Home  江戸・東京・武蔵 足立区 板橋区 江戸川区 大田区 葛飾区 北区 江東区 品川区 渋谷区 新宿区

杉並区 墨田区
 世田谷区 台東区 中央区 千代田区 豊島区 中野区  練馬区 文京区 港区 目黒区 女性

Yahoo! JAPAN
 東京の地名の由来
 東京知ったかぶり!
 平成17年2月11日発信    リンクフリー
 地名の由来 東京23区辞典
  引用自由

 
   荒川区の地名の由来 
 
  現在進行形の調査なので、逐次、誤謬訂正・新規追加あり。御用心!
ご意見とご教示メール
★各区夫々の主な記事
 Home  【巻末特集】 江戸・東京名数一覧   江戸東京   東京は首都ではない  皇室典範・女系天皇 
 足 立 区   ビートたけし 関原不動 赤門寺 千住 都立舎人公園
 下山事件 西新井大師 大鷲神社 伊興寺町
 六阿弥陀 木余り阿弥陀 荒川バラバラ事件 炎天寺
 尾崎豊終焉の地 尾崎の部屋
 女子高生コンクリート詰め殺人事件
 
 荒 川 区  あらかわ遊園 北島康介 諏訪台寺町 三河島事故
 開成中学校・高等学校 尾久の原公園 大関横丁
 素盞雄神社 天王祭 大橋谷中延命院一件
 「あしたのジョー」「巨人の星」
 【巻末特集】 江戸しぐさ
 【巻末特集】小股の切れ上がったいい女
 板 橋 区   自殺願望女性救助駅前交番警察官殉職事故 松月院
 東京大仏 縁切榎 大東文化大学 帝京大学 板橋宿
 東京家政大学 中山道 板橋宿 国立極地研究所
 板橋事件 加賀藩前田家下屋敷
 
 江戸川区  葛西臨海公園 インド人 小松川女子高生殺人事件 
 都県境未定地 おくまんだし 妙見島 影向の松
 目黄不動 平井聖天 食用蛙供養塔 紅葉川高校
 江戸風鈴 立木観音 タワーホール船堀 雷不動
 大 田 区   池上本門寺 光明寺 大森海苔 磐井神社 松竹キネマ
 御菜八ヶ浦 羽田空港 大鳥居 八景坂 六郷神社
 大森ふるさとの海辺公園 馬込文士村 万福寺 梅屋敷
 洗足池
 葛 飾 区   式部薬師秘話 お花茶屋 金町浄水場 「こち亀」銅像群
 香取神社 東京拘置所 柴又女子大生殺人放火事件 
 男はつらいよ 柴又帝釈天 郷土と天文博物館 立石祠
 かつしかシンフォニーヒルズ 新宿の問屋場跡 葛西神社
 葛西囃子 美弥子ちゃん誘拐殺人事件 半田稲荷
 水元公園 しばられ地蔵 木下川薬師 堀切菖蒲園
 
 北  区   静勝寺 小山酒造 新河岸川 飛鳥山公園 金剛寺
 装束稲荷 王子神社 王子稲荷 名主の滝 近藤勇墓
 医心方 亀の子束子 旧古河庭園 田端文士芸術村

 【巻末特集】 隅田川 (渡しと橋) 
 江 東 区   外郎売  永代橋落橋事件 亀戸天神 カトレア
 ヒストリーガレージ キッザニア 戦災資料センター
 深川江戸資料館 富岡八幡 元八幡 砂町商店街
 東京海洋大学 東西線転倒事故 有明コロシアム 萩寺
 
 品 川 区   品川トランク詰め殺人事件 星薬科 船の科学館
 鈴ヶ森 立正大学 香蘭女子 杉野ドレメ 品川神社
 荏原神社 光福寺 大崎新都心 清泉女子大 品川寺
 品川宿 昭和大学 戸越銀座 第一京浜 ところてん
 
 渋 谷 区   明治神宮 慶応幼稚舎 尾崎豊の碑  忠犬ハチ公
 ライフル乱射事件 渋谷川  夫バラバラ殺人事件
 妹バラバラ殺人事件 モリブデン 文化女子大 NHK
 広尾病院事件 文化村 尾崎豊の碑 ワシントンハイツ
 聖心女子大 東京女学館 日本共産党 女子大生誘拐
 アメリカ橋 安藤組 国学院 金王神社 青山学院
 
 新 宿 区   浄瑠璃坂の仇討 新宿胴体遺棄事件 新宿騒乱事件
 八幡様  陸軍士官学校 赤線地帯 防衛省・市谷駐屯地
 岡田有希子飛び降り自殺 オリンピック東京大会
 東海道四谷怪談 追分交番爆破事件 鉄腕アトム 
 
731部隊 学習院女子 早稲田大学 抜弁天 歌舞伎町
 歌声喫茶 名曲喫茶 どん底 新宿高野 中村屋 闇市
 
 杉 並 区   青梅・甲州・五日市街道 観泉寺 永福寺 高円寺
 不美人=ブスとは?  大宮八幡 ガンダム 妙法寺
 立教女学院 スチュワーデス殺人事件 東京女子大
 一家皆殺し放火 「疑惑の銃弾」 三浦和義 
 天保新水堀用水 
 
 墨 田 区   東京スカイツリー 相撲は国技ではない 大相撲事件 
 隅田川七福神 妊婦たらい回し死亡事件 回向院
 握りずし発祥 震災慰霊堂 鬼平・遠山の金さん
 王貞治生誕地 玉の井バラバラ事件 江戸東京博物館
 吾嬬神社 本所七不思議 もゝんじや 法恩寺 蓮華寺
  
 世田谷区   バンク・約束手形  花形敬  ウルトラマン 民家園 
 静嘉堂文庫 ボロ市 鷺草 西福寺 軍都池尻 東名
 羽根木公園 砧公園 駒沢公園 祖師谷一家殺人事件
 九品仏 多摩美 国学院 東農大 NHK技研 豪徳寺
 世田谷美術館 馬事公苑 烏山寺町 次大夫堀 仙川
 台 東 区   浅草寺 仲見世 浅草神社 三社祭 花やしき 上野公園
 鬼灯市 酉の市 待乳山聖天 佃煮元祖 旧岩崎邸
 八百善 今戸神社 アメ横 寛永寺 不忍池 花の吉原
 上野動物園 東京国立博物館 駒形どぜう 鬼子母神
 東京本願寺 東京芸大 谷中墓地 笹の雪 吉展ちゃん
 
 中 央 区   「銀ブラ」って、ブラブラ歩くことじゃないよ。 パウリスタ
 東京大空襲 アメリカの占領 蘭学事始 ティファニー 
 エルメス シャネル コーチ パリー セリーヌ プラダ
 カルティエ ディオール ルイ・ヴィトン 不二家不祥事
 三越・松屋・松坂屋・大丸・高島屋 築地本願寺 日本橋
 H&M 歌舞伎座 白木屋火事 日本銀行 金春芸者
 日本海軍発祥地 新橋演舞場 明治座 ハヤシライス

 千代田区   靖国問題・A級戦犯 女子学院 暁星 将門塚 消防庁
 警視庁 ていぱーく 桜田門外の変 ニコライ堂 武道館
 九段会館 楠公像 ホテルニュージャパン火災 近衛師団
 秋葉原無差別殺傷事件 神田明神 FM東京 丸ビル
 新丸ビル 丸の内物語 三菱重工ビル爆破事件 国会
 雙葉 専修大 日大 法大 明大、電機大 大妻 番町小
 東郷平八郎 日比谷公園 国際フォーラム 北辰一刀流
 
 豊 島 区   池袋の女 染井吉野 女子栄養学園 染井霊園 中山道
 おばあちゃんの原宿 とげぬき地蔵 庚申塚 本妙寺
 雑司が谷墓地 鬼子母神 土田邸爆破事件 山吹伝説
 目白不動 帝銀事件 立教 学習院 豊島岡女子学園
 【巻末特集】 
東京の暴力団
 中 野 区   新井薬師 上高田寺町 童謡「たき火」 中野サンプラザ
 近隣騒音殺人事件 福蔵院 八幡神社(鷺ノ宮) 成願寺
 宝仙院 堀越学園 桃園川 丸井本店 中野ブロードウェイ
 東中野電車追突事故 光倶楽部事件 哲学堂公園 桃園
 
【巻末特集】 江戸城 城門と橋  
 練 馬 区   いろはかるた 練馬バラバラ殺人事件 としまえん 
 ちひろ美術館 三宝寺 石神井公園 長命寺 清戸道
 良弁塚 武蔵大学 金乗院 練馬寺町 武蔵音大 
 グランドハイツ 練馬少年鑑別所 首継ぎ地蔵 円明院
 妙福寺 春日神社 増島家薬医門 練馬大根 愛染院
 
 文 京 区   狛江 振袖火事 東京大学 拓殖大学 御茶ノ水女子大
 東京高等師範 教育大学 護国寺 弥生式土器 伝通院
 聖マリア大聖堂 高津教授殺人事件 東京ドーム 六義園
 小石川植物園 元町公園 桜蔭学園 順天堂大 かねやす
 日本女子大 湯島聖堂 湯島天神 東洋大 共同印刷争議
 
 港  区   増上寺 フリーメイスン 永坂更科 麻布学園 氷川神社
 乃木大将 ミッドタウン 六本木ヒルズ 善福寺 霊南坂
 東洋英和 ケネディ暗殺宇宙中継 愛宕山 小便小僧
 レインボウブリッジ 東京タワー 慶応義塾 自然教育園
 明治学院 虎ノ門事件 東宮御所 日本経緯度原点
 9・11(アメリカ同時多発テロ) 首謀者はチェイニー
 
 目 黒 区   滝坂道 目黒不動 法華騒動 円融寺 五百羅漢 東工大
 目黒ショック 日比谷線脱線事故 駒場野一揆 旧制一高
 駒場東大 駒場学園 滝坂道 行人坂大火 雅叙園 騎兵
 目切坂 権之助坂 太鼓橋 茶屋坂 槍ヶ崎事件 祐天寺
 酸素魚雷 音羽ゆりかご会 八雲学園 目黒のさんま
 
   



 荒川区の地形 
 荒川区は、武蔵野台地の北東周縁部と隅田川に挟まれたところに位置する訳さ。区内の台地(高所)
は京浜東北線西日暮里駅の西側に僅かに分布し、それ以外は隅田川や荒川の氾濫と蛇行によって形成
された広大な氾濫低地となっている。早い話、荒川区は河川敷ってことだ。この氾濫低地には河川の
蛇行の痕跡として微高地(自然堤防)が十数点分布している。区は全体的に低地で、埼玉県栗橋辺り
の堤防が切れれば水浸しとなる。それで埼玉県でスーパー堤防を作っている訳だ。戦後直ぐのキャサ
リン台風で東東京は水浸しになったんだよ。
 

■地形・地質と住宅地盤 
 ●台地面
 比較的海抜高度が高く起伏の少ない平坦面で、関東ローム層と呼ばれる火山灰土で覆われている。
関東ローム層は、上部のローム土(赤土)と下部の凝灰質粘土に大別されるが、自然堆積したローム
土は安定しており、比較的大きな強度が期待できるため、表土部分にさえ注意すれば住宅地盤として
良好な場合が多い。特に西日暮里3、4丁目辺。
 

 
台地と低地の境
 元々は台地の側面が低地側へと下っている斜面で、人為的に平坦面にしていることから、場所によっ
て盛土の厚さが異なっていたり、切土と盛土が混在しているため、地盤のバランスが 悪い。また盛
土の下には、台地側から運ばれて再堆積した軟弱土が分布していることがある。だから不同沈下を防
止するような基礎補強策が必要となることが多い。西日暮里1、2、5、6丁目、東日暮里の辺り。
 

 
谷底低地
 台地部が小さい河川などによって削られて形成された低地で、台地の間に樹枝状に分布している。
台地を形成していた土砂が再堆積した土や有機質土(腐植土)などが分布しており、非常に軟弱な地
盤となってんのよ。でさ、長期的な沈下(圧密沈下)を防止するような基礎補強策が必要となること
が多い。
  

 
氾濫低地
 
荒川や隅田川流域に広く分布する標高の低い平坦面だ。地下水位が高く、軟弱な粘土やシルトが厚
く分布しているため、長期的な沈下(圧密沈下)が問題になっている場所が多く、適切な基礎補強策
が必要となる。汐入地区で地盤の嵩上げ、低層住宅を取っ払って高層マンション化してるのはそのた
めよ。しかし問題は基礎補強工事といっても人間のやることだから、そりゃあ自然との勝負で、液状
化が起こるってえと安心じゃねえわな。
 

 
自然堤防

 周囲の氾濫低地や海岸低地と比べ海抜高度が僅かに高く(微高地)、本来は河川に沿って帯状に分布
している。河川によって運ばれた砂や砂礫が浅い深度から分布しているため、住宅地盤としては比較
的良好と考えられる。しかし河川の度重なる氾濫と蛇行によって、新たに運ばれた軟弱な粘性土や緩
い砂が自然堤防上に堆積している場合には、基礎補強対策が必要となることも多い。つまり堤防が切
れるってこと。
  

荒川という川 
 この川は文字通り〝荒れる川〟で、しばしば氾濫し洪水を起こす川だった。甲斐の山間に源を発し
て東流し、かつては元荒川の流路を流れて利根川(中川・隅田川)に合流していた。徳川家康は江戸
を洪水から救うため利根川を渡良瀬川(江戸川上流)に瀬替えし、さらに鬼怒川に繋いで現在の利根
川の流路を確定した。同時に荒川も入間川に繋いで隅田川の上流とし、利根川から墨田川の流れは断
ち切った。それで長い間隅田川が荒川だったという訳だ。また綾瀬川は荒川の分流で、足立区花畑か
ら隅田川までの新綾瀬川は、かつての隅田川の流路跡に沿って開鑿されたもので、足立区の谷中・辰
沼・大谷田などはその名残の地名だろう。さらにそれより古い流路が古隅田川で近年まで残っていた
が現在は暗渠化され一部を除いて水面は見えない。明治43年の洪水は東京に一方ならぬ被害をもた
らしたので、東京に被害をもたらさぬように放水路が開鑿されることになり岩淵から江戸川区の海岸
まで22km、幅500mの大工事が始まった。大正5年には通水したが完成したのは昭和5年だっ
た。昭和39年河川法が改正され、翌年から放水路が荒川本流とされ、旧荒川は隅田川となった。

 「隅田川」
については「北区」に集約したよ。長いから読みきれないかもしれない
  
 


荒川区の歴史
 古代
 歴史は大変古く、人々が居住し始めたのは、今から2~3万年前の旧石器時代に遡ると考えられて
いる。発掘調査などで確認されている遺跡としては、武蔵野台地の東端の上野台地に位置する縄文時
代後期(約4000年前)の日暮里延命院貝塚や縄文時代前期(約6000年前)から弥生時代を中
心とした道灌山遺跡などがあり、台地上に人々の暮らした跡を見ることができる。また水運(隅田川)
が人々の生活に大きな影響を与え、平安時代には既に石浜・橋場付近に「隅田の渡し」が置かれてい
たと推定される。
 

 中世
 治承四年(1180)源頼朝の挙兵に当たり、江戸重長が頼朝の隅田川渡河を阻止するなど、区内に
も有力な武士団が成長していた。「小具(おぐ)」「につほり」「三川ケ島」などの地名も古くから
見られ、区内の地域が早くから開発されていたことが判る。また中世の文化・交通・交易の状況を窺
うことができる板碑も、区内に数多く残されている
 

 
近世

 天正十八年(1590)に江戸に入部した徳川家康は、文禄3年(1594)に千住大橋を架け、
千住下宿は江戸の玄関口として賑わう。区内は上野寛永寺領と江戸幕府の直轄地とからなり、点在す
る湿地帯は将軍家の放鷹場(御鷹場)ともなっている。道灌山・諏訪台・荒木田の原など庶民行楽の
地も多く、特に日暮里は「ひぐらしの里」とも呼ばれ、江戸時代、庶民の情緒豊かな遊びの場となっ
ていた。
 

 近代
 明治維新後、(荒川区の)区域は東京府に編入され、殖産興業政策により、隅田川の水上交通路を
営千住製絨所などの工場群が次々と建設され、区内の近代化が進んだ。
 
 


荒川区の変遷
 東京府
 現在の荒川区の区域に入る江戸時代の町村は、慶応四年(1868)7月10日桑山武蔵知県事に
所属した後同月17日の東京府の設置を受けて編入した。ただし千住南組(小塚原村・中村)は小菅
県を経てから同4年11月13日東京府に所属替えとなる。同7年3月8日明治政府の戸籍法による
末端支配を目論む「大区小区制」により自治権を奪われ、第九大区・第十大区に組み込まれたが、大
久保利通による専制強圧政治だったために国民の反発を買い、やがて不平武士の義挙、自由民権運動
へと発展した。大久保は弾圧と暗殺でこれに応じたが、悪運も尽きる時は来るもので、同11年5月
14日国家主義の権化のような大久保が正義の刃を以て葬られるとその息のかかった官僚たちは慌て
て大区小区制を撤回、7月22日「郡区町村編制法」を施行して旧に復し自治権回復の道を開き、同
21年4月25日明治政府は初めて国民の自治を認めるに至り、「市制町村制」が公布され、翌22
年5月1日同制度により当区では南千住町・三河島村・尾久村・日暮里村の1町3ヶ村にまとまり自
治権を回復した。大正2年7月11日日暮里村が、同9年2月11日三河島村が、同12年4月1日
尾久村がそれぞれ町制に移行。昭和7年10月1日東京市に組み込まれ南千住町・三河島・尾久・日
暮里の4町が合併して荒川区となった。
区名は荒川(隅田川)に沿っていたことによる。4町とも納
得のいく区名だった。しかし「河川法」の改正により昭和40年から荒川放水路が本流となり、荒川
の名は移ってしまったので、区と荒川とは縁が切れてしまった。

