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 東京の地名の由来
 東京知ったかぶり!

 平成17年2月11日発信   リンクフリー
 地名の由来 東京23区辞典 引用自由
 
板橋区の地名の由来
在進行形の調査であれば、逐次、誤謬訂正・新規追加あり。御用心、御用心

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板橋区の地形
 板橋区の地形は、高台(武蔵野台地)と、荒川沿いの低地氾濫低地に大別される。概ね首都高速5
号線より北部が低地、南部が高台となっている。また南部の石神井川、北部の前谷津川や出井川など
河川沿いに谷底低地が形成され、これら低地は、樹枝状に広がっている。

地形・地質と住宅地盤  

 
台地面
 比較的海抜高度が高く、起伏の少ない平坦面で、関東ローム層と呼ばれる火山灰土で覆われている。
関東ローム層は、上部のローム土(赤土)と下部の凝灰質粘土に大別されるが、自然堆積したローム
土は、安定しており比較的大きな強度が期待できるため、表土部分に注意すれば住宅地盤として良好
な場合が多い。区の中・南部。


 
谷底低地
 台地部が小さい河川などによって削られて形成された低地で、台地部の間に樹枝状に分布している。
台地を形成していた土砂が再堆積した土や有機質土(腐植土)などが分布しており、非常に軟弱な地
盤となっている。したがって、長期的な沈下(圧密沈下)を防止するような基礎補強策が必要となる
ことが多い。 白子川、前谷津川、石神井川、谷端川・蓮根川(清水川)などの流域。

 
荒川氾濫低地
 荒川沿岸に広く分布する標高の低い平坦面である。地下水位が高く、軟弱な粘土やシルト(泥地)
が厚く分布しているため、長期的な沈下(圧密沈下)が問題になっている場所が多く、適切な基礎補
強策が必要となる。区北部の低地、高島平や荒川の旧河川敷地区。
 
 


板橋区の歴史

 
古代

 武蔵野台地に人類の生活が始まったのは、約3万年前だといわれている。この台地の東北端に位置
する板橋地方では、石神井川流域や荒川谷の支谷に旧石器時代の遺跡が点在する。中でも茂呂遺跡は
約17000年前に遡るといわれ、旧石器時代を代表する遺跡の一つだ。
 凡そ8千年前には土器文化をもった縄文時代が始まり、3世紀前後には稲作文化の弥生時代、続い
て古墳時代の人々の生活が白子谷、前谷津谷、出井谷などに面する台地に展開、中央集権国家が誕生
する奈良・平安時代になっても竪穴住居に住み、稲作を中心とした生活を送っていたという。

 中世
 治承年(1180)源氏旗揚げの時、頼朝、義経が戸宇久を通過したことが、「義経記」に記され
ており、徳丸・赤塚方面にはこの頃の立派な仏像も残されている。その後、鎌倉時代から室町時代に
かけては豊島氏がこの地方の主権者として威を振るい、その繁栄は文明九年(1477)に豊島氏が
長尾景春の反乱に加担したため、上杉家の家臣太田道灌によって滅ぼされるまで続いた。この後、千
葉県の市川城にあった千葉自胤が古河方に追われ、道灌に守られて赤塚に移り、赤塚城を居城として
勢力を盛り返し、豊島氏が滅びると、板橋地方はもちろん葛西地方から下総国臼井城までもその傘下
に治めた。しかし管領上杉家が勢力を失った後は、北条氏に従ってその勢力を維持させたものの永く
は続かず、ついに天正十八年(1590)小田原城が落城するに及んで千葉氏も滅び、赤塚城は廃城
となった。

 近世
 徳川氏が覇権を握った後、慶長九年(1604)江戸幕府は街道を整備し、一里塚や宿場を設けて
交通の便を図った。これにより当区内には平尾・志村の両一里塚が築造され、板橋宿が設けられた。
板橋宿は江戸4宿の1つとして、江戸へ入る最後の宿場でもあれば、江戸を出る初めての宿場でもあ
るため、寛永十二年年(1635)諸大名の参勤交代の制度が敷かれるに及んで、かつてない繁栄を
見せた。

 近代
 明治維新後、江戸は東京になり、板橋は武蔵県所属となったが、明治2年大宮県へ、さらに浦和県
へと、転属され、同4年東京府の区域拡張が行われ、初めて東京編入になった。その後同11年に北
豊島郡が誕生し、下板橋宿に郡役所が設けられて行政の中心地となった。しかし同16年の上野~熊
谷間の鉄道の開通や、翌17年の大火による板橋宿の大半の焼失により、板橋宿は衰退してしまった。
その後、同18年山手線が開通し、板橋駅も開業、また私鉄の先鞭を切って東上鉄道が開通するなど、
上板橋、赤羽方面が開ける基となり、昭和7年東京市に組み込まれて板橋区が誕生した。板橋区の工
業化の素地を作ったものは、明治9年板橋6丁目から北区へ跨って建設された、陸軍造幣廠、板橋火
薬製造所等の軍関係の工場だった。軍国日本の歩と機を一にし、板橋区はやがて軍都工都として一躍
時代の脚光を浴び、一時は世界を震撼させた工業日本の縮図でもあった。この当時の板橋地方は宿場
を外れれば、山林と広野の連続で、志村方面から、荒川の氾濫の心配のある流域地帯へかけては住宅
も少なかった。このため土地入手の容易な点、製品輸送に舟運を利用しうる利便性から、危険物を取
り扱う軍事工場、爆発性の化学品の製造工場設置に好適の地形と条件を提供していた。

 現代
 昭和22年4月は地方制度の改革による特別区の誕生、区長の公選、地方自治法の制定、区議会議
員の公選と、戦後の地方自治の出発点となった。同年8月に板橋区の総面積の約60%にあたる区南
部が練馬区として分離独立。同25年には埼玉県戸田町の一部 約0.2k㎡が編入され、舟渡町3丁
目(現舟渡4丁目)が誕生した。戦中の軍需中心の板橋区の工業は、終戦を境として灯を消したが、
戦後のめざましい復興は、近代産業興隆の立地条件に適した荒川沿岸・志村・前野町などに、瞬く間
に城北随一の工業地帯を作り上げ、飛躍し続けた。区内に残された唯一の水田地帯〝赤塚田圃〟も、
同41年12月から、日本住宅公団を施工者として区画整理事業が進められ、都内最大の高層住宅団
地「高島平団地」に変貌した。同43年12月この高島平と、巣鴨間に都営地下鉄6号線が開通。同
53年7月都営地下鉄「三田線」に改称され、高島平と三田を結ぶ一大動脈となった。同58年6月
には営団有楽町線が池袋と成増間を結び、板橋区の住宅化が進んだ。

 現在
 高島平の開発は板橋区の近代化の頂点といえる。人口も昭和7年の区誕生時の12万人から50万
人を超え、各地域には近代ビルが林立し、高速道路が走り、首都東京の一画を担う都市景観が出現し
た。一方区民生活の向上は、区民や行政の努力によって着実に発展を続けているが、反面、過密化し
た都市化現象も随所に見られるようになった。失われる緑、不快な騒音、大気や河川の汚染などの公
害は、高度成長期に行われた開発の代償として発生したもので、板橋区は、僅かの間にコンクリート
ジャングルとなってしまった。このことは、区民生活から自然を遠ざけるばかりでなく、ゆとりある生
活環境を奪う結果にもなった。これらの状況に対し、区では「緑化の推進」「文化行政」を重点施策
とし、公園、動物園を整備造成し、また美術館、文化会館などの文化施設を相次いで開設するなど、
住みやすく、文化的な環境づくりを進めている。同59年に策定された板橋区基本構想では21世紀
を展望した板橋区の将来像を、「活力ある緑と文化のまち板橋」と定めている。それを実現するため区
では様々な施策を行なってきた。平成7年に改訂された基本構想でも、区の将来像を、引き続き「活
力ある、緑と文化のまち板橋」とし、区は基本計画や、実施計画を策定し、総合的・計画的に施策や事
業を推進している。(以上区の広報による)
 
 



板橋区の変遷
  現在の板橋区の区域に入る江戸時代の18ヶ村は、慶応四年(1868)6月19日山田政則武蔵
知県事に所属、武蔵知県事は勘定奉行代官を名称変更し職務を継続したもの。同年9月8日明治改元。
明治2年9月19日武蔵知県事を改称した大宮県に所属、9月19日大宮県→浦和県を経て、同4年1
1月14日浦和県が廃され東京府に編入。同7年3月8日大区小区制により第八・第九大区に編入さ
せられ自治権を喪失した。結果大久保利通の独裁専制に国民が反発、不平武士の抵抗・自由民権運動
に発展した。これに対して大久保は弾圧と暗殺で応じたため、西南戦争で盟友西郷隆盛を屠ってほく
そ笑んだ翌11年5月14日正義の刃の下に斬殺された。これに驚愕した明治政府役人は直ちに大区
小区制を廃し、同11年7月22日「郡区町村編制法」を施行して旧に復し、当区は北豊島郡下に戻
された。同22年5月1日「市制町村制」により自治権を取り戻し、板橋町・志村・上板橋村・赤塚
村の1町3ヶ村となる。昭和7年10月1日東京市に編入され、後に練馬区となる練馬町・中新井村
・上練馬村・石神井村・大泉村の1町4村とともに1区となり、板橋町が最も繁栄していたために区
名に採用され、旧板橋区が成立した。町数は昭和14年時点で練馬分24町を含めて51町。同18
年7月1日東京市の自治権が強大化することを懼れた内務官僚によって府県制の改正が行われ、東京
府と東京市は共に廃され「東京都」となり直轄管理とされた。しかし敗戦。同21年9月27日占領
軍の民主化政策により、内務省支配の地方制度が改められ、知事や区長が公選制となった。これには
国民を牛耳れなくなることを懼れた国家主義者・内務官僚が猛反発したが、情けないことに彼らはア
メリカ人によって人倫の道を教えられ私利私欲の非を悟らされすごすごと引き下がった。翌22年3
月15日都心区の再編により35区制から22区制へ移行、4月17日「市区町村制」を廃して「地
方自治法」が制定され、8月1日区内の練馬地区27町が分離して練馬区となった。同寺に新板橋区
が発足したのだ。同25年埼玉県から極一部(上戸田)を編入。同37年「住居表示に関する法律」
の施行時点で84町。その後町名整理と新住居表示を実施して平成18年現在57町。区役所は板橋
2丁目にある。図書館は12館あり「中央図書館」は常盤台にある。地域資料は充実しており、区の
『いたばしの地名』は詳細。美術館・教育科学館・郷土資料館・郷土芸能伝承館と文化行政には拍手
を送りたい。
 


板橋の由来
 板橋は、「板の橋」ではないが現在も石神井川に架かり旧中山道を通している。コンクリート製だ
が木橋のようにしつらえてある。『源平盛衰記』に「源頼朝が滝野川の松橋に陣を敷いた」との記述
があり、これを板橋区は板橋だと主張するが、北区は区内にある松橋だと嘲笑する。さてさてどっち
か? 川に橋が架けられることが一般化されるのは明治以後で、現在のようにそこらじゅうに橋を架
けるようになったのは40年ほど前の高度経済成長時代だ。つまりそれまでは川は浅瀬を歩いて渡る
か渡し舟が常識だった。これが千年も前にちゃんとした橋が架っていたとしたら、旅人が随喜の涙を
流して、是流布に努めたとしても不思議はなかろ。橋に名前はあったかも知れないが、ながーい年月
〝いたばし〟で通ってきた。ともかく板橋は鎌倉時代には架けられてて都内でも古い橋の一つだ。や
がて小名となり村名となリ、板橋村→下板橋宿→板橋町→板橋区と出世した立派な名前だ。板の橋説
の外に「イタ(段丘)」の「ハシ(端)」という地形説もある。
  


■区の花 二輪草
 キンポウゲ(金鳳花)科・イチリンソウ(一輪草)属。同属にアネモネ(風の花)がある。山麓の林
の縁や林の中、竹林、土手などに生える多年草。根生葉は3全裂し側裂片は更に深く2裂、柄のない
茎葉は3枚輪生する。通常茎葉の間から2本の長い柄を出し、先端に直径2cmくらいの白い花をつ
ける。


■区の木 ケヤキ
 ニレ(楡)科・ケヤキ(欅)属。30mぐらいの高さになる。日本の代表的な広葉樹。寿命が長く街路
樹に多い。関東地方で特に多いく「ケヤキ並木」という言葉がある。放射状に広がる独特の樹形。花や
実は全く目立たないが、この樹形(特に落葉後の冬)でケヤキとすぐ判る。秋の紅葉も美しい。葉っぱ
の色は木によって、赤に近い茶、茶、黄色と分かれる。
  


■区歌
 特に区歌と銘打って制定している歌はない。
  


■板橋区愛唱歌(区制50周年記念歌「愛するふるさと」)

 作詞・薩摩忠  作曲・山本直純  編曲・伊原福富
 歌詞不明
  


■板橋音頭

 詳細不明
  


■板橋二輪草音頭

 詳細不明
   


■舞いあがれ・ITABASHI

 板橋区と板橋区民踊連盟が区民パレード曲を創作する目的で津軽三味線奏者福居一大に作詞・作曲
・編曲演奏を托し、板橋区のキャッチコピー「未来・創造ITABASHI21」に相応しい、明る
く爽やかな曲になっている。
 


■名誉区民

 制度がない。
  


■板橋区出身の有名人

 石橋貴明(とんねるず)・辻希美(元モーニング娘。杉浦太陽の妻)・渥美清(故人・葛飾柴又の
生まれじゃない?)・城咲仁(タレント・ハッピーロード大山商店街マスコットキャラクターの名付
け親)・尾崎豊(故人・歌手)・いっこく堂(腹話術)・江口洋介(俳優)・江守徹(俳優)・中森
明菜(女性歌手)・稲垣吾郎(スマップ)・東尾理子(プロ野球選手東尾修の娘・プロゴルファー)
・中山美穂・忍(姉妹・タレント)・三原じゅん子(タレント)・マギー司郎(手品師)・野村宏伸
(タレント)・山田邦子(タレント)・吉永小百合(女優)・輪島巧一(ボクシング元世界チャンピ
オン)・おぎやはぎの小木(漫才師)・柴咲コウ(女優)・鈴木亜久里(レーサー)・グッチ裕三(タ
レント)・生田智子(女優・ゴン中山の妻)・幸田シャーミン(元ニュースキャスター)・柴門ふみ
(作家)
  


■大磯学園

 神奈川県大磯町148番地に昭和27年から同42年まであった養護施設。
 


■天津わかしお学校

 千葉県鴨川市に設置している全寮制の特別支援学校。「喘息・肥満・虚弱・偏食の子供に対して健
康指導、栄養指導等を行い健やかな成長を目的とする。寮は8部屋あり、それぞれに清澄、黒潮、カン
ナ、白波、城崎、ひまわり、海猫、あじさいと名前がつけられている。板橋区在住の小学3~6年生
が対象。
 昭和42年安房郡天津小湊町1990番地に「天津養護学校」開校。神奈川県大磯から移転。同4
6年3階建て児童宿舎落成。同54年体育館・プール完成。同59年特別教室(家庭・図工・音楽・
図書)完成。平成17年天津小湊町と鴨川市の合併による住所変更。同18年「板橋区立天津わかし
お学校」と改称。ノーチャイム制導入。

 校歌「みどりの海よ」 作詞・武田利康  作曲・篠原寛司
  1.みどりの海よ あの雲よ
    太平洋は果てしなく
    砂丘に強くそそり建つ
    ああ殿堂の学び舎は
    天津 天津わかしお学校
  2.都塵を去りて健やかに
    伸びん鍛えん歳月の
    健気に励む我等今
    ああ水平線の旭を仰ぐ
    天津 天津わかしお学校
  3.やがて育ちて父母の許
    実りし心 この体
    誇りを胸に帰りなむ
    ああ永久に新たなる
    天津 天津わかしお学校
 


■教育施設

 小学校 区立53 私立1
 志村・志村第一・志村第二・志村第三・志村第四・志村第五・志村第六・前野・中台・舟渡・新
 河岸・富士見台・蓮根・蓮根第二・志村坂下・北前野・緑・若木(+若葉)・板橋第一・板橋第
 二・板橋第四・板橋第五・板橋第六・板橋第七・板橋第八・板橋第九・板橋第十・金沢・ 中根
 橋・大山・加賀(板橋第三+稲荷台)・上板橋・上板橋第二・上板橋第四・常盤台・桜川・弥生
 ・大谷口・向原・赤塚・成増・赤塚新町・紅梅・北野・成増ヶ丘・下赤塚・徳丸・三園・高島平
 第一・高島平第二(+高島第七)・高島平第三・高島平第五・高島平第六(+高島平第四)
 
淑徳小学校

 中学校 区立23 私立6
 板橋第一・板橋第二・板橋第三・板橋第五・加賀・志村第一・志村第二・志村第三・志村第四・
 志村第五・西台・中台・上板橋第一・上板橋第二・上板橋第三・桜川・向原・赤塚第一・赤塚第
 二・赤塚第三・高島第一・高島第二・高島第三
 芝浦工業大学・城北・東京家政大学附属・日本大学豊山女子・淑徳・帝京

 高等学校 都立6 私立7
 北園・板橋・高島・北豊島・大山・板橋有徳
 芝浦工業大学・城北・東京家政大学附属・日本大学豊山女子・淑徳・帝京・大東文化大学第一

 大学・短大 私立6
 
東京家政・大東文化・帝京(医)・日大(医)・淑徳短大・東京家政短大・東洋大学  
 



 それでは板橋区の地名の由来について説明する 

【相生町】(あいおいちょう)                      昭和46年1月1日
 中台村。明治22年志村大字中台、昭和7年板橋区志村中台町。同38年志村中台町の一部(中
台田圃)を町名整理していたのでそのまま新住居表示に転化した。このことが後々大変なきっかけ
を作ることになった。つまり新住居表示では「○○町」の「町」は排除することになっていたが、
「相生町」を通してしまったので、各区でこれに倣うところが出来、この原則は崩れてしまった。
 参考資料:「東京都住所表記に関する資料」ほか「板橋区史」など。

 相生の由来
 昭和30年東京都が橋梁調査した時、同14年の架橋で老朽化し通行不能の橋があり、同32年
志村坂下小学校の建設が始まると付帯工事として耕地東側道路も整備され、その一環として老橋も
架け替えられた。住民はこの名無し橋に「隣人愛を以って仲良く生きていく」ことを願い「愛生」
の名を希望したのだが、区は意図的にか、単なる勘違いか、「相生」という文字にして橋名板を打っ
てしまったため「相生橋」となった。同38年志村中台町の一部に新住居表示した際、住民の相互
扶助と発展を祈願して橋名から採って現行の「相生町」とした。新住居表示法では単独町は認めな
いことになっているのだが、すでに町名整理を実行していた区はこれを無視して押し切った。荒川
区荒川をモデルケースに住民の意思を無視して権力にだけ都合のよい住居表示を強制しようとした
自治省の目論見は脆くも崩れ去ってしまった。このことは大きな波紋を呼び、他区に単独町を生む
切っ掛けを提供し、渋谷区の住民が単独町名を残す理由にし、結果3分の1の町が権力のお節介を
排除した。まあ権力側的には法律をなし崩しにした区の悪行、独断専行といえる。だがしかし区だっ
て中央権力の国家主義者の言いなりになってばかりはいられないわな! さて相生橋は都市化の波
に押されて蓮根川が暗渠となり、昭和58年には撤去されてしまい、バス停に残るのみとなった。
 


■相生東児童遊園
 相生町8番15号にある区立公園。
 


■相盛橋児童遊園
 相生町12番4号にある区立公園。


■あいおい児童遊園
 相生町14番11号にある区立公園。


■志村消防署
 相生町17番1号にある。
 


■志村坂下小学校
 相生町26番14号にある。昭和33年1月志村小学校の分校として起立。4月「東京都板橋区立
志村坂下小学校」として開校。児童数731名(志村小学校から432名・志村第六小学校184名
移籍、新入生115名)でスタート。10月新校舎増築。同35年校歌制定。

 校歌
「湧き水の輝くように」 作詞・薮田義男  作曲・岡本敏明
  1.湧き水の輝くように
    いちもいちも新しい
    希望に溢れて吾等は育つ
    青空を照り返す水のように
    溌溂と吾等は歌う
    志村坂下小学生
  2.美しい自然の中に
    いつもいつも美しい
    心を磨いて吾等は伸びる
    青草を吹き渡る風のように
    香しく吾等は進む
    志村坂下小学生

 同38年プール完成。同40年校地を拡張。同43年創立10周年記念式典。同45年体育館完成
。同48年第1期鉄筋コンクリート造り校舎落成。同49年第2期鉄筋コンクリート造り校舎落成。
同53年創立20周年記念式典。同59年ジョギングロード完成。同60年「麦っ子体操」完成。同
63年創立30周年記念式典。
 平成元年「学校の森」完成。ランチルーム完成。同3年「志村ふるさと資料館」完成。同4年第二
土曜日休日となる。同6年チーム・ティーチング始まる。同7年第4土曜日も休日となる。同8年パ
ソコンルーム設置。同10年インターネット接続。創立40周年記念式典。同13年学校給食民間委
託。福島県双葉町との農業交流開始。同14年いきいき寺子屋事業開始。同17年ALTによる英語
活動開始。同19年全教室エアコン設置。同20年創立50周年記念式典
   
 


【赤塚】(あかつか)1~8丁目                   昭和44年3月1日
 赤塚が地名になったのは古く『吾妻鏡』に鎌倉武士として赤塚資茂の名前が見え、足利尊氏の弟
直義所領目録に「武蔵国赤塚」が見える。『小田原衆所領役帳』には赤塚六ヶ村(上赤塚村・下赤
塚村・石成村=成増村・徳丸本町・徳丸脇村・四葉村)が書かれている。それは区の3分の1の広
さを占めており、現在でも赤塚地区といえば丸まる6ヶ村の跡をいう。明治22年赤塚六ヶ村が合
併して赤塚村となり、その大字。昭和7年板橋区が成立して上赤塚町・下赤塚町となって戦後に至
る。昭和44年上赤塚町・下赤塚町の大半に四葉町・徳丸町・徳丸本町・成増町の各一部をあわせ
た町域を現行の「赤塚」とした。
 5丁目の赤塚城址の一角に「区立美術館・郷土資料館」がある。同じ5丁目の「赤塚植物園」は、
武蔵野の面影を色濃く残す、赤塚の丘陵地を活用した植物園。本園と万葉・薬用園からなり、本園
は四季の道、野草の道、針葉樹の森などのコーナーに分けて植えてある。目の不自由な人が楽しる
めるように芳香のある花木を植え、点字の説明板をつけた香りの散歩
道もある。
 参考資料:「東京都住所表記に関する資料」ほか「板橋区史」など。

 赤塚の由来
 地名の由来は「赤塚」という塚があったことによる。「土跡」とも呼んだ赤塚は、8丁目3番の
松月院の前、檀徒会館・田中屋酒店の辺にあった。村人はこの塚に神明社と白山社を祀り、鳥居に
「赤塚」の額を掲げ、触ると祟りがあると恐れて普段は全く近づかなかったという。この塚はどう
やら名を忘れられた貴人の「荒墓」だったらしく、『新編武蔵風土記』に

   武蔵国豊島郡荒墓郷荒墓神社、大化二年(646)所祭猿田彦

 とあるのを見ると、荒墓が誤伝して荒塚→赤塚となったのか? ・・・単に赤土の塚だったのか
も知れない。というのは明治25年「赤塚村自治記念碑」を建てるために塚そのものを撤去してし
まったから調べようがない。碑は現在も道路に面して檀徒会館のところにある。
 松月院は、天保十二年(1841)高島秋帆が徳丸ヶ原で砲術の実験を行った時、本陣とした由
緒ある寺だ。境内にその記念碑がある。だから赤塚は松月院だぁ! 
                     *
 塚は墓そのもので土饅頭(人工の盛山)をいう。山犬や狼などの肉食動物に荒らされないように
毒木である榊(さかき)の木を植えて彼らを近づけないようにした。だから神道で榊を納めるのは
その名残なのだ。塚の巨大なものが古墳であり、御陵である。
 また赤塚の地名は全国各地にあり、基本的に赤土(山土)の塚だ。さらに赤坂も全国的にある坂
名で、滑り易い赤土の坂道だ。
  

■徳親公園

 赤塚1丁目4番10号にある区立公園。


■梶山児童遊園

 赤塚1丁目7番2号にある区立公園。


庚申塔

 赤塚1丁目9番8号の加藤洋品店(ファッションかとう)の横っちょの路傍に2基ある。


梶山不動尊・成田山不動大教会

 赤塚1丁目9番11号にある真言宗智山派の寺という。本尊は不動明王、結構な本堂で右手に庫裏
がある。明治20年に成田山の信仰者が集まって講を組織し礼拝所を造った。これが昭和41年に改
称して現在に至っている。

   成田山不動大教会
   当教会は真言宗智山派で、総本山は京都市の智積院、大本山は千葉県成田市の新勝寺、本
   尊は大聖不動明王で、「梶山不動尊」の名で親しまれている。
   明治20年5月16日成田山を信仰する人たちで組織されていた新省講の講員による教会
   結社願が、当時の東京府知事に認可され、以来信仰者の礼拝所となり、昭和42年に現在
   名に改称している。護摩供養(1月、5月、9月)や節分会(2月3日)、成田山大護摩
   参拝(4月11日)、ホーロク灸(夏土用の日)、熊手市(12月8日)、星祭り(冬至)
   などの行事が行われている。
   境内には戦没者慰霊のための平和観音や信徒により造立された碑がある。
   昭和58年3月                         板橋区教育委員会
 


■下赤塚児童遊園

 赤塚1丁目10番18号にある区立公園。


■庚申塔
 
赤塚1丁目36番1号の追分の石塀に嵌め込んである。


■庚申塔

 赤塚2丁目1番12号バチンコ「サイバー赤塚北口店」の角地にある。隣は「和民」だ。


■小祠

 赤塚2丁目8番13号宮坂邸にある屋敷神。
  


■地蔵庚申

 赤塚2丁目15番7号の角地にある。


■赤塚二丁目ふれあい公園

 赤塚2丁目22番19号にある区立公園。


■小祠

 赤塚2丁目23番16号の宮坂邸にある屋敷神。
 


■小祠

 赤塚2丁目24番1号の秋山駐車場にある屋敷神? 石造りの鳥居はあるが、入口は閉ざされてお
り、祠と思われる建物は小屋というか物置というか・・・ 向かいに秋山邸がある
 


■赤塚二丁目緑地

 赤塚2丁目25番11号にある区立公園。


■赤塚二丁目児童遊園

 赤塚2丁目34番14号にある区立公園。


■赤塚小学校
 赤塚3丁目1番22号にある区立校。明治23年開校。昭和7年「東京府東京市赤塚尋常小学校」
と改称。同16年勅令148号国民学校令により「東京府東京市赤塚国民学校」と改称。同18年都
制施行により「東京都下赤塚国民学校」と改称。同21年22区制により「東京都板橋区立赤塚小学
校」と改称。同24年失火により校舎全焼。同25年成増小学校を分校。同31年成増が丘小学校を
分校。同33年下赤塚小学校を分校。同40年三園小学校を分校。

 校歌
「丘の青空」 作詞作曲不明
  1.
丘の青空 広い空
    仰ぐ心も大らかに
    吾等は元気だ 強い子だ
    楽しい赤塚 子供の世界
    明日の日本の力が伸びる
  2.城の名残りの緑にも
    巣立つ若鳥 湧く泉
    明るい希望の胸を張り
    平和な赤塚 受け継ぐ誇り
    いつも仲良く頑張る吾等
  3.秩父筑波嶺 遥々と
    霞む広野は晴れ渡る
    光よ 集まれ この丘に
    吾等の赤塚 その名も高く
    歴史輝く栄えある母校
  


■赤塚三丁目原公園

 赤塚3丁目10番11号にある区立公園。


■二塚公園

 赤塚3丁目11番20号にある区立公園。


■ハラン堂
 赤塚3丁目15番にある清涼寺の境外仏堂。場所はわかりづらい。民家の奥の塀に囲まれた所にあ
る。
正しくは真堂。この辺りの小名が原で、原真堂と呼ばれたものが、ハラン堂に転訛した。


■二塚供養塔
 赤塚3丁目19番1号にある。昔の戦で多くの人や馬が死に、風雨に曝されていたので2つの穴を
掘って供養したとのこと。


■赤塚主婦刺殺事件

 赤塚3丁目22番2号メゾンセイリョウで起きた殺人事件。平成24年11月21日午後10時5
0分頃、前記マンション2階で女性の遺体が発見される事件があり、警視庁捜査1課は22日、遺体
の身元について、同所に住む主婦荒井久美(34歳)と発表した。胸などを刃物で刺され、室内を物
色した跡もあったことから、同課は高島平署に捜査本部を設置し、強盗殺人容疑で捜査を始めた。捜
査本部によると、帰宅した会社員の夫(37歳)が死亡している久美を発見し110番した。
 マンションは2階建てで1階と2階が繋がったメゾネットタイプ。久美は2階寝室の床に足首を縛
られた状態で仰向けに倒れており、胸や背中を10数ヶ所刺されていた。検視の結果、死後半日程度
で、死因は失血死とみられる。22日午後に司法解剖して詳しい死因を調べる。久美は夫と2人暮ら
し。2階の寝室や居間に物色された跡があり、押入の扉などが開いていた。1階の窓硝子が割られ、
室内には靴跡が残っていた。夫が帰宅した際、玄関は施錠されておらず、電気は消えていた。また久
美は外出用のワンピース姿で着衣に乱れはなかった。バッグには21日午後3時半ごろ、東武東上線
成増駅近くのドーナツ店で買い物をしたレシートが残っていた。夫は捜査本部の調べに「給料日なの
で、妻に『お金をおろしてくれ』と頼んでいた」と説明。捜査本部は、現金引き出しの有無や事件と
の関連を調べる。夫は「誰かとトラブルになっていたという話は聞いていない」と話している。マン
ションの管理会社によると、荒井夫婦は同21年から入居していた。近所の人などによると、現場周
辺では最近、空き巣が多発していたという。近所の高齢男性は「近くの美容院も春ごろに2度やられ
た」。70代の女性も「この辺りは短時間の外出では鍵をかけない家もある。出掛けている間に空き
巣に入られて約20万円を盗まれた」と話した。現場は成増駅から南東約400mの住宅街。
 犯人は荒井宅のインターホーンを押しているところを目撃されており、若い背広を着た男だったと
いう。犯行後、豊島区のコンビニで荒井の口座から現金を引き出す男が写っており、これが犯人と思
われる。この男は背広姿ではなく、毛糸の帽子にマスクという姿だが、眼鏡が酷似しているという。
 その後の調べで犯人は池袋東口の衣料量販店で服を買い、近くのパチンコ店のトイレで着替えたこ
とが判った。警察は以前に窃盗犯で逮捕された若い男の犯行と見て逮捕状を取って追及する。若い男
は犯行現場に近い豊島区に住んだことがあり、犯行現場周辺の土地勘はある。
 12月1日ついに犯人松尾元気(22歳)が逮捕された。最近のインターホーンはプッシュすると
画像として捉えられるらしい。松尾はばっちり顔が写っていたという。彼は福岡県福津市出身で、福
岡こども短期大学卒。犯行時、犯行現場から700mほど北北西の成増4丁目11番13号コーポト
ヨタに住んでいた。ということは、成増駅から被害者の女性の後をつけて目星をつけていたのか? 
 松尾は子供の頃、苛められっ子だったというから心は屈折していたのだろう。何があったか判らな
いが、父親は「勘当したあんな奴のことなんか知るか!」罵り捨てたという。
 


■庚申堂
 赤塚3丁目30番2号下田コーポの前にある。倉庫のようなお堂なので見落とすなよ。


■上赤塚公園

 赤塚3丁目40番10号にある区立公園。


■石成公園

 赤塚4丁目7番13号にある区立公園。


石成山清涼寺

 赤塚4丁目8番3号にある真言宗智山派の寺。元は練馬三宝寺末。上赤塚氷川神社の別当。開山の
宥長和尚が寛仁3年(1019)に没しているから、それ以前の開創だ。石成は成増になる以前の地
名。成増は人の名だ。明治初期には石成小学校が開校、また豊島八十八ヶ所霊場51番札所。参道正
面に本堂、左手が墓地、右は庫裏と本堂、庫裏は新築でぴかぴか。
 「いたばしの寺院」に、

   『新編武蔵風土記稿』には開山宥長とある。境内にその墓碑があるが後世のものらしい。
   良久(寛仁元年‐1017)の墓碑もある。当時のものか否かは考証の余地があろうが、
   銘記からすれば区内最古の碑である。このことから、寺の創設は相当に古いものと推定さ
   れる。本寺山号の「石成」は成増村の元禄以前の古名である。江戸時代には上赤塚村氷川
   神社の別当寺だった。明治初年の神仏分離により一時衰微し無住となっていたが、明治1
   0年4月4日本堂を仮用して「第四中学区第十四番小学石成学校」が開設された。明治3
   0年に先住円染和尚の着任により諸施設の経営成り寺の面目を一新した。昭和16年1月
   三宝寺り離末し、12月京都智積院の直末となる。
    境内には石成学校先師佐野先生の顕彰碑が建てられてある。


 とあり、区教委の説明板には、

   当山は真言宗智山派に属し、石成山清涼寺と号し、ご本尊は不動明王です。山号にある石
   成とは成増の旧名で、南北朝期から江戸時代前期にかけての文書や碑文にも使われている
   地名です。当寺は江戸時代に編纂された新編武蔵風土記稿に「開山は宥長と云う」と記載
   されており、寛仁三年(1019)に没した宥長和尚の墓碑が存在しています。中世の状
   況は墓碑もなくよくわかりませんが、元禄年間(1688~1704)より再び僧侶の墓
   碑が見られるようになり、江戸時代には三宝寺(練馬区石神井)の末寺となっていました。
    また当寺は江戸時代より明治の神仏分離まで上赤塚氷川神(現赤塚4丁目)の別当寺で
   もありました。明治9年ここに石成小学校が開校し、翌年に公立の小学校となりましたが、
   明治24年赤塚尋常小学校の新設に伴い廃校となりました。境内には当時の校長佐野蔵吉
   先生の頌徳碑があります。


 とある。
  


■赤塚乳房榎大明神
(あかつかちぶさえのきだいみょうじん)

 赤塚4丁目14番14号、氷川神社の長い参道の入口の近くに樹齢1700以上という榎の大木が
あり、傍らに「乳房榎大明神」の碑が立っている。「怪談乳房榎」と関係があるのかないのか不明。乳
房榎は木の病気で、樹皮が乳房のように垂れ下がる現象をいい、あちこちにある。

 
怪談榎乳房
 明治の大名人三遊亭圓朝が拵えた怪談噺だ。圓朝作の怪談噺には、この他に「真景累ケ淵(しんけ
いかさねがふち)」「怪談牡丹灯篭」がある。この噺も長噺で前半と後半に分かれて演じらることが
多い。あらすじは、
 江戸の絵師菱川重信は美人の妻おきせ、赤ん坊の真与太郎と幸せに暮らしていた。重信に高田の南
蔵院から天井画の依頼があり、下男の正介と泊りがけで出かける。
 その留守中、おきせに横恋慕していた弟子の磯貝浪江は、従わなければ真与太郎を殺すと脅して無
理やり関係を持つ。2度、3度と重なる内におきせも浪江に好意を抱くようになり、浪江は重信殺害
を決意する。
 南蔵院へ出かけた浪江は、正介を脅して仲間に引き入れる。そして渋る重信をホタル見物に誘い出
して、その帰り道で殺害する。南蔵院に戻った正介は重信の亡霊が絵を完成させて落款を入れるのを
見て仰天する。
 やがて浪江と再婚したおきせは浪江の子を身ごもる。そうなると真与太郎が邪魔になった浪江は、
再び正介を脅して真与太郎殺害を命じる。やむなく正介は真与太郎を滝壺に落として殺す。すると真
与太郎を抱いた重信の亡霊が現れ「今までの罪は許すから真与太郎を育てろ」と命じる。改心した正
介はツテを頼って赤塚村の松月院前に真与太郎を連れて隠れ住む。その松月院には乳房の形をした榎
の大木があり、その滴は乳代わりになるので乳の出ない母親たちの信心を集めていた。それを聞いた
正介はその滴を乳代わりに真与太郎を育てる。
 浪江の子を出産したおきせであったが、乳が出ずにその子死なせてしまう。しかも乳房に腫れ物が
できるようになり、また重信の亡霊も現れて狂い死にしてしまう。その葬儀で正介と真与太郎が生き
ていることを知った浪江は2人を殺害するため松月院に出向く。しかし5才になった真与太郎と正介
は重信の亡霊に助けられて浪江を返り討ちにし、仇を報じる。
 


■宮前公園

 赤塚4丁目16番2号にある区立公園。


■上赤塚 氷川神社
 赤塚4丁目22番1号にある大社。祭神は須佐之男命、藤原広継命。昭和52年鉄筋コンクリート
造り現代風のきらびやかな社殿に改築されてしまったが、改築前の社は欅の森に囲まれ、いかにも武
蔵野の社らしい古風な社殿であり、境内地だった。
 では何故けばけばしくなったかというと、高度経済成長で世間が金持ちになったことは否めない。
神社も相当の実入りがあったろう。たがそればかりじゃない、バカな全学連が、国家神道と、村の鎮
守の違いも判らず、神社というだけで放火して廻ったのだ。靖国神社や護国神社のように「明治政府
が拵えた神社」は、総理大臣が近隣諸国の反対を押し切ってお参りする騒ぎを起こすことで維持しな
いと維持できない。つまりお参りに来る人は畏れながらとお参りするのであって、氏子の親しみでお
参りする訳じゃない。日枝神社、神田明神、根津神社、深川八幡にお参りするのとは、ちょと違う。
神主さんはパチンコでもやりながら小銭でも貯めてそうだけれども、靖国神社の神官はしかめっ面で
「自衛隊の国軍昇格」だの、「イランで自衛隊員が死んだら英霊にしようか、すまいか」だの、国家
神道への復帰を模索してて重たそうそうじゃん。どうしても国民とは乖離した、戦死者と国家権力の
神社と認識してしまう。戦死者といっても1000万柱には到底及ばないのであり、日本家庭の全て
が遺族という訳でもない。我が家では、曽祖父の代から日清・日露はもとより、シベリア出兵・日中
戦争・太平洋戦争に動員されて戦ってきたが、戦死・戦病死は一人もいない。唯一伯父が名古屋の三
菱に勤めてて空襲で死んだ。靖国にお参りに来る人の全てが英霊に、というより名所として観光気分
のお参りが大半だ。しかも中国人が多いのが不思議だ。それでも靖国側にとってはありがたい。国民
に忘れ去られることが怖いのだから。昭和20年以前に生まれた遺族がいなくなったら靖国の支えは
国粋主義者と権力者しかいなくなる。靖国を維持するためには新しい遺族を作らなくてはならないの
だ。
 かくて勉強も何もしていない全学連(疑わしきは、ユダヤ資本に唆された朝鮮系日本人)が、村の
鎮守を国家神道と間違えなかったら、東京の神社が燃えない神社に建て替えられることはなかったろ
う。まことに惜しい史跡を数々失ってしまった。狛犬に金網をかけたり、庚申塔を針金で括りつけた
りしなければならないさもしい世の中になったものだ。村の鎮守ぐらい素朴でいたいものだ。

 神社神道と国家神道の違い
 神社神道は、山や川などの自然や自然現象、また神話に残る祖霊たる神、怨念を残して死んだ者な
どを敬い、それらに八百万の神を見いだす多神教。自然と神とは一体的に認識され、神と人間とを取
り結ぶ具体的作法が祭祀であり、その祭祀を行う場所が神社で、聖域とされる。
 国家神道は、明治政府が、長州熊毛郡田布施の招魂場を移し、靖國神社としたもので、明治維新に
際して斃れた勤王の志士を祀ったもので、招魂・鎮魂を行う朝鮮式の信仰だ。長州が地理的に朝鮮半
島が近いので、山口県民はどうしても朝鮮系の人が多い。日本では亡者に対しては〝供養〟だ。国家
神道は、靖国神社と各地の護国神社のみ。戦争に行かせるための方便だ。
 この他、皇道神道、民間神道(民俗神道)、教派神道、古神道、新興神道があるが、国家神道のみ
が朝鮮式で御霊に対して只管謝罪する信仰となっている。朝鮮は長い間中国の属国だったことから、
中国に痛めつけられ、民族が奴隷状態に置かれ、信仰すらままならなかった。招魂場は支配者の目か
ら逃れるために、一切の構造物はなく、砂場があるのみだ。靖国神社にもある。

   氷川神社の参道並木
   氷川神社は、かつて多くの樹木からなる社叢に囲まれていました。大正7年発行の「北豊
   島郡誌」は、「槻及び杉の大木矗々(ちくちく)として梢を列ぬ」と当時の氷川神社を記
   しています。
   昭和33年から始まった区画整理に伴う周辺の宅地化や、昭和52年の社殿改築によって
   その光景は大きく変わりましたが、参道並木は今なお昔の面影を残しています。
   現在、参道と境内にある樹木のうち、比較的大きな23本が板橋区の保存樹木に指定され
   ています。また参道入口の、飛地にある欅は、幕末から明治期にかけて活躍した落語家三
   遊亭円朝「階段乳房榎」のモデルの一つといわれています。
   氷川神社の参道並木は、古くから地域の人々に親しまれ、武蔵野の面影を偲ばせる参道並
   木として、平成6年度に板橋区の文化財(天然記念物)に登録しました。
   平成16年3月                         板橋区教育委員会


   上赤塚氷川神社
   旧上赤塚町一帯の鎮守である。改築前の社殿は区内に類を見ない古風な様式をとどめてい
   た。祭神は素戔鳴尊と藤原広継命である。藤原広継命は奈良時代に政権争いから九州へ追
   いやられ、大宰府で反乱を起こしたが、朝廷軍に捕らえられて処刑された薄幸の貴族であ
   る。朝廷ではその怨霊のたたりをおそれて神として祀ったが、いかなる理由で当社にまつ
   られたかは不明である。境内の朱塗りの厳島型鳥居も珍しく、また一の鳥居までの欅並木
   の参道も見事なものであり、その巨木は当社の歴史の古さをものがたっている。
   この他にも人造富士、白山社、疱瘡神の祠など見るべきものが多々残されているが、春に
   満開となった時の桜並木は特に美しい。
   また、かつて行われていた「田遊び」の名残が留められている。
                                   板橋区教育委員会

   氷川神社
   御祭神は素盞雄命、藤原広継命。
   長禄元年(1457)に赤塚城主千葉介自胤が武蔵一宮氷川神社から御分霊を勧請したと
   いわれています。御霊神社の由緒については不詳です。
   明治2年の社寺取調下案には、延宝二年(1674)の検地帳に当社が記載されていると
   あり、延宝二年以前から鎮座していたことがわかります。
   文政十一年(1828)成立の「新編武蔵風土記稿」には「上赤塚村 氷川御霊合社 村
   の鎮守なり 清涼寺持」とあって、江戸時代には清涼寺が社務にあたり、旧上赤塚村の陳
   守として村民から崇敬を集めていたことが記されています。
   安政四年(1857)正月に、本殿が再建され、さらに明治14年8月には拝殿が新築さ
   れるなど、幕末から明治時代にかけて神社として整備が行われています。
   なお拝殿が新築された際には、それを記念して祭礼(奉祝祭)が斎行されましたが、その
   時の様子を描いた絵馬が、明治16年に村民から奉納されました。この祭礼図絵馬を始め
   当社所蔵の絵馬・扁額は、平成22年度に板橋区の登録有形民俗文化財となりました。
   平成23年8月                         板橋区教育委員会

 富士塚
 境内にある。

   
赤塚氷川神社富士塚
   富士塚は、一般的には、富士山に登拝することを目的に組織された「富士講」の人びとに
   よって、富士山に模して造られたミニチュア人造富士のことで、富士講が爆発的に広がっ
   た18世紀以降に、各地で盛んに造られました。
   富士講の特色は、山麓から山頂にかけて登山道を模した道を設け、それに沿って石碑を配
   して富士山各所の礼拝所を表現していることや、「黒ボク」と呼ばれる溶岩石を取り寄せ、
   また富士塚への登山行為自体が、富士山登拝と同様の御利益があるとされています。なお
   他地域の富士塚では毎年7月1日前後の富士山の山開きに合わせて祭礼が行われている所
   があります。
   当富士塚を造成した富士講「丸吉講」は、新座郡中沢村(現在の新座市)出身の浅海吉右
   衛門が開いた講中です。当地(旧上赤塚村)へと丸吉講が伝播した時期については、詳ら
   かではありませんが、和光市白子熊野神社境内にある富士塚にある、明治3年に奉納され
   た鳥居には、他地域の丸吉講とともに下赤塚の人びとの名が見られることから、それ以前
   の幕末期には当地に伝播していた可能性が考えられます。
   また、この富士塚の造成時期については、志木市敷島神社の境内にある「田子山富士」へ
   奉納された、明治五年の「丸吉講新富士百三十三所奉納額」に、「下赤塚仙元 富士山」
   と表記されていることから、それ以前の段階だと考えられます。
   当富士塚は、平成22年度区の登録記念物(史跡)となりました。
   平成23年8月                         板橋区教育委員会

   
赤塚氷川神社富士塚
   富士塚は、一般的には、富士山に登拝することを目的に組織された「富士講」の人びとに
   よって、富士山に模して造られたミニチュア人造富士のことで、富士講が爆発的に広がっ
   た18世紀以降に、各地で盛んに造られました。
   富士講の特色は、山麓から山頂にかけて登山道を模した道を設け、それに沿って石碑を配
   して富士山各所の礼拝所を模していることや、「黒ボク」と呼ばれる溶岩石を取り寄せ、
   使用している点にあります。
   なお他地域の富士塚では毎年7月1日前後の富士山の山開きに合わせて祭礼が行われてい
   る所があります。また富士塚への登山行為自体が、富士山登拝と同様の御利益があるとい
   われています。
   当富士塚を造成したのは、新座郡中沢村(現在の新座市)出身の浅海吉右衛門(行名 蓉
   行芙厚)が開いた「丸吉講」です。当地(旧上赤塚村)へと丸吉講が伝播した時期につい
   ては、丸吉上成(上赤塚・成増)講に伝わる御三幅の「御身抜」に、「天保六年、蓉行芙
   厚■、七拾七年、書之」という墨書銘が確認されていることから、天保六年(1835)
   頃と考えられます。
   なお、この富士塚の造成時期については、志木市敷島神社の境内にある「田子山富士」に
   奉納された、明治五年の「丸吉講新富士百三十三所奉納額」に、「下赤塚仙元 富士山」
   と表記されていることから、それ以前の段階だと考えられます。
   また、塚上に慶応四年(1866)に白子丸瀧講(現在の和光市)の先達を努めた富澤藤
   七が造立した「登山三十三度大願成就」の碑があり、造成時期はさらにさかのぼる可能性
   も考えられます。平成23年度に区の登録記念物(史跡)となりました。
   平成25年3月                         板橋区教育委員会

 2つの説明板では、登録記念物の登録年度が異なっている。また、■の部分にはにんべんに杓とい
う字が書かれているのだが、これは富士講特有の異体文字で「くう」と読むんだとか。

 
宮前不動尊・庚申塔
 社殿の左側に並んで3基ある。


■赤塚四丁目児童遊園

 赤塚4丁目29番7号にある区立公園。


■赤塚四丁目公園

 赤塚4丁目31番8号にある区立公園。


■赤塚四丁目緑地

 赤塚4丁目32番18号にある区立公園。


庚申塔

 赤塚5丁目8番1号の角、大きな木の根元にある。


馬頭観音堂

 赤塚5丁目14番9号の角地にある小堂。


■赤塚植物園
 赤塚5丁目17番1号にある。赤塚の丘陵地を利用して作られた区立の農業施設。本園と万葉・薬
用園の2園で構成。園内には約600種類の花木と山野草を植栽している。野草の道、四季の道、香
りの道等と名づけられた道筋にマンサク、ヒイラギ、ロウバイ、カタクリ、ニリンソウ、ユキワリソ
ウなど山野草が見られる。03‐3975‐9127
  


■赤塚植物園

 赤塚5丁目17番14号にある区立公園。


上赤塚観音堂
 赤塚5丁目25番23号にある。交通量のある道路の角地。堂の右に墓地がある。『東京都遺跡地
図』には、この敷地内に板橋区の遺跡番号141番の特に名前の無い塚が登録されている。この観音
堂は松月院の境外仏堂で、江戸時代の地誌「新編武蔵風土記稿』にも観音堂、松月院持と書かれてい
る。堂の中には江戸時代作の木造正観音菩薩立像が安置されている。大正11年に火災で全焼したそ
うで、門の左にある再建碑には、寛文年間(1661~1673)の創建で、大正13年に再建した
という。
 


庚申塔
 赤塚5丁目26番3号の追分に1基ある。雑然としたところにあるので哀れだ。


赤塚山慶学院乗蓮寺
 赤塚5丁目28番3号にある浄土宗の寺。応永年間(1394~1427)の開創。開山は英蓮社
了賢無的和尚、初め「孤雲山慶学院乗蓮寺」と称え、山中(仲町42番=現専称院)にあったが、江
戸時代に板橋宿(仲宿62番)に移って山号を慶学山に改めた。天正19年徳川家康が10石の朱印
地を与え、葵の御紋の使用を許し、格式高い名刹として繁栄していった。吉宗が雨宿りをしたことで
御休息所となり、安永八年(1779)からは御膳所にも指定された。御成門と御座所は明治17年
の板橋大火で失うも、膳具は現在も欠けることなく秘蔵しているとか。
 昭和48年高速道路建設のために邪魔にされ、立ち退きを命じられた。何時の時代も権力とは得手
勝手なものだ。検討の末、現在地(当時は森と畑)を選択、なかなか見晴らしのよいロケーションに
新造の本堂、宿場の閻魔として有名だった閻魔堂、赤塚城の守護神だった妙見の小祠、鐘楼に客殿、
庫裏・書院・仁王門が並び、上宿名主板橋家の先祖板橋信濃守忠康の墓、天保の飢饉餓死者供養塔、
板橋宿遊女の無縁墓、藤堂家駒込屋敷内にあった文殊・普賢菩薩、役の行者、脱衣婆、どんな苦しみ
でも我慢する鬼などの石造群が移されている。その他非公開の徳川将軍家代々の朱印状、安田鞆彦の
『吉水の庵』、室町時代の鉄灯篭板碑等など宝の山だ。鉄拐仙人像など11体の石造物は、藤堂高虎
が朝鮮出兵の折に持ち帰り、駒込下屋敷の庭園に置かれていたものを、明治になって同家家老が預り
後にこの寺に寄進奉納したものだ。
 境内は赤塚城の二の丸とも出丸ともいわれる別郭で、本丸との間は空堀、現在は狭い道路になって
いる。寺は移転補償をたっぷり貰ったので、堂宇全部を新調した。おまけに奈良の東大寺、鎌倉の高
徳院についで3番目に大きい金銅仏まで作っちまったよー! 中宿の頃は閻魔大王で有名だったが、
今は影が薄い。福寿観音(北村西望作『聖観音像』)も同前だ。
 様々な樹木があるが、花木は大仏の周囲のソメイヨシノ、本堂前の鉢植えの蓮の花、寺院には珍し
いカリステモン(ブラシノキ)が見られる。

 
東京大仏
 大仏とは「丈六」を超えるものをいう。丈六は1丈6尺、4m80㎝。奈良東大寺の大仏は廬遮那
仏、鎌倉長谷の大仏は与謝野晶子に「釈迦牟尼」と詠まれたが、実際は阿弥陀仏。晶子のこのミスは
死んでもなお指摘され続けるから恐ろしい。そして第三の金銅大仏がこれだ。赤塚5丁目、松月院か
ら北にちょっと行ったところにある露座仏だ。金銅製で昭和52年4月11日の開眼。像高8m、総
高13m。赤塚城の戦死者と、今次大戦の犠牲者慰労のために造立されたていう。

 区の説明板に、

   乗蓮寺
   ご本尊は阿弥陀如来。浄土宗で赤塚山慶学院と称しています。応永年間(1394~14
   28)了賢無的が山中村(仲町専称院の地)で人々に教化したことに始まり、後に板橋の
   中宿(仲宿)に移転したと伝えられています。
   天正十九年(1591)に徳川家康から10石の朱印地を与えられて以来、代々の将軍か
   ら朱印状を与えられました。また寛保三年(1743)に将軍吉宗が鷹狩りの際に雨宿り
   したのが縁となり、それ以降将軍の鷹狩りの際の小休所、御膳所となりました。
   高速道路の建設に伴う国道17号線の拡張工事により、昭和46年から7年の歳月をかけ
   て現在の地に移転しましたが、その際に天災戦災等の無縁仏の供養や恒久平和を祈願して
   青銅製の東京大仏が建立されました。
   境内には板橋の領主板橋信濃守忠康の墓や天保飢饉供養塔、藤堂家縁の石仏があります。
                                  板橋区教育委員会


 とあり、区編纂の「いたばしの寺院」には、

   本寺はもと孤雲山慶学院乗蓮寺と称したが、その後慶学山となり、現在は赤塚山を山号と
   する。今より約600年前室町時代の
応永年間了賢無的が、当時草深い板橋の一角山中村
   に草庵を結び、民衆を教化したのが始まりで、後、安土桃山時代の末期に今の旧中山道沿
   いの仲宿に移転した。天正十九年十一月徳川家康より10石の朱印地を賜り、代々の将軍
   がそれを踏襲し、か
   ら朱印状を与えられました。また寛保三年(1743)四月七日八代将軍吉宗が鷹狩りの
   際、雨宿りしたのが縁となって、後、将軍の休息御膳所に指定された。境内の閻魔堂は近
   隣にその名を知られ、多くの信仰を集め、名刹の名を
一層高らしめた。今次大戦中より戦
   後にかけて、国道17号線の拡張、環状6号線の開設、特に高速道路の建設により寺域が
   半減するに至り、現在地、赤塚城二ノ丸に移転した。昭和46年より7年の歳月を費やし
   て全山の移転が完了した。東京大仏といわれる日本第3位の大仏は、昭和52年4月11
   日に開眼した。


 とある。

 
赤塚城二の丸跡石標
 境内にある。傍らにある石の小祠は妙見で、千葉氏の守護神。ここが二の丸かどうかは定まってい
ない。ではないかという程度。

   板橋区
   史 跡 
赤塚城二の丸跡

 以前は下記のような区教委の説明板があったが現在は見当たらない。

   赤塚城二の丸跡
   赤塚城は、山すそにその?門とその支城をめぐらせ、半島状の台地利用した中世の代表的
   な平山城であった。文明長享以前の城は、■■にみる櫓(やぐら)や石垣を作らず、館(や
   かた)といった方があたっている。
   この地は二の丸跡といわれ、北方の丘が本丸跡といわれる。ここに祀られている小祠は赤
   塚城の守護神として千葉氏に崇められた妙見祠である。千葉氏は平氏の正統で??、氏の
   神を持たず北斗七星の主星北辰、仏教でいう妙見菩薩を守護神とした。
   本丸跡に連なる平地一帯は徳丸ヶ原といわれる。
   昭和54年3月                         板橋区教育委員会

 妙見塚
 現在は切崩されて無い。二の丸碑の横に石造妙見祠がある。妙見菩薩は北斗七星を神格化した菩薩
で、国土を守り災難を除去し、敵を退け人の寿命を延ばす霊験があるとされている。千葉氏の祖、平
忠常が長元元年(1028)に関東に乱を起こし、追討軍との戦いで危機に陥った時に、妙見菩薩が
現れて助けられたとの伝説から、千葉氏の守護神として崇められている。千葉氏の月星の家紋はこれ
に由来する。 

 
天保飢饉の供養塔
 台座3段の石柱。説明板は以下の通り。

   天保飢饉の供養塔
   天保の飢饉は、享保・天明の両飢饉と並び江戸時代三大飢饉の1つに数えられています。天
   保四年(1833)から同七年にかけて全国的な天候不順による凶作、疫病の流行によっ
   て大勢の餓死者や行路病死者(行き倒れ)が出ました。
   幕府は、白米や銭を支給するとともに、同八年(1837)には、品川・新宿・千住・板
   橋の四宿に救助小屋を設けてその救済に努めましたが、亡くなる者は跡を絶ちませんでし
   た。この供養塔は、当時板橋宿の中宿にあった乗蓮寺の住職撮誉上人が、宿内の死者を寺
   内に埋葬し、その菩提を弔うために建立したものです。正面と左右の面には、江戸中期の
   浄土宗の高僧祐天上人筆の「南無阿弥陀佛」の名号が、また台座には同八年三月から十一
   月の間に亡くなった423人(男333人、女49人、子供41人)の戒名が刻まれてい
   ます。
   昭和61年度に板橋区の文化財(歴史資料)に登録されました。
   平成17年3月                         板橋区教育委員会  
 


藪坂の庚申塔

 赤塚5丁目26番3号の角地にひっそりとある。


都立赤塚公園

 赤塚5丁目29番にある、赤塚城二ノ丸跡(推定)。特別なものはない。なお二ノ丸の大部分は乗
蓮寺の境内と推定されて。
 


■薬師堂
 赤塚5丁目30番、公園南部の小さな墓地にある小堂。


■赤塚五丁目森の広場

 赤塚5丁目32番1号にある区立公園。


■都立赤塚公園 赤塚城址本丸跡
 赤塚5丁目33~35番。ただの山で城跡らしいものは何も残っていない。中世の関東の城なので
石垣も雁木も何もないのだ。本丸部分は平坦な原っぱになってる。農業用水の溜池だったところは埋
め立てられて人工の池(区立溜池公園)が思い出に残されるのみ。城だったころは大池として濠の役
目を果たしていた。北からの攻撃は至難の技だ。室町時代、古河公方足利成氏と関東管領扇谷上杉氏
とが、関東を二分して攻防を繰り返していた頃、下総千葉城に在城した千葉氏も一族が両陣営に分か
れて争っていた。そのうち千葉城はついに古河公方方の手に落ち、城主の胤直・賢胤は敗死、賢胤の
遺児実胤・自胤兄弟は関東管領軍に守られて市川城に逃れるが、ここも攻められ、終に隅田川を渡っ
て武蔵国にへ移り、兄は石浜城に入り、弟自胤は赤塚城に入った。康正二年(1456)自胤はここ
で兵力を養い、太田道灌の援護の下に着々勢力を挽回する。文明九年(1477)道灌とともに豊島
氏を江古田・沼袋に迎え撃ちこれを破り、さらに石神井城を攻略して落した。同十八年(1486)
道灌が主君上杉定正に謀殺され、上杉氏も道灌を失って急速に衰えた。それから後赤塚の千葉氏は小
田原北条氏に属し、天正十八年(1590)小田原落城と運命を共にして城を明け渡した。以後廃城
となる。城跡の下の園地ににある説明板は以下の通り。

   赤塚城跡と徳丸ヶ原
   赤塚城跡は、この公園の南の台地上に位置する室町時代の城跡です。現在は大部分が都立
   公園となっており、城山、お林山とも呼ばれております。
   ここは、康正二年(1456)に千葉自胤が入城したと伝えられ、現在でも空堀や土塁を
   見ることができます。北・東・西の三方は、自然の谷で区画され、北側の溜池は、それら
   の谷の浸みだし水を湛えています。
   城跡の北側に開ける高島平は、江戸時代、徳丸ヶ原と呼ばれた原野でした。ここで天保十
   二年(1841)高島秋帆が様式の砲術訓練を行ったことが、高島平の地名の由来となっ
   ています。明治時代以降は開墾され、徳丸田圃と呼ばれる一面の水田地帯となりました。
   この時、溜池の水は灌漑用水として利用されています。
   高島平団地の開発が始まったのは、昭和40年代に入ってからのことです。
   平成10年3月                         板橋区教育委員会

 赤塚城本丸跡の石柱
 園地の後背の高台が本丸跡。原っぱと梅林がある。

   
板橋区史跡 赤塚城本丸跡

 と刻む。すぐ側にある説明板は以下の通り。

   
武蔵千葉氏と赤塚城跡
   下総国の守護千葉氏は、古河公方足利成氏と関東管領上杉氏とが争った享徳の大乱に巻き
   込まれ、一族で骨相食む争いを繰り広げました。康正二年(1456)成氏の軍勢に攻め
   られた千葉実胤・自胤兄弟は上杉家の助けを受け、市川城を逃れて赤塚城と石浜城(台東
   区)に入城した。
   寛正四年(1468)に兄の跡を継いだ自胤は、太田道灌に従って各地を転戦、現在の和
   光市や大宮市、足立区内に所領を獲得するなど、武蔵千葉氏の基盤を築きました。
   その後武蔵千葉氏は、南北朝以来の領主であった龍王院の支配を排除するなど、赤塚の強
   化に努め、北條氏が武蔵へ進出してくるとこれに従い、豊臣秀吉に滅ぼされる天正十八年
   (1590)まで勢力をふるいました。
   城は荒川低地に面し、東と西に大きく入り込んだ谷に挟まれた台地上にあります。その縄
   張りは、地形の観察等都立公園の広場の部分が一の郭、梅林の部分が二の郭、そしてその
   西側が、三の郭とする見方もありますが、正確なことは明らかになっていません。
   平成13年3月                         板橋区教育委員会

 梅林
 奥にある


   城址の梅林
   梅は春を告げる花です。ここ梅林は梅畑であったものを農家から譲り受け、平成7年6月
   から公園地として皆さんに親しんでいただいております

   白加賀(シラカガ) バラ科サクラ属 
    花期は2月下旬~3月上旬

   中国が原産の梅は花を見るだけでなく、果実も採れる実利の植物であります。
   毎年公園管理所では梅の実を地元の養護学校の生徒さんたちに摘んでもらい、その一部を
   近隣の福祉施設にも差し上げたいと考えています。毎年子供達が楽しみにしていますので
   梅の実には手を触れないよう皆様のご協力をお願いします。

    
梅一厘一厘のほどの暖かさ 嵐雪

   平成11年5月                         板橋区教育委員会


■美術館

 赤塚5丁目34番27号にある区の施設。昭和54年5月23区内初の区立美術館として開設。収
蔵品は、近世絵画については江戸狩野派を中心とした江戸時代の古美術、近・現代の洋画は、大正か
ら昭和前期までの前衛美術作品、また池袋アトリエ村や区内ゆかりの作家などの作品を収蔵方針とし
ている。
 展示活動としては、江戸から東京という生活基盤に根ざした「江戸文化シリーズ」や「イタリア・
ボローニャ国際絵本原画展」「20世紀検証シリーズ」など、ユニークな展覧会を開催している。ま
た各種講座や美術教室、子どもむけのワークショップなどを開催し、区民に親しまれる美術館を目指
している。 展覧会テレホンサービス 03‐3977‐1000
  


■郷土資料館

 赤塚5丁目35番25号にある区の施設。昭和47年開館。本館は校倉造りに似せた建物で、郷土
の歴史を物語る古文書・遺物の展示、別館の民俗資料館は、約200年前の茅葺の田中家の農家を移
築、かつての農村の生活用品・屋内工業用具・農機具などを常時展示する。忘れられがちな祖先の苦
闘の跡を後世に伝え残し、思考と反省の場を提供する。この他の建物では、納屋、板橋遊郭最後の妓
楼「新藤」の玄関口部分遺構が移築されている。石造物として庚申塔・馬頭観音祠不動尊・稲荷祠が
自然の中に点在している。 03‐5998‐0081

 田中家住宅
 江戸時代後期に建てられたもので、寄棟・茅葺き・田の字型の間取りという典型的な日本の民家建
築だ。徳丸地区から移築した。

 
納屋と井戸
 納屋は切妻・瓦葺きの2階建てで、明治時代の建築。1階には農機具を展示している。蓮根地区か
ら移築。井戸は大谷石を丸くくり抜いたもので、杉皮葺きの屋根があり、滑車の先に釣瓶がついてい
る車井戸。

 
新藤楼玄関
 この建物は、板橋宿にあった木造3階建ての遊廓建築で、明治18年に建築されたものだ。北豊島
郡の中心地だった板橋宿を代表する高楼建築として有名だったが、昭和47年の解体に伴い、唐破風
様式の玄関のみを移築した。

 
年中行事
 田中家住宅を中心として板橋の地域色豊かな年中行事を開催している。正月には繭玉作り、3月に
は雛祭り、5月が節句、7月は七夕、9月には月見、12月には事八日(ことようか)など、特に農村
地域に密着した行事を行っている。
 


■赤塚溜池公園

 赤塚5丁目35番27号にある区立公園。


■赤塚六丁目公園

 赤塚6丁目4番28号にある区立公園。



■加藤筆吉翁之碑

 赤塚6丁目6番29号の加藤家の庭にある。さぞかし立派な人だったのだろう。
 


■赤塚六丁目緑地

 赤塚6丁目8番12号にある区立公園。


■下赤塚小学校

 赤塚6丁目14番1号にある区立校。昭和33年赤塚小学校から分校して「東京都板橋区立下赤塚
小学校」として開校。1~5年10学級でスタート。同34年10教室増築。同36年校歌制定。
 同36年4教室増築。同50年鉄筋コンクリート造り校舎に改築(普通教室17・特別教室3・図
書室・屋上プール・校長室・職員室など)。同57年築山完成。同61年クラブ・ハウス完成。
 平成4年第二図書室設置。同5年花壇造成完了。同8年飼育小屋完成。同9年情緒障害学級「たち
ばな」新設。
同10年創立40周年記念式典。同17年給食調理業務民間委託開始。同19年「たち
ばな」
特別支援学級(情緒)と改名。
 


■篠塚稲荷神社

 赤塚6丁目15番20号、下赤塚小学校の北にある小社。篠塚が当地の旧称なのか、台東区の篠塚
稲荷と関連があるのかないのか不明。赤塚稲荷と書いたものもある。隣に篠塚という個人宅がある。
 


■赤塚六丁目ふれあい公園

 赤塚6丁目21番5号にある区立公園。


■赤塚しのがやと公園

 赤塚6丁目30番7号にある区立公園。


■上谷津公園

 赤塚6丁目36番31号にある区立公園。


■赤塚図書館

 赤塚6丁目38番1号にある。
 


崇福山泉福寺

 赤塚6丁目39番7号にある真言宗智山派の寺。本尊は不動明王、開創は鎌倉時代。入口は車一台
が通れる狭い参道。左が本堂、正面が庫裏、右は駐車場。豊島八十八ヶ所霊場23番札所。
 区の説明板には、

   ご本尊は不動明王。宗派は真言宗智山派崇福山泉福寺と号す。
   開山は不明ですが、大堂にある暦応三年(1340)4月鋳造の梵鐘の銘文中に「泉福寺」
   の名があるので、鎌倉時代には創建されていたと思われます。その後の寺暦については不
   明ですが、明治5年の「新義真言宗本末一派寺院明細帳」に「47世住職栄尊」とあり、
   明治初年まで47人の住職を数えたことが判ります。
   明治9年6月29日には、公立の下赤塚学校が本寺を借りて開校し、旧上赤塚村の清涼寺
   にあった石成学校と合併して、明治24年10月に赤塚小学校が誕生するまでの約15年
   間、ここで授業が行われていました。
   本寺に伝わる十一面観音立像は、天和元年(1681)七月下赤塚村の名主春日伊兵衛が
   寄進したもので、平成3年度板橋区の文化財になりました。
   境内には、鎌倉時代から室町時代までの板碑16基が立ち並んでいます。
   なお本寺は豊島八十八ヶ所霊場第23番札所になっています。
                                  板橋区教育委員会


 とあり、区編纂の「いたばしの寺院」には、

   現在重文となっている大堂の鐘銘に明らかな如く、暦応三年(1340)には、既に本寺
   は建立され、相当な構えの古寺であったと推定されるが、その後のことは明らかにしない。
   現在は本山を京都東山の智積院とするが、戦前は上石神井村の三宝寺の末であった。本尊
   不動明王を安置し、専ら加持祈祷の祈願寺として法灯を維持した。


 とある。
 


■松月院大堂
 赤塚6丁目40番7号にある松月院が管理する阿弥陀堂。大正14年府史跡指定。区内で最も古い
寺院建築で、平安朝初期の大同年間(806~8)の創建だそうだ。建武・延元(1334~36)
頃には「来迎院」という、
七堂伽藍を備えた大寺だったんだけど、上杉謙信が小田原北条氏を攻めた
時、敵の待ち伏せを恐れた謙信入道が焼き払っちまったんだと。坊主が寺を焼いてちゃしょうもねえ
よなぁ。それ以来迎院としては衰微したんだが、その時焼けずに残った銅鐘に、南北朝初期の「暦応
(りゃくおう)三年(1340)」鋳造の銘があり、鎌倉時代の名僧である建長寺の中岩円月の名文
が刻まれ、その文は江戸文人の憧憬の的だった。昭和24年国の重要美術品に認定され、現在では区
立郷土資料館に収蔵されてるさ。いま鐘楼にぶら下がってるのは、残念ながらレプリカだから盗むな
よ。恥かくだけさ。本尊の阿弥陀如来は、組木造りで像高約3尺。鎌倉末期の秀作で、江戸時代から
有名な尊像。
 因みに大堂のあるこの丘は、実は古墳だといわれる(板橋区教育委員会資料)。

