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 東京の地名の由来
 東京知ったかぶり!

平成17年2月11日発信   リンクフリー
地名の由来 東京23区辞典 引用自由

    江戸川区の地名の由来
      現在進行形の調査であれば、逐次、誤謬訂正・新規追加あり。御用心 御用心!

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9.11(アメリカ同時多発テロ) 首謀者はチェイニー 港 区


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【巻末特集】 江戸しぐさ
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 【巻末特集】 隅田川 (渡しと橋)
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 酸素魚雷 音羽ゆりかご会 八雲学園 目黒のさんま




江戸川区の地形
 江戸川区は、区内全域が東京低地となっており、中川・江戸川など河川の氾濫や蛇行によって形成
された氾濫低地と、東京湾を由来とする海成の海岸低地とに分類される。大まかにいえば、区の北部
に氾濫低地が、南部に海岸低地が分布していると考えられるが、明確な地形的境界はなく、混在して
いる。またこれら低地には、河川の蛇行や氾濫の痕跡を示すように、砂分を主体とする微高地(自然
堤防)が分散している。


地形・地質と住宅地盤

 
氾濫低地
  荒川や江戸川流域に広く分布する標高の低い平坦面である。地下水位が高く、軟弱な粘土やシル
ト(泥地)が厚く分布しているため、長期的な沈下(圧密沈下)が問題になっている場所が多く、適
切な基礎補強策が必要となる。区北部の低地。中古には区全体が海か低湿地で、北から段々に南へ陸
地化していった。北部には早くから人が住んでいたが、南は中世以降に、本格的に開発が始まったの
は江戸時代以降で、それでも人口は数えられるほどだった。急激に発展したのは、昭和50年代以降
で、極最近のことなのだ。

 
自然堤防
 周囲の氾濫低地や海岸低地と比べ海抜高度がわずかに高く、一般に河川に沿って帯状に分布してい
る。河川によって運搬された砂や砂礫が浅い深度から分布しているため、住宅地盤としては、比較的
良好な場合も多い。しかし、度重なる河川の氾濫と蛇行によって運ばれた軟弱な粘性土や緩い砂が、
自然堤防の上に新たに堆積している場合には、基礎補強対策が必要となることがある。中古には区全
体が海か低湿地で、北から段々に南へ陸地化していった。

 
海岸低地
 東京湾沿岸に広く分布する標高の低い平坦面である。地下水位が高く、上部には緩い砂や軟弱なシ
ルトなどが分布しているため、標準的な基礎では、十分な耐力を確保することが困難であり、適切な
基礎補強策が必要となる。区南部の低地。葛西浦という海だったところの埋め立てで、臨海地区はつ
い最近の造成地だ。


■都県境未定地
  東京都と千葉県の間に境界が定まっていない箇所が2ヶ所ある。
 @.江戸川区と浦安市の間の 旧江戸川河口舞浜大橋以南の海面
 A.江戸川区と市川市の間の旧江戸川の江戸川大橋と江戸川 区スポーツランド東南の水
   面間の境界(ここには市川市側から突き出した岬が含まれる)

 の話し合いがつかない。Aの岬部分は「河原番外地」と呼ばれ、地図によっては江戸川区東篠崎と
なっている。境界未定地に人家はなく、存在するのは野球場と江戸川河川事務所だ。ところが「江戸
川河川事務所・江戸川河口出張所」の所在地は「江戸川区東篠崎」、市外局番も東京03。明らかに
市川市側にあるのだが・・・ 一方野球場の方は市川市が整備および管理しているからややこしい。
 何故この問題が生じたかというと、江戸川があまりに氾濫するので放水路を開鑿することになり、
放水路を拵えたのだが、その時旧水路を西側に少しずらした。つまり東京都側の陸地を削ったのだ。
川が二股になったため川が運んでくる土砂がだんだんに蓄積され境界辺りに中洲ができ、市川市側の
陸地とくっついた。そこが東京都の主張で、「境界線以西の砂州は都のものだ」という。千葉県側は
「境界は川の中央、砂州全体が市川市のもの」との見解だ。見た目
 すっきりするのは千葉県側の言い分だが、そんなことで譲れないのが東京都だ。面積に権利は 付
いて回るからね。不法投棄を注意する看板は江戸川区が出している。
  @については海面のため諸権利が錯綜して定められない。この辺りの陸地は江戸時代にはなかっ
たもので、漁業権さえなかった。海面の埋め立てによって問題が生じた。
 




江戸川区の変遷
 歴史
 古代は海の中、海退と太日川(江戸川)がもたらす土砂によって3000年ほど前から次第に陸地
化していった。遺跡から弥生時代頃には小岩辺りに人が住み始め、だんだんに南下している。江戸川
区内の地名が初めて歴史に現れるのは「正倉院文書」にある養老五年(721)の下総国葛飾郡の戸
籍に記された「甲和(こうわ)里」だ。これは現在の江戸川区小岩に当たるとされ、約50戸ほどの
郷里であったとある。しかしながら、当時は川、沼、池の錯綜する
 広大な湿地帯地域で、現在の区北部以外はほとんど居住者のいない場所だったと考えられる。後、
平安末期から鎌倉時代にかけて下総国の有力な豪族として勢力を誇っていた千葉氏の支配下として、
区内の地名がいくつか散見され、葛西氏の領地だったようだ。葛西氏が伊勢神宮に葛西33郷(ほぼ
葛飾区・江戸川区)を寄進したという記録があり、区内の地名が18ヶ所登場する。特に篠崎の地域
は葛西氏の領する葛西御厨の中心地として栄え、また今井(現在の江
 戸川区瑞江付近)・長島(同東葛西)は太日川河口の湊として賑わった。
 下って室町時代、後北条氏の影響が強くなってくる後期ごろには、江戸衆と呼ばれる江戸城代遠山
氏を中心とした家臣団の支配下に入り、区内の一部が太田氏や富永氏らの領地となっていた記録が残
る。永正六年(1509)連歌師の芝屋軒宗長(さいおくけんそうちょう)は隅田川から沿岸伝いに
川舟でやってきて今井の浄興寺を訪ね、さらに江戸川を遡及して善養寺も訪ねたことを紀行文『東路
のつと』に書いている。
 徳川家康が江戸に入府すると、区内のほとんどは江戸からの距離の近さもあり、幕府の直轄領とさ
れた。新川が開鑿され、江戸川が物資搬入の幹線交通路となり、区内の開発が盛んに行われるように
なった。宇喜田を開いた宇田川喜平、一之江一円を開いた堀田(田島)図書、小岩を発展させた篠原
伊予らは区の功労者といえる。江戸初期における江戸川区内の石高は約15000石ほどで、区内の
至る所にあった湿地帯や中洲、砂地の埋め立てによる新田開発が進み、文政年間には20000石を
超えるまでに増加した。合わせて江戸期には漁業も盛んになったと伝わる。さて当時区の幹線道路は
佐倉道で、江戸川の小岩市川の渡し、中川の逆井の渡しは、大名行列も渡るし成田詣での参拝路でも
あったので大層繁盛した。区内の大半は手当たり次第の乱開発を防ぐため天領になっており、鷹場に
指定されていた。小松菜の命名者といわれる将軍吉宗は、実に76回も鷹狩をしていたという。江戸
が近いので江戸文化の影響を受けるのも早く、名主層の教養は相当に高かった。各地に寺子屋が開か
れ熱心に子弟の教育を行っている。それは師を讃えて建てる「筆塚」が非常に多く残っていることで
判る。

 
東京府

 現在の江戸川区の区域に入る江戸時代の36ヶ村(上小岩村・中小岩村・下小岩村・上小松村・下
小松村・東一之江村・西一之江村・新堀村・松本村・船堀村・二之江村・桑川村・長島村・東宇喜田
村・西宇喜田村・上平井村・中平井村・下平井村・逆井村・鹿骨村・笹ヶ崎村・前野村・伊勢屋村・
上鎌田村・下鎌田村・上今井村・下今井村・興宮村・東小松川村・西小松川村・本一色村・上一色村
・上篠崎村・下篠崎村・谷河内村)は、慶応四年(1868)桑山武蔵知県事に所属の後、翌明治2
年1月13日小菅県を経て、明治4年11月13日東京府に編入。同7年3月8日戸籍法による大区
小区制強化のため、自治権を奪われて第十一区に編入された。この大久保利通による専制強圧政治を
受けて全国の旧武士層が不満を爆発させて立ち上がり、自由民権運動が起こった。やがて大久保は独
裁の罪により国民の敵として正義の刃の下に斬殺されるが、突然に親玉を失った国家主義の内務官僚
は、驚天動地してなすところを知らず、慌てて「大区小区制」を撤回すると、同11年7月22日「郡
区町村編制令」を施行して南葛飾郡を復活した。同22年5月1日「郡区村編制法」を廃して「市制
町村制」を施行、36ヶ村は、小松川・平井・松江・船堀・葛西・瑞穂・一之江・鹿本・篠崎・小岩
の近代農村10ヶ村となリ、明治政府として初めて自治制を敷いた。
 大正2〜3年の町村分合により瑞穂村+一之江村=瑞江村、小松川村+船堀村+平井村=小松川町
(一部を松江村・奥戸村に譲渡)が起立して1町6ヶ村となる。大正15年4月1日に松江村が、昭
和3年10月1日小岩村が町制移行して3町4ヶ村となり。同7年10月1日南葛飾郡が東京市に編
入されたことにより、3町4ヶ村は合併して江戸川区(127町)を成立させた。
 区名は千葉県との境約11kmを流れる一級河川「江戸川」から採用したが、第一案は「松江区」
だった。

 東京都
 昭和18年7月1日国家権力者たちは東京市の自治権が拡大して府の我儘横暴が行き届かなくなっ
たため、東京市の自治権を大幅削減するために東京市を廃して府に吸収、府を改めて都制を施行し、
都を内務省(自治省→総務省)直轄とした。同20年3月東京大空襲により、平井・小松川地区で1
万戸焼失。同22年9月カスリーン台風で2万戸が床上浸水。同24年9月のキティ台風、同33年
9月の狩野川台風でも大きな被害発生。同26年今井〜東京駅間に都バス開通。同27年1月小松川
高校で第1回成人式典。同32年葛西海岸の堤防完成。同35年京葉道路開通。同37年11月現庁
舎落成。12月全国自治体に先駆けてコンピューター導入。同38年新中川放水路開通。同40年区
歌制定。グリーンパレス(区民センター)落成。

 同44年営団地下鉄(東京メトロ)東西線開通。同45年総合体育館落成・温水プール設置。8月
葛西地区ゴミ公害追放総決起大会開催。9月には道路を封鎖するなどの強行手段で解決。同47年「成
田新幹線区内通過絶対反対」を決議。計画は立ち消えに。同48年日本初の親水公園である「古川親
水公園」開園。同51年区民納涼花火大会(江戸川花火大会)始める。同53年10月区の木クスノ
キ・区の花ツツジ制定。区民祭り始める。同56年スポーツセンター落成。
 同57年スポーツランド落成。小松川境川親水公園一部開園。同58年総合文化センター落成開館、
総合リクレーション公園開園。都営新宿線船堀駅開業。同59年陸上競技場・プールガーデン・野球
場設置。同60年小松川境川親水公園全線完成開園。同61年9月都営新宿線区内全駅開業。
 平成元年4月臨海球技場、同3年小岩アーバンブラザ、同9年東部フレンドホール、同11年月小
松川さくらホール(小松川区民施設))

 平成21年現在の町数は47。区役所は中央にある。地図を見ると猫の額ほどの町があちこち虫が
食ったように残っている。残念ながら住居表示は未だに鋭意進行中、諸条件が錯綜し一筋縄では終わ
らない状況。足立区の場合あまりに田舎過ぎて住居表示除外地区が45%もあったのに現在はほぼ完
了している。また区内に大学病院はもとより区民医療の中心となるメディカル・センターがなく他に
依存している現状。ディズニーランドのお陰で財政の潤う浦安市の方が行政の進展は著しい。



■文化施設
 この開発途上の区の区役所に区民サービスたる行政資料コーナーがまだない。郷土資料館の資料室
もおざなりでお粗末だし、博物館も美術館もない文化状況。図書館は7館あり、中央図書館は新しい
だけにスペースもあり素晴らしいのだが地域資料は哀れを留める。江戸の僻地でつい昨日までレンコ
ン畑の連なる穏やかな農村が、大津波に襲われたかのように劇的な都市化したもんだから区政が滞る
のも無理はない。練馬区と最下位を争ってる。


江戸川の由来
 古くは「太日川(ふとひがわ)」と呼び『北条五代記』には「からめき川」とある。上流は渡良瀬
川だったが付け替えで「利根川」となり、世俗坂東太郎≠ニ呼ばれ、別に文巻川・葛飾川・行徳川
などとも呼ばれた。江戸初期、利根川を鬼怒川・常陸川に付け替えて銚子に流し(現在の流路)、新
たに運河を掘って旧利根川(太日川)に繋いで分流にし、東北・北関東の物資を江戸へ運ぶ運輸流通
ルートとすると江戸へ至る川≠フ意味で「江戸川」と俗称され明治以後に正式名称となった。なお
埼玉の古庄内川は太日川のかつての流路である。

   降り積みし雪の光や誘ふらむ 浪より明くる天の利根川/『北国紀行』堯惠
   雲開く利根の川との見るがうちに こなたやとまり帰る舟人/『芳雲集』實隆
   利根川の下は濁りて上澄みて有りけるものを さ寝てくやしき/『夫木抄』



■区歌
「風も緑の香に明けて」 作詞・岡久美子  作詞・清水保雄
  1.風も緑の香に明けて
    輝く朝の太陽に
    空も甍も晴れ渡る
    希望の都市よ 我が郷(さと)よ
    ああ江戸川は憧れの
    夢が楽しく湧く処
  2.古き伝統 誇りつつ
    時代を築く生産に
    伸び行く都市よ 我が郷とよ
    若い力が迸(ほとばし)る
    ああ江戸川は躍進の
    鐘高らかに鳴る処
  3.明日の栄えに新しき
    文化を掲げ 永久(とこしえ)に
    自治と自由を盛り上げる
    平和な都市よ 我が郷よ
    ああ江戸川は人の和の
    花も明るく咲く処


 区歌は、昭和40年9月に制定された。作詞は全国から公募し、区の良き環境、職住近接の町、良
き住民性を歌っている。1番.晴れ渡った大空に太陽が燦々と輝き、緑豊かな美しい町並みとそこに
住む区民の心が、いつも楽しい夢にあふれている様子を描いた。2番.幾多の苦難の時代を乗り越え、
今や町の彼方此方に活力が漲っている。家庭と職場は近く、生きる価値を高める豊かなまちの息吹を
表現した。3番.永い歴史から生み出された生活文化とお互いの幸せを願う区民の心が一つとなり、
皆の故郷に相応しい、花のように明るく平和な町になっていると歌っている。
 



■えどちゃん音頭
  作詞・新堀小学校4年1組
  1.コマツナ コマツナ コマツナは
    徳川吉宗 名付け親
    鉄分、カルシウムが 豊富だよ
    エダマメ ツマミナ ホウレンソウ
    いろんな野菜を作ってる
    えど えど えどちゃん音頭だよ
  2.アサガオ ホウヅキ シクラメン
    他にも一杯作ってる
    赤 黄 白 青 綺麗だよ
    七五三縄(しめなわ)七草 つりしのぶ
    江戸川名産 自慢だよ
    えど えど えどちゃん音頭だよ
  3.土と水とお日様が
    野菜や花を育ててる
    お父さん お母さん 頑張って
    お爺さん お婆さんも 頑張って
    みんなの汗が光ってる
    えど えど 音頭だよ



■えどちゃんマーチ
 作詞・滋賀県近江八幡市 南英市
  1.朝日に映えて爽やかに
    緑の大地 薫る風
    ここ江戸川は農業の
    豊かな実り築き行く
    意気逞しい歌がある
    希望溢れる歌がある
  2.手塩にかけて生き生きと
    育くむ花や野菜やら
    ここ江戸川は生産の
    歓び高く励み行く
    意気逞しい汗がある
    元気輝く汗がある
  3.笑顔を添えて穫れ立てを
    日毎積み出す旬の幸
    ここ江戸川は伝統の
    都市農業を拓きゆく
    意気逞しい夢がある
    前途(ゆくて)明るい 夢がある
 



■区の花 ツツジ
  ツツジ科の植物であり、学術的にはツツジ属植物の総称だ。但し日本ではこの中に含まれるツツ
ジやサツキ、シャクナゲとを古くから分けて呼んでおり、これらはしばしば学術的な分類とは食い違
う。最も樹齢の古い古木は、800年を超え1000年に及ぶと推定されている。ツツジ属の植物は
概ね常緑若しくは落葉性の低木から高木で、葉は常緑または落葉性で、互生、果実は刮ヤだ。4月か
ら5月の春先にかけて、先端が五裂している漏斗型の特徴的な形の花を数個、枝先につける。大きく
ヒカゲツツジ亜属とツツジ亜属に分類されるが、便宜上落葉性のツツジ類と常緑のシャクナゲ類とに
分類される。日本で「シャクナゲ」と呼ばれるものはホンシャクナゲの仲間に限られ、常緑であって
もそれ以外の殆どは「シャクナゲ」とは呼ばない。ツツジは日本では古くから園芸品種として、交配
され美しい品種がたくさん生まれた。中でもキリシマツツジとサタツツジをかけ合わせて生まれた、
クルメツツジはその代表で、種類も多く色とりどりの花が咲き、満開の時期はまさに圧巻である。ヒ
ラドツツジも日本全国でよく見られ、花も大きく街路樹としても沢山植栽されている。
 西洋では、アジアからヨーロッパに常緑のものが持ち込まれて園芸化されたものが、ロードデンド
ロンと呼ばれ、またアメリカなどで落葉性のものが園芸化されてアザレアと呼ばれるようになった。
 ツツジに「躑躅」の字を充てるのは、「躑躅」は「テキチョク」と読み、「立ち止まる、佇む」の
意で、ツツジの花のあまりの美しさに立ち止まって見とれるところからきたものだ。同じ意味に「躊
躇」があるが、日本では別の意味で用いている。
 区花にツツジを指定いる他の区は、荒川・北・墨田・中央・豊島・中野・文京の7区。江戸
のガー
デニングの最たる花で、ツツジを改良したのがサツキだ。 



 ■区の木 クスノキ
 クスノキ科ニッケイ属の常緑高木である。一般的にクスノキに使われる「楠」という字は本来は中
国ではタブノキを指す字である。別名クス、ナンジャモンジャ。但しナンジャモンジャはヒトツバタ
ゴなど他の植物を指して用いられている場合もある。幹の太さが一抱え以上になるものも多く、単木
ではこんもりとした樹形をなす。木肌は綿密で、耐湿・耐久性に優れている。葉は艶があり、革質で
先の尖った楕円形で長さ5〜7cm。主脈の根本近くから左右に一対のやや太い側脈が出る、いわゆ
る三行脈という形である。その三行脈の分岐点には一対の小さな膨らみがあり、これをダ室という。
初夏に大量に落葉する。晩秋に直径7〜8mm程度の球形の果実が黒く熟し、鳥が食べて種子散布に
与るが、人間の食用には適さない。直径5〜6mm程度の種子が一つ入っている。
 枝や葉に樟脳(しょうのう)の香りがある。樟脳とは乃ち、クスノキから得られる無色透明の固体
のことであり、防虫剤や医薬品などに使用され、いわゆる「カンフル」のことだ。 



 ■区の鳥
  指定していない



 ■江戸川区の学校
  小学校 区立73 私立0
  小岩・北小岩・中小岩・東小岩・西小岩・上小岩・上小岩第二・下小岩・下小岩第二・南小
  岩・南小岩第二・新堀・新田・松本・本一色・上一色・上一色南・大杉・大杉東・大杉第二
  ・松江・鹿 本・鹿骨・鹿骨東・第二松江・第三松江・一之江・一之江第二・西一之江・二
  之江・二之江 第二・二之江第三・小松川・小松川第二・東小松川・西小松川・平井・平井
  第二・平井東・平井西・平井南・瑞江・春江・篠崎・篠崎第二・篠崎第三・篠崎第四・篠崎
  第五・南篠崎・鎌田・下鎌田・下鎌田東・下鎌田西・江戸川・船堀・船堀第二・宇喜田・葛
  西・第二葛西・第三葛西・第四葛西・第五葛西・第六葛西・第七葛西・東葛西・西葛西・南
  葛西・南葛西第二・南葛西第三・清新第一・清新第二・清新第三・臨海
 
  中学校 区立33 私立2
  小松川第一・小松川第二・小松川第三・松江第一・松江第二・松江第三・松江第四・松江第
  五・松江第六・二之江・葛西・葛西第二・葛西第三・南葛西・南葛西第二・西葛西・東葛西
  ・清新第一・清新第二・瑞江・瑞江第二・瑞江第三・春江・鹿本・鹿骨・篠崎・篠崎第二・
  小岩第一・小岩第二・小岩第三・小岩第四・小岩第五・上一色
 
 愛国・江戸川女子

  高等学校 都立7 私立3
  江戸川・葛西南・小岩・小松川・篠崎・紅葉川・葛西工業高校
  愛国・江戸川女子・関東第一

  短期大学・大学
  愛国学園短期大学

  特別支援学校
  江戸川・小岩
 

 ■江戸川区出身の有名人
  見当たらない


ラブコスメティック 全米の女性が オーガズム を味わった!? フェマクラ登場! 女性専科



○お〜い江戸川区の地名の由来をおっ始めるど〜!


【一之江】(いちのえ)1〜8丁目                 平成18年11月6日
 東一之江村。室町時代には見える。明治22年一之江村の大字東一之江。大正2年瑞江村の大字
東一之江。昭和7年江戸川区の成立により一之江町となり、同9年下鎌田町・椿町の一部を編入。
同時に一部を椿町・今井町に移す。同13年一之江町・西一之江町・南船堀町・新堀町の各一部を
あわせた町域を一之江1〜4丁目とし、同58年11月1日その一之江の大部分に西一之江2丁目
・春江町2〜3丁目・西瑞江3丁目の各一部を加えた町域を、現行の「一之江1〜7丁目」とした。
さらに平成18年11月6日一之江7丁目と春江町4丁目の一部をあわせて「一之江7丁目」、春
江町4丁目の一部を「一之江8丁目」とした。

 これによって7丁目の街区符号が大幅に変更され、変わらないのは北半の15〜34番だ。

【一之江町】                            ━新住居表示未実施
 一之江町の残部2987〜3016番地。新大橋通りの南の僅かな地区。金魚団地だったが近年
宅地化した。住居表示(二之江1〜5丁目)につき住民の合意が得られず放置されたままだ。住民
のエゴか権力の横暴か、どっちもどっちのにらみ合いが各地で続いている。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『江戸川区史』など。

 一之江の由来
 地名の意味は「第一の川」という意味だが江戸川区の用水は葛飾区と一体のもので、ほとんどの
用水は葛飾区の小合溜井(こあいためい)を水源としていてどれが最初とは定めがたい。まだ入江
だったころの澪(みお)の名残だろうか? 一之江・二之江とあるから開鑿順なんだろう。西一之
江村と東一之江村、東小松川村と二之江村の間を流れた古い川を一之江境川という。境川とは「村
境の川」の意で、鮒釣り場として有名だった

   鮒添えてやる一之江の医者の礼(川柳)

 一之江新田(春江・瑞江)は、豊臣氏(北条氏とも)の家臣だった田島氏によって開かれたとい
う。田島家の名主屋敷(春江)は一般公開されているよ。



■日枝神社
 1丁目7番にある中社。



■天祖神社
 1丁目9番にある中社。



■稲荷神社

 3丁目12番にある小祠。



妙覚寺別院第六天宮
 3丁目27番にある。妙覚寺は6丁目19番にあるよ。



■一之江小学校
 4丁目5番にある区立校。昭和28年11月2日瑞江小学校から分校、「東京都江戸川区立一之江
小学校」として開校、児童581名でスタート、この日を開校記念日とした。同32年校歌制定。

 校歌「流れも絶えぬ」 作詞・近藤庄吉  作曲・内藤定夫(楽譜には内田とある)
  1.流れも絶えぬ江戸川の
    岸辺に匂う桜花
    我が学舎のその印
    強く正しく健やかに
    望みはここに一之江校
  2.日影うららと射す窓辺
    池面に映る松ヶ枝や
    学びの庭に勤しみて
    清く明るく朗らかに
    光はここに一之江校


 同35年プール完成。同38年体育館完成。創立10周年記念式典。同40年3月〜42年4月第
一期、第二期鉄筋校舎落成。同43年一之江第二小学校を分校。児童533名移籍。同45年4月〜
48年3月第三期〜五期鉄筋校舎落成。同48年開校20周年記念式典。同52年6教室増築。同5
7年開校30周年記念式典。平成元年日本語学級設置。同4年開校40周年記念式典。同15年開校
50周年記念式典。



医王山不動院妙音寺
 5丁目8番にある真言宗の寺。建久元年(1190)秀英上人により開山。天正三年(1575)
秀誉上人と、安永九年(1780)大空法印が中興。本尊は十一面観世音菩薩立像。ほかに春日仏師
作の薬師如来も祀る。山門を入ると左は墓地。右に薬師堂。本堂の右に庫裏。



■八幡宮
 5丁目8番にある小祠。区立一之江境川親水公園に面してある。



■天満宮

 5丁目12番にある小社。境内は区立一之江天神児童遊園になっている。



■水神社
 5丁目13番にある小祠。



普陀落山薬王寺
 5丁目17番にある新義真言宗の小寺。



■川岸稲荷神社
 6丁目12番にある。



■松江第五中学校
 6丁目18番にある区立校。



金嶋山等覚院妙覚寺
 6丁目19番にある日蓮宗の寺。路地の置くに入口があるので判り辛い。弘安七年(1284)日
全上人が開山。奥庭に開山堂がある。境内の右は妙覚寺幼稚園。これを過ぎると山門、左は墓地。右
は手前に妙見堂という小さな六角堂がある。



サツキ利栄山長勝寺
 6丁目19番にある日蓮宗の寺。
創立は天正十一年(1583)。開山は善覚院日信。この寺のロ
ケーションは発展した地域ではないので、村の寄合所として利用していた法華堂が前身と伝えられて
いる。江戸時代の寛永・享保年間(1624〜1736)を迎えて漸く檀家数軒ができ長勝寺の名で
呼ばれるようになった。境内は広く、あちこちに置かれている庭石とサツキの配置が巧みで日本庭園
の美しさが満喫できる。



■申孝園

 6丁目19番にある。大正3年田中智学が純正日蓮主義を唱えて「国注会」を組織し、昭和3年霊
廟をこの地に建てた。霊廟は、創始者が純正日蓮主義の理想で信念を啓示した一塔合安式のもの。鉄
筋コンクリートの大唐櫃(かろうと)とその上の宝塔から出来ていて、なかには遺骨100万体、霊
名600万を納めることが出来る。創価学会とは対極にある国注会は、全国組織を持つ宗教法人で、
申孝園は信仰のメッカとして全国から信者が集まる。敷地は16500uの広さを持ち、泉石池丘を
配した名園だとか。

 宮沢賢治の碑
 大霊廟手前にある。信者だった賢治の50回忌追善のため昭和57年に建てられたもの。

   病(いたつき)のゆゑにもくちんいのちなり みのりに棄てはうれしからまし
   方十里稗貫のみかも稲熟れて み祭三日そらはれわたる


 造形的にも美しい碑で、敷石の周囲には賢治の故郷岩手県で集めた石に、一石一字の写経をして敷
き詰めてある。




■猿田彦大神・白髭神社
 7丁目19番にある。



■大雷神
 7丁目22番にある小社。



江久山蓮光院感応寺
 7丁目23番にある日蓮宗の寺。元久二年(1205)空念が開山した時は真言宗だったのだが、
日進聖人によって日蓮宗に改められた。安政二年(1855)には倒壊したが、塔頭に蓮明坊、是林
坊の2院があって、中本寺として重きをなしてきた。山門はなく石の門柱。正面に本堂。本尊は壹塔
両尊四菩薩四天木像。墓地に筆子塚がある。

 梵鐘
 元禄十一年(1698)の鋳造で、名工藤原正次の作。区内に現存する最古のもので、近郷の名鐘
といわれ、戦時中も供出を免れた。



■神社
 7丁目25番にある小祠。



■葛西工業高等学校

 7丁目68番(旧春江4丁目9番)にある都立校。昭和37年12月1日機械科4学級、電子科2
学級、建築科2学級設置。仮事務所を東京都立小松川高等学校に開設。同3月30日第2期工事竣工
(B棟東半分)昭和38年4月3日仮事務所より江戸川区春江町4丁目9番の新校舎に移転。同10
月第2期工事竣工(D棟)。11月1日開校式。同39年3月31日第3期工事竣工(B棟の西半分
とC棟)。同40年3月31日第4期工事竣工(A棟・E棟)。4月1日全学年揃う。同41年3月
8日第1回卒業式。同44年体育館竣工。7月14日校地買収(正門東北2947.5u)。同46年
3月プール完成。同48年3月部室竣工。同57年11月創立20周年記念式典。平成3年4月機械
科4学級を3学級に変更。同4年4月機械科3学級を2学級に変更。7月新校舎第1期工事竣工。同
4年創立30周年記念式典。同6年2月15日実習棟(E、F棟)工事竣工。同7年グラウンド整備
・外溝整備工事竣工。同8年電子科2学級を1学級に変更。同14年創立40周年記念式典。
 ※著作権法に触れるとかで校歌の掲載は遠慮する。




【宇喜田町】(うきたちょう)                   ━新住居表示未実施
 宇喜新田。宇喜田村。東宇喜田村・西宇喜田村。明治22年「市制町村制」により葛西村の大字、
昭和7年江戸川区が成立して東宇喜田町・西宇喜田町となり、同9年西宇喜田町は宇喜田町に、東
宇喜田町は上蜆島・下蜆島・葛西1〜2丁目となったが、同58年新住居表示のため大部分を北葛
西・西葛西・中葛西とし新川以南が総て葛西になる中、宇喜田橋の南の、旧域の僅か10分の1ほ
どの町域が新住居表示を拒絶して辛うじて記念物のように残っている。宇喜田橋・宇喜田通り・宇
喜田稲荷・宇喜田小学校などがわずかの名を留める。将来宇喜田の名を残せるのか、手薬煉引いて
北叟笑むお役人たちによって北葛西にされてしまうのか、緊褌一番の根性比べだ!
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『江戸川区史』など。

 宇喜田の由来
 宇田川兵衛新を略したもので宇喜多秀家とは無縁。というのは隣の浦安市に宇喜田姓が多
くあり、こちらの宇喜田姓は、八丈島に流されていた秀家の子孫が、明治になって本土定住を許さ
れて移り住んだ先だからだ。さて小田原北条氏の臣宇田川喜兵衛定氏は天文二年(1533)に品
川に生まれ、宇田川町(港区)を開発すると、弘治二年(1556)小松川に移住した。天正十八
年(1590)家康が江戸にやってきた頃、小松川先の海辺の湿地帯を開発し3千石の水田(宇喜
新田)を得た功により、上田(じょうでん)1町5反分の屋敷地を賜ったという。元禄のころ東西
二村に別れ、西の名主は代々分家が務めた。



■葛西第二中学校
 1085番地にある区立校。昭和30年2月葛西中学校の分校として設置され、6月10日(葛西
中学校の沿革では7月1日)開校。10月校章制定。昭和33年3月校歌制定。

 校歌「都の東」 作詞・  作曲・
  1.都の東 気は澄みて
    芙蓉の花の咲く所
    輝く窓よ 学び舎
    文読む声も朗らかに
    清く正しく伸びる者
    我らぞ我らぞ 葛西第二中学校
  2.新潮香る新川に
    知徳を珠と磨きつつ
    羽ばたく意気よ 呼ぶ虹よ
    春秋三年 弛みなく
    力合わせて励む者
    我らぞ我らぞ 葛西第二中学校
  3.緑清しき野の風に
    溌剌若きまゆ上げて
    働く汗よ 喜びよ
    真理の塔をめざしつつ
    明日の郷土を担う者
    我らぞ我らぞ 葛西第二中学校

 同34年3月校旗制定。同40年創立10周年記念式典。同50年創立20周年記念式典。同60
年創立30周年記念式典。
 平成7年開校40周年記念式典。同9年校庭夜間照明完成。同10年パソコン室整備。同11年校
舎耐震補強工事完了。同12年インターネット接続完了。同13年教室出入口改修。同13年校舎北
側側溝改修工事完了。農園設置。同17年開校50周年記念式典。同19年教室にクーラー設置。



■宇喜田大明神

 1412番地3にある。




【江戸川】(えどがわ)1〜6丁目                  ━新住居表示未実施
 下鎌田村・前野村・当代島村・上今井村・下今井村・二之江村・桑川村。明治22年瑞穂村大字
下鎌田・前野・当代島・上今井・下今井・二之江、(下今井・二之江の一部は葛西村の大字となる)
・葛西村大字桑川村。大正2年瑞穂村を瑞江村に改称。昭和7年江戸川区下鎌田町・前野町・当代
町・今井町・下今井町・二之江町・桑川町。同13年前記7町下鎌田町・前野町・今井町・二之江
町の各南部・当代町・下今井町の全部町を併せた町域を現行の「江戸川」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『江戸川区史』など。

 江戸川の由来
 町名は、町の南部を流れる江戸川から採用したが、放水路が出来て旧江戸川になってしまった。
「おくまんだし」があり江戸川の最も江戸川らしいところから特に町名に採用した。東北から南西
に長い町域で中川を挟んで東に1〜4丁目、西に5〜6丁目となっている。6丁目は「二之江1〜
5丁目」が予定されているが住民の反対が強く実施できない模様。1〜5丁目については予定すら
立てられない。



■前川神社

 1丁目6番にある。旧前野村の鎮守で素盞雄命、面足神、倉稲魂神をまつる。無格社で別当は不動
院だった。元は第六天社といったが、明治9年に前川神社と改称させられた。



川向山不動院大滝寺

 1丁目22番にある真言宗豊山派、葛飾正福寺末だった寺。江戸川土手沿いの道から入る。本尊は
興教大師作という不動明王立像。元亀元年(1570)頃、覚俊法師が東国遊化の砌当地に留まり、
持仏の不動明王立像を安置して草堂を結んだのが始まりという。その後度々江戸川洪水の被害を受け、
一時は無住になったが、文化十二年(1815)恵定僧都によって堂宇を再建中興した。その本堂は
大正6年の台風で大破したため、同10年に再建した。昭和14年に長谷寺の門末となり、終戦後は
近くの西光寺がその護持に当たっている。左は墓地、正面奥に現在の客殿・庫裏・本堂がある。堂々
たる鉄筋コンクリートの新築だ。
 寺宝として十三仏画像3幅・恵比寿木彫座像(伝恵定僧都作)・梵鐘(文久十二年の銘)などを所
蔵する。 



■江戸川小学校

 1丁目37番にある区立校。昭和43年鎌田・下鎌田両小学校の分校として新設。鎌田小から33
4名、下鎌田小から384名がそれぞれ移籍、新入生275名と合わせて933名でスタート、「東
京都江戸川区立江戸川小学校」の名で開校した。8月プール完成。同44年体育館完成。校庭舗装。
校歌制定。

 校歌「朝の光に」 作詞・勝承夫  作曲・小出浩平
  1.朝の光に水鳥は
    群れて飛び立つ 優しく歌う
    元気だな 楽しいな
    我らも明るく健やかに
    江戸川校に仲よく育つ
  2.船のゆきかう川岸に
    芦の若芽もすくすく伸びる
    大らかな夢が湧く
    自立の気風も溌剌と
    江戸川校に燃え立つ力
  3.空は遥かに 広やかに
    仰ぐ心は何でも晴れる
    頑張るぞ やり抜くぞ
    弛まず進み逞しい
    江戸川校は
われらの誇り


 同46年下鎌田東小学校を分校して、児童618名を移籍。それでも27学級817名が残る。同
48年創立5周年記念式典。同62年プール改修。同63年体育館改修。
平成2年藤棚完成。同5年
創立25周年記念の集い。
同10年パソコン教室設置。同12年グリーンクロスジャパン奨励賞(学
校の部)受賞。同13年グリーンクロスジャパン
学校優秀賞受賞。同15年校舎耐震化工事完了。同
17年グリーンプラン推進校。「人権の花」実施校。同18年壁面緑化。



■當代稲荷神社

 1丁目41番にある



■成田山不動明王石造道標
(昭和57年区有形文化財)
 1丁目48番にある。最近まで東瑞江の豊田神社境内に保存されていたが、地元有志の努力で元の
成田道の旧位置、前野と下鎌田の境に近い江戸川農協鎌田支所の南側に移された。高さ台座とも1.6
3mあり、表面に「成田山不動明王」と力強く深く彫られており、見事な出来栄えは区内でも出色の
ものだ。台座の正面に「右行徳」「左市川」と記す。文政九年(1826)の建立だ。文化財指定先
は1丁目町会に対して行われている。



■今井の渡し跡

 江戸時代、防衛上の理由から、中川や江戸川には橋を架けることが許されなかった。交通は専ら渡
船によって支えられていたが、幕府によって公認されていたのは小岩〜市川の渡しのみだった。江戸
川筋の今井の渡しをはじめ区内の渡しは、生活上の必要から農作業時のみなど限定条件つきで認めら
れていたもので農業渡しだった。
 その後今井の渡しは、下総国への要衡として成田参詣の人々に親しまれるようになり、『江戸名所
図会』にも描かれた。天保年間(1830〜44)ごろの記録を見ると、

   女は今井を通さず、河原の傍の前野の渡へ廻る

 と示されている。「入鉄砲に出女」といわれたように、今井の渡しでさえも、女性の通行には監視
の目が行き届いていたことが窺える。なお前野の渡しは、今井の渡し同様、非公認の渡しで上流の篠
崎ポンプ場(東篠崎2丁目)付近にあったといわれる。
 明治に入ると、防衛上の交通規制が解かれたが、明治45年に下江戸川橋が架けられると今井の渡
しの歴史は幕を閉じた。現在は3代目の今井橋が架けられている。古くから文献に現われるこの渡船
場は、橋が架けられるまで一円の人々の往来、成田詣での人々の渡河の便を図り随分親しまれたもの
だ。永正六年(1505)連歌師柴屋宗長の紀行文『東路のつと』に渡し場の記事がある。また『江
戸名所図会』には「今井の渡場」の絵が載せられている。渡船場の跡は、今井橋のすぐ上流にあり、
高い堤防が築かれた出し杭の辺りだという。



■江戸川清掃工場

 2丁目10番にある区の施設。昭和41年に建てられ、平成5年に建て替えられた。



■下鎌田東小学校

 2丁目21・22番にある区立校。昭和46年江戸川小学校から分校し、児童628名(江戸川小
の記録では618名)を移籍し、下鎌田小からも77名が転入して「東京都江戸川区立下鎌田東小学
校」として開校。同47年校歌制定。

 校歌「光輝く江戸川の」 作詞・桜井富夫  作曲・渡辺茂
  1.光輝く江戸川の
    広がる大地 青い空
    緑の風に誘われて
    鍛える体 逞しく
    伸び行く処 下鎌田東
    心の故郷 我らの母校
  2.流れ豊かな江戸川の
    葦の河原を舟行きて
    白鷺遊び 小鳥飛ぶ
    仲良くみんな 助け合い
    平和な処 下鎌田東
    心の故郷 我らの母校
  3.緑溢れる江戸川に
    聳える校舎 我が誇り
    遥かに浮かぶ富士筑波
    望みは高くやり遂げる
    子供が揃う 下鎌田東
    心の故郷 我らの母校


 同48年プール完成。同58年岩石園完成。同59年アスレチック完成。同60年ランチルーム完
成。平成2年パソコンルーム設置。同13年創立30周年記念式典。同18年創立35周年記念式典。



天川山寂光院明福寺

 3丁目8番にある浄土宗の寺。篠崎街道に入口があり、立派な石柱の寺号標識が建ってる。そこに
石碑があり、「親鸞聖人御旧跡」とある。入ると左側は併設のルンビニー学園(幼稚園・保育園)だ。
参道を行くと、右に小堂がある。佃観音堂(子育観音)だ、昭和10年に佃島から移転してきた。石
仏の観音さんが安置してある。これと並んで露出の「水かけ地蔵尊」。次の小堂は大師堂。「新四国
霊場南葛88ヶ所」の28番、大日如来と弘法大師坐像を安置してある、明冶43年の建立。その次
が露出の、1m強の「慈母観音立像」。次は立派なお堂で太子堂、親鸞聖人が持参したといわれる聖
徳太子の僧形立像(像高1.5m 強)と脇に親鸞聖人所縁の毘沙門天と観音菩薩が安置されている。
この辺りは傘職人が多く、その人たちの講がある。古いが立派なお堂だ。次は親鸞堂、鉄筋コンクリ
ート、掲額の字は浄土真宗本願寺派太谷光照門主の書。現在は持田栄一記念図書館という看板がかかっ
てる。しかし中を覗くと、立派な仏壇とピアノと講義を受けるような教養の机多数と椅子多数があっ
て法話などには大変便利なところだ。親鸞聖人御自作といわれる真影(昭和57年区指定有形文化財)
を安置、また親鸞門徒による鎌田講があって、毎年報恩講があったが、最近は太子堂と併せて4月第
三日曜日に催されている。縁起によると、親鸞聖人が嘉禄2年(1226)に京都に帰る途上、立ち
寄り、炎天で水不足の時だったので、老人に請われるままに雨乞いの行をしたところ、一天俄かに掻
き曇って大雨が降ったという。老人にこの地に留まるように懇請された親鸞聖人は池の畔に草庵を結
び3年ほど滞在したという。池に自身の姿を映して自ら刻んだのが2尺5寸の尊像だ。池は鏡ヶ池と
いわれるようになった。本堂の裏の墓地の手前にある。現在の親鸞堂は親鸞聖人700年遠忌の時に
鎌田講の講元原田吉蔵の寄進によって建立されたものだ。正面の本堂は、本尊阿弥陀如来、脇士観音
・勢至菩薩を配し、脇壇に法然上人尊像を安置、昭和3年の改築の建物だ。本堂の左に庫裏、木造2
階建と鉄筋コンクリート3階建。本堂の裏は墓所でここに親鸞聖人の石碑が旧(寛政11年)と新(親
鸞聖人700年遠忌のとき)と2つ建っている。

 
ルンビニー学園
 幼稚園と保育園を経営している。



龍龜山清泰院浄興寺

 3丁目23番にある浄土宗の寺。文永三年(1266)源清和尚が草庵を結んだのが始まりで、弘
安のころ(1278〜87)に庵に一宿した記主禅師に開山を依願したと伝えられている。本尊は阿
弥陀如来。永正六年(1505)連歌師柴屋宗長の紀行文『東路のつと』にこの寺を訪れた記事があ
る。境内に3基の筆子塚がある。筆子というのは生徒の意で、教え子たちが先生(師匠)に感謝報恩
して建てる石碑。筆親というとちょっとニュアンスが違ってくるので使わないように。恥かくよ。つ
まり別の意味なんだよ。
 山門を入ると左に墓地、右は駐車空間と鐘楼、そして洋式の庭と洋式3階建ての庫裏。和風の本堂
も含めすべて鉄筋コンクリートで新しい設計。

 琴弾の松の跡
 この寺を訪れた北条氏康が天文十五年(1546)にこの寺に一泊した時、境内の老松に渡る美し
い風音(松籟)を聞いて、

  松風の吹く音聞けばよもすがら調べ異なる音こそかはらね

 と詠み、その松を「琴弾松」と名づけたと伝わっていた。残念ながら今は枯れてないが、思えば、
昔はそれだけの自然環境に恵まれていたということだ。同名の松は、宮崎・滑川・鎌倉・名古屋など
にあったりしたようだ。松籟を「まつかぜ」と読ませて、風が松の枝葉に当たって鳴る音をいう。無
論「しょうらい」とも読む。

 ●木造大塚氏先祖夫妻坐像(昭和56年区有形文化財)
 東葛西の大塚宗蔵は「新川梨」の発明者。寺は大塚家の菩提寺。

 ●新川梨の碑(昭和56年区有形文化財)
 宗蔵の功績を讃えた記念碑だ。初め碑は東葛西の大塚家敷地内に建てられたが、昭和48年道路造
成のため、大塚家の菩提寺に移された訳。碑には「楽誉君種梨樹碑」とある。所在不明となっていた
宗藏の墓は墓地奥に確認された。



■新川梨
 『江戸名所花暦』に梨の花の名所として、

   南新川、利根川(江戸川)の上、雷不動(真蔵院)の脇、農家新平の園中二千坪

 と紹介されている。2000坪は70アールだ。この辺りは新川大田区六郷と並ぶ梨の産地だった
のだ。享和の頃(1801〜04)大塚宗蔵は大和国から江戸に流れてきた武士の子。この土地が梨
に適している判断した宗蔵は、まず10株で試し、好結果を得たので、息子の吉豊と力を合わせて研
究し、棚栽培を始めて、800本を植えた。文政四年(1821)に幕府に献上、これから新川の地
場産業となった。



■八雲神社
 3丁目24番にある小祠。



■胡録神社
 3丁目41番、鎌田西通りに面してある小社。



■円照寺

 3丁目43番にある新義真言宗の寺。山門は近年の建築。



■香取神社

 3丁目44番(隣の36番と書いたものもある)にある。上今井村の鎮守だった。

 今井の富士塚
 境内にある。昭和5年上今井割菱八行講によって高さ2mの塚山が築かれ、全体がボク石(溶岩)
で覆ってある。登山道は前後に設けられ山道は普通の石段になっており、山頂近くはそそり立ち富士
山の山容を強調している。山頂に石祠を祀り、山道の途中に「浅間大神」の碑がある。そのほか烏帽
子岩と元祖食行身禄の碑を配している。講は現在も続けられ、7月1日の山開き、1月28日の「初
拝み」などの行事を行っている。



薬王山慈眼院誠心寺

 3丁目50番にある浄土宗の寺。文明元年(1469)に天譽竜顔が草庵を結び、慶長七年(16
02)行譽清教が創建。本尊は木造阿弥陀如来坐像。参道右に本堂、鉄筋コンクリート平屋洋式の設
計で住宅のようだ。本堂の左に庫裏がある。墓地は広い。  

 ●木造薬師如来立像(昭和57年区有形文化財)
 室町時代の作で寄木作り。


 ●
木造阿弥陀如来坐像
(昭和57年区有形文化財)
 江戸時代の作、光背が筋光背で珍しいとか。

 観世音菩薩立像
 、寄木作りで14世紀の作。



■神社

 3丁目52番にある小祠。



■今井児童交通公園

 4丁目5番にある区立公園。



■瑞江中学校

 4丁目16番にある区立校。戦勝国アメリカの強制による学制改革により、昭和22年瑞江小学校
内に開校。生徒数238名でスタート。同24年現在地に新校舎落成して移転。同25年校庭土盛工
事完成。同26年自転車置場完成。同27年開校5周年記念式典。同29年校舎増築。同32年開校
10周年記念式典。同34年校舎増改築。同35年美術・理科室増築。同36年技術・家庭科室増築。
屋内運動場完工。同38年ミルク給食開始。同39年東京オリンピック聖火に2名伴走。同42年鉄
筋改築工事開始。同43年開校20周年記念式典。給食室完成・完全給食実施。同44年第2期鉄筋
改築校舎完工。同46年旧校舎解体。同47年第3期鉄筋増築工事完了。同48年第4期鉄筋増築工
事完了。同52年開校30周年記念式典。同57年2年生の菊作りが新聞報道される。同61年創立
40周年記念バザー。同62年開校40周年記念式典。同63年機械警備実施。平成元年体育館落成。
校庭夜間照明設置。同3年セレクト給食実施。同4年パソコンルーム開設。同9年開校50年記念式
典。同10年パソコンルーム改修・コンピュータ40台設置。正面玄関庇改修。同12年校舎外壁塗
装工事。インターネット接続。同14年校庭整備工事。同16年パソコンルーム整備(ノートパソコ
ン40台導入)。同18年各教室に扇風機設置。給食室全面改修。同19年開校60年記念式典。

 校歌「
文化日本の」 作詞・葉山靖  作曲・天野義太郎
  1.文化日本の曙は
    若き生命の黎明よ
    望みに燃ゆる若人の
    漲る力いや高く
    憧(あくが)れ集い育む処
  2.うまし日本の曙は
    若き生命の黎明よ
    黄金の波の揺れ揺れて
    白き甍に及ぶかな
    教えの実り育む処
  3.民主日本の曙は
    若き生命の黎明よ
    愛と力に勤しみて
    我らが母校に輝き添えん
    ああ伸びゆく瑞江中学



■真福寺

 4丁目20番にある真言宗豊山派の寺。宝徳三年(1451)に乗善法印が開山。後覚誉上人が中
興。山門を入って50mほど参道が続く。40mほど行って右手に墓所、左手奥に併設のみずえ保育
園。正面鉄筋コンクリート造り和風の本堂の左は庫裏。



常報山阿弥陀院西光寺

 4丁目24番にある浄土宗の寺。入口を入ると左手に地蔵堂客殿という建物で正面に本堂、その右
側に庫裏。裏手に墓地が広がる。



■宇田川家長屋門
 5丁目4番にある。木造茅葺きの平屋建で、入口両脇の部屋には武者窓付。間口13m×奥行3.2
m軒下高2.5m。建築年代は判っていないが、江戸時代後期と想像されている。宇田川家は宇田川喜
兵衛定氏の子孫で、分家の一つ。二之江村の村役人を務めた家柄。江戸時代は身分格式があり、金が
儲かったからといって好き勝手に門を構えたり、家をでっかくしたりすることは許されなかった。そ
れで秩序が保たれていた。江戸時代ならば「おれおれ詐欺」など引っかかりようがない。門の前の丸
石は「行徳道道標」。元は現在地より西へ30mの突留橋の畔にあった。



■江戸川投網保存会

 5丁目4番、船宿あみ元(会長関口幸彦 03‐3680‐1705)にある。平成13年5月江
戸川区の船宿の経営者たちが集まって発足した細川流の投網技術を伝承する。明治時代細川政吉が工
夫したものという細川流は、「掬い取り」「本振り」という。体をダイナミックに動かして船上から
網打つ方法らしい。ほかとどう違うのか判らないが、興味のある人は体験してみてくれ。事務局があ
み貞(03‐3679‐3576)ということなので、どちらかに電話してみてくんなまし。舟漕ぎ
は江東区にあるよ。



■金明不動尊

 5丁目6番にある。



おくまんだし 熊野神社
 5丁目7番にある、もと下今井村の鎮守。宝永年間の(1705〜11)の開創で、祭神は伊邪那
美命(いざなみのみこと)。俗にいうおくまんはお熊野≠ナ、昔から江戸川を上下する舟人の信仰
を集め、お宮の前を通る時は帆を下げ、被り物を取って最敬礼で通過しつつ航路の安全を祈ったそう
だ。鳥居を潜ったすぐ左側に芭蕉の句碑がある。

  茶水くむ おくまんだしや 松の花


 だしは出し杭≠フことで、両国橋の百本杭と同じだ。熊野神社の前の江戸川は川がカーブしてお
り、瀬が速んで土地がえぐられるのを防ぐために、杭を打って水勢を弱めたことで深みを作られ、水
が練れて澄みおいしい水となったので、将軍家では水舟を出して城中に運びお茶の水≠ニしたので
有名になり、おくまんだしの水≠ニして水売り舟を仕立てて商売とするほどだった。野田の醤油は
ここの水を使ったので江戸人に馴染みの味になったといわれている。

  江戸川に緋や紫の浮く日和(川柳)
  江戸川の紫鯉も夏の夜に集(すだ)く蛍の明けや奪はん(蜀山人)




■稲荷神社・水神宮

 5丁目9番にある小祠。



■稲荷神社
 5丁目28番にあるらしいが、住宅地図に記載はない。9番と28番は隣り合っているので前項の
稲荷神社とダブっているかも知れない。



海照山普門院蓮華寺

 6丁目4番にある新義真言宗の寺。本尊は行基作の聖観世音菩薩。永享十年(1438)栄源法印
が不動明王を背負って遍路して来て、この地に庵を結んだのが始まり。本堂は昭和47年に鉄筋コン
クリートで再建。境内は右に墓地、左に庫裏。本堂の掲額は「慈雲」。



本覚山成就院妙勝寺

 6丁目7番にある日蓮宗の寺。通称を「じょうじゅいん」が訛った「じょうじん」とも「黒門寺」
ともいう。弘安七年(1284)葛西沖に漂着した難破船から少年を救う、この人が徳治元年(13
06)成就院日尚と号して古川べりに小堂を立てたのが開山。山門の入ると、左墓地、右はケヤキの
大木、釈迦堂、墓所、朱塗りの鐘楼、開山日尚上人堂と続く。本堂の右は庫裏になっている。

 ●
紙本墨書大曼荼羅(昭和57年区有形文化財)



■古川親水公園
 6丁目の中央を流れた古川を暗渠にして上部を親水公園としたもの。親水公園の発祥は江戸川区で、
小松川の暗渠に施したのが最初で、全国各地で取り入れるようになった。古川とは元からあった自然
水で、新しく運河(新川)開鑿されたことにより支川となり、新川に対して古川と呼ばれるようになっ
たものだ。
 宇田川長屋門脇から始まって、環七を横切り三角にある新川橋まで、全長1.2km。 江戸川の元河
道である古川の流れをそのまま親水公園に作り変えたもので、親水公園としては日本第一号で、これ
が手本になって全国的に暗渠とした川や用水を親水公園に切り替えることとなった。古川は江戸川か
ら下る水路として古くから使われていた。古川とは古江戸川の意である。天正十八年に(1590)
徳川家康が江戸城に入ってからは、行徳の塩を江戸に運ぶ重要な水路となり、寛永六年(1629)
に幕府が新水路を掘って新川としたので、古川は二義的運輸路になってしまい、この意味で新川に対
しての古川でもある。全くの農村で江戸の華やかさとは無縁だったこの一帯も、明治・大正・昭和と
時代を経るにつれて都市化の波が押し寄せ、ついこの間までが嘘のように市街地化していった。それ
で田畑が整地されて住宅地に変わっていくと、あれほど重要だった川や用水が邪魔になり、埋められ
たり、コンクリートで蓋をされて暗渠になったりしていった。古川もいつしか川の機能を失っていた。
そこで区は地域の人々と共に歩んだこの川を何とか川として残せないものかと検討し、水と緑に親し
める新しい公園に転換する計画を立て、昭和49年に親水公園として完成させるとともに、「親水公
園」という語彙を一般に定着させた。この試みは内外の注目を集め、同年全日本建設技術協会から、
建設界の栄誉である「全建賞」を受賞、現在もこの親水公園を越える公園は現われていない。