 東京都
 同18年7月1日東京市の強大化を恐れた内務官僚が「府県制」を改正し、東京府・東京市を廃し
て東京都とし直轄管理に移した。同21年9月27日占領軍の指導により「都制・府県制・市制・町
村制」の改正が行われ都知事・区長が公選となる。この処置に内務省の国家主義者たちは専制権を温
存して私利私欲の余地を残そうと目を三角にして戦慄き震えたが、情けな いことにアメリカ人に窘
められて初めて、正義のあるべき姿を諭され漸く国民の自治の大切さを納得した。同22年3月15
日戦禍からの復興のため都心区が廃置分合で合併し35区から22区となった。4月17日市制町村
制を廃して地方自治法が制定され大幅に地方自治は民主化されたが国家主義者は現在も官僚制度の中
枢にあり、完全なる地方自治にはまだまだ遠い道程だ。8月1日練馬区が独立して23区となった。
 現在の町数は7で23区中最少。区役所は荒川二丁目にある。
 友好・姉妹都市は、ウィーン市ナウシュタット区・オレゴン州コーバリス市(アメリカ)・埼玉県荒
川村・千葉県大多喜町・鴨川市・新潟県吉川町・山梨県高根町・福島市・福島県桑折町・福島県石川
町。警察署3 消防署2・同出張所6。


■教育施設

 小学校 区立校23 私立校0

 瑞光・第二瑞光・第三瑞光・第六瑞光・第二峡田・第三峡田・第四峡田・第五峡田・第七峡田・第
 九峡田・尾久・尾久西(尾久西+小台橋)・尾久第六・赤土・大門・尾久宮前・第一日暮里・第二
 日暮里・第三日暮里・第六日暮里・ひぐらし(第四日暮里+真土)・峡田(第一峡田+第八峡田)
 ・汐入(第四瑞光+第五瑞光)
  廃校
 第六峡田

 中学校 区立校10 私立校2
 第一・第三・第四・第五・第七・第九・尾久八幡・南千住第二(南千住+第二)・原(第六+尾竹
 橋)・諏訪台(第八+第十+日暮里+道灌山)
 
北豊島・開成

 高等学校 都立校 2 私立校 2
 竹台・荒川工業
 北豊島・開成

 高等専門学校
 都立産業科学高専

 大学
 首都大学東京荒川キャンパス(旧都立保健大学)

 図書館
 南千住・荒川・尾久・日暮里・町屋・汐入図書サービスステーションの6館。中央図書館はないが
南千住図書館が中央図書館的機能を果たしている。

 文化施設
 サンパール荒川(荒川区民会館)・荒川ふるさと文化館・荒川総合スポーツセンター・町屋文化セン
ター・あらかわ遊園・荒川自然公園・尾久の原公園。
 


■区の木・区の花 

    昭和54年11月10日告示第84号
    荒川区の木と花を次のように定める
    荒川区の木 サクラ
    荒川区の花 ツツジ

 とあるだけで、サクラは漠然とサクラで、特にヤマザクラとか、エドヒカンザクラとか、ソメイヨ
シノとかの品種は定めていない。またサクラと区の関係も選択理由も示してはいない。区内に人口に
膾炙する桜の名木も桜の名所もない。改めて区を代表する木と考えた時、特に思い当たらなかったの
だろう。平成19年に開園した汐入公園を千本桜の名所とすべく植樹はした。またツツジについても
同様だ。

 サクラ
 バラ科サクラ属の植物の内、梅、桃、杏などを除いた総称で、一般にはサクラ亜属に属するものを
指す。春に白色や淡紅色から濃紅色の花を咲かせ、特に果実を食用とするほか、花や葉の塩漬けも食
品などに利用され、大昔から日本人に親しまれている。園芸品種が多く、特に江戸末期に開発された
ソメイヨシノ(染井吉野)は、明治以降、全国各地に広まり、サクラの代名詞となった。自然種とし
てはヤマザクラ、オオシマザクラ、エドヒガンなど10種ほどが認められている。また日本では固有
種・交配種を含め600種以上の品種が自生している。古代では、山に咲くヤマザクラ(山桜)や、
八重咲きの桜が一般的だった。有名な吉野の桜も、ヤマザクラだ。また、日本において最も馴染み深
い花であることから、法的に定められたものではないが、一般的に国花の一つとされ、明治時代以降
軍隊や学校の制帽や階級章に桜を象った紋章が多く用いられている。現在においても警察や自衛隊な
どの紋章に使用されている。ヤエザクラは、サトザクラの八重咲きの品種の総称として用いられる。
3月27日は「さくらの日」だ。平成4年に財団法人日本さくらの会がそう決めた。

 
ツツジ

 ツツジ科の植物で、学術的にはツツジ属の植物の総称だ。ただし日本ではこの中に含まれるツツジ
やサツキ、シャクナゲとを古くから分けて呼んでおり、これらはしばしば学術的な分類とは異なる。
最も樹齢の古い古木は800年~1000年に及ぶと推定されている。ツツジ属の植物は概ね常緑若
しくは落葉性の低木から高木で、葉は常緑または落葉性で、互生、果実は蒴花だ。4月から初夏にか
けて、先端が五裂している漏斗型の特徴的な形の花を数個、枝先につける。色は赤・赤紫・ピンク・
白で、生垣に多く用いられている。
 


■区の鳥
 決めていない。


■荒川区歌「緑に燃ゆる」 作詞・竹耶理素秋(選定審査会補訂) 作曲・内藤清五
   緑に燃ゆる諏訪台の
   縁
(ゆかり)の跡に佇みて
   遥かに望む荒川の
   流れ豊かに逞しく
   若き生命の調べあり


■荒川区民の歌「あらかわ~そして未来へ」‐荒川区制50周年記念
  高野政義:作詞 夢虹二:補作 弦哲也:作曲 若松正司:編曲
  1.この町は僕の故郷
    柔らかな光さす町
    夢を追う人が住み
    温かい心が通う
    伝えよう この町の心を
    伝えよう みんなの愛を
    今 あらかわ そして未来へ
  2.この町は君の故郷
    ふれあいと潤いの町
    憧れを乗せながら
    爽やかな風が流れる
    届けよう この町の優しさ
    届けよう みんなの笑顔
    今 あらかわ そして未来へ
  3.この町はみんなの故郷
    美しい友情の町
    流れゆく 時の中
    思い出の 花びらが舞う
    歌おう 湧きあがる希望を
    歌おう みんなの声で
    今 あらかわ そして未来へ
     歌おう 湧きあがる希望を
     歌おう みんなの声で
     今 あらかわ そして未来へ
 


■荒川音頭
  1.町は墨田の流れに沿って
    ホンに荒川よいところ
    人情(にんじょ)細やか下町育ち 
    老いも若きも夢がある(ソレ)
    荒川音頭でシャシャンとシャンシャン 
    ひとつ手拍子シャシャンとシャン
  2.千住大橋、日光街道
    南千住はよいところ
    天王祭の千貫神輿
    担ぐ姿も勇ましく(ソレ)
    荒川音頭でシャシャンとシャンシャン 
    ひとつ手拍子シャシャンとシャン
  3.町の守りはお稲荷さんか
    ホンに町屋はよいところ
    尾竹橋から遥かに北を
    見れば筑波は夕茜(ソレ)
    荒川音頭でシャシャンとシャンシャン 
    ひとつ手拍子シャシャンとシャン
  4.荒川遊園花咲き競い
    尾久は懐かしよいところ
    夏のまつりは八幡さまの
    笛や太鼓で夜が更ける(ソレ)
    荒川音頭でシャシャンとシャンシャン 
    ひとつ手拍子シャシャンとシャン
  5.西に諏訪台朝日に映えて
    ほんに日暮里よいところ
    昔しのべばとうかんさまと
    八重の山吹まぼろしに(ソレ)
    荒川音頭でシャシャンとシャンシャン 
    ひとつ手拍子シャシャンとシャン
 


■荒川区商店街の歌「しあわせ通り」
  
作詞・高野政義  作曲・弦哲也 編曲・南郷達也 (デュエット)北川裕二 井上由美子
  1.(女) さわやかな 風が流れる このまちに
        笑顔が集まる 場所がある
        にぎわい 商い いい出会い
    
(二人)したまち あらかわ 商店街
    
(女) 元気いっぱい
    
(男) 元気いっぱい
    
(二人)しあわせ通り
  2.
(男) 夕焼けの 空が広がる このまちに
        みんなにやさしい 場所がある
        いきいき 普段着 心意気
    
(二人)ふるさと あらかわ 商店街
    
(男) 声もはずむよ
    
(女) 声もはずむよ
    
(二人)よろこび横丁
  3.
(二人)あしたへの 夢があふれる このまちに
        いつでも明るい 場所がある
    
(女) にこやか なごやか
    
(男) 人の仲
    
(二人)ぬくもり あらかわ 商店街
    
(女) 心ふれあう
    
(男) 心ふれあう
    
(二人)しあわせ通り
 


■区内で育った人たち

 吉村昭(作家)・井崎脩五郎(競馬評論家)・伊集院光(タレント)・片岡鶴太郎(お笑いタレン
ト・画家)・安田成美(在日タレント)・太田裕美(歌手)・ジャガー横田(女子プロレスラー)・
北島康介(水泳 五輪ゴールドメダリスト)・亀井絵里(モーニング娘。6期)・城戸真亜子(元女
優・画家)・スガシカオ(歌手)・山口百恵(歌手)・山田邦子(タレント)・吉村昭(作家)・美
空ひばり(歌手)・白井義男(最初のボクシング世界チャンピオン)・秋葉忠利(広島市長)
 
 

○荒川区の行政町名は七つだけんど、おっ始めるど~ー! 

 ★その前に「もんじゃ焼き」は荒川区がルーツという荒川区の主張
 そもそも「もんじゃ」ってえものは、水っ気が多いんで、焼きあがっても流動性があるんだよ。そ
れでその緩さでよ、文字が書けるっちうこっから「文字焼き」と称え、「もんじゃ焼き」に訛ったって
え訳なんだよ。駄菓子屋で子供相手に焼いていたんで、そんな店の多かった区内には、今以て「もん
じゃ焼き」をやってる店が多いんだ。近年町興しで始めた中央区月島が、マスコミに取り付いて、俄か
に「もんじゃ」で有名になりゃあがって、発祥地だなんてほざいてやがるが、NHKの朝ドラ「ひら
り」で取り上げられた平成4年以降に急増したもんであって(月島は60軒程度)、20年以前にゃ
あ1ケタ程度しかなかったよ。でえいち明治まで海だよ。そこを築地してさ、人が住むようになった
なぁ、昭和に入ってから。人並みの町になったのは戦後のこってい。月島ってえのは「築島」が本来
で、「月」は飾り文字なんでい。因みに荒川区内にぁあ70軒を超えるもんじゃ焼きの店が昔っから
あるんだよ。月島とは面積が異なるが、区内のある有名店じゃあ、月島がやるようにドーナツ状の土
手形成はルールとして存在しねえよ。駄菓子発祥のもんじゃってえもなぁ、土手を形成できるほど具
を入れねえもんでい。野暮ったい月島のは、「もんじゃ」ってえよりゃあ、上方の「お好み焼き」の変
形だぁな! 「月島焼き」とでも名乗るがいいじゃねえか。チクショ一! 一昨日顔を洗って出直し
てきやがれ、唐変木めぇ。ざまぁみろってんだヨー とおっしゃっておられる。
 
 


○道草食わせて申し訳ねえ、本当におっ始めらぁ 

【荒川】(あらかわ)1~8丁目                   昭和43年3月1日
 法界寺・浄正寺などに室町時代の板碑が伝わっており、中世には開かれていた地域であることが
判る。江戸時代には寛永寺領となり、武家屋敷に出入りする植木職人が多く住んでいた。観音寺は
将軍の「鶴御成り」の際の御膳所とされ、名産の三河島菜が献上されたとか。
 江戸時代は三河島村とその周辺の村々の各一部。明治22年「市制町村制」により町屋村の全部
に三河島村・三ノ輪村・金杉村・千住南組の各一部が合併して新しい三河島村となった時、その大
字、大正9年三河島村が町制に移行してその大字。昭和7年隣接5郡が東京市に編入されて荒川区
が成立すると、三河島町1~9丁目となり戦後に至る。同36年自治省が荒川区を住居表示モデル
地区とするため地番整理を行い、三河島町と町屋1~3丁目の各一部を併せた町域を以て、現行の
「荒川」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『荒川区史』など。

 荒川区
荒川の由来
  本来三河島とすべきだったが、「三河島事故により〝三河島〟の名はイメージが暗いので改め
るべき」という声高な声が通り、この地区はこの区の中心部だと、荒川生まれではない役人たちが
勝手に判断し、区名をスライドして命名した。荒川の根源を正せば埼玉県の川の名だ。果たして三
河島を捨てる必要はアッタノカイ? 内務官僚はしばしば「国民のため、住民のため」を心なく口
にする。
 で、荒川とは字面の通り「荒れる川」「氾濫する川」の意だ。本物の荒川は現在は「元荒川」の
名で大人しく流れてらぁよ。入間川に付け替えて隅田川を流れたため、隅田川が荒川だったが、荒
川放水路が掘られて、昭和40年から荒川と呼ばれることになり、荒川は正式に隅田川となった。

 
三河島の由来
  ①.室町末期当時三本の川筋があった-『三河島町郷土史』
  ②.室町中期ころ木戸三河守の館があった-『江戸名所図会』
  ③.後北条氏の家臣細田三河守の領地があった-『新編武蔵風土記』
    『小田原衆所領役帳』に細田三河守の所領として「三川ヶ島」が見える。
  ④.天正十八年(1590)徳川家康入国にあたり三河国からやってきた竹束役の者たち
    に与えられた知行地だったことによる-『紫の一本』
  ⑤.インドネシア語で解すると「ミ・カワ・チマ」、「川の水路が掘り棒で掘られたよう
    に交錯しているところ」
 などの由緒(こじつけ)がある。三河島は現在荒川1~8丁目のほか、東尾久1~2丁目、日暮里
1~3・6丁目、町屋1・3・8丁目、西日暮里1・6丁目に分散している。明治38年開業のJ
R常磐線三河島駅と京成新三河島、都の下水道三河島処理場などにその名が残る。三河島といえば
「三河島菜」だが、「枝豆」とともに消えっちまったよ。
 

■三河島菜

 白菜が中国から伝わる前から盛んに栽培されていた。「三河島菜」と名づけられたのは江戸の初め
だが、尾久でも作られており、その起源は明らかでない。土地では、葉幅が広く、色は黄緑、結球せ
ずに大株になり、外葉の付け根の部分が外方向に張り出し、まるで碇のようなので〝いかり菜〟と呼
んでいた。葉数が少なく、株元に隙間ができるため砂が入りやすく、取るのに手間がかかるのが難点
だった。尾久の旧家鈴木家では、漬物を宮内庁御用達として扱い、市場にも出荷していた。しかし最
早〝幻の漬菜〟となってしまった。
 


荒川区役所旧庁舎跡
 荒川1丁目1番1号のサンパール荒川のところにあった、


■サンパール荒川
/荒川区民会館
 荒川1丁目1番1号にある、地域文化の高揚を図るため、区民の文化活動の拠点として設けられた
施設。大小のホールや、会議室として利用できる集会室、結婚式場や披露宴室等を備えている。
 地下1階主催者専用駐車場。1階エントランスロビー・受付案内・大ホール。2階レストラン。3
階区民ロビー・管理事務所・小ホール。4~5階集会室7。
 開館時間 9:00~22:00(受付は20:00まで)休館日は月曜日(月曜日が祝日または振替
休日の時はその翌日)及び年末年始(12月28日~1月4日) 。 03-3806-6531

 大ホール
 音楽、演劇、舞踊、映画、講演会、大規模イベントなど、荒川区文化活動の拠点となる区内最大の
施設。舞台間口18m×奥行13m×高さ7m60cm。客席の常設席1030席/スピーカー台使
用時1110席/オーケストラピットフェンス使用時994席。車椅子観覧可能(お打合せ時、技術
スタッフまでご相談すること)。楽屋・第1楽屋(洋室)50.66㎡ 鏡面数10面 姿見1面。
第2楽屋(洋室)31.50㎡ 鏡面数6面 姿見1面。第1・第2楽屋は1部屋として利用可能。第
3楽屋(和室):12畳 鏡面数7面 姿見1面。個室楽屋(有料)2室。浴室(有料)2室。