   新編武蔵風土記稿巻之十四北豊島郡之六
   土俗大堂と称す。阿弥陀は聖徳太子の作。坐長三尺の縁起の文に拠に、此堂の起立は
建武
   延元の頃七堂伽藍の荘厳あり。故に大堂と号す。其頃
泉福寺、真福寺の両寺大別当たり。
   上六坊下六坊と称して十二の脇坊あり。それより星霜を経て、永禄四年(1651)上杉
   輝虎小田原乱入の時、此辺兵火の衛となり、堂宇悉く烏有となりしより、今の如く衰微せ
   りと云。今村内に上寺家下寺家の小名残れるは、彼の脇坊の遺名なりと云。真福寺は廃し
   て今泉福寺此堂を進退せり。


 区編纂の「いたばしの寺院」に、

   古墳上に建てられた瓦葺の阿弥陀堂であるが、通称大堂と呼ばれる。区内最古の寺といわ
   れる。堂前の鐘楼にかけられた重要美術品認定の鐘銘によれば、建武延元の頃には七堂伽
   藍を備えた寺であったという。付近に上寺家、下寺家という小名が残されている。
   口碑によれば、永禄四年(1651)に越後の上杉謙信が小田原の北條氏を攻めた時、こ
   こが行軍の途中あたり焼き打ちされたという。
   江戸時代から文人風流人の愛好するところで、特に梵鐘を見んとする者、道を遠しとせず
   杖を引いたという。この地は大正14年5月府指定の「旧跡」となり、梵鐘は昭和24年
   5月「重要美術品」に認定されている。

 とあり、説明板に、

   大堂
   この地域は江戸時代は江戸幕府の直轄地(天領)であり、豊島軍峡田領下赤塚村に属して
   いた。大堂とはここでは阿弥陀堂のことで、「新編武蔵風土記稿巻之十四」によると、南
   北朝時代の建武延元の頃(1334~40)には七堂伽藍を備えた大寺院だったので、村
   人は大堂と称していたという。永禄四年(1651)三月長尾景虎(上杉謙信)が上杉憲
   政を奉じて北條氏康を小田原に攻めた際に、堂宇悉く焼き打ちにあって焼失したといわれ
   ている。文化十一年二月に大堂を訪れた小石川本法寺の老僧十方庵教順は「往還の西北に
   して小高き処にあり、則ち石段を登る拾四五段、本尊は坐像の弥陀、御長二尺四五寸ばか
   りと覚ゆ」と紀行文「遊歴雑記」に書いている。
   東側の赤塚八幡神社は、江戸時代から下赤塚村の鎮守社で、明治初年の神仏分離令によっ
   て神社の参道から右八幡社、左大堂と分けられている。
   南北朝時代の暦応三年(1340)鋳造の梵鐘と鎌倉時代末期の制作といわれる本尊阿弥
   陀如来坐像は共に有名で、江戸市中からの参詣客が絶えなかったといわれる。
                                   板橋区教育委員会

   大堂
   本堂に安置された阿弥陀如来坐像は、高さ90cmの木像で平安時代後期の作と思われる
   立派な尊像である。
   また、堂前の梵鐘は暦應三年(1340鋳造で、学僧として名高い鎌倉は建長寺42世中
   岩(円月)の撰文の鐘銘により名鐘としての誉れ高く、古来文人墨客の杖をひくところと
   なった。
   鎌倉時代以前は、七堂伽藍に12の脇坊を備えてあった大堂も、永禄四年(1561)上
   杉謙信による小田原攻めの時、兵火にかかったと伝えられ、今は僅かに本尊と梵鐘に往時
   の面影を偲ぶに過ぎない。
   平成5年3月                          板橋区教育委員会


 とある。

 
八幡神社
 大堂の境内にある。古墳の上に建っている。
 


■庚申塔
 
赤塚7丁目2番14号の角地に2基ある。


慧日山増福寺

 赤塚7丁目14番5号にある曹洞宗の寺。14世紀の了弁の名号碑(木碑を写したもの)がある。
本堂の裏は墓地、右は庫裏で、これらの建造物は鉄筋コンクリ ートで新しい。
 寛永八年松月院第9世大蓑順高大和尚により開山され、松月院の隠寮寺として近世までその役目を
果たしてきたが、戦後の自作農特別措置法により、境内・田・畑の開放で一旦廃寺の形となった。昭
和52年本寺松月院が再興し、旧の寺籍を回復し、新住職が置かれ、檀信徒も集まり、布教教化に努
められ、漸く昔日の面目に返りつつある。
 


■赤塚七丁目児童遊園

 赤塚7丁目16番16号にある区立公園。


■しもじけ児童遊園

 赤塚7丁目26番32号にある区立公園。


■赤塚第三中学校

 赤塚7丁目27番15号にある。昭和35年赤塚第二中学校の7教室を借り、「東京都板橋区立赤
塚第三中学校」として開校。生徒450名でスタート。
 平成12年創立40周年記念式典。同14年第二音楽室改修・冷房化完了。同15年コンピュータ
室改修。同15年~同20区年板橋区体育総合優秀校受賞。同年校舎耐震化。同18年北校舎(旧銀
行)使用開始、校内全面改修。東校舎改修。同19年大規模改修工事終了。吹奏楽部が東京都中学校
吹奏楽コンクールで金賞を受賞。同20年正門周辺改修工事終了。同22年吹奏楽部東京都中学校吹
奏楽コンクールで金賞を受賞


 校歌
「富士よ秩父よ」 作詞・佐々木信綱  作曲・信時潔
  1.富士よ秩父よ 行く荒川よ
    巡らす自然美 清き学び舎
    我ら自ら信ずる堅く
    意志逞しう日々に励まん
    ああ赤塚第三中学生
  2.常に正しい道行き行きて
    健康純朴 心豊けく
    我ら我が師と我が友共に
    眉上げてみる空は澄み渡り
    ああ赤塚第三中学生
  3.若き思ひに聴け鐘の音を
    興亡幾度 時代移れど
    我ら踏み立つ不滅の大地
    今新しき種子を培ふ
    ああ赤塚第三中学生
  


万吉山 松月院 宝持寺
 赤塚8丁目4番9号にある曹洞宗の寺。康正二年(1456)赤塚城に移ってきた千葉自胤(より
たね)が、壇那寺として、延徳四年(1492)に地元の古寺であった宝持寺へ土地を寄進して、寺
名を松月院と変えさせたといわれている。開山は曇英慧翁。寺の屋根に見える三個の紋は月星紋とい
い、千葉氏の家紋。徳川家康より朱印地40石を寄進された格式ある寺だ。また幕末に高島秋帆が徳
丸ヶ原で日本最初の洋式砲術訓練を行ったときの本陣でもあるし、院内にある宝物館には、千葉氏寄
進状・徳川朱印状など多数の由緒ある文化財が保存されている。
 現在の境内は区画整理によって参道を分断されており、山門のある白壁の塀が二重に境内を囲んで
いる。イチョウ、ケヤキ、サクラなど大きな樹木が鬱蒼と生い茂り、500年の歴史を持つ寺らしさ
を醸している。花木はウメ、コブシ、サクラ、フジ、ボタン、コデマリ、シャクナゲ、アジサイ、サ
ルスベリと多彩だ。中でも山門の側のシダレザクラ、とソメイヨシノ、その他には5、60株あるボ
タン、情緒豊かに咲くボタンは古刹にはよく似合う。区の説明板に、

   松月院
   本寺については、四神地名録・新編武蔵風土記稿・武蔵野話・江戸名所図会・遊歴雑記・
   武蔵通志などに記載されているが、通説では明応壬申子年〔延徳四年(1492)〕に千
   葉自秀(七郎二郎)を開基とし、曇英(慧応)を開山として創設されたという。自秀は永
   正三年六月二十三日卒し、松月院南州玄参と墓石に刻され、曇英は永正元年十月十四日寂
   し、宝光智照禅師曇英慧応大和尚と位牌に残る。曇英は上野国群馬郡臼井村双林寺の弟三
   世であった。
   千葉自胤は、父実胤の在城下総国市川城が康生二年正月十九日成氏のため落城させられる
   と、逃れて赤塚城に入った。それから30年の後、従来から存在していた宝持寺を改めて
   千葉一族の菩提寺となし宗派を曹洞宗を以てし、院号を「松月院」と称し、自ら中興開基
   延徳四年(1492)十一月五日に寺領を寄進したものと考えられる。
   これより前、古寺のあったことは、元徳元年(1329)銘の比丘尼了雲の墓石の残存に
   よって知られる。
   松月院は既に500年以上も経過した古寺であり大寺である。千葉家の菩提寺であった為
   寺紋は千葉家の紋所「月星」を以てしている。
   天正十八年(1590)八月一日徳川家康が江戸に入るや、翌天正十九年十一月に寺領4
   0石を寄進した。代々の将軍も先例に倣い40石の朱印状を交付して幕末に至った。
   天保十二年(1841)五月九日高島秋帆が幕命により徳丸ヶ原に於て、隊員と共に洋式
   砲発射訓練した際は、三日間本寺を本陣として使用した。三遊亭円朝の「怪談乳房榎」や、
   下村湖人の「次郎物語」は本寺を中心とした付近の風物がモデルとして多く採り入れられ
   ている。                           板橋区教育委員会

 とある。

 
施無畏地蔵
 参道入口にある。昭和29年造立。施無畏という名は主として観音に使う法語で、地蔵に使うのは
極めて稀な例だ。

 
石仏4基
 門の両脇は下見板張りの漆喰壁。左側の端の方に切り込みがあって、そこに4基の石仏が安置して

ある。

 
赤塚村の役場
 明治22年から昭和7年まで置かれていた。

 
千葉自胤とその奥方竜光院殿の墓
 
墓地内にある。

   赤塚城主 千葉自胤の墓
   享徳・康正のころ、鎌倉管領上杉氏と古河公方足利氏の争乱は関東を二分し、名族・千
   葉氏も一族が双方に分属し、骨肉相い喰む争いの結果、康正二(一四五六)年、自胤方は
   戦い敗れ傷心の身を上杉方の柱石・太田道灌に護られて赤塚城に移り、勢力を挽回して
   南武の大豪族となった。自胤は近くの宝持寺を菩提寺と定め、寺領を寄進し、寺号を松
   月院と改め曹洞宗に改宗させ、自ら中興開基となる。
    三基ある墓碑のうち、右が自胤(一説に自秀ともいう)、中が奥方龍興院殿、左の宝篋
   印塔が比丘尼了雲、区内最古の墓である。
   平成四年四月                         板橋区教育委員会



 
下村湖人の墓
 児童文学の名作『次郎物語』の作者。湖人はこの一帯の風物が好きで、この辺りを描写し、松月院
で作品の構想を練ったとか。なお『次郎物語』は松月院一帯をモデルにした小説だ。

 『次郎物語』あらすじ
 本田家の次男として生まれた次郎は、里子として「ばあや」と呼ぶお浜に育てられたが、やがて実
家に厭々ながら戻される。実家だが慣れない環境や祖母のおことのえこひいきに遭いながら父親の俊
亮、母親の民、祖父の恭亮と民の実家正木家の人々に見守られながら成長していく。しかし恭亮が死
に、民は結核に侵され、俊亮も連帯保証人になった相手が破産したため、次郎は母民の療養を兼ねて
正木家に引き取られる。懸命に母の看病をする次郎に本来なら年齢制限がある夏祭りの踊り子をやら
せて貰い、衣装を病床の母に作ってもらうが、民は日に日に衰弱していき、夏祭り当日踊り子衣装を
身に付けた次郎を見送った後、お浜に看取られながら亡くなってしまう。次郎は母の葬儀で泣く事は
しなかった。
 第一、二、五部には「あとがき」が、第四部には「附記」がある。第二部のあとがきによれば、第
一部は「教育と母性愛」、第二部は「自己開拓者としての少年次郎」がテーマであると述べられてい
る。また第五部のあとがきには、「戦争末期の次郎を第六部、終戦後数年たってからの次郎を第七部
として描いてみたいと思っている」とある。結局6部・7部は上梓されなかった。

 乳房榎
 明治の人情咄の大家として有名な三遊亭円朝作の創作落語「怪談乳房榎」のモデルとなった瘤榎。
「怪談乳房榎」は、絵師菱川重信とその妻を寝取ろうとして弟子になった磯貝浪江の物語。磯貝に殺
された重信には真与太郎という赤ん坊がいて、磯貝は真与太郎を殺せと下男の正介に命令するが、正
介は殺したと嘘をつき、松月院に逃げ込み寺男として住み込んだ。赤ん坊は空腹で泣くが飲ませる乳
がない。そんな時に榎の1本から乳のような汁が垂れていて赤ん坊は喜んでこれを飲み、すくすくと
成長しいっ。磯貝は、真与太郎が生きているのを知ると松月院へやってきて、太刀を振り上げるか゜、
、重信の幽霊が出てきて磯貝を退治するという筋書だ。かなり艶っぽく、歌舞伎にもなっているので、
演技力もいる咄だ。この榎は「子育ての榎」として子をもつお母さんがお参りするようになったが、
当時のものはもうない。今のは4代目だ。
 「怪談乳房榎記念碑」は表通りに面して「赤塚碑」とともにある。

 ●洋式火砲顕彰碑(高島秋帆先生紀功碑)
 千葉氏にも増してこの片田舎の小寺を有名にしたのは、高島秋帆の大砲演習だ。長崎の町役人だっ
た高島秋帆は隣国の清がアヘン戦争でイギリスの圧倒的火砲の前に苦しめられているのを知り、国防
の重要性を幕府に建白した。幕府は早速秋帆に外国製の大砲小銃を持って江戸に来るように命じたが、
渡辺華山や高野長英と同様に冤罪でほぼ11年も幽閉され、釈放後すぐに死を覚悟して上告したそう
だ。そして長男浅五郎、弟子80余名と、天保十二年(1841)五月七日に松月院へ着き、この寺
を本陣として二晩泊まり九日に山の下の徳丸ヶ原(今の高島平六丁目付近、当時は荒地だった)で幕
府の役人や大名が見守る中、荒川に向かって実弾射撃を行い、歩騎兵の調練など西洋兵術の成果を披
露し見学者を驚かせた。これが明治の新政府になって実を結び、後年日本陸軍が出きたので、いわば
ここが陸軍発祥の地と言えなくもないが、発祥の地の碑は高島平公園に建っている。ちなみに秋帆は
「日本陸軍の父」といわれているそうな。顕彰碑は銅製の大筒を立てたもので、本堂の左手前に建っ
ている。それはそれは立派なものだ。女性の参詣者が多く、安産にご利益があるというので、本堂に
お参りするよりこっちが優先されるそうな。理由? そんなこといえるかいな。実際に行ってその前
に立ってみなはれ、女性なら黙って手を合わせるさ。

   高島秋帆先生紀功碑
   この紀功碑は、別名火技中興洋式開祖碑とも呼ばれ、ここ松月院に本陣を置き、徳丸原で
   日本最初の本格的な西洋式砲術を指揮した。高島秋帆を顕彰する目的で大正11年12月
   建立された記念碑である。
   高島秋帆は、寛政十年長崎町年寄の名家に生まれ、長じて出島のオランダ人より西洋の砲
   術を学んだ。天保十一年、中国清国と英国の間で阿片戦争が勃発し、西洋の進んだ軍事技
   術に清国が大敗すると、その危惧が日本に及ぶことを恐れた高島秋帆は、天保上書を幕府
   に上申、日本の従来からの砲術技術の変革を唱え、西洋列強諸国に対する防備の一環とし
   ての西洋式軍事技術の導入を説いた。
   天保十二年五月七日~九日までの3日間、高島秋帆は赤塚の朱印寺として名高い松月院に
   本陣を置き、門弟100名と起居を共にしながら、現在の高島平、徳丸原にて洋式砲術訓
   練を公開し、世にその名声を得たが、間もなく讒言にあい永牢につながれた。
   嘉永六年夏、11年に及ぶ幽閉を説かれた高島秋帆は、江戸幕府の肝煎りで講武所を開設
   し、支配及び師範に出仕し、幕府或いは諸藩の西洋式軍事技術普及に貢献した。慶応二年
   正月小石川にて69歳の生涯を閉じた。日本陸軍創設者の一人として名高い。
   紀功碑は、安政四年に鋳造された銅製二十四斤加農砲を碑心に火焔砲弾四発を配した大理
   石製の台座にのせた特異な形をとり、砲術に長けた高島秋帆を象徴する。総高6m。


■不動の瀧公園

 赤塚8丁目11番5号にある区立公園。


■庚申塔
 ✓
 赤塚8丁目16番の民家の壁にはめこんである。
 


【赤塚新町】(あかつかしんまち)1~3丁目              昭和44年3月1日
 赤塚村の小名新町・新町前。昭和44年上赤塚町・下赤塚町・四葉町・徳丸町の各一部をあわせ
た町域を現行の「赤塚新町」とした。東武東上線以南の川越街道沿いの町、練馬区光が丘のすぐ北
にある特段特徴の無い住宅街だ。3丁目はほとんど光が丘といってもよいほど光が丘に依存してい
る。
 参考資料:「東京都住所表記に関する資料」ほか「板橋区史」など。

 新町の由来
 この「新町」は「新しいまち」の意ではなく、新田と同義で「新しい開墾地」のこと。赤塚村の
農民によって開かれた新しい村、第2赤塚村の意。判りやすくいうと、赤塚新村、新赤塚村といっ
たところ。新田・新町は江戸時代以後の開拓、安土・桃山時代以前の開墾を古田・古町という。た
だし田端新町は明治以後の命名で「新しく町場化したところ」の意味で命名した。世田谷区桜新町
は、世田谷村の枝村である新町村に桜並木を拵えて売り出した分譲地のセールスネームだ。新田・
新町は「新村」の意で、田圃畑地を表現したものではなく行政単位なのだ。
 

■下赤塚駅

 赤塚新町1丁目23番1号にある東武東上線の停車場。昭和5年12月29日に追加開業した駅。
因みに隣の東武練馬駅は、下赤塚駅からちょうど1年後の開業だ。昭和58年には、駅の南側に地下
鉄有楽町線の営団赤塚駅(地下鉄赤塚駅)が開業した。
 ホームは地上相対式2面2線構造で、上下ホームは地下道で結ばれている。地下道にはエレベータ
ーがないが、ホームごとに改札がある構造なので問題ない。
 改札口・出口は南口と北口の2ヶ所でいずれも1階にある。また池袋寄りの踏切から北口改札へ通
じる小道の入口には、かつての改札の場所が今も残っており、靴の修理屋が入居している。
  


■駒形稲荷

 赤塚新町1丁目25番3号にある小祠。屋敷神のようではない。「駒形」は「こまかた」と読むの
だろうが、由来は判らない。
 



■赤塚新町小学校

 赤塚新町1丁目31番1号、光が丘の一部にある。昭和58年「東京都板橋区立赤塚新町小学校」
として開校し、翌年校歌を制定した。

 校歌
「君の学校は」 作詞・日高由布雄  作曲・栗原正義
  1.「君の学校は」と聞かれたら
    誇りを持って答えよう
    青空の下 みんな輪になり
    心を結び 喜び溢れ
    豊かに学ぶ明るい学校 赤塚新町
  2.「君の学校は」と 聞かれたら
    自信を持って答えよう
    明日の希望に輝く瞳
    賢く 強く 温かく
    確かに学ぶ楽しい学校 赤塚新町
  3.「君の学校は」と聞かれたら
    望み大きく答えよう
    今日の私のこの幸せが
    日本と世界の未来を築く
    大きく学ぶ 羽搏く学校 赤塚新町


 平成5年創立10周年記念式典。同13年中華人民共和国より教育使節団30名来校。同15年
創立20周年記念式典。
 


■赤塚新町公園

 赤塚新町1丁目35番にある区立公園。
 


■赤塚新町庚申塔

 赤塚新町3丁目13番23号の角地、たばこやの前にある、大きな自然石の石造物。
 


■下赤塚公園

 赤塚新町3丁目24番8号にある区立公園。


■赤塚新町三丁目児童遊園

 赤塚新町3丁目34番10号にある区立公園。


■赤塚新町公園

 赤塚新町3丁目35番1号にある区立公園。
 
 


【小豆沢】(あずさわ)1~4丁目                  昭和41年1月1日
 小豆沢村。明治22年志村大字小豆沢、昭和7年板橋区小豆沢町、同18年小豆沢1~4丁目。
同36~7年1丁目の一部を志村・蓮沼に譲り、同41年一部を志村・東坂下に譲った残りの大部
分を現行の「小豆沢」とし新住居表示を完了した。
 参考資料:「東京都住所表記に関する資料」ほか「板橋区史」など。

 小豆沢の由来

 ①、「アズ・アサ」は「地崩れし易く開墾するに不向きな湿地帯」という地形説。
 ②、小豆説、
 ③、梓(あずさ)の転訛説

 の三説がある。①の地形説は「阿佐ヶ谷」や「飛鳥」が同類だ。また②の小豆説には伝承が2つ
ある。1つは平将門の手の者が舟で小豆を運搬中に難破してこの地七々子崎(ななこざき)の入江
に漂着したというもの。もう一つは洪水の時、上流からもち米が流れ着き、村では水を吸った糯米
は腐りやすいからと小豆を混ぜて炊き、飢饉の最中のこととて村中で食べてしまったというのがあ
る。どちらも元の所有者と訴訟問題に発展した。判決は共に小豆沢側の勝訴に終わり、臨機応変の
措置の手際の良さを褒められもした。訴人はその管理不行届きを叱責されたのは言うまでも無い。
村人は大喜び。鎮守の十二天社に赤飯を奉納して感謝し、小豆沢を村名にして長く記憶することに
したという。③の梓説はこの地が梓の繁茂した「梓沢」で「あずさざわ」の「さ」を「き」と読み
違えたものという。
 村北の新河岸川は荒川の直線化によって残された蛇行部分を繋いで拵えた人工の川で元は埼玉県
内で荒川(元入間川)に注いでいた。江戸時代から近郊農村として大根や胡瓜などの野菜を生産、小
豆沢河岸は大根と沢庵漬の出荷が多く大根河岸と俗称されもした。都営地下鉄志村坂上駅の北側の
町だ。だから小豆沢は十二天社(小豆沢神社)だ!

 【梓】
 あずさ。「アズサ」という植物はなく。正しくはヨグソミネバリ(夜糞峰榛)だと植物学者白井
孝太郎が示した。木質が硬く弓(梓弓)の材とした。それから「射る・張る・引く・寄る・本・末
・つる・かえる・矢・音」の枕詞。上梓は梓が版木に用いられたことによる。「梓に上す(しにの
ぼす)」→「上梓」→「出版する」
 


■中原公園
 小豆沢1丁目4番10号にある区立公園。


■志村警察署
 小豆沢1丁目11番6号にある。昭和21年板橋警察署から分離して新設された。管轄に
清水町・
小豆沢坂上・坂下・蓮根・前野町・中台・西台・中台三丁目の9交番がある。駐在所はない。
  


■東原公園
 小豆沢1丁目20番13号にある区立公園。


■志村第二中学校

 小豆沢1丁目21番にある区立校。

 
日本語学級
 
都内の昼間部の中学校に6校しかない。平成5年度に設置され、同14年度までは、板橋区内の中
学校で唯一の日本語学級でした。ここ数年、通級生の人数が毎年増加し、同15年度からは板橋第一
中学校にも設置された。当校の日本語学級には、自校の生徒ばかりでなく、区内の主に赤塚・高島・
志村地区の各校から、色々な国の生徒が日本語を学習するために通級してきている。
 


■庚申塔
 小豆沢2丁目5番16号の石塀に嵌め込まれている。


■庚申塔
 小豆沢2丁目19番の板橋中央病院の東の角の歩道上にモノリス(巨岩)のように仁王立ちしてい
る。


■小豆沢二丁目庚申塔
 小豆沢2丁目36番の東面のコンクリート板塀に嵌め込まれている。
 


■小豆沢公園
 小豆沢3丁目1番1号・8番にある区立公園。この公園は、公園の機能のほかスポーツ施設として
の機能を持地、体育館・プール・テニスコート・武道場・弓道場・相撲場。野球場が完備している。
春には、公園に植わっている多くの桜が満開になり、志村坂上地区の桜まつりが催され、多くの人出
で賑わう。公園奥に新河岸川が流れており、水上バス小豆沢発着所がある。発着所周辺の見晴らしは抜
群だぞぉ!
  


妙亀山総泉寺
 小豆沢3丁目7番9号にある曹洞宗の寺。元は浅草橋場の名刹、石浜城主千葉守胤の開基と伝えら
れる。関東大震災で全焼したため、古くから当地にあった大善寺を糾合して、昭和3年この地に移っ
てきた。軒下を借りた蟷螂(かまきり)が、家持を食い殺して母屋を乗っ取ったようなものだ。秋田
藩佐竹家の菩提寺で、明治画壇の鬼才寺崎広業の墓もある。
 境内の地蔵堂は、旧中山道の清水坂にあった地蔵尊を移したものだ。

   御本尊釈迦如来。宗派曹洞宗系の単立。妙亀山と称する。
   本寺は元、浅草の橋場の大寺で、創立は建仁元年(1201)二月、開基は千葉介。中興
   開基は16世紀中頃、当時の石浜城主千葉守胤。その後石浜城主千葉氏の菩提寺となる。
   江戸時代になると江戸三刹の一つとして幕府の庇護を受けると共に、秋田藩佐竹氏の江戸
   での菩提寺となった。
   ところが関東大震災で被災すると、昭和3年この地に移転してきて大善寺と合併した。
   境内に祀られている薬師三尊は、元大善寺の本尊で、清水薬師とも称され、清水坂の地名
   もこれによる。また地蔵堂に祀られている地蔵は、もと清水坂の中腹にあったもので、現
   在は子育地蔵として信仰を集めている。なお墓地内には佐竹侯や明治画壇の大家寺崎広業
   大名松平忠良・忠憲父子の墓碑などがある。
   平成7年3月                          板橋区教育委員会


 区編纂の「いたばしの寺院」には、

   もと浅草橋場にあり曹洞宗初期の道場。開創は貞元(976~977)以前とも伝える。
   創立は、
建仁元年(1201)二月、開基は千葉介。開山僧は不詳。当初は法相或いは律
   相であった。後、禅宗となり、曹洞改宗開山は相模最乗寺三世?叟
宗俊、中興開基は千葉
   介守胤〔法名総泉寺院殿長山昌大居士 弘治三年(1557)十一月八日没〕以後代々
   千葉氏(石浜城主)の菩提寺となる。地元民をはじめ、北條・太田・宇都宮・遠山・梁田
   ら諸将の尊信を集めた。旧地内周辺は城址との説もある。山号「妙亀」は、貞元元年三月
   十五日非業の死を遂げた梅若丸を弔うため、母妙亀が尼となり庵を結び、この寺のはじめ
   をなしたという伝承による。
   中世は会下寺とも呼ばれ、永禄二年石浜会下領40貫九百文を有し、雲水は常に二、三百
   人が集まっていたという。
   近世に入り、徳川家康の小田原攻略の際、境内の竹を旗竿に献上したことから御朱印20
   石、境内28000坪を給さる。後、鷹狩りの折の御膳所に指定さる。
   秋田藩主佐竹義宣は水戸在城時より帰依し、その菩提寺となし、江戸三ヶ寺(青松寺・泉
   岳寺)の筆頭となり、元禄六年曹洞門「常恒会」となる。正徳・享保・明和・慶応と数度
   の火災に遭い、更に大正の大震災より堂宇・寺宝・古記録の殆どを焼失した。震災後、市
   の区画整理に依り、昭和3年現在地に移転し、大善寺を併合した。

 とある。「新編武蔵風土記稿」は以下の通り。

   下総国府台総寧寺末。浅草橋場総泉寺、境内拝領地二万八千坪 御朱印寺領二十石御府内
   曹洞宗系単立触頭三ヶ寺之一。当寺触下七十一ヶ寺 末寺十三ヶ寺 寺内一ヶ寺、三州西尾
   十二ヶ寺 武州の内、当時起立者、円融院之御宇已前ヨリ総泉寺ト号シ、其比宗派法相又
   は律相共言伝フ。其時ノ開山開基姓名不知。
   開山相州関本最乗寺之開山了庵和尚ヨリ三代目ノ嗣法也。此頃曹洞ニ相成リ、其頃最乗寺
   ノ末ニアリシガ、其後何之頃総寧寺ニ成リシヤ不知。開山遷化、寛正六年十一月十九日。
   中興開基建仁元年、土御門院御宇。桓武天皇二十四代之孫千葉介守胤則廟所在之。法名長
   山昌潡大居士。弘治三年十一月八日卒ス
   再中興開基寛永年中佐竹右京太夫源義宣公、法名浄光院殿傑堂天英大居士。寛永十年正月
   二十五日卒ス。
   天正十八年東照神君小田原御陣之節、当寺境内之竹、旗竿ニ差上、則御利運ニ而関八州初
   而御手ニ入御喜悦之余、御書并御製札御朱印拝領之。翌天正十九年十一月境内二万八千坪
   御朱印高20石新規二被置。猶又御府内一宗之支配被仰付之。御朱印御本書二代将軍様代
   替之節御老中松平出雲守殿江差上置候処、其節御屋敷ニ而焼却尤相違無之ニ付、三代将軍
   様ヨリ御代々之御朱印賜之候。当寺御膳所ニ相成候。初ハ天正十九年。東照神君御鷹野ヨ
   リ当寺江被為在。御立寄、夫れより御代々御膳所ト申伝候得共、旧記焼失後不相分候。


 
清水薬師如来石柱
 総泉寺山門の外側脇に立っている。石碑中央には「清水薬師如来」、その右肩に「聖徳太子彫刻」
と刻まれている。総泉寺は昭和の初め浅草区橋場から移転してきて、当所にあった大善寺を吸収して
名前を変えた。旧大善寺は15世紀末に農民新見善左衛門が聖徳太子作と伝える薬師如来を本尊とし
て開基した。江戸時代、徳川吉宗が鷹狩りに来た折、寺で一休みして飲んだ清水が美味かったので、
「清水薬師」と称せよといった謂れがある。この石柱はその「聖徳太子作の清水薬師如来がある寺で
すよ」と案内しているのだろう。現在この像は薬師堂内に祀られている。左右の脇壇には薬師如来の
眷属十二神将の像を置くという。
 


■薬師の泉公園 薬師池

 小豆沢3丁目7番20号にある区立公園。薬師の泉は、志村三泉(薬師・見次・出井)の一つで、
今は涸れているが清水坂の名の由来となった湧水。嘗てこの地は大善寺という曹洞宗寺院の境内だっ
た。8代将軍吉宗が志村周辺で鷹狩をした時に、大善寺に立ち寄り、境内に湧き出す清水を誉めて、
寺の本尊である薬師如来を「清水薬師」と命名した。「江戸名所図会」にも登場し信仰と憩いの場所
として賑わった。昭和初期に総泉寺に吸収され亀山荘庭園が築造されたが戦後荒廃した。平成元年に
板橋区により庭園として整備された。

   薬師の泉
   15世紀末、この地に、農民新見善左衛門は聖徳太子作と伝える薬師如来を本尊として大
   善寺を開基した。後、八代将軍徳川吉宗遊猟の途中立寄り、清泉に因んで「清水薬師」と
   命名したという。志村三泉の一つとも言われる豊かな湧泉は、中仙道を往来する旅人や江
   戸名所を訪ねる人々の信仰と憩いの場所として賑わった。
   大善寺は昭和の初め総泉寺と併合し、総泉寺亀山荘庭園が築造されたが、戦中戦後荒廃し
   た。
   この度、板橋区は、「江戸名所図会」にまで登場する水と緑の名所を現代に再生すべく、
   学術的検討をふまえて江戸の風情を復元整備した。
   平成元年                                 板橋区

   薬師の泉庭園    板橋区指定記念物
   「境内山の腰より清泉沸出」と「江戸名所図会」(江戸時代の地誌)の挿絵に描かれた薬
   師の泉は、かつてこの地にあった大善寺という曹洞宗寺院の境内にありました。
   江戸時代、8代将軍徳川吉宗が志村周辺で鷹狩りをした際、大善寺に立ち寄り、境内湧き
   出す清水を誉めて、寺の本尊である薬師如来を「清水薬師」と命名したと伝わっています。
   この他にも、江戸時代の文献などには、薬師の泉や周辺の清水に関する記載が多く見られ、
   この地が古くから良質の水を産する土地であったことを物語っています。
   板橋区では、先の挿絵をもとに庭園整備を行い、平成元年12月に「薬師の泉庭園」を開
   園いたしました。挿絵は、現在のあずまや付近から見下ろした境内の風景を描いています。
   画面左上に見える道は、中山道の清水坂です。泉の水は、中山道を通る旅人の喉も潤して
   いたのでしょう。
   教育委員会では、この整備をうえ、平成2年度、塔庭園を記念物にしていました。
   平成10年3              板橋区・板橋区教育委員会・板橋区観光協会

   「江戸名所図会」と薬師の泉
   「江戸名所図会」は神田雉子町の名主、斉藤幸雄、幸孝、幸成ら3代が40年の歳月をか
   けて天保7年(1836)に完成した江戸風俗地誌。絵は長谷川雪旦の筆になり精確と評
   価されている。
   図中、左上が中山道清水坂、階段を下り細流の橋を渡ると大善寺境内、右手のお堂が清水
   薬師で参拝者も描かれている。崖下に広がる池泉近くに湧出する清泉がある。これを地域
   の人々は「薬師の泉」と呼んで親しんできた。   
   清水薬師 清水坂
   境内山の腰より清泉沸出す
   故に清水の号あり
   此辺夏蘿葡
(だいこん)を名産とす
   清水種とて世に賞しはべり   板橋


立正山妙徳寺
 小豆沢3丁目7番32号にある。区の寺院一覧には載ってない。小豆沢公園の崖の下にひっそりと
ある。名前からして日蓮宗ではないかと思われるが、寺としてまだ成立してないのかも知れない。車
庫が一階で石段を上がって本堂がある。基礎はコンクリートでがっちりだ。
 第三世永妙院日孝(永井妙孝)は前身永井ハツの時、智光院日召の指南を仰ぎ、不惜身命の経意を
体し、皆帰妙法の祖願達成に精進。漸次同信結集し、新寺建立の機運が熟した。そして布教殿堂の拠
点として風致最良の現在地を選択し、寺観を整備。昭和39年8月妙徳寺として設立した。
 


■戸田橋の親柱
 小豆沢3丁目8番1号の小豆沢公園野球場入口のところに2基を移築してある。

   これは、荒川に架かっていた3代目戸田橋の東京都側にあった親柱です。江戸時代の中山
   道は、荒川を渡し船で渡っていました。橋が架けられたのは明治8年で、長さ135m×
   幅4m11cmの木橋で、初めは通行料をとる銭取橋(有料橋)でした。2代目は路面を
   土で固めた土橋(つちはし)で、大正元年に完成です。
   大正12年の関東大震災後、都市化する東京の北の玄関口として架けられたのが3代目戸
   田橋です。昭和7年に完成したこの橋は、長さ545m×幅11mで、当時の橋梁技術の
   粋を集めた近代的なトラスの鉄橋でした。
   昭和26年からは橋のたもとで納涼花火大会が開催されるようになり、同39年の東京オ
   リンピックでは、聖火ランナーがこの橋を渡るなど、板橋区や東京都の発展を見守り続け
   てきた。
   同53年現在の4代目が完成し、3代目は解体されましたが、「橋の顔」である親柱は、
   この地に保存されることになりました。埼玉県側の親柱は、戸田市立親水公園に保存され
   ている。
   平成9年10月                         板橋区教育委員会
  


■純国産写真フィルム発祥の地
 小豆沢3丁目9番1~2号に、小豆沢公園の北側に隣接して「小豆沢パークファミリア」という大
きな集合住宅(10階建2棟)がある。この敷地内の建物の間の木立に囲まれた場所に比較的小型の
石碑が建つ。大日本セルロイド (ダイセル化学工業)は、昭和3年この小豆沢の地にあった東京工場
の敷地内に「フイルム試験所」を開設し、写真フィルムの工業化のためにフィルムベース・写真乳剤
などの研究を開始した。昭和7年映画用ポジフィルムの試作に成功。昭和9年フィルム部門を分社化
して「富士写真フイルム株式会社」が誕生。神奈川県南足柄村(南足柄市)に工場を建設し移転して
いった。

   昭和3年5月
   純国産写真フィルム発祥の地
   昭和55年8月建立  富士写真フィルム株式会社・ダイセル化学工業株式会社
 


■セブンタウン小豆沢
 小豆沢3丁目9番5号にあるイトーヨーカドーを核とした商業施設。10~21時の営業。イトー
ヨーカドーの外、石煉アンテンドゥ(ベーカリーカフェ)、ポッポ(ファストフード)、赤ちゃん本
舗(ベビー・マタニティ用品)、ユニクロ(ファミリーカジュアル)、ABCマート(靴)、サンド
ラッグ(ドラッグストア)、無印良品(生活雑貨)、無添くら寿司(回転寿司)、ミスタードーナツ
(ドーナッツ)、サーティワンアイスクリーム(アイスクリーム)、TSUTAYA(レンタル)、
イレブンカット(美容室)、ドラキッズ・小学館アカデミー(幼児・児童教室)、ポニークリーニン
グ(クリーニング)、ビバホーム(ホームセンター)、ニツケテニスドーム(インドアテニス・スク
ール)がある。
 


■志村坂公園
 小豆沢3丁目10番18号にある区立公園。


■延命地蔵/赤羽道 移転
 小豆沢3丁目12番、合の宿を過ぎて国道17号線を道路向こうに渡ると旧中山道と新道でできた
三角地がある。この旧道脇に「坂下地蔵尊」としてあるはずだが、先日見回った時にはなかったので
どこかのお寺に移されたのだろう?(※近くの総泉寺にあった) 
 この地蔵は、赤羽道(現在は拡張されて環八通り)との追分を示していた道標だった。環八通りが
まだ赤羽道だった頃は、並木道で結構なもんだったが、経済発展というものは、何とも味わいのない
ものだのう。板橋の人々にとっては、唯一海へ通じる港町小豆沢河岸への往来として重要な街道だっ
た。

 平成24年11月3日Aさんからメールを頂戴しました。

   板橋区小豆沢 延命地蔵/赤羽道 環八の拡幅工事が終わり、元の三角地帯の場所に戻さ
   れています。
  


■小豆沢貝塚
 小豆沢4丁目5番の龍福寺墓地入口に区の案内板が立っている。

   小豆沢貝塚
   北区西ヶ原と共に東京の二大貝塚の一つで、その規模は小豆沢全域にわたる大きなもので
   あるところから、ここには大規模な集落が存在したものと思われる。このあたりが区画整
   理された際に、小豆沢神社付近から発見された多数の縄文・弥生の土器、鉄鏃、石皿、そ
   の他の出土品は東京国立博物館に収蔵されている。
   しかし、この貝塚もほとんど住宅の下に埋もれ、わずかにここ龍福寺墓地の一角にその片
   鱗を残すのみとなっている。
    平成4年3月                         板橋区教育委員会

   
※墓地内を見学するときは、前もって管理人にことわりを入れてください。   龍福 


■地蔵尊
 小豆沢4丁目7番10号にある。小豆沢公園プールの東側の坂、道路拡幅のためか、崖の斜面に一
食い込んで安置されている。この道路下コンクリートに囲まれた空間が祠の内部ということだろう。
上部の鳥居の形状になった部分に蟇股の木製の建造物が見える。言い伝えや縁起などを示すものは見
当たらない。石像が若いので、かつて交通事故で児童が亡くなったのかも。
 


■小豆沢神社・一の鳥居
 小豆沢4丁目10番2号先にある。一の鳥居から二の鳥居までの参道は両側がイチョウ並木で50
m以上の長さ、秋になるとギンナンの実が参道に落ちている。くさい! 二の鳥居は、境内の入口に
ある。
  


■志村第四小学校
 小豆沢4丁目13番1号にある区立校。沿革不明。

 校歌
「窓はいつでも」 作詞・サトウハチロー  作曲・渡辺浦人
  1.窓はいつでも招くよ 呼ぶよ
    おお窓 窓 母校の窓
    待つは 我が師の慈愛の瞳
    おお声 声 優しの声
    心楽し 我が学び舎
    心楽し 我が学び舎
    志村 志村 志村 おお志村第四
  4.唄は空へと響くよ 飛ぶよ
    おお唄 唄 母校の唄
    浮かぶ荒川 貝塚 筑波
    おお雲 雲 希望の雲
    明日も楽し 我が学び舎
    明日も楽し 我が学び舎
    志村 志村 志村 おお志村第四
 


■小豆沢神社
 小豆沢4丁目16番5号にある小豆沢村の鎮守「十二天社」だ。明治新政府の強制により現在名と
された。遠い昔は古東京湾の海水が浸しており、小豆沢の名の起こりとなった12の入江ができてい
た。その12の入江の守り神が十二天社だ。創建は康平年間(1058~65)源義家の勧請と伝わ
る。祭神は国之常立神他16柱。祭日は6月15日の餅つき祭。境内社は、天満宮・諏訪神社・御嶽
神社・稲荷神社・水神宮。
 一の鳥居から二の鳥居までの参道は両側がイチョウ並木で50m以上の長さ、二の鳥居脇に、天然
記念物に指定されたご神木のスダジイが立っている。本殿だけで神楽殿などはない。現在の本殿、鳥
居などに懸けられた注連縄、何れも毛羽立っている。これは竜神の鱗を表わすんだそうだ。おっかね
え! 素朴に水を恐れ敬った人々の、心からの敬意の表現だろうという。
 社殿は、昭和40年頃に金に飽かして建て替えられた。現代風の重みのないものだ。建て替え前の
は、観音塚と呼ばれた古墳上に小さいが茅葺屋根の重々しく極めて神寂びた佇まいだった。改築の時
観音塚まで取り壊し、そうまでしてでっかい建屋がほしかったか・・・神主もまた金、金、金、金の
時代の申し子か? 末社が並んでいる境内後ろ側は崖。さらに先には新河岸川が流れている。

   小豆沢神社とスダジイ
   御祭神 国之常立神 他16柱
   当社は、康平年間(1058~1065)源義家の勧請と伝えられる。江戸時代には十二
   天と呼ばれ、小豆沢村の鎮守でした。
   小豆沢の地名の由来については
   ①.平将門の時代、神社台地下の入江(荒川の旧河道)に停泊中の舟が嵐に遭い、小豆を
     流失した。
   ②.上流から漂着した米を腐らないうちに食べたことを裁判で評価され、岩井の小豆飯を
     炊いた。
   という二つの故事が残ります。後者の故事に因み、毎月15日に餅搗き祭が執り行われま
   す。明治2年社号を小豆沢神社に改め現在に至っています。
   二の鳥居脇の「スダジイ」は当社のご神木です。南の道路側へやや傾斜し、幹の内部は空
   洞化していますが、樹勢は良好です。天然記念物として、平成6年度、区の記念物に指定
   されました。
   平成9年3月                          板橋区教育委員会

   小豆沢神社の「すだじい」
   枝振りはよく茂り、樹勢はのまだなかり旺盛であるが、樹の内部は空洞となり、根本から
   かなり上部に及んでいる。樹齢は不明であるが、遠く平安の昔より小豆沢村の鎮守であり
   十二天社として信仰をあつめ、小豆沢神社のご神木として長く歴史を見守ってきた由緒あ
   る名木で、昭和48年より板橋区の名木として指定されている。
   昭和60年4月                         板橋区教育委員会

 十二天
 方位の神々をいう(「天」は「神」と同義)。平安時代以降にもたらされた密教では、四方に加え
て四維および上下と日月をまとめて12の守護神という組み合わせを生み出した。尊像名と方位を列
挙すると、梵天(上)・地天(下)・月天・日天・風天(西北)・水天(西)・羅刹天(西南)・閻魔天(南)・
火天(東南)・帝釈天(東)・伊舎那天(東北)・毘沙門天(北)の12天をいう。

 
神木スダジイ
 二の鳥居脇に立っている神木、南の道路側へ傾斜し、幹の内部が空洞化しているが、樹勢は良好。
天然記念物として、平成6年区の天然記念物に登録された。下の写真はこの木になった実で2cmほ
どの外皮と中身のドングリ。秋には鳩がこの実を丸ごと飲み込んでいた。
 


薬王山東光院
龍福寺
 小豆沢4丁目16番3号にある新義真言宗智山派の寺。十二天社(小豆沢神社)の別当寺。歴代住
僧の墓碑は幾つか残されているが、アメリカ軍の無差別空爆によって壊滅的破壊を受けて古文書が焼
け、寺の歴史は全く不明、開山開基も判らない。口伝では、室町時代末期に真頂院の住職運珍和尚に
よって隠居寺として創建されたのが始まりと伝えられている。併し文化文政の時代に出版された『新
編武蔵国風土記稿』などに記載があり、由緒あることは間違いないだろう。
 本尊は大日如来。室町末期に袋村(北区岩淵町)の真頂院の僧侶運珍が隠居寺として建立した。山
門右に立派な催場、鐘楼、本堂の右に庫裏。本堂は木造。他の建物はすべて鉄筋コンクリートで新し
く対象的。本堂左に薬師堂、墓地は離れた5番にある。        
 戦災で本堂などは焼失したが、名品の誉れ高い板碑庚申塔16基は無事に残り、今も「板碑寺」と
呼ばれ、研究者に有難い寺となっている。鎌倉時代から始められた仏教遺物で、今日の卒塔婆の前身
ぐらいのところに位置する。材料は秩父地方で採取される緑泥片岩、俗にいう「秩父青石」で作る。
この寺の代表的板碑は区で2番目に古い建長七年(1255)銘のものだ。また境内に庚申塔群があ
る。

   新編武蔵風土記稿巻之十四北豊島郡之六
   新義真言宗、袋村真頂院の末。薬王山東光院と号す。本尊大日。別に不動を安す。共に運
   慶の作。世代の内宥尊正保四年十二月二十四日寂すといいその外のことを伝えず。客殿の
   軒に明和四年鋳造の大鐘をかく。什宝に乗鞍一掛あり、境内薬師仏と同時に水中より得し
   と、破損せる様いと古色なり。鎧もありし由、今は失へり。
   興隆寺(南照山と号す。本尊弥陀)、閻魔堂、教性院、以上龍福寺の門徒なり。慈剣山と
   号す。本尊を不動とす。地蔵堂(教性院の持)、堂側に古碑五基あり。一は慶己酉三月十
   五日とあり、上欠壤せり。干支に按に延慶二年巳酉なるべし。一は嘉暦三年7月日、一は
   光蓮建武三、一は永正五年七月十五日逆修本禅門とあり。
   観音堂 教性院の持。
   小豆沢村は、往昔荒川の入江に傍て七々子崎と唱えし湊なり。平将門東国を横領せし頃、
   貢物の小豆を積み来し舟、この江に沈みしかは此の名は起これりと「龍福寺薬師縁起」に
   見えたり。薬師堂、寺記に云、天長年中当所は七々子崎と云う入江なり。江中夜々光を放
   つ。依て此の像を安置せり。其の出現せし池と云は、境内の後背にて今は御手洗となれり


 区編纂の「いたばしの寺院」に、

   室町末期に 袋町の真頂院の住職運珍和尚が隠居寺として創建したのが始まりと伝えられ
   る。世代の項で述べた如く、只今のところ由緒沿革は明らかにされていない。
   しかし本寺は、由緒の深い寺であることは、文化文政の新編武蔵風土記稿に記載があり、
   平将門を伝える薬師縁起の伝承、現存する建長の板碑等からも十分に推察される。


 とあり、説明板に、

   ご本尊は大日如来。宗派は真言宗智山派。薬王山東光院龍福寺と号します。
   本寺は、室町時代末に袋村(北区赤羽)の真頂院の僧運珍が隠居寺としたのに始まるとい
   われています。その後寺歴について詳細は不明ですが、19世紀初頭の「新編武蔵風土記
   稿」に末寺として興隆寺や教性院があげられているので、此の頃には寺勢を誇る寺となっ
   ていたことが判ります。
   本寺に伝わる「薬師縁起」には、薬師堂に祀られている薬師如来が天長年間(824~8
   34)に台地下の七々子崎と呼ばれる荒川の入江で発見されたことや、小豆沢の地名が、
   平将門への貢物を積んだ舟がここで沈み、その際積荷の小豆が流出したことに由来するこ
   とが書かれています。
   本寺には、かつて二十余基の板碑があって、板碑寺と呼ばれていましたが、先の大戦の空
   襲で、その多くが破損し、現在では昭和58年度に板橋区の指定文化財となった建長七年
   (1255)の板碑など7基が残るだけです。
   なお、当寺は豊島八十八ヶ所霊場の第86番札所となっています。
   平成18年3月                         板橋区教育委員会


 とある。

 ●花の寺
 寺は小豆沢通りから少し入ったところにあり、こじんまりとした寺構えだが、山門前にあるシダレ
ザクラが特に目に付く外、井戸の近くに枝振りのいいシダレウメがある。他にツツジ、シャクナゲ、
ボタン、ヤマブキ、モクレン、ユキヤナギなど多彩で、文字通り花の寺のイメージの濃い寺だ。


■御手洗不動尊
 小豆沢4丁目16番3号の龍福寺の入口前左脇にある。小豆沢公園の法面から移転してきた。
 


■御手洗不動尊遺蹟
 小豆沢4丁目17番、小豆沢神社の北側の小豆沢公園の中、道路沿いにあった。祠は残っているが
本体は龍福寺の左脇に移転している。
  


■小豆沢四丁目庚申堂
 小豆沢4丁目21番22号の民家のブロック塀に食い込んで建ててある。2基。、


■小豆沢河岸跡
 小豆沢4丁目27番の小豆沢河岸広場にある。小豆沢大昔からの船着場・荷揚場・川港で、浮間河
岸とも呼ばれたが、区の最大の農産物であった練馬大根の出荷場として大賑わいの場所だった。練馬
の漬物もここから出荷したので「大根河岸」のほうが通りが良かった。しかし大正3年の東武東上本
線の開通により、同14、5年ごろ自然消滅した。現在は新河岸川レクリエーションの一角、小豆沢
公園の小豆沢河岸広場として親水テラスと水上バスの発着場になっている。

   新河岸川は、埼玉県川越市の西部に始まり、荒川とほぼ平行に流れ、北区志茂の岩淵水門
   の花柳で隅田川に合流する川です。川の長さは、33.7km、そのうち板橋区内での長さ
   は、5.5kmです。
   板橋区では、周辺の公園や緑地のことを考えながら、新河岸川の川沿いの道の緑化や、川
   辺に下りられる場所を作るなど、河川環境の充実を図り、地域の皆様に、親しんでいただ
   きたいと考えています。
   この広場は、東京都と板橋区が協力して作りました。             板橋区


■村坂公園
 小豆沢4丁目29番2号にある区立公園。
 


【泉町】(いずみちょう)                      昭和47年1月1日
 前野村の内。昭和36年志村清水町・志村小豆沢町の各一部をあわせた町域で泉町とし、同47
年新住居表示により現行の「泉町」となる。
 参考資料:「東京都住所表記に関する資料」ほか「板橋区史」など。

 
泉町の由来
 清水町としたかったがあまりにあからさまなので、清水の名の由来であるところの今は涸れてし
まったが名泉「出井」から命名された。
 


■本蓮沼駅前いずみ公園
 泉町5番7号にある区立公園。


■志村第一小学校
 泉町17番1号にある区立校。

 校歌
「遠く富士は」 作詞・木俣修  作曲・沖不可止
  1.遠く富士は招く青空
    板橋志村高台の窓の明るさ
    吾等 此処に学ぶ
    友よ 清く生きて
    直ぐに育たん
    志村第一 第一小学校
  2.高く光る公孫樹若萌え
    板橋志村通路の風の清けさ
    吾等 夙
(つと)に励む励む
    友よ 広く知りて
    倦まず究めん
    志村第一 第一小学校
  3.聞けや 勢う町の轟き
    板橋志村待つ夢の今日も楽しく
    吾等更に進む
    友よ りりと燃えて
    強く鍛えん
    志村第一 第一小学校
 


■清水公園
 泉町16番16号にある区立公園。


■出井の泉公園(旧清水児童遊園)
 泉町24番6号にある区立公園。志村三泉(薬師・見次・出井)の一つで、出井川の源泉だった。
豊富な湧水量のため古代人が定住して前野町文化時代を築き上げた。今は涸れて清水児童遊園に跡地
として残るのみだが、ここは大山講中の禊場であり、道中の旅人が喉を潤したオアシス(水呑場)でも
あった。平成18年、斜面に紫陽花(アジサイ)を植えて、公園を整備し「出井の泉公園」と名前を
変えた。井戸の傍に説明板がたててある。

   出井の泉跡
   この場所は古くから水が湧いており、出井川の主な水源となっていました。
   今から約6000年前の縄文時代前期には、すでにここを囲むように集落(むら)が形成
   され、江戸時代には、かつてここに立っていた寛政十一年(1799)の造の「大山不動
   明王」と刻まれた石碑により、富士山や大山参拝時の「みそぎ」の場であったことがわか
   ります(昭和53年、宮本町稲荷神社境内に移設)。また文化・文政期(19世紀前半)
   の紀行文「遊歴雑記」には、この泉を「清水村酒泉渓」と称し、貧しさでふだんは酒を飲
   むことができなかった老父がこの水を飲むと酒になったという故事と、水質のよさが紹介
   されています。その後、このあたりの地名「出井」より出井の泉と呼ばれ、戦前までは、
   出荷する野菜の洗い場としも利用されていました。
   このように豊富な水量をほこり、さまざまに活用された清泉も、以後都市化に伴う水量の
   減少などとともに埋め立てられてしまいました。ところが平成12年、児童遊園の改修工
   事に先立ち実施したボーリング調査の結果、まだ地下の水が湧いていることがわかりまし
   たので、その様子が見られるように、遊水池と地下観察井戸をつくりました。泉の歴史に
   思いをめぐらしながらご覧ください。
   平成14年3月                         板橋区 教育委員会
                                   板 橋 区 土 木 部

 記念碑 ✓    


■泉町児童遊園
 泉町27番14号にある区立公園。


■泉町公園
 泉町41番1号にある区立公園。
 



【板橋】(いたばし)1~4丁目                     昭和40年1月1日
 下板橋村(下板橋宿)。明治11年郡区町村編制法により新設の北豊島郡に属す。同22年市制町
村制により金井窪村・下板橋宿・池袋村飛地・上板橋宿飛地・滝野川村の一部が合併して板橋町とな
りその大字。昭和7年板橋区の成立により板橋1~10丁目。同10年3丁目の一部を豊島区長崎東
町3丁目に、同14年には豊島区高松町2丁目に移譲した。戦後になって都市化が進むと同31年の
常盤台・双葉町・富士見町・本町・大和町を皮切りに、同32年稲荷台・幸町・中板橋・仲宿・南町
・栄町を、同33年大山町・大山金井町・大山西町・熊野町・中丸町を、同34年大谷口上町・仲町
・弥生町を、同35年大山東町を、同40年加賀をそれぞれ独立させ、同時に板橋町1~2丁目・5
~6丁目・8丁目の全部または一部を併せた町域を現行の「板橋1~4丁目」とし、今日に至ってい
る。宿場時代は江戸の四宿の1つとして栄え、長谷川伸の『暗闇の丑松』の舞台となった。現在も東
京城北地区の中心地。蓋し板橋は石神井川に架かる板橋だ!

   板橋と訊いて迎いが二人減り(川柳)

 吉原だったら二人増えたのか? 失礼な、吉原が何ぼのもんじゃいうねん。

   板橋へ身内ばかりで旅迎ひ(川柳)
   板橋へ送れば礼を厚く述べ(川柳)
   板橋の迎ひ百ありゃおてんつる(川柳)


 100文で大きな顔ができたのよ。

   板橋へ大根の金入れ失くし(川柳)

 客は大根を作る農家の男が殆どだったのだろう。川越街道も当時は板橋宿から分岐したからネェ。
 参考資料:「東京都住所表記に関する資料」ほか「板橋区史」など。

 
板橋の由来
 石神井川に架かり中山道を通した木橋の名前に拠る。床面が板製の橋の意だ。現在の板橋は板の橋
ではなく鉄筋コンクリート製だが、木橋風に設(しつら)えてある。たた戦後、蛇行していた川筋を
直線化したので、現在の橋位置は、江戸時代の橋位置より橋の長さ分程、北へ移動している。
 『源平盛衰記』に、「源頼朝が滝野川の松橋に陣を敷いた」という記述があり、これを板橋区は板
橋のことだと主張するが、北区は区内にある松橋のことだと嘲笑する。さてさてどっちか?
 橋が架けられることが一般化するのは明治以後で、現在のようにそこらじゅうに架けられるように
なったのは、戦後の高度経済成長期以降のことだ。つまりそれまで川は、浅瀬を歩いて渡る「渡渉」
か、舟で渡る「渡船」が常識だった。これが千年前もちゃんとした橋が架かっていたら、旅人が随喜
の涙を流して是流布に努めたとしても不思議はなかろ。橋に名前はあったかもしれないが、ながーい
年月〝いたばし〟で通ってきた。ともかく板橋は鎌倉時代には架けられていて都内でも古い橋の1つ
だ。やがて地名となり村名となり、板橋村→板橋宿→板橋町→板橋区と出世した立派な名前だ。
 板の橋の説のほかに、「イタ(段丘)」の「ハシ(端)」説もある。

   板橋
   この橋は板橋と称し、板橋という地名はこの板橋に由来するといわれています。板橋の名
   称は、既に鎌倉から室町時代にかけて書かれた古書の中に見えますが、江戸時代になると
   宿場の名となり、明治22年に市町村制が施行されると町名になりました。そして昭和7
   年に東京市が拡大して板橋区が誕生した時も板橋の名称が採用されました。
   板橋宿は、南の滝野川村境から北の前野村境までが20町9間(約2.2km)の長さあり
   この橋から京寄りを上宿と称し、江戸寄りを中宿・平尾宿と称し、三宿を総称して板橋宿
   と呼びました。板橋宿の中心は、本陣や問屋場、旅籠が軒を並べる中宿でしたが、江戸時
   代の地誌「江戸名所図会」の挿絵から、この橋周辺も非常に賑やかだったことがうかがえ
   ます。
   江戸時代の板橋は、太鼓状の木製の橋で、長さは9間(16.2m)、幅3間(5.4m)
   ありました。少なくとも寛政十年(1798)と天保年間の2度修復が行われたことがわ
   かっています。近代に入ると、大正9年に新しい橋に架け替えられましたが、自動車の普
   及に対処するため、昭和7年に早くもコンクリートの橋に架け替えられました。現在の橋
   昭和47年に石神井川の改修工事の際新しく架け替えられたものです。
   平成12年3月                         板橋区教育委員会

■板橋駅

 板橋1丁目15番1号にある赤羽線(埼京線)の停車場。明治18年3月1日日本鉄道による品川
~赤羽間開通と同時に開業した駅。駅としては、隣の池袋駅よりも先輩だ。ホームは地上島式1面2
線構造で、駅舎とホーム地下通路で結ばれている。ホームと地下通路を結ぶエレベーターは未設置。
改札は板橋区側の西口と、北区滝野川7丁目4番にある東口の2ヶ所で、それぞれに駅舎を持ってい
る。
 板橋駅があるのは、区の東の外れ。西口駅舎こそ区内にあるものの、ホームの南側3分の2は豊島
区池袋本町、東口駅舎は北区滝野川にはみ出している。たった1路線の駅が3区に跨っている例は都
内では他にない。同じく3区にまたがる飯田橋駅は3社5路線が乗り入れている。

 
駅前噴水
 東口を出ると目の前に表れる噴水広場のオブジェ。3本の柱によって巨大な石が支えられている。
同じ広場に女性の彫刻像も設置されている。

 
板橋駅の碑
 西口駅前広場にある。板橋区の建立。

   板橋駅の碑
   由緒ある中山道の板橋宿にその名を負う板橋駅は明治十八年三月一日日本鉄道株式会社に
   依り品川渋谷目白赤羽の各駅と共に開設され同三十九年十一月十日鉄道国有法により国有
   となる同四十二年十二月二十六日よりは汽車電車の併用運転を実施し付近住民の利便を更
   に高め地域の発展を大きく促す誰かその業績に対し讃辞を惜しむものがあろうか星霜既に
   一世紀ここに板橋駅開業百周年に当り碑を建て由来を刻し以て後世に伝うと言う
   昭和六十年三月吉日 建                          板橋区



■旧中山道
 板橋1丁目を通る板橋駅前本通り、いたばし縁むすび通り、3丁目を通る不動通り商店街だ。
 


■中山道
 『中山道いまむかし道中案内』(今井金吾)を参考に要約すると、東海道とともに江戸時代の五街道
の一つとなった中仙道は、家康が拵えた街道という訳ではなく、その前身を東山道(あづまのやまつ
みち)と呼んで、古代から中世にかけて西国と東国を結ぶ重要な街道だった。この東山道というのは、
文武天皇の頃(697~707)行政単位として「近江・美濃・飛騨・信濃・武蔵・下野・上野・陸
奥」の8国を指し、和銅五年(712)にはこれに出羽が加えられ、宝亀ニ年(771)には武蔵が
外され東海道に編入された。その東山道が街道の名としても用いられるようになったのは、孝徳天皇
の大化元年(645)に始まる大化の改新以降のことだろうという。東山道は、ところどころ海を行
かねばならない東海道に対して全線陸路で安全だったが、温暖な太平洋岸に面していたために次第に
整備された東海道に対して次第に二次的な存在となっていった。群雄割拠の戦国時代には、小田原北
条氏が倉賀野・高崎・板鼻・安中・松井田・坂本の6宿を創設、また下諏訪・塩尻・洗馬・贄川・奈
良井・薮原・福島の7宿は武田氏が伝馬の継立を行っているなど、東山道から中山道への移行期には
すでに宿駅が設けられ始めていた。天正十八年八月朔日に徳川家康の江戸討ち入りがあり、以来10
年を経て慶長五年(1600)の関ヶ原の戦い後、事実上天下の兵馬の権を掌握した家康がまず手を
つけたのが道路整備だった。そして同六年の彦坂元正などによる東海道の巡視を基にして53次が定
められ、以後中仙道・甲州道中・奥州道中などを幕府直轄下の街道と定め、万治ニ年(1659)に
は大目付高木伊勢守守久を初代の道中奉行として、その管轄下に日光道中を含めた五街道を設置した。
さてこうして発展した中山道は69次、東海道とともに江戸と京を結ぶ重要幹線として生き続けた。
幕府の旗本などで大阪勤番の者は、往路は東海道、帰路は中山道を利用する者が多く、また東海道の
ように川止めの多い大井川、あるいは浜名の渡し、桑名の渡しなど水による困難がほとんどないため
に女性の道中に好まれることも多く姫街道でもあった。幕末の和宮の降嫁がこの中山道を利用したの
はその良い例といえる。
 「中仙道」と「中山道」両様の書き方があるが、正しくは正徳六年(1716)四月十四日に「五
街道文字のこと」として、

 
  只今までは仙の字書き候へども、向後山の字書くべく申す事

 という達し(駅肝録)が出ているので、この日を境に前を「中仙道」と書き、以後を「中山道」と
書き分けなければならないのだ。東海道の「海」に対して「山」の字を宛てて統一し、街道の持つ性
格を表現したのだろう。
 昭和8年巣鴨から志村坂下まで一級国道17号が敷設され「新中山道」となったので、相対的に中
山道は「旧中山道」とされ地方道に格下げされてしまった。志村坂は新道の坂で、旧道の坂は清水坂、
今も残っている。
 


■板橋宿
 正しくは下板橋宿。下板橋宿は下板橋村と同義でもある。板橋宿といった場合、下板橋宿(村)の
宿場街部分を指す場合が多い。上宿・仲宿・平尾宿の総称。中山道の大木戸(縁切榎の北)から滝野
川村との境までの一筋町、15町49間という長い町並だ。江戸幕府が新設した宿場町で、初期には
近傍の百姓の次、三男を宛てて宿屋を経営させた。上宿は根村、仲宿は山中(仲町)が受け持った。
平尾宿は宿場が繁栄してから拡張した部分。町裏は両側とも大根畑で、北側は畑の向こうに広大な加
賀100万石前田家の下屋敷を抱えていた。滝野川との村境は平尾一里塚のあったところで、塚は江
戸時代に取り崩されたが、跡に道標が建っていた。道標は塚の上に建っていたのかも知れない。この
道標は道路拡張で邪魔にされ滝野川6丁目の重吉稲荷神社に移されている。
 


■都電板橋線・志村線(41系統) 廃線
 巣鴨車庫前~巣鴨四丁目~新庚申塚~西巣鴨~滝野川五丁目~板橋駅前~板橋五丁目~板橋区役所
前~仲宿~板橋本町~大和町~清水町~蓮沼町~小豆沢町~志村坂上~志村坂下~長後町一丁目~長
後町二丁目~志村橋
  昭和4年
4月19日:巣鴨二丁目~西巣鴨間開業
  昭和4年5月27日:西巣鴨~下板橋間開
  昭和19年7月5日:下板橋 - 板橋十丁目(板橋本町)間開業業
  昭和19年10月5日:板橋十丁目 - 志村坂上間開業
  昭和30年6月10日:志村坂上 - 志村橋間開業
  昭和41年5月29日 板橋線・志村線、都営地下鉄6号線(三田線)着工に伴い廃止。廃止後
 代替バスとして105乙志村車庫~巣鴨間が設定されたが、地下鉄三田線の開通に伴い昭和43年
12月末に廃止された。


■板橋刑場
 北区滝野川7丁目8番の辺りにあったので「北区」へ行ってくれい。
 


■平尾追分
 中山道と川越街道が分かれるところだった。りそな銀行の三角地に、東光寺に移した「六道利生地蔵
尊(平尾追分地蔵)」が建っていた。またここは、昭和30年まで「川越街道」の起点だった。川越
街道の拡張の際、大山商店街を拡張することが困難なので、池袋の五つ又(現六つ又)交差点を起点
とする現在のコースに切り替えた。
 ここから中宿へかけてが花の「板橋遊郭」だ。うっしっしっし・・・
 


■板橋駅前公園
 板橋1丁目23番1号にある区立公園。


■板橋一丁目児童遊園
 板橋1丁目33番3号にある区立公園。


■南板橋公園
 板橋1丁目39番1号にある区立公園。


■新板橋駅
 板橋1丁目53番17号にある地下鉄都営6号線の停車場。昭和43年12月27日都営6号線の
最初の区間である巣鴨~志村(高島平)間が開業した時に設けられた。ホームは島式1面2線構造で
地下2階にある。ホームと改札階を結ぶエレベーターは未設置。改札口は2ヶ所、どちらも地下1階
にある。出口はA1~A3の3ヶ所だが、地上へ上がれるエレベーターはない。JR埼京線の板橋駅
が近く、乗り換え可能。東武東上線の下板橋駅も近いが、駅に至るまでの道順が分かりにくい。朝の
始発列車のみ、新板橋始発の白金高輪行きがある。駅の西高島平寄りには、この列車を留置するため
の引込線がある。
 


■念宗寺
 板橋1丁目60番2号にある浄土真宗本願寺派の道場。住宅地の中の住宅的建物。まあ所謂普通の
寺ではない。
 


■板橋二丁目フレンドパーク
 板橋2丁目3番1号にある区立公園。


■板橋第二公園
 板2丁目5番22号にある区立公園。


■子易神社
 板橋2丁目19番20号にある。創建年代は不詳だが、境内地が「延宝二年(1674)の水帳」
に記載されており、創建はそれ以前に遡ると思われる。富士浅間神社の分霊を勧請したと伝えられ、
祭神は木花開耶姫命。金井窪村の鎮守だった。江戸時代は、社号を「子安宮」または「子安明神」と
も称し、安産・子育ての神として信仰を集めた。近くにあった福正寺が別当だったが、明治初めの「神
仏分離令」により現在名に改称した。

   子易神社
   御祭神 木花開耶姫命
   創建年代は不詳であるが、境内地が延宝二年(1674)の水帳に記載されている。安政
   三年(1856)の絵図には子安社と記され旧金井窪村の鎮守として、また社号から、安
   産、子育ての神として信仰を集めていた。その後子易神社と社号を改め、その御祭神から
   富士信仰と関わる神社としても知られる。
   境内に祀られている明和二年(1765)銘の子易観音は、当社の別当寺であった福正寺
   のもので、同寺が廃寺になった際、この地に移された。
   神社の入口にある「身代わり地蔵」は、元禄八年に造立されたもので、もと、神社の裏手
   (現金井窪保育園の地)にあった。台座に「右上尾」「左河越」と刻まれ、道標にもなっ
   ていた。この地蔵は「胸突き地蔵」とも呼ばれている。
   昭和58年3月                         板橋区教育委員会


