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 東京の地名の由来
 東京知ったかぶり!

平成17年2月11日 発信  リンクフリー
地名の由来東京23区辞典 引用自由

      江東区の地名の由来
     現在進行形の調査であれば、逐次、誤謬訂正・新規追加することあり。御用心、御用心

                 ご意見とご教示メール     
★各区夫々の主な記事 
 Home    【巻末特集】 江戸・東京名数一覧  江戸東京   東京は首都ではない  皇室典範・女系天皇 
 足 立 区   ビートたけし 関原不動 赤門寺 千住
 都立舎人公園 下山事件 西新井大師
 大鷲神社 伊興寺町 六阿弥陀
 木余り阿弥陀 荒川バラバラ事件 炎天寺
 尾崎豊終焉の地 尾崎の部屋
 女子高生コンクリート詰め殺人事件
 
 荒 川 区   あらかわ遊園 北島康介 諏訪台寺町
 三河島事故 開成中学校・高等学校
 尾久の原公園 大関横丁 素盞雄神社
 天王祭 大橋谷中延命院一件
 「あしたのジョー」「巨人の星
 【巻末特集】 江戸しぐさ
 【巻末特集】 小股の切れ上がったいい女
 板 橋 区   自殺願望女性救助駅前交番警察官殉職事故
 松月院 東京大仏 縁切榎 大東文化大学
 帝京大学 板橋宿 東京家政大学 中山道
 板橋宿 国立極地研究所 板橋事件
 加賀藩前田家下屋敷
 
 江戸川区   葛西臨海公園小松川女子高生殺人事件 
 インド人  都県境未定地 おくまんだし
 妙見島 影向の松 目黄不動 平井聖天
 食用蛙供養塔 紅葉川高校 江戸風鈴
 立木観音 タワーホール船堀 雷不動
 
 大 田 区   池上本門寺 光明寺 大森海苔 磐井神社
 松竹キネマ 御菜八ヶ浦 羽田空港 大鳥居
 八景坂 六郷神社 大森ふるさとの海辺公園
 馬込文士村 万福寺 梅屋敷 洗足池
  
 葛 飾 区   式部薬師秘話 お花茶屋 金町浄水場
 「こち亀」銅像群 香取神社 東京拘置所
 柴又女子大生殺人放火事件 男はつらいよ
 柴又帝釈天 郷土と天文博物館 立石祠
 かつしかシンフォニーヒルズ 半田稲荷
 葛西神社 葛西囃子 新宿の問屋場跡
 美弥子ちゃん誘拐殺人事件 水元公園
 しばられ地蔵 木下川薬師 堀切菖蒲園
 
 北  区   静勝寺 小山酒造 新河岸川 飛鳥山公園
 金剛寺 装束稲荷 王子神社 王子稲荷
 名主の滝 近藤勇墓 医心方 亀の子束子
 旧古河庭園 田端文士芸術村

 【巻末特集】 隅田川 (渡しと橋) 
 江 東 区   外郎売  永代橋落橋事件 亀戸天神
 カトレア ヒストリーガレージ キッザニア
 戦災資料センター 深川江戸資料館
 富岡八幡 元八幡 砂町商店街
 東京海洋大学 東西線転倒事故
 有明コロシアム 萩寺
 
 品 川 区   品川トランク詰め殺人事件 星薬科
 船の科学館 鈴ヶ森 立正大学 香蘭女子
 杉野ドレメ 品川神社 荏原神社 光福寺
 大崎新都心 清泉女子大 品川寺
 品川宿 昭和大学 戸越銀座 第一京浜
 ところてん
  
 渋 谷 区   明治神宮 慶応幼稚舎 尾崎豊の碑
 忠犬ハチ公 ライフル乱射事件 渋谷川
 夫バラバラ殺人事件 妹バラバラ殺人事件
 モリブデン 文化女子大 広尾病院事件
 NHK 文化村 ワシントンハイツ
 聖心女子大 東京女学館 日本共産党
 女子大生誘拐 アメリカ橋 安藤組 国学院
 金王神社 青山学院 
 
 新 宿 区   浄瑠璃坂の仇討 新宿胴体遺棄事件
 新宿騒乱事件 八幡様  陸軍士官学校
 赤線地帯 防衛省・市谷駐屯地 鉄腕アトム
 岡田有希子飛び降り自殺東海道四谷怪談 
 オリンピック東京大会 追分交番爆破事件
 抜弁天 
731部隊 学習院女子 早稲田大学
 歌舞伎町 歌声喫茶 名曲喫茶 どん底
 新宿高野 中村屋 闇市
  
 杉 並 区    青梅・甲州・五日市街道 観泉寺 永福寺
 高円寺 不美人=ブスとは? 大宮八幡
 ガンダム 妙法寺 立教女学院
 スチュワーデス殺人事件 東京女子大
 一家皆殺し放火 「疑惑の銃弾」 三浦和義 
 天保新水堀用水 
 墨 田 区   東京スカイツリー 相撲は国技ではない
 大相撲事件 隅田川七福神 回向院
 妊婦たらい回し死亡事件 握りずし発祥
 震災慰霊堂 鬼平・遠山の金さん 法恩寺
 王貞治生誕地 玉の井バラバラ事件
 江戸東京博物館 吾嬬神社 本所七不思議
 もゝんじや 蓮華寺 
 
 世田谷区   バンク・約束手形  花形敬 西福寺
 ウルトラマン 民家園 静嘉堂文庫
 ボロ市 鷺草 軍都池尻 羽根木公園
 砧公園 東名 駒沢公園 九品仏
 祖師谷一家殺人事件 多摩美 国学院
 東農大 NHK技研 豪徳寺
 世田谷美術館 馬事公苑 烏山寺町
 次大夫堀 仙川
 
 台 東 区   浅草寺 仲見世 浅草神社 三社祭 花やしき
 上野公園 鬼灯市 酉の市 待乳山聖天
 佃煮元祖 旧岩崎邸 八百善 今戸神社
 アメ横 寛永寺 不忍池 花の吉原
 上野動物園 東京国立博物館 駒形どぜう
 鬼子母神 東京本願寺 東京芸大 谷中墓地
 笹の雪 吉展ちゃん
  
 中 央 区   「銀ブラ」って、ブラブラ歩くことじゃないよ。
 パウリスタ 東京大空襲 アメリカの占領
 蘭学事始 ティファニー エルメス シャネル
 コーチ パリー セリーヌ プラダ カルティエ
 ディオール ルイ・ヴィトン 不二家不祥事
 三越・松屋・松坂屋・大丸・高島屋 日本橋
 築地本願寺 H&M 歌舞伎座 日本銀行
 白木屋火事 金春芸者 日本海軍発祥地
 新橋演舞場 明治座 ハヤシライス
 
 千代田区   靖国問題・A級戦犯 女子学院 暁星 将門塚
 消防庁 警視庁 ていぱーく 桜田門外の変
 ニコライ堂 武道館 九段会館 楠公像
 ホテルニュージャパン火災 近衛師団
 秋葉原無差別殺傷事件 神田明神 FM東京
 丸ビル 新丸ビル 丸の内物語 北辰一刀流
 三菱重工ビル爆破事件 国会 雙葉 専修大
 日大 法大 明大、電機大 大妻 番町小
 東郷平八郎 日比谷公園 国際フォーラム
 
 豊 島 区   池袋の女 染井吉野 女子栄養学園
 染井霊園 中山道 おばあちゃんの原宿
 とげぬき地蔵 庚申塚 本妙寺 鬼子母神
 雑司が谷墓地 土田邸爆破事件 山吹伝説
 目白不動 帝銀事件 立教 学習院
 豊島岡女子学園

 【巻末特集】 東京の暴力団 
 中 野 区   新井薬師 上高田寺町 童謡「たき火」
 中野サンプラザ 近隣騒音殺人事件 福蔵院
 八幡神社(鷺ノ宮) 成願寺 宝仙院 堀越学園
 桃園 桃園川 丸井本店 中野ブロードウェイ
 東中野電車追突事故 光倶楽部事件
 哲学堂公園
 
【巻末特集】 江戸城 城門と橋  
 練 馬 区    いろはかるた 練馬バラバラ殺人事件
 としまえん ちひろ美術館 三宝寺 長命寺
 石神井公園 清戸道 良弁塚 武蔵大学
 金乗院 練馬寺町 武蔵音大 グランドハイツ
 練馬少年鑑別所 首継ぎ地蔵 円明院
 妙福寺 春日神社 練馬大根 愛染院
 増島家薬医門
 
 文 京 区   狛江 振袖火事 東京大学 拓殖大学
 御茶ノ水女子大 東京高等師範 教育大学
 護国寺 弥生式土器 伝通院 聖マリア大聖堂
 高津教授殺人事件 東京ドーム 六義園
 小石川植物園 元町公園 桜蔭学園
 順天堂大 かねやす 日本女子大 湯島聖堂
 湯島天神 東洋大 共同印刷争議
  
 港  区   増上寺 永坂更科 麻布学園 氷川神社
 乃木大将 ミッドタウン 善福寺 霊南坂
 六本木ヒルズ 東洋英和 フリーメイスン
 愛宕山 ケネディ暗殺宇宙中継 小便小僧
 明治学院 レインボウブリッジ 東京タワー
 慶応義塾 自然教育園 虎ノ門事件
 東宮御所 日本経緯度原点
 アメリカ同時多発テロ 首謀者はチェイニー
 
 目 黒 区   滝坂道 目黒不動 法華騒動 円融寺
 五百羅漢 東工大 目黒ショック 雅叙園
 日比谷線脱線事故 駒場野一揆 旧制一高
 駒場東大 駒場学園 滝坂道 行人坂大火
 騎兵 目切坂 権之助坂 太鼓橋 茶屋坂
 槍ヶ崎事件 祐天寺 酸素魚雷
 音羽ゆりかご会 八雲学園 目黒のさんま
  
   


江東区の地形 
 江東区は区全域が東京低地に属し、地下鉄東西線を大凡の境として、北部は中世に陸地化し、東京
湾に接する南側の大部分が江戸期から昭和期にかけて出現した人為的な埋立地なのだ。江戸期には主
に隅田川や荒川河口部の三角州(海岸低地)の埋め立てが行われており、越中島や佃島(中央区)が
ほぼこの時期に陸続きとなっている。さらに戦後、区南部の大半の面積を占める埋立地が、区の管轄
となった。今後中央防波堤の埋立地が区の範疇に入る予定で、江戸時代の埋立地は内陸部になってし
まった。元々が海であるため陸地となっても山坂がない。区全体が平坦なのだ。坂道は橋で、隅田川
大橋では自転車は難儀する。

 
埋立地
 この地域の埋立事業は、徳川家康の江戸幕府開府(1603)の前後から本格化し、江戸城城下の
拡大と新田開発、幾度もの大火で発生したゴミ問題の解消などが動機と考えられ、現代にも通じるも
のがある。区内を縦横に走る運河も江戸期埋立てと時を同じくする徳川事業の足跡なんだよ
 

 
海岸低地
 東京湾沿岸に広く分布する標高の低い平坦面である。地下水位が高く、上部には緩い砂や軟弱なシ
ルト(泥地)などが分布しているため、標準的な基礎では十分な耐力を確保することが困難であり、
適切な基礎補強策が必要となる。また埋立地では埋め土部分の性質、特に所謂ガラや廃材の混在等に
ついても考慮しておく必要がある。また海水面より低い、所謂0メートル地帯の存在が区行政の悩み
の種だ、栗橋の堤防が切れれば、大水害は必至で、江東区全体が壊滅的打撃を受ける。方法としては
神頼みしかない。

 
自然堤防
 周囲の氾濫低地や海岸低地と比べ海抜高度がわずかに高く、一般に河川に沿って帯状に分布してい
る。河川によって運搬された砂や砂礫が、浅い深度から分布しているため、住宅地盤としては比較的
良好な場合が多い。しかし度重なる河川の氾濫と蛇行によって運ばれた軟弱な粘性土や緩い砂が自然
堤防の上に新たに堆積している場合には、基礎補強対策が必要となる場合がある。隅田川沿岸に見ら
れる。
 

 



江東区の変遷
 江東区の区域に入る江戸時代の町村は、慶応四年(1868)5月12日横十間川以西は江戸府(7
月17日から東京府)の所管となり、横十間川以東は7月10日から桑山武蔵知県事に属し、明治2
年1月13日以降は小菅県に所属した、同4年11月13日には小菅県を廃して東京府に移管。同4
年4月4日戸籍法により「大区小区制」が敷かれ第六大区・第十一大区に編入、

   ※この記述に鈴木様からメールを頂戴しました。
   明治政府は郭内の東を「本所扇橋川筋」即ち大横川川筋に定め、後の大区小区制でも、
   南を大島川、北を源森川、東を大横川の範囲を六大区としてます。横十間川は明治22
   年の「市制町村制」で初めて東京市境として扱われたのでは。


 同7年3月8日大区小区制がいよいよ強化され自治権を剥奪された。この大久保利通による独断専
制に国民が猛反発、不平武士の義挙・自由民権運動に発展した。これに対して大久保は弾圧と暗殺を
以て抵抗し、最後には盟友西郷隆盛を「西南戦争」に追い込んで屠ってまで権力の座にしがみついた
ので、国民の怒りは頂点に達し、同11年5月14日悪運は遂に尽き、正義の刃の下に斬殺された。
にわかに親玉を失った内務官僚は驚天動地して為すところを知らず、周章狼狽して命冥加を祈念、2ヶ
月後の7月22日大慌てに大区小区制を廃すると「郡区町村編制法」など新三法を施行して旧に復し
た。結果深川区99町・南葛飾郡28ヶ村が成立し、漸く自治権回復の兆しが見えてきた。同21年
4月25日明治政府が初めて国民の自治権を認めめことになり、「市制町村制」を公布、東京府では
翌22年5月1日同制度により、南葛飾郡28ヶ村は亀戸村・大島村・砂村の3ヶ村に統合され、自
治権がさらに回復した。同33年7月19日亀戸・大島両村が町制に移行し、同44年「市制町村制
改正」により深川区の各町は深川の冠称を削除した。
 大正4年8月31日亀戸町が字を廃して1~9丁目、同じく大島町が1~8丁目になり、同10年
7月1日砂村は町制に移行して砂町となった。昭和7年10月1日東京市は周辺5郡を編入し、南葛
飾郡下の亀戸・大島・砂の3町は合同して城東区36町を成立、深川区は7町減じて92町となった。
同16年1月砂町地区が大字を廃して19町を起立。同18年7月1日東京市の強大化により内務省
の権限が薄れることを危惧する内務官僚は、戦時のドサクサをいいことに「府県制」を恣意的に改め、
東京市は東京府と共に廃止された。そして新たに「都制」を制定して「東京都」を発足させ直轄管理
を目論んだ。しかし日米戦争で軍部が敗れたため、日本はアメリカの植民地・属国となり、同21年
民主化をスローガンの進駐軍最高司令官マッカーサーによって「都制・府県制・市制町村制」が改め
られ、地方自治体の首長は全て任命制から公選制となった。これに驚いた内務官僚は「専制権が殺が
れる」と猛反対したものの、情けないことにアメリカ人に専制強圧と私利私欲の非を諄々と諭されて
漸く、己の我儘や自分勝手に行政することが人倫の道に悖ることだと悟り、涙してすごすごと引き下
がった。
 同22年3月15日戦禍で疲弊した都心区の廃置分合により、区制を再編して35区から22区と
なり、8月1日練馬区が板橋区から独立してここに「東京23区」が確定した。その間の4月17日、
市制町村制が廃されて「地方自治法」が施行され、民主化を始めたが、内務官僚は一計を案じ、内務
官僚の内から知事を立候補させることを覚え、国会議員も大半が官僚出身だから地方自治なんぞ夢の
また夢だ。民主主義はその性格上中央集権とならざるをえず、地方分権とはなりえない本質がある。
然るに権力者たちは国民が無知であることをいいことに言葉だけを羅列吹聴する。民主主義なぞ幻の
如く、現在は小泉政治に見られたように間接的専制で以て累卵の危うき状況だ。だまされんなよ、国
民!

 平成16年現在の町名数は45。区役所は東陽4丁目にある。友好・姉妹都市はカナダのサレー市。
文化施設は、深川江戸資料館・田河水泡のらくろ館・芭蕉記念館・東京都現代美術館・清澄庭園・猿
江公園・木場公園・大島小松川公園・辰巳海浜公園・若洲海浜公園・夢の島公園・夢の島熱帯植物園
・水の科学館・日本科学未来館・ダイノソアファクトリー・東京辰巳国際水泳場・有明テニスの森・
東京ビッグサイト・テレコムセンター・パレットタウン・東京へリポート・富岡八幡宮・深川不動尊
・霊巌寺・亀戸天神とまさに充実しており、中央図書館はないものの図書館は11館を数え、地域資
料は豊富に揃っている。不動産屋のマンション建設ラッシュで流入人口が急増し、小中学校の増設が
追っつかない現象に区が悲鳴を上げ、マンション建設に待ったをかける状況。
 新住居表示は有明3~4丁目・辰巳3丁目・新砂3丁目一部・夢の島・若洲・青海が未実施で残っ
ていたが、平成21年11月1日に実施され、夢の島・若洲は1~3丁目、青海は1~2丁目に分割
された。中央堤防外側埋立地が完成すると区に編入される?。もう大田区は隣接区で、海底トンネル
で繋がっているんだよ。

 教育施設
 小学校43(区立43 私立0)
 明治(明治+白河)・深川・八名川・臨海・越中島・数矢・平久・東陽・南陽・川南・扇橋・元加
 賀・毛利・東川・豊洲・豊洲北・豊洲西・東雲・枝川・辰巳・第二辰巳・第一亀戸(第一亀戸+亀
 島)・第二亀戸・香取・浅間竪川(浅間+竪川)・水神・第一大島・第二大島・第三大島・第四大
 島・第五大島・大島南央(大島中央+大島南)・砂町・第二砂町(第二砂町+第二東砂)・第三砂
 町・第四砂町・第五砂町・第六砂町・第七砂町・小名木川・東砂・北砂・南砂(南砂東+南砂西)
 ・亀高

 中学校23(区立22 私立1)
 大島・大島西(第三大島+第四大島)・第二大島・亀戸・第二亀戸・第三亀戸・砂町・第二砂町・
 第三砂町・第四砂町・辰巳・南砂・第二南砂・東陽・深川第一・深川第二・深川第三・深川第四・
 深川第五・深川第六・深川第七・深川第八・
 かえつ有明

 高校10(私立2)
 深川・城東・東・科学技術(江東工業+科学工業)・第三商業・高等学校・墨田工業・大江戸(深
 川商業+東の定時制=朝昼夜三部制の定時制)

 大学
 東京海洋大学(商船大+水産大)


 江東の由来
 アメリカ軍の無差別空爆によって焼野が原となった東京の復興のため都心区の廃置分合を図ること
になり、深川区と城東区が統合して一区となった。東京新聞募集の区名案では「江東・永代・辰巳・
清澄・東」などがあったが最終的に「江東」が選ばれた。区の位置が隅田川(墨江)の東であればま
さに理に適っており、「江」を深川区、「東」を城東区と見れば実に見事な区名である。台東区と対
を成して面白い。ただし大横川に「江東橋」という橋が明治31年から架かっている。

   稲妻や江東に酒求(と)めに行く(石塚友二)
   江東のきはどい店の菊膾(きくなます)(大牧 広)
   冬の夜や星ふるばかり瓦竃(かわらがま)(久保田万太郎)




 ほんじゃまぁ江東区の地名の由来についておっ始めるべぇ

【青海】(あおみ)1~2丁目                    平成21年11月1日
 昭和38年に着工された東京港改訂第二次13号埋立地が同
49年に竣工したが、その帰属にお
いて品川区・港区と争い、同57年自治紛争調停により現行のように不均等3分割して決着した。
品川区東八潮・港区台場がそれである。それまでは町名はなく「13号地」で話が通っていた。尤
も今でこそお台場だの、テレコムセンターだのと、未来都市の様相は呈しているが、長い間荒涼た
る空地で進入防止の区画塀は杉丸太の杭と鉄条網で、むかしの十万坪もかくやと思わせる寒々しい
景色だった。湾岸道路がところどころ開通していて、走る車もないから無論無料で、それで朝方恐
る恐る走ったことがあるが、広大なところが無人というのはおっかない。もう地球上に人類がいな
くなってしまったのではと錯覚して戦慄を覚えたものだ。今が嘘のようだ。そんなところに開いた
新しい町。
 平成21年11月1日1~2丁目で実施した。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『江東区史』『江東の歴史』など。

 青海の由来
 町名は臨海部の未来のシンボルゾーンとして清々しさに優れた青い海をイメージして名付けられ
た。平成4年竣工の追加地は2丁目とした。ご多分に漏れず使い道がないので公園と倉庫と流通タ
ーミナル。住宅は全くない。嘉名なのでここが青海という場所はない。
 海底トンネルで大田区と繋がってるって知ってる?
 


お台場中央連絡橋
 青海1丁目1番にあるX字横断歩道。


ダイバーシティ東京プラザ
 青海1丁目1番10号にある、オフィスビルと商業施設からなる複合施設。平成24年4月18日
にオープンした。フジテレビ本社ビルに隣接し、りんかい線「東京テレポート」駅から徒歩3分。ゆ
りかもめ「台場」駅から徒歩5分、クルマでも首都高速「台場IC」から約1kmと近い。運営する
三井不動産が「年間4800万人が訪れる日本有数の観光スポット」という台場エリアは「ヴィーナ
スフォート」「アクアシティお台場」「デックス東京ビーチ」などの商業施設があるが、ダイバーシ
ティは店舗面積約45300㎡、154店舗が出店する同エリア最大級の商業施設だ。
 この施設は東京の有名店を揃えたフードコートをはじめ、「東京トレンドプロデュースゾーン」を
設けたり、秋葉原のメイドカフェや新大久保の韓流カフェを誘致するなど、〝今の東京カルチャー〟
を強く打ち出しているのが特徴。羽田空港から近いこともあり、最近お台場で増えている外国人、特
に中国からの観光客を意識しているのだろう。テナント構成のバランスがよく、通路が広くて空間に
ゆとりがあるなど、都心にあるとは思えない〝真っ当な大型ショッピングモール〟という印象だ。そ
のうえに「ガンダム」というキラーコンテンツあり、最近話題となっている菓子メーカーのアンテナ
ショップあり、高級スーパーあり、屋外でスポーツを楽しめる大型エンタメ施設ありと、至れり尽く
せりで、これだけでも集客には困らないだろう。しかし同社はフジテレビや人気アーティストグルー
プ「エグザイル」の所属事務所であるLDHをプロモーションパートナーとし、様々なイベントを開
催する予定。さらに浅草とお台場を結ぶ水上バス利用者に対する優待キャンペーンを実施して東京ス
カイツリーを訪れる観光客の呼び込みを図るなど、集客活動に熱を入れている。

 
ファッション
 ファッションでは「バーバリーブルーレーベル/バーバリーブラックレーベル」「シー バイ クロ
エ」「マーク バイ マーク ジェイコブス」といった 海外人気ブランドから「ユニクロ」「H&M」
「フォーエバー21」「ZARA」「ベルシュカ」といった国内外SPA、ギャルに人気のブランド
まで幅広くそろっているのが魅力。中でも目玉は日本初上陸となるGAPグループの低価格ブランド
「オールドネイビー」と先日原宿に国内1号店がオープンしたばかりの米国カジュアルブランド「ア
メリカンイーグル アウトフィッターズ」だろう (「オールドネイビー」の商品販売は7月中旬開始
予定)。そのほか、「東京トレンドプロデュースゾーン」にも注目。新しいショップやクリエイター
を発掘するインキュベーション企画で、最終審査を通過した4店舗が出店している。

 
飲食
 飲食では1階のフードコートがおすすめ。エリア最大となる約700席のスペースがあり、ラーメ
ンの「六厘舎」や洋食の「三代目 たいめいけん」、ミルフィーユカツで有名な「キムカツ」といった
〝東京の味〟が手軽に楽しめる。カフェではハワイのコーヒーチェーン「ホノルルコーヒー」が日本
初出店。このほか、「スターバックスコーヒー」「タリーズコーヒー」「上島珈琲店」「クリスピー
・クリーム・ドーナツ」などが出店しており、カフェには困らなさそうだ

 ガンダムフロント東京
 7階にある。昭和54年の「機動戦士ガンダム」放送から30年以上を経て、今猶進化し続けるガ
ンダムワールドを体験・体感できる有料施設(一部無料)だ。チケットは日時指定だから要注意。
 平成21年夏「機動戦士ガンダム」放映30周年を記念し、お台場は潮風公園に52日間で約41
5万人を動員し、大きな反響を呼んだ「GREEN TOKY ガンダムプロジェクト」から3年。
同24年4月19日、「1/1」や「リアル」をコンセプトに、よりガンダムを身近に「体感」でき
るエンターテインメント空間が出現した。

 
RG 1/1 RX‐72‐2 GUNDAM Ver.GFT(ガンダム立像)
 ダイバーシティ南側のフェスティバル広場に設置された高さ18mの巨大ガンダム立像は圧巻。
 鉄骨フレーム FRP。

 
1/1コア・ファイター
 『機動戦士ガンダム』の感動のラストシーンを再現した1/1コア・ファイターが、「ガンダムフ
ロント東京」バージョンで登場。新たにデカールとLEDライトが追加。これまでに見たことがある
人も必見だ!

 DOME-G 
 直径16m、6台のプロジェクターと13台のスピーカーが設置された特設巨大ドーム。高所クレ
ーンからのガンダム立像実写映像や、天球全体に広がる過去のガンダムシリーズの名シーン、そして
ディテールアップされたRX‐93νガンダムほか大迫力のモビルスーツに満たされる新作CGイメ
ージが投影される。実寸大の迫力で迫るモビルスーツを全身で体感してみな。

 RG1/1 ZGMF-X20A ストライクフリーダムガンダム Ver.GFT
 『機動戦士ガンダム SEED DESTINY』の主要モビルスーツ、ストライクフリーダムガン
ダムが1/1サイズの胸像で登場! 『機動戦士ガンダム』のRG1/1 RX-78-2 ガンダム
立像とはまた一味違う角度で、1/1サイズの魅力を体感できるよ。

 キャラクター・フォト・スポット
 あこがれのキャラクターを選んで、2ショット撮影ができるデジタルフォトスポット。『機動戦士
ガンダム』に始まり、歴代ガンダムシリーズや『機動戦士ガンダムSEED』、『機動戦士ガンダム
00』、最新作『機動戦士ガンダムAGE』に至るまで、等身大キャラクターとの撮影を楽しもう!

 ガンプラ東京
 昭和55年から現在までに発売されたガンプラ1000体以上を一挙に展示! ガンプラの進化を
体感できるコーナーです。これだけの歴代ガンプラを一堂に見られる場所は、世界中でここだけ!

 A BAOA QU

 エクスペリエンスフィールド内壁面への映像投影のためのプロジェクタータワーとして、『機動戦
士ガンダム』の最後の戦闘の舞台となった宇宙要塞『ア・バオア・クー』を約1/7500スケール
(高さ約4.5m、直径約3m)で再現。

 GUMDAM Cafe
 秋葉原で人気の「GUMDAM Cafe」の2号店が、ダイバーシティ東京プラザの2階にテイ
クアウトとグッズ販売の専門店としてオープン! ダイバーシティ東京プラザ店限定の「ガンプラ焼
シャアザク」や、秋葉原店で好評販売中の「ハロラテ」に続く、「ガンダムカフェラテ(ガンダム、
シャアザク、アッガイ)」など約10種のテイクアウトフードと約15種のドリンクを提供。その他
お土産にもピッタリの限定キーチェーンやマグカップ、「人形焼連邦バージョン」など、約20種の
オリジナルグッズも用意している。
 


■船の科学館駅

 青海1丁目1番49号にあるゆりかもめ臨海線の停車場。船の科学館は向かいにあるが、住所的に
は品川区東八潮3番にある。平成7年11月1日ゆりかもめ新橋~有明間開業時にできた。
 ホームは3階にあり、島式1面2線構造。ホームと改札階を結ぶエレベーター完備。改札口は1ヶ
所のみで2階にある。出口は西口と東口の2ヶ所。エレベーターは東口側にのみ設置されている。駅
構内案内放送(精算所・トイレ・案内板)を務めるのは、声優高城元気。駅文様は「帆掛け舟文様 
海老茶色」。同19年10月18日から翌年3月31日まで、車内における当駅の到着アナウンスを
フジテレビアナウンサーの生野陽子が務める。
 駅名になっている船の科学館は、建物自体が船の形をしている船舶についての博物館。臨海副都心
にある施設の中では最古参で、昭和49年の開館だ。当時はアクセス手段がバスか船しかなく不便だっ
たが、開館からおよそ20年の時を経てゆりかもめが開通し、利便性が格段に高まった。
 


■東京テレポート駅(フジテレビ前)

 青海1丁目2番1号にある東京臨海高速鉄道りんかい線の停車場。平成8年りんかい線(当時は臨
海副都心線)新木場~東京テレポート間開業時に設けられた。同13年3月31日に天王洲アイルへ
延伸するまでは、りんかい線の終点を務めた。ホームは島式1面2線で、地下3階にある。ホームの
中央付近は吹き抜けになっており、地上に設けられた採光窓から陽光が降り注ぐ。ホームと改札階を
結ぶエレベーターは完備。改札口は1ヶ所のみで地下1階にある。出口はAとBの2ヶ所。それぞれ
エスカレーターを4本ずつ備える非常に間口の広い出口になっている。改札フロアから地上とテレポ
ートブリッジとを結ぶエレベーターも設置されてる。この駅はりんかい線におけるお台場の最寄り駅
だ。ゆりかもめに比べて、埼京線と相互乗り入れしており、新宿や池袋からも乗り換えなしで来られ
るので利便性は高い。また新木場で京葉線・地下鉄有楽町線、大井町で京浜東北線本線、大崎で湘南
新宿ラインとそれぞれ接続している。

 
モニュメント
 斜張橋の支柱のような作品。

 
ルフィとゼットの像
 『ダイバーシティ東京プラザ』の1階、東京テレポート駅ゲート上部に、映画「ONE PIEC
E FILM Z」をモチーフとしたルフィとゼットのオブジェが設置され、一定時間毎に声や B
GMによる演出が楽しめる。


■青海駅

 青海1丁目3番14号にあるゆりかもめ臨海線の停車場。平成7年11月1日ゆりかもめ新橋~有
明間開業時にできた。ホームは3階にあり、島式1面2線構造。ホームと改札を結ぶエレベーター完
備。改札口は1ヶ所のみで2階にある。出口は北口と南口の2ヶ所で、北口にのみエレベーターが設
けられている。北口はパレットタウンに直結だ。
 「おうみ」と誤読されがちだが、読みは「あおみ」だ。トヨタのショールーム「メガウェブ」や大
観覧車、近世ヨーロッパの街並を模したショッピングモールの「ヴィーナスフォート」などがある青
海パレットタウンの最寄駅。駅の南側には水上バス乗り場もあるぞ。
 駅構内案内放送(精算所・トイレ・案内板)を務めるのは、声優の鳥海浩輔。駅の文様は「青海波
(せいがいは)文様 瑠璃色」。
 平成19年10月18日から平成20年3月31日(予定)まで、車内における当駅の到着アナウ
ンスをフジテレビアナウンサーの中村仁美が務めていた。
 


■パレットタウン
(Palette tawn) 閉鎖延期
 青海1丁目3番15号にある商業施設、大規模娯楽施設だ。シンボルの大観覧車を中心としたお台
場を代表する娯楽スポット。事業主体は森ビル、三井物産など。平成11年世界都市博覧会の予定地
建設され、暫定利用の事業用借地権を活用(借地権の契約期間は10年)し、総事業費約500億円。
名前は、パレットにのせた絵の具のようにカラフルで楽しさにあふれた町であるイメージから付けら
れた。
 当初パレットタウンは平成22年5月までに撤去され、用地は更地にして東京都に返還することに
なっていた。これは平成2年当時、バブル崩壊による不況や交通の便の悪さという悪条件が重なり、
台場地区の売却先が見つからなかったため、苦肉の策として都が10年間の期限付で賃貸料を月額約
830~850円/㎡(平成8年3月時点)という異例の廉価で土地の貸し出しを行った。パレット
タウンを運営する事業主体の森ビルや三井物産はその条件を承諾し、施設の開設を行った。しかし結
果としてパレットタウンは成功を収めたため、撤去し更地にしてしまうことはお台場全体の景観を大
きく変えてしまうことに繋がりかねず、利用者はもちろん都の幹部からも不満の声があがっていた。
都は平成20年にパレットタウンが閉鎖されるどう22年以降の臨海副都心青海ST区画への進出事
業者の募集を行い、森ビルとトヨタ自動車に814億円で売却すると発表した。売却発表時に都によ
り公表された両社の事業計画によると地上23階・地下2階の建物が建設されオフィスや商業施設、
コンベンション・ホテル一体型施設のほか、自動車をテーマとした参加体験型の展示施設や観覧車な
どが設置され、同25年に開業することが予定されていた。しかし、経済状況の変化などから同21
年11月に建設計画が延期されて既存施設の営業が延長される見通しとなり、同22年1月東京都と
森ビル・トヨタ自動車は同28年3月までに新施設を開業させることで合意した。しかし平成26年
開業予定が同33年度に先送りされている 

 ヴィーナスフォート (VenusFort)
 「女性のためのテーマパーク」と銘打ったテーマパーク型ショッピングモール。平成11年8月に
オープンした。森ビルとスクウェア(現スクウェア・エニックス)の創業者宮本雅史の関連会社エス
システムが出資した同名の株式会社ヴィーナスフォートが運営。ショッピングモール内 (2、3階)
は、17~18世紀のヨーロッパの美しい街並みが再現されていて、この中でファッション・雑貨・
化粧品・レストランなど160ほどの店舗が営業している。また吹抜けの天井が時間によって青空か
ら夕暮れ、そして夜へと景観が変化する、などの演出も行われている。また1階はペット連れも可能
な「ヴィーナスフォートファミリー」(旧サンウォーク)となっている。株主は森ビル株式会社50
%出資。株式会社エスシステム50%出資。エスシステムは婦人服のファイナルステージを製作して
いる会社。館内の音響はBOSE社のBMS(ビジネスミュージックシステム)を採用している。

 大観覧車
 日本最大級、羽田空港や新宿超高層ビル群など東京を一望できる。イルミネーションは、1300
0個のネオンを使用し、パターンも数多くあり、観覧車そのものが夜景を演出している。全64台の
うち4台は、骨組み以外は透明のシースルーゴンドラを採用しスリルも味わえる。年中無休(年2回
の点検日は休業)。10時~22時。土日やシーズン時は24時まで営業する。1人90円(4歳未
満無料 グループチケット 4~6名は3000円。
 ゴンドラに乗る前に記念撮影をすることができる。降りる時には出来上がり、特製台紙に入ってる。
 平成22年末閉鎖。同25年再開。

 Zepp Tokyo
 Zeppは、ソニー・ミュージックエンタテインメントの子会社ホールネットワークが運営するラ
イブハウスの総称。東京の外、札幌・仙台・名古屋・大阪・福岡に展開する。

 
水と光のベール
 シンボルプロムナード公園内にある。

   水と光のベール
       2012年4月1日
          東京都港湾局
   このミスト噴水は、太陽光で発電された電気で
   昼間の運転を行っています。
   運転時間 9:00~23:00
   太陽光で発電できない場合には昼間の運転を停止します。
   雨、風等により運転を中止する場合があります。

 東京レジャーランドパレットタウン店
 大型レジャー施設。運営は石川県金沢市に本社を構える山崎屋。パレットタウン内には山崎屋の東
京事務所があり、当店は関東地方の店舗を統括している。ボーリング場・釣堀・カラオケ・ゲームコ
ーナー・ビリヤード・卓球・キッズコーナー・バッティングセンター・からくり屋敷・お化け屋敷・
ダーツ・スポーツゲームなど遊び場が一杯。

 MEGA WEBE
 
メガウェブは、「トヨタ・シティショウケース」「ヒストリーガレージ」「トヨタ・ユニバーサル
デザインショウケース」の3館からなるトヨタ自動車の展示ショールーム。トヨタの人気車種の有料
試乗コーナーがあることでも有名。
 

 カーきち必見! ヒストリーガレージ
 パレットタウン内「MEGAWEB」の中にある世界の歴史的自動車の展示場。MEGAWEBは
見て乗って感じるトヨタ自動車が運営するテーマパーク。ブースやゾーンが幾つもあり、子供づれで
も十分楽しめるように構成されている。

 GPアーカイブ
 1階にある。F1、ル・マン、WRCなど6つのカテゴリーに分けたテーマジオラマや、レーシン
グカーのレプリカを展示。 モータースポーツの歴史を紐解くよ。

  【ヨーロッパ】
  イギリス、フランス、イタリアなどのモータースポーツの歴史を飾ったレースカーと最近の
  ツーリングカーを約50車種展示

  【日本】

  日本モータースポーツ創生期の名車、トヨタのレースカー、JGTCなどのツーリングカー
  各社のマシン、フォーミュラニッポンなど国内レース車を中心に約50車種を展示。

  【フォーミュラー1】
  グランプリと呼ばれた戦前のモデル、ボディデザインがより高度となった70年代、そして
  現代のF1こマシンまでを約70車種展示。アイルトン・セナのマシンについてはコーナー
  を別にして展示してある。

  【ル・マン】
  ル・マン24時間レース初期の名車、ル・マンで活躍したメルセデス、フェラーリ、ポルシェ
  の代表的なマシン、日本から挑戦したマシン、現代の参戦車などを約60車種展示。

  【ラリー】
  サファリ、パリダカ、モンテカルロで活躍したモデル、その他過去のラリーで活躍したモデ
  ル、トヨタラリーモデル、現代のWRCなどを約50車種展示。

  【アメリカ】
  ストックカー、NASCAR、インディカー、CARTの過去現在の代表的なモデルを展示。
  その他、デイトナ、セブリングでのヨーロッパ、アメリカの代表的なモデルなど約60車種
  を展示。

 
GPメモリアルラウンジ

 1階にある。人と車によって作られたモータースポーツの歴史、その中でけして忘れることの出来
ない人々を、高さ20cmイギリス製のフィギュアとポートレートフォトで展示。例えばファンジオ、
スターリング・モス、ヌボラーリ、ジム・クラークなどの歴代の名ドライバーや、エンツォ・フェラ
ーリ、ニューバウアー、コーリン・チャップマンなどレースを愛した著名人、そしてニキ・ラウダか
らM・シューマッハまでF1で活躍したドライバーなどをで展示してる。中でも注目はアイルトン・
セナ。GPアーカイブだけでなく、このメモリアルラウンジにもセナのフィギュアが5体、2分の1
スケールのヘルメット、写真などを特別展示してるよ。壁面にはジム・クラーク、ジャッキー・スチュ
アートなどの名ドライバーから懐かしの中嶋悟などの写真を数多く展示。また下段キャビネットには
レア物のピンバッチや超昔のモータースポーツ雑誌、レースプログラムなどを展示。
 モータースポーツの迫力を楽しむなら、50吋モニターへ。5チャンネルのドルビーサラウンドシ
ステムで臨場感を音と映像を体感してくれ。なおこのメモリアルラウンジでは、F1などの予告ポス
ターや現地の新聞を使ったレース結果などを掲示している。


 チームトヨタピット
 1階にある。レース現場のアグレッシブな雰囲気を演出したピットだ。「カートエンジン(平成1
4年Champ Carと同型エンジン)」と「スターレット(KP47)3KPエンジン」を展示。
レストアピットでは、マストロ(匠)による名車のレストア(復元)作業がを見られるぞ。

 アレッサンドロ・ナニーニ・カフェ
 1階にある。日本初上陸! ビーナスフォートの外れにあるヒストリーガレージを入って左奥、博
物館の様な通路を進んでいくと、様々な車の写真に囲まれたクラシカルな雰囲気のカウンターが見え
てくる。
元F1ドライバーのA・ナニーニがプロデュースするイタリアンカフェだ。ガラス張りの窓
の向こうにはまるでミラノかローマの旅先で目にする様なテラスのある中庭が・・・その真ん中には
滔々と噴き上がる噴水が柔らかな陽光を受けている。ゆったりとした空間にボサノバが流れ、座り心
地の良いソファが並ぶ店内。そんなソファにゆったりと腰を落ち着け、口当たりの良いカプチーノを
飲んで一息つくと、華やかなお台場の喧騒は消え、ヨーロッパのどこか長閑な街のカフェで寛いでい
る様な気分になっちまってるって恵寸法だ。このヤロー!


 
グリースGPS

 1階にある。モータースポーツのレーシングモデルを中心としたミニカーショップだ。興味の全く
ない人だって惹きつけられちゃうから、マニアは必見だ。

 ヒストリックカーコレクション
 二階にある。現在展示中のヒストリックカーのリスト。50~70年代、黄金時代を作った数ある
名車の中から20~25台を厳選して、世界中の国々の街並を再現したファサード(街並外観)に溶け
込むように展示されている。クルマの佇む道をぶらり歩きながらチェックしようぜ。街角に映し出さ
れる映画やCМの中のクルマにも注目!!

 ボニーズバー
 魅力的なヒストリックカーを眺めながら食事を楽しめる1950~60年代アメリカのカウンター
バーを再現。落ち着いたバーの雰囲気を楽しみながら、家族連れでも気軽に利用出来る。パスタやカ
レーもあるんだぜ。


 
グリース

 ミニカーと洋書のコレクターとして名高い、趣味人の書斎をイメージした空間。
 


■シンボルプロムナード公園

 青海1~2丁目、有明3丁目にある細長いL型の都立公園。都市計画広場に位置付けられた全国的
にもユニークな公園で、面積約26.4ha、幅員約80m、総延長約4kmと広大な緑の軸として、
臨海副都心内の様々な施設を繋いでいる。プロムムナードの地下空間には、副都心部のライフライン
である共同溝が整備されているほか、防災からの避難場所など多くの機能を有している。その一方で
シンボルプロムナード公園を訪れる人々のために、緑と水、歩行者空間、賑わいの場が整備されてい
る。特にシンボルプロムナード公園を彩るワイルドフラワーは春にはポピー、秋にはコスモスなどの
美しい花が咲き揃い臨海副都心の新たな名所となっている。

 
自由の炎像‐LA FLAMME DE LIBERTEA
 青海1丁目1番、園内ウエストパーク橋南側にあるマルク・クチュリエのオブジェ。高さ27mの
高さがある、ダイバシテイ東京プラザの西側にあるとてつもなく高い像というかポール。「フランス
における日本年」および「日本におけるフランス年」を記念し、日仏友好を讃えるモニュメント。

   LA FLAMME DE LIBERTEA
    〝自由の炎〟
   「フランスにおける日本年(1997~1998年)」と「日本におけるフランス年(1
   998~1999年)」を記念し、また日仏の友好を讃えるために、
   「日本におけるフランス年」実行委員会、パリ市、パリー東京協会、ならびに以下に挙げ
   る、エールフランス航空 AIRFRANCE、エアーリキッド AIRLIQIDE、コ
   ジェマ COGEMA、スエズ・リオネーズ・デゾー SUEZ‐LYONNAISE(名
   誉会員企業)、エシロール ESSILOR、サノフィ・サンテラボ SUNOFI SYN
   THELABO、株式会社セリク SERIC、ソシエテ・デュ・ルーヴル SOCIET
   E DU LOUVRE(協賛会社企業)の各フランス企業はフジテレビと臨海副都心まち
   づくり協議会の協力のもとに、芸術家マルク・クチュリエ氏(M・Marc・Coutu
   rier)のオリジナル作品である本作品を東京と日本に贈呈した。
   この作品は、平成12年11月21日モーリス・グルドー=モンターニュ(M Miur
   ice Gourdault‐Montagne)駐日フランス大使によって除幕が行わ
   れた。


■青海北ふ頭公園

 青海2丁目先にある区立公園。


■青海中央ふ頭公園

 青海2丁目先にある区立公園。


■青海南ふ頭公園

 青海2丁目先にある区立公園。
 


■暁ふ頭公園

 青海2丁目先にある区立公園。
 


■青海緑道公園

 青海2丁目先にある区立公園。


■東京国際交流館

 青海2丁目2番1号にある国際会議場。約500人収容の大ホール。音楽会にも使用可。
 


■日本科学未来館

 青海2丁目3番6号にある独立行政法人科学技術振興機構の施設。地下2階・地上8階建ての独立
ビルだ。科学技術の振興を進めることにより、科学技術創造立国を目指すことを目的とした「科学技
術基本法」が平成7年に成立。同10年文部省、通商産業省、科学技術庁の3省庁(当時)が合同で
臨海副都心地区に「国際研究交流大学村」を建設することが決定したのを受けて、科学技術振興事業
団(同15年からは科学技術振興機構)は、この大学村内に、最先端科学技術の展示、展示方法の開
発、研究者の交流などを通じて、科学技術の情報を発信していく施設を整備することになり、科学技
術への理解を深めるための拠点として大学村の中に誕生した。
平成13年7月9日に開館。館長は宇
宙飛行士の毛利衛。当初運営は財団法人科学技術広報財団に委託されていたが、同21年に事業仕分
けの対象となりその運営方法が見直され、現在は科学技術振興機構の直轄運営となっている。
 1.最新の科学技術の紹介
 2.社会一般への科学技術者の成果の発表
 3.一般社会からの科学技術の所感・見解などを学会・論文などを通じての研究者へフィード
   バックする。
 など科学の交流をコンセプトとし、展示物をわかりやすく解説するインタープリター(科学コミュ
ニケーター)や多くのボランティアらが展示解説を行っている。また科学コミュニケーションの手法
試行、科学コミュニケーターの育成、輩出も主な事業として行っている。これらの集大成であるサイ
エンスアゴラの会場にもなっている。旧愛称である「MeSci」は毛利衛館長が科学(Science)
を自分(Me)のものとして捉えてほしいという願いから名付けられたが、普及しなかったため「Mi
raikan」に変わった。
 有料(19歳以上500円 高校生以下200円) 駐車場はあるが有料(300円) 原則火曜
日休館 TEL03-3570-9151

 
地球はまほろば
 スマイルガーデン側(東側)のオープンスペースにある。館長毛利衛の言葉「まほろば」の石碑。
「まほろば」とは、「住みやすい場所」「素晴らしい場所」という意味の古語。

   地球はまほろば
   
    毛利衞



■フジテレビ湾岸スタジオ

 青海2丁目3番23号にある。

 
笑う犬ラフ君
 マスコットキャラクター。西南側に7体ある。平成10年設置。


お笑いタレント土田晃之が接触事故

 青海2丁目4番のテレコムセンタービルエネルギー棟(東京電力青海変電所)東北のテレコムセン
ター前交差点で起きた追突事故。平成29年10月13日19時25分頃、お笑いタレント土田晃之
(45歳)が運転するワゴン車を運転して南方から来て、同交差点でUターンしようとして、北方向
から来た、40代男性の運転するワゴン車の右後部に、土田の車の左前部をぶつけた。土田の前方不
注意が原因と見られている。このところタレントの事故が多すぎるな。


■テレコムセンター駅

 青海2丁目5番8号にあるゆりかもめ臨海線の停車場。平成7年11月1日ゆりかもめ新橋~有明
間開業時にできた駅。ホームは3階にあり、島式1面2線構造。ホームと改札階を結ぶエレベーター
完備。改札口は1ヶ所のみで2階にある。出口は北口と南口の2ヶ所で、いずれもエレベーターが設
置されている駅員の常駐しない無人駅だ。
 


■「ROUND STRUCTURE」

 青海2丁目5番8号シンボルプロムナード公園・滝の広場にある平成7年内田晴之の、赤い弧状の
鉄骨三本を組み合わせた作品。横幅4m×奥行4m×高さ13m。


■「重力のない杜」
 青海2丁目5番8号シンボルプロムナード公園・滝の広場にある平成7年斎藤史門の、8本の柱と
10数個のキューブなどを組み合わせた作品。


■「碧空の花」

 青海2丁目5番8号シンボルプロムナード公園・滝の広場にある平成7年眞板雅文の、高さ13m
の細い鉄パイプで作ったタワーオブジェ。


■東京テレコムセンター

 青海2丁目5番10号にある。凹の字を逆さまにしたように真ん中が空洞になっている、超巨大な
門のような近代的なガラス張りの高層ビルだ。国内外の情報を受発信するための高度な設備を備えた
インテリジェント・オフィスビルで、東京タワーとの間で通信を行うため、一直線の空間には障害物
は何もない。そこからの一望は絶景だよ。富士山、東京スカイツリー、東京タワー、フジテレビ、パ
レットタウンの観覧車も見えてしまうんだぜ。若者や子供たちには、お勧めスポットだよ。
 電力会社からの電力供給が停止しても、4000kVAの自家発電機を3台装備しており、全負荷
状態で30時間以上の給電が可能。
 


海上保安庁海洋情報資料館

 青海2丁目5番18号の国土交通省青海合同庁舎にある。平成14年4月1日中央区築地から移転
して来た。
海洋情報部は、明治4年の創設以来、航海の安全に必要な海図や潮汐表などを提供すると
共に、近年では、海洋環境、地震、津波などに関する社会ニーズに対応し、多種多様な調査研究を行
い、様々な海洋に関する情報を提供している。嘗ての水路部だ。
 海洋情報資料館には、デジタル機器やコンピュータがなかったころ、どのようにして海の深さや流
れ、満ち潮、引き潮を推算していたかなど、当時の海洋調査や海の測量を知ることができる機器、日
本で最初に作られた海図などを展示しているほか、最新の海洋情報業務を紹介するパネルを展示して
いる。このほか、伊能図や海外の古地図も展示している。


■大江戸温泉物語

 青海2丁目6番3号にある日本初の温泉テーマパーク。江戸開府400年に当たる平成15年3月
に開業。通常の営業時間は、午前11時から翌朝午前9時まで。宿泊施設「大江戸宿伊勢屋」と簡易
宿泊施設「黒船キャビン」があり、宿泊することもできる。「江戸の町」を都心に再現したお台場の
新名所として、また気軽に行ける温泉施設として子供からお年寄りまで幅広い人気がある。タイムス
リップすることをテーマとしており、入館後は施設が貸し出す種類豊富な浴衣に着替えて過ごす。館
内には昔の江戸で親しまれた遊技もできるよ。
 泉質は、ナトリウム・塩化物強塩温泉(弱アルカリ性温泉)。神経痛、筋肉痛、関節痛五十肩、疲
労回復、健康増進、きりきず、やけど、冷え性などに効くとの口上だ。
 




【有明】(ありあけ)1~4丁目                   平成21年11月1日
 昭和5年着工の十号埋立地が戦争で中断して、同29年未完成のまま区に移管され、同36~7
年深川有明町を起立、同43年4月1日新住居表示を実施して現行の「有明1~2丁目」を確定し
同53年先に竣工した10号地その2を「有明4丁目」とし、平成4年竣工した10号地その1の
一部を1~2丁目に移し、残りを「有明3丁目」とした。しかしまだ未開発のため街区表示も未実
施の状態。この町も住宅地はなく、ゆりかもめ(モノレール)の基地、ビッグサイト、湾岸道路、
倉庫・流通センター、野積場、空地である。
 平成21年11月1日街区未表示未実施だった3~4丁目で実施、住居表示を完了した。
 七都県市防災訓練が行われるようなとこだったが、ここにもいよいよ開発が予定されている。貯
木場が半分ほど埋め立てられるほか、ゆりかもめが豊洲まで延長して、首都高晴海線が新設される。
道路は環状2号線の延伸計画が決定して、新橋・虎ノ門とトンネルで直結する。2丁目に千代田区
富士見から嘉悦女子中・高一貫校が越してきて共学の「かえつ有明中・高校」になる。→ 同18年
移転、住所的には東雲になった。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『江東区史』『江東の歴史』など。

 有明の由来
 東雲に隣接するところから同じ明け方に関連する嘉語を選び、将来に光明がさすことを祈念して
深川有明町と名づけ1~5丁目とした。明治から昭和にかけて東雲節・有明節が流行したことは関
係ないか? 有明とは「有明の月・有明の灯…」などとも言われ、夜明けに残る月のようすだが、
清々しさを感じさせる。将来の光明を祈り、また隣接する東雲と関連を持つ名称として、当地の地
名として命名された。

 台場公園
 埋立て完成直後は公園とされたが、とても公園といえる状態ではなく、空地と道だけだった。そ
の後の開発で、一部が有明テニスの森公園や海浜公園に整備された。
 


■有明節

    有明のとぼす油は 菜種なり
    蝶が焦れて 逢いに来る
    もとをたヾせば 深い仲
    死ぬる覚悟で 逢いに来る
    ゼヒトモ ゼヒトモ

 明治29年7月ごろから流行、一時廃れて明治43、4頃また流行り出し、多くの賛歌を生んだ。
大正に至って三度寄席に登場して、人気を得、流行したがこの度は「ゼヒトモ ゼヒトモ」という囃
子を加え、これが花柳界の人気を呼んだ。これは「推量節」が「すいりょう すいりょう」の囃子に
乗ってはやったのとよく似ている。
 


■有明テニスの森公園駅
 有明1丁目3番にある ゆりかもめ の停車場。平成18年3月27日の有明~豊洲間延伸時に設け
られた。ホームは3階にあり、島式1面2線構造。ホームと改札階を結ぶエレベーターは完備。改札
口は1ヶ所のみで2階にある。出口は東口と西口の2ヶ所で、いずれもエレベーターが設置されてい
る。
 


■2020東京オリンピック バレーボール会場(有明アリーナ) 白紙

 有明1丁目に新設される予定だったが、小池百合子都知事の登場で、既設の横浜アリーナに変更案
が出て、平成28年に白紙に戻った。選手と協会が猛反対しているが、金メダルを取ってからいえよ
というところか。東洋の魔女伝説は大昔の話だ。


■2020東京オリンピック 有明体操競技場(仮設)

 有明1丁目、有明アリーナの道路を挟んだ西側に新設される。


■2020東京オリンピック 有明BMXコース(仮設)

 有明1丁目北地区に設定される予定。


■水素ステーション東京有明
 有明1丁目8番5号にある岩谷産業の水素供給施設。岩谷産業株式会社(本社:大阪・東京、社長
野村雅男、資本金200億円)は、水素社会の早期実現に向けて商用水素ステーションの整備に取り
組んでいる、水素ステーションは、燃料電池バス(FCバス)など大型車両に対応するために、液状
の水素を圧縮する「液化水素ポンプ」を採用している。また、将来、極低温ガスである液化水素の冷
熱利用で冷凍機負荷の低減を図り、電気代などのランニングコスト削減を目指すなど、FCバス普及
拡大への一助となるべく新たな取り組みを進めている。


■有明テニスの森公園
 有明2丁目2番22号にある都立公園。緑の木立の向こうからボールを打つ音が聞こえる、テニス
愛好者あこがれの地。広大な敷地には、テニスの国際試合、bjリーグ、格闘技から、コンサート、
各種イベントが行われる、1万人の観客席があるセンターコート「有明コロシアム」に屋外48面の
テニスコート、芝生広場がある。テニスコートは時間単位で、初心者でも気軽に利用できるよ。また
ブロンズ等のモニュメントが散在し、芸術の香りが漂う樹林や、春は桜、初夏はツツジの花が咲きほ
こる並木や広場もあり、散歩、ジョギング、ピクニックを楽しむ人々で賑わっている。

 
「樹々の精」
 園内中央の芝生広場にある真板雅文の昭和61年のオブジェ。

 
テニスのサーブを打ってる少女像
 クラブハウスの東側にあるオブジェ。作者・題名不明。

 
「待ちましょう」
 クラブハウス前から東南、中央の通路の角にある、平成7年、津田裕子の作品、白い円柱を背に、
互いに背を向けて立つ男女の銅像。
  


■有明コロシアム
 有明2丁目2番22号にあるテニス競技場。有明テニスの森公園内にある多目的スタジアム。田園
コロシアムが「田コロ」だったように、愛称は「有コロ」。これまで使用されてきた大田区の田園コ
ロシアムの老朽化に伴い後継施設として建設され、昭和62年にオープンし、平成3年には開閉屋根
付きのスタジアムとなった。こけら落としは米米CLUBのコンサートツアー「ANTI SHAR
SHARISM」の東京公演。テニスの「ジャパンオープン」「全日本選手権大会」などのビッグ
トーナメントはもちろん、アリーナスポーツやプロレス、ボクシングなどの格闘技、コンサートなど
にも幅広く利用されている。というより、飾り物じゃあないのだから、活用しないと維持費がかかっ
てしまうだろ。好き嫌いいってられる場合じゃないってえの。


■2020東京オリンピック テニス会場(有明コロシアム)

 〝テニスの聖地〟有明コロシアムは、全天候型コートとスライド式開閉屋根を備えた10000人
を収容できる多目的スタジアムで、テニスの国際大会も行われていることから、テニス会場に決まっ
た。
 


■有明スポーツセンター
 有明2丁目3番5号にある区の施設。宇宙船? キノコの様な建物の体育館棟と、蒲鉾型建物のプ
ール棟がある。体育館棟の展望廊下からは周辺の景色を眺めることが出来るよ。開館時間は9時~2
1時(プールは、夏季以外は9時半~21時)。バトミントン、バレーボール、バスケットボール、
フットサル、軟式テニス、卓球、水泳、ダンス、エアロビクスなど。
 


■虹の下水道館

 有明2丁目-3番5号有明水再生センター管理棟A棟5階にある。平成8年6月1日レインボータ
ウン(臨海副都心)の下水を処理する有明水再生センターの見学説明室として開設された。その後2
1世紀の都市作りに貢献する未来型下水道をPRする下水道局の広報施設とするために展示物をさら
に充実させ、翌9年4月15日実際に展示物に触れて楽しんで貰うことができる体感型展示施設とし
てリニューアルオープンした。愛称公募により「虹の下水道館」と決定。
 開館時間 9:30~16:00 原則月曜日が休館日 03-5564-2458
 


■ダイノソアファクトリー

 有明2丁目5番18号の「パナソニックセンター」の中にある体験型恐竜博物館。林原自然博物館
と松下電器(パナソニック)のコラボレーションで誕生したパナソニック・デジタル・ネットワーク
ミュージアムの第一号だそうだ。従来の博物館ように標本や展示物を順番に見て歩くだけでなく、恐
竜化石研究の過程を発掘現場から一貫したストーリーで見ることができ、科学者の考えや作業を見て
感じることができる。さらに子供たちには、最先端のデジタルネットワーク技術を駆使した情報シス
テムの中で自分で考え、自発的に情報収集していく。ダイノソアファクトリーはこれからの総合的な
学習にも活用できる新しいスタイルの博物館だ。パナソニック・ファンは必見!
 開館時間10:00~18:00 原則月曜日休館。 03-3599-2600
 


■国際展示場駅

 有明2丁目5番25号にある東京臨海高速鉄道りんかい線の停車場。平成8年3月30日りんかい
線(当時は臨海副都心線)新木場~東京テレポート間開業時に設けられた駅。ホームは島式1面2線
構造で、地下1階にある。ホームと改札階を結ぶエレベーター完備。改札口・出口は1ヶ所づつで、
いずれも地上1階にある。駅名になっている東京国際展示場は駅の南約300mの距離にある。徒歩
圏内だが、どうしても歩きたくなければ有明駅からゆりかもめに一駅だけ乗るのも手だ。駅舎は幌屋
根という非常に珍しいもので、それを理由に関東の駅百選にも選定されている。駅構内や駅前広場は
広く造られており、ビッグサイトでの特定イベント時に対応している。
 


■有明教育芸術短期大学
(旧日本音楽学校)
 有明2丁目9番2号にある私立短大。平成21年開学。子ども教育学科(定員100人)、芸術教
養学科(定員90人)の2学科を置く。同22年日本音楽学校を吸収。同27年芸術教養学科募集停
止。

 沿革
 明治36年上野音楽学校(東京芸大)教授山田源一郎が日本遊戯教会を創設。幼児教育者及び音楽
指導者の養成機関として神田淡路町に講習所を開設。同9年講習所は、日本初の女子の音楽学校とし
ての「女子音楽学校」と、男子の音楽教員をを育てる「日本音楽教会」に分ける。昭和2年女子音楽
学校を「日本音楽学校」に改称。この頃の学科は「本科(声楽・器楽・作曲)」「高等師範科」「師
範科」「普通科」「調律科」「研究科」「専修科」「児童科」があり、音楽教育と幼児教育を両輪と
する一流校に成長していた。
 
同24年品川区に『日本音楽学校附属幼稚園』創立。同25年総合学園の一環として品川区に新た
に「日本音楽高等学校」を創設(普通科と音楽科)。同28年日本初の『教員養成機関(中学校音楽
教諭養成科)』設置。同29年文部大臣指定の『幼稚園教諭養成科』を設置。同47年厚生大臣指定
の『保母養成科』を設置。同53年専修学校認可。同63年日本音楽高等学校音楽科に『バレエコー
ス』設置。
 平成4年学園創立90周年記念事業の一環として、三浦泰記念ホール(大ホール・幼稚園園舎・特
別教室)竣工。三浦泰は日本音楽学校の3代目理事長・4代目校長、日本音楽高等学校の初代校長を
務めて、音楽教育に多大の貢献をした。同11年厚生大臣指定『東京聖星社会福祉専門学校』創立。
同12年高校創立50周年記念式典。同13年日本音楽学校幼児教育科に改組。『日本音楽学校保育
園』創立。同14年日本音楽高等学校普通科に『幼児教育コース』設置。同15年創立100周年記
念式典。
 同21年日本音楽学校(専門学校)は、江東区有明北地区に創設した有明教育芸術短期大学(有明
キャンパス)に吸収し、同22年3月末を以て廃校した。


■有明小学校

 有明2丁目10番1号にある区立校。平成23年4月1日「江東区立有明小学校」として開校。


■東京臨海広域防災公園

 有明2、3丁目先にある区立公園。


■有明西ふ頭公園

 有明3丁目先にある区立公園。
 

■「風の詩」 ◇

 有明3丁目7番26号有明フロンティアビル東側の植栽にある佐賀賢太郎の、雲、雲、鳥の背に乗
る少女の像。


■東京都水の科学館
 有明3丁目1番8号(平成21年11月の住居表示以前は2丁目4番)有明給油所にある都水道局
の文化施設。東京湾を臨む臨海副都心、レインボータウン。超近代的な建物がどんどんできている、
まさに未来都市の中にある。近づくだけでもワクワクの新体験だぁ。
 「君は水を知っているか? 答えはもちろんイエスだろう。でも水がどうやって生まれるのか、科
学的にどんな性質なのか、どうやって水が君の家の蛇口まで届くのか、ということまで詳しく知って
るか? よく知っているようで、ほんとは知らないことで一杯、それが「水」っちうもんなんだ。水
の科学館は、そんな水の不思議を探検する再発見基地。さあ水の真実の姿を求めて出発だ!」とは、
 開館は、概ね月曜日を除く毎日9時半~17時、入館無料。 03-3528-2336

 「東京都水道歴史館」が本郷2丁目7番にあるよ。
 


■国際展示場正門駅

 有明3丁目6番15号にあるゆりかもめ臨海線の停車場。平成7年11月1日ゆりかもめ新橋~有
明間開業時に開業。ホームは3階にあり、島式1面2線構造。ホームと改札階を結ぶエレベーター完
備。改札口は1ヶ所のみで2階にある。出口は北口と南口の2ヶ所、TFTビルや東京ビッグサイト
とはデッキで繋がってる。駅構内に地上へ下りるエレベーターはないが、東京ビッグサイトへ行く途
中のデッキ上にあるものを利用できる。それほど知られていないが、東京ビッグサイトの正式名称は
「東京国際展示場」。りんかい線に国際展示場駅があるが、それよりも間近にあるためコチラは「正
門」を名乗っている。特定のイベントが開催される際にはそれはそれは大変混雑する。駅構内案内放
送(精算所・トイレ・案内板)を務めるのは、声優の高橋美佳子。駅文様は「桜文様 桜桃色」
 


■有明駅

 有明3丁目7番5号にあるゆりかもめ臨海線の停車場。有明駅は平成7年11月1日ゆりかもめ新
橋~有明間開業時にできた。10年以上にわたってゆりかもめの終着駅を務めたが、同18年3月2
7日の豊洲延伸に伴い中間駅となり、同時に無人化された。ホームは3階にあり、島式2面3線構造。
外側の1番線は豊洲方面、4番線は新橋方面の列車が使用し、中線の2・3番線は有明を始発・終着
とする列車が使用する。ホームと改札階を結ぶエレベーターは完備。改札口は1ヶ所のみで2階にあ
る。出口は東口と西口の2ヶ所で、双方にエレベーターを備えている。
 この駅から、東京ビッグサイトの南側にある車両基地への回送線が分岐している。そのため、朝夕
に有明を始発・終着とする列車がある訳だ。駅構内案内放送(精算所・トイレ・案内板)を務めるの
は、声優の中原麻衣。駅文様は「獅子文様 柑子色」。平成19年10月18日~同20年3月31
日まで、車内における当駅の到着アナウンスをフジテレビアナウンサーの斉藤舞子が務めた
 


■「うみ風」

 有明3丁目7番11号有明パークビルのマクドナルド前にある帽子を掲げる少女像。昭和59年木
内禮智の作品。


■東京臨海広域防災公園

 有明3丁目8番35号にある国営公園。首都直下地震等の大規模な災害発生時に、現地における被
災情報の取り纏めや災害応急対策の調整を行う「災害現地対策本部」等が置かれる首都圏広域防災の
ヘッドクォーター及び広域支援部隊等のベースキャンプ、災害医療の支援基地として、川崎市東扇島
地区の物流コントロールセンターと一体的に機能する防災拠点施設。
 事業に当たっては、平常時の活用も考慮して、都市公園事業により国土交通省と東京都が役割分担
を行い整備することとされ、

 ①.平常時には関係機関が連携して防災に関する情報交換や各種シミュレーション・訓練など、
   発災時に備えた活動を行う場
 ②.広く国民が様々な体験・学習・訓練を通じて、防災への関心を高め、実際に災害に対応で
   きる知識や知恵、技術、自助・共助の心を習得する場
 ③.臨海副都心の都市集積・集客性を生かした魅力ある空間とするものとして整備を行ってい
   る。

 国営公園の面積は6.7ha、都立公園の面積は6.5haであり、合計13.2haになる。
 休館日 月曜日(祝日の場合は開館し、翌日休館)・年末年始。※別に臨時休館日がある。
 入園料・入館料 無料 TEL03‐3529‐2180 FAX03‐3529‐2188

 災害時の機能
 首都圏広域防災のヘッドクォーター
  1.現地対策本部の設置
  2.被災時の情報収集・集約
  3.関係機関との連絡調整
  4.応急復旧活動の指揮

 広域支援部隊等のベースキャンプ
    自衛隊、消防、警察などの広域支援部隊等のベースキャンプ機能等
 災害時医療の支援基地
  1.救助活動、医療活動の情報共有化
  2.トリアージの実施のための資機材・設備の提供等

 本部棟(有明の丘基幹的広域防災拠点施設)
 内閣府が管理する防災施設。防災施設の特徴は、

  1.建物全体を免震装置の上に配置(通信専用アンテナ塔を含む)
  2.中央防災無線(地上系及び衛星系)で全省庁及び全都道府県と接続
  3.映像伝送(東京・埼玉・神奈川・千葉)、テレビ会議、ヘリテレ映像の取込みも可能
  4.非常用電源(自家発電)
    発電力1000kVA×2基(灯油式、無停電装置により自動的に切替え)
    燃料90000 ℓ蔵、3日間連続運転可能(燃料追加で7日間まで連続運転可能)
  5.要員の休養スペース等
    ロッカー室・シャワー室・仮眠室を配置(発災時は公園施設の一部も仮眠室として利用可能)
  6.備蓄食糧、飲用水(ペットボトル)等を、7日分を目標に備蓄を計画
  7.他に飲用系約6トン、シャワー・散水系約133トン 合計139トンを貯水槽2系統に分置


■東京国際展示場(東京ビックサイト)

 有明3丁目11番1号にある。東京ビックサイトってえのは、晴海展示場に代わって建てられた東
京国際展示場の運営会社の名称。

 株式会社東京ビックサイト
 昭和31年社団法人東京国際見本市協会設立。東京国際見本市など各種見本市を主催。同33年
会社東京国際貿易センター設立。晴海見本市会場を運営。平成8年3月晴海見本市会場閉場。4月東
京ビッグサイト開業。同11年株式会社東京国際貿易センターが有明パークビルを竣工させ、管理運
営を開始。同12年株式会社東京国際貿易センターが東京ファッションタウン株式会社及び株式会社
タイム二十四と業務統合。同15年社団法人東京国際見本市協会と株式会社東京国際貿易センターが
統合、「株式会社東京ビッグサイト」と社名変更。同18年東京ファッションタウン株式会社及び株
式会社タイム二十四と合併。

 
「頂‐Relatum」 ◇
 西展示棟1階アトリウムにある李禹煥(リウファン)のオブジェ。李は、60年代後半から「もの
派」の理論、製作を主導し国際的に評価を得ている作家、アトリウム入口前の水面に真四角の厚い鉄
板を置き、それを囲むように4個の石が向き合うように配置、「四方からテーブルを囲んで対話を交
わしているような光景」を表現している。

 
「切ってる鋸‐Saw Sawing」 ◇
 ターミナル入口脇のオープンスペースにある、アメリカのポップアートを代表するクレス・オルデ
ンバーグのオブジェ。15.5mの大きな西洋鋸が地面を切っているかのような作品。〝問題解決のプ
ロセス〟を表現している。

 オブジェ ◇
 すぐ側に小さな小さな四角錐(ピラミッド)の四つ角に角柱が立っているオブジェがある。

 
モニュメント
 会議棟の西側のオープンスペースにある足場を組んだような鉄パイプ作品。

 
「七つの泉」
 会議棟の北側の公園スペースにある長沢英俊の作品。大理石を使った3~9角形の7つの池と柱で
構成されており、柱からは水が滴り池に注ぎ込むように設計されている。

 
「雲のオブジェ」
 西展示棟の屋上展示場、会議棟と東展示棟を結ぶデッキなど、各所に設置されている。超自然をテ
ーマにした13の要素「地球・星・山・島・家・雨・風・波・光・稲妻・卵・実・結晶」が、白い膜
によって幾何学的なデザインで表現されている。一つ一つのデザインの違いを見比べる楽しさ。

 
「UNTITLED Three type ♯3」
 会議棟の南側の芝生スペースにある笠原恵実子の3つの大理石の長方体。作品は、大理石で彫られ
たベッド3つの上に、それぞれ3つの穴を象徴すべくステンレスの磨き上げられた排水口がある。
 ベッド、それは生まれてくる場所、死んでいく場所等を表わし、人間の生、そして性が転換してい
く循環系を意味しているとか。

 
「項」
 西展示棟1階アトリウム入口前(会議棟のイートイン東)の池面にある韓国人李禹換(イー・ウー
ファン 日大)作のオブジェ。石と鉄板と水と光の作品。静かに揺れ動く水中に、広く厚い鉄板を置
き、それを囲んで4個の大きな石を向き合わせ、まるで四方からテーブルを囲んで対話を交わしてい
るかのような光景を表わしている。水に漬かっている不動の鉄板と石に、清々しい流動的な水面を絡
め合わせ、自然光や、夜にはライトが加わることにより、絶え瑞々しく奥ゆかしい景色として人々に
働きかけ、辺りの空気を活性化していく。

 
カラーボール
 ビッグサイトの広い場内に、直径1m以上もある、緑・青・赤のカラーボールがある。金属とガラ
スから造られた無機質な感じのする建物に大きなカラーボールの妙を楽しんで貰おう。
  緑・・・エントランスホール(2階)
  青・・・西展示棟アトリウム(1階)
  赤・・・東展示棟ガレリア東1ホール側(2階)

 
「Floting World」
 レセプションホール・ホワイエの壁面に飾られたこの作品は、英国の作家マイケル・クレイグ=マ
ーティンの作品。長い曲線状の支柱なしの壁面に描かれており、濃いブルーの空間に傘やバイオリン
など実物大の15個の物体が、空間に浮かんだり立っていたりするように見える。個々の物体は遠近
法で描かれているが、全体的に見た時は遠近画法になっていないのが特徴。そして、もう一つの仕掛
けがこの作品を照らすライト。屋上に設置した集光装置と光ファイバーケーブルを通して集めた太陽
光を用いている。

 
「マギブの時空」
 会議棟7階ロビーに、日本の前衛抽象の先駆者斎藤義重の作品が設置されている。素材はマホガニ
ーとブビンガーという年輪を幾年も重ねた巨大な木材。この重厚な素材が軽やかに、またダイナミッ
クなリズムを持って、広い壁面に大きな空間に静止するように設置されている。タイトルもテーマも
難解な作品だが、「停止してしまった存在ではなく、常に時間の流動の中に〝もの〟は存在する」と
いう斎藤氏の思考を表現した作品。

 ●エスカレーター急停止事故

 平成20年7月3日午前10時ごろ、西ホールの上りエスカレーターが急停止し、下り方向に逆走
した。乗っていた約120人のうち、19歳から54歳までの男性8人と女性2人の計10人が軽い
怪我をした。東京湾岸署は管理などに問題がなかったか、業務上過失傷害容疑で関係者から事情を聴
取。事故の起きたエスカレーターは、本社が中央区にある「日本オーチス・エレベータ」製で、1階
から高さ約16mの4階まで直接結んでる。事故は模型やフィギュアの販売イベント「ワンダーフェ
スティバル2008夏」のオープンに合わせ警備員が2列に並んだ客らを会場の4階に誘導する際に
発生。先頭の警備員が全長35mのエスカレーターを7割ほど上がったところで急停止、ずり落ちる
ように下向きに動いた。調べでは、エスカレーターの緊急停止ボタンが押された形跡はなかった。設
計上は、ステップ当たり130キロの計算で、計1万1180キロ(ステップ86段)の荷重に耐え
られるものの、オーバーすると自動停止する。目撃者によると、発生時は、客らが数珠つなぎのよう
な状態だった。事故のあったエスカレーターは96年4月設置。点検は毎月1回実施し、先月の点検
で異常はなかったし、これまで大きなトラブルもなかった。ビッグサイトは施設内にあるオーチス社
製の8基を含め、38基のエスカレーターの運転を安全が確認されるまで中止した。オーチス社はこ
の5月にも名古屋で同様の事故を、また都営地下鉄大江戸線でもボルト欠損事故を起こしている。エ
レベーターでも六本木ヒルズ森ビル、三越本店で小火災が発生している。シンドラーもそうだが、外
国製は欠陥が多い。
 


■2020東京オリンピック国際放送センター・メインプレスセンター

 有明3丁目11番1号にある東京ビックサイトが、平成32年の東京オリンピックの期間中、国際
放送センター(IBC)とメインプレスセンター(MPC)に充てられる。
 国際放送センター(International Broadcasting Center)は、世界各国の放送機関等のオペレ
ーションの拠点となる施設だ。IBCの設営・運営は、オリンピック大会のホスト・ブロードキャス
ター(Host Broadcaster)であるOBS(Olympic Broadcasting Services)が行う。IBCに
は、国際映像・音声信号のコントロール(Contribution)、分配(Distribution)、伝送(Trans
mission)、ストレージ(VTR Logging)など行うシステムが設置されるエリアや、各放送機関等
がサテライト・スタジオや放送機材、ワーキング・ブースなどを設置する放送機関エリアなどが整備
される。
 メインプレスセンター(Main Press Center)は、新聞、通信社、雑誌等の取材、編集拠点であ
る。共用プレス席、専用ワーキングスペース、フォト・ワーキングルーム、会見室・ブリーフィング
ルームなどが準備される。
 IBCとMPCには、約2万人のジャーナリストやカメラマン、放送関係者などのメディア関係者
が参加する。
 オリンピックの施設の中で、最も広大な施設は、開会式、閉会式が行われるオリンピック・スタジ
アムだ。次に巨大な施設は、競技場ではなく、IBC/MPCと呼ばれるこのメディア関連施設だ。
約10万㎡の広さの広大な建物が整備される。
 東京ビッグサイトは敷地面積24万㎡、延べ床面積23万㎡、会議棟、西展示棟、東展示棟からな
る日本で最大のコンベンションセンター。
 当初計画ではこの東京ビッグサイのほぼ全部を使用し、IBC/MPCを設置するとした。
 IBCは、西展示棟、東展示棟の1階と2階を中心に整備される。世界の各放送機関に対し、国際
映像(ホスト映像)を配信するOBSエリアや、世界の各放送機関が使用する専用スペース・エリア
が用意される。
 東京都では、西展示棟の南側に、新たに敷地面積約3㎡に、延床面積約65000㎡の5層階の増
設棟を、約228億円の整備費で建設する。広さ約20000㎡の展示ホールや会議施設、事務所な
どが設けられる。
 当初計画では、この増設棟にMPCを設置するとしていた。3階には約1000席の会見室、1、
2階にはプレス・ワーキング・エリアとして約30000㎡のスペースを整備し、光ファイバーを使
う高速インターネット・サービスなども備えた専用オフイスも用意する。
 増設棟は、五輪終了後は国際会議・展示施設として使用することになっている。


■2020東京オリンピック レスリング、フェンシング、テコンドー会場 変更

 東京ビッグサイトを予定していたが、幕張メッセに変更となった。


■ゆりかもめ有明車両基地

 有明3丁目13番1号にある。見学できるよ。
 


■フェリーふ頭公園

 有明4丁目先にある区立公園。


■倉庫団地

 有明4丁目全域。有明埠頭橋によって3丁目と繋がっている。
 




【石島】(いしじま)                       昭和43年12月1日
 深川石島町。築地町24ヶ町の一つ。十万坪続きの干拓地。宝永四年(1707)大和屋藤助、
正徳元年(1711)築地町名主平野甚四郎に払い下げられ町屋が起立し、正徳三年(1713)
初めて町奉行支配となった。明治11年深川区深川石島町。同12年末広町を編入、同24年永代
新田水野耕地と海辺新田中道耕地を編入。同44年「市制町村制」改正により深川の冠称を外して
石島町。昭和11年一部を千田町・千石町・扇橋に移譲、同22年江東区が成立して深川ノ冠称を
戻す。同43年一部を千石1丁目に移して新住居表示を実施、現行の「石島」とし今日に至ってい
る。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『江東区史』『江東の歴史』など。

 石島の由来
 これといった由来は伝わっていない。埋め立てる区画の枠を石で築くのでその状態を石島といっ
たものか? この辺りは土砂の堆積地で石島はないから、石置場にでもしてたか!
 


