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東京の地名の由来
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平成17年2月11日発信 リンクフリー 地名の由来東京23区辞典 引用自由 |
| 江東区の地名の由来 現在進行形の調査であれば、逐次、誤謬訂正・新規追加することあり。御用心、御用心 ご意見とご教示→メール |
| 申し訳ございません。「江戸屋全国的名品案内」は多くのユーザーの方の ご要望により、 ページを起こして移してあります。 こちら |
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| ★各区夫々の主な記事 |
| Home | 【巻末特集】 江戸・東京名数一覧 | 江戸東京 | 東京は首都ではない 皇室典範・女系天皇 |
| 足 立 区 | ビートたけし 関原不動 赤門寺 千住 都立舎人公園 下山事件 西新井大師 大鷲神社 伊興寺町 六阿弥陀 木余り阿弥陀 荒川バラバラ事件 炎天寺 尾崎豊終焉の地 尾崎の部屋 女子高生コンクリート詰め殺人事件 |
荒 川 区 | あらかわ遊園 北島康介 諏訪台寺町 三河島事故 開成中学校・高等学校 尾久の原公園 大関横丁 素盞雄神社 天王祭 大橋 谷中延命院一件 「あしたのジョー」「巨人の星」 【巻末特集】 江戸しぐさ 【巻末特集】 小股の切れ上がったいい女 |
| 板 橋 区 | 自殺願望女性救助駅前交番警察官殉職事故 松月院 東京大仏 縁切榎 大東文化大学 帝京大学 板橋宿 東京家政大学 中山道 板橋宿 国立極地研究所 板橋事件 加賀藩前田家下屋敷 |
江戸川区 | 葛西臨海公園 インド人 小松川女子高生殺人事件 都県境未定地 おくまんだし 妙見島 影向の松 目黄不動 平井聖天 食用蛙供養塔 紅葉川高校 江戸風鈴 立木観音 タワーホール船堀 雷不動 |
| 大 田 区 | 池上本門寺 光明寺 大森海苔 磐井神社 松竹キネマ 御菜八ヶ浦 羽田空港 大鳥居 八景坂 六郷神社 大森ふるさとの海辺公園 馬込文士村 万福寺 梅屋敷 洗足池 |
北 区 | 静勝寺 小山酒造 新河岸川 飛鳥山公園 金剛寺 装束稲荷 王子神社 王子稲荷 名主の滝 近藤勇墓 医心方 亀の子束子 旧古河庭園 田端文士芸術村 【巻末特集】 隅田川 (渡しと橋) |
| 江 東 区 | 外郎売 永代橋落橋事件 亀戸天神 カトレア ヒストリーガレージ キッザニア 戦災資料センター 深川江戸資料館 富岡八幡 元八幡 砂町商店街 東京海洋大学 東西線転倒事故 有明コロシアム 萩寺 |
品 川 区 | 品川トランク詰め殺人事件 星薬科 船の科学館 鈴ヶ森 立正大学 香蘭女子 杉野ドレメ 品川神社 荏原神社 光福寺 大崎新都心 清泉女子大 品川寺 品川宿 昭和大学 戸越銀座 第一京浜 ところてん |
| 渋 谷 区 | 明治神宮 慶応幼稚舎 尾崎豊の碑 忠犬ハチ公 ライフル乱射事件 渋谷川 夫バラバラ殺人事件 妹バラバラ殺人事件 モリブデン 文化女子大 NHK 広尾病院事件 文化村 尾崎豊の碑 ワシントンハイツ 聖心女子大 東京女学館 日本共産党 女子大生誘拐 アメリカ橋 安藤組 国学院 金王神社 青山学院 |
新 宿 区 | 浄瑠璃坂の仇討 新宿胴体遺棄事件 新宿騒乱事件 八幡様 陸軍士官学校 赤線地帯 防衛省・市谷駐屯地 岡田有希子飛び降り自殺 オリンピック東京大会 東海道四谷怪談 追分交番爆破事件 鉄腕アトム 731部隊 学習院女子 早稲田大学 抜弁天 歌舞伎町 歌声喫茶 名曲喫茶 どん底 新宿高野 中村屋 闇市 |
| 杉 並 区 | 青梅・甲州・五日市街道 観泉寺 永福寺 高円寺 不美人=ブスとは? 大宮八幡 ガンダム 妙法寺 立教女学院 スチュワーデス殺人事件 東京女子大 一家皆殺し放火 「疑惑の銃弾」 三浦和義 天保新水堀用水 |
墨 田 区 | 東京スカイツリー 相撲は国技ではない 大相撲事件 隅田川七福神 妊婦たらい回し死亡事件 回向院 握りずし発祥 震災慰霊堂 鬼平・遠山の金さん 王貞治生誕地 玉の井バラバラ事件 江戸東京博物館 吾嬬神社 本所七不思議 もゝんじや 法恩寺 蓮華寺 |
| 世田谷区 | バンク・約束手形 花形敬 ウルトラマン 民家園 静嘉堂文庫 ボロ市 鷺草 西福寺 軍都池尻 東名 羽根木公園 砧公園 駒沢公園 祖師谷一家殺人事件 九品仏 多摩美 国学院 東農大 NHK技研 豪徳寺 世田谷美術館 馬事公苑 烏山寺町 次大夫堀 仙川 |
台 東 区 | 浅草寺 仲見世 浅草神社 三社祭 花やしき 上野公園 鬼灯市 酉の市 待乳山聖天 佃煮元祖 旧岩崎邸 八百善 今戸神社 アメ横 寛永寺 不忍池 花の吉原 上野動物園 東京国立博物館 駒形どぜう 鬼子母神 東京本願寺 東京芸大 谷中墓地 笹の雪 吉展ちゃん |
| 中 央 区 | 「銀ブラ」って、ブラブラ歩くことじゃないよ。 パウリスタ 東京大空襲 アメリカの占領 蘭学事始 ティファニー エルメス シャネル コーチ パリー セリーヌ プラダ カルティエ ディオール ルイ・ヴィトン 不二家不祥事 三越・松屋・松坂屋・大丸・高島屋 築地本願寺 日本橋 H&M 歌舞伎座 白木屋火事 日本銀行 金春芸者 日本海軍発祥地 新橋演舞場 明治座 ハヤシライス |
千代田区 | 靖国問題・A級戦犯 女子学院 暁星 将門塚 消防庁 警視庁 ていぱーく 桜田門外の変 ニコライ堂 武道館 九段会館 楠公像 ホテルニュージャパン火災 近衛師団 秋葉原無差別殺傷事件 神田明神 FM東京 丸ビル 新丸ビル 丸の内物語 三菱重工ビル爆破事件 国会 雙葉 専修大 日大 法大 明大、電機大 大妻 番町小 東郷平八郎 日比谷公園 国際フォーラム 北辰一刀流 |
| 豊 島 区 | 池袋の女 染井吉野 女子栄養学園 染井霊園 中山道 おばあちゃんの原宿 とげぬき地蔵 庚申塚 本妙寺 雑司が谷墓地 鬼子母神 土田邸爆破事件 山吹伝説 目白不動 帝銀事件 立教 学習院 豊島岡女子学園 【巻末特集】 東京の暴力団 |
中 野 区 | 新井薬師 上高田寺町 童謡「たき火」 中野サンプラザ 近隣騒音殺人事件 福蔵院 八幡神社(鷺ノ宮) 成願寺 宝仙院 堀越学園 桃園川 丸井本店 中野ブロードウェイ 東中野電車追突事故 光倶楽部事件 哲学堂公園 桃園 【巻末特集】 江戸城 城門と橋 |
| 練 馬 区 | いろはかるた 練馬バラバラ殺人事件 としまえん ちひろ美術館 三宝寺 石神井公園 長命寺 清戸道 良弁塚 武蔵大学 金乗院 練馬寺町 武蔵音大 グランドハイツ 練馬少年鑑別所 首継ぎ地蔵 円明院 妙福寺 春日神社 増島家薬医門 練馬大根 愛染院 |
文 京 区 | 狛江 振袖火事 東京大学 拓殖大学 御茶ノ水女子大 東京高等師範 教育大学 護国寺 弥生式土器 伝通院 聖マリア大聖堂 高津教授殺人事件 東京ドーム 六義園 小石川植物園 元町公園 桜蔭学園 順天堂大 かねやす 日本女子大 湯島聖堂 湯島天神 東洋大 共同印刷争議 |
| 港 区 | 増上寺 フリーメイスン 永坂更科 麻布学園 氷川神社 乃木大将 ミッドタウン 六本木ヒルズ 善福寺 霊南坂 東洋英和 ケネディ暗殺宇宙中継 愛宕山 小便小僧 レインボウブリッジ 東京タワー 慶応義塾 自然教育園 明治学院 虎ノ門事件 東宮御所 日本経緯度原点 9・11(アメリカ同時多発テロ) 首謀者はチェイニー |
目 黒 区 | 滝坂道 目黒不動 法華騒動 円融寺 五百羅漢 東工大 目黒ショック 日比谷線脱線事故 駒場野一揆 旧制一高 駒場東大 駒場学園 滝坂道 行人坂大火 雅叙園 騎兵 目切坂 権之助坂 太鼓橋 茶屋坂 槍ヶ崎事件 祐天寺 酸素魚雷 音羽ゆりかご会 八雲学園 目黒のさんま |
江東区の地形 |
| 江東区は区全域が東京低地に属し、地下鉄東西線を大凡の境として、北部は中世に陸地化し、東京 湾に接する南側の大部分が江戸期から昭和期にかけて出現した人為的な埋立地なのだ。江戸期には主 に隅田川や荒川河口部の三角州(海岸低地)の埋め立てが行われており、越中島や佃島(中央区)が ほぼこの時期に陸続きとなっている。さらに戦後、区南部の大半の面積を占める埋立地が、区の管轄 となった。今後中央防波堤の埋立地が区の範疇に入る予定で、江戸時代の埋立地は内陸部になってし まった。元々が海であるため陸地となっても山坂がない。区全体が平坦なのだ。坂道は橋で、隅田川 大橋では自転車は難儀する。 ●埋立地 この地域の埋立事業は、徳川家康の江戸幕府開府(1603)の前後から本格化し、江戸城城下の 拡大と新田開発、幾度もの大火で発生したゴミ問題の解消などが動機と考えられ、現代にも通じるも のがある。区内を縦横に走る運河も江戸期埋立てと時を同じくする徳川事業の足跡なんだよ。 |
地形・地質と住宅地盤 |
| ●海岸低地 東京湾沿岸に広く分布する標高の低い平坦面である。地下水位が高く、上部には緩い砂や軟弱なシ ルト(泥地)などが分布しているため、標準的な基礎では十分な耐力を確保することが困難であり、 適切な基礎補強策が必要となる。また埋立地では埋め土部分の性質、特に所謂ガラや廃材の混在等に ついても考慮しておく必要がある。また海水面より低い、所謂0メートル地帯の存在が区行政の悩み の種だ、栗橋の堤防が切れれば、大水害は必至で、江東区全体が壊滅的打撃を受ける。方法としては 神頼みしかない。 ●自然堤防 周囲の氾濫低地や海岸低地と比べ海抜高度がわずかに高く、一般に河川に沿って帯状に分布してい る。河川によって運搬された砂や砂礫が、浅い深度から分布しているため、住宅地盤としては比較的 良好な場合が多い。しかし度重なる河川の氾濫と蛇行によって運ばれた軟弱な粘性土や緩い砂が自然 堤防の上に新たに堆積している場合には、基礎補強対策が必要となる場合がある。隅田川沿岸に見ら れる。 |
江東区の変遷 江東区の区域に入る江戸時代の町村は、慶応四年(1868)5月12日横十間川以西は江戸府(7 月17日から東京府)の所管となり、横十間川以東は7月10日から桑山武蔵知県事に属し、明治2 年1月13日以降は小菅県に所属した、同4年11月13日には小菅県を廃して東京府に移管。同4 年4月4日戸籍法により「大区小区制」が敷かれ第六大区・第十一大区に編入、 ※この記述に鈴木様からメールを頂戴しました。 明治政府は郭内の東を「本所扇橋川筋」即ち大横川川筋に定め、後の大区小区制でも、 南を大島川、北を源森川、東を大横川の範囲を六大区としてます。横十間川は明治22 年の「市制町村制」で初めて東京市境として扱われたのでは。 同7年3月8日大区小区制がいよいよ強化され自治権を剥奪された。この大久保利通による独断専 制に国民が猛反発、不平武士の義挙・自由民権運動に発展した。これに対して大久保は弾圧と暗殺を 以て抵抗し、最後には盟友西郷隆盛を「西南戦争」に追い込んで屠ってまで権力の座にしがみついた ので、国民の怒りは頂点に達し、同11年5月14日悪運は遂に尽き、正義の刃の下に斬殺された。 にわかに親玉を失った内務官僚は驚天動地して為すところを知らず、周章狼狽して命冥加を祈念、2ヶ 月後の7月22日大慌てに大区小区制を廃すると「郡区町村編制法」など新三法を施行して旧に復し た。結果深川区99町・南葛飾郡28ヶ村が成立し、漸く自治権回復の兆しが見えてきた。同21年 4月25日明治政府が初めて国民の自治権を認めめことになり、「市制町村制」を公布、東京府では 翌22年5月1日同制度により、南葛飾郡28ヶ村は亀戸村・大島村・砂村の3ヶ村に統合され、自 治権がさらに回復した。同33年7月19日亀戸・大島両村が町制に移行し、同44年「市制町村制 改正」により深川区の各町は深川の冠称を削除した。 大正4年8月31日亀戸町が字を廃して1~9丁目、同じく大島町が1~8丁目になり、同10年 7月1日砂村は町制に移行して砂町となった。昭和7年10月1日東京市は周辺5郡を編入し、南葛 飾郡下の亀戸・大島・砂の3町は合同して城東区36町を成立、深川区は7町減じて92町となった。 同16年1月砂町地区が大字を廃して19町を起立。同18年7月1日東京市の強大化により内務省 の権限が薄れることを危惧する内務官僚は、戦時のドサクサをいいことに「府県制」を恣意的に改め、 東京市は東京府と共に廃止された。そして新たに「都制」を制定して「東京都」を発足させ直轄管理 を目論んだ。しかし日米戦争で軍部が敗れたため、日本はアメリカの植民地・属国となり、同21年 民主化をスローガンの進駐軍最高司令官マッカーサーによって「都制・府県制・市制町村制」が改め られ、地方自治体の首長は全て任命制から公選制となった。これに驚いた内務官僚は「専制権が殺が れる」と猛反対したものの、情けないことにアメリカ人に専制強圧と私利私欲の非を諄々と諭されて 漸く、己の我儘や自分勝手に行政することが人倫の道に悖ることだと悟り、涙してすごすごと引き下 がった。 同22年3月15日戦禍で疲弊した都心区の廃置分合により、区制を再編して35区から22区と なり、8月1日練馬区が板橋区から独立してここに「東京23区」が確定した。その間の4月17日、 市制町村制が廃されて「地方自治法」が施行され、民主化を始めたが、内務官僚は一計を案じ、内務 官僚の内から知事を立候補させることを覚え、国会議員も大半が官僚出身だから地方自治なんぞ夢の また夢だ。民主主義はその性格上中央集権とならざるをえず、地方分権とはなりえない本質がある。 然るに権力者たちは国民が無知であることをいいことに言葉だけを羅列吹聴する。民主主義なぞ幻の 如く、現在は小泉政治に見られたように間接的専制で以て累卵の危うき状況だ。だまされんなよ、国 民! 平成16年現在の町名数は45。区役所は東陽4丁目にある。友好・姉妹都市はカナダのサレー市。 文化施設は、深川江戸資料館・田河水泡のらくろ館・芭蕉記念館・東京都現代美術館・清澄庭園・猿 江公園・木場公園・大島小松川公園・辰巳海浜公園・若洲海浜公園・夢の島公園・夢の島熱帯植物園 ・水の科学館・日本科学未来館・ダイノソアファクトリー・東京辰巳国際水泳場・有明テニスの森・ 東京ビッグサイト・テレコムセンター・パレットタウン・東京へリポート・富岡八幡宮・深川不動尊 ・霊巌寺・亀戸天神とまさに充実しており、中央図書館はないものの図書館は11館を数え、地域資 料は豊富に揃っている。不動産屋のマンション建設ラッシュで流入人口が急増し、小中学校の増設が 追っつかない現象に区が悲鳴を上げ、マンション建設に待ったをかける状況。 新住居表示は有明3~4丁目・辰巳3丁目・新砂3丁目一部・夢の島・若洲・青海が未実施で残っ ていたが、平成21年11月1日に実施され、夢の島・若洲は1~3丁目、青海は1~2丁目に分割 された。中央堤防外側埋立地が完成すると区に編入される?。もう大田区は隣接区で、海底トンネル で繋がっているんだよ。 ●教育施設 小学校43(区立43 私立0) 明治(明治+白河)・深川・八名川・臨海・越中島・数矢・平久・東陽・南陽・川南・扇橋・元加 賀・毛利・東川・豊洲・豊洲北・東雲・枝川・辰巳・第二辰巳・第一亀戸(第一亀戸+亀島)・第 二亀戸・香取・浅間竪川(浅間+竪川)・水神・第一大島・第二大島・第三大島・第四大島・第五 大島・大島南央(大島中央+大島南)・砂町・第二砂町(第二砂町+第二東砂)・第三砂町・第四 砂町・第五砂町・第六砂町・第七砂町・小名木川・東砂・北砂・南砂(南砂東+南砂西)・亀高 中学校23(区立22 私立1) 大島・大島西(第三大島+第四大島)・第二大島・亀戸・第二亀戸・第三亀戸・砂町・第二砂町・ 第三砂町・第四砂町・辰巳・南砂・第二南砂・東陽・深川第一・深川第二・深川第三・深川第四・ 深川第五・深川第六・深川第七・深川第八・ かえつ有明 高校10(私立2) 深川・城東・東・科学技術(江東工業+科学工業)・第三商業・高等学校・墨田工業・大江戸(深 川商業+東の定時制=朝昼夜三部制の定時制) 大学 東京海洋大学(商船大+水産大) |
江東の由来 アメリカ軍の無差別空爆によって焼野が原となった東京の復興のため都心区の廃置分合を図ること になり、深川区と城東区が統合して一区となった。東京新聞募集の区名案では「江東・永代・辰巳・ 清澄・東」などがあったが最終的に「江東」が選ばれた。区の位置が隅田川(墨江)の東であればま さに理に適っており、「江」を深川区、「東」を城東区と見れば実に見事な区名である。台東区と対 を成して面白い。ただし大横川に「江東橋」という橋が明治31年から架かっている。 稲妻や江東に酒求(と)めに行く(石塚友二) 江東のきはどい店の菊膾(きくなます)(大牧 広) 冬の夜や星ふるばかり瓦竃(かわらがま)(久保田万太郎) |
ほんじゃまぁ江東区の地名の由来についておっ始めるべぇ |
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■ダイバーシティ東京プラザ 青海1丁目1番10号にある、オフィスビルと商業施設からなる複合施設。平成24年4月18日 にオープンした。フジテレビ本社ビルに隣接し、りんかい線「東京テレポート」駅から徒歩3分。ゆ りかもめ「台場」駅から徒歩5分、クルマでも首都高速「台場IC」から約1kmと近い。運営する 三井不動産が「年間4800万人が訪れる日本有数の観光スポット」という台場エリアは「ヴィーナ スフォート」「アクアシティお台場」「デックス東京ビーチ」などの商業施設があるが、ダイバーシ ティは店舗面積約45300㎡、154店舗が出店する同エリア最大級の商業施設だ。 この施設は東京の有名店を揃えたフードコートをはじめ、「東京トレンドプロデュースゾーン」を 設けたり、秋葉原のメイドカフェや新大久保の韓流カフェを誘致するなど、〝今の東京カルチャー〟 を強く打ち出しているのが特徴。羽田空港から近いこともあり、最近お台場で増えている外国人、特 に中国からの観光客を意識しているのだろう。テナント構成のバランスがよく、通路が広くて空間に ゆとりがあるなど、都心にあるとは思えない〝真っ当な大型ショッピングモール〟という印象だ。そ のうえに「ガンダム」というキラーコンテンツあり、最近話題となっている菓子メーカーのアンテナ ショップあり、高級スーパーあり、屋外でスポーツを楽しめる大型エンタメ施設ありと、至れり尽く せりで、これだけでも集客には困らないだろう。しかし同社はフジテレビや人気アーティストグルー プ「エグザイル」の所属事務所であるLDHをプロモーションパートナーとし、様々なイベントを開 催する予定。さらに浅草とお台場を結ぶ水上バス利用者に対する優待キャンペーンを実施して東京ス カイツリーを訪れる観光客の呼び込みを図るなど、集客活動に熱を入れている。 ●ファッション ファッションでは「バーバリーブルーレーベル/バーバリーブラックレーベル」「シー バイ クロ エ」「マーク バイ マーク ジェイコブス」といった 海外人気ブランドから「ユニクロ」「H&M」 「フォーエバー21」「ZARA」「ベルシュカ」といった国内外SPA、ギャルに人気のブランド まで幅広くそろっているのが魅力。中でも目玉は日本初上陸となるGAPグループの低価格ブランド 「オールドネイビー」と先日原宿に国内1号店がオープンしたばかりの米国カジュアルブランド「ア メリカンイーグル アウトフィッターズ」だろう (「オールドネイビー」の商品販売は7月中旬開始 予定)。そのほか、「東京トレンドプロデュースゾーン」にも注目。新しいショップやクリエイター を発掘するインキュベーション企画で、最終審査を通過した4店舗が出店している。 ●飲食 飲食では1階のフードコートがおすすめ。エリア最大となる約700席のスペースがあり、ラーメ ンの「六厘舎」や洋食の「三代目 たいめいけん」、ミルフィーユカツで有名な「キムカツ」といった 〝東京の味〟が手軽に楽しめる。カフェではハワイのコーヒーチェーン「ホノルルコーヒー」が日本 初出店。このほか、「スターバックスコーヒー」「タリーズコーヒー」「上島珈琲店」「クリスピー ・クリーム・ドーナツ」などが出店しており、カフェには困らなさそうだ ●ガンダム ダイバーシティ南側のフェスティバル広場に設置された高さ18mの巨大ガンダム立像は圧巻。 |
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■東京テレポート駅(フジテレビ前) 青海1丁目2番1号にある東京臨海高速鉄道りんかい線の停車場。平成8年りんかい線(当時は臨 海副都心線)新木場~東京テレポート間開業時に設けられた。同13年3月31日に天王洲アイルへ 延伸するまでは、りんかい線の終点を務めた。ホームは島式1面2線で、地下3階にある。ホームの 中央付近は吹き抜けになっており、地上に設けられた採光窓から陽光が降り注ぐ。ホームと改札階を 結ぶエレベーターは完備。改札口は1ヶ所のみで地下1階にある。出口はAとBの2ヶ所。それぞれ エスカレーターを4本ずつ備える非常に間口の広い出口になっている。改札フロアから地上とテレポ ートブリッジとを結ぶエレベーターも設置されてる。この駅はりんかい線におけるお台場の最寄り駅 だ。ゆりかもめに比べて、埼京線と相互乗り入れしており、新宿や池袋からも乗り換えなしで来られ るので利便性は高い。また新木場で京葉線・地下鉄有楽町線、大井町で京浜東北線本線、大崎で湘南 新宿ラインとそれぞれ接続している。 |
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■青海駅 青海1丁目3番14号にあるゆりかもめ臨海線の停車場。平成7年11月1日ゆりかもめ新橋~有 明間開業時にできた。ホームは3階にあり、島式1面2線構造。ホームと改札を結ぶエレベーター完 備。改札口は1ヶ所のみで2階にある。出口は北口と南口の2ヶ所で、北口にのみエレベーターが設 けられている。北口はパレットタウンに直結だ。 「おうみ」と誤読されがちだが、読みは「あおみ」だ。トヨタのショールーム「メガウェブ」や大 観覧車、近世ヨーロッパの街並を模したショッピングモールの「ヴィーナスフォート」などがある青 海パレットタウンの最寄駅。駅の南側には水上バス乗り場もあるぞ。 駅構内案内放送(精算所・トイレ・案内板)を務めるのは、声優の鳥海浩輔。駅の文様は「青海波 (せいがいは)文様 瑠璃色」。 平成19年10月18日から平成20年3月31日(予定)まで、車内における当駅の到着アナウ ンスをフジテレビアナウンサーの中村仁美が務めていた。 |
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■船の科学館駅 青海1丁目1番49号にあるゆりかもめ臨海線の停車場。船の科学館は向かいにあるが、住所的に は品川区東八潮3番にある。平成7年11月1日ゆりかもめ新橋~有明間開業時にできた。 ホームは3階にあり、島式1面2線構造。ホームと改札階を結ぶエレベーター完備。改札口は1ヶ 所のみで2階にある。出口は西口と東口の2ヶ所。エレベーターは東口側にのみ設置されている。駅 構内案内放送(精算所・トイレ・案内板)を務めるのは、声優高城元気。駅文様は「帆掛け舟文様 海老茶色」。同19年10月18日から翌年3月31日まで、車内における当駅の到着アナウンスを フジテレビアナウンサーの生野陽子が務める。 駅名になっている船の科学館は、建物自体が船の形をしている船舶についての博物館。臨海副都心 にある施設の中では最古参で、昭和49年の開館だ。当時はアクセス手段がバスか船しかなく不便だっ たが、開館からおよそ20年の時を経てゆりかもめが開通し、利便性が格段に高まった。 |
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■パレットタウン(Palette tawn) 閉鎖予定 青海1丁目にある商業施設、大規模娯楽施設だ。シンボルの大観覧車を中心としたお台場を代表 する娯楽スポットである。事業主体は森ビル、三井物産など。平成11年世界都市博覧会の予定地に 建設され、暫定利用の事業用借地権を活用(借地権の契約期間は10年)し、総事業費約500億円。 名前は、パレットにのせた絵の具のようにカラフルで楽しさにあふれた町であるイメージから付けら れた。 当初パレットタウンは平成22年5月までに撤去され、用地は更地にして東京都に返還することに なっていた。これは平成2年当時、バブル崩壊による不況や交通の便の悪さという悪条件が重なり、 台場地区の売却先が見つからなかったため、苦肉の策として都が10年間の期限付で賃貸料を月額約 830~850円/㎡(平成8年3月時点)という異例の廉価で土地の貸し出しを行った。パレット タウンを運営する事業主体の森ビルや三井物産はその条件を承諾し、施設の開設を行った。しかし結 果としてパレットタウンは成功を収めたため、撤去し更地にしてしまうことはお台場全体の景観を大 きく変えてしまうことに繋がりかねず、利用者はもちろん都の幹部からも不満の声があがっていた。 都は平成20年にパレットタウンが閉鎖されるどう22年以降の臨海副都心青海ST区画への進出事 業者の募集を行い、森ビルとトヨタ自動車に814億円で売却すると発表した。売却発表時に都によ り公表された両社の事業計画によると地上23階・地下2階の建物が建設されオフィスや商業施設、 コンベンション・ホテル一体型施設のほか、自動車をテーマとした参加体験型の展示施設や観覧車な どが設置され、同25年に開業することが予定されていた。しかし、経済状況の変化などから同21 年11月に建設計画が延期されて既存施設の営業が延長される見通しとなり、同22年1月東京都と 森ビル・トヨタ自動車は同28年3月までに新施設を開業させることで合意した。 ●ヴィーナスフォート (VenusFort) 「女性のためのテーマパーク」と銘打ったテーマパーク型ショッピングモール。平成11年8月に オープンした。森ビルとスクウェア(現スクウェア・エニックス)の創業者宮本雅史の関連会社エス システムが出資した同名の株式会社ヴィーナスフォートが運営。ショッピングモール内 (2、3階) は、17~18世紀のヨーロッパの美しい街並みが再現されていて、この中でファッション・雑貨・ 化粧品・レストランなど160ほどの店舗が営業している。また吹抜けの天井が時間によって青空か ら夕暮れ、そして夜へと景観が変化する、などの演出も行われている。また1階はペット連れも可能 な「ヴィーナスフォートファミリー」(旧サンウォーク)となっている。株主は森ビル株式会社50 %出資。株式会社エスシステム50%出資。エスシステムは婦人服のファイナルステージを製作して いる会社。館内の音響はBOSE社のBMS(ビジネスミュージックシステム)を採用している。 ●大観覧車 日本最大級、羽田空港や新宿超高層ビル群など東京を一望できる。イルミネーションは、1300 0個のネオンを使用し、パターンも数多くあり、観覧車そのものが夜景を演出している。全64台の うち4台は、骨組み以外は透明のシースルーゴンドラを採用しスリルも味わえる。年中無休(年2回 の点検日は休業)。10時~22時。土日やシーズン時は24時まで営業する。1人90円(4歳未 満無料 グループチケット 4~6名は3000円。 ゴンドラに乗る前に記念撮影をすることができる。降りる時には出来上がり、特製台紙に入ってる。 ●Zepp Tokyo Zeppは、ソニー・ミュージックエンタテインメントの子会社ホールネットワークが運営するラ イブハウスの総称。東京の外、札幌・仙台・名古屋・大阪・福岡に展開する。 ●東京レジャーランドパレットタウン店 大型レジャー施設。運営は石川県金沢市に本社を構える山崎屋。パレットタウン内には山崎屋の東 京事務所があり、当店は関東地方の店舗を統括している。ボーリング場・釣堀・カラオケ・ゲームコ ーナー・ビリヤード・卓球・キッズコーナー・バッティングセンター・からくり屋敷・お化け屋敷・ ダーツ・スポーツゲームなど遊び場が一杯。 ●MEGA WEBE メガウェブは、「トヨタ・シティショウケース」「ヒストリーガレージ」「トヨタ・ユニバーサル デザインショウケース」の3館からなるトヨタ自動車の展示ショールーム。トヨタの人気車種の有料 試乗コーナーがあることでも有名。 |
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●カーきち必見! ヒストリーガレージ パレットタウン内「MEGAWEB」の中にある世界の歴史的自動車の展示場。MEGAWEBは 見て乗って感じるトヨタ自動車が運営するテーマパーク。ブースやゾーンが幾つもあり、子供づれで も十分楽しめるように構成されている。 ●GPアーカイブ 1階にある。F1、ル・マン、WRCなど6つのカテゴリーに分けたテーマジオラマや、レーシン グカーのレプリカを展示。 モータースポーツの歴史を紐解くよ。 【ヨーロッパ】 イギリス、フランス、イタリアなどのモータースポーツの歴史を飾ったレースカーと最近 のツーリングカーを約50車種展示 【日本】 日本モータースポーツ創生期の名車、トヨタのレースカー、JGTCなどのツーリングカ ー、各社のマシン、フォーミュラニッポンなど国内レース車を中心に約50車種を展示。 【フォーミュラー1】 グランプリと呼ばれた戦前のモデル、ボディデザインがより高度となった70年代、そし て現代のF1こマシンまでを約70車種展示。アイルトン・セナのマシンについてはコー ナーを別にして展示してある。 【ル・マン】 ル・マン24時間レース初期の名車、ル・マンで活躍したメルセデス、フェラーリ、ポル シェの代表的なマシン、日本から挑戦したマシン、現代の参戦車などを約60車種展示。 【ラリー】 サファリ、パリダカ、モンテカルロで活躍したモデル、その他過去のラリーで活躍したモ デル、トヨタラリーモデル、現代のWRCなどを約50車種展示。 【アメリカ】 ストックカー、NASCAR、インディカー、CARTの過去現在の代表的なモデルを展 示。その他、デイトナ、セブリングでのヨーロッパ、アメリカの代表的なモデルなど約6 0車種を展示。 ●GPメモリアルラウンジ 1階にある。人と車によって作られたモータースポーツの歴史、その中でけして忘れることの出来 ない人々を、高さ20cmイギリス製のフィギュアとポートレートフォトで展示。例えばファンジオ、 スターリング・モス、ヌボラーリ、ジム・クラークなどの歴代の名ドライバーや、エンツォ・フェラ ーリ、ニューバウアー、コーリン・チャップマンなどレースを愛した著名人、そしてニキ・ラウダか らM・シューマッハまでF1で活躍したドライバーなどをで展示してる。中でも注目はアイルトン・ セナ。GPアーカイブだけでなく、このメモリアルラウンジにもセナのフィギュアが5体、2分の1 スケールのヘルメット、写真などを特別展示してるよ。壁面にはジム・クラーク、ジャッキー・スチュ アートなどの名ドライバーから懐かしの中嶋悟などの写真を数多く展示。また下段キャビネットには レア物のピンバッチや超昔のモータースポーツ雑誌、レースプログラムなどを展示。 モータースポーツの迫力を楽しむなら、50吋モニターへ。5チャンネルのドルビーサラウンドシ ステムで臨場感を音と映像を体感してくれ。なおこのメモリアルラウンジでは、F1などの予告ポス ターや現地の新聞を使ったレース結果などを掲示している。 ●チームトヨタピット 1階にある。レース現場のアグレッシブな雰囲気を演出したピットだ。「カートエンジン(平成1 4年Champ Carと同型エンジン)」と「スターレット(KP47)3KPエンジン」を展示。 レストアピットでは、マストロ(匠)による名車のレストア(復元)作業がを見られるぞ。 ●アレッサンドロ・ナニーニ・カフェ 1階にある。日本初上陸! ビーナスフォートの外れにあるヒストリーガレージを入って左奥、博 物館の様な通路を進んでいくと、様々な車の写真に囲まれたクラシカルな雰囲気のカウンターが見え てくる。元F1ドライバーのA・ナニーニがプロデュースするイタリアンカフェだ。ガラス張りの窓 の向こうにはまるでミラノかローマの旅先で目にする様なテラスのある中庭が・・・その真ん中には 滔々と噴き上がる噴水が柔らかな陽光を受けている。ゆったりとした空間にボサノバが流れ、座り心 地の良いソファが並ぶ店内。そんなソファにゆったりと腰を落ち着け、口当たりの良いカプチーノを 飲んで一息つくと、華やかなお台場の喧騒は消え、ヨーロッパのどこか長閑な街のカフェで寛いでい る様な気分になっちまってるって恵寸法だ。このヤロー! ●グリースGPS 1階にある。モータースポーツのレーシングモデルを中心としたミニカーショップだ。興味の全く ない人だって惹きつけられちゃうから、マニアは必見だ。 ●ヒストリックカーコレクション 二階にある。現在展示中のヒストリックカーのリスト。50~70年代、黄金時代を作った数ある 名車の中から20~25台を厳選して、世界中の国々の街並を再現したファサード(街並外観)に溶け 込むように展示されている。クルマの佇む道をぶらり歩きながらチェックしようぜ。街角に映し出さ れる映画やCМの中のクルマにも注目!! ●ボニーズバー 魅力的なヒストリックカーを眺めながら食事を楽しめる1950~60年代アメリカのカウンター バーを再現。落ち着いたバーの雰囲気を楽しみながら、家族連れでも気軽に利用出来る。パスタやカ レーもあるんだぜ。 ●グリース ミニカーと洋書のコレクターとして名高い、趣味人の書斎をイメージした空間。 |
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■シンボルプロムナード公園 有明3丁目、青海1~2丁目にある細長いL型の都立公園。都市計画広場に位置付けられた全国的 にもユニークな公園で、面積約26.4ha、幅員約80m、総延長約4kmと広大な緑の軸として、 臨海副都心内の様々な施設を繋いでいる。プロムムナードの地下空間には、副都心部のライフライン である共同溝が整備されているほか、防災からの避難場所など多くの機能を有している。その一方で シンボルプロムナード公園を訪れる人々のために、緑と水、歩行者空間、賑わいの場が整備されてい る。特にシンボルプロムナード公園を彩るワイルドフラワーは春にはポピー、秋にはコスモスなどの 美しい花が咲き揃い臨海副都心の新たな名所となっている。 |
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■東京国際交流館 青海2丁目2番1号にある国際会議場。約500人収容の大ホール。音楽会にも使用可。 |
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■日本科学未来館 青海2丁目3番6号にある地下2階・地上8階建ての独立ビルだ。科学技術の振興を進めることに より、科学技術創造立国を目指すことを目的とした「科学技術基本法」が平成7年に成立。同10年 文部省、通商産業省、科学技術庁の3省庁(当時)が合同で、臨海副都心地区に「国際研究交流大学 村」を建設することが決定したのを受けて、科学技術振興事業団(平成15年からは科学技術振興機 構)はこの大学村内に、最先端科学技術の展示、展示方法の開発、研究者の交流などを通じて、科学 技術の情報を発信していく施設を整備することになり、科学技術への理解を深めるための拠点として 大学村の中に「日本科学未来館」が誕生した。建築開始から、シンボルマーク、一般公募による愛称 の決定を経て、平成13年7月に開館した。有料(19歳以上500円 高校生以下200円) 駐 車場はあるが有料(300円) 原則火曜日休館 TEL03-3570-9151 |
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■東京みなと館 青海2丁目4番24号青海フロンティアビルの20階にある東京港のことが手に取るように解る博 物館・図書館。「東京港の、現在を識る・歴史を調べる・未来を考える」がテーマ。 03-5500-2587 大人200円、中学生以下100円。月休。 |
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■テレコムセンター駅 青海2丁目5番8号にあるゆりかもめ臨海線の停車場。平成7年11月1日ゆりかもめ新橋~有明 間開業時にできた駅。ホームは3階にあり、島式1面2線構造。ホームと改札階を結ぶエレベーター 完備。改札口は1ヶ所のみで2階にある。出口は北口と南口の2ヶ所で、いずれもエレベーターが設 置されている駅員の常駐しない無人駅だ。 |
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■東京テレコムセンター 青海2丁目5番10号にある。凹の字を逆さまにしたように真ん中が空洞になっている、超巨大な 門のような近代的なガラス張りの高層ビルだ。国内外の情報を受発信するための高度な設備を備えた インテリジェント・オフィスビルで、東京タワーとの間で通信を行うため、一直線の空間には障害物 は何もない。そこからの一望は絶景だよ。富士山、東京スカイツリー、東京タワー、フジテレビ、パ レットタウンの観覧車も見えてしまうんだぜ。若者や子供たちには、お勧めスポットだよ。 電力会社からの電力供給が停止しても、4000kVAの自家発電機を3台装備しており、全負荷 状態で30時間以上の給電が可能。 |
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■大江戸温泉物語 青海2丁目6番3号にある日本初の温泉テーマパーク。江戸開府400年に当たる平成15年3月 に開業。通常の営業時間は、午前11時から翌朝午前9時まで。宿泊施設「大江戸宿伊勢屋」と簡易 宿泊施設「黒船キャビン」があり、宿泊することもできる。「江戸の町」を都心に再現したお台場の 新名所として、また気軽に行ける温泉施設として子供からお年寄りまで幅広い人気がある。タイムス リップすることをテーマとしており、入館後は施設が貸し出す種類豊富な浴衣に着替えて過ごす。館 内には昔の江戸で親しまれた遊技もできるよ。 泉質は、ナトリウム・塩化物強塩温泉(弱アルカリ性温泉)。神経痛、筋肉痛、関節痛五十肩、疲 労回復、健康増進、きりきず、やけど、冷え性などに効くとの口上だ。 |
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■有明節 有明のとぼす油は 菜種なり 蝶が焦れて 逢いに来る もとをたヾせば 深い仲 死ぬる覚悟で 逢いに来る ゼヒトモ ゼヒトモ 明治29年7月ごろから流行、一時廃れて明治43、4頃また流行り出し、多くの賛歌を生んだ。 大正に至って三度寄席に登場して、人気を得、流行したがこの度は「ゼヒトモ ゼヒトモ」という囃 子を加え、これが花柳界の人気を呼んだ。これは「推量節」が「すいりょう すいりょう」の囃子に 乗ってはやったのとよく似ている。 |
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■有明テニスの森公園駅 有明1丁目3番にある ゆりかもめ の停車場。平成18年3月27日の有明~豊洲間延伸時に設け られた。ホームは3階にあり、島式1面2線構造。ホームと改札階を結ぶエレベーターは完備。改札 口は1ヶ所のみで2階にある。出口は東口と西口の2ヶ所で、いずれもエレベーターが設置されてい る。 |
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■有明テニスの森公園 有明2丁目2番22号にある都立公園。緑の木立の向こうからボールを打つ音が聞こえる、テニス 愛好者あこがれの地。広大な敷地には、テニスの国際試合、bjリーグ、格闘技から、コンサート、 各種イベントが行われる、1万人の観客席があるセンターコート「有明コロシアム」に屋外48面の テニスコート、芝生広場がある。テニスコートは時間単位で、初心者でも気軽に利用できるよ。また ブロンズ等のモニュメントが散在し、芸術の香りが漂う樹林や、春は桜、初夏はツツジの花が咲きほ こる並木や広場もあり、散歩、ジョギング、ピクニックを楽しむ人々で賑わっている。 |
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■有明コロシアム 有明2丁目2番22号にあるテニス競技場。有明テニスの森公園内にある多目的スタジアム。田園 コロシアムが「田コロ」だったように、愛称は「有コロ」。これまで使用されてきた大田区の田園コ ロシアムの老朽化に伴い後継施設として建設され、昭和62年にオープンし、平成3年には開閉屋根 付きのスタジアムとなった。こけら落としは米米CLUBのコンサートツアー「ANTI SHAR ISHARISM」の東京公演。テニスの「ジャパンオープン」「全日本選手権大会」などのビッグ トーナメントはもちろん、アリーナスポーツやプロレス、ボクシングなどの格闘技、コンサートなど にも幅広く利用されている。というより、飾り物じゃあないのだから、活用しないと維持費がかかっ てしまうだろ。好き嫌いいってられる場合じゃないってえの。 |
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■有明スポーツセンター 有明2丁目3番5号にある区の施設。宇宙船? キノコの様な建物の体育館棟と、蒲鉾型建物のプ ール棟がある。体育館棟の展望廊下からは周辺の景色を眺めることが出来るよ。開館時間は9時~2 1時(プールは、夏季以外は9時半~21時)。バトミントン、バレーボール、バスケットボール、 フットサル、軟式テニス、卓球、水泳、ダンス、エアロビクスなど。 |
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■虹の下水道館 有明2丁目-3番5号有明水再生センター管理棟A棟5階にある。平成8年6月1日レインボータ ウン(臨海副都心)の下水を処理する有明水再生センターの見学説明室として開設された。その後2 1世紀の都市作りに貢献する未来型下水道をPRする下水道局の広報施設とするために展示物をさら に充実させ、翌9年4月15日実際に展示物に触れて楽しんで貰うことができる体感型展示施設とし てリニューアルオープンした。愛称公募により「虹の下水道館」と決定。 開館時間 9:30~16:00 原則月曜日が休館日 03-5564-2458 |
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■ダイノソアファクトリー 有明2丁目5番18号の「パナソニックセンター」の中にある体験型恐竜博物館。林原自然博物館 と松下電器(パナソニック)のコラボレーションで誕生したパナソニック・デジタル・ネットワーク ミュージアムの第一号だそうだ。従来の博物館ように標本や展示物を順番に見て歩くだけでなく、恐 竜化石研究の過程を発掘現場から一貫したストーリーで見ることができ、科学者の考えや作業を見て 感じることができる。さらに子供たちには、最先端のデジタルネットワーク技術を駆使した情報シス テムの中で自分で考え、自発的に情報収集していく。ダイノソアファクトリーはこれからの総合的な 学習にも活用できる新しいスタイルの博物館だ。パナソニック・ファンは必見! 開館時間10:00~18:00 原則月曜日休館。 03-3599-2600 |
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■国際展示場駅 有明2丁目5番25号にある東京臨海高速鉄道りんかい線の停車場。平成8年3月30日りんかい 線(当時は臨海副都心線)新木場~東京テレポート間開業時に設けられた駅。ホームは島式1面2線 構造で、地下1階にある。ホームと改札階を結ぶエレベーター完備。改札口・出口は1ヶ所づつで、 いずれも地上1階にある。駅名になっている東京国際展示場は駅の南約300mの距離にある。徒歩 圏内だが、どうしても歩きたくなければ有明駅からゆりかもめに一駅だけ乗るのも手だ。駅舎は幌屋 根という非常に珍しいもので、それを理由に関東の駅百選にも選定されている。駅構内や駅前広場は 広く造られており、ビッグサイトでの特定イベント時に対応している。 |
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■東京都水の科学館 有明3丁目1番8号(平成21年11月の住居表示以前は2丁目4番)有明給油所にある都水道局 の文化施設。東京湾を臨む臨海副都心、レインボータウン。超近代的な建物がどんどんできている、 まさに未来都市の中にある。近づくだけでもワクワクの新体験だぁ。 「君は水を知っているか? 答えはもちろんイエスだろう。でも水がどうやって生まれるのか、科 学的にどんな性質なのか、どうやって水が君の家の蛇口まで届くのか、ということまで詳しく知って るか? よく知っているようで、ほんとは知らないことで一杯、それが「水」っちうもんなんだ。水 の科学館は、そんな水の不思議を探検する再発見基地。さあ水の真実の姿を求めて出発だ!」とは、 開館は、概ね月曜日を除く毎日9時半~17時、入館無料。 03-3528-2336 「東京都水道歴史館」が本郷2丁目7番にあるよ。 |
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■国際展示場正門駅 有明3丁目6番15号にあるゆりかもめ臨海線の停車場。平成7年11月1日ゆりかもめ新橋~有 明間開業時に開業。ホームは3階にあり、島式1面2線構造。ホームと改札階を結ぶエレベーター完 備。改札口は1ヶ所のみで2階にある。出口は北口と南口の2ヶ所、TFTビルや東京ビッグサイト とはデッキで繋がってる。駅構内に地上へ下りるエレベーターはないが、東京ビッグサイトへ行く途 中のデッキ上にあるものを利用できる。それほど知られていないが、東京ビッグサイトの正式名称は 「東京国際展示場」。りんかい線に国際展示場駅があるが、それよりも間近にあるためコチラは「正 門」を名乗っている。特定のイベントが開催される際にはそれはそれは大変混雑する。駅構内案内放 送(精算所・トイレ・案内板)を務めるのは、声優の高橋美佳子。駅文様は「桜文様 桜桃色」 |
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■有明駅 有明3丁目7番5号にあるゆりかもめ臨海線の停車場。有明駅は平成7年11月1日ゆりかもめ新 橋~有明間開業時にできた。10年以上にわたってゆりかもめの終着駅を務めたが、同18年3月2 7日の豊洲延伸に伴い中間駅となり、同時に無人化された。ホームは3階にあり、島式2面3線構造。 外側の1番線は豊洲方面、4番線は新橋方面の列車が使用し、中線の2・3番線は有明を始発・終着 とする列車が使用する。ホームと改札階を結ぶエレベーターは完備。改札口は1ヶ所のみで2階にあ る。出口は東口と西口の2ヶ所で、双方にエレベーターを備えている。 この駅から、東京ビッグサイトの南側にある車両基地への回送線が分岐している。そのため、朝夕 に有明を始発・終着とする列車がある訳だ。駅構内案内放送(精算所・トイレ・案内板)を務めるの は、声優の中原麻衣。駅文様は「獅子文様 柑子色」。平成19年10月18日~同20年3月31 日まで、車内における当駅の到着アナウンスをフジテレビアナウンサーの斉藤舞子が務めた |
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■東京臨海広域防災公園 有明3丁目8番35号にある国営公園。首都直下地震等の大規模な災害発生時に、現地における被 災情報の取り纏めや災害応急対策の調整を行う「災害現地対策本部」等が置かれる首都圏広域防災の ヘッドクォーター及び広域支援部隊等のベースキャンプ、災害医療の支援基地として、川崎市東扇島 地区の物流コントロールセンターと一体的に機能する防災拠点施設。 事業に当たっては、平常時の活用も考慮して、都市公園事業により国土交通省と東京都が役割分担 を行い整備することとされ、 ①.平常時には関係機関が連携して防災に関する情報交換や各種シミュレーション・訓練など、 発災時に備えた活動を行う場 ②.広く国民が様々な体験・学習・訓練を通じて、防災への関心を高め、実際に災害に対応で きる知識や知恵、技術、自助・共助の心を習得する場 ③.臨海副都心の都市集積・集客性を生かした魅力ある空間とするものとして整備を行ってい る。 国営公園の面積は6.7ha、都立公園の面積は6.5haであり、合計13.2haになる。 休館日 月曜日(祝日の場合は開館し、翌日休館)・年末年始。※別に臨時休館日がある。 入園料・入館料 無料 TEL03‐3529‐2180 FAX03‐3529‐2188 ●災害時の機能 首都圏広域防災のヘッドクォーター 1.現地対策本部の設置 2.被災時の情報収集・集約 3.関係機関との連絡調整 4.応急復旧活動の指揮 広域支援部隊等のベースキャンプ 自衛隊、消防、警察などの広域支援部隊等のベースキャンプ機能等 災害時医療の支援基地 1.救助活動、医療活動の情報共有化 2.トリアージの実施のための資機材・設備の提供等 ●本部棟(有明の丘基幹的広域防災拠点施設) 内閣府が管理する防災施設。防災施設の特徴は、 1.建物全体を免震装置の上に配置(通信専用アンテナ塔を含む) 2.中央防災無線(地上系及び衛星系)で全省庁及び全都道府県と接続 3.映像伝送(東京・埼玉・神奈川・千葉)、テレビ会議、ヘリテレ映像の取込みも可能 4.非常用電源(自家発電) 発電力1000kVA×2基(灯油式、無停電装置により自動的に切替え) 燃料90000 ℓ蔵、3日間連続運転可能(燃料追加で7日間まで連続運転可能) 5.要員の休養スペース等 ロッカー室・シャワー室・仮眠室を配置(発災時は公園施設の一部も仮眠室として利用可能) 6.備蓄食糧、飲用水(ペットボトル)等を、7日分を目標に備蓄を計画 7.他に飲用系約6トン、シャワー・散水系約133トン 合計139トンを貯水槽2系統に分置 |
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■東京国際展示場(東京ビックサイト) 有明3丁目11番1号にある。東京ビックサイトってえのは、晴海展示場に代わって建てられた東 京国際展示場の運営会社の名称。 ●株式会社東京ビックサイト 昭和31年社団法人東京国際見本市協会設立。東京国際見本市など各種見本市を主催。同33年式 会社東京国際貿易センター設立。晴海見本市会場を運営。平成8年3月晴海見本市会場閉場。4月東 京ビッグサイト開業。同11年株式会社東京国際貿易センターが有明パークビルを竣工させ、管理運 営を開始。同12年株式会社東京国際貿易センターが東京ファッションタウン株式会社及び株式会社 タイム二十四と業務統合。同15年社団法人東京国際見本市協会と株式会社東京国際貿易センターが 統合、「株式会社東京ビッグサイト」と社名変更。同18年東京ファッションタウン株式会社及び株 式会社タイム二十四と合併。 |
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●エスカレーター急停止事故 平成20年7月3日午前10時ごろ、西ホールの上りエスカレーターが急停止し、下り方向に逆走 した。乗っていた約120人のうち、19歳から54歳までの男性8人と女性2人の計10人が軽い 怪我をした。東京湾岸署は管理などに問題がなかったか、業務上過失傷害容疑で関係者から事情を聴 取。事故の起きたエスカレーターは、本社が中央区にある「日本オーチス・エレベータ」製で、1階 から高さ約16mの4階まで直接結んでる。事故は模型やフィギュアの販売イベント「ワンダーフェ スティバル2008夏」のオープンに合わせ警備員が2列に並んだ客らを会場の4階に誘導する際に 発生。先頭の警備員が全長35mのエスカレーターを7割ほど上がったところで急停止、ずり落ちる ように下向きに動いた。調べでは、エスカレーターの緊急停止ボタンが押された形跡はなかった。設 計上は、ステップ当たり130キロの計算で、計1万1180キロ(ステップ86段)の荷重に耐え られるものの、オーバーすると自動停止する。目撃者によると、発生時は、客らが数珠つなぎのよう な状態だった。事故のあったエスカレーターは96年4月設置。点検は毎月1回実施し、先月の点検 で異常はなかったし、これまで大きなトラブルもなかった。ビッグサイトは施設内にあるオーチス社 製の8基を含め、38基のエスカレーターの運転を安全が確認されるまで中止した。オーチス社はこ の5月にも名古屋で同様の事故を、また都営地下鉄大江戸線でもボルト欠損事故を起こしている。エ レベーターでも六本木ヒルズ森ビル、三越本店で小火災が発生している。シンドラーもそうだが、外 国製は欠陥が多い。 |
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■ゆりかもめ有明車両基地 有明3丁目13番1号にある。見学できるよ。 |
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■倉庫団地 有明4丁目全域。有明埠頭橋によって3丁目と繋がっている。 |
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■再製塩製造所跡 石島2番の辺にあった。再製塩製造は、明治23年吉田由蔵が、南葛飾郡海辺新田で外地塩を原料 とした再製塩製造工場を設置し東京市内に供給したことに始まる。この後同27、8年深川区東元町 (常盤1丁目)で小川長蔵が、内地ゴミ塩を主たる原料として再製塩製造を開始すると、家庭、料飲 業、白菜漬用に、その需要は高まった。同38年塩専売法が施行されると、再製塩業者は政府の保護 を受け、大正6、7年頃には最高の生産高を誇った。同15年には、高橋政喜郎・財部倉吉・及川幸 次郎らにより、東京再製塩業株式会社が創立され、昭和17年の産業統制法公布施行により解散させ られるまで、高級塩の製造に当たった。 |
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■扇橋小学校(昭和23年5月10日開校記念日) 石島18番5号にある区立校。 [第一次] 明治37年4月深川石島町218番地(石島23番)に校舎を建て「扇橋尋常小学校」として開校。 これに伴って廃校となった川南尋常小学校の生徒を収容して授業を開始した。同39年高等科を設置 「東京市扇橋尋常高等小学校」と改称。大正7年川南尋常小学校を分校。同12年3月鉄筋コンクリ ート造り総2階建ての校舎が完成したが、9月の関東大震災で壊滅、僅か半年の生命だった。そのた め焼跡や避難用バラック、校地に建てた仮校舎、焼けた校舎を改修した教室で授業を行った。 昭和3年深川区石島町48番地(現在地)に待望久しい鉄筋コンクリート造り3階建て校舎落成。 同8年9代校長山田國之助が申請し認可。 校歌「秀麗天下に類なき」 作詞・豊田八千代駒大教授 作曲・田村虎蔵 1.秀麗天下に類なき 富士も筑波も見え渡る 我が學びやは名にし負う 扇の橋に程近し 2.榮ゆる聖代(みよ)に生まれあいて 共に力を協せつゝ 國と家とに盡(つく)すべく 學ぶ我等は幸多し 3.勤倹自治の教訓(みをしえ) 胸に占めつゝ弛みなく 心を磨き身を鍛え 君の惠に報いなむ 同11年石島尋常高等小学校を分校。同16年国民学校令により「東京府東京市扇橋国民学校」と 改称。同18年都制施行により「東京都扇橋国民学校」と改称。昭和20年愚かなアメリカ軍の非人 道的無差別空爆により全焼。8月日本は、ならず者国家アメリカの軍門に降り敗戦、以後その属国と なる。同21年3月廃校 [第二次] 昭和23年5月10日川南小学校と石島小学校を統合し「東京都江東区立扇橋小学校」として元加 賀小学校内に復興。14学級669名。9月元の校地に校舎復旧して移転。同25年校歌の歌詞が難 しく教師たちが理解できないというので代替歌「扇橋の歌」制定。同27年児童数1200名を越え る激増のため12学級598名を移籍して川南小学校を再分校。その後も学童は増加の一途を辿り、 同33年には再び1200名を越えたが、その年をピークに減少していった。同50年第一期新校舎 落成。同51年第2期新校舎落成。平成8年コンピュータ・ルーム完成。同11年校庭整備改修。同 12年地方自治法改正により東京都の冠称を外し「江東区立扇橋小学校」と改称。全校舎耐震工事完 了。同15年創立50周年・開校100周年記念式典。 代替校歌「扇橋の歌」 作詞・教師たち 作曲・柳原徳蔵 1.朝だ 夜明けだ 陽が昇る 明るい希望の鐘がなる さあさあ行こうよ 手に手を取って 楽しい僕らの扇橋 2.広い海から風が吹く 楽しい歌声 乗せて来る さあさあ行こうよ 手に手を取って 楽しい僕らの扇橋 3.川に魚もピチピチと 跳ねて 躍って 歌ってる さあさあ行こうよ 手に手を取って 楽しい僕らの扇橋 |
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■奥の細道の出発点 松尾芭蕉が奥の細道を求めて旅立ったのは海辺橋下の河岸。 草の戸を住替る代ぞひなの家 いま橋詰に芭蕉が腰掛けたポーズの等身大の銅像があり「採荼庵跡」となっている。『南総里見八 犬伝』の作者滝沢馬琴が生まれたのも海辺橋の近くだそうだ。 |
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■正源寺 永代1丁目8番8号にある浄土宗の寺。寺っぽくはしてあるが、役所の出張所のような・・・ ●初代市川段四郎の墓 正源寺の墓地にある。歌舞伎役者、慶安四年(1651)に生まれ、初名を助六といい、俳号を円 生という。初代市川団十郎門下の最古参だった。元禄の初めころから名を上げ、同八年(1695) に段四郎から団四郎に改めた。勇壮活発な人物を表現する荒事や、ごく普通の人物が苦悩する有様を 写実的に描写する実事を能くした。森田座・中村座・市村座・山村座などで好評を得て大当りを取っ たが、出家したと伝えられる。晩年請われてやむなく森田座で文覚法師を演じ、一年ほど役者に戻っ たが、再び僧門に帰した。現在の墓石は2代目段四郎が大正9年に再建したものだ。 ●伊奈忠治・忠重の墓 正源寺の墓地にある。忠治は江戸時代初期の関東郡代だ。文禄元年(1592)伊奈忠次の次男と して生まれ、通り名は半十郎、兄忠政の後を受けて関東郡代兼勘定奉行となり、武蔵国足立郡赤山陣 屋(埼玉県)で7000石を知行した。利根川流域の改修工事や荒川の瀬替工事、灌漑・開墾など大 いに貢献した。父忠次に匹敵する民政家だった忠重は、忠治の三男で、半三郎、五兵衛と称し、承応 二年(1653)父忠治の死に伴い遺領の内1640石を分与され旗本として分家した。淀川の普請 奉行や武蔵国の新田検地を奉行した。延宝二年(1674)に没し、この忠重の系統から、寛政四年 (1792)本家の名跡を継いだ小十郎忠盈が出ている。この墓は、正源寺の開基墓と伝わる。 |
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■福寿船玉稲荷神社 永代1丁目9番8号にある小祠。 |
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■王子稲荷社 永代1丁目10番6号にある小祠。 |
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■伏見稲荷社 永代1丁目10番14号にある小祠。 |
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■佐久間象山砲術塾跡 永代1丁目14番にあった松代藩下屋敷内。かつて三菱倉庫のあったところ、今は大和総研のある 高層ビルが建っている。 象山は幕末の勤皇家、兵学者で、文化八年(1811)に生まれ、名は啓(ひらき)、通り名を修 理(しゅり)といった。松代藩真田家の家臣で、初め佐藤一斎に朱子学を学び、のちに高島流西洋砲 術を江川太郎左衛門英龍に学んだ。嘉永三年(1850)七月から十二月までの半年間、深川小松町 の松代藩下屋敷で、西洋砲術塾を開き、勝海舟、吉田松陰、橋本佐内、河井継之助ら有能な門下生を 教授したが、藩命により松代に帰国した。象山は開国を唱えて活躍したが、安政元年(1854)ペ リー来航に際しての吉田松陰密航未遂事件に連座して松代に幽閉された。元治元年(1864)に赦 免され、幕命により京都に上ったが、攘夷派の浪士に暗殺された。54歳だった。墓は長野県松代の 蓮乗寺にある。象山の肖像写真が残っているが、自作の写真機(留影鏡)で撮影したものだ。 |
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■紀文稲荷神社 永代1丁目14番6号の大和総研の敷地の東角地にある。 |
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■深川魚市場跡 永代1、2丁目、門前仲町1丁目の一帯にあった。明治13年高柳文吉ら40名の出願により設立 された。蛤町1、2丁目、中島町に亘り、事務所は中島町9番地に置かれた。これより以前、江戸時 代この辺りが深川猟師町と呼ばれていた頃、漁民から収獲を買い取り、幕府へ納めたり、他へ売った りする「地小買」という商売があり、これが維新後日本橋市場に加入して「深川組魚問屋」となり、 高柳らが独立を出願して東京府から認可されたものだ。昭和9年、築地の海軍跡地に完成した東京市 中央卸売市場に統合されその生命を閉じた。前夜帰港した漁船の収獲物を直ちに生簀に移し、翌朝4 時からの市で、活きのいい魚を売ることで大変に評判が良かった。なおこの魚市場と共に、その日に 捕った魚介類を夕べの内に売る「黒江町(永代2丁目)の夕河岸」も有名だった。 |
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■深川猟師町八ヶ町 初め名主の名を取って新兵衛町・利左衛門町・弥兵衛町・助十郎町・彦左衛門・藤左衛門・次郎兵 衛町・助右衛門町だったが、元禄八年(1695)に検地があり、その際名主の姓を町名とした。順 に相川町・熊井町・清住町・富吉町・諸町・佐賀町・大島町・黒江町となった。 |
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■稲荷神社 永代2丁目13番4号にある小祠。 |
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■徳寿神社 永代2丁目18番2号にある小祠。 |
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■於芳稲荷神社 永代2丁目22番4号にある小祠。 |
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■出世稲荷社 永代2丁目26番7号にある小祠。 |
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■瑠璃光山万徳院 永代2丁目37番23号にある高野山真言宗の寺。 ●伊勢の海の墓 万徳院の墓地にある。墓誌に初代から9代までの伊勢の海夫妻の戒名と没年が刻まれている。初代 は五太夫を名乗り、武州は名倉村の出身で、安永三年(1774)に没した。2代は億右衛門を称え、 奥州永井村の出身で最高位は関脇、弟子に谷風・錦木ら多くの名力士を育て、天明二年(1782) に没した。3代目は村右衛門と称し、武州柏戸村の出身で、初めて柏戸を四股名とした。以後代々の 伊勢の海の四股名となった。特に5代伊勢の海の柏戸利助(3代目)は有名で、文化十二年(181 5)に大関となり、文化六年(1823)に大関となり、文政六年(1823)に玉垣と共に横綱免 許を受け、年に2場所興行の時代に、通算15回という強豪だった。10代目は昭和の柏戸で8代目、 9代目柏戸を横綱にした。この柏戸は伊勢の海を継がず、鏡山を襲名して新たに部屋を起こした。現 在部屋は七代目藤ノ川が継ぎ今日に至っている。 ●佐渡ヶ嶽の墓 万徳院の墓地にある。墓誌には「先祖累代」と10代目の名だけが見られる。しかし過去帳の一つ に、寛政七年(1795)に亡くなった初代の沢右衛門以下、2代、3代、4代、9代の5人の戒名 と、別に7代と8代2人の戒名が併記されている墓石がある。元は墓石が2基あったものと思われる。 初代は前橋の出身、2代は大五郎といい三段目で終わった。3代~6代は沢右衛門、7代と8代は 兵右衛門、9代脇太郎、10代高一郎、11代登(琴錦)、12代慶兼(琴桜)、13代満宗(琴の 若)。最高位は12代の横綱、ついで当代の関脇、3代と11代の小結の順、後は平幕、十両が関の 山。 ●六代目式守伊之助の墓 2丁目37番の万徳院の墓地にある。江戸末期の大相撲の立行司だ。文政十三年(1830)奥州 仙台に生まれ、明治13年51歳で没した。伊之助は近世勧進相撲の行司の重鎮であり、現存する相 撲番付にその名が初めて現れるのは明和四年(1767)三月十五日から深川八幡社地で行われた晴 天8日の興行だ。その後伊之助の名跡は代々受け継がれ近世末までに6代続いている。6代目は嘉永 六年(1853)十一月から明治13年5月まで55場所を務めた。昭和34年に定年制が採用され てから回転が早くなり現在35代を数えるが、中でも有名だったのが19代で、長い白髭を生やして いたので「髭の伊之助」の異名を取り超有名だった。平成18年春場所から木村朝之助(高砂部屋の 世襲名)が35代を継ぐ、しかし今後木村庄之助を継ぐ予定はない。 伊之助は、装束として脇差を 帯び、白足袋に相撲場草履をはくこと、軍配の房、烏帽子の顎紐、直垂の菊綴(きくとじ)、袖・襟 の括紐(くくりひも)に紫分け紐を用いることを吉田司家から許されている。 ●若松の墓 万徳院の墓地にある。大相撲年寄名跡の一つ。この墓には3、4、6代の戒名が刻まれている。1、 2代は不明だが、3代は松島与惣次といい、幕下の力士だった。文政十年(1827)に退いて3代 目を継ぎ若松平治と名乗った。天保元年(1830)没した。4代目も幕下以下の力士だったが継目 して若松源治と称え、弟弟子の横綱秀ノ山の死後、4代目秀ノ山に名跡変更した。6代目は誰が継い だのか不明だが、明治4年に引退した鹿島山音吉だろうといわれている。7代目以降の襲名は判らな いが、昭和4年高砂部屋の射水川健太郎が部屋を再興し、養子の鯱の里一郎が継ぎ、婿養子の房錦勝 比古に伝えたが、病気のため廃業した。大関朝潮は引退して山響を襲名していたが、名門若松の名を 惜しんで引き取り若松部屋を起こした。ところが本家高砂(富士錦)が定年退職を迎えて、後を継ぐべ き錦戸(水戸泉)が継げず、名跡が空くため、若松部屋が吸収する形で高砂と名跡交換、若松は一時 的に琴錦が借用した。その後朝乃翔嚆矢(はじめ)が借り、朝乃若が購入平成17年5月引退して襲 名した。朝乃翔は佐ノ山に変更、同年8月から関ノ戸を借りた。 |
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■渋沢栄一宅跡 永代2丁目37番28号渋澤シティプレイス永代のところにあった。渋沢は明治から大正にかけて の財界の大立者、埼玉県に生まれ、一橋家に仕えて幕臣となり、維新直前にフランスに派遣された。 維新後に帰国し、明治政府に出仕したが、3年半で退官した。以後大正5年に実業界を引退するまで5 00余の会社設立に関わったという。また明治22年から37年まで深川区会議員を務め、同30年 には渋沢倉庫を設立するなど、この区との関わりが深い。明治9~21年まで、深川福住町4、5、 7、9番地(永代2‐37)に住んだ。この間栄一は深川邸に寄寓する書生たちの修養、研鑽の場と して自発的に結成された竜門社の援助指導に当たるなど、多くの活動をした。深川に住んだのは36 歳から48歳までの12年間だ。渋沢の住宅としては北区飛鳥山公園のが有名だ。北区を参照された い。マンションの所有者が渋沢倉庫なので、ずーっと渋沢関連の所有地だったようだ。 |
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■東京朝鮮学園・東京朝鮮第二初中級学校 枝川1丁目11番26号にある外国人学校。昭和20年8月日本がアメリカの軍門に下った後、韓 国・北朝鮮が独立し、在日の朝鮮人は日本全国各地に「国語講習所」を設立した。同21年区内では 枝川に「東京朝聯学園」創立。同23年「東京朝聯第二小学校」と改称。同24年10学校閉鎖令。 12月東京都立学校に強制移管。同28年「東京朝鮮学園」の認可取得。同30年「東京朝鮮第二初 級学校」と改称。同39年中等部を併置して「東京朝鮮第二初中級学校」と改称。平成9年中等部を 廃し「東京朝鮮第二初級学校」に戻称。 ●土地騒動 同校の敷地の一部は東京都有地にある。東京市が朝鮮人を枝川に強制移住させたという歴史的経緯 が考慮され、昭和45年から20年間の期限付き契約で都有地を無償貸与されていた。契約の失効後 は交渉が開始されたが、突如平成15年に東京都が土地の明け渡し・工作物の撤去(職員室・玄関な ど)及びその土地の地代相当金4億円を支払いを求めて訴訟を起こしたが、同19年3月和解が成立 した。その内容は、東京朝鮮学園側が1億7000万円を都に支払い、今後10年間は学校用地とし ての利用制限付きで、土地を譲渡することで和解が成立した。 日本人は明治から敗戦まで、朝鮮人に悪さをしたからねぇ。どうしてこの時期の日本人は仁徳を忘 れっちまったもんか。それはそれは信じられないような悪さをしたんだよ。道徳心のない下級武士が 天下を取っちゃったせいか、明治維新は大失敗だった。特に大久保利通ってえ大馬鹿者が保身のため だけに政治を壟断したために、後に続く奴も好き勝手していいんだという風潮に陥って、1億総白痴 化してなぁ、酷えもんだよ。その血をおいらたちも受け継いでるからねえ。気をつけなくっちゃあ大 変なことになるよ。 中国や朝鮮・韓国が逆らうのはその竹箆返しでもある訳さ。でも怒っちゃあだめだよ。おいらたち が憎み倒さなければならないのは、ならず者国家アメリカで、アメリカというならず者国家がある以 上、日本国民が稼いだ金は色々な形で吸い上げられるんだ。アメリカ国債は100兆円も買わされて、 これを処分することは許されない。在日占領軍の費用は未来永劫税金で賄う。テロ対策だのPKOだ のと理屈を付けられては日本の財産は巻き上げられるのよ。日本国民が真に落ち着いて安定した生活 を送るためにアメリカというならず者国家はあってはならないんだよ。でもアメリカを叩きのめす力 はないし・・・じっと辛抱するしかないんだ。臥薪嘗胆、臥薪嘗胆。 |
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■枝川小学校 枝川3丁目5番3号にある区立校。昭和35年深川枝川町2丁目7番地(現在地)の佐藤鉄工所の グラウンドの跡地に校舎を建て、平久小学校から分校して1~5年生672名で創立した。新校舎は、 区内新設校としては第四大島小学校に次ぐ2番目の鉄筋コンクリート校舎で、当時文部省のモデル校 となった。おいらなんざ、高校まで木造校舎だったい。開校時には9教室しか完成していなかったの で、3・4年生は11月まで平久小学校内に間借り、翌36年には800名を越え、18学級編成と なった。その後減少したが500人を割ったのは平成11年度だけだ。昭和37年第3期校舎増築。 同38年3月体育館完成。8月プール完成。同39年屋上に地域の母親たちにより「愛の鐘」設置。 校歌制定。 校歌「光は窓に」 作詞・勝承夫 作曲・平井康三郎 1.光は窓に 希望は胸に いつも輝く 楽しく燃える よい子が揃う枝川に 今日も明るい鐘が鳴る さぁ歌おうよ 仲良く進む元気なわれら 2.負けずに伸びる 根強く育つ 草はタンポポ 弛まぬ力 子供の意気も溌剌と 何でもやり抜くこの誓い さぁ励もうよ 日本の明日を担う子われら 3.見渡す限り果てなく広い 海の大空 何処まで続く 夢湧く町よ枝川に 平和の愛の鐘が鳴る さぁ上げようよ みんなで高く母校の誉れ 同42年米国カーネギー記念財団が視察(解るのかねぇ?)。同49年校舎増改築。同50年新「愛 の鐘」設置。同54年日本語クラブ開設。同57年北京市友好代表団が視察。周辺マンションの建設 により児童が増える見込みに加え、老朽化と埋立地ゆえの地盤沈下対策としての全面建て替えのため プレハブ校舎に移転。同58年新校舎落成。同60年開校25周年記念式典・体育館落成式。平成2 年開校30周年記念式典。同9年コンピュータルーム完成。同12年創立40周年記念式典。地方自 治法改正により東京都の冠称を外し「江東区立枝川小学校」と改称。同19年校舎新築。 ●校章と愛の鐘の碑 正門前脇にある。昭和39年3月地域の母親たちが廃品回収をして資金を集め、校舎屋上に設置し た。それからはイギリスのウェストミンスター教会に準えた鐘の音が朝夕鳴り響いていた。同50年 には新しい鐘に取り替えられたが、同58年の新校舎には設置されなかった。情緒のない先生たちに は不人気だったんだねぇ。権力は学校が地域のものになることを嫌うし・・・国家命令の一方通行で なきゃならん訳よ。 |
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■明治天皇聖跡碑 越中島2丁目1番、東京海洋大学の西角、相生橋際にある史跡。道路向かいの区立越中島公園の入 口に大きな錨がモニュメントとして据えてある。 |
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■越中島駅 越中島2丁目2番14号にあるJR京葉線の地下停車場。平成2年の京葉線全通時(このときの開 業区間は東京~新木場)にできた駅。ホームは島式1面2線構造で、地下2階にある。ホームと改札 階を結ぶエレベーターは未設置。改札口は1ヶ所のみで地下1階にある。 出口は1~3の3ヶ所だが、エレベーターは設置されていない。 駅は大通りから少し外れたところにあり、周囲は東京駅から2駅目とは思えないほど閑散としてい る。各駅停車しか停まらないため、データイムの列車は15分おきと少なく、乗降客数も都区内のJ R駅では最も少ない。周辺には東京海洋大学とスポニチ本社以外に目立った施設もなく、乗降客の数 割はどちらかの関係者で占められていると思われる。なお、京葉線開業前までは越中島貨物駅が越中 島駅と名乗っていた。 |
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■都立化学工業短期大学 移転 越中島2丁目1番にあった都立校。昭和29年「都立化学工業短期大学」商科一部を都立第三商業 高等学校内に開校。同30年8番地(最終地)に新校舎落成、移転。同32年第二部(夜間)設置。 同44年昭島市の東京都農業試験場内に設立された立川短期大学(昭和36年開校)に統合され「東 京都立短期大学」となり、越中島校舎は分校として残る。同46年中央区晴海に移転し・・・平成1 7年首都大学東京に統合された。 |
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■東京商船大学 → 東京海洋大学 越中島2丁目1~2番にある国立大学。明治8年私立「三菱商船学校」として設立。同15年官立 となり「東京商船学校」と改称。大正14年「東京高等商船学校」と改称(修業年限4年6月を5年 6月に改めた)。昭和20年4月東京・神戸・清水の三高等商船学校を統合して、新たに「高等商船 学校」を設立(修業年限5年6月を4年6月に改めた)。同時に船舶運航に関するより高度な専門教 育機関として「海務学院」が設置された。同24年高等商船学校及び海務学院を包括し「商船大学」 設置、商船学部が置かれた。同32年「東京商船大学」と改称。同49年商船専攻科を廃止して、大 学院商船学研究科(修士課程 航海学専攻・機関学専攻)を設置。同55年乗船実習科を設置。 平成2年商船学部の全学科を改組し、商船システム工学課程、流通情報工学課程及び交通電子機械 工学課程を設置。同6年大学院商船学研究科の全専攻を改組し、商船システム工学専攻、流通情報工 学専攻及び交通電子機械工学専攻を設置。同9年大学院商船学研究科博士課程(交通システム工学専 攻、海洋情報システム工学専攻)を設置。 商船大学歌「我が胸の」 作詞・茂在寅男 作曲・中田喜直 我が胸の熱き血潮は暖流の 流れる涯にあこがれて 抑え難くも あゝ我等 海の若人 巣立つ日の明日を待ちて 君共に ここに学ばん 我が東京商船大学。 同15年東京商船大学と東京水産大学は統合し「東京海洋大学」となる。同16年国立大学法人東 京海洋大学設置、海洋科学部・海洋工学部と大学院を置く。 新しい校歌だ。作詞・星野哲郎 作曲・鈴木淳 歌謡曲コンビだぞ。 1.海を拓き海から学ぶ 自由の心と我慢の二文字 海から世界へはばたこう 若者よ 集まれ 海洋大学へ 好きなことを好きなだけ 学べることは倖せ者だよ それが出来るのは現在(いま) 現在はすぐに過去 2.海を信じ 命あずけて 汲めどもつきせぬロマンを求め 時代は正に若者の 鉄の腕と英智に宿る 好きなことを好きなだけ 学べることは 倖せ者だよ それが出来るのは現在 現在はすぐに過去 3.海を興し 海から学ぶ 不屈の闘魂 久遠の平和 海から世界へはばたこう 若者よ 集まれ 海洋大学へ 好きなことを好きなだけ 学べることは倖せ者だよ それが出来るのは 現在 現在は すぐに過去 ●明治丸 大学構内にある、船歴100年を超える、わが国最古の帆船。長さ73m・幅9m・1027t、 3本マストの秀麗な姿を留めている。政府が灯台視察船(官船第1号)として英国に発注、明治7年 11月グラスゴー市において進水、翌年2月横浜に回航された。同9年明治天皇が青森から函館経由 横浜へ向かう海路で明治天皇が座乗された。「海の記念日」として制定された7月20日は、天皇の 横浜ご帰着の日を記念したもので、現在では7月第3月曜日を「海の日」として全国各地で海に関わ るいろいろな行事が開催されている。また琉球王国最後の国王尚泰が「琉球処分」の際、上京の為に 乗船した船として知られる。同29年から商船学校の練習船として活躍、昭和29年老朽化のため任 を解かれ、保存されることとなった。昭和53年国指定の重要文化財だ。観覧は火曜日・木曜日(祝 日を除く)及び第1・第3土曜日の午前10時~午後3時。低料金だが有料。 03-5245-7319 ●ジョセフ・ラムゼーの記念碑 明治年間、商船学校(商船大学→海洋大学)の教授として、わが国海運界の発展に尽くしたジョゼ フ・ラムゼーの碑が校庭にある。この碑は、明治19年ラムゼーの教えを受けた人たちがその功績を 称えて建立したもの。高さ3mの大きな碑で、初めは上野公園内にあったが、のち公園が整地される ため、ラムゼーと縁の深い商船大学(海洋大学)に移され現在に至っている。 ラムゼーは、英国に生まれ、17歳のとき帆船の練習生になり航海術を学んだ。4年後一等士官と して、インド海軍の艦長になり、英清戦争(アヘン戦争)に参加して功を立てた。明治8年ラムゼー は三菱が英国から購入した「隅田丸」の船長として来日。翌年三菱が商船学校を創立。ラムゼーは教 授として迎えられた。ラムゼーは職務に勤勉よく後進の指導に当たり、その温厚篤実な人柄により、 親のように敬慕された。明治16年政府の管船局で、海員試験の試験官を勤めたが、明治18年3月 27日東京駿河台の官舎で病気。47歳、横浜の、外人墓地に葬られた。 |
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■第三商業高等学校 越中島3丁目3番1号にある都立校。昭和3年「東京府立第三商業学校」として明治小学校跡で授 業開始。8月数矢小学校に移転。同5年現在地に移転。同15年現在の定時制に当る夜間部を設置。 同18年都制施行により「東京都立第三商業学校」と改称。同22年中学校併設。同23年新学制に より「東京都立第三商業高等学校」と改称。毛利小学校内に分校設置(同34年「東京都立深川商業 高等学校」として定時制独立校となり、同41年墨田区横川4丁目柳元国民学校跡に移転)。同32 年図書館設置。同33年産業振興法による商業実践室落成。プール完成。同37年新潟県六日町に山 寮完成。商業実習室3階増築。同53年創立50周年記念式典。同57年新校舎棟・体育館棟・プー ル棟完成。 平成2年定時制創立50周年記念式典。同3年全日制会計科2学級設置。制服改定。同5年中国帰 国生徒受入開始。同10年山寮閉鎖。同12年テニスコート改修。同13年台湾教育視察団来校。校 舎耐震化。同14年商業実践室改装。5階パソコンルーム改修。同15年全日制商業科が各学年6学 級編成に改定。新教育課程開始。2階パソコンルーム改修。同16年1階パソコンルーム改修。エア コン設置。同17年外壁改修。同18年防球ネット設置。販売促進支援システム導入。アスベスト除 去完了。同19年パソコン室2教室に個別空調設置。同20年創立80周年記念式典。 校歌「都の空は」 作詞・前田夕暮 作曲・山田耕筰 1.都の空は明けたり、今 希望は燃ゆる若きわれら 都立第三商業、ここに拠るや 日本の富を担ふわれら 2.富岳の雪を望む窓辺 理想は高し、若きわれら 都立第三商業、ここに居るや 都の栄えを築くわれら 3.東都の海の門にありて 心は濶し、若きわれら 都立第三商業、ここに立つや 江戸の誇りを継げるわれら |
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■越中島小学校 越中島3丁目6番38号にある区立校。昭和55年日立金属深川工場(日立化成)跡の現在地に、 臨海小学校から分校して開校、殆どが団地の子だ。新築校舎は区内でも1、2を争う広い校庭を持ち、 既設校にはない2教室分の特別教室や視聴覚教室が備えられた。開校翌年に一年から六年までの全生 徒が揃い、12学級となった。開校3年目の同57年度は、生徒数562名16学級編成となり、最 大の年度となった。この年校歌制定。 校歌「高く伸びゆく」 作詞・昭和56年度生徒・職員 作曲・天野明芳 1.高くのびゆく学園の町 希望の歌がこだまする 鍛える体たくましく 進んで学び励もうよ ああ ああ 越中島小学校 2.大東京の深川南 下町の意気受け継ごう みんな仲良く思いやる 明るい学校作ろうよ ああ ああ 越中島小学校 ああ ああ 越中島小学校 3.富士山のぞむ隅田の川に 海風ついて鴎飛ぶ やりぬく誓いどこまでも 世界の空へはばたこう ああ ああ 越中島小学校 開校2年目、全生徒・全職員により作詞開始。児童には夏休みの宿題となった。そして12月2日 初代校長堀内康三郎監修により出来上がった。作曲は音楽教諭天野明芳が中心となり堀内校長及び校 歌作成委員会により作曲され。翌年1月28日完成、30日制定した。 平成7年コンピュータルーム・ランチルーム・図書室完成。同9年以降生徒数250名を切る。同 11年創立20周年記念式典。同15年学校選択制度の導入後、高層住宅建設など周辺環境の変化に より生徒数激増傾向(現在は昭和57年度の最大数に匹敵するまでに回復) ●クスノキ 正門右脇の楠は、昭和55年7月24日開校記念樹として植樹した。 ●シダレザクラ 正門左脇の枝垂れ桜は、平成11年4月1日開校20周年記念として植樹した。 ●東門アーチ 越中島ハイツ側の門。昭和60年池の噴水と共に設置。 ●ポケットエコスペース 平成6年4月1日設置 |
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■深川第三中学校 越中島3丁目7番1号にある区立校。昭和22年4月新学制の実施により最初に創立した区立6校 の内の一つ。深川南部を通学区域として、5月都立第三商業高等学校の一隅に1年生のみ230名5 学級でスタート。翌年に新入生282名を迎え、数矢小学校に分校を出した。同24年分校を閉じ、 生徒を都立第三商業高等学校に移し二部授業。6月1年生を数矢小学校に移し、二部授業を解消。式 典などは数矢小学校の講堂で行われた。同25年4月都立第三商業高等学校内に深川第五中学校を分 校。7月現在地に待望久しい新校舎が落成し移転したものの、同26年2月豪雪により煙突が詰まっ て過熱出火、体育館を残して焼失。1・2年生は明治小学校に、3年生は数矢小学校に間借りし授業 継続。同27年8月に再建新校舎が落成して全生徒帰校。この際校具・教具の整備にはPTAの多大 の協力援助があった。同28年校歌制定。 校歌「潮の香こめて」 作詞・勝承夫 作曲・平井康三郎 1.潮の香込めて 希望を込めて 吹けよ朝風 学びの窓に 花の純情 燃え立つ処 伸び行く若き我等あり 深川三中 幸ある母校 2.国の文化の先駈け幾つ 偲ぶ名残も数ある限り ここに平和と自立の気風 育む強き我等あり 深川三中 愛する母校 3.潮満ち渡れ 力よ躍れ 明日の世紀を夢見る胸に 繋ぐこの手に友情燃えて 躍進誓う我等あり 深川三中 栄えある母校 同29年6教室増築。同32年新体育館兼講堂落成。同35年1年生769名が入学し、校庭にプ レハブ校舎が建てて補う。同36年鉄筋コンクリート造り校舎(教室9・特別教室・使用未定室6) 落成。同37年プール完成。同44年旧校舎改修。同54年体育館建替え落成。同60年外国人教師 による1年生の語学授業開始。同61年新プール完成。同63年創立40周年記念式典・柔道の山下 泰裕六段講演。平成6年外国人教師による語学授業、2年生まで拡張。同8年3年生まで拡張。同9 年創立20周年。同15年2学期制モデル校。同18~19年校舎改築のため廃校となった南砂西小 学校校舎を仮校舎に移転。同20年新校舎落成し帰校。 |
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■竹橋事件処刑場跡 越中島3丁目7番にあった練兵場内。明治11年(1878)8月23日に北の丸竹橋屯所で起き た騒動。前年に鎮定した西南戦争の論功行賞や待遇改善を不満とする近衛砲兵大隊の兵士263人が 蹶起した叛乱事件だ。大隊長と週番士官を殺害し、天皇への直訴を図って仮皇居(迎賓館)を目指し たが、約100人が辿り着いたものの、同時蜂起を期した近衛歩兵や鎮台予備砲兵が動けず、僅か2 時間で鎮圧された。事件から2ヶ月も経たない10月15日に銃殺53人、准流(流刑)118人、徒 刑(懲役)68人など計263人に有罪判決が下り、53人の銃殺は即日執行された。処刑は深川越 中島で行われ、遺骸は青山墓地へ埋葬した。新政府の巨魁大久保利通が正義の刃に斃れた後で、明治 政府は狼狽した。国民の反感を買っていた時でもあり、反軍精神が国民の間に醸成しては敵わぬと、 手早く処理すると、要望通りメニューに肉料理が採用された。肉じゃが、とんかつ、カレーライスな どが発明されたのはこの時なのだ。一つの大いなる誤解は、日本民族が肉食民族でないと思っている こと。江戸時代仏教徒は極僅かで、殆どは神道だ。馬刺・桜鍋、狸汁、紅葉鍋 etcetc 犬も、牛も、 熊も、カモシカも、日本人は食ってた。徳川家康が朝鮮使節を遇するに数奇焼でもてなしている。文 明開化で肉料理を食べるようになったのは仏教徒だけで、数奇焼きを鋤(すき)で焼いたからとは滑 稽を通り過ぎる。もし陸軍が健康を考慮して力づくで肉料理を食わせたとすれば、暴動が起きただろ う。肉を食べるという風習があればこそ、肉じゃがやとんかつ、カレーライスが素直に受け入れられた のだ。日本に中華料理屋やとんかつ屋が多いのは、相撲取りがチャンコ屋を始めるように、手っ取り 早い商売だった訳。宇都宮がギョーザの町なのは、宇都宮の師団が長く満州に駐箚してたことによる んだよ。 |
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■扇橋 昭和4年に震災復興事業として清洲橋通りを通すため200メートル南にずらした現位置に架けら れた長さ40m80cm×幅22mのコンクリート・ラーメン橋台鋼鈑桁橋だった。この橋のことは谷 崎純一郎が『幼少時代』に回顧している。しかし老朽化には勝てず平成14年に架け替えた。小名木 川には新扇橋が架かっている。 |
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■民間機械製粉業発祥の地 扇橋1丁目20番1号、その小名木川に架かる「新扇橋」の南詰西広場に碑が建っている。黒御影 石で作られたこの碑は、正系の直方体ではなく微妙に各面の角度が違っている。几帳面な正義派の人 は、シンメトリー(対称形)でないことにむかつくこと請け合いだ。製粉工場はこの記念碑の西側一 帯にあったが、現在は区営アパートが2棟建っている。平成13年に区の史跡に指定され、日本製粉に よって建てられた。 民間機械製粉業発祥の地 明治12年、明治を代表する実業家雨宮敬次郎は、水運の便のよい小名木川に着目して、 この地にそれまでの水車動力に代わる蒸気機関を動力源とした、民営では最初の近代機械 製粉所「泰晴社」を創設しました。欧米を視察して製粉事業の将来性を確信した雨宮は、 蒸気機関のほか石臼製粉器、篩器(ふるいき)などの製粉装置を米国から輸入して製粉事業 の経営に成功をおさめました。雨宮の製粉事業は東京製粉合資会社に受け継がれ、明治2 9年に日本製粉株式会社に改組されました。 また小名木川沿岸には、明治30年台に製粉 会社が次々と設立され、全国でも屈指の小麦粉生産高を誇るようになりました。こうして泰 晴社は、小名木川沿岸にさまざまな近代的工場が進出してくるさきがけとも なったのです。 なお明治初期の機械製粉所には、開拓使により札幌に設立された磨粉機械所(明治9年大 蔵省による浅草蔵前の製粉所(同12年) の二つがありましたが, これらの官営製粉所は ともに日本製粉株式会社がその事業を継承しました。 江東区 |
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■西岸寺 扇橋2丁目8番10号にある浄土真宗本願寺派の寺。造りは民家、玄関周りだけは寺っぽい。 |