   子易神社
   御祭神 木花開耶姫命
   創建年代は不詳ですが、延宝二年(1674)の検地帳に境内地が記されており、それ以
   前から当地で祀られていました。古くは武州豊島郷金井窪村の鎮守であり、もと富士浅間
   神社の御分霊を遷祀したものと伝えられております。
   江戸時代には別当の福正寺(福生寺とも称す。明治初年に廃寺)が当社を管理し、古来よ
   り安産・子育ての神様として広く信仰を集め、江戸時代より安産のお守りを頒布していま
   した。
   境内に祀られている子安観音坐像は、元は福正寺の持仏と伝えられ、福正寺が廃寺になっ
   た際、当社へ遷座されました。像は蓮華座の上に結跏趺坐し、膝の上に朱色に彩色された
   子どもを抱いています。像は入母屋造りの厨子に安置されており、厨子の屋根裏の墨書銘
   から明和二年(1765)霜月十六日に氏子が願主となり開眼供養が行われたことがわか
   ります。
   子易神社には祭礼に関する古文書が伝わっており、祭礼の運営が金井窪村の年番と若者衆
   により執行されていた点や、神楽師を招き、十八座神楽を奉納していた様子がわかります。
   また祭礼寄進帳からは金井窪村をはじめ、遠く麹町や神田などからも寄進・奉納を受けて
   いることが確認でき、当社の信仰範囲の広さを窺わせます。
   子安観音坐像及び子易神社文書は共に区の文化財に登録され、子易神社の歴史を伝えてい
   ます。
   平成23年3月                         板橋区教育委員会


 
子安観音
 境内に祀られている。明和二(1765)年に造立されたもので、別当寺だった福生寺のもので、
同寺が廃寺になった際、境内に移されたという。しかし『板橋区の歴史』では「明和二年(1765)
開眼の子安観音と祭神とが一緒に祀られ、子安神明社といったとある。それらはともかく江戸北部の
子育て信仰の代表的な仏様だった。幼児を抱いた観音像は、昭和50年代の初めごろに建築された観
音堂に安置されている。

 
胸突き地蔵(身替り地蔵)
 別名「胸突き地蔵」。神社入口の、高田道に面した朱塗りのお堂に納まっている。元禄八年(16
95)に造立されたもので、以前は神社の裏手(かないくぼ保育園)の角地にあったもので、それを
移転した。台座に「右上尾」「左河越」と刻まれ、道標にもなっていた。
 身替り、胸突きの伝説。高田道は谷端川から北に川越街道まで上り坂になっており、今でこそ削平
されて何の変哲もない道路だが、往時は寂しく険しい峠の切所だった。ある夜池袋村から所用帰りの
王子村の長者が、峠に差しさかった時、突然盗賊に襲われて胸を一突きされた。暫らくして息を吹き
返した長者が、突かれたはずの胸をさすったところ傷跡はなく、さて不思議よと周りを見渡すと、傍
らの地蔵の胸に生々しい突き傷があり、長者はこの身替りの地蔵を深く信仰したという。
 もう一つの話は、追剥が通りかかる旅人を襲わんと境内に潜んでいた。やがて旅人を襲って斬りつ
けた。倒れた旅人を見て追剥は驚いた。何と旅人と思ったのは石の地蔵尊だった。追剥、己の悪行を
悔い、その場に御堂を建て、その地蔵尊を祀ったという。江戸名地蔵の一つでやんす。
 御堂の前の立看板。

   祭礼日 七月二十四日
   
地蔵尊菩薩御堂
   通称身代わり地蔵・胸突地蔵


 御堂の扉に打ち付けられている看板。

   江戸金井窪 祭日七月二十四日
   
胸突地蔵尊

 地蔵は赤い布で包まれているので胸の傷は確認できない。

 諏訪神社
 境内にある小祠

 
稲荷大明神
 境内にある小社
  


本光山宗仙寺
 板橋2丁目22番14号にある日蓮本宗の寺。本尊は驥尾(きび)日守上人御筆の曼荼羅。延宝五
年(1677)日順上人により大阪若江村に創建、明治21年日城上人によりこの地に移転。昭和2
0年焼失、同44年再建、鉄筋コンクリート2階建ての堂宇となった。参道左は墓地、右は会館。良
く整理整頓され、管理が行き届いている。説明板に、

   宗派は日蓮本宗で、本光山宗仙寺と号す。御本尊は驥尾日守上人御筆の曼荼羅です。当寺
   は延宝五年(1677)大坂天満の蓮興寺五世日順上人を開山に、本山京都要法寺の末寺
   として河内国若江村(東大阪市)に創建されたのに始まります。開基は蓮興寺壇中の佐渡
   屋彦兵衛で、寺号は彦兵衛の法名「一心庵宗仙日慶」に由来します。
    その後、二百年余りその地で法灯が守られてきましたが、明治21年になって、法要寺
   50世で当寺中興一世の日城上人により現在の地に移転してきました。続く二世日宝上人
   により本堂や庫裏などの建物が整備されますが、昭和20年4月13日の空襲で総てが焼
   失してしまいました。昭和44年本堂以下の建物が再建され、平成14年には本堂が新築
   されて現在の姿となりました。
   毎年、春秋の彼岸会や8月の施餓鬼会、10月12日のお会式の法会が営まれます。
   平成21年3月                         板橋区教育委員会


 とあり、区編纂の「いたばしの寺院」に、

   延宝五年(1677)大坂天満蓮興寺五世日順上人により、本山京都要法寺の末寺として、
   佐渡屋彦兵衛を開基として、河内国若江村に創建さる。以後連綿法灯を守り続けたが、明
   治初年の廃仏毀釈に遭い漸く衰微したのを、寺運の再興を図るべく明治21年日成上人に
   より北豊島郡金井窪村字東の既存墓地に移転してきた。後、中興二世日宝上人は本堂庫裏
   等総檜造り堂宇を整備したが、今次大戦の空襲により昭和20年4月13日払暁に総て灰
   燼に帰してしまった。現在の堂宇は第三世により見事に復興されている。


 とある。
 


■板橋郵便局
 板橋2丁目42番1号にある。明治5年郵便所として開業、切手の売り捌きと集配業務を行った。
この時の取り扱い区域は板橋・練馬・豊島と北区の一部に及ぶ広いものだった。自転車はないんだし
大泉辺りに集配するとなったら一日がかりだぜ。こうして苦労に苦労を重ねてきた郵政事業が、足手
纏いになったからってさっぱり捨てちゃっていいもんかねぇ。小泉純一郎てえ朝鮮系日本人が、ユダ
ヤ資本の手先となって売国した結果だ。明治維新後の日本は朝鮮系に乗っ取られっちまったい。
 それで同18年王子・赤羽・巣鴨局が板橋局から独立することになった。練馬の場合はド田舎だっ
たのでずうーっと板橋が面倒を見てやった。練馬区が独立できたのは戦後のことなのだ。
 


■板橋第二小学校
 板橋2丁目52番1号にある区立校。沿革不明。

 校歌「雨の日 風の日」 作詞作曲不明
  1.雨の日 風の日 鍛える吾等
    教えを守りて励むは吾等
    心を体を磨くは吾等
    希望に溢れる上の台
    おお吾等の板橋 
    第二小学校 第二小学校
  2.友だち仲良く優しい吾等
    小鳥と楽しく羽搏く吾等
    互いに肩組み学ぶは吾等
    毎日明るい上の台
    おお吾等の板橋
    第二小学校 第二小学校
  3.春夏秋冬 元気な吾等
    丘から手を振り歌うは吾等
    昔の面影 浮かべる吾等
    青空眺める上の台
    おお吾等の板橋
    第二小学校 第二小学校
  4.正しく規則
(きまり)を守るは吾等
    先生敬い素直な吾等
    真実
(まこと)を目指して進むは吾等
    遥かな富士の嶺 上の台
    おお吾等の板橋
    第二小学校 第二小学校
  


■馬頭観音 撤去
 板橋2丁目56番、旧川越街道に面して商店の店先にあったが、道路拡張により撤去された。丁度
四股十字路の辺りだ。


■板橋警察署
 板橋2丁目60番13号にある。明治7年当時、まだ大区小区のころ、第九大区第4区・5区邏卒
屯所が、今は赤塚に引っ越した乗蓮寺(仲宿62番)の境内に開かれ、60人の、当時は邏卒と呼ん
だ警察官が、上・下板橋宿を中心とした15ヶ村の治安維持に当った。同8年「警視庁第四分庁第七
署」と改称し、旧平尾脇本陣豊田喜平治邸に庁舎を移した。同14年初めて「板橋警察署」となり、
現在は「りそな銀行」となっている追分の三角地に移転した。上・下板橋宿ほか47ヶ村を管轄、同
22年北豊島郡が誕生すると、郡内全域を所管することとなった最古の歴史を持つ警察署なのだ。

 キンモクセイ 殉職記念碑
 平成19年7月19日東武東上線ときわ台駅で女性を助けようとして電車にはねられ殉職した常盤
台交番の故宮本邦彦警部(53歳)の行動をたたえるの記念植樹が19日、同署で行われた。妻礼子
(53)ら遺族や関係者約50人が参列。伊藤哲朗警視総監が土をかけ水を注いだ。キンモクセイは
香りが遠くまで届くことから、旅立った人の思い出が遠くまで伝わるとされ、宮本警部の功績を広く
伝えようと選ばれた。同時にそのとなりに「崇高な警察官魂を末永く継承するため植樹する」と記し
た記念碑も除幕された。
  


■板橋消防署
 
板橋2丁目60番15号にある。 


■四ツ又

 板橋消防署のところが追分になっていて、右が中山道、左が川越街道となっていた。現在の川越街
道池袋から出ている。消防署の西100mのところに川越街道と高田道(板橋間道)が交差する十字
路がある。四辻だからその名がある。かつて十字路の角の雑貨屋の前にささやかな御堂が祀られてい
た。高速道路の敷設などで随分様変わりしちゃったから今はない。どっかに打っ棄られたかな! 
 「頌真尊」とあがめられている馬頭観音が安置されていたのだが・・・ 今は商店街もなくなり、
殺風景になっちまったよ。
   


■四ツ又公園
 板橋2丁目62番1号にある区立公園。


■板橋区役所
 
板橋2丁目66番1号にある。

 
北村西望作「平和を祈る」像
 区役所正面玄関横にある。昭和67年2月本庁舎落成を記念て設置された。大地に両足をしっかり
踏まえ、右手は原爆を射るように天を指し、左手を横に伸ばし地の平和を願っている。 


■板橋区役所前駅
 板橋2丁目66番17号にある都営地下鉄三田線の地下停車場。昭和43年12月27日開業の6
号線の最初の区間である巣鴨~志村(現高島平)間が開業した時に設けられた駅。ホームは相対式2
面2線構造で地下1階にある。上下ホームは地下2階の連絡通路で結ばれている。改札は2ヶ所で、
1番線側の改札はホームと同じ地下1階にあり、2番線側の改札は地上1階にある。出口はA1~A
3の3ヶ所。


■新藤楼跡
 板橋3丁目5番13号のハイツサンフラワーのところにあった板橋宿最大の妓楼。昭和47年に解
体した。唐破風の玄関部分が郷土資料館に保存されている。


■板橋三丁目緑宿広場
 板橋3丁目5番16号にある区立公園。平成22年のオープン。地面に、双六のように中山道69
次が描いてある。

 
算術あそび「ひろいもの」
 地面に碁盤が描かれている算術あそび。映画「天地明察」で天文、囲碁、算術の関心が高まってい
る囲碁と算術のコラボがこんな所で。答えは、ぜひ現地て確認を。

   算術遊び「ひろいもの」
   碁盤のの上に並べた碁石を、常に直角に、直角に折れ曲がりながら、横に進み、縦に進み
   ・・・を繰り返し、盤上の碁石を総て取り去るという遊びです。何処から取り始めても構
   いませんが後戻りはできません。また斜め方向へも進めません。
   これは江戸時代の書物に出ている「ひろいもの」という遊びです。当寺の人たちは、いろ
   いろな形の問題を作っては解きあっていたようです。


■いたばし観光センター
 板橋3丁目14番15号にある区の施設。区内のさまざまな観光情報を集約し、内外に発信する情
報拠点として、平成17年4月23日にオープン。センターでは、区内の名所、旧跡など板橋の魅力
をPRする観光パンフレットの配布や観光グッズの販売、パネル展示などをしている。
 03‐3963‐5078 定休原則火曜日・年末年始。

 
いたばし観光ボランティア「もてなしたい」
 区内の自然、歴史、文化などを紹介しながら観光コースを案内してくれるよ。


■板橋宿平尾脇本陣跡碑
 板橋3丁目15番10号、路地の奥にある。脇本陣は「花の湯」のあるブロック一円がそうで、名
主屋敷はアーバンハイムのところにあった。花の湯の脇の横丁は名主豊田市左衛門家への玄関道で、
平尾宿名主兼脇本陣を務めていた。本陣の補助として作られた脇本陣は、やはり大名や公卿などの宿
泊所であり、内容は本陣と代わりはない。豊田家は観明寺に並んで109坪もある豪壮な家で、子孫
はここに住んではいない。最後の客は、流山で捕まり征東軍の本陣があった板橋に護送され、板橋刑
場の露と消えるまでの20日間留置されていた近藤勇だった。失意の近藤が同家の幼女に懐かれ、慰
められていたという逸話がある。

   板橋宿平尾本陣跡
       
板橋区教育委員会

 区の説明板は以下の通り。

   板橋宿平尾脇本陣豊田家
   豊田家は、板橋宿の問屋・脇本陣、平尾の名主を務めた家であり、代々市右衛門を名乗っ
   ていました。天正十八年(1590)徳川家康の関東入国に際し、三河宿より移住してき
   たと伝えられています。苗字帯刀を許され、平尾の玄関と呼ばれていました。
   文政四年(1821)当寺平尾に住んでいた俳諧師匠の加藤曳尾庵は、日記風随筆「我衣」
   を記しました。その中に、中山道を経由して江戸での興行に向かっていたペルシャ産のラ
   クダが、当家の奥庭に引き入れられている記事があります。曳尾庵はラクダのスケッチと
   ともに、江戸周辺の多くの人びとが、その姿を一目見ようと押し寄せた様子を記録してい
   ます。
   幕末から明治にかけての当主である喜平次は、煎茶道に傾倒し、「鉄蕉」の号を持つ茶人
   でした。そのコレクションを中心とした「脇本陣豊田家資料一括」は、平成8年度に板橋
   区の登録有形文化財となっており、文化サロンとなっていた宿場の姿を伝えています。
   慶応四年「1868」四月下総流山で、新政府軍に捕えられた近藤勇は、平尾一里塚付近
   で処刑されるまでの間、この豊田家に幽閉されていました。
   平成19年3月                         板橋区教育委員会
 


■平尾児童遊園
 板橋1丁目17番3号にある区立公園。


如意山観明寺
 板橋3丁目25番1号の真言宗の寺。江戸初期に開かれたのだが、明確な由来縁起は残ってはいな
い。歴応元年(1338)創建とするのは『板橋町誌』、延宝五年(1677)に開山の慶浄が寂滅
したとするのは『新編武蔵風土記稿』で、いずれもはっきりしない。維新後、宿場は完全に時代に取
り残されて寂れてしまった。明治6年時の住職が、昔の繁栄を取り戻そうと計画し、成田不動の分身
をお迎えして、護摩の祈願を続け、御命日には住職が私財を叩いて東京の香具師(露天商)を招き、
縁日を開いて参詣者を集め、町の発展に努めたという逸話を残している。これが城北地域初の縁日と
いわれたが、「とげぬき地蔵」が巣鴨に越してくると、人気はそっちに移り、また寂しい板橋に戻って
しまった。
 本尊は聖観世音菩薩。創建は延元三年(1338)。参道入口の庚甲塚は寛文元年(1661)参
道の右は観明寺会館があり、これが出来たてでガラス張りのビル。左に稲荷が祭ってあり、本堂のな
らびの左側に出世不動尊がある。なお寺門は加賀藩下屋敷の門の一つを移築したものだ。夏は百日紅
(さるすべり)の花が愛らしい。豊島八十八ヶ所霊場88番札所。北豊島三十三ヶ所霊場。板橋七福
神の恵比寿神。「新編武蔵風土記稿」に以下の記載がある。

   新義真言宗、足立郡沼田村恵明寺末。如意山と号す。開山慶浄延宝五年十月二十七日化す。
   本尊正観音を安す。長一尺五寸恵心の作と云。傍に弘法大師の石像を置。長さ二尺余。古
   の本尊と云。境内に暦応元年の板碑あり。

 区編纂の「いたばしの寺院」に、

   創設は暦応元年(1338)と伝えられるが、開山その他は全く不明。境内に暦応元年十
   二月三日の板碑が存することから創設と結びつくであろうが更なる考証を要する。新編武
   蔵風土記稿には開山は延宝五年(1677)寂の慶浄と記載されている。明治6年当時の
   住職照秀和尚が成田山の分霊を勧請して毎月1・7・15・28日の縁日を拓いた。城北
   一の盛んな縁日だったが、今日はそれほどでもない。


 とあり、説明板に、

   観明寺と寛文の庚申塔
   当寺は、真言宗豊山派にして如意山観明寺と称し、御本尊は聖観音菩薩である。
   開山慶浄は延宝五年(1677)の入定という。寺は板橋宿の入口に位置し、宿場開設当
   時から信仰深い寺であった。
   
明治6年、当時の住職照秀和尚は、宿繁栄祈願のために、下総の成田山新勝寺から不動尊
   の分身を勧請し、さらにさびれた町の発奮剤として私財を投じて露天商を紹き、今日の縁
   日のもといを築く、その繁栄振りは城北一であったという。
   また参道左側に立つ庚申塔は、寛文元年(1661)の建立。都内最古に属する?品であ
   り、又境内に安置される疱仏の石祠は、享保年代の制作。わが子を天然痘から護る母の愛
   情が籠められた貴重な資料である。
   昭和57年3月                         板橋区教育委員会


   観明寺と寛文の庚申塔
   当寺は、真言宗豊山派の寺で如意山観明寺と称します。御本尊は正観音菩薩です。創建年
   代は暦応元年(1338)と伝えられていますが、「新編武蔵風土記稿」には、延宝五年
   (1677)10月入寂した慶浄が中興開山とあります。江戸時代板橋宿の寺として多く
   の人々の信仰を集めました。明治6年当時の住職照秀和尚は、町の繁栄祈願のために、千
   葉の成田山新勝寺から不動尊の分身を勧請しました。現在も出世不動と呼ばれて親しまれ
   ています。なお不動通りの名称は、この不動様に由来します。
    境内に鎮座する稲荷神社は、元加賀藩下屋敷内に祀られていた三稲荷の内の一社で、明
   治になって陸軍造兵廠が建設された際、当寺へ遷座されました。また参道入口にある庚申
   塔は、寛文元年(1661)八月に造立されたもので、青面金剛像が彫られたものとして
   は都内最古です。昭和58年に区の指定有形文化財になりました。
   平成12年6月                         板橋区教育委員会


とある。

 
寛文元年の庚申塔
 参道口に建っている。形は東光寺のものに似ている。

 疱仏石祠
 享保八年(1723)造立。願主は真誉直入と平尾町中と刻まれている。正面に「疱仏」と陰刻さ
れた疱瘡除けの守り仏。医学の発達してなかった時代に、ただただ神仏の加護を願う母親の必死の思
いが込められた信仰遺物だという。疱瘡(ほうそう)は、「いもが」「かさかき」ともいい、天然痘
のことであるが、梅毒のことでもある。

   疱仏の石祠
   享保八年観明寺法印頼性の代に平尾の住人真人が建立したもので天然痘の厄除けを祈願し
   たものである。

 出世稲荷神社(加賀屋敷稲荷神社)
 本堂手前の小祠。加賀藩前田家平尾下屋敷にあった前田家の稲荷社で、欄間一杯に彫られた竜の彫
刻は見事で、左甚五郎の作だというのも頷ける出来栄えだ。第二造兵廠拡張の時、観明寺に移した。


■不動通り児童遊園
 板橋3丁目28番6号にある区立公園。


■板橋三丁目児童遊園
 板橋3丁目47番1号にある区立公園。


■東板橋公園
 板橋3丁目50番1号にある区立公園。

 
こども動物園

 園内にある。モルモットを抱いたり、ポニー乗馬をしたり、色々な動物に接することができる。淡
水魚水族館は建物の老朽化を理由に、平成16年に閉鎖した。
 


■王子新道
 板橋3丁目と仲宿の境、「旧中山道仲宿交差点」から東に伸びる道路。明治17年の大火で焼け出
された住民は生計を立てねばならないが、働こうにも宿内では仕事もなく、已むを得ず腰弁生活に甘
んじなければならなかったので、当時早々と工場団地化された王子へ職を求めた。王子には、今の王
子製紙の前身の抄紙会社、内閣印刷局抄紙部があり、辛うじて職にありついたのだが、その通勤が大変
だった。王子への一筋は宿場入口の滝野川境の王子道、もう一条は王子稲荷道だ。ともに大遠回り道
で、このため通勤者は泣かされた。自転車でもあれば別だが、毎日歩いて通うのだからそりゃあ大変
だ。そこで宿老たちの計らいで、「王子の繁栄を板橋へ導入するにはまず道路を」との意見を纏め、
関係村々と交渉を重ね、工事費2800余円ということになり、下板橋村でその半額1400円を負
担することを決め、残りは王子・滝野川・上十条3ヶ村で拠出し、この金を東京府へ寄付する形で工
事を依頼した。同21年東京府は7000円の予算でに完成させた。以来板橋住民はこの新道の恩恵
を受け、後の大板橋の大きな基礎となった。記念碑が加賀1丁目10番の歩道に建っている。
 この道ほど使い勝手のよい道もない。環七の裏道で岩槻街道に通じ、足立区江北への近道だ。南へ
は日大医学部から要町、中野通りに通じる万能道路なのだ。


■加賀藩前田家平尾下屋敷・表門
 板橋4丁目8番3号、国道17号線に下板橋通りがぶつかる辺り、丁度首都高の新板橋出口の北側
付近だな。屋敷地は、延宝七年(1679)4代将軍家綱から60000坪の別荘地を賜ったのが最
初。広大な下屋敷は、江戸市中の中小の預かり地を順次返戻して平尾の方をその都度増やして貰った
ので、幕末における面積は217900坪もあった。加賀1丁目・2丁目・板橋3、4丁目の北半に
亘る範囲だ。下屋敷は、上屋敷や中屋敷に対して概ね予備の屋敷で、別荘であり、蒔山であり、野菜
等の供給地な訳。前田家平尾下屋敷も建坪は全体の15分の1程度で、後は蒔山、大池、田畑、そし
て地内を石神井川が通っているといった按配だ。加賀藩平尾下屋敷の名残の最大のものは、加賀とい
う地名だろう。全体の3分の2を占める。また石神井川に金沢橋というの架けられている。明治維新
で屋敷地は新政府に引き渡され明治7年兵部省火薬製造所が建てられ「黒色火薬」を製造した。この
時ベルギーから購入した圧磨機は、工業技術院軽量研究所の一角に保存展示保存展示されている。そ
の後施設は拡張を重ねて、のち「東京第二陸軍造兵廠」となった
 


■東京第二陸軍造兵廠

 板橋4丁目と加賀にあった日本陸軍の死節。
明治9年石神井川沿いの元加賀藩前田家下屋敷跡地に
「陸軍砲兵本廠板属廠」を開設。ベルギーより輪入した火薬製造機械・圧磨機圧輪にて黒色火薬の製
造を開始。初期の製造所面積は約3万坪(昭和20年の終戦時には15万2千坪まで拡大)。同12
年砲兵本廠改粗により「東京砲兵工廠板橋火薬製造所」と改称。同27年 日清戦争勃発により、無煙
小銃用火薬の実用を開始→黒色火薬から無煙火薬への転換(*黒色火薬は硝石、硫黄、木炭を混合し
て作り、無煙火薬は綿や紙などの繊維状物を硝化して作られる)。同33年無煙猟用火薬の製造を開
始→軍用火薬の需要減により、民間用の火薬製造も開始。同39年黒色火薬の製造休止。設備の一部
を目黒製造所に移す。同44年NN猟用無煙火薬の製造を開始し、従来の無煙猟用火薬の製造中止。
大正12年火工廠体制に一本化され、「陸軍造兵廠火工廠板橋火薬製造所」と改称。9月1日関東大
震災が起こるが、他所に比ペ被害は少なかった。同14年軍備整理に伴う職工整理計画により人員整
理を行う。全従業員数は150人程度。昭和6年火薬工場の製造工室を系統的に移設整備する。同1
0年NN猟用火薬の製造中止。粗質無煙火薬で強力なマーズ猟用無煙火薬の製造開始。同12年支那
事変(日中戦争)発生後軍需動員法が発令され、休止設備の運転開始、全設備の昼夜操業が始まり工
員も大幅に増員(終戦時従業員数2099人)。同15年兵器本部の新設に伴い、「東京第二陸軍造
兵廠」と改称。同20年4月13日の空襲て被害を受け、8月15日終戦により73年の歴史を閉じ
る。
 


■板橋第四小学校

 板橋4丁目9番13号にある区立校。昭和3年北豊島郡6丁目3275番地に「東京府北豊島郡板
橋尋常小学校」として開校。12月屋内体操場兼講堂完成。同7年周辺郡部の東京市編入により「東
京府東京都板橋第四尋常小学校」と改称。同15年8教室増築。同16年勅令148号国民学校令に
より「東京府東京市板橋第四国民学校」と改称。同16年真珠湾攻撃により日米開戦。同18年都制
施行により「東京都板橋第四国民学校」と改称。同19年3年生以上531名群馬県館林市ほかに学
童疎開。同20年5月愚かなアメリカ軍の非人道的無差別空爆により校舎全焼。板橋第一国民学校に
間借り。8月ポツダム宣言を受諾し日本敗戦。
 都立第九中学校(北園高校)校舎に移転。10月疎開解除により学童帰京。350名で二部授業。
校地に5教室・職員室・用務員室など落成。同21年学校給食開始。2教室増築・給食室設置。学校
教育法・地方自治法施行により「東京都板橋区立板橋第四小学校」と改称。19学級(5年生以下二
部授業)。PTA誕生。同23年23学級となり8教室増築。都立北野高校に教室返還。PTAによ
り校庭整備。同24年26学級・児童数1343名(5年生以下二部授業)。7教室増築(全21教
室2年生以下二部授業)。同25年児童数1599名。完全給食実施。同26年33学級・1720
名。分教場開設。同27年分教場を金沢小学校として分校。122名移籍。児童数1030名。同2
8年児童数1066名。創立25周年記念式典。29年校歌制定。

 校歌「大東京の」 作詞・西条八十  作曲・古関裕而
  1.大東京の北の門
    三五の原に集まる吾等
    心は正しく 体は強く
    若葉の様に明るく伸びる
    吾等 吾等 吾等は板橋の
    元気な第四小学生
  2.西空高く聳え立つ
    気高い富士は吾等の理想
    仲よく励んで智徳を磨き
    立派に担う未来の日本
    吾等 吾等 吾等は板橋の
    元気な第四小学生

 同33年二部授業解消。第1期鉄筋コンクリート造り校舎6教室落成。同38年第2期鉄筋コンク
リート造り校舎増築。同43年創立40周年記念式典。同48年第3期鉄筋コンクリート造り校舎落
成。同53年創立50周年記念式典。同63年創立60周年記念式典。
 平成9年創立70周年記念式典。同19年創立80周年記念式典。
  


丹船山薬王樹院東光寺
 板橋4丁目13番6号にある浄土宗の寺。本尊は阿弥陀如来。本堂は鉄筋コンクリート2階建て。
仏間は2階のようだ。左は墓地、右は庫裏で、さらにその右に墓地がある。北豊島三十三ヶ所霊場2
2番札所。説明板に、

   
東光寺
   御本尊 阿弥陀如来

   宗 派 浄土宗
   丹船山薬王樹院
   創建年次は不明ですが、寺伝によると、延徳三年(1491)に入寂した天誉和尚が開山
   したといわれています。当初は、船山(3丁目42番)あたりにありましたが、延宝七年
   (1679)加賀藩前田家下屋敷の板橋移転に伴って現在の場所に移りました。移転当時
   は、旧中山道に面した参道に沿って町屋が並び賑やかであったようです。しかし明治初期
   の大火や関東大震災による火災、そして第2次世界大戦による火災と、度重なる火災や区
   画整理のため、現在では往時の姿をうかがうことはできません。なお山号の丹船山は地名
   に由来しています。
   境内には、昭和58年度、板橋区の有形文化財に指定された寛文二年(1662)の庚申
   塔と平成27年度、板橋区の有形文化財に登録された石造地蔵菩薩坐像、明治になって子
   孫が供養の為に建立した浮田家の墓などがあります。
   平成9年3月                          板橋区教育委員会


 とあり、区編纂の「いたばしの寺院」には、

   本寺の創建は室町時代末で、元の境内は旧加賀藩前田家の下屋敷内の「舟山」のあたりと
   考証されている。寺の山号「丹船山」はその名残だろう。前田家の下屋敷が設定されたの
   は、延宝七年(1679)二月であるから、本寺は開山以来200年にして現在地に移転
   した。移転当寺は境内も広く、旧中山道に面して参道が開かれ、両側には門前町屋が並ん
   でいた。時代の変遷と共に境内が縮小され、大正末には僅か416坪となり、現在では2
   16坪になってしまった。記録・寺宝類は明治初期の火災、大震災による火災、そして今
   次の大戦の度重なる災害により、殆ど焼失してしまっている。


 とある。

 
笠付庚申塔
 平安時代に始まった「庚申待」の信仰が、江戸時代に入り、元禄年間(1688~1704)ころ
から大流行したといわれている。ところが板橋宿ではこれより前、寛文のころ(1661~73)に
は広まってたようで、寛文二年(1662)に造立された庚申塔がある。高さ1.9 m×幅49cm
という豪壮な唐破風笠付きの石塔で、正面に主尊の青面金剛を中心に、日月・2童子・2鬼・4夜叉
・1猿・1鶏が見事に彫り上げられたまさに芸術品で、都内でも最古の部類に属する名塔だと『板橋
区の歴史』に書いてある。ほかに供養塔・地蔵が立ち、塀際にあちこちから集められてきた供養塔、
馬頭観音、庚申塔が20基ほど並んでおり、目通り径90cmの大銀杏が立っている。昭和58年度
指定有形文化財。

 
六道利生地蔵尊(平尾追分地蔵)
 川越街道の平尾追分に道中の安全を祈願して建てられていた。享保四年(1719)乗蓮寺弟子春
誉直入という僧の名が刻まれている全高3mにも達する巨大な台座付き坐像だ。台座に「国土成就」
と刻んである。平成7年度指定有形文化財。

 
宇喜多秀家の墓
 
供養塔 秀家は備前岡山57万石の藩主、豊臣秀吉の五大老の一人で、秀吉の死後明智光秀VS徳川
家康の確執で光秀に加担、関ヶ原で対決した。小早川秀秋の裏切りで敗れ、島津を頼って薩摩に隠れ、
追い詰められて自首、八丈島に流されて失意の内に死亡した。妻(豪姫→宮沢りえが演じた)の縁で
前田家の支援を受け、明治3年の大赦で子孫一族71人が本土に戻り、前田家の好意で下屋敷の一部
2万坪を与えられて百姓生活を始めた。そこで祖先秀家を祀ることとなり、変形の五輪塔で、正面に
「秀家卿」の印刻がある供養塔を板橋1丁目に祀っていたが、敗戦後に東光寺に移した。その後の宇
喜多一族の動向は調べてないが、宇喜多一族は現在千葉県浦安市に圧倒的に存在している。「耕地整
理碑」や「忠魂碑」を見ると宇喜多、宇喜多、宇喜多・・・・・だ!
 


■北園高等学校
 板橋4丁目14番1号にある都立の進学校。昭和3年「東京府立第九中学校」として開校。同18
年都制施行により「東京都第九中学校」と改称。校舎は加賀藩前田家の下屋敷が在った場所に位置。
戦前は他の府立中学と同様に忠君愛国教育や軍隊式教育を採用していたが、その中で最も軍国主義的
傾向が強かったのが九中だったと云われている。

 第一校歌
「東京府立第九中学校校歌」 作詞・藤村作  作曲・下総晥一
  1.皇城の北三五ヶ原
    武相の山の波なす上に
    玲瓏雪の富嶽は聳ゆ
    眺めは遥けく氣は澄み亘る
    是ぞ我が九中 懐かしや
  2.嗚呼「皇国の大精神」
    忠孝一本その源遠し
    博愛平和 その胸深し
    賦性を發きて世界に伸びん
    是ぞ我が理想 尊しや
  3.朝日守る九曜の星
    目出度き光紫草を
    銜みて今や大鳳高く
    飛びもや立つべき雄々しき姿
    是ぞ我が徽章 誇らしや


 第一校歌は九中創立後3年近く経た昭和5年12月20日発行の校友会誌『興国』第3号に初めて
 発表された。この年は、体育館・剣道場・柔道場の整備、天文台、記念文庫の誕生など、学校の内
 容がとみに充実された年といえる。歌詞は、将来日本を背負って起つ生徒の意気を鼓舞するかのよ
 うであり、また時代背景もあってかかなり勇ましい表現ではある。3番では、校章の構成が克明に
 歌われている

 同21年都立第二十四中学校を吸収併合。

 第二校歌「都立第九中・二十四中合併記念校歌」 作詞・坊城俊民  作曲・田崎篤次郎
  1.春楽し三五ヶ原
    我得たり九曜の星
    新しき命 抱きて
    萌え出る若草吾等
    天地の平和 東雲の
    見よ明日 希望の光
  2.秋深し三五ヶ原
    真黄金の九曜の星
    一本
(ひともと)の柊ありて
    葉籠りに学ぶは吾等
    文化の国の曙の
    打て鐘を自由の響き
  3.意気高し三五ヶ原
    輝けり九曜の星
    高らかに理想の徴
(しるし)
    打ち翳し進まん吾等
    乾坤今や暁の
    見よ九中 真理の光


 昭和18年都制施行により「東京都立第九中學校」と改称し、後、同21年都立第二十四中學校を
 合併したことによって第二校歌は生まれた。合併後も始業式、卒業式に際し、九中の生徒は第一校
 歌を歌い続けており、100名の二十四中の生徒は沈黙したままであることを知った常田九中初代
 校長の配慮が、新しい校歌創作の基となった。歌詞の終わりに「九中」とあることで、校名が僅か
 4年の間に九高、そして北園と変わったために、この校歌が歌われたのも極めて短い期間だった。
 3拍子の軽快で明るい楽曲は第一校歌とは打って変わり、まさに希望に満ちた戦後の始まりを象徴
 している。

 同23年学制改革により「東京都立第九新制高等学校」と改称。同24年26名の女子が入学し男
女共学開始。同25年「東京都立北園高等学校」と改称。校名は「城北の学園」という意味に由来す
るが、新制高校への改組時に所在地から「板橋」とする予定だったが、先に板橋高等女学校に名付け
られた為に「北園」と名付けたという。

 第三校歌「九曜の星」 作詞・坊城俊民  作曲・横田勇
  1.九曜の星は高くして
    深き歩みをしるべせん
    われら自由の乾坤に
    まことの道を踏み分けん
  2.君灯火を掲げてよ
    我この旗を打ち立てん
    聞け若草の燃ゆる音
    とほしほざゐのとよみあり
  3.時世の色は移ろへど
    ここ北園の学舎に
    柊の葉は緑なり
    柊の葉は緑なり


 第三校歌は、昭和25年に校名が北園高等学校に変更されたために制定された。校歌では珍しい混
 声四部合唱曲だ。作曲者の横田勇の談によると、同年に女子生徒が入学したことから混声四部合唱
 曲にしたという。また北園の校歌を作曲する際は大変苦労したが、生徒等が第二校歌を楽しそうに
 歌っているのを見、歌い出しのフレーズに使ったとのこと。作詞は第二校歌と同じ坊城俊民だ。歌
 詞についてこれまでは例えば「しるべせむ」を「しるべせん」と表記することが多かったが、文語
 体であること、作詞者自筆原稿、歌碑通りに旧かなづかいとした。また自筆原稿では「ひゝらぎの
 葉はみどりなり」の繰り返しはないが、歌唱では曲に合わせるため繰り返して歌われる。

 昭和25~35年代は、第4学区で小石川高校に次ぐ位置にあり、10~30名前後(40人台の
年もあった)を東大、100名以上を早慶へ輩出していた。同36年「霧ヶ峰北園寮」落成。同42
年学校群制度採用。同57年からのグループ合同選抜制度時代には42グループの首位だったが、
その後は他の都立高校と同様進学実績が低迷した。
 平成元年鉄筋コンクリート造りの現校舎落成。同9年進学実績を上げるために単独選抜制に戻る。
同10年創立70周年記念式典。同18年から土曜授業を復活するなど、進学実績上昇のために改革
が進んでおり、都から進学指導推進校に指定されている。一般入試に於いては都の共通問題を使用し
ており、学力検査と調査書の総合点が高い順に男女とも各々上位9割を決定しているが、残り1割は
調査書を無視して学力検査の合計点が高い順に合格者を決定する特別枠を設けている。同20年創立
80周年記念式典。同22年度より、九曜会(同窓会)などの協力の下、長野県や信州大学と提携し
た「信州北園プロジェクト」を開始。難関大学に現役で合格できる学力と、未来を切り開く人間力の
育成を目指して、長野県で勉強合宿や大学のキャンパス訪問、信州の森体験、森林保全奉仕合宿など
を実施。
 旧来「自由の北園」と呼ばれるように、新制高校に改組された時からの私服校であり、旧制中学以
来の自由で自主性を重んじる校風が根付いている。大学受験への取り組みも熱心に行われており、国
公立大学・難関私立大学合格を目標とした進路指導を実施している。放課後や長期休業中に進学補習
が開かれるほか、高3で小論文指導、英語と数学の勉強合宿を実施している。また希望者には第二外
国語(ドイツ語、フランス語、ロシア語、中国語)を選択できる。また今までのドイツ語教育を活か
して、ドイツ外務省主催のPASCHパートナー校に指定された。
 文化祭は「柊祭」と呼ばれ毎年9月中旬に行われる。名称は校章のヒイラギに由来する。かつては
異種格闘技研究会のプロレス興行が開催されていた。現在では、ストリートパフォーマンス部による
ダンスパフォーマンスが看板となっている。

 
著名な卒業者・中退者
 原卓也(ロシア文学者・東京外国語大学学長)、堀越孝一(西洋中世史歴史学者・学習院大学名誉
教授)、菊地昌典(ソ連研究政治学者・東大名誉教授)、山極晃(国際政治史政治学者
・元横浜市立
大学国際文化学部教授)、種村季弘(独文学者・評論家・随筆家)、高柳重信(俳人)、上原行雄(法
学者・一橋大学名誉教授)、榎本稔(医学者・元東京工業大学教授)、山中健(数学者・日本大学名
誉教授)、蛭川久康(英文学 英国文化史・武蔵大学名誉教授)、藤川鉄馬(元大蔵省印刷局長)、
小山森也(元郵政事務次官・元NHK副会長)、石川義夫(東京高裁判事)、白眞勲(在日帰化人・
民主党参議院議員)・阿久津幸彦(民主党衆議院議員)、高橋一郎(元衆議院議員)、貝原俊民(元
兵庫県知事)、鳥羽薫(元ダイエー社長・元味の素社長)、井上克信(日本曹達社長)、喜多嶋隆(作
家)、出崎統(アニメ監督)、多々良純(俳優)、みずしな孝之(漫画家)、鈴木忠志(演出家)、
江守徹(俳優)、吉田日出子(女優)、中山美穂(女優)、西村博之(2ちゃんねる管理人)、佐藤
孝治(ジョブウェブ代表取締役)、岡安芳明(ジャズギタリスト)、宮崎晃(映画監督)、今野太多
久郎(音楽プロデューサー)、手島英(クラシック声楽家)、津田大介(ジャーナリスト)、斎藤貴
男(ジャーナリスト)、松田政男(政治運動家・映画評論家)、小池清(元毎日放送アナウンサー)
原良馬(競馬評論家)、立川談幸(落語家)、三遊亭小団楽(落語家)、東美江(女優)、吉田健司
(バスケットボール指導者)
 


■板橋事件
 昭和21年1月22日朝、板橋区板橋町御代台6丁目852番地、元第一陸軍造兵廠前に大豆、木
炭、焼米、タイヤ、靴ゴム踵、皮革等手に入りがたい物資が積み上げられて、人だかりを作った。こ
れらの物が隠退蔵物資で安く配給されるという話も伝わり、附近の主婦たちは期待の眼を輝かせた。
終戦の混雑に紛れて、多くの貴重な物資や生活必需品が闇から闇へと葬られたという報道は早くから
伝わっていたが、この板橋造兵廠の場合は、元同廠の工員であり、現在は附近で生活擁護同盟を組織
している佐藤某らが、廠内に″隠匿物資あり″と区民を集めて報告したことに端を発する。区民有志
は同廠残務整理部々長小林元陸軍少将・庶務課長上野元陸軍大佐に面会して、同物資のことを追求し
た。残務整理部では「同物資は既に区役所に引渡し済みだ」と説明したが、公式文書がなく、区民有
志は所有者不明であり、隠退蔵物資と推断されるとしてこれら物資を各町会代表による人民管理委員
会の管理下に置いた。これに対して警視庁西村保安部長は22日次のような意見をのベた。


   第一に終戦当時のこの物資の責任者の態度が問題である。ポツダム宣言で軍の物資は全部
   連合軍に引渡されねばならないのに、それを故意に申告しなかつたとすれば国際信義の上
   からも残念なことで警視庁としてはこの責任者を調べる。かゝる物資の隠匿や申告もれを
   徹底的に調査してマ司令部に報告し、区或は食糧営団を通じて都民に配給してもよいとの
   許可がない限りは民衆の指導者を窃盗罪として厳重に取調べをすゝめる。

 23日朝同所で区民大会が開かれ、「物資の配給」「食糧の人民管理」などの要求を決定した。紛
争は警視庁が該物資の政府保管を決定し、25日明け方トラック20台余りで全物資を収容し、生活
擁護同盟の吉田佐藤両人を交渉の際の恐喝嫌疑で留置したことから拡大した。附近の市民約15名は
生活擁護同盟の岩田英一らを先頭に「俺たちの品物を取り返せ」「おれたちの吉田、佐藤をかえせ」
のプラカードを持って警視庁を訪れ、総監との交渉が決裂すると共に〝坐りこみ戦術〟をとったが、
佐藤、吉田両人は同日検事局送りになっため、坐り込み態勢を解き26日更に数百名のデモが町民大
会から首相官舎に押寄せ、


   一、内閣総辞職
   一、板橋事件責任者の明確化及び吉田生活擁護同盟委員長の即時釈放
   一、警視総監罷免

 の即時実行を迫つた。問題はかくて

   a、管理物資の問題
   b、責任者逮捕の問題

 となり、特に党員の検挙をみた共産党は28日徳田書記長の名を以て声明を発表し、食糧問題解決
の能力を失つた政府の自己権力保持の手段であると述べた。 この事件は隠退蔵物資摘発サボられて
いるという世評に拍車をかけたが、21年8月22日の公判で大要次の如き論告を受けたうけた。

   公正な取調べの結果、この事件は正に恐喝罪を構成する疑いが濃厚であり、これに依りて
   事件摘発を調べてきたのであるが、被告側隠匿物資と主張している所の対象である大豆そ
   の他の食料物資の所有関係は財団法人共栄会のものであり、各種の証拠ならびに各般の事
   情から人民管理の理由とするところも稀薄になった訳だ。21日夜被告が中心になつて小
   林軍次氏に対し物資の譲渡を約束させた行為はたしかに暴行、脅迫を伴ったことは明白で
   あると共に大衆運動にも限界があり、以上の行為はその限界を逸脱したものである。又、
   別個の立場からこの事件を処理する方法として考慮される方法には警察その他の適当な機
   関を通じ、法の規定する範囲に依りて穏やかに処置するのが社会常識であると考えるが、
   当事件は全然秩序ある行動ではなかったと断ぜられる。以上に依り事件の恐喝罪事実は歴
   然たるものである。

 判決は十月五日下された。

   ◇懲役八ケ月(執行猶予二年)共産党員岩田英一(求刑一年六ケ月)
   ◇懲役四ケ月(執行猶予二年)共産党員佐藤十一(求刑一年)
   ◇懲役四ケ月(執行猶予二年)米川実(求刑一年)


 なお公訴罪名は判決理由により暴力行為処罰に該当するものと改められた。隠退蔵物資問題はこの
事件を契機に地方、中央を問わず盛んに起り議会でも取り上げられるに至った。
 


■板橋四丁目東公園
 板橋4丁目29番2号にある区立公園。


■板橋東いこいの森
 板橋4丁目45番6号にある区立公園。


■陸軍工科学校板橋分校

 板橋4丁目49番3号、板橋五中のところにあった日本陸軍の専門学校。本校は相模原の淵野辺に
あった。現在麻布大学のあるところだ。昭和15年陸軍兵器学校と改称し。敗戦と共に廃校した。

 校歌「
先の帝に賜ひたる」 作詞作曲不明
  1.先の帝に賜ひたる
    五條の勅諭を精神とし
    火鞍銃鍛木機電
    学ぶ技術は異なれども
    心は同じ国の爲
    いざや進まん洩ろとも
    干曳の動とその折は
    第一線や後方に
    所有武器を調べて
  2.将士の励まし我々の
    務めを思はばこの腕は
    軍の勝利の鍵ぞ可し
    よしや雨風しげくとも
    踏み行く道は一筋に
    忠と勇とのこの腕
    世の進軍に伴ひつつ
    工業に技を磨き
    いざや達せんわが責務
 


■板橋第五中学校

 板橋4丁目49番3号にある区立校。昭和30年板橋第一中学校校庭にて2年生のみにて始業式。
「東京都板橋区立板橋第五中学校」として開校。翌日同地にて入学式。1年は本校で、2年生は板一
中にて授業開始。PTA創立。5月電話開通。9月から全生徒新校舎にて授業。同31年増築校舎落
成。同32年校歌制定。

 校歌
高き理想に」 作詞・西条八十  作詞・万城目正
  1.高き理想に輝く瞳
    若き力に張り切る身体
    溌刺と我等あり
    深く学び 強く鍛う
    ああ 板橋の青き空
    我等 我等五中の若人我等
  2.登る真理の峰々遥か
    腕を組み行く旅路は楽し
    睦まじく我等あり
    競い磨く愛と叡智
    ああ 板橋の若緑
    我等 我等五中の若人我等
  3.目指す行手は祖国の栄
    我等築かん文化のアジア
    意気燃えて我等あり
    今日も努め 明日も進まん
    ああ板橋の風かおる
    我等 我等五中の若人我等


 同35年創立5周年記念式典。同38年ミルク給食開始。同39年赤電話設置。オリンピック聖火
通過。オリンピック観戦(陸上競技・バスケットボール)。創立10周年記念式典。同44年創立1
5周年記念式典。給食場火入れ式・完全給食開始。大気汚染問題発生。校旗掲揚開始。同45年光化
学スモッグ被害あり。同48年5月~同49年6月まで鉄筋コンクリート造り校舎増築のため給食停
止。同49年4月鉄筋コンクリート造り校舎落成。創立20周年記念式典。同59年創立40周年記
念式典。
 平成7年創立40周年記念式典。同17年創立50周年記念式典。
 


■境界石

 板橋4丁目49番3号板橋五中の南側の角、道路に面してにある。陸軍敷地の境界を示した名残。
 


■板橋遊郭
(明治17年~昭和18年)
 宿場町に旅籠は最も重要な要素であり、ここで媚を売る飯盛女もまた宿場繁盛の大きな担い手だっ
た。こうした女を抱えて維新を迎えた旅籠は、旅人も稀になった街道をにらみ、困憊のどん底にあっ
た。そんなところへ明治17年12月の大火で、宿場中心街が全滅300軒が一夜の内に焼失してし
まったのだ。焼跡にしがみつくように残った業者は、その店を郡役所の周りに新築、いままでの旅館
業を捨てて、純然たる妓楼として再生の道を図った。これが遊郭の始まりだ。新伊勢本・千代間・藤
武蔵・藤本・金泉・藤萬(北側)、中島・柏木・千代本・新藤・川越・岡蔦・平野(南側)などがあっ
た。昭和18年最後まで残っていた新藤楼が動員学徒の寮に宛てられるため廃業。これを以て遊郭は
消えた。
   


■板谷公園
 板橋4丁目55番21号にある区立公園。開園当時の銘板。

   東京市板谷公園
   昭和十四年四月開園

   本園附近一帯ハ石神井川流域三合野原ノ一部ニシテ寛文年中加賀前田侯ノ邸地トナリシヨ
   リ金澤ト呼バレ由来近郊ノ閑地タリシガ昭和十一年五月土地區畫整理二際シ所有者板谷宮
   吉氏ハ此地千四百四坪ヲ公園地トシテ寄附セラレ乃チ本園ノ完成ヲ見ルニ至レリ茲ニ開園
   二際シテ園地ノ来由ヲ記ス以テ寄贈者ノ芳志ヲ永ク後世ニ傳フ
   昭和十二年四月                              東京市

 区の説明板は以下の通り。

   
板谷公園
   江戸時代、この板橋3、4丁目、加賀一帯は加賀藩の江戸下屋敷でした。明治になると、
   板橋3、4丁目周辺は、三合商会の所有地となり、「三合野原」「三五ヶ原」と呼ばれま
   した。その後、小樽を基盤とした船運会社板谷商船の設立者初代板谷宮吉氏が取得し、昭
   和4年に東京市電が板橋まで延長したのを契機に、二代目宮吉氏(貴族院議員議員等も歴
   任)が同10年1月、区画整理による大規模住宅地「上御代の台」造成に着手しました。
   当寺、国は区画整理に際しては公園用地の確保を求めており、それを受け、東京市は土地
   の無償提供を条件に公園適成代行する規定を設けていました。当公園はこの規定により、
   板谷氏の用地提供を受けて同市が施行し、昭和12年4月29日に東京市板谷公園として
   開園しました。その際に設置された銘板が、2ヶ所の出入口の門柱に残っています。その
   後、同18年の都制施行により都立公園となり、同25年10月1日には板橋区に移管さ
   れました。
   この公園は、区内に現存する公園の中で開園時期が最も古く、また、その来歴にこの地域
   の歴史がよく反映されていることから、平成21年3月に区の登録文化財(史跡)となり
   ました。
   平成21年9月                         板橋区教育委員会


■漆坊弁財天
 板橋4丁目56番2号の三角地帯に独立してある小社。隣の小さい社は何だろう? その横に由来
を記した石碑がある。

   御由来記
   この地三五の原に住んでいました私に、昭和3年の或夜、吾はこの加賀下屋敷六万五千坪
   の弁天であるが、今は跡形もなくなっている。そなたはこの地に再興せよとのお告げがあ
   りましたのでお祀りいたしました。
   昭和10年区画整理の行われました時移転するようにいわれましたが、地主板谷様と話し
   合いの上、末代までこの地でこの弁天様をお守りするよう申され今日に至りました。
   その後、私が屋敷内の草取りをしておりますと、熊手と箒を持った翁がきて、おばさん、
   この弁天様は漆弁天様とあるが、漆ボウ弁財天と申すのだ、そのボウは田宮坊太郎の坊で
   ある。今後は漆坊弁財天せよと申され姿が見えなくなりました。
   本當に有難い弁天様で幸運及び厄除のご祈祷を致していました。    先達 岩本一江
 
 


【稲荷台】(いなりだい)                     昭和45年10月1日
 下板橋村の内。明治22年板橋町大字下板橋、昭和7年板橋区板橋町1~10丁目。同32年板橋
町7・10丁目・志村清水町の各一部をあわせた町域を稲荷台とした。同45年新住居表示を実施し
て現行の「稲荷台」として今日に至っている。
 参考資料:「東京都住所表記に関する資料」ほか「板橋区史」など。

 
稲荷台の由来
 江戸時代この辺りを知行した旗本新堀玄蕃が屋敷を構えて稲荷を祀った日暮里山を村人が「稲荷
山」といっていたことにちなむ。環七通りを跨ぐ姥ヶ陸橋の南の何の変哲もない住宅地。「板橋城
跡では?」と考えられもしている。
 


■稲荷台第二児童遊園

 稲荷台15番1号にある区立公園。


■稲荷台小学校 閉校

 稲荷台23番1号にあった区立校。平成14年板橋第三小学校と統合するため閉校した。跡地は統
合新設校「加賀小学校」となった。
 


■加賀小学校
 稲荷台23番1号にある区立校。平成14年稲荷台小学校と板橋第三小学校と統合して開校した新
設校。

 校歌
「気持ち良い風が」 作詞・吉澤久美子  作曲・坪能克裕
  1.気持ちよい風が吹いてくる
    校庭に 教室に みんなの髪に
    二十一世紀の私らしく
    ここにいること誇りに思うように
    世界中に一つだけ
    稲荷台に何時までも 加賀小学校
  2.いい香りの風が季節を告げる
    桜に 紅葉に ヒマラヤ杉に
    二十一世紀の私たちは
    生きてること大事にしたいよ
    銀河系に一つだけ
    板橋の歴史の中に 加賀小学校 
  


■稲荷台児童遊園

 稲荷台24番1号にある区立公園。


■帝京中学校・高等学校
 稲荷台27番1号にある私立校。昭和18年沖永荘兵衛により杉並区方南町に「帝京中学校」と
して創立。同20年愚かなアメリカ軍の非人道的無差別空爆により校舎全焼。同22年加賀の日本
陸軍造兵廠跡地に移転。同23年学制改革により「帝京中学校・高等学校」と改称。同24年校歌
制定。

 校歌「
希望に輝く」 作詞・土岐善麿  作曲・信時潔
  1.希望に輝く若葉の朝風
    仰げば富士あり 理想も高かれ
    真理を求め行く野は広く
    石神井の流れの清きに立ちて
    帝京吾等の相寄る処
    社会の人たる誇りに生きん
  2.自由の花咲き礼節実れば
    敬愛豊かに学園薫れり
    正義の大道 明るく晴れて
    囀(さえず)る小鳥も見よこの自主を
    帝京吾等の相寄る処
    世界の人たる務めを負わん


 同36年中学校の募集停止。同39年「帝京高等学校」と改称。同48年男女共学とし、理数コ
ースの前身である医・歯・薬学コースを開設。同50年全国高等学校サッカー選手権初優勝。同5
7年中学校の募集を再開し校名を「帝京中学校・高等学校」に復す。
 平成元年全国高等学校野球選手権(夏の大会)初優勝。同10年文理コース・理数コースにイン
ターナショナルコース・文系コースを加え、4コース制とする。同11年新制服制定。同16年現
在地に移転。
 


■稲荷台おなりばし緑地
 稲荷台28番にある区立公園。


 【大原町】(おおはらちょう)                     昭和47年1月1日
 小豆沢村・本蓮沼村・前野村。明治22年志村大字小豆沢・本蓮沼・前野。昭和7年板橋区志村
小豆沢町・志村本蓮沼町・志村前野町。同36年志村清水町・志村本蓮沼町・志村小豆沢町・志村
前野町の各町の一部をあわせた町域を大原町とし、昭和47年新住居表示を実施して現行の「大原」
とした。
 参考資料:「東京都住所表記に関する資料」ほか「板橋区史」など。

 大原の由来
 小豆沢村の字大日前・大日後の「大」と本蓮沼村の字西原の「原」を組み合わせたもの。なお大
日は40番地にある長徳寺の大日如来にちなむ。


■大原公園

 大原町5番16号にある区立公園。


■大原社会教育会館

 大原町5番18号にある区の施設。児童クラブ、児童館がある。


■庚申塔

 大原町11番13号にある。誰も気づかず、通る人は車止めと思うだろう。


■大原第二公園

 大原町27番1号にある区立公園。


■志村第一中学校
 大原町33番1号にある区立校。昭和22年学制改革により「東京都板橋区志村第一中学校」とし
て開校。同26年校歌制定。

 校歌
「吾等は愉し」 作詞・北川冬彦  作曲・高田三郎
  1.吾等は愉し 湧き出て尽きせぬ
    出井の泉のように
    世界の知識をこの身に享ける
    おゝ志村第一中学校
  2.吾等は幸せ 群がり飛び舞う
    空の白鳩のように
    清らに平和な学びの庭は
    おゝ志村第一中学校
  3.吾等は誇ろう新しき土は
    芽生える欅のように
    根強く豊かに
    すくすくと伸び行く


 同32年創立10周年記念式典。同42年創立20周年記念式典。同52年創立30十周年記念式
典。同59年格技室完成。同60年都剣道大会女子優勝。都吹奏楽コンクール金賞。同62年創立4
0周年記念式典。
 平成元年全国吹奏楽コンクール銀賞。同2年吹奏楽都文化振興奨励賞受賞。同5年新体育館完成。
同6年全国吹奏楽コンクール銀賞。同8年モンゴル国視察団来校。全国吹奏楽コンクール銅賞。同9
年アンサンブルコンテスト全国大会金賞。創立50周年記念式典・記念植樹。日本管楽合奏コンテス
ト全国大会金賞。同10年日本管楽合奏コンテスト全国大会最優秀賞。同11年第3校舎1階にラン
チルーム設置。同12年女子バレー4年連続関東大会出場。日本管楽合奏コンテスト全国大会最優秀
賞。同13年都中学校アンサンブルコンテスト2チーム金賞。都中学吹奏楽コンテスト金賞。女子バ
レーボール全国大会ベスト16。同14年中学校アンサンブルコンテスト2チーム金賞。台湾大成国
民中学校吹奏楽団来校文化交流会。日本管楽合奏コンテスト全国大会優秀賞。同15年日本管楽合奏
コンテスト全国大会優秀賞。同17年女子バレーボール全国大会3位。同19年女子バレーボール全
国大会ベスト8。同19年創立60周年記念式典。
 


挙一山遍照院長徳寺
 大原町40番7号にある新義真言宗豊山派の寺。本尊は不動明王、開創は不明だが、中興の時は鎌
倉時代、阿弥陀如来木造が平安時代のものがある。豊島八十八ヶ所霊場14番札所。北豊島三十三ヶ
所霊場14番札所。入口は左が駐車場で右が山門。入ると参道があって正面に本堂。右が庫裏、斎場
で、鉄筋コンクリートの洋館。本堂の左と奥は墓地。

   長徳寺案内
   山 号 挙一山 遍照院
   本 尊 不動明王
   宗 派 真言宗豊山派
   総本山 長谷寺 奈良県桜井市初瀬
   祖 師 宗 祖 弘法大師(空海)
       中興祖 興教大師(覚鑁)
       派 祖 専誉僧正
   開 宗 真言宗は、平安時代初期に弘法大師によって中国からもたらされ、わが国で開宗
       されました。
   敎 え 大日如来を中心として曼荼羅思想です。
   読誦するお経 般若理趣経 光明真言など
   ご宝号 南無大師遍照金剛 南無理敎大師 南無専誉僧正
   文化財 板橋区文化財 阿弥陀如来立像
   行 事 施餓鬼会(5月28日)
       春秋彼岸会

 「御府内社寺備考」に、

   新義真言宗。多摩郡中野村宝仙寺末。挙一山遍照院と号す。大日を本尊とす。鐘楼、寛保
   三年鋳造の鐘を置く。


 とある。縁起については、区編纂の「いたばしの寺院」に


   開基開山不詳。後鳥羽天皇建仁年間に行慈阿闍梨は中興開山といわれ、運慶作の胎蔵界大
   日如来が本尊とされていたが、慶長五年の大火に遭い、ついで昭和20年4月13日空襲
   に諸堂宇と共に焼失してしまった。これより前、本堂は明治32年5月に大改修が行われ
   ていたのだった。昭和38年本堂、書院、庫裏等が再建され、同55年11月に山門が再
   建され今日に及ぶ。


 とあり、説明板に、

   長徳寺
   宗派は真言宗豊山派で、挙一山遍照院長徳寺と号し、御本尊は不動明王です。
   鎌倉時代初期に中興開山されたと伝えられていますが、幾度か火災に遭っているので、江
   戸時代初期以前のことはよく判りません。江戸時代後期に書かれた「新編武蔵風土記稿」
   には、寛保三年(1743)に鋳造され鐘があったことが記されています。またかつては
   大日
如来像が御本尊で、子育大日尊として信仰を集めていました。しかしこれらは
昭和2
   0年4月13日の空襲によって本堂と共に焼失してしまいました。

   当寺には、区内で1、2を争う奮い仏像があります。平安時代につくられたもので、平泉
   の中尊寺に由来すると伝えられる阿弥陀如来の木像です。戦後の再建時に受け入れられま
   した。この仏像は、平成4年度に区の有形文化財に指定されました。また境内には、様々
   な石仏や力石が保存されています。
   平成14年3月                         板橋区教育委員会

 とある。 
 


【大谷口】(おおやぐち)1~2丁目                 昭和46年10月1日
 戦国期から見える地名。上板橋村。明治22年上板橋村。昭和7年板橋区大谷口町。同32年幸
町・同33年大山西町・同34年大谷口北町・大谷口上町・弥生町に分かれた。同年残った大谷口
町と向原町の各一部をあわせた町域を大谷口とし、同46年新住居表示を実施して現行の「大谷口」
とし現在に至っている。
 参考資料:「東京都住所表記に関する資料」ほか「板橋区史」など。

 
大谷口の由来
 地名の由来だが、ここは地形的に石神井川が大きく湾曲しているところで小山・根ノ上の台地と
大谷口の台地の間から東西に広く大きく扇形に谷が開けている地形から発生した地名だろう。今は
整地されどこが大谷口か判らない。氷川神社の辺りかな?
 


■庚申塔 行方不明
 大谷口1丁目2番5号にあった。ブロック塀に嵌め込んだようにしてあったが、庚申塔だけが無く
もぬけの殻だ。どうなっちゃったんだろうね?

■板橋高等学校
 大谷口1丁目54番1号にある都立校。昭和3年板橋尋常高等小学校内に「東京府北豊島郡板橋町
立実科高等女学校」として開校。同7年周辺郡部の東京市編入により「東京府東京市板橋実科高等女
学校」と改称。同11年板橋高等小学校(板橋第九小学校)に移転。同13年「東京府東京市板橋高
等家政女学校」と改称。同18年都制施行により「東京都板橋高等家政女学校」と改称。
 同21年「東京都立板橋高等女学校」と改称。同23年学制改革により「東京都立板橋高等学校」
と改称。定時制課程併設。新校地大谷口町974番地(現在地)に移転。同24年定時制課程は板橋
第九小学校に移転し板橋分校となる。男女共学。同26年仮校舎増築。同27年第2期校舎増築工事
完了。板橋分校志村分教場開設。同28年第3期増築工事完了。志村分教場が志村分校となる。同2
9年体育館兼講堂完成。同30年第4期・第5期増築工事完了。同34年板橋分校が都立大山高等学
校定時制課程となる。第6期増築工事完了。部室を除く旧校舎完成(現在は全く残っていない)。
 同36年鉄筋コンクリート造り校舎第一棟落成。同38年鉄筋コンクリート造り校舎第二棟の一部
(3階建て6教室)落成。同40年体育館兼講堂全焼。第二棟に3教室・渡り廊下増築。27学級。
同41年体育館完成。籠の登山荘完成。同42年学校群制度導入。志村分校商業科廃止。同43年制
服廃止。同46年第二棟に7教室増築、4階建ての現在の形となる。同48年志村分校 都立城北高
校定時制に移管。第一棟に防音・冷房設備設置。同50年鉄筋コンクリート造り校舎第3棟(普通教
室3、美術・被服・物理・社会・化学・視聴覚の6教室)3階まで完成。同55年格技棟(プール・
剣道場・柔道場)、第三棟の残り(生物室・調理室・地学室・会議室)落成。部室・グランド・フェ
ンスなど整備。同57年グループ合同選抜制度実施。同59年臨時学級増 新入生10学級 全28
学級。同63年第一棟校舎改修。創立60周年記念式典。
 平成元年第二棟校舎・体育館改修。グラウンド整備。創立60周年記念式典。同2年全27学級。
標準服決定。同4年全26学級(1年8学級)。同5トレーニングルーム完成。校庭開放。同6年単
独選抜制度に復帰。全24学級(全学年8学級)。パソコンムーム開設。同7年推薦選抜導入。同1
0年全21学級(全学年7学級)。創立70周年記念式典。同13年籠の登山荘閉鎖。同15年学区
制度廃止。同16年耐震補強第1期工事完了・第一棟に大教員室完成。同17年耐震補強第2期工事
完了。同18年耐震補強最終工事完了。同20年。全18学級(全学年6学級)。創立80周年記念
式典。同22年全19学級(1学年7学級)

 校歌
「美空に連なる」 作詞・伊藤義雄  作曲・下総皖一
  1.美空に連なる武蔵野の
    西郊彩る学舎に
    不滅の道を尋ねんと
    集へり大和の若き群れ
    我等の担う抱負を見ずや
    立てよ 板橋
    誇り持て進め 板橋
  2.雄健芙蓉にたぐえつつ
    窈窕撫子
(ようちょうなでしこ)身に宿し
    猛くも優し心持て
    自由の天地に羽ばたかん
    讃えん哉や我等が前途
(ゆくて)
    立てよ 板橋
    誇り持て進め 板橋
  3.仰げば真澄の蒼天に
    白雲舞い立ち夢求む
    遠の命 慕ひつつ
    遍
(あまね)き恵みに輝ける
    清けき世界に立ててぞ行かん
    立てよ 板橋
    誇り持て進め 板橋


 ●板橋高校卒業式事件
 平成16年3月11日卒業式に招かれた元同校教師藤田勝久が、式前に週刊誌のコピーを配り、保
護者席に向かい「今年の卒業式では、教員は国歌斉唱の際に起立しないと処分されます。ご理解願っ
て、国歌斉唱の時、できたら着席願います」と話しかけるなどして着席を呼びかけた行為と、校長ら
から退去させられることに抗議した行為が、卒業式の運営を妨げたとして威力業務妨害罪の容疑で起
訴された事件。一審・二審有罪、同23年7月7日最高裁判決でも有罪となり判決が確定した。
 国旗を掲揚しようとする西洋かぶれの国家主義者も異常なら、日の丸を目の仇にする奴も異常だ。
この国の支配権は朝鮮系日本人と特殊日本人の手に握られていて、日本人の、日本人による、日本人
のための政治は行われていないことを知るべきだ。日本の中枢に日本人はいない。最近の総理大臣に
日本人っていたっけ? 彼等はユダヤ資本に後押しされた売国奴たちだ。属国日本何処へ行く!
 