■再製塩製造所跡

 石島2番の辺にあった。再製塩製造は、明治23年吉田由蔵が、南葛飾郡海辺新田で外地塩を原料
とした再製塩製造工場を設置し東京市内に供給したことに始まる。この後同27、8年深川区東元町
(常盤1丁目)で小川長蔵が、内地ゴミ塩を主たる原料として再製塩製造を開始すると、家庭、料飲
業、白菜漬用に、その需要は高まった。同38年塩専売法が施行されると、再製塩業者は政府の保護
を受け、大正6、7年頃には最高の生産高を誇った。同15年には、高橋政喜郎・財部倉吉・及川幸
次郎らにより、東京再製塩業株式会社が創立され、昭和17年の産業統制法公布施行により解散させ
られるまで、高級塩の製造に当たった。
 


■扇橋小学校
(昭和23年5月10日開校記念日)
 石島18番5号にある区立校。
 [第一次]
 明治37年4月深川石島町218番地(石島23番)に校舎を建て「扇橋尋常小学校」として開校。
これに伴って廃校となった川南尋常小学校の生徒を収容して授業を開始した。同39年高等科を設置
「東京市扇橋尋常高等小学校」と改称。大正7年川南尋常小学校を分校。同12年3月鉄筋コンクリ
ート造り総2階建ての校舎が完成したが、9月の関東大震災で壊滅、僅か半年の生命だった。そのた
め焼跡や避難用バラック、校地に建てた仮校舎、焼けた校舎を改修した教室で授業を行った。
 昭和3年深川区石島町48番地(現在地)に待望久しい鉄筋コンクリート造り3階建て校舎落成。
同8年9代校長山田國之助が申請し認可。

 校歌
「秀麗天下に類なき」 作詞・豊田八千代駒大教授 作曲・田村虎蔵
  1.秀麗天下に類なき
    富士も筑波も見え渡る
    我が學びやは名にし負う
    扇の橋に程近し
  2.榮ゆる聖代
(みよ)に生まれあいて
    共に力を協せつゝ
    國と家とに盡
(つく)すべく
    學ぶ我等は幸多し
  3.勤倹自治の教訓
(みをしえ)
    胸に占めつゝ弛みなく
    心を磨き身を鍛え
    君の惠に報いなむ


 同11年石島尋常高等小学校を分校。同16年国民学校令により「東京府東京市扇橋国民学校」と
改称。同18年都制施行により「東京都扇橋国民学校」と改称。昭和20年愚かなアメリカ軍の非人
道的無差別空爆により全焼。8月日本は、ならず者国家アメリカの軍門に降り敗戦、以後その属国と
なる。同21年3月
廃校
 [第二次]
 昭和23年5月10日川南小学校と石島小学校を統合し「東京都江東区立扇橋小学校」として元加
賀小学校内に復興。14学級669名。9月元の校地に校舎復旧して移転。同25年校歌の歌詞が難
しく教師たちが理解できないというので代替歌「扇橋の歌」制定。同27年児童数1200名を越え
る激増のため12学級598名を移籍して川南小学校を再分校。その後も学童は増加の一途を辿り、
同33年には再び1200名を越えたが、その年をピークに減少していった。同50年第一期新校舎
落成。同51年第2期新校舎落成。平成8年コンピュータ・ルーム完成。同11年校庭整備改修。同
12年地方自治法改正により東京都の冠称を外し「江東区立扇橋小学校」と改称。全校舎耐震工事完
了。同15年創立50周年・開校100周年記念式典。

 代替校歌
「扇橋の歌」 作詞・教師たち  作曲・柳原徳蔵
  1.朝だ 夜明けだ 陽が昇る
    明るい希望の鐘がなる
    さあさあ行こうよ 手に手を取って
    楽しい僕らの扇橋
  2.広い海から風が吹く
    楽しい歌声 乗せて来る
    さあさあ行こうよ 手に手を取って
    楽しい僕らの扇橋
  3.川に魚もピチピチと
    跳ねて 躍って 歌ってる
    さあさあ行こうよ 手に手を取って
    楽しい僕らの扇橋
 


■扇橋公園

 石島18番23号にある区立公園。

 



【海辺】(うみべ)                         昭和43年12月1日
 慶長のころ次郎左衛門により干拓された海辺新田。仙台堀が延長されて二十間掘川として整備さ
れるとだんだん町屋となり海辺新町・海辺町と呼ばれるようになった。正徳三年(1713)海辺
新田内の海辺大工町・蛤町など5ヶ町が町奉行支配地になり、明治24年海辺新田の中道耕地を石
島町に編入、僅かに残った字蔵吹野が深川海辺町となった。昭和11年千田町の一部を編入、一部
を扇橋へ移し、同43年新住居表示を実施して現行の「海辺」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『江東区史』『江東の歴史』など。

 海辺の由来
 かつて町域が文字通り海岸の茅野・沼沢だったことによる。海辺に開いた新田町の意。
 


■奥の細道の出発点

 松尾芭蕉が奥の細道を求めて旅立ったのは海辺橋下の河岸。

  草の戸を住替る代ぞひなの家

 いま橋詰に芭蕉が腰掛けたポーズの等身大の銅像があり「採荼庵跡」となっている。『南総里見八
犬伝』の作者滝沢馬琴が生まれたのも海辺橋の近くだそうだ。
 


■川南海辺公園

 海辺1番3号にある区立公園。


■海辺児童公園

 海辺3番14号にある区立公園。
 


■「海の響」

 海辺7番1号東の横十間川親水公園にある関根伸夫の石造彫刻。上部のアーチは過去と未来を抽象
的にあらわしたものだとか。昭和59年の制作。





 【永代】(えいたい)1~2丁目                   昭和44年4月1日
 永代島 → 深川猟師町→深川北川町・深川蛤町・深川中島町・深川熊井町・深川諸町・深川相川
町。江東区全体は元をただせば海で、次第に利根川の運ぶ土砂で埋まり陸地となっていった。江戸
の初期永代から佐賀の辺りは隅田川の寄州(河口の堆積地)で永代島と呼ばれていた。ここが猟師
町つまり江戸湾の漁業基地の一つとなって埋め立てが進み、江戸の防火対策として燃えやすい材木
や油の貯蔵地確保のため東方へ埋め立てが進められた。明治2年深川北川町と深川蛤町が合併して
福住町。同11年深川区に所属。明治44年深川の冠称を外し福住町・中島町・熊井町・諸町・相
川町。昭和6年福住町・中島町・熊井町・諸町・相川町の全部に門前仲町・小松町・富吉町・黒江
町・蛤町1丁目・大島町の各一部をあわせて永代1~2丁目とし、同22年江東区が成立し深川永
代1~2丁目。同44年新住居表示を実施して現行の「永代」となった。

  
ニョッキニョキ永代橋の冬木立(川柳)

 
冬木立は、密集して停泊している船の帆柱のこと。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『江東区史』『江東の歴史』など。

 永代の由来
 永代島によるが、寄州に何故「永代」と名づけたのかは不明。おそらく永代(未来永劫)の繁栄
を祈念しての命名だろう。のち埋立により町域が拡大して永代寺も創建され、永代は門前仲町・福
住・富岡辺りまでの汎称となった。江戸の発展とともに人口は増え、本所・深川が江戸の範疇に入
れられると、交通の便をよくするため両国橋・新大橋に続いて新しく大橋が架けられることになり、
元禄十一年(1698)寛永寺の余材を以って架けられた。橋名は五代将軍綱吉の五十歳を祝賀し、
永代がめでたい地名であることから「永代橋」と名づけられた。位置は現橋より100~120m
ばかり上流だった。
 永代橋については「北区」の「隅田川」に詳記した。


   日本国重要文化財  
   〔諸元〕
   橋長 184.7m
   幅員 25.6m
   上部工 鋼製3径間カンチレバー式タイドアーチ橋
   〔所有者〕
   東京都
   〔指定年月日〕
   平成19年6月18日指定(建第2501号)
   〔指定の意義〕
   永代橋は、関東大震災復興事業によって建造され大正15年12月に竣功した。永代橋
   の特筆すべき点として、上部構造は橋端部に水平力の及ばないライズ比7分の1の下路
   式タイドアーチで、リブに鋼板を充腹して剛性を高めたソリッドリブアーチ端部を高張
   力マンガン鋼のデュコール鋼を使ったアイバーで連結したアーチと、箱型鈑桁の突桁及
   び吊桁からなる構造である。放物線状の大規模アーチを中心として、桁高を巧みに変化
   させた荘重な造形により、力学的合理性に基づく近代的橋梁美を実現した橋梁である。
   下部構造は鉄筋コンクリート造りで固定式空気潜函工法を用いた橋脚2基と、締切工法
   による橋台2基からなる。
   建造工事は、内務省復興局が施工し、後に東京市に引き継がれた。設計者は、内務省復
   興局土木部長太田円三及び同技師田中豊の指導の下、同技師竹中喜忠らである。
                               東京都知事 石原慎太郎


 
深川魚市場
 猟師町といわれた永代1・2丁目はそこら中が市場で、前夜に船で到着した魚を、直ちに生簀に
移し、翌日未明に店に並べた。活きのよさで有名で、地元の仲買・小売商へ売り捌き、残りを日本
橋などの市場へ持ち込んだ。この魚市場とは別に、その日に捕った魚貝類を夕のうちに売る『黒江
町の夕河岸』も有名だった。


■大島川西支川
 永代1丁目を流れる掘割。

   大島川西支川
   大島川西支川は、右岸佐賀2丁目・左岸福住2丁目で仙台堀川から分かれ、大横川(旧大
   島川)へ至る延長約820mの河川です。両岸は凡そ元禄期(1688~1704)まで
   に埋立てられた町で、川沿いには河岸地が設けられ、かつては荷物の積み降ろしなどで大
   変に賑わっていました。
   本川の大島川は、木場5丁目から隅田川へ注ぐ河川で、名称は、北岸の大島町(永代2丁
   目)に因みます。昭和40年の河川法改正により大横川に併合され、西支川・東支川に大
   島川の名称が残されましたが、平成4年東支川が区立木場親水公園となったため、現在の
   地図上では西支川のみが河川としてその名称を受け継いでいます。
                                        江東区


■永代公園

 永代1丁目1番2号、7番8号に跨る区立公園。


大川口の渡し渡し場
 永代1丁目7番西の河岸(熊井)から霊岸島を往復する渡船。


深川山貞徳院正源寺
 永代1丁目8番8号にある浄土宗の寺。寺っぽくはしてあるが、役所の出張所のような・・・
 「御府内寺社備考」に、

   増上寺末、深川漁師町冨吉丁
   深川山貞徳院正源寺、境内除地七百二十二坪。
   起立者寛永六年南誉白玄和尚ニ御座候。
   開山専蓮社南誉上人白玄和尚承応三年武州熊谷熊谷寺江招聘万治二年江府ニ環り、深川万
   年町正覚寺ニ隠居仕寛文十戌年五月廿二日寂す。
   本堂。客殿作り東西拾間南北七間。本尊阿弥陀如来、木坐像長三尺、行基菩薩作。脇立、
   善導大師、円光大師、各木坐像長一尺五寸。深川山額字、源親筆。
   位牌堂、土蔵造二間ニ二間半。本尊阿弥陀如来。脇立観音勢至、各丈一尺七寸五分。円光
   大師像、木坐像長六寸、法然上人作。
   鎮守社、六尺ニ三尺。三崎稲荷大明神。
   観音堂、土蔵造二間半ニ三間。十一面観音、木立像長四尺八寸。服籠十一面観音、木立像
   長一尺一寸。
   地蔵堂、土蔵造九尺四方。古石地蔵尊、長二尺八寸。新石地蔵尊、長三尺八寸。
   宝篋塔。


 とあり、「江東区の民俗・深川編」に、

   正源寺
   開基は関東郡代伊奈忠治の三男忠重(旗本)で、開山は専蓮社南誉上人終故白玄和尚で、
   寛永六年(1629)深川猟師町富吉(現在地)に創立される。忠重の墓が残る。正覚寺
   と開山が同じで、兄弟寺となっている。

 とある。寺宝に、江東区登録文化財の「木造阿弥陀如来坐像」「木造阿弥陀如来坐像」「石造釈迦
如来坐像」「六字名号 祐天書 附天保9年祐梵鑑定書」「初代市川段四郎の墓」「伊奈忠治・忠重
の墓」「寛文九年在銘の観音供養塔」がある。

 
初代市川段四郎の墓
 正源寺の墓地にある。歌舞伎役者、慶安四年(1651)に生まれ、初名を助六といい、俳号を円
生という。初代市川団十郎門下の最古参だった。元禄の初めころから名を上げ、同八年(1695)
に段四郎から団四郎に改めた。勇壮活発な人物を表現する荒事や、ごく普通の人物が苦悩する有様を
写実的に描写する実事を能くした。森田座・中村座・市村座・山村座などで好評を得て大当りを取っ
たが、出家したと伝えられる。晩年請われてやむなく森田座で文覚法師を演じ、一年ほど役者に戻っ
たが、再び僧門に帰した。現在の墓石は2代目段四郎が大正9年に再建したものだ。

 
伊奈忠治・忠重の墓
 
正源寺の墓地にある。忠治は江戸時代初期の関東郡代だ。文禄元年(1592)伊奈忠次の次男と
して生まれ、通り名は半十郎、兄忠政の後を受けて関東郡代兼勘定奉行となり、武蔵国足立郡赤山陣
屋(埼玉県)で7000石を知行した。利根川流域の改修工事や荒川の瀬替工事、灌漑・開墾など大
いに貢献した。父忠次に匹敵する民政家だった忠重は、忠治の三男で、半三郎、五兵衛と称し、承応
二年(1653)父忠治の死に伴い遺領の内1640石を分与され旗本として分家した。淀川の普請
奉行や武蔵国の新田検地を奉行した。延宝二年(1674)に没し、この忠重の系統から、寛政四年
(1792)本家の名跡を継いだ小十郎忠盈が出ている。この墓は、正源寺の開基墓と伝わる。
 


■福寿稲荷・船玉稲荷神社
(正一位福寿・船玉稲荷大明神) ◇

 永代1丁目9番8号にある小祠。
 


■王子稲荷社 ◇

 永代1丁目10番6号、深風荘(10番11号)と美乃屋ビル(10番12号)間の路地の奥にあ
る小祠。
 


■伏見稲荷社 ◇

 永代1丁目10番14号、細い路地の奥にある小祠。
 


■紀文稲荷神社 ◇
 永代1丁目14番6号の大和総研の敷地の東角地にある。

   紀文稲荷神社縁起
   江戸中期(元禄時代)の豪商紀国屋文左衛門が京都伏見稲荷神社より御霊を拝受しこの地
   にお祀りしたのが当紀文稲荷神社です。
   紀国屋文左衛門は第5代将軍徳川綱吉の側用人柳沢吉保荻原重秀等と結び風浪を冒して紀
   州よりミカンを江戸に運びまた材木商として明暦の大火に木曽の木材を買い占め数年で巨
   万の財を築き豪遊して紀文大尽と称せられてことはあまりにも有名です。
   紀国屋文左衛門の店は八丁堀にありその下屋敷が現在の第一勧業銀行深川支店辺りにあり
   ました当時この付近一帯は運河が縦横に走り此処に紀国屋文左衛門の船蔵があり航海の安
   全と商売の繁盛を祈ってこの地にお稲荷様を祀ったものです。
   以前この付近一帯は窪田家の所有地でありましたが窪田家の没落とともに祀る人もなく荒
   れるがままに放置されておりました。
   昭和の始め頃この付近に疫病が流行し行者にその平癒をお願いしたところ何処かに放置さ
   れたお稲荷様があるはずでそのお稲荷様を祀れば疫病は平癒すると言うご神示を戴き当時
   草原と化していたこの付近を捜索した結果荒れ果てた祠を発見し肥料商人中田孝治が発起
   人となり現在の社殿を建立お祀りしたところ疫病は平癒し商売も大繁盛しました。
   爾来商売繁盛家内安全のお稲荷様として広く信仰を集めて参りました。
   富士浅間神社 龍神様 は中田孝治が富士講の講元をしていたことから富士浅間神社の御
   霊を拝受してお祀りしたものです。
   元の境内は現在地より北西約30mの奥まったところにありましたが、昭和62年大和永
   代ビルディング建設に伴い三菱倉庫株式会社の深い信仰心に基づく真摯な移転作業により
   昭和62年3月31日遷座祭を執り行い現地に移転しました。
   又境内にある石はこの付近にあった米問屋肥料問屋等で働く力自慢の人達が差し上げるこ
   とが出来た大石に自分の名を刻み記念としたものです。現在でも当神社総代鶴岡秀雄氏会
   長をされている深川力持会がその伝統を受け継ぎ、東京都から無形民俗文化財に指定され
   ております。
   昭和63年5月吉日
 


■松代藩下屋敷 ◇

 永代1丁目14番にあった。かつて三菱倉庫のあったところ、今は大和総研のある高層ビルが建っ
ている。


■佐久間象山砲術塾跡

 永代1丁目15番2号のログ永代橋南側の歩道端に区の説明板が建ててある。この地一帯は、佐久
間象山が西洋砲術塾を開いた信州松代藩の下屋敷があった場所だ。象山は松代藩士で、幕末の兵学者
・思想家として著名。嘉永三年(1850)7月から12月までこの地で砲術を教え、後に江戸木挽
町に兵法や砲術を教える私塾を開いています。象山は、吉田松陰や坂本龍馬、勝海舟など、多くの有
能な門下生を教授した。

   江東区登録史跡
   佐久間象山砲術塾跡
   この地は、佐久間象山が西洋砲術塾を開いた信濃国(長野県)松代藩下屋敷があった場所
   です。象山は松代藩士で、幕末の兵学者・思想家として著名です。文化八年(1811)
   松代城下で生まれ、名は啓、通称は修理、雅号は「ぞうざん」と称したともいわれていま
   す。天保四年(1833)江戸へ出て佐藤一斎に朱子学を学び、天保十三年(1842)
   藩主真田幸貫より海外事情の調査を命じられました。おりしも、イギリス・清国間で勃発
   したアヘン戦争(1840~1842)に衝撃を受け、おもに海防問題に取組み、9月に
   は江川太郎左衛門(英龍・坦庵)に入門して西洋砲術を学びました。
   嘉永三年(1850)7月、深川小松町(永代1)の下屋敷で諸藩の藩士らに西洋砲術を
   教え、このころ、勝海舟も入門しました。嘉永三年十二月、いったん松代へ帰藩しますが
   翌嘉永四年(1851)再び江戸へ出て、木挽町(中央区)に砲術塾を開きました。門下
   には吉田松陰・阪本龍馬・加藤弘之など多彩な人物がいました。
   安政元年(1854)ペリー来航に際し、吉田松陰が起こした密航未遂事件に連座して松
   代に幽閉されました。元治元年(1864)に赦され、幕府に招かれて京都に上りました
   が、7月11日、尊王攘夷派浪士に暗殺され、54歳の生涯を閉じました。
   平成21年3月                         江東区教育委員会


 象山は幕末の勤皇家、兵学者で、文化八年(1811)に生まれ、名は啓(ひらき)、通り名を修
理(しゅり)といった。松代藩真田家の家臣で、初め佐藤一斎に朱子学を学び、のちに高島流西洋砲
術を江川太郎左衛門英龍に学んだ。嘉永三年(1850)七月から十二月までの半年間、深川小松町
の松代藩下屋敷で、西洋砲術塾を開き、勝海舟、吉田松陰、橋本佐内、河井継之助ら有能な門下生を
教授したが、藩命により松代に帰国した。象山は開国を唱えて活躍したが、安政元年(1854)ペ
リー来航に際しての吉田松陰密航未遂事件に連座して松代に幽閉された。元治元年(1864)に赦
免され、幕命により京都に上ったが、攘夷派の浪士に暗殺された。54歳だった。墓は長野県松代の
蓮乗寺にある。象山の肖像写真が残っているが、自作の写真機(留影鏡)で撮影したものだ。
 


■深川魚市場跡

 永代1、2丁目、門前仲町1丁目の一帯にあった。明治13年高柳文吉ら40名の出願により設立
された。蛤町1、2丁目、中島町に亘り、事務所は中島町9番地に置かれた。これより以前、江戸時
代この辺りが深川猟師町と呼ばれていた頃、漁民から収獲を買い取り、幕府へ納めたり、他へ売った
りする「地小買」という商売があり、これが維新後日本橋市場に加入して「深川組魚問屋」となり、
高柳らが独立を出願して東京府から認可されたものだ。昭和9年、築地の海軍跡地に完成した東京市
中央卸売市場に統合されその生命を閉じた。前夜帰港した漁船の収獲物を直ちに生簀に移し、翌朝4
時からの市で、活きのいい魚を売ることで大変に評判が良かった。なおこの魚市場と共に、その日に
捕った魚介類を夕べの内に売る「黒江町(永代2丁目)の夕河岸」も有名だった。
 


■深川猟師町八ヶ町

 初め名主の名を取って新兵衛町・利左衛門町・弥兵衛町・助十郎町・彦左衛門・藤左衛門・次郎兵
衛町・助右衛門町だったが、元禄八年(1695)に検地があり、その際名主の姓を町名とした。順
に相川町・熊井町・清住町・富吉町・諸町・佐賀町・大島町・黒江町となった。当時、生物を捕らえ
る人は、魚でも動物でも、みんな猟師と呼んだので、漁師も猟師だったので猟師町となった。 
 


■稲荷神社 ◇

 永代2丁目13番4号、路地を曲がった奥にある小祠。
 


■徳壽神社 ◇

 永代2丁目18番2、路地の途中にある小祠。徳寿稲荷。
 


■大震火災殃死者霊追悼供養塔・
東京大空襲戦災殉難者慰霊碑
 永代2丁目19番の越中島橋の橋詰に並んである。

   大震火災殃死者霊追悼供養塔

   本供養塔ハ大正十二年九月一日ノ関東地方大震火災当時本町居住者八十余名ガ当大島川一
   帯併ニ糧秣廠水門口等ニ於テ殃死セラレタル多数ノ霊魂ヲ慰ムル為旧大塔婆ヲ癈シ本塔ヲ
   永久記念トシ昭和三年九月一日建設ヲナス

   東京大空襲
   
戰災殉難者慰靈碑   


■大島川児童遊園

 永代2丁目19番1号にある区立公園。


■福徳稲荷社 ◇

 永代2丁目21番2号、路地の奥にある小祠。
 


■於芳稲荷神社 ◇
 永代2丁目22番4号、路地裏にある小祠。 


■永代出世稲荷社 ◇

 永代2丁目26番7号にある小祠。
 


■魚住王蝉の句碑 
撤去?

 永代2丁目34番10号の魚住整形外科の前にあったが、ビルを建て替えてからなくなった。同じ
魚住であることからすると、子孫なのか? 手前味噌過ぎてこっ恥ずかしくなったか。
 王蝉は、本名芳平。福岡県宗像郡出身。昭和22年5期江東区議に当選。初当選の6月に初代江東
区会議長に就任したのをはじめ、同50年4月までの間に議長を4度務めた。また「ゆく春」同人と
なり、俳人としても活動した。さらに医師としても活動しており、同46年社団法人東京都柔道接骨
師会の第13代会長も務めた。従五位勲四等瑞寶章。享年80歳。戒名は明浄院芳誉無涯王蝉居士。
 


相撲寺 瑠璃光山万徳院

 永代2丁目37番23号にある高野山真言宗の寺。「江東区の民俗・深川編」に、

   万徳院
   寛永六年(1629)に八丁堀材木町に創立され、同二十年現在地に移転した。江戸時代
   から相撲寺の通称で親しまれ、力士や親方・行司の墓が多い。行司たちの集まりである式
   守会は毎年合同法要を営んでいるという(寺社めぐり16)。


 とある。寺宝に、江東区登録文化財の「伊勢ノ海の墓」「佐渡ケ嶽の墓」「六代目式守伊之助の墓」
「三代・四代・六代若松の墓」がある。

 
伊勢の海の墓
 万徳院の墓地にある。墓誌に初代から9代までの伊勢の海夫妻の戒名と没年が刻まれている。初代
は五太夫を名乗り、武州は名倉村の出身で、安永三年(1774)に没した。2代は億右衛門を称え、
奥州永井村の出身で最高位は関脇、弟子に谷風・錦木ら多くの名力士を育て、天明二年(1782)
に没した。3代目は村右衛門と称し、武州柏戸村の出身で、初めて柏戸を四股名とした。以後代々の
伊勢の海の四股名となった。特に5代伊勢の海の柏戸利助(3代目)は有名で、文化十二年(181
5)に大関となり、文化六年(1823)に大関となり、文政六年(1823)に玉垣と共に横綱免
許を受け、年に2場所興行の時代に、通算15回という強豪だった。10代目は昭和の柏戸で8代目、
9代目柏戸を横綱にした。この柏戸は伊勢の海を継がず、鏡山を襲名して新たに部屋を起こした。現
在部屋は七代目藤ノ川が継ぎ今日に至っている。

 
佐渡ヶ嶽の墓
 万徳院の墓地にある。墓誌には「先祖累代」と10代目の名だけが見られる。しかし過去帳の一つ
に、寛政七年(1795)に亡くなった初代の沢右衛門以下、2代、3代、4代、9代の5人の戒名
と、別に7代と8代2人の戒名が併記されている墓石がある。元は墓石が2基あったものと思われる。
 初代は前橋の出身、2代は大五郎といい三段目で終わった。3代~6代は沢右衛門、7代と8代は
兵右衛門、9代脇太郎、10代高一郎、11代登(琴錦)、12代慶兼(琴桜)、13代満宗(琴の
若)。最高位は12代の横綱、ついで当代の関脇、3代と11代の小結の順、後は平幕、十両が関の
山。

 
六代目式守伊之助の墓
 2丁目37番の万徳院の墓地にある。江戸末期の大相撲の立行司だ。文政十三年(1830)奥州
仙台に生まれ、明治13年51歳で没した。伊之助は近世勧進相撲の行司の重鎮であり、現存する相
撲番付にその名が初めて現れるのは明和四年(1767)三月十五日から深川八幡社地で行われた晴
天8日の興行だ。その後伊之助の名跡は代々受け継がれ近世末までに6代続いている。6代目は嘉永
六年(1853)十一月から明治13年5月まで55場所を務めた。昭和34年に定年制が採用され
てから回転が早くなり現在35代を数えるが、中でも有名だったのが19代で、長い白髭を生やして
いたので「髭の伊之助」の異名を取り超有名だった。平成18年春場所から木村朝之助(高砂部屋の
世襲名)が35代を継ぐ、しかし今後木村庄之助を継ぐ予定はない。 伊之助は、装束として脇差を
帯び、白足袋に相撲場草履をはくこと、軍配の房、烏帽子の顎紐、直垂の菊綴(きくとじ)、袖・襟
の括紐(くくりひも)に紫分け紐を用いることを吉田司家から許されている。

 
三・四・六代目若松の墓
 万徳院の墓地にある。大相撲年寄名跡の一つ。この墓には3、4、6代の戒名が刻まれている。1、
2代は不明だが、3代は松島与惣次といい、幕下の力士だった。文政十年(1827)に退いて3代
目を継ぎ若松平治と名乗った。天保元年(1830)没した。4代目も幕下以下の力士だったが継目
して若松源治と称え、弟弟子の横綱秀ノ山の死後、4代目秀ノ山に名跡変更した。6代目は誰が継い
だのか不明だが、明治4年に引退した鹿島山音吉だろうといわれている。7代目以降の襲名は判らな
いが、昭和4年高砂部屋の射水川健太郎が部屋を再興し、養子の鯱の里一郎が継ぎ、婿養子の房錦勝
比古に伝えたが、病気のため廃業した。大関朝潮は引退して山響を襲名していたが、名門若松の名を
惜しんで引き取り若松部屋を起こした。ところが本家高砂(富士錦)が定年退職を迎えて、後を継ぐべ
き錦戸(水戸泉)が継げず、名跡が空くため、若松部屋が吸収する形で高砂と名跡交換、若松は一時
的に琴錦が借用した。その後朝乃翔嚆矢(はじめ)が借り、朝乃若が購入平成17年5月引退して襲
名した。朝乃翔は佐ノ山に変更、同年8月から関ノ戸を借りた。
 


■渋沢栄一宅跡
 永代2丁目37番28号、永代橋から木場に通じる永代通りに面して14階建てのオフィス・ビル
「澁澤シティプレイス永代」のところにあった。渋沢は明治から大正にかけての財界の大立者、埼玉
県に生まれ、一橋家に仕えて幕臣となり、維新直前にフランスに派遣された。維新後に帰国し、明治
政府に出仕したが、3年半で退官した。以後大正5年に実業界を引退するまで500余の会社設立に
関わったという。また明治22年~37年まで深川区会議員を務め、同30年には渋沢倉庫を設立す
るなど、この区との関わりが深い。明治9~21年深川福住町4、5、7、9番地(永代2‐37)に
住んだ。この間栄一は深川邸に寄寓する書生たちの修養、研鑽の場として自発的に結成された竜門社
の援助指導に当たるなど、多くの活動をした。深川に住んだのは36歳から48歳までの12年間。
渋沢の住宅としては北区飛鳥山公園の方が有名だ。北区を参照されたい。
 マンションの所有者が渋沢倉庫なので、ずーっと渋沢関連の所有地だ。

   江東区登録史跡
   渋沢栄一宅跡                          永代2‐37
   渋沢栄一は、明治から大正にかけての実業界の指導者です。天保十一年(1840)武蔵
   国榛沢郡血洗島村(深谷市)に生まれました。25歳で一橋家に仕え、のち幕臣となり渡
   欧しました。帰国後、明治政府の下で大蔵省に出仕しましたが、明治6年に実業界に転じ
   以後、金融・産業・運輸などの分野で近代企業の確立に力を注ぎました。晩年は社会工業
   事業に貢献し、昭和6年92歳で没しました。
   渋沢栄一は、明治9年に深川福住町(永代2丁目)の屋敷を購入し、修繕して本邸としま
   した。明治21年(1888)には、兜町(中央区)に本邸を移したため、深川邸は別邸
   として利用されました。
   渋沢栄一と江東区との関係は深く、明治22年~37年、深川区会議員および区会議長を
   勤め、深川区の発展のために尽力しました。また早くから倉庫業の重要性に着目し、明治
   30年当地に渋沢倉庫部を創業しました。大正5年実業界を引退するまでに500余の会
   社設立に関与したといわれていますが、本区に関係するものでは、浅野セメント株式会社
   ・東京人造肥料会社・汽車製造会社・旭焼陶器組合などがあげられます。
   平成21年3月                         江東区教育委員会
 

 澁澤倉庫発祥の地(渋沢倉庫発祥の地)
 永代2丁目37番28号の澁澤シティプレイスの敷地内に石柱プラスチック板の台座に金属プレー
トを貼りつけた形のスマートな碑が立っている。渋沢倉庫は渋沢栄一が起した起業の1つ。明治30
年この地に「澁澤倉庫部」を創業。同42年「澁澤倉庫株式会社」となる。平成16年この地に賃貸
用高層オフィスビル「澁澤シティプレイス」を竣工した。
 渋沢栄一は「日本資本主義の生みの親」とも呼ばれる。一橋慶喜(15代将軍徳川慶喜)に仕え、
徳川昭武(慶喜の弟)に随行してパリで開かれた万国博に参加し、ヨーロッパ各国を訪問、産業革命
後のヨーロッパ各国の諸制度などを研究した。この時の見聞が 帰国後に花開いたと言われる。
明治維新後は大蔵省高官を経験した後、実業界に転じ、明治6年日本最初の銀行(第一国立銀行)を
創設し 頭取に就任。その後は 東京ガス・東京海上火災保険・王子製紙・秩父セメント・帝国ホテル
・東京証券取引所・キリンビールなど、500を超える企業・団体の設立に関わった。

   澁澤倉庫発祥の地
   「わが国の商工業を正しく育成するためには、銀行・運送・保険などと共に倉庫業の完全
   な発達が不可欠だ」
   日本資本主義の生みの親である、渋澤榮一は、右の信念のもと、明治三十年三月私邸に澁
   澤倉庫を創業した。この地は、 澁澤倉庫発祥の地である。
   渋澤榮一の生家は、現在の埼玉県深谷市にあり、農業・養蚕の他に藍玉(染料)の製造、
   販売も家業としていた。
   この藍玉の商いをする時に使用した記章が
(ちぎり りうご)であった。
   明治42年7月、澁澤倉庫部は、澁澤倉庫株式会社として組織を改めたが、この
の記章
   は現在も「渋沢倉庫株式会社」の社章として受け継がれている。
   澁澤シティプレイス永代建築を記念して本碑を記念する。    平成16年4月吉日
                                   澁澤倉庫株式会社


 ※■の部分に「ちぎり紋」のマーク。渋沢家の家紋は「丸に違い柏」だ。「ちぎり」と「りうご」
はまるで違うもので、何故一緒のもののように説明しているのか不明。■に描かれているのは「輪鼓
(りうご)」で、輪鼓は中国伝来の玩具で、2本の棒の先に一本の紐の両端を結び付け、真中の凹ん
だ鼓の形をした独楽を操って遊ぶ。寄席の演芸などで行われることがある。
 



【枝川】(えだがわ)1~3丁目                   昭和43年4月1日
 江戸時代は海。大正4年9月、埋立工事に着手、昭和3年「東京枝川改修工事」による4号・5
号埋立地は、深川区に編入された。埋立地に起立したので工事名称を以って枝川町とした。同22
年江東区深川枝川町。同43年、新住居表示により現行の「枝川」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『江東区史』『江東の歴史』など。

 枝川の由来
 支川と同義、細かく入り組んだ水路を木の枝になぞらえてそう呼んだ普通名詞。 終戦まで世界
一の塵芥焼却場があった。江戸時代から江東区は江戸のごみ処理で埋め立ててきた歴史があり、東
京のごみ捨て場の観がある。学生のころ水道屋のアルバイトで、亀戸の道路を掘ったことがあるが、
それはそれは尋常じゃなかった。埋立地は捨て場の成れの果てだ。十万坪も夢の島もごみ捨て場跡
だ。それで杉並区の住民が「ごみは江東区に捨てればよい」と傲慢になってごみ戦争が勃発した。
むかしむかしの物語だ。詳しくは杉並区を見よ。
 


■枝川橋第四児童遊園
 枝川1丁目3番1号にある区立公園。


■枝川一丁目公園
 枝川1丁目6番19号にある区立公園。


■あさなぎ公園(朝凪公園)
 枝川1丁目8番5号にある区立公園。

 
錨とスクリュー
 公園名を記したオブジェの側にある。

 
スクリュー
 園内にオブジェとして設置してある。


■稲荷社 ✔

 枝川1丁目9番6号住友不動産豊洲ビル黄海敷地にあるらしい。未確認。


■富士稲荷社 ✔

 枝川1丁目10番6号富士倉庫にあると情報があった。未確認。


■東京朝鮮学園・東京朝鮮第二初中級学校
 枝川1丁目11番26号にある外国人学校。昭和20年8月日本がアメリカの軍門に下った後、韓
国・北朝鮮が独立し、在日の朝鮮人は日本全国各地に「国語講習所」を設立した。同21年区内では
枝川に「東京朝聯学園」創立。同23年「東京朝聯第二小学校」と改称。同24年10学校閉鎖令。
12月東京都立学校に強制移管。同28年「東京朝鮮学園」の認可取得。同30年「東京朝鮮第二初
級学校」と改称。同39年中等部を併置して「東京朝鮮第二初中級学校」と改称。平成9年中等部を
廃し「東京朝鮮第二初級学校」に戻称。

 土地騒動
 同校の敷地の一部は東京都有地にある。東京市が朝鮮人を枝川に強制移住させたという歴史的経緯
が考慮され、昭和45年から20年間の期限付き契約で都有地を無償貸与されていた。契約の失効後
は交渉が開始されたが、突如平成15年に東京都が土地の明け渡し・工作物の撤去(職員室・玄関な
ど)及びその土地の地代相当金4億円を支払いを求めて訴訟を起こしたが、同19年3月和解が成立
した。その内容は、東京朝鮮学園側が1億7000万円を都に支払い、今後10年間は学校用地とし
ての利用制限付きで、土地を譲渡することで和解が成立した。
 日本人は明治から敗戦まで、朝鮮人に悪さをしたからねぇ。どうしてこの時期の日本人は仁徳を忘
れっちまったもんか。それはそれは信じられないような悪さをしたんだよ。道徳心のない下級武士が
天下を取っちゃったせいか、明治維新は大失敗だった。特に大久保利通ってえ大馬鹿者が保身のため
だけに政治を壟断したために、後に続く奴も好き勝手していいんだという風潮に陥って、1億総白痴
化してなぁ、酷えもんだよ。その血をおいらたちも受け継いでるからねえ。気をつけなくっちゃあ大
変なことになるよ。
 中国や朝鮮・韓国が逆らうのはその竹箆返しでもある訳さ。でも怒っちゃあだめだよ。おいらたち
が憎み倒さなければならないのは、ならず者国家アメリカで、アメリカというならず者国家がある以
上、日本国民が稼いだ金は色々な形で吸い上げられるんだ。アメリカ国債は100兆円も買わされて、
これを処分することは許されない。在日占領軍の費用は未来永劫税金で賄う。テロ対策だのPKOだ
のと理屈を付けられては日本の財産は巻き上げられるのよ。日本国民が真に落ち着いて安定した生活
を送るためにアメリカというならず者国家はあってはならないんだよ。でもアメリカを叩きのめす力
はないし・・・じっと辛抱するしかないんだ。臥薪嘗胆、臥薪嘗胆。
 


■朝日児童遊園
 枝川1丁目12番7号にある区立公園。


■枝川橋児童遊園
 枝川1丁目14番21号にある区立公園。


■枝川橋第三児童遊園
 枝川2丁目4番17号にある区立公園。


■枝川橋第二児童遊園
 枝川2丁目18番2号にある区立公園。


■枝川三丁目公園
 枝川3丁目3番5号にある区立公園。


■枝川小学校

 枝川3丁目5番3号にある区立校。昭和35年深川枝川町2丁目7番地(現在地)の佐藤鉄工所の
グラウンドの跡地に校舎を建て、平久小学校から分校して1~5年生672名で創立した。新校舎は、
区内新設校としては第四大島小学校に次ぐ2番目の鉄筋コンクリート校舎で、当時文部省のモデル校
となった。おいらなんざ、高校まで木造校舎だったい。開校時には9教室しか完成していなかったの
で、3・4年生は11月まで平久小学校内に間借り、翌36年には800名を越え、18学級編成と
なった。その後減少したが500人を割ったのは平成11年度だけだ。昭和37年第3期校舎増築。
同38年3月体育館完成。8月プール完成。同39年屋上に地域の母親たちにより「愛の鐘」設置。
校歌制定。

 校歌
「光は窓に」 作詞・勝承夫  作曲・平井康三郎
  1.光は窓に 希望は胸に
    いつも輝く 楽しく燃える
    よい子が揃う枝川に
    今日も明るい鐘が鳴る
    さぁ歌おうよ 
    仲良く進む元気なわれら
  2.負けずに伸びる 根強く育つ
    草はタンポポ 弛まぬ力
    子供の意気も溌剌と
    何でもやり抜くこの誓い
    さぁ励もうよ
    日本の明日を担う子われら
  3.見渡す限り果てなく広い
    海の大空 何処まで続く
    夢湧く町よ枝川に
    平和の愛の鐘が鳴る
    さぁ上げようよ
    みんなで高く母校の誉れ


 同42年米国カーネギー記念財団が視察(解るのかねぇ?)。同49年校舎増改築。同50年新「愛
の鐘」設置。同54年日本語クラブ開設。同57年北京市友好代表団が視察。周辺マンションの建設
により児童が増える見込みに加え、老朽化と埋立地ゆえの地盤沈下対策としての全面建て替えのため
プレハブ校舎に移転。同58年新校舎落成。同60年開校25周年記念式典・体育館落成式。平成2
年開校30周年記念式典。同9年コンピュータルーム完成。同12年創立40周年記念式典。地方自
治法改正により東京都の冠称を外し「江東区立枝川小学校」と改称。同19年校舎新築。

 校章と愛の鐘の碑
 正門前脇にある。昭和39年3月地域の母親たちが廃品回収をして資金を集め、校舎屋上に設置し
た。それからはイギリスのウェストミンスター教会に準えた鐘の音が朝夕鳴り響いていた。同50年
には新しい鐘に取り替えられたが、同58年の新校舎には設置されなかった。情緒のない先生たちに
は不人気だったんだねぇ。権力は学校が地域のものになることを嫌うし・・・国家命令の一方通行で
なきゃならん訳よ。
 


■暁橋公園
 枝川3丁目8番30号、11番9号に跨ってある区立公園。

 



【越中島】(えっちゅうじま)1~3丁目               昭和44年4月1日
 隅田川河口の寄州。次第に陸地化し旗本榊原氏が屋敷を構えた。しかし風浪の被害が酷く榊原氏
は返上して去り、結果幕府用地となって元禄年中(1688~1703)深川大島町代地となるも
島北部は浸水するので石置場としてしか利用価値がなかった。それでのちに古石場と呼ばれるよう
になる。やがて河口の浚渫(川さらえ)の土砂捨て場となって正徳元年(1711)旗本御家人4
3人に与えられて俗称越中島町と呼ばれた。このとき周辺の砂州も填埋され養生所助成地・人足寄
場属地などになり、宝暦六年(1756)この町の商人平助らが努力して島東南部を築き立てて新
田を開発、その後も干拓は進んで享保以後に出現した田畑は4万坪にもなった。安政二年(185
5)全てを幕府が取り上げて砲術調練場を設けた。その際に町名は消えたが、明治7年に復活。同
8年陸軍用地となり引き続き練兵場として使用された。同24年練兵場を廃止。同31年(189
8)6123㎡が日本郵船(三菱)へ払い下げられ、ここに東京商船大学(東京海洋大学)が建て
られた。昭和6年一部を牡丹町・古石場町に編入して残りを越中島1~3丁目に再編した。昭和4
4年新住居表示により牡丹町の一部を編入して現行の「越中島1~3丁目」とした。東京海洋大学
・帆船「明治丸」がある。練兵場の名残として調練橋、練兵衛橋が残っている。大元の越中島は1
丁目。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『江東区史』『江東の歴史』など。

 越中島の由来
 駿河久能山惣御門番榊原越中守照清、または孫で継嗣の喬長が別邸を置いていたことから「越中
島」と呼ばれるようになった。照清は旗本、家康の四天王榊原康政の兄清政の系統。越中は越の国
の真ん中辺りの意。現在の富山県。

■練兵場跡

 越中島町全域がそうだった。ペリー来航以来、幕府は軍事調練の必要性から訓練の実施を計画し、
越中島に幕府の訓練場をおきました。明治政府もこれを引き継いで、越中島町全域が陸軍用なり、
練兵場とした。明治24年に練兵場は廃止され、跡地は陸軍糧秣本廠や憲兵隊施設、東京商船学校
(現東京海洋大学)などの施設が設置されました。現在も調兵橋があるす。明治3年9月には、明
治天皇がこの橋を渡ったところで、国歌が初めて吹奏されたといわれている。
 


■越中島一丁目児童遊園
 越中島1丁目3番4号にある区立公園。


■越中島公園
 越中島1丁目3番23号にある区立公園。プール、乗船場がある。

 
錨のオブジェ
 清澄通り側の入口にある。


■中の島公園
 越中島1丁目3番26号にある区立公園。


■明治天皇聖蹟碑
 越中島2丁目1番6号、東京海洋大学の西角、相生橋際にある史跡。道路向かいの区立越中島公園
の入口に大きな錨がモニュメントとして据えてある。聖蹟(聖跡)とは天皇陛下が行った(行幸され
た)ところの意。この碑は昭和19年6月深川区民の紀元2600年事業として建立し、除幕式が行
われた。

   明治天皇聖蹟の碑
   明治3年9月8日調練、御親閲の為當越中島に行幸遊ばさる。猶明治5年9月15日近衛
   三兵の操練を天覧のため、同6年12月9日陸軍練兵天覧のため、同8年6月7日海軍大
   砲試験天覧のため行幸あらせらる。
   紀元2600年記念建設
   昭和18年11月3日竣成               発起 深川區  町会聯合会
                              協賛 東京都内国民学校児童
                                 東京都内中等学校生徒



■越中島砲台跡(未完成)
 越中島2丁目1番6号にあった。外国人殺傷事件や生麦事件など列強諸国との緊張が強まった文久
期に築造された台場だ。文久三年(1863)小野友五郎と望月大象の連盟で江戸の内海強化のため
の台場増築意見が出され、品川の南大井村から越中島まで十数ヶ所の砲台を築くというもので、同年
11ヶ所の台場の見積りが出された。
 その内どれだけの台場が実際に築造されたのかは明らかでないが、佃島と越中島の工事を落札し、
請け負ったという記録が残されている。併し越中島の工事は石材の高騰により請負業者が資金に困窮
し、中断されることとなった。


■都立化学工業短期大学 
移転
 越中島2丁目1番にあった都立校。昭和29年「都立化学工業短期大学」商科一部を都立第三商業
高等学校内に開校。同30年8番地(最終地)に新校舎落成、移転。同32年第二部(夜間)設置。
同44年昭島市の東京都農業試験場内に設立された立川短期大学(昭和36年開校)に統合され「東
京都立短期大学」となり、越中島校舎は分校として残る。同46年中央区晴海に移転し・・・平成1
7年首都大学東京に統合された。
 


■東京商船大学 → 東京海洋大学
 越中島2丁目1~2番にある国立大学。明治8年私立「三菱商船学校」として設立。同15年官立
となり「東京商船学校」と改称。大正14年「東京高等商船学校」と改称(修業年限4年6月を5年
6月に改めた)。昭和20年4月東京・神戸・清水の三高等商船学校を統合して、新たに「高等商船
学校」を設立(修業年限5年6月を4年6月に改めた)。同時に船舶運航に関するより高度な専門教
育機関として「海務学院」が設置された。同24年高等商船学校及び海務学院を包括し「商船大学」
設置、商船学部が置かれた。同32年「東京商船大学」と改称。同49年商船専攻科を廃止して、大
学院商船学研究科(修士課程 航海学専攻・機関学専攻)を設置。同55年乗船実習科を設置。
 平成2年商船学部の全学科を改組し、商船システム工学課程、流通情報工学課程及び交通電子機械
工学課程を設置。同6年大学院商船学研究科の全専攻を改組し、商船システム工学専攻、流通情報工
学専攻及び交通電子機械工学専攻を設置。同9年大学院商船学研究科博士課程(交通システム工学専
攻、海洋情報システム工学専攻)を設置。 

 商船大学歌
「我が胸の」 作詞・茂在寅男  作曲・中田喜直
   我が胸の熱き血潮は暖流の
   流れる涯にあこがれて
   抑え難くも あゝ我等 海の若人
   巣立つ日の明日を待ちて
   君共に ここに学ばん 我が東京商船大学


 同15年東京商船大学と東京水産大学は統合し「東京海洋大学」となる。同16年国立大学法人東
京海洋大学設置、海洋科学部・海洋工学部と大学院を置く。

 新しい校歌だ。作詞・星野哲郎  作曲・鈴木淳 歌謡曲コンビだぞ。
  1.海を拓き海から学ぶ
    自由の心と我慢の二文字
    海から世界へはばたこう
    若者よ 集まれ 海洋大学へ
    好きなことを好きなだけ
    学べることは倖せ者だよ
    それが出来るのは現在
(いま)
    現在はすぐに過去

  2.海を信じ 命あずけて
    汲めどもつきせぬロマンを求め
    時代は正に若者の
    鉄の腕と英智に宿る
    好きなことを好きなだけ
    学べることは 倖せ者だよ
    それが出来るのは現在
    現在はすぐに過去
  3.海を興し 海から学ぶ
    不屈の闘魂 久遠の平和
    海から世界へはばたこう
    若者よ 集まれ 海洋大学へ
    好きなことを好きなだけ
    学べることは倖せ者だよ
    それが出来るのは 現在
    現在は すぐに過去 

 
東京大空襲のときに構内の樹木を守った塀
 正門の塀にプレートが張り付けてある。

   東京大空襲のときに構内の樹木を守った塀
   清澄通りに面したコンクリート製の塀は関東大震災後につくられました。昭和20年3月
   10日の東京大空襲のときには、通りの向かいにあった。糧秣廠が焼けて炎が大学の敷地
   に降りかかり、構内の樹木は燃えてしましたが、この塀によって根元の部分は守られまし
   た。その焼けた樹木も生き返り現在のような大木になっております。平成24年6月29
   日にアルミ鋳物製の柵として改装された際、構内の樹木を守った塀として一部残すことに
   しました。
   Portion of the original fence that protected the campus trees
                         from the Great Tokyo Air Raid
   The original concrete fence was built after Great Kanto Earthquake. On the
   10th of aaarch 1945, when the Great Tokyo Air Raid erupted, many of
   the trees in the campus were burnt down by the blazing fire from a foodf-storage
   warehhouse on the other side of the
Kiyosumi Street. Thanks to this fence, ho
   wever, the roots of the trees were not damaged, and new trees grew again.On the
   29th of June 2012, when the original concrete fence wsa replaced with a
   new aluminum fence, this part of the old fence was intentionally left unremoved
   to cmmemorate its role as the protector of the campustree.

 ラムゼー功徳碑
 正門(西門)を入った左手にある。ジョージ・ラムゼーは明治年間
商船学校(商船大学→海洋大
学)の教授として、わが国海運界の発展に尽くした外国人。この碑は、明治19年ラムゼーの教えを
受けた人たちがその功績を称えて建立したもの。高さ3mの大きな碑で、初めは上野公園内にあった
が、のち公園が整地されるため、ラムゼーと縁の深い商船大学(海洋大学)に移され、現在に至って
いる。
 ジョージ・エドワード・オークス・ラムゼーは、英国に生まれ、17歳のとき帆船の練習生になり
航海術を学んだ。4年後一等士官として、インド海軍の艦長になり、英清戦争(アヘン戦争)に参加
して功を立てた。明治8年ラムゼーは三菱が英国から購入した「隅田丸」の船長として来日。翌年三
菱が商船学校を創立。ラムゼーは教授として迎えられた。ラムゼーは職務に勤勉よく後進の指導に当
たり、その温厚篤実な人柄により、親のように敬慕された。明治16年政府の管船局で、海員試験の
試験官を勤めたが、明治18年3月27日東京駿河台の官舎で病気。47歳、横浜の、外人墓地に葬
られた。大学の説明は以下の通り。

   G・E・O・ラムゼー功徳碑
   この碑は、G.E.O.ラムゼ船長の優れた人格に対する尊厳と称賛を永く記憶するために明
   治19年3月の彼の没後1周年にあたり門弟達が建てたものです。初めは上野美術学校、
   現在の東京芸術大学の辺りにあったものを、大正の初め頃に現在地に移しました。ラムゼ
   ー船長は、天保十年(1839)イギリスのロンドンに生まれました。若くして航海学を
   学び、明治8年に一等航海士として初めて日本に来ました。明治9年6月1日に三菱商船
   学校(本学部の前身)の運用学教員として教壇に立ち、学生に航海術を教えた最初の先生
   でした。明治15年4月に三菱商船学校が、官位に移行されることに伴い、惜しまれつつ
   学校を去ることになりました。そして航海術の啓発や海運事業に多大の功績を残し、明治
   18年3月に他界されました。なお、この碑は平成4年に江東区登録文化財(歴史資料)
   に指定されました。

   G・E・O・ラムゼー功徳碑
   ラムゼー(1839~1889)先生は、明治9年6月から6年間本学の前身校である三
   菱商船学校で航海術を教えた教員で、優れた人格・識見に対する尊敬と称讃の念を込め。
   没後の明治19年門弟達により碑が建立された。
   平成5年江東区有形文化財登録
   The Monument in Menory of Charity of George E.O,Ramsey
   This monument was built in memory George E.O,Ramsey in 1886.
   He had greatly contiributed to sailor training as a prpfessor.
   in the Mitsubishi Nautical School for six years since 1876.


 
田副重右衛門招魂碑
 正門(西門)を入った左手の植栽にある。碑文。

   田副重右衛門招魂碑
   逓信大臣従二位勲一等子爵榎本武揚篆類□故田副君墓表
   君名重右衛門氏田副丹後宮津人性枕毅□言□□我那航運之不振夙入東京商舩学校昕夕勤勉
   泉成属望焉□業巳畢實習□有日矣明治十有九年十月七日君奮然乗英船将航米國遭□子支那
   海箪身□先上□架百方竭力防之不幸殞命□波間實享年□有七君嘗語余日航近海不若航遠洋
   言猶在耳忽□此赴音豈可不慟哭乎□雖然至其守□□職事□有與河海並存而不泯者□不偉□
   令茲同舩僚友等相謀□資刑之珉石以傳不朽君應瞑干地下矣余□不文以□故之誼書其略以表
   之
   明治廿一年十月                           宍戸鎰拜 撰
                                     平戸 □ 書


 碑の説明板。

   東京商船学校生だった田副重右衛門は、英国船に乗船して米国に渡る途中、暴風雨に遭遇
   して死亡した。この碑は僚友たちが出資して明治21年10月に建てられ、題字は逓信大
   臣榎本武揚の篆書である。平成5年江東区の有形文化財(歴史資料)に登録された。
   [有形文化財(登録:平成5年3月29日、告示番号:5‐4)]

 精神不滅碑
 正門(西門)を入った左手の植栽にある。

   
精神不滅
      松永書

   昭和十九年八月戰局危急ニ迫リ一億国民憤激ヲ新ニシ彌々戦意ノ昴楊ニ邁進スルノ秋本校
   亦倍々敢闘精神ノ發揚ニ挺身スヘク同月二日折戸湾ニ五浬編隊遠泳ヲ決行ス此日天気晴朗
   ニシテ風浪アリ加之敷日來ノ豪雨ハ巴川ノ水勢ヲ湾内ニ奔流セシメ泳者皆之ニ若シム第二
   期生徒一學年高山茂邊見正則掘井良郎ノ三君初心ニシテ技未熟ナリト雖ニ入校以来修養セ
   シ不屈ノ精神ハ敢テ落伍スルヲ潔トセス渾身ノ気力ヲ■ヒ力泳又力泳遂ニ最後ノ決線ニ近
   ツキシ時無念精根盡キ卒然伍間ニ■■■壮烈何モノカ之ニ若カン夫レ勇士ノ戦場ニ殪ル必
   シモ難ギニ非ス校庭ノ鍛錬ニ従容トシテ死闘ス真ニ清水精神ノ権化ニシテ其ノ烈々タル闘
   魂ハ當ニ富嶽ト共ニ欽仰スルニ足ル則チ茲ニ碑ヲ建テ敢闘ノ薫蹟ヲ銘刻シ其ノ気■ヲ後昆
   ニ傳ヘ以テ後進ヲシテ感奮興起セシメントス
   昭和19年11月1日           清水高等商船学校長海軍中将松永次郎撰文
                                 宮内省依嘱六鵬沖和書

 碑の説明板。

   精神不滅碑
   太平洋戦争中の昭和19年7月と8月、清水高等商船学校学生3名は不屈の精神を持って
   遠泳訓練に挑んだが、数日来の豪雨の影響もあり、最後まで泳ぎ着いたものの力尽きて死
   亡した。この碑はその敢闘精神を記すため、昭和19年11月に清水で建てられ、越中島
   に移された。
   
The Monument of Spiritual Eternity
   During the Pacific War, three students of the Shimizu Nautical College
   were dead after a long-distance swim training, In 1944, this monument was
   built in memory of thier challenging spirit.