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■境川跡 扇橋3丁目8番から東砂5丁目10番の清洲橋通りがそれだ。別名舟入川、明治以後は砂村川と呼 ばれた。横十間川のやや西のところで小名木川より斜め東南に分れて流れ、八右衛門新田・久左衛門 新田・亀高村・大塚新田・中田新田の南、永代新田・砂村新田・八郎右衛門新田の北を流れ、中川に 流入していた。 川幅は広い所で10間(約1.8m)、狭いところで6~7間(約10.8~12.6 m)だった。この川は、近郷の悪水落としと、農産品を運ぶ運河として使われ、この地域の農業用水 や産物などの交通路として重要な役割を果たしていた。悪水とは汚水ではなく冷水など農業不適水の ことだ。舟入川は、限定的には清洲橋通り旧葛西橋交差点から南の神明通り+四十町通りの部分で、 道路が細くなり行き止まっているところが堀留の跡だ。 関東大震災後の復興計画街路の幹線28号 として、大正13年2月に埋立が決定し、6年後の昭和5年に埋立が完了した。現在は清洲橋通りが 通り、境川の名は、交差点、横断歩道橋、バス停、公園の名前に名残を留めている。この道路の東端 が旧葛西橋に通じていた。現在は行き止まりになっている。 |
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■猿田彦大神 扇橋3丁目3番10号にある小祠。 |
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■釜屋跡 (区内工業発祥の地) 大島1、2丁目にあった。釜屋とは鋳造業のことで、太田六右衛門と田中七右衛門の2人は、近江 国栗本郡辻村の出身で、代々鋳物を業としていた。寛永七年(1640)に江戸へ出て、芝の海岸で 鋳造業を始めたが、増上寺境内拡張のため大島村に移り、幕府の用品を初めとして市民の需要に応えて 鍋、釜、梵鐘、仏像、天水桶などを作った。原材料や製品の輸送に使った両家の前の堀は「釜屋堀」 と呼ばれた。初代六右衛門は、延宝五年(1677)朝廷から「近江大掾」の号を与えられたので、 以後代々がこれを通り名とした。初代釜六の大茶釜が世田谷区の九品仏浄真寺に現存する。釜六の作 品としては墨田区回向院の本尊大仏や三好の善徳寺の天水桶がある。釜七は鍋七とも呼ばれ、鍋作り で有名だったが、目黒区羅漢寺、文京区深光寺の天水桶が残っている。やがて都市化の波に押されて 鋳物業は埼玉県川口に移り、さらに群馬県渋川に移っていった。 |
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■科学肥料創業記念碑 ■尊農の碑 大島1丁目2番26号の釜屋堀公園内に建っている。タカジアスターゼの発明者高峰譲吉博士は、 かねてから海外に出かけ、燐鉱石から過燐酸肥料を製造する方法を研究していた。明治20年高峰は 渋沢榮一と図り、益田孝、馬越恭平、大倉喜八郎、浅野総一郎、安田善次郎ら当時の財界有力者の協 力を得て資本金25万の東京人造肥料会社を大島村(大島1丁目)に創立した。明治21年11月か ら操業し、わが国において初めて化学肥料の製造に成功した。同会社は、後に大日本肥料株式会社と なり、大正12年関東大震災で焼失するまで製造を続けた。昭和18年11月わが国の人造肥料製造 の発祥地を記念するため、同会社により記念碑は建立された。 化学肥料創業記念碑 植物が栄養とする肥料の成分は、窒素 燐酸 加里が主であって、之を三要素と称へ、窒素 は主として葉を、燐酸は果実を、加里は幹根を形成するものである。肥料には古来、動植 物質の腐熟したものを多く用いたが、近代科学の発達は化学的に、窒素 燐酸 加里の各肥 料を多量且つ廉価に生産することに成功し、是に依って農作物等の収穫は画期的躍進を見 るに至った。此の處一体は、実に我国化学肥料の先駆たる過燐酸石灰製造工業創始の地て ある。 尊農 先覚渋沢栄一、益田孝等ノ諸氏ハ、維新当初ニ於テ、我カ国運ノ躍進ハ必スヤ人口ノ激増 ヲ来シ、食糧問題ハ、実ニ邦家将来ノ緊要案件タルヘキヲ洞察シ、農業ノ発達ト肥料ノ合 理的施用トニ因リ、之カ増収ヲ企図スヘキ堅キ決意ヲ為シ、欧米ニ於ケル化学肥料ノ研鑽 者タル高峰譲吉氏ノ協力ヲ得テ、明治二十年初メテ此ノ地ニ東京人造肥料会社ヲ設立シ、 過燐酸肥料ノ製造ヲ開始セリ。是レ我国ニ於ケル化学肥料製造ノ嚆矢ナリ。本事業ハ、官 民ノ協力二因リテ漸次進展シ、後更ニ空中窒素固定工業ノ勃興スルニ及ヒ、農業生産ノ飛 躍的増収ニ絶大ナル貢献ヲ為スニ至レリ。今ヤ曠古ノ非常時局ニ際会セルモ、能ク一億国 民ノ食糧ハ、蓋シ化学肥料ノ発達普及ニ負フモノ多シト謂フヘシ。同社ハ後ニ大日本人造 肥料株式会社ト改称シ、此ノ地ハ釜屋堀工場トナリシモ、不幸大正十二年ノ関東大震災ニ 壊滅シ爾来二十星霜ノ久シキ寂トシテ、之ヲ顧謀リ、碑ヲ其ノ址ニ建テテ由来ヲ刻シ、永 ク偉績ヲ顕彰スルト共ニ我国農業ノ興隆ヲ期シ以テ皇国ノ盛運ヲ奉頌ス 昭和十八年十一月 化学肥料創業記念碑建設会 |
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■釜屋堀尋常小学校 廃校 大島1丁目2番31号にあった都立校。昭和14年関東大震災で壊滅した「東京人造肥料会社人造 肥料製造場跡地に第一・第二・第三大島尋常小学校から分校して、大島町1丁目59番地に新校舎を 建て開校。同16年国民学校令により「東京府東京市釜屋堀国民学校」と改称、同18年都制施行に より「東京都釜屋堀国民学校」と改称。同19年新潟県に集団疎開。同20年愚かなアメリカ軍の非 人道的無差別東京大空爆により校舎焼失。8月日本は、ならず者国家アメリカの軍門に降り、以後何 でもいいなりとなる哀れな属国となり今日に至っている。同21年疎開解除となり学童集団帰校。第 一大島国民学校に吸収され、3月廃校。 跡地は、江東工業高等学校に引き継がれた。 |
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■江東工業高等学校 廃校 大島1丁目2番31号にあった都立校。昭和16年亀高国民学校で「東京府立城東工業学校」とし て開校。同18年都制施行により「東京都立城東工業学校」と改称。同19年11月愚かなアメリカ 軍による非人道的無差別の2度に亘る焼夷弾空爆により校舎焼失。第五大島国民学校に移転。同20 年のアメリカ軍の空襲により、葛飾区小松国民学校へ移転授業。同22年釜屋堀国民学校の跡地に新 校舎が完成して移転。同23年「江東工業新制高等学校」と改称。同25年新制高等学校も浸透定着 したため、「江東工業高等学校」と改称。平成13年統合により閉校。同年都立化学工業高等学校と 統合して、「都立科学技術高等学校」となった。 |
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■科学技術高等学校(新設) 大島1丁目2番31号にある進学型専門の都立高。都立高校で初めて「科学技術科」を設置した新 しいタイプの高等学校で、平成13年に都立江東工業高等学校と都立科学工業高等学校を統合して開 校した。今科学技術のあり方が問われる中、広い視野に立って、その発展に貢献できる人材の育成を 目指している。そのため、知識の習得で終わらずに、様々な体験を通じて、科学技術のエッセンスに 触れることを大切に、科学的な思考力やもの作りのセンス、課題意識等を早い内から身につけ、大学 等の専門教育に生かすべく日々の努力を積み重ねている。 校歌「曙の水辺を」 作詞・狩野敏也 作曲・小山順子 1.曙の水辺を駆け行けば 聞こえてくる時間を紡ぐ波の音 響き合う風の息吹と我が鼓動 瑞々しい緑の大地に 新しい陽を迎える吾等 共に撞こう時代の鐘を 友よ 愛よ 未来よ 2.星空の彼方を見上げれば 束の間にも生まれ出ずる若き星 せまぎあう真理の光 未知の問い 果てしない宇宙への思いに 打ち乗って翔ぶ時空の翼 共に発とう明日への旅に 友よ 愛よ 今 ここに科学技術高校 |
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■釜屋の渡し 大島1丁目18番~北砂1丁目3番を結んだ小名木川の渡船。小幡長兵衛の経営で、大正7年7月 に営業許可がおり創業している。工事費は舟1艘500円、桟橋が2ヶ所で226円26銭だった。 『大島町誌』によれば平均して1日200人、自転車5台、荷車1台の利用があり、料金は1人1銭、 自転車・小車1銭、荷車2銭、牛馬2銭だった。廃止の年月日は判らないが、昭和17年刊行の『城 東区史稿』には営業の記載があるので、廃止はそれ以後ということになる。戦争で自然廃業し、その まま再開しなかったのではないか。 |
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■第三大島中学校 廃校 大島1丁目20番20号にあった区立校。昭和36年大島地区の発展に伴う生徒数の激増を受けて 第二大島中学校から分校、毛利小学校に間借りして開校、480名からのスタートだった。12月第 一製線の工場跡地を校地として鉄筋コンクリート造り4階建て新校舎落成、移転。しかしその時は校 庭が狭く、体育館もプールもなかった。同37年3月開校式。同39年校歌制定。 校歌「雲映す」 作詞・谷川俊太郎 作曲・湯浅譲二 1.雲映す小名木川は 海越えて世界へ続く この国に生きる喜び この学校に学ぶ誇り 第三大島中学校 2.煙突の上の空は 限りない宇宙へ開く この町に生きる幸せ この学校に学ぶ希望 第三大島中学校 3.共々に歌う今日は 絶え間なく未来へ動く この時代に生きる厳しさ この学校に学ぶ我等 第三大島中学校 同40年体育館完成。同51年第六回全国中学生選抜剣道大会出場。同57年第一~第三大島中学 校3校から分校して第四大島中学校が創立したため、学区の一部移譲。同59年剣道部全国大会出場。 同61年8月伊豆大島噴火騒動で同島の中学生29名編入。12月火山活動沈静化のため伊豆大島の 生徒帰島。同63年コンピュータ室完成。同13年創立40周年記念式典。 開校時はまだ東京の下町らしい町の風情がそこ彼処にあり、小名木川には筏を牽いたポンポン船が 行き来し、その上に架かる橋には路面電車が走っていた。映画『三丁目の夕日』のような光景は嘘で はなかった。昭和40年代から大規模集合住宅の建設が相次ぎ、町工場の町から住宅街へと大きく変 貌した。そして子供は溢れるほどいたが、都営新宿線が通って便利になると、住宅街はビル化が進み 商業地化していく。集合住宅の住民は高齢化し、子供たちは大人になるとそれぞれ町を出て行った。 あれほど居た子供たちは激減し、学校は余ってくる。平成14年3月第二次江東区立学校適正配置計 画により、第四大島中学校と統合され閉校となった。統合校は第四大島中学校の校地校舎を受け継ぎ 「江東区立大島西中学校」となり、跡地は一時建替えのため第一大島小学校の仮校舎となった後、同 19年から大島南小学校と大島中学校の統合校大島南央小学校が引き継いだ。 |
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■大島南央小学校 大島1丁目20番20号にある区立校。平成19年大島南小学校と大島中央小学校が統合して「江 東区立南央小学校」として創立、統廃合で廃校となった第三大島中学校跡、校舎建替えの間、一時第 一大島中学校が使用していた校地に、新たに校舎を建てて開校した。 校歌「太陽を」 作詞・村田さち子 作曲・滝口亮介 1.太陽を丸ごと飲みこんで 元気に流れる小名木のような 川になろう! (ラララ) 南央 南央 南央 南央小 ここから始まる みんなの川は 輝きながら 夢を追いかけ どこまでも 2.遥かな昔の歌声と 未来の歌声 響かせている 川になろう! (ラララ) 南央 南央 南央 南央小 ここから流れる みんなの川は 歌声飛ばし 心繋いでで どこまでも (ラララ) 南央 南央 南央 南央小 ここから旅立つ みんなの川は きらめきながら 翼広げて どこまでも |
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■愛宕社 遷座 大島2丁目6番あった。元は本所の成就寺内に創建したが、寛永年間に当時この地に遷座、享和三 年(1803)大島2丁目15番に移転した。 |
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■朝日山部屋 大島2丁目13番24号にある相撲部屋。明治28年10月に二枚鑑札で第11代朝日山となった 幕内岩ヶ谷岩松は、同29年現役を引退して朝日山部屋を復興するとともに大坂相撲において尽力、 大関相生枩五郎(東京相撲では関脇)、関脇綾瀬川山左衛門(東京相撲では幕内格)など数多くの関 取を育てた。 大正5年7月に11代目が急逝すると、その遺言によって当時大関だった大錦が、1年限りの条件 で12代朝日山を襲名して朝日山部屋を継承し、11代朝日山の一周忌が過ぎた大正7年1月に現役 復帰して大錦に戻るとともに、同年4月に大坂相撲では3人目となる横綱免許を受け28人目の横綱 に推挙された。 13代朝日山は、12代朝日山の弟弟子であった当時関脇の二瀬川が、大正7年1月に二枚鑑札で 襲名して朝日山部屋を継承した。その後大関に昇進し、同10年6月場所限りで引退して部屋経営に 専念した。13代朝日山は、関脇磐石熊太郎、小結真鶴秀五郎など多くの関取を育てるとともに、東 西合併に奔走して同14年7月に東京相撲と大坂相撲の合併調印を果たした。 昭和18年9月に13代目が急逝すると、13代目の娘婿であり直弟子でもあった当時関脇の二瀬 川が昭和19年1月に二枚鑑札で襲名して朝日山部屋を継承した。同20年の東京大空襲では妻と義 母を亡くし、同22年6月場所限りで引退して部屋経営に専念した。14代目は、先代弟子の関脇高 津山、幕内二瀬山を育て、直弟子から幕内福ノ海、鯉ノ勢などの関取を育てたが、昭和34年8月に 膵臓癌のため43歳で死去した。 昭和28年5月場所限りで引退した朝日山部屋(関脇二瀬川)所属の元関脇高津山は、年寄北陣を 襲名して朝日山部屋の部屋付き親方として後進の指導に当たっていたが、先代が急逝したため、昭和 34年8月に15代目朝日山へ名跡変更して朝日山部屋を継承した。15代目は、先代弟子の高鐵山、 直弟子の琉王などを育てたが、部屋を継いで僅か4年の同38年5月に胆石症のため44歳で死去し た。 同33年5月場所限りで引退した朝日山部屋(関脇二瀬川)所属の元前頭2枚目二瀬山は年寄大鳴 戸を襲名して部屋付き親方として後進の指導にあたっていたが、同35年に朝日山部屋から分家独立 して大鳴戸部屋を創設した。しかし先代が急逝したため、同38年5月に16代朝日山へ名跡変更し て朝日山部屋を継承し、大鳴戸部屋所属の力士は朝日山部屋へ移籍した。16代目は、先々代弟子か ら関脇高鐵山、先代弟子から幕内琉王、直弟子から小結若二瀬などを育てるとともに、トンガ王国よ り連れた若者を弟子にして話題になった。16代目は、昭和50年10月にくも膜下出血のため急逝、 55歳の若さだった。 昭和50年3月場所限りで引退した朝日山部屋(前2枚目二瀬山)所属の元小結若二瀬は年寄浦風 (後に北陣に名跡変更)を襲名して朝日山部屋の部屋付き親方として後進の指導に当たっていたが、 先代が急逝したため同50年10月に17代朝日山へ名跡変更して朝日山部屋を継承した。しかし1 年後に部屋を江戸川区に移転するに当たり、トンガ出身力士は兄弟子琉王の朝日山後継を求めて抵抗 し、同51年9月場所前に全員廃業に追い込まれ、巻き添えとなった琉王も同年11月場所限りで廃 業した。廃業した力士の中には、現在力士の南乃島の父(四股名は南ノ島)もいた。17代目は、平 成9年5月場所中に急性心筋梗塞のため急逝、先代と同じ55歳の若さだった。 歴代師匠が相次いで死去したため、ついに朝日山系から後継者を欠くことになってしまった。そこ で伊勢ヶ濱系から、同52年5月場所限りで引退した高嶋部屋(大関三根山)所属の元大関大受が、 平成9年5月に18代朝日山に名跡変更して朝日山部屋を継承した。もともと高島系だった大受は、 引退後に年寄楯山を襲名して不仲だった高嶋親方の下を離れ、伊勢ヶ浜(大関清國)の部屋付き親方 として後進の指導に当たっていた。 現在関取経験者は17代朝日山時代に入門した大真鶴だけであり、将来的に彼が部屋を継承できれ ば、直系継承が保たれる事になる。東西合併以来途絶えたことのない数少ない部屋だが、その中で唯 一幕内最高優勝力士を出していない。 |
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■愛宕神社 ■小林一茶寓居跡 大島2丁目15番4号にある中社。享和三年(1803)大島2丁目6番から遷座した。この愛宕 神社の縁起など詳細は不明。港区の愛宕神社との関係も判らない。一茶は境内に享和三年から1年ほ ど住んだようだ。 ●小林一茶句碑 雀の子そこ退けそこ退けお馬が通る 芭蕉・蕪村と並ぶ。江戸時代の俳人。解り易く人情味豊かな句風を打ち立てた。一茶は、江戸時代 後期の俳人。宝暦十三年(1763)信濃生まれ。本名は信之、通り名を弥太郎といった。14歳の 時、江戸へ出て、後に二六庵竹阿の門に入り俳諧を学んだ。全国各地に俳諧行脚の生活を送り、その 作風は鄙語、俗語を駆使したもので、日常の生活感情を平明に表現する独自の作風を完成した。享和 三年(1803)の句帳の扉の宿所付(住所欄)に「江戸本所五ツ目大島愛宕山別当一茶園雲外」、 更に文化元年(1804)から同五年(1808)にかけての遺稿日記にも「本所五ツ目愛宕山別当 一茶」と記している。碑の句は一茶の代表作。建碑は最近で何時かは判らない。 |
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■稲荷神社 亀戸2丁目36番3号にある。 |
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■第四大島尋常小学校 廃校 大島2丁目41番4号の第一大島小学校のところにあった公立校。昭和8年大島町2丁目8番地に 大島地区4番目の小学校として開校した。木造2階建ての校舎で、児童972名18学級でスタート した。同16年国民学校令より「東京府東京市第四大島国民学校」と改称。同18年都制施行により 「東京都第四大島国民学校」と改称。同19年8月愚かなアメリカ軍の無差別空爆が熾烈となり、山 形県米沢市に集団疎開。同20年3月愚かなアメリカ軍の非人道的市街地無差別空爆により、校舎焼 失。8月日本は、ならず者国家アメリカの軍門に降り敗戦、以後その属国となる。同21年継続を断 念、廃校。 同22年から第一大島小学校が移転してきて現在に至っている。 |
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■第一大島小学校(明治2410月2日開校記念日) 大島2丁目41番4号にある区立校。明治の初め頃、大島地区には藤沢・沖島(前身、私立五つ目 小学校)・永平(前身、私立小林小学校)という3つの寺子屋式の小学校があったが、明治16年7 月21日に公立学校となった。同24年5月公立沖島・永平の両校を合併し、南葛飾郡大島町元大島 12番地(現大島中央小学校々地)に「南葛飾郡大島尋常小学校」設立、7月高等科を併置、「大島 尋常高等小学校」と改称。9月253名が新校舎に移転した。校舎は小名木川通りに正門を構え、鉄 製の門扉、木造入母屋総2階純和風で、書院造りの玄関欄間には、勝海舟書の「大島学校」の額が掲 げられていた。10月2日開校式。同34年高等科が独立して大島高等小学校として独立するが、立 ち行かず、同37年再び併置。同43年大島女子尋常小学校が設立され、女子が転出したため男子校 となる。同45年「第一大島尋常高等学校」と改称。大島女子尋常小学校は高等科を併置して第二大 島尋常高等小学校となる。 大正12年関東大震災により第二大島尋常高等小学校が壊滅したため、女子児童を収容し再び男女 共学となる。第二大島尋常高等小学校の復興を機に通学区を変更し、両校を男女共学校となる。同1 5年第三大島尋常小学校を分校。昭和7年南葛飾郡が東京市に編入され城東区が成立し「東京市大島 尋常高等小学校」と改称。同8年第四大島尋常小学校を分校。同16年国民学校令より「東京府東京 市第一大島国民学校」と改称。同18年都制施行により「東京都第一大島国民学校」と改称。同19 年8月愚かなアメリカ軍の無差別空爆が熾烈となり、山形県赤倉温泉に集団疎開。同20年3月愚か なアメリカ軍の非人道的市街地無差別空爆により、校舎焼失。青空教室で授業8月日本は、ならず者 国家アメリカの軍門に降り敗戦、以後その属国となる。 同22年2月第四大島小学校跡地(現在地)に木造バラック校舎竣工。学制改革により「東京都江 東区立第一大島小学校」と改称。同25年廃棄電車2両を寄贈され、教室・図書館として使用。開校 60周年記念式典。校歌制定。 校歌「鉄を鍛える」 作詞・深尾須磨子 作曲・中田一次 1.鉄を鍛える機械の音が 世界の空にこだまする。 働く町の学校だ ああ母校 我が母校 第一大島小学校 2.鉄は鍛えてますます強く 鍛えて人も強くなる 仲良く励む学校だ ああ母校 我が母校 第一大島小学校 3.舟を浮かべて流れる水は 世界の海に続いている 運河の町の学校だ ああ母校 我が母校 第一大島小学校 同27年第二大島小学校再建のため児童661名移籍。同33年5・6年生9学級毛利小学校に間 借りして授業。同34~44年3期に分けて鉄筋コンクリート造り校舎落成。大島中央小学校を分校。 プール完成。平成2年ランチルーム完成。同12年地方自治法改正により、東京都の冠称を外し「江 東区立第一大島小学校」と改称。開校110周年記念式典。同14年「よい歯の学校」の表彰(昭和 63年から連続して受賞)。新校舎建設のため1丁目20番の廃校となった第三大島中学校の校舎を 仮校舎として移転。同18年5階建て新校舎落成して帰校。 ●学校のシンボル この情報は古いかも知れないよ。新築後どうなったか確認していないが、校庭の隅を柵で囲った小 庭園があり、4階まで達するほどのメタセコイアや棕櫚、柿、松などの樹木が茂っており、また中央 には大きな庭石を使った池があり、魚が泳いでいた。庭の隅には、校歌の作詞者深尾須磨子直筆の校 歌碑が建っている。校舎の裏、道路に面して岩石園がある。火山岩を使って滝が流れるようになって おり、岩山を通った滝の水が池を作っている。 |
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■西大島駅 大島2丁目41番19号にある都営地下鉄新宿線の停車場。新宿線の最初の区間である岩本町~東 大島間が開業した、昭和53年12月21日に設けられた駅。ホームは島式1面2線構造で地下2階 にある。ホームと改札階を結ぶエレベーターは設置済み。改札口は1ヶ所で地下1階にある。出口は A1~A4の4ヶ所。 |
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■羅漢寺 大島3丁目1番8号、明治通りと新大橋通りの区民センター前交差点の東北角にある。元々この地 にあり、目黒に移転した羅漢寺とは無関係。 |
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■観妙寺 大島3丁目12番15号にある日蓮宗の小寺。 |
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■豊見徳龍稲荷社 大島3丁目13番20号、鈴木製作所の敷地にある小祠。 |
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■第二大島小学校(6月25日開校記念日 開校式は11月3日なので理由不明) 「第一次」 廃校 大島3丁目16番2号にある区立校。明治43年大島尋常高等小学校の尋常科女子を独立させて、 同校内に「南葛飾郡大島女子尋常小学校」として10学級567名で開校した。当初は教室を分けた だけだったが、11月現在地に新校舎が完成し移転し別々の学校となった。同45年高等科併置し、 「第二大島尋常高等小学校」と改称。 大正12年9月関東大震災により校舎の損害多く、また罹災者の収容に充てたので、9月中は臨時 休校とし、10月から第一大島の校舎を借りて二部授業を行った。12月校舎の応急修理完了し、生 徒帰校。後日復興を機に通学区を変更し、両校とも男女共学校となった。昭和7年南葛飾郡が東京市 に編入されて城東区が成立し「東京市第二大島尋常高等小学校」と改称。同8年第四大島尋常小学校 の開校により児童300名を移籍。同14年釜谷堀尋常小学校の開校で児童23名移籍、さらに第四 大島に343名移籍。それでも19学級1158名の大規模校。同16年国民学校令より「東京府東 京市第一大島国民学校」と改称。同18年都制施行により「東京都第一大島国民学校」と改称。同1 9年8月愚かなアメリカ軍の無差別空爆が熾烈となり、山形県米沢市に集団疎開。同20年3月愚か なアメリカ軍の非人道的市街地無差別空爆により校舎焼失。青空教室で授業。8月日本は、ならず者 国家アメリカの軍門に降り敗戦、以後その属国となる。同21年継続を断念し廃校する。 [第二次] 復興 昭和27年東京都第二大島国民学校を引き継ぐ形で「江東区立第二大島小学校」設立。木造2階建 て校舎普通教室11完成。同28年西側・北側に4教室づつ増築。同29年東側に4教室・保健室な どを増築。同31年校歌制定 校歌「棚引く朝雲」 作詞・勝承夫 作曲・平井康三郎 1.棚引く朝雲 東京の 空があければ心もあける いつも元気な小鳥のように 明日の日本の力が育つ 第二大島 輝く我等 2.高鳴る汽笛も晴れ晴れと 町は溌剌 仕事に勇む 伸びる我等は体も強く みんな仲良くやり抜く気風 第二大島 希望の泉 3.楽しい七夕 雛祭り 智慧を集める学芸会よ 夢も豊かに心を協わせ 守る校風 受け継ぐ歴史 第二大島 我等の母校 制定年不詳。昭和の初め頃には歌われていた校歌 1.大内山の眞東に 御恵享けて柏葉の 學びの実り結ばんと 心は堅しな我が学び舎 2.朝日輝く富士ヶ根の 姿仰ぎ手三種(みくさ)なる 教えの道を辿らんと 操は高し我が学び舎 新制第二大島小学校校歌、昭和27~28年頃に歌われていた。 新しい 新しい 第二大島小学校 みんなで起てた良い学校 希望に燃えて朗らかに 正しい道を進もうよ みんなの学校 良い学校 同33年第四大島小学校の新設により一部学区を移管。屋内体操場(体育館)落成。同38年「東 組」(仲良し学級)2学級開設。同43年鉄筋コンクリート造り4階建て北側校舎新築。同44年大 島中央小学校新設のため一部学区移譲。同45年北側校舎増築。同47年鉄筋コンクリート造り3階 建て西側校舎10教室新築。屋上プール完成。同53年都営地下鉄新宿線(東大島~岩本町)が開通 して沿線が開け、次第に児童数が増え間もなく1000名を超えた。同54年体育館完成。平成12 年地方自治法の改正により、東京都の冠称を外し「江東区立第二大島小学校」と改称。児童によるビ オトープ(自然生物園)完成。同14年創立90周年記念式典。 |
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■城東郵便局 大島3丁目15番2号にある普通集配局。 |
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■子安稲荷神社 大島3丁目21番9号にある小社。 |
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■城東高等学校 大島3丁目22番15号にある都立校。昭和52年江戸川区の都立篠崎高等学校内に設立事務所を 設け、翌53年墨田区の都立深川商業高等学校の都立商業教育共同実習所内仮校舎において開校。9 月現在地に校舎を建て移転。同57年グループ合同選抜制度導入。深川・東・江戸川・小松川・小岩 ・葛西南・篠崎の各校と62グループに編成される。平成6年現在の単独選抜制度導入。同11年・ 13年「夏の甲子園(全国高等学校野球選手権大会)」に出場。何れも初戦敗退。都立としては国立 高校に次いで2番目。同15年のインターハイで薙刀部門で3位入賞を果たした。スポーティだが結 構な進学校なんだよ。 校歌「緑の道に」 作詞・岡野弘彦 作曲・池辺晋一郎 1.緑の道に風立てば 朝の陽 清く照り渡る 嗚呼 輝ける窓や庭 此処に集いて身は若し 自律の心 潔く 吾等は今日を鍛えよう 2.巷に昼の鐘は鳴り 知識の欲に眼は燃ゆる 嗚呼 とよみ来る街の音 人皆生きて美しき 友愛深く胸に満ち 吾等は学ぶ広き学 3.空に迎える夜の窓 思い静かに灯点(とも)せば 嗚呼 聞こえ来る星の声 希望は遠く遥かなり 実践の意志 内に秘め 吾等は進む 逞しく |
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●伊藤左千夫の碑 城東高等学校西庭にある。 竪川に牛飼ふ家や楓萌え木蓮花咲き児牛遊べり この歌碑は、左千夫の業績を讃えて城東高校の関係者、アララギ有志、地元関係者、江東区短歌会 が、昭和5411月1日左千夫終焉の地に近い城東高校に建立したものだ。歌碑は、高さ1.53m、 横2.4m、厚さ60cmで、愛媛西条産の石。左千夫の門人土屋文明が揮毫した、前記の歌が刻まれ ている。 左千夫は、本名を幸治郎、元治元年千葉県成東町に生まれた。政治家を志して上京したものの、眼 を患い帰郷。明治22年から本所茅場町(錦糸町駅前)で搾乳業を始めた。その傍ら万葉調の短歌を 鼓吹し、島木赤彦・齋藤茂吉・中村憲吉・小泉千樫・土屋文明など多く門人を育て、近代短歌の興隆 に力を尽くした。作品には、万葉集研究、歌論のほか、『野菊の墓』など小説も書いた。大正元年5 月現在の大島6丁目1番日本住宅公団の中庭辺りに牛舎を移し、翌年3月住まいも移したが、4ヶ月 後50歳で没した。 |
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■第二大島中学校(昭和29年11月2日開校記念日) 大島3丁目27番18号にある区立校。 [4丁目時代] 昭和29年大島中学校内に同中学校から分校し、「東京都江東区立第二大島中学校」として開校。 生徒392名でスタートした。10月第一大島国民学校(尋常高等小学校)の移転跡地(大島中央小 学校)に新校舎が竣工して移転。11月2日開校式。同30年6月4教室増築。12月4教室増築。 同31年校旗・校歌制定発表。創立3周年を記念して校歌を作ることになり、作詞については広く公 募したところ20編ほどの応募があった。その審査を歌人の谷鼎に依頼したところ、初代校長植村利 夫の作品が一等に入選した。 校歌「小名木の川に」 作詞・植村利夫 作曲・音楽教諭岡敦子 1.小名木の川に潮満ちて 行き交う舟の数繁く 汽笛の響 木霊して 煙は雲と湧くところ 輝く希望 ここにあり 2.都の空の浅緑 栄えある桔梗 翳しつつ 明るく清く健やかに 睦びて励む友垣の 心は花と咲き匂う 3.伸び行く生命 鉄(くろがね)の 鍛えて強き力あり 明日の日負いて一筋に 潮の如く行かんかな ああ我が友よ 栄あれ 同32年4教室増築。同36年第三大島中学校を分校。6月鉄筋コンクリート造り校舎8教室竣工。 同37年体育館兼講堂完成。読売科学賞で都最優秀賞受賞・全国第2位。同38年プール完成。同4 4年三菱鋼材跡地(現在地)に新校舎を建て移転。 [3丁目時代] 同45年体育館兼講堂完成。同46年プール完成。同57年第一~第三大島中学校3校の分校とし て第四大島中学校を新設。一部学区移譲。平成4年コンピュータ室完成。同6年創立40周年記念式 典。同16年創立50周年記念式典。 |
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■亀出神社 大島3丁目31番15号にある神社。別の記載では「愛宕神社」とある。で、調べると、前身は亀 出稲荷神社と愛宕神社。江戸幕府5代将軍徳川綱吉の時代(17世紀末から18世紀初め)に松平定 儀が別邸を築くに際して鬼門除として創祀した亀出稲荷神社と、寛文十二年(1672)に亀戸出村 にあった霊巌寺領の鎮守として創建したといわれている愛宕神社を、昭和31年に現在地に合祀して 成立し、同48年には大島1丁目に鎮座していた草分稲荷神社を境内へ合祀している。 ●亀出子育地蔵尊 境内にある。 ●草分稲荷大明神 境内にある。 |
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■大島団地 大島4丁目の西半を占める。 |
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■第四大島中学校 廃校 大島4丁目1番23号にあった区立校。かつて大島4丁目には日曹製鋼大島工場やその他の工場が あったが、その跡地に集合住宅団地が建設され人口が急増していた。これに伴い大島地区の生徒も激 増し、昭和57年大島・第二大島・第三大島の3中学校から234名6学級、新入生277名・7学 級、都合511名・13学級で開校、番号通り大島地区4番目の区立中として、校舎は明治通りと小 名木川の交差する北岸の日本製粉大島工場跡地に建設された。鉄筋コンクリート造り4階建ての校舎 は、23教室・14特別教室・4管理室・4教材資料室の外、体育館・プール(6コース)を備え、 近代的設備・施設の整った新設校だった。 しかし平成に入った頃から少子化・世帯の高齢化に伴い生徒数が減少、それに連れて学級数も減り 始めた。この頃既に第三大島中学校は200名ほどで6学級に落ち込んでいた。その後も生徒数の減 少は止まらず、創立20周年を迎えた平成14年閉校となり、第三大島中学校と統合して「江東区立 大島西中学校」となり、跡地を譲った。 校歌「芭蕉 其角も」 作詞・桜井勝美 作曲・諸井昭二 1.芭蕉、其角も この水に 船を浮かべた小名木川 文化の流れ受け継いで 心豊かに日々励む 2.緑 色濃い常盤木の 実を結ぶペン十字 校章胸に手を繋ぎ 明るい希望の環を作る 3.世界に続く空の青 我が学び舎の愛の巣に 優しく労わり飼い育て 平和の鳩を大空へ ああ 我等 我等の第四大島中学校 かつて第三亀戸中学校の教頭だった加藤勝三の紹介で、詩人の桜井勝美に作詞を依頼。作曲は、音楽 教諭浜口希がピアノと声楽の指導を受けていた諸井昭二に依頼した。昭和57年11月の校歌制定記念 発表会で披露したが、その歌も廃校となっては歌う人も無い。 |
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■大島西中学校(5月2日開校記念日 理由不明) 大島4丁目1番23号にある区立校。平成14年4月第二次江東区立学校適正配置計画による第三 と第四の大島中学校が統合し開校した。同15年校歌制定。 校歌「昨日を明日に」 作詞は第三大島中学校の校歌の作詞を手がけた詩人の谷川俊太郎に依頼し た。「鉄腕アトム」などのヒット作がある。作曲の林光は第四砂町中学校の校歌を作曲した音楽家。 1.昨日を明日に結ぶ今日 子供と大人の間を生きる 知りたいことが一杯だ 学ぶことは問いかけること 健やかにしなやかに心と体 大島西中の私たち 2.故郷の流れ小名木川 歴史を貫き世界に続く 楽しいことも一杯だ 生きることは答えること 大らかに細やかに心と体 大島西中の私たち |
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■五百羅漢跡 大島4丁目5番1号区総合区民センターの所にあった。京都の仏師だった松雲は、寛文九年(16 69)に出家し、貞享年間(1684~87)に江戸へ出、元禄四年(1691)から羅漢像を彫り 始めた。元禄八年(1695)5代将軍綱吉から「天恩山五百羅漢寺」の号と、本所五ツ目に、60 00余坪の寺地を賜り、ここに自ら彫像した536体に上る羅漢像などを安置した黄檗宗の寺院を建 立した。境内に立てた三匝堂(さんそうどう)は、。匝は「めぐる」という意味で、3回めぐる堂と いう普通名詞。正式名称は「円通閣」といい、3階建ての堂で、廊下が螺旋状に3階まで続き、入っ てから出るまで同じところを通らないのが特徴だった。その様や三匝の発音が栄螺(さざえ)に似て いるところから、一般には「五百羅漢のサザエ堂」と俗称されて人口に膾炙して著名になり、広重や 北斎などの錦絵に描かれた。 観音に魚藍もあればなまぐさき栄螺堂とはいわし煮た鍋 蜀山人の狂歌だが、サザエ堂は川柳にも詠まれている。 大きな栄螺観音が百はいり 三匝堂よりサザエ堂のほうがやはり親しみやすく、狂歌や川柳の題材としても打って付けだ。明治 に入って荒れ、このとき羅漢像が盗まれた。同20年に本所緑町に移り、さらに同42年目黒区へ移 転、現在も目黒不動の東にある。目黒には305体が残されており、後の231体は行方不明だ。と ころがそれが江東区のどこかの寺にあると聞いて判ったのだが、メモらなかったため失念してしまっ た。何処だったったっけなぁ?? 世田谷の観世音寺に9体ばかりあったような気がする・・・ 余談だが、行方不明で思い出したんだけどネ、これ人の名前だったらどう読む? 昔終戦後のこと、鶴見事故という列車転覆事故があって、これもアメリカの謀略らしいんだが、ま あそれはそれとして、この被害者の行方不明者の中に行方不明さんがいたのだ。だから新聞には「行 方不明(行方不明)」と出た。これは何だ?というので問い合わせが殺到したが「なめかたみえず」 読む人だった。洒落た親がいたもんだ。 ●五百羅漢跡の碑 横断歩道脇の植込みに石柱が建っている。碑の両側面と裏面には、 元禄八年この付近に黄檗宗松雲禅師作の羅漢像五百体を安置する広壮な羅漢寺が創立せ られ五百らかんという名所として知られてきたが羅漢寺は明治二十年に墨田区へさらに 同四十二年目黒区へ移転したが、なお当時の羅漢像の多くを残している 昭和三十三年十月一日 江東区第18号 と記されている。 ●道路北向こう、3丁目1番にある羅漢寺 明治38年に都下氷川村に曹洞宗祥安寺として創立、昭和11年現在地に移転してきて、元あった 羅漢寺を名乗ったもので、五百羅漢寺とは関係がない。。 |
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■江東区総合区民センター 大島4丁目5番1号にある区の施設。 |
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■城東図書館 大島4丁目5番1号の区民センターの4階にある。 |
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■浄楽寺 大島4丁目14番6号にある浄土真宗本願寺派の寺。。 |
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■第一大島尋常小学校 → 第一大島国民学校 移転 大島4丁目18番5号にあった区立校。明治の初め頃、大島地区には藤沢・五つ目→沖島・小林→ 永平という3つの寺子屋式の小学校があったが、同16年7月21日に公立学校となった。同24年 5月公立沖島・永平の両校を合併し、南葛飾郡大島町元大島12番地(大島中央小学校)に「南葛飾 郡大島尋常小学校」設立した。詳細は第一大島小学校の項に譲るとして、昭和22年2月第四大島国 民学校跡地(現在地)に移転した。 ●女木塚碑(芭蕉句碑) 校門脇にあった。現在は大島稲荷神社の鳥居の近くに移してある。高さ140cm。正面に大きく 「女木塚」、裏面には「其日庵社中造立」と刻まれている。年月日はない。 秋に添て行かばや末は小松川 この句は、芭蕉が49歳の元禄五年(1692)小名木川に舟を浮かべて、門人桐奚宅での句会で 吟じた句だ。一説には、元禄六年(1693)ともいわれている。 芭蕉没後、其日庵社中の俳人たちが、芭蕉を偲んで建立したこの句碑は、初め近くの愛宕神社に建 てられていた。昭和20年3月10日のアメリカ軍の無差別絨毯爆撃で、愛宕神社の一帯は全焼し廃 墟と化した。この句も路傍に転がっていたが、城東区役所では句碑の亡失を配慮して、近くの第一大 島国民学校の校門脇に移しておいた。のち愛宕神社が大島神社に吸収され、立派に復興したので、そ れを機に碑は境内に移された。その頃は校地は大島第二中学校となっていたよ。 |
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■第二大島中学校 移転 大島4丁目18番5号にあった区立校。昭和29年大島中学校内に開校。当時大島地区の人口増加 に伴い生徒も増え、大島中学校のキャパシティでは賄えなくなり分校。10月に第一大島国民学校跡 地に新校舎を建て移転した。第二大島の詳細はその項に譲るとして、同44年3丁目27番に移転。 跡地に大島中央小学校が開校した。 |
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■大島中央小学校 廃校 大島4丁目18番5号にある区立校。大島4丁目団地建設に伴い急増する児童の収容対策と、適正 配置から、第二大島中学校の移転跡の校舎・校地を受け継いで開校した。ここは第一大島小学校が産 声を上げた場所で、新制中学校もここに開校したという教育発祥の歴史と、大島地区のほぼ中央にあ ることから「大島中央小学校」と命名され、昭和44年4月、児童数369名11学級でスタート、 9月新しく大島4丁目団地に入居した児童134名が転入し、15学級となる。児童は毎年増え続け この年から4年間増改築工事。9月校歌・校旗・校章制定。10月9日開校記念式典。同48年開校 以来の増改築完了。中学生用プールを小学生用に改造。同49年大島南小学校を分校。同52年東側 4階建て校舎改修。同55年東側校舎増築。普通・特別校舎各2、プール25m×4コース完成。同 63年校内改修工事修了。第二図書館・ランチルーム・ホールなど新設。平成7年普通教室12学級 の床貼り替え。同10年開校30周年記念式典。同12年地方自治法の改正により東京都の冠称を外 し「江東区立大島中央小学校」と改称。同19年就学児童の減少により廃校、大島南小学校と統合し て「江東区立大島南央小学校」となり、廃校となった第三大島中学校の跡地に移転した。 校歌「朝日を浴びて」 作詞作曲・大島中央小学校校歌作成委員会 1.朝日を浴びて若緑 鳩舞う空に手を繋ぎ みんな仲良く学ぼうよ 大島中央小学校 強く正しく優しい子供 2.遠い明治の昔から 魁(さきがけ)の声 受け継いで 気風は長く守ろうよ 大島中央小学校 強く正しく優しい子供 3.高く掲げた旗印 自主独立の心持 明日の日本を築こうよ 大島中央小学校 強く正しく優しい子供 ●アオキの木 校章のデザインの基になっている樹木。学校のシンボルだが、植樹年や理由など不明。 |
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■精糖の渡し 大島4丁目20番~北砂5丁目21番を結んだ渡船。『大島町誌』によれば、明治28年砂町の治 兵衛新田に精糖会社が創立して、その従業員を運ぶ目的で設立され、大正14年11月に再認可され ている。この渡しは会社の経営だったことから、社員一般通行人ともに無料だった。ただ江戸時代に、 治兵衛新田の治兵衛という人が渡船業を営んでいたという記録が『御府内備考』にある。精糖会社が この渡船を買い上げたのかも知れない。文献によっては「次郎兵衛の渡し」としたものもある。廃止 の年は判らないが、昭和17年の『城東区史稿』に営業記録があるので、それ以降のことだ。なお日 本精糖の跡地は小、中学校と北砂5丁目団地に再開発されている。 |
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■大島駅 大島5丁目10番8号にある都営地下鉄新宿線の停車場。新宿線の最初の区間である岩本町~東大 島間が開業した昭和53年12月21日に設けられた駅。ホームは島式2面3線構造で地下2階にあ る。中線の2・3番線は、大島車両検修場への出入庫を兼ねた列車が使用する。ホームと改札階を結 ぶエレベーターは設置済み。改札口は1ヶ所のみで、地下1階にある。出口はA1~A6の6ヶ所。 |
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■招福稲荷社 大島5丁目10番10号にある小祠。 |
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■正一位稲荷大明神 大島5丁目28番6号の駐車場の隅にある小祠。屋敷稲荷か?。 |
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■大島稲荷神社 大島5丁目39番26号にある。 ●女木塚(芭蕉句碑) 鳥居の近くにある。高さ140cm。正面に大きく「女木塚」、裏面には「其日庵社中造立」と刻 まれている。年月日はない。 秋に添て行かばや末は小松川 この句は、芭蕉が49歳の元禄五年(1692)小名木川に舟を浮かべて、門人桐奚宅での句会で 吟じた句だ。一説には、元禄六年(1693)ともいわれている。 芭蕉没後、其日庵社中の俳人たちが、芭蕉を偲んで建立したこの句碑は、初め近くの愛宕神社に建 てられていた。昭和20年3月10日のアメリカ軍の無差別絨毯爆撃で、愛宕神社の一帯は全焼し廃 墟と化した。この句も路傍に転がっていたが、城東区役所では句碑の亡失を配慮して、近くの第二大 島中学校の校庭脇に移しておいた。のち愛宕神社が大島神社に吸収され、立派に復興したので、句碑 が境内に移された。 |
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■勝智院 大島3丁目39番30号にある真言宗の小寺。無住のように荒れていた。 |
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■第五大島尋常小学校 → 第五大島国民学校 廃校 大島5丁目51番にあった公立校。昭和9年大島町5丁目82番地の富士瓦斯紡績工場跡地に木造2階 建て校舎が建てられ、「東京市第五大島尋常小学校」として開校、児童935名でスタートした。同 16年国民学校令より「東京府東京市第五大島国民学校」と改称。同18年都制施行により「東京都 第五大島国民学校」と改称。同19年8月愚かなアメリカ軍の無差別空爆が熾烈となり、山形県南村 山郡に集団疎開。同20年3月愚かなアメリカ軍の非人道的市街地無差別空爆により、校舎焼失。8 月日本は、ならず者国家アメリカの軍門に降り敗戦、以後その属国となる。同21年継続を断念、廃 校。 同26年から大島中学校が跡地を新校舎を建て移転してきた。 |
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■大島中学校 移転 5丁目51番にあった区立校。昭和26年木造モルタル2階建て校舎が完成し、浅間小学校内から 移転、昭和49年8丁目12番の現在地に移転。跡地に大島南小学校が開校した。 |
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■大島南小学校 廃校 5丁目52番13号にあった区立校。昭和49年大島中央小学校から分校して大島地区で7番目の 小学校として開校。校名は地区の南部にあったことに因るが、第七大島としなかったのは、父兄がナ ンバースクール名を忌避したことによる。10月2日校歌・校章・校旗制定。 校歌「都の東 大島に」 作詞・初代校長野中文男 作曲・音楽教師天野明芳 1.都の東 大島に 希望に弾む この心 心も身体も健やかに 進んで行こう 手を取って ああ 我等の南小学校 2.小名木の流れ 変わるとも 弛まず伸びる この力 考え深く逞しく 努めて行こう 共々に ああ 我等の南小学校 3.明るい未来 目指しつつ 清らに燃える この願い 日本の明日を伸びやかに 拡げて行こう 何処までも ああ 我等の南小学校 同50年野中校長が、当時環境があまり芳しくなかったので、児童の心を潤すものはないかと考え、 「洗心池」を構築。PTA会長の協力を得て、福島県まで赴き、池の周りの石を持ち帰った。同52 年766名・21学級で最大規模。昭和55年まで700名を超える生徒数を維持。同56年理科室 ・LL教室・図書室改装。同48年開校10周年記念式典。同60年プール全面改修工事完了。平成 2年ふれあい給食開始。平成5年開校20周年記念。同9年コンピュータルーム完成。同15年開校 30周年記念式典。町のビル化、集合住宅住民の高齢化により、町の子供の数が激減し、学校が過疎 化していく。同19年大島中央小学校との統合は已む無く、「江東区立大島南央小学校」となり、廃 校した第三大島中学校の跡地に移転した。跡地の利用は未定。 |
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■伊藤左千夫宅跡 大島6丁目1番大島六丁目団地のどこかにあった。『野麦の墓』を書いた伊藤左千夫は、元治元年 (1864)千葉県に生まれ、本名を幸次郎といった。明治22年本所茅場町で牧場を経営、同45 年4月当町に牛舎を移し、大正2年3月には住居も移した。当時の大島地区には同じような搾乳業を 営む業者が多かった。当時のこの辺りは長野県のようだったのだ。そんな牧歌的な環境を壊しちゃっ て、今はこの様だ。同じ年急に脳溢血で倒れ50歳で亡くなった。 ●伊藤左千夫の歌碑 6丁目団地の中央広場の時計塔の下部にブロンズの歌碑が嵌め込まれている。左千夫終焉の地を記 念して都立城東高校にある左千夫記念会が、昭和55年7月に建てた。左千夫の門人で当時1人しか 残っていなかった土屋文明が揮毫した。 朝起きてまだ飯前のしばらくを小庭に出でて春の土踏む 大正二年七月三十日 伊藤左千夫この地に没す 左千夫記念会 この歌は、大正2年の早春に詠まれたもので、文明が数ある左千夫の歌の中から選んだものだ。 松杉3本4本の植込に、いくつかの飛石、ささやかなる我小庭にもはや早春の潤 ひ来るを見る と前書きのある8首の中の冒頭の1首だ。 |
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■第四大島小学校(同33年5月28日開校記念日) 大島6丁目7番8号にある区立校。昭和21年3月まで第一大島小学校のところに第四大島国民学 校(第四大島尋常小学校)があった。 昭和33年「江東区立大島小学校」開校。5月28日開校式。同34年第1期校舎増築・西側9教 室竣工。同35年校歌制定。 校歌「楽しい朝の」 作詞・勝承夫 作曲・平井康三郎 1.楽しい朝の空のように 明るい広い子供の世界 この窓で歌おうよ 先駆けの喜びを 意気溌剌と聳え立つ 第四大島 輝く母校 2.日本の明日を担う我等 自立を誓う子供は強い この誉れ守ろうよ 新しい夢が湧く 平和の気風受け継いで 第四大島 果てなく進む 3.見晴らす富士は遠く清く 働く町の子供は呼ぶよ この力 見せようよ 何時までも変わらずに 仲良く励み大らかに 第四大島 栄えある母校 同38年第2期校舎増築・3教室増築。同39年体育館完成。同43年第3期校舎増築・3教室竣 工。同44年大島中央小学校新設により生徒114名移籍。同49年大島南小学校新設により一部学 区移譲。同53年新校舎増築。同63年校舎全面建て替え新校舎落成。平成10年開校40周年記念 式典。 学校のシンボルとして、新校舎東壁面のモニュメントと。平成元年に新校舎落成を記念して植えた 「枝垂れ桜」がある。 |
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■稲神社 亀戸6丁目10番14号にあ |
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■伏見稲荷社 大島7丁目14番1号にある小祠。 |
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■福森稲荷社 大島7丁目23番12号にある小祠。 |
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■東大島神社 大島7丁目24番1号にある神社。 |
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■大島中学校 大島8丁目12番22号にある区立校。 [5丁目時代] 昭和25年大島地区最初の学校として亀戸中学校から分校、浅間小学校に間借りして生徒605名 9学級でスタートした。翌26年大島5丁目82番地の第五大島国民学校(尋常小学校)跡地に木造 モルタル2階建て新校舎13教室が竣工し移転した。大島地区の宅地化に伴い、生徒数が急増し、同 27年第一次増築西棟校舎4教室落成。同28年第二次増築西棟校舎4教室落成。生徒数1000名 突破。堪らず、同29年第二大島中学校を分校。同32年第三次増築東棟校舎4教室落成。同35年 校旗・校歌制定。開校10周年記念式典/校旗・校歌制定。 校歌「強く激しく逞しく」 作詞・深尾須磨子 作曲・中田喜直 1.強く激しく逞しく 大東京が脈を打つ ここ江東の学園に 英和の光翳して励む ああ 我等 若い我等 我等の大島中学校 2.ここに鍛える鋼鉄の 独自自立生活だ 世界を招き 友を呼び 試練を越えて無限に進む ああ 力 若い力 我等の大島中学校 3.風を清めて大らかに 歌えば通う胸と胸 三年を交わす友情に 明るい花が溢れて薫る ああ 生命 若いこ生命 我等の大島中学校 同36年体育館兼講堂・プール完成。同43年鉄筋コンクリート造り4階建て校舎8教室竣工。同 44年鉄筋コンクリート造り4階建て校舎6教室竣工。同46年鉄筋コンクリート造り4階建て校舎 6教室・4特別教室竣工。同49年現在地に新校舎を新築して移転。跡地は大島南小学校に譲る。 [8丁目時代] 同49年プール完成。同50年体育館兼講堂完成。同55年開校30周年記念式典・体育館前にミ ニ庭園造成。その中に「心機一転」の石碑と国旗掲揚台が建てられた。同57年第四大島中学校の新 設により一部学区移譲。平成6年ハンドボール女子全国制覇。同7年ハンドボール男子全国制覇。文 相町村信孝(内務官僚町村金五の息子)来校、道徳教育を視察。同11年開校50周年記念式典。 |
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■笠間稲荷社 大島8丁目33番30号にある小祠。 |
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■稲荷山小名院宝塔寺 大島8丁目38番32号にある真言宗智山派の寺。 ●疣取り地蔵(塩舐め地蔵) 江戸時代、小名木川を通る商人が航行安全、商売繁盛を願う人で賑わった。 |
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■第五大島小学校(同33年11月15日開校記念日) 大島8丁目40番13号にある区立校。昭和21年3月まで大島南小学校のところに第五大島国民 学校(第五大島尋常小学校)があった。 昭和30年頃、8丁目には多くの工場が蝟集し、工場で働く人たちが住み、児童数は増え続けてい た。そのころ工場の出す排水・煤煙など、騒音・汚染の公害が始まっていた。しかし戦後の混乱から の脱却、高度経済成長でイケイケドンドンは正義だった。そんな環境の中同33年8丁目223番地 (現在地)に「江東区立大島小学校」が開校。児童935名でスタートした。11月15日開校式。 同34年第1期校舎増築。同35年校歌制定。 校歌「楽しい朝の」 作詞・勝承夫 作曲・平井康三郎 1.輝く空をいつも胸に 子供の夢は大きい夢だ 明日の日本に元気良く 飛び立つ小鳥 自主の意気 第五大島 楽しい我等 2.中川小名木 結ぶ処 河口に思う 世界は広い みんな仲良く歯車の 組み合うように逞しく 行くて遥かに目指そう我等 3.昔を語れ 雲よ風よ 文化は移り 時代は進む 水を治めて溌剌と 湧き立つ英気 この力 第五大島 歌おう我等 同38年体育館竣工。同39年プール完成。同43年~46年鉄筋4階建て校舎新築。同44年大 島中央小学校新設により生徒114名移籍。同54年増築校舎落成。同57年開校25周年記念式典 ・新プール完成。平成9年創立50周年。校地拡張。「友情の像(鷹尾俊一)」除幕。平成9年開校 40周年記念式典。 |
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■中川船番所跡 大島9丁目1番の南半にあった。船番所は中川関所ともいわれ。、小名木川の中川北口にあり、江 戸と下総国を結ぶ通船改めの役所だった。広さは東西26間×南北17間余だった。この関所は幕府 が江戸を防衛するうえで、ここを出入りする船の取り締まりが必要だった。所謂「入鉄砲に出女」の 取締まりだ。当初は隅田川口の万年橋際にあったが、寛文元年(1661)6月本所の掘割の完成に 伴い、中川口へ移った訳だが、その年代は不明な点が多い。一説には延宝七年(1679)といわれ る。その後関所としての機構が確立し、5000石以上の上級旗本3人が中川御番衆を命じられ、交 代で任に就いた。寛文元年の「定」によると中川関所を通る際、乗船者は笠や頭巾などの被り物を取 り、屋形船などは内部が見えるように戸障子などを開け放ち、女性は確かな証文があっても通行させ なかった。また人が隠れていそうな持ち物や不振を感じさせる舟は全て止めて徹底的に改めた。 船番所の広さは、文政六年(1823)の記録では、東西47間×南北30間とあり、明治維新ま で存続した。建物のその後は不明だが、震災で倒壊したものと思われる。 |
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■中川船番所資料館 9丁目1番15号の川っ淵にある。番所のあった場所については。9丁目1番地と推定されていた が、平成7年の発掘調査において柱材や礎石などが出土したことにより、中川番所跡であることがほ ぼ確定した。資料館は、跡地より北に50mほど離れた場所に建てられている。資料館は、区から財 団法人江東区地域振興会に管理運営を委託され、同15年3月22日に開館した。 ①、「水運」の専門館として、区内を流れる小名木川と中川に接した場所に、江戸時代に設 置された中川番所を主軸に、関東・全国に広がる水運を利用した人・ものの交流や活動 の歴史を紹介する。 ②、地域に根ざした資料館として主眼を置くとともに、区内既設の資料館と連携を深め、資 料館ネットワーク化の一翼を担う。 ③、郷土の歴史の理解を促す資料館として、平成7年の発掘調査により所在が確認された中 川番所を、区民が郷土の歴史に親しみ、身近に感じる手がかりとする。 ④、釣具資料館として、区は、平成12年7月特定非営利活動法人東京釣具博物館から、和 竿など釣具の所蔵品5000点以上の寄贈を受け、これらの展示も行っている。江東区 の歴史を見ると、享保年間に刊行された釣りの本「何羨録(かせんろく)」には江東区 近辺の釣り場が詳細に案内されており、船番所近くはキス、タナゴ、ハゼなどの釣りの 名所であったことが記されており、釣りとの関係が窺えるのだ。 開館は、原則月曜日、年末年始の休館日を除く毎日の午前9時から午後5時まで。有料で団体割引 あり。北側に「わんさか広場」という公園があるので休日を楽しめるよ。 |
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■東大島駅 大島9丁目3番14号にある都営地下鉄新宿線の停車場。新宿線の最初の区間である岩本町~東大 島間が開業した、昭和53年12月21日に設けられた終点駅。同58年12月23日に船堀まで延 伸し中間駅となった。ホームは高架相対式2面2線構造で2階にある。ホームと改札階を結ぶエレベ ーターは、小松川口と大島口側両方に設置されている。改札口・出口は、西口に当たる大島口と、東 口に当たる小松川口の2ヶ所。大島口は中2階、小松川口は1階にあり、大島口には、改札階と地上 を結ぶエレベーターがある。 この駅は、江東区と江戸川区の境界でもある旧中川を跨いでいる。都区内で川を跨いでいる駅は他 にも北赤羽駅と新馬場駅があるが、区の境界線まで跨いでいるのはこの駅だけだ。このため、東大島 駅は関東の駅百選に選定されている。新宿線は、この東大島駅と船堀駅の間だけ、荒川・中川を越え るために高架区間(鉄橋)となっている。 |
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■牛島神社跡 大島9丁目4番にある。この神社は、南本所出村(大島7、8丁目の内)にあった石井甚左衛門の 屋敷神(稲荷)を産土神とし、さらに牛島神社(墨田区)の分霊を併祀して成立した。明治32年1 月牛島神社社司春田宣徳が社掌を兼務、大正8年に東京府知事より神社としての認可を受けた。昭和 20年のアメリカ軍の無差別空爆で被災し、同25年に、7丁目の東大島神社に合祀されるまでは南 本所出村の鎮守だった。大島地区は深川・亀戸・本所の出村(支村)の多かった地域だが、それぞれ の出村は個々に村としての結合をはかり存続していた。この牛島神社も南本所出村の鎮守として村民 の結合に影響のあった神社だ。 今跡地には「南本所牛島神社々趾」と彫った石碑が由来碑と共に建っている。 |
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■第三大島小学校(昭和23年6月21日開校記念日) 大島9丁目5番3号にある区立校。大正15年3月大島7丁目433番地(7丁目38番)に校舎 完成し「南葛飾郡第三大島尋常小学校」として開校。新入生277名、第一大島から移籍した2年生 157名の7学級でスタート。昭和3年度には1052名となり、年々校舎が狭隘となったため、同 4年校舎を大幅増築、創立5周年記念式典・校歌制定。 校歌「都の東」 作詞・武者種彦 作曲・福井直秋 1.都の東 名も高き 工場地帯大島に 立てる第三小学校 これぞ我等が学び舎よ 2.小名木の川に 竪川に 浮かぶ数多の荷船 空を黒むる煙にも 町の栄えぞ知られける 3.栄え行く町の友垣 朝な夕なに睦しく 恵みも深き師の君の 教えを仰ぐ嬉しさよ 4.徽章に輝く旭日の 赤き心を磨きつつ 正しく強く誠ある 都民とならん諸共に 4番の歌詞中の都民は、元は「御民」で昭和31年までそう歌われた。その後「市民」と変わり、 同43年から現在の「都民」と変化した。 同7年南葛飾郡が東京市に編入されて城東区が成立、「東京市城東区立第三大島尋常小学校」と改 称。同8年度には学童が2156名36学級に達し収容飽和状態となり、第五大島尋常小学校を分校、 5年生以下の生徒730名を移籍する。同16年国民学校令より「東京府東京市第三大島国民学校」 と改称。同18年都制施行により「東京都第三大島国民学校」と改称。同19年8月愚かなアメリカ 軍の無差別空爆が熾烈となり、山形県三沢村小野川温泉に集団疎開。同20年3月愚かなアメリカ軍 の非人道的市街地無差別空爆により校舎焼失のため、7丁目消防団詰所で授業再開。8月日本は、な らず者国家アメリカの軍門に降り敗戦、以後その属国となる。9月横山工業内に、11月疎開児童引 き揚げ帰校。日本鋳鋼の1棟に移って授業。 同22年学制改革により「東京都江東区立第三大島小学校」と改称。同23年6月21日に旧校地 に新校舎落成して全児童帰校。同32年児童数ピークに達し2000名を越え、同33年第四・第五 大島小学校を分校。同35年体育館落成。同41年~44年4期に亘って鉄筋コンクリート造り4階 建て校舎落成。平成7年開校70周年記念式典・昭和19年度卒業生に卒業証書授与。同10年カナ ダ・サレー市のサリバン小学校と国際姉妹校提携。平成12年鉄筋コンクリート造り4階建て新校舎 に建て替え落成。地方自治法により東京都の冠称を外して「江東区立第三大島小学校」と改称。同1 7年創立80周年記念式典。 ●銅像「まだ見せない宝物」 昭和50年開校50周年記念事業として制作。女の子が両手を後ろに回して何かを持っているポー ズ。子供の将来への無限の可能性を示唆している。 |
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○六価クロム鉱滓問題 昭和48年3月都が日本化学工業(株)から買収した9丁目の都営地下鉄用地及び市街地再開発用地 から大量のクロム鉱滓さいが埋め立てられていることが判明し大騒動となった。この鉱滓さいは、江 戸川区小松川の同社小松川工場が、重クロム酸ソーダ等を製造する際に発生し、区内のほか江戸川区 内にも投棄されていた。そこで都は、汚染原因者の責任で処理を行わせるという基本方針「汚染者負 担の原則」に基づき、同54年3月に日本化学工業(株)と「鉱滓土壌の処理に関する協定」を締結、 この協定と学識経験者などによる専門委員会の報告に基づく工法により、同55年2月から都の指導 の下に、日本化学工業が六価クロム鉱滓の処理を行った。区内の残滓については、当初は江戸川区小 松川へ搬入して処理し、大島9丁目の一部の鉱滓処理も平成5年4月に終了した。だが区内にはまだ 未処理の鉱滓が残っていたために、一部は封じ込める対策に取りかかり、同7年3月までに終了、ま た他の部分は処理して日本化学工業の敷地内に封じ込めることとし、同12年5月に総て完了した。 住宅団地を立てる予定だったが、方針を変更して都立大島小松川公園に改めた。 |
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■都立大島小松川公園 大島9丁目8番に出来た都立公園。長い間六価クロムで揉めた工場跡地だ。汚染された土を削土し 盛り土して公園に造成した。対岸の江戸川区の小松川公園に附属させた格好。とにかくこの辺り一帯 は景色が激変したからね。ごみごみしてて、薄汚れた工場群、灰色の町だったよ。カラフルになった し、太陽の陽射しが燦々って感じだ。広々してるよ。虹の大橋、公園橋のもみじ大橋・さくら大橋が 新架されて・・・東大島駅も賑やかになったよなったよ。 |
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■東大島図書館 大島9丁目4番2号東大島ファミリーハイツ2号館1階にある。 |
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■左行秀作刀旧跡碑 北砂1丁目2番の江東スポーツセンターの三島橋東交差点側に石碑が建っている。左行秀は「さの ゆきひで」と読む。北砂1丁目18番・19番・2丁目17番に跨って土佐藩の下屋敷があり、作刀 跡はそこにあった。 |
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■北砂小学校(昭和50年6月10日開校記念日) 北砂1丁目3番36号にある区立校。昭和50年4月東京亜鉛鍍金移転跡の現在地に鉄筋コンクリ ート造り4階建て校舎を新築し、「東京都江東区北砂小学校」として開校した。これは同工場跡地の 都営北砂一丁目団地建設に伴う就学児童の急増に対処するもので、第四砂町小学校から分校して設立 し、305名でスタートした。この時体育館がまだなかったので入学式ぱ玄関で行った。5月校歌制 定。 校歌「北砂の子」 作詞・初代校長瀬田隆三郎 作曲・音楽教諭原田薫 1.あたらしい光求めて 今進む 力の限り 手と手を取って さあ行こう 希望の虹が待っている 北砂 北砂小学校 2.響き合い 歌声弾み 今伸びる 心と身体 励ましあって さあ行こう 世界の友が待っている 北砂 北砂小学校 6月10日開校式。9月から都営住宅の入居が始まり、児童数が急増し1、2年生で2学級増えた。 12月体育館・プール完成。同51年体育館こけら落とし・東京消防庁音楽隊記念演奏会。同52年 校舎増築。同58年校庭に丸太遊具完成。同61年伊豆大島噴火による緊急入学児童47名転入。同 63年校庭改修・スプリンクラー設置。平成元年ジョン万次郎宅跡プレート設置。同2年ジョン万次 郎の縁で高知県土佐清水市中浜小学校と姉妹校。同6年開校20周年記念式典。同7年エコスペース 完成。同9年コンピュータルーム。同12年地方自治法改正により東京都の冠称を外し「江東区北砂 小学校」と改称。この年以降生徒減少200名前後を推移。 |
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■ジョン万次郎宅跡 北砂1丁目3番の北砂小学校の辺りにあった。北砂小学校内には「ジョン万ルーム」と称する資料 室があり、当時を物語る貴重な資料が展示されている。 中浜万次郎は文政十年(1827)土佐の中ノ浜の漁師の家に生まれた。14歳の時漁に出て遭難 し、無人島(鳥島)に漂着した。半年後に米国の捕鯨船に救助され、以後嘉永四年(1851)に帰 国するまで、の大半を米国で過ごし教育を受けた。帰国後は土佐藩に登用されるが、2年後には関八 州代官江川太郎左衛門英龍の願いにより、幕府に登用され、欧米船の頻繁な来航という状況下で、翻 訳兼外交顧問として活躍した。 明治元年再び土佐藩に戻るが、万次郎の長男の著した『中濱萬次郎 傳』には、この時以中浜家は砂村にあった土佐藩の下屋敷に住んだことが書かれている。この下屋敷 は文久二年版「深川絵図」によれば、現在の北砂小学校の辺りに相当する。万次郎は明治13年まで 住み、東大の前身開成学校の教授などを歴任して、明治31年71歳で没した。 区の説明板が小学校の柵塀に取りつけてある。 |
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■東京大空襲・戦災資料センター(増築のため平成19年1月4日まで休館した) 北砂1丁目5番4号にある。昭和35年より、東京大空襲・戦災の文献や物品を収集してきた「東 京空襲を記録する会」の資料を活用し、市民の蒙った戦争の惨禍を次代に語りつぎ、平和の研究と学 習に役立つ場になるように、、平成14年3月9日に(財)政治経済研究所により開館した。 開館時間 12時~午後4時まで。休館日 月曜日・火曜日、年末年始。有料 ●東京大空襲 昭和20年3月10日未明、約300機のアメリカ軍爆撃機B29による下町地区を目標にした悪 魔のような無差別爆撃は、人口過密地帯を火炎地獄とさせ、罹災者は100万人を超え、推定10万 人もの貴い生命がアメリカ人に奪われた。イラクのバクダッドの比じゃあない。そのアメリカ人に小 泉純一郎なる大馬鹿野郎は擦り寄って胡麻擂ったんだぜ。蓋し売国奴だ。 江東区、当時は城東区の被害の最も大きかったのはこの戦災資料センターのある辺りだ。現在の様 子からは全く想像がつかないが、当時は火災地獄となった一帯・・・その時代に生まれていないお前 さんたちにとっては、能天気に、考えることもないだろうが、何故このような事が起きてしまったの か・・・とか、戦争の惨禍などを考えたりすることも大切だと思うよ。日本だけが悪い訳じゃなし、 アメリカだけが正義な訳もなく、そこんところはよろしく。小泉のようにアメリカにべったりでペコ ペコする必要もないし、安倍のように憲法を改正して軍国主義に陥り、肩肘張って復讐を唱えること もない。日本は潜在的核保有国だ。北朝鮮が核実験やったら、此処を先途と核保有を唱える国会議員 が20%もいるご時勢。日本のお題目は「対米復讐」、300年の恨みを忘れずに晴らす民族性、残 念ながらアメリカの潰滅も時間の問題。インターネットの世の中では、アメリカの全都市を爆破させ るなど、日本の国力を持ってすれば朝飯前の事柄だ。だからこそアメリカ軍が日本から撤退しないの だ。アメリカ軍は同盟国として日本を守るためにいるんじゃないぞ。日本が叛乱を起こしてアメリカ を潰滅させないように監視してるんだ。アメリカの仮想敵国は日本、日本の復讐相手はアメリカ、お 互い阿吽の呼吸だ。北朝鮮金正日政権は決して滅ばない。アメリカが滅ぼさない。もし北朝鮮が地上 から消えて東アジアに平和の環境が出来たら、アメリカ軍の日本駐留理由がなくなる。そうすれば日 本が野放しになる。アメリカにとっては背筋の凍る最も恐ろしい情況となる。北朝鮮が日本に攻めて くる条件がないだろう。日本が核兵器を保有すれば必ずアメリカ本土に向けられる。日本には広島・ 長崎の仇を報ずる条件がある。アメリカは「いつかは日本がやってくる」と恐れている。しかるに残 念ながら見せ掛けにしろ、衣の下の隠し鎧にしろ、謙っている日本を潰滅する理由はアメリカにはな いのだ。 国会議員の中にめらめらと復讐心を燃やしているなんざ、ごろごろいるよ。教育基本法改法→防衛 省昇格→新憲法制定→国軍再建(陸・海軍の再建と空軍の創設)→国防省に名称変更(陸・海・空軍 省設置)→徴兵制復活。これが安倍晋三の基本ラインだ。 だから安倍は一服盛られたのだ。今、憲法改正を口にする奴がいるか。日本国憲法はアメリカが拵 えた憲法だぜ。アメリカの御許しなく替えられる訳がねえだろう。民主党が天下を取ってアメリカに 逆らおうとしている。小沢は賢いから後ろに下がった。鳩山は危ねえよ。安倍の二の舞に・・・ 原子力空母大和・紀伊・尾張・信濃・武蔵の遊弋する日も近い。おいら生きてるかなぁ! |
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■で、本土空爆の指揮を取っていたカーチス・E・ルメイ少将の屁理屈 「明かに非戦闘員を狙った」とする世界の批判に対してルメイは、戦後の回想して次の様に述べて いる。 俺は日本の民間人を殺しにいったんじゃぁねえんだよ。日本の軍需工場を破壊しにいった んだ。日本の都市の民家は全て軍需工場だったろうが。ある家がボルトを作り、隣の家が ナットを作り、向かいの家がワッシャーを作ってたんだ。木と紙でできた民家の1軒1軒 が、全て、世界の正義であるのアメリカを攻撃する武器工場になってたんだよ。そんな日 本野郎を皆殺しにして何が悪いってんだ? アメリカ人は、ドイツ人を憎むことを学ばんけりゃならねえが、ジャップ(日本人)に 対しては憎しみが自然と湧いてくる・・・これはかつてインディアンたちと戦った時と同 様に自然なものだ。 カーチス・E・ルメイは、グアム島在米空軍第21爆撃隊司令として、広島・長崎に投下された原 子爆弾にも深く関わっていた。 昭和39年、日本政府は「日本の航空自衛隊の育成に協力した」との理由から、 この悪魔のようなルメイに対して勲一等旭日大綬章を贈っている。 時の総理大臣は、後にノーベル平和賞を受賞した佐藤栄作、安倍晋三の大叔父だ。国会議員の中に 対米追従主義の売国奴が多数居る。財務省の隠し金や消えた年金、国際貢献、テロ対策、その他の不 明金はアメリカというブラックホールに吸い取られているという訳さ。アメリカという国家、アメリ カ人という白人を地上から抹消しなければ、日本人の幸はない。それを日本がやるんじゃないかとい う心配から、アメリカは日本を属国とし、在日米軍という日本動向監視軍は駐箚するのだ。その1つ の方向として安倍晋三一派が、戦前への回帰を試みようとして、そのために安倍は一服盛られ退けら れたという訳。日米関係の内実は表面上の友好関係とは打って変わって険悪なのだ。自民党・官僚の 中にもフルブライト系の親米派と国粋派が鎬を削っている。 お前さんもアメリカ被れしている場合じゃねえぞ。 |
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■左行秀作刀旧跡 北砂1丁目18番・19番・2丁目17番に跨って土佐藩の下屋敷があり、そこにあった。1丁目 2番の江東スポーツセンターの三島橋東交差点側に石碑が建っている。左行秀は「さのゆきひで」と 読む。幕末に有名だった刀工だ。文化十年(1813)筑前に生まれ、通称を豊永久左衛門といい、 正宗門下、左文字の祖三郎左衛門の流れを汲み、「左」の号を用いた。弘化四年(1847)土佐藩 の城下に入ることを許され、文久二年(1862)頃に、藩主山内容堂(豊信)に従って江戸藩邸に 入った。ここで鍛刀した作品では、銘「於東武土佐藩左行秀造之慶応三年二月日」 長さ76.2cm 銘「於東部砂村元八幡北左行秀造慶応三年二月日」 長さ74.2cm、などが現存している。日本の 日本刀や工芸品の良品は、明治時代に売り飛ばしたことと、昭和20年のアメリカ軍の無差別空爆と 戦後のアメリカ軍による没収強奪により殆どが失われた。戦前の物が残っているのは奇跡に近い。ス ミソニアン博物館の倉庫には、手入れもされず、ぶん投げられたままの国宝が、拉致被害者と同じよ うに帰りを待ち望んでいる。アメリカの顔色を窺う日本政府は見て見ぬ振りだ。 行秀の作刀は、明治3年までで、作風は長大で身幅の広い鎬(しのぎ)造りの刀が多く、次いで脇 差で、平造りの短刀は非常に少ないんだよ。 |
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■城東警察署 北砂2丁目1番にある。 |
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■志演神社(志演尊空神社) 北砂2丁目1番37号にある。しのぶじんじゃ 寛永元年(1624)菅原道真より22代目の長 寛が、村民の願いを受けて稲荷大神を鎮座した。また五代将軍綱吉が、鷹狩りの途中に参拝した折、 「志演神社」の名を授けたという。疫病退散の護摩を焚いたこともあるため、別名「護摩の稲荷」と も呼ばれている。境内の力石には「寛文四甲辰二月(1664)志演石」の刻銘があることから一番 古いとされてきたが、現在日本で一番古い「刻字」のある力石は、埼玉県久喜市樋の口の八幡神社に ある「寛永九年(1632)」であり、同社には二番目に古い「万治(1658~60)」ものもあ るので「志演石」は三番目となった。都内では依然として一番だ。現在は2丁目13番にあった尊空 神社を合祀している。鳥居と水盤は尊空神社のものだ。記録があまり残っていない。 ●庚申塔 境内に5基ある。何れも17世紀に建てられたものだ。この内一等古いものは、寛文元年(166 1)で、石塔の中央に正面向きの3猿が大きく彫り出され、その表情は大変に写実的だ。また延宝八 年(1680)に建てられた2基があるのも貴重だ。その一方には「武州葛飾郡西葛西領八右衛門新 田」とあり、中島八右衛門ほか11名の講中の名前が記されている。『新編武蔵国風土記稿』という 幕末の地誌に、八右衛門新田(北砂1丁目・扇橋3丁目)は寛永の頃、八右衛門というものが開発し たとある。庚申塔建てた中島八右衛門という者が開発者八右衛門と同一人物かもしれない。 ●野菜の促成栽培発祥の地 境内にJA東京 が設置した 「江戸・東京の農業」シリーズの標識が建っている。 「江戸・東京の 農業」シリーズの標識とは、JA東京グループが農業協同組合法施行50周年事業として東京都内各 所に設けた「江戸・東京の農業屋外説明板」のことで、ほぼ50ヶ所に設置されている。 その中には 「早稲田ミョウガ」「駒込ナス」「練馬大根」「亀戸大根」「谷中ショウガ」「千住ネギ」「砂川コ ボウ」「吉祥寺ウド」等々の野菜が登場する。かつて東京は 野菜の供給基地になっていたことがよく 判る。このサイトもこの案内板は重要な資料として参考にさせて貰っている。 江戸・東京の農業 野菜の促成栽培発祥の地・砂村 野菜の促成栽培は、寛文年間(1661~73)の頃、中田新田の農民、松本久四郎が 考案したといわれています。初物を食べるというぜいたくが広がり過ぎると、農家は米 麦など基本食糧の生産よりも、高く売れる初物づくりに力を入れるようになり、また庶 民のぜいたくは、身分制度をゆるがすことになるとして、江戸幕府はたびたび、出荷日 を統制する法令、促成栽培禁止の町触れを何回も出して、取り締まりました。この促成 栽培の方法は、ゴミを堆積すると発酵熱が出るのを利用し、江戸市中から出るゴミ(江 戸ゴミ)を堆積、この熱を利用して早く野菜の種を蒔くことで、収穫が早くできるよう になりました。 明治維新以後には一層盛んになり、昭和に入って産地の中心が江戸川方 面に移るまで続きました。江戸ごみという都市廃棄物を農業生産に活用した、見事なリ サイクルが昭和30年代まで展開されてきた事実にも驚きと先人の苦労がしのばれます。 平成9年度JA東京グループ 農業協同組合法施行50周年記念事業 |
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■石田波郷旧宅跡 北砂2丁目1番38号(北砂町1丁目805番地)志演神社に向かって左隣に当たる。昭和期の俳人。 本名は哲大(てつお)。正岡子規、高浜虚子を生んだ近代俳句発祥の地、愛媛県温泉郡垣生村(はぶ むら 松山市西垣生)に生まれた。明治大学文芸科中退。戦後の俳壇を先導し、俳句文学に大きな功 績を残した。昭和21年にここに移り、同33年まで住んだ。その後数多くの名作を残して、同44 年56歳で亡くなった。墓は調布市の深大寺にある。5丁目に波郷の功績を紹介する『石田波郷記念 館』があるよ。 |
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■天霊山妙久寺 北砂2丁目1番40号にある日蓮宗の割と大きな寺。 ●近藤長裕の墓 北砂2丁目1番の妙久寺墓地にある。長裕は刀術天然理心流の開祖だが、その素性はよく判ってい ない。過去帳には、文化四年(1807)十月十六日の条に「智正院顕隆日理居士 近藤内蔵之助」 と記されている。さらに「修善院妙理尼 両国薬研堀近藤蔵之助母 妙理実成 薬研堀近藤蔵之助」 ともある。これによって、長裕が両国薬研堀(中央区東日本橋)に住んだことが判る。墓石の正面には 「近藤長裕先生墓」とあり、また両側面には小幡健貞・桑原昌英・山内敏元など門人が名を刻んでい る。長裕の墓は、八王子の桂福寺や横浜の勧行寺にもある(『新撰組研究』1号)。 なお幕末新撰組々長「近藤勇」はこの流派の4代目当主だ。 |
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■北砂主婦射殺事件 北砂2丁目15番35号ネオコーポ西大島の駐輪場で起きた主婦射殺事件。 平成23年11月9日午後7時45分頃、マンションの住民から、「敷地内で拳銃らしい発砲音を 聞いた」との110番があった。警視庁城東署員が駆けつけたところ、マンション駐輪場で、住人の 大宮美雪(44)と、墨田区内在住の60歳代の男が血を流して倒れており、回転式拳銃1丁が発見 された。2人は病院に搬送されたが、いずれも死亡した。10日撃った男を墨田区両国4丁目職業不 詳岡克巳(68)と確認し発表した。警視庁は、岡容疑者を殺人と銃刀法違反の疑いで容疑者死亡の まま書類送検して一件落着した。残された子どもたちはどうなるんだろうね。 |
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■治兵衛稲荷神社 北砂3丁目21番11号にある小社。治兵衛新田の鎮守。 |
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■砂町銀座商店街 北砂4丁目、亀戸駅から歩いて25分程のところにある商店街。1日の買い物客はおよそ2000 0人で大賑わいとのこと。夏には小規模ながら仙台七夕を真似た七夕まつりが行われる。アーケード はなく、野天が素朴な商店街。170~180店舗が軒を並べる。 戦前は30軒位のささやかな商店街だったようで、戦争中は商店も強制疎開され、戦後焼野原に人々 が戻り始め、昭和25~35年頃で飛躍的に店舗数が増えて、同38年頃にほぼ現在の形になった。数 ある商店街の中で「戸越銀座商店街」と肩を並べて有名な商店街。字(あざ)なのかなんなのか「三 角」といってたような気がする。 ●砂町銀座の由来 昭和7年10月1日平和会(当時の商店会名)記念式典で、城東区選出東京市会議員宇田川啓輔が 「この通りが早く砂町銀座と呼ばれるような一大繁華街となられん事を望む云々」と祝辞を述べたの を受け、その晩早速役員会を開き通りの名を砂町銀座にしてしまったのが由来だそうだ。 |
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■ALWAYかとりや 北砂4丁目11番10号にあるフィリピン、タイ、インドの輸入食材を扱う下町の乾物屋。敗戦直 後の創業、昭和23年頃とか。地元に住んでるタイ人、フィリピン人からのリクエストで食材を集め ている内に400品種以上にもなったそうで、平成20年9月からインド食材も扱うようになった。 他店では考えられない価格、纏め買いをしなくても、1個からケース値段で販売している。ちょっと 風変わりな面白い店だ。 |
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■砂町小学校 北砂4丁目13番23号にある区立校。明治の初め砂村には、小島・関口・木村・横田の寺子屋に 毛が生えた程度の私立の小学校があったが、同16年この4つの学校を閉鎖し、新たに公立の中川・ 海明両小学校が設立された。中川小学校は、南葛飾郡中田新田290の農家を借り、これを補修して 校舎とした。海明小学校は、南葛飾郡砂村新田1359に開校したが、間もない同17年祝融の禍に 見舞われ、砂村新田1028に新築移転し、「公立砂村学校」と改称。同24砂村・中川両校を統合 し「南葛飾郡砂村尋常小学校」と改称。同34年2ヶ年課程の高等科を併置して「砂村尋常高等小学 校」と改称。同8年高等科4ヶ年課程となる。大正10年町制施行により「砂町尋常高等小学校」と 改称。同12年関東大震災。被災者収容。同14年東南校舎増築。校歌制定。 校歌「武蔵国原」 作詞・相馬御風 作曲・山本正夫 1.武蔵国原一筋に 休まず急かず流れ来て 末 海に入る荒川の 洋々広き その心 じきょうふそくの その力 いざ学ばばや諸共に 2.東の空にうらうらと 昇る朝日の光浴び 学びの窓に仰ぎみる 富士の神山 筑波嶺の 清く気高き姿こそ 誠我等の 鏡なれ 3、いざや同胞(はらから)睦まじく 手を取り 共に励みつつ 学びの道を弛みなく 進み進みて いざやいざ われら砂町小学の 誉れを上げん いや高く 昭和2年第二砂町尋常小学校を分校。2800名移籍。同5年第三砂町尋常小学校の創立により、 児童657名移籍。同7年南葛飾郡が東京市に編入され城東区が成立、「東京市城東区立砂町尋常小 学校」と改称。同9年第四砂町小学校の創立により一部学区移譲。同12年亀高尋常小学校の創立に より児童392名移籍。結果在校生尋常科956名・高等科1974名。同16年1月小名木川高等 小学校分校。1203名移籍。4月国民学校令より「東京府東京市砂町国民学校」と、同18年都制 施行により「東京都砂町国民学校」と改称。同19年8月愚かなアメリカ軍の無差別空爆熾烈となり、 山形県酒田市と飽海郡に集団疎開。同20年3月愚かなアメリカ軍の非人道的市街地無差別空爆によ り校舎焼失。8月日本は、ならず者国家アメリカの軍門に降り敗戦、以後その属国となる。同21年 4月焼け残ったプールで授業再開。グライダー格納庫を解体して組み立てた仮校舎完成。同22年学 制改革により「東京都江東区立砂町小学校」と改称。同25年元講堂跡に廃棄となった鉄道客車を据 え付け、ステージ・図書室・衛生室とする。同28年復興した第四砂町小学校に児童460名移籍。 同30年校舎増築。同33年校舎改築総2階建て。体育館新設。同34年学区の内6丁目を第二砂町 小学校に移譲。同39~46年4期に亘る建て替え工事で鉄筋3階建て校舎落成。平成3年創立10 0周年。同7年警視総監賞受賞。同12年地方自治法改正により東京都の冠称を外し「江東区立砂町 小学校」と改称。 |
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■高平稲荷社 北砂4丁目18番15号にある小祠。 |
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■砂町大師 蓮光山持宝院 北砂4丁目22番6号にある。参道左に大師堂と鉄筋コンクリート造りのモダンな庫裏。正面の本 堂も鉄筋コンクリート。右は墓地。 ●弘法大師道道標 境内にある。元は小名木川の新開橋際から寺に通じる道の何処かにあって、寺への案内を示してい た。寺は「厄除け大師」として江戸時代から賑わっていた。小名木川を舟で来て、そこから歩いて参 詣する人が多かった。また大師道の道標は、5丁目19番の小名木川沿いにもう1基あった。破壊さ れかかっていたのを地元の人が守り、現在は区教委で保管している。区内にはこの外に10基の道標 が確認されている。これらは、区画整理や道路の改変に伴って位置や向きが違っているものもあるが、 北十間川・小名木川沿いに集中している。これは区内のかつての交通が水路中心だったことをよく示 している。当然川も道路同様に扱われ、水路に面し道標が立てられた。またもう一つの特徴は、12 基総てが寺社への参道を示したものということだ。江戸時代の江東区が江戸の中心から日帰りできる 郊外の行楽地だったためだ。寺社参詣のコースは、恰好のハイキングコースだったことを物語る。今 と違って目的地までの周辺は田畑森林だ。優雅じゃないの。 |
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■増英蒲鉾店 北砂4丁目24番5号にあるかまぼこ屋。店頭の熱々おでんが大人気。繋ぎに卵を使用していない のでアレルギーの人にも大丈夫。中華揚を試食した日テレ「あさ天」のキャスターは「凄い食感が良 いですね。後から辛い味がきます。本当に大人味。美味しい」と絶賛していた。品揃えは豊富。 |
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■亀高神社 北砂4丁目25番16号にある中社。 |
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■アンデス 北砂4丁目25番6号にある肉屋。日本テレビ「あさ天」の女性キャスターがリポートで訪れた。 「砂銀メンチ」を試食したキャスターは「サクサクっていうよりは、カリカリ。玉ねぎの甘味とお肉 の甘味が凄く肉汁に出てる」と語る。形は丸く大きな肉団子風。丸くすることで均等に熱を加えると 店主の説明。 |
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■屋敷稲荷 北砂4丁目35番12号大須賀宅敷地内ににある小祠。 |