■地蔵庚申

 大谷口2丁目8番7号、西光寺駐車場角、西光寺参道というべきところにある丸彫り地蔵。台座が
庚申塔になっている。向かいに庚申塔2基がある。


宝樹山盛徳院西光寺
 大谷口2丁目8番7号にある真言宗の寺。本尊聖観世音菩薩。土地の大野清右衛門が一観音堂に田
畑を寄進し、堂宇を建設したことが始まりという。とすると観音堂は誰が建てたんだろうネ? 寺の
記録では開基は慶安四年(1651)寂の覚印とするが、「新編武蔵風土記稿」では、承応3年(1
654)寂の宥印とする。寛永元年
(1642)のことという。豊島八十八ヶ所霊場80番札所。板橋七福神の布袋尊。近くにあった苗
代地蔵が移されて安置している。右側は併設の大谷口幼稚園、黄色い声が賑やかだ。子どもたちの喧
騒は何で耳に心地よいのだろう。左は庫裏、本堂の裏が墓地だが、檀家が多いんだねぇ、広いよ。手
入れの行き届いた境内で歴史を感じるぞぉ。区の説明板には、

   西光寺
   御本尊観世音菩薩。宗派真言宗豊山派。宝樹山盛徳院と号す。
   古くからこの地にあった一観音堂に大野清右衛門が田畑を寄進し、堂宇を建設したことか
   ら始まるという。「新編武蔵風土記稿」では、開山を承応3年(1654八月)寂の宥印
   とするが、当寺所蔵の古文書では、開山を慶安四年(1651)六月寂の覚印とする。い
   ずれにしても、当寺が1640年代には開山されていたことは明らかだ。
   明治3年住職広沢賢隆は、境内に一棟を建てて寺子屋を開設し、同9年に上板橋学校が開
   設されるまで、近所の子供に教育を行った。
   昔話で有名なしろかき地蔵(石造、高47cm)は、現在同寺境内に安置されている。同
   地蔵は昭和62年度の板橋区登録有形文化財(信仰)に選定された。
   平成9年8月                          板橋区教育委員会


 とあり、区編纂の「いたばしの寺院」には、

   伝えるところによれば、寛永の頃、古よりこの地にあった一観音堂を住人の大野清右衛門
   なる者が、境内田畑を喜捨して堂宇を建設したのが西光寺の始めという。本寺所蔵の文書
   に依れば、開基は寛永20葵未年(1643)6月24日没の覚雲宗意信士と、慶安3庚
   寅年(1650)9月27日没の覚雲寿照信女とし、開山は慶安4辛卯年6月24日寂の
   大阿闍梨大僧都法印覚印と伝えるが、「新編武蔵風土記稿」には開山を、承応3年(16
   54)8月寂の宥印とする。時代的にほぼ一致しており、1650年代に立派に存在して
   いたことは明らかである。享保11年(1726)に中野宝仙寺より亮栄が差遣されてか
   ら、本寺の基礎面目が一新した。地蔵坂の地蔵堂、向原の宝性院、弥生町の万福寺は本寺
   末であった。
   明治3年頃、住職広沢賢隆は、境内に一棟を建てて寺子屋を開設したが、同9年上板橋学
   校開設により閉じた。江戸時代には大谷口氷川神社の別当寺であり、本堂近くには墓はな
   く、両墓制を採っていたようだ。大谷口氷川神社の近くの傾斜地にあった伝説の「苗代地
   蔵」は現在は本堂に安置している。


 とある。

 
大谷口の代かき地蔵
 境内にある地蔵堂。『武蔵野の地蔵尊』では「苗代かけ地蔵」となっているが、板橋区有形民俗文
化財としては「しろかき地蔵」で登録されている。「しろかき」とは、「田植えの前に田の土を掻き
かきおこして均す行為だ。彫りは珍しく、悉く曲線で彫る波状彫りだ。堂が火災に遭い、地蔵を本堂
に安置していたが、堂を再建して元に戻した。中世の造立。

   大谷口の代かき地蔵
   そのむかし、大谷口村に日頃から仏様を深く信仰していた心やさしいお百姓さんがいまし
   た。明日は村中あげて一せいに田植えをすることになっていました。お百姓さんは、明日
   の田植えに間に合うように、汗を流して一しょうけんめい働きました。しかし、あたりが
   うす暗くなっても、代かきは半分もできていませんでした。お百姓さんは、あぜに立って
   もう暗くなってしまった田んぼを眺めながら「ああ困った、明日の田植えをどうしよう」
   と、大ため息をしていると、どこからともなく若いお坊さんがちかよってきて「何かお困
   りのごようすですネ、代かきが終えなかったんですか」と、やさしく話しかけてくださっ
   たかと思うと、いずれへか去っていってしまいました。
   一夜あけて、田んぼに来てみると、びっくりしました。さしもの広い田んぼは、きれいに
   代かきがすまされて、朝日がさんさんと田の面を照らしていました。驚いたお百姓さんは
   あたりを見わたすと、田んぼの泥土がてんてんと、田から丘の草原につづいているのに気
   づきました。泥のあとをたどると、丘の小さなお堂にまでつづいています。お百姓さんは
   不思議に思いながら、お堂のとびらを開けてみますと、中に立っていらっしゃる石のお地
   蔵さんは、腰のあたりまで泥だらけでした。
   お百姓さんは、お地蔵さんが一晩のうちに代をかいてくださったにちがいないと思って涙
   を流してお礼を申し上げました。お地蔵さんはやさしいお顔をして、お百姓さんをじっと
   見おろしていました。
   大谷口村の人びとは、それから後、このお地蔵さんを「代かき地蔵尊」とあがめて、あつ
   くお祭りをいたしました。
                       さいこうじ 


■庚申塔

 大谷口2丁目13番12号の駐車場のブロック塀に2基嵌め込んである。向かいは地蔵庚申だ。


■大谷口二丁目公園

 大谷口2丁目38番1号にある区立公園。


■大谷口二丁目緑地

 大谷口2丁目39番2号にある区立公園。


■大谷口二丁目児童遊園

 大谷口2丁目63番5号にある区立公園。
 


【大谷口上町】(おおやぐちかみちょう)              昭和46年10月1日
 上板橋村字大谷口。明治22年板橋町大字下板橋、昭和7年板橋区板橋町1~10丁目。同34年
上板橋1・4丁目・大谷口町の各一部をあわせた町域を大谷口上町と命名、同46年新住居表示を
実施して現行の「大谷口上町」となり現在に至っている。
 参考資料:「東京都住所表記に関する資料」ほか「板橋区史」など。

 
大谷口上について
 地図上
「大谷口」の上(北)にあることによる。 

■日本大学医学部・日大板橋病院
 大谷口上町30・56・57番にある私立大医学部と総合病院。明治22年日本法律学校創立。同
36年日本大学と改称。大正9年大学令による大学となる。初めて女子の入学を許可。大正14年駿
河台に専門部医学科を設置。同15年医学科付属病院開院(現医学部付属駿河台病院)。昭和7年医
学科付属看護婦養成所設置。同10年酒井日向守下屋敷跡地に医学科付属板橋病院を開院。同11年
医学部を板橋に移転。同27年医学部医学科が新学制に移行。同45年板橋病院改築、新病院開院。
同54年医学部付属総合検診センター開設。昭和57年中央放射線棟を設立。平成3年救命救急セン
ターを開設。平成5年特定機能病院として承認され、同12年リサーチセンターを設立。同17年医
学部創設80周年を迎える。
ここの低体温治療は革命的だそうだ。
 


遥照山慈光寺

 大谷口上町15番1番にある浄土真宗本願寺派の寺。ボーイスカウト板橋第2団(東京100団)
の看板あり、なかなか盛んに布教活動をし ているようだ。本堂は鉄筋コンクリート 右が住居。左が
駐車場。昭和17年田原健三が、親鸞上人の教えを都会人に1人でも多く信奉せしめ、豊かな安住の
生活を享受せしめんがために、所謂「都市開教」として現在地に開き、今日に至っている。
 


■板橋第十小学校
 大谷口上町43番1号にある区立校。昭和24年「東京都板橋区立板橋第十小学校」として開校。
同28年大山小学校を分校。児童211名移籍。同33年大谷口小学校を分校。児童79名移籍。同
39年プール完成(10m×25m)。同47年鉄筋コンクリート造り校舎落成。
 平成元年学校の森完成。同11年創立50周年式典。同13年校舎・体育館耐震化。

 校歌
空に希望の陽が躍る」 作詞・加藤省吾  作曲・平井康三郎
  1.空に希望の陽が躍る
    窓に楽しい夢湧いて
    みんな明るい笑顔が並ぶ
    板橋十小 板橋十小
    おゝ我が母校
  2.朝に夕に仰ぎ見る
    富士の高嶺よ大谷口
    清く正しく素直に育つ
    板橋十小 板橋十小
    おゝ我が母校
  3.力合わせて新しい
    胸は理想に燃えている
    光れ輝け何時の日までも
    板橋十小 板橋十小
    おゝ我が母校
  


妙豊山光龍院

 大谷口上町46番3号にある日蓮宗の寺。千葉県勝浦の宝性寺で修行していた澄光院日豊上人が、
昭和28年豊島区長崎に「妙法光龍会」として創建、同39年現在地に開山して現在の山号寺号を登
録した。
 

■大谷口上町公園

 大谷口上町50番3号にある区立公園。


■大谷口上町児童遊園

 大谷口上町58番1号にある区立公園。


■庚申塔

 大谷口上町83番1号の角にある。五差路の東北コーナーだ。


■氷川神社

 大谷口上町89番1号にある中社。古来大谷口村の鎮守で、祭神は速須佐之男命、大雷命、木花佐
久夜姫命の3柱。延宝二年(1674)の御水帳に、

   末社浅間社の御除地当村の内去る延宝二寅年細水帳相載申候此坪数二十四坪反別二十四歩
   百姓無御座候稲荷社御除地嶋神社御除地右同断鹿島社御除地右同断稲荷社須賀社等六箇年
   御除地


 と記載されていることから延宝年間には既に鎮座していたと考えられる。従来西光寺が別当寺だっ
たが明治元辰年両部習合引分の際大野政武が奉仕し、後明治5年11月27日から天祖神社社務兼勤
となり、現在では宮司は篠家が勤めている。古くから大谷口村民の信仰を集め、毎月1月19日には
稲荷毘射、氷川毘射の神事が行われている。

   氷川神社
   当社は古来大谷口村の鎮守で、速須佐之男命、大雷命、木花佐久夜姫命を御祭神としてい
   る。延宝二年(1674)の御水帳に、「末社浅間社の御除地当村のうちに二十四坪」と
   記され、同様に末社稲荷社、鳴社、鹿島社、須賀社についても記載されている。このこと
   から当社は延宝年間には既に創建されていたことが明らかである。
   古くから大谷口村民の信仰をあつめ、毎年1月19日には稲荷毘射、氷川毘射の神事が行
   われている。
   平成5年2月                          板橋区教育委員会
 
 


 【大谷口北町】(おおやぐちきたちょう)              昭和46年10月1日
 上板橋村字山崎。明治22年上板橋村。昭和7年板橋区上板橋1丁目・大谷口町。同34年上板
橋1丁目・大谷口町の各一部をあわせた町域を大谷口北町と命名した。同46年新住居表示を実施
し現行の「大谷口北町」となり現在に至っている。石神井川の低湿地帯で山崎田圃と呼ばれた水田。
遊水地の役割を果たしていたが、宅地化によりそれも叶わなくなり昭和30年代にはしばしば洪水
に襲われた。
 参考資料:「東京都住所表記に関する資料」ほか「板橋区史」など。

 大谷口北について
 大谷口の北方向にあることによる。


■つくらづつみ児童遊園

 大谷口北町14番1号にある区立公園。

■大谷口小学校
 大谷口北町21番1号にある区立校。昭和33年上板橋・上板橋第二・板橋第十の3小学校の学区
を割いて「東京都板橋区立大谷口小学校」として開校。全児童533名でスタート。9月狩野川台風
のため石神井川が氾濫し、学校一帯が冠水。同36年プール完成。同41年体育館完成。同43年創
立10周年記念式典。同50年図書室・家庭科室完成。同60年プール改修。

 校歌
丘の木立の」 作詞・勝承夫  作曲平井康三郎
  1.丘の木立の緑に萌えて
    鳥が飛び立つ明るい大空
    和やかなこの空気
    夢が湧く大谷口
    自主の気風も溌溂と
    湧き立つ処 楽しい吾等
  2.棕裕に吹く風 窓には光
    何時も溢れる愉快な歌声
    よく学びよく遊び
    気も揃う大谷口
    薫る葛の葉 校章の
    輝く処 栄ある母校
  3.心爽やか大地を踏んで
    力協せて元気に行こう
    頑張る子 やり抜く子
    励み会う大谷口
    明日の日本を受け継いで
    仲良く進む伸び行く吾等
 


■大谷口児童遊園

 大谷口北町21番2号にある区立公園。


■大谷口北町宮ノ下公園

 大谷口北町79番にある区立公園。


■大谷口北町公園

 大谷口北町87番6号にある区立公園。
 


【大山金井町】(おおやまかないちょう)               昭和46年1月1日
 金井窪(金井久保)村。明治22年板橋町大字金井久保、昭和7年板橋区板橋2丁目の内。同33
年板橋町4・9丁目の各一部をあわせた町域を大山金井町とし、同46年新住居表示を実施して現
行の「大山金井町」となった。
 参考資料:「東京都住所表記に関する資料」ほか「板橋区史」など。

 
金井の由来
 地名は金井のある窪の意。金井と窪(久保)は別だったとする説もある。窪は水の湧く低地で、
金井は金渋(鉄錆び)を含んだ湧水のことをいう。

 ①谷端川流域に中井というところがあって赤水(鉄分を含む水)の水錆田(みさびだ=赤
  水の水田)だったことによる説と、
 ②谷端川の低温地帯で沢蟹が多くいたことから「蟹ヶ窪」といい、それが訛ったという説

 の2説がある。蟹谷(北区神谷)、蟹川(新宿区戸山→早稲田)と同列。

 地名紛争
 初め「金井窪」とする予定だったが「いまどき窪か?」と反対の声が上がり、窪を削除して金井
町と決まった。しかし大山商店街の賑わいを見ては心穏やかならず、大山とは無縁の地だが自主性
もアイデンティティーを持たぬ人々は、その栄光にのみ与ろうと大山を冠して安堵を得たようだ。
かつては雑司谷道を擁して池袋と板橋に繋がり、戦前には東武東上線の駅もあって殷賑を極めたの
だが・・・・・・駅が廃されたのは戦災による。
 だから金井は子易神社だ!
 


■大山金井町児童遊園

 大山金井町12番8号にある区立公園。


■地蔵八面塔(爆死者九体供養塔)

 大山金井町16番8号メゾンゴールドの角地にある。ここに万人風呂という公衆浴場があり、ここ
の主人小川忠雄が、良かれと思って防空壕を造っていた。昭和20年4月13日の空襲時、この防空
壕に13人の人が避難していたが、運悪く直撃弾が当って子供を含む9人が犠牲となった。防空壕を
造ったことが仇になったと公開した小川は、戦後、供養のための地蔵を建てることにし、昭和25年
八面塔の八面に地蔵尊を刻み、一体には子を抱かせた。つまり八面九体地蔵尊を建立した。

   空襲犠牲者供養の地蔵
   第二次世界大戦中の昭和20年4月13日夜、板橋から志村の地域にかけてアメリカ軍に
   よる空襲がありました。この空襲は、区内最大の罹災者約45000人を出し、板橋駅、
   区役所、養育院など板橋区の中枢を焼け野原にしました。この空襲で、当地の防空壕に避
   難していた、1人の乳児を含む9人が、爆弾の直撃弾を受け犠牲になったといわれていま
   す。
   戦後、当地を購入し、公衆浴場を開業した小川忠雄氏が先の空襲による被害を知り、供養
   のために建てたのが、このお地蔵さまです。昭和25年に現在地に建てられました。八面
   の胴部分に一体ずつの地蔵が刻まれ、そのうちの一体が子供を抱いています。
   昭和49年には、覆屋も作られ、現在では町の方々によって大切におまもりされています。
   このお地蔵さまは、板橋区における空襲の事実を伝え、後世に戦争の悲惨さと平和の尊さ
   を伝える史跡として、平成七年度、板橋区の記念物に登録されました。
   平成9年2月                          板橋区教育委員会


■板橋第七小学校

 大山金井町31番1号にある区立校。詳細不明。                      
 
 


【大山町】(おおやまちょう)                    昭和46年1月1日
 下板村。明治22年板橋町大字下板橋、昭和7年板橋区板橋町1~10丁目。同33年板橋町4
・9丁目の各一部をあわせた町域を駅名から採って町名とし、同46年新住居表示を実施し、東武
東上線の駅名を以て現行の「大山町」とした。
 参考資料:「東京都住所表記に関する資料」ほか「板橋区史」など。

 
大山の由来
 栄町の東京老人医療センター(養育院跡)辺りは高台で、千川上水の際に大山参りの禊場(茶屋)
があったため、大山参りの集合場所になっていて俗に「千川上水の大山茶屋」といっていたが、千
川上水が省かれ、茶屋が取れて「大山」で通じるようになる内、この辺りの通称となっていた。昭
和6年板橋町4丁目に東上線の新駅が設置されたとき、大山がその付近の汎称となっていたので駅
名に選択された。この駅名について古老は「字名でもないのに住民からの異論の声は全くなかった」
と語る。町の中を川越街道が貫き、川越街道で繁盛した農村だ。
 

■川越街道
 中山道の脇街道として江戸時代に老中松平信綱(川越藩主)によって整備された。この頃は板橋平
尾宿を起点として中山道から分かれ、川越城大手門に至る13里半の道中だった。ここから、川越の
特産品であるサツマイモを指して、


  
栗(九里)より(四里)うまい十三里

 という言い回しが生まれ、江戸で宣伝文句として使われたという。但し由来は諸説ある。
 さらに街道は、川越から児玉街道が上野国藤岡に通じて中山道に合流しており、この二つの道を合
わせて川越・児玉往還と呼ばれていた。中山道より行程距離が短かいので多くの通行者があり、物資
の輸送を行う舟運と合わせて川越の重要交通路だった。新座市の北の入間郡三芳町、上福岡市近辺で
は、現在も街道筋の松並木が残り、当時の風情を伝えている。
 宿駅は板橋平尾宿・上板橋・白子・膝折・大和田・大井・川越の7駅。昭和8年国道254号線と
して整備されたので、現在の川越街道は池袋六つ又から川越となっている。なお国道254号線は本
郷三丁目から中山道に分かれ、春日通りとして池袋に至り、群馬藤岡からは信州街道と呼ばれ、長野
松本を終点とする。長野に入ると「コスモス街道」の愛称があり、「ニーゴーヨン」の通称がある。
 


■大山信仰
 神奈川県伊勢原市にある丹沢山塊の東南端の山。海抜で1252メートル。人がこの辺りに住み着
くようになったころ、この山に登って関東平野を眺めたら何か神々しさを感じたのだろう
今でも雲
一つない青天の日に登って一人っきりだとすると怖いと感ずるほど自然の中にある自分を発見する。
見えないが神に見られているような気がしてくる。太古の人々は神坐す山と尊崇し大山祇命をお祀り
した。それが大山阿夫利神社で、崇神天皇の頃という。しかし大山信仰が始まったのはもっともっと
古いだろう。海からの風を妨げて雨雲を作るので雨降り山と呼ばれ、あふり山→阿夫利山となり雨乞
いの神・水を司る神・航海安全の神となった。頼朝が信仰したことから武神として武士にも広がり、
良弁の開基となる大山寺を中心に修験道の霊地となった。江戸時代には年に20万人もの参詣者で賑
わい、賑わえば不心得者が出るのは自然で参道口の伊勢原は一時は「酒と博打と女」の町となった。
小田急の伊勢原駅は大山参りのために開かれた。大山といえば「豆腐」、豆腐料理は食べといて損は
ない。よほどの特産品らしくスーパーの豆腐コーナーには大山豆腐が必ずある。
  


■大山駅
 大山町4番1号にある東武東上線の停車場。大正3年8月25日東上本線の池袋~田面沢(廃駅・川
越市~霞ヶ関間にあった)間が開業して以来の駅。ホームは地上相対式2面2線構造で、各ホームは
跨線橋で結ばれている。跨線橋にはエレベーターがないが、改札がホームごとに設けられているので
不要な訳だ。改札口・出口は、1番線側にある南口と東口、2番線側にある北口の3ヶ所。そのうち
東口は臨時口の扱いで、切符売り場も自動精算機も置かれていない。切符がない場合は、南口へ回る
しかない。
 駅周辺はアーケード商店街になっており、とても賑やかだ。鉄道模型のキット製品で有名なグリー
ンマックスの本社は大山にあるが、併設されていた「グリーンマックス・ザ・ストアー大山店」は平
成16年12月に閉店してしまったよ。
  


■板橋第六小学校

 大山町13番1号にある区立校。昭和8年「東京府東京市板橋第六尋常小学校」として開校。同1
1年学区変更により板一小・板二小に320名移籍。同13年板七小を分校、476名移籍。同16
年勅令148号国民学校令により「東京府東京市板橋第六国民学校」と改称。12月真珠湾攻撃によ
り日米開戦。同18年創立10周年記念式典。都制施行により「東京都板橋第六国民学校」と改称。
同19年大谷口分校に135名分籍。群馬県利根郡水上村湯原に集団疎開。同20年8月ポツダム宣
言受諾により日本敗戦。10月疎開解除により児童帰校。
 同21年学校教育法・地方自治法により「東京都板橋区立板橋第六小学校」と改称。同24年板九
小に423名分籍、板十小に866名分籍。同28年大山小に596名移籍。同33年創立25周年
記念式典。同38年創立30周年記念式典。校舎改築開始。同40年第1期工事終了。同41年第2
期工事終了。同42年第3期工事終了・体育館完成。同43年第4期工事終了。創立35周年記念式
典・校舎改築落成式。屋上プール完成。同48年創立40周年記念式典。同53年創立45周年記念
式典。同55年理科室・家庭科教室増築落成。同57年学校外柵全面改修。同58年創立50周年記
念式典。同62年校舎及び付帯施設改修工事完成(校舎校庭側サッシュ交換、増灯、プール改修等)
 平成2年校舎外壁工事完了。同5年創立60周年記念式典。同6年体育館暖房機設置。同10年校
舎耐震化・医療救護室・備蓄倉庫・ランチルーム・音楽室防音壁・体育館防球ネット工事終わる。同
11年創立65周年記念式典。同14年日本語学級開設。同15年創立70周年記念式典


 校歌
「清い気を吸い」 作詞・山口猪祐  作曲・徳富繁
  1.清き気を吸い 照る日を浴びて
    赤き血潮の漲る体
    真心込めて朝夕鍛え
    世に立つ基 築くは此処ぞ
    板橋第六 楽しき我が家
  2.いざや我が友 力を合わせ
    若き二葉の飾らぬ心
    真の道を弛まず学び
    御国の光 あぐるは此処ぞ
    板橋第六 楽しき我が家


■瑞法寺

 大山町29番5号にある浄土真宗大谷派の寺。3階建ての瑞法幼稚園の脇にひっそりとある。昭和
11年に現在の大山町2番地に荒川源成によって開創されたが、空襲により同20年5月26日払暁
全焼した。同23年現在地に移転し堂宇を建築し、今日の隆盛の基となる。
  


■大山福地蔵

 大山町54番、旧川越街道(大山ハッピーロード)が国道254号線に接するところ、北に入る道
があって、4、50mいったところに、ピッカピカのお地蔵さんがある。妙なお地蔵さんで、祠の前
に。銅製の別の地蔵があって、それは洗い地蔵でいいのだが、その回りが台所のようなのだ。流し場
もあるし・・・? 昭和28年に現在地に移転してきたそうで、元はハッピーロード商店街の裏手に
あったそうだ。現在南向きに建っているが、交通事情のため東向きから現在の向きに替えた。
 福というのは行者の名前で、文化文政の頃、鎌倉街道と川越街道の交差点(現在の日大交差点)辺
りにやって来て、人々の難病苦業を癒したそうで、地元の方々に大変慕われたんだとか。
 傍らに「御身洗地蔵尊」と「大山福地蔵尊」の碑がある。

 
  縁起
   今より110年前安政年間に鎌倉街道(日大交差点附近)いずれからかおふくさんという
   行者来たりて街道筋の難病苦業を癒し大山宿の住民より大変に慕われて居りついに大山に
   住み余生を衆生につくしければのちのち地元大山の人々よりおふく地蔵としてまつられ現
   在に至って居ります                       大山福地蔵奉賛會
                               縁日 毎月12日・22日
                                  昭和47年8月建立

   縁起
   今より150年前安政年間に鎌倉街道(日大交差点附近)いずれからかおふくさんという
   行者来たりて街道筋の難病苦業を癒し大山宿の住民より大変に慕われておりました。
   ついに大山に住み余生を衆生につくしましたので、後に地元大山の人々よりおふく地蔵と
   してまつられ現在に至っております。               大山福地蔵奉賛會
                           御開帳 毎月3日・13日・23日
                                  平成15年4月建之
 
 


【大山西町】(おおやまにしちょう)                  昭和46年1月1日
 下板橋村。明治22年板橋町大字下板橋、昭和7年板橋区板橋町1~10丁目。昭和33年板橋
町4丁目・大谷口町の各一部をあわせた町域を大山西町とし、同46年新住居表示を実施して現行
の「大山西町」とした。
 参考資料:「東京都住所表記に関する資料」ほか「板橋区史」など。

 大山西の由来
 すでに繁栄している大山駅前商店街にあやかり、町がその西南に位置することから西町とした。
大山小学校があるが、旧大山町とは縁も縁(ゆかり)もない。
 

■大山小学校

 大山西町19番1号にある区立校。昭和28年7月板橋区板橋町4丁目1301番地に校舎新築。
9月板橋第六・板橋第十小学校より分籍し「東京都板橋区立大山小学校」として開校。10月落成開
校記念式典。同33年校歌制定。

 
校歌「晴れて明るい大空を」 作詞・勝承夫  作曲・平井康三郎
  1.晴れて明るい大空を
    仰ぐ校庭 力が燃える
    大山は よい子の広場
    明日の希望に輝いて
    伸び行く若木 楽しい吾等
  2.光れ校章 撫子は
    強く優しく心に開く
    大山は平和の泉
    みんな仲良く元気良く
    誠を込めて果て無く進む
  3.歌え若鳥 この窓は
    いつも変わらぬ自立の誓い
    大山は揺るがぬ姿
    明日の日本を受け継いで
    母校の誉れ 上げよう吾等


 昭和44年体育館完成。
 平成4年「学校の森」完成。同10年観察路舗装(リサイクルガラス使用)。同15年創立50周
年記念式典。同17年心身障害学級開級(※平成19年度より特別支援学級(固定)と改称)。同1
8年校庭改修・人工芝化。
 


■板橋公園(板橋交通公園)

 大山西町21番1号にある区立公園。昭和43年の開園だ。
横断歩道や信号など様々な交通施設が
ある。子供たちの交通安全教育のために作られた。園内では自転車・ゴーカート・三輪車・補助付き
自転車を貸し出しており、安全に交通ルールを学びながら楽しく遊ぶことができる。またバスや市街
電車の実物を展示しており、内部を見学できる。
 


■庚申塔

 大山西町28番2号の追分にある。ゴミゴミしたところなので意外と気が付かない。


■東京朝鮮第三初級学校

 大山西町67番25号にある朝鮮総連の運営する私立校。在日同胞子女に対する民族教育を実施。
朝鮮語をはじめ朝鮮の歴史と地理、民族の文化と伝統だけでなく、日本語と英語をはじめ、日本と世
界の社会や自然に対する知識を与えることで、生徒たちが日本で生活し、活動する上で必要な資質を
備えるよう努力している。北朝鮮系のためしばしば問題を提起する。民団系の子女も通学している。
反日的教育を受け、長じて帰化し、日本名で国会議員になるものも数しれない。国会議員の7分の1
つまり14%が外国人だぞ、みんな日本名を名乗ってる。創価学会、統一教会、芸能界、CM界、思
想界、官僚にも浸透してる。何てったって、後にユダヤ資本がついてるから怖いものなしだ。
 
 


【大山東町】(おおやまひがしちょう)                 昭和46年1月1日
 金井窪村小名茶屋前。明治22年板橋町大字下板橋、昭和7年板橋区板橋町1~10丁目。昭和
33年板橋町2・4・5丁目の各一部をあわせた町域を大山東町とし、同46年新住居表示を実施
して現行の「大山東町」とした。
 参考資料:「東京都住所表記に関する資料」ほか「板橋区史」など。

 大山東について
 大山町・大山駅の東側に位置することから東町を以って命名された。
 

■旧川越街道
 この町を通る旧川越街道は、昭和25年平和を祈って「大山ピース通り商店街」、同30年板橋区
民会館ができると「区民館通り商店街」、同56年街路灯新設にともない「大山サンロード」、平成
4年CI事業実施の成果として「遊座大山商店街」と改称した。「遊座」とは「遊び心の座(製造所)」
の意。商店街でのみ通用する地域通貨「遊座小判」を発行流通させている。
  


■大山東町児童遊園

 大山東町14番2号にある区立公園。
  


■板橋税務署

 大山東町35番にある国の機関
  


■板橋第一中学校

 大山東町50番1号にある区立校。昭和22年都立第九中学校(北園高校)内に「東京都板橋区立
板橋第一中学校」として開校。PTA結成。同25年現在地に新校舎1棟が完成して移転。同32年
プール完成。同37年体育館完成。創立15周年記念式典。同42年第3次増築により現在の校舎完
成。創立20周年記念式典。同52年創立30周年記念式典。同55年プール改築。同62年ランチ
ルーム、武道場新設。給食調理室改築。創立40周年記念式典。校歌碑建立。和室(三顧庵)新設。
 平成5年パソコン室・被服室設置。同9年創立50周年記念式典。玄関に校歌額設置。同11年校
舎耐震化。同15年日本語学級設置。同19年特別支援学級開設。創立60周年記念式典。


板橋区民会館 → 板橋文化会館
 大山東町51番1号にある区の施設。昭和30年開場。同57年に建て替えられて「文化会館」と
なった
この街が繁盛したのにはこの会館の存在が大いに貢献している。「板橋区民会館」の名は、
テレビの歌番組、バラエティー番組の収録、有名歌手のリサイタル、有名劇団の公演などで集客した
のだ。商店街は潤った。ラジオやテレビから聞こえてくる司会者の会場案内で覚えるともなく自然に
耳に入ってきて、気がついたら覚えてた。しかし板橋文化会館なんて聞いたこともないよ。
 大ホール 1263名 楽屋5室
 小ホール  306名 楽屋2室
 大会議室3室 和室4室 茶室2室 音楽練習室3室 リハーサル室1室。
 
 


【加賀】(かが)1~2丁目                     昭和40年1月1日
 板橋宿。明治22年板橋町大字下板橋、昭和7年板橋区板橋町1~10丁目。同40年の新住居
表示で板橋6~8丁目が独立した町域となり、町名はかつてあった加賀屋敷にちなんで命名された。
 参考資料:「東京都住所表記に関する資料」ほか「板橋区史」など。

 加賀の由来
 加賀の前田家は支藩の富山藩・大聖寺藩を合わせて120万石、日本一の大大名だ。ちなみに徳
川将軍家は天領400万石、二位の島津家は77万石、三位が伊達家で62万石である。東京大学
を〝赤門〟というのはその敷地が前田家の上屋敷で、将軍家からお嫁さんをも貰う時は朱塗りの門
を建てるのがしきたりで、それが明治以後も残っていたので東大のシンボルとなった。元もとの意
味は岩槻街道・中山道を上ってくる敵を抑えるための配置である。その前田家が中山道と川越街道
が合流するところに下屋敷を置いた理由は同じである。板橋宿はそこから西北へ伸びる。屋敷は広
大で現在の板橋(3・4丁目)・加賀・仲宿に及ぶ範囲で、維新後は軍の火薬製造所になった。下
屋敷御殿は現在の中山道、板橋郵便局の辺りにあった。だから加賀は石神井川に架かる金沢橋だ!
 

■加賀藩下屋敷
 江戸時代加賀一帯は加賀百万石前田家の広大な下屋敷が置かれていた。維新後は明治政府に収公さ
れ、明治9年陸軍砲兵廠板橋属廠となり、日本初の黒色火薬製造機を擁する近代工場となった。当時
の圧磨機圧輪記念碑が加賀西公園にある。その後は同12年東京法兵廠板橋火薬製造所、昭和15年
東京第二造兵廠板橋製造所となり、俗に〝二造〟と略称され、工員7000人を抱える大軍事工場と
なった。さらに線路向かいに十条兵器製造所(中央公園・陸上自衛隊王子駐屯地など)、滝野川には
陸軍火薬廠、稲付西山町には兵器支廠、赤羽には被服廠(赤羽団地)、赤羽火薬庫・練兵場(桐ヶ丘
団地)が蝟集し、まさに軍都だった。下屋敷の跡は、民間の工場や倉庫、東京家政大学、帝京大学、
公園、小、中学校などの敷地になっている。
 


東京砲兵工廠時代のコンクリート造りの建物
 加賀1丁目7番13号の理化学研究所の建物は東京砲兵工廠時代のもので、補強のために側壁がコ
ンクリートで覆われているものの、コンクリの剥がれた箇所からは赤煉瓦が覗いていてかつての様子
を偲ばせてくれる。特に石神井川側からフェンス越しに見える建物の側面はほとんど赤煉瓦が剥き出
しになっており、とても観察しやすい。
 この赤煉瓦の建物の傍にも怪しい雰囲気の漂う小屋がある。一見すると単なるコンクリート造の倉
庫小屋のようだが、赤く錆びた鉄の扉の構造が明らかに戦前に見られた古いタイプだから、これも当
時のものではなかろうか?
  


■加賀公園
 加賀1丁目8番11号にある区立公園。


 
加賀屋敷跡碑
 園内にある標柱。

   加賀前田家下屋敷跡

 区の説明板は以下のとおり。

   加賀前田家下屋敷跡
   江戸時代に成立した参勤交代制度により、大都市江戸には日本各地から多くの大名が集ま
   り、その華族や藩士、奉公人などとともに日常生活を送っていました。そして、各大名に
   対しては、将軍より屋敷地が下賜されました。
   延宝八年(1680)の段階で、加賀藩前田家は本郷邸(東京大学周辺)を上屋敷に、駒
   込邸を中屋敷(本駒込6丁目周辺)に、板橋宿に面する平尾邸(現:加賀1・2丁目、板
   橋3・4丁目周辺)を下屋敷に定めています。上屋敷は藩主と家族が住む公邸に、中屋敷
   は隠居した藩主などの住居に利用されました。
   下屋敷の平尾邸は、約218000坪に及ぶ広大な敷地があり、尾張・紀伊・水戸の徳川
   御三家を含めて、江戸に所在する大名屋敷では最大の広さを持つ屋敷でした。邸内には石
   神井川が流れ、その水流と千川用水の配水を利用した大池が設けられ、築山や立石、滝な
   どが各所に配された池泉回遊式庭園が展開していました。その規模は本国金沢にある有名
   な大名庭園、兼六園の約7倍の広さがあります。
   平尾邸は、通常は藩主と家族のための別荘として使われており、かれらが保養や散策に訪
   れ、時には鷹狩や花火などが行われました。また、幕末には園遊会も催され、その席に招
   かれた松平容保をはじめとする会津藩の人々は、邸内の様子を「まるで桃源郷のようだ」
   と表現しています。
   なお、当邸が中山道板橋宿に隣接していることから、参勤交代時に前田家の藩主が休息を
   とり、江戸へ出入りする際の装束替えの場としても利用されました。また、その家族や家
   臣による送迎の場にもなっていました。 
   邸内には与力を筆頭に50人ほどの詰人がおり、その大半は定番足軽と呼ばれ、ここを管理
   していました。彼らは代々平尾邸に在番し、板橋宿や蓮沼村をはじめとする板橋区周辺地
   域の名主などの娘と婚姻関係を結ぶ人もいました。中には板橋宿の寺子屋の師匠として、
   地域の教育にあたるなど、地元板橋との密接な関わりが見られます。
   幕末になると、加賀藩も世情の影響を受け、邸内でオランダ式ゲベール銃を使った調練を
   実施しています。また、石神井川の水流を利用して大砲の製造を行っています。明治期以
   降には、平尾邸の大半は、同じく石神井川の水流を利用し火薬を製造する、板橋火薬製造
   所(後の東京第二陸軍造幣廠)となります。
   なお、現在平尾邸の面影は、僅かにここ加賀公園に残る築山の一部だけとなっています。
   平成21年3月                         板橋区教育委員会


 圧磨機圧輪記念碑
 円盤状の石を組み合わせたモニュメントがあるのだが、これは当時の工場で使用していた圧磨機の
圧輪をそのまま記念碑として転用したもので、大正11年に建立された。この圧輪は江戸幕府の命に
よって澤太郎左衛門が、慶応元年ベルギーより購入し、明治9年より陸軍工場内にて黒色火薬の製造
に用いられた。硫黄、木炭そして硝石を混ぜたものを、水を加えながら水車で得られた動力によって
圧輪を回して磨り潰すことにより黒色火薬が作られる。なお記念碑にはダンゴを重ね合わせたような
デザインの東京砲兵工廠のマークが付いている。
 公園の奥に位置するこの記念碑は板橋区登録文化財に指定されており、その傍には板橋区教育委員
会によって説明板が建てられ、圧輪がどのように導入され、いかにして火薬が製造されたのかを解説
しているのだが、どういう訳かこの圧磨機圧輪が軍需目的で用いられたという文言は見当たらない。
唯一「板橋火薬製造所」という名称なら記されているが、これとて製造所が軍関係の施設であったと
いう説明はなされていないので、由来を知らない人が見たならば単なる火薬工場としか解釈しないだ
ろう。
 この記念碑が日本における西洋式黒色火薬生産の端緒を記念するものであることは勿論であるが、
この圧磨機によって製造された火薬が軍需目的で用いられたこともまた事実なのであるから、歴史教
育の一環としてその点についても言及してもらいたいと考える。

   板橋区登録文化財
   
圧磨機圧輪記念碑
   これは、板橋火薬製造所(加賀下屋敷・現加賀町一帯)の創設者というべき澤太郎左衛門
   遺徳を称え建てられた記念碑であるが、実際に火薬製造に用いた圧輪を使用している。
   この圧輪は、幕府の命により太郎左衛門が慶応三年(1867)ベルギーで求めたもので
   明治9年より同39年まで黒色火薬を製造していた時に使用していた。
   黒色火薬(現在、は、火薬などに使われている)は、硫黄と木炭を混ぜ、次にこれに硝石
   と混ぜてつくる。この三種の混合剤を圧磨機の盤上に敷いて水を注ぎながら圧輪を回転さ
   せ、圧磨作業を行う。この圧輪を稼働させるため鉄製の縦軸水車(ベルギー製現存せず)
   が用いられたか、その動力源に石神井川のの水が利用された。この圧磨機が設置された場
   所は定かではないが、加賀下屋敷内にあった課が水車跡(加賀2-15)付近ではないか
   と考えられている。                       板橋区教育委員会


■東京砲兵工廠時代の弾道検査管
 加賀1丁目8番1号野口研究所内にある。加賀公園の西端にブランコがあって、その隣は財団法人
野口研究所の敷地となるが、ブランコの側からフェンス越しに研究所の敷地を覗くと、藪に埋もれる
ように赤く錆びた太い鉄管が公園の方に向かって延びている。これは火薬の研究に用いられた。

■東京砲兵工廠時代の弾道検査管(爆速測定器)標的
 
加賀1丁目8番の加賀公園内にある。弾道検査管の延長上に当たる公園内の一角には、煉瓦積みの
変わった形をした壁が残っている。発射場の標的として使われていたものだ。片側は誰にも見つから
ないような状態で茂みの中に隠れ、もう一方は公園の築山の中で息を潜めるように埋もれているが、
いずれも板橋工場時代に使われた火薬・兵器研究の遺構であり、説明プレートはないものの物言わぬ
歴史遺構として密かに現存しているのである。

   弾道検査管(爆速測定管)の標的
   区立加賀公園にある小高い山は、加賀藩前田家の江戸下屋敷の庭園にあった築山の跡です。
   この築山の中腹に造られたコンクリ―製の構造物は、現在隣接している野口研究所から伸
   びる弾道検査管(爆速測定管)の標的の跡です。
   この築山、野口研究所を含めたこの場所には、陸軍火薬製造所(昭和15年以前は東京第
   二陸軍造兵廠=二造)内に置かれた火薬研究所があり、爆弾の性能実験などが行われてい
   ました。今も野口研究所の構内には、火薬研究所時代に使われていた試験用火薬貯蔵庫や
   防爆壁が残されています。その中の一つに長さ十数m、内径686mmのコンクリート製
   の弾道検査管の一部があります。
   これは、技術者の間ではトンネル射撃と呼ばれているもので、火薬(発射薬)の種類や量
   を変えて、弾丸の速度などを測定・観測する装置であり、戦前の二造構内の図面からは、
   弾丸がこの築山の標的に向かって撃ち込まれていたことが分かります。
   戦前、旭化成などの草案者である野口遵が設立した野口研究所が当地に移転してきました
   が、いまなお構内には、戦前使用していた観測装置や標的などが現存しています。このよ
   うな例は全国的に見ても珍しく、軍工場時代の活動の一端をうかがうことができる貴重な
   資料です。


 
電気軌道(トロッコ)線路敷跡
 園内から隣の野口研究所にかけてある。

   電気軌道(トロッコ)線路敷跡
   区立加賀公園のこの場所から野口研究所の構内にかけ、道路のように見えているのは、戦
   前、この一帯(現在の加賀1、2丁目)にあった板橋火薬製造所内を通る電気軌道(トロッ
   コ)の線路敷跡です。
   軌道は、北区十条の銃砲製造所や王子にあった分工場とも結ばれており、製造所内外の物
   資や人の運搬に大きな役割を果していました。
   現在、埼京線にかかる十条台橋の南側の線路脇にあコンクリートの土台は、明治38年に
   軌道敷設時に建設された跨線橋跡です。その後、明治40年度には、製造所内の火薬研究
   所(加賀公園・野口研究所付近)や本部(東板橋体育館付近)、原料倉庫(金沢小学校付
   近)を結ぶために軌道が延伸しています。以降も軌道網の整備は進められ、大正12年の
   構内図によれば、ほとんどの建物が軌道によって結ばれており、、さらには清水町から北
   区西が丘にかけてあった兵器支廠(後の補給廠)にも伸びていました。
   なお板橋火薬製造所は、昭和15年に東京陸軍第二造兵廠(二造)に改称されています。
   またこの軌道は750mmの珍しいもので、そこを走る電気機関車は、その形状から「だる
   ま電車」とも、走りながら鐘を鳴らしたことから「チンチン電車」とも呼ばれていました。


 
招魂之碑
 同じ加賀西公園の植え込みの中には板橋火薬製造所有志によって明治36年に建立された石碑があ
る。火薬製造の過程で発生した事故等により死亡してしまった従業員を悼んで建てられたものだ。旧
軍遺構のある場所には必ずといってよいほど、この招魂碑または忠魂碑が建てられている。
 「招魂」という言葉は日本語ではなく朝鮮の人の思考で、日本では「供養」するのだ。招魂は死者
に対して「申し訳ない」と謝罪すること、しかし供養は「見送る」ことで謝罪はしない。では朝鮮の
人は何で死者に謝罪するのか? 朝鮮半島は1000年近く中国の属国だった。国民の大半は白丁と
いう奴隷階級に貶められ、理不尽に虐殺されていた。しかし抵抗はできないばかりか、取り縋って生
きるしかない、その内心に忸怩たる思いが卑屈にさせ、何もできない不甲斐なさを死者に対して詫び
るしかない。しかも供養する墓を持つことも許されなかったから、その時々に招魂して謝罪すること
が習い性となる。だから朝鮮の人は招魂することに違和感を持たない。
 靖国神社は招魂場で、山口県の人が拵えた。山口県は地理上、朝鮮系日本人で構成されている。何
の疑問もなく創建した。勝手に戦争を惹き起こして無理矢理戦場に引っ張り出して死なせてしまった
のだから、そりゃ申し訳なかろう。供養せず招魂した。山口県人ならではの発想だ。統一教会も、創
価学会、国家神道、日本共産党のルーツは山口県。さもありなん呉越同舟。

 
金沢市友好交流都市協定記念碑
 平成20年金沢市と板橋区の間で締結された「友好交流都市協定」の記念碑、

   板橋区は、平成207月9日の金沢市との友好交流都市協定締結を記念し、加賀藩江戸下
   屋敷の築山にあたる加賀公園に、この記念碑を設置しました。モデルとしたのは、金沢の
   シンボルともなっている尾山神社神門第三層のステンドグラスです。
   尾山神社  神門
   尾山神社は、加賀藩祖前田利家公並びに、その夫人お松の方を奉斎する神社で、二代藩主
   前田利長公が、慶長四年(1599)12月に金沢城の鬼門にあたる卯辰山麓に、利家公
   の霊を祀る卯辰八幡社を建立したのが始まりとされています。その後、金沢市の中心部に
   あたる現在地(金沢市尾山町11番1号)の旧金谷御殿跡に、明治6年社殿が新設され、
   神霊を遷座し社名も尾山神社と改められました。
   国の重要文化財として指定されている尾山神社の神門は、社殿造営後の明治8年に建立さ
   れました。和漢洋の三様式を混用した異色の門として早くから全国に知られ、兼六園と共
   に金沢のシンボルともなっています。オランダ人ホルトマンの設計との説もありますが、
   棟札によると、建築総管は藤田貴知であり、工匠長は四面五色のギヤマン張り(ステンド
   グラス)で、もとは御神灯が点灯され、その放つ光は金沢の街を照らし、また遠く日本海
   を航行する帆船の目標とされたものです。なお、第三層目に設置された避雷針は、日本最
   古のものと言われています。


 尚、金沢兼六園の琴柱灯籠を模した灯籠が石神井川畔に設置されている。

 
平和祈念碑(工科学校板橋分校跡碑)
 自然石の碑。板橋工場の敷地内には陸軍工科学校の板橋分校も併設された。その跡地は現在区立板
橋第五中学校になっているのだが、公園内には工科学校のOB団体である「工華会」によって、


   
花匂ふ桜ヶ丘 永遠の平和を祈る
                工科学校
                板橋分校跡
                工華会建之
  

 
という句の添えられた碑がひっそりと建てられている。


■国立極地研究所
 立川に移転
 加賀1丁目9番10号にあった国の施設。我国の南極地域観測事業を担う中核機関として、極地に
関する科学について総合的に研究観測計画等を企画立案して推進、実施すると共に、南極地域にある
観測基地施設の管理・運営を行っている。また、観測隊の編成準備、各種訓練、観測事業に必要な物
資の調達、搬入計画の作成、環境保護法に基づく観測計画確認手続の準備等の業務や観測で得られる
試・資料の収集、保管等を行っている。

 
沿革
 昭和36年日本学術会議は、南極地域観測の実施によって得られた資料の整理、保管、研究等を行
うため「極地研究所」(仮称)を文部省既設の機関の附属機関として設置することを政府に勧告。同
37年勧告を受けて国立科学博物館に「極地学課」を設置。同40「極地学課」が拡充改組され「極
地部」となり、極地第一課と極地第二課設置。同41年国立科学博物館の機構改革に伴い「極地部」
が改組され、「極地研究部」となり、極地第一研究室と極地第二研究室が置かれた。同45年「極地
研究部」を発展的に改組、南極地域観測の中核機関として「極地研究センター」が設置され、極地事
業部、極地研究・資料部、及び事務室が置かれた。同時に上野地区から板橋の旧陸軍東京第二造兵廠
跡に移転。
 同48年国立極地研究所創設
 研究系4部門、資料系2部門、管理部2課6係及び事業部1課2係が置かれ、南極の「昭和基地」
が同所の観測施設となった。同49年研究系に寒地工学研究部門、資料系にデータ解析資料部門、事
業部に観測協力室、図書室を設置。同50年研究系に地学研究部門、寒冷生物学研究部門、資料系に
低温資料部門が設置。同53年研究系に極地気象学研究部門、極地鉱物・鉱床学研究部門が設置され、
寒冷生物学研究部門が寒冷生物学第一研究部門と寒冷生物学第二研究部門に改組。同54年研究系の
超高層物理学研究部門が超高層物理学第一研究部門と超高層物理学第二研究部門に改組され、寒地工
学研究部門は極地設営工学研究部門と改称。同56年資料系に隕石資料部門が設置され、「みずほ基
地」が観測施設となった。同58年研究系の極地気象学研究部門を廃し、気水圏遠隔観測研究部門を
設置。同59年研究系に隕石研究部門、資料系にオーロラ資料部門を設置。
 平成2年北極圏環境研究センターと情報科学センターの2研究施設を設置し、資料系データ解析資
料部門を廃止。同5年研究系の気水圏遠隔観測研究部門廃し、極域大気物質循環研究部門設置。総合
研究大学院大学数物科学研究科極域科学専攻が設置され、同大学の基盤機関となる。同6年研究系に
地殻活動進化研究部門設置。同7年研究施設に南極圏環境モニタリング研究センター設置。同8年南
極圏環境モニタリング研究センターの整備が行われ、資料系非生物資料部門を廃止。同9年北極圏環
境研究センター及び南極圏環境モニタリング研究センターの整備。同10年研究施設に南極隕石研究
センター、事業部に環境影響企画室を設置。研究系の隕石研究部門(客員部門)、資料系の隕石資料
部門を廃止。同16年大学共同利用機関法人情報・システム研究機構 国立極地研究所設置。国立大
学法人総合研究大学院大学発足。また数物科学研究科が改組再編され、複合科学研究科極域科学専攻
となった。
同21年立川市緑町10番3号に移転した。

 
南極観測
 南極条約に基づき国際協力の下に国が実施する事業だ。昭和30年の閣議決定を受けて、国際地球
観測年(IGY 昭和32~33年)の一環として始まった。同32年1月29日南極大陸リュツオ
・ホルム湾にある東オングル島に昭和基地建設を始めて以来、半世紀に亘り実施されている。この間
輸送に必要な船舶の老朽化等により一時中断があったものの、極地観測継続の重要性などから南極地
域観測事業は再開が閣議決定された。その後南極大陸にある我が国の観測基地は拡充整備され、観測
と研究が中断することなく実施されている。世界の観測網の拠点としての定常的な気象観測の継続実
施やオゾンホールの発見、研究プロジェクトとしての月隕石・火星隕石を含む世界最多の隕石を採取、
氷床掘削で得た氷床コアの解析による過去数十万年にわたる気候変動の解明及び大気中の二酸化炭素
量のモニタリングによる環境変動の研究など多くの観測研究の成果を得ている。
 南極地域観測について、平成15年9月日本学術会議は「南極地域観測の継続と充実について」で、
政府全体として継続的に取り組むべき、特に重要な国家プロジェクトであることを再確認し、必要な
措置を講ずるよう要望している。
 現在、国際科学会議(ICSU)と世界気象機関(WMO)が、国際極年(IPY 平成19~2
0年)として同19年3月から同20年3月にかけ、国際協調による、学際的な、地球の極地域に焦
点を絞った科学研究・観測の集中的な実施を提唱しており、我が国が南極地域観測事業を通じて積極
的に参画することは、我が国の科学的観測・研究における国際貢献となる。
 現在第48次越冬隊が昭和基地を中心に気象、電離層などの定常観測を継続して実施しているほか、
超高層物理学、大気化学、雪氷学、地球物理学、生物学などの地球環境や地球システムの解明に関連
した研究観測を行っている。

 ◆砕氷船「しらせ」の後継船「しらせ」
 平成19年9月4日建造開始。工場で製造されたブロックを組み立てて行く。10月20日主機関
(発電機用エンジン及び発電機)搭載。11月9日船首部搭載。アイスフットと呼ぶ部分の搭載も済
み、船底部分は総て搭載された。大分船らしい形になってきた。甲板部の搭載も進む。船体をオレン
ジ色に塗装。12月12~14日4基の推進用電動機の搭載も無事完了。同20年2月1日三層目ま
で搭載。2月19日艦橋ブロックの搭載が完了し、船の全容が見えてきた。プロペラも搭載し、これ
からは進水に向けての最終の仕上げ工事。3月6日煙突2本搭載。3月25日デッキクレーン4基搭
載。仕上げ塗装開始。4月14日最後の仕上げ作業。平行して進水式準備。4月16日進水式。30
00人を超える招待客に見守られる中、石破防衛大臣により「しらせ」と命名され、続いて見事な支
綱切断により進水。建造ドックから引き出され岸壁に接岸された「しらせ」は、来年5月の完工に向
けて艤装工事に入る。7月7日艤装岸壁を離れ第1回入渠。10月7日第2回入渠。12月18日試
運転開始。同21年3月第3回入渠。5月竣工。第51次南極観測から就役


■加賀西公園
 加賀1丁目10番12号にある区立公園。


■加賀一丁目みどりばし緑地レンガパーク
 
加賀1丁目14番、緑橋の袂にグランフィーネ加賀というマンションが聳えており4、その北側に
ある区立公園。



東京砲兵工廠モニュメント
 加賀1丁目みどりばし緑地レンガパークにある煉瓦のモニュメント。一見すると変わった形の花壇
のように見えるが、これは戦後も工場としてここに残っていた東京砲兵工廠時代の赤煉瓦建造物を解
体する際に、当時の様子を後世に伝えるべく造られたものだ。ちょうど赤煉瓦の建物を正面から見た
断面のような形状をしており、大体の部分は当時の建物を模して新しい赤い煉瓦を組んだだけである
が、屋根の部分に当たる箇所は実物の建物の側壁をそのまま保存して活用ている。ダンゴを重ね合わ
せたデザインの東京砲兵工廠のマークも当時のままだ。またかつての姿を写した写真や図面などがプ
リントされた説明プレートもある。
  


■加賀第二公園
 加賀1丁目16番1号にある区立公園。

 
●二造モニュメント
 東京第二陸軍造兵廠板橋製造所(通称二造)の建物の一部を復元保存したモニュメントがある。

 
正岡子規の句碑
 子規と加賀とは無縁だが、石神井川は魚の群れる清流であったことで、石神井川の清らかな流れの復
活を待ち望む板橋区民の願いに応え「若鮎の清流におどる姿」詠んだ子規の代表句を選んで刻んだ。

  その昔、石神井川は魚の棲む清流であった。石神井川の清らかな流れの復活を待ち望む板橋
  区民の願いに応え「若鮎の清流におどる頃」を詠んだ子規の代表句を刻んだ碑を、ここに建
  立するものである。
  平成4年8月吉日


   若鮎の二手になりて上りけり  


■旧日本陸軍のコンクリート造りの建物
 加賀1丁目16番6号の愛歯技工専門学校内にある。現在診療所棟として使用されている。
 


■加賀一丁目公園
 加賀1丁目17番1号にある区立公園。


東京家政大学 ・ 短期大学
   
加賀1丁目18番1号と北区十条台2丁目1番1号に跨ってある渡辺学園は、日本の女子教育の先
駆けとして創立され、以来今日まで、輝かしい歴史と伝統の中で発展を重ねている。校祖渡邉辰五郎
が自宅で裁縫を教えていた明治の初め頃は、女子に花嫁修業的な習い事の教養は求められても、学問
は不要という社会的な風潮も反映して、女子の就学率は男子の半分にも満たない状況だった。そんな
時代に逸早く辰五郎は裁縫の知識や技術のみでなく、女性にも読み・書き・算盤など基礎的な学力を
養い、女姓の自立への力と意欲を育てる教育を実施した。また大半の女姓が17歳前後で結婚してい
た時代のこととて、男子にくらべ修養の時間が短いこともあり、時間や労力・費用を少なくして最大
の学習効果をあげることのできる工夫を凝らした授業を行った。その最も象徴的なものが裁縫雛形の
製作だった。

 
沿革
 明治14年本郷湯島に渡辺辰五郎が「和洋裁縫伝習所」を開設したのが濫觴だ。同25年「東京裁
縫女学校」と改称。同39年教員志願者増加に伴い、師範科開設。その後明治41年には師範科を廃
して高等師範科を開設。創立者の意志を継いだ渡辺滋校長が私財を投じて「財団法人私立東京裁縫女
学校」を設立。大正9年「財団法人私立東京裁縫女学校」を「財団法人東京裁縫女学校」と改称。同
11年「東京裁縫女学校高等師範科」が「東京裁縫女学校専門部」と改組され、さらに「東京女子専
門学校」と改称。これは裁縫を高等な学術技芸として教授する専門学校令による我国初の学校だ。大
正15年財団法人「渡辺女学校」設立、昭和5年財団法人「渡辺学園」と改称。
 同24年他の女子専門学校に先がけて「東京家政大学(家政学部生活科学科児童栄養専攻、同被服
専攻)」を設置。大学の名称は、全職員学生の投票で決定。また渡辺学園女子中学校・同高等学校を
それぞれ「東京家政大学附属女子中学校」「東京家政大学附属女子高等学校」と改称。同25年東京
家政大学短期大学部設置。同26年法人組織「財団法人渡辺学園」を改め「学校法人渡辺学園」と変
更。同28年東京家政大学附属みどりヶ丘幼稚園開園。同56年学園創立100周年。同61年狭山
校舎開設。文学部(英語英文学科・心理教育学科)を設置。
 平成元年大学院(家政学研究科・修士課程)設置。同5年大学院に博士課程設置。同6年渡辺辰五
郎生誕150年の記念行事を執行。同8年大学院に文学研究科・修士課程設置。同9年栄養学科環境
情報専攻を環境情報学科に改組。

 
生活信条
 「愛情・勤勉・聡明」は、昭和26年の入学試験の時に学生たちが受験生に親切に尽くす姿に感激
した当時の学長青木誠四郎が、学風を基盤としたものを生活信条として表現したものだ。この信条は
「自分を愛するがごとく他人をも愛さなければならない。しかしただ愛情を持つだけでなく形にあら
わし、相手に尽くす勤勉さがなければいけない。さらに単なる勤勉ではなく、物事を正しく判断する
聡明さが必要である」と定めたものだ。学生・教職員一同が、学校にいる時だけでなく、日々の生活
に具現してほしいとの願いが込められている。

 校歌「武蔵野の木立も深く」 作詞・青木誠一郎  作曲・長谷川良夫
   武蔵野の木立ちもふかく
   鳥歌う緑のおかべ
   やわらぎの手とりかわし
   いと高きのぞみにもえて
   あゝわれら若きこの日を
   たゆみなくいざやはげまん
  


■東京家政大学附属女子中学校・高等学校
 加賀1丁目18番1号にある私立校。明治14年本郷湯島に渡辺辰五郎が「和洋裁縫伝習所」を開
設したのが濫觴。同25年「東京裁縫女学校」と改称。大正15年財団法人「渡辺女学校」設立、昭
和5年財団法人「渡辺学園」と改称。同6年学校名「東京裁縫女学校」を「渡辺女学校」と改称。同
16年「渡辺女学校」を改組し、高等女学校令に準拠した「渡辺高等女学校」を設立。従来の裁縫、
料理のみに留まらず、近代女性としての教養を深め、新たなる時代を担う女姓の養成をめざして新な
る出発。
 同21年に現在地(陸軍第二造兵廠板橋工場跡)に移転。同22年渡辺高等女学校を母体として、
「渡辺女子中学校(新制)」を設立。同23年渡辺高等女学校を母体として「渡辺学園女子高等学校
(新制)」設立。渡辺女子中学校を「渡辺学園女子中学校」と改称。同24年東京女子専門学校が東
京家政大学に昇格したのに伴い、渡辺学園女子中学校は「東京家政大学附属女子中学校」、渡辺学園
女子高等学校は「東京家政大学附属女子高等学校」と改称。昭和56年創立100周年記念式典。
 平成14年創立120周年記念式典。同18年創立125周年記念式典。同23年創立130周年
記念式典。  
 


■金沢小学校

 加賀2丁目2番1号にある区立校。詳細不明・HP未熟。

 
第一回環境教育コンクール優秀賞
 ケヤキ、サルスベリ、ナツメ、クリなど約80種類2000本の樹木が校舎やグラウンドを取り巻
いている。区教育委員会の「学校の森」構想のモデル校になり、平成元年に森ができた。
 収穫したカリンやウメの実をジュースに加工し、夏ミカンでマーマレードを作る。低学年から様々
な授業で「学校の森」をいかした実習に取り組んでいる。同校は森を探検するための小冊子「わくわ
くどきどきぐるっと金沢小」を作り、全児童に配布。森の地図や各樹木の説明などが載っており、児
童たちは手に持って歩きながら、木の名前や特徴を覚えていく。
 また、1年生はイチョウとビワ、2年生はモモとヒメリンゴなどと各学年ごとに「学年の木」を決
めて、手入れや観察を分担している。文化祭では、音楽教諭が作った「RAP 0F KANAZA
WA」という曲を全児童で合唱する。歌詞には、手入れなどでいつも接している「学年の木」の名前
が盛り込まれており、児童たちはラップのリズムに合わせて歌ったり踊ったりして楽しんでいる。
 受賞校の内、優秀賞の2校(岡山市立平福小・金沢小)と奨励賞の三瀬中学校から、代表として教
諭1人と児童・生徒2人づつが8月に、環境教育の先進国として知られるドイツへ10日間、招待さ
れた。
 


■陸軍用地石柱
 加賀2丁目5番の電柱の脇に立っている。これらの境界石はちょうど加賀2丁目と仲宿の境界線に
沿って建てられているが、その境界線を南東の方へ辿ると、あちらこちらに同じ形状をした古いコン
クリートの側壁やその跡と思われる残骸を確認することができる。現在住宅地となっている区画は無
論区画によって土地所有者もバラバラなのだが、であるのにそこを同じ形状の側壁が貫いており、し
かもその壁の描く線は境界線とほぼ一致するということを考えると、恐らくこの側壁は旧軍時代のも
のではないかと思われる。
 また同ブロックの南角(5番13号)、そう東板橋公園北角の十字路といったほうが判り易いか。
そこには周辺の雰囲気には不釣合いで存在意義のわからない古い門柱らしきものが立っている。また
その反対側の角には側壁の支柱部分の残骸とおもわれるものが衝突防止のためにゼブラ配色に塗られ
た上で立っているのだが、いずれも境界線上(こちらは加賀2丁目と板橋3丁目の境界)にあるので
旧工場時代の遺構ではないかと推測できる。
 尚、門柱らしきものは、角地の佐藤荘の建替えの時に撤去された()。
 


帝京大学本部・医学部・医療技術学部
 加賀2丁目11番1号にある。昭和6年渋谷区に帝京商業学校(現・帝京大学高等学校)として創
立。同19年帝京女子工業商業学校創設、同37年帝京短期大学(家政科)創設、同40年帝京女子
短期大学(英文科)創設、同41年帝京大学設立(経済学部経済学科、文学部国文学科・英文学科)。
同42年法学部設置、同46年医学部設置、同48文学部に教育学科増設、同52年薬学部・大学院
設置、同59年文学部に史学科増設、同63年文学部に心理学科・国際文化学科を増設、翌平成元年
宇都宮に理学部設置、同10年帝京女子短期大学を廃し、共学の帝京大学短期大学創設。同11年国
文学科を日本アジア言語文化学科に、英文学科を米英言語文化学科に改称。同12年経済学部に環境
ビジネス学科を増設、同13年理工学部材料科学工学科を航空宇宙工学科に改称。同16年医療技術
学部視能矯正学科設置、同17年医療技術学部に看護学科、診療放射線学科増設、文学部日本アジア
言語文
化学科を日本文化学科に改称。八王子がメインキャンパスで、法・経・文の3学部を置き、医学部・
医療技術学部の一年生が一般教養を学ぶ。理工学部が宇都宮のほか、薬学部が相模原に、医療技術学
部が福岡にもある。兄弟校が多く、帝京科学大学(西東京大学)、帝京平成大学(帝京技術科学大学)
・帝京大学短期大学(帝京女子短期大学)・帝京福岡短期大学等がある。

 校歌「
紫匂う武蔵野の」 作詞・山添花秋  作曲・岡村雅雄
    紫匂う武藏野の
    緑明るく咲く望み
    常に真理の丘に立つ
    我等が母校の伸び行くところ
    輝く歴史を新たに書かむ
    その眉若き生命は燃えて
    翔ける大学帝京の
    校章見よや いざ讃えむ日本の
    栄光になふ我が帝京
 


■加賀二丁目公園
 加賀2丁目13番1号にある区立公園。


■加賀中学校

 加賀2丁目19番1号にある区立校。昭和33年板橋第四中学校から分校し「東京都板橋区立加賀
中学校」として開校。同43年創10立周年記念式典。同53年創立20周年記念式典。同63年創
立30周年記念式典。
 平成8年吹奏楽アンサンブルコンテスト全国大会金賞。同10年創立40周年記念式典。同11年
吹奏楽アンサンブルコンテスト全国大会銀賞。区立中学校総合体育大会総合優秀校。同21年創立5
0周年記念式典
 
 


【上板橋】(かみいたばし)1~3丁目                 昭和40年5月1日
 上板橋村。明治22年「市制町村制」では北豊島郡中最も豊かな資力あがるというので一村独立
が認められ、昭和7年板橋区が成立すると上板橋町1~7丁目となった。戦後は都市化の波に押さ
れ、同31年1丁目の一部を双葉町に、同32年中板橋に、同34年大谷口上町・大谷口北町・仲
町・弥生町に譲り、同35年3・5丁目の各一部を東山町に、5~6丁目の各一部を東新町に、2
~4丁目の各一部を南常盤台に譲リ、同36年2丁目の一部を常盤台に移した。同40年4~7丁
目の大部分に新住居表示を実施し現行の「上板橋」とし、川越街道以南は「桜川」とした。
 参考資料:「東京都住所表記に関する資料」。他に「板橋区史」など。

 上板橋の由来
 川越街道が中山道から分かれて初駅のある村。上は当時の首都のだった京都に近いということを
示す。上板橋宿跡は弥生町にあり、上板橋小学校は東山町にある。
 

■上板橋第四小学校

 上板橋1丁目3番1号にある区立校。俗に「かみよん」と呼ぶ。昭和7年9月上板橋尋常小学校の
分教場として開校。同14年独立して「東京府東京市上板橋第四尋常小学校」と改称。同16年勅令
148号国民学校令により「東京府東京市上板橋第四国民学校」と改称。12月日本海軍の真珠湾奇
襲により日米開戦。同18年都制施行により「東京都上板橋第四国民学校」と改称。同19年8月群
馬県利根郡川場村の都旅館に学童集団疎開。同20年8月アメリカ軍にこてんぱんにやられた日本は
ポツダム宣言を受諾して無条件降伏、アメリカの属国とされた。以後日本人の、日本人による、日本
人のための政治は行われなくなり、世界権力に後押しされた非日本人による支配に甘んじる。
 同22年学校教育法・地方自治法施行により「東京都板橋区立上板橋第四小学校」と改称。同33
年校歌制定。

 校歌「大空広く」 作詞・安藤信太郎  作曲・供田武嘉津
  1.大空広く 道 遥か
    仰げば高い文化の光
    この窓 この庭 手に手を取って
    共に通う喜びよ
    ああ上板橋小学校
  2.正しく清く健やかに
    学べば育つ二葉の命
    この春 この秋 憧れ乗せて
    共に歌う喜びよ
    ああ上板橋小学校
  3.明るく強く弛みなく
    励めば開く希望の世界
    この師 この友 力合わせて
    共に進む喜びよ
    ああ上板橋小学校

 同34年校庭に「上板橋記念館」開館。同37年創立30周年記念式典。同42年創立35周年記
念式典。このころ鉄筋コンクリート造り校舎に改築。同43年上板橋記念館を体育館に改修。同45
年プール完成。同47年創立40周年記念式典。同57年創立50周年記念式典。上四音頭できる。
 平成4年創立60周年記念式典。同14年創立70周年記念式典。完全週休二日制実施
 


■五本欅
 上板橋1丁目19番と桜川3丁目21番の接するところ、川越街道の上り線・下り線を分ける5本
だけの並木。大した謂れがあると誰しも思う。それで調べてみた。ここは川越街道を拡張するころ村
長の敷地だった。村長は快く土地を提供したが、路線上に五本のケヤキが並んでいたので、残せるも
のなら残してくれないかと工事担当者に頼んだところ、担当者が警視総監に問い合わせると、道路の
障害にならなければよいとの返事で残されることになった。ただそれだけのことだった。それらしい
曰く因縁は全くない。残念! 現在の道路幅に拡張される前、この街道を車で通ったことがある。対
面交通だったとは思うが狭い道だった。当時は道の端、つまり五本欅を避けるように道路が曲がって
いた。そんなに車は走ってなかった。東京オリンピックの頃から拡張が始まった。
 ここから200m西で、川越街道も旧川越街道も、赤塚新町まで練馬区内を走る。

   景観重要樹木
   「川越街道 五本けやき」
   川越街道五本けやきは、緑豊かなうるおいのある空間を創出しており、街道の良好な景観
   形成に寄与していることから板橋区景観計画における景観重要樹木に指定しています。
   (景観法第28条1項)
                     都市整備部都市計画課

 区の説明板は以下の通り。 

   五本けやき五本けやき
   昭和のはじめ、東京の郊外に都市化の波が広がっていったが、これにともない、都市計画
   道路工事も相次いで行われた。
   新川越街道(国道254号)も、この一環として新設された道路の一つで、昭和2年に計
   画されており、このうち板橋区内の工事は9か所に分けられ、昭和8年から昭和19年に
   かけてそれぞれ完成をみている。当初、旧川越街道と区別することもあって改正道路と称
   していた時期があった。
   さて五本けやきは元上板橋村々長飯島弥十郎家の屋敷林の一部であった。道路用地となっ
   たため切り倒される予定であったが、同家の強い要望もあって工事はこの木を避け、昭和
   13年~翌昭和14年にかけ完成した。
   武蔵の面影を残す五本けやきは、ドライバーの疲れを癒すオアシス的存在であり、昭和4
   5年には地元の有志によって五本けやき保存会も発足し、その保護に努めている。
   平成3年10月                         板橋区教育委員会


子育地蔵

 上板橋2丁目2番19号商店街に面してある。

   子育て地蔵尊
   当地に安置されている地蔵は、通称「子育て地蔵」と呼ばれ、人びとに広く親しまれてい
   ます。お堂の中にある二体の地蔵は、元々桑原堰の一本橋(現在の桜川1丁目5番地)付
   近に建っていたものといわれていますが、それを裏付けるように、石仏の台座や本体には
   貞享五年(1688)や安永六年(1777)といった造立された年号や、上板橋村桑原
   を中心として奉納者の名前が刻まれています。
   明治初年に、これらの地蔵は川越街道に面した「ガッカラ坂」と呼ばれる当地に移された
   といわれています。大正3年、川越街道と東上鉄道(現在の東上線)の上板橋駅を結ぶ道
   (現在の上板南口銀座)が通じた時には、両道が交差した角地に据えられていましたが、
   この時すでに地蔵は倒され、放置された状態であったといわれています。また、移転した
   当初には三体あった地蔵も、いつしか二体となっていたといいます。
   その当時、宝田豆腐店主であった宝田半二郎氏は、地蔵が荒れ果てた状況にあったことを
   憂慮し、大正12年頃に店舗に隣接した現在の場所へと地蔵を移しました。さらに昭和1
   0年頃になると、半二郎氏の子息である宝だ源蔵氏と七軒家の木下仙太郎氏が中心となっ
   て、地蔵をお祀りする地蔵講を結成しました。議員も300名をかぞえたといわれていま
   す。
   都市化がすすんだ現在も、子育て地蔵は、人びとの素朴な願いを引き受ける仏様として、
   商店街を中心に大切に守られ、お祀りされています。また、4月から9月にかけての7の
   つく日には、地蔵堂の前の旧川越街道で縁日が開かれるなど、地域の活性化にも一役かっ
   ています。
   平成19年7月7日                       上板橋子育地蔵講