■常竜寺
 6丁目15番にある日蓮宗の寺。住宅兼用の現代ぽい建物で、屋根に寺らしい匂いを残している。
寺であることは墓地があるので判る。



■妙光寺
 6丁目16番にある日蓮宗の寺。通称「赤門寺」。天正十三年(1585)日竜上人が開山したと
いう。本尊は、文禄三年(1594)作の木造寄木造り日蓮上人坐像。朱塗りの山門を入ると、左に
墓地、右側には七面殿、それから庫裏。 

 ●
木造日蓮聖人坐像附・台坐板墨書(文禄三年)(昭和57年区有形文化財)



■葛西図書館
 6丁目24番にある区立の小さな図書館。



■水神宮
 6丁目29番にある小祠。



■二之江第三小学校
 6丁目31番にある区立校。昭和53年二之江小学校から分校、11学級297名が移籍して「東
京都江戸川区立二之江小学校」として開校。プール完成。校歌制定。

 校歌「今開け行く葛西の町に」 作詞作曲・蟻川剛  補作・宇井あきら
  1.今開け行く葛西の町に
    学ぶみんなは輝く若葉
    肩を寄せ合い 助け合い
    青空高く伸びて行く
    あゝあゝ二之江第三 第三小学校
  2.水も清らな二之江の町に
    育つみんなは心も清く
    鍛えた体は逞しく
    進む足音高らかに    
    あゝあゝ二之江第三 第三小学校
  3.緑豊かなこの江戸川に
    歌うみんなの声は世界に
    遠く巡って呼び掛ける
    未来へ響く平和の歌
    あゝあゝ二之江第三 第三小学校


 同61年学区変更により葛西小学校から100名転入。同62年開校10周年記念式典。
 平成10年プール改修。開校20周年記念式典。



■稲荷神社
 6丁目31番にある小祠。



■二之江小学校
 6丁目44番にある区立校。
詳細不明



■二之江神社
 6丁目44番の新川沿いにある中社。

 ●ケヤキ(昭和56年区天然記念物)



■新川

 江戸川から三角で新川に入り、西へ中川に至る流路は、元は船堀川と呼ばれていたが、家康が江戸
に来て、江戸の町作りが始まると、この流路は行徳の塩を江戸に運ぶために重要な川となり、小名木
川が掘られ、さらに寛永六年(1629)幕府は、船堀川を拡張するとともに、三角から江戸川まで
を新たに直線で開鑿し「新川」を完成させた。この新川は江戸幕府の発展とともに、単に行徳塩ばか
りでなく、舟運の重要な川となり、利根川の東遷、江戸川の改修によって、利根川‐江戸川‐新川‐
小名木川‐舟入堀のルートは、北関東や東北から江戸へ物資を運ぶ幹線河川となった。明治に入って
からは有名な川蒸気船通運丸が就航したほか、東京近郊の村々と東京を結ぶ通船や運搬船が行き交っ
た。現在は平均幅員30m全長約3km、東水門から導水し、西側ポンプ所で排水、水質浄化を図り、
水位を一定に保っている。東半分は暗渠化され、両岸の護岸上部は撤去され、テラスや散策路などが
出来、親水公園として沿線区民に親しまれている。





【大杉】(おおすぎ)1〜5丁目                    昭和59年11月1日
 西一之江村の小名。明治22年松江村大字西一之江、大正15年松江町大字西一之江。昭和7年
江戸川区となって南部を南船堀町として離し、残りが西一之江1〜2丁目となってその2丁目。同
59年西一之江2丁目の京葉道路以北と東小松川5丁目の大部分に一之江町・松本町の各極一部を
あわせた町域を現行の「大杉」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『江戸川区史』など。

 
大杉の由来
 町内の天祖神社を大杉神社と俗称する。大きな杉木があったことで小名が生まれたのだろうが、
その大杉が何処に立っていたのかは判らない。神社の境内と思われるが、今は幼稚園を経営し、周
辺は住宅街で、かつての面影は全くないから、何ともいえぬ状況だ。杉は古語の「スキ」に当て字
したものとすれば、大杉は「大きな地滑り」を起こしたところとなるが、元々は海で山もなく地滑
りが起きたとも思えない。やはり大きな杉の木か・・・
 神社の参道の両脇は元は神田(神社の田んぼ)だったが、市街地化ににより東側の地は公園地と
して区に寄贈したが、これは区立公園の第一号となった。大杉公園。



■大場家長屋門

 1丁目11番の大場にある。京葉道路を千葉方向に走った人なら、環七との交差点手前に長屋門が
あるのに気づいているだろう。大場家は西一之江村の旧家だ。建築年代は判らない。長らく茅葺屋根
だったが、昭和55年に銅板葺きにした。バカな奴がいて、花火を打ち上げて小火(ぼや)騒ぎがあ
り、そうせざるを得なかったのだ。



■大杉天祖神社
 1丁目22番にある。



■大杉第二小学校
 3丁目11番にある新設の区立校。昭和50年大杉小学校から分校「東京都江戸川区立大杉第二小
学校」として開校。開校を記念して5本の椎の木がシンボルとして植えられた。

 希望の像
 この像は、昭和59年10月15日除幕。希望の像の前には、希望の小道がある。

 希望の小道
 同61年1月8日にできた。長さ314m、緑に囲まれ、みんなが健康でいられるための遊歩道だ。




【葛西】 北葛西・西葛西・中葛西・東葛西・南葛西
 下総国葛飾郡は、茨城・埼玉・千葉・東京におよぶ江戸川両岸市町村の範囲で長大だ。都内では
隅田川を境として東側をいった。かつて下町低地は東京湾が入り込んだ海だった。中世になって陸
地化してくると、江戸川を境に葛飾郡が割れ、葛西郡と葛東郡になり、このころ秩父平氏から清重
が出て青戸城に拠り葛西郡を支配して葛西氏を名乗った。伊勢神宮に「葛西御厨(みくりや)三十
三郷」を寄進したのはこの時だ。江戸時代になって葛西郡が下総国を離れて武蔵国葛飾郡となり、
中島川辺・幸手・松伏・二郷半・西葛西・東葛西が所属した。このうち東京都に含まれたのは西葛
西と東葛西で、西葛西は墨田区・江東区・葛飾区西部の三区に跨る範囲。葛飾区を「本田筋」、墨
田・江東区を「新田筋」に分けたが、「新田」は江戸時代以後に開発された農地をいう。東葛西は
葛飾区東部と江戸川区で、葛飾と江戸川北部を「上ノ割」江戸川区南部を「下ノ割」に分けた。そ
れで江戸川区の新川以南の海を「葛西浦」と呼んだので南部埋立地を葛西村とし現在の葛西地区と
した。区職員は葛西が好きらしく、ために桑川・長島・堀江・蜆島などの名が消え、宇喜田が消え
かかっている。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『江戸川区史』など。

   葛西橋いつ春去りし眺めかな(久保田万太郎)
   わが好むはまぐり汁も葛西風(水原秋桜子)
   立春の米こぼれをり葛西橋 (石田波郷)
   蚊帳吊草昼酒のやや深かりし(草間時彦)
   初富士の白し葛西の海濁る (滝 春一)



■葛西蓮根(カサイレンコン)
 蓮根は足立・葛飾・江戸川の江東3区が蓮根の産地だったが、葛西地区は蓮根村≠ニ呼ばれるほ
ど生産農家が多かった。しかし今や宅地化して蓮根畑がない。

  蓮田植うる田上は葛西囃子の夜(遠山壷中)

 蓮根は江戸時代から栽培されていたが、明治の初め葛西村宇喜田の田中徳右衛門という盆栽家が、
北千住から持ってきた蓮根を親族の細野元吉に試作させても見ると、絶品の蓮根が出来た。これが江
東3区で営利栽培の始まったきっかけとなった。特産地となった理由は、重労働にめげない篤農家の
努力は勿論だが、この一帯がこの上ない適地だったことによる。利根川水系の大小河川が運んできた
肥沃な粘土質の、夏冬の乾燥期にも水が枯れない強湿地は蓮根栽培に打ってつけの土地である。どち
らかというと住宅地には不向きだ。また蓮根は肥料を幾らでも欲しがる大食漢、東京市街から出る人
糞尿(下肥)が、水運を利用して安く大量に使用できるという好条件が重なった。

  葭きりや船から担ぐ蓮田肥(地元の俳句)

 この下肥育ちの蓮根は、独特の柔らかさと歯切れの良さで東京市民に喜ばれた。現在東京から蓮根
農家は消えてしまったが、茨城県土浦市周辺に取り入れられ産地を形成している。



■インド人
 今や「葛西で外国人に石を投げればインド人に当たる」といわれるくらいインド人の多さに驚かさ
れるぞ。葛西がインドの風土に似てるからじゃない。葛西地区が新興住宅地で、東京への交通の便が
良かったからだ。コンピューターの2000年問題起きた時、さあ大変、日本にはその問題に対処だ
きるだけのSE(システム・エンジニア)が大量に不足していた。国家がそれだけ教育を怠ってきた結
果だ。日本では権力を守ることだけが忙しく。東大を目指す者は多くが政治家・官僚を目指す。天下
国家ではなく私利私欲を満足させるに手っ取り早いからだ。政治家は「落選するとただの人」といわ
れるが、どうしてどうして収入になる仕事は周り中が用意してくれる。路頭に迷うことはない。太平
洋戦争は科学技術の差で負けたといわれて、戦後日本は軽工業から重工業に転換したが、どうしても
政治家や官僚のほうが資産作りでは科学者より有利だ。科学技術で天と地をひっくり返すほどの発明、
技術革新をやったところで日本では資産的に報われることはない。
 中村修二問題(青色発光ダイオードの「2628404号特許‐通称404特許」)でも最高裁は企業側につ
いた。叡智よりも企業利益を優先した。企業は文系で、社長は東大系の天下り、という日本の組織図
では結局理系に進むのはオタクしかいない。IT産業、IT産業と騒ぐが、携帯電話には興味を持っ
てもコンピューターとなると使いこなせる若者は少ない。私の周りの若者でパソコンをやる者はいな
いし、いても精通していない。また大型電気店のPC売り場のアンちゃんたちは売っていながら理解
してないのだから傑作な国だ。パソコン関連、インターネット関連の会社のオペレーターたちでさえ
てもどれほど理解してるのか疑いたくなる場面がしばしばだ。
 この穴を埋めたのが、世界の頭脳を支配しようかというインド人だった。日本の企業がSEとして
インド人技術者を大量採用したのだ。インド人技術者たちが新興住宅地として団地が建設された葛西
を選択したのだ。彼らは天下人気取りのアメリカ人と違って積極的に正確な日本語を学び、日本文化
を理解しようと努力してるので、葛西に馴染むのも早かった。インド人もビックリだ!




【興宮町】(おきのみやちょう)                   昭和61年5月1日
 興野宮村。明治22年鹿本村大字興之宮。昭和7年江戸川区興宮町。同41年一部を南小岩に譲
り、同61年一部を本一色3丁目・松本2丁目に移し、同時に本一色町の一部をあわせた町域を現
行の「興宮町」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『江戸川区史』など。

 
興宮の由来
 興宮は興之宮神社で奥の宮が転訛したものといわれているが、奥が何処の奥か判らない。千葉街
道から見て奥なのだろうか? その奥の宮も今や住宅街の真ん中では昔を偲ぶよすがもない。足立
区の興野は奥野だったが奥と興の草書体が似ていることから混同が生じて転じたという。興宮もそ
のパターンかな?



■興之宮・天祖神社

 18番にある。社殿はそれほど大きくはないが、神社の境内は広い。大鳥居も狛犬もある立派な神
社だ。地名の由来となるに相応しい。




【鎌田】                                   消滅
 下鎌田村。明治22年瑞穂村大字下鎌田。大正2年瑞江村大字下鎌田。昭和7年江戸川区下鎌田
町。同9年椿町・今井町の各一部を編入、同13年一部を西瑞江・東瑞江・江戸川に譲り渡し、平
成16年11年1日瑞江2丁目となって最後の鎌田が消滅した。
 @、「蒲田」に同じ。蒲の生い茂る湿地を開墾して造成した田畑の意。
 A、「かま」は「川などのえぐれたところ」をいうので「おくまんだし」に見られるように
  崩壊的侵食谷または崖(川淵)をいったもの
 とも考えられる。ちなみに上鎌田は南篠崎町となって消滅した。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『江戸川区史』など。

 【蒲(かま)】
 御簾草(ミスグサ)のことだ。葉や茎で簾を編んだことからその名がある。茶色いソーセージの
ような部分が穂で雌花、その先端に雄花がある。その形をヒントに作られたのが竹輪蒲鉾で、現在
は「ちくわ」と簡略系で呼ばれ、板付の方が蒲鉾と呼ばれている。秋になると綿を解(ほぐ)したよ
うに綻(ほころ)んで風に吹かれて飛んでいく。因幡の白兎が包(くる)まったのがこの蒲の穂(植物
図鑑)。




【上一色】(かみいっしき)1〜3丁目                 昭和61年5月1日
 上一色村。明治22年鹿本町大字上一色、昭和7年江戸川区上一色町、同41年南小岩5〜6丁
目・西小岩1〜3丁目・上一色町に分かれ、同61年新住居表示により現行の「上一色」
とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『江戸川区史』など。

 上一色の由来
 さて下一色村は存在しないから「上」の意味は判らない。「一色」も判らないが一色氏が開発し
たか、彼の領地だったか? 中世の免田に「一色田(いっしきだ・いっしきでん)」がありそれに
関係あるのかな? この一色は一式・一職とも書き「ひといろの」という意味で課税が一種類だけ
に限られる田んぼのことだ。たとえば課役(力仕事)をやれば他の年貢総てが免除になる、そうい
う租税関係を表し、このように一色(一種)の特権を認められた田や領地を「一色田・一色地・一
色不輸田・一色不輸領」などと呼んだ。そのような田を所有する者は、年貢がかからない田である
ことを理解させるために、地名に一色・一式・一職などを付けたという。オウム騒動で一躍有名に
なった富士山麓の「上九一色村」、九一色村が上・下に分かれてできた訳だが、一色田を持つ九つ
の村の総称が村名になったものだ。もう一つ「一色別納」という租税関係がある。一種類の産物(麦
なら麦だけ)を得る目的で新たに開発した開墾地のことだ。さらに「一色別符」というシステムが
あった。或る荘園の飛地があってその飛地の生産能力が相対的に低いなどの場合、飛地にだけ一色
を認める証書を出してやる。その証書が別符で、地名になったとき別府とも書いた。そのどちらか
かも知れない。「飛地」というのは、今は整理されて全国的になくなりつつあるが、町域(村域)
から離れたところにある町域(村域)。なぜこういうことが起きたかというと、むかしは利用価値
のあるところだけが町域であり村域だった。すると利用価値のない地域は誰のものでもないことに
なる。時代が過ぎていくと、その利用価値のない地域の或る部分が必要になってくる場合もあるし、
新規に開発するということになる。その新たに利用価値の出てきたところが「飛地」となった。ま
た大名や旗本の領地の支配関係で飛地となった場合がある。行政単位で千葉県というと千葉県全部
だが、江戸時代は大名領の中に天領(幕府領)があったり、旗本領があったり、また逆に天領や旗
本領の中に大名領があったり、その上に寺領、社領が入り混じったから、飛地だらけだったといっ
てもよい。南に「本一色」がある。



■上一色中学校

 1丁目8番にある区立校。昭和37年小岩第四中学校の分校として設立。同38年「東京都江戸
川区立上一色中学校」として開校。同39年校歌制定

 校歌「みどり野に」 作詞・高石博  作曲・今井洋一
  1.みどり野に風立ち白き雲行く
    希望遥かに
    若人の瞳の澄める円居は楽し
    健やかに真の愛を育む処
    嗚呼上一色中学校
  2.白鷺の行き交い花香る窓
    友よ雄雄しく
    弛みなく真理を究めて
    高らかに自主の歌声湧き来る処
    嗚呼上一色中学校


 同48年創立10周年記念式典。同58年創立20周年記念式典。平成2年体育館・プール完成。
同4年パソコンルーム完成。同5年創立30周年記念式典。同15年創立40周年記念式典。



大黒山常福寺
 3丁目21番にある日蓮宗の寺。創建は寛永三年(1626)日了大徳が大黒天画像を安置したの
が始まり。本尊は大曼荼羅。入口を入ると正面が庫裏、左斜めに参道が続き本堂。左は墓地。市川市
の中山法華寺の末寺だった。



智光山正蔵院
 3丁目30番、新中川河畔にある真言宗豊山派の寺。山門はないが寺らしいたたずまい。入口を入
ると右手庫裏、正面本堂、左に墓地が広がる。




【上篠崎】(かみしのざき)1〜4丁目                 平成2年8月1日
 上篠崎村。元禄のころ篠崎村から分村。明治22年篠崎村大字上篠崎、昭和7年江戸川区が成立
して上篠崎町と西篠崎町となる。同41年上篠崎町は一部を篠崎町に譲り、同時に上篠崎町・北篠
崎町・下篠崎町の各一部をあわせた町域をを上篠崎町1〜4丁目とし、残りはそのままとなった。
西篠崎町は東小岩1丁目・北篠崎町1〜2丁目と残りの西篠崎町となった。同45年残りの上篠崎
町の一部を鹿骨2〜3丁目に譲り、平成2年上篠崎町1〜4丁目と残った西篠崎町の全部に上篠崎
町・北篠崎町・鹿骨町・鹿骨2丁目の各一部を併せた町域を現行の「上篠崎」とし新住居表示を完
了した。

 
上篠崎の由来
 京都に近い篠崎村の意。篠崎の由来は【篠崎町】を参照。



■篠崎第二小学校

 2丁目15番にある区立校。
 「分校時代」
 明治38年「東京府南葛飾郡篠崎尋常高等小学校第一分校」として設置。昭和7年周辺5郡が東京
市に併呑されたため「東京府東京市江戸川篠崎尋常高等小学校第一分校」と改称。同10年「東京府
東京市江戸川篠崎尋常高等小学校押上分教場」と改称。同16年国民学校令により「東京府東京市篠
崎国民学校押上分教場」と改称。12月日米開戦。同18年都制施行により「東京都篠崎国民学校押
上分教場」と改称。同20年日本は、アメリカの軍門に降り敗戦。以後属国となり、唯々諾々といい
なりになる保守傀儡政権を保持せざるを得ない今日的不幸を背負い込む。もう200兆円以上持って
いかれたよ。
 同22年アメリカの強制による学制改革により「東京都江戸川区立篠崎小学校押上分教場」と改称。
同29年「東京都江戸川区立押上分校」と改称。同31年宿直室を保健室に改築。同34年給食調理
室を新設。同36年2教室増築。玄関、音楽室及び廊下、視聴覚室が完成。同37年給食室にプロパ
ンガス施設完成。作業員休憩室増設。

 「独立」
 同42年独立して「東京都江戸川区立篠崎第二小学校」と改称。鉄筋コンクリート造り校舎11教
室・木造校舎5教室。同43年中央校舎(8教室、管理室)落成。プール完成。同44年体育館完成。
同45年校地拡張。同50年鹿骨東小学校新設により児童177名移籍。同51年篠崎第五小学校新
設により95名移籍。同61年創立20周年記念式典。平成3年アスレチック設置。同9年ランチル
ーム完成。同17年「さくら門」開門。

 校歌「大きい空と」 作詞・勝承夫  作曲・小出浩平
  1.大きい空と大きい川と
    大きい夢がここにある
    この町に我らは何時も胸を張り
    弛まず伸びる日に伸びる 
    篠崎第二 やり抜く力
  2.優しい花に優しい小鳥
    優しい光が射してくる
    満ち渡る 仲良く強く育つ子を
    社の松も見ているよ
    篠崎第二 楽しい我ら
  3.遥かな富士と遥かな秩父
    遥かに注ぐ江戸川を
    友として心も清く清らかに
    日本の明日を担う者
    篠崎第二 栄えある母校




■浅間神社

 1丁目22番にある。「せんげん」と読む。上篠崎といえば、関東一と評判の「幟祭」だ。天慶元
年(938)五月十五日の創建といわれ、区内で最も古い神社。祭神は木花開耶姫命。社殿は3mほ
どの小山の上に鎮座している。摂社に下浅間・水天宮・道祖神・稲荷・八幡・白髭・天祖・須賀・霧
島・香取など多数の小祠が並ぶ。霧島社は、同三年(940)平将門の乱を鎮めるため平貞盛が、将
門降伏を祈願して勧請、金幣と弓矢を奉納したと伝えられている。文化文政のころから参詣者が増え
始め、講中なども組織された。境内は約4000坪、樹木鬱蒼と茂り、天慶の昔を彷彿とさせる。昔
から「浅間さまの森」と呼ばれて親しまれてきた。

 幟祭
 7月1日が例大祭で、2年に1度「幟祭」が行われる。境内に12間(21.72m )の大幟が1
0本、人力で立てられるのでこの名がある。この神社には氏子の地区を五つに分けてあり、1地区が
2本立てる。森の木立を越えて大空に翻る様は壮観で、しかし珍しい祭なのだ。以前は人手不足で3
0mの杉の丸太柱を立てるのに、クレーンを使用していたが、最近は祭りが評判となって、人手不足
も解消したので昔通り人力で立てている。8月は江戸川花火大会の会場が近いので、この付近は大賑
わいだ。

 富士講碑(昭和56年区有形文化財)



石歴山妙勝寺
 1丁目23番にある日蓮宗の寺。弘安元年(1278)日寂上人が浅草に創建。大正4年区画整理
により移転してきた。本尊は十界曼荼羅。入口を入ると左に墓地、正面本堂でその右奥に庫裏、古刹
だが、江戸川区においての古刹ではない。



■都立篠崎公園

 1丁目25番にある広大な都立公園。芝生公園、バーベキュー広場、児童遊園、野球場、テニスコ
ート、壁打ちコート、河川敷には10数面のサッカー場がある。



高野山慶乗院

 4丁目8番にある真言宗高野山派。普通の住宅で寺号の表札はあるが、活動はしてないみたい??
全国的名品案内はこちら




【北葛西】(きたかさい)1〜5丁目                昭和54年11月1日
 宇喜新田の西半。西宇喜田村。明治22年葛西村大字西宇喜田、昭和7年江戸川区西宇喜田町。
同9年宇喜田町。同54年宇喜田町の大部分に南船堀町を併せた町域を現行の「北葛西」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『江戸川区史』など。

 北葛西について
 町名は
葛西村当時の北部地区であることによる。いまだ頑なに北葛西入り拒絶し残る宇喜田町を
どう取り込もうかと腹に一物、背に荷物、虎視眈々其欲逐々と狙いを定めている。400年の宇喜
田を食い尽くす日も近い? 葛西については【葛西】を参照のこと



■十八軒水神宮

 2丁目12番にある。



金胎山不断光院安楽寺
 1丁目25番にある浄土宗の寺。承応元年(1652)開山は法譽伝竜法印。本尊は阿弥陀如来坐
像。入口の鐘楼門を潜ると正面に鐘韻閣。ちょっと左に逸れると正面に高さ3mばかりの鉄筋コンク
リート造りの基礎台の上に本堂。左は墓地。本堂の奥右に庫裏がある。

 鐘楼門
 江戸時代の建てられたもので、元々は山梨県の石和にあったものを移築した。板葺き入母屋造り2
階建ての楼門は西葛西から新小岩まで中川に沿って走る船堀街道に面して建っている。この楼門は一
際目立ち存在感がある。



■諏訪神社

 15番にある。



■第五葛西小学校

 2丁目13番にある区立校。俗に「ごかさい」と呼ぶ。昭和46年第三葛西小学校から分校して「東
京都江戸川区立第五葛西小学校」として開校。同47年校歌制定。

 校章が制定された昭和46年7月14日に校歌制定委員会が発足。歌詞については7月20日広く
一般公募し、11月26日に締め切った。委員会は150点にものぼる応募作品を審査し、遠藤俊夫
教諭の歌詞を採択。次いで作曲家渡辺浦人に作曲を依頼し、翌年1月22日に制定された。歌詞は、
明るく楽しい学校、地域の児童をすこやかに育てる学校をめざし、葛西の自然を織り込み、調和の取
れた児童の成長を願う内容になっている。曲調は、ハ長調、四分の四拍子で児童にとって歌い易く、
覚え易い旋律だ。校歌と校章は、五葛西小学校のシンボルとして、児童を励まし、地域の人々に親し
まれてきた。
  1.ほら あさかぜに頬を染め
    光り輝く微笑みを
    ああ 第五葛西の子よ
    素晴らしい
    今日の暮らしの虹として
    豊かな人に育とうよ
    葛西 葛西 葛西
    我らの第五葛西小学校
  2.ほら 太陽に手を上げて
    走る額の その汗を
    ああ 第五葛西の子よ
    逞しい
    明日の暮らしの糧として
    強い心に育とうよ
    葛西 葛西 葛西
    我らの第五葛西小学校
  3.ほら 銅(あかがね)の空に映え
    目と目が笑う その顔を
    ああ 第五葛西の子よ
    限りない
    明日の希望の像として
    光の中に進もうよ
    葛西 葛西 葛西
    我らの第五葛西小学校


 同47年体育館・4特別教室・プール完成。同51年6普通教室・3特別教室増築。校門・外柵整
備、校庭再舗装。平成2年開校20周年記念式典。同7年飼育小屋完成。同13年開校30周年記念
式典。同19年特別支援学級「けやき学級」開級。



■行船公園

  3丁目2番にある区立公園。昭和8年土地の府会議員田中源が公園用地として東京市に寄付した
ことにより開園。行船の名は、田中家の屋号「行船」に因んで名づけられた。同25年には区に地上
権・管理権が移管され、同58年に無料で動物に触れられる「江戸川区自然動物園」が園内にオープ
ンし、平成元年には公園の北側が整備され、庭池を伴った和風庭園の「江戸川平成庭園」と数奇屋造
りの茶室「源心庵」が新たに開園、区民を主として多くの人が集会や茶会句会などに利用するように
なった。休日・平日を問わず、多くの人に利用されている公園で、緑の中を散策できる。林泉園、水
生植物池のある植物園を持つ休養公園として整備されている。
 広さは約30000u。南半分は明るい洋風庭園で、噴水広場を中心にした児童遊園と江戸川自然
動物園となっている。この公園ではみんなが寛いで、無料の自然動物園で動物に触れたり、巨大な滑
り台で遊んだり、木陰で弁当したり、語らったりで、田中源翁の思いがしっかり実現し根付いている。
 なお園内の柳の木は「銀座の柳」と同種の安曇野産で、今はなき銀座の柳を目の当たりに見ること
ができる。

 田中源翁像
  
東京府議会議員で土地を寄付し、地域の発展と区民の福祉増進に努めた。台座は高さがあって「公
心日月」と刻されている。昭和25年の建立だ。また石田波郷の句碑もある。



■ふれあいの森・宇喜田公園

 3丁目5番にある区立公園。



■都立宇喜田公園

 3丁目9番にある都立公園。江戸川区の南西部に位置し、身近なスポーツから自然観察まで多彩な
レクリエーションが楽しめる、広々とした花いっぱい、みどり豊かな公園として計画造成した。また
防災井戸等の防災施設も充実しており、災害時には災害に対応する拠点としても活用される。隣接す
る江戸川区立行船(ぎょうせん)公園には、自然動物園や日本庭園、釣り池、遊具広場などの施設が
あり、2つの公園を合わせていろいろな楽しみ方ができると、都の公園課が申しております。
 フラワープロムナード・少年野球広場(少年野球場1面)・草花広場(シンボルツリーは大イチョ
ウ4本)・ガーデンパーク・遊び場広場(ゲートボール場・災害時対応型休憩所・かまどベンチ6基)
・ガーデンロード・スポーツ広場(少年野球場2面)・ファミリー広場(防災用仮設トイレ24基・
防災井戸・流れ)・東入口広場(災害時対応型トイレ・災害時対応型休憩所・かまどベンチ8基)・
西入口広場、第1、第2駐車場(災害時対応型トイレ・防災用仮設トイレ24基 第2駐車場)があ
る。



■第三葛西小学校

 4丁目2番にある区立校。俗に「さんかさい」と呼ぶ。昭和3年「東京府南葛飾郡葛西尋常高等小
学校第二分教場」として開場。同7年9月30日周辺郡部が東京市に併呑され江戸川区成立するのを
期に「東京府南葛飾郡第三葛西尋常小学校」として独立。翌日「東京府東京市第三葛西尋常小学校」
と改称。同16年国民学校令により「東京府東京市第三葛西国民学校」と改称。12月日米開戦。同
18年都制施行により「東京都第三葛西国民学校」と改称。同19年山形県鶴岡市瀬見町・荒砥町に
学童集団疎開。同20年8月日本は、ならず者国家アメリカの軍門に降り敗戦。以後その属国とされ、
唯々諾々といいなりになる保守傀儡政権を保持せざるを得ない今日的不幸を背負い込む。もう200
兆円以上を持っていかれたよ。
 同22年アメリカの強制による学制改革により、「東京都江戸川区立第三葛西小学校」と改称。同
37年プール竣工。創立30周年記念式典・校歌制定。

 校歌「雲のように」 作詞・山本太郎  作曲・水谷豊
  1.雲のように大きくなろう
    東京湾の潮風を
    一杯い吸って青空に
    湧き立ち上がる雲のよう
    大きく生きよう
    おお 僕ら
    どんな時でも助けあう
    第三葛西小学生
  2.風のように 強くなろう
    豊かな流れ 荒川の
    土手を駆け下り葦原を
    真っ直ぐ進む 風のよう
    強く生きよう
    おお 僕ら
    どんな時でも信じあう
    第三葛西小学生
  3.太陽のように 明るくなろう
    プラターナスの樹の蔭に
    学び勤しみ白鷺を
    優しく照らす太陽のよう
    明るく生きよう
    おお 僕くら
    どんなときでも愛しあう
    第三葛西小学生
     口笛ふけ吹け男の子
     みんなで歌おう女の子
     ラララ ラララ ラララララ
     ラララ ラララ ラララララ

 同40年鉄筋コンクリート造り3階建て校舎第一期竣工。同41年体育館・岩石園・小禽舎完成。
同42年鉄筋コンクリート造り3階建て校舎第二期竣工。同44年鉄筋コンクリート造り3階建て校
舎第三期竣工。同46年第五葛西小学校を分校。同47年創立40周年記念施設完成。同49年第六
葛西小学校新設のため児童83名移籍。同53年鉄筋コンクリート造り3階建て校舎第四期竣工。同
55年西葛西小学校を分校。児童239名移籍。給食室全面改修。同57年創立50周年記念式典。
同58年宇喜田小学校を分校。児童516名移籍。同61年新設プール完成。平成元年全校舎都市ガ
ス化。同4年創立60周年記念式典。同9年パソコンルーム完成。同14年創立70周年記念式典。



華光山巌池院法蓮寺
 4丁目5番にある浄土宗の寺。寛永三年(1626)宇喜新田の開発者宇田川喜兵衛定氏の隠居所
跡に、子の定次が亡父追悼ために建てたのが草創。開山は同十三年(1636)真譽上人。法蓮は定
氏の入道名。山門を入ると右に鐘楼と庫裏。左は墓地。本堂は鉄筋コンクリート造りの立派なもの。
本尊は阿弥陀如来像。 



■宇喜田中央公園

 4丁目15番にある区立公園。



明光山竜光寺
 4丁目22番にある真言宗豊山派の寺。開山は寛文元年(1661)賢譽上人、本尊は木造不動明
王立像。本堂は昭和47年の再建。江戸時代から「葛西大師参り」という講があって、5月21日に
参詣する。いまでも船堀、宇喜田、小島地区の講員がお参りしている。本堂の右は庫裏・客殿。本堂
の左は墓地。



■宇喜田稲荷神社

 4丁目24番にある。



■宇喜田小学校

 5丁目13番にある区立校。昭和58年「東京都江戸川区立宇喜田小学校」として開校。657名
18学級でスタートした。10月校歌制定。

 校歌「澄み渡る空よ聞け」 作詞・木島始  作曲・林光
  1.澄み渡る空よ聞け
    明るい瞳に巡り合い
    誰よりも友達と
    光の行く手見つめて学ぶ
    ここは ここは 宇喜田小学校
  2.爽やかな風よ吹け
    生きぬく力を 守り合い
    誰よりも友達と
    緑の形 心に描く
    ここは ここは 宇喜田小学校


 平成4年開校10周年記念式典。同9年パソコンルーム設置。同15年創立20周年記念式典。




【北小岩】(きたこいわ)1〜8丁目                 昭和41年3月1日
 中小岩村・伊予田村。明治22年小岩村大字中小岩・伊予田。昭和3年小岩町大字中小岩・伊予
田。同7年江戸川区小岩町5・8丁目・4・7丁目。同41年小岩町8丁目の全部に小岩町2・4
〜7丁目をあわせた町域を現行の「北小岩」とした。
 柴又と地続きの所為か、超とまでは行かないが高級住宅地なのだ。あの見渡す限りの田園風景が
まるで嘘だったみたいだ。のどかさの匂いはまだ残っている。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『江戸川区史』など。

 
北小岩について
 町名は
小岩町の北部地区の意。小岩の由来は【小岩】を参照。



■小岩アーバンプラザ
 1丁目17番にある区のホール。温水プールもあるぜよ。現代版公民館といったところ。
 03−5694−8151

■京成小岩駅

 2丁目10番にある京成本線の停車場。昭和7年5月15日に追加開業した。ホームは地上島式2
面4線構造で、通過列車の待避が行われることも多い。ホームと改札階を結ぶエレベーターは未設置。
改札口は1ヶ所のみで橋上駅舎内にある。出口は北口と南口の2ヶ所で、地上へ下りるエレベーター
が北口に併設されている。
 JRの小岩駅は、京成小岩駅の南約500〜600mほどのところにある。わざわざ歩いてまで乗
り換えるメリットはない。もしも京成本線からJR総武線に乗り換えたい場合は、成田方面へ6つ目
の京成八幡駅からJR本八幡駅へ連絡するのがいいんだよ。



■北小岩小学校

 2丁目15番にある区立校。昭和29年「東京都江戸川区立北小岩小学校」として開校。児童67
9名13学級でスタート。同30年校歌制定。

 校歌「流れ豊かな江戸川に」 
作詞・上杉安彦  作曲・信時潔
  1.流れ豊かな江戸川に
    心を磨き 身を鍛え
    みんな仲よく手を組んで
    明るく強く進むのだ
    ああ北小岩小学校
  2.晴れて甍に架け亘る
    理想の虹は七色に
    みんな仲よく仰ぎ見て
    明るく清く伸びるのだ
    ああ北小岩小学校
  3.若い瞳は輝いて
    文化の光射す庭に
    みんな仲よく集まって
    新たに歴史築くのだ
    ああ北小岩小学校


 同33年特別教室(理科室・音楽室)増築。同34年創立5周年記念式典。同38年25m×10
mプール完成。同39年創立10周年記念式典。同47年第1期鉄筋コンクリート造り校舎(普通教
室9、管理室)落成。同48年第2期鉄筋コンクリート造り校舎(普通教室7・特別教室3、管理室)
落成。屋上プール(25m×8m)完成。同54年特別教室(図工・理科・家庭)増築。旧理科・図
工室を普通教室に改造。同57年体育館への渡り廊下完成。同59年多目的教室完成。創立30周年
記念式典。平成6年創立40周年記念式典。パソコン室インターネット接続。同16年開校50周年
記念式典。



■顕正寺

 2丁目18番にある浄土真宗本願寺派の寺。角地の鉄筋コンクリート3階建てのビル。ところどこ
ろに寺風のアクセサリーをあしらってはいる。玄関に「本堂は2階です」とあり、墓地やその他のス
ペースはまるでない。寺というよりは道場? 布教所?



妙法華山宣要寺
 2丁目37番にある日蓮宗の寺。正中山修法祈祷所。中山法華経寺末。開山は北朝の応安3年(1
370)法華経寺第三世浄行阿闍利日祐上人が隠居所として建てた。入口から50mで山門、さらに
30mで本堂。本堂の右は鉄骨2階建ての庫裏。本堂の左は駐車場でその隅に少し変った形をしてい
鐘楼。庫裏の裏が墓所。本尊は日限満願日蓮大菩薩像で、通称を「日限祖師」という。


 
日限祖師
 本尊は法華経寺の開祖日常上人が彫ったという等身大の坐像。日蓮聖人が中山で100日の説法を
した時に、境内の大木を以て日蓮像を彫ったものといわれ、ちょうど満願の碑に完成したので、聖人
自ら開眼して「満願日蓮」と名づけたという。

 瑞鳳の松
 本堂の前に樹齢400年といわれる目通り1.30m、高さ5m の松ノ木がある。一本の枝は13
mも伸びて寺門に達しており、ちょうど鳥が羽を展げたような形に見えるところから、「瑞鳳の松」
と呼ぶ。



■中小岩小学校

 3丁目12番にある区立校。昭和17年「東京府東京市中小岩国民学校」と校名決定。同18年小
岩・上小岩・西小岩3校から分校。各校児童の一部を移籍。16学級児童数800名でスタート、普
通教室1・特別教室2なもんで、1・2年二部授業で開始。
 同18年都制施行により「東京都中小岩国民学校」と改称。同20年8月日本は、ならず者国家ア
メリカの軍門に降り敗戦。以後その属国とされ、唯々諾々といいなりになる保守傀儡政権を保持せざ
るを得ない今日的不幸を背負い込む。もう200兆円以上を持っていかれたよ。これからの若者はア
メリカの命令のままに米軍の尖兵として戦場に引っ張り出されるよ。武運長久、くれぐれも遺体で戻っ
てくんなよ。
 同22年アメリカの強制による学制改革により「東京都江戸川区立中小岩小学校」と改称。同39
年第一期鉄筋コンクリート造り校舎9教室落成。同40年第二期鉄筋コンクリート造り校舎(中央校
舎6教室、管理部門)落成。開校20周年記念式典(3年遅れ)・落成式典。愛の鐘設置。同44年
第三期鉄筋コンクリート造り校舎8教室、給食室、屋上プール落成。同46年第三期鉄筋コンクリー
ト造り校舎5教室、特殊学級1、特別教室4、体育館落成。開校30周年記念式典。同57年開校4
0周年記念施設・フィールドアスレチック・記念石設置)。
 平成4年開校50周年記念式典。同15年開校60周年記念式典。

 校歌「」 作詞・石森延男  作曲・佐藤眞
  1.薄紫の朝の雲
    明るく清く棚引いて
    高い望みはこの胸に
    働く力 育てよう
    (合唱)
    江戸の川風爽やかに
    ここ学びやは 中小岩
    来よ 来よ 光 新しく
  2.星の世界は近くなり
    日に日に進む ちえとわざ
    若い瞳は正しさを
    真理(まこと)を求め きらきらと
    江戸の川風爽やかに
    ここ学びやは 中小岩
    来よ 来よ 光 新しく

  3.譬え幼く小さくとも
    人の命の尊さを
    何時も思って幸いと
    平和を願う私たち
 
   江戸の川風爽やかに
    ここ学びやは 中小岩
    来よ 来よ 光 新しく




晴立山本蔵寺
 3丁目22番にある日蓮宗の寺。入ると左が墓地でその奥は住居。右も墓地、本堂の右は寺務所。
明治43年に浅草北松山町から本像寺がやってきて、正保四年(1647)からこの地にある晴立寺
と合併して出来た寺。元々は関所役人中根平右衛門の代々の屋敷地だったとか。墓地に中根家代々の
墓碑が合葬墓の形である。



■慈恩寺道々標
(昭和57年区有形文化財)
 3丁目23番にまた壊されずに残っている。ちょうど角屋旅館の筋向いの路端のところだ。8丁目
の「水神碑」の約20m南の、親水緑道の脇の祠の中にも建っている。



■北野神社

 3丁目23番にある。創建は不詳。旧伊予田村(現在の北小岩3・4丁目)の鎮守。明治42年当
地にあった稲荷神社と北方の北野神社がに合祀され、昭和39年には一里塚近くにあった須賀神社を
合祀して北野神社となった次第。だから祭神は菅原道真、素戔鳴尊、倉稲魂命。境内に水神社があり、
拝殿より社務所の方が大きい。



愛宕山地蔵院宝林寺

 3丁目23番にある真言宗豊山派の寺。入ると右、本堂前に常燈明が置かれている。本堂の右に庫
裏、墓地は左の道路を隔てて向かいにあり、篠原伊予の墓がある。

 ●常燈明(昭和56年区有形文化財)
 本堂前に、昭和9年の河川改修時に移設された、渡船場に建てられていた石造の「常燈明」が建て
られている。江戸時代に江戸川堤に建てられていて渡船場への道標となっていた。

 篠原伊予
 里見安房守義弘の許で安西伊予守実元という武士だったが、里見氏が国府台合戦で北条氏に敗れた
ため当地に籠って農業に従事、篠原姓を名乗ったという。逃げ隠れするためか、養子に入ったのかは
不明。慶長十五年(1610)新田を開発し、「伊予新田」と名づけたが、後に「伊予田村」となっ
た。宝林寺の墓地に入ると南側の奥に「伊豫田村草分之開祖伊豫殿之碑」という石標がある。そこに
建っている宝篋印塔が伊予の墓といわれているが、供養塔なのかも知れないという。子孫は西野姓で
東葛西に住んでいる。



■角屋旅館

 3丁目23番にある江戸時代からの名物旅館。今もビジネス旅館として残っている。戦後も藁葺き
屋根だったが、建て替えた今の建物が何とも安っぽく見えるのは、写真のイメージが強い所為か・・・
慈恩寺道は後の佐倉道だ。



■江戸川駅

 3丁目24番にある京成本線の停車場大正元年11月3日京成で最初に開業した押上〜柴又・江戸
川間の終着駅。同3年8月30日に2つ先の市川真間へ延びるまで終点だった。ホームは高架相対式
2面2線構造。ホームと改札階を結ぶエレベーターは設置済み。改札口・出口は1ヶ所のみで地上1
階にある。      



長慶山善慶寺

 3丁目34番にある日蓮宗の寺。一風変った現代風デザインの山門を入ると参道の左も右も墓地、
左側にビルがあり、掲額に常照殿とある。鉄筋コンクリート2階建ての本堂だ。



■小岩の渡し

 4丁目34番の河川敷。房総と江戸を結ぶ佐倉道が江戸川を渡るところの渡船場だ。元和二年(1
616)に定船場(幕府指定の渡船場)となり、舟番所が置かれ、いわゆる「入鉄砲に出女」の俚諺
があるように往来する人と物を監視した。番所は後に関所となり、関所付近の街道筋は御番所町と呼
ばれ、旅籠や掛茶屋が立ち並び参勤交代や成田詣での人々で賑わった。関所は河川敷にあり、その先
に渡船場があった。御番所町は京成江戸川駅の南の小岩宿の別称。
 渡船場に建てられていた石造りの「常燈明」は、昭和9年の河川改修の時、真言宗豊山派愛宕山地
蔵院宝林寺の本堂前に移設されている。



■小岩菖蒲園

 4丁目37番の河川敷にある。地元から寄贈された花菖蒲を元に、昭和57年に区が回遊式の庭園
にしたもので、5〜6月に50000本の花菖蒲が咲き誇り、都会のオアシスとして都内名所の一つ
になってる。菖蒲田周辺にはフジバカマなどさまざまな野草がみられる。
 詳しい問い合わせは、(財)江戸川区環境促進事業団施設第三課 〒
133−0073 江戸川区鹿骨1
丁目54番2号 
03‐3678−6120 駐車場は400台収容可能(時間無制限:無料)ただし河川敷
の出入口が閉まるので、閉じ込められないように。最寄駅は京成江戸川駅。



■小岩井菖蒲園

 4丁目先北の江戸川河川敷にある花園。未確認なんだよ。HPは別々にあるし写真も違いがあるの
で、別なのかとも思うが、ともに河川敷で住所がはっきりしない。ただ地図に小岩菖蒲園北方のグラ
ンドの北に花園様のものを図示してある。ある説明に小岩井のほうはポピー(けし)、小岩のほうは
コスモスが名所としてある。ここは何度も通ったのだが、記憶にない。



■ムジナモ発見の地
 大正時代ころまで北小岩7丁目先河川敷には大小30余の沼があった。明治23年植物学者牧野富
太郎は、日本で初めてこの沼で食虫植物の水藻を発見し「ムジナモ」と名づけ、後に花も発見した。
このことが学会に発表されると、ムジナモと牧野博士の名は世界的に有名になった。大正10年に国
の天然記念物に指定されたが、洪水などで絶滅し、同15年には指定解除となった。他の自生地に埼
玉県羽生市の宝蔵寺沼があったが、こちらも昭和46年ごろに絶滅した。その後人工培養のものも自
滅したらしい。



稲荷山真光院遍照寺
 4丁目41番にある真言宗豊山派の寺。法印良鑁(りょうばん)が開山。本尊は木造阿弥陀如来立
像。入ると左右が墓地で、参道を行くと昭和47年に現代風なデザインで再建した鉄筋コンクリート
造りの本堂。
左に庫裏となっている。


 
三代高尾の墓

 彼女はこの地の出身で仙台高尾といわれる。本堂に安置している閻魔大王像は、実家を通じて高尾
太夫が寄進したものという。戒名は軟調院聖諦遊践信女。安政五年(1858)没。



■白蓮院

 5丁目7番にある日蓮正宗の寺。創価学会との繋がりは不明。鉄筋コンクリート2階建てのビル。



■五北天祖神社

 5丁目17番にある中社。万延元年(1860)二月の創建。旧は神明社と称していた。天照大神
を祀る神社は明治新政府の強制により天祖神社と改名させられた。意地を張ったところは神明神社か
伊勢神社を名乗っている。



厳松山無量寿院十念寺
 5丁目27番にある真言宗豊山派の寺。寛永八年(1631)賢覚が開山。本尊は阿弥陀如来像で
弘法大師の作と伝わっている。本堂は鉄筋コンクリート造り。左に同じく鉄筋コンクリート造り2階
建ての庫裏。さらに道路を隔てて墓地。墓地の右は併設の小岩みどり保育園があり、黄色い声が絶え
間ない。しかし煩く聞こえないのは本能なのか?




■上小岩天祖神社
 6丁目39番にある中社。天照大神を祀る。境内に国常立尊を祀る小祠がある。



■上小岩小学校

 7丁目2番にある区立校。昭和7年9月28日小岩尋常高等小学校から分校、「東京府南葛西郡上
小岩尋常小学校」として開校。10月1日周辺郡部が東京市に併呑されたため「東京府東京市上小岩
尋常小学校」と改称。同11年西小岩尋常小学校新設に伴い通学区域変更。同16年国民学校令によ
り「東京府東京市上小岩国民学校」と改称。12月日米開戦。同18年中小岩国民学校新設に伴い通
学区域変更。都制施行により「東京都上小岩国民学校」と改称。
 同20年8月日本は、ならず者国家アメリカの軍門に降り敗戦。以後その属国となり、唯々諾々と
いいなりになる保守傀儡政権を保持せざるを得ない今日的不幸を背負い込むこととなった。もう20
0兆円以上持っていかれたよ。戦費も賄わなければならないしよ。大変だ。
 同22年アメリカの強制による学制改革により「東京都江戸川区立上小岩小学校」と改称。同29
年北小岩小学校新設に伴い学区域変更。同45年上小岩第二小学校を分校。同56年全校一人一鉢菊
づくり始まる。創立50周年記念式典。平成6年校庭グリーンサンドに改修。同8年新学校農園開設。
同9年パソコンルーム設置。

    自ら学び 高め合い みんな輝け 上小岩っ子 

 同11年給食室全面改修。同14年開校70周年記念式典。同18年子ども見守り隊発足。

 校歌「希望輝く」 作詞・田沢武男  作曲・乗松昭博
  1.希望輝く青空に
    富士ヶ嶽(ね)高く澄む処
    みんな仲良く手を組んで
    笑顔明るく学びます
    楽しい学校 上小岩
  2.実り豊かな故郷の
    溢れる幸に包まれて
    みんな朗らに健やかに
    体鍛えて学びます
    伸び行く学校 上小岩
  3.桜花咲く江戸川の
    流れに心磨きつつ
    みんな元気に晴れやかに
    強く正しく学びます
    栄え行く学校 上小岩



■江戸川不動尊
 吉祥山地蔵院唐泉寺
 7丁目10番にある。堂は鉄筋コンクリート造り2階建てで1階は寺務所。石柱に「封じ護摩の寺」
とある。墓地はないようだが、聖地という有縁の地がある。境内に「気力稲荷」の小祠、七福神石像、
仏足石、不動明王石像がある。宗派は不明。江戸川区寺院一覧には記載のない仏教施設。それでも結
構な繁盛振りだ。



神明山西光院正真寺
 7丁目27番にある真言宗豊山派の寺。開山は慶長六年(1601)暁覚法印。入口を入るとすぐ
に鉄筋コンクリート造りの本堂、昭和43年の再建。天井の花の絵が16点は綺麗に保存されている。
本堂の左は2階建ての庫裏、その裏は墓地。



■七北天祖神社

 7丁目28番にある中社。



■神社

 7丁目28番にある小祠。



■小岩郵便局

 8丁目1番にある普通集配局。



■小岩第三中学校

 8丁目19番にある区立校。同22年アメリカの強制による学制改革により「東京都江戸川区立小
岩第三中学校」開校。西小岩小に本校を置く。中小岩小に分教場設置。同23年上小岩小に分教場設
置。同24年現在地に新校舎落成。同27年上一色町850番地に上一色分校設置。同28年上一色
分校が小岩第四中学校として独立。同32年開校10周年記念式典。同36年東側617坪校地拡張
・6教室改築。校舎増改築、プール完成。同38年体育館完成。同開校20周年記念式典。同46年
鉄筋校舎建築工事始まる。同47年鉄筋コンクリート造り校舎6教室・給食室完成。同48年鉄筋コ
ンクリート造り校舎8教室・特別教室3教室・管理室完成。同49年鉄筋16教室・特別教室3教室
完成し、鉄筋校舎建築工事完了。同50年学校園完成。同52年開校30周年記念式典。同57年校
庭工事完成。同60年機械警備開始。同61年校庭照明設備完成。同62年音楽室改修工事完了。同
63年管理室冷房機設置。暖房機ガス化。体育館、プール棟施設改築記念式典。開校40周年記念式
典挙行。平成元年給水管改修。校舎窓枠・外装工事・教室蛍光灯増設。同2年校舎内装工事完了。同
3年コンピュータルーム設置。同5年理科室改修。同6年教室床改修。同7年焼成小屋完成。同8年
電気設備改修。同9年開校50周年記念式典。同10年コンピュータ室整備完了。同11年足洗い場
補修。同12年美術室全面改修。同14年校庭改修工事完了。同19年創立60周年記念式典。

 校歌「武蔵の平野の一角に」 作詞・北見志保子  作曲・平井保喜

  1.武蔵の平野の一角に
    流れも清き江戸川や
    冬空遥かに富士白く
    我等学徒の意気やよし
    剛健の志をいや高く
    理知を磨かん幾星霜
    小岩三中に誉れあれ
  2.春荒涼と花は過ぎ
    秋は時雨に時は行く
    かくて若き日の夢追えば
    国府台近き学舎に
    集いて学ぶ同胞の
    公徳・礼譲・明朗は
    小岩三中の誇りなり
 



■八幡神社

 3丁目23番にある中社。祭神として誉田別命を祀る。創建は不詳だが、元禄八年(1695)の
記録には登場しているので、それ以前に遡ることは確実だ。

 
北原白秋歌碑
 境内にある。白秋は大正5年7月から1年間、第二の妻江口章子とともに小岩村の乾物商の離れで
生活を始め、その建物を「紫烟草舎」と名付けたそうだ。それで昭和36年に町の人が白秋を偲んで
碑を建てた訳だ。

   いつしかに夏のあわれとなりにけり乾草小屋の桃色の月

 白秋は本名隆吉(イメージじゃないな)、明治18年福岡県の醸造屋に生まれ、昭和17年糖尿病
と腎臓病を患い、58歳で亡くなった。
 なお当時の「紫烟草舎」は、市川市国府台の里見公園に移築されてるよ。



■上小岩第二小学校

 8丁目28番にある区立校。俗に「かみにしょう」と呼ぶ。昭和45年上小岩小学校から分校、「東
京都江戸川区立上小岩第二小学校」として上小岩小学校内に開校。校舎完成。5月新校舎に移転。9
月校歌制定。

 校歌「風爽やか」 作詞作曲・加藤友野
  1.川風爽やか 光るよ 窓辺
    明るい笑顔がこぼれます
    さとみの森に 声を響かせ 
    みんなで歌おう 上二小

  2.尽きない流れに 映る青空
    小さな胸は踊ります
    甲和の里に 昔を偲び
    みんなで学ぼう 上二小

  3、緑の堤は 僕らの道だ
    仲よく腕組み歩きます
    広がる空に夢を追いかけ
    みんなで進もう 上二小


 11月2日開校式・落成式。この日を開校記念日とする。同54年創立10周年記念式典。同57
年通学帽制定。同60年校舎改修。平成元年校庭改修。創立20周年記念式典。同7年プール改修。
同10年給食室全面改修。平成12年創立30周年記念式典。



■慈恩寺道々標

 8丁目29番にまた壊されずに残っている。「水神碑」の約20m東南の、親水緑道の脇の祠の中
にも建っている。正徳三年(1713)に法林寺が建てたとある。法林寺は宝林寺のことだ。道標は
馬頭観音・地蔵尊と並べてあり、恐らく移設したんだろうが、繁々と眺めたものの道標と確認できな
かった。「正徳三年七月二四日」だけは読めたから間違いないだろう。区内最古の道標だ。また3丁
目の角屋旅館の筋向いの路端のところにもある。



■水神碑・石井善兵衛碑

 8丁目26番、小岩の北端の上小岩親水緑道(善兵衛堀跡)の最上流の北側に高々と聳える石碑だ。
善兵衛は上小岩村人。当時この辺りの上小岩村・中小岩村・小岩田村・鎌倉新田(葛飾)の四ヶ村は
水に恵まれず、したがって旱魃に見舞われると、たちまち荒廃の極に陥った。そこで善兵衛は江戸川
から水を引くことを思い立ち、四っつの村の有力者を説いて回り、明治11年四ヶ村へ水を引く圦樋
と用水路を完成させ、これらの村々を旱魃から救ったのだ。府知事は善兵衛の功績を賞し「善兵衛樋」
と命名、また村人はこの碑を建て、その裏面に長文の碑文を刻んで賛辞を惜しまなかった。碑は排水
場の脇にある。その苦心惨憺の善兵衛堀も今や埋め立てられて路地や親水公園となって残るのみだ。
水神碑を探してたとき、何人かの土地の人に尋ねたが誰も知らなかった。発見したのは偶然だが、余
りに環境に溶け込んでて気がつかないのも無理はない。実は私もその前を通り過ぎていたのだ。水田
変じて住宅街となった今、昔の農業用水のことなど無頓着でも仕方ないか。石井家は現存する。