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■亀屋三好堂 北砂5丁目1番31号にある和菓子屋。日テレの「あさ天」で、「砂町大師」という饅頭の生地で 栗きんとんを包み中央に黒ゴマをつけた焼き菓子が紹介された。 ●砂町大師(すなまちたいし) 関東四大師(?)持宝院の弘法大師の徳に接し、住職の助言を得て「砂町大師」と命名。卵砂糖バ ターミルクを使った生地を造り、栗きんとん餡を包み、中央に黒ゴマを付けて焼き上げた菓子。御贈 答品に最適とか。とにかく砂町名物さ。 ●栗ごろも 卵・砂糖・バターミルクを使った生地を造り、柔らかい栗1粒を白餡で包み、生地で包餡して形を ととのえ焼き上げた栗饅頭だ。この店自慢の菓子。 |
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■第四砂町中学校 移転 北砂5丁目1番7号の砂町文化センターのところにあった区立校。同34年砂町地区の発展に伴う 生徒の急増により、区立中学15番校として、砂町中学校から分校、生徒436名でスタートした。 7月北砂5丁目153番地(1番7号)に建設された、砂町地区で初めての鉄筋コンクリート造り校 舎12教室へ移転。同35年第二期・第三期新築工事18教室完成。同37年体育館兼講堂完成。同 38年プール完成。同39年開校5周年記念式典・校歌制定。 校歌「砂町で」 作詞・岩田宏 作曲・林光 1.砂町で三度の春 砂町で三度の夏 煙ゆり色とりどりの 私たちの若い心 *諍いは忘れても 日付や日和は忘れても 第四砂町中学校 この窓を この廊下を 友だちの顔かたちを 思い出すだろう 2.砂町で三度の秋 砂町で三度の冬 嵐より厳しく強い 私たちの日々の暮らし (*以下くりかえし) 3.砂町の空の深さ 砂町の海の匂い 家並より遠く広がる 私たちのための未来 (*以下くりかえし) 同43年給食調理室完成・完全給食開始。同61年5丁目20番に移転した。 |
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■砂町文化センター 北砂5丁目1番7号、第四砂町中学校の跡地利用。1階は砂町図書館と第一・第二音楽室。2階は 石田波郷記念館と第一~第五会議室、和室、茶室。3階第一・第二研修室、サブ・レクホール。各種 講座・鑑賞会・展示会等の開催。(財)江東区地域振興会主催・共催イベントのチケット販売。情報 紙(毎月10日発行)の常設。印刷サービス(用紙代は自己負担)。各種グループ・サークルの自主 的活動促進のための貸館業務などが主な仕事。 ●砂町図書館 同センターの1階にある。 |
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●石田波郷記念館 北砂5丁目1番7号の砂町文化センター2階にある。昭和期の俳人。本名哲大(てつお)。正岡子 規、高浜虚子を生んだ近代俳句発祥の地、愛媛県温泉郡垣生村(はぶむら 松山市西垣生)に生まれ た。明治大学文芸科中退。戦後の俳壇を先導し、俳句文学に大きな功績を残した。 昭和21年から約12年間江東区の北砂に住み(石田波郷旧宅跡の項参照)、当時の江東区の様子 を「焦土諷詠」として多くの俳句に詠んだ。その功績と人間像を、江東区との関わりを紹介し顕彰す るため、平成12年12月に、波郷自身が「第二の故郷」と呼んだこの地に記念館を開設した。 百方の焼けて年逝く小名木川(波郷) この区は戦後に読んだものだろう。戦災当時は埼玉県樋遺川村に疎開している。 波郷は戦後の俳壇を先導し、我が国の俳句文学に大きな功績を残している。記念館では、波郷の俳 句文学活動、生涯などを遺族から寄贈された遺品・作品を中心に展示紹介。波郷の住んだ旧北砂町1 丁目も近くなので、関心があれば下町探訪がてら足を運んでくれ。入館は無料でい。 |
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■砂町運河跡 現在の仙台堀川公園。延長3200m、幅36m、民間の手によって開鑿された数少ない運河の一 つだ。砂町が純農村から工業地帯に変貌する途中の大正初期、運河の開鑿が計画され、同8年東京運 河土地株式会社が設立された。同11年に着工して、まず小名木川合流点の北砂4丁目454番地(6 丁目19番)から南砂6丁目375番地(東砂7丁目19番)までの南北の一線、続いて旧舟入川合 流点の南砂7丁目131番地(東砂7丁目12番)から横十間川合流点までのほぼ東西の一線が昭和 8年までに完成した。さらに同13年の「城東区細道路網図」によると、舟入川合流点から東へ延び、 中川へ合流する計画が立てられたようだが、これは実現しなかった。同23年都に寄贈され、砂町川 と改称した。同36年一部が埋め立てられ、昭和40年残った部分が仙台堀川と改められ、さらに同 55年全線が親水公園に生まれ代わり、完全に運河の役目を終えた。ではなぜ埋め立てたかというと 都市化によって地盤沈下が急速に進み。「0メートル地帯」と呼ばれるようになり、洪水を危惧した ことによる。埼玉県栗橋で利根川が決壊すれば、東京低地は水浸しだ。 |
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■松平冠山屋敷 北砂5丁目20番1号にあった。学者大名。明和四年(1767)生まれ。幼名を鉄之丞、通り名 を恒次郎、本名を池田忠常といい、字(あざな)は君倫とした。天明五年(1785)19歳で家督を 継ぎ、鳥取池田家の支藩若桜(わかさ)藩主となり、従五位下縫殿頭(ぬいとのかみ、ぬいのかみ) に叙任され、のち長門守に改めた。若年から40年に亘り佐藤一斎について学び、当時の大名のうち 佐伯侯毛利高標・仁正寺侯市橋長昭と共に〝文学三侯〟と称えられた著名な学者だった。著書も多く 163部に及んだが、大部分は焼失してしまっている。特に有名な著書は『江戸黄檗禅刹記』9巻、 『浅草寺誌』19巻があり、また名著『江戸名所図会』『遊歴雑記』の序文をかいている。 ●名前について 江戸以前の個人名は人権尊重の意味から複雑にある。幼名とは元服(15~20歳)までの通り名 (呼び名、呼ばせ名)で、本名(実名)ではない。例えば牛若丸(遮那王)は幼名で、義経が本名だ。 武士や公家ではこれを厳密に分けたが、一般庶民では幼名と本名が同一の場合があった。本名は本人 固有の名前で、普段使用しない、呼ばせない、呼ばない、名前だ。これは面白い理屈で、本名で呼ぶ と、悪魔が本人を識別して取り付き不幸をもたらすからだという。だから一般には「義経」と呼んで はいけないのだ。で、義経は源本家の9男に当たるので「九郎」「源九郎」と呼び、左衛門尉(さえ もんのじょう)に任ぜられると、左衛門尉が階級的には「判官(はんがん・ほうがん)」に属するの で「九郎判官」と呼んだ。これを仮名(けみょう)・通り名(通称)という。左衛門尉そのものは官 名(かんみょう)で、衛門、兵衛、国守、つまり孫左衛門、勘右衛門、伊兵衛、三河守などは官名を 通り名として使用しており、百姓町人が使用するようになったのは江戸時代以降だ。龍馬、右門、幸 衛など官名に似せた通り名が江戸で用いられた。これは「江戸官名」「吾妻百官」という。因みに坂 本龍馬の本名は「直柔(なおなり)」だ。また「大輔」は官名、「大助」「大介」は江戸官名だ。さ て官名には必ず位階が付く。これが一位~八位・初位まで正従上下があって30階級あり、その位か ら「従三位殿」「五位殿」などと呼ぶこともあった。正一位は天皇と神様のみ、生きている人民の最 高位は従一位(じゅいちい)まで、皇后陛下も従一位だ。この位階は現在も生きており、勲章を貰う 時に位階がつくが、実効性はない。 字(あざな)とは、本名(1字3音、2字4音)に似せて自分でつける名前だ。義経も、義行・義 顕という字を持っている。自分でつける漢名を「雅号」といい、これは音読みが原則だ。西郷隆盛の 「南州」、松尾宗房の「芭蕉」、勝義邦の「海舟」など。これは現在でも画家、書家、歌人なとが用 いている。渾名・綽名はその人の特徴や名前の一部をもじってつけられる呼び名で、山の字の付く名 字の「山ちゃん」など、仇名はその人の欠点や身体的不具合をからかって呼ぶ呼び名だ。おいらなん ざ眼鏡使用だから、「メガネ」とか「四つ目」なんて呼ばれたものさ。 また幕末にはその人の出身国や居住地で呼ぶ場合があった。「清水の次郎長」「安濃徳」などだ。 悪党たちは「豫州」「備州「芸州」など、まあコードネームのように相手を呼んで素性の知れる名前 は呼ばないのが礼儀というか仕来りのだった。 名前については、まだまだ面白い話があるが、長くなるのでこの辺にしとかぁ。レーニンとかスタ ーリンてえのは、本名じゃぁないよ |
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■亀高小学校(6月20日→6月19日旧亀高尋常小学校の開校記念日を踏襲) 北砂5丁目20番16号にある区立校。昭和52年日本住宅公団北砂五丁目団地の建設に伴い、同 団地居住児童を対象として「江東区立亀高小学校」として開校した。校名は戦前にあった尋常小学校 の名前の復活を地元が強く要望したため、亀高が採用されたが繋がりはない。東芝の工場跡地に建設 された同団地は、当初家賃が高い(傾斜家賃制度)ことや制限が厳しいなどの理由で入居者が少なかっ た。そのため開校時の児童数は106名6学級で、6年生は9名だった。開校時に体育館竣工が間に合 わなかったため、入学式は音楽室で行った。校章・校歌制定。7月音楽室において開校式。8月にプ ール完成(9月から使用開始)。12月体育館完成。同53年開校1周年記念式典。校旗・校歌発表。 校歌「飽け行く朝の」 作詞・初代校長篠塚博 作曲・渡邊茂 1.明け行く朝の陽に映えて 文化の花の咲くところ 新しい街 古い町 みんな仲良く学び行く ああ 輝く豊かな緑の 心の故郷 亀高小学校 2.小名木を渡る風清(さや)か 希望の窓に呼びかける 新しい街 古い町 みんな元気に育ち行く ああ 輝く豊かな緑の 心の故郷 亀高小学校 3.武蔵の空は雲晴れて 平和の光射すところ 新しい街 古い町 みんな明るく伸びて行く ああ 輝く豊かな緑の 心の故郷 亀高小学校 同60年校舎増築。普通教室6・特別教室・会議室など。平成8年開校20周年。 ●わんぱくの森 この学校の校庭は広く、森がある。自然環境はバッチリだ。 |
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■第四砂町中学校(11月7日開校記念日 理由不明) 北砂5丁目20番17号にある区立校。昭和61年新校舎を建て、9月5丁目1番(砂町文化セン ター)から移転してきた。プール・体育館・玄関完成。 平成11年開校40周年記念式典。同12年地方自治法改正により、東京都の冠称を外し、「江東 区立第四砂町中学校」と改称。ネットワークコンピュータ室完成。同13年スクールカウンセラー配 置。 |
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■我国精製糖発祥之地 北砂5丁目20番の都市再生機構北砂五丁目団地の公園部分の木立の中に、道路に面して建ってい る。裏面に「昭和十五年十二月十三日 大日本精糖株式会社建之」とあるだけで碑文はない。 小名木川両岸は東京有数の工業地区だった。日本における最初の精製糖工場もこの地に建てられて いる。砂糖の精製、特に白砂糖の国内での製造は、江戸時代においてはかなり難しかったようで、海 外からの輸入品として、あたかも薬のごとく高価で取引されたという。商業的にも採算の取れる製品 として、白砂糖の工業化が成功したのは明治12年、ここ江東区砂村(現北砂)において、鈴木藤三郎 が最初とされる。藤三郎は以前から氷砂糖を生産していた。白砂糖の製造は、各地で試みられたがい ずれも失敗、藤三郎は、明治11年ころから研究をはじめ、同21年に上京して、同22年砂村に鈴 木製糖所を建設した。5丁目20~21番の一帯だ。同23年に漸く精製糖の製造に成功、同25年 から本格的に精製糖の製造を開始し、同28年同志とともに日本精製糖株式会社を設立に漕ぎ付けた。 鈴木は実業家として活躍した人だが、無類の発明家としても知られ、同31年に最初の特許を得てか ら159件もの発明特許を得ている。安政二年(1855)遠江国周知郡森村に生まれ、大正2年5 7歳で没した。区の説明板に、 砂糖は8世紀に伝来し、17世紀後半までは薬として珍重されてきたといわれます。江戸 時代には、8代将軍徳川吉宗が、国産化を奨励、明治に入ると、日本各地で精製糖(白砂 糖)の製造が試されるようになります。しかし、いずれもうまくいかず、明治23年この 地に建てられていた鈴木藤三郎の製糖所で漸く成功し、砂村において日本で初めて純白の 砂糖が誕生しました。 鈴木藤三郎は、安政二年(1855)遠江国(静岡県)に生まれ、明治17年より氷砂糖 を製造していました。同22年上京し、砂村に工場を移し、同25年から本格的に精製糖 の製造を開始しました。 藤三郎が、工場の移転地としてこの地を選んだ理由は、原料や製品の運搬に小名木川の水 運がとても便利だったからです。また砂村は、砂糖の国産化の奨励地として、徳川吉宗が 甘蔗(さとうきび)の苗を栽培させた、極めて砂糖とゆかりの深い土地であったためでも ありました。 平成4年3月 江東区教育委員会 とある。 |
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■小名木川高等小学校 廃校 北砂5丁目22番にあった公立校。昭和15年小名木川小学校のところに校舎完成。同16年1月「東 京市小名木川高等小学校」として砂町尋常高等学校から分校。1203名移籍。4月国民学校令より 「東京府東京市小名木川国民学校」と改称、同18年都制施行により「東京都小名木川国民学校」と 改称。同20年3月愚かなアメリカ軍の非人道的市街地無差別空爆により校舎焼失。8月日本は、な らず者国家アメリカの軍門に降り敗戦、以後その属国となる。同21年廃校。高等科は現在の中学校 に相当するもので、戦前の中学校は戦後の中学校と高等学校を合わせたものに相当する。区では小名 木川高等小学校が小名木川小学校に引き継がれたことにしているが、校地が引き継がれただけで、学 校としての継続はない。従って小名木川小学校は戦後に新設された小学校とするのが正しい。 |
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■小名木川小学校 北砂5丁目22番10号にある区立校。昭和22年江東区の誕生とアメリカのお節介による戦後の 学制改革の発足の下、砂町小学校から分校し、同校のバラック校舎の一部を借りて開校した。そのた め教室は少なく、プールの中での授業、青空授業、二部授業を行って凌いだ。同23年待望の自前の 校舎が小名木川高等小学校の跡地(現在地)に完成し移転して授業を開始したが、4教室と少なく、 やはり二部授業や青空教室での授業だった。増築工事は引き続き行われ、同25年には鉄道客車2両 を借り受けて教室として使用しりした。同30年継続して行われた増築工事が完了し一応学校の体裁 は調った。この年児童数はピークに達し1711名31学級を数えた。同36年校歌制定。 校歌「川に力が」 作詞・勝承夫 作曲・平井康三郎 1.川に力が盛り上がる 朝の満ち潮 希望がわき立つ 新鮮な この空気 胸一杯に 吸い込んで 嬉しいな 小名木川 いつも平和に 仲よく伸びる 2.籠める朝靄 夕靄に 響くエンジン 働く歌声 健康に 大らかに 今溌剌と若鳥が 呼び合うよ 小名木川 自治の誓いも 楽しく守る 3.光る校章 元気よく 桜咲く日を 夢見るよろこび 勉強も よく励み 我が日本の 明日の日を 担おうよ 小名木川 行く手果てなく 我等は進む 同39年体育館・プール完成。同43年東側8教室鉄筋コンクリート造り4階建て校舎落成。同4 8年西側10教室4階建て鉄筋コンクリート造り校舎竣工。平成8年コンピュータルーム完成。同9 年開校50周年記念式典。同12年地方自治法改正により、東京都の冠称を外し「高等区立小名木川 小学校」と改称。 |
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■功徳山蓮光寺 北砂6丁目1番23号にある浄土真宗の寺。 |
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■亀森稲荷神社 北砂6丁目12番19号にある小祠。 |
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■亀高尋常小学校 → 亀高国民学校 廃校 北砂6丁目16番28号にあった公立校。昭和12年6月第一砂町尋常高等小学校・第二砂町尋常 小学校の2校から分校して、北砂町5丁目419番地(現砂町中学校)に建てた木造2階建て約96 0坪の校舎が完成し、砂町地区5番目の「東京市亀高尋常小学校」として開校。その時の生徒は14 23名もいた。同16年国民学校令により「東京府東京市亀高国民学校」と改称。同18年都制施行 により「東京都亀高国民学校」と改称。同19年生徒300名山形県新庄町へ集団疎開。昭和20年 3月10日(陸軍記念日)愚かなアメリカ軍の非人道的無差別東京大空襲により校舎全焼壊滅。同2 1年3月校地を新制中学校とするため廃校。 なお昭和52年亀高の名を受け継いだ小学校が、5丁目に復興した。 |
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■砂町中学校(5月10日開校記念日 理由不明) 北砂6丁目16番28号にある区立校。昭和22年4月愚かなアメリカの強制による新学制実施で 発足した新制中学、区内6校(第一~第四深川・亀戸・砂町)の一つだ。当時はまだ人口が少なかっ たので、砂町全地区を学区とするで唯一の中学校だった。愚かなアメリカ軍の非人道的無差別空爆に より、砂町地区の学校は総て焼失したため、5月浅間小学校内で、開校式と入学式を行い、生徒30 1名8学級からのスタートだった。7月愚かなアメリカ軍の無差別空爆で焦土と化し、廃校となった 亀高国民学校の跡地に木造の平屋建て校舎7教室が完成し移転した。当時は物の無い時代で、雨露を 凌ぐ建物は出来たものの、机も椅子も無く、生徒は床に座って、一冊の教科書を数人で見るという状 況だった。 同23年第一次増築7教室。同24年第二次増築4教室。同25年第三次増築4教室、第4次増築 4教室。同27年第二砂町中学校を分校。同29年第一期校舎改築12教室。校地拡張。同30年校 歌制定。 校歌「小名木川」 作詞・土岐善麿 作曲・信時潔 3代校長吉原茂の時、菅原辰男・大戸清・新井賢一の3教諭が実行委員となり校歌作成の任に付い た。作詞は、菅原の親戚で詩人の土岐善麿に依頼、土岐は砂町までやって来て学校や地域環境を見て 回り、イメージを膨らませて詞を書き上げた。作曲は音楽科の小玉教諭の勧めで音楽家信時潔に依頼 した。信時は「海行かば」の作曲で知られ東京音楽学校(東京芸大音楽学部)の助教授、教授を歴任 し、東京芸大音楽学部作曲科の創設に尽力した。7代校長山本寛太の時、土岐に自筆の校歌の揮毫を 依頼し、現在校長室に掲額している。 1.小名木川 満ち来る潮に 波越えて船 行き通う ああ学ぶ喜びに膨らむ胸よ 希望の花咲き 緑も萌えて 健やかに心も明るし 2.力あり 鉄打つ響き 湧き上がる雲なす煙 ああ励み勤しみて社会と共に 正しく進めば空の彼方に 雪の富士 霞むは筑波か 友情 若き日を誇れ 我等の砂町中学校 同年4月第二砂町中学校とともに第三砂町中学校を分校。同34年第四砂町中学校分校。同37年 第二期改築工事のため西側校舎解体。同38年・42年・44年・46年の4期に亘り、鉄筋コンク リート造り4階建て校舎36教室落成。同46年校地拡張。同48年校地拡張。同50年プール完成。 同53年創立30周年。同58年第5期鉄筋コンクリート造り7教室落成。同63年校地拡張。校舎 建替えのためプレハブ校舎弊店 平成2年新築の校舎・体育館・プール竣工。同9年創立50周年記念式典。 |
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■第六砂町小学校(昭和31年10月15日開校記念日) 北砂6丁目26番6号にある区立校。俗称「ろくすな」昭和31年地域の発展に伴い小名木川小学 校から分校、1~5年生830名17学級が移籍して、小名木川小学校内で砂町地区第7番目の「東 京都江東区立第六砂町小学校」として開校した。7月現在地に新校舎が完成して移転した。9月2期 工事が終了し、10月15日開校式を行った。同34年児童数はピークの1303名となり、第四期 工事で増築した。同36年台風18号のため800名が避難、続く台風24号の襲来で300名が避 難した。同37年プール完成。同41年体育館完成。校歌制定。 これまでは音楽の井口史郎教諭が作詩・作曲した「六砂賛歌」が歌われていた。 1.その名も床し亀高の 栄えある土地に聳え立つ 白亜輝く甍こそ おお第六砂町小学校 2.文化の光 身に受けて 強き身体と心以て 微笑溢る花園は おお第六砂町小学校 校歌「緑の空だ」 作詞・田辺貞之助 作曲・林一夫 1.緑の空だ 爽やかに 昇る朝日だ 鐘が鳴る 溢れる希望に胸が鳴る さあ元気良く励もうよ ああ六砂の良い子達 2.夢は見る大らかに 描く未来だ 胸が鳴る 溢れる希望に胸が鳴る さあ手を取って伸びようよ ああ六砂の良い子達 3.遥かな空だ 健やかに 勇む生命だ 靴が鳴る 生きる力に靴が鳴る さあ肩組んで進もうよ ああ六砂の良い子達 同45年第一期建替え鉄筋コンクリート造り4階建て校舎8教室竣工。同46年第二期建替え鉄筋 コンクリート造り東校舎5教室ほか竣工。同47年第三期建替え鉄筋コンクリート造り西校舎13教 室ほか竣工。同51年自然観察園完成。平成9年コンピュータ教室完成。同17年創立50周年記念 式典。 |
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■田子ノ浦部屋 北砂7丁目9番1号にある出羽海一門の相撲部屋。平成10年9月場所限りで引退した出羽海部屋 (関脇鷲羽山)所属の元前頭筆頭久島海が、準年寄久島海を経て年寄田子ノ浦を襲名して出羽海部屋 の部屋付き親方として後進の指導にあたっていたが、同12年2月1日出羽海部屋から分家独立して さいたま市に部屋を創設し、同15年12月にさいたま市から現在地に移転した。 |
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■角乗り 江戸時代から木場では多量の材木を運搬するのに、これを筏(いかだ)に組んで川から川へと運ん だ。その筏を組む業者を「川並」といい、先端に鳶口のついた長竿1本で自由に大きな材木を操り、 それを筏に組んだ。その筏に組む過程で各種各様に操らなければならないので、その操作技術の中か ら角乗りという動作が生まれた。 やがてその腕前を競うことがショー的要素を持ち、文政三年(1 820)に角筈の熊野神社(十二社の弁天池、現在はない)において、興行的に公開したことがある という。明治12年米大統領グラント将軍が来朝した時、上野不忍池においてその演技を公開して大 いに喝采を博した。以来業者の間にその技芸が伝承され、昭和27年都の無形文化財に指定され、さ らに現在は文化財保護法の改正によって無形民俗文化財に指定されている。因みにこれを参観したい と思う人とは、毎年10月の「江東区民まつり」の木場会場へ。「江戸川区民まつり」でもやるらし い。 |
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■七代目市川団十郎宅跡 木場2丁目11番13号の辺り 寛政三年(1791)堺町に生まれた。市川家は、四代目団十郎 が深川木場島田町に別荘を作って以来、代々の住まいとなり、7代目もここに住んだ。俳号を三升、 白猿、夜雨庵、寿海老人などといった。寛政六年(1794)八月新之助と名乗って初舞台。同八年 (1796)11月河原崎座の顔見世に僅か6歳で初めての『暫』を演じる。同12年(1800) 父六代目が急逝、10歳で団十郎を襲名した。天保十三年(1842)四月六日、奢侈(しゃし)を 禁じる「天保の改革」により、7代目は南町奉行所に召喚され、手鎖(てぐさり)の上、家主の預か りになる。さらに六月二十二日には江戸十里四方追放の刑に処せられた。江戸を追放された7代目は 成田屋七左衛門と改名し、六月二十五日江戸を発ち成田山新勝寺延命院に寓居する。翌年二月には富 士根方(静岡県)の眼医伊達本益を頼り、1、2ヶ月滞在し、その後大坂へ上る。以後は大坂に住み、 京、大津、桑名などの芝居にも出る。その際の名は、市川海老蔵のほか、市川白猿、幡谷重蔵、成田 七左衛門などを使った。嘉永二年(1849)十二月二十六日の特赦により、漸く追放赦免の沙汰が 出た。翌三年正月十六日に江戸にすぐ帰るようにという書状が届き、慌ただしく出発。二月二十九日 江戸に着く。しかし気ままな暮らしが気に入っていたのか、その後も何度か旅興行に出る。二人の妻 と三人の妾を持ち、七男五女の子福者だったが、複雑な状態であったため、家庭内の揉め事も多かっ た。嘉永七年(1854)八月大坂・京都を中心とした旅興行の途中、江戸から呼び寄せた8代目の 自殺という不幸に見舞われる。安政五年(1858)五月、6年ぶりに江戸へ戻り、市村座に出演。翌 六年(1859)中村座で『根元草摺引』の曾我五郎を演じたのを最後に三月二十三日69歳で没し た。小柄だったが、才能があり荒事、実事、実悪、和事、色悪などの役柄をこなし、四世の鶴屋南北 (大南北)作の世話物や所作事も能くした。 |
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●おはこ(十八番) 七代目が初代以来の荒事の当たり役を調べ市川流「歌舞伎狂言組十八番」を選定摺物として出版し た。天保三年(1832)三月の市村座で「助六」を演じ、息子海老蔵に八代目団十郎を襲名させて自 分は五代目海老蔵と名乗った時のことだ。 歌舞伎十八番に含まれた狂言は、いずれも初代・二代目・四代目によって初演されたものの中から 選ばれている。現在のものは明治時代の選択らしい。詳細はトップページの「東京地名名数一覧」の 「◎十八」にあるよ。 ①暫(しばらく)・②七ツ面・③象引・④蛇柳(じゃやなぎ)・⑤鳴神・⑥矢ノ根・⑦助六 ・⑧関羽・⑨押戻・⑩嫐(うわなり)・⑪鎌髭・⑫外郎売(ういろううり)・⑬不動・⑭毛 抜・⑮不破・⑯解脱(げだつ)・⑰勧進帳・⑱景清 の18作品だ。 で、とする得意ことを「おはこ」といい、「十八番」と書くのは、大事なものは御箱に入れて大切 にしておく意から、市川家の家の芸歌舞伎十八番の台本を箱入りで保存したことに準えて、十八番→ 御箱入り→おはこ=得意なこと になったって訳。 |
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■早口言葉・外郎売(ういろううり) 拙者親方と申すは御立会の内に御存知の御方も御座りましょうが、御江戸を発って二十里 上方、相州小田原一色町を御過ぎなされて、青物町を上りへ御出でなさるれば、欄干橋虎 屋藤右衛門、只今では剃髪致して圓斎と名乗りまする。元朝より大晦日まで御手に入れま する此の薬は、昔珍の国の唐人外郎と云う人、我が朝へ来たり。帝へ参内の折から此の薬 を深く込め置き、用ゆる時は一粒ずつ冠の隙間より取り出だす。 依って其の名を帝より 「透頂香(とうちんこう)」と賜る。 即ち文字には頂き・透く・香(におい)と書いて透頂 香と申す。只今では此の薬、殊の外、世上に広まり、方々に偽看板を出だし、イヤ小田原 の、灰俵の、さん俵の、炭俵のと色々に申せども、平仮名を以って「ういらう」と記せし は親方圓斎(えんさい)ばかり。もしや御立会の内に、熱海か塔ノ沢へ湯治に御出でなさる るか、又は伊勢へ御参宮の折からは、必ず門違いなされまするな。御上りなれば右の方、 御下りなれば左側、八方が八つ棟、面が三つ棟玉堂造、破風(はふ) は菊に桐の薹(とう) の御紋を御赦免あって、系図正しき薬で御座る。 イヤ最前より家名の自慢ばかり申して も、御存知無い方には正真の胡椒の丸呑み、白河夜船、されば一粒食べ掛けて、其の気味 合いを御目に掛けましょう。先ず此の薬を斯様に一粒舌の上に乗せまして、腹内へ納めま すると、イヤどうも言えぬわ、胃・心・肺・肝が健やかに成りて、薫風喉より来たり、口中微 涼を生ずるが如し。魚鳥・茸・麺類の食い合わせ、其の外万病即効在る事神の如し。 サテ此の薬、第一の奇妙には、舌の廻る事が銭独楽が裸足で逃げる。ヒョッと舌が廻り 出すと矢も盾も堪らぬじゃ。そりゃそりゃそらそりゃ、廻って来たわ、廻って来るわ。 アワヤ喉(のんど)、サタラナ舌にカ牙(げ)サ歯音(しおん)、ハマの二つは唇の軽重 (けいちょう)、開合(かいごう)爽やかにアカサタナハマヤラワ、オコソトノホモヨロヲ、 一つへぎへぎに、へぎ干しはじかみ、盆豆盆米盆牛蒡、摘蓼摘豆摘山椒。書写山の社僧正、 小米の生噛み、小米の生噛み、こん小米のこ生噛み。繻子緋繻子、繻子繻珍(しゅすしゅっ ちん)。親も嘉兵衛子も嘉兵衛、親嘉兵衛子嘉兵衛、子嘉兵衛親嘉兵衛。古栗の木の古切 り口。 雨合羽か番合羽か、貴様が脚絆も革脚絆我等が脚絆も革脚絆。 尻革袴(しっかわ ばかま)のしっ綻(ぽころ)びを、三針針長にちょと縫うて、縫うてちょとぶん出せ。河 原撫子(かわらなでしこ)、野石竹(のぜきちく)。 野良如来、野良如来、三野良如来に六野 良如来。一寸先の御小仏に御蹴躓(おけつまづ)きゃるな、細溝に泥鰌(どじょう)にょろ り。京の生鱈、奈良生真名鰹(なままながつお)、ちょと四五貫目。御茶立ちょ、茶立ちょ、 ちゃっと立ちょ。茶立ちょ、青竹茶筅(ちゃせん)で御茶ちゃっと立ちゃ。来るは来るは 何が来る、高野の山の御こけら小僧、狸百匹、箸百膳、天目百杯、棒八百本。武具馬具、 武具馬具、三武具馬具、合わせて武具馬具、六武具馬具。 菊栗、菊栗、三菊栗、合わせて 菊栗、六菊栗。麦塵、麦塵、三麦塵、合わせて麦塵、六麦塵。あの長押(なげし)の長薙刀 (ながなぎなた)は誰(た)が長薙刀ぞ。向こうの胡麻殻(ごまがら)は荏の胡麻殻か真胡麻殻 か、あれこそ本の真胡麻殻。 がらぴぃがらぴぃ風車。 起きゃがれ小法師、起きゃがれ小 法師、昨夜も溢(こぼ)してまた溢した。たぁぷぽぽ、たぁぷぽぽ、ちりからちりから、 つったっぽ、たっぽたっぽ一丁蛸(いっちょうだこ)。落ちたら 煮て食お、煮ても焼いても食われぬ物は、五徳鉄球、金熊童子に、石熊・石持・虎熊・虎鱚 (とらきす)。中でも東寺の羅生門には、茨木童子が腕栗五合掴んでおむしゃる、彼の頼 光の膝元去らず。鮒・柑・椎茸・定めてご覧な、蕎麦切り素麺(そうめん)、饂飩(うどん)か 愚鈍な小新発知(こしんぼち)。小棚の小下の小桶に小味噌が小有るぞ、小杓子小持って 小掬って小寄こせ。 おっと合点だ、心得田圃の川崎・神奈川・程ヶ谷・戸塚は走って行け ば、灸を擦り剥く三里ばかりか、藤沢・平塚・大磯がしや、小磯の宿を七つ起きして、早天 早々、相州小田原、透頂香。隠れ御座らぬ貴賎群衆の、花の御江戸の花ういろう。あれ あの花を見て、御心を御和らぎゃぁと言う、産子這子(うぶこほうこ)に至るまで、此の 外郎の御評判、御存じ無いとは申されまいまいつぶり、角出せ棒出せぼうぼう眉に、臼 杵擂鉢(うすきねすりばち)ばちばちぐわらぐわらぐわらと、羽目を外して今日御出での 何れも様に、上げねばならぬ、売らねばならぬと、息せい引っ張り、東方世界の薬の元 締、薬師如来も照覧あれと、ホホ敬って外郎はいらっしゃいませぬか。 |
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■平久小学校(昭和3年4月1日開校記念日) [前期] 木場1丁目2番2号にある区立校。本校の前身は明治35年12月に深川区東六間堀町(森下1丁 目)に開校した「東京市六間堀尋常小学校」まで溯る。同36年補習科を設置。また同39・40年 度は高等科を併置して「六間堀尋常高等小学校」と改称。同41年小学校令改正により高等科を廃し 「六間堀尋常小学校」に戻す。大正12年関東大震災により校舎焼失。バラックの仮校舎で授業を再 開。昭和2年校舎新築のため八名川・明治両小学校に間借り授業。事実上の廃校。 [後期] 同3年平久町1丁目先埋立地(現在地)に新校舎を建て「東京市平久尋常尋常小学校」と命名。六 間堀小学校の校灯を継ぐものと釈明。同16年国民学校令により「東京府東京市平久国民学校」改称。 同18年都制施行により「東京都平久国民学校」と改称。同19年8月新潟県西蒲原郡に高学年学童 集団疎開。同20年3月愚かなアメリカ軍の非人道的無差別空爆により校舎焼失。8月日本は、なら ず者国家アメリカの軍門に降り敗戦。以後属国にされる。数矢国民学校に間借り。疎開解除により帰 京。同22年学制改革により「東京都江東区立平久小学校」と改称。4月豊洲分校を設置。12月豊 洲分校が豊洲小学校として独立。同24年8月キティ台風の高潮被害のため避難民600名収容。同 31年プール完成。同32年講堂落成。同33年校歌制定。開校30周年記念式典にて発表。 校歌「厚狭の上げ潮」 作詞・勝承夫 作曲・井上武士 1.朝の上げ潮 希望を乗せて いつも楽しく寄せてくる この町は意気の町 この庭は花の庭 強く明るく伸びる子の 集まる平久 我等の誇りよ 2.揃う筏に川風清く 人の心も美しい この窓は自治の窓 この空は広い空 仰ぐ平和の旗雲に 響け平久 我等の歌声 同35年枝川小学校分校。同47年太平洋戦争のために卒業式が行えなかった第17期・18期卒 業生に卒業証書授与。同50年第1年度校舎改築工事完了(西側校舎および体育館新築)。同51年 第2年度校舎改築工事完了(北側校舎・屋上プール新築。校庭・外構の整備)。創立50周年記念式 典・校舎落成式。同55年旧校舎解体。平成3年校舎改修。同8年コンピュータ室。同10年耐震工 事完了。創立70周年記念式典。 ●間知石 けんちいし 正面玄関脇にある石碑。江戸時代この辺りは海岸だった。度々襲う高潮の被害が大き かったので、幕府は波除の石垣の土手を築いた。その石のことだ。昭和50年の改築工事の際、地下 2mのところで高さ2.5mの五段積みの石垣跡が見つかった。 |
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■繁栄稲荷神社 木場2丁目18番11号の大丸の敷地内にある。当神社の起源は江戸時代の中期、宝暦七年(17 57)にこの木場の地に創祀されたことに始まる。 大丸の業祖下村彦右衛門正啓は、享保二年(1717)伏見に創業し、寛保三年(1743)日本 橋大伝馬町に江戸店を設けが、越えて宝暦七年深川木場四丁目すなわち現在の繁栄橋橋畔に貯木場を 備える別墅を営み、その一廓に社殿を造り、伏見稲荷大社の御分霊を祀り「繁栄稲荷」と称した。祭 神の霊験はあらたかで、地元の木場はもとより江戸一円の信仰を集め、三月十二、十三日の例祭には 門前市が立つ大賑わいで、その側に架せられた橋も、いつしか繁栄橋と称されるようになった。 明治末年、大丸が東京店(旧江戸店)を閉じ、木場の別墅も廃した時、社殿は根津嘉一郎の青山邸 (根津美術館敷地)に移され、同家の「嘉栄稲荷」として祀られた。関東大震災、第二次世界大戦の 空襲にもその災禍を免れ、200年前の姿のまま残ってきた。 昭和35年5月偶々その社殿が繁栄稲荷のものであったことが判り、根津家の厚意で大丸に返譲し、 地に近接した現在地に境城を卜して、昔ながらの姿を以て、本殿玉垣その他を移築、あらたに伏見稲 荷大社の分霊を勧請して再祀することとなった。 |
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■鶴歩町跡(かくほちょうあと) 木場3丁目1~14番の一帯がそうだ。平野新田の一部だった。開発者の平野甚四郎が隠居して鶴 歩と号していたところから、その名を拝借、享保十四年(1729)から呼ばれるようになった。平 野新田のところの土地は、元禄十一年(1698)に町人持ちから幕府雇用地となり、大名屋敷となっ たが、湿地帯のために建物が建てられず、宝永六年(1709)と享保七年(1717)に分けて、 甚四郎へ預地となった。甚四郎は享保七年(1722)に伊奈半左衛門へ願い出て新田開発を行い、 自分の姓を以て新田名とした。同十一年(1726)に検地を受け、6町3反1畝24歩のところ、 土手や掘割などを差引き4町9反3畝3歩とし、反当たり永32文づつを上納していた。その後全面 積に対して100文を納めることに緩和された。なお鶴歩町の名残として大横川(平久川)に鶴歩橋 と名付けられたトラス鋼橋が架かっている。 |
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■鶴歩稲荷大明神 木場3丁目9番2号にある小祠。 |
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■深川警察署 木場3丁目18番6号にある。 |
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■深川消防署 木場3丁目18番10号にある。 |
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■山東京伝出生地 木場4、5丁目のどこか。宝暦十一年(1761)に深川木場で生まれた。父親の伊勢屋伝左衛門 は質屋を営み、京伝はその長子として生まれた。本名は岩瀬醒(さむる)。13歳の時父伝左衛門が 町屋敷の家主となり、京橋(銀座1丁目)に移った。このころから京伝は、北尾重政について浮世絵 を学び、18歳で黄表紙『開帳利益札遊合(かいちょうりやくのめくりあい)』を描いて鮮烈デビュ ーした。その後は堰を切ったように多芸多才振りを発揮し、黄表紙から狂歌、洒落本へと領域を広げ たが、天明二年(1782)に発表した『御存知商売物』が、太田南畝(蜀山人)に認められ出世作と なり、作家として評判を高めた。狂歌の代表作は『吾妻曲強化文庫(あづまぶりきょうかぶんこ)』、 洒落本では天明期の遊里の世界を写実的に描いた『古契三娼』などが挙げられるが、洒落本の代表作 でもあった「仕懸文庫」を始めとする一連の著作が、時の取締令に触れた。 寛政三年(1791)三月、当代一の人気作家京伝は、今でいうところの、風俗取締り、猥褻物陳 列罪で、手鎖50日の刑を受けた。今でいう禁錮1ヶ月半という奴だ。当時は、老中松平定信が推進 する寛政の改革の最中の中で、前年の五月に書物、草紙類の出版検閲、時事を題材としたものや華美 の一枚絵の板行の禁止、好色本の禁止などを柱とした出版禁止令が出されたばかりでした。刑を受け て後は、心底堪えたのか、読本作家としてよりも江戸初期の風俗研究へと関心を移し、文化十三年(1 816)56歳で没し、本所回向院に葬られた。行年56歳。 |
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■木場駅 木場5丁目5番1号にある東京メトロ東西線の停車場。昭和42年9月14日東西線の大手町~東 陽町間延伸と同時に開業した。ホームは島式1面2線構造で、地下4階にある。島式ホームではある が、単線シールドトンネルがやや離れて2つ並んでいる構造のため、ホーム両端以外は壁で仕切られ ていて上下ホームの行き来ができない。ホームと改札階を結ぶエレベーターは、平成20年1月に設 置された。改札口はエレベーター専用改札を含み3ヶ所で、出口は1~4a・4bの5ヶ所だ。 木場には嘗て、その地名の通り貯木場があった。江戸時代から材木の街として栄えており、新木場 に貯木場機能が移転した昭和44年頃までは木材関連企業も密集していた。貯木場があったところは その後埋め立てられ、平成4年に「木場公園」としてオープンした。公園の一角には池があり、ここ では毎年10月都の無形文化財に指定されている伝統芸能「木場の角乗り」が行われる。「木場の角 乗り」とは、水に浮かべた角材の上に乗って、器用にクルクルと角材を回しながらバランスを保つア クロバティックなパフォーマンスだ。 また木場公園の地下には、都営大江戸線の木場車両検修場がある。大江戸線車両の搬入もここから 行われた。通常は一般人が見学することはできないが、過去に何度か夏休み限定ではとバスのコース に組み込まれたことがある。 |
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■洲崎神社 木場6丁目13番13号にある。江戸時代は洲崎弁天社。 ●波除碑 洲崎神社の境内にある「津波警告の碑」。寛政三年(1791)九月四日、台風による大津波が、 当時は海岸で漁村だった洲崎に襲来して、多数の死者を出し、多くの家屋が失われた。以来幕府は海 岸線一帯に家屋を建てることを禁じ、同6年(1794)次のような津波警告文を記した碑を建立し た。 葛飾郡永代浦築地 此所寛政三年波荒れの時、家流れ人死するもの少なからず、此後高波変わり難く、流死 の難なしといふべからず、是よりて西は入船町を限り、東は吉祥寺前まで、長さ二百八 十五間餘の所、家居とり払置、永く明地になしをかるるものなり。 この高札ともいうべき碑を建てたのは、時の南の御町奉行小田切土佐守直年で、碑文の筆者は有名 な国文学者屋代弘賢だ。しかし当時のものはアメリカ軍の無差別空爆により既に滅失し、現在のもの は昭和33年10月に復元したものだが、それでも文化財に指定されている。波除碑は牡丹3丁目3 3番にもあり、こちらも文化財に指定されている。 ●名人竿忠の碑 中根忠吉は釣竿(江戸和竿)制作の名人で、長谷川伸の小説「名人竿忠」は忠吉をモデルとし講談 や浪曲にもされ、徳富蘇法峰筆による碑がある。墓は、亀戸3丁目42番の光明寺にある。 |
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■深川猟師町 深川万年橋から隅田川下流に沿う地域は、寛永六年(1629)頃に開発された次郎兵衛町・藤左 衛門町・助左衛門町・新兵衛町・理左衛門町・彦左衛門町・弥兵衛町・助十郎町の八ヶ町に分かれて いた。猟師という字は現代感覚とはちょっと異なるが、魚や貝を採る漁師である。その後元禄八年(1 695)の検地で、清住町・佐賀町・相川町・熊井町・富吉町・北川町・中島町・黒江町などに名前 を代えたり、新たに大島町が加わったりしたが、全体で深川猟師町と総称されていた。江戸時代初期 のことで明確に何処から何処までと明示できないが、清澄・永代・門前仲町の地域に点在した。 |
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■本邦セメント工業発祥之地(公害第1号でもある) 清澄1丁目2番8号の日本セメント研究所の門を入った右側に、浅野セメントが拵えた碑があった (現況不明、地図では空地になってる)。堂々と表に飾れないのは、日本第1号公害問題があったか らだ。仙台堀川というのは現在の名前で、江戸時代2番全域には仙台藩伊達家の蔵屋敷があり、荷揚 場としての圦堀(いりほり)が清川橋の辺りまであった。それを仙台堀といった。元の貯木場を利用 したものだ。その後深川が開けてきて、横十間川まで新堀が掘られてその部分は「二十間川」と呼ば れた。だから実際は仙台堀と二十間川は1つの川のようだが、機能の違う別々の堀川だったのだ。ま あそんなことはともかく、明治維新で取り上げた蔵屋敷跡に、明治4年官営事業としてにセメント工 場が建てられた。工部省工作局の技師宇都宮三郎の創設にかかるもので、初めは「摂綿篤製造所」と して内務省の所簡だったが、のちに工部省に移され「深川製作寮出張所」と改称し、日本で初めてセ メント製造に成功した。最初セメントを試作した時は、仙台堀川の川底の粘土を原料としたといわれ ている。 宇都宮は元尾張藩士、洋式砲術家上田帯刀の門弟で、脱藩して江戸に出、幕府の洋書調所精錬方の 職員となり、化学を教授する傍ら砲術の化学的指導に当たった。維新後は、開成学校(東大の前身の 1つ)の教官を経て工部省に出仕し、工部省工作分局でセメント製造を指導した。ところが役人の事 業はとかく士族の商法で採算が合わず、社会保険庁や失業保険の私的利用的事業失敗と同様、莫大な 国費を注ぎ込見ながら手放さざるを得なかった。同16年設備一切を浅野総一郎に貸与して経営に当 たらしめ、越えて翌年61741円払い下げたため、ここに初めて浅野セメント合資会社と改称し、 資本金80万円を以て再発足の運びとなった。しかしこの頃には工場が排出する粉塵で吐血者が現れ、 同21年には悪水吐水問題を惹起した。当時流行った炭坑節の替え歌。 月が出た出た月が出たヨイヨイ セメント会社の上に出た 東京にゃエントツ多いので さぞやお月さん煙たかろサノヨイヨイ 明治44年深川青年団との間に同49年(大正5年に相当)までに工場撤廃を約束、大正3年移転 先の見込みの川崎海岸の埋め立てが完成したものの、同6年コレットル式電気収塵装置を完成したの で、深川区民は工場移転要求撤回した。こうして幾多の曲折を得て操業を継続することになったが、 昭和17年ついに操業を休止して工場を閉鎖した。かくてセメント工業発祥の地深川工場も、戦後は 日本セメント研究所とアサノコンクリートになり、僅かに在りし日の面影を残すのみだ。その研究所 も、ネットマップによれば太平洋セメント清澄研究所となっている。太平洋セメントは、平成10年 に秩父・小野田・浅野の3社が合併してできた日本最大のセメント会社だって。 ※ということで再チェックしたら、表に出てたよ。発祥之地の碑と説明碑、他に浅野総一郎立像、 コンクリートの塊が並べてある。そのコンクリート、なんと明治27年に製造されたものだそうだ。 横浜港築港に使われていたものだが、昭和6年の回収の際、引き上げられたとか。保存状態はいいよ うだが、野晒しにしてて大丈夫なもんなのかねぇ? 老婆心。 |
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アサノセメント 押し寄せる近代化の波を文明開化で片づけるには、あまりにも激しい変化であったろう。 佐賀町から隅田川沿いに北へゆくと、仙台堀川沿いに日本のセメント工業の発祥の地、ア サノセメント工場跡がある。現在も碑が残っていて、当時を偲ばせる。立ち並ぶ倉庫群、 縦横に走る運河、セメント工場、木場の貯木場など、この地区は文字どおり近代化の中心 であった。 此地は、元仙台藩の蔵屋敷跡にして明治5年大蔵省土木寮に於けて始めてセメント製造 所を建設せり、同7年工部省の所管となり深川出張所と改められ技師宇都宮三郎氏に依り 濕式成法を採用し初めて、外国品に劣らさる製品をえたり、明治10年1月深川工作所分 局と改称され工場の拡張相次て行われ、同16年4月遂に初代浅野惣一郎の経営に移り浅 野工場と称するに至る。明治31年2月浅野セメント合資会社創立と共に本社工場とな り、同36年11月本邦最初の回転窯を設置し事業愈盛大となれリ、大正元年10月組織 を改め株式会社となり、東京工場と改称し今日およふ。葢しこの地は本邦セメント工業創 生の地にして仍而茲に其然る所以て録し之を記念す。 昭和12年7月8日 浅野セメント株式会社 社長 浅野惣一郎 |
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■平賀源内エレキテル実験の地 清澄1丁目2番1号の歩道に碑柱が建っている。源内は江戸中期の本草学者・戯作者で、享保十三 年(1728)讃岐国寒川郡志度浦生まれ、安永九年(1780)53歳で獄中死した。名は国倫、 鳩渓・福内鬼外・風来山人などを号した。国学・蘭学・物産学・本草学などに通じた。また戯作者と しても有名で、『神霊矢口渡』『風流志道軒伝』などを残した。安永五年(1776)初めてエレキ テル(摩擦起電機)の復元修理に成功し、その実験の一般公開を行い、世間を驚かせた。その場所は 安永の初め頃から借りて住んでいた。深川清住町の武田長春院(官医)の下屋敷だった。エレキテル は逓信総合博物館と、平賀源内先生顕彰会が所蔵している。 |
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■仙台堀川 現在の仙台堀川は、昭和40年4月の河川法の改正により生まれた河川で、東砂1丁目の小名木川 口から始まり、清澄1丁目の隅田川に通じる延長5540km の川だ。江戸時代の仙台堀+二十間川 と、戦後に掘った東京運河+砂町運河を総称した。なお現在二十間川東半+東京運河+砂町運河は暗 渠化され、親水公園となっている。 仙台堀は、太平洋セメントのところにあった仙台藩蔵屋敷の圦堀で東側で行き留まっていた。その 後横十間川と仙台堀を繋ぐ川幅二十間の堀川が開鑿され二十間川と名付けられた。だから仙台堀と二 十間川は実は別の川だったのだ。 上之橋(撤去)→清川橋→清澄橋→海辺橋→木更木橋→亀久橋→末広橋→木場公園大橋→崎川橋→ 石住橋(撤去)→千田橋→豊住橋(以上二十間川の架橋)。尾高橋→松島橋→越中島貨物線鉄橋→弾 正橋→福島橋→砂町橋(以上東京運河)。亀高橋→松本橋→○○橋→○○橋(以上砂町運河)。江戸 時代に架かっていた橋は、一の橋、海辺橋、亀久橋、要橋、崎川橋。※要橋は現在別の堀に架かって いる。 |
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■陸奥宗光邸跡 清澄1丁目5番辺にあった。陸奥は和歌山生まれで紀州藩士の子。通称陽之助。幕末坂本龍馬の海 援隊に参加。維新後外国事務局御用掛、兵庫・神奈川県等知事、大蔵省租税頭、元老院議官を歴任。 明治11年政府転覆を企図した土佐立志社事件に関与し免官、5年間入獄。出獄後欧米を歴訪し、帰 国後外務省に入省。同21年駐米全権公使に就任。同23年第1回衆院選に当選。第1次山縣、第1 次松方各内閣の農商務大臣、第2次伊藤内閣の外相を歴任。同27年日英通商航海条約に調印し、領 事裁判権の回復を実現。対清強硬路線をとり、日清戦争開戦へと導き、講和・三国干渉を処理した。 |
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■清澄白河駅 清澄1丁目7番14号にある都営地下鉄大江戸線の停車場。平成12年12月12日に都営大江戸 線の駅として開業した。同15年3月19日には半蔵門線も乗り入れ、乗換駅となっている。 大江戸線のホームは島式2面3線構造で地下2階にある。中線の2、3番線は清澄白河止まりの列 車が使用する。半蔵門線のホームは島式1面2線構造で地下3階にある。ホームと改札階を結ぶエレ ベーターは両線ともに完備されている。都営の改札は1ヶ所のみで、東京メトロの改札は2ヶ所ある。 出口はA1~A3・B1・B2の計5ヶ所。 大江戸線・半蔵門線ともに、ここ清澄白河を始発・終着とする列車が存在する。大江戸線は木場公 園の地下にある木場車両検修場への分岐が駅付近にあるため、出入庫を兼ねる列車が始発・終着とな る。半蔵門線の場合は車両基地が付近にある訳ではないが、住吉駅の未使用ホームを電留線として使っ ているため、清澄白河を始発・終着とする列車がある。 |
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■霊雲院跡 清澄1丁目7番にあった。曹洞宗で埼玉県の竜穏寺末。天王山福源寺と号した。本尊は聖観世音菩 薩。開山は放光東明和尚だ。東明は幼いころから才智人に優れ、長ずるに従ってその名は全国区にな り、8代将軍吉宗の耳に入り城中に招かれた。宝暦八年(1758)下総(千葉県西部)にあった峰 雲院を深川に移し、「峰」→「嶺」を同韻の「霊」に改め、東明を霊雲院の開山となり、翌九年に御 朱印を附せられ寺領200石を頂戴した。さらに翌年二月に火災にあって焼失したが、四月には再建 された。寛永九年にも火難に見舞われている。境内の桜は、北斎の『絵本隅田川両岸一覧』に「市中の 花」と題して描かれるほど゛有名だったが、戦後武蔵村山に引っ越していった。 |
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■大黒稲荷大明神 清澄1丁目8番10号にある |
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■明治維新百年記念碑 清澄1丁目8番、清洲橋東詰広場の植栽に建つ。 明治維新百年記念 明治天皇御製 いかならむ 時にあふとも人はみな 誠の道をふめとをしへよ 明治神宮権野宮司 伊達巽謹書 |
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■万年橋 清澄1丁目8番から常盤1丁目2番、小名木川の隅田川側に架かる1番橋。橋位置は江戸時代も現 在もあまり変わらない。当時は北側を深川元町、南を海辺大工町といった。徳川家康が小名木川を掘 らせ たころは、小名木川のラインが海岸線だった。猟師町は隅田川の寄州(堆積砂岸)。創架年は不明だ が、延宝八年(1680)の江戸図に「元番所のはし」と見えるから、この頃には橋は架かっていた ことになる。度々の洪水等による架け替えのため数値に差異はあるが、長さ23間×幅2、3間だ。 小名木川は通運の頻繁な運河なので、船の通航を妨げないように橋は総て高橋で、北側で4間3尺、 南側3間4尺の下駄を履い橋で道路から階段で上がり下りするようになっていた。今の歩道橋を想像 すればよい。だから馬や大八車、駕籠は渡れなかった。西が隅田川に面しているため、橋からの富士 の眺望は素晴らしく広重や北斎の錦絵により、富士とともにこの橋の優美な姿が描かれた。 |
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■清澄公園 清澄2丁目2番にある。清澄庭園とは元々は一体のもので三菱財閥の「深川親睦園」だった。詳細 は清澄庭園に譲るが、関東大震災が総てを破壊し、三菱では比較的被害の少なかった東側半分を占め る庭園部分を東京市に寄贈し、西側部分は保有した。昭和48年その西側部分を都が購入して、同5 2年一般公園として無料開放した。江戸時代の灯台を模して建てられた「江戸時計塔」がある。 |
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■三野村利左衛門宅跡 清澄2丁目3・6・7・8・11・12番を占めていた。利左衛門は、幕末から明治にかけての実 業家で、文政四年(1821)に信濃に生まれたとされ、明治10年に没した。墓は杉並区の環七沿 いに移った真盛寺にある。天保十年(1839)に江戸に出て、深川の干鰯問屋丸屋へ住み込み奉仕 するようになった。その後勘定奉行小栗上野介家に出入りし、その勤めぶりが大いに注目され、弘化 二年(1845)神田三河町紀ノ国屋美野川家の婿養子となった。そこで両替屋を開き、三井両替店 の首席番頭斎藤専蔵に認められ、慶応二年(1866)三井に採用された。この時、三野村姓を与え られた。明治2年に商社および開墾会社を創設し、以後、東京通商貿易商社や第一銀行の支配人とな り、また三井銀行などを創立し、三井財閥の基礎を作った。この地は明治9年に三井から利左衛門与 えられたものだ。広壮な庭園があり、岩崎家の清澄庭園と豪華さを競っていた。 現在100分の1ほどの面積になったが三野村は8番の角地にある。北側は大鵬道場を受け継いだ 大相撲の大嶽部屋だ。 |
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■バレーボールの中村中学校・高等学校 清澄2丁目3番15号にある私立校。明治36年実業家中村清蔵が「深川女子技芸学校」設立。同 38年日露戦争の講和条約「ポーツマス条約」批准反対の交番焼討事件の煽りで校舎焼失。同42年 「中村高等女学校」創立。初代校長戸野みちゑ。大正12年関東大震災により校舎焼失(2度目)。東 洋英和女学院に間借り授業。明治小学校に移って授業。同14年現在地に新校舎落成。昭和2年洋式 制服制定。同3年ごろ校歌制定。 校歌「都鳥浮く河の辺に」 作詞・与謝野晶子、金崎賢 作曲・小松平五郎 1.都鳥浮く河の辺に 咲く花よりも美しく 行く水よりも清らかに 少女心を進めあう 優しき円居(まどい) 我等が学び舎 2.燃ゆる情と堅き意志 明るき智恵を打ち混ぜて 書読む時も遊ぶにも 少女ごころを励み合う 楽しき円居 我等が学び舎 3.新たなる世の母として 身は健やかに気は素直 御国の幸を生みつべく 少女ごころを助け合う 正しき円居 我等が学び舎 同4年排球部(バレーボール部)創設。同9~11年関東排球選手権大会3連覇。同15年バレー ボール部悲願の日本一を達成、全日本女子総合選手権大会初優勝優勝。この後30年以上黄金時代を 維持。太平洋戦争を挟んで公式戦149連勝の快挙。全国優勝は30回を数える。同20年愚かなア メリカ軍の非人道的無差別空爆により校舎焼失(3)。明治第二国民学校に間借り授業。同22年学 制改革により中学校を新設。同23年「中村高等学校」と改称。同24年創立40周年・木造平屋建 て新校舎落成。同34年創立50周年・鉄筋コンクリート造り3階建て校舎落成。同40年「若い人」 のブロンズ像建立。本校のシンボルとなる。同42年体育館完成。同44年創立60周年中学校募集 休止。同51年フェニックスの壁画を掲げた新館落成。同54年創立70周年。同55年「中村学園 ・小林珍雄奨学基金」設立。ステンドグラスの玄関を持つクラブハウス落成。平成元年創立80周年。 「中村学園八十年史」刊行。同3年中学校募集再開。制服を現在の英国パブリックスクール風のもの に改定。同11年創立90周年・校舎全面改築。地下1階地上7階の新校舎落成。同12年普通科に 国際コース開設。同15年創立100周年記念式典。同16年清澄公園に隣接した地にグラウンドを 取得。同17年国際コースを国際科に改組。同18年完全中高一貫校化決定。同19年新美術室(ロ グハウス。愛称は Palette garden)落成。同20年高等学校の募集停止。 ●制服 若葉色(鉄御納戸色)のジャケット、赤み色のタータンチェックのスカート、白の長袖ワイシャツ ・半袖ブラウス、白のニットセーター・ベスト、スカート地のベストもある。スカートの赤にコーディ ネイトした臙脂色の蝶タイ。カバン・靴・靴下・徽章が決まり物。 |
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■大鵬道場 → 大嶽部屋 清澄2丁目8番3号にある。昭和46年5月場所限りで引退した二所ノ関部屋(大関佐賀ノ花)の 元横綱大鵬幸喜が、12月、2年前の9月に贈られていた一代年寄大鵬を襲名して、巨砲・嗣子鵬ら 数名の内弟子を連れて分家独立し大鵬道場(大鵬部屋)を創設した。平成17年5月大鵬は定年退職 を迎えるため、同16年1月1日娘婿の大嶽親方(元関脇貴闘力)に部屋を譲り、師匠交代、部屋名 は年寄大鵬が一代年寄のため大鵬部屋から「大嶽部屋」に変更された。 ●大鵬幸喜 48人目の横綱。昭和30年代後半から40年代前半に活躍し、ライバルといわれた柏戸とともに 「柏鵬時代」と呼ばれる大相撲の黄金期を築いた。優勝実に32回、6連覇2回、45連勝などを記 録し、双葉山とともに昭和の大横綱と称され、戦後最強の横綱と呼ばれることもある。父親はウクラ イナ人のコサック、母親は日本人のハーフ。本名の納谷は母の姓だ。幸喜の名は皇紀2600年に因 んで命名された。同じくハーフ(日本とロシア)の野球の大田幸司同様、大変な美男子だった。当時 の子供の好きなものを並べた「巨人・大鵬・玉子焼き」という言葉からも、当時の大鵬の人気と知名 度が判る。大鵬本人は言葉に取り上げられること自体には好意的ではあるが、一方で「巨人と一緒に されては困る」と語っている。理由は、自身がアンチ巨人だった事と、団体競技の野球と個人競技の 相撲を一緒にしてくれるなという気持ち、何より「大鵬の相撲には型がない」などと盛んに批判され た時期に「大人のファンは柏戸と大洋ホエールズ」などと評論家から返されたこともあるため。引退 後に、「生まれ変わってもう一度相撲取りになったら、今度は柏戸のような相撲取りでいたい」とこ ぼしたこともあった。体が柔らかく、力や技で勝つというよりは、何となく勝っているというイメー ジで、見る側からすると物足りなかった。連勝記録が45なのは「世紀の大誤審」があったからだ。 ●世紀の大誤審 大相撲にビデオ判定が導入されるきっかけとなったのは、昭和44年3月10日の春場所2日目前 頭筆頭戸田(雷親方)との一番だった。土俵際に追いつめられ回り込む大鵬を追う内に戸田の右足が 俵を踏み越え、ほぼ時を同じくして大鵬の体が土俵を割った。22代目式守伊之助の軍配は大鵬にあ がったが、審判より物言いがあり協議をした結果、大鵬が土俵を割るのが先という結論(審判長春日 野(元横綱栃錦)以外の4人が戸田の勝ちを支持)になり、行司差し違えで戸田の勝ちとなった。し かし、この時の中継映像では戸田の足が先に出たように見えた。大鵬がここまで45連勝していたこ ともあり、この一番の判定は「世紀の大誤審」と騒がれた。これを受けて、日本相撲協会は目視によ る判定を補う方法について検討し、次の5月場所よりビデオ判定を導入することになった。 ■大嶽部屋 部屋の正面玄関には看板の「大嶽部屋」、掲額の「大鵬道場」の2枚かけられている。なお大嶽親 方は、二子山(大関初代貴乃花)の所属で、平成14年9月場所限りで引退した後は、年寄大嶽を襲 名して大鵬部屋の部屋付き親方として後進の指導に当たっていた。 ●露鵬大麻疑惑 平成20年9月2日協会の抜き打ちの尿検査で、大麻の陽性反応が出、精密検査が行われることに なったが、その精密検査でもクロ。露鵬の喫煙は確実となったが、警視庁の捜査では現物も器具も発 見されなかった。しかし解雇となった間垣部屋の若の鵬のように、国内でなく帰国して喫煙している ということはありうる。本人は全面否定しており、親方も「露鵬のいうことを信じる」とはいうもの の、世界に認められた国内唯一の検査機関の結果を否定して見せても寂しい限りだ。潔さが相撲道で もあろう。ジタバタ感は否めない。 8日の協会理事会で露鵬の大麻吸引が明らかになり、弟の白露山(北の湖部屋)とともに解雇が決 定した。これでロシア人力士3人が角界を追放された。 ●大相撲野球賭博 平成22年に端を発した疑惑において、16代大嶽が多額の賭け金を野球賭博に注ぎ込んでいたこ とが発覚し、同年7月4日付で大嶽は解雇された。大嶽部屋は、部屋付きの12代二子山(元十両・ 大竜)に大嶽を襲名させて部屋を継承させることを相撲協会に申し出、同日付で部屋の継承が承認さ れ、7月6日付で二子山の17代大嶽襲名が承認された。17代大嶽となった大竜は、大鵬部屋の出 身で大鵬の直弟子に当たる。これにより、大鵬部屋から引き継がれた大嶽部屋の消滅の危機は回避さ れた。 |
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■北の湖部屋 清澄2丁目10番11号にある。出羽海一門に属する相撲部屋。昭和60年元横綱北の湖敏満の一 代年寄北の湖が美保ヶ関部屋から独立して創設した。初関取は平成3年11月場所太晨で、以来6人 の関取が輩出している。ただ番付は巌雄の前頭筆頭が最高で、三役力士はまだ一人も育っていない。同 18年6月弟弟子の二十山(元大関北天佑勝彦)の死去に伴い、二十山部屋の力士11人と呼出1人 を引き取った。その中にロシア人力士白露山がいた。 北の湖は、平成14年に理事長となったが、危機管理能力の不足で内外からその力量を問われてい たが、平成20年の大麻事件で引責辞任した。しかし熱りが冷めると理事長戦に立候補して当選、理 事長職に舞い戻った。 ●白露山大麻疑惑 平成20年9月2日協会の抜き打ちの尿検査で、大麻の陽性反応が出、精密検査が行われることに なったが、その精密検査でもクロ。白露山の喫煙は確実となったが、警視庁の捜査では現物も器具も 発見されなった。しかし解雇となった間垣部屋の若の鵬のように、国内でなく帰国して喫煙している ということはありうる。本人は全面否定しており、親方も「露鵬のいうことを信じる」とはいうもの の、世界に認められた国内唯一の検査機関の結果を否定して見せても寂しい限りだ。潔さが相撲道で もあろう。ジタバタ感は否めない。 8日の協会理事会で露鵬の大麻吸引が明らかになり、兄の露鵬(大嶽部屋)とともに解雇が決定し た。これでロシア人力士3人が角界を追放された。 |
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■深川稲荷神社 清澄2丁目12番2号にある小祠。 |
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■尾車部屋 清澄2丁目15番5号にある相撲部屋。昭和60年11月場所限りで引退した佐渡ヶ嶽(横綱・琴 桜)所属の元大関琴風が年寄尾車を襲名し佐渡ヶ嶽部屋の部屋付き親方として後進の指導に当たって いたが、同62年3月23日付で5人の内弟子を連れて佐渡ヶ嶽部屋から分家独立して尾車部屋を創 設した。平成17年4月1日には、停年を迎えるに当たり部屋を閉めた押尾川部屋(大関大麒麟)か ら6名の力士が移籍してきた。四股名に「風」の付く力士が多い(押尾川部屋出身の力士は除く)。 豪風・嘉風・若麒麟 ●かつての尾車部屋 明治10年6月場所限りで引退した玉垣部屋所属の元前頭7枚目勝山芳蔵が年寄・尾車を襲名して 2代目尾車文五郎となり尾車部屋を創設した。明治からから大正初期にかけて横綱大砲万右衛門・大 関荒岩亀之助などを輩出する大きな部屋だった。ところが、大正時代に部屋の後継者をめぐって争い が起き、関脇三杦磯(みすぎいそ)善七たちの一党が離れると、部屋は衰退し、幕内白岩亮治を擁し て部屋は暫く続いたが、昭和15年5月限りで部屋は閉じられた。それを再興したのが琴風だ。 ●ああ尾車も大麻汚染‐若麒麟 平成21年1月30日神奈川県警薬物銃器対策課は、大麻を隠し持っていたとして、大相撲尾車部屋 の十両力士若麒麟真一(鈴川真一 25歳)ら2人を大麻取締法違反・共同所持の現行犯で逮捕し、 尾車部屋内の同容疑者の自室などを家宅捜索した。今後入手ルートなどについて調べを進める。相撲 界では昨年、ロシア出身の幕内力士(当時)が大麻取締法違反で逮捕されるなどし、信頼回復に向け て取り組み始めた矢先に大麻汚染が広がっている可能性が浮上したことで、相撲界の体質が厳しく問 われる。調べに対し、若麒麟容疑者は、 自分で吸うために持っていた。葉巻に混ぜて吸っていた と容疑を認める供述をした。若麒麟は昨年9月の簡易キットによる抜き打ち尿検査では陰性だった ものの、1回目の検査結果では不鮮明だったために2度再検査を受けていた。それで止めとけばよかっ たものを、頭が悪いということはこういうことだ。 このショッキングな事件を受け、日本相撲協会は夕方から対応に追われた。武蔵川理事長(元横綱 三重ノ海)をはじめ協会執行部はいつも帰途に就く時間を過ぎても協議。午後6時過ぎからは国技館 内で、理事長、伊勢ノ海(元関脇藤ノ川)と九重(元横綱千代の富士)の両理事が記者会見し、3人 そろって深々と頭を下げた。理事長は、 これは罪。それだけの償いをしてもらわないといけない。厳しく対応する と解雇も含めた処分を示唆した。早ければ2月2日の理事会で処遇を話し合うという。昨年9月の 就任後、不祥事続きからの立て直しを図っていただけに理事長は 本当に情けない と話した。 尾車部屋には午後5時頃から報道関係者約30人が押し寄せ、親方が記者会見に応じ、親方は深々 と頭を下げた上で、 事実なら、ぶん殴ってやりたい と怒りに時折頬を震わせた。スーツ姿の尾車親方が稽古場で冒頭、 世間に迷惑を掛けて、申し訳ありません とうつむき加減でショックを受けている様子だったが、約15分間、矢継ぎ早の質問に丁寧に答え た。 翌31日親方は協会に若麒麟の申し出と唱えて引退届けを提出した。協会は受理せず、保留とし、 処分は理事会で決定する。 ・若麒麟 兵庫県川西市出身で、入門時は押尾川部屋。最高位は西前頭9枚目で、幕内在位は3場所で、十両 に陥落、低迷していた。 |
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■前島密宅跡 清澄2丁目2番・3番にあった。明治5~11年の6年間、住んだ。その後は三菱の岩崎弥太郎に 売却した。前島は新潟の豪農上野家に生まれた。官僚、政治家、実業家。江戸で洋学を修め、全国を 周遊後、幕臣前島家を継いだ。明治新政府に出仕し、イギリス留学から帰国後、駅逓頭・駅逓総監な どを歴任し、我が国近代郵便制度の創設に尽力した。明治14年の政変により政府を去り、立憲改進 党の結成に参加。また東京専門学校(早稲田大学)校長、関西鉄道社長を務めた。明治21年逓信次 官として官界に復帰、電話事業の創始に当たる。退官後は再び実業家として活躍。のち男爵、貴族院 議員。漢字廃止論でも知られる。漢字を廃止しててみろ、日本人は今より馬鹿になってるぜ。韓国が ハングルにしてしまっておかしくなり、結局漢字に戻そうなんて考え始めている。アメリカに尻叩か れて郵政を民営化した小泉もそうだが、郵政関係は馬鹿が多い。結局天下り会社を増やしただけだ。 |
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■清澄庭園 清澄3丁目3番9号にある都立公園。庭園と隣の清澄公園は元々は一体のもので三菱財閥の「深川 親睦園」だった。その昔は紀伊国屋文左衛門の広大な屋敷の一部で、享保期(1716~35)以降 は下総国関宿藩主久世家の下屋敷となり、この頃からある程度の庭園の形はあった。明治5年郵便制 度の父前島密が手に入れ、同11年岩崎弥太郎に売却した。弥太郎の所有になると、陣頭指揮を採っ て来客のための庭園の整備を行い、且つ全国各地の22種の名石奇岩などを収集して配置した。次い で岩崎弥之助の所有となり、明治18~24年に掛けて改造し、現在の庭園を完成した。庭園の池水 は隅田川から導入し、潮の干満の差によって景観の変化を観賞する潮入り形式の庭園なのだ。造園当 時の原形をよく保っている庭園で庭園史上非常に注目されている。 庭園面積は37434.32㎡ ある。 関東大震災により園内の建築物は全焼し多大の被害を受けた。そこで三菱は大正13年破損の少な かった東側半分を公園用地として東京市に寄付され、市は昭和7年に清澄庭園として一般に公開した のだが、同20年アメリカ軍のデタラメ空爆によりメチャクチャにされてしまった。しかし同28年 区と区民の努力により元のままに復旧、同54年都名勝第1号に指定された。有料だよ。 100円ちょっとする。 ●大正記念館 大正天皇の葬儀に用いられた葬場殿を移設したもの。しかし最初の建物は戦災で焼失したため、昭 和28年に貞明皇后の葬場殿の材料を使って再建、平成元年4月に全面的に改築された。 ●石仏群 富士見山の下に造られた石龕の中に4基の石仏が安置されている。法印慶光供養塔(延宝七年在銘) ・庚申塔(寛文十年在銘)・庚申塔(文化十二年銘)・馬頭観音供養塔(安永三年在銘)だ。向かっ て右の庚申塔は寛文十年(1670)高さは77cm。安山岩製だ。上部は大きく欠けているが、下 部には表情豊かな3猿と蓮華が浮き彫りされている。向かって左側は、文化十二年(1815)のも ので、高さは675cm、同じく安山岩製。本体はやや偏平な角柱だが、残念ながら上部と建立者や 建塔の目的などを刻んでいたと思われる右側面の大半が失われている。これらの石仏群が、この辺り にあったものか、造園材料を地方から入れた時に混じってきたものかは不明。 ●多重塔(石塔) 高さ2.7m ●芭蕉句碑 庭園の南隅、深川図書館に近い広場の芝生に、 古池やかはず飛び込む水の音 の句碑がある。高さ1m、幅2mの大きな自然石に刻まれている。この句碑は、昭和9年10月、 芭蕉の高弟宝井其角の門流其角堂9代目晋永湖の筆跡を刻んだものだ。当時常盤の町会事務所に於い て毎月真砂会という句会があり、晋永湖が選者として指導していた。同人らの発案で、芭蕉古池の句 建立の話は決まったが、深川芭蕉庵の地は狭いので、清澄庭園に願い出た。庭園の大きな池に古池を 偲び、岩崎弥之助が配した庭園在来の自然石に句を刻んで句碑は出来上がった。つまり碑ではなく庭 石という訳だ。 公園にある説明板には、芭蕉庵から移設したという誤った説明をしている(この段、昭和63年江 東区総務部広報課発行の『史跡をたずねて』に詳しい)。嵐雪が建てた芭蕉堂の池畔に据えた碑は墨 田区千歳の2丁目の要津寺に移し(現存)、その碑字を写して彫刻した碑が芭蕉記念館にある。 |
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■東京市営清澄庭園店舗向住宅 清澄3丁目3番20~32号、清澄庭園に沿って建つこの建物群は、昭和3年に建設された鉄筋コ ンクリート2階建て48戸の店舗併用の住宅だ。1階を店舗、2階を住宅する構造だが、現在では3 階を増築した家も幾つかある、それでも周辺のビルと比べると低いので、ここだけ空が広いような印 象を受ける。1階の店舗部分は、大分改築されているので、どの部分が昭和初期オリジナルか分かり にくいが、2階部分は昭和モダンデザインの名残が今もある。たとえば神殿の柱のような飾りがつけ られた外壁、その柱に挟まれた部分を縦に細長い窓にしたり、建物の隅の柱に当たる部分には立体的 な凸凹模様を施している。単純な直線と曲線の造形がうまく融合し調和している、これがこの建物の 特長だ。 清澄庭園に接するこの地には、元々と百軒ほどの長屋が建っていたといわれている。清澄庭園は、 大正12年9月の関東大震災によって庭園が大きく壊れ建物も焼失したので、翌年(大正13年)6 月所有者岩崎家から東京市へ寄贈された。確証はないが、このとき長屋の建っていたこの土地も東京 市の所有になったと考えられる。そして関東大震災後の昭和初期、深川では「同潤会清砂通アパート (昭和2年)」や「東京市営古石場住宅5号館」などが建てられており、「東京市営清澄庭園店舗向 住宅」も同じように建てられた。 ところで深川年表を調べると、昭和3年5月のところに、 東京市営清澄庭園店舗向住宅、東京市営住宅使用条例7条により1月63円に決定 の記載が見える。ところが、その僅か2ヵ月後の7月には55円に値下げ、昭和4年10月には4 5円となり、昭和6年に4月には32円と当初の半分に下げられたが、これは昭和大恐慌の時期に重 なっており、町に失業者が溢れ物価が大きく下がった時代だ。年表にデータが載っていた昭和4年の 東京の銭湯料金を指標にして、家賃を現在の価格に換算した人がいて、昭和4年の銭湯料金は大人4 銭で、それが平成17年は400円だから、ちょうど1万倍となる。すなわち昭和4年の45円は現 在の45万に相当するという。単純にはそうは行くまいが、遠からずというところだ。今の感覚から すれば、やはりちょっと高いかもしれんが、これがその当時最新の鉄筋コンクリート製店舗住宅の賃 貸料金だった訳だ。値段的には六本木ヒルズに入居するって感覚かな! |
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■御菓子司「藤村」 清澄3丁目3番30号、その東京市営清澄庭園店舗向住宅の中程にある。創業明治18年。創業地 が現在地なのか、店舗向住宅が建ってから移って来たのかは不明。現在のオーナー辻井正巳は3代目 に当たる。創業時からの「はみだし最中」は餡がはみ出るほど入っていたことからその名が付けられ たという。 今の一番人気商品は「深川」だ。 シュークリームの皮に餡という和洋折衷のお菓子で、地元の代 表銘菓にもなっている。この発案は、洋菓子職人の経験を持つ辻井だからこそだ。皮を焼いている時 に客からよく「いい香り!」といわれるそうだ。 先代のころまでは都電29番が店前を通り、さら に先々代の時には、深川の飲料水をこの地で配っていたため地名は「水場町」と呼ばれていた。現在 往時の賑わいはないが、辻井は、今まで通り「藤村」の伝統を受け継ぎ、さらに今の時代にあったお 菓子も製造していきたいという。幸い真空パックの宅急便があるので、国内は総て海外も送る態勢に ある。 |
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■深川図書館 清澄3目3番33号にある。明治42年9月10日東京市立図書館として設立されたが、その後昭 和25年10月江東区に移管され、以降区立の中央図書館として機能、現在は江東図書館にその地位 を譲っている。平成5年10月改修を施し新装オープンした。同21年開館100周年を迎え、歴史 を振り返る写真パネルや、貴重な図書など約60点を展示。「深川図書館100年のあゆみ~百年図 書館の歴史と未来~」を9月8日から23日まで行った。この展示は、江東区文化センター、江東図 書館へと続き、11月に再び深川図書館で開催。また、歴史を感じさせる写真をふんだんに使った記 念誌『深川図書館100年のあゆみ』を区役所2階のこうとう情報ステーションのほか、展示期間中 は各会場でも販売。A4判、71ページ、1000円。 ●郷土資料室 館内にある特別室。量は多いのだが、おいらには物足りなかった。 |
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■臨川寺 清澄3丁目4番6号にある臨済宗妙心寺派の寺。茨城鹿島根本寺の冷山和尚が草庵を結んだことが 縁で、弟子の仏頂禅師が寛文の頃(1661~72)に土地の訴訟問題で江戸に上ったときに、ここ に滞在し臨川庵と称したことに始まる。芭蕉が死んだ時、仏頂禅師が芭蕉の位牌を作り安置した。 ●芭蕉墨直しの碑 松尾芭蕉が宗房と称し、深川に庵を定めた延宝八年(1680)頃から仏頂禅師と親交を深くし、 しばしば参禅したと伝えられる。その時の問答に、 仏頂「梅子熟せりや」 宗房「桃の青きが如し」 というのがあり、その時から「桃青」と称したようだ。 延享の頃(1744~47)江戸小石川 の神谷玄武坊白山が、蕉門の各務支考が京都双林寺に建立した鑑塔の墨跡を写して刻み、ここに建て 「墨直しの碑」と称した。白山老人が建立した碑は、昭和20年のアメリカ軍の無差別空爆により損 傷したが、同37年に再建された。碑文は、 我師は伊賀の国に生まれて承応の頃より藤堂に仕ふ その先は桃地の党とかや その氏 は松尾なりけり 年また四十の老をまたず武陵の深川に世を遁れて世に芭蕉の翁は人の もてはやしたる名なるべし 道はつとめて今日の変化をしり 俳諧に遊びて行脚の使を 求むといふべし されば松島は明ぼのの花に笑ひ 象潟はゆふべの雨と泣とこそ 冨士 吉野の名に対して吾に一字の作なしとは古をはばかり今をおしふる辞にぞ漂泊すでに廿 とせの秋くれて難波の浦に世を見はてけむ その頃は神無月の中の二日なりけり さる を湖水のほとりにその魂をとどめて彼木曽寺の苔の下に千歳の名は朽ざらまし 東花坊 ここに此碑を建る事は頓阿西行に法縁を結びて道に七字のこころを伝ふべきと也 とある。 ●芭蕉由緒塚の碑 神谷玄武坊が「墨直しの碑」を建てた経緯を記した碑。この碑もアメリカ軍の無差別空爆のために 破損したが、昭和37年に再建された。その碑文、 抑(そもそも)此の臨川寺は むかし仏頂禅師東都に錫をとどめ給ひし旧跡也 その頃 ばせを翁ここの深川に世を遁れて、朝暮に往来ありし参禅の道場也とぞ しかるに翁先 だちて卒し賜ひければ、禅師みずから筆を染て その位牌を立置れたる因縁を以て わ が玄武先師、延享のはじめ 洛東双林寺の墨なをしを写して 年々三月その会式を営み且梅花仏の鑑塔を造立して、東国に伝燈をかかげ賜いその発 願の趣意を石に勒して永く成功の朽ざらん事を 更(ここ)に誌すものならし とある。 |
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■江月院 清澄3丁目4番11号にある浄土宗の寺。路地の入口は商店街のような看板。 |
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■常照院 清澄3丁目4番22号にある浄土宗の寺。都会の寺ってえ感じの小さな寺。裏手に狭いながらも墓 地を背負っているだけたいしたものだ。食ってるんだから食っていけるんだろうが、食っていけるの かねぇ。アルバイトでもやってんだろうか? ●油谷倭文子の墓碑 ゆやしずこ 懸門の3才女(進藤茂子・鵜殿余野子)の1人。懸門は賀茂真淵の門下生のこと。彼 女の墓碑が常照院の墓地にある。享保十八年(1733)京橋弓町の御用達伊勢屋油谷平右衛門の娘 として生まれた。 倭文子は歌文を好み、延享二年(1745)前後、つまり12歳頃真淵の門下に 入ったといわれている。倭文子は真淵の命名になるもので、元は八代子といった。真淵は倭文子の優 れた才能を見抜き、殊の外慈しんだが、倭文子は宝暦二年(1752)七月十八日20歳の若さで急 逝した。真淵の愛弟子を失った悲しみは深く、自ら遺族や門弟に諮ってこの墓碑を作ったといわれて いる。 墓碑の撰文と書は真淵によるもので、事蹟などが刻まれ、最後に倭文子の歌。 比登之與爾左幾太都古登之奈加理世婆岐里乃比登播毛千羅受也安羅摩思 ひとのよにさきたつことのなかりせばきりのひとはもちらずやあらまじ 人の世にさき立つ事の無かりせば桐の一葉も散らずやあらまじ 倭文子の遺稿としては、「伊香保の道ぶり」「ゆきかひ」「散のこり」「草の露」の4部からなる 『文布』が残っている。 |
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■当知山本誓寺 清澄3丁目4番23号にある浄土宗の寺。入るとすぐ左に本堂、鉄筋コンクリート製の現代風な造 りで有難みが薄い。その右にやはり鉄筋コンクリート2階建ての庫裏。その右の道路を隔てた向かい に墓所。なかなか威厳のあるお寺。清澄庭園入口へ行く道の途中に入口がある。 ●村田春海の墓 むらたはるみ 本誓寺の村田家墓所にある。春海は江戸時代中期の国学者で歌人。延享三年(17 46)小舟町の豪商(干鰯問屋)の村田春道の次男に生まれる。春郷の弟。本姓は平氏。通称平四郎 のち治兵衛、錦織斎、琴後翁と号した。父春道、兄春郷とともに賀茂真淵の門人で、国学、歌文を学 んだ。仮名遣いの研究に造詣が深く和歌・雅文・書・漢学に長じた。江戸の宗匠と称せられ、学ぶ者 が衆をなしたといわれる。松平定信の耳に入り、しばしばその屋敷に招かれた。著書も多く『琴後集 (ことじりしゅう)』『歌かたり』『和学大概』などがある。文化八年(1811)66歳で没した。 昭和18年都の史跡に指定された。 ●村田家墓所 7基の墓石と1基の碑がある。同家は上総国村田村の出で、江戸で商売を始め、のち日本橋小舟町 に進出して干鰯問屋を展開し、副業に質両替店を営んで江戸有数の豪商となった。この中に春海の墓 をはじめとして、父春道、兄春郷、「近世三十六歌人撰」に挙げられる多勢子や春路の墓と春郷の碑 がある。他の2基は女性の墓だが俗名が判らない。姉か妹か、誰かの妻だろう。 ●呂一官の墓 本誓寺の墓地にある。ポマードの柳屋の業祖。明の漢方医で日本に帰化、薬草・香木などの研究に 秀で、元和九年(1831)に没した。初め京都に居住し、徳川家康の招きで浜松に行き、天正十八 年(1590)家康に従って江戸に入った。日本橋に屋敷を賜り、元和元年(1615)屋号を紅屋 と称して紅、白粉などを製造販売した。没後、子孫が受け継ぎ、堀を姓とした。 紅屋で娘のいうことにゃサノいうことにゃ 春のお月様うす曇とサイサイうす曇 文政五年(1822)近江商人外池宇兵衛の子正義が「紅屋」を継ぎ、現在の「柳屋」を創業した。 ●仁木三岳の墓 本誓寺墓地にある。江戸音曲における筝曲の名人。明和八年(1771)家柄の古い旗本の家に生 まれ、通り名を甚五兵衛と称し、諱(いみな=本名)を守昌、字を天福といった。人柄がよく、酒を 嗜み、豪放磊落な性格。分け隔てなく人に接し、お世辞やお追従、媚び諂いが嫌いで、早くから家督 を子に譲り、事の道を極めんとした。門下には佐久間象山、梁川星巌(漢詩人)とその妻紅蘭(漢詩 人)、渡辺崋山などの著名な人物がいた。ことに象山は三岳門下の逸材で、琴の奥伝を受け、『琴録』 『琴興十首』などの著作がある。天保十一年(1840)秋満70歳で没した。『人物叢書佐久間象 山』に以下の記述がある。 象山も素より好む道とて(梁川)星巌の紹介に依り三岳に入門して、三十余の曲目を修め て、その奥伝をも許して貰った。三岳は、諱を守昌、字を天福、通称を甚五兵衛と称し、 禅僧活文と同じく児玉空に学び、当時江戸における琴曲の大家として知られた人である。 天保十年(1839)九月十六日寿七十を以て死去した。象山の執筆した碑銘は、江戸深 川本誓寺に建てられた。 とある。弟子に佐久間象山がいたんだ! 没年は天保十一年が正しい。 象山が三岳の功績を称えて書いた「仁木三岳先生碑文 佐久間象山撰併書」が境内に建てられてい たが、大正12年関東大震災で滅失し、現在のものは復元したものだ。本物の拓本が長野の象山記念 館にある。 |
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■錣山部屋 清澄3丁目6番2号にある相撲部屋。「しころやま」と読む。平成14年9月場所限りで引退した 井筒部屋所属の元関脇寺尾は年寄錣山を襲名して井筒部屋の部屋付き親方として後進の指導に当って いたが、同16年1月27日2人の内弟子を連れて井筒部屋から分家独立して錣山部屋を創設した。 部屋開きは同18年12月現役時代に人気力士だった親方の部屋ということで、部屋創設1年で所属 力士が10人を越えるなど有数の人気部屋になっている。寺尾は母方の姓で、甘えん坊の末っ子は歯 は恋しさで母の姓を四股名に選んだ。 ●家系 25人目の横綱西ノ海の曾孫(養女の養女の子)、加賀錦(元幕下 妻が西の海の養女)の孫、薩 摩錦(元幕下)の従兄の孫。鶴ヶ峰(元関脇)の3男。井筒3兄弟といわれ、長男が鶴嶺山、次男が 逆鉾で、元十両の福薗は従弟に当たる。中日ドラゴンズの井上一樹外野手は親戚だ。長男の鶴峰山は、 幕内入りも期待されていたが、稽古中に右肩を脱臼し、これが思わぬ重傷となって完治せず、その後 は休場を繰り返した。3兄弟同時幕内も夢ではなかっただけにその怪我が惜しまれる。無口で生真面 目で優しい性格。平成2年1月場所をもって廃業。現在鶴嶺山の四股名は井筒部屋の幕下力士が受け 継いでいる。両国でちゃんこ料理屋「相撲茶屋・寺尾(店名は弟同様、実母の旧姓に由来)」を経営 している。井筒部屋の味を基本にしつつ、全国の鍋料理を研究して作られたちゃんこ鍋が人気だって よ。 |
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■三穂道別稲荷社 清澄3丁目9番14号にある小社。 |
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■永代亭(パンの会旧跡) 佐賀1丁目1番18号、永代橋東詰、現在の交番の裏隣辺りに、明治の末ごろ、当時としては珍し い西洋料理店「永代亭」があった。西洋料理店とはいえ、高級な店ではなくポンポン蒸気の船の発着 所を兼ねた2階家。蕎麦屋が西洋料理を出したと考えれば解り易かろう。 この店に、明治42~44年頃まで、隅田川に江戸情緒を求めて、青年文学者や芸術家たちが集ま り、パンの会と名付け、大いに気炎を上げた。「パン」とは食べ物のパンではなくて、ギリシャ神話 の牧羊神(牧畜と森林を守る神)のことだ。このパンの会では北原白秋の拵えた歌が「ラッパ節」の メロディで唄われた。 空に真っ赤な雲の色 玻璃に真っ赤な酒の色 何でこの身が悲しかろ 空に真っ赤な雲の色 ここに集まった会員は、上田敏(詩人)・戸川秋骨(フランス文学者)・北原白秋(詩人・歌人)・ 木下杢太郎(詩人)・吉井勇(歌人)・山本鼎(洋画家)・石井柏亭(洋画家)・倉田白羊(洋画家) ・谷崎潤一郎(小説家)・石川啄木(歌人)・高村光太郎(彫刻家)などなど、みんな大成した。大 成しなかった人もいるけどね。 |
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■一銭蒸気(隅田川汽船)航路跡 明治初年に隅田川汽船株式会社が設立され、同社の隅田川丸が就航した。隅田川丸は、永代橋を起 点として新大橋→両国→横網→厩橋に寄航し、吾妻橋を終点とした。区内の発着所は永代橋と新大橋 の2ヶ所のみだ。船は機関の部分と客を乗せる部分が離れていてロープで繋がれていた。また厩橋~ 横網間で、月遅れの雑誌を安く売り、人気があった。昭和12年刊の『日本橋区史』により、昭和10 年まで存続したことが知られる。廃止の年月は記録に残っていない。一銭蒸気は、本区と浅草方面を 結ぶ主要交通機関で、殊に新大橋の発着所は城東地区から東京巡行船で高橋へ着き、さらに浅草方面 へ行く人々の乗り換え場で大変に賑わった。 |
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■旧永代橋跡 江戸時代の橋は、現橋から約100m上流(北)の、1丁目1番11号に架かっていた。対岸は豊 海橋の右手だ。明治30年に相生橋が架けられるまで最下流の橋だった。深川の大渡しがあったとこ ろへ、元禄十一年(1698、元禄九年説もある)に架橋され、永代島と呼ばれていた砂州に渡した 橋なので永代橋と名づけられ、5年前に架けられた新大橋とともに深川の発展に大きく寄与した。逆 には材木商は神田からここに移り、深川の発展で猿江に追われ、さらに木場、新木場へと東遷させら れる憂き目に・・・ 当時の橋の規模は、長さ114間(約205m )×幅3間4寸5分(約6.81 m)、欄干の高さ3尺5寸(1m01cm)だった。大潮の満潮時でも川面からの高さ1丈(約3m )余りで、橋の上からの富士、筑波の遠景、南に開けた海に浮かぶ白帆や佃島の眺望は有名だった。 文化四年(1807)の落橋事件は有名。明治30年現在地に架け替えられた。 |
