Pipeline surfboards  40 th  anniversary         

                         パイプライン サーフボード 40周年を迎えて

 

     

 

このたび、パイプライン・サーフボードは、2012年で40周年を迎える事に

なりました。  つきましては、パイプライン・サーフボードのスタッフ、そし

て、お客様に心から御礼申し上げます。

 

また、なかでも東京・高円寺の「SUBSTANCE SURF」のオーナー諸井さ

んとは長年に渡り、パイプライン サーフボードの総代理人として、盛り

立てて頂けたことは、「波乗り」しか無い私にとっては、このパイプライン

サーフボードの生命を繋ぎ続けたと言える存在であり、本当に感謝して

おります。

 

そして、この40周年を記念して、私に近い年齢の方にも乗りやすいNEW

モデルを発表させていただく事になりました。 

是非一度、SUBSTANCE SURF(販売代理店)へ、お越し頂き、実際に

手に取って見て、感じて欲しいと思ってております。

 

今後とも、パイプライン・サーフボードを宜しくお願い致します。

                              

                             平成23年12月30日

                           PIPELINE SURFBOARDS

                                   坂本 昇

      

 

 

             

 

          「40年を振り返る」

 

坂本昇 現在65歳  

終戦(太平洋戦争)から4年目の1949年 (昭和24年)に生まれる。

写真は、3歳だと思う。覚えてはいないが左手は骨折。 

実家の前での貴重なショット。 

後ろに写るのは60年前、戦後(終戦)にして 7年経った東京は葛飾

の金町にあった「坂本家」である。

 

     

 

小学校5年で、家族は湘南に移ることになり、時代は当時17歳、

1966年以前、江ノ島を目の前に私は、片瀬西浜海岸に住んでいました

 

               

 

              

 

上の写真は、江ノ島東浜海岸、当時の海岸沿いの建物は独特の雰囲

気がありました。古い写真です。

私は波があれば、「漁師の船の床板」を持ち出し、毎日のように海に行

っては波に乗っていました。 

普段の海辺には、人影も少ないが、しかし,夏になると、それは凄い人が

海に押し寄せました。 

江ノ島の海岸には、海水浴客、そして若者達が集い、海の家にはジュ

クボックスがあり、ベンチャーズのエレキギターの曲が流行っていま

した。

 

しかし、まだ、海の中にはほとんどサーファーはいなく、私一人、あの湘

南の海が 「貸切り状態」 に思えた記憶があります。

そんな木の板切れで腹ばいで波に乗っていた時、私の目の前を、軽や

かにロングボードに乗っているサーファーがいました。 今は亡き、エド

小川氏です。

そして、時が経ち、私はベルジー・サーフボードに出会うのでありま

した。

ひょんな事で手に入れたベルジーサーフボードが、私をこの世界に引

ずり込み、このベルジーで、初めてのテイクオフをするのです

 

 

 

  

 

写真は1966年の頃、稲村ポイント。 

日本のサーフィンの先駆者である

佐賀兄弟のお兄さんが撮ってくれて、プレゼントとして頂いた大切な物

です。 

木の床板から、サーフボードへ移った17か18才の頃。 

私、坂本が持つサーフィンの写真で最も古い物であります。

 

その初めて乗ったベルジー・サーフボードは、型で出来ているモールド

ボードであり、長さ3m20cm で、とても重量のあるサーフボードであり、

60年代「BEACH BOYS」のレコードジャケットに写るロングボードその

物でした。 

私がずっと使用していたこのボードは、今も、八丈島のバンガロー

COOの吹き抜け天井に飾ってあります

 

 

  

 

このパイプライン40周年を機会に、昔の懐かしい写真アルバムを開いて

みる事にしました。 

まさか、自分自身のサーフィンの根源を振り返るな

ど、想像もしてはいなかった事であります。

40年なんてあっという間。

 

この上の左の写真は、当時、若者のファッションをリードしたあの青山の

「VAN JACKET」の新しいコンセプトのクールライダーのフォト・コンテス

トに写真を送った時の物。 

多くの中から14名が選考され、私は見事に1位になり、自家用車スバル

360を貰った。 

まだ、運転免許証も持っていない年齢だった。 

VANとモデル契約を結び、ファンション雑誌の仕事も入り出しました。  

 

                      

 

写真は、鎌倉の峰ヶ原ポイントです。この頃は、この峰ヶ原ポイントが流

行っていて人気があり、よく入りに行ったのを覚えています。 形の良い

波が立っていましたね

 

                            

 

この当時の時代を考えれば、17歳の少年など、小遣いどころかサーフ

ボードを買うお金など、持っていませんでした。 

腹ばいになり、漁船の廃材である板っ切れ(床板)ばかり乗っていた私に

とって、サーフボードの上に立つ事は「夢」であり、初めて立った時の感動

は今も忘れません。

 

                  

 

そして、小・中・高校とでの生活は、あっという間に過ぎ去り、私は高校

生の後半に、「自分のサーフボード」を作りたくなり、自宅のガレージで

2本のサーフボードを作りだしたのです。

 

     

 

サーフィンが上手くなりたい為に、身体も鍛えようとバーベルを持ち上

げていた事もありました。

ここが、サーフボードを作りだした自宅のガレージです。

ジグソーなども無い高校生が、フォームを切り、シェイプをしマスクもせ

ず、真っ白な粉だらけの日々。 

雨が降らないように家の廊下に新聞紙を敷き、グラッシングを繰り返しました。

 

そんな私の姿を見た母親は、「一生のお願いだから、サーフボード屋に

成らないでくれ」 と念を押したのを覚えています。

 

 

 

           

写真は、峰ヶ原ポイント。  

この時点でサーフボードは短くなってきていた。 

時代はショートボードに成りつつありながらも、試行錯誤の連続。 

 

 

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