河上徹太郎 年譜

オレンジは特記事項 は岩国関連事項 は中也関連事項
元号(西暦) 年齢 出来事
明治35(1902)年  0歳 1月8日、長崎市で生れる。父邦彦(明治2年生)、母ワカ(明治12年生)のひとりっ子。河上家は吉川藩に仕えた士族。祖父の逸(いつ)は書家だったが衆議院議員も務めた。父は日本郵船技師で重役、母は日本キリスト教会の信徒であった。本籍は山口県岩国市
明治41(1908)年   6歳 4月、父が神戸支店に転任して転居。市立諏訪山小学校入学。無口でおとなしい幼少期を過ごし病弱だった。
大正3(1914)年  12歳 4月、県立神戸第一中学校入学。同窓に今日出海、白洲次郎らがいた。
大正5(1916)年  14歳 4月、父邦彦の転任にともない、東京府立第一中学校(現在の東京都立日比谷高等学校)3年生に転入。以後、戦災に会うまでの29年間、品川区五反田に住む。同窓に富永太郎、村井康男、蔵原惟人、浅野晃らがおり、1年下には小林秀雄がいた
大正8(1919)年  17歳 9月、第一高等学校文科甲類に入学。同級に池谷信三郎、村山知義らがいた。三塁手として野球部に在籍していた。
大正9(1920)年  18歳 9月、2年に進級せず、病弱を理由に休学。この頃から、元オムスク音楽学校の先生でロシア革命により亡命してきたデンマーク人ジョージ・ロランジにピアノを師事する。同門には後の婚約者大鳥アヤや指揮者・近衛秀麿がいた。
この年、満洲、撫順に遊ぶ。
大正12(1923)年  21歳 4月、東京帝国大学経済学部入学。
大正13(1924)年  22歳 12月、音楽評論家・門馬直衛の推薦で、初めて商業雑誌「月刊樂譜」12月号に音楽評論「音樂上に於ける作品美と演奏美」を発表。
同月、小林秀雄、富永太郎、中原中也、永井龍男らを同人とする、石丸重治主宰の同人雑誌「山繭」が創刊されたが、この仲間の噂をきく程度の関係だった。
大正14(1925)年  23歳 1月、「山繭」に「音楽と自然――対象としての自然と内容としての自然」を発表。
この年、ロランヂが帰国したため、ドイツから上野音楽学校に招聘されてきた
レオニード・コハンスキーに師事しピアノのレッスンを受ける。
大正15(1926)年  24歳 3月、東京帝国大学経済学部卒業。引続き、同大学文学部美学科に在籍したが、3カ月で退学。
昭和2(1927)年 25歳 春、中原中也を知る
10月、諸井三郎、今日出海ら7人の作曲家演奏家と楽団「スルヤ」を結成
同月30日、「ロランヂ氏歓迎演奏会」でモーツアルトのニ短調コンチェルトをピアノ演奏し、小林秀雄や中也も出席する
11月、
中原中也に諸井三郎を紹介する
昭和3(1928)年 26歳 5月、小林秀雄宅で大岡昇平を知る。
12月、大鳥圭介男爵(幕末、伝習隊隊長で明治期に官僚となる)の孫女アヤとカトリック教会で結婚式を挙げる。
昭和4(1929)年 27歳 4月、中原中也、村井康男、大岡昇平らと同人雑誌「白痴群」を創刊、編集人となり、最初の文芸評論「ベルレーヌの愛國詩」を発表。
6月、「白痴群」第2号にポール・ヴァレリー「レオナルド・ダ・ヴィンチ方法論序説」の翻訳を発表。
昭和5(1930)年  28歳 4月、「白痴群」第6号で終刊。
5月、「作品」創刊、井伏鱒二、深田久弥、永井龍男、堀辰雄、三好達治らとともに同人となる。
6月、「作品」第2号に「自然人と純粹人」を発表。この年、青山二郎を知る
昭和6(1931)年  29歳 この年、伊集院清三の病気見舞に行き、英国から帰国した吉田健一と出会う。以後、46年間親交を結ぶことになる。
昭和7(1932)年  30歳 5月、初めて「文藝春秋」の月評欄を担当。
7月、父邦彦病没。
9月、第一評論集『自然と純粹』を芝書店より刊行。