 小ホール
 ピアノ発表会、講演会、社交ダンス、大人数のパーティーに最適。移動席で、客席のレイアウトも
思いのまま! 様々なシーンに活用できる。舞台間口8m×奥行4m×高さ3.7m 舞台高 約1m
迫り間口11m×奥行2m×高さ:0~約1m(舞台高まで可変)。シアター形式:定員300席。
スクール形式:最大約180席。机使用時:最大216席。客席スペース:約11m×18m。ダン
スフロア(リノリウム):9m×12m。希望の利用形式は技術打合せ時に相談。机サイズ:180
0×450mm。第1楽屋(洋室)約18㎡ 鏡面数6面 姿見1面。第2楽屋(洋室)約18㎡ 
鏡面数6面 姿見1面。
 

 
彫刻5点
 
サンパール荒川には、素晴らしいアート作品が多々ある。
 
「晨(あした)」
 まず入口には、人間としての女性美を追求する彫刻家朝倉響子のブロンズ像が置かれている。すん
なりした四肢を伸ばして椅子に座る女性は、どんな〝あした〟を思ってるのだろうか。素敵な作品で
ね、結婚したくなるよ。世の中にこんなご婦人はいないもの。
 
「フェニックスの翼」
 その横の階段を上がってくと、岩の上に輝く流線型というか、板の伸びた不思議なステンレス製の
オブジェがある。これは〝反りのある形〟に日本の伝統美を見出す澄川喜一の作。
 
「ふるさと」
 また地下にある石膏像は、二科会彫刻部に所属する小鹿尚久の作品だ。愛しい誰かを迎えに来てい
るのだろうか、母と子の優しい表情が温かい心和む作品だ。
 
「海鳥と少年」
 5階には、惜しくも平成17年2月に逝った淀井敏夫の叙情あふれるブロンズ像が置かれている。
 
「回天一枝」
 5階にある橋本活道の平成元年の作品。日暮里駅前にある銅像の原型。
 

 
絵画
 サンパール荒川には、絵画の名品も数多く展示されている。地下のホール前のホワイエの壁には、
荒川区在住でタレントとしても有名な城戸真亜子の油絵の大作「少女」が飾られている。古きよき日
本を思わせる東洋的な雰囲気の作品だ。そこから左の壁には、芽兵(ばおへい)画伯の油絵「白樺」が
架けられている。白樺を中心にしたやや暗い森の情景は緑あふれる春を待っている。その陰りに人を
惹きつける魅力を持つ作品だ。階段の下には「聖夜」と題された絵が飾られている。東日暮里の在住
で日本の水墨画の大家である西田昌功の絵。静謐な空気冷えて冴えきった風景はまさに聖なるイメー
ジを湛えている。彩色され水墨画らしからぬ印象が面白い作品。3階には新山晃司画伯の油絵「凪」
が架けられてる。風のない海に集うウミネコたちが和やかな、ほっと安らげる作品だ。
  


■荒川東公園

 荒川1丁目4番1号、都電「荒川区役所前」から千住間道を横断した北側にある区立公園。昭和4
3年9月1日開園。カラフルなジャングルジム、鉄棒、ブランコ、砂場がある。


■荒川一丁目児童遊園

 荒川1丁目5番9号、住宅街の中にある区立公園。平成2年49月1日開園。ブランコや鉄棒、ロ
ーラー滑り台がある。ローラー滑り台があることから子どもたちから「ローラー公園」と呼ばれている。


■荒川一丁目広場

 荒川丁目8番にある区立公園。昔は民家が建ち並んでた。


■大聖寺

 荒川1丁目18番11号にある浄土真宗東本願寺派の小寺。山号院号墓地はない。昭和5年説教所
を当地に設立し、同22年大聖寺となった。

 
 ●善導・円光両大師画像

 善導は唐代の僧、円光は法然上人で浄土宗の開祖。
 


■第一中学校
(荒川一中)
 荒川1丁目30番1号にある区立校。沿革不明。

 校歌
「新たに築く日本の」 作詞作曲・堀内敬三
  1.新たに築く日本の
    力ぞ我等 若き者
    一つ理想に集い来て
    契りは堅き師と友の
    荒川一中 我等が母校
  2.文化は興る日本の
    希望ぞ我等若き者
    道を古今に尋ねつつ
    四海に知識求め行く
    荒川一中 我等が母校
  3.生命は燃ゆる日本の
    光ぞ我等 若き者
    清き瞳は荒川の
    輝く波と永久に
    荒川一中 我等が母校
  


■千住間道停留所 → 荒川区役所前

 荒川1丁目33番にある都電荒川線の停留所。対面式ホーム。大正2年4月1日開業。当時は千住
間道の利便のために設けられた「千住間道停留所」。戦後の地図には「三河島二丁目停留所」とある。
駅前に区役所がある訳ではない。新住居表示で現在名に改めたのだろう。
 


■高齢者センター

 荒川1丁目34番6号にある。食堂に入ると2点の絵画が飾られている。日本を代表する女流画家
の一人小倉遊亀のリトグラフ。夏服に身を包み、ちょっと気取って歩く母と娘、そのあとを続く犬の表
情がユーモラスな「小径」、、きっちりと描かれた筆跡に気迫を感じる静物画「みかん」は、それぞれ
見れば見るほど味わいのある絵画。4階の廊下に架かった日本画は、造園師の本業を持つ近藤美光画
伯の「夏」。竹垣と淡い白の花が、夏の黄昏を髣髴とさせる。

 「森の詩」
 入口にあるのは、南千住のドナウ広場でもお馴染みの彫刻家御正進氏のブロンズ像だ。木の下で母
と子、そして動物たちが楽しげに並んでいる。童話の1ページのような情景。


■加藤屋敷跡

 荒川1丁目37・38番の全部に36番の東3分の2に、伊予新谷(にいや)藩加藤家の下屋敷が
あった。元禄十一年(1698)2代泰觚(やすかど)の時、下屋敷2153坪(約7100㎡)を
拝領したもの。

   加藤屋敷跡
   この付近には、伊予国(愛媛県)新谷藩主であった加藤氏の下屋敷があった。元禄十一年
   (1698)2代泰觚の時、三河島村に下屋敷2153坪(約7100㎡)を拝領したも
   のである。大関氏抱屋敷の北西、現在の荒川1丁目36~38番あたりと推定される。維
   新後、明治政府によって屋敷は上地となり加藤氏はこの地を去ったが、三河島町大字三ノ
   輪字加藤という地名が昭和7年(1932)の荒川区制施行まで残っていた。
                                   荒川区教育委員会
 


■東京アルバタワー

 荒川1丁目39番10号にある高層マンション。仮称「ダイアパレス三ノ輪Ⅱ」として建設計画が
明らかになると、たちまち周囲からの猛反対にあってしまい、その顛末は新聞にも取り上げられた。
未だに反対の横断幕やのぼりが見受けられる。名前の「A・L・B・A」は、Activity 活動的、L
iberty 自由、Beauty、美しさ、Amenity 楽しみを意味する。平成14年完成。
 


■第三峡田小学校
 荒川1丁目43番1号にある区立校。大正8年「東京府北豊島郡三河島村第三峡田尋常小学校」創
立。昭和7年周辺郡部の東京市編入により荒川区が成立、「東京府東京市第三峡田尋常小学校」と改
称。同16年国民学校令により「東京府東京市第三峡田国民学校」と改称。同18年都制施行により
「東京都第三峡田国民学校」と改称。同22年アメリカの強制による学制改革により「東京都荒川区
立第三峡田小学校」と改称。同33年創立40周年記念式典(前倒し?)

 校歌
「明るく霞む 作詞・土岐善麿  作曲・平井康三郎
  1.明るく霞む上野の桜
    風に揺れる藤の花よ
    春から夏へ漲る力に
    新しく学ぶ楽しさ
    心も伸びる若葉の光よ
  2.互いに励み 弛まず進み
    広い清い道に立とう
    秋から冬へ澄み行く青空
    仰ぐ富士 遠く正しく
    荒川近く豊かに注ぐよ
     みんな元気に仲良く揃って


 同44年創立50周年。
 平成12年地方自治法改正に伴う学校教育法改正により、東京都の冠称が取れ、「荒川区立第三峡
田小学校」と改称。同16年創立85周年記念式典。同21年創立90周記念式典。
 


■荒川都税事務所
 移転
 荒川1丁目50番14号に平成20年5月2日まであった。同20年5月西日暮里2-25-1ス
テーションガーデンタワー6階・7階に移転、7日から業務を開始した。
  


■荒川保健所
 移転
 荒川1丁目53番20号にあったが、荒川2丁目11番1号、区役所本庁舎の東北側に設置された
「北庁舎」と、これに隣接する「がん予防・健康づくりセンター」の2ヶ所に別れた
 


■荒川消防署・荒川消防本部
 荒川2丁目1番13号にある。沿革不明。 


■荒川公園

 荒川2丁目2番3号・14番にある区立公園。昭和43年7月29日開園。花の公園で、四季折々
の花が植えてある。中でもしだれ桜は有名で、花見の時期には毎年賑わいを見せる。ところでこの桜
は、荒川繋がりの秩父荒川村からやってきたって、知ってた?
 昭和56年隅田川と荒川に育まれた荒川公園と荒川村が姉妹提携を結んだ際に、埼玉県指定天然記
念物である「清雲寺の桜」を分けて植樹したものなのだ。また平成3年には提携10周年を記念し、
荒川村日野でしか産出されない「日野竜岩」もこの公園に寄贈されている。

 記念碑「福祉の鐘」
 障碍者福祉都市指定記念に福祉都市宣言PR塔として昭和59年に設置された。この鐘は公園の北
側の道路脇に設置されている。近くには児童公園や東屋(四阿)があり、子どもたちの賑やかな声と
区民の碁を打つ姿が見られ、憩いの場となっている。彫刻材料は、ステンレス・ブロンズ。サイズは
高さ3m×幅60cm×奥行30cm。


 「夢」
 公園中央にあるアルミニウムの彫像。長崎の平和祈念像作者として知られる北村西望の作品。スケ
ールの大きさに圧倒される。西望80歳代の制作で、区制施行50周年を記念して東京荒川ライオン
ズクラブから寄贈された。昭和57年11月4日には除幕式が、西望氏立会いの下に行われた。その
際、挨拶の中で「この作品は、硬質アルミ製で大変丈夫にできています。荒川区民の皆さんにとって
これから50年、100年と区の発展のシンボルとして、愛されることを望んでいます」と述べた。
 西望の作品は他に、あらかわ遊園内に「笑う少女」の像がある。

 「black gaze 1」
 青野セクウォイアは、昭和57年イタリアのナポリに生まれ、平成17年に東京藝術大学美術学部
彫刻科を卒業後、同大学院美術研究科彫刻専攻を修了し、修了制作の「black gazel(黒
い視線)」にて第2回荒川区長賞を受賞。これまで、金沢現代彫刻展、那須野が原国際彫刻シンポジ
ウム展等、多くの展覧会に出品・参加し、第61回岐阜県美術展にて「秀作賞」を受賞されるなど活
躍をしている。像は「進撃の巨人?」

 「トルハルバン」
 トルハルバンは済州を象徴する存在で、「石で作ったおじいさん」の意。災いを防ぎ平和をもたら
すといわれ、村の入口や主要施設の正門前などに置かれている済州の代表的な石像物であり、済州島
内のものは済州道地方文化財民族資料第2号に指定されている。
 玄武岩に彫り上げた大きな目と丸い鼻、結んだ唇、太ったおなかに両手をあわせるのが共通の特徴
で、文官と武官が一組となっており、右手が上のものが文官、左手が上のものが武官だとか。
 平成18年2月荒川区と済州市は、産業・観光・文化など広範な分野に亘る両都市の相互理解を深
め、信頼と友好の絆を強めていくために、友好都市提携を結んだ。このトルハルバンは、荒川区との
さらなる友好関係の促進を願い、済州市から贈られたものだ。

 「雨を待つ」
 稲田侑峰の東京藝術大学卒業制作作品 第4回荒川区長賞受賞。以下は稲田の作品説明。

   早く時が流れる生活の中で、時折立ち止まって自分と向き合う時間がほしい。周りばかり
   気になって自分が大事にしていたことを見失ってしまう。まだまだ未熟で迷うことばかり
   だけれど、今の自分にしかできないカタチを残したい。自分が大事にしたものがカタチに
   なってくるまで我慢強くじっと待つこと。石を手で掘ることを通じて自分の中にある焦り
   や不安、それでも目の前にあることを精一杯やっていく。そんな気持ちを人のカタチを通
   して表現しました。
   雨に育てられる自然の木々のように、ゆっくりとではあるけれど大きく育っていきたいと
   いう思いでこの作品を制作し、「雨を待つ」という題をつけました。


 
「石花」
 この作品は平成22年に東京藝術大学卒業した石川洋樹の彫刻で、赤御影の自然石を花弁のように並
べた、第5回荒川区長賞を授賞した作品だ。石川は同大学を卒業後、大学院で多くの作品を創作し活
躍している。平成22年制作。

 石像「ふたり」
 この作品は、天野浩子の東京藝術大学大学院終了制作 第3回荒川区長賞。

   前へ進んでいく。それぞれの未来に向かっていく。私たちは歩んでいる。

 天野浩子の作品説明

   この作品は、弟と私がそれぞれの道を歩いていくイメージで制作した。同じところから分
   かれていく最中で、まだどちらも完璧な形を得ていない。はっきりしたものは、これから
   自分で見つけて身につけていく。恋人は友人になったり他人になったりするが、弟はずっ
   と弟のままである。家族の関係はずっと変わらない。弟と私は同じ人から生まれ、同じと
   ころで育った。そして今、別々の道を歩む。同じフィールドにいた二人が、一人の人間と
   して生きていく。離れていく寂しさよりも、それぞれの世界に向かっていく心強さを感じ
   る。前進していく期待感と、一人になっていこうとする心強さを込めた作品である。

 「信じていること」
 両肩で羊を担いでいる少年の石像。平成25年、中澤安奈の作品。

 
「ふ」
 人間が仰向けに水に浮いているかのような抽象的な原田桃葉の卒業終了制作記念作品。第10回荒
川区長賞受賞。「ふ」は「浮力」のふだとのこと。
 


■荒川区役所

 荒川2丁目2番3号にある。区役所の中には、片岡鶴太郎の墨彩画「鷹図」が飾られている。受付
ブース前には、何かに耐えているような面持ちのブロンズ像、横山五作「競技者」が置かれ、窓口近
くの壁には、荒川区在住の柴田麗子画伯の油絵「田老港…初夏」が架かる。明るい色彩が、見る人を
夏の陽光の下に連れて行ってくれる。

 「シュプリンゲン‐絆の和‐」
 1階正面にあるアルミニューム合金の彫刻。荒川区制施行75周年を記念して設置された。
 大きな輪と流れる大河 そして数多くの楽しく群れ遊ぶイルカの姿は、区民の「絆」と「和」を以
て大きく翔ばたき益々発展していく姿を表現している。
 作者の宮田亮平は、東京藝術大学学長で、鍛金技法研究の指導にあたる一方、金工家としての評価
も高く、イルカをモチーフとした「シュプリンゲン」シリーズ等の作品で、ドイツ・韓国・中国など
国内外で多数の展覧会に出品している。国内では「現代工芸美術展」大賞・文部大臣賞・内閣総理大
臣賞、朝日「海とのふれあい賞」(朝日新聞社)、瀬戸山賞(法務省)、また、平成23年度には日
本芸術院賞など数々の賞を受賞している。
 


■仙光院と峡田小学校跡

 荒川2丁目8番(現在住宅密集地)のところに、慶長八年(1603)開基の仙光院(本尊は弥陀
三尊、後に不動明王像)があったが幕末に荒廃し、明治初年に廃寺になった。その名残りが「袈裟塚
の耳無不動」だ。跡地に
僅かに残った堂宇で寺小屋が開かれていたが、明治16年に荒川区の峡田地
区(荒川・町屋)
で最初の公立学校峡田小学校は開校した。同34年に移転し、大正9年跡地に三河
島町役場が設置された。昭和7年には荒川区の初代区役所庁舎になった。
 「新編武蔵風土記稿」によれば、

   仙光院
   同宗(新義真言宗)田端村与楽寺の末、阿照山阿弥陀寺と号す。本尊不動坐像、長一尺八
   寸良弁の作。元禄二年相州鎌倉鶴ヶ岡荘厳院より当院に安置すと云。中興僧頼雄、延宝五
   年二月十三日化す。
   稲荷社。

 とある

   
仙光院と峡田小学校跡
   仙光院は真言宗の寺院で、山号は阿照山阿弥陀密寺。慶長八年(1603)創建で 阿弥
   陀を本尊としたが、2度の大火の後、元禄二年(1689)鶴ヶ岡八幡の荘厳院から不動
   明王を移し本尊としたという。
   九世は耳無不動(三峯神社内)を建立した東叡山の僧光慧。明治となり廃寺となったが、
   明治2年本堂を修復し、尾口八郎が寺子屋とした。明治10年名川蠖屈がそれを継ぎ、明
   治16年峡田小学校がここに開校。明治34年荒川3‐77‐1(旧峡田第一小学校)の
   地に移された。跡地は三河島村役場となり、昭和7年から荒川区庁舎として使用された。
                                   荒川区教育委員会


