失から来る苦痛。16歳からプロの世界に入り、ボクシング以外、何のなす術も持たない苦痛。ニカラグアの英雄という人々の期待に応えなければということと、現実とのギャップの苦痛。M-16ライフルを手に戦ったあげく手にした社会の不正に対する絶望。米国がNicaragua支援の為に差し出した援助金を個人的にネコババする現政権の役人を目撃して傷つき、自傷行為(自殺)による復讐を考えるようになる。

99年Maraguaの新聞”La Noticia"に「今一番望むのは誰かが私を永遠に眠らせる注射をしてくれないかということ」とスペイン語で語った彼。Pedro Fernandezのラジオ番組”Ring Talk"でも「私は死にたい」と漏らす。FernandezはCaliforniaのBetty Ford Centerで治療を受けるようわざわざManaguaまで説得に赴くが,全く耳を貸さない。「もうどうしようもない」と当時28歳のAlexisの長男が言う。「財産すべてを売り払うところまできていた」−

2000年1月Managuaのインターコンチネンタルホテルでスコッチとワイン、コカインをのんで荒れ果てたAlexis。すでに彼との間に2人の子供を生んでいるガールフレンドのAliciaが、家に帰ろうと言うと、抑制のきかないAlexis、彼女を突き飛ばす。逆上して反撃しようとする女の首を絞め殺しにかかる。自分の行為にうんざりして2週間落ち込むAlexis。Aliciaはプレスにぶちまける。ついに自らHoderaリハビリセンターに入所、そこで2ヶ月過ごした。ー

それからアルコールや薬物は手にしていない。悪習は3度目の妻から受け継いだMarlborosの煙草だけ。リハビリ中、女中毒も克服した。Alexisジュニアが語る。「あの状態の人間で、最も重要なことは『助かりたい、人生をやり直したい』、と本人が思うこと。自分でそう思ってくれて僕も嬉しい」−

「朝起きて、昨日何があったか、思い出せるのは素晴らしい」とAlexis。「それに気づけるのは、すごい」と、Alexisジュニア。

ボクサー時代のAlexisからは全く想像も出来ない日々が、引退後の彼に待っていたようだ。現在彼の印刷会社は順調な筈。元世界チャンピオンのプライドで公私共に復活してほしい。


Sandinistas・オルテガ (6)



The Clashというバンドに「Sandinista」というタイトルのアルバムがあるらしい。どんなコンセプトのアルバムなのだろうか?
また私のメモによると「Contra」というビデオゲイムがコナミから発売されている。どういう解釈の元で作られたゲイムなのか?

中東戦争をイスラエル側から見るか、パレスチナ側から見るか、と少し似ている。双方命を懸けて正義の側で戦っていた。簡単に言うと、反米か親米か?マスコミの論調は一般的に反米側なので7分3分でコントラとイスラエルが悪者扱いされているのではないだろうか。

Alexisが戦ったSandinistaとは?
悪名高きSomoza独裁政権を倒し1979年から1990年まで権力の座についた組織で、その間アメリカが支援するコントラと内戦状態にあった。

1990年「The Japan Times」を読んでいて信じられない記事を見つけた。1990年2月25日平和に行われた民主主義的な選挙でニカラグアの政権が変わった。それも血みどろの戦いではなくオルテガとチャモロ未亡人が仲良く握手しているではないか。ええェ!!あのドロドロはいずこへ?さらに感動的なのは、翌26日、オルテガがした政権譲渡演説。
「我々は勝利して去る。血と汗を流してきたのは政権にしがみつくためではなく、1821年の独立以来、拒否されてきた何ものかをニカラグアにもたらすためだったのだから。
(略)ニカラグアとラテンアメリカにいくばくかの威厳と民主主義と社会的公正をもたらしてきたことを我々は誇りにおもう」・・
FSLNつまりSandinistaは野党になった。よく読むと元々打倒ソモサでオルテガとチャモロは共に戦っていた。その後、身内同士もふた手に分かれて、ニカラグアの政治人は複雑怪奇な争いの渦に巻き込まれていたようだ。−
Sandinistaの大統領オルテガの引きの見事さが強く印象に残った。

ところが、ダニエル・オルテガが革命の英雄かと思ったのも束の間、革命史とは別枠で、とんでもない記事に遭遇してしまった。

1998年30歳の養女ソイラメリ・ナルバエス・ムリロが、11歳の時から12年間に渡って性的暴行を受けていたと告発したのだ。
彼のように多忙な人間には性的な解放が必要なのだ。犠牲になることで彼女はサンディニスタの大義を助けているのだーと言い聞かせていたらしい。かつてサンディニスタ派だったエル・ヌエボ・ディアリオ紙は40ペイジに渡る告発の全文を掲載した。

オルテガは10代の頃から結成されて間もないFSLNに参加し、都市ゲリラや革命のための銀行強盗をやったりした。1967年にはソモサの国家警察に捕らえられ7年間を牢獄で暮らした。彼がニカラグアの大統領になったのは1984年、出獄後10年目である。

ソイラメリの夫アルハンドロ・ベンダーニアは何年もの間オルテガが彼の若い妻に暴行する前で、何も出来ずに脅えていた恥ずかしさを告白した。ラテンアメリカでは養女に対する性的暴行は長い間大目に見られてきた。オルテガの暴行を知っているサンディニスタの古参兵も、オルテガの政敵でさえもが、口を閉ざしてきたし、今も口を閉ざしている。権力を持つ男性の特権に従順な風土も忘れてはならない。
{参考資料:「革命勢力の凋落のとき」−
http://www.ne.jp/asahi/hari/nature/report_1/puente/他}

オルテガの性的暴行から、Sandinista革命の正否を問うつもりはない。さらに’風土’を持ち出せば、人格を問うことさへ出来ない。ただ「サンディニスタの大義のために」養女が性的暴行を受ける必然性、関連性が、全く見当たらない。
もうひとつ、コントラとの戦いがもたらした経済的損失を考慮しても、オルテガが大統領時の30000%のインフレ率を考えるだけで、Sandinistaの統治能力がわかる。明白であるのに余り認識されていないこと。武装革命組織が突然政権を持つとどうなるかということは、想像して余りある。Alexisが武器をとったのもわかるというものだ。革命力と統治力は全く逆ベクトルなのだから。政権譲渡こそが必然だったのだろう。そして何も知らないものだけが、「演説」などに感動する。

参考お勧め資料:
http://www10.plala.or.jp/shosuzki/history/nicaragua/nicindex.htm#ニカラグア革命史