【北篠崎】(きたしのざき)1〜2丁目                 平成2年8月1日
 笹ヶ崎村。明治22年篠崎村大字笹ヶ崎、昭和7年江戸川区北篠崎町、同41年一部を南小岩2
丁目・東小岩1丁目・上篠崎町1〜2丁目に譲り、同時に西篠崎町・鹿骨町の各一部をあわせて北
篠崎町1〜2丁目と北篠崎町となった。平成2年2丁目に北篠崎町を吸収して現行の「北篠崎1〜
2丁目」となり新住居表示を完了した。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『江戸川区史』など。

 
北篠崎について
 篠崎村の範囲ではない。かつての篠崎村の北側に当たる地区であることによる。都立篠崎公園の
北側の住宅地。「笹が崎」または「笹崎」でなぜまずいんだろう? 何も隣村の名前を名乗る必要
もないし、篠崎がそれほどネームバリューがある地名とも思われない・・・お役人にはこのほうが
便利なのだろうか? 篠崎の由来は【篠崎】を参照。



■神社・碑

 1丁目7番にある。



大乗山要法寺
 2丁目13番にある日蓮宗の寺。山門を入ると右側と本堂の奥まで墓地。庫裏は左。正面本堂は鉄
筋コンクリート造り。



■篠崎第五小学校

 2丁目15番にある区立校。昭和51年篠崎第二小学校と南小岩第二小学校から分校、「東京都江
戸川区立篠崎第五小学校」として開校。校歌制定。

 校歌「みどりの森から」 作詞・小林純一  作曲・京嶋信
  1.みどりの森から吹いてくる
    風が明るいこの辺り
    今日も漲る日を浴びて
    根強く茂る篠竹と
    私たちが ここに育つ
    篠崎第五 第五小学校
  2.海原目指して江戸川の
    水が流れて行くように
    何時も行く手に新しい
    時代を築く夢乗セて
    私たちが学び励む
    篠崎第五 第五小学校
  3.文化の歴史をそのままに
    開け栄える町に今
    高く足音響かせて
    オレンジ色の旗の下
    私たちが進み進み
    篠崎第五 第五小学校


 同61年創立10周年記念式典。平成8年創立21周年記念式典。
 




【小岩】 東小岩・西小岩・南小岩・北小岩
 明治22年上小岩村・中小岩村・下小岩村・伊予田村・小岩田村の5ヶ村で南葛飾郡小岩村を成
立し、昭和3年小岩町、同7年江戸川区の小岩町1〜8丁目となる。現在は部分的に他地区を編入
して東・西・南・北の小岩に分けている。

 小岩の由来
 下総国葛飾郡大島郷甲和里(こうわのさと)が転じて「こいわ」となった(吉田東伍)という。
古代人の石器などが発見されており、古くから人々の生活があったことは否めない。ただ甲和が何
を指すのかは判っていない。村を開発したころ小岩がごろごろしていたのかも。「こいわ」を、イ
ンドネシアで解すると「コイ・ワ」、「川の氾濫で傷を負った場所」だ。地形的には適っている。
何でインドネシアかというと、現在の東南アジアの地形は地盤沈下によって形成され、海没が起き
た時、大量の民族移動で日本にやってきたのが南方系といわれる日本人の先祖集団だ。ムー大陸の
伝説は、この地盤沈下に関係あるのかも知れない。
 だから小岩といえば「石井善兵衛」、いや昭和の名横綱「栃錦清隆」だ。善養寺の「影向の松」
だぁ! 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『江戸川区史』など。





【小松川】(こまつがわ)1〜3丁目               ━旧4丁目の一部未実施
 西小松川村。明治22年逆井村と東・西小松川村の各半部をあわせて「小松川村」、西一之江村
と東・西小松川村の残部をあわせて「松江村」としたが、大正3年荒川放水路の開通により小松川
・船堀・平井の三村は廃村の憂き目となり、残部を集めて「小松川町」を起立した。昭和7年江戸
川区が成立すると小松川町は小松川1〜4丁目・平井1〜4丁目・逆井1〜2丁目に分かれた。同
47年の新住居表示の実施で逆井と平井が合併して平井1〜7丁目となり、同63年5月1日小松
川1丁目の大部分に新住居表示を施して前の「小松川1丁目」とし、平成5年9月6日小松川旧1
丁目の残りの一部と2丁目の一部をあわせた町域を現行の「小松川2丁目」平成8年10月7日3
度目の住居表示により、小松川旧1丁目の一部を新しい1丁目に加えて現行の「小松川1丁目」を、
小松川新2丁目に小松川旧1〜4丁目の各一部を加えて現行の「小松川2丁目」を確定し、小松川
旧2丁目の全部と3〜4丁目の各一部をあわせた町域を現行の「小松川3丁目」とした。
 なお京葉道路から北の旧4丁目部分が、新住居表示を未実施で残っている。将来3丁目に組み込
まれるのか平井に奪われてしまうのか、住民は心穏やかならざらむ。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『江戸川区史』など。

 
小松川の由来
 すでに中世には新小岩辺りに小松村があり、江戸川と中川の低湿地帯を流れる川を小松川と呼ん
だ。時代を追うとともに陸地化が南へ進み、やがて小松村の南方で小松川を挟んで東西に村が開け、
東・西小松川村を称えた。そして村境の小松川を境川または小松川境川と呼んだ。現在は、暗渠と
なり親水公園となっているが名称を「小松川境川親水公園」というのはそのためだ。小松村の由来
は判らないが、「小松」は新松・若松のこと。村を拵えた当時防風林として松ノ木を植えたものか


  春またでしめつる野辺の小松川三千年も手のうちにあり(蜀山人)
  秋に添えて行かばや末は小松川(芭蕉)
  長閑さに蝶の群がる小松川(川柳)



■小松菜
 鶯菜(ウグイスナ)。一年中出回るが旬が冬なので冬菜とも。先祖は大根と同じ地中海沿岸の蕪の
茎立ち(くくたち)といわれ、鎌倉時代に中国から伝わったものとも、古代に伝わったものの裔だと
もいう。江戸名物「葛西菜」を小松村の椀屋久兵衛が改良して作った。種播きから収穫までの期間が
短く、年に数回収穫できる。ビタミンC、カロチン、特にカルシウムを多く含み野菜の中ではトップ
クラス。江戸の雑煮には欠かせない。小松川一円で広く栽培され、現在も都内の4割を生産している。
知られてないが黄色い可憐な連翹(レンギョウ)のような花を咲かせる。夏場は種を播いてから4週
間で収穫でき、冬場は2ヶ月半くらいだとか。
 小松菜の名は、享保四年(1719)八代将軍徳川吉宗が鷹狩の際、西小松川村(中央4丁目)の
香取神社に休んだ時、神主亀井和泉が差し上げるものとてなく、お餅の澄まし汁の彩りに少々の青菜
をあしらって差し出したところ大いに歓ばれ、菜の名を尋ねられたが返答に窮していると「菜に名が
ないのであれば、ここは小松川、小松菜≠ニ呼ぶがよい」と命じたという伝承が残っている。まあ
菜に箔をつけるために村の知恵者が考え出した作り話だろう。天皇や将軍、名将の権威を利用するの
は日本人の常である。
 昭和30年ごろまでは、秋から冬穫りが中心で、品種は在来のものが用いられてきた。一之江の後
関五吉が「ごせき晩生」を育成し、同40年種苗名称登録をした。薹立ちが遅いので一年を通して栽
培でき、春穫りも安心して作ることができる。同58年には世田谷区大蔵の安藤敦夫が育成した「安
藤早生」が登録された。これは伸びの早い品種で、寒さに弱いが暑さには強く、春から秋にかけて作
るのに適している。若い内に収穫して一夜漬けにすると味が良い。このほか全国各地に様々の種類が
あり、地方独特の呼び名がある。群馬・埼玉の「武州寒菜」福島の「信夫菜」、新潟の「大崎菜・新
潟小松菜」などのほか、他の野菜との掛け合わせ、ちぢみ雪菜とで「グリーンデビュー」、チンゲン
菜とで「友好菜」、白チンゲンとサイシンをかけた「夏水菜」、キャベツをかけた「千宝菜1号」、
タアサイをかけた「みこま菜」などがある。
 現在全国で作られているが、東京都の農作物の中でも単品としてトップであり、凡そ13400t
の収穫量で50億円の生産額がある。区の収穫量は約5500トン、生産額は21億円余で、都内の
市区町村別で一位(平成10年調べ)。原産地の面目躍如。区では原産地として特に力を入れており、
区として「小松菜の日」を設け、その日小学校では給食に小松菜をあしらった料理が出される。面白
いことに専用の自動販売機があったり、焼酎、発泡酒、饅頭、お焼き、たこ焼、アイスクリームがあ
るなど、アッピールに余念はない。饅頭は「花の祭典」「区民まつり」のみの限定販売。他に葛西菜
まんじゅう、葛西菜パンがある。 カキと小松菜を炒めて、市販のつけめん汁で味付け、最後に卵で
綴じると、これが簡単で結構いける一品。小松菜農家の主婦が教えてくれた。



■都立大島小松川公園・小松川南地区

 1丁目1番にある都立公園。芝生の広場・風の広場・展望の広場で構成されている。

 旧小松川閘門
 洪水対策として、荒川と中川の両放水路が昭和5年に完成した。この放水路開鑿により、川を横切
る地点に閘門を設け、水位の調節を図った。大正12年に小名木川閘門と新川水門、昭和5年に小松
川閘門と船堀閘門が完成した。しかし水上交通の発展に押され、衰退していき、閘門や水門も必要な
くなり、すべて廃止になり取り壊された。現在当時の名残を留めるのが小松川閘門1門で、大島・小
松川公園の一部として保存されている。なのに新閘門が建設されてる。もうできたかな?



■東大島駅

 1丁目3番にある都営地下鉄新宿線の停車場。新宿線の最初の区間である岩本町〜東大島間が開業
した昭和53年12月21日に設けられた。昭和58年12月23日船堀まで延伸し、中間駅となっ
た。
 ホームは高架相対式2面2線構造で2階にある。ホームと改札階を結ぶエレベーターは、小松川口
と大島口側両方に設置されている。改札口・出口は、西口に当たる大島口と、東口に当たる小松川口
の2ヶ所。大島口は中2階、小松川口は1階にある。大島口には、改札階と地上を結ぶエレベーター
がある。駅は、江東区と江戸川区の境界でもある旧中川を跨いでいる。都区内で、川を跨いでいる駅
は他にも北赤羽駅と新馬場駅があるが、区の境界線まで跨いでいるのはこの駅だけだ。このため関東
の駅百選に選ばれている。新宿線は、この東大島駅と船堀駅の間だけ荒川・中川を越えるために高架
区間となっている訳だよ。



■都立大島公園

 1丁目の殆どが都立公園だ。ここは工場跡地で、六価クロムの公害騒動で揉めに揉めたところだ。
だだっ広い芝生公園で、江東区側にもあり、こっちはスポーツ広場になっている。



■逆井の渡しの跡

 3丁目1番にあった。護岸が整備されたので昔日様子を髣髴とさせるものはないが、元佐倉道が残っ
ているので位置は推定できる。旧逆井橋の北側。江戸時代の交通の結節点として、極めて重要な意味
を持っていた渡し場で、元佐倉道の性格を考える上にも重要な史跡なのだ。
 この渡しは、江戸時代初期に整備された元佐倉道を繋ぐもので、両国から竪川の北岸に沿って東に
進み、亀戸を経て、この渡しを渡って、八蔵橋・菅原橋・二枚橋・一里塚と進み、小岩市川関所の手
前で佐倉道に合流していた。別に成田道ともいわれる佐倉道は、千住から新宿・小岩を経て、小岩市
川関所を通過するルートだったが、この旧佐倉道は裏ルートに当たる。
 渡し場は船2艘が配備され、旅人を乗せて運行したが、明治12年に逆井橋が架橋されたため、廃
止された。
 その逆井橋は、その架橋費用を賄うために通行料が徴収されていた賃取橋だった。現在の逆井橋は
昭和43年に鉄橋へと改修された3代目のものに当たる。



■小松川神社

 3丁目1番にある。現在の小松川地区は、かつて西小松村の一部でしたが、荒川放水路(荒川)の
開削に伴い、西小松村と分断されたため、大正3年に小松川町が誕生した。この時西小松村の氏神だっ
た間々井香取神社や天祖神社に参拝することが不便になったので、その分霊を明治7年に廃寺になっ
た西光寺の旧境内にあった稲荷神社と合祀して、昭和12年に小松川神社が創建された。その後幾度
かの変遷はあったが、平成12年に社殿を改築している。
 社殿の背後には江戸時代以来の石造物が集められているが、その中に延享元年(1744)銘の青
面金剛像庚申塔(区文化財)も含まれている。
 さて入口脇には安藤広重の「名所江戸百景」にも描かれた逆井の渡し跡の解説標識がある。



■旧江戸川区役所文書庫

 3丁目6番の小松川3丁目公園の中にある。旧江戸川区役所の庁舎があった小松川一帯も東京大空
襲で焼野原になった。その中で焼け残ったのが二階建特殊コンクリートブロックの建物である旧江戸
川区役所文書庫だ。今も保存されているこの文書庫脇に「世代を結ぶ平和像」が建っている。戦火の
中、区の重要書類を川に沈めて守った元助役をはじめ多くの区民が、戦争の悲惨さを伝えるために文
書庫の保存と「平和像」の建立を求めて立ち上がった。区もこれに応えて、平成元年文書庫の保存を
実現、同3年「世代を結ぶ平和像」が建立された。



■世界を結ぶ平和の像

 この像は、「世代を結ぶ平和の像をつくる会」(藤田昇会長)が、平成元年から1年間に亘り行っ
た募金活動に、1万2000人が1200万円の浄財を集めて完成させたものだ。高さ1.1m のブ
ロンズ製の像で、制作したのは、平和をテーマに多くの作品を発表している、文化勲章受賞者の圓鍔
(えんつば)勝三。平成3年3月10日に旧文書庫脇で行われた東京大空襲江戸川区犠牲者追悼式で
披露され、その後旧文書庫周辺の公園整備がすむまで、平井コミュニティ会館の玄関ホールに仮設置
されていた。そして同7年3月10日250人が参列した追悼式で、小中高生11人の手で白いベー
ルが外され、改めて平和への思いを込めた母子像が披露された。



■小松川第二小学校
 3丁目6番にある。俗に「にこまつ」と呼ぶ大正15年小松川尋常高等小学校から分校し、「小松
川第二尋常小学校」として開校。昭和7年周辺5郡が東京市に併合され「東京府東京市小松川第二尋
常高等小学校」と名称変更。同16年国民学校令により「東京都東京市小松川第二国民学校」と改称。
同年12月日米開戦。同18年都政施行により「東京都小松川第二国民学校」と改称。同20年愚か
なアメリカ軍の非人道的無差別空爆により校舎全焼。8月日本はならず者国家アメリカの軍門に降り
敗戦。以後属国となり、唯々諾々といいなりになる保守傀儡政権を保持せざるを得ない今日的不幸を
背負い込む。
 同22年アメリカの強制による学制改革により「東京都江戸川区立小松川第二小学校」と改称。

 校歌「都の空に」 作詞・平井孝一  作曲・中山長久
  1.都の空に陽は昇り
    学びの空に光あり
    心豊かに健やかに
    千余の友は睦み合う
    ああ二小松の旗仰ぎ
    誓いは固く伸びて行く
  2.豊かな流れ荒川の
    堤の辺(ほとり)我が母校
    学びの業に勤しみて
    高き理想の夢持てり
    ああ二小松の旗仰ぎ
    日本文化高め行く




【鹿骨】(ししぼね)1〜6丁目                  最終平成4年3月2日
 鹿骨村。名前からして相当に古そうだ。区で二番目に古い正応3年(1290)の板碑が出土し
ている。篠崎に飛地がある。明治22年本村は鹿本村大字鹿骨、飛地は篠崎村大字鹿骨、昭和7年
本村は谷河内・下篠崎・西二一之江をあわせて江戸川区鹿骨町となり、飛地は上篠崎町に吸収され
て消滅した。同13年一部を春江町に譲り、同41年一部を南小岩2丁目・北篠崎町に譲り、同4
5年松本町・上篠崎町・西一之江2丁目・一之江1丁目・谷河内町・新堀町の各一部をあわせた町
域を鹿骨1〜5丁目とし、一部が住民の反対で「鹿骨町」として残っている。平成3年2月1日鹿
骨1丁目に鹿骨町の一部をあわせて、2・4丁目とともに新住居表示を実施して現行の「鹿骨1〜
2・4丁目」とし、平成3年8月1日鹿骨5丁目の一部を現行の「5丁目」、鹿骨町の一部を現行
の「6丁目」とし、平成4年鹿骨3丁目の全部に鹿骨町の一部をあわせた町域を現行の「3丁目」
とした。
 ※一区画だけ住民の希望と合わずほったらかしのまま現在に至っている。

【鹿骨町】(ししぼねちょう)                   未実施 東松本に反対
 松本小学校の北の1ブロック。区は東松本2丁目4番を欠番とし、手薬煉(てぐすね)引いて準
備万端怠りないが、世の中なかなかスムーズに行かないものなのだ。もう何年もそのままだ。

 「鹿骨が何で東松本なんだ?」

 何事によらず物事がとんとん拍子にいってしまうと、人類はぼけて自然消滅してしまう。オリン
ピックの金メダルは取れないからいいのよ。悪徳政治家に汚職官僚、エロ事師に詐欺野郎がいるか
ら、自分が正義の人として生きられるんだよ。

  人の振り見て我が振り直せ 人は醜い振りをする(池田光政)
  石川や川の真砂は尽きるとも余に盗人の種は尽きまじ(石川五右衛門)

 たとえ人類の全てが生涯を善を貫いて生きたとしてもだ、残念ながら人類はいずれ絶滅するんだ
なぁ。これが! 宇宙開発だの、火星移住計画だの、人間は好き勝手なことをいって科学技術の粋
を集めて大騒ぎだが、

  井の中の蛙大海を知らず

 で、観音様の掌で孫悟空が天下取った気分のようなものさ。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『江戸川区史』など。

 鹿骨の由来
 3丁目の西南角、前沼橋際に鹿見塚神社がある。ほんの小さな社だ。常陸鹿島(鹿嶋市)の鹿島
大神(武甕槌命)が大和に向い、この地にやってきたとき大神の杖となっていた神鹿が死に、大神
が懇ろ弔い塚を築いて立ち去った。それから半年ほどして西の空に五彩の雲が棚引き神鹿が天に召
されていった。村人はこの奇瑞に感動して鹿島大神を勧請して4丁目の鹿島神社を創建した、とい
うのが伝承だが。鹿島(茨城県鹿嶋市)には、地名のごとくニホンジカが多かったものと見えて、
鹿が遠く奈良に輸出されていた。それは史実で、春日大社の鹿は鹿島産だ。現在でも鹿島神宮の境
内には相当数の鹿を飼ってるよ。だからカウボーイのように運搬してたのだから途中で鹿が死ぬこ
ともあるだろう。それでなぜ鹿島の鹿が春日大社にいるのかというと、春日大社の祭神は武甕槌神
(たけみかづちのかみ)つまり鹿島大神だ。そして春日明神といえば藤原氏の氏神。和銅三年(7
10)に藤原不比等が勧請したのだ。藤原氏の先祖は藤原鎌足で、その前の名は中臣鎌足、中臣氏
は鹿島神宮の神官の出だ。かつて千葉県に鎌足村があり、鎌足の生誕地だという言伝えがあった。
つまり奈良の春日大社は鹿島神宮の出張所という訳だ。たから鹿島の鹿が奈良に運ばれたのは頷け
る。また後に相神として経津主神(ふつぬしのかみ)つまり香取大神まで勧請している。ではなぜ
鹿島大神はこの地をを通ったのだろう? 奥州道は内陸を通っている。それは『更級日記』にヒン
トがあるようだ。作者は菅原孝標女で上総での任を終えた父と共に帰京の途につくが、そのコース
が船橋の海岸線を通っている。常陸からも海岸コースが近道だったのかも知れない。鹿島神宮も藤
原氏を応援する必要があってどんどん神鹿を送ったのだろう。
 鹿見塚(ししみづか)はそういった鹿を供養した塚だったに違いない。骨というのは鹿見つまり
鹿の肩の骨を焼いて、その皹割れによって占う鹿占・卜占によるのかも知れない。鹿見塚神社は鹿
骨街道(河原道)のバス通りに面して建つ神社だが、塚は頂に生えていた老松が倒れて通行中の車
が下敷きになり運転者が大怪我をするという事故があったため撤去された。「ししみづか」は他に
川越市と吉川市にあり、「しかみづか」が潮来市にある。鹿を送るコースは幾つもあったのだろう。
であれば鹿骨はさほど珍しい地名ではない。
 さて「ししみ」「ししぼね」は、インドネシア語の「チチ・ミ」、「川の水が櫛をかけたように
削った土地」、「チチ・ホネ」=「川の水が櫛をかけたように削る災難に遭った土地」の意だとい
う。地形的には適っているが、江戸川区は室町時代に陸地化したものだから、インドネシア語で解
釈するのはチョと難がある。



■東京農業試験場・江戸川分場

 1丁目15番にある。昭和13年開場。



■神社

 1丁目21番にある小祠。



金霊山円勝院神明寺

 1丁目25番にある真言宗豊山派の寺。開山は不明。享禄三年(1530)円海律師により中興開
山。本尊は阿弥陀如来。入口を入ると、右は併設の鹿骨保育園があり、境内を利用して運動場は左に
ある。それを過ぎると本来の境内となり、本堂は1階が鉄筋コンクリートの基礎となってその上に建
つ。1階は遍照殿と書いてある会館。本堂の左と奥は墓地、右は庫裏だ。 



■鹿骨中学校

 2丁目12番にある区立校。昭和53年鹿本中学校から分校。2年生223名移籍。1年生268
名入学。計491名でスタート。8月プール完成。11月2日校歌校旗制定。この日を開校記念日と
する。

 校歌「都の東」 作詞・奥村敏雄  作曲・石野和子
  1.都の東 江戸川の
    広野に建てる我が母校
    高き理想と清純の
    心磨きて爽やかに
    此処に集える同胞(はらから)は
    ああ我ら鹿骨中学校

  2.
神鹿の里 うまし野の
    沃野に建てる我が母校
    強き腕と青春の
    体鍛えて健やかに
    此処に集える同胞は
    ああ我ら鹿骨中学校

  3.百花競える鹿骨の
    緑野に建てるわが母校
    篤き友情 信愛の
    友と交わり和やかに
    此処に集える同胞は
    ああ我ら鹿骨中学校


 同54年校地拡張。同57年第2期工事(3階建,6教室分増築)竣工。第2音楽室改築竣工。同
59年第二グラウンド設置。同61年第三グラウンド設置。同63年校地拡張。正門・校庭改修。創
立10周年記念式典。
 平成3年コンピュータルーム改築。同6年西門、通用門、北門、改修工事竣工。同10創立20周
年記念式典。



■小岩消防署

 2丁目42番にある。



■鹿見塚神社
 3丁目1番にある小社。



■鹿骨東小学校

 3丁目7番にある区立校。昭和50年9月1日鹿骨小学校と篠崎第二小学校から分校して、722
名の児童を迎えてスタート、「東京都江戸川区立鹿骨東小学校」として開校。同51年校歌制定。

 校歌「大東京で真っ先に」 作詞・小林純一  作曲・京嶋信
 出だしの「大東京で真っ先に」は篠崎第三小学校と同じ。作詞も小林だ。
  1.大東京で真っ先に
    朝の光が届くところ
    ここ江戸川にまた今日も
    漲る光 浴びながら
    楠のように逞しく
    私たちが延び育つ
    鹿骨東 おお鹿骨東小学校
  2.大空高く飛ぶ雲よ
    海を目指して走る水よ
    その行く果てを思う時
    広がる夢も限りなく
    日本の未来 担うこと
    誓い合い 励み合う
    鹿骨東 おお鹿骨東小学校


 同60年創立10周年記念式典。平成7年創立20周年記念式典。同17年創立30周年記念式典。

 学校紹介
 「大東京で真っ先に朝の光が届くところ」と校歌に謳ったように、本校は、東京都江戸川区の東に
あり、由緒ある「鹿骨」の地名の由来になった「鹿見塚」と隣接している。校地に沿うように鹿骨親
水緑道が流れ、小松菜や花卉を育てる生産緑地が広がっていた。朝顔市、ほおづき市への出荷、暮れ
には、七五三縄作りが有名だ。四季折々の情緒が残っている町、由緒と歴史がある町であり、地域の
人々の郷土愛は強く、その中の鹿骨東小学校への期待は、極めて大きい。また学校に対しての地域の
協力と支援の気風は、今日も脈々と受け継がれている。このような背景の下、地域との交流は特色あ
る教育活動の一つになっている。



本命山密蔵院

 4丁目2番にある真言宗豊山派の寺。入口の正面が鉄筋コンクリート造りの本堂、左庫裏、右と奥
は墓地。参道の右に「もっとい不動尊」が、また外の道路際に閻魔大王が、露出で安置されている。



■鹿骨神社

 4丁目9番にある中社。鹿骨村当時の鎮守で、明治維新までは五社神明社とか五社神社と呼ばれて
いた。これは本村の草分けとなった石井長勝、田島、中代、牧野、別系の石井姓の5氏が本村に住み
着いた時にそれぞれが奉祀していた氏神を合祀したところからそう名付けたという。また村の口碑に
よると、常陸国鹿島郡の鹿島大神が大和国奈良の春日へお移りになった途次にこの地を通られた時、
大神の杖となっていた神鹿が病気でたおれられたので、里人はこれを奇縁として、武甕槌命、天照大
御神ほか三神を勧請して一社を建て鹿島神社と名付けたともいわれている。社殿は寛文六年(166
6)に改築され、円勝院が別当をつとめていたが、明治5年明治政府により村社に列せられた。 



妙高山本城寺
 4丁目20番にある日蓮宗の寺。入口を入ると正面は墓地で、参道は左折し本堂に向かう。左は鐘
楼で、さらに左は庫裏。また墓地は入口前の道路向いにもある。



■神社
 4丁目20番にある小祠。



■西中稲荷神社

 5丁目11番にある。



■神社

 5丁目20番にある。



■小岩第五中学校

 5丁目27番にある区立校。昭和31年
小岩第二中学校分校として校舎落成。2階建て普通教室8
・特別教室2・職員室1・衛生室1。同32年1月2年生収容第3学期開始。6月「東京都江戸川区
立小岩第五中学校」として開校。同33年第一期校舎増築。同34年第二期校舎(普通教室4・特別
教室4)増築。同36年体育館完成。同37年校歌制定。

 校歌「緑の土堤に」 作詞・平野多美子  作曲・大中恩
  1.緑の土堤に陽は満ちて
    水は煌き流れ行く
    四季の香りはフレームに
    何時も漂う花の里
    心豊かに健やかに
    伸び行く我ら夢多く
  2.弾むリズムも高らかに
    歌う明るい窓の下
    理想に燃える瞳を交わし
    語る青葉の蔭の中
    学びの庭に幸溢れ
    円居は楽し師と友と
  3.手を取り行けば目も遥か
    永久に光は射している
    平和の道を創り行く
    使命を固く誓い合い
    希望は今日も新しく
    勤しむ我ら学舎に


 同39年プール完成。同42年創立10周年記念式典。同43年完全給食実施。同46年旧校舎取
り壊し。同47年第一期鉄筋コンクリート造り校舎落成。同48年第二期鉄筋コンクリート造り校舎
落成。同52年第三期鉄筋コンクリート造り校舎落成。
創立10周年記念式典。同59年体育館完成。
同62年創立30周年記念式典。
 平成元年校舎窓枠サッシュ化完了。同2年都市ガス暖房完了。同3年体育館・プール完成。同4年
パソコンルーム完成(22台)。同5年調理室改修。校舎外壁塗装。同6年耐震化工事完了。同9年
創立40周年記念式典。同14年給食室改修。 



■鹿骨小学校

 6丁目3番にある。昭和35年11月1日鹿本小学校分校設立。1〜3学年各1学級児童数128
名が移転して授業開始。同36年給食室新設。給食開始。同39年3月第一期鉄筋コンクリート造り
校舎3階建9教室と給食室新築落成。
 4月独立して「東京都江戸川区立鹿骨小学校」として開校。児童数394名12学級でスタート。
分校開設の11月1日を開校記念日と定め、校歌制定。
 同41年第二期鉄筋コンクリート造り校舎(4普通教室、音楽室、図書室)落成。同42年第三期
鉄筋コンクリート造り校舎(5普通教室、主事室、事務室、警備員室)落成。プール完成。校歌3番
補作。

 同43年体育館完成。同44年第四期鉄筋コンクリート造り校舎(2普通教室、音楽室、図工室、
理科室、校長室、職員室)落成。同45年第五期鉄筋コンクリート造り校舎落成。同47年松本小学
校新設に伴い児童253名移転。同48年開校10周年記念式典。同50年鹿骨東小学校新設に伴い
児童541名移転。同56年藤棚設置。同58年開校20周年記念式典・郷土資料室完成。同62年
校舎外壁全面塗装、窓枠アルミサッシ化完了。同63年開校25周年記念PTA大運動会。平成2年
万年塀撤去、生垣化工事完成、南門、北門、玄関前改修、水鳥小屋新築。同6年開校30周年記念式
典。同10年パソコンルーム完成。同16年創立40周年記念式典。



■松本小学校

 6丁目9番にある。昭和47年9月「東京都江戸川区立松本小学校」として開校。児童数590名
(1年〜5年)17学級でスタート。11月5日を開校記念日とする。プール完成。同48年開校式
・校歌制定。

 校歌「明るく広い」 作詞・小林ふみ子  作曲・小出浩平
  1.明るく広い空の果て
    富士が子供を呼んでいる
    大きい夢を持つように
    仲よく勉強するように
    松本の子を呼んでいる
  2.新中川の岸近く
    風も楽しく吹いてくる
    みんなで何時も助け合い
    やり抜く力 育てよと
    松本の子に吹いて来る
  3.学びの園に育まれ
    明日は世界に飛び立とう
    自立の気風受け継いで
    燃え立つ英気 溌剌と
    松本の子は飛び立とう


 同57年創立10周年記念式典。同60周年機械警備開始。同63年「学校の森」(アスレチック
・遊歩道)完成。平成4年開校20周年記念式典。同5年梨の歌碑除幕。給食室・理科室改修。同9
年パソコンルーム設置。同13年インターネット接続。同14年創立30周年記念式典。




【篠崎町】(しのざきちょう)1〜8丁目              1〜2丁目のみ未実施
 上篠崎村・下篠崎村。明治22年篠崎村大字上篠崎・下篠崎・鹿本村大字下篠崎(のち鹿骨町)、
昭和7年江戸川区上篠崎町・西篠崎町・下篠崎町、同41年上篠崎町・下篠崎町・南篠崎町(上鎌
田)の各一部をあわせた町域を篠崎町1〜7丁目としたが、のち旧鹿骨村飛地部分を8丁目とし、
同62年11月2日3〜5丁目に、平成2年8月1日7〜8丁目に、同5年11年1日6丁目に新
住居表示を実施。1〜2丁目については未実施。6丁目に「ジェイブ美術館」がある。日本で最初
のトリックアート中心の美術館。ルーブル美術館をはじめとするヨーロッパの名画・彫刻が、トロ
ンプ・ルイユ(だまし絵)の技法により、立体的に見えるように再現されている。作品に触れるこ
とも、写真を自由に撮ることもできるぞ。しかし閉鎖しているという噂あり。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『江戸川区史』など。

 
篠崎の由来
 確たる地名の由来は残されていないが、字面から推せば「篠竹が繁茂する出張ったところ」だ。
太日川(江戸川の古称)が蛇行していて旧江戸川の流れで地図を見ようなら、現在でも篠崎地区は
東へ大きく張り出しており、人々が初めてやってきたころの自然の佇まいからきたのだろうと考え
られている。現在上・下・東・西・南・北を冠する篠崎に分かれ、概ね篠崎村の範囲を概ね守って
いる。「しのざき」をインドネシア語で解すると、「チノ・タハキ」、「主要な目立つ岸のある場
所)」ということになるらしい。ちょっときついかな。



■篠崎小学校

 3丁目2番にある。明治16年
上篠崎村・下篠崎村・笹ケ崎村の3村による、村立三崎小学校を開
校。下篠崎村1411番地に「三崎第一小学校」として認可。同25年上鎌田499番地に「三崎第
二小学校」設立。同34年「南葛飾郡篠崎村立篠崎尋常
小学校」と改称。同36年高等科を併置して
南葛飾郡篠崎村篠崎尋常高等小学校
と改称。下篠崎1271番地(篠崎図書館のところ)に校舎
新築移転。明治38年第一分校を設置し、三崎第二小学校を鎌田分教場とする。大正10年3教室増
築。
 昭和2年4教室増築。同3年
2階建て校舎6教室増築。講堂・物置・校長住宅・教員住宅を新築。同
7年周辺5郡が東京市に併呑されたことにより「東京府東京市江戸川篠崎尋常高等小学校」と改称。
同8年創立50周年。同10年第一分校に2階建3教室を増築し、尋常科1〜3年生を移転させ、「押
上分教場」と改称。同12年
明治36年に建築した校舎を2階建てに改築。音楽室、衛生室(保健室)、
5普通教室、用務員室、2倉庫完成。同14年鎌田分教場
を「鎌田尋常小学校」として分校。
同16
年国民学校令により「東京府東京市篠崎国民学校」と改称。12月日米開戦。同18年都制施行によ
り「東京都篠崎国民学校」と改称。同20年初等科児童44名、山形県鶴岡市の極楽寺・東昌寺に集
団疎開。児童80名、山形県小国村瀬見の高津屋・伊藤屋に集団疎開。
8月日本は、ならず者国家ア
メリカの軍門に降り敗戦。以後その属国とされ、唯々諾々といいなりになる保守傀儡政権を保持せざ
るを得ない今日的不幸を背負い込む。もう200兆円以上を持っていかれたよ。11月疎開解除によ
り児童帰校。
 同22年アメリカの強制による学制改革により、「東京都江戸川区立篠崎小学校」と改称。高等科
を廃し、新制篠崎中学校を開校。同25年1、2年生二部授業。給食実施。同26年篠崎中学校が新
校舎に移転し二部授業解消。同28年創立70周年記念式典・校歌制定。
 同29年押上分教場を「押上分校」と改称。昭和2年建築の校舎を2階建4教室に改築。給食作業
場改修。
同31年押上分校の宿直室を保健室に改修同34年押上分校に給食調理室を新設。同34
年昭和2年建築の平屋建て2教室と昭和3年建築の2階建て6教室を改築。7普通教室、理科室、便
所、玄関が完成。同36年押上分校に2教室増築。玄関、音楽室、廊下、視聴覚室完成。本校の給食
調理室にプロパンガス施設完成。同37年押上分校の給食室にプロパンガス施設完成。作業員休憩室
増設。同38年新校地に鉄筋コンクリート造り校舎3階建て工事着手。
 [新校地]
 同39年
第一期鉄筋コンクリート3階建ての新校舎(15普通教室、3特別教室、管理室及び給食
室)落成移転。同40年第二期鉄筋コンクリート3階建ての新校舎(普通教室、特別教室)落成。

41年プール完成。同42年体育館完成。押上分校を分離し篠崎第二小学校とする。同43年第三期
鉄筋コンクリート3階建ての新校舎(6普通教室、便所3ヶ所)落成。同44年
篠崎5丁目73番地
(篠崎中学校)に鉄筋コンクリート4階建て校舎を新築。
12普通教室、管理室5室完成。3、4年
生が使用する分校として開校。同45年分校に鉄筋コンクリート4階建て校舎を増築。7普通教室、
保健室が完成。プール新設。同46年分校に鉄筋コンクリート4階建校舎増築。8普通教室、7特別
教室、体育館が完成。4月分校を廃し、篠崎中学校が転入。篠崎中学校の跡地に篠崎第三小学校を分
校。同48年創立90周年記念式典。同49年篠崎第四小学校を分校。同52年南篠崎小学校を分校。
同58年創立100周年記念式典。同60年図工室移転改修。同61年全校舎アルミサッシ化完了。
同62年音楽室・家庭科室・校長室・職員室・事務室の改修。住所表示改正により現在の表示に変更。
 平成4年
都市ガス暖房機設置。同5年体育館、教室内塗装、給食調理室改修完了。校舎内に地域開
放施設も兼ねたコミュニティ施設完成。開校110周年記念式典。同14年
完全学校週5日制となり
土曜日休日となる。同15年開校120周年記念式典。同16年プール全面改修工事・校舎外壁全面
塗装・給食室全面改修完了。同18年新学帽制定。同19年第13回マイタウンマップ・コンクール
わかば賞℃賞。テレビ東京の番組「おはスタ」出演。

 校歌
 昭和28年当時、学校の周りには民家が少なく、自然美の中に校舎だけがポッンと建っていた。「創
立70周年にふさわしい校歌制定を」という地域の願いや、教職員の夢と期待を児童に託し、この年
に作られ制定した。14代中山長久校長が作詩を前任校長野村旻に依頼し、作曲には自ら当たった。
次代の平和な日本、新しい日本の担い手になる児童の教育のために、強く正しく協力しあって進もう
という願いをこめて作詞され、旋律音域は、儀式にも歌われるものであることなどから、新奇多彩の
旋律変化等の表現よりも穏健なものにしてある。
  1.都の東江戸川の
    清き流れに姿映し
    永久に栄ゆる学び舎は
    ああ篠崎小学校
    ああ篠崎小学校
  2.朝日は昇る土堤の途
    強く正しく行くところ
    今日も平和の鐘が鳴る
    ああ篠崎小学校
    ああ篠崎小学校
  3.春かに仰ぐ富士の嶺
    希望輝く この朝(あした)
    何時も元気に朗らかに
    ああ篠崎小学校
    ああ篠崎小学校
  4.松風薫る我が里に
    いざや友から手を取りて
    明日の日本を建て行かん
    ああ篠崎小学校
    ああ篠崎小学校
   
  



金瀧山真徳院無量寺

 3丁目5番にある真言宗豊山派の寺。篠崎不動尊、篠崎出世観音が安置されている。入口を入ると
左に催場、さらに進んで朱色の山門を入ると、左に観音堂、墓地、右は庫裏、本堂は正面。本尊は恵
心僧都作の阿弥陀如来。寛永八年(1631)快伝和尚による創建。



■篠崎ポニーランド

 3丁目11番、篠崎緑地(河川敷)にある子どもの乗馬施設。こういう施設があるだけで、遊びパパ
は江戸川区のファンになってしまうだろう。
小学生以下は無料で、係の人が手綱を牽いた馬に乗せて
貰え、
馬車は、大人も一緒に乗ることができる。売店はない。



■篠崎図書館

 3丁目12番、中篠崎公園のポニーランド施設の隣にある。かつてここに「篠崎尋常高等小学校」
があった。



■篠崎中学校

 5丁目12番にある。昭和22学校教育法により篠崎小学校内に開校。同27年東篠崎町30番地
に独立校舎竣工して移転。校歌制定。
 校歌「」 作詞・浄園満成  作曲・村上正治

 同31年体育館竣工。同32年創立10周年記念式典。同42年完全給食実施。同43年創立20
周年記念式典。同46年現在地に校舎竣工。同51篠崎第二中学校を分校。2年243名移籍。同5
2年創立30周年記念式典。同55年増設校舎完成(5普通教室・6特別教室・会議室1)。同56
年警備の機械化開始。給食室改築。同60年隣接地取得。同62年創立40周年記念式典。平成元プ
ール改修。都市ガス化。3年パソコン室開設。同9年創立50周年記念式典。



■篠崎駅

 7丁目27番にある都営地下鉄新宿線の停車場。昭和61年9月14日新宿線船堀〜篠崎間延伸時
に設けられ、平成元年3月19日に本八幡まで延伸し中間駅となった。
 ホームは島式1面2線構造で地下2階にある。ホームと改札階を結ぶエレベーターは未設置だが、
設置予定がある。改札口は1ヶ所のみで地下1階にある。出口は南口と北口の2ヶ所。地上へ上がる
エレベーターは未設置だが設置予定がある。
 一之江・瑞江・篠崎の3駅は、およそ地下鉄駅らしくない立派な駅ビルを備えているのが特徴だ。
いずれも交通会館の所有で、ビルにはスーパーマーケットなどの店舗が入居している。篠崎駅の駅ビ
ル南口にはからくり時計があり、毎時ちょうどになると動物の人形たちが出てきて演奏を始める。



■篠崎第四小学校

 8丁目12番にある区立校。俗に「しのよん」と呼ぶ。昭和49年篠崎第二小学校から分校し、児
童214名が移転して「東京都江戸川区立篠崎第四小学校」として開校した。50年校歌制定。

 校歌「大きく広がる青空の下」 作詞作曲・いずみたく
  1.大きく広がる青空の下
    
豊かに流れる 江戸川のほとり
    勉強する仲間 喧嘩する仲間
    みんなで築こう心の故郷
    大きな手と小さな手が
    しっかり握り合う
    僕らの愛する篠四小学校

  2.明るい太陽 輝く緑   
    美しく育つ篠崎の桜
    おしゃべりする仲間 考える仲間
    みんなで築こう心のふるさと
    教える手と教わる手が
    力を合わせあう
    僕らの愛する篠四小学校


 江戸川のほとり、桜をはじめ多くの樹木がある緑の自然。児童と教師が心を触れ合わせ、未来に向
かって学び合う学校。逞しく健やかに育って欲しいという願いが作詞されている。曲は多くの児童が
歌い、また歌い継がれていく喜びを胸に秘めていられるように作られていて、明るく、優しく、楽し
く口遊めるように旋律してある。
 以降の沿革は不明。
  




【下篠崎町】(しもしのざきちょう)                      未実施
 下篠崎村。明治22年篠崎村大字下篠崎、昭和7年江戸川区下篠崎町となる。同41年大部分が
南篠崎・谷河内・篠崎町・上篠崎に分かれ、現在一部だけが残っている。篠崎第二中学校のある一
帯だ! いずれは東篠崎に飲み込まれるのだろう。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『江戸川区史』など。

 下篠崎の由来
 篠崎村が二村に分かれた時、京都に遠い方が上下の下となる約束事により、下篠崎村となった。
篠崎の由来は【篠崎】を参照のこと。



■六斎地蔵
 9番にある。



■篠崎第二中学校

 14番にある。昭和51年江戸川区立学校設置条例により「東京都江戸川区立篠崎第二中学校」と
して現在地に開校。校章・校旗制定。プール完成。11月22日開校記念式典。この日を開校記念日
とする。同52年テニスコート完成。同53年校歌制定。

 校歌「清く豊かな江戸川の」 作詞作曲・佐孝みね子
  1.清く豊かな江戸川の
    堤の向こう緑の地に
    我らは明るく希望に燃えて
    青春の光を浴び 逞しく生きる
    愛する心と自由を学ぶ
    嗚呼我らの篠崎第二中学校
  2.若葉に朝日降り注ぐ
    小鳥飛び交う篠崎の地に
    我らは倶に体を鍛え
    友情の絆強く正義に生きる。
    栄えある文化と叡智を学ぶ
    嗚呼我らの篠崎第二中学校
  3.果て無く続く青空を
    水面に映す江戸川に
    我らは弛まず未来を見つめ
    素晴らしい未来を築く使命に満ちて
    瞳輝くこの学舎は
    嗚呼我らの篠崎第二中学校
     篠崎第二中学校 

 同57年柔剣道場完成。同60年開校10周年記念式典。平成4年パソコンルーム完成。同8年開
校20周年記念式典。同13年インターネット導入。同14年ホームページ開設。同15年校庭夜間
照明設備設置。




【清新町】(せいしんちょう)1〜2丁目              昭和57年11月1日
 葛西浦。ほんのつい先ごろまで葛西の沖の海面だった。昭和57年に編入された葛西浦の公有水
面埋立地に小島町1丁目と新田1〜2丁目の残余部分を加えた町域を現行の「清新町」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『江戸川区史』など。

 清新の由来
 町名は「安らぎと潤いのある美しい町」のコンセプトで「
清らかで新しい町」をイメージした。
臨海のニュータウンで、遅れている江戸川区政の中では極めて未来的な地区ではある。学校も伝統
校は1校としてなく新設校ばかりだ。何故かインドの人には住み易いところらしく、インド・タウ
ンといっていいほどインド人が多い。しかも数学に強いインドらしくコンピュータ関係の職業が多
いらしい。インド人学校があり、日本の子供の入学希望が殺到しているというぞ。



■ニュータウン

 1、2丁目とも最近の埋立地で、全域が集合住宅と学校だ。新長島親水公園は、以前海岸線だった
ところだ。無論新左近川も埋め立てでできた水路だ。しかしここも何れ老人天国になって、子供がい
なくなり、小中学校が廃校となっていくのだろう。



■清新第三小学校

 1丁目1番にある。同59年「東京都江戸川区立清新第三小学校」として新設開校。9月校歌制定。

 校歌「東京湾の」 作詞作曲・京嶋信。
  1.東京湾の水脈しるべ
    校章揺れる空の下
    心も広く明るくて
    仲良く励む私たち
    清新第三小学校
  2.荒川清く澄み渡る
    高層ビルの新天地
    進んで学び身を鍛え
    未来を拓く私たち
    清新第三小学校
  3.椨(たぶ)の木の花 群れ咲きて
    想い出尽きぬ学び舎よ
    春夏秋冬 助け合い
    歴史を刻む私たち
    清新第三小学校

 同62年パソコンルーム設置。同63年第二期鉄筋コンクリート造り校舎落成。平成3年第三期鉄
筋コンクリート造り校舎落成。同4年臨海小学校を分校。児童343名移籍。同6年開校10周年記
念式典。同16年開校20周年記念式典。



■清新第一小学校

 1丁目4番にある区立校。同58年「東京都江戸川区立清新第一小学校」として新設開校、児童数
382名12学級でスタートした。10月校歌制定。

 校歌「今、夜が開ける」 作詞作曲・徳山博良
  1.今、夜が明ける 夜が明ける
    見上げてごらん 光る空
    空は果てしなく広がり
    小鳥は自由にはばたくよ
    ああ 清新 清新
    希望は空に 輝く
  2.今 日が昇る 日が昇る
    話かけよう 広い川
    川は絶えまなく流れて
    生命を育み 駆けてゆく
    ああ 清新 清新
    生命の川よ 永遠に
  3.今 陽が燃える 陽が燃える
    夢を乗せよう 蒼い海
    海は何処までも繋がり
    世界に平和が木霊する
    ああ 清新 清新
    遙かな海へ広がれ

 同62年開校5周年記念式典。平成5年開校10周年記念式典。同13年パソコンルーム設置。イ
ンターネット接続。同15年開校20周年記念式典。新機種パソコン設置 校内LAN導入。




■清新第一中学校

 1丁目5番にある区立校。昭和58年「江戸川区立清新第一中学校」として開校。校服・校章・校
歌制定。

 校歌「葛西の沖よ」 作詞・鈴木章二  作曲・川崎祥悦
  1.葛西の沖よ 渚の鳥よ
    命高鳴る 海の歌
    朝風若く 夢若く
    江戸川清新 我が一中に
    学ぶ日の 励む日の 声は澄む
  2.緑は燃えて楠の木薫り
    自主の誓いに立つ大地
    鍛えて強く力満ち
    逞し 美し 我が青春の
    足音よ 響き行け 未来まで
  3.豊かな心 花咲く町に
    愛は輝く 窓は照る
    出会いの泉 清らかに
    戸川清新 我が一中に
    荒川も 中川も 出会う水

 同62年清新第二中学校の開校に伴い通学区域の一部を移管。平成5年創立10周年記念式典。同
7年プレハブ校舎増築。同12年プレハブ校舎撤去。同15年創立20周年記念式典。
       



■江戸川陸上競技場

 2丁目1番にある。日本陸上連盟第二種公認施設で、トラック(400m8レーン)や、ラグビー、
サッカーもできる天然芝のフィールド、7000人が観覧できるスタンド、夜間照明設備などを備え
ている。



■清新第二中学校

 2丁目1番にある区立校。昭和62年「江戸川区立清新第二中学校」として開校。校章校歌制定。
平成3年創立5周年記念式典。同9年創立10周年記念式典。同19年創立20周年記念式典。

 校歌「波光る」 作詞・田島信夫  作曲・千本威信
  1.波光る荒川岸よ
    天を目指し 欅は高く
    学ぼう友よ 知恵を 真理を
    語らう窓べ 夢も生まれて
    ああ清新 清く新し
    誇りあれ二中
  2.風戦(そよ)ぐ緑の町に
    芽生え行く若い心よ
    走ろう友よ 土を 大地を
    煌く汗に力溢れて
    ああ清新 清く新し
    誇りあれ二中
  3.鴎鳴く葛西の海よ
    虹も立つ遥かな空に
    歌おう友よ 愛を 希望を
    輝く瞳 世界に向けて
    ああ清新 清く新し
    誇りあれ二中
 




■新長島川親水公園

 2丁目8〜10番にある区立公園。左近川の新左近橋から北に伸びる緑道がそれだ。親水公園とい
えば廃川跡や暗渠上に作られるのが一般的だが、この親水公園は長島川という川の川跡を利用したで
はない。昭和30年頃の地図では海岸だ。埋め立て後に入江か運河として水路を残したのかもしれな
い。
 こちらにはコースの道筋に、水の階段や円形状の噴水広場、ウッドデッキなどが設けられており、
道々、四季折々の花や樹木を愛でることができる。健康文化都市を銘打っている江戸川区では、区内
を巡る「健康の道」という散策道を各所に設けており、ここもその一貫として造園されたものだ。



■清新第二小学校

 2丁目10番にある区立校。。昭和58年「東京都江戸川区立清新第二小学校」として新設開校。
児童数380名でスタート。同62〜63年第二期工校舎(レインボールーム・家庭科室・第二音楽
室・西側5教室)新築落成。平成4年臨海小学校新設により一部児童移籍。同5年創立10周年記念
式典。同9年コンピュータルーム完成。同15年創立20周年記念式典。

 校歌
 「明るい光」 作詞・藪明保  作曲・田畑寛道
 開校を記念して、「校歌は、いま勤務中の私たち教職員の手で」との総意で作った。まず個人ごと
に歌詞の素材になる言葉を出し合い、それを基にして、地域の特性を生かし、学校の誕生を祝い、こ
れからの発展を願う歌詞に纏め、曲は、明るく元気な旋律のものにしたいと願って完成制定した。
  1.明るい光 降り注ぐ
    緑溢れる 我が
母校
    燃える希望の青空に
    楽しく学び やり抜く子
    清新第二 みんなの故郷
  2.流れも豊か荒川の
    水に影射す我が母校
    生きる希望のこの土に
    心も体も丈夫な子
    清新第二 みんなの故郷
  3.伸びる子僕ら私たち
    肩を寄せ合う我が母校
    世界の友と腕組んで
    果てない空へ飛びたつ子
    清新第二 みんなの故郷




【中央】(ちゅうおう)1〜4丁目                   昭和40年9月1日
 東小松川村。明治22年村を二分して松江村と船堀村に分属、大正15年松江町の大字東小松川。
昭和7年東小松川1〜5丁目。同40年東小松川4〜5丁目に西小松川2丁目と松本町の各一部を
あわせた町域を現行の「中央」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『江戸川区史』など。

 中央について
 町名は初め「東松江」を予定したが、住民の猛反対でお釈迦になった。「じゃどうとすべえよ」
と迷ったが小名は「毛知・猿子・腰巻」で、どうにも現代地名には具合が悪い。そこで区役所のあ
る区の中心部だからというので中央に決めたが、すでに大田区が22日早く議会承認していた。同
名は避けるのが原則だったが他に妙案もなく押し通すしかなかった。これがまた顰蹙(ひんしゅく)
もので地名の話になれば未だに「味気ない愚作」と非難の的。ほかに中野区中央・目黒区中央町・
足立区中央本町があり、いずれも地名学者や歴史学者が軽薄さを指摘している。とにかくこの区の
地名行政はお粗末過ぎる。地元人間の力が暴力団並みに強いんだろうな!