■荒川保健所

 荒川2丁目11番1号、区役所本庁舎の東北側に設置された「北庁舎」と、これに隣接する「がん
予防・健康づくりセンター」の2ヶ所に別れてある
。以前は荒川1丁目53番20号にあったが、移
転して来た。

 北庁舎1階には、生活衛生課と保健予防課が入り、「生活衛生課」では医療従事者の免許関係、犬
の登録、薬局等の許可飲食店の営業許可などを行い、「保健予防課」では公害健康被害の補償給付、
感染症の予防などを行っている。

 がん予防・健康づくりセンターには、健康推進課が入った。「健康推進課」では母子保健、栄養指
導、歯科保健、予防接種、成人健診、がん検診などを行っている。

 エイズ検査機関
 ここはHIV検査保健所でもある。03‐3805‐9467(エイズ相談・予約専用電話)
 


■荒川二丁目南公園

 荒川2丁目11番1号にある区立公園。平成6年4月1日開園。四季折々の花が植えられ「花の公
園」と呼ばれている。滑り台や鉄棒などの健康遊具を設置している。、


■清水観音堂 
撤去

 荒川2丁目21番7号にあると、「歩いて見ました東京の町」というブログに昭和56年5月に撮
影した写真が残っているが、見当たらないし、ネットで探してもヒットしない。
 その後、調べを進めると、
 正保二年(1645)三月村内の百姓である清水与次右衛門が一夜の霊夢により観音の像を鋳造し
て、「水塚」と称して小堂に安置したのが「清水観音堂」だとか。かつては江戸三十三観音の第三札
所となり三河島の名所として知られていたようで、多くの参拝人で賑わったらしい。清水観音堂とは
開創の清水の姓をとったからで、「きよみず」ではなく「しみず」と呼ぶ。その後、この清水観音堂
は次第に荒廃して、昭和60年頃に境内が整理されたことにより堂もなくなり、現在は残された敷地
の一部に清水家の墓塔と庚申塔が残っている。昭和7年に発行された『三河島町郷土史』によると、
当時所在が判明する19ヶ所の塚のうちの1基として「水塚」を記載しており、「水塚は今の役場北
隣、観音堂の地がそれである」と紹介している。
 舟形光背型地蔵菩薩。「奉庚申供養講衆為現當二世安楽」「延宝八庚申九月四日」(1680)。
 


■三河島停留所 → 荒川二丁目(三ノ輪橋行きホーム)

 荒川2丁目27番にある都電荒川線の駅。大正2年4月1日「三河島停留所」として開業した。汚
水処分場(水再生センター)のための停留所。
 


■第二峡田小学校

 荒川2丁目30番1号にある区立校。大正4年東京府峡田尋常高等小学校分教場として開場。同8
年「第二峡田尋常小学校」と改称。昭和6年第五峡田小学校を分校。同7年東京市周辺郡部の市併合
により荒川区成立により「東京府東京市第二峡田尋常小学校」と改称。同16年勅令148号「国民
学校令」により「東京府東京市第二峡田国民学校」と改称。12月日米開戦。同18年都制施行によ
り「東京都第二峡田国民学校」と改称。同19年学童集団疎開。同20年日本敗戦によりアメリカの
属国となる。
 同22年地方自治法制定により「東京都荒川区立第二峡田小学校」と改称。荒川区立第四中学校新
設(9教室使用)。同23年第四中学校新校舎に移転。同24年創立30周年記念式典。同26年給
食室完成。同34年鉄筋3階18教室及び管理室竣工。同45年体育館・給食室・放送室・家庭教室
・図工室・普通教室5・プール竣工。創立50周年記念式典。同54年創立60周年記念式典。
 
平成元年創立70周年記念式典。同11年創立80周年。同21年創立90周年記念式典。


 校歌
「荒川の」 作詞・浅沼茂雄 校閲・窪田空穂  作曲・松永子杖
  1.荒川の流れのほとり
    富士が嶺を遥かに望み
    緑濃き上野の森に
    向かいて立てるわが母校
  2.そのかみの峡田の里は
    立ち続き煌くいらか
    巷ゆく車馬賑いて
    睦みつわれら進みゆく
  3.日本の栄え増さんと
    生産を競う町人
    勤労の歓び知りて
    励みつわれら学びゆく
   


■三河島第二児童遊園(二峡前公園)

 荒川2丁目31番7号、第二峡田小学校の西側にある区立公園。昭和25年4月15日開園。平成
24年4月にリニューアルオープンした。「二峡前公園」と子どもたちから呼ばれている。


■三河島停留所 → 荒川二丁目(早稲田行きホーム)

 荒川2丁目37番にある。



■ゆいの森あらかわ
(中央図書館・吉村昭記念文学館・子供ひろば)

 荒川2丁目50番1号にある区立図書館。中央図書館、吉村昭記念文学館、ゆいの森子どもひろば
が一体となった、赤ちゃんから高齢者まで総ての世代の区民が利用できる、これまでにない新しい発
想の魅力ある施設。区の中央図書館と位置づけられる図書館は、約60万冊の蔵書や約800席の座
席を備え、新たな発見と読書の楽しみを提供する。また、荒川区出身で「戦艦武蔵」や「三陸海岸大
津波」「ポーツマスの旗」などで著名な作家吉村昭を記念する吉村昭記念文学館では、郷土愛の醸成
や文学に親しむきっかけを提供する。ゆいの森こどもひろばでは、科学実験やワークショップ等を通
じて子どもたちの夢や生きる力を育みます。さらに、災害時は帰宅困難者の受け入れや、乳幼児を中
心とした避難所としても活用できるよう、免震構造を採用し、発電機や備蓄倉庫も備えている。この
施設の整備によって、利用者が自ら学び体験し、人と人が交流できる地域の文化やコミュニティの拠
点づくりを目指している。

 
ゆいの森の由来
 人と人、本と人、地域と人、文化と人が結びつき、楽しみ・学び・安らげる、豊かな森のような施
設となるよう名づけた。


■アクロスあらかわ

 荒川2丁目57番8号にある区立障害者福祉会館。主に障害のある人の自主活動の場や交流の場と
して、障害者に配慮したホール、会議室等の貸出、講座・イベントの開催などを行う。多目的ホール
(150人)、多目的ホール1(90人)、多目的ホール2(60人)、第1会議室(25人)、第
2会議室(25人)、第3会議室(10人)を貸し出している。

 喫茶店「ステップ」
 アクロスあらかわの2階にある。明るく広い店内は日がよく当たりアクロスあらかわの利用者の語
らいの場となっている。区に障害者の支援団体が7つあり、その連合会の荒川区心身障害児者福祉連
合会が運営している。ここでは健常者と障害者が一緒に働いている。障害を持つ人たちは、普段は福
祉作業所で働いているが、月に1週間から10日ほど、この店での仕事をとても楽しんでいるとか。
店の人気メニューは、コーヒーなどのドリンク、3種類あるスパゲティ、また最近始まったばかりの
やきうどんセットなどだとか。安い価格もまた好評。この施設を利用する団体以外にも、近所に常連
もいるとのことにも頷ける。

 アート
 ステップの席から見える、華やかな色使いの油絵は「朝の港」、港の風景に魅せられた柴田麗子の
作品。その多彩さは店のゆったりとした雰囲気によくマッチしている。
 


■荒川二丁目公園

 荒川2丁目58番2号にある区立公園。昭和52年4月1日開園。路地公園のコンセプト。アスレ
チックやブランコなどの遊具とベンチなどに木が使われており、全体の雰囲気が統一されている。緑
も豊富にあり、落ち着いた雰囲気の公園だ。緑に囲まれた木製アスレチックで遊ぶと、まるで森の中
にいるみたい。滑り台や縄梯子、板の吊り橋などがある。ブランコは、支柱と吊り板に木を使用して
いる。公園全体を見渡せる位置にあるので、気持ちよく遊べるさ。


■地蔵堀の石地蔵 ◇

 荒川3丁目1番1号の荒川警察署左脇にある。この石地蔵は、台石の刻字によると浄正寺13世寛
誉が村の安穏と五穀豊穣を願って、元文五年(1740)に建てたものだ。以前は、現在のサンパー
ル荒川の場所(昔の大豆生田1190番地)に南向きに建てられていた。その脇を用水路が流れてい
て「地蔵堀」と呼ばれていた。大正14年現在地に移され、北向きに建てられた。当時地蔵が立って
いたところは集落の外れに当たり、村人が旅立つ際に道中の安全を祈願したと思われ、今も交通安全
祈願の地蔵として祀られている。

   地蔵堀の石地蔵
   この石地蔵は、浄正寺13世寛誉が村の「安穏」と「五穀豊穣」を願って、元文五年(1
   740)に建てたものである。
   昔は用水堀(昔の所番地・大豆生田1190番地、旧荒川区役所のところ)の傍の古墳の
   上にあったので、その用水堀を「地蔵堀」と呼ばれていた。大正14年に今のところに移
   されている。
   当時むらの外れにあったこの地蔵は、付近のよい目じるしとなって、村に出入りする人た
   ちから親しまれていた。                     荒川区教育委員会
 


■荒川警察署

 荒川3丁目1番2号にある。明治14年1月14日千住警察署設置。大正6年4月1日南千住分署
設置→同7年5月22日南千住警察署に昇格。同12年4月1日日暮里分署設置→同14年10月1
日日暮里警察署に昇格。昭和3年8月20日南千住警察署から三河島警察署が分離独立。同21年5
月28日日暮里警察署と三河島警察署を統合して荒川警察署を創設した。
  


■荒川郵便局

 荒川3丁目2番1号にある日本郵政。沿革不明。


■峡田ふれあい館
 荒川3丁目3番10号にある区の施設。区では、乳幼児から高齢者まで、凡る世代の区民が交流し
自主的な活動ができる地域コミュニティの場として設置している。また、従来の「ひろば館」もサー
クル活動や小規模の会合など、地域の区民の交流の場として利用できる。
 この館では、幅広い世代の方が利用している。乳幼児事業はどれも好評。またママピラティスやパ
パと遊ぼうなど、ママ、パパ向けの事業も人気となっている。児童事業では、宿泊やお祭り、地域行
事など子ども達が主役となるイベントを多く行っている。高齢者事業では、日替わりでグランドゴル
フやころばん体操、民謡、唱歌、ピラティスなどを実施しており、毎回多くの方が参加している。


■稲荷神社 ◇
 荒川3丁目20番9号藤美荘2の横にある小祠。 


■荒川三丁目グリーンスポット
 荒川3丁目22番3号にある区立小公園。


■三河島三峯神社 ◇
 荒川3丁目22番10号にある小社。江戸時代以降、地元の三河島三峯講が、火難盗難除けに勧請
したものと思われる。秩父三山は白岩・雲取・妙法の3山を「三峰」といい地名となっている。景行
天皇が東国を巡行した時、この社地を囲む三山を詣でて「三峯宮」を授けたという。だから「三峰」
と書くよりも「三峯」と書くのが正しい。
 


■袈裟塚耳無不動 ◇

 荒川3丁目22番10号三河島三峯神社の境内にある。明治初めに廃寺となった真言宗仙光院の住
職第9世光慧(こうえ)の建造になる。光慧法師は筑後柳河藩立花家の旧臣で田奈網光三郎といい、
吉原の遊女お絹との波乱に満ちた悲劇的情愛物語は、山東京伝によって、寛政元年(1789)黄表紙
『三河島御不動之記』という作品になっている。仙光院前の袈裟塚の上に建てられた不動明王の台座
は、哀れな最後を遂げたお絹を悼み、元抱主新吉原仲之町新上総屋七右衛門などの寄進により、宝暦
十年(1760)に建立されたもので、台座には塚の由来と、

   
けさづかも かやりのはてや もとの土

 なる辞世の句ととともに道標の文字が刻み込まれて往時を偲ばせてくれる。この不動尊は花柳病に
効き目があるとしては参詣人も多かった。現在の場所は、明治29年に通り北側から移したものだ。
区の説明板は以下のとおり。

   袈裟塚耳無不動
   江戸時代の小説本である黄表紙「三河島御不動之記」は、寛政元年(1789)、山東京
   伝の作で、光三郎(後に仙光院住職光慧)とお絹の情愛物語をあつかったものである。
   悪い病いによって光慧は耳も落ち腰も抜けたというが、仙光院門前に袈裟塚を作り、不動
   明王を安置して、村内の「五穀豊穣」と「往来安全」を祈願した。宝暦十年(1760)
   建立のこの不動尊台座には「東叡山領」や道しるべの文字が深く刻まれている。明治29
   年に明治通り北側から移された。                 荒川区教育委員会

   
袈裟塚耳無不動
   光三郎(仙光院九世住職光慧)とお絹の情愛物語は、袈裟塚の耳無不動伝説として今も伝
   承されている。伝承によれば、悪い病で耳が落ち腰も抜けた光慧は、仙光院門前に袈裟塚
   をつくり、不動明王を安置して、村内の五穀豊穣と往来安全を祈願したという。宝暦十年
   (1760)建立のこの不動尊台座には、「東叡山領」や道標の文字が刻まれている。ま
   た、この不動を題材に、江戸の戯作者山東京伝の『三河島御不動記』という黄表紙が寛政
   元年(1789)に版行された。明治29年明治通り北側から三峯神社内に移された。
                                   荒川区教育委員会
  

 聞くも涙、語るも涙の物語
 江戸時代中頃、筑後柳川藩に光三郎という若侍がいた。光三郎には、今小町と呼ばれていた絹とい
う美しい許嫁(いいなずけ)がいたのだが、ある夜絹が悪者によって拉致されてしまったので、絹を
探すために光三郎は江戸へと旅立った。
 数年の歳月が流れ、絹を見つけることを諦めた光三郎は、出家して上野寛永寺の僧侶となり光慧と
名乗る。ところがある日上野の花見帰りの吉原の遊女たちの中に絹を見つけたのだ。絹への思いが一
気に蘇った光慧は、僧侶の身でありながら、寺の金を懐に吉原へと通い詰める。しかし悪いことは長
くは続かない。金を盗んでいたことがばれ、光慧は寺を追い出されてしまった。途方にくれた光慧だ
が、三河島村の植木屋久兵衛に救われ、真言宗仙光院の住職として招かれた。しかし長年の悪事の結
果の仏罰か、腰が抜け、果ては耳まで落ちてしまう悪病に苦しんだ。
 そんなある夜、光慧の夢枕に仙光院の本尊不動明王が立ち、

   「村人たちの救済に努めよ。そうすれば救われる」

 と告げたので、光慧は門前に自分の袈裟を埋めて「袈裟塚」と称え、五穀豊穣、往来安全を祈願し
た。またその上に石の不動を建立したが病は治らず、宝暦七年(1757)この世を去った。その後門
前で一人の尼が自ら命を絶った。人々はこの尼を絹だという。
 後に石の不動は、明治の廃仏毀釈で廃寺とさせられた仙光院の入口から、荒川3丁目の現在地に移
転。これが今も残る袈裟塚の耳無不動だ。なおこの不動は耳の病にご利益があり、穴を開けたお椀を
奉納することで知られている。
 


■豊川稲荷社
 ◇
 荒川3丁目23番4にある小祠。細い路地の奥にある。


■前沼児童遊園

 荒川3丁目28番12号にある区立公園。昭和39年7月1日の開園。太鼓梯子や滑り台が一体と
なったカラフルな複合遊具がある。ブランコ、スプリング遊具、砂場もあり、お子さんの年齢に応じ
た遊びができる。


三河島ひろば館
 荒川3丁目36番4号にある区の施設。


三河島竜神 ◇
 荒川3丁目38番9号にある小祠。路地の更に小路の奥にある。見落とすよ。


長盛山道慶院
法界寺
 荒川3丁目51番3号にある浄土宗の寺。長保元年(999)に長盛居士の開基。慶長十八年(1
613)明誉善海が中興開山。江戸時代には観音寺と共に将軍鷹狩りの際の御膳所に当てられいた。
入口を入って左が墓地。右は参道が曲がって正面に本堂がある。近代的風変わりな建築。本堂の左は
庫裏。「新編武蔵風土記稿」に、

   法界寺
   同宗(浄土宗)小塚原誓願寺末。長盛山道慶院と号す。本尊弥陀。開山明誉善海、寛永二
   年二月二十四日化す。当寺も近き頃より御膳所となれり。
   稲荷社。
   薬師堂。
   地蔵堂。


 とある。

 長盛薬師堂
 眼病に効き目があるという。

 阿弥陀如来実像(区登録文化財)
 
本尊で、延宝八年九月三日(1680)の銘がある。

 
板碑2基(区登録文化財)
 
