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 東京の地名の由来
 東京知ったかぶり!

 平成17年2月11日発信  リンクフリー
 地名の由来 東京23区辞典 引用自由

    葛飾区の地名の由来
   現在進行形の調査であれば、逐次、誤謬訂正・新規追加あり。チェック怠りなく

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 酸素魚雷 音羽ゆりかご会 八雲学園 目黒のさんま
 
   




葛飾区の地形
 葛飾区は、全域が低地と微高地(自然堤防)で構成されている。低地部は、荒川・中川・江戸川の
過去幾度かの氾濫によって発達した氾濫低地で、部分的に東京湾(以前はかなり内陸に入り込んでい
た)を由来とする海岸低地性の地形(砂分が多い)が混在している。これらの低地には自然堤防と呼
ばれる砂を主体とした微高地が、主に河川沿いに分布している。

■地形・地質と住宅地盤


 
氾濫低地
 荒川・中川・江戸川流域に広く分布する標高の低い平坦面だ。地下水位が高く、軟弱な粘土やシル
ト(砂分が多い場所もある)が厚く分布しているため、長期的な沈下(圧密沈下)が問題になってい
る場所が多く、適切な基礎補強策が必要となる。区の大半がこの低地に属する。栗橋の堤防が切れれ
ば一溜まりもない。行政の手の打ち様がなくしっかり神社に参って神頼みするしかない。利根川を常
陸川に振った宿命だ。

 
自然堤防
 周囲の氾濫低地や海岸低地と比べ海抜高度がわずかに高く、川に沿って帯状に分布している。河川
によって運搬された砂や砂礫が、浅い深度から分布しているため、住宅地盤としては、比較的良好な
場合が多い。しかし河川の氾濫と蛇行によって、自然堤防の上に軟弱な粘性土や緩い砂が被覆されて
いる場合には、基礎補強対策が必要となることがある。古隅田川や旧中川の沿岸・水元・金町などが
微高地だ。


■都県境未定地
 東京都と埼玉県の間で唯一境界が定まっていない場所が区内にある。大場川水面で、東金町の天王
橋以西~西水元6丁目の葛三橋付近の間で、埼玉県は川の真ん中が境界と主張するのに対して、東京
都は水面全域を主張する。川面の境界などどうでもいいようだが、これが地方交付金については面積
と人口で勘案されるため、金持ちの東京都にとっては交付金は無縁でも、埼玉県にとっては死活問題
だ。東京都の主張は小合溜の開鑿時に基づき、埼玉県は水面境界の常識に基づく。この他の境界未定
区間は、千葉県と江戸川区の間にもある。全国的には秋田・青森の十和田湖水面境界が解決して、残
り16ヶ所だ。


葛飾区の歴史

 
先史・原始時代
 東京低地の登場は凡そ13万年前に遡るといわれており、最後の氷河時代には北半球の海水面は現
在より約100m低い所にあったと考えられている。東京湾はその殆どが陸地となり、葛飾は台地と
それを刻む深い谷になっていた。富士山の噴火で降り注いだ火山灰が東ローム層と呼ばれる赤土層と
なって葛飾の地下にも堆積している。武蔵野や下総台地では原始時代の人々が狩猟をして生活してい
た。その頃は東京湾はなく、東京低地から質水道にかけて古東京川が流れる大きな谷となっていた。
下総台地も葛飾の柴又あたりまで張り出していて、そこで繰り広げられた人間活動の足跡は柴又河川
敷遺跡から発見されている。

 
奈良・平安時代
 奈良時代の資料によると、大嶋郷は、甲和(こうわ)・仲村・嶋俣(しままた)の3つの里で構成
され、各里の位置は、甲和は江戸川区小岩、嶋俣は柴又と考えられている。この時代の葛飾は、現在
よりもっと海岸線が内陸にあり、利根川の乱流によって形成された低湿な土地が広がっていた。平安
時代には仏教も地方にも浸透し、都では藤原氏を中心とする貴族政治が栄えるが、葛飾地方は恒武平
氏の流れを汲む葛西一族などの武士によって開発されていった。

 
鎌倉・室町時代
 鎌倉時代も引き続き葛西氏の支配下にあり、名字は「平氏の内の葛西地方を領する者」の意で「葛
西」を冠した。そして室町時代、享徳三年(1454)に足利氏が起こした「享徳の乱」を契機に関
東は全面的な戦乱状態となる。葛西地域は旧利根川を境に足利氏と上杉氏が対峠する軍事的な要所と
なり、長い戦いの後、後北条氏が覇権を握り、その後北条氏も僅かの天下で、天正十八年(1590)
豊臣秀吉の小田原攻めによって滅び去る。

 
江戸時代
 その天正十八年徳川氏が江戸に移り、関ケ原の戦いで豊臣氏を滅ぼし、慶長八年(1603)江戸
に幕府を開くと、その手はじめとして、江戸市内とその周辺地区の開発を進め、長引く戦乱のため荒
廃した葛飾地方も各所で開拓が行われ、四つ木、奥戸、小菅、細田、小合などの新田村が成立していっ
た。葛飾区の殆どは天領と称する徳川幕府の直轄地になり、関東代官の支配下に置かれました。村が
行政の単位とされ、代官の下に村方三役人といわれる名主、年寄、百姓代が置かれ、最下部の組織と
して五人組が結成された。葛西領は歴代徳川将軍家の鷹場に指定され、将軍の御成も度々あった。葛
飾区の今日あるは、徳川家の乱開発を防止するための鷹場指定のお蔭だ。


葛飾区の変遷

 
東京府

 現在の葛飾区の区域に入る江戸時代の38ヶ村は、慶応四年(1868)7月10日桑山武蔵知県
事に属したのち、同2年1月13日小菅県を経て、同4年7月14日廃藩置県により、11月13日
小菅県を廃して東京府に編入。国家主義者大久保利通は次第に政敵を暗殺して専制を強める。同7年
3月8日戸籍法・地租改正を強行、大区小区制により自治権を奪われ第十一区に編入させられる。こ
の専制強圧政治に国民は猛反発、不平武士の反権力抗争・自由民権運動へ発展、西南戦争で盟友西郷
隆盛を屠ってまで独裁しようとしたため神に見放され、同11年5月14日傲慢の限りを尽くした大
久保もあまりの悪逆非道のために天誅を受けて斬殺された。この事態に内務官僚は驚天動地して周章
狼狽為すところを知らず、大慌てに大区小区制を廃して「郡区町村編制法」を施行、南葛飾郡に復し
自治権回復暗示した。同22年5月1日明治政府は初めて地方の自治認めを「市制町村制」を実施、
当区は新宿町・奥戸村・金町村・水元村・亀青村・立石村・南綾瀬村の1町6ヶ村の自治体に統合編
成され自治権を回復した。同23年5月1日立石村を本田村と改称。大正14年8月6日金町村が、
昭和3年1日本田村が、11月1日南綾瀬村が、同5年11月6日奥戸村がそれぞれ町制に移行し5
町2ヶ村となる。同7年10月1日南葛飾郡が東京市に編入され5町2ヶ村は61町に細分して一区
となり郡名から葛飾を採って区名とした。

 東京都
 昭和18年7月1日「府県制改正」により東京市の自治権が強大になりすぎることを恐れた内務官
僚は、軍部の後押しを得て「府県制」を改正し、東京府と東京市を廃し、新たにこの二つを合体させ
た「東京都」を誕生させ直轄支配を目論んだ。ところが同20年アメリカに叩きのめされて敗戦、日
本はアメリカの植民地・属国に陥ってしまった。同21年9月27日民主化を強制するアメリカは、
地方自治体首長の任命制を非とし全て公選制とした。これには内務官僚は驚愕、専制権を阻害される
と見当違いの抗議をしたが、情けないことにアメリカ人に人倫の道を諄々と説かれ、「私利私欲で公
権力を縦(ほしいまま)にしてはならないのだ」ということを諭されて漸く人の道の一端を知り、涙な
がらに感謝してすごすごと引き下がった。同22年3月15日の特別区の再編では郊外区のため適用
外となり一区独立を保った。当時は区とは名ばかりで殆ど農村だった。4月17日市制町村制を廃し
「地方自治法」が施行され、民主化は一歩進んだが、内務官僚はそんなことぐらいでは消えては行か
ない。同37年5月10日から新住居表示を実施し、同56年10月1日の水元公園を以て完了した。
新住居表示は完了したが、妙なことに東金町は金町の真北、東立石は立石の真南にあり、東新小岩も
新小岩・西新小岩の北にある。
 平成20年現在30町編成。区役所は立石にある。友好・姉妹都市はウィーン市フロリズドルフ区
と北京市豊台区。自慢の文化施設が「郷土と天文の博物館」と「かつしかシンフォニーヒルズ」だけ。
名所は堀切菖蒲園・水元公園・柴又帝釈天あたり。
 中央図書館は、平成21年10月17日金町駅前に新設。これまでその機能を果たしてきた葛飾図
書館は新宿図書センターに衣替え。図書館は中央・お花茶屋・上小松・亀有・水元・鎌倉・四つ木・
西水元・青戸・新宿図書センターと10館ある。同じ南葛飾郡でも江戸川区の遅れを尻目に充実安定
した行政を見せている。江戸時代の発展度の差かも知れない。


葛飾の由来

 
葛餝(かつしか)の真間の入江を浦廻(うらま)漕ぐ舟人騒ぐ波立つらしも(万葉集)
 鳰鳥
(におどり)の葛餝早稲に饗(にえ)すともその愛(かな)しきを外に立てめやも(万葉集)

 葛飾は万葉集に「葛飾・葛餝」のほか「勝鹿・勝牡鹿・可都思加・可豆思加」などと記され、続日
本紀・延喜式拾介抄・和名類聚抄には「葛餝」と記している。使用例は「葛飾」と「葛餝」が多く現
在の「葛飾」に統一されたのは寛政以後だという。「かつしか」の意味については諸説あり定説はな
い。
 ①、葛飾区では「かつ」と「しか」に分けて、「かつ」はカテ、カトと同義で「崖」または「丘
   陵」を指し、「しか」はスカと同義で「砂州」であるとし、利根川(江戸川)の右岸低地と
   左岸台地を表したものだと理解している。
 ②、しかし坪井久馬三は、「南洋系の民族によって付けられた名前で〝狩場の方〟を意味する」
   という。その狩場が何処だったが定め難いが、江戸川区鹿浜・江戸川区鹿骨から按ずるにさ
   もありなんか?
 ③、
一茶が、

   
行々子(ぎょうきょうし=ヨシキリ)何処が葛西の行き止まり

   と詠んだように葛飾は葦葭の生い茂る原で、清宮秀堅は「国語から理解すべきだ」と主張て
   し、葛(くず・かずら)の繁茂していたことにちなむ「葛繁」が語源だという。吉田茂樹は
   同じ意見で「葛敷」だと考える。
 ④、丹羽基二は「固州処」潟州処」で、あちこち様々の州でできた地形によると説く。
 ⑤、「かとしか」は、インドネシア語で解すると「カト・チカ」だそうで、「真っ直ぐ流れる江
戸川流域」ということらしい。

クズ。マメ科の多年草。河原や野原で他の木に絡み付いて繁茂する。蔓は強靭で民具を作る
材料となるほか葛布を作る。根は葛根(かっこん)と呼ばれ漢方薬となるほか葛澱粉(くずこ)が採
れる。「かずら」と読むと蔓草の総称。


区の花 ハナショウブ
 
選ばれた理由は、江戸時代から昭和時代まで葛飾地区がハナショウブの名所だったことによる。明
治大正時代には、小高園・武蔵園・吉野園・堀切園(堀切菖蒲雲)・観花園・四ツ木園と6つの菖蒲
園があって、葛飾は多くの人々で賑わった。
 ハナショウブはノハナショウブ(学名I. ensata var. spontanea)の園芸種。6月頃に花を咲かせ
る。花の色は、白・ピンク・紫・青・黄など多数あり、絞りや覆輪などとの組み合わせを含めると5
000種類あるといわれている。大別すると、江戸系・伊勢系・肥後系の3系統に分類でき、古典園
芸植物でもあるが、昨今の改良で系統色が薄まっている。他にも原種の特徴を強く残す山形県長井市
で伝えられてきた長井古種や、海外、特にアメリカでも育種が進んでいる外国系がある。一般的には
ショウブというと、ハナショウブを指すことが多い。しかし菖蒲湯に使われるショウブは、ショウブ
科またはサトイモ科に分類される別種の植物だ。昭和46年公募により指定。区の花としては他に渋
谷区が指定している。区としては堀切菖蒲園のほか吉野園の跡地である四ツ木中学校で育成に取り組
んでいる。

 
ハナショウブ・アヤメ・カキツバタの見分け方
 ハナショウブ、アヤメ、カキツバタの同定は慣れれば一目瞭然だが、見分けのつかないことで知ら
れている。堀切菖蒲園には、その見分け方として、次の記述の掲示がある
種類 花の色 花の特徴 適地 開花期
アヤメ 紫、稀に白 主脈不明瞭 網目模様
外側の花びらに
黄色い模様がある
乾地 5月上旬~中旬
カキツバタ 青紫のほか
紫、白、紋など
主脈細小 網目なし 水中や湿地 5月中旬~下旬
ハナショウブ 紅紫、紫、絞、
覆輪など
主脈太い 網目なし
花の色は千差万別
湿地 6月上旬~下旬


■区の木 シダレヤナギ

  枝垂柳、学名は Salix babylonica)は、ヤナギ科の落葉高木。
別名をイトヤナギ(糸柳)またはシ
ダリヤナギ、オオシダレヤナギ、オオシダレなどともいう。
原産は中国で湿地に繁茂する。奈良時代
に移植された。
樹高は10~20m。太い枝は上に伸びるが、先端の枝が細長く垂れ下がる。幹は暗
灰色、縦に亀裂が走る。
葉は披針形で鋸歯がある。花は雌雄異株で、暗黄緑色、春、葉に先だって尾
状花序をつける。
種子は白い毛(柳絮)で覆われている。用途は、街路樹、公園樹、花材、細工物。昭
和46年公募により指定。



■区の鳥

 指定なし


■かつしか郷土かるた
 「葛飾に住む誰もが、いつまでもふるさとに誇りを持ち、愛し続けて欲しい」との願いから、平成
24年2月に誕生した。かるたに取上げた44の題材は、小・中学生から寄せられた5379句の読
み札の「ことば」を元に、自然、産業、文化・歴史、人物などを選定し、地域性も考慮しながら「かつしか郷土かるた制作委員会」で作成した。
 絵札は、世界的な切り絵画家の辰己雅章氏にお願いし、温かみがあり、色彩豊かな芸術性の高い作
品に仕上がってる。「かるた」に同梱の解説文は区民が参画する「かつしか郷土かるた制作委員会」
において、由来や現在の状況などが子どもたちにも理解できるように作成したそうだ。

   い: いくつもの川が流れる水のまち
   ろ: 櫓がきしむ 川面のどかな矢切の渡し
   は: ハープ橋 ほんとになるかなホロロンと
   に: 日常の生活描く綴り方
   ほ: 堀切の菖蒲を描く江戸百景
   へ: へぇほんと 金魚の形 葛飾区
   と: 寅さんが駅で故郷 振り返る
   ち: 中世の遺跡が語る葛西城
   り: 両さんを探しに亀有 出かけよう
   ぬ: ぬくもりと笑顔あふれる
   る: 累代の技術が染める江戸小紋
   を: ・・・
   わ: 和と洋の美が調和する山本亭
   か: 金町にくらしささえる浄水場
   よ: 吉宗の病治したお花さん
   た: 鷹狩に将軍通った小菅御殿
   れ: 歴史から治水を学ぶ桜土手
   そ: 筝曲を江戸で流行らせ山田検校
   つ: 綱で引き旅人行き交う曳舟川
   ね: 年貢米たくわえ備え郷倉で
   な: 中川は右に左に七曲り
   ら: ランナーが今日も行き交う河川敷
   む: 虫の声秋風そよく野草園
   う: うたわれた古代かつしか万葉集
   ゐ: ・・・
   の: 農村と江戸を結んだ葛西舟
   お: 鬼塚は歴史つたえる玉手箱
   く: 区歌うたう光と希望 ちからあり
   や: 弥惣兵衛よびよせつくる小合溜
   ま: 町工場 技とパワーがあふれてる
   け: 懸命に車夫がおっぺす人車鉄道
   ふ: 故郷と宇宙をつなく博物館
   こ: 古代では立石さまが道しるべ
   え: 笑顔生むおもちゃ育てたセルロイド
   て: てんすけてん 葛西囃子は江戸囃子
   あ: 荒川は 人が作った放水路
   さ: 参道のにぎわい楽し帝釈天
   き: 季節ごと食卓いろどる元気野菜
   ゆ: 友好をウィーンと育むモーツァルト
   め: 明治の美 レンガを積んだ閘門橋
   み: 水戸街道 人馬にぎわう新宿のまち
   し: しばられて願いかなえる地蔵様
   ゑ: ・・・
   ひ: 非核都市 平和を祈る千羽鶴
   も: 餅つきのうさぎと眺めるスカイツリー
   せ: せんべいの手焼きの姿 あちこちに
   す: 水郷の景観のこす水元公園
   ん: ・・・


■教育施設

 
小学校 区立49校
 堀切・東水元・花の木・西小菅・鎌倉・上平井・上小松・梅田・原田・綾南・よつぎ(四ツ木+西
 渋江)・南奥戸・南綾瀬・道上・水元・本田・細田・宝木塚・二上・東柴又・東金町・東綾瀬・半
 田・西亀有・新宿・中之台・中青戸・高砂・清和・住吉・末広・白鳥・渋江・柴原・小松南(小松
 +松南+小松南)・こすげ(小菅+小谷野)・幸田・木根川・北野・川端・亀青・上千葉・金町・
 奥戸・飯塚・青戸・柴又・松上・葛飾

 
中学校 区立24 私立2
 青戸・青葉・綾瀬・一之台・奥戸・葛美・金町・上平井・亀有・小松・桜道・新小岩・大道・高砂
 ・立石・常盤・中川・新宿・東金町・双葉・堀切・本田・水元・四ツ木
 修徳学園 共栄学園

 
高等学校 都立6 私立
 葛飾野・南葛飾・葛飾総合・葛飾商業・農産・本所工業
 修徳・共栄学園

 
大学(短大はなし)
 東京修栄 
 


■文化財
 柴又帝釈天・立石様・立石8丁目の南蔵院・同院裏古墳・立石8丁目熊野神社の樹齢300年のク
スノキ・西光寺の葛西清重の墓と聖徳太子像(非公開)・浄光寺(木下川薬師)・奥戸天祖神社の大
注連縄・半田稲荷神社・東水元2丁目の南蔵院(しばられ地蔵)・東水元5丁目熊野神社の樹齢30
0年の2本のタブノキなど


■名誉区民
 長い間指定がなかったが、平成24年10月1日区制施行80周年に当たり、名誉区民制度を創設
した。この制度は、公共の福祉または社会文化の興隆に功績があった区民に対し、その事績を讃える
と共に、区民敬愛の対象として顕彰し、郷土愛の醸成に資することを目的として顕彰するものだ。こ
れにより4名が名誉区民となった。

 
1.小宮康孝(染織家)
 平成24年10月1日顕彰。重要無形文化財保持者(人間国宝)。14歳から父の下で小紋染型付
の指導を受け、後にその工房を継ぎ、江戸小紋の技術を伝承している。
微細で精緻な柄を手がけ、武
士の裃小紋に由来する凛とした美しさが香る染めを制作する。一方で、型紙の製造技術の向上や古型
紙の収集、研究を行い、伝統的な小紋型の復元に努めている。また、子、孫へと技術を伝授するなど
、後継者の育成にも力を注いでいる。小宮は、葛飾区の伝統工芸士であり、その卓絶した技術は、葛
飾区のものづくりに大きく貢献し、葛飾区の伝統産業の発展に大きく寄与している。

 
2.山田洋次(映画監督・脚本家)
 平成24年10月1日顕彰。日本藝術院会員。葛飾区柴又を舞台とする映画「男はつらいよ」シリ
ーズを手掛けた映画監督。同映画は昭和44年~平成7年までに48作品が公開され、一俳優が演じ
た最も長い映画シリーズとしてギネスブックに認定されるなどの記録を残す大ヒット作となった。同
映画内で、主人公である車寅次郎の口上中、「私、生まれも育ちも葛飾柴又です。帝釈天で産湯を使
い、姓は車、名は寅次郎、人呼んでフーテンの寅と発します。」は、葛飾区柴又の名を寅さんの故郷
として全国的に有名にし、区の大きな観光資源として発展させた。平成9年11月に葛飾柴又寅さん
記念館名誉館長に就任。山田は、葛飾区のイメージアップに多大な貢献があり、また観光行政に寄与
した。

 3.福田千恵(日本画家)
 平成24年10月1日顕彰。日本藝術院会員、日展常務理事。かつしかシンフォニーヒルズに日本
画「蘭(陽光)」と「蘭(月光)」がオープン当初より展示され、その後「蘭(月光)」が、葛飾区
の友好都市オーストリア・ウィーン市フロリズドルフ区の区制施行100周年の記念として贈られ、
現在も、両区を繋ぐ友好の懸け橋となっている。また、柴又「山本亭」の「花菖蒲」の襖絵、亀有リ
リオホールの緞帳原画などを制作し、多くの来場者に親しまれている。葛飾区の文化芸術功労者で、
海外に於いても平成14年サウジアラビア皇太子(現国王)に委嘱され、初代国王アブドルアジーズ
・イヴン=サウード「偉」を制作し、現在、イスラム文化圏との交流を深めるなど、日本画の世界発
信に尽力し
ている。本名は「千恵子(ちえこ)」、雅号は「千恵(せんけい)」。

 4.秋本治(漫画家)
 
平成24年10月1日顕彰。代表作は、「こちら葛飾区亀有公園前派出所」(略称「こち亀」)。
『週刊少年ジャンプ』昭和51年42号より連載開始。平成8年からテレビアニメ化されたほか、映
画化や舞台化もされている。同23年に連載通算1700回を突破し、35年以上に亘る週刊連載で
一度も休載せず、「少年誌の最長連載記録」を保持、更新中だ。また主人公「両津勘吉」像が、同1
8年にJR亀有駅南口・北口に1体ずつ設置され、以降、駅周辺に計14の「こち亀」キャラクター
像が設置され、街の賑わいを創出している。秋本は、長年に亘り葛飾区の名を世界に広め「こち亀」
を通じて葛飾区の地域振興や観光資源の創出に貢献し、その功績は多大なものがある。


■葛飾出身の有名人
 秋本治(漫画家)・高橋陽一(漫画家)・石橋貴明(タレント)・小林聡美(女優)・森川由加里
(歌手)・梶ヤマト(プロレスラー)・益子直美(スポーツキャスター)・遠藤久美子(女優 エン
クミ)・川畑要(歌手 ケミストリー)・中島唱子(女優)・渡辺明(棋士)・堀江由衣(声優)・
関根茂(棋士)・小宮康孝(江戸小紋 人間国宝)・小川宏(アナウンサー 司会者)・大河内奈々
子(女優)・本田美奈子(歌手)・間下このみ(ジャリタレ 写真家)・内山信二(デブタレ)・松
崎しげる(歌手)・小室等(歌手)・高木美保(女優)・石井一孝(シンガーソングライター)・二
宮和也(アイドル 嵐)・木下優樹菜(タレントモデル)・春日了(元CNNニュースキャスター、
コメンテーター、声楽家・住職)・大西直宏(元騎手)・近藤春菜(漫才‐ハリセンボン)・高城剛
(ハイパーメディア・クリエイター)・・朝倉えりか(タレント)・寺島咲(タレント)・小倉秀夫
(弁護士)・おおたわ史絵(医者作家)・船木勝一(プロレスラー)・槇村さとる(漫画家)・筒井
はじめ(画家 デザイナー)・水口幸弘(漫画家)・井口保子(元アナ 女性初の競馬中継)・福岡
政行(政治学者)・小松宏司(NHKアナ)・戸崎貴広(TBSアナ)・柊瑠美(女優)・長谷邦夫
(漫画家)・吉田輝美(アナウンサー)・清水達正(アニメ監督)・北芝健(元刑事 作家)・つげ
義春(漫画家)・松久淳(作家)・二葉百合子(歌手)・菊池彩香(AKB48 馘首)
 葛飾区出身の芸能人は、「東京出身」だけでなく「東京都葛飾区出身」と、自分の出身区を強調す
る傾向がある(足立区も同様)。


葛飾郡西葛西
 下総国葛飾郡は、茨城県古河市・総和市から南、埼玉県・千葉県・東京都の江戸川両岸市町村に及
ぶ範囲で南北に長大なものだ。都内では隅田川を境として東側をいった。往時葛飾区以南は東京湾が
入り込んだ入江だったと想像される。中世になって陸地化してくると太日川(江戸川)を境に葛飾郡
が割れ、葛西郡(かさいぐん)と葛東郡(かっとうぐん)になり、このころ秩父平氏から清重が出て青
戸城に拠り、郡を支配して葛西氏を名乗った。伊勢神宮に「葛西御厨三十三郷」を寄進したのはこの
時だ。
 江戸時代になって葛西郡が下総国から武蔵国に移されて武蔵国葛飾郡となり、村々は中島川辺・幸
手・松伏・二郷半・西葛西・東葛西の6領に分属した。この内東京都に含まれるのは西葛西領と東葛
西領で、西葛西領は葛飾区西部から墨田区・江東区の範囲で、古くから開けていた葛飾を「本田筋」、
墨田・江東を「新田筋」に分けた。東葛西領は葛飾区東部と江戸川区で、葛飾と江戸川区北部を「上
ノ割」、江戸川区南部を「下ノ割」に分けた。
 明治11年「郡区町村編制令」により武蔵国葛飾郡を南と北に分け、東葛西領・西葛西領を「南葛
飾郡」として東京府に所属させた。同22年「市制町村制」により1町23ヶ村となり、昭和7年東
京市に編入した時15町5ヶ村で城東区・向島区・葛飾区・江戸川区を成立させた。



水戸佐倉道
 区内を通った本街道。俗に「水戸海道」または「水戸街道」といった。元々江戸時代に定められた
水戸佐倉道は日光街道千住5丁目の分岐点を起点とする。4丁目と5丁目の境を右折するところだ。
ここには「水戸海道」と刻んだ道標があった(現在は郷土資料館で保存している)。ここから新宿の
渡しまではほぼ直進で東する。荒川放水路が掘られてからは小菅の渡しができた。しかし現在橋は架
けられていないので、対岸の水戸佐倉道へは迂回するしかない。区内に入ってからは平和橋通りの小
菅1丁目14・15番の丁字路から東に進み、綾瀬川を「水戸橋」で越える。橋名は水戸道を渡すこ
とによる。小菅に入ると蓮昌寺前を通り東北東に進んで堀切8丁目25番先の追分けを左に(この分
岐は江戸時代にはない)北東に進路を変え、北へ大きく迂回して西亀有2丁目22番先で常磐線に接
して砂原村へ、東へ進んで曳舟川を越すと平成14年に建てた亀有一里塚の石碑がある。「新宿の渡
し」へ。新宿は最初の宿場で町筋が鉤の手になっている。上宿・中宿と続き、鉤の手を左折して下宿
を過ぎると、小合溜井から江戸川区に向かう上下割下水(東用水)にぶつかる金阿弥橋を渡ると丁字
路で、左水戸道、右佐倉道に分かれる。「そばやあづまや」の敷地の縁に道標と不動尊が残っており
「右なりた千葉寺道 左水戸街道」と刻まれている。(※そばやは潰れて道標も不動尊も撤去された
という) かってはこの道標の上に不動像が乗せてあったとか。今は別々になっている。
 佐倉道は国道6号線を越えて用水に沿って南下、大きく弧を描くように道なりに進んで北小岩で江
戸川に向かい、南に下って市川の渡しで江戸川を越え千葉県へ。
 戻って丁字路を用水に沿って北に向かう。用水と分かれるところ新宿2丁目7番に石仏群がある。
新しく一箇所に集められ、記念碑には

  地蔵菩薩石仏等十三体並びに八大竜神石碑を旧水戸街道路拡幅及び旧上下之割用水埋設工
  事に伴い新宿四丁目二番地先より現在地に移転


 と書かれている。「帝釈道」と刻まれた道標もある。東に進み、金町5丁目26番先で国道6号線
に吸収され、同2丁目12番先で6号線から離れて都道307号線を北に進み、東金町6丁目1番先
(東金町宮元歩道橋北)で一方通行に入る。葛西神社の西脇を通って江戸川の土手に上がる。土手道
を葛飾橋の先まで進んで河川敷に降り、「金町松戸関所」で幕府役人の検閲を受けて「松戸の渡し」
へ・・・・葛飾橋は明治になって架けられた。
 千住を出ると宿場は、新宿~松戸~小金~我孫子~取手~藤代~若柴~牛久~荒川沖~中村~土浦
~中貫~稲吉~府中~竹原~片倉~小幡~~長岡の18宿を次いで水戸へ。




ではでは、葛飾区の地名についておっ始めるべー

【青戸】(あおと)1~8丁目                     昭和42年6月1日
 青戸村。明治11年「郡区町村編制法」により南葛飾郡に復し。同22年「市制町村制」により
亀有村・砂原村・上千葉村飛地と合併して亀青村の大字青戸、昭和7年葛飾区青戸町1~4丁目。
同42年新住居表示により青戸町3~4丁目・本田淡之須町の大部分に、青戸町1~2丁目・本田
立石町・本田中原町の各一部をあわせた町域を現行の「青戸」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『葛飾区史』『葛飾の歴史』など。

 青戸の由来
 青い戸(ブルードア)があった訳じゃない。戸は津と同じ、津々浦々というように渡し場・船着
場・埠頭つまり湊(水門)のこと。奥戸・松戸・登戸・坂戸・清戸などがそうだ。また川口や水口
(みなくち)のこともいう。江戸や水戸がそれに当たる。出口は尻だ。池尻・塩尻・江尻・湖尻な
どがあるよ。青戸は『鴻之台戦記』では「おはつ」と書かれ、土地の人の中には今でも「おおと」
と発音する人がいる。むかしは大層繁盛していたので「大津」または「大戸」だったのかもしれな
い。久喜市の青毛は「おおげ」と読む。
 「あおと」をインドネシア語で解釈すると「アオ・ト」で、「満潮のとき水浸しになる土地」と
いうことらしいが、これは当時の地形から勘案すると理に適っている。
 江戸以前の運輸手段は近距離は別として大量物資は水運に恃み、その方が楽で早く安全だった。
驚く勿れ江戸城の石垣は全部伊豆から舟で運んだのだ。高速船「八丁櫓」はそれで生まれた。青戸
は中川に面しているから川の湊つまり河岸場で、新中川と北区岩淵からの荒川は大正以後に掘削し
た人工河川だから、江戸時代より前の中川は利根川だったことでもあり、瀬と淀を繰り返しつつ蛇
行はしていても交易流通の重要なルートだった。
 さて青戸には京成線の「青砥駅」がある。この青砥は〝伝説の人〟青砥左衛門尉藤綱にちなむも
ので、青砥氏は伊豆大場氏の後裔、承久の乱の功により上総国青砥の地を賜り名字としたというが、
『角川地名大辞典・千葉県』によると上総に青砥の地名は無い。横浜市金沢区富岡東1丁目は旧称
を青砥といい、昔からあった五輪塔を藤綱の墓としている。大正14年に藤綱の映画を撮影したこ
とで顕彰碑も建てられたが青砥の地名と藤綱を重ね合わせたもので確たる史的証明はない。奥州平
泉の中尊寺に伝わる鎌倉時代の古文書には、この地を本拠とした「青戸二郎重茂」なる武士の名が
記されていることからも、古くは「青戸」と表記していた。青戸は藤綱の采地(知行地)の一つで、
晩年退いて隠居所(御殿山公園)としたようだ。のちの葛西氏の青戸城、徳川氏の青戸御殿も同じ
辺り、環七通りの地下に眠っている。青戸は誰かが意図的に青砥と大戸を混同したか、こんがらがっ
ている内にそうなったんだろう。だから青戸は京成電鉄青砥駅の東方、中川右岸の湾曲部だ!
 


■青戸団地
 青戸3丁目1番~19番(18番は欠番)にある。青戸が町として発展したのは戦後のことだ。日
本住宅公団が青戸団地の入居者を募集したのは昭和31年7月。その後人口増加に伴い、住環境は整
備されていった。
 


■葛飾小学校

 
青戸1丁目3番1号にある区立校。昭和7年4月「東京府南葛飾郡本田第三尋常小学校」として開
校。10月南葛飾郡が東京市に編入され「東京府東京市本田第三尋常小学校」と改称。同9年「東京
府東京市葛飾尋常小学校」と改称。同12年校歌制定。

 校歌「歴史は古き葛飾の 作詞・‐‐‐  作曲・‐‐‐
  1.歴史は古き葛飾の
    里の名に負う学び舎の
    力漲る日本の
    明日を築かん意気をもて
    いざや学ばん諸共に
  2.東に筑波 西に富士
    国のまほらの武蔵野や
    緑 滴(したた)り遥々と
    我ら挙りて勇ましく
    開け行く世を先駆けん


 同16年勅令第148号「国民学校令」により「東京府東京市葛飾国民小学校」と改称。12月日
米開戦。同18年都制施行により「東京都葛飾国民学校」と改称。同19年愚かなアメリカ軍の非人
道的無差別空爆が激しくなったため学童集団疎開。同20年日本は完膚なきまでにアメリカに叩きの
めされて敗戦、以後属国とされ、唯々諾々として言いなりになる保守傀儡政権を保持せざるを得ない
今日的不幸を背負い込む。
 同22年アメリカの強制による「学校教育法」施行により「東京都葛飾区立葛飾小学校」と改称。
同27~31年設備整備(図書室・プール・講堂など)。同37年創立30周年記念式典。同41年
理科教育においてソニー賞受賞。同47年創立40周年記念式典。同49年新しい体育館・プール完
成。同52~54年暖房設備、校庭整備完了。同55年全教室にカラーテレビ設置。同56年1年前
倒して創立50周年記念式典。同61年校舎窓枠アルミサッシ化完成。
 平成元年学校周囲の生垣完成。同3年創立60周年記念式典。同12年地方自治法改正に伴う学校
教育法の改正により、東京都の冠称が取れ「葛飾区立葛飾小学校」と改称。同13年創立70周年記
念式典。同17年校舎・体育館の耐震化完了
 


■福森稲荷神社
 青戸1丁目11番6号にある。祭神は倉稲魂命。例大祭は9月15日。拝殿は、間口3間×奥行3
間、前面に切目縁と1間の流向拝があり、屋根は入母屋造り、銅板葺き。内部畳敷。幣殿は間口1間
×奥行3間、手前右側に3尺の張り出しがあり、屋根は両下造り、銅板葺き、内部畳敷。本殿は間口
1間×奥行2間、屋根は入母屋造り、銅板葺き。明神鳥居は
小松石製で「文政二己卯年二月吉日」。
拝殿は間口3間×奥行2間、一間流向拝付、屋根は入母屋造り桟瓦葺き。幣殿間口1間×奥行2間、
屋根は両下造り、鉄板葺き。拝殿とともに内部板敷。本殿は一間社流造り。間口6尺×奥行6尺、屋
根は切妻造り、桟瓦葺の覆屋内に安んずる。神輿庫は社殿の右に、社務所は左に接してある。
 「葛西志」淡之須村の条に、

   稲荷社
   除地二畝二十四歩。中川堤の内にあり。福森稲荷と号す。村の鎮守なり。宝泉寺持


 といい、神社由来碑には寛政八年(1796)九月の勧請と記してある。社殿は昭和12年1月の
改築である。

   神社由来碑 昭和12年1月15日建立
   当社ハ寛政丙辰八 九月九日、稲荷神社拝殿ニ勧請シ、御神爾ハ稲荷大明神本地如意輪観世
   音菩薩、両鎮山(旧青戸村観音寺)、主竜演画ニシテ、年代不詳、境内末社ニ奉遷ス。昭
   和八年、松本岩次郎氏・鈴木三次郎氏・清水勇吉氏・白木金蔵・鈴木平蔵寄附ニ依リ、小
   破修繕シ、社モ幾星霜巳ニ久敷朽敗シ、風到ヲ□損スルヲ以テ、氏子協議ノ結果、改築シ、
   昭和十二年一月二十五日、正遷宮式執行ス。社掌関秋夫 氏子総代清水鉄三郎(以下略)
 


■覚王山密蔵院宝泉寺
 
青戸1丁目18番16号にある真言宗豊山派の寺。南葛88ヶ所霊場63番札所・荒綾88ヶ所霊
場18番札所。慶長十七年(1612)宥静法印による開基。本尊は大日如来。旧名主の書上帳によ
ると、延享元年(1744)、文政三年(1820)天保六年(1835)の三回にわたる火災のた
め、殆どの記録を失い、由緒は明らかではない。しかしこの寺は肥前国平戸藩主松浦家の隠居寺とし
て同家の庇護を受けた。墓地内にある松浦壱岐守の墓は、昭和2年松浦家の菩提寺下谷広徳寺が区画
整理で墓地を練馬区に移転したため、その墓地改葬の時、関係者の要望によって移したもので、墓前
にその由来を東岳荒木勉の書いた記念碑が建っている(葛飾区教育委員会 葛飾区寺院調査報告)。
 「新編武蔵風土記稿」によると

   宝泉寺
   新義真言宗青戸村宝持院門徒、覚王山密蔵院と号す。慶長十七年僧宥静といへるが草創す
   る所なり。因てこれを開山と称す。示寂の年月を失う。本尊大日。地蔵堂。


 とある。

 
松浦静山夫妻の墓

 宝泉寺墓地の突き当たりにある。墓は巨大なもので2基とも高さ4mに及ぶ。 肥前平戸藩617
00石の藩主松浦(まつら)壱岐守清夫妻の墓で、清は文化三年(1806)入道して静山と号し、天保
十二年(1841)82歳で歿したが、その著『甲子夜話』という270巻の随筆は、今尚後学の史
料として一級品の価値がある。宝泉寺は松浦家の隠居寺だった関係から、昭和初年寺の移転の時、関
係者の要望により墓石のみが移された。傍らに由緒を刻んだ記念碑が建っている。なお明治天皇の生
母中山慶子の母愛子は静山の娘で、従って表向き静山は明治天皇の曽祖父に当る。明治天皇そのもの
は慶子の子ではなく、長州藩の毛利系朝鮮人大串寅之祐だ。
 


■中原八幡神社

 青戸2丁目2番2号にある。なかなかの広さのある境内。祭神は誉田別命。例大祭は9月15日。
境内末社は第六天・三宝荒神・稲荷の3社。『新編武蔵風土記稿』中原村の条に

   八幡社 鎮守ナリ。勝養寺持

 とある。社殿は昭和2年4月の再建だったが、昭和55年7月改装された。なお境外末社の北野天
神社は文化八年(1811)の鎮座だ。
60人あまりの近在の男衆が祭事を行っている姿を描いた絵
馬が有名、だとか。明神鳥居は
花崗岩製。「昭和二年十月建之」  


あおと鬼子母神 護国立正教会一道院
 青戸2丁目3番1号にある。(日蓮宗)。石柱の表札に「あおと鬼子母神」とある。石段を上って
境内に入るとすぐ左にお堂があり、掲額に鬼子母神。鉄筋コンクリート造り。正面のビルの1階には
「泰山流四柱推命鑑定所」とある。


■大師堂(南葛八十八ヶ所霊場第三十一番札所) ◇

 青戸2丁目3番19号にある小祠。


青戸三丁目西児童遊園

 青戸3丁目10番11号にある区立公園。


青戸三丁目東児童遊園

 青戸3丁目22番23号にある区立公園。


■中原天神社

 青戸3丁目24番20号にある中社。旧中原村の鎮守。
社殿は昭和2年の再建だったが、同55年
改築。なお境外末社の北野天神社は文化八年(1811)の鎮座。(葛飾区教育委員会 葛飾区神社
調査報告)。「新編武蔵風土記稿」に、


   八幡社、勝養寺持、下持同じ。天神社。

 とある。境内社は第六天神社・三宝荒大神・稲荷神社。

 地名中原の由来
 昔、この辺に広大な野原があったことからつけられた地名といわれている。江戸時代初期に開墾さ
れた農村だ。旧中原村は、住居表示実施により、立石5・6丁目、青戸1~3・6丁目に改められて
いる。
 


鶴林山厳浄院勝養寺

 青戸3丁目25番14号にある新義真言宗豊山派の寺。本堂と庫裏が一緒になって鉄筋コンクリー
ト造り2階建て。左手は墓地。「
葛飾区寺院調査報告」によると。縁起は、寛政六年(1794)の
中原村書上帳によれば、大永七年(1527)恵運法印の創立。一説には天文十五年(1546)僧
恵運が小田原北条氏の家臣遠山丹波守直景の恩顧を受け、その居城の鬼門にあたる渋江郷(四ツ木)
に一寺を建立し、後、現在地に移った。「新編武蔵風土記稿」によると、

   勝養寺
   新義真言宗青戸村宝持院門徒、鶴林山厳浄院と号す。開山惠運、永禄二年寂す。本尊大日。
 


■青戸教会

 青戸3丁目31番2号にある日本キリスト教団のちっちゃな教会。昭和27年創立。
 


■青砥駅
 青戸3丁目36番1号にある京成本線・押上線・金町線の停車場。昭和3年11月1日に追加開業
した駅。当時の京成の始発駅はまだ押上で、後にメインルートとなる日暮里~青砥間が開業したのは
昭和6年12月19日のことだ。
 二層構造の高架駅。2階と3階にそれぞれ島式1面2線のホームを持ち、2階が1・2番線、3階
が3・4番線となっている。ホームと改札階を結ぶエレベーターも完備している。
 改札口は1カ所のみで、中2階にある。出口はA出口とB出口の2ヶ所で、エレベーターも設置さ
れている。
 駅名は「青砥」だが、周辺の地名は「青戸」だ。これは単なる表記の違いではなく、前者は「青砥
左衛門尉藤綱」、後者は「青戸二郎重茂」という別々の武将の名が由来になっている。両者ともに鎌
倉時代の人だ。「青戸」は「大戸」と考えられている。対岸は「奥戸」。

 
ヨハン・シュトラウス像
 南口高架下にあ丸柱の側にある「ワルツの塔」というモニュメント。平成4年、区の文化複合施設
「かつしかシンフォニーホール」を開設した際に、シンフォニー通りの起点となるこの場所に設置さ
れた。区は嘗て、ウィーン市長が飛行機内で柴又を舞台とする「男はつらいよ」を見てすっかり感激
してウィーンロケを招請した縁で、昭和62年ウィーンのフロリズドルフ区と友好都市の関係を結ん
でいる。映画は「男はつらいよ」第41作「寅次郎心の旅路」(マドンナ=竹下景子)として完成し
シュトラウスの曲がふんだんに使われている。
 


■ホテルアカイ
 青戸3丁目41番12号にある宿泊施設。京成青砥駅徒歩1分。成田、柴又、浅草、押上(東京鵜
スカイツリー)、上野直通。成田空港60分。上野・浅草から15分、押上(東京スカイツリー)7
分とビジネス・レジャーにもフットワークはいい。スーパーや飲食店も多く非常に便利。快適な滞在
をお約束。


青葉児童遊園

 青戸4丁目20番7号にある区立公園。


■青戸公園 → 青戸平和公園

 青戸4丁目23番1号にある区立公園。昭和63年、非核平和都市宣言5周年を記念し、青戸公園
を改修して非核平和祈念塔を建設すると共に、噴水、せせらぎなどを作り、塔の前には被爆時の遺品
が献花台とともに設置されている。

   青戸公園は昭和20年2月に開園し、当時は野球場として利用されておりましたが、昭和
   11月に緑につつまれた森林公園に改修され、広く区民に親しまれてまいりました。
   このたび、葛飾区では、昭和61年、国際平和年に際して区議会決議を受けて、非核平和
   を求める区民の願いをこめた祈念塔をほぼ区の中央に位置する当公園に建立致しました。
   また、被爆を身をもって体験した葛友会から寄託された広島御幸橋の縁石と、長崎の被爆
   レンガを祈念塔のほとりに展示し、戦争の悲惨さを。

 
非核平和祈念像
 堀豊之の作品。この塔は、恒久平和の使徒である鳩を手にした女性像(高さ2.4m)を、原爆のキ
ノコ雲をイメージした御影石製の台石の上に配したもので、塔全体の高さは7.4mにも及ぶ。公園の
ほぼ中央の噴水池に囲まれ、非核平和を願う区民のシンボルとして聳え立っている。

 
広島市御幸橋の縁石
 園内にある互い違いに積まれた3段の長方形の石。昭和20年8月6日、原爆の投下された広島市
中心部にいた被災者の多くは、猛火から逃れるために市内を流れる京橋川に架かる御幸橋を目標に集
まった。御幸橋は爆心地から南南東へ約2.2km。この橋から、負傷者はトラックや軍の舟艇で、さ
らに南の海軍宇品船舶練習部或いは似島(にたじま)へと運ばれていった。被爆者にとって御幸橋は
「生きる」ために逃げる一つの目標として、また生と死を分けた境界線として、今も心に深く刻み込
まれている。この惨状を見届けた被爆の証人ともいえる御幸橋が老朽化のため架け替えられることに
なり、これを知った葛飾原爆被爆者の会(葛友会)が、「何とか橋の一部だけでも保存して後世に残
したい」と広島市に申し出て、橋の縁石3個を譲り受け、区にその活用を託したものだ。

 
焼け焦げた門柱のレンガ
 この被爆したレンガは、長崎市内の爆心地から約190m南で、商店街を一歩入った民家の門柱の
一部に使われていたもので、赤茶色のレンガ10個が爆発の凄まじい熱によって一塊になっており、
所々黒く焼け爛れている。このレンガも、葛飾原爆被爆者の会(葛友会)が長崎市から譲り受け、区
にその活用を託したもだ。

 
千羽鶴の献架台
 この献架台は、区に寄せられた千羽鶴を献架するためのもので、沢山の千羽鶴が献架されている。
色取り取りの千羽鶴には区民の皆様の平和への願いが込められており、非核平和祈念塔と共に、非核
平和を願う区民のシンボルとなっている。
 毎年8月初旬には、非核平和都市宣言区として、区民と共に非核平和への祈りを捧げるため、「テ
クノプラザかつしか」にて「非核平和祈念のつどい」を開催しており、その中で千羽鶴の献架も行っ
ている。

 
原爆犠牲者慰霊碑
 折り鶴献架台に向って左、少し離れた場所にある。平成24年に、品川区の「東海寺」から移転し
てきた。東海寺が仏教であるため、一神教の人々が無宗教の場所に置いて欲しいとの希望でそうする
ことにした。碑には広島・長崎の被爆石が祀られている。「宗に教関係なく公的な場所に慰霊碑とそ
の被爆石を祀りたい」という東友会(東京在住の原爆被爆者や遺族たち)の長年の意向を、葛飾区が
受け入れて実現したものだ。

   原 爆
   犠牲者 
慰霊碑

 慰霊碑の左側にあるのが、長崎の爆心地

   長崎被爆石 長崎市寄贈
   爆心地真下に流れていた下の川の護岸石。爆心地から100mの距離にあり、熱線による
   剥離が見られる。当時全身火傷の被災者は、水を求め次々と川に飛び込み死亡した。

 右側にあるのは広島の石。

   広島被爆石 広島市寄贈
   京橋川にかかっていた御幸橋の歩道の縁石。爆心地から2.3km の地点にあった被爆石
   で、
燃えさかる市内から宇品方面に逃げる被災者で石造橋の上は大混乱、凄惨を極めた。


■中青戸小学校

 
青戸4丁目24番1号にある区立校。昭和32年青戸、清和小から分離し「東京都葛飾区立中青戸
小学校」として開校。区内の小学校で最初の鉄筋コンクリート3階建て校舎の1・2期工事が竣工、
2学期から移転した。同35年校歌制定。

 校歌富士のように」  作詞・土岐善麿  作曲・平井康三郎
  1.富士のように高くあかるく
    筑波のように肩をならべて
    学ぶよ 習うよ みんな一緒に
    団地の窓は朝日に輝きき
    緑に囲まれ町は賑やか
    草も木も伸び伸び育つ
  2.ポプラ戦ぐ門を入れば
    桜の花も春を競うよ
    希望の青空 みんな仰いで
    元気に いつも弛まず焦らず
    豊かな心で話し合う時
    中川が流れて行くよ
     ここは葛飾 中青戸
     楽しい吾らの小学校


 同38年体育館完成。同44年プール完成。同54年文部大臣表彰(学校給食)。
 平成12年地方自治法改正に伴う学校教育法改正により東京都の冠称が取れ、「葛飾区立中青戸小
学校」と改称。同19年創立90周年記念式典。 
 


■青戸中学校

 
青戸5丁目10番1号にある区立校。昭和31年3月第1期校舎竣工。同32年「東京都葛飾区立
青戸中学校」として開校。第2期校舎竣工。同33年第3期校舎竣工。同34年1月第4期校舎竣工。
同35年第5期校舎竣工。同37年体育館完成。同39年プール完成。同42年創立10周年記念式
典。同45年第1期改築鉄筋校舎竣工。同48年第2期改築鉄筋校舎竣工。同49年第3期改築鉄筋
校舎竣工。同52年創立20周年記念式典。第4期改築鉄筋校舎竣工。同62年体育館・プール改築
竣工。創立30周年記念式典。
 平成3年葛飾区中学科学教育センター開室。同4年コンピュータルーム開室。同9年創立40周年
記念式典。平成12年地方自治法改正に伴う学校教育法改正により東京都の冠称が取れ「葛飾区立青
戸中学校」と改称。同19年創立50周年記念式典。
 校歌不明 
 


無量山光明院
法間寺
 
青戸6丁目16番20号にある浄土宗の寺。永禄二年(1559)中島種広創立、穂蓮社安誉虎覚
上人開山。当初は現在地より約100m東南にあったが、享保十四年(1729)幕府勘定吟味役井
沢惣兵衛の中川開削のため現在地に移った。寺に安置する呑竜上人は子育て呑竜として、遠近からの
参詣者で賑わった。墓地に開基中島佐太郎種広の墓、門前左側に施餓鬼音楽法要の碑がある。
 本堂の左に「青面金剛銅像」があり、享保六年(1721)に庚申信仰により建立。山門を潜ると
左手に墓地、右が庫裏と鉄筋コンクリート2階建て本堂、その裏も墓地だ。青戸は三遊亭円朝の生母
加藤すみの生まれた場所で、当寺に円朝と加藤一族の過去帳や墓石がある。「新編武蔵風土記稿」に

   法間寺
   浄土宗下総国小金東漸寺末、無量山光明院と号す。開山安誉、文禄二年二月四日寂す。本
   尊弥陀は毘首羯摩の作。
   稲荷社、地蔵堂。


 とある。

 
三遊亭圓朝(円朝)
 幕末から明治期に活躍した落語家。江戸噺家三遊派の大名跡。
本名は出淵 次郎吉(いずぶち じろ
きち)。初代は、といっても初代しかいないのだが、三遊派の総帥、宗家。三遊派のみならず「落語
中興の祖」として有名。敬意を込めて「大圓朝」という。 
現代日本語と中国語の祖でもある。
 なお2代目になることになっていたのは初代圓右。「名人圓右」の呼び声も高く、明治期から大正
期に活躍した。圓朝の2代目を襲名することが決定したものの、一度も披露目をせずに病のため亡く
なった。そのため「幻の2代目」とも称される。
 歴代名人の中でも筆頭もしくは別格に巧いとされる。また多くの落語演目を創作した。滑稽噺(お
笑い)より、人情噺や怪談噺など笑いのない真面目な、いわば講談に近い分野で独自の世界を築いた。
圓朝の噺が三遊派のスタイル(人情噺)を決定づけたといわれる。しばしば「三遊派は人情噺ができ
ないと真打にしない」ということがいわれたものだ。その人情噺とは圓朝自作の2作「芝浜」と「文
七元結」をいう。あまりの巧さに嫉妬され、師匠の2代目圓生から妨害を受けたとか。具体的には圓
朝が演ずるであろう演目を師匠圓生らが先回りして演じ、圓朝の演ずる演目をなくしてしまうのだ。
それでたまりかねた圓朝は自作の演目(これなら他人が演ずることはできない)を口演するようにな
り、多数の新作落語を新たに作ることになった。初代談洲楼燕枝とは年齢が1歳下のライバルであっ
た。

 
現代日本語と中国語の祖
 というのは、現代日本語の特徴の1つである言文一致体を一代で完成させたからだ。ちょうとその
頃日本に「速記法」が導入され、圓朝は自作の落語演目を速記で記録し公開することを許した。記録
された圓朝の語りそのものの文章は、新聞に連載され人気を博した。これが作家二葉亭四迷に影響を
与え、明治20年「浮雲」を口語体(言文一致体)で発表し、明治以降の日本語の文体を決定づけ、
のみならず現代中国語の文体も決定づけたのだ。魯迅は日本留学中に言文一致体に触れ、自らの小説
も(中国語の)言文一致体で綴った。すなわちこれが「白話運動」であり、ここで中国語は漢文と切
り離されて口語で記されるという大改革がなされたのだ。中国革命の発端は圓朝だともいえるのだ。

 
庚申塔
 境内にある。板状駒型 日月 青面金剛像 邪鬼 三猿 二鶏。「奉庚申建立同行」「享保六壬丑
十一月吉日」「講中十八人」と刻む。


   名称 青面金剛像
   刻銘
   (像周辺) 奉庚申建立同行
         享保六辛丑年十一吉日
   (台 石) 講中十八人
   年代 享保六年(1721)江戸中期八代吉宗
   由来等
    刻銘からわかるように庚申信仰の講中によって
   建立されたものである。
   60日目に一巡する十干十二支の庚申に当たる夜
   に青面金剛像を本尊として三猿の像をまつり祭供
   を設け夜を徹して庚申を守り、それによって罪道
   を免れる祭りをした。
   平成10年5月吉日      佐藤律三
                  新井賢治 造立
            


■青戸小学校

 
青戸6丁目18番1号にある区立校。詳細不明。
 


青戸南自然の広場

 青戸6丁目31番4号にある区立公園。


■東京慈恵会医科大学 附属青戸病院 → 葛飾医療センター
 青戸6丁目41番2号にある総合病院。前身は、昭和13年3月大島貫一により「大島病院中川診
療所」として現在の別館のところに建てられ、外来は内科、主として結核の入院治療の診療所だった。
同18年10月東京慈恵会医科大学が大島より有償贈与を受け、「東京慈恵会医科大学附属中川堤療
養所」と改称。同21年大学の規模拡大と充実計画により、同年5月名称を「東京慈恵会医科大学附
属東京病院分院青砥病院」とし、内科、外科をはじめ、入院、外来とも一般診療を行う総合病院に改
組し、同年10月19日に開院式が行われ、今日の青戸病院の基盤が確立された。
 同38年12月に本館(地上4階・8109㎡)を新築、この時「東京慈恵会医科大学附属青戸分
院」に改称。同49年11月旧本院跡に別館(地上4階・5095㎡)、同60年6月には第二別館
(地上4階・1298㎡)などの新・増築を行い、病院建物・設備の整備が進められた。
 その後、呼称を同61年4月より「青戸病院」に改め、学祖高木兼寛が意図し、建学の精神でもあ
る「病気を診ずして病人を診よ」を標語とし、患者様の側に立つ全人的医療を目指し、当大学病院の
充実した医療を、そして患者様中心の人間味あふれる高度医療を提供している。
 平成24年1月「葛飾医療センター」に改称。
 高木は森鴎外と違って誠実な人なので、その伝統の病院なら安心かも?
 


■テクノプラザかつしか
 青戸7丁目2番1号にある「葛飾区地域産業振興会館」。産業関係者の交流や自主的活動の促進、
経営・技術情報の提供、経営・下請相談などを行っている区内産業振興の拠点です。技術開発支援室
や情報サービス室を備えた「都立城東地域中小企業振興センター」が隣接してる。
 開館は午前9時~午後9時半。休館日は年末年始。主な施設は、大ホール・会議室・視聴覚室・展
示ホール(いずれも有料)、パソコンステーション、相談室、レストランなどがある。
 03‐3838‐5555

 
おもちゃ博物館トイランド

 昔から区内におもちゃの製造会社が多いことから、タカラトミー、セキグチなど、区内の地場産業
としてのおもちゃを展示している。

 
「ゆれるハート」
 館外の池にある三澤憲司の作品、ハートというかお尻というか・・・「宇宙よりのカプセルが テ
クノプラザでひとやすみ」だとか。

 
「光の風車」
 三角屋根の上にある吉田誠の作品。
 


■東京都城東地域中小企業センター
 青戸7丁目2番5号にある。テクノプラザの向かいにある。

 
「異・空間90‐8」
 正面右手にある大きなオブジェ。内田晴之の作品。


■青戸七丁目児童遊園
 青戸7丁目16番8号にある区立公園


■御殿山公園
 青戸7丁目21番7号にある区立公園。

   東京都指定史跡
   
葛西城跡                 所 在 地 葛飾区青戸7丁目21番外
                         指定年月日 平成10年3月15日
   葛西城は、中川の沖積微高地上に築かれた平城である。沖積地に存在しているため、地表
   で確認できる遺構は見当たらない。
   築造者と築造の年代については不明であるが、天文七年(1538)二月には、北条氏綱
   によって葛西城が落城されたという記録(「快元僧都記」)があり、この後、葛西城は後
   北条氏の一支城となり、幾多の争乱の舞台となった。
   後北条氏の滅亡後、葛西城は徳川氏の支配下に入り、葛西城の跡は
将軍の鷹狩の際の休
   憩・宿泊(青戸御殿)として利用されていた。
   この葛西城が再び注目されるようになったのは、昭和40年代後半のことである。昭和4
   7年から発掘調査が行われ、その結果、主郭を区画している大規模な堀・溝・井戸跡等が
   検出され、陶磁器、木製品等が出土し、中世の城郭の存在が明らかにされた。
   東京都内には中世城郭跡が多数存在している。沖積地に存在している城館跡は、地表にそ
   の痕跡をほとんど残さないことから内容が不明のものが多いが、葛西城の存在は、発掘調
   査によって明らかにされており、戦国の争乱語る上で欠かすことのできない城郭である。
   平成11年3月31日 建設                   東京都教育委員会


 
青砥藤綱城跡碑
 信憑性は薄いがここが青砥藤綱の屋敷跡ではないかという憶測で建てた石碑。

   
青砥藤綱城跡

 
青砥史蹟復興之碑
 園内植栽にある。

   
青砥史蹟復興之碑


■葛西城跡・青戸御殿跡
 青戸7丁目21・22・28番先の環七通りを含む一帯にある。城は、室町時代初期に関東管領上
杉氏が築いたもので、守護代大石石見守憲重以下五代に亘り在番させた。しかし天文年間(1532
~1554)小田原北条氏が攻め落とし家臣遠山氏に在宿を命じた。永禄七年(1564)里見氏と
の国府台合戦の時ここに本陣を設けたことがある。その後天正十八年(1590)小田原北条氏の滅
亡により荒廃したが、徳川氏により「青戸御殿または葛西御殿」として修復され、将軍お鷹狩りの折
に、その休憩所として使用されたが、明暦三年(1657)に取り壊された(葛飾区の歴史)。延宝
六年(1678)に御殿払い下げのお触れが出されており、この時期に取り壊されたことが判ってい
る。これ以後再興されることなく、現在は環状7号線が通り、往時の面影をしのばせるものは何もな
い。青砥藤綱の隠居所との伝説も残るが、藤綱自身実在した人物かどうか疑われている。
 ※石碑や説明板等は総て御殿山公園の方にある。
 


■葛西城址公園
 青戸7丁目28番17号にある区立公園。葛西城の本丸跡と推定されている。


■青戸七丁目東児童遊園
 青戸7丁目30番7号にある区立公園


両鎮山慈眼院観音寺
 
青戸7丁目33番3号にある真言宗豊山派の寺。入口を入ると右手に鐘楼と墓地、正面は薬師堂、
左に折れると本堂。その右に庫裏。天正四年(1578)真盛法印の創立。本尊の十一面観世音菩薩
像は弘法大師の作、元禄七年(1694)の修復と伝えられていたが、正徳三年(1713)火災に
より、古記録等と共に焼失した。また当寺は、三社明神社(白髭神社 → 青砥神社)の別当職を勤め
た。慶応元年(1865)と明治11年、旧本堂の改修が行われ、現在の本堂等は昭和41年4月の
新築だ。「新編武蔵風土記稿」によると、

   三社明神社別当観音寺
   新義真言宗村内宝持院末、両鎮山慈眼院と号す。天正四年起立開山真盛、本尊十一面観音
   を安す、弘法作長一尺許。
 


■三社明神 → 白髭神社 → 青砥神社
 
青戸7丁目34番30号にある。青戸村の鎮守。天正四年(1576)に白鬚(猿田彦命)・諏訪
(建御名方命)・稲荷(倉稲魂命)の3社を勧請したことから「三社明神」と称え、広大無辺の神徳
は氏子崇敬者の上に遍く日夜加護された。明治5年神格制定に際して白髭神社と改称、昭和18年9
月旧青戸4丁目にあった白山神社を合祀し、社名を青砥神社と改めた。その後、同35年5月旧青戸
町内にあった高木神社・北野神社・葛葉稲荷神社・水神社も合祀して今日に至っている。
 従って祭神は、猿田彦命・建御名方命・宇迦之御魂命・伊邪那美命・高皇産霊神・譽田別尊・菅原
道真公・彌都波能目神(みずはのめのかみ)・青砥藤綱公。
 本殿及び拝殿は大正7年改築したもので、社殿は中川の洪水によってしばしば破損し、青戸・白鳥
両町の総鎮守としては神老朽化が甚だしく、多くの氏子の要望により、同36年増改築運営委員会を
結成して、本殿拝殿の改築を完成した。それにより青砥神社講を組織し、同講役員の献身的奔走によ
り氏子・崇敬者多数の賛同を仰ぎ、社務所の竣功及び境内整備の完成を見るに至った。
 境内にはイチョウ・マテバシイ・ケヤキ・モッコクなどの大樹が鬱蒼と茂っている。

   御造営記念碑
   当社は往昔白髭神社と称し天正丙子四年に、畏くも猿田彦命(白鬚)健御名方命(諏訪)
   宇迦之御魂神(稲荷)の三社を勧請したるに始まり、ゆえに三社明神と称し、その広大無
   辺の御神徳は氏子崇敬者の上に遍く日夜加護せらる。
   昭和十八年九月旧青戸四丁目に鎮座せる白山神社(伊弉那冉命)を当社に合祀申上げ、御
   社名を青砥神社と改称し、ついで昭和三十五年旧青戸町内に鎮座せる高木神社(高皇産霊
   神)八幡神社(譽田別尊)北野神社(菅原道真公)葛葉稲荷神社(倉稲魂命)水神社(彌
   都波能目神)をも合祀申上げ、今日に至る。本殿及び拝殿は大正七年改築したものである
   が、老朽甚だしく青戸、白鳥両町の総鎮守として、御神威に添い奉らざる事態に逢着し、
   氏子多数の要望により、昭和三十六年増改築運営委員会を結成して本殿拝殿の改築を完成
   し、その後の青砥神社講を組織し、同講役員の献身的奔走により氏子崇敬者多数の賛同を
   仰ぎ、社務所の竣工及び境内整備の完成を見るに至れり。これ因より御神徳によるとはい
   え、氏子崇敬者の至誠なくしては能くこのことあるべからず。因って茲に篤信を録して記
   念とす。                            名誉宮司 関秋夫
                                   宮  司 関■■


 ※文中「健御名方命」とあるのは「建御名方命」の間違いであろう。「伊弉那冉」は「伊弉冉」と
「伊邪那美」がこんがらがったのだろう。

 
青砥藤綱
 鎌倉時代中期の武将。左衛門尉。『太平記』などに,執権北条時頼に仕え、引付衆となり、時頼に
諸国視察をすすめ,得宗 (とくそう) 領をめぐる公文と執権との訴訟に公正な裁決をなし、また鎌倉
の滑川 (なめりがわ) に落した十文を五十文かけて捜させたなどの逸話がみえるが,その実在は疑問
視されている。
 


■修徳学園中学校・修徳高等学校

 
青戸8丁目10番1号にある私立校。詳細不明
 


■西亀青児童遊園
 青戸8丁目11番5号にある区立公園


■西青戸公園
 青戸8丁目16番8号にある区立公園


■亀青小学校

 
青戸8丁目17番11号にある区立校。明治5年9月青戸村115番地宝持院にて「育幼社」とし
て開校。同6年6月「第一大学区第六中学区第四番小学青戸学校」と改称。同7年10月本田立石村
西円寺に分校設立(現本田小学校)。同8年亀有恵明寺に亀有学校設立。青戸村山崎久蔵宅敷地に青
山学校移転。同25年9月亀有・亀青両校合併、再び宝持院にて開校。「亀青尋常小学校」と改称。
 大正9年4月高等科併置。「亀青尋常高等小学校」と改称。宝持院から新築の南校舎に移転。
 昭和7年東京市周辺郡部が市に併合されため「東京府東京市亀青尋常高等小学校」と改称。同14
年校歌制定。


 校歌「
富士と筑波の」 作詞・国語部岩槻良雄  作曲・信時潔
  1.富士と筑波の山映えて
    緑も深き中川の
    畔に建てる学び舎は
    これぞ栄えある我が母校
  2.古く床しき亀青よ
    世に輝ける勲しを
    立てし人をば育める
    理
(ことわり)今も香りあり

 同16年勅令148号国民学校令により「東京府東京市亀青国民学校」と改称。12月日米開戦。
同17年創立70周年記念式典。同18年都制施行により「東京都亀青国民学校」と改称(33学級
・2086名)。同19年給食室完成。給食開始。第2次学童集団疎開新潟県栃尾。同20年第2次
学童集団疎開新潟県曽根。8月敗戦。10月疎開解除により学童帰校。
 同21年憲法公布記念運動会。同22年給食再開。学制改革により高等科廃止、「東京都葛飾区立
亀青小学校」と改称(児童数2673名)。同23年亀有3丁目に道上小学校分校。亀有中学校を併
置。青戸町2丁目に白鳥小学校分校。同36年創立80周年記念式典。同37年特殊学級開設。同3
8年創立90周年記念式典。同39年第1期鉄筋コンクリート造り校舎(普通教室8)落成。同40
年第2期鉄筋コンクリート造り校舎(普通教室6)落成。同42年第3期鉄筋コンクリート造り校舎
(普通教室6)落成・給食調理室完成。同45年第4期鉄筋コンクリート造り校舎(管理室・特別教
室・体育館・プール)落成。同47年創立100周年記念式典。同48年第5期鉄筋コンクリート造
り校舎(普通教室8・保健室)落成。同57年第1期鉄筋コンクリート造り校舎(普通教室2・図書
室・視聴覚室落成。校庭ダスト舗装完了。同58年創立110周年記念式典。
 平成4年創立120周年記念式典。同8年「葛飾区立亀青小学校」と改称。同9年コンピュータル
ーム開設。同10年体育館改修。同13年算数科少人数指導開始。同14年体育館屋根葺き替え。コ
ンピュータ21台、付帯設備設置。創立130周年記念式典。同15年光ケーブル取付。同16年耐
震化。屋上防水。同18年わくわくチャレンジ広場開設。
 