■江戸川区役所

 1丁目4・5番、平和橋通りというか千葉街道に面してある。食堂は安くて美味いよ。当然一般
利用は可だよ。昼飯は、意外な盲点で、区役所や市役所の食堂は狙い目なんだよ。安かろう、まず
かろうってとこもあるがね。



■松江第三中学校

 1丁目20番にある区立校。
昭和22年戦勝国アメリカの強制による学制改革により「江戸川区立
松江第三中学校」として江戸川高校内に開校。
同25年大杉小学校内に移転。松江第二中学校内に分
校設置。10月現在地に新校舎落成移転。同30開校10周年記念式典・分校落成記念式挙行。10
月3日を開校記念日と決定。同32年分校独立し、松江第四中学校として開校。プール完工。同36
年第一次鉄筋コンクリート造り校舎竣工。同40年屋内運動場・第二次鉄筋コンクリート造り校舎特
別教室竣工。同42年開校20周年記念式典。同44年第三次鉄筋コンクリート造り校舎12教室・
職員室竣工。完全給食開始。46年第四次鉄筋コンクリート造り校舎完工・特別教室12教室竣工
校庭整地舗装完了全施設完成記念式典。同52年開校30周年式典。同54年更衣室新設。校庭改
修工事。同55年体育倉庫新設。同57年体育館・プール特別教室完工。同59年校舎内外塗装工事
実施。同62年開校40周年記念式典。同63年冷房化完了。
 平成元年モデル図書室完成。同3年ガス暖房化完了。校庭・正門改修完了。同4年ファクシミリ、
コンピュータ設置。同7年校長室・会議室床改修。平成8年プールサイド防水ゴムマット張り替え。
給食調理室改修。同9年耐震工事完了。開校50周年記念式典。同14年
学校110番設置。全校
AN整備。
体育館改修。同16年理科室改修給食民間委託開始。校舎外壁塗装。ノート型コンピュ
ータ(Windows-X 40台)整備完了。同18年プール塗装工事完了。同19年創立60周年
記念式典。

 校歌「霞に煙る国府台」 作詞・森本治吉  作曲・榊原直
  1.霞に煙る国府台
    桜浮かべて行く水清し
    江戸川男子の故郷の町
    入船出船水の都に
    泳ぐよ走るよ熱球打ちて
    鍛錬の道果て無く登る
    嗚呼三歳の春秋歓喜溢る
  2.葦切鳴きて明け行く朝
    雲間に白き富士ヶ嶺清し
    葛飾乙女の揺籃の町
    蓮咲き薫る水の都に
    学ぶよ励むよ智恵の実恋ひて
    学芸の道只管(ひたすら)進む
    
嗚呼三歳の夏冬輝き溢る
  3.父母の慈愛を師の御教えを
    心に染めて未来の夢は
    賢く優しき乙女とならん
    正しく強き男子とならん
    歴史を築く柱とならん
    誓う我ら 松江第三中学生

 寮歌風のメロディで、途中で曲調が変化する珍しい校歌だ。格調は高い。なお松江第四中学校の校
歌も同じで、3番の「松江第三中学生」が「松江第四中学生」代わるだけだ。



■江戸川消防署

 2丁目9番にある。



■大杉小学校

 2丁目16番にある。昭和13年松江尋常小学校から分校し「東京市大杉尋常小学校」として創立。
4月13日創立記念日と定める。同16年国民学校令により「東京府東京市大杉国民学校」と改称。
12月日米開戦。同18年都制施行により「東京都大杉国民学校」と改称。同20年8月日本は、な
らず者国家アメリカの軍門に降り敗戦、以後属国となり、唯々諾々といいなりになる保守傀儡政権を
保持せざるを得ない今日的不幸を背負い込む。同22年アメリカの強制による学制改革により「東京
都江戸川区立大杉小学校」と改称。28年大杉東小学校を分校。同29年校歌制定。

 校歌「大江戸の」 作詞・金子彦三郎  作曲・小出浩平
  1.大江戸の昔の栄えを偲ぶ名の
    江戸川近き佳き学園に
    やがては御国の柱にと
    緑の小杉がすくすくと
    伸び行く我らの大杉小学校
  2.筑波嶺を茜に彩る朝明より
    気高き富士に夕映えの
    華やぐ暮れまで溌剌と
    学びと鍛えに身と心
    打ち込む我らの元気を見よや
  3.平和なる明るき世紀の礎は
    今はも成りつ精限り
    力を協わせて美しく
    世界の日本を築き行く
    希望に我らは羽ばたく小鳩


 同30年分校設置。同33年分校を分離独立させ「第三松江小学校」とする。同35年校庭簡易乳
剤舗装。同37年第一期校舎改築(鉄筋コンクリート造り3階建6教室)。同43年第二期校舎改築
(鉄筋コンクリート造り3階建9教室)。同44年第三期校舎改築(鉄筋コンクリート造り4階建1
1教室・校長室・職員室・保健室・給食室・事務室・主事室)。同45年第四期校舎改築(鉄筋コン
クリート造り体育館、音楽・図工・理科・家庭科の特別教室と準備室)。プール完成。校庭アスコン
舗装。同50年江戸川区立大杉第二小学校を分校。第五期校舎改築(鉄筋コンクリート造り3階建3
教室・特別教室(音楽・図工・視聴覚室)・準備室。同63年創立50周年記念式典。
 平成2年校庭改修工事ゴムチップウレタン塗装完了。同3年和室設置。同13年[省エネ共和国]
建国宣言。プール全面改修。同14年NHK教育テレビ「たったひとつの地球」に6年生が出演。同
15年NHK総合テレビ「未来を見つめる夏休み」に5年生出演。同16年NH
K教育テレビ「わかる国語 だいすきな20冊」に6年生が出演。
    



■江戸川技術専門学校 閉校

 2丁目31番にある都立校。平成17年に閉鎖され、亀戸技術専門学校・足立技術専門学校・同台
東分校と統合して「城東職業能力開発センター」となり、その江戸川校となった。



■城東職業能力開発センター江戸川校

 2丁目31番にある都立校。平成17年、江戸川技術専門学校・亀戸技術専門学校・足立技術専門
学校・同台東分校が統合して「城東職業能力開発センター」となり、その江戸川校として発展的に開
校した。



■中央図書館

 3丁目1番にある。近年できてピッカピカ。自転車置き場も広いし、足立区立中央図書館とどっこ
いの素晴らしい図書館だが、それゆえに蔵書自体はまだまだ蒐集不足。広い書棚の空白が目立つ。し
かしそんじょそこいらの中央図書館と比べたらGoodだ!

  4階 視聴覚ホール、講習室、研修室
  3階 地域・行政資料、全国電話帳、参考室、社会人読書室、録音室、対面朗読室、
     点字・録音資料室
  2階 一般図書、視聴覚コーナー、新聞、雑誌、閲覧コーナー、休憩・喫煙室(飲
     物販売機)
  1階 一般図書(ポピュラー図書、洋書)、こども図書室、おはなしのへや
  地下 有料駐車場(20台)、中央監視室。



■円明寺
 3丁目11番にある曹洞宗の寺。山門を入ると境内は駐車場のような広さ、正面の本堂は鉄筋コン
クリート造りながら禅宗を髣髴とさせる構え。やはり寺は和風がいい。右は庫裏、左は墓地、コンパ
ク トに整理整頓された禅寺らしい寺だ。  
 



■新小岩香取神社
 4丁目5番にある西小松川村の鎮守。ここは堂ヶ島と呼ばれていたところ。香取神宮から経津主命
の分霊を奉祀、昔、国府台の真間の入江から武蔵国に向かう舟は、この社の森を目印とし「間々井の
社」と呼ぶようになった。元和五年(1619)の棟札があり、伊勢参宮からの記念の銅板には「香
取産土大神西小松川村総鎮守」とある。天明六年(1786)の大洪水により旧記一切を流失したが、
村の五分一の大工牧野八郎次が、社殿再建を志して一人で立ち向かい、10年の歳月を掛けて、天保
四年(1833)に竣工したという。現在の本殿がそれで総欅造り、彫刻は後藤楢之助正義。



■第三松江小学校

 4丁目13番にある区立校。同30年大杉小学校の分校として開校。同32年6教室2階建て増築。
同33年独立して「東京都江戸川区立第三松江小学校」として創立。同36年校旗・校歌制定。2教
室2階建て校舎増築。

 校歌「広い空が」 作詞・  作曲・
  1.広い空が 光る雲が
    何時でも心の中にある
    第三松江の子どもは元気
    正しく清く 夢大らかに
    育つ若鳥 楽しい我ら
  2.靡く煙 響く音が
    日本の文化を築くのだ
    第三松江はやりぬく誓い
    働く町の意気高らかに
    強く弛まず 進もう我ら
  3.明日の町を 明日の国を
    みんなの力で担おうよ
    第三松江は平和の気風
    仲良く考え 仲良く励み
    栄えのこの名を上げよう我ら


 同39年開校5周年記念式典・体育館完成。同41年鉄筋コンクリート造り校舎・6教室完成。同
43年プール完成。同45年コンクリート造り校舎・9教室完成。同46年鉄筋コンクリート造り・
9教室、管理室、給食室完成。同47年鉄筋コンクリート造り校舎・保健室、音楽室、図書室、理科
室完成。同62年耐震構造強化のための校舎内大改造。和室、グリーンルーム、オレンジルーム、モ
デル図書室完成。同63年。
 平成3年那須甲子セカンドスクール実施。同5年FF暖房・ガス配管工事完了。同7年体育館床全
面改修。同9年校舎外壁塗装工事完了。同11年校舎外壁塗装工事完了。同12年家庭科室改修。教
材室・更衣室を普通教室に改修。給食室改修。



■江戸川区綜合文化センター

 4丁目14番にある区のホール。水と緑の江戸川区を象徴する環境に囲まれた文化ゾーンでい。新
東京百景に選ばれた小松川境川親水公園の「水の庭園」に隣接した、水と緑に囲まれた施設。150
0席の大ホールは音楽、演劇の公演に限らず、コンクールなどにも幅広い用途で利用できる。大ホー
ルの他、小ホール、展示室、研修室などと合わせ、落ち着いた環境の下、文化を育む場とすべし。
 03‐3652‐1111

■中央森林公園

 4丁目18番にある区立公園。小松川境川親水公園の一部だ。元々海の江戸川区だから、森林公園
といっても、長野や山梨をイメージしちゃあいけないよ。



■香取神社

 4丁目25番にある東小松川村の鎮守。祭神は経津主命。建治三年(1277)に勧請したという。
境内の大鳥居は安永九年(1780)の建立。平成5年に立て替えられた鳥居は入って右側に並べら
れている。本殿は同8年8月8日に落成した。境内に2本の大銀杏の老木が聳え立っている。「葛西
囃子之碑」は、東京都葛西囃子睦会が、昭和28年に東京都無形民俗文化財に指定されたのを記念し
て、同32年に建てたもの。その隣の碑は、同58年に指定30周年を記念して建てられた。




【中葛西】(なかかさい)1〜8丁目1日            最終昭和56年11月1日
 東宇喜田村・長島村西部。明治22年葛西村大字宇喜田・長島。昭和7年江戸川区東宇喜田町・
東宇喜田町御立野・東宇喜田町川中・東宇喜田町川縁・東宇喜田町上蜆島・東宇喜田町下蜆島・東
長島町・南長島町・西長島町・長島町上蜆島・長島町下蜆島。同9年葛西1〜2丁目・堀江町・長
島町・新田1丁目・上蜆島・下蜆島。同53年9月1日葛西1丁目・新田1〜2丁目・長島町・宇
喜田町の各一部をあわせた町域を現行の「中葛西3〜7丁目」とし、同54年11月1日長島町・
宇喜田町・桑川町の各一部を併せた町域を現行の「中葛西1〜2丁目」とし、同56年葛西1〜2
丁目の一部を現行の「中葛西8丁目」とし、葛西1丁目の一部を中葛西3・5丁目に編入して新住
居表示を完了した。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『江戸川区史』など。

 中葛西について
 町名は
葛西地区(新川以南)の中央部をいい、かつての葛西村に因む。
 葛西の由来は【葛西】を参照してね。



■葛西郵便局

 1丁目3番にある普通集配局。



常高山妙蓮寺

 1丁目5番にある日蓮宗の寺。創立は寛文年間(1661〜1673)で、開山は正中院日武。山
門を入るとすぐ本堂。右は庫裏。裏手が墓地。右の隅に立派な銅葺き屋根の毘沙門堂があり、伝教大
師作と伝えられる毘沙門天像を安置している。この毘沙門天は開山の日武と因縁があったことから6
世日意が鎌倉の薬師寺から移したものだ。寺は大正時代のに襲った大津波のために古文書など総ての
記録が流失してしまった。

 ●ツツジ
 建物としては本堂、稲荷神社、浮行菩薩堂、山門しかないが、広い境内は手入れが行き届いていて
気持ちがいい。花木はツツジ、サツキが何本か植えられているほか、ソメイヨシノが10本くらいと、
紅白のシバザクラの植え込みがあるので、春から初夏にかけて花景観を楽しむことが出来る。特に本
堂前の大株のツツジは見事。境内は手入れが行き届いて綺麗だ。



■葛西消防署

 1丁目29番にある。



■葛西小学校

 2丁目4番にある区立校。明治15年長島村郷倉に「修巳小学校」開校。同16年西宇喜田村に「有
喜田小学校」開校。同17年東宇喜田村に「海静小学校」開校。同35年前記3校が合併して「南葛
飾郡葛西村立葛西尋常小学校」となる。同37年高等科を併置して「南葛飾郡葛西村立葛西尋常高等
小学校」と改称。大正6年大津波襲来し校舎大損害。同12年関東大震災により中央南面2教室倒壊。
昭和3年第一分教場・第二分教場設置。同7年周辺5郡が東京市に併呑され「東京府東京市葛西尋常
高等小学校」と改称。第一分教場・第二分教場が分離独立し東京府東京市第二葛西尋常小学校・東京
府東京市第三葛西尋常小学校となる。同11年木造校舎新築移転。同16年国民学校令により「東京
府東京市葛西国民学校」と改称。12月日米開戦。同18年都制施行により「東京都葛西国民学校」
と改称。同20年初等科児童44名が山形県鶴岡市に集団疎開。渡前村に再疎開。8月日本は、なら
ず者国家アメリカの軍門に降り敗戦。以後その属国とされ、唯々諾々といいなりになる保守傀儡政権
を保持せざるを得ない今日的不幸を背負い込む。もう200兆円以上を持っていかれたよ。これから
の子供はアメリカ軍の尖兵として戦場に引っ張り出されるぞ。11月疎開解除により児童帰校。
 同22年アメリカの強制による学制改革により、「東京都江戸川区立葛西小学校」と改称。同37
年校歌制定。

 校歌「光あふれる」 作詞・勝承夫  作曲・小出浩平
  1.光あふれる空よ海よ
    葛西に育つ若鳥の
    夢は大きくはてなく広い
    弛まぬ勉強自立の誓い
    明日の日本に飛び立つ我ら
  2.入江入江に潮は満ちて
    葛西は日毎新しく
    力寄せ来る希望の世界
    湧き立つ健康漲る平和
    何時も仲良く張り切る我ら
  3.偲ぶ龍頭の松の昔
    葛西の人は今もなお
    心揃えてやり抜く気風
    日毎に鍛錬嵐も越えて
    明日の世界に進もう我ら


 同38年プール完成。同44年体育館完成。同46年日本語学級開設。同49年鉄筋コンクリート
造り新校舎落成。同52年なかよしランド完成。同57年修巳小学校以来の開校100周年記念式典。
平成元年にこにこランド完成。同10年パソコンルーム完成。同12年日本語学級の通級受け入れ開
始。同14年開校120周年記念式典。

 ※沿革の違い
 
[同17年東宇喜田村に「海静小学校」開校。同35年前記3校が合併して「南葛飾郡葛西村立葛
西尋常小学校」となる
]の部分、
 第二葛西小学校の沿革では、海静小学校の開校を「明治20年」としている。また「同24年葛西
村誕生により海静小を第一葛西尋常小学校、修已小を第二葛西尋常小学校と改称する」としている。
 「
昭和3年第一分教場・第二分教場設置」とある部分は、
 「明治35年葛西尋常高等小学校が開設され、第一、第二共に分教場となる」と記し、「現在地に
分教場を合併して新校舎を建設し、第一分教場と呼称する」とも謳っている。この分教場が「東京都
江戸川区立第二葛西小学校」となる。
 しかし葛西小学校と第三葛西小学校の沿革によれば、「
第二分教場が第三葛西尋常小学校になった
とある。第二分教場の跡地に第三葛西尋常小学校を開校したのかも知れない。



■葛西中学校

 2丁目4番にある区立校。昭和20年日本、ならず者国家アメリカの軍門に降り敗戦。以後属国と
なり、唯々諾々といいなりになる保守傀儡政権を保持せざるを得ない今日的不幸を背負い込む。もう
200兆円以上持っていかれっちまったよ。これからの若者はアメリカ軍の尖兵として最も危険な最
前線に駆り出されるよ。それはともかく戦勝国アメリカの強制による学制改革により、昭和22年葛
西小学校内に「江戸川区立葛西中学校」として開校。
生徒数529名10学級でスタート。後援会設
立、国沢茂太郎が会長に就任。同23年校舎建設協賛会を結成し山西静男が会長に就任。アメリカの
強制により後援会を廃し、PTAを結成、初代会長に国沢茂太郎就任。10月22日新築校舎落成式、
この日を以て開校記念日とする。同25年校舎増築第二次協賛会設立、国沢茂太郎会長に就任。同2
6年増築校舎落6教室落成。10月校歌制定。

 校歌「潮の香の」 作詞・岡部日出夫  作曲・菊地常昭
  1.潮の香の仄かに匂う
    入江なす輝く水脈(みお)に
    学び舎は楽しき処
    身と心 磨き鍛えて
    打ち鳴らす自尊の鐘ぞ
    おゝ栄光あり 葛中我ら
  2.富士ヶ嶺を 見晴るかしつつ
    溌剌とと若き息吹に
    学び舎は夢湧く処
    只管(ひたすら)に叡智究めて
    開き行く真理の扉
    おゝ使命あり 葛中われら
  3.蘇る世紀の朝に
    故郷の花と馨りて
    学び舎は明日呼ぶ処
    皆和して意気も高らに
    新しき理想を翳す
    おゝ未来あり 葛中われら


 同27年創立5周年記念式典。同30年2月分校落成。1〜2年生6学級で授業開始。7月分校独
立し葛西第二中学校となる。同32年開校10周年記念式典。増築校舎8教室落成。同36年プール
完成。鉄筋コンクリート校舎16教室竣工。同38年体育館完成。同39年心障学級新設。同42年
開校20周年記念式典。同43年第二期増改築校舎竣工(7普通教室・図書室など)。昭和46年第
四期増築校舎(心障学級3・特別教室2)落成。同47年日本語学級新設。同48年分校独立、葛西
第三中学校となる。同52年開校30周年記念式典。同58年日本語学級創設10周年記念式典。同
62年第五期増改築鉄筋コンクリート造り校舎竣工。体育館・プール・特別教室(音・技・家)4教
室増改築・改修。同63年施設改築を祝う式典挙行。開校40周年記念式典。
 平成4年図書室を改修してパソコン室完成。図書室は4階の普通教室2教室に移転。同5年校舎外
壁全面塗装。同6年池改修。同9年開校50周年記念式典。同10年4階普通教室2教室を図書室(特
別教室)に改修。8月耐震化工事。パソコン新規設置42台。同12年2階普通教室を改修しカウン
セリングルーム新設。1階PTA会議室を地域開放用として改修。同13年防火扉改修。同15年理
科室(第1・第2)全面改修。西校舎昇降口・各階段に手すり設置。同16年防球ネット嵩上げ。屋
上防水改修。一部緑化完成。給食用リフト設備全面改修。パソコン教室用パソコン入替(42台)。
同19年創立60周年記念式典。



■江戸川自然動物園

 3丁目2番にある行船公園の中にある環境促進事業団が運営するミニミニ動物園。昭和49年から
ホタルの養殖を始め、当区産のホタルによる「ホタルまつり」が実施されていたがホタルは季節限定
動物なため、日頃から子供に夢を与える施設として、同58年5月5日動物園が開設された。当初は
18種143点で面積も2500平方メートルであった。その後、同63年、ホタルの餌となるカワ
ニナ不足を解消する事が不可能と判断し、ホタル事業を中止し動物園1本の事業となった。平成5年
4月に施設の全面改修が終了し、再オープン。この間友好都市、ゴスフォード市(オーストラリア)
よりワラビー6頭の寄贈があり、動物数も徐々に増加していった同6年4月、日本動物園水族館協会
への加入が認められて、現在に至っている。当園はペットを飼うことも難しい都市生活の子供を中心
とした「人と動物」のふれあいを目的に設立されているため、大型獣ではなく、小型の動物を中心に
収集し、展示されている。また多くの区民に気軽に楽しんでもらえるよう入園料は無料となっており、
入園者数の70〜80%が区民で占められている。レッサーパンダ、プレーリードッグ、ペンギン、
リスザルやワラビーなど65種570点のかわいい動物がこどもたちを待っている。こどもたちに大
人気の「ふれあいコーナー」10:00〜11:45分、13:15〜15:00では、ウサギやモ
ルモットを抱いたり、ヤギやヒツジに自由にさわれるよ。またアシカの仲間オタリアへの餌やり(1
0:45、12:45)は、餌にありつこうととして巨体が宙に舞うのは迫力満点で圧巻だ。まさに
必見! 九官鳥は、いろいろな言葉を話しかけてくるよ。
 03−3680−0777 駐車場はないぞ。



■葛西区民館

  3丁目10番にある区の施設。公民館をでっかくした現代版公民館。



原爆犠牲者追悼碑
 江葛西区民館前の区立滝野公園入口左側に建っている美しい緑の自然石に鳩の絵を刻んだ碑がそう
だ。昭和57年平和を願う有志によって建てられた。



■西葛西図書館

 5丁目10番、西葛西駅の直ぐ東、西葛西中学校校庭の東隣にある区立図書館



■西葛西中学校

 5丁目10番にある区立校。昭和55年「江戸川区立西葛西中学校」として開校。2年生4学級1
53名、1年生5学級209名でスタート。標準服・校章・校歌制定。同56年機械警備に切り替え。
同61年校庭夜間照明設置。平成2年創立10周年記念式典。同12年創立20周年記念式典。

 校歌「潮風香る」 作詞・大井邦男  作曲・小倉功
  1.潮風香る西葛西
    満ちく力に胸広く
    豊かな心 強き意志
    身を魂を鍛える我ら
  2.たゆとう流れ江戸川の
    光る小波 希望に燃えて
    真理と愛に憧れつ
    正しく清く伸び行く我ら
  3.青空高き学舎に
    皆睦まじく励む時
    友情の花 咲き誇る
    おお我が母校西葛西
 



■稲荷神社

 5丁目28番にある小祠。



■香取神社

 5丁目36番にある。



湖林山正応寺

 5丁目36番にある新義真言宗の寺。入口正面の本堂は鉄筋コンクリート造り2階建ての2階にあ
る。右は手前が墓地、奥が庫裏。本堂の裏手も墓地。左は香取神社というお宮が境なしに鎮座。こち
らは社務所もないようだから寺で管理しているのだろう。



■葛西駅

 5丁目43番にある東京メトロ東西線の停車場。昭和44年3月29日東西線全通時に開業した。
駅高架下にある地下鉄博物館は、昭和61年7月12日の開館だ。
 ホームは高架相対式2面4線構造で3階にある。上下ホームの間に2本の通過線を持っており、快
速電車の通過待ちが行われる。ホームと改札階を結ぶエレベーターは設置済みだが、途中の2階で乗
り継ぎする。改札口・出口は1階にある中央口のほか、2番線ホーム西船橋寄りに直結する博物館口
の2ヶ所がある。地下鉄博物館へ行くには博物館口のほうが便利ではあるが、中野方面から来た場合
はわざわざここから出るよりも1階の中央口を利用したほうがよいんだよ。駅には「地下鉄博物館前」
という副駅名も付けられている。

 地下鉄博物館
 東京地下鉄の関連団体である財団法人メトロ文化財団が運営する施設で、銀座線や丸ノ内線の旧型
車両などが展示保存されている。大人210円、子供100円というたいへんリーズナブルな入場料
金だが、展示内容は交通博物館と比べても引けをとらない。子供だけでなく、大人も十分に楽しめる
施設だ。

 最大の駐輪場
 平成20年4月1日、自転車9400台を収納できる日本最大の地下駐輪場がオープン。この駐輪
場は、自転車を溝にセットし、ボタンを押すと地下へ収納される仕組みで、駐輪場は円筒状になって
いて、1基で18台収納できる。直径およそ7m、深さ凡そ15mの円筒型駐輪場が36基設置され
ており、入庫した自転車を出すのに約23秒しかかからない。駅周辺を埋め尽くす放置自転車の切り
札として登場したこのハイテク駐輪場の使用料は、当日100円、月額1800円。




■葛西第三中学校

 6丁目6番にある区立校。沿革不明。

 校歌「仄々と」 作詞・藤野茂太郎(初代校長)  作曲・高畑実数学教諭
  1.仄々と幸き潮の香
    漂える葛西の里
    平和求めて集いし友と
    我が学舎で助け合い
    豊かな心 育なわん
    栄えあれ我らが母校
  2.暁に映え光る富士ヶ嶺
    望み見る葛西の丘
    理想求めて集いし友と
    我が学舎で語り合い
    豊かな知性 築かなん
    誇りあれ 我らが三中
  3.滔々と澄み清き江戸川
    限り無し葛西の街
    真理求めて集いし友と
    我が学舎で励み合い
    豊かな体 鍛えあい
    若さあれ 我らが母校

 校歌について 昭和49年9月22日制定
  歌詞・曲について
 田園の中に建てられた校舎、すぐそこには海があり、潮の香、彼の音が聞かれる。こうした学校環
境で生徒が学び、やがて成人しても、地域の歴史、文化・伝統を忘れることなく「心のふるさと」と
して残るようにとの願いをこめて作詞・作曲に心がけられた。
  制定のいきさつ
 校歌制定委員会を組織して、葛西三中を象徴するにふさわしい歌詞を、広く生徒・保護者・教職員
から公募することにより、愛校心を育てる機会ともした。歌詞は、1番から3番以内、それぞれ10
行以内とした。数回の校歌制定委員会の審議の結果、現在の校歌が制定された。



■総合レクリエーション公園・スポーツ公園

 7丁目2番にある区立公園。江戸川区球場・虹の広場・少年野球広場がある。

 江戸川区球場
 両翼90m、中央118mの本格的球場。外野は芝のグラウンドだ。4000人が観覧できるスタ
ンド、夜間照明、電光スコアボードも備えているよ。



■第四葛西小学校

 8丁目8番にある区立校。同45年葛西小学校・第二葛西小学校から分校し、「東京都江戸川区立
第四葛西小学校」として開校。葛西小学校から245名、第二葛西小学校から339名が移籍してス
タート。俗に「かさいよんしょう」または単に「よんしょう」と呼ぶ。同46年3月3日開校記念日
と定める。体育館完成。同47年プール完成。同49年本館8教室増築。同51年第七葛西小学校を
分校。児童229名移籍。同52年児童数1114名29学級。同53年児童数1319名31学級。
同54年南葛西小学校を分校。児童378名移籍。984名24名学級となる。開校10周年記念式
典・記念庭園造成。同56年アスレチック新設。同59年築山新設。平成元年開校20周年記念式典。
学区内の住宅化が落ち着き、児童数が減少に転じ、以降児童数6〜700名18〜21学級を維持。
同4年機械警備化。同6年学区変更により73名を南葛西小学校へ移籍。同7年開校25周年記念式
典。同8年給食室全面改修・耐震補強工事完了。同12年開校30周年記念式典。

 校歌「展ける葛西の町の空」 作詞・高橋みゑ  作曲・高木東六
  1.展ける葛西の町の空
    白亜の校舎聳え立つ
    希望と知恵の湧く処
    学ぼう心も新しく
    鍛えよう体も誇らしく
    ああ第四葛西 第四葛西小学校
  2.太平洋と江戸川の
    波も輝き風薫る
    平和の理想湧く処
    励もうみんな手を取って
    進もう世界の朝明けに
    ああ 第四葛西 第四葛西小学校


 伸び行く葛西の明るい未来と、この学舎で学ぶ児童に夢を託し平和な社会を築いて欲しいという願
いが籠められている。曲は軽快で自然に口遊みたくなるような曲調になっている。




【新堀】(にいほり)1〜2丁目                    平成3年2月1日
 新堀村。明治22年一之江村大字新堀、大正2年瑞江村大字新堀、昭和7年江戸川区となって新
堀町。同9年椿町と一部を互いに入れ替え、同13年大部分が一之江・春江町・西瑞江に組み込ま
れ、残りは昭和45年鹿骨2丁目に吸収され新堀の名は消滅した。
 しかし同54年「換地処分」により春江町1丁目の大部分に一之江1丁目の京葉道路以北をあわ
せた町域を新堀として復活し、平成3年に新住居表示新住居表示を完了した。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『江戸川区史』など。

 
新堀の由来
 新墾・新治・新田・新町・新開地に同じで、新たに用水(堀)を掘るということは新しく開墾す
ることと同義。訓みの「にっぽり」「しんぼり」などは俗称。そうルビをふった書籍もあるが、江
戸川区では「にいほり」を正式呼称としている。



■新堀日枝神社

 1丁目5番にある。たちかわさんのメールで発見した。



九品山山王院勝曼寺

 1丁目9番にある真言宗豊山派の寺。開山不詳。元禄元年(1688)秀翁和尚の中興。本尊は木
造阿弥陀如来立像で鎌倉初期の作と。本堂の右は庫裏、左と奥は墓所。

 木造阿弥陀如来立像附・紙本墨書造立趣旨文書一紙(昭和57年区有形文化財)



■春花園BONSAI美術館

 1丁目9番にある、小林國雄が自宅に開いた盆栽園。勿論販売目的なので販売はする。



■新堀小学校

 1丁目32番にある区立校。昭和56年春江小学校から分校、児童493名が移籍して「東京都江
戸川区立新堀小学校」として開校。新入生108名。児童数601名17学級でスタート。同61年
開校5周年記念式典・音楽会。平成2年創立10周年記念式典。平成13年創立20周年記念式典。
同18年創立25周年記念式典。

 校歌「豊かな緑」 作詞・野中十三夫  作曲・渡辺茂
  1.豊かな緑 高い空
    大きな川の流れにも
    明るい理想(ゆめ)が溢れてる
    草の芽 木の芽匂う街
    美しく育つ 花咲く 実を結ぶ
  2.聳える校舎 広い庭(にわ)
    躑躅(つつじ)も公孫樹(いちょう)も楠の木も
    強く生きよと呼びかける
    仲良く みんな手を繋ぎ
    逞しく学ぶ 鍛える やり遂げる
 




【西一之江】(にしいちのえ)1〜4丁目             昭和59年11年1日
 西一之江村。室町時代にはあったとか。明治22年松江村大字西一之江・船堀村大字西一之江。
大正3年荒川放水路の開鑿により船堀村が廃村に追い込まれ、一部が松江村に編入され残り大部分
は小松川町を構成した。同15年松江町大字西一之江、昭和7年江戸川区が成立して西一之江1〜
2丁目と南船堀町に分かれた。同13年西一之江の一部を一之江に、同42年松江に、同45年鹿
骨にそれぞれ譲って、同56年新住居表示を実施、一之江の一部を編入して現行の「西一之江」を
確定した。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『江戸川区史』など。

 
西一之江の由来
 
一之江用水の西側の意。一之江は「一之江」を参照。



■松江第四中学校

 1丁目16番にある区立校。昭和31年3月24日に松江第三中学校の分校として発足し、翌32
年独立、「江戸川区立松江第四中学校」として開校。同42年創立10周年記念式典。同52年創立
20周年記念式典。同62年体育館完成。創立30周年記念式典。平成3年パソコンルーム完成。同
6年プール改修。同9年創立40周年記念式典。同12年校舎耐震強化。同19年創立50周年記念
式典。

 校歌「霞に煙る国府台」 作詞・森本治吉  作曲・榊原直
  1.霞に煙る国府台
    桜浮かべて行く水清し
    江戸川男子の故郷の町
    入船出船水の都に
    泳ぐよ走るよ熱球打ちて
    鍛錬の道果て無く登る
    嗚呼三歳の春秋歓喜溢る
  2.葦切鳴きて明け行く朝
    雲間に白き富士ヶ嶺清し
    葛飾乙女の揺籃の町
    蓮咲き薫る水の都に
    学ぶよ励むよ智恵の実恋ひて
    学芸の道只管(ひたすら)進む
    
嗚呼三歳の夏冬輝き溢る
  3.父母の慈愛を師の御教えを
    心に染めて未来の夢は
    賢く優しき乙女とならん
    正しく強き男子とならん
    歴史を築く柱とならん
    誓う我ら 松江第四中学生


 この校歌は松江第三中学校と同じもので、3番の「松江第四中学生」の部分のみが違うだけだ。但
し松江四中には独自の応援歌がある。作詞作曲は藤原聖二
  1.若き血潮の燃ゆる日を
    我等が健児 起てよいざ
    群がる敵を皆打ち倒す
    我等が母校 松江四中
  2.若き血潮の燃ゆる日を
    我等が健児 競えいざ
    輝く栄冠 皆我がものぞ
    我等が母校 松江四中
 




■大杉東小学校

 2丁目8番にある区立校。同28年1月大杉小学校の分校として設置される。4月独立して「江戸
川区立大杉東小学校」として開校。同30年1月21日開校記念日と制定。4月
普通教室増築、給
食調理室落成。同32年4普通教室増築。12月校歌制定。

 校歌「白鷺飛び交う」 作詞・葉山靖  作曲・石桁真礼生
  1.白鷺飛び交う大杉の里に
    田圃の実り学舎に映えて
    我らは鍛える丈夫な体
    ああ明るい大杉東 大杉東
  2.菊の香薫る大杉の里に
    教えの恵み学舎を育て
    我らは励む学びの道に
    ああ栄えある大杉東 大杉東
  3.富士の嶺 遥か 大杉の里に
    父母の慈愛は学舎を護り
    我らは進む手を取り合って
    ああ伸び行く大杉東 大杉東

 同34年25m×7mプール完成。同41年鉄筋コンクリート造り3階建て校舎第一期9教室・玄
関ホール・用務員室など竣工。同45年鉄筋コンクリート造り3階建て校舎第二期6教室・管理室・
給食室など竣工。同46年鉄筋コンクリート造り3階建て校舎第三期9教室など竣工。同47年鉄筋
コンクリート造り3階建て校舎第四期9教室・特別教室(理科・図工・音楽)など竣工。同48年2
5mプール新設・更衣室・シャワー室・ポンプ室・倉庫付設。校地整備。同50年大杉第二小学校分
校に伴い、400名を移籍。同56年図書室改修。同57年創立30周年記念式典。平成9年パソコ
ン教室新設。同15年創立50周年記念式典。



■日枝金山神社

 2丁目23番、京葉道路からちょっと入ったところにある小社。



■一之江天満宮

 3丁目23番にある? 住宅地図では稲荷神社とある。



長慶山円福寺
 3丁目28番にある真言宗豊山派の寺。入口直ぐに外に向かって左に六地蔵。右にも3体の地蔵さ
ん。境内は広く空が大きい。入ると左に墓地が広がり、正面に本堂。右は会館と庫裏。観音、地蔵な
ど仏像が所狭しと露座で安置されている。賑やかなこっちゃ。 



摂取山光照院法養寺  
 3丁目33番にある浄土宗の寺。通称「こどもでら」。大永元年(1521)貞誉法養大和尚の開
山。本尊は阿弥陀如来。山門を入ると参道を50mばかりで左へ曲がると鉄筋コンクリート2階建て
のインド様式のような変ったデザインの本堂。参道の正面は併設の幼稚園で、幼稚園と本堂の間が庫
裏。参道の右は墓地になっている。



■香取神社
 3丁目35番にある。



■神社
 3丁目39番にある小祠。



■神社
 3丁目40番にある小祠。




【西葛西】(にしかさい)1〜8丁目                 昭和53年9月1日
 二之江村飛地・下今井村飛地・桑川新田。明治22年葛西村大字桑川(一部)・二之江・下今井、
昭和7年江戸川区葛西二之江町・葛西下今井町・桑川町(一部)。同9年小島1〜2丁目・新田1〜
2丁目ほか。同53年小島町1〜2丁目の全部と新田1〜2丁目の大部分に宇喜田町・南船堀町・
長島町の各一部をあわせた町域を現行の「西葛西」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『江戸川区史』など。

 西葛西について
 町名は
葛西地区の西部の意。葛西の由来は「葛西」を参照。



■八幡神社
 2丁目1番にある小社。社殿の左後ろに小さな富士塚がある。



■西葛西小学校

 3丁目9番にある区立校。昭和55年
「東京都江戸川区立西葛西小学校」として開校。児童数70
6名19学級でスタート。校歌制定。

 校歌「都の東」 作詞・三井知夫  作曲・京嶋信
  1.都の東 栄える町に
    果てなく空は澄み渡り
    海の風さえ爽やかな
    西葛西 楽しい小学校
  2.広い校庭 緑の木々に
    明るい声が木霊して
    仲良く学び 助け合う
    西葛西 楽しい小学校
  3.銀杏と鳩の校章胸に
    体を鍛え知恵を積み
    笑顔で繋ぐ心の輪
    西葛西 楽しい小学校


 同56年土俵完成。同61年プレハブ教室設置。平成元年創立10周年記念式典。同8年プレハブ
校舎撤去。同12年開校20周年記念児童集会。記念式典。



■江戸川区スポーツセンター

 4丁目2番にある。1階:卓球室・柔道場・剣道場・みんなのスポーツルーム・トレーニング室・
温水プール・会議室2(境を外して大会議室に転換できる)。2階:第一会議室・第二会議室・和室
・カフェコンビーニャンス。3階大体育室(広さバレーボールコート2面)・小体育室(広さバレー
ボールコート1面)。4階ランニングコート(1周100m)。
 第1〜第3駐車場91台。有料(1時間200円 以後1時間毎に100円追加)



■第六葛西小学校

 4丁目5番にある区立校。昭和49年9月第三葛西小学校から分校し、「東京都江戸川区立第六葛
西小学校」として開校。第三葛西小学校より159名、第四葛西小学校より26名が移籍して、児童
数185名10学級でスタート。同50年校歌制定。プール完成。

 校歌「父の川」 作詞・光山樹太郎  作曲・雨宮伊之助
  1.父の川 それは江戸川
    母の川 それは荒川
    二つの川に 包まれて
    伸びゆく町よ 光る風
    さあ逞しく胸張って
    仲よく未来を開こうよ
    第六葛西小学校
  2.この辺り 蓮田 菜の花
    海さえも 青く寄せたと
    時代の移る その姿
    進んで学び考えて
    さあ 何処までもやり抜こう
    集まり歌う 声響け
    第六葛西小学校
  3.弛み無く水は流れて
    江戸川の大地育てた
    力を協わせ励みあい
    仰げば遠く虹が呼ぶ
    さあ真っ直ぐに元気よく
    みんなの歴史を作るろうよ
    第六葛西小学校


 同52年動物飼育小屋完成。同53年第二期校舎(普通教室14・特別教室1)落成。同55年西
葛西小学校を分校し、児童286名移籍。同58年第三期校舎(普通教室5、図工室、同準備室、更
衣室)新築。音楽室防音工事完了、体育用具庫新設、「たき山」完成。同59年開校10周年記念式
典。平成6年開校20周年記念式典。同7年ネパール王国に学校設置・姉妹校提携のため代表団派遣。
同8年10月ネパール王国ジャナジョティ小学校より代表2名来校。12月ジャナジョティ小学校開
校式典に代表団13名派遣。同9年パソコンルーム設置。同11年ネパール王国バネパ市長、ジャナ
ジョティ小学校児童2名来校。同12年ネパール王国ジャナジョティ小学校等訪問のため代表団派遣。
同14年ネパール王国バネパ市長来校。同15年プール改修。同16年開校30周年記念式典。   



法光山大護寺
 4丁目6番にある日蓮正宗の寺。入口は薬医門のような山門だが、入ると直接建物の玄関で本堂と
庫裏と会館が1つになったような建物だ。創価学会との繋がりは不明。



■健康センターゆの郷 閉鎖

 5丁目8番にあった。
平成10年開場。風呂も充実の10タイプ。タイ古式セラピー、インド式オ
イルトリートメント、バリリラックストリートメント、LPG(セルライトケア)、スキャルプ(頭
皮)ケア、中国式足底療法、韓国アカスリ、気功療術、ボディケアとリラクゼーションも充実。カラ
オケ、卓球、ゲームコーナー、コミックコーナー。シアタールーム、レストルーム。焼肉、寿司、そ
ば、炉端、居酒屋、レストラン、毎日歌謡ショーやイベントが行われていた。ああそれなのに・・・
 
19年10月閉鎖。



■西葛西中学校

 5丁目10番にある区立校



■稲荷神社
 5丁目28番にある小祠。



■碑
 6丁目11番にある。



■西葛西駅

 6丁目14番にある東京メトロ東西線の停車場。東西線の全通から10年後の昭和54年に追加開
業した。ホームは高架相対式2面2線構造で3階にある。ホームと改札階を結ぶエレベーターは設置
済み。改札口は1ヶ所のみで2階にある。出口は南口と北口の2ヶ所で、地上へ下りるエレベーター
は南口側にのみに設けられている。
 駅の北約500mの行船公園内にある江戸川区自然動物園は入場無料の区立動物園。無料とはいっ
ても本格的なもので、65種570点の動物が展示されている。西葛西には江戸川インド人協会があ
るため、近年はとりわけインド人の居住者が増えている。



■第七葛西小学校

 7丁目8番にある区立校。同51年第四葛西小学校から分校し、「東京都江戸川区立第七葛西小学
校」として開校。児童430名13学級でスタート。一般に「かさいななしょう」、または単に「な
なしょう」と略称する。同56年新田小学校を分校。児童397名移籍。同60年開校10周年記念
式典。平成8年開校20周年記念式典。平成15年サイクルファン設置(3階6教室)。

 校歌「海は果てしなく」 作詞作曲・高木東六
  1.海は果てし無く潮風吹いて
    富士山の頂 キラキラ光る
    みんなもりもり勉強しようよ
    力協わせて頑張ろう
    ここは荒川の僕らの学び舎
    第七葛西小学校
  2.空は限り無く広がり渡り
    葛西の町には希望が一杯だ
    みんなにこにこ優しい心で
    体鍛えて張りきろう    
    ここは江戸川の私の学び舎
    第七葛西小学校

  3.ブルーの大空 金色の鳩
    僕らの私の輝く校旗
    胸をぐんとぐんと威張って行こうよ
    自由の国へ羽ばたこう
    ここは美しいみんなの学び舎
    第七葛西小学校



■新田小学校

 8丁目16番にある区立校。同56年第七葛西小学校から分校、児童397名が移籍して、「東京
都江戸川区立新田小学校」として開校。


 校歌

 開校してすぐに『校歌は私たちで作ろう』との声が教職員間に起こり、それぞれが歌詞の言葉を出
し合い、それらを元にして作詞することになった。作詞は添谷英男校長、作曲は山本文茂が担当して
制定した。
 
歌詞・曲については、この地域の歴史や自然、開校当時の様子や環境、教育目標や児童への願いな
どから、全職員の個々が考えた『ことば』(詞の案)を歌詞に織り込んだ。曲は爽やかで、児童が覚
え易く歌い易い旋律を心がけたという。


 校歌「潮風薫る」 作詞・添谷英男  作曲 山本文茂
  1.潮風薫る 開け行く町に
    青空高く 我が学び舎
    緑豊かな校庭に
    肩を寄せ合い 手を取り合って
    進んで鍛えよう
    体と心 漲る力
    ああ新田 新田小学校
  2.太平洋の波は輝き
    富士の嶺 仰ぐ我が学び舎
    歴史を語る堤防に
    澄んだ瞳の僕と私と
    大きく羽ばたこう
    世界の空へ 未来に向けて
    ああ新田 新田小学校

 平成2年開校10周年記念式典。同13年開校20周年記念式典。



■総合レクリエーション公園

 8丁目17番にある区立公園。西葛西駅前から東は旧江戸川に隣接するなぎさ公園までの東西3k
mに亘り各種遊び場が連なっている、まさに総合′園だ。幼児向けの遊具が揃ってる「子供の広
場」、アスレチックがある「富士公園」、バラを楽しむ「フラワーガーデン」、水遊びは夏季のみ営
業の「プールガーデン(有料)」、ポニー乗馬やハーブ園のある「なぎさ公園」と、目的によってさま
ざまな遊び方ができる。広くて細長い公園の移動は、パノラマシャトルが便利だよ。




【西小岩】(にしこいわ)1〜5丁目                 昭和41年3月1日
 小岩田村・伊予田村・上一色村。明治22年合併により、小岩村大字伊予田・小岩田、鹿本村大
字上一色。 昭和3年小岩町大字伊予田・小岩田。同7年江戸川区小岩町4丁目・上一色町。同4
1年新住居表示により小岩町4丁目と上一色町(新中川以東)に小岩町3・6丁目の各一部をあわ
せた町域を現行の「西小岩」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『江戸川区史』など。

 西小岩について
 
小岩町の西部地区の意だが、すでに昭和11年開校の西小岩小学校があった。小岩の由来は「小
岩」を参照。



■天祖神社

 2丁目2番にある中社。旧上一色村の鎮守で、もとは神明社と称していた。創建は不明。祭神は天
照大神、経津主命、武甕槌命を祀る。天保年間(1830〜43)江戸で疫病が流行った際、病気退
散を願って裸祭りが行われ、その風習が少く残っていた。その様子を伝える板絵額が神社内に奉納さ
れている。境内に覆屋に覆われた大きな庚申塔がある。社務所が無く、新小岩の香取神社が管理して
いる。



■上一色小学校

 2丁目4番にある区立校。同26年西小岩小学校分校として設置され、1〜4学年の各2学級児童
369名が移転。同29年「東京都江戸川区立上一色小学校」として独立開校。1〜6年各2学級児
童数514名でスタート。同34年開校5周年記念式典。同39年開校10周年記念式典・校歌制定。
同42年第一期鉄筋コンクリート造り校舎(12普通教室・給食堂・図工室)増改築。同43年第2
期鉄筋コンクリート造り校舎(3教室・音楽室・理科室)増築。同44年プール完成。校庭舗装。同
45年記念植樹(校木を桐とする)。科学教育センター開所。広田某より岩石園寄贈。開校記念碑復
旧。同46年飼育舎完成。同47年高橋某・平岡某より小原型精密日時計寄贈(全児童の作文をタイ
ムカプセルとして封入)。同49年開校20周年記念式典。同54年開校25周年記念式典。同57
年機械警備。同59年開校30周年記念式典。同62年東門完成。同6年開校40周年記念式典。全
国給食優良校に選ばれ文部大臣賞受賞。平成9年パソコンルーム設置。同10年プール改造。同11
年開校45周年記念式典・総合的な学習の時間の研究発表と記念集会。同12年家庭科室全面改修。
同14年理科室・同準備室全面改修。同15年一級河川「新中川」の河川敷区域内の土地の専用許可
(新中川自然観察学習施設利用開始)。同16年開校50周年記念式典。

 校歌「新中川に」 作詞・校歌制定委員会  作曲・今井敏美
  1.新中川に影映す
    我が学び舎に集う我ら
    道を開いて新しく
    遥けき理想 掲げ行く
    ああ上一色 我が母校
  2.都の東 そそり立つ
    我が学び舎に集う我ら
    明日を担いて逞しく
    真(まこと)の道を求め行く
    ああ上一色 我が母校



■小岩第四中学校

 3丁目9番にある区立校。昭和27年10月小岩第三中学校分校として設立。同28年「江戸川区
立小岩第四中学校」として開校。同29年校歌制定

 小岩「花咲く春」 作詞・吉川真平  作曲・石桁真礼生
  1.花咲く春 雪の降る日
    友と通える学舎
    汲めども尽きぬ友愛の思いは
    胸より胸に伝いて
    一筋の光 掲げん
    四中 四中 四中こそ故郷
  2.永遠に尽きぬ江戸の流れ
    優しく映える富士の嶺
    瞳も澄める若人の誇り
    真の道を歩みて
    新たなる明日を築かん
    四中 四中 四中こそ故郷


 同34年体育館落成。同37年上一色58番地に分校設立。同38年上一色分校を分離し、上一色
中学校として独立。創立10周年記念式典。同41年プール竣工落成。同43年完全給食実施。同4
9年創立20周年・施設完成記念式典。同58年創立30周年記念式典。
 平成元年体育館改修。鉄筋コンクリート造り校舎(金工室、調理室)落成・プール完成。同5年創
立40周年記念式典。同5年創立50周年記念式典。同16年江戸川区学校調理業務請負委託開始。    



■西小岩小学校

 3丁目19番にある区立校。昭和11年小岩尋常高等小学校から分校し、「東京府東京市西小岩尋
常小学校」として開校。同16年国民学校令により「東京府東京市西小岩国民学校」と改称。12月
日米開戦。同18年都制施行により「東京都西小岩国民学校」と改称。同18年失火により校舎の4
分の3を焼失。同20年8月日本は、ならず者国家アメリカの軍門に降り敗戦。以後その属国とされ、
唯々諾々といいなりになる保守傀儡政権を保持せざるを得ない今日的不幸を背負い込む。もう200
兆円以上を持っていかれたよ。これからの子供はアメリカ軍の尖兵として戦場に引っ張り出されるぞ。
 同21年校舎復旧。22年アメリカの強制による学制改革により「東京都江戸川区立西小岩小学校」
と改称。同26年上一色分校設置。同29年分校を独立させ上一色小学校とする。同30年校庭舗装。
同37年飼育小屋完成。同40年プール完成。同41年第1期鉄筋コンクリート造り校舎(普通教室
6)竣工。同42年木造西側校舎改築。第2期鉄筋コンクリート造り校舎(普通教室3、特別教室4、
体育館)竣工。同43年創立30周年記念式典。同46年第3期鉄筋コンクリート造り校舎(普通教
室9、管理室、給食室)竣工。同48年第4期鉄筋コンクリート造り校舎(普通教室8、管理室3)
竣工。同49年第5期鉄筋コンクリート造り校舎(普通教室3、特別教室3)竣工。同51年創立4
0周年記念式典。同61年校舎内外大規模改修。校長室、教育相談室、多目的室(ランチルーム)新
設。創立50周年記念式典。
 平成2年窓枠アルミサッシ化、屋上雨漏補修工事完了。同3年体育館改修。同8年創立60周年記
念式典。同13年プール改修。同18年開校70周年記念式典。

 校歌「朝日は昇る」 作詞・野村旻  作曲・下総皖一
  1.朝日は昇る青空に
    雲かと紛う桜花
    学びの園に咲き満ちて
    ああ麗しき西小岩
  2.気高き富士の嶺遠く
    緑綾成す木の葉蔭
    学びの窓に照り映えて
    ああ清らけき西小岩
  3.
流れ果て無き江戸川の
    水際に巣立つ羽ばたきは
    学びの里に木霊して
    ああ限り無き西小岩
 



■愛国学園短期大学・保育専門学校

 5丁目5番にある私立校。昭和37年愛国学園女子短期大学設立。愛国学園短期大学商経科四街道
キャンパスへ移転。同44年愛国学園保育専門学校を併設。平成10年愛国学園大学の開学により、
四街道の短期大学を廃止。
男女共学だが、女子のみの学校だ。


 家政科

 [家政専攻]
  衣生活論・食生活論・住生活論・被服構成実習・栄養学・保育学・調理学・調理  実習
  などのカリキュラムが中心。家政専攻という名称だが、身近なことから社会全般まで生活
  環境の様子を総合的に学ぶという狙いがある。実習を取り分け重視している。
  中学校教諭2種免許(家庭)が取得できる。
 [食物栄養専攻]
  食の専門家を育成する専攻課程だ。食品加工学・栄養学・調理学などの基本的な理論のほ
  か、栄養学実習・臨床栄養学実習・栄養指導論実習・給食管理実習・調理学実習など実社
  会で専門家として活躍するのに必要な実学カリキュラムが多いのが特徴となっている。
  栄養士の資格が得られる。
 ◇ヨーロッパ研修旅行
  春休みにイギリスに出かける。




■愛国中学校・高等学校

 2丁目4番にある私立校。昭和13年7月織田小三郎・淑子が財団法人織田教育財団創立。12月
愛国女子商業学校」開校。
 同22年アメリカの強制による学制改革に従って「愛国中学校」を開校。同23年「愛国高等学校」
を開校。
同26年私立学校法により財団法人織田教育財団を「学校法人愛国学園」と組織変更。同3
7年愛国学園女子短期大学設立。同40年愛国学園短期大学附属龍ヶ崎高等学校設立。同44年愛国
学園保育専門学校設立。同45年なでしこ保育園設立。愛国学園短期大学商経科四街道キャンパスへ
移転。同49年
愛国学園短期大学四街道校舎増築落成 愛国学園保育専門学校附属第一幼稚園開園。
同55年
愛国学園短期大学附属四街道高等学校開校。愛国高等学校衛生看護専攻科開設(看護婦要請
施設指定)。同57年四街道高等学校新校舎増築落成。軽井沢高原寮新寮増築落成。同58年愛国学
園短期大学附属四街道高等学校に普通課程増設。龍ヶ崎高等学校新校舎増築落成。同59年
軽井沢高
原寮新寮舎増築落成。同60年
一の宮臨海寮新寮舎増築落成。同62年龍ヶ崎高等学校新校舎増築落
。同63年一の宮臨海寮に体育館落成。50周年記念館落成。平成2年一の宮臨海寮完成。同5年
愛国学園短期大学商経科校舎(四街道キャンパス)落成。同6年龍ヶ崎高等学校新体育館落成。同1
0年愛国学園大学(人間文化学部)開学。同11年愛国中学・高等学校新校舎増築第1期工事完成。
同13年愛国中学・高等学校新校舎完成。

 建学の精神
 社会人としては豊かな知識と技術とを以て経済的に独立し、家庭人としては美しい情操と強い奉仕
心をもって一家の幸福の源泉となる健全な精神と身体を備えた女子の育成だ。この目的達成のために
学園は、創立以来職業教育に力を入れて卒業後直ちに実社会に役立つ生徒を送り出しており、また同
時に教育の基礎を道徳教育において「親切正直」を校訓に掲げている。親切正直は全人類を貫く倫理
であり、愛と真はすべての女性の魂でなければならない。法、秩序を重んじ、礼儀正しく、公衆道徳
を守り、人に迷惑をかけず自分の仕事に精を出し、進んで社会に奉仕する。このような愛と真を発露
し、この美しい自分の国を更に一層美しくして行くことを生活の信条とする。私達はこれを正しい愛
国心と唱える。 




【西小松川町】(にしこまつがわ)                 昭和53年3月1日
 西小松川村。明治22年三分され小松川村大字西小松川・松江村大字西小松川・船橋村大字西小
松川に分かれ、大正3年荒川放水路の開鑿により、小松川村・平井村・船橋村が廃村となり、其の
残余の村域を合わせて小松川町を起こす。同15年松江町大字西小松川、昭和7年江戸川区西小松
川1〜2丁目、昭和40年大部分が松島・中央となり、同53年残りの西小松川が新住居表示を実
施して現行の「西小松川」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『江戸川区史』など。

 西小松川の由来
 小松川境川の西側の村の意から。小松川町は荒川以西の地域で現在は小松川。



■天祖神社

 1番にある。



無量山仲台院西方寺
 2丁目4番にある浄土宗の寺。感蓮社応誉良道の開山、秀蓮社出誉上人が中興したと伝わっている。
本尊は阿弥陀如来。梵鐘は享保十二年(1727)製。
 享保二年(1717)将軍吉宗が鷹狩のために訪れ、以来この寺は御膳所に当てられた。御膳所と
は将軍が鷹狩の途中、昼食を盗ったりする休息所で、この辺りでは、当寺を主としてほかに下平井村
の燈明寺(平井聖天)、新堀村の勝曼寺、長島村の正円寺がその任に当った。区内での鷹狩は、吉宗
76回、家重17回、家治42回、家斉37回だと記録に残っている。慶応三年(1867)に廃止
となった。墓地に加納甚内の墓がある。

 加納甚内の墓(昭和57年区史跡)
 初め牧戸を姓とし、伊勢松阪領の人で代々紀州公に仕え、鷹狩の鶴の餌付けなどをする「綱差役」
だった。吉宗が紀州徳川家から八代将軍として江戸に入府し、鷹狩を再開するに及んで召しだされ、
葛西筋の綱差を命じられ、居を西小松川村に賜った。たびたびの功績により加納姓と家紋を賜り、寛
保三年(1743)に没し、仲台院に葬られた。彼は新田開発にも力量を発揮、綱差新田を開発した。
江戸川区では忘れてならない人だ。



■諏訪神社

 15番にある。



■小野原稲荷神社

 16番にある。




【西篠崎】(にししのざき)1〜2丁目                 平成3年8月1日
 上篠崎村。明治22年篠崎村大字上篠崎の内、昭和7年江戸川区西篠崎町。同41年一部を東小
岩・北篠崎に譲り、平成3年西篠崎町・上篠崎町・北篠崎町の各残余の全部に、鹿骨町・鹿骨3丁
目の各一部をあわせた町域を現行の「西篠崎」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『江戸川区史』など。

 西篠崎の由来
 上篠崎村の西部の意。正確を期すなら「西上篠崎」と言うべきか!