正和五年十一月銘、荒川区役所裏の「うなぎや墓地(荒川2‐18)」出土の応永三十一年銘。

 佃家白魚の墓
 落語家。上方の初代三笑亭芝楽の実子。女剣劇の草分青柳華嬢(大久保きよ)の夫。
 


清国山快楽院浄正寺

 荒川3丁目53番1号にある浄土宗の寺。鏡誉存円が開山となり文亀三年(1503)に創建した
と伝えられる。江戸期は3500坪の広大な境内地を有した。

 文安六年銘板碑
 境内南側の池の底より出土したもので、中世の三河島を知る上で貴重。寛文六年(1666)銘の
他、宝徳元年(1449)銘の板碑、元和二年(1616)銘の庚申待供養碑など多くの石仏・石碑
がある。

   文安六年銘板碑(浄正寺)
   清国山快楽院という浄土宗の寺。文亀三年(1503)開創と伝える。江戸期は3500
   坪の広大な境内地を有した。
   室町期文安六年(1449)銘の板碑を所蔵。境内南側の池の底から出土したもので、中
   世の三河島を知る上で貴重である。この他、寛文六年(1666)銘の庚申待供養塔など
   多くの石仏・石碑が境内にある。本堂前の三河島観音は、昭和37年の国電三河島事故の
   惨事を今に伝えている。                      荒川教育委員会

 地蔵尊(庚申待供養碑)
 寺門を潜った右手にある。舟形光背浮彫地蔵尊立像。地蔵尊像右側に「若有衆生造立佛像本佛心來
入於像中矣」「寛文六丙午年」、地蔵尊像左側に「奉待庚申一国一人得往生其国衆生皆往生矣」「十
月十三日」と刻む。

 ●三河島観音(三河島事故慰霊碑)
 本堂前にある。昭和37年の三河島事故の被害者を慰霊している。今も香華が絶えない。
 三河島事故
みかわしまじこ)は、昭和37年5月3日21時37分頃、国鉄(当時)常磐線三河
島駅構内で発生した列車脱線多重衝突事故だ。「国鉄戦後五大事故」の一つ。駅構内で
、貨物船から
から進行方向右側の下り本線に進入しようとした田端操車場発水戸行の下り第287貨物列車(D5
1 364牽引、45両編成)が、出発信号機の停止信号を行き過ぎて安全側線に進入し脱線。先頭
の機関車と次位のタンク車(タキ50044)が下り本線上に飛び出した。その直後に、三河島駅を
4分遅れで出発し下り本線を進行してきた上野発取手行きの下り第2117H電車(6両編成)が下
り本線を塞いでいたタキ50044に衝突。先頭車(クモハ60005)と2両目の車両(クハ79
396)が脱線し、上り本線上に飛び出した。さらに約7分後、その現場に上野行きの上り第200
0H電車(9両編成)が進入し、線路上に降りて移動中だった2117Hの乗客多数をはねた上、上
り本線上に停止していた2117Hの先頭車と衝突した。これにより2117Hの先頭車と2両目の
前部が原形を留めず粉砕された。上り2000Hは先頭車(クハニ67007)が原形を留めず粉砕
され、2両目(モハ72543)は築堤下に転落して線路脇の倉庫に突っ込み、3両目(サハ173
01)も築堤下に転落、4両目(モハ72635)が脱線した。
 
結果、死者160人、負傷者296人を出す大惨事となった
 


■宮地稲荷神社(三河島稲荷神社) ◇

 荒川3丁目65番9号、三河島北口駅前にある。天正七年(1597)の創建と伝わる。が、これよ
り古い弘治三年(1557)の棟札なのだが、それに「武蔵国豊島郡三河島総鎮守」とあり、村民の
信仰を集めていたことを伝えている。特に脚気(ビタミンB1欠乏症)に効験があるとして、祈願成
就の際には、草鞋を奉納する慣わしだった。脚気は「江戸患い」といい、精米を食べる江戸市民に多
い病気で、彼らが蕎麦っ喰いなのは、自然にビタミンB1を欲した結果だろう。
 区の新旧の説明板に、

   宮地稲荷神社
   天正七年(1579)の創建と伝えられているが、末社天神の神木といわれた大欅は樹齢
   650年というから、それ以前から産土神として祀られていたのであろう。長く三河島の
   総鎮守として尊崇を集めていたが、特に脚気に効き目があるとして、祈願成就の時には、
   草鞋を奉納したという。宮地の名は当社より起ったものである。   
荒川区教育委員会

   宮地稲荷神社
   三河島稲荷ともいう。宮地の名は当社より起ったものであろうといわれる。天正七年(1
   579)の創建と伝えるが、今は失われた棟札に「弘治三年(1557)八月武蔵国豊島
   郡三河島総鎮守」とあったという。祭神は倉稲魂命。猿田彦大神、天神社、神明宮、疱瘡
   神などを合祀している。特に脚気に効き目があるとして参詣する人が多く、祈願成就の時
   には草鞋を奉納したという。末社天神社の神木の大欅は樹齢650年といわれたが、現在
   は切株のみが残る。社殿の右側には新吉原から奉納された安永八年(1779)二月初午
   銘の手水鉢がある。
                       荒川区教育委員会

 とあり、「新編武蔵風土記稿」に、

   稲荷社
   例祭二月十五日 神体は木像にていと古色なり。社記に天正七年より元禄六年迄百五十年
   云々など見ゆ。鎮座の年暦も推て知べし。元禄二年再造の棟札あり。
   神宝。
   神鏡一面。円径五寸裏面は蝶に舞鶴の模様あり。古作とも思われず。
   宝珠石二粒。大さ五分許。色薄黒くして横に小筋あり。奇石なり。
   三光石一粒。二寸四方許。色黒くして三光及び白雲の文あり。
   剣一振。長一尺二寸葵康継の銘あり。
   末社天神。槻、神木なり、廻り一丈五、六尺余。
   神主、岩井權頭。吉田家の配下なり。新堀村諏訪社(諏方神社)の縁起巻末に岩井權頭の
   名見ゆ。


 とある。

   三河島菜と枝豆
   三河島菜は結球白菜が中国から伝わる以前から栽培されていた漬菜で、江戸時代初期に、
   三河国(愛知県)の百姓が入植してつくりはじめたと伝えられています。
   三河島菜の特徴は、葉の幅が広く、色は黄緑。現在の白菜のようには結球せずに大株にな
   り、外葉のつけねの部分が外の方向に張り出し、船の錨に似た姿なので「いかり菜」とも
   呼ばれ、漬物にして食べていました。明治初年頃から作付面積が増えていきましたが、ま
   もなく白菜の人気が高まるにつれて、とって代わられました。
   三河島枝豆は三河島菜と共に作られてきた品種で、7月の中頃に収穫できる枝豆で、枝数
   が多く、さやの表面についている毛は白色、葉は濃い緑で、一鞘に3粒の豆が揃ってつく
   優れた特性をもっています。この地域の土質は、荒川下流の沖積土で、枝豆の栽培に適し
   ていました。
   しかし、当地の宅地化が進んだため、農地の消滅と共に、「三河島菜」「三河島枝豆」の
   産地は、東京農業の歴史にその名を止めるだけになってしまいました。
                          平成9年度JA東京グループ
                          農業協同組合法施行五十周年記念事業

   
THE AGRICULTURE EDO & TOKYO
   
Mikawashima-na and Edamame
   Mikawashima-na(green)is a vegetable which was grown here before the introduct
   ion of Chinese cabbage into Japan. It is told that farmers from Mikawa settl
   ed here in early 1600s and began to grow it for pickles. They also grew Ed
   amame(green soybean)and won a good reputation for its savor as a product of th
   e season in mid-July.
   Alluvial soil of the Arakawa River was suitable for these crops. With the p
   rogress of urbanization, farms were diverted to housing sites and the production
   of Mikawashima-na or Mikawashima Edamame has remained only in the history of
   Tokyo agriculture.


■成田山
誠立教会
 荒川3丁目69番5号にある新勝寺直末の教会。真言宗智山派。普通の住宅の玄関を寺らしい屋根
にしている。成田山の祈祷所という感じの道場だ。
 


■宮地のロータリー → 宮地陸橋 

 荒川3~5丁目と西日暮里1丁目の接するところ。宮地交差点は、かつては路地の三叉路で、現在
明治通りとなってる道は、昭和7年に拡幅されるまで、荷馬車がすれ違うのも容易でないほど狭く、
喧嘩が絶えないような道路だったが、明治通りの敷設を住民は「改正道路」と呼んで大喜びした。
和15年交差点の中央に楕円形の緑地帯を築いて、交差点に進入する車輌は時計回りに進行するよう
工夫した。まだ車の少なかった時代はロータリーの設置は、信号機よりも車の流れはスムーズで「ロ
ータリー」と呼んだ。
交通事故激減の効果があったが、戦後高度成長による急激な交通量の激増によ
り渋滞を招くようになり、昭和32年5月11日撤去が完了した。
戦後の、尾竹橋通り、明治通り東
・西、道灌山通り、三河島駅前通りの五差路(小道を入れると七差路)になっている。昭和30年代
宮地ロータリーは渋滞交差点としてとみに有名で、ラジオの渋滞情報で耳にタコができるほど聞かさ
れたものだ。やがてロータリーでは渋滞を処理できなくなり、昭和49年明治通りが立体交差の「宮
地陸橋」になって渋滞は緩和された。「宮地」の地名は、交差点から南に徒歩5分、東に入ったとこ
ろに、かつて三河島村の総鎮守として村民の信仰を集めた宮地稲荷(前述)があり、これに由来する。
 
 
村田平十郎
 江戸時代、交差点の芯から峡田小学校一帯にかけては、高松藩松平家に出入りしていた植木職人村
田平十郎の庭園があった。庭内には梅・松・桜・萩などがあり、一丁に及ぶ築山、周囲三町の大池に
鯉、といった風景が明治初年頃まで見られたという。さらにその南には将軍家出入り御用を勤め、九
段の斉藤彦兵衛、向島の萩原平作と並んで江戸の三大植木屋と謳われ、最盛期には職人100余人を
擁する伊藤七郎兵衛の1200坪にも及ぶ屋敷があり、その庭内には梅を中心として松・桜・桃が植
えられ、四阿・池・築山・母屋・土蔵と600の庭石、50にのぼる燈籠など壮麗そのものだったと
伝え、『東京近郊名所図会』には「将軍お預けの松あり」と紹介している。11代将軍家斉の命によ
り、吾妻橋畔に築造した「浩養園」(墨田区役所のところ)は天下の名園として知られた。
 


■峡田小学校
 荒川3丁目77番1号にある素っ晴らしい5階建てのビル。荒川区成立時の合併旧4町の一つ三河
島町地区最初の公立小学校(荒川2丁目8番の仙光院跡の堂宇を利用)。
現在の荒川・町屋地区にあ
る小学校(ナンバースクール)のルーツだ。明治16年8月23日三河島地区の村(旧三河島村・町
屋村)を学区として開校した。校名は江戸時代に三河島附近が上野の東叡山寛永寺の寺領となってお
り、峡田領と称したことに因んでいる。峡田とは「山裾沿いの田圃」の意だ。この場合根岸田圃のこ
と指すのだろう。そこに御隠殿が作られたことから、御隠殿領の意で峡田領と命名したものと思われ
る。
 この峡田小学校は後の第一峡田小学校だが、平成5年3月31日第八峡田小学校と統合し新たな峡
田小学校としてスタートしている。


 校歌「いつでもどこでも」 作詞・手塚昭三  作曲・泉八汐
  1.何時でも何処でも健やかに
    ぐんと伸ばそう心まで
    未来の空に夢広げ
    今日も学ぼう和やかに
  2.何時でも何処でも
    結ぶ手と手で温かく
    未来の川に夢映し
    今日も流れる隅田川
  3.何時でも何処でも輝いて
    遥かに海は続いてる
    未来に誇れ夢高く
    峡田我等の小学校
    峡田我等の小学校 


清瀧山龍光院観音寺
 荒川4丁目5番1号、明治通りに面してある新義真言宗豊山派西新井総持寺の末寺。天文年間(1
532~55)長遍僧都の開基と伝える。江戸時代、三河島村のこの辺りは田んぼや沼地が多く、煙霞
渺茫として物寂しい風景がその当時の諸書に書かれ、「名所江戸百景」にも鶴が餌をあさっている景色
を描いている。寛政十年(1798)11代将軍家斉が鶴御成の折、この寺を御膳所に宛てて以来維
新まで歴代将軍の御膳所となった。

   観音寺
   新義真言宗、足立郡西新井総持寺末、清龍山龍光院と号す。本尊十一面観音。天文年中長
   偏僧都開基す。寛政十年此邊御放鷹の時御膳所となりしより今も御膳所となれり。
   鐘楼。貞享三年の鋳造なり。
   聖天社。


 長保年間(999~1004)鋳造の大梵鐘は、現在は残っていない。

 将軍鶴御成り
 江戸時代の三河島近辺は鶴の飛来地で、毎年11月からの農閑期に、竹の囲いを廻らして、鶴の餌
付けが行われていた。将軍家は特に8代吉宗以降、頻繁に鷹狩りを行った。中でも鶴は珍重され、鶴
の捕獲を目的とする将軍放鷹は「鶴御成り」と呼ばれ、捕らえた鶴は天皇に献上する習わしだった。
三河島筋の鶴御成りの際には、観音寺か法界寺が御膳所にあてられた。観音寺にお成りの場合は、将
軍は山門からではなく、東側の竹藪を切り開いて出入りしたという。その都度、寺ではこの地の名産
「三河島菜」を献上するのが慣例だった。

   将軍鶴御成り(観音寺)
   この辺りは、田や沼が多く、たくさんの鶴の群れが見られたという。
   寛政十年(1798)11代将軍徳川家斉「鶴御成り」の時には、この寺を御膳所とされ
   歴代の将軍は、幕末まで慣例にしたがって「鶴御成り」をされた。
   将軍御成りは、正門からでなく、東側の竹藪を切り開いて出入りしたという。その都度、
   寺では、土地の名産「三河島菜を献上するのが例であった。     荒川区教育委員会
  


■宮地の六地蔵
(蓮田地蔵 蓮田子育地蔵)
 荒川4丁目10番9号の三差路の角にある。六地蔵とはいうが、ここの場合は子育地蔵1基と庚申
塔4基で、通称六地蔵なのだ。まあ普通の人は地蔵像と青面金剛の違いなんて解らないもんな。江戸
末期には下尾久・町屋から日本橋に通じる道路は「江戸道」と呼ばれて、この宮地を通っていたが、
その道筋にひっそりとたたずむ地蔵と庚申塔は風雪に堪え、永く村人や往来の旅人等に安らぎを与え
ていた。とりわけ子供の安泰を守るとされる子育地蔵の信仰は今も昔も変わらない。

   宮地六地蔵
   宮地稲荷神社の付近は、古くから集落が開けていたところだ。
   江戸の末期には、尾久や町屋から日本橋へ通じる道が「江戸道」と呼ばれて宮地を通って
   いた。地蔵・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六悪道に光を与え、迷いから悟りの道を教える
   路傍の六地蔵尊は、道行く人々に安らぎをあたえる道しるべでもあった。
                                   荒川区教育委員会
  

 
六地蔵
 村の境や入口に建てられ、六道において衆生の苦しみを救うという六種の地蔵菩薩、つまり地獄道
を救う檀陀(だんだ)・餓鬼道を救う宝珠・畜生道を救う宝印・修羅道を救う持地・人道を救う除蓋
障・天道を救う日光の各地蔵を祀る。また延命・宝処・宝手・持地・宝印手・堅固意の六地蔵とする
説もある。村に災害をもたらす人間や悪疫が入って来ないように祀ったもので、六地蔵があるという
ことは、そこが村境か村の入口だということを表す道標でもあった。街道というものは、村に要らざ
る災いを避けるため村の外れを通すもので、宿場町は本村ではない。旅籠を運営しているのは2、3
男で必ず本村に支配されていた。現在お寺に六地蔵が祀られているのは、大抵の場合、明治以後の道
路敷設事情で移設されたためだ。
  


■荒川四丁目児童遊園(プリン公園)

 荒川4丁目11番8号にある区立公園。平成22年4月1日の開園。プリンのような形をした石の
山滑り台があることから「プリン公園」と呼ばれている。石を掴み乍ら攀じ登ると大きな滑り台を滑
れるよ。周りはゴムチップなので安心だ。砂場や動物のスプリング遊具なども設置してある。


■三河島大師 
瑞光山密厳院如意寺

 荒川4丁目16番3号にある新義真言宗豊山派の寺。本尊如意輪観音。嘗ては江戸の霊場として賑
わいを見せたという。御府内21所霊場の15番札所、豊島88ヶ所霊場の83番札所、新四国八十
八ヶ所の42番札所に挙げられている。天文二年(1533)覚?の開基と伝えるが、南北朝の板碑
を数基所蔵していたことが確認されている。現在は、天文九年銘の板碑のみが残る。境内に竜女塚が
ある。塚上にあった文政十三年(1830)の石碑、本堂・庫裡等は、昭和20年の愚かなアメリカ
軍の非人道的無差別の東京大空襲の際に失った。参道右は墓地。本堂は鉄筋コンクリート造り。庭は
少し荒れている。墓も少ない。

 
天文九年四月十九日銘の板碑
 墓石に埋め込まれた板碑がある。
 


■荒川図書館

 荒川4丁目27番2号、荒川区役所の裏手を歩いてから分ほどのところにある区の文化施設。昭和
37年3月2日開園。区内にある5ヶ所の図書館の中でも高い人気を誇る。その理由は、隣に建って
いる手作りのプラネタ館にあるらしい。レトロな雰囲気を楽しみながら星空を見て、図書館で星関係
の本を借りて帰るという子供もいるんだとか。

 
石膏像

 図書館の入口を入ってすぐに、静かなたたずまいを見せる石膏像がある。神野義衛の作品「プール」
だ。若さ漲る均整の取れた裸身の青年は、プールのバーに背中を持たせかけて前方を見つめている。
しかしその視線は、水面ではなく遠くを見つめている。青春の一瞬を切り取った美しさが印象的な作
品だ。※現在、老朽化のため、荒川図書館倉庫に保管中たとか。
 


■荒川五丁目東児童遊園(宮地鯉のぼり公園)

 荒川5丁目7番2号にある区立公園。平成6年4月1日の開園。近くを走る京成電鉄の音が聞こえ
る。螺旋の滑り台、小さな山がある。


■稲荷社 ✓

 荒川5丁目8番1号駐車場の奥にあるという。
 


■神社 ◇

 荒川5丁目11番9号にある小祠。屋敷稲荷か?
 