薬王山宝持院真頂寺
 青戸8丁目18番18号にある真言宗豊山派の寺。環七通り青戸8丁目交差点(青戸陸橋下)北の
路地を亀青小学校に向かって入ると右手前に入口がある。お地蔵さんのお出迎えだ。
 「新編武蔵風土記稿」によると、天養二年(1145)弁証の開山とあるから、860年ほどの法
灯を伝えると推定され、かつては門末30余ヶ寺を持った本寺格の古刹なのだ。天文七年(1538)
隣接の葛西城と共に兵火に罹り七堂伽藍が焼き尽くされたいたという。元は大和長谷寺末寺、往時は
西青戸の大部分が境内だった。古来より葛西三本寺(東新小岩正福寺・東金町金蓮院)の一つデ、中
本寺格の寺院として知られる。
 慶長十六年(1611)春盛法印によって再興され、由緒ある寺として徳川家康から朱印地5石を
賜った。文政八年(1825)当時の住職永雅は、大本山長谷寺の化主になったほどの名僧だが、永
雅が朝夕愛読した多くの仏典は、再三の水害で流され、今はなく、境内鐘楼堂に掲げた嘉吉二年(1
442)在銘の古鐘は、元禄十二年(1699)に再鋳されたものだったが、その梵鐘も軍部が持っ
ていって鉄砲の弾にしてしまった。

   宝持院
   新義真言宗山城国醍醐報恩院末、薬王山真頂寺と号す。寺領五石の御朱印は慶安元年賜へ
   り。当寺は近郷三十ヶ寺の本寺にして、開基は弁證といふ僧にて天養二年起立と云。本尊
   薬師。鐘楼。元禄十二年鋳造の鐘を掛。


 松浦河内守信正の墓
 
墓地入口の右側にある。丸い墓標は珍しくすぐに判る。松浦信正は、旧下小合村(現在の東金町)
の領主で1500石取の旗本。勘定奉行をはじめ大坂御町奉行、駿府御町奉行を経て、寛延元年(1
748)に長崎奉行に累進した人だが、長崎在職中に罪を犯して閉門となり、領地小合村に建立した
信正院で、明和六年(1769)病没した。享年75歳。この墓碑は、旧下小合村にあった菩提寺の
龍蔵寺に、生前に建てさせたものだが、明治2年龍蔵寺が廃寺の際、母の長松院殿の墓塔とともに移
されたが、何故この寺に移されたのかは不明。法名は信正院殿前河州刺史功山紹勲大居士。

   
信正院殿功山紹勲大居士

 
島田新右衛門の墓
 墓地の左奥にある島田家の墓の一番奥にある。新右衛門は幕府御鳥見衆肝煎で立石村の名主。「立
石」の周りを、試しにと掘らせ、石の底を見届けようとしたが、三日三晩掘り続けても底に届かず、
病人が出るに及んで中止して埋め戻し、「立石様」と崇めて奉った人だ。立石は元々この地にあった
ものではなく、千葉県の鋸山産ということが判っている。太古の人々が運び、建てたものだが、これ
ほどの巨石をどうやって運び、どうやって建てたのか、また最初から埋めたのか自然に埋まったのか
全く判っていない。新右衛門ならずとも興味津々だ。その後も試みた者が2、3人あったそうだが、
掘り切れなかったとか。
 子孫は、アメリカ軍の無差別空爆の際、焼夷弾で家を焼かれたため千葉の成田に疎開、戦後市川市
に移って、現在もそちらに健在だ。
 


長久山地蔵院延命寺
 青戸8丁目24番29号、中川大橋の西詰にある新義真言宗の寺、嘉応元年(1169)法印源秀
の開基と寺伝にある。平清盛が権勢を振るい始めた平安時代末から800年以上続く古刹だ。葛飾区
でも土着の寺として5本の指に入る。本尊は延命地蔵のほか青砥藤綱の守本尊という摩徂利天(摩怛
梨天=三面大黒)像を安置する。古くから、やくじん(疫神)さまと呼ばれて親しまれてきた。これは
鎌倉時代に葛西城(青戸御殿)を領した青砥左右衛門尉藤綱が「青砥疫神」を守護神としていた伝説
や、葛西城の東北の鬼門に延命寺が位置するために藤綱が置いたという説などがあり、町内に疫病が
流行ると疫神様の神輿を担いだ史実などに由来する。文亀二年(1502)永正四年(1504)な
ど室町時代の板碑数基と、小田原北條氏の家臣清水土佐守の系図と由緒書、山岡鉄舟の扁額がある。
毎年4月15日の縁日には、境内に植木市が開かれ、遠近よりの参詣人で賑わい、葛飾名物の1つと
なっている。たくさん並ぶ無縁仏、8月旧盆の提灯行列や百万遍の大念珠などの行事も、それを語り
継いでいる。念仏講の集会場であったり、近年の芝居舞台(劇場プロジェクト)、幻燈会、あるいは
読み書き算盤塾、9月の青空市(フリーマーケット)といったことを境内や本堂で行うなど、地域の
お寺として昔から様々な人を受け入れてきた。さらに新しい文化を取り入れ広めることにも和尚さん
は常に積極的だ。「新編武蔵風土記稿」に、

   延命寺
   新義真言宗 村内宝持院末、長久山地蔵院と号す。開山源秀嘉応元年開きしと云ふ。本尊
   延命地蔵を安す。
   太神宮、稲荷社、麻多羅神。
   薬師堂。
   鐘楼、明暦三年鋳造の鐘なり


 とある。

 二十一仏庚申塔
 
延命寺にある。中世の板碑のように種子が力強く刻まれてるが、下部には庚申信仰の「三尸説(さ
んしせつ)」の銘文が刻まれた江戸時代初期の庚申塔だ。実際には山王二十一仏に不動明王と愛染明
王が加えられた二十三の種子が記されている。基礎部には、睡蓮のほかに沢瀉(おもだか)が浮彫さ
れた特徴もある都内唯一のものとして、区文化財に指定された。

   奉彫建石佛 庚申結衆 行蓮坊
   庚申待成就 如等所行 是菩薩道
   青面金剛彭■尸彭質尸彭矯尸垂迹
   漸漸修党 悉當成就
   承応四乙未暦
   夾鐘廾一日


 区の説明板は以下の通り。

   区指定有形文化財
   
二十一仏庚申塔
   所 在 地 葛飾区青戸8丁目24番29号
   指定年月日 昭和51年3月6日
   60日に一度めぐって庚申の日に健康長寿を願って夜明かしすることを守庚申、庚申待と
   いい、室町時代以後各地にこの庚申信仰が広まり庚申講が組織されました。庚申塔は供養
   ・記念のために建てられました。
   この塔には山王二十一社の本地仏の種子(梵字)と三尸(人の体内にあって、短命にする
   虫)の文字を刻み、蓮華・沢瀉の葉を描いています。この庚申塔は、中世の二十一仏板碑
   から近世の庚申塔に移る頃の貴重なものです。
    高さ189cm  巾70cm  塔身高154cm
    造立年代 承応四年(1655)                葛飾区教育委員会


■青戸八丁目児童遊園
 青戸8丁目27番15号にある区立公園

 


【奥戸】(おくど)1~9丁目                  最終昭和47年2月1日
 奥戸村 明治11年「郡区町村編制法」により南葛飾郡に所属。同22年「市制町村制」により
上小松村・下小松村・奥戸村・奥戸新田・曲金(まがりかね)村・細田村・鎌倉新田・上一色村飛
地・新宿村飛地が合併して奥戸村大字奥戸、昭和5年奥戸町大字奥戸。同7年葛飾区が成立して奥
戸本町となった。同43年8月1日新住居表示により奥戸本町・奥戸新町の一部に上平井町・上小
松町・下小松町の各極一部をあわせた町域を現行の「奥戸1~4丁目」とし、同47年残りの奥戸
本町・奥戸新町に立石町・細田町の川で切り離されている部分をあわせた町域を現行の「5~9丁
目」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『葛飾区史』『葛飾の歴史』など。

 奥戸の由来
 初見は応永5年(1398)の『御厨文書』。『小田原衆所領役帳』にも見える。奥津の転じた
ものといわれ、戸は津で湊、渡船場・交易港。青戸より下流にあるので奥の意味は判らないが、青
戸側から見て沖、奥の意なのだろうか? 中川はかつては利根川であり舟運はとてもさかんだった。
立石と奥戸は向かい合っており持ちつ持たれつの関係にあったのだろう。だから佐倉街道にも通じ
ている奥戸は奥戸橋東詰の湾曲部だ。
 


■オブジェ

 奥戸1丁目1番7号先歩道の真ん中にある。


■「望み」

 奥戸1丁目12番1号奥戸一丁目アパート一号棟の南の歩道にある丸石のオブジェ。人間に見せか
けている面白味。2基ある。


■奥戸南汐公園

 奥戸1丁目12番2号にある区立公園。


■「安らぎ」

 奥戸1丁目13番2号奥戸一丁目アパート二号棟の南の歩道にある丸石のオブジェ。人間に見せか
けている面白味。2基ある。


■奥戸一丁目児童遊園

 奥戸1丁目20番11号にある区立公園。


■鬼塚・稲荷社

 奥戸1丁目28番、南奥戸小学校南の畑の奥角にある塚。室町時代に築造された塚で、儀礼的行事
に使用されたとか。現在塚の上には稲荷社が奉られている。私有地の中にあるので入ることはできな
いが、周辺の駐車場から近づくことはできる。塚のいわれは不明だが、この塚は、室町時代と江戸時
代の二回に亘って築造された。平面型は方形ないし不整の円をなし、東西約13.9m、南北約15.
4m、高さ約1m(海抜)ある。
 室町時代に、東西約8m、南北約8.5m、高さ約0.7mの方形の塚が造られ、中央に土坑が穿た
れた。塚の南側には、ハマグリを主体とした貝殻が堆積していた。この小貝塚は、生産活動に伴う何
らかの儀礼行為の結果と判断される。
 江戸時代になると、稲荷を祠るために、中世の塚の上にさらに土を盛り塚を作り直している。塚の
上には、寛保二年(1742)銘の祠がある。東京低地帯全体を見渡しても、良好な状態で保存され
ている中世の塚は鬼塚のみであり、貴重な文化遺産だ。

   葛飾区指定史跡
   
鬼塚                     所 在 地 葛飾区奥戸1丁目28番
                          指定年月日 平成9年3月9日
   塚のすわれは不明ですが、「鬼塚」と呼ばれているこの塚は、室町時代と江戸時代の2度
   にわたって築造されています。平面型は方形ないし不整の円をなし、東西約13.9m、南
   北約15.4m、高さ約1.0m(海抜)を測ります。
   室町時代においては、東西約8m、南北約8.5m、高さ約70cmの方形の塚が造られ、
   中央に土坑が穿たれました。その中から石臼、陶器鉢が出土しました。塚の南側には、ハ
   マグリを主体とした貝殻が堆積していました。この小貝塚は、生業活動に伴う何らかの儀
   礼行為の結果と判断されます。
   江戸時代になると、稲荷様を祀るために、中世の塚の上にさらに土を盛り、塚を作り直し
   ています。塚の上に寛保二年(1742)銘の祠があります。
   鬼塚は室町・江戸時代を通して、この地域に生活した人々の精神文化を知る上で、きわめ
   て貴重な史料です。また、東京低地帯全体を見渡しても、良好な状態で保存されている中
   世の塚は鬼塚のみであり、貴重な文化遺産と思われます。      葛飾区教育委員会


■森永乳業東京工場

 奥戸1丁目29番1号にある。昭和32年創業、大手食料品メーカーとして、葛飾区の産業をリー
ドしてきた。ここで生産された製品は、都内をはじめ全国で販売されている。この工場では特に緑化
に力を入れており、緑化優良工場として、通産大臣賞及び内閣総理大臣賞を受賞するなど、その取り
組みは高く評価されている。また工場の敷地を地域のイベントに開放したり、即売会を実施するなど
地域に対する貢献も顕著。
 


■森市地蔵堂・大師堂(南葛八十八ヶ所霊場第第十二番札所) ◇

 奥戸2丁目1番8号にある小堂二つ。森市地蔵は、森市という行者が入定した塚で森市を哀れみ地
蔵尊が祀られている。また横には、南葛八十八ヶ所霊場12番の弘法大師像が安置されている。入口
左右の標柱は、左が、

   
森市地蔵尊

 右は、

   
南葛大師十二番

 とある。傍らの説明板は以下の通り。

   入定塚の由来
   此の入定塚は、森市という六部(行者)の終焉の地です。以後この場所を森市地蔵・また
   は圦の河岸と呼んでいます。森市は、江戸時代他国より廻国してきた「六部」で、此の村
   で何年か過ごしましたが村人にも大変尊敬された行者でしたが「自己の天寿を悟り」今迄
   大変お世話になって村の人等の繁栄を祈願し「入定」しました(入定とは生きながら墓穴
   に入り、即身仏となって命を断つ意)。経文を唱え、鉦を打ち、其の音が「三日・三晩」
   続いた・・・と伝えられています。村人は森市の死を哀れみ、お地蔵様を祀り供養しまし
   た。 現在のお地蔵様は、お堂に祀られている聖徳太子像の、背面に安置されています。

   
南葛大師第十二番の由来
   南葛八十八ヶ所の一霊場としてお大師様のご遺徳と村の繁栄を願い、大正12年奥戸六丁
   目・真言宗・善紹寺住職・宇田川意心 師、竝に地元有志の「発願」により小堂を建て、
   弘法大師の石像を安置したもので「南葛大師」と呼び称されています。以来、南葛飾郡一
   円の善男善女の信仰を集め、現在に至っています。

    古き代の石のみほとけかしこみて斎きまつれる人ぞ尊き 坂本誠二

   両社とも毎年六月二十四日 午前十時より盛大な供養会を執行しています。
                           所在地 葛飾区奥戸2丁目1番8号
   平成10年6月                   森市福地蔵尊・南葛大師奉賛会


■小澤病院

 奥戸2丁目31番3号にある総合病院。内科・外科。小児科。


■奥戸二丁目公園

 奥戸2丁目31番10号にある区立公園。


■大師堂(南葛八十八ヶ所霊場第四番札所) ◇

 奥戸2丁目32番19号の民間墓地内にある小祠。


■水神社
 奥戸2丁目33番4号、区総合スポーツセンターグラウンドの西方にある。祭神は水波能売命。例
大祭は7月22日。草創の縁起は判らない。川っ渕にあるところからすれば、中川に関わってのこと
だろうから、此処に人々が住み着いた頃を起源とするのか?「新編武蔵風土記稿」奥戸村の条に、

   水神社妙厳寺持

 とある。
古来本区は水稲栽培が一般農民の基本になっていたので、稲作に不可欠の灌漑用水の守護
神として水神を祭ることが多い。しかし現在は多く鎮守社などの末社になっていて、当社のように独
立した神社はきわめて稀だ。一説には人柱伝説によって、享保十四年(1729)幕府の勧請吟味役
井沢惣兵衛が中川開削の時、河畔に祀ったものという。以前は本奥戸橋の上流100m鼠山にあった
が、中川改修工事のため、大正11年現在地に遷り、昭和29年10月に境内の整備を終えた。祭神
が女神であるので、子授け、安産、育児の神としても信仰された。
別当寺は妙厳寺。鳥居は明神で花
崗岩製。「水神社」の額を掲げている。石祠も花崗岩製で
、一間社流造の小祠、石畳の基壇の上に建
つ。(葛飾区教育委員会 葛飾区神社調査報告)
 


■天祖神社

 
奥戸2丁目35番16号にある旧奥戸村の鎮守。祭神は天照皇大神・武甕槌命・経津主神。例大祭
は10月10日。境内末社は浅間・諏訪・稲荷・出羽三山・第六天・古録・御嶽の7社。
 
当社はこの地が葛西御厨であった頃、伊勢皇大神を勧請し、また下総の香取・鹿島両神宮の2神を
勧請して「三社明神」と称し、村の鎮守としたものと思われる。江戸時代には、寛永十八年(164
1)以来、寛文・正徳・享保・天明・文政・天保・安政・の8回に亘って再建または修覆が行われ、
大正11年には拝殿が修築され、現在の社殿は昭和49年12月の造営だ。社務所は社殿の右、水盤
舎は社殿前にある。左奥に
 鳥居は明神。花崗岩製で社殿前口にあり、「ごぼうじめ」をかける。東参道口に移した旧鳥居も花
崗岩製。社殿は鉄筋コンクリート造り。拝殿は間口3間×奥行4間、奥の1間の左右は各6尺張り出
して祭具庫に充てる。神明造り、銅板葺き。幣殿は間口1間×奥行3間両下造り。本殿は間口1間(背
面は2間)×奥行2間、神明造り、銅板葺きだけ。


 ●ごぼうじめ神事(大注連縄神事)
 
幕末の嘉永の頃からの神事だ。現在は10月15日前後の土曜日に行われている。長さ4間2分の
「大ごぼうじめ」2本を作り、1本は社前の神木に納め、1本は悪魔祓いと称して氏子の若者が担い
で村中を戸別に廻って祈祷するという慣例があったが、現在は短い「ごぼうじめ」1本を神社に奉納
し、
正面の鳥居にかける。稲作が行われなくなった今日では材料の稲藁も地元産はごく一部で、多く
を千葉県から調達している。

   葛飾区登録無形民俗文化財
   
大しめ縄神事                所 在 地 奥戸2丁目35番16号
                          登録年月日 平成2年3月19日
   奥戸天祖神社で毎年10月に行われる祭礼。「大しめ縄神事」では稲藁を用いて、約6m
   にもおよぶ大しめ縄を作り、「アクマバライ」と称して旧村内をまわります。以前は「雄
   じめ 雌じめ」と呼ばれる日本の縄を作り、旧村内をまわった後、神社境内にあった榎に
   掛けられていました。その後、大しめ縄は一本になり、正面鳥居に掛けられ、さらに平成
   9年には氏子によって新たに石柱が立てられ、ここに掛けられるようになりました。大し
   め縄には、氏子の各家から持ち寄った稲藁を用いていましたが、今日では、区内で稲作が
   ほとんど行われなくなったため、材料の稲藁は千葉県から入手しています。
   神社には祭礼の記録である「年番帳」が嘉永年間(1848~)以降から保存されていま
   す。それによると、祭礼は明治27年までは「舞社神事」として2月1日に行っていまし
   たが、同28年からは取り決めによって10月に変更したことがわかります。
                                   葛飾区教育委員会
 


■南奥戸児童遊園

 奥戸2丁目43番2号にある区立公園。


■ライフル不正輸出でインドネシア人兄弟逮捕
 
平成27年11月25日、警視庁公安部の国際テロを専門とする部署は、奥戸3丁目在住のインド
ネシア人で工員のイルヴァン・アリザル(31歳)とその兄で千葉市在住の工員デニ・ダニエル(4
0歳)を、ネットオークションで8050円で購入したライフルスコープ(照準器)を日本国の許可
を受けずにインドネシアに国際スピード郵便で輸出したとして逮捕した。
 この兄弟のフェイスブックには、ライフル銃のスコープを覗く自分の姿や、畳の上にスコープが並
べられている様子、さらに、国際郵便の伝票の写真、そして、国際テロ組織アルカイダの元指導者ウ
サマ・ビンラディンの動画や、イスラム過激派の兵士とみられる写真も掲載されていた。
 警視庁公安部は、この日午前、兄弟2人の関係先を家宅捜索し、ライフル銃のスコープ29個を押
収した。いずれも本物のライフル銃で使用できるものとみている。2人は、今年4月以降、ネットオ
ークションでライフル銃のスコープ数十個やサバイバルナイフ10本を購入。今年9月から先月にか
けて今回の事件のほかに4回に亘り、スコープを国際郵便で不正に輸出していた。「スコープを転売
して利益を得るのが目的だった」2人はこのように話し、容疑を認めている。
 パリでテロ事件があったばかりで、公安は神経を尖らせている。とにかくユダヤのやることだから
とんでもない仕掛けがある。ユダヤは謀略を楽しむところがあるから、日本とて部外者ではない。過
去に何度も陥れている。ユダヤの属国である日本の権力者たちがユダヤに追随しない訳がない。前の
大戦で600万人の日本国民を殺した連中だ。国民を犠牲にしない訳がない。


■南奥戸小学校

 
奥戸3丁目5番1号にある区立校。詳細不明。
 


■奥戸の古代遺跡説明碑

 
奥戸3丁目5番1号の南奥戸小学校の西側の歩道にある。4枚のタイルでできている。

   奥戸の古代遺跡
   奥戸地区は、葛飾区のなかでも比較的土地の低い南西部に位置することから、 今まで考
   古学的にも空白地帯でした。しかし、鬼塚遺跡・本郷遺跡の発見を契機に奥戸地区にも古
   代の遺跡が存在することがわかってきました。
   鬼塚遺跡・本郷遺跡は、古墳・奈良・平安時代を主体とする遺跡で、古代の奥戸に住んだ
   人々が使用した土師器・須恵器や建物・井戸・溝などか数多く発見されています。出土品
   のなかでも鬼塚遺跡から出土した官位を表す帯飾りは、東京低地では初めて出土したもの
   で、古代の奥戸に官位を持つ役人がいたことを示す史料として注目されます。
   また、出土した土師器や須恵器のなかには、現在の埼玉・茨城・静岡・愛知県などで作ら
   れた製品が認められ、当時の交流の様子を知ることができます。このほか、牛・馬の骨歯
   などが多く出土することから、古くから牛・馬を利用した農耕が導入され、開発が進んで
   いたことが考えられます。
   葛飾区は、日本の古代史上著名な「養老五年下総国葛飾郡大嶋郷戸籍」(721年作成)
   に記載されている大嶋郷の推定地とされており、定説では大嶋郷を構成する甲和・仲村・
   嶋俣の3里のうち、甲和里=江戸川区小岩付近、嶋俣里=葛飾区柴又村ふきんとされてい
   ます。鬼塚遺跡や本郷遺跡なと奥戸地区に所在する遺跡も大嶋郷を構成する集落の一つと
   考えられることから、今まで所在が不明だった仲村里の推定地として注目されます。
                            平成2年3月 葛飾区教育委員会


■牛頭天王祠 ◇

 
奥戸3丁目15番15号にある妙厳寺の境外仏堂。


■奥戸しらさぎ公園

 奥戸3丁目20番6号にある区立公園。


■奥戸三丁目児童遊園

 奥戸3丁目26番21号にある区立公園。


八王山妙厳寺
 
奥戸3丁目28番10号にある真言宗豊山派の寺。応永二十二年(1415)の創立と伝え、もと
本寺の正福寺の過去帳に「永享九年(1437)丁巳 妙厳寺義海」の文字が見えるので、応永年間
の創立であることが立証できる。永禄元年(1558)上小松村西福院の海鎮法印が中興し、享保元
年(1716)盛吽法印が法流を相続した。元文四年(1739)の「正福寺惣門末起立録」に、

   本奥戸村 八王子山 不動院 妙厳寺
   本尊不動明王 中興 元禄元午年 法印海鎮 元文四己未年迄 凡百九十三年
   牛頭天王社地 一反余 御見捨 境内 二反三畝十歩 恩除地 寺附田地 九反七畝二分
   御年貢地 買添 一町二畝十歩 御年貢地 御法流 享保元申年 法印盛吽相続 御代官
   所 伊那半左衛門殿


 とある。本堂は安政二年(1855)の大地震に倒壊し、明治14年再建、昭和9年その位置を変
更して改築し、同40年客殿、庫裡を新築した。

 木彫地蔵菩薩像
 岩座上の半跏踏下げ像で
重層の蓮華座上に像を安じ、内側を刳りぬいた宝珠形が像に被せてあり、
外すと尊像が現われる仕組みなのだが、元文ニ年(1737)の銘があるものの仏師や由来などは全
く不明。特異な構想が注目される。その他「金銅華鬘」2面、「十三仏信仰関係遺品」などの貴重な
資料もある。
 


■上小松小学校

 
奥戸4丁目1番4号にある区立校。昭和47年3月第一期校舎落成。4月「東京都葛飾区立上小松
小学校」として開校。5月1日を開校記念日と制定。校庭固定施設(低鉄棒・登り棒、雲梯・滑り台
・ジャングルジム)。校章制定。PTA設立。校旗制定。校章玄関取付。同48年3月校歌制定。

 校歌「薔薇色の」 作詞・三越左千夫  作曲・高槻宏人
  1.薔薇色の ばら色の未来を見つめる
    爽やかな僕らの目 私らの目
    今日も 今日も
    学びの道をまっすぐに
    葛飾の風 頬に受け
    若木のように伸びようよ
    上小松 上小松の子は光の子
  2.逞しく 逞しく体を鍛えて
    僕らの手 私らの手
    今日も 今日も
    苦しい時も耐え忍び
    葛飾の風 頬に受け
    小鳥のように歌おうよ 
    上小松 上小松の子は光の子
  3.いつの日も いつの日も青空忘れぬ
    微笑の僕らの胸 私らの胸
    今日も 今日も
    素直な愛
(いと)おしみ
    葛飾の風 頬に受け
    希望の明日へ進もうよ
    上小松 上小松の子は光の子


 4月プレハブ校舎2教室完成。同49年第二期校舎落成〔普通教室7・特別教室4(図書室、音楽
室、準備室(2)〕。プール完成。同51年プレハブ校舎6教室完成。同56年創立10周年記念植
樹(桜7本、こぶし2本、もくれん3本)。創立10周年記念式典・記念祝賀会。同57年プレハブ
校舎撤去、体育倉庫及び花壇新設、飼育小屋、遊具等移動整理。校庭ダスト舗装完了。同59年玄関
前緑化完了。給食室改修。同62年創立十五周年記念誌発行。
 平成元年3月緑化工事完成。同2年音楽室エアコン設置、保健室木床に張り替え。同3年給食室改
修。創立20周年記念式典。同4年機械警備開始。校舎外壁塗装。同5年トイレ窓枠アルミ材に改装。
学校週5日制に伴う土曜休業導入。体育館照明器具改修。校舎窓枠のアルミサッシ化。体育館舞台照
明改修。同6年冷暖房設置(校長室、職員室、事務室、主事室など)。校門改修(正門及び校庭側の
門)。同7年コンピュータルーム設置。同8年理科室改修。創立25周年記念集会。同10年生ごみ
処理機械設置。同13年創立30周年記念式典。同14年学校完全週5日制始まる。同17年玄関電
子錠システム設置。普通教室エアコン設置。屋上防水工事。同18年プール床面・フェンス塗装。図
書データベースシステム開始。耐震工事 パーティション工事。同19年開校35周年記念式典。
 


■西井堀公園

 奥戸4丁目4番19号にある区立公園。


■奥戸東公園

 奥戸4丁目8番6号にある区立公園。


■奥四あおぞら公園

 奥戸4丁目20番4号にある区立公園。


■南奥戸公園

 奥戸5丁目14番1号にある区立公園。


■南奥戸第二公園

 奥戸5丁目15番3号にある区立公園。


■善紹寺

 
奥戸6丁目6番12号にある新義真言宗豊山派の寺。大正年間の創立。讃岐国大窪寺境内の霊木で
刻んだ八十八体の弘法大師像の1体を本尊とする。南葛88ヶ所霊場1・22・39・48・64番
札所。

 小堂
 正面側の塀を抉って建てられている。
 


■会野公園

 奥戸6丁目6番15号にある区立公園。


■地蔵庚申堂 ◇

 奥戸6丁目12番16号の角地にある小堂。


■亀田児童遊園

 奥戸6丁目18番15号にある区立公園。


■上入公園

 奥戸7丁目13番1号にある区立公園。


■総合スポーツセンター運動公園

 奥戸7丁目17番1号にある。陸上競技場(トラック、フィールド、芝生舗装、夜間照明あり)、
体育館(体育室、武道場、弓道場、アーチェリー場、エアーライフル場、会議室、トレーニングルー
ム、ランニング走路)などの施設を備えている。休館日は第4水曜日、年末年始、館内整備日。
 問い合わせ 03‐3691‐7111

 
「雄渾」像
 陸上競技場入口正面前庭にある投げをする男性裸像。晝間弘の作品。

 
「母性」像
 西洋の女神のような女性像。

 
木像
 体育館1階ロビーにある男性像。特に題名もなく設置されている。花田一男の作品。
 


■水神社 ◇

 
奥戸7丁目19番1号、環七通り奥戸七丁目北交差点の西角にある小祠。
 


玄久山玄乗院妙法寺
 
奥戸8丁目1番17号にある日蓮宗の寺。本尊は三宝祖師・四天王。天正年間(1573~91)
日安上人の創立。一時荒廃したが、万治二年(1659)四世日恕大徳が再興し、開基と称されてい
る。享保三年(1718)火災のため記録を失い、詳しい由緒は明らかでない。当寺に蔵する「妙見
堂略縁起」によれば、当寺妙見堂の本尊妙見菩薩像は日法上人(日蓮上人の弟子)の作で、久しく駿
河国岡宮の某寺にあったが、天文六年(1537)の法乱によって所在不明となり、のち甲斐国の民
家に移っていたものを、天文十年(1582)当寺の開山日安が、当寺へ勧請し、境内に妙見堂を建
てて安置したものという。安政年中(1854~60)本堂が再建され、さらに大正15年4月に本
堂、昭和9年6月に庫裡が落成したが、妙見堂は荒廃し、像は本堂に移された。なお境内には、区内
に珍しいクロガネモチの木がある。「新編武蔵風土記稿」

   妙法寺
   日蓮宗、下総国中山法華経寺末、玄久山玄乗院と号す。本尊三寶を置。開山日安、寂年を
   傳へず。三十番神堂
 

 
子育地蔵尊
 本堂横にある銅像。


■大師堂(南葛八十八ヶ所霊場第九番札所)

 奥戸8丁目3番13号にある小祠。


■八劔神社

 奥戸8丁目6番22号にある。祭神は
日本武尊、伊邪那岐命、伊邪那美命。例大祭は10月3日。
境内末社は熊野・稲荷の2社。
 天文五年(1536)三河国碧海郡西端村の郷士杉村小左衛門が当地を開拓するに当たり守護神と
して勧請したものと伝える。奥戸新田の鎮守だ。社殿は、寛永六年(1629)九月、正保四年(1
647)、安永七年(1778)五月、文久三年(1863)九月、明治41年10月に再建または
修復が行われ、現在の社殿は昭和47年10月の造営だ。
 鳥居は明神、社殿の前方にある。花崗岩製で、昭和47年に建てたもの。古いものが無いので、以
前のものは木製だったのだろう。社務所は社殿に向かって右前、西参道に面する。
 社殿は、
鉄筋コンクリート造り。拝殿は間口3間×奥行3間、奥1間は左右に張り出して祭器庫と
し、前面に1間向拝を付し、屋根は入母屋造り、千鳥破風・軒破風付、千木・葛緒木を上げる。幣殿
は奥行2間、両下造り、銅板葺き。本殿は一間社流造り、銅板葺き、千木・葛緒木をあげる。水盤舎
は社殿改築の昭和47年に据えた。

 
稲荷神社
 社殿の向かって右にある。一間社流造り、銅板葺き。旧本殿の建物。文久年間(1861~63)
の建築という。前に花崗岩の神明鳥居・石灯籠がある。


 
熊野神社
 社殿と稲荷神社の間にあり、一間社流造、浅瓦葺。

 
裸参り図絵馬額/棟札
 裸の40人ほどの氏子が社殿に向かう、禊の意を込めた裸参りのありさまを示す絵馬だ。
 棟札は、寛永六年(1666)奥戸新田の氏子が「矢劔大明神」を再興した時のものだ。葛飾は近
世初期に「下総国」から「武蔵国」に変更になったが、これは寛永六年においては、まだこの地が、
「下総国」に属していたことを示す資料でもある。

   区指定有形民俗文化財          区指定有形民俗文化財
   
板絵着色裸参り絵馬額       八劔神社棟札
   所 在 地 葛飾区亀戸8丁目6番22号
   指定年月日 昭和57年2月13日    昭和55年3月7日
   この絵馬額には、右端に水盤社、左上部斜 寛永六年(1629)奥戸新田の惣百姓、
   め右向きの社殿、その間にはき明神鳥居と 惣氏子が「八劔大明神」を再興した時の棟
   太いごぼうじめ(しめ飾りの一種)を渡し 札です。材質はヒノキで、以下のような墨
   た樹木2株、右寄り上部に末社1宇が描か 書銘があります。
   れています。参道には40人余の男が裸姿 上部には阿弥陀種子、中央に「奉再興矢劔
   で社殿に向かい、左下の池では5人の男が 大明神一宮遷宮郷中繁栄祈所」、右に「下
   禊をし、そのうち1人は袋入りの神宝の剣 総葛西庄奥戸新田宮職宝蔵院法印海運」、
   と思われるものを持っています。右上には 左に「寛永六年九月二十五日遷宮致之導師
   現在は判読できませんが「奉献」と書かれ 上小松正福寺法印空鏡」とあります。
   ていました。祈願の内容は明確ではありま 葛飾郡は近世初期に「下総国」から「武蔵
   せんが、禊の意をこめた裸参りのありさま 国」に変わりますが、これは寛政六年にお
   をしめしています。           いて、まだ葛飾郡が「下総国」に属してい
                       たことがわかる史料です。
                                  葛飾区教育委員会
 


青旧山宝蔵院和光寺
 奥戸8丁目5番19号にある新義真言宗豊山派の寺
。応永二年(1395)旱魃に悩む村人のため
に雨乞いの「祈雨の霊法」を施して一躍有名になった満空阿闍梨が開いて有名になった寺だ。天文七
年(1538)里見・北条国府台合戦の余波を受けて焼失。慶長十七年(1612)海運法師は、代
官伊奈半十郎忠治に訴えて寺領を獲得し、寺を再建した。

 「新編武蔵風土記稿」に、

   寶蔵院
   新義真言宗、上小松村正福寺末、青旧山和光寺と号す。本尊阿弥陀を安す。開山海運、寂
   年詳ならず。
   薬師堂


 とある。元文四年(1739)の「正福寺惣門末起立録」にも記事があった。

   奥戸新田村 青旧山和光寺宝蔵院
   本尊 阿弥陀如来  開基 慶長十七年 法印海運  元文四年迄 凡百二十八年 八剣
   大明神社地 御見捨  熊野三社宮社地 右同断  境内 一反八畝二十七歩 御除地 
   寺附田地 八反四畝三歩 御年貢地  御代官所 伊那半左衛門殿


 
寺号塔
 入口前左にある。

   古刹 青旧山
      和光寺 
宝蔵院

   作家 井上 靖先生 自筆 史碑在
   歌人 柳原白蓮先生 自筆 歌碑在


 
式部薬師堂 / 幕末の騒動(式部薬師秘話)
 この緑豊かな境内の一角に式部薬師堂があるが、この堂内に安置されている式部薬師像にはこんな
歴史が秘められている。
 江戸後期の宝暦の初め(1751~58)京都で尊王思想の先駆けとなった国学者に竹内式部(本
名敬持、号正庵)がいた。式部は新潟の医師の子として生まれたが、長じて上洛し公卿徳大寺公城に
仕える傍ら私塾を開いて垂加流神道や軍学を講じた。これに影響を受けたのが幕府に圧迫され続けて
いじけていた若手公卿が大いに自身を持ち、正親町三条公積・烏丸光胤・久我敏通・徳大寺公城らの
支持者を生み,桃園天皇にも講義するにいたった。弟子の一部が朝廷の権威回復の運動に走ったため、
京都所司代としては放置できなくなり、宝暦八年(1758)式部を捕らえて京都所払いとし伊勢へ
追放した。明和四年(1767)山県大弐(やまがただいに)が不穏な言動の廉で処刑される明和事
件がおき、式部も連座したため危険人物として八丈島に流罪となった。
 この式部の門人に本堂良喜がいた。師が捕らえらると良喜は弾圧をかわして関東に下り、この寺に
身を潜めた。時の住職は快く匿い倒幕のための援助を惜しまなかった。そのうち彼を慕う徳大寺家の
妙姫が巡礼姿に身をやつし、式部から拝領したという薬師仏を携えてきて2人して潜むこととなった。
八丈島へ護送の途中式部が死んだことが伝わってくると悲観のあまり出家して是海、妙信尼と改め、
師の菩提を弔った。しかしその間にも追う幕吏はひたひたと捜査網を狭めるとやがて居場所を嗅ぎつ
ける。

   隠すことをば天知る地知る吾知る人知る皆が知る(岡山藩主池田光政)

 或る夜突然の襲撃に驚いた和尚が早鐘を撞いて急を知らせようとしたものの、その梵鐘も貧しい寺
の財政を賄うため手放したばかり、やむなく銅鑼を鳴らして助けを求めたが、良喜も和尚も斬り殺さ
れ、妙信尼も思垂松(しだれまつ)の下で自害して果てた。王政復古の明治以降、代々の住職は鐘楼
を再建し、彼らの霊を慰めようとしたものの、なかなか果たしえず、昭和38年になって漸く「和光
の鐘楼」が成り、やっとのこと200年の宿願を果たした。楼の下にはその由来を記した作家井上靖
筆の碑が建っている。緑豊かな境内の一隅には妙信尼の護身の薬師仏をお祀りする「式部薬師堂」が
建てられている。

 
仏縁之碑
 本殿前の地蔵菩薩立像の右隣、石仏群の中にある。

   仏縁之碑

   この一群の石仏は 昔それぞれ供養されていましたが 現在はだれひとり参拝する者のな
   い無縁様となっています また明治維新の際の廃仏毀釈の風潮のもとで 心ない者たちに
   よって泥土に埋められた石仏もあります
   このたび これらの哀れな野仏様を掘り起こし ここにお祀りしました。
   われわれの後世の仏縁のために供養し 御加護を祈願いたします。
   昭和59年9月吉日 本堂庫裡新築を記念してこの碑を建てます。
                                願主 港区赤坂 青木晟
                                 宝蔵院19世 宣雄代


 
鐘楼再建賛歌碑(井上靖文学碑)
 鐘楼の側にある記念碑。昭和38年の建碑。以下の銘文以外のことは刻んでいない。

   宝暦の頃、国事につ勤むる男女この寺へ逃れしが捕史の襲うところとなりて、当時の住職
   と共に討たれしという哀史伝われり。寺鐘の失われしはその頃のことにして、爾来堂宇荒
   廃のまま時移り、世は変わり、今日まで鐘桜建つことなし。昭和の住職関谷宣雄師、鐘桜
   再建を発願して、多歳浄財を得て、昭和三十八年春、和光の鐘桜の建立を見る。往古迦賦
   色迦王悪龍の請に依って伽藍を建て、鐘を打ってその瞋心を息むという。諸々の悪龍の瞋
   心ここに息むべし、時恰も新中川放水路開鑿に当たり、宝蔵院はその流れの岸に臨めり。
   晨夕の鐘声は水底に没せし農家、耕地のために、また新しき供養の意味を持つと謂うべし。
                                       井上 靖

 柳原白蓮の歌碑
 境内にある。

   
衆生あり祈願成就のよろこびを代々に伝えし御仏ぞこれ

   白蓮は
   戦後、愛児の戦死もあり、平和運動にも従事。
   三十六年、緑内障で両眼失明、龍介の介護のもとに、歌を詠む日を送る。
   やがて波乱の人生も終幕となる。
   昭和四十二年、長逝。享年八十一


 
情熱の歌人白蓮は、明治20年柳原前光の次女燁子(あきこ)として麻布に生まれ、早くから天成
の歌人として知られた。14歳で北小路家資武に嫁ぎ、15歳で一子を設けたが、精神薄弱に近い資
武との余りにひどい結婚生活に見かねた白蓮の家族は、5年後に離婚させるが、子供は夫の母に奪わ
れてしまう。実家に戻ったものの『出戻り』であるが故に幽閉に等しい生活を余儀なくされ、27歳
で九州の炭鉱王伊藤伝左衛門と再婚、美貌と情熱的家風で「筑紫の女王」とちやほやされたが、間も
なく夫と合わず大阪に逃げ出し、一介のサラリーマン宮崎竜介とくっつきあい(恋愛結婚)をした。
竜介は中国革命の大立者宮崎滔天の長男で労働運動にも尽くした人物だ。白蓮の叔母愛子は柳原二位
局(大正天皇の生母)なので、皇室内でも問題となったが、彼女は華族籍を除外されても意固地を貫
き通した。この時の心境を歌で語っている。

   君なくば我が世もあらじ身もあらじまして身を焼く思いもあらじ

 実は白蓮は、藤原道長の系統、六代前の光綱は、幕府との連絡係である武家伝奏の職にあり、若手
公卿を抑え式部を追放した張本人だ。奇しき因縁に彼女はここに歌を寄せたのだろう。妙信尼への同
情と共に先祖の私利私欲見え見えの軽薄な大罪を詫びたかったのかも知れない。白蓮の碑は都内には
一つしかなく、住職(関谷宣雄)が白蓮に師事した縁による。

 木造薬師如来立像
 この像は、公家徳大寺公城の娘妙姫が携えてきた護持仏だ。宝暦九年(1759)姫は本堂良喜と
ともに京都を逐われて当寺に寄宿し、堂宇を建て像を安置したと伝えられ、以来薬師堂の本尊として
安置されている。台座・両手共、総て一本の木から彫刻された一本造りで、左手胸前で薬壷を持って
いる。像の高さは22.5cm、光背は31.8cm。小像だが制作も古く、広く信奉された像として
後世に伝えたいものだ。


   葛飾区指定有形文化財
   木造薬師如来立像    
       所 在 地 葛飾区奥戸8丁目5番19号
                        指定年月日 昭和56年2月28日
   木造薬師如来立像は、宝蔵院薬師堂の本尊として安置されています。台座・両手ともすべ
   て一本の木から彫刻された一本造りで、左手胸前で薬壷を持っています。像の高さは22.
   5cm、光背は31.8cmです。
   宝暦のころ、王政復古を唱え、その後の尊王思想に影響を与えた竹内式部の門下で徳大寺
   公城の家臣である本堂良喜は、宝暦事件(1758)の際京都をおわれ、当寺に身を寄せてい
   ました。その良喜の後を追い、公城の娘妙姫は師の式部から拝領の薬師仏を背負いやって
   きました。竹内式部が獄死した後、二人はこの地に堂を建て薬師仏を安置し師の冥福を祈っ
   たと伝えられています。この像が式部薬師と呼ばれ信仰されているのは、この様な由来に
   よるものです。小像ですが制作も古く、広く信奉された像として後世に伝えたいものです。
                                   葛飾区教育委員会


 彼岸花群落
 「宝蔵院の彼岸花」といわれるほど有名。季節には、赤・白・黄・淡い紫色の花が境内に咲き乱れ
る。別名を「曼珠沙華(マンジュシャゲ)」というが、意味は「天上の花」の意だ。秋に咲くヒガン
バナの群落は赤が主体だが、黄も白もある。都内にある寺では最も大きい群落であり、境内に石仏な
ども置かれているので、見栄えのする寺ではある。

 
蓮花草群落
 境内にある。
 


仏光山称光院専念寺

 
奥戸8丁目10番3号にある浄土宗の寺。入口の右に休憩所、左は墓所、本堂は鉄筋コンクリート
その右は庫裏。新編武蔵風土記稿に、

   新宿町西念寺末、佛高山称光院と号す。本尊阿弥陀。

 葛飾区教育委員会の「葛飾区寺院調査報告」によると。元禄の「蓮門精舎旧詞」によれば、元和8
年(1622)照誉存両和尚の起立だが、由緒知らずとある。本堂に宝永元年(1704)七月銘の
半鐘がある。明治維新の頃は無住だったとか。
 


■北沼公園(北沼交通公園)

 奥戸8丁目17番1号にある区立公園。従来の交通公園に加え、科学と宇宙をテーマに、アップダ
ウンステージや月面歩行気分を味わえるムーンウオーカー(小・中学生対象)、星座をイメージした
噴水などの施設がある。休園日なし。但しムーンウォーカー等の施設は年末年始年末年始は利用でき
ないよ。

 
「生命の発祥」像
 北寄りのスペースにある佐藤助雄作の裸婦像。

 
天体祝祭装置
 南西角のスペースにあるオブジェ。星を模した球体をパイプで繋いでいる。

 
着陸態勢の宇宙船
 園内真中の南寄りにあるオブジェ。

 
恐竜2体
 園内東南のコーナーにある。トリケラトプス、ティラノサウルス。


■奥戸小学校

 
奥戸8丁目20番7号にある区立校。明治36年5月2日「奥戸尋常高等小学校」として開校。同
44年9月旧校歌制定。大正14年「第一奥戸尋常高等小学校」と改称。
 昭和7年東京市周辺郡部の東京市併合により「東京府東京市奥戸尋常小学校」と改称。10月高砂
小学校を分校。同9年高等科を併置し「奥戸尋常高等小学校」と改称。同10年下小松小学校分校。
同16年勅令148号国民学校令により「東京府東京市奥戸国民学校」と改称。12月日米開戦。同
18年都制施行により「東京都奥戸国民学校」と改称。同19年第一次学童集団疎開。同20年第2
次学童集団疎開。8月日本敗戦。10月疎開解除により学童帰校。
 同22年アメリカの強制による学制改革により「東京都葛飾区立奥戸小学校」と改称。同23年1
0月PTA結成。同32年南奥戸小学校を分校。同38年心障学級開設。同48年鉄筋コンクリート
造り校舎落成。同49年細田小学校を分校。同53年奥戸小農園開設。
 平成9年都ボランティア活動普及事業協力校。同12年区ボランティア活動推進協力校。区いきい
き学校づくり推進校。同13年道徳授業地区公開講座開始。同14年コンピュータ室開設。創立10
0周年記念式典。

 校歌「中川緩やかに」 作詞・土岐善麿 作曲・平井康三郎
  1.中川緩やかに流れるところ
    緑の中に町も育つよ
    皆 健やかに学ぶ時
    桜は移る青空に
    親しく互いに励む時
    欅は茂る微風に
  2.希望は新しく明るく高く
    遥かな雲に山も鮮やか
    行け 弛みなく踏み締めて
    四方に続く道しるべ
    進もう 正しく広々と
    勇んで渡る三和橋
     集まれ 挙れ 楠の蔭に
     我らの奥戸小学校
 


■愛苑児童遊園

 奥戸9丁目1番5号にある区立公園。


■奥戸フラワーパーク ◇

 奥戸9丁目15番16号にある区立公園。公園というよりは菜園といった感じ。



 【お花茶屋】(おはなぢゃや)1~3丁目               昭和39年8月1日
 上千葉村・下千葉村。明治11年「郡区町村編制法」により南葛飾郡所属。同22年「市制町村
制」により南綾瀬村大字上千葉・下千葉。昭和3年南綾瀬町の大字。同7年葛飾区上千葉町・下千
葉町。同39年新住居表示により上千葉町・下千葉町・亀有町1丁目・本田宝木塚町(ほんでんほ
うきづかちょう)の各一部をあわせた町域を現行の「お花茶屋」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『葛飾区史』『葛飾の歴史』かど。

 お花茶屋の由来
 
町名は昭和6年開設の京成線の駅名から新しく起こした。八代将軍吉宗(三代将軍家光とも)が
鷹狩の際に腰を痛めて(腹痛とも)、曳舟川に沿う四ツ木街道の石井新左衛門が経営する茶屋で休
み、娘お花の手厚い看護を受けて漸く治すことが出来た。吉宗はいたく感激して茶釜を与えるとと
もに店名を「お花茶屋」と名づけその後も立ち寄ったという。お花茶屋は線路をはさんで反対側の
宝町2丁目33番13号の石井家(石花商事)らしい。らしいというのは同家では拝領した茶釜を
「公家助け茶釜」と呼び家宝としたが、現在はそれを失い証拠がないということだ。同家は四木街
道に面しており、奇しくもバス停「お花茶屋」が覿面にある。石井商事はビルではなく瓦葺の旧家
なのだ。だからお花茶屋は石井家だ!
 


■お花茶屋児童遊園

 
お花茶屋1丁目9番19号にある区立公園。


■双葉中学校

 
お花茶屋1丁目10番7号にある区立校。昭和22年「東京都葛飾区立第十一中学校」として開校。
同25年「東京都葛飾区立双葉中学校」と改称。校歌制定。

 校歌「
空高く
  1.空高く 空高く
    新しき光求めて
    萌え出ずる双葉の緑
    雲白く 雲白く
    おおらかに富士を臨みて
    香しき双葉の集い
  2.道遠く 道遠く
    手を取りて共に進まん
    今此処に双葉の誓い
    日の光 木の緑
    喜びの歌声溢れ
    吾等 今双葉に学ぶ


 同28年夜間学級開設。同35年体育館兼講堂落成。同38年第1期鉄筋コンクリート造り校舎落
成。同48年鉄筋コンクリート造り校舎(6教室)と体育館完成。同52年創立30周年記念式典。
同61年プール完成。同61年創立40周年記念式典。
 平成4年コンピュータルーム開設。同5年夜間学級開設40周年記念式典。同9年創立50周年記
念式典。同11年校舎耐震化。同15年夜間学級開設50周年記念式典。同16年校庭改修。同19
年創立60周年記念式典。

 
校名の由来
 学区域が上千葉町と下千葉町にまたがっており、両方の葉をとって双葉中とした。また生徒たちが
双葉のように、若々しく大きな夢と希望を抱いて育ってほしいという願いが込められている。
 


■お花茶屋公園

 お花茶屋1丁目22番1号にある区立公園。
 


■お花茶屋図書館

 お花茶屋2丁目1番にある。
 


■共栄学園中学校・高等学校

 お花茶屋2丁目6番にある。昭和8年岡野弘・岡野さく、葛飾区本田立石に和裁塾を設立。同14
年同地に「本田裁縫女子学校」を設立。同16年現在地に財団法人「共栄女子商業学校」を設立。同
21年財団法人「共栄高等女学校」に改組。同22年「共栄学園中学校」を設立。同23年「共栄学
園高等学校」を設立。同25年学校法人「共栄学園」に改組。同29年共栄幼稚園を設立。岡野弘逝
去。同52年春日部市に春日部共栄高等学校を設立。同59年春日部市に共栄学園短期大学を設立。
岡野さく逝去。
 平成13年共栄学園中学校共学化。春日部市に共栄大学設立。同15年共栄学園高等学校共学化。
春日部市に春日部共栄中学校設立。同16年共栄学園中学高等学校、新校舎完成。同17年春日部共
栄中学校、新校舎完成。
 


■上千葉南公園

 お花茶屋3丁目1番3号にある区立公園。
 


■柳田公園

 お花茶屋3丁目16番6号にある区立公園。

 



【金町】(かなまち)1~6丁目                   昭和43年1月1日
 金町村。明治11年「郡区町村編制法」により南葛飾郡に復し。同22年「市制町村制」により
柴又村と合併して金町村大字金町、大正14年金町大字金町、昭和7年葛飾区金町1~6丁目となっ
た。同43年新住居表示により金町1~6丁目に新宿(にいじゅく)町4~5丁目の各一部をあわ
せた町域を現行の「金町」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『葛飾区史』『葛飾の歴史』など。

 金町の由来
 正中二年(1325)の『関東下知状』に見え、往古この辺りの奥州古街道に面して町屋(商業
地)があり、「金町屋」と呼び「金町郷」と称した。「金」は「曲(かね)」であり蛇行する川の曲
渕(瀬)をいう。江戸川にちなむものと考えられる。町屋があったのは江戸川に接する金町村字小
金町だといわれ対岸の松戸とともに栄えた。小金町は現在の東金町8丁目で、だから金町は陸前浜
街道と葛飾橋通り(水戸街道)の交わる葛西橋西詰だ!
 「かなまち」をインドネシア語で解すると「カナ・マチ」で、「睨んでいる眼のような湿地帯」
ということになるらしい。地形的に間違いはない。
 


■からめきの瀬

 河川改修前の取水塔の辺りの川岸をいった。天文七年(1538)十月と永禄七年(1564)正
月の2回にわたり、小田原北条氏と安房の里見氏が父子2代をかけて大喧嘩をしたところで、いずれ
も圧倒的軍勢を持った北条氏の勝利に終わったが、大正7年江戸川の改修工事を行った際、当時の武
器・刀剣類が多数発見され、今さらながら「兵どもが夢の跡」を目の当たりにした。
 


■国府台合戦

 こうのだいかっせん 『関八州古戦録』『国府台戦記』などの軍書には見えるものの内容を詳細に
確認できる文献は見当たらない。ただこの戦のために江戸川流域一帯の民家や社寺は焼き払われ、農民
は雑兵に駆り出されて多くの死者を出したことだけは、松戸市の『本土寺過去帳』と西新小岩の三田
家所蔵の『遠山氏系図』で確認できる。とにかく江戸川流域の人々は何の関係もないのにとんだ災難
でえらい迷惑を蒙ったのだ。北条が滅んで徳川家康が来てくれたことを一等喜んだのは農民たちだっ
たろう。
 


■金町小蕪

 かなまちこかぶ 「かぶ」はその形が人の頭に似るところから、頭の古称「かぶり」からつけられ
た。また「春の七草」では「菘(すずな)」という。古くは「茎立ち(くくたち)」ともいった。つま
り多くの呼び名があり、春の七草に数えられるということは、蕪の栽培は古くから行なわれたという
ことを物語る。大根などと一緒にシルクロードを通って、中国経由でもたらされた。中国では「胡菜」
というから、西域より伝わったことも確かなことだろう。江戸には江戸の初期で、根も葉も全て食べ
られる無駄のない野菜で、栄養価の高く、食卓には欠かせないものだったが、食生活の洋風化で関心
が薄れつつある。
 金町小蕪は、金町で生まれて全国に広まった品種だが、金町でいつごろから栽培されたのか判らな
い。明治の末に東金町の長谷碌之助が、「下千葉中生(しもちばなかせ)」という亀有辺りで栽培さ
れていた品種を4月の早穫りに改良し、高級料亭に出荷していた。その品種から種を採ったという説
と、農務省の三田育種場(港区三田)で栽培していたフランス産の蕪の種を、明治10年ごろに譲り
受けて栽培・採種しているうちに自然交配して出来たという説とがある。この品種の特長は寒さに極
めて強いということだ。煮崩れせず、甘みがあり舌触りもよく、漬物だけでなく、味噌汁・吸い物・
酢漬にも向いている。
 


■母子像

 
金町1丁目6番24号福祉事務所東庁舎前の大岩の上にある、愛しそうに子を抱く母の石像。花田
一男の作品。


■葛飾新宿郵便局

 
金町1丁目8番1号にある。
 


■金町中央病院

 
金町1丁目9番1号にある総合病院。外科・内科・整形外科・リウマチ科・婦人科(健診・レディ
ースドック)・泌尿器科・脳神経外科。
 


■柴原児童遊園

 
金町1丁目10番9号にある区立公園。


■柴原小学校

 
金町1丁目15番1号にある区立校。昭和31年末広小学校第一分校として開設。同32年校舎増
築2教室。同34年6月校舎増築4教室。9月独立し「東京都葛飾区立柴原小学校」として開校。P
TA発足。同35年校章制定。校旗樹立。同36年11月1日この日を開校記念日とする。同37年
校歌制定。

 校歌「
静かに行こう」 作詞・土岐善麿  作曲・渡辺浦人
    静かに行こう江戸川の
    流れのように緩やかに
    正しく立とう何処から見ても
    富士は聳える雲遠く
    弛まず学べ広々と
    続くよ道も新しく
    野の風薫る葛飾の
    明るい空を仰ぐ時
    皆健やかに・・・・
    何時も楽しく手を繋ぎ
    励まし合おうよ生き生きと
    希望の花の咲くところ
    集まれ進め元気よく
    吾等の柴原小学校


 同38年プール完成。同44年体育館完成。創立10周年記念式典。同47年第1次鉄筋コンクリ
ート造り校舎落成。同49年第2次鉄筋コンクリート造り校舎落成。同54年創立20周年記念式典。
同60年校樹ケヤキ植樹。
 平成元年創立30年周年記念式典。同8年コンピュータルーム開設。同11年創立40周年記念式
典。同15年地域避難所運営会議設立。同16年地域避難訓練実施。同17年外部評価実施。わくわ
くチャレンジ開始。地域で子供の安全を守る「スクールガード」発足。同19年「区歌」を体育館に
掲額。同20年創立50周年記念バザール。同21年創立50周年記念式典。同23年葛飾吹奏楽団
ジュニアバンドコンサート。
 


■金町ときわ公園

 
金町1丁目23番7号にある区立公園。


■常盤中学校

 
金町2丁目11番1号にある区立校。詳細不明。
 


■葛飾養護学校
→ 葛飾特別支援学校

 
金町2丁目14番1号にある都立校。詳細不明
 


■金町二丁目ときわ公園

 
金町2丁目16番4号にある区立公園。


■「家族」像

 
金町2丁目29番4号都民住宅松丸ビル前にある、抽象的な父・母・子の像。重岡健治作。


■高山整形外科病院

 
金町3丁目4番5号にある総合病院、整形外科・麻酔科・リウマチ科・リハビリテーション科・ペ
インクリニック(神経ブロック両方。

 
「陽光の譜」像
 入口を入った左手にある裸婦像。


■金町わかくさ児童遊園

 
金町3丁目12番8号にある区立公園。


■金町小学校

 
金町3丁目44番1号にある区立校。明治7年金蓮院内に「欣和小学校」として創立。同24年金
町村大字金町「金町尋常小学校」と改称。同37年柴又・金町両尋常小学校を廃し「金町村尋常高等
小学校」を設置。大正14年「東京府金町町立尋常高等小学校」と改称。
 昭和7年東京市周辺郡部の東京市併合により「東京府東京市金町尋常高等小学校」と改称。同11
年1月講堂を残して全焼。10月校舎落成。校旗樹立。同16年勅令148号国民学校令により「東
京府東京市金町国民学校」と改称。12月8日真珠湾攻撃により日米開戦。同18年都制施行により
「東京都金町国民学校」と改称。同19年第一次学童集団疎開。同20年第2次学童集団疎開。8月
15日日本はアメリカの軍門に降りその属国となる。10月疎開解除により疎開学童全員帰校。
 同22年アメリカの強制による学制改革により「東京都葛飾区立金町小学校」と改称。同24年P
TA発足。同30年新校歌制定。新校旗樹立。

 校歌「
桜花咲く」  作詞・重藤秋二  作曲・宍戸馨
  1.桜花咲く江戸川の
    流れは永久に清らかに
    進んで学ぶ良い子供
    共に働く我が学校
  2.歴史輝く金町の
    葛西の森に守られて
    素直に育つ好い子供
    決まり正しい我が学校
  3.薫る文化に地の街に
    時代を背負う任帯びて
    溌剌伸びる良い子供
    歌え 栄え我が学校


 同39年第1期鉄筋コンクリート造り校舎(普通教室11、校長室、会議室など)。同40年第2
期鉄筋コンクリート造り校舎(普通教室11、特別教室3、体育館、保健室、調査室など)。同46
年プール完成。同53年防火シャッターの開設、ガス暖房設置。同54年特別教室増築(保健室、特
別活動室、家庭科室、訪問学級、視聴覚室、図書室)。
同55年校庭2ヶ所に葛飾区基準点設置。
上に防災行政無線システム設置。同56年校舎内外全面塗装、給食床面コンクリート補修。同57年
校庭ダスト舗装・整備完成、音楽室、理科室床面張替、給食室排水溝工事完了。同58年ジョギング
コース完成供用。同61年東側万年塀を生垣に改修。同62年正門改修及び万年塀の生垣化。
 平成3年校内緑化
(植樹、生垣補修、石場、キューイ棚等)。校舎窓枠のサッシ化。屋上防水。同
4年和室・洋室完成。新保健室完成。校庭整備。同5年給食室改修。同6年創立120周年記念式典。
同8年区の備蓄倉庫を旧保健室跡に設置。コンピュータルーム開設。ふれあい給食開始。同9年藤棚
改修。同12年校舎耐震化。
 


■住宅火災死者2名

 
金町3丁目46番9号の民家で発生した火災。平成29年11月17日朝4時50分頃、隣家から
火が出ていると119番通報があり、消防車21台が消火に当たり、火は凡そ3時間後に消し止めら
れたが、木造モルタル2階建ての住宅の2階部分、凡そ30㎡が焼けたほか、隣接する住宅2棟の一
部も焼けた。警視庁によると、この火事で火元の住宅に住んでいた家族3人が救出されて病院に運ば
れたが、このうち中学3年生の赤津理紗子(15歳)と祖母の和枝(72歳)が死亡した。理紗子の
母親も軽い怪我をしたという。3人はいずれも2階で寝ていて、祖母和枝の部屋から火が出たと見ら
れる。ストーブがあった。現場はJR常磐線の金町駅から東に600mほど離れた住宅街。江戸川土
手の近く、金町小学校の北、水戸街道の南に当たる。


■警視庁婦人警官飲酒運転事故逃亡事件

 金町4丁目2番先路上で交通事故を起こした育児休暇中の警視庁組織犯罪対策5課の巡査長源佳美
(32歳)が飲酒事故後逃亡を図り、現行犯逮捕された。逮捕容疑は平成24年7月7日午後6時4
0分頃、葛飾区金町の路上で、酒に酔った状態でワンボックスカーを運転し、50代男性が運転する
前方の乗用車に追突する事故を起こした疑い。双方に怪我はなかった。
 同庁によると、佳美は1月に長女を出産し、育児休暇中だった。7日は自宅で酒を飲んだ後、午前
11時頃、長女を乗せ車で江戸川区に買い物に出掛け、江東区大島の自宅に帰る途中で事故を起こし
たものだ。駆け付けた亀有署員が事情聴取しようとしたところ、同容疑者は車から長女を抱き上げて
逃走、すぐに転倒し、路上に長女を放り出したが、残してさらに逃走し、10数m離れた場所で取り
押さえられた。その際も巨漢の彼女をなかなか取り押さえられず、続いて到着したパトカー数台の警
官が寄って集って漸く取り押さえたという。
 運転の範たるべき警察官がこの有様だからね、後は推して知るべしだよ。
】  


■むつみ児童遊園

 
金町4丁目3番4号にある区立公園。


■鷹之堤児童遊園

 
金町4丁目11番16号にある区立公園。


■協栄いずみ児童遊園

 
金町4丁目12番16号にある区立公園。


■金町消防署

 金町4丁目15番20号にある。昭和22年8月1日「亀有消防署」として開署。9月18日宮元
正雄署長、中島昇消防士補殉職。同25年8月「金町消防署」と改称。同44年庁舎改築。平成3年
庁舎改修。同13年庁舎耐震化。同19年開署60周年記念式典。
 同22年3月~25年4月の間、建て替えのため、同敷地内東北角に仮庁舎を建て移転。所番地、
電話番号に変更はないが、駐車場は無い。

 金町消防少年団
 金町消防署管轄区域の小学校高学年、中学校の少年少女で結成され、金町隊・亀有隊・柴又隊・水
元隊の4隊からなっている。東京では、東京消防庁の支援の下、消防署毎に消防少年団が結成され、
幅広い活動を行っている。
 目的は、防火防災に関する科学的知識・技術を身につけるとともに、規律ある団体活動や奉仕活動
などを通して、社会の基本的ルールをきちんと守り、思いやりの心を持った責任感ある人になること
を目指す。指導者は、少年少女の育成に熱意を持った18歳以上のボランティアだ。
 


■おくど総合診療所

 
金町4丁目16番17号にある総合病院。内科・整形外科・リハビリ科・禁煙外来・デイケア。


■末広小学校

 
金町4丁目21番1号にある区立校。昭和9年金町3丁目2017番地(現在地)に「東京府東京
市末広尋常小学校」として開校。同15年校舎増築(普通教室6)。同16年勅令148号国民学校
令により「東京府東京市末広国民学校」と改称。12月日米開戦。同18年都制施行により「東京都
末広国民学校」と改称。同19年新潟県高田市に学童集団疎開。同20年日本敗戦。疎開解除により
学童帰校。
 同22年アメリカの強制による学校教育法施行により「東京都葛飾区立末広小学校」と改称。9月
18日キャサリン台風による洪水により校舎1m浸水。同25年校舎増築(普通教室4)。同26年
2月12日火災により校舎全焼。低学年は新宿小学校、高学年は金町小学校の教室を借用して授業再
開。校地隣接地の723坪(約2400㎡)購入。同27年校舎落成(普通教室24)。校歌制定。

 校歌「
明け行く空の」 作詞・鈴木芳一  作曲・小沢直與志
  1.明け行く空の葛飾に
    飛ぶよ 輝く若い鳩
    ああ麗らかな光の窓に
    学び励んで明るく育つ
    吾等末広 末広吾等
    楽しい母校
  2.緑の風に微笑んで
    咲いた平和の若桜
    ああ花開く心の庭に
    智慧も溢れて若芽は伸びる
    吾等末広 末広吾等
    楽しい母校
  3.流れも速い中川に
    泳ぐ元気な若い魚
    ああ溌剌と希望の道を
    手と手繋いで正しく進む
    吾等末広 末広吾等
    楽しい母校


 同29年創立20周年。同31年新宿4丁目136番地に第一分校設置。水本小合町375番地に
第二分校設置。同34年4月第二分校を分離し原田小学校として開校。9月第一分校を分離し柴原小
学校開校。同39年体育館完成。創立30周年記念式典。同43年新住居表示により現表示に変更。
同44年校舎改築開始(東4教室解体)。同46年第1期鉄筋コンクリート造り校舎落成(普通教室
9、特別教室3、給食室)。同47年第2期鉄筋コンクリート造り校舎落成(普通教室9、放送室、
保健室、用務員室など)。同48年第3期鉄筋コンクリート造り校舎落成(普通教室2、管理室、図
工室、音楽室、会議室)。同49年プール完成。創立40周年記念式典(記念事業として花壇・水飲
み場、芝生など)。同50年金管バンドクラブ発足。同55年陶芸実習教室開設。校庭舗装。学童保
育クラブ跡地に学校園造成。同56年体育倉庫完成。体育館裏整備。同58年固定施設改修。同59
年創立50周年を記念してタイムカプセル埋却、記念式典。同62年校塀緑化(生垣)。南門・東門
改修。和太鼓クラブ発足。同63年機械警備開始。
 平成3年プール改修。屋上改修。同4年新体育館完成。同6年給食室全面改修。創立60周年記念
式典。同8年備蓄倉庫設置。コンピュータルーム開設。同10年焼却炉撤去。同11年生ごみ処理機
設置。同14年校庭整備。同15年ミニ田圃開設。同16年末広ギャラリー開設。スクールカウンセ
ラー室開設。創立70周年記念式典。同17年わくわくチャレンジ(夢モリモリすえひろば)開始。
同18年ブルーベリー園造園。普通教室エアコン設置。同19年校舎耐震化。同21年ICT化・地
上デジタル化完了。同23年築山撤去。
 


■末広児童遊園

 
金町4丁目22番1号にある区立公園。


■こえど児童遊園

 
金町5丁目4番8号にある区立公園。


■金町末広公園

 
金町5丁目10番9号にある区立公園。


■オブジェ

 
金町5丁目26番タイムズ金町第16駐車場前、水戸街道の歩道にある金属の標柱。この場所は旧
水戸街道が現在の水戸街道と合流するところだ。


蓮華山光明院大円寺
 
金町5丁目30番6号にある新義真言宗豊山派の寺。墓地は南の29番にある。
創建年代は不詳。
「新編武蔵風土記稿」に、

   金蓮院の門徒、大円寺。本尊阿弥陀

 とあり、江戸時代に金蓮院末として創建したという。
 


■京成金町駅
 金町5丁目37番9号にある京成金町線の停車場。大正2年の柴又~京成金町間延伸時に設けられ
た駅。当時は金町駅と名乗っていたが、昭和6年に頭に「京成」が冠された。金町線が全通する前、
金町と柴又の間には帝釈人車軌道という人力鉄道が走っていた。ホームは地上片面1面1線構造。都
区内の駅では、1面1線の配線の駅は他に北綾瀬駅と大師前駅しかない。なお京成金町線の柴又~京
成金町間は単線鉄道である。
 


■中央図書館
 新設
 金町6丁目2番1号ヴィナシス金町ブライトコート3階にある。平成21年10月17日開館。こ
れまで中央図書館の機能を果たしていた葛飾図書館の機能を引き継いだ。なお葛飾図書館は新宿図書
センターに衣替えした。

 
「母と子~慈愛・敬慕」像
 東南角の植栽にある。綿引道郎の作品。
 


■金町駅

 金町6丁目4番1号にあるJR常磐線の停車場。明治30年12月27日に追加開業した駅。地下
鉄千代田線が常磐線への直通運転を始めた昭和46年4月20日以後は、千代田線直通の各駅停車の
みが停車する駅となった。ホームは高架島式1面2線構造。ホームと改札階を結ぶエレベーターは設
置済み。改札口は1ヶ所のみで地上1階にある。出口は北口と南口の2所。駅西側からは総武本線の
新小岩へ通じる新金貨物線が分岐している。この路線は、総武本線の支線だが、できた当時は常磐線の
支線だった。その頃総武線はまだなかった。
 

 



【金町浄水場】(かなまちじょうすいじょう)            昭和42年9月1日
 金町村・柴又村。明治11年「郡区町村編制法」により南葛飾郡所属。同22年「市制町村制」
により金町村大字金町・柴又。大正14年金町大字金町・柴又。昭和7年葛飾区金町1丁目・柴又
1丁目。昭和42年新住居表示により金町1丁目と柴又1丁目の浄水場の部分だけを独立させ、浄
水場名を町名とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『葛飾区史』『葛飾の歴史』など。

 金町浄水場について
 大正15年江戸川上水道町村組合(南葛飾・南足立・北豊島三郡下12ヶ町村)によって設立、
昭和7年東京市葛飾区の成立で市水道局の管理となり、同18年東京都の成立で都の管理となり今
日に至っている。敷地26万平方メートル。給水区域は隅田川以東と北・豊島の全域に板橋・文京
・台東区にまで及ぶ。
 

 
放射能汚染

 平成23年3月11日に起こった東日本大震災の被害を受けた東京電力福島原子力発電所の放射能
拡散の煽りを受けて、浄水場の水道水から乳児の摂取基準の約2倍に当たる放射性ヨウ素が検出され
た。3月22日に採水したところ、水道水1kg当たり210ベクレルの放射性ヨウ素を検出、23
日の採水分は190ベクレルだった。国が定める放射性ヨウ素の摂取制限の暫定基準値は、1歳未満
の乳児で水1キログラム当たり100ベクレル。都は乳児に飲ませないよう23区と武蔵野、三鷹、
町田、多摩、稲城の5市の全域に呼び掛けた。乳児以外の基準300ベクレルは下回っている。これ
を受けて都内のスーパーなどでは飲料水が品薄状態となり、都は24日に対象地域の乳児がいる家庭
に550ml入りペットボトルを3本ずつ計24万本を提供。
 えらいこっちゃ!
 