昭和8(1933)年  31歳 3月、「改造」に発表した「楽壇解消論」で楽壇に物議をかもす。
昭和9(1934)年 32歳 1月、レオ・シェストフ『悲劇の哲學』を阿部六郎との分担訳で芝書店より刊行。「シェストフ的不安」流行のきっかけとなる。
4月、建設社版『アンドレ・ジイド全集』全12巻の企画に参加、以後、戦後に至るまでジイド紹介の先導者の一人となる。
11月、評論集『思想の秋』を芝書店より刊行。
昭和10(1935)年  33歳 6月、ポール・ヴェルレーヌの『叡智』を芝書店より訳出刊行。生涯を貫く最重要の訳業となる。
昭和11(1936)年  34歳 1月、昭和8年に創刊されていた雑誌「文學界」に同人として参加。昭和12年12月から同18年3月まで編集責任者として活躍。
9月、アーサー・シモンズ『現實派作家論』を芝書店より訳出刊行。
10月、評論集『現實再建』を作品社より刊行。
昭和12(1937)年  35歳 8月、軽井沢滞在中に中原中也から「辞世みたいな手紙」を受信
10月22日、中原中也死去
昭和13(1938)年  36歳 12月、第一音楽評論集『音樂と文化』を創元選書の一つとして刊行。その内容をきっかけとして音楽評論家・山根銀二と論争。
昭和14(1939)年 37歳 1月、日本文芸家協会評議員となる。
6月、評論集『事實の世紀』を創元社より刊行。
10月、アンドレ・ジイド『藝術論』を編纂、第一書房より訳出刊行。
昭和15(1940)年 38歳 7月、評論集『道コとヘ養』を実業之日本社より刊行(青山二郎装幀)。36版を重ねるロングセラーの一つとなる。
10月、日本文学者会常任委員に就任。
昭和16(1941)年  39歳 3月、パウル・ベッカー『西洋音樂史』を創元社より訳出刊行。
10月、評論集『文學的人性論』を実業之日本社より刊行。
同月、文芸銃後運動講演班として、新居格、小林秀雄、林芙美子、松井翠声とともに1カ月間、朝鮮旅行。
昭和17(1942)年  40歳 5月、文学報国会発足。評論部門幹事長に推され、やがて審査部長となる。
10月、「文學界」誌上で文化綜合会議「近代の超克」座談会を開催、司会をつとめる。
昭和18(1943)年  41歳 4月、国際文化振興会の派遣使節として中国へ渡り、北京(50日)を主に、南京(7日)、上海(10日)から天津・張家口・大同石窟まで行き、2カ月滞在。
8月、中村光夫、吉田健一、山本健吉、西村孝次らによる雑誌「批評」同人に参加。
昭和19(1944)年  42歳 4月、「文學界」廃刊。
11月、中国へ再訪、上海に1カ月滞在し、その間、小林秀雄、草野心平、島野武と揚州へ旅行する。
昭和20(1945)年 43歳 2月、日華協会発足。文化局長に就任。
5月25日、空襲で自宅焼失し、都下南多摩郡鶴川村の白洲次郎邸に寄寓。
10月、「配給された自由」を東京新聞に発表し、物議をかもす。
昭和21(1946)年 44歳 6月、新夕刊新聞文化部長に就任。
昭和22(1947)年 45歳 4月、小石川の細川護立邸内の小舎に仮住いする。
6月、再び、文学界社から「文學界」再刊、同人に加わる。
10月、評論集『戰後の虚實』を文学界社より刊行。
11月、川崎市柿生の丘陵に晩年に至るまでの住居となった新居に移住。以後、山野を犬と猟銃をともに渉猟する生活が始まる。
昭和23(1948)年  46歳 9月、シャルル・ボードレール『赤裸の心』を角川書店の飛鳥新書より訳出刊行。
12月、『作家論』を日産書房より刊行。
昭和24(1949)年  47歳 7月、『讀書論』を雄鶏社より刊行。
11月、評論集『近代文學論』を創元社より刊行。同月、小林秀雄とともに岩国へ帰郷。この頃より、郷里訪問が年中行事化してくる