■荒川五丁目児童遊園

 荒川5丁目7番2号にある区立公園。昭和51年4月1日開園。三角形の滑り台が特徴的。ブラン
コ、鉄棒、砂場がある。


立光寺真昌寺

 荒川5丁目38番10号にある浄土真宗本願寺派の寺。大正13年当地に説教所として開設、昭和
24年に真昌寺となった。本堂は鉄筋コンクリートの立派な建築。
 


■荒川五丁目公園

 荒川5丁目41番1号にある区立公園。昭和49年4月1日開園。区立花の木幼稚園と隣り合わせ
になっている場所で、公園の中心にはピンク色をした大きなラクダがある。このラクダは下が砂場に
なっていて、幅の違う2種類の滑り台がついている。また手摺を使ってよじ登れるようになっている
など、小さい子から大きな子まで遊べる人気者。他にも、ブランコや新しいタイプの複合遊具、トイ
レなど、施設が充実してるね。


■荒川五丁目グリーンスポット

 荒川5丁目45番7号にある区立の小公園。


■花の木ひろば館

 荒川5丁目50番5号にある区の施設。


■町屋駅

 荒川6丁目5番にある東京メトロ千代田線の地下停車場。昭和44年12月20日開業。ホームは
地下2階が1番線、地下3階が2番線の二層構造。7丁目にある京成線町屋駅とは2番出口で連絡。
都電荒川線とは0番と1番出口で連絡している。
 


■第九峡田小学校

 荒川6丁目8番1号ある。昭和14年東京市第九峡田尋常高等小学校として開校。同16年東京市
第九峡田国民学校と改称、同18年東京都第九峡田国民学校と改称、同22年区立第九峡田小学校と
改称。同28年校歌制定。平成11年創立60周年。

 校歌「かがやかに」 作詞:大島三千代  作曲:武田滝三郎
  1.輝かに瞳は澄みて
    今学ぶ我等只管
(ひたすら)
    湧き出
(いず)る泉の如く
    その清き真理(まこと)求めん
    望み溢るる学びの庭よ
    学びの庭よ 第九峡田
  2.健やかに光を浴びて
    今きたう 若きこの身を
    大空へ飛び立つ鳩の
    その強き心育てん
    生気漲る学びの庭よ
    学びの庭よ 第九峡田
  3.諸共に力を協
(あわ)
    今翳す旗は日の丸
    限り無き愛のしるしよ
    その広き道を進まん
    和
(なご)み勤しむ学びの庭よ
    学びの庭よ 第九峡田
 


■花の木児童遊園(やまぶき公園)

 荒川6丁目14番3号にある区立公園。昭和44年12月22日開園。ブランコとスプリング遊具
と広場がある。広場では、かけっこや鬼ごっこが楽しめる。


■荒川六丁目グリーンスポット

 荒川6丁目32番にある区の小公園。


■荒川六丁目ひろば館

 荒川6丁目33番4号にある区の施設。


■町屋二丁目停留所

 荒川6丁目40番・41番にある都電荒川線の停留所。大正2年4月1日開業。


■新地児童遊園

 荒川6丁目39番1号にある区立公園。昭和44年4月1日開園。ゾウ、カメ、ウサギのかわいい
オブジェがある砂場がある。小さい子は上に座って楽しめるよ。ブランコもある。


■荒川六丁目児童遊園

 荒川6丁目49番8号にある区立公園。昭和42年3月28日開園。船の形をした砂場、波をイメ
ージさせる青色のすべり台、ブランコがある。


■第四中学校
(荒川四中)

 荒川6丁目57番1号にある区立校。昭和22年学制改革により第二峡田小学校に誕生。同23年
三河島6丁目155番地に新校舎が落成して移転。同32年校歌制定。平成9年創立50周年。

 校歌
「若草萌ゆる」  作詞:高橋掬太郎  作曲:江口夜詩
  1.若草萌ゆる荒川の
    堤に近く筑波嶺の
    遥かに仰ぎ希望あり
    師の下我ら正しく学び
    理想は高くいざ起たん
    おヽ荒川中学校
  2.谷中の古塔 陽に映えて
    友呼び交わし胸張れば
    羽ばたく生命(いのち)力あり
    明るく励み 鍛えて強く
    自由の空へ いざ翔けん
    おヽ荒川中学校
  3.上野の森の風受けて
    豊かに靡く煙にも
    心は清く光あり
    紅顔此処に集いて楽し
    真理の道をいざ行かん
    おヽ荒川中学校
  


■荒川六丁目西グリーンスポット

 荒川6丁目66番9号にある区立の小公園。


■東源寺跡

 荒川7丁目5番13名号にあった曹洞宗の寺。廃寺としたのか移転したのか不明。現在は3階建て
の建物。公益社団法人東京電気管理技術者協会さいとう電気管理事務所。寺前にあった国定忠治地蔵
も行方不明。


■荒川山吹ふれあい館

 荒川7丁目6番8号にある区の施設。区では、乳幼児から高齢者まで、凡る世代の区民が交流し、
自主的な活動ができる地域コミュニティの場として設置している。また従来の「ひろば館」も、サー
クル活動や小規模の会合など、地域のみなさんの交流の場として利用できる。
 この館では、高齢者を対象にしたカローリング、ストレッチ教室、ミニテニスなどの健康促進事業
や、小学生を対象にしたお琴、ヒップホップ、フラダンスなどの教室を実施しています。参加は随時
OK。親子体操教室や手作りおやつ講座などの乳幼児向けの事業も人気。アットホームできれいな施
設だ。


■荒川七丁目停留所

 荒川7丁目9番にある都電荒川線の停留所。対面式ホーム。大正2年4月1日開業。周辺は過密住
宅街。町屋の火葬場の最寄り駅で、「町屋火葬場前」「東京博善社前」といった時期もあった。


大雄山泊船軒

 荒川7丁目17番2号にある臨済宗の寺。海禅寺の塔頭寺院として湯島に、玉蜂與公首座禅師(正
保四年寂)が開山したといいう。関東大震災後、移転してきた。入口は立派な山門だ。入ると境内も
静粛な禅寺の様相、正面に本堂。右は庫裏、客殿。左は墓地。「御府内寺社備考」に、

   泊船軒
   開山玉蜂與公首座禅師、正保四年十月十一日寂。
   開基近藤石見守。
   本尊観音木像座長八寸二分。


 とある。

 山吹塚
 太田道灌にまつわる伝説。新宿の面影橋が有名だが、山門付近に「山吹の塚」がある。文京区湯島
にあった当時の話で、伝承される娘は地元の有力者の娘のことだとする。

   七重八重花は咲けども山吹のみの一つだになきぞ悲しき

 後拾遺和歌集にある中務卿兼明親王の歌だ。「みの」は「実の」で、ヤマブキの内、八重咲き種の
ヤマブキは実をつけない。それと「蓑」を掛けて、雨具がないと返答したというのだだが、有力者の
家なら「蓑一つ」ぐらいあるだろう。新宿のように「貧困なので」というなら話も判るが・・・この
話は江戸時代の「武功夜話」に載ったのが最初。もしこの話が本当なら、太田道灌だから良かったも
のの、話の判らぬ無骨者なら、ヒステリーで斬り殺してしまうだろう。道灌は6歳から学問所に通っ
ているので、和歌を解さないということもありえない。数寄者が拵えた寝物語だ。この寝物語を頼り
に日暮里駅東口前に太田道灌の馬上弓姿の銅像が建てられてる訳さ。
  


■町屋文化センター

 荒川7丁目20番1号にある区の施設。「区民の皆さんの活発な生涯学習・文化活動と気軽な交流
の場」として利用して貰うために開設された。区民がそれぞれに文化センターの使い方を工夫し、楽
しく、有効に活用できる。またよみうりカルチャー町屋や文化総合講座などの各種生涯学習活動や、
気軽に参加できるふれあい広場事業を実施している。

 吉祥天像
 2階にある平野千里の木彫作品。素材は楠で、奈良の浄瑠璃寺の秘仏吉祥天像を模した作者の亡父
富山の遺作がモデル。須彌壇上の五色の雲に乗り、赤と金などの光背をつけ、首をやや右に傾け赤と
緑主体の鮮やかな衣をまとった美しい天女が金の宝珠を捧げている。

   吉祥天は弁財天とならんで、諸天の中でも最も端麗な美しい天女とされている。はじめは
   母の鬼子母神に似て、始末の悪いおてんば娘であったが、金山照明如来(こんざんしょう
   みょういにょらい)の許で、種々の善根を植え、釈迦の教え導きにより、立派な天女に生
   まれ変わった。作品は花冠をいただき、左手に如意珠をささげ、五色の雲に乗っている。
   顔は美貌の天女にふさわしく、目は切れ長で、眉は孤をえがき、頬はゆたかに豊穣を祈る
   女神を表現している(平野千里作品集の作品解説)。
 


■町屋駅

 荒川7丁目40番1号にある京成電鉄の停車場。昭和6年の京成本線日暮里~青砥間開業と同時に
設けられた。開業当時から高架駅。ホームは島式1面2線、ホームと改札階を結ぶエレベーターはな
い。改札は1ヶ所のみで1階にある。出口は東西両側にあり、改札前の地下鉄2番出口で東京メトロ
千代田線町屋駅と繋がり、西に少し歩くと都電荒川線の町屋駅前停留所がある。千代田線の町屋駅は
6丁目にある。

 
京成電鉄
 昭和6年より区内に乗り入れた私鉄。大正元年開業した京成電鉄は、昭和6年12月に青砥~日暮
里間を開通し、同8年に上野に乗り入れた。京成の資料によると、区内に開設した駅は町屋・新三河
島・道灌山通り・日暮里の4駅だったが、道灌山通り駅は、昭和22年2月28日に廃駅となった。
平成元年の「荒川区史」では戦時中に廃止となっている。京成電車は荒川区にとって重要な幹線鉄道
となり、特に町屋にとって発展の大きな要素となった。現在本区を通過するこの路線は上野本線と称
する。
 


■藍染川分流

 京成線に沿って流れていた排水路。京成電鉄上野本線が開通するより前の大正7年に開鑿された。
日暮里の高台の文京区側を流れていた谷田川(藍染川本流)の氾濫防止として、西日暮里の京成高架
橋付近まで暗渠(トンネル)で分水、それより下流は隅田川に合流するまで開渠の川(排水路)とし
て存在した。昭和7年から新三河島駅より上流などの暗渠化工事が行われたが、満州事変後中断した。
昭和35年保健衛生上の理由などにより全面暗渠化され、現在は道路となっている。京成高架の東南
側に沿う道路がその跡だ。尾竹橋通りと京成線の交差する「花の木橋」などは、川があったその痕跡
であり、現在でも欄干が残る。昭和32年現在で花の木橋、子の神橋(新三河島駅附近)、子育橋(町
屋斎場前)の他、一号橋から八号橋が架っていた。二~八号橋は最後まで木橋だった。
 


■稲荷前停留所
町屋駅前
 荒川7丁目50番にある都電荒川線の停留所。島式ホーム。大正2年4月1日「稲荷前」の停留所
として開業。東京メトロ千代田線町屋駅、京成電鉄町屋駅に連絡している
  


■ムーブ町屋

 荒川7丁目50番9号、町屋駅前にある「センターまちや」の3・4階に、新しい文化の拠点があ
りる。ロビーには彫刻や絵画が展示され、散策の寄り道に、一息つくのに最適。月の半分はギャラリ
ー展示が催されているので、タイミングが合えばそちらも鑑賞できるよ。舞台と客席が自由にレイア
ウトできる「ムーブホール」、展覧会などに利用できるオープンスペ-スの「ギャラリー」、展示会
や会議などに適した「ミニギャラリー」、150インチの大画面が迫る「ハイビジョンルーム」、写
真の撮影のほかに音楽などのリハーサルにも使用できる「スタジオ」、区内在住・在勤の方のみ利用
できる「インターネットコーナー」がある。
 ムーブ町屋の魅力は、交通至便と、利用料金が破格に安いことだ。ワンフロアを貸し切っても、お
手ごろな価格。アイディア次第で様々な企画や演出が可能だ。音響・照明が素人でもスタッフが丁寧
に応対で相談に乗ってくれるし、オプションで機材の貸し出しや技術スタッフを派遣してくれる。客
の要望や相談にはいつでも即対応だ。

 「鼓動」
 建物内にある御正進のブロンズ彫刻。太鼓をたたく少年のリズミカルな動きを表現し、叩きながら
歩き出す瞬間の動きが、未来や希望につながるイメージを持っている。御正進の作品。
 


■荒川八丁目南公園
 荒川8丁目2番2号にある区立公園。平成7年4月1日開園。


 
「大空のはばたき」
 公園内にある彫刻、鳩と戯れる少女像のブロンズ像。区に縁の深い彫刻家御正進の制作だ。空を飛
べる鳥を少しだけ羨んでいるような少女の優しい表情と伸びやかなその姿態に癒される。男女を問わ
ず妖精めいた、透明感のある人物像を得意とする御正ならではの作品。
 


■荒川八丁目公園
 荒川8丁目16番5号にある区立公園。平成元年4月1日開園。荒川さつき会館に隣接している陽
だまり公園。さつき会館の東側にある「広場」と西側にある「遊具・盛り土場」部分に分かれてる。
 広場はボール遊びができる。但しバットやゴルフクラブの使用は禁止だよ。


■塩竃稲荷社
(しおがまいなりのやしろ)

 荒川8丁目18番6号大正胞衣社の敷地にある小社。「胞衣(えな)」とは、母体内で胎児を包ん
でいる胎盤・臍帯・卵膜・或いは死胎のこと。東京には、胞衣及び産汚物取締条例というのがあり、
出産時の胞衣と産汚物(処置のガーゼなど)を、何人たりとも取扱場以外では処理してはならないと
いうお達しがあるため、こういった業者によって処理されるのだ。その供養のための祭祀だろう。


■都下水道局三河島水再生センター

 荒川8丁目25番1号にある。水再生センターは、以前は「三河島処理場」と呼ばれていたが、平
成16年4月から、現在の名称に変更になった。各地で「清掃局」が「環境保全局」などと格好をつ
けた名前を変えるのと同じ理由なのだろうぜ。中身に変わりはないよ。
 

 赤レンガの建物
 センターの南側には、赤いレンガ造りの美しい建物がいくつか並んでいるが、これらは、大正11
年3月の設立当初より稼働していた「旧主ポンプ室」などの施設で、水再生センターのシンボル的な
施設だったが、平成11年3月に別系統のポンプ施設に切り替えて引退した。旧主ポンプ室及び周辺
の関連施設は、関東大震災を生き残り、地域住民に「赤煉瓦の建物」として古くから親しまれ、稼動
当初の構造を良く留め、近代下水処理システムの遺構として極めて重要であり、「ゼツェッシオン様
式(分離派様式・1910年代にヨーロッパを圧巻したアール・ヌーヴォーに属する建築様式)」に
よる東京に残る数少ない建築物であり、近代下水処理施設の基本形を創出した土木建築技術史上、価
値が高いと評価され、平成15年3月都の有形文化財に指定された。現在はセンターのイベント等に
おいて都民に広く公開している。
 

 
日本の下水処理発祥の地
 センターの広い敷地の南側入口近くに
都下水道局が建てた発祥の地碑が建っている。

   日本の下水処理発祥の地   東京都知事鈴木俊一書
   大正11年3月26日、日本で最初の下水処理をこの地三河島汚水処分場において散水ろ
   床方式により開始した。その後関東大震災に見舞われるなど幾多の変遷を経て今日開設満
   70周年を迎えるに至った。ここに先人の労をねぎらうと共に関係各位の御協力に感謝す
   る意を込めて本記念碑を建立する。
   平成4年4月吉日                    東京都下水道局長村田恒雄