 



【鎌倉】(かまくら)1~4丁目                 最終昭和42年6月1日
 鎌倉新田。明治11年「郡区町村編制法」により南葛飾郡に復し、同22年「市制・町村制」に
より奥戸村大字鎌倉、昭和5年奥戸町大字鎌倉。同7年葛飾区鎌倉町。同41年3月1日新住居表
示を実施、一部を細田に譲り、残った鎌倉町の大部分に細田町・高砂町の各一部をあわせた町域を
現行の「鎌倉1~3丁目」とし、同42年6月1日鎌倉町の残りを現行の「4丁目」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『葛飾区史』『葛飾の歴史』など。

 
鎌倉の由来
 相模国鎌倉郡から来た源左衛門という者が開発して村の鎮守として鎌倉の鶴岡八幡を勧請したこ
とによる。その八幡神社は3丁目にある。しかし曼荼羅(板碑)が発掘されたことで「曼荼羅村」
と俗称されて、そのほうが通りがよかった。だから鎌倉は「まんだら様」の3丁目の輪福寺だ!
 


■南葛十九番大師堂(南葛八十八ヶ所霊場第十九番札所) ◇

 
鎌倉1丁目19番16号にある小祠。


■ウサギとカメ ◇

 
鎌倉1丁目21番9号葛飾南幼稚園の南のオープンスペースにある遊具。


■まんだら公園

 
鎌倉1丁目30番11号にある区立公園。


東の稲荷 正一位稲荷大明神(鎌倉稲荷神社)

 
鎌倉1丁目31番にある小祠。祭神は倉稲魂命。例大祭は初午の日。
『新編武蔵風土記稿』の鎌倉
新田の条に、

   稲荷社二座、同新田浄光寺の持。一ハ社地二百二十坪。一ハ社地三十坪

 とする内の1社で、鎌倉3丁目の「赤稲荷」に対して「東の稲荷」と呼ばれている。この2社で1
つの神社だ。
 明神鳥居は額束を欠く。社殿は一間社流造、間口1間(背面は2間)×奥行2間、切妻造り桟瓦葺
きの覆屋内に安んずる。覆屋前に直径20cm余りの七五三縄がある。社殿に向って左側に神輿庫が
ある。この小祠で神輿があるとは立派。
 


稲荷山浄光院
 鎌倉1丁目31番18号にある新義真言宗豊山派の寺。永禄年間(1558~69)法印僧仁坊の
創立と寺伝にある。室町時代末期、鎌倉新田開拓当時の創立したものと推定される。無住状態にあっ
たが、昭和55年頃、本堂を新築し面目を一新した。「新編武蔵風土記稿」に、

   浄光院
   同宗(新義真言宗)、下小岩村善養寺末、稲荷山と号す。本尊弥陀を安す。開山を僧仁坊
   と云。


 とある。

 
太子堂(南葛八十八ヶ所霊場第十四番札所)
 本堂前にある石祠。

 
寺子屋跡碑
 本堂前にある石塔。

   
史実 浄光院(じょうこういん)寺子屋跡 明治十八年~大正■■


■鎌倉二丁目児童遊園

 
鎌倉2丁目2番8号にある区立公園。


■鎌倉図書館

 鎌倉2丁目4番5号にある。
 


■明石小学校 
閉校

 
鎌倉2丁目12番1号にあった区立校。平成12年高砂小学校に統合され閉校となった。
 


■区立総合教育センター

 
鎌倉2丁目12番1号にある。教育相談では、学校・家庭生活での悩みごとや子どもの性格や行動
・発達などの心配事について、心理カウンセラーや教職経験者が相談に応じている。相談を通して、
相談する方が問題の解決法を見つけだしていけるように補助している。また登校しぶりや不登校など
で適応指導教室に入級を希望される家庭の相談も行っているよ。
 

 かまくら郷土資料館
 鎌倉新田は東京近郊の農村として栄え、現在は約12000人が暮らす住宅地。昭和初期から使用
されてきた生活農具、町の写真など250点を展示する。
 


■「水曼荼羅」

 
鎌倉2丁目27番4号東の小岩用水趾にあるオブジェ。作者不明。


■みんなのひろば児童遊園

 
鎌倉2丁目31番1号にある区立公園。


■鎌倉二丁目児童遊園

 
鎌倉2丁目2番8号にある区立公園。


■鎌倉公園

 
鎌倉3丁目16番5号、21番1号、22番1号に跨る区立公園。広場・遊具・プールがある。

 野草園

 22番のプールの東側に位置する。面積は然程広くはないが、栽培されている野草の品種は多く、
約150種類を観察することができる。中央に池を配置し、ブロックごとに四季折々の草花が植えら
れており、無料の施設としては、なかなか心安らげる施設に出来上がっている。
 野草が増えすぎても困るので、管理は難しいらしい。区民が野花を愛でられるのは、職員の尽力の
賜物だぁな。開園日:3~11月が水~日及び祝日の10時~16時・12~2月が日曜・祝日の1
0時~14時。


赤稲荷 鎌倉八幡稲荷神社
 鎌倉3丁目27番にある小社。祭神は倉稲魂命。例大祭は初午の日。
『東京府志料』鎌倉新田の条に

   稲荷神社二座 一ハ社地二百二十坪、一ハ社地三十坪

 という前者に相当する。覆屋が赤く塗ってあるので、通称「赤稲荷」という。鎌倉1丁目の鎌倉稲
荷神社(東の稲荷)と対で1つの神社ということらしい。明神鳥居は花崗岩造り。一間社流造、間口
1間(背面3間)×奥行3間、寄棟造り、桟瓦葺きの覆屋の中に安んずる。覆屋の向拝に直径20c
m余りの注連縄があるのは、この地の風習という。
 


■蓮華寺

 鎌倉3丁目28番にある無宗派の単立寺。
 


■かまくらいなり児童遊園

 
鎌倉3丁目28番4号にある区立公園。


■鎌倉北児童遊園

 
鎌倉3丁目28番15号にある区立公園。


■蓮華寺

 
鎌倉3丁目28番17号にある本門佛流系の単立小寺。


■旧佐倉道道標

 
鎌倉3丁目28番17号蓮華寺前の歩道上にある。

   
旧佐倉道


■鎌倉東児童遊園

 
鎌倉3丁目28番18号にある区立公園。


■鼎地蔵(南葛八十八ヶ所霊場第六番札所)・庚申堂

 
鎌倉3丁目46番5号先線路際三角地にある。地蔵尊と庚申塔が祀ってある。

 地蔵
 舟形光背型 地蔵菩薩像。「奉造立地蔵菩薩一尊庚申講之供養二世悉地」「干時寛文三癸卯九月吉
日」「武刕葛飾郡」南葛新四国八十八ヶ所六番札所。

 庚申塔
 笠付角柱型。日月・青面金剛像・ショケラ・邪鬼・三猿。「右 江戸みち 奥戸渡しみち」「横向 
左り 矢切渡しみち」。台石右「東葛西領 鎌倉新田」、立石左「安永六年丁酉年九月日」


お曼荼羅さま 正法山蓮蔵院輪福寺
 鎌倉3丁目46番17号にある真言宗豊山派の寺。寛永二年(1625)法印日静の創立。当寺は
明治維新後、一時無住状態になったことがあり、古記録が散逸したため詳しい由緒は明らかでない。
元文四年の「正福寺惣門末起立録」には、次のように記されている。

   鎌倉新田村 正法山 蓮蔵院 輪福寺
   一、本尊 弥陀如来
   一、開基 寛永二年法印日静 元文四年迄 凡そ百十五年
   一、稲荷宮社地 御見捨
   一、境内九畝十八歩 御除地
   一、寺附田畑四反二畝二十四歩 御年貢地 外一反一畝十四歩 中小岩村より寄附 御年貢地
   一、御代官所 伊那半左衛門殿

 また「新編武蔵風土記稿」

   林福寺
   新義真言宗、上小松村正福寺末、正法山と号す。本尊弥陀を安す。開山を一乗院と号す
 


八幡山大株院
 鎌倉4丁目4番3号にある真言宗豊山派の寺。もと江戸湯島(文京区)霊雲寺の末。寺伝によると、
寛永三年(1626)僧円心の創立という。明治維新の時に廃寺同様となったが、その後再建されて
現在に至っている。境内に八代将軍吉宗の第二子徳川宗武が側室のために建てた宝篋印塔がある。宗
武と当寺との関係は明らかではないが、一説には、当寺は宗武家の隠居寺であり、赤門寺といったと
いう。

 宝篋印塔
 説明石標に、

   徳川宰相右衛門督宗武卿、為側室登屋女祝鋳造立此宝塔一基、宝暦十一年辛巳五月吉祥日

 とある。意味は「田安宗武卿は、側室登屋女の祝を祈る為に此宝塔一基を造立する 宝暦十一年五
月(1761年5月)」だ。ほかに、石灯籠もありこれは、奥州三春城主安部安季が上野寛永寺の八
代将軍吉宗の廟前に寄進したもので、近年こちらに移建したもの。これには、

   有徳院殿尊前 寛延四年六月二十日

 とある。寛延四年は宝暦元年と同じで1751年、有徳院殿は徳川吉宗のことだ。さらには、寛延
三年(1750)の地蔵菩薩像と、高さ2m55cmの明和三年(1766)の大きな地蔵菩薩像が
ある。その他、参道に六地蔵があり、そこには「まんだらとは鎌倉町の旧地名」と書いてある。この
辺りを歩くと、ここかしこに「まんだら」という文字を目にする。「新編武蔵風土記稿」の鎌倉新田
の条を見ると、

   鎌倉新田は、昔相州鎌倉郡より、源右衛門といへるもの来りて開発せしゆへ此名ありと云、
   尤古く開けし新田と見えて、正保改定のものにも鎌倉新田と載たり、又いつの頃にや村内
   より曼荼羅を堀得しものありしより、其邊を曼荼羅と小名せしか、いつしか村名の如くな
   りて、却て本名を唱ふるものは少く、既に隣村曲金村三社明神寛永十年の棟札にも、曼荼
   羅村と記せり、かの堀得し曼荼羅は、板曼荼羅とて、下総国中山法華経寺に蔵す・・・


   小名 曼荼羅 今は村内大凡の異名となれり

 正保は1644~48年、曲金村の三社明神とは高砂天祖神社のことで、寛永十年は1633年。 



■柴又街道道標

 
鎌倉4丁目10番7号の角にある。

   
柴又街道


鎌倉の地名の由来の神社 八幡神社
 鎌倉4丁目15番23号にある。祭神は誉田別命。例大祭は10月22日。
寛永年間(1624~
44)相模鎌倉郡の人源右衛門が開発に際し、鎌倉八幡宮を勧請して氏神としたもので、地名の鎌倉
もこれに由来する。

   八幡神社
   寛永年間(1624~44)相模鎌倉郡の人源右衛門が当地開発に際し、鎌倉八幡宮を勧
   請して氏神としたもので、地名の鎌倉もこれに由来するという。「新編武蔵風土記稿」鎌
   倉新田の条には「八幡社 村ノ鎮守トス。浄光院持」とある。(葛飾区教育委員会 葛飾
   区神社調査報告)
   明神鳥居は
花崗岩製。「明治四十五年十一月建之 氏子中」とある。社殿は、拝殿は間口
   1間(背面3間)×奥行2間、内部板敷、一間流れ向拝付き入母屋造り、桟瓦葺き。本殿
   は一間社流れ造り。
   間口1間(背面2間)×奥行2間切妻造り、桟瓦葺きの覆屋の中に安んずる。拝殿と本殿
   の間は吹抜け、両下造鉄板葺きの廊下で結ぶ。本殿の周囲は鉄板葺霜除付の透塀で囲む。
   拝殿向拝には太い注連縄がある。
 

 
富士塚
 山ではないが基壇を作って石祠を安置している。 
 


■鎌倉小学校

 
鎌倉4丁目24番1号にある区立校。昭和27年9月「東京都葛飾区立柴又小学校鎌倉分校」とし
て開校。9月「東京都葛飾区立鎌倉小学校」として独立。同32年創立5周年記念式典。同37年創
立10周年記念式典。同38年体育館完成。同47年鉄筋コンクリート造り校舎落成(普通教室9)。
創立20周年記念式典。同50年プール完成。11月給食優良校として文部大臣将受賞。同57年創
立30周年記念式典。
 平成元年新体育館落成。同4年創立40周年記念式典。同7年交通パレード鼓笛隊30周年継続参
加表彰。同14年創立50周年記念式典。同17年普通教室エアコン設置。同19年特別教室エアコ
ン設置。
 




【亀有】(かめあり)1~5丁目昭和                   41年6月1日
 亀有村。明治11年「郡区町村編制法」により南葛飾郡に復し、同22年「市制町村制」により
亀青村大字亀有、昭和7年東京市編入し葛飾区亀有町1~5丁目となり、同16年5丁目が5~6
丁目になる。同39年8月1日新住居表示により一部をお花茶屋に、同40年西亀有に、同41年
白鳥に譲り、亀有の大部分を再編して1~5丁目に分けた町域を現行の「亀有」とし、同42年残
余の亀有町は青戸8丁目に編入した。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『葛飾区史』『葛飾の歴史』など。

 
亀有の由来
 古隅田川(こすみだがわ)の流れる低地を「かめなし」といい「亀梨・亀無」と書いた。葛西御
厨三十三郷のひとつ。梨の実を〝有りの実〟と言い換えるように「無し」という言葉を忌み嫌い、
『新編武蔵風土記』によると正保元年(1644)国図を作成する時に「亀有」に代えたという。
亀は爬虫類の亀ではなく、亀のようにこんもりとした砂州ができていたことによるのだろう。利根
川流域の陸地化は南下するのだから、土地は足立区→葛飾区→墨田区→江東区・江戸川区の順に出
来上がった。本来は総て海である。
 「かめなし」をインドネシア語で解すると「カメ・ナチ」、「中川が食い込んで狭くなっている
ところ」ということらしい。 

   鶴の御場所に亀有はきついこと(川柳)
   
鶴有と呼びたき御場の地名なり(川柳)

 「なし」について、谷川彰英は「なす」もしくは「成す」だろうという。「緑なす黒髪」のなす
は「緑のような黒髪」である。だから「亀なす州」→「亀の甲羅ように見える砂州」の意だろうと
いう。また「成す」の場合は、「亀成す州」→俯瞰すると「亀の甲羅模状に出来た砂州」となる。
いずれにせよ開村当時の地形に由来する地名のようだ。アイヌ語では「カムイ・ウォル」というと
「神の水」の意だ。これもなくはない。

   亀有は田植えの飯も船で来て

 明治30年当時大繁盛していた隣村の新宿町が常磐線の停車場開設を「鉄道に客を取られて町が
衰退してしまう」という理由で拒絶した。亀有はそれを受け入れた。その後亀有は繁栄し、新宿は
ただの住宅地だ。「にいじゅく」と読める人も少ない。
 


■あおぞら児童遊園

 
亀有1丁目3番15号にある。


■小鳩児童遊園

 
亀有1丁目5番2号にある。


■葛飾野高等学校

 
亀有1丁目7番1号にある。昭和15年1月12日「東京府立第十七中学校」として設置。同16
年校地を現在地(葛飾区亀有1丁目1765番地)に決定。
 同24年2月新校舎に移転完了(この日を創立記念日とする)。同25年1月28日「東京都立葛
飾野高等学校」と改称。同27年1月19日校歌制定。同54年11月北校舎等落成。同60年5月
体育館完成。同7月第一回文学歴史公開講座。
 平成2年10月13日 創立50周年記念式典。同6年9月南校舎改築完成。同7年3月グラウン
ド改修完成。同8年3月プール改築完成。同9月テニスコート4面改修。同11年創立60周年記念
式典。同17年文学歴史講座20周年式典挙行。同18年校庭全面改修
 


■大鳥像

 
亀有1丁目10番4号の亀有さくら通りの広場の高い円柱の上にある羽ばたく鳥の像。鳳凰のつも
りなのかもしれない。題名はない。


■数美姫像

 
亀有1丁目10番6号先の亀有さくら通りのポケットパークの植栽にある裸婦像。堀豊之の作品。
 


■幼児像4体

 
亀有1丁目13番17号南の亀有さくら通りにある 可愛らしい2、3児の4熊。特に題はない。


■亀有図書館

 亀有1丁目17番5号都営亀有アパート5号棟にある区立図書館。
 


■亀有一丁目児童遊園

 
亀有1丁目22番6号にある。


■亀有中学校

 
亀有1丁目23番1号にある区立校。昭和23年「東京都葛飾区立第十五中学校」として開校。同
24年木造校舎落成。同25年「東京都葛飾区立亀有中学校」と改称。同27年校旗樹立。同32年
校歌制定((作詞・勝承夫 作曲・団伊玖磨)
 同32年創立10周年記念式典。同36年体育館完成。同38年校服制定。鉄筋コンクリート造り
校舎落成。同40年鉄筋コンクリート造り校舎増築。同42年プール完成。同43年創立20周年記
念式典。同48年創立25周年記念式典。同50年校庭整備(スプリンクラー設置)。同52年正門
など改修。同53年創立30周年記念式典。同57年体育館床改修。同58年防球ネット取付。生垣
・フェンス完成。同60年旧校舎の窓枠、教室間仕切りをアルミサッシに改装。同61年機械整備開
始。同62年自転車置場改修。同63年新館校庭側窓ガラス2階まで強化ガラスに取替え。
 平成2年体育館・特別教室落成。校庭緑化。正門改修。創立40周年記念式典。同3年校庭改修。
給食調理室改修。コンピュータルーム開設。視聴覚教室改修。同8年区総合体育大会陸上競技大会4
年連続総合優勝。同9年校庭改修。同10年校舎耐震化。創立50周年記念式典。同11年コンピュ
ータ新機種に交換。同12年防球ネット取付。同13年体育館1階防火シャッター取付。同16年普
通教室・図書館エアコン設置。同16・17年給食調理室ドライ化。同19年特別教室空調設置。同
20年創立60周年記念式典。同21年保健室空調設置。放送設備取替え。電子黒板設置。
 


■亀有の松寺 本多山蓮光寺

 
亀有1丁目25番31号にある真宗大谷派の寺。山門を入ると右は広い墓地、左に参道が曲がって
本堂。その左に庫裏が続く 庭木も多く森を形成していて清潔で素晴らしい寺だ。
 慶長八年(1603)徳川家康が江戸幕府を開いて間もなく、本多忠豊の養子で、三河国は刈谷の
領主本多忠春(法名釋広闡庵了賢)によって岡崎に寺基を構えたと伝えられている。徳川幕府は、江
戸城を守るため、武士以外に町民や寺院を江戸の周りに集める方針を打ち出したが、そのような流れ
の中で、慶長十四年(1609)2代将軍秀忠の時、了賢が江戸の神田に移したという。当時浄土真
宗は北陸、関西、愛知など西日本で一番大きな教団として、庶民の間にその教えが広まっていたが、
幕府の政策によって、結果的に浄土真宗の教えが江戸に広まる機縁となった。この頃、江戸に沢山の
浄土真宗の寺が建立されている。明暦三年(1657)振袖火事(明暦の大火)によって灰燼に帰し
てしまうが、門徒の力で持ち直す。その後、文化三年(1806)広沢新田(西浅草 現台東区東上
野)に移ったが、大正2年の関東大震災で再び火災に遭うことになる。このような困難を経て、昭和
3年現在地に移転し、同11年には本堂も落慶し今日に至っている。このように幾多の困難を経てき
ているが、その度毎に門徒と僧侶が一体となって困難を乗り切り、浄土真宗の教えを伝えてきた。
 


■亀像 ✔

 
亀有1目26番?号の亀有新道の歩道に2基あるという。未確認。


■毘沙門天石像(上宿七福神)

 
亀有1丁目27番8号吟八亭やざ和の前にある。


■曳舟川親水公園

 
亀有1目27番8号先から南南西に向かって南下、白鳥を経て、四つ木に達する曳舟川の暗渠上に
ある区立公園。

 
道標
 公園名の表示石の手前にある。平成になって建てられたようだ。


■亀有一里塚

 亀有1丁目28番6号先の歩道に、水戸佐倉道(旧水戸街道)を背に建っている。西から曳舟川親水
公園を渡ったところにまだ新しい「旧水戸街道 亀有上宿」の石柱がある。さらに街道を少し進むと
右手歩道脇に、平成14年に建てられたばかりの記念碑がある。
 この一里とは千住五丁目で日光道中から分かれてからの距離だ。

   一里塚
   旧水戸街道

   旧水戸街道拡幅工事完成を祝い、石像三体及び商店会地域表示の石柱を建立する。
   平成14年4月吉日                    葛飾区 亀有上宿商店会


 とあり、反対側の面には渋い顔つきの水戸黄門と助さん、格さんの顔。少し気味が悪い。商店会地
域表示の石柱とは一里塚跡のことらしい。

   一里塚跡                   所在地 葛飾区亀有3丁目12番地
                               葛飾区亀有1丁目28番地
   一里塚は、江戸日本橋を起点に、一里(約4km)ごとに設けられました。塚は道路の両
   側に設置され、榎などが植えられました。榎は根を深く広げることから塚の崩壊を防ぐ役
   割があったようです。
   一里塚の起源については諸説ありますが、現在では一里塚といえば、慶長九年(1604)
   に設置が命ぜられた江戸時代のものをさします。
   亀有の一里塚は、千住宿から一里、江戸日本橋からは三里のところに位置します。現在で
   はその様子を伺うことはできませんが、明治の末頃までは塚の跡が残っていたようです。
   塚の位置は、ここから東へ10m先にありました。


 ※「亀有3丁目12番地」は道路向かい。
 


■亀有二丁目公園

 
亀有2丁目2番7号にある区立公園。


■若草児童遊園

 
亀有2丁目6番18号にある区立公園。


■亀青児童遊園

 
亀有2丁目9番11号にある区立公園。


■亀有あさひ児童遊園

 
亀有2丁目11番5号にある区立公園。


■「親子」

 
亀有2丁目17番1号都営亀有第三アパート一号棟の南の公園的歩道にある彫刻。


■亀有教会

 
亀有2丁目27番3号にある日本キリスト教団の伝道所。昭和24年山下米吉牧師(救世軍)が亀
有で開拓伝道開始した。神学的立場は、聖書を誤りなき神の言葉として信じる福音派的信仰。しかし
律法主義には陥らない。聖霊の賜物も認める。理想の教会像は、聖霊の主権的な働きを認め、セルに
よって教会を形成する。
 


南松山香念寺
 
亀有2丁目40番3号にある浄土宗の寺。入口を入るとすぐ本堂。左手と裏が墓地。右は庫裏。本
堂は茅葺きで珍しく、境内には楠の大木がある。「新編武蔵風土記稿」に、

   香念寺
   浄土宗新宿町西念寺末、南松山と号す。開山浄誉、寛永二十一年三月十五日寂す。本尊
   弥陀。開基は村民市郎左衛門が先祖市郎左衛門なりと云。


 とある。
 


■亀二児童遊園

 
亀有2丁目42番3号にある区立公園。


■橋本の五葉松

 
亀有2丁目47番2号の橋本材木店にある。樹齢350年以上といわれ、区内にはゴヨウマツの古
木は数少なく区の天然記念物に相応しい大樹。樹高約8m、幹回り約1.65m。
 


■前津公園

 
亀有2丁目51番8号にある区立公園。


普明山観音院慈眼寺
 亀有2丁目54番5号にある真言宗豊山派の寺。堂宇は鉄筋コンクリート造りで2階が本堂、外階
段でお参りできる。1階は催し場であろうか。臙脂色というか焦げ茶色というか、柱や梁はその色で、
壁は白。きっちり四角四面に整備されていて、それはそれは鮮やかだ。庫裏も2階建ての新築。墓地
は見当たらないが、募集してるので、離れて墓地があるのだろう。整備が行き届き、すっかり無駄な
空間が無いのは、ちょっと興醒めの感がないでもない。「新編武蔵風土記稿」に、

   慈眼寺
   同宗(新義真言宗)青戸村宝持院末、普明山観音院と号す。本尊正観音開山元真天正四年
   起立すと云。


 とある。一時、宝持院の門末から離れて、下谷(台東区)観音寺末になったことがある
 


■寿老人石像(上宿七福神)

 
亀有2丁目60番5号癒しの里前右角にある。


■「ワハハ両さん」像

 
亀有2丁目63番7号先亀有名画座跡地前歩道際にある、漫画「こちら亀有公園前派出所」の主人
公。60cmで青銅色。台座ともで130cm。この辺りに作者の秋元治の生家があったということ
で建てられた。平成22年3月13日他の7体と共に除幕した。現在両さん像は10体。麗子像2体
と中川・本田像を合わせて14体が設置されている。
 


■豊栄稲荷神社

 
亀有2丁目64番8号にある小祠。
 


関口山祥雲寺
 
亀有2丁目64番17号にある臨済宗円覚寺派の寺。石柱門の入口を入ると右は墓地。正面に建屋
があり、本堂と庫裏とが一体になっている。庭は見事だ。「新編武蔵風土記稿」に、

   祥雲寺
   同宗(禅宗)臨済派、江戸深川惠然寺(現寒光寺)末、関口山と号す。開山は碩分なり。
   此僧後年臨済に改派してより当寺を開きしゆへ、臨済宗となせりと云。開基は村民次郎兵
   衛が祖先某なりと。本尊子安観音を置く。当寺も(見性寺と同じく)文化五年より御膳所
   を勤めり。


 とある。


■弁財天石像(上宿七福神)

 
亀有3丁目12番11号宇田川商店前にある。


■布袋石像(上宿七福神)

 
亀有3丁目13番1号奥瀬ビル前にある。


■大黒天石像(上宿七福神)

 
亀有3丁目13番1号亀有信用金庫前の植栽にある。


■「本田」像

 
亀有3丁目13番1号亀有信用金庫前の歩道縁にある、漫画「こちら亀有公園前派出所」の登場人
物。平成22年3月13日他の7体とともに除幕。平成22年3月13日他の7体と共に除幕した。
現在両さん像は10体。麗子像2体と中川・本田像を合わせて14体が設置されている。
 


■福禄寿石像(上宿七福神)

 
亀有3丁目13番3号巷岡ビル西北角にある。


「両さんの少年時代」像。

 亀有3丁目15番1号の北端、亀有銀座商店街の中央、ゆうロードポケットパークにある。平成2
0年11月8日3件目の建立。漫画「こちら亀有公園前派出所」の主人公両津勘吉の少年期の銅像。
珍平、豚吉と3人で「とん・ちん・かん」だとか。130cmで金色。丸山幸一制作。 
 


■「サンバ両さん」像

 
亀有3丁目18番4号、亀有中央商店街の靴の東洋斜め前の歩道にある、漫画「こちら亀有公園前
派出所」の主人公。高さ60cmで青銅色。台座を含めると1m30cm。帽子をかぶり笑顔の両さ
んが眼鏡をかけ、両手にマラカスを持っている。平成22年3月13日他の7体と共に除幕した。現
在両さん像は10体。麗子像2体と中川・本田像を合わせて14体が設置されている。


 損壊事件
 1ヶ月も経たない4月20日左手に持ったマラカスが壊されて持ち去られていたことが判った。区
は亀有警察署に被害届を提出、同署は器物損壊事件として捜査を開始した。
 18日午前11時頃、通行人が左手のマラカスが根本から折られているのを発見、商店街関係者を
通じて区に通報した。17日夕方から18日午前までに壊されたと可能性が高いという。壊されたマ
ラカスは見つかってない。何時の時代にもバカな奴はいるもんで、こんなことも時間の問題だった。
 21日商店会が傷ついた左手に包帯を巻いた。商店会では「誰かが触って怪我をしたら大変」と理
由付けをするが、これが洒落というか気の利いたユーモアだと評判が高い。マスコミが大騒動だ。
 23日犯人が21日午後7時亀有署自首してきていたことが判った。区内に住む23歳の青年で、
酔っ払って友達とふざけてたらポッキリと折れちゃった。慌てて逃げたが、その後マスコミに大きく
扱われて怖くなり自首したという。月末に富山の制作会社竹中製作所が来て修復した。
 


■「こち亀」銅像(15件目は総天然色)
 亀有3丁目25番1号、亀有駅南口前に。
平成28年8月7日『こちら葛飾区有公園前派出所』
の主役の両さんと麗子、中川3体の銅像がフルカラーで完成した。除幕式には、原作者の秋本治に加
え、10年ぶり5度目の公演となる舞台版「こち亀」で脚本・演出・主演を務めるラサール石井が登
場。新しい銅像の登場に花を添えた。平成8年亀有駅北口に設置された銅像から10年という節目に
登場したの銅像は、秋本により「ようこそ こち亀の街へ! 両津・中川・麗子がお出迎え!像」と命
名された。秋本は祝辞で「今回の話が来た時に、カラーにできないかと相談した。何度か絵を描いて
アピールした結果、原作とアニメの色の両方に近い色になった」とフルカラーの銅像が出来上がった
経緯を語った。「両さんの金属製フィギュアのようなイメージ。次は動く両さんにして欲しい。今は
無理でも、20体目の時にはどうにか」と今後の展望も・・・
 完成した銅像を前に、両さんに扮したラサール石井は「感動して泣きそう。アニメがスタートした
頃に亀有を訪れた時には、まだ何もなかった。亀有駅を降りたら『こち亀』があるのがうれしい」と
話し、銅像との撮影を楽しんだ。


■亀有リリオパーク

 
亀有3丁目25番1号にある区立公園。


■亀有駅

 亀有3丁目25番1号にあるJR常磐線の停車場。明治30年5月17日に追加開業した。地下鉄
千代田線と常磐線の直通運転が始まった昭和46年4月20日以降、亀有駅は千代田線直通の各駅停
車のみが停まる駅となった。ホームは高架島式1面2線構造。ホームと改札階を結ぶエレベーターは
設置済み。改札口は1ヶ所のみで、地上1階にある。出口は、北口と南口の2ヶ所。

 
「出航の時」
 南口「イトーヨーカ堂」前にあるモニュメント。高田洋一の作品。芸術は解るけど、税金を使って
建てる必要があるのかねぇ。誰が恩恵を受けるのか、毎日通る人に聞いても記憶しないだろう。

 
ようこそ亀有へ両さん像
 南口のバス乗り場にあり、赤いベンチに腰掛けている。
 


両津勘吉巡査長の銅像(法被)

 亀有3丁目25番1号、亀有駅南口交番隣リリオパーク入口前に、平成18年11月18日完成し
た、漫画「こちら亀有公園前派出所」の主人公。
北口に客を取られるのを心配した南口商店街の巻き
返しらしい。なお浅草神社の境内に「『こち亀』
の碑」が建っている。 
 実は「東京で行ってみたい銅像」のランキング1位が、亀有の両津勘吉像だ。2位以下は西郷隆盛
(上野公園)・徳川家康(江戸・東京博物館)・勝海舟(墨田区役所)・伊藤博文(国会議事堂)・
ウルトラマン(小田急祖師谷大蔵駅前)・忠犬ハチ公(渋谷駅前)・板垣退助(国会議事堂)・大石
内蔵助(泉岳寺境内)・大隈重信(早稲田大学構内)・自由の女神(お台場海浜公園)・松尾芭蕉(深
川芭蕉庵など)・樺太犬タロジロ(東京タワー)・ゴジラ(日比谷シャンテ前)・フーテンの寅さん
(柴又駅前)・楠木正成(皇居外苑)・渋沢榮一(常盤橋公園)・太田道灌(東京国際フォーラム・
新宿中央公園・日暮里駅前)・高橋是清(高橋是清公園)・・・
 


■リリオ館・リリオ壱番館・リリオ弐番館・リリオ参番館

 亀有3丁目26番1号の複合施設。

 
「出帆の時」
 1階オープンスペースにあるオブジェ。

 
イトーヨーカ堂
 1~7階にある。

 
亀有地区センター・亀有区民事務所
 7階にある。

 
かめありリリオホール
 リリオ館8・9階にある。「観る芸術にふさわしいホール」を主目的に、広い舞台、音響効果の高
く観やすい客席などの特徴を有する610席の中規模ホール。ホールのほか楽屋、リハーサル室もあ
る(いずれも有料)。休館日:年末年始、保守点検等で月2~3日程度休館(不定期)。利用料金・
利用曜日・時間帯など詳細は、03‐5680‐2222へ。

 
亀像・亀有の由来碑
 リリオの南側道路に面して作られている。碑によると亀有は、鎌倉時代建治二年(1276)には
下総国葛西御厨亀無村にあり、香取神社の社地だった関係で、多くの神官が移住して開発されたとあ
る。亀無が亀有に転じた理由は書かれていない。この亀の銅像を撫でると幸運になる・・・と書いて
ある。神社の撫牛や三越のライオン像の真似かい。

   龜有の由来
   私達の町 亀有は今から約726年前、鎌倉時代建治二年(西暦1276年)当時下総国
   葛西御厨亀無村と呼ばれており、香取神社の神領地でありました関係から多くの神領民が
   移り住み発展致し今日に至った町です。
   なお香取神宮の神様が鎮まります山を亀甲山と呼ばれています。由来の通り亀に縁の深い
   町で亀は中国古代四霊[東方青龍、西方白虎、南方朱雀、北方玄武亀と蛇]に数えられ、
   亦吉凶の占術にも用いられていました。御伽ばなしで浦島太郎にも窺えるように人々をメ
   ルヘンの世界に誘い、今日では、鶴は千年、亀は万年というように長壽の証しとされてお
   ります。
   非常に縁起の良いもので一般の人々の守護神としても崇められております。昔から亀に触
   れて擦ればきっと良い事があると謂い伝えられています。
   平成14年5月吉日                  亀有香取神社宮司 唐松豪夫
                              リリオ自治会々長 西江峰夫
                              リリオ商店会々長 石岡子介
                      寄贈リリオ弐番館管理組合理事長 松澤三喜男

 麗子」像
 漫画「こちら亀有公園前派出所」のマドンナ。北口交番横にあった初代麗子像だが、平成22年3
月13日他の7体と共に除幕して直ぐの5月19日、細いため不心得者に折り曲げられてしまった。
そこで11月6日もう折り曲げられない座りポーズの「薔薇と麗子」像に交換され、この像はリリオ
7階の地区センター内に移されたという訳。現在両さん像は10体。麗子像2体と中川・本田像を合
わせて14体が亀有駅周辺に設置されている。
 


中川」像

 亀有3丁目29番1号、亀有駅南口のリリオ弐番館前にある。70cmで金色。細いので意識しな
いと見落としてしまうよ。漫画「こちら亀有公園前派出所」の登場人物。平成22年3月13日他の
7体と共に除幕した。現在両さん像は10体。麗子像2体と中川・本田像を合わせて14体が設置さ
れている。
 


香取山明王院恵明寺(えみょうじ)

 
亀有3丁目32番25号にある真言宗智山派の寺。本堂は和風だが、ガラス戸が興を殺ぐ。過去帳
の奥書および亀有村旧名主矢沢家文書には、弘安元年(1278)の開山、「新編武蔵国風土記稿」
には建治二年(1276)の起立とある。室町時代の戦乱で一時荒廃したが、延宝年間(1630~
80)に法印快真が中興、元文元年(1736)十月の8代将軍吉宗の鶴御成以来、将軍の御膳所と
なり幕末に及んでいる。近年まで御成門という茅葺きの門が残っていたという。明治17年第11大
区1小区の東巡査屯所が置かれ、また亀有小学校の校舎として使用されたこともある。現在の本堂は
昭和48年の改築だ。南葛八十八ヶ所霊場47番札所、荒川辺八十八ヶ所霊場56番札所だ。
 「新編武蔵風土記稿」に、

   恵明寺
   新義真言宗寺嶋村蓮花寺の末、香取山明王院と号す。本尊不動の立像長二尺許興教大師の
   作。草創は建治二年とのみ傳へて開山の僧は詳ならず。中興快真元禄五年三月四日寂。当
   寺元文元年十月十九日此邊放鷹の時初て御膳所を命ぜられしより今も然り。


 とある。
 


亀有病院

 
亀有3丁目36番3号にある総合病院。内科・循環器科・呼吸器科・外科・乳腺外来・脳神経外科
・整形外科・泌尿器科・内視鏡科・理学療法科・エックス線科・CT:MRI・マンモグラフィ・内
視鏡科・エコー検査科・脳波・脳ドック・人間ドック・骨ドック・消化器ドック。


紫雲山瑞泉院光明寺

 
亀有3丁目41番11号にある真言宗豊山派の寺。環七通りに面する壁と柱などの色が激しいコン
トラスをなす素晴らしく綺麗な、鉄筋コンクリートの本堂。右は墓地、左は庫裏。緑が少ないのがちょ
と淋しい。慶長元年(1596)法印栄保の創立。天明六年(1786)と寛政七年(1795)の
洪水のため記録を失い、その由緒は不明。現在の本堂は昭和44年の新築だ。墓地の入口に六地蔵の
石像が並んでいる。「新編武蔵風土記稿」に、

   光明寺
   同宗同末(新義真言宗青戸村宝持つ院末)、紫雲山瑞泉院と号す。慶長元年の起立にして
   開山を栄保と云。本尊弥陀。

 とある。


■香取神社
 亀有3丁目42番24号、環七に面してある。祭神は経津主命・武甕槌命・岐命で、例大祭は9月
18・19日。建治二年(1276)当時、この辺りは下総国香取大神宮の領地(葛西御厨)だった
ので、亀有一帯の鎮守として勧請した古社だ。創始の年時を貞和元年(1315)としているが、こ
れは建治二年は、偶々『新編武蔵風土記稿』に記する旧別当恵明寺の開創の年時に合わせたものだ。
社地は元禄八年(1695)の『亀有村検地水帳』に、境内外地537坪を除地と記してあるから、
当時から広大な社地を持っていたことが分かる。社殿は、慶安四年(1651)・宝永二年(176
5)・万延元年(1860)および明治20年に改築され、現社殿は昭和42年9月の造営だ。境内
末社は神明社・白山権現・松山稲荷・浮洲稲荷・道祖神・遠呂智・諏訪・水神の8社。
 当社では古くから境内で小屋を掛けの人形芝居が盛んに行われたが、明治維新後は廃れ、木偶人形
の首と年番帳の記録だけが保存され、当時の名残を留めている。社宝として雪城沢俊郷の扁額と猩々
狂斎の描いた大幟がある。

 明神鳥居2基。いずれも花崗岩製。1基は、

   明和四丁亥歳正月吉日 氏子中 恵明寺現住快□代

 南参道に建つ。もう1基は、

   昭和五十一年八月吉日 御鎮座七百年記念

 西参道に建つ。

 社殿は、
鉄筋コンクリート造り。拝殿は間口3間×奥行3間、1間の向唐破風向拝付、屋根は入母
屋造り、千鳥破風付、銅板葺き。前面および両側面には勾欄付廻り縁を遶らす。幣殿は間口1間×奥
行2間、手前1間左側は12尺張り出して祭具庫に充て、屋根は両下造り、銅板葺き。本殿は一間社流
造り、屋根は銅板葺き。幣殿・本殿の両側および背面は瑞垣で囲む。
 水盤舎は南参道の右側にある。四本柱、屋根は切妻造り、銅板葺き。神楽殿は社殿の手前右側にあ
る。
慶応二年(1866)の建造。
 神輿庫は2棟、社殿裏と神楽殿の南に並ぶ。社務所は、社殿に向かって左側にあり、神楽殿と向か
い合う。大正12年の建築だ。平成2年に建て替えた。

 
家内繁栄、健康長寿の亀
 入口鳥居脇に狛犬の代わりなのか、亀が首を伸ばした石造1対がある。リアルなのだが何故か漫画
チックだ。鳥居の横に説明板がある。それに曰く。

   旧亀有村はその昔、亀甲の形を「成す」土地であったことから、「亀無」「亀梨」と呼
   ばれ、応永五年(1398)「下総国葛飾御厨注文」や永禄二年(1559)「小田原
   衆所領役帳」には、いずれも「亀無村「亀梨村」と記載されているが、「なし」の言葉
   を忌み嫌い、正保元年(1664)江戸幕府による「正保改訂図」の政策から「亀有」
   したようだ。
    葛飾区の有形文化財「亀形瓦一対」は、万延元年(1860)に建立された旧社殿の
   棟瓦として、頭部は龍、胴体が亀という神亀が阿吽一対で両端に置かれたもので、台座
   波形は地元中川のお波を表しているといわれており、「亀有」という地名に因んだ亀を
   象った棟瓦は全国でも珍しく、平成20年現在、葛飾区郷土と天文の博物館に寄贈され
   ています(現在は公開されていない)。
    此の度、香取神社宮司唐松豪夫・美代夫妻の念願であった亀有町氏子の家内安全・健
   康長寿の願いを込めた「亀形瓦一対」を模した狛亀像が建立されました。
    平成二一年元旦

 松山稲荷神社
 社殿裏にある。一間社、桟瓦葺き。元和元年(1615)の鎮座。元禄八年(1695)の検地帳
には、社地925坪、除地畑一反九畝十八歩とある。社殿は明治13年田中岩右衛門による再建、同
32年砂原高木神社の西側から遷座。御手洗石に「天保十四歳次癸卯春三月 武蔵国葛飾郡亀有」と
刻す。

 北向道祖神社
 西参道の右側にある。一間社、屋根は切妻造り、銅板葺き。前の伊豆石製明神鳥居に「天明二壬寅
十一月戌辰日建立之 当所講中村々寄進 大願主 法印栄山 書間仁右衛門」と刻する。もと古上水
西千間堀の北端に鎮座していたが、明治41年当社に合併、大正14年11月に社宇が再建された「ど
うろくじんさま」として信奉されている。なお社宇は平成2年現在のものに建て替えられた。

 
水神社
 元は香取神社の境外末社として中川橋西詰新堤防の内側にあったが、社殿の向かって右側に移され
た。
一間社流造り、銅板葺き。旧社宇は寛政十一年(1799)十一月村の矢沢佐兵衛の再建したも
のだった。

 招魂社
 社殿に向かって左側奥にある。神明造り、銅板葺き。「大正十四年九月吉日 山本亀次郎」の銘あ
る花崗岩製明神鳥居を建てる。


 
香取の松 枯死
 大正初年まで、境内に樹齢800年と推定される老松が空高く聳え、地元の人は「香取の松」と呼
び、付近を流れる中川を江戸に向かう船頭たちが、江戸に近づいたというランドマークにしたという。
船頭たちが口ずさんだ「香取のお船唄」は、昨今知る人もない。

 玄恵井之記碑
 社務所の中庭にある。文化十年(1813)江戸の国学者屋代弘賢の撰文によるもので、区の文化
財に指定されている。昔亀有方面は日常生活に必要な井戸水の質が悪く、茶褐色に濁って「砂濾し」
しなければ飲料に適さなかった。この苦しみを自ら味わい何とか良い水をと念願し、苦心の結果、文
化二年(1705)幕府の鳥見役人山崎玄恵が役宅の庭隅から綺麗な水を掘り当て、村の共用として
40余ヶ所に竹樋を持って送水し村人たちに感謝されたという事績を事細かに記してある。
 水の出た場所はここから南の花谷家(2丁目24番15号)で、今も滾滾と清水が湧き出てると、
昭和54年の「葛飾区の歴史」にはある。

   葛飾区有形文化財
   
玄恵井の碑              所 在 地 葛飾区亀有3丁目42番24号
                       指定年月日 昭和53年2月13日
   昔、この辺りの井戸水は、濁り水が多く大変水質が悪く、「砂こし」をしなければ飲むこ
   とができませんでした。幕府の鳥見役人(鷹場の管理をする役人のこと)水谷又助は、そ
   のことを憂い、上司の許可を受け、山崎玄恵という老人の指示の下に文化二年(1805)
   正月、鳥見屋敷内に清水を湧出する井戸を掘り当てました。
   この碑は文化十年(1813)正月にこのことを記念して、当時の国学者屋代弘賢が書き
   記し、水谷又助が当香取神社に建てたものです。
   井戸はその後亀有村の40ヶ所に引かれ、村人の飲料水として使われました。現在この井
   戸は使われていませんが、今も鳥見屋敷跡である亀有2丁目にその姿をとどめ、大切に保存
   されています。                         葛飾区教育委員会

 「少年よ、あの星を目指せ! 両さん」像
 境内にある。140cmで青銅色。漫画「こちら亀有公園前派出所」の主人公。平成22年3月1
3日他の7体と共に除幕。現在両さん像は10体。麗子像2体と中川・本田像を合わせて14体が設
置されている。
。 


■浮洲稲荷神社

 香取神社の東外にある。一間社、仮葺き。元禄八年の検地帳には、除地13坪とあり、石祠は延享
三年(1746)別当真福寺法印英亮代の再建。明治41年恵明寺池付近から遷座。

 紙製荷造函創始之地
 境内に太い円柱を横に倒した形のモニュメントが置かれていて「紙製荷造函創始之地」と書かれて
いる。向かいのアリオ亀有はイトーヨーカ堂が経営する大型ショッピングセンターだが、この地は平
成15年まで日本板紙(日本大昭和板紙)の亀有工場があった場所で、同18年にその跡地を再開発
した。発祥の地碑(モニュメント)の円柱はロール状に巻き取られた紙を模ったもので、日本板紙で
製造されていた段ボールを表しているらしい。
 明治末期にヨーロッパで〝カートン(厚紙製の函)〟を見てきた田島志一は、それらに〝紙器〟と
いう新しい訳語をつけ、明治45年に「日本紙器製造」を設立。新型の製造機械を導入して近代的な
段ボール箱の製造を開始。第一次世界大戦の好況という追い風も受けて業務は順調に拡大し、社名を
「日本紙業(株)」と変更。大正6年に亀有に23000坪の用地を購入して亀有工場を設立した。日
本紙業はその後紆余曲折を経て、平成9年に「日本板紙(株)」となり、同15年に「日本大昭和板紙
(株)」となって現在に至っている。
 かつて 輸送・保管用の容器は、木箱を使うのが常識だった。ここに 段ボールでの箱が用いられる
ようになったのは、軽くて折り畳みができるなどの利点があるためで、画期的な製品だった。日本で
段ボール箱が広く一般に普及したのは、昭和の後期になってからのことで、戦後においても重量のあ
る製品(例えばリンゴ箱)はまだ木箱が使われていた。実は明治末期に「日本紙器製造」社が紙函の
製造を始める以前にも、小規模に紙函を作る会社は存在していたが,いずれも家内工業に毛の生えた
程度の手造りのものだったようで、本格的な段ボール箱を工場で量産したのは「日本紙器製造」だっ
た。

   紙製荷造函創始之地
   日本板紙株式会社亀有工場跡
   大正7年10月吉日創業
   平成15年3月吉日設立
 


■「玄恵井の碑」説明板

 
亀有3丁目48番1号の古隅田川跡にある。碑そのものは「玄恵井之記」の題名で、香取神社社務
所横の大木戸の内にある。またそちらにも説明板がある。井戸は現存し「鳥見屋敷の井戸」という。
鳥見役所は亀青小学校東交差点の西(亀有2丁目24番15号花谷家)の辺りにあった。現在もある
のだが、花谷家の台所の下にあり、近年まで使用していたが水質の問題で現在は水道に替えていると
か。家が湿気るので潰したいのだが、先祖の遺跡だしと思案投げ首の状態だ。

   玄恵井の碑
   昔、亀有方面の井戸は水質が悪く、「砂こし」をしなくては飲むことができないので村人
   は困っていました。このことを憂いた幕府鳥見役人の水谷又助は、山崎玄恵という老人の
   助力を得、鳥見屋敷内に井戸を掘りました。幸いにも清水が井戸を満たしたので、村人は
   たいそう喜び、玄恵に感謝したそうです。
   この碑は文化十年(1813)にこの清水が湧き出た日を記念して村人達によって香取神
   社に建てられたもので、碑文は江戸時代の書史学者屋代弘賢によるものです。


 ※「砂こし」とは「濾過」のことだ。


■浮洲公園

 
亀有3丁目49番2号にある区立公園。


■古隅田なかよし公園

 
亀有3丁目49番20号にある区立公園。


■曳舟川親水公園(①)

 
亀有4丁目1番~17番までに亘る曳舟川暗渠上にある区立公園。


■砂原第三公園

 
亀有4丁目12番5号にある区立公園。


■砂原児童遊園

 
亀有4丁目24番11号にある区立公園。


■道上児童遊園

 
亀有4丁目31番9号にある区立公園。


■道上小学校

 
亀有4丁目35番1号にある区立校。「みちうえ」と読む。昭和23年6月「東京都葛飾区亀青小
学校分校」として開設。この日を開校記念日として制定。9月「東京都葛飾区立道上小学校」として
独立開校。同24年梅花背面型に道上の文字の校章を制定。同26年校章を配した校旗樹立。同26
年分校として中之台に8教室建設。同27年校歌制定。

 校歌「
雲が呼んでる」 作詞・勝承夫  作曲・芥川也寸志
  1.雲が呼んでる鉄塔越えて
    希望の雲が呼んでいる
    吾等は清く輝く若葉
    何時も楽しい道上の
    庭にのびゆく日本の力
  2.富士が呼んでる大空遙か
    世界の友も呼んでいる
    吾等らは仰ぐ平和の光
    繋ぐ この手に道上の
    誇る自立の誓いがこもる
  3.朝が呼んでる汽笛も高く
    文化の朝が呼んでいる
    吾等は強く明るい子供
    進む時代に道上の
    その名輝くわれらの母校


 同28年プール完成。同33年創立10周年記念式典。同38年PTA協力により岩石園完成。創
立15周年記念式典。同40年第1期鉄筋コンクリート造り校舎落成(普通教室7、特別教室2)。
同42年第2期鉄筋コンクリート造り校舎落成(普通教室6、給食調理室1)。昭和44年第3期鉄
筋コンクリート造り校舎落成(普通教室6、職員室1、主事室1)。同45年第4期鉄筋コンクリー
ト造り校舎落成(普通教室4、校長室、事務室、会議室、保健室)。同46年第5期鉄筋コンクリー
ト造り校舎落成(普通教室6、音楽室、図工室、体育館)。同48年創立25周年記念式典。同51
年FF暖房完備。同55年プール改築、図工用かまど設置。全教室カラーテレビ設置。同59年学校
シンボル植樹祭(けやき)。洋式トイレ設置。同63年校舎囲緑化、防球網設備。創立40周年記念
式典。
 平成4年東京都学校保健優良学校賞受賞。同7年障害者用便所増設。同9年コンピュータルーム整
備。同9年照明設備改修室。同10年正門改修。創立50周年記念式典。同13年コンピューター室
新機22台設置、コンピューター室エアコン設置。同14年機械警備開始。学校「110」番設置。
防犯カメラ設置。同15年校舎耐震化。同17年全教室エアコン設置。同18年校帽制定。同19年
特別教室にエアコン設置。同20年創立60周年記念式典。同21年わくわくチャレンジ広場、文部
科学省表彰。
 


■中之台小学校

 
亀有5丁目2番1号にある区立校。同26年現在地に「東京都葛飾区立道上小学校中之台分校」と
して開設。11月19日授業開始(この日を開校記念日に制定)。同27年「東京都葛飾区立中之台
小学校」として独立開校。同39年体育館完成。同43年鉄筋コンクリート造り校舎(普通教室6・
特別教室3)落成。同46年第2期鉄筋コンクリート造り校舎(普通教室6、正面玄関から職員室
落成。同49年第3期鉄筋コンクリート造り校舎(普通教室8 特別教室1 管理室7 給食室1)
落成。同63年校舎窓サッシ化。
 平成2年給食室全面改修。同3年創立40周年記念式典。同7年管理棟エアコン設置。同9年コン
ピュータルーム開設。同11年校庭・公園林改修。体育館・プール完成。校歌銘板取付。同12年公
園林整備。同13年創立50周年記念式典・タイムカプセル埋却(開封は20年後)。同14年少人
数学級開始、学校完全週5日制実施。コンピュータ室スーパーワイドライン設置。同16年図書閲覧
室エアコン設置。学校開放型事業「わくわくチャレンジ広場」開所。同17年屋上雨漏り防水。同1
8校舎耐震化。
 


「敬礼両さん」

 
亀有5丁目14番1号先、亀有血液センター入口交差点のところにある。漫画「こちら亀有公園前
派出所」の主人公。平成22年3月13日他の7体と共に除幕。現在両さん像は10体。麗子像2体
と中川・本田像を合わせて14体が設置されている。


東京都保健医療公社東部地域病院
 
亀有5丁目14番1号にある総合病院。内科・呼吸器内科・消化器内科・肝胆膵内科・糖尿病内科
・循環器内科・小児科・外科・小児外科・整形外科・脳神経外科・心臓血管外科・泌尿器科・婦人科
・眼科・麻酔科・耳鼻咽喉科・病理診断科・放射線科・検査科・薬剤科・栄養科・リハビリテーショ
ン科。


■鎧の光山堂

 亀有5丁目15番7号にある復元鎧製造販売店。インターネットによる通信販売もやっているよ。
レプリカで模造品ではあるが、鎧としては本物だ。だから値段も半端じゃない。数十万円から数百万
円だ。 03‐5682‐4658。
 


王臣山長栄寺
 
亀有5丁目19番13号にある真宗大谷派の小寺。境内のないビルディング。
 


■両津勘吉巡査長の銅像(制服)
 亀有5丁目33番1号、亀有駅北口前に
平成18年2月11日『こちら葛飾区有公園前派出所
の主役の両さんの銅像が完成した。大きさは163cmの特身大像。銅像は丸山幸一の作品を、富山
県高岡市の銅器製造販売会社竹中製作所が製作した。現在両さん像は10体。麗子像2体と中川・本
田像を合わせて14体が設置されている。
 

 『こち亀』は秋本治作の漫画で、昭和51年に一度週刊少年ジャンプで読み切り漫画として掲載さ
れた後、同年から30年に亘って同誌で連載され続けている人気漫画であり、ウィキペディアによると
連載回数は平成18年2月現在で1400回以上、単行本151巻、単行本総売上数13000万部
以上、アニメ化や舞台公演が行われたこともある人気作品だ。『こち亀』の読者を中心に多数の人々が
「亀有公園前は出所」を求めて亀有駅を訪れることから、駅前の商店街が『こち亀』に関連した物を
駅前に作ろうと提案、作者秋本や葛飾区も出資し、合計で340万円の費用をかけて設置された。タ
イトルにある、亀有公園前派出所は存在しないのだが、主人公の両津勘吉宛にファンレターが送られ
たり、元々モデルとなったのはJR亀有駅北口にある「亀有駅北口交番」。
 その交番の警察官に、「両さん(両津勘吉)はいますか?」と尋ねると、「パチンコに行ってるよ」
「パトロールに出てる」など、適当な返事が返ってくるらしい。なんともふざけた交番だ。新設の南
口交番が出来たので、取り壊す予定だったが、北口の商店街の猛反対、猛陳情で残されてるらしい。
南口に比べて不在の場合が多いとか。
 


■亀有駅北口交番
 亀有5丁目34番1号にある。漫画「こちら亀有公園前派出所」の亀有公園前派出所は存在しない
のだが、主人公の両津勘吉宛にファンレターが送られてくる。モデルとなったのはJR亀有駅北口の
この交番だ。その交番の警察官に、「両さん(両津勘吉)はいますか?」と尋ねると、「パチンコに
行っててるよ」「パトロールに出てる」など、適当な返事が返ってくるらしい。なんともふざけた交
番だ。新設の南口交番が出来たので、取り壊す予定だったが、北口の商店街の猛反対、猛陳情で残さ
れてるらしい。南口に比べて不在の場合が多いとか。交番の直ぐ側の歩道上に「麗子像」がある。
  


「麗子」像 →
交換薔薇と麗子」像

 亀有5丁目34番1号の北口交番のところにある。漫画「こちら亀有公園前派出所」のマドンナ秋
本カトリーヌ麗子は、パリ生まれの長身ナイスボディの美女。父は巨大企業の社長で、母はフランス
人。上品大(上智大?)卒で、警察学校を経て婦人警察官になった。平成22年3月13日他の7体
と共に除幕した。

 盗まれないために敢えてこの場所に設置したとか。高さは60cm、台座を含めると130cm。
小さなトロフィー程度の大きさなので、ポキッと折って持っていけそう。現に南口商店街にある「サ
ンバの両さん」の左手のマラカスは出来て1ヶ月後には折られちゃった。

 と書いたら、案の定5月20日何者かによって30度傾けられた。そしたら24日の朝にはまた直
立姿勢に戻されてた。おいらが心配したとおりになっちゃった。経費を節減したため、頑丈な(大き
な)ものが作れず、引っ張れば曲がるような華奢なものになったということさ。悪戯が当たり前の世
の中で、人の善意に縋ろうというのが甘すぎるのさ。観光資源というなら、意地悪少年や酔っぱらい
のバカチカラも計算にいれて作れよ。立ち位置も問題さ。交番の傍ったって横っちょじゃねえか。お
巡りだって四六時中、そんなものに注意してられるかってんだ。何で交番の正面に設置しないの。妙
な空白で、夜中だったら、何でも出来そうなところさ。監視カメラを付けとけって!