■都立篠崎公園
(一部)
 1丁目9番にある。多目的広場と和風広場江戸の河岸がある。



■虹の家

 2丁目18番にある。虹の家・みんなの家・えがおの家は、18歳以上の重度の知的障害者を対象
とした通所施設。心身の発達を促進し、基本的な生活習慣や社会生活能力などを開発するための訓練
を行っている。送迎にはバスを運行している。




【西瑞江】(にしみずえ)2〜3丁目                 ━新住居表示未実施
 新堀村・一之江新田・谷河内村・下鎌田村・上今井村・二之江村。明治22年一之江村大字新堀
・一之江新田・谷河内・瑞穂村大字下鎌田・上今井・二之江。大正2年瑞穂村と一之江村は合併し
て瑞江村となる。昭和7年江戸川区新堀町・椿町・谷河内町・下鎌田町・今井町・二之江町。同1
3年前記6町の各一部をあわせた町域を現行の「西瑞江」としたが、平成16年11月1日1丁目
の全部と2丁目の一部が瑞江1・3丁目となった。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『江戸川区史』など。

 西瑞江の由来
 西側の瑞江の意だが、東瑞江は僅かの地域だ。区は5丁目を春江5丁目・江戸川6丁目などとあ
わせて「二之江1〜5丁目」を予定しているが、住民との合意が得られないのでペンディング状態
となっている。瑞江は瑞穂と一之江の合成。



■日枝神社

 1丁目6番にあるというが、1丁目はなく詳細不明。



■瑞江第二中学校

 2丁目15番にある区立校。昭和41年「江戸川区立瑞江第二中学校」開校。本校舎竣工。完全給
食開始。プール・体育館完成。校旗・校歌制定。
 同43年増築新校舎8教室。同47年瑞江第三中学校を校内に分校。瑞江三中校舎竣工して転出。
同49年校庭地下式防火貯水槽完成。同51年開校10周年記念式典。同56年校舎増築。同60年
校舎大改修・機械警備・都市ガス暖房化。同61年開校20周年記念式典。
 平成元年校舎一部改修。同2年創立25周年記念式典。同3年パソコンルーム完成。同8年開校3
0周年記念式典。同10年校舎耐震補強。同13年全校舎防水塗装。同18年開校40周年記念式典。
 
校歌不明



■下鎌田小学校

 2丁目29番にある区立校。同34年瑞江小学校から分校、「東京都江戸川区立下鎌田小学校」と
して開校。児童516名12学級でスタート。35年3月10日開校式・開校記念日とする。同38
年屋内運動場(体育館のことか?)完成。同40年開校記念日に校歌制定

 校歌「光も降るよ」 作詞・勝承夫  作曲・平井康三郎
  1.光が降るよ 希望が湧くよ
    空も心も明るく広い
    子供が育つ 下鎌田
    生き生きとした強い子の
    集まる学校 楽しい我ら
  2.小鳥が鳴くよ 緑が揺れる
    芦の川辺に 舫(もや)いの舟に
    漲る平和 下鎌田
    進んでみんな 助け合い
    力を協(あわ)せ やり抜く我ら
  3.見晴らす筑波 夕日の富士よ
    高い屋上 果て無く晴れて
    夢湧く処 下鎌田
    日本の明日を担う子が
    伸び行学校 栄ある我ら


 同42年プール完成。同43年江戸川小学校を分校。児童384名移籍。同44年開校10周年記
念式典。同45年観察池完成。同46年江戸川小学校の分校・下鎌田東小学校へ児童77名移籍。同
48年下鎌田西小学校を分校。児童602名移籍。同54年アルミサッシ窓に全面改装、校舎壁面吹
付け塗装。開校20周年記念式典。同56年江戸川区科学教育センター校指定。同57年体育館東側
に学級園4面設置。同60年給食調理室改修。開校25周年児童集会・祝賀会。校庭撒水装置設置。
平成元年開校30周年記念式典。同6年鎌田川親水緑道開通式パレードに参加。開校35周年記念式
典。同7年飼育小屋移設。同9年パソコンルーム・コンピューター21台設置。同11年開校40周
年記念式典。同16年開校45周年記念式典。



■下鎌田西小学校

 2丁目30番にある区立校。昭和48年下鎌田小学校から分校して「東京都江戸川区立下鎌田西小
学校」として開校。下鎌田小学校から602名、瑞江小学校から73名が移籍。児童854名22学
級でスタート。同49年プール完成。同51年校舎増築。同52年
開校5周年記念式典・岩石園が完
成。同57年開校10周年記念式典。平成2年学校モデル図書館完成。校舎2階に和室設置。同4年
校舎3階に多目的教室(西っ子ホール)完成。校庭東側に学校の森(西っ子夢の国)造成。開校20
周年記念式典。同9年開校25周年記念式典。同14年校舎耐震補強工事・校舎外壁塗装工事完了。
同15年開講30周年記念式典。

 校歌「光 波打つ江戸川に」 作詞・中郡節二  作曲・細谷一郎
  1.光 波うつ 江戸川に
    友呼ぶ声が木霊する 
    心 明るい緑の園よ
    土の香りに親しんで
    日毎伸び行け 健やかに
  2.若い鴎が行き帰る
    東京湾の朝風に
    高い御教え 輝く窓よ
    みんな仲良く勤しんで
    望め 遥かな明日の道
  3.歴史 床しい森蔭に
    富士の嶺 遠く仰ぎ見る
    未来 豊かに晴れゆく空よ
    下鎌田西 花咲いて
    靡け旗雲 香しく



役者寺 長行山尊称院大雲寺
 
2丁目38番にある。元和五年(1619)天蓮社梵誉上人が将軍秀忠から蔵前に土地を賜り開山
したが、寛文八年(1668)に焼失した後、本所押上に移転。この当時は、行基作という子安観音、
伽羅施山地蔵、運慶作という不動明王、空海作という弁財天、恵信作という三尊来迎仏画一幅などが
あったが、関東大震災で焼けて総てを失い、大正14年に現在地に移ってきた。当時は全くの弩田舎
で、周りには牧場が三つもあって、雨が降ると道は泥沼と化し、郵便物が届くのに一週間も掛かった
とか。 ま、そんなとこやったちうこっちゃ。そんな訳で20000uの寺域を確保できた。しかし
雰囲気はとても大正の寺ではない。この寺の魅力は緑と静寂さのほかに、梨園の名優41名もの墓碑
が並んでいる役者寺なのだ。ネット検索では大雲寺で引いても出てこないが、「役者寺」で検索する
とすぐに出る。それほど役者寺の名は世間に通っているのだ。歌舞伎ファンは必見だよ。市川羽左衛
門(初代〜16代)、板東彦三郎(3〜6代)、瀬川菊之丞(初〜6代)、松本幸四郎(4〜6代)、
中村勘三郎(初〜13代)、尾上菊五郎(初・3・5・6代)など名優の墓碑がずらりと揃って大見
得を切ってる。



■瑞江小学校

 3丁目39番にある区立校。明治16年下今井村140番地に私塾としてあった今井小学校が、公
立小学校として認可。同23年二之江・鎌田・今井の3校を合併し、「東京府南葛飾郡瑞穂尋常小学
校」と改称。大正2年一之江と瑞穂村が合併して瑞江村となり、一之江尋常高等小学校を「瑞江尋常
小学校」、瑞穂尋常高等小学校を「瑞江尋常高等小学校」に改める。同9年7月2日瑞江尋常高等小
学校と瑞江尋常小学校の校舎を新校地(瑞江村大字東一之江301〜343番地)に移し、この日を
創立記念日とする。同12年瑞江尋常小学校を廃し、瑞江尋常高等小学校に併合。昭和7年周辺5郡
が東京市に編入され「東京府東京市瑞江尋常高等小学校」と改称。同16年国民学校令により「東京
府東京市瑞江国民学校」と改称。12月日米開戦。同18年都制施行により「東京都瑞江国民学校」
と改称。同20年愚かなアメリカ軍の非人道的無差別空爆により校舎1棟を焼失。8月日本は、なら
ず者国家アメリカの軍門に降り敗戦、以後属国となり、唯々諾々といいなりになる保守傀儡政権を保
持せざるを得ない今日的不幸を背負い込む。もう200兆円以上持っていかれたし、自衛隊は尖兵に
使われるし大変だぞ。
 同22年アメリカの強制による学制改革により「東京都江戸川区立瑞江小学校」と改称。同28年
新中川放水路開鑿計画により現在地に移転、同時に一之江小学校を分校。同33年椿分校設置。同3
4年下鎌田小学校を分校。同37年25mプール完成。同40年椿分校を独立させ春江小学校を新設。
同45年創立50周年記念式典。同48年校歌碑除幕。同52年鉄筋コンクリート造り校舎に改築落
成。同55年創立60周年記念式典。校庭全面改修、地上貯水槽設置、給水管全面改修、ランチルー
ム完成。同59年校舎外壁全面塗装、給食室改修、休息室増築。機械警備開始。理科室・飼育観察室
・図書室・第2音楽室(内部改修)・心障学級浴室完成。同63年校舎内都市ガス化工事完成。平成
2年校舎内壁全面塗装、正門、正面玄関、南門全面改修、窓枠 アルミサッシ化等完成。同16年パ
ソコン校内LANケーブル接続。

 校歌「朝日がきらら」 作詞・吉満寿子  作曲・内田定夫 編曲・萩浦宥
  1.朝日がきらら輝いて
    ここ江戸川の温む頃
    水面に響く歓声は
    良い子千余の学ぶ庭
    正しい事に勇み立ち
    永い歴史を伝え行く
    瑞江 瑞江小学校
  2.緑の憩い 藤棚の
    お伽噺が招く時
    光る瞳が輪になって
    見詰める時の楽しさよ
    小さい声が大きくなって
    明日の力となっていく
    瑞江 瑞江小学校
  3.大空澄んで広々と
    遠く富士の嶺 見える時
    力を込めて手を握り
    みんなすくすく伸びて行く
    希望は燃える 胸踊る
    明るい峰だ さあ行こう
    瑞江 瑞江小学校 




【二之江町】(にのえちょう)                   ━新住居表示未実施
 二之江村。室町時代にはあったようだ。明治22年一部が瑞穂村の大字、大正2年瑞江村の大字、
昭和7年江戸川区二之江町、同13年町の大部分が春江町4〜5丁目・西瑞江4〜5丁目・江戸川
4〜6丁目になり、同42年一部が船堀7丁目となり、残る一部が現行の二之江町で猫の額ほどの
僅かの範囲。区は春江5丁目などと「二之江1〜5丁目」を提示したが住民との合意が得られない
ので放置されたままだ。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『江戸川区史』など。

 
二之江の由来
 
由来は判らない。一之江に続く二番目の川の意か? 遠く海辺だった頃の名残かも?




【春江町】(はるえちょう)1〜5丁目          ━4〜5丁目で新住居表示未実施
 一之江新田。市野江(田園簿)・一野江(元禄郷帳)とも書いた。明治22年一之江村大字一之
江新田。大正2年瑞江村大字一之江新田、昭和7年江戸川区椿町。同9年谷河内町・下鎌田町・新
堀町・一之江町の各一部を編入、一部を谷河内町・下鎌田町・新堀町・一之江町へ譲り、同13年
春江町1〜2丁目・西瑞江1丁目となった。同63年新住居表示により春江町1〜3丁目に一之江
1〜2丁目の各一部をあわせた町域を現行の「春江2〜3丁目」とし、平成3年1丁目の全部を現
行の「1丁目1〜3番」とした。残りは未実施。
 平成18年11月6日4丁目の大部分を一之江7丁目に組み込み、一部を同8丁目とした。新大
橋通り以南の4丁目と5丁目が残った。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『江戸川区史』など。

 春江の由来
 一之江新田は堀田図書英文(ほったずしょひでふみ)によって開かれたが、彼は豊臣の旧臣で徳
川家康の求めにより土着したという。関が原の落武者だったため徳川氏に追い込まれることもなく
招かれたのだろう。北条の臣という説もある。この地は一之江村の草刈場で、一面の茫々たる原野
の中に椿の木が多数茂っていて「椿場」とか「椿っ原」と呼ばれていた。堀田図書は、豪農田島庄
兵衛の世話になり、その娘を後妻に迎えて姓を田島に改め、荒野の開発に勤しんだ。従う者11人、
粒粒辛苦数十年の後、一面の椿っ原も漸く美田となり一之江新田村を称えた。以後図書家は名主を
務め、今日まで10数代を連綿として繋いでいる。
 「椿町」は、椿の自生する美しい土地柄だったことにより命名された。足立区に同じ理由で椿(旧
椿木耕地)がある。「春江」は、椿から「春」の字を引き出し、一之江から「江」の字を採って合
成した地名。だから春江という川も入江も圦堀もない。区は五丁目を二之江町などと「二之江1〜
5丁目」とすることを予定しているが、住民との合意が得られず頓挫したまま・・・ どうもこの
区は行政が遅れていて変化についていけないようだ。住居表示はとっかえひっかえの朝令暮改、由
緒ある地名を捨てたかと思うと、東・西小松川町が僅かの面積で残ってる。が、その西に小松川が
あるという摩訶不思議。遅れている理由のは芸のなさ。新住居表示法の対象外だった足立区は間も
なく終わろうというのにねえ。



■一之江名主屋敷
 2丁目21番にある田島家。江戸中期の建物として世田谷代官屋敷に対応している。安永年間(1
772〜81)6代目の喜右衛門顕寿のとき改造したまま現在に伝えている。茅葺屋根の寄棟造りの
母屋と入母屋造りの曲がりを組み合わせた鍵形の曲がり屋だ。門に向かい左に接して倉庫を設け、敷
地の西南隅には池及び築山があって樹木が繁っている。本屋は母屋及びこれと鍵の手に接続した台所
(穀類の処理及び貯蔵のための納屋)とからなる。母屋は平屋、茅葺の寄棟造りで、式台つきの玄関
があり、外縁部の敷居は3本溝となっている。台所は平屋前面入母屋造り、内部は三和土(たたき)
となっている。現在も田島家の住居で、公開はしているが、維持管理協力費として100円ほどの支
払いが必要。
 田島家には江戸時代の民政史料が647点も残されており、「田島文書」として都の指定を受けて
いる。



本高山城立寺

 2丁目39番、名主屋敷から東方に150mばかりのところにある日蓮宗の寺。松戸平賀の本土寺
末。図書が寛永五年(1628)に一族の甲冑を埋めて土地を寄進し建立した。寺門は茅葺切妻の四
脚門で、元文元年(1736)の建造。江戸中期の遺構として、大変に貴重なものだ。門を入って右
手に露座の釈迦如来石像がある。図書の孫、3代目当主八郎兵衛重信の寄進による。本堂右手の鬼子
母神堂には最澄作と伝わる鬼子母神像が納められている。一時行方不明になり大騒ぎになったが、元
禄になって忽焉と戻ってきた。盗んだ者が返したのか、何処かに出かけてて戻ってきたのか? 最近
も各地で野仏や無住の社寺の宝像が、酷いのになると古い墓までが盗まれる。どこかに泥棒市場あっ
て金になるからやるんだろうが、いくら罰が当たらないからといって、やっていいことと悪いことと
は自ずとあるだろう。盗品を飾って心楽しいかねぇ??? そんな金持ちがいるのよ、世の中には。

 ●石造釈迦如来坐像(区有形文化財)



■春江中学校

 2丁目47番にある区立校。昭和52年「江戸川区立春江中学校」開校。プール完成。同55年
二期増設校舎(普通教室6・特別教室2竣工)。第二グラウンド使用開始。同56年開校5周年記念
式典。同57年
学校農園用地(200坪)借用。同59年都市ガス暖房化。同60年校庭照明装置4
基設置。同61年開校10周年記念式典。同3年創立15周年記念式典。コンピュータルーム開設。
同7年「空き缶拾い」建設大臣賞受賞。同8年校舎・体育館屋上防水化。同9年電気設備全面改修。
開校20周年記念式典。同10年パソコン40台設置。校舎・体育館・プールの外壁塗装。生徒会「空
き缶拾い」の収益金で老人ホームへカラクリ時計3個寄付。同11年普通教室をカウンセラー室に転
換。第一・第二理科室改修。同12年家庭科室(調理・被服)改修。同13年校庭改修。同14年H
P開設。同15年6教室に扇風機を設置。同16年吹奏楽コンクール金賞受賞。校内LAN開設。ノ
ートパソコン40台設置。同17年吹奏楽コンクール金賞受賞。同18年吹奏楽コンクール金賞受賞。
卓球秋季大会優勝。同19年卓球春季区民総合体育大会団体優勝。10普通教室・4特別教室にエア
コン設置。憩いの庭改修。開校30周年記念式典。

 校歌「久遠の流れ」 作詞・斎藤正信  作曲・鎌田有子
  1.久遠の流れ江戸川の
    その広がりに我ら集う
    高き理想は遙かなる
    筑波の山脈に木霊して
    春江中学 誇りあれ
    我らが心の故郷よ

  2.都の東部 花所
    その紅に我ら鍛う
    強き体は青春の
    漲る意気を培いて
    春江中学 清くあれ
    我らが心の故郷よ

  3.武蔵野平野 緑なす
    その豊かさに 我ら宴う
    広き心の若人が
    友情も熱く交わりて
    春江中学 永遠にあれ
    我らが心の故郷よ



■東京都瑞江葬儀所

 3丁目26番にある都内唯一の東京都営の火葬場だ。火葬のみの施設で葬儀式場はない。



■一之江駅

 4丁目2番にある都営地下鉄新宿線の停車場。昭和61年9月14日の新宿線船堀〜篠崎間延伸時
に設けられた。ホームは島式1面2線構造で地下2階にある。ホームと改札階を結ぶエレベーターは
設置済み。改札口は2ヶ所で、いずれも地下1階にある。2ヶ所といっても殆ど同じ場所にあるので
1ヶ所と言っても差し支えない。元々は1ヶ所だったが、地上行きのエレベーターの設置とともに改
札口が分離された。出口はA1〜A3の3ヶ所。以前はA1出口は環七口、A3出口は駅ビル口と案
内されていた。A2出口は、地上行きのエレベーターとなっている。地下鉄は通常道路の下に建設さ
れるものだが、新宿線の船堀〜本八幡間の地下線はほとんど道路の下は通らず、まったく自由奔放な
線を描いて走っている。その理由については不明。



■葛西工業高等学校

 4丁目9番にある都立校。平成18年住居表示が変更され「一之江7丁目68番」となったので
【一之江】
を参照されたい。



■一之江第二小学校

 4丁目16番にある区立校。同43年8月校舎完成(普通教室15・管理諸室7)完成。9月一之
江小学校より分校、児童数530名15学級を移し、「江戸川区立一之江第二小学校」として開校。
PTA創立。11月1日開校記念式典・この日を開校記念日と定める。同44年体育館完成。第二期
工事完了(普通教室4・特別教室4)
。プール完成25m×10m(6コース)。校歌制定

 校歌「渡る緑の」 作詞・山口和子 補作・勝承夫  作曲・小出浩平
  1.渡る緑の 微風受けて
    揃う足並み 膨らむ胸よ
    夢も豊かに大海目指す
    流れを友に学ぶ喜び
    ああ一之江第二 弛まぬ我ら
  2.伸び行く物は皆美しく
    生きる力の溢れる姿
    池に群れ成す金魚のように
    元気に仲良く育つ誇りよ
    ああ一之江第二 楽しい我ら


 同45年第三期工事完了(普通教室)。校庭舗装。花壇・観察池完成。同47年第四期工事完了
(普通教室6
)。同49年第五期工事完了(普通教室6)。校庭拡張。同50年給食調理室増築工事
完了。同52年家庭科室改修工事完了。同53年校庭補修。開校10周年記念式典。同57年六価ク
ローム鉱滓完全撤去。同59年花村文庫設立。同60年多目的教室(北校舎3階)完成。同63年2
0周年記念式典。
 平成元年北側玄関完成。同2年学校暖房都市ガス化正門改修。同3年音楽室防音工事。同4年東
門改修。窓枠アルミサッシ化完了。同5年北門・塀改築。同6年プール改修。同8年給食調理室・休
憩室完成。同9年校庭全面改修。パソコンルーム完成。同10年創立30周年記念式典。同20年創
立30周年。
  



法輪山証大寺
 
 4丁目23番にある真宗大谷派の寺。山門を入るとすぐに本堂。左手に墓地。本堂と庫裏は一体の
鉄筋コンクリート造り。墓地は近年整理整頓したようだ。墓碑銘はは「南無阿弥陀仏」が多く、いか
にも真宗らしい。



■広済寺

 4丁目23番にある黄檗宗の寺。入口から本堂まで参道が約50m。左は鉄筋コンクリート造りの
庫裏。右は墓地になっている。



■二之江中学校

 5丁目3番にある区立校。松江一中、松江五中、瑞江中、葛西中のキャパシティ横溢により昭和5
3年2年生304名を移し「江戸川区立二之江中学校」として開校。新入生397名と合わせて70
1名でスタート。校章・校旗・校歌制定。

 校歌「遥かに仰ぐ」 作詞・寺澤豊  作曲・小山久美子 
  1.遥かに仰ぐ富士の峰
    流れ豊かな江戸川の
    我等が誇る学び舎に
    気高き文化受け継いで
    理想は高く湧いて来る
    二之江中学 栄えあれ
  2、白鷺舞うか 蓮の花
    清き心が若人の
    我等が開く学び舎に
    皆睦まじく集う時
    希望は広く満ちて来る
    二之江中学 誉れあれ
  3、青空高く広き校庭(にわ)
    身体を鍛え逞しく
    我等が目指す学び舎に
    明日に向かって躍進の
    英気は強く湧いて来る
    二之江中学 光あれ


 同55年増築校舎(3普通教室1特別教室)落成。同63年創立10周年記念式。平成3年コンピュ
ータ室開設。同10年創立20周年記念式典。同13年外壁全面塗装。同15年時計塔除幕。同20
年創立30周年記念式典。



■二之江第二小学校

 5丁目13番にある区立校。昭和48年二之江小学校内に「東京都江戸川区立二之江第二小学校」
として開校。現在地に校舎落成。7月移転開校。プール完成。校歌制定。PTA発足。11月2日を
開校記念日と決める。

 校歌「光の中に」 作詞・中里文江  作曲
高橋房光                         1.光の中に諸手を翳し
    力一杯小大空に
    向かって描こうみんなの願い
    何時か大きな輪になって
    真っ直ぐ伸びよう二之江第二小学校
  2.輝く緑 水面に映えて
    白く膨らむ蓮の花
    幾百年の大地の上に
    根強く共に生きて行く
    豊かに伸びよう
    二之江第二小学校
  3.若い生命が希望に燃えて
    真理求めて進む時
    未来を見詰める小さな胸に
    勇気と自信が湧いて来る
    大きく伸びよう
    二之江第二小学校

 同54年4階部分増築。同57年創立57年創立10周年記念式典。アスレチック完成。平成2年
運動場付飼育小屋完成。同4年創立20周年記念式典。同5年校庭散水装置(スプリンクラー)設置。
同9年給食調理室改修。パソコンルーム設置。同10年双子山全面改造。同11年プール全面改修。
同14年蓮田造成。同15年正門全面改修。水田造成。同17年飼育小屋改修。





【東葛西】(ひがしかさい)1〜9丁目             最終昭和56年11月1日
 東宇喜田村・長島村・桑川村。明治22年葛西村大字東宇喜田・長島・桑川。昭和7年江戸川区
東宇喜田町ほか5町、長島町ほか5町・桑川町。同9年東宇喜田町ほか5町は葛西1〜3丁目。同
55年11月1日下今井町・桑川町・長島町・葛西1丁目の各一部をあわせた町域を現行の「東葛
西1〜3丁目」とし、同56年葛西1〜3丁目・長島町の各一部をあわせた町域
を現行の「東葛西4〜9丁目」として新住居表示を完了した。
 東京メトロ東西線葛西駅の高架下に「地下鉄博物館」がある。「都市と地下鉄・日本最初の地下
鉄・地下鉄をつくる・地下鉄をまもる・地下鉄車両のしくみ・地下鉄プレイランドの6つの展示テ
ーマにストーリー性を持たせた学習展示構成となっている。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『江戸川区史』など。

 
東葛西の由来
 町名の由来は
葛西地区の東部の意。葛西については「葛西」に。



■桑川神社

 1丁目23番にある。

 ●桑川の富士塚(昭和57年区有形文化財)
 桑川村の山王参拝講の人々が築造した。高さ2mの小振りな塚で、全体を丸石とボク石(溶岩)で
覆われているが、丸石の中には力石も含まれている。頂上には明治41年の記念銘のある石祠が祀ら
れ、くの字形の登山道はグリ石の階段になっている。現在山王参拝講は解散しているが、7月1日の
山開きや、8月26日には、昔ながらに篝火焚きが行われている。



一向山無量院称専寺

 1丁目38番にある浄土宗の寺。永禄五年(1562)の創建。開山は法譽上人。本尊は阿弥陀三
尊像。鉄筋コンクリートの本堂で、その右は庫裏と墓所。左は併設の桑川保育園。



■下今井香取神社

 1丁目45番にある。 



海潮山梵音寺

 2丁目28番にある曹洞宗の寺。本尊は観世音菩薩。承和十四年(847)に慈覚大師の創立した
という。中興は栄室寿盛で寛永三年(1626)。入口から左手に墓地、右庫裏、正面が本堂。禅宗
らしく派手さがないのがいい。



医王山応心院東善寺

 2丁目29番にある真言宗豊山派の寺。本尊は木造薬師如来坐像、養老三年(719)仏師春日が
大阪春日野で制作したものを、仁平二年(1152)に空円上人が開山の時ここに安置した。葛西大
師参りの霊場の一つ。通称は「長島薬師」で、赤い旗が沢山はためき賑やかだ。入口の左は庫裏と墓
地。    



覚王山自性院神宮寺

 2丁目30番にある真言宗豊山派の寺。文亀元年(1501)良範法印の開山。本尊は大日如来坐
像。山門は白木ぴかぴかで近年の新築。参道の左右は墓所、本堂は鉄筋コンクリート造り。その右は
庫裏だ。



■神社

 2丁目32番にある小祠。



■香取神社

 2丁目34番にある。旧名を茂呂神社といい、かつて長島村の鎮守だった。別当の自性院が文久年
間(1861〜1864)に火災に遭い、古記録を焼失したため詳細は不明だが、400年以前の古
社といわれている。祭神は経津主命(ふつぬしのみこと)で、下総の香取神宮から分神されたもので、
本殿と拝殿の彫刻は手の込んだ立派なものです。

 ●乾海苔創業記念碑
 境内にある。大正元年に建立された。

 ●長島の富士塚(昭和57年区有形文化財)
 本殿北側にある。明治41年長島村、桑川村の山王参拝講の人たちが築いた。現在のものは大正6
年に築きなおした者で、塚の南側に「御山築設之由来」と刻まれた碑が建てられ、その由来や講中2
00人以上いたことなどが刻んである。塚の高さは4m、区内の富士塚では大きい方だ。頂上には浅
間神社と刻まれた明治41年銘のある石碑が建ち、上部はボク石下部は丸石で囲まれている。

 ●
諏訪神社
 本殿の北側にある。
 ●八雲神社

 本殿の東側にある。



■大当稲荷神社

 2丁目35番にある小社。



安照山太子院清光寺
 3丁目3番にある浄土宗の寺。文亀二年(1502)徳譽法印の開山。本尊は阿弥陀如来木造立像。
葛西大師参り霊場の一つ。左に鐘楼と墓地。右は駐車場と庫裏。本堂は鉄筋コンクリート造りだ。明
るい陽光燦燦たる日に似合う寺だ。。



海宝山地蔵院正円寺

 3丁目4番にある新義真言宗の寺。文明元年(1469)草創。良範法印が文亀元年(1501)
中興。本尊は延命地蔵菩薩像。昭和39年現在の本堂を再建。左に笠付庚申塔、鐘楼、墓地。右は墓
地と庫裏。 



長島山善徳寺

 3丁目9番にある日蓮宗の小寺。右手に現代住宅的な庫裏、左に墓地。本堂は正面、鉄筋コンクリ
ー ト2階建てで石段で2階へ登りねえ。そこが清浄の地でい。



■智光院

 3丁目14番にある浄土宗の小寺。入口の左側は墓地。参道を左に曲がると鉄筋コンクリート造り
の本堂。その奥に庫裏。



■妙見島

 3丁目17番と住居表示されている江戸川の中島。南北700m×東西200mの舟形をしている。
島の周囲はすべて壁のようにコンクリートで護岸されている。島の建物のほとんどは工場だが、住人
もいる。北部に妙見神社があり、浦安橋から島に降りる事が出来る。元は江戸川区側の岸と接してい
たが、島が徐々に離れていき、現在の位置まで移動した。現在もほんの少しずつ浦安側に移動してい
るといわれる。
 最古の記録は、南北朝時代貞治元年(1362)に妙見堂が建立されたというものがある。それで
「妙見島」と呼ばれた訳だ。近辺の浦安市猫実も、応永二十四年(1417)頃には陸地化していた
とされ、14世紀後半のパリア海退などにより、河口の陸地化が進んだと思われる。下総国の国府を
流れる太日川の河口であり、交通の要衝だった。付近には長島高城があったという説がある。長島に
は長島湊があり、国府の外港の1つとして栄えた。また長島には文中元年(応安五年 1372)に、
香取神宮の河関(灯油料所)があった事が知られている。江戸時代に滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』
にも登場する。
 明治28年千葉県から東京都に編入。明治時代後半頃から工場が建ち始め、第一次世界大戦後の昭
和初期には工業地帯化した。なおそのころの浦安周辺の様子は、山本周五郎の『青べか物語』に詳し
い。浦安橋は昭和15年に初めて開通した。

 妙見信仰
 妙見とは千葉氏の守護神である妙見菩薩のこと。妙見は北辰ともいい、北斗七星のこと。千葉周作
が己の剣の流儀を「北辰一刀流」と名づけたのも故あることなのだ。妙見信仰は千葉氏が信仰してい
た日蓮宗とも密接に関わる。「八百屋お七」の名も日蓮信者ならではの命名なのだ。また日蓮宗は中
山法華経寺を中心に布教が行われていた。お堂の建設は千葉氏が葛西地区へ進出する足がかりだった
と湯浅治久は語る。
 初代の妙見堂は、東一之江村(江戸川区一之江6‐19)の妙覚寺に移されている。

 妙見神社
 月島食品の入口前左脇にある小社。

 如意輪観音
 路傍にある。写真のみで未確認。



■神社
 4丁目31番にある小祠。



雷不動 海松山真蔵院
 
4丁目38番にある新義真言宗豊山派の寺院。天文年間(1532〜1555)空誉上人の開山。
境内に「乾海苔創業記念碑」があり、また古くから「雷の大般若」の行事が行われている。
 葛西に雷(いかづち)という地名がある。これは雷不動のあるところとして名づけられた。この不
動尊は「波切不動」といわれて土地の人から多くの信仰を集めてきた。その謂れは、時化(しけ)で
転覆しそうになった船が、この寺の松にいた竜に助けられたという伝説があり、漁師たちは竜が残し
ていった剣をこの寺の不動明王にお供えしたという。また「雷不動」と呼ばれたのは、別の時この辺
りが激しい雷雨に襲われたことがあり、不動明王が落雷を宝剣で打ち返したという伝説による。

 乾海苔創業記念碑
 葛西海苔の歴史は古く、江戸時代から行われていた。明治に入って東宇喜田村の森昌興が佐久間七
郎兵衛らと共に乾海苔生産の有利を唱え、東奔西走の末、明治19年、東京府から海苔取場の認可を
受けてから急に盛んになった。この記念碑は同43年に土地の関係者たちが、森らの功績を讃えて建
てた。

 雷の大般若
 大般若波羅密陀経の威徳をあらわす悪魔祓いの行事で、二月の雷不動の縁日の前後の日曜日に行わ
れる。昔は縁日当日に行われたんだよ。白粉を塗り、女物の長襦袢などを着た若衆が、大般若経60
0巻を100巻づつを箱に詰めて、担いで町内を駆け巡り、家々を訪ね、家の中を駆け抜けるという
行事。

 昇覚寺鐘楼
 建築規模は桁行3間×梁間2間、高さ4間2尺。構造は袴腰付。桟瓦葺き入母屋造り、建築年代は
梵鐘を鋳造した天明五年(1785)ころの竣工と推定。大工は二之江村の加藤茂七。200年の風
雪に耐え、傷みが進んだため、昭和59〜60年に解体復元修理が行われた。江戸時代中期の鐘楼建
築の様式をよく伝えており、建築史大して上貴重なものだ。梵鐘は直径70p、天明五年の鋳造で、
田村丹波大掾の作。当時は女寺だったので多くの女性信者から櫛や簪の寄進を受けて、鐘に鋳込んだ
と伝わる。今次大戦での供出も免れた貴重なものだ。

 そろばん地業
 鐘楼の解体修理の際、基礎を調査中に発見された地下遺構。これは低湿地など地盤のよからぬ土地
に建築する場合。建物の自重を支え不同沈下を防ぐための地業で、杭を打ち込み、松材の木組みを乗
せ、蝋燭石を立てて、その上に礎石を配置してあった。類例としては、これまでに多賀城(宮城県)、
高槻城(大阪府)などの中近世の城郭で発見されている。近世の寺院建築で発見されたのは今回が初
めてだ。遺構は現地保存されることになり、調査終了後埋戻された。新しい基礎は遺構に負担がかか
らぬように配慮されている。

 雷不動明王石造道標(昭和57年区有形文化財)



■雷香取神社

 4丁目38番雷不動内にある。



■地下鉄博物館

 6丁目3番、営団地下鉄東西線葛西駅の高架下にある。地下鉄の仕組みなどがよく判るのだが、そ
れ以外にも、特に地下鉄工事の詳細が解説されているので、都市部でよく行われている工事現場の地
下で何をやっているのかがよく判る。本物の電車も、ジオラマ(模型)もある。子供よりも大人の方
がおもしろいかも・・・ 
 開館は、月曜日(祝日の場合は翌日)と年末年始(休館日)以外の毎日。
 10:00〜17:30  電話は 03−3878−5011。



■第二葛西小学校

 6丁目33番にある区立校。明治15年公立小学校として長島村郷倉に修已小学校開設。同20年
東宇喜田村(仲町)に海静小学校開設。同24葛西村誕生により海静小を第一葛西尋常小学校、修已
小を第二葛西尋常小学校と改称する。同35年葛西尋常高等小学校が開設され、第一葛西尋常小学校、
第二葛西尋常小学校とも分教場となる。大正6年東京湾大津波のため、本校、分校ともに損害を受け
る。同12年関東大震災により校舎に被害。現在地に分校合併して新校舎を建設し、第一分教場と呼
称する。(この間の経緯は葛西小学校の沿革と違っているので、葛西小学校の項の「沿革の違い」を
参照のこと)
 [独立]
 昭和7年9月26日「東京府南葛飾郡第二葛西尋常小学校」開校。8学級464名でスタート。こ
の日をもって創立記念日とする。10月1日周辺郡部が東京市に併呑され江戸川区が成立。「東京府
東京市第二葛西尋常小学校」と改称。同16年国民学校令により「東京府東京市第二葛西国民学校」
と改称。12月日米開戦。同18年都制施行により「東京都第二葛西国民学校」と改称。同19年学
童集団疎開。同20年8月日本は、ならず者国家アメリカの軍門に降り敗戦。以後その属国となり、
唯々諾々といいなりになる保守傀儡政権を保持せざるを得ない今日的不幸を背負い込む。もう200
兆円以上持っていかれっちまったよ。これからの子供はアメリカの尖兵として戦場に引っ張りだされ
るぞ。
 同22年アメリカの強制による学制改革により、「東京都江戸川区立第二葛西小学校」と改称。同
27年創立20周年記念式典。同34年校庭の池埋立完了(1653u)。校庭土盛。同37年第一
期鉄筋コンクリート造り校舎3階建て9教室落成。同38年創立30周年記念式典・校歌制定。

 校歌「風爽やかに」 作詞・小林純一  作曲・井上武士
  1.風爽やかに吹き渡る
    江戸川葛西此処に建つ
    明るい校舎高い窓
    第二葛西小学校
    さあ漲る光浴びながら
    育とう今日も健やかに
  2.波照り光る海原を
    望めば未来限りなく
    広がる夢も果てしない
    第二葛西小学校
    さあ希望の瞳輝やかし
    学ぼう日々に新しく
  3.色美しく香しい
    紫紺の旗に翻る
    勢おう記章葛若葉
    第二葛西小学校
    さあ理想を目指し眉あげて
    進もう友に誇らしく


 第二期鉄筋コンクリート造り校舎3階建て6教室・管理室落成。同40年25m×10mプール完
成。同41年第三期鉄筋コンクリート造り校舎3階建て9教室落成。同42年体育館落成。同45年
第四葛西小学校を分校。児童339名移籍。同46年第四期鉄筋コンクリート造り校舎3階建6教室
・特別教室等落成。同50年南門開設。第五期鉄筋コンクリート造り校舎3階建4教室・特別教室等
落成。創立40周年記念式典。同51年北側道路改修のため、校地を修正してフェンス塀とする。同
54年給食室改修。同57年校舎外壁塗装、窓枠取替、校庭改修、資料展示室完成。創立50周年記
念式典。同61年学区域変更に伴い児童153名を葛西小学校へ戻籍。校舎内壁塗装、屋上フェンス
改修人工芝(屋上470u)。同62年南側塀の生垣化。なかよしの森、ランニングロードの完成。
 平成元年都市ガスによる暖房化。同4年創立60周年記念式典。同7年第一音楽室の冷房化工事。
第一音楽室冷房化。同8年飼育小屋全面改修。同11年プール改造。同14年東葛西小学校新設によ
り25名移籍。開校70周年記念式典。同15年耐震工事完了。同16年理科室冷房化 



■葛西警察署

 6丁目39番にある。



■東葛西中学校

 6丁目40番にある区立校。同56年「江戸川区立東葛西中学校」として開校。2年生5学級19
1名・1年生5学級203名でスタート。校章・校旗・校歌制定。

 校歌「流れ豊かに」 作詞・細貝信太郎  作曲・池田信博
  1.流れ豊かに江戸川は
    水脈(みお)碧々と海に入る
    都の東 美味し地に
    自立を誓う若人の
    瞳は清し東葛西中学校
    我らが母校
  2.雲遙かなり富士の嶺
    久遠の姿 仰ぎつつ
    広かな知恵と強き身を
    競いて励む 青春の
    円居(まどい)は楽し東葛西中学校
    我らが母校
  3.古きを尋ね 新しき
    真の道を弛みなく
    豊かな性を育みて
    希望に生きる若人の
    誇りは高し東葛西中学校
    我らが母校


 同59年校庭照明施設設置。平成2年ゴスフォード市少年サッカー少年団来校。同3年創立10周
年記念式典。同13年創立20周年記念式典。



■天祖神社

 7丁目17番にある。東宇喜田村仲割鎮守。

 ●中割の富士塚
 昭和初年、丸葛、葛西講によって築造され、天祖神社の移転とともに現在地に移築した。



無量寿山遍照智院昇覚寺

 7丁目23番にある真言宗豊山派の寺。本尊は阿弥陀如来立像で行基作。山門を入ると、左が墓地、
右は天明五年(1785)造の鐘楼(昭和59年解体修復)と墓地。左は前が墓地、本堂の左は立派
な庫裏と催場。清潔な寺だ。



■八雲神社

 8丁目5番にある。



■東葛西小学校

 8丁目23番にある区立校。平成14年第二葛西小学校・南葛西第二小学校から分校して新設され
た出来立てほやほやの小学校。

 校歌「―かがやく未来へ―」 作詞・鶴岡千代子  作曲・長谷部匡俊
  1.煌く光浴び乍ら
    溢れる緑に風薫る
    微笑合い何時も優しく
    新しい明日に向かって
    美しい夢 咲かせて行こう
    生きる喜び伝えるために
    生きる喜び伝えるために
  2.命のリズム響かせて
    豊かに流れる川青く
    励まし合い何時も明るく
    果てし無い宇宙の彼方へ
    七色の虹 描いて行こう
    生きる喜び広げるために
    生きる喜び広げるために
     一人一人が願いを込めて
     一人一人が真を込めて
     力の限り羽ばたこう 高く高く
     東葛西 東葛西 輝く未来へ 




【東小岩】(ひがしこいわ)1〜6丁目                昭和41年9月1日
 下小岩村。明治22年小岩村大字下小岩、昭和3年小岩町大字下小岩、同7年江戸川区小岩町1
〜3丁目、同41年小岩町1〜2・4〜5・7丁目・北篠崎町1丁目・北篠崎町・西篠崎町の各一
部をあわせた町域を現行の「東小岩」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『江戸川区史』など。

東小岩のについて
 町名は
小岩地区の東部の意だが、下小岩村の中心地だった。



■小岩第二中学校

 1丁目6番にある。



■天祖神社

 1丁目32番にある小社。



五社山明寿院万福寺
 2丁目2番にある真言宗豊山派の寺。天文五年(1536)宥唯上人の開山。本尊は木造阿弥陀如
来立像。44人目の横綱栃錦(小岩出身)の菩提寺。入口の左右は墓地、本堂の右は会館、左は庫裏、
会館の前に露出の金色観世音菩薩立像。境内の手入れは行き届いており、清々しい良いお寺だ。

 
横綱栃錦の墓

 万福寺墓地にある。大正14年小岩に生まれた大塚清隆少年は、下小岩小学校第二回の卒業生。昭
和14年栃木山の春日野部屋に入門、「大塚」の四股名で初土俵。同30年初場所44人目の横綱と
なり、小型痩身ながら若乃花幹二とともに栃若時代を築き大相撲人気を確かなものとした。同35年
引退、春日野親方として相撲改革に貢献、理事長の時、両国国技館を建てた。平成2年逝去。栃錦像
が小岩駅と善養寺仁王門内陣にある。



■東養寺

 2丁目5番にある真言宗豊山派の小寺。影向の松≠フ善養寺から西南西へ100m。入口を入る
と右手から奥がが墓地、左に本堂・庫裏。



■神社

 2丁目14番にある小祠。新井家の屋敷神か?



星住山善養寺
 2丁目24番にある真言宗豊山派の寺。「小岩不動」、境内には不動堂・大師堂・客殿・鐘楼・仁
王門などが立ち並ぶ。室町時代の連歌師の紀行文『東路のつと』に、この寺に立ち寄ったとの記述が
あるのに、寺伝によると、これより後の大永七年(1527)に山城醍醐の頼澄法師が不動明王より
「東国衆生の救度に下向せよ」という夢告を得て、三国伝来の毘首葛摩作の不動明王を奉持して東国
に向った。しかし老齢の身故に、或る山中にまで来た時とうとう力尽きて倒れてしまった。ところが
フッと気がつくと頼澄は不動像に背負われこの地まで来ていた。ここに霊感を感じた頼澄は、早々に
この地に庵結んで不動像を安置した。
 以前訪れた時と庫裏・客殿が違うので驚いた、壮大な建物になって、まるで最近の新興の宗教みた
いだ。
 境内には横綱栃錦の銅像、故春日野理事長(栃錦)が影向の松を全国松番付で横綱に推挙した石碑、
式守伊三郎報恩碑、横綱山など、相撲に纏わるものが少なくないが、これは横綱栃錦
が小岩の出身という縁による。小岩駅内にも栃錦の銅像がある。

 和傘の記念碑
 下小岩地区が江戸時代に農業の副業として和傘作りが盛んであったことに由来し、特に名人として
知られた川野竹松を讃える碑。

 
浅間噴火横死者供養碑(昭和56年区有形文化財)
 仁王門の右手前にあるが、これは天明三年(1783)の浅間大噴火の時、多数の遺体が江戸川に
流れ着いた。碑は寛政七年(1795)に下小岩村の村人が、その十三回忌の供養に建てたもので、
都の文化財に指定されている。

 
影向の松(ようごうのまつ 昭和56年区天然記念物)
 善養寺にある樹齢600年の日本一の巨松。平成5年西の横綱松とされた香川県志度町(さぬき市)
の真覚寺の「岡野松」が枯死し伐採されてしまったので名実共に日本一となった。高さ8m、枝振り
東西30m・南北28mを誇る。都(大正15年)と区(昭和55年)指定の天然記念物指定。「影
向(ようごう)」とは仏や菩薩が衆生済度のためこの世に現れる姿のことで、松が枝を横に双方に広
げる様が、母親が両手を広げて子供を迎えるように慈悲に溢れて見えることから「影向」の仏教用語
を持って命名したもの。倉敷市の不洗観音寺に樹齢200年の影向の松がある。



■小岩第一中学校

 3丁目10番にある区立校。昭和22年小岩小学校の中に「東京都江戸川区立小岩第一中学校」と
して開校。同23年8月現在地に校舎を建て移転。11月26日校舎落成記念式典・校旗制定。この
日を開校記念日とする。同26年江戸川高等学校小岩分校併置。開校5周年記念式典・校歌制定。

 校歌「新たなる」 作詞・田沢武男  作曲・岡本敏明
  1.新たなる朝の日栄えて
    世紀今明け行く処
    絢爛と文化花咲く
    いざ我ら腕を組み
    結ぶもの小岩一中力あり
  2.富士ヶ嶺遥かに望み
    江戸川の水澄む処
    緑野の幸は溢る
    いざ我ら歓喜に満ちて
    学ぶ者小岩一中光あり
  3.風薫る空どよもして
    自治の鐘鳴る処
    一筋に真理を究む
    いざ我ら知徳磨きて
    励む者小岩一中誇りあり


 同28年第二期校舎(増築)落成。同29年第三期校舎(増築)落成。同30年第四期校舎(増築)
落成。同32年開校10周年記念式典。同35年第一期鉄筋コンクリート造り校舎竣工。同37年第
二期鉄筋コンクリート造り校舎落成・体育館完成。同42年開校20周年記念式典。プール完成。同
46年第三期鉄筋コンクリート造り校舎落成。同48年第4期鉄筋コンクリート造り校舎落成。同5
1年創立30周年記念式典。同54年男子バスケットボール部全国優勝。同58年小体育館(多目的
館)完成。同60年大体育館完成。同61年創立40周年記念式典。平成9年創立50周年記念式典。



■小岩小学校

 3丁目20番にある区立校。明治15年明物小学校創立。同16年育正小学校創立。同24年明物
小学校を第一小岩尋常小学校、育正小学校を第二小岩尋常小学校と改称。同43年第一小岩尋常小学
校と第二小岩尋常小学校を統合し「東京府南葛飾郡小岩尋常高等小学校」として現在地に開校。
 大正15年屋内体操場木造平屋建スレート瓦一棟(120坪)落成。
 昭和4年4月下小岩分教場・木造平屋建瓦葦き5教室、上小岩分教場・木造平屋建瓦葦き5教室落
成。5月1日下小岩分教場開場。5月26日上小岩分教場開場。
 昭和7年3月木造2階建増改築校舎落成(改築334坪・増築616坪)。下小岩分教場を独立校
として下小岩尋常小学校(6学級)開校。上小岩分教場を独立校として上小岩尋常小学校(6学級)
開校。10月周辺5郡が東京市に併呑され江戸川区成立。「東京府東京市小岩尋常高等小学校」と改
称。同11年西小岩尋常小学校を分校。児童210名移籍。同14年南小岩尋常小学校を分校。児童
305名移籍。同16年国民学校令により東京市小岩国民学校と改称。12月日米開戦。同18年中
小岩国民学校と改称。児童590名を移籍。都制施行により「東京都小岩国民学校」と改称。同20
年8月日本は、ならず者国家アメリカの軍門に降り敗戦。以後属国となり、唯々諾々といいなりにな
る保守傀儡政権を保持せざるを得ない今日的不幸を背負い込む。もう200兆円がとこ持って行かれ
っちまったよ。これからの自衛隊はアメリカ軍の尖兵として戦場に引っ張りだされるぞ。国際貢献だ
とよ。
 同22年アメリカ軍の強制による学制改革により「東京都江戸川区立小岩小学校」と改称。同25
年松丸忠太郎より宅地176坪5合1勺を買収して校地拡張。同26年川野トメ氏より宅地315坪
を買収して校地拡張。同27年東小岩小学校を分校。児童629名移籍。同35年第一期改築鉄筋コ
ンクリート造り校舎3階建て6教室落成。同36年第二期改築鉄筋コンクリート造り校舎3階建て9
教室落成。同40年第三期改築鉄筋コンクリート造り校舎3階建て6教室・3特別教室落成。同41
年体育館完成。同42年第四期改築鉄筋コンクリート造り校舎3階建て15教室落成。同44年新プ
ール完成。同55年校舎窓枠アルミサッシ化・校舎外装工事完了。同56年給食室全面改修。創立1
00周年記念式典。同63年初めての雪国教室実施。同9年初めての長期異動教室実施。同12年樹
齢90年の藤の木を治療。同14年車椅子用玄関スロープ完成。開校120周年記念式典。同18年
西校舎廊下天井のアスベスト除去工事完了。平成19年開校125周年記念集会。

 校歌「都の東 江戸川に」 作詞・岩松正弥  作曲・平井康三郎
  1.都の東 江戸川に
    日毎に映す富士の嶺の
    気高い姿 仰ぐ時
    何時も希望が湧いて来る
    ああ楽しい母校よ 小岩校
  2.桜に富士に百日紅(さるすべり)
    庭に優しく薫る花
    古い歴史も偲ばれて
    何時も心が澄んでいる
    ああ懐かし母校よ 小岩校




■東小岩小学校

 4丁目12番にある。昭和27年9月1日小岩小学校から分校、児童694名移籍して「東京都江
戸川区立東小岩小学校」として開校。9月9日開校式・開校記念日と定める。同31年図書館完成。
同37年プール完成。同38年給食調理室拡張。同45年第一期増築(体育館・特別教室9・普通教
室4)落成。同46年第二期増築(管理室4・普通教室9)落成。同47年第三期増築(給食室・普
通教室6)落成。同57年創立30周年記念式典。
 平成3年校舎窓枠アルミサッシ化、屋上防水工事完了。同4年創立30周年記念式典。同9年校舎
耐震補強工事完了。同14年開校50周年記念式典。同15年給食室全面改修。

 校歌「明るく広い」 作詞・勝承夫  作曲・小出浩平。
  1.明るく広い空を見れば
    輝く夢が 子供の夢が溢れ出る
    雲映して江戸川も
    大海指して行く処
    東小岩は楽しい母校
  2.川風届く花の庭は
    自立の英気 自由の気風 
    緑変わらぬ影向(ようごう)の
    松にも負けず逞しく
    強く大きく伸びよう我ら
  3.光を衝いて走れ燕
    仲良し小鳥 元気な子供みな此処に
    明日の日本を担おうと
    弛まず励む力こそ
    東小岩の我らの誇り



■聖徳宮

 5丁目6番にある。



■大鷲神社

 5丁目11番にある。



■江戸川女子中学校・高等学校

 5丁目22番にある私立校。昭和6年松岡キンが、小岩に「城東高等家政女学校」を開校。同7年
「江戸川高等家政女学校」と改称。同16年創始者を松岡から木内三郎に変更。12月日米戦争勃発。
同19年財団法人「江戸川女子商業学校」設立。同20年日本は、アメリカの軍門に降り、その属国
とされ、唯々諾々といいなりになる保守傀儡政権を保持せざるを得ない今日的不幸を背負い込む。も
う200兆円以上持っていかれちゃったよ。これからの自衛隊は、アメリカ軍の尖兵(手先)として
戦場に引っ張り出されるようになる。
 戦後江戸川高等家政女学校を廃校。同21年財団法人江戸川女子商業学校を財団法人「江戸川高等
女学校」と改称。同23年アメリカの強制による新学制のため「江戸川女子高等学校」を創立。同2
4年江戸川高等女学校を廃校。同26年私立学校法により財団法人江戸川女子高等学校を「学校法人
江戸川学園」に変更。同31〜38年「本館鉄筋8ヶ年計画」に基づき、5期に亘って本館が鉄筋化
される。同53年創立50周年記念事業として、取手高等学校を開校。同55年取手高野球部、開校
3年目にして甲子園出場。同56年豊四季専門学校(松戸)を開校。同60年江戸川女子短期大学開
学。同61年
江戸川女子高等学校に英語科開設。同62年江戸川女子中学校・取手中学校開校。平成
2年流山市に江戸川大学開学。同6年校舎建替え。同6年65分授業・前後期2期制採用。同8年第
一期工事
落成。同10年新校舎落成。
同19年江戸川女子中学校・高等学校新館落成。江戸川短期大
学閉学。


 校歌「平和漲る日本の」 制定年・作詞・作曲不明
  1.平和漲る日本の
    朝日に匂う桜花
    雪に輝く富士ヶ嶺を
    鏡となして朝夕に
    心の真玉 磨かなん
    大和乙女のこれぞ幸
  2.流れも清き江戸川の
    学びの庭の親の愛
    深き情けの教え草
    倦まず弛まず摘みつつも
    新しき世に捧げなむ
    吾らが母校 これぞ道

 
江戸川綜合福祉専門学校

 昭和
56年松戸市に「
江戸川学園豊四季専門学校」開校。豊四季専門学校を「江戸川綜合福祉専門
学校」と改称。

 江戸川短期大学 閉学
 昭和60年江戸川女子短期大学開学。人文学科(国文学専攻、英文学専攻、文化史専攻)設置。同
11年人文学科の名称を文化コミュニケーション学科に変更。江戸川女子短期大学各専攻による募集
を停止し、文化コミュニケーション学科に一本化して募集。同13年江戸川女子短期大学を「江戸川
短期大学」に改称し男女共学とする。同19年閉学。


 江戸川大学
 平成2年流山市に江戸川大学を開学。
社会学部に応用社会学科とマスコミュニケーション学科を置
く。
同9年環境情報学科を新設し3学科となる。同11年応用社会学科を人間社会学科に変更。総合
図書館第一期竣工。同12年
社会学部に経営社会学科設置。総合情報図書館増築。同14年環境情報
学科の名称を環境デザイン学科に変更。同18年2学部5学科(@社会学部:人間心理学科、ライフ
デザイン学科、経営社会学科、Aメディアコミュニケーション学部:マスコミュニケーション学科、
情報文化学科)に改編。



■小岩警察署

 6丁目9番にある。昭和21年小松川警察署から分署。沿革の詳細は不明。平成19年9月10日
西篠崎2丁目6番の仮庁舎から現在地の新築庁舎に戻転した。



■小岩神社

 6丁目15番にある割と大きな神社。中小岩・下小岩両村の総鎮守。祭神は天照大神、表筒男命、
中筒男命、底筒男命、天児屋根命、誉田別命、衣通媛命。かつて「五社大明神」また「五社明神社」
といわれ、天照大神・八幡・住吉・玉津島・春日の5座が祀られている。昔、東葛西領行徳に鎮座さ
れていた古社を、天文五年(1536)下小岩村の萬福寺に動座。寛文十一年(1617)当社を崇
敬する酒井雅楽頭・板倉筑後守両大名が本社と拝殿造営の寄進。別当寺の萬福寺(東小岩2丁目2番)
が、天保元年(1830)火災に遭い、詳しい記録は失われた。天保十一年(1840)現在地へ遷
座、小岩神社と称えた。明治37年老朽のため拝殿と幣殿を再建。境内には神楽殿のほか、妙法稲荷
大善神、稲荷大明神、小岩の戦没者を祀る和魂神社、わらじ石などがある。



■小岩の一里塚
 6丁目36番の南角、総武線ガードの南側で千葉街道沿い、岩槻街道との追分にあった。多少高く
なっていて、菅原神社の小祠もあって昔日の名残を留めていた。昭和39年須賀神社を北方の北野神
社に合祀して一里塚を取り払ってしまった。人間は時として愚かなことをするもので跡地には民家が
建っているが、特に歴史的遺跡を取っ払ってまで建てる必然性はないように思える。区の説明板はガ
ード際の駐車場のところに建てられていて、あたかも駐車場が跡地と誤解させる。今は交差点とバス
停にその名を残すのみ。




【東小松川】(ひがしこまつがわ)1〜4丁目             昭和53年3月1日
 東小松川村。明治22年松江村大字東小松川。大正15年松江町大字東小松川。昭和7年江戸川
区東小松川1〜5丁目。同40年葛飾区小松町の一部を併合、同42年までに松江1〜5丁目・松
島1〜2丁目・中央2〜4丁目・東小松川1〜3丁目となり、同53年東小松川に東船堀町・西船
堀町の全部と船堀1丁目の一部をあわせた町域を現行の「東小松川」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『江戸川区史』など。

 東小松川の由来
 町名は東小松川村の名前を踏襲している。
小松川境川の東側に開いた村の意。室町時代にはあっ
たようだ。小松川は上流の「小松村(新小岩)を流れる川」の意による。



香取山宝積院

 2丁目1番にある真言宗の寺。参道の左右は墓所、正面に純和風の本堂、その右の庫裏とともに鉄
筋コンクリート造り。



無量山光明院永福寺

 2丁目1番にある真言宗豊山派の寺。小松川境川親水公園の反対側に正門がある。参道を行くと白
木のピカピカの仁王門があり、境内は墓地ばかりだが、右に白木の新しい鐘楼。永禄十一年(156
8)宥賢上人の開山。本堂右に庫裏。入口の道の向いにも墓地がある。本尊は伝行基作木造阿弥陀如
来坐像。この寺の名物は、昭和53年の近作ながら桃山様式を踏襲し、瓦は天平風という大変に威風
堂々として立派な鐘楼だ。柱間10尺(約3m)、高さ20尺(約6m)。



■寿光院

 2丁目5番にある浄土宗の寺。角地にあり、左手が墓地。変ったビルで色彩も鮮やか、とても寺と
は思えないデザイン。洋風住宅的というか? 