上板橋庚申塔

 上板橋2丁目18番9号の角地、旧川越街道沿いにある。


上板富士児童遊園

 上板橋2丁目20番1号にある区立公園。
 


上板橋駅

 上板橋2丁目36番7号にある東武東上線の停車場。大正3年5月6日東上本線池袋~田面沢(廃
駅現在の川越市~霞ヶ関間にあった)間が開業した1ヶ月半後の6月17日に開業した。ホームは地
上島式2面4線構造で、通過列車の待避が行われることもある。ホームと改札階を結ぶエレベーター
は未設置である。改札口は1ヶ所のみで、橋上駅舎内にある。出口は北口と南口の2ヶ所だが、いず
れの出口にもエレベーターは設置されていない。
 上板橋駅と東武伊勢崎線の西新井駅の間には、かつて「西板線」という路線が計画されていた。昭
和6年に西新井~大師前間が開業しただけで頓挫してしまったが、この路線ができて伊勢崎線と東上
線が結ばれていたらまた違った東京になっていたろう。詳細は常盤台に記載している。
 


七軒家公園

 上板橋2丁目38番3号にある区立公園。ま、樹木の多い普通の公園だ。七軒家の由来は不明だが
この辺りに7軒の農家しかなかったことで呼ばれた小名だろう。
  


上板富士公園

 上板橋2丁目51番5号にある区立公園。
 
 



【熊野町】(くまのちょう)                     昭和46年1月1日
 下板橋村。明治22年板橋町大字下板橋の内。昭和7年板橋区板橋町1~10丁目の内。同33
年板橋町2・3・4丁目の各一部を合わせた地域を熊野町とした。同46年新住居表示を実施して
現行の「熊野町」とした。
 参考資料:「東京都住所表記に関する資料」。他に「板橋区史」など。

 熊野町の由来
 町名は山手通りと川越街道が交差する熊野町交差点のところにある熊野神社によるが、町名決定
の住民投票では「上町」と接戦だったとか。


■谷端川児童遊園
 熊野町7番1号にある区立公園。


■熊野神社
 熊野町11番2号、川越街道と山手通りの交差する熊野交差点の北角にある。熊野神社は和歌山県
の熊野那智神社の末社で全国に3073社ある。熊野の本社は本宮(熊野坐神社)・新宮(熊野速玉
神社)・那智社(熊野那智神社)の三山で成り立ち、熊野三社権現といわれる。祭神は樹木の神であ
る家津御子神(いえつみこのかみ=素盞嗚尊)と母神たる熊野牟須美神(くまのむすびのかみ)で、
本宮は崇神天皇の時移住してきた出雲族が郷里の神を祀ったことに始まるという。新宮は景行天皇の
時やはり出雲族が速玉大神を勧請したもので、那智は大滝(那智の滝)を信仰の対象としたものだ。
太古において、まあ今でもそうだが紀伊半島は人をも寄せぬ大森林地帯で、人跡未踏の地が国内で最
も多い地域でもある。「木の国」が転じて「紀の国」となり「紀伊国」と表記されることとなった。
この熊野信仰を広めた人々は鈴のついた錫杖(しゃくじょう)持って歩いたので「鈴木」姓が全国区
になったという。織田信長に抵抗し『尻啖え孫市』で有名な根来衆の雑賀孫市の本姓は鈴木だ。南関
東は紀州系で、従って鈴木姓は多い。
  


■熊野町公園
 熊野町23番5号にある区立公園。


蓮隆山扇教寺

 熊野町28番5号にある本門佛立宗の小寺。本門仏立宗第四世大僧正目教上人の高弟日寿上人が、
大正5年9月府下下板橋町字四ツ又中央公設市場脇に「板橋親会場」を設立、昭和4年9月日廣上人
着任、四十数戸の信徒より弘通し今日に至る。同9年5月現在地を買収し移転。同27年10月寺号
を蓮隆山扇教寺と公称し、日廣上人初代住職となる。これより前、昭和20年戦災により焼失。同2
3年納骨堂建立、同28年9月寄居町の寺院を購入して本堂を構築する。庫裡は昭和41年10月に
再建、同34年7月墓地を朝霞市溝沼に設立、同55年3月朝霞に別院を建立した。
 


■庚申堂
 熊野町34番1号の追分にある。東京仏光寺の真ん前だ。2基。


■仏光寺・東京別院

 熊野町35番3号にある臨済宗の道場。建物はビルだが入口は寺らしくデコレーション。入口のド
アに赤紙で「善縁好運」とある。角の標識に「東京仏光山寺」とある。
  


■トレーラー横転火災 首都高池袋線通行止め
 平成20年7月3日午前5時50分頃、熊野町の首都高速5号線(池袋線)の下り線で、ガソリン
と軽油を積んだ大型トレーラーが横転し、側壁に衝突して炎上した。東京消防庁の消防車など約80
台が消火に当たったが、3時間半に亘り、車や路面、側壁が燃えた。現場は下り線の上に上り線が走
る2層構造で、警視庁高速隊によると、上り線は下からの高熱で路面のアスファルトが波打っている
状態。上下線とも通行止めとなっており、首都高速道路会社は、通行止めの解除は早くても4日、お
そらくそれ以降。運転手の男性(45)は炎上前に脱出したが、腰椎骨折などで重傷。高速隊はトレ
ーラーがカーブを曲がりきれずに横転したと見ている。トレーラーはガソリン14キロリットルと軽
油4キロリットルを積み、埼玉県内のガソリンスタンドに向かう途中だった。

 
復旧工事
 事故現場付近では、上層部を走る上り線で、鋼鉄製橋げたが炎上による熱で変形し、路面下のコン
クリート床板に亀裂が入るなどしており、損傷は幅約15m×長さ約40mに亘って確認された。路
面は最大約70センチ沈み込んでいるという。このため下り線の路上に、上り線下部を支える仮の支
柱を設置するなどして上下線各1車線分の通行を確保する。他の車線部分では順次、橋桁や路面の交
換工事を行うことにした。今回の通行止めにより、首都高速だけでなく、周辺の国道や都道などの渋
滞も激化しており、国土交通省や警視庁などは

   1.通行止め区間をつなぐ国道などの迂回路の設定
   2.交通規制の見直し


 などの対策を急ぐことにしている。

 入口閉鎖
 5号池袋線:上り 東池袋・板橋本町・中台・高島平
       下り 一ツ橋・飯田橋・東池袋・高松・戸田南
 中央環状線:滝野川(内)・中野長者橋(外)

 
通行止区間
 1.5号池袋線(上り) 板橋JCT - 熊野町JCT・・・10月2日解除
 2.5号池袋線(下り) 東池袋 - 板橋JCT・・・・・・10月14日解除
 3.中央環状線(内回り)板橋JCT・・・・・・・・・・10月14日解除
 4.中央環状線(外回り)西新宿JCT~板橋JCT・・・10月2日解除
 
 


 【小茂根】(こもね)1~5丁目                   昭和40年5月1日
 上板橋村の小名小山・茂呂・根ノ上。明治11年郡区町村編制法により北豊島郡が設置され東京
府北豊島郡上板橋村の内。昭和7年板橋区が成立して小山町・茂呂町・根ノ上町となる。同40年
新住居表示を実施する時、小山町・茂呂町・根ノ上町を併せて「小茂根1~5丁目」とした。
 参考資料:「東京都住所表記に関する資料」。他に「板橋区史」など。

 小茂根の由来
 新しい町名を模索する中で、昭和17、8年頃、食糧配給を受けた3町合同の組合名から拝借し
た。組合名は3町の頭文字を順に並べたもの。順序に意味はなく語呂がよかったから。3町とも高
台に位置する。
 

■心身障害児総合医療療育センター

 小茂根1丁目1番10号にある国の機関。


■上板橋第二中学校
 小茂根1丁目2番1号にある。俗に「かみにちゅう」。昭和22年大谷口町1069番地(板橋第
六小学校分教場跡)に「東京都板橋区立上板橋第二中学校」として開校。同24年木造2階建て新校
舎落成。同26年電話開通。同27年校歌制定。

 校歌石神井川に」 作詞・坊城俊民  作曲・田崎篤次郎 編曲・菊池英二
  1.石神井川に抱かれて
    この里に風薫る時
    見渡せば 麦の緑
    平和の太陽を
    心に抱け
    吾等 明るく上板二中
  2.石神井川に抱かれて
    この里に秋深い時
    真黄金の稲の実り
    真理の星辰を
    心に守れ
    吾等 伸び行く上板二中

 同29年第1期増築校舎落成(木造2階建て4教室)。同31年第2期増築校舎落成(4教室、理
科室、図書室等の設置)。第3期増築校舎落成(2教室、音楽室、更衣室等の設置)。同34年向原
中学校を分校。同36年鉄筋コンクリート造り新校舎落成。同38年体育館完成。ミルク給食開始。
同42年創立20周年記念式典。同43年女子生徒制服改訂。同45年完全給食開始。プール完成。
同46年鉄筋コンクリート造り新校舎落成。同48年区陸上競技大会にて男子優勝。区駅伝大会で優
勝 都大会に出場。区総合体育大会で ダンス・ソフトボール・柔道で優勝。同49年「日の出号」
最後の修学旅行。区駅伝大会で優勝、都大会で5位入賞。同52年創立30周年記念式典。ソフトボ
ール部 都大会優勝。同54年校舎増築工事開始(美術室、保健室等部分)。同55年男子標準服制
定(詰め襟からブレザーに)。同58年区総合体育大会でソフトボールとダンス優勝。同60~62
年陸上競技部全国大会出場。同62年創立40周年記念式典。区総合体育大会で 新体操部優勝。
 平成2年和室完成。同3年新体育館完成。給食室改修。同4年第一理科室改修。パソコンルーム開
設。同5年陸上競技部全国大会出場。同6年調理室改修。同7年第二理科室改修。同9年創立50周
年記念式典。同11年学校週五日制の段階的導入(隔週土曜日休日)。同13年ランチルーム設置。
同14年完全週休2日制実施。公式ホームページ立ち上げ。同15年全教室扇風機・LAN設置。同
17年新標準服制定。同19年全教室にエアコン設置。創立60周年記念式典。同21年体育館照明
設備改修。公式ホームページ、リニューアル。
  


■根ノ上遺跡
 小茂根1丁目6番2号根の上遺跡緑地にある。小茂根図書館に隣接している。入口に古代人の銅像
があり、その横に区の説明板がある。

   根ノ上遺跡
   この根ノ上遺跡緑地の下には遺跡が保存されています。このあたりは昭和10年代から遺
   跡の存在が知られており、古い地名から根ノ上遺跡と呼ばれていました。昭和59年この
   部分の開発に先立ち発掘調査が実施され、旧石器時代から太平洋戦争時までの遺構や遺物
   が発見されました。
   特に今から約1700年前の弥生時代後期には、周囲に深い堀をめぐらして(環濠)ムラ
   を営んでおり、その変遷の一部がわかるなど多くの成果が得られました。ムラの中には火
   災にあった家も存在し(火災原因は不明です)、その家の跡(住居跡)には当時の炊事道
   具や食器など一式が焼け残っており、当時の人々にとっては災難でしたでしょうが、生活
   状況の一部がよくわかる大変良好な資料となりました。
   調査終了後、板橋区では東京都住宅局の協力を得て遺跡の一部を埋め戻して保存するとと
   もに、発見された住居跡を型取りをして再生復元したり、その真上に花だんや砂場をつく
   り、位置や大きさを示しました。また図書館内の床にも、堀(環濠)などが発見された位
   置を色を変えて示してあります。
   この根ノ上遺跡緑地部分と発掘された弥生式土器は、平成9年度に板橋区の文化財に指定
   されました。
   平成11年3月                         板橋区教育委員会


■根の上遺跡緑地
 小茂根1丁目6番3号にある区立公園。


■上板橋第二小学校
 小茂根1丁目14番1号にある区立校。俗に「かみに」という。昭和5年上板橋尋常小学校から独
立し「東京府北豊島郡上板橋第二尋常小学校」として開校。同7年周辺郡部の東京市編入により「東
京府東京市上板橋第二尋常小学校」と改称。同11年校舎改修(木造瓦葺2階建)。同13年上板橋
第三尋常小学校(現東京都練馬区立旭丘小学校)を分校。同15年校歌制定。

 校歌「武蔵野の影」 作詞・高野辰之  作曲・信時潔
  1.武蔵野の影 消え失せて
    人家続きの上板橋
    東南の丘の上に
    立てる第二の小学校
  2.彼方に高き富士の根や
    雄々しき姿 中空に
    清く正しくおごそかに
    我らに範を示すなり
  3 春は新緑 秋紅葉
    自然の友に学びつつ
    誠の道を失わず
    汗と力に世を渡る
  4.なかばは土に親しみて
    根強からぬを いとう身は
    健康勤勉 尊びて
    浮かべる富を顧みず


 同16年勅令148号により「東京府東京市上板橋第二国民学校」と改称。12月日本海軍の真珠
湾奇襲により日米開戦。同18年都制施行により「東京都上板橋第二国民学校」と改称。同20年愚
かなアメリカ軍の非人道的無差別空爆により校舎大破。8月日本はアメリカにこてんぱんに伸され敗
戦、属国となる。大破した校舎復旧。
 同22年学校教育法・地方自治法の施行により「東京都板橋区立上板橋第二小学校」と改称。同2
6年全校舎改修。同33年大谷口小学校を分校、生徒300名移籍するも1・2年生二部授業。同3
4年二部授業解消のため校舎増築。創立30周年記念式典。同36年向原分教場設置。同38年向原
分教場を独立させ向原小学校を分校。同40年プール完成。同42年鉄筋コンクリート造り校舎(普
通教室6 特別教室 屋内体育館)落成。同45年創立40周年記念式典。同49年校舎改装工事着
工(普通教室24 図工室 給食調理室 放送室 主事室等)。同50年第1期(木造校舎を鉄筋校
舎に改装)・第2期鉄筋校舎を改修完了。同51年プール解体、花壇造成。同52年プール完成。同
55年創立50周年記念式典。同60年機械化警備導入。創立55周年記念・上二小祭り実施。同6
2年飼育小屋完成。同63年防球ネット南校舎前完成。ランチルーム、放送室改修。
 平成2年校舎内装、音楽室・管理室の空調工事完了。創立60周年記念式典。同4年保健室改修。
校舎外壁 屋上防水 ガス空調機更新工事完了。上二小学童クラブ併設。暖房設備新設を含む体育館
全面改修。同8年創立65周年記念子供祭り実施。同9年西校舎側防球ネット工事完成。同12年正
門改修。創立70周年記念式典。同14年パソコンルームに空調設置。同19年防犯カメラ設置。耐
震補強工事完了(校長室・普通教室2・特別教室・体育館)。全教室冷暖房設備設置。
 


■小茂根一丁目児童遊園
 小茂根1丁目17番1号にある区立公園。


■小茂根公園
 小茂根1丁目18番9号にある区立公園。


■タワークレーン台座落下死亡事故
 小茂根2丁目14番17号のマンション「ブランズ小竹向原」建築の工事現場で起きた死亡事故。
平成21年9月3日午前9時25分頃、長さ35mのアームを回転させる旋回台を有するタワークレ
ーンの旋回台が突然落下し、作業台上にいた男性作業員2人が下敷きになり、東京消防庁の救急隊な
どに救助されたが、横浜市磯子区杉田7の佐藤新悦(45)が全身を強く打って死亡、千葉県四街道
市の鳶職羽立幸広(40)も両足骨折などの重傷を負った。警視庁板橋署で事故原因について調べて
いるが不明。
 クレーンは落下の弾みで折れ、付近の電線に接触し、東京電力によると、同日午前9時半前から、
板橋北、豊島各区の一部で約2900世帯が停電した。現場は東京メトロ有楽町線小竹向原駅から北
に約1キロの住宅街。
 タワークレーンの台座が落下し、作業員2人が死傷した事故で、6日台座を支柱に固定していた2
本の閂材が何らかの原因で支柱から外れたために落下したとみられることが判った。板橋署は業務上
過失致死傷事件として捜査。閂の差し込みが不十分だったか、閂そのものが破損した可能性があると
みて、関係者から事情を聴いた。建機サービスや千葉県松戸市のクレーンメーカー「マツダエンジニ
ヤリング」によると、台座は旋回台や作業台からなり、事故当時は工事を終えたクレーンを解体する
ため、高さ24mの支柱の最上部にあった台座を下げる作業を始めたところだった。台座は通常、支
柱に等間隔に開いた穴に差し込まれた上下2本の鉄製の閂で支柱に固定されている。台座を下げるに
は、下部の閂を抜き、油圧シリンダーを伸ばした状態で、元の位置より下方の穴に閂を差し込む。次
いで上部の閂を抜いて油圧シリンダーを縮め、下方の穴に閂を移すという工程を繰り返す。閂の抜き
差しと油圧シリンダーの伸縮は作業台にいる人の手で行われる。閂の大きさは直径約10cm、長さ
約20センチ。一方の閂を抜くと、もう一方に台座の重さ約13tの荷重がかかるため、人為的に抜
くことは困難という。事故が起きた機種には、閂が2本とも抜けるのを防ぐ安全装置もあった。建機
サービスの担当者は「カンヌキが一方でも差し込まれていれば、台座が落下することはない。何らか
の原因で2本抜けたために落ちたのだろうが、原因はわからない」としている。
 


■小茂根二丁目公園
 小茂根2丁目15番1号にある区立公園。


■小茂根三丁目いこいの森
 小茂根3丁目4番5号にある区立公園。


■小茂根三丁目緑地
 小茂根3丁目9番6号にある区立公園。


■三丁目青空公園
 小茂根3丁目14番にある区立公園。


■庚申塔
 小茂根4丁目3番9号の追分にある。いたずら除けに檻に入れられている。


■茂呂山公園
 小茂根5丁目2番17号にある区立公園。桜の名所。
 


■小茂根五丁目アバート内強盗殺人事件(未解決)
 小茂根5丁目4番6番号のパーク小茂根Aの室内で起きた強盗殺人事件。平成16年3月24日午
後1時頃、被害者の知人が被害者の部屋を訪ねたところ応答がない、玄関の鍵が開いているので不思
議に思って中に入ったところ、台所で被害者が血を流して倒れていた。
 倒れていたのは江口政信(57歳)。ジーパンにジャンパーの姿で靴を履いたままの状態で、胸を
刺され、既に死亡していた。遺体の側には犯行に使われたと思われる血の付いた包丁が落ちていた。
 江口は2年前に母親を亡くし、一人暮らしで、近隣との付き合いはなかったものの、休みの日など
は、近所の子どもたちに縄跳びの二重跳びを教えるなど、優しく子ども好きな性格だった。
 現場は、環状七号線にある板橋警察署茂呂交番の北西約300m、板橋区立城北中央公園の南方約
600mのところにあるアパートで、ベランダのサッシが外から割られ、部屋の押入やタンスが荒ら
されていた。また、玄関の上り框には食料品が入ったコンビニエンスストアの買い物袋が置いてあり
中には2月29日午後10時前の記載があるレシートが入っていた。
 犯行後1ヶ月近くたったの発覚で、捜査は難航、目撃者もおらず、犯人像も浮かばぬまま、10年
が過ぎた。迷宮に入りつつある。


■小茂根五丁目児童遊園
 小茂根5丁目3番8号にある区立公園。


■城北中央公園(柿ノ木広場)
 小茂根5丁目4番にある都立公園の一部。
 


■城北中央公園(桜の広場)
 小茂根5丁目6番にある都立公園の一部。茂呂山公園の北側、道路向かいにある
 


■茂呂(小茂根)稲荷神社
 小茂根5丁目14番8~10号にある小社。この神社はこの周辺の「茂呂御毘沙講26軒」の人々
によって、元禄の頃から祀られているという。正しくは「茂呂稲荷」で、地名が小茂根となってから
「小茂根稲荷神社」と呼ばれるようになった。祭礼は毎年2月の最初の午の日=初午に行われる。御
毘沙は「おびしゃ」と読み、「御備射」神事と思われる。現在は祭礼そのものの代名詞として用いら
れているが、嘗ては矢で的を射る行事があったのだろう。この祭礼の記録「家所帳(やどちょう)」
が、欠年はあるものの元禄八年(1695)から残されており、区の文化財として東新町氷川神社に
ある郷土資料館に保存されている。現在のものは大正12年から書き継がれている。なおこの資料は
文化財として重要であることが認められながら、区教委や区史編纂担当者による調査は全く行われて
いなかったが、平成21年都立大山高等学校3年の會田利則・田村大悟・石井健太によって調査研究
され、区の記録として写真撮影も行われた。
 


■茂呂遺跡(旧石器時代遺跡)
 小茂根5丁目17番にあるおせど山。この遺跡は、昭和26年に1中学生が関東ローム層中より石
器を発見したことから大騒ぎとなった。そして東京都立武蔵野郷土館と明治大学によって発掘調査が
行われて、ナイフ型石器(茂呂型ナイフ)・ブレイドなどの石器が発見された。これらの遺物中には
土器は含まれてはおらず、群馬県の岩宿遺跡に続き、我が国の歴史における旧石器時代の存在を立証
した考古学史上貴重な遺跡となった。つまり10万年前にここに人間が居たということだ。この土地
は北傾斜面で史跡指定面積約650㎡、都道に挟まれた地域で、北側は石神井川に臨んでおり、その
後の発掘調査で、縄文・弥生・奈良に至る遺跡も見つかった。現在都立城北公園の苗圃として使用さ
れ、文化財解説標識が丘の傾斜面に立ててある。

   茂呂遺跡
   通称〝オセド山〟と呼ばれるこの独立丘陵は、以前から縄文時代早期の土器破片の散布地
   として知られていました。
   昭和26年3月ここを通りかかった1中学生が、この栗原新道を切通し断面の関東ローム
   層(赤土)中より、黒曜石製の石器と礫群の露出を見つけました。
   この発見がもとで、同年7月明治大学と武蔵野郷土館とが共同で、関東ローム層中に残さ
   れた旧石器文化(先土器文化・岩宿文化とも呼ばれています)の発掘調査を行いました。
   その結果「茂呂型ナイフ」と呼ばれる特徴的な石器の存在が明らかになり、日本の旧石器
   文化研究の端緒となった岩宿遺跡(群馬県)とならび考古学研究史上特筆される成果が得
   られました。
   昭和44年、この丘陵の一部は都の史跡(考古)に指定され、さらに昭和60年には板橋
   区登録記念物に認定されました。
   平成7年2月                          板橋区教育委員会
 


■大山高等学校
 小茂根5丁目18番1号にある都立高。グラウンドなど約半分は練馬区羽沢3丁目にある。昭和2
8年の開校。以降の詳細、校歌など不明。
 


■城北中央公園
 小茂根5丁目19番に、練馬区にメーン施設がある都立公園の一部がある。
 
 


【幸町】(さいわいちょう)                     昭和46年1月1日
 下板橋村。明治22年板橋町大字下板橋、昭和7年板橋区板橋町1~10丁目。同32年板橋町
2・4丁目と大谷口町の各一部をあわせた町域を幸町とし、同46年新住居表示を実施して現行の
「幸町」とした。
 参考資料:「東京都住所表記に関する資料」。他に「板橋区史」など。

 幸町の由来
 「住民の幸せと町の発展」を祈念して名づけられた。
 


■みなみ児童遊園
 幸町3番1号にある区立公園。


■板橋第二中学校
 幸町26番1号にある区立校。昭和22年板橋高等小学校跡地に「東京都板橋区立板橋第二中学校」
として開校。PTA結成。同24年新校舎(15教室)落成。同25年校歌制定。

 校歌「朝だ明るい朝日を浴びて」 作詞・西条八十  作曲・服部正
  1.朝だ明るい朝日を浴びて
    今日も集まる元気な吾等
    光る双葉の徽章のように
    仲良く楽しく伸びて行く
    吾等は板橋の元気な第二中学生

  2.広い武蔵野 緑の中で
    力一杯 鍛えて学ぶ
    強い身体と正しい心
    雨にも風にも伸びてゆく
    吾等は板橋の元気な第二中学生
  3.朝だ明るい日本の朝だ
    文化輝く未来の日本
    伸びて立派な吾等の肩で
    担い立つ日はもう近い
    吾等は板橋の元気な第二中学生


 同26年校舎増築。校地拡張。同28年校舎増築。同30年校舎増築。同32年創立10周年記念
式典。同34年体育館完成。同35年鉄筋コンクリート造り校舎(21教室)落成。同37年鉄筋コ
ンクリート造り校舎(6教室)増築。同38年ミルク給食開始。同42年創立20周年記念式典。同
43年完全給食実施。同46年プール完成。同52年創立30周年記念式典。C校舎増築。同58年
給食調理室増築。同61年体育館改修・柔剣道場新築。同62年和室「有敬亭」新築。創立40周年
記念式典。同63年ランチルーム完成。
 平成元年校庭改修。同5年パソコンルーム開設。同9年同窓会結成。創立50周年記念式典。同1
2年朝読書開始。同19年日本語学級設置(板一中より移設)。創立60周年記念式典。
 

 


【栄町】(さかえちょう)                      昭和45年10月1日
 下板橋村。明治22年板橋町大字下板橋、昭和7年板橋区板橋町1~10丁目。同32年板橋町
8~9丁目の各一部をあわせた町域を栄町と名づけた。同46年新住居表示を実施して現行の「栄
町」とした。
 参考資料:「東京都住所表記に関する資料」。他に「板橋区史」など。

 
栄町の由来
 
町が「発展して栄えるように」との希望をこめての命名。練馬区に栄町、足立区に西新井栄町が
ある。
 東武東上線の駅名になった俗に「大山」と呼ばれた場所は、この町の南端「東京都老人医療セン
ター」のところだ。古い資料だと「養育院」となっている
 

■板橋第九小学校

 栄町6番1号にある区立校。俗に「いたく」という。

 校歌「富士の高嶺を」 作詞・五味保義  作曲・下総皖一
  1.富士の高嶺を大空遠く
    仰ぎてここに いつも いつの日も
    真心清く 健やかに
    明るい学校 吾等が母校
  2.楓若木の伸び立つ窓を
    開きてここに いつも いつの日も
    仲よく学び朗らかに
    楽しい学校 吾等が母校
  3.国の平和の光の中に
    育ちてここに いつも いつの日も
    責任果たし助け合い
    気高い学校 吾等が母校


 平成11年「50周年記念の歌~21世紀のとびらをひらこう~」
    
作詞原案/本校児童  作曲・補作詞/小川誠一
  1.「おはよう」の声が響く校庭に
    みんなの笑顔が輝いている
    朝の光 緑にそめて 見てるよ楓の木
    アスレチック駆け上る元気な僕たちを
    でも偶には喧嘩もするけれど
    すぐに握手して仲直り
    そうさ みんな友だちだから肩を組んで
    広く青い空に向かって 大きく羽ばたこう
  2.赤い夕日浴びながら校庭で
    ゴールめがけ蹴るよ サッカーボール
    父や母も走った このトラックに
    僕等と同じ遠い思い出 詰まってる
    きっと苦しい時もあるけれど
    優しい友だちと助け合おう
    
21世紀の扉を今開こう
    新しい僕等の未来をこの手で作ろうよ

 この歌は現在も「板九っ子の歌」と改題されて歌われ続けている。記念歌として作られたため、歌
詞がそぐわないため、赤字部分の歌詞を「21世紀の歴史を今築こう」と改めている。
 



■栄町児童遊園

 栄町11番7号にある区立公園。


■中根橋小学校

 栄町14番1号にある区立校。昭和27年「東京都板橋区立中根橋小学校」として開校。同29年
3月校章・校歌制定。校旗樹立。校舎増築。

 校歌「朝風浅雲」 作詞・サトウハチロー  作曲・渡辺浦人
  1.朝風 朝雲 草の葉 木の葉
    燕
(つばくら)(かりがね)鈴虫 蝶々
    流れる水まで覚えた言葉
    強く 正しく 美しく
    中根橋 中根橋 懐かし母校
    輝く母校 おお中根橋
  2.学ぶも遊ぶも明るく元気に
    足並み揃えて明日へ進む
    胸には永久 忘れぬ言葉
    強く 正しく 美しく
    中根橋 中根橋 懐かし母校
    優しい母校 おお中根橋
  3.瞼と心に 彫りつけられた
    桜に小の字 その花囲む
    三つの若葉と 三つの言葉
    強く 正しく 美しく
    中根橋 中根橋 懐かし母校
    夢みる母校 おお中根橋

 
 4.窓 顔 声 歌 その目と姿
    導く我が師に感謝の涙
    感激溢れて飛び出す言葉
    強く 正しく 美しく
    中根橋 中根橋 懐かし母校
    心の母校 おお中根橋

 同38年体育館完成。同48年第1期校舎改築。同49年第2期校舎改築。創立20周年記念式典
同57年創立30周年記念式典。
 平成3年学校の森整備。同4年創立40周年記念式典。同7年自動制御のプール濾過装置取付。校
内防火扉・変電施設・受水槽などの改築。同8年陶芸小屋完成。地域開放に対処する新体育館・多目
的室・防災備蓄倉庫完成。周辺環境整備。パソコンルーム完成。同9年飼育小屋。同13年給食調理
業務民間委託。ランチルーム開設。同14年創立50周年記念式典。同16年教室照明改修取替・



■庚申塔

 栄町19番1号のかぶとやの角地にある。


■豊島病院

 栄町27番・33番1号にある都立の総合病院。昭和7年10月1日開院。病院本館 地下2階地
上8階(延48052㎡)・看護宿舎(延1049㎡)・仮眠室、院内保育室(地下1階地上3階‐
延698㎡)
。診療科は内科・外科・皮膚科・耳鼻咽喉科・血液内科・精神科・小児科・緩和ケア内
科・整形外科・形成外科・脳神経外科・眼科・泌尿器科・産婦人科・リハビリテーション科・歯科口
腔外科・感染症内科・麻酔科・放射線科・検査科・薬剤科・営養科・治験事務局・看護部からなる。


■山中児童遊園

 栄町32番1号にある区立公園。


■板橋大山公園

 栄町35番1号にある区立公園。


■養育院(社会福祉の原点)
 栄町35番2号の東京都老人医療センターのにところにあった。明治5年ロシアのアレクセイ皇太
子訪日に際して、街を乞食や浮浪者がうろついていては文明国の恥というので、本郷の旧加賀藩邸の
明き屋敷を利用して約250名を収容したのが始まり。同7年渋沢栄一は、時の東京府知事から江戸
時代からの七分積金の取り扱いを託され、養育院の運営に充当した。同18年その運営に対する財政
支出が止められたが、同22年東京市制が敷かれると、渋沢は全事業・全財産を市に引き継ぐ一方、
その運営責任者となった。養育院事業は、精神科領域では世田谷区の松沢病院、ハンセン氏病では長
島愛生園の原点となり、結核患者、高齢者、浮浪児、困窮者、身体障害者などの処遇についても、日
本の福祉の原点となっている。渋沢は養育院の運営には殊に尽力し、養育院長の肩書きにはこだわり
続け、昭和5年に92歳で亡くなるまで、月に一度の来訪を欠かさなかったという。高齢になって多
くの役職を離れたが、養育院長の肩書きには最期までこだわり、在職実に50年に及んだ。この辺り
の物語は、童門冬二の小説「渋沢栄一:人生意気に感ず」に詳しい。大抵の図書館にあるからチェッ
クするもよし。
 養育院は、本郷から浅草→巣鴨→大塚へと引っ越したが、施設拡充のため板橋にあった競馬場跡地
に新館建築中、関東大震災で大塚の本院施設が崩壊し、大正12年急遽板橋に引っ越した。その養育
院の板橋施設が完成した大正14年、東京市長らが発起人となり、600余名の寄付を慕って敷地内
に建てられたのが渋沢の銅像だ。昭和16年、戦時の金属資源供出時に石像に替えられ、昭和20年
アメリカ軍のB29大型爆撃機による東京大空襲で施設の9割が燃やされ、利用者107名の犠牲を
出した中で、不思議にも渋谷像だけが残っていたという。戦後世間が一応落ち着いた同36年、改め
て銅像が再建されたことが『養育院80年史』『養育院120年史』に見える。
 養育院は、昭和40年頃には、板橋・東村山・千葉県姉ヶ崎・静岡県伊豆山などの老人施設、心身
障害児施設を運営していた。老人医療センターは、同47年それまでの施設利用者のための附属病院
を建て替え、一般市民にも開放したものであり、同61年東京都養育院所管の「東京都老人医療セン
ター」と改称したものだ。そのころ渋沢像は道路を隔てた第一中学校の前に建てていた。養育院が地
域住民から追い立てを食った時、懐柔のため敷地の一部を学校用地として区に提供し、その時銅像が
置いてけぼりを食ったのだ。それでは施設の神様があまりにもみすぼらしいと、同57年産業文化会
館横に移設され、周辺も整備された。その後説明板が建てられ、銅像の作者、建立の経緯などを解説
したが、現在は医療センターの敷地に移されている。白いペンキで塗られているのは糞公害と酸性雨
対策だそうだ。しかし白い銅像というのは如何にもみっともない。屋根を付ければそれで済む。細か
い経緯はともかく、明治の初めに養育院が設立されて以来、渋沢栄一が深く関与しており、その業績
を顕彰するものである。平成12年東京都の組織改正の中で、東京都養育院は千葉の障害児施設を切
り離して「高齢者施設推進室」と名を変え、次いで福祉局の一となり、同16年更に「福祉保健局」
となった。一連の組織改正の中で、東京都の組織図から「養育院」の名は消滅し、講堂の看板に「養
育院記念講堂」の名が残るのみとなった。

【坂下】(さかした)1~3丁目                   昭和41年5月1日
 蓮沼村。享保十三年(1728)名主の新井氏は幕命に従って氷川神社・南蔵院とともに水禍を
避けて小豆沢の南に移ったので蓮沼村は二ヶ所となリ、文久二年(1862)坂下の蓮沼村が東西に
分かれ、独立した方が上蓮沼村となり、蓮沼村は本蓮沼村と改名した。明治22年坂下の本蓮沼村
は志村の大字となったが、台地の本蓮沼村の方は小豆沢に組み込まれてしまった。昭和7年板橋区
が成立して坂下の本蓮沼は志村長後町となり、消えた台地の本蓮沼は復活して志村本蓮沼町となっ
た。同22年志村長後町は長後1~2丁目。同41年その長後の西半に志村3~4丁目と蓮根1~
3丁目の東側部分をあわせた町域を現行の「坂下」
とした。 参考資料:「東京都住所表記に関する資料」。他に「板橋区史」など。

 
坂下の由来
 町名は中山道志村坂下といいたいが、志村坂は戦後の新道に出来た坂道で、本来の坂道は清水坂
で志村二丁目に下りの一方通行路として残っている。この清水は〝薬師の清水〟で大善寺の湧水を
いったが、寺は明治中期に廃寺となり、昭和3年浅草の総泉寺が移転してきて法灯を受けついだ。
清水は健在。さて長後の町会では長後の名を残そうと謂れを調べたが知る者がない。そこで神奈川
県藤沢の長後まで調べに行ったが判然としない。それでやむなく長後にするのを諦めたとか。『新
編武蔵風土記』に小名長五郎がある。長五とも書いたから長後は長五郎じゃないのか? 江戸時代
は下ノ原・志村の原と呼ばれて一面の原野・湿地帯で将軍家の鷹場だった。もっとも僅かの田畑は
あったようだ。何しろ明治5年の調査で当時日本の総人口は5、6千万人だから空地だらけだった。
御鷹場やら御留地が多いのは乱開発を防ぐための環境保全が目的だった。
  


■志村公園

 坂下1丁目5番18号にある区立公園。


■坂下一丁目児童遊園

 坂下1丁目16番5号にある区立公園。


■むつみ橋児童遊園

 坂下1丁目16番5号先にある区立公園。


■坂下一丁目公園

 坂下1丁目36番27号にある区立公園。


■坂下二丁目公園

 坂下2丁目1番4号にある区立公園。


■志村第五中学校

 坂下2丁目1番20号にある区立校。昭和58年「東京都板橋区立志村第五中学校」開校。348
名でスタート。校章制定。記念植樹(政府より受領)。6月6日開校記念日。PTA創立。同59年
校歌制定。特別教室(木工、被服、美術室)落成。

 校歌「薫香馨(かおりかぐわ)し」 作詞・斉藤偉久夫/竹野緑  作曲・紅山正人
  1.薫香馨し樟の樹の
    緑も映ゆる学び舎に
    共に励みて一筋に
    久遠の真理を求め行く
    集う喜び明るい笑顔
    嗚呼楽しき母校 志村第五小学校
  2.湧きて躍りし若人の
    熱き血塩に誘われ
    意思と身体鍛えつつ
    豊かな未来を築き行く
    伸びる喜び高らかに
    嗚呼輝く母校 志村第五小学校
  3.永遠に誓いし常盤木を
    仰ぐ姿も麗しく
    広き大地を踏み締めて
    希望の道を進み行く
    友情の喜び今此処に
    嗚呼吾等が母校 志村第五小学校


同63年創立5周年記念植樹(区長より頂戴・門前左右
の桜等)。平成3年校庭改修。同4年和室「澄心庵」完成。パソコン室完成。同5年創立10周年記
念式典・記念植樹。同7年
全日本アンサンブルコンテスト銅賞受賞(松山市)。バーリントン市民劇
団学校訪問。同8年
体育館照明増設。備蓄倉庫・保健室改修。給食室ボイラー設置。同15年創立2
0周年記念式典。同16年東京都教育委員会一般訪問。同18年手作り学校コンサート(安田祥子・
由紀さおり)。体育館天井アスベスト撤去。同19年防犯カメラ設置。ランチルーム設置。全教室冷
暖房設置。日台交流演唱会(台北華新児童合唱団)。同21年水泳部男子関東大会総合優勝(400
mメドレーリレー2位、400mリレー優勝)。中庭ラバー張替。文化庁主催 本物の舞台芸術体験
「人形浄瑠璃」観賞。同22年ジュニア打楽器アンサンブルコンクール全国大会優秀賞受賞。
 


■南蔵院寺屋敷址標柱
 坂下2丁目1番40号、旧中仙道が中山道(国道17号線)に合流する辺り、丸川不動産の裏手に
立っている。ここに蓮沼の南蔵院が最初に建てられた。標柱は平成になって建てたもの。
 


■芝浦工業大学中学高等学校

 坂下2丁目2番1号にある私立の中高一貫校。
大正11年鉄道敷設50周年を記念して東京鐵道中
学が麹町区永楽町1丁目3番地の鉄道教習所内に開校。同12年関東大震災により校舎喪失後、東京
府荏原郡南品川の東京鉄道教習所内に移転。同14年東京府北豊島郡西巣鴨字池袋の東京教習所内に
校舎を移転。同5年東京高等工学校(芝浦工業大学の前身)付属普通部を設置。同17年校名を「東
京育英中学」に改称。同19年中等学校令により東京育英中学校の開設認可。
 同23年学制改革によって、東京育英中は「東京育英高等学校(定時制課程)」に、東京高等工学
校付属普通部は「芝浦高等学校」に改組。同28年芝浦高・芝浦工業大学を運営する学校法人芝浦学
園が、東京育英高を運営する財団法人鉄道育英会を吸収合併。同29年定時制のほか全日制を新たに
設置し、東京育英高等学校を「芝浦工業大学高等学校」に改称。同時に芝浦高の普通科も、芝浦工大
高校に移管の上で生徒も移籍した。工業科のみとなった芝浦高は、芝浦工業大学工業高等学校に改称。
その後「芝浦工業大学付属第一高等学校」を経て、同59閉校。
 同46年定時制課程閉鎖、芝浦工業大学への推薦制度確立。同57年校舎を現在地に移転し、芝浦
工業大学中学校が開校。同59年プール棟完成。
 平成3年生徒会部室・弓道場棟完成。同6年中学3年生を対象としたアメリカへの海外教育旅行開
始。同17売店(エスアイテック板橋事業所)が校内に開店、小会議室3室設置(元は機械室)。同
18年新会議室を校庭に新設(1クラス増加による措置)。同20年猪苗代合宿教育センター閉鎖、
9月芝浦工業大学へ推薦導入、マレーシアへの留学を実施。同21年多目的教室(第二コンピュータ
ルーム)設置。

 鉄道中学校校歌「
早緑滴る」 作詞・大野保  作曲・福井直秋
  1.早緑滴る豊島の岡辺
    鉄
(くろがね)名に負ふ学びの園に
    剛健教えと弛まぬ吾等
    遥けき理想に胸こそ躍れ
    いざやいざ 鐵中健児
  2.輝く日本の未来を肩に
    青年吾等の使命は重し
    学び勲し日に日に積みて
    母校の誉れを揚げよや四方に
    いざやいざ 鐵中健児


 旧校歌「
遥けき武蔵野」 作詞・大野保  作曲・徳山寿子
  1.遥けき武蔵野 豊島の丘べ
    学びのいさおし弛まず積みて
    大いなる明日を契る若人幾百
    おお我が学園 芝浦工大高校
  2.敬愛日頃の 教えと仰ぎ
    互いに手を取り励まし睦び
    青雲の意気に燃ゆる若人幾百
    おお我が学園 芝浦工大高校
  3.再生日本の未来を肩に
    人類文化に貢献すべく
    雄々しき悲願に競う若人幾百
    おお我が学園 芝浦工大高校


 応援歌
「荒波浴びる」
    荒波浴びる芝浦に
    聳そび)ゆる工大我が母校
    伝統此処に五十年
    文化の渦潮導きて
    静穏精進に敵は無し
    おお芝浦
    エンジニア


 校歌
「遥か曠野の」 作詞・中山知子  作曲・藤田尚昊
  1.遙か曠野の果てに
    湧き起こる響きは
    自然と人との
    出会いを伝える
    豊かな知恵の実を
    手の平に受け継ぎ
    新たに育てて
    守りゆく吾等
  2.明日の空に馳せる
    限りない憧れ
    真の自由に
    瞳は輝く
    芝生の輪の中で
    確かめる喜び
    互いの力を
    認め合う吾等
 


■えのき橋児童遊園

 坂下2丁目2番1号にある区立公園。


■坂下二丁目児童遊園

 坂下2丁目8番1号にある区立公園。


■断熱塗料「ガイナ」 日進産業

 坂下2丁目15番7号富山ビル4階ある断熱塗料製造会社。社長の石子達次郎は大学を卒業すると
直ぐに会社を立てた。しかし無鉄砲に会社を建てたものの仕事はない。で、溝浚いのような人の嫌う
仕事を黙々とやって時を待った。ある時、取引先の社長から「工場が暑いんだ。何とか涼しくならな
いか?」と声を掛けられた。石子は断熱材を入れればいいと提案したが、その工場は機械と壁の隙間
は5mmとない。そこで石子は外壁に白ペンキを塗ったところ3℃下がり、社長に大いに喜ばれた。
 これがヒントになった。ここから石子の断熱塗料の研究が始まった。塗料にセラミックを配合する
ことで、厚みが薄くても(1mm)断熱効果が優れていることに行き当たる。配合研究に4年かかっ
た。しかし完成した製品「シスタコート」は歯牙にも引っ掛けられなかった。売り込みを掛けても誰
一人相手にしてくれなかった。10年間1缶も売れなかった。そこで大物建築家を利用しようと訪れ
たが、灰皿を投げつけられて追い返された。この屈辱に石子は「もうガイナを売るのは止めよう」と
決めた。
 ところが「捨てる神あれば拾う神あり」で、ある建築家から相談が寄せられた。設計上、分厚い断
熱材が使えないので、ガイナを使いたいということだった。ここから日進産業の快進撃が始まった。
とにかく塗るだけで断熱効果は抜群なのだ。冷暖房費用は半減する。ある工場では実際に断熱経費が
50%削減されたという。炎天下の実験でも一般の断熱材より10℃低い結果が出ている。この効果
に驚いた。平成17年に独立行政法人「宇宙航空研究開発機構(JAXA)」から、「H-Ⅱロケッ
トの先端部の衛星保護カバー(フェアリング)用断熱材技術」の開発を依頼され成功、その実施許諾
を受け、民生分野での製品化に成功。幅広い温度帯に対応できる高性能塗布式断熱材「GAINAシ
リーズ」を開発し販売を開始、現在の主力商品となっている。
 これにより、同18年東京商工会議所が主催する「勇気ある経営大賞」の「優秀賞」受賞した。
 


■志村第六小学校

 坂下2丁目18番にある区立校。昭和23年志村小学校蓮根分校設置。同24年木造平屋南校舎1
棟増築。志村小学校から分離して「東京都板橋区立志村第六小学校」として開校。同26年木造2階
建て北校舎1棟増築。同27年校舎が足りず1~4年生まで二部授業。同28年舟渡分校設立。同3
0校旗樹立。同31年蓮根小学校を分校。同33年志村坂下小学校を分校。同34年創立10周年記
念式典。校歌制定。プール完成。校庭に「志村記念館」開設。

 校歌
広い空 高い雲 作詞・勝承夫  作曲・平井康三郎
  1.広い空 高い雲 輝く光
    吾等はいつも 日に向かい
    開く向日葵 希望の花よ
    皆仲良く胸を張り
    志村第六 伸び逝く力
  2.遠い山 霞む川 見晴らす広野
    吾等の夢も大らかに
    明日の平和を目指して進む
    一人一人が考える
    志村第六 遣り抜く吾等
  3.強い腕 滾る意気 鍛える風よ
    吾等は清く常盤木の
    椎の緑と変わらぬ誓い
    自主の校風 受け継いで
    志村第六 楽しい母校


 同35年木造2階建て校舎1棟改築。同39年創立15周年記念式典。同42年学童保育室、岩石
園完成。
同43年科学教育センター開設。志村記念館、体育館として移管。同44年築山完成。体育
館改装。同45年創立20周年記念式典。同46年鉄筋コンクリート造り3階建て北校舎落成。
同4
7年特別支援学級開設。第一次環境整備。鉄筋コンクリート造り3階建て東校舎落成。同48年第二
次環境整備(ウォークトップ舗装、森林園、池、岩石園、 理科観察園、飼育小屋完成)。創立25
創立30周年記念式典。年記念式典。同49年板橋区教育百年記念大運動会。
訪問学級「ひまわり
学級(特別支援学級)」開始。同54年創立30周年記念式典。同58年訪問学級を廃止し「ひまわ
り学級」となる。
同59年図書室、普通教室2教室増築。築山移築、鳥小屋、花壇完成。同63年体
育館全面改修。校庭整備
ウォークトップ改修。
 平成元年創立40周年記念式典。記念歌「ひまわりの仲間たち」発表。同7年音楽室防音工事。同
8年パソコンルーム開設。同10年給食調理事業民間委託開始。同11年創立50周年記念式典。同
16年19学級扇風機設置。同19年全教室エアコン設置。
ペットボトルキャップ回収開始。同20
年校庭整備ウォークトップ改修。同21年創立60周年記念式典。
 


■城北公園・城北交通公園
 
坂下2丁目19番1号にある区立公園。三輪車・幼児用補助つき自転車などを貸し出している。ま
たミニSL、蒸気機関車、都バスの実物も展示しており、自由に見学できる。

 
D51型蒸気機関車
 D51‐513型蒸気機関車。この型は通称「デゴイチ」と呼ばれて親しまれていた。製作車両数
1116両のうちの1両。当時としてはかなり斬新な設計で「グッドモダン」と評判だったそうだ。
戦前から戦後にかけて活躍していたが、昭和47年に山形県酒田機関区を最後に廃車となり、城北交
通公園にやっ来た。現在、SL内に入って見学することは出来ません。

 
ミニSL
 ドイツ・コッペル社製で名前は「ベビーロコ号」。昭和21年和歌山県の有田鉄道から東武鉄道が
キハ12と交換で譲り受けたものの、秩父鉄道経由寄居より川越まで自力回送中武州松山駅にて車軸
焼付事故、小さすぎて性能が良くなかったため、川越機関区で長く放置されていたが、同27年11
月4日入籍と同時に廃車。同6日保存決定。同33年からときわ台駅前で展示。同48年から城北交
通公園のマスコットとなっている。

   ベビーロコ号
   明治45年ドイツのアーサー・コッペル社で製作され、有田鉄道(和歌山県)で使用され
   紀州の山野で活躍した。戦後東武鉄道がガソリン機関車と交換したが、性能はけん引10
   車両程度の上、燃料、水の積載量も少なく、制動機は手動のため東上線を回送で走っただ
   けで川越機関区移され放置されていた。その後33年7月以降常盤台駅に展示されていた
   のである。
    ・車の長さ   47m  ・重さ     7.11t
    ・動輪の直系 0.6m  ・最大速度 20km/h
                       設置48・8


■志村第三中学校

 坂下2丁目21番にある区立校。
昭和22年5月志村2丁目22番地志村小学校を仮校舎に「東京
都板橋区立志村第三中学校」として開校。志村第三中学校三和会設立。同24年現在地ら新校舎落成
して移転。同26年校旗・校歌制定。
 同32年創立10周年記念式典。同42年創立20周年記念式典。同52年創立30周年記念式典。
同62年創立40周年記念式典。平成9年11月2日創立50周年記念式典。同15年ボランティア
活動で女子バレー部東京都教育委員会から表彰。同16年野球部都大会第三位。サッカー部都大会第
三位。同20年創立60周年記念式典。

 校歌
「富士は遥かに」 作詞・土岐善麿  作曲・信時潔
  1.富士は遥かに丘越えて
    若葉に雪に輝きぬ
    校庭の空晴るる時
    真理を隠す雲もなく
    胸に正義と希望あり
  2.春は筑波も紫の
    平和の色に霞みたり
    勤労の秋 健やかに
    豊たけく満つる荒川の
    浪も清しや放水路
  3.自主の力に貫きて
    調和を保つ真善美
    協同の意気高らかに
    吾等は挙り進むべし
    志村第三中学校
 


■はんの木児童遊園

 坂下3丁目2番1号にある区立公園。


■稲荷氷川神社

 坂下3丁目5番7号にある。
 


■坂下三丁目緑地

 坂下3丁目9番19号にある区立公園。


■坂下三丁目児童遊園

 坂下3丁目13番8号にある区立公園。


■坂下三丁目第二公園

 坂下3丁目18番1号にある区立公園。


■坂下三丁目児童遊園

 坂下3丁目18番1号にある区立公園。


■坂下三丁目第三児童遊園

 坂下3丁目19番1号にある区立公園。


■坂下三丁目第二児童遊園

 坂下3丁目20番2号にある区立公園。


■坂下三丁目公園

 坂下3丁目26番13号にある区立公園。


■DIC(大日本インキ化学工業)本社・東京工場

 坂下3丁目35番58号にある印刷インキの世界トップメーカー。明治41年
2月「川村インキ製
造所」創業。昭和12年「大日本インキ製造株式会社」設立。同25年東京証券取引所上場。同36
年大阪証券取引所・名古屋証券取引所上場。
 平成20年商号をDIC株式会社(ディーアイシー、英文表記 DIC Corporation)に変更。
同21年5月大阪証券取引所、名古屋証券取引所上場廃止。10月創業事業にして中核事業ながらも
収益性の低いインキ部門を分社化。大日本印刷の子会社ザ・インクテック(現DNPファインケミカ
ル)と合弁会社の「DICグラフィックス株式会社」を設立。
 国内では東洋インキ製造の後塵を拝していたが、DICグラフィックスの設立により、国内におい
てもトップシェア獲得の見通し。印刷用インキ、有機顔料、合成樹脂材料の他、電子情報材料も扱い
出版した「DICカラーガイド」は印刷関係で幅広く利用されている。

 創業者である川村家3代の収集品が陳列されている「DIC川村記念美術館」を運営。また財団法
人「川村理化学研究所」の研究開発活動を支援している。
 平成20年4月から商号を「大日本インキ化学工業株式会社」から「DIC株式会社」に変更し、
ディックパレット等の商品名やディックライフテック等の子会社名に見られるように、それまでは社
内外で「ディック」という略称が用いられたが、社名変更後は一貫して「ディーアイシー」の読みを
使用している。


【桜川】(さくらがわ)1~3丁目                    昭和40年5月1日
 上板橋村。明治22年上板橋村。昭和7年板橋区上板橋。同40年上板橋町6~7丁目の各一部
をあわせた町域を現行の「桜川」とした。
 参考資料:「東京都住所表記に関する資料」。他に「板橋区史」など。

 
桜川の由来
 田柄川の末流が板橋区を流れるところを桜並木が続いたことから「桜川」と俗称されていたこと
による
 

■桜川中学校

 桜川1丁目2番1号にある区立校。沿革不明。

 校歌「
輝く朝富士
  1.輝く朝富士
    希望あり吾等
    見よ爽やかに心は晴れて
    日に新た伸び行く処
    人の和の花咲き薫る
    桜川中学校
  2.緑の環境
    生気あり吾等
    今溌剌と大地を踏みて
    健やかに正しく育つ
    若木 力は弾む
    桜川中学校
  3.明るき校風
    光あり吾等
    行け 石神井の畔を巣立ち
    世に広く教え生かして
    永久に栄の名上げ
    桜川中学校


■城北中央公園

 桜川1丁目の全域に練馬区にも跨る都立公園の一部がある。石神井川沿いの起伏に富んだ敷地に、
野球場、競技場などの運動施設を備えた、城北地区における最大の運動公園。全体は、桜川1丁目、
小茂根5丁目、練馬区氷川台1丁目、羽沢3丁目に跨る。かつては立教大学のグラウンドもあった。
ここでは木々の緑の映える中で存分にスポーツを楽しむことができる。また児童公園や広場にも樹木
が多く散策も楽しめるよ。この公園の前身は、昭和17年の防空緑地。それが戦後の都市公園計画に
ひきつがれ、同32年に「上板橋緑地」として開園した。同45年から現在名に改称。
 


■御嶽神社

 桜川1丁目4番6号、城北公園の中にある。城北中央公園は練馬区と板橋区との境にあるかなり大
きな公園だが、神社は公園の一部ではなく、独立した区画になっている。社務所は無人で、落ち葉を
掃く人もない。本殿より高いところにあるのが境内社天祖神社。本殿裏には稲荷の小祠と「榛名山」
と銘打った石柱がある。神輿庫は立派な鯱を戴き、壁に獅子頭を埋め込んでいる。

   創建年代は不詳。旧上板橋村栗原(桜川の一部)・七軒屋(上板橋)の氏神として、倭建
   命(やまとたけるのみこと)・金山昆古命(かなやまひこのみこと)・金山昆賣命(かなや
   まひめのみこと)を祭神とする。栗原の地は、康生二年(1456)太田道灌が千代田村
   (現皇居)に江戸城を築く際、同村宝田村の住民を移動させたところとされ、この時村内
   に祀ってあった稲荷(宝田稲荷)もこの地に遷座させたという伝承もあって、往古より開
   けた土地柄であった。当神社もその頃、信州の御嶽山(一説には甲州)を勧請したと伝え
   られる。境内にある嘉永七(1845)年銘の狼型狛犬は、山岳信仰を伝えるもので、同
   型のものとしては都内でも有数の古さを誇っている。毎年三月八日に行われる昆謝祭には、
   強飯式の面影を残す大盛飯の膳、大根で作った鶴亀(逢来山)を神前に供える風習が残さ
   れている。
   平成4年3月                         板橋区教育委員会


 ※なお文中の「昆」は「毘」の誤り、千代田村は皇居ではなく大手町2丁目の辺り。

 
狛犬
 当地の人々が、武州(一説には甲州)御獄山の分霊を勧請したと伝えられている。社殿右側にある
嘉永七年(1854)の狛犬は、山岳信仰のシンボルである狼型のもので、下新倉(埼玉県和光市)
の石工石田栄蔵によって造られた。区の説明板に以下の説明がある。

   板橋区登録有形民俗文化財(信仰) 昭和62年2月27日登録
   御嶽山は、平安時代に修験道の霊山として蔵王権現が祀られたことに始まります。江戸時
   代には御嶽神社へ登拝する「御嶽講」が組織され、また御師(おし)と呼ばれる宗教者に
   よる武蔵・相模・甲斐への活発な檀家廻りによって、現世利益的な家内安全・五穀豊穣を
   願う日常生活に密着した信仰として広がりを見せました。その際に配布される神札は「御
   神狗」と呼ばれ、火災盗難病難退除の御札として知られています。神狗は狼(山犬)のこ
   とで、「大口の真神」と尊称され、山の神の眷属(けんぞく)として、あるいは山の神そ
   のものとして神聖視されていました。このため、御嶽神社の狛犬は狼型をしています。
    登録文化財となっているのは、区内では当社に三対しかない狼型狛犬のうちの、嘉永七
   年(1854)造の一対で、当時、神社の肝煎(世話役)をつとめていた宝田氏・木下氏
   が中心となり安置したものです。                板橋区教育委員会


 何故かここの狛犬は、一対並べて覆屋の中にある。或時、近所の子供がこの狛犬に小遣いを隠して
いたところ、掃除の人が発見して警察に届けてしまい、盗まれたと思った子供が狛犬を倒して破損さ
せてしまったというのだ。それから覆屋に匿って施錠するようになったそうだ。ここは賽銭泥棒が頻
繁で、神社と見ては金貸してくれという浮浪者もいて、社務所の管理人は怖くなって出て行ったそう
だ。公園を背にしていたら夜は怖かろう。この公園は首吊りも多いようで、神社の後ろでも一度あっ
たという。所管社は南常盤台の天祖神社。
 


■緑ヶ丘第二公園

 桜川2丁目18番1号にある区立公園。


■緑ヶ丘第三公園

 桜川3丁目9番1号にある区立公園。
 


【清水町】(しみずちょう)                       昭和47年1月1日
 前野村の内。明治22年志村大字前野の内、昭和7年板橋区志村清水町。同36年志村清水町・
志村本蓮沼町の各一部をあわせた町域を清水町とし、昭和47年新住居表示を実施して現行の「清
水町」とした。
 参考資料:「東京都住所表記に関する資料」。他に「板橋区史」など。

 
清水町の由来
 町名は前野五泉、泉町の由来と同じ「出井」による。中山道(国道17号線)と環七通りの交差
する大和町交差点の北、何の変哲もない住宅街だ。清水は涸れたが泉町の清水公園がその跡地だ。

■王子稲荷道
 環七通りから坂町通りを行くと追分にぶつかる。現在は五差路。追分の右手斜めに行く道が王子稲
荷道だ。遠回りになるがそう行くしか道はなかった。当時は、参道を挟んで左右にあった一対の常夜
灯が道標となっていた。寛政三年(1791)の造立で、昭和30年代に撤去されて王子稲荷に戻さ
れた。
 


■清水町みどりの公園
 清水町57番3号にある区立公園。


■清水権右衛門
 清水町72番に店舗はあったという。前野村・志村・蓮沼村は良質な練馬大根の生産地で、街道の
左右は一面大根畑だった。権右衛門家ではこの大根の種子を販売していた。店頭に「練馬大根種 清
水権右衛門」「清水夏大根種 清水権右衛門」を裏表に書いた看板(郷土資料館に現存)を掲げて風
雪に曝す老舗だった。いま清水さんはどっかへ行っちゃった。清水金蔵商店は板橋さんがやってる店
なので、清水は苗字ではない可能性がある。ん? 清水金蔵商店が子孫かな? 
 旧街道は新道に吸収され清水坂までの間が消えてしまった。

   しはしとて大根かんはん清水かけ

 これは享保十八年(1733)に刊行され、江戸の名所や名物を俳句で紹介した「名物鹿子」に収
録されている清水夏大根種の記事だ。作句は松葉軒桒楊という人物で、実際の資料には旅姿の人が小
川を見つめている挿し絵が付されている。享保二十年刊行の「続江戸砂子温故名跡志」によると、清
水夏大根種は江戸から見て中山道板橋宿の先に位置する清水村(旧前野村清水、現清水町・宮本町付
近)で作出された特産品で、夏に収穫される大根の種のことだ。他所で実った大根から採った種を植
えても2代目は生育しないので、毎年産出地の清水村で種が作られていた。
 なお宝暦六年(1756)に刊行された中山道の案内本である「岐蘓路安見絵図」によれば、清水
村では名物の「江戸夏大根種」が売られ、これが上方筋(京・大坂)でも珍重されていたとあり、そ
の販路が中山道を通じて西日本にまで広がっていたことが判る。文政八年(1825)に刊行された
中山道筋にある商家を紹介した「商家高名録」には、清水村で「練馬大根種・清水夏大根種・にんじ
んの種」を販売していた清水権左衛門店が掲載されている。ここにある清水権左衛門は、同年に十方
庵敬順によって記された紀行文「遊歴雑記」にも登場している。そこには「よろづの種ものに名だか
き清水権右衛門・・・」とあり、実際には権左衛門ではなく権右衛門と称しており、武蔵野台地で作
出された根菜類の種を商う有名な種屋として知られていた。

 


■志村第三小学校

 清水町83番1号にある区立校。就学児童は100名足らず。詳細不明。
 


■東洋大学清水町キャンパス

 清水町89番1号(92番)にあるのスポーツセンター。同大学の白山キャンパスが手狭なため、
公務員宿舎跡地を買収し、建設するもの。平成23年に開設される。アリーナ棟、アスリートビレッ
ジ棟グラウンドからなるキャンパスは、体育実技・講義の受講や部活動で使用するとともに、地域住
民と連携した取り組みなどを予定している。白山キャンパスのある白山駅から最寄り駅の板橋本町駅
が12分と近いため買収に踏み切った。
 ・アリーナ棟 
 バスケットコート2面 国内公認50mプール
 練習室8室(多目的2、卓球、空手、柔道、剣道、ボクシング、レスリング)
 教室、研究室、トレーニング室など
 ・アスリートビレッジ棟
 寮室130室、食堂、浴室、ミーティング室
 ・グラウンド
 人工芝サッカーコート(フットサルコート4面)
 
 


【志村】(しむら)1~3丁目                      昭和41年1月1日
 志村。明治22年志村大字志村、昭和7年板橋区志村町1~4丁目。同41年一部を小豆沢・坂
下・東坂下に譲り現行の「志村」となった。
 参考資料:「東京都住所表記に関する資料」。他に「板橋区史」など。

 志村の由来
 志村は「しのむら」ともいい、篠の生い茂るところを開いた村という。『吾妻鏡』に見えるから
相当むかしに開けたということだ。志村城址の熊野神社は志村・小豆沢・蓮沼・前野・中台・西台
・根葉(ねっぱ)7ヶ村の総鎮守だった。だから志村は城山だ!