昭和25(1950)年  48歳 9月、創元社版『小林秀雄全集』第8巻の「ドストエフスキー」の解説を執筆。同月、キジヤ台風により、郷里岩国の名橋、錦帯橋が流出したのを帰省中に見る
昭和26(1951)年 49歳 8月、音楽評論集『現代音樂論』を河出市民文庫から、引き続き『ドン・ジョヴァンニ』を細川書店よりそれぞれ刊行。
昭和27(1952)年 50歳 1月、評論・随想集『文學手帖』をダヴィッド社より刊行。
4月、
井伏鱒二、三好達治と山口県の川棚・仙崎・青海島・萩などを旅行して湯田温泉に一泊し、翌日、その宿に中也の母フクが会いに来る
   
その後、三好とともに岩国を訪れる
7月、錦川で鵜飼が開かれるようになり、毎夏鵜飼に親しむようになる
昭和28(1953)年  51歳 8月3日、英国外務省の招きで、福原麟太郎、池島信平、吉田健一とともに渡英。ロンドンをふりだしに、マンチェスター、スコットランド各地を約1カ月の日程で見学。公式日程後、ロンドンで1週間、エジンバラの芸術祭見学に4日、パリに1週間滞在して9月24日帰国。
昭和29(1954)年  52歳 1月、『私の詩と眞實』を新潮社の一時間文庫より刊行。
2月、『私の詩と眞實』により
第5回読売文学賞(評論部門)受賞
5月、長岡、新潟、佐渡に講演旅行に出て、これをきっかけとして、以後毎年、吉田健一との北陸旅行が年中行事化する。
7月、随想集
『わが旅わが友』を人文書院より刊行。
昭和30(1955)年  53歳 6月、河出書房版『横光利一全集』全12巻の全巻解説をはじめる。
9月、新潮社版『小林秀雄全集』全8巻の全巻解説をはじめる。
12月、『中原中也詩集』を編集し角川書店(角川文庫)より刊行
昭和31(1956)年  54歳 7月、芸術随想集『孤獨な藝術幻想』を新潮社より刊行。
9月、随想集『エピキュールの丘』を講談社より刊行。
昭和32(1957)年  55歳 1月、「ドストエフスキーの世界」がNHKで約2カ月にわたり放送される。
5月、評論集『危機の作家たち』を弥生書房より刊行。
6月、随想集『現代生活の虚と実と』を実業之日本社より刊行。
10月、嘉村礒多の文学碑除幕式に、河盛好蔵、大平和登らと参加
昭和33(1958)年 56歳 4月、新宿で不慮の輪禍にあい、足を骨折、3カ月余の禁足を強いられる。臥床中に『日本のアウトサイダー』の構想がまとまる
昭和34(1959)年  57歳 1月、新聞のコラムニストとして活躍。東京新聞「石筆」、産経新聞「風神」「思うこと」など9カ月にわたり執筆。
9月、『日本のアウトサイダー』を中央公論社より刊行。
昭和35(1960)年 58歳 1月、『日本のアウトサイダー』により第6回新潮文学賞受賞
4月、読売新聞の文芸時評を開始、以後、39年12月まで執筆。
9月、毎日新聞コラム「憂楽帳」を3カ月にわたり執筆。
11月、評論集『異端と正統』を文芸春秋新社より刊行。
昭和36(1961)年 59歳 4月、多年にわたる評論家としての業績により、第17回日本芸術院賞受賞
11月、文化勲章選考委員に任名される。
12月、随想集『旅・獵・ゴルフ』を講談社より刊行。
昭和37(1962)年 60歳 4月、『わがデカダンス』を新潮社より刊行。
11月、
日本芸術院会員に選出される
昭和38(1963)年 61歳 5月、音楽評論集『私の音樂随想』を垂水書房より刊行。
10月、角川書店版『堀辰雄全集』(豪華版)全9巻の9巻を除く各巻の解説をはじめる。
昭和39(1964)年  62歳 7月、評論集『批評の自由』を垂水書房より刊行。
9月、「日本のエリート」と題してNHKの放送で連続講演。
昭和40(1965)年 63歳 1月、『アポリネールの戀文』を垂水叢書より刊行。