香長山円通院泉福寺

 2丁目7番にある真言宗豊山派の寺。本尊は木造聖観世音菩薩立像、中興開山は賢専法印で永禄二
年(1559)。本堂は昭和45年に鉄筋コンクリートで新築した現代風のデザイン。右に庫裏、左
が墓地。本堂の掲額に「香長山普門閣」とある。院号は円蓮院(?)かも。



放光山西蓮寺

 2丁目9番にある真言宗豊山派の寺。小寺だが静かで落ち着いた寺らしい寺だ。



寿覚山無量院源法寺

 2丁目16番にある浄土宗の寺。火除けのために周囲に堀を廻らしていたことから「堀巻き寺」の
俗称で呼ばれた。天正四年(1576)観智国師の法縁といわれる故岳上人が開山し、その後放岳上
人が中興した。宇喜新田を開発した宇田川喜兵衛定氏一族の菩提寺で、代々の墓がある。また史跡と
して狂言作者福森久助の墓も同墓地にある。

 福森久助
 明和四年(1767)本所の薪問屋の子として生まれ、俳号は一雄、玉巻恵助の高弟だ。天明五年
(1785)桐座の『男山娘源氏』に初めてその名が現われ、市村座の座付作者となった。世話物(当
時の現代劇)が得意で数々のき戯作を書いているが、常磐津・清元・長唄にも優れた作詞がある。文
政元年(1818)52歳で没し、源法寺に葬られた。



江戸川競艇場

 3丁目1番にある公営賭博場。昭和30年8月12日初開催。江戸川区にある競艇場ということか
ら江戸川の名を冠しており、実際に競艇を行なわれているのは中川だ。主催者は、東京都六市競艇事
業組合と東京都三市収益事業組合で、いずれも一部事業組合。江戸川区はじめ23区は両団体とも加
盟していない。施設のオーナーは関東興業で、東京都三競艇場施設所有企業中唯一、鉄道または鉄道
系列会社資本ではない。平和島競艇場は京急、多摩川競艇場は西武資本だ。現在全国で唯一河川水面
を利用した競艇場。過去には移転前の三国・芦屋があった。

 
 河口に近い位置に在ることから水質は海水だ。年中風の影響を受け易く、そのためにしばしばレー
スが中止する。無料バスの発着する船堀駅・平井駅・西葛西駅には競走中止の告知のための専用看板
が常に用意されている。また川の流れの他、河口に近いことから上げ潮や下げ潮による水位の影響を
受け、全競艇場の中で屈指の難水面として知られている。このため、選手の中には江戸川競艇場への
斡旋を受け付けない者が多くいたが、平成13年1月より選手会と施行者との話し合いにより、原則
として斡旋拒否はできなくなったため、現在では全選手が江戸川競艇場へ出走することになった。そ
れでも斡旋後の欠場など走らない選手もいる。

 施設
 スタンド対岸に大型映像装置がない。これは徳山競艇場とここだけ。真上に首都高速道路中央環線
(C2)があり、大型映像装置を設置できないため。代わりにスタンドの両サイドに小さな映像装置
がある、だからスタートの際などレースコースに対し横に向きながら観戦する奇妙さがある。首都高
速からはレース場付近で防音壁を高くしているため競艇場は全く見ることができない。事故が起きた
ら大変だからだ。なお対岸の堤防から無料観戦が可能だが、場内実況は聞こえず、舟券を買うことは
できない。観覧席は堤防の法面を利用しており、舟券購入後一度堤防を上らなければならない。観覧
席の最前面は金網になっており、満潮時などはレースコースの川の水がスタンドに入ってくるので最
前列は使えなくなる。夏などに裸足で入っている人はいる。また建物とスタンドの間は都道(都道4
50号新荒川葛西堤防線)で、レース開催日は締め切られる。車で走ると妙な感覚に囚われる。 



相撲寺 医王山薬王院善照寺

 3丁目3番にある真言宗豊山派の寺。かつては醍醐三宝院の末寺だった。本尊大日如来。大永二年
(1522)に入寂した隆範上人の開山、万治三年(1660)頼玄上人の中興と伝わり、慶安元年
(1648)には3代将軍・徳川家光から6石の朱印地を与えられている。浮洲浅間神社の別当寺。
元禄十二年(1699)初代横綱免許明石志賀之助の引退相撲が、当寺で興行されたのがきっかけで、
以来毎年不動尊縁日に草相撲が行われたことから、この寺が「相撲寺」といわれるようになった。

 
葛西学校
 明治9年区内最初の公立学校が置かれたところだ。

 
浮洲浅間神社
 旧東小松川村飛地の鎮守、荒川放水路の開鑿のため今はなく、白髭神社に合祀された。創建年は不
明だが、区内屈指の古社と伝えられ、江戸の初め慶安元年(1648)に、3代将軍家光から御朱印
6石を与えられた由緒ある神社で、祭神は、天日鷲彦命を祀る。創祀にまつわる伝説によると、「浮
洲は元は僅かな寄洲で、漁猟に出る船は、ここで潮待ちすることになっていたが、或る時、買取りの
舟が潮待ちしていると、浅間(木花開耶姫命)の札が流れ着いた。そこで猟師が砂を掻き寄せて、そ
こに札を納めたところ、いつしか浮洲となり、やがて浅間神社が建てられた」という。この神社のこ
とは『成田参詣期』に記され。

   神宝に古鏡二面を蔵す

 とある。



白髭神社

 3丁目7番にある小祠。



水神宮

 3丁目9番の西北角にある小祠。 



医興山正徳寺
 3丁目10番にある真言宗豊山派の寺。入口正面に本堂。右手に庫裏・会館と続く。いずれも鉄筋
コンクリート造り。裏手は墓地。入口の左にある2階建てのビルは1階がガレージだ。



水神宮

 3丁目21番にある小祠。



東小松川小学校

 3丁目27番にある区立校。同16年国民学校令施行の年、「東京府東京市東小松川国民学校」と
して開校。11月26日校舎落成を期し、この日をもって開校記念日と定める。12月日米開戦。同
18年都制施行により、「東京都東小松川国民学校」と改称。同20年8月日本は、ならず者国家ア
メリカの軍門に降り敗戦。以後属国となり、唯々諾々といいなりになる保守傀儡政権を保持せざるを
得ない今日的不幸を背負い込む。もう200兆円以上、以て行かれた。これからの子供はアメリカ軍
の尖兵として戦場に引っ張り出されるぞ。
 同22年アメリカの強制による学制改革により、「東京都江戸川区立東小松川小学校」と改称。同
26年創立10周年記念式典。同41年創立25周年記念式典。同44年プール完成。同47年のぞ
みの庭(池、はす田)、PTAの協力により完成。同56年創立25周年記念式典。同62年校舎全
面大規模改修。平成2年生垣完成。同3年給食室など校舎大改築。同3年創立50周年記念式典。の
ぞみの庭、PTAと50周年実行委員により改修。同59年西側校舎内部塗装完了・ガスストーブ設
備完了。同7年焼成小屋・焼成窯設置。同9年校庭舗装。同11年小鳥小屋新設。同13年機械警備
開始。開校60周年記念式典。同15年校庭改修。

 校歌「空広々と」 作詞・土岐善麿  作曲・信時潔
  1.空広々と西に東に
    絶えず流れる放水路
    何時も楽しく心合わせ
    元気に学び遊ぶ時
    今日から明日へと
    伸び行く力よ
  2.影緩やかに鷺は飛び立ち
    雲に紛れてまた還る
    緑明るく蓮田も開け
    希望も育ち新しく
    窓にも庭にも
    溢れる光よ
     みんな一緒に健やかに
     東小松川小学校



下水道局東小松川ポンプ場

 4丁目2番にある。



■碑
 4丁目12番にある。未見



■碑
 4丁目31番、東小松川南公園内にある。未見。



白鷺養護学校

 4丁目50番にある都立校。同61年小岩養護学校から分校して「白鷺養護学校」として開校。小
岩養護学校の中等部を移し、中学部7学級、高等部6学級 計13学級でスタート。平成7年創立1
0周年記念式典。同18年創立20周年記念式典。




【東篠崎】(ひがししのざき)1〜2丁目              昭和62年11月2日
 伊勢屋村。明治22年篠崎村大字伊勢屋。同28年一部を東葛飾郡行徳町に譲り、昭和7年篠崎
村大字伊勢屋・大和田・本行徳をあわせた町域を東篠崎町とし、同62年南篠崎町・下篠崎町の各
一部をあわせた町域を現行の「東篠崎」として新住居表示を完了した。
 ここには昔河原の渡し≠ェあった。

【東篠崎町】                             住居表示未実施
 東篠崎の東側の土手、江戸川水面などに残っている。江戸川閘門がある。江戸川水門は千葉県市
川市河原に属する。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『江戸川区史』など。

 東篠崎の由来
 町名は
伊勢屋村が篠崎村の東隣にあったことによる。しかし伊勢屋で何がまずいんだろうかね?
 何も好んで隣村の名前を名乗ることはなかろうに、先祖がそう名づけたからには誇りを以てその
名を選んだのだから、篠崎のお先棒を担ぐことも、後塵を拝することもないと思う。篠ちゃんにゃ
悪いが、江戸っ子から見たら東篠崎なんぞみっともねえってことよ。伊勢屋のどこが悪いってんだ
よ。
 



篠崎第三小学校

 1丁目1番にある区立校。同45年篠崎小学校内に「東京都江戸川区篠崎第三小学校」として開校。
同46年篠崎中学校が転出した跡地に移転、独立校となり、児童891名25学級でスタート。同4
7年校歌制定。

 校歌「大東京で真っ先に」 作詞・小林純一  作曲・中田喜直
 出だしの「大東京で真っ先に」は鹿骨東小学校の校歌と同じ。作詞も小林だ。
  1.大東京で真っ先に
    朝日を迎えるこの辺り
    江戸川堤の畔に立つ
    篠崎第三小学校
    さあその陽を浴びて健やかに
    育てみんなと風が呼ぶ 風が呼ぶ
  2.水門駆けて川水が
    海原目指して行くように
    明日の世界に窓を開く
    篠崎第三小学校
    さあ希望の瞳輝かし
    学べみんなと雲も呼ぶ 雲も呼ぶ
  3.赤紫も美しい
    校旗を掲げて誇らしく
    只管(ひたすら)理想の道を進む
    篠崎第三小学校
    さあ高らかな歌声よ
    響け 団地の大空に 大空に

 12教室増築。木造校舎撤去。同50年6教室増設、図書室・視聴覚室完成。同55年創立10周
年記念式典。同63年小鳥小屋新設。正門改修。平成元年校舎耐震化工事。同2年創立20周年記念
式典。同7年焼成小屋完成。同9年パソコン室新設。同10年家庭科室改修。同15年新体育館完成。
同16年理科室改修。



■東篠崎団地水神宮

 1丁目6・7番にあるらしい。前川神社のことか?



江戸川区スポーツランド

 1丁目8番にある区営のスポーツセンター。7月〜9月に利用できるプールは、10月〜5月には
23区では唯一の区営のスケートリンクとなる。他にテニスコート、フットサル場、貸し会議室があ
る。駐車場は24時間利用できるよ。



篠崎高等学校

 1丁目10番にある都立校。昭和52年開校。詳細不明。
 卒業生に、劇作家で脚本家の三谷幸喜の女房でタレントの小林聡美、プロ野球松坂大輔の弟松坂恭
輔がいる。平成18年聖徳大学と連携教育協定締結。



■江戸川閘門・江戸川水門
 閘門は、昭和11年着工、同18年完成。鉄筋コンクリート製、有効幅員11m、高さ5.5mの引
揚式鉄扉付で、船の通行のために設けられている。ここを有名にしたのは桜で、「篠崎水門の桜」と
して知られる桜木が数多あって、3月末から4月上旬花見客で賑わう桜の名所となっている。俗に篠
崎水門と呼ばれている。
 水門は、昭和11年着工、同18年完成。鉄筋コンクリート製、幅員10m、高さ5.5mのものが
5連あって電動開閉の引揚式鉄扉がついている。しかし水門は千葉県に属する。



都下水道局
篠崎ポンプ場
 2丁目2番にある。



王子板紙江戸川工場

 2丁目3番にあり、2丁目の大半を占める。大正11年12月「富士製紙江戸川工場」として操業
開始。昭和8年王子製紙・樺太工業・富士製紙が合併して王子製紙となり、「王子製紙江戸川工場」
となる。この大王子製紙は市場の80%を占拠した。同24年アメリカの強制で「過度経済力集中排
除法」に基づく決定整備計画により、平たくいえば「財閥解体」により大王子製紙が解体され、苫小
牧製紙株式会社(2・3代目王子製紙)、本州製紙株式会社(3代目王子製紙)、十條製紙株式会社
(日本製紙)に分割され、「本州製紙江戸川工場」となる。同27年苫小牧製紙は王子製紙工業と改
称。同33年江戸川工場の廃水放流に漁民が抗議、漁民105人が重軽傷を負う。同35年王子製紙
工業は「王子製紙(2代目)」と改称。平成5年神埼製紙と合併して「新王子製紙」と改称。同8年新
王子製紙と本州製紙が合併して「王子製紙(3代目)」と改称。王子製紙江戸川工場となる。同18年
10月子会社でダンボール原紙を作っている王子板紙に移管され、「王子板紙江戸川工場」となる。

 
王子板紙

 平成13年5月王子製紙・高崎三興・中央板紙・北陽製紙の板紙共販会社として、4社の共同出資
で「王子板紙」を設立。7月営業開始。同14年高崎三興・中央板紙・北陽製紙が、株式交換により
王子製紙の完全子会社となる。同時に3社が保有する王子板紙の株式総てを王子製紙に譲渡、王子板
紙も王子製紙の完全子会社となる。10月高崎三興・中央板紙・北陽製紙を吸収合併。同時に王子製
紙の段ボール原紙製造部門を継承し製販一体となる。同18年10月1日「王子製紙江戸川工場」を
継承し今日に至る。



■金海稲荷神社
 2丁目4番にある小祠。




【東松本】(ひがしまつもと)1〜2丁目               平成4年8月10日
 松本村。明治22年鹿本村大字松本。昭和7年江戸川区松本町。同40年一部が中央3〜4丁目、
同41年南小岩2・4〜5丁目、同45年鹿骨1〜5丁目に譲り、平成3年8月1日松本町・鹿骨
5丁目の各一部をあわせた町域を現行の「東松本1丁目」、平成4年松本町・興宮町の各一部をあ
わせた町域を現行の「東松本2丁目」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『江戸川区史』など。

 東松本の由来
 町名は
中川を挟んで松本の東部の意私が初めて松本を知ったころ鹿骨新橋はなかったし大杉橋
は細くて車でそろそろとすれ違うのがやっとの橋だった。無論歩道なんてない。家電のオカジマは
まだ街角の小っちゃな電器屋で大型量販店になるとは思っても見なかった。鹿本橋を東へ降りたと
ころに茶店(よろず屋)があって江戸時代の風情があったが今はコンビニだ。当時は東井堀はまだ
明渠だったし、車で走るのが楽しかった。

 欠番
 さて2丁目4番が欠番になっており、そこだけが鹿骨町になっている。鹿骨町住民の徹底抗戦は
何時収束を見るか根性比べだ!



■泰耀寺

 1丁目3番にある黄檗宗の寺。入口を入ると左手に墓地、参道を50mばかり行くと、左に鉄筋
コンクリート2階建ての西洋風の本堂。庫裏はさらに参道の先にある。屋上もあったりして何とも
有り難味がない。寺は荘厳な気持ちになれないとなぁ。 



■太兵衛稲荷神社

 1丁目6番にある小社




【東瑞江】(ひがしみずえ)1丁目                  平成13年11月5日
 平成13年新住居表示により東瑞江2丁目・西瑞江2丁目・下鎌田町・南篠崎町2丁目の各一部
をあわせた町域を現行の「東瑞江1丁目」とした。
 2丁目は未実施(街区符号は暫定的だから変わるよ)
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『江戸川区史』など。

 
東瑞江の由来
 瑞江の東部の意だが、この辺りの住居表示は流動的で安定しない。二度三度と住居表示を繰り返
すので、何年後かには西瑞江になってるかもしれない。瑞江自体、明治時代の合成地名で「ここが
瑞江」というところはない。



江戸川区東部事務所

 1丁目17番にある。2度3度の住居表示地獄に陥っている部署だ。いうことを聞かない住民と、
押し寄せる新住民のために町がドンドンドンドン変わっていくこととの板挟みで、へとへとだ。江戸
川区だけが住居表示が遅れてて、住居表示を何度もやり直しているのさ。東京のチベットと蔑まれて
た足立区だって間もなく終わるぜ。しっかりしろよ、江戸川区!



■豊田神社

 1丁目18番にある。前の住居表示では2丁目5番となっている。住居表示を何度もやってるから
訳が判らない。江戸時代は神明社といい、下鎌田村の鎮守だった。祭神は天照大神。明治初年に別当
寺の長寿院が廃寺となり、その跡地に神明社の社殿を建立して豊田神社と改称した。

 社叢
 神木の大ケヤキをはじめ名木老樹生い茂り、区の保護樹が幾本もある。神木は樹齢200年以上と
いわれ、目通り3.76m、高さ25m あり、神木らしい形の良いケヤキだ。

 ●下鎌田の富士塚(昭和57年区有形文化財)
 境内の端っこ、巨樹繁る前庭の一角にある。高さは3m弱、全面が殆どボク石(溶岩)で覆われて
おり、表面に植生はほとんどない。溶岩以外にも、「○○貫目」と重量を刻んだ力石も富士山の礎石
として埋め込まれている。登山道はややカーブした、くの字型の一筋が頂上の祠に達しているのみで
登山過程での風景の展開を楽しむことは出来ない。またその登山道も注連縄が張られていて、祠に至
ることはできない。裏に回ると背面に大沢崩れを模したようなものも備わっており、中腹左には小御
嶽神社が祀られている。またこれは下鎌田村の下鎌田割菱八行講が大正5年に築いたものだ。講は現
在も続いており、7月1日の山開き、8月28日火祭り、毎月の月並みの祭りは真摯に取り組んでい
る。



都水道局西瑞江給水所

 1丁目26番にある。



瑞江第三中学校

 1丁目38番にある区立校。昭和47年瑞江第二中学校内に「江戸川区立瑞江第三中学校」として
開校。10学級。6月新校舎が落成して移転。PTA設立。プール完成。校章・校歌制定。11月1
5日開校落成記念式典。

 校歌「豊かに続く江戸川の」 作詞・中村忠恕  作曲・下山真理子
  1.豊かに続く江戸川の
    清き流れをその儘に
    未来に向い洋々と
    愛と知性を育て行く
    進む我等の瑞江三中
  2.真理の道を求めつつ
    理想の篝(かがり)いや高く
    希望に燃えて堂々と
    広き心を育て行く
    励む我等の瑞江三中
  3.友と勤しむ学び舎の
    教えの実り守りつ
    力漲る若人の
    強き体を育て行く
    築く我等の瑞江三中 

 同48年新設校環境整備375株植樹。開校記念日を5月1日と定める。同50年鉄筋コンクリー
ト造り校舎(第2期)竣工(普通教室6、特別教室1、視聴覚室1)。同52年創立5周年記念式典。
同56年創立10周年記念式典。同62年創立15周年記念式典。同63年学校図書館整備。平成4
年創立25周年記念式典。同11年プール全面改修。新館1階に熟年ふれあいセンター開館。同14
年開校30周年記念式典。



 2丁目は住居表示未実施なので、街区符号は暫定的。だから変わるよ。



碑(?)
 2丁目35番にある。



神社

 2丁目35番にある小祠。



法器山泉福寺

 2丁目36番にある浄土宗の寺。右は墓地だが墓地の前に大きな建物。本堂は白木がぴっかぴかの
新築だ。左奥に鉄筋コンクリート2階建ての庫裏がある。



地蔵堂

 2丁目40番にある小堂。

 ●観音庚申塔(昭和56年区有形文化財)



西方山報土院安養寺

 2丁目50番にある浄土宗の寺。永禄十年(1567)栄三大和尚の開山といわれる。本尊は阿弥
陀如来坐像。閻魔像(総高45cm)が安置されていて、江戸時代から「こんにゃく閻魔」と呼ばれ
て歯痛・眼病に利益ありとか。 境内は右も左も墓地、右手こに庫裏がある。

 
こんにゃく閻魔
 歯痛や眼病に悩む人々の信仰を集め、毎月16日に生こんにゃくを供えてお参りする風習があった
ことからその俗称がある。文京区の源覚寺もそう呼ばれてるよ。




【平井】(ひらい)1〜7丁目                   昭和47年11月1日
 中平井村・下平井村。明治22年平井村大字中平井・下平井。村の中央を荒川放水路が開鑿され
て廃村となり、残余の村域は奥戸村や小松川町に吸収された。昭和7年江戸川区の成立でかつての
中平井・下平井が平井1〜4丁目となり、同41年墨田区の吾嬬町8丁目・東墨田3丁目の各一部
を編入、同47年逆井1〜2丁目を加えて新住居表示を実施し、現行の「平井」として今日に至っ
ている。だから平井は「平井聖天」だ!
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『江戸川区史』など。

 
平井の由来
 平江。往古利根川の川口に当たり、高低差のない砂州だったのだろう。「ひらえ」が訛って「ひ
らい」となり「平井」字を当てた。「井」には水源・用水の意味があり、平坦な砂州に開けた村を
表したようだ。インドネシア語で「ひらえ」を解すると「ヒラ・ヘ」で、「無数の災難に見舞われ
た土地」ということらしい。理屈には合っている。「ヒラ・ヱ」だと「大量の水をかぶる土地」だ
という。地形発生的にはなくはない。



■神社
 1丁目1番にある小祠。



■小松川図書館
 1丁目11番にある。3階建て。1階は入ってすぐ児童コーナー、カウンターと続いて、一番奥が
一般の書架。2階は新聞・雑誌コーナー、CD・カセットコーナー、参考図書などの書架。3階は読
書室と視聴覚室になっている。



嘉桂山西光院成就寺
 1丁目24番にある天台宗の寺。嘉祥元年(848)慈覚大師により開創。正和三年(1314)
舜慶法印が中興。本尊は木造阿弥陀如来立像。参道の両側は墓地。本堂の右は保育園。左手に庫裏が
ある。保育園のため門は締め切ってある。



目黄不動 牛宝山明王院最勝寺
 1丁目25番にある。「五色不動」というのは江戸時代にはなく、明治13年に語呂合わせで拵え
たものだ。目黒・目白は馬に関わり、目赤は赤目四十八滝の赤目から持ってきた名前のなのでそれぞ
れ由来があるが、目青、目黄には謂れが無い。だから名乗る寺も幾つかある。将軍家光と天海僧正が
主要街道に定めたというなら、東海道・甲州道中・日光道中にないのが不思議だし、目青は元々は麻
布で街道沿いにはない。ところで「日本三不動」は、三井寺の「黄不動」、高野山明王院の「赤不動」、
青蓮院の「青不動」だが、残念ながら白不動・黒不動は含まれていない。
 中川沿いにあるこの寺は初め本所表町(墨田区東駒形)にあり、牛島神社の別当寺だったが大正2
年区画整理により現在地に移転した。本所の頃は三重の朱塗りの仁王門があって、俗に「赤門寺」と呼
ばれもしたが、現在は石柱門で、それぞれの前に守衛所のようなおざなりの仁王安置所がある。チョッ
ト変! 奇妙な雰囲気。功徳が少ないのかねえ。開創は貞観二年(860)慈覚大師円仁よるといい、
年代は不明だが良本阿闍梨が中興したという。本堂に本尊釈迦如来、不動堂に目黄不動と大日如来立
像が祀られている。不動像は奈良時代の良弁の作といわれるが、プロにいわせると年代は新しいもの
だという。墓地に悲運の俳人富田木歩と武術家徳三宝の墓がある。

 ●木造不動明王坐像
 (昭和56年区有形文化財)

 富田木歩
 
明治30年向島小梅町の竹屋の渡しと鰻屋を営む家の長男に生まれ
本名を一といった。家は裕福
だったが次第に傾き、明治40年、同43年の大洪水で終に破産した。一は幼い頃から歩行困難で、
小学校へも通えなかった。母は脳溢血で倒れ、4人の妹は苦界に身を沈め1人の弟は唖、己は肺を患
うという地獄の極に陥った。僅かの救いとなったのが俳句で、原石鼎に学び、臼田亜浪に師事し、木
歩と号して只管精進したが、あくまで不運の人で、大震災のとき逃れる術もなく向島枕橋の料理屋「八
尾松」近くの堤上で苦渋に満ちた26歳の生涯を閉じた。彼の作品の幾つか・・・

   犬猫と同じ姿や冬座敷
   夜寒さや吹けば居すくむ油虫
   我が尻に似てしなびたる糸瓜かな
   背負われて名月拝す垣の外


 
徳三宝
 明治20年鹿児島県徳之島生まれ。子供のころから容貌魁偉・志気豪邁、柔術・剣術に秀でた。東
京高等師範学校に学び、講道館柔道を修めた。鬼三宝と恐れられ、九段にまで昇って後進を指導する
こと40余年に及んだ。この剛の者も昭和20年3月10日の東京空襲の猛火には抗し得ず、59歳
で黄泉の国へ旅立った。



宝衆山大法寺

 1丁目25番にある日蓮宗の寺。大永二年(1522)日功上人により本所に創建。現在地に移転。
移転時期不明。境内は殆ど墓地。本堂の右に庫裏。



真光山明証院善通寺
 1丁目25番にある浄土真宗本願寺派の寺。開創は文安二年(1455)。左は庫裏、右と裏は墓
地。本堂は鉄筋コンクリート造りでインド式の築地本願寺を小振りにしたのような建築だ。



■小松川高等学校

 1丁目27番にある都立高校。大正5年4月南葛飾郡立実科高等女学校として創立。修業年限3年。
第1、2学年1学級ずつ募集。亀戸町第一亀戸小学校旧建物の1棟を仮校舎に充当。同8年4月南葛
飾郡役所内図書館を仮校舎に充て、同年小松川町に本校舎を新築し9月落成移転。同12年4月東京
府に上級移管し、府立小松川高等女学校と改称。修業年限4年7学級となる。昭和2年東京府立第七
高等女学校(府立七女)と改称。同18年都制施行により「都立第七高等女学校」と改称。同22年
4月都立第七高等女学校第二部ならびに併設中学校設置。同24年4月全日制男女共学開始。同25
年都立小松川高等学校と改称。同26年新しい校歌制定。

 校歌「荒川に」 作詞・森山謙一郎  作曲・石桁真礼夫
   荒川に広げし翼
   時計台は新しき代の雲をさせり
    
をとめわれ
    
沫雪の若やる胸たぎち
    
おのがじし光かざさむ
    
和らげる世をばまねかむ
    
男の子われ
    
新潮のうちうつ胸もえて
    
あらがねのつちにも生きん
    
わだつみの果も極めん
   友鶴の
   あい呼ぶ如く呼びさましつつ
   立ち出ずる明日をまばため
   ああ 小松川
   その名いま鳴る鐘の高打つなして
   あたらしき代の雲にひびかふ

 難しい歌で、歌い方は「静謐と溌剌と雄渾をもって」を心得て、女子生徒のみの場合は、
字部分
「男の子われ」から4行を省き、男子生徒ののみの場合は、
字部分「をとめわれ」から4行を省か
ねばならない。基本的には「混声四部合唱曲」なのだ。大変な校歌だ。
 同29年長野県北佐久郡蓼科山麓に蓼科寮を建設。同33年「小松川女子高生殺人事件」が起こる。
同42年4月学校群制度最初の入学。同57年2月学校群制度に代わり、学校グループ制を採用。合
同選抜実施。同62年現校舎・現体育館完成。平成5年コース制の一期生が入学。同15年類型制(普
通科)に一本化する。

 小松川女子高生殺人事件
 昭和33年8月20日朝、若い男が読売新聞に電話をかけてきた。「家出してる女、太田芳江を殺
した。死体は小松川高校の横穴にある・・・」 記者が半信半疑で太田宅を訪ねると、確かに芳江は
行方不明なっていた。記者は小松川署に通報、2日前に母親から捜索願が出されていた。芳江は中学
校の事務見習いをしており、小松川高校定時制の2年生で16歳だった。小松川高校の校庭で、中学
校の女性教師と話しているところを目撃されたのを最後に、その後の行方が判らず届けを出したとい
う。そこで警察は捜査員を高校に派遣して捜索したが、何も見つけられなかったので引き上げた。翌
21日の早朝今度は小松川署に電話があり、「屋上の穴だ」と告げた。警察が捜索すると、17日か
ら行方不明になっていた芳江の絞殺体が発見された。その後、犯人は被害者宅や警察署に芳江の遺品
であるクシや手鏡などを送りつけたり、電話を掛けたりして挑発的な行為を繰り返した。この事件が
テレビ、新聞で繰り返し記事になると犯人は更にエスカレートしていく。警察は一連の電話の声を編
集して15分のテープとし同月29日に「犯人の声として」NHKとラジオ東京(TBS)で流した
ところ有力な情報がもたらされた。事件発覚から10日後の9月1日、犯人が警察や新聞社に電話し
ている内容が小松川高校の内容に詳細であることなどから同校の生徒を集中的に捜査した。その結果
芳江のクラスメイト(定時制1年)で在日朝鮮人の金子鎮宇こと李珍宇(18歳)を逮捕した。取り
調べで芳江の殺害と4月に工場勤務の女性(23歳)の暴行殺害も認めた。李の自供によると「17
日の午後5時過ぎ小松川高校のプールで泳ごうと学校に行ったが誰も居なかったので、ブラブラしな
がら2度目に屋上に行った時、クラスメートの芳江が読書をしていた。李は、ポケットに入れていた
ナイフで芳江を脅かそうとしたところ大声を出されたため首を締めて殺した」と供述した。捜査本部
から係官8人が逮捕に乗り込んだ時、李は寝てた。「警察の者だ」と聞いても平然としていたが、突
然のことに茫然自失だったのだ。「ちょっと署まで同行を」というと、薄笑いをもらして悠々とズボ
ンを穿いたというが、李に泣き喚く余裕はなかった。
 犯行時18歳だったが少年法の適用外とされ、同36年8月17日に死刑が確定。李の貧しい生い
立ちが犯行を起こしたとして文化人らが減刑運動を展開したが、同37年11月死刑執行となった。
後の足立区のコンクリート殺人は残虐極まりないが、主犯でも無期懲役でしかも仮出獄でもう間もな
くシャバの銀シャリにありつける。人種の差か?



■白髭神社
 2丁目3番にある中社。逆井村当時の鎮守。猿田彦を祀る。境内に稲荷神社がある。



慈眼山正養寺

 2丁目5番にある真言宗豊山派の寺。横から入いる。正面は閉じられていて入れない。奇抜な様式
の山門だ。本堂と右の庫裏は鉄筋コンクリート打ちっ放しの2階建て。洋風とも和風とも言い切れな
いデザインで変わっている。



長福山清秀寺
 
 2丁目14番にある本門仏立宗の寺。入ると左手に多宝堂がある。正面本堂を含む建物は鉄筋コン
クリート2階建て。墓地はない。静かな雰囲気の落ち着いた寺だ。門は閉ざされてる。



■浅間神社・逆井の富士塚(昭和57年区有形文化財)
 3丁目1番にある白髭神社の摂社。この富士塚には20数基の富士信仰の石碑が建てられているが、
その中の1基で小講義が建てたものは、再築のため2000余の人足を要したことが記されている。
また明治15年6月1日桑川新田村結社の小御嶽神社の碑などを始め、

   風智の山見聞申言も唯一に国に光を

 と刻まれたものや、

   富士の山のぼりて見れば何もなし善きも悪しきも我が心なり

 と記された明治17年6月再築記念の碑などがならんでいる。現在のものは、昭和41年7月に改
修したもので、周囲48m、高さ12.5mコンクリートの腰巻が巻かれて土留めがなされ、塚の頂に
は浅間神社が祀られている。



■神社
 3丁目1番、柳島製薬内にある。



■都下水道局小松川ポンプ所
 3丁目1番にある。



■小松川第二中学校・夜間学級夜間中学校
 3丁目2番にある。昭和22年東京都立第七女子新制高等学校(小松川高校)内に開校。生徒数2
57名(女子のみ)。同25年5月逆井2丁目301番地(現在地)に新校舎完成。同25日移転。
昭和26通学区域決定し、第一学年より男女共学実施。校旗制定。同27年校地拡張。同28年増築
校舎(4教室)完成。同32年創立10周年記念式典・校歌制定。

 同34年体育館完成。同35年増築木造2階建て4教室(別館)完成。同37年第一期鉄筋コンク
リート造り校舎4階建て8教室落成。同41年第2グラウンドにプール完成。同42年創立20周年
記念式典。同44年第二期鉄筋コンクリート造り校舎4階建て8教室落成。給食室完成。同45第三
期鉄筋コンクリート造り校舎4階建て5普通教室・2特別教室・4管理室完成。同46年第四期鉄筋
コンクリート造り校舎4階建て普通教室・4特別教室完成。夜間学級設置。夜間学級に日本語学級開
設。同48年第五期鉄筋コンクリート造り校舎4階建て4特別教室完成。同52年創立30周年記念
式典。同55年夜間学級校舎鉄筋コンクリート造り3階建て9普通教室・図書室・管理室など4・小
体育館・体育館付帯施設改築。夜間学級施設完成・夜間学級10周年記念式典。同62年万年塀撤去。
外周生垣工事完了。創立40周年記念式典。同63年区のコンピュータ実験校に指定され、パソコン
ルーム完成。
 平成2年都市ガスによる暖房化完了。同3年プール改修。夜間学級20周年記念式典。同4年コン
ピュータ機器の入れ替え(NECから富土通へ)。給食室改修。平成5年給水管・電気設傭改修。同
6年校庭の一部改修。同8年耐震補強工事完了。開校50周年記念式典。同14年屋上全面改修工事、
屋上緑化工事完了。同16年外壁全面塗装工事完了。



■平井南小学校
 3丁目3番にある。
 [小松川尋常小学校]
 昭和8年小松川尋常高等小学校から分校。「小松川第四尋常小学校」として開校。同16年国民学
校令により「東京都東京市小松川第一国民学校」と改称。12月日米開戦。同18年都政施行により
「東京都小松川第一国民学校」と改称。同20年愚かなアメリカ軍の非人道的無差別空爆により校舎
全焼。8月日本は、ならず者国家アメリカの軍門に降り敗戦。以後その属国となり、唯々諾々といい
なりになる保守傀儡政権を保持せざるを得ない今日的不幸を背負い込む。同21年廃校。
 [平井南小学校]
 同28年小松川国民学校の跡地に「東京都江戸川区立平井南小学校」として開校。同29年校歌制
定。

 校歌「明るい光が」 作詞・荒井志乃  作曲・平井康三郎
  1.明るい光が中川の
    永久の流れを照らします
    変わらぬ誠を求めつつ
    みんな仲良く学びましょう
  2.楽しい光が丘に立つ
    平井南を照らします
    心も体も美しく
    みんな仲良く学びましょう
  3.床しい光が私等の
    遥か行く手を照らします
    世界の仲間と手を取って
    みんな仲良く進みましょう


 同31年プール開設。同41年第2期鉄筋校舎落成。同45年第3期鉄筋校舎落成。同46年第3
期鉄筋校舎落成。平成15年開校50周年記念式典。同18年防犯カメラ設置。 



■小松川第二中学校
 3丁目20番にある区立校。



■平井駅

 3丁目30番にあるJR総武線の停車場。明治32年4月28日総武鉄道本所(錦糸町駅)〜市川
間開通から5年後に追加開業したホームは高架島式1面2線構造。ホームと改札階を結ぶエレベー
ターは設置してある。改札口は1ヶ所のみで地上1階にある。出口は、北口と南口の2ヶ所。平井地
区と南隣の小松川地区は、江戸川区なのに荒川の西岸に位置し、まるで飛地のようになっている。荒
川放水路の開鑿が断ち割ったのだ。因みに小松川地区は、野菜のコマツナの発祥の地だ。
 明治になっていわれるようになった江戸五色不動の1つである目黄不動(最勝寺)は、駅の南東約
500mのところにある。他の目黒不動・目白不動・目青不動・目赤不動は1ヶ所づつしかないが、
何故か目黄不動だけは、ここの他に台東区、渋谷区にもある。江戸時代は3不動だったのに五色に揃
えて拵えたからだ。我も我もと名乗り出た。別に像の目が青かったり、赤かったりする訳じゃない。



■神社

 3丁目30番にある小祠。



■小松川小学校
 4丁目1番にある区立校。大正3年松川尋常高等小学校(前身は松川小学)と、平井尋常高等小学
校(前身は平井小学)の校舎を移転合併し「小松川尋常高等小学校」として創立。同12年関東大震
災で校舎破損。同15年小松川第二尋常小学校開校(小松川第二小)・小松川第三尋常小学校開校(平
井小)を分校。
 昭和3年校舎・講堂を改築(普通教室37、特別教室5、掛図実験室2)。校旗制定(時価150
円)。同7年周辺5郡が東京市に併合され「東京府東京市小松川第一尋常高等小学校」と名称変更。
同8年3200名を越すマンモス校となり、小松川第四尋常小学校(平井南小)を分校。同11年東
京府東京市小松川高等小学校新設に伴い、高等科を分離し、「東京府東京市小松川第一尋常小学校」
と改称。同15年小松川第五尋常小学校(平井東小)を分校。同16年国民学校令により「東京都東
京市小松川第一国民学校」と改称。12月日米開戦。同18年都政施行により「東京都小松川第一国
民学校」と改称。同20年愚かなアメリカ軍の非人道的無差別空爆により校舎全焼。8月日本は、な
らず者国家アメリカの軍門に降り敗戦。以後属国となり、唯々諾々といいなりになる保守傀儡政権を
保持せざるを得ない今日的不幸を背負い込む。
 同22年アメリカの強制による学制改革により「東京都江戸川区立小松川小学校」と名称変更。同
33年校歌制定。

 校歌「松の緑に」 作詞・石森延男  作曲・下総皖一
  1.松の緑に光あり
    強き身体を鍛えつつ
    日に新しき言の葉を
    共に正しき行為を
    ああ名も清し小松川
    我が学び舎に満ちる幸
  2.流れ明るき雲の影
    高き望みを抱きつつ
    自ら学び働きて
    常に生命を尊びて
    ああ名も清し小松川
    我が学び舎に満ちる幸


 同37年体育館完成。同40年創立50周年記念式典。同48年プール改築。同49年創立60周
年記念式典。同59年創立70周年記念式典。平成6年創立80周年記念式典。同16年創立90周
年記念式典。



■小松川第一中学校

 4丁目7番にある区立校。昭和22年小松川小学校内に開校。同23年現在地に木造平屋建て15
教室が落成して移転。同31年第2グラウンドに2階建て4教室竣工。開校10周年記念式典。同3
8年給食室開設。ミルク給食開始。同40年プール完成。同41年開校20周年記念式典。同43年
校舎改築鉄筋4階建て12教室竣工。完全給食開始。同51年開校30周年記念式典。同56年新校
舎落成。同61年開校40周年記念式典。平成9年開校50周年記念式典。同17年体育館耐震補強
工事完了。平成17年度江戸川区チャレンジ・ザ・ドリーム推進校指定。同19年開校60周年記念
式典。

 校歌「明るく青く」 作詞・サトウハチロー  作曲・渡邊浦人
  1.明るく青く晴れてる空に
    大きく指で文字を書く
    力を込めて
    おゝ小松川 おゝ小松川 我が母校
    自由を愛し正しく強く
    誠を胸に毎日励む
    おゝ小松川 輝く母校
  2.気高き富士の変わらぬ姿
    讃えて友と語る窓
    都の東
    おゝ小松川 おゝ小松川 我が母校
    自由を愛し正しく強く
    体を鍛え毎日励む
    おゝ小松川 輝く母校
  3.燕よ 雁よ 桜よ 菊よ
    真夏の雲も木枯らしも
    歌えよ高く
    おゝ小松川 おゝ小松川 我が母校
    自由を愛し正しく強く
    教えを守り毎日励む
    おゝ小松川 輝く母校




■道了寺

 4丁目13番、平井駅の直ぐ東側にある曹洞宗の寺。本堂、庫裏、道光殿と並んでいる。



■深妙寺

 4丁目17番にある日蓮宗の寺。正面に本堂がある。住宅兼用の建物は結構大きいが、寺風の建物
ではない。。



■平井東小学校

 4丁目28番にある区立校。昭和15年小松川第一尋常小学校より分離、「東京府東京市小松川第
五小学校」として創立。児童数1054名(男子組6学級・女子組6学級・共学組6学級)でスター
ト。同16年国民学校令により「東京都東京市小松川第五国民学校」と改称。12月日米開戦。同1
8年都政施行により「東京都小松川第五国民学校」と改称。同19年山形県湯野浜町・宮内町に学童
集団疎開。同20年8月日本は、ならず者国家アメリカの軍門に降り敗戦。以後属国となり、唯々諾々
といいなりになる保守傀儡政権を保持せざるを得ない今日的不幸を背負い込む。
 敗戦後教室不足のため二部授業。同22年3月失火により10教室焼失。4月アメリカの強制によ
る学制改革により「東京都江戸川区立平井東小学校」と改名。同24年焼失した10教室再建。同2
5年創立10周年記念式典・校歌制定。

 校歌「紫匂う武蔵野に」 作詞・小西とく能  作曲・大橋秀丸
  1.紫匂う武蔵野に
    流れも絶えぬ荒川の
    広く豊けき心持て
    身も健やかに育たなん
    ああ我ら平井東の
    平井東の学舎に
  2.文化の香り高らかに
    松の緑を身にしめて
    強く正しく美しく
    日頃弛まず勉めまし
    ああ我ら平井東の
    平井東の学舎に
  


 同27年木造校舎4教室増築。同28年平井南小学校を分校。児童310名が移籍して959名と
なり20学級編成。二部授業解消。プール新築。同35年創立20周年記念式典。同37年第一期鉄
筋校舎9教室竣工。同38年第二期鉄筋校舎9教室・管理室4室・給食調理室竣工。同39年第三期
鉄筋特別教室4室・準備室2室竣工。校庭舗装。第四期屋内運動場竣工。同40創立25周年記念式
典。同43年岩石園完成。同45年木造校舎への渡り廊下新設。同48年第五期鉄筋校舎(気泡コン
クリート使用)特別教室3室、保健室竣工。同54年創立40周年記念式典。平成2年創立50周年
記念式典。同12年創立60周年記念式典。



■小松川第三中学校
 5丁目3番にある区立校。同30年1丁目1622番地(現在地)に小松川第一中学校から分校、
新2年生117名が移籍し「小松川第三中学校」として開校。新校舎落成。新入生318名。平井映
画劇場で「砂漠は生きている」を鑑賞。葉山臨海教室実施。校外教授(遠足)1年生(鳩ノ巣・狭山
湖)・2年生(中津川渓谷)。同31年校舎増築。江東映画で「マナスルに立つ」を鑑賞。社会教授
1年生(三崎・油壺方面)・2年生(箱根・十国峠方面)・3年生(地方裁判所・最高裁判所)。区
中学校英語学芸会(小岩公会堂)・歌1位 劇2位 最高演技賞受賞。同32年リッツ劇場で「汚れ
なき悪戯」「ジャックと豆の木」を鑑賞。増築校舎竣工(図書館、放送室、校長室、事務室)。同3
3年校歌制定。

 校歌制定委員会を教職員、PTAで組織し、生徒・教職員・保護者を対象に歌詞を公募。当時の石
橋PTA副会長の作品が候補になり、そこで石橋も制定委員のメンバーに加えられ、同委員会が歌詞
を少し補作。これに音楽教諭谷口哲彦が数曲試作をした。最終的に教職員により検討され現在の校歌
が生まれた。一つの校歌のためにいかに多くの人々が関わり、校歌誕生のために尽くしたか、その意
気込みが大きな響きとなり、学校の誇り、地域の誇りとなって、現在、本校の伝統となっている。校
歌を歌う時、歌詞の意味は勿論、歌詞が作られた当時の人々の心意気を感じることが生徒に望まれて
いる。

 校歌「真澄の空に」 作詞・校歌制定委員会  作曲・谷口哲彦音楽教諭
  1.真澄の空に靡く校旗(はた)
    明るい頬に仰ぐ時
    今日も希望の胸が鳴る
    朝に夕べ 窓や校庭
    友よ手を取り励もうよ
  2.朝日に映える荒川の
    文化の流れに棹さして
    理想の彼方一筋に
    勉めて止まぬ若人の
    行方に幸福の潮近し
     おお吾らが母校
     小松川三中


 同34年新校舎落成。同38年粉ミルク給食開始。同39年体育館完成。オリンピック東京大会開
会式見学。同40年創立10周年記念式典。同41年プール完成。同44年牛乳給食開始。同45年
給食室完成。完全給食実施。同46年3年生錦糸町名画座で「チコと鮫」鑑賞。同47年3年生錦糸
町にて「百万人の大合唱」鑑賞。同48年3年生錦糸町で「新フラバー」鑑賞。同49年第四期鉄筋
コンクリート造り校舎落成。同50年創立20周年記念式典。同51年音楽室を視聴覚室に転換。同
60年プール・体育館新築完成。同61年創立30周年記念式典。平成7年創立40周年記念式典。
同11年男子バレーボール全国優勝・記念碑建立。



■平井第二小学校

 6丁目1番にある区立校。昭和52年9月1日「東京都江戸川区立平井第二小学校」として開校。
児童数220名でスタートした。同53年校歌制定。

 校歌「緑明るい学舎に」 作詞・藤間哲郎  作曲・伊藤翁助
  1.緑明るい学舎に
    一人一人が今育つ
    清く優しく美しく
    ああ中川の水のように
    友と通わす心豊かに
    平井第二 平井第二 平井第二小学校
  2.暑さ寒さに負けないで
    智慧と力が今伸びる
    強く正しく逞しく
    ああ若鳩の羽のように
    友と飛び立つ夢を明日に
    平井第二 平井第二 平井第二小学校


 同62年校庭の遊歩道、学校の森完成。開校10周年記念式典。平成9年開校20周年記念式典。
  



■神社

 6丁目3番、光洋紙器内にある小祠。



■妙光寺
 6丁目12番にある日蓮宗の寺。慶長三年(1598)の創建。山門を入ると左手に庫裏、右と本
堂の裏は墓地。本堂は鉄骨の基礎の上に載せてあるぞ。



平井聖天 明雅山明王院證明寺
 
6丁目17番にある新義真言宗の寺。開山は元暁法印といわれてるが開山の年代とともにハッキ
リしない。江戸中期には「ぽっこれ聖天」といわれるほど衰退していた。この荒れ寺を中興したのは
恵祐法印で、再建に力を注いでいた時飛び込んできたのが白鷹で、8代将軍吉宗の愛鷹だった。その
鷹を無事受け取った縁で、恵祐は200石朱印地を与えられ、寺が再興できたのだ。そこで別名を「白
鷹の聖天」と呼ぶ。
 本尊の不動明王は、三木宗策の作といわれ、高さ一丈三尺(約4m)。胎内に弘法大師一刀三礼の
不動明王を安置しているらしい? 秘仏とやらで非公開だ。古くから関東三聖天と呼ばれ、埼玉県の
妻沼(めぬま)聖天・浅草の待乳山(まっちやま)聖天と並び称される、墨東屈指の名刹として多く
の人々の信仰を集めたという。江戸時代は将軍の御膳所になっており、鷹狩の際にはここに参詣して
休憩していた。歌舞伎役者中村仲蔵の出世、相馬大作の仇討の成就も叶えている。
 いっとくが聖天は「しょうでん」だからね。
 現在の金堂は、旧本堂が大正12年の関東大震災で倒壊したため、澄道大僧正の発願により再建さ
れた。昭和4年に起工して同49年完成。平等院や法隆寺の特色を取り入れた重層式で前面は三ッ屋
根作り。内部も奥の院は飛鳥朝風、内陣は鎌倉風と、凝った作り方をしている。内部中央のシャンデ
リアは、鹿鳴館の中央広間にかけられていたものだそうだ。震災後の建築で取り留めていうこともな
いが、土手側から見ると、天守閣の変形のようだ。初めは新興宗教だと思ったよ。現世利益を追求す
る参詣者には似合っている。一階の前柱はエンタシスだぞ。聖天堂は昭和36年の改築だがこちらの
方は格調が高い。金色堂左の茶室は、『野麦の墓』の伊藤左千夫の設計で「夢想庵」と呼ばれる。

 
●サクラの名所
 境内にソメイヨシノが10本ある。天守閣のような本堂は桜の花に囲まれて春は実に見事な景観が
展開される。全くの絶景だよ。



■平井諏訪神社
 6丁目17番、平井聖天の南側にある。現在の社殿は昭和44年に再建されたものだが、この社殿
の背後に天保十四年(1843)に再建された一世代前の旧本殿(区有形文化財)が現存している。
また、その旧本殿に隣接して、区の保存樹に指定されたイチョウの大木がある。

 ●平井の富士塚
 昭和60年の区教委の説明板に、大正9年ごろ下平井村の「丸星講」の人々によって造られたとあ
る。しかし同62年のには「丸富講」に変わっている。登山道が2つあり、一つは頂上の石祠に、1
つは小御嶽神社の石祠に通じている。頂上の石祠には大正9年の造立銘があり、小御嶽神社の石祠の
前には、丸富の講紋と「小御嶽神社」の文字が刻まれた石碑がある。塚の高さは1.5m で面積に対
して低く感じられる。



■平井小学校
 6丁目35番にある区立校。大正15年9月1日小松川第一尋常小学校から分校して「小松川第三
尋常小学校」として開校。
 昭和7年周辺5郡が東京市に編入され、「東京府東京市小松川第三尋常小学校」と改称。同16年
国民学校令により「東京都東京市小松川第三国民学校」と改称。12月日米開戦。同18年都政施行
により「東京都小松川第三国民学校」と改称。同20年3月愚かなアメリカ軍の非人道的無差別空爆
により校舎全焼。8月日本は、ならず者国家アメリカの軍門に降り敗戦。以後属国となり、唯々諾々
といいなりになる保守傀儡政権を保持せざるを得ない今日的不幸を背負い込む。
 同22年アメリカの強制による学制改革により「東京都江戸川区立平井小学校」と改称。同23年
木造平屋建15教室ほか落成。同25年旧小松川第六小跡に分校開設。同27年分校を平井西小学校
として独立。同28年平井南小学校を分校。同30年2階建10教室と管理室落成。同35年体育館
完成。同42年〜47鉄筋コンクリート造り校舎第1期〜3期工事落成。同48年プール改築。同5
1年開校50周年記念式典。同52年平井第二小学校を分校。同56年体育館改修。同61年開校6
0周年記念式典。
 平成元年体育館建替え。同8年開校70周年記念式典。同18年開校80周年記念式典。

 校歌「碧の空に」 作詞・田口初一  作曲・鈴木正義
  1.碧の空に清清と
    響く明日の鐘の声
    昇る朝日に羽染めて
    飛ぶや平和の鳩の群
    文化を担う平井校
  2.都の東 荒川の
    清き流れの片辺(かたほとり)
    聳えて建てる学び舎は
    愛と希望の集いなる
    誇りに仰ぐ平井校
  3.学びの庭に弛み無く
    伸びる双葉の露の玉
    光望みて友どちと
    手取り睦びつ勤しまん
    永久に栄えあれ平井校
       



清滝山安全院安養寺
 6丁目53番にある真言宗豊山派。開山は源理法印、本尊は阿弥陀如来立像。併設の保育園が境内
を占領していて賑やか。入口の左に弁天堂、鐘楼。正面に山門。本堂は鉄筋コンクリートの台屋の上
に建てられている。本堂の左は庫裏、右は墓地。さらに離れて平井6丁目51番にも墓地がある。



■神社
 6丁目63番にある小祠。



■神社
 6丁目64番にある小祠。



■第二豊運教会

 6丁目75番にある法華宗(本門流)の寺(?)。民家の表札には表示があるのみ。その他のこと
は不詳。活動してるのかしてないのか・・・



■荒木稲荷神社
 7丁目11番にある小祠。



■平井西小学校
 7丁目22番にある区立校。
 [小松川第六国民学校]
 昭和16年9月「東京府東京市小松川第六国民学校」として開校。12月日米開戦。同18年都政
施行により「東京都小松川第六国民学校」と改称。同20年愚かなアメリカ軍の非人道的無差別空爆
により校舎全焼。8月日本は、ならず者国家アメリカの軍門に降り敗戦。以後属国となり、唯々諾々
といいなりになる保守傀儡政権を保持せざるを得ない今日的不幸を背負い込む。同21年3月廃校。
 「平井西小学校」
 昭和25年小松川第六国民学校の跡地に「平井小学校分校」として復活。同27年独立して「東京
都江戸川区立平井西小学校」として再開校。同30年11月1日校旗・校歌制定。この日を開校記念
日とす。
 校歌の歌詞は資料が手に入りません。誰か教えてくれぇ!