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○永代橋落橋事件 文化四年(1807)八月十九日富岡八幡宮の祭礼時に大量の参詣客が押し寄せ、深川側の橋脚が その重さに耐え切れず沈下、そのため桁が崩落、1500名以上といわれる溺死者を出した大事故。 滝沢馬琴の『兎園小説余禄』、山東京伝・京山の『夢の浮橋』『蜘蛛の糸巻』などを綜合すると、起 こるべくして起きた伏線があった。 ①この年は社殿・回廊・共侍所などの改修工事竣工記念という特別な祭礼だった。 ②二年おきの祭が大喧嘩のため12年前に中止され、この年復活が許された。 ③それが大雨で順延し4日後れての開催で、また当日が嘘のような快晴だった。 ④前日横川撞木橋で17、8歳の娘の首が刎ねられるという猟奇殺人事件があり、興味本位 の噂も飛んで大群衆が押し寄せた。 ⑤そんなところに橋下を一橋公が通るというので通行を一時停止、通過後に交通止めを解い たところに、折悪しく東の橋詰に神輿が来合わせ、深川側に人が滞留したため荷重が掛か り過ぎた。かくて落橋事件は起きた。 御祭への行くのの道は近けれどまだ山車も見ず橋の落ちたて 幕府は原因究明に乗り出した。責任追及は自由民主党と違ってどれほども厳しかった。その結果橋 はまだ仮普請であったがため、一時に数千人の人間が渡るだけのキャパシティがなかった。惨事を生 んだものとしてまず架橋に関わった役人が処罰され、犠牲者に対しては死人が稼ぎ人なら鳥目15貫 文、家族なら3貫文、怪我人が稼ぎ人なら5貫文、家族なら1文と弔慰金や見舞金を与えた。建築構 造偽装事件、自民党の及び腰、特に小泉純一郎の森派が消極的なのは、200年遅れているというこ とだ。金貰ったのかぁ? その結果とて祭の責任者は全員八丈島送りとなった。狂歌をいくつか・・・ 水底は八幡地獄深川や今日は祭礼明日は葬礼 深川の底は八幡地獄にて落ちて永代浮かぶ瀬もなし 永代の話に線と祭礼を見に行く人はみずに死にけり 永代と架けたる橋は落ちにけり今日は祭礼明日は葬礼 身延から七面倒な祖師が来て永代落ちて法華だぶだぶ |
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■赤穂浪士休息の地 佐賀1丁目6番2号の乳熊ビル前に、ちくま味噌(株)の建てた石碑がある。元禄十五年十二月十 五日早暁大石内蔵助良雄を首領とする赤穂浪士の一行が、本所の吉良邸討入後、乳熊屋の店先で甘酒 の接待を受け、しばし休憩したといわれている。その日は丁度上棟式だったので、主人の作兵衛が一 同を店に招き入れたという。もし討入の噂が届いてなかったとすれば、店では赤穂浪士とは気がつい てなかったのではないか。大石らが去った後に噂がやってきて、腰を抜かしたというのが本当だろう。 ちくま味噌のいい分 乳熊屋の初代作兵衛は風流の道を嗜み宝井其角に師事し、赤穂浪 士の一人大高源吾とは俳諧の友であった。此の誼みで芽出度く本懐を遂げ泉岳寺への引 上の途路彼等が永代橋に差し掛かるや一行を店に招じいれ、拾度上棟の日でもあったの で甘酒粥振る舞って労を撈ったのである。大高源吾は棟木に由来を認め又看板を書き残 して行った。これが大評判となり江戸の名所の一つになった もし赤穂浪士と知って接待をしたとすれば、事件処理の行方は海のものとも山のものとも判らない 時間帯だ。成り行きによっては、後々幕府から咎め立てを食らうかも知れないだろう。赤穂浪士が江 戸市民の喝采を浴びるのは50年後のことだ。公には大石らは罪人として罰せられるのだから、後で 作兵衛と大高源吾が俳諧を通じて知り合いだったからとか、いろいろいうのは総て後説だ。もう何百 年前の話だもの何とでもいえるわい。よしんば源吾と知己だったとして、討入を源吾が告白していた というのか?、決行日を前もって知らせていたというのか? 赤穂浪士がやってきたのは偶然なんだ よ。両国橋で通行止めされなかったら永代橋は渡ってないのだから・・・ ●乳熊屋 慶安のころ(1648~51)竹口作兵衛義道が、一旗揚げようと伊勢乳熊郷から江戸へやってき て、日本橋で塗物商を営んでいたが、元禄の初め(1688~)深川永代橋際の現在地で味噌醸造を 営み、乳熊屋作兵衛商店といったのが、今の「ちくま味噌」の始まりだ。しかし甘酒粥の接待は評判 となって店が繁盛したことは否めない。 * 平成21年5月9日に再訪したところ、乳熊ビルに変りはないのだが、ウチダエスコ株式会社と変 わっていた。賃貸にでもしたのだろうか? 平成12年かららしい。ウチダエスコは内田洋行のソフ ト開発会社だ。 |
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■深川正米市場 廃止 佐賀1丁目8番に、明治19年に設立された。大阪堂島の正米市場と並んで全国的に有名だった。 これより前年、新政府は東京府知事に命じて、深川に米穀取扱所を設け、渋沢喜作ら5人が廻米問屋 組合を組織している。深川正米市場は、この組合同盟員によって創立された公開の廻米市場だ。同3 9年農商務省令第1号による米・雑穀の取引する市場として公認された。しかし売買の主流は依然米 だった。この年の記録によると、同市場は中庭を囲んで回廊式になったフロアに事務所1、問屋14、 中継ぎ店7が並んでいた。この建物は焼失し、昭和3年「食糧ビルディング」の名で最近まで現存し た鉄筋3階建てのビルに建て直され、同16年米の配給統制により、自由売買の市場は廃止された。 |
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■干鰯場(永代場)跡 佐賀1丁目16・17番、2丁目9番辺にあった。深川に幾つかあった干鰯場の内、西永代町と小 松町にあったものを海辺大工町の銚子場に対して永代場と称した。干鰯は、当時は大量に取れて捨て るしかなかった鰯を乾燥させて、田畑の肥料に当てたもので、干鰯場は干鰯市場のことで、主として 房総方面から水運を利用して運ばれてきた干鰯を売買するところだ。この二つの干鰯場は、油堀から 南北に伸びる堀に面した、町内東通りの河岸を使い、干鰯、〆粕などを取引した。西永代町は元禄十 三年(1700)、小松町は同14年の起立で、以降南茅場町(中央区)の干鰯問屋重次郎ほか6名 の持地だった。 |
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■伊東道場跡 佐賀1丁目17番辺りにあったようだ。新撰組の伊東甲子太郎が受け継いだ道場。甲子太郎は「か したろう」と読む、「きねたろう」とビを振ったものがあるが、知ったかぶりだ。 甲子太郎は、新撰組参謀。文学師範。のち御陵衛士(高台寺党)の盟主。常陸志筑藩生まれ、元の 名は鈴木大蔵、諱は武明。正式な名乗りは穂積武明(ほづみ・の・たけあき)。脱藩して水戸に出、 藤田東湖の推挙で水戸徳川家に仕えた金子健四郎の道場に入門。神道無念流剣術と水戸学を修め、勤 皇思想に傾倒した。その後江戸へ出て、藤堂平助の勧めで深川佐賀町の北辰一刀流伊東道場に入門。 文武両道の人物だった大蔵は道場主伊東精一に認められてその跡目を継ぎ、その娘を娶って伊東姓を 名乗った。この深川の道場は盛んで、門下生も多かった。元治元年(1864)弟鈴木三樹三郎、内 藤次郎、中西登(昇)などとともに新撰組に入隊し甲子太郎と改名、京都に上った。慶応三年(18 67)近藤勇一派と意見が合わず脱退し、孝明天皇山陵衛士となるが、近藤勇らの浅薄な恨みを買い、 間もなく襲撃されて殺された。 |
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■いろは蔵跡 佐賀1丁目18番の辺にあった。いろは蔵とは、松賀町の東側一円に倉庫が建ち並んでおり、その 中に豪商九郎右衛門が持っていた蔵が48棟あったところから付けられた俗称地名。大坂や泉佐野、 堺などにもあった。『府内備考』に、 一円土蔵有之四拾八戸前有之候ニ付右地面之場所里俗ニいろは蔵と相唱え申候 と記載があり、正式な地名ではないが判り易い通称として有名だった。またこの他にも「八戸前」 と呼ばれたところもあった。深川には江戸時代から沢山の倉庫が設けられ、そこに米・大豆・麦・酒 ・塩・油など大量の商品が納められていた。また日本橋、京橋辺りの問屋が自家用倉庫として深川に 持っているものを、貸倉としているところもあった。これらの問屋の多くは、米穀・肥料・両替商な どで、倉庫だけを建てて貸す倉庫業者も出てくるようになった。 |
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■元木場 現在の佐賀・永代・福住の辺りにあった。江戸時代初期、この辺りは永代島深川猟師町の北の水場 で浅瀬だった。寛永十八年(1641)江戸大火(桶町火事)により、幕府(老中首座松平信綱)は 府内35ケ町の材木業者に材木の高積みを禁止し,貯木場として永代島を指定した。これが最初の木 場で、のちに元木場と称せられ、木場という名の起源となった。この移転は本所・深川地区の開発を 促し、万治二年(1653)両国橋が架けられると、材木を運搬するために堅川、大横川、十問川が 相次い開鑿された。その後元禄十二年(1699)この木場は取り上げられ、猿江(猿江恩賜公園) に移転させられ、跡地は伊奈半左衛門が築き直して、同十四年(1701)までに材木町・永堀町・ 東永代町・西永代町・今川町・中川町・富田町・堀川町・松賀町・小松町・富久町・万年町一~三丁 目の14ヶ町が出来て、後に松賀町続拝借屋敷・伊沢町・三角屋鋪・久永町一~三丁目・富岡町・松 村町が加わり都合21ヶ町となった。 |
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■佐賀稲荷神社 佐賀2丁目4番5号にある江戸百稲荷の一。深川は、江戸時代の初めころは小島の点在する遠浅の 海だった。寛永六年(1629)永代島付近の埋立許可を得た次郎兵衛・藤左衛門ほか6名により、 猟師町八ヶ町ができあがり、上之橋の方を次郎兵衛町、中之橋より南を藤左衛門町とした。 元禄八年 (1695)の検地の際、次郎兵衛町と藤左衛門町は合併し佐賀町と改めたのだが、町名は地形が肥 前国佐賀湊に似ていたことに因んだといわれる。 佐賀町は次第に干潟を埋め、町作りの基礎を固め、漁村から海上運送の起点して繁栄していった。 通りの両側には各地の産物を集めた各種問屋の暖簾がはためき、川筋には倉庫が立ち並び、舫った大 小の船の間を縫って走る人々の声で大層賑わった。 佐賀稲荷神社は、寛永七年(1630)佐賀町に住む人々の厄除招福を願い、永世鎮護の祠を穿ち、 生成発展を司る宇迦之御魂命を祀ったものだ。 明治以降に正米市場がたち、米問屋が集い、当社は商売繁盛の稲荷として栄えた。また倉庫業に携 わる人々の余技として生まれ伝承された深川の力持ちは、正に佐賀町の特性を活かした伝統技能だっ た。境内には力持技芸者の奉納した力石、明治初期に米問屋の仲間が寄贈した鉄製天水桶が現存して いる。 代々尊栄奉仕の心怠り無く、平成8年に社殿を修復、境内を整備し碑を建てました。後人が永くこ の佐賀町を愛し佐賀町に住む誇りを失わざることを願います。 ●ほうしの穴 裏手に廻ると、社殿の壁に都内では珍しい宝珠形の「お宮の穴」が開いている。ここから狐が出入 りするという想定で開けられたとか。流石に昨今は無用心なのでメッシュで塞いである。名前は「ほ うしのあな」。穴型からしても「宝珠の穴」なんだろう。出雲(島根県)方面の稲荷神社には大概こ の穴が見られるんだとか。出雲大社の末社稲荷にまであるようであちらでは普通。しかしこんなに凝っ た「穴」はそうそうないのでは? |
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■早川稲荷 猿江1丁目1番12号にある小社。 |
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■達理堂跡 猿江1丁目5番にあった村上英俊が開いた日本初のフランス語塾だ。慶応四年(1868)三月十 五日に開塾し、明治10年に閉塾した。同6年に東京府が提出させた「家塾開業願書」によれば、所 在地は「第11大区小3区深川猿江町8番地」となっている。村上は文化八年(1811)に下野国 (栃木県)佐久山に生まれ、明治23年80歳で没した。諱を義茂といい、茂亭、松翁などと号し、 初めは医学、漢学、蘭学を学び、天保十二年信濃国松代で町医者になった。嘉永二年(1849)佐 久間象山の勧めによりフランス語を志し、幕府の藩書調所教授方・翻訳掛となり、明治維新以後は塾 でフランス語の指導と著訳に従事した。さらに研究に励み、『三語便覧『仏語明要』などを著した。 同18年に仏学創開の功績を認められ、政府よりレジョン・ド・ヌール勲章を受けている。 ●三語便覧 構成は初・中・終巻の3巻3冊本である。 本文は天文・地理・身体・疾病・家倫・官職・人品・宮 室・飲食・衣服など25項目に分け終巻を言語とし、 陪名詞・附詞・前置詞・附合詞・動詞など5節 に分けて、 それぞれに日本語・仏蘭西語・英傑列語・和蘭語に対訳を試みている。 また発音について カタカナで付記し、 語数は3000を越える。 本書は、 オランダ語よりフランス語に入った初歩的な業績といえよう。 なお オランダ語をドイツ 語に変えて、 日・仏・英・独の対訳の 『三語便覧』 がある。 ●仏語明要 村上が安政六年(1859)に発行した『仏蘭西詞林』(フランス語字典)に改訂増補を加え、1 0余年の歳月を費やして完成した仏和大字典である。3冊4巻より成り、フランス語の語彙はすべて 筆記体、対訳の和文は縦書で記している。幕末、対仏交渉の頻繁な折、如何に重宝されたかは言うま でもない。 |
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■不虚山重源寺 猿江1丁目11番15号にある浄土宗の寺。ここの山門の柱は、奈良の薬師寺の講堂に使用されて いた木材で作られているのだそうで、平成16年建立という新しいものだ。しかし本堂は鉄筋コンク リート造りの2階建てのビルだ。 ●関根正二の墓 重願寺墓地にある。関根は画家で、明治32年福島県西白河郡大沼村で9人兄弟姉妹の第四子次男 として生まれた。同40年関根一家は上京、正二は翌年遅れて合流した。猿江に住んで東川小学校に 通い、明治45年(大正元年)に卒業すると近くに住んでいた伊東深水の紹介で東京印刷株式会社図 案部に勤め、夜間学校で学んだ。その翌年から深水の勧めで絵を描くようになり、大正4年16歳で 第2回二科展に「死を思ふ日」を出品して入選、以後第3、4回二科展で認められ、第5回の二科展 に「信仰の悲しみ」「姐弟」「自画像」が入選し、樗牛賞を受賞するなどの活躍で将来を大いに嘱望 されたが、翌8年6月肺結核のため21歳の若さで来世に旅立った。遺骨は姉の嫁いだ「奥田家之墓」 に埋葬されている。 |
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●新場小安の墓 重願寺墓地にある。小安は任侠を以て世に知られている。寛政二年(1790)生まれで通称伊勢 屋卯之助という。新場とは『御府内備考』の本材木町二丁目の項に 里俗呼名 新場、二丁目、三丁目の内、新肴場と申所を云 とあり、新肴場を略して読んでいることが判る。新肴場は、日本橋の魚河岸に対して、延宝年間(1 673~80)に開設された新しい魚市場のことだ。小安はこの新肴場に住んでいたことから、新場 の小安と綽名されるようになった。我が先祖も名古屋熱田の侠客魚住門右衛門だという。 |
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■猿江尋常小学校 移転 → 毛利尋常小学校 猿江1丁目11番(猿江町12番地)に、明治45年東川(とうせん)尋常小学校から分校して開 校。猿江夜学校併置。5月30日開校式。当時様々な事情による不就学の児童に教育を普及するため 東京市直営校として授業料の徴収をしなかった。また創立に当たっては皇太子明宮嘉仁親王殿下の御 成婚に当たり天皇陛下から下賜された祝金が充てられた。大正6年女子補習科併置。同8年3月火災 により校舎全焼。東川・扇橋・菊川3校に間借り授業。同12年に鉄筋コンクリート造りの校舎完成。 関東大震災のため内部全焼。同13年第一東京市立高等女学校(深川高等女学校)が校内に開校。同 15年直営から深川区の所管に移行。昭和4年本村町189番地(毛利町18番地→毛利2丁目2番 地=現在地)に新校舎が落成し移転、毛利尋常小学校となる。 |
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■摩利支天祠跡(日先神社永喜稲荷) 猿江1丁目22番12号の日先神社にあった。摩利支天は、光・陽炎を神格化したもの。自らの姿 を隠して災難を除き、利益を与えるという。もとインドの民間信仰の神だったが、日本では武士の守 り本尊とされ、護身・富裕・勝利などを祈る摩利支天法が修される。蓮華上に座す尺女像、猪に乗っ た三面八臂の像などがあり、江戸時代後期に庶民の信仰を集めた神社で、創建は正徳年間(1711 ~15)と伝わっている。『葛西誌』によると、元は下総国船橋大神宮末社だったが、延享の頃(1 744~47)遷ってきたとある。ということは30年ばかり何処か違う所に祀られていたというこ とか? また『江戸名所図会』に「霊験炳然として詣人常に絶えず」として、広壮だった境内の様子 が挿絵に描かれており、往時は〝猿江の摩利支天〟として大変に有名だった。その後度重なる災害で 社殿や什器を失い、明治政府の神仏分離令によって社号を「日先神社」に、祭神も猿田彦大神に強制 的に改められた。明治以後の政治は、西洋思想を取り入れて民主的だと思わせているが独裁政治で、 小泉純一郎や安倍晋三が突出した独裁者というのではなくて、戦前も戦後も一貫して保守政治は独裁 政治なのだ。年金問題を知れば解るだろう。さて戦後の一時期廃社状態になったが、やがて復興され 境内の99%を失って狭小にはなったが、小祠が残されている。猿江神社が兼務し、維持会が管理し ている。 |
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■猿江神社 猿江2丁目2番17号にある。平安末期源頼義・義家父子による永承六年(1051)に始まった 奥州遠征(前九年の役)で、数々の手柄を立てた家臣に猿藤太(さるのとうた)という武将がいた。 武勇の士と讃えられた人物だったが、この地の入江で力尽きたので、この地の里人が稲荷社の境内に 手厚く葬り、塚を建てて祀り、社名を猿江稲荷神社とした。神社としての正確な開創年代は不詳だが 前九年の役が康平二年(1059)に終わるので、それ以前には開かれていることになる。康平年中 (1058~64)には近郷近在の信仰を集め、稲荷社として社地500余坪を有したというが、果 たしてどうかな? 当時下町低地にどれだけの人が住んでいたろう。江戸時代になると神仏混合の風 潮により住善寺が別当寺となったが、廃寺となったので、寛文二年(1662)谷中から京都妙連寺 の末寺妙情寺が越してきて改名した妙寿寺が、別当寺として奉仕し、寺の隆盛とともにその名を知ら しめた。社殿は恙無く明治維新を迎えたが、大正12年の関東大震災で倒壊焼失してしまった。築7 0余年を経ている、国内でも最古の部類に入る鉄筋コンクリート造りの現社殿は、昭和6年宮内庁技 官の設計により、当時としてはとても珍しい頑丈優美な造りの神社として再建された。このためアメ リカ軍の無差別東京大空襲で深川一帯が灰燼に帰した時も神徳を以て難を免れ、錦糸町駅から一面の 焼野原の遠くに建つ社殿が眺められたという。 昭和21年伊勢大神(天照大神)を合祀し、社名を「猿江稲荷神社」から「猿江神社」に改めた。 しかしその後も「猿江のお稲荷さん」として親しまれている、1000年以上の歴史をもつ由緒深き 神社なのだ。 ●藤森稲荷神社 猿楽神社の境内にある。江戸時代幕府所有の材木を貯蔵していた猿江御材木蔵にあった。初め本所 横網町(現両国国技館・江戸東京博物館)にあったが、享保十九年(1734)に民間の貯木場を取 り上げて移転してきた。で、材木商たちは木場を開いたのだ。明治になって宮内省御料局の手に移り、 戦後は東京営林署の管理となった。昭和47年廃止となり、潮見に移転していった。毛利2丁目13 番にあったこの稲荷も御材木蔵の移転の度に付いて廻り、潮見にも遷されたが、平成13年林野庁の 施設が東陽6丁目に移転した際、猿江神社に遷された。藤森の名の由来は藤ノ木に囲まれており、藤 の花の垂れる頃に祭礼を行ったことによるというが、横網町時代にそういう環境だったのか、京都の 藤森稲荷(伏見稲荷)を勧請したのかは不明だ。貞享三年(1686)材木商が納めたであろう水盤 や、弘化五年(1848)に御材木方などが奉納した石造灯籠なとが現在も残っている。 ●馬頭観音社 馬頭観世音の刻印の上に「馬」の絵を彫り、「馬方」の絵の石と併わせた大小1対の珍しい碑が祀 られている。旅行・交通安全、また競走馬関係の参拝も多い。 |
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■本覚山妙寿寺 移転 猿江2丁目5番の西半にあった日蓮宗の寺。京都妙蓮寺末で、沿革を「御府内備考続編」に求める と、谷中清水町妙情寺の寺域が、寛文二年(1662)に火除地として上地され、当時の住持日受が 猿江に代地を願い出て認可され移転した。この時に寺号を妙寿寺と改めた。また当所に鎮守稲荷があ り、住善寺が別当寺だったが、同寺が廃寺となると、代わって別当寺となった。寺の起立の年代は、 『葛西誌』によると寛永八年(1631)としている。なお寺は戦後世田谷区北烏山に移転して烏山 寺町を形成している。 |
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■住吉駅 猿江2丁目9番10号にある東京メトロ半蔵門線の停車場。昭和53年12月21日新宿線岩本町 ~東大島間開業とともに設けられた。平成15年3月19日には半蔵門線が乗り入れ、乗換駅となっ た。新宿線のホームは相対式2面2線構造で地下2階にある。改札内に上下ホームを繋ぐ連絡通路が ないので、改札を入る際は注意が必要だ。半蔵門線のホームは地下3階が1番線、地下4階が2番線 の二層式。改札口は都営・東京メトロともに2ヶ所ずつの計4ヶ所がある。出口はA1~A4・B1 ・B2の計6ヶ所で、地上へ上がるエレベーターはB1・B2の2ヶ所の出口に併設されている。 半蔵門線ホームは二層式となっているが、通常の二層式ホームと違って片面ホームではなく島式ホ ームになっている。現在は電留線として使われているホームは、豊洲から住吉を経て押上・亀有方面 へ建設される計画がある8号線延伸構想のために準備されている。住吉駅から押上駅までは同じ線路 を共有する予定のため、このようになっている。しかし現在のところ着工の目途は全く立っていない ので、もしかしたらこのホームはずっと電留線として使われる続けるかも知れない。この電留線は、 清澄白河止まりの列車が停泊するために使われている。住吉という地名は、津々浦々にあるオーソドッ クスな地名で、住吉駅という駅も全国に6ヶ所も在る。 |
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■猿江稲荷社 猿江2丁目5番14号、猿江神社の北にある小祠。 |
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■大慈庵 → 万徳山広済寺 移転 猿江2丁目12番にあった黄檗宗八ヶ庵の1つ。開創は寛文二年(1662)潮音道海が深川高橋 の池田市之丞下屋敷内に草庵を開き大慈庵と号した。同九年(1669)潮音が上州館林城内に万徳 山広済寺を建てたので、庵は同寺の江戸宿坊となる。天和三年(1683)館林城廃城に伴い広済寺 も廃寺となった。元禄二年(1689)に潮音は庵を弟子の高深に譲り、高深も同五年(1692) に弟子の竜岩に譲った。正徳二年(1712)厳有院徳川家綱の33回忌追福として寺号が免許され 万徳山広済寺と改めた。翌年猿江2丁目12番の地に移り、さらに関東大震災後、江戸川区の春江に 移転していった。 |
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■慈眼寺跡・泉養寺 移転 猿江2丁目15番にあった。元禄六年(1693)に深川六間堀(新大橋)から移転してきて明治 45年現在の豊島区巣鴨5丁目に移転していった。 泉養寺は、2丁目13・14番辺にあった。元禄六年(1693)に深川元町から移転してきて、 大震災後の昭和2年市川市国府台に移転していった。 |
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■法号山花蔵院覚法寺 廃寺 猿江2丁目15番にあった真言宗の寺院。亀戸普門院末。『御府内備考続編』によれば、初め花蔵 院といい、六間堀(新大橋3丁目)に創建したが、寺域を幕府に上地されたため、元禄六年(169 3)に当地に代地を与えられ移転したとある。また『葛西誌』には、創建は慶長十九年(1614) で、宝永六年(1709)に寺号を改めたと記している。明治34年に維持できなくなり、亀戸4丁 目の東覚寺に吸収された。府内88ヶ所の73番札所であり、門前に、 御府内八十八ヶ所 本所猿江覚王寺 讃岐国出釈迦寺移七十三番 南深川法乗院エ二十 三町 東普門院エ二十町 と刻まれた札所碑が建てられていたが、吸収されるとき東覚寺に引き取られ、破損しているものの 保存されている。 |
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■法輪山覚樹王院大泉寺 廃寺 猿江2丁目15番の東南四分の一の面積を占めていた天台宗の寺。開山は弘誓院権僧正玄照法印と いい、宝暦三年(1763)に没した。沿革は『御府内備考続編』によれば、谷中感応寺境内の隠庵 に住していた玄照法印が、元文年間(1736~40)末に、猿江に移ったことに始まる。延享四年 (1744)諸事の祈祷をする為に、家重から湯島に土地を与えられて移転、宝暦三年(1753) には、輪王寺から覚樹王院という院家の官号を賜った。その後安永二年(1773)再び家重の命に より猿江に戻った。明治になって寺運衰え、同十二年墨田区の木母寺に吸収された。なお院家(いん け)とは、門跡(もんぜき)に次ぐ格式と由緒を持つ寺院で、門跡を補佐する重要な役割を持つもの だ。 |
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■小名木川五本松跡 猿江2丁目16番3号「島忠東猿江店」のところは、江戸時代、九鬼家(松浦家)の屋敷で、枝を 張った形の良い老松があり、将軍家光が感嘆したことから有名になり、安藤広重の『名所江戸百景』に 「小奈木川五本松」として描かれたり、江戸後期の地誌や名所案内などにしばしば収録され水と松の 組み合わせは、川の町深川らしい名所といえる。しかし松は1本しかなく、五本松の由来については よく分からず、『江戸砂子温故名跡誌』に「小名木川北岸の松浦家にある松の大木で、元は五本あっ たものが枯れて一本になっている」としており、その後刊行された地誌類は、この説を踏襲している が、詳細は不明だ。よほど目立った松ノ木と見えて、芭蕉も態々この場所に舟を止め、 川上とこの川下や月の友 の句を残している。その意は「今宵は名月。私はこうして小名木川の五本松で川面に揺れる月を眺 めているが、川上にいる我が心の友もこれと同じ月を眺めているだろう」の意だ。川上で眺めている 「月の友」が誰であるかは勿論判らないが、古来山口素堂であろうといわれてる。五本松は、明治の 末鈴木セメントの排煙公害と40年の洪水で枯死したため、同42年2月に伐り倒された。写真が残っ ている昭和63年9月9月に現在地(小名木川橋北詰広場)に復活した。まだまだ若木で名松と呼ば れるには程遠く、顧られることもいが、100年後にはその名に恥じない天下の名松となることだろ う。 |
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■墨東養護学校 → 墨東特別支援学校 猿江2丁目16番にある都立肢体不自由養護学校の1つ。昭和62年開校。小学部・中学部・高等部・ 訪問教育(小・中)計120名で発足。平成元年校歌制定。同3年国立がんセンター中央病院での訪 問教育開始。同8年病院内学級開設。同10年「いるか分教室」開設。同19年創立20周年記念式 典。東部療育センター分教室設置。通学域は墨田・台東・中央・千代田・江東区など。殆どの児童生 徒は8台のスクールバスで通学している。 |
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■五百羅漢道標 猿江2丁目16番5号の小名木川橋橋詰広場に、都内に残っている道標の中でも形のよい古い道標 が保存されている。この道標は、五百羅漢と亀戸天神へ行く方向を指し示したもの。最初に建てられ た年は定かではないが、この付近の講中の人々によって建てられたものだ。他人のために何で建てる のか、というと、「情けは人のためならず」「先憂後楽」といった功徳の発露だ。その後享保十六年 (1731)、寛政九年(1797)、文化二年(1805)の3回再建されたことが刻まれてる。 この道標の正面には、 是り五百らかん江 右川通り八町ほど先へ参り申(候) とあり、側面には、 この横道四ツ目橋通亀戸天神(通) ( )は推定。 と刻まれている。江戸時代の、この近くの名所としては、五百羅漢が有名で、多くの参詣者を集め ていた。ここには三匝堂、俗に栄螺堂という建物があり、構造が珍しく、それを目当てで人々が集まっ た。まあ六本木ヒルズを珍しがって田舎者が蝟集するに似たりだ。この道標も、小名木川に沿い、南 北に通じる道路があるなど、人通りが多いためここに建てられたのだろう。もしかしたら毎日毎日頻 繁に道を尋ねられるので、仕事が手に付かないほどなので、ええいくそっと建てたのかもな。 |
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■水上尋常小学校 深川分校 → 水上小学校 廃校 塩浜1丁目3番4号都営塩浜一丁目第二アパート4号棟のところにあった都立校。昭和5年8月2 2日水上協会に設立認可。私立「水上尋常小学校」として京橋区月島西仲通9丁目5番に創立。児童 数32名で9月5日から授業開始。同15年年度から東京市立(各種学校)となる。同17年から国 民学校令による「東京市水上国民学校」となる。児童数102名。同18年から深川区浜園町1番地 に、浜園宿泊所を改修して分校を設置。同19年7月20日茨城県新治郡斗利出村(新治村)に集団 疎開。同20年4月29日秋田県田沢湖畔に再疎開。8月15日終戦。10月疎開解除により月島校 舎に帰校。同21年11月23日深川校舎改修完了。同24年本校を移転し分校廃止。本校は学寮と なる。同41年廃校。 |
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■深川第八中学校(昭和36年5月20日開校記念日) 塩浜2丁目21番14番にある区立校。昭和30年頃から江東区の南部地域(塩浜・枝川・豊洲) の発展に伴い人口が集中し、児童生徒の数が急増した。同35年度には深川第三中学校の生徒は17 00名を越え、校庭にプレハブ校舎が建ち並び、飽和状態にあった。また南部地域から深川三中まで の通学距離が長く、都会に在りながら登下校に30分以上かかる生徒も多数いて、安心して通える地 元の中学校の創設は生徒・保護者の悲願だった。同36年4月深川地区第8番目の中学校として深川 三・四中から分校して、深川塩崎町1番地先の現在地に、鉄筋コンクリート造りの校舎を新築して創 立、新入生361名、深川三・四中からの2年生320名、都合681名15学級でスタートした。 5月20日開校式。台風24号襲来で避難民1600名を一時収容。同佐37年体育館完成。開校1 周年記念式典・校歌制定。 校歌「晴れやかに広い空」 作詞・勝承夫 作曲・平井康三郎 1.晴れやかに広い空 鏡のように光る海 果てない希望をいつも胸に 強く明るく伸びて行く 深川八中の我等若人 2.進み行く東京の 勢いここに見晴らせば 燃え立つ自立の意気と力 白亜輝く 空高く ああこの感激の日々の歩みよ 3.筏浮く川の風 平和の光 降る処 友情楽しく開く花よ 明日の日本を担い立つ 深川八中の我等栄えあり 同40プール完成。同55年校舎増築。同60年東陽中学校を分校。生徒148名移籍。 平成4年コンピュータルーム完成。同13年開校40周年記念式典。同15年廃校となった南砂西 小学校の校舎を仮校舎として移転。建替えのため旧校舎解体。同18年建替え新校舎落成。 |
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■消えた! 神隠し? 23歳女性行方不明事件 潮見2丁目9番16号、京葉線西際の9階建て集合住宅「フィットエル潮見(→スクエア潮見)」 から、平成20年4月18日午後7時~8時頃帰宅した東城瑠理香(23)が、姉のケータイに帰宅 のメールを入れたものの、姉が午後8時15分に帰宅すると瑠理香はいなかった。玄関前にピアスの 片方が落ちており、瑠理香が買ってきたと思われるスーパーマーケットの品物入りのポリ袋は玄関内 に置かれたままで、出勤時に着ていた服とショルダーバッグ、台所の果物ナイフがないことから、帰 宅直後に襲われて連れ出されたか、何らかの理由で再び出かけたものと思われるが、不思議なことに 履いていた靴は玄関にきちんと揃えて置いてあり、3ヶ所ある出入口の防犯カメラには、帰宅する姿 は写っているが、出かける姿も、連れ出される姿も、不審な物を運び出す者の姿も、写っていなかっ た。また警察犬による追跡を試みたが、犬が追跡行動を取らなかったために、深川警察署ではまだ建 物内にいるものと見て、住民の協力を得て総ての部屋を捜査したが見つからなかった。1月に完成し たばかりの「フィットエル潮見」は全部で150室(1階6室・2~9階各フロア18室)あるが、 まだ3分の1近くが空き部屋で、被害者の両隣の部屋も空き部屋だった。瑠理香は長野県の出身で姉 と二人暮らし、建物はオートロックでセキュリティーは万全だが、環境は駅に近いというメリットだ けで、隣は。内田洋行のビルで、住宅としては孤立しており、女性だけで住む環境としては悪い。 ただ過去に、寺から消えた住職の弟が、20数年後、出入のない放置された地下倉庫から白骨で発 見されたり、水槽の掃除をしていて転落し、誰にも気づかれず、数週間後に遺体となって発見された ということがあった。転落していたところが発見されにくい隙間だったりすると、行方不明が長く続 く。ある官庁で、セキュリティーに、入った記録はあるのに、出た記録のない人が、数ヶ月後に建物 の周囲の植込から死体で発見されたこともあった。その人は屋上から飛び降り自殺したのだった。 その後女性からの連絡はなく、もし何者かに連れ出されたとしても、犯人からの脅迫や犯行声明は ない。女性は勤務先や自宅近辺でトラブルや問題は抱えておらず、個人的交際も普通で何事もなかっ たそうだ。マンション周辺も不審者が徘徊しているという噂はなく、防犯カメラに写っていた太目の 体型で天然パーマのような髪型の30歳くらいの不審者は、警察の調べで事件とは無関係だというこ とが判っている。 土地は埋立地で土地の因縁はないので、地霊に憑(とりつかれ)たということもないだろう。ああ 神隠しじゃ、神隠しじゃ。 ●コケシ かつての昔、東北地方では子供が連れ去られることが頻繁にあった。都やその周辺の地域では発展 による人手不足が続いており、労働力不足を補うために、当時人口の多かった東北地方から子供を攫 (さら)ってくるということが横行していた。森鴎外の小説『山椒大夫』は、本来は散所太夫で、そ のことを書いたものだ。それで東北地方の母親たちは、子供が消えてしまわないように、子供の代わ りに消えてくれと神社に奉納したのが「子消し人形」だ。その名残が「コケシ」だ。北朝鮮の拉致問 題、いみじくも「日本は拉致列島」と誰ぞがいったが、日本は太古から拉致誘拐の横行した国なのだ。 犯人逮捕 ― やっぱり隣人だった 平成20年5月25日警視庁捜査1課は、東城瑠理香の部屋に侵入したとして住居侵入の疑いで、 同じ建物の9階に住む岡山県出身の派遣社員星島貴徳(33)を容疑者として逮捕した。星島は「東 城さんを殺害し、遺体を細かく切断した」と供述しているという。捜査1課は瑠理香の発見に全力を 傾けるとともに、星島の部屋から見つかった血痕が瑠理香のものか確認を急いでいるが、この1ヶ月 間で徹底的に証拠隠滅を図った可能性もある。捜査1課は同日深川署に捜査本部を設置。調べでは、 星島は4月18日午後7時半ごろ、暴行目的で自室から2軒隣の瑠理香の部屋に侵入した疑い。捜査 本部は、星島が帰宅直後の瑠理香を玄関付近で襲い、自室に連れ込んだと見ている。捜査本部による と、瑠理香の部屋から星島の指紋が見つかっている。星島は当初、捜査員の聞き込みに対して「(瑠 理香と)会ったことがない」としていたが、その後は「1度は会釈をしたことがある」と変わるなど の不審点があり、当初から目星を付けられていた。捜査本部はマンションの防犯カメラに、瑠理香が 帰宅後に外出した姿が写っていないことから、全150室の内部を数回に亘り調べた。1人暮らしの 星島も捜査に応じ、テレビなどのインタビューにも笑って答えていた。瑠理香は長野市内の高校、神 奈川県内の大学をそれぞれ卒業後、都内の広告会社などに勤めて一般的に普通に暮らしていた現代っ 娘。夢多き人生を奪われあたら若い生命を失ってしまった。 犯行 空白の半日 犯行当日深夜から翌日朝にかけ、警視庁の捜査員が、2部屋隣に住む派遣社員星島の部屋を数回訪 れたが、星島は応対していなかった。この間、星島は外出しておらず、室内の検証では血痕をふき取っ たような跡が見つかっていることから、同庁は、星島容疑者が「空白の時間帯」に室内で証拠隠滅を 図ったとみて追及。 星島は4月18日午後7時半ごろ、帰宅直後の瑠理香を襲ったが、抵抗されたので玄関近くにあっ た台所の果物ナイフで脅して連れ出し自室で殺害したと供述している。帰宅した瑠理香の姉が、室内 の異変に気づいて110番通報したのは同9時15分頃。この直後から瑠理香の部屋(916号室) がある9階には多数の捜査員が出入りし、廊下などで鑑識作業が行われていた。聞き込みは、犯行か ら僅か3時間半後だったが、星島は動揺することなく瑠理香と面識がないことなどを淡々と説明した。 ところが、捜査員が19日朝までに、改めて2~3回、星島の部屋(918号室)を訪れたが、イン ターホンを鳴らしても、在室していることが判っているのに出てこなかった。捜査員が19日午前中、 室内の様子を確認するため訪ねた際に、ようやく星島は姿を見せ、捜査員を自室に上げ、ためらうこ となく浴室やトイレの中などを見せた。捜査は生きた女性を探すのであるから、いなかったために疑 いを持つには至らなかったという。しかし女性の衣服などはまだ部屋の中にあったのだから、それを 発見出来なかったのが惜しまれる。他の部屋の住人は「米櫃の中まで見ていった」と話している。こ れまでの調べに星島は「遺体は細かく切断し、トイレに流した」と供述していたが、「一部をゴミと して捨てた」と話していることも判明。失跡時に瑠理香が身に着けていたコートやバッグ、携帯電話 はそれぞれマンション外に持ち出して捨てたという。逮捕前日の今月24日に室内を検証した際には、 微量の血液が部屋の目立たない場所から拭き取ったような状態で検出された。警視庁では、星島容疑 者が聞き込みに応じなかった空白の時間帯に犯行の痕跡を消す作業をしていたとみている。 ●初動捜査ミス 自供による下水の捜査で700m離れたところから人骨が発見され、瑠理香の肋骨の一部だろうと いうことが判った。星島は相当動揺していたと見られ、勤務先では尋常な様子ではなく、上司が2度 早退させたという。バラバラにした遺体はゴミ袋に入れて外に持ち出して他のマンションのゴミ捨場 などに捨てたとも自供していることや、近くのコンビニでゴミ袋購入する際、血の染み出た布袋を店 員に指摘されており、警視庁の杜撰な捜査が問題となっている。ともすれば2、3日で解決した事件 かも知れないし、その日の内に星島の部屋を見ていれば、星島は「警察が騒ぎ出したので殺した」と 供述しているのだから、瑠理香は生きて助けることかができたかも知れないのだ。少なくとも遺体は あった筈だ。 同じ頃、大阪で強盗傷害を起こした犯人を、上尾で巡回中の埼玉県警のパトカーが、顔を逸らした 態度に不信感を抱き、ユーターンして職質しようとしたところ、逃げ出したので追い詰めたら犯行を 自供したという大手柄に比べて、情けねえ! 星島は岡山の名門の名前で、星島二郎という衆議院議員も輩出している。直接関係あるかどうかは 判らないが、同族の端くれであることは間違いなかろう。こいつも死刑になることはないから、10 年もすれば出てくる。人の命は鵜の毛、軽いね。 |
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■潮見駅 塩浜2丁目7番20号にあるJR京葉線の停車場。京葉線全通時(この時の開業区間は東京~新木 場間)に開業した。ホームは高架島式1面2線構造。ホームと改札階を結ぶエレベーターは未設置。 改札口は1ヶ所のみで地上1階にある。出口は西口と東口の2ヶ所。 各駅停車しか停まらないため、データイムの列車は15分おきと少ない。 |
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■東雲節 作詞・不知山人 作曲・横江鉄石 何をくよくよ 川端柳 焦るる 何としょ 水の流れを 見て暮らす 東雲の ストライキ さりとは辛いね てなこと おっしゃいましたかね 娼妓のストライキから生まれたとの説が広く行われているが、他に名古屋の東雲楼説、熊本の東雲 楼説もあり、この唄が自由廃業から出たものではあっても、特定のものではないようだ。明治33年 頃からの日露戦争ころまで全国的に流行した。 |
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■東雲小学校(開校記念日10月2日→理由不明) 東雲2丁目4番11号にある区立校。昭和54年4月区の最南端に44番目の区立小学校として豊 洲小学校から分校(541名)して新設された。学区は東雲・有明地区で都営東雲1丁目・2丁目ア パートなどの集合住宅建設を始めとする南部埋立地の発展により1000名を越えていた豊洲小学校 の児童の収容対策、また有明地区児童の遠距離通学問題の解消が図られた。同55年校歌制定。 校歌「緑 明るい」 作詞・初代校長北嶋正信 作曲・音楽教諭陰山(現姓上田)祝子 1.みどり明るい大空に 夢があふれる子供の世界 希望の道を踏みしめて 学ぶ我等の 学ぶ我等の 東雲小学校 2.のぞむ港湾 潮風に 大きく開くみんなの心 行く手海原 はてしなく 楽し我等の 楽し我等の 東雲小学校 3.広く伸びゆく江東に 清く湧き出る意欲の泉 力合わせてやり抜こう 誇れる我等の 誇れる我等の 東雲小学校 同63年東雲音頭完成披露。開校10周年記念式典。タイムカプセル埋設。同10年開校20周年 記念式典。同15年通年制の日本語学級設置。 ●日本語学級 現在は青海地区も通学区で、国際交流館に居住する様々な国籍の国籍の児童が通学している。日本 語学級の子供たちは、各クラスに所属していますが、日本語の習得状況に応じて日本語学級に通級し てくる回数を決める。基本的にはマンツーマンで授業を行う。 |
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■東雲図書館 東雲2丁目7番5号にある。 |
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■東雲駅 東雲2丁目8番10号にある東京臨海高速鉄道りんかい線唯一の高架停車場。平成8年当時は臨海 副都心線の新木場~東京テレポート間開業時に設けられた。ホームは相対式2面2線構造。ホームと 改札を結ぶエレベーター完備。ホームは10両編成に対応する長さだが、2号車~4号車付近の3両 分程度にしか屋根がかかっていない。改札口は1ヶ所のみで1階にある。出口は南側の出口Aと北側 の出口Bの2ヶ所だ。 東雲地区は近年キャナルコートなどのマンション群が建設されたが、東雲駅からはやや遠く、そち らの住民はほぼ有楽町線の辰巳駅へ流れる。有楽町線のほうが運転本数も運賃の安さも勝っているの でし方ない。因みに池袋までの運賃は辰巳から有楽町線だと230円、東雲からりんかい線だと57 0円(いずれも平成19年11月現在)だ。 |
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■かえつ有明中学高等学校 東雲2丁目16番1号に、平成18年千代田区富士見から移転してきた私立校。移転前は「嘉悦女 子中学高等学校」だったが、移転後は少子化を見越して男女共学とした。背に腹は代えられないか? この学校の特色は、情報センター「ドルフィン」では、コンピュータ教育と図書館教育を融合した 総合的な情報リテラシーを養成するための教育が行われている。またかえつ有明が独自に設置する科 目「サイエンス」は、国語と理科を統合したような総合科目であり、臨海副都心に点在する科学系の 博物館や本田技研株式会社とのコラボレーションを行っている。 さらに校内の売店「Chao!」では、JR東日本が提供するSuicaの電子マネーが利用でき る。中学・高等学校での電子マネー利用は全国初の取り組みであり、日本経済新聞・NHK教育テレ ビなどのメディアで紹介された。 嘉悦当時の卒業生はタレント程度で超有名人はいない。 校訓は「怒るな働け」 校歌は公表していない。 |
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■雄松院 白河1丁目1番8号にある浄土宗の寺。 ●度会園女の墓 園女は、芭蕉の門人で、寛文四年(1664)伊勢山田に生まれ、斯波(度会)一有に嫁したが、 元禄十五年(1702)に死別した。宝永二年(1705)宝井其角を頼って上京し、富岡八幡宮門 前に住み、夫の医業を継ぎ眼科医を営んだ。享保三年(1718)仏門に入り智鏡と号し、俳句を芭 蕉に学び、歌も書道も巧みだった。句集に『鶴の枝』『菊の塵』などがあり、女性らしい細やかな観 察のある俳句に魅せられる。桜を愛し、永代寺庭園に桜株36本を植えたため、世に園女桜・歌仙桜 と称せられたが、いずれも枯死してしまい、深川公園(永代寺寺域跡)に「園女歌仙桜の碑」だけが 残っている。享保十一年(1726)に没した。 |
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●奈良屋茂左衛門の墓跡 通称「奈良茂」。本姓神田氏。紀伊国屋文左衛門と豪遊を競った富豪の材木商。墓は大震災で失わ れ、現在過去帳のみが残されている。再建されないところを見ると家は断絶してるんだ! 茂左衛門 は数代あり何代目の茂左衛門が紀伊国屋と贅を競ったのか判らない。黒江町に大層な屋敷を構えて住 んでたようで、今は〝兵(つわもの)共が夢の跡〟だ。 |
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■深川江戸資料館 白河1丁目3番28号にある。展示は、情景展示・生活再現展示という手法で、建物の中に深川の 町の一角をそのまま再現してある。江戸時代の長屋の構造などがよく判るよ。ここへ入るときには、 江戸に素人の人は、入口で解説冊子を先に購入して読んでおくと、中の展示物の詳細が解説されてい る冊子なので理解しやすいよ。これが無いと素人には単なるあばらやが建てこんでるだけということ になる。入館料300円がとこ損する。生活に密着した庶民の知恵っちうか、今でいう「おばぁちゃ んの知恵袋」みたいな実演企画をやったりもしているので、そういう時に出くわすと、めっけもんで面 白いよ。照明や音響で、約20分で1日を再現するような設定になってるんだ。 開館は、第2・第4月曜日(祝日の場合は翌日)・年末年始の休館日を除く毎日 9:30~17:00。 03-3630-8625 |
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■霊巌寺学寮跡 白河1~2丁目、三好1~2丁目にかかる辺りにあった。霊巌寺は、浄土宗の僧侶養成期間「関東 十八檀林」の1つ。学寮とは、学侶を止宿させて講学を目的とする檀林内の寮舎、平たくいえば全寮 制の浄土宗大学だ。 『文政江戸府内寺社書上』によると、中央区新川に開いた霊巌寺は、寛永五年(1628)檀林と なり、90棟の学寮が造営された。しかし明暦の大火で類焼し、深川に移って再建され、学寮は70 棟となった。その後宝暦二年(1752)48棟、文政十一年(1828)41棟と次第に減少して いった。明治3年勧の学院設置後、檀林制度は廃止され、翌年国家権力による学制に採用された。こ れは明治政府が、体に障害のある者を除いた全ての国民を軍事力に組み込むため、画一教育する必要 に迫られたためである。義務教育とは、軍隊において上官の命令を理解し行動に移しうる能力をえさ しめる教育カリキュラムをいう。何度もいうが義務を負うものは親であって子供ではない。権力が子 供を仕込むことに親は反対してはならないという意味だ。明治10年頃には学寮に院号寺号が許され 独立させられた。現在学寮から起立した寺は、蔡華院・法生寺・円通寺・摂心院の4ヶ寺だ。霊巌寺 学寮の特色は、学寮が檀家を持ち、寺院の機能も果たしていたことだ。 |
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■道本山東西院霊巌寺 白河1丁目3番3号にある浄土宗の寺。京都知恩院の末で芝増上寺の支配に属した。江戸時代は御 朱印50石を賜わり、区内で最も寺格の高い寺院で、昔は18寮・8庵・11子院を持ち関東18檀 林の1つとして規模の宏壮なこと、江戸の寺院中屈指のものだった。初め霊巌上人が、現在の中央区 新川がまだ湿地の蘆原だった元和年間(1615~23)にその葦原を埋め立てて土地を造成して霊 巌島とした。水抜き堀(亀島川)を掘ったので島状態になったからだ。島といっても元が湿地のこと ブヨブヨで蒟蒻島と悪口をいわれた。ここに一寺を建て霊巌寺と称したが、2世珂山和尚の時に明暦 の大火に遭い、総てが灰燼に帰したため、万治三年(1660)改めて深川の地に土地を拝領し、こ こに寺を移したのが現在の霊巌寺だ。 ●雄誉霊巌の墓 檀蓮社雄誉霊巌は、この寺の開山で、天文二十三年(1554)駿河沼津生まれ、本姓を沼津といっ た。永禄七年(1564)沼津浄雲寺の増誉について出家し「肇叡」と称えた。同11年(1568) 下総国生実(おいみ)の大巌寺へ移り、名を霊巌と改め、天正十五年(1587)に同寺3世となっ たが、辞して奈良に移った。文禄二年(1593)には徳川家康の命で大巌寺に戻り、寛永元年(1 624)から江戸前島沖の湿地を埋め立てて霊岸島を築き、霊巌寺を創建して、同六年(1629) 京都知恩院の32世となったが、同十八年(1641)江戸に下った時、急に病に倒れ、霊巌寺おい て88歳で没した。寺は明暦の大火で類焼し、万治二年(1659)に深川の現在地に移った。 ●江戸六地蔵 境内に築造地蔵菩薩坐像がある。この地蔵尊は、深川に住んでいた地蔵坊正元が、少年時代、地蔵 尊を祈願して病気が平癒したころから、自ら江戸市中を托鉢して喜捨を乞い、江戸府内の6ケ所にそ れぞれ建立したものの1つだ。 1番 品川寺(品川区)宝永五年(1708) 東海道 2番 東漸寺(台東区)宝永七年(1710) 奥州街道 3番 太宗寺(新宿区)正徳二年(1712) 甲州街道 4番 真性寺(豊島区)正徳四年(1714) 中仙道 5番 霊巌寺(江東区)享保二年(1717) 千葉街道(元佐倉道) 6番 永代寺(江東区)享保五年(1720) 不明 ●伝首斬り浅右衛門の墓のこと 昔、このあたりに浅右衛門の墓だと噂された巨大な石碑が建っていた。首斬り浅右衛門というのは、 本姓を山田といい、斬首刑が行われていた時代の死刑執行人といわれているが、浅右衛門が首を刎ね る訳ではない。首切りは町奉行同心が執行する。浅右衛門は将軍家の刀のお試し切りが役職だ。刑死 体を譲り受けてその任に当った。碑の高さは約3m、碑面には「南無阿弥陀仏」の六字名号を刻み、 その表面にどす黒い血痕のような皹割れがあった。そこで人々は「その血痕のようなものは、浅右衛 門の手にかかって打首となった罪人の恨みの血だ」と勝手に想像し、噂し合っただけのことで、それ はただの皹割れ、碑は浅右衛門とは無縁のものだった。その石碑はうら寂しい墓地の一角に一際目立っ て建っており、不気味だったことからそんな風な噂話になったのだろう。関東大震災で倒れて壊れて 滅失した。今は忘れ去られてしまった。浅右衛門は明治までに9代を数え、墓は四谷の興勝寺と豊島 区祥雲寺にある。 ●本田忠統の墓 霊巌寺本多家墓所にある。学者大名といわれた忠統は、元禄四年(1691)近江国膳所藩本多家 に生まれ、宝永元年(1704)14歳で、膳所6万石を継いだ。同四年(1707)従五位下伊予 守に叙任され、享保十年(1725)35歳で若年寄に就任した出来のいい殿様。大名中でも有名な 学問好きで、儒学に古文辞学を唱え、8代将軍吉宗のブレインでもあった荻生徂徠の門人となり、漢 学、儒学を学んだ。特に漢詩、寛文に秀でており、猗蘭と号した。著書に『猗蘭子』『古言録』『猗 蘭台集』などがある。宝暦七年(1757)67歳で没した 大名家の墓は多く、高田藩榊原家・桑 名藩松平家・尼崎藩松平家・今治藩松平家がある。 ●松田東吉郎の墓 霊巌寺の墓域にある。東吉郎は越前福井藩士で、天保八年(1837)に松田理兵衛の子として生 まれ、諱は和孝、字は誠道、蓼水と号した。江戸へ出て、茅野金陵について学び、詩文を良くした。 福井に帰郷し、藩校明道貫館の助教に任ぜられた。同藩の橋本佐内と親交があり、日下部伊三次、久 坂玄瑞、桜任藏らの勤皇の志士とともに、皇威回復のために奔走した。安政五年(1858)アメリ カなどとの通商条約締結問題、将軍継嗣問題などによって「安政の大獄」が起き、藩主春嶽松平慶永 は隠居させられ、同志たちは投獄された。東吉郎は憤慨し、大老井伊直弼に上書しようとしたが果た せず、病を得て同六年霊岸島の藩邸で屠腹して亡くなった。齡23歳だった。後に明治政府から正五 位(並大名よりちょっと偉い格)を贈られた。 |
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●松平定信 宝暦八年~文政十二年(1758~1829)。幼名賢丸。号楽翁・花月翁・白河楽翁。越中守。 田安宗武の7男(八代将軍吉宗の孫)。白河藩主松平定邦の養嗣子。天明の大飢饉の最中に26歳で 家督を継ぎ、的確な藩政で餓死者を出さずに名君と讃えられた。天明八年(1788)農村崩壊・財 政破綻・外国船の接近など問題山積の幕政打開のため、その手腕を買われて老中首座に就任、田沼意 次を失脚させ、十一代将軍家斉を補佐し「寛政の改革」を断行した。祖父吉宗の「享保の改革)を模 範とし、勤倹尚武を精神的支柱として棄捐令・囲米の制・風俗の匡正などを行い、寛政異学の禁を施 行、鬼平こと長谷川平蔵建白による人足寄場を設置するなどの一応の成果をあげた。しかし放漫財政 の田沼時代の反対命題として出発した改革だったが、はじめは期待された改革もうまく機能せず、過 度な禁止政策が目立ち奢侈に慣れた武士・庶民の不評を買い、 白河の水の清さに耐えかねて元の田沼の濁り恋しき(狂歌) 白河の清きに魚も住みかねて元の田沼の濁り恋しき(狂歌) と揶揄されるようになるに及んで家斉と対立、尊号一件を契機に老中職を辞した。しかし昨今の政 治家と違って「七部積金」という大いなる実績を残した。この積立金は維新時には140万両にも達 し、東京府の公共施設の整備に当てられ大いに福祉行政に役立ったのはいうまでもない。失業保険や 国民年金を食い物にしている官僚や政治家とは大違いだ。辞任後は藩に戻って文教政策を推進し、入 舟町に「松月舎」という閑居を設け、そこで著作に耽り『宇下人言』『集古十種』『花月草紙』など 多くの書籍を著した。文政十二年(1829)に72歳で没し、墓は当時のまま保存され、昭和3年 史跡に指定された。本堂に向かって左手に門構えも立派な墓所がある。 |
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■白河小学校 廃校 白河1丁目5番15号にあった区立校。 [白河国民学校] 昭和17年4月深川区白河町1丁目1番地(現在地)に瓦葺き木造2階建て新校舎(普通教室24 ・特別教室3)が建てられ、八名川・深川・明治・元加賀の4国民学校から移籍した児童と新入生を 含めた1230名24学級でスタートした。同19年新潟県中蒲原郡へ学童集団疎開。しかし校舎は、 同20年のあの愚かなアメリカ軍の非人道的無差別大空襲により全焼。4月に明治国民学校を借りて 授業を再開したが、同21年3月を以て廃校。 白河国民学校校歌「梅鉢の」 1.梅鉢の御紋に映えて光たつ おお白河校 おお白河校 直きは我等ぞ 日本の少年 今日珠の心磨きて 鉄(くろがね)の體鍛えん 體鍛えん 2.國思ふ楽翁公(松平定信)の血に薫る おお白河校 おお白河校 励むは我等ぞ興亜の少年 今勤労の汗と感謝の 誠もて 君に應えん 君に應えん 3.雪に咲く梅の香を炬と仰ぎ おお白河校 おお白河校 努むは我等ぞ 世界の少年 巣立ち行く若き翼に 皇国の明日を担わん 明日を担わん [白河小学校] 昭和25年明治小学校から同校内で分校し、「東京都江東区白河小学校」として開校。児童807 名15学級で再スタート、同26年1月白河国民学校跡地に木造2階建て新校舎11教室が完成し移 転した。4月25日開校記念式典。同29年講堂落成。同32~34年度児童数は1200を越えピ ークに達するも以降減少していく。同35年創立10周年記念式典・校歌制定。 校歌「広やかに」 作詞・勝承夫 作曲・中田喜直 1.広やかに霞む空 和やかに渡る風 正しく強い白河の子は 翼揃えて、飛び立つ小鳥 いつも仲良く進もう我等 2.泉湧く清澄の 緑にも届く歌 明るく育つ白河の子は 一人びとりがやりぬく気風 希望溢れて伸び行く力 同40年鉄筋コンクリート造り3階建て校舎第1期工事竣工。同41年「愛の鐘」が完成し、「希 望」の像序幕。同42~45年第2期~4期工事竣工。同46年土俵開き大鵬親方来校。同47年屋 内体操場落成。校舎完成記念式典。同52年岩石園・鑑賞池完成。同55年白河吹奏楽団結成。10 月開校30周年記念式典・白河国民学校昭和19年度卒業生に卒業証書授与。福島県白河市白河第三 小学校と姉妹校となる。同57年吹奏楽団がTBSこども音楽コンクールで優秀賞受賞。同58年吹 奏楽団がTBSこども音楽コンクール東日本大会出場。同62年交通安全優良校として警視総監賞受 賞。平成11年ポケットエコスペース完成。同12年開校50周年記念式典。同14年明治小学校に 吸収統合され閉校。跡地はKインターナショナルスクールに買い取られた。 |
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■Kインターナショナルスクール 白河1丁目5番15号の白河小学校跡地にある私立校。首都圏のインターナショナルコミュニティ ーに、特定の宗教を基盤としない幼稚園から12年生(高校3年生)までの男女共学教育を提供する 進学校。卒業生は100%日本は当然、世界各地の大学に進学している。平成9年に設立され、同1 2年7月に東京都から学校法人として認可を受け、現在では約600人の生徒が通うまでに成長して いる。 |
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■干鰯場(銚子場)跡 白河1丁目7番辺にあった。干鰯場(ほしかば)は、肥料にする乾燥鰯が船によって産地から運ば れ、問屋が陸揚げして売るところであり、各地からの産物の集まる水運の中心地深川を代表する史跡 だわさ。銚子場は、海辺大工町のうち、高橋の通り、現在の清澄通りの東側、小名木川に面した干鰯 売場で、ここで取引される干鰯は、千葉の銚子からのものが多いので「銚子場」といった。元禄九年 (1696)次郎右衛門ほか五人が、武家屋敷を譲り受け、町並抱屋敷として干鰯場に改めた。当時 の規模は4535坪だったが、内1076坪は町屋(町人町)となり、3459坪が次郎右衛門・与 右衛門・小四郎3人の持地となった。明治以降干鰯肥料は、北海道の魚粕や大豆粕に変わり、さらに 大正時代の化学肥料の進歩によって、まったく昔の姿は見られなくなった。 |
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■真光庵 → 真光寺 廃寺 白河2丁目4・8番の辺りにあった黄檗宗江戸八ヶ庵の1つ。開創は延宝八年(1680)、開山 は潮音道海、開基は円照院恵月真光禅尼(田上氏)だ。上野国甘楽郡不動寺の末。真光道婆が、開基 前年潮音和尚に帰依し、潮音の弟子慧林性機和尚を招いて真光庵と号したことに始まる。 正徳二年 (1712)厳有院徳川家綱の33回忌の追善のため、黄檗宗江戸八ヶ庵に寺号が許され、真光庵は 慧日山真光寺と改めた。境内年貢地2447坪は元田上氏の別荘だったようで、田上忠左衛門光吉は 寺を中興している。真光寺は、明治5年泰耀寺の兼務となり、寺は消滅した。泰耀寺は江戸川区松本 に移転している。 |
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■万祥庵 → 大安興国山万祥寺 廃寺 白河2丁目4・8番の辺りにあった黄檗宗江戸八ヶ庵の1つ。開創は寛文年中(1661~72) で、開山は凌雲。当庵は、凌雲の縁者六太夫の計らいにより、海辺大工町裏町藤右衛門所持地396 坪を譲り受け、小庵を営んだことに始まる。正徳三年(1713)には山号寺号が免許され、大安興 国山万祥寺と号す。この時六太夫は2067坪を境内地として寄進し、伽藍の整備に努めた。万祥庵 は当初新宿区市ケ谷薬王寺の末だったが、延宝年四年(1676)には海福寺の末に改められた。開 山の凌雲は、海福寺2代独本の弟子で、同寺の4代を務めた。明治12年海福寺兼務となり、万祥寺 は消滅した。 |
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■宜雲寺(ぎうんじ) 白河2丁目7番10号にある臨済宗妙心寺派の寺。 ●大震災殃死者紀念碑 蒼龍十一世謙道 戦災供養塔と並んで建つ。碑陰には大震災でなくなった人の氏名がびっしりと刻まれている。数で 134名。最下部右側には「深川区東大工町第三部」とあり、発起人の名が連なっている。東大工町 は現在の地名としては残っていないが、現在の江東区白河および三好町に相当する。震災予防調査会 『大地震ニヨル東京火災調査報告』(中村清二1925)を参照すると、東大工町の火災の様子は次 のようになる。 ①.延焼の規模が大きい 東大工町のガラス工場に発した火は、現在の地名で北は森下三丁目~五丁目、南は木 場一・六丁目に達しました。この火系は約1.4平方キロで大きさでは9番目です。 ②.延焼速度が大きい。 東大工町から延焼が南下して木場に達した頃、九月1日の午後7時から8時までの一 時間に八百二十メートル進み、最大の延焼速度になりました。延焼によって火に囲ま れ、脱出できなかった焼死者が多数出ました。東大工町566番地の丈六原では扇橋 署が113名の焼死者を検死しました。113名という検死数は十番目に多い箇所に なります |
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■玉照稲荷社 白河2丁目10番10号にある小祠。 |
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■行成稲荷社 白河2丁目20番4号にある小社。 |
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■白笹稲荷社 白河3丁目2番にある小祠。 |
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■深川の藪そば跡 白河4丁目3番の辺りにあった。深川の藪そばは、文化十二年(1815)刊行の番付「江戸の華 名物商人ひょうばん」に挙げられ、嘉永三年(1850)と安政三年(1855)発行の江戸図にも 「藪ソバ」とある。また同六年(1859)刊の『霊巌上人略伝』の境内図の中にも「薮中庵ヤブソ バ」と記されており、当時江戸でも相当に有名だったことが判る。この藪そばの起こりは定かではな いが、『材料ぶくろ』によると、信州出身の徳造・お鶴という夫婦が深川扇橋町の浅岡与左衛門の援 助を受けて蕎麦屋を開き、傍らに藪があったので藪そばと名づけたという。『葛西志』所収の観音寺 譲状に「深川藪之内」とあり、この付近が「藪之内」という地名だったことが判る。 |
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■元加賀小学校(明治40年11月9日開校記念日) 白河4丁目3番19号にある区立校。明治40年9月第六(大六)ヶ原と呼ばれて子供たちの遊び 場だった深川区元加賀町15番地(三好3丁目5番)に木造2階建ての校舎が竣工し、「東京市元加 賀尋常小学校」として開校。11月9日開校式挙行。同41年校歌制定。この校歌は関東大震災で学 校が焼失した際に記録が失われ、詳細は不明だ。開校当時は5学級300余名だったが、明治44年 には21学級、大正4年には24学級1500名の児童が在籍した。同2年関東大震災により校舎焼 失。校舎跡で青空教室・テント教室。11月罹災者仮設住宅(バラック)を改造して授業、明川高等 小学校の仮設住宅校舎も借用した。同13年仮校舎普通教室8教室完成。全校児童収容。しかし1~ 3年生は三部授業。4~6年生は二部授業だった。同14年普通教室6、屋内体操場、特別教室(理 科・唱歌・手工)を増築。1年生のみ二部授業。昭和2年4月東大工町48番地(現在地)に鉄筋コ ンクリート造り3階建ての新校舎落成。同7年創立25周年記念式典。校歌制定。 校歌「都の辰巳」 作詞・国文学者吉岡郷甫 作曲・田村虎蔵 1.都の辰巳 大河近く 小名木 亥之堀 交わる辺(ほとり) 立てる学びの庭に集いて 友よ学ばん いざ学ばん 2.水郷静けき昔にかえて 大路小路は賑わい盛(さか)る 人の力の跡を讃えて 友よ努めん いざ努めん 同9年深川区立金沢海浜学園創設。 同14年元加賀青年学校を併設。 同16年国民学校令により 「東京府東京市元加賀国民学校」に改称。同18年都制施行により「東京都元加賀国民学校」と改称。 同19年元加賀青年学校廃校。学校給食開始。対米戦争を始めた東條英樹首相来校。8月高学年学童 新潟県北蒲原郡に集団疎開。同20年愚かなアメリカ軍の非人道的無差別空爆により学校半壊。13 教室焼失。同21年明川国民学校廃校により高等科設置。同22年「東京都江東区立元加賀小学校」 と改称。同24年キティ台風による水害被災者240名西側教室に収容。同41年金沢養護学園(旧 海浜学園)閉鎖。千葉県富津市に新舞子健康学園開設。同42年開校60年記念式典。「希望の鐘」 を屋上に設置。同47年改築のためプレハブの仮校舎に移転。同48年3月吹奏楽部、江東公会堂に て第1回定期演奏会開催。以後毎年3月に開催。同49年吹奏楽部、ハワイでの日米吹奏楽指導者会 議出席のため渡米演奏。校舎改築新校舎落成。同52年開校70周年記念式典。「元加賀賛歌」「元 加賀音頭」発表。同58年元加賀吹奏楽部は13年間の歴史の幕を閉じ「江東青少年吹奏楽団」とな る。平成5年元加賀学童クラブ開設。同9年開校90周年記念式典。同12年地方自治法改正により 東京都の冠称を外し「江東区立元加賀小学校」と改称。新舞子健康学園閉鎖。同14年耐震化工事の ため旧白河小学校校舎を仮校舎とする。同15年耐震工事終了し全生徒帰校。しかしシックハウス発 生のため再び旧白河小学校校舎に戻る。同16年 ●元加賀の由来 元禄十一年(1698)埋め立てた造成地の一部が加賀100万石前田家に与えられ同家下屋敷と なった。屋敷というと別荘のように思うかも知れないが、農地や倉庫、置場として利用されることが 多い。無論殿様が利用する建物は建ててある。この下屋敷が移転した跡地を民間の農地に払い下げた ことで「元加賀新田」と命名した。新田は「新しい村」の意で、江戸時代になって開かれた村(自治 体)のことだ。けして「新しい水田」の意ではない。 ●校旗「みどり会旗」 昭和28年に作られた児童会組織「みどり会」に因み「みどり会旗」として児童の手で毎日掲揚さ れる。因みに掲揚ポールは開校50周年記念として建てられ、「一九六四年オリンピック東京大会使 用記念ポール」と銘が打ってある。 ●開校80周年記念庭園 昭和62年旧幼稚園園庭跡地に作る。バラのアーチを潜ると人工池と花壇が配されている自然環境 豊かな庭園だ。 |
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■白河こどもとしょかん 白河4丁目3番19号、元加賀小学校南門の西側にある、何とも可愛らしい図書館。図書館がある と知らずに通りかかったら気付かずに通り過ぎてしまうこじんまりした建物だ。門に「白河こどもと しょかん」という表札はあるのだが、看板ではなくまさに表札。小屋みたいな感じ。ドアも、自動ド アではなく手動の引き戸。カラカラと開けて中に入ると、中もこれまた可愛らしい。机も児童用なの で小さい。2階もあり、子供に話して聞かせる「おはなしの部屋」となっている。2階への階段が、 これまた小屋風で可愛いらしい。おはなし会がない時には上には上がれないようになっている。 |
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■松島稲荷大明神 白河4丁目4番15号にある小祠。 |
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■新大橋 隅田川に架かる橋は日光道中の「大橋(千住大橋)」しかなかったが、明暦の大火で江戸と本所・ 深川を結ぶ「大橋」が架けられたが、まもなく俗称の両国橋が正式名称となった。新大橋は元禄六年 (1693)隅田川に架けられた三番目の橋で、大橋(両国橋)より新しい大橋の意でそう呼んだが、 橋名が決まらぬまま新大橋が正式名称となった。橋の位置は現在の位置よりもやや下流側であり、西 岸の水戸藩御用邸の敷地と、東岸の幕府御用船の係留地をそれぞれ埋め立てて橋詰とした。この橋は 非常に何度も破損、流出、焼落し、その回数は20回を超えた。幕府財政が窮地に立った享保年間に 幕府は橋の維持管理を諦め、廃橋を決めるが、町衆の嘆願により、橋梁維持に伴う諸経費を町方が全 て負担することを条件に永享元年(1744)に存続を許された。そのために橋詰にて市場を開いた り、寄付などを集める他に、橋が傷まないように当時は橋畔に高札が立てられ、 此橋の上においては昼夜に限らず往来の輩やすらうべからず、商人物もらひ等とどまり 居るべからず、車の類一切引き渡るべからず つまり「渡る者は立ち止まらずに渡り切れ、商人も乞食も商売するな。荷車など一切の車輌は通行 禁止)」とされた。、明治18年新しい西洋式の木橋として架け替えられ、同45年にはピントラス 式の鉄橋として現在の位置に生まれ変わった。竣工後間もなく市電が開通し、アールヌーボー風の高 欄に白い花崗岩の親柱など、特色あるデザインが見られた。そのため貴重な建築物として、現在愛知 県犬山市の博物館「明治村」に中央区側の、全体の8分の1、約25mほどが部分的に移築されて保 存されている。江東区側の橋銘板は八名川小学校に寄贈され、旧橋の石造親柱が区によって東詰の公 園に保存されている。 |
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●芭蕉の句 この当時、橋の東詰に住んでいた 松尾芭蕉 は、架設中の橋を見て、 初雪やかけかかりたる橋の上 と読み、さらに完成した新大橋を渡って 有りがたやいたヾいて踏むはしの霜 みな出て橋をいたヾく霜路哉 と読んだ。新大橋開通当時の江戸町民の思いが伝わってくる句だ。どこからでも橋を渡れる現在と 違い、この当時の橋は本当に貴重な存在だったようだ。前の2句は旧新大橋の石柱と昭和52年12 年改架の新大橋の中央ポール下のブロンズ製レリーフにそれぞれ記載されている。 ●大はしあたけの夕立 歌川広重がその最晩年に描いた「名所江戸百景」の中に登場する錦絵。ゴッホが特に影響を受けた とされるこの絵は、日本橋側から対岸を望んだ構図だ。「あたけ」というのはこの新大橋の河岸にあっ た幕府の御用船係留場にその巨体ゆえに係留されたままになっていた史上最大の御座船安宅丸(あた けまる)に因んで、新大橋東側一帯が俗にそう呼ばれていたからだ。ゴッホが影響を受けたのは、雨 の描き方で、それまで洋画では雨を表現できなかったのだ。人の動作と傘の向きと雨粒の線で表わし たこの絵から学んで、西洋人は歴史始まって以来描くことの出来なかった雨を描けるようになった。 まあメラニン色素の不足する白人のことだから、智慧は回らないのだ。 ●新大橋、三また 斎藤月岑の「江戸名所図会」にも描かれている。「三また(三股、三派)」とは小名木川・隅田川 ・中洲川の分岐点のことで、新大橋のすぐ下流側だが、この中州は月見、花見、夕涼み、花火見物の 名所であり、全盛期には江戸一番の繁盛を見せたといわれる場所だ。 ●人助け橋(お助け橋) 関東大震災や愚かなアメリカ軍による東京無差別大空爆の際に、隅田川の他の橋が悉く焼け落ちる 中、この橋は唯一被災せず、避難の道として多数の人命を救ったため、そう称される。現在でも橋の 西詰にある久松警察署浜町交番敷地裏に「大震火災記念碑」及び「人助け橋の由来碑」があり、水天 宮の御神体もこの橋に避難して難を逃れたとか。 ●明治維新百年記念碑 東詰めにあるこの記念碑には、明治維新百年記念と刻してある。そばにプレートがあり、それによ ると、明治10年を記念して、菅沢運勇(当時町会長)の提唱により町会役員並びに町会員各位一同 の協力により建立した、とある。江戸の人間が、江戸を滅ぼした明治維新を讃えるなんて愚の骨頂だ よ。太平の世をぶち壊して今日の無様な世の中にしたのは明治維新だぞ。バッカじゃねえぇか! さらに、石材は福島県三の輪山(安達太良)麓の土湯荒川石を搬出したもので、明治神宮権宮司伊 達巽殿の揮旁による明治天皇御製であり、この御製を町会で元旦の祝賀式その他総会等、町の皆が集 まる機会のある度に必ず合唱し、明治時代を偲び将来の私共の指針として心に刻むと共に後世に伝え るものであると謳っている。総工費¥364,000で町会役員及び福島県安達太良町の菅沢伝氏並 に町の連中の奉仕によりすべて実費で拵えたそうだ。無駄銭を使うんじゃねい。 |
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■御船蔵跡 新大橋1丁目4、5、8~12番と墨田区千歳1丁目8番にかかる地域にあった幕府船舶の格納庫 のことで、隅田川東岸に設けられていた。貞享年間(1684~7)もしくは天和年間(1681~ 3)に対岸の両国(東日本橋)から移転したともいわれるが、既に延宝七年(1679)の地図には 蔵と安宅丸が描かれている。また御船蔵前町は、寛文年間(1661~72)の起立とあるので、そ の頃にはもうあったものと思われる。その規模は、川沿いに長さ3町、面積4890坪の広さで、そ の中に大小14の船蔵が並んでおり、明治新政府が略奪した時、船は38艘あったという。深川側広 場に「御船蔵跡」の石柱が建っている。 御船蔵跡 はじめ寛永九年(1632)この付近に幕府は軍艦安宅丸を伊豆から回航格納し天和二年 (1682)にいたって解体したが、のちここを明治時代まで幕府艦船の格納所として使 用、御船蔵と称しまた。この付近にあった安宅町という地名は安宅丸の由来から生じたも のです。 昭和33年10月1日 江東区 |
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■安宅丸繋留地跡 御船蔵の内にあった。安宅丸は、寛永九年(1632)3代将軍家光が、御船手方の向井将監忠勝 に命じて造らせた巨大な御座船だ。同11年(1634)伊豆伊東で竣工し、翌年品川沖で1度だけ 試乗したが、後は船蔵に繋留したまま、天和二年(1682)に解体された。残ったのは町名だけだっ た。無用の長物の代名詞ともなった船の大きさは、全長38間(約70m)、胴幅18~9間(約3 3m)で、厚さ7寸の外板を貼り、その上を銅板で包んだとか。甲板に2層総櫓を回らし、さらに天 主寄りに2層の天守を構え、船首には長さ3間の竜頭をつけていた。船型・構造ともに和洋折衷の珍 しいもので、巨大さは富士山と見紛うばかりと形容された。これほど役に立たなかったものも珍しい。 |
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■会輔堂跡 新大橋2丁目5番の西半にあった菅野家。享保年間(1716~35)の初め頃に開設された儒教 の私塾。幕府の援助を受け、儒者菅野兼山によって開かれた。兼山は、天和元年(1681)武州埼玉 郡小針村(埼玉県伊那町)に生まれ、名を直彦、通り名を彦兵衛といった。初め伊藤仁斎に、次いで 三宅尚斎に師事して朱子学を学んだ。その後幕府に招聘されて江戸へ出て、屋敷と費用を得て塾を設 けて会輔堂を称えた。生涯子弟の教育に当たり、延享四年(1747)65歳で没した。その子要中 は、名を勘平といい、輪斎と号した。父の跡を継いで会輔堂を運営し大いに盛名を轟かせた。彼は日 講と称して毎日講義を行い、貴賎に関わらず随意に聴講させたので膨大な人が集まったという。高山 彦九郎と交遊があり、彦九郎の書「江戸旅行日記」「武江旅行記」「富士山紀行」「江戸旅中日記」 「天明江戸日記」「寛政江戸日記」に要中と子の彦次郎のことが書かれている。 |
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■伊豆の長八宅跡 新大橋2丁目7番辺(深川八名川町28番地)にあった。漆喰絵画の名人で左官が職業なので一般 に「鏝絵」と呼ばれている。伊豆松崎の生まれで明治22年75歳のときここで没した。長八の詳細 は、品川区東品川に記述してある。 |
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■八名川神社 新大橋3丁目1番4号にある。 |
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■立野山慈眼寺 猿江に移転 新大橋3丁目8~10番辺りにあった日蓮宗の寺。沿革は、了源院日盛が一寺造立の志願を持った が、終に果たせなかったので、弟子の慈眼院日遼が師の志を継ぎ、元和元年(1615)深川六間堀 に一寺を建立したことに始まる。開山は師の日源、日遼は2代目となった。そして元禄六年(169 3)に猿江二丁目に移り、明治45年豊島区巣鴨の現在地(5丁目35番)に転出し、その際に正寿 山と改めた。旧山号の立野は、日遼の父本玄院立野日淳の法号から採ったものだった。寺は初め身延 山末だったが、元禄十三年(1700)七月十三日水戸中納言光圀の所望により、水戸久昌寺の末と なる。 |
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■六間堀跡 新大橋3丁目と森下1丁目の境の西側の不自然に斜めに走る細長い区画がそれ。万治二年(165 9)徳山五兵衛と山崎四郎左衛門を本所奉行として開鑿された、小名木川と竪川を結ぶ運河で、川筋 が直線でなく〝逆くの字〟になっているのは、隅田川の自然堤防の海岸線の澪に従った堀だからだ。 名称は堀の幅が六間あったことによる。両岸は六間堀町と称し地元にとって重要な運河だった。しか し敗戦後の昭和22年水運利用の減少により埋め立てが許可され、焦土によって埋却された。戦争に 負けてなかったら東京の運河は今も残されていたろう。同26年完全に埋め立てが完了し六間堀は消 滅したが、川筋は地図上にも明確に残っている。堀に架かっていた橋は、北から松井橋(真名板橋) ・山城橋・汐時橋(昭和5年の新架)・北ノ橋(下ノ橋)・六間堀橋(昭和5年の新架)・中ノ橋・ 軽子橋(上ノ橋)・細川橋だが、遺構として残っているものはない。 |
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■新木場駅 新木場1丁目6番1号にあるJR京葉線、武蔵野線・東京メトロ有楽町線・東京臨海高速鉄道りん かい線の停車場。新木場駅にいちばん初めに乗り入れたのは、意外にも地下鉄有楽町線。昭和63年 6月8日京葉線よりも半年早く開業した。この時の開業区間は最後に残された新富町~新木場間で、 これを以て有楽町線は全通となった。それから半年後の12月1日蘇我方面から延伸してきた京葉線 が乗り入れた。この時の京葉線開業区間は新木場~南船橋間・市川塩浜~西船橋間及び千葉みなと~ 蘇我間で、東京~新木場間が開通する平成2年3月10日までは新木場駅が京葉線と武蔵野線の始発 駅を務めた。それまでの約1年4ヶ間は、千葉県方面から都心へ向かう客を有楽町線へ乗り換えさせ る駅として機能することとなった。 その後、平成8年に東京臨海高速鉄道りんかい線(開業当時は臨海副都心線)が開業し現在に至っ ている。 JRのホームは4階、有楽町線・りんかい線のホームは2階にあり、いずれも島式1面2線構造。 全てのホームに改札階とを結ぶエレベーターが設置されている。改札は各社1ヶ所づつで、いずれも 3階にある。出口は3社共通の1ヶ所で、そのほか地上までのエレベーターもある。各線の乗り換え は必ず改札を一旦出なければならない。 有楽町線ホームとりんかい線ホームは隣り合っているが、壁で仕切られているためにお互いは見え ない。駅南東には有楽町線の車庫である新木場検車区がある。 新木場とは、同じ江東区内の木場から貯木場や木材関連会社が移転してきて名付けられた地名。駅 周辺に民家やマンションはほとんどなく、もっぱら工場や倉庫街となっている。そのため、乗換客数 はかなり多いものの、駅の外に出る乗客はそれほど多くない。 |
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■砂町蔬菜 寛文のころ(1661~73)、中田新田の松本久四郎が野菜の促成栽培法を確立、延宝9年(1 681)江戸の生ゴミ捨て場の指定を受け(おそらく請願したものだろう)、やがて積もったゴミが 腐植土となって肥沃な土地に転換、発酵熱が野菜の促成栽培を容易としたのだ。水運の便を利して、 農産物の江戸市場納入、江戸の生ゴミと糞尿の収集をリサイクルし、冬場に茄子・瓜・隠元豆を出荷 した。特産品は「丸茄子・人参・葱」だったが、つまみ菜、亀戸ダイコン、京菜、砂村ネギ、針ヶ谷 胡瓜、小松菜、カボチャなどが、市街地化でみんな消費された。 江戸農業を潰したのは誰だぁ!・・・合掌。 ●砂村で作られていた野菜 主につまみ菜、亀戸ダイコン、京菜、砂村ネギ、針ヶ谷キュウリ、砂村ナス、小松菜、カボチャな どだった。砂村の野菜は、江戸の人々にたいへん喜ばれた。それを知る幾つかの資料が今に残されて いる。『江戸砂子』に、 砂村のスイカは上品だ。白いところは薄く、中は濃い赤で、種は黒色、舌当たり軽く、 とても甘い とある。また、 砂村のえにしのうりとなるこうり ともにもらさぬ水菓子の中 とも謳われほど、砂村のスイカは、人々に親しまれていた。キュウリについては、 砂村はかっぱで暮れの尻をふき という川柳が残っており、スイカと同じくとても有名なものだった。さらに、ナスのことを歌った 川柳に、 初ナスをどぶへぶっこむあずまっ子 というものもあるよ。またカボチャについては、式亭三馬が書いた『浮世風呂』という書の中で、 風呂屋の前にいた野菜売りが客にこういった。「買うんならこれにしなせい。こりゃ 砂村だ。いっくらでも持ってくるが、おらが持ってくるのは、ほんとうのこと、出が ちがうわ」といった。 と書かれ、砂村のカボチャは特別だったようだぜ。 |
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●胡瓜 原産地は北部インド、パキスタンだ。日本に来たのは1500年前、中国を経由してやってきた。 多く食べると体が冷えてよくないといわれてあまり好まれなかった。江戸で栽培されるようになった のは江戸時代の後半で、砂村に持ち込まれて生産が始まった。「砂村青節成」「砂村葉込」は特産品 となった。 |
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●人参 東洋種は、江戸幕府の初め頃中国を経て伝わり各地に様々な品種が生まれた。主なものに「滝野川 ・金時・唐湊(とそ)」がある。西洋種は、幕末から明治にかけて英・米・仏からもたらされた。砂村 ・大島辺りで、明治20年前後に(幕末ともいう)横浜からアーリー、ホーン、ショートという短根 種を得て栽培されたのが始まりという。その品種は「砂村三寸」と呼ばれる品種に成長。早生で長さ 9㎝ほど。朱色で肉質が柔らかいのが特徴。春播きで夏収穫、夏播きで秋収穫と二期穫り栽培が行な われた。耕土の浅いところでも良いものが穫れたので江戸川・葛飾・足立の沖積地や大田区の馬込台 地でも栽培され、やがて東京周辺に広がった。砂村三寸に川崎三寸を掛け合わせたものが「馬込大太 三寸」だ! |
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●葱 原産地は中国西部という。日本に伝播したのは平安時代で、江戸にやってきたのは、JA東京中央 会によると、天正年間(1573~92)は長篠の合戦の頃だそうだ。しかし江戸の状況からしてそ んな早い時期に砂村が開けたとは考えられず、砂村氏は横須賀を開発しているから、江戸に入ったの は摂津の砂村氏が種を持って入植した万治2年(1659)ではなかろうか? 葱には二種類あり、 葉身といわれる緑葉を食べるものと、根深と呼ぶ白い部分(葉鞘)を食べるものとがある。砂村氏が 持ち込んだのは葉葱で、江戸は上方より寒いため秋から春先に収穫されるもは霜枯れしてしまった。 ところが葉鞘はより美味しくなったので、葉鞘のより長いものが優良品とされるようになった。葉鞘 を長くするには、成長につれて土を盛り寄せる作業を繰り返す。名物「千住ネギ」は「砂村ネギ」の 改種だ。 |
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■砂村の水害 江東区は、利根川が押し流してきた砂洲で出来ているため低湿地帯だった。湿地の自然の川と川を 結んで堀川(運河)を作り、交通機関として利用していた。その一つが小名木川。しかし大雨や台風 がの度に、川が氾濫し、水浸しになってしまった。多くの死者も出た。寛政三年(1791)の暴風 雨で、砂村一帯は殆んど流され、壊滅的な被害を受けた。住民は当時禁止されていた2階建ての家を 建ててもよい許可を受け、避難のために利用した。 その後、明治になって、荒川放水路(荒川)を掘り、隅田川に流れる水の量を減らし、水害を防ご うとした。今のところこの考えは図に当たり、水害は起きていない。大正6年9月30日、猛烈な台 風が砂村を襲った。海からは、大津波がやってきて、大凡600人もの人が亡くなったり、行方不明 になったりした。そんな被害の中で助かった人もいる。その人の話によると、松本橋の畔に一本の大 きな松の木があり、大津波がき来たた時、その松の木にしがみついて命が助かった人が何人もいたの だそうだ。その松は昔から、大水の時の用心の木だったのだろうという人もいる。人はその木を「一 本松」とよんでいたが、道路を広げるために、伐り取られてしまい。ついこの間までは根っこがあっ たというのだが、ある訳ぁないわな。邪魔だから取ったんだから。しかし恩を忘れて伐ってしまうと は罰が当たるぞ。 |
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■洲崎球場跡 新砂1丁目2番8号オルガノ本社ビルの辺りにあった日本プロ野球草創期の野球場で、昭和11年 2月に日本で6番目に結成されたプロ野球チーム「大東京軍」の本拠地だった。同年秋に大日本東京 野球倶楽部(読売巨人軍)とタイガース(阪神タイガース)による初の日本一決定戦が開催され、沢 村栄治投手を擁する巨人が初代王座についた。この試合はプロ野球史上屈指の好ゲームといわれ、現 在の「伝統の一戦」の由来になった。 川上哲治『回顧録』によると、洲崎球場は急いで造られたため、満潮時には潮が入り、バケツで海 水を取り除いて使用したとか。その所為か、昭和13年の3試合を最後に閉鎖された。 現在、オルガノ本社ビルの前の歩道の植栽に説明板というか碑が建てられている。 「伝統の一戦(巨人・阪神)」誕生の地 洲崎球場 新砂1丁目1、2付近 洲崎球場(別称・洲崎大東京球場)は、日本プロ野球草創期の野球場で、昭和11年2月 に日本で6番目に結成されたプロ野球チーム「大東京軍」の本拠地でした。 プロ球団結成への機運は、昭和9年開催の日米野球で高まりました。同年12月大日本東 京野球倶楽部(現在の読売巨人軍)が結成されると、東京、大阪、名古屋に相次いでプロ 球団が誕生し、昭和11年には7球団によるプロ野球公式戦も開催されました。 しかし東京にはプロが使用できる野球場はなく、在京球団の本拠地建設が急がれました。 そのため、洲崎球場は僅か3ヶ月ほどで完成し、秋のシーズンの最後を飾る「東京第2次 リーグ戦」が開催されました。シーズン終了後には巨人とタイガース(現在の阪神)によ る初のプロ野球日本一決定戦(3連戦)が開催され、沢村栄治投手を擁する巨人が初代王 座を獲得しました。この試合は、日本プロ野球史上屈指の好ゲームといわれ、洲崎球場が 最も輝いた時でした。現在でも「伝統の一戦」といわれる両チーム熱戦はここから誕生し ました 日本プロ野球の歴史を刻んだ洲崎球場は、昭和13年の3試合を最後に閉鎖されました。 僅か3年間とはいえ、日本プロ野球繁栄の礎を築いた貴重な野球場跡として記録を残すも のです。 平成17年2月 江東区教育委員会 |
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■江東運転免許試験場 新砂1丁目7番24号にある。 |
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■新東京郵便局 新砂2丁目4番23号にある。 |