 と書いたら、懲りたのか「麗子」像は撤去され、11月6日腰掛けたもの「薔薇と麗子」に挿げ替
えられた。それ立像の「麗子」像は、リリオの7階亀有地区センター内に移された。
 現在両さん像は10体。麗子像2体と中川・本田像を合わせて14体が設置されている。


亀有公園

 
亀有5丁目36番1号にある区立公園。

 ダブルピース両さん像
 園内の南端にある。漫画「こちら亀有公園前派出所」の主人公。平成22年3月13日他の7体と
共に除幕した。現在両さん像は10体。麗子像2体と中川・本田像を合わせて14体が設置されてい
る。


 
ひとやすみ両さん像
 ベンチに偉そうに腰掛けてる両津勘吉像。 
 


直指山見性寺(狢寺)

 亀有5丁目54番25号にある曹洞宗の寺。元和六年(1620)対州舜境の創立、開基は亀有の
郷士佐久間弥右衛門。その後、一時荒廃したが、江戸深川慧然寺(寒光寺)の開山別伝宗分が中興し
た。「続東国高僧伝」によれば、宗分が葛西の地に到った時、旱天を憂えた民が師に祈雨を請うた。
よって宗分が、

   天草数日草木枯 世界人民悩心意 竜王垂慈下雨来 洗衆生苦大洪水

 の偈を神竜に授けたところ、忽ち車軸の如き雨が降ったという。天明六年(1786)10世白瑞
文圭が本堂を再築。現在の建物は昭和33年の改築だ。
 山門を潜って境内に入ると、左に鉄筋コンクリート造りの白塗りの鐘楼。前に、元禄九年(169
6)銘の宝篋印塔がある。本堂も鉄筋コンクリートで白塗り。屋根は銅板(?)葺き。境内は整備さ
れてなく、石仏などは多数点在し、本誓観音という露出の石観音像が安置されている。何の因縁か正
岡子規の句碑がある。「新編武蔵風土記稿」に以下の記述がある。

   見性寺
   禅宗曹洞派、江戸浅草松源寺末、直指山と号す。本尊正観音は坐像にして長2尺、春日の
   作。開山対州舜鏡和尚、村民弥右衛門と謀りて元和六年当寺を草創し、明暦二年二月二十
   二日寂す。中興を宗分とす、寛文八年七月二十四日寂す。此僧硯徳にして功あるをもて中
   興と称すと云。

 狢塚
 境内にある。
  


さくら児童遊園

 
亀有5丁目59番8号にある区立公園。




【小菅】(こすげ)1~4丁目                  最終昭和43年4月1日
 小菅村。慶応4年7月(9月から明治元年)武蔵知県事支配、明治2年小菅県、同4年廃藩置県
により小菅県を廃し東京府に編入。同11年「郡区町村編制法」により南葛飾郡に復し、同22年
「市制町村制」により南綾瀬村大字小菅、大正12年郡制廃止。昭和3年南綾瀬町の大字。同7年
南葛飾郡の東京市編入により葛飾区小菅町、同38年新住居表示を実施して一部を堀切に移し、翌
年8月1日残りの大部分に下千葉町の一部・上千葉町の極一部をあわせた町域を現行の「小菅1~
3丁目」とし、昭和43年上千葉町町の一部を「4丁目」
として新住居表示を完了した。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『葛飾区史』『葛飾の歴史』など。

 小菅の由来
 小菅はもと千葉袋(もとの上千葉町)のうちに所属していた村で、葛西領中の西端に位置してい
る。地名の由来については、「万葉集」巻十四東歌の中に

   古須気呂乃、宇良布久可是能、安騰須酒香、可奈之家児呂乎、於毛比須吾左牟
    コスゲロノ ウラフクカゼノ、 アドススカ、 カナシケコロヲ、 オモヒスゴサム

 と詠んだ歌がある。「古須気の浦吹く風の何としても、吾が愛しい娘への思いを思い過ごすこと
があるものか」。この「古須気(こすげ)」を「小菅」に解し、もとの小菅町がその旧地であると
いう説があるが、一般的には、「古須気」は北武蔵(埼玉県)に比定されている。また小菅は土地
の形成からみても古代には、まだ十分に陸化しておらず、地名としても中世の記録上にも確認でき
ないことから、中世以降に成立した比較的新しい村と考えられる。菅は「かや」であり、昔この辺
一帯古隅田川に面し、蘆、茅などが多く密生していたところから、この名が生じたのではないかと
思われる。室町時代に大胡氏が開発して千葉袋村から独立。古隅田川(こすみだがわ)に面した辺
りはスゲ(カヤツリグサ科スゲ属の草本)の生い茂る湿地で、そんな様子から小菅の名は生まれた
ようだ。日本のスゲには250種ほどもあり丈の低いものが繁茂していたとのだろう。スゲの種類
は判っていない。今一つは「こそげ」説、こそげとは動詞で「削り取る」という意味だ。洪水で土
地が削られるような湿地帯をいう。こっちが強いか。
 「こすげ」は、インドネシア語で解すると「コツイ・(ン)ガエ」、「絡み合った湿地」という
ことだ。小菅はそういうところだった


■下水道局小菅水再生センター

 小菅1丁目2番1号にある下水処理場。屋上は公園になっている。
 


■小菅西公園

 小菅1丁目2番1号水再生センター屋上にある区立公園。


■荒川小菅緑地公園

 小菅1丁目2番1号先にある区立公園。


■小菅西児童遊園

 小菅1丁目2番1号にある区立公園。


常照山阿弥陀院正覚寺

 小菅1丁目3番にある真言宗豊山派の 寺。入口の正面が本堂、左に庫裏、その左に地蔵堂があり
「とげ抜き地蔵」とある。右は広い墓地。純和風の荘厳な寺。文禄元年(1592)に寂滅した法印
定心が創建したと伝えられ、室町時代末期の草創と推察される。境内の地蔵堂には水戸光圀の伝説が
ある地蔵尊を安置し、厨子裏の銘に

   本尊慈覚大師作、法印甚求宝永三年三月入仏、厨子宝光、正徳四年正月法印甚目宥

 とある。この銘は恐らくは本尊阿弥陀如来像に関する記事で、その像は慈覚大師の作で、厨子を宝
永三年(1706)に法印甚宥が作ったということであろう。
 近年(昭和55年頃)付近に高速道路と下水道処理施設建設のため、本堂・客殿・庫裡など一切が
新築され、面目を一新した。寺には昭和46年撮影の航空写真があり、これら工事以前の綾瀬川
を含む付近の状況を窺うことができる。南葛八十八ヶ所霊場77番札所、荒川辺八十八ヶ所霊場60
番札所、荒綾八十八ヶ所17番札所。「新編武蔵風土記稿」に、

   正覚寺
   新義真言宗、青戸村宝持院末、常照山阿弥陀院と号す。本尊弥陀は慈覚大師の作なり。開
   山定心文禄元年の示寂なり。(中略)
   地蔵堂
   正覚寺持。下同じ。
   観音堂


 
日本最初の公立学校 小菅県立小菅仮学校跡
 ここは嘗て県立小菅小学校の校舎として使用された。明治2年、小菅村に小菅県庁舎が設置された
時、日本最初の公立学校
といわれる「小菅県立仮学校」が開かれ、県庁職員をはじめ一般村民の育英
にあたった。当時の聴聞規制が保存されている。境内に案内板が立ててある。それに曰く。


   史跡
   
県立小菅小学校跡
   明治2年小菅県庁において設立した。学制発布以前の公立学校として、都下教育史上貴重
   な遺跡で、当寺はその校舎の一部にあてられた場所である。       葛  飾  区
                                     葛飾観光協会

   
正覚寺とげぬき地蔵と日本最初の公立学校
   真言宗正覚寺は、
常照山阿弥陀院と号し、本尊阿弥陀如来は、慈覚大師作といい、厨子の
   銘に「本尊慈覚大師作 法印基家 宝永三年三月入仏厨子宝光 正徳四年甲午正月 法印
   基宥」とある。草創年代は定かではないが、開山和尚安心の亡くなったのが文禄元年(1
   592)だから、おそらく室町末期の創立と推定される。
   この寺には、「とげぬき地蔵」という古い石地蔵が、堂内に安置されている。この地蔵は
   以前に旧水戸街道の北側にあったものを、大正4年荒川放水路の開さく工事で当寺に移さ
   れたものである。
   「とげぬき」は罪抜(とがぬき)からきたもので、当時付近の小菅監獄からの罪を終えて
   の帰途、この石像に願をかけると罪が抜けるというので、いつしか「とがぬき」が「とげ
   ぬき」になったのだという。
   このお地蔵さまにはもう一つ「きられ地蔵」の伝説がある。元禄のころ夜になると、この
   地蔵の付近に美女が現れ旅人を悩ますとの噂がたち、これを参勤交代でこの道になじみの
   水戸黄門こと水戸光圀が一刀のもとに地蔵の首を切り捨てたが、首はそれ以来行方不明と
   なり、正覚寺で新しい首をつけたが、後に寺の近くで掘り出されたので、寺では別の箱に
   納めて供養している。いくら剣術の達人でも、果たして石の首を「コロリ」と落ちるほど
   切れたかどうか疑わしい。しかし地蔵堂の水舎に元禄年間の銘があり、水戸黄門と何らか
   の関連があったと思われる。
   また正覚寺にはもう一つ珍しい史実がある。
   明治2年 
(削除) この地に小菅県庁が置かれた。県庁では新政府の出した府県学校取
   調局の令に基づき、早速同年七月庁舎に近い正覚寺本堂内に「小菅仮学校」という公立の
   学校を設けた。おそらくこれがわが国最初の公立学校であろう。始めは県庁の役人を対象
   としたが、希望者には管内の一般町村民の入学もゆるし、文明開化の新しい教育につとめ
   たが、民間側の入学者は稀だったという。この仮学校はお隣の千住宿の慈眼寺にも分校を
   設けたが、明治四年十一月廃藩置県で県庁とともに廃校となり、明治6年4月学制発布で
   青砥学校(区立亀青小学校)や勝鹿学校(区立新宿小学校)が設立されたので、生徒の多
   くが両校に転属された。
   次にのせる「聴聞規則」は、本邦初等教育史上貴重な資料であるが、その内容は旧態依然
   とした封建期そのものであったことが、うかがい知れる。
    当県仮学校当分小菅村正覚寺ニ相定メ候事
   一、六ノ日 定休  四月十九日 会議に付昼後休
   二、七ノ日 未ノ刻ヨリ小学講釈
    諸役人出席下民といえども聴を許す但し朝索読質間勝手次第
   三、八ノ日 未ノ刻ヨリ教民志告心鑑
    庁内の諸役人壮年之ものハ必ズ出席すべし其他有志輩聴聞勝手たるべし但し
    朝前同断
   四、九ノ日 未ノ刻ヨリ孟子論議
    庁内の諸役人壮年之ものハ必ズ出席すべし
老幼の輩は勝手次第
   五 十ノ日 未ノ刻ヨリ千住四丁目慈眼寺小学講話
    御用村用等ニ面小菅表へ出会居候村人小前ども必ず出席すべし若し怠り候もの来れば郷
    宿向き取調ノ上、正覚寺ニ止宿いたさせ教諭を加う其他四方之民人老幼とも出席聴聞す
    る事を欲す知事判事之内取締として時々出席すべし其他諸史聴聞勝手たるべし但し浅前
    同断
   明治己未年六月                              小菅県


 ※石が切れるかどうかについていえば、科学的には「切れない」、但し、石には「目」という切れ
目があり、それに沿って力を加えれば割ることは可能だ。つまり「石切り」でなくて「石割り」だ。
「兜割り」というのも鉄の兜は切れないが、鉄板と鉄板の合わせ目に力を加えて破壊する術で、まあ
いわば、手品のようなものだ。黄門が石の目を読んで、戦闘用の刃のない大刀で打てば、首を落とし
たというのはなくはない。



■水戸橋跡地

 小菅1丁目7番9号先にある。旧水戸街道を通したの旧水戸橋は直進していたが、堤防の嵩上げの
ために付け替えとなり、新しい水戸橋は北に迂回して新架された。旧橋の橋詰は堤防で塞がれ、その
際に説明板が建ててある。

   水戸橋跡地
   
【水戸橋・橋台の石組・綾瀬川】
   ここに組まれた石組は、江戸・明治時代から桁橋の水戸橋を支えてきたが橋台を受け継い
   だものです。この構造は、皇居(旧江戸城)内濠に架かる木造橋である平川橋に名残を見
   ることができます。
   水戸橋が本格的な橋として架橋された年は定かではありませんが、江戸初期の寛永年間(1
   624~1644)と考えられています。
   水戸橋が架かる綾瀬川の開削については、「西方村旧記付図」(越谷市立図書館)に、寛
   永年間に内匠橋付近(足立区)から小菅(葛飾区)を経て、隅田川合流地点まで堀替えた
   記録があります。
(※文中「堀替えた」とあるのは「掘替えた」の誤記。)
   【橋名・みとはしの由来】
   地元に伝わる話によると、その昔、水戸黄門(光圀)が旅の途中小菅村の妖怪を退治しま
   した。その妖怪は、親をならず者に殺され、敵を討とうとした狸でした。小狸が殺されそ
   うになった時、近くのお地蔵様が身代りとなりました。その事実を知った光圀は、後の世
   まで平穏となるようにと自ら筆をとり、傍らの橋の親柱に「水戸橋」と書き記したと伝わっ
   ています。
   また、水戸橋下流の正覚寺には、身代わりとなったといわれているお地蔵さまが安置され
   てあり、お堂前の水舎には、元禄十年(1697)の銘があります。
   
【水戸佐倉道】
   前方に延びる道は、東海道など五街道に付属する水戸佐倉道です。この街道は、日本橋を
   出発点とする日光街道の千住宿(足立区千住)から分かれ、常陸国水戸徳川家の城下につ
   なぐ道でした。途中、新宿(葛飾区新宿)では、下総国佐倉へ向かう佐倉街道に分かれま
   した。これらの街道は、土浦藩や佐倉藩等が参勤交代に使う重要な道でした。
   享保十年(1725)八代将軍徳川吉宗が、大規模な狩を小金原(千葉県松戸市)で行っ
   た際、水戸橋で下船して水戸街道を通行した記録が残されています。
 


水戸佐倉道案内板 ◇

 小菅1丁目14番5号の民家の塀に貼ってある。江戸時代、荒川(放水路)がなかった頃、千住で
日光道中から分かれた水戸佐倉道は、案内板に面した道を東に水戸へ向かっていた。


小菅八幡社 ◇

 小菅1丁目19番11号の路傍にある石祠。小祠ながら極めて精巧に刻んである。燈籠まである。
元は道路部分は細長い境内だったが、水戸橋の架け替えで、新橋が60mほど北に上がったため、児
童遊園だった境内は道路にされてしまった。立退料がしこたま入ったので、たっぷり金をかけて祠を
新築した次第。

   八幡社とタブの木の大樹について
   小菅の水戸橋付近、綾瀬川沿いに「八幡社」と大きなタブの木がありました。昭和30年代
   に作られた「小菅音頭」の歌詞の中にも「月もおぼろの八幡やしろ」と歌われています。
   この社とタブの木は綾瀬川のふちにあって、舟の往来や行き交う人々戸を見守ってきまし
   た。
   由緒などは不明ですが、「水戸佐倉道分間延絵図(みとさくらみちぶんげんのべえず)」
   に記載されている古い社で、棟札により元禄十三庚辰年(1700)五月三日第五代将軍
   綱吉に仕えた柳沢吉保によって、小菅御園内の鎮守として再興されました。第八代将軍徳
   川吉宗の時代(1740年頃)の小菅御園古図には「八マン」と記載され、鳥居の図がし
   めされています。
   このあたりは「八幡山」と呼ばれ、小菅一丁目では一番の高台でした。綾瀬川・古隅田川
   囲まれた小菅付近は昔からたびたび洪水に見舞われてきましたが、昭和以降の大水害にも
   水に浸かることはなかったと言われています。小菅一丁目に大きな被害をもたらした昭和
   34年9月の伊勢湾台風の際にも八幡社に多くの人々が避難したと伝えられています。
   大切に守って来たこの社は、今、水戸橋の架け替えに伴い、旧社殿は取り壊され、新しい
   石造の社として再建されることになりました。
   平成22年7月吉日


南明山観音院寿福寺(小菅半僧坊大権現)

 小菅1丁目19番14号にある天台宗の寺。水戸橋を西へ渡るとすぐ右に参道があり、「観音院半
僧坊参道」とある。そこは赤い幟がひらめいて賑やかだ。その幟には「小菅半僧坊大権現」とある。
入口を入ると左に本堂、正面は庫裏だ。住宅街にあって寺っぽくない寺。
 創立の年代は不明、慶長十六年(1611)江戸橋田所町から谷町へ移り、正保元年(1644)
浅草新寺町へ替地となり、さらに明治25年2月現在地へ移転した。この寺地には古くから「小菅の
半僧坊」として地元住民の信仰を集めた堂があり、綾瀬講などが結ばれていた。寺には今も半僧坊の
像が安置されている。「御府内備考」に曰く。

   江戸浅草東光院末
   南明山寿福寺観音院、境内拝領地八百五坪内門前町屋アリ。右は起立年代相分り不申。慶
   長十六亥年、田所町谷寺町引地、正保元甲申年当地江替地被仰付候。
   中興開基栄覚法印。寛永六巳年十一月入寂。
   客殿。本尊阿弥陀如来、丈二尺五寸立像。
   準胝観音、丈一尺五寸。古ハ別二堂有之候処類焼後客殿二安置仕候。
   護摩堂、二間半四方塗屋造り。不動尊、丈二尺八寸余。四大尊、丈一尺四寸宛々。四大尊
   丈一尺四寸宛々。二童子、丈一尺五寸宛々。
   稲荷社、九尺四方塗屋造り。拝殿、間口八尺奥行五尺。稲荷、丈五寸。右入船稲荷と称ス。
   延宝年中安置。以上乙酉書上
 


■銭座橋親柱? ◇

 小菅1丁目22番4号先角に、親柱の残骸なのか小さな石柱が立っていて、「銭座橋」「ぜんざは
し」と刻んでいる。

   小菅銭座跡
   小菅御殿跡南側(現在の小菅小学校)には安政六年(1859)から慶応三年(1867)
   にかけて幕府の銭貨を鋳造した。小菅銭座が置かれていました。文久三年(1863)の
   調べでは鋳造高707250貫文に達し、小菅で鋳造された銭は遠く、京都・大阪にも回送
   されました。昔あった掘割は埋められてしまい姿を止めていませんが、今でも「銭座橋」
   と刻んだ石柱が残っている。銭を鋳造する鉄材は、この橋付近で荷揚げされ、裏門から銭
   座へ運び込まれた言うことです。
 


■銭座跡
 小菅1丁目25番1号西小菅小学校のところに、安政六年(1859)から慶応三年(1867)
まであった。この地で鉄銭(寛永通宝など)が鋳造されていた。銭座があった場所は、小菅御殿の一
角でもあった。現在銭座跡の標識のみで、その痕跡はないが、幕末期における貴重な場所として区の
史跡に指定されている。

 
小菅銭座跡の説明板
 西小菅小学校正門の左手にある。

   葛飾区指定史跡
   
小菅銭座跡               所 在 地 葛飾区小菅1丁目25番1号
                                     西小菅小学校
                        指定年月日 昭和58年2月21日
   安政六年(1859)から翌万延元年にかけて、幕府は貨幣の吹替(改鋳)を行いました。
   この吹替のため幕府は安政六年八月に小菅銭座を設けました。小菅銭座は旧小菅御殿跡の
   一角に作られたといわれ、広大な敷地(15000㎡ 約4600坪)を持ち、この西小
   の菅小学校の辺りがその中心であったと思われます。ここ小菅銭座では鉄銭が鋳造されて
   いました。
   いまその頃の様子を示すものは何も残っていませんが、貨幣史関係の史跡として大切なも
   のです。                            葛飾区教育委員会



■西小菅小学校

 
小菅1丁目25番1号にある区立校。
昭和31年「東京都葛飾区立西小菅小学校」として開校。1
6学級・児童数741名でスタート。同
34年第1期鉄筋コンクリート造り校舎(普通教室6)落成。
同35年第2期鉄筋コンクリート造り校舎(普通教室9)。同41年体育館完成。開校10周年記念
式典。同42年プール完成。同44年西小菅幼稚園併設。同51年開校20周年記念式典。学校緑化
を3ヶ年計画で進める。同52年校庭整備・スプリンクラー設置。同59年校地周囲の万年塀撤去。
近代フェンスに改修。同61年開校30周年記念式典。
 平成3年ランチルーム完備。同6年綾瀬川クリーン作戦に関わる護岸壁に絵画制作。うさぎ小屋購
入設置。同8年開校40周年記念式典。同15年わくわくチャレンジ事業開始。同18年文部科学省
子どもの生活向上プロジェクト委嘱。「早寝早起き朝ごはん」事業開始。校舎大規模耐震補強。創立
50周年記念式典。同19年文部科学省プロジェクト「早寝早起き朝ごはん」。同22年東京都スポ
ーツ教育推進校。

 校歌「
綾瀬の流れ」 作詞・坂本凱次  作曲・高槻宏人
  1.綾瀬の流れ輝いて
    銭座の跡の朝庭に
    強く正しく励み合い
    新たに進む広い道
    吾等楽しい西小菅
  2.朝夕富士を仰ぎ見て
    平和の鳩の舞う空に
    高く大きな望み持ち
    新たに進む広い道
    吾等伸びゆく西小菅


■松原児童遊園

 小菅1丁目27番2号にある区立公園。
 

■差入の相模屋・池田屋・

 小菅1丁目27番5号、6号に並んである拘置所指定売店。商売っ気の感じられない外観は、小学
校なんかの近くにある学校指定の雑貨屋と同じ風情。小母さん2人がカウンターに座ってる。収監者
のフルネームなど必要事項を書けば、買ったのを差し入れてくれるとのこと。無論、店内の商品は、
差し入れじゃなくて自分用に買うこともできるよ。扱品は衣料・雑誌・食料・日用品。


■小菅稲荷神社 ◇

 小菅1丁目28番11号にある小社。

    武蔵葛飾郡西葛西領小菅村伊奈半   左衛門忠達同氏半重郎忠辰屋舗者 
   東照神君関東御打入之砌伊奈備前守   忠次男伊奈半十郎忠治 東照神君 
   洲以来 神君江父備前守興■奉勤目   関東地方頭取相勤及 御治世寛永之
   始 家光公江府近在度々為御鷹野鷹   成右屋舗忠治拝領 御成及度々御鷹
   之鳥御長刀之雁拝領之御肴其外献上   従夫御成中絶御殿地如元有之享保元
   申年当 将軍吉宗公被 聞召上右仍   御由緒翌酉年五月十八日初面御成任
   旧例御肴御菓子等献上時服拝領以後   年々 御成打續有之 大納言様右準
    御成格例右同然所元文丙辰年二年   廿日 大納言様 御止宿之 御成従
   公儀御旅館出来所々固等諸事為厳然   当日御島台御肴鯛二御樽一荷献上時
   服三御羽織銀三十枚拝領四日 御逗   留有同七日還御也 御治世百年以来
   干他稀成御事萬代不易御奇瑞奉祈之   当稲荷社者従光年屋舗仍為鎮守仰旧
   例君臣和合武運長久如意満足奉祈之   為後鑑誌之置者也
     干時元文丙辰年十一月十五日         願主小川東蔵有香敬白
    右小菅稲荷之社々額ニ有之ト云      大田南畝〝一日一話〟より

   小菅稲荷神社と「小菅御殿の狐穴」
   小菅稲荷神社は小菅御殿の鎮守として小菅御殿内に祀られていましたが、昭和に入り、現
   在の地に移されたと伝えられています。稲荷神社の「使い」狐がご神体の両脇を固めてい
   ます。狐が穀物の神様である宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)の使いになったのは、
   一般には宇迦之御魂神の別名を「御饌津神(みけつのかみ)」であったことから、ミケツ
   の「ケツ」がキツネの古名「ケツ」に想起され、誤って「三狐神」と書かれたためといわ
   れています。そして狐の習性(山から下りて実る稲穂を狙う害獣を食べて子狐を養う)が
   古来の日本人の目には、繁殖=豊作として結びつき、狐が田の神の先触れ、五穀豊穣、稲
   豊作を知らせる「神のお使い」として人々に定まっていきます。日本の各地に「神の使い」
   狐の伝説がのこされています。
   小菅稲荷神社には「使い姫」の伝説が残されています。
   本殿の裏、こじんまりした庭の石山の根元には二つの穴があります。
   小菅御殿があった当時、将軍様の御逗留の際に不意の敵襲に備え、無事に御殿外に脱出で
   きるよう空井戸を利用した抜け道があったといいます。
   この抜け道を明治時代に入り不要なものとしてふさいでしまったところ、御殿跡地の政府
   の施設では事故が相次いで発生しました。ある夜、心痛した偉いお役人の夢枕に、一匹の
   白狐が現れ「私はいにしえからこの小菅稲荷の「使い姫」として空井戸に棲んでいた狐一
   族の長老であるが、この程我らの住居を埋められで大変に難渋しておる。速やかに穴を元
   に戻すように」と言い残して消えました。
   そこで速やかに穴を元に戻した結果、ぱったりと事故が起こらなくなったといいます。
   当時のものを模した「狐の穴」は本殿の裏にちゃんと残されています。


■小菅御殿

 
綾瀬川(新綾瀬川)は寛永のころ掘られた運河で通運のため隅田川に短距離で結んだ。江戸時代小
菅村の大半は「小菅御囲」で、三代将軍家光が建てた御殿を関東郡代伊奈半十郎忠次が賜って下屋敷
(10万坪)としたものであるが、将軍の御鷹狩の際の御膳所・御休息所とされた。しかし犬公方綱
吉の時に鷹狩は廃止、御囲は収公され柳沢吉保の料地とされた。吉宗の代になって鷹狩が復活、御囲
も伊奈氏に戻された。元文元年(1736)吉宗の子家重の療養のために新たに「小菅御殿」が建て
られたが、寛保元年(1741)に焼失しすぐ再建された。寛政四年(1792)伊奈氏は左近将監
忠尊のとき継嗣問題がこじれて御家断絶となり、下屋敷は没収されて御殿も取り壊された。その後壮
大な御殿は建てられることもなく仮屋が置かれただけで、文化四年(1807)に幕府勘定所の籾蔵
がを建設された。天保元年(1830)関東代官出張陣屋が置かれ、天保3年(1832)江戸町会
所の籾蔵が下屋敷跡地に多数建てられて備蓄を行った。安政の大地震のときに被災者のために配られ
て大いなる実効があったという記録がある。

   
遠水鶏(とおくいな)小菅御門の閉まりけり
   
古舟も そよそよ合歓(ねむ)のもようかな
   けたたまし将軍様の雁じゃもの

 
小菅御殿跡標柱
 拘置所の塀の中にある。

   千住御殿遺物

 小菅御殿石灯籠
 東京拘置所の正門左側の塀の中にある。外から見えるよ。この地は関東郡代伊那半十郎の下屋敷が
あったところで、3代将軍徳川家光より、この地に10万坪もの広大な土地を賜った。御殿が造営さ
れてからは「小菅御殿(千住御殿)」と呼ばれ、将軍鷹狩りの際の御膳所(休憩所)となっていた。
こうした時代背景などから、この石灯籠は江戸時代中期以前のものと考えられる。傍らに説明板が建
ててある。

   
石灯籠について
    小菅御殿は(千住御殿と称する人もある)は、約350年前、三代将軍家光公が、この
   地に治山治水農政に優れた関東郡代伊奈半左衛門の下屋敷(約10万坪)として与えられ
   たものであり、奥州路の諸大名が参府する際の送迎用として、また将軍の放鷹や鷹狩の御
   膳所、九代将軍家重公御世継ぎ時代の養生所等に使われた。
    その郡代の勲功は上下に讃えられ、代々俸勤200年に及んだが、寛政四年(1792
   年)第十代伊奈半左衛門忠尊のとき家中不行届で蟄居断絶、領地も没収となり、屋敷も取
   り払われ天領となった。
    その後明治12年(1879)に七万坪を利用して小菅監獄(東京集治監)が建てられ
   以後小菅刑務所を経て、昭和46年(1971)から東京拘置所敷地として利用されてい
   る。
    ここに置かれている桜御影石の燈籠等は江戸時代初期の作とされ小菅御殿当時を偶ばせ
   世の栄枯盛衰の中で当地に立ちつづけた貴重な歴史資料で当所構内に保存されていたが、
   一般の方々に供覧に便ならしむるためこの場所に移した。
   昭和59年(1984)                       東京拘置所


 文中「放鷹」と「鷹狩」を別のものとしているが、同じことだ。また「偶ばせ」は「偲ばせ」の誤
記と思われるが、拘置所のレベルの低さを露呈しているようなものだ。

   区登録有形民俗文化財
   
旧小菅御殿石燈籠             所 在 地 葛飾区小菅一丁目35番
                          登録年月日 平成元年3月20日
   現在の東京拘置所一帯は、江戸時代前期に幕府直轄地を支配する関東郡代・伊奈忠治の下
   屋敷が置かれ、将軍鷹狩りや鹿狩りの際の休憩所である御膳所となりました。その後、元
   文元年(1736)七月、井奈氏屋敷内に小菅御殿(千住御殿)が建てられました。
   寛政四年(1792)小菅御殿は伊奈忠尊の失脚とともに廃止され、跡地は幕府所有地の
   小菅御囲地となりました。御囲地の一部は、江戸町会所の籾蔵や銭座となり、明治時代に
   入ると、小菅県庁・小菅煉瓦製造所が置かれました。
   旧小菅御殿石燈籠は、全高210cmの御影石製で、円柱の上方に縦四角形の火袋と日月
   形をくりぬき、四角形の笠をおき宝珠を頂いています。もとは刻銘があったと思われます
   が、削られていて由緒は明確でありません。旧御殿内にあったとされるこの石燈籠は、昭
   和59年に手水鉢・庭石とともに現在地に移されました。      葛飾区教育委員会
 


■小菅県庁→煉瓦製造所→小菅監獄(
東京集治監)→小菅刑務所→東京拘置所

 小菅1丁目35番1号にある。明治2年小菅県の県庁が置かれ、同4年内庁に仮牢も設置された。
廃藩置県により、まもなく県庁が廃されると民間に払い下げられ、御囲の区画が外された。仮牢は成
煉社(煉瓦製造所)となり、明治5年の銀座大火後に出現した煉瓦街は実にここで作られた焼煉瓦で
建てられた。同11年西南戦争の捕虜を収容する小菅監獄署(翌年集治監と改称)が設置されると煉
瓦製造所は官営となり囚人たちの懲役作業として製造された。明治36年小菅監獄と改称し、同38
年から煉瓦工場は民間委託され関東大震災で倒壊するまで続いた。同じ震災で倒れた銀座煉瓦街の瓦
礫は、戸越村の排水の利いた整地のために埋め立てられ銀座商店街呼称第一号の戸越銀座となった。
そしてさらに奇異なことは小菅→銀座→戸越が同じ直線上にあることだ。大正11年小菅刑務所と改
称した小菅監獄は、敗戦で巣鴨拘置所が米軍に占領されたため拘置所も併設することになり、それが
昭和33年まで続いた。同46年小菅刑務所は廃止となり跡地に巣鴨の東京拘置所が移ってきて現在
の東京拘置所となった。

 
名縣知事河瀬秀治
 河瀬は天保十年(1839)、京都宮津藩士の子として生まれ、幼少より文武に優れ、宝蔵院流の
槍の達人だったという。明治元年、河瀬は新政府の公儀人(公務員)として京都に出仕し、天皇の行
幸に従い東京に移り、太政官の弁事(総務書記官)に任ぜられた。
 同2年、小菅縣知事に任命された。31歳だった。江戸が東京になったとはいえ、進駐軍の行政官
として、徳川家恩顧の地で、司法・行政・軍事の全権を担ったのだ。知事として赴任するや、直ちに
小菅縣報恩法を立案、「法恩社」を結成した。この制度は有志による基金で、縣民が不慮の天災や疾
病に際し、無利息で金品を貸与するものだった。民生事業の先駆ともいうべき制度を民部省は賞讃し
全国に勧奨通達を行なった。その後、欧米を真似た民間の保険相互会社が多く設立されたが、官制の
報恩社に刺激されたものと思われる。また、教育面でも東京府より1年早く「小菅縣立仮学校」を開
き、縣庁の役人や近隣の希望者を学ばせた。在任は2年足らずだったが、その後、印旛、群馬、熊谷
の各縣知事を歴任し、岐阜の長谷部、韮山の柏木と共に日本三名縣令(知事)と呼ばれた。
 同7年、内務省に入って内務大丞兼勧業寮権頭として、同10年の内国勧業博覧会を成功させた。
その後、欧州視察の経験を生かして渋沢栄一・五代友厚らと共に、同13年に日本最初の商工会議所
である東京商法会議所を結成、同年には佐野常民と一緒に龍池会を結成して副会頭に就任して美術奨
励に当たった。又、アーネスト・フェノロサを支援して鑑画会設立に尽力した。
 同14年に内務省から農商務省に商務局長兼工務局長として移籍。翌15年に創立された大日本農
会の幹事に就任した。農商務小輔の品川弥次郎との対立を機に退官。河瀬は龍池会副会頭の職務を続
けながら、翌年には天皇家が設立した横浜正金銀行取締役に就任し、同18年には茶業組合結成に尽
力して茶の生産・輸出の拡大事業を図った。又、益田孝と共に『中外商業新報』を創刊している。
 同20年には、製紙會社の富士製紙(後の王子製紙)の設立に発起人の一人として参加。設立時か
ら明治24年までの4年間、同社の初代社長を務めた。昭和3年没。享年90歳。墓は祐天寺。

 
説明板
 拘置所の南側の道路に面して植栽に下記の説明板が建ててある。

   東京拘置所と煉瓦工場
   明治維新後に籾蔵施設が利用され、「小菅縣庁舎・小菅仮牢」となり、廃県後は払い下げ
   られ、民営によるわが国最初の洋式煉瓦製造所が設立されました。
   明治5年2月26日和田倉門内の元会津藩邸から出火した火災により、銀座・築地は焼け
   野原と化します。政府の対応は遠く、30日には再建される家屋のすべてが煉瓦造りとさ
   れることが決定されます。煉瓦造りの目的は建物の不燃化をはかるだけでなく、横浜から
   新橋に向かって計画されていた日本最初の鉄道の終点に、西欧に負けない都市を造りあげ
   ようという意図もありました。
   明治5年12月、東京府は川崎八右衛門にその製造をまかせることを決定、川崎はウオー
   トルスに協力を依頼し、小菅に新式のホフマン窯を次々と設置し、生産高を増します。
   明治11年内務省が敷地ごと煉瓦製造所を買い上げ、同地に獄舎を建て、「小菅監獄」と
   命名(明治12年4月東京集治監)。西南戦争で敗れた賊徒多数が収容され、煉瓦製造に
   従事し、図らずも文明開化を担っていきました。東京集治監で、養成された優秀な煉瓦技
   能囚が全国各地に移送され、各地の集治監で製造されることになる囚人煉瓦の最初でもあ
   りました。
   小菅で製造された煉瓦は、銀座や丸の内、霞ヶ関の女王である煉瓦建築の旧法務省本館、
   旧岩崎邸、東京湾の入口に明治時代に建造された海上要塞の第二海堡等に使われ、近代日
   本の首都東京や文明開化の象徴である煉瓦建物造りに貢献してきたのです。

   小菅御殿と江戸町会所の籾蔵
   東京拘置所の広大な土地は、寛永年間(1624~1643)徳川家光が時の関東郡代伊
   奈半十郎忠治に下屋敷建設の敷地として与えた土地(十万八千余坪)で、当時はヨシやア
   シが茂り、古隅田川のほとりには鶴や鴨が戯れていました。十数代にわたり代官職にあっ
   た伊奈氏が寛政四年(1792)に失脚するまでの間、8代将軍吉宗公の命により、遊猟
   の御善所としての「小菅御殿」が造営された場所でもありました。
   寛政六年(1794)に取り壊された小菅御殿の広大な跡地の一部に、天保三年(183
   2)十二月江戸町会所の籾蔵が建てられました。その目的は、大飢饉や大水、火災などの
   不時の災害に備えたもので、老中松平越中守定信の建議によるものでした。
   深川新大橋の東詰に五棟、神田向柳に十二棟、ここ小菅村に六十二棟、江戸筋違橋に四棟
   の倉庫を建て、毎年七分積金と幕府の補助金とで買い入れた囲籾が貯蔵されていました。
   小菅に建てられた理由は、江戸市街と違い、火災の心配が少ないこと、綾瀬川の水運に便
   がよかったこと、もちろん官有地であることも条件の一つであったろうといわれています。
   小菅社倉の建物は敷地が三万七百坪、この建築に要した費用は、三万八千両、まもなく明
   治維新となり、この土地はすべて明治政府に引き継がれました。


 ※文中「御善所」とあるのは「御膳所」の誤記、御膳所は貴人の台の意で、将軍が休憩中に飲食を
することからの呼称で、休憩所と同意語だ。



■小菅万葉公園

 小菅1丁目35番16号東京拘置所の南西側の余剰地にある区立の小さな公園。公衆トイレの近く
に案内板がある。

   小菅には江戸の初め関東郡代伊奈忠治の1万8千坪余りにもぼる広大な下屋敷がありまし
   た。元文元年(1736)八代将軍、吉宗の命により、その屋敷内に御殿が造営され、葛
   西方面の鷹狩りの際の休憩所として利用されました。御殿の廃止後は小菅籾蔵が置かれ、
   明治維新後に新しく設置された小菅県の県庁所在地となっています。
    更に小菅籾蔵には小菅煉瓦製造所が建てられ、現在の東京拘置所の前身である小菅監獄
   に受け継がれていきます。


■綾瀬中学校

 小菅2丁目12番1号にある区立校。昭和22年南綾瀬小学校内に「東京都葛飾区立第六中学校」
として開校。同24年西小菅小学校内に仮校舎が完成。同25年「東京都葛飾区立綾瀬中学校」と改
称。同31年現在地に第一期木造2階建て校舎落成。西小菅小学校から移転。同32年1月第2期木
造2階建て校舎落成。12月第3期木造2階建て校舎落成。同33年講堂兼体育館完成。同34年第
4期木造2階建て校舎落成。同35年第5期木造2階建て校舎落成。同37年特殊学級併設。生徒数
ピーク1323名。同40年プール完成(同55年4月1日小菅小学校へ移管)。同44年給食室完
成。10月給食開始。同48年第1期鉄筋コンクリート造り4階建て校舎落成。同49年第2期鉄筋
コンクリート造り4階建て校舎落成。同50年第3期鉄筋コンクリート造り4階建て校舎落成。同5
7年第4期鉄筋コンクリート造り3階建て校舎落成。
 平成5年卒業生10000人を越える。同9年創立50周年記念式典。同19年創立60周年記念
式典。

 校歌「
満てよ 溢れよ」 作詞・勝承夫  作曲・下総皖一
  1.満てよ あふれよ 希望の光
    筑波遥かに 広野
(ひろの)は霞む
    夢多き若人の
    溌剌と集まる処
    綾瀬中学 吾等が母校
  2.常に伸びゆく力を込めて
    葛
(くず)の若葉は心の故郷
    友情の手を繋ぎ
    果てもなく伸び行く吾等
    築く文化よ 輝く未来
  3.目ざす大海
(おおうみ)行く手に広く
    鴎群れ立つ流れの畔
    麗しき自治の庭
    栄光の花咲く処
    綾瀬中学 吾等が誇り


■自転車屋に車が突入 店主死亡

 小菅2丁目37番5号の坪内輪業で起きた交通事故。平成29年7月31日正午前、川の手通りで
接触した車の一方が弾みで、丁度交差点で、道路フェンスが切れているところで店内に突っ込んだ。
この事故で男性2人が軽傷、店主の坪内丈美(44歳)が心肺停止状態で救急搬送されたが、搬送先
病院で死亡が確認され、30代の男性従業員も軽傷を負った。2人は事故に巻き込まれた。
 車の運転手は75歳男性で信号を無視した模様。過失運転致傷で逮捕された。


■小菅東スポーツ公園

 小菅3丁目1番1号にある区立公園。噴水や滝、じゃぶじゃぶ池、日本庭園、運動広場、テニスコ
ート5面(有料)などのある緑豊かな広い(約36000㎡)公園だ。休園日は、月・火曜と第4日
曜日、それに年末年始。03‐3690‐0988

 
「空に舞う」「空へ」
 園内にあるモニュメント。戸津侃の作品2点。


■小菅神社

 小菅3丁目1番2号、綾瀬川水戸橋の東南にある中社。祭神は天照大神。例大祭は9月5日。境内
末社は稲荷・天神の2社。
明治2年1月この地域を含めて小菅県が設置された時、小菅県の知県事河
瀬秀治は庁内(東京拘置所)に伊勢皇大神宮を勧請し、県下356ヵ町村の守護神としたことに始ま
る。同5年3月小菅県所管の葛飾郡72ヵ町村等が東京府に移管され、社は小菅村の鎮守田中稲荷神
社の境内に移し、小菅大明神と称して村の氏神となり、同42年小菅神社と改称し、稲荷神社を摂社
とした。当社の社殿が明治3年6月の造営であることは残っている棟札によって判明する。拝殿は昭
和30年、本殿は同44年に改築、幣殿は大正12年に造営、昭和30年に改築されたが、昭和54
年9月に現社殿が造営された。

 神明鳥居は花崗岩製で、「大正十五年四月吉日 千住町五丁目鈴木仲次郎健之」とある。拝殿は間
口3間×奥行3間、屋根は神明造り、銅板葺き、内部は板敷き。幣殿は間口10尺×奥行2間、手前
の1間は左右に8尺張り出して祭具庫に充てられ、屋根は両下造り、銅板葺き。本殿は間口9尺×奥
行7尺、神明造り、銅板葺き。神楽坂・神輿庫は南側に並ぶ。水盤舎は四本柱、屋根切妻造、銅板葺
き。社務所は社殿に向かって右側にあり、廊下を以て拝殿と連絡する。昭和52年の建築。

 田中稲荷神社
 境内の東側にあり、一間社流れ造。前に花崗岩製の明神鳥居を建てる。慶長年間(1596~16
14)小菅村開発当時祀られたものといわれ、田中の名称に関しては明らかでないが、一説には隣の
堀切村領主大胡宮内少輔勝行の家臣、田中某の勧請によるという。

 「新編武蔵風土記稿」小菅村の条に

 
  稲荷社ニ 一ハ村ノ鎮守、田中稲荷ト号ス。正覚寺持

 とあるり。

 
庚申塔2基
 田中稲荷の裏手にある。
  ①.自然の丸石に「庚申」と刻む。「文化八年辛未閏一月吉日」の建立。1811年だ。
  ②.舟形光背型。日月・青面金剛像・邪鬼・三猿・二鶏を刻む。「奉造立庚申供養」「享保十二
    丁未天」「十一月吉日」 
 


■鵜乃森橋

 小菅3丁目4番4号先にある古隅田川に架かる橋。


■小菅三丁目公園

 小菅3丁目6番21号にある区立公園。


■小菅小学校 → こすげ小学校

 小菅3丁目8番1号にある区立校。昭和26年「東京都葛飾区立小菅小学校」として開校。同31
年西小菅小学校を分校。同37年創立10周年記念式典。同42年第1期鉄筋コンクリート造り校舎
落成。同47年創立20周年記念式典。同57年校庭整備。同57年創立30周年記念式典。
 平成4年創立40周年記念式典。同7年体育館・プール完成。同9年コンピュータルーム開設。

12年創立50周年記念式典。同13年小谷野小学校を統合して「葛飾区立こすげ小学校」と改称。
校舎耐震化。同14年葛飾区教育委員会実験学校に委嘱される。 

 校歌「
風が欅の」 作詞:風戸強  作曲:鈴木行一
  1.風が欅の葉を揺らす
    何故か幸せ満ちて来る
    弾む笑顔と元気な体
    何時でも希望 忘れない
    あの子この子 みんなみんな
    共に学び育つ こすげ小学校
  2.今も流れる古隅田川
    色も優しい花菖蒲
    もしも涙と出会った時は
    励まし合って進もうよ
    あの子この子 みんなみんな
    共に心通う こすげ小学校
  3.晴れた青空 大好きさ
    雨の校舎も美しい
    今は小さな掌(てのひら)だけど
    何時かは宇宙 進むんだ
    あの子この子 みんなみんな
    共に明日をつくる こすげ小学校


■小菅めぐみ公園

 小菅3丁目9番9号にある区立公園。


■昌栄稲荷神社 ◇

 小菅3丁目19番13号にある小社。


■稲荷社 ◇

 小菅4丁目2番15号レンゴー葛飾工場の門内にある。


■白鷺公園

 小菅4丁目2番25号にある区立公園。西北角に説明板が設置してある。

   古隅田川と東京低地について
   東京低地は、関東諸地域の河川が集まり、東京湾に注ぐ全国的にも屈指の河川集中地帯で
   す。これらの河川によって上流から土砂の堆積作用が促され、海だったところを埋めてい
   きます。特に利根川は東京低地の形成に重要な役割を果しています。利根川が現在のよう
   に鬼怒川と合流し、その後千葉県銚子で太平洋に注ぐようになったのは、江戸時代初期に
   行われた改修のためです。
   利根川は古くは足立・葛飾両区の間を流れる古隅田川、江戸川、中川が、その支流となり
   東京湾へ注いでいました。足立区と葛飾区が直線的ではなくて、なぜくねくねと曲がりく
   ねっているのかと疑問をもたれる方も多いと思います。
   実は古隅田川の流路が区境となっているからです。足立区と葛飾区の境は、歴史的に見る
   と古くは武蔵・下総国の境であり、それが現在まで受け継がれているのです。
   古隅田川は足立区千住付近で入間川と合流し、現在の隅田川沿岸地域でデルタ状に分流し
   ており、この付近に寺島・牛島などの島の付く地名が多いのは、その名残です。
   現在のように古隅田川の川幅が狭くなってしまったのは、上流での流路の変化や利根川の
   改修工事によって次第に水量が減ってしまったせいです。今では、古代において古隅田川
   が国境をなした大河であったことを偲ぶことはできませんが、安政江戸地震(1855)
   が襲った際、亀有など古隅田川沿岸地域では液状化によって家屋、堰に被害が出たという
   記録が残っています。その原因は古隅田川が埋まってできた比較的新しい土地が形成され
   ているためだそうです。地震災害は困ったものですが、見方を変えれば古隅田川が大河で
   あったことを裏つけているのです。


■綾瀬国際ホテル

 小菅4丁目8番5号にある宿泊施設。世界の高級ホテルで選ばれているシモンズベッド導入。東京
メトロ千代田線綾瀬駅から徒歩1分。北千住・両さん像・柴又・寅さん記念館・矢切の渡し・浅草な
ど下町観光。東京スカイツリー・秋葉原へもアクセス良好。東京武道館は徒歩5分だ。


■ホテルパインヒル綾瀬

 小菅4丁目9番1号にある宿泊施設。綾瀬駅から大手町、日比谷まで約25分、また千葉・埼玉方
面にも近くアクセスは抜群。ビジネス・レジャー・ショッピングの拠点に最適。プライバシーが守ら
れる客室でゆっくりと寛ぎなはれ。


■袋橋公園

 小菅4丁目15番1号にある区立公園。


■法光山蓮昌寺

 小菅4丁目20番35号にある日蓮宗の寺。入口を入ると右は駐車場と催場。催場の前に法華経祈
祷所という堂がある。さらに山門を入ると左側は墓地、正面は本堂でその右は庫裏。裏手も墓地。参
道の左に鐘楼と「三光堂」という小さな堂がある。山門もあるなかなか立派な構えの寺だ。葛飾区教
育委員会の葛飾区寺院調査報告よると、

   正安二年(1300)松本阿闍梨日念の創立。日念はもと天台宗の学僧だったが、日頂の
   下で転宗し、当寺の他、結城・越前福井・越前高田の各妙国寺および房州南無寺の妙福寺
   を開創した。当寺は創建当初は現境内の裏側にある古隅田川付近、袋耕地にあったが、室
   町時代末期、旧街道の消滅とともに荒廃し、慶長十九年(1614)三代将軍義光が亀有
   付近で放鷹の際、境内の蓮花を賞賛し、蓮昌寺と称えるように命じたので、以後この寺名
   に改めたと伝えられる。明暦二年(1615)五世日敢は堂宇を再建し、万治三年(16
   60)六世日円は七面大明神を勧請し、寛政四年(1792)11代将軍家斉の放鷹以来
   将軍の御膳所に指定された。文化八年(1811)21世日隣は鐘楼を再建したが、安政
   二年(1855)の大地震に際し諸堂悉く大破して、古記録・宝物等散乱紛失したが、文
   久二年(1862)25世日深に至って再建した。近世になって寺運衰廃し、31世日賢
   以来、復興に努め、本堂・庫裡・七面堂・三光堂・日朝堂等みな修繕して、面目を一新し
   た。本堂裏の墓地に延享五年(1748)建立の開山碑があるが、碑面の磨滅が甚だしい
   ので、近年(昭和55年頃)傍らに新しい碑に改めた。


 とある。文中「
慶長十九年(1614)三代将軍義光」とあるのは、「寛永十九年(1642)三
代将軍家光」の間違いと思われる。慶長十九年なら将軍はまだ家康の時代だ。「新編武蔵風土記稿」
に曰く。

   蓮昌寺
   法華宗下総国葛飾郡真間村弘法寺末、法光山と号す。開山日念、建武元年正月二十七日寂
   す。本尊三寶を安ず。寺僧の傳に古は道昌寺と号し草庵に等き寺にて本寺弘法寺の持なり
   しに、大猷院殿此邊御放鷹の時渡らせられ、堂前の池に蓮花の盛に開きしを上覧ありて、
   寺を蓮昌寺と改号すべき旨台命ありしより今の寺号となれりと。寛政四年此邊御遊猟の時
   始て御善所となさられしより、今も御放鷹の時の御善所となれり。
   寺宝。 日蓮筆曼荼羅一幅。文永六年己巳三月四日と落款あり。同消息四通。
   七面社。村の鎮守なり三十番神及び天神を相殿とす。
   三光天子社。稲荷社。日蓮石像、朝日の祖師と称す上尾あり。鐘楼。明和2年鋳造の鐘を掛
   く。


 板絵類
 この板絵類は、木版彩色刷画で幕末以降に奉納されたものだ。日蓮宗関係の図柄がほとんどで、蓮
昌寺を中心とする信仰を示す資料だ。
 

 



【柴又】(しばまた)1~7丁目                   昭和42年9月1日
 柴又村。明治11年「郡区町村編制法」により南葛飾郡所属。同22年金町村大字柴又、昭和4
年金町大字柴又。同7年葛飾区柴又町となり、同42年新住居表示を実施、柴又町に新宿町4丁目
・金町1~2丁目の各一部をあわせた町域を現行の「柴又」とした。

 柴又の由来
 古く正倉院文書に「嶋俣里」と見え、御厨文書にも見える。江戸川と中川に挟まれた湿地で、『小
田原所領役帳』では「柴俣」と書き、その後は「柴亦・芝亦・芝又」とも書いた。現在の「柴又」
に落ち着くのは17世紀初頭、元禄のころとも享保十八年(1733)の検地以後とも言われてい
る。嶋は砂州で、この辺りが海か入江だったころ幾つかの島状の陸地があり、「嶋俣」はその状態
を呼んだのではと考えられている。「俣」には分かれるの意があるからだ。現在でも土地の人の中
には「しままた」と発音する人はいる。3丁目の柴又八幡神社に竪穴式住居跡があり埴輪などが出
土した。千年以上前に人が関わっていた土地ということだ。
 また「しばまた」をインドネシア語で解すると「チパ・マタ」=「湿地が乾燥した場所」という
ことになるらしい。これも地形的にあっている。何故インドネシアかというと、現在の東南アジア
の地形は大陥没によってできたもので、その陥没が起きた時に、ここから黒潮に乗って日本にやっ
てきたのが日本人の先祖の一部と考えられるからだ。例えば「のるかそるか」は、ノル=天国、ソ
ル=地獄ということで解釈されるという。
 柴又といえば「矢切の渡し」。これは寛永八年(1631)に許可されてから今日までずーっと
受け継がれている。厳密にいうと「下矢切れの渡し」だよ。対岸が後北条vs里見の「国府台合戦」
の古戦場で里見方の矢が尽きたことで起きた地名だ。また矢切は名作『野菊の墓』の地でもある。
近年ちあきなおみや細川たかしの歌謡曲でも人口に膾炙した。そして柴又といえば切っても切れな
いのが「フーテンの寅」こと「車寅次郎」。渥美清が演じたところの「寅さん」の生誕の地で、柴又
といえば寅さん、寅さんといえば「帝釈天」。それで柴又の地名は一気に全国区の地名になっちゃっ
た。

   帝釈天の鰻は母と食うがよし(本山生子)
   初詣帝釈様のよもぎもち(山口青邨)
   柴又へかぶりはじめの毛糸帽(北村仁子)


 だから柴又は下総中山法華経末寺の題経寺だ!
  


■柴又地区センター・柴又区民サービスコーナー事務所

 
柴又1丁目38番2号にある区の施設。


■矢付公園

 
柴又1丁目38番8号にある区立公園。


■山王院

 
柴又2丁目1番31号にある日蓮宗の布教所。屋根だけ寺っぽい普通の民家。
 


■北野児童遊園

 
柴又2丁目4番6号にある区立公園。


■胡録天神社

 柴又2丁目5番36号ある。
「ころくてん・じんじゃ」ではなく、「ころく・てんじんしゃ」と読
む。胡録社に北野社が居候しているので「胡録天神」と呼ばれる訳さ。祭神は惶根尊(かしこねのみ
こと)。例大祭は9月10日。境内末社は北野・住吉稲荷2社。『新編武蔵風土記稿』
新宿村の条に
「第六天社」として掲げ、宝蓮寺の持とし、『東京府志料』新宿村の条には、

   古録天神社 モト第六天社ト云、一新後、改号ス。祭神惶根命 社地百九坪

 とある。北野神社は付近の字北野から遷座したもの。社務所は南東隅にある。神明鳥居は花崗岩製
で、「昭和六年十月 氏子中」とある。

 北野神社
 菅原道真を祀る。桟瓦葺きの小祠。境内の北西隅に神輿庫・物置と並んで建つ。
 


■大師堂(南葛八十八ヶ所霊場第五十八番札所)

 
柴又2丁目5番39号にある小祠。


■柴又二丁目公園

 
柴又2丁目14番8号にある区立公園。


■北野小学校

 
柴又3丁目10番1号にある区立校。
昭和28年6月葛飾飾区新宿町に「東京都葛飾区住吉小学校
北野分校」として創立。同29年「東京都葛飾区立北野小学校」として独立開校。同30年第3次増
築校舎落成(2教室・倉庫拡張・石炭置場)。同32年第4次増築校舎落成(2普通教室・特別教室
2・保健室1・会議室1)。同33年校歌制定。
 校歌不明。
 同36年第5次増築校舎落成(校長室・理科室・職員室・図書室)。給食室完成。同39年屋内運
動場完成。創立10周年記念式典。同44年校地拡張(区内第4位の校地面積)。プール(25×1
0)完成。同
45年創立15周年記念式典。
46年第1次鉄筋コンクリート造り校舎落成(9普通
教室)。同49年第2期鉄筋コンクリート造り校舎落成(11普通教室・理科室・家庭科室・管理室
・給食室)昭和50年第3期鉄筋コンクリート造り校舎落成(5普通教室・特別教室2)。同56年
第4期鉄筋コンクリート造り校舎落成(集会室・図書室・視聴覚室)。同58年創立30周年記念式
典。同63年体育館完成。
 平成2年防球ネット取付、プレハブ倉庫設置。同3年飼育小屋完成。同4年緑化・生垣完成。アル
ミ製門扉取付。同5年コンピュータルーム開設。創立40周年記念式典。同8年機械警備開始。同9
年校庭改修・スプリンクラー設置。同13年コンピュータ新機種導入 区インターネットモデル校。
同15年開校50周年記念式典。同16年教育相談室設置。図書室冷房化。同17年普通教室冷房化。
同18年校舎耐震補強。同22年電子黒板・地デジ対応42型テレビ(21台)設置。同22年太陽
光発電システム設置。同23年学校教育総合システム導入。
 


松雪山信立寺
 
柴又3丁目13番5号にある本門仏立宗の寺。昭和10年葛飾区立石1丁目に創立。同5年、現在
地に移り、同48年焼失し、その後新築して面目を一新した。西洋の学校のような建物。屋根が寺風
といえばいえなくもない。落ち着いた雰囲気はある。信徒会館も太子堂もある。
 


■金町公園

 
柴又3丁目24番1号にある区立公園。プールがある。

 
熊のオブジェ
 園内南にある熊が鮭を咥えている。
 


■柴又八幡神社児童遊園

 
柴又3丁目30番23号にある区立公園。


区内最古の神社 
柴又八幡神社
 柴又3丁目30番24号にある。祭神は誉田別命と建御名方命。柴又村の鎮守。開創が真勝院と同
じ頃の9世紀初頭と推定される区内でも最も古い神社で、柴又一帯の氏神だった。元々この敷地は低
地帯には珍しい古代遺跡があった場所で、直径20~30mの円墳があったそうだ。残念なことに土
盛は時の流れと共に次第に崩されていき、石組遺構が露出していることから昭和40年に調査を行っ
たところ、古墳の石室、周溝、埴輪などが確認された。現在では埋葬者は本殿の背後に丁寧に葬られ
ている。
 この神社は小さい割には文化財を多く有している。疫病除けに行われた神獅子は区指定無形民俗文
化財に、柴又用水の碑は区登録有形文化財に、柴又歓農事績碑は区指定無形民俗文化財にそれぞれ指
定されている。
 例大祭は10月10日。境内末社は諏訪・稲荷・八幡・水神の4社。
 社殿は寛永十一年(1633)・宝暦三年(1753)・天明七年(1787)・寛政十一年(1
799)・安政五年(1856)・大正15年・昭和2年・同7年の再建または修築を経て、昭和4
3年5月現在の鉄筋コンクリート造りの社殿が造営された。拝殿は間口3間×奥行2間、前面および
両側面に勾欄付き濡縁を廻らし、前面に向唐破風付一間向拝を設け、屋根は入母屋造り、千鳥破風付
銅板葺き。幣殿は間口1間×奥行2間、手前1間は左右に張り出して祭具庫に充て、屋根は両下造り、
銅板葺き。本殿は間口9尺×奥行6尺、屋根は切妻造り、銅板葺き、千木・葛緒木を上げる。階下に
古墳石室が復元されている。幣殿・本殿の周囲には瑞垣がある。明神鳥居は花崗岩製で明治7年9月
の再建。水盤舎は参道の左側、鳥居の付近にある。鉄筋コンクリート造りの四本柱、銅板葺き。社務
所は参道右、神輿庫は左あって相対している。

 
諏訪神社
 
社殿に向かって左奥にある。二間社流造り、銅板葺き。前に狛犬1対がある。

 古墳「島俣塚」
 
社殿下ある。この古墳の築造年代は6世紀後半とされ、横穴式石室と推定されている。学術調査で
は、列を為した「円筒埴輪」や「須恵器」が発見されている他、出土遺物の「鉄刀」や「棟札」など
多くの文化財を有している。朱塊・人骨なども発見されているので正倉院文書「養老五年下総国葛餝
郡大嶋郷戸籍」に見える嶋俣里の里正孔王部小刀良(あなほべのことら)の墳墓ではないかと思惟す
る学者もいる。いずれにしても古墳時代に集落があったことはロマンチックだ。遺跡は社務所を通せ
ば見学できる。島俣塚とその石碑がある。

   
島俣塚


   区・史跡
   
柴又八幡神社の古墳石室        所 在 地 葛飾区柴又3丁目30番地
                         指定年月日 昭和51年3月5日
   八幡神社の社殿の床下昔から古代の遺跡と思われる古墳および石室が露呈している。昭和
   40年社殿改築の際、本殿の床下に、石室を原形のまま復元し、ハニワ、円筒、直刀、須
   恵器など多数の出土品をケースに収め、一般に参観できるようになっている。
   この古墳は6世紀後半(古墳時代後期)の墳墓と推定され、正倉院文書「養老五年(72
   1)下総国葛飾郡大嶋郷戸籍」中に見える島俣里の遺地であり、里正、孔王部小刀良一族
   の墳墓といわれている。
   東京都北部低地帯現存する古代遺跡としてきわめて重要な文化財である。
   昭和51年3月15日                   東京都葛飾区教育委員会


   区指定史跡
   
柴又八幡神社の古墳石室        所 在 地 葛飾区柴又3丁目30番地
                         指定年月日 昭和51年3月5日
   八幡神社の社殿裏手に古墳の石組らしきものが露呈していたことから、いつのころからか
   古墳ではないかといわれていました。
   昭和40年から何度も測量を行った結果、今の社殿を中心として直径20mから30mの
   規模を有する円墳であることがわかり、社殿裏手の石組は、遺体を安置する石室であるこ
   とが判明しました。古墳の周りには溝が掘られ、円筒埴輪や人物や馬などの形象埴輪、め
   ぐらされていたことがわかりました。出土した遺物、埴輪のほか直刀・馬具・鉄鏃・須恵
   器などがあり、出土遺物から古墳時代後期(6世紀後半)に構築されたものと考えられま
   す。平成14年この古墳の周りにめぐらされていた溝から、「寅さん埴輪」が出土しまし
   た。
   東京低地では石室を伴う古墳は本例のみで、この地域の古墳文化を研究するうえで貴重な
   考古学資料です。                        葛飾区教育委員会


 柴又村勧農事績碑
 社務所前にある。高さ1.5m、幅52cm の安山岩の角柱だが、建立の由緒、度重なる江戸川の
氾濫や天明六年(1786)の水害に続く凶作で疲弊のどん底にあった柴又村を、名主以下村民一丸
となって質素倹約・農作業に打ち込み、破産寸前の村を復興に導いたことで、寛政十年(1798)
九月将軍から異例の表彰と功労金を受けたことを後世に伝えるため、文政九年(1826)地元民に
よって建てられた記念碑だ。当時の褒状や記録は、今も同地の鈴木家に残っている。

   葛飾区指定有形民俗文化財
   柴又勧農事績碑            所 在 地  柴又3丁目30番地
                         登録年月日  昭和57年2月13日登録
   天明年間(1781~1788)あいつぐ飢饉や洪水、天災によって当時の農民の生活は
   窮状を極め、各地に百姓一揆がおこりました。ここ柴又村でも貧しさのため村を捨てるも
   のも多く、田畑は荒れてきました。名主の七郎右衛門は他の村役人と図り柴又村の人々に
   質素倹約、勧農を守らせ、荒れ地改良を進めるなど村の復興に努めました。これに対して
   代官小野田三郎右衛門は、寛政十年(1798)名主の七郎右衛門に褒状と銀10枚を与
   え、他の村役人や村人へもそれぞれ褒米を与えました。このことがあってから30年近くたっ
   た文政九年(1826)村役の子孫、村人達は先祖の努力と功績をたたえ後の世の教訓と
   するために先祖の事績を記した柴又勧農事績碑(柴股邑碑記)を建てました。この碑は江
   戸時代後期の葛飾区域の実情、寛政改革期の幕府の農政方針などを知ることのできる貴重
   な資料です。                       東京都葛飾区教育委員会

 獅子頭3体
 社宝 古色豊かなもので、古くから疫病除けの民間信仰と結び、門外不出として秘蔵されている。
毎年10月の例大祭で、この獅子頭をつけた獅子舞神事が行われる。関東でも極めて古い形式の舞で
「花がかり」から「太刀がかり」まで9庭に分けて舞ったが今は「橋がかり」は伝承されてない。と
にかく柴又の獅子舞は、大正13年11月久邇宮殿下の台覧に供したことがあり、葛飾区の郷土芸能
の1つとして、区の無形文化財にしていされている。昔からこの獅子の羽毛にふれると疫病から逃れ
るという慣わしがあって、区の文化財の指定を受けている。

 
柴又用水の碑
 境内にある。

   葛飾区登録有形文化財
   柴又用水の碑                所 在 地
 柴又3丁目30番地
                           指定年月日 平成2年3月19登録
   根府川遺志の不整形板石碑で、明治6年銘の訓導(旧制小学校教員)橘田春湖による名文
   が刻まれています。
   銘文によると柴又は土地がやや高く、昔から水の利用に苦労が絶えませんでしたが、天保
   六年(1835)に鈴木幸七の手によって用水路が引かれ、窮状が克服されたことがわか
   ります。さらにこの事業の結果、堤防も堅固にされ、洪水も防がれました。
   この碑は鈴木幸七にたいする顕彰碑であると同時に、明治初年における当地域の農工水利
   開発の由来を示す点でも注目すべき記念碑です。       東京都葛飾区教育委員会


 
鳳凰の松
 鳥居と手水社の近くにある松。石碑がある。

   
鳳凰の松

 
忠魂碑
 境内にある。


 
小祠・石仏群
 境内にある。


柴又上智大生殺人放火事件
 柴又3丁目28番1号の小林賢二宅で起きた未解決事件。平成8年9月9日(月)16時半頃、火災
が発生。約2時間後に消し止められ、焼け跡から上智大学4年生の順子(21歳)の遺体が発見され
た。遺体は口と両手を粘着テープで、両足をパンティーストッキングで縛られており、首を鋭利な刃
物で刺されていたことから警察は殺人事件と断定。現場の状況や交友関係などから、顔見知りの犯行
と思われたが、現在もも犯人逮捕に至っていない。事件から10年経った同18年9月、両足の縛り
方が「からげ結び」という造園業(造園業では「からげ結び」を「かがり結び」とも呼ばれる)や和
服の着付けなどで使われる特殊な方法だったこと、現場に残されたマッチ箱の残留物から家族以外の
DNAが発見されたことが公開された。
 この日は朝から雨が降ったりやんだりしていたが、昼過ぎから強く降り出し始め、15時過ぎには
さらに激しくなっていた。父親は福島に出張中、姉も仕事でおらず、家には母親と被害者順子の2人
きりだった。15時50分少し前に順子がトイレに行くために自室から一階に降りてきた。仕事に出
かける準備をしている母親に「こんなに雨が降っていても自転車ででかけるの?」と声をかける。こ
の会話が最後の会話になった。

  概要
  15:50-母親が仕事のために家を出る、この時玄関に鍵はかけなかった。
  16:15-近所の通行人によると火は出ていなかった。
  16:35-出火。
  16:39-隣家から119番通報
  18:00内部を全焼して漸く鎮火。消防隊員が2階で順子を発見、直ちに病院に搬送され死
        亡が確認された。
  
概況
   1.被害者は2階の両親の寝室で父親の布団の上で横向きに寝かされ、夏用の掛け布団
     を頭からかぶせられていた。布団の左右の端は体の下に挟み込まれていた。
   2.被害者は首を右側に集中して6ヶ所刺されて出血多量で死んでいた。
   3.口には粘着テープが貼られていた。
   4.両腕も粘着テープで縛られていた。かなり抵抗したとみられる傷が手に数か所あり、
     その上から粘着テープが巻かれていたので両手は殺害後に縛られたと見られている。
   5.両足はストッキングでからげ結びに結ばれていた。からげ結びは造園、足場組み立
     て、和服着付け、舞台衣装、古紙回収、電気工事、土木関係などの業種で用いる。
   6.着衣の乱れはなかった。
   7.気管にすすが付いていなかったことから殺害後に放火したとみられる。
   8.仏壇のマッチで1階東側の6畳和室の押入れに放火されていた。
   9.1階のパソコンにも火が着けられていた。
   10.父親が普段使用しているスリッパが2階に揃えて残されていた。

 凶器は小型ナイフのような鋭利な刃物で、刃渡り約8cm、刃幅約3cmとみられるが見つかって
いない。平成21年1月犯人が持ち込んで使用した粘着テープに3種類の犬の毛が付着していたこと
が判明した。被害者宅では一度も犬を飼ったことがなく、捜査本部は犯人が複数の犬に囲まれる生活
をしていた可能性が高いとみている。2階にある仏壇の近くにあったマッチ箱が1階玄関付近に落ち
ていたが、そこからA型の血液が採取されている。被害者も含め家族にA型の人間はいない。マッチ
箱は犯人が火を付ける際、使用したとみられる。粘着テープが持ち込まれていたことから計画性がう
かがえるが、人目に付く時間帯の犯行などから様々な説が語られた。
 父親のスリッパが2階にあったことから、知人を家に招き入れた可能性がある。犯行が人目につき
やすい夕方に短時間で行われ、遺体上半身に頭から夏用の薄い掛け布団が掛かけられていたことから
顔見知り説が強く主張された。
 留学出発2日前に起きた犯行からストーカーの犯行が考えられるが、暴行された形跡はない。事件
発生約10日前の8月末の午前0時頃、被害者は送別会からの帰宅途中、男に後を付けられたため駅
まで戻っている。引き出しが荒らされ1万円札が無くなっていたが、洋服ダンス内の預金通帳、留学
のためのリュックサックにあったトラベラーズチェックや現金など13、4万円は手つかずだった。
 マスコミにも取り上げられ、犯人占いなどがテレビ番組で企画されたが、現在に至るも犯人像さえ
浮かんでいない。被害者が清純な性格だったため、男関係などの問題はなく、それが却って犯人像を
浮かび上がらせない皮肉な結果となっており、犯行現場は空地のまま残されている。不審者情報は複
数あったが、犯人と結びつく不審者は見つからないでいる。
 平成22年4月殺人の公訴時効が廃止されたので犯人は逃げ切れないこととなったが・・・

 
順子地蔵
 その後、自宅跡地は、平成22年10月17日地元の消防団に無償提供し、格納庫として利用され
ている。その傍らには同年11月19日事件解決への願いを込めた「順子地蔵」が建てられた。地蔵
の本体は高さ約55センチ。父親賢二(64歳)が花を供え、順子の冥福を祈って手を合わせた。事
件の風化を防ぐなどの願いを込めて建立したといい、賢二は「以前は事件を思い出してしまい、あま
り足を運べなかったが、これからは順子の近くに何度も来られると思う」と話した。事件発生からお
よそ20年近く経った今も犯人は捕まってはいない。生きていればもう40歳だ。  
 


弘誓山観音院良観寺
 柴又3丁目33番にある新義真言宗豊山派の寺。創建年代は不詳だが、室町時代末期から江戸時代
初期にかけての間に念仏堂として建立されていたと考えられる。明暦元年(1655)の棟札に両観
寺とあるによれば、その頃一寺となったのだろう。その棟札には念仏講中の人々の名が多数記されて
いる。念仏堂の創建は明らかでないが、昭和40年本尊像修理の時、像内から元和九年(1623)
八月の木札と記録一通が発見され、また当寺には永正六年(1509)五月銘の板碑を所蔵している
から、念仏堂は室町時代末期には既に存在したと思われる。さらに寛政七年(1795)本堂再建の
棟札には、了観寺とあるから、良観寺と改ったのはその後だろう。
 本尊は聖観世音菩薩立像。江戸時代には、「尻手の観音」として知られ、毎年四月十八日の縁日に
は、遠近からの参詣者で賑わったという。元々現在地より東方にあったが、昭和12年関東大震災に
より焼失し、間もなく現在地に本堂以下を再建して現在に至っている。山門は立派で、太子堂、信徒
会館もある。残念ながら鐘楼はない。本堂前に願掛け布袋の大石像が、またペットの永代供養も行っ
ており、「やすらぎの碑」がある。