   志村を指して桜草狩(川柳)
   どの家も志村の春の咲き並べ(川柳)
 

■みのわせ大根
 志村といえば「志村みの早生大根」だったが、現在も「みのわせ」として品種が残っている。「み
のわせ」は「美濃早生」と書かれるが、これは間違いで、練馬大根を作っていた巳之吉の畑から出た
品種という伝承があり、巳之吉が誰なのか証明されてないので、誕生地を滝野川と争っている。美濃
については、美濃国に大根の採種を依頼したことがあるので混同したのだ。「みの早生」が正しい。
暑い夏に収穫できることから栽培が広まった。白ダイコンで、大蔵大根と一緒で、練馬大根の系統。
概ね漬物にするダイコン。
 


■志村第二小学校

 志村1丁目7番1号にある区立校。昭和10年東京府東京市志村尋常高等小学校・東分教場が独立
して「東京府東京市志村第二尋常小学校」として開校。同16年勅令148号国民学校令により「東
京府東京市志村第二国民学校」と改称。12月日米開戦。同18年都制施行により「東京都志村第二
国民学校」と改称。同19年群馬県湯檜曽温泉に学童集団疎開 在京児童6学級167名となる。同
20年創立10年。8月日本敗戦。10月疎開解除により学童帰校む。
 同22年戦勝国アメリカの強制による学校教育法制定により「東京都板橋区立志村第二小学校」と
改称。同30年創立20年。同40年創立30周年記念式典。同42~45年鉄筋コンクリート造り
校舎落成。同49年校庭ウォークトップ舗装。同50年創立40周年記念式典。同60年創立50周
年記念式典。
 平成元年ランチルーム改修。同4年校庭ゴムチップ舗装。同5年一部教科で担任制(高学年)。同
7年創立60周年記念式典。同8年パソコン11台導入。同9年防災備蓄倉庫設置。同10年ジュニ
アバンド結成。同13年パソコン20台購入。同14年読書タイム実施。同15年校舎・体育館耐震
化。同16年校舎大規模改修。プール改修。同17年創立70周年記念式典。

 校歌
「都の北の」 作詞作曲不明
  1.都の北の武蔵野に
    歴史は古き志村台
    中仙校
(ちゅうせんこう)の誉れ受け
    文化の栄 担いける
    吾等の志村第二校
  2.春は桜の花吹雪
    秋は公孫樹
(いちょう)の金の雨
    栴檀 香りいや高き
    学びの庭に光り浴ぶ
    吾等の志村第二校
  3.日に日に新たに日に新た
    富士の高嶺を仰ぎつつ
    明日の日本の礎を
    自由平和を打ち立つる
    吾等の志村第二校

 ※
「中仙校」は「中仙小学校」で、志村小学校の旧校名。
 


■志村一里塚
 志村1丁目12番20号にある遺跡。道路向うの小豆沢2丁目16番11号に片割れがある。江戸
から3里目。慶長九年(1604)五街道制定と同時に、1里を36町に統一、1里毎に塚を築いて
距離の目安とし、旅人が風雪を凌ぎ、炎暑を避ける休息の場としての便宜を計ったもので、この塚が
できてからは、駕籠や馬を雇っても安心して旅ができるようになった。ここの塚は永井白元(あきも
と)と本多光重を奉行に、樽屋藤左衛門・奈良屋茂左衛門が工事を請け負った。5間四方、高さ1丈
とし、塚上に榎が植えられ、誰が見ても判るようにしてある。現存のものは中山道拡張の時、多少位置
を変えられたが、北区西ヶ原の一里塚とともに一対の向かい合う原形を留める交通史上の重要遺跡と
して、大正11年国の史跡に指定された。
 昭和に入ると中山道の下板橋から戸田橋までの道幅を25m(含歩道)に拡幅改修する工事が始ま
り、同8年に完成している。よくこの際に「志村一里塚は少し移動した」とか「一部を切り取った」
といわれ、歴史や文化財の紹介本の中にもそのように記されているものもあるが、それは誤りで、拡
幅工事完了後、現況に合わせて、同10年10月に指定範囲の一部追加・解除が行われたものの、も
ともと志村一里塚は中山道からやや離れた位置に築かれていたため、拡幅工事によって移動したり、
削ったりはしていないのだ。
 1里目は宝暦年間に創業した文京区は高崎屋酒店の辺りにあったが、江戸時代の内に撤去された。
2里目は板橋宿平尾で、これも撤去されてない。

   志村一里塚
   江戸に幕府を開いた徳川家康は、街道整備のため、慶長九年(1604)二月に諸国の街
   道に一里塚の設置を命じました。これにより、五間(約9m)四方、高さ一丈(約3m)の
   塚が江戸日本橋を基点として一里(4km弱)毎に、道を挟んで2基づつ築かれました。
   志村の一里塚は、本郷森川宿、板橋宿平尾宿に続く中山道の第3番目の一里塚として築か
   れたもので、天保元年(1830)の「新編武蔵風土記稿」では「中山道住還の左右にあ
   り」と紹介されています。
   幕末以降、十分な管理が行き届かなくなり、さらに明治9年に廃毀を命じた法が下される
   に及び多くの一里塚が消滅していきましたが、志村の一里塚が、昭和8年から行なわれた
   新中山道の工事の際に、周囲に石積みがなされて土砂の流出をふせぐ工事が施されて保全
   され、現在に至っています。
   今日、現存する一里塚は全国的にも非常に希なもので、都内では北区西ヶ原と志村の2ヶ
   所だけです。そのため交通史上の重要な遺跡として、大正11年に国の史跡に指定され、
   昭和59年に板橋区の史跡に登録されました。
   平成17年3月                         板橋区教育委員会
 


■志村坂上駅

 志村1丁目14番13号にある都営地下鉄三田線の停車場。昭和43年12月27日都営6号線の
最初の区間である巣鴨~志村(高島平)間が開業した時に設けられた駅。ホームは相対式2面2線構
造で、地下2階にある。ホームと改札階を結ぶエレベーターは未設置。改札口は2ヶ所で、いずれも
地下1階にある。出口はA1~A4の4ヶ所だが、地上へ上がれるエレベーターはない。
 


志村第三公園

 志村1丁目21番8号にある区立公園。


見次山松寿院延命寺

 志村1丁目21番12号にある真言宗の寺。本尊は地蔵菩薩。豊島88番札所の22番目。入口に
門あり、さらに奥に山門あり、境内に入る。右は鐘楼と延命会館、寺務所。
 大永四年(1524)小田原の北条氏綱が、江戸から川越へ逃げる扇谷上杉朝興を追い、この辺り
で戦となり、志村城が落城した。この時城主千葉氏の家臣見次権兵衛は、自宅の庭先で討ち死にした
愛息権太郎を見て、武士たることをやめ、自邸を寺として延命寺を創建し自ら開基となったのが開創
という。
 江戸時代は熊野神社の別当寺だったためか、奥の院と称する石祠を祀っている。
 境内に、今は枯死して天然記念物の指定は外されたが、樹齢7、800年という欅の大木があり、
樹表に巨大な瘤の隆起した奇怪な姿が有名だったところから、俗に〝瘤寺〟と呼ばれた。また鎌倉期
の作で、区内最古といわれる建長四年(1252)造立、大日一尊種子を心字蓮座に乗せた板碑、奇
怪な隠れキリシタンの燈籠、それに志村銀座から移した蛸薬師庚申塔を祀る。この庚申塔も区内最古
で正保四年(1647)の造立銘を刻み、陽刻の薬師如来の姿も美しい。墓が見当たらないと思った
ら、離れたところ(2丁目)にあった。「新編武蔵風土記稿」に、

   
新義真言宗、多摩郡中野村宝仙寺末。見次山松寿院と号す。本尊三尊の弥陀なり。又毘沙
   門天、聖徳太子、弘法大師の三躯を置。何れも弘法大師の作と云。寺伝に拠に、往昔篠田
   五郎という者当所に在城の頃、家臣見次権兵衛此北居住する。其後、宅地を捨てて当寺を
   ここに建立し、己が氏を以て山号銘すと云。鐘銘にも彼が建立の由見ゆ。草創の年代詳な
   らず。世内の内頼信慶長十八年寂せしを旧しとす。
   享保年中此辺放鷹の頃、当寺へ成らせられし故に、御腰掛御成門など設えられしか、安永
   の頃、御取掃となれり。されど此辺御放鷹の頃は、今も御膳所となれり。御門前に老槻樹
   あり四囲許、鐘天明八年正月の再鋳なり。見次権現社 開基見次権兵衛を祀れり。

 記され、
区の説明板に、

   延命寺
   新義真言宗見次山松寿院と号し、創建は大永年間と伝えられる。大永四年(1524)北
   條氏綱は江戸城を攻め、城を逃れて川越へ向かった上杉朝興は、その途上、志村城下で追
   討にあい、その際志村城も巻き添えとなった。
   城主篠田五郎の家臣見次権兵衛は、庭先で我が子が討たれる姿を見て、戦国の世の無常を
   感じ、居宅を仏寺として自らが開基となった。
   、当寺は江戸時代将軍家お鷹狩りの小休所となり、御座所・御成門も構えられていた。境
   内には、巨大な「こぶ」があることから俗に「こぶ欅」と呼ばれた欅の木があった。昭和
   6年に天然記念物に指定されたが、近年枯死したため指定は解除され、現在は伐り株だけ
   が残されている。
   また区内最古の建長板碑と、俗に切支丹燈籠と呼ばれた、聖母マリアを象った地蔵像を刻
   んだ燈籠1基がある。                      板橋区教育委員会

   
延命寺
   当寺は、見次山と号する真言宗寺院で、ご本尊は地蔵菩薩です。
   開山は頼眞、開基は見次権兵衛とされています。大永四年(1525)、北條牛綱は、上
   杉朝興が拠点としていたいた江戸城を攻め落としました。結果上杉勢は川越へと遁走して
   いきますが、その際には、志村城でも戦闘が行われたといいます。戦いの中で、志村城主
   篠田五郎の家臣見次権兵衛は、子息権太郎が討死するのを目の当たりにし、戦後、息子の
   菩提を弔うために居宅を供して寺院とし、自ら開基となったと伝わります。
   「新編武蔵風土記稿」によれば、享保年中(1716~36)鷹狩りに際し、当寺に御腰
   掛・御成門が設けられ、御膳所となったと記しています。
   境内には、大日如来の種子が心字蓮坐に刻まれた、区内最古となる、建長四年(1252)
   の板碑を含む板碑群と、正保四年(1647)に造立された庚申薬師などがあります。庚
   申薬師は、舟型光背を有し、薬師が刻まれた庚申塚で、いぼとりの「蛸薬師」としても知
   られています。
   なお山門脇には、江戸時代から知られていた樹齢800年ともいわれる欅が立っていまし
   た。昭和6年には「延命寺の欅」として国指定の天然記念物となりましたが、昭和37年
   に枯死したため、指定が解除されています。またその樹群は、近年まで保存されていまし
   たが、平成22年の建設工事によってこれも撤去されています。
   平成23年3月                         板橋区教育委員会


 とある。「いたばしの寺院」には、

   寺の縁起に伝えていう。大永四年(1524)小田原北條氏綱が、江戸城より川越へ逃れ
   る上杉朝興(扇谷)を追い、ここで戦となった時、志村城は落城した。その時城主篠田五
   郎の家臣に見次権兵衛という者がいた。権兵衛は、子息の権太郎が庭先で討死するのを見
   て無常を知り、自分の邸宅を寺として延命寺を創建し、自ら開基となったという。享保中
 
  徳川吉宗がこの辺で鷹狩りの際、当寺に成られて御成門・腰掛等が設けたが、安永の頃取
   り払われたという。江戸時代には熊野神社の別当となり、明治22年の町村制の折は、志
   村外7ヶ村が合併した志村役場が置かれた。その後明治36年3月の火災の時、鐘楼、山
   門を残して総ての堂宇を焼失し、仏像・宝物・古文書類等一切を失ってしまった。

 とある。
 


■清水坂
 志村2丁目1番から西北に下る坂道。志村坂上交差点から左斜めに下りていく坂道が旧中山道だ。
古くは隠岐殿坂、地蔵坂と呼ばれた。隠岐殿は志村城主千葉隠岐守が、坂道に難儀する旅人の姿を憐
み、急坂を修理した遺徳を讃えての名であり、また坂の途中で大きく左に曲がる角に、今は小豆沢の
総泉寺に移されている地蔵尊が祀られていたことから地蔵坂とも呼んだのだ。これが清水坂と呼ばれ
るようになったのは、8代将軍吉宗が、戸田筋の鷹場へ出向いた時、この坂下の大善寺に立ち寄り、
湧き出る清水を見て感嘆し寺の本尊薬師如来を「清水薬師と称えよ」との待命で、これが坂の名にも
用いられた。

   清水坂
   日本橋を旅立ち旧中山道で最初の難所。隠岐殿坂、地蔵坂、清水坂と、時代とともにその
   呼び名を変えました。この坂は急で、途中大きく曲がっていて、街道で唯一富士をを右手に
   一望できる名所であったといわれています。坂の下には板橋・蕨両宿を繋ぐ合の宿があっ
   て、休憩や戸田の渡しが増水で利用できない時に控えの場所として利用されていました。
   この辺りは昭和30年頃までは旧街道の面影を残していましたが、地下鉄三田線の開通な
   ど、都会化の波によってその姿を変えました。
   平成12年3月                         板橋区教育委員会


 坂上と坂下にそれぞれ、板橋区が設置した「清水坂」と刻まれた大きな石造の標識がある。
 


■庚申塔
 
志村2丁目3番6号の路傍、ブロック塀に1基嵌め込んである。


■志村庚申塔
 
志村2丁目6番3号の角地に2基ある。


■延命寺墓地・地蔵堂
 志村2丁目6番9号にある志村1丁目の延命寺の墓地。広い墓地で、地蔵堂は入口を入った左手に
ある。
 


■大山道標・庚申塔
 志村2丁目7番1号、清水坂の途中の東南角にある。江戸時代大流行を見た大山参りの道者が、中
山道を利用して清水坂まで辿り着き、ここから一路、相模の大山へ、あるいは富士への参詣の旅へと
杖を向けた跡なのだ。
 1基は「文字庚申塔」で、高さ97cm幅38cm、正面日月の下に「庚申塔」の文字。「天明五
年」、左面「是より富士大山道 練馬江一里 柳沢江四里 府中江一里」
 もう1基は高さ88cm、幅20cm、厚さ18cm、正面に「大山道へ ねりま川こへみち」
 とあり、この横の道を大山道、大山街道と呼んだ。

   富士・大山道の道標と庚申塔
   富士・大山道とは、霊山である富士山や神奈川県の大山へ通じる道です。この場所は中山
   道から富士・大山道が分岐する場所でした。
   向かって左側の道標(道しるべ)は、寛政四年(1792)に建てられたもので、正面に
   は「是より大山道并(ならびに)ねりまかわこへ(川越)みち」と刻まれています。右側
   の庚申塔は、万延元年(1860)に建てられたもので、左側面に「是より富士山大山道」
   とあり、練馬・柳沢(西東京市)・府中への距離が示されています。
   この2基の石造物は、江戸時代の交通や信仰を物語るうえで貴重な存在であり、昭和59
   年度に板橋区の文化財に登録されました。
   平成17年3月                         板橋区教育委員会
 


■峡田道
 はけたみち 「峡」は「崖」で、峡田道は「崖下の崖に沿った道」のことだ。志村城の山裾の道を
いう。峡田というところに向かう道ではない。
 


■蛸薬師庚申堂 移転
 峡田道の一部が「志村銀座商店街」で、街の発展の守り庚申として繁華街の中ほどにあったが、今
は近くの延命寺に移してしまった。
 


志村城山公園

 志村2丁目17番1号にある区立公園。


■庚申塔 ✓
 志村2丁目19番


■志村熊野神社・志村城跡
 志村2丁目16番2号にある志村城の二の丸跡に鎮座する大社。祭神は伊佐奈岐命・伊佐奈美命・
事解男命(ことさかおのみこと)。長久三年(1042)志村将監が紀州熊野より勧請したのが創祀
という。天喜年間(1053~57)源頼義・義家父子が奥州征の際、武運を祈り境内に八幡社を祀
り、康正年間(1455頃)千葉信胤が築城し、社殿を造営。志村城の守護神とした。江戸時代は志
村他6村の総鎮守として信仰を集めた。大正13年郷社。
 本殿は平安期から鎌倉期に流行した経塚の上に建てられている。昭和32年本殿を改築。改築前の
本殿は、今絵馬殿になっている建物と似た茅葺屋根の古風建物だった。絵馬殿が、明治改築前の本殿
かも知れないという。通称「城山稲荷。

   熊野神社由緒
   御祭神 伊邪那岐命(いざなぎのみこと
       伊邪那美命(いざなみのみこと)
       事解之男命(ことさかのおのみこと)
   例祭日 9月19日
   後朱雀天皇の長久三年(1042)この地の豪族志村将監が紀州から勧請したと伝えらて
   います。天喜年中、八幡太郎義家が父頼義と共に奥州追討の時、武運長久の祈願をしまし
   た。康正二年(1456)に千葉隠岐守自胤が、西武に城砦を築き城内鎮守として厚く崇
   敬しました。社殿西側の低地は本丸と二の丸との間にあった空壕です。
   志村他6村の総鎮守として信仰を集めた。                 熊野神社


 境内に「志村城跡」の石柱が建ててある。

   志村城跡と熊野神社
   志村城は、康正二(1456)年に千葉自胤(よりたね)が赤塚城に入城した際、一族の
   千葉隠岐守信胤が入城して、赤塚城の前衛拠点とした。
    本丸は志村小学校を中心とする一帯の丘陵地で、出井川と荒川を巡らせ〝守るに易く攻
   めるに難し〟といわれる堅城であったが、大永四(1524)年に北条氏綱に攻められて
   落城した。
    熊野神社は志村城二ノ丸にあたり、社殿は古墳上に建てられている。長久三(1042)
   年、志村将監が紀州から勧請したと伝えられており、千葉自胤が志村城の守護神と定めた。
   現在の社殿は昭和32年に改築されたものである。社殿の西側には今も空濠跡を見ること
   ができる。
   平成5年2月                          板橋区教育委員会
 


■志村城本丸跡
 志村2丁目16番3号の志村小学校、33号のヴィオスガーデン城山のところがそうだ。康正二年
(1456)千葉氏の一族、千葉隠岐守信胤が、本城である赤塚城の前衛拠点として守りを固めた。
神社の西側に空堀があり、本丸と二の丸を区分。大永四年(1524)北条氏綱の軍に攻められて落
城。数十基の古墳があったが、マンションになる以前はコパルの工場で、その工事のとき全部撤去し
てしまった(板橋区の歴史)。平安期の志村氏の居館跡との説もあったが、金儲け主義者の心無い私
利私欲が貴重な遺跡を消滅させてしまった。もう検証の仕様もない。
 城山をぐるりと巡って濠の役目を果たしていた出井川は今は暗渠だ。
 「志村城跡」の碑は、隣の志村熊野神社の境内、鳥居を潜った左手にある。
 「日本歴史地名体系・東京都の地名」に、

   城の北側には荒川の沖積地を望み、西側、南側には荒川の支流出井川(現在は暗渠・緑道)
   が回り込む。東から西に延びる舌状台地上にある。主要郭については、二郭と、三郭とに
   意見が分かれる。熊野神社境内西側に堀・土塁の跡があり、台地先端部が主郭であること
   は間違いない。社殿は古墳上にあり、この古墳と主郭部の土塁は堀を挟む位置関係にあり、
   社殿の付近が堀への侵入を抑える櫓台の役割を有したと考えられる。現時点で当城の使用
   された時期は、遺構から見て戦国期と理解されるが、出土遺物には12世紀後半から15
   世紀後半にかけてのものが多い。これは豊島氏が栄えた時期と合致し、熊野神社の存在か
   らも豊島氏系の武士(志村氏)が使用した城である可能性が高い。しかし文献資料上は当
   城の存在を示す史料は無く、「新編武蔵風土記稿」に篠田五郎、或いは千葉氏(武蔵千葉
   氏)一族の居城とあり、戦国期の城であったことが述べられているだけである。いずれに
   せよ当城のもつ機能は不明だ。


 とある。
 


■志村小学校
 志村2丁目16番3号、志村城の本丸の一部にある区立校。明治10年北豊島群志村中仙尋常小学
校開校、前野村常楽院を仮校舎とする。訓導(教諭)西郷久道、助教志村是賢、生徒30名。同11
年北豊島群志村福寿尋常小学校開校、西台村善長寺に仮校舎。訓道西元金太郎校長、生徒76名。同
37年中仙尋常小学校と福寿尋常小学校が合併して「東京府北豊島郡志村尋常小学校」として開校。
同39年高等科を併置して「東京府北豊島郡志村尋常高等小学校」と改称。9月東分教場設置。
 昭和4年東分教場の一部を以て志村第一小学校を分校。同7年東京市編入により「東京府東京市志
村尋常高等小学校」と改称。同10年東分教場を独立させ志村第二尋常小学校分校。同16年勅令1
48号国民学校令により「東京市志村村国民学校」と改称。同18年5月西分教場を独立させ志村第
五国民学校を分校。7月都制施行により「東京都志村国民学校」と改称。同19年志村第四国民学校
を分校。
 同22年アメリカの強制による学校教育法施行により「東京都板橋区立志村小学校」と改称。同2
4年蓮根分教場を独立させ志村第六小学校を分校。同27年前野小学校を分校。同28年中台小学校
を分校。同33年志村坂下分校設置。北前野小学校を分校。同35年特殊学級新設。同38年第1期
鉄筋コンクリート造り3階建て校舎落成。同39年創立60周年記念式典。同42年体育館完成。同
45年第2期鉄筋コンクリート造り3階建て校舎落成・屋上プール完成。同49年第3期鉄筋コンク
リート造り3階建て校舎落成。同49年創立70周年記念式典。同59年創立80周年記念式典。同
60年校庭舗装。同62年校舎窓枠サッシ化。
 平成6年創立90周年記念式典。同16年創立100周年記念式典。同17年かすみがうら市立安
飾小学校を訪問。同19年かすみがうら市立安飾小学校が来校。同22年3月強風により泰山木倒れ
る。6月2代目泰山木植樹。
 


■名主屋敷(大野藤左衛門家)
 志村2丁目26番、立場茶屋の向かいは梅林で、繋馬場に利用されていた。その先が志村の名主大
野藤左衛門家の屋敷があり、本陣の代わりを務め、大名と重臣たちはここで休息を取った。明治元年
明治天皇は大宮氷川神社御親拝の折、ここで休息され、その節使用の茶碗・小休札、寛永以降の水帳
など、同家の歴史を裏付ける家宝とともに、明治中期に坂上の2丁目2番12号に移転した。現在も
子孫はそこに住んでいる。移転後も立派な長屋門だけは残されていたが、都営地下鉄三田線の敷設で
取り壊された。どこかに移築したのか、その後のことは判らないんで、調べとくよ。続きは小豆沢だ
からね。
 


■志村合の宿・立場茶屋
 志村2丁目27番にあった。清水坂を下り、左に大きく曲がって右富士の名所を過ぎると、鋭角に
右に折れる。この辺りから「合の宿」となり、茅葺二階建ての立場茶屋は、そのとっつきにあった。
住宅地図で「梅田」「フォーレストハイツ」とあるところだ。合の宿とは、宿場と宿場の間の補助的
宿場で、公的には認められていない。立場は休息所の意で、茶屋は5間間口に三本の取り外しのでき
る中柱が3本、大勢の団体客の際は、これを取り外して、5間の間口に柱が一本もなく利用できたと
いう。どんなものか実見してみたかった。三方の板戸は全て「蔀戸(しとみど)」の構造になってい
た。大名行列の供侍たちが息をついたところで、明治・大正時代には荷車の後押しをする人足の溜ま
り場ともなっていた。この茶屋を含む合の宿は江戸時代の街道の佇まいを十二分に残していたが、都
営地下鉄三田線の敷設のため、と交通局の利益を優先して昭和42年に取り壊された。これを残そう
と発想する美的感覚、歴史認識が交通局の職員には欠落しているのだ。金、金、金、が敵の世の中で
い! 情ねえよ。

 と書いたら、高田さんからご指導がありました。

   「この茶屋を含む合の宿は江戸時代の街道の佇まいを十二分に残していたが、都営地下鉄
   三田線の敷設のため、と交通局の利益を優先して昭和42年に取り壊された」
    との記述について、私の記憶と違っていたので一言申し上げたいと思います。都営地下
   鉄の工事が始まった昭和40~42年頃、文中にもある梅田さんの家は既に藁葺きの農家
   風(宿場風ではない)から、普通の木造二階建て民家に建て替わっていました。というこ
   とは地下鉄工事が始まった時点でも、それ以前でも、その辺りは街道の面影など残してい
   なかったということです。確か、今、志村清水坂緑地という公園になっている場所には、
   珍しい二重屋根の家があり、その家は、地下鉄工事に伴い解体されました。今は城山に向
   かう急坂の上(2‐23)にお住まいの大野邦夫さんという方が住んでいらっしゃいまし
   た。その二重屋根の家が宿場風だったかどうか小学生の記憶では定かではありません。い
   ずれにせよ、東京都交通局職員のせいで風情のある佇まいが失われた訳ではないものと思
   います。

 ということは、川越街道のバイパス(現在の国道254号線)敷設の頃かな?
 


志村清水坂緑地

 志村2丁目27番にある区立公園。


■志村第四中学校

 志村3丁目15番1号にある区立校。昭和30年志村小学校に間借りして「東京都板橋区立志村第
四小学校」として開校。5月校章制定。9月現在地に新校舎落成し移転。同31年2月第1次校地拡
張。5月校旗樹立。12月校歌制定。

 校歌
「文化は開く」 作詞・宗武司  作曲・細谷一朗
  1.文化は開く筑波根と富士の間
    光あれ 我が学舎
    光あれ 我が学舎
    自律 創造 理想は高し
  2.天地は抱く武蔵野の丘の辺
(ほとり)
    睦びあれ 我が産土
    睦びあれ 我が産土
    調和 協同 理想は高し
  3.春秋尽きず 荒川の清き流れ
    栄えあれ 志村四中
    栄えあれ 志村四中
    努力向上 理想は高し


 同32年1月第1期校舎増築落成。同11月第2次校地拡張。12月第2期校舎増築落成。同35
年1月第3期校舎増築落成。3月体育館完成。12月第4期校舎増築落成。同36年心障学級開級。
同40年創立10周年記念式典。同43年完全給食開始。同47年プール完成。同50年8月鉄筋コ
ンクリート造り校舎落成。11月創立20周年記念式典。12月校庭整備。同60年創立30周年記
念式典。
 平成7年創立40周年記念式典。同14年ランチルーム完成。同17年緑のカーテン開始。同17
年創立50周年記念式典。同21年新プール完成。体育館倉庫新設。
 


親和児童遊園

 志村3丁目20番24号にある区立公園。


■志村三丁目駅

 志村3丁目23番1号の地下にある都営地下鉄三田線の停車場。昭和43年12月27日都営6号
線の最初の区間である巣鴨~志村(高島平)間が開業した時に設けられた駅。ホームは高架相対式2
面2線構造で2階にある。ホームと改札階を結ぶエレベーターは設置済み。改札口は1ヶ所で地上1
階にある。出口も、高架駅にもかかわらず南側の1ヶ所しかない。
 


小桜児童遊園

 志村3丁目31番1号にある区立公園。
 


【新河岸】(しんがし)1~3丁目                  昭和41年10月1日
 新河岸川の河川敷。昭和26年上赤塚町・下赤塚町・四葉町・徳丸町・成増町の各一部をあわせ
た町域を新河岸町とし、同41年志村西台町・徳丸本町・徳丸町・新河岸町・上赤塚町・下赤塚町
・四葉町・成増町の各一部を合わせた町域を現行の「新河岸」とした。
 参考資料:「東京都住所表記に関する資料」。他に「板橋区史」など。

 
新河岸の由来
 新河岸川によるが、同川は大正時代に旧荒川の蛇行の残り部分を繋いで延長した人工河川で隅田
川に繋がっている。上流は埼玉県を流れている。だから新河岸は新河岸川だ!

■新河岸小学校

 新河岸1丁目3番1号にある区立校。昭和52年「東京都板橋区立新河岸小学校」として開校。校
章制定。校旗樹立。同58年校歌制定。

 校歌「大空広く」 作詞・鬼塚徹  作曲・教員の合作
  1.大空広く晴れ渡り
    太陽光る新河岸に
    高い希望を抱きつつ
    いつも楽しく学びあう
    吾等の 吾等の新河岸小学校
  2.鴎や鷺の舞い上がる
    流れ静かな新河岸に
    心豊かに育んで
    みんな仲よく助けあう
    吾等の 吾等の新河岸小学校
  3.秩父の山を遠く見て
    荒川沿いの新河岸に
    体丈夫に逞しく
    強く明るく鍛え合う
    吾等の 吾等の新河岸小学校


 同59年グランド整備・雨水浸透工事。同62年創立10周年記念式典。
 平成元年北側フェンス・門扉工事完了。同2年放送設備・飼育小屋改修。同3年放送設備・飼育小
屋改修。同4年日本語学級開設。大欅植樹。同5年ランチルーム完成。同8年マルチメディアルーム
完成。防火井戸掘削。地域開放室。同9年創立20周年記念式典・植樹。同11年国旗掲揚塔改修。
同13年PTA発足。同15年校庭南側防球フェンス設置 南門改修。同19年創立30周年記念式
典。同21年体育館耐震化。
 


■新河岸一丁目公園

 
新河岸1丁目3番6号にある区立公園。


■徳丸橋公園

 
新河岸1丁目3番7号にある区立公園。


■荒川戸田橋緑地

 
新河岸2丁目先荒川河川敷にある。


■戸田川公園

 
新河岸2丁目10番1号にある区立公園。


■しらさぎ公園

 
新河岸2丁目10番2号にある区立公園。


■東京都下水道局新河岸水再生センター

 
新河岸3丁目1番1号にある。3丁目の大半を占める都の施設。
 


■新河岸三丁目公園

 
新河岸3丁目1番3号、広大な水再生センターの中にある区立公園。。
 


■警視庁警察犬第一訓練所

 
新河岸3丁目5番1号にある。犯行に使用された凶器等の発見や犯人追跡に活躍する警察犬を育成
擁する施設。第二訓練所は多摩市だ。

 
アルフ号
 
アルフ・フォン・ムト・ハイム(またはアルフ・フォン・ムトーハイム 昭和41年2月27日~
51年9月18日)は、警視庁刑事部鑑識課に所属した直轄犬。雄のジャーマン・シェパードで、書
籍など一般には「警察犬アルフ」とか「アルフ号」と称される。連合赤軍関連事件などで活躍し、生
涯に警視総監賞2回、警視庁刑事局長賞2回、警視庁刑事部長賞9回など計109回の表彰を受け、
名警察犬としての名を縦にした。警視庁ホームページ内に業績を記したページがある他、兵庫県尼崎
市の尼崎市動物愛護センターには、忠犬ハチ公などと共に名犬の1頭としてブロンズ像が飾られてい
る。アルフ号が関わった主な事件は、真岡銃砲店襲撃事件、浅間山荘事件、ビル荒らし「蜘蛛の陣十
郎」事件、世田谷連続放火事件、陣場高原女子学生暴行事件、新宿傷害男事件
 


■新河岸公園

 
新河岸3丁目9番1号にある区立公園。


■水神宮碑

 
新河岸3丁目9番の新河岸公園の西半にある自然石碑。旧は早瀬の渡し場に建っており、対岸の渡
し場にも建っている。

   水神宮碑
   荒川はその名が示す通り、有史以来しばしば洪水を繰り返してきました。流域で生活する
   人々はそのような荒川を恐れ、、神を祀って安寧を祈りました。当碑は、そのような想い
   で祀られた水神宮碑の1つで、もともと鎌倉古道が荒川を渡る「早瀬の渡し」に建ってい
   たものです。背面の文章から、洪水で流失したために文政四年(1821)に再建された
   もので、台石に刻まれた「信心舟持方」から、舟運で生活を営んでいた人々が建立したも
   のと考えられます。
   明治40年、同43年と相次ぐ大洪水により、東京周辺で大きな被害が生じたため、翌4
   4年から荒川放水路の開削工事が始まり、20年もの月日を費やして昭和5年に完成しま
   した。当碑は、この時の工事に伴い、現在の場所に移されました。
   昭和60年度区の歴史の正しい理解に欠くことのできない資料として板橋区の文化財(記
   念物)に登録しました。
   平成16年3月                         板橋区教育委員会
 
 

【高島平】(たかしまだいら)1~9丁目                昭和44年3月1日
 徳丸ヶ原。赤塚村・四葉村・徳丸本丸・西台村の入会地。明治22年赤塚村。昭和7年板橋区志
村西台町・徳丸本町・徳丸町・四ッ葉町・下赤塚町・上赤塚町。44年上赤塚町・下赤塚町・徳丸
本町・志村西台町の各一部を以って起立した新しい町域。
 参考資料:「東京都住所表記に関する資料」。他に「板橋区史」など。

 
高島平の由来
 高島は幕末の砲術家高島秋帆。平は平坦地・平野の昔風な表現。幕末に秋帆がここ徳丸ヶ原で大
砲の試射と洋式調練を行って見せた。秋帆の顕彰碑が建つ徳丸ヶ原公園は「日本陸軍発祥の地」で
もある。その本陣(実施本部)が置かれたのが赤塚の松月院で、こちらにも顕彰碑が建っている。徳
丸ヶ原は赤塚から志村に及ぶ区の西半を占める大原っぱをいった。明治になって水田が開かれたが、
米の穫れが悪く日本住宅公団に請われるままに農民たちは土地を売却し、昭和40年から工事が始
まって同44年から高島平団地はオープンした。だから高島平は徳丸ヶ原公園だ!

 高島秋帆
 
たかしましゅうはん (1789~1866)千葉氏にも増して松月院を有名にしたのは幕末高
島秋帆の大砲演習だ。長崎の町役人だった高島秋帆は、隣国の清がアヘン戦争でイギリスの圧倒的
火砲の前に苦しめられているのを知り、国防の重要性を幕府に進言した。幕府は早速秋帆に命じて
外国製の大砲小銃を持って江戸に来るように命じた。秋帆はかつて渡辺華山や高野長英と同様に安
政の大獄で10年10カ月も幽閉され、釈放後すぐに死を覚悟して建白したのだった。そして長男
浅五郎、弟子八十余名と、天保十二年(1841)五月七日松月院へ着き、この寺を本陣として二
晩泊まり、九日に山下の徳丸ケ原(今の高島平6丁目付近)で幕府の役人や大名が見守る中、荒川
に向かって実弾射撃を行い、歩騎兵の調練など西洋兵術の成果を披露し見学者を驚かせた。これが
明治になって実を結び、後年日本陸軍の礎となった。高島公園には「陸軍発祥の地」の碑が建つ。
ために秋帆は「日本陸軍の父」と言われている。

■西台中学校
 
高島平1丁目4番1号にある区立校。昭和32年「東京都板橋区立西台中学校」として開校。校章
制定。6月新校舎8教室に移転。同34年校歌制定。

 校歌
「力漲る」 作 詞・勝承夫   作 曲・平井康三郎
  1.力漲る荒川の
    流れを越えて山は紫
    広野の空よ 輝く雲よ
    吾等若鳥 飛び立つ処
    見よ 西台の清き学び舎
  2.枝垂れ桜も黄桜も
    取り取り開く花の喜び
    光の窓よ 夢湧く庭よ
    自主の校風 受け継ぐ処
    今 西台に希望集まる
  3.欅青葉の丘の道
    文化の遺跡 残る故郷
    平和の日日よ 伸び行く町よ
    常に友情 燃えたつ処
    我が西台は永遠に栄えあり


 同37年体育館完成。同38年鉄筋コンクリート造り3階建て校舎6教室落成。同42年創立10
周年記念式典。同46年鉄筋コンクリート造り3階建て校舎14教室落成。同52年創立20周年記
念式典。同56年給食室完成。同59年特活室・視聴覚室増築。同62年創立30周年記念式典。
 平成元年和室「西心庵」完成。体育館・武道場完成。同4年パソコンルーム開設。同7年教育相談
室開設。同9年創立40周年記念式典。同10年スクールカウンセラー設置。同16年給食調理業務
民間委託開始。ランチルーム開設。同19年全教室エアコン設置。校庭整備。創立50周年記念式典
同20年プール改修。
 


■大東文化大学
 
高島平1丁目9番1号にある私立大学。大学の前身である大東文化協会(旧制専門学校)が、大正
12年に帝国議会の決議によって創設された。東松山キャンパス、板橋キャンパスからなる。箱根駅
伝での活躍や「大東亜帝国(大東文化・東海・亜細亜・帝京・国学院or国士舘」の一翼として知ら
れている。文学部書道学科からは、書道教員や書家を数多く輩出しており、「書道の大東」の異名を
持つ。
 大正12年九段に大東文化協会(旧制専門学校)創立。昭和16年池袋へ移転。同24年新制大学
による「東京文政大学(文政学部)」設置。同26年法人名を学校法人文政大学とし、学校名を「文
政大学」に改称。同28年校名を「大東文化大学」に改める。同35年法人名を学校法人大東文化学
園と改称。同36年現在地に移転。同文政学部を文学部(日本文学科・中国文学科)と経済学部(経
済学科)に改組。同37年経済学部経営学科増設。同39年大学院文学研究科(日本文学専攻・中国
文学専攻)設置。同42年東松山校舎開設。文学部英米文学科増設。同43年文学部外国語学科増設。
同47年文学部教育学科増設。外国語学部(中国語学科・英語学科)、大学院経済学研究科(経済学
専攻)設置。同48年法学部(法律学科)設置。同52年大学院法学研究科(法律学専攻)設置。同
53年専攻科(文学専攻科、経済学専攻科)設置。大学院文学研究科英文学専攻増設。同61年国際
関係学部(国際関係学科と国際文化学科)設置。平成2年法学部政治学科増設。同5年外国語学部日
本語学科、学院経済学研究科経営学専攻増設。同6年大学院法学研究科政治学専攻増設。同11年大
学院外国語学研究科中国語学専攻、英語学専攻、日本語学専攻増設。大学院アジア地域研究科アジア
地域研究専攻増設。同12年文学部書道学科増設。経済学部経営学科を経営学部経営学科と企業シス
テム学科に改組。同13年環境創造学部環境創造学科増設。経済学部を現代経済学科と社会経済学科
に改組。同15年大学院経営学研究科経営学専攻博士前期・後期、文学研究科書道学専攻修士開設。
同16年大学院法務研究科(法科大学院)信濃町校舎開設。同17年スポーツ・健康科学部(スポー
ツ科学科・健康科学科)を開設。文学研究科書道学専攻博士課程、外国語学研究科英語学専攻博士課
程増設。文学部中国文学科を中国学科に改称。

 校歌
「流れは遠し」 作詞・谷鼎  作曲・信時潔
    流れは遠し東洋の
    古き鑑を温
(たず)ねては
    知新の実を重ねむと
    日夜に励む我等あり
    心は放て天地間
    眼
(まなこ)はさらせ世の移り
    溷濁
(こんだく)の浪高くとも
    棹さす水脈
(みお)は紛れなし
    起ちて護らむ大東文化
    起ちて弘めむ大東文化
 


■大東文化大学第一高等学校
 
高島平1丁目9番1号にある私立校。本校の母体である大東文化大学は、「東洋文化の研究を軸に
西洋文化をも取り入れ、東西の文化を融合して新しい文化を創造すること」を理念に、大正12年千
代田区九段の地に開設された。この大学建学の理念を踏まえ、それとの一貫性を目指す中で、昭和3
7年に開校され、平成14年創立40周年を迎えた。昭和30年代から開発されたこの街には、ゆと
りのある広い道路と数多くの公園が計画的に配置されて、都内とは思えない緑豊かな風景が広がって
いる。大東一高は、勿論大東文化大学の附設校。板橋キャンパスの隣接地にある。現在、板橋キャン
パスは大規模な再開発が完成、豊かな学生生活を送るにふさわしい近代的な施設・設備が整った。
 


■高島平一丁目第二公園
 
高島平1丁目16番1号にある区立公園。


■高島平一丁目公園
 
高島平1丁目23番1号にある区立公園。


■高島第六小学校 閉校
 
高島平1丁目50番1号にあった区立校。平成14年3月閉校し、高島第四小学校を統合した。
 


■高島第六小学校
 
高島平1丁目50番1号にある区立校。平成14年4月高島第四小学校と高島第六小学校が統合し
新しい高島第六小学校が開校した。

 校歌
「風が流れる」  作詞作曲・山崎典子  編曲・今直樹
    風が流れる 緑の風が
    雲が流れる 青い青い空
    団地のうしろに きれいな富士が
    笑ってみてるぞ 楽しいぞ
    高島平は ぼくらのふるさと


 卒業生の方からメールを頂戴しました。

    就職のため引っ越し、出て行ったふるさと、板橋区について懐かしくて調べていて貴サ
   イトを拝見させていただきました。知らないことも多く、とても楽しませていただいたの
   で、おせっかいながら情報を提供したいとおもい、メールさせていただきました。高島第
   六小学校(高六小)は校歌の制定はなく、校歌「風が流れる」としてあげられているものは、
   「高六小よい子の歌」と言うタイトルです。

   高六小よい子の歌
   一、風が流れる 緑の風が
     雲が流れる 青い青い空
     団地の後ろに きれいな富士が
     笑ってみてるぞ 楽しいぞ
     高島平は ぼくらのふるさと
   二、風が歌うよ 緑の風が
     鳥が歌うよ 高く低く枝に
     ぼくらも歌おう 元気な声で
     明るい笑顔で 胸張って
     高島六小 私の学び舎
 


■高島平一丁目第三公園
 
高島平1丁目51番1号にある区立公園。


■高島平一丁目第四公園
 
高島平1丁目66番1号にある区立公園。


■高島平中央総合病院 ニセ医師事件
 
高島平1丁目69番8号にある民間病院で起きた事件。平成24年9月8日実在する医師になりす
ました男、世田谷区在住の黒木雅(43歳)が、平成22年から同23年にかけて、区民約2300
人に対して健康診断をしていた疑いがある問題で、黒木が他にも複数の病院で健康診断をしていた疑
いがあることが判り明らかにした。黒木は都内の人材紹介会社に実在する眼科医の名前で、「健康診
断専門の医師だ」と称して偽造した医師免許証を提出。同社を通じて一昨年5月、この病院が採用し
たほかにも、複数の病院で非常勤医師として採用され、健康診断を担当したとみられるという。
 同病院は採用時、厚生労働省のインターネット検索システムで男の身分を照会。黒木は、偽造した
医師免許証に実在の医師とは違う生年月日を記載していたが、同システムでは医師免許の取得年しか
照会できず、不正を見抜けなかった。黒木は9月25日医師法違反と260万円の報酬を受け取った
詐欺罪で逮捕した。
 


■高島平団地
 
高島平2丁目の3分の2、3丁目の2分の1を占める巨大集合住宅。高島平2丁目が賃貸、高島平
3丁目が分譲となっている。団地への入居開始は昭和47から始まった。団地以外の地域も、高島平
全域が新興の住宅地であり、地下鉄で山手線の駅への交通が確保されていたことから、若年層が多く
入居した。旧来よりこの土地に生活していた人々は多くなかったが、その大半は立ち退き、或いは整
備された宅地に転居した。この結果、それまで一面の田んぼだった徳丸ヶ原には、高島平団地のみで
2万人以上、高島平全域で5万人の人口を抱える一大住宅都市が出現した。かくて全く新しいコミュ
ニティーが形成された結果、高島平には就学前教育機関、小学校、中学校、高等学校が公の手で整備
され、団地内には図書館・警察署・消防署(出張所)・役所(板橋区役所高島平出張所)・病院など
が順次整えられた。さらに商業施設やスポーツ・レクリエーション施設も建設された。

 ●自殺の名所だった
 「完全自殺マニュアル」という書物にも、そう書いてあった。現在では飛び降り自殺防止のため、
賃貸部分の3階以上の共用廊下には全て「チューリップ」または「ひまわり」模様の鉄格子(自殺防
止フェンス)が嵌められた。飛び降りても死ぬ可能性が低いため、1・2階の共用廊下には鉄格子が
ない。分譲部分にも、高層かつ共用廊下のある設計の建物が2棟あるが、自殺防止フェンス設置の費
用を所有者で負担しなければならないため、フェンスは設置されていない。今日、それの名所である
ことは地元民でも忘れるほどに減少しており、落ち着きのある住宅地となっている。自殺は減ったが
高齢者の孤独死などはある。

 
エカムラトミオ チェコ大統領候補
 チェコの政治家。板橋区出身。父は在日朝鮮人、母はチェコ人。日本で約10年間を過ごした後、
平成初期にチェコに渡ったが両親が離婚。プラハの養護施設に入る。日本に一時的に渡航し、都内の
映画館で働いた。その時に出会ったのが元妻で、現在はビジネス上のパートナーとして共同活動をし
ている。観光業や日本食材店などの事業を展開。地元のテレビや雑誌などのマスメディアにも出演し
知名度を高めた。作家としても活動しており、幾つかの著書はチェコ国内でベストセラーになった。
平成24年10月の上院議員選挙にズリーン選挙区から立候補して当選した(任期は平成30年10
月20日まで)。直後、平成26年に行われるチェコ共和国大統領選挙への出馬を表明し、政治腐敗
の一掃を公約に署名62000人分を集め立候補を届け出た。この署名はチェコの法律に則り内務省
が調査したが、全体の4割にあたる26000人分の署名で、記載された住所と人物の一致が確認で
きないとして無効と判断された。この結果、立候補に必要な50000人分の署名を下回ったためオ
カムラは立候補資格を失った。同26年1月「内務省による署名の確認作業は不透明で全く信用でき
ない」と主張し、チェコ憲法裁判所に選挙手続きは違憲の可能性があると提訴したが、立候補資格に
関しては訴えを退けられた。同年7月新党『直接民主主義の夜明け』を設立。自身が党首となった。
10月チェコ議会下院選挙にて6.88%の得票率を得て、チェコ共和国議会代議院で14議席を獲得
した。在日ながら、日本人として頑張っている。


■高島平二丁目公園
 
高島平2丁目17番1号にある区立公園。


■高島第二中学校
 
高島平2丁目24番1号にある区立校。昭和47年「東京都板橋区立高島第二中学校」として開校
・2、3年生85名でスタート。5月1日開校記念日制定・開校記念式典挙行。教育目標・校章・標
準服決定。12月宇都宮校長による校歌歌詞決定。同48年校歌作曲

 校歌「徳丸が原」 作詞・宇都宮康則  作詞・安達元彦
  1.徳丸が原 秋帆の
    その大筒の轟きに
    時代の朝を打ち開く
    歴史に続く名を負いし
    高島二中 我等
  2.敬愛徒に結ばれて
    集える生徒 数百は
    心を磨き身を鍛え
    叡智の光 掲げつつ
    高島二中 我等
  3.只管
(ひたすら)励む この三年
    創造の思い胸に秘め
    開発の意気 高らかに
    日本の未来を担う者
    高島二中 我等


 同52年創立5周年記念式典。高島第一中学校を分校。第1期増築校舎落成。同55年高島第三中
学校を分校。格技室(創志館)完成。同57年創立10周年記念式典。同58年応援歌発表。
 同60年新校舎(普通校舎8・特別教室2)落成。同61年「社会を明るくする運動」のため都知
事より感謝状。同63年プール浄化装置設置。
 平成2年和室(洗心庵)完成。同4年創立20周年記念式典。同14年創立30周年記念式典。同
24年創立40周年記念式典。
 


■高島第二小学校
 
高島平2丁目25番1号にある区立校。昭和47年「東京都
板橋区立高島第二小学校」として開校
し、高島秋帆が洋式訓練を行った5月9日を開校記念日と定め、稲穂をアレンジした図案をもとに校
章を制定した。同48年高島第五小学校を分校。同51年高島第六小学校を分校。同52年校舎増築
(プレハブ)。同53年防球ネット(新校舎西側)設置。同54年
「高二小よい子の歌」を校歌とする。

 校歌
「高二小よい子の歌」 作詞・佐藤遼  作曲・水野充陽
  1.開かれた徳丸ヶ原に
    今日も伸び行く明日への叡智
    小さな歩みを大きな歩みへ
    心を合わせて学び合い
    築く未来を
    我等の高島第二小学校
  2.緑成す赤塚台に
    芽吹く若人 育つ輩
(ともがら)
    小さな心を大きな心に
    手を取り合って輪になって
    築く未来を
    我等の高島第二小学校
  3.聳え立つ高島平
    朝日輝き弾む体で
    小さな力を大きな力に
    皆が互いに鍛え合い
    築く未来を
    我等の高島第二小学校

 
 
 プレハブ校舎解体。高島第七小学校を分校。同56年防球ネット(本校舎南側)設置。同57年創立
10周年記念式典。同61年黒板灯設置。同62年歩道拡張に伴う校門改築。東側校舎1~3各階に
配膳室完成。同63年校庭拡張。
円錐滑り台完成。 平成元年芝生園のガーデンフェンス完成。プー
ル改築及び濾過機設置。同2年
学校の森・浸透井、備蓄倉庫完成。校庭舗装。同3年校庭側の窓の総て
強化ガラスに取替え。同4年ランチルーム2教室(コスモス タンポポ)
落成。「たかに資料館」(み
ずほ庵))完成。創立20周年記念式典。同9年創立25周年記念「ふるさと教育」実施。情緒障害学
級「わかくさ」開級。同14年創立30周年記念式典。同19年高島第七小学校を統合。
 


■高島平二丁目第二公園
 
高島平2丁目31番1号にある区立公園。


■赤塚公園・中央地区
 
高島平3丁目1番にある都立公園。野球場、陸上競技場、テニスコートがある。
 


■高島高等学校
 
高島平3丁目7番1号にある都立校。昭和49年「東京都立高島高等学校」として開校。
 平成5年創立20周年記念式典。同8年校舎全面改修。

 校歌
「陽光浴びて」 作詞・平野克彦  作曲・太田充
  1.陽光浴びて聳えたる
    五層白亜の学舎に
    集ふ我等 若き情
    高き理想に向かい立つ
    高島の道 遥かなり
  2.緑陰清か 風渡り
    希望溢るる新都市に
    学ぶ我等 若き命
    永遠
(とわ)の真理(まこと)求め行く
    高島の道 遥かなり
  3.荒川緩き流れして
    秋帆縁の徳丸に
    鍛ふ我等 若き力
    固き絆を培はむ
    高島の道 遥かなり
 


■高島養護学校 → 高島特別支援学校
 
高島平3丁目7番にある都立校。昭和48年10月「東京都立高島養護学校」設置。同49年第1
期校舎落成。入学式を高島第五小学校体育館で催行。小学部6学級×49名。6月給食開始。9月重
度・重複学級1学級。12月第2期校舎落成。同50年小学部10学級(重度・重複学級1学級)。
中学部2学級新設。全12学級。同51年4月1日全16学級。4月12日23学級。同53年全2
4学級。同54年小プール(4m×9m)完成。全25学級。10月浴室完成。同55年23学級。
同56年校庭改修。全23学級。ガードマン警備となる。同57年全21学級。同58年校章制定。
全18学級。石神井養護学校開校により学区変更。創立10周年記念式典・校歌制定・校旗樹立。
 同59年全19学級。同60年全20学級(新設の高等部3学級含む)。同61年全25学級(9
・9・7)。同62年全30学級(10・8・12)。同63年全35学級(10・8・17)
 平成元年高等部、板橋養護学校へ移管。全19学級。同2年全21学級。地域理解推進運動事業開
始。同3年全22学級。5月小学部1学級増。同4年全23学級。同5年全23学級。同6年校舎全
面改修。全27学級。5月小学部1学級増。校舎第2期改修。同7年全28学級。創立20周年記念
式典。環境整備完了。同8年全27学級。同9年全29学級。同10年全32学級。同11年全33
学級。給食調理業務民間委託。同12年全33学級。5月小学部1学級増。同13年全36学級。同
14年全42学級。同15年全41学級。創立30周年記念式典。同16年全40学級。同17年全
42学級。同18年全41学級。同19年全41学級。増設校舎落成。同20年全44学級。「東京
都立高島特別支援学校」と改称。同21年全45学級。同22年全46学級。同23年全45学級。
 


■高島第五小学校
 
高島平3丁目11番1号にある区立校。昭和48年「東京都板橋区立高島第五小学校」として開校。
同53年校歌制定。同58年創立10周年記念式典。

 校歌
「高く大きく」 作詞・佐藤遼  作曲:瀬戸匡弘
  1・高く大きく広がる団地
    高島平に緑が萌える
    行こう元気に今日もまた
    伸び行く仲間 希望の子
    開く吾等の高島第五小学校
  2・昔の跡は今はなく
    羽ばたく夢は果てなく続く
    進もう一歩を明日もまた
    伸び行く仲間 未来の子
    築く吾等の高島第五小学校

 平成3年ランチルーム開設。同4年学校保健給食大会・保険の部受賞。同5年創立20周年記念式
典。同14年校舎耐震化。乾式給食室に改修。同15年創立30周年記念式典。同20年給食業務民
間委託。同21年体育館・プール改修。
 


■高島平警察署
 高島平3丁目12番32号にある。
明治7年下板橋仲宿の乗蓮寺に巡査屯所が設置され、これが現
在の板橋区・練馬区・豊島区・文京区内の主な警察署の前身署だ。同8年「警視庁第四分庁第七署」
と改称。同14年「第三方面板橋警察署」と改称。大正8年板橋警察署から王子警察署・巣鴨警察署
が分離して板橋・練馬区部分が管内となった。昭和12年板橋警察署から練馬警察署が分離し、板橋
区の部分が管内となった。同21年板橋警察署から志村警察署が分離し、区内は2警察署となった。
同45年高島平団地の建設に伴い、志村警察署の分割が検討され、同49年現在地に用地約952坪
を取得。同5年庁舎建設着工、同61年2月高島平団地のほぼ中央に地上7階・地下1階の庁舎が竣
工。志村警察署から高島平警察署が分離し、警視庁97番目の警察署として開署した。
 


■高島平区民館
 高島平3丁目12番28号にある。
 


■高島平図書館
 高島平3丁目13番1号にある。 


■高島第七小学校 廃校
 
高島平3丁目13番3号にあった区立校。平成19年少子化のため廃校となり高島第二小学校に統
合された。
 


■高島平四丁目公園
 
高島平4丁目12番1号にある区立公園。


■高島第三小学校
 
高島平4丁目21番1号にある区立校。昭和47年鉄筋コンクリート造り3階建て校舎(普通教室
18・特別教室4)落成。「東京都板橋区立高島第三小学校」として開校。同53年築山完成(滑り
台2基と附帯設備を含む)。同55年校歌制定。

 校歌
「秩父の山なみ」 作詞作曲不明
  1.秩父の山山波 遥かに望み
    明るく広がる高島平
    心一つ伸び伸びと
    力合わせて楽しく学ぶ
    嗚呼高島第三小学校
  2.豊かな大地に緑が萌えて
    歴史に所縁(ゆかり)の徳丸ヶ原
    心優しく逞しく
    体鍛えて元気に励む
    嗚呼高島第三小学校
  3.輝く瞳に歌声響き
    未来に夢馳せ若木が育つ
    心豊かに美しく
    望み大きく明日へ歩む
    嗚呼高島第三小学校


 同57年創立10周年記念式典。
 平成元年プール改修(自動浄化)。同4年ランチルーム開設。理科室改修。11月創立20周年記
念式典。同8年パソコンルーム開設。同10年インターネット接続。同12年絵本の部屋・物語の部
屋開設。同13年白鳩幼稚園併設。図書室改修。同14年創立30周年記念式典。同16年文部科学
大臣視察。同17年ビオトープ完成。
 


■高島平五丁目公園
 
高島平5丁目4番1号にある区立公園。


■高島平五丁目第二公園
 
高島平5丁目24番1号にある区立公園。


■爆発火災
 
高島平5丁目51番9号の富士見自動車商会で起きた火事。平成27年4月9日午後1時40分ご
ろ、2階建て建物から出火、2時間半後に鎮火した。東京消防庁によると、男性1人が救出されたが
軽い怪我、ほかに2人が逃げ遅れているとの情報があったが無事が確認された。消防車など27台を
出動させ、消火活動に中った。警視庁も状況を調べている。現場は、都営地下鉄三田線西高島平駅か
ら約100メートル南の住宅街の一角。
 


■板橋トラックターミナル
 
高島平6丁目1番1号にある日本自動車ターミナル社の施設。我が国最大規模のトラックターミナ
ルである京浜トラックターミナルをはじめ、全国的物流ネットワークの拠点となる公共トラックター
ミナルを都内4ヶ所(京浜・板橋・足立・葛西)に建設し、運営している。人々の期待に応えるべく
物流の変化に対応した施設の整備を行い、高規格なサービスを提供する。
 


■東京中央卸売市場・板橋市場
 
高島平6丁目1番5号にある。
 


■西高島平駅
 
高島平6丁目1番にある都営地下鉄三田線の停車場。昭和51年5月6日都営6号線西高島平~高
島平間延伸時に設けられた。ホームは高架相対式2面2線構造で2階にある。列車は両方のホームか
ら交互に発車するので、先発列車がどちらから出るか、乗る前に確認する必要がある。ホームと改札
階を結ぶエレベーターは未設置。改札口・出口は1ヶ所のみで1階にある。かつて三田線は、西高島
平駅から北進して、武蔵野線西浦和駅を経由し、川越線指扇まで延伸する計画もあった。しかしその
計画はかなり前に頓挫しており、実現する可能性はゼロに近い。駅から西へ400mばかり行くと、
そこはもう埼玉県和光市だ。この辺りは東上線の和光市駅よりも近いので、徒歩で県境を越えてやっ
てくる利用客もいる。
 


■新高島平駅
 
高島平7丁目1番にある都営地下鉄三田線の停車場。昭和51年5月6日都営6号線西高島平~高
島平間延伸時に設けられた。ホームは高架相対式2面2線構造で、2階にある。ホームと改札階を結
ぶエレベーターは未設置。改札口は1ヶ所のみで1階にある。出口は基本的には1ヶ所のみだが、歩
道橋に直接つながってる出口もある。
 


寂光山妙国寺
 
高島平7丁目8番9号にある日蓮正宗の寺。入口からすぐに建物になる。中はお堂になっているよ
うだ。鉄筋コンクリート造り3階建てのホテルのような建物で、前の道路を隔てて高嶋平七丁目公園
となっていてその森が良い環境を作ってる。
 


■高島平七丁目公園
 
高島平7丁目9番1号にある区立公園。


■高島平七丁目第二公園
 
高島平7丁目33番1号にある区立公園。


■高島第一小学校
 高島平7丁目45番1号にある区立校。昭和52年高島平8丁目26番1号より転入。同56年1
0月31日創立10周年記念式典。同57年増改築(2教室・家庭科室・五組)。同57年心身障害
児学級開設。
 平成元年増改築(4教室・家庭科室)。同3年校舎内床張替。校舎外壁改修。11月16日開校2
0周年記念式典。同6年観察池完成。同8年パソコン教室開設。同10年防災備蓄倉庫設置。同12
年創立30周年記念バザー。同13年11月17日創立30周年記念式典。同14年校舎耐震化。同
16年体育館照明改修。同17年通知表2期制開始。同19年エアコン設置。同20年高学年教科担
任制実施。同23年創立40周年記念式典。

 校歌「古い歴史の」 作詞:香取一  作曲:小久保昭一
  1.古い歴史の徳丸の
    緑の中に建設の
    槌音高く木霊する
    はばたけ強くいつの日までも
    高島一小 わが母校
  2.輝く太陽 身に浴びて
    元気一杯 胸張って
    みんな仲よく助け合い
    はばたけ強くいつの日までも
    高島一小 わが母校
  3.秩父の山並 遠く見て
    思いは高く新しく
    負けず挫けず健やかに
    はばたけ強くいつの日までも
    高島一小 わが母校
 


■志村駅 → 高島平駅
 
高島平8丁目2番1号にある都営地下鉄三田線の停車場。昭和43年12月27日都営6号線の最
初の区間である巣鴨~志村(高島平)間が開業した時に設けられた。当初は始発駅で、昭和51年5
月6日に西高島平まで延伸した。また開業当初は「志村駅」と名乗っていたが、翌年8月1日に現駅
名に改称した。改称理由は公表されていないが、高島平が新住居表示により地名となったことと、他
駅に志村坂上・志村三丁目があるからだろう。しかし西高島平・新高島平と高島平を名乗る駅が3つ
になってややこしいこと夥しい。
 ホームは高架島式2面4線構造で2階にある。通常の列車は外側の1・4番線を使用し、2・3番
線は当駅始発・終着の列車が使用する。ホームと改札階を結ぶエレベーターは設置済み。改札口は東
口の西口の2ヶ所で、それぞれ南北2ヶ所ずつ、計4ヶ所の出口がある。いずれも1階だ。
 


■タレント佐々木つとむ殺害事件
 高島平8丁目22番3号 高島平コーポ1階2号室中野美沙(39歳)宅で、昭和62年9月4日
渥美清の「フーテンの寅」や高倉健・森進一・田中角栄元首相などの声帯模写を演じて人気のあった
ものまねタレント佐々木つとむ(佐々木宏幸 40歳)が刺し殺されているのを、連絡が取れなくて
訪ねてきた倉石プロダクション社長倉石義品(よしのり)により発見された。美沙は佐々木の愛人で
不在だったが、2日後青森県陸奥湾で入水自殺体として発見された。遺書のような文言があり、犯人は
美沙と断定された。佐々木には大山町12番ハイネス大山504号室に妻(38歳)と2人の男の子
いるが、ギャンブルにのめり込んで巨額の借金(数千万円)を作り、家庭内でいざこざが絶えなかっ
た。同年4月頃に家を出て、以前に新宿のゲーム店で知り合った美沙と彼女のアパートで同棲してい
た。 美沙は佐々木に700万円近い金を貢いでいたが、佐々木はそれでも足りないとばかりに美沙
の貯金を無断で引き出したり、美沙が身に着けていた貴金属類を強引に金に換えるなどしたため、中
野は愛想をつかしていた。2人の間は日増しに険悪になり、暴力沙汰も増えていった。倉石社長が間
に入って別れる話をすることになっていたが、美沙が溺愛していたシーズー犬を佐々木が殴って骨折
させてしまい、このことがきっかけとなって、美沙は凶行に及んだという。
 


■徳丸ヶ原公園・野球場
 
高島平8丁目24番1号にある区立公園。テニスコートもある。

 
徳丸ヶ原碑
 徳丸ヶ原は、大正9年3月東京府旧跡に指定、徳丸ヶ原碑は天保十二年(1841)に高島秋帆が
幕府の御用地である徳丸ヶ原(高島平)でおこなった洋式調練を記念して、大正11年6月新高島平
駅近くにあった弁天塚に建立。

 松月院境内の火技中興洋兵開祖高島秋帆紀功碑と、この徳丸ヶ原遺跡碑の両碑の建立、史跡指定が
一連の流れとなっていた。当碑の「徳丸原遺跡」という扁額は篆書で記されているが、これは徳富蘇
峰の筆とされている。また裏面の挨拶文は秋帆紀功碑と同じく押上森蔵による。両碑については建立
当時保存基金が設けられ、永久村有の碑として保存されることとなった。昭和44年この地が「高島
平」と名付けられ、徳丸ヶ原は高層住宅団地となると、もともと高島平6-2番地内に所在していた
当碑は、高島通りの整備に伴って現在の公園内に移転した。

 徳丸原遺跡碑は、秋帆の演習の場となった幕府御用地である徳丸ヶ原の歴史と、高島平の地名の起
こりとしてしられる高島秋帆の事績を示す資料だ。


   徳丸原遺跡
   此より北荒川に至る南北一千米突東西約二千米突の地域は古の所謂徳丸原なり天保十二年
   五月高嶋四郎太夫先生が幕府の命を承けて門人百餘人を指揮し始めて洋式の歩砲兵隊操練
   等を行ひし處とす
   大正十一年六月                   高島秋帆先生紀功碑建設首唱者


 区の説明板は以下の通り。

   徳丸ヶ原
   江戸時代の中期まで高島平、新河岸、三園の地域は徳丸ヶ原と呼ばれる一面の野原であっ
   た。ところが享保四年(1719)はじめてこの原で鉄炮が試射され、寛政四年(179
   2)には幕府の正式の砲術稽古場となり、幾度か銃砲の四社が行われた。
   そのうち特に有名なのは天保十二年(1841)五月、高島秋帆の指揮の下に行われた最
   も大規模な新式兵法による銃砲射撃と洋式訓練である。これは我が国の軍事・文化史上画
   期的な出来事であった。その際使用されたのはホウィッスル砲やモルチール砲などで、こ
   れが現在の新高島平駅近くに並べられ荒川方向に向けて発射された。当時宿舎にあてられ
   た松月院にはその状況をえがく掛図が保存されている。ここは大正9年東京都の史跡に指
   定され、昭和61年には板橋区の登録記念物に認定されている。
   昭和61年3月                         板橋区教育委員会


 嘗て弁天塚にあった都の説明板は以下の通り。

   都旧跡 徳丸ヶ原
   所在 板橋区徳丸町 徳丸本町 下赤塚町 四葉町 西台町
   指定 大正9年3月
   德川時代の天保年間(1830~1844)に入るころ、外国船はしばしば日本近海に現
   れ、わが国の■■を破った。天保十一年(1840)中国ではアヘン戦争が起こり、高島
   秋帆は洋式砲術の採用を幕府に建議した。翌天保十二年(1841)秋帆は幕府の招きに
   応じ、門下生らを指揮して、この徳丸ヶ原に洋式の訓練と火砲の実弾射撃を行い、戦闘力
   を遺憾なく発揮し、幕府の高官を驚かせた。翌年幕府は■なして砲術教育を行わせる一方
   異国船は払■を改め、日本■与を許すようになった。
   徳丸ヶ原は明治以降開発が進み、大きく変貌しているが、現在この弁天塚高島秋帆が自ら
   指揮に立った地点であると伝えられている。
   昭和45年3月1日                       東京都教育委員会


■高島第一小学校 移転
 
高島平8丁目26番1号に、昭和46年東京都板橋区立高島第一小学校として開校(児童数482
名)。4月22日校章制定。5月8日校舎落成・開校記念式典。5月9日この日を本校の開校記念日
と定める。11月5日校旗制定。同48年5月1日校歌制定。

 校歌「古い歴史の」 作詞:香取一  作曲:小久保昭一
  1.古い歴史の徳丸の
    緑の中に建設の
    槌音高く木霊する
    はばたけ強くいつの日までも
    高島一小 わが母校
  2.輝く太陽 身に浴びて
    元気一杯 胸張って
    みんな仲よく助け合い
    はばたけ強くいつの日までも
    高島一小 わが母校
  3.秩父の山並 遠く見て
    思いは高く新しく
    負けず挫けず健やかに
    はばたけ強くいつの日までも
    高島一小 わが母校


 同52年新河岸小学校へ664名転出。4月1日新校舎(高島平7丁目45番1号)へ移転。
 


■高島第一中学校
 
高島平8丁目26番1号にある区立校。


  1.今開けゆく高島の
    我が学び舎に光あり
    自律の心 磨きつゝ
    共に掲げん青雲の旗
    一中 吾等が母校
    高島一中
  2.徳丸ヶ原 秋帆の
    歴史を伝う縁(ゆかり)の地
    学びの努力弛みなく
    共に励まん研学の道
    一中 われらが母校
    高島一中
  3.緑の息吹く北の街
    あかねの空に理想の陽
    平和の誓い永遠(とこしえ)に
    共に開かん文化の扉
    一中 われらが母校
    高島一中
 


■熱帯環境植物館
 
高島平8丁目29番2号にある区の施設。板橋清掃工場の廃熱を利用して熱帯環境を作っている。
それほど広くはないが、見学路の取り方とそのプロデュースの巧みさなのか、時間を忘れてしまう。
展示されているのは、日本と非常に関わりの深い東南アジアの熱帯雨林の再現で、水中潮間帯植生・
熱帯低地林・集落景観・雲霧林と見学路も実際に標高を上げながらの見学となる。開館は月曜日(祝
日の場合は翌日)・年末年始の休館日を除く毎日の9時~17時。(12~2月は16:00まで)
 03-5920-1131
 


■弁天塚跡
 現在は都営地下鉄新高島平駅の高架下となり、塚を伺う術は何もない。この塚の側で、嘗て高島秋
帆が指揮を執って洋式砲術訓練が行われた。弁天塚にあった都の説明板は以下の通り。

   都旧跡 徳丸ヶ原
   所在 板橋区徳丸町 徳丸本町 下赤塚町 四葉町 西台町
   指定 大正9年3月
   德川時代の天保年間(1830~1844)に入るころ、外国船はしばしば日本近海に現
   れ、わが国の■■を破った。天保十一年(1840)中国ではアヘン戦争が起こり、高島
   秋帆は洋式砲術の採用を幕府に建議した。翌天保十二年(1841)秋帆は幕府の招きに
   応じ、門下生らを指揮して、この徳丸ヶ原に洋式の訓練と火砲の実弾射撃を行い、戦闘力
   を遺憾なく発揮し、幕府の高官を驚かせた。翌年幕府は■なして砲術教育を行わせる一方
   異国船打払いを改め、日本■与を許すようになった。
   徳丸ヶ原は明治以降開発が進み、大きく変貌しているが、現在この弁天塚高島秋帆が自ら
   指揮に立った地点であると伝えられている。
   昭和45年3月1日                       東京都教育委員会


■新高島平駅
 
高島平9丁目1番にある都営地下鉄三田線の停車場。昭和43年都営6号線の最初の区間である巣
鴨~志村(高島平)間が開業した時に設けられた駅。ホームは高架相対式2面2線構造で2階にある
。ホームと改札階を結ぶエレベーターは西口側に設置されている。改札口・出口は東口・西口の2ヶ
所。元々は東口しかなかったが、平成16年に西口が新設された。
 駅の北側には、三田線の車両基地である志村車両検修場がある。この車両基地は、一部が人工地盤
で覆われており、その上には都営西台アパートが建っているという特殊な構造をしている。車両基地
への分岐は高島平側にあるので、西台止まりの列車はない。
 


■高島第四小学校 閉校
 
高島平9丁目1番にあった区立校。昭和48年開校、平成14年3月高島第六小学校に吸収され
て閉校した。

 校歌「徳丸ヶ原に」  作詞作曲不明
  1 徳丸が原にそそりたつ 
    知恵と力のまなびやで 
    ともに明るく健やかに
    学ぶ瞳のかがやきは
    ああ高四小 われらが希望 
  2 大地うるおす荒川を
    遙かに見下ろすまなびやで
    力を合わせひたすらに
    仰ぐ四葉のはためきは
    ああ高四小 われらがほこり
 


■高島平九丁目児童遊園
 
高島平9丁目2番1号にある区立公園。


■高島平九丁目公園
 
高島平9丁目19番1号にある区立公園。


■高島平九丁目第二公園
 
高島平9丁目30番1号にある区立公園。


板橋清掃工場
 
高島平9丁目48番1号にある板橋区の塵芥焼却炉。平成11年着工。同14年竣工稼働。余熱に
よる高温水を、区立の高島平温水プール・熱帯環境植物館・高島平ふれあい館・障害者福祉センター
と都立板橋養護学校に供給している。03‐5945‐5324

 
水銀混入による焼却炉停止
 問題が発覚したのは平成22年6月中旬。足立清掃工場2号炉の排ガスに含まれる水銀の濃度が自
主的に定めた基準値を超えたため焼却炉を停止した。7月1日板橋の2号焼却炉においても廃棄煙中
の水銀濃度が異常値を示したため停止した。さらにその後、練馬や世田谷など合わせて5つの焼却炉
で基準値を超える水銀が検出され、板橋は17日に回復したものの、7月末現在も4つの焼却炉が停
止したままとなっている。処理できていないごみは23区合計で少なくとも10000tに及ぶ。東
京23区清掃一部事務組合の大塚好夫技術課長は、

   4つの工場が停止をするということは経験したことがありません。排出者か運搬者か分
   からないが、特定作業を進めていきたい


 と話している。記録を辿れば搬入車が特定され、その日のコースを再現すると採集場所・犯人が判
るらしい。どエライこっちゃ。検出された水銀の濃度は〝医療用の血圧計4本分〟に当たり、こうし
た廃棄物が不法投棄された可能性がある。健康への被害はないが復旧費用は2億8000万円を超え
る見通しで、組合は刑事告訴の検討に入った。
 
 


【大門】(だいもん)                       昭和47年12月1日
 下赤塚村。明治22年赤塚村大字下赤塚
昭和7年板橋区下赤塚町同47年下赤塚村の一部を現
行の「大門」とした。
 参考資料:「東京都住所表記に関する資料」。他に「板橋区史」など。

 
大門の由来
 松月院か、赤塚城に関わる総門があったことによる。通称高島大門。交差点の名前として知られ
ている。大門の跡は不明だが交差点から南に上がる坂道が右にカーブして追分となる辺りだろう。
諏方神社の位置からして妥当だ。
 

■大門観音堂(源後成法観音堂)
 大門2番6号の共同墓地にある民家風の建物。墓碑の他に石造物が幾つかある。 


■稲荷社

 大門3番6号の共同墓地


■下赤塚富士塚 浅間神社
 大門5番の諏訪神社管理用地にある明治15年築のローム土主体の富士塚。十羅刹を合祀してある
という。比高4m、講碑は22基が確認されている。
 浅間神社碑・日御子之碑・食行身禄霊神碑・御嶽山鳥居建設記念碑・鈴原大神宮碑・代参講中碑・
奉納碑・御室浅間神社大神碑・秋葉神社高尾山最乗寺碑・角行霊神碑・御座右浅間神社碑・薬師嶽碑
・丸吉講亀石碑・丸吉講烏帽子磐碑・小御岳神社碑・南無妙法蓮華経清正公大神碑・参明藤間山碑・
和久泉碑・釈迦割碑・駒ヶ嶽碑・泉ヶ瀧碑・開運大黒天碑。
 


■赤塚諏訪神社
 大門11番1号にある。祭神は建御名方神。創建は文明年間(1469~87)、赤塚城主千葉自
胤が信州の諏訪大社の分霊を勧請してここに祀り、城の鬼門除けにしたという。しかし位置的には真
東で、鬼門(東北)の方向にはない。江戸時代の記録には「十羅刹を合祀して村の鎮守とする」とあ
る。その十羅刹は明治の神仏分離令により、正殿から移されて大堂(松月院)へ、大正初年に再び引
き戻されて、離れた境内の富士塚のふもとに祀られるようになった。古い写真を見ると草っぱらに無
造作に放擲されたように素朴な佇まいで建っていた。現在の神社は都心の神社のように整備され、現
代風の社殿が軽々しい。伝統の「田遊び」神事は国の無形文化財に指定されている。

 
夫婦銀杏
 社殿の左右に立つ巨木。

   赤塚諏訪神社の夫婦イチョウ(一対)
   樹種 いちょう(イチョウ科)。樹高約20m。目通り、雄株は約500cm。雌株は約
   420cm。樹齢不明。
   本殿向かって右側に雄株、左側にやや小さい雌株が立っている。
   この夫婦いちょうは、夫婦和合、子孫繁栄などの信仰と結びついて人々の心のよりどころ
   となっている。
   平成6年度、板橋区登録文化財の天然記念物(名木・巨樹・老樹)とした。
   平成8年3月                          板橋区教育委員会

 
諏訪神社田遊びの碑
 毎年2月11日の夜に行われる徳丸北野神社に続いて、2月13日の夜に行われる神事。年の初め
に歳神(としがみ)に対してその年の農耕の豊かさを願う予祝行事。理想的な稲作過程を模擬的に演
じてみせる類感呪術で、「御田」などとも呼び,多く農山村で小堂の修正会(しゅしょうえ)で演じ
られる。また「春田打」「春鍬」「庭田植」などと呼んで家ごとの行事とするところもある。類感呪
術の方式には、京都府日吉町田原・愛知県設楽町田峰などのように身振を主とする演劇的なところや、
さらに奈良市手向山八幡宮・大阪市平野区杭全(くまた)神社などのように
能狂言の要素を加えたとこ
ろ、静岡県森町小国神社・長野県阿南町新野のように唱え事を主とし言霊の呪術に重点をおくところ
などがあるが、一般的には詞章に身振や舞踊的要素をまじえて演じる。東京都板橋区徳丸や下赤塚、
静岡県大井川町藤守などがその代表だ。新春の模擬農耕儀礼は,奈良春日大社や伊勢神宮の鎌倉初期
の記録に既に見え,各地の伝承詞章の中かにも,鎌倉期の面影を残すものがあるよ。
 行事のうち「もがり」の中での踊りは北野神社と変わらない。諏訪神社に限っては神輿渡御の神事
が加わり、花槍を振りたてる奇怪な交歓の行事は独自のもの。
 