 
第一観測台
 正門(西門)を入った左手に第二観測台と並んである。大学の説明は以下の通り。

   第一観測台(経緯儀室または赤道儀室)
   八角形2階建煉瓦造り 建坪8坪6合
   明治35年霊岸島校舎より越中島新校舎に移転した後の施設充実の一環として、明治36
   年6月に建設され、航海用天体歴の研究用および航海天文学教授用として使用された記念
   建造物で、内部には、当時としては最新鋭、東洋一といわれた7吋天体望遠鏡(Theodol
   ite)を備え、望遠鏡は分銅式によって天体の運行に等しい速さで回転するようになってい
   た。屋根の半円形ドームは手動で360度の回転が可能であり、窓は二重になっていた。
   昭和の初期までは時折り授業にも使用されたが、昭和10年頃以降は学生の同好会「天文
   部」部員の手により、天体の観測に利用されていた。昭和20年終戦直後、校舎を米進駐
   軍に占領された後、内部施設も撤去され、現在は望遠鏡の台座が残っているに過ぎないが
   輸入煉瓦造りの八角形の建物は貴重なもとのされている。


 
第二観測台
 正門(西門)を入った左手に第二観測台と並んである。大学の説明は以下の通り。

   
第二観測台(子午儀室)
   八角形平家建煉瓦造  建坪8坪6合
   明治36年6月第一観測台とともに建設され、内部には子午儀(Transit)を備え、天体
   の子午線通過時刻を精密に測定して精確な経度の測定をすること。およびその時の天体の
   高度から緯度を測定することなどが出来た。
   昭和20年終戦直後、校舎を米進駐軍に占領された後、内部施設も撤去され、現在は台座
   のみであるが、八角形の建物で輸入煉瓦造りの現存する建物として貴重なものとされてい
   る。


 一号館
 正門を入って正面に見えるのが1号館。この1号館は、昭和5年に建てられたもので、現在国の登
録有形文化財に指定されている。また1号館は昭和の建物として貴重なものとなっているので、1ヶ
月に1回以上のペースでロケが行われているとか。大学の説明は以下の通り。

   一号
   一号館は、明治35年1月11日に寄宿舎と共に完成しました。しかし大正12年9月1
   日の関東大震災によって校舎等を焼失しました。その後、関係者の努力により、旧事務局
   棟(正門守衛所隣)と共に昭和5年12月に起工し、昭和7年11月に完成しまた。そし
   て11月24日には校旗の掲揚式が壮厳に行われました。航海船橋を模して造られたこの
   一号館の屋上には、実船のような船橋が設けられ、各種航海機器等を配置、中央に船型自
   差修正装置(デビエスコープ)、その北側に測深儀が取りつけられていました。また測深
   実習が行えるように雨樋に似た筒が建物の外側に沿って造られています。なお一号館は、
   日本建築学会より保存すべき建物に指定され、平成9年12月には文化庁から登録有形文
   化財に指定されました。


 
菅船長石像
 一号館の左手奥にある。大学の説明は以下の通り。

   菅源三郎船長は、明治16年2月24日に愛媛県越智郡菊間町に生まれました。商船学校
   を明治41年に卒業し、第二次世界大戦勃発時には長崎丸の船長として揚子江河口にてア
   メリカの客船プレジデントハリソンを発見し、これを追跡して擱座(船を浅瀬に乗り上げ
   ること)させました。しかし昭和17年5月17日に長崎丸は長崎港外で機雷に接触して
   沈没しました。菅船長は最後まで船橋にあって指揮をとりましたが、死者・行方不明者3
   9名を出してしまいました。事故後も遭難者を慰問し、善後処理に奔走しましたが、5月
   20日に他界されました。1年後の昭和18年5月20日には、1周年祭が本学で行われ
   ました。菅船長石像は昭和20年1月に菅船長頌徳会によって建立されました。


 
植樹記念碑(株於校庭永記光榮云碑
 一号館と百周年記念資料館の間、事務局棟の東にある。明治41年11月2日皇太子殿下(大正天
皇)御臨席の下卒業式が挙行され、天皇陛下より優等生が御下賜品を賜った。これを記念して、青年
同窓会が桜樹200余株を寄贈した。平成5年江東区の有形文化財(歴史資料)に登録された。
 [有形文化財(登録:平成5年3月29日、告示番号:5‐4)]  
 キャンパスの東の方、第5実験棟の傍にある。


   
株於校庭永記光榮云碑
   明治41年11月2日商舩学校擧第二十二回卒業之典是日勅賜物干優等生東宮又台臨盖出
   奨励海事之聖意也生等不禁感激此栽櫻樹二百餘株於校庭永記光榮云
   明治42年4月1日                日本郵舩株式會社内 青年同窓會


 百周年記念資料館
 一号館の右手奥にある白い建物だ。大学の説明は以下の通り。

   東京海洋大学百周年記念資料館(昭和53年開館)は、東京海洋大学海洋工学部の前身で
   ある東京商船大学が明治8年11月1日に隅田川の永代橋下流に係留した成妙丸を校船と
   定めて開学してから昭和50年で100周年となったことを記念し、その中心事業として
   建築されたものです。
   この資料館は一般によく見られる海事資料館とは異なり、本学100年の歴史を軸とした
   商船教育史とその周辺の海事史を物語る資料を収集展示しております。
   すなわち100年にわたる学校制度の変遷を示す教科書や図書・文献・写真・絵画などの
   資料、100年間における卒業生の活躍に関する同様な資料、歴代練習船に関する機械・
   器具・遺品・写真・絵画・などのほか一般海事に関する図書・文献・図誌などを類型別に
   展示してあります。
   6月に行われる海王祭や海の日イベントなどの日に一般公開している。


 駆逐艦「磯風」のスクリュープロペラ
 百年記念資料館前にある。

   プロペラ
   旧日本海軍の駆逐艦磯風に装備されていた左舷プロペラ。
   重量:1798kg 材質:マンガニーズブロンズ
   磯風は大正7年竣工
   基準排水量:1105t 主機:27000馬力 軸数:3 速力:34kt


 
第一世汐路丸の錨
 百年記念資料館前にある。

   
   第一汐路丸の錨:
   昭和29年3月竣工。昭和42年3月まで小型練習船として学生の実習訓練、船舶運航技
   術の実験研究に活躍した。
   総トン数:150t 主機:ディーゼル機関 380馬力 速力:10kt

 玄武岩・鍾乳石
 百年記念資料館前庭にある。

   玄武岩と鍾乳石
   大成丸は、昭和12年第54次遠洋航海で赤道に近いカロリン諸島を訪れた。クサイ島で
   大羽船長は酋長キングシラクから島名と年号を直筆した城塞の石材(玄武岩)を記念品と
   して寄贈を受けた。船長は航海中にこの石材の文字を自ら彫刻し持ち帰った。またパラオ
   島では鍾乳石の寄贈を受けた。


 
明治丸
 百周年記念資料館のさらに奥にある、船歴100年を超える、わが国最古の帆船。長さ73m・幅
9m・1027t、3本マストの秀麗な姿を留めている。政府が灯台視察船(官船第1号)として英
国に発注、明治7年11月グラスゴー市において進水、翌年2月横浜に回航された。同9年明治天皇
が青森から函館経由横浜へ向かう海路で明治天皇が座乗された。「海の記念日」として制定された7
月20日は、天皇の横浜ご帰着の日を記念したもので、現在では7月第3月曜日を「海の日」として
全国各地で海に関わる種々の行事が開催されている。また琉球王国最後の国王尚泰が「琉球処分」の
際、上京の為に乗船した船として知られる。同29年から商船学校の練習船として活躍、昭和29年
老朽化のため任を解かれ、保存されることとなった。昭和53年国指定の重要文化財だ。観覧は火曜
日・木曜日(祝日を除く)及び第1・第3土曜日の午前10時~午後3時。低料金だが有料。
 大学の説明は以下の通り。

   重要文化財明治丸について
   本船は明治の初頭に、我国政府が英国に発注して建造した豪華な東大視察船であった。明
   治6年にグラスゴーのネピア造船所において建造が開始され、同7年11月に竣工、翌8
   年初頭に出港し、同年2月横浜港に到着した。建造当時は、2本マストのトップスル・ス
   クーナ型帆装鉄造汽船で総トン数102t、長さ73m、幅9m、機関は往復動汽機2基
   の双螺旋船、実馬力1530、平均速力11.5ktを誇っていた。
   明治9年の夏、明治天皇は東北巡幸に際し、青森から本船に座乗され、函館経由7月20
   日無事横浜港に帰着された。「海の記念日」はこの日に因んで昭和16年に制定されたも
   のである。当時の御座所跡は現在も残っている。爾来、本船は約20年間灯台視察船とし
   て活躍したが、明治29年7月、当時霊岸島にあった商船学校(本学の前身)の係留練習
   船として貸与され、その沖合(現在の永代橋下流)に係留された。翌30年11月、本校
   に移管された後、3本マストのシップ型に改装され、明治34年12月、越中島のこの地
   に定係された。
   本船が商船学校の神聖な教場として活用されたのは、昭和28年に至るまでの50年間で
   この船を母なる船として巣立った海の若人の数は万余に達する。この間、明治44年およ
   び大正6年には来襲した猛台風による高潮で擱座したり、大正12年9月の関東大震災、
   さらに昭和20年3月の東京大空襲に遭遇するなど数々の試練や災禍に対しても、この地
   と共に耐え抜き、その都度罹災者を収容するなど江東の人々からも信頼と敬愛を得てきた。
   終戦の年の9月、越中島の学舎と共に進駐軍に接収され、不幸にも本学の管理も出来ない
   ままに荒廃し、遂に昭和26年漏水のためポンド内に沈座するに至った。その後、漸く接
   収が解除されるに及んで、これを引揚げ、昭和35年の本学85周年記念事業、さらに昭
   和50年の百周年記念事業の一環として、同窓有志や海運業界・海事諸団体等の芳志・支
   援によって本船復元の第一歩が踏み出された。
   明治丸は現存する唯一の鉄船(現在の船は総て鋼船である)であり、我が国造船技術史上
   の貴重な遺例として、昭和53年5月、船としては初めて国の重要文化財に指定され、昭
   和55年4月から文化庁及び本学の協力により本船の保存修復及び基盤整備が行われ、昭
   和63年1月に完工した。
   明治丸は、ここにその優美な姿を再現し、永久に保存されると共にその栄光の歴史が世々
   語り継がれることとなった。

   
明治丸
   明治6年日本政府の発注により英国で灯台監視船として建造された帆船であり、現存する
   我国最古の「鉄船」です。明治9年に明治天皇の東北地方巡幸の際に使用され、青森から
   函館経由横浜へ向かう海路で明治天皇が座乗されました。「海の記念日」(7月20日)
   は、明治天皇の横浜ご帰着の日を記念したもので、現在では「海の日」(7月の第三月曜
   日)として全国各地で海に関わるいろいろな行事が開催されています。
   明治丸、明治30年本学部の前身である商船学校に移管されて係留練習船となり、以来5
   0余年にわたり教育訓練の場として活用されてきましたが、昭和39年に商船教育の伝統
   を象徴する記念船として、構内の一角に陸上固定されました。
   昭和53年5月我国造船技術史上の貴重な遺産として国の重要文化財に指定され、その優
   美な姿が永久に保存されることとなりました。そして昭和55年度から8年計画で文化庁
   の協力の下、保存修復及び基盤整備の工事が行われ、昭和63年1月29日に竣工しまし
   た。なお建造当時の帆装は2本マストのトップスルスクナーでしたが、明治31年に品川
   の緒明造船所において現在みられるような三本マストのシップ型に改装されました。

   
重要文化財 明治丸
   明治丸は、明治の初期に我が国政府が英国に発注して建造した豪華な燈台巡廻船であった。
   明治6年にグラスゴー市のネピア造船所において建造が開始され明治7年11月に竣工。
   翌明治8年初頭に出港し、同年2月横浜港に到着した。建造当時は、2本マストのトップ
   スル・スクーナ型帆装鉄造汽船で総トン数1027.57t、長さ68.6m、幅9.1m、
   機関は往復動汽機2基の双螺旋船、出力1100馬力、航海速力11.5ノットを誇ってい
   た。
   Meigi Maru was a luxurious supply vessel for lighthouses built in England und
   er the order of the Japanese Government during the early Meiji Period. Her
   keel was laid in, at the 1873 Rovert Napier & Sons Govan Shipyard in
   Glasgow and was completed in November 1874. She departed from Glasgow in
   1875 and arrived at Yokohama in Februaly of the same year. At the time of
   completion, she was a two-masted topsail iron schooner : 1027.57G.T.,le
   ngth overroll 68.6m, and breadth 9.1m. She was equipped with twin propei
   lers and two steam-reciprocating engines of 1100 horsepower sailing at a nav
   igation speed of 11.5knots.

   明治9年の夏、明治天皇は東北巡幸に際し、青森から本船に乗船され、函館経由7月20
   日無事横浜港に帰着された。「海の記念日」はこの日に因んで昭和16年に制定されたも
   のである。当時の御座所跡は現在も残っている。その後、本船は約20年間灯台巡廻船と
   して活躍したが、明治29年7月当時霊岸島にあった商船学校(本学の前身のひとつ)の
   係留練習船として貸与され、その沖合(現在の永代橋下流)に係留された。翌30年11
   月、本校に移管された後、3本マストのシップ型に改装され、明治34年12月、越中島
   のこの地に定係された。
   Upon his Imperial Tour to the Tohoku and Hokkaido regions, Emperor Meiji
   boarded Meiji Maru in Aomori of the Tohoku area, sailed to Hakodate in Hok
   kaido and eventually entered the Port of Yokohama in Kanagawa on July 20
   in the summer of 1876. The Japanese holiday,"Marine Memorial Day", was
   established in 1941 to commemorate this imperial arrival and the cabin in wh
   ich the emperor stayed is still preserved in his honour.
   Meiji Maru later served as a supply vwssel for lightouses for approximately 2
   0 years, but was leased as a moored training ship to the Nautical School loca
   ted at Reiganjima Island in 1896, and was moored at the downstream of the
   present Eitaibashi Bridge in Tokyo. This Nautical School later became the
   Tokyo University of Marine Science and Technology's Ethujima campus located
   in Koto Ward. The ownership of Meiji Maru was transferred to the school one
   year later in 1897, and in 1901she was converted into athree-masted full
   -rigged ship# and permanently moored at the present location in Ethujima.
   # The word "ship" refers to a type of sailing vesell.

   明治丸が商船学校の神聖な教場として活用されたのは、昭和20年8月に至るまでの50
   年間で、この船を母なる船として巣立った海の若人の数は万余に達する。この間、明治4
   4年および大正6年には来襲した猛台風による高潮で擱座し、大正12年9月の関東大震
   災、さらに昭和20年3月の東京大空襲など数々の災禍に対しても、この地と共に耐え抜
   き、その都度罹災者を収容するなど江東の人々からも信頼と敬愛を得てきた。
   Meiji Maru remained a classroom of discipline and training for 50 years until
   1945 and oversaw, as the mother ship of the school, over 5000 young and
   prpmising mariners graduate to a brilliant future at sea. She went aground twice
   in 1911 and 1917 due to storm surges caused by devastating typhoons and
   survived catastrophic events such as the Great Kanto Eaethquake in September
   1923 and the Great Tokyo Air Raids in March 1945. Meiji Maru acco
   mmodated local victims during both catastrophes, thus winning the trust and resp
   ect of the Koto Ward peaple.

   終戦の年の9月、越中島の学舎と共に進駐軍に接収され、不幸にも本学の管理もままなら
   ず荒廃し、昭和26年漏水のためポンド内に沈座するに至った。その後ようやく接収が解
   除されるに及んでこれを引揚げ、昭和35年の本学85周年記念事業、さらに昭和50年
   の百周年記念事業の一環として、同窓有志や海運業界・海事諸団体等の芳志・支援によっ
   て本船復元の第一歩が踏み出された。
   Meiji Maru and the school building were confiscated by the Allied Ocupation
   Forces in September 1945 when W@rld War Ⅱ ended, and Meiji Maru was
   left without proper maintenance untill she flooded and grounded in 1951 in
   the campus pond. When the confiscation ended and the school was returned, Meiji
   Maru was salvaged and restoration efforts started as part of the 85th anniver
   sary project in 1960 and continued during the centennial project in 1975.
   These restration efforts were made possible by funding from the alumni and the
   shipping industry.

   明治丸は現存する唯一の鉄船(現在の船は総て鋼船である)であり、我が国造船技術史上
   の貴重な遺例として、昭和53年5月、船としては初めて国の重要文化財に指定された。
   Meiji Maru is the only iron ship remaining todaty as modern vessels are all ma
   de of steel Meiji Maru was recognized for representing a unique legacy of Jap
   anese ship building history and became the first ship to be designated as an Im
   portant Cultural Property by the Agency of Cultural Affairs, Goverment of
   Japan in May, 1978.


 繋留練習船明治丸記念碑
 昭和20年3月10日の東京大空襲の際、明治丸を守り抜いた東京高等商船学校生が卒業55周年
を記念して、平成12年9月に建立された。

   繋留練習船明治丸記念碑
   東京高等商船学校最後の生徒となった我々にとって忘れられぬ思い出は、昭和20年3月
   10日の東京大空襲の際歴史と伝統ある明治丸を守り得た事である。
   この度卒業55周年に当りこれを記念して碑を建て後世に残すものである。
   平成12年9月25日               東京高等商船学校航海科125期

 商船教育発祥の地碑
 明治丸の前方にあり、石碑に錨(アンカー)を凭せ掛けてあるオブジェ。この錨は係留練習船とし
ての明治丸をポンド内に定置する際に用いられたものだ。

   海上の平安と航権の伸張を祈念してわが国商船教育発祥の地‐北緯33度39.9分・ 東
   経139度47.6度‐にこの塔を建つ。
   錨の主幹は天の北極を指し、ストックは天の赤道を指して、万里の波濤を越え、さらに宇
   宙の
真理に立向う若人の心意気をあらわす。
   昭和40年創立90周年の日             東京商船大学八十五周年記念会

 裏面

   碑文にある「商船教育発祥の地」の言葉については厳密に言えば霊岸島であり、この地は
   継承の地と言うべきである。
   百周年記念事業としては永代橋袂に「船員教育発祥の地」の記念碑を建立した。
   昭和50年11月                東京商船大学百周年記念事業委員会


 
駆逐艦「あけぼの」のシリンダ
 キャンパスの東の方、第5実験棟の奥にある。

   
駆逐艦「あけぼの」のシリンダ
   日本海軍駆逐艦「曙」は、明治32年7月に英国のヤロウ造船所で造られた。排水量34
   5t、速力31kt、四気筒3連成機関2台、6000馬力。関東大震災の後、主機関1
   台を学生の組立実習に供しました。展示品はその一部です。高圧(20.5in)、中圧(3
   1.5in)用シリンダです。 このシリンダは百周年記念資料館の資料として登録されて
   いる。

 復水器及び循環ポンプ
 キャンパスの東の方、第5実験棟の奥にある。

   復水器及び循環ポンプ
   大正年間に用いられたと思われる蒸気機関の主復水器とそれに冷却海水を送る蒸気原動機
   付きの循環水ポンプ、復水器は内部に多数の銅合金管を装備しています。総重量は約4t
   です。これらは百周年記念資料館の資料として登録されています。

 
全天候型救命艇
 二号館正門から入って左の方にある。

   全天候型救命艇
   第一中央汽船の「おうすとらりあ丸」に搭載されていた試作の救命艇で神戸の石原造船所
   で建造された。長さ(全長及び垂線間長)8m、型幅2m、型深さ2.3m。
   日本造船技術センターにおいて、日本船舶振興会の昭和45年度から48年度に至る補助
   事業「救命艇及びその降下装置の研究」を実施した。その中で全天候型救命艇が開発され、
   試作艇が作られたが、本学の救命艇はその改良型である。昭和51年5月に「おうすとら
   りあ丸」から降ろし、本学に設置された。
 


■越中島駅

 越中島2丁目2番14号にあるJR京葉線の地下停車場。平成2年の京葉線全通時(このときの開
業区間は東京~新木場)にできた駅。ホームは島式1面2線構造で、地下2階にある。ホームと改札
階を結ぶエレベーターは未設置。改札口は1ヶ所のみで地下1階にある。
出口は1~3の3ヶ所だが、エレベーターは設置されていない。
 駅は大通りから少し外れたところにあり、周囲は東京駅から2駅目とは思えないほど閑散としてい
る。各駅停車しか停まらないため、データイムの列車は15分おきと少なく、乗降客数も都区内のJ
R駅では最も少ない。周辺には東京海洋大学とスポニチ本社以外に目立った施設もなく、乗降客の数
割はどちらかの関係者で占められていると思われる。なお、京葉線開業前までは越中島貨物駅が越中
島駅と名乗っていた。
 


■調練橋公園
 越中島2丁目16番13号、同3丁目7番17号にある区立公園。

   調練橋の由来
   越中島は、安政二年から軍隊の調練、砲術の演習場として、又明治時代には陸軍の調練場
   として使用されていた。そのため大正13年橋が架けられた時。調練橋と名付けられた。
                                        江東区


■第三商業高等学校

 越中島3丁目3番1号にある都立校。昭和3年「東京府立第三商業学校」として明治小学校跡で授
業開始。8月数矢小学校に移転。同5年現在地に移転。同15年現在の定時制に当る夜間部を設置。
同18年都制施行により「東京都立第三商業学校」と改称。同22年中学校併設。同23年新学制に
より「東京都立第三商業高等学校」と改称。毛利小学校内に分校設置(同34年「東京都立深川商業
高等学校」として定時制独立校となり、同41年墨田区横川4丁目柳元国民学校跡に移転)。同32
年図書館設置。同33年産業振興法による商業実践室落成。プール完成。同37年新潟県六日町に山
寮完成。商業実習室3階増築。同53年創立50周年記念式典。同57年新校舎棟・体育館棟・プー
ル棟完成。
 平成2年定時制創立50周年記念式典。同3年全日制会計科2学級設置。制服改定。同5年中国帰
国生徒受入開始。同10年山寮閉鎖。同12年テニスコート改修。同13年台湾教育視察団来校。校
舎耐震化。同14年商業実践室改装。5階パソコンルーム改修。
同15年全日制商業科が各学年6学
級編成に改定。新教育課程開始。2階パソコンルーム改修。同16年1階パソコンルーム改修。エア
コン設置。同17年外壁改修。同18年防球ネット設置。販売促進支援システム導入。アスベスト除
去完了。同19年パソコン室2教室に個別空調設置。同20年創立80周年記念式典。


 校歌
「都の空は」 作詞・前田夕暮  作曲・山田耕筰
  1.都の空は明けたり、今
    希望は燃ゆる若きわれら
    都立第三商業、ここに拠るや
    日本の富を担ふわれら
  2.富岳の雪を望む窓辺
    理想は高し、若きわれら
    都立第三商業、ここに居るや
    都の栄えを築くわれら
  3.東都の海の門にありて
    心は濶し、若きわれら
    都立第三商業、ここに立つや
    江戸の誇りを継げるわれら
 


■越中島小学校

 越中島3丁目6番38号にある区立校。昭和55年日立金属深川工場(日立化成)跡の現在地に、
臨海小学校から分校して開校、殆どが団地の子だ。新築校舎は区内でも1、2を争う広い校庭を持ち、
既設校にはない2教室分の特別教室や視聴覚教室が備えられた。開校翌年に一年から六年までの全生
徒が揃い、12学級となった。開校3年目の同57年度は、生徒数562名16学級編成となり、最
大の年度となった。この年校歌制定。

 校歌
「高く伸びゆく」 作詞・昭和56年度生徒・職員  作曲・天野明芳
  1.高くのびゆく学園の町
    希望の歌がこだまする
    鍛える体たくましく
    進んで学び励もうよ
    ああ ああ 越中島小学校
  2.大東京の深川南
    下町の意気受け継ごう
    みんな仲良く思いやる
    明るい学校作ろうよ
    ああ ああ 越中島小学校
    ああ ああ 越中島小学校
  3.富士山のぞむ隅田の川に
    海風ついて鴎飛ぶ
    やりぬく誓いどこまでも
    世界の空へはばたこう
    ああ ああ 越中島小学校


 開校2年目、全生徒・全職員により作詞開始。児童には夏休みの宿題となった。そして12月2日
初代校長堀内康三郎監修により出来上がった。作曲は音楽教諭天野明芳が中心となり堀内校長及び校
歌作成委員会により作曲され。翌年1月28日完成、30日制定した。
 平成7年コンピュータルーム・ランチルーム・図書室完成。同9年以降生徒数250名を切る。同
11年創立20周年記念式典。同15年学校選択制度の導入後、高層住宅建設など周辺環境の変化に
より生徒数激増傾向(現在は昭和57年度の最大数に匹敵するまでに回復)

 クスノキ
 正門右脇の楠は、昭和55年7月24日開校記念樹として植樹した。

 シダレザクラ
 正門左脇の枝垂れ桜は、平成11年4月1日開校20周年記念として植樹した。

 東門アーチ
 越中島ハイツ側の門。昭和60年池の噴水と共に設置。

 ポケットエコスペース
 平成6年4月1日設置
 


■深川第三中学校

 越中島3丁目7番1号にある区立校。昭和22年4月新学制の実施により最初に創立した区立6校
の内の一つ。深川南部を通学区域として、5月都立第三商業高等学校の一隅に1年生のみ230名5
学級でスタート。翌年に新入生282名を迎え、数矢小学校に分校を出した。同24年分校を閉じ、
生徒を都立第三商業高等学校に移し二部授業。6月1年生を数矢小学校に移し、二部授業を解消。式
典などは数矢小学校の講堂で行われた。同25年4月都立第三商業高等学校内に深川第五中学校を分
校。7月現在地に待望久しい新校舎が落成し移転したものの、同26年2月豪雪により煙突が詰まっ
て過熱出火、体育館を残して焼失。1・2年生は明治小学校に、3年生は数矢小学校に間借りし授業
継続。同27年8月に再建新校舎が落成して全生徒帰校。この際校具・教具の整備にはPTAの多大
の協力援助があった。同28年校歌制定。

 校歌
「潮の香こめて」 作詞・勝承夫  作曲・平井康三郎
  1.潮の香込めて 希望を込めて
    吹けよ朝風 学びの窓に
    花の純情 燃え立つ処
    伸び行く若き我等あり
    深川三中 幸ある母校
  2.国の文化の先駈け幾つ
    偲ぶ名残も数ある限り
    ここに平和と自立の気風
    育む強き我等あり
    深川三中 愛する母校
  3.潮満ち渡れ 力よ躍れ
    明日の世紀を夢見る胸に
    繋ぐこの手に友情燃えて
    躍進誓う我等あり
    深川三中 栄えある母校


 同29年6教室増築。同32年新体育館兼講堂落成。同35年1年生769名が入学し、校庭にプ
レハブ校舎が建てて補う。同36年鉄筋コンクリート造り校舎(教室9・特別教室・使用未定室6)
落成。同37年プール完成。同44年旧校舎改修。同54年体育館建替え落成。同60年外国人教師
による1年生の語学授業開始。同61年新プール完成。同63年創立40周年記念式典・柔道の山下
泰裕六段講演。平成6年外国人教師による語学授業、2年生まで拡張。同8年3年生まで拡張。同9
年創立20周年。同15年2学期制モデル校。同18~19年校舎改築のため廃校となった南砂西小
学校校舎を仮校舎に移転。同20年新校舎落成し帰校。
 


■竹橋事件処刑場跡

 越中島3丁目7番にあった練兵場内。明治11年(1878)8月23日に北の丸竹橋屯所で起き
た騒動。前年に鎮定した西南戦争の論功行賞や待遇改善を不満とする近衛砲兵大隊の兵士263人が
蹶起した叛乱事件だ。大隊長と週番士官を殺害し、天皇への直訴を図って仮皇居(迎賓館)を目指し
たが、約100人が辿り着いたものの、同時蜂起を期した近衛歩兵や鎮台予備砲兵が動けず、僅か2
時間で鎮圧された。事件から2ヶ月も経たない10月15日に銃殺53人、准流(流刑)118人、徒
刑(懲役)68人など計263人に有罪判決が下り、53人の銃殺は即日執行された。処刑は深川越
中島で行われ、遺骸は青山墓地へ埋葬した。新政府の巨魁大久保利通が正義の刃に斃れた後で、明治
政府は狼狽した。国民の反感を買っていた時でもあり、反軍精神が国民の間に醸成しては敵わぬと、
手早く処理すると、要望通りメニューに肉料理が採用された。肉じゃが、とんかつ、カレーライスな
どが発明されたのはこの時なのだ。一つの大いなる誤解は、日本民族が肉食民族でないと思っている
こと。江戸時代仏教徒は極僅かで、殆どは神道だ。馬刺・桜鍋、狸汁、紅葉鍋 etcetc 犬も、牛も、
熊も、カモシカも、日本人は食ってた。徳川家康が朝鮮使節を遇するに数奇焼でもてなしている。文
明開化で肉料理を食べるようになったのは仏教徒だけで、数奇焼きを鋤(すき)で焼いたからとは滑
稽を通り過ぎる。もし陸軍が健康を考慮して力づくで肉料理を食わせたとすれば、暴動が起きただろ
う。肉を食べるという風習があればこそ、肉じゃがやとんかつ、カレーライスが素直に受け入れられた
のだ。日本に中華料理屋やとんかつ屋が多いのは、相撲取りがチャンコ屋を始めるように、手っ取り
早い商売だった訳。宇都宮がギョーザの町なのは、宇都宮の師団が長く満州に駐箚してたことによる
んだよ。
 




 【扇橋】(おうぎばし)1~3丁目                  昭和43年12月1日
 海辺新田のうち。寛永のころ百姓町屋が開かれたようだが当時の呼称は伝わっていない。明治3
年横川以東を深川東扇橋町とし、同44年「市制町村制」により深川の冠称を削除、昭和11年東
扇橋町に石島町・千田町・海辺町の各一部をあわせて深川区扇橋1~3丁目とした。なおこの時扇
橋町の方は白河町4丁目・三好町4丁目・平野町4丁目となり扇橋の名を捨てた。同22年江東区
成立、同43年新住居表示により現行の「扇橋」となった。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『江東区史』『江東の歴史』など。

 扇橋の由来
 町名は元禄八年(1695)に開鑿された横川に架かる扇橋によるが、何故扇と名づけたのかは
不明。この橋との関連で近くに要橋があった。扇は開いた形を「末広がり」というので将来の発展
を祈願したものか? 橋の創架年は不詳だが享保以前(18世紀初頭)には架けられていた。


   地紙ほど反り打ちかえる扇橋(川柳)


■扇橋

 昭和4年に震災復興事業として清洲橋通りを通すため200メートル南にずらした現位置に架けら
れた長さ40m80cm×幅22mのコンクリート・ラーメン橋台鋼鈑桁橋だった。この橋のことは谷
崎純一郎が『幼少時代』に回顧している。しかし老朽化には勝てず平成14年に架け替えた。小名木
川には新扇橋が架かっている。
 


■扇橋閘門(東京のパナマ運河)
 扇橋1丁目5番18号・21番1号にある河川の水位調製施設。

   形式:鋼製単葉ローラーゲート
   径間:11m×1連
   門扉高さ:前扉5.9m 後扉7.3m
   竣工:昭和51年度

   
扇橋閘門
   江東区は、東側が地盤が低く西側が高い地形になっています。そこで昭和46年策定の江
   東内部河川整備計画では、東側を常に水位を一定に保つ水位低下区域としてまた西側の感
   潮部を耐震区域として整備をすることになりました。
   この閘門は、両区域の接点に当たる小名木川の中間に位置し、水位差を調整して船舶の航
   行を可能にするための施設です。30億円の事業費と5年3ヶ月の歳月を費やして昭和5
   2年に築造されたものです。この方式は、パナマ運河と同じです。


■伏見白菊稲荷神社 ◇

 扇橋1丁目9番8号にある小社。


■笠間稲荷神社 ◇

 扇橋1丁目10番6号斎藤ビルと第二桜井ビルの間の僅かの隙間の奥にある。
 


■民営機械製粉業発祥の地 ◇

 扇橋1丁目20番1号、その小名木川に架かる「新扇橋」の南詰西広場に碑が建っている。黒御影
石で作られたこの碑は、正系の直方体ではなく微妙に各面の角度が違っている。几帳面な正義派の人
は、シンメトリー(対称形)でないことにむかつくこと請け合いだ。製粉工場はこの記念碑の西側一
帯にあったが、現在は区営アパートが2棟建っている。平成13年に区の史跡に指定され、日本製粉に
よって建てられた。

   民営機械製粉業発祥の地
   明治12年、明治を代表する実業家雨宮敬次郎は、水運の便のよい小名木川に着目して、
   この地にそれまでの水車動力に代わる蒸気機関を動力源とした、民営では最初の近代機械
   製粉所「泰晴社」を創設しました。欧米を視察して製粉事業の将来性を確信した雨宮は、
   蒸気機関のほか石臼製粉器、篩器(ふるいき)などの製粉装置を米国から輸入して製粉事業
   の経営に成功をおさめました。雨宮の製粉事業は東京製粉合資会社に受け継がれ、明治2
   9年に日本製粉株式会社に改組されました。 また小名木川沿岸には、明治30年台に製粉
   会社が次々と設立され、全国でも屈指の小麦粉生産高を誇るようになりました。こうして泰
   晴社は、小名木川沿岸にさまざまな近代的工場が進出してくるさきがけとも
   なったのです。
   なお明治初期の機械製粉所には、開拓使により札幌に設立された磨粉機械所(明治9年大
   蔵省による浅草蔵前の製粉所(同12年) の二つがありましたが, これらの官営製粉所は
   ともに日本製粉株式会社がその事業を継承しました。             江東区
 


■扇橋一丁目公園
 扇橋1丁目21番28号にある区立公園。


■開運延命子育地蔵尊 ◇

 扇橋2丁目8番1号の西南の角地にある小社。
 


■西岸寺

 扇橋2丁目8番10号にある浄土真宗本願寺派の寺。大正2年本所緑町に創建、関東大震災で被災
し、同13年深川石川島町に再建、戦後現在地へ移転したという。元は滋賀県綿織寺を本山とする木
辺派。昭和26年本願寺派となる。造りは民家、玄関周りだけは寺っぽい。
 


■江東公園
 扇橋2丁目22番2号、千田16番5号、同17番5号に跨ってある区立公園。


■猿田彦大神(猿田彦神社) 
 扇橋3丁目3番10号にある小社。猿田彦と不動明王の石像がある。 


■三島橋公園
 扇橋3丁目7番16号にある区立公園。

 
「仲よし」
 園内にある青木三四郎のオブジェ。ヒツジの石像と幼児の銅像の組み合わせ。


■境川跡

 扇橋3丁目8番から東砂5丁目10番の清洲橋通りがそれだ。別名舟入川、明治以後は砂村川と呼
ばれた。横十間川のやや西のところで小名木川より斜め東南に分れて流れ、八右衛門新田・久左衛門
新田・亀高村・大塚新田・中田新田の南、永代新田・砂村新田・八郎右衛門新田の北を流れ、中川に
流入していた。 川幅は広い所で10間(約1.8m)、狭いところで6~7間(約10.8~12.6
m)だった。この川は、近郷の悪水落としと、農産品を運ぶ運河として使われ、この地域の農業用水
や産物などの交通路として重要な役割を果たしていた。悪水とは汚水ではなく冷水など農業不適水の
ことだ。舟入川は、限定的には清洲橋通り旧葛西橋交差点から南の神明通り+四十町通りの部分で、
道路が細くなり行き止まっているところが堀留の跡だ。 関東大震災後の復興計画街路の幹線28号
として、大正13年2月に埋立が決定し、6年後の昭和5年に埋立が完了した。現在は清洲橋通りが
通り、境川の名は、交差点、横断歩道橋、バス停、公園の名前に名残を留めている。この道路の東端
が旧葛西橋に通じていた。現在は行き止まりになっている。

   境川の変遷
   境川(清洲橋通り)周辺は、江戸時代砂村新田と呼ばれていました。これは、砂村新左衛
   門が万治二年(1659)宝六島(南砂1丁目付近)を中心に436石の新田を開拓した
   ことから、開拓者の名前をとったものです。
   新田の中央に小名木川から水を引いて中川に注ぐように幅約19mの水路を設けました。
   この水路は、砂村新田の八右衛門、久左衛門、亀高、大塚の4ヶ村の南を境にして流れて
   いることから、境川といわれました。その後、境川は田畑の減少、舟運の減少等に伴って
   水路としての必要性が薄れ、廃川となり、昭和5年道路へと移り変わりました。
 


■「風の舞」 ✔
 扇橋3丁目9番14号Angelパークソレイユ住吉の東、横十間川親水公園にある吉田誠のオブ
ジェ。扇橋の扇から連想して作ったとか。


■扇橋三丁目公園
 扇橋3丁目20番11号にある区立公園。


■横十間川親水公園
 扇橋3丁目22番9号、東陽6丁目2番7号に亘ってある横十間川を親水公園にした区立公園。
 「区民の水辺」をテーマに整備した、延長1.9km、面積5.1ha、「水辺」に象徴されるよう
に、広い水面を活かした貸しボート場や水上アスレチック、野鳥の島、また花菖蒲園や田んぼのある
「生物の楽園」など、幅広い年代の方々に楽しむことができる。運が良ければ翡翠(カワセミ)に出
会えるかもしれんよ。週一日、ボランティア団体「和船友の会」による木造和船の運行もあり、櫓漕
ぎを体験することもできる。のんびりと水上散策もいかがかな。

 
横十間川親水公園説明板
 扇橋3丁目7番にある。

   横十間川親水公園
   横十間川は、江戸城から眺めると、横に流れ、江戸時代当時、川幅が約十間(約18m)
   あったことからこの名がつきました。横十間川が流れる区内中央部は、地盤が区内の平均
   的な高さにあることから、水面を多く残した親水性の高い公園として造成し、「区民の水
   辺」と名付けました。
   園内には、気軽に水と親しめる水上アスレチックやボート場などのほか、野鳥の島、生物
   の楽園、水車小屋、そして花ショウブ等が、四季折々に訪れる人々を楽しませてくれます。
                                             江東区




【大島】(おおじま)1~9丁目                   昭和40年1月1日
 大島村。本所・深川の都市化が進むと、明暦三年(1657)町場部分が上大島町・下大島町を
起立して村の小名となった。明治22年大島村・深川本村・猿江村・小名木村・深川出村・枚方村
・南本所出村・北本所出村・中ノ郷出村・深川区深川下大島町・深川区深川上大島町の全部または
一部と小梅村・須崎村・亀戸村の各飛地を糾合して大島村成立、その大字大島。同33年7月19
日大島町大字大島、大正4年大島町は字をなくして1~8丁目となり、その内かつての大島は1~
6丁目に相当。昭和7年郊外郡部が東京市に編入されて亀戸町・砂町と一区となった城東区に所属、
同40年新住居表示により1~8丁目を再編して現行の大島1~9丁目とした。大島といえば科学
肥料創業の地。その以前は釜屋(鋳物業)跡。江戸時代は釜場(鋳物工場)があった。都市化の波が
押し寄せて埼玉県の川口に移転、吉永小百合がキラキラと輝いてまぶしかった〝キューポラの町〟
も住宅地の侵食で締め出され群馬県渋川に移転していった。だから大島は釜屋公園だぁ!
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『江東区史』『江東の歴史』など。

 大島の由来
 江戸初期にはまだ陸地とも海ともいえず遠浅の砂州だった。陸地化したときその面積が大きく大
島(おおじま)と呼ばれたが、元禄のころには埋め立てられて内陸と一体となり、開発されて大島
村となった。「大島」の呼び名は、弘化四年(1847)改版「江戸町鑑」に「大ジマ」と濁音で
呼ぶよう強調しており、これは深川猟師町の一つの大島町と区別して、ここを「大ジマ」と呼んだ
のだろう。その後、昭和40年の住居表示制度実施時に「おおじま」と読むよう決められた。


■釜屋堀庚申塚・地蔵堂
 大島1丁目1番25号崎陽軒東京事業部の東の三叉路のちょっとへこませたところにある。庚申塚
といっても築山がある訳ではなく石碑があるだけだ。舟形光背型・日月・青面金剛像・邪鬼・三猿。
 堂もは小さく、しゃがみこまなければ拝めない。三叉路の東へ向かう道路を「庚申道跡」「旧庚申
通り」という。堂の左に、

   
庚申塚

 の碑。北方の東西の道路は庚申道と行った。

   庚申道跡
   明治通りから横十間川へ向かうこの道は、庚申道と呼ばれていました。明治44年の東京
   逓信管理局作成の地図を見ると「字庚申道」と記されています。
   この道の西側突き当たり(大島1‐1)に「釜屋堀庚申塚・地蔵尊」という幟の建てられ
   たお堂があります。このお堂は、昭和62年頃まで突き当たりにあり、「三つまたの庚申
   様」とも呼ばれていました。昭和7年に刊行された『大島町誌』には、「庚申堂」として
   旧大島村甲70番地にあること、猿田彦大神を祀ること、その由緒は未詳であることなど
   が記されています。現在、堂内には青面金剛を浮き彫りにした庚申塔とお地蔵様が祀られ
   大切に守られています。
   かつては、道の中央に小川があり、子どもを盥(たらい)に入れて流すと厄払いになると
   いういい伝えがありました。また沿道には八百屋・魚屋・駄菓子屋などが並び賑わってい
   ました。「庚申道」の名は、この鉄道橋(庚申架道橋)に今も残り、新大橋通りが貫通す
   る以前の大島の古い道と町並みの様子を偲ばせています。
   平成6年3月                          江東区教育委員会
 


■釜屋跡 (区内工業発祥の地) 
 大島1丁目1番にあった。大島1丁目2番26号の釜屋堀公園に標柱が立っている。釜屋とは鋳造
業のことで、太田六右衛門と田中七右衛門の2人は、近江国栗本郡辻村の出身で、代々鋳物を業とし
ていた。寛永七年(1640)に江戸へ出て、芝の海岸で鋳造業を始めたが、増上寺境内拡張のため
大島村に移り、幕府の用品を初めとして市民の需要に応えて鍋、釜、梵鐘、仏像、天水桶などを作っ
た。原材料や製品の輸送に使った両家の前の堀は「釜屋堀」と呼ばれた。初代六右衛門は、延宝五年
(1677)朝廷から「近江大掾」の号を与えられたので、以後代々がこれを通り名とした。初代釜
六の大茶釜が世田谷区の九品仏浄真寺に現存する。釜六の作品としては墨田区回向院の本尊大仏や三
好の善徳寺の天水桶がある。釜七は鍋七とも呼ばれ、鍋作りで有名だったが、目黒区羅漢寺、文京区
深光寺の天水桶が残っている。やがて都市化の波に押されて鋳物業は埼玉県川口に移り、さらに群馬
県渋川に移っていった。釜茹での五右衛門の釜を六右衛門が鋳る洒落。
 


■釜屋堀公園
 大島1丁目2番26号にある区立公園。

   
江東区立釜屋堀公園
    昭和十九年五月開園


   本園地タル釜屋堀ノ一帯ハ明治20年2月我國化学肥料製造ノ嚆矢タル東京人造肥料会社
   創業ノ地ニシテ近代農業ノ発達ニ多大ノ寄與セシ由緒アル處ナリ 
   茲ニ化学肥料事業ニ盡瘁セラルル有志相諮ラレ永ク此地ヲ記念スベク用地二百五十餘坪ヲ
   本都ニ寄附セラル今ヤ公園施設成リ開園ニ際シテ其由来ヲ刻シ寄贈者ノ芳志ヲ後世ニ傳フ
                                        東京都

 釜屋跡標柱
 ここに釜屋があった訳ではなく、公園ができたので標柱を建てた。釜屋の跡は川を挟んで向かい側
の大島1丁目1番だ。

   釜屋跡
   太田氏釜屋六右衛門と田中氏釜屋七右衛門は通称釜六釜七と称し寛永十七年(1640)
   今の滋賀県から港区にきて間もなくこの付近に住い釜六は明治時代まで釜七は大正時代ま
   で代々鋳物業を盛大に続けて知られなべかまの日用品をはじめぼん鐘仏像天水おけなどを
   鋳造した
   昭和33年10月1月                       江東区第19号



■科学肥料創業記念碑/尊農の碑

 大島1丁目2番26号の釜屋堀公園内に建っている。タカジアスターゼの発明者高峰譲吉博士は、
かねてから海外に出かけ、燐鉱石から過燐酸肥料を製造する方法を研究していた。明治20年高峰は
渋沢榮一と図り、益田孝、馬越恭平、大倉喜八郎、浅野総一郎、安田善次郎ら当時の財界有力者の協
力を得て資本金25万の東京人造肥料会社を大島村(大島1丁目)に創立した。明治21年11月か
ら操業し、わが国において初めて化学肥料の製造に成功した。同会社は、後に大日本肥料株式会社と
なり、大正12年関東大震災で焼失するまで製造を続けた。昭和18年11月わが国の人造肥料製造
の発祥地を記念するため、同会社により記念碑は建立された。

   
化学肥料創業記念碑
   植物ガ栄養トスル肥料ノ成分ハ、窒素 燐酸 加里ガ主デアッテ、之ヲ三要素ト称ヘ、窒素
   ハ主トシテ葉ヲ、燐酸ハ果実ヲ、加里ハ幹根ヲ形成スルモノデアル。肥料ニハ古来、動植
   物質ノ腐熟シタモノヲ多ク用イタガ、近代科学ノ発達ハ化学的ニ、窒素 燐酸 加里ノ各肥
   料ヲ多量且ツ廉価ニ生産スルコトニ成功シ、是ニ依ッテ農作物等ノ収穫ハ画期的躍進ヲ見
   ルニ至ッタ。此ノ處一体ハ、実ニ我国化学肥料ノ先駆タル過燐酸石灰製造工業創始ノ地デ
   アル。


   
尊農
   先覚渋沢栄一、益田孝等ノ諸氏ハ、維新当初ニ於テ、我カ国運ノ躍進ハ必スヤ人口ノ激増
   ヲ来シ、食糧問題ハ、実ニ邦家将来ノ緊要案件タルヘキヲ洞察シ、農業ノ発達ト肥料ノ合
   理的施用トニ因リ、之カ増収ヲ企図スヘキ堅キ決意ヲ為シ、欧米ニ於ケル化学肥料ノ研鑽
   者タル高峰譲吉氏ノ協力ヲ得テ、明治二十年初メテ此ノ地ニ東京人造肥料会社ヲ設立シ、
   過燐酸肥料ノ製造ヲ開始セリ。是レ我国ニ於ケル化学肥料製造ノ嚆矢ナリ。本事業ハ、官
   民ノ協力二因リテ漸次進展シ、後更ニ空中窒素固定工業ノ勃興スルニ及ヒ、農業生産ノ飛
   躍的増収ニ絶大ナル貢献ヲ為スニ至レリ。今ヤ曠古ノ非常時局ニ際会セルモ、能ク一億国
   民ノ食糧ハ、蓋シ化学肥料ノ発達普及ニ負フモノ多シト謂フヘシ。同社ハ後ニ大日本人造
   肥料株式会社ト改称シ、此ノ地ハ釜屋堀工場トナリシモ、不幸大正十二年ノ関東大震災ニ
   壊滅シ爾来二十星霜ノ久シキ寂トシテ、之ヲ顧謀リ、碑ヲ其ノ址ニ建テテ由来ヲ刻シ、永
   ク偉績ヲ顕彰スルト共ニ我国農業ノ興隆ヲ期シ以テ皇国ノ盛運ヲ奉頌ス
   昭和十八年十一月                    化学肥料創業記念碑建設会
 


■釜屋堀尋常小学校 
廃校

 大島1丁目2番31号にあった都立校。昭和14年関東大震災で壊滅した「東京人造肥料会社人造
肥料製造場跡地に第一・第二・第三大島尋常小学校から分校して、大島町1丁目59番地に新校舎を
建て開校。同16年国民学校令により「東京府東京市釜屋堀国民学校」と改称、同18年都制施行に
より「東京都釜屋堀国民学校」と改称。同19年新潟県に集団疎開。同20年愚かなアメリカ軍の非
人道的無差別東京大空爆により校舎焼失。8月日本は、ならず者国家アメリカの軍門に降り、以後何
でもいいなりとなる哀れな属国となり今日に至っている。同21年疎開解除となり学童集団帰校。第
一大島国民学校に吸収され、3月廃校。 跡地は、江東工業高等学校に引き継がれた。
 


■江東工業高等学校 
廃校

 大島1丁目2番31号にあった都立校。昭和16年亀高国民学校で「東京府立城東工業学校」とし
て開校。同18年都制施行により「東京都立城東工業学校」と改称。同19年11月愚かなアメリカ
軍による非人道的無差別の2度に亘る焼夷弾空爆により校舎焼失。第五大島国民学校に移転。同20
年のアメリカ軍の空襲により、葛飾区小松国民学校へ移転授業。同22年釜屋堀国民学校の跡地に新
校舎が完成して移転。同23年「江東工業新制高等学校」と改称。同25年新制高等学校も浸透定着
したため、「江東工業高等学校」と改称。平成13年統合により閉校。同年都立化学工業高等学校と
統合して、「都立科学技術高等学校」となった。
 


■科学技術高等学校(新設)

 大島1丁目2番31号にある進学型専門の都立高。都立高校で初めて「科学技術科」を設置した新
しいタイプの高等学校で、平成13年に都立江東工業高等学校と都立科学工業高等学校を統合して開
校した。今科学技術のあり方が問われる中、広い視野に立って、その発展に貢献できる人材の育成を
目指している。そのため、知識の習得で終わらずに、様々な体験を通じて、科学技術のエッセンスに
触れることを大切に、科学的な思考力やもの作りのセンス、課題意識等を早い内から身につけ、大学
等の専門教育に生かすべく日々の努力を積み重ねている。

 校歌
「曙の水辺を」 作詞・狩野敏也  作曲・小山順子
  1.曙の水辺を駆け行けば
    聞こえてくる時間を紡ぐ波の音
    響き合う風の息吹と我が鼓動
    瑞々しい緑の大地に
    新しい陽を迎える吾等
    共に撞こう時代の鐘を
    友よ 愛よ 未来よ

  2.星空の彼方を見上げれば
    束の間にも生まれ出ずる若き星
    せまぎあう真理の光 未知の問い
    果てしない宇宙への思いに
    打ち乗って翔ぶ時空の翼
    共に発とう明日への旅に
    友よ 愛よ
    今 ここに科学技術高校
 


■釜屋の渡し

 大島1丁目18番~北砂1丁目3番を結んだ小名木川の渡船。小幡長兵衛の経営で、大正7年7月
に営業許可がおり創業している。工事費は舟1艘500円、桟橋が2ヶ所で226円26銭だった。
『大島町誌』によれば平均して1日200人、自転車5台、荷車1台の利用があり、料金は1人1銭、
自転車・小車1銭、荷車2銭、牛馬2銭だった。廃止の年月日は判らないが、昭和17年刊行の『城
東区史稿』には営業の記載があるので、廃止はそれ以後ということになる。戦争で自然廃業し、その
まま再開しなかったのではないか。

   釜屋の渡し
   釜屋の渡しは、上大島村(大島1丁目)と八右衛門新田(北砂1丁目)を結び、小名木川
   を往復していました。名称は、この対岸に江戸時代から続く鋳物師、釜屋六右衛門・釜屋
   七右衛門の鋳造所があったことにちなみます。写真は明治末ごろの釜屋のようすです。川
   沿いに建ち並ぶ鋳物工場と、そこで働く人々や製品の大釜が写っています。
   明治の初めごろにはすでに、対岸の農耕地などへ往来する「作場渡船」に類する「弥兵衛
   の渡」がありました。「大島町誌」(昭和7年刊行)によれば、大正7年7月5日に「営
   業渡船」として許可されています。利用状況は、平均して1日大人200人、自転車5台、
   荷車1台で、料金は1人1銭、小車1銭、自転車1銭、荷車2銭、牛馬1頭2銭とありま
   す。『城東区史稿』(昭和17年刊行)には営業の記載があるので、それ以後に廃止され
   たものと思われます。
   平成9年3月                          江東区教育委員会
 


■第三大島中学校
 廃校
 大島1丁目20番20号にあった区立校。昭和36年大島地区の発展に伴う生徒数の激増を受けて
第二大島中学校から分校、毛利小学校に間借りして開校、480名からのスタートだった。12月第
一製線の工場跡地を校地として鉄筋コンクリート造り4階建て新校舎落成、移転。しかしその時は校
庭が狭く、体育館もプールもなかった。同37年3月開校式。同39年校歌制定。

 校歌
「雲映す」 作詞・谷川俊太郎  作曲・湯浅譲二
  1.雲映す小名木川は
    海越えて世界へ続く
    この国に生きる喜び
    この学校に学ぶ誇り
    第三大島中学校
  2.煙突の上の空は
    限りない宇宙へ開く
    この町に生きる幸せ
    この学校に学ぶ希望
    第三大島中学校
  3.共々に歌う今日は
    絶え間なく未来へ動く
    この時代に生きる厳しさ
    この学校に学ぶ我等
    第三大島中学校


 同40年体育館完成。同51年第六回全国中学生選抜剣道大会出場。同57年第一~第三大島中学
校3校から分校して第四大島中学校が創立したため、学区の一部移譲。同59年剣道部全国大会出場。
同61年8月伊豆大島噴火騒動で同島の中学生29名編入。12月火山活動沈静化のため伊豆大島の
生徒帰島。同63年コンピュータ室完成。同13年創立40周年記念式典。
 開校時はまだ東京の下町らしい町の風情がそこ彼処にあり、小名木川には筏を牽いたポンポン船が
行き来し、その上に架かる橋には路面電車が走っていた。映画『三丁目の夕日』のような光景は嘘で
はなかった。昭和40年代から大規模集合住宅の建設が相次ぎ、町工場の町から住宅街へと大きく変
貌した。そして子供は溢れるほどいたが、都営新宿線が通って便利になると、住宅街はビル化が進み
商業地化していく。集合住宅の住民は高齢化し、子供たちは大人になるとそれぞれ町を出て行った。
あれほど居た子供たちは激減し、学校は余ってくる。平成14年3月第二次江東区立学校適正配置計
画により、第四大島中学校と統合され閉校となった。統合校は第四大島中学校の校地校舎を受け継ぎ
「江東区立大島西中学校」となり、跡地は一時建替えのため第一大島小学校の仮校舎となった後、同
19年から大島南小学校と大島中央小学校の統合校「大島南央小学校」が引き継いだ。
 


■大島南央小学校 
移転
 大島1丁目20番20号に一時的にあった区立校。平成19年大島南小学校と大島中央小学校が統
合して「江東区立南央小学校」として創立、統廃合で廃校となった第三大島中学校跡地に、校舎建替
えの使用していた。平成21年大島中央小学校の跡地に新校舎が落成し再移転。跡地にはインディア
・インターナショナル・スクール・イン・ジャパンが入った。
 


■インディア・インターナショナルスクール・イン・ジャパン

 大島1丁目20番20号にあるインドの教育機関。他にインドの学校として
グローバルインディア
ンインターナショナルスクール(江戸川区)、インディアインターナショナルスクールインジャパン
横浜校がある。
 


■大島一丁目公園
 大島1丁目34番8号にある区立公園。


■黎明橋公園
 大島1丁目34番19号にある区立公園。
 


■愛宕社 
遷座

 大島2丁目6番あった。元は本所の成就寺内に創建したが、寛永年間に当時この地に遷座、享和三
年(1803)大島2丁目15番に移転した。
 


■大島二丁目公園
 大島2丁目11番7号にある区立公園。
 
 

■朝日山部屋

 大島2丁目13番24号にある相撲部屋。
明治28年10月に二枚鑑札で第11代朝日山となった
幕内岩ヶ谷岩松は、同29年現役を引退して朝日山部屋を復興するとともに大坂相撲において尽力、
大関相生枩五郎(東京相撲では関脇)、関脇綾瀬川山左衛門(東京相撲では幕内格)など数多くの関
取を育てた。
 大正5年7月に11代目が急逝すると、その遺言によって当時大関だった大錦が、1年限りの条件
で12代朝日山を襲名して朝日山部屋を継承し、11代朝日山の一周忌が過ぎた大正7年1月に現役
復帰して大錦に戻るとともに、同年4月に大坂相撲では3人目となる横綱免許を受け28人目の横綱
に推挙された。
 13代朝日山は、12代朝日山の弟弟子であった当時関脇の二瀬川が、大正7年1月に二枚鑑札で
襲名して朝日山部屋を継承した。その後大関に昇進し、同10年6月場所限りで引退して部屋経営に
専念した。13代朝日山は、関脇磐石熊太郎、小結真鶴秀五郎など多くの関取を育てるとともに、東
西合併に奔走して同14年7月に東京相撲と大坂相撲の合併調印を果たした。
 昭和18年9月に13代目が急逝すると、13代目の娘婿であり直弟子でもあった当時関脇の二瀬
川が昭和19年1月に二枚鑑札で襲名して朝日山部屋を継承した。同20年の東京大空襲では妻と義
母を亡くし、同22年6月場所限りで引退して部屋経営に専念した。14代目は、先代弟子の関脇高
津山、幕内二瀬山を育て、直弟子から幕内福ノ海、鯉ノ勢などの関取を育てたが、昭和34年8月に
膵臓癌のため43歳で死去した。
 昭和28年5月場所限りで引退した朝日山部屋(関脇二瀬川)所属の元関脇高津山は、年寄北陣を
襲名して朝日山部屋の部屋付き親方として後進の指導に当たっていたが、先代が急逝したため、昭和
34年8月に15代目朝日山へ名跡変更して朝日山部屋を継承した。15代目は、先代弟子の高鐵山、
直弟子の琉王などを育てたが、部屋を継いで僅か4年の同38年5月に胆石症のため44歳で死去し
た。
 同33年5月場所限りで引退した朝日山部屋(関脇二瀬川)所属の元前頭2枚目二瀬山は年寄大鳴
戸を襲名して部屋付き親方として後進の指導にあたっていたが、同35年に朝日山部屋から分家独立
して大鳴戸部屋を創設した。しかし先代が急逝したため、同38年5月に16代朝日山へ名跡変更し
て朝日山部屋を継承し、大鳴戸部屋所属の力士は朝日山部屋へ移籍した。16代目は、先々代弟子か
ら関脇高鐵山、先代弟子から幕内琉王、直弟子から小結若二瀬などを育てるとともに、トンガ王国よ
り連れた若者を弟子にして話題になった。16代目は、昭和50年10月にくも膜下出血のため急逝、
55歳の若さだった。
 昭和50年3月場所限りで引退した朝日山部屋(前2枚目二瀬山)所属の元小結若二瀬は年寄浦風
(後に北陣に名跡変更)を襲名して朝日山部屋の部屋付き親方として後進の指導に当たっていたが、
先代が急逝したため同50年10月に17代朝日山へ名跡変更して朝日山部屋を継承した。しかし1
年後に部屋を江戸川区に移転するに当たり、トンガ出身力士は兄弟子琉王の朝日山後継を求めて抵抗
し、同51年9月場所前に全員廃業に追い込まれ、巻き添えとなった琉王も同年11月場所限りで廃
業した。廃業した力士の中には、現在力士の南乃島の父(四股名は南ノ島)もいた。17代目は、平
成9年5月場所中に急性心筋梗塞のため急逝、先代と同じ55歳の若さだった。
 歴代師匠が相次いで死去したため、ついに朝日山系から後継者を欠くことになってしまった。そこ
で伊勢ヶ濱系から、同52年5月場所限りで引退した高嶋部屋(大関三根山)所属の元大関大受が、
平成9年5月に18代朝日山に名跡変更して朝日山部屋を継承した。もともと高島系だった大受は、
引退後に年寄楯山を襲名して不仲だった高嶋親方の下を離れ、伊勢ヶ浜(大関清國)の部屋付き親方
として後進の指導に当たっていた。
 現在関取経験者は17代朝日山時代に入門した大真鶴だけであり、将来的に彼が部屋を継承できれ
ば、直系継承が保たれる事になる。東西合併以来途絶えたことのない数少ない部屋だが、その中で唯
一幕内最高優勝力士を出していない。


■大島愛宕神社(小林一茶寓居跡)

 大島2丁目15番4号にある中社。創建年代は不詳、当初中之郷(墨田区)の成就寺(現在は江戸
川区平井へ移転)境内に祀られていたという。寛永年間(1624~44)に中之郷の村民が中之郷
出村(大島)へ移住したことから、村民が寺に示談して、元禄年間(1688~1704)中之郷出
村へ遷座、大正2年に氏子区域の中央にあたる現在地に遷座した(享和三年(1803)大島2丁目
6番から遷座したという記録もある)。この愛宕神社の縁起など詳細は不明。港区の愛宕神社との関
係も判らない。「新編武蔵風土記稿」に、

   中之郷出村。愛宕社
   村の鎮守なり。中之郷町成就寺持。
   末社稲荷。


 とある。

 小林一茶句碑
 一茶は境内に享和三年から1年ほど住んだようだ。その縁でこの句碑は建てられた。

   
雀の子
    そこ退けそこ退け
    お馬が通る 一茶


 芭蕉・蕪村と並ぶ。江戸時代の俳人。解り易く人情味豊かな句風を打ち立てた。一茶は、江戸時代
後期の俳人。宝暦十三年(1763)信濃生まれ。本名は信之、通り名を弥太郎といった。14歳の
時、江戸へ出て、後に二六庵竹阿の門に入り俳諧を学んだ。全国各地に俳諧行脚の生活を送り、その
作風は鄙語、俗語を駆使したもので、日常の生活感情を平明に表現する独自の作風を完成した。享和
三年(1803)の句帳の扉の宿所付(住所欄)に「江戸本所五ツ目大島愛宕山別当一茶園雲外」、
更に文化元年(1804)から同五年(1808)にかけての遺稿日記にも「本所五ツ目愛宕山別当
一茶」と記している。碑の句は一茶の代表作。建碑は最近で何時かは判らない。


■大島防災公園
 大島2丁目27番19号にある区立公園。
 


善治稲荷神社 ◇

 大島2丁目32番8号にある小社。
 


屋敷稲荷

 大島2丁目36番3号宇田川家の敷地にある小祠。


■第四大島尋常小学校
 廃校
 大島2丁目41番4号の第一大島小学校のところにあった公立校。昭和8年大島町2丁目8番地に
大島地区4番目の小学校として開校した。木造2階建ての校舎で、児童972名18学級でスタート
した。同16年国民学校令より「東京府東京市第四大島国民学校」と改称。同18年都制施行により
「東京都第四大島国民学校」と改称。同19年8月愚かなアメリカ軍の無差別空爆が熾烈となり、山
形県米沢市に集団疎開。同20年3月愚かなアメリカ軍の非人道的市街地無差別空爆により、校舎焼
失。8月日本は、ならず者国家アメリカの軍門に降り敗戦、以後その属国となる。同21年継続を断
念、廃校。
 同22年から第一大島小学校が移転してきて現在に至っている。
 


■第一大島小学校(明治2410月2日開校記念日)
 大島2丁目41番4号にある区立校。明治の初め頃、大島地区には藤沢・沖島(前身、私立五つ目
小学校)・永平(前身、私立小林小学校)という3つの寺子屋式の小学校があったが、明治16年7
月21日に公立学校となった。同24年5月公立沖島・永平の両校を合併し、南葛飾郡大島町元大島
12番地(現大島中央小学校々地)に「南葛飾郡大島尋常小学校」設立、7月高等科を併置、「大島
尋常高等小学校」と改称。9月253名が新校舎に移転した。校舎は小名木川通りに正門を構え、鉄
製の門扉、木造入母屋総2階純和風で、書院造りの玄関欄間には、勝海舟書の「大島学校」の額が掲
げられていた。10月2日開校式。同34年高等科が独立して大島高等小学校として独立するが、立
ち行かず、同37年再び併置。同43年大島女子尋常小学校が設立され、女子が転出したため男子校
となる。同45年「第一大島尋常高等学校」と改称。大島女子尋常小学校は高等科を併置して第二大
島尋常高等小学校となる。
 大正12年関東大震災により第二大島尋常高等小学校が壊滅したため、女子児童を収容し再び男女
共学となる。第二大島尋常高等小学校の復興を機に通学区を変更し、両校を男女共学校となる。同1
5年第三大島尋常小学校を分校。昭和7年南葛飾郡が東京市に編入され城東区が成立し「東京市大島
尋常高等小学校」と改称。同8年第四大島尋常小学校を分校。同16年国民学校令より「東京府東京
市第一大島国民学校」と改称。同18年都制施行により「東京都第一大島国民学校」と改称。同19
年8月愚かなアメリカ軍の無差別空爆が熾烈となり、山形県赤倉温泉に集団疎開。同20年3月愚か
なアメリカ軍の非人道的市街地無差別空爆により、校舎焼失。青空教室で授業8月日本は、ならず者
国家アメリカの軍門に降り敗戦、以後その属国となる。

 同22年2月第四大島小学校跡地(現在地)に木造バラック校舎竣工。学制改革により「東京都江
東区立第一大島小学校」と改称。同25年廃棄電車2両を寄贈され、教室・図書館として使用。開校
60周年記念式典。校歌制定。

 校歌
「鉄を鍛える」 作詞・深尾須磨子  作曲・中田一次
  1.鉄を鍛える機械の音が
    世界の空にこだまする。
    働く町の学校だ
    ああ母校 我が母校
    第一大島小学校
  2.鉄は鍛えてますます強く
    鍛えて人も強くなる
    仲良く励む学校だ
    ああ母校 我が母校
    第一大島小学校
  3.舟を浮かべて流れる水は
    世界の海に続いている
    運河の町の学校だ
    ああ母校 我が母校
    第一大島小学校


 同27年第二大島小学校再建のため児童661名移籍。同33年5・6年生9学級毛利小学校に間
借りして授業。同34~44年3期に分けて鉄筋コンクリート造り校舎落成。大島中央小学校を分校。
プール完成。平成2年ランチルーム完成。同12年地方自治法改正により、東京都の冠称を外し「江
東区立第一大島小学校」と改称。開校110周年記念式典。同14年「よい歯の学校」の表彰(昭和
63年から連続して受賞)。新校舎建設のため1丁目20番の廃校となった第三大島中学校の校舎を
仮校舎として移転。同18年5階建て新校舎落成して帰校。

 
学校のシンボル

 この情報は古いかも知れないよ。新築後どうなったか確認していないが、校庭の隅を柵で囲った小
庭園があり、4階まで達するほどのメタセコイアや棕櫚、柿、松などの樹木が茂っており、また中央
には大きな庭石を使った池があり、魚が泳いでいた。庭の隅には、校歌の作詞者深尾須磨子直筆の校
歌碑が建っている。校舎の裏、道路に面して岩石園がある。火山岩を使って滝が流れるようになって
おり、岩山を通った滝の水が池を作っている。
 


■西大島駅

 大島2丁目41番19号にある都営地下鉄新宿線の停車場。新宿線の最初の区間である岩本町~東
大島間が開業した、昭和53年12月21日に設けられた駅。ホームは島式1面2線構造で地下2階
にある。ホームと改札階を結ぶエレベーターは設置済み。改札口は1ヶ所で地下1階にある。出口は
A1~A4の4ヶ所。
 


■羅漢寺
 大島3丁目1番8号、明治通りと新大橋通りの区民センター前交差点の東北角にある。元々この地
にあり、目黒に移転した羅漢寺とは無関係。寺宝に
江東区登録文化財の「井伊直武奉納の石造燈籠
(寛永寺旧蔵)」
木造千手観音菩薩坐像」「木造毘沙門天立像」延享元年在銘の地蔵供養塔」が
ある。


■大島緑道公園
 大島3丁目7番7号、4丁目1番1号に跨ってある区立公園。
 


■観妙寺
 大島3丁目12番15号にある日蓮宗の小寺。昭和3年に大島教会として発足、同39年から現在
の山号寺号を称するようになった。

 
稲荷社 ◇
 境内にある。
 


■豊見徳龍稲荷社 ◇

 大島3丁目13番21号、鈴木製作所の敷地にある小祠。その掲額は以下の通り。

   豊見徳龍稲荷大明神
          鈴木長吉
 


■第二大島小学校
(6月25日開校記念日 開校式は11月3日なので理由不明)
 「第一次」 廃校
 大島3丁目16番2号にある区立校。明治43年大島尋常高等小学校の尋常科女子を独立させて、
同校内に「南葛飾郡大島女子尋常小学校」として10学級567名で開校した。当初は教室を分けた
だけだったが、11月現在地に新校舎が完成し移転し別々の学校となった。同45年高等科併置し、
「第二大島尋常高等小学校」と改称。
 大正12年9月関東大震災により校舎の損害多く、また罹災者の収容に充てたので、9月中は臨時
休校とし、10月から第一大島の校舎を借りて二部授業を行った。12月校舎の応急修理完了し、生
徒帰校。後日復興を機に通学区を変更し、両校とも男女共学校となった。昭和7年南葛飾郡が東京市
に編入されて城東区が成立し「東京市第二大島尋常高等小学校」と改称。同8年第四大島尋常小学校
の開校により児童300名を移籍。同14年釜谷堀尋常小学校の開校で児童23名移籍、さらに第四
大島に343名移籍。それでも19学級1158名の大規模校。同16年国民学校令より「東京府東
京市第一大島国民学校」と改称。同18年都制施行により「東京都第一大島国民学校」と改称。同1
9年8月愚かなアメリカ軍の無差別空爆が熾烈となり、山形県米沢市に集団疎開。同20年3月愚か
なアメリカ軍の非人道的市街地無差別空爆により校舎焼失。青空教室で授業。8月日本は、ならず者
国家アメリカの軍門に降り敗戦、以後その属国となる。同21年継続を断念し廃校する。
 [第二次] 復興
 昭和27年東京都第二大島国民学校を引き継ぐ形で「江東区立第二大島小学校」設立。木造2階建
て校舎普通教室11完成。同28年西側・北側に4教室づつ増築。同29年東側に4教室・保健室な
どを増築。同31年校歌制定

 校歌
「棚引く朝雲」 作詞・勝承夫  作曲・平井康三郎
  1.棚引く朝雲 東京の
    空があければ心もあける
    いつも元気な小鳥のように
    明日の日本の力が育つ
    第二大島 輝く我等
  2.高鳴る汽笛も晴れ晴れと
    町は溌剌 仕事に勇む
    伸びる我等は体も強く
    みんな仲良くやり抜く気風
    第二大島 希望の泉
  3.楽しい七夕 雛祭り
    智慧を集める学芸会よ
    夢も豊かに心を協わせ
    守る校風 受け継ぐ歴史
    第二大島 我等の母校


 制定年不詳。昭和の初め頃には歌われていた校歌
  1.大内山の眞東に
    御恵享けて柏葉の
    學びの実り結ばんと
    心は堅しな我が学び舎
  2.朝日輝く富士ヶ根の
    姿仰ぎ手三種(みくさ)なる
    教えの道を辿らんと
    操は高し我が学び舎


 新制第二大島小学校校歌、昭和27~28年頃に歌われていた。
    新しい 新しい 第二大島小学校
    みんなで起てた良い学校
    希望に燃えて朗らかに
    正しい道を進もうよ
    みんなの学校 良い学校