   The very first wastewater treatment in Japan was started hereon this site of the
   Mikawashima Wastewater Treatment Plant bya trickling filter process on the 26th
   Day of March in the Eleventh Year of the Taisho Era (1922). Since then the plant
   has survived many changes including damage caused by the Great
 Kanto Earthqu ak
   e. This day, March 26, 1992, marks the seventieth annversary of its opening..It
   is in out
 deepest appreciation for the dedicated Service of all our predecess
   ors as well as for the generous cooperation of all concerned that weerected this
   monument. April in the  Fourth Year of the Heisei Era (1992)    Tsuneo Murata

           Director Gneral Bureau of Sewerage Tokyo Metropolitan Government

 荒川自然公園の東入口の脇に荒川区教委が建てた「下水処理発祥の地」の説明板がが建っている。

   らかわの史跡・文化財
   下水処理発祥の地 (妻夫塚)
   三河島字八千代田、字次郎田前と呼ばれていたこの地に二つの塚があった。 妻夫塚(めお
   とづか)と呼ばれるもので、正平七年(1352)武蔵野合戦における戦死者を葬った所
   と伝わるが、詳細は不明である。明治43年に三河島処理場の敷地に編入され、現在では正
   確な塚の位置を確認することができない。日本で最初の本格的な下水処理施設である「三
   河島処理場」は、大正3年建設に着手した。 同年から始まった第一次世界大戦の影響によ
   る財政面の制約などの理由から、工事の進行に打撃を受けたが、大正11年完成した。荒
   川区のみならず台東区の全部、文京・豊島区の大部分と千代田・新宿・北区の一部の下水
   処理を行う。赤煉瓦の処理場施設は建設当時からのもの。千住製絨所(日本羊毛工業)な
   どとともに荒川区の近代化の担い手であった。
                                   荒川区教育委員会
 


■三河島公園

 荒川8丁目25番2号にある区立公園。荒川自然公園の南、区立荒川さつき保育園の隣にある地面
の公園。昭和25年10月1日開園。きりん公園のコンセプト。長い首の部分がすべり台になってい
るきりんは、子どもたちに大人気。階段や梯子もついていて、いろいろな遊び方が工夫できる。
 その他、複合遊具やシーソー、ブランコ、砂場もある。広々としているので、かけっこをしたり身
体をたっぷり動かして十分に遊べるさ。


■荒川自然公園

 荒川8丁目25番3号の東京都下水道局三河島水処理センター(下水処理場)の屋上にある区立公
園。昭和49年4月26日開園。下水処理場の屋上だけに広く、北・中・南の3地区に分かれる。荒
川区内で一番大きな公園で、白鳥のいる大きな池があり、花や緑を見乍ら散策が楽しめる他に、様々
な遊具や昆虫園、アスレチック、テニスコートや野球場まであり、夏にはプールもオープンする。中
でも、最大の特徴は交通ルールが学べる交通園。三輪車から、補助付き自転車、一輪車、ゴーカート
など多数の乗り物を貸し出ししている。練習場は各乗り物で分かれているから安心。信号機や交差点
・踏切もあるコースを走行することもできる。

 
こども像 1
 風考像の隣にある。這い這いしている嬰児像る

 風考‐空へ‐
 こども像と並んである。昭和49年峯田義郎の作品。裸婦が高い所から逆さまに落ちてきたような
銅像。モデルがいたとしたらどえらい恰好してたんだね。

 こども像 2
 公園の園名標に腰掛けている裸の男の子像。

 「鳩と子供」
 公園の園名標の上にある鳩をてにしている幼女裸像。

 「波」
 公園の中心部にある像。2人の小母さんが背を向け合って、波(?)に翻弄されているデザインな
のか? さあ波とどう結びつくんだべさ。昭和57年、鷹尾俊一作品。

 「重奏」
 合奏しているようなイメージの3体抽象像。昭和52年、日高頼子作品。
 



【西尾久】(にしおぐ)1~8丁目                   昭和39年7月1日
 上尾久村。明治22年「市制町村制」により尾久村の大字となり、大正12年尾久町大字上尾久
となる。昭和7年荒川区が成立して尾久町4~8丁目となって戦後に至る。同39年尾久町5~7
丁目の全部に尾久町3~4・8丁目の各一部を現行の「西尾久」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『荒川区史』など。

 
西尾久の由来
 町名は町域が尾久町の西半に位置することによる。だから西尾久は都電の荒川車庫、いやあらか
わ園だぁ!

 
尾久の由来
 地名は「おぐ」、小具とも奥とも書いて「おく」とも読む。北区昭和町にある戸籍上東北線、実
質高崎線・宇都宮線の尾久駅は「おく」と表記している、尾久の名は『小田原衆所領役帳』には既
に見え、地名の由来は豊島郡の「奥」に開けたことによるとの伝承があるが何に対して奥なのか判
らねえ。「江戸の奥」だというが・・・アミーゴ。尾久は白魚で有名だった。

   白魚の佃逃げても尾久の関(川柳)

   
さはさはと煮籠に積る尾久の雪(一枝筌二)
   
尾久の町が消えると江戸は初鰹(川柳)
   
いつか日の長くなるとは白魚の背丈も伸びて行く春の尾久(蜀山人)

 
「おぐ」か「おく」か?
 「おぐ」が正しい。「おく」は、明治時代、駅名を付けた時の新政府役人どもの誤表記だった。
しかも尾久駅の所在地は北区昭和町。尾久は区内で最古の地名で、鎌倉幕府が編纂した歴史書「吾
妻鏡」に「犬食」と表記されているが、犬は誤表記で大食(オグ)→尾久となる。


 消えた桜草
 現在の原公園の辺りは江戸時代には桜草の名所だったが、新田の開発などで消滅した。  


■豊島枝成胡瓜

 としまさすなりきゅうり 埼玉の青節成系の品種を改良したもの。農村では小蔓のことを「さす」
といい、そこに果実をつけたことからその名がある。親蔓にも果実はなるが、節成のように連続して
雌花をつけることはなく、数節ごとになる。果実は緑色で馬込半白よりは長い。馬込半白との交配種
が、高井戸節成だ。尾久の「夏大根」も有名だったが、これも消えてしまった。


■三河島菜
 結球白菜が中国から伝わる以前から栽培されていた漬菜で、江戸初期に三河国(愛知県)の百姓が
入植して作り始めたと伝えられている。三河島菜の特徴は、葉の幅が広く、色は黄緑。現在の白菜の
ようには結球せずに大株になり、外葉のつけねの部分が外の方向に張り出し、船の錨に似た姿なので
「いかり菜」とも呼ばれ漬物にして食べていた。明治初年頃から作付面積が増えていったが、まもな
く白菜の人気が高まるにつれて、とって代わられちゃった。
 


■尾久宮前小学校

 西尾久1丁目4番17号にある。昭和9年「尾久宮前尋常小学校」として開校。同16年勅令第1
48号「国民学校令」により「東京府東京市尾久宮前国民学校」と改称。12月日米開戦。同18年
都制施行により「東京都尾久宮前国民学校と改称。同19年3年生以上364名が福島県岩瀬郡須賀
川町へ学童集団疎開。同20年愚かなアメリカ軍の非人道的無差別空爆により校舎焼失。日本敗戦。
 同22年荒川区立尾久宮前小学校と改称。同24年復興校舎竣工。同44年鉄筋コンクリート造り
校舎落成。同59年創立50周年記念式典。
 平成7年校舎耐震化。同8年八幡堀プロムナード完成。児童作品タイル貼付。同16年創立70周
年記念式典。同19年放課後子供プラン「にこにこすくーる」開設。

 校歌
「緑の若木」 作詞・亀谷静  作曲・山本治重
  1.緑の若木 健やかに
    春の陽射しに伸びるよう
    大地を踏んでしっかりと
    進むは吾等 宮前の
    文化日本を築くもの
  2.暑さは激し夏の日も
    寒さ厳しい冬の日も
    知識を磨き技を練り
    歌おう豊かに声高く
    民主日本の朝の歌
  3.その名も床し宮前の
    清く明るい学び舎に
    望みの胸を躍らせて
    仰ぐ東の青空に
    平和日本の日が昇る
  


■アップルエンジェル

 西尾久1丁目19番9号の追分の先端部にある小公園の中にある立川義明のブロンズ彫刻。平成9
年制作。アップルロードに設置されている。りんごを手に持った少女の像となっている。立川の作品
は西日暮里公園に「環」がある。区の説明。

   このアップルエンジェルはりんごをイメージした等身大少女の具象像で地域の人々の夢と
   希望をブロンズ像に託したものです。「夢」と「希望」のりんごを抱き、地上に舞い降り
   た天使の像で、その少女の愛くるしい微笑の前に人は心を和ませ、元気を沸かせてくれま
   す。
 


■山谷の神明社(天祖神社)◇

 西尾久1丁目21番16号にある小社。ファミール田端とヴェルビーヤマナカ山谷の間だ。山谷は
字(あざ)の名。庚申塔と地蔵尊像がある。

   山谷の神明社(天祖神社)
   上尾久字山谷(西尾久1丁目の一部)の天祖神社は通称〝山谷の神明様〟として親しまれ
   ている。
   伝承によると明暦の頃(1655~7)台風の後に金物のようなものが当地に流れ着き、
   粗末に扱った人が怪我をしたので祀るようになったという。騒ぐと祟りがあるといわれ、
   祭りの際にも神楽、囃子、神輿の類は出ない。また勝負の神様、お産の神様としても知ら
   れている。この神明様の氏子の集まりは神明様と呼ばれ、現在も続いている。
                                   荒川区教育委員会


■長谷寺

 西尾久1丁目25番7号にある単立寺院。看板・表札などは無いちっぽけな寺。建物前の掲額「成
田山不動尊」。玄関前の掲額「聖観世音菩薩」。左に石仏一体、右に四国88ヵ所巡拝記念石碑。詳
細は不明。
  


■尾久ふれあい館
 西尾久2丁目25番13号にある区の施設。区では、乳幼児から高齢者まで、凡る世代の区民が交
流し、自主的な活動ができる地域コミュニティの場として設置している。また、従来の「ひろば館」
も、サークル活動や小規模の会合など、地域の区民の交流の場として利用できる。
 この館では、毎週22の成人、高齢者向け事業を行い、地域の仲間作りの場になっている。また、
リトミックやリサイクル会などの乳幼児向けの事業も人気を博している。児童向けには、調理実習室
を生かしたクッキング事業を行い、中高生には、気軽に立ち寄れる専用のスペースを提供している。


■地蔵山の庚申塔群(地蔵山墓地の石仏群)◇
 西尾久2丁目25番14号、寶蔵院管理の地蔵山墓地の門を入った左手奥に3基、右奥の無縁仏羣
の中に2基ある、無縁仏(その他の石造物)は含めて10基以上が一塊に粗末に集められている。
 


鎮護山碩雲寺
 西尾久2丁目25番21号にある曹洞宗の寺。慶長元年(1596)附山栄伝和尚の創建と伝え、
明治43年本所石原町から移転、旅館風の建物で健在だ。大正2年に都電が開通して、翌年井戸から
ラジウムを含む鉱泉が湧出し、これで「寺の湯」を開業した。

 寺の湯(不老閣)と尾久三業
 かつて尾久は「三業地」として賑わった町だった。三業とは料理屋(旅館)・芸妓屋・待合茶屋が
集まっている地域で、いわゆる花街のこと。三業地としての尾久の発展の歴史は、大正3年にで温泉
が発見されたことから始まった。ある日怪我をして足から血を流した子どもが碩運寺の井戸で傷口を
洗うとすぐに血が止まった。その様子を偶々見ていた松岡大機住職が不思議に思い、井戸水を検査し
てもらうとラジウムを含んだ鉱泉であることが判明したので、それでこの温泉を「寺の湯(のち不老
閣)」と名付け湯治場を開いた。この「寺の湯」はすぐに評判となり、周囲にも温泉旅館が次々と建
ち、それを目当てにやってくる客のために三業が発達した。また温泉が発見される前年には、王子電
気軌道(現在の都電荒川線)が開業し、交通の便が良かったことも手伝い、三業地としては大いに賑
わった。あの有名な「阿部定事件」は、昭和11年待合茶屋「満佐喜」で起こった。
 しかし戦後周辺に次々と工場が建ち、挙って地下水を汲み上げたため、その影響を受けて温泉は枯
渇、これに伴い尾久三業地も徐々に衰退していき、現在では歓楽街として賑わっていた頃の面影はま
るでおまへんのや。

   寺の湯(不老閣)跡
   三ノ輪橋と飛鳥山下とを結ぶ王子電車は、大正2年に開通している。尾久村はほぼその中
   央に位置しているが、翌3年碩運寺住職松岡大機が井戸を掘ったところ、衛生試験場の検
   査で多量のラジウム・エマナチオンが含まれていることが判った。それが元となって尾久
   温泉(不老閣)が生まれ、寺の湯と呼ばれた。
   これを機として、尾久には清遊館・大河亭・小泉園などが相次いで開業して、尾久の発展
   に大きな役割を果たすことになった。               荒川区教育委員会
 


■阿部定事件
 昭和11年、「2・26事件」のあった年だ。現在の中野区「薬師あいロード商店街」の一角(新
井1丁目22番)に「吉田屋」という鰻料理屋があった。ある日この店に30歳を少し過ぎた細面の
女性がやってきて、主人石田吉蔵と掛け合い、女中(店員)として住み込みで働くことになった。し
かし色男で遊び人だった吉蔵は、早速この女の魔性におびき寄せられるままに手を出し、地獄への一
歩を踏み出してしまったのだ。それからの関係はエスカレートするばかり、終には従業員や家族の知
るところとなった。已む無く2人は店を出て、待合(現在のラブホテル/ファッションホテル)を転々
と泊まり歩いては情交に耽った。最後に利用した尾久1881番地の待合「満佐喜」では、1週間ほ
ど部屋に籠った後、女が1人で出てきて、

   「ちょっと水菓子を買ってきます。寝ているので起こさないで」


 と言い残したきり二度と帰ってこなかった。不審に思った待合の女中が部屋を覗くと、「定吉二人
きり」と血で描かれたシーツの上に、局部をすっぱり切り取られた男の絞殺死体が残されてたって訳
さ。
 このセンセーショナルな猟奇事件は、エロ・グロ・ナンセンス
の時代こその評判で、瞬く間に日本
全国、津々浦々に広まっちゃった。如何に衝撃的だったかというと、敗戦の年に生まれたおいらが子
供の頃から普通に知ってんだから、大変な事件だった訳さ。各新聞は一斉に号外を出して「阿部定逮
捕」を報道、この時帝国議会では二つの委員会が開かれていたが、委員長の緊急動議で一時中断、委
員はみんな号外を読み耽ってたってことだ。犯人の女の名前は「阿部定」。彼女は翌々日、品川の旅
館「品川館」に泊まっていたところ、臨検に来た刑事に名乗り出た。刑事が訝りながら確認、男の肌
着と局部、それに肉切り包丁を所持していたことからあっけなく逮捕された。事情聴取で、

   「私はあの人が好きでたまらず自分で独占したいと思い、殺してしまえば外の女が指一
   本触れなくなりますから殺してしまった~ 今度私がやった程度の事を思う女は、世間
   にあるに違いないのです。ただしないだけだと思います」


 と語った。裁判で担当の竹内弁護人は、

   「吉蔵は他人から虐められる事を喜ぶ精神異常者であり、お定はいぢめ、いぢめられる
   事の両性を兼ね備へた異常者である。此結合要素を備へた男、女が遭ふ事は千万人に一
   人の割合であらう。然るにお定、吉蔵の二人は陰陽、凹凸全く符号融和すべき千載一遇
   の暗号の結果であり、此の稀有な運命の下に、運命の神の悪戯に依つて本件を誘発した
   ものである」


 として異常性愛による犯罪であることを強調した。現在でも日本では多くの人が「阿部定」という
単語を聞けばこの事件を想起できるほど知名度は高い。大島渚の『愛のコリーダ』、田中登の『実録
阿部定』、大林宣彦の『SADA』などこの事件を題材にした映画があり、特に『愛のコリーダ』は
欧州での評価が高い。