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■八名川小学校(開校記念日大正5年11月14日) 新砂3丁目1番15号にある区立校。大正5年深川区八名川町40番地(新大橋2丁目1・2番) に新校舎が完成し、「東京市八名川尋常小学校」として、六間堀・明治・深川の3小学校から学童6 76名を移して17学級で開校した。当時としては珍しい木造3階建ての校舎で、雨天体操場兼講堂 (体育館)・音楽室・理科室・60畳敷の裁縫室があった。11月14日開校式挙行。開校60周年 記念誌によると創立当初に校歌があったという。 校歌「墨田の流れ」 作詞・作曲不詳。 1.墨田の流れ 濁るとも 富士の清きを心せん 見よ暁の東天に 高き望みの光あり 2.短袴我等の誇りなり 意気は我等の命なり 鉄脚うなり 腕奮う 見よや我等の湖の意気を 大正12年の関東大震災により校舎焼失。露天授業。現在の八名川公園の地にバラック校舎竣工。 昭和2年新校舎建設開始、翌3年鉄筋コンクリート造り校舎竣工し、翌年落成式挙行。同9年校歌制 定。 校歌「東遥か」 作詞・折口信夫 作曲・田村虎蔵 1.東遥か 海晴れ渡り 大川西に巡りて近し 朝明の風は涼しく吹きて 夕焼け空に窓の灯明かし ここにそそれる 我が学校 八名川 八名川小学校 2.大橋越ゆる電車の響き 安宅の岸にしきるや波の あした夕べ弛まず倦まず 励まし励む よき師良き友 ここに集えり 我が学校 八名川 八名川小学校 同15年紀元2600年奉祝創立25周年記念式典催行。校旗制定。同16年国民学校令により「東 京府東京市八名川国民学校」と改称。同18年都制施行により「東京都八名川国民学校」と改称。同 19年8月新潟県北蒲原郡へ学童集団疎開。同20年愚かなアメリカ軍の無差別空爆により校舎全焼。 8月日本はならず者国家アメリカの軍門に降り敗戦。以後属国と成る。9月焼けなかった明治国民学 校で明治・臨海・深川の3校と合同授業開始(本校児童は6名)。10月疎開解除により学童帰京。 同21年4月明治第二国民学校3階7教室を借り単独授業開始。11月本校地の残存教室を改修。 生徒帰校。同22年「東京都江東区立八名川小学校」と改称。同40年創立50周年記念式典。同4 9年5月新校舎落成。同53年NHK全国学校音楽コンクール全国大会優秀校(第二位)。同55年 2月TBS音楽コンクール全国大会第一位・文部大臣賞受賞。10月NHK全国学校音楽コンクール 全国大会最優秀賞(内閣総理大臣賞・文部大臣賞)受賞、日本一となる。同63年TBS音楽コンク ール全国大会第一位文部大臣賞。 平成TBS音楽コンクール東日本大会最優秀賞。同2年ソニー教育賞優秀賞受賞。同3年創立75 周年記念式典。八名川地区教育振興会解散。同8年創立80周年記念式典。同9年パソコンルーム開 設。同11年和室設置。同12年学校給食文部大臣賞。同16年学習塾とも連携した習熟度別学習始 まる。同17年放課後クラブ「げんきっズ八名川」開設。同18年校舎耐震化。ベイネットの協力を 得て、ICタグによる登下校安全システムを全学年で実施。創立90周年記念式典。同20年校庭芝 生化。 ●都電新大橋停留所銘板 昭和47年に廃止になった都電38番系統(築地―錦糸堀)新大橋停留所の銘板が、校舎東側昇降 口に設置されている。 ●新大橋の橋銘板 昭和52年現在の橋に改架した時、取り外されたものを保存している。 ●名物「八名川音頭」 昭和41年創立50周年を記念して作られた。以来運動会では昼の種目として卒業生や保護者も参 加して踊り継がれている。 |
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■南砂町駅 新砂3丁目11番85号にある東京メトロ東西線の停車場。昭和44年3月29日東西線全通時に 開業した。ホームは島式1面2線構造で地下2階にある。ホームと改札階を結ぶエレベーターは設置 済み。改札口は2ヶ所で、出口は4ヶ所。地上行きエレベーターも設置されている。 東西線は南砂町駅を出ると間もなく地上へ顔を出すため、地下区間最後の駅となる。地下区間の駅 では唯一、快速電車が通過する。また南砂町~西葛西間にある荒川中川橋梁は、JR以外の私鉄では 日本一長い橋梁。その長さは1236mある。この橋では昭和53年2月28日に、突風に煽られた 電車が転覆する事故が発生したことがある。 |
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■営団地下鉄東西線列車横転事故 昭和53年2月28日午後9時34分頃、営団地下鉄(東京メトロ)の西船橋行き快速列車(営団 5000系10両編成)が、南砂町~葛西間の荒川中川橋梁上で竜巻による突風を受けて後部2両が 中野方面行きの線路上に横転、1両が脱線。負傷者23人を出した。 当時、営団では地上部要所に風速計を設置、風速15/s以上でブザーが鳴動、注意運転を指示、 20/sで列車運転を見合わせ、25/s以上で運転休止を指示することになっていた。現場から8 00mの地点に風速計が設置されていたが、大手町運輸司令所では警報ブザーは鳴動しなかった。天 候は、午後9時の気圧配置では、北緯40度東経137度付近に低気圧988mbがあり、不連続線 の1本が東京上空を通過、非常に不安定な気象状況だった。竜巻突風による被害は、午後9時20分 頃、川崎市戸田で突風により民家8戸が全壊、60戸の屋根が飛ぶなど、被害区域は幅300~50 0mの帯状の範囲、川崎市から市川市東方までの30kmの範囲、時間は25~30分間に集中した。 竜巻突風は時速80~100kmで北東ないし東北東に直進したものと思われる。 ステンレスカーの車重が問題となったが、その後の調査により、走行中の列車を竜巻が直撃する確 率は50~100年に1回と計算され、不可抗力という結論になった。脱線および転覆した2両は、 橋梁上で復旧が困難と言う理由から現地解体され、その後同じ番号の車輌が2両代替車として新製さ れた。 |
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■稲荷神社 新砂3丁目5番35号、那須電機工業内にある小祠。 |
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■砂町水再生センター 新砂3丁目9番1号にある都下水道局の下水処理施設。昭和5年東京で2番目に稼働した水再生セ ンター。砂町処理区は、隅田川と荒川に囲まれた通称江東デルタ地帯で、墨田区の全部、江東区の大 部分、中央・足立・江戸川・港区の一部からなる広大な区域(6153ha)から発生する下水を有 明水再生センター(臨海副都心周辺)とともに処理している。 処理した水は東京湾に放流しており、またその一部を砂ろ過してセンター内の機械の洗浄・冷却、 トイレ用水などに使用している。発生した汚泥は、三河島・有明水再生センターから圧送された汚泥 とともに、全量をセンター内の東部スラッジプラントで炭化・焼却。 水再生センターからの放流水は、「都民の健康と安全を確保する環境に関する条例」の水質基準を 十分に満たし、魚が住むことができる水質だ。この技術は世界に冠たるもので、欧米の水準でも追い つかない。 ●南砂雨水調整池 砂町水再生センターの砂系ポンプ室を補完する施設だ。江東区砂町地区など約500haにも及ぶ 地域に降る雨水を貯留し、浸水被害の軽減を図る。貯留された雨水は、晴天時に砂町水再生センター に送水し、処理してから東京湾に放流する。また施設を有効に利用するため、本調整池上部は集合住 宅や駐輪場などの公共施設として利用されているんだよ。行政というものは、ちゃんとやるところで はちゃんとやるんだ。私利私欲の政治家、役人はどうして出てくるんだろうかね。 |
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■東川小学校(明治41年10月3日開校記念日) 住吉1丁目12番2号にある区立校。「とうせん」と読む。この学校の起源は、明治6年町年寄増 田市五郎外有志により、深川区本村町広済寺(猿江2‐9の辺り)の堂宇に間借り開業した私塾「幼 学院」開設。同7年深川東町5番地(猿江橋付近)に移転し「私立小学深川学校」と改称。9月公立 学校へ引き直しを受け「第六中学区第7番公立小学深川学校」と改称。同8年1月第六中学十番公立 深川学校(深川小学校の前身)の設立に当たり「深川」の校名を譲り、「第六中学区第7番公立小学 東川学校」と改称。「東の深川」の意だ。8月猿江町16番地(猿江1‐8)に移転。同25年深川 東町6番地(私立文池小学校跡地)へ移転。同30年校舎新築。同40年二部授業開始。同41年1 0月3日現在地に校舎を新築し移転。 大正12年関東大震災により校舎焼失。猿江尋常小学校に間借りして授業。同13年校地に仮校舎 完成し帰校。同14年創立50周年記念式典。児童数1500名を優に突破。同15年校舎本建築の ため猿江御料地(恩賜猿江公園)内の仮校舎に移転。 昭和2年鉄筋コンクリート造り3階建て校舎竣工。同10年校歌・校章制定 校歌は、創立60周年を記念し同窓会によって作られ、昭和10年2月11日の紀元節に制定され た。米田音楽教諭の恩師で、東京都の視学でもあった田村虎蔵に依頼され、歌詞は田村から高等師範 学校々長吉岡郷甫(国文学者)に依頼して作られた。戦後歌詞の一部を変えて現在に至っている。 校歌「源清き」 作詞・吉岡郷甫 作曲・田村虎蔵 カッコ内は現在の歌詞。 1.源清き東の川の 尽きせぬ流れ 結ぶや我等 朝夕倦まず 学び励みて 市に盡さん 國に盡さん(強く明るく伸び行かん) 2.世は住吉の教えの庭に 花撫子と匂うや我等 明け暮れ弛まず 身をば修めて 親に仕えん 君に使えん(深く正しく道を窮めん) 同3年プール完成。同16年国民学校令より「東京府東京市東川国民学校」と改称。同18年都制 施行により「東京都東川国民学校」と改称。同19年8月愚かなアメリカ軍の無差別空爆を避けるた めに、高学年学童は新潟県中蒲原郡に集団疎開(約500名、他に縁故疎開740名、残留は870 名)。同20年3月愚かなアメリカ軍の非人道的市街地空爆により校舎の大半を失う。8月日本は、 ならず者国家アメリカの軍門に降り敗戦、以後その属国とされる。11月毛利国民学校と合同して同 校舎で授業再開。同21年3月疎開解除により学童集団帰校。同22年学制改革により「東京都江東区 立東川小学校」と改称。同24年第1期復興工事完了。1年3学級・6年1学級が帰校。同25年第2 期復興工事完了。2年3学級・6年1学級が帰校。同26年第3期復興工事完了、全児童帰校。二部 授業。同27年全復興工事完了し二部授業解消。同49年開校100周年記念式典。同50年自然観 察園完成・校庭緑化整備完了。同51年屋上プール完成。昭和19年度卒業生に卒業証書授与。同6 1年校歌碑除幕。平成5年創立120周年記念式典。同15年創立130周年記念式典。 |
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■九条武子とあそか病院 住吉1丁目18番1号のあそか病院の玄関に白大理石の九条武子像があり、次の説明がある。 西本願寺、明如上人の息女、関東大震災に際し、罹災者救護にあたられ慈善病院の設 立を発願し、その資金に自著『無憂華』の印税を醵出され、あそか病院の今日あるは ひとへに夫人の医療済世の念願によるものである。 おほいなるもののちからに ひかれゆくわがあしあとの おぼつかなしや 「あそか」=「無憂樹」=「菩提樹」、その花を無憂華といい、昭和2年武子の著作の書名だ。武 子は、明治20年京都西本願寺法主を父として生まれ、婦人会運動、社会事業、また歌人として有名、 関東大震災後、この地に総合医療救済病院の設立をを意図した。「無憂華」がたまたま、200版数 十万部のベストセラーとなり、碑文にあるように、その印税を病院設立の資金とした。ホリエモンや 村上が、巨万の富を得て、やることがソニーやフジテレビの買収なんぞとは、器がちいせえ、ちいせ え。 病院設立に奔走した武子は過労のため入院、敗血症のため、昭和3年2月7日41歳で病没。杉並 区の築地本願寺和田堀廟所に葬られた。武子の苦労は、昭和5年11月5日に実って完成、今日に至っ ている。 |
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■斎藤堀跡 住吉1丁目~2丁目にある。大横川菊川橋から猿江公園(幕府の材木蔵)までの新大橋通りは、か つて掘割だった。嘉永五年(1852)の尾割屋版「深川全図」には、堀に沿って斎藤内蔵頭の屋敷 がある。掘割の開鑿年代については不明だが、大横川と猿江木材蔵を繋いだ連絡運河だった。震災後 の区画整理で道路になることが決まり、堀より南の貯木場とともに埋め立てられ道路となった。埋め 立てられた貯木場は宮内省御料局管轄下にあったため皇太子殿下御成婚記念として東京府民に下賜さ れ最初の猿江恩賜公園となった。 |
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■猿江材木蔵・猿江恩賜公園 住吉2丁目13番と28番、猿江2丁目15番にある。享保十九年(1734)民間の貯木場を召 し上げて本所横網町から移転し、江戸時代を通じて幕府直轄だった。明治以降は宮内省所管となり、 関東大震災後、その一部が埋め立てられ「猿江恩賜公園」となった。残った貯木場は、戦後東京営林 署の貯木場として使用されたが、昭和47年に閉場となったので東京都が購入、同51年までに潮見に 移った。それから都が整備し、同56年猿江恩賜公園北園として完全開放された。 |
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■江東教会 住吉2丁目14番14号にある日蓮宗の布教所。 |
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■廣得稲荷社 住吉2丁目17番1号にある小祠。 |
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■江東公会堂(ティアラこうとう) 住吉2丁目28番36号の恩賜公園内にある区民会館、文化施設だ。 ●大ホール 収容人数1300人の大ホールは、音楽演奏、特にオーケストラ演奏を主眼に設計され、クラシッ クコンサートに最も適しているとされるシューボックス型空間を採用し、4階分まである高い天井高 を十分に取り、国内でもハイレベルで拡張高い響きを実現した。 ●小ホール アマチュア活動を主眼に置いた140席の可愛いホール。ピアノ発表会やバイオリンの発表会など に最適なミニ・コンサートホールとして拡張の高さと本格的な雰囲気を演出する。各種講演会、小演 劇にも対応できる照明機構や音響設備を備えているよ。 |
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■十万坪跡 千石・石島・千田・海辺・扇橋に亘る一帯。 享保八年(1723)江戸町人近江屋庄兵衛と井籠 屋万蔵両名による新地開発願が許可され、江戸市中のごみを以て埋め立て、同10年に完成した。名 称は開発者近江屋の本姓を採って千田新田と名づけられたが、農業用地は極僅かで、大半は薩摩藩の 抱地となった後、寛永八年(1796)に一橋家の領地となり、そのため一橋十万坪といわれた。そ の頃の100000坪の辺りは、大変に辺鄙で寂しい所で安藤広重の錦絵にも見られるように荒涼た る場所であり、河竹黙阿弥の『姐妃のお百』の歌舞伎の台詞にも「人里はなれた十万坪」といわせて いる。享保十一年~十七年(1726~32)、元文元年(1736)には鋳銭が行われた。 |
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●鋳銭場跡 近江屋庄兵衛が鋳銭場を作り、寛永通宝を鋳造した。鋳造年は『葛西志』によれぱ、 享保十一年より、同十七年迄、深川十万坪にて鋳し、元文元年にも、同所に於て鋳せり とある。また『新編武蔵風土記稿』には「元文元丙辰年五月」とあり、享保十一年~十七年(17 26~32)、元文元年(1736)に鋳造があったことが判る。その後一説によれば、明和五年(1 768)の寛永通宝真鍮銭(四文銭)がここで造られたといわれている。寛永通宝は、背に文字や波 形があり、これによって鋳銭場所が判る。ここで造られたものは「十」の文字が入ってる。 鋳銭場が転々と移動するのは、公害を避けるためだ。 |
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■千石地蔵尊 千石1丁目6番、石住橋跡北詰にある。愚かなアメリカ軍の非人道的無差別空爆によってむざむざ 殺された戦災死亡者を供養するために建てた地蔵尊だ。 |
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■石島小学校 廃校 千石1丁目12番12号にあった区立校。昭和11年「東京市石島尋常小学校」として、深川区石 島町64番地の1(深川第四中学校校地)に扇橋尋常小学校から分校、児童232名移籍して創立。 開校を1月8日に予定していたが、校舎の竣工が遅れ、開校が遅れた。深川区は、大正12年関東大 震災で大被害を受け、多数の小学校が破壊され焼失した。震災後住民は激減したが、その後次第に回 復し、昭和10年には震災前の人口を上回るようになった。震災によって焼失した小学校も、鉄筋コ ンクリート造りで、耐震耐火に留意した新校舎が建設された。 本校は震災後深川区で最初に新設された小学校で、それまで区内の尋常小学校は14校、高等小学 校は1校だった。同16年国民学校令により「東京府東京市石島国民学校」と改称し、同18年都制 施行により「東京都石島国民学校」と改称。同19年新潟県南蒲原郡田上村に、学童集団疎開。同2 0年愚かなアメリカ軍による非人道的無差別東京大空爆により、校舎焼失。区内では明治と元加賀国 民学校が焼け残ったため、就学できる児童を割り振り、元加賀・川南・石島・明川の4校は元加賀国 民学校に集まって授業を再開した。後それぞれの校地にバラック校舎が建てられ帰校。同21年扇橋 国民学校が廃止となり、同校児童を受け入れ。同22年学制改革により「東京都江東区立石島小学校」 と改称。同23年川南小学校と統合されて廃校、「扇橋小学校」が復興した。同24年跡地は改修さ れ、深川第四中学校が移転して来、現在に至っている。昭和27年川南小学校は扇橋小学校から分校 して復興したが、石島小学校は復興されなかった。 東京市石島尋常高等小校々歌 1.帝都の東 大空の 瑞雲籠むる唯中に 明朗著(しる)く聳え立つ 懐かし石島我が母校 2.朝日と昇る校風は 尽忠至誠の意気燃えて 躍進日本を背負い立つ 雄々しき石島我が母校 3.希望は北斗に輝かし 勤しむ学術(わざ)は鮮やかに 芙蓉の峯と香も高く 弥栄(いやさか)石島 我が母校 |
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■深川第四中学校 千石1丁目12番12号にある区立校。昭和22年4月新学制の実施により最初に創立した区立6 校の内の一つ。5月旧深川高等女学校(深川高等学校)の3階4教室を借り、生徒数211名でスタ ート。しかし窓にはガラスも無く、机も椅子も無い状態での開校だった。同24年現在地の石島国民 学校跡地の北側校舎を改修し、一部生徒移転。同25年東校舎の改修が完了し、全生徒を収容。しか しオンボロ学校だったため、この後10数回の改修、校庭整備を余儀なくされた。校歌制定。 校歌「木場の上の風清らかに」 作詞・国語教諭梶原克子 作曲・音楽教諭別府太郎 1.木場の上の風清らかに 鈴懸の下 手を取りて 集う若人 意気高く 希望を胸にいや楽し ああ明け暮れの我が母校 2.真理を愛し只一筋に 誠を尽くす心こそ やがて日本を担う身ぞ 使命は重くいや遠し ああ明け暮れの我が母校 3.若き血潮に燃えたちて 学園の旗 押し立てて 築く未来に栄えあれ 進む前途に光あれ ああ明け暮れの我が母校 同36年プール竣工。同51年前代未聞入学生徒「0」で実務学級1年間休級。 同52~53年校舎全面建替え。校庭補修。創立30周年・新校舎落成記念式典。平成3年校舎大 改修。同4年新プール完成。多目的ホール竣工。校庭整備。同9年創立50周年記念式典。同15年 2学期制モデル校。 |
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■川南小学校(昭和27年6月5日開校記念日) 千石2丁目9番12号にある区立校。「かわなみ」ではなく「せんなん」と読む。 ●第一次 明治16年6月南葛飾郡八右衛門新田外4ヶ村立「川南小学」の開設出願をして許可を得7月に開 校した。八右衛門新田46番地の校舎は木造平屋建て、建坪28坪。敷地は100坪で、小名木川南 岸に位置していたことから「川南」と名づけられた。児童数は47名だった。なお前身は私立の斉藤 小学で、この学校は明治15年に深川東扇橋町2番地に開業し、翌年「川南小学」と改称した。その 後「川南尋常小学校」となり、校舎は深川海辺町11番地に移り、同21年には海辺新田90番地に 新築移転した。同36年石島町281番地に扇橋尋常小学校が設立されたので、翌年吸収され「川南」 の名は消滅した。 ●第二次 大正7年深川区千田町516番地(現在地)に木造2階建て新校舎竣工し、川南の名を復活して「東 京市川南尋常小学校」が開校した。同10年1558名の児童が在籍し、1、2年生は二部授業で凌 いだ。同12年9月関東大震災により学校全焼。露天授業。12月第一期仮校舎完成。普通教室6、 被災者用バラック改造校舎7。復帰児童830。同13年扇橋尋常小学校の全児童収容。 昭和2年校舎再建のため石島町123番地の仮校舎に移転。同3年鉄筋コンクリート造り3階建て 新校舎竣工(普通教室28、特別教室6 雨天体操場など)。同16年国民学校令により「東京府東 京市川南国民学校」と改称。同18年都制施行により「東京都川南国民学校」と改称。同19年高学 年児童新潟県西蒲原郡に集団疎開。同20年3月愚かなアメリカ軍の非人道的無差別空爆により校舎 焼失。元加賀国民学校に間借り。同21年毛利国民学校に移り間借り。扇橋国民学校廃校。同22年 学制改革により「東京都江東区立川南小学校」と改称。同23年石島小学校と統合し扇橋小学校を復 興。再び「川南」の名が消滅。 ●第三次 同27年川南小学校復興。598名12学級。6月5日開校式。同38年講堂改修。プール完成。 同50年校舎改築着手。同52年創立25周年、新校舎落成式。同57年「校歌の碑」建立。同58 年プール完成。平成8年コンピュータ室完成。同9年草創105周年・創立75周年・復興45周年 記念式典。昭和19年度卒業式挙行。同12年地方自治法改正により東京都の冠称を外し「江東区立 川南小学校」と改称。同14年草創110周年・開校80周年・復興50周年記念式典。 ●校歌の碑 昭和57年の復興30周年を記念して、PTA・卒業生・地域の人々が中心となって建てた。また 校章と校歌の歌詞に因み、山桜の木を植樹した。 校歌「朝日に匂う」 作詞・葛原しげる 作曲・草川信 1.朝日に匂う山桜 これぞ我等のしるしなる 勤しみ励み真心を 誠の道に捧げんと 翳すも嬉し川南校 2 望みの海は遠くとも 倦まず弛まず一筋に 小川を合わせ流れて行く 墨田の川を友として 語るも楽し川南校 |
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■化学工業高等学校 統合廃校 千石3丁目2番11号にあった都立校。大正9年商学科を本所区の東京府立実科工業学校(墨田工 業高等学校)。千石町(最終地)の校舎完成して移転。同12年の関東大震災で校舎焼失。日比谷の 府立一中(日比谷高校)と渋谷の府立一商(都立一商)に分かれて授業。同13年バラックの校舎完 成、帰校。昭和2年1月火災により校舎焼失。7月鉄筋コンクリート造り校舎完成。同18年都制施 行により「都立化学工業学校」と改称。同20年愚かなアメリカ軍の非人道的無差別空爆により校舎 焼失。工芸高等学校に移転。同21年元陸軍造兵廠(板橋6丁目)に移転。同22年学制改革により 「都立化学工業学校併設中学校」を設置。同23年「都立化学工業高等学校」と改称。平成13年江 東工業高等学校と統合して「都立科学技術高等学校」(大島1‐2‐31)となった。 跡地には「都立大江戸高等学校」が建った。 |
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■大江戸高等学校 千石3丁目2番11号にある都立校。平成16年開校。都立深川商業高等学校(定時制)と都立東 高等学校定時制、深川高等学校定時制課程を統合して、都立科化学工業高等学校跡地に開校した単位 制・総合学科・三部制(午前・午後・夜間の定時制課程)のチャレンジ学校。 校歌「朝の光に」 山本幸正、小久保正己・作詞共作 作曲・山本幸正 1.朝の光に輝く隅田の水面(みなも) 行き交う人は誰も足早に過ぎてく 自分の言葉さがし 立ち止まれば 運河の先は遥か海へと開いている いま漕ぎ出そう あの海原へ いま心に櫂(かい)を抱いて 2.ひとり下町(まち)の匠は息づく 今でも豊かに 人から人へ永久(とわ)に たゆみなく伝える 自分の行く手照らす 地図を辿(たど)れば 時の重なり遠く 過去へと誘(いざな)っている いま旅立とう あの確かさへ いま心に 愛を抱いてきみと 3.潮の香りがただよう岸辺の公園 かもめは翼休め 機会(とき)を待つのだろう 自分の夢を信じ羽ばたけば 風に向かって高く未来(あした)へ舞い上がる いま飛び立とう あの大空へ いま心に翼抱いて ともに いま飛び立とう あの大空へ いま心に 翼抱いて 大江戸高校の校舎(にわ)から |
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■光明寺 千石9番7号にある浄土真宗大谷派の寺。3階建てのビルディング。 |
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■宇迦八幡宮 千石12番8号にある。開発者千田庄兵衛が、享保年間(1716~35)に創立した鎮守の宮。 ●妙法華経千部供養塔 この境内にちょっと変わった形をした石塔がある。塔身に「大日・弥陀・釈迦・薬師・観音・勢至」 6体の仏像と文字が彫られ、法輪、伏せ鉢が乗せてある高さ約3mの石塔。台座「貞享二年乙丑八月 十五日」の造立年月日と「妙法華経千部供養塔」と刻まれている。これは法華経の信者が、何かを祈 願して、膨大な経典を1000回読んだ記念に建てたのだ。 この石塔の型式は「六角幢幡型宝塔石塔」で、国宝に指定されている奈良県談山神社の石塔と全く 同じで、都内唯一のもの。型式・仏教史上かいって非常に重要で、都の重要文化財級の価値があると いわれているが、一向に国が認めない。元々貞享二年(1685)富岡八幡宮に建てられたもので、 明治初年永代寺が廃寺になったとき、近くの村有地、千田バス停前に移され、昭和27年8月宇迦八 幡宮再建のとき現在地に移設された。 |
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■高橋汽船原発場 高橋1番3号の河岸の辺りに、明治から昭和初期頃まで汽船の待合所と発着所があり賑わったとこ ろだ。関東大震災後の区画整理により小名木川に削られ、当時よりは土地幅が狭くなった。汽船原発 場は、高橋~行徳間の汽船の起点で、ここは各方面の旅客・貨物の乗降積載のの重要な場所だった。 また両国と蠣殻町の原発場から出向する汽船の寄航場として栄えた。そのほかの小名木川筋の寄航場 としては、富川町(新高橋)、大島、草屋(東砂2丁目13番)の3ヶ所があった。 高橋の原発場を管理していた内国通運株式会社深川支店は、明治32年頃には汽船20隻余、和船 30余艘を所有し、新高橋付近の堀を船溜としていた。内国通運は、現在の日本通運株式会社の前身 で、江戸定飛脚問屋に由来し、明治以降は運送業を営み、利根川を始め、関東の水脈を利用して陸上 輸送の発達しない時代から活躍し続けてきた。明治10年には、両輪船の通運丸が小名木川に就航し た。この船は「ポンポン」と煙の輪を吐いて走ったので「ポンポン蒸気」と呼ばれて、汽車のことを 〝岡蒸気〟といったのに対して〝川蒸気〟とも呼ばれた。小名木川は、川蒸気のほか、荷足船などが 数多く往復し、船の交通渋滞がしばしば起こった。昭和になると陸上輸送が盛んになり、水運は減少 してしまった。 |
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■どじょう伊せ喜 閉店 高橋2番にある明治20年創業のどじょう料理専門店。江戸時代の創業、明治20年店を構える。 江戸の町家のような佇まいに一歩足を踏み入れると、時を止めたような空気が古き良き江戸情緒を髣 髴とさせる。ゆったりと食事が楽しめるようにと、掘り炬燵式の座席を用意してる。 丸鍋・骨抜き鍋・柳川鍋、蒲焼・舞子丼・蒲焼丼・うなぎ丼・故意のあらい・なまずなべ(冬のみ) がメニューだが、田舎者東京人諸君、江戸の味を賞味してみな! 平成23年閉店、建て替えのためとも、跡継ぎがいないからとも。 |
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■深川小学校 高橋14番10号にある区立校。明治4年6月16日深川西平野町に共立塾「弘文舎」が創立、同 6年12月学制発布により国の基準の小学校組織に改め、校名を「第6番仮小学(私立)」と改称し た。同8年深川伊勢崎町に校舎を新築し、公立校「第十番小学深川学校」と称する。同19年小学校 令の公布により「深川尋常高等学校」と改称。同21年深川東森下町(現在地)に校舎を建て、東陽 尋常高等小学校を吸収。ために深川小学校の発祥を、東陽尋常高等小学校の発祥としているものもあ る。開校式に小松宮・北白川宮両親王殿下御臨席。同36年校歌制定。 校歌「都の辰巳」 作詞作曲・校長心得中村牧太郎 1.都の辰巳 空澄みて 森の下かげ 露しげく 緑も深き深川の 水にうつろう庭の面 2.庭に生い立つ なでしこの 己がむきむき咲き出でて つきぬ流れを一筋に くみゆく身こそ楽しけれ 同41年小学校令改正により高等科が深川高等小学校として独立したため「深川尋常小学校」と改 称。大正12年関東大震災により校舎焼失。岩崎別邸内に仮小屋を設け授業再開。校地内にバラック の仮校舎を建て帰校。同15年新校舎建設のため、東元町は小名木川畔に仮校舎を移す。昭和3年鉄 筋コンクリート造り3階建て新校舎竣工し、全生徒帰校。同16年国民学校令により「東京府東京市 深川国民学校」と改称。同18年都制施行により「東京都深川国民学校」と改称。同19年8月新潟 県西蒲原郡へ高学年児童が集団疎開。同20年3月愚かなアメリカ軍の無差別空爆により校舎全焼。 8月日本はならず者国家アメリカの軍門に降り属国となる。9月明治国民学校で授業開始。 同22年「東京都江東区深川小学校」と改称。同24年本校地に新校舎完成して帰校。同25年完 全給食実施。同27年旧校舎内の罹災居住者の立退き完了。同48年創立100周年(工事中のため 記念式典延期)。同49年校舎改築工事。1121日創立100周年記念式典。平成15年開校13 0周年記念式典。長慶寺に「深川小学校誕生之地」記念碑建立。 ●伊東深水(伊東一) 日本画家。女優朝丘雪路の父。西森下町の深川神明宮門前で生まれた。本名は一。明治37年入学。 父が失業し深川を離れた2年生の時まで住んだ。また、その後、校内に在った実業補習学校でも学ん だ。創立80周年記念誌の装丁に「バラの花」を描くと共に「幼き日」という当時の様子を記した一 文を寄せている。さらに長男から深水のスケッチ画が寄贈された。深水は「深川」の漢語的表現だ。 墓は品川区上大崎1丁目の隆崇院にある。 |
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■第二辰巳小学校(昭和48年5月2日開校記念日) 辰巳1丁目1番22号にある区立校。昭和43年辰巳小学校開校間もない頃から、児童数は予想を 遥かに上回る勢いで激増した。ピークの同52年頃には2500名に達すると見込まれ、同48年少 年野球場として確保していた区用地(現在地)に「江東区立第二辰巳小学校」として開校した。校舎 は、辰巳小学校と同じ早稲田大学安藤研究室の設計により設計された。だが校舎建設の遅れから、2 回に分けて通学域を変更したこと、6年生を含めて4月から発足したことは珍しく、特色となってい る。5月2日開校式。同49年1月校歌制定。 校歌「清く明るく」 作詞・教諭植野嘉一ほか職員一堂 作曲・教諭山口章子 1.清く明るく伸びゆくわれら いつも元気には励みつつ 心豊かに育つのだ 大地にしっかり根をはる子ども われらの第二辰巳小学校 2.強く正しく伸びゆくわれら いつも希望を抱きつつ 高い理想を目指すのだ 未来の空へ羽ばたく子ども われらの第二辰巳小学校 同年3月第2期工事が完了して普通教室・体育館・プールなどが竣工。同51年第3期工事完了。 普通教室・特別教室(理科・音楽・LL)・倉庫。同53年校庭ダスト舗装完了。平成元年内外装工 事。同14年校舎耐震工事のためプレハブ校舎に移転。同15年校舎耐震工事完了。 |
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■辰巳駅 辰巳1丁目1番44号にある東京メトロ有楽町線の停車場。昭和63年6月8日の有楽町線新富町 ~新木場間延伸時に開業した駅。ホームは島式1面2線構造で、地下3階にある。ホームと改札階を 結ぶエレベーターは設置してあるよ。改札口は1ヶ所のみで地下2階にある。出口は1・2の2ヶ所 のみ。地上へ上がるエレベーターは未設置なんだ |
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■辰巳中学校(開校記念日同63年10月9日) 辰巳1丁目10番57号にある区立校。本校の学区は豊洲の深川第五中学校の範疇にあったが、南 部地域の著しい発展と入居後10年を迎えた都営辰巳団地の生徒の急増、それによる辰巳団地自治会 の強い要望などもあって、昭和52年現在地に第1期工事が完了し開校、深川第五中学校から転入し た2学年242名6学級、新入生269(6学級)でスタートした。当時体育館が完成しておらず、 始業式も入学式も青空式典だった。開校から毎年生徒が増え、5周年を迎えた頃には1100名(2 7学級)を超える生徒数となった。これは深川第三中学校に次ぐ区内2番目の規模だ。同53年第2 期工事完了。同57年開校5周年記念式典・校歌制定。 校歌 1年前音楽担当教諭藤江悦子の紹介で、作曲家宍戸睦郎とその友人の作詞家高内壮介に依頼するこ とになった。そのため高内は学校を訪れ、環境や生徒の状況を具(つぶさ)に見て回りイメージを頭 にした。屋上に上がったとき東京湾を遠望し、広々とした環境に強い印象を受け、これが1番の歌詞 に取り入れられている。メロディに関しては校長2代校長小柴實が「生徒が直ぐに覚えられ、元気よ く、明るく、希望に満ちて大きな声で歌える行進曲風の曲に」と熱望したので、宍戸はそのように作 曲した。 1.潮の香匂う朝まだき 心も弾み 学び舎に 通う辰巳の生徒われらは 風にもめげず逞しく 大鷲の如 羽ばたきて 知識の山に入りなむ おお我が学び舎は辰巳中 2.辰巳の森のさ緑に 心も清く 学び舎に 通う辰巳の生徒われらは 雨にもめげず臆せずに 若鷲の如 しなやかに 知識の道を進まなむ おお我が学び舎は辰巳中 3.行き交う舟の街明けて 心も熱く 学び舎に 通う辰巳の生徒われらは 希望と夢とを膨らませ 青草の如 伸びやかに 知識の庭に育たなむ おお我が学び舎は辰巳中 同63年10月9日創立10周年記念式典。平成8年創立20周年記念式典。同15年創立30周 年記念式典。 |
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■辰巳小学校(10月2日 理由不明 第二次転校受付の翌日?) 辰巳1丁目11番1号にある区立校。昭和41年3月東京湾7号埋立地A地区(西半)が区に編入 されて辰巳1丁目が、翌42年にB地区(東半)が編入され、辰巳2丁目が誕生した。この地に区南 部開発の一環として建設されたのが80余棟、3300戸の都営辰巳1丁目アパート(団地)で、同 43年同団地の就学児童受け入れを目的として創立したが、入居遅れで開校が9月になった。南部埋 立地のため、砂塵、羽田空港の飛行機騒音、災害時の児童避難等の対策を考え、設計を早稲田大学安 藤研究室に委託し、両面採光の教室と管理部門別棟の校舎が建設された。同44年2月体育館完成。 3月1日創立記念式典。7月プール完成。同45年校歌制定。 校歌「朝の潮風」 作詞・初代校長水巻欽吾 作曲音楽教諭萩原祐子 1.朝の潮風 爽やかに 辰巳の空に陽が昇る 誇りを胸に希望を持って 明るく元気な 我等の辰巳小学校 2.富士が光るよ 虹色に 辰巳の空は澄んでいる 誇りを胸に希望を持って 素直に伸びる子 我等の辰巳小学校 同47年4教室増築。同48年第二辰巳小学校を分校(484名)。同49年第二辰巳小学校に1 89名移籍。同52年6教室増築。同53年地盤沈下のため管理棟1階床、下水道改修。校庭全面改 修。同58年開校15周年記念式典・辰巳資料館開館。同63年校舎全面改修。平成8年コンピュー タ教室完成。同10年創立30周年記念式典。辰巳資料館改装。同16年創立35周年記念式典。同 17年全日本ホームページJ‐Kids大賞でベスト8入賞。 |
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■南陽小学校(昭和50年6月16日開校記念日) 東陽2丁目1番20号にある区立校。昭和50年現在地に校舎が完成し東陽小学校から分離独立。 15学級557名で開校。同時に通級制の心身障害学級「ことばの教室」「きこえの教室」を開設。 東陽小学校の南に開設したので校名を「東京都江東区立南陽小学校」とした。6月16ひ開校式典・ 校歌制定。 校歌「燃え立つ南の陽を受けて」 作詞・林圭一 作曲・渡辺浦人 1.燃え立つ南の陽を受けて 明日を学べば この胸に 真理の泉 溢れ来る ああ 我等 英知求める南陽の 教えに伸びる若き子ら 我等の南陽小学校 2.輝く南の陽の下で 明日に挑めば頬伝う 汗に闘志も湧き上がる ああ 我等 勇気尊ぶ南陽の 教えに伸びる若き子ら 我等の南陽小学校 3.遥かに南の陽を望み 明日を目指せば肩組んだ 友の情が込み上げる ああ 我等 信義を誓う南陽の 教えに伸びる若き子ら 我等の南陽小学校 同51年体育館・プール完成。同54年校舎増築。同55年情緒障害学級「ひまわり教室」設置。 同57年高層住宅の急増により、児童数が1005名・24学級に達する。同58年情緒障害学級 「ひまわり教室」南砂西小学校に移転。平成6年開校20周年記念式典。平成12年地方自治法の 改正により、東京都の冠称を外し「江東区立南陽小学校」と改称。同15年耐震工事施工。 ●広い校庭 この学校の校庭は6078㎡(1840坪)あり、区内で最も広いのが自慢だ。 |
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■東陽中学校(昭和60年5月1日開校記念日) 東陽2丁目1番8号にある区立校。昭和42年地下鉄東西線が大手町~東陽町間、同44年に東陽 町~西船橋間に開通すると東陽地区は目覚しく発展した。おいらも知ってるが、地下鉄が通るまでは 寂寥たる埋立原野に所々に建物が建ってて、将来団地ができるなどの噂話を聞いたよ。こんな無人地 帯に駅を拵えてどうすんの?って思ったもんだが、今のようになるとは全く想像もできなかったネ。 昭和50年代後半になるとマンションや、住宅団地の建設ラッシュにより人口が急増した。それに伴 い、この地区を学区とする深川八中の生徒数は激増してキャパシティを越え、全く教室不足に陥り、 設備面においてこれ以上の生徒の収容は困難となった。昭和60年現在地に校舎を新築し、深川八中 から分校、「東京都江東区立東陽中学校」として開校した。5月1日色々な面で一応の落着きを見た のでこの日を開校記念日と定めた。7月2日校歌制定。 校歌「豊かな春を」 作詞は、昭和47年に日本童謡賞を受賞している宮沢章二。作曲の平井康三郎は、区立の学校の校 歌を多く作曲している。宮沢は作詞に当たり当校を訪れ正面玄関入口の壁に嵌め込まれた地球と宇宙 を描いた陶画を見学したり、校長鈴木利光から嘗てこの地が東京湾の真ん中だったことなどの説明を 受けた。曲は詩に付けられた。 1.豊かな春を胸に抱き 学び 鍛える 望み 溢れ 巡りあう日の師よ 友よ 地球 宇宙 そして我等 一人一人の未来を染めて 東の空に陽が昇る 2.遥かな海の風を聞き 夢も 力も 湧くよ ここに 育つ若葉の意気高く 地球 宇宙 そして我等 一人一人の未来を染めて 東の空に陽が昇る 3.生命と生命 磨き合い 光る 青春 共に燃えて 生きる勇気よ 火の愛よ 地球 宇宙 そして我等 一人一人の未来を染めて 東の空に陽が昇る 同7月12日開校記念式典。同63年尾車親方(元大関琴風豪規)「心技体について」講演会。平 成6年創立10年記念式典(半年前倒し)。同7年5月創立10周年。同17年創立20周年。 |
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■東陽図書館 東陽2丁目3番6号にある。 |
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■東京辰巳国際水泳場 東陽2丁目8番10号にある。最寄駅は地下鉄有楽町線辰巳駅、京葉線・りんかい線新木場駅。 ●メインプール 50m×25m 10コース 公認8コース 短水路公認 16コース 水深1.4~3m (可動床) 観覧席 5035席(固定3635席 仮設1400席) ●ダイビング・プール 25m×25m 水深 5m |
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■大震災横死者供養塔 東陽3丁目8番13号にある沢海橋第二児童遊園にある。碑陰に、 十三回忌 昭和拾年九月一日 高野山金剛講員之建 とあり、その後に、賛助員芳名として、個人名、屋号、店名など33名称が続いている。石碑の角 が欠けていたり、文字の周辺が剥脱しているように見える。昭和20年の愚かなアメリカ軍の空襲に よる影響か、それともガキどものいたずらか。 |
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■東陽繁出世稲荷神社 東陽3丁目9番10号にある小祠。 |
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■東陽小学校(開校記念日明治42年10月11日) 東陽3丁目27番12号にある区立校。明治33年深川区西平井町19番地(3丁目21番附近) に木造平屋建ての校舎が竣工。校名を12年前に消滅した区最古の学校の名前から頂戴して「東陽尋 常小学校」とし、7月20日に開校式を挙行し開校記念日とした。当時児童は深川公園内の私立大谷 小学校や汐見橋南詰の私立高木小学校で学んでいた。校舎の南側には洲崎弁天町があるだけで、現在 の2丁目の辺りは養魚場、木場1・6丁目は埋立地、その先は海だった。同34年校章制定。同41 年小学校令の改正により6年制となる。同42年第一次校舎増改築。10月11日落成式を行い開校 記念日を変更、校歌を制定した。 校歌「小松ヶ原の若緑」 歌詞・4代校長清水信次郎 作曲・鈴木米次郎 1.小松ヶ原の若緑 根ざし確かに生い立たたば 千代万代に動きなき 国の柱となりぬべし 2.真直ぐに立てる呉竹の 正しき節に倣いつつ 撓めど折れぬ心持て 教え(学び)の業を励むべし 同43年3月文部大臣認可。その際2番の歌詞の「教え」が「学び」に、またメロディが一部訂正 された。作詞について、松を男性、竹を女性にイメージしたという。 大正11年第二次校舎増改築。総2階建てとする。翌12年関東大震災により学校全焼。露天授業。 11月平久尋常小学校に仮校舎を建て、4年生以上が数矢尋常小学校と共用。低学年はそのまま本校 のバラック校舎で授業。同13年仮校舎完成し全学年が本校で授業。同15年現在地に鉄筋コンクリ ート造り3階建て校舎竣工。同16年国民学校令より「東京府東京市東陽国民学校」と改称。同18 年都制施行により「東京都東陽国民学校」と改称。同19年8月愚かなアメリカ軍の無差別空爆が熾 烈となり、高学年学童は新潟県三条市・南蒲原郡に集団疎開。同20年アメリカ軍の非人道的市街地 空爆により校舎全焼。8月日本は、ならず者国家アメリカの軍門に降り敗戦、以後属国となる。 同年11月平久国民学校とともに数矢国民学校にて合併授業。同21年7月低学年生徒は本校復帰。 同22年学制改革により「東京都江東区東陽小学校」と改称。同23年復興工事完了。全校児童が全 揃。同47年新校舎竣工。平成3年戦争中の昭和19年度卒業生に卒業証書授与。同12年創立10 0周年記念式典。同13年耐震工事のため旧南砂西小学校校舎に移転。同14年耐震工事完了。 ●東陽の名 明治3年東京で初めて開校した6つの小学校の1つに、長慶寺に開校した東京府小学第六校がある。 同6年「第一番小学深川学校」と改め、同年12月には深川区本所松井町に移転して「土屋学校」と 改めた。同9年校舎を改築するとともに校名を「東陽学校」としたのだが、何故「東陽」なのかは判 らない。この東陽学校は、同21年に深川尋常高等小学校の校舎新築に伴い同校に吸収され「東陽」 の名は消滅した。 |
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■東陽町駅 東陽4丁目2番1号にある東京メトロ東西線の停車場。昭和42年9月14日東西線の大手町~東 陽町間延伸と同時に開業した。同44年3月29日には西船橋まで延び、東西線は全通した。 ホームは相対式2面2線構造で地下2階にある。ホームと改札階を結ぶエレベーターは完備してい る。改札口は2ヶ所で、出口は4ヶ所だ。地上へ上がるエレベーターは未設置。 駅構内は近年リニューアルがなされ、それはそれは綺麗になった。この駅は江東区役所と江東運転 免許試験場の最寄駅で、利用客は多い。駅の西船橋寄りには東西線の車庫である深川検車区への分岐 があるため、東陽町を始発・終着とする列車も一部にある。また東陽町から西船橋までは快速列車が ある。東陽町を出ると快速の次の停車駅は浦安だよ。 |
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■江東区文化センター 東陽4丁目11番3号にある。区民が語り合う場、学び合う場として活用、新しい下町づくりの基 礎となるよう作られた施設だ。区民文化の発展とコミュニティの振興を目的とし、講座・イベント等 の事業を実施している。区民の意見と要望を生かし、よりよいサービスにこれ努めるとのこと。区民 交流と学習の場としての機能を充分発揮できるよう、財団法人江東区地域振興会が管理運営に当たっ ている。 |
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■江東区役所 東陽4丁目11番28号にある。 |
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■江東養護学校 → 江東特別支援学校 東陽4丁目11番45号にある都立の小学部・中学部・高等部を併設した心身障害児のための学校 だ。昭和48年都は国に先駆けて障害児童の全員就学を目指して福祉学校を急造した。現在都内に5 0校以上ある。本校もその方針を受けて区内に設立された。同49年「都立小岩養護学校江東分校」 として江東ろう学校内で開校。同53年4月独立し「都立江東養護学校」と改称。11月現在地に新 校舎落成移転。平成9年創立20周年記念式典。 |
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■平井新田跡 東陽3~5丁目・南砂2丁目の一部。南は海に面し、砂村新田、石小田新田、深川木場町に囲まれ て位置している。規模は、寛政十一年(1799)の検地によると、東西20町(約2180m)× 南北5町(約545m)、江戸より一里余、民戸32だと。明和二年(1765)平井満右衛門とい う人物が新地の築立を企画し、6月17日に洲崎弁天別当吉祥寺裏から防波堤の杭打ちを始め、11 月2日工事開始から半年足らずで約20万坪の埋立てが完成した。『葛西誌』によれば、御濠の浚渫 で出た土を使用し築立てたと伝えられている。西北の久右衛門町の一部を含め、開発者の姓を採って 新田の名とした。維新の後は21戸76人が移り住んで近郊農業を営み、米・大麦・胡瓜・茄子・葱 などを栽培した。 |
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■平井新田塩浜跡 東陽3・5丁目の東部、南砂2丁目の西部。明和二年(1765)に築立てられた平井新田では塩 田が営まれた。『明和年中海岸図』、天明四年(1784)の『分間江戸大絵図』等の江戸図で、そ の位置や規模を確認することができる。後者の江戸図によれば、平井新田西部に位置し「汐溜」と表 示された四角い囲いが四個ほど並び、海から「汐引ホリ込」と表示された水路で海水を導いている様 子が描かれている。そこには「新田塩浜開発人平井満右衛門・・・此所ニテ三百坪余塩浜」とある。 しかしこの塩田はまもなく廃業したようだ。潮の便が悪く能率が悪かったためと、行徳からの苦情に よる。しかし明治24年まで塩浜耕地の名は残った。 |
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■八多稲荷神社 東陽5丁目12番10号にある小祠。 |
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■深川高等学校 東陽5丁目32番19号にある都立校。俗に「ふかこう」と呼ばれる。大正13年猿江尋常小学校 内に「第一東京市高等女学校」として開校。昭和5年現在地に校舎落成して移転。同20年愚かなア メリカ軍の無差別空爆により校舎全焼。同23年学制改革により「都立深川新制高等学校」と改称。同 25年「都立深川高等学校」と改称。同27年学区合同選抜制度導入。同42年学校群制度導入。東 高校と63群を組。同44年営団地下鉄(東京メトロ)東西線が西船橋駅まで延伸開通、最寄駅とし て東陽町駅開業。同47年創立50周年。同57年グループ合同選抜制度導入。東・城東・江戸川・ 小岩・小松川・葛西南・篠崎の各校と62グループを組む。同60年校舎改築落成。平成6年単独選 抜制度導入。同16年創立80周年。 かつて単独選抜をやっていた時代には歴とした進学校だったが、合同選抜などをするようになって、 優秀な生徒が私立校に流れて、進学校としてはレベルが落ちた。 校歌「遥かに霞む富士の山」 作詞・第一回卒業生 作曲・外山国彦 1.遥かに霞む富士の山 往き来の舟も窓近き 愛のまとゐの学び舎に こころ豊かに生いたたん 2.蔦の葉陰に同胞(はらから)と 若き生命を謳いつつ 働く者の幸知りて 生くる喜び 身に受けん 3.御空を凌ぐ大杉の 直く雄雄しき心以て 望みの光 目指しつつ 力の限り伸び行かん |
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■六万坪 東陽6、7丁目の一帯。元禄までは海だったところを、江戸市中のゴミを以て埋め立てられ、西は 大横川、北は仙台堀川、東、南を横十間川に挟まれた東西6丁(約660m)×南北1丁半(165 m)の土地だ。『御府内備考』によれば、起立は宝永七年(1710)正徳元年(1711)に、山 形屋利兵衛と豐田屋源助の両名の願いにより、西片三分の一が町並みとなり、同三年(1713)に 六万坪町と名付けられた。残りの土地は享保十三年(1713)から、石川、小柴、豊田の三人の町 人が開拓したもので、その姓の一字づつを採り石小田新田と呼ばれた。その後明和三年(1766) に、この辺り一帯を所有していた近江屋伝左衛門から、細川越中守が買い受けて下屋敷とした。 |
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■木のアトリウム 東陽6丁目2番の関東森林管理局東京分局内にある。 ホームページもないし、以前潮見にあった 「ウッディランド東京」の一部門なのかも知れない。そのウッディランドすら、あるのかないのか判 らない状況だ。アトリウムは「中庭風の広間」の意。コンサートの案内があるので、どうやらホール の機能を持つようだ。 |
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■川船番所跡 常盤1丁目1番、万年橋の北岸辺りにあった通船改めの検番所。小名木川は北関東以北の物産を江 戸に搬入するために開鑿した運河で、重要な交通路であるがために、江戸防衛の目的で見張りが必要 だった。創設の年代は不明だが、小名木川が通船を開始した時だろう。その後本所の掘割の完成に伴 い、東の中川口に移され「中川船番所」として機能するようになる。移転の年代は、寛文元年(166 1)と延宝七年(1679)の2説がある。移転後の跡地は「元番所」と呼ばれ、側の「万年橋」は 「元番所の橋」とも呼ばれるようになった。 |
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■万年橋 小名木川第一橋(川口の橋)。現橋は、昭和5年に架けられた長さ56.4m×幅11mの鋼橋アー チ橋だが、それ以前は木橋だった。万年橋の創架年は明らかではないが、区内の最も古い橋の一つ。 寛文十一年(1671)の江戸図には載っている。恐らく小名木川が開鑿されたと同時に架けられた ろう。松尾宗房(桃青→芭蕉)が深川へやってきた延宝八年(1680)の江戸絵図には「元番所橋」 と記されている。橋の北側に船の動向を監視する船番所があったからだ。 万年橋は太鼓橋で虹形をしていた、真ん中が丸く高かったので富士見橋で、富士山が美しく見える 名所だった。安藤広重の名作「江戸名所百景」にこの橋が取材され、「亀は万年」の言葉から、橋の 手前に大きく、桶の取っ手にぶら下げられた亀を描き、遠くに冨士が描かれている。また葛飾北斎の 名作「富獄三十六景」には「深川万年橋下」と題して、万年橋の虹形の橋を大きく扱い、遠くに富士 山を描いた錦絵がある。そんな長閑な風景も今は何処へ行ったやら。東京にはビルが立ち並び、富士 山は隠れてしまい、小名木川川口には大きな水門が作られ、もうただそこには物理的な景色と動きが あるのみだ。日本は滅びている。因みにおいらの部屋から富士山が見えるんだよ。20ほどある部屋 の中で唯一おいらの部屋だけね・・・ 富士見の名橋の一つは荒川の小松川橋だよ。冬の夕暮れの影 冨士は見事さ。 |
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■芭蕉庵史跡展望庭園(芭蕉記念館別館) 常盤1丁目1番3号、隅田川と小名木川の合流点の北詰にある小公園。平成7年4月6日に開設し た。隅田川の眺望がよく、四季折々の水辺の風景が楽しめる。園内には芭蕉座像や芭蕉庵のレリーフ などが配されている。 |
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■正木稲荷神社(柾木稲荷) 常盤1丁目1番2号、芭蕉庵史跡展望庭園入口脇にある小祠。江戸百稲荷の一。当社の創立年代は 詳らかではないが、江戸時代の古くより鎮座していた。為永春水「梅暦」の挿絵に描かれており、奉 納の幟に「柾木稲荷大明神 天保五年(1834)二月初午」の文字が見える。 『江戸切絵図』の「本所深川絵図」文久二年(1862)版には「マサキイナリ」と記載されてお り、『江戸名所図絵』では「真先稲荷明神社」とも書かれている。昔、柾木の大木があったためこの 社名がつけられたという。隅田川から小名木川へ入る目標としても尊重されていた。古くより「腫物 に効くおできの神様」と名高く、その柾木葉は腫物によく効いたといわれており、祈願には病の全快 まで「蕎麦」を断ち、平癒すると「蕎麦」を献じて奉賽する信仰があった。文政十年(1827)六 月十六日には曲亭馬琴の妻の百も「腫物平癒」の願掛けに参詣した記録がある。また子どもたちは柾 木の葉を丸めてピーピーと鳴らして遊んでいたそうな。 ぴいぴいも売れる柾木の御縁日 陸奥米の籾の間に稲の神 柾木のぴいぴい吹きながら野掛也 小名木川の水路は、船橋・行徳(千葉県)の塩を真直ぐに江戸に運ぶために、天正十八年(159 0)江戸に御討入した家康によって開かれた。江戸の人口増加につれて重要な河川となり、寛永六年 (1629)ほぼ現在の川幅にまで拡幅され船舶取締りのために、当社の隣に船番所が設けられた。 寛文元年(1661)から明治維新までは、船番所は大島九丁目の小名木川と中川の交差する場所に 移転した。現在その地付近に資料館が設置されている。 また近くに芭蕉庵があり、大正10年11月東京府が芭蕉翁古池の跡として旧跡に指定した。しか し昭和56年に旧跡は芭蕉記念館に移転。 昭和初期の祭礼には下町情緒豊かに、花柳界の綺麗所が人力車を連ね、大変な賑いを見せたそうな。 戦災後、先代三木常正宮司はじめ地元の秋田勝三郎、飯田源次郎、塙善之助などが世話人となり社殿 を復興、平成2年に玉垣御社殿の改修を行った。当社は古くより町内持(維持経営)。 |
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■利根川丸 江東区は隅田川に接し、利根川水系に繋がる小名木川があり、江戸時代の水運の要衝だったので、 明治の初め、逸早く近代汽船の起点となった。 明治4年(1871)2月万年橋の近く1丁目1、2番付近に利根川丸会社が設立されて両輪船の 新型汽船「利根川丸」が就航し、「川蒸気飛脚船利根川丸」と呼ばれた。新型汽船は当時大変珍しく 人々に親しまれた。利根川丸は、万年橋から小名木川・新川を東航し、江戸川を上り、利根川の本流 を遡流して、中田(茨城県)、栗橋(埼玉県)へ隔日運航した。この船は朝7時に万年橋の発着場を 出て、中田に着くころには午後6時を回る一日がかりで人や荷物を運んだ。運賃は当時の金で、松戸 まで金一分(四分の一両)、流山まで金一分一朱、野田まで金一分二朱、宝珠花まで金一分三朱、関 宿まで金二分、中田・栗橋まで金三分だった。まあ20000から30000円、当時の感覚として は安かったろう。無論生活費に比較すると高いわな。利根川丸は、船首に会社の旗、船尾に日の丸の 旗を掲げていた。会社は「東京深川万年橋利根川丸会社」と称し、代表は高橋次郎左衛門だった。こ の会社の終末は判っていない。多分内国通運に吸収されたのだろう。 |
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■芭蕉庵跡(芭蕉稲荷神社) 常盤1丁目3番12号とされている。その理由は大正6年たまたま津波来襲の後、芭蕉が愛好した といわれる青石造りの蛙が発見され、飯田源次郎など地元の人々の尽力により、ここに芭蕉稲荷を祀 り、同10年東京府は旧跡に指定した。しかし芭蕉庵の位置は1丁目18番の六間堀と小名木川の合 流するところ(小名木川の拡張により滅失)という説と、1丁目13番(六間堀に架かる軽子橋の畔) にあったとの2説がある。 芭蕉は3度芭蕉庵に入っている。1つを関口芭蕉庵(文京区)とすると、最初の芭蕉庵が軽子橋近 くの、後に松平邸の庭池となった生簀の傍ら、2度目が小名木川と六間堀の合流点辺りの一隅ではな いか・・・ 延宝八年(1680)37歳の時、杉風、嵐雪、其角など20人の弟子と共に「桃青門弟独吟二十 歌仙」を刊行し、桃青の名は一躍江戸の俳界に知れ渡った。しかし桃青には以前から憧れていた漢詩 の世界、和歌の奥深さを俳諧の中もに取り入れて新境地を開きたいという思いがあり、遂に漸く安定 しつつあった俳諧宗匠の生活を捨てて自らの句風の確立に専念する決意を固めるに至った。同年秋弟 子の杉山杉風(さんぷう=幕府御用魚問屋鯉屋市兵衛)が、生簀(いけす)の番小屋を住居に改造し て提供したので、芭蕉はそれまで住んでいた日本橋小田原町の家を引き払って深川に越して来て、弟 子の李下が庵前に芭蕉の木を植えたことから「芭蕉庵」と称え、 芭蕉庵を柱にかけん庵の月 と、芭蕉が良く茂って大木に成長したのに感じ、俳号も「芭蕉(はせを)」に改めたらしい。「は せを」は「ばしょう」の当時の表記だ。 敷地は間口13間×奥行51間というから663坪、200㎡もあった。番小屋の寸法は判らない。 中村不折の絵によればそう大きな小屋ではない。芭蕉没後、芭蕉庵一帯は松平遠江守の屋敷となり、 その後文久二年(1862)の絵図によると、紀州藩の屋敷となっている。この絵図には、庭の中に 芭蕉庵の古跡があったと記載されている。さらに明治初年には長州藩の屋敷となり、間もなく民有地 になった。こうした土地所有者の変遷で、いつしか芭蕉庵は消滅し、現在その正確な位置は判らない ことになってしまった。 【芭蕉】 (1)バショウ科の大形多年草。中国原産。古く渡来し、庭園などに栽植される。葉柄 が長く、基部は鞘となって互いに巻き合い、高さ4、5mの幹(仮茎)となる。葉身は 長さ約2mの長楕円形で、羽状に細い脈があり破れやすい。夏、黄褐色の苞の腋に淡黄 色の筒状花を多数つける。仮茎の繊維を布や紙にする。「はせを」は秋の季語。「芭蕉 の花」は夏の季語。 (2)「芭蕉梶木」の略。(三省堂『大辞林』) 天和二年(1682)類焼、翌年再建するも「奥の細道」の路用に当てるため売却、3年後の元禄 四年(1691)江戸に帰り、杉風の世話で三度目の庵を結んだ。現在は約20平米の敷地に芭蕉稲 荷神社と芭蕉像を祀る祠があり、その境内に 古池や蛙飛び込む水の音(句碑 深川江戸資料館・要津寺・清澄庭園) 川上とこの川下や月の友(句碑 芭蕉記念館) の句碑が立つ。「古池や・・・」の古池は、芭蕉庵の生簀のことだ。近所に「芭蕉記念館」とその 「分館」とがある。分館は川淵の小丘の公園で回転する芭蕉像が据えられている。 青くても有るべきものを唐辛子 蕣(あさがお)や昼は錠おろす門の垣 振売りの鳫(がん)あはれ也ゑびす講 米買に雪の袋や投頭巾 濡て行く人もおかしや雨の萩(句碑 龍眼寺) しばらくは花の上なる月夜哉(句碑 亀戸天満宮) ひにかかる雲やしばしの渡鳥(句碑 富岡八幡宮) 秋に添いて行かばや末は小松川(句碑 大島稲荷神社) なお杉山杉風の墓は世田谷区は宮坂の成勝寺にある。 深川は月もしぐるる夜風かな(杉風) 芭蕉関連の碑・句碑は、芭蕉記念館、同分館(芭蕉庵史跡展望公園)、芭蕉稲荷神社、深川江戸資 料館、採荼庵跡、清澄庭園、臨川寺、長慶寺にある。 |
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■江東区芭蕉記念館 常盤1丁目6番3号にある。昭和56年4月19日開館、平成7年4月6日に隅田川と小名木川に 隣接する地に芭蕉記念館分館を開館した。芭蕉自筆の短冊や掛軸などを展示する。芭蕉は、延宝八年 (1680)杉山杉風の世話で、杉風の経営する養魚池の畔の家を「芭蕉庵」として住んだ。芭蕉と 名づけたのもここだ。なお杉風の子孫が女優山口智子だ。 ●松尾芭蕉 俳諧師。松尾与左衛門の次男として、正保元年(1644)三重県伊賀町で生まれた。上野市とい う説もある。通称忠右衛門、俳号を桃青、芭蕉、泊船亭などといい、俳諧を北村季吟に学び、寛文十 二年(1672)江戸へ出て神田上水の水役を務めた。延宝八年(1680)深川芭蕉庵に移り、元 禄七年(1694)51歳で没するまで、この地を根拠地として、全国への旅へ出た。この人は忍者 説、隠れキリシタン説といろいろに見られるが、大所高所から見ると「だからどうなのだ」というこ とだ。忍者として何かしたという訳でもなく、キリシタンだったから何かを起こしたということもな い。所詮は俳諧師としての枠を超えることはない。芭蕉は芭蕉なのだ。 ●「古池や・・・」の句碑 ここにある碑は、元禄七年(1694)の芭蕉没後に、嵐雪たちが芭蕉堂を建てて草庵を作った時、 その池畔に建てられたもので、今は墨田区千歳2丁目の要津寺にある刻字を写して建立たものだ。 古池やかはず飛び込む水の音 ●「川上と・・・」の句碑 この句碑は、昭和31年、深川芭蕉庵跡が復旧された時に新しく建立されたものだ。この句は芭蕉 が病没した前年の秋、元禄六年(1693)小名木川に舟を浮かべ、五本松付近(猿江2丁目)で吟 じたものだ。この句が吟じられた年は、深川芭蕉庵を閉門したり、弟子たちに不幸があったりして芭 蕉にとっては寂しい年だった。 『江戸名所図会』には、五本松の古木の枝が川面に大きく被り、十人ほどの人が乗船している舟中 に芭蕉らしき人物を描き、挿絵の上部に前書きと「川上と・・・」の句が掲げられている。この句碑 は記念館の完成後に庭に移された。 川上とこの川下や月の夜 ●石蛙 芭蕉43歳の貞享三年(1686)春、深川芭蕉庵において吟じた「古池や・・・」の句は、当時 から画期的な格調高い句として有名になり、石造りの蛙が寄贈され、芭蕉はこれを大いに気に入り、 愛蔵したという。芭蕉庵は幕末から明治初め頃には滅失してしまうが、この石造りの蛙も行方不明に なった。その後大正6年9月30日大型台風による高潮が押し寄せ、潮の引いた後、石造りの蛙が、 現在芭蕉庵跡と指定されている辺りで発見された。この石蛙が芭蕉に贈られたものかどうかは判らな いけれど、芭蕉庵跡といわれるところから発見されたので、芭蕉の石蛙ということにしようというこ とで、そうなり、同じ年地元の人たちの手で芭蕉稲荷が祀られた時、この石蛙も安置され、ここが東 京府の旧跡に指定された。昭和18年、芭蕉の250回忌に石造の祠が造られ、石蛙はその中に安置 されたが、昭和20年3月10日のアメリカ軍の無差別空爆の直後、再び姿を消した。そのため同5 0年新たに石の蛙を造って納めたところ、芭蕉記念館の工事が始まった同52年3月、近くに住んで いる芭蕉遺蹟保存会副会長飯田繁蔵が自宅の耐火金庫を調べたところ、石蛙が出てきた。これは繁蔵 の父源次郎が、戦火のドサクサに紛れて亡失することを恐れて金庫に納めていたものだ。この石造り の蛙は、現在記念館に展示されているよ。小松石で高さ16cm、縦26cm、横20cm、台座に 座っている。なおこの石蛙の発見は全国的に報道され、さらに『人民日報』に掲載されたのは傑作だ。 |
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■御籾蔵跡 常盤1丁目7~10番に相当する。江戸時代不時の災害に備えるため籾を貯蔵していた幕府の備蓄 倉庫。六間堀と隅田川の間の橋富町にあり、寛政十年(1798)に南北50間×東西80間の敷地 に11棟の籾蔵が建てられた。天明七年(1787)松平定信が老中となり、寛政の改革の一環とし て「七分積金制」を施行した。これは窮民救済と低利資金融資として行われ、江戸の町費を節約させ て、その積金の内から備蓄倉庫すなわち籾蔵を市中各所に設けた。その内の1つ。政策として災害時 に非常に役に立った。 |
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■箭弓稲荷神社 常盤1丁目15番2号にある小祠。 |
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■軽子橋 常盤1丁目交差点の辺り。高橋の夜店通りと交差する六間堀に架けられていた橋。創架年や橋名の 由来は判らない。軽子というのは軽籠で荷物を運ぶ人足のこと。また深川では仲居のことをいった。 軽子が多く住んでいたか、何かしでかしたかだ。橋は変哲もない一般橋だが、橋の名を有名にしたの は母娘の仇討物語だ。 |
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○軽子橋仇討事件 寛政十年(1798)本所富川町、現在の森下2丁目に神保左京の武家屋敷があった。ここに神保 の家臣渡辺彦作がいたが、6年前同僚の崎山平内に斬殺され逃げられた。彦作の妻みきと17歳の娘 おさの、その弟(10歳)の3人は、本所南塗師町の権次郎の店子、手習いの師匠の仙蔵宅に居候し ていた。おさのは評判の親孝行者、浅草観音に5年参詣し、寒中には水を被り「親の仇を討たせ給え」 と祈願した。十一月十日観音様のお告げにより、「明後日巳の刻(午前10時)深川にて敵に巡り合 う」と知らされた。3人は支度をし、深川も広くて当てはないが猿子橋で待ち伏せすることにした。 案の定、敵の崎山平内が通りかかったのをおさのが発見し、平内の右腕へ斬りつけた。慌てた平内は 左手で刀を抜いて斬り返したが傷は浅かった。母のきみも平内の肩へ斬りかかる。そのとき仙蔵も駆 けつけて青竹でへ平内の刀を叩き落した。平内は斬られながら、茶屋の裏口へ逃げ込み、その場は母 子は引き上げた。平内は町内預けとなり、翌日町奉行小田切土佐守に4人は召し出され、取調べの結 果「お咎め無し(無罪)」と言い渡された。一方平内も咎められることはなかったが、この時の傷が 元で、1ヶ月後に息を引き取った。これで母子の仇討が成就し、「寛政このかた誉れの鑑」と題する 瓦版に取り上げられ江戸の評判を取った。 |
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■伊東深水誕生の地 常盤2丁目8番、神明宮前の町屋で生まれた。本名は一(はじめ)。深川尋常小学校に入学後、2 年生の時に父が失職し深川の地を離れた。しかし深川との縁は深く、明治41年には深川東大工町の 東京印刷株式会社(白河4-9)に勤務。ここで画才が認められ、同44年に日本画家の鏑木清方(か ぶらぎきよかた)に入門。深水の雅号(がごう)は「深川」を漢風にいい換えたもので、清方がつけ た。深水の絵は、院展、文展で入選するなど高い評価を受け、大正中頃には新版画運動に共鳴、雑誌 や新聞小説の挿絵、口絵なども手がけた。深水は、江戸の浮世絵の伝統を受け継ぎ、女性の美しさを 創出する日本画家として日本の近代美術史に大きな功績を残した。その功績から、昭和33年5月に は日本芸術院会員になり、同47年5月8日に74歳で没した。タレント朝丘雪路の父。 |
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■中村芝翫宅跡 常盤2丁目12~14番の辺り。歌舞伎役者2代目芝翫(しかん)は、寛政八年(1796 同十 年とも)下谷で生まれ、本姓は平野、初代藤間勘十郎の養子となる。子役から芝居に専念し、初名は 藤間亀三郎、3代目中村歌右衛門の弟子となり、文化十年(1813)中村鶴助と改名し、文政八年 (1825)芝翫を継ぎ、同十年中村座の座頭となり、天保七年(1836)歌右衛門の4代目を襲 名した。屋号は成駒屋。芝翫は立役・実悪・武道・荒事・女形と多方面に活躍、代表的な名優と称讃 された。ここには天保の頃に住んでおり、天保二年(1831)中村座で『六歌仙』を演じた時、喜 撰法師の歌詞に、 我庵は芝居の辰巳常盤町しかも浮世のはなれさとなり と住居を折り込んでいる。またこの地の小名木川辺りは、芝翫河岸と呼ばれていた。嘉永五年(1 852)57歳(54歳とも)で没した。 喜撰法師の歌? 我庵は都の辰巳鹿ぞ住む世をうじ山と人はいふなり |
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小名木川 おなぎがわ 江戸初期、徳川家康が行徳の塩の搬入路として開鑿させた運河。開発者が小名木四郎兵衛の名を採っ たという説と、もともと「うなぎさわ」「うなきがわ」と呼んでおり、鰻が生息していたことによる という説がある。 隅田川から旧中川まで東西に区を横断している長さ4640mの一級河川。家康が江戸にやってき た頃の海岸線で、江戸の発展で多数の住民が流入し、米・塩などの生活必需品を始め多くの物資が諸 国から江戸へ送られるようになった。まず江戸の周辺の浜は泥浜で製塩が出来ず、行徳・船橋の塩を 移入することとした。船橋から江戸へ船を出せばいいのだが葛西浦は荒れ海で波の被害を受けやすい ので、安定した水路の確保が必要となり、深川と葛西の海岸線の内側に堀川を掘って水路を確保した。 それが小名木川であり、江戸川区の新川だ。 小名木四郎兵衛が開鑿したともいわれているが、その後小名木四郎兵衛の名は記録に登場しない。名 称の由来にも、小名木四郎兵衛の他、うなぎが良く獲れたので、鰻川といったのが訛った。また女木 山谷(おなぎさや)が小名木沢になったなどの説がある。 小名木川は、江戸が大都市になるにつれ、消費物資搬送集散の重要河川となった。そのため寛永六 年(1629)に川幅を拡げ、また船番所を隅田川との合流点付近に設け、後に中川の合流点に移転 したが、航行する船舶を監視した。「入り銕炮に出女」の原則が貫かれ、如何なる理由があろうとも 女性は乗船することが出来なかった。 明治時代には、小名木川の水運を利用して諸工業が発展したが、近年は陸上運輸が発達し運輸機能 は低下してしまった。 万年橋→小名木川水門→高橋→西深川橋→東深川橋→大富橋→新高橋→新扇橋→小松橋→小名木川 橋→小名木川クローバー橋→小名木川橋梁(鉄道橋)→新開橋→砂島橋(歩行者専用橋 旧電車橋) →丸八橋→番所橋 が架かっている。江戸時代には、万年橋、高橋、新高橋の3橋が架かっている。 小名木川水の高さのいぬふぐり(石川桂郎) 名月や門にさし来ル潮がしら(芭蕉) 雪敷ける町より高し小名木川(石田波郷) |
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■魚三酒場 富岡1丁目5番4号にある魚卸の経営する魚料理の居酒屋。毎日表には行列が出来る人気の理由は 何といっても美味い魚料理がリーズナブルに楽しめるからだ。1、2階は3名以下限定で、それ以上 だと3F~5Fまでの階へ行くように指示される。1、2階はカウンター席に、窮屈と言っても過言で 無いくらい客が横並びで座るので、オーダーのタイミングを失うと大分待たされる事になる。しかし そのタイミングが割りと重要。おばちゃんがオーダーを届け終わった後が最大のチャンス! それ以 外だと流されるのは当たり前。悔しいがそれが病み付きになるから不思議だ。料理は刺身から煮物、 焼き物、揚げ物と何でもござれだ。築地直送だから鮮度は抜群。もういうこと無しだ。開店前の5時 頃から行列ができる。扱いは荒いよ。これが堪んないんだよね。 そんな評判だから系列店もある。高橋店(常磐2‐10‐7)・新小岩店(新小岩2-10-7)。 森下店とか、常磐店というのは高橋店のことだ。 |
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■富岡水産・冨水 富岡1丁目8番14号にある昔ながらの魚屋さんと食堂。新鮮な魚は、殆どが近海もの、その日の お勧めがずらりと並ぶ。「今日は鰯がいいよ」「じゃあつみれ汁にしようか、捌いて貰える?」「あ いよ鰯を叩く時は荒めの方が美味しいよ」そんなやりとりしながらの買い物。 食堂は、店の右端に入口がある。綺麗なおしゃれで洒落た店内は、センスが良いインテリアで飾ら れているのに堅苦しくなくて、ちょいと大事な人を連れて行くのにも良店。 |
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■大栄山金剛神院永代寺 富岡1丁目15番1号、深川不動の門前にある高野山真言宗の寺。富岡八幡の別当寺だった永代寺 の塔頭の吉祥院が、明治29年に永代寺の名称を継承した。旧永代寺は明治初年の廃仏棄釈により廃 寺となって16代住職周徹は富岡八幡宮の宮司になった。江戸六地蔵の一つである地蔵も川口の鋳物 業者に売られて溶かされてしまった。 その跡地には深川不動尊が移転。明治2年吉祥院境内に成田山出張所が設けられ、同11年成田山 別院不動堂の建設に着手、同14年棟上式が行われ、通称「深川不動尊」が完成した。誰の手によっ てどのように廃仏棄釈が行われたか判らないが、当時深川の商人は幕府へ官軍を迎え撃つ資金を拠出 していたからねぇ。恨みを買ったんじゃないの? |
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■数矢小学校(大正2年5月13日開校記念日) 富岡1丁目18番7号にある区立校。大正元年数矢町36番地に木造2階建ての校舎を建て、「東 京市数矢尋常小学校」として開校した。校名は町名に因るが、町名は、元禄十一年(1698)浅草 松葉町に在った、京都の蓮華王院の本堂を模して建てられた「三十三間堂」が焼けたため、同十三年 (1700)深川に再建、京都同様西側の縁を利用して通し矢が行われ、その矢数を競ったことから 生まれた。当時の学級数は22で東京市内でも稀な大規模校だった。 その後毎年就学児童は増し、同12年度には34学級、内12学級は二部授業だった。しかし9月 関東大震災が発生、学校が全焼したため、深川公園にバラックやテントを建てて授業した。12月平 久町1丁目に仮校舎移転。同15年生徒数が1858名にも達したので古石場に仮校舎を建て移転、 3年生以下は二部授業とした。 昭和3年富岡門前町66番地(現在地)に鉄筋コンクリート造り3階建て新校舎竣工して移転。生 徒数は3分の1に減少した。同11年千葉県君津郡佐貫に「数矢臨海学園」竣工。同16年国民学校 令により「東京府東京市数矢国民学校」と改称。同18年4月には再び31学級1800名となった。 この年都制施行により「東京都数矢国民学校」と改称。臨海学園は海軍の療養所となる。同19年学 校給食実施。8月愚かなアメリカ軍の空爆が熾烈さを増してきたので、新潟県三条市に高学年学童集 団疎開。同20年アメリカ軍の無差別空爆に耐え焼失を免れるも、8月日本は、ならず者国家アメリ カの軍門に降り敗戦、以後属国となる。10月明治小学校の校舎で明治・数矢・臨海・深川4校合併 授業。11月数矢小学校の校舎の校舎で数矢・東陽・平久3校合併授業。同21年3月疎開解除によ り疎開地より引き揚げ。同22年1月学校給食再開。学制改革により「東京都江東区数矢小学校」と 改称。同24年キティ台風のため床上20cmまで冠水。同27年創立40周年記念式典において校 歌制定。 校歌「朝風わたる」 作詞・勝承夫 作曲・信時潔 1.朝風わたる大東京の 空に高鳴る不動の鐘よ 数矢校ここに立つ 希望あふれて 集まるわれら 伸びゆくわれら 2.永代越えて潮満ち寄せて 木場に漲る平和の光 友情と意気に富む 自治の学舎 明日あるわれら 日本の力 3.聳えて高く由緒を語る 宮の胃腸は心の友よ 良く耐えて放つもの 弓の如く 夢あるわれら 栄えあるわれら 同35年NHK全日本学校器楽合奏コンクールで最優秀賞受賞。同37年プール完成。同47年第 32期(昭和20年3月)卒業生98名の卒業式挙行。同52年校舎改築のため明治小学校隣の深川 二中跡へ移転。同54年新校舎落成。同56年疎開地三条市の一ノ木戸・裏館・四日町の3小学校と 姉妹校となる。同61年コンピュータ室完成。平成4年開80周年記念自然観察広場完成。同14年 創立90周年記念式典。 ●数矢のよい子 戦前校歌はなく、戦後創立記念日に歌われていた歌があった。昭和20年第6代校長守田直が、「子 供たちに一日も早く学校生活の楽しさと心の潤いを与えなければならない」と、その旨を歌いこんだ 歌を作詞・作曲した。 1.夜明けだ さあ夜明けだ 文化の夜明け 大地豊かに 若草萌え立つ ああ楽し今日の日を みんなしっかりまなびませう 理想に燃える 数矢のよい子 2.夜明けだ さあ夜明けだ 平和の夜明け 大空輝き 太鼓が轟く ああ楽し今日の日を みんな体を鍛えませう 強く明るい 数矢のよい子 3.夜明けだ さあ夜明けだ 日本の夜明け 朝日はのぼる 小鳥は歌う ああ楽し今日の日を みんな揃って羽ばたこう 真に正しい 数矢のよい子 |
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■富岡八幡宮 富岡1丁目20番3号にあるこの八幡宮は、初め源三位頼政が1尺8寸の神像を得て斉祀していた が、頼政は治承四年(1180)以仁王と謀り平清盛を滅ぼさんとして逆に敗死したので、そののち 神像は両総の豪族千葉氏の手に渡り、足利尊氏、その子関東公方基氏に伝わり、基氏より関東管領上 杉氏に、さらに太田道灌にと、次々に伝えられたが、道灌の死後、その行方は杳として判らなくなっ た。ところが寛永四年(1627)京都の長盛法印が、或る夜の霊夢に感じ、砂村の富賀岡八幡から 神像を捧持して、隅田川東岸の開拓地永代島に眼をつけて小祠に神像を祀り、幕府に願い出て社殿を 建立、隣に別当寺として永代寺を営み、自ら住職になったという。寺を建てるということは、交通機 関の駅を作るようなもので、野っ原であれ、田園のど真ん中であれ、駅を作れば2、30年もすると その周りが繁華街になるのと同じで、寺を作ると門前市をなすの理(ことわり)だ。平たくいえば長 盛は大儲けしたっちゅう訳だ。砂町の富岡八幡は、南砂7丁目14番に「富賀岡八幡」として現存す る。これを元八幡といい交番・交差点・通りの名に残っている。 |
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●准勅祭神社 東京十社(富岡八幡・芝神明・神田明神・日枝神社・氷川神社・品川神社・白山神社・根津神社・ 王子神社・亀戸天神の10社)。明治元年、明治天皇が東幸の時、東京の鎮護と万民の安寧を祈るた めに定められた。 右 今般被准勅祭神社 当官直支配被仰付候事 辰十一月 神祇官 ●江戸3大祭り 神輿渡御 寛永十九年(1641)幕府の命により将軍家光の世子の祝賀祭典として挙行したのが始まりだ。 日枝山王祭や神田明神祭のように家康の江戸討ち入り以前からあった祭りと違って、徳川氏の御世に なっての創立なので、幕府の思い入れも一入だ。3年に1度の本祭りに連合渡御が行われる。一ノ宮、 二ノ宮、各町の大神輿54基、神輿120基、担ぎ手20000人、氏子は74ヶ町、中央区にまで 及ぶ。連合渡御はその道程8Km。朝牡丹を出発して新川が昼、午後はあでやかな辰巳芸者の手古舞 いが加わり、永代を渡ると粋な鳶衆の木遣も入り、一段と江戸情緒となるってえもんだ。最後の深浜 神輿が解散するのが夕方、神輿はそれぞれの町内に戻って練り、連合渡御は幕を閉じるってえ寸法よ。 ●日本一の大神輿 これは丁度バブル景気の真っ最中の平成3年に奉納されたもので、日本最大の神輿といわれており、 重量4.5t、高さ4.4m(14尺5寸)、随所に純金・宝石が使われている。神輿蔵のガラスを通 しても、神輿の最上部の鳳凰及び中段の狛犬のダイヤモンドの目は光り輝いており、途轍もなく豪華 なものだ。 さらに平成9年には、二宮御輿が作られたが、こちらは一回り小振りで重量2t、高さ 3.3m(10尺8寸)だ。 ●狛犬 東南アジアの風習で、魔除けに寺院でも、住宅でも、村の入口でも一対の犬の坐像が置かれてる。 この風習を持って日本人は日本にやってきた。また中国では獅子(ライオン)を一対安置したので、 これが融合して日本では獅子を安置し「狛犬」といった。「狛」は「高麗」で、中国の文物は朝鮮半 島を伝ってやってきたので、「こま」は「中国」と同義語だった。「いぬ」は東南アジアの魔除けの 風習のままで、「狛犬」は「ライオン」だ。「唐獅子牡丹」は、牡丹が中国の国花なので、まるまる 中国だ。 稲荷では狛犬の代わりに白狐を据える。狐が稲が実った頃やってくるので、神の御先(みさき)つ まり神の使いと考えた。稲荷と八幡は日本固有の神様だ。 狛犬は、仁王と一緒で口を開いたのと閉じたのがある。これを阿吽といい、吐息と吸気、始めと終 りを表している。阿吽の呼吸とは絶妙の間合いをいう。 本殿前の狛犬は、享保十二年(1727)に奉納され、安永六年(1777)に再建された形のよ いものだ。裏庭にある狛犬は宝暦十三年(1763)に奉納されたものだ。 ●力持碑(深川力持ちの碑) 社殿に向かって左前にある。さて力持ちは元来農村地帯に発生し、重量の玉石を双手で差し上げる 競技が変化したものだ。永代・佐賀・福住・深川・清澄の各町に、江戸市民の食糧物資をいれておく 倉庫がたち並んでいた頃、そこに働く人たちが、米俵などを手玉にとって力自慢をするようになり、 文化文政の頃には興行を行って、曲技を公開するようになった。その曲技を「深川の力持ち」といい、 現在に受け継がれてる。力自慢をする人を「力士」といい、差し上げた石に重量、氏名などを彫って 社寺に奉納したものを「力石」といった。各地の社寺に数多く保存されている。深川力持ち保存会の 人たちは仕事の合間にお互いその技を習い、毎年10月の江東区民まつりに参加して、その曲技を一 般に披露してるんだよ。 ●庚申塔 八幡の東側に七渡弁天という小祠がある。この弁天池の南側入口の手前に、見た目大変に古い庚申 塔がひっそりと建っている。古いだろうけど生憎年号が彫ってねえ。野暮な話よ。高さ114cmの 安山岩製。正面にそれぞれ眼・口・耳を塞いでしゃがむ3匹の猿が浮き彫りされている。猿は皆正面 向きで、立膝を揃えた具象的な姿をしている。元禄時代の庚申信仰の本尊は普通「青面金剛」で、3 匹の猿はその使いと考えられてきた。ところがこの庚申塔は3猿そのものを本尊とする珍しいもので、 元禄より一時代前の形態を示している。3猿の下に「新□島分 市兵衛内儀」と刻まれ、他に6人の 内儀(妻)の名が見える。また地名では「新堀」(中央区)「浅草」(台東区)の名も刻まれている。 つまり新□島を中心とした隅田川沿いの各地にいた女房が集まって、どういう仲間なのか、何かを祈 願して建てたものだろう。 ●冨士塚跡 江戸時代後半に庶民の間で富士信仰が盛んになると、その講中の人々によって造立された築山で、 富士山に登る代わりに登って富士山にお参りした事にした。ここの冨士塚は、社殿の裏にあり、昭和 30年頃まであった。『御府内備考続編』によれば、この冨士塚は石尊山と称え、享保七、八年(1 722~3)に造られた。高さ2丈、全周50間で文政二年(1819)に再興されたとある。また 大山の石尊権現を勧請し、その社も造立したともあり、この石尊山は当初は、同じく庶民信仰を集め た大山阿夫利神社に関連するものだったが、富士信仰の流行に伴い、いつしか冨士塚と呼ばれるよう になったようだ。現在も境内にある富士浅間神社が勧請されたのが文政三年(1820)であること、 築山が再興されたのがその前年であること、富士信仰の最盛期もちょうどその頃であることから、改 名もこの頃だろうと考えられる。また『新撰東京名所図会』には、富士山の山頂からは、品川の砲台 が間近に見え、皇居の松が鬱蒼と茂れる様や、家々から炊事の煙の立ち上る様子が一望の下に見渡せ ると、その眺めの良さを記している。私が大山に登ったときも東京は見えたから、富士山からも見え るかも知れない。炊事の煙はどうか知らないけど。 ●木場の角乗り碑 八幡境内にある。木場において筏を扱う者を筏師といわず「川並」と呼んでいる。その語源は不明 だが、九州でもそういうねぇ。この川並が、堀川の上で材木を扱いながら遊戯的に行ったのが、角乗 りの始まり。転落防止の訓練だったのだろう。おいらの親父も川並だったようで、木場の話はよく聞 いたよ。文化文政のころにはなかば興行的に行われ、角乗りの演技者も数多くおり、現在に受け継が れている。昭和27年9月には、角乗りの技術の保存と育成を目的に「木場角乗り保存会」が設立さ れ、同11月3日には「都無形文化財」に指定された。毎年10月区の文化祭に参加、昔のままのイ キな姿で一般にその妙技を披露している。碑は昭和39年10月13日に建てられた。 ●和田氏歴世記碑 境内裏手、弁天池の西側に、正面上部に「和田氏歴世記」と刻んだ、高さ167cmほどの石碑が 建っている。これは、天保五年(1834)に和田源七が先祖の来歴を記して建てたものだ。正面の 碑文は、約530字でなっており、その文によると、和田氏の先祖は、摂津西生郡(大阪府)の出身 で、初めは大和田を称していたこと、慶長年間(1596~1614)に徳川方の軍用物資を数十艘 の漁船を使って運送していたこと、小田原町(日本橋)に宅地を与えられていたことが判る。江戸時代 の初めに、関西方面からいろいろな職業の人がやってきた。というより幕府が積極的に招聘したといっ てもよい。こうした人々が家康の夢を現実のものとし江戸の町を作っていった。深川を開発した深川 八郎右衛門、砂村を開発した砂村新左衛門、佃島の森氏は攝津国から来たし、萩新田の萩氏は、河内 国からやってきた。「江戸に多いもの、伊勢屋、稲荷に犬の糞」といわれた伊勢商人を始め、大阪商 人、京商人、近江商人が江戸に下った。紀伊国屋文左衛門は紀伊国の人だ。 和田氏もそういう1人 だったのだろう。家康が拝み倒して江戸に来てもらったという。和田氏は関八州漁師の総領とされた。 水産物に関しての責任者だ。当然魚市場を支配した。 ●伊能忠敬像 近代日本地図の始祖である伊能忠敬は、事業に成功したあと50歳の時に江戸に出て、富岡八幡宮 近くの黒江町(現在は門前仲町1丁目)に隠宅を構えていた。 寛政二年閏4月19日(陽暦1800年6月1日)の早朝、富岡八幡宮に参拝して蝦夷地(北海道) 測量の旅に出発した。忠敬はこの時を含めて全部で10回の測量を企画したが、遠国に出かけた第8 回までは、出発の都度必ず、内弟子と従者を率いて富岡八幡宮に参詣して、無事を祈念した後、千住、 品川宿などの測量開始地点に向かって歩き出した。富岡八幡宮は伊能測量にとって大変縁の深い場所 である。像は伊能測量開始200年にあたり「伊能ウォーク」、地図・測量、土地家屋調査士、伊能 忠敬研究会などの関係者が中心となって、広く一般から浄財を公募して平成13年10に建立された。 |