■天祖神社
 7丁目28番にある。江戸時代末期の茅葺の本殿は、三間社流れ造りで外壁には彫刻が施されてい
る。二本の鳥居には珍しい銅製の注連縄が飾られているぞ。



■平井の渡し跡

 下平井村(江戸川区)と葛西川村(墨田区)の間を渡る地点にあり、明治32年に平井橋が架けら
れるまで利用されていた。現在の橋は昭和55年に架け替えたもので、渡しはそのやや西側の辺りだっ
た。



■平井梅屋敷跡
 7丁目34番の辺りにあった。江戸時代から昭和10年代まで7丁目の荒川縁の木下川水門付近か
ら下木下川村(しもきねがわむら)にかけて梅屋敷があり、約300株の梅樹が植えられていた。敷
地は1町1反(11000u)余りあって、大きな藁葺きの二階建ての建物が2棟と、長屋や煉瓦造
りの建物などがあった。江戸時代は徳川家の所有で、木下川村の名主村越家が留守居役として取り仕
切っていた。安永から天明の頃から梅見行楽の名称地になった。
 大正12年荒川放水路の開鑿のため河川敷にかかり、旧墨田区東墨田8丁目64番地と旧中川の南
側平井の地に3反歩ばかりが残り、この地が昭和42年江戸川区に編入された。




【船堀】(ふなぼり)1〜7丁目                   昭和42年2月1日
 船堀新田→船堀村。幕末に東船堀村・西船堀村に分かれ、明治22年合併して船堀村大字東船堀
となったが、大正3年荒川放水路の開鑿のため船堀村が廃村となり東船堀と西船堀(放水路以東)
は松江村に、西船堀の放水路西側は小松川町に編入された。同15年松江町大字東船堀・西船堀、
昭和7年江戸川区東船堀町・西船堀町。同42年東船堀町・西船橋町の各大部分に二之江町の極一
部を加えて現行の「船堀」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『江戸川区史』など。

 船堀の由来
 船堀新田は新川(船堀川)に沿って開かれた新田。船堀とは舟入堀のことで、舟で往来できるキャ
パシティーのある川の意だ。新川は旧江戸川と旧中川の間に古川→長島川を断ち切って掘った人工
河川。新川橋以西も低湿地だ。古川は新川に対するもの。現在は親水公園。長島川は埋められ道路
になってしまった。だから船堀は新川そのものだ!



■稲荷神社
 1丁目1番にある小祠。



光照山影尊院法然寺

 2丁目10番にある浄土宗の寺。京都知恩院末。元和二年(1616)一蓮社専誉了運上人の開山
で、恵心僧都がという山越の来迎阿弥陀如来画像を本尊としている。文久三年(1863)住職が筆
道の家塾を開いて平船学校を開設した。船堀小学校の前身である。



■船堀小学校
 2丁目22番にある区立校。明治16年船堀村立平船・船穏小学校両校併立。同21年2校併合。
「公立船堀小学校」と改称。大正3年「東京府南葛飾郡松江村立第一松江尋常小学校」と改称。同1
3年創立50周年記念式典。同16年国民学校令により「東京都東京市第一松江国民学校」と改称。
12月日米開戦。同18年都政施行により「東京都第一松江国民学校」と改称。同19年3次に亘る
学童集団疎開。同20年8月日本は、ならず者国家アメリカの軍門に降り敗戦。以後属国となり、唯々
諾々といいなりになる保守傀儡政権を保持せざるを得ない今日的不幸を背負い込む。もう200兆円
以上持っていかれちゃったよ。
 同22年アメリカの強制による学制改革により、「東京都江戸川区立第一松江小学校」と改称。同
29年「東京都江戸川区立船堀小学校」と改称。同33年創立70周年記念式典。同38年鉄筋コン
クリート造り校舎落成。同43年創立80周年記念式典。同44年船堀第二小学校を分校。同46年
第五葛西小学校を分校。同53年創立90周年記念式典。同58年宇喜田小学校を分校。同59年図
工室・家庭科室増設。校舎内外装大改修。同60年給食室改修。同62年新築山造成。プール完成。
西側万年塀生垣化。創立100周年記念式典。平成2年音楽室防音工事。同7年校舎耐震補強工事。
同10周年パソコンルーム完成。同11年パソコンLANシステム完成。同12年インターネット接
続。同16年家庭科室改修。

 校歌「大東京の」 作詞・松坂忠則  作曲・渡辺浦人
  1.大東京の朝の光を
    先駆けて身に浴びながら
    健やかに育つ我ら
  2.日毎日毎の学びの道を
    荒川の流れのように
    弛みなく進む我ら
  3.蓮(はちす)の花を胸に咲かせて
    爽やかに香りも高く
    次の代を飾る我ら
     船堀 船堀 我らが母校
     輝く我らの船堀小学校




■船堀駅
 3丁目6番にある都営地下鉄新宿線の停車場。昭和58年12年23日の新宿線東大島〜船堀間延
伸と同時に開業した。同61年9月14日に篠崎まで延伸し中間駅となった。
 ホームは高架相対式2面2線構造で2階にある。ホームと改札階を結ぶエレベーターは設置済み。
改札口は1ヶ所のみで1階にある。出口は、南口と北口の2ヶ所。

 金魚養殖
 船堀は、かつて金魚の養殖が盛んだった街だ。今では養殖業者も3軒まで減ってしまったがそれで
も船堀で養殖される金魚は高い評価を得ている。金魚の街であることをアピールするように、駅舎に
は大きな金魚の壁画が描かれている。南口と北口では、絵が違うよ。



■タワーホール船橋
 4丁目1番、船堀街道に面し都営新宿線船堀駅の直ぐ北側にある、イベント会場・コンサート会場
・会議室・和室・展示場・映画館・結婚式場・展望台まで揃った区の文化施設の一つ。

 展望タワー
 無料。高さ115mの展望室からは、都内全域が一望できる360°の大パノラマが楽しめるよ。
富士山・筑波山・赤城山・秩父・東京タワー・新宿超高層ビル群・池袋サンシャイン・房総半島など
など。

 ブライダルサロン
 マツヤサロンがプロデュースする結婚式場。ガーデンに隣接する明るいチャペルで、映画のワンシ
ーンのような爽やかなウェディングが叶えられるよ。シェフと直接相談して決められるオリジナル
料理メニュー≠ヘ、食通のゲストにも評判となること間違いない。神前式場もあり、フォトスタジオ
・更衣室・クローク・親族控室と、ウェディングに必要な施設は全て整っている。ブライダルフェス
タを毎月開催しているので、覘いてみな。

 サロン・ド・サロン
 展望レストラン。年中無休。11時〜21時。

 イベントホール(太陽の間)

 大規模なレセプション・シンポジウム・結婚披露宴などにお使いな。独立した4部屋(瑞雲・平安
・福寿・桃源)としての利用も可能。詳細は[03‐5676‐2111]へ。

 大ホール
 音楽・演劇・講演の公開などにお使いな。座席数750席の中規模ホール。 舞台間口は13.8m
×奥行15.2m×高さ90m。悪くはないよ。

 小ホール
 ささやかな発表会・音楽・演劇・講演の公開などのために。座席数最大300席。座席数は舞台の
レイアウトによって変えられる。舞台・座席は可動式だ。

 バンケットルーム(蓬莱の間)
 パーティーや結婚披露宴・研修会・会議などめにお使いな。瑞雲・平安・福寿・桃源・蓬莱につい
ては、[03‐5676‐2111]に聞いてくんなまし。

 展示ホール
 書道・絵画などアート系の展示や商品展示などにお使いな。広さ780u×天井高4m。2分割利
用可。床耐荷重1t/u

 貸し会議室
 3・4階フロアーには定員12〜84名まで大小17室の会議室があり、目的・人数に応じて使い
分けできる。会議のほか研修や発表会など多目的利用が可能だ。和室もある。


 店舗・サービス
 キャラバン・コーヒー、JTBトラベランド(日本交通公社)、モバイルショップ船堀店、上野精
養軒船堀店(洋食)、つきじ植むら旬泉坊船堀店(和食)、フローリスト花銀、くまざわ書店船堀店、
島村楽器ミュージックサロン船堀店、

 映画館「船堀シネパル1・2」
 前後幅が広く、カップホルダー付の椅子は座り心地満点。小さな子にはチャイルドシートを用意し
てあり、客席の傾斜を大きめにしてあるため、前の人の頭が気になることもない。デジタル音響シス
テムを導入し、臨場感溢れる音と映像を楽しむことができるよ。

 ATM
 地下1階に、郵便局・みずほ銀行・朝日信用金庫の現金自動受払機がある。

 駐車場
 駐車場は地下1階に74台、地下2階に87台。車椅子など広い空間が必要な人のための駐車スペ
ースも確保してある。高さ制限は2.6m。



■船堀第二小学校

 4丁目14番にある区立校。昭和44年船堀小学校から分校し、「東京都江戸川区立船堀第二小学
校」として開校。同45年校歌制定。

 校歌「富士は遥かに」 作詞・島寛 補作・勝承夫  作曲・小出浩平
  1.富士は遥かに気高く清く
    流れの畔 鷺も飛び立つ
    我らの町は和やかに
    船堀第二 楽しい母校
  2.進む時代の先駆け作る
    槌打つ音も日日に逞し
    自立の英気 満ち渡る
    船堀第二 張り切る我ら
  3.海の空から春風吹けば
    花暖かに夢は膨らむ
    希望の光 降る処
    船堀第二 伸び行く力


 以降の沿革不詳。



日枝神社
 6丁目7番にある。船堀村東組鎮守・村社。

 
乾海苔創業記念碑

 明治30年に建てたもので、高さ1.46m、幅1.30cm、厚さ18cm。船堀村の乾海苔創業の由
来と功労者の名前が刻まれている。神社は、慶長十九年(1614)船堀新田開発と同時に守護神と
して山王権現を祀ったのが始まりだそうで、船堀村東組の鎮守。別当寺は隣の光明院だった。

 
船堀の富士塚(昭和57年区有形文化財)
 明治25年に船堀村の登山講によって築山された。塚は、高さに比べて面積が広く、椀状に盛土さ
れた塚容は、他の富士塚とは違った印象を受ける。登山道はくの字形に造られ、頂上に浅間神社を祀
り、五合目には小御嶽神社の碑を建て、富士塚としての要件は総て備えている。登山道の上り口に登
山講の碑が建てられているが、登山講は明治時代に消滅した。



稲香山光明寺
 6丁目8番にある真言宗豊山派の寺。慶長十九年(1614)覚仙上人により開山。本尊は不動明
王。眼病にご利益ありとか。本堂は昭和49年の再建。境内は左右とも墓地。参道の右に大師堂、左
は庫裏。



幸雲山道観院法龍寺

 6丁目9番にある浄土宗の寺。本尊阿弥陀如来。慶長の頃(1596〜1615)に幸雲社雲誉道
観法龍上人が開山。三世深誉上人の時、東小松川の源法寺末寺。山門を入ると左手に墓地、参道を突
き当たった右に階段があり鉄筋コンクリートの2階が本堂になっている。この建物が参道に沿って繋
がり庫裏になっている。参道の正面は寺経営の月映保育園。賑やかな黄色い声が轟き渡る。表通りに
面しては月映会堂があり、催場となっている。境内に「食用蛙供養塔」のほか北辰一刀流の剣術家北
島桃源の墓、東船堀村に「大岡学校」という私立小学校を開いた大岡有喜の碑がある。

 食用蛙供養塔
 門前にある。食用蛙は昭和になってから区内に生息するようになり、池や沼、蓮田、水田などで繁
殖を続け、大変に美味だったことから外国にも輸出された。日本の食用蛙といえばウシガエルのこと
で、体長18センチほどになる大型のカエルだ。ブォー、ブォーと牛とは違うがまあ似たような声で
鳴いて、道行く人を驚かせもした。日本には大正7年に、東京帝国大学教授、動物学者の渡瀬庄三郎
が食用として米国ルイジアナ州ニューオーリンズから十数匹を導入し、それが全国に広がって野生化
・定着した。またアメリカザリガニはウシガエルの養殖用の餌として輸入されたものだ。ウシガエル
は輸入されたカエルなので、それまでウシガエルの鳴き声を聞いたことがなかった人は、その声を聞
いて、妖怪変化だと思ったそうな。大村清友著『食用蛙』には「砂村のお化け騒ぎ」と題して「砂町
本砂の元浅野候の長州池に毎暁怪しいうなり声がするとて、おばけのうわさが立ち大騒ぎだったが、
おばけの正体について砂町では二十五日正午頃から在郷軍人、青年団を集めて池狩りをした結果、同
日午後五時頃1尺(30.3cm)位の食用蛙を発見して捕獲した」とある。私は蛙鳴の中で育ったの
で、驚くことはなかったし、子供たちは声を聞いたら一斉に襲い掛かったものだ。蛇や蛙が玩具だっ
たんだから古い話だねぇ。おお恥ずかし!
 昭和25年には年間20tも収穫されたが、乱獲が祟って激減。供養塔は昭和27年に東京都食用
蛙組合が建立した。なぜ法龍寺なのか判らないが、供養塔を建てた当時の船堀周辺は水田が多く、カ
エルの宝庫だったことによるらしい。付近にはカエルの捕獲を生業としてた人が40人はいたんじゃ
ないかということだ。蛙マニア、蛙好きな人は、お参りしたほうがいい。和尚さんの蛙グッズコレク
ションが、並大抵の量じゃない。

   区の説明板
   
史跡
   法竜寺
   浄土宗で幸雲山道観院と号し、徳川家康江戸入府に当り京都智恩院より遣わされた雲誉
   道観上人によって、慶長年間(一五九六−一六一四)に開山された。本尊は阿弥陀如来
   像である。
   参道には明治初年私立大岡学校を設立した大岡勇喜先生の碑があり、墓地には北辰一刀
   流の剣士といわれる北島桃源の墓がある。
   食用蛙供養塔本寺山門前にある。食用蛙は昭和の初め頃から区内に生息するようになり、
   池沼や蓮田、水田などが多かったので自然に繁殖を続け、輸出する程に至った。当時は
   都条例で捕獲は許可制となっていたが、終戦後はこれを捕え加工業者に渡して生計を保
   つものも現れた。
   この供養塔は、東京都食用蛙組合によって、昭和二十七年に建立された珍しいものであ
   る。
   昭和五十二年十一月                     江戸川区教育委員会



■安養寺

 6丁目53番にある。

 ●安養寺の富士塚
 明治17年ごろ、境内の弁天池を拡張する時に出た上げ土をみり上げて造ったと伝わっている。昭
和35年ごろまで、7月1日の山開きに白装束の富士講中人々が、参拝していた。高さ5mの頂上に
ある浅間神社の石祠に、「□□十三年庚寅六月吉日 氏子中」と刻まれているもので、文政十三年の
建立と推定される。頂上手前の鐘撞き堂は元は山の脇あったが、昭和42年に現在地に移築した。同
60年に塚の一部を改造して弘法大師の石像を納めている。



■八幡神社・稲荷神社
 7丁7番にある小祠。




【本一色】(ほんいっしき)1〜3丁                 昭和61年5月1日
 本一色村。明治22年鹿本村大字本一色、昭和7年江戸川区本一色町。同61年本一色町に興宮
町の一部をあわせた町域を現行の「本一色」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『江戸川区史』など。

 
本一色の由来
 角川地名大辞典には「もといっしき」と書いてあるが、区は「もと」ではなく「ほん」だという。
小松川境川親水公園に残る本一色橋の親柱にも「ほんいっしきはし」と仮名書きしてある。町名の
由来は上一色と同じで不明。中世の免税田である「一色田」によるものか? としてもなぜ免税地
とされたのか記録はない。大田区の千束は千束免だという説もある。この場合は土地が痩せている
と認められた。ここもそうなのか?



■本一色天祖神社
 1丁目11番にある。



■本一色小学校
 2丁目10番にある区立校。昭和43年小岩第二小学校・鹿本小学校から分校し、「東京江戸川区
立本一色小学校」として開校。プール完成。同44年体育館完成。校歌制定。

 校歌「青く澄みゆく」 作詞・鈴木實  作曲・今井敏美
  1.青く澄みゆく大空に 
    高く聳える学舎は
    明るく強く育ちつつ
    正しき心を育めと
    僕に私に呼びかける
    ああ本一色 我らの母校
  2.緑床しき田園に
    広く広がる学舎は
    丈夫な体に鍛えつつ
    豊かな知識を備えよと
    僕に私に呼びかける
    ああ本一色 我らの母校
  3.清く流れる江戸川の
    歴史に映ゆる学舎は
    明日の日本を担いつつ
    世界の平和に尽くせよと
    僕に私に呼びかける
    ああ本一色 我らの母校
 

 10月11日を開校記念日と定める。同48年上一色小学校を分校。同49年放送室新設。同55
年ミニアスレチック設置。同59年3月「あすなろ広場」1次完成。7月ランチルーム設置。10月
「あすなろ広場」2次完成。同61年「あすなろ広場」3次完成。同62年本一色音頭完成。小鳥小
屋新設。平成4年飼育小屋完成。同10年校庭全面改修。 



■小岩養護学校
 2丁目16番にある知的障害児童のための都立校。昭和47年東京都立学校設置条例の一部を改正
する条例により設置。同48年江戸川養護学校内に開設事務所を置く。江戸川養護学校内で開校。小
学部のみ4学級設置。同49年葛飾・江東両分校設置。現在地の新校舎へ移転。同50年スクールバ
ス運行開始。同52年葛飾分校廃校(水元養護学校として独立)。同53年江東分校廃校(江東養護
学校として独立)。同54年訪問学級発足(市川市社会福祉法人八幡学園児童生徒対象)。同55年
校旗制定。同58年校歌制定。
 同59年訪問学級廃級。同60年白鷺養護学校開設準備室設置。同61年中学部廃部(新設の白鷺
養護学校へ移管し、小学部単独校となる)。8月グラウンド購入。
 平成2年プール完成。同4年農地購入。同7年大規模改修のため仮校舎に移転。同8年改修工事完
了し帰校。同15年体育館舞台降下工事終了。



■江戸川養護学校

 2丁目24番にある知的障害児童のための都立校。昭和36年開校。小学部9学級・中学部4学級
でスタート。第一回入学式を葛飾区下千葉町870番地の旧農産高等学校校舎で行う。11月江戸川
区本一色町668番地(現在地)に竣工の新校舎に移転。同37年第二期工事竣工。寄宿舎竣工。同
38年第三期工事竣工。高等部開設。同44年プール完成。同48年新型改造スクールバス2台配車。
同49年小岩養護学校を分校。同50年体育館改修工事。同54年建替え工事新校舎落成。同56年
創立20周年記念式典。平成4年創立30周年記念式典。同13年機械警備開始。創立40周年記念
式典。 



■小岩高等学校
 3丁目10番にある都立校。昭和36年12月「東京都立小岩高等学校」を江戸川区本一色町32
7番地に設置決定。同37年2月造成工事着手。6月第一期校舎建設着手。開設事務所を江戸川高校
内に設置。12月第1学年生徒募集。定員全日制普通科男女各225名、計450名9学級編成。定
時制・男女を問わず普通科、商業科各50名2学級編成。同38年3月1日全日制入学者選抜学力検
査を江戸川区松江第三中学校において実施。3月25日開設事務所を完成間近い新校舎に移転。3月
31日第一期工事完了。校地造成、鉄筋コンクリート造り3階建て校舎竣工。これにより普通教室7、
社会科教室・準備室、音楽室・準備室、視聴覚教室・準備室、図書室、司書室、保健室、校長室、応
接室、事務室、同書庫、職員室、会議室、更衣室、用務員室、警備員室、変電室、廊下、玄関その他
が完成。都立江戸川高等学校小岩分校廃止により、その全生徒2年以上226名を校定時制課程に転
入。4月1日引き続き二期工事に着手。PTA結成。4月5日校章・校旗・制服・本校教育の目標・
教育方針・校内諸規則を制定し運営組織編成完了。4月10日入学式、開校式、第一期工事落成式お
よび記念祝賀会を挙行。全日制男女236名、計472名入学許可(※足し算すると10名合わない)。
定時制第1学年普通科、商業科各55名、計110名入学許可。11月第二期工事完了。鉄筋コンク
リート造り3階建て校舎(普通教室17、特別教室(生物、物理、化学)、同準備室)竣工。引き続
き第三期工事実施。12月創立周年記念式典・二期工事落成式・校歌制定。

 校歌「白鷺の群れ」 作詞・村田邦夫  作曲・鈴木欽作
  1.白鷺の群れ乗せて吹く
    風に潮(うしお)の香を嗅げば
    若き知性を支え立つ
    五対触るゝ力あり
    嗚呼不滅の真理
    常に我を正す
  2.紫の旗 進む時
    湧くよ勝鬨(かちどき)諸共に
    剛(つよ)く厳しい競い合う
    心の炎 燃ゆる見よ
    嗚呼不撓の気魄
    常に我を清む
  3.懐かしき名に河は逝き
    富士も筑波も靄籠(もやご)もる
    大地遥けき果ての空
    今日も未来の幸に映ゆ
    嗚呼久遠の生命
    告げや 小岩高校


 同39年校庭照明施設竣工。校門、ブロック塀、舗装、自転車置場2棟、倉庫2棟竣工。同40年
環境整備工事竣工。校庭表面処理。ブロック塀裏門新設。第3期工事完了。鉄筋コンクリート造り校
舎(普通教室3、特別教室(美術、家庭、給食)、同各準備室、生徒会室2)竣工。同41年第四期
工事完了・体育館完成。同42年後援会(卒業生の父母の会)結成。学校群制度発足。本校は江戸川
高等学校と第64群を編成)。同43年第5期工事着手。地盤沈下による危険3教室を取り壊し、新
たに3教室を北側に建設。同44年第五期工事(普通教室3・ホール3・教材室1・渡り廊下)完了。
引き続き六期工事着手。同六期工事・プール完成。第7期工事・食堂建設工事着工。同45年定時制
食堂・部活用部室竣工。同49年緑化事業に伴う植栽(高木類67本・低木類322本)・校庭芝生
植付完了。同56年9月新校舎に改築工事唆工。10鉄筋コンクリート造り校舎4階建(体育館を含
む)延14170uに移転。旧校舎など解体、その他工事着工。同57年創立20周年・落成記念式
典。
 平成4年創立30周年記念式典。同11年耐震補強工事。同14年創立40周年記念式典。



紫雲山光照寺
 3丁目16番にある真言宗豊山派の寺。本堂は大きくて立派。左の庫裏がまた是立派。庭の手入れ
もよく、整理清掃が行き届いてい る。右は墓所。清々しい良い寺だ。 



■上一色南小学校

 3丁目28番にある区立校。同48年本一色・下小岩第二両校から分校、「東京都江戸川区立上一
色南小学校」として開校。735名20学級でスタート。同49年校歌制定。

 校歌「広いな 高いな 明るいな」 作詞・勝承夫  作曲・小出浩平

 
30年前の開校当時、学校の周りは「蓮田」で、白鷺が飛びかうどかな田園風景に満たされていた。
歌詞の中の『若鳥小鳥』は、白鷺に因んで特に当時を物語っている。曲はリズミカルで、行進曲にも
使用でき、上一色南小学校のみんなが、何時でも何処でも親しみをこめて歌えるような曲になってい
る。この校歌を作るに当たって、作詞の勝承夫・作曲の小出浩平が実際に、学校を訪れ、学校の周り
やこの地域をいろいろと歩いて待ったとか。勝は、この地域の自然・文化・伝統を生かし上一色南小
学校の限りない発展と、心豊かな子供になるようにとの願いを込めて、詞を考えたてくれた。
  1.広いな 高いな 明るいな
    空を仰げば 希望が燃える
    上一色南校
    心豊かに和やかに
    我らは元気な若鳥小鳥
  2.強いぞ 負けぬぞ やり抜くぞ
    自主の校風 みんなで守る
    上一色南校
    何時も仲良く決まりよく
    愉快に頑張る楽しい我ら
  3.光るよ 戦(そよ)ぐよ 輝くよ
    校庭(にわ)の周りの緑も薫る
    上一色南校
    力協せて溌剌と
    伸び行く学校 我らの母校


 同50年校舎(6普通教室・視聴覚教室)増築。同57年創立10周年記念式典。同62年全国学
校体育研究大会で「全国保健体育優良校」を受賞。平成5年創立20周年記念式典。同15年創立3
0周年記念式典。




【松江】(まつえ)1〜7丁目                 最終昭和59年11年1日
 東小松川村・西小松川村・西一之江村。明治22年東・西小松川村の半分づつと飛地を除いた西
一之江村が合併して松江村が成立。大正3年船堀村が廃村となったために残余の地を吸収合併。同
15年町制移行。昭和7年江戸川区が成立して松江町は東小松川・西小松川・西一之江・東船堀町
・西船堀町・南船堀町に分かれて消滅したが、同40年9月1日東小松川1〜3丁目・西一之江1
〜2丁目の各一部を現行の「松江1〜3丁目」として復活、同42年7月15日東小松川1〜2丁
目・西一之江1丁目・東船堀町の各一部をあわせた町域を現行の「松江4〜7丁目」とし、同59
年東小松川3丁目・西一之江1丁目の各一部を2丁目に編入して新住居表示を完了した。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『江戸川区史』など。

 松江の由来
 小松川の「松」と西一之江の「江」を合成。松江という川も入江も圦堀もない。松江は区の中心
地だったので、区の名前になるかというほどであったが、東縁の川の名に奪われてしまった。松江
区というのも良かったかもしれないねぇ。



■赤稲荷

 1丁目1番、京葉道路に面してある小社。



薬王山明王院東善寺
 1丁目4番にある真言宗豊山派の寺。鉄筋コンクリート造りのの高床式の建物。まるでバンガロー
のようだ。床下は休憩所と駐車場。本堂の左は庫裏、奥は墓所で高床だから見通せる。



■松江小学校
 1丁目16番にある区立校。明治9年10月善照寺境内に「第六中学区二十番公立小学葛西学校」
として開校。同12年学制廃止・教育令施行のため学区番号がなくなり「葛西小学校」と改称。同2
0年小学校令により「葛西尋常小学校」と改称。同36年西江小学校と統合、現在地に「松江尋常高
等小学校」として設立。
 昭和7年周辺郡部が東京市に編入され、「東京府東京市松江尋常高等小学校」と改称。同16年国
民学校令により「東京府東京市松江国民学校」と改称。12月日米開戦。同18年都政施行により「東
京都松江国民学校」と改称。同20年3月愚かなアメリカ軍の非人道的無差別空爆により校舎全焼。
8月日本は、ならず者国家アメリカの軍門に降り敗戦。以後属国とされて、唯々諾々といいなりにな
る保守傀儡政権を保持せざるを得ない今日的不幸を背負い込む。同22年アメリカの強制による学制
改革により「東京都江戸川区立松江小学校」と改称。同51年創立50周年記念式典。同52年海部
文部大臣、学校視察のため来校。同61年創立110周年記念式典。平成8年創立120周年記念式
典。同18年開校130周年記念式典。

 校歌「松の緑も」 作詞・野村旻  作曲・高田三郎
  1.松の緑も爽やかに
    光輝くこの朝(あした)
    みんな仲良く胸張って
    平和の空の陽を仰ぐ
    松江 松江 楽しい母校
  2.江戸川の水 澄む処
    永久に栄えるこの姿
    弛まぬ力 受け継いで
    文化の華の咲き匂う
    松江 松江 明るい母校
  3.富士の嶺 遥か臨む時
    希望溢れるこの心
    何時も元気に朗らかに
    日本の国を造り行く
    松江 松江 伸び行く母校



■松江図書館
 2丁目1番にある。



■松江第二中学校

 2丁目3番にある区立校。昭和22年戦勝国アメリカの強制による学制改革により、第二松江小学
校内に「江戸川区立松江第二中学校」として開校。同時に東小松川小学校内に分校を置く。同24年
現在地に校舎落成して移転。分校廃止。同28年第一次校舎増築。同32年第二次校舎増築。同35
年体育館完成。第三次校舎増築。同39年改築鉄筋コンクリート造り校舎落成。同40年木造校舎撤
去。同41年プール完成。同42年創立20周年記念式典。同45年プレハブ給食室完成。残る木造
校舎撤去。同52年創立30周年記念式典。同54年西校舎落成。同62年体育館完成。創立40周
年記念式典。平成9年創立50周年記念式典。同10年車椅子用スロープ完成。同19年創立50周
年記念式典。

 校歌「光漲り」 作詞・勝承夫  作曲・下総皖一
  1.光漲り 潮満ち渡る
    荒川の水 我が前に
    溌剌と意気燃えて
    自律の誓い果たすもの
    松江二中 栄えある母校
  2.
響く汽笛よ 鉄塔高き
    文化の巷 臨みつつ
    純情と勤労の
    誇りを胸に進み行く
    我ら我ら 果て無き未来

  3.富士は微笑む 筑波は招く
    潮の香清き この窓よ
    友情の花開き
    日本の明日の夢が湧く
    松江二中 我らが誇り
  



■正見寺
 2丁目24番にある浄土真宗大谷派の寺。普通の鉄筋コンクリートのビルで寺のようではない。



■白山神社
 4丁目15番にある。



■松江第一中学校
 5丁目5番にある区立校。同22年松江小学校内に「江戸川区立松江第一中学校」として開校。同
23年現在地に校舎落成・移転。同28年松江第一中学校育英会創立。同34年体育館完成。同38
年プール完成。同43〜60年第一〜六期期鉄筋校舎竣工。平成10年校舎耐震工事完了。同14年
給食室改修。同19年蓮田改修。

 校歌「窓を開ければ」 作詞・神保光太郎  作曲・貴島清彦
  1.窓を開ければ遥々と
    白鷺の群れ 蓮の花
    互いに手を取り ここに学ぶ
    我ら我ら松江一中 我らが母校
  2.古い歴史の江戸川の
    弛まぬ流れ心とし
    真理を求め ここに励む
    我ら我ら松江一中 我らが母校
  3.父母の愛 暖かく
    教えも深し師の言葉
    三歳を誓い ここにきとう
    我ら我ら松江一中 我らが母校


 独自の育英会システム
 松江一中には、他の学校にはない独自の制度がある。初代岩下吉衛校長の発案から始まった「松江
一中育英会」の制度だ。本校の開校間もない頃は、戦後の経済的に苦しい時代で、「進学したい、で
も家庭の経済状態が許さな。」そのような子供たちを少しでも救いたいと考えた岩下校長が、私財を
投入し育英資金を用意した。現在もその意志を引き継ぎ、高校の3年間分の学習資金の貸し付けを行っ
ている。この制度を利用し、多くの卒業生が実社会に巣立っていきましたとさ。



■三島神社

 6丁目15番にある。



■松江第六中学校
 7丁目16番にある区立校。昭和51年「江戸川区立松江第六中学校」として開校。校旗制定。開
校式・校歌制定。

 校歌「雲を浮かべて荒川は」 作詞作曲・不詳
  1.雲を浮べて荒川は
    希望に満つる若き春
    清く気高き富士の嶺に
    ああ夢多き窓開く
    松江六中 我等が母校
  2.砦を溶かす江戸川は
    力溢るる若き胸
    筑波嶺青く空晴れて
    ああ純情の友集う
    松江六中 我等が母校
  3.自律の気風受け継ぎて
    心を磨き身体を鍛え
    高き文化を目指しつつ
    不滅の真理掲げ持つ
    松江六中我等が母校


 同53年校地拡張。同54年「錨」の碑 除幕。同56年機械警備「アラームシステム」設置。同
61年校舎増築。校庭照明施設完備。開校10周年記念式典。平成3年パソコンルーム完成。同4年
プール大改修。同8年創立20周年記念式典。同18年創立30周年記念式典。



■西一之江小学校
 7丁目17番にある区立校。昭和29年松江小学校の分校として開校。同31年松江小学校より分
離独立して「東京都江戸川区立西一之江小学校」として創立。同35年プール落完成。同41年体育
館完成。開校10周年記念式典。同44年〜同47年第1期〜第4期工事により鉄筋コンクリート造
り校舎(玄関・33教室・管理室・給食室・教材室・主事室など)新築工事完了。同50年開校20
周年記念式典挙行。同58年アスレチック広場完成。同30周年記念式典。平成8年開校40周年記
念式典。
同18年開校50周年記念式典。

 校歌「富士の嶺遥か」 作詞・遠藤清次  作曲・石桁真礼生
  1.富士の嶺遥か 潮の香匂い
    
白鷺飛び交う この西一之江に
    すくすく伸びて 心も広く
    丈夫な心を育てて行こう
    ああ我らの母校
  2.都の東 流れも清く
    蓮の花咲く この西一之江に
    互いに磨き みんな仲良く
    進んでやり抜く子供になろう
    ああ我らの母校




■神社
 7丁目28番、花島宅にある屋敷神。



■神社
 7丁目29番にある小祠。




【松島】(まつしま)1〜4丁目                   昭和40年9月1日
 東小松川村・西小松川村。明治22年松江村大字東小松川・西小松川。大正15年松江町大字東
小松川・西小松川。昭和7年江戸川区となって、東小松川1〜5丁目・西小松川1〜2丁目。同4
0年西小松川1〜2丁目・東小松川3〜4丁目の各一部をあわせた町域を現行の「松島」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『江戸川区史』など。

 松島の由来
 この町域の町名について区は初め情も愛もない「北松江」を提案したが住民に鼻の先であしらわ
旧称の「西小川村字堂ヶ」から「松島」を拾い出して命名した。だから、松島という島が
あった訳じゃあない。しかし堂ヶ島というからは、大昔は何かのお堂のある島だったのだろう。光
福寺にある観
音像が祀られていたようなので、観音堂かも知れない。



■グリーンパレス江戸川区民センター
 1丁目8番にある。


 郷土資料館
 あまり期待しないほうがいい。そろっと訪れて、チラッと見て帰るといいと思うよ。



長松山延命院光福寺

 1丁目9番にある新義真言宗の寺。「五分一不動・銀杏寺」。天文元年(1532)海成坊が開山
した。本尊は伝春日仏師作の阿弥陀如来。昭和36年檀家の人たちによって本堂左に不動堂が建てら
れた。この堂に聖観音像も安置された。この観音像は元々は里見の落武者が持っていたものを堂ヶ島
に祀っていたものだが、この寺に移されていた。住職一代に一度しかご開帳出来ないことになってお
り、その度毎に衣の色が変わっていることから「衣更観音」と呼ばれている。不動堂の裏手に、幹回
り4.4m の大銀杏がある。浅草から見えたという。不動堂の奥は墓地、本堂の右は庫裏。小寺なが
ら清々しい寺だ。



■江戸川郵便局

 1丁目19番にある普通集配局。



■小松川警察署

 1丁目19番にある。明治8年「第六方面第二警察署」開設。同14年「森下町警察署」と改称。
その後、八名川警察署、深川八名川警察署と改称。同23年「小松川警察署」と改称。小松川大字西
小松川4604番地に仮庁舎を開設。同24年4788番地の新庁舎に移転。大正7年亀有警察署を
分署。同12年亀有分署を開設。管轄は小松川町、葛西村、瑞江村、篠崎村、鹿本村、小岩村、奥戸
村の1町7ヶ村となった。昭和4年砂町警察署を分署。同21年小岩警察署を分署。同51年現在地
に移転。同57年葛西警察署を分署。



■水神

 1丁目37番、「割烹いこい」の前、小松川親水公園の川っ縁にある。



■倉前稲荷大明神

 1丁目43番にある小社。

 



■都下水道局
西小松川ポンプ所
 2丁目5番にある。



■関東第一高等学校

 2丁目10・11番にある。大正14年守屋荒美雄・村上周三郎が「関東商業学校」を東京府神田
区錦町3丁目3番地に設立。昭和14年現在地に移転。電気科設置。同18年「帝国第一商業学校」
と改称。機械科設置。同20年「関東第一商工学校」と改称。同22年「関東第一中学校」開設。同
23年「関東総合高等学校」と改称。同28年「関東商工高等学校」と改称。同33年円形校舎(東
館)新築。同36年円形校舎(西館)新築。同39年本館落成。同40年建築科設置。同44年建築
科綜合実習館落成。同48年普通科設置。「関東第一高等学校」と改称。同51年綜合体育館完成。
同58年南1号館(南館)校舎落成。同59年創立60周年記念式典。同60年南2号館落成。同6
3年
国土交通大臣指定・自動車整備士養成施設(自動車整備コース)完成。
 平成6年創立70周年記念式典。同7年八千穂山荘竣工。平成13年本館落成。同16年普通科共
学化。同17年普通科特別進学コース開設。同18年建築科を建築ビジュアル科に改編し共学化。少
子化のため私学経営は大変で、将来を睨めば優秀な進学校たること、男女共学は避けられない。野球
やサッカーで全国的に有名にして、子供の関心を集め、優秀な子供を合格させて進学校化するのは私
学の一つのパターンだ。しかしスポーツ部活は駄目になる。甲子園にかつての名門校・強豪校が出て
こなくなったのはそのためだ。平成19年普通科進学選抜コースを開設。

 校歌「暁の星影」 作詞・増田麿策  作曲・岩村光起
  1.暁の星影映し洋々と
    流れ弛まぬ荒川の
    眺めも高き我が窓は
    歴史床しきペンと翼
    関東一高 我が学園
  2.若き血の憧れ集い青空に
    高鳴る希望胸に秘め
    栄行く文化目指しつつ
    三年の励み勤しまん
    関東一高 我が学園
  3.眉上げよ 純き若人 世の光
    実り豊けきこの腕(かいな)
    築かん平和 常永遠に
    道の茨も乗り越えて
    関東一高 我が学園



■神社

 2丁目16番にある小祠。



■第二松江小学校

 2丁目16番にある区立校。明治16年「松川小学校」として開校。同20年小学校令により「松
川尋常小学校」と改称。同41年小学校令改正により義務教育確立。大正3年荒川放水路開鑿のため
廃校。
 大正3年現在地に松川校の代替校として「南葛飾郡第二松江尋常小学校」開校。昭和7年周辺郡部
が東京市に併呑され、「東京府東京市第二松江尋常小学校」と改称。同16年国民学校令により「東
京府東京市第二松江国民学校」と改称。12月日米開戦。同18年都政施行により「東京都第二松江
国民学校」と改称。同20年8月日本は、ならず者国家アメリカの軍門に降り敗戦。以後属国とされ、
唯々諾々といいなりになる保守傀儡政権を保持せざるを得ない今日的不幸を背負い込む。
 同22年アメリカの強制による学制改革により「東京都江戸川区立第二松江小学校」と改称。同3
6年校歌制定。

 歴史の古い学校に校歌がないのは不思議であり、淋しくもあった。この時の校長栗原清治はPTA
会長多賀幸二に相談、その結果校歌作成委員会を作り、広く公募したが、良いものが現れず、結局委
員会が作詞した。作曲者不詳。
  1.花の都の空晴れて
    朝日輝く学びの園
    僕も私も清らかに
    夢を豊かに築き行く
    ああ楽しい第二松江小学校
  2.流れ静かな大川の
    芦の風吹く学びの窓
    僕も私も健やかに
    明日の希望に伸びて行く
    ああ明るい第二松江小学校
  3.松の緑に囲まれて
    光煌く平和の道
    僕も私も逞しく
    力合わせて励み行く
    ああ嬉しい第二松江小学校


 同38年創立50周年記念式典。同49年創立60周年記念式典。同59年創立70周年記念式典。
 平成6年創立80周年記念式典。同16年創立90周年記念式典。    



■四股橋の遺物
 2丁目16番、中川土手近くに四股橋の橋桁の一部が、四股を偲ぶ縁として移設・保存されている
というのだが、未確認だ。写真では見たよ。コンクリートの橋の、長さにして2、3m高欄だ。大き
なものじゃない。四股(よつまた)とは十字路と同義、旧佐倉道と行徳道(今井通り)の交差点のこ
とで、荒川放水路の開鑿により消滅した。小松川橋から80mばかり北の中堤の辺りに当たる。交通
の要衝であり当時の中心地だった。別に「四股の四面道標」というものがあるらしい。



■四股の四面道標
 2丁目16番あるらしい。区の登録文化財で昭和58年3月15日の指定。



■江戸川高等学校

 2丁目38番にある。昭和15年東京府第三中学校(現両国高校)内に「東京府第十六中学校」を
設置。府参事会で本校の敷地は西小松川耕地整理地10000坪(現在地)と決定。同16年「東京
府立江戸川中学校」と改称。同18年4月現在地に校舎完成し移転。7月都制施行により「東京都江
戸川中学校」と改称。同19年校歌制定。12月15日午前4時愚かなアメリカ軍の非人道的無差別
空爆により焼夷弾直撃弾、10教室約250坪焼失。21日再び愚かなアメリカ軍の無差別空爆で直
撃弾炸裂、職員室半壊。同20年元旦愚かなアメリカ軍の直撃弾、校庭に落下爆発。2月19日愚か
なアメリカ軍の爆弾投下により宿直室・小使室損壊。8月日本はならず者国家アメリカの軍門に降り
敗戦、以後属国となり、唯々諾々といいなりになる保守傀儡政権を保持せざるを得ない今日的不幸を
背負い込む。もう200兆円がとこ持って行かれたし、これからは自衛隊はアメリカ軍の尖兵として
戦場に引っ張り出されるぞ。
 同22年水害のため休校。床上浸水33cm。同23年アメリカの強制による学制改革により「東
京都立江戸川新制高等学校」と改称。11月アメリカの強制により父兄会が解散させられ、新たにア
メリカと同じPTAを組織させられる。同24年アメリカ式民主主義の強制により生徒会発足。創立
10周年記念式典。同25年「東京都江戸川高等学校」と改称。8月校内の池を埋め立て。同27年
新校歌制定。

 校歌「武蔵野の」 作詞・内田小巌  作曲・梁田貞
  1.武蔵野の東を限る江戸川の
    床しき流れ名に負いて
    我が学び舎は立てるなり
    高なる胸に夢抱き
    紐解く書(ふみ)の
この庭に
    我らが理想掲げなむ
  2.風薫る田の面広らに蓮葉の
    濁りに染まず潔く
    清きを己が身にしめて
    永久に聳ゆる富士が嶺を
    心の則と仰ぎつつ
    真理の道に勤しまむ
  3.誠もて人の世の幸願ひなば
    世界は一つ友垣と
    かたみに厚く交りて
    春去り来れば此の国に
    匂ふ桜の花の如ごと
    文化の華を咲かせなむ

 同29年創立15周年記念事業理科準備室落成式。同30年創立15年記念式典。同33年化学実
験室改修。体育館兼講堂完成。同34年物理教室旧校舎改修。同35年木造2階建て6教室(図書閲
覧室・視聴覚教室・地学教室を吹くむ)竣工。化学教室移築完成。創立20周年記念式典。同38年
小諸林間学校施設(菱野山荘)落成。同45年創立30周年記念式典。同55年創立40執念記念式
典。同62年体育館・挌技棟・プール完成。
 平成元年パソコンルーム完成。同2年創立50周年記念式典。同4年LL教室設置。同5年菱野山
荘改修。同7年食物室・厨房・食堂・校庭改修。同9年テニスコート、プール改修。スクールカウン
セラー室設置。同10〜12年耐震化工事。同12年機械警備導入。創立60周年記念式典。
 



■西小松川小学校

 3丁目30番にある区立校。昭和23年第二松江小学校分校として校舎落成・移転。同27年独立
して「東京都江戸川区立西小松川小学校」として開校。同34年通学区域変更により、児童97名を
第三松江小学校に移籍。同37年創立10周年記念式典・プール完成。同42年第一期鉄筋コンクリ
ート造り校舎8教室落成。同43年体育館完成。同44年鍛錬山完成。同45年第二期鉄筋コンクリ
ート造り校舎8教室・給食室完成。同46年第三期鉄筋コンクリート造り校舎9教室・校長室・職員
室・事務室完成。南側隣接地406u買収拡張。同47年3月第二期鉄筋コンクリート造り校舎3教
室・特別4教室・保健室完成。9月校庭舗装・渡り廊下完成。11月創立20周年・施設完成記念式
典。同48年プール更衣室完成。同50年南側校地594u買収拡張。同51年渡り廊下移設・体育
倉庫新設。同55年東・北側外塀改修。同56年創立30周年記念式典。同57年校庭歩道新設。同
58年校庭改修。同60年ランチルーム・屋上フェンス・プール・砂場等改修。同61年理科室・飼
育舎等改修。
 平成2年窓枠アルミサッシ化。同4年創立40周年記念式典。同5年全校ガスFF化。同9年耐震
工事。同10年鍛錬山改修・わんぱく山に改名。同11年ランチルーム4階移設。同13年給食室全
面改修。同14年開校50周年記念式典。同15年家庭科室改修。同16年家庭科室改修。同16年
プール更衣室全面改修。

 校歌「朝霧晴れて」 作詞・桑田芳樹  作曲・平井康三郎
  1.朝霧晴れて荒川の
    流れは遥か太平洋
    鴎の胸も膨らみて
    真澄の空に高く飛ぶ
  2.若草萌える三角州
    蓮田の面に光満ち
    豊かに伸びる我が母校
    西小松川 希望あり
  3.夕映え遠き富士の峰に
    明日の励みを誓いつつ
    共にに平和の手を繋ぎ
    進む我らに栄えあれ
 



■神社

 3丁目37番にある。



施薬山東福院医王寺
 3丁目38番にある真言宗豊山派の寺。開祖は秀円僧都で、寛永八年(1631)草創。本尊は薬
師如来。秀円僧都は大和の人で、東国巡錫の折、この地で宇田川・関口・宮の各氏に迎えられて留ま
り、一寺を建立、住民と荒地を開いて「堂ヶ島」と命名した。お寺のある高みの地の意だ。



顕真山専福寺

 4丁目34番にある
浄土真宗大谷派の寺。3階建てのビルで寺号標識がなかったら寺だとは誰も気
づかない。小岩幼稚園が併設され、黄色い声が賑やかだ。




【松本】(まつもと)1〜2丁目                    昭和61年5月1日
 松本村。明治22年鹿本村大字松本。昭和7年江戸川区松本町。同40年一部が中央3〜4丁目、
同41年南小岩2・4〜5丁目、同45年鹿骨1〜5丁目に譲った残りの中川以西に、同61年本一
色・興宮町の各一部をあわせた町域を現行の「松本」とした。中川以東は松本町のまま過ごし、平成
3年東松本となる。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『江戸川区史』など。

 松本の由来
 由来不明というのが正直なところ。だが・・・町内に松本弁天がある。これが「松本村の弁天」な
のか? 「松の根本に弁天がある村」なのか? もう古いことなので分からない。



江島山寿昌院
 1丁目9番にある黄檗宗の寺。貞享元年(1684)桂月元皎禅尼の開基。本尊は寛文九年(16
69)造の千手観世音菩薩像。境内に入ると左に鳥居があってその奥に松本弁天堂、右は本堂、いず
れも朱塗り枠付き鉄筋コンクリート2階建て。弁天堂の左は墓所、本堂の右は庫裏。境内には「臥竜
の松」と呼ばれている樹齢500年のクロマツがあり、枝を張っていて素晴らしい。

 
松本弁天
 この村も葛西清重が寄進した葛西御厨三十三郷の一つと考えられており、松本弁天が先か、松本村
が先か、悩むところ。寿昌院の開基はそんなに古くはなく、寛文九年(1669)に桂月元皎禅尼が
草堂を建てたことに始まる。弁天社の別当寺として建てられたようだ。弁天堂は一面に芝生を敷き詰
めた美しい境内の奥にある。
 貞享元年(1684)に建てられ、弘法大師の作といわれる6寸の弁財天女像が祀られている。松
本村の方が先だと、弘法大師が松の根元に弁天さんを祀ったのだろうか? そんな伝承は村に語り継
がれていない。



■江戸川区総合体育館

 1丁目35番にある。3階建てで1階に室内温水プール・アーチェリー場・エアライフル場・スタ
ジオ・会議室があり、主競技場は2階と3階にある。2階には観覧席があって、卓球・バドミントン
・器械体操・バスケットボール・バレーボール等の競技大会はここで行われる。その他2階にトレー
ニングルーム・卓球室、3階に柔道場・剣道場・弓道場がある。



■鹿本中学校

 1丁目36番にある区立校。昭和22年「東京都江戸川区立鹿本中学校」開校。5月開校式・第1
回入学式。同32年特殊学級設置。9月開校10周年記念式典・校歌制定
 
 校歌「古(いにしえ)は」 作詞・福里栄三2代目校長 作曲・鈴木昭治音楽教諭
   
  1.古は
    鹿ぞ住みけん茅原に
    今文明の香も清く
    聳えて立てる学舎は
    これぞ我等が鹿本中学校
  2.新なる
    朝日輝く学窓に
    知性豊けき若人が
    自律の光かかげつつ
    真理を究む鹿本中学校
  3.いざや友
    希望は高き雲の峰
    理想は薫る蓮の花
    文化日本の魁(さきがけ)と
    その名称えん鹿本中学校


 同33年特殊学級作業場竣工。同36年増築校舎竣工(普通教室4)。同37年校旗樹立。10月
屋内運動場竣工。同38年給食室完成。同39年特殊学級第2作業場竣工。同41年プール完成。同
42年開校20周年記念式典。同46年鉄筋校舎(3普通教室・3特別教室・給食室・職員室など竣
工。同47年温水プール竣工。同48年難聴学級開級。鉄筋校舎3特別教室竣工。同49年鉄筋校舎
5普通教室・4特別教室・心障学級教室竣工。同50年通用門前藤棚アーチ・花壇・校舎前花壇完成。
同52年開校30周年記念式典。記念庭園、藤棚完成。同53年鹿骨中学校を分校。同54年正面玄
関拡張工事、花壇完成。同58年温水プール増改築・記念庭園移転。同62年開校40周年記念式典。
 平成3年体育館全面改築・校庭改修。同9年開校50周年記念式典。同10年コンピュータルーム
開設。同13年新館屋上の防水工事。同15年校庭プレハブ会議室完成。同19年開校60周年記念
式典。

 
校歌について

 学制改革により昭和22年鹿本中学校設立の認可があり、鹿本小学校内に併設される。しかし全体
的に整備が遅れ、昭和32年2代目の福里校長の代になって校歌が制定された。これ以前に鹿本小学
校の校歌を編曲したものと、もう1曲校歌のような歌があったとの初期の卒業生の声があるが詳細は
不明。現校歌は「よい環境からよい生徒が生まれる」の合言葉と心の支えとして生まれた。かって学
区域全体を鹿本村といい、古くは鹿が生息していたというが、昔は海だ。何時頃の話だろう? 本校
は、約6千坪の広大な土地を盛り土しての校地に、当時として区内随一の設備を持つ校舎をはじめ、
テニスコート・野球場の施設があり、極めて恵まれた環境にあった。この校舎に学ぶ生徒たちが将来
の日本にとって有用な人材となることを願って作詞作曲がされている。



寶雲山
長谷院
慈光寺
 2丁目15番にある浄土宗の寺。寛永八年(1631)開基長谷川式部少輔藤原守知(三左衛門・
利十郎)により、本寺である光明山天徳寺の第十三世堪蓮社忍譽源受上人を請じて開山として創草。
院号は、開基長谷川氏の法号である長谷院殿前吏部虎峰崇隆大禅定門に由来。当時の境内地は、天徳
寺の内にあって、東西20間×南北14間、280坪もあった。明和三年(1766)十月十日に自
火。嘉永三年(1850)二月五日に麹町より発した大火に延焼、堂宇・什宝・記録等悉く烏有に帰
し、僅かに本尊仏、脇士、過去帳等が残った。大正12年の関東大震火災にも類焼。その後昭和12
年2本堂庫裏を再建し、長くこの地にあったが、平成16年7月第26世清誉英明の時、現在地に移
転し、現在に至っている。 