「神輿渡御」御魂の移った神輿を担いで入場し「田遊び」が始まる。
 「槍突き」 色紙が詰められた花籠を取付けた槍の前で、太鼓に合せて獅子が舞う。
 
「天狗御鉾の舞」狩袴を着た天狗が右手に大きな幣、左手に錫杖を持って、地鎮の舞を舞う。
 
「お篝り(どんど焼き)」旧年中の災厄や不幸を焼き払い、新年の家内安全と子孫繁栄を祈る。

   諏訪神社と無形文化財「田遊び」
   御祭神 建御名方神。
   創建年代は不詳であるが、赤塚の領主千葉介自胤が、長禄年間(1457~60)に信濃
   国の諏訪大社を勧請し、武運長久を祈願したと伝えられる。その後寛永七年(1630)
   頃に十羅刹女を配祀したが、神仏分離の際これを廃した。
   江戸時代の江戸名所図会には「田遊び」神事が記載されている。田遊びは、水田耕作にか
   かわる神事で、年の始めに当り、その年の五穀豊穣と子孫繁栄を祈る「予祝」の祭りであ
   る。毎年2月13日(旧暦の正月13日)の夜に行われ、本殿と大鳥居間の朝輿の渡御の
   後、社殿に設けた「もがり」の中で一年間の農耕行事が所作と唱言によって象徴的に演じ
   られている。
   昭和51年に徳丸北野神社の田遊びとともに国の重要無形民俗文化財に指定された。
   平成6年3月                          板橋区教育委員会


 ●サクラの名所
 2本のソメイヨシノが目を引くほか、サトザクラ10数本があり、春は華麗な花景色を展開する。
秋に色づくイチョウの黄葉も見事だ。
 


■都立赤塚公園・大門地区
 大門16番にある都立公園の一部。

 
しったり坂
 園内の崖線をジグザグに曲がりながら上り、大門11と14の間に出る坂。「いたばしの地名(文
化財シリーズ第81集、平成7年3月31日発行。編集板橋区地名調査団、板橋区教育委員会社会教
育課)」の68頁に、

   しったり坂・・・諏訪神社の西から「くの字」形に田んぼに下りる急坂で、かまくら道の
   道筋とされる要路でした。現在は都立赤塚公園に編入されて坂は残っていますが、一般道
   路ではありません。呼称は上体をそらせ腰を下げ、尻を垂らすように下るので「尻垂り」
   また坂の途中から清水が湧き湿気がこもるので「湿ったり」の二説があります

 とある。
  


【東新町】(とうしんちょう)1~2丁目               昭和46年10月1日
 昭和35年上板橋5~6丁目の各一部をあわせた町域を東新町とし、同46年新住居表示を実施
して現行の「東新町」が確定した。
 参考資料:「東京都住所表記に関する資料」。他に「板橋区史」など。

 東新町の由来
「東山町の西に新しく出来た町」という説と、東町と新田を組み合わせたという説がある。
 

■緑ヶ丘第一公園
 東新町1丁目27番8号にある区立公園。


■庚申塔
 東新町1丁目49番23号の角地にある。


■氷川神社
 東新町2丁目16番1号にある中社。祭神は須佐之男命。創建年代は不詳だが、上板橋村字上ノ根
村の開村時期頃の創建と考えられる。丘陵の斜面を利用した社域は幽邃だ。平将門を観音像に仕立て
た「太刀佩観音」も祀られている。絵馬殿には絵馬がかかり、郷土資料として農具なども保存されて
いる。戦没者の碑がある。

   氷川神社
   御祭神速須佐之男命
   上板橋村字上ノ根に鎮座し信仰を集めてきたが、その創建は明らかでない。文政六年(1
   823)の「上板橋村書上帳」に、「当所鎮守氷川宮但し宮居拝殿あり、御除地五反四畝
   歩免除一反八畝十歩」との記載がされている。明治12年村社となる。なお江古田浅間神
   社は当社の末社である。境内にある資料館は、この付近一帯が都市化によりその姿を変え
   ていくなかで、往時の姿を保存していくために有志によって昭和46年に建設され、主と
   して旧上板橋村の南部から農具や民具などが集められた。     
                                   板橋区教育委員会

   氷川神社
   御祭神は速須佐之男命です。
   当社は、旧上板橋村字上ノ根に鎮座してふるくから崇敬を集めてきましたが、その創建は
   不明だが、文政六年(1823)の「上板橋村書上帳」に、「一御除地五反四畝歩 當所
   鎮守氷川宮地但宮・拝殿有之候 一御除地中田壱反八畝拾歩社免」とあるので、江戸時代
   にはすでに旧上板橋村字の鎮守として当地に鎮座していたと考えられます
   当社の氏子の範囲は、旧上板橋村の南部に広がり、江古田駅前の浅間神社も当社の境外末
   社の一つです。なお浅間神社の境内にある富士塚は、昭和54年に国の重要無形文化財に
   指定されています。
   当社の境内にある資料館は、この地域一帯が都市化により姿を変えて行く中で、往時の姿
   を保存するため、有志によって昭和46年に建設されたものです。収蔵品には、衣食住関
   係(衣服・炊事用品等)、生業関係(農具・工具等)、社会生活関係(防災用具・信仰関
   係等)等があり、江戸時代から昭和まで千点余に及びます。昭和59年度に一括して板橋
   区の指定有形民俗文化財となりました。
   平成23年3月                         板橋区教育委員会
   ※資料館の見学は事前の予約が必要です。
 


■城北中学校・高等学校
 
東新町2丁目28番1号にある私立校。昭和16年深井鑑一郎・井上源之丞旧私立城北中学校再興
の意図を以て創立。牛込区市ヶ谷左内町の城北高等補習学校を仮校舎に「城北中学校」として開校。
同18年深井鑑一郎死去。仮校舎より上板橋村(現在地)に移転。同20年空爆により校舎焼失。
 同22年新学制により「新制城北中学校」設置。同23年新制城北高等学校設置。同28年深井鑑
一郎・井上源之丞の胸像建立。同35年創立20周年記念式典。同40年城北大町山荘建築。同45
年食堂完成。同46年創立30周年記念式典。講堂完成。同53年中学新校舎落成。同57年中学3
学級編成となる。同59年中学4学級編成となる。
 平成元年高等学校新校舎落成。同2年新校舎共通棟落成。同4年創立50周年記念式典。同5年中
高一貫教育体制完成。中学校6学級編成となる。中学校6学級・高棟学校9学級体制。

 校歌
「ああ澄み渡る」 作詞・武田祐吉  作曲・梨本丈一
  1.嗚呼澄み渡る高空に
    輝く富士の尊さよ
    厳粛徒見る自立の天地
    此処にぞ育む堅実の学
    城北 城北 自立の学園
  2.末遥かなる武蔵野の
    沃野の土の逞しさ
    決然今立つ努力の世界
    此処にぞ培う勤勉の業
    城北 城北 努力の学園
  3.漲らひゆく石神井の
    流れの水の清けさよ
    清明我あり正義の思想
    此処にぞ養う公民の道
    城北 城北 正義の学園
 


■桜川小学校
 東新町2丁目29番1号にある区立校。HPが稚拙で詳細不明。
 


武王山安養院最明寺
 東新町2丁目30番23号・32番1号にある真言宗豊山派の寺。開創は建長二年(1250)と
いう。本尊は阿弥陀如来、中興は宝永元年(1704)。豊島88観音霊場の1番札所。この場所は
上板橋村の村役場があったりして、この近隣在郷の中心地だった。寺号から、鎌倉時代の名執権と謳
われた北条時頼の中興と伝え、墓地内に「最明寺殿時頼」の五輪型供養塔を祀る。江戸時代には最明
寺塚、時頼の御影堂もあったと記されている。今の庫裏は高松藩松平家の屋敷をそのまま移したとい
われ、大名邸の遺構を見ることができる。外観が美しく落ち着いた静かな寺だ。境内もそこそこの広
さがあり名刹の一つだ。

   安養院案内
   名 称 武王山 最明寺 安養院
   本 尊 紅顔梨色阿弥陀如来(板橋区文化財指定)
   開 基 最明寺殿時順(北條時順)鎌倉時代(1250年頃)
   中 興 祐淳比丘 宝永元年(1704)寂
   宗 派 真言宗豊山派
   総本山 長谷寺 奈良県桜井市初瀬
   祖 師 宗 祖 弘法大師(空海)
       中興祖 興敎大師(覚鑁)
       派 祖 専誉僧正
   開 宗 真言密教は、インドより中国を経て、平安時代に弘法大師によって伝えられ、真
       言宗として広められました。
   敎 え 真言宗は、宇宙の根本原理を説く大日如来の真言を信仰し体得することによって
       私たちが本来備わる仏性に目覚め、この身がそのまま仏になれるという 即身成
       仏の敎えと、大日如来の智慧と真理を示した曼荼羅の思想により、総ての世界を
       包括し、密厳仏国土という理想の社会を築くことを目指しています。
   札 所 弘法大師豊島八十八ヶ所霊場一番札所
   境 内 梵鐘(国重要美術品)・最明寺殿供養塔・十三重塔・修行大師像・四国八十八ヶ
       所御砂踏み霊場


 区編纂の「いたばしの寺院」に、

   鎌倉中期正嘉元年(1257)に、北条時頼が諸国行脚のみぎり、持仏「摩利支天」を此
   地に安置し一宇を建立したことに始まるという。延宝年中火災により諸堂宇灰燼に帰した
   のを、元禄元年(1688)に江戸霊雲寺浄厳律師の高弟の祐淳大比丘が再興し、阿弥陀
   三尊を本尊として、本堂・庫裡・大師堂・鐘楼・山門等を造立して寺院の形態を整え、安
   養院と称し、近郷の真言宗の中心勢力となった。後に西新井大師末の客末に列し、上板橋
   村の長命寺をはじめ文殊院・宝蔵院(当寺に合併)・宝珠院(当寺に合併)・両眼院(当
   寺に合併)等を末寺として大いに栄えた。明治13年に火災により宝蔵を焼き、従来の古
   文書・什器等の大半を消失し僅かに「厨子入釈迦四面像」「紅頗梨色阿弥陀像」等少数を
   残すのみとなった。65世宥和権大僧正が住職となるや、大正6年に本堂・鐘楼等を大い
   に改め、昭和4年には庫裡を他より移築して寺観を一変して今日に至る。


 とある。

 
本尊阿弥陀如来
 御前立は紅頗梨色(ぐはりじき)阿弥陀如来といい、孔雀の背に乗り、否の落ちる西方を表わす赤
色の仏体と、孔雀が拡げた金色の尾羽とは見事な対照を示し、類の少ない尊像で、室町期の作といわ
れる。また戦国大名武田徳栄軒信玄入道晴信の念持仏といわれた、カラクリ造り釈迦一代像なども貴
重な芸術品だ。

 
修行大師像
 境内にある立像。

   四国御砂踏霊場開創修行大師像建立 由来之記
   真言宗の開祖 弘法大師空海は宝亀五年(774)讃岐国(香川県)に生まれ、承和二年
   (835)高野山にて御入定されるまでの62年の間、真言の教えを伝え広め、人々の幸
   福のために生涯を尽されました。また書道・芸術などにも優れた才能を示し、日本の文化
   史上にも大きな足跡を残されました。
   弘法大師は、若い頃から全国を修行行脚され、その霊験によって多くの人々に恵みを与え
   られました。自然の風光と穏やかな気候に恵まれた四国を一巡する八十八ヶ所霊場もそう
   した大師の修行の場で、今でも大師の御跡を慕って巡礼するお遍路さんの姿が絶えません。
   ここに当院では弘法大師修行像を建立し、併せて御砂踏み霊場を開創致しました。この修
   行大師像は彫刻家藤島茂氏の製作によるもので、真理を求め山野を跋渉し、遠く虚空を見
   据える若き大師さまの修行の姿を表しています。
   また御砂踏み霊場は四国大師霊場の御砂を集めたもので、蓮台の石の墓には八十八ヶ所の
   浄砂がそれぞれ収められています。古来、この御砂を踏んでお参りすることは四国の霊場
   を巡拝することと同じ大きな功徳があると伝えられております。どうぞ皆様の諸願成就、
   御健勝の為にお参り下さい。
   お参りは、お大師さまの正面より右廻りに一歩一歩蓮台を踏みしめ「南無大師遍照金剛」
   の御宝号を唱えつつ、合掌礼拝して御廻り下さい。「同行二人」の御心でお大師さまが皆
   様をあたたかく見守って下さいます。               南無大師遍照金剛
   平成3年4月吉日               武王山最明寺安養院第67世和成敬白


 
梵鐘
 鐘楼にかかる元禄の梵鐘は乳頭をつけず、五つの鐘座に真言五仏を梵字で表わす特殊な型だ。国の
重要美術品に指定されている。

   安養院の梵鐘
   御本尊阿弥陀如来。宗派真言宗豊山派。武王山最明寺と称する。
   創建年代は不明だが、寺伝によると北條時頼がこの地に一宇を建立したことに始まり、寺
   号の最明寺もこれにちなんだものと言う。「新編式蔵風土記稿」には、正保の頃までは時
   頼の御影堂や供養塚などがあったと記されている。
   本堂に安置されている紅頗梨阿弥陀如来像は、室町時代の作と言われ、羽を広げた孔雀の
   背の上にある蓮華座に坐す、類例の少ない仏像である。また、大師堂の釈迦四面像は、武
   田信玄の守本尊と伝え、厨子内に木片を組み上げて巌山を作り、四体の木造の釈迦像を配
   して釈迦の誕生から入滅までの姿を表している。
   境内の鐘楼の鐘は、元禄二年(1689)鋳造のものを享和二年(1802)に再鋳され
   たもので、鐘面を五区に画し、百字真言を梵字で表すもので、昭和24年に国の重要美術
   品に指定され、昭59年板橋区の登録文化財となった。
   平成7年2月                          板橋区教育委員会

 
安養院のカヤ
 境内にある。

   安養院のカヤ
   樹種、かや(イチイ科)。樹高、約16m。目通り、約360cm。根回り、約380c
   m。樹齢、推定300年以上。
   このカヤは、区内に現存するカヤのうち最大のもので、白蛇の住むという言い伝えもある
   巨木である。
   9月頃には楕円の実をつける。境内にあるため、環境条件にも恵まれ生育状況も良好であ
   る。また、この地域のカヤの多くは安養院のカヤの実生を移植したものといわれている。
   平成6年度板橋区登録文化財の天然記念物(名木・巨樹・老樹等)とした。
   平成8年3月                          板橋区教育委員会
 


■上板橋村役場跡
 東新町2丁目36番5号にある。

   上板橋村役場跡
   江戸時代に川越街道の宿駅になっていた上板橋宿は、現在の弥生町・東山町・東新町・常
   盤台・南常盤台・桜川・上板橋・大谷口・大谷口上町・大谷口北町・向原・小茂根、そし
   て練馬区の旭丘・小竹町を含む大きな村でした。明治5年の調査では、戸数405戸、人
   口は2367人でした。
   明治22年の町村制施行にあたって、江戸時代の村をいくつか合併して新町村が編成され
   るのが普通でしたが、上板橋は単独で上板橋村となりました。役場は、当初安養院の玄関
   や境内の建物を使用していましたが、昭和2年にこの場場所に新庁舎を建築しました。以
   後、昭和7年に上板橋村が東京市に併合されるまでの5年間、ここに役場が置かれていま
   した。石柱はその当時に門柱として使われていたものです。
   この役場跡は、平成14年度に「一町三村役場跡地」として、板橋町役場跡、志村役場跡
   赤塚村役場跡とあわせて、板橋区の文化財に登録しました。
   平成15年3月                         板橋区教育委員会


■東新児童遊園
 東新町1丁目51番9号にある区立公園。
 

【常盤台】(ときわだい)1~4丁目                 昭和45年3月1日
 上板橋村。明治11年「郡区町村編制令」により北豊島郡上板橋村字原・向屋敷・中台前の内。
昭和7年板橋区上板橋町2・4丁目の内。同12年東京府告示によって常盤台1~2丁目が成立。
その後3~4丁目が成立したと思われるが時期は不明。終戦直後の地図には記載がある。『角川大
日本地名辞典』では昭和31年板橋町10丁目の一部を常盤台1~2丁目としたとあるが何かの間
違いだ。つづいて同36年常盤台1~2丁目・板橋町10丁目・上板橋2丁目の各一部をあわせた
町域を常盤台としたと記している。東京府告示というのが行政地名の変更なのか、郵便等の住所を
指すのか判らない。板橋区教育委員会発行『いたばしくの地名』でもこの点は判然としない。とに
かく新住居表示を実施して現行の「常盤台」とした。
 昭和46年以前に「常盤台1~4丁目」があったことは間違いない。
 参考資料:「東京都住所表記に関する資料」。他に「板橋区史」など。

 常盤台の由来
 東武東上線「武蔵常盤」駅前(当時北口のみ)の分譲地の名称を採用した。当初東武鉄道が西新
井と上板橋を結ぶ「西板線」の操車場予定地として昭和2年に土地を買収したものの西板線計画は
頓挫して広大な土地は使用目的を失ってしまった。今に残る大師線がその名残だ。そこで会社は田
園調布を見習って分譲住宅地に衣替えして販売することにし、昭和6年「武蔵常盤」駅を開設して
宅地造成を行った。その分譲地名が「常盤臺」だ。この常盤は駅名に因むが、駅名は公募したもの
の「下頭橋」「東武住宅」「神明前」などで採用に至る名前は見当たらなかった。そんなとき東武
の総帥根津嘉一郎が分譲地を視察、駅裏の神明社(天祖神社)に表敬参拝したところ見事な常盤木
の森に常盤の文字があった。そこで根津は「武蔵野の常盤木」にヒントを得て駅名を「武蔵常盤」
分譲地を「常盤臺住宅」とした次第だ、と東武鉄道はいう。現在天祖神社は境内を狭められ常盤木
も減ったが、イチョウ・スダジイ・クスノキ・カヤなどの巨木が残る。駅前に神社が残されている
自体、銭金最優先の心汚れた時代には奇異なことだ。残した土地の人が偉い。なお駅名は昭和25
年南口が開かれて翌26年から「ときわ台」となった。北口駅前の名物だった「常盤台写真場」の
建物は今は小金井の「江戸東京たてもの園」に移築されたが、帝都幼稚園の佇まいは昔のままだ。
 「ときわ」は「とこいわ」の転訛したもので、盤(岩)は特別の要件が加わらない限り変化しない
から「永遠不滅」を強調する形容語となり、松が常緑樹で緑葉を変えないところから常盤は松の枕
詞のように合わせものして使われる。常盤木とは常緑樹だ。
 

■日本書道美術館

 常盤台1丁目3番1号にある。美智子皇后も訪れたことがある全国でも数少ない書道に関する民間
の美術館。書道専門の美術館の建設は、書家の長年の切実な願いだった。我が国唯一の書道専門美術
館として、昭和48年に開館した。以来日本書道の名品を中心に、時には工芸など他分野とのコラボ
レーションも試みている。また審査を公開する日本書道美術館展など、公募展の正しい在り方を示す
ものとして各方面から注目を集めている。
 


■常盤台小学校
 
常盤台1丁目6番1号にある区立校。昭和35年「東京都板橋区立常盤台小学校」として開校。同
39年プール完成。同45年創立10周年記念式典。同54年給食室完成。同55年プレハブ校舎設
置。創立20周年記念式典・タイムカプセル埋設。同57年鉄筋コンクリート造り校舎4棟落成。同
60年夏季林間学校開始。
 平成元年市制100周年記念式典。同2年創立30周年記念式典。同3年全校オリエンテーリング
開始。同8年ときわフェスティバル・常小オリンピック実施。同11年創立40周年記念式典。同1
3年パソコンルーム開設・光ケーブル開通。同15年給食室改築。放課後学習チューター開始。同1
9年ネットデイ実施 全普通教室にコンピュータ設置。
樹木×だんだんあそびば 横浜建設業青年部
により設置。同21年創立50周年記念式典。
 


■常盤台公園
 
常盤台1丁目13番1号にある区立公園。
 


■中央図書館
 
常盤台1丁目28番19号にある。
 


■常盤台一丁目児童遊園
 
常盤台1丁目13番1号にある区立公園。


■ときわ台駅
 常盤台1丁目43番1号に北口がある。昭和10年に武蔵野常盤駅として追加開業した駅。駅名は
現代風だがこれは昭和26年に改称した。ホームは地上島式1面2線構造。北口駅舎へは地下道で、
南口駅舎へは跨線橋で結ばれている。南口への跨線橋にはエレベーターも併設されている。改札口・
出口は北口と南口の2ヶ所で、北口は地上1階、南口は駅ビルの2階にある。南口には、地上へ下り
るエレベーターも設置されている。駅北側にある常盤台地区は、東武鉄道が昭和初期から開発を手が
けた分譲住宅地。田園調布のような街並を目指して造られたので、駅の北口駅舎もそれに見合うよう
な瀟洒な建築様式が採り入れられている。
 


■常盤台交番
 常盤台1丁目43番1号にある日本一有名な交番。宮本警部の殉職により、供花が絶えない。お巡り
さんは却って迷惑しているのかも知れない。一旦緩急ある時は電車に突っ込まなければ物笑いとなる
からだ。
 


■自殺願望女性救助駅前交番警察官殉職事故
 平成19年2月6日午後7時半ごろ、1丁目の東武東上線の踏切で、警官と女性が下り急行電車に
はねられた。東京消防庁によると、警察官は頭蓋(ずがい)骨骨折で意識不明の重体、女性も骨盤骨
折の重傷だが、意識はあるという。板橋署によると、警官は駅近くの常盤台交番の巡査部長宮本邦彦
(53)。女性は39歳、詳しい身元などを調べている。調べでは、踏切は遮断機、警報機付きで、
東上線ときわ台駅に隣接。当時、遮断機は下りており、女性が線路内に入ったため、巡査部長が線路
から出そうとしたが、間に合わなかった。午後7時ごろ、「女性が線路内に立ち入っている」と通行
人から交番に届けがあった。巡査部長が一旦この女性を踏切から引きずり出し、交番に連れてきたが、
女性は交番から逃げ、再び踏切に入ったという。同署によると、女性は踏切内から出された際、「死
んでもいい」などと話していたという。通常3人勤務なのだが、この日偶々2人が本署に出向いてい
た間の出来事だった。不運のなせる業か? 迷惑なこった。助けん訳にはいかんしなぁ・・・

 2月12日午後2時25分 収容先病院で宮本巡査部長死亡。
 2月13日 警視庁は2階級特進させ警部とする。
 2月13日 宮本警部が住んでいた春日部市は、市民としても地域のリーダーとし
       て活躍した同警部に対して善行表彰と災害見舞金10万円を贈った。
 2月15日 内閣は旭日双光章を決定
 2月16日 安倍首相 焼香訪問

 昭和52年4月26日、警察学校を卒業する日、仲間と共に歌った『この道』


   1この道はいつか来た道
    ああ そうだよ
    あかしやの花が咲いてる
   2あの丘はいつか見た丘
    ああ そうだよ
    ほら 白い時計台だよ
   3この道はいつか来た道
    ああ そうだよ
    お母さまと馬車で行ったよ
   4あの雲もいつか見た雲
    ああ そうだよ
    山査子(さんざし)の枝も垂れてる


 3月1日 旭日双光章を授与
 宮本邦彦警部(53)に対する正七位と旭日双光章の叙位・叙勲の伝達式が板橋署内であり、妻礼
子さん(53)と大学生の長男篤史さん(20)が賞状などを受け取った。
 
6月6日東武鉄道は、今年度踏切に押しボタン式警報装置を設置することを決めた。踏切には赤外
線による自動式警報装置が置かれているが、センサーには死角がある。今後は二重の予防策で事故を
なくしたい考えだ。自動式警報装置を設置ずみの踏切250カ所のうち、25ヶ所に今年度、計6億
円かけて押しボタン式警報装置を併設する。その一つが事故現場脇の踏切だ。ほかの設置踏切は今後
決めていく。

 誠の碑
 6月16日宮本警部(巡査部長から2階級特進)を称える記念碑が交番前に建立され、除幕式が行
われた。式典は、交番に近い東武東上線ときわ台駅北口前で行われ、地元町会などで作る「記念碑を
設置する会」のメンバーや遺族、警察関係者ら約50人が出席した。同会の小林保男代表(68)が
「宮本警部の行動を後世まで伝えていきたい」と挨拶し、続いて警部の妻、礼子さんが幕を取り外す
と、出席者から大きな拍手が起こった。
 記念碑は高さ1・75メートルの御影石製。宮本警部の魂をイメージした赤い球(直径45cm)
を三つの柱(誠実・誠心・誠意)が支えている。誠実・誠心・誠意は宮本警部が警察学校の卒業記念
の寄書に書いた言葉。全国からの寄付335万円で制作された。

   誠の碑
   警視庁板橋警察署宮本邦彦警部は、平成19年2月6日、自らの命を賭して人命の救助に
   あたられました。
   「誠の碑」は、宮本警部が警察学校の卒業アルバムに寄せた「誠実」「誠心」「誠意」と
   いう心根を具象化し、制作いたしました。
   碑の文字は、小山天舟日本書道美術館長の揮毫によるものです。
   誠の火 燃やしつづけし君がみ魂 受け継ぎゆかむいつの世までも 天舟詠
   記念碑設置に際し、数多くの方々より善意のご寄付を賜りました。
   ここに感謝の意をこめて記します。
   平成19年6月                   宮本警部の記念碑を設置する会

 板橋署に記念樹・記念碑
 7月19日故宮本邦彦警部の行動を称える記念植樹が、板橋警察署で行われた。妻礼子さんら遺族
や関係者約50人が参列。伊藤哲朗警視総監が土をかけ水を注いだ。キンモクセイは香りが遠くまで
届くことから、旅立った人の思い出が遠くまで伝わるとされ、宮本警部の功績を広く伝えようと選ば
れた。同時にその隣に「崇高な警察官魂を末永く継承するため植樹する」と記した記念碑も除幕され
た。
 


■常盤台斯波家住宅
 
常盤台2丁目13番7号にある。

   常盤台・斯波家住宅
   木造2階建て近代建築 登録年月日 平成20年3月27日
   所有者 斯波都代子・斯波寛
   ときわ台駅北側の常盤台1丁目・2丁目一帯は、東武鉄道が田園都市づくりをめざし、昭
   和8年~昭和13年に駅の開設を含めた264000㎡に及ぶ区画整理により造った街で
   住宅は「常盤台住宅」と呼ばれています。
   しかし近年、建物の老朽化・生活様式の変化に伴う建替えや、相続による土地の細分化等
   建築当初の建物が少なくなってきました。
   この住宅も、平成16年に建築当初の形を維持できなくなる事態が生じましたが、現所有
   者は建築物の価値の重要性に鑑み、建物の2階部分と北側一部分と家曳きして保存しまし
   た。建築当初と比較すると規模は縮小され、位置も同敷地内にて移動していますが、広縁
   を含む4部屋が屋根を含めて建築当初のまま残っており、「常盤台住宅」の歴史を知る上
   で重要な建造物です。
   平成21年3月                         板橋区教育委員会


■常盤台北口公園
 
常盤台2丁目20番20号にある区立公園。


■水久保公園
 
常盤台3丁目15番7号にある区立公園。


■上板橋第三中学校
 
常盤台3丁目30番1号にある。HPが稚拙で詳細不明。
 


■板橋区平和公園

 常盤台4丁目3番1号にある区立公園。この公園は、旧東京教育大学の寄宿舎の跡地に、板橋区が
平和都市宣言をしたことに因み名称を「板橋区立板橋区平和公園」とし、昭和61年12月に開園
した。

 
へいわの池
 平面形は「へいわ」の文字を象っている。

   へいわの池
   板橋区は、昭和60年1月1日に
   平和都市宣言をしました。
   この公園は、平和都市宣言を記念して
   名称を、平和公園とし
   いけの形は、ひらがなのへいわの文字を
   アレンジして作りました
   この池には、長崎市の平和への願いが込められた
   平和の泉の水が注がれています。


 
へいわの灯
 核兵器の廃絶と世界の恒久平和の実現を願うシンボルとしてモニュメントとして設けた。ここに灯
されている火は、広島市平和記念公園内の「平和の灯」と、長崎市平和公園内の「誓いの灯」とを合
わせたものだ。

   板橋区平和都市宣言
   世界の恒久平和を実現することは
   
人類共通の願いである
   
しかるに現実は
   
核軍拡競争が激化の様相を示し
   
人類の滅亡さえ危惧されるところである
   
われわれは 世界で唯一の核被爆国民として
   
また 日本国憲法の精神からも再び広島
   
長崎の惨禍を絶対繰り返してはならないことを
   
強く全世界の人々に訴え
   
世界平和実現のために
   
積極的な役割を果たさなければならない
   
板橋区及び板橋区民は
   
憲法に高く掲げられた恒久平和主義の理念に基づき
   
緑豊かな文化的なまちづくりをめざすとともに
   
非核三原則を堅持し
   
核兵器の廃絶を全世界に訴え
   
平和都市となることを宣言する
   昭和60年1月1日



■教育科学館
 
常盤台4丁目14番1号にある。広く科学に関する知識の普及・啓発を推進し、次代を担う創造性
豊かな青少年の健やかな成長を図るとともに科学情報・教育情報を積極的に収集し、学校教育・社会
教育の一層の充実に貢献することを目的として設立された。
 
 


【徳丸】(とくまる)1~8丁目                最終昭和47年12月1日
 徳丸村。徳丸本村・徳丸脇村・徳丸四葉村に分かれて「徳丸三分」と呼ばれていた。明治11年
北豊島郡徳丸本村・徳丸脇村。同22年赤塚村大字徳丸本・徳丸脇となり、昭和7年板橋区の成立
により徳丸本町・徳丸町となって戦後に至る。同41年徳丸町の一部を新河岸に、同43年徳丸本
町・徳丸町の各一部を西台に譲り、下赤塚町・徳丸本町・徳丸町・志村西台町・四葉町の各一部を
あわせた町域を現行の「徳丸1~4丁目」とし。続いて同44年徳丸本町・徳丸町の各一部を赤塚
・赤塚新町・高島平に譲り、同47年徳丸本町・徳丸町・志村西台町・四葉町の各一部をあわせた
町域を現行の「徳丸5~8丁目」とした。
 参考資料:「東京都住所表記に関する資料」。他に「板橋区史」など。

 徳丸の由来
 ハッキリいって判らない。説は幾つかある。
 ①、管原道真の子徳丸の移住説。ここには北野神社・管原神社・紅梅山など菅公縁のものが多い。
 ②、鎌倉時代に新座(にいくら)郡から隅田五郎時光の嫡男徳丸転入説『妙顕寺文書』。
 ③、トーキマル(本拠地)の転訛だという渡来人移住説(『地名の語源』)などがあるが、
  本当のところは判らない。徳丸村はおおむね平坦だったので「徳丸ヶ原」と呼ばれ、幕
  末に砲術家高島秋帆が西洋砲術の実験を行ったことで有名になった。
 

■赤塚田圃
 志村の西、徳丸・四葉へて赤塚・新河岸までの荒川右岸一帯は、台地からの湧水の多い湿地帯で「徳
丸ヶ原」と呼ばれ、高島秋帆が砲術演習をしてからは「高島平」と呼ばれるようになった。ここは将軍
家の御鷹狩場で、田畑の肥料や牛馬の飼料にするための入会地で開墾は認められていなかった。明治
2年民間に払い下げられて開田が進められ、洪水対策や用水設備も次第に整えられ、大正5年で14
000俵(840トン)の米が生産され、足立田圃・葛飾田圃とともに東京の一大穀倉地帯を形成し
た。
 


■徳丸一丁目児童遊園
 
徳丸1丁目2番7号にある区立公園。


■徳丸一丁目西児童遊園
 
徳丸1丁目6番3号にある区立公園。


■徳丸タウンブリッジ公園
 
徳丸1丁目8番にある区立公園。


■徳丸小学校
 
徳丸1丁目21番1号にある区立校。HPが稚拙で詳細不明。
 


■徳丸一丁目公園
 
徳丸1丁目35番1号にある区立公園。


■徳丸一丁目緑地
 
徳丸1丁目37番26号にある区立公園。


■西徳第一公園
 
徳丸1丁目42番1号にある区立公園。


■東武練馬駅
 
徳丸2丁目2番14号にある東武東上線にある停車場。昭和6年12年29日に追加開業した。因
みに隣の下赤塚駅は、昭和5年の同日に開業している。ホームは地上相対式2面2線構造。上下ホー
ムは地下道によって連絡されている。地下道にエレベーターは設けられてないが、ホームごとに改札
がある構造なので問題はない。改札口・出口は南口と北口の2ヶ所のほか、2番線ホーム中央付近に
平日朝のみ開放される入場専用の臨時改札がある。
 東武練馬駅を名乗るが、駅自体は板橋区にある。しかし南口駅舎を出た瞬間から練馬区となってお
り、駅名が間違ってる訳ではない。この駅から下赤塚寄りの500mほどは、東上線は板橋区と練馬
区の区境上を走ってる。おっとっとっと!
 


■徳丸第二公園
 
徳丸2丁目8番5号にある区立公園。


■徳丸二丁目第二児童遊園
 
徳丸2丁目16番6号にある区立公園。


■北野高等学校 廃校
 
徳丸2丁目17番1号にあった都立校。昭和14年「東京府立第十二高等女学校」として開校。同
18年都制施行により「東京都立第十二高等女学校」と改称。同23年学制改革により「東京都立北
野新制高等学校」と改称。同25年「東京都立北野高等学校」と改称。
 平成19年都立志村高等学校と統合し「都立板橋有徳高等学校」となった。
 


■板橋有徳高等学校
 徳丸2丁目17番1号、平成19年北野高校跡に新設された都立校。

 校歌
「青き欅の」 作詞・押尾勲  作曲・猿谷紀郎
  1.青き欅の輝く丘に
    集う若者は学び行く
    貴き欅の導く丘に
    学ぶ若者は集い行く
    自由を仰ぎ規律を修め
    自由の精神を強く鍛えて
    示そう 輝ける未来へ
  2.貴き欅の導く丘に
    学ぶ若者は集い行く
    自由が満ちて心を清め
    美くし創造の豊かさを
    示そう 世界の人々に
    僕らの心を
    貴き欅を誇りに
 

■中尾不動堂
 
徳丸2丁目18番24号にある。25段の石段を上がると小さなお堂がある。境内は綺麗に手入れ
されている。堂守が心を込めて掃除しているのだろう。
 


■中尾観音堂(なこうかんのんどう)
 
徳丸2丁目20番10号にある。創建は享保十一年(1726)以前。その年銘の掛鉦が奉納され
ているからだ。この掛鉦には「武州徳丸之内中尾村馬當観音什物」と書き込まれており、これによっ
て享保十一年の段階でこの堂に馬頭観世音が祭られていたことが判る。この掛鉦の奉納者は「庚申供
養拾五人」とある。観音堂の境内に青面金剛像の庚申塔が4基あるが、それらの年代は宝永七年(1
710)、享保十八年(1733)、宝暦二年(1752)、同四年(1754)で、この掛鉦が奉
納された18世紀の前半に、この地域で庚申信仰が盛んだったようだ。
 狭い通路の参道で石段10段ほど上がる。堂は新築で綺麗。
 


■徳丸二丁目児童遊園
 
徳丸2丁目23番17号にある区立公園。


■徳石通り南広場
 
徳丸3丁目22番にある区立公園。


■北野小学校
 
徳丸3丁目23番1号にある区立校。HPが稚拙で詳細不明。
 


■昆虫公園
 徳丸3丁目37番9号の崖地の雑木林にある区立公園。小さな公園だが自由に触れることのできる
地面がある。シャベルを貸し出しているので、アリ、ミミズ、ダンゴムシ、ハサミムシ・・・昔はど
こにでもいた身近な生き物たちを見つけて観察してみてよ。
 蝶舎では、ナミアゲハ、クロアゲハ、カラスアゲハを中心に、季節にあわせて、越冬さなぎ→成虫
→卵→幼虫→夏さなぎ→夏成虫・・と飼育管理し展示している。
 


■庚申塔
 徳丸3丁目38番13号の路傍にある。


■徳丸公園
 
徳丸4丁目5番1号にある区立公園。


■赤徳公園
 
徳丸4丁目10番8号にある区立公園。


■赤塚第一中学校
 
徳丸4丁目13番1号にある。昭和22年都立北野高等女学校6教室を仮校舎に「東京都板橋区立
赤塚第一中学校」として開校。同24年木造2階建て校舎12教室及び附属教室落成、移転。同33
年復旧校舎(鉄筋3階建、12教室、特別教室3、管理室4)落成。同42年心障学級設置。同52
年創立30周年記念式典。同59年第二美術室完成。給食室増改築。
 平成元年金工室、第二理科室改修。同2年体育館完成。屋上改修・外壁改修。同3年パソコン教室
開設。同4年和室「赤心庵」開設・学校の森完成。職員室・校長室拡張改修。同8年地域防災井戸、
救護室完成。同9年創立50周年記念式典。同16年体育館屋根葺き替え。同19年創立60周年記
念式典。同20年西側校舎改築。乾式給食室完成。同21年中央・東側校舎大規模改修。

 校歌
「光は彩に」 作詞・松尾子濺  作曲・佐藤敬子
  1.光は彩に野辺に照り
    風香しく丘に吹く
    徳丸ケ原 学び舎に
    男女
(おのこおみな)の友垣よ
    睦び励まむ朝夕
(あしたゆうべ)
  2.東筑波の峰遠く
    西は遥けき富士ヶ峰に
    男
(おのこ)よ 高き心求(と)
    女
(おみな)よ 清き心求(と)
    競い学ばむ朝夕
(あしたゆうべ)
  3.若き吾等が眉燃えて
    若き吾等が夢彩に
    正義の心 いや強く
    自由の心 いや聖く
    輝き満てり吾等が望み
 


■徳丸本町公園
 
徳丸4丁目20番10号にある区立公園。


■庚申塔
 徳丸4丁目20番28号ほっぺるランド徳丸の角地にある。以前ここは駐車場だったが、ほっぺる
ランドが建って、トタン屋根の覆屋が装いも新たに美しく整備された。3基はそのままだ。、


■徳石公園
 
徳丸5丁目10番16号にある区立公園。


■庚申塔
 徳丸5丁目12番9号の駐車場の奥にある。舟形光背型、日月・青面金剛像・二鶏。像
右「奉造立
庚申像二世安樂処 願主石井道宥」。
左「元禄十三庚辰年五月吉日」


■石川橋公園
 
徳丸5丁目14番1号にある区立公園。


 庚申塔
 園内にある。


■庚申堂
 
徳丸5丁目30番8号の安藤家の敷地にあり、外から参拝できる。


■徳丸三ツ和公園
 
徳丸5丁目32番9号にある区立公園。


 窪口の庚申塔
 
公園の東北角にある。

   窪口の庚申塔
   人の体内には三尸という3匹の虫がいて人の罪や過ちを観察しており、庚申の日(60日
   に一度回ってきます)に人が寝ると三尸が体内から抜け出して天帝に罪過を報告し、それ
   によって寿命が削られると信じられていました。そこで庚申の夜に人々は集まり、三尸が
   抜け出さないように祈祷や飲食を共にして徹夜するという風習がありました。この集まり
   が庚申待・庚申講で、その集団によって建てられたのが庚申塔です。
   この庚申塔は、寛延三年(1750)に徳丸郷講中12人により、この周辺の小字「窪」
   に造立されたもので、窪口の庚申塔と呼ばれています。最初に建てられた場所ははっきり
   しませんが、長い間安楽寺参道入口脇に立っており、平成17年9月にこの場所に移動し
   ました。なおこの塔を造立した講は、現在も「窪口庚申講」として存続し、活動していま
   す。このように、この庚申塔は当初の位置からは動いていますが、今なお窪地区に立ち、
   この地域の民間信仰及び歴史を伝える貴重な資料です。
   平成18年3月                         板橋区教育委員会


■延命地蔵尊
 
徳丸5丁目38番11号の民家のブロック塀に切り込んで建ててある。屋根はブロック塀に取り付
けてある。


■庚申塔・馬頭観音 
 
徳丸6丁目6番にある。


■徳丸高山公園
 
徳丸6丁目11番14号にある区立公園。


■徳丸ヶ丘公園
 
徳丸6丁目27番11号にある区立公園。


■郷土芸能伝承館
 
徳丸6丁目29番13号にある。区内に残る郷土芸能の伝承に寄与し、区民の文化の向上を図る目
的として平成元年に開館した。〝郷土芸能〟の伝承、後継者育成等のための練習場。区民皆さんの利
用をお待ちしていますとのこと。
 


■北野神社(区内最古の神社)
 徳丸6丁目34番3号にある。祭神は菅原道真。江戸時代は天満宮または天神社といったが、明治
6年新政府の強制により北野神社に改められた。社伝によると昔この地に疫病が流行した時、梅の古
木に祈りを捧げたところ疫病が忽ち退散したこことで、梅に付き物の菅原道真を京都の北野神社から
分霊して貰ったのが始まりという。今の社殿は昭和38年の改築。その前の拝殿は、関東地方でも数
少ない古い様式を備えていた。改築時、神殿にも覆屋が造られたが、神殿の回りの彫刻は素晴らしい芸
術品だった。
 改築時、奥から発見された『天神宮紀』に、長徳元年(995)創建とあり、由来も詳しく記録さ
れている。社殿を建て京都北野天神の分霊を祀った。その時に祝いとして奉納したのが「田遊び」な
んだと。万葉仮名で記載されてるってよ。境内には須賀神社・稲荷神社・石上神社・杵築神社など境
内社が建ち並ぶ。3つの鳥居は大きな梅の木に覆われ、石製の柵の内側は紅白の梅がびっしりと植え
込まれ、2月~3月にかけては美しい花景観を見せてくれる。

 
田遊び神事
 毎年2月11日に徳丸の北野神社で、2月13日に高島大門の諏訪神社で行なわれている国の重要
無形文化財(昭和51年指定)。水田耕作に関わる行事で、年の始めにその年の五穀豊穣と子孫繁栄
を祈願するため、当夜農民が実りを司る田の女神を招き、その神前で、農家一年間の農耕行事を順を
追って、面白おかしく稲作の作業内容を唱える言葉と所作によって踊りを演出し奉納する。

 獅子舞
 北野神社の神事。一人が1頭の獅子頭をかぶる日本獅子。また風流獅子とも三匹獅子ともいわれ、
雌雄三頭の獅子が、ぼたんの花園の中で、男女愛欲の葛藤を演じる優雅華麗な民俗芸能だ。毎年5月
5日に国家安穏、悪疫退散を祈願して奉納される。


■庚申塔
 
徳丸6丁目50番3号の駐車場端にある。


■庚申塔
 徳丸6丁目53番2号にある。


■都立赤塚公園・辻山地区
 
徳丸7丁目4番にある都立公園の一部。この公園は2kmに亘る細長い公園で、道路で寸断され、
中央・辻山・徳丸ヶ丘緑地・番場・沖山・大門・城址各地区の7つの公園からなる。
 


■稲荷社
 
徳丸7丁目15番の東北角近くの畑中にある小祠。道路から参拝できるよ。


■庚申塔
 
徳丸7丁目18番6号の公園寄りの東北角にある。脇にある石碑。

   當庚申塔は正徳二年辰拾月吉祥日豊島郡徳丸村字広太郎に齋氏してったが毎年の出水のた
   め明治拾年七月吉祥日に徳丸字辻山一九九九の三番地に、移轉安置され、廣く村内外の信
   仰を集めて二百五十年に及び講中代々庚申待を行い、その加護を得て今日に至る。而るに
   この度地域発展のため区画整理の実施に伴い、ここに講員の総意をもって昭和五十二年五
   月吉祥日に講員篠田裕夫氏所有の地徳丸七丁目十八番地に清域なるこの地に遷座す
   昭和五十二年五月吉日                       元地主・・・・


■紅梅公園
 
徳丸8丁目5番にある区立公園。

 
「お話上手」
 西北角の公園入口にある杉本繁のオブジェ3基。

   『お話上手』
   杉本繁 作
   東京都市計画事業四葉二丁目付近
   土地区画整理事業完成記念


 
番場口の庚申塔
 園内にある。

   番場口の庚申塔
   江戸時代には、人の体内にいる三尸という3匹の虫が、いつも人の罪や過ちを観察してい
   て、60日ごとに回ってくる庚申の日に人が眠りにつくと、体内から抜け出して天帝に罪
   や過ちを報告するので、天帝から寿命が削られるという考えが庶民に広まっていました。
   そこで庚申の日の夜に三尸が抜け出さないように、人々が集まり徹夜で祈祷や飲食を行う
   という風習がありました。この組織が庚申講で、その講の継続を記念して建てられた石造
   物がが庚申塔です。
   この庚申塔はその刻銘通り、元々は西台から成増方面の台地下の崖線に沿って通っていた
   峡田道と呼ばれる道に面して建っていました。現在の徳丸8丁目17、23番間の「赤塚
   公園交差点」の辺りです。その後、高島平地区の造成や、四葉地区の土地区画整理事業等
   により二回移動した後、平成16年6月にここに移りました。昔は、紅梅公園から赤塚公
   園交差点辺りまでが「番場」とい地名でしたので「番場口の庚申塔」と呼ばれています。
   移動はしましたが、今も番場地区内に建ち、歴史を伝えています。
   区内には190基の庚申塔が存在しており、教育委員会では平成16年度にそれらを一括
   して文化財に登録しました。
   平成23年3月                         板橋区教育委員会


紅梅山来迎院 安楽寺
 徳丸8丁目9番1号にある真言宗の寺。開山は尊栄、応永年間(1394)ごろ創建という。本尊
は阿弥陀如来像。明治7年公立紅梅学校がこの寺を仮教室として開校。徳丸地域の教育の発祥地だ。
永仁五年(1297)を始めとした数基の板碑が保存されている。

 
庚申塔
 門前にある。青面金剛像のくっきりとした浮彫の石塔。

 
徳丸観音像
 尊像の高さ約4尺、組木造りで鎌倉中期の作という。江戸時代の修理により玉眼をあけ、雲裳を施
し、光背を飾り、金箔をおいた。体内に製作時、造立者の願人僧応祐の墨書銘が残り、天正十四年(1
586)・元禄九年(1696)の修理銘もある。区内最古の仏像で、しかももっとも優秀な尊像で
あり、脇侍の不動尊・毘沙門天の両像は、室町期の製作と見られる。ともに優れた文化財だ。
 


■紅梅小学校
 
徳丸8丁目10番1号にある区立校。HP稚拙のため沿革不明。

 校歌
「空より広き」 作詞・向山栄造  作曲・山本正夫
  1.空より広き武蔵野の
    徳丸原の名をおいて
    希望に輝く我が友よ
    眺め尽きせぬ学び舎に
    心も広く体をも
    豊かに修め養えよ
  2.色香床しき紅梅の
    清き姿を偲びつつ
    此処に集える我が友よ
    誠 情けの教えをば
    朝な夕なの鑑にて
    その馨しき名を上げ


■赤塚公園・東地区
 
徳丸8丁目17番にある都立公園の一部。
 


■赤塚公園・番場地区
 
徳丸8丁目23番にある都立公園の一部
 


■栗山村記念公園
 
徳丸8丁目24番6号にある区立公園。
 


【中板橋】(なかいたばし)                    昭和45年10月1日
 上板橋村と下板橋村が接する一帯。昭和7年上板橋1丁目・板橋9丁目。同32年板橋9丁目・
上板橋1丁目の各一部をあわせた町域を駅名から採って中板橋とし、同45年新住居表示を実施し
て現行の「中板橋」とした。
 参考資料:「東京都住所表記に関する資料」。他に『板橋区史』など。

 中板橋の由来
 中板橋村があった訳じゃない。昭和初期都内にプールはそれほど普及していなかった。この辺り
の子供は東上線の鉄橋を利用して石神井川に飛び込んで遊ぶので、東武鉄道が地元の人たちに「鉄
橋で遊ぶことは危険なので水遊び場を作るように」申し入れた。そこで人々は下板橋村の字久保田
と呼ばれていた辺り(現在の中板橋30番辺り)の石神井川の曲がり淵に夏場限定の淡水浴場を提
供した。ところがそれが馬鹿当たりして遠いところからも電車に乗って弥って来たので、人々は資
金を出し合って「遊泉園」を設立、縦50m×横25mの公認プールをオープンさせた。しかし遠
方の利用者は炎天下を下板橋駅か上板橋駅から歩かねばならず、昭和6年に大山駅が出来たが歩か
ねばならぬことには変わりはなかった。そこで遊泉園は東武鉄道に掛け合って夏場だけの臨時駅を
設置して貰った。しかし昭和8年東武は常設駅とすることにし遊泉園側に駅名の即答を求てきた。
それで遊泉園としては上・下板橋駅の中間にあることであり単純に「中板橋」と回答した。だから
中板橋は中板橋駅だ!
 

■なかいたプチパーク
 中板橋9番13号にある区立公園。


■中板橋新生館スタジオ
 中板橋19番6号ダイアパレス中板橋地下1階にある。稽古場・公演の場として広く開放、約11
m×9mのスペースで天井高4m! 自由度の高い利用が可能だよ。リーズナブルな料金で気軽に利
用できるぞ。
03-3964-0423
 


■中板さくら公園
 中板橋19番11号にある区立公園。


■中板橋駅
 
中板橋29番にホーム全体はあるが、駅舎は弥生町33番1号にある。
 


自保山福泉寺
 
中板橋29番2号にある曹洞宗の寺。本尊は釈迦牟尼仏、開創は寛保元年(1741)。昭和17
年に埼玉県坂戸市から移転してきた。本堂は旧地の100年前の観音堂を改造したものというが、実
際は鉄筋コンクリートだから、内部にすっぽり入ってしまって、それが修復されているのかもしれな
い。本堂の裏は墓所。庫裏・寺務所・催場は2階。入口に延命子育地蔵が安置されている。
 区編纂の「いたばしの寺院」に、

   宗派は曹洞宗で、自保山福泉寺と号し、御本尊は釈迦牟尼仏です。
   即萬慧忍大和尚が寛保年間(1714~44)に創建したとされますが、詳細な沿革は明
   らかではありません。昭和17年11月に埼玉県坂戸町関間新田より当地に移転してきま
   した。
   門前の地蔵堂には、延享三年(1746)に造立された延命子育地蔵が安置されています。
   このお地蔵さまは昭和20年代に一時期商店街に移動され、これをきっかけに縁日が始ま
   るなど、中板橋の復興にも大きな役割を果たしました。当寺が移転して来る前、この辺り
   には石神井川の水を利用したプール(遊泉園)があり、その利用者のために夏季には臨時
   の駅が開設されました。その後昭和8年に常設となり、中板橋駅が誕生しました。


 とある。
 


■中板橋児童遊園
 中板橋29番3号にある区立公園。
 

 

【仲宿】(なかじゅく)                      昭和45年10月1日
 板橋宿の中宿。明治22年板橋町大字下板橋、昭和7年板橋区板橋町1~10丁目。同32年板
橋町5・6・8・10丁目の各一部をあわせた町域を仲宿とし、同45年新住居表示を実施して現
行の「仲宿」となった。
 参考資料:「東京都住所表記に関する資料」。他に『板橋区史』など。

 仲宿の由来
 下板橋宿の平尾宿・中宿・上宿の内の中宿による。下板橋の山中村の次男三男に宿屋を営業させ
た。だから仲宿は板橋本陣跡だ!
 

加賀山照伝寺
 仲宿11番8号にある日蓮宗の小寺。モルタルのアパートに入口だけ和風にしたような佇まい。
 


仲宿児童遊園
 仲宿24番11号にある区立公園。


幡場山(智恵山)文殊院大聖寺
 仲宿28番5号にある真言宗豊山派の寺。寺門は武家屋敷から移築したもの。その側に信仰の篤い
延命地蔵や、寛文四年(1664)造立の庚申塔が立っている。この寺の開基は飯田新左衛門。同家
の菩提寺で歴代の墓がある。墓地の隅に宿場女郎の墓もある。この寺は俗に智恵寺とか出世寺といわ
れ、この寺で修行した遊行僧がここで勉学を積み、それぞれ江戸の大寺に栄転していった縁起の良い
寺だった。閻魔堂の本尊は、乗蓮寺のそれとともに宿場の2大閻魔として信仰された。また堂内にあ
り、やたらに扉を開けると目が潰れると信じられた旭観音の本体は、古代遺物の石棒であるのも珍し
い。「新編武蔵風土記稿」に、

 
  新義真言宗上板橋村安養院門徒、幡場山と号す。本尊文殊、墓所に性恵法印寛文十二年七
   月十九日と勒せる碑あり、是開山の僧ならんと云、什宝に雷斧一つ所蔵せり。


 と記してある。区の説明板に、

   真言宗豊山派、幡場山大聖寺と号す。本尊は文殊菩薩。江戸初期、本陣飯田家の菩提寺と
   して、古くから信仰を集めていた延命地蔵尊の境内をひろげて建立された。開山は寛永二
   年(1625)に入寂の権大僧都慶恵と伝える。天保六年に全焼し、安政以降正住職を置
   かず、赴任する仮住職も短期間で他の大寺へ転住し出世寺とも呼ばれた。
    山門脇に延命地蔵堂、境内に二大閻魔を祀る閻魔堂、足腰の守り神として知られる子の
   権現がある。閻魔堂内には、文化年間に番場原出土と伝えられる石棒が朝日観音として祀
   られている。墓地には史跡として有名な宿場時代の遊女の墓がある。本堂内には、板橋七
   福神の毘沙門天が奉安されている。飯田家墓地の飯田静の墓碑は昭和63年度に、また本
   尊文殊菩薩は平成元年度に板橋区の有形文化財に登録された。   板橋区教育委員会


 とあり、区編纂の「いたばしの寺院」には、

   江戸初期、板橋宿の名主、本陣の飯田家の菩提寺として、それ以前から既に信仰を集めて
   いた延命地蔵の境内をひろげて建立された。天保六年に全焼し、続いて天明五年、明治十
   七年と火災・風害にあい、建物古記録等悉く焼失してしまった。特に安政以降は正住職を
   おかず、赴任の仮住職も多くは短期間で他の大寺へ転住して行ったので、世に智慧山出世
   寺と宣伝された。このことは却って檀徒の散逸、境内の削減に大きく影響し、明治の中葉
   には閻魔堂の除地までも失った。明治40年には小規模の堂宇が整ったが、それも大震災
   で大破してしまった。大正の中期までは選任の住職は不在であったらしいが、現住職の来
   住によって漸く今日の面目に復興した。昭和15年に旧来の本末の関係を打ち切り、奈良
   県の総本山長谷寺に直属した。しかして戦後は法改正により旧の本末関係は消滅している


 とある。
 


■伊勢孫跡
 仲宿34番はこの大旅籠の跡地。一日200人の客を泊めるキャパシティがあったという。
 


成田山(大日山)遍照寺
 仲宿40番7号にある真言宗の小寺。現在の遍照寺とは別に天台宗の寺があった。創建は16世紀
半ばごろという。廃仏毀釈によるものか明治4年廃寺となった。
 明治14年成田不動尊の分身を祀り旭不動堂と名を変えて成田新栄講の精神道場となり、同22年
真言宗智山派の寺院として復活、山号を成田山と変えたが、寺号は昔のまま遍照寺を称えた。本堂は
残り、鄙びた姿のまま昭和30年ごろまでひっそりと町裏に息を潜めていたが、改築。参道左側にあ
る寛政十年(1798)造立の馬頭観世音は、改築前まで本堂の前にあった。宿場時代、境内に接し
て繋馬場が置かれ、継立馬50頭が幕府御用のために常に待機していた。馬は百姓の負担だったから、
この馬たちの安全無事を祈って馬頭観世音は建てられた。駅馬制度がなくなって後、一時、馬の競り
売りを行う「馬市」が立ったとも伝える。馬頭観音の命日にでも引き回したのか、縫いぐるみの駅馬
の模型と上宿に住んでいた町絵師柴佐一が描いた遊郭千代本の遊女道中の額が寺宝だそうだ。
 「新編武蔵風土記稿」に、

   (下板橋宿)遍照寺
   天台宗葛飾郡隅田村木母寺末、大日山と號す、中興の僧を慶雲と云、寛文二年七月十三日
   化す、本尊大日を安す、是境内より出現の像なりと云長五寸許


 とあり、区編纂の「いたばしの寺院」に、

   江戸時代は大日山と号し、区内唯一の天台宗寺院であったが、明治4年廃寺となった。そ
   の後明治14年旭不動堂と称して成田山新栄講の道場となり、昭和22年真言宗寺院とし
   て復活、現在は成田山新勝寺末寺となっている。境内は宿場時代の馬つなぎ場で、幕府公
   用の伝馬に使う囲馬、公文書伝達用の立馬、普通継立馬などがつながれていた。境内にま
   つられる寛政十年(1798)建立の馬頭観音と宿場馬を精巧に模倣した駅馬模型にその
   なごりをとどめるのみである。また堂内には上宿に居住した町絵師柴左一の画いた明治期
   の板橋遊郭千代本楼遊女道中の扁額が納められている。


 とある。区の説明板は以下の通り。

   遍照寺
   江戸時代は大日山と号し、区内唯一の天台宗寺院であったが、明治4年廃寺となった。そ
   の後明治14年旭不動堂と称して成田山新栄講の道場となり、昭和22年真言宗寺院とし
   て復活、現在は成田山新勝寺末寺となっている。
   境内は宿場時代の馬つなぎ場で、幕府公用の伝馬に使う囲馬、公文書伝達用の立馬、普通
   継立場などが繋がれていた。境内にまつられる寛政十年(1798)建立の馬頭観音と宿
   場馬を精巧に模倣した駅馬模型にそのなごりをとどめるのみである。
   また堂内には上宿に居住した町絵師柴左一の画いた明治期の板橋遊郭千代楼遊女道中の扁
   額が納められている。
   平成2年3月                          板橋区教育委員会


■板橋町役場跡
 仲宿44番2号の仲宿ふれあい広場のところに、明治22年に町村制という法令が出て、町や村の
合併が行われ、この時下板橋宿・金井窪村・中丸村、それに滝野川村と池袋村・上板橋宿の各一部を
一括して「板橋町」が誕生、これから昭和7年に板橋区ができるまで町役場があった。
 


■仲宿ふれあい広場
 仲宿44番にある区立公園。


■飯田左文次家跡

 仲宿46番16号の飯田家がそれだ。代々問屋場の役人を務めた。板橋本陣跡の碑の建つ横丁は飯
田家の玄関道だった。
 


■本陣児童遊園
 仲宿46番20号にある区立公園。


■板橋本陣跡碑
 仲宿47番17号にある。碑から次の道路までスーパーマーケット・ライフが入っている「トーカ
ン・マンション加賀公園」が中宿飯田新左衛門の邸宅で、同時に「本陣」だったところだ。侍は常に
臨戦態勢にあるのが建前なので、大名の立つところは全て「本陣」な訳で、だから五街道の大名が宿
泊するところを「本陣」といったのだ。また本陣を設置したことによって、一般の旅人は安心して旅
籠に宿泊できる。粗相を心配しなくて済むからだ。また、大名行列の全員が本陣に泊まる訳じゃない。
殆どの家来は分散して寺院に泊まる。安上がりだからだ。ここの本陣は越後・北陸・信濃・上州・北
武の大名が利用した。幕末の公武合体で、孝明天皇の妹宮和宮が降嫁した時、安全を重視して中山道
を下った。その和宮が最後の宿としたのも、慶応四年(1868)錦の御旗をなびかせて賑やかに攻
め寄せてきた東山道軍先鋒総督岩倉具定が江戸城総攻撃に備えて〝本当の意味の本陣〟をおいたのも
この飯田邸だ。明治23年自らの失火によって全焼、その後土地の一部が坂上醸造会社に渡り、会社
はここに白壁の土蔵を廻らせた重厚な工場を建築し、近年まで威容を誇っていたが、昭和45年初め
人々に惜しまれながら解体され、マンションに建て替えられた。

   
板橋宿本陣跡
     
板橋区教育委員会

 区の説明板に、

   板橋宿本陣飯田新左衛門家
   本陣は、一般に街道を通行する大名等の休泊施設ですが、江戸より2里半(約10km)
   の近距離にある板橋宿では、宿泊に用いられることは少なく、主に休憩所として利用され
   ました。またその際には、藩主と江戸の家臣との謁見・送迎の場としても機能していまし
   た。板橋宿本陣は古くは飯田新左衛門家ら数家で務めていたようです。宝永元年(170
   4)当家は飯田本家より別家していますが、その際、世襲名「新左衛門」と本陣、問屋場
   を引き継いでいます。また併せて.屋敷地359坪、田畑1.5町余町余(約16000㎡)
   の広大な土地を譲り受け、当地に本陣を構えました。なお当家3代目新左衛門珎儀の遺言
   状から、別家後の江戸時代中期頃に当家が宿内唯一の「御本陣家」に指定されたことが窺
   えます。
   本陣は「中山道宿村大概帳」によると建坪97坪、門構え玄関付きの建物でした。また本
   陣指図からは間口・桁行ともに12間半(約22.5m)、100人が座所とする上段の間
   や御次の間のほか、御膳所や18畳の玄関などを備えていたことが分かります。他宿に比
   べ小振りな本陣は、宿泊に供えることが少ない板橋宿の性格を示しています。
   本陣の建物は明治23年火災に遭い焼失しましたが、昭和39年明治期に建てられた母屋
   の解体時、床板として転用されていた観察が見つかっています。この関札や本陣図などの
   古文書は区有形文化財にに登録され、板橋宿本陣の様子を今に伝えています。
   平成23年3月                         板橋区教育委員会


 本陣の辻
 ライフの角のやや筋違いの十字路。北に上がる道は御成道。将軍の岩淵筋への鷹場への通路で、石
神井川に御成橋が架かっていた。今の御成橋より下流の、帝京学園の正門前あたりに架かってた。見
事な枝ぶりの五本椎の大木が橋の袂に立っていたが、美的感覚のないお役所仕事で撤去されてしまっ
た。御成門とか御成橋とか御成道とか〝御成〟の付くところは、将軍専用で、一般の通行は禁ぜられ、
普段は封鎖されている。また南に下がる道は山中(仲町)に通じ、中板橋・常盤台、要町の方へ通じ
る重要な道だった。
 


■番場児童遊園
 仲宿47番19号にある区立公園。


■問屋場跡
 仲宿48番9号にあった。いわば宿場管理事務所だ。三人の名主豊田市右衛門・飯田宇兵衛・板橋
市左衛門家と本陣飯田新左衛門の4人が5日交代で出仕、その下に年寄。書役・馬指し・人足肝煎が
出勤し、大名の宿泊割当、人馬の調達、公用書類の継立、貫目改めを主な仕事とした。貫目改所(か
んめあらためどころ)は大名の荷物を計量して適切な人馬を提供する仕事。中山道ではほかに信州追
分宿と洗馬宿に置かれていた。
 


■高札場跡
 仲宿49番8号、板橋の袂のところがその跡だ。高札とは、たかふだ・制札・立札ともいい。幕府
の意思を一般に伝達する手段。法度・掟書・罪人の罪状などを記し、人通りの多い所に高くかかげた
札。室町時代からあったが、江戸時代に最も盛んに行われた。


■番屋跡
 仲宿51番18号の角、下総屋のところにあった。宿場の治安を預かるところで、捕物道具を並べ
立てて威圧していた。警察というか交番というか、治安取り締まり所だ。しかし江戸時代を通じて治
安はよく、歴史に残るような事件は起きなかった。


■中宿脇本陣(飯田宇兵衛家)
 仲宿54番6号の「板橋仲宿パークホームズ」のところにあった。飯田一族の宗家宇兵衛家の邸宅
で、4代目までは新佐衛門を名乗ったが、五代目は新左衛門名乗ってを分家に譲り、宇兵衛を代々名
乗りとした。明治天皇が、武蔵国一宮である大宮の氷川神社に御親拝の道筋小休所に充てられ、陛下
はここに休息した。その後も中山道を行幸の折には必ず立ち寄り、家人とも親しく接した。中でも子
供部屋で手習いする子供の手を取って筆運びを教えたということだ。庶民的な人柄が伺えるエピソー
ドだ。「御小休」「下馬」「下乗」などの制札は、同家の家宝になっているそうだ。

   板橋宿中宿名主飯田家跡
   当家は、飯田家の総本家であり、宝永元年(1704)に本陣を飯田新左衛門に譲ってい
   ますが、江戸時代を通じて名主・問屋・脇本陣を務めました。世襲名は宇兵衛。
   飯田家は、大坂の陣で豊臣家に仕えたとされ、その後、区内の中台村から下板橋村へと移
   り、当地を開発して名主となりました。元禄期頃の宿場絵図には、当家の南側に将軍が休
   息するための御茶屋が設けられており、元和~寛永期に板橋の御林で行なわれた大規模な
   鹿狩りの際に使用されたとみられます。そして当家が御茶屋守としてこれを管理していた
   と思われます。なお御林40町歩は、後に当家に下賜されたといわれています。
   江戸時代を通じて、名主家と本陣家の両飯田家は、お互いに養子縁組を行うなど、その機
   能を補完しあいながら、中山道板橋宿の中心である中宿の管理と宿駅機能の維持・運営に
   あたったいました。
   そのような中で、文久元年(1861)の和宮下向に際しては、宇兵衛家が本陣役となっ
   ています。その後も慶応四年(1868)の岩倉具定率いる東山道郡の本営となり、明治
   初期の明治天皇行幸などでも宇兵衛家が本陣を務めました
   平成20年3月                         板橋区教育委員会 


■水村玄洞宅跡
 仲宿56番15号の石神医院のところだ。この家の一室に、幕末の蘭学者として有名な高野長英が
「安政の大獄」の弾圧を逃れるため逃げ隠れし顔を焼いてまで潜り込んで息を潜めていたところだ。

   高野長英ゆかりの地(旧水村玄洞宅)
   幕府の対外政策を批判し、永牢の身となった蘭学者高野長英は、弘化元年六月晦日小伝馬
   町獄舎の火災による切り放しの時に脱獄、そして逃亡した。出牢後の一ヶ月は幕府の厳し
   い探索にも拘わらず消息不明であったが、七月下旬の或る夜、彼の門人である水村玄洞宅
   を訪れた。
   玄洞は身の危険を知りながら一両日長英を奥座敷に匿い、七月晦日の深夜には北足立郡尾
   間木村に住む同門で実兄の高野隆仙宅へ人をして逃れさせた。
   長英はその後郷里水沢に老母を訪ね、さらに江戸・近畿・四国・九州と逃亡生活を続け、
   再び江戸に舞い戻ったが嘉永三年十年三十日青山町の隠れ家を幕吏に襲われて自殺した。
   平成七年 月                          板橋区教育委員会


■中山道中碑
 仲宿56番15号の菓子輔「仲宿新月堂」前脇にある石碑。店の入口両脇に木柱が立ててあり。向
かってひだり「いたばし」、右が「距 日本橋二里二十五町三十三間」と墨書してある。
 


■乗蓮寺跡

 仲宿62番にあった。仲町44番1号から移転してきた。「宿場の乗蓮寺」といえば、天正19年
(1591)徳川家康から10石を寄進された御朱印寺だ。8代将軍吉宗の時代から鷹狩りの時の御
膳所にも定められ、御成門、御座所も置かれた由緒深い古刹だった。明治17年の板橋大火で類焼し
門と地蔵堂だけが残った。間もなく復興したが、昭和48年高速道路の建設で邪魔にされ、赤塚に移
転していき「東京大仏」となった。跡に供養塔が建っている。


■みどりの一里塚仲宿

 仲宿交差点の建設トラックヤード跡地を武蔵野風にした緑地。

【中台】(なかだい)1~3丁目                  昭和38年11月1日
 中台村。明治22年志村大字中台、昭和7年板橋区志村中台町。同38年一部を相生町・西台・
若木・前野に譲り、残りの大部分を現行の「中台」とした。
 参考資料:「東京都住所表記に関する資料」。他に『板橋区史』など。

 
中台の由来
 地名は志村城と西台の中間の台地の意
 

■中台小学校
 中台1丁目9番7号にある区立校。同28年8月校舎落成。9月上板橋第四小学校から分校し「東
京都板橋区立中台小学校」として開校。16学級839名でスタート。校章制定。同31年校歌制定。

 校歌
「薫る微風(そよかぜ) 作詞作曲不詳
  1.薫る微風 爽やかに
    花に 緑に 晴れ渡る
    吾等も清く中台に
    希望を込めて開く花
    楽しい吾等 溢れる力
  2.光れ校章 伸びて行く
    柏青葉は 我が姿
    夢湧くところ中台の
    平和の庭に胸を張る
    親しい吾等 果てなく進む
  3.小鳥 若鳥 小さくとも
    強くやりぬく この気風
    日本の明日を中台の
    吾等の意気で担おうよ
    輝く吾等 栄えある母校