 
良観大師堂(南葛八十八ヶ所霊場第五十二番札所)
 山門を潜った左にある小堂。

 
やすらぎの碑
 山門の右、墓地内にある。赤い柱の建物で、屋上に聖観音の立像が・・・

 
布袋像(柴又七福神)
 本堂前左に立っている。

   柴又七福神
   宝袋 良観寺
   当山の宝袋尊は、江戸時代初期に商人が都からの帰りに、山中で日が暮れ、民家の宿を借
   り一夜を明かしたが、民家と思ったのは大木のうろの中で、驚いてうろの中を見渡すと、
   布袋尊がおられた。尊像を店に持ち帰りお祀りしたところ、商いは大いに繁盛した。この
   ご利益を大勢の人々のお役に立てたいと発願し、宝袋尊と称して当良観寺に奉納せらるに
   至った。                             葛  飾  区
                                    葛飾区観光協会


   


■柴又七福神
       宝袋尊 弘誓山良観寺 柴又3丁目33番13号 1/1~1/7頃
       寿老人 金亀山観蔵寺 高砂5丁目 5番 2号 1/1~1/31
       恵比寿 薬王山医王寺 柴又5丁目13番 6号 1/1~1/7
       大黒天 大黒山宝生院 柴又5丁目 9番18号 通年
       福禄寿 聖閣山万福寺 柴又6丁目17番20号 通年
       弁財天 石照山真照院 柴又7丁目 5番28号 1/1~1/7
       毘沙門 経栄山題経寺 柴又7丁目10番 3号 1/1~1/15

 高砂の小川様から以下のメール(要旨)があったので上記の通り訂正しました。
   「寿老人 金亀山観蔵寺」だけは柴又ではなく「高砂5丁目」になります。
   又、布袋は「布袋尊」が一般的ですが、此処は「宝袋尊」と書くようです。
   大黒天 宝生院 東京都葛飾区柴又5-9-18
   弁財天 真勝院 東京都葛飾区柴又7-5-28 となっています。
   余計な事ですが、柴又七福神は昭和7年の創始、昭和55年に福禄寿は高砂7丁目・崇
   福寺より柴又・万福寺に変わった(参考:江戸・東京札所事典より)。


■桜道中学校

 
柴又4丁目3番1号にある区立校。昭和22年高砂小学校内に「東京都葛飾区立第八中学校」とし
て開校。同24年現在地に新校舎10教室落成し移転。9月6教室増築。同25年「東京都葛飾区立
桜道中学校」と改称。同26年4教室増築。同30年4教室増築。同32年8教室増築。同34年
育館兼講堂完成。同35年第1期鉄筋コンクリート造り校舎8教室落成。同36年第2期鉄筋コンク
リート造り校舎落成。同41年プール完成。同42年鉄筋コンクリート平屋造り給食室完成。同47
年第3期鉄筋コンクリート造り校舎6特別教室落成。同50年第4期南側鉄筋コンクリート造り校舎
7普通教室落成。同52年第5期南側鉄筋コンクリート造り3階建て校舎10普通教室落成。創立3
0周年記念式典・植樹。同55年体育館改築。同59年管理棟屋上鉄柵改修、玄関校章取付。同60
万年塀を生垣に改造。同62年創立40周年記念式典。校旗樹立。
 平成元年正門改修。同2年給食調理室改築。同4年コンピュータルーム開設。同7年校舎窓枠サッ
シ化。屋上防水。同8年屋上アルミ柵取替え。同9年体育館屋上防水。創立50周年記念式典・記念
碑建立。同13年教育相談室開室。校庭改修。同16年普通教室エアコン設置。同19年特別教室エ
アコン設置。創立60周年記念式典。同22年体育館床改修。

 校歌「
都の東」 作詞・杉江健次 補作・桜道中学校  作曲・三界実義
  1.都の東 葛飾の
    若草萌ゆる学舎に
    微笑み交わし今日もまた
    共に学ばん吾が友よ
    その名も床し桜道 おお桜道
  2.薄雲引ける碧空に
    仄かに浮かぶ富士筑波
    気高き姿 身にしめて
    共に励まん吾が友よ
    その名も床し桜道 おお桜道
  3.伸び行く若木、咲く蕾
    希望の陽光に映え渡る
    理想を夢に描きつつ
    共に進まん吾が友よ
    その名も床し桜道 おお桜道
 


■桜道児童遊園

 
柴又4丁目5番8号にある区立公園。


■おりつ地蔵

 柴又4丁目8番10号先、柴又駅前の広場を抜け帝釈天へ向かう参道と逆の方向の右側にある子育
て地蔵。有志が建てた説明板がある。文章に慣れない素朴さが良い。

   おりつ地蔵尊の由来
   昭和七年当町で、肉親のために尊き生命を絶たれたとゆう悲惨事があった。其れは或る貧
   困の家庭に五人の子供があり、その三女律子を他家へ養女として出したものの五才の時故
   あって実家に戻されたが、何故か両親は何の咎もない律子を虐待し、果ては実父がなぐり
   殺して、その死体を床下に埋めたが、約一年余の後に父親の胸に頑是ない少女の浄き魂が
   よみがえり、良心の呵責に堪えかねて、亀有警察署に自首した。同じ人の子と生まれなが
   ら肉身の慈愛にも恵まれず、反って憎しみの的となり責め苦の果て、はかなく世を去った
   律子のを隣り近所の人々の同情は 世の中の大きな声となり、涙と共に涌きでて吾子の無
   事を祈る人々に御利益が授けられた。これが現在のおりつ地蔵尊であります。   合掌
   有志一同                        土地所有者川甚 雨宮一輝

 ※以前のものは、「雨宮清」だった。


■柴又駅

 柴又4丁目8番14号にある京成電鉄の停車場。大正元年11月3日最初の開業区間である押上~
柴又・江戸川間開業と同時にできた駅。その翌年の同2年10月2日には金町まで延伸している。京
成金町線ができる以前金町と柴又の間には「帝釈人車軌道」という人力鉄道があった。鉄道の開業と
いうものは神社仏閣への参詣を容易とするために敷かれたのだ。東海道線も川崎大師の、成田線は成
田不動の、宇都宮線は日光東照宮の、それぞれ参詣のために敷設されたのが最初だ。
 

 
フーテンの寅さん銅像
 
平成11年以来駅前広場に帝釈天の参道方向を振り返った旅立ちの姿で立っている。望郷の念を造
詣化したというが、追いすがる妹さくらを振り切るようにリアルな等身大の立像でもある。三周忌に
有志によって建てられた。

   寅さんは損ばかりしながら生きている
   江戸っ子とはそういうものだと
   別に後悔もしていない
   人一倍他人には親切で家族思いで
   金儲けなぞは爪の垢ほども考えたことがない
   そんな無欲で気持ちのいい男なのに
   なぜかみんなに馬鹿にされる
   もう二度と故郷になんか帰るものかと
   哀しみをこらえて柴又の駅を旅立つことを
   いったい何十辺くり返したことだろう
   でも、故郷は恋しい
   変わることのない愛情で自分を守ってくれる
   妹のさくらが可哀想でならない
      ごめんよさくら、いつかはきっと偉い
   兄貴になるからな   
   車寅次郎はそう心に念じつつ
   故郷柴又の町をふり返るのである

          一九九九年八月  山田洋次

 
寅さんの妹さくらの銅像
 平成29年3月25日完成記念式典が行われた。平成11年に設置され、柴又のシンボルとして親
しまれる“フーテンの寅像”が見つめる先に置かれた「見送るさくら」像の式典には、山田洋次監督
(85)と劇中でさくらを演じた倍賞千恵子(75)も参加し、「お兄ちゃん、今日からもうさびし
くないね」と寅さんに声を掛けた。ちょっとした秘密、像の左のサンダルに「さくら」、右のサンダ
ルに「ちえこ」と制作中に刻んだサインがある。
 


■柴又四丁目児童遊園

 
柴又4丁目14番6号にある区立公園。
 


■柴又小学校

 
柴又4丁目30番1号にある区立校。

 校歌「古い歴史と」 作詞・本間銘生  作曲・大場勇之助
  1.古い歴史と新しい
    文化はなさく柴又の
    空は明るい学び舎の
    窓も希望の陽にうらら
  2.強く正しく伸びていく
    笑顔に集う柴又の
    風も輝く学び舎の
    庭に平和の歌ほがら
  3.霞む桜の江戸川に
    御寺懐かし柴又の
    町と栄え行く学び舎の
    明日へ勇んだ眉きよら
 


■新柴又駅

 
柴又5丁目7番1号にある北総鉄道の停車場。平成3年の北総線京成高砂~新鎌ケ谷間開業時に設
けられた。平成22年7月17日には京成成田空港線(成田スカイアクセス)の駅としても扱われる
ことになったが、駅の管理は従来通り北総鉄道が受け持ちスカイアクセスの列車は一切停車しない。
 ホームは高架相対式2面2線構造で3階にある。ホームと改札階を結ぶエレベーターは未設置。
 改札口は1ヶ所のみで2階にある。出口は地上へ下りる出口3ヶ所と、歩道橋に直結する出口の計
4ヶ所がある。地上へ下りるエレベーターも未設置。
 駅は柴又地区の南部にあり、柴又帝釈天や寅さん記念館といった観光拠点からは遠い。京成高砂駅
から当駅にやってくるとそれだけで190円の片道運賃がかかってしまうため、柴又へ行く場合は京
成金町線の柴又駅を使ったほうがよい。駅の1階にはスーパーマーケットが入居している。


■大黒山宝生院

 柴又5丁目9番18号にある新義真言宗豊山派の寺。寛永元年(1624)常陸国大聖寺末宝性院
として京橋付近に創建。下谷谷中を経て、明暦年間に池之端茅町へ移転したという。関東大震災で罹
災し、昭和2年現在地に移転してきた。寛永の「武州豊島郡江戸庄図」の、八丁堀の「ほうせふ院」
が、その旧地か。
「御府内備考」に曰く。

   大塚護持院(護国寺)末 下谷芽町二丁目
   神瑞山宝生院 境内古跡地百二十九坪六合二勺内門前町屋。当院起立は、寛永元年ニ而常
   州永園村大聖寺末宝性院与申候処、宝永三年右寺末葉相離、護持院門徒ニ相成、宝永六年
   末寺ニ相願、同七年四月十一日願之通、僧録大僧正慶善法印被仰付候。其跡宝生之ニ字相
   改申候

 
出世大黒天(柴又七福神)
 大黒天は、江戸期から信仰を集めていたと伝えられ、将軍家をはじめ上下の信仰が篤かった。柴又
の七福神の一つとして、甲子の縁日には参詣者で賑わう。

   柴又七福神
   大黒天 宝生院
   米俵に乗っている大黒天は、インドの神様と大国主命の習俗。当寺に安置する大黒天は将
   軍家にも信仰が深く、大きな袋と打ち出の小槌で、多くの人々を救済する『出世財福』の
   ご利益で有名である。
   ✳頭光のある火焔、光背を負った不動明王像が透彫してある「寺宝金銅播残欠」は、葛飾
   区文化財に指定されている。                    葛  飾  区
                                    葛飾区観光協会


■東柴又小学校

 柴又5丁目12番15号にある校区立校。昭和38年9月「東京都葛飾区立東柴又小学校」として
開校。同39年6月4日校舎落成。この日を開校記念日とする。同42年屋内運動場完成。同43年
プール完成。同44年校歌制定。

 校歌「
朝日に映える」 作詞・‐‐‐  作曲・‐‐‐
  1.朝日にはえる江戸川の
    清い流れは吾が心
    良い子は 此処に学び合う
    良い子は 此処に語り合う
    ああ東柴又 聡くあれ
  2.紫匂う筑波嶺は
    今日もみんなを呼んでいる
    元気に「おゝ」と手を取って
    世界を結ぶ輪になろう
    ああ東柴又 強くあれ
  3.富士の高嶺を仰ぎつつ
    葛飾の空羽はばたいて
    真理と愛を一筋に
    希望の吾等求め行く
    ああ東柴又 栄えあれ


 同45卒業記念品日時計除幕。同49年新校舎完成(現校舎の全容整う)。創立10周年記念式典。
同56年体育館床改修。同58年創立20周年記念式典。同59年校歌レリーフ完成。
 平成元年門扉改修。万年塀の生垣化完了。音楽室エアコン設置。校庭舗装。同5年創立30周年記
念親子講演会(「笑ってよ北極点」和泉雅子)。同8年パソコンルーム開設。同15年創立40周年
記念式典。同17年「東柴又チャレンジ広場」開始。校舎・体育館耐震補強事。防犯カメラ等増設。
同20年投的板設置。しいたけ栽培園・ランチルーム開設。体育館床改修。
 


薬王山瑠璃光院医王寺
 柴又5丁目13番6号にある新義真言宗豊山派の寺。本山は奈良県桜井市の「長谷寺」。建立は応
永十四年(1407)で、仁和寺の観見により、「下総国分寺下の薬王寺」と呼ばれたと伝わる。本
尊は薬師如来。当時流行した赤目病平癒の祈願所として建立された旨の、当山25世博道による覚え
書きがある。
 建立後間もなく、小田原の北條氏と安房の里見氏が利根川(現在の江戸川)を挟んで対峙し、天文
七年(1538)・永禄七年(1564)の2度国府台合戦に、北條方の陣屋として使用されたため
什物の大部分が失われたが、源珍(げんしん)により中興された。併し源珍没後は再び長期に亘って
無住(住職のいない空き寺)期間が多かったため、多くの資料が散逸した。寛永年間(1624~4
4)金蓮院の僧某が再興し医王寺と改めた。本尊の薬師如来像は古くから秘仏とされている。はじめ
江戸川の沿岸(川甚近くの江戸川の中)にあったが、大正4年堤防拡張のため現在地に移った。それ
までは、中州の如き地形が芝草で覆われた寺で、将に柴又と呼ぶにふさわしい景観であったそうだ。
田園地帯でもあった当地は、「武蔵風土記」「下総風土記」を繙(ひもと)くと、寺領の水田から米
を産出していた記録がある。それらの米は「柴又帝釈天」門前のあの高木屋が差配していたとか。敗
戦後、占領軍の農地解放政策によりその寺領の総てが没収され小作人に分配されてしまった。昭和
9年戦災により、本堂が焼失したが、戦後、東京の麺類組合(支部)の協賛によって復興した。
 
柴又七福神の内の福徳恵比寿天で、南葛八十八ヶ所霊場の57番札所。

   医王寺由来
   応永十四年(1407)七月七日、時の将軍足利義満公が、奇病(赤目病)が下総国一円
   に発生し住民が全滅の危機にさらされているのを聞きおよび、時の後小松天皇に悪病退散
   の祈願寺の建立を上奏し、京都仁和寺の僧観見和尚に薬師瑠璃光如来を奉持させ、柴又村
   の当地に建立したものである。
   赤目病とは、両目が最初充血し、悪化するに連れ「目脂」が出てやがて瞳が白く濁り「下
   まぶた」が垂れ下り赤くはれ上がり、最後には失明してしまう恐ろしい奇病で、原因は不
   明であったと云う。当時の目の病いに苦しむ村人達、近郷近在より参詣に訪れたと聞く。
   此の奇病にかかった村人が、昭和20年頃を最後に、以後赤目病患者は当地より消えたの
   である。
   当山では、境内より湧き出る清水(現存しない)と御符と茶目薬を室町時代より昭和中期
   まで眼病祈祷礼と共に出していたが、終戦後薬事法の定めにより今は出していない。だが
   現在でも、眼病を護る仏として参詣に人々が訪れている。
    一、開山 応承十四年(1407)七月七日。
    一、開山上人 大僧正 観見(仁和寺の僧)
    一、安置仏 本尊薬師瑠璃光如来(木造一刀彫 伝弘法大師作 三体明烏との伝えあり)
    一、前立本尊薬師如来(江戸時代明暦二年〔1656〕 大仏師 加藤匠)
    一、福徳恵比寿天(現尊像の腹仏として、天文年間の作と思われ、三寸五分の尊体が納
      められている。作者不明)
    一、地蔵観音菩薩(徳川初期の作と云われる。作者不明 平成元年京仏師 大仏師松本
      明慶師により修復)
    一、金仏不動明王勢至菩薩、文殊菩薩、普賢菩薩、阿弥陀如来、大日如来(木造金箔塗)
   仁王山門鐘楼 平成4年11月完成 木曽檜作り(大和田儀己工匠)
   仁王像 2体 京仏師 大仏師松本明慶師作


 
蕎麦地蔵
 「蕎麦寺」として知られ、本堂の傍らに建つ。この地蔵は中興聖人源珍僧都という僧侶で、源珍は
高野山に入山したが、高野山の大火にあって本堂全焼を見、その復興勧進のため薬師如来を背に全国
行脚に旅立った。四国山中で歩行困難の病(脚気)に倒れたが、村人より一体の恵比寿天像をいただ
いた。薬師如来と恵比寿天の霊感により、村人から布施として貰った蕎麦粉を携えて山中に籠り、2
1日間の修行を行い、万願の日に谷間に下りて蕎麦練りを作ろうとした時、水底を見ると金色に光る
物を発見した。蕎麦粉に砂金がついていたのだが、大いに驚いて「恵比須天にそばを奉るはかかる効
力ある故ならん」と喜び、病も癒えて再び行脚を始めた。全国を旅しながら「蕎麦を食するものは命
長く、脚気に病める者癒え、商人においては恵比須天を祀り、蕎麦を供えて礼拝すれば商売繁昌。晦
日に蕎麦を食し、かけ取りに行かば金銭意の如く集まる」と説いて回り、多くの人を救った。
 源珍は後に関東に下り、当地に無住(住職のいない寺)だったこの寺を見つけ再興した。代々の住
職はその偉業を尊び伝承し、昭和11年24世隆道により蕎麦地蔵尊として境内に安置された。彼の
「蕎麦供養恵比寿天勧進伝」により、戦前から昭和40年代にかけて、東京都麺類共同組合及び東京
都麺業連合会などの蕎麦店を中心とした組合から篤い信仰を受け、正月や地蔵縁日には、医王寺近隣
の人々のために、無料で蕎麦のふるまいが盛んに行われていた。蕎麦店が講元となる「えびす講」が
でき、護摩祈願の団体参拝で頻繁に当山を訪れた。

 
恵比寿天(柴又七福神)
 戦後、行政が「景勝地江戸川ライン」と名打って、当時江戸川堤防上に数多く植えられていた桜樹
はサイクリングコースになっていて存在しない。この風景が美しかったことから、その観光開発を図
り、この寺の恵比寿天も「江戸川ライン七福神」に組み入れられた。その後、昭和40~50年代に
かけて、映画「フーテンの寅さん」の人気が全国的となり、帝釈天周辺の観光客の増加と共に「柴又
七福神」を巡拝するコースが人気となり、現在葛飾区産業経済課はこちらを支持している。
 昭和50年代になると「えびす講」は世代交代の困難さから急激に衰退し、高度経済成長の時流に
乗って葛飾・江戸川区に流入してきた人々が、生前から墓地の永代使用権を取得するようになる。こ
の寺は蕎麦店に支えられた祈願中心の寺から、檀家寺への変貌を遂げると共に、寺の周囲は急激に市
街化が進んだ。年号が平成になると山門の直前を北総公団線が横切り、横は巨大なマンションに遮ら
れ、かつての風情溢れる情景は既にない。山門前に石柱

   葛飾名所
   七 福 神 
福徳恵比寿天

 礼拝する時には合掌して「南無福徳恵比寿天尊」とお唱えし、心の中では「恵比寿天の律儀の徳が
備わりますように」と念ずる。一般の恵比寿天と違って、鯛は左脇に抱えておらず、足下の波間から
今にも釣り上げんとする独特の姿だ。開帳期間は元旦から七草までだが、本堂正面に向かって少し右
の窓際に安置してあるため、期間外でも堂前よりガラス越しに拝むことができる。後背の葛籠に入れ
て背負うことが出来るよう小さく作られていることが災いして、残念ながらこの像は現在三代目で、
初代と二代は盗難にあって行方不明。初代と二代は、鯛を左脇に抱えている姿だった。

   柴又七福神
   恵比寿天 医王寺(開創応栄十四年[室町時代])(開祖 観賢大僧正))
   中興祖源珍僧都という御方が宗祖弘法大師の足跡を遇行中、村人より一体の恵比寿天を戴
   かれ、山中に安置し香華供物を供え、二十一日間の御修行をすると、川底より砂金を救い
   上げた。後に恵比寿天を礼拝すれば商人は金銭湯の如く集まると唱え、多くの世人に広め
   た。当山代々住職は、その偉業を尊び伝承し今日に至らしめた者である。
                                    葛  飾  区
                                    葛飾区観光協会
 


ひばりが丘児童遊園
 
柴又5丁目29番20号にある区立公園。
 


新柴又児童遊園
 
柴又5丁目30番4号にある区立公園。
 


柴又ラムネ

 柴又5丁目30番22号大越飲料商会が製造する清涼飲料水。名前はレモネードが転訛したもの。
水に砂糖やブドウ糖果糖溶液といった糖類を加え、酸味料や香料(フレーバー)を用いてライムやレ
モンの香りをつけた甘い炭酸飲料で、特定メーカーのブランド商品ではなく、一般名詞的に複数のメ
ーカーから発売されている。清涼な風味のほか、独特の形状をしたガラス瓶の清涼感も相俟って、夏
の風物詩として長く親しまれてきた。大日本帝国海軍の艦艇においては、消火設備として炭酸ガス発
生装置が設置されており、これを転用してラムネ製造器として乗組員の嗜好品として供給したことも
重なって、戦前から広く庶民に親しまれた。ラムネは、イギリスからもたらされ、独特な瓶の意匠も
この時、同時に持ち込まれたもので、明治初期に神戸旧居留地のシム商会が、日本で初めて製造と販
売を行なった。明治5年5月4日(1872年6月9日)には日本人に初めてラムネ製造の許可が下
り、のちに5月4日「ラムネの日」となった。平成7年には日本ラムネ協会が設立された。

 
ラムネ瓶
 明治5年イギリスのハイラム・コッドが特許を取得したが元になっており、コッドネックボトル
と呼ばれる。この特有の瓶とほぼセットの形で知られている商品であり、嘗ては代表的な炭酸飲料と
して広く飲まれていたが、ガス圧に抗して瓶に王冠で栓をする技術の普及や、缶飲料の登場で、シェ
アは小さくなっている。それに伴い、専用瓶のメーカーも少なくなった。発祥の地であるイギリスで
は、既にこの瓶は店頭から姿を消している。
 瓶には、上から5分の2ほどの位置にくびれが設けられており、口とくびれの間にラムネ玉と呼ば
れるガラス球が封入されている。この瓶に飲料を充填し、間髪を入れずに瓶をひっくり返すと、内部
の炭酸ガスの圧力でラムネ玉が口部のゴムパッキンに押し付けられ、瓶が密閉される。乃ち、炭酸飲
料の内圧だけを利用して密封する仕組みであった。金属やコルクの栓を使う普通のガラス瓶飲料と異
なり、栓まで含めてリサイクルが可能なリターナブル容器ということになる。瓶は洗浄して再使用さ
れ、状態にもよるが、平均で25回使用されるといわれる。しかし実際には子供たちがラムネ玉目当
てに瓶を破壊してしまうことも多かった。またラムネ玉があるために、煙草の吸殻を始めとした異物
が入っている場合に、洗浄が非常に困難になるという問題もある。


柴又とまり木児童遊園
 
柴又6丁目10番15号にある区立公園。

 
中之橋跡
 遊園の西北角の用水跡にコンクリートの橋名板が寝かせてある。

   なかのはし
   中 之 橋
 


いぬまばし跡碑
 柴又6丁目12番10号先の歩道端に小さな親柱様の石柱が建ててある。

   いぬまはし跡


聖閣山万福寺
 柴又6丁目17番20号にある曹洞宗の寺。昭和3年8月の創立。これはこの地から人骨数体が発
掘されたため、地元の人々の要望に基づくという。境内には110体の弘法大師石像が安置されてい
る。鉄筋コンクリート造りだが、山門も本堂も立派だ。本尊は毘沙門天立像。

 
福禄寿(柴又七福神)
 昭和7年の創祀。同55年崇福寺から移って来た。

   柴又七福神
   福禄寿 万福寺
   短身長頭で白い髪の福禄寿は、中国の神様で、南極老人星の化身。
   福は幸福、禄は高禄、寿は長寿の三徳を兼ねた神様。
   当山安置の福禄寿は、年代不明であるが、宍戸家に伝えられた家宝仏であったものを奉納
   され、以来当山に祀られている.                  葛  飾  区
                                    葛飾区観光協会
  


■出土橋跡
 柴又6丁目19番14号先歩道際に橋名板が転がしてある。古い地図を見るとなるほど、用水があ
る。

   でどはし
   出 土 橋


■観光文化センター

 柴又6丁目22番19号にある。「柴又寅さん記念館」「レンタサイクルセンター」観光客の休憩
所などの施設を含む区の観光の拠点となっている施設。休館日は毎月第4月曜日(月曜日が祝日・休
日の場合は直後の平日)と年末(正月三が日は営業)開館時間は午前9時半から午後5時まで。

 寅さん記念館
 観光センター内にある。平成9年11月16日オープン。柴又公園と一体となったユニークな建物
だ。記念館の内部とエレベーターで結ばれている公園頂上の「あずまや」からは、帝釈天や山本亭、
そして雄大な江戸川の流れを一望することができる。建物中央の吹き抜けのスペース「光庭」には、
シリーズ全作品のロケ地が一目でわかる「こころのふるさとマップ」が設置されている。映画「男は
つらいよ」の世界を9つのエリアに分けて紹介し、撮影スタジオ「くるまや」・帝釈天参道・マルチ
スクリーンコーナー・資料展示コーナー・選択映像コーナー・男はつらいよエンディングコーナーな
どがあり、来館者の人気を集めてる。
 平成27年12月19日リニューアルオープン。
 入場料:一般500円、小・中学生300円、団体・65歳以上400円。

   生れは葛飾、柴又の帝釈天の産湯で育ち、
   姓は車、名は寅次郎、人呼んでフーテンの寅と発します

 
寅さん像
 館内にある。足場に座り込んで記念館の看板の「館」の字を直している車寅次郎。

 
山田洋次ミュージアム
 B棟2階にある。『男はつらいよ』をはじめ、数多くの作品を手がけた山田洋次監督の映画作品を
紹介する。平成24年12月15日オープンした。山田洋次監督が名誉館長を務める「葛飾柴又寅さ
ん記念館」では『男はつらいよ』にフューチャーしていたが、「山田洋次ミュージアム」では、『男
はつらいよ』シリーズと平行して作られてきた「山田洋次のもう一つの世界」と呼ばれる作品群を中
心に紹介する。昭和36年のデビュー作『二階の他人』から、平成25年1月公開の最新作『東京家
族』までの作品群を時系列に7つのテーマに分け、それぞれの作品制作当時の社会背景や描かれた人
物像、監督の映画づくりへの思いを知ることができる。監督の半世紀に亙る軌跡を辿り、作品の奥深
さを知ることで、改めて山田洋次作品を楽しむことができるんじゃないの。

 
山田洋次胸像
 館内にある。
 


「男はつらいよ」
 
渥美清主演・山田洋次監督(一部作品除く)の喜劇映画シリーズ。主人公車寅次郎の名前から、作
品自体も「寅さん」と呼ばれることが多い。

 テレビドラマ
 映画第1作の前に、昭和43年10月3日から翌年3月27日までの半年間、山田洋次・森崎東脚
本のテレビドラマ「男はつらいよ」が放映されていた。提供は日本石油(新日本石油)。テレビ版の
制作と放送はフジテレビで、企画と演出は小林俊一。テレビ版のキャストは映画版とは多少異なる。
最終回で寅次郎はハブに噛まれて死んでしまうが、寅次郎を殺してしまったことについて視聴者から
テレビ局に抗議の電話が殺到し、これが映画化に繋がった。当初、松竹は映画化に反対だったが、山
田洋次の説得に折れる形で映画化された。映画は同44年6月には完成していたらしいが、一時お蔵
入りとなり8月になってから上映された。当初は「愚兄賢妹」という番組名が考えられていたが、フ
ジテレビの都合でタイトルを変更することになり、小林俊一が「男はつらいよ」と命名した(その頃
渥美清主演で制作されていたTBS系列ドラマ「泣いてたまるか」の最終回のタイトルが「男はつら
いよ」で、この時の脚本が山田洋次であったこと、北島三郎が唄ってた「意地のすじがね」の中にあっ
た「つらいもんだぜ男とは」という歌詞から思いついたとされている)。後者の経緯から「意地のす
じがね」の作詞者でもあった星野哲郎に主題歌の作詞が依頼された。渥美の死去を速報で報じた「ビッ
グトゥデイ」でタイトルバックとハブに噛まれたシーンなどが放送されたのがきっかけとなり、後日
初回と最終回が番組内で全編放送された。平成9年にはビデオ化され発売された。なおテレビ版は初
回・最終回しか現存していない。テレビで放送された当時は、VTRが2インチ規格で高価なうえ操
作も煩雑だったことや、著作権法の関係で番組の保存が著しく制約されていたことなどから、テレビ
界全体に番組保存の概念が希薄だったことが理由であると考えられるそうだ。

 テレビの配役(キャスト)は、
   車寅次郎:渥美清
   さくら(櫻):長山藍子
   車竜造(おいちゃん):森川信
   車つね(おばちゃん):杉山とく子
   雄二郎(※自称・寅の実弟。タネ違いの弟。):佐藤蛾次郎
   諏訪博士、(医師):井川比佐志

   坪内散歩(英語の先生、寅の恩師):東野英治郎
   坪内冬子(マドンナ・寅とさくらの幼馴染):佐藤オリヱ
   さくらの恋人、鎌倉ミチオ:横内正
   冬子の恋人:加藤剛
   川又登(寅の舎弟でとらやの従業員):津坂匡章(秋野太作)

 映画 
 ストーリー 渥美清が演じる主人公車寅次郎(フーテンの寅、寅さん)は、父親、車平造が芸者、
菊との間に作った子供で、実母(ミヤコ蝶々)の出奔後父親のもとに引き取られたが、16歳の時に
父親と大ゲンカをして家を飛び出したという設定。 第1作は、的屋稼業で日本全国を渡り歩く渡世
人となった寅次郎が、家出から20年後突然、腹違いの妹さくら(倍賞千恵子が兄思いの役を好演)
と叔父夫婦が住む、生まれ故郷の葛飾柴又に戻ってくるという冒頭シーンから始まる。シリーズのパ
ターンは一貫している。寅次郎は旅先や柴又で出会うマドンナ(毎回有名女優がゲスト出演)に惚れ
てしまう。マドンナも寅次郎に対して好意を抱くが、それは多くの場合恋愛感情ではなく、最後には
マドンナの恋人が現れて振られてしまう。そして落ち込んだ寅次郎が正月前、もしくは盆前(即ち正
月、盆が的屋は書き入れ時)のため再びテキ屋稼業の旅に出て行くという結末となる。朝丘ルリ子が
演じたリリーのように寅次郎に恋愛感情を持ったマドンナもいたが、この場合は、寅次郎の方が逃げ
腰になり、自ら身を引く形となった。42作目以降の41作品のマドンナは、さくらの息子満男(吉
岡秀隆)が思いを寄せる泉(後藤久美子)となり、寅次郎は満男のコーチ役に徹している。これは渥
美自身の体調を考慮して脇役に回ったためだ。レギュラーキャストは、

   車寅次郎:渥美清
   諏訪さくら:倍賞千恵子
   諏訪博:前田吟
   諏訪満男:吉岡秀隆(第27作~第48作)
   車竜造(おいちゃん):森川信(第1作~第8作)
             :村松達雄(第9作~第13作)
             :下条正巳(第14作~第48作)
   車つね(おばちゃん):三崎千恵子
   朝日印刷社長桂梅太郎:太宰久雄
   桂あけみ:美保純(第33作~第39作)
   御前様:笠智衆(第1作~第45作)
   源公:佐藤蛾次郎(第8作のみ出ず)
   及川泉:後藤久美子(第42作~第45作・48作)
   及川泉の母:夏木マリ(第42~44作・48作)
   寅次郎の母(お菊):ミヤコ蝶々
   川又登:津坂匡章(秋野太作)

 日本では大変に人気の高い作品で熱心なファンが多い。寅さんファンクラブ会員No1は元内閣総
理大臣の小渕恵三。昭和天皇も大ファンで、ビデオソフトを全巻持っておられたという。小沢征爾も
ファン。映画館で寅さん腹巻を購入したほど。変わったところでは、朝鮮民主主義人民共和国の金日
成や金正日がファンだというのが面白い。

 主題歌「男はつらいよ」 作詞・星野哲郎  作曲・山本直純  歌唱・渥美清
   わたくし、生まれも育ちも葛飾柴又です。
   帝釈天でうぶ湯を使い、
   姓は車、名は寅次郎、
   人呼んで、フーテンの寅と発します

   俺がいたんじゃ お嫁にゃ行けぬ
   わかっちゃいるんだ 妹よ
   いつかおまえの よろこぶような
   偉い兄貴に なりたくて
   奮闘努力の 甲斐も無く
   今日も涙の 今日も涙の
   日が落ちる 日が落ちる


 平成18年8月4日の北日本新聞のコラム「天地人」によると、山田洋次監督は寅さんの最期を決
めていたという。晩年は幼稚園の用務員になり、子供たちと遊んでいる内に死に、町の人が思い出の
ために地蔵を作るというものだ。最後のマドンナには黒柳徹子を考えていたらしい。源公役の佐藤蛾
次郎は全48作すべて出演してると思われてるが、実は第8作のみ出ていないのだ。交通事故にあった
ため)。初代おいちゃんの時はヒゲをはやしていない、はやしだしたのは松村達雄に変わった第9作
からである。「とらや」の屋号は、第40作から「くるまや」に変わった。実際に1~4作に使った
「とらや」があるためだろう
 


■奈良時代のトラとサクラ
 正倉院には養老五年(721)の下総国葛飾郡大嶋郷の戸籍が残っているが、その中には嶋俣里(し
ままたり)に住む370人の戸籍があり、嶋俣里は現在の葛飾柴又のことだとされる。その中に「孔
王部刀良」「孔王部小刀良」などの名前があり、柴又では「トラ」はありふれた名前という訳。探し
たら「孔王部佐久良売」(あなおおべのさくらめ)もあって、奈良時代に「トラ」と「サクラ」はい
たってこって、もしかしたら兄妹だったりして・・・
 


■渥美清
 本名田所康雄。コメディアン→俳優。昭和3年3月10日に上野車坂に生まれる。父は新聞記者、
母は教員だった。同9年上野の尋常小学校に入学。同11年一家で板橋区志村清水町に転居。それに
伴い、志村第一尋常小学校へ転入。小学生時代は所謂欠食児童だったという。さらに病弱でもあり、
小児腎臓炎、小児関節炎、膀胱カタルなどの様々な病を患っていた。そのため学校は欠席がちで、3
年次と4年次では長期病欠だった。欠席中は日がな一日ラジオに耳を傾け徳川夢声や落語を聴いて過
ごした。戦争の色濃くなる昭和15年に巣鴨中学校に入学。卒業後は工員として働きながら、一時期、
担ぎ屋やテキ屋の手伝いもしていたようで、親友の谷幹一には「かつて自分は霊岸島桝屋一家に身を
寄せていた」と語ったことがあるそうだ。この幼少期に培った知識が後の「男はつらいよ」シリーズ
の寅次郎のスタイルを産むきっかけになったんだね。その後、中央大学経済学部へ進学したが、船乗
りになるため退学。しかし母親に猛反対されたため船乗りになることを断念。知り合いの伝手(つて)
を頼って旅回りの演劇一座に入り、それで喜俳優の道を歩むことになった。

 なお、当初の芸名は「渥美悦郎」だったが、無名時代の極初期に参加した公演で、座長が観客に向
けて配役紹介を行う際に「悦郎」を「清」といい間違えたものを、語呂が良いとそのまま使用したと
いわれている。同26年浅草のストリップショウの百万弗劇場の専属コメディアンとなり、同28年
同じストリップのフランス座へ移籍した。この頃のフランス座は長門勇、東八郎、関敬六など、後に
一線で活躍するコメディアンたちが在籍し、コント作家として井上ひさしが出入りしていた。同29
年肺結核に罹り、右肺を摘出手術しサナトリウムで約2年間の療養生活を送る。このサナトリウムで
の療養体験が後の人生観に多大な影響を与えたといわれている。また復帰後直に今度は胃腸を患い、
中野の立正佼成会病院に1年近く入院。再復帰後は酒や煙草を一切やらなくなり過剰な程の摂生に努
めた。
 同31年にテレビデビュー、同33に『おトラさん大繁盛』で映画にデビュー。同34年にはスト
リップ小屋時代からの盟友である谷幹一、関敬六とスリーポケッツを結成。しかし数ヵ月後には脱退
している。同36~41年NHKで放映された『夢で会いましょう』に出演。コメディアン渥美清の
名を全国区にした。同37年公開の映画『あいつばかりが何故もてる』にて映画初主演を果たす。同
年ヤクザ(フーテン)役で出演した『おったまげ人魚物語』のロケにおいて、海に飛び込むシーンで
は右肺を摘出していたため海に飛び込めず、唯一代役を立てたシーンともいわれている。当時複数の
映画が同じ地域で撮影を行っており、この時の撮影では、映画『切腹』(仲代達矢、岩下志麻、三國
連太郎、丹波哲郎)の宿泊旅館に同宿し、多くの俳優や監督と接した。同38年の野村芳太郎監督の
映画『拝啓天皇陛下様』で、愛すべき、無垢な男を演じ俳優としての名声を確立する。昭和40公開
の『ブワナ・トシの歌』ではアフリカ各地で4ヶ月間に及ぶ長期ロケを慣行。この撮影以降、アフリ
カの魅力に取り付かれプライベート旅行で何度も訪れるようになる。この時期の主演作品としては、
同41年TBSのテレビドラマ『泣いてたまるか』や同42~43年映画『喜劇列車シリーズ』など
も有名だ。同43年フジテレビにて、テレビドラマ『男はつらいよ』の放送開始。放送期間は翌年春
までの半年間。脚本は山田洋次と森崎東が担当した。最終回では「ハブに噛まれて寅さんが死ぬ」と
いうストーリーに抗議が殺到。罪滅ぼしの意味も含めて、同44年松竹で映画を製作。これが予想に
反して大ヒットとなり、シリーズ化が決定となって製作の始まった山田洋次監督の映画『男はつらい
よ』シリーズにおいて、主演の車寅次郎(フーテンの寅)役を27年間48作に渡って演じ続けるこ
とになる。この映画のシリーズは、国民的映画として日本中の多くの人たちに親しまれた。映画のシ
リーズでは最多記録の作品としてギネスブックにも載るなどの記録を達成した。映画『男は辛いよ』
の大成功以降は「渥美清」=「寅さん」の図式が固まってしまう。当初はイメージの固定を避けるた
めに積極的に他作品に出演していたが、どの作品も映画『男は辛いよ』シリーズ程の成功は収めるこ
とが出来なかった。同54年NHKで放映されたテレビドラマ『幾山河は越えたれど~昭和のこころ
 古賀政男~』では作曲家、古賀政男の生涯を鮮烈に演じ高い評価を得るが、新たな役柄の幅を広げ
るにはいたらなかった。またこの時期、今村昌平監督が『復讐するは我にあり』の主役にオファーし
たが、「寅さんのイメージを裏切りたくない」との理由で断っている。同55年以降になると、当時
の松竹の思惑や渥美自身も他作品への出演に消極的になっていた事もあって、『男は辛いよ』シリー
ズ以外の主演は無くなっていく。その後は主演以外での参加も次第に減っていき、平成5年に公開さ
れた映画『学校』が『男はつらいよ』シリーズ以外の作品への最後の出演作品となった。後年は松竹
の看板としてかなりの無理をしての仕事であった。病気については同3年に癌が見つかったが誰にも
明かさず最終作まで病気を隠しながら撮影した。同8年8月4日肝臓癌により文京区の順天堂病院に
て死去した。「死に顔を他人に見せたくない。骨にしてから世間に知らせてほしい」という本人の希
望により密葬とし、訃報は3日後の8月9日に松竹から公表された。死後政府から渥美に国民栄誉賞
が贈られた。「男はつらいよ」シリーズを通じて人情味豊かな演技で広く国民に喜びと潤いを与えた
ことが受賞理由。俳優で国民栄誉賞が贈られるのは、同59年に死去した長谷川一夫に次いで2人目
だ。また妻は熱心なカトリック信徒で、彼自身も、亡くなる直前に病床でカトリックの洗礼を受けて
いたことも明らかになっている。
 


柴又六丁目児童遊園
 
柴又6丁目26番8号にある区立公園。
 


■柴又球技場

 柴又6丁目35番8号の河川敷にある区のサッカー施設。通称「柴又グラウンド」。
 


柴又公園
 
柴又6丁目(22・23番)から7丁目(19番)に跨る区立公園。
 


■帝釈天参道

 柴又7丁目1番に始まる。柴又駅を出て帝釈天橋を渡ると題経寺山門まで続く門前町。

 常夜灯 ◇
 渥美清が奉納したもの。

   
常夜燈 渥美清

 
参道改修記念碑 ◇
 常夜燈の後ろにある。銘文はなく、奉賛者の名前が刻んである。

   
参道改修記念

 男はつらいよの石碑(寅さんの碑) ◇
 常夜灯の隣にある。山田洋次監督の筆で、

   私生まれも育ちも
   葛飾柴又です。
   帝釈天で産湯を使い、
   姓は車、名は寅次郎、
   人呼んで
   フーテンの寅と発します


 と刻んである。以前は傍らに「ふるさとの碑」の標柱が建ててあった。今はない。

 自然石の門を入る。右手うなぎの「田中屋」、左手川魚料理の「ゑびす家」天明三年(1783)
の創業。鯉こく・うなぎ・てんぷらだ。柴又街道を越えると、右手玩具の「だるまや」、左手葛餅の
「船橋屋」。亀戸天神の船橋屋の支店かなぁ?・・・・ その向うが、映画の「とらや」のモデルと
なった「高木屋老舗」。ここも江戸時代から続く老舗。右手二軒おいて「とらや」。1作から4作ま
ではここで「とらや」の撮影が行われた。儲かって建て替えたため使われなくなっちゃった。とらや
の一軒先は、矢切の渡し最中の「代々喜」。左手は閉じた店などがあって殺風景だが、代々喜の真向
いが佃煮の「丸仁」「浅野屋煎餅」「松屋の飴総本店」、右手は仏具、古美術屋などがあって川魚料
理の「川千屋」、その斜向かいも「千屋」、右手先は草団子の「亀屋本舗」で、もう山門が直ぐそこ
だ。
 


■東京都初 国選定重要文化財景観
 柴又7丁目1番からの帝釈天参道、題経寺(柴又帝釈天)、柴又駅の一帯が、平成30年2月13
日、東京都で初めて国の重要文化的景観に選定された。重要文化的景観は、日本の原風景を開発や荒
廃から守るため、平成16年の文化財保護法改正で新設された。葛飾柴又の風景は、地元の葛飾区が
7月、文化庁に選定を申請していた。選定により開発に一定の規制がかかり、保存活用に国の補助が
受けられる。対象エリアは約130ha。柴又帝釈天と参道の門前町、周囲の旧家や寺社、江戸川河
川敷など。帝釈天は、江戸時代初期に創建され、後に庚申信仰で参拝客が増えた。境内は釈迦堂など
を改造・移築しながら新しいお堂を建立する独特の造営で整備されている。土産物店や、団子店など
が軒を連ねる門前町は、参拝客の賑わいに目をつけた農家が副業として始めた。大正時代以前の建物
も残り、伝統的な町並みが観光客を集める。周辺には、嘗ての農村の様子を伝える旧家や古刹が点在
し、帝釈天近くを流れる江戸川には「矢切の渡し」がある。都内で唯一の渡し船だ。大正15年に完
成した金町浄水場も守るべき景観の一つになった。昭和16年、同39年に建設された三角屋根とド
ーム形屋根の取水塔と共に、都市近郊のインフラ整備の歩みを伝える。
 青木克徳葛飾区長のコメントは以下の通り。

   古来より伝統的な情緒や雰囲気を継承する地域として、葛飾柴又が都内初の重要文化的景
   観に選定されました。この間、柴又で景観の保存にご尽力いただきました地元の皆さんを
   はじめ関係者の方々へ感謝申し上げます。
   柴又は、映画「男はつらいよ」の舞台にもなり、全国的な知名度を誇っています。その映
   画も終了してから20年以上が経過している現在でも、多くの観光客の方で賑わっていま
   す。重要文化的景観に選定されたことにより、柴又は、また一つ〝大きな宝物〟を授かり
   ました。下町葛飾の柴又に、日本全国、さらには日本に訪れる外国人の観光客の方々にも
   ぜひお越しいただき、その魅力を体感していただければと思います。
   この喜びと誇りを葛飾区民の皆さんと分かち合い、柴又をはじめとする下町葛飾の魅力を
   発信し続けるとともに、今後も柴又の景観の保存に努めてまいります。
   平成30年2月13日                      葛飾区長 青木克德


■三猿像 ◇

 柴又7丁目1番16号の小用水の中にある石像。


■帝釈天安置石塔

 柴又7丁目3番7号えびす屋の左隣にある。明治・大正・昭和初期、帝釈天に定期的に参拝に来て
いた浅草の歌舞伎役者たちが建てた。

   帝釋天安置

   
南無妙法蓮華経

 
参道改修記念碑
 石塔の前にある。

   鳳翔会館建設之砌
   
参道改修
     経栄山 日滋


 

 石塔の裏(横)にある石塔。詳細不明。猿像が側にある。 


■柴又のおもちゃ博物館

 柴又7丁目3番13号の帝釈天参道に面した柴又西原ビルの「ハイカラ横丁」の2階にある。柴又
はおもちゃの街であることはあまり知られていない。知ってた? 誰もが知っているおもちゃメーカ
ーが葛飾区には集中してるんだよ。おもちゃの箱に書いてあるメーカーの住所を見てみい、葛飾区と
書いてあるものが沢山あるはずだよ。葛飾区の人形製造の歴史は古く、大正時代にはセルロイド工場
が建てられ、そこで作られた製品が海外へ輸出されていた。
 昭和になると小規模なセルロイド工場が立石や四つ木地域を中心に次第に増えていった。同30年
の中頃からはセルロイド製品は生産されなくなり、ソフトビニールやプラスチック材料などが使われ
るようになった。葛飾区の玩具産業は、東京は勿論、全国最大の産地として区内工業に大きく貢献し
てきた。現在では、多くの企業が生産拠点を地方や海外へ移しているが、元来プレスやプラスチック
など他の業種と密接な関わりを持ち、区内産業を支えてきた。柴又帝釈天を訪れる方々に昭和の下町
葛飾のおもちゃ文化を伝えたいという発案にメーカーや、子供の頃から柴又の駄菓子屋、玩具店、露
店等で買い集めた膨大なコレクションを持っている漫画原作家黒沢哲哉の協力で、開館へとこぎ着け
た。
 昭和・下町のおもちゃワールドをご覧なれや。平成17年の開館。
 ※区では地場産業としてのおもちゃを青戸7丁目の「テクノプラザかつしか」内にトイランドとし
て展示しているよ。
 


柴又北児童遊園
 
柴又7丁目5番4号にある区立公園。
 


石照山真勝院真光寺
 柴又7丁目5番28号、帝釈天北側の新道に面してある真言宗の寺。大同元年(806)の開創と
いうから、平成18年で1200年ちう古刹だ。帝釈天どころの騒ぎではない。しかし開創の由来や
開山などの名前は明らかでない。天文七年(1538)、永禄七年(1564)の国府台合戦の兵火
に罹って焼け、江戸時代に入っても、享保七年1722)に焼け、宝暦十一年(1761)住持空眼
が本堂・縁側・寝所を再建したものの、文化十三年(1816)再び炎上。翌年住持実成は本堂・庫
裡・玄関を再建したが、安政二年(1885)の震災にあい、明治5年住持快秀が本堂を再建した。
現在の本堂は昭和47年の新築だ。江戸時代には付近の古社柴又八幡宮(柴又八幡神社)の別当を務
めた。、現在永仁四年(1296)の板碑を蔵す。
 立派な山門を入ってすぐ右側に、万治三年(1660)柴又村名主斉藤次郎右衛門らの造立した五
智如来石像がある。その石像は江戸時代前期の石像彫刻として保存状況もよいため、区の文化財に指
定されている。「新編武蔵風土記稿」に曰く。

   真勝院
   新義真言宗、金町村金蓮院末、石照山と号す。本尊不動を安せり。
   鐘楼、宝暦四年二月鋳造の鐘を掛く


 五智如来石像 ◇
 山門のない入口を入って右手にある。薬師如来・宝生如来・大日如来・阿弥陀如来・不空成就如来
(区のHP 『葛飾区の歴史』では薬師・観音・大日・釈迦・阿弥陀としている)の5仏の石像だ。
状態もよく江戸時代前期の石像彫刻として区の文化財に指定されている。傍らに万治三年(1660)
柴又村齋藤次郎左衛門ほか数名の名前と建立由来を記した石碑がある。他に永仁四年(1296)在
銘、阿弥陀種子の大型板碑1基がある。

   葛飾区指定有形文化財
   
五智如来石像             所 在 地 葛飾区柴又7丁目5番28号
                        指定年月日 昭和54年3月6日
   密教では大日如来の知恵を五つにわけ、これに五仏をあて五智如来といいます。真言の行
   者は、発心修行の結果、この五智を得ることができるといわれています。この五智如来石
   像は、造立碑から万治三年(1660)柴又村の名主済藤次良衛門と、相模伊勢原村の鳥
   居九良左右衛門により、逆修供養(生前自分の死後の冥福を祈って仏事を営むこと)のた
   めに建てられたものです。
   向かって右から阿閦如来・宝生如来・大日如来・阿弥陀如来・不空成就如来の順に並び、
   中央の宝冠を戴く大日如来を、真言宗は最高の仏として寺院の本尊としています。
                                   葛飾区教育委員会

 弁財天(柴又七福神)

   柴又七福神
   弁財天 真勝院
   当寺の弁財天は、金光明経に表されている八臂像の仏像で七福神中唯一の女神です。イン
   ドの経典に出てくる、河川を神格化された水の神様で、五穀豊穣の神様。さらに、河の流
   れを言葉に置きかえると詩・学問・芸能の神様でもある。
   当山の弁財天の由来・年代等は不明であるが、弁天供養に使われる六器(仏具)が保存さ
   れていることから、古くから近郷近在の人々より信仰されていたものと思われる。
                                    葛  飾  区
                                    葛飾区観光協会


■川千屋
 柴又7丁目6番16号にある鰻を中心とした川魚料理屋。創業は安永年間(1772~1781)
であるといわれている。柴又帝釈天で帝釈天の板本尊が安永七年(1778)に発見され、江戸市中
などから柴又へ参拝に来る客が増えて、そうした客をもてなすために柴又界隈の農家が副業で江戸川
で獲れる川魚料理を振る舞うようになったのが柴又界隈で川魚料理店ができた機縁といわれている。
 川千家もそうした中でできた店の一つで、天明年間(1781~1789)にはさらに参拝客が増
えて、柴又界隈では宿泊施設も兼ねた茶屋も多く出来た。
 明治33年に金町駅から柴又に鉄道(京成線ではなく人力車両)が通った頃には、それまで川沿い
にあった川千家は現在地に移転した。鰻料理、うな重、てんぷら、天重、どぜう料理。
 また、柴又を舞台にした映画などにしばしば登場した。まず、昭和30年獅子文六作「大番」で撮
影に使われ、淡島千景と加東大介が訪れた。また国民的映画シリーズ「男はつらいよ」でも帝釈天参
道の撮影の際に何度も登場し、ロケ地として協力している。第23作目では結婚式会場として登場し
ている。平成25年、山田洋次監督『東京家族」では、親子の出会いの場として同店内で撮影されて
いる。

 
最上稲荷大明神 ◇
 正面右手にある小祠。
 


■飴切り音頭の「松屋の飴総本店」
 柴又7丁目6番17号にある飴切り屋だ。

   コッコロコッコロ、コッココッコッコ、キッコキッコキッコロコッコ・・・

 軽快な包丁捌きで細く伸ばした白い飴を一口大に切っていく実演を、デパートか、縁日で見たこと
あるだろう。あの飴切りだ。明治元年深川門前仲町で松屋の飴として創業致し、その松屋3代目が、
この柴又帝釈天参道に移り住んだのは昭和9年。元々遡ること200年程前、第9代亨貞院日敬上人
の代の本堂修理の際に、古くから伝わり所在不明だった板本尊が発見され、その日が丁度60日に1
度の庚申の日と重なった。以来、帝釈天には飢餓、疫病から人々が救われたといゆう縁起深い話が多
く有り、現在の縁日庚申はその起源で参道はいつもに倍して参詣客で大いに賑わう。3代目がこの柴
又に深く魅了された所以だ。続く4代目は3代目からの「寄ってけ!買ってけ!」の包丁による巧み
なリズムの飴切り音頭を継承し、「日本の音100選」に選ばれた。現在では5代目が松屋の飴総本
店130年の歴史を継承中だ。
 セキトメ飴・きな粉飴・あんこ飴・さらし飴・みそ飴・ニッキ飴・ハッカ飴・ごま飴・べっこう飴
・抹茶飴・五色飴・梅の飴・黒飴など松屋の飴なら間違いない。
 


柴又門前とらや

 柴又7丁目7番5号にある草団子屋。元の柴又屋。


柴又帝釈天遺跡 ◇

 柴又7丁目7番10号公衆便所出口左にある石碑。

   柴又帝釈天遺跡
   この一帯は柴又帝釈天を中心に分布する古墳時代後期から奈良・平安時代の遺跡地です。
   柴又は、奈良の正倉院に伝わる日本古代史上著名な「養老五年(721)下総国葛飾郡大
   嶋郷戸籍」に記載されている嶋俣里の故地として知られています。
   最近の調査では、古代の住居跡・井戸跡や多量の土師器・須恵器などが出土しており、郷
   土「かつしか」の歴史を知る上でも、貴重な遺跡です。
   平成元年3月                          葛飾区教育委員会



■あの寅さんの「高木屋老舗」

 柴又7丁目7番20号にある団子屋。江戸時代、この辺は武州葛西領と呼ばれ一面の田畑だった。
当時農家では「よもぎ」を団子の中に搗き込んで食べていた。武家屋敷や大商家へ行儀見習いに行っ
ていた農家の娘たちは、その主人宅に唯一の贈り物として持っていったもんだ。この素朴な風習から生
まれた「草だんご」は、いつしか一般の人々にもその香味が知られるようになっていったた。この遠
い昔、既に紫又門前の高木屋では、求肥餅、瓦せんべい、塩せんべいなどを売っていたが、「草だん
ご」も売り出した。以来百年余の月日が流れてたが「よもぎ」を搗き込んだ「草だんご」は今や東京
唯一の名物として親しまれている。
 寅さん映画「男はつらいよ」の撮影の度に、休憩や衣装替えに部屋を貸したのがきっかけで「寅さ
ん」の山田一家との付き合いが始まった。劇中の「とらや」のモデルではない。
 草だんご 焼だんご 塩せんべいなどのほか、向かい合って店舗が2軒あるので、1軒では食事も
喫茶も出来る。 03-3657-3136~7
 


大師堂 ✔
 柴又7丁目7番26号とらやの裏にある小祠。


柴又帝釈天 経栄山題経寺
 柴又7丁目10番29号にある。寛永六年(1629)日忠上人の草創と伝わり、本尊は日蓮上人
自刻の帝釈天の板仏だ。この板本尊は長い間行方不明だったが、安永八年(1779)の本堂再建の
際、棟木の上にあるのが発見され、この日が庚申の日だったため、以来庚申の日を縁日に決めたとい
われている。何でご本尊をなくすねん? 商売道具やろ。「新編武蔵風土記稿」に、

   題経寺
   法華宗、下総国葛飾郡中山村法華経寺末、経栄山と号す。相傳ふ古は草庵のごとくなりし
   を、寛永六年本山法華経寺十九世禅那院日忠草創せしよりこの僧を開山とす。萬冶三年十
   月十六日寂せり。其後延宝年中本山の塔頭正善坊、後院と号す。日遼、当寺を兼帯して其
   功ありしより中興と称す。
   帝釈天像。
   縁起の略に云。当寺に日蓮彫刻せし祈祷本尊とて、寺寶にありしよし古へより云傳へしが、
   其在所を知らず。然るに安永八年本堂再建の時棟上より長二尺五寸、幅一尺五寸、厚さ五
   分程の板出たり。水をもて其煤塵を清めしに、片面は病即消滅の本尊を彫し、片面には帝
   釈天の像を刻せり。板の小口は松に似て脇の方は檜に類し、堅く重きこと尋常ならず。是
   即ち言傳へし日蓮自刻の寺寶なりとて、本山に達しかの帝釈天は庚申に因あり。又屋根裏
   より出たるも庚申の日なれば、其日を縁日とせしより次第に近郷の土人信仰なし、江戸に
   ても信ずる者多く、又其像を乞へば板の両面を摺写して与ふ。今仮に本堂に安し、社は未
   だ造立ならず。其の図次の如し・・・
   弁天社。水神社。
   祖師堂。日の出の祖師と号す。日祐の作と云。本尊三寶も仮に此所に安ず。
   鬼子母神堂。
   三十番神堂。


 とある。

   葛飾区登録有形文化財
   題経寺(柴又帝釈天)
   
諸堂内及び二天門   建築彫刻一括
                              所 在 地 柴又7丁目10番3号
                           登録年月日 平成4年2月5日
   帝釈堂、祖師堂、二天門、には多くの木彫による建築浮彫装飾が施されています。特に帝釈
   堂は設計林門作、棟梁坂田留吉の指揮のもとに作られました。内陣外側の胴羽目彫刻10
   枚は法華経説話を題材にして、加藤寅之助・金子光清・木嶋江運・石川信光・横谷光一・
   石川銀次朗・加府藤正一・山本一芳・今関光次・小林直光等の彫刻師により制作されまし
   た。大正12年9月、それぞれの彫刻師のもとに運ばれていた欅の彫刻材は、関東大震災
   によって、すべて焼失しました。その後欅材を全国に求め、発願から十数年の歳月を費や
   し、10枚の胴羽目彫刻は昭和9年に完成しました。
   彫刻の下絵は高山栄州が描いています。胴羽目の寸法はそれぞれ縦1.27m、横2.27
   m、厚さ20cm襖一枚の大きさです。
   他堂や二天門の内外に、施された彫刻も、同じように貴重なものです。
                                   葛飾区教育委員会


 さて祖師堂と釈迦堂は、文政ころの建立。傍らの銅製金剛・胎蔵両界の大日如来坐像は銘文による
と明応三年(1494)の作。もとは富士浅間神社にあったが、明治の中頃に寄贈された。また大鐘
楼堂にかかる梵鐘は「黄鐘調(おうじきちょう)」とも「黄銅の鐘」とも呼ばれ、昭和の名鐘に数え
られる。この道の権威者青木理学博士ご自慢の作品だ。


 帝釈天
 
凡語Sakura-devnam-Indra の訳。梵天と並び称される仏法守護の主神。インドの神話で強力な勇猛
神とされ、十二天の一つで東方を守る。また仞利天(とうりてん)の主、須弥山(しゅみせん)上の
喜見城に住むとされる。ヒンズー教のインドラ神が仏教に取り入れられたものという。厄除け・延寿
・商売繁盛などに霊験あらたかとあって、古くから民間信仰と結びつき、流行神の1つとして江戸を
はじめ近郷近在に知られるようになった。昔から帝釈天にお参りすると小遣銭に不自由しなくなるっ
てよ。お参りしてみろ!

