**** 深江一(Hajime Fukae, M.D.) ****



母方の祖父深江一(はじめ)は明治24年2月に長崎県北松浦郡深江町に生まれた。現在もそこには 深江城跡が 石垣のみではあるが残っている。平戸の祐興館(ゆうこうかん)中学、第五高等学校(熊本)を経て九州帝国大学医学部を卒業した。なお、第五高等学校では、その後に妻となる井上ハシの弟である井上孚麿と同級であったらしい。耳鼻咽喉科で久保猪之吉教 授の下で助手(あるいは副手)を勤めた後に、教授の命により金沢の河北病院に赴任した。その前に祖母と結婚してともに金沢に行った。金沢では、金沢医大 (現在の金沢大学)医化学教室に在籍し、須藤憲三教授の指導のもと若干の研究をし博士号を取得した(扁桃腺、鼻腔及ビ唾腺ノ結石並ビニ其ノ成因ニ就キテ、 昭和3年7月、日本博士録の記載)。そうこうする内に、金沢市西町にて、昔の金沢薬専(薬学校)の土地に開業することとなった。一は手術がうまいという評 判をとり、毎日150人から200人の外来患者を見ていたという話である。毎晩、婦長さんが祖母のところにその数を報告に来ていたとたらちねの母の三四子 は記憶している。九州人らしいおおらかでユーモアに富んだ性格で人に好かれ、山登りが趣味で、日本画もプロ並で、「深江は趣味で医者もやっている」と言わ れていたと言う話である。勤勉で病院は非常に繁盛していたが、昭和7年2月28日(1932)に急性肺炎で金沢医大に入院した後あっさり死亡した。42歳 の短い人生ではあったが、子供を6人も残し、母の記憶では各人にお付きの女中さんが一人ずついたということである。その後、久保教授の命で種村先生という 名前の先生が金沢に派遣され、しばらくの間深江医院として続いていたが、患者の数が激減し、1、2年後に閉院となった。更にその後金沢医大の坂本先生とい う人が後任となったが、祖母と子供たち全家族(母を含む)は東京の目黒区中根町に転居した。金沢の病院の跡は「三共」のビルとなった。

深江一が金沢で個人病院を開院していた当時の風景の黒白写真を My maternal Grandfather, Hajime Fukae, M.D. に掲示しました。最初の画面で*View pictures*をクリックするとスライドショー、あるいはSTOP-NEXTを押すことで一枚ずつを見ることができます。

1. 深江一: 甲状腺ノ神経司(ママ)配ト沃素含量ニ就キテ. 十全会誌, 35(10):2120-2131, 1930.
2. 深江一: 中耳炎における膿の水素イオン濃度とその臨床的意義. 東京医事新報, 2686:5-9 (1739-1743), 1930.
3. Dr. Hajime Fukae: Ueber die physiologische Bedeutung der Gurgelmittel. 含嗽剤ノ意義ニツキテ. 附含嗽剤トソノ濃度. 耳鼻咽喉科, 3(3):53-58, 1930.
4. 深江一. 扁桃腺、鼻腔及ビ唾腺ノ結石並ビニ其ノ成因ニ就キテ.  十全会誌, 35(10):2093-2119, 1930.

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