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■大相撲発祥の地 さてここは江戸相撲発祥の地だ。相撲関係の石碑が多いのはそのためだ。相撲(すもう)の創始は、 野見宿禰(のみのすくね)と当麻蹴速(たいまのけはや)のK1(力競べ)で、まさに殴るあり、蹴 るありの戦いだった。これが平安時代になると節会相撲となり宮中儀式の1つに変容するが、中世に なると馬上戦の組み打ちの日常鍛錬として今日のようなルールで行なわれるようになり、勧進相撲の 形を取って寺社の修理費、維持費を捻出するようになった。 「力士」という職掌は、本来殿様のボディガードをする者の謂いで、大概の場合、非番の「力士」 が相撲を取ったので、その後「相撲を取る職人」が出て、その人の意味に転化したものだ。当時は「角 力」と書いて「すもう」と読ませていたが、これはまだ丸い土俵が発明されなかったからである。相 撲は「あいうつ」ことで、本来は殴りあうの意で、ボクシングの訳語にしたいくらいだ。「すもう」 は古語で「すまふ」であり、「抵抗する→争う」のことを意味した。 江戸で初めて相撲興行をしたのは、家康のころで、大手前(大手町)や、西の丸下(皇居外苑)で 行なわれた。勧進相撲は、寛永元年(1624)の四谷塩町裏の長善寺(笹寺)だというが確証はな い。正式に挙行されたのは、貞享元年(1684)寺社奉行本多淡路守忠英の「蒙御免(ごめんこう むって)」であり、富岡八幡だった。二年前に焼失した本殿再建のためとも、三十三間堂再建のため ともいわれる。以後100年余、両国回向院に独占される天明のころまで、江戸相撲の中心的立場に あった。寛政元年(1789)に谷風梶之助と小野川喜三郎の両大関に四人目と五人目横綱免許が与 えられ、その伝授式がここで行なわれたことは特筆大書すべき大出来事だぞ。やがて相撲は両国名物 となり、明治になると年寄に高砂浦五郎が現れて相撲改革を行い、常設場所として「国技館」を建設 し、同42年それまで東西対抗戦だったものを個人優勝制度に変え、その後京・大阪の組合と合同し て大相撲となり、春秋園事件などのトラブルはあったものの、今日の隆盛をもたらしている。 ●横綱の碑 境内右手奥にある。12代目横綱陣幕久五郎は、明治維新後はもっぱら親方として活躍する一方、 明治28年当時の政財界人から寄付を募って江戸大相撲の発祥地といわれる深川の富岡八幡宮境内に 巨大な「横綱力士碑」を建てた。高さ3・5m、幅3mの石碑は、重さ6000貫余(22~4t) の白御影石製で、巨人力士の碑など数ある同神社の相撲関係の碑の中でも一際目立つ存在となってい る。裏面に現代までの歴代横綱の名前が刻まれてるが、この碑の両脇に陣幕とライバルの不知火光右 衛門の土俵上の姿が刻まれている碑も建っている。その碑文には、 出雲陣幕久五郎 肥後不知火光右衛門 安政四年正月両国回向院ニ於テ大角力興行二日目 ノ取組ナリ と記されている。陣幕が横綱になる十年前の取組で、彼にとっては思い出の土俵だったのだろうか。 陣幕は碑の建立から8年後、数え75歳で死去した。 碑の裏に歴代横綱の名が濃くされているが、51代玉の海で一杯になり、その後の横綱の名を刻む スペースがなくなったので、昭和58年10月5日その両側に重さ15tの2つの新しい横面の碑が 加えられた。現在朝青龍まで彫り込まれている。説明板の説明。 江東区指定有形文化財(歴史資料) 横綱力士碑 附 陣幕・不知火顕彰碑二基 日月石寄附碑 地固め寄附碑 土台石垣 魚かし石柱日本 土台下玉垣 富岡1-20-33 富岡八幡宮この横綱 力士碑は、横綱の顕彰と相撲の歴史を伝えるため、江戸時代最後の横綱第十二代陣幕久五 郎が中心となり、明治三十三年に建てられました。古くから庶民に親しまれてきた相撲は 江戸時代には幕府公認の勧進相撲(寺社修復などを目的に実施)へと発展し、大坂・京・ 江戸で興行として開催されました。 偉容を誇る横綱力士碑はヽ同時期に建てられた陣幕・不知火顕彰碑や周辺の石造物と共に 相撲と地域のつながりを示す責重な文化財です。 今は無い、旧説明板の説明。 横綱力士碑 ◇建立 明治三十三年 ◇重量 約五千五百貫 (約20トン) 当宮では貞享元年(1684)に幕府の公許のもと初めて勧進相撲が行われ、以後年ニ場 所の相撲興行が定期的に行われた事により江戸勧進相撲発祥の地として知られるようにな りました。初代明石志賀之助からの歴代横綱の名が刻まれたこの碑は第十二代横綱陣幕久 五郎が発起人となり各界の協賛を得て奉納されたものです。なお正面参道・大鳥居手前左 側には「大関力士碑」が建立されています。 ●大関力士碑 参道脇に建っている。昭和58年10月5日富岡八幡宮の大鳥居をくぐって右側に、高さ3mの「大 関力士碑」が建立された。またその隣に「巨人力士身長碑」と「巨人力士手形足形碑」が建立され、 社殿の裏にある横綱力士碑と合わせて、相僕史跡探訪の上から貴重な資料となった。歴代の大関力士 の名は、明治31年に9代目市川団十郎と5代目尾上菊五郎が寄付した2個の仙台石に刻んである。 大関は、初代大関雪見山(宝暦7年 1757)から始まり現在まで、227年間に235人いる。 しかしその内の68人は横綱に昇進し、名前だけの看板大関もおり、それらを除いた107人の大関 の名が年代順に刻まれ最後に白鵬が刻まれている。説明板に以下のようにしるしてある。 当宮は江戸勧進相撲発祥の地として知られ、明治年間には歴代横綱の名を刻んだ横綱力士 碑が建立されましたが、この大関力士碑は、歴代の大関を顕彰し(横綱に昇進した力士と 実際に取組みには入らなかった看板大関を除きます)昭和58年に建てられた碑です。 ●超五十連勝力士碑 千代の富士の連勝がきっかけとなり、小島貞二の提案によって昭和63年に建立された。横綱力士 碑の傍らに建っており、大相撲の本場所で50連勝以上を記録した力士を顕彰している。11角柱の 日本の石碑としては珍しい形状を持ち、正面に碑銘、以下左回りで超50連勝力士の名が年代順に刻 まれている。現在5名の名が入り、残る5面が余白になっている。50連勝以上を1回でも達成すれ ば名を刻まれる権利を得るが、各力士の最高記録のみを刻み込むため、当該力士の引退を待ってから 刻名されることになる。そのため、50連勝以上を複数回達成したとしても重複して刻まれることは ない。平成22年に横綱白鵬が63連勝を達成したが、引退するまでに新たに64連勝以上を達成す れば、そちらの記録が刻み込まれる ●巨人力士身長碑 高さ2.79mで、江戸時代からの長身の力士12人の名と身長が刻まれている。最高は生月力士の 7尺6寸(約2.3m)だ。 ●巨人力士手形足形碑 参道脇に建っている。6人の力士の手形と3人の力士の足形が刻まれている。 |
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■大栄山金剛神院永代寺跡 深川不動と深川公園のところにあった。寛永四年(1627)富岡八幡宮を勧請した長盛法印が、 その別当寺として建立した。当時島は隅田川河口にあった砂州で、広さは60508坪あり、その内 22193坪が寺域で、残り38000坪が門前町屋地だった。承応二年(1653)真言宗御室派 の大本山仁和寺の直末となり、元禄十七年(1704)真言宗関東5ヶ寺と同格になった名刹だった。 3月21日~28日にかけては、弘法大師の御影供や庭園を公開する山開きの行事で大いに賑わった。 また成田山不動尊をはじめとする江戸出開帳の場として、江戸市民の参詣者を多く集めるなど、富岡 八幡宮とともに、江戸時代を通じて栄えた。明治の神仏分離令により明治政府から強引に廃寺とされ。 七堂伽藍悉く取り壊され今はない。現在深川不動前の永代寺は元の子院吉祥院が、明治29年から法 灯を継いでいるが、寺地の一部に成田不動を差し込んだのは成田山の陰謀か? 大久保利通辺りが相 当裏金でも懐にしたのだろう。軒先を貸して母屋を取られた? ●永代寺歴代住持の墓 現在の永代寺裏の墓域に、歴代住持13基の墓や供養塔がある。五輪塔は、初代(長盛)・3代(覚 雄)・5代(周範)・6代(周応)・7代(周岳)・12代(周宥)・13代(周全)の7基、角柱塔は、 8代(周英)・9代(周厳)・10代(周龍)・14代(周済)・15代(周晴)の5基。但し10 代のものは乱積みであり、上部に五輪塔の一部が乗せられている。供養塔は、4代(周光)・11代(周 勝)の2基だ。この外富岡八幡宮の宮司になった16代(周徹‐富岡宥永)から18代(富永盛彦) までの墓もあるが、何故か2代のものだけが見当たらない。 |
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■二軒茶屋跡 富岡1丁目20番の辺りにあった。割烹松本と伊勢屋のことだ。現代の料亭に相当する料理茶屋の出現 は、寛延4年(1751)以後であり、安永六年(1777)刊『富貴地座居』の江戸の「料理之部」 に深川の二軒茶屋の名が見える。初め周囲に柴垣を廻らせた質素なものだったが、後には表口は玄関 を設け、石灯籠などを建て、池などを廃した立派な造りになっていった。松本は、裏口が油堀に面し て河岸があり、猪牙船や屋形船に乗り、隅田川や海での船遊びができるようになっていた。天保十三 年(1842)の岡場所取払令で二軒茶屋は衰退していくが、明治18年版の『東京流行細見記』に は、深川の3料理屋の一つとして松本の名が見える。この松本から幕末の画家松本交山が出、深川2 丁目の心行寺にある「先祖代々之墓」に葬られている。 |
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■三十三間堂跡 富岡2丁目4番8号、京都の蓮華王院の本堂三十三間堂を模して建てられ、南北66間(約118. 8m)×東西4間(約7.2m )四面廻り縁の堂で、本尊は千手観世音菩薩だった。 寛永十九年(1642)に幕府の援助を受け、通し矢という射術稽古のため、新両替町の弓師備後 によって浅草松葉町に建てられた。しかし材木料金を滞らせたため、正保元年(1644)普請を請 け負った堺屋久右衛門(後に鹿塩)の拝領するところとなり、以降代々堂守を務めた。元禄十一年(1 698)に焼失したが、同十三年(1700)深川に再建された。西側の縁を利用して通し矢が行わ れ、江戸でも指折りの名所として賑わい、『江戸名所図会』や錦絵に題材として取り上げられている。 明治5年江戸幕府の遺物として狭量な明治政府の槍玉に挙げられ破却された。堂守が書き残した『三 十三間堂旧記』は深川2丁目の正覚寺に移され現存している。 ●碑とモニュメント 平成7年3月に設置した。以前からあった三十三間堂史跡の石柱を移築し、その右側に当時の三十 三間堂のレリーフが置かれている。このレリーフはブロンズ製で、文政四年(1821)堂守鹿塩久 右衛門の許にあった深川三十三間堂での通し矢の記録を本として出版した『深川江戸三十三間堂矢數 張』の中の絵のページが開かれ、三十三間堂が見事に浮き上がって描かれている。また白御影石の台 座には史跡としての説明文が書かれたブロンズがはめ込まれており、コンクリートの台座には陶板に よる1間の「矢」が描かれている。江戸三十三間堂は、京都蓮華王院に模して、寛永十九年(164 2)に浅草において建立された。深川に移されたのは元禄14年(1701年)のことだ。深川にお ける三十三間堂は、南北六十六間・東西四間の堂舎であり、本尊は千手観音だったといわれている。 現在でも、京都の三十三間堂において、通し矢が行われている。江戸時代は、この三十三間堂におい ても、諸士の弓術稽古のために通し矢が行われていた。深川三十三間堂は、明治5年(1872)に 廃棄解体され、本尊は正覚寺(深川2-22-5)に移された。三十三間堂が建っていた場所は、明 治2年~昭和6年、深川数矢町といった。町名は「三十三間堂が射手数矢を演じたる地なるを以って 町に名づくという」ことに因んでいる。現在は富岡2丁目に含まれ、数矢町はなくなったが、この名 前は、数矢小学校の名に残っている。堂域は、分断されて住宅となっており、当時の面影を偲ぶもの は全く残っていない。 |
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■東京市立深川図書館跡 富岡1丁目14番の深川公園のところにあった。明治42年、親父の生まれた年だ・・・まあいい や、この年に東京市立図書館として公園内に設立された。都内では日比谷図書館に次ぐものだった。 建物は、東京勧業博覧会の時にガス会社が機械や材料の展示に使用したものを譲り受けて移築した。 『東京市立深川図書館一覧』によると、開館一周年で蔵書7000冊(内児童書400冊)、利用 者44003人(内児童14996人)。閲覧料普通閲覧人1回1銭、但し児童には15回9銭の回 数券を発行した。大正12年の大震災により館舎、蔵書の全てを焼失、その後昭和3年清澄公園内に おいて鉄筋コンクリート3階建ての図書館が新築された。昭18年都制移行により都立図書館となる が、昭和20年一時陸軍に接収された。同25年管理が区に移管され「江東区立深川図書館」と改称 し、区の中央図書館として今日に至っている。 |
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■深川不動尊 「成田山東京別院深川不動堂」 富岡1丁目17番13号にある。いっとくが深川不動は江戸時代からあった訳じゃないよ。明治政 府が、何処に恨みがあったのかは判らないが、とにかく永代寺境内の吉祥院を強引に取り潰し、堂宇 悉くを取り去ってしまったのだ。そしてその跡地の一部に将門調伏に加担した成田不動の出張所を呼 び込んだ次第だ。 諸国にある有名な信仰仏は、寺院経営の経済的理由(金儲け)と功徳を弘めるため、「出開帳(で かいちょう)」と称えて信仰仏を各所に運び、多くは寺院を借りて四方にそのことを触れ回り、見物 人を集めては浄財を求めた。江戸時代、中でも元禄年間は江戸町民を中心として不動尊信仰が急激に 広まった。この背景には、経済・商業の中心地としての江戸、またそれを支える町人の経済力の飛躍 的な増大が、大きな原動力となっていた。このような元禄の町人文化が華々しく開花した時期に、成 田山新勝寺は信徒数も増え、また寺格も格式の高い本山へと大きく発展していく。 同じ時期江戸町人を中心に成田山の本尊不動明王を江戸で参拝したい、という気運が高まり、終に 元禄十六年(1703)四月に初めて江戸での本尊の出張開帳(江戸出開帳)が行なわれた。当時は 犬公方として知られる5代将軍徳川綱吉の治世で、その母桂昌院が成田山の不動明王を江戸で参拝し たいと希望し、それが実現したという説もある。成田山出発の総勢は300人を超える行列が組まれ 江戸まで1週間余りかけて運ばれたという。2ヶ月に亘る出開帳は、江戸市民に大きな人気を博した が、この開帳の場所が深川永代寺境内で現在の深川不動堂付近であり、これが深川不動堂の起りとさ れている。以来、出開帳は毎年のように行われるようになり、しかも「成田のお不動さん」は、市川 団十郎演ずるところの『成田利生記』などの芝居を通じて俄かに江戸市民の信仰を集めたため、毎年 行われる出開帳は頗る盛大になった。やがて明治2年永代寺境内にあった吉祥院に、恒久的な成田山 新勝寺の出張所を設け、本山から不動尊の分身をここに安置し、越えて同14年現在地に堂宇を建て ますます善男善女の渇仰随喜に対し、功徳の恵みを垂れることとなった。28日は不動尊の縁日で、 この日は参拝の老若男女群をなして参道を埋め、その賑わいは目を見張るばかりだ。 東南隅にあった石造物群は駐車場奥(東北隅)に移設した。その中には吉田茂が大倉喜八郎に委ね た石不動もある。 ●開運出世稲荷社 境内にある。 |
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■江戸不動 「上方観音、江戸不動」といわれ、関西は観音信仰が強く、江戸は不動信仰が強い。赤坂不動、三 不動、飛不動など、町内に必ず一つはあるといわれるほど、江戸にはお不動さんが多いということを いう。おいらの近所だけで三つもあるよ。これは初代の市川団十郎が子供に恵まれず、最後に拝みこ んだ成田詣での後に2代目を授かり、これに感激した初代が成田山にのめり込み、永代寺の出開帳を プロデュースしたり、芝居の中に成田不動の霊験を織り込んで進んで広告塔になったことが、江戸に 不動信仰が広まった理由だ。市川家の屋号は成田屋、荒事のポーズは不動明王をヒントに考え出された。 |
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■八幡堀 富岡八幡の東の掘割。現在は堀の状態で半ば埋め立てられ公園になっている。江戸の前期ころまで、 この地域は永代島と呼ばれ利根川(隅田川)が運んでくる土砂で河口部に形成された砂州だった。寛 永四年(1627)ここに富岡八幡が砂村から遷され、永代寺が創建されるが、八幡宮の東側はまだ 砂浜だった。同十一年(1698)浅草にあった三十三間堂が火事で亡くなったので、八幡宮の東側 に再建された。そのとき境界線の意味も含めて水抜き堀(数矢堀または八幡堀)が掘られ運河に整備 されたようだ。江戸末期までこの風景は変わらず、明治維新により三十三間堂が取り壊されても、堀 は八幡宮に所属したため埋め立てられることはなかったが、昭和49年首都高九号線の建設に伴う油 堀の埋め立てとともに、支川であるこの堀は存続理由を失い追って埋め立てられた。 ●八幡橋 富岡八幡の東側の八幡堀遊歩道に架かっている。橋はここに架けられたものではない。日本橋区本 材木町3丁目から高代町(中央区宝町2丁目と八丁堀3丁目)の間を流れていた楓川(江戸時代は材 木町川 現在は高速道路)に架けられている弾正橋の前身で、橋としては江戸時代には架けられてい た。明治に入って架け替えられたのだが、東京市最初の鉄橋なのだ。ところが関東大震災後の帝都復 興計画で廃橋になり、撤去されることになったが、そういう曰く因縁のある橋なので「保存すべえ」 ということになり、昭和4年に移設されたってえ訳。国指定の重要文化財だぞ、エッヘン! 橋は八 幡堀遊歩道に架かり、富岡八幡宮に渡るので名を「八幡橋」と改め、以来今日まで附近住民の利便に 供し、かつ史跡探訪家などの参観もあり、文化財としての価値も高いので、区教委をはじめ各関係者 が運動した結果、昭和52年有形文化財に指定されたんよ。 |
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■永木の親方・三世坂東三津五郎 八幡堀の東側の通りを永木または栄喜横町といい、ここに3世三津五郎が住んでいた。この通りは 昭和初めの区画整理で若干変わったが、昔からある通りだ。江戸時代、この通りから西に深川の花街 が点在して有名だった。また舟で着いた人々が八幡宮へ向かう参道として賑わい、深川で最も華やか で、舟の便のよい町だった。 3世三津五郎は、3世中村歌右衛門とともに、文化文政期(1804~30)の最も優れた歌舞伎 役者であるとともに、三津五郎名跡の第一人者で、10代を数える三津五郎名跡で3世を超える三津 五郎はいない。人間国宝でふぐ中毒で死んだ8世がいいとこかな? 3世は安永二年(1773)初代の実子。天性の芸道に恵まれ、4歳で初舞台を踏み、力士役、女 形など諸役に優れ、「封印切」の忠兵衛、「陣屋」の熊谷、「菅原伝授」の松王丸など、また「娘道 成寺」「淡島」「山姥」などの舞踏劇が得意だった。三津五郎は屋号を大和屋、幼名を三田八、俳号 を秀佳、妻は2世の長女ていで、寛政十一年(1799)3世を相続、天保二年(1831)57歳 で没した。 現世は10代目だ。芝居はまあまあなのだが、困ったことに女にだらしがない。宝塚の寿ひずると 離婚して、フジテレビの近藤サトに手を付け、これも離婚。あっこっちで女の噂が絶えない。「女に だらしない」と親友勘三郎を批評してたが、勘三郎の比じゃあない。大名跡を背負ってんだから、落 ち着いて欲しいものだ。だから未だに大成しない。 |
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■豊洲駅 豊洲2丁目2番12号にある東京臨海新交通臨海線「ゆりかもめ」の停車場。平成18年3月27 日に有明から延伸して開業した。東京メトロ有楽町線豊州駅との乗換駅。ホームは3階にあり、島式 1面2線構造。ホームと改札階を結ぶエレベーターは完備。改札口も1ヶ所のみで、2階にある。出 口は北口と南口のほか、豊洲シエルタワーに直結する出口もある。エレベーターは南口に設置されて いるもののほか、北口の豊洲シエルタワー内のものも利用できる。 ゆりかもめは、将来的に晴海・勝どき方面へさらに延伸する計画もある。まだ着工の目途は立って いないが、それを見越して軌道の終端部は晴海方面に「左折」するカタチで途切れている。ゆりかも め豊洲駅の駅構内案内放送(精算所・トイレ・案内板)を務めるのは、声優の保志総一朗。駅文様は 「水に雨龍(みずにあまりゅう)文様 紺碧」。平成19年10月18日~同20年3月31日まで、 車内における当駅の到着アナウンスをフジテレビアナウンサーの高島彩が務めた。 |
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■石川島播磨重工業 移転 豊洲2丁目4番9号にあった造船所。 ●面白い話 丁度フォークランド紛争のあった時だ。仕事で入ったことがある。自衛艦を作っている造船所、当 然工員とフォークランド紛争ことが話題となる。フォークランド紛争ってえのは、昭和57年アルゼ ンチン沖のフォークランド諸島(アルゼンチンではマルビナス諸島)の領有権を巡ってアルゼンチン がイギリスに仕掛けた戦闘だ。この海戦でイギリスは駆逐艦など6隻を失ったが、ミサイルを撃ち込 まれると電気系統をやられて使い物にならなくなったことを受けて、工員たちはイギリスの建艦技術 のレベルの低さを哂ったものだ。さらに航空母艦の話になると、「俺たちに作らせてみろ。アメリカ の原子力空母なんてめじゃないぜ」と意気軒昂。 で、この建艦技術力の高い工員たちは労働組合員で、戦争反対、自衛隊反対だ。ある時、玄関前広 場で組合の決起大会が開かれていた。赤旗が林立して「戦争反対、自衛隊反対」のシュプレヒコール の大音響。自衛艦を作る造船所には、海自の出張所のようなものがあって自衛官が常駐し、出入りし ている。決起大会の傍を海自の士官が普通に歩いてきた。工員の1人がそれを見て「○○さーん」と 声をかけて走ってきて何やら打ち合わせ。スピーカーからのがなり声は「自衛隊反対」、自衛官と組 合員の親しげな会話。こりゃ何じゃ! 平和だね、ニッポン。 |
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■石川島工業高等学校 廃校 豊洲2丁目4番9号石川島播磨重工業内にあった私立高。昭和3年「実業補習学校」として発足。 同11年「石川島造船所青年学校」と改称。同24年「石川島高等工学校」と改称。同31年「石川 島工業高等学校」と改称。同52年6月10日廃校。現在跡地にはマンションが建っている。 |
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■キッザニア東京 豊洲2丁目4番9号アーバンドックららぽーと豊洲ノースポート3階38200にある。平成18 年10月5日、メキシコで人気の「Kidzania(キッザニア)」が日本初上陸! メキシコ以 外では初めて、世界でも第3番目となる施設が、石川島播磨重工業造船所跡地にオープンした。子供 の社会体験を目処としたテーマパーク。これが当たればディズニーランドから子供が消えるかも。必 然的にリピートするように仕組まれている。 キッザニアは、消防士、キャビンアテンダント、モデル、医者など、70種類以上の仕事が子供た ちを待っている。各パビリオンでは、子供たちの年齢や興味に合わせて、様々な種類、難しさのアク ティビティ(具体的な仕事や体験)が用意されている。パイロットになって飛行機を操縦、アナウン サーとしてニュースを読む、消防士になって消火活動、保母さんになって小さい子の世話をするなど、 大人になりきって学び遊ぶことができる。本物そっくりなお店や施設が立ち並ぶキッザニアは、まさ に子供のための街だ。無論大きさも2/3の子供サイズ。病院、消防署、ビューティーサロン、銀行 をはじめ、ラジオ局、テレビ局、ピザショップ、劇場など、楽しい街並みが子供たちを待っている。 働く前には、その仕事に関連したお話や働く上でのルールが説明され、子供たち一人一人に役割が与 えられる。それぞれのユニフォームに着替え、インストラクターからの説明をよく聞いて、いざ仕事 スタートだ。働いたらキッゾ(お金)を貰ってお買い物をしよう! 仕事を体験した子供たちには、 キッザニア独自の通貨〝キッゾ〟で給料が支払われる。貰ったキッゾを使っていろいろなサービスを 受けたり、ショッピングをすることもできる。キッザニア内の銀行で口座を開くとキャッシュカード が発行され、ATMを使って子供が自分でキッゾを引き出したりできる。勿論、貯金しておけば次回 来場した際にもキッゾが残っている。子供たちはキッザニアで遊ぶために、自分でキッゾを使ったり、 貯めたり出来るのだ。 ●社会体験 子供たちは遊びを通して、様々なことを学ぶ。キッザニアは、仕事体験をベースとした社会学習の 場といえる。つまり子どもたちは遊びの中から社会のルールやマナー、経済の仕組み、将来の可能性 を学んで行くことができる。子供たちは様々な仕事の社会的役割を理解したり、働くことの楽しさ、 厳しさを学んだり、自立性や社会性、金銭感覚を養ったりすることができる。父さん、お母さんは、 キッザニアでの一日を通じて、我が子の楽しむ笑顔と思いがけない成長に目を見張ることになるかも ・・・ ●セキュリティ 利用に当たって安全保護のためのブレスレット着用が義務付けられ、入場者の管理を徹底している。 IDチップ入りの丈夫なプラスチック製のブレスレットは、簡単に外せないようにロックがかかる。 入場する際には、メンバー全員のIDチップをグループとして登録。退場する際にも、登録したメン バーが揃って初めて子供が外に出られる仕組みなので安全だ。さらに好奇心と探究心溢れる子供たち をサポートするのが、スーパーバイザーと呼ばれる大人のスタッフ。トレーニングされた彼らが、自 発的な仕事体験を補助し、直接的な危機を管理する。こうした配慮が認められ、メキシコでは安心し てこどもを楽しませることができる施設として保護者の高い信頼を得ている。 開園時間 16:00~21:00(第二部)のみフリー。第一部(10:00~15:00)は Web予約と、学校、団体に限られる。つまり朝出かける時に予約しろということだ。年中無休で、 入場料は①2~3歳1500円、②4~15歳は3000円、③16歳以上2000円だ。ただし土 ・日・祝・祭日・学校の休日(春休み・夏休み・冬休み)を除く平日は、①1200円、②2400 円、③1600円に値下げする。 ●国の施設に「私のしごと館」という、とても似たのがある! 国の無駄遣い行政法人の1つで、京都にある。謳い文句は立派なのだが、何100億円もかけた割 にはちんけな施設で、よくもまあいけしゃあしゃあと作ったなと、嗤い物になっている。客が入らね えばかりか、通り過ぎてみたところで仕事の体験が出来る訳でなし、子供がつまんながる。そもそも 国の外郭団体てえのは国立国会図書館とか、国立の博物館とか、国民に有用なものはあるにはあるが、 殆どの組織は天下り官僚の捨て場みたいなところで、仕事が出来なくて役所を搾り出された連中が税 金で養われている。別には税金を回して税金でなくし、プールしておく場所でもある。プールされた 金はどうするかって? 決まってんじゃねえか、アメリカに吸い取られるんだよ。 戦争に負けてから、日本はアメリカの属国にされ、江戸時代の大名みたいなもので、参勤交代と上 納金は欠かせない。テロ特措法なんてえのは、上納金を現金で渡す訳にいかねえから、色々へ理屈を つけて、吸い取られる仕組みなんだよ。アフガン支援て、アメリカの軍艦に石油を入れたってえが、 これが何処で仕入れて、幾らでか買ってんのか自民党は明かさない。明かせないのだ。それで国際貢 献で誤魔化す訳よ。国際貢献している心算なのは政府だけ、アメリカの軍幹部だって日本が国際貢献 してるなんて全く知らないのだ。なのに世界のどこの国が日本がアフガンに国際貢献してると知って いるか・・・ 権力は常に嘘を並べ立て、未来の恐怖を語り不安を煽って政治するものなんだよ。自 民党だけが悪の権力じゃあないんだ。共産党でも、民主党でも、同じことさ。権力というものはそう いったものなのだ。ブッシュは、9・11を引き起こした後、アルカイダのビンラディンを犯人に仕 立て上げてアフガン攻撃を開始し、ビンラディンを2ヶ月で逮捕すると豪語したが、未だにそれを果 たしていない。それはアフガン侵略の名目に過ぎないからだ。ビンラディンが実在したかどうかさえ 判らない。しかし結果としてアメリカはロシアが果たせなかったアフガン領有を確実なものとした。 イラクのフセインが核は持っていないといっているのに、持っていると嘘を以て恐怖を煽り、イラク を占領しフセインを殺害した。これでイランを挟撃できる体制が整い、虎視眈々其欲逐々たる悪心を 覗かせる。目的はバクーの石油をアラブを通さずにインド洋に引き出すためだ。イランを占領しなけ れば目的は達成されない。別にイランが欲しい訳じゃない。騙されんなよ。北朝鮮問題は100年経っ ても片付かない。 |
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■豊洲図書館 豊洲2丁目2番18号にある。 |
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■芝浦工業大学 豊洲3丁目7番5号にある工科系私立大学。豊洲キャンパスは平成18年4月1日のオープン、芝 浦キャンパスは解体後売却されるとか。ほかにさいたま市に大宮キャンパスがある。工学部(11学 科)とシステム工学部(3学科)がある。大学基準協認定の34校の公私立大学の内の1つに選ばれ ている。学長は平田賢。同17年3月までエサキダイオードでノーベル物理学賞受賞の江崎玲於奈が 学長を務めていた。 昭和2年東京高等工商学校設立。同24年芝浦工業大学(工学部のみ)創立。 ●4理工 工学院大学・芝浦工大・東京都市大・電機大学の4大学間の単位互換システム。東京4理工が発足 したのは平成8年1月。当初は都内に本部を置く芝浦工業大学、東京電機大学、武蔵工業大学(東京 都市大学)の理工系3大学で発足、その後同10年3月に工学院大学が加わり、現在の東京4理工と なった。同8年当時の日本は、バブルと呼ばれた好景気が終わり、全く先の全く見えない不景気の混 沌に突入していた。そんな中、学生の進路希望は、将来の安定性を求め、総合大学志向が強まり、ま た都内の就職率の低下から地方大学へと流れていた。東京の理工系大学にとっては、「理工系離れ」 「東京離れ」という逆風が吹いており、それまでの日本の経済基盤を確立する技術者を多く輩出して きたのは、紛れもなく東京の理工系大学であり、将来の日本経済を見据えた時、不況の中なればこそ、 最先端の技術を学べる東京の理工系大学が一致団結し、次代を担う技術者を養成しなければならない との観点から東京4理工が発足した。この4理工発足当時の活動は、大学院の相互開放で、それぞれ の大学が得意な分野をまず大学院の段階で融通し合い、総合大学に負けない多様な教育メニューを学 生に提供した。その結果現在では270科目を専攻することができ、これは総合大学のカリキュラム 数を優に超える科目数となっている。各大学の学部生が、相互に大学院修士課程に入学できる「特別 推薦入試制度」を設けている。推薦枠は各大学1専攻につき1名。4大学併せて「31専攻」という 広い範囲から専攻を選択できることは大学院希望者にとって大きな魅力だ。また各大学で開講する学 部及び大学院修士課程の授業を履修できる「単位互換制度」を実施している。 聴講料等は免除。 なお武蔵工業大学は、平成21年総合大学となり、「東京都市大学」と改称した。 ●豊洲キャンパス 平成18年4月1日開校の新キャンパス。新キャンパスは芝浦キャンパスの4倍に当たる3000 0㎡の敷地面積がある。新キャンパスには、24時間営業のコンビニエンスストア(ファミリーマー ト)が併設されている。キャンパス内に入る大学生協、学食、ファミリーマートでは「Suica」 での支払いが可能だ。豊洲キャンパスは凱旋門のような形をした研究室棟、教室棟、交流棟の3つの 建物があり、それらは渡り廊下で結ばれている。埋め立て地という事もあり、それぞれの建物は免震 構造を持っている。そのため渡り廊下は伸縮できるものとなっているのが特徴だ。また冷暖房システ ムはIHI石川島播磨本社ビルから供給を受ける。豊洲3丁目地区再開発計画で周囲との開放性を失 う塀のようなものを作ることは禁止されていたため、校門を作ることができなかった。そこで、学校 のシンボルとなる物を模索した結果、凱旋門のようなデザインの研究棟ができた。研究棟のデザイン は、校門をイメージしたものだと考えられる。 ●工学部 機械工学科 機械工学第二学科 材料工学科 応用化学科 電気工学科 通信工学科 電子工学科 土木工学科 建築学科 建築工学科 情報工学科 ●システム工学部 電子情報システム学科 機械制御システム学科 環境システム学科 校歌「朝日に輝く」 作詞・北原白秋 作曲・山田耕筰 朝日に輝く 風と潮 雄大、空あり、雲は移る 仰げよ校旗の 翩翻たるを 白亜の殿堂ここに聳え われらが工学、英気鐘む 芝浦、芝浦、吾等が母校 |
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■豊洲駅 豊洲4丁目1番1号にある東京メトロ有楽町線の停車場。昭和63年有楽町線新富町~新木場間延 伸時に開業。同18年3月27日にはゆりかもめが有明から延伸して乗換駅となった。有楽町線のホ ームは地下3階にあり、島式2面2線という変則的な構造をしている。島式ホームの外側しか使用し ておらず、内側には線路は敷かれていない。これは、有楽町線の延伸線として豊洲から住吉・押上方 面への路線が計画されているため、ホームがあらかじめ準備されているものだ。しかし今のところ建 設の目途はまったく立っておらず、このまま放置される可能性もない訳じゃない。住吉駅にも使われ ていないホームがあるが、そちらには線路が敷かれていて普段は電留線として利用されている。ホー ムと改札階を結ぶエレベーターは設置済み。ゆりかもめのホームは3階にあり、島式1面2線構造。 ホームと改札階を結ぶエレベーターは完備。東京メトロの改札口は1ヶ所のみで地下1階にある。 出口は1a・1b~6a・6b・7の9ヶ所で、地上へ上がるエレベーターは3番出口と7番出口 に併設されている。ゆりかもめも改札口は1ヶ所のみで2階にある。出口は北口と南口のほか、豊洲 シエルタワーに直結する出口もある。エレベーターは南口に設置されているもののほか、北口の豊洲 シエルタワー内のものも利用できる。 豊洲はかつて工場地帯だったが、駅の北に広がっていた石川島播磨重工業の造船ドックも姿を消し、 現在は再開発工事が進められている。平成18年10月5日には大規模商業施設「アーバンドック ららぽーと豊洲」もオープンした。駅の南側にある東雲地区と併せ、豊洲は新しい街として生まれ変 わってく。 駅の利用客数も大幅に増えており、前年比45.1%増の84470人となった。この伸 び率は東京メトロ全駅で第1位だった。 ゆりかもめは、将来的に晴海・勝どき方面へさらに延伸する計画もある。まだ着工の目途は立って いないが、それを見越して軌道の終端部は晴海方面に「左折」するカタチで途切れている。ゆりかも め豊洲駅の駅構内案内放送(精算所・トイレ・案内板)を務めるのは、声優の保志総一朗。駅文様は 「水に雨龍(みずにあまりゅう)文様 紺碧」。平成19年10月18日~同20年3月31日まで、 車内における当駅の到着アナウンスをフジテレビアナウンサーの高島彩が務めた。 |
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■豊洲小学校 豊洲4丁目4番4号にある区立校。昭和22年4月に開校した「平久小学校分校」に起源とする。 それ以前のこの辺りは、平久国民学校の学区の延長と考えられていたが、通学距離は遠く、児童は地 理的に近い京橋区月島第三、同月島第一、臨海国民学校に分散して通学していた。そのため学制改革 を期に、児童数7学級325名を以て「平久小学校分校」として開校した。校舎は、焼け残った海軍 のガレージと事務所を改造した5教室と教員室で、校庭には葦が生い茂っていた。同22年秋都営住 宅が建設され、また会社・工場の事業再開による人口の増加とともに児童が増加を続けるのため、分 校を独立させ「東京都江東区立豊洲小学校」が創立した。児童の増加と共に以後10年に亘って増築 が行われた。二部授業も長期に亘って続いた。同27年創立5周年記念式典・校歌制定。 校歌「小波寄せる」 作詞・初代校長松岡信弥 作曲・7代数矢小校長石川誠一 1.小波寄せる東京港 発展著(し)るき文化の地 高鳴る汽笛 我を呼ぶ 夢と希望の輝くところ 学び舎嬉し豊洲校 2.西に望むは富士の峰 海原遠く安房上総 七つの海は我を呼ぶ 胸に血潮の波打つところ 我等の楽しき豊洲校 同33年30学級・1500余名の大規模校となる。同35年枝川小学校から学童60名移籍。同 36年プール完成。それまでは平久小学校で水泳の授業を行っていた。同39年体育館完成。同43 年鉄筋3階建て9教室竣工。同46年仲よし学級開設。同54年東雲小学校に学童500名移籍。平 成2年校舎改築工事完了。同9年開校50周年記念。同54年東雲小学校を分校。平成10年新校舎 建設のためプレハブ校舎に移転。同11年新校舎落成。 |
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■コンビニ(コンビーニャンス・ストア)国内第1号店 豊洲4丁目6番1号、豊洲駅近くにある「セブンイレブン豊洲店」は、記念すべき国内第1号店。 NHKの「プロジェクトX」でも取り上げられたよ。おいらは聖跡桜ヶ丘の町田街道角の店が古いと 思ってた。東京オリンピックの年に買物して珍しい店があるもんだと感心したものだ。 昭和46年7月ココストアというのが愛知県春日井で開店し、8月に札幌でセイコーマートが開店 する。これを創始とするが、今日のコンビニの形を取ったのは、昭和49年開業のこの店が最初だ。 たった30年ほど前のことなのに白黒はっきりしない。世の中はそんなもんだ。 |
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■深川第五中学校(昭和25年6月6日開校記念日) 豊洲4丁目11番18号にある区立校。昭和25年4月深川越中島8番地の都立第三商業高等学校 内に在った深川第三中学校の分校として同校内に開校、5月開校式。この日を開校記念日とした。し かし何故か校章を制定した6月5日の翌日を開校記念日に変更した。7月深川第三中学校が現在地に 転出。12月校歌制定。同26年現在地に木造の新校舎が完成して移転したが、校庭の中央に未だ立 ち退かない民家が建っているという状況だった。10号地に農場開設、同27年校舎4教室増築。農 場閉鎖。同29年2教室増築。同39年校庭の浦島家住宅立退き。同31年4教室2準備室増築。同 34年4教室増築。同37年第一期鉄筋コンクリート造り校舎4階建て8教室竣工。同38年プール 完成。同39年第2期8教室竣工。同40年開校15周年記念式典・学校園造園・きんじろう池の完 成。同42~45年第3・4・5期建替え増築校舎竣工。同49年第6期建替え増築校舎竣工。同5 2年辰巳中学校を分校し2年生の大半が移籍。同54年生徒数991名となりピークに達する。平成 12年5階建て・4階建て鉄筋コンクリート造り新校舎落成。同13年3月校庭完成。6月新校舎落 成記念式。11月開校50周年記念式典。 校歌「われらの歌」 昭和25年10月20日の学校新聞『汐風』第6号に、校歌の原案「潮風う けて」を掲載。12月1日改題「われらの歌」発表会。その後歌詞の一部を修正。同35年以降学校 要覧に「われらの歌」を校歌として掲載し、現在も校歌として歌ってる。作詞は初代校長森田繁治、 作曲は都立富士森高校教諭岩田一九郎に森田が依頼した。 1.吹くよ潮風 漣(さざなみ)寄せて 飛ぶよ波止場のカモメが高く 伸び行く江東の使命を担い 心あわせて明け暮れ励む 深川五中のパイオニアズ 我等 我等 我等 2.水脈(みお)は賑わう入船出舟 沖は台場の飛び石伝い 伸び行く東京の港育ち 胸は明るい希望に燃える 深川五中のパイオニアズ 我等 我等 我等 3.並ぶクレーン 轟くエンジン 空は工場の煙が靡く 伸び行く日本の息吹を受けて 明日の世界の文化を開く 深川五中のパイオニアズ 我等 我等 我等 |
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■がすてなーに ガスの科学館 豊洲6丁目1番1号、東京地下鉄有楽町線・モノレールゆりかもめの豊洲駅前にある東京ガスの施 設。ガスに関する専門の科学博物館。緑の丘のような、不思議な形をした「ガスの科学館」では、エ ネルギーのナゾを解いたり、ガスの秘密を探検したり、クイズや実験にチャレンジしたり、〝暮らし を支えるエネルギー・ガス〟の役割や特長を楽しみながら理解できる。地球の恵みであるガスの世界 の「なるほど!」を実感してくれとのこと。 9時半~17時 原則月曜日休館 入館無料。03-3534-1111 |
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■豊洲市場 開場未定 豊洲6丁目3番、東京ガス豊洲工場跡地。平成19年から工事を始めて同24年に開場予定。築地 市場が移転してくる。筈なのだが・・・跡地から続々と毒物が出てきて大騒動、知事石原慎太郎は無 頓着の性格そのままに押し通そう気構えだ。但し築地の老朽化は待ったなしだし、いってえどうする どうする。一応表土を2m削土して換土してある。だから安全だといわれてもなぁ、毒気が上ってこ ない保証にはにはならねえ。それみたことかということでは遅すぎるしなぁ。その時石原は責任取る まいし、死んだところでどうなるものでもなし。厄介だねぇ。 京橋の青物市場と日本橋の魚市場が築地に移転する時も大騒動だったよ。神田市場が大田区に移転 する際もそうだったしよ。金の絡むことは揉めるんだよ。 |
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■最勝山上妙寺 東砂1丁目4番6号にある日蓮宗の寺。元和年間(1615~23)に河内国枚方村からやってき た萩氏の3人が新田を開き、やがて1寺を建立して自らの所有地3反5畝を寄進し、日財上人を迎え て開山したと『新編武蔵風土記稿』や『城東区史稿』にある。 ●鬼子母神道道標 門前にある。 正面は立派な髭題目で「南無妙法蓮華経」とあり、左面には「是ヨリ鬼子母神道」と 刻まれている。右面には道標の再建年月日「文化十年五月」また基礎の部分には世話人である神田の 人3人の名が刻まれている。戦前までこの道標の建っているところに鬼子母神堂があり、毎月8の日 開帳して大いに賑わい、特に正月、5月、9月の28日の大祭には参詣者が境内から溢れるほどごっ た返したそうだ。縁起によると、むかし大海嘯の時、境内の椎の木の枝に鬼子母神の尊像が流れ着き、 これを是を海中出現子育鬼子母神として安置した。この道標は、元は2丁目13番の小名木川沿いの 三差路に建っていた者と思われ、その道を南下すると上妙寺前に出るので、この道を鬼子母神道と呼 んだものと思う。 ●歴代住職の墓 墓地の中央右手奥に2区画に分かれてある。向かって右側は、2基の石塔に27~30世が祀られ、 これは戦後建てたものだ。左側は中央に昭和60年ごろ建てられた「當山歴代諸上人之墓」があり、 その左右に計4基の墓がある。そのうち1基は日財上人の墓、もう1基は開山から11世日龍上人ま でが、他の2基は13世と26世が祀られている。開山の墓と開山~11世までの墓はともに大型の 板碑型石塔の形式で、近世前期の形式を残している。 ●萩家歴代の墓 上妙寺墓地にある。萩氏は、萩新田を開発したが、その詳細は不明だ。萩氏が開基になっている上 妙寺の過去帳によると、初代は寛文九年(1669)に没している。萩新田は『新編武蔵風土記稿』 によると、享保十七年(1732)筧(かけい)播磨守の検地で、戸数10、東西約1町半(約16 3m)×南北4町半(約491m)あり、開発以来天領(幕府直轄地)だったが、出水、旱魃の被害 がたびたびある土地だった。東は又兵衛新田と亀高村の飛地、南は大塚新田、西は亀高村、北は小名 木川に挟まれている。萩氏の墓は墓地の中ほどに5基まとめて据えられている。その手前に、昭和2 9年5月寺により「當山開基萩家墳墓之地」と書かれた石柱が建てられている。 ●増田市五郎の墓 上妙寺の墓地にある。小名木川筋の釜屋堀で醤油業を営んでいた。大変なお金持ちで、深川地区の 小学校建設に私財を惜しまず出したという。彼は雑貨行商から出世し、後に米穀商になったともいわ れている。江戸時代から水上交通の要所だった小名木川筋には豪商が多数存在したと思われる。 |
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■因速寺 東砂1丁目4番10号にある浄土真宗の寺。最初永代2丁目37番の万徳院の隣にあったが、昭和 2年現在地に移ってきた。入口は駐車空間、門を入ると、左は信徒会館か何か、鉄筋コンクリート3 階建て、正面は本堂、左奥に庫裡。月1回程度法話会などが行われている。右と本堂裏は墓所。 ●四代目荻江露友の墓 荻江節の家元。初代は明和五年(1768)まで市村座で立唄を勤めていたが、その後長唄の特殊 な唄い方をお座敷でやるようになり人気を集めた。2、3代を経て、4代は、『江戸音曲辞典』によ れば、深川の米穀問屋飯島喜左衛門とあり、『因速寺沿革』には、深川北川町の穀物問屋だとある。 別の説では深川の材木商近江屋喜左衛門だという。その他にも明治期の荻江里八が、それまでの荻江 風長唄に、地唄を取り入れて独自性のあるものとし、荻江節を確立したとする。 ●松本久四郎の墓 江戸時代の砂村の篤農家で、寛文年間(1661~72)に野菜促成栽培を広めた人として知られ る。松本家の墓は、7代目久四郎が昭和2年に建て替えたものだ。その右側面に初代の戒名「尺養円 信士」が刻まれている。なお仙台堀川(東京運河)に架かる松本橋は7代目が架橋したといわれてい る。 |
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●砂村促成栽培 『城東区史稿』によれば、砂村の蔬菜類の促成栽培は松本久四郎によって考案されたものだ。季節 外れの3月、久四郎が栽培した茄子・胡瓜・隠元豆の3種を揃えて将軍家に献上したところ、お褒め の言葉を頂戴し、以後献上品となるとともに、江戸市中に砂村蔬菜の名が広まった。久四郎は産品を 納入した戻り舟に「江戸ゴミ」を積んで帰り、これで肥料を拵えたといわれている。「江戸ごみ」と は魚の臓腑(はらわた)や、頭、しっぽなどの魚介ゴミで、これを貰ってきては土と混ぜ、魚ごみが 腐るときに出る熱を利用して土壌の温度を上げたのだ。そしてその土に種を播き、芽が出た後稲藁(い なわら)で編んだ莚(むしろ)と呼ばれる藁で編んだ敷物や油障子を敷いて風を防いだり、保温に注 意したりしながら、今でいうビニール栽培の原型で以て育てていった。この農法で3月の中頃には、 ナスやキュウリが出来上り、将軍に献上していたという訳なのさ。このようにして作られた砂村蔬菜 は「はつもの」と呼ばれて江戸の人々に大変な人気でした。また8代将軍の吉宗が熱病にかかったと き、亀高村の農民が季節はずれのスイカを差し上げたところ、将軍が大変喜んだという話が残ってる。 砂村で特に有名だったのは、ネギだ。砂村のネギは白い部分が長く、大変味がよいといわれていた。 砂村ネギを買いに日本全国から人が集まった。千住ネギは砂村ネギを改良したものだ。ネギ作りは昭 和の初め頃まで続いたが、同30年ごろには農地が減り、ネギ畑はなくなってしまった。 |
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●四ツ車大八の墓 因速寺の墓地にある「め組の喧嘩」でお馴染みの関取の墓碑。安永元年(1772)に生まれ、文 化六年(1809)38歳で没した。 |
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・め組の喧嘩事件 『贈呈武江年表』によると文化二年(1805)二月十六日、芝神明宮境内において勧進相撲が催 された時、無銭入場しようとした鳶の者たちを東幕下六枚目九龍山が断ったことに端を発したもので、 多数の鳶の者と喧嘩になったので四ツ車1人が加勢して争ったと記されている。一説によると文化二 年正月十一日、江戸は芝明神社でめ組と力士との大喧嘩があり、36人(13名とも)もの逮捕者を 出す大騒ぎとなった。この時の喧嘩の当事者の1人、め組の辰五郎は現代の時代劇にも名を残してい る。この喧嘩の時期については資料によりばらつきがあり、文化二年とするものと文化元年とするも の、さらには寛政年間との説もあるようだが、文化二年とするものが大半なので、年はこれで間違い ないと思う。月日の方が実は正月十一日説と二月十六日節に分かれている。しかし大体文化二年の正 月か二月にこの喧嘩は起きたようだ。事の顛末を、種々の説の中から信頼できそうな部分を拾い出し て辿ると次のようなことだったようだ。 この年の春、芝明神社で開かれていた勧進相撲に、火消しの「め組」の鳶の者たちが見物にやって きた。火消しは木戸御免の特権を持っている。ところが一行の中に火消しではない者が混じっていた。 それを見咎めた力士の1人が、火消し以外はちゃんと木戸銭を払えといい、それに対してめ組の富士 松が堅いこというなと応じ、小競り合いになった。しかしこの場はめ組側が引いて事は収まった。相 撲を見損ねてやや怒りがくすぶっていた富士松らが今度は芝居の見物をしていると、そこに柏戸部屋 の九龍山が芝居を見に来ていたため、さっきのことへの意趣返しで富士松が九龍山に絡んで蹴り付け、 富士松の同僚の辰五郎や九頭竜の同僚の藤の戸も巻き込んで大喧嘩になる。しかしここは今度は九竜 山たちが引いて一段落ついた。しかしその話を九龍山たちから聞いた四ツ車が、 それでてめえらオメオメと引き下がってきたのか? とけしかけたため、力士たちが火消したちを追いかけて、神社境内で三度目のとうとう本格的な大 喧嘩が始まった。事態に驚いた火消しの長治郎は火の見櫓に昇って半鐘を叩く。するとそれを聞いて 大勢の火消したちが集結、さらには話を聞いた力士たちも集まってきてとんでもない大騒ぎになって しまった。力士の中には抜刀する者もあり多数の怪我人が出て、喧嘩は4時間近くも続いたという。 最後は(寺社奉行配下では手に負えず?)南町奉行所の与力・同心たちが出動して喧嘩していたもの たちを全員縛り上げて喧嘩を収めた。一番の張本人の富士松は、この時の怪我がもとで3日後に亡く なった。この問題の裁きについて普通ならタダでは済まないところだが、当時の南町奉行根岸肥前守 鎮衛は、芝明神の半鐘がかってに鳴り出したのが喧嘩の原因であると断罪、この半鐘に遠島を申しつ けるという粋な計らいをして関係者に寛大な処分をした。結局九龍頭竜・辰五郎・長治郎の3人が江 戸払いになっただけで、他は170人ほどが過料とお叱りだけで済んでいる。 さて遠島にされていた半鐘だが、明治になってお許しが出て芝明神に帰ってきている。 この喧嘩の様子は、歌川芳年により「神明相撲闘争之図」に描かれ、講談にもなった。芝居では明 治5年1月河竹黙阿弥によって『め組の喧嘩』として中村座で初演された。さらに同23年新富座の 正月公演『神明恵和合取組』として中村芝翫(四ツ車)、5世尾上菊五郎(め組の辰五郎)によって 上演された。この辰五郎を浅草の新門辰五郎とゴッチャにしている人も本もあるが、2人は別人なの だ。 |
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■稲荷神社 東砂2丁目3番2号にある小祠。 |
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■東砂小学校 東砂2丁目12番14号にある区立校。都営東砂2丁目団地の建設による児童の急増に伴い、昭和 49年4月第七砂町小学校から分校、校舎は関東運輸株式会社の跡地(現在地)に新築、6月4日開 校式を行った。当時、石油ショックの影響で校舎建築資材も不足し工事が大幅に遅れた。同48年6 月着工した校舎新築工事は2期に渡り、工事完了が昭和50年3月となったため、第七砂町小学校か らの転校は同49年568名、同50年365名と2回に亘り、新入学生を加えた全校生徒が揃った 時には、既に1000名を超えていた。同53年には1246名でピークに達した。同58年創立1 0周年記念式典・岩石園・校歌碑完成。 校歌は、開校時に児童から歌詞を募り、それを基に教師らによる校歌作成委員会で練り上げた。作 曲は音楽担当の米原教諭が担当した。校歌が出来るまで、入学式では「春が来た」、開校式では「手 のひら太陽に」を歌った。 校歌「青空澄んで」 作詞・校歌作成委員会 作曲・米原真理子 1.青空澄んでくっきりと 聳える富士の嶺 浮く白い雲 君の肩には僕の手を さあ輪になろうよ 心は一つ 明日に向かって逞しく 東砂の子 やりぬく力 2.歴史を伝えゆったりと 行く荒川は緑の堤 明るい心 優しさを さあ分け合おうよ 心は一つ 明日に向かって 朗らかに 東砂の子 輝く未来 平成元年大規模改修工事完了(和室・ランチルーム・図書館・多目的教室新設)。平成12年地方 自治法改正により東京都の冠称を外し「江東区立東砂小学校」と改称。同15年創立30周年。 土地は所謂「ゼロメートル地帯」で、これまで水害に苦しめられた歴史がある。正門の近くにかつ ての洪水の水位を表わす表示塔が建っている。 |
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■草屋の渡し跡 東砂2丁目13番(又兵衛新田19番地)~大島8丁目39番(小名木村33番地)を結んだ小名 木川の渡船。明治17年又兵衛新田の斎藤豊次郎が、幕末から個人で耕作に使用していた渡船を営業 用とすることを出願し、府知事より許可された。当時両岸とも2間四方の木製渡船場を設置し、渡賃 は1人1厘5毛、牛馬1頭1銭だった。同20年「東京近傍図」によると、当時小の名木川には万年 橋、高橋、新高橋しか架橋されておらず、渡船は生活に欠かすことのできないものだった。その後、 次々と橋が架けられ、同40年までに丸八橋、進開橋が開通している。このためこの渡しの営業は下 火となったが、昭和10年ごろまではやっていたという。豊次郎の子孫は3丁目15番辺りで米屋を しているという。斎藤家には今でも「渡しの許可証」が大切に保管されているとか。町の昔のことや 戦争の時のことなど、とても詳し知っているということだよ。聞きにいってみな。 |
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■旧永福寺墓地 東砂2丁目14番5号の中川沿いにある。永福寺は寛永三年(1626)にの起立という。「新編 武蔵風土記稿」によると、もとは出羽国羽黒山宝善院末で長福寺と号していたが、享保年間(1716 ~35)隅田村村木母寺末となり、寺号も改めたという。しかし昭和20年のアメリカ軍の無差別空 爆で灰燼に帰し、以来墓地を残して再建されてない。その墓地の北東の隅に、歴代住持の墓5基が、 3列に並んだ無縁墓の中にある。形状は板碑型、板状隅丸型が2基づつで、残り1基は乱積みである 五輪塔の地輪部となっている。年代は古い順番に示すと、承応三年(1654)、延宝七年(167 9)、寛延四年(1751)、寛政十年(1789)、文化五年(1808)となっている。これら の中で、寛政十年のものには「當世十六世」、文化五年のものは「當世十七世」の刻銘があるが、他 のものには何代を示すものは見ることはできない。 ●土公神の石塔 墓地の端にある。どくじん 別名、土公(どこう、どく、つちぎみ)、土神(どじん)など。この 石塔は江戸時代からあったが、昭和28年11月丸山儀八郎が見かねて台石を添えて整備した。区内 で唯一つだけ残っている「土」の守護神で、その所在は四季によって変わり、土公神のいる土地を侵 すことを忌み禁じた。春は竈にいるので、竈を築いたり、修理したりすることを禁じていた。夏は門 戸にいるから、この間は門や塀を新築したり、修理してはいけない。秋には、井戸に土公神がいるた め、この季節に井戸攫いをすることを忌み嫌った。冬場は庭にいるので、この期間は庭造り、庭木の 植え替え、庭を掘り返すことを禁じた。 神体は白蛇とするところもある。鶏が好きだというので鶏を掘り込んだものもある。全国的には中 国地方で盛んに行われている。この地方では「どっく」または「ろっく」という。また竈の神、火の 神、田の神とするところもある。土公神の民間信仰は、昔から農村に盛んであって、各地で、各地で このような石塔を建てて土公神を祀ったもんだ。 ●道祖神石塔 墓地の端に土公神の石塔と同じ場所には、3つの石塔が並んでいる。向かって左から土公神・庚申 塔・道祖神だ。道祖神の石塔は区内に幾つもあったが、現在はこれだけになってしまった。この石塔 は小名木川沿いの稲荷神社にあったが、永福寺に移した。寛永3年(1626)に建立されたが損傷 し、昭和8年に再建、さらに戦災のため破損したので、同20年 に再々建した。 道祖神は、日本古来の塞ノ神で、村へ邪霊悪鬼が入るのをサエギル神のこと。道の追分で道路安全 を願う民間信仰が混交し、平安時代から道祖神の信仰が盛んになり、江戸時代になると、全国で小正 月のどんど祭り(左義長)の行事、一層盛んになって道祖神塔が沢山建立された。道祖神の石塔は、 この民間信仰に基づき、一石に男女の2神を刻んだものが多く見受けられるが、文字だけのものもあ るよ。また道祖神は2神を祀るところから、下の病の平癒、良縁祈願、安産子育ての神として信仰さ れている。 |
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■陶首稲荷社 東砂2丁目14番10号にある小社。 |
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■三社稲荷社 東砂2丁目16番7号の都民住宅東砂五番館の敷地の東北角にある小祠。 |
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■開拓之祖 太郎兵衛之墓 東砂3丁目18番15号の民家の間にある。江戸時代、小名木川以南の地(横十間川以東)は砂村 と総称され、江戸市内蔬菜類を提供した最も重要な農村だった。この砂村の一部太郎兵衛新田を開拓 した太郎兵衛の墓だ。はっきりいって彼は何処の馬の骨か判らない。北砂2丁目の妙久寺の過去帳に よると、初代太郎兵衛は寛文十二年(1672)八月十八日に没したとある。現在ではその子孫は絶 え、また数基あった墓石もアメリカ軍の無差別空爆で破壊され今は全くなく、瓦礫と共に処分された か、土中に埋まっているのだろう。昭和32年9月(『江東区史跡をたずねて』)地元の進藤庄兵衛 他17人にたちにより、16.3m の新しい墓碑(どちらかというと記念碑)が建てられた |
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■生田神社 東砂3丁目17番にある神社。 |
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■第七砂町小学校(同33年11月1日開校記念日) 東砂3丁目21番5号にある区立校。俗称「ななすな」 戦後の児童急増期を迎えた昭和33年、 砂町地区8番目の小学校として第二砂町小学校から分校して同校内に開校した。二砂小はその前年に 1500名を超え、28学級の大規模校となっており、この解消のため「東京都江東区立第七砂町小 学校」として設立された。1年生~5年生740名16学級でスタート、1・2年生は二部授業だっ た。現在地に新校舎が落成。二部授業解消のため引き続き増築工事。2学期から新校舎で授業開始。 11月1日開校式。12月増築校舎8教室落成。校歌制定 校歌「緑の堤」 作詞・稲上恒夫教諭 作曲・小島喜久寿 1.緑の堤 窓近く 溢れる希望 胸に秘め 明るくみんな 健やかに 励ましあって学び行く 第七砂町小学校 2.潮風渡り 庭広く 伸び行く力 肩に込め 仲良くみんな幸せに 励ましあって鍛え行く 第七砂町小学校 同37年プール完成。同42年体育館完成。同44~48年第1~第5期全面建替え工事により鉄 筋コンクリート4階建て校舎落成。同49年東砂小学校を分校。同52年体育館改修。平成7年コン ピュータルーム完成。同12年地方自治法改正により、東京都の冠称を外し「江東区立第7砂町小学 校」と改称。同20年創立50周年記念式典。 |
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■太郎兵衛新田跡 東砂1丁目5・6番、3丁目、4丁目18・21~22番の一帯。村域は、元禄十年(1697) 酒井河内守の検地により、東西4町26間(約490m)×南北4町55間(約540m)と定めら れ、開発者の名前を採って村名とした(『新編武蔵風土記稿』)とあるが、太郎兵衛は本姓も出身地 も不明。妙久寺の過去帳によると初代は寛文十一年(1672)に没している。『東京府志料』によ ると、明治5年頃には戸数23、人工130、田7町3反2畝21歩(約72665㎡)、畑10町 2反2畝26歩(101442㎡)で、産物は米と蔬菜となっている。明治期の村落復元図では、中 川に並行する道沿いに、宅地と畑があり、その内側が水田になっている。宅地と耕地は、道路に面し た間口を幅とした短冊形(細田)で、近世村落の面影をよく伝えるものだ。その後、太郎兵衛の子孫 は途絶えたが、町を開発した努力を讃え、3丁目18番に墓が作られた。しかしその墓は昭和20年 アメリカ軍の無差別空爆により破壊されてしまった。そこで昭和38年(第7砂町小HP)村人の子 孫進藤庄兵衛ら17人の手によって建て直され、現在に至っている。土地の人たちはこの町を作った 恩人太郎兵衛の命日の8月15日には毎年欠かさず法要を行い、今でも花を絶やすことはない。美談 だぁ! ●開拓祖 太郎兵衛之墓 3丁目18番の民家と民家の間にある。。 |
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■大塚天祖神社 東砂4丁目2番18号にある神社。 |
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■北向子育地蔵尊 東砂4丁目3番、大塚天祖神社の向いにある。 |
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■第二砂町小学校(昭和2年10月16開校記念日)廃校 東砂4丁目20番30号にあった区立校。昭和2年砂町尋常高等小学校から分校し、砂町地区2番 目の小学校として「南葛飾郡砂町尋常小学校」の名で開校、児童694名でスタートした。10月1 6日開校式。同5年第三砂町尋常小学校の開校により一部学区を移譲。同12年亀高尋常小学校の開 校により一部学区を移譲。同16年国民学校令より「東京府東京市第二砂町国民学校」と改称。この 年児童数は1492名。同18年都制施行により「東京都第二砂町国民学校」と改称。同19年8月 愚かなアメリカ軍の無差別空爆熾烈となり、山形県三沢村野川温泉に3~6年生集団疎開。11月愚 かなアメリカ軍の非人道的市街地無差別空爆により校舎焼失。砂町国民学校に合流。同20年3月愚 かなアメリカ軍の度重なる非人道的市街地無差別空爆により砂町小学校も校舎焼失。8月日本は、な らず者国家アメリカの軍門に降り敗戦、以後その属国となる。同21年4月焼け残ったプールで授業 再開。グライダー格納庫を解体して組み立てた校舎完成。同22年学制改革により「東京都江東区立 第二砂町小学校」と改称。同30二砂子ども会発足。同31年新校歌制定。 校歌「朝日は昇る」 作詞・教諭稲垣恒夫 作曲・音楽教諭田中悠紀子 1.朝日昇る荒川堤 サイレン響く夜明けの町に みんな元気で足並み揃え 明るく伸びよう二砂のよい子 2.潮風匂う葛西の空に 工場の煙ももくもく躍る みんなしっかり肩組み合って 正しく伸びよう二砂のよい子 同32年児童数1500名。同33年第七砂町小学校を分校。同38年文部省選定教育映画として 「二砂子ども会」の活動を「しつけの町」という題名で完成。同42年~46年鉄筋コンクリート造 り4階建て校舎建設工事完了し、新校舎落成。同52年第二東砂小学校を分校。平成9年創立70周 年記念式典。平成12年第二東砂小学校と統合、廃校となった。 |
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■旧葛西橋 東砂4・5丁目と6・7丁目の境の清洲橋通りは東、荒川土手で行き止まっている。明治43年の 荒川(隅田川)の大氾濫によって荒川放水路の計画となり、大正12年には完成した。そのため江戸 川区と大きく遮断されたため、橋を架ける運動が行われた。同14年東京府議会の議決によって決定 され、昭和3年府県道124号浦安線の一環として木橋の葛西橋が完成。当時東京最長の橋だった。 荒川に架かる葛西橋と新中川に架かる葛西小橋とでなり、 葛西橋は長さ549.1m、小橋は14 7.3m、幅は共に6.1m。当時378475円(8億円ほど)を投じた。葛西村に渡る橋なので「葛 西橋」と命名された。 昭和38年、この橋の下流300mに鋼橋が完成し、葛西橋は廃橋となり、葛西橋の名は新橋に移 された。普通無くなってしまった旧橋は忘れ去られるものだが、例えば両国橋・新大橋・永代橋など は、江戸時代の位置に架かっていない。然るに砂町の人々は郷愁が強く、ために旧葛西橋の名を交差 点に残し、旧橋西詰付近に区の説明板が建っている。 風情としては旧橋のほうがあった。新橋は味気ないが、旧橋は橋台が多く維持費が架かってしまう ので已むを得まい。 |
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■中田稲荷神社 東砂5丁目4番10号にある神社。 |
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■東砂天祖神社 東砂6丁目13番4号にある。奥に祭ってある水神竜神は、小さな環濠の中にある。規模は小さい が見沼の女体神社と同じ形式なのだ。 |
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■舟入川跡 東砂6、7丁目の境界~8丁目、清洲橋通りの旧葛西橋交差点から南へ伸びた道路(神明通り+四 十町通り)の西側部分。境川(砂村川)から南流して八郎右衛門新田のほぼ中央を通って、約720 m先で留っていた。川幅は約9mで、堀留は8丁目6番と21番の間で道が細くなるところだ。この 川は、農業用水や荷物の運搬に使われ、両岸の土手の上には農家や鎮守社が軒を連ね、その背後には 耕地が広がっていた。北から出戸橋・神明橋・土橋・榎本橋の4橋が架かっていた。しかし周辺一帯 の地盤沈下もあって、昭和13年から埋め立てられ、砂利道となった。この辺りの字(あざ)を「四 十町」というのは、八右衛門新田の面積が40町歩あったことによる。 |
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■子育地蔵尊 東砂7丁目12番2号、6丁目の東砂天祖神社の向いにある。 |
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■第二東砂小学校(昭和52年11月2日開校記念日) 廃校 東砂7丁目17番30にあった区立校。東砂地域に団地が次々と建設され住宅地域に変貌・発展す ると共に急激な人口の増加に伴い、第二・第三・第五砂町小学校の学区を再編し、同52年4月に開 校。鉄筋コンクリート造り4階建て校舎・体育館・プールは開校前に完成していた。1~5年生80 5名20学級でスタート、7月開校式。11月2日校歌制定。 校歌「緑の風や」 作詞・初代校長鈴木實 作曲・渡辺茂 1.緑の風や白い雲 葛西の沖は夢を呼ぶ 新しい町開かれて 若い希望の湧く処 ああ第二東砂 我が母校 2.明るい瞳 輝かし 未来に画く 筆の跡 新しい町開かれて 心豊かに伸びて行く ああ第二東砂 我が母校 みんな強く育ち 元気に学び 共に肩組みランランラン ランランランラン 進もうよ 進もうよ 同53年には1000人を超えたため増築工事(第二音楽室・第二理科室・会議室)。平成元年玄 関前に「かいゆう池」完成。同7年金管バント結成。同8年コンピュータルーム完成。開校20周年 記念式典。同12年閉校。第二砂町小学校と統合し、新しい「江東区立第二砂町小学校」となり、校 舎はそのまま使用された。 |
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■第二砂町小学校(10月16開校記念日 開校式は4月6日だし理由不明) 東砂7丁目17番30号にある区立校。俗に「にすな」と呼ぶ。平成12年第一次江東区立学校適 正配置計画により、第二砂町小学校と第二東砂小学校が統合、新しい「江東区立第二砂町小学校」開 校。体育館舞台改修工事完了。同13年校歌制定。プール改修。同14年合わせて100周年記念式 典(第二砂町創立75周年・第二東砂開校25周年)。同16年開校5周年記念式典。 校歌「朝が来ると」 作詞作曲・青野広志 1.朝が来ると 行きたくなるのは何処? 電車の駅 それとも公園 いや違う 光る荒川 その辺り 笑い声 溢れる みんなの場所 そこは 第二砂町小学校 2.何より先に 書きたくなに? 空と海 雲と花火 だけじゃない 羽根つけて 空へ飛び立とう 優しくて元気な みんなの家 それは 第二砂町小学校 3.休みの後に 懐かしいのは 何? みんなの声 先生の目 それもある 緑の風の 吹くところ 未来へと広がる みんなの母校 それが 第二砂町小学校 ●知・徳・体の教育実践 [知]・・・週3回の朝読会(15分)を行い、読書習慣の定着を図ると共に情報活用能力を育て る。また文学・科学・産業など各教科の指導計画に合わせた読書時間を確保し、知的理解を深めさせ ている。さらに毎月2回の読み聞かせ活動を保護者と協力しながら実施。 [徳]・・・異学年集団による縦割り班活動と全校集会などの活動を通し、主体性を培うと共に思 いやりの心情や連帯感を育んでいる。また月2回の音楽朝会と、音楽活動におけるリーダーの育成を 行い、豊かな感性と情操を涵養し、表現力の向上に努めている。 [体]・・・毎週木曜日を遊びの日とし、「一輪車認定証」や「なわとびカード」など体力作りに 年間を通して取り組んでいる。 ●一人一鉢の栽培活動 草花を育てながら勤労意識を高めて、一人一人の思いを実現する努力をしている。また学校には7 8種830本の樹木が配置され、四季の変化に富み、学習活動に生かされている。 ●金管バンドの活動 旧二砂時代から続いている伝統ある活動。NHK全国音楽コンクールなどで活躍する実力がある。 まだグランプリはない。 |
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■東高等学校 東砂7丁目19番24号にある全日制都立校。昭和34年都立浅草高等学校として開校。台東区浅 草千束町2丁目176番地、台東区立千束小学校3階本校校舎改修工事完成し定時制開校。同39年 1月墨田区横川橋4丁目1番地の校舎に移転。同9月都立東高等学校と改称。同40年全日制課程を 設置。江東区南砂6~7丁目に8000坪の本校移転用地取得。同42年新校舎落成して移転。新住 居表示により、現在の所番地となる。平成9年改築新校舎落成。同17年創立40周年。 同19年定時制を閉じ、深川商業高等学校(定時制のみ)と統合して「都立大江戸高等学校」に。 校歌「大いなる都の東」 作詞・村野四郎 作曲・平井康三郎 大いなる都の東 紺碧の海風うけて ここにつどう若きわれら ほがらかに学びつつ 健やかにきたえつつ あたらしき世紀をになう たくましき夢をはぐくむ ああわれら 東高校 この誇り恒に新し |
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■第二砂町中学校(6月22日開校記念日 開校式は4月5日であり理由不明) 東砂8丁目10番9号にある区立校。昭和27年砂町中学校が生徒収容力のキャパシティを越えた ため、砂町地区2番目の中学校として、同校内に生徒数484名で開校した。8月待望鶴首の新校舎 木造二階建て10教室が、東都製鋼附属農場跡地(現在地)に落成し移転、「東京都江東区立第二砂 町中学校」は本格的に始動した。創立当時は直ぐ側まで海が迫っており、校舎の窓から広々とした景 観、遠く房総・丹沢・秩父や北関東の山々、富士・筑波、遥か彼方の海も眺められた。ところが10 年も経たぬ間に、海は沖の方まで埋め立てられ、2階に上がっても見えなくなってしまった。開校3 年目の同29年には、生徒数が1000名20学級を越えた。昭和30年砂町中学校と共に第三砂町 中学校を分校し、一部学区を移譲、また砂町中学校から学区の一部を受け入れた。同32年創立5周 年記念式典・校歌制定発表。 校歌「消費の都心遠くして」 作詞・佐藤春夫 作曲・大中寅二 作詞の佐藤春夫来校。佐藤は面識の無い初代校長島田義雄の熱意ある懇願に応え、昭和31年2月 23日に来校し、生徒の様子や環境、開発途上の周辺を1日見て回りイメージを拵えた。作曲の大中 は、「椰子の実」の作曲者として頓に有名だ。 1.消費の都心遠くして 世の奢侈より逃れたり 荒川堤 袖ヶ浦 建設の野を吾等行く 2.心正しく直ければ 身は健やかに憂い無し 明るき窓に書を読み 楽しき庭に毬を投ぐ 3.第二砂町中学の 我が一千の友を見よ 世界の明日に生きん子の 濁らぬ瞳 強き意志 同35年体育館兼講堂完成。同39年プール完成。同43年全面建替え第一期鉄筋コンクリート4 階建て校舎(7教室・保健室)竣工。同42年第二期工事(8教室)竣工。同47年第三期工事(6 教室)竣工。同52年創立25周年記念式典。同61年体育館建替え工事完了。平成5年校舎改修工 事終了。同14年創立50周年記念事業。 ●50周年記念モニュメント 未来に生きる自分たちの意気込みを形にして残した。テーマは「つよき意志」で、このテーマを象 徴するデザインの中から選定し作成。平成15年1月制作。 |
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■第五砂町小学校(昭和30年5月31日開校記念日) 東砂8丁目11番5号にある区立校。俗称「ごすな」 昭和20年代の終わり頃、南砂地区にも市 街地化の波が押し寄せ、人口の急増により「小学校を」という声が上がり、小名木川小学校に続いて 砂町地区6番目の小学校が設立されることになった。同30年1月第三砂町小学校内で「東京都江東 区立第五砂町小学校」として開校、東都製鋼の社用地跡に校舎が竣工し、31日に移転。新入生の入 学を待って5月31日に開校式を行った。この頃校地の東側は荒川放水路(昭和40年から荒川)が 流れ、南側には新砂の埋立地が広がっていた。周りは葦が生い茂る湿地帯で、ヨシキリやヒバリが鳴 いているようなところで、そこを造成整地して校舎を建てた。東京湾に接し、海と川、そして海苔干 場に囲まれた新興住宅地だった。同31年児童数は1100名を越え、4教室増築、同32年6教室 増築、同33年にピークに達し、それ以降は増減を繰り返していたが、近年は次第に減少してる。同 35年校歌制定。 校歌「海の空から」 作詞・勝承夫 作曲・中田喜直 1.海の空から吹いてくる 風に明るい歌が湧く 第五砂町 元気な我等 いつでも胸に希望を抱いて 楽しく進もう さあ行こう 2.雲か煙か一筋に 遠く広がる夢がある 明日の日本を受け継ぐ者は みな大らかに平和の気風 仲良く伸びよう さあ行こう 3.満ちて遥かに荒川の 水に力の波頭 第五砂町 強い子良い子 働く町の意気高らかに 弛まず励もう さあ行こう 同36年プール完成。同38年国旗掲揚塔建立。同40年体育館完成。同42~47年鉄筋コンク リート校舎竣工。海岸線は埋立地の拡大と共に遥か南方に遠退き、海苔干場や埋立地は集合住宅・個 人住宅・商店・工場・倉庫などが建てられていった。それでも区の東端に位置するため静かな田舎の 町だったのだが、新葛西橋の架橋、地下鉄東西線の開通で交通の便は著しく向上し、人口はさらに激 増した。同52年第二東砂小学校を分校。 平成16年創立50周年。 |
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■海辺橋 平野1丁目1番・清澄3丁目1番。深川1丁目10番・同2丁目23番の接するところの仙台堀川 に架かる。安政五年(1858)に描かれた『本所深川絵図』にこの橋が見られるが、芭蕉の頃はま だ築かれていない。むかし本所深川では飲料水を船で運んでいたが、現在の海浜橋付近が飲料水を陸 揚した「水場」に当たる。万治から寛文のころ幕府は白堀上水を造ったものの引水状態が悪く、享保 になって廃止している。 |
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■山東京伝誕生の地 平野1丁目2番の辺りにあったという。宝暦十一年(1761)木場町の質屋伊勢屋に生まれる。 本名岩瀬醒、幼名甚太郎、伝蔵。父岩瀬伝左衛門信明は伊勢出身、9歳で深川の質屋伊勢屋に奉公す る。尾州御守殿に仕えていた大森氏をめとり、伊勢屋の養子となった。伊勢屋は大森氏であり、母大 森氏は伊勢屋の長女であったらしいが詳細は不明。安永二年(1773)伝左衛門は銀座一丁目の町 役人の株を買い転居。13歳の伝蔵は「紅葉山の東」の意で「山東」、「京屋の伝蔵」から「京伝」 と呼ばれていたのをそのまま雅号とした。長唄、三味線など習い、15歳頃から浮世絵師北尾重政に 入門、北尾政信(演)の画名を得る。この号は草双紙評判『菊寿草』に見られる、最初の作品は、1 8歳の時に出版した黄表紙『開帳利益札遊合(かいちょうりやくのめくりあい)』であり、その後狂 歌、洒落本へと領域を広げた。天明二年(1782)発表した『御存知商売物』が太田蜀山人に認め られ、作家として一躍有名になった。代表作には『江戸生艶気樺焼(えどうまれうわきのかばやき)』 『古契三娼』などがあるが、洒落本の代表作でもある『仕懸文庫』を始めとする一連の作品が、寛政 の改革の一環、出版取締令に触れ、寛政三年(1791)手鎖50日の刑を受けた。 |
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■滝沢馬琴誕生の地 平野1丁目7~8番に当たる。 馬琴は戯作者で、明和四年(1767)に生まれ、嘉永元年(1 848)80歳で没し、文京区茗荷谷の深光寺に葬られた。名は興邦、後に解といい、戯作者として 曲亭馬琴、著作堂主人、大栄山人などと号した。父興義は、松平信成に仕える下級武士で、馬琴はそ の邸内で生まれた。安永四年(1775)9歳で父と死別し、松平家の孫の遊び相手として一家を支 えていたが、同九年(1780)14歳の時に主家を出、放浪ののち文筆で身を立てようと山東京伝 に師事した。寛政三年(1791)処女作として、黄表紙『尽用而二分狂言』を発表、以後雅俗を折 衷した文章で、因果応報による勧善懲悪を内容とした読本を続々と著した。代表作に『鎮西弓張月』 『南総里見八犬伝』などがある。 ●モニュメント 1丁目2番3号の深川福祉センターの前に、平成9年3月に設置された。国立国会図書館に所蔵さ れている106冊分の原本の寸法を測り、2つの山に分けて積み重ねられた形をしている。高さは約 60cm。 |
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■弘文舎跡 平野1丁目6~8番にあった。区内の公立小学校の中で最も古い歴史をもつ深川小学校の前身の1つ だ。弘文舎は、明治4年共立塾として深川西平野町に開設。同6年6月16日、前年に敷かれた学制 に基づき、第六中学区六番小学校と改名、深川小学校ではこの年を以て創立の年・開校記念日として いる。同8年深川伊勢崎町31番(清澄3丁目3番)に移転して公立となり、正式名称を第六中学区 第十番公立小学深川学校とした。東京府では、時の府知事大久保一翁の命により、この時期に私立小 学校の公立化が計られた。同21年高橋の現在地に移転し、戦後江東区の成立に伴い区立深川小学校 となって現在に至っている。 |
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■円珠院 平野1丁目13番6号にある日蓮宗にある。 ●深川大黒天 江戸時代から「深川の大黒さん」として有名だった。享保五年(1720)十一年十三日に描かれ た大黒天の掛軸、前庭には石造りの大黒天が安置されている。七福神の一つとして初詣の参拝客で賑 わう。大黒天の神使は「ねずみ」だ。『古事記』によると大国主命が、野にあって焼き殺されようと した時、ねずみが洞穴の中に導いて助けた話があり、以来ねずみが大国主命の神使となったといわれ ている。後に仏教の大黒天が、大国と韻が通じることから、一体化して、ねずみが大黒天の神使となっ た。 福神としての大黒天は、烏帽子、狩衣をつけ、右手に小槌をかざし、左手に大きな袋を担ぎ、米俵 の上に座っている。幸福と財宝を授ける福の神とされている。1月最初の甲子の日を「初大黒」「初 甲子の日」といって大黒天の祭日になっている。正月三箇日にねずみの出ることをめでたいとされ「嫁 が君」という俳句のの季題ともにもなっている。 餅花やかざしにさせる嫁が君(芭蕉) 子の日しに都へいかん友もがな(芭蕉) 万葉集、古今集、新古今集などにはねずみの歌はないが、俳句は庶民の死であり、芭蕉はねずみの 俳諧を幾つか作っている。 氷苦く偃鼠が咽をうるほせり(芭蕉) |
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■玉泉院 平野1丁目14番6号にある日蓮宗の寺。 |
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■妙栄山本立院 平野1丁目14番7号にある日蓮宗の寺。 |
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■妙竜山善応院 平野1丁目14番10号にある日蓮宗の寺。 ●歴代杵屋六左衛門の墓 杵屋六左衛門家は、江戸長唄の三味線方として、貞享のころ(17世紀末)から現在に至る最も由 緒のある家元。長唄は明和年間(1764~71)以降、庶民音楽、特に江戸音曲の中心として栄え、 当初は上方に対して江戸長唄といったのが、単に長唄と称するようになり、幕末に全盛時代を迎えた。 長唄の曲には、「勧進帳」など劇に伴うもの、「越後獅子」など舞踊に伴うもの、「吾妻八景」な ど舞台を離れた素歌物の3種類があり、作詩者は狂言作者が多い。杵屋は、江戸歌舞伎と結んで繁栄 し、明治元年11代目六左衛門が編んだ『杵屋系図』によると、初代勘五郎の子六左衛門に始まると いう。墓石は2基あり、1基には2代・3代・4代、もう1基には5代・6代・8代・8代妻・9代 の戒名が刻まれている。 |
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■水場跡 平野1丁目の海辺橋付近にあった飲料水の陸揚場のことだ。本所深川は、飲料水を確保するのに大 変苦労していた。幕府は万治から寛文の頃(1658~72)に白堀上水(葛西用水から水を引き、 四ツ木から渋江→木下→寺島→小梅まで)上水を作ったが引水状態が悪く、享保七年(1722)或 いは同十四年(1729)に廃止した。この白堀用水を利用していたのは深川北部の一部だけだった ので、他の深川地区は専ら水船に頼っていた。水船から飲料水を買っていたのは上水道のできる明治 32年まで続いていた。水場という名称については『府内備考』によれば、 町内里俗水場と相唱申候(中略) 唱之訳相知不申候 とあり、何故水場といったのかは判らない。しかし現在でも海辺橋のことを「水場の橋」と呼んで いる。 |
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■宣明院 平野2丁目3番4号にある日蓮宗の寺。 |
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■法苑山浄心寺 平野2丁目4番20号にある日蓮宗の寺。明暦元年(1655)病を得て家綱乳母(躾係)を辞し た三沢局は翌年三月46歳で没した。遺骨は、生前帰依していた通遠院日義が深川に庵室を建てて安 置していたが、このことを聞いた家綱は、万治元年(1658)に境内10000坪を与えている。 こうして三沢局を開基とし、日義を開山とする浄心寺が創設された。なお日義は寺の建てられる前年 の明暦三年(1657)に寂滅している。 円珠院前から参道がある。この参道左側には、円珠院、宣明寺の墓地もあり浄心寺も勿論あり、共 同の墓地となっていた。さらに参道を行くと、境内に出るが、広いのに驚く。南側の正門から入ると 右に鐘楼、そして境内は広場になっていて車なら数え切れないほど入る広さ。本堂でインド風のデザ インの鉄筋コンクリート造り。 ●蔵魄塔(東大震災殃死者慰霊塔) 蔵魄塔は、短円柱状の墳墓に半球のドームが載っている慰霊モニュメントで、ドームには立てた右 膝に両手を回し蹲っている女性の姿態が浮き彫りになっている。中央の石碑の正面には、「第五拾回 忌 関東大震災殃死者慰霊塔」、向かって左側面には「昭和四拾七年九月一日 浄心寺 第三十三世 日壽」とあり、50回忌を記念して建立された。中央にある灯明台の両脇には花筒があり、花筒には 「大震災無縁供養有志」と刻まれている。 蔵魄塔のレリーフについては、「関東大震災の跡と痕を訪ねて」というHPに、 日蓮宗現代宗教研究所 ウェブサイト日蓮新聞[1997/10/20]によると、次の ように紹介されています。 『大正十二年九月一日午前十一時五十八分、相模湾を震源とし、マグニチュード七.九、 死者九万人、罹災者三百四十万人。ご存知の関東大震災である。燃えたのは家だけでな く、橋も燃えた。近くの木場に浮かんでいる原木も、水に浮いている部分から燃えて、 ついには水面下の部分も完全に燃えきったという。その木場や川に熱から逃れた人々の 死体がひしめきあった。浄心寺ではこうした死体三千百七体が荼毘にふされた。身元な ど分かるはずもなく、合祀することとなった。時の東京美術学校(今の芸大)の教授・ 田名子実三が、悲しみにくれる女性像を制作し、半球のドーム形の「蔵魄塔」とした。 時代は今ほどオープンでなく、亡き人を弔うのに「女性」をレリーフにするとは何事か とクレームがついたらしい。氏は西洋流の新しい感覚で造ったのだが、不謹慎だと物議 をかもしだした。しかし氏は押し切った、とも伝えられている。このようにモニュメン トが造られるのは良い方だった。公園やあちらこちらで荼毘にふされたものも散在して いた。昭和初期、これらの遺骨を集合させて、被服廠に「震災記念塔」がたてられた。 だから今ここには遺骨はない。しかし、モニュメントの裸婦はいまだに涙にくれて、み 魂によりそって泣いている。(青)』 とある。然し「日蓮新聞」という新聞は見当たらず、「日蓮宗新聞」の間違いだろう。新聞の記事 中にあるレリーフの作者が「田名子実三」とあるが「日名子実三」の間違いだと指摘しているブログ がある。植字ミスだろう。細田隆善「東京史跡ガイド 8 江東史跡散歩」学生社によると、 大正十二年九月一日、関東大震災のため多くの死者を出し、付近町会では遺体を焼却し、 ここに納骨した。大正十四年八月三〇日、白セメント造りの円形の供養塔「蔵魄塔」を 建設した。江東区最大の震災供養塔である。 と紹介されている。 ●慰霊碑 蔵魄塔の左前にある。その裏面には 昭和二十年三月十日ノ空襲ニ殉難セル町會内諸霊ノ為茲ニ碑ヲ建テ永ニ其ノ英魂ヲ弔フ 昭和二十一年三月十日 東京都深川區洲崎弁天町會 と刻まれている。前述の『江東史跡散歩』によると、 昭和二十年三月一〇日、戦災によって、東陽一丁目、当時の州崎弁天町一、二丁目で亡 くなった人の供養塔が、昭和二十一年三月一〇日、州崎弁天町会によって東陽一丁目に 造立された。この碑を昭和四三年浄心寺に移した。 とあります。このような経過のもとに、関東大震災と空襲の犠牲者がともに慰霊の対象となってい る。 ●深川七面堂 西門を入った左側にある。 ●和合稲荷社 境内にある。 ●三沢局の墓 墓地奥にある開基・歴代住職の墓所の中に建てられている。三沢局は4代将軍徳川家綱の乳母で、 茶道、造園などで有名な小堀遠州(遠江守政一)の妻だ。慶長十六年(1611)に生まれ、明暦二 年(1656)に46歳で没し、浄心院殿妙秀日求大姉と諡(おくりな)された。 寛永十八年(1641)家綱が誕生すると春日局に付添い、寛永十九年(1642)31歳の時乳 母となり、明暦元年(1655)に病のため辞した。乳母とは人間としての基本を躾ける養育係だ。 実母より怖い存在で、女性中の女性が選ばれる。男の場合は「傅役」といい。甘ったれた人間を作り 出さない配慮、システムなのだ。遺骨は通遠院遁日義が深川に庵室を建ててここに安置していたが、 家綱がこれを聞き、万治元年(1658)に境内地1万坪を与え、局を開基とし、日義が開山となっ て浄心寺を建立した。創建時は無本寺だったが同三年(1660)に身延山久遠寺の教えを広めるた めの弘通所(ぐつうしょ)として本末の関係を持つようになった。 ●初代清元延寿太夫墓 浄心寺の墓域にある。太夫は「清元節」の創始者で、安永六年(1777)横山町(中央区)に岡 村屋藤兵衛の子として生まれ、本名を岡村吉五郎といった。実家は茶と油の店を営んでおり、寛政六 年(1794)18歳の時、富本節の富本延寿斎の弟子となり、修行を積み、21歳のころから富本 斎宮太夫(いつきだゆう)と称えた。 江戸の音曲は、享保15年(1730)京都から宮古路豊後掾が盛んにしたが、流行り過ぎて幕府 から遠慮を申し付けられた。その後延享四年(1747)に豊後掾の門流の常磐津文字太夫が江戸に 出てきて常磐津節を盛んにし、その門下から富本節が分派した。 延寿太夫は、富本節を学んだが、文化八年(1811)35歳で富本流から退き、豊後路清海太夫 を名乗り、文化十一年(1814)38歳の時、師匠の姓清水から一字を取って清元延寿太夫に改め て一派を開き、江戸市村座に出演、「清元節」を独立させると、江戸を舞台として流行させ、その技 芸は斯界の名人と謳われるほどだった。延寿太夫は技芸において名人といわれ、江戸音曲に尽くした 功績は計り知れない。 |
