座談会『日本の朝鮮文化』 − 司馬遼太郎・上田正昭・金達寿のトロイカ

司馬遼太郎が上田正昭と金達寿の三人で古代日本の朝鮮文化の問題について検討を重ね、その 成果を雑誌『日本のなかの朝鮮文化』に誌上座談会として発表し始 めたのは1971年からである。この三人にゲストを加える形で座談会は78年ま で延々と続き、その記録は、中公文庫の『日本の朝鮮文化』『古代日本と朝鮮』『日本の渡来文 化』『朝鮮と古代日本文化』の四冊となって残っている。これに後の韓国知識人を交えた座談 会記録である『日韓理解への道』『日韓ソウルの友情』の二冊を併せて、司馬遼太郎の韓国朝鮮 座談シリーズ全六冊が一纏めになって目の前に並ぶことになる。司馬遼太郎の生涯の創作事 業については、『竜馬がゆく』等の歴史小説群と、『街道を行く』の紀行文と、晩年の『この 国のかたち』などの文明批評という三つのカテゴリーに分類されるのが普通だが、あるいは この韓国朝鮮研究会は、第四番目の創作事業として独立して考えてもよいかも知れない。

それほど著されたものの分量が多く、多量のエネルギーが注がれている。『街道をゆく』の第 2巻『韓のくに紀行』と第28巻『耽羅紀行』もその一部を成す。だからこそ司馬遼太郎の追 悼者のリストの上位に、必ず上田正昭と姜在彦の二人が名を連ねているのだ。そもそもライフ ワークと言われる『街道をゆく』そのものが、実はこの朝鮮文化研究と無縁ではなく、『街道 をゆく』の連載が週刊朝日に始まったのは、同じ1971年であり、しかも第1回の『湖西の みち』は、近江路に古代日本の朝鮮文化の痕跡を発見しようとする旅でもあった。『街道をゆ く』は日本人の原点を探ろうとする旅であり、日本人のルーツを探し求める紀行文として出発 している。そしてその問題意識は、まさに日本人の祖先が間違いなく朝鮮半島からやって来た ものだという認識、ルーツが半島にあるという確信、すなわち司馬遼太郎なりの日韓同祖論に 動機づけられていると言っても過言ではない。『街道をゆく』の第2巻において、早速、長駆 韓国へ飛ぶ由縁である。

当時、1970年代前半は空前の日本ブームの時代であり、論壇でも学界でも「日本人とは何 か」が熱く議論された時代であった。「封建から近代へ」のいわゆる近代化論の議論や問題意 識が60年代までに一段落し、高度経済成長の達成感の後で、再度、日本とは何かを新しい歴 史認識や歴史学上の発見から再定置する模索が始まった時期とも言える。戦前の皇国史観によ るファナティックな自己認識ではなく、戦後のマルクス的歴史認識に基づく自己否定でもない、 新たな自己認識(日本人像)を求めて、各界各様の「日本人探し」が始まっていた。邪馬台国 論争は華麗にピークを迎え、また土居健夫や中根千枝や会田雄ニや山本七平が独自の視点と話 題を提供して世上(市場)の関心を惹いていた。そこへ至る長い助走路の上には、江上波夫の 騎馬民族征服説をめぐる古代史論争や、梅棹忠夫の『文明の生態史観』の自己認識などの資産 がある。その「日本人論」市場の一角に司馬遼太郎が上田正昭と金達寿と組んで参入したので ある。

京都大学の上田正昭は、戦後の日本史学の中になお残る皇国史観の影響、 例えば日本書紀の帰化人の表現をそのまま歴史教科書に記述させている現状に対する異議を唱 え、帰化人ではなく渡来人と呼ぶべきであると主張している。我々の時代の教科書では、大陸 半島から日本に来た古代の人々は「帰化人」であったが、ここから後は「渡来人」に表記変更 になっている。上田正昭の功績だろう。三人を中心にした座談会は、一面で最新の考古学的成 果を追跡して、古代日本における朝鮮文化の影響を正確に浮き上がらせようという学問的で実 証的な試みだが、また同時に、金達寿による強烈な朝鮮起源主義の古代史再解釈の挑戦を受け て、司馬遼太郎と上田正昭の二人がそれに宥和しながら、日朝間の感情的対立に和解の方向を 模索しているように見える。座談会での金達寿の発言は、実に過激で告発的に見える。総連 側を代表する孤高の知識人だった金達寿。彼の日朝古代史研究は、現在の学界においてどのよ うな評価にあるのか。

朝鮮半島と日本列島をめぐる古代の謎の問題は、どこまでも政治的でかつ民族感情的な問題で あり続ける。学問的均衡の模索は常に政治的均衡の模索と同義であり続ける。臆せず踏み込ん で議論せねばならず、しかし同時に慎重な配慮が必須であろう。そして現在も北と南の問題は 現実に存在して、無視することも軽視することもできない。戦後暫くの間、総連サイドが日本 に対する半島人の自己主張と文化的イニシアティブをリードしてきた歴史的事実も否定できな い。この中公文庫の四冊は面白いし、一つ一つの古代史上の渡来的問題系(朝鮮起源説)につ いて検討したいとも思うが、それ以上に、今の時点で四冊を読み返すと逆浦島太郎的と言うか、 あまりの歴史的隔絶感に圧倒されて身動きできなくなる。少なくとも現在の日本の世論の水準 で考えれば、金達寿の議論は暴論であり、右翼の陣営から轟然たる非難の嵐に襲われるものだ ろう。この頃は自由主義史観も2ちゃんねるも無い牧歌的な時代だった。本当に隔世の感があ り、溜息が出る。