『花神』と村田蔵六 − テクノロジー史としての明治維新

村田蔵六を主人公とした小説『花神』は、『世に棲む日日』とほぼ同時期の1969年から1 971年に書かれた作品で、幕末維新史長州編として二つでセットになっている。『世に棲 む日日』の方が少し早く始まったが、二つの作品は連載の時期がクロスしている。作品の独立 性を意識しているためか、例えば同じ第二次幕長戦争の戦史でも、瀬戸内側での戦闘につい ては『世に棲む日日』(高杉晋作)でカバーし、山陰側の攻防については『花神』(村田蔵六) でガイドするという配慮がなされている。長編二作に分割された長州論だが、この分割は、実 は非常に意味深く面白い中身を持っている。まず一つには、村田蔵六という歴史の中にありな がら歴史の枠に収まらない特別にユニークなキャラクタ−を描くために、いわば正史としての 『世に棲む日日』とは別編の、列伝としての『花神』を用意せざるを得なかったという点が あるだろう。

もう一つ、『花神』と『世に棲む日日』の性格の対照性を敢えて言えば、『世に棲む日日』は 人文系の世界の物語であるのに対して、『花神』は理工系の世界の物語である。その点が作品 の主題として徹底的に意識されていて、適塾論や蘭学論が縦横に論じられ、また当時の内燃機 関や機械加工、銃火器等の技術の話題が満載された内容になっている。幕末長州史の縦糸であ る『世に棲む日日』が、イデオロギーと革命エトスの内実を濃密に描いたものであるとすれば、 横糸である『花神』は、軍事史としての明治維新をテクノロジーの観点から綿密に追跡 し検証した作品であると言える。文と理、二つが揃って分厚く中身のある歴史が完成する。『 花神』の村田蔵六論は、まさに近代日本エンジニア論であり、司馬遼太郎は村田蔵六に仮託し て日本のエンジニア讃歌を歌い上げている。技術者論として、プロジェクトXとしての『花神』。

プロの技術者は思いっきり個性的でよく、偏屈でよく、政治的人望を配慮する必要はないから、 人の鼻をあかす画期的な仕事を上げてみろと司馬遼太郎は訴えているのだ。日本の製造業の現 場で働いている技術者は、往復の通勤電車の中で『花神』を楽しく読めるだろう。村田蔵六の 中に自分を見出して感情移入する者が多いに違いない。合理主義だけを人格の全てとする個性 的なエンジニアが、時の偶然で革命を指導する明治維新の物語。無名であり、処世も疎く、誤 解も多いが、卓越した技術と明敏な頭脳を持ち、必要な仕事を誰よりも素早く完璧に仕上げ置 く有能者。村田蔵六が軍事司令官として作戦指導しなければ、四境を包囲された長州が幕府の 大軍を突破することはできず、戊辰戦争を俊敏かつ効率よく勝利させることはできなかった。 百姓同然の村医者。村田蔵六の物語は、生涯が詳述された長編『花神』を読んでもなお不思議 であり、明治維新の奇跡を痛感させられる。

『花神』が成功している由縁の一つは、徹底的な技術者人格として村田蔵六を捉え、その個性 を強烈にクローズアップしたところにあるが、もう一つの理由がある。それはラブロマンスと しての『花神』の成功だろう。男を主題にする司馬遼太郎の小説世界の中で男女の愛を描く場 面はきわめて少なく、まして『花神』のようにそれが全編を貫くライトモティーフになってい る長編は他に例がないのではないか。また一般に、司馬遼太郎は小説家として男女の恋愛模様 を描くのが得意でないと言われている。確かに『竜馬がゆく』の千葉佐那子やお田鶴さまも、 青春小説を情感豊かに盛り上げる配役だが、あくまで英雄の青春の志に華を添える娯楽的な要 素でしかない。『花神』の場合は大人のラブロマンスで、蔵六とイネの二人の愛の物語が中心 にあって、革命史や戦闘史はむしろ背景と言ってさえよい。

だから、司馬遼太郎の作品が大河ドラマとなった四本の作品の中でも、『花神』が最も高い 人気を集めているのだろう。『花神』以上にテレビドラマの原作として魅力的なものは他にな いように思われる。さて、『花神』だけではないが、司馬遼太郎の幕末維新史の説得力は、明 治維新がまさに各政治勢力による熾烈な科学技術の競争であった事実の明示であり、有能な技 術者を得て、その競争を制した者が政治の覇権を握った史実を強調して浮かび上がらせている。 すなわち、テクノロジーの世界から見た江戸日本の文化基盤の豊穣さを提示する歴史認識であ り、当時の日本人が世界史の技術水準に全く遅れを取っていなかった歴史的事実を証明するも のでもある。進歩と文明への飛躍と挑戦としての明治維新が印象づけられる。『花神』はその 面での村田蔵六の偉大な歴史的功績を顕彰する作品であると言えるだろう。