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○延寿太夫刺殺事件 文政八年(1825)五月二十六日中村座から帰る途中、何者かに刺され、帰宅後急死した。事件 から180年にもなるが犯人は未だ逃走中、未だに捕まっていない。商売敵の犯行だろうが、業界関 係者から犯人像は浮かび上がらず、男女間のもつれかとも考えられたが、その線からも犯人は浮かび 上がらなくて、終に迷宮に入ってしまった。事件発生当時銭形平次はまだ生まれておらず、犯人追及 が果たせなかったのは惜しまれる。捜査当局は鋭意追及中。 * 二世 初世の実子。「名人太兵衛」と称され、清元節の基礎を固めた。「三社祭」「明烏」「神田祭」な どを作曲した。 三世(早世) 四世 谷中の三河屋という質屋の子斎藤源之助が二世の婿養子になり、二世の娘の清元お葉と結婚して安 政五年(1858)延寿太夫を襲名した。河竹黙阿弥と提携し、劇場音楽としての清元を確立。「十 六夜清心」「青海波」などを作曲した。妻のお葉も大変な名人で、幕末から明治初期にかけて活躍し、 清元節の名曲「三千歳」はこの人の作曲だ。初代市川九女八、三世哥沢芝金とともに明治の女性芸人 の三幅対といわれたのさ。 五世 岡村庄吉。この人は三井物産の社員で、趣味で清元をやっていたが、三井を退職後の明治23年、 四世とお葉の養子となり、同27年五世を襲名した。彼の広範な学識により、明治時代の高尚趣味に マッチした知性的な語り口で、以前の退廃的な曲調を上品なものに改め、清元節を広く世間にアピー ルし、今日の清元の方向性を示唆した名人だ。 六世 昭和元年生れ。本名岡村清道。父は惜しまれつつ早世した四世栄寿太夫だ。昭和16年その栄寿太 夫を襲名、NHK放送「隅田川」で祖父五世家元のワキを語り披露。同23年延寿太夫襲名、四月演 舞場に於て「助六」を語り披露。三味線栄寿郎の薫陶を受けてその語り口は格調高く繊細だった。同 55年病に倒れ、同62年不帰の人となる。 七世(現家元) 昭和33年高輪の生れ。本名岡村菁太郎。父六世、母多喜子(6代目尾上菊五郎の次女)の子。4 才で「延寿会」の舞台を踏み、同56年「藤間会」で菁太郎としてデビュー、「偏路」を語る。同5 月6代目尾上菊五郎37回忌追善興行の歌舞伎座で「魂まつり」。同9月九州巡業興行で「吉野山」。 同57年菊五郎劇団興行で「雪の道成寺」を務める。同5月六世栄寿太夫を襲名。歌舞伎の「保名」 および「三社祭」を披露した。平成元年七世を襲名。 三世清元梅吉は、本名松原清一。大正から昭和にかけての清元三味線の名人で、父である二世清元 梅吉に師事し、明治44年三世梅吉を襲名。家元であった五世延寿太夫の相三味線を弾いていたが、 その後、清元節の新たな流派として、「清元流」を興し家元となった。 現在清元は「宗家派」と「清元流」の二つの流派に分かれており、宗家では七世清元延寿太夫を家 元とし、清元流では四世清元梅吉を家元として、それぞれ発展している。 |
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●初代・2代坂東彦三郎の墓 浄心寺の墓地にある。初代の阪東彦三郎は、坂東又太郎の高弟で、前名は坂東菊松、屋号を萬屋と いった、宝永四年(1707)彦三郎を襲名し。以降京阪で立役として活躍し、やつし役、武道方、 所作事などに好評を得、正徳五年(1715)に「大経師」の茂兵衛を演じて名声を上げて、これが 出世役となった。享保十二年(1727)江戸市村座に下り、三都で演じた「巌流島」の日本武者之 助が、一世一代の当り役で、江戸の大立者といわれた。2代目市川団十郎、初代沢村宗十郎、初代大 谷広次らと共に「四天王」と謳われた。 2代目は初代の実子で、宝暦元年(1751)に襲名した。容姿に優れ婦女子の人気を集めた。 ●福王家歴代の墓 浄心寺の墓地にある。初代盛忠は遅斎と号して、観世座脇方の7代で、但馬守を名乗り福王流を創 設した。この後14代盛哲までが観世座の脇方を務めている。5代盛親は観世9代目黒雪の甥で、福 王家5代を継ぎ、京都に隠棲して名を服部宗巴と改め、素謡を専門に教授した。いわゆる「京観世」 という観世素謡を流行させたことで有名だ。また9代盛勝は、画号を雪岑、別号を白鳳軒と称し、英 一蝶の高弟、さらに土佐派を極めて、能および狂言の図を巧みに描いた。幕府の「能役者分限調」(『能 楽古今記』所収)によれば14代の時で、切米30俵、扶持方6人、配当米20石を認められている。 現在は兵庫県に移ったが、東京にも勢力を残している。 ●洲崎郭追善墓 浄心寺の墓地にある。洲崎郭は、明治20年本郷前田邸跡地に東京大学を持ってくることになり、 そんな近くに女郎町があっては東大生の気が散るというので、根津遊郭を移転させることになり、洲 崎の浜を埋め立てて、同21年に開業した。同33年売春防止法施行により廃止されるまでの70年 間存続繁栄した。昭和9年の洲崎郭の規模は、妓楼316軒、引手茶屋15軒、芸妓30人、幇間2 人、娼妓2714人だった。洲崎は江戸時代には住むことを禁じられた土地柄だ。明治25年の火災 をはじめとして9回の火災、海嘯を受け、その度毎に相当の犠牲者を出した。その犠牲者は追善墓に 合葬された。現在残る追善墓は、北川栄次郎らにより、大正8年再建されたものだ。 ●深川区役所跡 深川区役所は、明治11年「郡区町村編成法」により「深川区」が成立すると、それまで区務所の あった深川伊勢崎町22番地(清澄3丁目)に開庁した。同15年霊巌町18番地の浄心寺境内に移 転した。同25年同町48番地に煉瓦造りの新庁舎が完成するまでの10年間、ここで区政が執られ た。その後大正12年の関東大震災で焼失し、救助物資の配給所として、清住町の岩崎別邸内の広場 に、天幕張りの事務所を設置した。伊勢崎町35番地に仮庁舎を急造し事務を開始する。昭和3年焼 けと跡に新庁舎が復興され、同22年に江東区が成立し江東区役所となったが。同48年東陽町の現 在地に移転した。 |
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■共同墓地 平野2丁目4番にある。円隆院・唱行院・善応院・一乗院・玉泉院・本立院の墓地がある。 ●手柄岡持の墓 共同墓地内の一乗院墓地にある。江戸中期の戯作者・狂歌師で、享保20年に生まれ、本名は平沢 常富(つねまさ)といい、墓碑には「平沢氏累代之墓」と刻まれている。佐竹藩々士で留守居役とし て下谷の藩邸に住んだ。狂歌師の号は、初め浅黄裏成、後岡持に改めた。俳号は月成、戯作には明宣 誠堂喜三次・喜三次・亀山人・齢山人などの号を用いた。狂歌・戯作に優れ、多くの作品を残した。 「親敵討腹皷(おやのかたきうてやはらづつみ)」「長生見度記(ながいきみたき)」「文武二道万 石通(ぶんぶにどうまんごくどおし)」の代表作があり、洒落本では「当世風俗通」「娼妃地理記」 がある。なお「文武二道万石通」は幕府の改革政治を題材としたため、藩の上司から止筆を命ぜられ た。文化10年に79歳で没したが、死の五日前に、知己へ、 狂歌読むうちは手柄のおかもちよ読まぬ段では日柄牡丹餅 と辞世、死後太田南畝から霊前へ狂歌が贈られた。 長生きを手柄にしたる岡持もいつか木魚となりにけるかな ■間宮林蔵の墓 共同墓地内の本立院墓地にある。間宮は安永九年(1780)常陸国筑波郡伊奈村に生まれ、天保 15年(1844)65歳の時、深川蛤町(永代)の家で没した。墓はここと故郷の専称寺にある。 名は倫宗といい、蕪崇と号した。伊能忠敬に測量術を学び、幕府に仕え、普請役雇から普請下役にな る。寛政十二年(1800)に蝦夷地(北海道)御用雇となり、蝦夷を始めとする伊能忠敬の北地探 検と測量に従事し測量術を身に付けた。文化五年(1808)から翌年にかけて15ヶ月を費やし、 樺太(サハリン)全土を探検し、韃靼海峡を渡り沿海州に入り、黒竜江を溯りデレンに達し、来た道 を戻って帰国した。この探検によって樺太が離島であることが証明され、韃靼海峡は間宮海峡と命名 された。著書に「東韃紀行」「北蝦夷図説」などがある。 |
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■明川高等小学校 → 明川国民学校 廃校 平野3丁目6番18号にあった公立校。明治44年明治尋常高等小学校の高等科と深川高等小学校 を廃し、統合して「南葛飾郡明川高等小学校」として独立。明治尋常小学校の隣に校舎を建てて開校 した。大正9年西永町(最終地)に校舎を建てて移転してきた。昭和7年南葛飾郡が東京市に編入さ れ城東区が成立、「東京市城東区明川高等小学校」と改称。同16年国民学校令により「東京府東京 市明川国民学校」と改称。同18年都制施行により「東京都明川国民学校」と改称。同20年3月愚 かなアメリカ軍の非人道的無差別空爆により校舎全焼。同21年3月廃校。跡地は、昭和27年から 深川第六中学校が使用している。 |
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■深川第六中学校(5月10日開校記念日 理由不明) 平野3丁目6番18号にある区立校。戦災により廃墟と化した深川地区の復興と、昭和22年の学 制改革に伴う生徒数の増加により、同27年深川第一中学校から分校し、明川国民学校(明川高等小 学校)の廃校舎の一部12教室を改修して開校、生徒数391名でスタートした。5月2日開校式。 同28年北側5教室修繕。同29年西側4教室修繕。同30年東側1教室修繕。同32年体育館改修。 創立5周年記念式典・校歌制定発表。それまでは鵜飼徹教諭が作詞、御子柴正義教諭が作曲した「深 川六中生徒歌」を歌っていた。 校歌「墨田川」 作詞・草野心平 作曲・渡辺浦人 1.墨田川 首都の動脈 流るゝや 寸時休まず 風 光 四季は巡りて 我等は学ぶ 木場の辺(ほとり)に 深川六中 我等が母校 2.遥かなる富士を望めば プラチナに雪は輝く 眉上げよ 若き朋柄 あの高嶺こそ 我等が理想 深川六中 我等が母校 3.相倶に扶け合いつゝ 真善美 ひたに追はなん 学び舎に 陽は降り注ぎ 我等が未来 燦輝く 深川六中 我等が母校 同44年プール建設のため明川時代の校舎9教室解体。同45年プール竣工。同47年新築校舎に 建替えのため残余の明川時代の校舎解体撤去。同49年体育館新築。同55年3教室増築。平成14 年創立50周年記念式典。 |
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■深川築地町 築地24ヶ町とも。東平野町・西平野町・伊勢崎町・山本町・西永町・三好町・元加賀町・石島町 ・末広町・島崎町・吉永町・扇町・茂森町・六万坪町・木場町・島田町・入船町・富川町・六人屋敷 ・大和町・亀久町・冬木町・一色町・平野町。 |
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■三角屋鋪跡 深川1丁目5番にあった。元禄十二年(1699)までの材木置場(元木場)の一部だったところだが、 同十四年(1701)本所上水請負人吉右衛門という者の拝借町屋敷となった。名称の由来は不明だ が、家作を建てた頃、敷地が鱗形だったので、そういわれるようになった。『御府内備考』三角屋鋪 の項によると、 当町里俗三角と唱申候右者町内鱗形ニ付右之通相唱候由申伝候 とある。また『葛西志』には次のようにある。 三角屋鋪は、富久町の南にあり、わづかばかりなる町にて、その形三角なればたヾちに 名とすといへり なお4世鶴屋南北の『東海道四谷怪談』の4幕目直助権兵衛は、この三角屋鋪で起きた事件をモデ ルの一つとしている。 |
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■斉藤鶴磯宅跡 深川1丁目6・7番にあった。宝暦二年(1752)江戸に生まれ、文政十一年(1827)に7 7歳で没した。通称は宇八郎といい、諱は敬天、字は元休、琢玉斎鶴磯は雅号だ。歴史・地理・考古 学に精通し、武蔵国各郡を遊歴して幾多の新説を出し、寛政七~八年(1795~6)頃から文化十 三、四年(1816、7)ころまでの約20年間武蔵国入間郡所沢に仮寓していた。所沢での鶴磯は 『武蔵野話』を刊行したが、筆禍事件のために絶版となった。この後江戸に帰り深川富久町に居住す るが、その生活は不遇だったという。鶴磯の著書『武蔵野話』は、江戸時代の武蔵野研究の先駆で、 彼の有する考古学的民俗学的な知識を駆使した実見の記録として評価が高い。その他『干支考』『琢 玉斎漫筆』『琢玉斎詩文集』などの著書がある。 |
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■採荼庵跡(さいとあんあと) 深川1丁目9番の辺りにあった。江戸中期の俳人杉山杉風(さんぷう)の庵室で、所在地は杉風の 遺言状に「元木場平野町北角」と記されている。広さは京間一間半(約2.9m)×奥行二間(約3.9 m)ほどだったらしい。杉風は正保四年(1647)生まれ、鯉屋市兵衛または藤左衛門と称し、隠 居して一元、彩荼庵、五雲亭、蓑翁などと号した。屋号が示すように、幕府御用の魚商で、小田原町 (築地市場)に住んだ。松尾芭蕉に師事し、その庇護者(パトロン)ともなり、深川六間町の芭蕉庵 は杉風が提供したものだ。第三次芭蕉庵建築のための費用を枳風(きふう)と共に出資している。女 優山口智子は杉風の子孫だ。享保十七年(1732)に没し、築地本願寺塔頭成勝寺(世田谷区宮坂2 丁目に移転)に葬られた。主著として『常盤屋句合』『角田川紀行』、句集に『杉風句集』がある。 1丁目11番、海辺橋の南詰に芭蕉像と採荼庵に擬した現代風の建物が建っている。この庵は、松 尾芭蕉が「おくのほそ道」の出立の直前まで住んだ。元禄二年(1689)二月末隅田川と小名木川 の合流地点の岸辺にあった芭蕉庵を出て、ここに移った。そして翌月27日ここを立って見送りの門 人と共に仙台堀に浮かぶ舟に乗り、隅田川を遡り千住に上った。 |
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■幽遠山理照院玄信寺 深川2丁目15番20号にある浄土宗の寺。寛永六年(1629)深川猟師町の相川町に創建され、 同十六年(1641)に現在地に移転した。開山は還蓮社本誉玄故禅伝で、開基は理照院。 ●理照院 彼女は歴代関東軍代の中でも最も力を発揮した伊奈半左衛門忠順(ただのぶ)の妻で、生年は不明 だが、元禄十四年(1701)に没し、この寺に葬られた。墓は現存している。寺は寛永六年(16 29)現在地に創建し開基となった。墓は同寺の墓地正面突き当たりにある。墓石は創建当時のもの で、隣には理照院供養のため建てられた如意輪観音石像がある。 ●伊奈忠順 関東郡代 幕府の要職で、関八州の幕府領を所管、租税を徴収し、江戸府内の土木事業を担当する 職掌。忠順は、伊奈忠勝の孫、忠常の次男。兄忠篤が早世したため継目し、元禄十年(1697)5 代目関東郡代となった。翌年永代橋の創架の奉行を務め、同十三年(1700)深川築地奉行となっ て木場の猿江移転、深川地区の埋め立てに携わるなど、江戸市街地の整備推進に努めた。正徳二年(1 712)没。 ●紫檀楼古喜の墓 狂歌師。明和四年(1767)に生まれ、天保三年(1832)66歳で没した。姓は藤島で、通 称を伊勢屋古吉という。内神田に住み、大工だったが生計が立たず、羅宇屋をしながら市中を歩き回っ た。羅宇は、タバコを吸う煙管(キセル)の火皿と吸口を繋ぐ竹筒。羅宇屋はこの羅宇を取り替えた り煙管の煙滓(ヤニ)を取り除いたりして煙管を綺麗にサービスを施す職業。この掛け声が江戸の風 情、風物詩でもあった。 狂歌を朱楽菅江に学び、また近くに住む六樹園の門人たちとも交わりがあった。奇人であり、家事 に頓着せず狂歌に没頭したため、妻を怒らせてしまい離縁を要求されたとか。随分怠け者だったんだ ねぇ。このときすかさず狂歌で返事した。、 凧のぼり長き糸巻さるきらば さぞや子供の泣きや明さん 墓石には古喜の次の狂歌が刻んである。 六道の辻駕篭に身はのりのみち ねふつ(念仏)まうして極楽へ行く |
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■閻魔堂橋跡 現在高速道路の下で暗渠になっている油堀に架けられた橋で、俗に深川閻魔堂と呼ばれた法乗院へ 抜ける道に渡されたので、里俗にこの名がある。為永春水の『春暁八幡佳年』、河竹黙阿弥の『梅雨 小袖昔八丈』など江戸の文芸や芝居の作品中に描かれ、江戸から明治大正に亘り人々に親しまれた。 しかしこの名で呼ばれた橋は二つある。最初の橋は富岡橋で、『橋梁沿革略』深川区の部によると、 江戸時代半ば頃に架けられ、文政の頃の規模は、長さ十間半(約19m)×幅一丈三尺(約4m)だっ た。しかしこの橋は明治34年理由は詳らかではないが廃橋となり撤去されてしまった。二つ目は黒 亀橋で、富岡橋の廃橋に前後してやや上流に架けられた。この通りは清澄通りのなかった当時、深川 のメインストリートだった。法乗院の正面に架けられたので閻魔堂橋の通称で呼ばれた。昭和50年 高速道路敷設のため油堀の埋め立てにより撤去された。なお油堀は油問屋の倉庫が建て並んでいたこ とによる名称だ。この堀に和倉橋という名の橋が架かっていたが、その由来はお椀屋の倉庫があった ことによる。 |
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■深川閻魔堂 賢台山法乗院 深川2丁目16番3号にある真言宗豊山派の寺。入口を入ると左が閻魔堂、正面が本堂、いずれも 朱塗り。本堂は鉄筋コンクリート。右の庫裏も鉄筋コン クリート。裏に墓所がある。 ●閻魔堂 日本で始めて、お賽銭を投入すると、仏様のお説法が聞ける。それも願い事に応じて違った答をい ただける。御祈願の19願意も、閻魔(本体地蔵菩薩)は除けと封じの利益は特別なものとして有名 で、江戸3閻魔の代表として庶民の信心を集めていた。また近年は、お骨をパウダー化し、真空パッ クして保管納骨する永代供養システムが受け入れられている。本人の小指先ほどの遺骨をお釈迦様の 胎内に納め、それは本人がそのままの仏として祀られ、墓と同じ様に拝んでもらえるユニークなシス テムが注目されている。またもう一つの永代供養墓という、普通のお墓と何ら変わらぬコンパクト墓 が経済的・合理的と人気を博してる。坊主も大変な仕事だよ。背に腹は換えられねえから、あれやこ れや考えるんだろうし、ハイテク屋がやってきて商売丸出しで迫るんだろうネ。 寺では江戸3閻魔の一つだといってるが、世間では3閻魔を「華徳院・太宗寺・善養寺」としてい る。詳細はHomeの名数一覧を参照しっちくんねえ。 ●曽我五郎の足跡石 入口を入って直ぐ左、塀寄りに二つの足跡を刻んだ石がある。仇討物『曽我物語』で知られる曽我 五郎が父の敵工藤祐経を捜し求めてこの地を訪れた時、五郎が残したという伝説の大きな足跡(長さ 31cm)のある石。この足跡石に乗ると足や腰が丈夫になり、子供を乗せると親孝行で健康な子に なるといい伝えられ、今もなおこの意思に足を乗せる人が多く訪れる。そうか客寄せパンダだったん だ。曽我五郎が活躍した頃は、この地は島や洲の点在する海で、寺はまだない。この石が何時置かれ たのか、どうやって運ばれたのか、一切の記録がない。数寄者が洒落で彫ったんだろう。説明板に、 曽我五郎時致は、承安四年(1174)の生まれ。兄十郎が5歳、五郎が3歳のとき父 河津三郎祐重が、親戚工藤祐経のために殺された。その後母が曽我祐信と再婚したため 兄弟は曽我姓になった。曽我兄弟は幼い時から仇討を決意、建久四年(1193)五月 二十八日源頼朝が富士野巻狩を行った時、雷雨の闇に乗じ、祐経を終に討ち取った。こ の時十郎祐成は死に、五郎は捕らえられて殺された。ときに五郎は19歳だった。 とある。日本三大仇討の1つ、他は赤穂義士吉良邸襲撃事件、鍵屋の辻の仇討。また相撲の技「河 津掛け」は河津三郎が相撲を取ったとき負けそうになって咄嗟に放った掛け技で、その相手が工藤祐 経、それが遺恨の発端だという。また河津家と工藤家は一門で、親戚同士の土地争いが根底にある。 祐経1人が悪人にされているが、祐経は河津に土地を騙し取られているということも併せて考えなけ れば不公平だ。 ●初代市川八百蔵の墓 歌舞伎役者で享保十五年(1630)に生まれ、宝暦九年(1759)に30歳で没した。屋号は 蓬莱屋または立花屋。道外方の名手だった。松島茂平次の子で、初名を吉三郎といい、俳号を定花と いった。寛保二年(1742)十一月に中村座に子役で出演し、同四年(1744)刊の『役者子住 算(やくしゃねずみざん)』には「子役の名人」し賞賛されている。延享二年(1745)若衆方に 進み、2世市川団十郎の門下となり、松島八百蔵を称え、寛延元年立役に昇進、同二年(1749)よ り市川を名乗った。男振りがよく豪快な役どころである荒事を最も得意としたが、対照的に柔弱さを 表す和事や写実的な実事も能くした。当たり役には、曾我五郎時致、千本桜の小金吾、暫、草摺引き などがある。 ●豊田古童の墓 尺八の名人。初代なのか、2代荒木古童なのか、詳細不明。 |
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■雙修山養源院心行寺 深川2丁目16番7号にある浄土宗の寺。開山は光蓮社団誉一露屋道で、開基は養源院。初め八丁 堀に創建され、寛永十年(1633)に現在地へ移った。 ●養源院の墓 心行寺の墓地にある。養源院は、岩国藩主吉川広嘉の正室で、生年は不明だが、承応三年(165 4)に没した。夫広嘉は二代目で、元服して左馬助、のちに監物と称し、寛文三年(1663)に家 督を継いだ。同六年(1666に)領内の風土物産を調査して『村記』及び付録の地図を作成し、ま た同十一年(1671)には二鹿村の銅山を開発した。延宝元年(1673)には錦帯橋を架橋した。 ●豊田風憧の墓 心行寺の墓地にある。尺八の名人で、生年は不明だが、嘉永五年(1851)日本橋下槙町で没し た。名は勝五郎、。初め一閑流初代山田如童の弟子となって古童を名乗り、後に3代目黒沢琴古の高 弟久村風陽の門下となり風憧と号した。 尺八は、楽器ではなく、普化宗の虚無僧が托鉢の際に使用した法器だったが、しかし江戸市中でも 町人たちの間で音楽として習いたいという要望が盛んになり、黒沢琴古は明和五年(1768)に一 月寺、鈴法寺の尺八吹合所として京橋、新橋の方へ出張し教授した。明治になり普化宗が廃されると、 町人の間で流行していた尺八音楽は、近代日本の尺八として発展していった。しかし習得は難しく、 まず音を出すまでが一苦労で、曲が吹けるようになって「首振八年」といわれる長い努力研鑽が必要 だ。 ●五世鶴屋南北の墓 心行寺墓地にある。寛政八年(1796)に生まれ、嘉永五年(1852)57歳で没した。4世 南北(大南北)の婿勝兵衛の養子で、俗に〝孫太郎南北〟と呼ばれる。初め俳優を志し、享和二年(1 802)十一月『当奥州壺碑』で子役で初舞台を踏んだ。しかし長じて作者に転じ、文政四年(18 21)から河原崎座に見習として出勤、次第に出世して同座の看板作者となり、天保八年(1837) 三月、市村座で鶴屋南北を襲名し、十一月から河原崎座の立作者として活躍した。先代の作風を継い だが、傑出した作品は残していない。門下から『三人吉座』『白浪五人男』の河竹黙阿弥、『与話情 浮名横櫛』の三世瀬川如皐(じょこう)が輩出した。四世の墓は墨田区の春慶寺にある。 ●二軒茶屋松本の墓 心行寺の墓地にある。これは富岡八幡宮境内にあった二軒の料理茶屋のうちの一つだ。松本は屋号 で、本姓を上条といった。この松本の中から、幕末の画家として有名な松本交山が出た。交山は30 歳になる前に茶屋の仕事を弟に任せると、境内に「奥山七草庵」と名付けた別棟を構えて住んだ。当 時は富岡八幡宮を「山」と呼んでいたので「山の交山」と通称された。初め谷文晁に師事し、のちに 酒井抱一の屋敷にも出入りするようになった。墓石には「先祖代々の墓」とあり、その左横に「散る 花お南無と合する手の間 七十八星 山松」とある。 ●工藤平助の墓 心行寺の墓地にある。享保十九年(1734)紀州藩々医長井常安の三男に生まれた平助は、本名 球卿、字は元琳、号万光といった。延享三年(1746)13歳の時仙台藩の藩医工藤丈庵の養子と なり、医学を養父に学び周庵と称えて、宝暦五年(1755)に家督を相続した。後に還俗して平助 を名乗る。蘭学を服部南郭と青木昆陽に就いて学び、江戸定詰の藩医であったため、前野良沢・中川 淳庵・桂川甫周と親交し、良沢の弟子である大槻玄沢が学業半ばで国許に帰らなければならなくなっ た時、平助の口利きで再び江戸へ出ることができたという。経世論者としても著名で、医学よりむし ろ海防や交易問題に関心を持ち、老中田沼意次の用人三浦庄二の依頼により『赤蝦夷風説考』を著し、 「北方の警備をすべし」との論を強調した。これは蝦夷地(北海道)の沿革や開発の必要とその方法 を説いたもので、天明三年(1783)献上された。この著書に啓発された幕府は、ロシアの南下に 備えて、同五~六年(1785~6)に蝦夷地の実地踏査を行うに至った。それは若き日の林子平に 影響を与え、彼の著書『海国兵談』の序文を書いている。寛政十二年(1800)67歳で鬼籍に入っ た。墓の右側には小振りな養父丈庵の墓がある。 なお才女で知られた只野真葛は実の娘だ。 ●川口忠七・直の墓 心行寺の墓地にある。忠七は竹明という名の笛の名手だった。直は忠七のの女房で、幕末の芸妓で、 名妓と謳われた。直は三味線の名手で、太田蜀山人の作詩である清元「北州」を作曲したことでも知 られる。「北州」は本題名を「北州千年寿」といい、文化十五年(1818)春にお座敷浄瑠璃とし て発表された。名妓玉菊の追善のために作られたとも伝えられている。北州とは江戸の来たの遊里吉 原のことで、吉原の年中行事を綴り、最後に清元の家の繁栄を祝している。子の他『梅の春』なども 作曲した。忠七は天保三年(1832)、弘化二年(1845)に没した。どちらも生年は判らず年 齢は不明だ。 |
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■陽岳寺 深川2丁目16番27号にある臨済宗妙心寺派の寺。寛永14年(1637)に創建され、開山は 文室祖郁禅師、開基は向井将監忠勝。民家と見紛うばかり寺らしくない閉門寺。 |
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●向井将監忠勝の墓 陽岳寺の墓地にある。江戸時代前期の旗本。船手頭。天正十年(1582)生まれ、慶長二年(1 597)16歳で秀忠に仕え、同五年(1600)上杉景勝との戦いに父正綱とともに水軍として参 加、その功により相模国に500石を賜り、「国一丸」と水主50人を預かることになった。大坂冬 ・夏の両陣に九鬼守隆に従って水軍の将として軍功を立て、寛永二年(1625)に相模国三浦・上 総国望陀などに6000石余を知行し、父の跡を継いで左近衛将監を称えた。同12年(1635) 伊豆で軍船安宅丸を完成させ、同18年(1641)に60歳で亡くなった。子孫相伝え代々船手頭 を世襲した。大正14年東京府によって史跡に指定されたが、区画整理で墓は改葬されている。 |
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●英信勝の墓 陽岳寺の墓地にある。はなぶさしんしょう 英一蝶の子。二代目一蝶。また一蜂、さらに春窓を号 した画家。画風はよく一蝶の風格を得て絶妙だった。元文元年(1737)47歳で没。大正14年 東京府によって史跡に指定された。 |
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●観崇月の墓 陽岳寺の墓地にある。深川六間堀の材木商筑島屋坂本米舟の子として生まれた江戸中期の画家で、 名を常雄といい、宗行子、蓑中庵、景訥と号した。英一蝶の門人高崇谷の弟子となり幾多の名作を残 している。雑司ヶ谷鬼子母神堂の「狂言末広狩」の扁額が残っている。天保元年(1830)72歳 で没した。大正14年府の史跡指定を受ける。 |
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●伏見義民の墓 陽岳寺の墓地にある。安永九年(1780)新たに伏見奉行に任ぜられたのは、近江国小室藩10 600石の藩主小堀和泉守政方。政方はその父政峯が既に伏見奉行として在任し、さらに4代前の遠 江守政一もまた伏見奉行として治績を挙げた。ことに政一は隠居として弧蓬庵宗甫と号し、小堀流の 茶道、遠州流造園の開祖として令名が高かった。「小堀遠州」の名で知られる人物だ。その政一の子 孫の政方は奉行として赴任するや「自分は当地の出生なるが、この度縁あって当地の奉行に任ぜられ たのは、因縁まことに浅からざるものがある。よって今後は奉行支配地の百姓町人に対し、随分憐憫 を加えるだろう」と言明し、いかにも情味あふれる為政者のごとく振舞った。以来数年流石に初めは 支配地領民のため2、3の善政を施したが、そのうち政方は酒色に溺れだし、ために小堀藩の財政は 極度に逼迫し、そこで政方は藩財政の窮乏を任地の伏見の町民に転化しようと企み、天明五年(17 85)の春奉行支配地の百姓町人に対し、1000両の御用金を申し付けた。これに対して支配地領 民は「筋違いだ」と拒否、それ以来領民と政方との間に葛藤が続き、政方は威信にかけても領民を屈 服させようとした。それで政方の暴政はますます過酷となっていき、最早両者の間は収拾のつかない ところに陥ってしまった。この事態を憂慮した伏見町の年寄役文殊九助、丸屋九兵衛、麹屋伝兵衛の 3人は直訴を企て、密かに江戸に向ったが、これを聞き知った政方の捕吏に追われることとなった。 しかし紆余曲折はあるものの3人は何とか逃れて、時の老中田沼意次の家臣千葉与四郎の斡旋により、 陽岳寺の住職照道和尚の力を借り、訴状を認め評定所へ提出して小堀の秕政を訴えた。これによって 幕府でもその訴えを取りあげることにしたが、同時に越訴の罪により入牢を申し付けられ、評定所で 吟味中獄死した。首でも絞められたか? 遺体は照道和尚が引き取って葬った。さて政方は所業不届 きにつき罷免、領地召上げ、身柄御預り。その嗣子は改易の上身柄御預り。さらに用人財満平八郎、 給人森奥十兵衛は死罪、その他遠島・中追放・押込などに処せられ小堀家は断絶した。秤にかけたら 領民側の圧勝だ。民主主義下の保守政治ならこうはいかない。「小堀はお咎めなし、領民は1000 両を払え」と結論づけたろう。500両ほどキックバックさせて。 墓は、明治になってから、伏見町民の義捐金によって建てられたのだが、大正14年東京府によっ て史跡に指定された。これよりさき大正2年陽岳寺が火災で焼失した時、伏見の学童らは1人10銭 以下の小遣銭を出し合い、再び義民の墓を再建したという。どうだ!区内最古の五重石塔 2丁目16番の心行寺の境内に入って墓地入口の手前にある。高さ1mばかり。石塔には「凡字五 大種子」「南無阿弥陀仏」「元亨四年三月二十日」と刻まれ、江東区では最も古い石塔だ。元亨四年 は西暦1324年。この寺は元和二年(1616)中央区八丁堀に創立して、寛永十年(1633) 現在地に移った。 ということは、この石塔は、開山より300年も古い。どっから持ってきたんだ(?) |
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■永寿山海福寺跡 深川2丁目17番26号にあった黄檗宗の寺。京都万福寺末。寛永五年(1628)の創建だ。元 は真言宗で、道安法印が住持だった。正保四年(1647)独本和尚が譲り受けて曹洞宗め、中国僧 の隠元隆琦が長崎に来朝すると、隠元禅師に従い、明暦元年(1655)に弟子となった。万治元年 (1658)隠元を開山として黄檗宗に転宗し、自らを2代目とした。宝永六年(1709)には江戸 黄檗派触頭2ヶ寺の内の一つとなった。隠元禅師は、興福寺逸然の招きにより、承応三年(1654) に来朝し漢文三年(1663)に4代将軍家綱の上旨で山城国宇治に黄檗山万福寺を開き、日本黄檗 宗の開祖だ。明治43年に目黒不動の東へ移った。目黒区を参照のこと。 |
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■明治川高等小学校 移転 深川2丁目17番26号にあった公立校。明治44年明治明治尋常高等小学校に隣接して「東京府 東京市明川高等小学校」が新設され、明治尋常高等小学校の高等科を移した。同45年木造3階建て 24教室の改築校舎完成。大正9年明川西永町(現深川第六中学校地)に校舎を建て移転。 |
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■明治第二尋常小学校 → 明治第二国民学校 廃校 深川2丁目17番26号にあった公立校。大正9年明川高等小学校が西永町(深川第六中学校)に 移転したその跡地に「東京府東京市明治第二尋常小学校」として開校し、明治尋常小学校の女子全部 を移したので明治尋常小学校は男子校、明治第二尋常小学校は女子校となった。同12年関東大震災 により校舎全焼したため露天で授業。校地内に建てられた罹災者収容施設を一部校舎とする。同13 年4月バラックの仮校舎完成。10月新校舎建設のため材木町の仮校舎に移転。昭和2年明治・明治 第二の2校が一体となった鉄筋コンクリート造り3階建て校舎が竣工し、全生徒が仮校舎より帰校。 同16年国民学校令により。「東京府東京市明治第二国民学校」と改称。同17年白河国民学校新設 のため生徒移籍。同18年都制施行により「東京都明治第二国民学校」と改称。同19年8月新潟県 岩船郡へ高学年学童集団疎開。同20年3月ならず者国家アメリカ軍の無差別攻撃の難を逃れる。白 河・深川・八名川・臨海の4校生徒を収容し、合同授業。同21年3月廃校、明治国民学校に統合さ れる。 |
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■明治小学校(開校記念日 明治10年5月17日) 深川2丁目17番26号にある区立校。前身は「深川閭校(明々館)」といい、儒学者村松渓翁が、 明治3年に深川亀住町陽岳寺の一室に開いた郷学校だ。同6年学制発布により、「第六中学区第三番 小学村松学校」として公立学校となり、同10年現在地、当時深川万年町に木造洋風一部2階建て校 舎を新築し移転、「明治学校」と改称。この校舎は、2階にバルコニーの付いたハイカラな建物で、 東京市第一流の校舎に数えられていた。しかし天井は低く、窓は小さく、室内は暗いなど不便な点も あったようだ。同13年「明治校碑」建立。同19年高等科を併置、「明治尋常高等小学校」と改称。 皇太子明宮嘉仁親王殿下が行啓された。同44年隣接して「明川高等小学校」が新設され、高等科を移 し「明治尋常小学校」と改称。同45年木造3階建て24教室の改築校舎完成。大正9年明川高等小 学校が西永町(現深川第六中学校地)に移転、その跡地に「明治第二尋常小学校」を開校し女子全部 を移したので、本校舎は男子のみとなった。同12年関東大震災により校舎全焼したため露天で授業。 校地内の罹災者収容施設を一部校舎とする。同13年4月バラックの仮校舎完成。10月新校舎建設 のため材木町の仮校舎に移転。昭和2年明治・明治第二2校が一体となった鉄筋コンクリート造り3 階建て校舎が竣工し、全生徒仮校舎より帰校。同4年能力別学級編成開始。同11年創立60周年記 念式典(25学級1504名)。同16年国民学校令により「東京府東京市明治国民学校」「東京府 東京市明治第二国民学校」と改称。同17年白河国民学校新設のため生徒286名移転。同18年都 制施行により「東京都明治国民学校」「東京都明治第二国民学校」と改称。同19年8月新潟県岩船 郡へ高学年学童集団疎開。同20年3月ならず者国家アメリカ軍の無差別攻撃の難を逃れる。白河・ 深川・八名川・臨海の4校生徒を収容し、合同授業。同21年3月明治第二・白河両国民学校を廃し 統合。4月単独で学級編成。同22年学制改革により「東京都江東区立明治小学校」と改称。同25 年再び白河小学校を分校(804名)。同47年開校100周年記念式典。同57年学校給食優良校 として文部大臣表彰。平成8年校舎大改修。同10~12年全日本マーチングフェスティバルにおい て優秀賞。同14年再び白河小学校を統合。開校130周年記念式典。皇太子徳仁親王殿下・同妃殿 下御臨席。全日本マーチングフェスティバルにおいて優秀賞とグッドサウンド賞受賞。 ●開校100年記念庭園 昭和47年に庭園として整備。明治13年8月に建立した初代校長大束重善撰・菱湖流書家巻菱潭 書「明治校碑」(昭和47年復元)、同19年皇太子明宮嘉仁親王殿下が行啓された「行啓記念碑」、 昭和12年建立の二宮金次郎像が据えられている。 ●校歌碑 正門脇に建つ。昭和57年創立110周年記念に建てられた。 校歌「明治の御代の」 制定年・作詞者不詳 作曲・萩原美代三郎 補作・小山作之助 戦後、音楽教諭田中昭邦が現在のものにアレンジした。歌詞は最初から1番のみ。 明治の御代の名にし負う 学びの園の教え草 恵の露に茂りつつ 花咲く見るこそ楽しけれ ●欅の木 正門脇に建つ。昭和57年創立120周年記念に植樹された。 ●卒業生にはこんな人が 内田祥三(よしかず 文化勲章・建築学者・帝大総長)・鹿島卯女(勲三等宝冠章・鹿島建設社長 ・会長、鹿島精一の娘、守之助の妻)・小津安二郎(紫綬褒章・映画監督) |
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■海照山増林寺 深川2丁目19番13号にある曹洞宗の寺。 ●三井親和の墓 増林寺墓地にある。元禄十三年(1700)信濃国生まれ、長じて江戸へ出ると細井広沢について 学び、関思恭と並んで書家として名を上げた。通称は孫兵衛、龍湖と号し、万玉亭や深川漁夫とも称 した。特に篆書体を得意とし、明和のころ(1764~71)になると篆書文字のかすれた形をとっ て染め出した「親和染」といわれる染柄か゜大いに流行した。デザインとして優れたものだ。書道の ほか弓の達人でもあり、その方の門人も数多くいたといわれる。深川に住んだことから「深川親和」 とも呼ばれた。明和五年(1768)造の寛永通宝真鍮製四文銭の文字を書いたことでも知られてい る。天明二年(1782)83歳の長寿を以て鬼籍に入った。 |
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■大音山正覚寺 深川2丁目22番5号にある。 ●元杢網夫妻の墓 元杢網(もとのもくあみ)は、妻の智恵内子とともに天明狂歌の普及に努めた古参の一人だ。享保 九年(1724)武州比企郡七郷村に生まれ、文化八年(1811)88歳で没した。本姓金子、本 名は正雄、通称は大野屋喜三郎といい、木網、木阿弥、落栗庵などを号した。また画を観嵩月に学び、 嵩松と称した。京橋北紺屋町で湯屋を営み、町人だっただけに大衆への影響力が大きく、江戸市民の 半分は門弟だといわれるほどだった。国学の素養が深く、作品は平淡で分り易いという定評がある。 著書も多く『俳諧饒舌録』『落栗庵春興集』などがある。 妻の智恵内子は、延享元年(1744)生まれ、本名はみちといい、夫と共に国文学に親しみ、女 性らしい温雅な歌風の狂歌を残した。文化四年(1807)に63歳で没した |
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■寒光寺 深川2丁目22番11号にある臨済宗円覚寺派の寺。本堂は「清浄観堂」と掲額してある。住職は 鎌倉建長寺住職の兼務だとか。 |
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■神社 福住1丁目4番8号にある小祠。 |
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★みかわ 是山居 福住1丁目3番1号にある、『ミシュランガイド東京2010』以来3年連続星1つを取っている 天ぷら屋。植物を這わせた風変わりな外観が目を惹く。早乙女哲哉が平成21年4月に自らの集大成 として開いた店。屋号の「是山居」は早乙女と親交の有る陶芸家が三井家の山荘の名前として考案し たものを譲り受けたという。1階は9席のカウンターのみ。伊勢型染をあしらった天井からは愛用の ボルサリーノ帽を模った金色のダクトが下がり、漆塗りの床、ステンドグラスなど、店主のこだわり が感じられる個性的なスペースだ。2階に掘り炬燵式の個室が2つ、3階には茶室もある。 11時半~14時・17時~22時半 03-3643-8383 系列店のケヤキ坂通り店も同時に星1つを取った。しかし、本店の茅場町店や八丁堀店は選に洩れ た。ってことは一体全体ミシュランてなんなんだ? |
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■八房海上神社 福住1丁目9番7号にある小祠。 |
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■新井白石寓居跡 福住1丁目9番10号にあった。白石は、江戸中期の儒者・政治家だ。明暦三年(1657)振袖 火事の年に江戸に生まれ、享保六年(1725)に69歳で没した。戒名は慈清院殿釈浄覚大居士。 本名は君美(きんみ)、通り名は勘解由、白石は雅号だ。木下順庵に朱子学を学び、その推挙により 甲府の徳川綱豊の儒臣となる。宝永六年(1709)綱豊が6代将軍家宣となると幕臣となり、間部 詮房と共に将軍を補佐した。白石の行った「正徳の治」は有名で、海舶互市新令の施行、儀式典礼の 簡略化、教学と政治の一致に努めた。白石は、享保元年(1716)吉宗が8代将軍になると隠退し、 屋敷を小石川同心町移し、翌年一月から七月の間、一時深川一色町に妻と共に仮住居した。深川での 生活は『新井白石全集』の安積澹白への書簡に詳しく綴っている。 |
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■冬木小袖 東京国立博物館に所蔵されている女物の着物。冬木弥平治の妻女のために尾形光琳が白の絖地(ぬ めぢ)に墨と淡彩を用いて全体に秋草模様を描いたもの。 |
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■油堀跡 木場3丁目19番から冬木を通って佐賀2丁目1番に至る約1650mと支川八幡堀180mから 成っていた。木場の貯木堀と大島川西支川を結ぶ掘割で、木場の木材輸送に大きな役割を果たした。 開鑿は元禄十二年(1699)といわれる。木場が猿江から木場に移ったのは同十四年(1701) だから間違いないだろう。しかし両岸の町の造成や起立の年代から少く類推すると江戸の初めから排 水路か疎水か の原型はあったのだろう。河口付近は佐賀町の倉庫街であり、堀に面して油倉が並び、油会所があっ たともいわれ、油堀の名の由来だ。油倉は江戸の火災の原因となるものを減らすため神田から移され、 河岸には、干鰯場なども発達した。木場が新木場に移った後、貯木堀の埋立てに伴い、昭和50~5 1年にかけて埋め立てられその姿を消した、跡地は遊歩道、頭上は首都高速8号線だ。 |
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■和倉の渡し跡 冬木と深川2丁目の南側と深川公園を結んだ油堀の渡船。明治40年(1907)発行の「東京市 深川全図」に渡船場が明記されており、その位置を確認することができる。しかし何時から始められ たのか記録がない。廃止の年代は大震災直後だという。震災で自然に取り止めになったまま、再起で きなかったというところだろう。それで不便解消のため、昭和4年初めて鉄の橋が架けられ和倉橋と 名付けられた。その橋も昭和50年高速道路の敷設により油堀が埋め立てられて消滅した。親柱だけ が植込みに残されている。 |
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■干鰯場(江川場)跡 冬木8~10番の一帯。深川に幾つかあった干鰯場の一つ。蛤町の寺町裏と佐賀町代地とが続いた ところをいった。 江川の由来は不明だが、入江近くの小川の意か? 江川という幅10間(約18 m)のほどの掘割が江川橋を潜って通じていた。干鰯船の運河だったのだろう。干鰯場(ほしかば、か んかば)とは、主として房総方面から水運によって運ばれた干鰯を陸揚げして売り捌く、集荷と取引 の市場のことだ。この江川場は、享保十一年(1726)幕府に願い出て、同十九年に町家作御免と なって以来、干鰯問屋の持地となった。また江川、江川橋とも、享保十一年以来干鰯場持ち(維持管 理責任)だった。干鰯は、江戸時代を通じて重要な肥料で、農業生産の発展に、大きな役割を果たし た。ほかに深川の干鰯場には銚子場(白河)、永代場(佐賀)があった。 |
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■深川第二中学校(明治22年5月10日開校記念日) 冬木22番10号にある区立校。昭和22年4月新学制の実施により最初に創立した区立6校の内 の一つ。廃校となった明治第二国民学校の校舎で開校。1年生が4学級で、2、3年生は各1学級で 校具・教具は殆ど無く、机すら不足して講堂のベンチを代用して授業が始まった。 昭和2年明治小学校と接続したこの校舎は、関東大震災復興計画により建設され、建設当時は最新 式の立派な校舎だった。しかし愚かなアメリカ軍の無差別東京空襲で焼けて、黒くなり、窓ガラスは 割れ、壁は剥がれ落ち、雨が降れば雨漏りがするという状態だった。また校舎深川・臨海・八名川小 などの戦災校が使用していた。5月10日開校式。 同32年創立10周年記念式典・校歌制定。 校歌「都の巽」 作詞・國學院大學教授高橋正秀 作曲・平井康三郎 1.都の巽 一天晴れて 熱と若さの日が昇る はためく校旗に力は漲り いざいざ我等 二中健児 胸張りて 光隈無き大地を開かん 2.富士清々(すがすが)と遠目に冴えて 額の六花に風薫る ひらめく校旗に血汐は滾(たぎ)りて いざいざ我等 二中健児 眉上げて 高く清(さや)けき文化を築かん 3.江戸の名残の伝統受けて 木場の誇りの木が匂う 莢(さや)めく校旗に生命は溢れて いざいざ我等 二中健児 意気燃えて 永遠に栄えある日本を樹てなん 歌詞1番の「一天」は、学校のホームページでは「一転」となっている。意味的にはどちらでも通 じるが、「都の東南の空が晴れて」と理解した方が、詩的だよ。「都の東南の空が突然晴れて、熱と 若さの日が昇る」のはドラマチックだが、東京の位置的には東北から東にかけて日ノ出があり、東南 方向に日が昇ることは無い。 同42年完全給食開始。同43年都テニス大会女子団体優勝。同46年創立25周年記念大会。同 51年新校舎。同53年新校舎(現在地)へ移転。同59年増築。同60年校庭整備。平成元年都総 合体育大会・陸上男子優勝。同2年都英語学芸会優勝。同9年都総合体育大会・陸上女子優勝。開校 50周年記念式典。同10年プール改修。都中学校新人野球大会優勝。同11年文部大臣有馬朗人視 察。同12年都剣道夏季大会男子優勝・全国大会出場。同13年給食室・調理室改修。同14年都剣 道春季大会男子優勝。同15年区モデルケースとして2学期制実施。同16年都剣道春季大会男子優 勝。男子バレー関東大会出場。都剣道秋季大会女子優勝。同17年都総合体育大会・陸上男子優勝。 都剣道夏季大会男子優勝・全国大会出場。全国中学校陸上競技大会・400mリレー出場。都剣道秋 季大会女子優勝。 ●校木「鈴懸の木」 戦争が終わり、焼野ヶ原から新しい中学校が誕生し、教師と生徒の努力による学校作りも前進した 昭和24年第1回卒業生が願いを込めて植えた〝鈴懸の木〟は、根を張り成長してきた。「困難にあっ てもこの木のように伸びて欲しい。未来の日本を担う君たちは使命が重い。手を取り合って頑張って 欲しい」との願いが込められている。鈴懸はプラタナスだよ。 |
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■宝珠山冬木弁天堂 冬木22番にある31号無宗派単立の堂。 |
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■妙栄稲荷大善神 古石場1丁目2番10号にある小祠。 |
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■古石場文化センター 古石場2丁目13番2号にある区の施設。 ●小津安二郎紹介展示コーナー 平成15年小津安二郎生誕100年を記念して、「東京物語」や「晩春」など日本映画界に数々の 名作を残した彼の業績を称えるために設けられた。グラフィックパネルで生涯の歩みや、江東区を舞 台にした作品を紹介。へその緒や書簡、写真など、関係者から寄贈された品々も数多く展示している 「ミニ小津博物館」だ。 実は小津は、深川生まれなのだ。実家は海産問屋(分家)を経営していたが、本家と分家の家督争 いのため、9歳の時に父の郷里である三重県松阪に転居。その後旧制の県立宇治山田中等学校(県立 宇治山田高等学校)に入学。この頃から既に映画に熱中し、寄宿舎から抜け出してよく映画館に通っ たそうで、次第に映画にのめり込むと「映画研究クラブ」を結成するなど熱狂的な映画オタクになっ ていった。三重師範(三重大学教育学部)を受験したものの失敗し、現在の松阪市飯高町にある山村 の宮前尋常小学校に1年間代用教員として勤務。子供たちによく映画の話をしたり、マンドリンを奏 でたり、人気者だった。その後東京へ出て、松竹キネマ蒲田撮影所に撮影助手として入社し、時代劇 「懺悔の刃」で初監督を務めた。以降「生まれてはみたけれど」でキネマ旬報ベストテン第1位に選 出されるなど高い評価を得て、戦後は「晩春」「麦秋」「東京物語」といった名作を次々に発表した。 中流家庭を舞台に親子の関係や人生の機微を描く、日本映画界を代表する巨匠の1人となり、「東 京物語」がロンドン国際映画祭でサザーランド賞を受賞するなど、海外でも注目を浴びるようになっ た。同年紫綬褒章、翌年には芸術院賞を受賞し、映画人として初の芸術院会員ともなっている。しか し世界レベルで評価が高まる中、病に倒れ、60歳の誕生日に逝去、現在は晩年を過ごした北鎌倉の 円覚寺の墓で静かに眠っている。 センター内の江東シネマプラザでは、毎月、小津安二郎や溝口健二、山田洋次らの名作を上映し、 また毎月発行されている「江東シネマ倶楽部だより」で往時の名作を特集・紹介している。センター の北側には、子どもたちが遊び・老人が散歩を楽しめる親水公園(古石場川)が整備されており、小 津の親戚の小津秀祐が架けた「小津橋」の2代目(昭和27年改架)が架けられている。 ●古石場図書館 4階にある。入口を入ると正面にカウンター。右が児童コーナー、旅行ガイド、漫画、外国語図書。 カウンターの左に新聞・雑誌コーナーやCDコーナーがあり、入口から見て左に折り返すように書架 が延びている。一番の特徴はやはり映画の棚。映画に関する単行本が沢山あるし、映画や俳優・女優 の写真集も下段にずらり。また「日本映画人名辞典」「ぴあシネマクラブ」などの参考図書(辞書類) 的な資料もある。キネマ旬報の復刻版も揃ってる。 |
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■松平定信 海荘(はまやしき)跡 古石場2、3丁目、牡丹3丁目の一帯に当たる。寛政期に老中として幕政改革に取り組んだ松平定 信が文化十三年(1816)に入手した抱屋敷。海荘は「はまやしき」と読む。定信は庭園家として 有名で、この屋敷も桜やツツジなどを植えた瀟洒な庭園だったという。 |
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■蓬莱橋跡 牡丹3丁目13・14番(佃町)~富岡1丁目26番(富岡八幡宮の表門前)に架けられていた大島川 の橋。俗に「がたくり橋」と呼んだ。創架年は定かではないが、寛延三年(1750)に改架してい るので、それより以前ではある。橋の規模は資料によって多少の違いはあるが、長さ16~17間× 幅2間だった。この橋の南詰の深川佃町は深川七場所の一つ「佃新地」であり、人々の往来も激しかっ た。また『婦美車紫鹿子』を刊行した洒落本作者蓬莱山人帰橋は、この橋名に因んでつけた号だ。昭 和4年に現在の巴橋が架けられたが、同12年の陸地測量部作成の地図には蓬莱橋と記載してあり、 このころはまだ名称の混同があったものと思われる。 |
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■二世烏亭焉馬宅跡 牡丹1丁目にあった。江戸後期の戯作者。寛永四年(1792)江戸に生まれた。御町奉行所与力山崎 助右衛門の子で、名は嘗次郎、稀代の襲名魔で深川古石場に住み、その居宅から武・相・豆・駿・遠・ 房・総の七州が望めたという理由で七国楼と号し、狂歌を好み、初め伯楽舎に就いて松寿堂永年と名 乗ったが、のち宿屋飯盛に師事し、蓬莱山人帰橋の名跡を継いで蓬莱山人を称えた。文政十一年(1 828)烏亭焉馬の名跡を乞い二世焉馬を襲名した。弘化三年(1846)二世近松門左衛門と改名 して中村座の浄瑠璃作者となったが、名前負けしてあまり振るわず、文久二年(1862)71歳で 鬼籍に入った。著作に『俳優楽屋雑談越路の怪』『妖狐天網島』『相撲取組図』がある。 |
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■雀の森跡 牡丹1丁目の一帯にあった。江戸時代の深川名所の一つ。嘉永三年(1850)版の江戸切絵図「深川 之内小名木川ヨリ南之方一円」には、黒船社地内で、松平阿波守(蜂須賀公)抱屋敷に隣接したとこ ろに「深川名所一ノ古跡スヽメノ森」と記されている。黒船稲荷は『御府内備考続編』によれば、明 和元年(1764)に雀ノ森旧地へ移転している。天明六年(1786)徳島藩蜂須賀家は抱屋敷に 庭園を設け、寛政三年(1791)には広く一般にも公開した。庭園は「雀林荘」と名付けられたが、 これは雀の森から採ったものだ。また落語の『怪談阿三の森』に「阿三様という小さな祠のある処を 古くは雀の森と申しました」という下りがある。 |
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■於三稲荷 牡丹1丁目6番にある小祠。矢田挿雲著「新版、江戸から東京へ、第六巻向島・深川(上)」中央公論 新社刊では、雀の森のお三様の成り立ちが新十郎とお三の悲劇と共に紹介されている。このお三様は、 かつて黒船稲荷の向かいにあったと伝わっており、現在は近くの個人宅に於三稲荷として祀られてい る。於三稲荷はかつて「阿三の森」→「お産の森」→「お産稲荷」と呼ばれ落語「怪談・阿三の森」 などの舞台などともいわれる。 |
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■黒船稲荷神社/鶴屋南北終焉の地 牡丹1丁目12番にある江戸百稲荷の一。祭神は国常立命・熊野早武命・大己貴命・八幡皇大神の4神。 創建は天慶三年(940)と応徳三年(1086)2説あり、現在の浅草に造営された。天慶三年説 では〝俵藤太〟こと藤原秀郷が創建したという。秀郷は夢に宝を満載した黒船を見た。船には神人が 白狐を従えており、秀郷に「我は倉稲魂命なり。汝の分領入間川(隅田川)の浜の石上に白狐がいる 所こそ我が有縁の地なり」と告げたので、早速川岸を見回すと石上に白狐がいた。そこで岡の上に石 を御神体として一社を造営し、黒船稲荷大明神と命名したという。また黒船の名称の由来には、この 付近にオランダ船が停泊したとする説、三浦按針ことウィリアム・アダムスが黒船を係留していたと する説など様々ある。享保十七年(1732)浅革に火災があり、黒船町一帯も類焼、黒船社も焼失 した。この火事の代地として現在の牡丹町の地を与えられたため、町とともに神社も移転してきた。 ●四世鶴屋南北宅跡 黒船稲荷の境内にあった。4世は〝大南北〟と謳われ、代表的な歌舞伎作者で、宝暦五年(175 5)江戸に生まれた。幼名は勝次郎、源蔵、源次郎といい、初代桜田治助の門下となった。安永六年 (1777)桜田兵蔵の名で、作者として初めて中村座に名前が出た。天明二年(1782)勝俵蔵 と改め、河原崎座の『天竺徳兵衛韓噺(いこくばなし)』で大当たりを取り、作者としての地位を確 立した。以降2座の戯作者を兼ね、『心謎解色糸(こころのなぞとけたいろいと)』『謎帯一寸徳兵 衛(なぞのおびちょっととくべえ)』などの作品を発表し、当代随一の名作者と高く評価され、文化 八年(1811)4代目鶴屋南北を襲名した。『お染久松色読販(うきなのよみうり)』『東海道四 谷怪談』など多くの傑作を書き続け、奇想的な舞台構成と煽情的な作風で人気を得た。文政12年(1 829)黒船稲荷境内の家で75歳を以て没し押上の春慶寺に葬られた。寺は南北の屋敷跡だという から、晩年は押上に住んだのかな? |
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■住吉神社 牡丹3丁目12番にある小祠。 |
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■砂村新田跡 南砂一円。砂村新左衛門一族が宝六島の原野や寄州を開拓して、万治二年(1659)434石の 新田を完成させた。新田とは江戸開幕以後の開拓村をいう。新田は新村と同義で、独立した行政村落 だ。砂村新田は西は横十間川、南は江戸湾、東は中川までの範囲で、区内の新田開発のうち最も規模 の多いものだ。この新田は新左衛門の姓を採り、砂村新田と命名したが、弟の新四郎が経営に当たり、 代々世襲して名主を務めた。新左衛門は摂津国福島の人で、新四郎、三郎兵衛・新三郎父子を連れて 関東に移った。まず横浜の野毛新田、続いて横須賀の内川新田を開拓し、新三郎に内川新田の経営を 任せ、さらに宝六島の新田開発に当たった、寛文六年(1667)に没し、横須賀の正業寺に葬られ た。 |
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■和船友の会 南砂1丁目1番の横十間川親水公園尾高乗船所(ボート場) 土木部水辺と緑の課維持係(窓口: 防災センター 03-3647-2538) 区民を中心に結成されたボランティアの同好会。平成 7年和船を親水公園に係留していた区が会員を一般公募、「難しい手漕ぎ船の操縦法や和船の伝統を 伝え残していこう」との主旨で結成された。催しは週1回 一般の人も無料で乗せてくれるよ。12 月~2月は毎週日曜日 3月~11月は毎週水曜日 天候等により中止する。また希望者には漕櫓操 船を教えてくれる。一見簡単そうに見える櫓漕ぎだが、船をまっすぐに進めるのも難しい! 櫓漕ぎ 上達者には「江戸和船櫓漕ぎ技術習得認定書」を発行してくれるそうで、指導者の平均年齢は65歳 と若い。元漁師や船頭さんもいて、子供の頃ら船に慣れ親しんできた人ばかり。「昔とった杵柄! 心身共にリフレッシュ出来る」と元気旺盛。最近は女性や中学生の会員も腕を上げて船頭を務める人 も出た。NHKの「小さな旅」、日テレの「途中下車の旅」でも紹介されたから爆発的な人気だ! |
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■第二南砂中学校(6月4日開校記念日 理由不明) 南砂1丁目2番18号にある区立校。南砂中学校は、高層集合住宅や地下鉄東陽町駅、南砂町駅周 辺の高層マンションの誕生による人口の増加と共に生徒数が急増し、昭和58年度には900名を越 える大規模校となった。この状況を解消するため、同59年共立機械の工場跡地の現在地に新校舎が 建設され、南砂中学校から分校、区立中学22番目の「東京都江東区立第二南砂中学校」として、生 徒360名で開校した。7月開校式。同61年校歌制定。初代校長諏訪光の師今井文男愛知淑徳大学 副学長が上京した折、本校に立ち寄った。その時校歌の歌詞作成を依頼し、作曲はNHK名古屋放送 局の森一也に依頼した。 校歌「香り床しく」 作詞・今井文男 作曲・森一也 1.香り床しく咲く花の 梅を心の姿とし 日々を充たして重ねつつ 得よう実りの喜びを 2.流れ豊かな隅田川 人には尽きない智恵がある 堅くやり抜く意志を持ち 開こう自己の可能性 3.西の彼方の富士山の 注ぐ眼差し受け止めて 身体を鍛え技を練り 結ぼう友垣一つ輪に 4.水と緑の爽やかな 我等の第二南砂 中学校は切磋の地 目指そう人生彫琢を 同11月伊豆大島の噴火による避難で、大島の中学生30人受け入れ。同62年都中学校総合体育 大会男子優勝。平成元年都総合体育大会女子優勝。同13年全日本中学校バレーボール大会準優勝。 惜しい! 同15年開校20周年記念式典。、 |
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■末廣稲荷大明神 南砂1丁目6番10号、清洲橋通りに面してある小祠。 |
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■屋敷稲荷社 南砂1丁目6番14号、清洲橋通りに面してある小祠。 |
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■富岡八幡宮 南砂1丁目15番10号にある小社。名前だけはでっかい。 |
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■南砂西小学校(昭和50年6月9日開校記念日) 閉校 南砂2丁目3番13号にあった区立校。昭和50年東京都住宅校舎南砂2丁目住宅建設に伴う児童 の増加に対処するため、同団地内に開校した。当初の予定では開校は1年前で、校舎は既に完成して いた。しかしオイルショックの煽りで、団地の建設入居が遅れ、それで開校もずれ込んだ訳。校名は 「第八砂町小学校」の予定だったが、南砂にできる学校ということで南砂に拘ることにした。また団 地内にもう一つ小学校を作る予定があり。団地の西に位置することから「東京都立江東区立南砂西小 学校」となった。6月9日開校式。12月校歌制定。(音楽教諭長沢克子の恩師、「花のまわりで」 の作曲者大津三郎に作曲を依頼すると快く引き受けて貰い、作詞については「花のまわりで」の江間 章子を紹介、依頼してくれた。 校歌「今日も広がる」 作詞・江間章子 作曲・大津三郎 1.今日も広がる青空あおいで 我等の学校 楽しい学校 力を合わせてやりぬこう 我等学ぶ 元気で学ぶ 2.我等の歌 響け歌声 我等の学校 明るい学校 身も心も健やかに 我等育つ元気に育つ 栄あれ南砂西小学校 12月体育館完成。第1回マラソン大会(以後毎年実施)。同51年9教室・特別教室4増築。プ ール完成。同55年南砂東小学校開校に伴い、児童352名移籍。校舎増築。平成11年開校25周 年記念式典。同14年児童の減少により、南砂東小学校と統合のため閉校し、「江東区立南砂小学校」 となった。校舎は明け渡し、旧南砂東小学校の校舎に移った。 跡地利用 平成13年度東陽小学校仮校舎。同15年度深川第八中学校仮校舎。同18~19年度 深川第三中学校仮校舎。 |
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■南砂東小学校(6月11日開校記念日 理由不明) 閉校 南砂2丁目3番21号にあった区立校。昭和50年東京都住宅供給公社南砂二丁目住宅に創立した 南砂西小学校の児童数は、開校時272名だったが年々急増し、同54年には1000名を超えた。 この時の学級数26学級、1年生が7組あった。普通教室は足らず、特別教室を改装して使った。さ らに児童は増える見込みだったため、団地の東側に校舎を新築し、同55年4月南砂西小学校から分 校して児童503名14学級で開校した。6月体育館・プール完成。9月10日開校記念式典・ケヤ キ植樹。同57年校歌制定。 校歌「さざんかの花のように」 作詞・比留間一成 作曲・音楽教諭山口章子 1.さざんかの花のように清く 輝かに明日を開く我等 蕾の恥じらい 心に留めて 肩を組み共に学ぶ 南砂東小学校 2.枝々の茂るように強く 花繋ぎ 橋を架ける友よ 心通わせさざんか胸に 肩を組み共に学ぶ 南砂東小学校 同58年校舎増築。同60年児童数870名のピークに達し、以後減少していく。同62年コンピュ ータルーム完成。 平成元年創立10周年記念式典・イチョウ植樹。同6年校舎改修。和室・多目的室・オープンスペ ース・図書閲覧室・ランチルーム完成。同12年閉校式挙行。南砂西小学校との統合により閉校。校 地・校舎を統合新設校に移譲。 |
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■南砂小学校(6月20日開校記念日) 南砂2丁目3番21号にある区立校。平成12年第一次江東区立学校適正配置計画により南砂西小 学校と南砂東小学校が統合され、統合新校「江東区立南砂小学校」として創立した。南砂2丁目団地 内にあった両小学校は、団地の宿命として団地住民の高齢化により、児童数は減少し続けた。その結 果の統合で、南砂東校の校地校舎を受け継いで開校、開校時の児童数は298名11学級だった。ま た南砂西校に設置されていた情緒障害学級「ひまわり教室」2学級も移転した。同13年校歌制定。 当時学童の保護者だった小山郁美が、大石豊校長に依頼されて作詞作曲した。思いやりのある優しい 気持ちを育て、大きな夢を持ち、世界規模活躍のスケールで活躍の場を持てるような個性豊かな人間 に成長して欲しいという希望を籠める。 校歌「爽やかな風と光」 作詞作曲・小山郁美 編曲・入江康子 1.爽やかな風と光が溶け合って 優しい気持ちが生まれて育つ 溢れる友情 思いやり 力あわせ生きる 未来輝く南砂小学校 2.大きな夢を心に抱き 燃える思いを友と語る 大空見つめ心を広げ 世界へと羽ばたく 未来輝く南砂小学校 同14年ソニー科学教育プログラム努力賞受賞。全国ピオトープコンクール優秀賞受賞。ひまわり 教室3学級。同15年校庭改修。同16年フェンス、プール改修。同17年裏門施錠封鎖。校門と周 辺部改修。 |
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■南砂中学校(6月4日開校記念日 理由不明) 南砂2丁目3番20号にある区立校。南砂地区の発展と都住宅供給公社南砂2丁目住宅の生徒の急 増に伴い、団地内に校舎を新築し、第三砂町中学校から分校、生徒367名9学級でスタートした。 5月開校記念樹として「ハナミズキ」を植樹。7月開校式。8月プール完成。12月体育館完成。同 53年第1階文化祭・校歌制定発表。 校歌「空に希望の太陽を」 作詞・ 1.空に希望の太陽を 大地に深くはなみずき 身は健やかにたくましく 心豊かに育もう 我らが南砂中学校 2.大きな団地と共に立ち 明るい声がこだまする 真実の道求めつつ 理想を高くかかげよう 我らが南砂中学校 3.文化を築く若人よ 友と手をとりこの道を 大きな夢を胸に抱き 輝く未来へ羽ばたこう 我らが南砂中学校 同53年校舎増築工事竣工。同59年第二南砂中学校分校。平成元年バスケットボール部関東大会 優勝(全国大会ベスト8)。同8年創立20周年記念式典。 |
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■長州藩大砲鋳造場跡 長州藩下屋敷は江戸切絵図によると、南砂2丁目3番の辺りにあり、幕末にはここで大砲を鋳造し た。 ●モニュメント 平成8年3月に南砂緑道公園に設置された。パリのアンヴァリッド(廃兵院)に、「嘉永七歳次甲 寅季春、於江都葛飾別墅鋳之」と刻まれ、毛利家の家紋がある青銅の大砲2門が陳列されている。江 東区の長州藩大砲鋳造場跡の歴史については、「江戸切絵図」を見ると、現在の南砂2丁目3付近に 長州藩主松平大膳太夫の屋敷があったことが判っている。また『防長回天史』には、長州藩の鋳砲家 として知られる郡司喜平治が江戸に呼び出され、嘉永七年(安政元年)に幕府の許可を得て、佐久間 象山の指導で葛飾郡砂村の長州藩の別邸内で36門の大砲を鋳造した。ここで造られた大砲は、下関 に据え付けられ、元治元年(1864)八月の下関戦争で外国船に発砲し、敗戦後にフランス軍に戦 利品として持ち去られた。 白御影石の台座の上に据えられたモニュメントの青銅砲は、アンヴァリッドに保存されて長州藩の 大砲(実物は長さ3m)をモデルに作成したものだ。長州藩毛利家の紋章の入った大砲には、嘉永七 歳次甲寅季春(かえいしちさいじこういんきしゅん)十八封度砲(じゅうはちポンドほう)於江都葛 飾別墅鋳之(こうとかつしかべっしょにおいてこれをちゅうす)と刻んであり、「葛飾別墅」とは、 この砂村の屋敷をさしている。 |
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■第四砂町尋常小学校 → 第四砂町国民学校 廃校 南砂2丁目13番18号にあった公立校。俗称「よんすな」。大正期まで、砂町地区は田園情緒豊 かな農漁村だった。大正6年の大津波、同12年の関東大震災で大きな被害を受けたが、復興計画が 進んで人口が急増し、それに伴って、新しい学校の必要に迫られ、昭和9年砂町尋常高等小学校から 分校、同校内で「東京市第四砂町尋常高等小学校」として開校、5月現在地に木造2階建て校舎が落 成して、児童1228名でスタート、1年生は二部授業となった。このころ学校の周辺は広々とした 葦原が続き、雲雀の囀る長閑なところだった。北方にガスタンクが、南方には汽車製造会社が見え、 大きな鉄工所や小さな町工場が次第に出来てきて工場地帯に変貌し始めていた。同10年校舎8教室 増築。平面コの字型となる。同16年国民学校令より「東京府東京市第四砂町国民学校」と改称。同 18年都制施行により「東京都第四砂町国民学校」と改称。同19年8月愚かなアメリカ軍の無差別 空爆が熾烈となり、山形県赤湯町に3~6年生集団疎開。同20年3月愚かなアメリカ軍の度重なる 非人道的市街地無差別空爆により校舎焼失。8月日本は、ならず者国家アメリカの軍門に降り敗戦、 以後その属国となり、その手先に扱われて苦しんでいる。同21年再起ならず廃校となった。 |
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■第四砂町小学校(昭和28年9月18開校記念日) 南砂2丁目13番18号にある区立校。戦後、この周辺は昭和28年「東京都江東区立第四砂町小 学校」として砂町小学校内に再興。7月旧校地に新校舎が落成して児童移転。9月18再興開校式。 同31年校舎2教室増築。同32年6教室増築。同36年4教室増築。同37年校歌制定。 校歌「広い青空」 作詞・勝承夫 作曲・平井康三郎 1.広い青空 東京の 大きな空に 浮かぶ雲 われらの夢も おおらかに 明るい第四砂町の 子どもは明日の 日本の力 2.鉄の響きは 新しい 文化を創る 意気の歌 働く町の若鳥は いつでも仲良く 元気よく 心を揃え やりぬく誓い 3.水を恐れず 火に負けず 鍛えた町の この気風 尊い自主の校風を 受け継ぐ第四砂町の 我等は強く果て無く進む 同38年体育館完成。同41年プール完成。同42年~47年3期に亘る校舎全面改築。同50年 北砂小学校・南砂西小学校が開校し一部学区移譲。同58年創立50周年記念式典・昭和19年度卒 業生に卒業証書を授与。同63年体育館・プール新調。特別教室・普通教室4増設。同15年70周 年記念式典。 |
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■六地蔵 南砂2丁目28番27号にある地蔵堂の中にある。江戸時代から砂村子育地蔵として遠方からも参 詣に来たという。現在は西向きだが、以前は東向きに建っていたそうだ。由来は幾つもある。一つは 深川永代寺にあったものを、この辺りでの水難事故が多かったのでその供養のために移設したと、ま た一つにはこの近くに処刑場があって、処刑された罪人の供養のために、砂村の石屋が頼まれて建て たともいう。この地蔵は愚かなアメリカ軍の非人道的無差別空爆により破壊されてしまったので、昭 和27年ころ繊細殉難者慰霊も兼ねて再建した。現在は「六地蔵奉賛会」が維持している。 |
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■十万坪仙気稲荷大明神(砂村稲荷神社跡) 南砂3丁目4番3号にある江戸百稲荷の一つ。江戸時代から「砂村疝気稲荷」として名高く参詣者 が多く繁栄していた。特に初午の日は大勢の人々が集まり賑わう。砂村稲荷神社は、昭和20年のア メリカ軍の無差別空爆により全焼、その後仮社殿が建てられたものの、昭和42年に千葉県習志野市 谷津に移転していった。また境内にあった「鳳卵石」など沢山の力石、元砂村囃子連中の碑など貴重 な石造物の一部は、近くの富賀岡八幡に移された。神社の跡地には都営住宅が建てられ、その一隅に 昔の名前を留める小祠が仙気稲荷大明神だ。 文化文政の頃から疝気の治病に霊験あらたかだった。疝気というのは、大小腸・子宮などの下腹部 が痛む病気だ。また祭神の一柱が「大市比売命」であるところから、大市稲荷、大智稲荷などともい われた。創立は古く、万治二年(1659)。明暦三年(1657)大火後の江戸の大再開発により、 本所深川が埋め立てられた時、この付近も江戸近郊農村として開発が進められた。そしてここが海岸 線だったため、波除の堤防が築造され、高潮の水害を防ぐため江ノ島奥の院の祭神を移して創立され たものだ。 |
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■地蔵尊 南砂3丁目5番13号、仙気稲荷通り、福島橋停留所傍にある。 |
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■第三砂町中学校(10月17日開校記念日 理由不明) 南砂3丁目10番3号にある区立校。昭和30年砂町・第二砂町中学校から分校し、区内で13番 目、砂町地区で3番目の中学校として創立、生徒517名、第三砂町小学校に間借りしてのスタート だった。南砂町5丁目198番地の現在地に着工した木造2階建て校舎は、7月に竣工し生徒が移転 した。当時の環境は葦の茂みの中で、南側は直ぐ海、小蟹が散歩し海水浴もできた。一方学校周辺に は校歌の最初の一節「クレーンの林の中」とある通り、工場造成地帯で方々にクレーンが林立してい た。同32年10月校歌発表会。 校歌「クレーンの林の中」 生徒・教職員・保護者から原作を募り、歌詞は当時名古屋大学学長高城市之助が、作曲は高田信一 によって完成された。歌詞には、高木が上京して見て回った当時の学校、地域の様子がよく表れてい る。 1.クレーンの林の中 轟々と工場が鳴る 僕たちの 私たちの学校の これが誇り 威勢よく勉強して 少年の力を試そう 第三砂町中学校 2.思い出の台場の島 懐かしい夕焼け富士 僕たちの 私たちの学校の これが眺め 柳道 庭躑躅(ツツジ) 少年の夢も七色 第三砂町中学校 3.東京湾 海遥々(はるばる) 放水路 水洋々 僕たちの 私たちの学校の あれが理想 一杯に胸を張り 少年の希望燃やそう 第三砂町中学校 同35年都中学校吹奏楽(ブラスバンド)優勝。同36年体育館完成。同38年プール完成。同4 4年鉄筋コンクリート造り校舎8教室竣工。同45年鉄筋コンクリート造り校舎6教室竣工。完全給 食実施。同46年校舎新築のため木造北校舎解体。同47年第三期鉄筋コンクリート造り校舎14教 室・5管理室増築。屋上プール完成。同48年鉄筋コンクリート造り校舎3教室・4特別教室竣工。 同51年南砂中学校分校。同61年外国人教師による英語授業開始。平成7年重層体育館完成。同1 8年創立50周年。 |
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■日照山中央寺 南砂4丁目15番20号にある曹洞宗の寺。 |
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■弾正橋 南砂1丁目25番と5丁目1番の接するところ、仙台堀川に架かり、明治通りを通す。大正時代に 城東電機鉄道の鉄道橋として砂町運河に架設され、その後明治通りの道路整備に伴い、昭和5年に道 路及び鉄道橋として鋼橋に生まれ変わった。この橋のすぐ西側には、木橋で架設された「秋山橋」が あり、住民の通行の手段だったが、この道路整備に伴い、秋山橋は撤去された。 橋の名前の由来は、元々境川(葛西橋通り)に架っていた橋(境川交差点のところ)の名前だった が、大正13年からの震災復興事業のため境川が埋立てられて撤去されたことを惜しみつけられたも のだ。 なお、現代の南砂付近一帯は江戸時代から明治時代にかけ砂村新田と呼ばれ、その中に八つの地区 があり、その一つが「弾正」だった。恐らく弾正の名のつく人の領地か、その人が住んでいたのだろ う。 この橋の下を流れる仙台堀川は、0メートル地帯であることで水害を危惧して、昭和53年からの 埋立てに伴い、同57年に親水公園となり、地域の人々に親しまれてきた。平成の世となり、弾正橋 も撤去の必要が生じ、ここに橋名板と当時の橋の偲かげのレリーフを残し橋の歴史を永くとどめるも のとしたと、区の説明板にある。 |
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■松吉稲荷大明神 南砂5丁目3番5号にある小祠。 |
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■稲荷社 南砂5丁目10番6号にある小祠。 |
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■金森稲荷神社 南砂5丁目23番2号にある小社。 |
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■旧大石家住宅 南砂5丁目24番の仙台堀川公園内に移設されてる。江戸時代に建てられた区内最古の民家で、安 政二年(1855)の大地震でも倒れなかった。信仰の証として残された150枚以上もの成田山の 御札は、築後150年以上もの長い時間が経過したことを物語る。その間安政の大地震のみならず、 関東大震災、戦災、あるいは繰り返し発生した洪水など、数多くの災害を潜り抜け、大石家の暮らし を支えてきた。広く造られた屋根裏は、水害時の緊急避難場所で、水が引くまでの数日間、家族が生 活する場として使われた。建築当初の姿を現在に伝える建屋は、文化的・歴史的価値を守り伝えるた め、平成6年江東区の指定有形文化財(建造物)となり、解体調査を経て、平成8年、仙台堀川公園 内「ふれあいの森」に移築復元された。 |
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■第三砂町小学校(開校記念日 昭和5年5月27日) 南砂6丁目7番13号にある区立校。俗称「さんすな」。昭和5年5月「東京府南葛飾郡第三砂町 尋常小学校」を開校。海軍記念日に肖って5月27日に開校式催行。昭和初期、砂町地域は農漁村か ら東京の近郊工場地帯へと変化し、人口の増加に伴い、砂町及び第二砂町尋常高等小学校では、あま りの激増に児童の収容が困難になっていた。そこで3番目の小学校の設立が急務となり、現在地に木 造2階建ての当時としては洋風のモダンな校舎が竣工した。そのため「砂町の学習院」といわれ、校 舎の窓からは富士、筑波、秩父、房総半島、東京湾が望めたものだ。開校に当たって、一砂小から6 63名を、二砂小から180名を移籍して「第三砂町尋常高等学校」として開校。翌年児童数は10 00名を越えた。同7年講堂兼雨天体操場と平屋教室1棟を増築。10月南葛飾郡が東京市に編入さ れ城東区が成立して「東京市第三砂町尋常小学校」と改称。同16年国民学校令より「東京府東京市 第三砂町国民学校」と改称。同18年都制施行により「東京都第三砂町国民学校」と改称。同19年 8月愚かなアメリカ軍の無差別空爆熾烈となり、山形県堀田村に3~6年生集団疎開。同20年3月 愚かなアメリカ軍の度重なる非人道的市街地無差別空爆により校舎を焼失したため、元八幡神社の社 務所で授業を行った。8月日本は、ならず者国家アメリカの軍門に降り敗戦、以後その属国となり、 その手先とされて、自民党内に巣食うフルブライト系対米追従議員の存在に苦しんでいる。 同21年元兵舎サクション(東砂6‐2)を仮校舎とする。サクションの意味不明。同22年学制 改革により「東京都江東区立第三砂町小学校」と改称。同23年第一次復興校舎10教室落成。同2 4年キティ台風襲来して校舎浸水。同30年第五砂町小学校を分校。西側校舎に第三砂町中学校開校 (7月移転)。同38年体育館完成。同41年鉄筋コンクリート造り校舎落成。同42年プール完成。 平成11年創立70周年記念式典。同13年校舎全面建て替えのため南砂3丁目公園内のプレハブ仮 設校舎に移転、同14年新校舎落成。 ●校歌 開校当時校歌はなく、初代校長根本文蔵が作詞し、訓導(教諭)の原田アキが作曲した応援歌が歌 われていたらしい。昭和15年頃には以下の校歌が歌われていたという。 校歌「都の辰巳」 作詞・石山脩平 作曲・佐々木すぐる 1.都の辰巳 射し昇る 朝日の影に照り映えて 海と空とを一筋に 世界の高楼 集めて 希望も高く 学び舎建てり 見よ見よ我が学び舎 砂町第三 2.世紀の朝(あした)天地の 栄ゆる御代の感激に 仰ぐ御鏡 桜花 貫き通す真心を 誓いて結ぶ友垣我等 立て立て我が友垣 砂町第三 3.興亜の姿 そのままに 産業日本の槌の音 尽きせぬ海の大富源 果て無き恵み 身に染みて 高鳴る胸の使命を歌う おゝおゝ我が使命 砂町第三 この校歌が文語調で難しいと職員たちがいい出して、昭和25年音楽担当の井上教諭が中心となり、 懇意にしていた作曲家の平井康三郎(保喜)と、彼のコンビを組んでいた作詞家勝承夫に作詞を依頼 した。9月15日現在の校歌が完成し、22日の開校20周年記念式典で発表した。 校歌「潮は満ち来る」 作詞・勝承夫 作曲・平井康三郎 1.潮は満ち来る 光は躍る 活気漲る生産の町 ここに窓あり 学びの窓に 集う我等は明るく強し 2.並ぶ鉄塔 時代の力 空に轟く建設の歌 ここに友あり 睦みて日々に 進む我等の誓いは堅し 3.夢は果て無し 美空に海に 招く文化の躍進の風 ここに庭あり 緑は恵む 楽し第三砂町我等 |
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■江東図書館 南砂6丁目7番52号にある中央図書館。3階建て。1階が児童室と新聞・雑誌コーナー、カセッ ト・CD・ビデオに漫画。カウンターやネット閲覧PC、ビジネスコーナーも1階。2階が一般書架 だ。3階は普段立入禁止だが、特設展示をやる時には入れるとのこと。 |
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■元八幡 富賀岡八幡神社 南砂7丁目14番18号にある。寛永四年(1627)当時永代島と呼ばれていた現在地に御神託 により創建された。周辺の砂州一帯を埋め立て、社地と氏子の居住地を開き、総じて60508坪の 社有地を得た。世に「深川の八幡様」と親しまれ、今も昔も変わらぬ信仰を集める「江戸最大の八幡 様」富岡八幡宮は、寛永四年(1627)にここから移した。それで寛文五年(1665)から跡地 の八幡を元八幡と呼ぶようになり、この辺りの小名となっていた。現在も交番の名前に残り、交差点 の名前にも残っている。 江戸時代には海に面した広い境内と桜並木の長い参道など自然の景観に恵まれた、江戸市民の観光 名所だった。安藤広重の『名所江戸百景』にもその当時の様子が描かれている。しかし明治43年の 風水害で桜並木も全滅し、埋め立ても南に伸びた現在では、昔の風景を偲ぶ術もない。おいらは新砂 がまるで海だった頃を知ってるからねぇ・・・ ●狛犬 東南アジアの風習で、魔除けに寺院でも、住宅でも、村の入口でも一対の犬の坐像が置れている。 この風習を持って日本人は日本にやってきた。また中国では獅子(ライオン)を一対安置したので、 これが融合して日本では唐獅子を安置し「狛犬」といった。「狛」は「高麗」で、中国の文物は朝鮮 半島を伝ってやってきたので、「こま」は「中国」と同義となった訳。「いぬ」は東南アジアの魔除 けの風習のままで、「狛犬」は「ライオン」だ。中国からもたらされたので「唐獅子」ともいうんだ よ。「唐獅子牡丹」は、牡丹が中国の国花なので、まるまる中国だ。高倉健は格好良かったねぇ。 稲荷では狛犬の代わりに白狐を据える。狐が稲が実った頃やってくるので、神の御先(みさき)つ まり神の使いと考えた。稲荷と八幡は日本固有の神様だ。 狛犬は、仁王と一緒で口を開いたのと閉じたのがある。これを阿吽といい、吐息と吸気、始めと終 りを表している。阿吽の呼吸とは絶妙の間合いをいうんだよ。 享保十二年(1727)と享和元年(1801)に奉納された2対の狛犬がある。 ●芭蕉の句碑。 目にかかる雲やしばしの渡り鳥(芭蕉) 元禄七年ごろの作といわれているが、同年は芭蕉の没年だから江戸にいなかった。旅中の作か? 「渡鳥集」所出。「芭蕉句選拾遺」に「めにかかる」と誤ったので「日にかかる」が正しい。日と目 と誤記したのだろう。何故この句の碑がここにあるのか不明だが、当時この辺りが海に突き出ていた ことから、渡り鳥が渡来してたのではないかといわれている。 句碑は、小柴暉雄の揮毫で、文化二年(1805)初秋に建立された。 ●元八まん道道標 むかしは石の道標が沢山、あっちこっちにあったけどね、市街地化するに連れてあそこのがなくな り、こっちのがなくなりしてさ、いつの間にか数えるばかりになっちまったよ。この道標はその数少 なくなったものの一つだ。かつては海辺を走る道、つまり新砂と境界の道がそれだ。ついこないだま でコンクリートの護岸壁が残っていた。千葉に抜ける裏道だったんだよ。この道から神社に向かう道 の三差路の角に建っていたんだが、開発で取っ払って訳分かんなくなっちゃったんで、南砂7丁目の 交差点か、それより西か、もう判らねえよ。 道標の正面には、 是より 元八まん道 帰春老漁書 と刻まれており、右側面には、 鳩の舞ふ坊は雲居ぞ神詣 有扇亭石文 という有扇亭の句が刻まれている。明治時代に編まれた『東京名所図会』には、 元〆川の岸に沿ひ五十軒より南に進めば川の盡きる処に元はちまん道としるせし石標あ り という記述がある。これが境内に残るもとの位置かどうかは不明だが、南砂3丁目公園前の交差点 の辺りにもあったらしい。元八幡道は元八幡通りなのかね? 元八幡通りはかつての砂村川で畦道で も歩ったか? 海岸端のほうが道中にはいいや。 ●御輿 江戸時代の神輿は震災・戦災などで全滅したが、唯一生き残っていたのがこの神輿だ。昭和20年 戦災(アメリカ軍の無差別空爆)により、同神社は社務所の一部と御輿倉を残して全焼。助かった倉 の中に江戸時代の御輿があり、御輿を格納する木箱に墨書された製作年代から文化十年(1813) の作だということが判る。この御輿は、戦後一度だけ町内を回ったことがあるが、今は本殿に安置し てある。 この御輿は江戸時代に多い鳳輦造り。二つの屋根が交差した八棟造りで、屋根の上に金色の鳳凰が 飾ってある。中央の扉の中に神体が安置してあり、八幡宮の紋所三つ巴を打ち出した台座の下には、 担ぎ棒を通して担ぎようになっている。重さは1000㎏。瓔珞と呼ばれる胴体の周りの飾りは、各 種の紋所を金属円盤で繋げる独特のもの。この造りは、江戸時代の風格を今に伝えるものだ。 |
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■英一蝶宅跡 三好1丁目1・8番にあった。一蝶は画家で、承応元年(1652)大坂の医師多賀伯菴の子とし て生まれ、本姓藤原、多賀氏。幼名を猪三郎、通り名は、助之進。諱は安雄、のち信香、字は君受、 剃髪して朝湖と号した。15歳のとき江戸に出て、呉服新道に住み、画を狩野安信に学んだ。元禄十一 年(1698)罪を犯して三宅島に流刑となり、宝永六年(1709)赦免され江戸に戻り英一蝶を 名乗った。『五兵衛聞書』によると、江戸に戻ってからの一蝶は、五兵衛の菩提所冝雲寺に隠れ住ん だ後、深川霊巌寺門前に移り住んだという。また『武江年表』には、宝永六年の条に、 九月、多賀朝湖帰郷を許さる。後英一蝶と号す(深川長堀町に住す) とある。享保九年(1724)73歳で深川に没した。墓 は港区二本榎の承教寺にある。代表作に静嘉堂の『朝暾曳馬図』、出光美術館の『四季日待図巻』、 遠山記念館の『布晒舞図』、『見立琴棋書画図屏風』などがある。 墓は港区高輪2丁目承教寺の本堂前にある。 |
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■法性寺 三好1丁目2番8号にある浄土宗の寺。 |
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■円隆院 三好1丁目2番にある日蓮宗の寺。 |
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■円通寺 三好1丁目3番3号にある浄土宗の寺。元霊巌寺学寮。 |
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■一乗院 三好1丁目3番18号にある日蓮宗の寺。 |
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■唱行院 三好1丁目3番19号にある日蓮宗の寺。 |
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■大智山勢至院 三好1丁目4番5号にある浄土宗の寺。 |