 
持国天・増長天
 二天門内に安置されている持国天、増長天の2像は藤原時代の仏工定朝の作といわれている。旧は
泉州堺の妙国寺にあったものだが、明治29年の二天門建立記念にとして同寺から寄贈されたもので、
区内最古の優秀作品だ。

 
帝釈天出現由来碑
 境内にある石碑。安永八年(1779)題経寺本堂改修の時に発見された日蓮聖人自刻の帝釈天板
本尊後世に伝えるため、その由来を記して立てらもの。

   葛飾区指定有形民俗文化財
   帝釈天出現由来碑          所 在 地 葛飾区柴又7丁目10番3号
                        指定年月日  昭和57年2月13日
   この碑は、安永八年(1779)題経寺本堂改修のとき発見した日蓮聖人自刻の帝釈天坂
   本尊を後世に伝えるため、弘化二年(1845)俳人鈴木松什および檀徒石渡忠右衛門等
   が協力し、その由来を記し、併せて帝釈天の功徳を述べている。
   碑の総高1.48m、撰文は宮澤雉神遊、書は萩原翬、刻者は窪世昌である。題経寺縁起の
   整ったものは、明治29年に作成されたが、碑は、それ以前における由緒資料として貴重
   である。                            葛飾区教育委員会

 
二天門
 明治29年の建立。入母屋造瓦葺の2階建ての楼門。日光東照宮の陽明門を模したと言われ、初層
左右に平安時代の作といわれる増長天と広目天の二天像を安置している。

 
大鐘楼堂
 昭和30年完成。高さ約15m総欅造り、関東一の鐘楼といわれている。

 
帝釈堂
 二天門を入った境内正面に位置し、入母屋造瓦葺の拝殿と内殿が前後に並んで建つ。内殿に帝釈天
の板本尊を安置し、持国天と多聞天(毘沙門天)を安置する。内殿は大正4年、拝殿は昭和4年の建
立。帝釈堂内殿の外側は東・北・西の全面が装飾彫刻で覆われている。内殿は建物ごとガラスで覆わ
れ、見学者用の通路を設け、「彫刻ギャラリー」として有料公開している。

 彫刻ギャラリー
 帝釈堂内陣外側にあり、大正から昭和初期の彫刻師による「十二支」「法華経説彫刻」などが有料
で一般公開されている。「十二支」と「日蓮上人御一代記」の彫刻はまれにみる優雅なもので、緻密
な細工は見事だ。この彫刻は、昭和9年から15年の歳月を費して完成した。拝観は有料だが、現在
は堂の周囲をガラス張りにし、ギャラリーとして公開している。外から眺める分にはタダだ。回廊式
の庭園「邃渓園(すいけいえん)」も見学できる。公開は午前9時から午後4時まで、但し「邃渓園」
は年末年始はお休み。

 
祖師堂(本堂)
 釈迦堂の右側にある。本尊は大曼荼羅。入母屋造の拝殿と内殿が前後に並んで建つ。

 
釈迦堂(開山堂)
 二天門を入った右手、本堂の右手前にある。江戸末期に建立された寺内最古の建築。釈迦如来立像
と、開山日栄上人と中興の祖日敬上人の木像を安置する。 

 大客殿
 本堂続きの奥にある。

   東京都選定歴史的建造物
   
柴又帝釈天題経寺大客殿          所在地  葛飾区柴又7-10-3
                           設計者  大工棟梁  鈴木源治郎
                           建築年  昭和四年(1929)
   帝釈天題経寺は寛永年間に創建された日蓮宗の寺院で、境内には、文化・文政の頃の釈迦
   堂をはじめ、明治以降に建てられた諸堂が多く現存する。
   北側の和風庭園(邃渓園・すいけいえん)に面した大客殿は、信徒の接待所として設計さ
   れた建物で昭和4年に完成した。この年には釈迦堂拝殿の造営も行われている。
   建物は木造、平屋建、総檜造りで、屋根は入母屋、桟瓦葦き。ガラス障子の広縁を巡らし、
   縁の正面中央に張り出し部分を設けているところが外観上の特徴である。建物内部は四部
   屋からなる書院造りで、一番奥の頂経の間が上段の間である。天井には杉の一枚板を鏡板
   に用い、折上げ部分に漆を塗っている。また、床の間には近江の伊吹山山麓にあった「日
   本一」と言われる大南天の床柱がある。              東京都衛生文化局

 大南天の床柱
 
大客殿にある。樹齢1500年、牧野富太郎博士が「日本一の南天」と折り紙をつけただけあって、
これだけのものは他に見当たらないらしい。昭和31年この南天を図案化して額面6円の通常切手が
発行された。


 
大庭園(邃渓園すいけいえん
 帝釈堂の裏奥、大客殿の西側にある。昭和40年、向島の庭師永井楽山の設計により庭園を大改修
し、回廊式庭園として邃渓園と名づけて一般公開(有料)している。

 
二尊像
 境内にある覆屋の下の露仏。

 人生劇場 青春立志の碑
 境内にある石碑。

   人生劇場 青春立志の碑

   遺す言葉
   死生命ありだ。くよくよすることは一つもない。お前も父の血をうけついでいるのだから、
   心は弱く、涙にもろいかも知れぬが、人生に対する抵抗力だけは持っているだろう。あと
   は、千変万化だ。運命の神様はときどき妙な、いたずらをする。しかし、そこで、くじけ
   るな。くじけたら最後だ。堂々とゆけ。よしんば、中道にして倒れたところで、いいでは
   ないか。永生は人間にゆるされてはいない。父は地獄へゆくか極楽へゆくか知らぬが、見
   ろよ、高い山から谷底見れば瓜やなすびの花ざかりだ。父は爛々たる目を輝かして、大地
   の底から、お前の前途を見まもっていてやるぞ。
   昭和62年10月                            尾崎士郎


 水原秋桜子の句碑
 青春立志の碑の脇、建物の陰になるように経っている。秋桜子は高浜虚子に師事し、後に「馬酔木」
を主宰し、新興俳句運動の中心として活躍した俳人。代表的な句集に「葛飾」がある。この句碑には
次の句が刻まれている。

   
木々ぬらし石う可ちつひに春の海 秋桜子

 浅間山噴火川流溺死者供養碑
 墓地にある。天明三年(1783)の信州浅間山の大噴火は、関東地方一帯に甚大な被害をもたら
した。利根川上流では、山津波と降灰でできたダムが決壊し、死者2000余人を出した。特に利根
川、江戸川流域の水害は酷く、この地域にも、上流からの川流死者が数多く漂着した。この供養碑は
柴又村の人々が建てたものだ。

   南無妙法蓮華経 川流溺死之老若男女
             一切變死之魚畜等   供養塚


 左側に、

   
天明三癸卯歳七月十八日、武州葛飾郡東葛西領柴又村、経栄山題経寺九世貞享院日敬造立

 右側に施餓鬼発起人斎藤某外、数名の人名が刻まれている。

   区指定有形文化財
   
浅間山噴火川流溺死者供養碑        所 在 地 葛飾区柴又5‐8
                           指定年月日 昭和52年3月19日
   天明三年(1783)七月五日から八日にかけて信州浅間山が大爆発を起こし、関東地方
   一帯は大きな被害を受けました。利根川上流の吾妻川では山津波と降灰でできたダムが決
   壊し、下流は大洪水となり、死者2000余人、埋没戸数1800戸に及びました。特に
   利根川、江戸川流域の水害は大きく、最下流にあたる当地域も同様で上流からの川流死者
   も少なからず漂着しました。この碑は、柴又村の人々がその供養のために建てたもので、
   史上まれに見る大災害に対処した当時の様子を伝えています。
   材質 石材   大きさ(台石含まず)高さ153cm 幅23cm
                                   葛飾区教育委員会

 住所が「柴又5‐8」とあるのは、嘗て題経寺の墓地は離れたところにあり、当時の墓地の位地と
思われる。現在、当該番地には、宗教的なものは何もない。

 
草木供養之碑
 草木塔は全国で168基が知られているが、146基が山形県内にあり、山形県内では置賜地方(米
沢地方)にほぼ7割の99基がある。時代別には、江戸期から明治・大正期までの草木塔は55基で
山形県内に53基がある他は、岩手県と福島県に江戸期の草木塔が各1基あるだけだそうだ。昭和・
平成期の新しい草木塔は山形県内に93基、県外に20基で、県外では京都の三千院や、奈良の明日
香にもあるが、9基ある東京都が最多だとか。大雑把にいうと全国170基のうち150基が山形県
内で、100基が米沢地区にあり、県外には昭和・平成期の20基しかないということになる。
 都内にある他の7基は、
 1.世田谷区桜上水2‐24‐6  密蔵院(都内最古)
 2.世田谷区等々力1‐22‐47 等々力不動尊 東急等々力駅南500m
 3.世田谷区用賀4‐20‐1   無量寺 東急田園都市線・用賀駅北西800m
 4.目黒区八雲1‐2‐10    常円寺 東急東横線・都立大学駅北300m
 5.狛江市元和泉1‐6‐1    泉竜寺 小田急線・狛江駅北西すぐ
 6.大田区南馬込5‐2‐10   長遠寺 都営浅草線馬込駅、馬込小近く
 7.大田区久が原4‐4‐10   安祥寺 東急池上線久が原駅東1km

   草木供養之碑
        東京都知事
        石原慎太郎


 碑裏には、草木供養之碑建立に係わった31名の委員、特別協賛者として東京都知事石原慎太郎、
柴又帝釈天の二人の住職名、さらに施工業者3名の名前が刻まれている。


   平成十九年組合創立60周年に当たる記念事業として東京都知事石原慎太郎様より題字の
   揮毫を戴きそして帝釈天題経寺住職望月日翔様望月洋靖様の御厚情により多年念願であっ
   た緑を大切にするための草木供養之碑建立を達成する事が出来ました
   平成16年6月18日                    東京造園業組合
                                 組合長   津島政男
                                 建立委員長 渡辺真史

 塔の右脇には背丈ほどの高さの、建立の趣旨を記した案内板が立っている。

   
東京造園組合創立60周年記念
   草木供養之碑
   
人類は平和で緑豊かな環境で暮らしたいものです。社会に見られる都市開発が日々と進み
   快適さ、利便性を求め、実益を優先して様々な建設工事が激増して居ります。此の事は其
   れなりに意義あるもので御座居ますが、其の都度多くの草木が失われ、やがて地球温暖化
   に繋がってしまいます。自然環境は守りたいものです。土の恵みを伝え、植樹する時も自
   分の心に木を植える事と思い、草木を愛し、現在ある緑の保全と、小さな緑を広げ緑に覆
   われた地球を創り出したいものです。祖の様な事を念頭において、建設事業に携わる東京
   造園業組合員一同は、草木に思いを起こし、感謝をこめて、心よりの草木供養之碑建立を
   決意致しました。なお僭越ですが、社会の皆々様にお呼びかけをして、御一緒に手を取り
   合って草木の大切さを語り合える場所にもしたいと思います。幸いにも東京都知事石原慎
   太郎様より題字の揮毫を戴き、その上柴又帝釈天題経寺住職望月日翔様、望月洋靖様の御
   厚情により、多年念願であった、緑を大切にするための草木供養之碑建立を達成する事が
   出来ました。
   平成16年6月18日                       東京造園業組合



柴又七丁目児童遊園
 
柴又7丁目11番7号にある区立公園。
 
 


■水原秋桜子の句碑 ◇

 柴又7丁目16番、矢切の渡し場のある河川敷の、その手前に建っている。

   
葛飾や桃の籬(まがき)も水田べり

 初め高浜虚子に師事し、やがて「ホトトギス」を去り、「馬酔木」を主宰。葛飾の自然をこよなく
愛し、しばしば訪れて、世に「葛飾調」といわれる多くの作品を残した。
 この句は大正15年の作、対岸の市川真間のあたりの風景を詠んだもので「葛飾調」代表作。その
頃の水郷葛飾の田園の美しさを流麗典雅の響きで詠っている。と絶賛するのは区長の小日向毅夫。昭
和62年の建碑。
 


柴又第一児童遊園
 
柴又7丁目17番1号にある区立公園。
 


矢切の渡し
 柴又7丁目18番先の江戸川河川敷の川端に渡船場がある。元和ニ年(1616)徳川幕府が設け
た利根川水系15ヶ所の渡し場の内の1つだ。(葛飾区では
寛永八年(1631)に始まったとして
る)。当時は幕府公営の渡船場として農耕作に従事する者だけの渡しであり、一般の通行は「金町松
戸関所の渡し」または「小岩市川関所の渡し」を渡らなければならなかった。
 矢切の地名の由来は、平和に暮らしていたこの辺りの人々が度重なる戦争の苦しみを味わい、戦い
で使われた弓矢を呪い「矢切り」「矢切れ」「矢喰い」を悲願して矢切とした。
 都内に残る唯一の渡船として現在も行楽シーズンには、渡船待ちある側に。の人々で長蛇の列がで
きる。運行日は、3月下旬~11月末までは毎日運行。その他は土・日・祝日・庚申日及び元旦~1
5日。運行は朝9時~日没まで。雨天・荒天は欠航。料金は片道大人100円 子ども50円。対岸
の矢切に住む杉原家が個人運営している。

   矢切の渡し
   徳川家康は、元和二年(1616)八月に利根川水系河川の街道筋の重要地点15ヶ所を
   定船場に指定し、その他の地点での渡河を禁止するとともに、番所(関所)を置いて通行
   人の監視を行いました。また同時に■■が出され、■■の農民に耕作対岸の農耕地の利用
   のため、渡船を許したのです。そのうちの1ヶ所が今日の矢切の渡しです。
   伊藤左千夫の小説「野菊の墓」の舞台にもなり、現在では都内唯一の渡しとして、自然を
   愛する人々に利用されています。                  東京都 葛飾区
                                    葛飾区観光協会

 
矢切の渡しの碑
 渡船場の側にある。

   矢切の渡し

   元和二年(1616)、幕府は利根川水系河川の街道筋の重要地点15ヶ所を定船場とし
   て指定、それ以外の地点での渡河を禁止しました。
   その1つが矢切の渡しで、この付近を通る国分道に架かる渡しで、主に近郷の農民が対岸
   の農耕地へ渡るために利用していました。
   現在、都内に残る唯一の渡し場で、今も昔ながらの手漕ぎの和船が対岸の松戸市下矢切と
   の間を往復しています。
   伊藤左千夫の名作「野菊の墓」の舞台となり、ヒット曲「矢切の渡し」を生んだ地として
   も有名です。

   
Yagiri Ferry(Yagiri-no-watashi)
   The Yagiri Ferry was started by the Edo Bakufu gobernment at the beginning
   of the 17th Century, and was used by the local farmers to get to their on the
    other side of the river. It is the only remaining ferry service still operating
    in the metropolitan area.


 対岸の松戸川にある市の説明板は以下の通り

   矢切の渡し
   矢切の渡しは松戸市下矢切と東京都柴又を往復する渡しで、その始まりは三百七十余年前
   江戸時代初期にさかのぼります。
   当時江戸への出入は非常に厳しい規制の下におかれており、関所破りははりつけになると
   いう世の中でしたが、江戸川の両畔に田畑を持つ農民はその耕作の為め関所渡しを通らず
   農民特権として自由に両岸を行きかうことができました。これが矢切の渡しの始まりでい
   わゆる農民渡船といわれるものです。
   明治以降は地元民の足として、また自然を愛する人々の散歩コースとして利用され、現在
   では唯一の渡しとなっています。
   この矢切の渡しの庶民性と、矢切の里の素朴な風景は、千葉県の生んだ歌人でもあり小説
   家でもある伊藤左千夫の小説「野菊の墓」の淡い恋物語の背景となっており、小説の中で
   美しく描かれています。                      昭和59年6月


 ※現在のは平成10年3月に建てられたものが立っている。

 
水原秋桜子句碑
 渡し場への入口にある。

   水原秋櫻子(水原秋桜子)句碑
   
葛飾や桃の籬も水田べり

   葛飾や桃の籬も水田べり
   水原秋櫻子先生(明治25年~昭和56年)の作、先生は東京神田の生まれ。はじめ高浜
   虚子に師事したが、やがて「ホトトギス」を去り昭和6年から「馬酔木(あしび)」を主
   宰した。
   葛飾の自然をこよなく愛ししばしば訪れて、世に「葛飾調」といわれる多くの作品を残し
   た。この句は大正15年の作。対岸の市川真間あたりの風景をよんだもので「葛飾調」の
   代表作のひとつ。その頃の水郷葛飾の春の田園の美しさを流麗典雅の響きで詠っている。
   昭和62年3月                       葛飾区長 小日向毅夫


 
矢切の渡しの歌碑
 渡し場の傍らに作詞家石本美由起の自筆となる碑が建っている。

   「つれて 逃げてよ・・・」
   「ついて おいでよ・・・」
   夕暮れの雨が降る 矢切の渡し
   親のこころに そむいてまでも
   恋に生きたい 二人です


 ※つけたし→対岸にリバイバルで歌って大ヒットした歌手細川たかしの揮毫になる「矢切の渡し」
碑が、対岸の西蓮寺に伊藤左千夫『野菊の墓』の文学碑が建っている。
 

■料亭川甚
 柴又7丁目19番14号にある料理屋の老舗、創業は古く天保年間(1830~44)。170年
もほど前にもなるか、歴史がある。かつて江戸の俳人鈴木松什を生んだこのあたりは、郷土郷土色豊
かな土地柄として古くから文人墨客の杖を引くものが多かった。それだけに江戸の音曲や川柳、明治
になっても芝居や映画の舞台になり、小説にも柴又や料亭川甚を取り入れた作品は数多く多くあり、
風流人が訪れ、川甚についてそれぞれを記録している。河竹黙阿弥「富士額男女繁山(ふじびたいつ
くばのしげやま)」はその代表的なもの。狂言中の出語り延寿太夫の語る清元「夕立碑春雷(ゆうだ
ちづかはるのいかづち)」もまた有名で、葛西の田野を帝釈天参りの連中が行く長閑な風情が偲ばれ
る。映画では加東大介・淡島千景の「大番」、渥美清の「男はつらいよ
は今なお人気が高い。

   夏目漱石 『彼岸過迄』より、
    敬太郎は久し振りに晴々としたよい気分になって水だの岡だの帆かけ舟などを見廻し
   た。・・・二人は柴又の帝釈天の傍まで来て「川甚」という家に這入って飯を食った。

   大町桂月 『東京遊行き』より、

    十二時に近し。午食せむとて川甚に投ず。鯉、鰻来て膳にのる。これを肴に酒を呑む

   幸田露伴 『付焼刃』より、
    汀の芦萩は未枯れ果てゝいるが堤の雑草など猶、地を飾っている。水に臨んでいる「川
   甚」の座敷は・・・

   田山花袋 『東京の郊外』より、
    藍のような水に白帆がいくつとなく通っていくそこには、「川甚」という川魚料理店
   がある。

   尾崎士郎 『人生劇場』より、
    道が二つに分かれて左手の坂道が川魚料理「柳水亭」(これは後の川甚)の門へ続く
   曲がり角までくると吹岡は立ちどまった。

   谷崎潤一郎『羹(あつもの)』より、
    巾広い江戸川の水が帯のように悠々と流れて薄や芦や生い茂った灯に「川甚」と記し
   た白地の旗がぱたぱた鳴って翻っている。

   林芙美子 『晩菊』より、
    晩夏でむし暑い日の江戸川べりの川甚の薄暗い部屋の景色が浮んでくる。こっとんこっ
   とん水揚げをしている自動ポンプの音が耳についていた。

   松本清張 「風の視線」より、
    車はいまだにひなびているこの土地ではちょっと珍しいしゃれた玄関の前庭にはいっ
   た。「川甚」という料亭だった。


 そのほか徳田秋声「縮図、久保田万太郎「柴又」、柴木好子の「葛飾の女」などがある。 本館は
近代的なビルになっているが、別館は昔ながらの3千坪の庭と池を配した静かな座敷だ。心和ませる
一時を過ごして見るのもいいだろう。値段は多少高めだが、観光地と思えばその程度の値段よ。偶に
は贅沢してみなよ。死ぬほど高かぁねえよ。


■山本亭
 柴又7丁目19番32号にある木造2階建て(1階120坪、2階15坪、地下防空壕、長屋門、
土蔵)と日本庭園。大正末期から昭和初期の和洋折衷の大正ロマンを彷彿とさせる建物で、築山、滝
のある書院庭園が見事。和室には本格的な茶室もあり、茶会、句会などに利用されている。
大正から
昭和初期にかけての雰囲気を残す屋敷は関東大震災直後に、合資会社山本工場(カメラ部品製造)の
創立者山本栄之助が、製瓦業鈴木松什家から取得した建物を増改築した。昭和63年3月14日に区
が取得、平成3年4月から一般公開した。
 浅草の小島町一丁目に住んでいた山本栄之助は、大正12年9月1日の関東大震災で被害を受け、
鈴木家の屋敷跡に移り住んだ。土蔵は、栄之助が屋敷跡を取得した当時からあり、改修は行われてい
るが、残念ながら築造年は判明していない。現存する建物の中で一番古い建造物となる。大正15年
から昭和2年にかけて東棟の玄関・廊下を改修し、西棟および蔵前廊下の新築をして、当時としては
珍しい二世帯住宅の形となった。同5年東棟の湯殿を火災で焼失。その頃居宅の改修が施され、鳳凰
の間(洋室)を新築し、ほぼ今日の状態と同じになった。また和洋折衷様式の特異な長屋門は、昭和
5年から8年にかけて居宅兼用であった古い長屋門を取り壊し、新築されたものだ。

 日本庭園
 270坪で縁先の近くには池泉を、背後には緑濃い植え込みと築山を設けて滝を落とすという典型
的な書院庭園。昭和初期における庭園様式を現在まで残した稀有の例で同様の例は旧安田邸、徳富邸
がある。滝は池の最も遠い部分の入江奥に設けられ、庭園に奥行の深さと心地好い滝の音を作り出し
ている。また限られた池水面をより広く見せる手法として、池の諸方向に入江を設け、池岸を多様に
変化させいる。
 休館日:月曜日(月曜日が祝日のときは翌日)。入館料は100円、なお、和室・茶室の利用につ
いては有料、問い合せは、03‐3838‐5555 テクノプラザかつしかまで
 山本亭は03‐3657‐8577だよ。
 

 



【白鳥】(しらとり)1~4丁目                   昭和41年6月1日
 青戸村・亀有村。明治11年「郡区町村編制法」により南葛飾郡所属。同22年亀青村の一部、
昭和7年葛飾区青戸町と亀有町の一部。同41年新住居表を実施して青戸町1~2丁目・亀有町1
~2丁目の各一部を区画整理して出来た町域につけられた新しい地名だ。昭和29年開校の白鳥小
学校から名前を拝借した。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『葛飾区史』『葛飾の歴史』など。

 白鳥の由来
 大正ころまでお花茶屋の北方に沼地があり白鳥が群棲していた。安永二年(1773)将軍家治
が亀有の鶴御成(鶴狩)のとき沼の白鳥を捕らえようとしたところ何処からともなく白髪の老人が
現れて目的を果たすことができなかった。そこで四ツ木の白髭神社に願を掛けて再び挑むと今度は
多くの白鳥を得る事ができた。この霊験に驚いた鳥見役たちは、鷲が白鳥を咥えた構図1m四方の
大絵馬(現存)を奉納してご利益に感謝した。裏面に福島八左衛門ら11名の名が連ねてある。以
来人々はこの沼を「白鳥沼(しらとりぬま)」呼ぶようになった。その沼は埋め立てられて今はな
いが、2丁目の白鳥小学校・白鳥公園からお花茶屋駅の辺りに掛けてあったようで、市街地化によっ
て次第に縮小、それで大正の初め頃までに消滅したと伝わっている。だから白鳥は白鳥小学校だ!
 


■曳舟川親水公園(②)

 白鳥1丁目1番先から3丁目32番に亘る曳舟川暗渠上に造られた区立公園。


みどり児童遊園

 白鳥1丁目4番20にある区立公園。


松栄山浄泉寺

 白鳥1丁目10番6号にある浄土真宗本願寺派の寺。入口左に阿遮加王石柱が建っている。4頭の
獅子像からなり、原寸らしく、日本には奈良東大寺にあるものが有名だ。本堂・庫裏は鉄筋コンクリ
ート造り。庫裏の左は墓地。入口の左も墓地。静かな佇まいの寺。
 元和六年(1620)尊了法師、江戸浜町御坊(築地本願寺の前身)の支院として創立。明暦三年
(1657)正月の大火に焼失し、御坊と共に築地に移ったが、大正12年の大震災で焼け、昭和3
年現在地に移る。同34年11月現在の本堂その他が新築落成した。清元松原梅吉の墓がある。しか
し梅吉がどれほど立派な太夫か判らない。

 
東大寺アショカピラー柱頭部
 昭和63年全日本仏教青年会が仏教の興隆を願い開催した「花まつり千僧法要」の記念宝塔だ。宗
派を超えて集まった僧たちの願いを後世に伝えようと建てられたものだ。仏教を象徴する神聖な獅子
を象ったサルナートのアショカピラー柱頭部を忠実に復元した。その昔インドのアショカ王は各地に
詔勅を刻んだ石柱を立てて仏教精神に支えられた理想社会の建設を目指したのだ。全国から寄せられ
た未来へのメッセージがタイムカプセルに詰めて埋められている。仏教が伝わって1500年の西暦
2038年に開封されることになっている。
 


■東京博善四ツ木斎場

 白鳥2丁目9番1号にある。
 


■白鳥南公園

 白鳥2丁目20番9号にある区立公園。


■美弥子ちゃん誘拐殺人事件 
 白鳥3丁目1番1号で起きた事件。昭和49年10月17日の午後、白鳥小学校2年生の岩本美弥
子(8歳)がランドセルを背負ったまま失踪した。父親で会社経営の岩本秀一(37歳)が警察に連
絡。警察は直ちに誘拐事件として捜査を開始した。美弥子の最後の目撃者は、岩本が経営する数社の
内の「千秋商店」事務担当八文字(やつもんじ)美佐子(25歳)だった。八文字は「所用で社長宅
に出向き、そこで美弥子ちゃんを見たのを最後に失踪した」と供述していた。
 1週間後の29日、八文字は西亀有4丁目7番本間コーポ1階2号室の自宅で自殺を図ったが果た
せず亀有署へ自首、犯行を自白した。八文字の自供通り、埼玉県大宮市大字丸ヶ崎1998番地の山
林で美弥子の絞殺死体を発見したため、八文字を誘拐殺人・遺体遺棄容疑で逮捕した。岩本は八文字
と愛人関係にあった。岩本は妻と別れて八文字と再婚することを約束していた。ところが一向に離婚
する気配はなく、それどころか夫婦で媒酌人を務めるなど、八文字にとっては嫉妬の頂点にあった。
犯行当日八文字は岩本宅へ侵入。妻の晴着をナイフで切り裂いている時、美弥子が帰宅。現場を見ら
れた八文字は美弥子を言葉巧みに誘い出し、自宅へ連れ込んで絞殺した。八文字の連絡で駆けつけた
岩本は、娘の無残な姿に号泣したが、2人の関係がバレることを恐れ、19日八文字に娘の死体にセ
メントを詰めて郊外へ遺棄することを指示した。さらに身代金目的の誘拐に見せるため自宅に200
万円を要求する脅迫状が届いたなどと自作自演していた。岩本は美弥子の葬儀終了後、犯人隠匿・死
体遺棄罪で逮捕された。
 岩本は資産家で、白鳥3丁目1番1号、ライオンズマンションお花茶屋のところで、特殊鋼加工業
「秀和産業」とその販売部門の「千秋商店」を経営し、妻玲子が夫の会社の東側で食堂「麻輪馬」を
経営、さらに築地・千住・綾瀬の3警察署の職員食堂も運営していた。
 公判は、八文字に懲役13年、岩本に懲役1年8ヶ月執行猶予3年を言い渡した。この判決は予想
よりはるかに軽い判決で、世論の非難の声が高まった。
 八文字は満期でも昭和62年、もうとっくに出獄している。平成21年が還暦だから、どこかで生
きているだろう。葛飾ッ子で上千葉小・青葉中に通学。昭和37年に卒業すると四つ木の湯沸し部品
製造の武藤工業に就職、同42年銀座6丁目のリコー計器に転んだ。同44年俄かに青戸の日舞の師
匠宅に住み込んで南葛飾高校の定時制に通って、同44年卒業した。踊りの稽古に来ていた玲子に誘
われて、翌年「千秋商店」に就職、同46年10月に社長の口説きに落ちて男女の関係を持った。知
的な美人で、その美貌だけで玉の輿にも乗れたろうにと人々は噂し合ったが、まあ美人とはそんなも
のだよ。写真で凄いから実際に会うともっと綺麗だったろう。美人ほど己の美しさに気づかず、つま
らぬ男に引っかかる。逆に不美人こそ美人と思い込んでモデルやタレントになりたがる。今を春の押
切、蛯原、熊田、小倉らは、どれをとっても美人とはいいがたい。そういう娘こそが出世する。鬼も
十八、番茶も出花とは、是言い得て妙ならん。
 


■しろがね児童遊園

 白鳥3丁目2番2号にある区立公園。


■白鳥小学校

 
白鳥3丁目4番1号にある区立校。
昭和28年「東京都葛飾区立亀青小学校分校」設置。同29年
「東京都葛飾区立白鳥小学校」として開校。校章制定。同30年校歌制定。

 校歌「
葛飾の野に」 作詞・土岐善麿  作曲・下総皖一
  1.葛飾の野に朝風晴れて
    緑輝き空広し
    翼揃えて飛ぶ影に
    命の力 溢れたり
    ああ白鳥 吾等は高し
  2.遥かなり見よ筑波を富士を
    友と親しく立つところ
    希望豊かに新しく
    世界の道に続くべし
    ああ白鳥 吾等は清し
     その名を誇り学び行く
     吾等の白鳥小学校


 同38年屋内運動場(体育館)完成。同39年創立10周年記念式典・記念像「伸びる力」建立。
同42プール完成。同47年鉄筋コンクリート造り校舎落成。同49年創立20周年記念式典。同6
0年新体育館完成。創立30周年記念式典。
 平成3年窓枠全面アルミサッシ化。同6年創立40周年記念式典。同8年コンピューター室開設。
同16年校舎耐震化。創立50周年記念式典。同17年普通教室エアコン設置。正門改修。わくわく
チャレンジ広場・白鳥キッズスタート。同18年「白鳥の森」整備。
 


■白鳥東にこにこ児童遊園

 白鳥3丁目7番4号にある区立公園。


■白鳥東さわやか児童遊園

 白鳥3丁目17番3号にある区立公園。


■白鳥東なかよし児童遊園

 白鳥3丁目20番8号にある区立公園。


■白鳥わかば公園

 白鳥3丁目24番1号にある区立公園。


郷土と天文の博物館・プラネタリウムドームかつしか

 白鳥3丁目25番1号の曳舟川親水公園の通りに面して建てられている。郷土〝かつしか〟の自然
と人間の歴史を学ぶ郷土資料館だ。宇宙や天体に親しむプラネタリウム、天体観測室などの設備を併
せ持った楽しみながら学べる教育施設だ。展示ルームの見所は昭和30年代の工場と民家を再現した
ジオラマ。油臭さが漂ってきそうな町工場はノスタルジアを掻き立ててくれる。葛西城の発掘出土品
の展示も充実している。休館日は祝・休日を除く月曜日、第2・4火曜日、年末年始。入館料は大人
100円、小・中学生50円(展示室の観覧、レファレンスコーナー等の利用ができる)、観覧料大
人300円、小・中学生100円、幼児50円(プラネタリウム一般放映は各回入れ替え制)、無料
公開日は5月5日と11月3日の。中学生以下は、毎週土曜日が無料。
 03‐3838‐1101。


■鷹匠像

 白鳥3丁目25番1号郷土と天文の博物館前の曳舟川親水公園内に建てられている。鷹匠ら4人と
飛んでいる鷹一羽。鷹匠の傍に説明碑がある。

   鷹狩りと葛西
   鷹狩りはたかじょうによって飼いならされた鷹を放ち、白鳥・鴨などの獲物をとらえて、
   古くから伝わる狩猟法です。慶長八年(1603)江戸に幕府を開いた徳川家康は、鷹狩
   りを非常に好んで各地に御殿やお茶屋を設けました。
   3代将軍家光の代には制度も整い、5代将軍綱吉の時は生類憐みの令の影響もあって、一
   時中断しましたが、8代将軍吉宗は、享保元年(1717)制度を復活させ、幕末まで続
   きました。
   当区一帯は、墨田、江東、江戸川とともに葛西筋といわれ、河川、沼沢、湿地が各所にあ
   り、野鳥が多く飛来するので将軍家の鷹場となりました。しかしひとたび鷹狩りが行われ
   ると村々にさまざまな人足役や諸品の納入などが課せられ、田畑の作物や生活面でもいろ
   いろな規制を受けて農民にとっては大きな負担となっていました。
   かつてこの付近には白鳥という町名がこのことにちなんでいます。周辺にはお花茶屋など
   鷹場に関する地名や将軍の休憩所となった寺も残っています。


 
「舟を引く人」像 撤去?
 案内板では「6舟を曳く人ブロンズ」と書いてあるが、案内板に6はなく、周囲にそれと思しきブ
ロンズはない。説明碑だけがある。

   葛西用水と曳舟
   親水公園として生まれ変わった水路は、江戸時代には葛西用水とよばれ、利根の中流の川
   俣(埼玉県羽生市)を取水口とし、万治元年(1660)関東郡代伊奈忠克によって開削
   された農業用水路です。当初は幸手用水と称されましたが、享保十四年(1719)上流
   に新たに元圦が設けられたことにより、羽生・幸手・新方・松伏・二郷半・八条・谷古田
   ・淵江・東葛西・西葛西領の十ヶ領、十一万石余、267ヶ村を灌漑する大用水となりま
   した。用水は西葛西領に入ると槐戸圦(さいかちどのいり 常磐線線ガード下)付近で東
   井堀と西井堀に分け、本流も東側に中井堀、西側に古上水堀の二筋となり、四つ木付近ま
   で並行して流れていました。
   この内、古上水堀は本所に上水を供給していましたが、享保年間に上水が廃止となり、そ
   の後、曳舟が始まったといわれています。
   曳舟の名は亀有村の水戸街道際から篠原村までの間の28町(約3km)を船の舳先に付
   けた長い綱を肩に懸けて人が引いたことにちなんでいます。「新編武蔵風土記稿」によれ
   ば、舟は亀有村に7艘、篠原村に2艘、四ツ木村に3艘あり、多くの文人墨客が来遊して
   葛西の風物を楽しみました。
   


■しらぎく児童遊園

 白鳥3丁目29番10号にある区立公園。


■白鳥北公園

 白鳥3丁目32番5号にある区立公園。


■白鳥東公園

 白鳥4丁目5番19号にある区立公園。


三圍山真珠院延命寺
 
白鳥4丁目13番23号にある天台宗の寺。入口すぐ右に庫裏、50mの参道で、屋根は銅板葺き
だが姿形の本堂、その左右と裏は墓地。
 近江国三井寺の大僧都源慶が三囲神社の別当寺として創建、寺社地が御用地となったため元禄六年
(1693)小梅村へ移転した。明治維新の神仏分離令により、三囲神社を分離、関東大震災に罹災
し、昭和2年現在に移転してきた。本堂前に昭和3年6月移転記念の石柱が建っている。移転当時の
寺の周辺は田畑が広がり閑静な農村だったが、戦後、徐々に住宅地として発展した。本堂は同12年の
建立だったが、老朽化のため、平成4年新築した。鐘楼は同21年に落成した。
 山号は、墨田区の三圍神社に由来する。本尊延命地蔵尊は三圍神社の本地佛として延命寺草創の折
に安置したもので、寺号の由来となている。


■白鳥四丁目公園

 白鳥4丁目16番4号にある区立公園。


■新道口児童遊園

 白鳥4丁目19番10号にある区立公園。

 



【新小岩】(しんこいわ)1~4丁目                昭和40年12月1日
 下小松村。明治11年「郡区町村編制法」により南葛飾郡所属。同22年奥戸村大字下小松、昭
和5年奥戸町大字下小松、同7年葛飾区下小松町。同40年新住居表示を実施、下小松町の大部分
に平井中町・奥戸新町の各一部をあわせた町域を現行の「新小岩」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『葛飾区史』『葛飾の歴史』など。

 新小岩の由来
 新小岩の名前が最初に使われたのは大正15年2月に開設した鉄道の信号所だ。総武鉄道は両国
橋(両国)駅止まりだったので常磐線と繋ぐ必要があり、その8月金町への貨物線が開通してその
操車場となり、乗客を乗り降りさせることもあったようだ。昭和3年停車場が開設されて、地元で
は「下総小松駅」を希望したが鉄道省の役人は「新小岩」とした。この地は小岩とは無縁なのにだ。
そのころ駅周辺に人家はなく、田圃の中にポツンと立っていたそうだ。同6年両国橋駅が両国駅と
改称した翌年、御茶ノ水~両国間が開通して成田・房総方面が都心と直結、総武線沿線がにわかに
開けていく。町名を新小岩としたのは駅名によるが、その起源となった操車場は平成9年9月廃止
され70年の命を終えた。
 


■葛飾あらかわ水辺公園

 新小岩1丁目1番~3丁目35に跨る区立公園。


■スーパーホテル東京JR新小岩駅

 新小岩1丁目31番5号にあるJR経営の宿泊施設。新小岩駅より徒歩2分。東京から直通14分。
東京・千葉へのアクセスが便利な総武線新小岩駅直近。東京スカイツリーへ約15。ディズニーリゾ
ートへ約30分。ぐっすり眠れるLOHASなホテルだ。


■新小岩駅

 新小岩1丁目45番1号にあるJR総武線・総武本線の停車場。昭和3年7月10日に追加開業。
本来は、周辺の旧地名を取って「下総小松駅」また「小松駅」となるはずだった。
 ホームは高架島式2面4線構造で、快速と各駅停車が別々のホームに発着する。ホームと改札階を
結ぶエレベーターは未設置。
 改札口・出口は南口と北口の2ヶ所で、いずれも地上1階にある。駅構内を自由通路として利用す
ることはできない。東側にあるガード下の歩道を行くしかない。
 小岩は江戸川区の地名だが、新小岩は葛飾区の地名である。元々この地の地名は「小松」だったの
だが、駅名が「新小岩」となったために地名まで変えられてしまった。駅の東側からは、常磐線金町
駅とのあいだを結ぶ貨物線(通称新金線)が分岐している。

 
●自殺の名所
 平成23年7月12日に発生した人身事故のインパクト(電車に飛び込んだ女性がはねられ、駅売
店に突っ込む事故)が大きかったためか、その後も飛び込み自殺などの人身事故が発生し、半年余り
で10名以上の死亡者が発生した。また自殺が多い理由として、ホームがカーブしており列車の運転
手からホーム先頭が見えない、成田エクスプレスが高速で通過することもあるようだ。
 


■「屋根の上の造形」

 新小岩1丁目47番1号新小岩駅南口広場の公衆トイレの屋根の上にある。


■「白山」
 公衆トイレの向かいにあるコンクリート製のオブジェ。東京都出身の現代彫刻家原透の作品。この
作品は切断した立方体に三角錐をはめ込んだものだが,組み合わせ方がパズルのように妙で,見れば
見るほどどんな構造をしているのか分からなくなる。立体造形の奥深さが感じられる作品。原は「時
間軸」「特異点」といった,現代物理学のテーマを作品に取り入れる異色のアーティストとしても知
られている。


■カプセルホテル レインボウ総武線 葛飾区新小岩店

 新小岩1丁目49番1号にある宿泊施設。充実のコストパフォーマンスのカプセルホテル。観光・
ビジネスのアクセスに便利。東京駅へ直通14分。疲れを吹き飛ばす、24時間利用可能な大浴場。
好みで選べる部屋タイプ(カプセル・新カプセル・シングルルーム)。手ぶらで大丈夫。


■下小松児童遊園

 新小岩2丁目4番13にある区立公園。


■新小岩地区センター・新小岩区民サービスコーナー

 新小岩2丁目17番1号にある区の施設。


■新小岩二丁目児童遊園

 新小岩2丁目20番17にある区立公園。


■小松小学校 統廃合
 新小岩2丁目25番1号にあった区立校。明治36年下小松町の照明寺庫裡に「奥戸小学校下小松
分教場」として創立。昭和10年独立して「小松尋常小学校」となる。同16年勅令第148号「国
民学校令」により「東京府東京市小松国民学校」と改称。12月日米開戦。同18年都制施行により
「東京都小松国民学校」と改称。同22年学制改革により「東京都葛飾区立小松小学校」と改称。同
26年松南小学校を分校。平成13年松南小学校と統合「小松南小学校」となった。

 校歌
朝風きよく」 作詞・森脇一大  作曲・渡辺浦人
  1.朝風きよく ながれきて
    みわたすかぎり 荒川の
    水の面きらめく あかるさよ
    小松のよい子 のびのびと
    からだも強く 伸びていく
  2.夕雲赤く 空晴れて
    遥かに浮かぶ 富士の嶺の
    雪の真白き けだかさよ
    小松のよい子 美しく
    こころもきよく 伸びていく
  3.瞳も黒く かがやいて
    えがく未来の 新日本
    うまずたゆまず 学びつつ
    小松のよい子 ほがらかに
    みんなすくすく 伸びていく


 と書いたら、三田徳明さんから統合時の経緯についてメールがありました。

   小松南小学校 3校の統合による成立は誤り。
   小松小学校の分校として松南小学校が創立されたが、後に松南小学校の児童が激減。小
   松小学校に吸収合併されるべく準備が始まった。しかし、吸収される側の松南小学校の
   PTAの一部がこれに猛反発。無理やり小松・松南二校の「対等合併」の形式をとり、
   小松南小学校の『新設』となる。新校歌制定をはじめ、もろもろの手続きを煩雑化させ
   た。

 統廃合の際のPTA同士のエゴ剥き出しの争いは、何もここの小学校に限ったことではない。どこ
でもトラブル続きだ。我が子可愛さの親ばかちゃんりんは世の常のことさ。
 


■小松南小学校

 新小岩2丁目25番1号にある新設校。平成11年松南小学校の学童激減により、小松小学校への
吸収決定。同13年3月校歌制定。

 校歌風に輝く」 作詞・里乃塚玲央  作曲・鈴木行一
  1.風に輝く荒川と
    校旗ひらめく大空が
    今日も優しく見つめてる
    教室に 校庭に 今響きあう声が
    明日どこまで届くでしょう
    小松南小学校は 未来の始まりです
  2.苦しいことや辛いこと
    悲しいこともあるでしょう
    そんなときには振り向いて
    この顔と あの顔と 夢 呼び合った日々は
    いつも答えてくれるでしょう
    小松南小学校は みんなのふるさとです
  3.もしも遠のく町へ行き
    心の通う友だちが
    ひとりふたりとできたなら
    この町と あの町と その人々のことを
    きっと笑顔で 話すでしょう
    小松南小学校は わたしのふるさとです


 4月本校舎改修のため旧松南小学校の校舎にて開校。校旗制定。同14年8月耐震工事を含めた改
修工事完了して移転。同15年プール改修完了。同17年冷暖房完備終了。
 


■出羽三山供養塔・道祖神庚申塔 ◇

 
新小岩3丁目12番10号道路から入った空地の奥にある。入口にチェーンを掛けてあるので個人
所有なのだろう。入口にとても立派な説明板が建ててある。

   由来
   当地の小社は、新小岩天祖神社の末社として奉斎されております。
   向かって右から、
   
武蔵御嶽神社
   昭和初年頃、御注連縄講役員が招聘奉斎した小社であります。
   主祭神は、櫛眞智命、大己貴命の二柱で、亀卜を司り、農耕と厄除けの神として広く関東
   一円に御神徳を崇められております。
   御嶽山々頂の本社併殿には、少名彦命、日本武尊、広国押部金日命(蔵王権現)が奉斎さ
   れ、その他、摂社末社が多数斎されています。
   
道祖神
   障の神、賽ノ神。この近辺では、道陸神と呼ばれ、元来は道路の邪鬼を祓って行人の安全
  、を守って下さる神様です。しかし道陸神は、大昔から「小松の足止めの道陸神」と称され
   嫁、婿等の家出人の足を止めて帰らせ、又、「願」をかけると古い家出人が不思議と夫々
   の家に帰り、元の家に納まった様です。更に子授けの神としても知られ、霊験灼かで、葛
   西近郊近在有名であった由です。「願かけ」のお礼に、二足の草鞋を奉納するきまりで、
   往時には数多の草鞋が架かり、今も尚名残の草鞋が架かっています。
   
出羽三山神社 三の神々を壱体にして奉斎しています。
    羽黒山 出羽 神社    古来代々の天皇の宝祚長遠、世界平和、萬民豊楽
    月 山 月山 神社    鎮護国家を願う修験者の修行の大道場で、多くの
    湯殿山 湯殿山神社    参拝者が日本国中から参集する霊場です。


 櫛眞智命(くしまちのみこと)、大己貴命(おおむなちのみこと)、少名彦命(スクナヒコノミコ
ト)、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)、広国押部金日命(ヒロクニオシブカネヒノミコト)。
 「架かり」「架かって」は、「掛かり」「掛かって」の誤記。


小堂(南葛八十八ヶ所霊場第七十番札所) ◇

 
新小岩3丁目12番14号福島家の東南角にある。1番下の文字は「師」だ。ということは大師。


光明山真光院照明寺

 
新小岩3丁目19番6号ある新義真言宗豊山派の寺。ここは、以前正福寺があったところで、正福
寺が上小松村(東新小岩)へ移転した正安三年(1301)に改めてこの寺が創建されたと伝えられ
る。以来700年余法灯を守り続ける古刹だが、幾度かの水火災により記録を失い、由緒は不明だ。
元文四年(1739)の「正福寺惣門末起立録」には、次のように記されている。

   下小松村 光明山 真光院 照明寺
   一、本尊 阿弥陀如来
   一、開基 正安三年 開僧不分明 元文四年迄 凡四百三十一年
   一、五社大明神社地 五畝歩 御見捨
   一、境内 一反三畝歩 御見捨
   一、寺附 一町四反四畝歩 御年貢地
   一、御代官所 伊那半左衛門殿
   現在の本堂は、安政二年(1855)の地震の後、間もなく再建されたもので、明治11年と
   大正15年に再度修復された
 


■八坂神社

 新小岩3丁目19番32号ある。祭神は素戔嗚尊(稲荷・八幡を合祀)。例大祭6月28日。神社
所蔵の『写之書』には、上総・下総・安房三国の領主里義廣(弘)の家臣丸子実義・杉山兵部・その
弟杉山藤三郎が小松の里(東新小岩・新小岩・奥戸付近)の農民となり、宇多天皇勅願の牛頭天王を
小祠に祀ったものが創始と記している。江戸時代末期にコレラ病が流行した際には杉山家伝来の扇で
祓浄したという。現在は32戸の信奉者が当番制で祭事を執行。
 神明鳥居は花崗岩製で、「明治40年6月建立 下之庭氏子中」と銘がある。社殿は前面に向拝、
前面に3尺の下屋をお下ろし、中央に八坂神、向って右に八幡神、左に稲荷神を奉祀し、屋根は入母
屋造、浅瓦葺。大正初年の造営という。
 


■松南小学校 閉校
 新小岩3丁目25番1号にあった区立校。平成13年小松小学校と統合し「葛飾区立小松南小学校」
となった。
 


■KSS葛飾区新小岩創業支援施設松南パル
 新小岩3丁目25番1号の松南小学校跡地を利用した区の施設。
 


■松南公園

 新小岩3丁目27番2号にある区立公園。


■鏡山部屋

 新小岩3丁目28番21号にある時津風一門の大相撲力士養成所。親方は元関脇の多賀竜。

 
●セクハラ事件
 平成26年福岡場所中、所属の10代力士が少女に如何わしい行為に及んだというので、同30今
年1月に書類送検されていたことが、2月28に発覚した。しかし不思議なことに、所属力士は幕下
鏡桜(かがみおう)と三段目竜勢しかおらず、2人とも30代だ。一月場所にも出場したというが、
部屋別成績表にも記載がなく、相撲協会の公式記録にも前記2力士しか所属していない。
 しかし親方は何らかの事実があったことを認めているので、所属しているのだろう。


■新小岩バプテスト教会

 
新小岩4丁目11番10号にある。
 


■お玉稲荷神社(於玉稲荷神社)

 新小岩4丁目21番6号にある。祭神は倉稲魂命。例大祭は5月3日だ。
この地には元から下小松
村に稲荷社があった。安政二年(1855)の大震災で焼失した神田お玉ヶ池の稲荷社を、明治2年
に合祀して、社名を「於玉稲荷神社」と改めたものという。お玉ヶ池の稲荷神社の沿革については、
『新撰東京名所図解』神田之部所引の「於玉稲荷大神の由来」に述べられている。尚、お玉について
は『江戸砂子』や『江戸名所図絵』にも記され、著名な伝説であったと思われる。しかし伝説は伝説
で、お玉とは池の形が円形だったことからきた命名だろう。池は自然にてきたものではなく、石神井
川の廃川後の埋め立てにより造成されたものだからである。伝説は後からの付会で、寝物語か、創話
と思うよ。
 社殿は大正6年と昭和16年に改築され、さらに昭和50年5月鉄筋コンクリート造りの現社殿と
その右側に接続して社務所が造営された。拝殿には明治15年4月鹿骨村岡田国造寄進の扁額「於玉
稲荷神社」が掲げてある。
 しかしお玉ヶ池稲荷は、神田のお玉ヶ池の跡地に祀ってるよ? 合祀ではなくて勧請じゃないのか
な? と悩んでいたら、神田の方がここの分祀だってことが判明した。
 明神鳥居は花崗岩製で「昭和3年11月 御大典記念 氏子中」とある。社殿は鉄筋コンクリート
造りで、正面の階段を上ると上層が社殿。前面2間は板敷、次の一間半は畳敷で、前面に張り出した
祭壇に続き、畳間の左右には神饌室がある。朱塗。社務所も鉄筋コンクリート造りで3階建て。

   於玉稲荷神社御由緒
   御祭神は稲荷大神と称せられる倉稲魂命(うがのみたまのみこと)で、伊勢の外宮(とよ
   うけのかみ)と御同神であります。
   「稲荷」とは、天地の霊を象徴し、古来より食物の神、即ち五穀豊穣の神として広く崇敬
   されてきました。時代とともに産業興隆や商売繁昌、さらに家内安全、交通安全や芸能上
   達などのご利益もあるとされ、広く人々の信仰を集めております。
   当地小松の里は、むかし将軍様の鷹狩りの地として知られております。古地図を見ると、
   この地に「おたまいなり」の所在が記されていますが、古くはご分霊でありました。当神
   社はこのゆかりの社に、安政二年の大震火災で焼失した神田お玉ヶ池の御本社を明治四年
   に移したものであります。
   お玉ヶ池の稲荷神社の沿革については、「新撰東京名所図会」神田之部所引の「於玉稲荷
   大神の由来」に述べられているように、長禄元年太田道灌の崇敬をはじめ、寛正元年足利
   将軍義政公祈願、さらには文禄四年伊達政宗公の参詣が記されております。


■慈妙教会

 
新小岩4丁目29番14号ある日蓮宗の布教所。寺院ぽく拵えた民家。
 


■小松中学校

 
新小岩4丁目30番1号にある区立校。

 校歌「
常盤の小松」 作詞・  作曲・
  1.常盤の小松 陽を受けて
    伸びて栄えるその姿
    清く雄々しく学舎に
    真摯に励む楽しさよ
  2.流れ豊けき中川に
    遥かに映ゆる富士筑波
    我が葛飾の若草に
    希望の空も晴れ渡る
 


■小松橋公園

 新小岩4丁目37番2号にある区立公園。


■天祖神社

 
新小岩4丁目40番1号ある。祭神は当然天照皇大神(天照大神)。例大祭は8月25日。境内末
社は富士浅間・水神・鹿島・稲荷・北野の5社。古くは五社明神と呼んでいた。葛西御厨時代に伊勢
の皇大神宮を勧請し、下小松村の鎮守として奉祀したものらしい。長いものには巻かれろだったのか
もしれない。社殿は幾たびか改修され、文久三年(1863)の本殿と、大正4年の幣殿・拝殿が近
年まで存り、昭和29年1月境内が総武線の拡幅用地となって現在地に移った後も使用されたが、同
53年8月現社殿が造営された。
 明神鳥居は昭和43年11月の建立。
拝殿は間口3間、奥行4間、手前一間通吹放ち、向かって左
奥の間6尺張り出して祭具庫とし、右側は第三間から8尺張り出して神楽殿としてある。幣殿は間口
1間、奥行2間、中央に階があり、間口1間(背面は2間)、奥行3間の本殿に接続している。内部
は全て板敷、屋根は神明造、銅板葺。社務所は神楽殿の右側にあり、廊下で繋がっている。

 
富士塚
 高さ1m50cmばかりの塚の上に石祠が祀られている。
 




【高砂】(たかさご)1~8丁目                   昭和40年8月1日
 曲金村(まがりかねむら)。明治11年「郡区町村編制法」により南葛飾郡所属。同22年奥戸
村大字曲金、昭和5年奥戸町大字曲金、同7年葛飾区高砂町。同40年新住居表示により諏訪町の
全部に高砂町・本田立石町・奥戸新町・細田町・鎌倉町・新宿町3丁目の各一部をあわせた町域を
現行の「高砂」とした。大正元年開設の京成高砂駅があったからだ。なお静岡市では「曲金」を行
政地名としている。「まがりかね」をインドネシア語で解すると「マ(ン)ガ・リ・カネ」、「川
の支流に接する頭のように高くなつた場所」ということになるらしい。地形的には合っている。

 
高砂の由来
 南葛飾郡曲金村字高砂による。この字名は明治9年地租改正のとき地元有志の発意でつけられた。
維新政府の財政は徳川幕府と没収領を合わせた700万石余、これでは3000万石日本を賄って
いけないので財政の安定増収は必須のことだった。そこで目を付けたのが土地である。土地はほぼ
不変だから税収は安定確保できる。その地租改正のために行われたのが地籍調査で地籍図一枚につ
き一つの地名が付けられた。それが字(あざ)で、当時不用地には名前なぞ付けられてなかったの
で、その命名はいい加減なものだった。土地人が付けたものもあれば役人が付けたものもある。こ
の資料が関東大震災で焼けたために地名の由来が判らないものが多々ある。幸いこの地区は地元の
人が付けたので、高砂の由来は嘉語(めでたい言葉)だと判っている。謡曲「高砂」は、

   高砂や この浦舟に帆を上げて この浦舟に帆を上げて
   
月もろともに出汐の 波の淡路の島影や 遠く鳴尾の沖過ぎて
   
早、住之江に着きにけり 早、住之江に着きにけり

と謡われ、夫婦愛と長寿の理想を表した世阿弥元清の代表作。高砂は兵庫県高砂市。
 また「高砂」の意味は小高く盛り上がった砂地、砂丘のこと。
 


■東京消防庁第七消防方面訓練場

 
高砂1丁目1番1号にある。
 


■総合スポーツセンター

 
高砂1丁目2番1号にある。野球場・プール・土俵場・テニスコートがある。
 


■諏訪野公園

 
高砂1丁目7番12号にある区立公園。


■諏訪野八幡神社

 高砂1丁目18番1号にある。祭神は誉田別命。例大祭は9月15日。境内末社は第六天と稲荷の
2社
。この地域は昔、諏訪野と称し、曲金・細田両村の間に介在した新宿町の飛地だったから当社は
その諏訪野の氏神として奉祀されたのだろう。鳥居は笠木・島木に反りがない。赤塗の鉄板で覆われ
ている。拝殿は間口3間×奥行2間、一間流れ向拝付き、屋根切妻造り、桟瓦葺き。幣殿は間口1間
×奥行1間、両下造り、桟瓦葺き。本殿は、間口・奥行とも1間切妻造り、妻入、桟瓦葺きの覆屋内
にある。神輿庫が参道左に、高砂一丁目会館の建物が社殿に向かって右側にある。
 


■高砂一丁目児童遊園

 
高砂1丁目20番13号にある区立公園。


■高砂阿弥陀堂(南葛八十八ヶ所霊場第三番札所) ◇

 
高砂1丁目25番4号にある小祠。


■高砂諏訪児童遊園

 
高砂1丁目25番10号にある区立公園。


■新中川通水記念公園
 高砂1丁目27番1号にある区立公園。

 新中川通水記念碑
 公園内に東京都が建てたものだが、碑としてはそれはそれは立派なものであり、モニュメントだ。
 


青龍山西涼院極楽寺
 
高砂2丁目11番4号にある浄土宗の寺。2階が鐘楼になっている珍しい山門。入ると墓地。参道
は右へ曲がって本堂。立派なものだよ。基礎部分が1階の高さで、本堂は聳えている感強し。見た目、
雰囲気はいいのに門にはセンサーがあり、門を潜ると「ピンポーン」と鳴り、寺の人がこちらをじっ
と見つめている、声をかけ境内を散策している間もこちらを監視いているような、帰りも声をかける
が終始無言。ここはお寺か? 最近、極楽寺を廃し、大光明寺を建てたということを聞いた。で調べ
たら、この寺はあの青砥左衛門尉藤綱所縁の寺で、藤綱が奉納したという弁財天像や供養塔があり、
平成20年4月に俳優中村富十郎が歌舞伎綱芝居『青砥稿花紅彩画』で、藤綱役を演じるというので
訪れたという。寺が神谷敬真著『青龍記』を出しているそうなので、詳細はそちらで。
 住職が借金か何かで寺を廃することに・・・借金の肩に寺を奪られたのか?

 「新編武蔵風土記稿」に曰く。

   極楽寺
   浄土宗、江戸下谷幡随院末、青涼山西法院と号す。本尊三尊の弥陀を安せり、中興廓誉、
   慶長九年寂す。
   稲荷社、地蔵堂



大光明寺
 高砂2丁目11番4号にある単立寺院。平成20年頃(?)、極楽寺をそっくり受け取って発足し
た。南葛八十八ヶ所霊場8番札所も受け継いだ。
 


天祖神社

 
高砂2丁目13番13号にある。祭神は天照皇大神・武甕槌命・経津主神。例大祭は10月1日。
境内末社は稲荷・山王・熊野・厳島・八雲・水神の6社。中世、葛西御厨のあった頃、伊勢皇大神宮
を勧請して氏神としたものと伝える。社殿は近年では明治2年・同42年に改築され、現在の社殿は
昭和36年11月の造営だ。
 鳥居は神明、社殿正面の参道口のものは花崗岩製で「大正10年酉11月建之」とあり、西参道口
にあるものは、元八雲神社にあったのもので花崗岩製。「大正13年12月建之」とある。社殿は、
拝殿は間口3間×奥行4間、内部板敷き、背面左右を祭具庫とする。屋根は神明造り、銅板葺き。向
かって右側面、中央間から廊下で社務所と連絡している。幣殿は間口1間×奥行2間、板張り、屋根
は両下造り、銅板葺き。本殿は間口1間(背面は2間)×奥行2間。屋根は神明造り、銅板葺き。社
務所は社殿に向かって右手前にある。水盤舎は表参道の左側、西参道の分かれる手前にある。「昭和
41年10月1日建之」とある。神楽殿と神輿庫が
西参道と稲荷神社との中間に並ぶ。

 
八雲神社
 社殿に向かって左奥にある。社殿は神明造り、銅板葺き、前面に向拝を付設。

 
稲荷神社
 社殿に向かって左奥にある。社殿は一間社流造り、桟瓦葺き。

 
招魂社・祖霊社

 社殿の向かって右奥にある。神明造り、銅板葺き。前に花崗岩の明神鳥居が建つ。

 
板絵着色雨乞図絵馬額
 この額は横260cm×縦75cmの大きなもの。天保十年(1839)に奉納され、江戸末期に
行われた「雨乞い」を表わした。またこの神社の棟札は、寛永十年(1633)の記載があり、当時
葛飾郡が下総国に属していたことを知り得る資料だ。いずれも区の文化財に指定されている。
 


■高砂宮前児童遊園

 
高砂2丁目13番13号にある区立公園。


「こま」
 高砂3丁目1番27号山崎医院前にある三坂制の彫刻作品。


高砂地区センター・高砂区民事務所
 高砂3丁目1番39号にある区民事務所を併設した施設。ここは、主に京成本線・押上線青砥駅か
ら京成高砂駅にかけて住む区民が利用する。メイン設備であるホール、会議室、ピアノなど音響機器
が設置された音楽室、和室などがあり、午後21時半まで利用できる。地区住民の集会場としても、
区民個人や団体の文化的な催しの会場としても使われている。

 
「韻」
 玄関前にある右膝に頬杖を付いて考える裸婦像。晝間弘の作品。


高砂協立病院 → かつしか江戸川病院
 高砂3丁目27番13号にある総合病院。平成26年7月1日仁生社江戸川病院に吸収され「かつ
しか江戸川病院」として再スタートした。内科・循環器科・胃腸科・糖尿病外来・外科・整形外科・
スポーツ整形外科・リハビリテーション科・リウマチ:骨粗鬆症外来・泌尿器科・皮膚科・放射線科
 


高砂小学校
 高砂3丁目30番1号にある区立校。昭和2年「東京府葛飾郡第一奥戸尋常小学校高砂分教場」と
して開設。2教室・150人でスタート。同
7年「東京府南葛飾郡高砂尋常小学校」として認可を受
けるも、南葛飾郡の東京市編入により「東京府東京市高砂尋常小学校」に改称して独立開校。同16
年勅令148号国民学校令により「東京府東京市高砂国民学校」と改称。12月日米開戦。同18年

都制施行により「東京都高砂国民学校」と改称。同19年学童集団疎開(新潟県古志郡十日町村)。
同20年8月日本敗戦。10月疎開解除により学童帰校。
 同22年戦勝国アメリカの強制による学制改革により「東京都葛飾区立高砂小学校」と改称。同4
6年明石小学校を分校(747名移籍)。同59年情緒障害「あやめ学級」開級(明石小)。
 平成9年コンピュータルーム開設。NHK学校音楽コンクール地区大会出場(金賞受賞)。同12
年明石小学校を統合。平成13年創立70周年記念式典。同23年創立80周年記念式典。同24年
高砂中学校との小中一貫校を開校。

 校歌「
武蔵野に」 作詞・古関吉雄  作曲・岡本敏明
  1.武蔵野に微風渡り
    さやさやと揺れる葉末に
    きらきらら きらきらら 光は躍る
    爽やかに喜び踊る
  2.鳥の歌 朗らに巡り
    果ても無く澄み渡る空
    薄雲の 薄雲の歩み豊かに
    憧れは 遥けく飛ぶよ
  3.青やかに連なる丘の
    空遠く富士の峰浮かぶ
    声合わせ 声合わせ誉め唄歌え
    清らかな思い溢れて
     ああ故郷 高砂小学校
 


■高砂児童遊園

 
高砂2丁目30番16号にある区立公園。


■高砂南児童遊園

 
高砂3丁目1番35号にある区立公園。


■高砂中学校

 高砂3丁目32番1号にある区立校。昭和40年8月「東京都葛飾区立高砂中学校」として開校。
鉄筋コンクリート造り4階建て校舎(普通教室14・特別教室4・他6室)落成。同41年5月1日
を開校記念日とする。体育館・プール完成。同44年普通教室4増築。同48年普通科教室4・特別
教室4増築。同50年創立10周年記念式典。同54年普通教室4増築。同60年創立20周年記念
式典。同61年日本語学級開級。
 平成元年校庭全面改修。同3年東京都健康優良学校表彰。同4年校地拡張。同8年区名称等の「東
京都」冠称削除につき「葛飾区立高砂中学校」と改称。同9年体育館・プール改築。創立30周年記
念式典。同12年校舎耐震化。教育相談室開設。同14年学校110番設置、通級指導学級設置。防
犯カメラ設置。同16年図書室内蔵書のデータベース化。同17年玄関電子施錠。創立40周年記念
式典。

 校歌「都の東」 作詞・大橋安子  作曲・田中準
  1.都の東 雲晴れて
    暁の空 いや高く
    若人吾等 行く処
    
自主の精神 溌剌と
    誇らん吾等の高砂中
  2.川風渡り 鴎鳴き
    清き響きのたゆるなし
    若人吾等 行く処
    
敬愛の心 溢れつつ
    誇らん吾等の高砂中
  3.紺碧の空 いや澄みて
    富士の嶺遠く見遥かし
    若人吾等 行く処
    
強調の理想 掲げてぞ
    誇らん吾等の高砂中
 


■高砂団地

 
高砂4丁目のほぼ全域を占める巨大な都営集合住宅群。
 


■高砂南公園

 
高砂4丁目1番7号にある区立公園。


■高砂北公園

 
高砂4丁目3番1号にある区立公園。


金亀山神宮院観蔵寺
 
高砂5丁目5番2号にある寺。
文明元年(1469)僧空性坊が創建。天文七年(1538)、永
禄七年(1569)の再度に亘る国府台の合戦に焼失して荒廃したが、承応二年(1653)隆敬法
印(隆教法印)が中興開山したと伝えられる。元禄九年(1696)無桃軒石鵬筆の「金亀山神宮院
観蔵寺景園之記」一巻を蔵し、享保十年(1725)当時の快賢律師が補修し、上野国世良田荘(群
馬県)総持寺の沙門慧弁が奥書を記した記録だったが、現在は所在不明だ。「新編武蔵風土記稿」に

   観蔵寺
   新義真言宗、上小松村正福寺の門徒、金亀山神宮院と号す。本尊正観音を安す。中興開山
   隆敬、元禄二年三月九日寂。


 元文四年(1739)の「正福寺惣門起立録」には、次のように記されている。

   曲金村 金亀山 神宮院 観蔵寺
   本尊 観世音
   開基 文明元年空性坊
   元文四年迄 凡二百七十二年
   三社明神社地 一畝五歩 御見捨
   熊野権現社地 一畝歩 右同断
   牛頭天王社地 一畝歩 右同断
   山王宮社地 一畝歩 右同断
   地蔵森 一畝歩 右同断
   寺附田地 二反八畝十歩 御年貢地
   買添 五畝二十三歩 右同断
   同 一畝歩 右同断
   同 二畝二十六歩 右同断
   境内 四畝歩 右同断
   御代官所 伊那半左衛門殿

 このうち三社明神は、線路向かいの高砂天祖神社で、この寺が別当職を勤めていた。本堂は大正3
年の再建で、昭和38年修築された柴又七福神の一つ寿老人、また南葛飾八十八ヶ所霊場の第10番
札所。京成本線沿いにあり、京成高砂駅からも望むことができる。

 
寿老人碑(柴又七福神)
 境内にある石碑。傍らに「柴又七福神の内 寿老人 観蔵寺」と刻んだ石柱が建つ。

   柴又七福神
   寿老人 金亀山神宮院観蔵寺
   当山は、文明元年(1469)の開創であるが、永禄七年国府台合戦により焼失し、承応
   二年法印隆教が再興する。
   寿老人は、七福神の第一におかれる長命の神で、寿福を司る神様である。日本では室町時
   代より信仰がさかんである。                    葛  飾  区
                                    葛飾区観光協会
 


■京成高砂駅

 
高砂5丁目28番1号にある京成本線と北総線の停車場。大正元年11月3日に京成が初めて押上
~江戸川・柴又間を開業させた当初からの開設された。当時は「曲金駅」といい、翌大正2年6月1
6日から「高砂駅」と改められ、さらに昭和6年11月18日に現在名になった。北総線は平成3年
3月31日に京成高砂まで延伸し、同時に直通運転が始まった。同22年7月17日には京成成田空
港線(成田スカイアクセス)の起点駅になった。この成田スカイアクセスは、北総線の印旛日本医大
まで線路を共用するが、書類上は別の路線ということになっている。
 ホームは従来からある地上島式2面4線の他に、平成22年7月5日から供用を開始した金町線専
用の高架片面1面1線のものがある。3・4番線ホームは、成田空港方面だけでなく印旛日本医大方
面への列車も発着するので、乗車の際には列車の行き先をよく確認すること。ホームと改札階を結ぶ
エレベーターは設置済み。
 改札口は従来からある本線・北総線の改札と、平成22年7月5日から供用を開始した金町線専用
改札の2ヶ所。2つの改札は自由通路を挟んで向い合っており、乗り換える際は緑色の改札を通って
いったん改札外に出なければならない。出口は南側の1番出口と北側の2番出口の2ヶ所で、エレベ
ーターは両方の出口に設置されている。
 駅の東側にある京成高砂第1号踏切と京成高砂第2号踏切は、全国的にも珍しい存在になった手動
踏切だった。東武伊勢崎線の竹ノ塚駅で起きた踏切事故の影響を受け、平成18年9月末には両方と
も自動化され、これをもって都区内から有人踏切は全て姿を消した。
 この踏切は京成本線だけでなく、北総線と京成電鉄高砂車庫へ出入庫する列車も通過するため、開
かずの踏切として問題視されている。付近の高架化が求められてはいるが、3方向に分岐する駅構造
と、前述の車庫の関係で高架化は非常に困難とされている。当面の対策として、とりあえず京成金町
線のみが平成22年7月5日から高架化された。これにより金町線は完全に独立した路線となり、一
部にあった京成上野への直通列車は廃止された。
 


子育地蔵 ◇

 高砂5丁目47番6号、次項の妙栄院の向かいにある小堂2基。


■白進山妙栄院

 高砂5丁目48番18号にある建売住宅風の日蓮宗の寺。大正12年、梅木日見が本所横網町に創
立。その後本堂を現在地に建て、2世妙栄を経て現在に至る。寛保二年(1724)墨書銘の胴長の
太鼓一張がある。

 
子育地蔵 ◇
 入口を入った左手にある。
 


■小岩用水遺構

 
高砂5丁目54番9号京成ドライビングスクールの南側にある暗渠。コンクリートの蓋がしてある
のみ。標識や説明板はない。2ヶ所橋の痕跡も残っている。


■京成電鉄高砂検車区

 
高砂5丁目55番1号にある。
 


■青龍神社 ◇

 
高砂6丁目1番21号の怪無池の畔にある小社。元あった神社は、昭和56年に焼失したそうで、
「青龍神社」の石柱が残るばかりだ。
 


■怪無池 ◇

 
高砂6丁目1番21号にある大池。「怪無沼」とも、「青龍神社の池」とも呼ばれる。昔、中川が
溢れた時にできたそうだ。昔が、江戸時代か、戦前かは判らない。そこに白蛇が住みつき、最初は恐
れていた村人たちも、後に雨乞いの神として崇めるようになった。この「青龍神社」の本山は群馬県
の榛名山で、毎年そこから御神水を頂いてきて、怪無沼に注ぎ入れるのだとか。その際、御神水を持
ち帰る者は途中でおしっこをしてはいけないのだそうで、何人かでリレーして持ってくるとか。
 変な名前の池だけに不思議な話が幾つかある。旱魃の際に怪無沼の水を田畑に注いで祈願すれば、
たちどころに雨が降ったとか。これは、雨乞いの神様にまつわる話としてはよくある。大正15年に
怪無沼の端っこに水道管を通そうということになり、沼を一部埋め立てようとしたところ、工事をし
ようとする度に大雨が起こって作業が進まない。そこで困った工事関係者が宮司に頼んでお祓いをし
て貰うと、あれよあれよいう間に雨が止み、ちょっと話題になったそうだ。
 この変な名前の謂れだが、
 1.
この池で怪我をしたり溺れたりする人が全くいないことから〝怪我無し池〟と呼ばれ、それ
   がつまって〝怪無池〟”になった。
 2.〝毛〟は〝毛渇〟または〝毛竭〟という東北地方の言葉で〝飢饉〟の意味があり、それを防
   ぐという所から〝毛なし池〟となった。
 3.15歳の某少女が、下の毛(陰毛)が生えてこないことに悩んで池に身を投げたことから、
   〝毛なし池〟となった。特に最後の説は凄いね。この説によると、〝青龍神社〟には陰毛が
   生えてくるという御利益があるそうだ、これは「さんぽの達人」という雑誌の1997年1
   月号に載っているらしい。
 その昔、沼に白蛇が棲みついていた。或る年この辺りを旱魃が襲った時、村人が雨乞いをしたとこ
ろ、たちどころに雨が降って来て村を救ったことから、この地に青龍神社を勧請して祀り、日照りが
続くと、この沼の水を汲んで田畑に注ぎ、雨乞い祈願するようになった。
 大正15年に、沼の端っこに水道管を通そうということになり、沼の一部を埋め立てようとしたと
ころ、工事を始めようとすると大雨が降って作業ができなかった。困った工事関係者が宮司に頼んで
お祓いをしてもらうと、あっという間に雨は止んで、工事を始めることができたという。
 また昭和56年3月に青龍神社が全焼したが、桐の箱に入った龍の掛け軸だけが、全く無傷で焼け
跡に残ってた。この掛け軸は、あの有名な〝横山大観〟の作(?)だそうで、毎晩泣き声が聞こえて
くるという曰くつきの墨絵だ。この掛け軸は、先の火事の後、同じ葛飾区内にある日枝神社に保管さ
れているんだそうだ。盗みに行くなよ。
 昭和56年3月区内新宿の路上に、突然長さ15mほどの大蛇が浮かび上がるという事件が起きた
ことがあった。時期が3月ということで、税金期に多い道路工事によって偶然できたものなのだろう
が、夜に大蛇を見た人とか、大蛇の夢を見たという人が続出した。或る区民が夢で見た通りに近くの
お地蔵さまに「八大龍神」と刻んだ石碑を置き、
5月7日に祭事を行ったところ、道路の蛇の姿は見
る見る細く薄くなって消えてしまったという。新宿2丁目7番に石仏群があり、新しく一ヶ所に集め
られ、記念碑には「地蔵菩薩石仏等十三体並びに八大竜神石碑を旧水戸街道路拡幅及び旧上下之割用
水埋設工事に伴い新宿四丁目二番地先より現在地に移転」と書かれている。
 