 同33年第四大島小学校の新設により一部学区を移管。屋内体操場(体育館)落成。同38年「東
組」(仲良し学級)2学級開設。同43年鉄筋コンクリート造り4階建て北側校舎新築。同44年大
島中央小学校新設のため一部学区移譲。同45年北側校舎増築。同47年鉄筋コンクリート造り3階
建て西側校舎10教室新築。屋上プール完成。同53年都営地下鉄新宿線(東大島~岩本町)が開通
して沿線が開け、次第に児童数が増え間もなく1000名を超えた。同54年体育館完成。平成12
年地方自治法の改正により、東京都の冠称を外し「江東区立第二大島小学校」と改称。児童によるビ
オトープ(自然生物園)完成。同14年創立90周年記念式典。
 


■城東郵便局

 大島3丁目15番2号にある普通集配局。
 


■子安稲荷神社 ◇

 大島3丁目21番9号にある小社。元禄年間(1688~1704)大島3‐7、8番の辺りに創
建したと伝えられる。昭和30年頃、高砂鉄工所の拡張工事により、移転を余儀なくされ現在地に遷
座した。石鳥居・唐獅子一対・石燈籠一対がある。境内の案内板に、

 
  亀出西部
   
子安稲荷神社
   縁起
   江戸時代、元禄時代の中頃に村民によって宇迦能魂之神を祀り、護国豊穣と子孫の繁栄を
   願い鎮座されました。
   氏子は現在の大島3丁目、4丁目の一部と南五ッ目(大島2丁目の竪川沿いの一部)でし
   た。明治の末頃に亀戸香取神社の管轄となり、現在の高砂鉄工所門前近くに鎮座されてお
   りましたが、昭和30年頃工場拡張工事の際、現在地にて町会の守護神として祀ってくれ
   る様にと願い出あり、町会役員、氏子、世話人相談の上、当地にお祀りすることになりま
   した。現在は学問・子育ての神として崇拝を受けている。


 とある。

 
社号碑
 鳥居左にある。

   
子安稲荷社 


■城東高等学校

 大島3丁目22番15号にある都立校。昭和52年江戸川区の都立篠崎高等学校内に設立事務所を
設け、翌53年墨田区の都立深川商業高等学校の都立商業教育共同実習所内仮校舎において開校。9
月現在地に校舎を建て移転。同57年グループ合同選抜制度導入。深川・東・江戸川・小松川・小岩
・葛西南・篠崎の各校と62グループに編成される。平成6年現在の単独選抜制度導入。同11年・
13年「夏の甲子園(全国高等学校野球選手権大会)」に出場。何れも初戦敗退。都立としては国立
高校に次いで2番目。同15年のインターハイで薙刀部門で3位入賞を果たした。スポーティだが結
構な進学校なんだよ。

 校歌
「緑の道に」 作詞・岡野弘彦  作曲・池辺晋一郎
  1.緑の道に風立てば
    朝の陽 清く照り渡る
    嗚呼 輝ける窓や庭
    此処に集いて身は若し
    自律の心 潔く
    吾等は今日を鍛えよう
  2.巷に昼の鐘は鳴り
    知識の欲に眼は燃ゆる
    嗚呼 とよみ来る街の音
    人皆生きて美しき
    友愛深く胸に満ち
    吾等は学ぶ広き学
  3.空に迎える夜の窓
    思い静かに灯点
(とも)せば
    嗚呼 聞こえ来る星の声
    希望は遠く遥かなり
    実践の意志 内に秘め
    吾等は進む 逞しく

 
伊藤左千夫の碑

 城東高等学校西庭にある。

   
竪川に牛飼ふ家や楓萌え木蓮花咲き児牛遊べり

 この歌碑は、左千夫の業績を讃えて城東高校の関係者、アララギ有志、地元関係者、江東区短歌会
が、昭和5411月1日左千夫終焉の地に近い城東高校に建立したものだ。歌碑は、高さ1.53m、
横2.4m、厚さ60cmで、愛媛西条産の石。左千夫の門人土屋文明が揮毫した、前記の歌が刻まれ
ている。
 左千夫は、本名を幸治郎、元治元年千葉県成東町に生まれた。政治家を志して上京したものの、眼
を患い帰郷。明治22年から本所茅場町(錦糸町駅前)で搾乳業を始めた。その傍ら万葉調の短歌を
鼓吹し、島木赤彦・齋藤茂吉・中村憲吉・小泉千樫・土屋文明など多く門人を育て、近代短歌の興隆
に力を尽くした。作品には、万葉集研究、歌論のほか、『野菊の墓』など小説も書いた。大正元年5
月現在の大島6丁目1番日本住宅公団の中庭辺りに牛舎を移し、翌年3月住まいも移したが、4ヶ月
後50歳で没した。
 


■大島三丁目公園
 大島3丁目22番25号にある区立公園。
 


■第二大島中学校
(昭和29年11月2日開校記念日)
 大島3丁目27番18号にある区立校。
 [4丁目時代]
 昭和29年大島中学校内に同中学校から分校し、「東京都江東区立第二大島中学校」として開校。
生徒392名でスタートした。10月第一大島国民学校(尋常高等小学校)の移転跡地(大島中央小
学校)に新校舎が竣工して移転。11月2日開校式。同30年6月4教室増築。12月4教室増築。
同31年校旗・校歌制定発表。創立3周年を記念して校歌を作ることになり、作詞については広く公
募したところ20編ほどの応募があった。その審査を歌人の谷鼎に依頼したところ、初代校長植村利
夫の作品が一等に入選した。

 校歌
「小名木の川に」 作詞・植村利夫  作曲・音楽教諭岡敦子
  1.小名木の川に潮満ちて
    行き交う舟の数繁く
    汽笛の響 木霊して
    煙は雲と湧くところ
    輝く希望 ここにあり
  2.都の空の浅緑
    栄えある桔梗 翳しつつ
    明るく清く健やかに
    睦びて励む友垣の
    心は花と咲き匂う
  3.伸び行く生命 鉄
(くろがね)
    鍛えて強き力あり
    明日の日負いて一筋に
    潮の如く行かんかな
    ああ我が友よ 栄あれ

 同32年4教室増築。同36年第三大島中学校を分校。6月鉄筋コンクリート造り校舎8教室竣工。
同37年体育館兼講堂完成。読売科学賞で都最優秀賞受賞・全国第2位。同38年プール完成。同4
4年三菱鋼材跡地(現在地)に新校舎を建て移転。
 [3丁目時代]
 同45年体育館兼講堂完成。同46年プール完成。同57年第一~第三大島中学校3校の分校とし
て第四大島中学校を新設。一部学区移譲。平成4年コンピュータ室完成。同6年創立40周年記念式
典。同16年創立50周年記念式典。
 


■霊巌寺念仏堂跡

 大島3丁目30番とあるが、隣の31番大島三丁目児童遊園にあったと思われる。


■愛宕神社 → 亀出神社
(かめでじんじゃ) ◇

 大島3丁目31番15号にある神社。水運のために竪川が開鑿されたため、亀戸村から切り離され
当地周辺を亀戸出村と称していた。寛文十二年(1672)に亀戸出村(大島村)にあった霊巌寺領
の鎮守として霊巌寺の僧松風が創建したという。水運のために竪川(首都高速7号線の下)が造られ
た結果、江戸時代後期に編纂された『新編武蔵風土記稿』では、大島村の項に、愛宕神社として記載
されており、大島村・大島町の鎮守とされている。また霊巌寺領であったことから、念仏堂が当社近
くにあったといい、現在も子育地蔵尊が安置されている。
 昭和41年、江戸幕府5代将軍徳川綱吉の時代(17世紀末から18世紀初め)に松平定儀が別邸
を築くに際して鬼門除として創祀した「亀出稲荷神社」と、寛文十二年(1672)に亀戸出村霊巌
寺領の鎮守として創建したといわれている愛宕神社を、現在地に合祀して成立し、同48年には大島
1丁目37番に鎮座していた草分稲荷神社を境内へ合祀している。「新編武蔵風土記稿」に、

   大島村
   稲荷社(大島稲荷神社)
   愛宕社
   共に村内及び大島町の鎮守なり。勝智院持。
   念仏堂跡
   霊巌寺領の内にて愛宕社の邊りを云。古へ霊巌寺の住僧松風起立し、其後珂碩和尚庵住せ
   り。然るに洪水のために堂宇流失しかば、本尊以下悉く荏原郡奥沢新田に移せしと云。


 とあり、「江東区の民俗城東編」は以下の通り。

   愛宕神社(亀出神社)
   『南葛飾郡神社要覧』によれば、創立は寛文十二年(1672)であり、霊巌寺領の鎮守
   であったという。『新編武蔵風土記稿』巻之二十五によれば、愛宕社周辺を念仏堂跡とい
   い、古くは霊巌寺の住僧松風が起立し、その後、珂碩和尚が住む。洪水のために堂宇が流
   出したため、荏原郡奥沢村(世田谷区)に移転したという。『大島町誌』によれば、奥沢
   浄真寺には、珂碩上人が常念仏で用いた接待茶釜が残されその銘には、
    奉寄進鑵子一口。為二親菩提。寛文八年霜月廿五目常念仏九百日。武州豊島郡葛西荘
    大島村常念仏堂什物。沙彌浄心
   とあるという。奥沢への移転は延宝六年(1678)である。愛宕神社境内に地蔵像が数
   体残され、享保十年(1725)銘の供養塔には亀戸出村講中と彫られている。愛宕神社
   周辺を亀戸出村と称していた名残である。竪川が万治三年(1660)に掘られた際に、
   亀戸村から切り離されたためにこのような地域名を唱えるようになったと思われる。氏子
   としては、江戸時代は大島村・大島町の鎮守であり、現在は亀出東部陸会でお守りしてい
   る。


 
亀出子育地蔵尊
 境内にある立派なお堂だ。

 
草分稲荷大明神
 境内にある。旧地に区の総合庁舎が建てられることになり、現在地に、区長並びに香取宮司立合い
の上で遷座してきた。昭和16年頃、この社が香取神社宮司の夢枕にたち『火難』があるかもしれな
いから後世大切に祀るようにとのお告げがあったという。数年後、アメリカ軍の無差別空爆により、
焼失したということがあった。旧新の

   草分稲荷祭祀
   草分稲荷は、徳川の初期、現在の大島1丁目37番(釜長の並び)付近の草むらに小さな
   ほこらが建てられていたと伝えられ、昭和の初めまでは付近住民が旧初午の日に寄付を持
   ち寄り祭礼を行ってきたと語り継がれているものである。
   往昔南葛一円の地は徳川幕府による禁領地であり、常時番人を置いて厳重に見張りをし、
   明治維新まで続いていた。現在の大島2丁目付近には鷹狩に使われる鴨池があり、御用屋
   敷と呼ばれるものが散在していたという。
   たまたま徳川3代将軍家光がこの池に遊猟の際、草繁き狩場で路に迷ったところ、その道
   案内に立ったのがこの稲荷だったといわれている。
   稲荷神社は「うかのみたまのみこと」を祭神とし、食物一切をつかさどる神とされている。
   この草分稲荷は、明治7年。『東京商法会議所刊』所管地(現大島4丁目5番江東区役所
   用地)管理人横山登三郎氏が昭和6年道路改正の折、前記の場所からその管理地の東方橋
   にこのほこらを移し、昭和11年まで安置した。
   その後、祀る者もないままに、土砂、雑草に埋もれ、顧みられなかったが、ここに城東区
   役所が移ることになり、その新築工事業者によって庭の一隅に安置された。昭和15年城
   東区役所がここに移転するや、庁内の有志が祠を復建し、小規模ながら■■がととのえら
   れた。しかし昭和20年3月10日払暁の空襲により、草分稲荷は庁舎とともに灰じんに
   きしたが、焼けあとから芽を出した当時の神木を有志が育成しちいさなほこらを再建立し
   翌年建物等の建立ささやかな祭りをしてきた。
   昭和48年4月江東区役所の総合庁舎建設に伴い、第二庁舎あと地は近代的区民施設とし
   て一般に されることになったので、大島地区にゆかりのふかい亀出神社に遷座したもの
   である。

   
草分稲荷祭祀
   草分稲荷については徳川初期現在の大島1丁目37番(釜長のならび)付近の草むらの中
   に小さなほこらが建てられていたと伝えられ、昭和のはじめまでは付近住民が旧初午の日
   に寄付をもちより祭礼を行ってきたと語り継がれているものである。
   往昔南葛一円の地は徳川幕府による禁領地であり、常時番人をおいて厳重に見張りをし、
   明治維新まで続いていた。現在の大島2丁目付近には鷹狩に使われる鴨池があり、御用屋
   敷と呼ばれるものが散在していたという。たまたま徳川3代将軍家光がこの池に遊猟の際、
   草繁き狩場で路にまよったところ、その道案内にたったのがこの稲荷であるともいわれて
   いる。稲荷神社は『うがのみたまのみこと』を祭神とし、食物一切つかさどる神とされて
   いる。城東地区はもともと農業地域であったことから稲荷社がかなり多いが、慶長から元
   禄の頃がもっとも多く、徳川2代の秀忠から5代綱吉にいたる頃といえよう。
   その後祀るものもないままに、さらに墓地改葬があり、土砂、雑草に埋もれかえりみられ
   なかったが、ここに城東区役所が移ることになって、その新築工事が進むにつれ、ほこら
   も堀り出され業者によって庭の一隅に安置された。昭和15年区役所がここに移転するや
   庁内の有志がほこらを復建し毎年ささやかな祭をしてきた。
   昭和16年頃この社が香取神社宮司の夢枕にたち『火難』があるかもしれないから後世大
   切に祀るようにとのお告げがあったと伝えられている。
   昭和48年4月、江東区区民センター建設に伴い亀出神社の境内に区長並びに香取宮司立
   合いの上遷座したものである。


■大島三丁目児童遊園

 大島3丁目31番15号にある区立公園。


■大島団地

 大島4丁目の西半を占める。
 


■第四大島中学校 
廃校
 大島4丁目1番23号にあった区立校。かつて大島4丁目には日曹製鋼大島工場やその他の工場が
あったが、その跡地に集合住宅団地が建設され人口が急増していた。これに伴い大島地区の生徒も激
増し、昭和57年大島・第二大島・第三大島の3中学校から234名6学級、新入生277名・7学
級、都合511名・13学級で開校、番号通り大島地区4番目の区立中として、校舎は明治通りと小
名木川の交差する北岸の日本製粉大島工場跡地に建設された。鉄筋コンクリート造り4階建ての校舎
は、23教室・14特別教室・4管理室・4教材資料室の外、体育館・プール(6コース)を備え、
近代的設備・施設の整った新設校だった。
 しかし平成に入った頃から少子化・世帯の高齢化に伴い生徒数が減少、それに連れて学級数も減り
始めた。この頃既に第三大島中学校は200名ほどで6学級に落ち込んでいた。その後も生徒数の減
少は止まらず、創立20周年を迎えた平成14年閉校となり、第三大島中学校と統合して「江東区立
大島西中学校」となり、跡地を譲った。

 校歌
「芭蕉 其角も」 作詞・桜井勝美  作曲・諸井昭二
  1.芭蕉、其角も この水に
    船を浮かべた小名木川
    文化の流れ受け継いで
    心豊かに日々励む
  2.緑 色濃い常盤木の
    実を結ぶペン十字
    校章胸に手を繋ぎ
    明るい希望の環を作る
  3.世界に続く空の青
    我が学び舎の愛の巣に
    優しく労わり飼い育て
    平和の鳩を大空へ
     ああ 我等 我等の第四大島中学校


 かつて第三亀戸中学校の教頭だった加藤勝三の紹介で、詩人の桜井勝美に作詞を依頼。作曲は、音
楽教諭浜口希がピアノと声楽の指導を受けていた諸井昭二に依頼した。昭和57年11月の校歌制定
記念発表会で披露したが、その歌も廃校となっては歌う人も無い。
 


■大島西中学校
(5月2日開校記念日 理由不明)
 大島4丁目1番23号にある区立校。平成14年4月第二次江東区立学校適正配置計画による第三
と第四の大島中学校が統合し開校した。同15年校歌制定。

 校歌「昨日を明日に」 作詞は第三大島中学校の校歌の作詞を手がけた詩人の谷川俊太郎に依頼し
た。「鉄腕アトム」などのヒット作がある。作曲の林光は第四砂町中学校の校歌を作曲した音楽家。
  1.昨日を明日に結ぶ今日
    子供と大人の間を生きる
    知りたいことが一杯だ
    学ぶことは問いかけること
    健やかにしなやかに心と体
    大島西中の私たち
  2.故郷の流れ小名木川
    歴史を貫き世界に続く
    楽しいことも一杯だ
    生きることは答えること
    大らかに細やかに心と体
    大島西中の私たち
 


■五百羅漢跡

 大島4丁目5番1号区総合区民センターの所にあった。京都の仏師だった松雲は、寛文九年(16
69)に出家し、貞享年間(1684~87)に江戸へ出、元禄四年(1691)から羅漢像を彫り
始めた。元禄八年(1695)5代将軍綱吉から「天恩山五百羅漢寺」の号と、本所五ツ目に、60
00余坪の寺地を賜り、ここに自ら彫像した536体に上る羅漢像などを安置した黄檗宗の寺院を建
立した。境内に立てた三匝堂(さんそうどう)は、。匝は「めぐる」という意味で、3回めぐる堂と
いう普通名詞。正式名称は「円通閣」といい、3階建ての堂で、廊下が螺旋状に3階まで続き、入っ
てから出るまで同じところを通らないのが特徴だった。その様や三匝の発音が栄螺(さざえ)に似て
いるところから、一般には「五百羅漢のサザエ堂」と俗称されて人口に膾炙して著名になり、広重や
北斎などの錦絵に描かれた。

   観音に魚藍もあればなまぐさき栄螺堂とはいわし煮た鍋

 蜀山人の狂歌だが、サザエ堂は川柳にも詠まれている。

   大きな栄螺観音が百はいり

 三匝堂よりサザエ堂のほうがやはり親しみやすく、狂歌や川柳の題材としても打って付けだ。明治
に入って荒れ、このとき羅漢像が盗まれた。同20年に本所緑町に移り、さらに同42年目黒区へ移
転、現在も目黒不動の東にある。目黒には305体が残されており、後の231体は行方不明だ。と
ころがそれが江東区のどこかの寺にあると聞いて判ったのだが、メモらなかったため失念してしまっ
た。何処だったったっけなぁ?? 世田谷の観世音寺に9体ばかりあったような気がする・・・
 余談だが、行方不明で思い出したんだけどネ、これ人の名前だったらどう読む?
 昔終戦後のこと、鶴見事故という列車転覆事故があって、これもアメリカの謀略らしいんだが、ま
あそれはそれとして、この被害者の行方不明者の中に行方不明さんがいたのだ。だから新聞には「行
方不明(行方不明)」と出た。これは何だ?というので問い合わせが殺到したが「なめかたみえず」
読む人だった。洒落た親がいたもんだ。

 五百羅漢跡の碑
 横断歩道脇の植込みに石柱が建っている。碑の両側面と裏面には、

   元禄八年この付近に黄檗宗松雲禅師作の羅漢像五百体を安置する広壮な羅漢寺が創立せら
   れ五百らかんという名所として知られてきたが羅漢寺は明治二十年に墨田区へさらに同四
   十二年目黒区へ移転したが、なお当時の羅漢像の多くを残している
   昭和三十三年十月一日                       江東区第18号


 と記されている。

   五百羅漢跡
   五百羅漢は、元禄八年(1695)に松雲元慶禅師により創建された黄檗宗の寺院です。
   禅師は貞享年間(1684~1688)に江戸へ出て、元禄四年(1691)から木造羅
   漢像を彫り始めました。元禄八年(1695)将軍徳川綱吉から天恩山五百羅漢寺の寺号
   と6000坪余の寺地を賜り、ここに自ら彫像した羅漢像など536体を安置しました。
   当寺の三匝堂は、廊下が螺旋状に3階まで続いており、その様子が栄螺(サザエ)のよう
   であることから、または三匝と栄螺の発音が似ていることから「栄螺堂」と呼ばれ、多く
   の参詣客を集める江戸名所の一つでした。区内には、五百羅漢までの道筋を示す道標が2
   基現存しています。
   羅漢寺は明治20年本所緑町(墨田区)へ移り、さらに明治42年現在地(目黒区)へ移
   転しました。ここに残る石標柱は、五百羅漢跡を示すために昭和33年に建てられたもの
   です。
   平成20年3月                         江東区教育委員会



 
道路北向こう、3丁目1番にある羅漢寺
 明治38年に都下氷川村に曹洞宗祥安寺として創立、昭和11年現在地に移転してきて、元あった
羅漢寺を名乗ったもので、五百羅漢寺とは関係がない。
 


■城東区役所 → 江東区総合区民センター

 大島4丁目5番1号にある区の施設。

 
「青少年の愛の手を」
 西北の植栽に建つ。大きい台座の上に青少年が立ち、女子が左手を挙げている銅像。
 


■城東図書館

 大島4丁目5番1号の区民センターの4階にある。
 


■浄楽寺

 大島4丁目14番6号にある浄土真宗本願寺派の寺。昭和2年教会として現在地に創建、同27年
に浄楽寺と称するようになったという。
 


■大島四丁目公園

 大島4丁目17番9号にある区立公園。


■第一大島尋常小学校
→ 第一大島国民学校 移転
 大島4丁目18番5号にあった区立校。明治の初め頃、大島地区には藤沢・五つ目→沖島・小林→
永平という3つの寺子屋式の小学校があったが、同16年7月21日に公立学校となった。同24年
5月公立沖島・永平の両校を合併し、南葛飾郡大島町元大島12番地(大島中央小学校)に「南葛飾
郡大島尋常小学校」設立した。詳細は第一大島小学校の項に譲るとして、昭和22年2月第四大島国
民学校跡地(現在地)に移転した。

 女木塚碑(芭蕉句碑) 
移転
 校門脇にあった。現在は大島稲荷神社の鳥居の近くに移してある。高さ140cm。正面に大きく
「女木塚」、裏面には「其日庵社中造立」と刻まれている。年月日はない。

   秋に添て行かばや末は小松川

 この句は、芭蕉が49歳の元禄五年(1692)小名木川に舟を浮かべて、門人桐奚宅での句会で
吟じた句だ。一説には、元禄六年(1693)ともいわれている。
 芭蕉没後、其日庵社中の俳人たちが、芭蕉を偲んで建立したこの句碑は、初め近くの愛宕神社に建
てられていた。昭和20年3月10日のアメリカ軍の無差別絨毯爆撃で、愛宕神社の一帯は全焼し廃
墟と化した。この句も路傍に転がっていたが、城東区役所では句碑の亡失を配慮して、近くの第一大
島国民学校の校門脇に移しておいた。のち愛宕神社が大島神社に吸収され、立派に復興したので、そ
れを機に碑は境内に移された。その頃は校地は大島第二中学校となっていたよ。
 


■第二大島中学校 
移転

 大島4丁目18番5号にあった区立校。昭和29年大島中学校内に開校。当時大島地区の人口増加
に伴い生徒も増え、大島中学校のキャパシティでは賄えなくなり分校。10月に第一大島国民学校跡
地に新校舎を建て移転した。第二大島の詳細はその項に譲るとして、同44年3丁目27番に移転。
跡地に大島中央小学校が開校した。
 


■大島中央小学校
 廃校
 大島4丁目18番5号にある区立校。大島4丁目団地建設に伴い急増する児童の収容対策と、適正
配置から、第二大島中学校の移転跡の校舎・校地を受け継いで開校した。ここは第一大島小学校が産
声を上げた場所で、新制中学校もここに開校したという教育発祥の歴史と、大島地区のほぼ中央にあ
ることから「大島中央小学校」と命名され、昭和44年4月、児童数369名11学級でスタート、
9月新しく大島4丁目団地に入居した児童134名が転入し、15学級となる。児童は毎年増え続け
この年から4年間増改築工事。9月校歌・校旗・校章制定。10月9日開校記念式典。同48年開校
以来の増改築完了。中学生用プールを小学生用に改造。同49年大島南小学校を分校。同52年東側
4階建て校舎改修。同55年東側校舎増築。普通・特別校舎各2、プール25m×4コース完成。同
63年校内改修工事修了。第二図書館・ランチルーム・ホールなど新設。平成7年普通教室12学級
の床貼り替え。同10年開校30周年記念式典。同12年地方自治法の改正により東京都の冠称を外
し「江東区立大島中央小学校」と改称。同19年就学児童の減少により廃校、大島南小学校と統合し
て「江東区立大島南央小学校」となり、廃校となった第三大島中学校の跡地に移転した。

 校歌
「朝日を浴びて」 作詞作曲・大島中央小学校校歌作成委員会
  1.朝日を浴びて若緑
    鳩舞う空に手を繋ぎ
    みんな仲良く学ぼうよ
    大島中央小学校
    強く正しく優しい子供
  2.遠い明治の昔から
    魁
(さきがけ)の声 受け継いで
    気風は長く守ろうよ
    大島中央小学校
    強く正しく優しい子供
  3.高く掲げた旗印
    自主独立の心持
    明日の日本を築こうよ
    大島中央小学校
    強く正しく優しい子供


 
アオキの木
 校章のデザインの基になっている樹木。学校のシンボルだが、植樹年や理由など不明。
 


■大島南央小学校

 大島4丁目18番5号にある区立校。平成21年校舎完成し大島1丁目20番20号の第三大島中
学校跡から戻ってきた。

 校歌
「太陽を」 作詞・村田さち子  作曲・滝口亮介
  1.太陽を丸ごと飲みこんで
    元気に流れる小名木のような
    川になろう!
    (ラララ)
    南央 南央 南央 南央小
    ここから始まる みんなの川は
    輝きながら 夢を追いかけ
    どこまでも
  2.遥かな昔の歌声と
    未来の歌声 響かせている
    川になろう!
    (ラララ)
    南央 南央 南央 南央小
    ここから流れる みんなの川は
    歌声飛ばし 心繋いでで
    どこまでも
    (ラララ)
    南央 南央 南央 南央小
    ここから旅立つ みんなの川は
    きらめきながら 翼広げて
    どこまでも
 


■安井大市稲荷神社 ◇

 大島4丁目19番1号にある小社。しかし21番の大島四丁目第二公園内にある。神社の境内だけ
が街区番号が違うという訳だ。
 


■精糖の渡し

 大島4丁目20番~北砂5丁目21番を結んだ渡船。『大島町誌』によれば、明治28年砂町の治
兵衛新田に精糖会社が創立して、その従業員を運ぶ目的で設立され、大正14年11月に再認可され
ている。この渡しは会社の経営だったことから、社員一般通行人ともに無料だった。ただ江戸時代に、
治兵衛新田の治兵衛という人が渡船業を営んでいたという記録が『御府内備考』にある。精糖会社が
この渡船を買い上げたのかも知れない。文献によっては「次郎兵衛の渡し」としたものもある。廃止
の年は判らないが、昭和17年の『城東区史稿』に営業記録があるので、それ以降のことだ。なお日
本精糖の跡地は小、中学校と北砂5丁目団地に再開発されている。
 


■大島四丁目第二公園

 大島4丁目21番11号にある区立公園。
 


■大島駅

 大島5丁目10番8号にある都営地下鉄新宿線の停車場。新宿線の最初の区間である岩本町~東大
島間が開業した昭和53年12月21日に設けられた駅。ホームは島式2面3線構造で地下2階にあ
る。中線の2・3番線は、大島車両検修場への出入庫を兼ねた列車が使用する。ホームと改札階を結
ぶエレベーターは設置済み。改札口は1ヶ所のみで、地下1階にある。出口はA1~A6の6ヶ所。
 


■招福稲荷社

 大島5丁目10番10号にある小祠。


■大島五丁目児童遊園

 大島5丁目17番6号にある区立公園。


■大島五丁目公園

 大島5丁目27番16号にある区立公園。


■正一位稲荷大明神 ✔

 大島5丁目28番8号の駐車場の隅にある小祠。屋敷稲荷か? 通りからは見えない。
 


■大島稲荷神社 ◇
 
大島5丁目39番26号にある中社。

   大島稲荷神社
   鎮座地 (旧)東京府武蔵國南葛飾郡大島村 東京都江東区大島5丁目93番地
   神社名  大島神社 大島稲荷神社
   御祭神  京都伏見稲荷大社の御分霊
   合祀神社
   宇迦能魂神(浅草光月町立花公の邸内社 芸術、俳句)
   迦具土之命(愛宕神社、延命長寿)
   境内社 
   佐竹神社(神官、学問)
   御由緒
   和銅四年(707)元明天皇大和朝廷時代、蒼稲魂神が轟く雷鳴と共に、二月初午の日、
   初めて伊奈利山の験の杉に降臨してから、稲荷信仰として始まると云う。朱雀天皇の天慶
   五年「蒼稲魂神」に正一位という最高の神位階に昇られました。
   明正天皇の江戸時代創建と当神社に伝えられる。由来同地は、海辺又は小名木川より近く
   数度の津波等により、耕地の荒廃甚だしきため、又悪疫もはやり、村人相謀りて山城の國
   伏見なる稲荷の分霊を此地に奉還して産士神として、災を除き、衣、食、住、福を授け家
   内安全、出世開運あらゆる産業の大祖神として、御神威高く輝き、大島神社と称え、爾来
   開拓國造営の守護神のご神徳が果しなく拡がり、続いて、しかも如何にご利益があるかを
   強く物語るもので、崇敬拝厚きも深く受、鎮守様として仰がれたり。
    俳人 松尾芭蕉 句(秋に添て行はや末は小松川)
    俳人 小林一茶 句(水売のいまきた顔や愛宕山)
               俳句碑を残しております
   例大祭
   昭和20年3月9、10日 大東亜戦争にて神社・社務所一切焼失
    〃 39年  神社建設始める。
    〃 40年  御神殿、権現造(第五代宮司佐竹正雄造営す)
    〃 63年  佐竹神社(第六代宮司佐竹良子造営す)
   平成11年  神輿蔵造営す
    〃 11年  大神輿納受す。

 ※例大祭は何時かは示していない。境内の掲示板に、

   大祓神事
   大祓は、氏子中の人々の心や身体に色々な良く無いことが起る原因を取り除き、幸福と繁
   栄を迎えるために諸々の罪穢を祓ひ清め清明心を自己の内に培う神事です。大島稲荷神社
   では毎年六月三十日、十二月三十一日の年二回、大祓式を厳修し、氏子の皆様からお預か
   りした人形を水清き河海に流し清めるか、清浄地において御浄火にふして罪穢消滅をお願
   い致します。
   茅の輪の由来
   神代の昔、素戔嗚尊様が大勢の神様等と日本の国土に住まいする人等の平和と産業の発展
   の為に諸国を視察して廻っている時ある貧しい一軒の家で(蘇民将来といふ人)一夜の暖
   かい待遇を受けられた事を大変感謝され「もし世の中に悪疫(悪い病気)が流行りだした
   らチカヤをもって輪を作り腰の上にかければ必ず一切の悪疫から免れる事が出来る」とお
   教え下さった。備後風土記)この故事に習って茅の輪信仰が広まり現在では鳥居に輪を作
   り、くぐる事によって、悪疫を免れると云ふ教えが行われています。
   輪のくぐり方
   正面より左にくぐり、右・左にくぐり(8の字形)
   昔は輪をくぐる度毎に次の歌を誦しいくぐり、お参りしました。
   1.母の分も一つくぐる茅の輪かな
   1.思ふ事皆つきぬとて麻の葉を切りて切りて、祓へつるかな
   1.六月の夏越の祓いする人は千歳の生命延といふなり
   1.宮川の清き流れにみそぎせば祈れることの叶わぬはなし


 ※文中の「習って」は「倣って」の誤記。

   
松尾芭蕉ゆかりの大島神社
   由緒
   女木塚の裏に其日庵社中造立とありますが年代 この句は大坂へ旅立つ2年前の元禄五年
   (1692)芭蕉50歳の時奥の細道に旅立する前の句であります。芭蕉は船で川下りを
   して神社の前を流れる小名木川に船を浮かべて洞奚宅に訪ね行く途中船を留めて当神社に
   立寄り参拝を致しまして境内のこの森の中で川の流れを眺めながらその際詠んだのがこの
   句であります
   
秋に添いて行かはや末は小松川
   の句を残しております。
   その後年其日庵の排人たちが芭蕉をしのんでゆかりの深い大島稲荷神社に句碑を建立その
   面影が偲ばれます。建立は江戸時代といわれ拓本をとる人も多い。奥の細道に旅立って今
   年元年が三百年目の年に当ります。                  大島稲荷神社

 とある。※文中の「拝人」は「俳人」の誤記だろう。

 
女木塚(芭蕉句碑)
 鳥居の近くにある。高さ140cm。正面に大きく「女木塚」、裏面には「其日庵社中造立」と刻
まれている。年月日はない。

   
女木塚

   
秋に添て行かばや末は小松川

 この句は、芭蕉が49歳の元禄五年(1692)小名木川に舟を浮かべて、門人桐奚宅での句会で
吟じた句だ。一説には、元禄六年(1693)ともいわれている。
 芭蕉没後、其日庵社中の俳人たちが、芭蕉を偲んで建立したこの句碑は、初め近くの愛宕神社に建
てられていた。昭和20年3月10日のアメリカ軍の無差別絨毯爆撃で、愛宕神社の一帯は全焼し廃
墟と化した。この句も路傍に転がっていたが、城東区役所では句碑の亡失を配慮して、近くの第二大
島中学校の校庭脇に移しておいた。のち愛宕神社が大島神社に吸収され、立派に復興したので、句碑
が境内に移された。

   小林一茶が詠んだ地は大島稲荷神社
    信州大小林講師が「水売」の句で推定
             享和三年七月七日
    かぢの音は耳を離れず星今宵
    七夕の相伴に出る川辺哉
    享和句帖三年九月十九日の条に稲荷祭と
    あるのは当神社の御祭礼の事である
    水売の今きた顔や愛宕山(文政二年)
    当地大島あたり飲水が悪く小名木川と水
    売り船が往来し、水だ水だと一軒一軒に
    水売りにきていた事が伝えられている。
    (懐かしき大正時代、江東大島の思い出)


 佐竹神社
 境内にある。

 出世開運牛
 境内にある。親子の牛の臥石像。

   出世開運牛
   この■■■商産業白い子牛は子供の頭■■は、自分の生まれ歳の干支の所をなでて無事成
   長を神社に祈念して下さい

 松尾芭蕉像
 平成13年、女木塚の隣に据えられた。

   俳聖 松尾芭蕉翁
   当神社境内に保存されている「女木塚」句碑にある一句は元禄五年(1692)翁が深川
   より小名木川近在の門人桐奚宅の句会に行く途中船を留め神社に立ち寄り参拝し句会で詠
   まれたもので 秋に添て行ばや末ハ小松川 としたためられております。
   その後芭蕉翁歿後其日庵社中により神社にこの句碑が建立されました。本句碑は歴史的価
   値により、江東区有形文化財に登録されております。平成13年9月19日には、大島稲
   荷神社御鎮座350年式年大祭が開催されました。輝かしい佳節を迎え総代氏子崇敬者一
   堂記念事業の一環として、茲に350年史として緑り深いこの地に遺徳を偲び、其日庵社
   中に感謝の意をこめて翁の石造像建立して後世に伝えることに相成ました。
   平成13辛巳年9月19日建之          大島稲荷神社第6代宮司 佐竹良子
                        責任役員 山本喜久 菅一二三 松本留吉


 芭蕉句碑
 境内にある。 

   俳聖松尾芭蕉奥の細道旅立三百年記念句碑
   五月雨をあつめて早し最上川
      大島稲荷神社 平成元年9月19日
           第6代宮司佐竹良子建之

 小林一茶が詠んだ地は大島稲荷神社
 信州大小林講師が「水売」の句で推定 享和三年(1803)七月七日

   かぢの音は耳を離れず 星今宵
   七夕の相伴に出る川辺哉


 享和句帖 三年九月十九日の条に「稲荷祭」とあるのは当神社の御祭礼の事である。

   水売のいまきた顔や愛宕山(文政二年〔1819〕)

 当地大島あたりは飲水が悪く、小名木川を水売り船が往来し、水だ水だと一軒一軒に水売にきてい
た事が伝えられている。(懐かしき大正時代 江東大島の思い出)
 


愛宕山勝智院(出張所)

 大島5丁目39番30号にある真言宗の小寺。無住のように荒れていた。「新編武蔵風土記稿」に

   勝智院
   新義真言宗、亀戸村普門院末、愛宕山と号す。本尊大日を安す。開山栄鑁、延宝五年十二
   月十八日寂せり。


 とある。荒れている訳で、寺は昭和41年に千葉県佐倉に移転したのだという。

 小林一茶寓居跡?
 ところで、小林一茶が一時期寓居したのは愛宕神社ではなくここだとの説がある
 


■第五大島尋常小学校 → 第五大島国民学校
廃校
 大島5丁目51番にあった公立校。昭和9年大島町5丁目82番地の富士瓦斯紡績工場跡地に木造
2階建て校舎が建てられ、「東京市第五大島尋常小学校」として開校、児童935名でスタートした。
同16年国民学校令より「東京府東京市第五大島国民学校」と改称。同18年都制施行により「東京
都第五大島国民学校」と改称。同19年8月愚かなアメリカ軍の無差別空爆が熾烈となり、山形県南
村山郡に集団疎開。同20年3月愚かなアメリカ軍の非人道的市街地無差別空爆により、校舎焼失。
8月日本は、ならず者国家アメリカの軍門に降り敗戦、以後その属国となる。同21年継続を断念、
廃校。
 同26年から大島中学校が跡地を新校舎を建て移転してきた。
 


■大島中学校
移転
 大島5丁目51番にあった区立校。昭和26年木造モルタル2階建て校舎が完成し、浅間小学校内
から移転、昭和49年大島8丁目12番の現在地に移転。跡地に大島南小学校が開校した。
 


■大島南小学校
 廃校
 大島5丁目52番13号にあった区立校。昭和49年大島中央小学校から分校して大島地区で7番
目の小学校として開校。校名は地区の南部にあったことに因るが、第七大島としなかったのは、父兄
がナンバースクール名を忌避したことによる。10月2日校歌・校章・校旗制定。

 校歌
「都の東 大島に」  作詞・初代校長野中文男  作曲・音楽教師天野明芳
  1.都の東 大島に
    希望に弾む この心
    心も身体も健やかに
    進んで行こう 手を取って
    ああ 我等の南小学校
  2.小名木の流れ 変わるとも
    弛まず伸びる この力
    考え深く逞しく
    努めて行こう 共々に
    ああ 我等の南小学校
  3.明るい未来 目指しつつ
    清らに燃える この願い
    日本の明日を伸びやかに
    拡げて行こう 何処までも
    ああ 我等の南小学校


 同50年野中校長が、当時環境があまり芳しくなかったので、児童の心を潤すものはないかと考え、
「洗心池」を構築。PTA会長の協力を得て、福島県まで赴き、池の周りの石を持ち帰った。同52
年766名・21学級で最大規模。昭和55年まで700名を超える生徒数を維持。同56年理科室
・LL教室・図書室改装。同48年開校10周年記念式典。同60年プール全面改修工事完了。平成
2年ふれあい給食開始。平成5年開校20周年記念。同9年コンピュータルーム完成。同15年開校
30周年記念式典。町のビル化、集合住宅住民の高齢化により、町の子供の数が激減し、学校が過疎
化していく。同19年大島中央小学校との統合は已む無く、「江東区立大島南央小学校」となり、廃
校した第三大島中学校の跡地に移転した。跡地の利用は未定。
 


■大島六丁目児童遊園

 大島6丁目2番3号にある区立公園。


■伊藤左千夫宅跡(終焉の地)・牧場跡

 大島6丁目6番20号都下水道局東部管理事務所大島ポンプ所のところにあった。『野麦の墓』を
書いた伊藤左千夫は、元治元年(1864)千葉県に生まれ、本名を幸次郎といった。明治22年本
所茅場町で牧場を経営、同45年4月当町に牛舎を移し、大正2年3月には住居も移した。当時の大
島地区には同じような搾乳業を営む業者が多かった。当時のこの辺りは長野県のようだったのだ。そ
んな牧歌的な環境を壊しちゃって、今はこの様だ。同じ年急に脳溢血で倒れ50歳で亡くなった。

 
伊藤左千夫の歌碑
 公団大島六丁目団地の中央広場の時計塔の下部にブロンズの歌碑が嵌め込まれている。左千夫終焉
の地を記念して都立城東高校にある左千夫記念会が、昭和55年7月に建てた。左千夫の門人で当時
1人しか残っていなかった土屋文明が揮毫した。

               
左千夫
   朝起きてまだ飯前のしばらくを
   小庭に出でて春の土踏む

   大正二年七月三十日
   伊藤左千夫この地に没す
            左千夫記念会


 この歌は、大正2年の早春に詠まれたもので、文明が数ある左千夫の歌の中から選んだものだ。

   松杉3本4本の植込に、いくつかの飛石、ささやかなる我小庭にもはや早春の潤
   ひ来るを見る


 と前書きのある8首の中の冒頭の1首だ。
 


■第四大島小学校
(同33年5月28日開校記念日)
 大島6丁目7番8号にある区立校。昭和21年3月まで第一大島小学校のところに第四大島国民学
校(第四大島尋常小学校)があった。
 昭和33年「江東区立大島小学校」開校。5月28日開校式。同34年第1期校舎増築・西側9教
室竣工。同35年校歌制定。

 校歌
「楽しい朝の」 作詞・勝承夫  作曲・平井康三郎
  1.楽しい朝の空のように
    明るい広い子供の世界
    この窓で歌おうよ
    先駆けの喜びを
    意気溌剌と聳え立つ
    第四大島 輝く母校
  2.日本の明日を担う我等
    自立を誓う子供は強い
    この誉れ守ろうよ
    新しい夢が湧く
    平和の気風受け継いで
    第四大島 果てなく進む
  3.見晴らす富士は遠く清く
    働く町の子供は呼ぶよ
    この力 見せようよ
    何時までも変わらずに
    仲良く励み大らかに
    第四大島 栄えある母校


 同38年第2期校舎増築・3教室増築。同39年体育館完成。同43年第3期校舎増築・3教室竣
工。同44年大島中央小学校新設により生徒114名移籍。同49年大島南小学校新設により一部学
区移譲。同53年新校舎増築。同63年校舎全面建て替え新校舎落成。平成10年開校40周年記念
式典。
 学校のシンボルとして、新校舎東壁面のモニュメントと。平成元年に新校舎落成を記念して植えた
「枝垂れ桜」がある。  
 


大島六丁目第二児童遊園

 大島6丁目15番5号にある区立公園。


■伏見稲荷社 ◇

 大島7丁目14番1号トーカンマンション大島C棟の北西の敷地内にある小社。
 


■福森稲荷社 ◇

 大島7丁目23番12号、東大島神社の向かいにある小祠。


■東大島神社
 大島7丁目24番1号にある神社。昭和20年の愚かなアメリカ軍の非人道的無差別空爆のため、
大島地区東部にあった永平稲荷神社・子安稲荷神社・小名木稲荷神社・北本所牛島神社・南本所牛島
神社の5つの神社は焼失した。戦後、各神社はそれぞれ再建を試みたが果たせず、昭和24年5社を
統合して東大島神社として創立した。豊栄社石祠、六角石塔、水神宮石祠など古くから受け継がれる
文化財が、5つの神社から集められている。初詣、獅子舞に始まり、夏越大祓式、納涼おどり、年越
大祓式まで、地域の人々に欠かせない行事が毎年実施されている。

   東大島神社
   当社は天照皇大神、牛島大神、稲荷大神を奉斎し、永平神社、子安神社、小名木神社、南
   本所牛島神社、北本所牛島神社の五社を合祀し、大島町東部総鎮守なるをもって社名を東
   大島神社と定め、昭和24年11月15日に創立せる。
   合併の五社は各々古き由緒をもち、五穀豊穣郷土安泰の産土神として氏子の深く崇敬せる
   ところなりしが、昭和20年3月9日夜半の戦禍をうけ社殿その他尽く烏有に帰す同時に
   氏子地域の一切も亦灰燼と化し一望の廃墟となる。この無惨なる焼土の中に、住民復興の
   意欲を燃やしその努力は年と共に実り昭和23年に至り、大島青年会の発議により尚一層
   の繁栄と発展を祈念し、復興祭が催されこれが機縁となり、神社再建の声おこる。しかし
   五社それぞれの再建は容易ならずこれを合併し荘厳なる神社の建設を望む氏子有志の熱意
   により各社の総代、世話人は数次の会合を重ね、牛島神社宮司春田健一氏並に猿江神社宮
   司神保鑒一氏の協力を得て地元発展のため無条件合併す。翌昭和24年初春建設奉賛会設
   立され、同年11月新たに境内地六百八坪餘を購入、昭和27年社殿を造営、昭和31年
   社務所竣工等着々整備され、同年4月宮司内海利彦氏就任せる。ここに創立十周年を迎え
   合併の五社の所在地をしるし、創立尽せし人々の名を刻み当社の由来と共に長く後世に伝
   う。
    無各社 永平神社    江東区大島町7丁目219番地
    無各社 子安神社    江東区大島町8丁目317番地
    無各社 小名木神社   江東区大島町8丁目121番地
    無各社 南本所牛島神社 江東区大島町7丁目843番地
    無各社 北本所牛島神社 江東区大島町7丁目460番地

 小名木稲荷神社
 小名木村を開拓した小名木四郎兵衛が天正年間(1573~92)に創建、小名木村の鎮守だった
といいう。「新編武蔵風土記稿」に、

   小名木村
   稲荷社。村の鎮守なり、宝塔寺持。


 とある。

 子安稲荷神社
 平方村の鎮守だったという。「新編武蔵風土記稿」に、

   平方村
   稲荷社。村の鎮守なり。小名木村宝塔寺持
   神木這松。囲八・九尺。根底より長五間程地面に横たはりて半地に埋れり。其先より折曲
   て直立し、高四尺余に及べり。此木昔大猷院殿御遊暦の時早く上覧に入しと云。近くは文
   化七年二月御鷹狩の時上覧ありて奇木なりとの仰ありしとなり。


 とある。鳥居をくぐってすぐ右側に、石仏・石塔がある。

   
江東区有形民俗文化財
   江戸時代より東大島地区を守っていただいている神様をお祀りしております。
   四石祠八祭神
   水 神 宮 宝暦十一年 1761年
   庚 申 塔 天明七年  1787年
   豊 栄 社 文化二年  1805年
   六角石塔 文政六年  1823年
   力石(ちからいし)
   江戸時代中期ごろに力持ちの証しとして使われていた石です。
   中央に【五十貫余】、右下に【善助】の名が刻まれております。
   【善助】の名は此の石を奉納した方だと思われます。
   江戸時代の力の証に触れてみてください。

 水神宮
 境内にある石祠。

   水神宮 宝暦十一年(1761) 旧小名木神社奉斎
   御祭神
   筒能男之神(つつのおのかみ)
   航海・進路を護る神様


 申塔
 境内にある。旧は南本所牛島神社の境内にあったが、本社の合祀に伴いここに移された。駒型・日
月・青面金剛像・邪鬼・三猿。「天明七丁未年」(1787)「十一月吉祥日建之」。


   庚申塔   天明七年
           1787
   (南本所牛島神社奉斎)
   庚申様(青面金剛像・邪鬼・三猿)
   無病息災・心身健全・厄難消除の神様

 豊栄社
 境内にある石祠。旧は小名木稲荷神社の境内にあったが、本社の合祀に伴いここに移された。

   豊栄社
   文化二年(1805) 旧小名木神社奉斎
   御祭神
   相模国鎌倉鶴岡宮社
   船玉宮祭主神富斎宮源常昭


 
力石
 境内にある。  

   力石
   江戸時代中期ごろに力持ちの証しとして使われていた石です。中央に「五十貫余」の刻み
   と、これを持ち上げたとみられる『善助』の名前が刻まれております。

 六角石塔
 境内にある。旧は小名木稲荷神社の境内にあったが、本社の合祀に伴いここに移された。

   六角石塔 文政六年(1823)旧小名木神社奉齋
   御祭神
   罔象女命(みつはのめのみこと) 水の神様
   大山祇命(おおやまつみのみこと) 山の神様
   猿田彦命(さるたひこのみこと) 道の神様
   天鈿女命(あまのうずめののみこと) 芸術の神様
   埴山媛命(はにやまひめのみこと) 土の神様
   文政六葵未歳立秋吉日 神富齋



東大島児童遊園

 大島7丁目24番16号にある区立公園。


大島七丁目公園

 大島7丁目27番17号にある区立公園。


大島八丁目公園

 大島8丁目11番7号にある区立公園。


■大島中学校

 大島8丁目12番22号にある区立校。
 [5丁目時代]
 昭和25年大島地区最初の学校として亀戸中学校から分校、浅間小学校に間借りして生徒605名
9学級でスタートした。翌26年大島5丁目82番地の第五大島国民学校(尋常小学校)跡地に木造
モルタル2階建て新校舎13教室が竣工し移転した。大島地区の宅地化に伴い、生徒数が急増し、同
27年第一次増築西棟校舎4教室落成。同28年第二次増築西棟校舎4教室落成。生徒数1000名
突破。堪らず、同29年第二大島中学校を分校。同32年第三次増築東棟校舎4教室落成。同35年
校旗・校歌制定。開校10周年記念式典/校旗・校歌制定。

 校歌
「強く激しく逞しく」 作詞・深尾須磨子  作曲・中田喜直
  1.強く激しく逞しく
    大東京が脈を打つ
    ここ江東の学園に
    英和の光翳して励む
    ああ 我等 若い我等
    我等の大島中学校
  2.ここに鍛える鋼鉄の
    独自自立生活だ
    世界を招き 友を呼び
    試練を越えて無限に進む
    ああ 力 若い力
    我等の大島中学校
  3.風を清めて大らかに
    歌えば通う胸と胸
    三年を交わす友情に
    明るい花が溢れて薫る
    ああ 生命 若いこ生命
    我等の大島中学校


 同36年体育館兼講堂・プール完成。同43年鉄筋コンクリート造り4階建て校舎8教室竣工。同
44年鉄筋コンクリート造り4階建て校舎6教室竣工。同46年鉄筋コンクリート造り4階建て校舎
6教室・4特別教室竣工。同49年現在地に新校舎を新築して移転。跡地は大島南小学校に譲る。
 [8丁目時代]
 同49年プール完成。同50年体育館兼講堂完成。同55年開校30周年記念式典・体育館前にミ
ニ庭園造成。その中に「心機一転」の石碑と国旗掲揚台が建てられた。同57年第四大島中学校の新
設により一部学区移譲。平成6年ハンドボール女子全国制覇。同7年ハンドボール男子全国制覇。文
相町村信孝(内務官僚町村金五の息子)来校、道徳教育を視察。同11年開校50周年記念式典。
 


大島八丁目公園

 大島8丁目11番7号にある区立公園。


■子安児童遊園

 大島8丁目19番12号にある区立公園。

 子安庚申堂 ◇
 児童遊園の東南角にある。昭和55年の写真には覆屋はない。板状駒型・日月・青面金剛像・邪鬼
・三猿。「正徳二□・□」(1712)「七月□・□」「平方村中」。

   
庚申塔
   有形民俗文化財(正徳二年建立)徳川時代、かのえさるの夜に仏家では青面金剛、神道で
   は猿田彦神を祀り、徹夜する習俗が盛んに行なわれた。此の右塔には、青面金剛と建立し
   た人達の名が刻まれており、もと此の地にあった子安稲荷神社境内に建てられていたが、
   長年の雨風で石面が傷んだ為今回有志がお堂を造り、周囲を整備したものである。
 


大島八丁目第二公園

 大島8丁目21番25号にある区立公園。


■笠間稲荷社

 大島8丁目33番26号の荒川下流工事事務所小名木川出張所内にある小祠。
 


稲荷山小名院宝塔寺

 大島8丁目38番32号にある真言宗智山派の寺。

   江東みちしるべ
   真言宗智山派
   稲荷山小名院法塔寺

   由来
   宝塔寺は真言宗で、稲荷山小名院と号します。境内に安置されている塩なめ地蔵は、もと
   は、小名木川沿いにあったものを昭和初期に移したものです。
   江戸時代に、小名木川や行徳道を通る商人たちが、この地蔵の前で休憩し、商売繁盛を願っ
   て塩を備えたのが由来と伝えられています。また、仏前の塩をもらっていぼにぬると治る
   ともいわれ、別名「いぼ取り地蔵」とも呼ばれていました。

 「江東区の民俗城東編」に、

   宝塔
   寺の由緒書(「真言宗智山派宝塔寺」)によれば、慶長十五年(1610)に法印賢意に
   より現在地に開則された。山号は稲荷山であり、稲荷社(小名木稲荷神社大島町八丁目百
   二十一番地)が隣地にあり、江戸期は管理していたが、戦災で焼失し、東大島地区の他の
   四社と合併移転して東大島神社となった。『新編武蔵風土記稿』巻之二五によれば、本尊
   は薬師如来とされていたが、現在は大日如来である。『江東区の仏像』によれば、この大
   日如来坐像は江戸時代末から近代にかけての作であるという。


 とあり、「新編武蔵風土記稿」小名木村の項に、

   宝塔寺
   新義真言宗亀戸村普門院末稲荷山小名院ト号ス。本尊薬師ヲ安ス。

 とある。
 寺宝に、江東区登録文化財の「木造大日如来坐像」「大先達加藤忠治之碑」「「明治28年在銘の
丸不二講先達五十年記念碑」「塩なめ地蔵」「六地蔵」「寛政九年在銘の六字名号供養塔」「享保十
八年在銘の地蔵菩薩」「並木浅右衛門奉納の西国坂東秩父百番札所巡拝塔」がある。
 

 疣取り地蔵(塩舐め地蔵)
 江戸時代、小名木川を通る商人が航行安全、商売繁盛を願う人で賑わった。境内に安置されている
塩なめ地蔵は、もとは小名木川沿いにあったものを、寺の開創の慶長年間に移したものだ。江戸時代
に、小名木川や行徳道を通る商人たちが、この地蔵の前で休憩し、商売繁盛を願って塩を供えたのが
由来と伝えられている。塩を奉納した時は売り切れ、参詣しなかった時はまた仏前の塩をもらってい
ぼにぬると治るともいわれ、別名「いぼ取り地蔵」とも呼ばれていた。その上、そのお堂というか、
覆屋というか、その建物が立派というより、立派過ぎて一見の価値がある。

   塩舐め地蔵
   この塩舐め地蔵は、石井某によって小名木川から掘り出され宝塔寺に納められたと伝えら
   れます。小名木川は慶長年間に開削されており、おそらく宝塔寺の開創(慶長十五年〈1
   610〉)とともに境内に安置されたものでしょう。
   塩地蔵と呼ばれる地蔵尊はきわめて数少なく供えられた塩をつけると疣が取れるといわれ
   疣取り地蔵ともよばれます。
   また商売繁昌、航海安全のご利益も授かると伝えられます。

 加藤忠治の碑
 境内にある。詳細不明。大先達というからには何らかの講中のリーダーなんだろう。

   大先達
   
加藤忠治之碑 
 

■第五大島小学校
(同33年11月15日開校記念日)
 大島8丁目40番13号にある区立校。昭和21年3月まで大島南小学校のところに第五大島国民
学校(第五大島尋常小学校)があった。
 昭和30年頃、8丁目には多くの工場が蝟集し、工場で働く人たちが住み、児童数は増え続けてい
た。そのころ工場の出す排水・煤煙など、騒音・汚染の公害が始まっていた。しかし戦後の混乱から
の脱却、高度経済成長でイケイケドンドンは正義だった。そんな環境の中同33年8丁目223番地
(現在地)に「江東区立大島小学校」が開校。児童935名でスタートした。11月15日開校式。
同34年第1期校舎増築。同35年校歌制定。

 校歌
「楽しい朝の」 作詞・勝承夫  作曲・平井康三郎
  1.輝く空をいつも胸に
    子供の夢は大きい夢だ
    明日の日本に元気良く
    飛び立つ小鳥 自主の意気
    第五大島 楽しい我等
  2.中川小名木 結ぶ処
    河口に思う 世界は広い
    みんな仲良く歯車の
    組み合うように逞しく
    行くて遥かに目指そう我等
  3.昔を語れ 雲よ風よ
    文化は移り 時代は進む
    水を治めて溌剌と
    湧き立つ英気 この力
    第五大島 歌おう我等


 同38年体育館竣工。同39年プール完成。同43年~46年鉄筋4階建て校舎新築。同44年大
島中央小学校新設により生徒114名移籍。同54年増築校舎落成。同57年開校25周年記念式典
・新プール完成。平成9年創立50周年。校地拡張。「友情の像(鷹尾俊一)」除幕。平成9年開校
40周年記念式典。


大島東公園

 大島8丁目42番3号にある区立公園。


■中川船番所

 大島9丁目1番の南半にあった。中川船番所は中川関所ともいわれ。小名木川の中川北口にあり、
江戸と下総国を結ぶ通船改めの役所だった。広さは東西26間×南北17間余だった。この関所は幕
府が江戸を防衛するうえで、ここを出入りする船の取り締まりが必要だった。所謂「入鉄砲に出女」
の取締まりだ。当初は隅田川口の万年橋際にあったが、寛文元年(1661)6月本所の掘割の完成
に伴い、中川口へ移った訳だが、その年代は不明な点が多い。一説には延宝七年(1679)といわ
れる。その後関所としての機構が確立し、5000石以上の上級旗本3人が中川御番衆を命じられ、
交代で任に就いた。寛文元年の「定」によると中川関所を通る際、乗船者は笠や頭巾などの被り物を
取り、屋形船などは内部が見えるように戸障子などを開け放ち、女性は確かな証文があっても通行さ
せなかった。また人が隠れていそうな持ち物や不振を感じさせる舟は全て止めて徹底的に改めた。
 船番所の広さは、文政六年(1823)の記録では、東西47間×南北30間とあり、明治維新ま
で存続した。建物のその後は不明だが、震災で倒壊したものと思われる。

   中川船番所跡
   中川船番所は中川番所・中川関所とも呼ばれ、江戸と関東各地を結ぶ河川交通路上に設け
   られた関所です。寛文元年(1661)に、それまで小名木川の隅田川口にあった幕府の
   川船番所が移転したものです。建物は小名木川に面し、水際には番小屋が建てられていま
   した。主に、夜間の出船・入船、女性の通行、鉄砲などの武器・武具の通関を取締るなど
   小名木川を通る川船の積荷と人を改めることを目的としました。
    また、中川対岸の船堀川から、江戸川・利根川水系へと延びる流通網の要として、江戸
   中期以降には、江戸へ送られる荷物の品目と数量を把握する機能も担うようになり、海上
   交通路上における浦賀番所(現横須賀市)と並び、江戸の東側窓口として重要な役割を果
   たしてきました。
   明治2年全国の関所が廃止されたのに伴い番所も廃止されました。
   平成7年に行なわれた発掘調査では、瓦や陶器片などの資料とともに建物の遺構が確認さ
   れました。
   平成14年10月                        江東区教育委員会

 復元冠木門
 入口にある。冠木門は両柱に貫きという横木を通した単純な門。 


■中川船番所資料館

 大島9丁目1番15号の川っ淵にある。番所のあった場所については。9丁目1番地と推定されて
いたが、平成7年の発掘調査において柱材や礎石などが出土したことにより、中川番所跡であること
がほぼ確定した。資料館は、跡地より北に50mほど離れた場所に建てられている。資料館は、区か
ら財団法人江東区地域振興会に管理運営を委託され、同15年3月22日に開館した。

 ①、「水運」の専門館として、区内を流れる小名木川と中川に接した場所に、江戸時代に設
   置された中川番所を主軸に、関東・全国に広がる水運を利用した人・ものの交流や活動
   の歴史を紹介する。
 ②、地域に根ざした資料館として主眼を置くとともに、区内既設の資料館と連携を深め、資
   料館ネットワーク化の一翼を担う。
 ③、郷土の歴史の理解を促す資料館として、平成7年の発掘調査により所在が確認された中
   川番所を、区民が郷土の歴史に親しみ、身近に感じる手がかりとする。
 ④、釣具資料館として、区は、平成12年7月特定非営利活動法人東京釣具博物館から、和
   竿など釣具の所蔵品5000点以上の寄贈を受け、これらの展示も行っている。江東区
   の歴史を見ると、享保年間に刊行された釣りの本「何羨録(かせんろく)」には江東区
   近辺の釣り場が詳細に案内されており、船番所近くはキス、タナゴ、ハゼなどの釣りの
   名所であったことが記されており、釣りとの関係が窺えるのだ。

 開館は、原則月曜日、年末年始の休館日を除く毎日の午前9時から午後5時まで。有料で団体割引
あり。北側に「わんさか広場」という公園があるので休日を楽しめるよ。
 


■東大島駅

 大島9丁目3番14号にある都営地下鉄新宿線の停車場。新宿線の最初の区間である岩本町~東大
島間が開業した、昭和53年12月21日に設けられた終点駅。同58年12月23日に船堀まで延
伸し中間駅となった。ホームは高架相対式2面2線構造で2階にある。ホームと改札階を結ぶエレベ
ーターは、小松川口と大島口側両方に設置されている。改札口・出口は、西口に当たる大島口と、東
口に当たる小松川口の2ヶ所。大島口は中2階、小松川口は1階にあり、大島口には、改札階と地上
を結ぶエレベーターがある。
 この駅は、江東区と江戸川区の境界でもある旧中川を跨いでいる。都区内で川を跨いでいる駅は他
にも北赤羽駅と新馬場駅があるが、区の境界線まで跨いでいるのはこの駅だけだ。このため、東大島
駅は関東の駅百選に選定されている。新宿線は、この東大島駅と船堀駅の間だけ、荒川・中川を越え
るために高架区間(鉄橋)となっている。

 
「青龍」
 南口広場にある平成9年に設置された前田屋外美術作の大きな龍の彫刻。四神の一。他に白虎(豊
洲シビックセンター)・朱雀(若洲公園)・玄武(亀戸駅前公園)。
 


■牛島神社跡

 大島9丁目4番にある。この神社は、南本所出村(大島7、8丁目の内)にあった石井甚左衛門の
屋敷神(稲荷)を産土神とし、さらに牛島神社(墨田区)の分霊を併祀して成立した。明治32年1
月牛島神社社司春田宣徳が社掌を兼務、大正8年に東京府知事より神社としての認可を受けた。昭和
20年のアメリカ軍の無差別空爆で被災し、同25年に、7丁目の東大島神社に合祀されるまでは南
本所出村の鎮守だった。大島地区は深川・亀戸・本所の出村(支村)の多かった地域だが、それぞれ
の出村は個々に村としての結合をはかり存続していた。この牛島神社も南本所出村の鎮守として村民
の結合に影響のあった神社だ。
 今跡地には「南本所牛島神社々趾」と彫った石碑が由来碑と共に建っている。

   南本所牛島神社々趾
      南本所牛島神社保存会

   南本所牛島神社跡
   此の稲荷神社は宇迦の御魂神を祀った神社にして武蔵國南葛飾郡大島村南本所で村石井甚
   左衛門屋舗地に在りしが村内の産神に相定め祭りたるものなり祖後此の稲荷神社と同一境
   内社殿に牛島神社の御分霊を併祀し南本所で村の鎮守守護の神社として信仰崇敬し居たる
   ものにして明治維新後旧内務省神社局に於て全國各地方所在神社を調査して神社台帳に記
   載登録す明治32年1月27日付にて牛島神社社司春田宣徳此の神社社掌兼務を命ぜられ
   就任せり曩に昭和20年3月9日戦禍に依り社殿悉く稀有に歸せしが其後復興するにつれ
   昭和25年東大島神社に合祀せり仍て此に旧趾に石碑を建てて聊か其の由来を記す


■第三大島小学校
(昭和23年6月21日開校記念日)
 大島9丁目5番3号にある区立校。大正15年3月大島7丁目433番地(7丁目38番)に校舎
完成し「南葛飾郡第三大島尋常小学校」として開校。新入生277名、第一大島から移籍した2年生
157名の7学級でスタート。昭和3年度には1052名となり、年々校舎が狭隘となったため、同
4年校舎を大幅増築、創立5周年記念式典・校歌制定。

 校歌
「都の東」 作詞・武者種彦  作曲・福井直秋
  1.都の東 名も高き
    工場地帯大島に
    立てる第三小学校
    これぞ我等が学び舎よ
  2.小名木の川に 竪川に
    浮かぶ数多の荷船
    空を黒むる煙にも
    町の栄えぞ知られける
  3.栄え行く町の友垣
    朝な夕なに睦しく
    恵みも深き師の君の
    教えを仰ぐ嬉しさよ
  4.徽章に輝く旭日の
    赤き心を磨きつつ
    正しく強く誠ある
    都民とならん諸共に

 4番の歌詞中の都民は、元は「御民」で昭和31年までそう歌われた。その後「市民」と変わり、
同43年から現在の「都民」と変化した。

 同7年南葛飾郡が東京市に編入されて城東区が成立、「東京市城東区立第三大島尋常小学校」と改
称。同8年度には学童が2156名36学級に達し収容飽和状態となり、第五大島尋常小学校を分校、
5年生以下の生徒730名を移籍する。同16年国民学校令より「東京府東京市第三大島国民学校」
と改称。同18年都制施行により「東京都第三大島国民学校」と改称。同19年8月愚かなアメリカ
軍の無差別空爆が熾烈となり、山形県三沢村小野川温泉に集団疎開。同20年3月愚かなアメリカ軍
の非人道的市街地無差別空爆により校舎焼失のため、7丁目消防団詰所で授業再開。8月日本は、な
らず者国家アメリカの軍門に降り敗戦、以後その属国となる。9月横山工業内に、11月疎開児童引
き揚げ帰校。日本鋳鋼の1棟に移って授業。
 同22年学制改革により「東京都江東区立第三大島小学校」と改称。同23年6月21日に旧校地
に新校舎落成して全児童帰校。同32年児童数ピークに達し2000名を越え、同33年第四・第五
大島小学校を分校。同35年体育館落成。同41年~44年4期に亘って鉄筋コンクリート造り4階
建て校舎落成。平成7年開校70周年記念式典・昭和19年度卒業生に卒業証書授与。同10年カナ
ダ・サレー市のサリバン小学校と国際姉妹校提携。平成12年鉄筋コンクリート造り4階建て新校舎
に建て替え落成。地方自治法により東京都の冠称を外して「江東区立第三大島小学校」と改称。同1
7年創立80周年記念式典。

 銅像「まだ見せない宝物」
 昭和50年開校50周年記念事業として制作。女の子が両手を後ろに回して何かを持っているポー
ズ。子供の将来への無限の可能性を示唆している。
 
 

六価クロム鉱滓問題
 昭和48年3月都が日本化学工業(株)から買収した9丁目の都営地下鉄用地及び市街地再開発用地
から大量のクロム鉱滓さいが埋め立てられていることが判明し大騒動となった。この鉱滓さいは、江
戸川区小松川の同社小松川工場が、重クロム酸ソーダ等を製造する際に発生し、区内のほか江戸川区
内にも投棄されていた。そこで都は、汚染原因者の責任で処理を行わせるという基本方針「汚染者負
担の原則」に基づき、同54年3月に日本化学工業(株)と「鉱滓土壌の処理に関する協定」を締結、
この協定と学識経験者などによる専門委員会の報告に基づく工法により、同55年2月から都の指導
の下に、日本化学工業が六価クロム鉱滓の処理を行った。区内の残滓については、当初は江戸川区小
松川へ搬入して処理し、大島9丁目の一部の鉱滓処理も平成5年4月に終了した。だが区内にはまだ
未処理の鉱滓が残っていたために、一部は封じ込める対策に取りかかり、同7年3月までに終了、ま
た他の部分は処理して日本化学工業の敷地内に封じ込めることとし、同12年5月に総て完了した。
 住宅団地を立てる予定だったが、方針を変更して都立大島小松川公園に改めた。


■大島小松川公園

 大島9丁目8番に出来た都立公園。長い間六価クロムで揉めた工場跡地だ。汚染された土を削土し
盛り土して公園に造成した。対岸の江戸川区の小松川公園に附属させた格好。とにかくこの辺り一帯
は景色が激変したからね。ごみごみしてて、薄汚れた工場群、灰色の町だったよ。カラフルになった
し、太陽の陽射しが燦々って感じだ。広々してるよ。虹の大橋、公園橋のもみじ大橋・さくら大橋が
新架されて・・・東大島駅も賑やかになったよなったよ。