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■松林院・華厳院 三好1丁目4番14号にある浄土宗の寺。門柱の表札が右は松林院、左は華厳院となっている。本 堂は鉄筋コンクリート、左に庫裏、その左に鉄筋コンクリート2階建ての住宅。その左に墓地 ●石川玄常の墓 江戸中期の蘭方医で、延享元年(1744)に生まれ、諱は世通、号を愚岡と証した。明和八年(1 771)前野良沢・杉田玄白・中川淳庵桂川桂川甫周らとともに「ターヘルアナトミア」を翻訳し、 安永三年(1774)日本における最初の西洋医学翻訳書である『解体新書』を苦心の末に刊行。天 明八年(1788)侍医として御三卿一橋家に仕えた。震災前に墓地を整備したとき、儒学者太田元 貞(錦城)の撰文による墓碑が出てきた。現在の墓石(石川家之墓)は昭和6年に再建したもので、 この碑を削り直したものだ。文化十二年(1815)72歳で没した。なお命日は墓では二月四日と なっているが、碑では正月二十八日となっていた。 |
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■共同墓地 三好1丁目4番の寺院共同墓地にある。 ●橋本雅邦の墓 菩提寺は近くの平野1丁目14番にある玉泉院。天保六年(1835)木挽町(東銀座)に、川越 藩絵師橋本晴園の子として生まれ、幼名を千太郎、本名を長郷といい、秋園と号した。弘化四年(1 847)13歳の時、狩野雅信(勝川院)の門に入り、東京大学のアメリカ人教師フェノロサと知遇 を得て、以後狩野芳崖とともに、岡倉天心などの鑑画会に参加し日本画壇の革新運動を展開した。そ して明治20年東京美術学校(東京芸大美術部)の創立に尽くし、同23年に同校の教授となり、翌 年帝室技芸員に挙げられ、横山大観・下村観山・菱田春草らを指導した。同31年に退官し、天心ら と日本美術院を創立し、新日本画の形成と後進の画家育成に努め、明治の美術界に多大の功績を残し た。雅邦の画風は、古画の影響を受けた穏健なもので『白雲紅樹図』『龍虎図屏風』などの傑作を残 し、明治41年72歳で没し玉泉院に葬られた。墓碑は六角柱の墓石は、昭和20年のアメリカ軍の 無差別空爆により損傷したが、昭和31年再建された。 なお玉泉院は雅邦の画いた『出山釈迦図』を所蔵している。 |
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●阿武松緑之助の墓 おうのまつみどりのすけ。菩提寺は近くの平野1丁目14番にある玉泉院。江戸後期の力士で6人 目の横綱。寛政三年(1791)能登国鳳至郡七海村(石川県鳳至郡能登町七海)の農家に生まれ、 長吉といった。大食いで一升飯を食らうので家にいられず、江戸に出てこんにゃく屋に奉公した。2 5歳の時武隈(たけくま)の門に入り小車を名乗った。併し武隈は長吉が大食いなため悲鳴を上げ、 路銀1分を与えて帰国させた。しかし長吉は力士になることが諦めきれず、錣山の弟子となり四股名 を小緑と称え、のち小柳長吉と改めた。年々の興行で好成績を上げ、文政二年(1819)春幕下二 段に進み、同五年(1822)春蔵前八幡の花相撲で武隈に勝ったといわれている。同年暮に入幕、 同六年(1823)幕内八枚目、同七年(1824)小結昇進、同八年(1825)冬関脇、同九年 (1826)に最高位の大関に昇進して、翌十年(1827)春の芝神明の場所から阿武松緑之助に 改めた。出場するたび殆ど全勝、小兵だが古今未曾有の力士と称讃された。同十一年(1827)三 月稲妻雷五郎ととも小野川以来30年途絶えてい横綱免許を受け6人目の横綱となり、名を天下に轟 かせて天保六年(1835)に引退した。この墓には4代までの戒名も見られる。 緑之助の出世話は、「阿武松」という落語になっており、大飯の食らい過ぎで武隈の下をお払い箱 になった緑之助は、故郷へ帰れず、食べられるだけ食べて死のうと決心して泊まった宿の主人に食いっ ぷりの良さを見込まれ、錣山の許へ世話して貰うというものだ。 |
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●浦風の墓 菩提寺は近くの平野1丁目14番にある玉泉院。浦風は相撲取りの四股名で、墓誌には、初代、3 代、5代、6代、8代のほか18名の戒名と没年が刻まれている。但し過去帳と相撲博物館資料とで は代数に相違がある。括弧は相撲博物館資料の代数だ。初代(2代)浦風は、福蔵、与八と名乗って 安永元年(1772)に引退、大関雷電為右衛門を輩出し、寛政七年(1795)に没した。3代目 (5代)は、雷電為右衛門の弟子稻出川市右衛門で、浦風部屋中興の祖といわれ、多くの力士を育て 上げて、弘化二年(1845)に没した。5代(8代)は谷嵐市蔵で、年寄名として襲名した。6代 (9代)巨人力士の白真弓肥太右衛門で、明治元年に没した。8代(11代)は、初名は浅川といっ た、新入幕の時、現役で襲名、最高位の関脇となり、そのまま年寄浦風となり、明治36年(190 3)に没した。 |
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●天廼門都竜の墓 菩提寺は近くの平野1丁目14番にある玉泉院。狂歌師で、本名を6代目山本嘉兵衛といい、日本 橋通り2丁目に住んでいて、代々茶の販売を業としていた。初名は雲井都竜で、後に天廼門と号すよ うになり、晩年は徳翁と号した。本業柄当然茶事に通じ、天保六年(1835)宇治郷小倉の木下家 において玉露茶を発明。妻清流四江の名を以て『狂歌茶器材集』を刊行している。墓は墓地内正面に あり、先祖代々のもので凡そ2mの立派なものだ。塔石の4面に28人の戒名や没年が刻まれており 古いものでは延享元年(1744)の年号が見られる。都竜は左側面の左から2番目「渋壺院徳翁日 寿居士」だ。日本橋の茶屋は「山本山」として現在も続いている。 |
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●木村庄之助の墓 菩提寺は近くの平野1丁目14番にある玉泉院。相撲の行司で現在では最高格の立行司の名跡。こ こにある墓は13代と16代のものだ。13代は、文化三年(1806)に能登国珠洲に生まれたる本 名を与市といい、文政五年(1822)に8代目の弟子となる。嘉永六年(1853)に庄之助を継 ぎ、明治9年まで45場所を務め、同12年2月15日に73歳で没した。ただし相撲博物館の資料 では同14年9月10日となっている。 16代は、嘉永二年(1849)三河国吉田(豊橋市)に生まれ、本名柘植新助という。明治31 年に庄之助となり、同45年1月6日現役で急逝した。64歳だった。 |
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■済生院双樹寺 三好1丁目5番12号にある浄土宗の寺。 ●福士幸次郎の墓 大正詩壇に新風を吹き込んだ福士は、明治22年弘前に生まれ、中学2年の時福住町に住む兄民蔵 を頼って上京し、開成中学校、国民英学会に学び、明治41年に同郷の作家佐藤紅緑の書生となった。 そのころ自然主義的な「錘」「窓から」「白の微動」などの作品を発表し、20歳にして詩壇の鬼才 と謳われた。同門に千家元麿・佐藤惣之助・桝本清らがいる。しかし幸次郎には放浪性があり、労務 者となり各地を巡ったが、病に冒されて帰京した。その当時の作品「鍛冶屋のポカンさん」が世に知 られ、幸次郎は口語体自由詩を作り、最も早い時期の口語の自由詩人として、大正詩壇の新詩形を始 めた1人だ。その後大正2年に人道派の作風となり、「私は太陽の子である」などを発表した。翌3 年には現実派の作風に改めて「太陽の子」「恵まれない善」「この残酷はどこからくる」「猟師」な どを発表した。大正8年には詩作を止め、サトー・八チローなど若い詩人を指導し、『日本詩人』の 編集に尽力した。またこの頃から日本詩歌の音数律の研究を始め、昭和5年「現代詩講座」に論文を 発表した。そのほか柳田国男の影響を受けて古代史の研究をはじめ、「鉄の文化」「米の研究」「原 日本考」などを発表したが、昭和21年57歳で死亡し、済生院に葬られた。 |
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■長専院不動寺 三好1丁目6番3号のにある浄土宗の寺。 ●出世不動堂 江戸に幕府が開かれ多くの人々が移り住んできた時、浄土宗の高僧霊厳上人が広く説法教化をした。 幕府より隅田川沿いの湿地を埋め立てて寺を建立することを許されたが、難工事を強いられていた。 その頃近江三井寺の不動堂住職期妙の夢の中に、本尊の不動尊像が現れ「手助けをしたいので江戸に 連れて行くように」とお告げがあった。霊巌寺工事中、堂を建てて安置したところ、工事も順調に進 み、後に不動寺に安置され上人から『出世不動』と命名された。承応二年(1653)この地に移転、 関東大震災後に、長専院と合併、以来「深川の出世不動」として広く信仰を集め親しまれている。 ●和田家歴代の墓 その祖を大和田清左衛門といい、摂津国西生郡大和田浜の人で、慶長年間(1596~1614) に、多数の漁船を使い、徳川方の軍用資材を運送していた。その後江戸に出て、関八州(上野・下野 ・常陸・上総・下総・安房・武蔵・相模)内の漁師の管轄を命じられた。4代の孫浄麟の時、明暦の 大火で類焼し、幕府から与えられていた朱印状や文書類を焼失したため宅地を召し上げられた。その のち姓名を下田甚兵衛と改め、魚問屋を営み伏見屋と号した。そして再び大和田屋と号すようになり、 寛文元年(1661)に、和田に改めた。富岡八幡に由来を記した「和田氏歴世記碑」が建てられて いる。 |
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■成等院 三好1丁目6番13号にある浄土宗の寺。 ●紀伊国屋文左衛門の墓 墓の横の巨大な碑は、昭和38年に建てたもの。文左衛門は紀州の人。姓は別所、江戸に出て材木 商となる。老中柳沢吉保と結び、上野寛永寺の建築材納入で多大の材をなし、また文人墨客と交友が あり、宝井其角の門人となり、千山と号した。正徳のころ(1711~15)に家運が衰え、深川八 幡一の鳥居付近(門前仲町交差点)に住み、そこで死去。羅漢寺に羅漢像2体を奉納した記録が、目 黒に移った羅漢寺所蔵の『羅漢像寄進名簿』にある。そのほか生地、生没、経歴などについての確か な記録は残ってなく、「紀州みかん」の話や、「紀文大尽の豪遊」などのエピソードは数々あるもの の真偽のほどは明らかでない。伝説の人物だ。ただ若海三浦実誠著『墓所一覧遺稿』に、 紀伊国屋文左衛門、別所氏、俳名千山、享保三年正月二日没、年五十四、法号本覚院還 誉到億西岸信士、葬深川霊巌寺中成等院 と書かれている |
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■蔡華院 三好1丁目8番11号にある浄土宗の寺。元霊巌寺学寮。 |
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■霊巌寺学寮跡 三好1・2丁目~白河1・2丁目の一帯にあった。浄土宗の僧侶養成機関である関東18檀林の一 つ。学寮とは、学侶を止宿させて講学を目的とする檀林内の寄宿舎だ。 『文政江戸府内寺社書上』によると、霊巌寺は寛永五年(1628)檀林となり、90軒の学寮が 造営された。明暦三年(1657)の大火で類焼し、翌万治元年(1658)霊岸島より深川に移り、 学寮は70軒となる。さらに宝暦二年(1752)48軒、文政十一年(1828)41軒と減少し ていった。明治3年の勧学院設置後、檀林教育制度は廃止されるが、『明治五年浄土宗本来一派寺院 明細帳』には18軒の学寮・寮主の名が見える。同10頃には寺号院号を許されて独立した。現在残 る学寮から起立した寺院は、蔡華院・法性寺・円通寺・摂心院の4ヶ寺だ。霊巌寺学寮の特色は、学 寮が檀家を持ち、寺院の機能を果たしていたということだ。 |
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■照光院 三好2丁目7番2号にある民家風の寺。浄土宗。 ●二代目勝俵蔵の墓 歌舞伎狂言作家で、大南北こと4世鶴屋南北の子だ。天明元年(1781)に生まれ、父の跡を継 ぎ、天保元年(1830)50歳で没した。別名直江屋重兵衛。初め役者として、3代目坂東彦三郎 に弟子入りし、鯛蔵を名乗り、寛政十一年(1799)に鶴十郎と改めて立役となり、父南北の作品 に出演した。文化十二年(1815)に役者を廃業し、直江屋を称して門前仲町に住んだ。そして父 を助け、舞台装置や道具の工夫に独自の才能を発揮し、『東海道四谷怪談』の戸板返しや堤燈抜けな どを発明し、文政十二年(1829)父の前名俵蔵を継いで作者になり、主な作品に『真写いろは日 記』『熊野霊験小栗街』などがある。墓石には「直江南北類族之墓」と刻む。 |
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■潮江院 三好2丁目10番4号にある。 |
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■摂心院 三好2丁目11番14号にある浄土宗の寺。 |
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■祥雲山善徳寺 三好2丁目16番7号にある曹洞宗の寺。 |
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■一言院 三好2丁目17番13号にある浄土宗の寺。墓地は東南の斜向かい3丁目7番にあり、大屋裏住の 墓碑がある。 |
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■竜徳山雲光院 三好2丁目17番14号にある浄土宗の寺。阿茶局(あちゃのつぼね)が、家康の許可を得て神田 伯楽町に創建した菩提寺。明暦三年(1657)の大火後、岩井町に移り、さらに天和二年(168 2)に現在地に移った。本尊は阿弥陀如来、本堂は鉄筋コンクリート。右と奥は墓所、左は庫裏だ。 ●阿茶局(神尾一位殿) 今川氏の臣神尾忠重の妻だったが、夫の死後、徳川家康に仕えた。天性聡明、才略に長けていたた め、後家好みの家康の側室となった。慶長十九年(1614)大阪の役では使者として大坂城で淀君 に面接、和議成立に導いた。元和二年(1616)家康の没後竹橋に屋敷を与えられ300石を受け た。また同六年(1620)2代将軍秀忠の女和子が入内するとき母代わりとして上洛、皇女降誕の 際には、女御和子に侍した。その功績により、後水尾天皇から、従一位に叙せられたため、以後「神 尾一位殿」と称せられるようになった。寛永九年(1632)秀忠薨去。翌年職を辞し、剃髪して老 後は雲光院と号し、同十四年83歳で逝去。当寺に葬られた。 ●竹本越路太夫・野沢吉兵衛の墓 雲光院の墓地にある。越路太夫は義太夫節3代吉兵衛の父だ。前名を野澤勝鳳といった。太夫とし てはパッとしなかった。嘉永元年(1848)42歳で没した。3代目野澤吉兵衛は、義太夫三絃の 名手で、文政四年(1821)に生まれ、初名を鶴澤市治郎といった。鶴澤文三の高弟で幼少の頃か ら修行し、天保五年(1834)に大坂の芝居に初出演、同11年(1840)に父の前名野澤勝鳳 を継承し、弘化元年(1844)に3代野澤吉兵衛を襲名した。「国性爺合戦」の三段目に絃を務め て名声を上げた。また三代目は野澤家中興の祖とされる名手で、明治筝曲界の明星と仰がれた摂津大 掾を養成した。文久二年(1862)42歳のとき鬼籍に入った。 ●庄司甚左衛門の墓 雲光院墓地にある。吉原遊郭を創始した人。甚右衛門にも作る。HPではどちらでも検索できる。 天正四年(1567)小田原に生まれ、正保元年69歳で没した。馬喰町の雲林院に葬られたが、天 和三年(1683)寺が現在地に移った時、甚右衛門の墓も一緒に移された。 甚左衛門(甚右衛門)は初め甚内といい、小田原北条氏に仕えたが、天正十八年(1590)の主 家の滅亡により江戸へ出て遊女屋を営んだといわれ、鈴が森に茶店を出し、慶長五年(1600)に は家康を接待している。 同十七年(1612)と元和三年(1617)三ヶ条からなる遊郭公許の 願書を幕府へ提出し、元和四年(1618)三月許可を受けて、日本橋葺屋町付近の葦(よし)生い 茂る湿地を賜わり、そこを埋め立てて2町四方の一画とした「葭原(のち吉原)遊郭」を開き、江戸 の娼家を集めて営業させ、自分は町名主となった。甚左衛門は「親父」といって親しまれ、東堀留川 に「親父橋(親仁橋)」という橋が架かっていた。川が暗渠になって橋は消滅したが、交番の名前に その名を残している。 ●後藤三右衛門光亨の墓 2丁目17番の雲光院の墓地にある。江戸後期の御金改役だ。寛政七年(1795)信濃国飯田の 商人林弥七の四男として生まれ、幼名を奥三郎・奥輔という。文化十一年(1814)幕府御金改役 後藤三右衛門家の養子となり、同十三年(1816)家督相続の後、御金改役に就任した。文政元年 (1818)六月の真文二分金の鋳造に始まる文政・天保の改鋳をはじめ、幕府財政の好転のため尽 力する。天保の改革時には、御町奉行の鳥居耀蔵、天文方見習並書物奉行渋川六蔵とともに「水野の 三羽烏」といわれ、水野忠邦の側近的な地位にあった。しかしそれが災いする。水野失脚後の弘化二 年(1845)十月「政事誹謗」と驕奢を理由に失脚、処刑され、三右衛門家も断絶した。 |
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■福聚庵跡 三好3丁目4・11番の辺りにあった黄檗宗の草庵。江戸黄檗派八ヶ庵の一つだ。開創は天和元年 (1681)。開山は潮音道海。開基は籠谷左平高照だ。上野国厩橋藩酒井家家臣だった高照が、潮 音和尚の勧めで屋敷内に庵を建立し、潮音の弟子千山和尚を招いて開創したことに始まる。正徳二年 (1712)厳有院(徳川家綱)の33回忌の追善のため、江戸黄檗派八ヶ庵に寺号が免許され、福 聚庵は福聚山泰燿寺と改めた。高照は、境内が狭いので土地870坪を寄進し、さらに仏殿・方丈・ 庫裏などを建設し伽藍を整備した。昭和6年寺は江戸川区松本に移転した。 |
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■一言院の墓地 三好3丁目7番にある飛び墓地。一言院は三好2丁目17番にある。 ●大屋裏住の墓 狂歌師。享保19年(1734)に生まれ、姓は久須美、通称白子屋孫左衛門。号は大奈言厚記、 窓雪院、萩廼屋など、俳号には勢賀を用いた。萩廼屋(はぎのや)の号は、寛政年間(1789~1 800)に京都の公家から賜わったものだ。大屋裏住とは、日本橋金吹町で大家(長屋の管理人)を していたところからもじった名前だ。また鷺流の狂言を能くし、頭が平たく顔が青黒い奇怪な操り人 形を使う野呂人形の名手としても知られている。文化七年(1810)77歳のとき没した。墓石に は「萩農屋裏住翁墓」と刻まれている。 |
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■光明山良信院 三好3丁目7番5号にある浄土宗の寺。 |
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■安治川部屋 → 伊勢ヶ濱部屋 毛利1丁目7番4号にある相撲部屋。昭和54年4月現役時代宮城野部屋所属だった元関脇陸奥嵐 が3代目安治川を襲名し、宮城野部屋から独立して部屋を創設した。平成2年7月元前頭大昇の春日 山親方の停年に伴い、春日山部屋を吸収合併。同5年4月に3代目が体調不良を理由に廃業すると、部 屋付き親方だった元横綱旭富士(現役時代は大島部屋所属)の旭富士親方が4代目年寄安治川と部屋 を継承。関脇安馬(大関日馬富士)・安美錦・安壮富士・奥北海などを輩出。4代目の部屋継承の約 1年後以降に入門した弟子は、四股名の頭文字に安治川の「安」をつけている。尚先代在職時は四股 名に「陸奥」をつけることが多かった。 同19年11月安治川親方が9代伊勢ヶ濱を襲名したことにより、部屋の名称も伊勢ヶ濱部屋にに 変わることになった。これにより安治川部屋は消滅した。同20年1月場所終了後伊勢ヶ濱親方(旭 富士)は所属力士のうち幕下以下の力士の四股名の「安」を全員外し、改名させると発表。3月場所 より、1名を除き全員が改名している。この際呼出2人と床山1人も同時に改名した。また幕内・十 両経験者の力士についても「昇進など改名する条件に合えば改名する」としている。 ●伊勢ヶ濱 熊ヶ谷の元関脇清瀬川は、熊ヶ谷の後継者が敷島猪之助に決まったため、内弟子を連れて楯山部屋 の預かりとなり、昭和4年の引退後に「伊勢ヶ濱部屋」を開いた。その時既に幕内に昇進していた幡 瀬川邦七郎を関脇に、照國萬蔵を横綱に、ほかにも平幕優勝の備州山大八郎など多くの関取を輩出し た。同28年照國が引退すると部屋を譲り、自らは伊勢ヶ濱のまま隠居したため、部屋の名称は「荒 磯部屋」と改められた。この時期には若瀬川泰二が小結になった。同36年の定年制導入により、伊 勢ヶ濱が退職したので、荒磯親方が伊勢ヶ濱を襲名、部屋の名称は再び「伊勢ヶ濱部屋」となった。 この時期には清國勝雄が大関に、開隆山勘之焏が関脇に昇進した。また稽古土俵を二面作るというユ ニークな稽古場にして評判になった。 同52年に照國が死去すると、清國の楯山親方が伊勢ヶ濱部屋を継承。先代から引き継いだ弟子の 黒瀬川国由が小結に昇進。後に直弟子の若瀬川剛充が前頭筆頭まで昇進するなど、個性的な関取を多 数輩出した。しかし平成6年1月場所に清の富士が幕下に陥落して以来10年以上も関取不在の状況 が続き、所属力士も最後の場所となった同19年1月場所では僅か2人にまで減っていた。清國の伊 勢ヶ濱親方は平成18年11月場所9日目で定年退職し、元前頭和晃の若藤親方が8代目伊勢ヶ濱を 襲名し部屋を継承したが、この処置は暫定的なもので、同19年2月1日をもって部屋は消滅し、力 士らは一門の桐山部屋へ移籍した(行司式守錦之助のみ高島部屋へ移籍)。11月になって安治川が 伊勢ヶ濱の年寄株を取得して、安治川部屋を「伊勢ヶ濱部屋」に改称した。 |
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■深川第七中学校 毛利1丁目14番1号にある区立校。昭和34年深川第一中学校から分校、東川小学校内に産声を 上げ、8教室を借り受けて開校した。7月深川毛利町122番地の玉村式索道株式会社の跡地(現在 地)に鉄筋コンクリート造り4階建ての新校舎16校舎が落成し移転し、翌35年に2期工事で9教 室が増築された。6月4日校歌制定発表会。初代PTA会長大野初代の中学時代の同級生、詩人井上 康文に作詞を、作曲は井上を通じて平井康三郎に依頼した。発表は霧雨の降る中、新校舎の屋上で行 われたと聞く。 校歌「川波寄せる」 作詞・井上康文 作曲・平井康三郎 1.川波寄せる深川に 希望の窓を開きたる 学びの庭は美しく 尽きぬ文化の泉あり 我等の七中栄えあれ 2.若き生命を誇りとし 誠の心愛(いと)しみて 高きへ登る夢を持ち 倶に明るく進み行く 我等の七中栄えあれ 3.天に伸び行く栃の木の 七つの若葉輝きて 花開き行く学園に 平和の鐘は鳴り渡る 我等の七中栄えあれ 同36年体育館兼講堂落成。「三省の池」完成。三省の名は、孔子の高弟曽子が唱えた3つの反省 の事に由来している。七中の生徒が、「三省」を思い出し、自己を常に顧み、道を過たぬように「三 省」の意味を考え、実行して欲しいとの願いを込めて名づけられた。同37年生徒数が924名19 学級に達しピークを記録。プール完成。同63年学校全面建替えのため校庭に建てたプレハブ校舎に 移転。平成元年新校舎竣工。同2年創立30周年新校舎落成・新校舎落成記念式典。平成8年科学部 が「第40回日本学生科学賞」優秀賞を受賞。同10年ユニセフ協会より生徒会活動に感謝状。平成 21年創立50周年。 |
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■牡丹園跡 毛利1丁目21番にあった。この牡丹園は明治時代から昭和2年まで、東京の名所として知られ、 「本所四ツ目の牡丹園」と呼ばれて、竪川を舟でやってくる見物客で大変に賑わった。園主は本名を 成屋文蔵というが、植文の名で通っていた。俳人正岡子規はここの牡丹を題材として、 本所の四ツ目に咲けるくれなゐの牡丹燃やして悪き歌を焚け という歌を詠んでいる。明治44年に東京逓信局から発行された「東京市深川図」によると、本村 町114~120番地のところに牡丹園の記載が見られ、敷地のの広大な様子を見て取ることができ る。 国立の商店街のHPに以下のような文章があった。 |
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国立牡丹園 昭和2年「牡丹園」が富士見通りの音大より少し駅よりの一角に引っ越してきた。当時、 主人成屋文蔵は、あずまやで開業していた頃の長島荘助のところへ、「隣に越してまいり ました」と挨拶に来られたと長島住子は言う。「牡丹園」と「長島床屋」との距離600 m離れているが、ずっと雑木林が続き、その間一も家がなかったからである。成屋文蔵は 東京深川区の四ツ目(今の江東区の深川あたり)というところで「四ツ目牡丹園」を経営 していた。現在もこの近くに牡丹という町名があるので、牡丹で有名な界隈だったのであ ろう。昭和2年に150坪の土地を大学町に購入し、深川区の3000株の牡丹を花苗ご とそっくり移植し、「国立牡丹園」を開業した。5月初旬の牡丹の季節になると、「四ツ 目牡丹の見頃」というチラシを広く配布し、園内には赤い毛氈を敷いてお茶を出し、大勢 の人々で賑わったという。一方箱根土地(株)が東に音楽堂を建てて、東京高等音楽学院 が中心となって定期演奏会を催したのは国立住民にひろく知られている。音楽堂の舞台の 広さは5.4m×10.8m、野外のため収容人数は5000人であった(国立音楽村を大 学町につくる予定ではじめられた企画であると同時に、新聞紙上に予告を出して大学町土 地区画販売に向けて集客を図る催しでもあった)。大学町の東に西洋音楽の響きを奏でた 「堂」があったのに対し、西には「牡丹園」という高貴な花のあでやかな美を愛でる東洋 趣味の「園」があった訳で、新興開発地ながら国立大学町には、分譲売り出しののっけか ら、文化の響きと香りがあったと言えよう。成屋文蔵は間もなく、昭和3年に結成された 住民組織「国立会」初代会長となり、妻サトは、後に村議会議員、町議会議員を務めた。 「牡丹園」のすぐ近くには、東京高等音楽学院と共にやってきたという「黒田写真館」と 「国立堂書店」が同じ頃開業している。 |
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■毛利小学校(明治45年5月30日開校記念日) 毛利2丁目2番2号にある区立校。 [猿江尋常小学校] 明治45年猿江町12番地(猿江1‐11)に東川(とうせん)尋常小学校から分校して開校。昭 和4年本村町189番地(現在地)に新校舎が落成し移転。 [毛利尋常小学校] 同9年住居表示が毛利町に改称されたに伴い、翌10年「毛利尋常小学校」と改称。同16年国民 学校令より「東京府東京市毛利国民学校」と改称。同18年都制施行により「東京都毛利国民学校」 と改称。同19年8月愚かなアメリカ軍の無差別空爆が熾烈となり、高学年学童は新潟県東蒲原郡に 集団疎開。同20年アメリカ軍の非人道的市街地空爆に難を免れ罹災者収容。8月日本は、ならず者 国家アメリカの軍門に降り敗戦、以後いいなりとなる悲しむべき属国となり、今日に至っている。属 国とはアメリカの指示通りに政治する国の意。 疎開解除により疎開地から学童集団帰校。同22年学制改革により「東京都江東区毛利小学校」と 改称。キャサリン台風による避難者収容。同23年都立第三商業高等学校深川分校(深川商高)設置。 同25年校歌制定。同37年創立50周年。同42年深川商業高等学校転出。同46年第32期(昭 和19年度)卒業生52名に卒業証書授与。同47年プール竣工。同49年中・重度心身障害学級「な かよし学級」新設。同53年校舎改築のためプレハブ校舎などに移転。同54年10月鉄筋コンクリ ート造り4階建新校舎落成。同59年「なかよし学級」閉級。平成4年コンピュータ教室教室完成。 同12年地方自治法改正により東京都の冠称を外し、「江東区立毛利小学校」と改称。同14年開校 90周年記念式典。同15年「毛利ウィークエンド・スクール」開設。同18年2学期制施行。「げ んきっず毛利」開設。 ●校歌「江東毛利」 江東区の視学で、本校の旧職員でもあった古川睦が、本校訪問の折、8代校長岡崎富野から「戦後 の空白時代、当座の間何か口ずさむ歌を」と依頼されて作詞した。作曲の袴田克己は古川の中学時代 の友人で、当時NHK学校放送の音楽部門を担当していた。昭和25年5月16日に制定し、同月3 0日の創立記念日に発表した。 1.江東毛利 僕たちの 学びの窓に光さし 仲良しこよしが 読んでいる 書いている やがて世界の友だちと 肩を並べて行ける子が ここの窓から巣立つのだ 2.江東毛利 僕たちの 学びの庭に声がして 仲良しこよしが 飛んでいる 跳ねている やがて世界の友だちと 肩を並べて行ける子が ここの窓から巣立つのだ 3.江東毛利 僕たちの 学びの床に文化の芽 仲良しこよしが 学んでいる 習ってる やがて世界の国々に 文化の花を咲かす人 毛利 毛利から 巣立つのだ 敗戦直後の作詞だけに敗北主義に冒されている。「やがて世界の友だちと肩を並べて行ける子が」 には卑屈さと自信のなさ、遠慮が悲しいほどに溢れている。岡崎は「当座の間」といったのだ。もう こんな歌を口遊む必要はなかろうに・・・後生大事に歌い継ぐには価値がなさ過ぎる。 ●校宝 伊東深水画・水彩画「牡丹」 伊東深水(伊東一)は、大正・昭和期の日本画家。明治45年本校内に猿江尋常夜学校が新設され た時に入学し学んだ。絵は昭和13年に本人が寄贈したもの。深水は漢語的表現で深川のこと。深水 は嫡々の「深川ッ子」なのだ。 ●八重桜 平成12年5月14日毛利小学校米寿を祝う会が植樹した。 ●毛利沼2002 平成14年3月89回卒業生寄贈のビオトープ。オニハスが咲く。 |
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■深川商業高等学校 移転 毛利2丁目2番2号の毛利小学校内にあった都立高校。昭和23年「都立第三商業高等学校毛利分 校(定時制)」として開校。同34年「深川商業高等学校」として定時制独立校となる。同41年1 2月墨田区横川4丁目8番8号(柳元国民学校跡地)に移転した。平成16年廃校となり、東高等学 校と統合して「大江戸高等学校」となり、江東区に戻ってきた。 |
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■毛利二丁目放火殺人事件 毛利2丁目7番5号のUR都市機構毛利2丁目第2市街地住宅9階の部屋で、平成23年11月2 6日火災が発生、76歳のパート従業員大塚達子(みちこ)が死亡した。警視庁は油が撒かれた様な 跡があったことなどから何らかの事件に巻き込まれたものとみて捜査を開始した。その結果、警視庁 は、大塚さんを縛って人の体が入るほどの大きなプラスティック容器に閉じ込め、中に燃やした炭を 入れて一酸化炭素中毒で殺害、灯油をまいて火をつけた疑いが強まったとして、知人の夫婦を殺人と 放火などの疑いで逮捕した。逮捕されたのは、名古屋市昭和区の無職、浅山克己容疑者(46)と妻 で会社員の小夕里容疑者(42)の2人。調べに対し2人は容疑を認めたという。警視庁によると、 2人は以前、大塚さんの長男と同居していたことがあり、同居を止めたあと、「長男と会わせろ」な どとたびたび大塚さんに電話をかけたり、押しかけたりしていたほか、金銭を巡るトラブルもあった ということで、警視庁は詳しい動機などについて捜査している。また山形の放火殺人についても自供 した。3人も殺しゃあもう生きて娑婆の土を踏むことはできねえはなぁ。 |
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■藤森稲荷社跡 遷座 毛利2丁目13番にあった。猿江神社に詳記した。 |
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●飯尾宗祇 室町時代の連歌師。号は自然斎、種玉庵。姓は飯尾というが定かではない。生国は紀伊とも近江と もいわれていて不明。若いころ京都相国寺に入り、30歳のころに連歌を志したという。宗砌、専順、 心敬に連歌を学び、東常縁に古今伝授を受けた。文明五年(1743)以後公家や将軍、管領の居住 する上京(かみきょう)に種玉庵を結び、三条西実枝、細川政元他の公家や室町幕府の上級武士と交わっ た。また畿内の有力国人衆(くにうどしゅう)や、周防の大内氏、若狭の武田氏、越後の上杉氏ら各地 の大名と交流した。長享二年(1488)北野連歌所宗匠となり、名実ともに連歌界の第一人者となっ た。この職は、まもなく兼載に譲り、明応四年(1495)兼載らと『新撰菟玖波集』を編集した。 生涯を通じて頻繁に各地に旅したが、文亀二年(1502)弟子の宗長、宗碩らに伴われて越後から 美濃に向かう途中、箱根湯本の旅館で没し、駿河桃園(静岡県裾野市)の定輪寺に葬られた。 応仁の乱以後、古典復興の気運が高まり、地方豪族、特に国人領主層に京都文化への関心と連歌の 大流行が見られた。宗祇は連歌本来の伝統である技巧的な句風に『新古今和歌集』以来の中世の美意 識である「長(たけ)高く、幽玄にして有心(うしん)なる心」を表現した。全国的な連歌の流行ととも に、宗祇やその一門の活動もあり、この時代は連歌の黄金期だった。連歌の作品として『水無瀬三吟 百韻』『湯山三吟百韻』『葉守千句』があり、句集には『萱草(わすれぐさ)』『老葉(わくらば)』 『下草(したくさ)』、紀行文に『白河紀行』『筑紫道記』、連歌論に『吾妻問答』『浅茅』などがあ り、古典の注釈書も多い。和歌の西行、俳諧の松尾芭蕉とともに連歌を代表する漂泊の人だ。 |
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■酒井左衛門尉家 酒井氏は古くから松平氏と密接な関係があったらしい。三河国に碧海郡に酒井村があり、幡豆郡に 古く坂井郷があって、そのいずれかが酒井氏の発祥の地とされ、もと大江姓であったといわれる。伝承 によれば、この酒井氏の女と松平親氏の間に生まれたのが広親で「酒井氏の祖」といわれている。後 世広親の長男氏忠の系統が佐衛門尉酒井家、次男の家忠の系統が雅楽守酒井家と呼ばれるようになる。 左衛門尉系には「徳川四天王」の随一の忠次がいるが、忠次以前の先祖の事蹟は不明である。これは 同系の忠尚が家康に謀叛したことによるのかも知れない。忠次は家康より15歳年上で、家康の叔母 (広忠の妹)を妻とし、家康の父広忠以来の老臣で、諸合戦では常に先鋒を務めた。永禄七年(156 4)三河国吉田城を与えられ、東三河の国人衆を配下とする旗頭となった。その後の合戦でも知謀の 将として多大の軍功があった。とくに小牧・長久手の戦いでは家康から、 国家の安危この一挙にあり、ひとへに汝が計策によるべし といわれた。その子家次が関東入国後、下総国碓井城で3万石を領し、後に越後高田10万石、孫 忠勝の代には出羽庄内14万石を領する譜代大名になった。 |
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■深川村発祥の地 森下1丁目3番17号の深川神明付近 深川村は慶長年間(1596~1614)に、摂津の深川 八郎右衛門外6名が新田を開拓し、八郎右衛門の姓を採って名付けられたものだ。八郎右衛門は持地 内に神明(天照大神)を勧請して小祠を祀った。これが深川神明宮の濫觴だ。八郎右衛門が深川草創 の人ということで、この地の総鎮守となった。別当寺は八郎右衛門が開基の泉養寺だ。この地は小名 木川以北の地名だったが、次第に南に広がる名称となった。また寛文の頃(1661~72)から次 第に町場となり、深川神明付近を深川元町といったのは、最初に町場になったからだろう。深川氏の 当主は代々八郎右衛門を名乗り、深川築地町(深川27ヶ町)の名主を務めたが、7代目没後不始末が あって断絶した。代々の墓は市川市国府台に現存している。泉養寺は、初代八郎右衛門が創立し、猿 江にあったが、昭和4年に移転した。地域名としての深川は今はなく、僅かに地名として残るのみだ。 |
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■深川七福神 寿老神(延命長寿) 深川神明宮 森下1丁目3番17号 布袋尊(清廉度量) 深川稲荷神社 清澄2丁目12番12号 毘沙門(勇気寿福) 龍光院 三好2丁目7番5号 大黒天(有福蓄財) 円珠院 平野1丁目13番6号 福禄寿(人望福徳) 心行寺 深川2丁目16番7号 弁財天(芸道富有) 冬木弁天堂 冬木 22番31号 恵比寿(愛敬富財) 富岡八幡宮 富岡1丁目20番3号 |
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■深川神明宮 森下1丁目3番17号にある大社。今から凡そ400年の昔、今の深川一帯は葦の生い茂る湿地で 住む人もまだなかった頃、深川八郎右衛門(摂津の人?)が一族を引き連れてこの地に移り住み、土 地の開拓に着手した。八郎右衛門は神を敬う心が篤く、屋敷の内に小さな祠を建て、日頃から崇敬す る伊勢神宮の分霊を祀り、開拓民の幸せと深川の地の発展を祈念した。これが深川神明宮の起源だ。 そして深川の地の発展と共に、八郎右衛門の屋敷の小さな祠も、いつしか深川総鎮守神明宮となり、 多くの崇敬を集め今日に至っている。 神明の祭神は天照大御神、伊勢神宮の内宮の神だ。天照大御神を祀った神社を「神明」といい、全 国には多くの神明社がある。伊勢の神宮との深い繋がりから、第59回のご遷宮の際には、御鏡・御 太刀・御盾のご神宝を戴き、本殿に大切に納めている。 ●例大祭 毎年8月17日に最も近い日曜日を中心に行われる。氏子総代が参列してご本殿で神事を行い、氏 子の平安を祈念する。特に3年に一度、ご本社神輿(宮神輿)の巡幸を行う年を「本祭り」といい、 氏子各町の12の町神輿が連合渡御(勢揃)する。次の本祭りまでの2年間は「蔭祭り」といい、氏 子総代の参列によるご本殿での神事のみを行う。町神輿を担ぐ町もあるが、町内のみの巡幸だ。 ●本社神輿(宮神輿) 昭和9年9月千葉県行徳の神輿師後藤直光の謹作。漆塗りの段葺き屋根も美しい、台座4尺四方の 大神輿だ。3年毎に氏子12ヶ町を町内渡しで巡幸する。正式には「神幸祭」といい、例大祭期間中 の土曜日に行うのが恒例だ。鳶の頭衆の木遣りの先導で、浅黄の麻袴の氏子総代、ご鳳輦・威儀御物 などのご神宝、馬に乗った神職が行列を作り、神輿の供をする。なお本社神輿には水は掛けないから ね、心得とけよ! ●町神輿連合渡御 年に一度の本祭りには氏子各町の12基の神輿が行列を組んで連合渡御する。「勢揃い」ともいい、 例大祭期間中の日曜日に行う。巡幸路は、早朝猿江橋の手前に集合し、高橋商店街を西進して、神明 宮鳥居前で各町神輿を差し上げます。さらに万年橋通りまで進み、北上して新大橋・千歳に入り、午 後は清澄通りを南下して森下交差点に出る。大締めは12基の町神輿が大通りに並び、担ぎ手・参詣 人共々一万人で手を締める。「水掛祭り」といわれるように、沿道から担ぎ手に勢いよく清めの水を 掛ける勇壮な祭りだよ。掛け声は伝統的に「ワッショイ」でごあんす。浅草じゃねえから「セイヤ」 じゃねえよ。 ●庚申塔 社務所入口の右側に、一対の狛犬と一緒に庚申塔が安置されている。文政年間(1818~30) に書かれた「文政書上」によれば、当時13基あったが、現在は7基が失われている。高さは大小様々 だが、大きいものは108cm、小さいものでも52cmあり、総て安山岩だ。ここにある庚申塔は、 3猿と青面金剛が一緒に彫られているものが、半数以上の5基あり、あとはどちらかだけが彫られた ものだ。この中で年号が刻まれているものが2基あり、どちらも元禄十年(1697)製だ。元禄時 代は、庚申塔信仰が全国的に流行した時代で、膨大な庚申塔が作られた。その一般的なものが青面金 剛だが、ここにある8基はまさに典型的なものばかりだ。この中に故意に3猿や青面金剛の顔が削ら れているものがある。明治になって神仏分離を断行した時に、明治政府が削り取ったものだ。しかし 土地の人は排仏熱が冷めるのを待ち、大切に伝えてきた。明治政府と大久保利通が私利私欲独断専行 に陥らなければ、数倍する文化財が残っていたことだろう。とにかく大久保のやった無茶苦茶が今日 の日本の不幸だ。小泉がああだったのも、安倍がああ体たらくなのも、大久保が講じた超国家主義の 産物なのだ。天下り禁止法が施行されたところで、天下りがなくなるかい。大久保の仕掛けた国家主 義・官僚主義は、生半可なことで壊せるものかい。国会議員は高々750人、奴らは何万人いると思っ てんだよ。 |
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●深川発祥の地の碑 門前の歩道上に江東区が設置した〝江東みちしるべ〟という説明板があって、深川神明宮が「深川 村の発祥の地」であると書かれている。近ごろ深川地区は「深川発祥」をキーワードにキャンペーン を張っている。 清澄庭園・深川江戸資料館・芭蕉記念館・のらくろ館・富岡八幡宮などの観光スポッ トを多く抱えて売り込みに余念がないだ。また門前の大きな石碑には神社の由来が記され、「深川の 地名の起こり」と書かれている。 江東みちしるべ 深川神明宮 (寿老人)由来 この辺一帯は、慶長年間(1596~1614)に摂津国(大阪府) の深川八郎右衛門ほ か6人が新田を開拓し、八郎右衛門の姓をとり深川村と名付けられた。深川村発祥の地で す。 八郎右衛門は持地内の小祠に神明を勧請したと伝えられ、これが深川神明宮です。の ち現在の新大橋・常盤・高橋・森下・猿江・住吉あたりの開拓が進み、八郎右衛門家は、 代々名主をつとめました。深川七福神のひとつ(寿老人)として親しまれています。 由来記 今カラ凡ソ四百余年ノ昔深川ノ地ハ、葦ノ茂ル三角洲デ住ム人モ無カッタ。ソノ頃深川八 郎右衛門ト云ウ人ガ一族ヲ引連レコノ一帯ヲ開拓シタ。八郎右衛門ハ敬神ノ念篤ク、崇敬 スル伊勢皇大神宮ノ御分霊ヲ奉斎シテ、開拓民ノ福祉ト当地ノ発展ヲ祈願シタノガ深川神 明宮ノ初メデアル。ヤガテ徳川家康公ガ江戸ニ入府、慶長元年当地ヲ巡視シ八郎右衛門ヲ 召シテ地名ヲ尋ネタ。未ダ住ム人モ少ナク地名モナキ由答エルト、家康公ハ八郎右衛門ノ 姓「深川」ヲ以テ地名トセヨト命ジタ。深川ノ地名ノ起コリハ,神明宮ノ鎮座スル実ニ此 ノ地ナノデアル。爾来深川ノ地ハ江戸ノ繁栄ト共ニ発展シ、当宮モ「深川総鎮守神明宮」 ト称エラレ、多クノ崇敬ヲ集メルコトトナッタ。ソノ間ニハ震災戦火ノ大キナ災禍ガアッ タガ、氏子万民ノ赤誠ヲ以テ、昭和四十三年ニ御社殿御造営モ成リ、衆庶ノ崇敬益々旺ン デアル。今般,郷土和楽万民繁栄ヲ祈念シテ御鎮座四百年祭ヲ斎行スルニ当タリ今日ノ繁 栄ノ礎ヲ築イタ郷土ノ先人ニ感謝シ、当宮ノ由緒ヲ茲ニ記ス。 平成九年八月吉日 深川神明宮宮司 内野成浩謹撰 神明禰宜 藤井昭彦謹書 |
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■カレーパン発祥の店 カトレア 森下1丁目6番1号の森下駅A7出口のすぐ側にある「カトレア」がそれだ。この店の前身は、明 治10年に深川常磐町に創業した「名花堂」といい、昭和2年2代目の中田豊治が発明し、「洋食パ ン」の名で実用新案として登録されたものがカレーパンのルーツだ。元祖カレーパンには、人参・玉 葱など具が沢山入っていることで知られている。また高級な植物性のサラダ油、綿実油で揚げている のでモタレ感がなく、健康にも大変良い食べ物だ。 木村屋総本店のあんぱん、中村屋のクリームパン、カトレアのカレーパンを、「3大発明パン」と いうらしいぞ。知ってたかい? ●シベリアケーキ カトレアは月島店、人形町店、そして森下には2店、都合4店あった。森下の2店とは、清澄通り に面したパン屋、そして新大橋通りにあった洋菓子のカトレアであり、シベリアケーキは、その「洋 菓子のカトレア」で以前から作られていたのだ。その後店舗の整理統合によりカトレアは森下のパン 屋1店となったが、シベリアケーキは洋菓子店からパン屋へ移り生き延びた。 |
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■青木稲荷 森下1丁目16番5号にある小祠。 |
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■五間堀跡 森下1丁目17番~3丁目13番の墨田区との境界の「へ」の字部分。この堀が開鑿されたのは、 寛文十一年(1671)の江戸図にはっきりと記されているところから六間堀と同様にこの付近一帯 が開発された万治年間(1658~60)か、それ以前と考えられる。深川村の開拓は慶長年間とい われ、また小名木川もこの頃の開鑿だ。名称は、堀幅が五間(約9m)あったことから名付けられも ので、六間堀とともに江戸時代から重要な運河だった。五間堀は、江戸時代には富川町(森下3丁目) まで堀留となっていたが、明治10年前後に小名木川まで開通した。この運河も第二次史大戦後には 利用度が低くなり、昭和30年に埋立許可となり、現在は埋め立てられて一部が公園、他は道路と住 宅になっている。 |
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■泉養寺跡(→市川市) 森下1丁目・常盤2丁目が接する辺り→猿江2丁目13・14番 深川村を開発した深川八郎右衛 門が開基で、開山は八郎右衛門の兄秀順法印だ。深川神明宮の別当寺で浅草寺末、医王山妙王院と号 した。初め深川に田いられたが、元禄六年(1693)猿江村に移った。猿江村の寺域はかなり広く、 元禄八年(1695)の酒井河内守忠挙による検地では、2424坪あったという。寛政年間(17 89~1800)には、境内の池に咲く蓮が、重弁紅花のため牡丹の花のように見事で、各地からの 参拝客が多かったといわれ、この様子は『江戸名所図会』の挿絵から伺える。大正12年の関東大震 災により被害を受けたため、昭和2年に市川市国府台(こうのだい)に移っていった。 |
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■大石稲荷社 森下2丁目17番16号にある小祠。 |
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■深川あさり餅 伊勢屋 森下2丁目17番2号にある下町情緒漂う甘味処。東京銘菓の仲間入りした深川名物「深川あさり 餅」を生んだことで知られる。のらくろの顔がかわいい万頭「のらくろさん」は、餡に入ったゴマの 香りが効いている。ゴマの風味を楽しもうぜ。ドラ焼きにもノラクロの顔が押してある。地方発送も 承るとのこと。3631-6064 |
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■森下駅 森下2丁目13番10号にある都営地下鉄新宿線・大江戸線の停車場。昭和53年12月21日新 宿線の最初の区間である岩本町~東大島間が開業した時に設けられた。平成12年12月12日には 大江戸線が乗り入れ乗換駅になった。ホームは島式1面2線構造で、新宿線ホームは新大橋通りの地 下2階、大江戸線ホームは清澄通りの地下3階にある。地下1階の改札階から新宿線ホーム、大江戸 線ホームを結ぶエレベーターが備えられている。改札口は2ヶ所で、いずれも地下1階にある。出口 はA1~A7の7ヶ所。 |
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■手打ち蕎麦 京金 森下2丁目18番2号にある。そば粉は国産の玄そばを自家製粉の上、挽きたて打ち立ての手打ち 蕎麦。深川森下に100年続く本物の「江戸手打ちそば」を味わってみないかい。江戸の土産話にな るってことよ。鰹節は鹿児島は枕崎の一本釣本枯節。化学調味料等は一切使用していない。季節の変 りそばや、辛味大根おろしそば、鴨汁せいろ、手打ちのごまだれうどん等は特に人気が高い。英語の メニューもあるから面白い。てえことは外人観光客にも話が通っているってこった。 03‐3632-1301 |
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■山利喜 森下2丁目18番8号にある大衆酒場。大正15年創業。初代山田利喜造が当時の深川区森下町に 店を構えたのが始まりで、水運業者や市場関係者などの多い下町で人気の店だったそうだ。しかし昭 和20年3月の東京大空襲で他界し、店舗は全焼。残された2代目山田要一は、店の再建を期して資 金を作り、同27年現在の場所で山利喜を再開。調理人でなかった2代目が店の繁盛のために作り出 したのが、煮込みとやきとんだった。現店主3代目山田廣久は、調理師学校卒業後、レストランに就 職。フランス料理店オーナーを目標に修行。しかし2代目の体調不良から3代目を継ぐ。その時26 歳。その後同60年にそれまでのコの字カウンターのみの店からカウンター+イス席に改装。平成5 年にはワンフロアだった店を2階建てにして客席を増設。現在の「山利喜本館」の姿になった。同1 4年6月には、1丁目14番に「新館」オープン。同16年には創業80周年を迎えたし、ますます の発展を目指してスタッフ一同頑張っている。この店は通に受けてる。3633-1638 |
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■馬肉 みの家本店 森下2丁目19番9号にある。店は周囲をビルに囲まれながらも木造を保っており、下町の雰囲気 を色濃く残している。創業明治30年から続く名店だ。下足札を貰って座敷に上がると、うなぎの寝 床のように奥に深い。天井が2階まで吹き抜けで高く、入口近くにだけ2階部屋もあるらしい。奥に は間口と同じ幅の庭までしつらえてある。そこに数列、背の低い卓が連なる様は壮観だ。和風の広々 とした店内環境は、この店の魅力の一つ。旧字体で書かれた札や、細工の凝らされた建具・柱が面白 い。一度きたら絶対に忘れない店だよ。 本来馬肉は、牛や羊よりも臭みがなく軟らかい。薄切り肉を味噌仕立てで煮込む「桜鍋」はコクの ある味わいで、馬肉が淡白なので丁度いい塩梅だ。3631-8298 |
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■蟠竜山長慶寺 森下2丁目22番9号にある曹洞宗の寺。山門を入るととすぐ庫裏。左の階段から鉄筋コンクリー ト造り2階建ての本堂へ。徳山五兵衛重政を中興開基とする寺。旗本徳山氏の菩提寺でもある。墓所 はないが関東大震災で倒壊した盗賊日本駄右衛門の墓跡がある。また芭蕉翁句塚碑も関東大震災で倒 壊した。 ●芭蕉時雨塚旧跡 境内にあった発句塚だ。短冊塚とも呼ばれる。この塚は『御府内備考続編』によれば、 元禄七戌十月十二日はせ越浪花にて祖っす卒せしを聞いて江戸の門人杉風・其角・嵐雪・ 史邦等翁之落歯評発句を埋めり。 とあり、江戸にいる芭蕉の門人が祖を慕うために作ったものだ。芭蕉は、元禄七年(1694)1 0月12日に大坂(大阪)で没したが、遺言により大津の義仲寺に葬られた。江戸蕉門の杉風、其角 、嵐雪、史邦たちは、亡師を偲び、芭蕉の落歯と芭蕉自筆の、 世にふるもさらに宗祇のやどり哉 の短冊を境内に埋め、塚を築いた。墓の心算だったのだろう。この塚が芭蕉時雨塚旧跡なのだ。大 正12年の関東大震災後、滅失し、現在は台座の一部しか残っていない。前述の句は、芭蕉39歳、 天和二年(1682)に吟じたもので、飯尾宗祇の 世にふるもさらに時雨のやどり哉 の句をもじったものだ。芭蕉は、宗祇に学ぶところが多かったといわれている。このことは『笈の 小文』の冒頭の文で、西行、雪舟、利休と並べて自分たちの先達として宗祇を挙げていることからも 窺われる。時雨塚は、自然石の正面に「芭蕉翁桃青居士」裏面には芭蕉の没年を記したもので、その 隣に其角や嵐雪の碑も建っていた。文政九年(1826)平一貞が書いた『埋木の花』にこれらの碑 が写生されている。また鵜孟一寧(うもうかずやす)が、明和九年(1772)時雨塚について記し た碑もあったが、総て滅失してしまった。 塚の上には、「芭蕉翁桃青居士」の碑があり、のち其角や嵐雪などの碑が建てられた。『東都古墳 志』によれば、芭蕉の碑を含め「宝晉斎其角墓」「玄峰嵐雪居士」「麦林舎乙由居士」「守黒菴眠柳 居士」「松籟庵太無居士」「二世松籟菴霜後居士」の7基が建てられていた。この碑は、震災後「麦 林舎乙由居士」までの4基になった。場所も区画整理などで少しづつ移動して、現在は庫裏の入口右 側に、芭蕉の碑の台石と其角の碑の破片が残っているのみだ。 ●日本左衛門の墓跡 江戸中期東海道筋を荒らし回った実在の盗賊団の首領。本名を浜島庄兵衛といい、宝永五年(17 08)ジュビロ磐田の、遠州磐田で生まれた。延享三年(1746)京都町奉行永井丹波守尚方へ自 首した。江戸送りとなり、御町奉行能勢肥後守頼一の裁きを受け、同四年(1747)に火付盗賊改 方の徳山五兵衛秀栄(重政の孫)により、市中引回しの上処刑された。29歳だった。墓は置船型だっ たという。この寺の開基は五兵衛なので、五兵衛秀栄が拵えたのだろう。死罪人の墓は原則作れない ことになっている。歌舞伎の「白浪五人男」の1人「日本駄右衛門」に作られる。 墨田区石原の徳之山稲荷神社に「日本左衛門首洗い井戸跡之碑」が建っているよ。 ●深川小学校発祥の地 寺の前、西隅に石碑が建っている。明治3年初めて東京に、以下に示す6つの小学校(東京府小学) が設立された。西洋教育システムの曙だ。 第一校 芝増上寺源流院(鞆絵小学校) 第二校 市谷洞雲寺(番町小学校) 第三校 牛込万昌院(愛日小学校) 第四校 本郷本妙寺(湯島小学校) 第五校 浅草西福寺(育英小学校) 第六校 深川長慶寺(深川小学校) 深川小学校はその中の1つで、当然のことながら、深川地区にできた最初の小学校だ、というより も、初めての学校だ。しかしこれは深川小学校の直接の発祥地ではなく、明治21年に統合した東陽 学校(小学校)の発祥の地だ。 近代小学校発祥地 東京府小学第六校 深川小学校誕生之地 明治2年2月明治政府ハ「府県施政順序」ヲ交付「小学校ヲ設ケル事」ヲ命ズ 明治3年6月28日東京府ハ深川森下長慶寺ニ「東京府小学第六校」ヲ設置。 明治4年12月文部省ハ小学第六校ヲ「文部省直轄小学校」トスルコトヲ布達。 明治5年8月府ハ「邑ニ不学ノ戸ナク家ニ不学ノ人ナキヨウニ」ト「学制」公布 明治6年月「官立小学第六校」ヲ「第六中学区一番小学深川学校」ト命名。 平成15年5月吉日 深川小学校開校百三十周年記念 校友会 一番小学深川学校は、明治6年12月には本所松井町に移って「一番小学土屋学校」と改称し、同 9年には本所・深川両区共有の「一番小学東陽学校」となった。同19年深川区専有となり高等科を 併置して「東陽尋常高等小学校」となり、同21年4月深川尋常高等小学校に統合され、東陽小学校 の名前は消滅した。現在の東陽小学校とは縁も縁(ゆかり)もないよ。 |
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■大久保稲荷 森下2丁目31番16号にある小祠。 |
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■森下文化センター 森下3丁目12番17号にある区の施設。 ●工匠壱番館・弐番館 地域に息づく「伝統工芸」とその背景にある歴史や技を紹介する展示施設だ。区内には沢山の伝統 工芸が残っている。これはが江戸時代より首都の消費生活を支え、発展してきた歴史の中で形成され てきた。工匠壱番館では、区の指定・登録無形文化財(工芸技術)の保持者として認定されている職 人の作品を展示している。工匠弐番館では、伝統工芸を支える歴史や技・道具といった工匠の世界を 取り上げて展示している。また伝統工芸品を紹介する機会として毎年展示替えを行う外、企画展や特 別展も開催している。秋の文化財保護強調月間では伝統工芸展として職人たちの作品と技を一挙に公 開し、その他「深川体験わーるど」での職人の技体験など各種イベントを開催している。 |
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■瓢池園陶磁器工場跡 森下3丁目13番にあった。瓢池園は明治6年に河原徳立が深川森下町37番地(2丁目22番) で始めた海外輸出向けの陶磁器絵付工場だ。明治政府は、明治5年翌年に開かれるウィーン万国博覧 会出品に向けて、柴崎町(台東区)に陶磁器製造所を設け、鮮麗精美な彩色陶磁器の作成に当たらせ た。同6年出品終了に伴い、同所の廃止を惜しんだ徳立は、瓢池園を開き陶磁器製造を行った。瓢池 園の陶磁器は、納富介次郎の説に従いテレピン油を使用し、輸出用のコーヒー茶碗類の絵付をした錦 彩陶磁器中の最高級品だった。製造された陶磁器は同10年・11年の米・仏両国博覧会に出品し好 評を得た。工場は、同29年東元町14番地(3丁目13番)に移った。この後輸出陶磁器製造の中 心が愛知県に移ると瓢池園は京都に移転し、明治42年日本陶器合名会社(森村組)に吸収された。 現在の「株式会社ノリタケ」だ。 |
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■大工町の渡し 森下3丁目1・12番(東元町)と白河2丁目23番を結んだ小名木川の渡船。明治40年刊行の 『東京案内』によれば、料金は大人8厘、小児5厘、自転車5厘、人力車1銭5厘、荷車8厘だった。 明治から大正の頃、高橋と新高橋の間には橋がなく、周辺の住民はこの渡船に頼って生活していた。 現在の西深川橋付近にあった渡船場は、小さな待合所船台からなっていた。また『東京案内』の中の 大工町の渡しとほぼ同位置に「富川の渡し」があったともいわれ呼称が一様でなかったのか、富川は 船頭の姓かもしれない。廃止については記録がないので不明だ。 |
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■旭焼陶磁器窯跡 森下3丁目10・11番(東元町)にあった。旭焼は、白い陶磁器に罅(ひび)のない釉薬をかけ て、各色の絵を描いた陶磁器だ。従来日本や中国では鳶色・白色などで文字を書いたものはあった。 明治16年ドイツ人ワグネルの旭焼発明により、わが国固有の優美清雅な絵をそのまま陶磁器に表現 できるようになった。旭焼の工場は、小石川の江戸川町→麻布霊南坂→鳥越の東京職工学校(東京工 業大学の前身)と移り、同23年中沢岩太・和田維四郎などの世話で、浅野総一郎・渋沢栄一らが出 資し、深川東元町に越してきた。同27年製造工場は平野耕輔に引き継がれ、同30年まで続いた。 しかし輸出用陶磁器の需要が高まると名古屋方面に移っていった。 ●ゴットフリート・ワグネル博士 東京職工学校の外人教師で東工大の設立と発展、特にセラミックス分野の創設に大きな貢献をした。 東工大の先輩たちはワグネルの教えを受け、近代窯業を発展させ、すぐれた陶芸作品と日用陶磁器そ してセラミックスの工業製品を続々と創出し世界を驚かせた。ワグネル博士は1831年ドイツのハ ノーバーに生まれ、ゲッチンゲン大学で数学・物理学を学び、ガウスのもとで数学上の研究をして2 1歳で博士号を取得した。その後スイス・フランスなどで、さらに技術・化学・文学・芸術等を学び、 明治元年(1868)に長崎にやって来た。同3年佐賀藩の依頼により有田において日本の陶磁器製 作の近代化に関わり、石炭窯の製作や絵の具の研究をし、陶磁器作りの科学的改良に貢献した。同年 上京し、大学南校次いで東校教師となり(ともに東大の前身)、文部省に近代科学を身につけた創造 力に富む日本の技術者養成機関の設立を建議し、これにより東京工業大学の前身、官立東京職工学校 が同14年に設立された。ワグネルは同17年から同校の教師となり、日本各地から入学してくる学 生に科学・技術(特に化学・近代製陶)を教えるとともに、自らも旭焼(初めは吾妻焼と称した)を 創製した。旭焼は元来、図柄としては伝統的な日本画を中心とし、技法としては日本伝統の釉上彩で なく、ヨーロッパで最新の「釉下彩」の手法を用いたものだ。見事な日本画が描かれた旭焼の大皿や 小鉢や花瓶、また陶板・タイルなどが東工大の外、各地にある。この旭焼に象徴されるワグネルの研 究と教育は、日本の陶芸・陶磁器(セラミックス)工業を共に質的にも量的にも飛躍的に高めた訳だ。 |
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■霊岸尋常小学校 → 大富尋常小学校 → 高橋尋常小学校 → 高橋国民学校 廃校 森下4丁目9番22号にあった公立校。明治36年東京市直営校として開校。大正15年深川区に 移管。昭和5年「東京市深川区大富尋常小学校」と改称。同15年「東京市深川区高橋尋常小学校」 と改称。同16年国民学校令により「東京府東京市高橋国民学校」と改称。同18年都制施行により 「東京都高橋国民学校」と改称。同19年新潟県に学童集団疎開。同20年3月愚かなアメリカ軍に よる非人道的無差別東京大空爆により校舎焼失。明治国民学校にて合同授業。同21年3月廃校。跡 地は深川第一中学校となった。 |
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■深川第一中学校(昭和22年5月10日開校記念日) 森下4丁目9番22号にある区立校。昭和22年4月新制中学校発足の時最初に創立した江東区立 中学校の一つ。愚かなアメリカ軍の非人道的無差別爆撃で灰燼に帰した焼け野原に、急造のバラック がぽつぽつ建ち始めた頃で、極度の物資不足、食糧難の時代だった。5月2日僅かに焼け残った都立 墨田工業高等学校の焼跡生々しい講堂で、紅白幕もマイクもない、風が吹き抜ける寒々とした中で入 学式を行った。5月10日開校記念式。創立しても校舎はなく、1年生は高校の校舎で、2、3年生 は元加賀小学校に分かれて授業を開始した。終戦後の同21年3月で廃校になっていた高橋国民学校 を改修した校舎が、同23年7月に大方完成し、2、3年生が移転、8月竣工。9月2学期を待って 1年生が転入し全生徒が揃った。同26年創立5周年記念式典・校歌制定。 校歌「江東の空は」 作詞・土岐善麿 作曲・信時潔 1.江東の空は海に続き 水路も正しく広し岸辺 橋より橋へと越え行く時 共同の道 平らかに 人 豊かなる社会あり 2.勤労と自治は春の風よ 真理の光は秋の月か 潮の輝き射し来る時 中天の山並晴れて 時 新たなる世界あり 3.健康の生命 清く保ち 奉仕の心を常に捧ぐ 互いに親しみ励ます時 校庭の花 咲き満ちて この友情の我等あり 挙れり ここに若やかに 深川第一中学校 同27年江東区立深川第六中学校を分校、2、3年生243名移籍。同31年生徒数が1300名 に迫る大規模校となる。同32年東川小学校内に分室設置。2年生6学級を収容。同34年東川分室 閉鎖。江東区立深川第七中学校の新設により2年生148名を移籍。同41年「グッドマン碑」完成。 昭和50年新校舎竣工。同63年南側校庭拡張整備完了。 平成9年創立50周年記念式典。 ●石碑「グレートマンより、グッドマンになれ」 3代校長鳥生芳夫が残した。昭和41年3月の退職前に、校訓として揮毫した名碑が校門脇に建っ ている。 |
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■墨田工業高等学校 森下5丁目1番7号にある都立校。明治33年「東京府職工学校」設立を公示し、本所区本所林町 1番地76(現:墨田区菊川1丁目)に設立。開校式挙行。木工科・金工科を設置。修業年限3年、 定員120名。同34年「東京府立職工学校」と改称。同35年附属工業補修夜学校を設置。同38 年建築部(造家科・家具科)、機械部(木型科・鋳造科・鍛冶科・仕上科)を設置。適材教育部を設 け、各工場依頼により毎週2日、午後の授業で職工再教育を行う。大正5年建築部に左官煉瓦科・塗 工科を置く。新たに電工部を設け、電気機械製作科を置く。同8年紡機部を設け紡織機械科を置く。 電工部を電気部、電気機械製作科を電気機械科と改称、同9年「東京府立実科学校・併設工業補修学 校」と改称。同12年関東大震災により校舎全焼。府立滝野川商工学校に間借り。同13年仮校舎完 成して帰校。同14年学則を改め、工業学校規定による甲種(5年制)乙種(3年制)を設ける。定 員450名。 建築部 建築科(甲種)、家具科・塗工科・左官科(乙種) 機械部 機械工作科(甲種)、鍛工科、鋳工科、木型科(乙種) 電気部 電気機械工作科(甲種) 紡績部 紡績機械工作科(甲種) 昭和2年校舎を深川富川町3番地(森下5‐1)に新築し移転。同7年夜間甲種工業課程を設置し、 第二本科とする。修業年限高小卒4年。同9年住居表示変更により深川区高橋5丁目2番地となる。 同10年併設工業補習学校を廃し、府立実科工業青年学校を設置。第三本科設置修業年限小卒4年に より、府立実科工業青年学校を廃す。紡績機械工作科を精密機械工作科に改称。同15年家具科・塗 工科・鍛工科・鋳工科を、木工工芸科・塗装科・鍛工冶金科・鋳工冶金科と改称し、甲種工業課程と する。同16年左官科を左官彫塑科と改称、木型科と共に甲種工業課程とする。同18年第三本科を 第二本科に吸収。都制施行により、「東京都立墨田工業学校」と改称。同19年新学制により、課程 を機械科2学級(第二本科は1学級)、電気科1学級、建築科1学級に統合改編。同20年愚かなア メリカ軍の非人道的無差別東京大空爆により校舎全焼。課程を機械科のみとし、他は休課とする。8 月日本はならず者国家アメリカの軍門に降り敗戦、以降いいなりとなる哀れな属国状態となり、今日 に至っている。もう100兆円(国債)は吸い取られた。 同21年電気科と建築科を復活。都立造船工業学校を吸収併合し、新たに造船科を置く。同22年 アメリカの強制による新学校教育法施行により、「都立墨田工業学校併設新制中学校」を設け(2・ 3年のみ)、江東区立深川第一中学校を本校内に設置。同23年3月月島分校を中央区立佃島小学校 内に設け、機械工作科・商業科各1学級を置く。4月新制高等学校令施行に伴い「都立墨田工業新制 高等学校」と改称。本科を全日制課程、第二本科を夜間課程、月島分校を月島分校定時制課程と改称。 深川第一中学校は高橋国民学校跡地に転出。新学制による専修課程を以下のように定める。 [全日制課程] 機械部機械科 機械工作課程(1学級) 電気部電気科 電気機器製作課程・電力課程(2学級) 建築部建築科 建築課程(1学級) [夜間課程] 機械工作課程・電気機器製作課程・建築課程 同24年月島分校定時制課程を中央区立月島第二小学校内に移転。11月創立50周年記念祭。同 25年「都立墨田工業高等学校」と改称。月島分校定時制課程に普通課程を設け、商業課程は学年進 行をもって廃止。同26年併設新制中学校廃止。夜間課程を定時制課程と改称。都立工業高等学校機 械技術共同実習所開所・所長は校長が兼務。同27年電気事業主任技術者資格検定規則第7条の2に より、全日制電気工作・電気機器製作課程が認定される(同日付通産省告示第144号)。この年の 体育祭より、鳳風・白虎・玄武・麟麟・青龍の5団で競い合う。同29年越中島保安庁内に月島分校 分教場を設置し、普通科授業を実施。同31年電気事業主任技術者資格検定規則第7条の2により、定 時制電気機器製作課程が認定される(同日付通産省告示第62号)。高等学校新学習指導要領実施。 同32年月島分校分教場廃止。同33年定時制分校、独立校舎(中央区月島仲通12丁目7番地)に 移転。同34年同22年からの増改築工事終了。機械工作課程・電気機器製作課程・建築課程を機械 科・電気科・建築科と改称。定時制(中心校)も機械科・電気科・建築科、月島分校定時制も機械科 ・普通科と改称。創立60周年記念式典。同35年定時制分校普通科募集停止、機械科2学級(定員 80名)募集を決定。機械工場388㎡(102坪)・電気工場379㎡(114坪)が竣工。都立 工業高等学校工業技術共同実習所を、都立工業高等学校江東工業教育共同実習所と改称。同36年校 舎増築(新館 図書室・実験実習室9・管理室5)。同39年都立工業高等学校江東工業教育共同実 習所を、都立江東工業教育共同実習所と改称。同41年月島分校第一期校舎改修工事落成。同42年 月島分校第二期校舎改修工事竣工。4階建校舎竣工。同45年都立江東工業教育共同実習所廃止。月 島分校に自動車コース設置、機械コースとの2コース制となる。機械科実習工場撤去跡地建設予定の 第三棟に関し、地元町内会との合意成立。同46年住所表示変更により江東区森下5丁目1番7号と なる。第三棟(体育館・実験実習室11・管理室2)が竣工。第四棟建設のため電気科実習工場撤去。 創立70周年記念式典。同47年第四棟(プール・実験実習室4・特別教室4・管理室5)が竣工。 校地拡張により旧伊藤忠商事鋼材置場が買収され、森下グランドが竣工。同48年定時制募集人員1 学級30名となる。森下グランドは墨田工業高校・深川第一中学校・森下五丁目町内会の共同使用と なる。校地拡張により北三商会跡地788㎡が本校用地に加えられる。同49年定時制募集が3科各 1学級に縮小。月島分校自動車コースが自動車科として独立。同50年校庭整備、テニスコート3面 設置。森下グランド夜間照明塔(7基)設置。同52年月島分校自動車実習工場竣工。8月東京陸運 局より認定工場認定。12月運輸省より一種自動車整備養成施設指定。同53年月島分校機械科生徒 募集停止。同57年校舎改修第1期工事。増改築校舎(B棟)竣工。同58年第2期工事。増築校舎 (C棟)竣工。同60年第3期工事。A棟(管理部門室・建築実習室・特別教室・格技室・図書室・ 食堂等)竣工。A・B棟を第1棟、C棟を第5棟と改称・ソーラーシステム冷暖房装置設置。既存校 舎を第2・3・4棟とする。グランド改修工事竣工。創立85周年記念式典。 平成5年電気科1学級減決定。同6年度機械科2学級・電気科1学級・建築科1学級の4学級編成 となる。同8年新入生から進学対応を目的とした理工類型制を設置。同12年創立100周年記念式 典。同13年機械科2学級のうち1学級を学科改編し、自動車科を設置。国土交通省より自動車整備 士一種養成施設指定。同16年月島分校廃校。 校歌「朝日江東の」 作詞・本荘秀彦 作曲・中田章 1.朝日江東の雲に映れば 機械の響き空にどよもし 夕陽芙蓉の峯に落つれば 電燈光闇を貫く 工業立国我等の理想 此処に築けや文化の基 2.體鉄石と倶に強くば 前途の障碍何恐るべき 心神秘の鍵を握らば 世を驚かす技巧も出ん 工業立国我等の理想 此処に築けや文化の基 |
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■深川崩し 添田唖蝉坊作曲 丸髷に 結われる身をば持ちながら 粋な島田や ホントニ ソウダワネ チョイト 銀杏返し 取る手も恥ずかし 左褄 デモネ・・・ |
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■臨海小学校(開校記念日明治38年12月5日) 門前仲町1丁目1番6号にある区立校。明治38年3月、深川区蛤町1・2番地(現在地)に校舎 竣工し、「東京市臨海尋常高等小学校」として、明治及び東陽両校の児童の一部と、福島・高橋・金 生堂・喜音などの私設小学校からの若干の転入児童と新入生の第一学年児童、約500名で開校、尋 常科8学級、高等科3学級で授業開始した。12月5日悪疫の流行により延び延びになっていた開校 式を挙行。大正12年に児童数はピークに達し28学級数1525名になった。しかし9月関東大震 災で校舎焼失。青空授業。11月越中島に仮校舎。同15年古市場の仮校舎に移転。 昭和2年鉄筋コンクリート造り3階建て校舎落成し、全生徒帰校。落成式で校旗・校歌発表。 校歌「都の辰巳」 作詞・高野辰之 作曲・本居長世 1.都の辰巳深川の 大川端に地を占めて 礎固き学校は 名も臨海と海近し 2.我等は水に親しみて 潜むる力慕いつつ 富士と筑波の二山に 高き姿を学ぶなり 3.正しく強く生くるにも 睦びあうべき道のあり 教え守りて諸共に 我等は国に尽くさまし 同7年プール完成。同16年国民学校令により「東京府東京市臨海国民学校」と改称。同18年都 制施行により「東京都臨海国民学校」と改称。同19年8月新潟県北蒲原郡へ高学年児童が集団疎開。 同20年3月愚かなアメリカ軍の無差別空爆により校舎全焼。8月日本ならず者国家アメリカの軍門 に降り、敗戦。以後属国となる。 同年9月明治国民学校で授業開始。同21年疎開解除により疎開先より児童帰校。同22年「東京 都江東区臨小学校」と改称。同23年戦災校舎完成し全児童が本校に戻る。同27年戦災校舎増設。 同30年創立50周年記念式典。玄関・講堂・図書館改修。同49年校舎建て替えのためプレハブ校 舎に移転。同50年西側4階建て新校舎落成し移転。同51年北側3階建て校舎竣工。同62年校庭 拡張工事完了。平成2年校舎改修工事完了。 ●記念樹ヤマモモ 昭和51年開校70周年記念式典で、太平洋戦争の混乱により卒業証書を授与されなかった卒業生 に卒業証書が授与されたことを記念して、校庭の東側に植樹した。 ●田河水泡(高見澤仲太郎)・水彩画「のらくろ」 児童漫画家というより「のらくろ」の作家。創立時の1年生。私立小学校金生堂に入学、2年生の 時、学校が火災で焼けたため本校に吸収され、生徒は転入した。第6回卒業生。 昭和41年開校60周年を記念して寄贈された水彩画「のらくろ」2点は校宝だ。 ●森田茂・油絵「コモ湖」 昭和3年~同13年図工専科教員として勤務した。同41年日展文部大臣賞受賞、同45年芸術院 受賞。平成5年文化勲章受賞。 昭和41年開校60周年を記念して寄贈された油絵「コモ湖」は校宝だ。 |
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■明光協会 門前仲町1丁目8番4号にある日蓮宗の布教所。4階建てのビルディングで、本堂は2階にある。 |
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■門前仲町駅 門前仲町1丁目4番8号にある東京メトロ東西線と都営地下鉄大江戸線の停車場。 門前仲町駅は 昭和42年9月14日東西線の大手町~東陽町間延伸と同時に開業した駅。大江戸線は平成12年1 2月12日に乗り入れた。東西線のホームは相対式2面2線構造で地下2階にある。大江戸線のホー ムは島式1面2線構造で地下4階にある。ホームと改札階を結ぶエレベーターは大江戸線ホームには 設けられているが、東西線ホームには未設置。 東京メトロの改札は2ヶ所で、都営の改札は1ヶ所のみだ。その他東西線ホームと大江戸線ホーム を直接結ぶ中間改札が2ヶ所ある。出口は1~6の6ヶ所。 |
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■赤旗まつり 総選挙や参議院選挙が無い年の11月に行われる共産党の懇親慰安祭。といっても演芸会と出店が あるだけ。歌のショーも旬のタレントは、共産党だから来ないのか、ギャランティが折り合わないの か、出演者たちはちょっと前の有名人だからしらけること夥しい。出店も全国規模で、すっげえ店舗 数だが、それほど安くもなく、却って高物もあり、これといったものも売ってないので、がっかりし たよ。 |
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■第五福竜丸展示館 夢の島2丁目1番1号にあるビキニ被爆漁船。木造マグロ漁船とその付属品、関係資料を展示して いる。昭和29年太平洋のマーシャル諸島のビキニ環礁で愚かなアメリカが行った水爆実験に巻き込 まれた船だ。当時高知の船も同じ条件下で被爆したが、こっちは鼻にもかけられなかった。当時から 国は変なことやってたんだ。「第5福竜丸」「ビキニ」「ストロンチューム95」は誰でも知ってた から今でいう流行語大賞だ。だけどアメ公はバカだから、水爆の実験を提督から水兵まで、肉眼で見 てたってよ。意外だろうがアメリカ兵の被爆者は60万人もいたんだ。だから劣化ウラン弾だって平 気で触る訳よ。ブッシュを見りゃあバカさ加減は判ろうってもんだ。そんなバカ・ブッシュにぺこぺ こ擦り寄ってたのが約1名いたよなぁ。 広島や長崎には、原爆による被害に関する資料を展示している所はあると思うが、東京にも被爆被 害に関する展示をしている所がある訳よ。後に、練習船に改造され東京水産大学で使用されていたが、 同42年に廃船となり、この付近に捨てられた。同43年3月偶然都職員が発見し、この船の保存復 旧が図られることになり、都が引き取って、核兵器による悲劇が二度と起こらないようにという願い を込めて、同50年3月1日保存館が建設され、翌和51年から公開されることとなり、船本体だけ でなく、当時の様子を伝える資料が沢山展示されるようになったてぇ訳さ。今の人は鈍感だから「被 爆」ったって、「放射能」ったってぼやっとして怖がらない。中には中国が攻めてくるから核を保有 して、いざという時には中国に核攻撃せよだってよ。そんなことをしたら放射能は日本に降り注ぐん だぜ。つまり原爆・水爆ってえ兵器は西に向っては使えねえってことよ。自衛隊が核兵器を持ちたがっ てんのは、アメリカに復讐する下心さ。南の島に住んでいる多くの人が杜撰な核兵器実験によって被 爆しているという事実があることも忘れんなよ。 主な展示品は、福竜丸船体と付属品、いかり、漁具類・船室内の模型、乗組員の生活用品類・マグ ロ漁の模型・無線機・大漁旗・航海日誌・公式文書・久保山氏(無線長)の船員手帳、手紙類・ガイ ガー検知器・死の灰・ビキニ水爆被災に関する写真パネル・当時の新聞雑誌など。開館は月曜日以外 の毎日の9:30~16:00 03-3521-8494 これを見学したっからって、核の恐怖なんて伝わってこねえよ。 |
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■熱帯植物園 夢の島2丁目1番2号にある都の施設。一定の年齢以上の人は「ゴミの島」として記憶していると 思うが、今では綺麗な公園に整備されている。江東区の南半は、夢の島に限らず、多かれ少なかれゴ ミの埋立地だ。夢の島公園には、ゴミ処理場があり、その廃熱を利用して温水プールなどがある。同 じように廃熱を利用して熱帯植物園が作られている訳。どでかいという施設ではないが、熱帯雨林に 生息しているいろいろな植物を見ることが出来るし、いつ行っても何かしらの花が咲いているさ。東 洋のガラパゴスといわれている小笠原の固有植物を集めてあるエリアもあるし、南国のいろいろな果 実についても説明されている。展示温室エリアは3つに分けられていて、Aドームが木生シダの景観 で、Bドームがヤシと人里の景観、Cドームが小笠原の植物となっている。開館は、月曜日(祝日の 場合は翌日)・年末年始の休館日を除く毎日の9:30~16:00。入園料有料250円ばかり。 03-3522-0281~2 |
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○第五福竜丸ビキニ環礁被爆事件 昭和22年和歌山県東牟婁郡古座町(串本町)でカツオ漁船第七事代丸として進水。その後静岡県 焼津市でマグロ漁船に改造され、第五福竜丸となる。同29年3月1日マーシャル諸近海において操 業中、ビキニ環礁で行われた水爆実験(キャッスル作戦・ブラボー(BRAVO)に遭遇し、船体・ 船員・捕獲した魚類が放射性降下物に被爆した。実験当時、第五福竜丸は米国が設定した危険水域外 で操業をしていた。危険を察知し海域からの脱出を計ったが、延縄の収容に時間がかかり、数時間に 渡って放射性降下物の降灰を受け続けることとなり、第五福竜丸の船員23名は全員被爆した。後に 米国は危険水域を拡大、第五福竜丸以外にも危険区域内で多くの漁船が操業していたことが明らかと なった。このときの水爆実験で放射性降下物を浴びた漁船は、数百隻に上ると見られ、被爆者は2万 人を越えると見られている。これは、米国がこの爆弾の威力を4~8メガトンと見積もっていたため だったが、実際の威力は15メガトンだった。第五福竜丸の水爆災害は、当時の日本国内に強烈な反 核運動を起こす結果となった。反核運動が反米運動へ移ることを恐れた米国は日本政府との間で被爆 者補償の交渉を急ぎ、総計200万ドルの補償金と「米国の責任を追及しないこと」の確約を日本政 府から受け、事件の決着を図った。また事件が一般に報道されると「放射能マグロ」の大量廃棄や、 放射能に対する漠たる不安感から魚肉の消費が落ち込むなど生活にも大きな影響を与えた。9月14 日に焼津港に帰港し鉄条網が張られた状態で係留され、科学者の検査を受けていたが、文部省が船を 買い上げ、8月に東京水産大学(東京海洋大学)品川岸壁に移した。この後さらに検査と放射能除去 が行われた後に三重県伊勢市の強力造船所で改造され、東京水産大学の練習船「はやぶさ丸」となっ た。この時代の母港は千葉県館山市だ。同42年に老朽化により廃船となり、使用可能な部品だけが 抜き取られた後に夢の島の隣の第15号埋立地に打ち捨てられていたが、同年都職員らによって再発 見されると保存運動が起こり、現在は都によって夢の島の第五福竜丸展示館に永久展示されることと なった。総トン数140トン 全長28.56m 幅5.9m 250馬力 速力5ノット。 |
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■若州海浜公園 若洲3丁目1番2号にある。公園が造成されている15号埋立地は、北側第1期埋め立て区域から 第4期埋立て区域と三角区域に分けて行われた。昭和40年に始まり最終的に全ての区域で終わった のは、同49年、ほぼ10年間の工事だった。ゴミによる埋立ては、ゴミを含めた上に土で覆うとい う行程を何度か繰り返す、サンドイッチ工法が用いられており、、中央部ではゴミの層が7~8層に 及んでいる。初めの4年間はゴミの層が5m、土の層が20cmだったのが、同44年以降はゴミの 層が3m、土50cmで埋立てられた。最後の埋立て区域である現在のキャンプ場と多目的広場はゴ ミではなく全て土による埋立てだ。 15号地全体は造成断面が北半球部と南半球部に分けることが出来、この両部の土壌の変化を比較 検討調査している。その結果、土壌の通気性や浸透性は次第に良くなってきているものの、土壌硬度 が依然と高く、窒素やリン酸が不足していて、アルカリ性を示しているところが多くある。そこで緑 化のための土壌として活用するには何らかの改良を加えるか、植栽の樹種をよく検討する必要が出て きた。 15号地ではゴミを用いた埋立てが行われたため、軟弱な基盤の上に盛り土であるということで造 成には、いろいろなことに留意して運土計画が立てられた。水捌けの良いこと、植栽に適した、土壌 の客土、盛土による地盤の変形の特性を十分に把握して、随所への盛土が行われた。若洲海浜公園は、 東京港臨海部埋め立て地に造成された公園で、ここ15号地では埋立ての際、ゴミと建設発生土を使 用しており、これらを交互に積み重ねた「サンドイッチ工法」が用いられていることが、一つの特徴 となっている。昔は江戸前の海であったところも、近年埋め立てられ、水域における自然環境の保全 と回復を図ると共に、水に親しむ都民の憩いの場として利用される海浜公園に生まれ変わった。 ●若州ゴルフリンクス 35・36番地。公園の殆どがゴルフ場で占める。公園は周辺の僅かな部分。昭和40~49年の 10年間に亘り、家庭からの生ゴミ等の廃棄物で埋立てられた造成地を、55億円の経費をかけて整 備した。三方を海に囲まれた54haに、6881ヤード、パー72の、ゴルフの本質にこだわった1 8ホールが広がる。名称は、ゴルフ発祥の地、スコットランドでのゴルフ場の呼称「リンクス」を使 用して命名した。なお、用材には、新宿新都庁舎の建設に伴う残土約35万立米が活用されている。 またゴルフ場の散水には工業用水を、散水施設の制御システムのエネルギーには太陽熱を利用してい る。ゴルフコースの監修は、岡本綾子プロと川田太三が行った。03-3522-3221 ・ゴルフ練習場 コースに隣接する200ヤード(180メートル)の豪快なショットを楽しめる。打席数は20打 席(10打席×2階建て)。 ●ヨット練習場 初心者、初級者及び中級者を対象としたヨット教室を実施するディンギー専用のヨット訓練施設だ。 ヨット訓練などを通して子供から大人まで多くの人に海に親しむ機会を提供。身近なところで気軽に 海洋スポーツが体験できる都の施設だ。またヨット大会の受け入れなど海洋思想の普及を目的とした 行事の実施にも力を入れている。03-5569-6703 面積は陸域32ha、泊地16ha、葛西沖150ha。管理施設は艇庫1棟・浮桟橋5基(延長 150m) 監視塔(11.25m)1基。 保有艇は、420級13艇・スナイプ級20艇・レザー級2艇・オプティミスト級(ジュニア用) 25艇・救助艇3艇・エスケープ級(ジュニア用)5艇となっている。 ●サイクリングロード 公園の外周部を1週する4.1kmのサイクリングロードは、海辺の景観は勿論のこと、遠く富士山 や房総半島などの眺望も楽しむことのできる絶好のビューポイントだ。またサイクル広場は、いろい ろな形の変わった自転車に乗って体力も養い楽しむことができるよ。 サイクルセンター・休憩所(1棟)。貸自転車は、コース用自転車大人用(高校生以上)・子供用 (小中学生)・特種自転車(4歳以上=保護者同伴)となっている。 ●多目的広場 全面芝生の広場でいろいろな遊具(アスレチック)で遊べる遊具広場と隣り合わせており土・日・ 祝日は家族連 れなどで大いに賑わう。面積5.5ha ●海釣り施設 東防波堤 これは釣り専用の防波堤で、アイナメ、スズキ、アナゴ、アジ、ハゼ、カレイなどの釣り果が楽し めるよ。釣具餌は 各自持参。 面積 3.0ha(防波堤と釣り水域) 延長570m 水深3~9m(満潮時) 利用時間 AM6:00~PM9:00 管理施設は広場(1ha)・便所(2棟) 遊具施設(7基)、あずま屋(1棟)。 ●人工磯 10トンの石を配置して人工的に作られた磯あそび場。 20ha 450m。 ●キャンプ場 潮風を受けながら、アウトドアを満喫できる都内有数のウオーターフロントのキャンプ場だ。テン トでの宿泊、キャンプ、バーベーキューを楽しめる。日帰りキャンプができ、宿泊キャンプではキャ ンプファイアなどを楽しむ。土・日・祝日は、多くの人々で賑わうよ。 面積5.5ha(内緑地面積:1.5ha) 収容能力117テント、ファミリーテントは :53テント、教育キャンプ場は64テント。 管理施設サービスセンター(床面積314㎡)、駐車場(306台)、ファイアサー(5基)、炊 事棟(流し台・調理台など設置)5棟、野外炉13基、休憩所1棟、便所4ヶ所。 |
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■東京ゲートブリッジ 仮称「東京港臨海大橋」は、若洲と大田区城南島を結ぶ「東京港臨海道路」に架けられた橋だ。江 東区若洲から中央防波堤外側埋立地を経て城南島までの約8kmの内、臨海トンネルを含む城南島側 の約3.4kmは既に供用、東京ゲートフリッジを含む若洲側の約4.6kmは、平成23年度の供用 を目指して整備が進められていたが、年を越し、同24年1月27日中央部最後の桁の取付が完了し 架橋は完成した。2月4日、5日の記念イベント(開通式典、マラソン、サイクリング、ウォーキン グ)を経て2月12日(日曜日)に開通。 全長:2933m(東京から浜松町までとほぼ同じ)。水面からトラス最上部までの高さ:87.8 m(25階建てビルに相当)。海上区間の長さ:1618m(レインボーブリッジの約2倍)。主橋 梁部に使用される鉄骨の量:約2万トン(東京タワーの約4倍)ということだ。羽田空港に近接して いるため、飛行機が橋の上を飛ぶことによる空域制限があり、高さを98.1m以上にすることができ ません。また東京港第三航路に大型の船が出入りするため、船舶が橋の下を通ることによる桁下の高 さ制限があり、高さ54.6m以上にする必要もあった。制約の条件をクリアするため、高い主塔を必 要とする吊橋や斜張橋でなく、「トラス橋」という形式が採用された。トラス橋は短い材料を使って 三角形の構成して、繋ぎ合わせることで橋桁の重さを分散させることができる。東京ゲートブリッジ では、トラス桁が上部と下部にそれぞれ2基ずつ、合計4基が架設される。強度の高い鋼材を使用し 新しい技術を導入することで、大幅なコストダウンが図られている。 仮称で呼ばれてきた東京港臨海大橋は一般公募により、「東京ゲートブリッジ」という名称に決定 した。平成22年の7月1日~8月20日の間に一般公募が行われ、12223件の応募があった。 その中から選ばれたのが「東京ゲートブリッジ」で、応募者の中から抽選された3名が表彰された。 選定理由としては「本名称は、航路を跨ぐ本橋の立地特性をとらえており、東京を行き交う船舶のシ ンボリックな表玄関であることをイメージできる。また、馴染みのある言葉で構成されており、末永 く、多くの人々に親しまれ、愛されることが期待できる」との由。 陸上のアプローチ部は都が、海上のアプローチ部と主橋梁部は国交省が、それぞれ事業を担ってい る。陸上のアプローチ部に関しては、舗装まで完了。東京ゲートブリッジには、片側2車線の車道と 都心側に約1.6kmの歩道が整備される。 地上と歩道とを結ぶエレベータが設置される施設も整備 されていた。歩道と繋がる最高約60mの展望台からは東京タワーや東京スカイツリーなどの風景を 望むことができる。自転車は、押して通行するように調整中とのこと。 5月26日行ってきた。自転車を駐輪場に置いて、歩いてエレベータータワーに。エレベーター・ ボックスは自転車数台は乗せられるスペースはある。橋の歩道面は8階だ。全長約2600mを歩く ことに・・・観光客がぞろぞろ、東京スカイツリーも一望だ。晴れてたので爽快だ。中防(中央防波 堤)側は単なる埋立地のままなので、エレベーターは封鎖されている。で、歩いて戻る。殆ど坂道で 自転車じゃあ、電動か、12段ギア以上じゃないと辛いぜ。 |
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