■新宿公園

 
高砂6丁目9番2号にある区立公園。


■下河原北向地蔵
・三猿浮彫道標
 
高砂6丁目13番27号にある小祠。ここは旧佐倉道の曲がり角で、北に上って水戸街道の直北を
左に折れて、突き当りを右に曲がっちところが葛西新宿(にいじゅく)で中川の渡し場だった。
 コンクリートブロック造りの小堂に石造物が6基ある。地蔵が3基あるが1番大きいのが、下河原
地蔵だろう。
 左端の角柱は道標で上部3面に三猿の浮彫。直ぐ近くに亀田橋交番があるが、東に行ったところに
広い道がある。この道は嘗ては川で橋が架かっていた。その橋の名が亀田橋だった。

   右面 
これより左 下の割への道
   正面 
是より右ハ 下川原村 さくら海道
   左面 
元禄六年酉七月吉日

 側壁内側に説明文が貼り付けられている。

   葛飾区指定有形民俗文化財
   
かくちゅうさんえんうきぼりどうひょう
   
角柱三猿浮彫道標
   所在地 葛飾区高砂6丁目13番27号
   指定年月日 平成6年2月22日
   元禄六年(1693)に建てられた区内に現存する最古の道標です。道標上部の正面、左
   右側面にかなり磨滅している仏形坐像又は三猿と思われる浮彫があります。
   碑文は正面に「是より右ハ 下川原村 さくら海道」、右面は「これより左 下の割への
   道」と書かれ、左面には年号が記されています。
   千住宿から分かれる水戸佐倉道は、新宿町の南で常陸国水戸と下総国佐倉へ向かう道に分
   かれます。「下川原村」は新宿町の小字名、「下の割」は東葛西領の南の地域(現在の江
   戸川区)をさします。
   都内および下総方面の各地における道標は、現在のところ元禄または宝永のものが最も古
   いようです。                          葛飾区教育委員会
 


■あいのしま児童遊園

 
高砂7丁目1番6号にある区立公園。


■高砂やちよ児童遊園

 
高砂7丁目3番25号にある区立公園。


■高砂七丁目公園

 
高砂7丁目8番13号にある区立公園。


■海烏山
崇福寺
 
高砂7丁目13番1号にある曹洞宗の寺。香山泰厳が浜町付近に慶長五年(1600)祟福庵を結
んでいたところ、慶長十八年前橋城主酒井雅楽守忠世が帰依・開基となり、総寧寺十七世骨山恕徹和
尚を勧請開山としてこの寺を創建したという。明暦三年(1657)正月、江戸の大火に焼失、浅草
松清町(台東区)に1300坪の地を得て移転、以来酒井家の菩提寺として栄えたが、大正12年9
月の関東大震で焼け、昭和3年6月現在地に移り、同8年本堂・山門・鐘楼等を再建した。墓地およ
び境内に歌人福田竹庵の墓、小野鷲堂筆の記念碑、画家長谷川等伯の墓碑等がある。
 「御府内備考」に曰く

   下総国国府台総寧寺未 浅草田原町 海烏山祟福寺 境内拝領地千三百五坪二合五勺
   当寺、古来は浜町辺二崇福庵与申有之候処、慶長十八癸丑年此地江起立仕候。
   勧請開山 総寧寺十七世骨山恕徹和尚、元和九奨亥年八月十一日寂。
   中興開山香山泰厳和尚、寛文元辛丑年六月十三日寂。開基隆興院殿発向源莫大居士、
   俗名酒井雅楽頭忠世。寛永十三丙子年三月十九日卒。
   本堂 間口7間 奥行6間。本尊釈迦牟尼仏、脇士文珠菩薩 普賢菩薩
   鎮守金比羅稲荷合社、二間九尺。
   如意輪観世音一番之札所。
   右は明和八卯年三月十七日、施主山川十右衛門奉納仕候。
   以上乙酉書上
   ○如意輪 准西国札所当寺を第一番とし、浅草下谷へかけて順札所あり。
 


弘誓山威徳院大秀寺
 高砂7丁目13番4号にある浄土宗の寺。寛永五年(1628)三月宝誉林残が本郷湯島に創立。
明暦三年(1657)江戸の大火に類焼して、浅草山谷に移った。元禄の「蓮門精舎旧詞」には、

   京都黒谷金戒光明寺の末とし、開山三蓮社宝誉林残環愚上人、生国山城国、姓飯間氏。剃
   髪師筑後善導寺十七代源蓮社本誉法林徳阿上人、但所化寮弟子也。学問檀林増上寺附法師
   登誉上人。又寛永五年三月五日、於湯島天神切通起立。


 とある。降って大正12年9月の関東大震災にかかり、同15年現在地に移転した。本堂は昭和2
年の新築だ。境内に一心地蔵尊、墓地に江戸の侠客唐犬権兵衛の墓がある。「御府内備考」に、

   京都知恩院末 浅草新鳥越町
   弘誓山威徳院大秀寺、境内御年貢地五百二十坪
   寛永五辰年湯島切通ニ而開起仕、天和三亥年五月十七日湯島当地江引移申候。
   開山三蓮社宝誉上人林残和尚、寛文三卯年三月十九日遷化。
   本堂。本尊阿弥陀如来立像
   地蔵堂二ヶ所
   稲荷社
   以上乙酉書上
   往古本郷大根畑にあり。寛文年中当所へ移るよし
 


円光山薫香院源照寺
 
高砂7丁目13番34号にある浄土宗の寺。寛永三年(1626)宗円が浅草蔵前鳥越付近に創立
したが、明暦三年(1657)の大火に類焼し、山谷の新鳥越(台東区山谷二丁目)に移った。元禄
の「蓮門精舎旧詞」には、

   山号院号 円光山薫香院 本寺寿松院(台東区鳥越)
   開山照蓮社寂誉上人薫香宗円和尚、生国山城国八幡園町、姓氏等不知。寛永三年起立、正
   保三年、移今地云々


 とある。明治20年、芝増上寺末となり、大正12年関東大震災に焼失し、昭和3年現在地に移り
同8年本堂成り、ついで同27年に改修が行われた。「御府内備考」に、

   京都知恩院末 浅草新鳥越
   円光山常行院源照寺、境内四百六十五坪半内古跡 年貢地二百四十坪、持添年貢地二百二
   十五坪
   寛永三寅年起立。尤持添地之儀は寛延元辰年二御座候。
   開山照蓮社寂誉上人薫香宗円和尚、元禄五申年十一月十五日日卒。
   本堂。本尊阿弥陀立像、慈覚大師作。
   以上乙酉書上 


 とある。
墓地に山田流琴曲の祖山田検校や義太夫節の竹本綾太郎の墓がある。

 
山田検校の墓

 江戸時代中期の著名な弾琴の名手で名は斗養一、幽樵と号し、山田流筝曲の始祖。宝暦七年(17
57)宝生流の能役者三田了任の子、山田松黒を師とした。箏を諸家に学び、のち検校の位に上り、
その技は師松黒を抜き、遂には新機軸を開拓し、新曲を数十曲創作した。このため貴庶を問わず、争っ
て彼の門下に集い、関東を中心にした門下生は数千人に達したという。生田流が手事を主とし閑雅な
上方風であるのに対し、山田流は唄を主とし派手で語り物風といわれる。文化十四年(1817)6
1歳で没した。墓は7丁目の源照寺墓地にあるが、ちょっと変った形の・・・変ってないか・・・都
の旧跡。

   史跡 山田検校の墓
   山田検校名は斗養一と称し、江戸時代の琴曲山田流の開祖として世に知られる。宝暦七年
   (1657)四月三田了任の子として生れ、幼少の時失明し、山田松黒について琴を習い
   瞽官に累進して検校位を授けられた。文化十四年(1817)四月病没す。享年61才。
   昭和42年6月                          葛  飾  区
                                    葛飾区観光協会

   東京都指定旧跡
   
山田検校の墓                 所在地 高砂7丁目13番34号
                                源照寺墓地内
                            標 識 昭和4年4月
                            指 定 昭和30年3月28日
   山田検校(1757~1817)江戸時代中期の筝曲家です。宝生流能楽師三田了任の子
   として生まれ、幼くして失明。筝曲の道に入りました。医師山田松黒から筝組歌の伝承を
   受けたとされています。箏を主奏楽器とする箏浄瑠璃とも言うべき新しい音楽を創案し、
   多く作曲を行いました。これらの曲は、後年、山田流筝曲と呼ばれています。検校は、文
   化十四年(1817)、惣録検校まですすみましたが、同年のうちに亡くなり浅草山谷源
   照寺に葬られました。現在の墓は、関東大震災ののち、昭和3年に移転されたものです。
   平成24年3月 建設                      東京都教育委員会

 
  Historic Places
   
Yamada Kengyō Haka
   
(The Grave Yamada Kengyō)
   
Landmarked in 1929,Designated 1955
   Yamada Kengyō(
1757~1817)is a Koto(Japanese harp)player in the mi
   ddle of the Edo period. He was born a son to Mita Ryōnin, Nōgakushi of Hōs
   hōyryū School, and started to learn Koto music because he lost his eyesight in
    his childhood. It is said that he learned Kumiuta (Koto suites of songs)from
   Yamada Shōkoku. Kengyō invented the new style of music, which is so-called K
   oto concerto to play a main melody by Koto and composed a lot of music.His sty
   le of Koto music is called Yamada School. He finally rose to the Sōroku Ke
   ngyō(leader of guild for the brind})in 1817, bud died in the same year and
    was buried at Gensyōji Temple in Asakusa San-ya.
   The grave was moved here in 1928, after the Great Kanto Earthquake of 1
   923.                 Tokyo Metropolitan Board of Education


 ※文中の「瞽」は「めいし」と読み、「失明者」のこと。

   山田検校の碑を移すの記
   大正十二年九月一日関東地大に震ひ所在火を発し帝都殆ど灰燼に帰す而して浅草区吉野町
   源照寺も亦其の災に罹れり寺に山田流箏曲の祖山田検校の霊龕及び墓碑あり龕寺と倶に焚
   す而して碑纔に免る昭和三年四月官特別土地計画に遵ひ街衢を整理し寺域に一部適ま其の
   収用する所となり域内狭隘を告ぐ因て地を南葛飾郡新宿町廻田に卜し再び寺を建つ是に於
   て相州江島山田検校銅像維持会員相謀りて資を捐て碑を其の寺に移し永く旧制を存して祖
   霊を慰む乃ち石を樹てて其の由を録し且つ捐資者の姓名を背に鐫し以て併せ伝ふと云ふ
   昭和三年六月                 従七位勲八等中村一之助撰 林経明書


 ※文中の「纔」は(わずか)。
 


■住吉公園

 
高砂7丁目18番13号にある区立公園。


千珪山理昌院
 
高砂7丁目24番25号にある曹洞宗の寺。慶安元年(1648)斧山和尚の創立。もと浅草吉野
町にあったが、大正12年9月の関東大震災で焼け、昭和二年復興計画の整理地に掛かり、現在地に
移転した。墓地に田鶴李家の墓碑がある。「御府内備考」に、

   品川天龍寺末 浅草新鳥越町 千珪山理昌院、境内年貢地二百三十六坪余。
   起立引地等之年代、相知不申候。
   開山斧山鈯和尚、寛文五年四月七日遷化。品川天龍寺三代目ニ御座候。
   本堂、木像阿弥陀如来像。
   鎮守愛染明王座像。右弘法大師高野山を開き給う時、三体の尊像を彫刻し給ふ。其内一体
   なりと申伝ふ。以上乙酉書上


 とある。

 三ツ池古墳 


神力山聞明寺
 
高砂7丁目24番28号にある浄土真宗大谷派の寺。天正十五年(1587)歓喜坊栄源が下総国
岡田郡横曽根村(茨城県水海道市)に創立。慶長七年(1602)江戸桜田本郷の報恩寺内に移り、
寛永七年(1630)火災に類焼して、東京本願寺内に移り、安政二年(1855)の大地震に倒壊
し、再建後、関東大震災で焼かれ、昭和2年現在地に移転した。墓地に第14人目横綱境川浪右衛門
(千葉県行徳の人、明治20年没)の墓がある。「御府内備考」に、

   寛永元年ヨリ同十三歳之間ニ御府内ヘ起立仕候。同十三年ニ則了意官職本山ヘ願出候節之
   免状ニ江戸聞明寺ト御座候。開祖栄源法師。文禄三年六月十一日寂。中興了意法師。下総
   国横曽根村ヨリ御府内神田ヘ移転居住仕候由ニ御座候。正保三年七月八日寂。本尊阿弥陀
   如来 右免状左之通。宣如上人真筆。釈宣如 御書判。僕仏尊像 寛永元歳初冬六日
   報恩寺下下総国横曽根村聞明寺 願主了意


 とある。
  


■住吉児童遊園

 
高砂8丁目7番7号にある区立公園。


■住吉小学校

 
高砂8丁目14番1号にある区立校。昭和10年「東京府東京市住吉尋常小学校」として開校。同
16年勅令148号国民学校令により「東京府東京市住吉国民学校」と改称。同18年都制施行によ
り「東京都住吉国民学校」と改称。昭和22年アメリカの強制による学制改革により「東京都葛飾区
立住吉小学校」と改称。
 


■大悲山乗願寺

 高砂8丁目36番3号にある浄土真宗大谷派の寺。寛永五年(1628)三河国から江戸神田筋違
橋付近へ移り、明暦三年(1657)の大火に類焼し、寛文九年(1679)浅草松清町へ移転し、
の東京本願寺塔頭の一寺となったが、大正12年9月の関東大震火災で焼失、昭和2年現在地に移っ
た。現在の堂宇は昭和45年の新築だ。
 

 



【宝町】(たからちょう)1~2丁目                昭和47年12月1日
 宝木塚村(ほうきづかむら)。明治11年「郡区町村編制法」により南葛飾郡に所属。同22年
立石村大字宝木塚、翌年本田村と改称してその大字宝木塚、昭和7年葛飾区本田宝木塚町。同36
年本田宝木塚町の大部分に堀切町・下千葉町・本田篠原町の各一部をあわせた町域を宝木塚の宝だ
けを採って宝町とした。同47年12月1日に宝町のほぼ全部と堀切3丁目のごく一部をあわせた
町域を現行の「宝町」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『葛飾区史』『葛飾の歴史』など。

 宝町の由来
 町名の由来となった宝木塚は、元仁二年(1224)親鸞聖人が西光寺(2丁目)の境内にある
松の木に法衣を掛けて自ら名づけた「法喜塚」が、のちに宝樹塚→宝木塚と変わったという説と、
葛西氏の伯耆を名乗る者の墓(塚)を「伯耆塚」といい後に宝木塚と改めたという説がある。伯耆
を名乗ったのは五人、葛西氏の祖清重の子伯耆守清親・その子伯耆左衛門尉三郎清経・伯耆左衛門
尉四郎清時、伯耆四郎左衛門尉光清・光清の子伯耆左衛門五郎清氏がいる。寺は清重が建て葛西氏
の菩提寺だという。だから宝町は西光寺だ! 旧称の宝木塚小学校がある。
 


■宝町一丁目児童遊園
 宝町1丁目4番1号にある区立公園。
 


■宝町西児童遊園
 宝町1丁目15番8号にある区立公園。
 


■稲荷神社
 宝町1丁目18番3号にある小社。
 


■宝町南児童遊園
 宝町1丁目18番7号にある区立公園。
 


宝樹山正賢寺
 宝町1丁目19番22号にある日蓮宗の寺。
 


八幡山清重院西光寺
 宝町2丁目1番1号にある新義真言宗豊山派の寺。入口右に弁財天堂。正面は庫裏で左クランクし
て本堂。更にその左手に墓地。南葛八十八ヶ所霊場36番札所。
 寺伝によると、元仁元年(1224)西光房善慶(葛西清重)の草庵にはじまり、のち浄土真宗の
一寺となって西光寺と名づけた。慶長十八年(1613)再興の時真言宗に転じたが、東金町光増寺
と共に親鸞聖人所縁の地として、様々な伝説がある。

   
親鸞聖人御舊蹟

  「新編武蔵風土記稿」に

   西光寺
   新義真言宗、青戸村宝持院末、八幡山無量院と号す。本尊弥陀。


 とする。

   史跡
   
葛西三郎清重の遺跡
   西光寺は鎌倉時代、関東の豪族として雄飛した葛西三郎清重の居館跡として知られていま
   す。
   当寺は古く嘉禄元年(1225)清重の創建と伝えられ、天台宗超越山来迎院と号してい
   ます。
   また清重塚と称する古墳は葛西清重夫妻の遺骸を葬った場所といわれています。
                                    葛  飾  区
                                  (社)葛飾区観光協会


 
親鸞聖人袈裟掛けの松
 境内にあった幹周り4mの松は、聖人が「わが弘法と共に千有余年の間繁茂せよ」といわれたと伝
え、根元にその由来を記した碑がある。天明六年(1786)の大風雨のために倒れ、天保年間に植
え継いだ樹も枯れ、現在の樹は3代目に当たるという。

   親鸞聖人
   御 舊 蹟 
袈裟掛松

 
丹頂塚
 境内に天保十二年地元の人々の建てた供養碑。将軍放鷹の時に死んだツルの供養のために建てたも
のだ。

 
六地蔵
 境内の覆屋の中にある。


■宝町公園
 宝町2丁目8番2号にある区立公園。
 


■全国初 強制代執行
 宝町2丁目8番8番、京成本線線路際にある廃屋で行われた。葛飾区は平成28年3月1日、区内
在住の70代女性が所有している空き家が倒壊の危険があるとして、行政代執行により解体すると発
表。3日に着手し、29日に完了予定。昨年5月に施行された「空き家対策特別措置法」に基づき、
所有者が判明している空き家の行政代執行は全国初。解体するのは、延べ約34㎡の2階建て木造住
宅。区によると、昭和35年1月頃に建てられたが、ここ10年以上、誰も住んでいなかった。区は
老朽化が進み隣接する私道に倒れる恐れがあると判断。この私道を通って近くの宝町公園へ行く子ど
もも多く、周辺住民からも相談が寄せられていた。区は所有者の女性に撤去を依頼してきたが、「手
続きなどをする気力がない」などと話していたという。解体費185万円は区が所有者に請求する。
なお地主は別。
 この日、和歌山県那智勝浦町でも著しく景観を損ねるとの理由で強制代執行が実施された。
 おいらの近くにも凄まじいのが2軒あるよ。繁華街から離れているからルンペンに気付かれてない
けどね。空家は全国で何万軒、葛飾区だけでも300軒もあるらしい。何処だったか、20部屋以上
あるお屋敷が500万円で売られてたっけなぁ。それでも買い手が付かないって。


■八幡神社
 宝町2丁目9番3号にある小社。祭神は誉田別命。例大祭は9月15日。
『新編武蔵風土記稿』宝
木塚の条に、

   八幡社 村ノ鎮守ナリ。西光寺持

 とある。宝木塚という地名は応永五年(1398)の『葛西御厨注文』にも永禄二年(1559)
の『小田原分限帳』にも見えず、江戸時代初期の『正保改定図』に初めて村名として掲げてあるので、
当社も開村の頃に勧請されたものだろう。境外末社の皇産霊社と稲荷神社はともに元文四年(173
9)九月の鎮座であるという。社殿は昭和5年5月の造営。安政3年(1865)の『江戸切絵図』
に「八幡」と図示されている。明神鳥居は花崗岩製。「明治18年9月吉日 氏子中」とある。拝殿
は間口3間×奥行2間、1間流れ向拝付、屋根は入母屋造り、桟瓦葺き。本殿は拝殿の背後に少しく
離れて一間社流造り、浅瓦葺き。末社は社殿に向って右奥にある。一間社流造り、桟瓦葺き。社務所
・神輿庫は社殿右にある。
 


■宝町中児童遊園
 宝町2丁目27番10号にある区立公園。
 


■宝木塚小学校
 宝町2丁目29番23号にある区立校。昭和25年
「四ツ木小学校宝木塚分校」として許可開設。
同26年「東京都葛飾区立宝木塚小学校」として独立開校。PTA結成。同30年創立5周年記念式
典。同36年創立10周年記念式典。校旗樹立・校歌制定。

 校歌「
小鳥飛び立つ」 作詞・  作曲・
  1.小鳥飛び立つ柳の緑
    仰ぐ心も溌剌躍る
    元気な身体 明るい吾等
    いつも仲良く手を繋ぐ
    楽しい学校よ 宝木塚
  2.進む文化と昔の夢を
    語る曳舟 由緒の水よ
    吾等らは明日の日本を作る
    意気と力に勇むもの
    楽しい学校よ 宝木塚
  3 富士を見晴らす輝く窓に
    技を磨こう 知識を積もう
    心は一つ やりぬく気風
    行手果て無く伸びる子の
    楽しい学校よ 宝木塚

 同40年屋内運動場完成。同42年第1期鉄筋コンクリート造り校舎落成。同43年第2期鉄筋コ
ンクリート造り校舎落成。同44年生物慰霊碑建立。同46年第3期鉄筋コンクリート造り校舎落成。
玄関前校地の北西角地の使用確認。同窓会設立。同47年第4期鉄筋コンクリート造り校舎落成。創
立20周年記念式典。校地拡張。同48年プール完成。同53年第5期鉄筋コンクリート造り校舎落
成。校舎完成記念式典。同56年創立30周年記念式典。校庭整備。同59年陶芸教室設置。同60
年体育館床全面張替。同62年窓枠改修、外壁改修、給食室換気扇取替。同3年放送機械取替。校庭
改修。同4年体育館窓枠サッシ化。同5年給食室全面改修。コンピュータルーム開設。同9年教室床
改修。同12年4創立50周年記念式典。同13年東堀切小学校廃校に伴いしょうぶ学級受け入れ。
コンピュータ室アドバンテージクラス設置。

 生徒歌「大好きさ宝木塚」 作詞・  作曲・
  1.素敵な笑顔が光ってる
    素敵な声が響いている
    いつも仲間が傍に居る
    此処に来れば友がいる
    毎日楽しく過ごしている
    いつも賑やか明るい学校
    そんな宝木塚大好きさ
  2 嬉しい時は喜び合い
    悲しい時は慰め合う
    辛い時には助け合い
    時には仲間と競い合う
    毎日笑顔で過ごしている
    いつも伸びやか明るい学校
    そんな宝木塚大好きさ
    みんなが大すき宝木塚 


■お花茶屋駅
 宝町2丁目37番1号にある京成本線・京成押上線の停車場。昭和6年12月19日の日暮里~青
砥間開業と同時に設けられた。ホームは地上相対式2面2線構造。ホームと改札階を結ぶエレベータ
ーは、1番線側にのみ設置されている。改札口は1ヶ所のみで、橋上駅舎内にある。出口は北口と南
口の2ヶ所で、地上に下りるエレベーターは北口側に設置されている。
 

 



【立石】(たていし)1~8丁目                  昭和41年12月1日
 立石村。奥戸の向かい、青戸の南であり、古くから開けてたとしても不思議はない室町時代の文
献に見えるのが最初で、当時は現在の四ツ木・東四つ木・立石・東立石・青戸の範囲だったらしい。
江戸時代は淡野須村・梅田村・川端村・篠原村・渋江村・立石村・中原村・原村・四ツ木村に分か
れたが、明治11年「郡区町村編制法」により南葛飾郡所属。同22年「市制町村制」により再び
統合し、若宮村と宝木塚村を加えて立石村になり、その大字立石となった。翌年本田村(ほんでん
むら)に改称、昭和3年町制に移行、昭和7年葛飾区が成立するとまた分解して本田淡之須町・梅
田町・本田川端町・本田篠原町・本田渋江町・本田立石町・本田中原町・本田原町・本田四ツ木町
・本田宝木塚町・本田若宮町に戻り、昭和40年代の新住居表示で半分が立石・東立石となった。
同22年翌年本田村と改称してその大字立石、昭和7年葛飾区本田立石町。同41年新住居表示に
より一部を高砂・東立石・奥戸に譲り、同時に本田町・西淡之須町と本田四ツ木町・本田梅田町・
本田篠原町・本田淡之須町・本田中原町の全部または一部をあわせた町域を現行の「立石」とし
た。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『葛飾区史』『葛飾の歴史』など。

 
立石の由来
 『新編武蔵風土記』が説く8丁目44番31号にある熊野神社のご神体「立石様」なる石剣説と
『江戸名所図会』が説く8丁目37番1号にある立石稲荷社のご神体で、地面から僅かに顔を覗か
せている石説の2つがある。巨石遺構なのか? これで地名としての本田は消滅、本田小学校と本
田警察署が残る。本田についてはトップ葛飾区のところにで説明してある。
 


■本田瓜
 大型の真桑瓜(まくわうり)。江戸の初め、美濃国真桑村から農民を呼び、武蔵府中で栽培させた
。メロンに押されて栽培する農家は激減して、市場には出回らなくなったがあっさりとした甘さで江
戸市民には受けた。本田では大正時代に収益率の高い茄子・小松菜に切り替えたので、そのころには
消えてしまった。
 


■本田小学校

 立石1丁目7番23号にある区立校。
明治7年立石村62番地西円寺に「第6中学区第4番青戸学
校分校」として開校。同8年7月青戸学校より独立し「第6中学区第15番堅石学校」と改称。同2
2年「本田村立本田東尋常小学校」と改称。同26年立石252番地に校舎落成。同35年8月本田
東尋常小学校と本田西尋常小学校が合併し、現在地に校舎落成。「本田町立尋常小学校」と改称。
 昭和4年「本田第2尋常小学校(現よつぎ小学校)を分校。同7年本田第3尋常小学校(現葛飾小
学校)」を分校。同9年渋江尋常小学校分校(1109名移籍)。同16年勅令148号国民学校令
により「東京府東京市本田国民学校」と改称。同19年新潟県赤倉へ学童集団疎開。
 同22年「東京都葛飾区立本田小学校」と改称。同23年PTA発足。同28年川端分校開設し、
翌29年独立分離。同32年西側鉄筋校舎3階建8教室落成(本区第一号鉄筋校舎)。同50年鉄筋
校舎落成。「ことばの教室」開設。同51年創立100周年記念式典。同59年創立110周年記念
式典。
 平成2年体育館落成。同4年機械警備導入。同6年創立120周年記念式典。同9年コンピュータ
ールーム設置。同16年校舎耐震化。同16年創立130周年記念式典。同21年バリアフリー化。


■立石図書館

 立石1丁目9番1号にある。
 


■廓然教会

 立石1丁目10番1号にある真宗大谷派の布教所。普通の民家。
 


■宇ち多
(うちだ)

 立石1丁目18番8号、京成立石駅南口の立石ラビリンス仲見世商店街の一角にある焼鳥屋。モツ
煮込み、モツ焼きも有名な居酒屋だ。北口の鳥房とともにマスコミにも取り上げられる超有名店。こ
ういうところにはミシュランは来ないからね。
 


■立石一丁目児童遊園

 立石1丁目21番6号にある区立公園。

 
「大空翼」像
 少年漫画雑誌「週刊少年ジャンプ」に掲載された高橋陽一の漫画「キャプテン翼」の主人公。平成
26年3月設置。「ボールは友達」を信条とするサッカー少年。柔軟なボールタッチを生かしたドリ
ブル突破、多彩なキックを生かしたゲームメイクを得意としている。ポジションは小学生まではフォ
ワードを務めていたが中学生になりミッドフィールダーに転向した。楽天的だが時には強気な姿勢で
チームを牽引する姿が好評を得て、日本国内にサッカーブームを巻き起こし、多くのプロサッカー選
手を生み出すきっかけを作った。さらに世界でも好評を博している。
 つばさ公園にも翼像はあるが、こちらは等身大だ。


■葛飾警察署

 立石2丁目7番9号にある。当署は、昭和21年3月15日葛飾警察署(現亀有警察署)から分割
され、葛飾区本田町286番地に本田警察署」として創立。管轄区域は、区内の南半分(北半分は亀
有署)で、管内を荒川・綾瀬川・中川・新中川の河川が流れている。また東西に水戸街道と蔵前橋通
り、南北に平和橋通りと環七通りが走るほか、北部においては京成電鉄の本線が弧を描くように東西
に延びている。また南部においてはJR総武線が蔵前橋通りとほぼ平行して東西に走っている。
 これら交通網の発達に伴う都市化や産業経済の発展、社会構造の変化により、高級マンションや高
層ビルが建設され、JR新小岩駅及び京成立石駅周辺には繁華街が広がるなど、その様相は日々変化
している。昭和40年の住居表示制度により、本田を冠する町名が消失して37年が経過し、「なぜ
本田警察署なのですか?」という問合せや、署名を正しく読める人も少なくなり、また他官庁や他府
県警察に対する業務にも、支障が生ずる状況にあった。これまでにも、管内の人々からも知名度が高
く親しみのある「葛飾」に名称を変更してほしい旨の要望もあり、平成14年12月10日に「本田
署」から「葛飾署」へ名称変更となった。
 現在、署員一同は新生「葛飾警察署」の誕生を契機とし、署員一丸となって元気な「葛飾警察署づ
くり」に努めるとともに犯罪抑止対策に取り組んでいる。
 


■本田第二公園

 立石2丁目23番14号にある区立公園。


■梅本公園

 立石2丁目29番1号にある区立公園。
 


■本田公園

 立石3丁目4番13号にある区立公園。


■立石三丁目児童遊園

 立石3丁目10番2号にある区立公園。


■ほんでんなかよし児童遊園

 立石3丁目20番2号にある区立公園。


■梅田小学校

 
立石3丁目24番1号にある区立校。昭和14年「東京府東京市梅田尋常小学校」として開校。同
16年勅令148号国民学校令により「東京府東京市梅田国民学校」と改称。12月日米開戦。同1
8年都制施行により「東京都梅田国民学校」と改称。同19年学童集団疎開。同20年日本敗戦。疎
開解除により学童集団帰校。
 同22年戦勝国アメリカの強制による学制改革により「東京都葛飾区立梅田小学校」と改称。同2
7年「梅の実会(PTA・卒業生・旧職員の会)」結成。同53年同窓会発足。プール完成。
 平成8年土曜教室開始。同14年校舎耐震化。同17年新体育館完成。同18年わくわくチャレン
ジ「梅田キッズ」開始。
 


■京成立石駅

 
立石4丁目24番1号にある京成金町線の停車場。大正元年11月3日京成が初めて開通させた押
上~江戸川・柴又間と同時に開業した駅。平成24年頃までに高架化される予定だ。ホームは地上相
対式2面2線構造。改札口は1ヶ所のみで橋上駅舎内にある。出口は4ヶ所だが、地上へ下りるエレ
ベーターもない。京成立石駅は、葛飾区役所の最寄り駅。ホームと改札階を結ぶエレベーターは残念
ながら未設置。いずれ高架になるのだから設置しない。

 下りホームに、地名の由来となった「立石祠」レプリカが設けられている。

   葛飾史蹟
   
奇石「立石」
   奇石として知られている「立石」は、この駅から八分ばかりのところ、南蔵院の西隣にあ
   ります。昔は地上高く露出していたが、今はわずかに露出するだけになっています。古書
   よると寒さによってあちこちかけるが暖かくなると又もとのようになる不思議な石で、こ
   の石の根元を探ろうとして堀下げたこともあったが、いくら堀ってもわからず村内に悪い
   病気がはやったのでそのたゝりだとしておまつりするようになったといわれています。
   鳥居竜蔵博士の説によると古代先住民の宗教的な遺跡だとされ、低地帯にはめずらしい存
   在だといわれています。


 ※文中「堀下げた」「堀っても」とあるのは「掘下げた」「掘っても」の誤記だ。


■立石みちひろば
 
立石4丁目28番14号にある区立公園。

 
「若林源三」像
 少年漫画雑誌「週刊少年ジャンプ」に掲載された高橋陽一の漫画「キャプテン翼」の登場人物。背
番号1。平成26年3月設置。
ポジションはゴールキーパー。少年時代から専属コーチの下で英才教
育を受けキーパーとしての高い資質を持ち、ペナルティエリア外からのシュートを決して許さない、
との信念を持つ少年。丸山達平の制作。本体75cm、台座71cm。


梅田山積善寺

 立石4丁目29番7号にある日蓮宗の小寺。和風っぽい鉄筋コンクリート造りの堂宇。

 
地蔵堂(南葛八十八ヶ所霊場第三十五番札所)
 墓地側の塀を抉って建ててある。地蔵尊像と庚申塔がある。庚申塔は、駒型 日月 青面金剛像。
「文化十二亥年十一月吉日」「梅田村」。


■梅田稲荷神社
 立石4丁目30番1号にある。祭神は倉稲魂命。例大祭は9月16日。
梅田村はもと立石村に属し
後に独立した村であり、持ち寺の長福寺は青戸村宝持院の門徒で、元禄二年(1689)の起立であ
り、当社もその頃、新村の鎮守として創立されたのだろうとのこと。
 鳥居は明神、花崗岩製で「梅田稲荷神社」の額をかける。「慶応四戌辰年二月初午日 氏子中」と
ある。太いごぼうじめの注連縄がかけてある。社殿は、間口3間×奥行3間、背面中央に6尺四方の
張り出しがあり、正面に1間の流れ向拝付。内部は板敷き、背面張り出し部に一間社流れ造りの本殿
を安んずる。屋根は入母屋造り、桟瓦葺き。社務所は社殿の左手にあり梅田会館を兼ねる。神輿庫が
社殿右手前にあり、2本柱の水盤舎がその手前にある。
 


■梅田児童遊園

 立石4丁目31番11号にある区立公園。


■平成立石病院

 立石5丁目1番9号にある総合病院。内科・外科・整形外科・脳神経外科・泌尿器科・麻酔科・形
成外科・皮膚科・耳鼻咽喉科・リハビリテーション科。


■立石五丁目公園

 立石5丁目10番9号にある区立公園。


■日本赤十字社葛飾赤十字産院

 立石5丁目11番12号にある総合病院。産婦人科外来・小児科外来・助産師外来・乳房ケア外来
・マタニティ鍼灸ルーム・


■葛飾区役所
 立石5丁目13番1号にある。

 
「躍進」
 南西側の植栽にある男性裸像。

 
「想」
 1階ロビーにある。脚を組んだ裸婦像。
 


■葛飾都税事務所
 立石5丁目13番1号にある。 


■ウィメンズパル

 立石5丁目27番1号にある。男女平等に関する学習の機会と交流の場を提供している「男女平等
推進センター」、消費生活情報の提供や相談事業を行うとともに暮らしに役立つ講座を開いている「消
費生活センター」、ボランティア活動をしている人やこれから活動しようと思っている者、または必
要としている者の相談に応じる「ボランティアセンター」、障害のある者の就職についての相談・支
援をする「障害者就労支援センター」などの施設が入ってる。
 


■清和小学校

 立石6丁目2番1号にある区立校。校名は「清新和合」、子どもたちが生き生きと仲良く成長して
ほしいという願いが込められている。

 校歌「
風清く」 作詞・倉沢栄吉  作曲・供田武嘉津
  1.風清く匂い静かに
    菊咲くところ
    文教の町 打ち立てて
    伸び行く吾等
    葛飾の清和の子
  2.空青く陽射し清かに
    鳩飛ぶところ
    足並揃え 声合わせ
    伸び行く吾等
    葛飾の清和の子
  3.山遠く望み遥かに
    雲湧くところ
    励み合う道 一筋に
    伸び行く吾等
    葛飾の清和の子
 


■立石中学校

 立石6丁目3番1号にある区立校。昭和24年第十一中学校内に「東京都葛飾区立第十六中学校」
として開校。同25年「東京都葛飾区立立石中学校」と改称。9月本田中原町323番地1に新校舎
落成。同27年同窓会創立。同28年プール完成。青年学級設置。同34年体育館完成。創立10周
年記念式典。同39年創立15周年記念式典。同42年第1期鉄筋コンクリート造り校舎落成。同4
3年創立20周年記念式典。同44年第2期鉄筋コンクリート造り校舎落成。同47年第3期鉄筋コ
ンクリート造り校舎落成。同50年鉄筋コンクリート造り校舎落成。弱視教室(通級制)設置。同5
3年創立30周年記念式典。同55年体育館改築。4特別教室増築。同56年校舎整備完了。同58
年区制50周年を記念して庁舎側塀緑化。同60年50mプール完成。校舎改築。同63年緑化。
 平成元年創立40周年記念式典。同3年校庭全面改修。コンピュータルーム開設。同4年給食室改
修。同6年窓枠サッシ化。同9年スクールカウンセラー設置。同11年教育相談室改修。創立50周
年記念式典。同12年パソコン新機種40台購入。同15年「立石花いっぱい運動」読売新聞掲載。
同16年「立石花いっぱい運動」読売新聞・毎日新聞掲載。同19年校庭照明設置。同21年創立6
0周年記念式典。

 校歌「
富士が嶺遠く」 作詞・内田清  作曲・猪本隆
  1.富士が嶺遠く望める空に
    明日を夢みる若人吾等
    意気と創意に充ち満ちて
    強く雄々しく育ち行く吾等
    大いなる我が望み
  2.清き葦辺に啼き交う鳥の
    群れいて遊ぶ その姿
    手に手を取りて相共に
    心も一つ 学び行く吾等
    大いなる我が望み
  3.空に太陽 地に人の愛
    総ての恵み身に享けて
    日進月歩のその務め
    希望の光 胸に充つ吾等
    立石 我が母校
 


■南葛飾高等学校

 立石6丁目4番1号にある都立校。東京府立第七高等女学校内に「東京府立第十六高等女学校」と
して開校。一年生150名でスタート。同16年「東京府立葛飾高等女学校」と改称。同18年都制
施行により「東京都立葛飾高等女学校」と改称。
 同21年葛飾区上千葉町511番地中井堀国民学校(双葉中学校)内に移転。同22年学制改革に
より中学校を併置。同23年併設中学校を廃止。学制改革により「東京都立葛飾女子新制高等学校」
と改組。夜間定時制創設。同25年「東京都立南葛飾高等学校」と改称。男女共学実施。同30年講
堂兼体育館完成。同32年図書館完成。同35年給食調理室、創立20周年記念ホール完成。同38
年第1期鉄筋コンクリート造り校舎(普通教室6・特別教室3)落成。同41年学校群制度実施。葛
飾野・本所と共に第62群編成。同46年校庭整備。同49年鉄筋コンクリート造り校舎落成・食堂
完成。同56年学級増新校舎落成。旧校舎改修。
 平成元年創立50周年記念式典。同4年制服改定。同10年校舎A棟耐震化。同11年創立60周
年記念式典。校舎B棟耐震化。同12年テニスコート改修。

 校歌「
中川の流れ」 作詞・久松潜一  作曲・下総皖一
  1.中川の流れ清き処
    師の御教えに人となり
    時代を貫く一筋の
    誠の道を踏みて進まん
  2.春爛漫と匂う朝
(あした)
    自由と秩序を胸に染
(し)めて
    遥けき行く手に光を翳し
    学びの道を愈々究めん
  3.葛飾早稲の徳出ずる時
    豊けき情と叡智持て
    学芸の道 鍛えつつ
    平和日本をいざや築かん
  4.今こそ映ゆる馨しき
    文化の花は永久
(とこしえ)
    世をば導く調べなり
    若人吾等いざや励まん
  


■中原児童遊園

 立石6丁目7番3号にある区立公園。


■立山神社

 立石6丁目31番10号トーカンマンション青砥の裏にある小祠。


■かつしかシンフォニーヒルズ
 立石6丁目33番1号にある葛飾文化会館。国内でもトップクラスの音響性能を誇る座席1318
席の「モーツァアルトホール」(楽屋・リハーサル室)、小規模な演奏に適した座席298席のアイ
リスホール(楽屋あり)、練習室、ギャラリー(展示室)、カフェテリア、会議室などがある。区民
が憩うカルチャーゾーンとして薫り高い文化・芸術空間を提供している。休館日は年末年始、保守点
検は月2、3回、不定期で、様子を見ながら行う。葛飾区民の文化の高さを誇る。

 モーツァルト像(複製)
 建物の正面広場にある。ウィーン市王宮庭園に明治29年に造立されたモーツァルト記念像の実物
大の複製で、かつしかシンフォニーヒルズのシンボルとなっている。平成3年同像がモーツァルト没
後200年記念事業で修理された時、葛飾区が世界で唯一オーストリア政府並びにウィーン市長の許
可により、実物大に複製して貰ったものだ。制作は修復作業と併行して行われ、オーストリア政府が
指定したウィーン美術大学の教授や、現地の数多くの優秀な芸術家、技術者が参加した。歴史的遺産
を受け継ぐ、貴重な文化財であるモーツァルト記念像の複製許可を受けるに当たっては、当時のツィ
ルク・ウィーン市長をはじめウィーン市フロリズドルフ区のランズマン区長などの多くの人々の協力
を得て実現したものだ。ヴィクトール・ティルグナーの作品。平成8年4月21日設置。
 但し大きな近代的な建物のすぐ前に置かれているので、ウィーンで見るモーツァルトの像とは随分
雰囲気が違うと、ウィーンに行った人がいってた。あヽウィーンに行きてえ!
 モーツァルトは、作曲家。演奏家、古典派音楽の代表。交響曲41曲、ピアノ協奏曲27曲、オペ
ラなど多くの楽曲を拵えた。全身の浮腫・高熱のため35歳の若さで天国に旅立った。

 
6体のブロンズ像
 ホールの外構にある6体の女性像。その1(横笛)、その2(ドラム)、その3(シンバル)、そ
の4(ハープ)、その5(弦楽器)、その6(ラッパ)。全部御正進の作品。

 
彫刻2点
 正面と裏面上部に西洋の女神のような像。飾りなので誰も気づかない。作者不明。

 
「陽春」
 ホールホワイエに掲げられている加山又造作の絵画。加山は世に出る直前の研鑽期に葛飾区立四つ
木中学校で教鞭をとっていたという葛飾に縁のある画家。「桜」をテーマにしたこの緞帳はモーツァ
ルトホール全体の華麗な雰囲気に調和する気品と格調を備えている。

 
緞帳①「陽春」
 加山の絵画を基本デザインとした緞帳。

 緞帳②「マッシュルーム」
 現代オーストリア美術を代表するフリーデンスライッヒ・フンデルトヴァッサーの作品を基に制作
された緞帳。フンデルトヴァッサーは、ウィーン市では環境に溶け込んだ市営住宅ヴァッサーハウス
の建築デザインもするなど幅広く活躍した。建築と自然と人間との融合を唱える氏はこの作品でも建
物がキノコのように自然と調和した生活を人々にもたらす様子を描いている。


別館
 ホール本館の北隣にあり、会議室・視聴覚室・レクリエーションルームなどを備え、本館とペデス
トリアンデッキで結ばれている。

 
「蘭(陽光)」
 別館1階ロビーにある福田千恵(せんけい)作の絵画。福田千惠は、日展特撰、日展会員賞、日展
文部大臣賞など多数の受賞歴がある名誉区民。
 かつしかシンフォニーヒルズに本作品と「蘭(月光)」がオープン当初より展示され、その後「蘭
(月光)」が、葛飾区の友好都市オーストリア共和国・ウィーン市フロリズドルフ区の区制施行10
0周年記念として贈られ、現在も両区を繋ぐ友好の懸け橋となっている。
 また、柴又「山本亭」の「花菖蒲」の襖絵、亀有リリオホールの緞帳原画などを制作し、多くの来
場者に親しまれている。
 区の文化芸術功労者で、海外に於いても平成14年サウジアラビア皇太子(現国王)に委嘱され、
初代国王アブドルアジーズ・イヴン=サウード「偉」を制作し、現在、イスラム文化圏との交流を深
めるなど、日本画の世界発信に尽力している。

 
「無限」
 別館1階ロビーにある晝間弘作の女性立像。晝間は金町に生まれ、日展特撰、日展文部大臣賞、日
本芸術院賞等、多数の受賞歴がある彫刻家。

 
「フェニックスの翼」
 別館2階屋上庭園にある澄川喜一の作品。澄川は平櫛田中賞、中原悌二郎優秀賞、日本芸術院賞な
ど多数の受賞歴がある。

 
彫刻
 3階にある。昼間弘のしゃがむ裸婦像。特に題はない。 

 
「愛情」
 別館4階ロビーに掲げられている新倉禾亭(カクテイ)の書画。新倉は台東区浅草出身で高砂に居
住した区民。洗心書会初代会長で、細字の名手といわれている。


■立石六丁目児童遊園

 立石6丁目35番13号にある区立公園。


■国際鍼灸専門学校

 立石6丁目36番7号にある。青戸2丁目1番に青戸教室もある。昭和32年台東区東上野に「日
本マッサージ学校」を創立、本科2年課程。厚生大臣から按摩マッサージ指圧師養成施設として認定
される。同43年厚生大臣から按摩マッサージ指圧師、鍼師、灸師養成施設として認定される。同4
5年現在地に移転、「国際鍼灸理療学校」と改称。本科3年課程、理療科5年課程。各種学校として
認可される。同47年学校法人「鬼木学園」が認可。専科(鍼灸)2年6ヶ月課程を新設。同54年学
校教育法に基づく医療専門課程の専修学校として認可。それに伴い法人名を「鬼木医療学園」と改称。
校名を「国際鍼灸専門学校」と改称。同56年専科を3年課程に変更。同58年本科を2学級に増設。
理療科5年課程を廃止。同62年区内青戸に新校舎を建設。同14年柔道整復科3年課程を新設。「国
際鍼灸柔整専門学校」と改称。同18年柔道整復科3年課程を廃止。「国際鍼灸専門学校」に戻称。
 この学校は、患者への効果的な東洋医学の提供のために、西洋医学的治療の熟知理解による東西医
学統合の施術が必要であると考え、西洋医学の解剖学や生理学などの専門基礎科目も重視するととも
に、人体に鍼を刺入した時に、どんな部分に鍼が入るのかを実際に学べるように、大学医学部におい
て人体解剖実習見学を行っている。そして、本校の掲げる「教育は生涯を通して」の理念の下、本校
の卒業生を、附属治療所で、見学生として受け入れ、臨床実習の更なる追求、技術向上を図っている。
国家試験合格率は100%。
 


■東立病院

 立石6丁目38番13号にある総合病院。内科・呼吸器科・消化器科・循環器科・腎臓内科・人工
透析・人間ドック。


■鳥房(大東商店)

 立石7丁目1番3号、京成立石駅北口にある焼鳥屋・鶏肉専門店。南口の「宇ち多゙」と覇を競う。
マスコミにも屡(しばしば)取り上げられ、何時も行列している超有名店。表は鶏肉専門の精肉屋、
横っちょに回ると焼き鳥屋の入口がある。狭い店で、女性客だけとか、子供連れとか、とても居酒屋
とは・・・ おばちゃんがおっかない。でも美味い。何といっても名物は鳥の丸揚げだ。表でもテイ
クアウトできる。値段は時価で、530~680円とお手頃。
 


■タカラトミー本社

 立石7丁目8・9番にある。トミカやプラレール、鉄道模型で知られる玩具メーカー。平成14年
タカラとトミーが合併してできた。現在は旧トミー/タカラ両社の持っていた資産を活用して開発・
発売される新商品や、筆頭株主であるインデックス・ホールディングスおよびその関連会社、タカラ
トミーのグループ会社間でコンテンツや版権ビジネスの相互活用を図っている。しかし短兵急に合併
した反動による数々の課題点(双社で被る事業の整理や負債解消など)を抱えており、今後はそれら
の解消と更なる発展が求められている。
 海外展開に力を入れている。これは旧・トミー時代の流れを受けたもの。トミー時代にはハズプロ
と業務提携して代理店(実質的には子会社のトミーダイレクトが担当)となり、スターウォーズ関連
商品などを扱ったり、ディズニーの関連商品をほぼ独占的に扱っていた。この様な経緯により、合併
後の会社名も英語表記では「TOMY COMPANY,LTD.」となっている。

 
沿革
トミー
 大正13年「富山玩具製作所」創設。昭和
 2年「富山工場」を設立。同27年富山工
 場の社名を合資会社「三陽玩具製作所」に
 変更。同28年三株式会社に改組、「三陽
 工業株式会社」に社名変更。同34年三陽
 工業、営業部門を分離し、販売会社「富山
 商事株式会社」を設立。同38年三陽工業
 を「トミー工業」、富山商事を「トミー」
 に社名変更。
  平成元年トミー工業はトミーを吸収合併
 し、社名を株式会社「トミー」に変更。同
 9年株式店頭公開。同11年東証第二部上
 場。同12年東証第一部上場。同17年タ
 カラと合併することで合意。
 タカラ
  昭和30年有限会社「佐藤ビニール工業
 所」設立。同34年株式会社に改組。同3
 5年株式 会社「宝ビニール工業所」に社
 名変更。同36年「タ カラビニール工業
 所」に社名変更。同 41年「タ カラ」
 に社名変更。同59年株式 店頭公開。同
 61年東証第二部上場。
  平成3年東証第一部上場。同12年コナ
 ミと資本提携。同17年コナミ保有のタカ
 ラ株式全株がインデックスに売却されたた
 め、タカラは インデックス傘下となる。
 トミーと合併するこ とで合意。



 タカラトミー
 同18年トミーがタカラを併合し、株式会社「タカラトミー」発足。ベビー用品販売大手の赤ちゃん
本舗(大阪市中央区)と資本・業務提携することで合意、赤ちゃん本舗が発行する優先株50万株を
取得し傘下にすると発表。同19年米国プライベート・エクイティ投資会社のテキサス・パシフィッ
ク・グループ(TPG)と資本・業務面で戦略提携することに合意。TPGはタカラトミーの株式や
新株予約権付き社債を取得し第2位株主になる予定で、タカラトミーは海外展開を行う。赤ちゃん本
舗との資本提携の合意内容を見直し、その後赤ちゃん本舗はセブンイレブン&ホールディングス(イ
トーヨーカ堂)の傘下に入る。同20年主要株主であるインデックス・ホールディングスの第三者割
り当て増資を引き受け、6.66%を取得。株式を相互に持ち合うこととなった。ユージンの完全子会
社化を目的としたTOB(株式公開買付)を実施すると発表。
 


会谷山法善寺
 
 立石7丁目11番11号にある浄土真宗大谷派の寺。入口左の建物は庫裏で鉄筋コンクリート3階
建て、その先に並んで木造の本堂。右は墓地。墓所に卒塔婆が立っていたが真宗では珍しいのではな
いかとのこと。創建年代は不詳だが、大和国に天台宗寺院として創建、のち浄土真宗に宗旨を改めた
と伝えられます。その後三浦市へ移転、当地へは昭和8年に移転した。同20年2月19日の愚かな
アメリカ軍の空襲により、付近の4ヶ寺は焼失したが、この寺のみは災禍を免れた。
 


鳥越山源寿院
覚往寺
 立石7丁目11番25号にある無宗派の単立寺。鉄筋コンクリート造り平屋の本堂。隣に4階建て
の会館があり、1階は庫裏、2階は受付で法要が行われる。3階は檀家の集会所、4階はコンサートホ
ールになっている。本堂の右と奥は墓地。創建年代は詳らかではないが、天文十九年(1550)頃
浅草新鳥越町に円海残応和尚が創建したと伝えられ、正保二年(1645)新鳥越へ移転したとか。
関東大震災で罹災し、復興計画で邪魔にされ、昭和2年現在地へ移転した。源寿院会館、同別館が境
内にあり、一般の葬儀に開放されている。元禄の「蓮門精舎旧詞」に、

   開山正蓮社学誉上人円海残応和尚、生国丹波国、姓者波多野氏。剃髪師金戒光明寺十四代
   栄真和尚。就学檀林増上寺。附法師感誉上人。其外由緒不知。起立年号亦不知。初本鳥越
   住。然正保二年、行年八十七歳而慶長九年正月四日寂。


 とあり、また大橋方長の「江戸往古図説」には

   新鳥越に今在る鳥越山現寿院(浄土宗)、此寺院も正保中、移りし処也

 といい、平安時代の創設のように伝えているが、「天慶」は「慶長」の誤りか?
 


假代山不断院貞巌寺
 
 立石7丁目11番27号にある浄土宗の寺。参道を入ってゆくと右に庫裏、その並びに本堂、左と
奥は墓地。寛永七年(1630)天嶽院(台東区西浅草3丁目)の心誉受頓和尚が、今戸村(台東区
今戸)に開創。承応年中に新鳥越(台東区東浅草1丁目)に移った。元禄の「蓮門精舎旧詞」には、

   天嶽院の末寺とし、開山深蓮社心誉受頓、天嶽院一代也。生所等不知。剃髪師者、奥州若
   松向厳寺落髪。学問檀林并附法の師者、川越蓮馨寺満霊和尚也。寛永七年二月二日、於同
   所今戸村起立。其巳後、承応年中、移住於今地也。万治三年八月十三日、於天嶽院寂、六
   十三歳。


 とある。明治43年の水害と大正12年9月の関東大震災で寺宝を失い、由緒の詳細は明らかでな
い。昭和13年現在地に移転したが、昭和20年2月19日太平洋戦争の空襲により全焼、同42年
仮本堂と庫裡が再建された。「御府内社寺備考」に、

   浅草末 浅草新鳥越町 假代山不断院貞岩寺(貞巖寺) 境内年貢地四百坪。
   引地之年代書面無之。相尋候処、本寺天嶽院先年馬喰町ニ有之候節、二世全阿受頓和尚当
   町ヘ開基之由を申候。開山深蓮社心誉上人全阿受頓大和尚、万治三年八月十二日入寂。
   開基は天嶽院二代目全阿受頓和尚。
   本堂 本尊阿弥陀如来三尊。鎮守稲荷社 五尺六尺。以上乙酉書上。


 とある。
 


春日山證願寺
 
 立石7丁目11番30号にある浄土真宗大谷派の寺。越後国頸城郡春日山城主上杉憲政入道証願の
三男憲篤が出家して慶受といい、慶長十五年(1610)江戸湯島に証願寺を創立。明暦三年(16
57)江戸の大火に類焼して浅草に移転し、さらに文化三年(1806)東本願寺(旧東京本願寺)
と共に焼失して浅草松浦町に移ったが、大正12年の関東大震火災に罹り、昭和6年5月現在地に移
転した。現在の本堂は昭和36年、庫裡は昭和40年の再建だ。
 本堂は大きな昔のままのものだが、その前の脇侍は石造のライオン坐像と恐竜トリケラトプスで、
庫裏はビルディンクで鯨の絵が描いてある。入口付近には猫の絵、別に幼稚園を併設してる訳でもな
い。変った住職だ。墓地の取っ付きに「鹿島」と彫った大きな墓(?)がある。形は妙なといえば妙
だし、普通といえば普通???・・・変なの!

 と書いたら、お寺さんから大目玉食っちゃいました。
 

   葛飾・立石の 證願寺 についてですが、確かに外見は変ですが、それは寺のイメージ
   を柔らかくして子どもにも親しんでもらうためです。内部には天文台とプロのプラネタ
   リウムが設備されていて、プラネタリウムによる仏教布教や一般公開もしています。
    日本プラネタリウム協議会や世界の組織にも加盟しており、天文学、科学的な普及活
   動もし、インド仏教から広く研究して著書も何冊か出されている住職が、考えあっての
   寺です。21世紀には儀式だけの仏教でなく、科学の目からも見た批判的な仏教を広め
   ている寺です。 欧州に留学し5ヶ国語を話す住職が寺を改革したものです。何か寺の
   積極性の伝わる文章を付け加えていただけますか? ただ変なの? ではないのです。
   開かれた寺として仏教以外も発信基地にもしているのです。寺の名か、春日了、銀河座
   でサイトを開ければすぐに活動が判りますよ。     證願寺の事務  佐藤たか子

 おいら、お寺の建物を「変なの!」といったんじゃないんだよなぁ・・・・ 墓の取っ付きにある
「鹿島」と彫った墓石(?)の形が、妙で変だと思ったんだよ。
 寺の詳細を記しておく。また叱られるとおっかないんでね。
 慶長五年(1600)上杉民部之輔の3男證願が湯島に創建。その後、江戸の大火で浅草に移転し、
更に関東大震災の区画整理で昭和7年現在地に移転した。
 寺の外観は、中央に本堂があるが、これは古都の風情を醸し出す重厚な木造本堂で、東京では最後
期の本式木造本堂。宮大工が手仕事で丸く削った柱をはじめ、日本の木材による総檜造りだ。前庭に
はライオンの石彫刻や、木々の間に大型恐竜の模型展示があり、一瞬驚くが親子連れなどには大人気
で、携帯電話で写真を撮っているのが微笑ましい。また入口の塀やビルの壁面には壁画が大きく描か
れている。自然と宇宙と仏教をイメージした内容となっており、寺の裏の塀、40mには古代の森に
いろいろな恐竜が遊ぶ姿が描かれている。
 本堂内には、読経中、経文の同時通訳をする電光掲示板を設置。見れば経の中身が解る仕組みになっ
ており、中学生以上の語学力で理解できるよう作文してある。
 第16代住職は声明・読経・儀式作法などに詳しく、多くの弟子を指導した。第17代住職の春日
了は、声楽家、アマチュア天文家、奇術師としても有名。本人の特技を活かしユニークな寺に改革し
た。

 
プラネターリアム「銀河座」
 平成8年からペンタックスから譲渡されたプラネタリウムを設置。法事の後にプラネタリウムで星
空や宇宙の最新映像による説法をし、仏教を解り易く解説している。仏教は死後や死期が近づいた人
たちのものではなく、日頃から「ストレスから離れリラックスする人生を送る方法」としてあると力
説。また毎月第1、第3土曜日の午後3時からは「一般向け」に宗教色のない天文普及のプラネタリ
ウムとして公開している。こちらは日本プラネタリウム協会正会員の活動館で、月2回という少ない
公開日だが、毎月、番組を更新して解説員2人でライブの感覚を活かして解説しているよ。これにつ
いては「銀河座」のサイトで見ることが出来るから、クリックしてやってつかい。
 03-3696-1170

 
春日了
1.僧侶として、第17代住職、葛飾仏教会理事長。インド仏教専攻。
2.声楽家として、ドイツ・イタリアに留学
6ヶ国語を話し、9ヶ国語で歌い、4ヶ国語で夢を見
  る。昭和63年ゲーテ・コンクールで優勝。平成12年ルーマニア・タルゴヴィシュテ〝金の菊
  賞〟祝典招待歌手。同13年カラブリア音楽祭最優秀賞他受賞多数。欧州で数多くの音楽会、オ
  ペラに出演。毎年コンクールを主催。同17年はベルカント・ソプラノ・コンクールを開催。イ
  タリアから審査委員長を招聘し、若手歌手の育成に尽力している。
3.マジシャンとして、日本奇術協会参与
名誉会員、審査員。奇術の研究・実演・指導を行ってお
  り、会報にコラムを連載。各国でマジックを披露。マジックの発明・開発に熱中している愛すべ
  き「くそ坊主」だ(←これは非難ではありません)。
4.天文活動としては、天文台を持ち、プラネタリウムを建てて公開している。そのプラネタリーア
  ム「銀河座」館長・解説員、日本プラネタリウム協議会正会員でもある。
5.著作・出版物
著作が『坊主になりたくなかった坊主』(主婦の友社)『こころに劇薬』(主
  婦と生活社)、『やさしく仏教』(同朋社出版)、『仏像がわかれば仏教がわかる(プレジデン
  ト社)。CDは、『春日了のおしゃべりコンサート』『星空の歌』『井上園香作品集』がある。


林光山徳念寺
 
 立石7丁目11番32号にある真宗大谷派の寺。鉄筋コンクリートの本堂、右に鉄筋コンクリート
2階建ての庫裏。左と奥は墓地。芝金杉の東本願寺抱地に元和元年創建したという。
 


■一樹寺
 
 立石7丁目25番10号にある浄土真宗本願寺派の寺。昭和15年福井県から現在地に移った。住
持の住宅をそのまま使用。
 


■立石七丁目公園

 立石7丁目12番4号にある区立公園。


■立石諏訪神社
 
 立石8丁目2番6号にある。祭神は建御名方命。例大祭は9月16日。
『新編武蔵風土記稿』立石
村の条に「諏訪社 西円寺持」とある。境内に延宝五年(1677)の庚申石塔がある。鳥居は明神。
花崗岩製で「昭和五年五月建之 氏子中」とある。「諏訪神社」の額を掲げる。社殿は、間口3間×
奥行3間、背面中央に間口9尺、奥行7尺の張り出しがあり、前面には1間の流れ向拝がある。屋根
は入母屋造り、桟瓦葺き。張り出し部分に一間社流造の本殿を安んずる。神楽殿は入口左にあり、社
務所は右手にある。
 本宮は、長野県の諏訪大社で上社・下社の二社、上社は男紙、下社は女神と信仰厚く、全国に分社
は10000有余社を数え、「お諏訪様」「諏訪大明神」と親しまれ、敬われ、幅広く信仰されてい
る。当社はその分社で有り、祭神は建御名方命(たけみなかたのかみ)、八坂刀売神(やさかとめの
かみ)だ。元文四年(1799)西葛西領立石村西円寺の項に「諏訪宮社地六畝十五歩、御除地」と
あることから、元文四年には諏訪社の社か祠があったのではないかと推測される。

 ●庚申堂(猿田日子の祠)
 間口・奥行とも1間、前面吹き抜け、切妻造り、桟瓦葺き。板状駒型 日月 青面金剛像 邪鬼 
三猿。「延享四丁卯年正月吉日」と刻む。
 


■諏訪児童遊園

 立石8丁目2番6号にある区立公園。


東流山蓮蔵院西円寺
 
 立石8丁目5番18号にある新義真言宗の寺。諏訪神社の別当寺。入口の左には併設の幼稚園があ
る。境内の佇まいは静かで落ち着いている。本堂の裏は墓地、右は庫裏。と号します。永禄十年(1
567)覚元法師が創建したと伝えられ、南葛八十八ヶ所霊場40番札所、荒綾八十八ヶ所霊場掛番
札所。
明治維新の頃無住状態にあり、記録を失ったので詳しい由緒は明らかでないが、「葛西誌」に
明応・大永など室町時代の板碑が多数保存されているとし、現在も明応三年(1494)と大永七年
(1527)の板碑2基を所蔵している。元文四年(1739)の「正福寺惣門末起立録」には、次
の記事がある。

   西葛西領立石村 東流山 蓮蔵院 西円寺
   一、本尊 阿弥陀如来
   一、開基 永禄十年 覚元法師 元文四年迄凡百七十二年
   一、諏訪宮社地 六畝十五歩 御捨地
   一、廟所 九歩 右同断
   一、境内 七畝二十一歩 右同断
   一、寺附 四反九畝十二歩 御年貢地
   一、買添 三反二畝十一歩 右同断
   一、同 一反一畝三十五歩 右同断


 江戸時代末期には、寺子屋が開かれ、学制発布後、明治七年十一月月公立青砥学校堅石分校(本田
小学校)の仮校舎となったことがある。
 


■ペスタロッチ広場

 立石8丁目7番の本奥戸橋西北詰にある区立公園。橋の架け替え時の仮橋迂回路の跡地の一部を公
園としたが、公園というほどの広さもなく広場とした。元々この場所には立石郵便局があり、改架工
事のため現在地に移転した。広場に、改架記念碑「立石」に、ペスタロッチの文章の一部が刻まれて
いるので、広場の名前となったが、その曰く因縁は区でも解らない。広場は都が管理し、後に区に移
管されたので詳細が判らないのも尤もだ。

 立石の碑 ✔
 昭和63年8月21日本奥戸橋改架完成を記念して建てた。子育地蔵→育児→教育→教育者→ペス
タロッチの連想で、ペスタロッチの「母の愛」を刻んだものか? 当時、改架完成祝賀委員会なるも
のがあり、その中の一人の委員の発想によるものらしい。

   
立石            母の愛

   ・・・・・・・・
   besteht in fundamentaler Verteinerung bei Familien und jedermannszuganglichen
   Grundschulenlen und ihre Methodic legt eine Verbindung mit Intuition, sponta
   nen Aktivitaten, Arbeiten und Lernen zugrunde           Pestrozzzi

   人間の知・徳・体の諸能力の調和的発展の基本は 家庭及び万人就学の小学校での基礎的
   陶冶にあり、その方法は直感・自発活動・作業と学習の結合に基づく。  ペスタロッチ


 なお本物のペスタロッチ広場はスイス連邦のチューリッヒにあり、こんな猫の額じゃあない。

 
ペスタロッチ

 1746~1827 チューリヒに生まれたスイスの大教育者。国民学校の創設者。ノイホーフに
おける貧民学校の経営、シュタンツでの孤児院の開設、ブルクドルフおよびミュンヒエンブーフゼー
において国民学校の創設、イヴェルドンにおいては人類の教師といわれるように、教育理論の完成と
教師養成制度の拡充に取り組む。相次ぐ教育実践の失敗や困難にもめげず、人間教育の理念と社会改
革の理想を高く掲げ、その実現に81年の生涯を捧げ、ノイホーフに没。その教育理論は「基礎陶冶
の理念」として示されるが、そこには人格陶冶が人類陶冶の基本課題であることが明示されている。
その特徴は、第1に人間に内在する諸力の発達の助成であり、第2は全面的に発達した調和的人間の
育成で、知識の陶冶(頭)、技術の陶冶(手)、そして道徳性の陶冶(心)という三つの基礎的陶冶
の調和的な育成によって真に人間的な教育を企図し、近代教育思想の基礎を形成した。
 

 
子育地蔵・馬頭観音・道標 ◇
 広場の外れにある小堂。蔵地蔵は貞享二年(1685)念仏講が建立した。昔は中川の河川敷にあ
った「あわもち屋」の前に建てられた。しかし昭和初期の本奥戸橋架橋の時、西詰北の橋際に移され
た。昭和50年代後半、橋の架け替えのため仮橋が架けられることになり、現在地に移転した。

   有難や喜多に移れる地蔵尊涯なきお慈悲恵みたまへよ

 隣に建っている馬頭観世音は、江戸時代中期以降、農耕馬や運送馬が普及してから馬の保護仏とし
て広く信仰された。今でも地域の交通安全の守り神だ。安政二年(1855)大地震の年に建てられ
た。左手前に建つ道標は、宝暦五年(1755)出羽三山の信者が参詣の記念に旅人のためになるよ
うにと祈りを込めて橋の袂に建てたものだ。


   立石諏訪自治会史跡
   
地蔵尊・馬頭観音・道しるべの由来
   この地蔵尊は、貞享二年(1685 江戸初期)に念仏講によって建造されたものです。
   建立当時は、現在の橋際の堤防内にあわもち屋という家があり、その前に在ったというこ
   とです。昭和初期、本奥戸橋架橋の時、現在地の向側に移転し、五十数年後の現在、掛替
   え工事の為現在地に再度移転しました。
   地蔵尊は、民間信仰として庶民のあらゆる願い事をかなえてくれる仏として信心され、特
   に育児についての守り仏として強く結びつき、子育ての精神的なよりどころとして女性に
   多く信仰されていたものです。地域では老若男女多くの方が、子供達の幸せを願っておま
   いりしています。
   となりの馬頭観音は江戸時代の半ば以降に、農耕馬や運送馬が普及してしてから馬の保護
   仏として広く信仰されたものです。現在は、地域の交通安全の守り神となっております。
   建造は安政二年(1855 江戸大地震の年)
   道標(みちしるべ)は、出羽(今の山形県)三山(月山・湯殿山・羽黒山)の信者の人々
   の講中が参詣の記念に、宝暦五年(1755)旅人たちの役に立てようと建造したもので
   す。
     
・・・橋際に地蔵尊と道しるべの石あり、右江戸みち 左おくと渡し場みち・・・と刻し
     
たり。・・・                     永井荷風『断腸亭日乗』より
   昭和61年4月13日                        地蔵等保存会

 ※文中「掛替え」は「架け替え」の意。 


■島田新右衛門家跡

 立石8丁目17番(水道局ビル・最高裁判所葛飾宿舎)に終戦まであった。島田家は立石の名主の
家柄で、立石祠を祀った家だ。しかし昭和20年愚かなアメリカ軍の無差別空爆で、B29(ボーイ
ング29番爆撃機スーパーフォートレス)の投下した焼夷弾で家を焼かれ、一家で千葉県成田に疎開
し、戦後市川市に移って今に至っている。墳墓の地に戻るべきではないのかなぁ? アメリカ人の民
主主義など愚の骨頂さ。墓所は青戸の宝持院にある。現当主は、制御工学の学者をなさっておられる
そうだ。メールを頂戴した。
 


■立石かんすけ児童遊園

 立石8丁目28番2号にある区立公園。


仲通り子育地蔵 ◇
 立石8丁目28番2号、湾曲部の道路にある小祠。
 
 

■葛飾税務署
 立石8丁目31番6号にある国の機関。

 ●署員ハレンチ罪で逮捕
 葛飾税務署職員の真鍋裕司(48)は去年3月と4月の2回に亘り、千葉県横芝光町のホテルで、
山武市に住む当時16歳の少女にそれぞれ20000円を払って買春した。今回、被害に遭った少女
が別の児童買春事件で逮捕された男と連絡を取っていたため、警察が少女に事情を聴いたところ、真
鍋が浮上したという。警察によると、2人は平成21年の春に携帯電話のゲームサイトを通じて知り
合い、繰り返し会っていた。警察の調べに対し、真鍋は「妻とうまくいっておらず、寂しかった」と
容疑を認めている。あ~あ、男の性とはいいながら、憐れやねえ!