 北校舎2教室増築。同33年若木小学校を分校。同36年西側壁土留め。プール完成。理科室・準
備室完成。同37年創立10周年記念式典。同39年給食室増築。同40年体育館完成。同41年特
殊学級開設。同47年舎全面改装工事着工,そのため現在地9学級、教育大グランドのプレハブ校舎
15学級で学習。同48年新校舎(普通校舎25、特別教室4、管理室その他)落成。外構環境整備
・校庭ウォークアップ舗装。同49年創立20周年記念式典。同56年陶芸小屋・観察池新設。同5
8年とび池(学校園)擁壁改修。体育館床張替え。同58年創立30周年記念式典。同59図書室・
家庭科室改修。校舎全面改築完了。同62年土俵開き。ランチルーム改修。全教室FF暖房設置。給
食配膳車購入。護岸工事完了。屋上ウレタン舗装。
 平成3年保健室改修。防災備蓄倉庫新設。同4年兎小屋と周辺、校長室改修。同5年西門新開。創
立40周年記念式典。同8年パソコンルーム開設。同9年給食室床全面張替え。同10年登下校用新
西門新開。栗山村との児童交流学習。同11年給食調理業務民間委託開始。同15年創立50周年記
念式典。
 


■中台一丁目児童遊園
 中台1丁目10番3号にある区立公園。


■どんぐり山公園
 中台1丁目19番1号にある区立公園


■子育地蔵尊祠
 中台1丁目48番の東角にある。丸彫りの地蔵と、庚申塔、馬頭観音がある。


■中台第二児童遊園
 中台1丁目48番12号にある区立公園


■中台中学校
 中台1丁目56番23号にある区立校。同34年4月上板橋第三中学校に間借りして「東京都板橋
区立中台中学校」として開校。7月現在地に新校舎落成して移転。同35年校歌制定。

 校歌
「風は流れる」 作詞・池田文雄  作曲・林静一
  1.風は流れる緑の丘
    麗しい白い学び舎
    そそり立つ欅の梢
    仰ぎみて胸は膨らむ
    今を思い深く学ぶ
    良い師 良い友 我が良い日
    中台 中台 中台中学校
  2.ま日は輝くバルコンに
    遥々と清い富士の嶺
    滲み出でる深い真心
    顧みて眉は上がる
    明日を想い強く鍛える
    我が師 我が友 我が良い日
    中台 中台 中台中学校


 同37年校舎増築・体育館完成。同44年創立10周年記念式典。同54年創立20周年記念式典。
 平成元年創立30周年記念式典。同3年パソコンルーム開設。同4年茶室完成。同10年新体育館
完成。同11年創立40周年記念式典。同14年板橋区民栄誉賞(国際交流)受賞。同17年ランチ
ルーム完成。同21年創立50周年記念式典。
 


■中台南坂緑地
 中台2丁目5番10号にある区立公園。


■中台二丁目公園
 中台2丁目9番8号にある区立公園。
 

■中台二丁目児童遊園
 中台2丁目43番15号にある区立公園。


■中台公園
 中台3丁目9番3号にある区立公園。


■日本大学豊山女子中学校・高等学校
 中台3丁目16番1号にある私立校。同41年日本大学が設置した最初の独立した女子高等学校と
して「日本大学豊山女子高等学校」開校。1号館落成。同46年理数科設置。2号館・3号館落成。
同49年4号館落成。同53年5号館(図書館)落成。同56年6号館落成。グランド付属棟完成。
同61年高等学校創設20周年記念棟(中学生棟)落成。日本大学が設置した最初の独立した女子中
学校として「日本大学豊山女子中学校」開校。同62年高等学校創立20周年記念庭園完成。
 平成8年校歌制定。高等学校創立30周年・中学校10周年記念式典。

 校歌
「絶えることなく」 作詞・瀬在良男  作曲・綿村松輝
  1.絶えることなく射す光
    馨しい花園辺(ほとり) 集いきし
    乙女たち 若き知勇を摘むところ
    清く豊かに咲き誇る
    嗚呼日大豊山女子 我が母校
  2.映える真澄の空の下
    青春の自彊止まずと励みたる
    乙女たち 高き理想を追うところ
    深き恵みの風薫る
    嗚呼日大豊山女子 我が母校
  3.溢る香りの四季の花
    新しい女の命 共々に
    乙女たち 明日の輝き研ぐところ
    高く明るく謳いたる
    嗚呼日大豊山女子 我が母校


 同9年パソコンルーム完成(2号館2階)。同10年中学校棟増築。テレビ放送用スタジオ開設。
同12年スクールバス(赤羽便)運行開始。同19年新1号館A棟落成。スクールバス(練馬便)運
行。同21年新1号館B棟落成。同22年新1号館C棟落成。
 


■中台さとやま公園
 中台3丁目16番12号にある区立公園。


双林山月輪院延命寺
 中台3丁目22番18号にある真言宗豊山派の寺。本尊は如意輪観音坐像で、鎌倉時代の運慶の作
という。永正元年(1504)に観音堂に安置されたものが後に本尊となった。入口に中台幼稚園が
併設されており、境内の広場は運動場兼用になってる。左と奥は広い墓地だ。

   延命寺案内
   山 号 双林山月輪院 
   本 尊 如意輪観音
   宗 派 真言宗豊山派
   総本山 奈良県桜井市初瀬
   祖 師 宗 祖 弘法大師(空海)
       中興祖 興教大師(覚鑁)
       派 祖 専誉僧正
   開 宗 真言宗は、平安時代初期に弘法大師によって中国からもたらされ、わが国で開宗
       されました。
   敎 え 教えの中心はマンダラ思想です。世の中にはいろいろな宗教や思想がありますが
       よく観察してみると、一番底に共通の原点があります。この原点が大日如来とい
       う仏さまです。一切の諸尊はそれがお薬師さま、観音さま、お地蔵さま、お不動
       さまであれ、すべて大日如来の身を変えたお姿(応化身)なのです。したがって
       もとめるところは、広い視野でものを見ながら深く考えて、敬虔に力強く、人生
       を生き切り、平和な社会を築くことです。

   延命寺とこぶ欅
   真言宗見次山延命寺松壽院と号し、創建は大永年間と伝えられる。大永四年(1524)
   北条氏綱は江戸城を攻め、城を逃れて川越へ向かった上杉朝興はその途上、志村城下で追
   討にあい、その際志村城も巻き添えとなった。
    城主篠田五郎の家臣見次権兵衛は庭先で我が子が討たれる姿を見て、戦国の世の無情を
   感じ、居宅を仏寺として自ら開基となった。
    当寺は江戸時代将軍家お鷹狩りの小休所となり、御座所、御成門も備えられていた。境
   内には樹齢八百年といわれる欅の大樹があり、樹幹に巨大な「こぶ」があることから、俗
   に「こぶ欅」と呼ばれた。昭和6年に天然記念物に指定されたが、近年枯死したため指定
   は解除され、今は樹幹のみが残されている。
    また区内最古の建長板碑と、俗にキリシタン燈籠といわれるマリア像を象った地蔵像を
   刻んだ燈籠1基がある。
   平成5年3月                          板橋区教育委員会


 ●蛸薬師庚申塔
 正保四年(1647)造立の区内最古の庚申塔だ。薬師如来像が彫られている。以前は志村銀座の
商店街の堂に祀られていた。この薬師は眼病ではなく、「いぼとり」仏として有名。蛸の足の沢山の
疣が、人間のいぼを吸い取ってくれる。こんなことが発端だろう。

 切支丹灯篭
 棹の部分に切支丹の呪文といわれる文字のような彫刻があり、その下の地蔵はキリストを抱いたマ
リア像だといわれているが、真偽のほどは不明だ。
 



■中台児童遊園
 中台3丁目25番14号にある区立公園。


■緑小学校
 中台3丁目27番1号にある区立校。沿革不明。

 緑小学校よいこのうた
「緑の子」 作詞・舟木一友  作曲・沖中征司
  1.青空 太陽 緑の子
    ぐんぐん伸びるぞ 僕たちは
    空まで伸びたら何をしよう
    お日様 雲と握手しよう
  2.青空 太陽 緑の子
    僕たち勉強頑張るぞ
    空のノートに何を書こう
    大きく緑と書いてみよう
  3.青空 太陽 緑の子
    僕たち運動 頑張るぞ
    空の広場で何しよう
    元気で仲良く駆けっこだ


 創立20年まで校歌もどきとして「緑の子」が歌われてきたが、創立20年を期して子供たちの作
詞による校歌が作られた。

 校歌
「朝日が溢れる」 作詞・広瀬郷作  作曲・高橋裕作
  1.朝日が溢れる校庭に
    集まる緑の子供たち
    弾ける笑顔と笑い顔
    響くチャイムが呼び掛ける
    今日も楽しい一日を
    素敵な緑の仲間だね
  2.笑顔が集まる教室に
    輝く瞳の子供たち
    先生友達輪になって
    交わす言葉も弾んでる
    思い出沢山作ろうよ
    素敵な緑の仲間だね
  3.優しく見守る緑の中に
    夢を広げる子供たち
    皆の力を一つにすれば
    未来の扉が見えてくる
    希望に向かって歩き出そう
    素敵な緑の仲間だね
    素敵な緑の仲間だね
    仲間だね
 


■中台しいのき公園
 中台3丁目27番8号にある区立公園。公園と団地がミックスした広大な森林公園だ。
 


■宮崎カリタス修道女会板橋修道院
 中台3丁目27番3号にあるキリスト教の施設。イエスのカリタス修道女会は、小さなものを慈し
む主(キリスト)によって集められた、小さなものに仕える愛の共同体だ。彼女らは“みながひとつ
になるように”という神の“愛の夢”を彼女たちの夢とし、交わりと和解の霊性を生きるという。
 イタリアのリミニ教区の司祭だったアントニオ・カヴォリ神父は、第一次世界大戦で従軍司祭の経
験を経た後、サレジオ会に入会。大正15年ヴィンチェンツォ・チマッティ神父を団長とする9名の
サレジオ会宣教師団の一員として来日。宮崎教会において、初めは主任司祭のチマッティ神父の助手
として、後には主任司祭として、社会の中で最も貧しく小さな人々に愛の手を差し伸べる教会活動を
活性化。さらに神の摂理への深い信頼のうちに、身寄りのない老人や子どもたちのための総合福祉施
設「救護院」(後の「カリタスの園」)を設立。この愛の事業は、カヴォリ神父が結成したヴィンセ
ンシオ会の女性信徒たちの献身的な奉仕に支えられていたが、第二次世界大戦の兆しが見え始めた昭
和12年上長であったチマッティ神父の勧めに従って「宮崎カリタス修道女会」を創立した。愛徳の
事業を通してキリストの愛を全世界の人々に伝えるという使命に向けて会員の養成に生涯を捧げ、宣
教地への派遣にも心をくだいた。カヴォリ神父を修道会創立へ導き、窮乏や困難の中にあっても常に
慈愛に満ちた父の心で忍耐強くその活動を支え励まし続けたチマッティ神父は、その聖徳のゆえに教
会において「尊者」として称えられている、らしい。
 


■中台さくら公園
 中台3丁目27番8号にある区立公園。公園と団地がミックスした広大な森林公園


■中台ならの木公園
 中台3丁目27番9号にある区立公園。公園と団地がミックスした広大な森林公園


■中台えのき児童遊園
 中台3丁目27番8号にある区立公園。公園と団地がミックスした広大な森林公園


■中台しいの木公園
 中台3丁目27番11号にある区立公園。公園と団地がミックスした広大な森林公園
 


【仲町】(なかちょう)                       昭和46年1月1日
 下板橋宿小名山中。明治22年板橋町大字下板橋、昭和7年板橋区板橋町1~10丁目。同34年
板橋町9丁目・上板橋町1丁目の各一部をあわせた町域を仲町とし、同46年新住居表示を施して
現行の「仲町」とした。
 参考資料:「東京都住所表記に関する資料」。他に『板橋区史』など。

 仲町の由来
 旧称の山中の〝中〟の字に人偏を付けたという。江戸の初め中山道が整備されて宿場を置くこと
になり、この山中の次男三男を駆り出して旅籠を開業させたところが中宿だ。人偏を付けたのはそ
の縁遠からぬ仲宿に惹かれたのかもしれない。中板橋駅前に「山中稲荷社」、仲町交差点の南に板
橋学校教育発祥の地といわれる「亀島山専称院地蔵寺」があるが、板橋第一小学校の前身がここに
あった。その南に家康ゆかりの轡神社ある。ほかに東上線をくぐる山中トンネル、石神井川に山中
橋がある。山中交番はなくなってしまった。
 

庚申塔
 仲町8番1号、東武東上線の盛土下に道路に面してある。


■庚申塔
 仲町21番4号の角地にある小祠。


■山中稲荷神社
 仲町36番の線路際の三角地にある小社。


亀嶋山専称院地蔵寺
 仲町44番1号(僅かな面積の42番を含む)にある浄土宗の寺。創建は行基菩薩で、初め北区豊
島町の荒川河岸にあったが、宝永二年(1705)に目黒祐天寺を興した祐天上人が再建し、その時
「専称寺」と改め、浄土宗に改宗、小石川の伝通院の末寺となった。境内は赤塚山乗蓮寺の故地で、
その後に乗蓮寺末香林庵が開山した。明治7年に板橋第一小学校の前身公立板橋学校が庵を仮校舎に
開校したのはここだ。なお乗蓮寺は仲宿に移り、さらに赤塚に移った。東京大仏だ。
 大正12年専称寺が関東大震災で潰れて移転してきて、香林庵を飲み込んだ。上人の開眼と伝える
木像地蔵尊を本尊とする。豊島時代の名残の荒川洪水犠牲者の供養塔が多数建てられている。入口の
石柱から50mの参道で本堂となるが、その左は全部墓地。本堂右に小さいが管理の行き届いた閻魔
堂がある。本堂左は庫裏だ。「新編武蔵風土記稿」に、

   浄土宗小石川伝通院末、亀嶋山地蔵寺と号す。
   本尊阿弥陀外に行基の作れる地蔵を安す。縁起の略に、豊島左衛門清光志願のことありて
   行基と謀り、豊島の内に七ヶ所の堂を建仏像七体を彫刻して安置す。是地蔵は其一なり、
   外六体は西福寺阿弥陀、清光寺不動、同き境内釈迦、観音寺観音、其余二体は今堂宇廃す。
   此寺当時は地蔵堂にて専称庵と号せしを、宝永二年村民四郎左衛門と云者、祐天僧正を帰
   依し当庵を興隆せんことを願ひしに、祐天其志を感し遂に一寺となし、山号等を命して伝
   通院末となせり。故に祐天を開基となす。其頃の住僧を正参順応といへり、清光と行基年
   代齟齬せしことは既に西福寺の条に弁せり。本堂に祐天開眼の地蔵を置、又祐天の与えし
   百万遍の珠数を蔵す。其魁首の珠に祐天自ら弥陀の名号を刻す。


 と記す。また区の説明板に、

   専称院
   宗派は浄土宗で、亀嶋山地蔵寺専称院と号し、御本尊は阿弥陀如来です。
   むかし鎌倉時代の武将豊島清光が、行基に七つの地蔵を作らせたという伝説があり、専称
   院の前身は豊島村(現北区)でそのひとつを祀る地蔵堂でした。浄土宗の専称院となった
   のは、宝永年間(1704~1711)に豊島村民臼倉四郎右衛門の要請を受けた祐天上
   人によって中興され、堂宇の整備が進んでからです。荒川沿いにあったため、寛政十二年
   (1800)水害の溺死者の供養塔が建てられるなど、水難者の供養寺としても有名でし
   た。専称院が都市計画道路建設によって豊島から当地に移ったのは昭和12年ころのこと
   です。もともと当地には、江戸時代初頭まで乗蓮寺があり、その後も乗蓮寺に附属する香
   林庵が残っていました。香林庵は明治7年に区域で初めて公立の小学校が設置された場所
   ともされています。
   平成15年3月                         板橋区教育委員会


 とあり、区編纂の「いたばしの寺院」に、

   中世の頃から豊島七仏の一つを安置し庶民の信仰を集めていた地蔵堂があった。宝永二年
   祐天が村民四郎左衛門の請を入れ豊島村地蔵堂として再建し、諸堂を整え、宝永四年に亀
   嶋山地蔵寺専称院と公称して小石川伝通院末となり、浄土宗に転宗した。文化十年に境内
   に閻魔堂を合祀し、子育地蔵と共に世人に親しまれ信仰を集めた。昭和7年都市道路計画
   により豊島(現王子)より現地への移転を決し、同15年移転を完了して香林庵を合併し
   た。香林庵は明治7年7月板橋学校(板橋第一小学校)発祥の寺である。

 とある。

 
逆修子育地蔵尊
 昭和28年造立。逆修は「自分の死後の冥福」。当寺の住職の母親が建立した。「私の歿後、参詣
する人はこの地蔵に香華を手向けて下さい。浄土でお守りしましょう」と。子供を抱いた地蔵も珍し
い。

 
溺水者供養地蔵
 六字名号を台石側面に彫った地蔵尊。

   
堅通三界 溺水亡霊解脱塔

   南無阿弥陀仏祐天

 地蔵堂
 入口左、道路に面してある。旧川越街道と子易道の追分(大山東町22-5)に立っていたものを
移転してきたのだという。 
 


■中丸なかよし児童遊園
 仲町43番13号にある区立公園。


■轡神社(くつわじんじゃ)
 仲町46番3号にある。祭神は倭建命。家康入府の頃、巡検の際にこの地にさしかかり、馬を降り
て道端の石に腰を下ろして休息した。さて出発したあとに轡が残っており、村人はこれを神様として
祀ったと伝えられている。また蹄鉄だとの説があるが、当時蹄鉄はなく馬草鞋というものを履かせて
いた。蹄鉄が伝わるのは18世紀に入ってからなのだ。もしかすると馬草鞋を履き替え、古いのを捨て
て行ったのではないのか?
 さて源義経は奥州平泉で兄頼朝の挙兵を聞き、鎌倉に向かってここまで来たとき、馬が風邪をひい
て倒れてしまった。そこで村人が代わりの馬を用意して先を急がせ、倒れた馬を丁重に葬ってやった。
その後風邪が流行した時、この社に参って快癒を祈願したところ、たちまち病癒えるという霊験新た
かだったことから、百日咳の神様として信仰厚く、社に奉納した馬草鞋の片方と、麻をいただいて呪
(まじな)いをすると霊験があり、全快後に新しいわらじ1足を奉納する仕来りがあった。大正ごろ
までは繁盛したが、今は参詣者も稀になった。医学で病気が治るようになったからだ。

   轡神社
   御祭神倭建命
   もと轡権現社と呼ばれていました。名称の由来については、この地を訪れた徳川家康の乗
   馬のくつわを祀ったからとも、また馬蹄を祀ったからともいわれています。江戸時代から
   「百日ぜき」に霊験がある神として広く信仰を集め、遠方から参拝に来る信者で賑わった
   といいます。信者は病気の治癒を祈るとともに、当社に奉納されている馬わらじの片方と
   麻をいただいて帰り、全快すると新しい馬わらじと麻を当社に奉納しました。
   社前の道路は、俗に鎌倉街道といわれた古道で、この道が石神井川を渡るところが本来の
   「板橋」という説もあります。
   平生9年3月                          板橋区教育委員会
 
 


【中丸町】(なかまるちょう)                    昭和46年1月1日
 中の丸村→中丸村。明治22年板橋町大字中丸、昭和7年板橋区板橋町2~4丁目になって消滅。
。同33年板橋町2~3丁目の各一部をあわせた町域の町名として復活、同46年新住居表示を実
施して現行の「中丸町」が確定した。
 参考資料:「東京都住所表記に関する資料」。他に『板橋区史』など。

 
中丸の由来
 地名の由来は判らない。中丸は親村・中心となる村の意だが。しかし子村がはっきりせずどこの
中心なのか判らない。『小田原衆所領役帳』に「菅面之内中丸」とあるので巣鴨村の中心だったの
か? 練馬区中村と同じで判断に困る地名だ。
 

■板橋第五小学校
 中丸町19番1号にある区立校。昭和5年東京府北豊島郡板橋第五尋常小学校として開校。詳細
不明。
 


伸栄山龍光寺

 中丸町48番5号にある法華宗本門流の寺。大正13年流龍光院日精大徳が深川区東森下町(江東
区)に妙山協会を創建、昭和9年現在地に移転してきた。同27年宗教法人となり、同55年から現
号を公称した。
 
 

【成増】(なります)1~5丁目                  昭和44年10月1日
 赤塚郷石成村の江戸時代以後の村名。石成は石の多いところの意。上赤塚の清涼寺は山号を石成
山という。江戸時代は明暦3年(1657)赤塚村から分村して成増村となる(新編武蔵風土記)。
明治22年赤塚村大字成増、昭和7年板橋区成増町。同26年一部を新河岸町へ、同38年三園町
へ、同44年赤塚・新河岸・三園に譲リ、残った成増町に上赤塚町・下赤塚町の各一部をあわせた
町域を現行の「成増」とした。
 参考資料:「東京都住所表記に関する資料」。他に『板橋区史』など。

 成増の由来
 町名の成増は江戸期の名主田中家の先祖で開墾者の個人名だ。その田中家は今も健在。駅は大正
3年に開業したが、同10年ころに上練馬村土支田に都民農園ができて、その休憩所が料亭に発展
し、やがて「兎月園」という豊島園のような遊園地、複合娯楽施設になって大いに賑わい膨大な乗
降客があったが、戦争の影響で遊園地が潰れ、高松に陸軍の飛行場ができると乗降客は軍人・兵士
に代わった。なお兎月園の名は商店街と和菓子舗の名に残っていらぁね。
 

■成増一丁目児童遊園
 成増1丁目3番12号にある区立公園。


■成増一丁目第三児童遊園
 成増1丁目7番11号にある区立公園。


■成増小学校
 成増1丁目11番1号にある区立校。昭和25年「東京都板橋区立成増小学校」として開校。PT
A創立。同26年校庭に桜を植樹。同27年9教室増築。同28年校歌制定・校旗樹立。

 校歌
「真白き富士の」 作詞・和田隆夫  作曲・古関裕而
  1.真白き富士の気高さを
    仰いで学ぶ朝な夕べ
    良い子になります僕たちは
    優しくなります私たち
    明るい希望 風が呼ぶ
  2.流れる雲に呼びかける
    緑の丘よ 向う台
    元気になります僕たちは
    伸びゆく若葉だ 私たち
    心もほがら睦まじく
  3.光の中を手を取って
    正しく築く新世紀
    苗木だ小川だ僕たちは
    蕾だ小鳥だ 私たち
    輝く行く手 雲が呼ぶ


 同30年文化教室。同31年成増ヶ丘小学校創立により97名移籍。5年生の岩井臨海学校開始。
4年生の林間学校開始。同33年下赤塚小学校創立により56名移籍。同35年創立10周年記念式
典。同36年プール完成。6年生の日光移動教室開始。理科室・音楽室の増築 校庭拡大桜の植え替
え。同37年放送室開設。同40年岩石園完成。同41年体育館完成。同42年体育倉庫完成。同4
3年第1期鉄筋コンクリート造り3階建て校舎。同44年第2期鉄筋コンクリート造り3階建て校舎
落成。同45年第3期鉄筋コンクリート造り3階建て校舎落成。同46年最後の岩井臨海学校。同4
7年第4期鉄筋コンクリート造り3階建て校舎落成。同47年最後の林間学校。榛名移動教室開始。
同50年ヤップ島と成増小の友情交換を行う。同48年とり小屋完成。榛名移動教室開始。同50年
ヤップ島と成増小の友情交換を行う。同53年第5期鉄筋コンクリート造り3階建て校舎落成。同5
5年文化教室に学童保育クラブ開設。同56年プール改修。同57年南側に校地拡張。同58年赤塚
新町小学校を分校。同60年タイヤ木村完成。同62年クラブハウス設置。同63年新体育館倉庫完
成。給食室改修・会議室新設。
 平成元年飼育小屋前グリーンベルト完成。同2年防災備蓄倉庫完成。創立40周年記念式典。同3
年学校の森完成。同5年ランチルーム完成。同9年保健室移動・地域開放室完成。同10年体育館床
改修。同11年テラスロープ完成。同12年創立12年創立50周年記念式典。同13年各教室コン
ピュータ設置。インターネット接続。同13年外国人講師による英語学習。同18年給食事業民間委
託。同19年全教室冷暖房設置。同20年学校支援地域本部設置。同21年体育館耐震化。同22年
創立60周年記念式典。


■成増一丁目第二児童遊園
 成増1丁目29番6号にある区立公園。


■成増一丁目北児童遊園
 成増1丁目35番4号にある区立公園。


■成増一丁目向新田の森
 成増1丁目35番16号にある区立公園。


■小治兵衛窪庚申尊
 成増2丁目6番1号にある。道路を挟んで赤塚交番の隣にある。一時、赤塚8‐4の松月院に移さ
れたが、再びこの地に安置された。

   
庚申塔
   庚申(かのえさる)の日に、近隣の人々が集まり、豊作や健康を祈る行事を庚申待という。
   この供養のために立てたのが庚申塔である。
   この塔の正面には、六手を持った青面金剛が陽刻してある。手に弓矢、宝剣を持ち、頭髪
   は上指して三猿の上に座っている。坐像彫刻は比較的珍しい塔である。右面には武州豊島
   郡峡田領上赤塚村とあり、左面には天明三癸卯(みずのとう)二月吉日ときざんである。
   庚申様は道祖神として交通安全や町内安全の守り神となっている。
   このあたりは「小次兵衛久保」という地名で呼ばれていた。また「橋を作ってくれた盗人
   小次兵衛」の民話が残っている。この民話と共に古くから残る庚申塔は、一度は松月院に
   永代供養を依頼した時期もあったが、成増南町会周辺の数少ない史跡として、再びこの地
   安置し、町民が心の支えとして、末永くお祀りすることにした。
   昭和63年1月吉日               成増南町会氷川神社管理運営委員会

 
豊島郡峡田領
 この地域は、江戸時代は江戸幕府の直轄地(幕領)であり、上赤塚村、下赤塚村、成増村、徳丸本村
徳丸脇村、徳丸四葉村、西台村、中台村、根葉村、志村、小豆沢村、前野村、蓮沼村等が含まれてい
た。  


■地下鉄成増駅
 成増2丁目13番1号にある営団地下鉄有楽町線の停車場。昭和58年6月24日の有楽町線営団
成増~池袋間開業時に設けられた駅。昭和62年に和光市へ延びるまで、有楽町線と東上線の連絡駅
を務めた。平成16年の営団地下鉄民営化に伴い、「成増駅」から現在の駅名に改称された。
 ホームは島式1面2線構造で、地下2階にある。ホームと改札階を結ぶエレベーター完備。改札口
は2ヶ所で、出口は1~5の5ヶ所。
 


■成増駅
 成増2丁目13番1号にある東武東上線の停車場。大正3年5月1日東上本線の池袋~田面沢(廃
駅・川越市~霞ヶ関間にあった)間が開業して以来の駅。昭和58年に地下鉄有楽町線の営団成増駅
(東京地下鉄成増駅)が開業すると、有楽町線が和光市へ延伸する迄の約4年間は乗換駅を務めた。
ホームは地上島式2面4線構造。急行・準急列車と各駅停車の乗換が同一ホームで行える。ホームと
改札階を結ぶエレベーターは未設置。改札口は1ヶ所のみで、橋上駅舎内にある。出口は北口と南口
の2ヶ所。駅はちょうど南北で高低差がある境目のところにあり、高いほうの南口へは橋上駅舎にも
かかわらず階段を降りることなく出ることができる。

 みどりのそよ風の碑
 成増駅北口デッキにある。白御影石に童謡詩人清水かつら歌詞が刻まれている。この歌碑は清水の
業績を称えるために平成4年に建てられた。清水かつら、本名は桂。明治31年東京は深川で生まれ
た。みどりのそよ風の歌碑は、和光市の童謡の森と和光市駅前、白子小学校、長野市茶臼山恐竜公園
にもある。

   みどりのそよ風
         清水かつら作詞
         草川  信作曲
   みどりのそよ風 いい日だね
   ちょうちょもひらひら
   なないろばたけに 妹の
   つまみ菜摘むてがかわいいな


 碑裏。

   成増のまちや そこに
   住む人々を愛した
   清水かつらは この地を
   舞台として 子どもの歌を
   数多く作詞した
   この童謡詩人を偲び
   区内の子どもたちの幸せを
   願って ここに童謡の碑を
   建立するものである
   平成4年11月
   財団法人 板橋文化振興財団
        理事長 石井■■


 大正11年2月号『少女号』に発表したのが「雀の学校」(弘田龍太郎 大正10年12月7日作
曲)だ。

   チイチイパッパ チイパツパ
   雀の學校の先生は 
   鞭をふりふり チイパツパ
   生徒の雀は輪になつて
   お口をそろへて チイパツパ
   まだまだいけない チイパツパ
   も一度いつしよに チイパツパ
   チイチイパッパ チイパッパ


 関東大震災で当時住んでいた本郷の家が焼かれ、継母の実家のあった新倉に移り、後に白子橋の側
に転居し、昭和26年に53歳でその地で亡くなった。かつらの作詞した「叱られて」「靴が鳴る」
は白子の風景を歌ったものなのだ。
 


■うたの時計塔
 成増2丁目15番にある成増駅南口広場にある。清水かつらの作詞による「緑のそよ風」「叱られ
て」など5曲と、かつらと親交のあった鹿島鳴秋作詞の「浜千鳥」が、午前8時から2時間毎に演奏
される。この時計塔は清水の25回忌を記念して昭和51年に建てられたものだ。
「叱られて」の歌
詞。

   
うたの時計塔

   
叱られて 叱られて
   あの子は町までおつかいに
   この子は坊やをねんねしな
   夕べさみしい村はずれ
   コンときつねが鳴きゃせぬか

   幼い日を思い出させるこのうたの作詞者「清水かつら氏」は、明治31年東京に生れ、生
   涯の大半をこの時計塔よりほど近い、和光市白子で過ごされました。物質的、精神的に恵
   まれなかった少年時代の心境を託した「叱られて」や「あした」のように、父母を慕い、
   父母の愛を求めた作品が多い一方、氏が愛した自然、成増から白子へかけての田園風景、
   白子川、もっとも好んで行ったという吹上観音、そこから生れた「靴が鳴る」「雀の学校」
   「みどりのそよ風」は、日本中の少年少女に愛唱されてきました。
   又、「浜千鳥」を作詞された鹿島鳴秋とも親交厚く、ともにこの地で活躍されました。
   私達は、地元の生んだ童謡詩人の業績をたたえ、この南口広場を訪れる皆さんに紹介する
   意味で、氏の25回忌にあたり、大勢の方々よりご協力、ご援助を得てここに「うたの時
   計塔」を建立しました。うたの時計塔から流れるメロディと時間は次の通りです。
      午前 8時 緑のそよ風  午後1時 あした
      午後10時 靴が鳴る   午後4時 叱られて
      午後12時 雀の学校   午後6時 浜千鳥
   この時計塔を通して、より多くの皆さんに童謡に、音楽に親しみと愛情をもって、成増が
   「うたの時計塔」として生れ変わるよう祈ってやみません。        うたの子会
   昭和51年8月8日

 「日本音楽著作権協会(出)許認第91007‐101号」の紙が貼ってある。
 


■成増児童遊園
 成増2丁目24番8号にある区立公園。


■新田坂の石造物群

 成増2丁目33番の崖上にある。旧川越街道は、2丁目26番のところの川越街道(国道254号
線)から別れ、北側の崖上を川越街道と並行して行っている。この道は旧道とされているが、国道2
54号線の切通工事で便宜上作られたものだ。本物の旧川越街道は、バイパスの敷設で削り取られて
しまい、現実にはもう辿ることは出来ない。まあともかく旧川越街道という奴が、急に下る新田坂の
途中の南の空地、木々に囲まれた崖上に並んで建てられている。道祖神は文字の陰刻で、「文久三年
(1863)ニ月、成増の向新田講中」により、常夜灯は「大山石尊権現 大天狗 小天狗 文政十
三年」と刻まれる。延命地蔵は石像。元はここより下る新田坂下に建てられていたそうだ。そこから
白子川までの両側は新田宿といい白子宿の一部だった。坂を下り切ると白子川で、白子橋より5軒手
前が都県境になっている。この辺りの都県境が入り組んでいるのは旧流路に従っているためだ。

   新田坂道祖神等石造物記念碑
   昭和五十九年度板橋区登録有形文化財
      道祖神碑 丸彫地蔵像
      稲荷石祠 大山常夜燈
   平成元年7月吉日 成増新田坂史蹟保存会

   新田宿の石造物
   この付近は江戸時代、川越街道の白子宿に連なる街村で「新田宿」と呼ばれていた。大正
   初期には約3間(5.4m)幅の旧道の両側に魚屋、鍛冶屋、小間物屋、菓子屋、往来の人
   馬が休憩する茶屋などが並んでいた。また白子宿に向かって右側に地蔵尊、左側に道祖神
   天王社や常夜燈が立っていた。
   これらの石造物は川越街道を往来した人々のこころのなぐさめとなり、道しるべの役を果
   たしてきた。大山参りの常夜燈(石燈籠)は文政十三年(1830)、区内で唯一の道祖
   神、碑は文久三年(1863)の造立である。稲荷の石祠は近くから移されたものである。
   これらの石造物は、新田宿の昔を語る貴重なものとして昭和59年度板橋区登録文化財と
   なった。
   昭和60年3月                         板橋区教育委員会

   新田坂の石造物群
   この案内板の前の坂道は,江戸時代の川越街道です。板橋宿の平尾(板橋3丁目)で中山
   道と分かれた川越街道は,上板橋や下練馬の宿を経て川越城下へ通じていました。街道は
   この附近で白子川の作る谷へ下りるために急坂となり,新田坂と呼ばれていました。
   ここに保存されている石造物四基は,新田坂周辺から集められたものです。
   道祖神は,区内唯一のもので,文久三年(1862)に建立されました。もともとは,八
   坂神社の入口付近にありました。
   常夜燈は,文政十三年(1830)に建立されたもので,成増2丁目34番の角に建って
   いたようです。「大山」と刻まれていることから道標も兼ねていたのでしょう。川越街道
   と分れて南へ向かう道は,土支田方面へ通じていました。
   稲荷の石祠と丸彫りの地蔵は造立年代は不明ですが,どちらも大切に保存されています。
   昭和五十九年度,四基の石造物は区の有形文化財に登録されました。
   平成11年3月                         板橋区教育委員会
 


■八坂神社
 成増2丁目34番14号にある小社。大山常夜灯のすぐ西にある。祭神は素盞鳴命(すさのおのみ
こと)と稲田比売命(いなだひめのみこと)。地元では「天王様」と呼ばれ、現在の川越街道の真ん
中辺りに鎮座していた。昭和8年の川越街道改修工事で現在の位置に移されたそうだ。この辺りは新
田宿と呼ばれていた。で、旧川越街道は、板橋区教育委員会資料よると、八坂神社の左を巻くような
形で坂を下っていたそうだ。ということは今とは随分違う地形だったということで、この辺りの旧川
越街道は消滅しているということなのだ。

   新田宿と八幡神社
   かつてこの辺りを新田宿と称し、白子橋からから成増に向かう道を新田坂と呼んでいた。
   この道は、大正の初めころまで、急勾配の上大きなカーブもあり、旧川越街道の難所の一
   つだった。そのためこの付近一帯は旅人や将軍の休憩所となって、古くから町屋が軒を並
   べ賑わいを見せていた。
   この八坂神社は、「天王さま」と呼ばれ、新田宿の人々によって祀られてい祠である。旧
   地は今よりやや西南新田坂の中程にあったが、昭和8年の新川越街道の工事の際、現在地
   に移されている。その後、この祠が京都の八坂神社から勧請されたと伝えられるところか
   ら社号を現在のものに改めた。
   昭和58年3月                         板橋区教育委員会

   川越街道と白子坂
   五街道に次いで重要な街道として発展した川越街道は江戸から13里(約52km)の道
   程で、板橋宿平尾宿追分で中山道と分かれ、第一宿が上板橋宿、練馬、白子、膝折、大和
   田、大井宿を経て川越城下に達する。この街道は中山道より古くから開け、中世太田道灌
   が江戸と川越を■往したのもこの道であるという。慶長五年(1600)誠美が行われ川
   越の物資を江戸へ輸送する要路ともなった。
   しかしこの街道の宿場は、大街道と比べて極めて質素なものであった。赤塚の成増の丘陵
   から急坂を下った地点を流れる白子川を中心に白子宿が設けられ、この坂も宿の一部であ
   る。ここの土蔵造りの館は寛永の頃から油屋を営んだ旧家であり、街並みにも当寺の面影
   が偲ばれる。
   昭和55年                           板橋区教育委員会

 白子坂は新田坂ともいう。 


■成増公園
 成増3丁目4番9号にある区立公園。


■成増三丁目児童遊園
 成増3丁目6番2号にある区立公園。


成増アリエスビル
 成増3丁目13番1号、北口駅前の再開発ビル。

 
MANO
 ビルの駅に近い入口(ココカラファインのところ)に置かれた鎌田恵務の手のモニュメント。駅か
らも目立つ位置にある。後ろの床タイルをよく見ると,作品と同じ形の影が描かれている。クリスマ
スの時期にはビルと共に電飾が取り付けられ,ライトアップされることもある。

   
Keimu '97

 
成増図書館
 3階にある。

 
区立成増アートギャラリー
 3階にある貸しスタジオ。絵画から彫刻、華道、盆栽まで、様々なジャンルを展示することができ
る。作品の販売や、ギャラリー内で湯茶の接待やオープンセレモニーをすることも可能さ。
 03-3977-6061

 
庚申塔 撤去
 嘗て大木の根元に小さなのがあったが、再開発で景色はまるで変ってしまった。


■成増ヶ丘小学校
 成増3丁目17番7号にある区立校。昭和31年開校。以降の詳細不明。
 


■赤塚第二中学校
 成増3丁目18番1号にある区立校。昭和22年赤塚小学校に間借りして「東京都板橋区立赤塚第
二中学校」として開校。4学級198名でスタート。校章制定。同24年現在地に校舎落成し移転。
同27年創立5周年記念式典。校歌制定・校旗樹立。

 校歌
「春草萌ゆる」 作詞・堀江林之介  作曲・奥山謙一郎
  1.春草萌ゆる朝に立てば
    芙蓉の峰に雪は七彩
    純情の 純情の瞳は燃えて
    胸に抱く理想果てなく
    嗚呼、嗚呼 羽ばたく自由
    吾等若人 二中の若人
  2.武蔵野に続く細き流れの
    荒川に入り大洋に連なる
    信念の 信念の眉は秀でて
    虹の如 意気高らかに
    嗚呼 嗚呼 遥けき未来
    吾等若人 二中の若人
  3.秋清涼の夕べに聞けば
    稔り豊けき大地どよもし
    謙譲の 謙譲の誓い健気に
    真実を呼ぶ声響く
    嗚呼 嗚呼 漲る誇り
    吾等若人 二中の若人


 同29年校舎増築。同30年図書館開設。同31年野外ステージ・校庭スタンド完成。創立10周
年記念式典。隣接地に成増ヶ丘小学校開校。同35年「風かおる」像除幕。第1期鉄筋コンクリート
造り校舎8教室落成。同38年ミルク給食開始。同42年第2期鉄筋コンクリート造り校舎落成。創
立20周年記念式典。同45年南側校舎改築。同47年校内に区立中学校科学教育センター設立。正
門改修。同50年バドミントン都大会優勝。同51年バドミントン都大会優勝・関東大会出場・全国
大会出場。同52年創立30周年記念式典。プール改築。同54年夜間校庭照明施設完成。同55年
LL教室・図書室完成。同56年標準服改定。三宅島噴火による緊急避難生徒受け入れ。同62年体
育館改修。校旗新調。創立40周年記念式典。
 平和元年陶芸窯設置。同2年和室完成。同3年防災倉庫設置。同5年給食室・相談室増築。同7年
校庭改修整備。同8年図書室移設。同9年ランチルーム。創立50周年記念式典。同19年創立60
周年記念式典。同21年新校舎基本設計なる。
 


■成丘地蔵の庚申塔(成増野仏)
 成増4丁目3番1号の角地にある。庚申塔だが浮彫の像は聖観音だ。成丘地蔵とは、石仏を地蔵尊
と勘違いして、通称「成丘地蔵」、成丘とは成増の高台の意。


■天神下公園
 成増4丁目5番8号にある区立公園。


■阿弥陀堂墓地庚申塔
 成増4丁目7番20号にある。


■赤塚主婦刺殺事件犯人松尾元気の住まい
 成増4丁目11番13号のトヨタコーポに、逮捕されるまで住んでいた。
 


■庚申塔
 成増4丁目17番5号の角にある。


■庚申塔
 成増4丁目24番スカウトの森の入口近くの電信柱の根元にある。。


■成増四丁目緑地
 成増4丁目34番6号にある区立公園。


瑠璃光山青蓮寺
 成増4丁目36番2号にある真言宗智山派の寺。本尊の薬師如来坐像は室町時代の作風で、開山開
基は不詳だが、その時代の開創と考えられている。当初弁天塚辺り(成増4丁目23番辺り)にあっ
たが、何時の頃かは不明だが、水害のため現在地に移ったといわれている。
 昭和34年4月に解体された旧本堂の棟木から、

   元禄六年(1693)十月円宗代、大工与平次 千住

 の墨書が発見されたことにより、円により堂宇が整備されたことは明らかだ。現在の世代は中興か
ら数えられている。なお文政末期から大正初めまでは無住だった。朽ち果てなかったのは村で管理し
ていたのかねぇ? しかしこの間に什器・宝物・古文書等は散逸してしまった。円宗の改築は火災に
よるものとされ、これを機にして以後、檀家に火災は起きていないという。江戸期には三宝寺末で、
 大正13年に、御府内八十八ヶ所霊場19番札所、荒川辺八十八ヶ所霊場86番札所の浅草松葉町
清光院を合寺し、昭和9年に13世正善大和尚入山以来、寺は面目を一新した。石段を上がって山門
を潜ると右に墓地。その隣が本堂、庫裏と続く。正面から左は車が入れる道があって墓地。静かなお
寺だ。豊島八十八ヶ所霊場77番札所、御府内八十八ヶ所霊場19番札所。「御府内寺社備考」に、

   清光寺
   芝愛宕山円福寺末 浅草不唱小名 花園山神応寺清光院、境内古跡拝領地八百坪。
   当寺起立并寺地拝領之儀は、書留諸書物等焼失仕、相知不申候。
   開山慈観法印、卒年月不知。
   本堂、本尊阿弥陀如来立像、弘法大師、興教大師、不動尊立像。
   扇稲荷神社、土蔵造間口二間半奥行二間半。神体白幣

 とある。区の説明板は以下の通り。 

   青蓮寺
   瑠璃光山青蓮寺と号する真言宗智山派の寺院で、ご本尊は薬師如来坐像(平安時代作)で
   す。開山・開基は不詳ですが、昭和34年の本堂改築に際し、「当寺建立円宗代」「元禄
   六年十月」などと墨書された棟木が発見され、少なくとも、元禄六年(1693)まで遡
   ることがわかりました。また当寺は当初徳丸ヶ原の弁天塚(現高島平4丁目33番辺り)
   付近にあり、水害によりこの地に移転したとの伝承も伝わりますが、棟木年号からすると
   その移転時期は元禄六年以前のことと考えられます。
   当寺は豊島八十八ヶ所第77番札所であり、大正13年に、関東大震災で廃寺となった浅
   草松葉町の清光院を合寺したことから、江戸御府内八十八ヶ所の第19番札所となってい
   ます。また境内には現成増3丁目33番の通称愛宕山から移設された勝軍地蔵や、庚申塔
   (区登録文化財)などが存在します。
   なお先代の藤崎光淳14世住職は、昭和10年代から58年まで、成増周辺を継続的に写
   真に収めました(平成18年区に寄贈)。これは時代の移り変わりや特徴がよく窺える資
   料であり、平成21年度に板橋区登録文化財となりました。
   平成22年3月                         板橋区教育委員会 
 


■菅原神社
 成増5丁目3番23号、高台にある天神様。末社は稲荷社と愛宕社日枝社の合殿。参道に石橋があ
る。郷土博物館で復元展示しているような井戸があり、水盤の内側に亀が2匹彫られている。明治2
0年3月伊勢太々講の奉納だ。

   菅原神社
   当社の御祭神はその名のとおり菅原道真公を奉祀する。
   創建年代は不詳であるが、旧成増村の鎮守にして、明治7年4月に旧社格「村社」が与え
   られた。江戸時代には青蓮寺が別当となっていた。
   幕府編纂の地誌新編武蔵風土記稿には「山王社」、境内にある延宝七年銘の区内最古の手
   水鉢には「自在天神」、さらに明治2年の「社寺取調下案」に「天神社」とある。このこ
   とから当社は、社号がしばしば変更されていたようである。
   本殿は明治17年8月に氏子の寄付金によって再建され、大正年間には拝殿が新築されて
   いる。
   昭和57年3月                         板橋区教育委員会
 


■成増うめの里公園
 成増5丁目4番にある区立公園。


■成増五丁目公園
 成増5丁目11番37号にある区立公園。


■成増北第一公園
 成増5丁目19番1号にある区立公園。


■成増北第二公園
 成増5丁目19番2号にある区立公園。
 


【西台】(にしだい)1~4丁目                 最終昭和43年3月1日
 西台村。明治22年志村大字西台、昭和7年板橋区志村西台町。昭和38年1月1日一部を若木
に移し、志村中台町・志村西台町の各一部をあわせた町域を現行の「西台1丁目」とし、同41年
一部を蓮根・舟渡・新河岸に、同43年徳丸に譲り、同時に志村西台町・徳丸本町・徳丸町の各一
部をあわせた町域を現行の「西台2~4丁目」とし、同44年残りの西台を高島平に譲って新住居
表示を完了した。
 参考資料:「東京都住所表記に関する資料」。他に『板橋区史』など。

 西台の由来
 
志村城の西の高台の意。
 

■信泉寺 移転
 西台1丁目7番にあった。環八通りの敷設のため80mほど西北に移転した。跡地は西徳通りの環
八通りに合流アプローチ道路敷設のため大幅に改造されたので往時を偲ぶことはできない。この辺り
は蛇行した森だった。
 


■西台東みどり公園
 西台1丁目11番1号にある区立公園。


■信泉寺
 西台1丁目13番12号にある。本門仏立宗の寺。本尊は文字曼陀羅。開基は日晨上人。鉄筋コン
クリート造りで洋式のホテルのような建築。ありがたみがない。
 


■西台三本けやき広場
 西台1丁目18番にある区立公園。


■西台公園

 西台1丁目23番1号にある区立公園。22~24番に跨る広い園地だ。
 


■西台山分須不動堂

 西台1丁目29番3号にある。切り取られたように取り残された小さな森の中にある。
 


■志村高等学校
 閉校
 西台1丁目41番10号にあった都立校。昭和30年開校。平成19年都立北野高等学校と統合し
て「都立板橋有徳高等学校」になった。
 


■とりげつ坂

 西台2丁目1番と4番間の坂道だ。馬頭観音小祠から西台の台地を下り
善長寺(西台2‐18)の
前へ下りる坂道をいう。この道は古くからあり、馬頭観音のところに一里塚があったという。中山道
から分かれ練馬の石神井を経て、遠く府中方面に行く重要な道だった。この坂は、「鳥ヶ谷津山」の
谷津に沿って下るので、「とりがやつ」が「とりげつ」になったのだろう。


■西台福寿第二公園

 西台2丁目3番34号にある区立公園。


■馬頭観音堂

 西台2丁目4番35号の変則四辻の角にある。ここから下る坂道が「とりげつ坂」。坂下に善長寺
がある。


■神明坂

 西台2丁目4・5番と6番の間を北から南へ上る坂道。坂の半ば西側に坂名の由来となった天祖神
社がある。天祖神社の境内に稲荷神社があるが、『板橋の地名』の番場稲荷の坂の記述に従えば、こ
れは番場稲荷の坂の名前の由来となった西台3丁目11番の稲荷社が移設されたものではないかと考
えられる。坂道の標識はない。
 


■天祖神社

 西台2丁目6番29号にある中社。創建年代は不詳だが、神明社と称し、円墳の上に営まれた神祠
だったという。明治6年天祖神社と改称、翌明治7年村社に列格した。「新編武蔵風土記稿」に、

   (西台村)
   第六天社
   飛鳥社 以上京徳寺持
   神明社二
   村持下同
   天王社二
   稲荷社
   七社明神社
   第六天社


 とあり、「いたばしの神社」に、

   創立年月不詳。口碑によれば円墳の上に営まれた神祠という。明治二己巳年十一月社寺取
   調下案河原文書によれば、「西台村十社之内 一村鎮守式外神明神社祭神天照皇太神」と
   ある如く、旧幕時代は神明宮と称されていたが、明治六年三月社が改正されて天祖神社と
   なった。翌七年四月二月村社に定められた。四十二年に供進社に指定された。明治二年乙
   四月迄は同村真言宗教徳寺が別当社務をあずかった。


 とある。

   天祖神社
   祭神 大靈貴命(おおひるめのみこと) 大日靈貴命(おおひるめむちのみこと)
   創建年代は不詳であるが、口碑によると当社は円墳の上に営まれた古祠に始まると伝えら
   れ、西台村の鎮守であった。江戸時代には神明社と称したが、明治6年3月に社号を天祖
   神社と改称した。
   当社の奥の山には、御嶽山を始め、山岳神が祀られている。本殿左脇には、明治7年に京
   徳観音付近で発見された石棒(石神ー農耕子孫繁栄の神、長さ70cm、太さ20cm)
   を安置する。また本殿左奥の石祠は「天王さま」とも呼ばれる八雲神社で、京徳地区(当
   社の西方)から明治40年に現在地に遷された。その石祠の3面には、中国の故事(鯉の
   滝のぼり、韓信の股くぐり、カメ割りの唐絵)がそれぞれ彫られている。
   当社の大鳥居には、寛政八年(1796)の刻銘があるが、これは神明造りの鳥居として
   は区内最古のものである。
   平成6年3月                          板橋区教育委員会

 なお、大靈貴命も、大日靈貴命も天照大神の別称だ。

 
稲荷神社
 社殿左にある。

 
おしわぶき様
 稲荷神社の下にある男根形の石柱。子孫繁栄を祈願する。石神(せきしん)が、咳神に通ずるとい
うことから「咳(しわぶき)神」となった。石神(しゃくじん)から杓子が連想され、シャモジを奉
納することとなった。

   
咳(せき)鎭めの石神 流行の咳、疫病を鎮める神さま

 と但し書きが添えられている。説明板は以下の通り。

   おしわぶきさま(しゃぶきさま)
   御由来
   「おしわぶきさま」は、男根の形をした石神様で、築造は古く、天神の天降る頃(天孫降
   臨)といわれております。以前は、京徳(神社南方の地域)に祀られておりましたが、明
   治初期に当社に移されてまいりました。
   昔は、田畑の辻や村の境、橋のたもと等に祀られて道路の往来の安全を守り、疫病や悪神
   を追い払い、五穀豊穣を願う農村の信仰として親しまれてまいりました。
   また、ご神体が石で作られていることから、「石神」が「せき神」「しゃく神」と呼ばれ
   それがいつしか「石(せき)」が「咳」に、「しゃく神」が「杓子」となり、「しゃもじ」
   しゃもじを奉納する風習が生まれたとされています。 
 


■西台福寿公園

 西台2丁目7番24号にある区立公園。


■西台田端公園

 西台2丁目14番1号にある区立公園。


福寿山善長寺
 西台2丁目18番1号にある曹洞宗の寺。本尊釈迦如来。子育地蔵が祀られている。むかしから子
供の無事成長の守り仏として篤く信仰された寺だ。神仏混交の姿が明瞭に残されている。山門前にも
石像の子育地蔵、道標を兼ねた庚申塔などが立ち並ぶ。

 
大鳥神社
 境内にある。歳末の納め「酉の市」が立つことで有名。
 


■田端地蔵堂
 
西台2丁目25番25号にある。


■屋敷稲荷
 
西台2丁目27番1号にある。
 


■西台二丁目児童遊園

 西台2丁目28番25号にある区立公園。


■番場稲荷の坂

 西台3丁目8番と同9・10番の間を東へ上り、西台3丁目7番と11番の間に至る坂道。以下に
記す通り、『郷土板橋の坂道』によると、現在慈誠会記念病院のある西台3丁目11番に坂名の由来
となった稲荷社があり、また『板橋の地名』には、この稲荷社(番場稲荷)は、現在天祖神社に合祀
されていると書きいてある。確かに天祖神社に稲荷神社はある。坂道の標識はない。
 


■西台三丁目公園

 西台3丁目19番3号にある区立公園。


■稲荷社

 西台3丁目31番11号にある小祠。屋敷稲荷か?
 


西台山円福寺

 西台3丁目32番にある曹洞宗の大寺。本尊は拈華釈迦如来。文明十一年(1479)太田道灌が
川越に創建し、慶長十三年(1608)当地に移ったという。慶安二年(1649)幕府より寺領2
0石を与えられた朱印寺だ。当時は〝西台の大寺〟といわれていたが、弘化二年(1845)火災を
起こして焼失したと記録されている。寺宝に、道灌が川越に建立した当時、茶室で使用したという明
徳二年(1391)の製作銘のある雲板、文明十七年(1485)造立した阿弥陀像を陰刻した高さ
1m10cm、幅31cmほどの月待板碑がある。彫刻技術もしっかりした完形品だ。

   円福寺と雲版・月待板碑
   曹洞宗西台山と号し、文明十一年(1479)太田道灌が川越に開創し、慶長十三年(1
   608)この地に移転した。
   かつては関東屈指の名刹、西台の大寺として知られ、慶安二年(1649)幕府より寺領
   20石の朱印地を与えられた。しかし弘化二年(1845)の火災以降は往時の盛大さを
   取り戻せなかった。
   ここの寺宝として雲版・月待板碑が残されている。
   雲版は縦38cm×横35cmの青銅製で、太田道灌が当寺を創建した際、茶室に掛けた
   ものと伝えられている。元来禅家の仏具の一種であるが、その豪壮な作風には目を見張ら
   せるものがある。
   月待板碑は浄土信仰と月待信仰とが結合したとみられる遺物で、この板碑は文明十七年(1
   485)の銘があり弥陀一尊画像を陰刻した芸術的香りの高い、都内でも有数の板碑とい
   われる。
   平成5年2月                          板橋区教育委員会
  


■弥陀堂の坂

 西台3丁目34番と35番の間を西方に下って行く坂道、42番の西徳第二公園の北角まで下る。
弥陀堂は円福寺法蔵庵の俗称。
 


■円福寺法蔵庵(弥陀堂)

 西台3丁目35番1号にある境外仏堂。墓地が主で、簡単な民家の中に仏壇があり、管理人が住ん
でいる。
 


■西台児童遊園

 西台3丁目35番14号にある区立公園。


■志村第五小学校

 西台3丁目38番23号にある区立校。明治11年西台村堀の下1775番地福寿山善長寺内に、
「第一大学区第四中学区第二十四番小学福寿学校」として開校。同24年西台村天祖神社の東方高台
1588番地へ移転。同39年西台村1321番地に移転し、「志村尋常小学校西分教場」と改称。
 昭和7年東京市編入により「東京府東京市志村尋常小学校西分教場」と改称。同15年西台町16
57番地(現在地)に移転。同16年勅令148号国民学校令により「東京府東京市志村国民学校西
分教場」と改称。12月日米開戦。同18年3月8教室増築。5月25日独立し「東京府東京市志村
第五国民学校」と改称、この日を開校記念日とする。7月都制の施行により「東京都志村第五国民学
校」と改称。同19年群馬県に学童集団疎開。同20年8月日本敗戦。10月疎開解除により学童帰
校。
 同22年戦勝国アメリカの強制による学校教育法施行により「東京都板橋区立志村第五小学校」と
改称。同26年校地拡張(5000㎡)。同32年4教室増築。同35年校歌制定。

 校歌
「みどり」 作詞・サトウハチロー  作曲・渡辺浦人
  1.みどり みどりの西台高く
    優しく母校の姿が光る
    平和の徴
(しるし)の柊(ひいらぎ)(かざ)
    毎日正しく 学ぶはわれら
    ああ志村 志村第五 わが母校
  2.富士を 筑波を 秩父の山を
    眺めて互いに励まし語る
    体鍛えて明るく強く
    心の誓いを貫く吾等
    ああ 志村 志村第五 わが母校
  3.何時も 何時でも小鳥に花に
    手を振り呼びかけ みんなで歌う
    働く喜び 楽しく湧いて
    未来を目指して進むは吾等
    ああ 志村 志村第五 わが母校


 同36年4教室増築、校地拡張(1512㎡)。同38年校舎増改築。創立20周年記念式典。同
41年プール(10×25m)完成。同45年体育館完成。同48年校舎増改築。同49年創立30
周年記念式典。同58年開校40周年記念式典。同59年FF暖房設置。同60年機械警備工事、校
舎全面改修。
 平成2年「学校の森」完成。同3年校舎窓ガラス強化ガラス化。同5年創立50周年記念式典。同
8年パソコンルーム開設。同9年学校給食外部委託開始。ランチルーム設置。同10年インターネッ
ト接続。同11年栗山村児童との交流学習(ホームスティ)。同15年ホームページ開設。全教室扇
風機設置。創立60周年記念式典。同16年給食室温水ボイラー設置。教室照明改修。
 


■西徳第二公園

 西台3丁目42番1号にある区立公園。


■京徳観音堂

 西台3丁目53番21号にある。江戸時代からあった京徳寺の持ち堂で、寺が移転した後も観音堂
だけは残され、現在は円福寺の管理となっている。本尊は観音菩薩像。昭和51年の堂宇改築までは
茅葺も侘しく、武蔵野にふさわしい面影を残して心和むものがあった。今の坊主や神主は、西洋の合
理主義に洗脳されて、本来の信仰心というものを理解できてないのだが、時代なんだろうかねえ。
「社殿や本堂は燃えなけりゃいい」ってものでもねえだろう。

   京徳観音堂
   旧小字名の京徳を冠称して京徳観音堂と呼ばれる。創建は延享元年(1744)、昭和5
   1年改築された。元は新義真言宗水想山京徳寺という独立寺の観音堂であった。この信仰
   が盛んであった頃には参拝者が引きも切らず、参道石段がよく壊されたので、村民たちは
   遂に参拝者除けに向背の支えを栗の逆さ柱に取替えたと伝える。
   墓地に残る延文六年(1361)建立の2基の宝篋印塔が2基は南北朝時代の西台の歴史
   を め、万治三年(1660)建立の石地蔵は、江戸時代の地蔵信仰の を告げている。
   堂の直下をたどる道は往時代官が  に通った「峡田道(はけたみち)」である。
   昭和54年3月                         板橋区教育委員会


 逆さ柱は、日本の木造建築に於ける俗信の1つで、木材を柱にする際に、木が本来生えていた方向
と上下逆にして柱を立てることをいう。古来より逆柱にされた木は、夜中になると家鳴り等を起こす
ともいわれていた。また家運を衰微させるほか、火災などの災いや不吉な出来事を引き起こすといわ
れており、忌み嫌われていた。頭に来た村民が、やけくそで嫌がらせをしたものだろう。それぐらい
膨大な数の参拝者があったってこったよ。
 宝篋印塔は区内で2番目に古い墓碑で、供養者の名は不詳だが、この地を支配した豪族の遺品だろ
うという。
 また幕府老中井上主計頭正就の次男帯刀正昭、その長男右京正員の墓碑があるがいかなる由来によ
るものかは不明だ。

 
馬頭観音堂
 堂の隣にある小祠

 
(はけ)の地蔵
 堂入口階段脇にある石地蔵。。、
 


■大山不動尊
 
西台3丁目54番15号の角にある。


■西台ふれあい公園

 西台3丁目56番3号にある区立公園。


■西台四丁目児童遊園

 西台4丁目3番6号にある区立公園。


■西台中央通り公園

 西台4丁目4番15号にある区立公園。


■庚申堂
 
西台4丁目9番南の追分にある小祠。
 


【蓮沼町】(はすぬまちょう)                    昭和47年1月1日
 蓮沼村。明治22年志村大字本蓮沼、昭和7年板橋区が成立すると坂上の本蓮沼は志村本蓮沼町、
坂下の本蓮沼は志村長後町となった。同36年志村本蓮沼町は一部を志村清水町・志村大原町に譲
り、同時に志村清水町・志村小豆沢町・小豆沢1丁目の各一部をあわせた町域を現行の「蓮沼町」
とし、同47年新住居表示を実施して現在に至っている。
 参考資料:「東京都住所表記に関する資料」。他に『板橋区史』など。

 蓮沼の由来
 村は初め志村の下(荒川河川敷)にあったが、たびたび大洪水に遭ったので、享保十三年(17
28)御鷹場に召し上げられ、代地として前野村・小豆沢村の内に三百余石を分検された。それで
現在地に社寺とともに本村を移した。このため蓮沼村は坂上と坂下の二ケ所になり、文久二年(1
862)坂下の根葉村寄りの区域が分離独立して「上蓮沼村」となったので蓮沼村は「本蓮沼村」
を唱えることとなった。村を開いたところが荒川流域の湿地帯だから、あちこちに自然の沼(道上
沼・前沼・丸池・後沼など)があった。蓮の自生する沼もあったのだろう。坂下の蓮沼村は現在坂
下・東坂下・舟渡を名乗っている。

■蓮沼児童遊園

 蓮沼町1番6号にある区立公園。


■庚申塔

 蓮沼町1番18号の角地にある。


■庚申塔

 蓮沼町2番6号の民家の軒下にポツンと立っている。


■本蓮沼駅

 
蓮沼町19番8号にある都営地下鉄三田線の停車場。昭和43年12年27日都営6号線の最初の
区間である巣鴨~志村(高島平)間が開業した時に設けられた。ホームは相対式2面2線構造で地下
1階にある。上下ホームを結ぶ通路は、改札外にしかないので注意が必要。改札口は各ホームに1ヶ
所ずつの計2ヶ所。出口はエA1~A3の3ヶ所がある。
 駅の東約300mところに国立西が丘サッカー場がある。通常「国立」と言えば神宮外苑にある国
立霞ヶ丘陸上競技場のことを指すが、あちらが陸上競技兼用のスタジアムであるのに対して、こちら
は唯一のサッカー専用国立スタジアムとなっている。国際試合やJリーグの試合には使われないが、
JFLや高校サッカーに使われることは多い。
 


■蓮沼第二児童遊園

 蓮沼町21番1号にある区立公園。


■本蓮沼公園

 蓮沼町27番4号にある区立公園。


■蓮沼 氷川神社
 蓮沼町48番3号に、元の別当寺南蔵院に抱かれるように並んである。祭神は須佐之男命と奇稲田
姫。慶長年間(1596~1615)蓮沼村字前沼(現在の浮間舟渡駅の西側一帯)に創建されたと
伝えられる。享保年間に南蔵院と共に当地へ移転した。明治期には村社に列格されていた。、
 区の説明板に、

    当社は古来蓮沼村の鎮守で、御祭神は須佐之男命と奇稲田姫命です。慶長年間(159
   6~1615)に現さいたま市の氷川神社から、蓮沼村字前沼(現在の浮間舟渡駅 の西
   側一帯)に勧請されたのが創建と伝えられている。蓮沼村は、享保年間(1716~17
   36)に荒川氾濫の被害を受け、高台にある現在地に移動しました。その時に、当社も新
   井三郎衛門が村人とともに、前沼から現在地に移転したといいます。また当社の別当寺で
   あった南蔵院も、同様に移転したと伝えられています。明治7年には村社に指定されまし
   た。彼岸前の日曜日に行われる秋祭の際には、湯花神楽が奉納されています。
                                   板橋区教育委員会


 とある。

 
十度の宮
 本村の移転とともに舟渡氷川神社・十度の宮から分霊した。享保九年(1724)この水禍を避け
るため、氏神と共に現地丘上に移った。神仏混交の時代、この寺(南蔵院)が別当をしていた蓮沼氷
川神社を俗に「十度の宮」と呼んでいた。出水の都度流失し、社殿が移動した結果の呼称である。そ
の後、隣寺金剛院を合併し現在に至る。
 


宝勝山南蔵院蓮光寺
 蓮沼町48番8号にある新義真言宗智山派の寺。寺伝では寛永七年(1630)頃に開創と伝えて
はいるが開山開基は不明としている。『新編武蔵国風土記稿』では開基は新井三郎盛久。開山は宥照
上人とし、『板橋区の歴史』では歴代住職のうち寛文二年(1662)に寂滅した宥厳が開山だろう
という。元は志村坂下にあったが、度重なる荒川の氾濫で、享保年間(1716~36)現在地に移
された。
 入口を入ると参道50mで正面に本堂、鉄筋コンクリート造り。参道の右に小さな地蔵堂があり、
左に立派な護摩堂、本尊は不動明王、関東36不動霊場。
 昭和53年に改築された本堂に、弘法大師が薫香の灰で造ったと伝える自作大師像が、本尊十一面
観音とともに安置されている。数多い石造物のうち、承応二年(1652)造立の丸彫り地蔵型庚申
塔は、区内では2番目に古いものだ。区の説明板に、

    真言宗 寶勝山蓮光寺と号する。本尊は十一面観音、弘法大師がお護摩の灰をもってご
   自作された自像、また行基菩薩作の阿弥陀像と伝えられる各像を安置する。当寺はもと荒
   川の近く志村坂下に創建され、開基を新井三郎盛久の一族が戦乱を避けてここに土着し、
   建立したという。享保七年(1722)8代将軍吉宗が戸田川(荒川)で鷹狩りを行った
   時、御膳所と定めた由緒ある寺であるが、度重なる荒川の氾濫のため寺宝の一切を失って
   しまった。享保九年(1724)この水禍を避けるため、氏神と共に現地丘上に移った。
   神仏混交の時代、この寺が別当をしていた蓮沼氷川神社を、俗に「十度の宮」と呼んでい
   た。出水の都度流失し、社殿が移動した結果の呼称である。その後、隣寺金剛院を合併し
   現在に至る。                          板橋区教育委員会


 とあり、区編纂の「いたばしの寺院」には、

    「人皇百九代明正天皇の御宇寛永七年頃開創」と当山の縁起にあるも、開基開山ともに
   不詳。度重なる出水のため記録類のすべてを失う。新編武蔵風土記稿によれば開基は村民
   三郎右衛門の先祖新井盛久、開山は宥照と伝える。寛文二年三月二十八日頃は志村坂下に
   あったが、第5世宥照和尚が開山となり、享保年間に現在地に移転したという。享七年十
   一月二十五日将軍吉宗が遊猟の際膳所となり白銀を賜る。昭和2年隣寺明王山金剛院を合
   併して今日に至る。昭和53年5月14日に坂下2‐24‐14に「南蔵院寺屋敷址」の
   記念碑を立つ。
    不動堂
   「新編武蔵風土記稿」に「金剛院、同門徒。命王山と号す、本尊不動」とあるが、もと隣
   寺金剛院持であったのを昭和2年に境内に移したものである。昭和52年改築の際、次の
   棟札を発見した。「奉棟上天御中主神堂営永久吉祥。天保四年大工小豆沢村住人。石塚内
   記藤原光好」


 とあり、「御府内寺社備考」には、

    新義真言宗、足立郡横曽根村吉祥院末、宝勝山蓮光寺と号す、本尊十一面観音傍に弘法
   大師自作の坐像安す、開山宥照、開基は村民三郎右衛門が先祖新井三郎盛久なりと云、享
   保七年十一月二十五日有徳院殿此辺御遊猟の時始めて御膳所に命ぜられし時の住僧拝謁し
   て白銀を賜ふ、金剛院同門徒命王山と号す。

 とある。

 ●さくら寺
 移転前8代将軍吉宗が鷹場に出向いた時には御膳所になったことがある。亨保七年(1722)1
1月25日吉宗が鷹狩の際にこの寺に立ち寄って縁起を尋ねた。吉宗はその由緒を知って苦難の道程
に感じ入って白銀を奉納し、以後、御膳所に命じられた。帰り際、吉宗が境内にある見事な枝垂桜に
目を留め、ふるさとの紀州に咲き誇っていた桜を思い出したのか、この寺を〝桜寺〟と名付けた。
 今、東京には古くから桜の名所として知られた場所が何ヵ所かあるが、その殆どが吉宗の植樹にな
るということは案外知られていない。吉宗の桜に対する思いの深さを感じとれる。
 境内には見事なヨシノザクラ、ヤエザクラ・ヤマザクラ・ヤエベニシダレザクラ、シダレモモなど
が植えられており、釈迦さまの誕生日である4月8日の「花祭り」を中心に桜の見頃に合わせて様々
な行事が催される。

 
はいた地蔵
 はいたは歯痛と思われるが、移転前の洪水で一切の記録が流失し、曰く因縁は寺でも判らない。歯
痛で困っていた誰かが歯痛が治ったか、そのために何かをしでかしたということだろうが、名前と地
蔵だけが残っているのみ。造立されて15年後に、村ごと高台に移転してきた。