 南本所牛島神社跡碑
 公園内の植栽に建ててある。

   南本所牛島神社々趾
        牛島神社保存会

   此の稲荷神社は宇迦の御魂神を祀った神社にして武蔵國南葛飾郡大島村南本所で村石井甚
   左衛門屋舗地に在りしが村内の産神に相定め祭りたるものなり祖後此の稲荷神社と同一境
   内社殿に牛島神社の御分霊を併祀し南本所で村の鎮守守護の神社として信仰崇敬し居たる
   ものにして明治維新後旧内務省神社局に於て全國各地方所在神社を調査して神社台帳に記
   載登録す明治32年1月27日付にて牛島神社社司春田宣徳此の神社社掌兼務を命ぜられ
   就任せり曩に昭和20年3月9日戦禍に依り社殿悉く稀有に歸せしが其後復興するにつれ
   昭和25年東大島神社に合祀せり仍て此に旧趾に石碑を建てて聊か其の由来を記す
 


■東大島図書館

 大島9丁目4番2号東大島ファミリーハイツ2号館1階にある。



【亀戸】(かめいど)1~9丁目                   昭和43年8月1日
 亀戸村。明治22年亀戸村の大部分に本所区亀戸町・本所区柳島村の一部・南葛飾郡深川出村東
浅間・北本所出村字東浅間耕地・南本所出村字東浅間耕地・本所松代町4丁目・本所五の橋町・小
梅村字天神前・小梅村字清水・中の郷村字五の橋耕地・押上村字天神川東をまとめて新しい大きい
亀戸村とし、亀戸村はその大字亀戸となった。明治33年亀戸町大字亀戸、大正4年大字を廃して
1~9丁目に分けた。昭和7年大島町・砂町と合併して城東区を成立、同22年江東区成立、同4
3年新住居表示を実施して現行の「亀戸」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『江東区史』『江東の歴史』など。

 亀戸の由来
 往古この辺りは海中の寄州となり、次第に堆積して島となるとその形状から亀の島、亀つ島と呼
ばれるようになったた。岡山県倉敷市水島に親島と子島が陸続きで、上から見ても横から見ても、
まさに亀にそっくりな島があった。現在は埋立てにより陸地の中の山となり、亀島山という。この
亀の島、亀つ島もそんな島だったのかなぁ? と思う今日この頃です。
 で、亀の島は、香取神社の一帯だったようだ。そうこうする内に、堆積が広がり、島と島がくっ
ついて、境目の湿地帯が埋め立てられて吾嬬村と陸続きとなり、亀島村→亀村が起立した。村の内
に名泉〝亀の井〟があり、「亀の井のある亀村」から「亀井戸のある村」となり、やがて亀井戸村
と呼ばれ、その内〝井〟の字が取れて亀戸村に落ち着いた。
 別には亀つ島(亀津島)の「つ」が「と」に転じ、「亀戸島」となったという説もある。
 「かめいど」と読むのが正しいが、土地っ子は「かめーど」と発音する。
 アイヌ語で「カムイ・トー」というと「神の泉」。亀の井は「梅屋敷」という梅林にあったよう
だ。その名勝臥龍梅は今はなく路傍の石碑のみが往古を偲ばせる。
 亀戸は亀井戸ではなく、江戸・松戸・大戸(青戸)・奥戸と同じ、亀戸(かめど)だという説も
ある。この「戸」は「入江の口、船着場」の意で、「亀の島の船着場」が由来だという。香取神社
は湊の神だし理に適っている。どうだ?
 「かめいど」をインドネシア語で解すると「カメ・イト」、「川が仇のように浸食する土地」と
いうことらしい。地形に適っており、これもなくもない。東南アジアが沈下した際に黒潮に乗って
大量のその地域の人々が日本にやってきたことは事実としてある。
 


■亀戸七福神
 七つの福神を祀る神社や寺に詣ると、天変地異、火災、盗難など七つの災害を取り除き、七つの福
をもたらすとされ、江戸時代以来盛んに信仰されてきた。
   1.寿老人  延命長寿 常光寺
   2.弁財天  芸道富裕 東覚寺
   3.恵比寿  愛敬富財 香取神社
   4.大黒天  富裕蓄財 香取神社
   5.毘沙門天 勇気授福 普門院
   6.福禄寿  人望福徳 天祖神社
   7.布袋尊  清廉度量 龍眼寺
 


■亀戸大根
 普通の青首大根より小ぶりで、ニンジンを少し大きくしたぐらいの大根。砂村の大根と地大根が幾
代か自然交配し多ことと、亀戸の荒木田土という地質が相まって出来たと考えられる。文久の頃〝お
かめ大根〟〝お多福大根〟の名で栽培が始まり、香取神社周辺が栽培の中心地とが全くない時代でも
あり、根も葉もともに浅漬けにして美味しいことから、江戸っ子に大変な人気だった。おでんに最高ら
しい! 大正の初めころから〝亀戸大根〟と呼ぶようになって今日に至っている。今は葛飾の3軒の
農家で作られているとのことだ。平成11年「大根の栽培発祥」を記念してに香取神社の境内に「大
根の碑」が建てられた。地元の名産として「亀戸大根」を周知させ、亀戸の伝統と歴史を別の角度か
ら認識して貰おうとの活動が続けられてる。江戸4大根の1種。
 現在亀戸駅前の割烹「升本」の主人が中心になって、駅構内で栽培している。ホームからも見える
よ。升本では料理も食べられるが、何様貧乏人には無理な話だ。予算は最低6000円からだから、
明日死ぬというような切羽詰まった時にでも行って食いない。
 升本は、4丁目18番19号、電話03‐3637‐1533。
 


■横十間川

 現在は、昭和40年4月の河川法の改正により生まれた河川で、北十間川との分岐にある柳島橋の
ところから南に下り、二十間川(仙台堀川)と交差して、さらに西に流れて大横川に合流する460
0mの一級河川だ。かつての横十間川は、『新編武蔵国風土記稿』によると、「北十間川より南の方
小名木川へ達せり。川幅十間」と記載されており、北十間川から小名木川に至る長さ2530mの堀
川だった。残りの2070mは「亥の堀」といったようだ。と書いたら鈴木様から以下のメールを頂
戴しました。

   「亥之堀」とは大横川の小名木川以南が元禄八年乙亥に開削されたことから名ずけられ、
   現在でも橋名で残ってます。横十間川の小名木川以南は、俗称として、「怨亡堀」といわ
   れたところです。東海道四谷怪談の戸板返しの舞台とされ、ここにかけた橋名を、祝橋と
   するところをお岩さんの名から岩井橋とつけたという伝えがあります。

 横十間とは、上方(京都の方向)を尊重する考えから、西方を向くと川が横に流れているので横川
であり、川幅を十間と定めて開鑿してあるので「横十間川」だ。北十間川に対して「南十間川」とも
いう。さらに「十間川」と略していう場合、北十間川でなくて横十間川のことだ。また亀戸天神社の
近くを流れているので「天神川」と呼ぶ人もいた。
 明暦の大火後、大江戸再開発により、本所・深川が造成されることになり、万治二年(1659)
徳山五兵衛・山崎四郎左衛門が普請奉行となって開鑿された堀川で、大横川や竪川と一緒に掘られた
材木を運ぶ運河だった。水運を止めた現在、経済的には無用の河川となって、区ではもてあまし、ド
ンドン埋め立てている。本来水抜き用水なのだから、川をなくしてしまうと、大地震の時液状化現象
で、ビルディングやマンションががごとんごとん倒壊するぞ。掘れば直ぐに水の出る埋立地なんだか
ら・・・ 川の沿線には、萩寺龍眼寺、亀戸天神社、銭座跡、日清紡績跡、木材蔵跡、釜屋跡、化学
肥料創業地跡などの史跡が多い。
 柳島橋―神明橋―栗原橋―天神橋―錦糸橋―総武線鉄橋―松代橋―旅所橋―首都高速7号小松川線
―清水橋―本村橋―大島橋―クローバー橋―水門橋―三島橋―岩井橋―海砂橋―千砂橋―豊砂橋―井
住橋―平住橋―富士見橋。
 この内江戸時代に架かっていた橋は、又兵衛橋(柳島橋)―天神橋―旅所橋―清水橋―大島橋―無
名橋―岩井橋―富士見橋だ。
 


■亀戸天神御旅所跡

 亀戸1丁目3番2号にあった。近くに旅所橋がある。


■おいてけ堀(本所七不思議の一)

 亀戸1丁目12番10号の第三亀戸中学校の敷地がそうだ。明治42年(1909)陸地測量部作
成の「深川図」には、三亀中のところに「オイテケ堀」と記している。「おいてけ堀」の伝説は、本
所七不思議の一つで、墨田区両国付近から東部に残されている。伝説では、その堀で釣り終えた釣り
人が帰途につくと、「おいてけ、おいてけ」という声が聞こえ、獲物を置いていかないと、その獲物
がなくなるか、三ツ目小僧や大入道が現れて道を塞いだという。本所や亀戸が農村だった頃、溜池や
用水の回りは人気のない寂しいところで、恐怖心から音を勝手に想像したり、人間のいたずらだった
り、作り話だったり、いろいろあったろう。なお「おいてけ堀」はこの溜池に限定されるものではな
く、人によっていろいろに認識されており、錦糸町駅の北側にあった錦糸堀もそう呼ばれていた。
 本所七不思議については墨田区に詳述してある。そっちを訪ねてくんねぇ。

   江東区登録史跡
   
おいてけ堀跡                          亀戸1‐12
   「おいてけ堀」は、墨田区両国付近から江東区亀戸あたりにかけて残る伝説で、本所七不
   思議のひとつです。釣人が帰る途中、堀から「おいてけ、おいてけ」という声が聞こえ、
   獲物を置いて帰らないと、いつのまにかその獲物がなくなってしまうというものです。天
   明七年刊の黄表紙『亀山人家妖(いえのばけもの)』(朋誠堂喜三二作・北尾重政画)に
   取り上げられていることから、18世紀には伝承として成立していたようです。
   おいてけ堀の場所には諸説あります。本所や亀戸あたりでは、屋敷地を少し離れると田畑
   も多く、池や堀の周りには、夜になると人気のない寂しい場所があちらこちらにあり、こ
   うした伝承が生まれたと考えられます。
   明治42年作成の一万分の一の地形図「深川」には、亀戸町字横川と清水の間(現在の第
   三亀戸中学付近)に堀「オイテケ堀」と記されています。同43年刊の「東京近郊名所図
   会」其六では、この「オイテケ堀」を実地調査し、四方に樹木はなく釣堀のようになって
   いること、地元でおいてけ堀と呼ばれている場所が一か所だけではないことなどを記載し
   ています。
   「おいてけ堀」は農村から町場へと変わっていく亀戸の面影を知る説話として伝えられ、
   近代以降も、錦絵・講談・落語・映画・小説などの題材とされています。
   平成15年12月                        江東区教育委員会
 


ドラム缶発祥の地

 亀戸1丁目7番5号日鉄NDタワービルの裏手に 複数の 平板状の石造物が建っていて、その一つ
の側面に貼り付けられた銅のプレートに「ドラム缶発祥の地」と書かれている。ドラム缶を発明した
のはアメリカ人女性(世界初の女性新聞記者でもあった)で、それまで石油の貯蔵・運搬用の木樽に
代わるものとして考え出されたという。明治36年にデザイン登録して200リットルドラム缶の生
産を始めた。
 日本に輸入されたのは大正13年。日本に入港した米国船から輸入品の容器だった空ドラム缶を買
い取り、これを新潟の小倉石油(後に日本石油と合併)に持ち込まれたのが最初のドラム缶といわれ
る。その後昭和4年に小倉石油が製造機械を輸入して山口県下松市で自社用としてドラム缶の製造を
開始。同7年になり日本ドラム罐製作所がこの地で、日本で最初のスチール製ドラム缶の商業生産を
開始した。これを以て「日本最初のドラム缶の製造」と称している。

   
ドラム缶発祥の地
   わが国におけるドラム缶の製造は、昭和4年日本石油(株)下松精油所で自家用として生
   産したことに始まるといわれているが, その後昭和7年3月、先進的な事業家本野吉彦が
   合資会社日本ドラム罐製作所を設立、この地にわが国初めてのドラム缶製造専門工場を建
   設し、商業生産を開始した。スチール製ドラム缶がアメリカで発明されてから僅かに30
   年後のことである。
   以後長い間この工場はわが国ドラム缶製造の中心として活躍したが、日本経済の高度成長
   に伴う需要量の増大と技術の進歩に対応するためには新立地による新鋭工場の建設が不可
   欠となり、当地のわが国最初のドラム缶工場はその使命を終えて昭和49年10月製鐵ド
   ラム株式会社を合併し日鐵ドラム株式會社として新たな出発をしたが、平成6年その発足
   20周年を迎えるにあたり、ドラム缶製造工場発祥の場であるこの地に、日鐵NDタワーを
   含む〝NDプラザ〟をその記念として建設した。
    平成8年10月           日鐵ドラム株式會社 代表取締役社長安東成海
   HISTORICAL LANDMARK OF STEEL DRUM
 


■亀戸西公園

 亀戸1丁目9番5号にある区立公園。


■第三亀戸中学校
(昭和36年10月20日開校記念日)
 亀戸1丁目12番10号にある区立校。昭和36年第一亀戸小学校内に開校、始業式・入学式は第
二亀戸中学校で行い、授業は第一亀戸小学校で開始した。1年生218名、2年生250名5学級編
制のスタートだった。近くの文泉公園を校庭代わりにし、朝礼もそこで行っていた。校地は当初、小
学校向かいの日清紡績発祥の地である日清紡績グラウンドが考えられたが、日清紡績が所有し、朝日
麦酒(アサヒビール)が壜置場として借用していた現在地に決まり10月20日に新校舎が落成して
移転した。設計は都立大学の長倉教授に依頼、教室の独立性を尊重した設計で、3、4階は廊下が長
く、3ヶ所に設けた縦階段の両側に、生徒用ロッカー洗面所の部屋が付いた普通教室があった。天井
からの採光に工夫を凝らした特別教室や南北両面採光の明るい教室の斬新な校舎ということで、都内
をはじめ東北・北海道やオーストラリア、ヨーロッパからも見学者が来校した。同37年開校・落成
式。校庭整備。同39年プール完成。同41年2月校歌制定。創立5周年記念式典・校歌発表。

 校歌
「希望溢れる若人の」 作詞・勝承夫  作曲・平井康三郎
  1.希望溢れる若人の
    学び舎ここに聳え立つ
    文化を築く鉄の響きも
    日々に明るく力あり
    第三亀戸 この空広し
  2.古き歴史の宮代に
    果て無き未来誓いつつ
    床しく清き海の香りを
    込めて夢あり 誇りあり
    第三亀戸 英気の泉
  3.燃える友情 溌剌と
    次代を担う自主の意気
    真理を追いて強く正しく
    進む我等に栄あり
    第三亀戸 歌声高し


 同46年創立10周年記念式典・学校園、記念碑、ロダン「考える人」像設置。同51年・同56
年校舎増築。平成2年校舎建替え新校舎落成。同13年創立40周年記念式典。

 創立10周年記念碑「明朗剛直」
 碑はスウェーデン製の一枚板の御影石で、揮毫は当時の文部大臣高見三郎。

 ロダン「考える人」銅像
 銅像は玄関脇に設置された。台座の「人間は考える葦である」は3代校長松岡午郎の筆になる。


■堅川第一公園

 亀戸1丁目15番10号にある区立公園。


■亀戸公園

 亀戸1丁目22番11号にある区立公園。


■亀戸水上公園

 亀戸2丁目1番3号先にある区立公園。


■文泉公園

 亀戸2丁目4番13号にある区立公園。第一亀戸小学校の裏に当たる。

 
「亀の甲」
 東南の入口の井上猛雄による壁面アート。


■文泉国民学校 廃校

 亀戸2丁目5番7号にあった区立校。昭和17年第一亀戸国民学校から分校して「東京市文泉国民
学校」として開校。同18年都制施行により「東京都文泉国民学校」と改称。同19年新潟県に学童
集団疎開。同20年愚かなアメリカ軍の非人道的無差別東京大空爆により校舎が焼かれる。同21年
廃校。同22年跡地は亀戸駅北口から第一亀戸小学校が移転してくる。
 


(2丁目18番からつづく)

■第一亀戸小学校

 亀戸2丁目5番7号にある区立校。俗に「いちかめ」の愛称で呼ばれる。昭和22年2月文泉亀戸
駅北口国民学校跡地(現在地)に新校舎竣工。以後同30年まで毎年増築。学制改革により「東京都
江東区立第一亀戸小学校」と改称。同26年第二亀戸小学校を分校、児童596名を移籍。同31年
創立60周年記念式典。校歌制定。

 校歌
「明るい光」 作詞・勝承夫  作曲・平井康三郎
  1.明るい光 降る窓は
    力が溢れる夢が湧く
    第一亀戸希望の広場
    いつも元気な夢を張り
    進む我等の楽しい母校
  2.文化の宮よ天神の
    富士に平和の花が咲く
    第一亀戸優しく強く
    みんな素直に手を繋ぎ
    開く初花 楽しい我等
  3.大空染めて立つ煙
    高く輝く意気の町
    第一亀戸自律の気風
    明日の日本をこの肩に
    担う我等の楽しい母校


 同32年新校舎落成。二部授業解消。同35年水神小学校が新設され、児童396名を移籍するも、
年度内は本校に通学。同36年第三亀戸中学校を併設。10月転出。同37年プール竣工。同38年
体育館新設。同44年鉄筋コンクリート造り校舎第一期工事(8教室)竣工。同45年鉄筋コンクリ
ート造り校舎第二期工事(玄関・教室)竣工。同46年鉄筋コンクリート造り校舎第三期工事(保健
室・教室)竣工。同47年鉄筋コンクリート造り校舎第二期工事(特別教室・普通教室)竣工。同4
9年戦争で疎開先となった山形県上山市立上山小学校を御礼訪問、姉妹校となる。同51年校舎増築
工事。同56年亀島小学校分校。平成6年校舎建て替えのため文泉公園にプレハブ校舎を建て移転。
校舎解体。同8年新校舎落成して帰校。同9年創立100周年記念。同14年亀島小学校を吸収統合。
同15年ウィークエンドスクール開始。南側区道を校庭に取り込んで拡張。


■亀戸銭座跡
 亀戸2丁目6番にあった。寛永通宝の鋳造・発行を行う機関で、鋳造過程で毒が派生するため公害
とならないよう定期的に移動し、江戸時代を通じて14ケ所を転々とした。ここの寛永通宝には裏に
「文」の字がある。また真鍮製の四文銭には裏面に11または21本の波線模様がある。
 江戸時代に銅銭が本格的に鋳造されたのは、寛永十三年(1636)に始まる。そのため幕末まで
に造られた銅銭は全て寛永通宝と称し、「寛永通宝」の文字が打ち出されている。寛文三年(166
3)から天和三年(1683)まで、亀戸2丁目の住宅・都市整備公団団地のある付近で、寛永通宝
銭が造られ「亀戸銭座」と称した。寛永通宝の裏面は無印のものが多いのだが、造られた場所の文字
などが入ることがあり、この時造られた銅銭には「文」の文字が入っており、「背文銭」といわれて
いる。
 また明和五年(1768)にここで造られた真鍮銭には、21本の波模様があるので「波銭」とい
う。翌六年(1769)に造られた真鍮銭には、11本の波があり、その「寛永通宝」の文字は、福
住に住んでいた書家三井親和の筆跡だ。亀戸銭座では、この他にも元禄四年(1691)、宝永五年
(1708)から正徳二年(1712)、正徳四年(1714)から享保三年(1718)、元文二
年(1737)、明和二年(1765)から四年(1767)としばしば銅銭や鉄銭を鋳造した記録
が残っている。昭和41年に当時の日本住宅公団が住宅を建てる時に、多くの寛永通宝銭が発見され
たという。

 
モニュメント
 寛文8年に亀戸銭座で造られた「寛永通宝」をモデルに作成したものだ。レリーフには、「銭座絵
巻」(享保十三年(1728))より銭座で行われていた銅貨製造工程のうち、平研(銅貨の表面を
磨く)作業をしている図(日本銀行貨幣博物館所蔵)の絵を参考にしたものが描かれている。隣には
「亀戸銭座跡」の標柱が立っているが、以前はこの標柱だけだった。
 


■日清紡績創業の地
 亀戸2丁目6番50号、横十間川に面し 亀戸二丁目団地を背にして 東京都水道局の亀戸給水所が
あり、その南西角に黒褐色の石碑が建っている。日清紡は現在綿紡績としては国内最大手の企業だが
紙製品・自動車ブレーキ部品・エレクトロニクスなどの分野に事業を拡大している。明治40年に資
本金1000万円で設立され、翌年 この地に本社・亀戸工場を新設した。2万坪あまりの広大な敷地
を有する工場だったが、戦災により焼失。戦後は運動場として利用されていたが、昭和42年に住宅
団地と一部は水道局用地、野球場などになった。

   日清紡績創業の地
   日清紡績株式会社は明治40年1月創立後,東京府南葛飾郡亀戸町の当敷地2万余坪に、
   最新鋭設備を誇る本社工場を建設した。
   最盛期には、紡機107800錘,織機360台を擁した本工場は、昭和16年軍の要請
   により陸軍被服本廠が使用するに至るまで、45年に亘り主力工場として綿糸布を生産し、
   広く内外の需要に応えると共に、幾多の人材を輩出した。
   この間明治43年、大正6年、昭和13年の三度横十間川の洪水で浸水し、大正12年に
   は関東大震災に逢ったが、従業員の献身的努力によりこの職場を守り得た。
   昭和20年大戦下の空襲により焼土と化したが、運動場として整備し主として勤労青少年
   の体育に寄与してきた。偶々昭和42年東京都浄水場、日本住宅公団用地として提供する
   に至り、当社の手を離れた。
   今般この地に記念碑を建立し会社創業関係者の遺徳と、生死苦楽を共にした多数従業員各
   位の功績を偲ぶものである。                   日清紡績株式会社
   昭和46年5月建之
 


■第一亀戸尋常小学校 →
第一亀戸国民学校 → 第一亀戸小学校 移転
 亀戸2丁目21番(区立亀戸駅前公園・区立カメリアプラザ)にあった区立校。俗に「いちかめ」
の愛称で呼ばれる。
 [
立志尋常小学校
 明治8年7月「第六中学区第十二番公立小学丸山学校」開校。同10年丸山学校を「立志学校」と
改称。同13年本所区編入。同20年柳島小学校と合併し「松柳小学校」と改称。同21年松柳小学
校を廃して「中和小学松代分校」となる。同24年本所区を離れ亀戸町に管理移籍、「立志尋常小学
校」と改称。
 [
亀戸尋常小学校
同9年「第六中学区第十九番公立小学亀戸学校」開校。同19年亀戸学校を「亀戸尋常小学校」と改
称。
                       *
 同30年3月南葛飾郡亀戸村柳島180番地(現在の亀戸駅前公園)に校舎落成。6月亀戸尋常小
学校と立志尋常小学校が合併し、高等科を併置した「亀戸尋常高等小学校」開校。これは両校の財政
負担の軽減校舎の狭隘などを解消するためで明治24年には府知事の許可受けており、両校の児童が
通学上便利な場所に新校設置した。児童数275名(尋常科4学級・高等科2学級)。同34年高等
科が独立し亀戸高等小学校となったため「亀戸尋常小学校」と改称。同36年二部授業。同37年亀
戸高等小学校と合併し「亀戸尋常高等小学校」に戻称。同亀戸実業補習学校(夜間)併設。同39年
児童数増加のため二部授業。同41年8教室増築して対応。同44年第二亀戸尋常高等小学校の新設
のため「第一亀戸尋常高等小学校」と改称。第二に全男子児童を移して男子校とし、第一は女子校と
なった。
 大正4年校地拡張、校舎改築落成。同6年雨天体操場(体育館)においてあった生石灰の自然発火
により校舎焼失。同7年校舎新築。同12年関東大震災発生、罹災者を収容。昭和4年4教室増築。
同7年城東区成立して東京市の管轄となる。同8年9教室増築、体育館新設。同14年校地拡張・校
舎改築。36学級2200名。

 [校歌]
 開校以来、儀式の際には「亀戸の里の里人が~」で始まる式歌を歌っていた。これは町歌なのか校
歌なのか判らない。また昭和15年の卒業アルバムに「校歌」が楽譜付きで記載されているが、何時
制定されたのか不明だし、作詞作曲も不詳だ。
  1.雪に蛍に集い来る
    ここは亀戸か 亀の齢は
    千代に八千代に 万代に
    栄えんものぞ いでうない
  2.いでや亀戸は神ぞます
    神は菅原 菅原は
    学びの神ぞ この神に
    習いて学べ いでうなる
  3.何かを習う この神は
    和魂を兼ねて 漢才を
    教えし神ぞ 雄叫びを
    心にかけよ いでうなる


 同16年国民学校令より「東京府東京市第一亀戸国民学校」と改称。同18年都制施行により「東
京都第一亀戸国民学校」と改称。同19年8月愚かなアメリカ軍の無差別空爆が熾烈となり、高学年
学童は山形県上ノ山町に集団疎開。同20年3月愚かなアメリカ軍の非人道的市街地無差別空爆によ
り、校舎焼失。焼け残った浅間国民学校にて間借り授業(児童数19名)。8月日本は、ならず者国
家アメリカの軍門に降り敗戦、以後その属国となる。同21年3月疎開解除により学童集団帰校。第
二亀戸国民学校・文泉国民学校が廃校となり、その児童が転入し男女共学となる。同22年2月文泉
国民学校跡地(2丁目5番の現在地)に新校舎竣工し移転。(2丁目5番につづく)
 跡地は現在の区立亀戸駅前公園・区立カメリアプラザだ。
 


■亀戸駅前公園

 亀戸2丁目21番9号にある区立公園。

 
「玄武 跳ね亀 Hanekame'92」
 中央の噴水池の中にある松山哲哉の亀の彫刻。四神の一。四神相応説の北方を守護する神、羽のつ
いた高さ2mの親亀・子亀・孫亀。その孫亀の背中から噴水が出ている。他に青龍(東大島駅)・白
虎(豊洲シビックセンター)・朱雀(若洲公園)がある。

 
ロケット館
 公衆トイレを『ロケット館』呼称し,この地の副都心促進を願っての基地として印象づける。隣接
する彫刻「HANEKME」と同様に副都心促進をテーマにした公園整備の一環。

 
荒川水位表示モニュメント
 公園中央にある河川水面より低い位置にあることを認識させるための塔(水位計)。

   荒川水位表示モニュメント
   このモニュメントは、荒川の水位を示しています。発光ダイオードの水位グラフと、水盤
   の水面が現在の荒川の水位を示します。水盤のオブジェは、河から顔をのぞかせた亀をイ
   メージし、左右のアルミパネルには、荒川周辺に住む生き物たちを彫刻しています。
   平成9年12月


■かめ・うさぎ児童遊園

 亀戸2丁目21番13号にある区立公園。


■亀戸二丁目公園

 亀戸2丁目33番2号にある区立公園。


■稲荷神社

 亀戸2丁目44番10号にある区立公園。
 

■くず餅・船橋屋

 亀戸3丁目2番14号にある亀戸天神本店。文化二年(1805)亀戸天神社境内の茶屋でくず餅
を売り出したのが始まり。添加物を一切使わない素朴なおいしさが愛されている。くず餅は喫茶ルー
ムで、持ち帰り用もある。03-3681-2784 年中無休


■亀戸天神社(亀戸天満宮)

 亀戸3丁目6番1号にある。祭神は菅原道真であり、正保年間(1664~48)道真の裔孫菅原
(大鳥居)信祐(九州大宰府天満宮の神人)が霊夢に感じ、

   十立ちて栄ふる梅の若枝かな

 の発句を得、道真所縁の飛梅で道真像を刻み、社殿建立の志願を抱いて諸国を廻り、寛文元年(1
661)ついに信祐は江戸に至り、本所亀戸村にあった天神の小さな祠(亀戸5丁目36番の下天神
塚)に道真像を奉祀したのが亀戸天神の由来となっている。東宰府天満宮、本所宰府天満宮と呼ばれ
ていたが、昭和11年から「亀戸天神社」を正式名称としている。時の将軍家綱が現在地の社地を寄
進したので、信祐は大宰府の社に倣い社殿を造営し、以来300年後の今日まで学業の神として尊崇
され、文政三年(1820)以来の「鷽替え神事」で知られているほか、境内の池、太鼓橋(男橋・
女橋)、藤棚が有名で、葛餅が名物。
 摂社・末社には、紅梅殿、花園社、弁天社、御嶽神社(亀戸妙義社)がある。

   
亀戸天神社
(通称 亀戸天神、亀戸天満宮、東宰府天満宮)
   江戸時代から学問の神様として信仰を集め、梅や藤の名所として庶民から親しまれてきま
   した。寛文二年(1662)九州大宰府天満宮の神職が、飛梅の木で菅原道真の像を作り、
   祀ったのが創建といわれています。毎年1月24日、25日に「うそ替え神事」が行われ、
   前年のウソを納め、新しいウソを求めると「凶もウソとなり吉にトリ替わる」といわれて
   おり、檜の一刀彫のウソに人気があり、たくさんの人々でにぎわっています。
    東風吹かば匂ひおこせよ梅の花 あるじなしとて春な忘れそ
   御祭神菅原道真公(天神さま)と梅の花のゆかりはあまりにも有名で厳冬の中に凛として
   咲き誇る姿は古来より多くの人々に愛で親しまれて参りました。
   当社の梅は藤の花と共に創建当初より名高く社殿や太鼓橋その他多くの句碑・記念碑など
   に彩りを添えるように咲くところにその趣があります。
   この度、社殿正面左右の絵馬掛けの中に紅白梅を一対と東西両参道沿いに新たな梅花を植
   樹し梅園の整備をいたしました全体で50種類・約300本の色々な梅花が(2月中旬よ
   り3月上旬)にかけて最も美しい時期を迎え境内一円はその馥郁とした香りに包まれ春の
   訪れを告げてくれます                         亀戸天神社


 
藤棚
 境内に17ヶ所ある、フジの株は81株。殆どは藤色の花を付けるフジだが、10本ばかり白色の
花を咲かせるものがある。

 社宝
 江東区登録文化財「塩原太助奉納の石造燈籠」「大正2年在銘の石造燈籠一対」「弘化二年在銘の
石造鳥居」「明治35年在銘の石造燈籠一対」「大正5年在銘の石造燈籠」「明治35年在銘の石造
燈籠一対」「石造燈籠明治35年在銘の」「明治40年在銘の石造燈籠一対」「明治35年在銘石造
燈籠一対」「絹本着色束帯天神像」「増田栄相作鉄造天水桶一対」「中江兆民翁之碑」「聖廟九百年
御忌句碑」「歌川豊国翁之碑」「帰春翁筆塚」「董斎筆塚」「花仙堂筆塚」「亀田鵬斎書になる正木
樸筆塚」「岸駒・曲江画花鳥図碑」「石川勝蔵歌碑」「男谷静斎書になる八百万神碑」「松平康任奉
納の燈籠一対」「松庵句碑」「珺琚先生碑」「鮮斎永濯碑」「臥龍園句碑」「梅松両社再建発句碑」
「菅原白竜画師献技碑」「累卵塔碑」「文政二年在銘の燈籠(残欠)」「弘化二年在銘の鍾珠山人玉
光句碑」「明治29年在銘の明楽斎修筆碑」「大正4年在銘の藤樹奉献碑」「大正5年在銘の鷽替由
来板木」「大正12年在銘の亀戸神社縁起碑」「明治28年在銘の頌徳碑」「明治35年在銘の菅公
一千年祭記念碑」「菅公一千年祭記念碑」「明治35年在銘の菅廟種梅碑」「菅公一千年祭記念境内
全図銅板寄附碑」がある。

 
亀像
 水盤舎の蛇口になっている。


 
撫牛
 
牛は天神(菅原道真)の神使。社殿の前に大きな青銅の臥牛が祀られている。この臥牛は「なでう
し」とも呼ばれ、自分の身体の悪い所に当たる牛の個所を撫でると治るといわれている。昔は、白御
影石だったが、アメリカ軍の無差別空爆で破壊されてしまった。現在のものは、社殿が新しくされた
時にほうのうされたものだ。また4年に1度の渡御祭の時には、黒牛が鳳輦を引く。境内の茶店では、
黒牛の上に、笏を持つ束帯姿の天神が乗っている張子の民芸品「牛乗り天神」も売ってるよ。手作り
温かみ。昭和36年の安置。

   撫牛
   天神様(菅原道真公)は承和十二年(845)6月25日に御誕生になりましたが、この
   年が乙丑の年に当り、延喜三年(903)2月25日大宰府の配所で亡くなられた時、道
   真公自らの御遺言により御遺体を牛車に乗せて牛に引かせ、牛が止まった所を御墓所と定
   めてそのところに神廟(現在の大宰府天満宮)が建立されたのも乙牛年のことでした。
   讃岐守(香川県)として御在任中農工に勤しむ牛の姿に深い慈愛の心を示され、又、大宰
   府へ西下の途中牛の鳴き声に刺客から逃れられたり、どこからともなく飛び来たった白牛
   に危難から救われられるなど天神様と牛とのかかわりは史実や演技に或は伝承を通して伝
   えられています。その底流には御生誕の年はもとより神廟にお祀りされた年も丑年に当る
   という御神縁があり、以来牛は天神様の神使(みつかわしめ)、天神様を守護するものと
   して篤く信仰されています。
   社前に臥牛が祀られ、4年に一度御鳳輦渡御祭に黒牛が供奉するのもこれに因ります。
                                      亀戸天神社

 紅梅殿

   
紅梅殿
   御本社と時を同じくして寛文二年(1662)に太宰府天満宮の御神木「飛梅」の実生を
   勧請し、社殿前に奉斎したのを起源とし、昭和63年に現在地に再建される。

 花園社

   花園社
   ご祭神は菅原道真公の御奥方で、菅公の父君是善公の門人であり、菅公ご幼少の時の師で
   ある儒者の島田忠臣の御女にあらせられ、御名も宜来子と白し、相殿に御子十四方も祀ら
   れております。
   寛文年中亀戸天神社の創建と時を同じくして九州筑紫(福岡県)の花園の地より勧請、爾
   来花園神社、花園大明神とも号されて、安産・子宝・育児・また立身出世の神として広く
   信仰を集めてまいりました。
   先の戦災に罹り社殿は惜しくも烏有に帰しましたが、昭和47年8月23日、旧の地に再
   興されました。安産御守護・岩田帯安産祈願絵馬は、ご本社でお頒ちしております。
                                      亀戸天神社


 
御嶽神社(亀戸妙義社)
 祭神 比叡山延暦寺第13代座主法性坊尊意僧正。社殿 寛文九年(1689)11月21日に九
州太宰府御嶽山より勧請し建立され、古くは「亀戸妙義社」とも号された。現在の社殿は、菅原道眞
公神忌1075年大祭の記念事業の一つとして、昭和51年に再建されたものだ。
 祭日 初卯(正月の初卯日) 卯日祭(毎月の卯之日)


   御嶽神社と菅原道真公
   御祭神 比叡山延暦寺第13代座主 法性坊尊意僧正
   御社殿 寛文九年十一月二十一日に九州大宰府御嶽山より勧請し建立され、古くは亀戸妙
       義社とも称されました。現在の御社殿は、菅原道真公御神忌1075年大祭の記
       念事業の一つとして、昭和51年に再建されたものです。
   祭 日 初 卯 正月の初卯日
       卯日祭 毎月の卯の日
   由 緒 法性坊は、道眞公(天神様)の数学、御折の師で、道眞公が薨去の後は大宰府天
       満宮の社殿造営に関わられ、社前に一念三千の心字池を構えて三世一念の太鼓橋
       架けられるなど道眞公とのご関係は殊に深く、よって当宮境内に奉祀されました。
       法性坊は智徳世にすぐれ、ご在世の内にも奇特多い高僧として知られ、天慶三年
       (930)二月の卯日の卯の刻に亡くなられたことから、春の陽気を迎えるはじ
       めとして卯槌、卯の神札を求め、福徳・才智・愛敬を願い、除病・延命を祈りま
       した。                            亀戸天神社

 正月初卯の日、悪鬼を払うためにウツギでできた卯杖、卯槌で地面を叩く行事があった。中国の剛
卯杖の風習を伝えたものだが、日本にも古く山から年木を採って来た習俗があり、両者が一緒になっ
たものと考えられる。この正月の初卯詣でで賑わったのがこの妙義社だ。江戸年中行事を纏めた『東
都歳時記』には、

   参詣は多く、南は両国より割下水通、北は浅草大川橋より柳橋の土手通りに満つ

 と、大盛況の様子を描いている。亀戸天神では、正月元旦から卯槌を頒布する。入って右花園社に
お参りして、その先の御嶽神社だよ。天神の本殿じゃないからね。

 弁天社
 境内にある。

   
弁天社
   寛文五年(1665)太宰府天満宮(福岡県)心字池畔に鎮まり座す志賀社を勧請したの
   を始めとしますが、時代の推移と共に、七福神の一つであり、無量の福徳を与える弁財天
   (水の神・音楽の神)の信仰と習合し、一般には「弁天様」と親しまれた。て、福徳福智
   を増し天災地変を消除する開運出世・芸能成就の神として信仰されてきました。その間幾
   度か災害に罹りその都度復興されましたが、近年殊に社殿の破損も著しく、菅原道真公御
   神忌1100年大祭に伴う記念事業に併せ、地元宮元会役員一同を始めとする崇敬者各位
   の御奉賛により、装いも新たに修復されたものであります。
   平成13年12月1日遷座祭執                     亀戸天神社


 五歳菅公像
 境内にある。

   昭和52年の御神忌1075年に大祭記念として奉納された立像。台座に5歳の時の和歌
   が刻まれています。
   
美しや紅の色なる梅の花 あこが顔にもつけたくぞある
                                      亀戸天神社


 
累卵塔
 五歳菅公像の後方にある。累卵塔と額刻りし、その下にお盆らしき物の上に卵を七個積み重ねた線
画が入っている碑がある。累卵とは、卵を積み重ねることで、崩れ易く極めて危険な状態をた例えて
いう言葉で、明治20年3月に明治天皇の主治医を務めた千葉愛石が天神を崇敬すると共に人命の危
うさを示そうとして献納した。誌は高橋泥舟、画は山岡鉄舟の作。この碑の裏面には大政奉還を行っ
た最後の将軍徳川慶喜と深く関わった〝幕末三舟〟と称された勝海舟・山岡鉄舟・高橋泥舟の名前が
刻まれている。平成2年江東区有形文化財(歴史資料)として登録された。
 山岡鉄舟は、浪士組を結成した時の取締役で清河八郎と共に京へ行ったり、江戸無血開城を決めた
勝海舟と西郷隆盛の会談に先立って、1人駿府で西郷隆盛と下交渉を行った。維新後は、茨城県初代
参事などを経て明治天皇の侍従となった人物だ。
 高橋泥舟は、江戸に戻った清河八郎ら浪士組の取扱いを行なったり、徳川慶喜へ官軍への恭順を進
言し、徳川慶喜が上野東叡山へ退去した時も、水戸へ下る時も護衛した人物だ。

 
卯の花】
 
卯(う ボウ)は十二支の一つで「うさぎ」を表し、季節なら春、時刻なら午前6時、色は青、五
行では木を表す。全ての物事の始まりに当たるもので、若々しく新鮮なもの、活動的で濁りのないも
のと考えてきた。よく知られている卯の花は、ウツギの花のことだ。ウツギ(空木、卯木)は初夏の
5月ごろ、山野で白い花を咲かせることから、日本では旧暦4月を卯月と呼んだ。白を尊ぶ日本人は
この花を稲の花に見立て、豊作の予兆と喜んだものだ。卯木は「卯つ木」で「つ」は「の」で連体修
飾語、「卯の木」の意。 またウツギは茎に芯がなく空洞になっているので「空木」と書かれ、超自
然的な霊力が籠もっているとされている。

 「
夏は来ぬ」 作詞・佐々木信綱  作曲・小山作之助
   卯の花の 匂う垣根に
   時鳥(ほととぎす) 早もき鳴きて
   しのび音もらす
   夏はきぬ

 
塩の犬神祠
 神楽殿の裏にある。小祠で、犬の御神体は参詣者の供える塩の中に埋もれている。関西の犬神は、
「憑き物」の一つで、犬の霊が人に取り憑くという俗信があるが、関東では犬神は安産・子育て・災
難除け・商売繁盛の神神として民間信仰が強い。それは多分、後から来た人々は仏教徒で、先住民の
神道の犬神を嫌ったためだろう。三峰神社(埼玉県大滝村)の神体は犬であり、信者の家を守護する
とされている。水天宮は安産の神として有名で、犬の日に神符を授ける。犬は一度に沢山の子を生む
ので、安産の動物といわれているので、安産を願う人々によって犬神が信仰され続けてきた。この祠
がいつ祀られたのか記録はないが、天神(菅原道真)の奥方が花園神社の祭神として祀ってある。こ
の祭神が安産・子育ての神として信仰が厚く、犬神と縁があるところから、犬神祠が建てられたのだ
ろう。
 江戸時代、この付近は塩の搬送路だったので、塩業者が犬神に塩を供えて商売繁盛を願うようにな
り、また安産・子育てや病気平癒を願って塩を供え、願い事が叶うと再び塩を供えて参詣するように
なったもので、現在でも神体が塩で埋まっているのは、信仰する人が今も多いことを示しているよ。
塩地蔵と一緒だ。

 
塩原太助奉納石灯籠
 本殿前に1基、竹柵に囲まれて保存されている。元は一対あったのだが、昭和20年あのアメリカ
軍の無差別空爆で木っ端微塵に破壊されてしまった。この灯籠は、天明元年(1781)八月十七日
に奉納されたものだ。

   奉寄進石燈臺両基武蔵国葛飾郡亀戸天満宮大前
   天明元年辛丑年八月十七日 本所相生町住塩原太助

   塩原太助奉納
   
石燈籠
   天明元辛丑年(1781)八月十七日
   太助は、本所相生町(墨田区両国)で薪炭商営み、辛苦を重ね豪商をなした。


  
塩原太助
 寛保三年生まれ、幼名彦七、父は塩原角右衛門、母はとめといった。ある日江戸に出て身を立て家
を興そうと父に願いでたが許されなかったので、終に宝暦十一年(1761)八月二十日の未明、草
刈りに出かけるべく装って、日頃飼いならした愛馬「あお」を引いて家を出、香才ケ原までやってき
て松ノ木に馬を繋ぐと1人江戸へ向かった。この馬繋ぎの松は群馬県高山村に現存する。途中榛名の
御師の山本坊に寄り、僅かばかりの旅銀を借り受けて江戸に出た。太助19歳の時のことだ。こうし
て江戸に出たものの、奉公口を見つけることが出来ず、ついに追い詰められて死のうと決心し、神田
昌平橋から身を投げようとしたその刹那、「早まるな」と後ろから抱き止めてくれたのが神田佐久間
町の炭商山口屋善右衛門だ。この縁で太助は山口屋で奉公することになり、生来の律義者、朝は星を
戴いて起き、夜は人声の鎮まるまで働いた。他の奉公人の休む暇には穿き古しの履物の鼻緒をすげ替え
ておいて俄の場合の役に立たせ。落ち散ってある縄屑などは拾い溜めておいて炭俵の繕いなどに使っ
て倹約した。こうして山口屋に奉公すること実に23年、奉公人の鑑とまで賞される様になり、つい
に暖簾分けで本所相生町に店を構え、それからも死に物狂いで働いて巨万の富を築き公儀のお金御用
を勤める身分となったという。

   本所に過ぎたるものが二つあり 津軽大名、炭屋塩原
   本所に過ぎたるものが二つある 津軽屋敷に炭屋塩原

 と謳われた。太助は山口屋に奉公して5年目に、己が毎日炭荷を積んだ車を引いて通る湯島無縁坂
を改修している。晩年にも中山村の反峠に渋茶の接待所を設け、伊香保より榛名神社に通ずる天神峠
に常夜燈を建て往来の者の便を計った。この様にして公益事業に巨費を投じたことで天下に名を知ら
れるようになった。文化十三年閨八月十四日74歳で没す。
 演劇では、太助は多助といわれて、その一代記はいろいろに脚色されて演じられている。講談、落
語、浪曲などでもいろいろに語られている。流行狂言の一つだ。

 楷の木
 境内にある。

   
(かい) 別名トネリバハセノキ(爛心木)
   中国(支那)原産のウルシ科の落葉高木で、曲阜の孔子廟に弟子の子貢が自ら植えたと伝
   わり、幹も枝もまっすぐ伸びるのが特長である。大正4年白沢保美博士が、その種子を中
   国から持ちかえり苗に育てたのが、我が国に渡来した初めといわれる。
   楷は、雌雄異株である上、各所に分散しているために、また花が咲くまでに30年余要す
   るということから日本では種子を得ることができなかった。
   この楷は、昭和45年秋金沢文庫(神奈川県)にある雌木から人口交配により得た種子が
   翌年春発芽したものである。            献木 昭和48年10月服部一殿


 鷽の碑(うそのひ)

   


   の縁起
   筑前の太宰府天満宮御やしろに毎年正月七日うそかへといふ事あり四方のさと人木のえだ
   其ほかのものをもてうそとりの形をつくり持きたり神前において互にとりかへてその年の
   吉兆をまねくことになん是やいまゝでのあしきもうそとなり吉(よき)に鳥かへんとのこゝ
   ろにてうそがへといふ元より此おん神の託(つげ)によりて始れり直き心をもてすれば誠の
   みちに叶うべしここに亀戸天神社はつくしのうつしなれば文政三年この事を始めて毎年正
   月二十四日五日うそ鳥の形をつくり境内においてうつしむれば信心の人々はかひ求めて神
   前にあると鳥かへなばかけまくも賢(かしこ)き神の御心にもかなひ開運出世幸福を得べき
   になり                                亀戸天神社

 歌川豊国の碑
 明治26年11月三世香蝶楼国貞の発起により市川団十郎、尾上菊五郎等や錦絵問屋、浮世絵師の
補助によって建立された


   
歌川豊國翁之碑

   幹はみな老を忘れて梅の花 楳堂

   二世、三世ノ肖像ヲ 田鶴年鐫ガ鐫刻ス
        合企 豊原國周  豊原國貞


 
久保寺珺琚(くんきょ)先生の碑
 正面大鳥居を潜って右に入った右側に、高さ1.5m、根府川石の碑が建っている。 碑は読み難い
漢字で、詳細にその業績が記されている。珺琚は、江戸末期数学者で、寛政七年(1795)久保寺
交美の二男に生まれ、諱を正久、通り名を正之進といい、くんきょと号した。12、3歳のとき至誠
賛化流の数学者、古川氏清の門に入り、数学者となり、兄久保寺正福とともに、幕府の掌計吏という
役職に就いた。弟子の指導は熱心で、その数は1100人と碑文にある。学徳ともに優れ、子弟に慕
われ、子弟に中村時万、内藤忠刻がいた。指導方法は、数学の席題を出し、指名してその解法を求め
たという。著書も多く、『賽祠神算』は知られている。
 この碑の題字は、戸川播磨守安清の書、本分は石井徽言の書、碑の裏面は
珺琚の子正焉が書いてい
る。天神が学問の神であるところから、文化二年(1805)境内にこの数学者の碑が建てられた。


 
中江兆民の碑
 境内のあるが、中江と亀戸天神の繋がりは判らない。中江は弘化四年(1847)土佐藩士の子と
して生まれ、明治初年佐賀1丁目5番の辺りに、わが国最初のフランス語塾を開いた。明治4年フラ
ンスに留学。同7年帰国後フランス語塾を再開した。フランス文学、特にルソーの研究家、また自由
民権運動の指導者、理論家としても広く知られている。同14年東陽自由新聞を創刊、政府を攻撃し、
同23年第1回普通選挙に当選。同31国民党を組織
し、政界で大いに活躍したが、同34年56歳で死亡した。

   中江兆民翁之碑
       永坂周書丹


 裏面に「維時明治四十年十二月建之」と刻み、賛同者の名前が羅列してある。

 
聖廟九百年御忌句碑(芭蕉の句碑)
 戦後行方不明になっていたのだが、昭和53年2月25日境内藤棚の土中から33年ぶりに発見さ
れた。この句碑は、享和二年(1802)2月25日亀戸天神の祭神菅原道真公九百年祭の御忌に、
当時亀戸天神付近に多く住んでいた芭蕉門下、雪中庵関係者が芭蕉百年忌を合わせて記念して奉納し
たもの。小松石製で高さは122cm。表に芭蕉の句を完来の筆跡、裏を白酔の筆跡で次の句が刻ま
れている。

   
しはらくは花の上なる月夜哉

 芭蕉が、貞享四年(1687)十年吉野紀行の旅に出て、翌年春、吉野の満開の桜とその上に浮か
ぶ月を吟じた句だ。碑の表には、雪中庵一世嵐雪、二世吏登、三世蓼太の句も刻まれている。

   
錦帳の鶏世を学の戸やほととぎす 服部嵐雪
   
明月やそぞろに走る秋の雲    桜井吏登
   
かり初に降り出す雪の夕かな   大島蓼太

 碑の裏には雪中庵四世完来の句とその一門の普成・午心の句が刻まれている。

   
松の月日の松影よもすがら    四世雪中庵完来
   
しら雪やをのずからなるひと夜松 夜雪庵普成
   
白妙や花のあらしも松風も    葎雪午心

 河却圭三之碑
 誰?

   
河却圭三之碑

 筆塚
 書家や書道に励む人等が筆の労に感謝するとともに、一層の上達を願って廃筆を納めるものだ。亀
戸天神では、

   宮居に遠き人之為に、吉書初め(書初め)に用筆を文政四年(1821)より毎年十二月
   朔日から晦日迄出す


 と伝えられ、今も「梅ヶ枝筆」を授与している。特に天神の忌日2月25日には神苑の梅の木で調
製した筆が授与される。筆塚祭(書道上達祈願祭)は毎年7月25日。廃筆、清書の焼納(おたきあ
げ)を行う。
 ※普通「筆塚」といえば、恩師を偲び感謝の気持ちを込めて建立されるものだ。

   筆塚は、書家や書道に励む人等が筆の労に感謝するとともに、一層の上達を願って廃筆を
   納めたものです。
   当宮では、「宮居に遠き人之為に、吉書初め(書初め)に用筆を文政四年(1821)よ
   り毎年12月朔日から晦日迄出す」と伝えられ、今も「梅ヶ枝筆」を授与しています。特
   に、天神さまの御忌日 2月25日には神苑の梅の木で調製した筆を授与いたします。
   筆塚祭(書道上達祈願祭)毎年7月25日執行
   廃筆、清書の焼納(おたきあげ)を行います。              亀戸天神社


 琴柱燈籠と奉納碑
 二本脚の徽軫燈籠は、水面を照らすための雪見灯籠が変化したもの。形が楽器の琴の糸を支え、音
を調整する琴柱(ことじ)に似ているため、その名が付いたといわれている。加賀金沢の兼六園のも
のが有名。二股の脚は元々同じ長さだったが、何かの折に折れてしまい、石の上に片脚を乗せてバラ
ンスを保っている。それを真似た。

   奉 琴字燈籠     竪
     紀元二千六百年  川
   納 社務所改築記念  睦

 弘前舊藩士龍岬藤林君之碑
 彼は、東奥義塾を経て東京の師範学校に在学中の明治15年に病没したが、詳細な人物像は伝わっ
ていない。何故ここに碑があるのかも判らない。墓は弘前市の京徳寺にある。

 菅公一千年記念碑
 明治35年の菅公1000年式年大祭を記念して建てられた。

 菅廟種梅碑
 明治35年銘の巨大なもの。

 文房至宝碑

   文房至宝
   文具資料館中国より渡来した紙筆墨硯は文房四宝と称せられ、読み書き算盤の寺子屋時代
   から明示の学制発布により高い文化を育てる文具として大きく貢献をしてきた。今や文房
   具はOA機器にいたる迠、その範疇を広げ四宝から至宝に至って、戦後の日本国を世界の
   大国に復興せしめた教育の原動力となった。11月3日(文化の日)を文具の日と定め、
   平成2年11月12日天皇陛下御即位を記念して全国業者相寄り、東宰府亀戸天満宮の境
   内に文房至宝の碑を建立する
   平成2年11月吉日                          文具資料館


 梅松両社落成記念三翁句碑
 境内にある。 

   
老  面のまゆむすひあぐるや松花   三祖 浪華旧徳椎木才麿
      
香の風やあるしかしこしむめの花 二祖 難波松寿軒井原西鶴
   
松  神松や千とせちかくもわかみとり 七祖 玉池谷素外

 説明の立看板は以下の通り。

   梅松両社落成記念三翁句碑
   正 面  面のまゆむすひあぐるや松花   三祖 浪華旧徳椎木才麿
   左側面  香の風やあるしかしこしむめの花 二祖 難波松寿軒井原西鶴

   右側面  
神松や千とせちかくもわかみとり 七祖 玉池谷素外
   文化八年(1811)に本社前の紅梅殿と老松社の社が再建された記念に建立されたもの
   です。この両社とも、先の戦火に羅り焼失いたしましたが、紅梅殿は昭和62年の当宮御
   鎮座325年に当りこれが記念に心字池の西の畔に再興さ
れました。

 洋傘骨材開発者河野寅吉の碑(2基)

   河野寅吉君紀行功碑
   不詳 洋傘骨の元祖河野寅吉氏安政五年(1858)越後國西蒲原郡大澤村に生る 父は
   江戸に来り鍛冶を業とす 君年七歳にして父を尋ね江戸に至り其家業を励む 明治11年
   君年二十二会洋傘骨の輸入盛んなるを見て慨然悟る所あり 之が政策を試み其術を得んと
   欲す 乃ち宇都宮に赴き刀鍛冶の雇工とんり丸骨製造應用の秘法傳習を得て 而も家貧し
   く資力給せず是に於て横須賀造船所の職工と為る 時に年二十九官其技術を愛し伍長に抜
   擢し切に勤続を奨む 君宿志尚堅く固辞して其職を罷む復び貧に甘んじ 奮て溝折受骨制
   作を研究する 三年其製品大に世に用ひらる 其得る所を挙げ資金を為し力を溝親骨製作
   に竭す 五年を歴て始めて成る 是に至り費額夥しく負債往日に倍蓯し窮迫甚し君屈せず
   益鋭意品質精良を究め遂に斯業今日の隆盛を致せり 大正4年9月君病を冒し福島工場に
   赴き躬ら機械据付の事を執る 病遽に掻革り是月二十四日終に起たず 享年五十八配鳥海
   氏袖子内外を助け辛酸を嘗め婦徳を全うす 徒弟露崎春吉を養子とし女梅に配し嗣と為し
   其業を続ぐ 君性物理発明の才あり傘骨錆止塗料ニス 或はテレピン油或はフレオソート
   等新案に係るもの尟しとせず 皆敢て官の特許を受けず獨其利用を擅にせず 之を世上に
   頒たんと欲す 其平生概此の如し東京洋傘骨製造業組合諸氏君に庇頼する所多大なりと為
   す 追慕愈深く首唱して廣く同志を集め碑を建て君の功績を紀し不朽を謀る 文を予に属
   す嗚呼君百折不撓孜孜として懈らず 身を斯殖産工業に致し殊勲を垂れ後進に益す報效を
   國家に竭したりと謂う可し世の一般實業に志すもの君の風を聞き亦安んぞ奮励せざる可か
   んや是に於てや敘す
   大正5年5月


   
河野寅吉氏彰徳碑
   碑誌
   河野寅吉氏安政五年(1858)生 洋傘溝骨製造技術開発の祖大正4年歿 その紀功碑
   震災戦禍に遭い保全己に難なり 時於明治100年乃ち有志発願し茲に之を再建す 旧碑
   は原形を縮少し併設したり
   以て銘す
   草創は無なり到境は無限なり探求と断絶の間孤心切切敢として條件の限界を超克洋傘骨産
   業史に黎明の灯をかかぐその開業精神千古に凛たり爰に先緒を後世に顕彰し斯業発展の永
   遠の道標と為さんと也
   昭和戊申五月                            隆撰 南谿書

   
昭和戊申は「昭和43年」

 
国産マッチの創始者 清水誠の頌の碑
 境内に、国産マッチの創始者清水誠を称える立派な記念碑が2本立っている。1つが「顕彰碑」で
もう1つが「紀功碑」だ。「紀功碑」は明治32年に建てられたのだが、関東大震災、第2次世界大
戦時の愚かなアメリカ軍の空襲で割れたり欠落したりしていた。昭和50国産マッチ創始百年に当た
り、8月業界有志により半分の大きさで新しく製作され、その時に「顕彰碑」も作られた。式典には、
岸信介元総理大臣も参列した。以前のものは地面にどっかと据えられていたが、再建後のものはコン
クリート造りの立派な敷台の上に鎮座している。正面が「顕彰碑」で、左手が再建された「紀功碑」
だ。

   国産マッチの創始者
清水誠の頌                     岸信人書
   人類は、原始以来火を自由に使うことによって 今日の文明を築いてきた。日本の近代文
   明もまた西欧からマッチの製法を輸入し、これを改良工夫した先人の努力によって飛躍的
   に発展したのである。その創始の時が今から丁度百年前でありその創始者が清水誠氏であ
   る。清水氏は弘化二年(1845)金沢で生まれ、明治3年幕命を受けてフランスに留学
   しパリ工芸大学に学んだ。専攻は造船学だったが、明治7年たまたま在仏中の宮内次官吉
   井友美氏の勧めによって、マッチの製造を決意して帰朝した。翌8年4月には本務の造船
   技師のかたわら東京三田の仮工場で早くもマッチの製造に着手した。明治9年9月本所柳
   原町に工場を新設して新燧社を興し、同12月には官職をやめてその経営に没頭した。翌
   10年9月には初めて国産マッチを上海に輸出し、好評を博した。明治11年7月再びフ
   ランスに渡り、ドイツ、スウェーデンのマッチ事業を視察して帰り、以来ますますの改良に
   苦心し増産につとめた。その後打ち続く不況に見舞われ 逐に21年には業界から引退し
   て郷里金沢に帰った。しかしその後もなおマッチ製造機の改良に情熱を燃やし、29年新
   鋭機の特許をとり翌20年大阪に出てその製造に従事した。明治32年2月8日病をえて
   没した。時に年54才である。大正4年政府はその功績を賞して従五位を遺贈した。なお
   没後間もなく当亀戸天神社の境内に追慕顕彰の碑が建てられたが今次の戦災によって破損
   したままになっていた。今年あたかも国産マッチ創始百年に当たり、業界の有志によって
   新しく再建されることになった。ここにその由来を誌し先人の功をたたえ、一文を草して
   頌辞とする
   昭和50年5月12日                     文学博士内野吾郎撰

   
正一位清水誠之碑

 福山碧翠翁記念碑
 清水碑の隣にある。福山は、燐寸(マッチ)の製造販売業者であり、燐票(マッチのレッテル)収
集家として著名>。
 


■光蔵寺跡

 亀戸3丁目9番2号、長寿寺の南隣にあった。


■亀戸三丁目第二児童遊園

 亀戸3丁目10番1号にある区立公園。


瑞亀山
長寿寺

 亀戸3丁目10番2号にある臨済宗永源寺派の寺。「新編武蔵風土記稿」に、

   長寿寺
   禅宗曹洞派、近江国愛知郡高野村永源寺末、瑞亀山と号す。本尊聖徳太子自作の立像、
   長一尺五寸許、当寺は市橋下総守の先祖伊豆守の開基にして、則同人の位牌あり。延
   命寺殿節翁宗竹大居士、天正十三年三月十三日と記す。中興開山円證、安永三年十月
   二十六日寂す。
   薬師堂、薬師は行基の作と云、立像長一尺許。
   八幡社。

 とある。寺宝に、江東区登録文化財の「木造聖観音菩薩坐像」「厨子入木造聖観音菩薩坐像」「厨
子入木造地蔵三尊像」「大正2年在銘の銅鐘」がある。

 大堀富子女史哀悼碑
 境内にある。彼女に関しての情報はない。

 
本多忠央墓
 江戸中期の三河挙母藩主。後、遠江相良藩主。二代挙母藩主忠次の子。父の跡を継ぎ、従五位下兵
庫頭、大番頭。後、相良藩主となり長門守に任じ、寺社奉行。郡上一揆で改易となった金森頼錦の縁
戚であったことから連座改易、松平長孝預かりとなり、跡に田沼意次が入った。赦免後は、
江戸にい
る舅の忠統や養子の忠由の許で余生を過ごしながら、享和二年(1802)に95歳の長寿を以て死
去した。天明八年(1788)81歳歿という説もある。

 
西舘孤清墓・妻美佐子墓
 弘前藩京都屋敷御用商人。孤清(こせい)の最大の功績は、慶応四年一月に鳥羽・伏見の戦いで勃
発した戊辰戦争でのこと。当時、弘前藩は官軍と幕府軍、どちらにつくべきか意見が割れていた。
 京にいた孤清は官軍の優勢を見てとり、それを逸早く国元に伝えようと腐心。官軍の勢いは凄まじ
く、戦火の拡大を恐れた孤清は陸路を断念し、5500両もの大金を投じて米国汽船をチャーター、
海路で十三湊から津軽に戻った。孤清の情勢判断を踏まえた弘前藩は明治新政府の支持を決め、城は
取り壊しを免れた。桜の名所弘前城だ。
 戊辰戦争で旧幕府軍についた藩は相次いで戦いに敗れ、降伏する。仙台城、会津若松城、米沢城、
長岡城、盛岡城など、どれだけの名城が戊辰戦争で焼失、廃城となったことか。
 その墓は、幕末の藩論統一に顕著な業績を残したことで、昭和63年に区の史跡指定を受けた。

 
西舘翫水の墓
 弘前藩家老職


■亀戸三丁目児童遊園

 亀戸3丁目12番10号にある区立公園。


萩寺 慈雲山無量院龍眼寺

 亀戸3丁目34番2号にある天台宗の寺。開基は良博。創建は応永二年(1395)。約600年
の歴史を持つ古寺だ。創立当初は「柳源寺」と書いたが、のちに現在の文字に改めた。
 萩の名所で〝萩寺〟と俗称され、江戸の人気スポットだった。『江戸名所図会』には、萩を愛でる
人々で賑わう様子が描かれている。また境内の万治二年(1659)造立の庚申塔は、区内で確認さ
れているものの中でも最古のものだ。
 亀戸七福神のひとつ(布袋尊)としても親しまれている。
應永二年平安末期鎌倉時代の作(作者不明)。開山良博大和尚(千葉氏の出)比叡山での修行を終え
帰国の途中、柳島の辻堂に一泊、その夜観世音菩薩が夢枕に現われ「汝の守るべき観世音菩薩と村の
守護神の御神体がこの床下に在る」とのお告げにより授かり、至心に祈願した、当時村には疫病が流
行していたが忽ち平癒した。村人の願いにより「柳源寺」を建立し、その聖観世音菩薩を本尊とし、
厄除・眼病平癒の観音様として現在でも信仰を集めている。
 その後現在の「龍眼寺」(時代不明)と改められた。
 御神体は天祖神社として祀られている。
「新編武蔵風土記稿」柳嶋村の項に、

   龍眼寺
   天台宗江戸浅草東光院末、慈雲山無量院と号す。本尊正観音、長一尺五寸許、立像にて、
   傳教大師の作。開山良傳、応永十五年寂。境内に萩数十株を培養して、中秋開花の頃は遊
   観の人多し。故に里俗当寺を萩寺と呼ぶ。この萩は元禄六年始て栽し、其後中絶せるを明
   和七年住持義海更に栽ませしより、今に至りいよいよ繁茂すと云。
   太子堂
   天神を相殿とす。太子自作の像にして長二尺五寸許。
   鐘楼、明和四年鋳造の鐘を掛。
   仁王門


 とあり、本堂の掲示板に、

   本堂
   天台宗 慈雲山無量院龍眼寺
   本 尊 聖観世音菩薩  江東区有形文化財・現在の区内最古の仏像
    応永二年(1396)開山良博大和尚(千葉氏の出)比叡山での修行を終え、帰国の途
   中、柳島の辻堂に一泊、その夜観世音菩薩が夢枕に現れ「汝の守るべき観世音菩薩と村の
   守護神の御神体がこの床下に在る」とのお告げにより聖観世音菩薩を授かり、至心に祈願
   した。当時村には疫病が流行していたが忽ち平癒した。村人の願いにより「柳原寺」を建
   立し、その聖観世音菩薩を本尊とし、厄除・眼病平癒の観音様として現在でも信仰を集め
   て、その後現在の「龍眼寺」に改めた。
    御神体は天祖神社として祀られた。本堂は夢殿を模した八角堂で八聖堂(八正堂)とい
   う。八聖道(八正堂)とは、理想の境地に達するために実践する正しい生活態度のことで
   ある。
   一、正見   正しい見解 
   二、正思   正しい思い
   三、正語   正しいことぼ
   四、正業   正しい行為
   五、正命   正しい生活
   六、正精進 正しい努力・勤め
   七、正念   正しい信念・気づかい
   八、正定   正しい精神統一 


 とある。この寺の文化財は、江東区登録文化財の「明治32年在銘の石造燈籠一対」ほか「木造聖
観音菩薩立像」「絢堂素丸書芭蕉句碑」「冬嶺市町句碑」「螺舎一堂句碑」「万治二年銘の庚申塔」
「百寿句碑」「天明五年在銘の水盤」「六角石塔」「正徳五年在銘の融通念仏供養像台石」「延享二
年在銘の水盤」「「享保十八年在銘の法華経五千部供養塔」「文化三年在銘の納経塚」「元禄九年在
銘の阿弥陀供養塔」「寛文六年在銘の如意輪観音供養塔」「宝永八年在銘の六十六部廻国供養塔」が
ある。

 
萩寺
 その歴史は古く江戸時代、元禄年間(1688~1704)に39世で中興の元珍が萩の咲く風情
を愛し、全国から126種を集めたという。その株数は1000株を超えたことから、〝はぎ寺龍眼
寺〟の名が広まったといい、「江戸名所図会」「江戸砂子」などの書物に掲載された。アメリカ軍の
無差別空爆で一帯は焼野ヶ原になったが、戦後に法隆寺の夢殿を真似た八角造りの本堂とともに萩の
庭も少しばかり復興し、初秋は萩の花で埋まり壮観だ。句碑なども添えられているが、住職は草書が
読めないらしく、江東区で把握している句であるのに、○で抜け字に強いるから、来た人は読めなく
て困っている。坊主なんだから習字ぐらいやれよなぁ。

 本堂
 夢殿を模した八角堂で「八聖堂(八正堂)という、八聖道(八正道)とは、理想の境地に達するた
めに実践する正しい生活態度のことだ。正見(正しい見解)・正思(正しい思い)・正語(正しい言
葉)・正業(正しい行為)・正命(正しい生活)・正精進(正しい努力、勤め)・正念(正しい信念
・気づかい)・正定(正しい精神統一)の八正をいう。


 木造聖観音菩薩立像

   江東区指定有形文化財(彫刻)
   
木造聖観音菩薩立像 一躯             平成12年3月27日指定
   聖観音菩薩立像は龍眼寺の本尊です。像高は104cmで、一木から頭・体を木取りした
   後、干割れを防ぐためにそれぞれを前後に割り、内側をくり抜いて再び接合した割矧造り
   です。頭部は耳後ろで前後の材を矧ぎ合わせ、胴体に差し込まれています。
   本像は東武に宝髻を結い、左手は臂を曲げて胸前で蓮華をとり、右手は軽く臂を曲げて下
   げ、蓮華座上に腰をひねって立っています。像容は顔がまるく穏やかな表情がうかがえ、
   着衣は浅い彫りのなだらかな起伏によって表現されており、ゆったりとしています。
   本像は江東区にとっては数少ない平安時代末期から鎌倉時代初期の作と考えられ、大変貴
   重です。
   平成14年3月                         江東区教育委員会

 不動堂
 不動明王を祀る。

 布袋堂
 亀戸七福神の布袋尊を祀っている。石像もある。

   亀戸七福神
   七福神唯一の実在の人・中国唐時代
   
布袋尊
   清廉度量・家庭・交際 圓満 吉凶を司る
   弥勒菩薩のの化身といわれる多くの信仰を集めている。


   
江東みちしるべ
   
龍眼寺 (布袋尊)
   由来
   龍眼寺は天台宗で、慈雲山無量院と号し、創建は応永二年(1395)と伝えられます。
   当寺は萩寺の名で知られ、江戸時代の地誌『江戸名所図絵』には、萩を愛でる人々で賑わ
   う様子が描かれています。
   また、境内の万治二年(1659)造立の庚申塔は、区内で確認されているもののうち最
   古のものです。亀戸七福神のひとつ(布袋尊)として親しまれています。