■立石児童遊園
 立石8丁目37番17号にある区立公園。南の中川の右岸(北岸)沿いの道は古代の東海道だった
ということが最近判明し、立石様はこの東海道の道標の意味を持っていたのではなかろうか。

 
立石祠(立石様)
 園内に、小っちゃな立石稲荷として祀られている。文化三年(1806)地主島田新右衛門が鳥居
と玉垣を寄進し立石稲荷として祀ったのが最初だという。ある時名主が掘らせたが3日3晩掘っても
石の底に辿りつけなかったというが、同じ話が鹿島神宮の「要石」にある。こっちは水戸光圀が7日
7夜掘らせたが石の底を掘り当てられなかったと説明している。しかしこの立石は自然にそこにあっ
たものではなく、房州(千葉県の南端)に産する「活蘇岩(含動物化石凝灰岩)」であることが判っ
ており、もしそんな長大なものだとしたら、安房からどうやって運んだのだ? この辺りに古代人が
住んでいたことは既に明らかになっており、彼らのメンヒル(宗教上のシンボル)だったと考えられ
てはいる。京成立石駅の下りホームに、レプリカがあるよ。
 

 と書いたら、島田新右衛門のご子孫の方からメールを頂戴しました。

   作者殿
   島田と申します。
   『東京知ったかぶり』の葛飾区のページ「立石祠」の項に、「文化三年(1806)地主
   島田新右衛門が鳥居と玉垣を寄進し、立石稲荷として祀ったのが最初だという。ある時名
   主が掘らせたが3日3晩掘っても石の底に辿りつけなかったというが・・・」と記されて
   います。私はその子孫に当たります。書いて頂き、どうもありがとうございました。当時
   の名主であった島田新右衛門の墓は、同じ葛飾区のページに書かれた宝持院墓地の左奥に
   ある島田家の墓の一番奥に今も残っております。ついでながら、祠以外の鳥居(残ってい
   れば)の裏に島田八郎、島田太郎の名前があつたかと思います。共に、私の曽祖父と祖父
   です。戦前まで、島田家は代々立石祠から京成線に歩いて数分の、今の立石8丁目17番
   地に住んでいました。太郎の時代にB29が落とした焼夷弾で家が燃え、一家で千葉県の
   成田に疎開、その後、市川市に移り住んで今に至っています。戦後は立石祠とは縁が切れ
   てしまったようです。
 

   史跡 
立石
   立石は古くから原始時代の遺跡として知られているが、何物なるかはいまだ不明である。
   「古代メンヒル」との説あり沖積層の低地には珍しい存在とされている。石質は含化石凝
   灰石のよりなる。時代は第三期層に属す。古来学者間に人工移動説と非移動説あり、又そ
   の結論を得ていないが、応永五年(1598)「葛西御厨文書」によって約五百年以前よ
   り存在したことは事実である。近世「立石稲荷」として奉祀され、又立石の地名の発祥地
   である。
   昭和42年6月                          葛  飾  区
                                    葛飾区観光協会

   東京都指定史跡
   
立石                     所在地 立石児童遊園内(葛飾区
                               立石8丁目37番17号)
                           指 定 平成26年3月25日
   
立石は、中川右岸に形成された自然堤防上に位置する石標です。石材は千葉県鋸山周辺の
   湾岸部で採集されていた、いわゆる房州石で、最大長約60cm、最大幅約24cm、高
   さ約4cmが地上部に露出しています。

   一般的に「立石」という地名は、古代交通路と関係が深い詰めいで、岐路や渡河点などに
   設置された石標に因むとされています。この立石のある児童遊園の南側、中川に接する道
   路は、墨田から立石、奥戸を経て中小岩に至り、江戸川を越えて市川の国府台へと一直線
   に通じており、平安時代の古代東海道に推定されています。そのため、この立石は古代東
   海道の道標として建てられたと考えられます。
   
江戸時代後期以降、立石は寒さで欠け暖かくなると元に戻る「活蘇石(かっそせき)」と
   して江戸名所図会などの地誌類に多く記載されるようになります。立石が玉石垣で囲われ
   るようになったのは文化年間(1804~1818)以降で、その周囲に梛(なぎ)や小
   竹が繁茂する、社叢を呈していました。
   
「雲根志」には、立石が高さ2尺(約60.6cm)程度であったとされていますが、御神
   体として祀られて以降、風邪の煎じ薬や、愛石家のコレクションとして人々に削り取られ
   ていきました。また、御守として戦場に持参したという言い伝えもあり、その結果、現在
   の高さに至っています。
   
なお、大正12年には人類学者の鳥居龍蔵がこの地を訪れ、石器時代人が信仰のためか、
   墓標として建てたものと結論づけています。その後も中谷治宇二郎、大場磐雄ら考古学者
   により、先史時代の思想や信仰を明らかにする遺跡として取り上げられてきました。
   
東京低地における古代の交通史、近世以来の民間信仰をうかがい知ることができ、日本先
   史時代の研究史上重要な遺跡です。
   
平成27年3月 建設                      東京都教育委員会

 
B‐29
 第2次世界大戦末期から朝鮮戦争期のアメリカの主力戦略爆撃機。中型爆撃機構想から発展したB
‐17と異なり、最初から長距離戦略爆撃機を想定して設計された。当初は陸軍戦略航空軍所属だっ
たが、昭和22年に空軍の独立と共に空軍に移管。設計・製造はボーイング社、中翼単葉プロペラ4
発の大型爆撃機だ。爆弾の搭載量は最大9トン。航続距離は4585Km。ニックネームは、「超空
の要塞(スーパーフォートレス)」だ。初出撃は昭和19年6月。因みに東京発空襲をやってくれた
ドーリットルの爆撃機はB‐25だ。
 日本にも「富嶽」という長距離爆撃機の計画はあったが完成しないまま終戦となった。
 


帝釈天王塔 ◇
 立石8丁目38番1号の角、中川土手に面してある。庚申塔なのか、道標なのか。「文政三庚辰歳
四月」は建立月か?

   
帝釋天王  


五方山南蔵院立石寺(りっしゃくじ)
 立石8丁目40番25号の中川っ淵にある真言宗の寺。寺伝によれば、長保年間(999~100
4)五行に象った五角の地に熊野権現を勧請して五方山と名づけたという。熊野神社は江戸時代には
立石村の鎮守で、当寺持ちだ。永享九年(1437)正福寺第5世法印賢寛が中興。宝暦五年(17
55)将軍放鷹のとき御膳所に指定されたが、文政十年(1827)以降そのことは絶えた。安政二
年(1855)の大地震により本堂が倒れ、明治3年第13世戒順律師が再建、同8年8月の大風雨
により境内の古松が倒れかかって堂宇は再び大破し、同9年4月改築を行った。大正14年客殿を新
築、本堂の一部と庫裡を修築した。
 鎌倉~室町時代の板碑数基が保存されている。延享三年(1746)在銘の旧梵鐘は今次の戦争に
供出し、現在の梵鐘は当寺と無関係のものだ。元文四年の「正福寺惣門末起立録」に、

   西葛西領立石村 五方山 立石寺 南蔵院
   一、本尊 大日如来
   一、開基 永享九巳年 法印賢覚 元文四巳未年迄 凡三百壱年
   一、熊野権現社地 三反六畝八歩 御除地
   一、山王権現社地 二十四歩 右同断
   一.寺附 一町一畝十一歩 御年貢地
   一、境内 四反五畝十五歩 御除地
   一、性海代買添 一町七反一畝七歩 年貢地
   一、御代官所 伊那半左衛門殿


 とあり、「新編武蔵風土記稿」に、

   南蔵院
   新義真言宗上小松村正福寺末、五方山立石寺と号す。本尊大日。中興開山賢、寛永九年寂
   す。当寺宝暦五年より此邊御放鷹の時は御膳所を勤めしか、近き頃は御立寄の沙汰なしと
   云。
   鐘楼、延享三年鋳造の鐘をかく。


 とある。
 明治31年に、裏手にあった畑中の小円墳から埴輪土偶の首部と弥生後期の遺物が発見されたので
訪れる人が多い。古墳は俗に〝丸塚〟といって武蔵野特有の無石棺式のもので、千葉県国府台方面の
ものとよく似てるという。出土品は当時東京帝国大学人類学教室に運ばれ、その一部が寺に保存され
ている。
 中川土手沿いの道に入口がある。駐車スペースがあって、それから入口となり、左は庫裏と墓所、
右は鐘楼。本堂は立派な基礎の上に新築の白木の美しい綺麗な和風建築。屋根は銅板葺き。
 


■熊野神社児童遊園

 立石8丁目44番31号にある区立公園。


■五方山熊野神社(立石熊野神社)
 立石8丁目44番35号にある。祭神は伊邪那岐命、速玉男命、事解雄命。例大祭は9月16日。
境内末社は稲荷・水神・浅間の3社。旧別当南蔵院の由緒書によれば、長保元年(999)安部晴明
の勧請と伝え、清浄なこの地を選び、五行を象(かたど)り、30間5角とし五方山と名付けて紀伊熊野
権現を祀ったという。創立以来、郷民の崇敬篤く、江戸時代には3代将軍家光が鷹狩りの途次参詣し
て後、歴代将軍の参詣があり、8代将軍吉宗以降は御膳所として当社に休息することが通例となり、
その都度、当社からは金鳥の御符と守り札を献じたという。元文四年(1739)代官伊奈半十郎に
提出した記録には、江戸時代初期の社殿は荘厳な神明檜造りだったが、天明六年(1786)七月の
大洪水で流失したことを伝えているのだが、社殿は慶安二年(1649)・寛政八年(1796)・
安政四年(1857)・明治12年2月に改築され、昭和37年拝殿の一部が修復されている。
 特別の神事として、毎春4月1日に神饌講の大祈念を行い、当日は境内に植木市が開かれる。また
社殿の西側にある富士浅間神社の小丘は、大正13年社前を流れる中川の護岸工事の残土で建造され
たもので、高さ約3m、立石一山講によって毎年神事が行われていた。
 
神体として安置する磨製の石棒は、先史時代の遺物として古くから知られ、古代人の使った剣の1
種だという。この石棒が有名になったのは、寛政六年(1794)幕府の地誌取調役が発見した後で、
現在は秘物として一般には公開されていない。
 境内は平面五角形をしている。
鎮座地は中川の中洲で度々水害が発生する地域だったので、安倍晴
明は陰陽五行に基づき三十間五角(一辺およそ55mの正五角形)に境内を型取って、
社地そのもの
を魔除けの護符にしちゃったのだ。

 鳥居は明神、
社殿の遙か前方、道路を距てた参道口、奥戸橋通り面してにある。花崗岩製で「大正
5年10月建設之」とある。
 社殿は、拝殿が間口3間×奥行3間、奥の1間は左右に張り出して祭具庫に充てられ、前面には1
間の流れ向拝があり、屋根は入母屋造り、千鳥破風付、銅板葺き。幣殿は間口1間×奥行2間、両下
造り、銅板葺き。本殿は石造り、三間社、屋根は切妻造だ。この本殿は寛政九年(1797)神体の
石棒の盗難を防ぐため、戸ヶ崎村(埼玉県三郷市)の石工林幸右衛門に依頼して造ったものという。
 水盤舎は参道途中右側にある。
 神輿庫は参道玉垣の外にある。
 社務所は水盤舎の向かいにある。軒下に八咫烏が・・・

 
陰陽道
 起源は、紀元前2000年の古代中国にまで遡る。それが朝鮮半島に伝わり、5世紀頃に日本にも
たらされた。日々刻々と移り変わる自然の脅威に曝されていた当時の人々にとって、その変化を予測
することは最大の関心事だった。自然界のあらゆるものを「陰」と「陽」とに分けて考える「陰陽思
想」と、自然界は「木・火・土・金・水」の五つの要素で成り立っていると考える「五行思想」が統
合された。仏教が伝来した飛鳥時代には「陰陽五行説」にも関心が集まり、国の進むべき指針や自然
を読み解き、占う方法として政治への影響力を持ち始めます。また、易学や歴道、天文道などは当時
最新の科学技術として受け入れられた。奈良、平安時代にかけて大きな影響力を持ち、陰陽道は天皇
や公卿、貴族の日常の総てを支配するようになった。

 
安倍晴明
 幼い頃から多くの道に秀でて、特に天文暦学の道を極め、天文陰陽博士として活躍した。賀茂氏か
ら天文学、呪術などを学び、天体を移り行く星や雲の動きを観察し、宮殿の異変や遠方での吉凶を言
い当てた。朝廷内では「歴道の賀茂家」と「天文道の安倍家」の2家が陰陽寮を支配し、多くの権力
者の信頼を得て数々の功績を立てた。日本独特の陰陽道を確立し、今日の日常生活の基準となる年中
行事や暦術、占法は晴明によるものだ。寛弘二年九月二十六日、85歳でこの世を去ったが、陰陽道
の祖として今尚多くの尊敬を集めている。子孫は代々天文歴学、陰陽学を伝承し、陰陽道の秘伝書で
ある『金烏玉兎集』『占事略決』を著したと伝えられている。
 また、「式神を操り災厄を祓った」「母親が稲荷の狐の化身だった」と伝えられるなど、多くの点
において謎めいた人物であり様々な逸話が残されている。

 
立石富士
 境内にある富士塚・浅間神社。

   浅間神社
   御祭神は富士山の神霊と仰がれる木花開耶姫命であります。
   古い時代には、富士山は神さまそのものと崇められておりましたので、限られた行者しか
   登ることはありませんでした。
   ところが、江戸時代になると山の霊気に触れたいと思う人々が増え、一般の人が登拝する
   ようになりました。
   これを組織化したものが富士講であります。富士講の登拝は爆発的な人気となりました。
   登拝できない人々の為に各地の社寺境内に、富士山の溶岩を運び、積み上げられ、富士塚
   が築かれ、頂きり富士山を遥拝しました。
   木花咲耶姫命は燃え盛る火の中で無事に御子をお生みになられたことから、安産の神さま
   ・良縁の神さまとして信仰されています。健康・健脚を願い各地の富士塚を巡拝する当神
   社の講社は、一山講と称され、大正初期に結成され、爾来毎年7月1日早朝に、例祭が行
   われています。                         葛飾区教育委員会

 楠の木(神木夫婦楠)

 社殿後ろ両脇にある。東堀切の「吉田の楠の木(区指定天然記念物)」に並ぶ区内有数の名木だ。
ご神木でもあるこの一対のクスノキは、社殿を包むかのように聳え立っている。樹齢は江戸初期以来
350年以上とのこと。右の楠の側にある黒松も一抱えもある見事な大松だ。

   熊野神社の楠の木 二株
   所 在 地 立石八丁目44番31号
   登録年月日 平成元年7月20日
   このクスノキは熊野神社の神木で、社殿の両側に一対になっています。高さはいずれも約
   25m、目通りの周囲は右の樹が約3.80m、左の樹が約3.74mあり、樹齢は300
   年前後と推定されます。
   区指定天然記念物の「吉田のクスノキ」(堀切三丁目)と並ぶ、区内有数の名木で、木の
   勢いはいまなお盛んです。                    葛飾区教育委員会


 ※「約3.74m」、「約」って?・・・ 正確に3m74cmじゃないの?

 
祖霊社(五重塔)
 社地の西側は「遊楽園」という庭園になっており、当社のほか神田神社などの宮司を勤める大鳥居
信史が、平成21年に入手し奉納した銅製五重塔がある。元禄・宝永年間(1688~1711)に
三井本家が江戸屋敷内(文京区立第三中学校)の庭園に建てたものだといい、本体が5m、台座まで
含めると7mの高さで、銅製では日本一だ。
 また、五重塔の傍には二頭のポニーが飼われている。併設する熊野幼稚園に通う園児たちのマスコ
ットだ。牝の「ちょこ」と牝の「きらら」だとか。

   五重塔
   木造を模した鋳造五重塔で相輪から基壇までの総高5m・地上よ7m。相輪を双龍で華飾
   し、垂木先にも双龍を刻出するなど龍の塔の如くにある。初層四方は十二支獣、二層に麒
   麟、三層に鳳凰、四層に唐獅子、五層に連子窓の彫刻が見られる。三井家の江戸屋敷(現
   在の文京区第三中学校)の庭園に建てられていたと伝わる。三井家から住友家の別子銅山
   に発注され製作されたといわれ、明治時代に三井本家を離れたと口碑が伝わる。本塔は東
   京国立博物館にある塔と共に日本一の高さを誇る銅製の五重塔となる。当社は、長保年間
   (999~1003)に陰陽師安倍清明により、陰陽五行説、木火土金水に象り境内を三
   十間角とし、五方山熊野神社と号し、熊野三山が勧請された。創建1000を記念する神
   門の御造営につづき、世界平和と人類の幸せを祈念し、宮司が神職拝命五十年を感謝して
   五の縁(御縁)をもって五重塔を建立し寄贈する。      平成二十一年七月三十日


 
境内社
 富士塚の浅間神社(木之花咲姫神)と天満宮(菅原道真公)が手水舎の後方に鎮座する。手水社の
横に撫牛がある。また、社殿向かって右手には水神宮(水波賣神)・香取神社・稲荷神社の小石祠、
その奥には稲荷神社(宇迦御魂命)が夫々祀られている。

 
歌碑
 稲荷神社の手前にある。

 
さざれ石
 境内にある。

   国歌君が代に詠まれた
   
さざれ石
   伊吹山山麓産出
   美濃坂謹出
   奉納
   昭和25年1月吉日
   坂井正則

   
国家君が代に詠まれた「さざれ石」
   「さざれ石」とは、小さな石という意味ですが、年とともに大きく成長し、岩になると信
   じられている。神霊の宿る石です。
   国歌の原点は「古今和歌集」に詠まれた、生き石伝説の「さざれ石」にあります。
   当神社には、古代の石剣がご神体として祀られています。
   近くに「立石様」として、昔から崇め祀られている霊石があり、立石と言う地名の由来と
   も伝えられています。いずれも石に宿る神聖な力をもって、信仰の対象とされています。
   
「君が代」の歌詞と意味
     きみがよは ちよにやちよに さざれいしの
      いわおとなりて こけのむすまで 
   「平和を愛し、天皇を象徴として仰ぐ、我が国はすべての国民が幸福で、礫岩のように、
   小さな石が寄り集まって、大きな岩となり、その上には美しい苔が一面に生えるまで、い
   つまでも栄えますようにという国民の願いが籠められた、平和な歌です」
   
さざれ石について
   この石は、学名を石灰質角礫岩と云われ、石灰岩が雨水で溶解しその石灰分を含んだ水が
   時には粘着力の強い乳液体となり、地下において小石を凝結して次第に大きくなります。
   やがて、地上に現れて、国歌に詠まれた如く、千代に八千代に年を経て、さざれ石巌とな
   ります。その集結の過程状態をご覧下さい。
   この石は、国歌発祥の地と云われる、伊吹山麓の岐阜県揖斐郡春日村の山中で発見された
   ものです。
   国歌君が代に詠まれた
   永久の団結と繁栄の象徴
   名峰 伊吹山山麓産出・さざれ石美濃坂謹撰
   奉納 坂井正則
   昭和25年1月1日

 国歌「君が代」の歌詞の和歌を詠んだ人は、古今和歌集では「読人不知」となっているが、平安時
代、文徳天皇の皇子惟喬(これたか)親王に仕える藤原朝臣石位左衛門という人が、春日村のさざれ
石を見て詠んだ歌だ。この歌は、「古今和歌集」に採録されることになったが、石位左衛門は身分の
高い人ではなかったので、「詠み人知らず」として発表された後に、この歌によって位を腸わった。

即ち、石に関連があるので石位左衛門と改名したのだ。記録によれば、石位左衛門が没したのは天徳
元年(1004)だが、春日村には藤原姓は100戸以上あり、現在も子孫は健在だとか。

 
本田ウリの説明板
 境内にある。

   江戸・東京の農業 本田ウリ
   江戸の人口が増加するにしたがって、江戸近郊の農村では、換金作物として野菜作りも始
   まりここではウリなども盛んに栽培され本田ウリと呼ばれていました。
   農家はウリを収穫すると、船に積んで中川を下り、本所を流れる立川や小名木川を通って
   江戸に運んでいました。当時、果物などを水菓子と呼んでいましたが、江戸に上る途中で
   積み込まれる、本所で穫れるウリと比べると、本田ウリは大ブリで格段に美味しい水菓子
   と評判で、文政十三年(1830)の随筆『嬉遊笑覧』に「本所瓜美味ならす。本田瓜と
   いう形甚大なり〈増補江戸鹿子〉云々いへり。是ほんでん瓜なり。今これを銀まくはとい
   ふ。金まくはに対しての名なり」とあります。
   本田ウリは熟すと銀白色になり、真桑瓜の金マクワに対して銀マクワと呼ばれていました。
    瓜売りが 瓜売りに来て 瓜売り残し 売り売り帰る 瓜売りの声
                          平成9年度JA東京グループ
                          農業協同組合法施行五十周年記念事業
                          葛飾農業協同組合


 ※「売り残し」の瓜は余分。これは狂歌なのだ。

   THE AGRICULTURAL OF EDO TOKYO
   Honden Uri(Melon)
   With the increase in population of Edo, farming villages in suburban areas gra
   dually went for the cultivation of more and more profitable crops such as vegeta
   bles. Honden melon was one of such crops which used to be actively grown in thi
   s area.
   Farmer's boats shipped thier melons along the Naka River, farther down throug
   h 丁ate Rivwr and Onagi River in Honjo, to Edo. Honden melon was larger in
    size and much more delicious thair the melons picked and loaded in Honjo area
   on the mid-way to Edo.
 


■とげぬき地蔵・庚申塔 ◇

 立石8丁目53番18号にある小堂内に並んで安置している。地蔵は宝永三年(1706)の造立




【新宿】(にいじゅく)1~6丁目                  昭和43年1月1日
 新宿町。水戸街道、の宿場町。葛飾域では最も繁盛していた。明治11年「郡区町村編制法」に
より南葛飾郡に所属。同22年新宿町。昭和7年葛飾区新宿町1~5丁目。同43年新住居表示に
より一部を南水元・東金町・金町・高砂・柴又に譲り、残った1丁目の全部に2丁目と5丁目の大
部分をあわせた町域を現行の「新宿」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『葛飾区史』『葛飾の歴史』など。

 新宿の由来
 古くからの宿場で、初見は『遠山文書』の天正10年葛西城主遠山直景の伝馬手形に「葛西新宿」
とある。初め「新居」と書いて「にいい」といった。「にいいノ宿」が「にいじゅく」となり「居」
の字が取れて「新宿(にいじゅく)」となったもので、けして新しく開いた宿場ではない。中川に中
川橋が架けられるまで渡船(新宿の渡し)があり、水戸街道の東井堀北が佐倉道との追分(分岐点)
であるため宿場となる必然があった。往時の繁栄は大変なもので、茶屋・旅籠が軒を連ねていた。
ところが明治29年常磐線が敷設されることになって、「新宿駅」が設けられることになったが、
旅客が素通りすると計画に猛反対し、隣の亀有に押し付けた判断が仇になった。内藤新宿も、板橋
宿も、品川宿も、みんなそうして衰退していった。ここ新宿は昔栄えた宿場町とは思えないほど農
村的な匂いの強い静けさを保つ住宅街だ。だから新宿は2丁目の「鉤の手の古道」だ!
 


中川
 区内を流れる一級河川だが、享保十四年(1729)幕府が江戸を水害から守るため勘定吟味役井
沢弥惣兵衛(いざわやそうびょうえ→俗称やそべえ)に命じ開鑿したもので、それ以前は6m内外の
川だった。治水工事の関係か自然流かは定かではないが、俗に「九十九曲り」といい、これほど曲が
りくねった川は他に見当たらない。明治17年に水戸街道を渡す木橋が架けられる以前は、「新宿の
渡し」と呼ぶ渡船で、広重の「江戸百景」や、「江戸名所図会」の挿絵にも載るほど風光明媚な場所
だったらしい。
 


■中川橋

 架橋理由は、明治17年2月天皇が茨城県女化原で行われた。近衛兵の大演習を御覧のため急遽仮
橋を架けたもので「御幸橋」と呼んだが、翌年新宿・亀有両町で資金を出し合って本格架橋し、中川
橋と命名した。通行は有料だったので「賃取橋」と揶揄された。大正6年に東京府が買収管理してか
ら無料となり、何度か改修され、鉄橋になったのは昭和8年10月からだ。
 平成20年3月10日新しい3径間連続鋼床版鈑桁橋に架け替えられ開通した。
 


■新宿一丁目児童遊園
 
新宿1丁目2番3号にある区立公園


■新宿の問屋場跡
 
新宿2丁目にある。
新宿は江戸時代以前に開かれた旧水戸・佐倉道の宿場なのだ。永禄十一年(1
568)・天正十年(1582)の小田原北条氏の家臣遠山丹波守直景(遠山の金さんの先祖)の出
した伝馬文書に、「葛西新宿臼井迄」とあるから、徳川氏入国以前既に水戸・佐倉両街道の分起点と
して宿駅が置かれたのだろう。ともかく戦国時代の軍備上から造った特有の「鉤の手式」の直角に曲
がった街並が、昔そのままの姿で残されているのは関東では珍しい。江戸時代には日本橋から千住に
次ぐ2番目の宿駅として引き続き駅馬・伝馬の用を務め、水戸35万石の徳川家をはじめ、常・房・
総、奥州からの人馬で賑わい、旅籠屋や茶店なども大変繁盛した。問屋場は、人馬の継ぎ立てを主な
業務とし旅人の休憩や宿場の世話なども行っていた。この街道は正式には「水戸・佐倉道」といい、
五街道とは別の脇往還の1つで、道中奉行の支配下にあり、安永六年(1777)から問屋場の定置
人馬を25人・25匹とし、近郷10里四方の町村に対し助郷(宿駅業務への無料奉仕)を命じ、業
務を取り扱わせた。問屋場には常時、宿役人のほか帳付・人足指・馬指・迎番などの使用人がいて、
毎日の宿駅業務で賑わった。今では街並の建物も改築され、昔の面影は見られない。

 
生簀
 そう呼ばれる大きな池があった。この池では、コイやフナ、ドジョウ、ウナギなどが飼育され、将
軍が鷹狩に来た際にも、この生簀の魚を調理し、献上したという。『旧水戸街道繁盛記』によると、
生簀は現在の新宿小学校付近にあり、新宿独特の直角に折れ曲がった鉤型の道は、この池簀を避ける
ためだとの説がある。今一つは北条氏が敵の侵略を考慮したであったようだ。
 生簀守だった矢作藤左衛門の墓が西念寺にある。

 
中島家長屋門跡
 鉤の手道の最初のコーナー、2丁目17番の西北角のところにあった。現在その跡近く、日枝神社
山王保育園の敷地角に中島守利の胸像がある。
 


■日枝神社
 新宿2丁目1番17号にある。祭神は大山咋神。例大祭は9月15日。創建年代不詳。以前は宿場
町だった新宿の鎮守社。「新編武蔵風土記稿」によれば、元禄時代(1688~1703)は「山王
大権現」と称し、大山咋神を祭神とする。初め現在地より西方に位置したが、享保十四年(1729)
に中川改修工事に伴い現在地に遷った。翌年9月新たに社殿を営み、延享元年(1744)、寛政十
一年(1799)に再度改築し、安政二年(1855)の大地震で拝殿の一部が破損し、同四年九月
に修復した。その間宝暦十一年(1761)には境内社の水神社が鎮座。
御祭神の別名は山末大主神
で、比叡山の守護神とされる。
明治維新に際して別当鏡智院は無住であったので、当社を管理してい
た本寺の宝蓮寺秀鏡は、町内の百姓八郎右衛門を鏡左近と改名して当社の神職としたい旨を小菅県に
願い出る許可を得、鏡左近は神祇官から日枝神社神主職に補せられた。鏡智院は間もなく廃寺となる。
境内末社は水神と稲荷の2社。明神鳥居は2基、1つは小松石製で、「慶応二丙寅歳正月吉日 当町
氏子中」とある。今1つは花崗岩製「明治四十四年十二月建之 中村藤左衛門」だ。

 
山王鳥居
 鳥居の上に山形の付いた奇妙な形の鳥居をいい。
鉄筋コンクリート製で「昭和四十一年九月建之」
とある。前2者の中間のもの。日枝神社特有の鳥居だ。拝殿は間口3間×奥行3間、正面および両側
面に切目縁、正面に一間流向拝がある。内部畳敷、屋根は入母屋造り、浅瓦葺き。幣殿は間口1間×
奥行2間、屋根は両下造り、浅瓦葺き。本殿は一間社流造り。
 社務所は道路を隔てた北側にある。神楽殿・神輿庫(旧社殿)・町内神輿庫は社殿の左側にある。
水盤舎は柱4本。

 
イチョウ
 
といっても関取の丁髷じゃない。本物の銀杏の木だ。 幹回り3.25cm、樹高20m、雌株で区
内同種の樹木のうち葛西神社の3株につぐ巨木だ。区の文化財に指定されている。葛飾区の巨木は他
区に比べると総じて小さい。25年ほど前に樹齢400のケヤキの古木が枯れ、伐採された。惜っし
い!

 中島守利像
 日枝神社山王保育園の敷地角にある。戦前戦後を通じて衆議院義員として活躍した地元選出議員。
初め山王神社の水戸街道沿いにあったが、現在地に移された。
 中島は政友会の大物議員で、疑獄で逮捕されたり、良きにつけ悪しきにつけ色々頑張った小父さん
だ。地元じゃ名士。

   中島守利翁頌徳表
   夫レ民政ノ要諦ハ人心ヲ正ウスルニ在リ人心ヲ正ウシテ後始メテ百事興ル我カ中島翁ノ■
   行凡テ人心ヲ正スノ規範ニシテ聖旨奉公ノ先躍タリ翁ハ明治十年藤左衛門氏ノ嫡男トシテ
   此ノ地ニ生ル夙ニ神童ノ譽高ク弱冠十七歳ニシテ新宿郵便局長トナリ廿四歳同町長ニ推サ
   レ後南葛飾郡會議員ヲ榮ス即治大イニ擧カリ全國模範市町村三十ノ内ニ指定セラレタリ
   農事報書ノ如キ内国博覧会ニ於テ一等賞牌ヲ授輿帝國大學ニ買上ゲノ光榮ニ浴ス明治四十
   二年東京府會議員ニ當選シ累進四回此ノ間參事會員郡部會副議長トシテ大イニ手腕力量ヲ
   發揮シ大正元年遂ニ衆望ヲ擔イテ衆議院議員ニ■擧セラル爾来選ヲ果ヌル八回現在ニ至ル
   政友會及自由党ノ領袖トシテ明治大正昭和ノ三世ニ亘リ地方中央政界ニ雄飛シソノ春■■
   路朝野ニ畏敬セラレ咸望益々高キヲ加フ   如一面千元北■木材會社ヲ起シ後興銀行都
   銀行
 


覚林山宝樹院西念寺
 
 新宿2丁目4番13号にある浄土宗の寺。生簀守だった矢作藤左衛門の墓がある。入口のところに
ある矢作医院は子孫か? 文安五年(1448)僧浄円が結んだ草庵を起源とし、天文元年(153
2)覚蓮社法誉が寺院として創建したという。江戸時代には門末7ヶ寺を擁する小本寺格の寺院だっ
た。資料によると、将軍が鷹狩にきた際に、この地の生簀から魚を献上したと言われ、これを守った
一族の墓「生簀守の墓」がある。また鯖神社がある。その他、堂内には中川から出現した弁天像、熊
谷蓮生の笈仏(法然上人自作像)、草庵主浄円の碑と伝える板碑を蔵し、境内には稲荷社・愛宕社・
金毘羅社があるとし、元禄八年(1695)の「蓮門精舎旧詞」には、天文元年開山法誉の起立であ
るが、4代前の讃誉の代に自火によって失火したので由緒は知れずと記している。江戸時代には門末
7ヵ寺(西水元円蔵寺・同法林寺・東金町瑞正寺・同光増寺・亀有香念寺・奥戸専念寺・足立区大谷
田善応寺)を擁する本寺だった。「新編武蔵風土記稿」に、

   西念寺
   浄土宗、増上寺末、覚林山寶樹院と号す。当寺文安五年草庵を結ひ浄円と云僧住し、其後
   天文元年覚蓮社法誉の時一寺となせしと云。故にこれを開山とす。天文元年七月十六日寂
   す。本尊三尊の弥陀は恵心の作にて朝日の弥陀と唱ふ。此像は当寺十六世尊誉元禄十四年
   安置する所なり。堂中に中川より出現せし弁天の像、及び熊谷蓮生法師が笈佛なりと云傳
   る円光大師自作の木像あり。又草庵たりし時の僧浄円が碑なりとて青石の碑あり。
   鐘楼。明暦三年造立せし鐘を、明和八年再鋳せし鐘名あり。
   稲荷社。愛宕社。金比羅社。


 とある。
 


■立中川稲荷大明神

 新宿2丁目9番6号先にある小祠。住所は立増寺と同じ新宿2‐10‐20となっている。立中川
が何を意味するのか不明、中川稲荷と書いたものもある。


■中川橋

 かつて、水戸街道の千住宿と松戸宿の間のこの地には、「新宿の渡し」があったが、新宿町と亀有
村の両民が建設資金を拠出して、明治17年12月に明治天皇の行幸に合わせて橋が完成した際、廃
止された。翌年、新しく架け替えられた橋では通行料が取られ賃取橋とも呼ばれた
 2代目の橋は、昭和8年10月に鋼橋が架設されたが、老朽化、交通量の増大に対応するため、車
道の拡幅などを行う架替工事が、平成5年に着工され、事業費28億円をかけて、同20年3月10
日に供用された。旧橋の撤去から新橋の完成までは、同14年3月、仮設橋が上流部に設置された


■中川橋東詰めのタブの木の株
 新宿2丁目8番、平成20年完成の中川橋東詰にできた三角地にある木株。このタブの木は、元々
この地にあった江澤家の庭木だったが、仮橋迂回路上に残るため、移植を試みたが果たせず、結局、
伐採した。併し、名物の木であったため、名残としてモニュメントとすることにした。

   タ ブ の 木
   
モニュメント

 傍らに説明板が建ててある。

   
中川橋橋詰のタブの木

   
~中川の歴史~
   中川は、埼玉県および東京都を流れ東京湾に注ぐ一級河川であり、利根川水系の支流です。
   起点は埼玉県羽生市街地にあり、起点を示す石標が設置されています。
   江戸時代初期までは利根川や荒川の本流でしたが、利根川の東遷事業などで本流が変わり、
   隅田川と利根川の間を流れる川で「中川」と呼ばれるようになりました。
   江戸時代の中川には橋がひとつもなく、当時の中川橋周辺には、旧水戸街道の亀有村と対
   岸の新宿町を結ぶ「新宿の渡し場」がありました。近くには、「柴又の帝釈天」があるこ
   となどから、参拝客や街道を往来する人で大変賑わっていたようです。

   
~タブの木の経緯~
   中川橋東橋詰にあったタブの木は、昔から街道を往来する人々の〝道しるべ〟であったと
   伝えられており、地元住民から長く親しまれてきました。
   しかし、平成4年から始まった中川橋架替え事業に伴い行った樹木調査の結果、移植が不
   可能な状況であったため、やむなく伐採されることとなりました。
   現在植えられているタブの木は、伐採に先立って種を採取し、育てた苗木です。また、
   〝旧中川橋の名残〟として、苗木の他、以前のタブの木の一部で製作したモニュメント、
   及び旧中川橋両岸の親柱を設置しております。

 
区の説明板は以下の通り。


■旧中川橋親柱

 新宿2丁目8番、平成20年完成の中川橋東詰にできたの三角地に据えてある。

 
国旗掲揚塔
 親柱の傍にある。コンクリート塔に以下の文字が一字づつタイルで貼り付けてある。

   昭和八年十月成
   
国旗掲揚塔
   新宿町青年團第一分團


長遠山立増寺
 
 新宿2丁目10番20号にある日蓮宗の寺。日蓮聖人の大檀越だった駿河国松野の郷士松野六郎左
衛門重正が開基、日位が開山となり、永正年間(1504~21)に創建したと伝えられる。境内の
開山塔にも永仁元年(1293)二月の創立とあるが、その間の事情は明らかでない。また江戸時代
には唐の朝栄作の赤梅檀釈迦像や弘安三年(1280)日法作の日蓮聖人像を安置していたそうだが
現在は所在不明。明治16年5月の祖師堂改築の棟札を蔵し、本堂は昭和43年5月の新築だ。
 「新編武蔵風土記稿」に、

   立増寺
   日蓮宗、下総国葛飾郡中山法華経寺末、長遠山と号す。開山日位大永元年十月四日寂す。
   開基は駿河国松野の郷士松野六郎左衛門重正と云。此人は宗祖の檀越なりしと云傳ふるの
   みにて事蹟は詳ならず。本尊三寶を安し、堂中に赤梅檀を以て唐の朝栄が作れる釈迦の像
   及び弘安三年二月日法の作りし日蓮の像を安せり。


 とある。
 


医王山蓮華院宝蓮寺
 
 新宿2丁目11番22号にある真言宗の寺。天文元年(1532)に栄源が中興開基となり創建し
たと伝わる。中川橋から水戸街道に向かう区画整理中の道路沿いにあり、区画整理でお寺を建て直し
たようで、本堂、客殿とも作り立てだ。道路向かいに立増寺がある。
 元文四年(1739)の「正福寺惣門末起立録」には、開基を天文元年(1532)栄源、法流相
続を正保二年(1645)栄広代としているが、「新編武蔵風土記稿」では、

   寶蓮寺
   新義真言宗上小松村正福寺末、医王山と号す。不動を本尊とせり。天文元年、栄源とト云
   僧、中興せり。是今ノ法流ノ祖ナリ天文元年栄源と云僧中興せり。是今の法流の祖なり。
   薬師堂。像は行基の作なりと云


 といい、その所伝を異にし、ただその本尊はともに不動明王としている。「風土記稿」には当寺に
は行基作と伝わる像を安置する薬師堂があり、さらに当時の門末として、大日如来を本尊とする山王
山鏡智院が存した旨を記している。現在当寺の本尊となっている薬師如来像は、もと別堂の本尊であ
り、脇檀の不動明王は当寺の旧本尊、大日如来像は旧鏡智院の本尊か? 本堂は安政二年(1855)
十月の大地震で倒壊し、明治3年に改築された。旧水戸街道に面し、境内にはイチョウの古木が聳え
ている。「正福寺惣門末起立録」の記事は以下の通りだ。

   新宿町 医王山 蓮華院 宝蓮寺
   一、本尊 不動明王
   一、開基 天文四壬申辰年 法印栄源 元文四巳未年迄 凡弐百九年
   一、稲荷社地 二十四歩 御除地
   一、六天社地 六畝九歩 右同断
   一、清滝権現社地 二十歩 右同断
   一、廟所 二畝二十歩 御除地
   一、境内 三反一畝二分 右同断
   一、御法流 正保二己酉年 栄弘代相続
   一、高外御見取場 田五反八歩
   御代官所 伊那半左衛門殿

 とろけ地蔵
 境内にある小祠。

 
庚申塔
 境内の大樹の根元にある。
 


■大池児童遊園
 
新宿2丁目15番9号にある区立公園


■稲荷社
 
新宿2丁目16番6号にある小堂


■道標 
撤去

 新宿2丁目20番1号の三叉路の突き当りにあったが、この近辺の再開発により撤去された。北に
上がって行く道が水戸街道、南に降って行く道が佐倉道だった。この道はずーっと南下して、高砂6
‐7‐12の三叉路で東に折れ、亀田橋(撤去)を渡って南に曲がる道が旧佐倉道だ。成田道に通じ
ていることでもあり、供養の不動尊坐像が乗っかっていた。
何処へ行ったろうね。

   右面 成田山 さくら道
   
正面 右 なりたちば寺道
      左 水戸街道
   
左面 安永六丁酉八月吉日 石橋供養塔
   
裏面 安永二年巳ノ十月廿三日ゟ同酉ノ十一月廿三日まで石橋廿七ヶ所建立仕候為供養尊像辻石立置申候 

 と刻んであった。突き当たる前に用水が流れていて石橋が架かっていた。用水は現在遊歩道になっ
ており、「金阿弥橋」の親柱が残されている。嘗て道標の側にあった説明板。

   区・郷土資料
   
水戸街道石橋供養道標       所 在 地 葛飾区新宿二丁目20番25号
                       指定年月日 昭和53年2月13日
   この場所は、新宿町宿場の町はずれにあたり、水戸・佐倉両街道の分岐点ちとて安永二年
   より六年(1773~1777)にいたる五ヶ年を費やし、付近の石橋27ヶ所を架橋し
   たとき供養のため、町内の不動講、万人講、女中講等の人々によってたてられた「みちし
   るべ」である。
   この碑は、当時の交通史上、また路上資料として立派なものである。
   昭和53年3月1日                    東京都葛飾区教育委員会



林光山称名院浄心寺

 新宿2丁目22番20号にある浄土宗の寺。 元禄八年(1695)の「蓮門精舎旧詞」には、慶
長十九年(1619)廓蓮社然誉潮呑和尚が開山、明呑(浄心道求大居士)が開基となり創建、古く
から「下寺」と称し、江戸時代には両国回向院(墨田区)および小塚原回向院(荒川区)住持の隠居
寺であったという。本堂は明治20年焼失、同22年再建、大正12年に改修されたが、昭和46年
に新築、客殿は翌年完成して面目を一新した。境内の聖天堂は、昭和3年稲生真履が青山から移した
もの。また境内の墓地には、2・26事件で殉職し、岡田啓介元首相が建てた清水与四郎巡査の墓が
ある。「新編武蔵風土記稿」に、

   浄心寺
   同末(浄土宗、増上寺末)林光山と号す。当寺は寛永年中僧明呑開基すと云傳ふ。本尊三
   尊の弥陀を安す


 とある。


■日の出橋

 新宿2丁目23番9号先、用水に架かっていた橋。何もなかったから日の出が綺麗だったんだろう
ね。


■新宿馬頭観音堂

 新宿2丁目24番10号にあるお堂。立派な仏壇に納められている。堂の南側の遊歩道は川の跡で
橋が架かっていたが、観音橋といった。入口右に立派な碑が建つ。

   馬頭観世音

   故事来歴
   江戸時代の文献「新編武蔵風土記稿」によると、東葛西領新宿町は往還駅停の役割を持ち
   人馬や荷駄の輸送にあたった乗継塲場が有り、多くの馬が使われた。
   この地は宿場時代の馬捨場で、死亡した牛馬の供養のため三面の馬頭観音像を安置した馬
   頭観音堂が、正徳元年(1711)に建立され、今日に至っています。
   庭には牛馬供養、犬供養、寒念仏などの碑があり、これらの文化財を後世に残すためこの
   碑を建てる。

 稲荷社
 右奥にある。

 
観音橋親柱
 敷地の左端、遊歩道との境目に残っている。堂の南側の遊歩道は川の跡で橋が架かっていたが、そ
の橋を観音橋といった。


■新宿小学校

 新宿2丁目26番1号にある。明治6年宝蓮寺に「第六中学区第五番小学校」として開校。同34
年「勝鹿尋常高等小学校」の校名を廃し「新宿尋常小学校・新宿高等小学校」と改称。同45年「新
宿尋常高等小学校」と改称。大正13年11月22日現在地に校舎を新築し移転(この日を開校記念
日とする)。同15年蛍をあしらった校章制定。
 昭和7年東京市周辺郡部の市併呑により「東京府東京市新宿尋常高等小学校」と改称。同10年分
教場を「住吉尋常小学校」として分校。同16年勅令148号崑民学校令により「東京府東京市新宿
国民学校」と改称。12月日米開戦。同18年都制施行により「東京都新宿国民学校」と改称。同1
9年学童集団疎開。同20年日本敗戦により疎開解除、学童集団帰校。
 同22年戦勝国アメリカの強制による学制改革により「東京都葛飾区立新宿小学校」と改称。同3
2年校歌制定。

 校歌「
紫匂う」 作詞・能重真太郎校長  作曲・上岡進音楽教諭
  1.紫匂う葛飾野
    豊けき流れ中川に
    沿いて立ちたる学舎は
    ああ我が新宿小学校
  2.明治六年創立の
    輝く歴史戴きて
    真理
(まこと)の道を求め行く
    互いに睦み師と共に
  3.富士ヶ嶺遥か仰ぎつつ
    高きを目指し努めなん
    日々に新たに 日に新た
    ああ我が新宿小学校


 同
47年
鉄筋コンクリート造り4階建て校舎落成。同48年創立100周年記念式典。同56年旧
プール解体、屋上にプールのある新校舎落成。
 平成3年創立130周年記念式典。同12年校舎耐震化。
 


■葛飾図書館 → 新宿図書センター

 新宿3丁目7番1号にある。平成21年10月17日金町駅南口に中央図書館が開館したため、こ
れまでその機能を果たしていた葛飾図書館はその役目を終え、新たに新宿図書センターに名称変更し
衣替えした。
 


■葛飾商業高等学校

 新宿3丁目14番1号にある。昭和37年都の高校生急増対策の第一着手として現在地(約870
0坪)に新校舎建築着手。従来の都立金町高等学校全日制課程商業科が新設され、校名を「東京都立
葛飾商業高等学校」として9学級で新発足。校章・校旗・制服を制定。5月第1期鉄筋コンクリート
造り校舎増築落成。後援会・生徒会発足。11月落成式・校舎制定。

 校歌「
希望輝き力ある」 作詞・勝承夫  作曲・平井康三郎
  1.希望輝き力ある
    光は此処に我等が上に
    自主の意氣逞しく
    堂々と進むもの
    真理を求め正義を愛す
    葛飾商業栄ある母校
  2.広く見晴らす野に町に
    文化は興り世紀は開く
    新しきこの星座
    弛まざるこの泉
    開拓精神湧き立つ処
    葛飾商業果て無き未来
  3.霞む筑波に夕雲に
    明日待つ夢を遥かに語る
    変わらざる友を得て
    敬愛を胸深く
    平和の理想楽しく築く
    葛飾商業我等が母校


 同38年第2期鉄筋コンクリート造り校舎落成。同39年第3期鉄筋コンクリート造り校舎。同4
0年体育館完成。同42年部室完成。プール完成。同43年照明塔設置。同46年創立10周年記念
式典。同55年電算機導入。同57年校舎全面改修。創立20周年記念式典。同58年第1学年のみ
臨時1学級増、10学級となる。同59年新校舎落成。同60年制服改定。プール改修。第1学年の
み臨時1学級増、10学級となる。
 平成4年情報処理科設置、2学級、商業科5学級、計7学級となる。創立30周年記念式典。同8
年体育施設開放。第1学年学級減、6学級となる。同9年第2学年学級減、6学級となる。同10年
第3学年学級減、6学級となる。同14年創立40周年記念式典。同17年グランド・テニスコート
改修。


■新宿中学校

 新宿3丁目20番1号にある。同22年新宿小学校の中に「東京都葛飾区立第四中学校」として開
校。同24年新宿町2丁目1492番地(現在地)に、校舎(普通教室10・校長室・職員室・用務
員室)落成移転。同25年「東京都葛飾区立新宿小学校」と改称。同45年第1期鉄筋コンクリート
造り4階建て校舎(15教室)落成。同47年年鉄筋コンクリート造り4階建て校舎(9教室、放送・
保健・事務・用務員室・玄関)落成。同50年第3期鉄筋コンクリート造り4階建て校舎(調理室、
技術室(金工)、職員室・会議室、被服室、理科室、図書室、音楽室、普通教室
)落成。同52年第4
期鉄筋コンクリート造り校舎(音楽室、理科室、美術室、木工室、視聴覚室、特活室、普通教室)落
成。同52年創立30周年記念式典。同53年プール(25m×12m・6コース)、男女更衣室、
倉庫完成。校庭整備。同60年第5期鉄筋コンクリート造り2階建て体育館・特別活動室・多目的室
・視聴覚室
完成。同62年創立40周年記念式典。同63年校庭整備。
 平成3年西側校庭「緑の小道」完成。同4年楠木を新宿中のシンボル樹として制定し植樹祭。校内
緑化。コンピュータ室完成。同5年ウィーン市フロリズドルフ区友好訪問団来校。同6年北京市豊台
区教育視察団来校。
同7年ウィーン市フロリズドルフ区ギムナジウム訪問団来校。インドネシア少年
少女代表団来校。同8
年インドネシア少年少女代表団来校。同9年ストップザエイズ学習会。毎年の
行事としてスタート。創立50周年記念式典挙行。同
10年北京市豊台区友好訪問団来校。同12年
プール改修。北京市豊台区友好訪問団来校。同13年インターネット接続。
同16年校舎耐震化。同
17年「おはよう21タイム」朝の総合的な学習の時間一単位時間15分×4日で1時間分。同19
年創立60周年記念式典・中央玄関タイル壁画制作。同21年北京市豊台区青少年友好訪問団来校。

 校歌「
若き血に燃えて」 作詞・西條八十  作曲・古関裕而
  1.若き血に燃えて仰ぐ
    葛飾の朝日
    集まる我等 緑の風に
    よく学び よく鍛う
    その姿 映す中川
    楽し我等
    あゝ新宿の中学生 我等
  2.昇る峰 険し遠し
    学究の行手
    心を結び力を協せ
    我等行く 今日も行く
    その肩に担う日本
    楽し我等
    あゝ新宿の中学生 我等
  3.若き日の夢は駆ける
    新しきアジア
    輝く誇り 弛まぬ意思に
    いざ進み いざ興せ
    この文化、我等築かん
    楽し我等
    あゝ新宿の中学生 我等



■新宿交通公園

 新宿3丁目23番19号にある大人が楽しめる区立の児童公園。園内には、横断歩道、信号機、道
路標識などが一般道路と同じように整備されており、ゴーカートや自転車に乗りながら、知らず知ら
ずのうちに交通ルールを学習することができる。ルールを守らないと子どもでも怒られる。また週末
にはミニ新幹線やミニSLが運行しており、都バスや消防車の実物も展示されている。芝生広場や自
由広場、花壇などもあり、この手の交通公園にしてはなかなか本格的な出来になっている。葛飾区や
江戸川区には優れた公園が多く、舐めたらいかんぜよ。休園日は月・火曜日と第4週の日・月曜日、
年末年始。

   
新宿交通公園
   この交通公園は、主として児童の健全な遊戯の用に あわせて児童に交通知識及び交通道
   徳を体得させることを目的とし、本区において初めての交通公園として昭和44年に完成
   したものです。園内では、自転車、ゴーカート、豆自動車等の乗り物を通じて、楽しく遊
   びながら、正しい交通ルールとマナーが身につくよう、歩・車道の区別をつけ、横断歩道
   ・信号機・各種道路標識を設置すると共に、都バス、船、灯台も設けました。
   また、昭和58年からの改修工事では、全面的な見直しをはかり、今まで以上に楽しい公
   園としてご利用いただけますようミニSL及びDLの運転をはじめました。
   昭和59年8月
 


■協栄児童遊園
 
新宿3丁目26番19号にある区立公園


■新宿庚申塔群 
移転 → 地蔵菩薩石仏等十三体・八大龍神石碑

 新宿4丁目2番3号先の川っ縁にあった、川が埋め立てられて道路になった時も残っていたが、最
近行ってみると再開発ですっかりなくなっていた。スペースはあるのだから残しておけばよいのに、
旧水戸街道の肝心要のところなんだから。15基もあったんだよ。壮観でそれこそ観光資源だったん
だけど、葛飾区の文化行政もこの程度だ。がっかりするよ。そしてネットで探してもヒットしないん
だ。何処に移したかぐらい書いとけよ。

 と怒って、うろついてたら、「新宿4‐9‐9」の路傍に移してあった! ブラボー!
 「地蔵菩薩石仏等十三体・八大龍神石碑」ということになっていた。


■地蔵菩薩石仏等十三体・八大龍神石碑

 新宿4丁目7番9号の三角地にある。
新宿4丁目2番3号の川っ縁にあったものを、川の埋め立て
と道路拡張工事のため移転してきた。十三仏は全て地蔵12基と庚申塔1基、それに帝釋道標と八大
龍神碑。そしてこれらを集めたことの記念碑。

 
八大龍神の碑
 昭和56年3月区内新宿の路上に、突然長さ15mほどの大蛇のようなうねりが浮かび上がるとい
う事があった。時期が3月ということで、税金期に多い道路工事によって偶然できたものなのだが、
夜に大蛇を見た人とか、大蛇の夢を見たという人が続出した。
 或る区民が夢で見た通りに近くのお地蔵さまに「八大龍神」と刻んだ石碑を置き、
5月7日に祭事
を行ったところ、道路の蛇の姿は見る見る細く薄くなって消えてしまったという。新宿4丁目9番9
号に石仏群があり、新しく一ヶ所に集められ、記念碑には

   地蔵菩薩石仏等十三体並びに八大竜神石碑を旧水戸街道路拡幅及び旧上下之割用水埋設工
   事に伴い新宿四丁目二番地先より現在地に移転


 と書かれている。

 
帝釈天道標
 これは元々あったものだと思われる。なんとなれば、石仏群の前の道は水戸街道(旧道)だが、直
ぐ東南に折れる道が、ほぼ一本道で柴又帝釈天に向かう。道標には、リアルな指差しの手の線画と寺
紋の稲妻模様が描かれている。

   
帝釋道

 
記念碑
 地蔵菩薩石仏等十三体・八大龍神の移設を祈念して建立された。

   記念碑
   地蔵菩薩石仏等十三体    新宿連合町会
   並びに八大龍神石碑を     会 長 山勝清一
   旧水戸街道道路拡張及び
   旧上下之割用水埋設工事    世話人 狩野栄一
   に伴い新宿四丁目二番地        山蔭一秋
   先より現在地に移転          小倉貞雄
   平成十年二月二十二日
         斉藤隆夫


■亀有警察署

 新宿4丁目22番19号にある。大正12年10月20日寺島警察署亀有分署として、当時の東京
府都南葛飾郡亀有村(亀有2丁目)に署長以下72人を以て発足し、同15年6月25日亀有警察署
に昇格した。昭和8年9月12日葛飾区全域を管轄する葛飾警察署と改称したが、戦後の同21年3
月15日葛飾区の南部地域を管轄する本田警察署(葛飾警察署)と分離されたことに伴い、亀有警察
署に戻称した。

 
●「死んだ夫が帰って来た」
 平成30年6月12日、昨年6月自殺したとみられる男性の身元を取り違え、別人の親族に遺体を
引き渡していたと発表した。死亡したはずの男性が約1年後に帰宅して判明した。保管していた遺体
の指紋を改めて確認したところ、行方不明になっていた別の男性と一致したという。身元誤認があっ
たのは葛飾区の江戸川で、水死した男性。行方不明届が出ていた千葉県松戸市の40代前半の男性と
年齢や身長が近かったため、亀有署が妻ら親族3人に遺体を見せ、「間違いない」と話したため引き
渡した。併し、今月6日に男性の妻から「夫が先月帰ってきた」と同署に連絡があり、人違いだった
ことが判明したという訳だ。昨年6月に都内の30代後半の男性が行方不明になっており、遺体の指
紋と照合したところ一致した。同署は男性2人の親族に謝罪し、遺骨の引き渡しを受けた。松戸市の
男性は妻と別居しており、自殺を仄めかす手紙と荷物を自宅に送っていた。遺体の顔は少しむくんで
いたため、妻も本人と疑わず、着用していた服や靴は遺品として大切に保管していたという。
 


■新宿四丁目児童遊園
 
新宿4丁目23番1号にある区立公園


■しらゆき児童遊園
 
新宿4丁目25番2号にある区立公園


■町並児童遊園
 
新宿5丁目2番8号にある区立公園


東雲山秀清院慶円寺
 
 新宿5丁目5番2号にある浄土宗の寺。村民五郎右衛門夫婦(法号:林誉慶円・円誉秀清)が、飯
沼弘経寺の住僧南誉雲念の下で出家した後、当地に創建したという。飯沼弘経寺の南誉雲念は後に増
上寺二十世となった僧で、彼を勧請開山とする。元禄八年(1695)の「蓮門精舎旧詞」には、慶
長十四年(1609)南誉雲念の起立とある。雲念は下総国飯沼弘経寺の住僧、寛永十六年(163
9)江戸芝増上寺の20世住職となった人だ。また「新編武蔵風土記稿」によれば、昔、新宿の村民
五郎右衛門が畑から阿弥陀仏像を掘り出し、草庵を建てて安置し、妻とともに飯沼弘経寺の雲念の許
で出家し、夫は林誉慶円、妻は円誉秀清と号して草庵を守り、ついに雲念から寺号と院号、京都知恩
院から山号を与えられたという。当寺の嘉永三年(1852)の過去帳奥書にもこのことが記されて
いる。これによれば、雲念を当時の開山とするのは勧請開山であろう。
 墓地入口の右側に貞享三年(1696)建立の開基南誉上人の碑がある。本堂は昭和14年の改築
だ。「新編武蔵風土記稿」記事は以下の通り。

   慶円寺
   同宗、下総国葛飾郡小金町東漸寺末、東雲山秀清院と号す。相傳ふ当寺は往昔村民五郎右
   衛門と云者、畑中より弥陀の像を掘出しければ、即ちここに草庵を造立して彼の像を安し、
   夫より五郎右衛門夫婦ともに下総国飯沼弘経寺の住僧南誉雲念の門に入て剃髪し、林誉慶
   円と号し、婦は円誉秀清と名付け此草庵に住せしか、後年師の南誉に乞て一寺となし、慶
   円寺と号す。故に慶円の開山とす。其後南誉増上寺に移住せしかば、又当寺の山院号を南
   誉に乞ければ、則秀清院となづけり。東雲山の号は京都知恩院より賜ふと云。もとより当
   寺を開基せし年代は傳へざれども、南誉は増上寺二十世にして、寛永十六年二月住職に命
   ぜられ、同十七年九月十八日寂せし僧なれば、大抵其年代は推て知べし。慶円が子孫、今
   も村民にて五郎右衛門と呼へり
 


■町並児童遊園
 
新宿5丁目2番8号にある区立公園。


■新宿五丁目児童遊園
 
新宿5丁目18番5号にある区立公園。


■にいじゅくプレイパーク

 新宿5丁目21番10号にある区立公園。従来の管理者の決めたルールの中で子どもたちが遊ぶの
ではなく子どもたちが自分の責任で自由に遊ぶための新たな形の遊び場として平成9年5月開園。面
積は1817㎡。園内には、つり橋、ロープ登り、網登りができる「冒険砦」が地域の住民の協力で
作られ、子どもたちの人気を集めている。
 


■内野橋児童遊園

 新宿5丁目22番10号にある区立公園。


■三菱ガス化学 東京工場 → 東京開発センター・東京研究所
 
 新宿6丁目1番にある。大正7年「江戸川バリウム工業所」設立。バリウム塩類生産開始。同8年
「江戸川工業所」と改称。同11年江「合資会社戸川工業所」と改称。同15年ホルマリン生産開始。
 昭和6年日本酢酸製造(株)大阪工場を買収したため、東京工場となる。堂8年隣接地に「東京メタ
ノール株式会社」を設立しメタノール生産開始。同12年東京メタノールを併合し、「株式会社江戸
川工業所」と改称。フェノール樹脂積層板、成形材料生産開始。
 同24年「江戸川化学工業(株)」と改称。同26年「日本瓦斯化学工業(株)」設立。同28年メタ
ノール生産停止。同36年トリメチロールプロパン生産開始。同37年「三菱江戸川化学(株)」と改
称。同42年ハイドロサルファイト生産開始。
 同46年日本瓦斯化学工業と対等合併して「三菱瓦斯化学(株)」と改称。同49年水島石油化学工
業(株)を併合。同51年ガラスエポキシ銅張積層板生産開始。同52年エージレス生産開始。同56
年BTレジン生産開始。平成3年アネロパック生産開始。同4年RPシステム生産開始。同11年磁
性ガーネット単結晶生産開始。トリメチロールプロパン、ハイドロサルファイト生産停止。同13年
ホルマリン生産停止。同16年ガラスエポキシ銅張積層板生産停止。同17年東京開発センターに改
称。同18年BTレジン製造停止。同19年LEシートの生産を停止。
 


■再開発地(三菱製紙中川工場跡地)
 
 新宿6丁目2番。広大な空地は不気味だ。しかし超高層の集合住宅が何棟か建って、1500世帯
以上の大団地になるらしい。完成は平成36年というから気の長い話。平成23年までに都営六丁目
アパート1~5号棟が完成しているが、5%くらいかな。まだまだ広大な空地だ。

 と高を括っていたら、気が付くと、工事が始まってる。タワーシティ金町だとよ。東半分はまだ空
地だ。


■東京理科大学・葛飾キャンパス

 新宿6丁目3番1号にある私立大学。

 
東京理科大学葛飾図書館
 一般利用は不可ではないが、結構面倒くさい。触らぬ神に祟り無しだ。


■葛飾にいじゅく未来公園(南)
 
 新宿6丁目3番2号にある区立公園。北側に東京理科大学葛飾キャンパスがある。

 
地球釜
 三菱製紙の機械の一部が記念物として広場に残されている。錆着いた鉄の塊、何の意味があるのだ
ろうか? 三菱製紙ここに有りきと誇示したいのか? 

   地球釜
   この茶褐色の鉄の球体は、「地球釜(通称)」とも呼ばれる損紙を蒸して再生するための
   蒸釜です。この地には、本区における近代工業の先駆的な工場である三菱製紙株式会社中
   川工場がありました。
   日露戦争後、紙の需要が増加したことで、合資会社三菱製紙所は神の大消費地である東京
   に注目しました。工場建設の適地としては、本所方面への連絡が容易で、常磐線などの鉄
   道があり、横浜方面と直接船で航行できる中川と江戸川に挟まれた、葛飾区新宿付近が選
   定されました。工場名を「三菱製紙所中川工場」と決めて、大正4年から建設を始めて大
   正6年に操業を開始しました。
   創業当初に製造された製品には、煙草口紙用紙をはじめ、教科書用紙、模造紙などがあり
   その後、大蔵省印刷局受注した葉書用紙も重要な製品となりました。第二次世界大戦の戦
   時中には、写真印画紙用原紙(バライタ紙)の製造をはじめ、軍関係の地図用紙等の抄紙
   や、新紙幣の抄造と旧紙幣の処理なども行っていました。戦後、中川工場は、昭和21年
   4月に大蔵省から紙幣用紙抄造管理工場に指定され、戦争で被災した大蔵省印刷局王子工
   場が復興する昭和24年まで紙幣用紙の抄造を行いました。
   損紙をパルプにする作業に使われたのが、昭和20年から21年にかけて設置された球型
   の蒸釜です。この蒸釜は地球釜とも呼ばれ、厚さ16mmの鉄板32枚を鋲で球型に仕上
   げたもので、最大内径4.27mの大きさです。釜の中に、損紙等(5t)と水(9000
    ℓ)を入れ、毎分1回転の速度で回転させながら蒸気を注入して蒸し、紙の繊維を解きほ
   ぐして再生原料として使用しました。
   三菱製紙(株)中川工場は、昭和22年のキャスリーン台風によって被害を受けましたが
   その後、復興を遂げ、バライタ紙やアート紙を量産し、新たにOA関連の感熱紙やインク
   ジェット紙などの製造も手掛けるなどして操業を続けました。しかしながら、工場の移転
   が決まり、平成15年3月に86年余りの歴史に幕を下ろしました。
   その後