松亀山光蔵寺

 2丁目31番にある真言宗豊山派の寺。入口を入ると左に墓地、右に庫裏、正面本堂。



■諏訪神社
 2丁目35番にある。



■天祖神社
 2丁目37番にある。



■鹿本小学校

 2丁目35番にある。大正4年「東京府南葛飾郡鹿本尋常小学校」として開校。同7年高等科併設、
校名を「東京府南葛飾郡鹿本尋常高等小学校」と改称。同12年関東大震災のため西側校舎倒壊。同
14年校舎増改築、体育館落成。昭和7年校舎増築。10月周辺郡部が東京市に併呑され、「東京府
東京市鹿本尋常高等小学校」と改称。同16年国民学校令により「東京府東京市鹿本国民学校」と改
称。12月日米開戦。同18年都制施行により「東京都鹿本国民学校」と改称。同19年学校給食開
始、西側1教室を炊事場(給食調理室)に改装。8月山形県鶴岡市へ学童集団疎開。その跡に陸軍部
隊駐屯(終戦まで)。同20年8月日本は、ならず者国家アメリカの軍門に降り敗戦。以後属国とな
り、唯々諾々といいなりになる保守傀儡政権を保持せざるを得ない今日的不幸を背負い込む。もう2
00兆円以上が持っていかれた。これからは米軍の尖兵として最前線に自衛隊を出せといってくるよ。
 同22年アメリカの強制による学制改革により「東京都江戸川区立鹿本小学校」と改称。同35年
鹿骨分校設置。同38年プール完成。同39年鹿骨分校を独立させ鹿骨小学校開校。同40年創立5
0周年記念式典。同43年本一色小学校を分校。児童354名移籍。同47年松本小学校の新設によ
り児童72名を移籍。同57年鶴岡市立朝暘第三小学校と姉妹校盟約締結(第1回訪問)。鶴岡市立
朝暘第三小学校と職員・児童交流(第4回交流)。江戸川区・鶴岡市友好姉妹都市10周年記念行事
として鶴岡市で長期移動教室実施。同6年開校80周年記念式典挙行。同7年オーストラリアゴスフォ
ースト市より学校訪問。同17年開校90周年記念式典。

 校歌「天祖の森に」  作詞・作曲不明

  1.天祖の森に陽は映えて
    
平和囁く松風に
    薫る歴史よ 学び舎よ
    正しく強く羽ばたけと
    呼んでいる 呼んでいる
    楽しい鹿本小学校
  2.時代の波の打ち寄する
    清き江戸川 澄む辺り
    伸びる双葉よ 若き芽よ
    仲よく共に学ぼうと
    呼んでいる 呼んでいる
    楽しい鹿本小学校
  3.
遥かに仰ぐ富士筑波
    胸は理想に膨らんで
    進む大地よ 青空よ
    明るい希望抱けよと
    呼んでいる 呼んでいる
    楽しい鹿本小学校




【瑞江】(みずえ)1〜3丁目                         鋭意実施中
 明治22年の「市制町村制」により上今井村・下鎌田村・当代島村・前野村が合併し下今井・二
之江村の各一部を編入して新たに「瑞穂村」を成立させた。瑞穂は瑞々しい初穂」の意で、おめ
でたい言葉を選んだ訳。同じく東一之江村・新堀村・一之江新田が統合して「一之江村」を作り、
大正2年この
瑞穂村と一之江村が合併、両村から一字づつ採って「瑞江村」、昭和7年江戸川区の
成立で、村は分解して二之江町・今井町・下今井町・下鎌田町・当代町・一之江町・椿町・谷河内
町・新堀町・前野町となった。昭和13年下鎌田町の一部を「東瑞江」とし、二之江町・新堀町・
椿町・谷河内町・下鎌田町・今井町の各一部をあわせた町域を「西瑞江」とした。同63年西瑞江
1丁目の一部を現行の「瑞江1丁目」とし、平成6年11年7日南篠崎町・西瑞江2丁目・下鎌田
町の各一部をあわせた町域を現行の「瑞江2丁目」としたが、この1丁目と2丁目は随分離れてい
た。平成16年11月1日西瑞江1丁目・下鎌田町の全部に西瑞江2丁目の一部をあわせて新たに
「瑞江1〜3丁目」とした。
 江戸川区は他区に比べて行政力が劣る分、瑞江の新住居表示はいつ終わるとも知れないワクワク
感がある。全部終わるのは22世紀にはいってかなぁ? ギネスものさ!
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『江戸川区史』など。

 
瑞江の由来
 当然「瑞江」って川も湿地帯もないよ。明治にできた「瑞穂村」と「一之江村」が、大正時代に
入って合併し、双方の村名から一字づつ採って拵えたのが「瑞江」の始まり。「瑞穂」とは「瑞々
しい稲穂」で、穫れたてほやほやの稲穂を神に捧げるところから、目出度い言葉、嘉語として用い
られ、特に地名に用いられた。おいらも南瑞穂町で育ったよ。

■春江小学校
 1丁目3番にある区立校。瑞江尋常高等小学校の分校として、江戸川区一之江2丁目117番地に
校舎3教室落成し授業開始。10月「東京府東京市瑞江尋常高等小学校一之江分校」と命名。同16
年国民学校令により「東京府東京市瑞江国民学校一之江分校」と改称。12月日米開戦。同18年都
制施行により「東京都瑞江国民学校一之江分校」と改称。同20年8月日本は、ならず者国家アメリ
カの軍門に降り敗戦。以後属国となり、唯々諾々といいなりになる保守傀儡政権を保持せざるを得な
い今日的不幸を背負い込む。もう200兆円以上が持っていかれた。これからは米軍の尖兵として最
前線に自衛隊を出せといってくるぞ。
 同22年アメリカの強制による学制改革により「江戸川区立瑞江小学校一之江分校」と改称。同3
3年新中川放水路の開鑿により江戸川区西瑞江1丁目48番地に移転、「江戸川区立瑞江小学校椿分
校」と改称。同36年校舎(2教室・管理室2・給食場)増築。同39年鉄筋コンクリート造り校舎
(普通教室6、特別教室3)落成。
 [自立]
 同40年独立して「東京都江戸川区立春江小学校」となる。同41年校歌制定。

 校歌「明るく広い大空を」 作詞・勝承夫  作曲・小出浩平
  1.明るく広い大空を
    仰いで元気に歌おうよ
    仲良く 何時も胸を張り
    光をたっぷり吸いこんで
    大きく伸びよう春江の我ら
  2.輝く白い雲映す
    水にも豊かな夢がある
    緑が芽ぶく川端に
    小鳥が飛び立つ 鳴き交わす
    希望の故郷 春江の我ら
  3.子供は蕾 明日を待つ
    優しい椿の初花よ
    自律の気風受け継いで
    やがては日本の花と咲く
    楽しい力よ 春江の我ら


 同42年プール完成。同43年鉄筋コンクリート造り校舎(教室6・管理室6)落成。給食調理室
増築。体育館・プール更衣室完成。同47年鉄筋コンクリート造り校舎(管理室3、教室7)増築。
同50年開校10周年記念式典。鉄筋コンクリート造り校舎(普通教室6、特別教室3)増築。同5
4年プレハブ校舎3教室増築。同56年新堀小学校を分校、児童551名移籍。同60年開校20周
年記念式典。
 平成元年校舎アルミ窓枠サッシ工事完了、給食室改装。同2年ランチルーム改装。校舎都市ガス化。
同3年校長室移転改修。同4年飼育小屋新築完成。同10年パソコンルーム設置。同13年インター
ネット接続。同14年HP開設。



■瑞江駅
 2丁目2番にある都営地下鉄新宿線の停車場。昭和61年9月14日新宿線船堀〜篠崎間延伸時に
設けられた。ホームは島式1面2線構造で地下2階にある。ホームと改札階を結ぶエレベーターは設
置済み。ホームの外側には2本の通過線を持ち、この駅で急行列車の通過待ちが行われることもある。
通過線はホームの壁の向こう側にあるため、通過する列車はホームの端の方に行かないと見えない。
改札口は2ヶ所で、いずれも地下1階にある。駅ビルに繋がる従来の改札口のほか、南口地下駐輪場
の整備に伴って、駐輪場へ直結する新しい改札が設置された。この駐輪場には、自転車も乗せること
ができる大型の地上行きエレベーターがある




【南葛西】(みなみかさい)1〜7丁目               昭和54年11年1日
 東宇喜田村。明治22年葛西村大字東宇喜田、昭和7年東宇喜田町・御立野・川中・川縁・上蜆
島・下蜆島、同9年葛西1〜2丁目・上蜆島・下蜆島・堀江町。昭和54年堀江町を改称し、同時
に新住居表示を完了した。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『江戸川区史』など。

 
南葛西について
 改称名は
葛西地区南部の意。ただし現在都県境の関係で川岸と水域部分が保留となっており堀江
町として残っている。なお堀江町(南葛西)の左近川河口付近に「将監」という地名があり、江戸
幕府の舟手奉行であった向井将監忠勝の屋敷、もしくは領地があったことに由来すると伝わる。葛
西の由来は「葛西」を参照。



■葛西南高等学校
 1丁目11番にある都立校。昭和48年第1回入学選抜学力検査を、男子は都立江戸川高等学校で、
女子は都立小岩高等学校で実施。入学式(墨田区両国公会堂)。都立深川商業高等学校仮校舎におい
て授業開始。PTA発足。生徒会設立。同49年第2回入学選抜学力検査を都立小松川高等学校で実
施。
現在地に本校舎落成し移転。第2回入学式は体育館で。同50年
第3回入学選抜学力検査を本校
において実施。9月30日を開校記念日と定める。同51年初の卒業式。平成4年20回生から制服
を改める。同6年入試は単独選抜制となる。同7年プール改修。同8年校舎大規模改修。同14年創
立30周年記念式典。同18年耐震化工事。

 校歌「朝ぼらけ」 作詞・清水房雄  作曲・岡真司
  1.麻ぼらけ 風は清かに
    磯伝う潮の遠鳴り
    今此処に力挙りて
    打ち翳す自主の旗影
  2.高き日は光遍く
    霞み立つ大野の緑
    聞けば遥か 四方にとよめき
    創造を告ぐる鐘の音
  3.有茜 雲に照り映え
    限り無き峰の起き伏し
    いざ心 明日も一つに
    連帯の誠尽くさん
     葛の 葛の 花房 花房色冴えて
     良き学舎に匂うなり
     良き学舎に我等あり     



■碑
 2丁目10番にある。未見



■清滝神社

 4丁目18番にある。道路から一番奥の石壇上の3つの石祠が清瀧神社で、真ん中の小祠は不池弁
天堂の絵馬を納めてあり、道路寄り覆屋は地蔵堂だ。



■南葛西第二中学校
 5丁目3番にある区立校。同61年「江戸川区立南葛西第二中学校」として開校。10月校歌制定。
平成元年オーストラリ・アゴアフォード市長等来校。
同2年学級増に伴う普通教室不足のため視聴覚
室の間仕切りを行う。同3年校地南側道路に沿った「文学の小径」完成肉(樹木29種・歌碑104
首)。中華人民共和国深セン市教育視察団来校。同5年新校舎(パソコン室・第二美術室・第二音楽
室・4普通教室)落成。同6年校舎外壁塗装。同8年創立10周年記念式典。同10年新校舎1階3
普通教室落成。スクールカウンセラー配置。同18年創立20周年記念式典。

 校歌「君よ世界の」 作詞・張江幸男  作曲・池田信博
  1.太平洋に陽は昇り
    希望育む江戸川よ
    
平和の園に学びゆく
    我等の心誇りあり
    君よ 世界の地となれ
    我は 世界の海となる
  2.南葛西に集いきて
    自律 礼譲 開拓の
    教えを守り鍛えゆく
    我等の力 限りなし
    君よ 世界の地となれ
    我は 世界の海となる
  3.世に軽佻の風吹けど
    愛と正義のわが二中
    理想の道を求めつつ
    我等の歩み弛みなし
    君よ 世界の地となれ
    我は 世界の海となる




■南葛西第三小学校
 5丁目2番にある区立校。平成元年南葛西小学校から分校し、「東京都江戸川区立南葛西第三小学
校」として開校。児童数397名13学級でスタート。校歌制定。同2年10月9日開校記念日と制
定。同4年ピロティーの一部を図工室、図工準備室、視聴覚室に改装。同5年3階旧図工室及び準備
室を普通教室2室に改修。同6年2階第2図書室を普通教室2室に改修。同7年万葉庭園落成。同1
1年開校10周年。

 校歌「新しい町」 作詞・丸山典雄  作曲・馬場千鶴子
  1.新しい町 希望の都市に
    空は果てなく陽も光り
    海の香乗せて風薫る
    楽しい南葛西第三小学校
  2.緑豊かな学びの庭に
    楽しい声は満ち溢れ
    みんな友達 手を繋ぐ
    嬉しい南葛西第三小学校
  3.知恵を重ねて体を鍛え
    夢膨らませ明日を見て
    世界に羽ばたく時を待つ
    爽やか南葛西第三小学校
    



■南葛西小学校
 5丁目10番にある区立校。同54年第四葛西小学校より分校。児童378名移籍して「東京都江
戸川区立南葛西小学校」として開校。同55年第二期工事2階建て普通教室10教室増築。9学級増
えて児童数1187名29学級。同56年プレハブ3教室設置。同57年南葛西第二小学校を分校。
児童605名移籍。同58年フィールドアスレチック広場設置。同62年プレハブ3教室設置。同6
3年開校10周年記念式典。
 平成元年南葛西第三小学校を分校。児童268名移籍。同11年開校20周年記念式典。

 校歌「白い旗雲」 作詞作曲不詳
  1.白い旗雲 靡かせて 
    果て無く広がる大空を 
    仰ぐこの町 この校舎
    今日も漲る日を浴びて 
    明日の時代を飛び翔ける
    雛鳥の群れ育つ処
     南葛西 南葛西小学校
  2.思え 流れる江戸川も  
    此処から潮に交じり合い
    大海原に育つもの
    そうです 行く手に新しい
    明日の日本を開くこと
    誓い合い また励まし合う

 ※HPによると2番に「南葛西 南葛西小学校」のフレーズは記載されていない。
 



■南葛西中学校
 5丁目12番にある区立校。同54年「江戸川区立南葛西中学校」として開校。校章制定。同56
年東葛西中学校の開校に伴い2年生118名移籍。同60年南葛西第二中学校開校に伴い2年生69
名移籍。平成元年創立10周年記念式典。同10年創立20周年記念式典。同20年創立30周年記
念式典。


 校歌「大空澄みて」 作詞・高城和雄  作曲・福家真由美
  1.大空澄みて果たて無し
    倶に仰ぎて修学の 
    我らの息吹 溌剌と
    愛と知性を学ぶらん
    ああ我ら南葛西中学校
  2.暁澄みて果たて無し
    倶に仰ぎて修学の
    われらの英気 洋々と
    不滅の真理 学ぶらん
    ああ我ら南葛西中学校
  3.朝風澄みて果たて無し
    倶に仰ぎて修学の
    我ら希望に満ち満ちて
    皆健やかに花と立つ
    ああ
我ら南葛西中学校



■富士公園
 6丁目23番にある区立公園。江戸川冨士・アスレチック広場・遊具広場がある。



■なぎさ公園
 7丁目3番にある区立公園。なぎさポニーランド・遊具広場・ゲートボール広場・少年野球場・花
の広場・スポーツ広場がある。



■南葛西第二小学校
 7丁目5番にある都立校。昭和57年なぎさニュータウンができて児童数が急増した南葛西小学校
の分校として開校。610名移籍。8月校庭遊具、砂場、藤棚、飼育小屋、焼成小屋完成 植木完了。
9月校歌制定。開校記念大運動会。

 校歌「悠々と」 作詞・中野十三夫  作曲・渡辺茂
  1.悠々と流れる大河
    きらきらと輝く空
    素晴らしい緑の南葛西第二
    此処に育つ幸せ
    優しく強く美しく
    さあみんな肩組んで
    明日の希望を歌おうよ
  2.堂々と聳える校舎
    すくすくと枝張る木々
    素晴らしい緑の南葛西第二
    此処に学ぶ喜び
    正しく深く幅広く
    さあみんな手を繋ぎ
    世界を目指して羽ばたこう


 
同58年11月26日開校記念日と定める。同60年校地拡張。同61年創立50周年記念式典。
同63年ランチルーム完成。平成3年創立10周年記念式典。飼育小屋完成。同6年学区変更により
第四葛西小学校・南葛西小学校から120名移籍。同13年家庭科室改修。 




【南小岩】((みなみこいわ)1〜8丁目              最終語53年2月1日
 下小岩村。明治22年小岩村大字下小岩、昭和3年小岩町大字下小岩、同7年江戸川区小岩町1
〜4丁目、昭和41年9月1日小岩町1〜4丁目・北篠崎町・鹿骨町・松本町・興宮町・上一色町
の各一部をあわせて現行の「南小岩2〜8丁目」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『江戸川区史』など。

 
南小岩について
 町名は
小岩地区の西南部に位置することによるが、江戸時代は村はずれだった。小岩の由来は「小
岩」を参照のこと。



■天祖神社
 1丁目1番にある?



■諏訪神社
 1丁目5番にある?



■南小岩第二小学校
 2丁目16番にある区立校。昭和33年南小岩小学校の分校として開設。同36年独立して「東京
都江戸川区立南小岩第二小学校」として開校。同39年体育館完成。同40年第一期鉄筋コンクリー
ト造り校舎6教室落成。校歌制定。
 同41年プール完成。同44年第二期鉄筋コンクリート造り校舎9教室落成。同46年創立10周
年記念式典。同47年第三期鉄筋コンクリート造り校舎6教室・給食室・職員室。同49年第四期鉄
筋コンクリート造り校舎11教室・特別教室・学窓保育室落成。同創立20周年記念式典。平成2年
万年塀を生垣に転換。同3年創立30周年記念式典。平成9年パソコンルーム開設。同12年インタ
ーネット接続。同13年創立40周年記念式典。

 校歌
 昭和40年頃は、まだ校歌のない学校が多かったが、この頃から校歌を作る学校が増え、開校した
らすぐに校歌も作るようになった。さてここでも校歌を作ることになり、当時の先生たちは、他の学
校とは一味違うちがうものにしたいという意見を強く出した。そこで作詞は詩人小林純一に頼むこと
になった。小林は何度も学校に来て、いろいろな先生と善養寺や土手などの学校の周りを歩き、作詞
の参考にしたという。その時、花など自然が多く、発展していく地域であることが詞に表されている。
そして作曲は「夏の思い出」で有名な中田喜直に依頼。中田と小林のコンビは多くの童謡を拵えてい
る仲だ。かくて小林の詞の言葉を大切に、中田が曲を作ったのが現在の校歌だ。昭和40年12月4
日校歌発表会が開かれ、小林も出席し、消防庁の音楽隊も演奏しにきてくれた。
  1.爽やかな風吹き渡る
    江戸川堤その畔(ほとり)
    ああ降り注ぐ陽を浴びて
    何時も季節の花開く
    明るい学校 私たちの
    南小岩第二小学校
  2.日本の歩みそのままに
    栄える町よこの辺り
    さあ限りなく開け行く
    未来目指してまた今日も
    元気に伸びよう 励み合おう
    南小岩第二小学校
  3.桜の花の校章は
    気高い理想示すもの
    さあその校旗先頭に
    高く掲げて 進め皆
    歴史と伝統 讃え合いながら
    南小岩第二小学校



清流山妙要寺
 3丁目14番にある本門仏立宗の寺。本堂と住いが一体構造で、本堂は2階建て、住いは3階建ての
鉄筋コンクリート構造。本堂の1階は駐車空間。入口に六角形の宝物堂がある。



■中曽根天祖神社
 4丁目1番にある。



■諏訪神社
 4丁目3番にある小社。



■南小岩小学校
 4丁目16番にある区立校。昭和14年開校。沿革校歌など不明。



■下水道局小岩ポンプ所
 5丁目4番にある。



■下小岩第二小学校
 5丁目5番にある区立校。昭和28年下小岩小学校の分校開設。同30年独立して「東京都江戸川
区立下小岩第二小学校」として開校。同39年創立10周年記念式典。同41年第二期鉄筋コンクリ
ート造り校舎三階建て6教室落成。同43年本一色小学校開校に伴い児童81名移籍。同45年第三
期鉄筋コンクリート造り校舎4階建12教室及び校長室・職員室・事務室・給食室・主事室・正面玄
関落成。同46年最終期鉄筋コンクリート造り校舎4階建て3教室・児童玄関及び屋内体育館・音楽
室・図工室・家庭科室・理科室完成し完成校舎となる。同48年上一色南小学校開校に伴い児童21
3名移籍。同49年開校20周年記念式典。同59年創立30周年記念式典。万年塀の一部を生垣に
改修。同62年万年塀を撤去しレンガ塀に据え替え。植樹400本、バラ生垣設置(東側)。
 平成元年窓枠アルミサッシ化。9月屋上全面改修。同2年ランチルーム・なかよしルーム全面改修。
同4年プール改修。同6年開校40周年記念式典。同9年パソコンルーム開設。同16年創立50周
年記念式典。

 校歌「新中川の」 作詞・平野多美子  作曲・吉田重雄
  1.新中川の水青く
    流るる畔 学び舎に
    清き心を育てつつ
    互いに励む楽しさよ
  2.教えの庭に続きたる
    土手は明るき芝の色
    肩組み合って歌いつつ
    仰ぐ希望の空高し
  3.ああ新しき日本を
    作る我らは手を取りて
    強く正しく一筋に
    進まん第二 下小岩



神照山円蔵院
 6丁目16番にある真義真言宗の寺。入口を入ると右に墓地。本堂の裏も墓地。本堂の左は3階建
て鉄筋コンクリート造りの寺務所・庫裏。掃除が行き届いて清々しい寺だ。離れ墓地が6丁目19番
にある。



■沖天祖神社
 6丁目16番にある中社。



■下小岩小学校
 7丁目8番にある区立校。昭和7年9月「東京府南葛飾郡下小岩尋常小学校」として開校。10月
周辺郡部が東京市に併呑されたことにより、「東京府東京市下小岩尋常小学校」と名称変更。同9年
木造2階建て4教室増築。同10年木造2階建て4教室増築。同16年国民学校令により「東京府東
京市下小岩国民学校」と改称。12月日米開戦。同18年都制施行により「東京都瑞江国民学校」と
改称。同19年味噌汁給食。8月第一次集団疎開山形県温海温泉。9月第二次集団疎開山形県長井町。
同20年6月学校閉鎖。疎開できない児童のために下小岩戦時教育所仮教室を開設。第三次集団疎開。
8月日本は、ならず者国家アメリカの軍門に降り敗戦。以後属国となり、唯々諾々といいなりになる
保守傀儡政権を保持せざるを得ない今日的不幸を背負い込む。もう200兆円以上がとこ持っていか
れたよ。これからは米軍の尖兵として最前線に自衛隊を出せといってくるぞ。10月から11月疎開
解除により児童帰校。学校再開。同22年アメリカの強制による学制改革により「江戸川区立下小岩
小学校」と改称。

 同26年校歌「」制定。撰詩・吉田紘二郎 作詞・葛岡孝平  作曲・吉田重雄
  1.愛しき里の学び舎に
    気高き富士を仰ぎつつ
    清き姿のそのままに
    励む我らの下小岩
  2.
海に入るまで一筋に
    豊かかに続く江戸川の
    広き心のそのままに
    進む我らの 下小岩
  3.清き姿の揺るぎなく
    広き心をいざ共に
    平和の国のそのままに
    築く我らの下小岩


 同33年火災のため南側木造校舎12教室焼失。同34年鉄筋コンクリート造り校舎落成。同30
年屋内運動場完成。同42年プール完成。
 平成4年ちびっこ力士像設置。同14年創立70周年記念式典。同17年壁面緑化事業(緑のカー
テン)工事。 



宝林山興聖寺
 7丁目20番にある曹洞宗の寺。入口正面に本堂。その右に3階建て鉄筋コンクリート造りの庫裏。
墓地はない。



■音のミニ博物館
 
7丁目21番にある。詳細不明。



■小岩駅
 7丁目24番にある総武線の停車場。明治32年5月24日総武鉄道本所駅(錦糸町駅)〜市川駅
間開通の5年後に追加開業した。ホームは高架島式1面2線構造。ホームと改札階を結ぶエレベータ
ーは設置してある。改札はいずれも地上1階にあり、メインの1ヶ所のほか、高架下にあるショッピ
ングモール「PoPo小岩」へ直接つながる改札もある(PoPo小岩の改装工事に伴い、この改札
は平成19年1月8日から3月23日午前10時まで閉鎖たことがある)。出口は北口と南口の2ヶ
所。小岩駅の出口は、1階と言えども若干の段差があるのだが、そこにもきちんとエレベーターが備
えられている。
 改札前には、小岩出身の名力士44人目横綱栃錦清隆の銅像があり、待ち合わせなどに使われてい
る。栃錦は東京の相撲部屋へ入門する時、親子水杯を交わしたという。当時の小岩村の人々には東京
の認識はなく。地方から上京する感覚だった。現在の小岩ッ子は「江戸っ子」だ
という不心得者もいるという。東京っ子かも知れないが全く江戸っ子じゃあねえ。もっと小岩
を誇りに思いねえ。



■真徳寺
 8丁目4番にある浄土真宗の寺。2階建ての高級住宅風で、玄関に寺名の掲額があるので寺だなと
判る。門もそんな雰囲気なので入り辛い。墓所はないようだよ。 




【南篠崎町】(みなみしのざきちょう)               平成13年11月5日
 上鎌田村。明治22年篠崎村大字上鎌田。昭和7年江戸川区南篠崎町。同13年一部を江戸川1
丁目に譲り、同41年南篠崎町1〜4丁目・谷河内2丁目・篠崎町2〜4・6丁目に分かれ、幾ら
か旧南篠崎町が残った。同62年11月2日南篠崎町1丁目を再編して現行の「南篠崎町1丁目」
とし、前野町の全部・残った南篠崎町・篠崎町3丁目の各一部をあわせて現行の「南篠崎町5丁目」
とし、平成5年11月1日南篠崎町4丁目を再編して、現行の「南篠崎町4丁目」とし、同6年1
1月2日南篠崎町3丁目に下鎌田町の一部をあわせて現行の「南篠崎町3丁目」とし、同13年南
篠崎町2丁目に下鎌田町の一部をあわせた町域を現行の「南篠崎町2丁目」として南篠崎町は一応
新住居表示を終わる。住民もたまったもんじゃない。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『江戸川区史』など。

 南篠崎の由来
 町名は
篠崎村の南外側の意。篠崎の由来は「篠崎」を参照。



薬王山蓮華院西光寺
 1丁目1番にある真言宗豊山派の寺。芦田家の菩提寺だ。永正二年(1505)法伝中僧都の草創
で本尊は木造の阿弥陀如来立像。本堂横にあるのは薬師堂。鐘楼の横の「石造線彫地蔵菩薩独尊立僧
碑」は、天明年間(1781〜89)に竜雲和尚の彫ったもので、繊細流麗さは美術的に見事なもの
だよ。必見だぁな! 銀杏の巨木もあるぜ。

 ●絹本着色六地蔵菩薩画像(昭和57年区無形文化財)



■立木観音堂
 1丁目4番にある西光寺境外仏堂。古代人が神と崇めたのは天然自然の驚異だった。次にそれらが
落ちる高山や大海、巨岩、巨木、樹叢に霊性を感じ崇拝した。やがてギリシャ思想や芸術の影響を受
けて、これらの対象物に人間の形に似せて神像や仏像を刻もうとの考えが起こった。これらの中、尤
も大規模で堅牢なのは山そのものに彫刻した磨崖仏だ。アフガニスタンのバーミアンは、中華のファ
ミレスじゃないよ。ここには二つの磨崖仏があったが、先年愚かなイスラム教徒によって爆破されて
しまった。高さ55mと38mもあった。これを復元しようという計画はあるそうだが、映像を見る
限り木っ端微塵だ。
 これが東漸して中国の敦煌や大同雲崗、洛陽龍門の石仏となったが、日本に伝わると天然自然のス
ケールが小さいので、せいぜい大分臼杵や栃木大谷の石仏程度で終わってしまった訳。その代わりイ
ンド・中国・朝鮮にはないすばらしい木彫仏が残されることとなった。巨木の多かった日本では磨崖
仏に対して立木仏となって現れる。琵琶湖畔石山の立木観音、会津恵隆寺の塔寺観音(8m50)、
信州智誠寺の立木観音(3m)、日光中禅寺の立木観音(6m)などである。
 おっと忘れていたわい、立木観音とは、立木つまり現役で生きている木を伐らずに立木のまま彫刻
した仏像のことだ。それが都内で唯一あるのが1丁目の芦田家の観音堂だ。明治38年ごろ芦田家の
裏のケヤキの大木10数本を伐ることにしたが、最後の1本だけは斧を入れると怪我をしたり、病人
が出たりして、どうしても伐ることができない。それでこれは神木だろうということで、行徳の仏師
浅子周慶に依頼して観音像を彫って貰った。高さ6メートル、像高2.58m。正式な開眼供養は昭和
3年4月17日、戦災に遭うこともなく近隣の人々の崇敬の的となっている。



■鎌田小学校

 2丁目45番にある区立校。明治16年上篠崎村・下篠崎村・笹ケ崎村の3村による、村立三崎小
学校を開校。下篠崎村1411番地に「三崎第一小学校」として認可。同25年上鎌田499番地に
「三崎第二小学校」を設立。同34年「南葛飾郡篠崎村立篠崎尋常
小学校」と改称。同36年高等科
を併置して「南葛飾郡篠崎村篠崎尋常高等小学校
と改称。下篠崎1271番地(篠崎図書館のとこ
ろ)に校舎新築移転。明治38年第一分校を設置し、三崎第二小学校を鎌田分教場と
して認可、1、
2年1学級。旧篠崎村と鎌田を通学区域とする。
 昭和10年南篠崎町398番地に校地2866坪を設定。鎌田分教場の地鎮祭実施。同11年新校
舎落成(106坪)。本校より南篠崎町全部、東篠崎の大部分、旧瑞江の前野当代の全部の児童を収
容して1〜4学年4学級編成。同12年1〜5学年5学級編成。同13年1〜6学年6学級編成。
 [独立]
 同14年独立して「東京府東京市鎌田尋常小学校」として開校。同16年国民学校令により「東京
府東京市鎌田国民学校」と改称。12月日米開戦。同18年都制施行により「東京都鎌田国民学校」
と改称。同20年8月日本は、ならず者国家アメリカの軍門に降り敗戦。以後その属国とされ、唯々
諾々といいなりになる保守傀儡政権を保持せざるを得ない今日的不幸を背負い込む。もう200兆円
以上を持っていかれたよ。これかの若者はアメリカの要求のままに米軍の尖兵して戦場に駆り出され
る。武運長久で戻って来いよ。
 同22年アメリカの強制による学制改革により「東京都江戸川区立鎌田小学校」と改称。同24年
開校10周年記念式典。同26年4教室及び給食場一棟65坪増築。同30年4教室2階建53坪増
築。付帯施設として便所、渡り廊下、手洗所、側溝完成。同31年校池1300坪を塵埃により埋立。
同35年南側に2教室2階建校舎、玄関及び階上教材教具室。給食場12坪を22坪に増改築。開校
20周年記念式典。同36年2月第一次校地整備。2教室増築。10月校地整備。同37年万年塀完
工。給食室改装工事完了。給食用洗浄機備付。特別2教室(視聴覚、図書室)増築。同39年校歌制
定。

 校歌「楽しい光が」 作詞・勝承夫  作曲・小村三千三
  1.楽しい光が満ち渡る
    空だ 子供は青空だ
    明るい鎌田 よい学校
    夢も大きく逞しく
    明日の日本の
    見よ 力が育つ
  2.江戸川堤の草に吹く
    風だ 子供は微風だ
    平和な鎌田 みな元気
    菊の香りも懐かしい
    庭に果てない
    それ 希望が燃える
  3.緑の木立に呼び交わす
    鳥だ 子供は雛鳥だ
    伸び行く鎌田 溌剌と
    自主の校風 受け継いで
    高く上げよう
    いざ 母校の誉れ


 同41年第一期鉄筋コンクリート造り校舎(普通教室9室)落成。同43年通学区変更。江戸川1
丁目の児童334名を江戸小学校へ移籍。第二期鉄筋コンクリート造り校舎(普通教室6、図書室、
音楽室、給食室、校長室、職員室、警備員室、用務員室)落成。同45年体育館完成。創立30周年
記念式典。同46年第三期鉄筋コンクリート造り校舎(普通教室10、保健室、玄関、事務室)落成。
同48年第四期鉄筋コンクリート造り校舎(理科室、家庭科室、図工室)落成。校庭舗装。11月全
施設完成記念式典・祝賀会。わんぱく山完成。同52年南篠崎小学校を分校。学区域変更。南篠崎3
・4丁目の児童266名を移籍。同54年開校54年開校40周年記念式典。同58年給食室改修。
同59年音楽室防音冷房化。同62年プール改修。平成元年開校50周年記念式典。同3年「なかよ
し広場」が完成。同4年スプリンクラー設置。同11年開校60周年記念式典。同12年通学区域変
更。篠崎第三小学校、江戸川小学校へ児童移籍。同13年仮校舎移転。



■天祖神社
 2丁目54番にある。

 上鎌田の富士塚(昭和57年区有形文化財)
 明治19年上鎌田村丸星講の人々によって築造された。小規模で、南側に裾野を広げた高さ約1.5
m 位の富士塚である。頂上には立派な祠があり、また途中にもいくつかの祠が見られる。麓の富士塚
入り口付近には、やはり貫目で重量が表示された力石が置かれていたが、近年修復したという。力石
は立てられていた。この工事中に築造石が発見され、明治19年の築山だということが判明した。塚
の高さは1.5m 面積は広く、円墳に近い形をしている。登山道は稲妻型の石段で、頂上には「浅間
神社」と刻まれた石祠が祀られている。大正14年の大正天皇の銀婚記念碑も建ててある。



■江戸風鈴

 4丁目22番にある篠原風鈴本舗は、江戸時代から伝えられるガラス風鈴の都内唯一の工房だ。風
鈴の起源は中国、しかし日本とは全然違う使い方だった。竹林に下げて風の向き、音の鳴り方で吉凶
を占う道具で、占風鐸(せんふうたく)と呼ばれていた。日本には仏教などと一緒に渡来してきた。
お寺の四隅にかかっている風鐸がそれだ。風鐸のガランガランと鳴る音が厄除けとして使われた。つ
まりその音が聞こえる範囲の住民には災いが起こらないといわれたものだ。平安、鎌倉時代の貴族の
間では縁側に下げて、外から疫病神が屋敷の中にはいるのを防いだと『六学集』に記してある。『法
然上人絵巻』にも銅製の風鈴が描いてある。形は今現
在のものとは少し違うけどね。
 ガラス製の風鈴が出始めるのは、文献には享保年間(18世紀)とされている。長崎のガラス職人
がガラスを見せ物として大阪、京都、江戸で興行したことにより広まっていった。その頃の価格は今
の金に換算すると200〜300万円もしたとか。
 なぜガラスが高かったのか。
 それは原料を作る技術がなかったからだ。原料は外国から輸入をするか、外国人のいる長崎でしか
手に入らなかった。だから高かった。江戸末期の学者たちがガラスの製造方法を書いた
本がいろいろ出たが、ガラスにならない物もかなりあった。
 ガラスが安くなるのは、天保以後のこと。それは江戸のガラス問屋である上総屋留三郎が長崎にガ
ラスの研究に行き、江戸に帰ってくるのが天保五年。恐らく江戸に帰った後、ガラスの原料を作って
卸を始めている。幕末から明治にかけて加賀屋、上総屋の二大問屋が隆盛を誇っている。「加賀屋」
は理化学用のガラス製品を得意とし、一方の「上総屋」はビードロ風鈴、ビードロかんざしなどの嗜
好品を得意とした。現在も「加賀屋」の引き札(カタログ)が残っているが、切り子製品など立派な
ビードロ製品があった。「上総屋」の引き札は現存せず、その当時の風鈴など詳しい資料はない。「加
賀屋」の引き札には2種類の風鈴がある。ただガラス工場の関係の資料を見ると、江戸の末期から明
治にかけて「上総屋」の流れを汲む職人が沢山いた。見学など問い合わせ
 03‐3670‐2512へどうぞ。



■南篠崎小学校

 4丁目27番にある区立校。昭和52年篠崎小学校・鎌田小学校から分校し「東京都江戸川区立南
篠崎小学校」として開校。16学級児童583名でスタート。プール完成。校歌制定。

 校歌「広い空 青い空」 作詞・勝承夫  作曲・小出浩平
  1.広い空 青い空
    行く水は世界にひ く
    南篠崎 伸び行く大地
    南篠崎 明るい子供
    決まりを守り 弛まず進む
  2.天祖神社(みやしろ)の大銀杏
    住む人はみな和やかに
    江戸の昔も文化の故郷
    目指す行く手は果てなく遠く
    楽しく強く頑張る我ら
  3.縁(ゆかり)あり 名残あり
    鬼灯(ほおずき)の実りのように
    南篠崎 膨らむ夢よ
    南篠崎 学びの庭
    仲良く励み 日に日に進む


 同56年開校50周年記念式典。同61年校長室・事務室・印刷室・第一多目的室・第二多目的室
・図書室改修。平成3年日本の遊び大会。学校美術館開館。同4年ズームイン朝「チャレンジランキ
ング」放映。「自分のかくれた力を見つけよう」大会。同5年校庭砂場の枠をゴム製に取り替え。同
9年開校20周年記念式典。同14年開校25周年記念集会・記念誌発行同18年プレハブ校舎完成。
同19年30周年記念式典。




【谷河内】(やごうち)1〜2丁目                最終平成5年11月1日
 谷河内村。江戸初期からある。明治22年鹿本村大字谷河内・一之江村(大正2年から瑞江村)
大字谷河内。昭和7年江戸川区の成立で鹿本村の谷河内は鹿骨町に吸収されて消滅。瑞江村に属し
た谷河内は谷河内町になった。同9年一部を椿町に移し、下鎌田・椿町の一部を編入し、同13年
一部を西瑞江1丁目に譲って戦後に至る、同41年谷河内町の一部に下篠崎町・南篠崎町の各一部
併せた町域を谷河内1〜2丁目とし、残部は南篠崎町・鹿骨町に移譲した。平成3年谷河内1丁目
に西瑞江1丁目の一部を加えて新住居表示を実施、現行の「谷河内1丁目」とし、同5年2丁目に
も住居表示を実施、現行の「2丁目」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『江戸川区史』など。

 
谷河内の由来
 由来は不明。谷川の内の湿地帯のことか? 湿地帯を表す谷荒地のことか? 地名用語では「カ
ワチ」「カワウチ」は「過去に洪水のあったところ→河の内だよ」の意を表すので、やはり地形的
には湿地帯だったと考えられる。足立区に古千谷(こぢや)、大田区に糀谷(こうじや)・矢口(や
ぐち)、練馬区に谷原(やわら)があり、似たような環境だ。



■妙泉寺
 1丁目6番にある日蓮宗の寺。今から凡そ360年前、寛永十一年(1634)の開山。むかし江
戸川区は下総国に属しており、東葛西領谷河内村は旗本松浦氏の領地だった。勘定奉行松浦河内守信
正の奉納した写経塔、信正の肖像画がこの寺にに現存している。
 久遠廟の後方に安宅丸の稲荷堂がある。安宅丸は徳川家光が幕府の威信をかけて建造した将軍家の
巨大御座船(建造費10万両)だが、その後同船が深川沖で解体され、船玉(船の守護神)が当寺に
遷された。商売繁盛の「稲荷さま」として庶民の信仰を集め、当時は日本橋の商人や中村座の歌舞伎
役者、野田の醤油屋(キッコーマン)からも遙々参詣があった。
 キッコーマン野田工場に安宅丸稲荷のお札が祀られており、現在でも毎年参詣がある。




【臨海町】(りんかいちょう)1〜6丁目             最終昭和62年9月1日
 昭和58年9月1日葛西浦公有水面埋立地に葛西2丁目・堀江町・上蜆島・下蜆島の各一部をあ
わせた町域を現行の「臨海町1・3〜4・6丁目」とし、同59年11月1日新田2丁目・葛西2
丁目の各一部と葛西2丁目地先の埋立地をあわせた町域を現行の「臨海町2丁目」とし、同60年
新田2丁目地先の埋立地を1丁目に編入し、同62年堀江町・上蜆島の各一部をあわせた町域を現
行の「臨海町5丁目」とし、堀江町の一部・下蜆島の残り全部・堀江町地先埋立地を6丁目に編入
して新住居表示を完了した。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『江戸川区史』など。

 臨海の由来
 葛西浦の海を埋め立てた新しい町で、まさに「海に臨む埋立地」をそのまま町名にした。その殆
どが公共施設(病院・高校・遊園地・下水処理場・卸売市場・トラックターミナル・臨海公園)で
占められている。葛西臨海公園は南端にあり、人工なぎさが造られて海水浴場になっている。昭和
63年に京葉線臨海公園駅が開設され交通の便は悪くない。
 つい最近まで荒涼としたところだったのになぁ・・・・



■下水道局葛西水再生センター
 1丁目1番にある。荒川河口に位置し、首都高速湾岸線を挟み南北の施設からなっている。処理区
域は、荒川と江戸川に囲まれた江戸川区の大部分と葛飾区の一部で、面積は4893haだ。処理した
水は荒川に放流し、一部を砂ろ過してセンター内の機械の洗浄や冷却・トイレ用水などに使用してい
る。発生した汚泥は、中川水再生センター、小菅水再生センターから圧送された汚泥とともにセンタ
ー内で焼却しているんだよ。

 臨海球場
 下水道局葛西水再生センターの上部約50000uを利用して、フットサル2面、少年野球場4面、
少年サッカー・ラグビー場2面(一般利用の時は野球場2面、ラグビー・ラクロスなどの使用は1面)
を設置している。
 




■東京臨海病院
 1丁目1番にある区内初の総合病院。日本私立学校振興・共済事業団の運営。平成14年開院。総
合診療科、糖尿病内分泌内科、循環器内科、消化器内科、呼吸器内科、神経内科、メンタルクリニッ
ク、小児科、外科、整形外科、形成外科、脳神経外科、心臓血管外科、皮膚科、泌尿器科、産婦人科、
眼科、耳鼻咽喉科、放射線科、ペインクリニックがある。400床(ICU・CCUの10床を含む)。



■新左近川親水公園
 2〜3丁目の北側、新左近川の岸辺に作られた区立公園。昭和59年6月4日に開園した。新左近
川は昭和40年代の埋め立てで左近川下流として作られた河川で、埋め立てまでは海だったところだ。
親水公園といっても、新左近川そのものを楽しむ公園で、園内にはボート場やバーベキューを楽しめ
る憩いの広場などもあり、家族連れで水辺で長閑な休日を満喫することができる。新左近橋の西側に
は新左近川マリーナがあり、係留された船舶を眺めれるし、水面には飛来する野鳥も多く、カルガモ、
ウミネコ、カワウ、コアジサシなどが観察できるよ。
 開園時間10:00〜17:00(3〜11月のみ) 休園日:月曜。



■紅葉川高等学校
 2丁目1番にある都立校。校名は元々は中央区の紅葉川の近くに開校したことによる。昭和3年「東
京市楓川専修女学校」創立。日本橋女子高等学校子校舎落成に伴い同校内に併設。同6年実業学校令
により
、「東京市日本橋家政女学校」と改称。同15年「
東京市立日本橋高等家政女学校」と改称。
修業年限を4年に延長。7月月
都政実施により、「東京都立日本橋高等家政女学校」と改称。同21
年「東京都立紅葉川高等女学校」と改称。同23年「東京都立紅葉川高等学校」と改称。定時制併置。
同28年
創立25周年記念事業として図書館を建設。同53年創立50周年記念式典。
 [移転計画]
 同58年都教育庁より「紅葉川高等学校の移転と分校の設置について」によって正式提示される。
仮称「葛西沖高校」。同59年「紅葉川」の校名存続が内定。分校開設準備事務所を都立紅葉川高等
学校(中央校舎)に開く。墨田校舎建設起工式を臨海町の現場で実施。11月「東京都立紅葉川高等
学校墨田校舎」設置。12月開設準備事務所を都立深川商業高等学校内に移転。同60年都立城東高
等学校において入学者選抜学力検査を実施。墨田校舎第1回入学式を中央区立中央会館において挙行。
都立深川商業高等学校において授業開始。4月新校舎竣工。12月東京都立学校設置条令改正により、
本校の名称は「東京都立紅葉川高等学校」と変更され「墨田校舎」の名称が取れる。つまり東京都立
紅葉川高等学校は、中央区と江戸川区に2つ存在することになった。江戸川校舎の
所在地を江戸川区
臨海町2丁目1番地1号と規定、同日付で深川商高から移転。
 [移転]
 同61年新校舎において授業開始。本校において入学者選抜学力検査を実施。第2回入学式を本校
体育館にて挙行。11月27日〜12月20日伊豆大島大噴火緊急避難により、都立大島高校を本校
内に仮設置。校歌制定。

 校歌「朝日に映ユる」 作詞・14代校長水谷益美  作曲・飯田知香
  1.朝日に映ゆる時計塔
    青春の標(しるべ)高らかに    
    わが学び舎に聳えたり
    希望(のぞみ)豊かに 情濃(こま)やかに 
    きらめく生命(いのち) いとおしみつつ
    相敬いて 今日も励まん
  2.左近の川の桜如
    若き情熱潔し 
    意気秋天の富士に比す
    自主と自律の理想を掲げ
    努め磨かん心と技を
    共に拡げん友情の輪を
  3.東京湾の夕照に
    舞う百合鴎悠然と
    潮騒の海 平和なり
    広き心と英知の瞳
    未来へ続く 真理(まこと)見つめて
    いざ羽ばたかん 紅葉川高校
    いざ羽ばたかん 紅葉川高校


 平成3年コンピュータ室、LL教室設置。同6年3月中央校舎を閉校。江戸川校舎に統合。同7年
江戸川校舎落成10周年を祝う会。同10年創立70周年記念式典(江戸川区総合文化センター)。
同12年機械警備開始。同13年英国ヘンドン・スクール短期留学生受け入れ。同14年から毎年英
国タビストック・カレッジ短期留学生徒受け入れ。同15年明海大学間、千葉商科大政策情報学部間
の高大連携実施協定締結。第1回短期留学生徒を英国タビストック・カレッジへ派遣。毎年の恒例と
なる。同16年本校第1回短期留学生徒を英国タビストック・カレッジへ派遣。高大連携制度に基づ
き、生徒を明海大学及び千葉商科大学へ派遣。同17年高大連携制度に基づき、生徒を明海大学へ派
遣。


 紅葉川高等学校中夫校舎跡地碑
 現在の中央区中央警察署の敷地に、平成6年3月設置の記念碑が建てられており、そのプレートに
次の記載がある。


   東京都立紅葉川高等学校は昭和3年4月当地にあった日本橋女子高等小学校内に、東京
   市日本橋区楓川専修女学校として発足した。当時日本橋地区の女子教育の充実、発展を
   切望する地域の要請を請けて設立されたものである。
    以来、戦前・戦後を通じて全日制課程2400余名もの多くの有為な人材を社会に送
   り出してきた。校名の由来は、皇居内の紅葉山を水源とする「もみじ川」と「日本橋川」
   の合流地点に位置した当地に因み、楓川の名が用いられたものである。
    昭和59年に着手された都立紅葉川高等学校の江戸川区内への移転・改築事業の完了
   にあたり、創立以来66年の長期にわたり、本校の充実・発展に尽力された多くの関係
   者、地域の人々に感謝の意を表し記念碑を設置する。
   沿革昭和 3年4月 東京市日本橋区楓川専修女学校創立
     昭和 6年3月 東京市日本橋家政女学校
     昭和15年3月 東京市立日本橋高等家政女学校と改称
     昭和21年4月 都立紅葉川高等女学校と改称
     昭和23年4月 都立紅葉川新制高等学校と改称
     昭和23年5月 定時制課程併設
     昭和25年1月 都立紅葉川高等学校と改称
     平成 6年3月 都立紅葉川高等学校中央校舎閉校。江戸川区臨海町に移転。


 ただし〔皇居内の紅葉山を水源とする「もみじ川」〕なんて川は、何処をどう探したってありまへ
ん。第一紅葉山に水源自体がないよ。楓川は、日本橋川と京橋川・桜川(八丁堀)を結ぶ「材木町堀」
で、楓川とは俗称、明治16年の官報により新政府の強制による命名なのだ。区教委もいい加減なも
のだ。




■臨海小学校
 2丁目2番にある区立校。平成4年区内72番目の「東京都江戸川区立臨海小学校」として開校。
26学級、児童数967名でスタート。校歌制定。

 校歌「海は光りて」 作詞・丸山典雄  作曲・佐藤眞
  1.海は光りて潮は満ち
    新しい町 希望にもえる
    明るい瞳 輝かせ
    知恵と知恵とを繋ぎ合い
    海一杯に 夢広げ
    みんな元気に明日を学ぼう
    ここは臨海小学校
  2.緑爽やか風渡る
    白き学びや 陽に微笑む
    強い体を鍛えつつ
    心と心を結び合い
    空一杯に夢広げ
    みんな楽しく未来を掴もう
    ここは臨海小学校


 同10月7日開校記念式典。開校記念日と定める。
 



■東京都中央卸売市場葛西市場・花卉市場
 3丁目4番にある都立校。青果市場は、昭和59年5月7日、花卉市場は、平成7年4月14日開
場。江戸川区・葛飾区・江東区・墨田区及び台東区の区部東部地域を供給対象に、青果物及び花卉を
取り扱う市場だ。場所は東部流通業務団地(50ha)の中に位置し、周辺にはトラックターミナル、
倉庫団地などの流通業務施設が設けられている。また市場の北側に隣接し民営の食料品総合市場であ
る「葛西食品市場」(2ha)と一体となってワンストップショッピング機能を備えた市場を形成して
いる。



■葛西トラックターミナル
 4丁目2、3番にある。荷扱場(20mホーム:1〜3号棟・25mホーム:4〜9号棟)配送セ
ンター(10号棟)、物流近代化センター(11号棟)、総合物流センター(12号棟)給油所(CN
Gスタンド併設)・洗車場他がある。
 管理棟には、事務所・会議室・防災センター・食堂・浴室・診療所・理容室・ATM。



■葛西臨海公園

 6丁目2番に平成元年6月に開園した都立公園。この公園は大空のもと紺碧の海が広がる東京湾に、
緑と水と人のふれあいをテーマに5つのゾーンを配して誕生した公園だ。昭和60年1月から葛西沖
開発土地区画整理事業の一環として着手され、平成元年度にその一部約38haがオープン。同6年
4月には鳥類園ゾーン、同7年7月には展望レストハウス「クリスタルビュー」、同13年春には大
観覧車がオープンした。また葛西海浜公園にも隣接しており、行楽地としての色あいの濃い公園となっ
ている。

 葛西臨海水族館
 公園内にある水族館。2200トンの大水槽でマグロが群泳する「大洋の航海者」や、七つの海の
魚が見られる「世界の海」、なぎさの生物に触れることのできる「しおだまり」などがある。マグロ
が団体戦で泳いでるし、沼や清流の断面も見られるし、すっげぇおもしれえよ。
 入園は9:30〜16:00 入園料は高校生以上700円(65歳以上は半額、団体:280円)
・中学生250円・小学生以下は無料 03-3869-5152

 鳥類園
 公園内にある。むかし葛西には三枚州・高須といった広大な干潟があり、魚貝類が豊富でそれらを
エサとする鳥類が飛来し、繁殖すること関東でも有数の場所だった。そこで鳥類園では淡水池・汽水
池および広大な森を人工的に造成し、以前のような豊かな自然環境の創出に努めている。

 
クリスタルビュー
 公園のほぼ中央にある展望レストハウス。ガラス張りの全天候型展望施設だ。公園が出来るまでの
計画や、葛西沖の埋め立てから完成までの歴史をパネルや映像で紹介している。広い東京湾が一望で
き、特にサンセットは美しく、絶好のデートスポットだ。冬の富士山は夕方がいい。

 ホテルシーサイド江戸川
 
公園内にアーバンリゾートを満喫できるホテルがあるよ。 ウォーターフロントのプレイスポット
を巡る拠点として、また休日を寛ぐ空間として利用できるこのホテルは、都心からわずか15分とは
思えないほどリゾート感覚に満ち溢れている。 またディズニーランドにもディズニーシーに近いの
で、車でホテルに来て泊まり、電車で行ってホテルに戻ってくるってえのも一つの手だぜ。

 ダイヤと花の大観覧車
 公園の目玉。この観覧車に乗って地上117mの上空から周囲を見渡すと、世界的に有名なランド
マークである、レインボーブリッジ、アクアラインの海ほたる、都庁、東京タワーサンシャインビル、
六本木ヒルズ、房総半島から富士山に至るまで関東の有名観光名所を一望にでき、約17分の空中散
歩を楽める。またキャビン内では景観案内放送が流れ、さらに窓には見ることの出来る景色を表示し
ているので、東京湾の近景から遥か遠くの景色まで、十分に楽しめる。
 見知らぬ同士の相席は廃止したよ

 
葛西海浜公園
 
臨海公園の南側に作られた人口の浜辺。東なぎさと西なぎさの2つあり、西なぎさには葛西渚橋が
渡してあるので浜遊びが出来る。砂浜では、磯遊び、砂遊びの外、潮干狩りが楽しめるよ。指定され
たエリアでは、バーベキュー、釣り、スポーツカイト、凧揚げが楽しめる。バーベキュー、釣りにつ
いては葛西海浜公園管理係(03-5696-4741)にまずは問い合わせてくんない。いろいろ条件があるみ
たいだよ。スポーツカイト、凧揚げについては、葛西海浜公園西なぎさ「海風の広場」で楽しんでく
れい。

 海上バス 廃止
 葛西臨海公園〜パレットタウンは、平成18年3月26日の最終便を以て運行休止となったよ。再
開は未定。



■葛西臨海公園駅

 6丁目3番にあるJR京葉線の停車場。昭和63年12月1日の京葉線新木場〜南船橋間開業時に
できた駅。ちなみに葛西臨海公園は、駅開業から7ヶ月後の平成元年6月1日に開園した。ホームは
高架島式1面2線構造で3階にある。ホームの外側には2線の通過線を持っており、特急や快速の待
避も行われる。ホームと改札階を結ぶエレベーターは設置済みだ。
 改札口は1ヶ所のみで2階にある。改札階から地上へ下りるエレベーターも設置済み。高架駅なの
に出口は南側にしかない。
 通常各駅停車しか停まらないが、土・休日になると武蔵野線の快速電車が停車するようになる。武
蔵野線の快速は武蔵野線内各駅停車なので、その場合はすなわち越中島・潮見の2駅しか通過しない
ことになる。快速とは名ばかりの快速電車だ。



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