 地蔵堂
 子護八起地蔵尊(ねごやおきじぞうそん)を安置。

 三猿庚申塔
 庚申信仰の庚申塔が、区内に29基あるそうだ。その中で最古の庚申塔が境内にある。
門を入り左
に進んで庫裏の手前、右手の植栽の中だ。高さ103cmで、安山岩製。正面上部に、それぞれ眼・
口・耳を塞いでいる3猿が浮き彫りされている。皆正面を向いており、立膝を揃えている。その下に
「萬治二
巳亥天」と年号が刻まれている。万治二年(1659)の造立だ。 正面下部の中心には「二
世安楽之所」とあり、その両側に「中村新右衛門 同女房」を始めとする9組の夫婦が仲間を作って、
二世(現世と来世)の平穏を願うために、この地ニ建てたのだろう。
 さて29基の内で破損の酷いものが6基あり、いずれも元禄(1688~)以前の古いものばかり、
これは江戸初期から庚申信仰が盛んだったことを物語っている。
 庚申信仰は、江戸時代元禄年間(17世紀後半)から盛んになった。庚申(かのえさる)の日の禁
忌を中心とする信仰で、平安時代に日本に伝わり、江戸時代に庶民の間に広まったといわれている。
庚申の日(年に6、7回)に、その信者が集まって、その夜は眠らずに雑談したり、食事をしたり、
また飲んで唄ったり踊ったりしたもので、信仰であるとともに、楽しいリクリエーションのばでもあっ
た。庚申塔は、この庚申講が石塔を造立したもの。多くは青面金剛の像と三猿が刻んである。三猿は
「見ざる・聞かざる・言わざる」の諺を3匹の猿が、目・耳・口を手で塞いでいる姿だ。三猿の彫刻
は東アジア各地に見られるところから、古い時代からあったと思われる。昭和55年が庚申の年、6
0年に一度の年だから、江戸時代だったら、盛大な庚申待が催されただろう。庚申講は近年まで江戸
川区篠崎に残っていたが東京では完全に消えてしまった。

                        藤村弥兵衛   同女房
   刻銘 【種子】 キリク          長谷河■右衛門 同女房
                        堀江仁右衛門  同女房
                        中村新右衛門  同女房
                 万治二己寅天 渡貫五郎右衛門 同女房
      【種子】 バン    奉造立庚申影像一基二世安楽之所
                 ■■月吉日  金子六兵衛   同女房
                 十二■    飯塚■左衛門  同女房
                        瀧■兵衛    同女房
      【種子】〈ヴァン〉         大沢四郎兵衛  同女房
                        濱野五左衛門  同女房
                            ※■は判読不明

   江東区指定有形民俗文化財

   
庚申塔 万治二年在銘                 平成19年3月26日指定
   庚申塔は庚申信仰という民間信仰に基づいて建てられたものです。庚申信仰とは、人の体
   内には三尸という虫が棲んでおり、60日ごとにめぐってくる庚申の夜、人々が眠っている
   間に体から抜け出して天に昇り、天帝にその人の扉を訴えるので寿命を縮めるといわれ、
   この夜は眠らず過ごし健康と長寿を願うというものです。
   本庚申塔は万治二年(1659)の銘をもち、庚申塔の中でも比較的早い段階に属し、区
   内では最古のものです。正面上部に三つの種子が刻まれ、その下に三猿(見ざる・言わざ
   る・聞かざる)が並んでいます。銘文は三猿の下にあり、姓を持つ10組の夫婦が現世と
   来世の二世安楽を願って奉納したことが分かります。
   龍眼寺は、江戸時代の中ごろに沢山の萩が植えられたことから萩寺の名で親しまれ、萩の
   季節には多くの人々で賑いました。この辺りは江戸時代には柳島村に含まれ、庚申塔が建
   てられた万治二年は、柳島村の成立した所期にあたります。代々柳島村の村役人をつとめ
   た大沢八郎右衛門と同じ姓を持つ人名が刻銘に見られることから、奉納者は柳島村の草分
   け的な存在であったと考えられます。また、女性が加わっていることもこの時期の庚申塔
   としては珍しく、大きな特徴といえます。
   平成20年3月                         江東区教育委員会


 門柱の壁の歌句
 右正面

   月見とも見えず露あり庭の萩 榎本其角
   ききしより見え目ぞまさるこの寺の 庭に散りしく萩の錦は 大納言家長卿

 左正面

   
濡れてゆく人もおかしや雨の萩 松尾芭蕉

 最古の芭蕉句碑
 江戸時代から萩の名所として有名な龍眼寺に現存するこの句碑は、明和五年(1768)其日庵三
世溝口素丸が建立したもの。高さ130cmの方角柱の碑。都内には芭蕉句碑が37基ほどあるが、
その中で最も古い。芭蕉は、元禄二年(1689)3月「奥の細道」の旅に出発したが、この句は、
小松に滞在中の7月26日観水亭での句会で吟じたものだ。芭蕉が龍眼寺に来て吟じた句ではないが、
同寺が萩の名所であることから、素丸が芭蕉の代表的な萩の句碑をここに建立したってえ訳さ。この
句は、奥の細道の旅行中の元禄二年(1689)7月26日加賀小松に滞在中の7月26日観水亭で
の句会で吟じたもので、この寺へきて詠んだ句ではない。この寺が萩寺と呼ばれる萩の名所故に、素
丸が芭蕉の代表的な萩の句を選んでここに建立したものだ。
 素丸は、葛飾に住んだ山口素堂を祖とする葛飾派の俳人で、寛政七年(1795)83歳で没した。
因みに小林一茶も葛飾派で学んだ1人だよ。

   
ぬれて行 人もおかしや 雨の萩

 また入口の門塀には、同じ句が大きな石に刻み込まれている。これは蕉門十哲の1人宝井其角の門
流である老鼠堂永機の筆跡を刻したもの。

 供養碑(句碑)
 境内にある。

   ゆきし子は永劫老いず楠若葉 一亭

   昭和48年6月4日 大沢欽治 建立

 
落合直文の歌碑
 国文学者・歌人として知られる。萩をこよなく愛し、雅号を「萩之舎」と称し、しばしば萩寺に来
遊した。直文は明治36年暮43歳で没し、青山墓地に葬られた。大正12年秋、門弟たちがこの寺
に歌碑を建てた。昭和20年アメリカ軍の無差別空爆により破損したが、戦後再建された。

   
萩寺の萩面白しつゆの身のおくつきところこことさだめむ

 直文は、文久元年(1861)宮城県に生まれ、東大卒業後、早稲田専門学校などの教師を経、明
治22~23年ごろから訳詩や国語国文の改善を尽くし、日本文学史辞典など数多くの著書を残して
いる。また短歌運動を続け、明治26年歌壇「朝香社」を結集し、多くの歌人を輩出した。直文は、
国文学の古典的教養のため、短歌のうえに充分新鮮味を出せなかったが、与謝野鉄幹、金子薫園、尾
上柴舟らの新しい流れの素地を作った。これにより一般に直文以前の歌人を旧派、以後を新派に分け、
直文自身を新旧折衷派と呼んでいる。

 
春明法眼之碑
 境内にある。


   河野春明ハ幕末ノ刀装金工界ニ活躍シ 古今未曽有ノ名工トシテ天下ニ知ラル 天明七年
   西暦1787年ニ生レ、16歳ニシテ柳川直春ノ門ニ学ビ春任ト名乗リ 文化年間ニ春明
   ト改メル 語ヲ韶 通称ヲ忠蔵ト言フ 文政年間ニ法橋ニ叙任ジ再ニ法眼ノ位ヲ許サレル
   号銘八十方翁ヲ好ンデ多用シ十方斉 十方空舎 月窓 三窓 風乎 対鷗 閑人ナレドモ
   用イルソノ作風ハ人物 風景 動植物ナド多種デ高彫ヲ得意トシ色絵 象嵌ヲ施シテ一風
   格ヲナス 春明ハ向島及ビ本所柳島ニ住シタガ 生涯ノ多クヲ遊歴ニ送リ 於北越 於伊
   香保 遊松島ナドト切銘シタ作品ガソノ足跡ヲ今ニトドメル
   春明ノ旅ハ贅沢三昧ヲ盡シタト伝エラレナガラ ソノ死後ハ一抹ノ哀愁ヲ誘ウ 過去帳ニ
   ヨレバ旅先越後新潟デ安政四年西暦1857年十二月二十六日71歳デ病死 火葬ニシテ
   遺骨ヲ運ビ。翌五年十月二十六日龍眼寺ノ惣墓葬ル 布施モ無ク穴銭マデ寺ガ立替タトア
   リ 以来秋メグリテ萩ノ花咲ク萩寺ニ春明霊ヲ慰メタ有志ノ例ヲ聞カズ
   春明没120年忌ニアタリ 本来無一物ヲ身ヲ以ッテ実践シタ名工ノ江戸ッ子気質ヲ偲ビ
   作品ヲ敬慕スル有志集イテ春明ノ積年ノ借銭ヲ代弁セントシテ ココニ春明法眼之碑ヲ建
   テ 永久ニ霊ヲ慰メントスルモノ也
   昭和53年10月26日                      小窪健一 謹撰

              建碑発起人
              小窪健一 荒井八郎 飯田一雄 長田義正 立浪日郎 朝倉万幸
              池田末松 井門美昭 河端照孝 笹野大行 佐藤次喜 斉藤光興
              進藤徹男 進藤久雄 高橋歳夫 福士繁雄 福田豊 益本千一郎
              若山泡沫 渡辺健一 全国美術刀剣青年会 鷲見憲司 杉江雄治

 融通念佛供養像
 境内にある角石柱。

   聞法結縁志施主現當二世安樂
   權大僧都阿闍梨法印元珍
   
融通念仏供養像
   信蓮社祈譽上人園慈和尚
   説法取持衆中現當二世安樂

   
日本六十余刕大小神祇


 
森総彦句碑
 境内にある。

   青梅や 小さき息を大切に 総彦

 石田波郷・石塚友二句碑
 境内にある。

   槇の空 秋押し移りゐたりけり 波郷
   たかむなの疾迅わが背 越す日かな 友二

 
千載庵仲成歌碑
 境内にある。

   聞しより来て見や□野の染付は いふもさらなり萩のにしき手 千載庵仲成

 
池月一陽子句碑
 境内にある。

   
遍照や 萩三百の刈株も 一陽子

 冬嶺・市町句碑
 境内にある。


   ひと色を千々の錦や萩見寺  冬嶺
   露の世にこぼさぬ露や萩の上 市町

 百寿句碑
 境内にある。説明板は「百寿句碑 春盛る□□□□□□□□花 百寿」となっている。有名な句だ
が □の部分は剥落していることを示している。

   
春盛る梅のうしろに蘒(はぎ)の花 百寿

 
羅舎一堂句碑

 境内にある。

   月や秋 あきや夜にして 十五日

 夢佛庵くに□句碑
 境内にある。夢佛庵は不明だが、「江戸名所図会」の撰文を書いている。

   
夏痩を驚く秋の寝覚哉 夢佛庵くに□

 龍眼寺の柳
 境内にある。


   
龍眼寺の柳
   應永二年(1396)開基良博大和尚が、此処亀戸柳島村に村人の依頼により「柳源寺」
   を建立、後に「龍眼寺」(時代不明)と改められた。又元珍大和尚・元禄六年(1693)
   萩を好み、全国より集め、「萩寺」と呼ばれ、文人墨客が集まり江戸の多く人々に親しま
   江戸名所絵図、江戸砂子等にも描かれている。

 ※文中の「江戸名所絵図」は「江戸名所圖繪」の誤記、また、「龍眼寺の柳」と銘打っているが、
柳の説明はない。

 
たぬきの夫婦
 墓地に向かうと池の辺にある石像。酒を酌み交わしているマンガチックな像。



■成田山
不動堂亀戸教会

 亀戸3丁目34番18号にある。路地の奥の普通の民家。看板がなかったら判らない。
 


■亀島小学校 廃校
 亀戸3丁目36番1号にあった区立校。第一亀戸小学校は、昭和51年度から児童数が1200名
を超え、校庭も狭く、学校運営が非常に困難となったため、同56年亀戸北部地域の発展に伴う児童
対策として、第一亀戸小学校と香取小学校から分校、鉄筋コンクリート造り4階建て校舎が都交通局
柳島営業所の都電車庫跡に建てられ、「東京都江東区立亀島小学校」として開校、351名10学級
でスタートした。7月記念式典。同57年校歌制定。

 校歌
「藤の香高き」 作詞・初代校長三浦一郎  作曲・東芸大大学院辻田幸徳
  1.藤の香高き亀戸に
    明るき校舎 陽に映える
    心も体も逞しく
    大きく育つ私たち
    明日の日本に飛び立とう
    学ぼう我等 亀島小
  2.梅の香匂う亀戸に
    文化の光が呼びかける
    みんな仲良く手を繋ぎ
    豊かに育つ私たち
    明日の世界に羽ばたこう
    進もう我等 亀島小


 平成6年校舎大改修。同12年開校20周年記念式典。同14年児童数減少のため、第一亀戸小学
校に吸収統合され閉校。
 


■亀島小学校記念公園
 亀戸3丁目36番1号の亀島小学校跡地の一部にある。

   亀島小学校記念公園
   昭和56年「江東区立亀島小学校」が地元の強い要望によりこの地に創立されました。以
   来21年を経過した平成14年、学童の減少により廃校となりました。
   小学校跡地の一部を公園として開園するにあたり、その名を後世に伝えるため、公園の名
   称を「亀島小学校記念公園」としました。

 亀島小学校記念碑
 園内の一隅にある。

   江東区立亀島小学校記念碑
   昭和58年4月江東区立亀島小学校は東京都交通局柳島営業所車庫の跡地に第一亀戸小学
   校・香取小学校から分離し創立された。以来21年間、976名の有能な人材を輩出する。
   平成14年4月第一亀戸小学校と統合し、その校歴を第一亀戸小学校に引き継ぐ。
                                   江東区教育委員会
   亀島小学校教育関係者
   初代校長      三浦一郎
   二代校長      山田雅夫
   三代校長      桐谷澄男
   四代校長      渡邊能幸
   五代校長      長須一紘
   初代教育振興会長  米山武良
   二代教育振興会長  橋本晃
   亀戸3丁目自治会長 佐藤和男
   三和町会長     小島十太郎
   宮元町会長     米山貞俊
   初代PTA会長   近久邦男
   二代PTA会長   安齋智
   三代PTA会長   高澤紀一
   四代PTA会長   林幾男
   五代PTA会長   川村豊
   六代PTA会長   浅和正朋
   七代PTA会長   福地憲一
   八代PTA会長   秋山昌夫


■江東天祖神社(砂原神明宮)

 亀戸3丁目38番35号にある。社伝によれば推古天皇の治世(593~628)創建で、その後
衰退していたのを応永十年(1403)に復興したと伝えられている。天正年間(1573~91)
に疫病が流行し、この時織田信長の使者が参向して流鏑馬を献じたところ、疫病は治まったといわれ
ている。何で信長なのかよく解らないが・・・ 今日では子供の健やかな成長を祈って、毎年9月1
6日に子供歩射が行われている。神像は聖徳太子の作だということだ。古くは「柳島総鎮守神明宮」
と称し
明治5年新政府により、柳島村社天祖神社と改称させられた。当時は神仏分離令が発布さ
れ、神明宮が伊勢神宮の分霊であるため
「天皇の先祖の神」を称える意味により、全国統一
の名称として『天祖神社』と呼ぶよう強制したものだ。境内に、「
亀戸七福神・福禄寿」、区
指定有形民俗文化財の力石、愛らしい「童」像・道祖神像、力石がある。
 
「新編武蔵風土記稿」に、

  (柳島村)神明社
  村の鎮守なり。龍眼寺持。これ龍眼寺開山良傳の告有て得る所にして、聖徳太子の作
  と云。能く疫病を除く験あるをもて疫病除神明と云。

 とある。

 
金庫造り(鉄筋コンクリート造り)社殿の第一号

 現社殿は大正10年に企画され、関東大震災を経て、昭和4年日本最初の防災建築にて竣工、
内部は総檜造りで外部鉄筋コンクリートの俗に「金庫造り」といわれ、当時は神社界に前例が
無い事から賞賛され、その後神田明神など日本中で同工法の神社建築が始まった。昭和20年
ならず者国家アメリカの非人道的無差別爆撃の戦火の中、東都において唯一祝融の災いを免れ、
何千人もの命を救ったとか。これまさに神徳なりと。

 「流鏑馬式」縁起について 
 当社の流鏑馬式は 天正のころ(1573~91)織田信長が全国の有名神社に流鏑馬式を
奉納し弓矢を献じたことに始まる。この風習は寛正の飢饉による疫病の大流行により 天皇や
武士が神仏にその加護を祈願したことにより国内に広まった。天正のころに偶々起きた疫病大
流行の時に 織田信長が使者を参向させ「砂原神明宮(天祖神社)に疫病退散祈願の流鏑馬式
を奉納する」
 とあり 社伝に「祈願旬日にして霊験顕る」とある。後にその事が恒例となり、現在に受け継
がれて来た。また古くは境内の馬場にて執行されたが 明治末期より騎馬の流鏑馬式が諸般の
事情により不可能となり 
今では子供の健やかな成長を祈って、毎年9月16日に子供歩射が行わ
れている。


 太郎稲荷神社
 天祖神社の境内にある。九州柳川の三柱神社の境内に鎮座する太郎稲荷大明神は、京都伏見稲荷の
分霊で五穀の神=倉稲魂の神と神の御使=霊狐を祀ってる。戸次道雪は太郎稲荷に篤い信仰を捧げ、
出陣に際しては援軍の御幣を奉じて連戦連勝の加護を受けた。関が原の敗退の時、筑後川の対岸で道
に迷った立花宗茂は、闇夜の幽光に先導されて浅瀬を渡り無事に帰着している。奥州棚倉に転封され
た宗茂の留守の間、父道雪の志を受け継ぎ、肥後腹赤村(はらかむら)で熱心に稲荷明神を守護神と
して信奉していた誾千代姫の夢枕に稲荷明神が現れ「宗茂守護のためしばらく姫の許を離れる」と告
げられたので、夫宗茂の帰国を確信した。そのお告げは実現され奥州棚倉藩藩主から20年振りの柳
川帰国が実現した。立花家では江戸の上屋敷(西町)と下屋敷(浅草田圃)にそれぞれ勧請して邸内
社として祀り、一般にも開放したので参詣する人で賑わったという。幕末上屋敷(東上野一丁目周辺)
にあったものを、江戸末期に天祖神社境内に移し現在に至っている。下屋敷のものは入谷に残ってい
る。大島稲荷神社も浅草の太郎稲荷を合祀したので太郎稲荷と呼ばれていると神社の弁。また小石川
植物園内に太郎稲荷、次郎稲荷がある。

 亀戸七福神・福禄寿
 境内にある。

   江東みちしるべ
   
天祖神社 (福禄寿)
   由来
   天祖神社は、社伝によれば推古天皇の治世(593~628)の創建で、その後、衰
   退していたのを応永十年(1403)に復興したと伝えられています。
   天正年間(1573~1591)に疫病が流行し、この時織田信長の使者が参向して
   流鏑馬を献じたところ、疫病は治まったと言われています。今日では子供の健やかな
   成長を祈って、毎年9月16日に子供歩射が行われています。
   亀戸七福神のひとつ(福禄寿)として親しまれています。

 
道祖神
 境内にある。  
 


■祐天堂

 亀戸3丁目39番8号先、北十間川に架かる境橋の南詰の際に建っている洪水被害者の供養塔。祐
天という僧侶がこの道を通った時、川に無数に浮かんでいた遺体を集めて懇ろに葬ったといわれてい
る。小祠に六字名号「南無阿弥陀仏」の石碑が安置されている。
 道標は祐天堂の隣にある。ここは中居堀の起点終点で、この堀沿い道を北上すれば、木下川村の浄
光寺に辿り着いた。今この地は荒川のど真ん中、木根川橋の真下辺りに位置する。荒川放水路の開鑿
のため立退きを強いられ、東京側に代替地を要求したが、明治政府は徳川幕府に庇護され繁盛してい
たことに難癖つけてそれを拒否した。現在は荒川の外東四つ木1丁目5番に落ち着いているが、信仰
心の薄れ、昔日の賑わいはない。

   祐天堂名號石之由來
   元禄年間 祐天上人、千葉方面に往来の途次、偶々河中に溺死者のあるを見て痛く憐み、
   懇に回向せられ
(以下判読ならず)
   昭和41年                             祐天寺保存会


   
六字名号供養塔 祐天堂由来
   昭和41年に設けられた当時の説明板等によりますと、その由来は、元禄年間に祐天上人
   が千葉方面に往来の途中、この付近の川の中や川岸に多くの水死者のあるのを見て、非常
   に心を痛め、その霊を懇に回向されました。
   その際に、これらの仏に戒名を与え祐天上人、自らが筆を取って石にその戒名を記された
   供養塔をここに残されました。
   後年、この供養塔を奉った祠が、この祐天堂であります。
   それ以来、この付近では水死者もなく、またこの付近の子供たちが水辺で遊んでいても溺
   れたためしが無かったと言い伝えられ、この付近に住む人々によって、水難除、安産、子
   供の守護の祠として崇め奉られ今日に至ります。(近年では、この祠に、交通安全祈願を
   なさる方も多いと聞きます。)
   また、毎年7月24日を由縁の日と定め、祐天上人の遺徳を仰ぎ精霊の供養を営む日と定
   められてまいりました。
                           亀戸3丁目宮元町会 祐天堂保存会

 木下川薬師道道標
 堂横にある。

   木下川やくしみち道標
   高さ71cmのこの道標は、ここ境橋から、木下川薬師堂(葛飾区東四ツ木1丁目)へ至
   る木下川薬師道(現在の仲居掘通り)を示すものです。
   刻銘は、正面   木下川
            
やくしみち
       右側面、  本石町
            寶暦十一年辛巳孟春
       左側面、  あつまもり
   あつまもりとは、吾妻権現社のことで境橋を渡った右手、北十間川沿いにありました。
   本石町は日本橋の町名で、この道標の建てられた寶暦十一年(1761)頃には、きっ
   と江戸町人の参詣が盛んだったことがうかがえます。
                          亀戸3丁目宮元町会 祐天堂保存会
 


■亀島公園

 亀戸3丁目39番16号にある区立公園。


■太平榎塚跡

 亀戸3丁目41番にあった。古墳のように小高く盛り上がった塚の上に建つ神明宮の神木だった。
『新編武蔵風土記稿』によると、昔神木の榎の大樹が枯れた時、天下泰平の文字の虫食いが生じたの
で、神明宮を「泰平神明」とも呼んだとある。

 入神明宮跡
 太平榎塚に祭られた伊勢神の祠 『江戸名所図会』には、往古この辺りは海上に浮かぶ小島であり、
海を往来する船の安全のために伊勢神宮の祭神を勧請し神明宮を建てたとある。創建には江東区内で
は最も古く、口伝によるとこの地が四辺海に囲まれていたころ、漁船がしばしば風浪の危難に会う毎
に、伊勢の大神を祈念すると災害を免れたという事で、太平榎塚に小祀を営み鎮祭されたという。江
戸名所図絵に描かれている。また船が多く停泊するところから「入明神宮」とも呼ばれた。この榎も
別名「網干榎」といわれ、これは漁師が網を掛けて干したことに因むとされている。明治40年この
辺りから弥生時代の魚網の錘(おもり)が出土し、現在香取神社が所蔵している。長さ4.3~6.5
cm、厚さ0.6~1cmで、直径は2.6~3.3cm。管状の土製の錘で、漁猟の網に使用したものと推
定されている。完成品5点、破損品1点が社宝として保存されている。なお入神明宮は明治入って天
祖神社と改称し、昭和62年までは41番にあったが、区画整理で立退きを迫られ、現在は香取神社
の末社として同境内に遷されている。

   江東区登録史跡
   
入神明宮跡
   入神明宮は、小高く盛り上がった塚の上に建てられた神社でした。由緒は、昔、このあた
   り一帯が海で、海上を往来する船の安全のために神明宮が祀られたといわれています。神
   木の榎は、枯れたときに「天下太平」の文字の虫喰いが生じたので太平榎と称し、また漁
   師が網を干したところから網干榎とも呼ばれました。
   江東区は、大部分が江戸時代以降の埋め立てで、古くは、亀戸のあたりに亀の形をした島
   があったと伝えられています。明治40年この辺りから中世初頭の漁網のおもり(土埵)
   が発見され、当時、すでに人々が暮らしていたことを物語っています。
   明治に入り、天祖神社と改称しながらも、永く当地に祀られていましたが、昭和62年に
   香取神社(亀戸3丁目)に合祀されました。
   平成2年3月20日                       江東区教育委員会
 


亀命山遍照院光明寺
 亀戸3丁目42番1号にある天台宗の寺。入って右手に地蔵堂、正面は鉄筋コンクリートの本堂、
本堂左は庫裏。本堂の裏は墓地。「新編武蔵風土記稿」に、

   天台宗江戸浅草寺末、亀命山遍照院ト号ス。
   弘治元年ノ起立ニテ開山慈宏。弥陀ヲ本尊トス。

 
とある。創建は弘治元年(1555)、古塔、石碑など多数。竿忠の墓がある。寺宝には、江東区
登録文化財の「溝口宣広奉納の石造燈籠(寛永寺旧蔵)」「寛永五年在銘の石造宝篋印塔」「木造阿
弥陀如来坐像」「木造十一面観音立像2二躯」「大正5年在銘の松植紀年之碑」「文久三年在銘の延
命地蔵尊碑」「市場通笑の碑」「歌川豊国(国貞)の墓」「「延宝四年在銘の庚申塔」「文化十年在
銘の水盤」がある。

 
地蔵堂
 山門を入った参道右手にある。

 
庚申塔
 地蔵堂の前にある。舟形光背型・三猿。右「延宝四丙辰年」(1676)「施主」・中央「奉造立
庚申供養一結成就二世安楽攸」・左「八月十日」「敬白」。


 3代歌川豊国初代国貞の墓
 光明寺墓地にある。江戸後期の浮世絵師。天明六年(1786)葛飾郡葛西領生まれ、本名角田庄
五郎、後に庄蔵、肖造と改め、初代歌川豊国の門人で初代国貞を名乗る。英一珪の門も叩き、画号は
数多く、国貞の他、一雄斎、五渡亭、月波楼、琴雷舎、香蝶楼、一陽斎、国貞舎豊国、北梅戸、富眺
山人、富眺庵、雛獅豊国、喜翁。美人画を得意とし役者絵から挿絵、春画まで製作量は浮世絵師随一
だ。初代豊国の弟子時代から画技の天分を発揮し、役者の似顔絵は師匠以上といわれ、美人画の分野
においても独自の境地を開拓した。文政八年(1825)師の死去後、2代目は兄弟子の豊重が継い
だが、五渡亭国貞の名で、浮世絵の第一人者と称され、北斎や広重は知らなくても国貞を知らぬ者は
ないといわれたものだ。本所五ツ目の渡し場付近(亀戸)に住み、渡船の株(権利)を持っていたの
で、五渡亭を名乗った。師の死後10年で2代目が死に、3代目豊国を継いだ。ところが国貞の名前
も既に大名跡となっていたので、初代国貞と3代目豊国は別人だと思ってる人も多い。国貞は2代目
豊国も名乗ったので一騒動あった。そのため豊重を〝本郷豊国〟、国貞は亀戸天神社前に住んでいた
ので〝亀戸豊国〟とも呼ばれた。狂歌に、

   歌川をうたがわしくも名乗り得て二世の豊国偽(二世)の豊国

 と詠われた。元治元年(1864)79歳の時黄泉の国に旅立ち、太田蜀山人が「五渡亭」と書い
て贈った筆跡が、墓石に彫られて残っている。
 四代目豊国は娘婿に継がせたが、この人は病気がちで画才がありながら三代目を越えることはでき
なかった。墓は養父と並んである。

 
竿忠の墓
 光明寺墓地にある初代中根忠吉の墓。竿忠の歴史は、江戸和竿の原点でもある「東作」に師事した
中根喜三郎の高祖父に当たる中根音吉が、安政2年墨田区本所「釣音」の屋号で開業したのに始まる。
その後音吉の子忠吉は「竿忠」の屋号を掲げ、2代仁三郎、3代音吉と続き、現在に至っている。中
根喜三郎は「釣音」を「竿忠」の原点と考え、自らを5世釣音4代目竿忠を名乗っている。本来一子
相伝である竿忠にあって、東京大空襲で両親そして兄二人を同時に喪い、失意の日々と戦後の復興の
中一念発起し、昭和26年、喜三郎は19歳で竿辰2代目に弟子入りし、内弟子として日々修練を積
みながら、同31年竿師「竹の子」の名で独立。同49年に州崎神社境内に「名人竿忠の碑」が再建
立されたのを機に、竿忠4代目を襲名。戦災で喪った3代目である父の仕事の精密さを超えるべく、
自ら最良の素材を求めて九州の竹林に分け入り、江戸和竿の機能美は勿論のこと初代より受け継がれ
ている粋な遊びの要素も取り入れた逸品を造り出している。
 


福聚山普門院善應寺

 亀戸3丁目43番にある新義真言宗智山派の寺。亀戸七福神の「毘沙門天」。参道の正面は鉄筋コ
ンクリートの本堂、右は庫裏。境内環境は、整い過ぎてもなく汚くもない中庸を弁えている。まさに
適当な風情が快い。本堂の周辺は墓地。入口に、伊藤左千夫、大島伯鶴の墓があるとある。大永年間
の創立。元和二年(1616)に足立から現在地に移転した時、誤って梵鐘を隅田川に沈めてしまっ
た。これが鐘ヶ淵の地名の由来になったと、出鱈目なことをいわれてる。鐘ヶ淵の水底に鐘はなく、
鐘を引き揚げたという話もない。「新編武蔵風土記稿」に、

   普門院
   新義真言宗青戸村宝持院末、福聚山善應寺と号す。
   慶安二年八月二十四日大猷院殿当院ヘ御立寄アリテ即日寺領五石ノ御朱印ヲ賜ハリツヒテ
   御小休ノ御殿ヲ建サセラレシカ其後絶テ御渡モアラス御殿モツヒニ取払ハセラレシナリ。
   宝暦三年十月二十九日惇信院殿此渡御遊猟ノツヒテ成ラセタマヒシヨリ再ヒ御膳所ニ定メ
   ラレテ御成門ヲ建置リ。
   本尊大日。開山長賢大永七年四月二日寂す。開基は千葉中務大輔自胤にて古は豊島郡橋場
   村にありしを、元和二年今の処に移さる。慶安二年八月二十四日大猷院殿当院へ御立寄あ
   りて即日寺領五石の御朱印を賜はり、つひて御小林の御門を建させられしか、其後絶て御
   渡もあらず、御殿もつひに取払はせられしなり。
   観音堂。今は大破に及びて再建ならざれば、観音は仮に本堂に置り。縁起に云当寺安置の
   聖観音は伝教大師の作にて、昔は下総国足立庄隅田川の邊にありしが、大永二年千葉中務
   大輔自胤の臣佐田善次郎盛光と云もの、讒者のために冤罪を蒙り、既に死刑に行れんとせ
   しとき、盛光兼て信ずる処なればかの観音に祈誓せしに、不思議や奇瑞の奇特ありて助命
   に逢しかば、夫より身代の観音と唱ふ。斯て盛光剃髪して観慧と号し、弥信心浅からず。
   自胤も深く是を感じて乃城内に一宇を建て、普門院と号し、彼の観音の安置すと云々。是
   に拠れば初は寺の本尊となせしと見ゆ。其後別に堂を建たる年代等は詳ならず。
   青龍権現社。
   鐘楼、享保二十年再鋳の鐘にて、銘に寺草創の大略を記す。相傳ふ古鐘は元和年、旧地よ
   り当所へ移りし時、船に載て隅田川を渡さんとて、中流にて誤り落せり。よりて取揚んと
   せしかど、いかなるゆへにや終に果さず、是今の鐘か淵是なりと。されど彼鐘か淵の事は
   一説に橋場長昌寺の鐘なりといへば、何れを正しとせんか姑く傳のままを記せり。
   慈眼水、来由詳ならず。清冷の井なり。


 とあり、亀戸七福神の説明板に、

   江東みちしるべ
   普門院 (毘沙門天)
   由来
   普門院は真言宗の名刹で、福聚山善應寺と号します。大永二年(1522)三股(隅田川
   ・荒川・綾瀬川が落ち合う辺り(現足立区千住)城中に創建され、元和二年(1616)
   に現在地に移りました。その時、過って梵鐘を隅田川に沈め、鐘ヶ淵(墨田区)の地名の
   由来になったといわれています。
   江戸時代の地誌「絵本江戸土産」には、将軍が鷹狩の際に立ち寄り腰を掛けた御腰掛の松
   が描かれています。
   亀戸七福神のひとつ(毘沙門天)として親しまれています。

 とある。寺宝に、江東区登録文化財の「寛永二年在銘の石造五輪塔」「天明八年在銘の石造宝篋印
塔」「古筆了意翁之碑」「明治9年在銘の徳本講碑」「応永二十八年在銘の燈籠(残欠)」「寛文八
年在銘の庚申塔」「寛文三年在銘の地蔵供養塔」「寛文三年在銘の地蔵逆修供養塔」「日本橋藤木店
喜八奉納の普門院札所碑」「元文四年在銘の水盤」

 
木食観正書になる弘法大師供養塔
 木食による光明真言講が建てた高さ2mほどの石の供養塔が境内を入った右側にがある。正面には、

   木食上人□正 印  南無大師遍照金剛

 と、観正の手跡による8文字が刻まれている。基礎部には「石一式寄進」とあり、「植木屋太兵衛」
他30名の奉納者名と、「文政十丁亥五月建」という建立の年月日が記されている。また背面には、
「文政十一子五月四日 誦岳□徳信士 俗名半七」とあり、これは講員だった半七の供養のために追
刻されたものだろう。
 木食観正は、宝暦四年(1754)に淡路で生まれ、江戸の周辺や小田原などで活発な宗教活動を
行った僧です。木食とは、穀類を断ち、木の実や草を食べて修行することで、比叡山の千日行のよう
なものだ。木食仏という仏像はよく知られているが、観正によるものも現在判っているだけで50体
ほどある。観正は、真言を唱え霊水を用いて病気を治すことで有名になり、文政二年(1819)湯
島で行った加持祈祷の利益は瓦版になるほどの評判だった。当時江戸ではコロリ病(コレラ)が大流
行し、さらに米価下落、物価高値という情勢下にあり、人々は情況の打破を期待し、より切実に現世
利益を望んだのかな。

 
蛯原萬吉・蛯原宗一郎の墓
 墓地にある。

 
松本魯山(大岡卜仙)の碑
 江戸時代中期、門弟1000人といわれた書家・歌人の碑が境内にある。自然石だが庭石じゃない。
碑は高さ1mの紀州石、表に、

   
時雨ぞら聞きしもあやな まきの戸をたたく落葉の音寒き夜ぞ

 の歌、裏に業績が刻まれている。魯山は亀戸の出身、通り名を半右衛門、諱を元房といい厳格な中
に温和な性格で、書、歌など多芸の才に恵まれ門弟から尊敬された。魯山は神官であり、医術も心得、
晩年大坂(大阪)に出て3年、名を大岡幸得、号を卜仙と改め、元文三年(1738)59歳で没し、
天王寺の鳳林寺に葬られた。大岡卜仙之墓として現存している。大坂に移ったのは妻が大坂大岡家の
出身だからだ。
 魯山の墓は当院にもあったが震災や戦災により滅失した。碑は没年の翌年元文四年(1739)に
弟子たちによって建立されたものだった。

 
伊藤左千夫の墓
 普門院の墓地にある。明治時代の歌人・小説家。元治元年(1864)千葉県に生まれ、長じて上
京し法律を志したが、眼を病み、治療のため一時帰国した。大正2年49歳の時亡くなった。いかに
も若い死だった。明治18年再上京、同22年本所茅場町で牧場を営み、同33年正岡子規に入門し、
師の没後は根岸短歌会の中心的な歌人として、『馬酔木』『アララキ』の誌上で活躍した。歌風は子
規の写実主義を強調したおおらかな万葉調で、写生文の小説にも優れ、代表作に『野菊の墓』がある。
同45年に大島6丁目に居を構え、門下からは島木赤彦・中村憲吉・斉藤茂吉・土屋文明などを輩出
した。墓石の文字は、書家で洋画家でもあった中村不折の手で「伊藤左千夫之墓」と刻まれている。

   伊藤左千夫墓
   左千夫は元治元年千葉県に生れ今の墨田区錦糸町駅附近で牛乳搾取業を営むかたわら歌道
   茶道をたしなみ、正岡子規の門人となりアララギ派の歌人として知られ小説歌論にも著作
   を残したが晩年は大島町六丁目に住し、大正2年7月30日50歳にて死去し普門院に葬
   られた
   昭和33年10月1日                           江東区

 伊藤左千夫の歌碑
 本堂前に木々に囲まれて立つ。

   
牛飼いが歌詠む時に世の中の新しき歌大いに起こる。 

 
大島伯鶴之墓
 墓地にある。明治~昭和期の講釈師。初代と2代がいてどちらの伯鶴か判らない。2代目の方が有
名で一龍斎貞山と覇を競った。

 横綱秀ノ山雷五郎の墓
 
普門院の墓地にある。9代目横綱。文化五年(1808)陸奥気仙沼生まれで、本名は菊田辰五郎。
14、5歳の時仙台に出て油屋の雇人となった。身体は大きい方ではないが、骨格が人一倍勝れて相
撲好きだった。江戸に出て力士になりたいことを主人に告げると、その熱意にほだされた主人は、知
人の江戸の力士秀ノ山に辰五郎を託した。秀ノ山は辰五郎に才能はないとみなし、チャンコ番、雑用、
娘の子守をさせていた。しかし辰五郎は不平もいわず、暇を見ては黙々と稽古に励み精進した。その
ため辰五郎はめきめきと頭角を現し、番付に名が載るようになり北ノ山を名乗った。積み重ねた努力
は技倆をますます上げ、立神雲右衛門と改名、天保十年(1839)関脇、同十二年遂に大関に昇り、
翌年岩見潟文右衛門と改名した。弘化二年(1862)正月9人目の横綱免許を得、師名をついで秀
ノ山雷五郎となった。この当時の横綱は階級ではなく、称号のようなもの。最高位は大関で、横綱も
大関に変わりなかった。嘉永三年(1850)に隠退し、年寄となった。文久二年(1862)55
歳で没し、普門院に葬られた。先代、先々代の秀ノ山伝治郎のほか、秀ノ山を襲名した力士の墓もあっ
たが、戦災で倒壊し、戦後墓地整理したときに総て魂を抜いて廃棄されてしまった。現在は昭和52
年に再建された9代目の墓石のみだ。

 勝田家の墓所
 
普門院の墓地にある。亀戸各町の名主を務めた家柄だ。弘化四年(1847)の『江戸町鑑』には、
勝田次郎助が、亀戸町・亀戸清水町・深川北松代町など8ヶ町の名主となっており、出自や来歴には
不明な点が多いが、近世初期には亀戸に土着した有力者だったようだ。墓域の右手奥にある勝田家墓
所には最近のものも含めて8基ある。その内宝篋印塔が3基、五輪塔が1基ある。また本堂正面にあ
る左右の植込みに宝篋印塔が2基、五輪塔が1基あるのは、もともとは勝田家の墓所にあったものと
考えられている。合計11基のうち最も古いものは元和七年(1621)銘の宝篋印塔だ。以下元和
九年(1623)、寛永二年(1625)、寛永十年(1633)、寛永十一年(1634)の順に
なっている。こうした古い石塔がまとまって存在しているのは区内でも珍しく、また近世初期の石塔
形式の一例としても貴重だ。
 


梅屋敷伏見稲荷神社

 亀戸3丁目51番3号、路地の奥にある小祠。
 


臥龍梅跡
(がりょうばいあと)
 亀戸3丁目51番10号の新和自動車の浅草通り側の歩道に標柱がある。

   
臥龍梅跡

 傍に臥龍梅とは似ても似つかわしくない細い梅の木が植えてある。説明板は以下の通り。

   江東区登録史跡
   
梅屋敷                     亀戸3‐40 50~53番付近
   
梅屋敷は、江戸時代から続く梅の名所でした。元は本所埋堀(墨田区)の商人、伊勢屋彦
   右衛門の別荘で清香庵としていましたが、庭内に梅が多く植えられていたところから「梅
   屋敷」と呼ばれるようになりました。なかでも「臥龍梅」と名付けられた一株が有名で、
   これはまるで龍が大地に横たわっているように見えるところから、水戸光圀が命名したと
   伝えられています。また、8代将軍徳川吉宗も鷹狩の帰りにこの地を訪れました。江戸近
   郊の行楽地として、花の季節にはたくさんの人々で賑わい、その様子は『江戸名所図会』
   『絵本江戸土産』(歌川広重)などの地誌にもとりあげられています。広重はこの梅屋敷
   だけで十数種の版画を描き、特に「名所江戸百景」の中の太い梅の古木を手前にあしらっ
   た錦絵は傑作のひとつにあげられます。明治43年大雨により隅田川沿岸はほとんど水に
   浸り、亀戸・大島・砂村のほぼ全域が浸水しました。この洪水により、梅屋敷のすべての
   梅樹が枯れ、廃園となりました。ここに残る石標柱は、江東区創立10周年を記念して、
   昭和33年に建てられたものです。
   平成21年3月                         江東区教育委員会
  


医王山
龍光寺

 亀戸3丁目56番14号にある真言宗智山派の寺。「新編武蔵風土記稿」に、

   龍光寺
   新義真言宗寺嶋村蓮花寺末、薬王山ト号ス。
   本尊薬師ハ恵心ノ作ト云。
   開山元栄、年ヲ伝ヘス。
   弘治二年起立ト云。古ハ江戸横山町ニアリシヲ後ココニ移レリ。


 とある。寺宝に、江東区登録文化財の「寛永五年在銘の石造宝篋印塔」「寛永十四年在銘の石造五
輪塔」「明和七年在銘の厄除弘法大師標柱」がある。

   江東みちしるべ
   深川七福神 
毘沙門天
   由来
   龍光院は浄土宗で、もとは雲光院の塔頭のひとつでした。慶長十六年(1611)馬喰町
   (中央区)に創建されました。明暦三年(1657)の大火で全焼したため岩井町(同区)
   へ移転しさらに、天和二年(1682)再び焼失し、同天和二年(1682)現在地へ移
   りました。
   深川七福神のひとつ(毘沙門天)として親しまれています。
 


■梅屋敷

 亀戸3丁目56番の辺りにあった。浅草埋堀の商人伊勢屋彦右衛門の別荘。家宅を「清香庵」と称
えていた。庭木に梅ノ木が多かったことから「梅屋敷」と呼ばれるようになり、子孫の喜右衛門の代
に300株を超えた。中でも「臥龍梅(がりょうばい)」と名づけられた一株が有名で、まさに龍が
横たわってるように見えたところから、水戸光圀が命名したという。龍・竜は「りょう」と読むのが
正しく、「りゅう」と読むようになったのは明治以後の傾向。幕末一の英雄坂本龍馬は「りょうま」
であって「りゅうま」ではない。
 享保九年(1724)8代将軍吉宗も梅見に訪れて、臥龍梅の枝が地に着いて根を生じ、再び若木
となり、万世まで枯れ果てることはないということで「代継梅」と命名した。そのお蔭で、江戸近郊
の行楽地として賑わい、『江戸名所図会』などの地誌に取り上げられ、ますます江戸一円の人々に膾
炙した。歌川広重は、ここだけで十数種の絵を描き、『名所江戸百景』の中の太い梅の古木をあしらっ
た錦絵「亀戸梅屋舗」は傑作の一つ。ゴッホが模写したことで知られている。ではそれほどの梅園が
何故なくなってしまったのか? 洪水だ。明治43年墨堤の決壊で亀戸はもとより大島・砂村辺りま
で浸水し、翌年もまた洪水となり、結果梅ノ木は根腐れして全滅、閉園せざるを得なくなった。
 今は亀戸3丁目51番10号の新和自動車の浅草通り側の歩道に標柱と説明板が建ててある。
 


■亀の島跡

 亀戸3丁目57番の辺りは陸地化した当時、凸凹の状態で、亀が居るかのような状態だったので亀
の島と呼ばれた。また湧水だったのか、人工の井戸だったのか判らないが、水源があったことから、
亀の島の井戸の意から、「亀ヶ井」「亀井戸」から「亀戸」の地名が生まれた。
 亀有も、元は「亀なし」で、「亀成す土地」からその名が起きたが、「亀なし」は「亀無し」に通
じて縁起が悪いので「亀有」としたという。亀有の西の地名は「砂原」だ。


■亀戸香取神社
 亀戸3丁目57番22号、JR亀戸駅から明治通りを北に800mほど上がった左手にある。祭神
は経津主神(ふつぬしのかみ)。相殿は武甕槌神(たけみかづちのかみ)・大己貴神(おおなむちの
かみ) 。経津主神は、千早振る神代の昔畏くも皇祖の神勅を奉じ、鹿島大神(かしまのおおみかみ)
と共に豊葦原瑞穂国(とよあしわらのみずほのくに=日本)の統一に手柄を立てた威霊優れた国家鎮
護の神として尊崇される武神。しかも香取の宮が、神武天皇の御代に東国下総に鎮座したことは非常
に意義のあることで、日本国の守護を固めたことになり、さらに農業にも深い関係があり、国土開発
に多大の功績のあった産業の祖神でもある。そのため大和朝廷においても殊に崇敬篤く、中臣氏(後
の藤原氏は香取・鹿島両宮を氏神として忠誠を捧げ崇敬を尽くしたってぇ訳だ。藤原氏の氏神である
春日大社は鹿島大神を勧請したもので、同社の鹿は鹿島から移送したものだ。その移送途中に死んだ
鹿を生めたことから江戸川区鹿骨の地名はある。
 さて亀戸社(亀戸の香取神社)の創設は、天智天皇四年(665)、藤原鎌足が鹿島に帰郷する途
次、この亀の島に船を寄せ、香取大神を勧請して太刀一振を納め、旅の安泰を祈り神徳を仰いだのが
創立の起因だと伝わっている。天慶の昔平将門が乱を起した時、追討使俵藤太藤原秀郷がこの社に参
籠し戦勝を祈願して戦いに臨んだところ、目出度く乱を平らげ得たので神恩感謝の奉賽として弓矢を
奉納し、「勝矢」と命名した。現在でもこの古事により「勝矢祭」が5月5日に執り行われている。
以来益々土民の崇敬が篤く郷土の守護神というばかりでなく、神徳が四方に及んだので、「葛飾神社
香取太神宮」と称えるに至った。当時の葛飾は江戸川以西の下総国の大半を意味したから、葛飾の総
社となったということ。
 元禄十年(1697)の検地の節に改めて社寺の下附があり、徳川家の社寺帳にも載せられ古都古
跡12社の中にも数えられている。亀戸で最も氏子が多い神社で、実は亀戸天神よりも多いのだ。
 香取大神は、剣豪塚原卜伝や千葉周作を始めとする武道家たちの篤い崇敬を受けており、今でもス
ポーツ振興の神として、スポーツの試合での勝利を願う参拝者が多く訪れる。
 『東京亀戸香取神社誌』によると、香取神社境内には、古くから楠を植栽したため、ついに楠の大
樹が10数株にも及んだ。中でも老樟4株は明治28年ごろまで鬱蒼と生い茂っていたが、急激な都
市化と水害によって枯幹を残すのみとなった。特に亀の島初代楠と称する老樹は、初代神職香取正基
が、植樹したものと伝えられ、次の歌を残している。

   万代の亀の島根は動きなき此の岩楠の立ち栄えつつ

 「新編武蔵風土記稿」亀戸村の項に、

   香取社
   当村の鎮守なり。祭神は経津主神なり。右に健御雷神、左に大杉大明神を合せ祀れり。由
   緒に云。当社は天智天皇四年乙丑大職冠鎌足東国下向の時勧請し、太刀一腰を納め朱雀院
   御宇俵藤太秀郷、将門追討の時参籠して弓矢を納めし事あり。其後大永三年当社を再興し、
   又応安四年修造云々とみえたり。此事他の所見なければ信ずべきものにはあらされど、寺
   社帳に応安四年鎮座の由載たれば古社なることは論なかるべし。享保の頃当社へ常州阿波
   郡大杉明神飛来せりとて、其頃参詣群集せりと云。
   末社子守稲荷金比羅。
   旅所、北十間川の北側にあり、僅の除地なり。
   神主香取中務。吉田家の配下なり、旧家なれど家系等も傳へず。
   神明社
   往古大樹の榎神木たりしが、此木枯たりしとき天下泰平の文字を虫食しより、泰平神明と
   尊称すと云。香取中務(香取社)持


 とある。

   香取神社
   御祭神 経津主神  相殿に武甕槌神・大己貴神
   香取神社の御祭神経津主神は千早振る神代の昔天照大神のご命令により、鹿島大神と共に
   豊葦原瑞穂国(日本の国)の平定に手柄を立てられた威霊優れた国家鎮護の神として仰が
   れる我国武将の祖神であります。然も御本宮が神武天皇の御代に東国下総に鎮座されまし
   たことは非常に意義あることで、日本国の守護を固めた事になり、更に農業に深い関係が
   あり、国土開発に多大の功績のあった産業の祖神でもあります。
   故に大和朝廷におかれても殊に崇敬が篤く、中臣氏(後の藤原氏)は香取・鹿島両宮を氏
   神として忠誠を捧げ崇敬を尽されたのであります。
   当社の創立は天智天皇四年(665)、藤原鎌足公が東国下向の際、この亀の島に船を寄
   せられ、香取大神を勧請され太刀一振を納め、旅の単体を祈り神徳を仰ぎ奉りましたのが
   創立の起因であります。
   天慶の昔、平将門が乱を起した時、追討使俵藤太秀郷が当社に参籠し戦勝を祈願して戦い
   に臨んだところ、目出度く乱を平げたので神恩感謝の奉賽として弓矢を奉納、勝矢と命名
   されました。現在でもこの故事により勝矢祭が5月5日(武者行列)に執り行われておりま
   す。以来益々土民の崇敬が篤く郷土の守護神というばかりでなく、御神徳が四方に及びま
   したので、葛飾神社香取太神宮と称え奉るに至りました。
   元禄十年検地の節は改めて社寺の下附があり、徳川家の社寺帳にも載せられ古都古跡十二
   社の中にも数えられております。


 社宝に、江東区登録文化財の「明治28年在銘の石造燈籠」「寛政六年在銘の石造燈籠」「歌川広
重筆紙本淡彩道祖神祭図」「木造八幡神像」寛政七年在銘の石造狛犬一対」「重定作銅鏡」「余廣作
銅製柄鏡」「神輿2基」「土錘6個」「棟札4枚」「文政7年在銘の亀戸惣鎮守葛飾神社号標石」
「文化2年在銘の狛犬(残欠)」

 社殿
 建武年間(1334~37)に香取伊賀守矢作連正基(かとりいがのかみやはぎのむらじまさもと)
が始めて当社に奉仕し、当社初代神職となり、応安四年(1372)社殿再建、降って大永三年(1
524)修造を営み、後寛永三年(1627)四月八日改築に着手、同年九月二十四日竣工、文政年
間(1818~29)拝殿造営、明治5年11月16日村社に定められる。昭和20年3月9日第二
次世界大戦に愚かなアメリカ軍の非人道的無差別空爆によりて本殿炎上焼失。同23年8月社殿再建。
さらに昭和63年10月19日現在の社殿が建立された。摂社(神社と縁故のある小社)・末子(神
社とは無縁だが土地の事情で境内に遷座させられた小社)は以下の通り。

 
天祖神社
 末社
 御祭神:天照大御神(あまてらすおおみかみ 伊勢神宮内宮) 例祭日:9月15日。由緒は、昭和
63年香取神社改築に伴い移転され、境内神社として祀られるようになった。当神社の創立には江東
区内では最も古く口伝によるとこの地が四辺海に囲まれていた頃、漁船がしばしば風浪の危難に会う
毎に、伊勢の大神を祈念すると災害を免れたという事で、太平榎塚に小祀を営み鎮祭されたという。
「江戸名所図絵」に描かれている神明宮は当社のことだ。
 尚、明治40年、当時の境内から多量の錘(石器)が出土し、考古学的にも有益な資料とみること
ができる。現在香取神社で保存している。

 稲足神社 末社
 祭神:面足神(おもだるのかみ)・惶根神(かしこねのかみ) 、相殿に 金山毘古神 (かなやまひ
このかみ) ・宇賀御魂神(うがのみたまのかみ)。例祭日は9月15日。由緒は寛文九年(1670)
創立。明治以前は普門院の主管だったが、明治新政府の愚策神仏分離で明治元年に香取神社の奉仕と
変わる。同35年香取神社の隣接地に所在していたが境内に移転。琴平神社は宝暦年間香取12代神
職香取正幸の鎮祭する処で、稲足神社は元渡辺稲荷神社と称え明治12年に合祀。神徳は産業発展・
家運隆昌。

   稲足神社
   一、御祭神  面足神・惶根神・相殿に金山毘古神・宇賀御魂神
   一、例祭日  九月十五日
   一、御由緒  寛文九年(1670)創立
   明治以前は普門院の主管であったが、明治元年香取神社神職の奉仕となる。明治35年香
   取神社隣接地に所在していたが境内に移転。
   琴平神社は宝暦年間香取12代神職香取政幸の鎮祭する処で稲荷神社は元渡辺稲荷神社と
   称え、明治12年当社に合祀。
   一、御神徳  供に産業発展・家運隆昌の御神徳あらたかである。


 福神社(亀戸七福神) 摂社
 祭神は事代主神(ことしろぬしのかみ=恵毘寿神・大国主神(おおくにぬしのかみ=大黒神)。例
祭日は10月15日。由緒:元々御本社の相殿に奉仕されていた大国主神と併せて明治年間に至り、
亀戸七福神の内の恵比寿神・大国神として境内に鎮祭した。当時の社殿、石燈篭は小山富蔵の寄進造
営。神徳:富徳円満・商売繁昌の守護神。

   福神社
   一、御祭神  事代主神(恵比寿神)
          大国主神(大国主神)
   一、例祭日  10月15日
   一、御由緒
   元々御本社の相殿に奉賽されていた大國主神と併せて明治年間に至り七福神の内の恵比須
   大国神として境内に鎮祭した。
   事代主神は大國主神の御子神である。正月ともなると亀戸七福神の内恵比須大国様として
   多くの参詣を得ている。
   一、御神徳  富徳円満・商売繁昌の守護神として御神徳あらたかである。

 水神社 摂社
 
祭神は水波能女神(みずはのめのかみ)。例祭日は6月10日。由緒は天明六年(1787)香取
神社13神職香取正武がその年の洪水を記念し、災害防止、氏子住民の安体を祈願して石祀をもって
建設した。江戸名所図絵にも見える。

   水神社
   一、御祭神  水波能女神
   一、例祭日  6月15日
   一、御由緒

   天明六年(1787)香取神社13代神職香取正武がその年の洪水を記念し災害防止氏子
   住民の安体を祈願し石祠をもって建設した。江戸名所絵図にもみえる。

 
熊野神社
 末社
 祭神は家津御子大神(けつみこのおおかみ)ほか天神地祇十三柱。例祭日は8月10日。由緒は、
熊野神社の末社。総本社は「蟻の熊野詣で」の諺通り、貴賎老若男女を問わず全国津々浦々から善男
善女が集り、信仰絶大にして盛況を極めた。当社は元は梅屋敷隣の北の方に位置し、「熊野入り」と
称して亀戸村の水利を司っていた。大正13北十間川が拡張されるのに伴い、香取神社の境内に遷座
鎮祭した。

   熊野神社
   一、御祭神  家津御子大神ほか天神地祇十三社
   一、例祭日  8月10日
   一、御由緒
   熊野の神の総本社で曾ては「蟻の熊野詣で」の諺通り貴賎老男女をとわず全国から参詣者
   があつまり信仰絶大にして盛況を極めた。
   当社は元梅屋敷隣りの北の方に位し、熊野入りと称して亀戸村の水利を司どっていた。
   大正13年北十間川通りが拡張されるに伴い香取神社の境内に移転鎮祭した。


 三峯神社 末社
 
祭神は国常立命(くにとこだち)・伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉冉尊(いざなみのみこと)
・日本武尊(やまとたけるのみこと)。例祭日は1月19日。由緒は、享保年間(1716~35)
の創立。有名な亀戸梅屋敷園主安藤喜右衛門が園内にお祀していたのを明治の末年に遷した。火防・
盗難除けの霊験新たかで、梅屋敷講を受継いだ亀戸三峯講の多くの崇敬者も増え、近年本社参拝も盛
んだとか。

   三峯神社
   一、御祭神  國常立命・伊弉諾尊・伊弉冊尊・日本武尊
   一、例祭日  1月19日
   一、御由緒
   享保年間(1716~1735)の創立。有名な亀戸梅屋敷園主 安藤喜右衛門が園内に
   お祀りしていたのを明治の末当、香取神社に移した。
   火防・盗難除の御利益あらたかで梅屋敷講を受継いだ亀戸三峯講の多くの崇敬者もふえ近
   年本社参詣も盛んである。

 亀が井
 平成15年4月に亀戸の地名の由来を残そうと再興した井戸。黒丸石の碑がある。

   亀が井の由来
   亀戸を代表するか執り神社は、壱千参百有余年の歴史を誇り、古くは藤原鎌足公を初め多
   くの武将や土着の人々の篤い崇敬を受け郷土の守護神として今日に至っております。
   この度、亀井殿地名の起りとされている亀が井戸を再興し、併せて恵比寿様・大国様の石
   像を祀り、この井戸の聖水を掛けながら参詣する人々が御神徳を戴き明るく健康で楽しい
   生活が出来ますようにと願い、氏子・崇敬者を初め多くの皆様方のご協賛により建立いた
   しました。
   平成15年4月吉日                    香取神社宮司 香取邦彦


 
亀戸大根の碑
 亀戸大根の栽培発祥を記念して平成11年に境内に建てられました。地元の名産として、亀戸大根
を広く周知し、亀戸の伝統と歴史を別の側面から認識して貰おうと活動が行っている。練馬の愛染院
に「練馬大根の碑」がある。「大蔵大根の碑」はない。

   亀戸大根之碑
   このあたりで大根づくりが始まったのは、記録によると文久年間(1861~1864)
   の頃とされ、当香取神社周辺が栽培の中心地で、明治時代にかけて盛んに栽培されてきま
   した。当地は荒川水系によってできた肥沃な粘土質土壌であったため、肉質が緻密で白く
   冴えて肌の大根づくりに大変適していました。
   亀戸大根は、根が30cm程度の短い大根で、先がクサビ状にとがっているのが特長。
   明治の頃は「おかめ大根」とか「お多福大根」といわれましたが、大正初期になって産地
   の名をつけて「亀戸大根」と呼ばれるようになりました。しかし宅地化が進んだ大正時代
   の終り頃から産地は江戸川区小岩や葛飾区高砂などに移っていきました。
   秋から冬にかけてタネをまいて早春に収穫となる亀戸大根は、当時は他に大根などの全く
   ない時期で、新鮮な野菜の出始めの頃なので根も葉も共に浅漬けにして美味しいことから、
   江戸っ子から大いに重宝がられました。
   平成9年度JA東京グループ 農業共同組合法施行50周年記念事業

   THE AGRICULTURE OF EDO & TOKYO
      
Kameido Daikon
   Cultivation of Daikon (Japanise radish) in this destrict dates back to the ye
   ars 1861-1864.With its center around the area of this shrine,it had been abunda
   ntly grown toward 1900s.The fertile clay soil formed by the Arakawa River
   was just fit for its production.
   Sown in fall to winter,the Kameido Daikon was harvested and shipped in early
   spring when th supply of fresh vegetables became scarce.Root and leaves were al
   l eaten as fresh tasty pickles and relished by all the Edoites.