4月、『文学的回想録』を朝日新聞社より刊行。
6月4日、中也の「帰郷」詩碑除幕式に、小林秀雄、今日出海、大岡昇平らと参加
9月、『文藝時評』を垂水叢書より刊行。
昭和41(1966)年 64歳 6月、評論集『作家の詩ごころ』を桜楓社より刊行。
7月、『日本のエリート』を垂水叢書より刊行。
昭和42(1967)年  65歳 5月、評論集『文学三昧』を新潮杜より刊行。
昭和43(1968)年  66歳 3月、母ワカ病没。
12月、『吉田松陰――武と儒による人間像』を文芸春秋より刊行。同月、同作品により第21回野間文芸賞受賞
昭和44(1969)年 67歳 5月、石川淳、井伏鱒二、小林秀雄編纂による勁草書房版『河上徹太郎全集』全8巻の配本開始(47年1月配本完了)。
昭和45(1970)年 68歳 4月『有愁日記』を新潮社より刊行。
昭和46(1971)年  69歳 3月、『有愁日記』により第3回日本文学大賞受賞
11月、『西欧暮色』を河出書房新社より刊行。
昭和47(1972)年 70歳 8月、銀座の帰途、酔って警視庁鳥居坂保護所(通称トラ箱)に保護され、そのことを書いた随筆「わがトラ箱記」(「文藝春秋」11月号)が話題となる。
10月、文化功労者に選出される
12月、岩国市名誉市民に選出される
昭和48(1973)年  71歳 2月、『吉田松陰の手紙』を潮出版社より刊行。
昭和49(1974)年  72歳 6月、『近代史幻想』を文芸春秋より刊行。
8月、『わが中原中也』を昭和出版より刊行。同月7日、昭和48年3月にフランスのナント近郊で飛行機事故死した遠山直道の現地慰霊祭に出席するため、夫人同伴でロアールを訪れ、ついでに古城探訪の旅に出る。
昭和50(1975)年  73歳 3月、『愁ひ顔のさむらひたち』を文芸春秋社より刊行。
11月、勲二等瑞宝章を受賞
昭和51(1976)年 74歳 「新潮」1月号から9月号にかけて、「大内家の崩壊」「東沢瀉」「瀬戸内の『海賊』たち」を発表する(後に『歴史の跫音』に収録)。
昭和52(1977)年  75歳 2月、『歴史の跫音』を新潮社より刊行。
8月3日、吉田健一病没、近親者の密葬に際して友人代表として告別の辞を述べ、ラフォルグの詩を誦む。
昭和53(1978)年  76歳 1月、銀座の酒場で友人知己約30人が集まり、喜寿祝いの会を開く。
6月、『わが小林秀雄』を昭和出版より刊行。
「新潮」4月号から7月号にかけて、「徹太郎行状記」を発表する。
昭和54(1979)年 77歳 7月、宮島口の旅館で「厳島閑談」のためのインタビューを受ける。同月、小林秀雄との最後の対談「歴史について」に出席(「文學界」11月号に掲載)。
8月1日、岩国市在住の縁戚塩屋(さとみ)の次男、徹を養子として入籍
9月19日、北里病院に入院。
10月16日、北里病院を出て、国立がんセンター病院へ入院(病名は肺癌の一種で、低分化型扁平上皮癌という)。
12月27日、退院、以後は通院で治療を続ける。
昭和55(1980)年 78歳 2月、「新潮」2月号に絶筆「退屈」を発表。同月、『厳島閑談』を新潮社より刊行。
3月、『史伝と文芸批評』を作品社より刊行。
同月15日、銀座の酒場で『厳島閑談』と『史伝と文芸批評』の出版記念を兼ねた快気祝いの会を開く。当夜、すでにがんセンターより再入院が命じられていた。
4月2日、国立がんセンターに再入院。
6月末から退入院を繰り返した後、9月22日、午後3時5分、国立がんセンターにて死去。正四位に叙せられる
10月7日、東京カテドラル教会で
井上洋治神父司宰によりカトリック葬(葬儀委員長・小林秀雄)同月9日、岩国市体育館で岩国市葬(葬儀委員長は岩国市長・河上武雄)