 
植木市発祥の地
 ここの植木市は著名で、日本で最初に行われたものだそうだ。

 
木遣音頭碑
 境内にある。戦後間もない頃、当時の宮司が書いたもの。木遣とは、材木や石材など重い物を運ぶ
作業のことであり、その際に掛け声をかけて音頭をとりながら歌った鳶職の作業唄が木遣音頭だ。木
遣唄は、江戸の火消し文化を伝える江戸消防記念会による「江戸の鳶木遣」が都の無形文化財に指定
されている。何故、火消しが鳶職の作業唄を伝えているのかというと、曽ての江戸の町火消しの多く
が鳶職だったから。

   
木遣音頭碑

 
神官香取家の墓
 境内にある。建武年間(1334)に香取伊賀守矢作連正基が初めて奉仕して神職になったという。
墓地は社務所の左手前で玉垣に囲まれている。墓域内には16の石造物があるのだが、墓石と確認で
きるものは10基だ。年号は最も古いものが寛永十年、新しいものは享和三年(1803)のものを
見ることができる。また昭和6年に亀戸竜光寺にあった同家の墓を改装したことを示す合葬墳塋(がっ
そうふんけい)も同域内にあり、この碑の近くにある墓は竜光寺から移されたものだ。

 
天祖神社(入神明宮)
 御祭神:天照大御神(伊勢神宮御内宮)例祭日:9月15日。御由緒:香取神社改築に伴い移転さ
れ、境内神社として祀られるようになった。当神社の創立には江東区内では最も古く口伝によると、
この地が四辺海に囲まれていた頃、漁船がしばしば風浪の危難に会う毎に伊勢の大神を祈念すると災
害を免れたということで、太平榎塚(3丁目41番)に小祀(入神明宮)を営み鎮祭されたという。
江戸名所図絵に描かれている神明宮はこの社だ。なお明治40年大平榎塚から多量の錘(石器)が出
土し、考古学的にも有益な資料とみることができる。現在香取神社にて保存。

   天祖神社(入神明宮)
   一、御祭神  天照大御神(伊勢神宮の御宮内)
   一、例祭日  9月15日
   一、御由緒
   昭和63年の香取神社改築に伴い移転され境内神社として祀られるようになった。
当神社
   の創立は江東宮内では最も古く口伝によるとこの地が四辺海に囲まれていた頃漁船がしば
   しば風浪の危難に会う毎に伊勢の大神を祈念すると災害を免かれたという事で太平榎塚に
   小祠を営み鎮祭されたという。江戸名所図絵に書かれている神明宮は当社である。
   尚、境内から多量の硾が出土(明治40年)し、考古学的にも有益な資料とみることがで
   きる。現在香取神社にて保管。
  


 弥生式土錘
 管状の土製のおもりで、漁猟の網に使用したものと推定されている。完成品5点、破損品1点が社
宝として保存されている。
 長さ4.3~6.5cm、厚さ0.6~1cmで、直径は2.6~3.3cm。
 この土錘は、亀戸3丁目41番にあった入神明宮から出土したもので、入神明宮のあった場所は「江
戸名所図絵」によれば、

   相伝ふ、上古この地は一つの小島にして、その繞りは海面なりしと

 と記載されており、亀戸は小島だったことが判る。このことは「先史時代(あるいは原始時代)の
下町」(「鳥居龍蔵全集」第二巻所収)に、

   これは、貝塚の土を持ってきたように思われる。この中に無数の網の錘や、ハニベ土器
   の破片等が混じて居る


 と記載されている。

 
亀戸七福神 恵比寿・大黒天
 参道正面右奥にある。水をかけて一年の無事と健康を祈る。

 奉納刀七振 江東区有形民族文化財
 香取神社に代々伝えられてきた奉納刀。本社である千葉県の香取神宮、茨城県の鹿島神宮と並び、
武士の神として信仰を集めていたことにより奉納されたものだ。銘文のある刀の内「陸奥會津住道長」
は、寛文・延宝期(1661~80)に活躍した刀工三善道長の可能性がある。拵えは然程ではない
が貴重な作例だ。また「備州住兼光」銘の短刀は、有名な備前長船派の名刀工兼光を模したものと推
定されている。

 紙本淡彩道祖神祭図 江東区有形文化財(絵画)
 安藤広重筆。道祖神祭の人物や宝船を墨で描き、朱、青等で淡彩を施している。画面右側から宝船
が進み、それを担ぐ人物とその周りで囃す子供たちが描かれ、画面右上に「年中行事亀戸道祖神祭」
と題があり、右下には「廣重」の署名と落款がある。宝船の旗には「寶船亀戸村氏子」と描かれてい
る。安藤広重肉筆の貴重な作例で、晩年の作と推定される。

   江東区指定有形文化財
   
紙本淡彩道祖神祭図 歌川広重筆 一幅
   道祖神祭図は、本紙を掛軸に表装したものです。本紙は縦33.6cm、横40.6cm。
   表装は縦158cm、横47cmです。
   香取神社の道祖神祭は、毎年正月14日、氏子の子供たちが宝船をかつぎ、亀戸から両国
   の辺りまで練り歩いたもので、享保のころから始まり、明治初期まで続きました。その光
   景は『江戸名所図会』の挿し絵に載せられ、『東都歳時記』にも記載されています。本図
   は人物や宝船を墨で描き、朱、青で淡彩を施しています。作者は浮世絵師歌川広重で、嘉
   永五年(1852)以降、広重の円熟期に描かれた作品とみられます。
   本図は、江戸時代の香取神社の古い行事の様子をよく伝え、作者が著名な広重であること、
   また戦災を免れて区内に伝えられたことなどから、貴重な作品といえます。
   平成9年9月                          江東区教育委員会


 
道祖神祭の宝船
 亀戸の香取神社では、江戸時代享保のころから毎年1月14日に疫病を除く「道祖神祭」が行われ
てきた。その祭の時に使われた宝船2隻が保存されている。 宝船は長さ135cm×117cm×
38cmの木造の小型船だ。その帆柱には「寶」と大きく書かれた旗が掲げてある。江戸時代の道祖
神祭は、五色の幣を掲げ、松や竹で飾った宝船を2人の子供が担ぎ、声高らかに、

   千艘や万艘、御船が参った。銭でも米でもどんと一杯おっつめろ。才の神を祝う。

 と亀戸から両国まで練り歩いた。その日集まった大勢の子供たちは、夜更けまで遊んだようだ。こ
の行事は、子供たちが病気に罹らぬよう、健康であることを願ったものだ。道祖神祭の起こりは古く、
昔は1月14日または15日に子供を中心として、全国的に行われていた。平安時代は、朝廷に於い
て、都の入口で道祖神祭を行い、疫病や邪神が都にはいることを阻止するための行事だった。これが
庶民に伝わって正月の行事になった。

 木遣音頭の碑
 戦後間もない頃、当時の宮司さんが書いたもののようだ。木遣とは材木や石材など重い物を運ぶ作
業のことであり、その際に掛け声をかけて音頭をとりながら歌った鳶職の作業唄が木遣音頭。木遣り
と言えば、江戸の火消し文化を伝える江戸消防記念会による「江戸の鳶木遣」が都の無形文化財に指
定されている。なぜ火消しが鳶職の作業唄を伝えているのかというと、かつての江戸の町火消しの多
くは、鳶職だった、今もそうだが。

 
勝石
 鎮座1350年記念事業として平成28年7月5日、スポーツの神様・勝負の神様の新しい名所と
して設置。勝石を触ることで、勝負事や病気などにパワーが授かるとの思し召し。もし勝てなかった
ら、それは努力と勝つ意思が足りないのだ。
 神社の創立は665年。藤原鎌足が東国下向の際に香取大神を勧請し、太刀一振りを納めて旅の安
泰と御神徳を仰いだのがその起こりだ。また、白雉四年(939)には、平将門の乱を平定した藤原
秀郷が戦勝の礼に弓矢を奉納したことから、「スポーツ振興の神」として知られる。
 この日の除幕式には、スポーツ界からの出席者として、アテネオリンピック体操団体で金メダルを
獲得した塚原直也を始め、地元江東区出身のパラカヌー選手瀬立モニカ(リオデジャネイロパラリン
ピック代表)と諏訪正晃が招かれ、除幕の紐を引いた。
 「勝石」は重さ約4.5t。台座を含めた高さは約1.1m。幅は最大で約2.5h。藤原鎌足の故事
に基づいて、太刀一振りを冠したデザインが施されている。触るとご利益があるとのことで、除幕式
の後、出席者たちも願いを込めてこの「勝石」に触った。
 


■亀戸三丁目公園

 亀戸3丁目59番8号にある区立公園。


坂本商店

 亀戸3丁目60番17号亀戸勝運商店街(亀戸香取神社表参道)にある八百屋。建物がレトロでい
い。ジャニーズV6(20th Century)のリーダー坂本昌行の実家でもある。


稲荷社

 亀戸3丁目60番18号にある小祠。
 


亀戸水神

 亀戸4丁目11番18号、亀戸水神道と六阿弥陀道の追分にある。亀戸天神と間違えんなよ。天神
さんは菅原道真を祀る学問の神様。水神さんは水害を防いでくれる水の神様だよ。創建は古く、各種
の文献を総合すると室町幕府12代将軍足利義晴の治世の頃(1521~1546)と推定される。
土民が水害から免れん為の祈願として大和国吉野の丹生川上神社から勧請したもので、祭神は弥都波
能売神(ミズハノメノカミ)という水を司る女神だ。罔象女神とも表記する)。付近には鈴木姓、田
中姓の方が多くいるが、何れも土着の古い農家の流れをくむ人々であり、亀戸の中でも特に歴史を有
する地区でもある。昭和20年3月の大空襲の際に甚大な被害に遭ったが、昭和35年6月に再建さ
れ、現在は毎年6月第一日曜日に例祭を斎行している。

   亀戸水神宮の由来
   日本國水神さまと言はれているお社は、恐らく数百社の多さに達するであろう。
   この神は普通一口に水神さまと呼ばれている。「そのほんとうの神名を知っている人は少
   ないと思う。この神は「ミズハノメ神」であって、古事記には「弥津波能売神」と書き、
   日本書紀には「岡象女神」と書かれていて、伊装那岐伊那美ニ神の御子神を畏れて天照大
   神の御姉神に当らせられる。父母の神は、我大八洲國を造り給うた國土経営の神であって
   あらゆる神徳を備えられているが、この中特に「水」に関する一切の御神徳と受けて居ら
   れるのが、この水神即ち、「ミズハノメ神」である。
   この水神宮は前記の御祭神を奉祀し、新田開墾の初め土民が堤上に水神を勧請して水害を
   逸れん為祈願したものであり、その創立は享禄年間(約440年前)であると思われる。
   昭和53年6月                          亀戸水神奉賛会


 由緒は、

   創建は古く、各種の文献を総合すると室町幕府十二代将軍足利義晴治世の頃(1512~
   46)と推定されます。土民が水害から免れん為の祈願として大和国吉野の丹生川上神社
   から勧請したもので、祭神は弥都波能売神(みずはのめのかみ)という水を司る女神です。
   (罔象女神とも表記します)付近には鈴木姓、田中姓の方が多くいらっしゃいますが、何
   れも土着の古い農家の流れをくむ方達であり、亀戸の中でも特に歴史を有する地区でもあ
   ります。昭和20年3月の大空襲の際に甚大な被害に遭いましたが、同35年6月に再建
   され、現在は毎年6月第一日曜日に例祭を斎行しています。
   近辺には水神小学校や水神駅、また水神通りなどがあり地域の皆さんに親しまれています


 とある。

 
水神森由来碑
 鳥居前左にある江東区登録文化財。昭和13年建立。

   
亀戸 水神森

 
神苑再建記念碑
 社殿左にある。

 水神森若人の歌碑
 社殿左にある。


   水神森若人の歌碑  作詞 田中■■■
  1.水神森の若者は
    御名を尊び頂いて
    明るく清く誠心で
    家業に励み誇あり
  2.水神さまの神徳は
    あまねく今も照すなり
    我等若人 皆共に
    心豊かに希望あり
  3.水神宮の信仰者は
    老も若きも幼きも
    神の御加護につつまれて
    永久にかがやき栄あれ
 


■小祠 ◇

 亀戸4丁目11番27号の路地の奥にある。


■亀戸四丁目児童遊園

 亀戸4丁目16番9号にある区立公園。


鏡智山宝蔵院
浄心寺

 亀戸4丁目17番11号にある日蓮宗の寺。入口の左に六地蔵。右は鉄筋コンクリート造りの庫裏、
さらに寺務所。そしてその並びに本堂。本堂の裏は墓地。「新編武蔵風土記稿」に、

   浄心寺
   浄土宗江戸浅草清光寺末、清涼山寶蔵院ト号ス。
   本尊三尊弥陀。
   開山鑑蓮社吟誉至山不通、元和元年起立、寛永五年七月二十六日寂ス。


 とある。寺宝に、江東区登録文化財の「念仏講在銘の地蔵供養塔」がある。

 亀戸事件犠牲者之碑
 亀戸では、地震後に出火した2ヶ所は消し止められ、本所に隣接した一部の区域が延焼しただけで
大部分は被災を免れた。亀戸は焼失区域に隣接した位置にあり、本所・深川両区からの避難者が殺到
した。

   
亀戸事件犠牲者之碑

 碑裏


   大正12年9月1日関東一帯を襲った大震災の混乱に乗して天皇制警察国家権力は特高警
   察の手によって被災者救護に献身していた南葛飾の革命的労働者9名を逮捕、亀戸署に監
   禁し戒厳司令部直轄軍隊に命じて虐殺した。惨殺の日時場所ならびに遺骸の所在は今なお
   不明である。労働者の勝利を確信しつつ権力の蛮行に斃れた表記革命戦士が心血をそそい
   で解放の旗をひるがえしたこの地に建碑して犠牲者の南葛魂を永遠に記念する。
   昭和45年9月4日                  亀戸虐殺事件建碑実行委員会

 台座に

   
犠牲者氏名年令
   川合義虎 22 加藤高春 27 北島吉蔵 20 近藤慶造 20 佐藤欣司 22
   鈴木直一 24 平澤計七 34 山岸実司 20 吉村光治 24

   
犠牲者之碑誌
   この犠牲者之碑を建立して23年の歳月を経た。この間研究の努力によって、中筋宇八 
   24も亀戸事件の犠牲者であることが立証された。当実行委員会は事件70周年記念事業
   のひとつとして、このことを確認し、碑にとどめる。なお、碑の改修にあたり、碑文等一
   部を書き改めたことを付記する。
   平成5年9月5日                    亀戸事件追悼会実行委員会


 平成9年刊の『江東区史』の中巻に、

    火の手が南の大島町へ移って、安全地帯とみえると、二日午前一時ころから、避難者が
   続々と押し寄せ、亀戸天神社・天祖神社などの境内はもとより市街地といわず田園といわ
   ず充満して雑踏を極めたという。亀戸警察署管内へ一日に避難してきたもの約一二万人、
   これに町自体の被災者を加えれば、最高三〇万人近くにも上がったとみられている。九月
   二〇日現在、民家に寄寓中の避難者は、なお約七万八千余名に及んでいる。


 このような混乱した状況下で亀戸事件が発生した。
 亀戸事件は、平沢計七など労働運動家9名が警察によって逮捕監禁され、警察から協力の要請を受
けた兵士によって殺害された事件だ。

   警視庁は事件を厳秘に付し、一〇月一〇日午後三時に至ってはじめて公表した。遺族、南
   葛労働会、総同盟は当局を糾弾し、自由法曹団は真相追及と司法権発動を要求した。しか
   し当時、事件は戒厳令下の行為として軍隊の責任は不問に付され、真相究明には至らなかっ
   た(同じ『江東区史』中巻)


水陸両用バス「スカイダック」
 亀戸4丁目18番8号の亀戸梅屋敷営業所から出発し帰着する観光バス。日の丸自動車興業(文京
区)が、平成25年3月17日から定期運行(東京初)を開始した水陸両用バス「スカイダック」。
ボディはアメリカ・サウスカロライナのCAMI社製で、日本の法律に適合した陸用・水上用のエン
ジンが別々に搭載されている。陸上(車両)用のエンジンは日野自動車製JO7E(6403cc)
水上(船舶)用はいすゞマリン製造製UM4BG1TCX(4329cc)だ。JO7Eは、直列5気
筒ターボインタークーラーで路線バスなどへの採用実績もあるエンジン。定員41名(乗務員含む)、
総トン数12tで、最大速力は陸上が100km/h、水上が7kt(13km/h)となる。全長・
全幅・全高は、11.99m・2.49m・3.71m。これは、いすゞ『エルガ』や日野『ブルーリボ
ン』などの大型路線バスと同等のサイズ。登坂能力は、平均6度、最大12度。今後、同車は、江東
区大島の旧中川・川の駅に新設された入出水スロープを伝って水陸の境界を行き来する。
 東京スカイツリーコースと亀戸コースの2路線があるが、途中下車はない。東京スカイツリーコー
スは、とうきょうスカイツリー駅前営業所→旧中川スプラッシュポイント→同営業所)は、1日4便
所要時間100分、料金大人2800円(子ども1400円)。18日からの亀戸コース(亀戸梅屋
敷→旧中川スプラッシュポイント→亀戸梅屋敷)は、1日5便、所要時間70分、料金大人2500
円(子ども1200円)。
 


■亀戸四丁目ふれあい公園

 亀戸4丁目21番16号にある区立公園。


■亀戸不動
明王山東覚寺
 
 亀戸4丁目24番1号にある真言宗智山派の寺。享禄四年(1531)玄覚法印の創建。本尊は不
動明王、また亀戸七福神の弁財天が安置されている。掲示板に「自分ほどわからぬものはない」と書
いてあった。なるほどそうだよね。手前のことは判ってるようで解っちゃねえや。参道の左が墓地、
右は弁財天堂と庫裏。境内は綺麗に玉石が敷き詰められ整っている。「新編武蔵風土記稿」に、

   東覚寺
   新義真言宗寺嶋村蓮花寺末、明王山と号す。
   本尊三尊弥陀を安す。
   開山玄学、享禄四年の起立云傳ふ。
   不動堂、不動は良弁の作。霊験ありしとて正五九の月二十八日開扉し近郷のもの参詣多し

 とあり、境内の説明板に、

   東覚寺 (弁財天)
   由来
   東覚寺は享禄四年(1531)玄覚法印の創建と伝えられている。明治34年覚王寺を合
   併しました。覚王寺は江東区猿江2‐15付近にあり、御府内八十八ヶ所霊場第73番札
   所で、それを示す碑が東覚寺に残されています。
   当時の不動明王は、東大寺別当良弁の作で、大山寺(神奈川県)本尊と同木同作といわれ
   江戸時代より亀戸不動として信仰をあつめてきました。
   また亀戸七福神の1つ(弁財天)として親しまれています。


 とある。寺宝に、江東区登録文化財の「金森頼時奉納石造燈籠(寛永寺蔵)」「天保十年在銘の石
造五輪塔」「元禄十三年在銘の石造五輪塔」「弘法大師千五十年忌石造宝篋印塔」があり、その他に
「厨子入木造不動三尊像」「明治32年在銘の是心軒一露居士碑」「不動明王標柱」「覚王寺札所碑」
「庚申塔」「観音逆修供養塔」「寛文九年在銘の観音供養塔」がある。

 
亀戸七福神の弁財天

 
不動明王
 東大寺別当良弁(689~773)の作。江戸時代より亀戸不動として信仰され、相模国大山阿夫
利神社・大山寺の本尊の不動尊と同木で造られたものと伝えられ、沢山の参詣者があった。

 
不動明王標柱
 門前に建つ。正面に

   大山同木■作 不動明王

 と刻まれている。
の剥離部分は「同」で、ここの不動尊像が大山寺の不動尊像と同じ木で造られ
たと表示している。でもな大山寺の本尊は鉄造で鎌倉時代の作なんだ。木造のは、どっかに打っ棄っ
たのかな。標柱には「右へ一丁」とも刻まれ、1丁左のところに建ってたのかも? 背面には、天保
十一年(1840)の建立年と世話人横山太兵衛以下11人の名前が刻まれている。高さ150cm
にも及ぶこの大きな安山岩製の標柱を建てるには、大層な費用がかかったろう。不動明王を信仰する
有力旦那衆が、金を出し合ってこの標柱を建立し、散財功徳という社会事業をすることで、己や家族
の現世・来世の幸せを願ったのだ。現代の私利私欲の守銭奴どもが、己のためだけにしか金を使えな
い浅ましさとは違うものが封建時代の人々にはあった。小泉純一郎がポケットマネーで道路を直した
とか、安倍晋三が社会事業に私財を投じたという話を聞いたか?
 


■香取小学校
(大正10年10月15日開校記念日)

 亀戸4丁目26番22号にある区立校。大正10年10月15日学童の激増により、第一亀戸、第
二亀戸の2校では全児童を収容するのは不可能となったため、亀戸町で3番目の小学校が設立される
ことになった。翌11年現在地に新校舎を建て「南葛飾郡香取尋常高等小学校」として開校。校名は
明治通りを挟んで隣接する香取神社に因むこととした。校地1500坪、建坪430坪木造2階建て
で、開校時の児童数は1375名だった。同日校歌制定。

 校歌
「春墨堤の花の色」 作詞・初代校長田渕巌  作曲・不詳
  1.春墨堤の花の色
    秋水神の花の影
    亀戸天神 天祖の社
    名所広き我が故郷
  2.み山は高し富士筑波
    清き流れの利根筑波
    理想の高嶺仰ぎつつ
    思えば清し我が母校
  3.いざいざ我等千五百
    向上進取弛みなく
    香取の宮の名を負いて
    努めに励めよ 我が友よ


 同13年尋常夜学校併置。同15年浅間尋常高等学校の新設により高等科を移し、「香取尋常小学
校」となる。同6年尋常夜学校廃止。昭和7年南葛飾郡を廃し東京市編入により城東区成立、「東京
市香取尋常小学校」と改称。同16年国民学校令により「東京市香取国民学校」と改称。この年生徒
数はピークに達し1821名となる。紀元2600年の建国記念日を記念して新校歌制定。

 校歌
「城東亀戸」 作詞・加藤義清  作曲・杉山長谷夫
  1.城東亀戸は工場地
    御国を富ます工場地
    時を守りて技につく
    我等遅れじ学び舎に
    学ばんいざや 国のため
  2.神の香取の香(かぐわ)しき
    名をば頂く学び舎に
    積むや尊き教え草
    我等香取の学び舎に
    学ばんいざや 国のため
  3.神は喜びみますらむ
    我等子供の勤しむを
    倦まず弛まず勤しむを
    神は嬉しと思(おぼ)すらむ
    学ばんいざや 国のため

 同18年都制施行により「東京都香取国民学校」と改称。同19年8月愚かなアメリカ軍の無差別
空爆が熾烈となったため、高学年学童は山形県堀田村高湯温泉に学童集団疎開。同20年3月愚かな
アメリカ軍の非人道的市街地無差別空爆により、校舎焼失。焼け残った浅間国民学校に移転し間借り
授業。8月日本は、ならず者国家アメリカの軍門に降り敗戦、以後その属国となる。 同21年3月
疎開解除により学童集団帰校。同22年学制改革により「東京都江東区立香取小学校」と改称。第一
亀戸小学校に移転。同23年新校舎落成し全生徒帰校。同30年校歌制定。

 校歌
「都の東」 作詞・栗原幸三  作曲・不詳
  1.都の東 江東の
    香取の森に育まれ
    羽ばたく小鳥朗らかに
    希望を歌う朝な夕
  2.藤の香匂う天神の
    平和の光 身に受けて
    明るい日本に育ち行く
    希望を歌う高らかに
  3.港都の空に架け渡す
    虹は七色一筋に
    学ぶ豊かな世界の文化
    希望を歌う香取校


 不思議なのは、現在歌っている校歌が、昭和32年頃に制定されたという。どういう経緯があるの
か。校歌を4つも持つ学校は世界広しと雖もこの学校だけだ。

 校歌
「霞む空にも」 作詞・勝承夫  作曲・平井康三郎
  1.霞む空にも大らかな
    希望が籠もる大東京の
    我等は町の子伸び行く力
    何時も仲良く天神の
    藤は花咲く 手を繋ぐ
    意気も揃うよ 香取の我等
  2.負けじ魂 幾たびの
    試練に耐えた尊い町に
    我等は育つ子 日本の力
    自主の精神 受け継いで
    清く明るく元気よく
    上げる校風 香取の我等


 同33年生徒数は戦後のピーク1641名32学級の大規模校となった。同37年創立40周年記
念式典・体育館落成式。同38年プール完成。同39年学校給食優良校として文部大臣賞受賞。同4
4年~46年鉄筋コンクリート造り校舎23教室完成。同47年開校50周年記念式典・昭和19年
度第23回卒業式。同49年4教室増築。同56年亀島小学校の新設に伴い宮元町会の児童を移籍。
平成2年体育館改築落成。同14年創立80周年記念式典。教職員のパソコン能力が低いためHPは
稚拙だ。
 


■香取公園

 亀戸4丁目27番6号にある区立公園。


東林山華蔵院宝蓮寺

 亀戸4丁目35番12号にある新義真言宗智山派の寺。嘉元元年(1303)に法印俊鑁が創立し
た伝えている。江戸時代には吾嬬森神社の別当寺だった。と参道から門を入ると右に鉄筋コンクリー
ト2階建ての庫裏。左に曲がって本堂、その左は墓所だ。「新編武蔵風土記稿」に、

   寶蓮寺
   新義真言宗寺嶋村蓮花寺末、東林山華蔵院ト号ス。
   本尊虚空蔵長四寸五分行基ノ作作ト云。
   嘉元元年ノ起立ニシテ開山ヲ真鍐ト云。中興證如延享元年十一月七日寂ス。当寺モ(竜光
   寺と同様)古ハ江戸横山町ニアリシト云。

 とある。寺宝に、江東区登録文化財の「文化元年在銘の石造宝篋印塔」「木造不動三尊像」「木造
虚空蔵菩薩坐像」「歌川国輝の墓」「元禄十一年在銘の観音供養塔」「延宝六年在銘の観音供養塔」
「阿弥陀供養塔」「宝篋印塔」

 
本尊木造虚空蔵菩薩坐像
 区有形文化財。高さは26cm余り木造で、江戸時代末期の作品。古像を模したもので、作者は不
明だが、元の像は(寺伝によれば)鎌倉時代末頃の安阿弥の作といわれる。「江戸3虚空蔵」の一つ
として有名で、人々の信仰を集めた。特に丑年と寅年生まれの守り本尊として多くの参詣者が訪れた
といわれている。3虚空蔵は、宝蓮寺のほか、品川の養願寺、白山の西福寺だった。このことは『江
戸砂子』『葛西誌』などに記載されている。
 虚空蔵菩薩は、智恵と福徳を限りなく収蔵し、人に智恵と福徳を授ける菩薩といわれる。この菩薩
を信仰すると、求聞持法が授かるとされてきた。これは一度聞いたことは忘れないで記憶するという
ことだ。一般には福徳が授かる菩薩として信仰されてきた。

 歌川国輝の墓
 宝蓮寺の墓地にある。初代国輝は幕末の浮世絵師。本姓は岡田氏で、通り名は藤四郎だった。生年
は不明だが、明治7年に45歳で没したといわれるので、天保元年(1830)ごろに生まれたのだ
ろう。出身地も不明だ。『日本画家辞典』によれば、五渡亭国貞(3代豊国)の門に入り、初め一雄
斎貞重と号し、後国輝と改め、明治7年12月15日に没したとある。過去帳にも、戒名日付に続い
て山田、絵師国輝とある。山田は別筆だが、現在の墓石の左側面に「山田家先祖代々之墓」、右側面
には「絵師国輝(山田姓)一陽斎国輝」と刻まれている。一陽斎は誤刻か? 一雄斎か、二代目の一
曜斎か。また本当は国輝が山田氏か岡田氏かも判らない。墓の正面には「萩小田家之墓」とあり、建
立者の萩小田氏の先代が山田姓であったため、萩小田家が山田家の墓を引き継いだという。

 
弘法大師像
 境内にある行脚姿の銅像。昭和59年宮﨑政光の作品。

 正木ひろしの墓
 あの有名な弁護士の墓だ。

   正木ひろし墓碑
   弁護士正木ひろし(旲)は、明治29年9月29日東京・本所で義湨(よしきよ)の二男
   として生まれる。大正12年東京大学法学部を卒業。中学の英語、美術の教師、雑誌記者
   を経て弁護士を開業。反権力、正義の弁護士として多くの冤罪事件を手がけ、日本のペリ
   ーメイスンといわれた。主な事件は、チャタレー裁判、菅生、首なし、丸正事件などで、
   八海事件は「真昼の暗黒」の題名で映画化された。
   また戦時中は月刊誌「近きより」を個人で発行して反戦、反軍国主義の論陣をはり、多く
   の著書も残した。熱烈な無教会派のキリスト徒で、美術を愛し画家になることが「生来」
   の夢だった。昭和50年没79歳。当寺は正木家の菩提寺。墓碑の「正木ひろし」は直筆
   で、墓石は岩手県の橋本八百二画伯から寄贈された紅石である。
   正木ひろし先生没後20周年記念事業の一環として、ここに建立する。
   平成7年1月                       施主 広島市 朝川広男
                                   和光市 菊地清孝
                                   同   菊地文代
 


■亀戸石井神社
 亀戸4丁目37番13号にある小社。

 墨田区のキムタクさんからブログが紹介されました。「mmpoloの日記」の「亀戸石井神社は
すごく古い神社だ」 http://d.hatena.ne.jp/mmpolo/20130412 に詳細な記事が・・・ 
 それによると、神社縁起が貼紙されているという。

   当社は祭神、級長彦命(シナツヒコノミコト)、凡象女命(ミツハノメノミコト)、津長
   井命(ツナガイノミコト)をまつり、9月28日を例祭としている。俗に「おしゃもじ稲荷」
   とよび、咳の病をなおす神として信仰され、神社からおしゃもじ(飯杓子)1本をかりて
   きて、自宅でこれを神体として拝み、病が治ればお礼に新しい飯杓子1本を添えて、もと
   の飯杓子とともに2本を神社に返す。当社は石器時代の石棒を神体としたが、いまでも石
   棒を神体とする神祠は各所に存在する。例えば、
    練馬区石神井四丁目 石神井神社
    葛飾区立石八丁目44  熊野神社
    豊島区西巣鴨四丁目8 正法院の石神
    板橋区仲宿28     文殊院の石神
   などがある。
   鳥居竜蔵博士は、亀戸に石棒をまつる神社のあったことは、他の例からみて亀戸が石器時
   代から存在していたと延べている。
    元禄の頃出版した「江戸鹿子」を見ると、亀戸に石神社(いまの石井神社)と云うの
    があって、同書は高台にある石棒を祭ってある同神社と共に記して居ります。(中略)
    亀戸石棒に対して面白いのは、吾妻の森から北の方、中川に接した立石村に熊野神社
    があって、此処に石棒を祭っていることです。私は此の立石の石棒も亀戸の石棒と共
    に、すでに其の時代から其処にあったものと思われます。(鳥居竜蔵書「武蔵野及其
    周囲」)。
   飯杓子を奉納する神社は、石棒を神体とすることが普通であるが、これは石棒を祭る神社
   を石神(しゃくじん)とよび、「しゃくじん」が「しゃくし」となり、飯杓子を奉納する
   ことになった。また石神を「せきしん」とよぶこともあって、「せき」が咳の病と同音で
   あるから咳の神にもなった。当社は、昭和20の戦災で社殿を焼失し、いまは小祠となっ
   ている。当社の飯杓子奉納のことは、文政三年(1820)刊行の、大石千引著「野万舎
   随筆」に、
    咳神(せきがみ)、葛飾の亀戸村に、オシャモジという神の祠有り、神前に杓子を夥
    しくつめり、依って其故よしを土人に問けるに、咳病を煩う人、此神に願たてぬれば、
    さはやぐ事すみやかなり。此故に報賽に杓子を奉納するといへり。
   と述べ、その由来の古いことがわかる。

 神社由来碑
 境内にある。


   当社は嵯峨天皇の御代弘仁二年(811)九月弘法大師により発硯せられたつ社にして、
   級長彦命・津長井命・岡象女命の三柱を奉齊し亀井戸卿、中図子の鎮守社にして毎年9月
   28日を以て例祭日となし当日、薩摩竿数拾俵町内住民より献じ、後これを参拝者及び里
   童に授け與う。別名おしゃもじ様の芋祭りと称す。熱病除、百日咳除けにおしゃもじを拝
   受して特殊霊験顕著なりしは数多き崇敬者ありし事で知るべし
   昭和40年4月                   石井神社宮司 椎名春美 記之
 


■亀戸四丁目公園

 亀戸4丁目43番8号、47番2号に跨ってある区立公園。


■水神公園

 亀戸4丁目45番6号にある区立公園。


六阿弥陀六番札所西帰山常光寺
 亀戸4丁目48番3号にある曹洞宗の寺。「新編武蔵風土記稿」に、

   常光寺
   禅宗曹洞派豊島郡橋場村総泉寺末、西蹄山ト号ス。本尊弥陀行基ノ作ニシテ長六寸許。 
   脇立ニ観音勢至ヲ安ス。コレハ六阿弥陀第六番目ニシテ春秋彼岸ハ殊に参詣ノモノ多シ。
   縁起アレト世ノ知ル所ニシテ外ニ事宝カハラサレハ笿ス当寺ハ行基草創ノ地ナリト云伝ヘ
   又中興ヲ勝庵最和尚ト云 天文十三年七月十五日寂ス。
   観音堂、準堤観音ヲ安セリ。
   衆寮。
   鐘楼、鐘ハ正徳4年鋳造ナリ。
   山門、棲上ニ十六羅漢ヲ安シ下ニ仁王ヲ置リ。
   来迎松、中古堂宇回録ノトキ本尊コノ松ニ飛移リシト云。
   龍燈松、昔龍燈カカリシト云伝フ。


 とある。亀戸七福神の寿老人を安置する。延宝七年(1679)の建立。左墓所、正面は鉄筋コン
クリート造り現代風デザインの本堂、右はこれまた鉄筋コンクリート造りの庫裏だ。外観は特に取り
立てて評論することもないありふれた寺。

   すわっては拝みてのない六阿弥陀
   誰がため練れるか後家の六阿弥陀
   足る事を知らず蛸だに六阿弥陀
   粒の無いように練れるは六阿弥陀
   亡き人のためかや今日の六あみだ
   ねれて来て七番になる六阿弥陀
   六ッに出て六ッに帰るを六阿弥陀
   湯にやってみればつまらぬ六阿弥陀
   六阿弥陀あんまり練れてたわいなし
   六あみだあんまりねれてねつがさし
   六阿弥陀女房羽二重餅のよう
   六阿弥陀練れは練れたが死んだよう
   六阿弥陀みんな廻るは鬼婆ァ
   六阿弥陀婆ァ無駄に練れて来る


 寺宝に、江東区登録文化財の
「寛文十三年在銘の石造燈籠」「木造阿弥陀如来坐像」「木造釈迦如
来坐像」「天和三年在銘の庚申塔」「延宝七年在銘の六阿弥陀道道標」「元文二年在銘の六阿弥陀六
番目標柱」「延享三年在銘の石地蔵尊像」「延宝八年在銘の水盤」「安永四年在銘の水盤
」「元禄十
六年在銘の地蔵供養塔」「寛文十二年在銘の地蔵逆修供養塔」「寛文十年在銘の阿弥陀三尊供養塔」
がある。

   江東みちしるべ
   
西帰山常光寺(寿老人)
   由来
   常光寺は、江戸六阿弥陀巡礼のうち、第六番目の霊場として栄え、『新編武蔵風土寄稿』
   には、『本尊六阿弥陀行基の作にして長六寸許、脇立に観音勢至を安す、これ六阿弥陀第
   六番目にして、春秋彼岸は殊に参詣のもの多し』とあります。
   江戸六阿弥陀への彼岸もうでは、江戸時代の庶民の信仰と行楽として盛んに行われていま
   した。亀戸七福神(寿老人)のひとつとして親しまれています。


 無量壽塔(永代供養塔)
 境内にある露座の大仏(阿弥陀仏)。これはお墓なのだ。

 宝篋印塔
 本堂の前にある。

 
六阿弥陀道標
 墓地に保存してある。正面に「南無阿弥陀仏」の六字名号が大きく彫られ、右面には「延宝七
己未
二月十五日」と刻まれている。その下に「江戸新材木町 同行六十□」とあって、新材木町(日本橋堀
留町の内)の人たち60人余が協力し以て、延宝七年(1679)に建てたことが判る。左側面に「自
是右六阿弥陀道」とあって、この道標は浅草道にあったものと考えられる。六阿弥陀巡礼は、西福寺
(北区)→恵明寺(足立区)→無量寺(北区)→与楽寺(北区)→常楽院(台東区→調布市)→常光
寺の順になっている。

   
自是右六阿弥陀道

   江東区指定有形民俗文化財
   
六阿弥陀道道標 延宝七年在銘          平成14年3月29日指定
   本道標は江戸六阿弥陀詣の巡拝路である六阿弥陀道を示すものです。
   江戸六阿弥陀詣とは、江戸時代、春秋の彼岸に六ヶ寺の阿弥陀仏を巡拝するもので、その
   巡拝地は順に上豊島村西福寺(北区)、下沼田村延命院(足立区)、西ヶ原無量寺(北区)
   田端村与楽寺(北区)、下谷広小路常楽院(調布市に移転)、亀戸村常光寺となっていま
   した。江戸六阿弥陀には奈良時代を発祥とする伝承がありますが、文献上の初見は明暦年
   間(1655~58)であることおから、六阿弥陀詣は明暦大火後の江戸市中に拡大、江
   戸町方住民の定着に伴う江戸町人の行楽行動を示すものといえます。
   本道標は、塔身・基礎より構成され、塔身の正面に「南無阿弥陀佛」、左側面に「自是右
   六阿弥陀道」と陰刻があります。
   また、右側面の刻銘から、延宝七年(1769)2月15日江戸新材木町(中央区日本橋
   堀留町1丁目)の「同行六十人」により建てられたものと判ります。
   本道標は、江戸六阿弥陀詣に関する最古の道標であるとともに、区内に現存する道標とし
   ても最古のものです。また、江戸で広まり亀戸にも札所のあった六阿弥陀信仰とその札所
   巡礼といった地域的特色を示すものとしても貴重な道標といえます。
   平成15年3月                         江東区教育委員会


 「六阿弥陀の由来」は足立区で見てくれ。  

 
丸彫り庚申塔
 
本堂左側にある。高さ211cmで安山岩で作られている。昭和20年のアメリカ軍の無差別空爆
により分断されたままになっていたのを、そのままにしておくのは忍びないとの声に押されて再建さ
れたものだ。頭は昭和40年頃に他の像のもので補った。像には「武州本□」「住所下総国葛飾郡」
「南横川」「天和三年癸亥歳五月吉祥日」「妻(?)市瀬勘六娘□□」「為□首再造」「生國長刕戸
板郡戸野敷村」
と刻んであり近郷近在の信者たちが、この寺に奉納したものだということが判る。一
般的な青面金剛の石塔でなく丸彫りの石像にしたことは、それだけ奉納者たちの常光寺に対する民間
信仰の根強さを物語っている。この像が天和三年(1683)出てくることは、一般化した初期の段
階に作られたものだ。

   天和三癸亥歳五月吉祥日」(1683)
   庚申願望圓
   奉待
   満以伸供養
   亀戸村西昄(帰?)山常光寺

 庚申塔
 墓地の奥にある。山状角柱型・日月・青面金剛像・邪鬼・二鶏。「元文二丁巳年六月庚申」(17
37)「右 さかさい道」「六阿みだ六番目」
 


■青面金剛とは
 日本仏教における信仰対象の一つだ。インドの仏教尊像ではなく、中国の道教思想に由来し日本の
民間信仰の中で独自に発展した尊像だ。庚申講の本尊として知られている。その像容は、一面三眼六
臂で、手足に蛇が巻き付く姿が一般的で、密教の明王像、特に軍荼利明王に通ずるものがある。日本
では各地に石造の庚申塔が多数あり、そこには「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿像とともに青
面金剛像が表わされている例が多い。木造の古例としては、奈良東大寺の木造青面金剛立像 道教で
は、人間の体内には三尸(さんし)という3種類の悪い虫が棲み、人の睡眠中にその人の悪事を総て天
帝に報告に行くという。そのため三尸が活動するとされる庚申の日(60日に一度)の夜は、眠って
はならないとされ、庚申の日の夜は人々が集まって、徹夜で過ごすという「庚申待ち」の風習があっ
た。庚申待ちは平安貴族の間に始まり、近世に入っては近隣の庚申講の人々が集まって夜通し酒宴を
行うという風習が民間に広まった。
 


■江東商業高等学校

 亀戸4丁目50番1号にある都立校。明治38年6月10日亀戸尋常高等小学校(現在の第一亀戸
小学校)に「亀戸実業補習学校」として併置創立。大正7年3月21日男子生徒を「亀戸補習学校」
として第三亀戸尋常高等小学校に分離、「女子亀戸実業補習学校」と称するようになった。昭和7年
「東京府南葛飾郡立亀戸実業専修学校」と改称。同8年「東京市城東区立亀戸実業専修女学校」と改
称。同10年「東京市城東区立城東実業専修女学校」と改称。同18年1月「東京市立城東実業女学
校」と改称。同7月都制施行により「東京都立城東実業女学校」と改称。同19年「東京都立城東女
子商業学校」と改称。同20年愚かなアメリカ軍無差別空爆により校舎焼失。本所区緑国民学校に移
転。同21年本所区菊川町中和小学校に移転。同22年江東区亀戸町5丁目144番地の水神小学校
の跡地に校地決定。同23年東京都立「江東女子商業新制高等学校」と改称。新校舎に移転。同25
年東京都立「江東商業高等学校」と改称。同36年江東区亀戸町4丁目246番地に新校舎落成、移
転。同44年体育館落成。同47年プール完成。同50年体育館内に格技場を設置。同55年パソコ
ンルーム完成。同60年創立80周年。同63年情報処理科を新設。平成4年校舎全面改築に伴う仮
校舎へ移転。同7年新校舎落成。同9年校庭整備・テニスコート完成。同15年総合ビジネス科を新
設。同17年創立100周年記念式典。
 


■第二亀戸中学校
(昭和29年11月5日開校記念日)
 亀戸4丁目51番1号にある区立校。俗称「にかめ」「にかめちゅう」。農村だった亀戸地区の戦
後の発展は目覚しく、昭和28年には亀戸中学校の生徒は1300名を越えた。更なる増加が予想さ
れるところであり、学校のキャパシティは限界に達していると判断され、同29年亀戸中学校から分
校し「江東区立第二亀戸小学校」が誕生した。しかしまだ校舎はなく、亀戸中学校に同居した。9月
末現在地に校舎が完成し、10月全生徒が移転した。11月5日校舎落成式・開校式記念式典。同3
0年10教室増築。体育館こ兼講堂落成。

 同35年開校5年目を迎えて、校歌を作ることになり、歌詞を生徒・職員から募集し、徳江和夫教
諭の作品が第一候補となったが、これは「生徒会賛歌」として歌われることとなった。結局校歌は専
門家に頼るところに決し、初代校長福本賢助の先輩に当たる勝承夫に作詞を、勝と組んで多くの校歌
を作曲している平井康三郎に作詞を依頼して、創立5周年記念式典で、制定発表された。
  1.微風
(そよかぜ)乗せて 光を乗せて
    川は満潮 力漲る
    見よ この朝に咲き薫る
    中学の花 第二亀戸
    梅の純潔 常に我等に
  2.楽しく友と未来を語る
    燕 影射す 窓の喜び
    文化を築く 夢ここに
    溌剌と湧く 第二亀戸
    自主の校風 清く輝く
  3.平和を歌う 柳や藤よ
    意気のこの庭 希望集まる
    友情燃えて 明日を待つ
    中学の星 第二亀戸
    栄えの学び舎 永久に幸あれ


 同36年第三亀戸中学校の新設により、一亀中と共に生徒の一部を移籍。同39年鉄筋コンクリー
ト造り4階建て新校舎8教室竣工。同40年第二期新校舎8教室竣工。同41年第三期新校舎竣工。
プール完成。同49年青森県の鯵ヶ沢一中と姉妹校の盟約締結。同61年盟約解消。平成元年給食メ
ニューコンクール都知事賞受賞。同4年体育館・プール新築。同16年創立50周年記念式典。

 校宝 金子鴎亭「和親協力」の額
 平成2年に文化勲章を受賞した金子鴎亭による書。昭和37年から校長室に掲げられている。購入
したものか、依頼して書いてもらったものか、贈呈されたものか不明。鴎亭と学校の繋がりも判らな
い。

 青森椴松・公孫樹・翌檜
 昭和54年当時、姉妹校だった鯵ヶ沢一中から贈られたトドマツ・イチョウ・アスナロ。
 


■亀戸駅

 亀戸5丁目1番1号にあるJR総武線と東武亀戸線の停車場。総武線の亀戸駅は、明治37年3月
9日に追加開業した。総武鉄道の駅ができた1週間後の4月5日には東武鉄道が乗り入れ、現在のス
タイルが完成した。現在は支線扱いの東武亀戸線だが、開業当初は本線の扱いで、両国駅まで乗り入
れていた時期もあった。
 JRのホームは築堤上にあり、島式1面2線構造。ホーム南側の頭上には、越中島貨物へ向かう貨
物線の高架橋が通っている。ホームと改札階を結ぶエレベーターは北口に設置された。東武のホーム
はJRホーム北側に位置し、地上頭端式1面2線構造。上下移動が不要なのでエレベーターはない。
 JRの改札は錦糸町寄りの北口(アトレ口)と、平井寄りの東口の2ヶ所で、いずれも地上1階に
ある。東武の改札は1ヶ所のみ。
 


■老女殺人事件

 亀戸5丁目20番25号増島方で起きた起きた事件。平成26年1月27日午前中、1人暮らしの
同家1階の住人増島きよ(98歳)が、首を絞められ殺害されているのが見つかった。遺体の首には
紐で絞められたような痕があり、室内が荒らされた様子はなく、玄関には鍵がかかっていた。事件が
起きたのは、JR亀戸駅から北へおよそ200m一軒家で、すぐ近くには、人通りの多い亀戸中央通
り商店街もある。被害者は、1階居間の炬燵の中で、普段着を着て、仰向けの状態で死亡しているの
が見つかった。検視の結果、頸部圧迫による窒息死の疑いがあるという。
 近所に住む人は、「元気だよ。杖も、偶についてる時はあるけどね、つかないで歩いていたよ」、
「だいたい、毎日見かけますけど。一昨日(25日)は、ちょこっと、朝に『おはようございます』
って言いました」などと話した。
 高齢ながら、25日の朝までは、近所の人に元気な様子を見せていたという増島きよ。25日の午
前中に、介護職員が、増島さんと電話で会話した際にも、変わった様子はなかったが、午後には応答
しなくなったため、27日に様子を見に訪れたところ、倒れている増島さんを発見した。
 発見時、玄関の鍵は閉められ、親族から鍵の保管場所を聞いて室内に入り、女性が倒れているのを
見つけて110番通報した。近所に住む人は、「1人になって、もう随分。結構、長いよね。もとも
と不動産屋さんやってたんだからさ」、「(近所でトラブルは?)そういう方じゃないね」などと話
した。1人暮らしをしていて、自宅2階を他人に貸していたという増島さん。自宅近くの商店街は、
夜になっても人通りが多く、防犯カメラが幾つも設置されている。人目につきやすい場所で起きた今
回の殺人事件。警視庁は、特別捜査本部を設置し、調べを進めている。

 犯人逮捕
 警視庁城東署捜査本部は6月15日、大家の増島きよを殺害したとして、借家人大津翼(29歳)
を殺人容疑で逮捕した。大津は「本当に申し訳ない」と容疑を認めた。逮捕容疑は1月25日ごろ、
増島宅で、増島の首をロープで絞めるなどして殺害した疑い。増島は同月27日午前11時15分ご
ろ、自宅1階和室の炬燵で死亡しているのを、訪問した介護職員に発見された。司法解剖の結果、死
因は首を絞められたことによる窒息死と確認された。遺体発見時、増島さん宅の玄関は施錠され、鍵
は屋外から見つかった。押し入った形跡がないことなどから、捜査本部は、増島は顔見知りの犯人を
自宅に招き入れた後に殺害されたと見て捜査を進めていた。増島は1人暮らし。複数のアパートを経
営する増島の自宅には、賃料を払うために借家人が出入りすることもあり、捜査本部は家賃の支払い
などを巡るトラブルがなかったかを調べていた。
 


■水神小学校 
廃校 → 復興

 亀戸5丁目22番22号にある区立校。大正14年4月亀戸5丁目144番地(現在地)に木造2
階建ての校舎を新築し、5月15日に「南葛飾郡水神尋常高等小学校」として開校した。当時日立製
作所亀戸工場やその他の工場が移転してきたこと、関東大震災時に被害が比較的少なかったことなど
で亀戸町の人口が増加した。そして4番目の小学校として設立された。児童数は1361名。昭和2年
高等科廃止「水神尋常小学校」と改称。同7年南葛飾郡を廃し東京市に編入したため「東京市水神尋
常小学校」と改称。同16年勅令第148号国民学校令により「東京府東京市水神国民学校」と改称。
同18年都制施行により「東京都水神国民学校」と改称。同19年8月山形県赤湯町に474名の児
童が集団疎開。同20年愚かなアメリカ軍の非人道的無差別空爆により校舎全焼。当時46学級23
00名。浅間小学校にて授業。8月日本はならず者国家アメリカの軍門に降り敗戦、以後属国となる。
同21年3月疎開児童帰京。都告示により廃校となる。

 [第二次](昭和35年11月5日開校記念日)
 昭和35年第一亀戸小学校内に「東京都江東区立水神小学校」として開校。11月5日第一亀小と
分離授業。同36年旧校地の江東商業高等学校が廃校となったため帰校。開校記念式。同37年木造
新校舎落成式。同39年校歌制定。

 校歌
「都の東」 作詞作曲・岡本敏明
  1.都の東 朝日に映えて
    輝く校舎 我等の母校
    身と心 強く 正しく
    学ぼうよ いつも正しく
    我等は水神小学生
  2.光るよ 光る 白雲光る
    若い生命の喜び乗せて
    朝夕に手を取り合って
    励もうよ 心素直に
    我等は水神小学生
  3.躍るよ 躍る 希望は躍る
    誠一筋 力を合わせ
    咲かせよう 文化の華を
    この庭に この学舎に
    我等は水神小学生


 オリンピック東京大会前夜祭に鼓笛隊出演。同40年プール完成。同43年鉄筋コンクリート造り
新校舎落成。校歌の碑建立。平成2年・全日本よい歯の学校表彰を受ける。改築新校舎・体育館落成。
同6年全日本よい歯の学校表彰を受ける。同12年復興40周年。

 メタセコイア
 校庭の南側に3本立っている。復帰した時に植えられた記念樹で、水神の子供たちと一緒に育って
きた。
 


■亀戸五丁目公園

 亀戸5丁目24番4号にある区立公園。


■法徳寺

 亀戸5丁目31番8号にある浄土真宗本願寺派の寺。昭和6年の創建。寺宝に、江東区登録文化財
の「絹本着色親鸞上人坐像」がある。

 
親鸞聖人像
 行脚姿の銅製立像。
 


■亀戸五丁目第二公園

 亀戸5丁目33番4号にある区立公園。

 
少女像
 幼い少女の裸像。可愛らしい。


■元天神塚

 亀戸5丁目36番2号ライオンズマンション亀戸五丁目の南側敷地内に石祠がある。
 正保三年(1646)神木飛梅の木で菅原道真像を作り、寛文元年(1661)江戸に来て、取り
敢えずここにあった塚に祀ったが、同三年(1663)現在地(亀戸天神)に太宰府を模した広壮な
社を造営して移転した。

 
旧跡碑 ✔
 碑は、昭和28年に建てたものだという。
 


■五の橋(五之橋)
 亀戸6丁目1番・亀戸1丁目27番・大島2丁目31番・大島3丁目6番の交点に架かる橋。明治
通りを通す。親柱は昭和3年架け替え時のもので、デコレーショナルなものだ。

   五之橋(五の橋)
   五之橋の下を流れる堅川は、万治二年(1659)本所築立奉行であった徳山五兵衛重政及
   び山崎四郎左衛門が、大横川、横十間川と共に新田開発を目的として開削した用水路であっ
   た。堅川の開削に合わせ西の方から、一之橋をはじめとして6つの橋が架けられた。当時こ
   の付近は、畑地が多く、人の往来も少なかった。
   「御府内備考」によれば、「御人用無益之場所」として、貞享元年(1684)本橋は取り
   払われ船渡しとなったといわれている。
   元禄八年(1695)に五百羅漢寺が建立されたため、この渡しを利用する者も多くなり、
   「羅漢の渡し」や「五ツ目の渡し」と呼ばれ人々に親しまれてきた。
   その後、明治12年に本橋が架けられたが、大正12年の大震災により落橋した。震災復興
   により昭和3年本橋は鋼橋に架け替えられた。戦災にも耐えた本橋は老朽化には勝てず、昭
   和50年再度架け替えられた。親柱は震災復興記念として現在も残されている。亀戸、大島
   地域の発展に大きな役割を果たしたこの橋は、昭和63年東京都著名橋に指定された。
   平成4年3月                                東京都

 伊藤左千夫歌碑
 橋の東側北詰の小公園の石製のベンチに貼り付けてあるプレート。歌碑といえるかどうか? 他に
は「さざゑ堂」の絵、江戸時代の深川図がある。

   竪川の野菊の宿は初芽すぎ 二の芽摘むべく群れ生いにけり

 人力車
 五之橋を下りた堅川河川敷公園にある。


■旧千葉街道跡碑 ◇
 亀戸6丁目1番、五の橋北詰交差点の東南の歩道の植込みにある角柱。江戸時代、千葉方面へ向か
うには「元佐倉道」と呼ばれた旧千葉街道が重要なルートだった。今では、堅川の北岸沿いに通じる
ひっそりとした細い通りだ。この旧千葉街道は、本所から堅川の北岸に沿って東に進み、中川を逆井
の渡しで越えて西小松川から一直線に小岩の関所に通じていた。
 公園のあるこの辺りは、見渡す限り、アシ原や田んぼの続く低湿地で民家はぽつぽつと点在するく
らい。サギやツルの仲間をはじめ、日本の空から消えてしまったトキやコウノトリなどの大型の水鳥
もたくさん住む、のどかな田園地帯だった。旧千葉華道から南を見渡せば堅川を越え、遠くに「さざ
ゑ堂」で江戸中の評判を集めていた羅漢寺があった。


   
旧千葉街道

   旧千葉街道は両国橋から堅川の北岸沿いに東へ通じ
   千葉方面にいたり江戸時代から佐倉道と称し江戸と
   千葉方面を結ぶ重要な陸路であったが明治時代から
   の市区改正事業などにより元愛の国鉄総武線に沿っ
   た新しい千葉街道が建設されるにいたった
        昭和三十三年十月一日 江東区第17号


   旧千葉街道跡碑
   江戸時代、千葉方面へ向かうには、「元佐倉道」と呼ばれた、旧千葉街道が重要なルート
   でした。今では堅川の北岸沿いに通じるひっそりとした細い通りです。
   この旧千葉街道は、本所から堅川の北岸に沿って東に進み、中川を逆井の渡しで越えて西
   小松川から一直線に小岩の関所に通じていました。
   公園のあるこの辺りは、見渡す限り、アシ原や田んぼの続く低湿地で民家はぽつぽつと点
   在するくらい。サギやツルの仲間をはじめ、日本の空から消えてしまったトキやコウノト
   リなどの大型の水鳥もたくさん住む、のどかな田園地帯でした。旧千葉華道から南を見渡
   せば堅川を越え、遠くに「さざる堂」で江戸中の評判を集めていた羅漢寺がありました。


■亀戸緑道公園

 亀戸6丁目7番9号、30番1号先にある区立公園。


■亀戸南公園
 亀戸6丁目18番1号にある区立公園。

 
占風園跡
 園内に区の説明板が立っている。公園はその9分の1ということになる。

   
占風園跡                    亀戸6丁目8~10・17~22番
   占風園とは、近江国(滋賀県)仁正寺藩市橋氏の下屋敷の雅名です。昔、この近辺は「本
   所五ツ目」と呼ばれましたが、市橋氏は、この地に下屋敷5600坪を拝領していました。
   『葛西志』によると、占風園は寛文期(1661~73)に造営され、元禄期(1688
   ~1704)の修築で景勝が整えられたといいます。広大な「釣月池」を中心に、周囲に
   築山、橋、茶屋をめぐらした回遊式の庭園で、その景色を題材にして元禄七年(1694)
   に「占風園十勝詩」が詠まれ、他にも「占風園十七詠」などの和歌が残されています。享
   保五年(17に0)七月二十九日には、将軍吉宗が鷹狩りの際、雨宿りに立ち寄っていま
   す。また『東京市史稿』遊園篇第二には、文化九年(1812)に藤原祐壽が描いた占風
   園の四季の図があり、その美しい風景の様子をよく伝えています。
   平成11年3月                         江東区教育委員会
  


■サンストリート亀戸
 亀戸6丁目31番1号にある次世代型商業施設ランブリングマーケット。第二精工舎(現セイコー
インスツル)の工場跡地に、平成9年11月にオープンしたオープンモール型ショッピングセンター
だ。年間を通じて多くのイベントがあり、アイドルイベントなども多く開催されている。300坪の
マーケット広場を囲むように、2階建てのモールにはおしゃれなショップが約50軒建ち並んでる。
毎週末にはイベントが催されていて、大人から子供までお祭り気分で楽しめるショッピングモール。
自転車で来ても、車で来てもOKだ。


 貧乏神稲荷社
 サンストリート亀戸内にある小祠。地口で「貧乏稲荷」というと、鳥居のない神社をいい「取り柄
がない」に転じて「才能の無い者」をさす。この稲荷には参ってないが、そういうことだったのかも
知れない。名前からして江戸時代からあったもので、第二精工舎が工場用地として買い取った時、敷
地内に残したものだろう。
 墨田区の玉の井稲荷は俗に貧乏稲荷と呼ばれていたんだ。
 


亀戸緑道公園

 亀戸6丁目31番、旧都電線路跡を利用した区立の公園。


■堅川河川敷公園

 亀戸6丁目33番10号にある区立公園。実際は旧堅川の亀島橋から虹の大橋までの首都高七号線
下にある。亀島橋から鉄道橋は親水公園、鉄道橋から五之橋はキャッチボール広場と健康道具広場。
五之橋から堅川人道橋は三代豊国五渡亭園、豊国の碑もある。堅川人道橋から昭和橋はフットサルと
道具広場・多目的広場。昭和橋から堅川大橋まではキャッチボール広場と多目的広場。堅川大橋から
中之橋は親水公園、道具広場・健康道具広場。中之橋から新六之橋まではパターゴルフ場、親子でキ
ャッチボール、親水公園、道具広場、グランドゴルフ広場。新六之橋から虹の大橋までは親水広場。

 
「風と遊ぶ」
 亀戸6丁目1番10号南の、河川敷公園の中にある帆掛舟をイメージした堀内健二の作品。


■堅川人道橋

 亀戸6丁目33番1号にある元の電車橋梁。橋の南北に続く緑道は城東電車→都電の線路敷で、現
在は「亀戸緑道公園」となっている。平成23年橋は撤去され歩道として整備されている。
 モニュメントとしての線路と車輪は、橋の北側にある。「堅川通」とある標柱は、ここにあった停
留所の名前。29系統・38系統の標柱もある。
 またブリューゲルを模した車止めがある。プリューゲルは集電装置で、今の電車のパンタグラフに
相当するものだ。

   堅川人道橋・説明板
   この橋は路面電車の専用橋として大正2年に設立された城東電気軌道(株)が、大正十五
   年一月に水神森~大島間の開通に合わせて「堅川専門橋」として架設したものである。
   その後、昭和17年2月に東京市営、同18年7月に都営となり、経営は軌道に乗ったが
   昭和20年の大空襲により甚大な被害を受けた。しかし復興に努め、昭和24年には区内
   全線が開通した。
   「チンチン電車」と呼ばれて親しまれ、便利だった都電も昭和30年代の高度経済成長政
   策の頃から自動車交通の急速な発達により道路が渋滞し、輸送力低下による赤字決算の連
   続となった。その結果昭和47年、区内全線が廃止された。
   そして昭和50年、この橋は歩行者・自動車専用橋として整備され、昭和54年橋の南北
   の線路敷は「緑道と憩いの散歩道」として緑道公園に生まれ変わった。
   都電が廃止されて20年余りが経過した今日、無公害で経済的な交通手段として、なつか
   しむ声もある。区では、この橋を『うるおいの橋』として景観整備するにあたり、緑道公
   園と堅川河川敷公園の結節点に位置し、まちのランドマークとなることから、モニュメン
   タルな橋とした。又、地域の歴史を知る上でも都電をモチーフとして修景した。
   レールの一部は『25系統』の亀戸九丁目で使われていたものを再使用し、車輪は写真等
   を参考にしてオブジェとしてデザインした。            1995 江東区

   
橋の記憶
   ここには、かつて川があり、橋がありました。
   橋には都電が走っていました。
   時の流れとともに、都電は廃止され、高速道路が建設されました。
   やがて、川は埋め立てられ公園となり、役目を終えた橋が撤去されました。
   長年、みなさんに親しまれた橋の思い出を次の世代に伝えていくため、
   ここに「橋の記憶」を設置します。

   堅川人道橋の概要
   橋長 23.0m    経緯 大正10年1月 路面電車の専用橋として架橋
   幅員  6.5m        昭和46年3月 高速道路の開通 
   形式 3径間単純鋼桁橋    昭和47年11月 都電廃止
                  昭和50年2月 歩行者・自転車専用橋として再整備
                  昭和59年4月 堅川河川敷公園の開園
                  平成23年9月 橋の撤去


■堅川第二公園

 亀戸6丁目35番3号にある区立公園。


■竹之丞寺 
顕松山自性院安住寺

 亀戸6丁目35番23号にある天台宗の寺。開創当時は本所の中之郷成就寺内にあった。 寛文二年
(1662) 横川堀敷として現在地に替地を賜わり寺院ならびに稲荷社を移した。 元禄五年 (169
2)に寺を再建し、 正徳三年 (1730) 日光御門主大明院宮公弁法親王の命書により成就寺の末寺
と定められた。 開基三部大阿闍梨隨円法印 (慶長二年入寂) 権大僧都大阿闍梨誠阿法印中興開山(享
保三年(1718)入寂) 。
 寺宝に、江東区登録文化財の「永享七年在銘の石造宝篋印塔」「木造阿弥陀三尊像」「初代市村竹
之丞寿塔」「歴代市村羽左衛門供養塔」「宝永六年在銘の観音供養塔」「八幡楼奉納の水盤」「石造
燈籠」がある。


 竹之丞寺 or 役者寺
 自性院にとって中興開山の誠阿法印は欠かすことのできない重要人物だ。俗世では役者2代目市村
竹之丞で、市村家の座元の甥に生まれた。 特に天性の美男であり、 しかも芸能に秀で世にその名は広
く知られていた。若年の頃より仏法を信じ、 出家の志深く、 壮年に至れるも妻を迎える心なく、 座元
の大夫の職を甥に譲り、 縁を求めて自性院で出家した。 後に比叡山の安住院に住み、 そこで本格的修
行を積み、 一山において誉れ高かった。 自性院に戻っては日夜念仏三昧の日々を送った。 苦心の末本
堂を建立し、誠阿法印の時代は自性院という名称だけだったが、 自分の叔父 (3代目市村宇左衛門)
の顕松院の法名を山号として、 修行した比叡山の安住院に倣って安住寺と名づけた。また芝居の繁盛
を願って稲荷社も建立した。 現在の山門入口にある稲荷社がそれだ。
 誠阿法印は3代目市村宇(羽)左衛門の甥で2代目市村竹之丞を名乗り、 市村座座元4代目を継い
で、死後に4代目市村宇左衛門の名を贈られている。若い時より仏教に帰依し、 自性院へ通うことを
無二の楽しみとしていた。終に自性院での出家得度を決意し、 座元を弟に譲ると、延宝七年(167
9)四月同座で西行法師の狂言を最後として笈 (書籍を入れて運ぶ箱)を背負って入山した。
 2代目竹之丞(贈4世市村宇左衛門)は、寛文~延宝期(1661~80)の市村座の座元で立役
として活躍した。生年ははっきりしないが、承応三年(1654)頃といわれ、3代目市村宇左衛門
の甥として生まれた。初名を沢井弁之助といったが、寛文元年(1661)3代目の養子となり、2
代目市村竹之を襲名した。役者としては台詞術に優れ、拍子事を得意としていたものの、濡れ事は下
手だったという。江戸の芝居は、幕府で興行を公認した中村座・市村座・森田座、所謂江戸三座の大
芝居と、神社の境内などで行われる小芝居・宮地芝居とに区別され、3座の座元は中村勘三郎・市村
宇左衛門(羽左衛門)・森田勘弥を名乗っている。
 二代目竹之丞は、延宝市村座で一世一代を勤めて自性院に入り、剃髪して名を「誠阿」と改め、享
保三年(1718)に亡くなり、この寺に葬られた。市村家の菩提所は江戸川区にある大雲寺だが、
前記の理由によりこの院にも歴代の市村家の供養塔がある。

 室町時代の宝篋印塔
 
自性院にある。秩父青石(緑泥片岩)製の石塔は小型で、高さ60cm、永享七年(1435)三
月十九日の造立。この石は、鎌倉・室町時代に板碑、つまり石板の塔婆供養塔として使用されてきた
が、立体的な石塔として使用された例は極めて少ない貴重な文化財だよ。おいらもあちこち行くがこ
れが初めてだ。塔身には金剛界五仏の四仏宝生如来・阿弥陀如来・不空成就如来・阿しゅく如来の梵
字種子が彫られ、台座に「悦堂・永享七乙卯・三・十九と刻まれている。悦堂はこの石塔を造立した
施主だ。この石塔は自性院創立後にもたらされたもので、元何処にあったものなのかの記録はなく、
以来度々の災害にもかかわらず、破損もなく保存されている。自性院の創立は不詳だが、開山の随円
が自性院と称し、墨田区の成就寺の末寺として創立し、慶長二年(1597)に没しているのでそれ
以前の創立だ。現在地に移ってきたのは正徳三年(1713)八月二十七日。

   江東区最古
   宝篋印塔
   東京江戸博に展示あり


 
自性院稲荷社

 入口を入った左手にある。


■第二亀戸小学校

 亀戸6丁目36番1号にある区立校。俗に「にかめ」の愛称で呼ばれる。

 
[第一次] 廃校
 明治44年12月南葛飾郡亀戸町大字西浅間1779番地(亀戸東公園)に木造2階建て11教室
の新校舎が建てられ、「南葛飾郡亀戸町第二亀戸尋常高等小学校」として開校、亀戸尋常高等小学校
の学区の男子児童のみを収容した。それにより亀尋常高等小学校は第一亀戸尋常高等小学校と改称し
女子校となった。大正6年第一亀戸尋常高等小学校が自火焼失したため高等科生徒を預かる。同15
年浅間尋常高等小学校が新設したため高等科を移し「第二亀戸尋常小学校」と改称。昭和7年城東区
誕生し「東京府東京市第二亀戸尋常小学校」と改称。同16年国民学校令より「東京府東京市第二亀
戸国民学校」と改称。同18年都制施行により「東京都第二亀戸国民学校」と改称。同19年8月愚
かなアメリカ軍の無差別空爆が熾烈となり、高学年学童は山形県上ノ山町に集団疎開。同20年3月
アメリカ軍の非人道的市街地空爆により校舎焼失。8月日本は、ならず者国家アメリカの軍門に降り
敗戦、以後その属国となる。同21年3月廃校となり、学童は第一亀戸国民学校に収容された。

 [第二次] 復興
 同26年第一亀戸小学校から分校、第一亀戸小学校内の仮校舎にて「東京都江東区立第二亀戸小学
校」として開校。6月旧校地に新校舎が落成して移転。旧校地は戦災罹災者の仮設住宅地となってい
たが、同29年までに総て転出させ撤去完了。同31年創立50周年記念式典。校歌制定。

  1.朝日は昇る都の東
    汽笛の声も逞しく
    興る祖国の響きの中に
    我等は学ぶ第二亀戸
  2.世界に続く隅田の水
    流れて常に新しく
    進む世紀の歩みと共に
    我等は学ぶ第二亀戸
  3.文化の雄の遺風を慕い
    手を取る友と睦まじく
    父母と教師の恵を享けて
    我等は学ぶ第二亀戸


 学校が復興した時、新しい「にかめ」に相応しい校歌が欲しいとの要望を受けて、再興5周年・創
立50周年を機に校歌を作ることになり、音楽教諭辻田和徳が、当時音楽の友社の堀内敬三に依頼し
たものだ。それまでは「いちかめ」と同じ式歌や旧校歌を歌っていた。
 同33年体育館完成。同34年プール完成。同39年NHK合唱コンクール優秀賞受賞。

 校歌「朝日は昇る」 作詞 作曲・堀内敬三

 同48年江東区科学センター校となる。同50年観察池造成。同51年教育推進協議会の寄贈によ
り藤の木2本を植樹、藤棚を建てる。同54年創立70周年記念式典。タイムカプセル埋設。築山構
築。平成13年創立90周年記念式典。
 この学校には、二宮金次郎像が設置してある。偉い!
 


■城東消防署

 亀戸6丁目42番9号にある。
 


■亀戸
平岩公園

 亀戸6丁目47番12号にある区立公園。


平岩稲荷神社 ◇

 亀戸6丁目47番12号の亀戸平岩公園内にある小社。入口左手に由来碑がある。

   稲荷神社
   この地は徳川家康の家臣であった平岩家の先祖が、三河より徳川幕府に従って江戸の居を
   定めてから、大正の中頃まで、約300年に亘って平岩家代々の居所であった。幕末より
   明治にかけて竹問屋として名を成した6代目平岩甚助の死後、昭和16年に楠にかこまれ
   た広大な敷地内にあった1000坪の池が埋めたてられ、その一部約340坪が公園とし
   て東京市に寄付された。その後、昭和25年に東京都より江東区に移管され現在に至る。
   現存する稲荷神社は古くから祀られていたものを元の築山の上に移したものである。
   平成元年11月                    改修にあたりこれを記す平岩


■亀戸
六丁目児童遊園

 亀戸6丁目54番2号にある区立公園。


■豊川稲荷社 ◇

 亀戸6丁目56番5号にある小祠。


■亀戸
東公園

 亀戸7丁目8番13号にある区立公園。


■亀戸七丁目
北公園

 亀戸7丁目15番5号にある区立公園。


■亀戸平岩
第二公園

 亀戸7丁目30番8号にある区立公園。


■亀戸図書館

 亀戸7丁目39番9号にある。
 


■犯人射殺

 亀戸7丁目39番16号先京葉道路交差点付近で、平成25年12月31日の午前3時半頃、タク
シー強盗をして逃走中だった男を、警察官が拳銃で射殺した。
警視庁によると31日午前1時前、目
黒区青葉台の路上で強盗被害に遭った上、車ごと乗り逃げされたとしてタクシーが手配されていた。
 その後、江戸川区内をパトロールしていた警視庁小松川警察署のパトカーの警察官が盗難タクシー
を発見し、そのまま追跡を開始した。追跡中、当現場で別のタクシーに追突して止まったため、警察
官は運転していた男を取り押さえようとしたところ、男は持っていた刃物で警察官(27歳)を刺し
てきたため、同行の巡査部長(51歳)は男を目掛けて拳銃を3発発砲。
銃弾は3発とも男に命中、
病院に運ばれ心肺停止の状態が続いていたがその後死亡が確認された。警察官は背中を刺されて重傷
を負い、そのほか追突されたタクシーの乗客・運転手など合わせて4人が軽い怪我をしたが、いずれ
も命に別状はなかった。警視庁は男の身元の特定を急ぐとともに、警察官が発砲した当時の状況など
詳しく調べる方針。また容疑者死亡のまま、強盗事件および殺人未遂事件として捜査を進めている。

 犯人
 射殺された男は、埼玉県蕨市南町で起きた殺人放火事件の被害者市川富美子(63歳)の長男(2
7歳)であることが判明した。平成25年12月30日埼玉県蕨市南町3丁目のアパートで、アパー
トの1室が燃え、室内から刺し傷のある遺体が発見される殺人・放火事件が発生した。
30日の午後
8時20分頃、近くに住む住民から「焦げ臭い」と119番通報があったことで事件が発覚。木造2
階建てアパートの1室が全焼したが、火は約2時間後に消し止められた。警察や消防の発表によると
住民の通報を受け消防署員が駆け付けたところ、アパートの1室が燃えており、この部屋に住む職業
不詳市河登美子が倒れているのが見つかった。富美子は病院に緊急搬送されましたが、その後死亡が
確認された。富美子の体には刺し傷があったことから、埼玉県警は殺人・放火事件の疑いがあるとみ
ている。
刺し傷は刃物によるものとみられており、何者かが富美子を刺して殺害した後に、部屋に放
火して逃げた可能性が高いとみられている。現場に刃物は残されてなかった。埼玉県警蕨署などによ
ると、富美子は長男と2人暮らしをしていたということだが、長男と連絡が取れていない状態が続い
ていた
。蕨署は、長男が殺害に関与した可能性も視野に入れ、何らかの事情を知っているとみて行方
を追っていたところ、江東区で発見され、逮捕されようとして暴れ、警察官(27歳)の背中を刃物
で刺して逃走したため、同行の巡査部長(51歳)に発砲され、射殺された。


■亀戸
七丁目南公園

 亀戸7丁目40番2号にある区立公園。


■亀戸
七丁目西公園

 亀戸7丁目42番5号にある区立公園。


■亀戸
七丁目児童遊園

 亀戸7丁目48番1号にある区立公園。


■宇宙ステーショントイレ

 亀戸7丁目52番17号堅川旧中之橋西北爪にある公衆便所。形はかまぼこ型にし、壁には宇宙ス
テーションや遊泳 して いる人などが描かれている。国際宇宙年の年に因んで、副都心を目指す亀戸
地区らしく 宇宙を イメージした未来志向型。


■竪川尋常小学校 
廃校

 亀戸7丁目65番にあった区立校。昭和11年10月亀戸町7丁目296番地に木造2階建て約5
00坪の校舎を建築し「東京府東京市竪川尋常小学校」として開校。浅間尋常小学校から1年生~4
年生を移して授業を開始した。翌年4月からは浅間尋常小学校が高等小学校となるため、尋常科の児
童全員を収容し、また通学区改編に伴い、第二亀戸尋常小学校から一部の児童を編入、1年生から6
年生までの全学年編制となり、児童数648名でスタート、同16年には1282名となった。同年
勅令148号国民学校令により「東京府東京市竪川国民学校」と改称。12月日米開戦。同18年都
制施行により「東京都竪川国民学校」と改称。同19年8月山形県上ノ山町に234名が集団疎開。
同20年3月愚かなアメリカ軍の非人道的無差別空爆により校舎全焼。同21年3月児童激減により
再起ならず廃校。跡地は亀戸中学校となった。
 


■亀戸中学校
 移転
 亀戸7丁目65番12号にあった区立校。昭和22年4月に新しい学校教育制度の実施と共に設立
された6校(深川第一~第四中学校・砂町・亀戸)の内の一つ。5月亀戸・大島地区を通学区として
開校、戦災を免れた浅間小学校の一部を借りて授業を開始した。同23年12月廃校となった竪川国
民学校(尋常小学校)の跡地に校舎を建てて移転した。開校初年度は400名余の生徒数だったが、
戦災復興と目覚しい地区発展により生徒が急増し、校舎の増築が追いつかない状況だった。同24年
7教室増築。同25年大島中学校を分校して生徒630名移籍。同27年8教室増築。同28年6教
室増築。校庭整備。校歌制定。

 校歌
「梅の香りの」。作詞・国語教諭松延市次  作曲・音楽教諭本山定男
 補作・名古屋大学学長・国文学者高木市之助 東京芸術大学助教授助教授川崎優
  1.梅の香りの風を受け
    学びの庭に集い来て
    秀でし眉も美しく
    久遠の光 求め行く
    清らなるかな ああ 我等
  2.鉄截る音に生まれ出で
    高炉の力 腕にあり
    都の大空へすくすくと
    若かる命 伸ばし行く
    逞しきかな ああ 我等
  3.春秋千度 巡るとも
    自由の旗を降ろさんや
    固き誓いの直向
(ひたむき)
    人生の海 乗り切らむ
    大いなるかな ああ 我等  亀中 亀戸中学校


 同29年第二亀戸中学校を分校し、生徒284名移籍。同33年6教室増築。同36年体育館落成。
同37年プール完成。同40年西側校舎鉄筋コンクリート造り4教室・5特別教室新築。同42年北
側校舎鉄筋コンクリート造り3教室・5特別教室・保健室新築。同43年北側校舎鉄筋コンクリート
造り3教室・5特別教室・保健室新築。同44年完全給食。同51年北側校舎鉄筋コンクリート造り
2教室・特別教室・事務室・主事室新築。同55年竪川小学校復興のため、日立製作所社宅跡地(9
丁目2番の現在地)に校舎を新築し移転。


■竪川小学校 
統合廃校

 亀戸7丁目65番12号にあった区立校。昭和56年マンションや高層の都営住宅建設による児童
の急増に対処するため、「東京都江東区立竪川小学校」として戦前にあった「竪川」の名を復して創
立した。当初日立製作所社宅跡地に「第二浅間小学校」として校地を予定していたが、その場所に亀
戸中学校が新築移転したため、亀戸中学校が転出していった校舎を改修し、浅間小学校から分校して
455名12学級でスタートした。この場所は戦前竪川尋常小学校(国民学校)があったところで、
それで地元の人には名残尽きない「竪川」の名が採用された。6月校歌制定。

 校歌
「輝く朝日」  作詞・初代校長高見元和  作曲・音楽教諭池田統子
  1.輝く朝日 江東の
    亀戸の空 高々と
    緑の旗も鮮やかに
    建てる校舎の姿映
    学び習えるよい子供
    竪川 竪川小学校
  2.立てる大地に夢多く
    明日の日本を担う子ら
    自主独立の気風持ち
    正しく強く逞しく
    励み努めるよい子供
    竪川 竪川小学校
  3.みんな仲良く手を繋ぎ
    世界の国の友だちと
    平和の花を咲かすのだ
    希望に胸を膨らませ
    鍛え伸び行くよい子供
    竪川 竪川小学校


 同年7月開校式。プール完成。同57年校地拡張・体育倉庫完成。同58年竪川音頭制作平成2年
開校10周年。生徒減少により、全学年単学級となる。同8年コンピュータ室。同12年閉校。浅間
小学校に吸収されるも「竪川」の名は残すことに成功。「江東区立浅間竪川小学校」となる。跡地は
中央学院大学中央高等学校に引き継がれた。
 


■中央学院大学中央高等学校 
中央区から転入

 亀戸7丁目65番12号、竪川小学校跡地にある私立校。明治33年設立準備校として「日本橋簡
易商業夜学校」(2年制)設立。同35年「中央商業学校」(5年制)設立(東京市京橋区霊岸島銀
町)。昭和23年「中央商業学校」を廃し、新学制による「中央高等学校」全日制課程(普通科・商
業科、3年制)設立。同30年「中央高等学校・商業科」を「中央商業高等学校」として独立。同3
8年「中央高等学校」「中央商業高等学校」に「女子部」設立(男女別学)。同41年我孫子市に中
央学院大学開設。同45年「女子部」廃止 男女共学授業開始。同60年「中央高等学校」廃校。平
成6年「中央商業高等学校」通信制課程(普通科)併設。同10年「中央商業高等学校」を「中央学
院大学中央高等学校」と改称。
 同13年中央区新川から現在地に移転。同16年全日制課程に普通科を復活。

 建学の精神
 誠実に謙虚に生きよ
 温かい心で人に接し 奉仕と感謝の心を忘れるな
 常に身を慎み 反省と研鑽を忘れるな。

 創立者 高楠順次郎博士
 広島県出身。海太郎・洵。本名沢井。日本におけるインド学・サンスクリット学・仏教学の祖。西
本願寺の京都普通高等学校(のちの龍谷大学)第一期生。在学中に「反省会雑誌(中央公論)」を発
刊。神戸高須家の養子となり順次郎と改名。東京帝国大学に進み、イギリス、ドイツ、フランスに留
学、オックスフォート大学のマックス・ミュラーに師事してインド学を修める。帰国後東京帝大講師
・教授となり定年まで勤める。学位は文学博士。東大講師のまま逓信大臣秘書官を兼ね、東京外国語
学校(東京外国語大学)校長、中央商業高校(中央学院大学)創立、帝国学士院会員、武蔵野女子学
院(武蔵野女子大学→武蔵野大学)創立、東洋大学学長、ハワイ大学学長の歴任で多くの門下生を生
んだが、更に女子仏教青年会の創設、中山文化研究所(大阪プラトン出版社)所長、千代田女子専門
学校(千代田女学園高等学校)校長、東京大学仏教青年会の支援などを行う。昭和19年文化勲章受
賞。同20年6月永眠。
 


■亀戸中央公園
(旧日立製作所亀戸工場)
 亀戸8丁目2番・22番・9丁目37番の接続する3ヶ所にある。東武亀戸線亀戸水神駅からすぐ
のところにある。この公園は以前日立製作所亀戸工場のあった場所に作られた。アスレチック施設や
運動公園、スポーツセンターも隣接されおり、休日は若者や家族連れで賑わう。

 
「SKY WARD」
 園内中央、スポーツセンター西のオープンスペースにある田島よしみ作のオブジェ。

 ●さくら
 ソメイヨシノ、オオシマザクラが125本
 


■亀戸水神駅

 亀戸8丁目5番1号にある東武亀戸線の停車場。東武亀戸線は明治37年に全通しているが、中間
の3駅は総て昭和3年4月15日に同時開業した。ホームは地上相対式2面2線構造。改札のある2
番線から1番線への連絡は構内踏切で行う。改札口・出口は1ヶ所のみ。

 注意事項
 誤って下車する客が多いので、ホームに

  亀戸天神の最寄駅は亀戸駅です 亀戸天神(天満宮)と亀戸水神はちがいます

という注意書きがある。天神さんは亀戸駅の方が近い。
 


■八千代児童遊園

 亀戸8丁目6番6号にある区立公園。


■屋敷稲荷

 亀戸9丁目2番7号の太洋化学KK内にある。
 


■亀戸中学校

 亀戸9丁目2番2号にある区立校。同55年竪川小学校復興のため日立製作所社宅跡地(現在地)
に校舎を新築し転入。
同62年創立40周年記念式典・庭園「憩いの池」竣工。平成2年コンピュー
タ室。同9年創立50周年記念式典。

 憩いの池
 校門を入ってすぐの右側にある。池の中には、色とりどりの鯉や金魚が放たれていて、入学式や卒
業式の後のベストショットになっている。

 開校50周年記念モニュメント
 憩いの池のすぐ右側にある。大正6年から昭和47年まで学校の前を通っていた路面電車のレール
の一部を記念に飾ったものだ。これと同じようなものはサンストリートの横にある緑道公園にも飾っ
てあるよ。この街鉄線は大正6年12月30日二条東電気軌道株式会社が開業して、錦糸町の白木屋
デパート一階を起点に、錦糸町~小松川(西荒川まで)が開通した。一般に「チンチン電車」と呼ば
れ、市民の足として親しまれていた。レールは大正時代に作られたイギリス製だそうだ。
 中学校ができた頃、浅草道(亀戸浅間通り)と京葉道路の交差点辺りはで、軌道と道路面に段差が
あり、大型のトラックもビュンビュンぶっ飛ばす時代だったから非常に危なかった。生徒が事故に巻
き込まれる可能性が高かったので、段差のところに御影石をしく相談をし、近所の会社に寄付をお願
いに行った。快く寄付を申し出た会社もあれば、そうでない所もあった。いよいよ石を敷く段になっ
て、都交通局に話をしに行ったところ、都側で工事をしてくれることになった。完成の祝賀会の折り
「普通は事故が起こってから対策を立てるが、今回は事故が起きる前にできた」と喜んでくれ、その
時実際に使われた御影石も、記念モニュメントになっている。
 


■逆井の渡し跡

 亀戸村平井と西小松川村(亀戸9丁目~小松川2丁目)を結んだ中川の渡船。元佐倉道を渡した。
『新編武蔵風土記稿』によると、元は逆井村と亀戸村を結ぶ渡しだったので「逆井の渡し」と称した
とある。同書の編集は文政年間に行われたので、それ以前は逆井村に船着場があったのだろう。開設
時期は不明だが、延宝八年(1680)の『江戸方角安見図』には、「総州 佐倉海道(街道)」と共
に、この場所に「小松川舟わたし」の記載が見られる。渡船は2艘、両村で1艘づつ持った。明治1
2年両村の協力で木橋が架けられ、渡しを廃止した。安藤広重の錦絵に「逆井の渡し」として描かれ
ている。現在逆井橋が架かっている。逆井橋は都電の専用橋だったものを一般橋に改造したもので、
長い間無名だった。最近命名したものだろう。隣の「虹の大橋」も長い工事の末に平成14年漸く完
成した。
 


■亀戸
緑地公園

 亀戸9丁目8番1号にある区立公園。


■亀戸浅間
公園

 亀戸9丁目15番1号にある区立公園。


■亀戸浅間神社

 亀戸9丁目15番7号にある中社。社伝によれば、日本武尊東征の砌、弟橘媛は海神の怒りを宥め
るため、走水の海に身を投じた。後に媛の笄〔こうがい〕が現在の亀戸9丁目の辺り(旧称高貝洲)
に流れ着いた。これを聞いた景行天皇は、この地に笄を埋めて塚を築き、祠を建てた。
 大永七年(1527)里人が甘露寺元長に頼み込んで、富士山より木花咲耶姫を勧請し、笄塚の上
に社殿を建てて祀った。これが亀戸浅間神社の創祀であり、富士塚の誕生とされる。
 安政二年(1855)の大地震で社殿が倒壊。明治11年富士山より溶岩を運んで富士塚を築き、
その上に社殿を再建した。大正12年関東大震災により、再び社殿は被害を受け、現在の社殿はその
後に建てられたもの。戦災を免れ、戦前の姿を残す貴重な木造建築の社殿だ。
 「新編武蔵風土記稿」亀戸村の項に、

   冨士浅間社、普門院持
   末社稲荷。

 とあり、境内の案内板に、

   亀戸浅間神社は、社伝によれば大永七年(1527)に創建されました。祭神は木花咲耶
   比売命です。もともとこの辺りの地は高貝洲と呼ばれていました。これは日本武尊が東征
   した時に海が荒れ狂ったため、弟橘媛が海に身を投じ、その際に身につけていた笄が亀戸
   浅間神社のあるあたりに流れ着いたことによるものです。のちに景行天皇がその地に笄塚
   を建てたとされています。この笄塚の場所に富士塚が築かれ、江戸時代には多くの信仰を
   集めました。
   本殿は安政二年(1855)の江戸大地震、大正12年の関東大震災で被災しました。現
   在の本殿は昭和初年に建立されたもので、平成10年の大島・亀戸・小松川防災再開発事
   業に伴って、今の位置に移動しています。境内には亀戸の富士塚や享和元年(1801)
   在銘の富士せんげん・亀戸天神・六阿みだ・あさくさ道道標(いずれも江東区指定有形文
   化財)など数多くの文化財が残されています。また嘗て神社境内のそばを通っていた城東
   電気軌道の線路も残され、関東最大の茅の輪を作る(茅の輪くぐり)神事が年2回行われ
   るなど、亀戸東部地域の歴史や民俗を伝える鎮守として、人々の信仰を集めています。

 とあり、「江東区の民俗城東編」に、

   伝承によれば、大永七年(1527)に里人甘露寺元長が浅間神社を勧請した。江戸時代
   には亀戸・大島・吾嬬の富士講の道場として富士山型の山が築かれた。
   境内には富士講関係の石造遣物が多く残され、石段は宝暦三年(一七五三)に奉納され、
   深川の山玉講が水盤を寛政七年(1795)に奉納した。明治三三年には丸不二講が天水
   桶を奉納した。丸不二講は亀戸村の講であり、亀戸九丁目の鈴木氏宅には富士講の行衣が
   残され、江東区の有形文化財に登録されている。富士講による富士登山は昭和初期に行わ
   れたのが最後という。
   また明治三三年に奉納された「たのみの辞碑」によれば、この浅間山は橘媛の笄が漂着し
   た地で、笄洲といい、後に浅間社をお祭りしたという。古来石祠のみだったが、明治八年
   に本社・拝殿を塚の上に建築した。この社は戦災の時に大きな被害を受けなかったので、
   昭和九年に建てられた社殿が残った。氏子範囲は亀戸九丁目である。


 とある。神輿庫は立派だよ。

 
冨士浅間道道標

 境内にある。江戸時代の道標は、亀戸地区に多く残っている。中でも逆井橋から浅間神社の前を通
り、北西に進んでいく道は「六阿弥陀道」と呼ばれ、江戸時代の阿弥陀詣での道として春秋の彼岸に
は、近郷近在の参詣人で賑わった。江戸近郊の6ヶ寺を巡る六阿弥陀詣でのコースの中に、亀戸の常
光寺が含まれている。そこへの道を示す道標が浅間神社にある。道標の正面には、

   是より右
   冨士せんげん
   亀戸天神     道
   六阿ミだ
   あさくさ


 とあり、浅間神社、亀戸天神、常光寺、香取神社、吾嬬森神社、浅草の各方面に通じる道であるこ
とを示していた。この道は逆井の渡しから浅間神社までが「冨士せんげん道」で、そこから水神社ま
でが「亀戸天神道・六阿弥陀道・浅草道」であり、水神社から二手に分かれ、左が「亀戸天神道」、
右が「六阿弥陀道・浅草道」となる。そして六阿弥陀の常光寺までが、「六阿弥陀道・浅草道」で、
そこから先が「浅草道」だ。これらの道は現在拡張されたものの昔のまま残っている。

   富士せんげん道道標 享和元年在銘
   この道標は、浅間神社、亀戸天神社、常光寺(六阿弥陀)、浅草へ至る道しるべです。享
   和元年(1801)十月良歓が願主となり、本所六ツ目の地蔵講中が建てました。堅川沿
   いの佐倉道と、浅間神社に至る道との分岐点に、正面を東に向けて建っていたと推測され
   ます。当時の絵図に見られるように、浅間神社から北西方向に道なりに進むと水神社に行
   き当たり、左手に折れると亀戸天神社へ、右手に折れると常光寺に至ります。浅草へは、
   常光寺から北十間川沿いの道を辿ったものと思われます。
   道標は角柱型で、頂部は若干盛り上がっています。正面の緑・両側面・背面はノミ切り仕
   上げで、一定の幅で鑿筋を残しています。正面中央は一段低く彫り、表面を砥石による磨
   き仕上げとして、銘を刻んでいます。
   道標は、浅間神社ほかへの江戸時代以来の古い参詣道を示すとともに、江東区域の名所を
   表示するものとしても貴重な石造物です。また、近代以降、道の改変が行なわれているこ
   とから、江戸時代以来の古道を確認するための手がかりを与えてくれる地域の資料として
   重要なものです。
   平成23年1月                         江東区教育委員会

 ※道標のあった旧位置は、佐倉道と亀戸9丁目13番(城東社会保険病院)と14番(キャピタル
ガーデン東大島ソレア)の間の路地の追分。ここに東を正面に建てられていた。

 亀戸の富士塚跡
 境内にあったが撤去され、昔とは随分様子が変わっている。毎年6月下旬に境内にお目見えする、
大きさが関東一といわれる「茅の輪」、弟橘比売ゆかりの「笄塚」、そしてその笄塚とされる塚を利
用して築かれた「亀戸の富士塚」で有名な神社で、笄塚には倭建命の妻弟橘媛が、荒れた海を鎮める
ため海に身を投げた後、笄が流れ着いたという逸話がある。安政二年(1855)の大地震で社殿が
倒壊したが、明治11年富士山より溶岩を運んで富士塚を築き、その上に社殿を再建した。

   
亀戸の富士塚
   富士山を信仰の対象とする富士信仰は、江戸時代後期には「江戸八百八講」と呼ばれるほ
   ど多くの富士講を誕生させました。そのため、各地には富士山を模した富士塚が多数築か
   れ、講員はそれに登って富士登山の代わりとしました。
   亀戸の富士塚は、弟橘姫の笄塚(こうがいづか)と伝えられている従来からあった塚を再
   利用する形となっています。頂上部は広く平坦に整地され、そこに浅間神社が富士山の方
   向(西南)を向いて鎮座していました。塚の側面は溶岩(黒ボク)で覆われ、山腹の正面
   (西南側)及び左右側面には、登山道に見立てた石段があり、麓にかけて石碑が23基、
   石猿が2体附属しています。このうち左側石段脇の烏帽子岩、左側面上部にある小御岳山
   碑、右側面石段脇の経ヶ岳碑の3碑は、当所の位置からは動いていますが、実際の富士山
   と共通させた「名所石」で、富士塚の構成上重要な石造物となっています。そのほかの石
   碑は、当地で活動していた富士講のひとつ丸富士講のもので、明治以降の年号が彫ってあ
   ります。丸富士講は、亀戸・大島・南堅川(以上江東区)・柳原(千代田区)・向島(墨
   田区)などの講員から成り、その活動は大正時代頃まで続けられました。
   平成9年東京都による亀戸・大島・小松川地区再開発事業に伴い、塚上にあった浅間神社
   は隣接地に移転しました。
   平成13年3月                         江東区教育委員会

 撤去遷座した社祠の跡地には、

   
亀戸の富士塚
    
浅間神社本殿跡地

 と刻した碑が据えられている。

 下浅間神社
 境内にある小祠。開運招福・縁結びの祭神は大黒天と恵比寿。


 稲荷神社
 境内にある。五穀豊穣・商工繁栄の祭神は宇迦之御魂神(うかのみたましん)。


 六ツ目地蔵尊
 境内にある。

   六ツ目地蔵尊 有形民俗文化財
   庚申塔 元禄十年(1697)在銘
   法華経供養塔 元禄十四年(1701)在銘
   供養塔(破損仏)伝馬頭観音
   地蔵供養塔 天明二年(1782)在銘
   地蔵供養塔 当社庵主一畳在銘
   地蔵供養塔
   観音供養塔 安永八年(1779)在銘
   如意輪観音供養塔

 
敷石及修繕費奉納碑
 境内にある有形文化財(歴史資料)大正5年在銘。

   奉納 敷石及修繕費
      大正五年十一月


 
身禄歌碑
 境内にある有形民俗文化財。

 水盤(水舎)
 境内にある有形民俗文化財。寛政七年(1795)在銘。

 たのみの辞碑
 富士塚の麓西側にある。周囲は花崗岩で囲まれ、コンクリートで固められている。総高102cm
×最大幅67cmの自然石である。正面の碑文は、以下の通り。

   「明治庚子年」は明治三三年にあたり、これ以前には、浅間神社自身も衰退し、富士塚も
   荒廃していたことを示している。また、浅間神社付近が、大昔笄洲と呼ばれていたという
   伝説を記す、貴重な資料でもある。

 紀念碑建設費奉納碑
 境内にある有形文化財(歴史資料)。大正8年在銘。

 石燈籠1 一対
 境内にある有形文化財(建造物)。大正8年在銘


 
石燈籠2 一対
 境内にある有形文化財(建造物)。二十六夜同行奉納。

 石鳥居 3基
 ①大正7年在銘 有形文化財(建造物)、②大正7年在銘有形文化財(建造物)、③昭和3年在銘
六之橋若者中(青年団)奉納の3基。

 新築木材一式奉納碑
 境内にある有形文化財(歴史資料)。
明治11年在銘。


   
奉納 新築木材一式


 修庭記碑
 境内にある。

   有形文化財(歴史資料) 大正8年在銘
   
修庭

   神住則地平地平則民生安民生者希安即須使神住於其地神喜清浄幽厳即神庭須清潔荘重浅間
   神社者祭祀木花咲耶姫者體現崇美表象浄高神也一層要崇高祀於茲豦浅間神社者元来鎮守亀
   戸町高貝洲六津目本所出村深川出村北本所出村神威顕赫詣於社揩遊於神庭者皆感得其神徳
   為所領民深信敬雖然時風雨之變有庭苑或被害以是明治三十五年整理山形大正五年修繕宮社
   築土祠苑完備然次歳大正六年十月一日暴風雨振天地海嘯激到神域忽歸荒廃爾来惨状及近時
   背神意有志者為民生太憂之茲高貝洲六津目之人横須賀清吉氏慨此状欲恢復之挺身説象民募
   寄附努力専心諸人感其誠意献金者多高貝洲六津目所在之諸産業会社亦大賛此挙為多額之寄
   附資金充集於是大正七年七月興修築之工事或建華表或築土或植樹或堀池整修際努荒苑恢復
   形容倍舊森厳崇高雅美清浄共備添神威一段最能適當祀神之旨詣於此社者亦亨受清霊民生為
   可安今當成工茲作修庭記記念此事以所使衆生有所思為也           亀香喜刻

 城東電車のレール
 レール一本が奉納されている。

   城東電車は
   大正2年 城東電気軌道株式会社設立
   大正6年 錦糸町・西荒川間開通
   昭和17年 市営となる
   昭和18年 都制施行とともに都電となる
   昭和43年まで浅間神社前を走っていました。
   大正時代に作られたイギリス製のレールです
   亀戸9丁目町会より寄贈されました 
   平成11年3月20日
 


■浅間小学校 
統合閉校

 亀戸9丁目22番4号にあった区立校。「あさま」ではなく「せんげん」と読む。大正15年8月
19日当時亀戸字高貝州と呼ばれていた亀戸9丁目に木造2階建ての校舎を新築し、「東京府南葛飾
郡浅間尋常高等小学校」として開校し、1214名でスタートした。昭和7年南葛飾郡が東京市に編
入され、行政区として城東区が誕生し、「東京府東京市城東区浅間尋常高等小学校」と改称。昭和1
1年竪川尋常小学校が設立され1年から4年までの生徒が移る。同12年4月高等小学校となるため
尋常科総を移し、「東京府東京都城東区浅間高等小学校」と改称。同16年国民学校令により「東京
府東京市浅間国民学校」と改称、同18年都制施行により「東京都浅間国民学校」と改称。在校生1
377名26学級の大規模校となった。なお高等科とは現在の中学校に相当する。昭和20年3月の
愚かなアメリカ軍による非人道的無差別空爆「東京大空襲」の際、城東地区で唯一戦災から免れ、地
域の罹災者の避難場所となった。8月日本はならず者国家アメリカの軍門に降り敗戦、以後属国とな
り操られるままだ。基地問題、思いやり予算、自衛隊の参戦などなど好きなことをいってるだろ?
 同22年アメリカの強制による学制改革により「東京都江東区立浅間小学校」と改称し、高等科を
廃し、廃校となった竪川国民学校の児童を戻して1年~6年生までの学校となった。同31年創立3
0周年記念式典。校旗校歌制定。

 校歌
「鉄を鍛える」 作詞・深尾須磨子  作曲・深井史郎
  1.鉄を鍛える工場の
    忙しく働く町のように
    我等も鍛えて逞しく
    進んで励む生活だ
    我等の浅間小学校。
  2.空を浮かべた荒川の
    仲良く流れる水のように
    我等も一緒に決まりよく
    学んで遊ぶ生活だ
    我等の浅間小学校
  3.富士に連なる浅間の
    緑湛えた木々のように
    我等も明るく健やかに
    元気に育つ生活だ
    我等の浅間小学校


 同33年校舎改築鉄筋コンクリート造り12教室第1期・2期工事竣工。同36年3期工事13教
室竣工。同48年体育館改築完了。同55年プレハブ2教室設置。同56年竪川小学校を再分校。同
60年校舎全面建替えのため亀戸少年野球場に建てた仮校舎に移転。同61年新校舎落成。平成8年
開校70周年記念式典。同12年就学児童減少による学校適正配置計画により、竪川小学校と統合す
るため閉校。校地校舎は新設の「江東区立浅間竪川小学校」に引き継がれた。
 


■亀戸
九丁目公園

 亀戸9丁目19番17号、20番4号に跨ってある区立公園。


■浅間竪川小学校
(平成11年10月31日開校記念日)
 亀戸9丁目22番4号にある区立校。「せんげんたてかわ」と読む。通称は「せんたて」。平成1
2年4月第一次江東区立学校適正配置計画により、浅間小学校とその浅間小から分校した竪川小学校
が統合されて、「江東区立浅間竪川小学校」として創立した。本来なら「浅間小学校」とすべきなの
だが、民主主義とやらの弊害で竪川のPTAの顔を立てる形で命名された。駅名などにも見られる両
方併記だ。情けない! 同13年10月31日開校記念式典。

 校歌
「欅の新芽」 作詞作曲・青島広志
  1.欅の新芽が伸びる
    新しい季節が始まる
    希望に燃える瞳開いて
    友だち 先生 仲間たち
    手を繋ぎ さあ! 浅間竪川小学校
    浅間竪川小学校って 歌おうよ
  2.富士山輝く空に
    爽やかな日々が過ぎて行く
    友だち同士 心繋いで
    楽しい時も 悲しい時も
    いつでも ほら! 浅間竪川小学校
    浅間竪川小学校が 大好きだ
  3.山茶花の花が揺れる
    輝く未来が目の前に
    優しく強く勇気育てて
    近くに居ても遠くでも
    いつまでも そう! 浅間竪川小学校
    浅間竪川小学校を忘れない


 ケヤキ
 両校のシンボル樹だったケヤキをシンボルとして戴いている。


■豊川稲荷社 ◇

 亀戸9丁目32番3号に牧野ビル裏の敷地にある小祠。屋敷神か?
 


元佐倉道(旧千葉街道)
 『水戸佐倉道文間延絵図』には、「元佐倉通り逆井道、江戸両国橋え道法三里」と記されている。
両国から堅川の北岸沿いの道に東へ向かい、かつての中川を逆井の渡しで渡って、江戸川区内をほぼ
直線で北東に進み、小岩・市川関所の手前で水戸佐倉道に合流する。『水戸佐倉道文間延絵図』には、
この合流地点(下総側からみれば追分)から小岩一里塚(昭和の中頃まで残存)に至る区間が描かれ
ている。この「元佐倉通り逆井道」の道筋は明治期からは「千葉街道」と呼ばれ、ことに江戸川区中
央の八蔵橋以東は、現在も主要道路の1つになっている。明治10年の下小岩村の「明細帳」(石井
家文書)
に、

   古ヘハ元佐倉道ト唱ヘ、本村ヨリ八幡町ニ至リ房総通路ナリシヲ、
   明治八年中二等道路千葉街道ト改ム


 とあり、この明治8年の改称以前は、この道筋が元佐倉道とよばれていたことが解る。恐らくは近
世を通じて「元佐倉道」の名称で通用していた。『新編武蔵風土記稿』には、

   元佐倉道とて本所堅川通り亀戸逆井を渡を渉り、小松川村小名四ッ又
   と云処より両路に別れ、左して下総国市川村に達す


 とある。四ッ又(四股)は、現在の荒川・中川の放水路開鑿によって川中に没したたところだが、
この分岐(十字路)を右にとれば、「今井の渡し」を渡って下総行徳へ至る。
 管見(私見)する限りにおいて、この元佐倉道の成立を示す史料はないが、名称からすれば水戸佐
倉道に先行する街道という印象を受ける。しかるに戦国時代以前にこの道筋のあったことを示す史料
は見あたらず、周辺集落の形成もきわめて未成熟であったと思う。ただし江戸川区鹿骨の由来は、鹿
島神が、常陸鹿嶋から奈良に鹿を輸送する伝説に基づくし、奈良の春日大社の鹿は鹿島産で、春日神
は鹿島神を藤原氏が勧請したもの。藤原氏の先祖は常陸の中臣氏とくれば、鹿を江戸湾の海岸沿いで
運ぶ道筋があったと考えられる。また『更級日記』の作者菅原孝標女が、父の帰任に従って海岸伝い
に港区芝に入っている。任地が市原だからわざわざ奥州街道まで出る遠回りは住まい。公道でないま
でも通行できた道はあったと思われる。ただ戦国時代には新宿経由の佐倉道がすくなくとも臼井まで
伝馬通行の要路として成立していたと思われることから、同時期に並行して街道の体をなしていたと
は考えにくい。なぜなら逆井渡しを渡る小松川経由の元佐倉道の方が、新宿や千住を経由する佐倉道
よりも短距離であり、途中から船路も利用できることから、これが整備されていれば早くから至便の
総武通路として発展していたはずだからだ。ために名称の上では先行を窺わせるものの、公道として
の起源は新宿経由の道筋を遡るものではないと考えるべきだろう。
 また江戸後期には、深川→砂村→船堀→今井→行徳→鬼高のコースで元佐倉道に合流する道もでき
た。

 逆井の渡し
 逆井橋の辺りにあった渡船。

   逆井の渡し
   中川を渡す逆井の渡しは、『新編武蔵風土記稿』に

    中川、村の西を流る、幅四十間許、対岸は亀戸村なり、ここに渡船場あり、元逆井村
    にありし渡しなるを以て、今も逆井の渡しとよべり、船2艘あり、一は亀戸村の持、
    一は当村持


   とあるように、もとは北隣りの逆井村にあったものが、その後西小松川村(現在の逆井橋
   付近)に移転したもののようです。ここに江戸と房総を蒸すぶ街道がひらかれたからでし
   た。この街道を元佐倉道といい、区内を北東にほぼ直線で横切って、小岩市川の渡しを渡
   り、市川から佐倉、成田へ向かいました。明治に入って千葉街道とよばれるようになりま
   した。
   逆井の渡し付近は風景も良く安藤広重が「名所江戸百景」のひとつに描いています。明治
   12年渡し跡に橋が架けられて、逆井の渡しは廃止されました。架橋当時は村費による架
   橋費を補うために通行料(橋銭)を徴収する賃取橋でした。明治27年に橋銭徴収は終わ
   り、明治31年に東京府によって架けかえられています。昭和43年には、江戸川・江東
   両区の協力で鉄橋になっています。その後、旧中川沿岸の景観整備や、虹の大橋やもみじ
   大橋・さくら大橋がかけられて、現在の姿になりました。          江戸川区
 


■亀戸
九丁目緑道公園

 亀戸9丁目33番30号にある区立公園。


■ふれあい橋

 亀戸9丁目34番1号先にある人道橋。

 
「平和の祈り」
 橋の袂にあるオブジェ。


■亀戸
運動公園

 亀戸9丁目37番23号にある区立公園。
 



【北砂】(きたすな)1~7丁目                   昭和41年1月1日
 砂村。昭和7年城東区が成立して南葛飾郡砂町大字八右衛門・久左衛門・治兵衛・亀高・荻・又
兵衛・太郎兵衛・大塚・中田の9町をあわせた町域を北砂町とした。同22年江東区所属、同41
年新住居表示を実施して西部地区を現行の「北砂」、東部地区を東砂1~5丁目とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『江東区史』『江東の歴史』など。

 北砂について
 砂町の北部地区の意。砂町の由来は「砂町」を参照されたい。
 


■北砂一丁目公園

 北砂1丁目1番6号にある区立公園。


■「湧く」

 北砂1丁目2番9号先、クローバー橋の袂にある堀内健二の石の彫刻。


■江東区スポーツ会館

 北砂1丁目2番9号にある区の施設。

 
「展開」
 江東スポーツ会館の南側の入口を入った右側にある中嶋一雄の石のオブジェ。


■左行秀
(さのゆきひで)作刀旧跡碑

 北砂1丁目2番9号の江東スポーツ会館の三島橋東交差点側に石碑が建っている。江戸時代、北砂
1丁目18番・19番・2丁目17番に跨って土佐藩の下屋敷があり、作刀場はそこにあった。

   左行秀鍛錬場跡
   左行秀は、幕末の著名な刀工で、文化十年(1813)筑前国(福岡県)で生まれ、明治
   20年に75歳で没しました。豊永久兵衛(のち久左衛門)ともいい、南北朝時代の名工
   「左門字」の流れを汲む意から「左」の号を用いました。
   天保年間(1830~1844)の初めに江戸へ出て、刀工清水久義に入門し、弘化三年
   (1846)江戸から土佐(高知県)へ移り、翌弘化四年(1847)より土佐藩の城下
   で鍛刀を始めました。安政三年(1856)5月三人扶持で刀工・鍛冶職として土佐藩に
   召し抱えられました。安政七年(1860)2月に江戸出府が命じられ、当時この付近に
   あった土佐藩下屋敷に滞在し、鍛錬場を築き刀剣を製造しました。ここで鍛刀した作品に
   は「於東武土佐藩左行秀造之 慶応三年二月吉日」「於東武砂村元八幡宮北左行秀造之 
   慶応三年二月吉日」などの銘が見られます。また、下屋敷内では当時鉄砲の製造も行って
   おり、これに関わったともいわれています。明治元年(1868)土佐へ戻り、明治3年
   まで作刀を続けました。
   ここに残る石標柱は、左行秀の鍛錬場跡を示すために、東京百年の記念事業として昭和4
   3年に建てられたものです。

   
刀工 左行秀作刀旧跡
   左行秀は江戸時代末期復古調の刀工として有名であった 行秀は北九州に生れ刀工となり
   江戸にでて水心子正秀の門人清水久義の弟子となりのち土佐藩の藩工となった 国鉄小名
   木川駅西側付近にあった土佐藩主山内家の下屋敷において作刀したことがある 行秀の作
   刀のなかに富賀岡八幡宮北辺おいてと銘のあるものはこの下屋敷において作刀したことを
   伝えている 行秀は明治初年高知県に帰り明治18年74歳をもって死去した。
   昭和43年10月1日                       江東区第28号


■北砂緑道公園

 北砂1丁目2番と2丁目15・16番の北方、小名木川沿いにる区立公園。

 
「渦中のゴンベッサ」 ✔
 園内にある井上猛雄の作品。焼き物か?

 
「草花の譜」
 園内にある岡本助蔵の壁面アート。


■北砂水上公園

 北砂1丁目2番1号にある区立公園。四季の草花がカラフルに描かれている。

 

 園内にあるオブジェ。


■北砂一丁目第二児童遊園

 北砂1丁目3番17号にある区立公園。
 


■北砂第二公園

 北砂1丁目3番25号にある区立公園。


■北砂小学校
(昭和50年6月10日開校記念日)
 北砂1丁目3番36号にある区立校。昭和50年4月東京亜鉛鍍金移転跡の現在地に鉄筋コンクリ
ート造り4階建て校舎を新築し、「東京都江東区北砂小学校」として開校した。これは同工場跡地の
都営北砂一丁目団地建設に伴う就学児童の急増に対処するもので、第四砂町小学校から分校して設立
し、305名でスタートした。この時体育館がまだなかったので入学式ぱ玄関で行った。5月校歌制
定。

 校歌
「北砂の子」 作詞・初代校長瀬田隆三郎  作曲・音楽教諭原田薫
  1.あたらしい光求めて
    今進む 力の限り
    手と手を取って さあ行こう
    希望の虹が待っている
    北砂 北砂小学校
  2.響き合い 歌声弾み
    今伸びる 心と身体
    励ましあって さあ行こう
    世界の友が待っている
    北砂 北砂小学校


 6月10日開校式。9月から都営住宅の入居が始まり、児童数が急増し1、2年生で2学級増えた。
12月体育館・プール完成。同51年体育館こけら落とし・東京消防庁音楽隊記念演奏会。同52年
校舎増築。同58年校庭に丸太遊具完成。同61年伊豆大島噴火による緊急入学児童47名転入。同
63年校庭改修・スプリンクラー設置。平成元年ジョン万次郎宅跡プレート設置。同2年ジョン万次
郎の縁で高知県土佐清水市中浜小学校と姉妹校。同6年開校20周年記念式典。同7年エコスペース
完成。同9年コンピュータルーム。同12年地方自治法改正により東京都の冠称を外し「江東区北砂
小学校」と改称。この年以降生徒減少200名前後を推移。
 


■中浜万次郎宅跡(ジョン万次郎宅跡)

 北砂1丁目3番の北砂小学校の辺りにあった。北砂小学校内には「ジョン万ルーム」と称する資料
室があり、当時を物語る貴重な資料が展示されている。
 中浜万次郎は文政十年(1827)土佐の中ノ浜の漁師の家に生まれた。14歳の時漁に出て遭難
し、無人島(鳥島)に漂着した。半年後に米国の捕鯨船に救助され、以後嘉永四年(1851)に帰
国するまで、の大半を米国で過ごし教育を受けた。帰国後は土佐藩に登用されるが、2年後には関八
州代官江川太郎左衛門英龍の願いにより、幕府に登用され、欧米船の頻繁な来航という状況下で、翻
訳兼外交顧問として活躍した。 明治元年再び土佐藩に戻るが、万次郎の長男の著した『中濱萬次郎
傳』には、この時以中浜家は砂村にあった土佐藩の下屋敷に住んだことが書かれている。この下屋敷
は文久二年版「深川絵図」によれば、現在の北砂小学校の辺りに相当する。万次郎は明治13年まで
住み、東大の前身開成学校の教授などを歴任して、明治31年71歳で没した。
 区の説明板が小学校の柵塀に取りつけてある。

   中浜万次郎宅跡(ジョン万次郎旧居跡)
   「ジョン万次郎」の名で知られる中浜万次郎は、文政十年(1827)土佐国(高知県)
   の猟師の家に生まれ、明治31年(1898)に没しました。
   万次郎は、14歳の時に漁に出て遭難し、無人島に漂着しましたが、アメリカの捕鯨船に
   救助され、24歳で帰国するまでの大半をアメリカで過しました。帰国後は土佐藩、つい
   で幕府に登用され、アメリカの情報を伝えるとともに、通訳や航海士などとして活躍しま
   した。明治元年万次郎は再び土佐藩に登用され、翌年から、この地にあった同藩の下屋敷
   の中に住みました。この下屋敷は6600坪(21780㎡)ほどあり、庭には広大な池
   があったようです。万次郎は開成学校(東京大学の前身)の教授などを勤めながら11年
   間をここで過ごしました。
   平成21年10月                        江東区教育委員会
 


■奥村稲荷大明神

 北砂1丁目4番24号の安武宅の敷地に嵌め込まれたようにある小祠。
 


■稲荷大明神社

 北砂1丁目5番4号の戦災資料センターの続き隣にある公益財団法人政治経済研究所のビルの西北
角に鎮座している小祠。


■世界の子どもの平和像
 稲荷の隣にある大きな卵と少女とひまわりの銅像。


■「戦火の下で」
 戦災資料センターの前にある河野新の作品。我が子を抱きしめる母親の半本像半身像。昭和20年
3月10日未の大空襲で10万人以上が亡くなった。


■東京大空襲・戦災資料センター
増築のため平成19年1月4日まで休館した
 北砂1丁目5番4号にある。昭和35年より、東京大空襲・戦災の文献や物品を収集してきた「東
京空襲を記録する会」の資料を活用し、市民の蒙った戦争の惨禍を次代に語りつぎ、平和の研究と学
習に役立つ場になるように、、平成14年3月9日に(財)政治経済研究所により開館した。
 開館時間 12時~午後4時まで。休館日 月曜日・火曜日、年末年始。
有料

 
東京大空襲
 昭和20年3月10日未明、約300機のアメリカ軍爆撃機B29による下町地区を目標にした悪
魔のような無差別爆撃は、人口過密地帯を火炎地獄とさせ、罹災者は100万人を超え、推定10万
人もの貴い生命がアメリカ人に奪われた。イラクのバクダッドの比じゃあない。そのアメリカ人に小
泉純一郎なる大馬鹿野郎は擦り寄って胡麻擂ったんだぜ。蓋し売国奴だ。
 江東区、当時は城東区の被害の最も大きかったのはこの戦災資料センターのある辺りだ。現在の様
子からは全く想像がつかないが、当時は火災地獄となった一帯・・・その時代に生まれていないお前
さんたちにとっては、能天気に、考えることもないだろうが、何故このような事が起きてしまったの
か・・・とか、戦争の惨禍などを考えたりすることも大切だと思うよ。日本だけが悪い訳じゃなし、
アメリカだけが正義な訳もなく、そこんところはよろしく。小泉のようにアメリカにべったりでペコ
ペコする必要もないし、安倍のように憲法を改正して軍国主義に陥り、肩肘張って復讐を唱えること
もない。日本は潜在的核保有国だ。北朝鮮が核実験やったら、此処を先途と核保有を唱える国会議員
が20%もいるご時勢。日本のお題目は「対米復讐」、300年の恨みを忘れずに晴らす民族性、残
念ながらアメリカの潰滅も時間の問題。インターネットの世の中では、アメリカの全都市を爆破させ
るなど、日本の国力を持ってすれば朝飯前の事柄だ。だからこそアメリカ軍が日本から撤退しないの
だ。アメリカ軍は同盟国として日本を守るためにいるんじゃないぞ。日本が叛乱を起こしてアメリカ
を潰滅させないように監視してるんだ。アメリカの仮想敵国は日本、日本の復讐相手はアメリカ、お
互い阿吽の呼吸だ。北朝鮮金正日政権は決して滅ばない。アメリカが滅ぼさない。もし北朝鮮が地上
から消えて東アジアに平和の環境が出来たら、アメリカ軍の日本駐留理由がなくなる。そうすれば日
本が野放しになる。アメリカにとっては背筋の凍る最も恐ろしい情況となる。北朝鮮が日本に攻めて
くる条件がないだろう。日本が核兵器を保有すれば必ずアメリカ本土に向けられる。日本には広島・
長崎の仇を報ずる条件がある。アメリカは「いつかは日本がやってくる」と恐れている。しかるに残
念ながら見せ掛けにしろ、衣の下の隠し鎧にしろ、謙っている日本を潰滅する理由はアメリカにはな
いのだ。
 国会議員の中にめらめらと復讐心を燃やしているなんざ、ごろごろいるよ。教育基本法改法→防衛
省昇格→新憲法制定→国軍再建(陸・海軍の再建と空軍の創設)→国防省に名称変更(陸・海・空軍
省設置)→徴兵制復活。これが安倍晋三の基本ラインだ。
 だから安倍は一服盛られたのだ。今、憲法改正を口にする奴がいるか。日本国憲法はアメリカが拵
えた憲法だぜ。アメリカの御許しなく替えられる訳がねえだろう。民主党が天下を取ってアメリカに
逆らおうとしている。小沢は賢いから後ろに下がった。鳩山は危ねえよ。安倍の二の舞に・・・
 原子力空母大和・紀伊・尾張・信濃・武蔵の遊弋する日も近い。おいら生きてるかなぁ!
 

■で、本土空爆の指揮を取っていたカーチス・E・ルメイ少将の屁理屈
 「明かに非戦闘員を狙った」とする世界の批判に対してルメイは、戦後の回想して次の様に述べて
いる。

   俺は日本の民間人を殺しにいったんじゃぁねえんだよ。日本の軍需工場を破壊しにいった
   んだ。日本の都市の民家は全て軍需工場だったろうが。ある家がボルトを作り、隣の家が
   ナットを作り、向かいの家がワッシャーを作ってたんだ。木と紙でできた民家の1軒1軒
   が、全て、世界の正義であるのアメリカを攻撃する武器工場になってたんだよ。そんな日
   本野郎を皆殺しにして何が悪いってんだ?
 
    アメリカ人は、ドイツ人を憎むことを学ばんけりゃならねえが、ジャップ(日本人)に
   対しては憎しみが自然と湧いてくる・・・これはかつてインディアンたちと戦った時と同
   様に自然なものだ。


 カーチス・E・ルメイは、グアム島在米空軍第21爆撃隊司令として、広島・長崎に投下された原
子爆弾にも深く関わっていた。

  昭和39年、日本政府は「日本の航空自衛隊の育成に協力した」との理由から、
  この悪魔のようなルメイに対して
勲一等旭日大綬章を贈っている。

 時の総理大臣は、後にノーベル平和賞を受賞した佐藤栄作。安倍晋三の大叔父だ。国会議員の中に
対米追従主義の売国奴が多数居る。財務省の隠し金や消えた年金、国際貢献、テロ対策、その他の不
明金はアメリカというブラックホールに吸い取られているという訳さ。アメリカという国家、アメリ
カ人という白人を地上から抹消しなければ、日本人の幸はない。それを日本がやるんじゃないかとい
う心配から、アメリカは日本を属国とし、在日米軍という日本動向監視軍は駐箚するのだ。その1つ
の方向として安倍晋三一派が、戦前への回帰を試みようとして、そのために安倍は一服盛られ退けら
れたという訳。日米関係の内実は表面上の友好関係とは打って変わって険悪なのだ。自民党・官僚の
中にもフルブライト系の親米派と国粋派が鎬を削っている。
 お前さんもアメリカ被れしている場合じゃねえぞ。
 因みに、カーチス・ルメイも御多分に漏れず、ユダヤ人だ。
 


■北砂一丁目南公園

 北砂1丁目15番1号にある区立公園。


■北砂一丁目児童遊園

 北砂1丁目15番13号にある区立公園。


■北砂一丁目越中島貨物線ガード

 北砂1丁目15番を東西に貫く架道橋。東から西への一方通行。高さ1m60cm。


■左行秀
(さのゆきひで)作刀旧跡
 北砂1丁目18番・19番・2丁目17番に跨って土佐藩の下屋敷があり、そこにあった。1丁目
2番の江東スポーツセンターの三島橋東交差点側に石碑が建っている。幕末に有名だった刀工だ。文
化十年(1813)筑前に生まれ、通称を豊永久左衛門といい、正宗門下、左文字の祖三郎左衛門の
流れを汲み、「左」の号を用いた。弘化四年(1847)土佐藩の城下に入ることを許され、文久二
年(1862)頃に、藩主山内容堂(豊信)に従って江戸藩邸に入った。ここで鍛刀した作品では、
銘「於東武土佐藩左行秀造之慶応三年二月日」 長さ76.2cm銘「於東部砂村元八幡北左行秀造慶
応三年二月日」 長さ74.2cm、などが現存している。日本の日本刀や工芸品の良品は、明治時代
に売り飛ばしたことと、昭和20年のアメリカ軍の無差別空爆と戦後のアメリカ軍による没収強奪に
より殆どが失われた。戦前の物が残っているのは奇跡に近い。スミソニアン博物館の倉庫には、手入
れもされず、ぶん投げられたままの国宝が、拉致被害者と同じように帰りを待ち望んでいる。アメリ
カの顔色を窺う日本政府は見て見ぬ振りだ。
 行秀の作刀は、明治3年までで、作風は長大で身幅の広い鎬(しのぎ)造りの刀が多く、次いで脇
差で、平造りの短刀は非常に少ないんだよ。
 


■城東警察署

 北砂2丁目1番にある。
 


■志演神社・尊空稲荷神社 → ■志演尊空神社

 北砂2丁目1番37号にある。しのぶじんじゃ 寛永元年(1624)菅原道真より22代目の長
寛が、村民の願いを受けて稲荷大神を鎮座した。また五代将軍綱吉が、鷹狩りの途中に参拝した折、
「志演神社」の名を授けたという。疫病退散の護摩を焚いたこともあるため、別名「護摩の稲荷」と
も呼ばれている。境内の力石には「寛文四甲辰二月(1664)志演石」の刻銘があることから一番
古いとされてきたが、現在日本で一番古い「刻字」のある力石は、埼玉県久喜市樋の口の八幡神社に
ある「寛永九年(1632)」であり、同社には二番目に古い「万治(1658~60)」ものもあ
るので「志演石」は三番目となった。都内では依然として一番だ。現在は2丁目13番にあった尊空
神社を合祀している。鳥居と水盤は尊空神社のものだ。記録があまり残っていない。「新編武蔵風土
記稿」に、

   (八右衛門新田)稲荷社
   村の鎮守なり。志演稲荷と号す。深川富川町利益院持。社南に石燈籠二基あり。銘に正保
   四年織田長好寄進と彫れり。


 とあり、

   寛永元年、深川郷唐島開発の際当地に訪れた菅原長寛が村民の要請を受けて稲荷大神を鎮
   座して深川稲荷と社号を称し、土地の氏神としてあがめた。元禄年間、時の将軍徳川綱吉
   がお鷹狩りの途中で当社に参拝に立ち寄られ「民の志を演ぶる事殊勝なり」と賞して社名
   を志演神社と改名せられた。 又正徳2年の夏、当地に伝染病が流行し死者が多数に及んだ
   時、当社五代目別当、菅原快円が病魔退散と天下泰平、五穀成就を祈念して柴燈大護摩を
   焚いたところ病は止まり、これによって毎年5月22日の祭礼を執行した。当時の人々は
   「ごまの稲荷」と当社を呼んだ。これは古文書「東の都歳時記」に日本の三護摩として記
   載されている。
   尊空親王は伏見邦頼親王の御子にして寛文三年十二月関東に下向、深川五本松にて隠棲さ
   れる。親王死去の後、村民はその徳を敬慕して邸跡に小祠を建てて村の鎮守として崇め奉
   る。その後松平伊豆守抱屋敷内に祠れる稲荷大神を社殿と共に村内に寄附され、社名を尊
   空稲荷神社と称した。昭和20年3月9日の戦災により両者焼失。同22年3月志演神社
   と尊空稲荷神社を合祀して社名を志演尊空神社と改名す。            以上

 とある。

 
庚申塔
 境内に5基ある。何れも17世紀に建てられたものだ。この内一等古いものは、寛文元年(166
1)で、石塔の中央に正面向きの3猿が大きく彫り出され、その表情は大変に写実的だ。また延宝八
年(1680)に建てられた2基があるのも貴重だ。その一方には「武州葛飾郡西葛西領八右衛門新
田」とあり、中島八右衛門ほか11名の講中の名前が記されている。『新編武蔵国風土記稿』という
幕末の地誌に、八右衛門新田(北砂1丁目・扇橋3丁目)は寛永の頃、八右衛門というものが開発し
たとある。庚申塔建てた中島八右衛門という者が開発者八右衛門と同一人物かもしれない。
 ①.駒型・日月・青面金剛像・邪鬼・三猿・二鶏。
「延寳八年庚申」(1680)「八月十六日」
   「武刕葛鹿郡西葛西領」「八■新田」

 ➁.板碑型・三猿・蓮華・「寛文元辛丑年」「十月吉日」

 ③.板碑型・
「延宝八年」「敬」「道行十三人」・「青面金剛 庚申供養」・「庚申 四月一日」
   「白」
「内道行十人」
 ④.板碑型・三猿・「乙 延寳三年」
「青面金剛南無阿弥陀佛」「卯 八月四日」
 ⑤.板状駒型・青面金剛像・邪鬼・三猿・二鶏・「奉供養諸願成就」左「元禄六癸酉天十一月廾一
   日」「新田」


 
野菜の促成栽培発祥の地
 境内にJA東京 が設置した 「江戸・東京の農業」シリーズの標識が建っている。 「江戸・東京の
農業」シリーズの標識とは、JA東京グループが農業協同組合法施行50周年事業として東京都内各
所に設けた「江戸・東京の農業屋外説明板」のことで、ほぼ50ヶ所に設置されている。 その中には
「早稲田ミョウガ」「駒込ナス」「練馬大根」「亀戸大根」「谷中ショウガ」「千住ネギ」「砂川コ
ボウ」「吉祥寺ウド」等々の野菜が登場する。かつて東京は 野菜の供給基地になっていたことがよく
判る。このサイトもこの案内板は重要な資料として参考にさせて貰っている。

   江戸・東京の農業
   
野菜の促成栽培発祥の地・砂村
   野菜の促成栽培は、寛文年間(1661~73)の頃、中田新田の農民、松本久四郎が
   考案したといわれています。初物を食べるというぜいたくが広がり過ぎると、農家は米
   麦など基本食糧の生産よりも、高く売れる初物づくりに力を入れるようになり、また庶
   民のぜいたくは、身分制度をゆるがすことになるとして、江戸幕府はたびたび、出荷日
   を統制する法令、促成栽培禁止の町触れを何回も出して、取り締まりました。この促成
   栽培の方法は、ゴミを堆積すると発酵熱が出るのを利用し、江戸市中から出るゴミ(江
   戸ゴミ)を堆積、この熱を利用して早く野菜の種を蒔くことで、収穫が早くできるよう
   になりました。 明治維新以後には一層盛んになり、昭和に入って産地の中心が江戸川方
   面に移るまで続きました。江戸ごみという都市廃棄物を農業生産に活用した、見事なリサ
   イクルが昭和30年代まで展開されてきた事実にも驚きと先人の苦労がしのばれます。
   平成9年度JA東京グループ          農業協同組合法施行50周年記念事業

   THE AGRICULTURE OF EDo & TOKYO
             Suna-Mura,the Origin of Vegitable Forcing
   Forcing culture of vegetables is said to have been devised by a farmer Kyush
   iro Matsumoto of Nakada-Shinden around the years 1661~1679. He me
   de use of the heat of fermentation of piled garbage. By using the garbage col
   lected from the city of Edo, vegetables were planted earlier on the seed bed
   over the piled garbage and harvested earlier than usual. It is indeed surprisi
   ng that the idea of recycling city garbage for the agricultural production had
   long been practiced until around 11950s. 
 


■石田波郷宅跡

 北砂2丁目1番38号(北砂町1丁目805番地)志演神社に向かって左隣に当たる。昭和期の俳
人だ。本名は哲大(てつお)。正岡子規、高浜虚子を生んだ近代俳句発祥の地、愛媛県温泉郡垣生村
(はぶむら 松山市西垣生)に生まれた。明治大学文芸科中退。戦後の俳壇を先導し、俳句文学に大
きな功績を残した。昭和21年にここに移り、同33年まで住んだ。その後数多くの名作を残して、
同44年56歳で亡くなった。墓は調布市の深大寺にある。5丁目に波郷の功績を紹介する『石田波
郷記念館』があるよ。

   俳人 石田波郷宅跡
   俳人石田波郷は、中村草田男や加藤楸邨らと並び人間探求派と呼ばれ、現代の俳句を発展
   させたひとりです。
   波郷は、大正2年に愛媛県で生まれました。昭和21年にここ江東区北砂に移り、33年
   まで居を構えていました。その間『現代俳句』を創刊するなど俳壇の復興に力を注ぎ、自
   らも句集『借命』を出すなど、数多くの名作を残しました。
   みずみずしい情感と、生命を燃焼させた作品を生み続けましたが、昭和44年11月21
   日に病気のため56歳で亡くなりました。お墓は調布の深大寺にあります。
   隣の妙久寺には、
    繁縷(はこべら)や焦土のいろの雀ども
   の句碑が立っています。
   昭和63年3月                              江東区

 


天霊山妙久寺

 北砂2丁目1番40号にある日蓮宗の割と大きな寺。「新編武蔵風土記稿」に、

   妙久寺
   法華宗房州長狭郡小湊誕生寺末、天霊山と号す。本尊三寶祖師を安す。開山日領、慶安元
   年十一月十九日寂す。
   三十番神堂


 とある。寺宝に、江東区有形文化財の「木造日蓮上人坐像」「大出和四郎・藤原治具作銅造梵鐘」
「題目曼荼羅」「近藤長裕の墓」「昭和三年在銘の馬頭観世音供養塔」「享保三年在銘の法華経供養
塔」「享保十四年在銘法華経供養塔」「力石」がある。 

 石田波郷句碑

   はこべらや 焦土の色の雀ども 波郷

 近藤長裕先生墓
 長裕は刀術天然理心流の開祖だが、その素性はよく判っていない。過去帳には、文化四年(180
7)十月十六日の条に「智正院顕隆日理居士 近藤内蔵之助」と記されている。さらに「修善院妙理
尼 両国薬研堀近藤蔵之助母 妙理実成 薬研堀近藤蔵之助」ともある。これによって、長裕が両国
薬研堀(中央区東日本橋)に住んだことが判る。墓石の正面には「近藤長裕先生墓」とあり、また両
側面には小幡健貞・桑原昌英・山内敏元など門人が名を刻んでいる。長裕の墓は、八王子の桂福寺や
横浜の勧行寺にもある(『新撰組研究』1号)。
 なお幕末新撰組々長
「近藤勇はこの流派の4代目当主だ。

 戦災殉難者供養塔
 境内にある。
 


■北砂二丁目公園

 北砂2丁目9番14号にある区立公園。

 小名木川駅の歴史
 公園内にあるモニュメント(車輪とレールの一部)と説明板。
 小名木川駅は総武線貨物支線(越中島支線)が新小岩-小名木川間で開業した際に貨物専用駅とし
て昭和4年に開業した。この線は同33年に越中島(現越中島貨物駅)まで伸延された。小名木川駅
は駅の横に小名木川があり、この川を利用した水陸の物流連絡拠点としての機能も果たした。平成に
なり、貨物の取扱量が減少したことにより、平成12年3月11日の貨物列車の設定は無くなり、業
務は隅田川駅に移管された。同年12月2日に廃駅となり、構内にあったコンテナホーム、コンテナ
荷役線、有蓋車用貨物ホーム等は撤去され、一部の退避線が残されているだけだ。この退避線は越中
島貨物駅の構内として扱われている。また構内の跡地はショッピングセンター「アリオ北砂」が出来
ている。小名木川駅の入口にあった環状8号線の交差点名は現在も「小名木川駅前」となっている。

   江東地区の工業地帯の輸送需要の増加に対応するため、昭和4年3月20日小名木川河畔
   14000㎡のドッグを備えた水陸連絡貨物専用駅として開業した。初め貨物取扱量50
   万tの規模だったが、第二次大戦中の昭和18年には130万Tの貨物取扱量を記録。戦
   後は東京湾の拡張整備によって取扱量は急上昇。豊洲埠頭が完成した昭和30年には14
   6万tを記録、2年後には初めて200万tを超えた。その後小名木川駅がが管理する駅
   員のいない貨物駅として越中島駅も開業した。両国、錦糸町、亀戸の3駅の貨物取り扱い
   を廃止、小名木川に貨物部門を集約。駅も290万tの取扱量をこなせるよう改良された。
   しかし大工場の郊外への移転、輸送形態の変化、エネルギー資源の石炭から石油への移行
   など原因で輸送量は激減、昭和61年度は越中島の取扱量を加えても全盛期の4分の1の
   74万tとなった。当時の小名木川駅の面積は、東京ドーム球場の2倍以上の10800
   0㎡。「園内の車輪は当時の貨物線で実際に使用されていたものである
 


■北砂主婦射殺事件

 北砂2丁目15番35号ネオコーポ西大島の駐輪場で起きた主婦射殺事件。
 平成23年11月9日午後7時45分頃、マンションの住民から、「敷地内で拳銃らしい発砲音を
聞いた」との110番があった。警視庁城東署員が駆けつけたところ、マンション駐輪場で、住人の
大宮美雪(44歳)と、墨田区内在住の60歳代の男が血を流して倒れており、回転式拳銃1丁が発
見された。2人は病院に搬送されたが、いずれも死亡した。
 10日撃った男を墨田区両国4丁目職業不詳岡克巳(68歳)と確認し発表した。警視庁は、岡容
疑者を殺人と銃刀法違反の疑いで容疑者死亡のまま書類送検して一件落着した。残された子どもたち
はどうなるんだろうね。
  


■南砂線路公園

 北砂3丁目20番から南へ、越中島貨物線に沿って葛西橋通りまで続く遊歩道(区立公園)。


■北砂三丁目児童遊園

 北砂3丁目5番17号にある区立公園。


■徳島藩蜂須賀家下屋敷跡

 北砂3丁目5~21番の一帯にあった。下屋敷は御殿があるというよりは、藩邸で使う農作物を作
る田畑地である場合が多い。


■治兵衛稲荷神社 ◇

 北砂3丁目21番11号にある小社。治兵衛新田の鎮守。新田とは新村と同義で、江戸時代以後に
開発された村のこと、古田とは戦国時代以前に開けた村のことだ。社殿右前に由緒碑がある。

   治兵衛稲荷神社の御由緒
   祭神 蒼稲魂命(うかのみたまのみこと)
   祭神 白菊大神
   慶安元年(1648)頃、治兵衛という人がこの付近を開拓して、村の鎮守として、山城
   国京都の伏見稲荷大社の分霊を勧請奉祀したのが始まりだ。治兵衛稲荷神社の起こりです。
   蒼稲魂命とは天照皇大神の弟素盞鳴命の御子で、「うが」とは食物のこと食物の守護神で
   あります。伊勢外宮の御祭神豊受比売命と蒼稲魂命とは異名同神にましますが、天照皇大
   神が特に蒼稲魂命を愛し給うたので伊勢の外宮に豊受比売命の御名で祀られて居ります。
   「稲荷」は文字の意味から五穀豊穣の守護神であります。白菊大神は伏見三ノ峯にあり両
   御祭神とも郷土交通安全特に家内安全と子供を「カワイガル」子孫の繁栄の神として古く
   より知られており、住民の繁栄と商売繁盛を導き給う神でありますから、篤く崇敬し奉る
   べきであります。当神社は徳川時代に代官所が設置されて居た当時は代官所の守護神とし
   て崇敬されていたと言い伝えられておりました。
   昭和62年9月吉日建之                  奉賛会会長 加藤録太郎
                                奉賛会    役員一同

                                施工    山﨑石材店


 
庚申堂
 社殿の裏手にある。板状駒型・青面金剛像・邪鬼・三猿。右側面に「享保三戊戌年九月十五日」」
(1718)。説明碑は以下の通り。

   この庚申塚は享保の初期のもので神社わきの大師道に造立されていたのを昭和二十一年頃
   に境内に移されました。


 左側面

   平成六年十月吉日

 力石
 10箇ほどある。



■砂町銀座商店街
 北砂4丁目、亀戸駅から歩いて25分程のところにある商店街。1日の買い物客はおよそ2000
0人で大賑わいとのこと。夏には小規模ながら仙台七夕を真似た七夕まつりが行われる。アーケード
はなく、野天が素朴な商店街。170~180店舗が軒を並べる。
 戦前は30軒位のささやかな商店街だったようで、戦争中は商店も強制疎開され、戦後焼野原に人々
が戻り始め、昭和25~35年頃で飛躍的に店舗数が増えて、同38年頃にほぼ現在の形になった。数
ある商店街の中で「戸越銀座商店街」と肩を並べて有名な商店街。字(あざ)なのかなんなのか「三
角」といってたような気がする。

 砂町銀座の由来
 昭和7年10月1日平和会(当時の商店会名)記念式典で、城東区選出東京市会議員宇田川啓輔が
「この通りが早く砂町銀座と呼ばれるような一大繁華街となられん事を望む云々」と祝辞を述べたの
を受け、その晩早速役員会を開き通りの名を砂町銀座にしてしまったのが由来だそうだ。
 


■ALWAYかとりや

 北砂4丁目11番10号にあるフィリピン、タイ、インドの輸入食材を扱う下町の乾物屋。敗戦直
後の創業、昭和23年頃とか。地元に住んでるタイ人、フィリピン人からのリクエストで食材を集め
ている内に400品種以上にもなったそうで、平成20年9月からインド食材も扱うようになった。
他店では考えられない価格、纏め買いをしなくても、1個からケース値段で販売している。ちょっと
風変わりな面白い店だ。
 


■北砂四丁目児童遊園

 北砂4丁目12番11号にある区立公園。


■砂町小学校

 北砂4丁目13番23号にある区立校。明治の初め砂村には、小島・関口・木村・横田の寺子屋に
毛が生えた程度の私立の小学校があったが、同16年この4つの学校を閉鎖し、新たに公立の中川・
海明両小学校が設立された。中川小学校は、南葛飾郡中田新田290の農家を借り、これを補修して
校舎とした。海明小学校は、南葛飾郡砂村新田1359に開校したが、間もない同17年祝融の禍に
見舞われ、砂村新田1028に新築移転し、「公立砂村学校」と改称。同24砂村・中川両校を統合
し「南葛飾郡砂村尋常小学校」と改称。同34年2ヶ年課程の高等科を併置して「砂村尋常高等小学
校」と改称。同8年高等科4ヶ年課程となる。大正10年町制施行により「砂町尋常高等小学校」と
改称。同12年関東大震災。被災者収容。同14年東南校舎増築。校歌制定。

 校歌
「武蔵国原」 作詞・相馬御風  作曲・山本正夫
  1.武蔵国原一筋に 
    休まず急かず流れ来て
    末 海に入る荒川の
    洋々広き その心
    じきょうふそくの その力
    いざ学ばばや諸共に
  2.東の空にうらうらと
    昇る朝日の光浴び
    学びの窓に仰ぎみる
    富士の神山 筑波嶺の
    清く気高き姿こそ 
    誠我等の 鏡なれ
  3、いざや同胞(はらから)睦まじく
    手を取り 共に励みつつ
    学びの道を弛みなく
    進み進みて いざやいざ
    われら砂町小学の
    誉れを上げん いや高く


 昭和2年第二砂町尋常小学校を分校。2800名移籍。同5年第三砂町尋常小学校の創立により、
児童657名移籍。同7年南葛飾郡が東京市に編入され城東区が成立、「東京市城東区立砂町尋常小
学校」と改称。同9年第四砂町小学校の創立により一部学区移譲。同12年亀高尋常小学校の創立に
より児童392名移籍。結果在校生尋常科956名・高等科1974名。同16年1月小名木川高等
小学校分校。1203名移籍。4月国民学校令より「東京府東京市砂町国民学校」と、同18年都制
施行により「東京都砂町国民学校」と改称。同19年8月愚かなアメリカ軍の無差別空爆熾烈となり、
山形県酒田市と飽海郡に集団疎開。同20年3月愚かなアメリカ軍の非人道的市街地無差別空爆によ
り校舎焼失。8月日本は、ならず者国家アメリカの軍門に降り敗戦、以後その属国となる。同21年
4月焼け残ったプールで授業再開。グライダー格納庫を解体して組み立てた仮校舎完成。同22年学
制改革により「東京都江東区立砂町小学校」と改称。同25年元講堂跡に廃棄となった鉄道客車を据
え付け、ステージ・図書室・衛生室とする。同28年復興した第四砂町小学校に児童460名移籍。
同30年校舎増築。同33年校舎改築総2階建て。体育館新設。同34年学区の内6丁目を第二砂町
小学校に移譲。同39~46年4期に亘る建て替え工事で鉄筋3階建て校舎落成。平成3年創立10
0周年。同7年警視総監賞受賞。同12年地方自治法改正により東京都の冠称を外し「江東区立砂町
小学校」と改称。
 


■高平稲荷社 ◇

 北砂4丁目18番15号、砂町銀座商店街の中程、石段を上がった奥にある小社。

   
高平稲荷神社
   御祭神
   宇迦之御魂之尊 鎮座地 江東区北砂4丁目1389番地
   創建
   元禄年間 社地三拾坪 当社ハ文化文政ノ頃ヨリ藪稲荷ト称シ西耕地地守神社ニ有之大正
   拾年(1921)頃ヨリ高平稲荷神社ト称シ 社地西原富次郎氏所有トナリ続ケテ現在ハ
   西原利栄氏所有ノ地トシテ御奉祀ス 右神社ハ寛永貮年頃(1625)美濃鴈間稲葉長門
   守 拾萬貮阡石ニシテ江戸ヨリ百貮拾五里七丁ナリ亀高西耕地ニアリタル此神社ハ此屋敷
   ノ守護神トシテ鎮座アリタルモノヲ西耕地開發ノ砌耕地鬼門除トシテ元禄時代ニ現位置ニ
   遷座シタルモノニシテ当時小名木川ヲ中心ニ諸大名ノ下屋敷アリタル為武士ノ出入激キ内
   ニ忠臣蔵デ有名ナ堀部安兵衛ガ稲葉長門ノ守方ノ懇望ニヨリ昭和20年3月10日ノ戦火
   ニヨリ焼失シ仮宮造営シ後現宮ヲ再建シ砂町銀座商店街復興組合繁栄ノ神トシテ崇敬シ奉
   ル 昭和46年組合員一同ニテ御影石ノ鳥居ヲ奉納ス 毎年節分ニノ午5月15日及9月
   15日ニハ所有者西原利栄氏並ニ砂町銀座商店街振興組合員ニテ神官ヲ迎え祭リヲ施工ス
   昭和57年2月16日建之     東京都江東区住吉2丁目13番地 所有者西原利栄
                        砂町銀座商店街振興組合 理事長臼杵歳雄
 


■砂町中央公園

 北砂4丁目20番24号にある区立公園。

 
「共存するリズム」
 入口にある飯塚八朗のオブジェ。黄色い波板の鼎立。


■砂町大師 蓮光山持宝院
 北砂4丁目22番6号にある。参道左に大師堂と鉄筋コンクリート造りのモダンな庫裏。正面の本
堂も鉄筋コンクリート。右は墓地。「新編武蔵風土記稿」に、

   持宝院
   新義真言宗、亀戸村普門院末。本尊薬師は弘法大師の作にして長一尺六寸五分。又同作の
   不動を安せり。寺僧の傳に八幡太郎義家の守本尊なりと云。