 その後
 裁判の結果、事件は痴情の末と判定され、定は懲役6年の判決を受けて服役、昭和16年に「皇紀
紀元二千六百年」を理由に恩赦を受け出所。出所後、廓の親方の所に身を寄せ、「吉井昌子」と名前
を変え、市井で一般人として一時は普通に暮らしたが、東京大空襲で焼け出され、さらに戦後のエロ
グロブームによって有名人になってしまった。終戦直後『昭和好色一代女 お定色ざんげ』という書
籍が出版され、著者と出版社を名誉毀損で告訴した。告訴した頃は埼玉県でサラリーマン男性と結婚
(未入籍)をしていたが、男性は自分の妻が阿部定だと知って破局した。この事がきっかけで再び各
地で色々な仕事を転々とするようになるも、同46年に置手紙を残し身内から忽然と姿を消し、以降
の消息及び生死は不明となっている。瀬戸内寂聴がNHK教育放送のラジオで語ったところによると
事件後、芝居・見世物一座で本人が講釈し、模造の一物を見せる事もしていたとか(女優浅香光代も
子供時代に阿部定劇を見たと語っている)。
 同35年頃から何度か自分の店を出し経営は順調だったが、その度に持ち逃げされたり、頼りにし
た人物が病気になったりして長続きしなかった。同35年頃に精神的支柱であった元廓の女将(親方
の妻)が亡くなると「身元のわからない形で死にたい」というようになったという。同45年に最後
の店が可愛がっていた店員の持ち逃げで潰れると、夜逃げしてしまった。しばらくして発見され、同
46年には知り合いの旅館に勤めだすが、「リューマチの治療に東京に行く」といって出かけたまま
姿を消した。同49年になって滋賀の尼寺に現れて出家志願したが、まちた姿を消したという。これ
と前後して浅草の知り合いの所に3ヶ月ほど居候したが、やがて姿を消し、これが最後の消息となっ
た。これ以降阿部定の確かな消息は不明で、戸籍上は死亡届は出されず、失踪者扱いだる。
 定が殺した男性の墓に定からと思われる花が命日に毎年届いていたが、同62年以降は届けられな
くなった。この事から、阿部定はこの年に亡くなったのだろうといわれている。

 類似事件
 昭和13年の津山事件(36人殺し)の犯人都井睦夫が、この事件に興味を示し、親しい友人に、
「どうせ死ぬんじゃから、阿部定以上のどえらいことをやっちゃるでぇ!」と漏らしていたという。
 なお、昭和28年にもこの阿部定事件と同様の事件が文京区で発生している。また昭和47年にも
同様の事件が杉並区で発生し、4月29日荻窪にあるアパート2階にて徳島出身の当時予備校生だっ
た旅館の跡取り息子(21歳)を、この旅館の仲居として働く女性(32歳)が別れ話のもつれから
包丁で切りつけた。予備校生の陰部は皮一枚を残して殆ど切断された状態となり元通りに縫合する事
は困難とされた。これを当時のマスコミは昭和の阿部定事件として騒ぎ立てた。
 


■西尾久一丁目児童遊園(パンダ公園 原っぱ公園)

 西尾久1丁目26番7号にある区立公園。商店街の側だ。昭和41年7月18日開園。出入口にパ
ンダの絵が描かれていることから「パンダ公園」と呼ばれて親しまれている。園内を一周走れるよう
な遊歩道があり、滑り台、スプリング遊具など、遊び方を工夫して楽しむことができる遊具を設置し
ている。大きな木があり、木陰が沢山ある。秋は紅葉が美しい。


■八幡児童遊園(はと公園)

 西尾久2丁目5番9号にある区立公園。昭和40年7月20日開園。鳩の絵が描かれている遊具が
あり「はと公園」と呼ばれている。太鼓梯子や吊り橋のあるアスレチック遊具やブランコがある明る
くて綺麗な公園。トイレ無し。公園西の八幡堀プロムナードに面して説明板がある。

   八幡堀の跡             江戸時代の初めごろから大正の終わりごろまで
   昔ここに八幡堀という川の流れがありました。尾久村の田畑の水としての大切な役割りを
   果たしていたことでしょう。
   この流れは、昭和になって埋め立てられ小道になりました。流れの土手にあった木も、今
   ではこんなに大きくなりました。
   社会科の学習で八幡堀のことを学んだ尾久宮前小学校の子どもたちは、昔のようすをいろ
   いろ創造し、これを絵に描きました。
   桜草が生えている。流れに小舟が浮かんでいる。浮世絵で見た三河島の鶴もここに飛んで
   きたことでしょう。小さな木の橋を通るお百姓さんやお侍。田植えや刈り入れ。そして子
   どもたちの遊び・・・・・・
   道路に並んだ絵タイルは、子どもたちが描いた作品を元にしたものです。
                        
平成元年三月   荒   川   区
                                   荒川区教育委員会

   尾久   オク
   この附近は、昭和2年から7年にかけて下水道が整備されました。(北豊島郡尾久町下水
   道、昭和7年以降は荒川区尾久町) このマンホールの蓋は、この時造られたもので、ヲ
   が9ヶで「ヲク」と読ませたユーモアの中に、当時沢山あった水路が下水道として、次々
   と埋められていった状況がしのばれます。     平成7年 荒川区役所土木部道路課
                                 尾 久 を 考 え る 会


■小台渡停留所 → 小台(早稲田行きホーム)

 西尾久2丁目37番にある都電荒川線の停留所。大正2丁目4月1日「小台渡停留所」として開業
した。隅田川の渡船小台の渡し場への道(小台橋みずき通り)に面して設けられた。昭和7年この辺
りが東京市に組み込まれると、翌年に小台橋が架設され渡船は次第に必要度が薄れ、何時しか廃止と
なった。それで同15年頃に「渡」の字が外された。この経緯を知らないと、足立区の地名を荒川区
にある駅が名乗っているのか理解に苦しむだろう。
 


■尾久八幡公園・八幡堀プロムナード

 西尾久3丁目6番4号、尾久八幡神社の裏手にある南北に細長い区立公園。昭和25年10月1日
開園。公園南側にあるモニュメントが特徴的。このモニュメントは、江戸時代に川から水を引いて米
作りをしていた先人の遺業を残したいという地域の子どもたちの願いにより設置された。この辺りに
はかつて田畑に水を引く用水路がめぐっていて、尾久八幡神社を囲むようにして隅田川まで注いでい
た流路が「八幡堀」といわれていた。公園の中には、その八幡堀を思わせるせせらぎが流れている。
 園内には木製の大型アスレチックがある。縄梯子で櫓に上がったり、丸太の上を渡り歩いたり、様々
な遊び方ができる。小さい子が一人で遊ぶことには無理があるが、ちょっと高いところに乗せてあげ
るだけでも子どもは楽しそう。螺旋型の滑り台も保護者が付いていれば小さい子でも大丈夫。勿論せ
せらぎの側をゆっくり歩くだけでも十分楽しい。

   
八幡堀プロムナード
   江戸時代、この地域には、石神井川から引かれた「八幡堀」と呼ばれる農業用水路が流れ
   ていました。昭和60年(1985)に尾久宮前小学校の子どもたちが、今は見えない川となっ
   てしまったこの水路について学習をはじめ、それがやがて地域ぐるみの取り組みとなり手
   づくりの絵本「ぼくらの音無川」にまとめられました。こうした地域活動は高い評価を得
   て、第40回読売教育賞の中で最優秀賞を受賞しました。
   荒川区は、こうした貴重な財産を永く将来に伝えたいと考え、この水路を「八幡堀プロム
   ナード」と名付けて整備を行いました。東京都も、この都道付近が水路跡の一部であった
   ことから、道路の整備に合せて、水路をイメージした圃ふぉ卯の整備を行いました。
   この地域の歴史に関する活動を記念し、ここに古地図のレリーフを設置します。
   平成12年12月                    荒川区・荒川区教育委員会


 
八幡堀モニュメント
 プロムナードの西尾久3丁目9番にある。一際高く聳える透かし彫りの彫刻だ。
昭和60年、家か
ら古地図を持ち出してきた尾久の子供たちが、江戸時代の地図を手がかりに、この地域で川から水を
引いて米作りをしていたということを知り、近くの古老に話を聞き、古い本を調べ、遂に埋めたてら
れて今はない古い川(旧八幡堀)跡を発見するに至った。「先人の偉業を形にして残したい」という
子どもたちの願いが親たちを動かし、地域へ広がり、八幡堀のあったこの場所にモニュメントが設置
されることになった。これが八幡堀モニュメント、少年少女たちはその努力を称えて、地域の人々が
作ったモニュメント。郷土を愛する心の象徴として、今日もモニュメントは光り輝いている。


■尾久八幡神社

 西尾久3丁目7番3号にある大社。創建は不詳。鎌倉時代末期の正和元年(1312)に尾久の地
が鶴岡八幡宮に寄進された頃に溯ると考えられる。幕府編纂の地誌『新編武蔵風土記稿』(文政十一
年成立)には、上・下尾久・船方3村の鎮守と記されている。神社を取り囲んでいた八幡掘は、荒川
(隅田川)に繋がっていて交易で賑わい、神社の西側では下肥の積み下ろしも行われていたという。
都内にただ1つ残った都電通りに面し「宮ノ前」停留所のすぐ目の前にある。広い駐車場から石段で
昇った所に構える本殿は、木造のがっちりした大きな建物で、後ろ側に建っている神輿蔵は13まで
数える事が出来る。それだけでもこの神社の、この地に置ける大きな権威が感じられる。境内手前に
は2本の公孫樹があるのみで、大きな木はないが、広がった空間がすっきりとして清々しい。厳島神
社も本殿左手に祀られている。

 
上尾久村村絵図
 神社が所蔵している。隣村の田端村や中里村との間で起こった用水争論の際に作成された村絵図。
農業用水の流路のほか、領主付(りょうじゅづき)農民の名、村内の寺社名などが記されており、江
戸時代の上尾久村の様子をよく物語っている。作成年代は文政2年(1819)以降。この他、区内
の村絵図に、小塚原村絵図(荒川ふるさと文化館蔵)があるよ。

   八幡神社と上尾久村村絵図
   所蔵の上尾久村村絵図(荒川区指定文化財)は神社を中心とする上尾久村の江戸時代の様
   子を物語る。図中には、農業用水の流路、7名の領主名と各領主付農民、村内の社寺など
   が記され、隣村の田端村や中里村との間で取り決められた用水に関する記述が3ヶ所ある。
   制作年代は記されていないが、嘉永元年(1848)以後のものであると推定される。こ
   のほか同社には、享保十四年(1729)銘の手水鉢や南北朝期の至徳二年(1385)
   銘をはじめとする棟礼等がある。同社の創建年代は不詳だが、棟礼の年号等から中世には
   当地の鎮守として勧請されていたと考えられている。        荒川区教育委員会


 八幡堀跡
 西尾久3丁目7番にある。尾久八幡の脇を流れて荒川(隅田川)に注いでいた。

   八幡神社と八幡堀
   八幡神社の創建は不詳であるが、鎌倉時代末期の正和元年(1312)に、尾久の地が鎌
   倉の鶴岡八幡宮に寄進された頃に遡ると考えられる。また、神社に残る棟札から、至徳二
   年(1385)には社殿が再建されたことこが確認できる。江戸時代に幕府が編纂した地
   誌『新編武蔵風土記稿』(文政十一年〔1828〕)には、上・下尾久、船方三村の鎮守
   と記されている。
   八幡堀は、王子・上中里・田端・日暮里と流れる用水が八幡神社をとり囲んでいたもので
   酒井新三郎抱屋敷と亀太郎屋敷との間(現在の西尾久3‐4周辺)を経て、荒川(現在の
   隅田川)に注いでいた。川を往復する舟が八幡堀まで進み、交易で賑わい、神社の西側で
   は下肥の積みおろしも行っていたという。             荒川区教育委員会
  


■尾久区民事務所ひろば館

 西尾久3丁目7番15号にある区の施設。


■尾久警察署

 西尾久3丁目8番5号にある。大正12年12月20日王子警察署尾久分署設置。同15年尾久警
察署に昇格。昭和4年5月30日庁舎が手狭になったため現在地に鉄筋2階建ての庁舎を建設して移
 


■延命地蔵
 移転?

 西尾久3丁目8番?号電車通りに面してある写真が残っているが、見当たらない。6丁目32番の
延命地蔵と関係ないのだろうか?
 


■地蔵尊小祠 ◇

 西尾久3丁目8番7号石井金物店の道路際にある。ここは延命地蔵があった場所(写真)に一致す
る。しかしこれが延命地蔵の成れの果てにしては小さ過ぎる。写真の延命地蔵は、祠というよりは堂
といってよく、説明板も掲額されている。
  


幡弓山浄光院願勝寺
 廃寺

 西尾久3丁目9番5号にあった新義真言宗の寺。明治8年廃仏毀釈により廃寺となった。跡には港
区三田功運寺塔頭大林院が入って現在に至っている。
 


霊明山大林院

 西尾久3丁目9番5号にある曹洞宗の寺。寛永二十年(1643)三田功雲寺内に開創、駒込大林
寺末。明治8年廃仏毀釈で廃寺となった尾久八幡神社の元別当寺の願勝寺跡に移転し、同寺の寺地堂
宇を継承して現在に至っている。山門手前には六地蔵が祀られており、新義真言宗願勝寺の跡地だっ
たことが偲ばれる。山門を入ると本堂、右に墓地、左は庫裏。都会のこじんまりした寺。

 正和五年銘板碑
 八幡神社別当の願勝寺から継承した正和五年(1316)銘板碑・石仏などを所蔵する。

   正和五年銘板碑(大林院)
   ここの地には、尾久八幡神社の別当寺である新義真言宗の願勝寺があった。明治8年神仏
   分離で廃寺となるまで、八幡神社の運営を司った。現在の庫裏前にある正和五年(131
   6)銘の板碑、その他の石仏等は恐らく願勝寺から伝わったものであろう。
   大林院はもと港区三田の功運寺中にあった曹洞宗の寺で、願勝寺の寺地堂宇を継承地し今
   日に至っている。                        荒川区教育委員会
 


金光山宝珠院地蔵寺

 西尾久3丁目10番6号にある真言宗霊雲寺派の寺。創建は宝暦元年(1751)分了智範和尚が
地蔵堂を創建したことに始まる。同九年武蔵国久良郡金沢領寺之前村(六浦藩米倉丹後守領分)に所
在する地蔵寺が無住であったため、分了和尚は上尾久村の名主らと共に、寺号の譲渡を六浦藩に懇願
し、幕府の許可も得て地蔵寺と改めた。
 参道の両側は墓地。本堂は六角堂。その直ぐ左は逓減3階建ての庫裏、共に鉄筋コンクリート造り
だ。露出の水子地蔵が黒光りしていて立派だ。堂内には千体地蔵尊を安置とある。
 
 地蔵時文書
 この地蔵寺の縁起を記したものが、宝暦九年「地蔵寺引寺記録」だ。地蔵寺文書は、この他明治
2年「霊雲寺第十五世大和上御筆」など4点の史料からな。

 夜念仏供養板碑
  地蔵山墓地から出土した文明十五年(1483)10月7日銘の阿弥陀三尊来迎図が施された結
衆板碑。区内で唯一の阿弥陀三尊画像板碑だ。


■馬場子育稲荷神社

 西尾久3丁目11番9号にある小社。


■尾久図書館

 西尾久3丁目12番12号にある。昭和46年9月23日開設。


■外記屋敷と経塚

 西尾久3丁目13番1号、尾久八幡中学校の辺りに、石橋を1人で担いだ(新編江戸志)といわれ
る怪力の鈴木外記(げき)の屋敷があった。八幡神社所蔵の『上尾久村村絵図』に、荒川沿いに「■
記屋敷」と記されている。『新編武蔵風土記稿』には、寛永年間にこの外記屋敷に鈴木外記という怪
力の男が住んでいたことが書かれており、江戸橋という石橋の桁石を一人で担いできたという土地の
古老の言い伝えも残されており、余程の力持ちだったようだ。江戸橋がどの川に架かる橋かは不明。
 『新編江戸志』には、

   又此辺を外記やしきといへるは、寛永のころ此所に鈴木外記といふものあり。ある時馬を
   川の主にとられ、やすからずおもひ、この馬とりし川辺に至り見るに、何かは知らず、川
   中より外記が裾をとつて水中に引きて入、ひかれて行くに、よく見れば大亀なり。ふかき
   淵に数百の小泥亀ある所へ行を、外記かの大亀の首に縄をゆひ付、水中をおよぎ、陸へ上
   がりしかしかのことをいへは、所のもの弐拾人打より此泥亀を引上げつるに打殺し、皆々
   此肉を喰ひし上その泥亀の甲をば浅草の薬種谷(へ)送りたるに、米一石五斗を入けると
   ぞ。此泥亀を食せしものはみな熱病をなやみ、死しもの多し。外記もついに子供は絶へけ
   るなり。此榎の辺を外記屋しきと今にいふとぞ

 と、この鈴木外記が大亀を捉えた伝説を掲載している。
 


■尾久八幡中学校
 西尾久3丁目14番1号にある区立校。旧校舎が13番1号にあったが、新校舎が区營運動場に建
てられたので住所表記を変更した、昭和38年13番1号(当時尾久町8丁目1306番地)の旧制
第一高等学校短艇部跡に開校。平成15年創立40周年。同25年新校舎落成。住所表記変更。創立
50周年記念式典。

 校歌
「光」 作詞・勝承夫  作曲・平井康三郎
  1.光 光 満ち渡る
    清かな朝の喜びを
    映す荒川 吾等の友よ
    弛みなく 進みゆく
    若人の 寄る処
    尾久八幡は 幸ある学び舎
  2.翼 翼 寄せ合って
    平和の鳩も和やかに
    巣立つこの窓 心の故郷
    友情の 花開き
    純情の 夢実る
    自立の英気 漲る喜び
  3.力 力 溌剌と
    明治を語る川風も
    意気に燃えたつ 吾等の庭よ
    この腕に この胸に
    栄光を受け継いで
    尾久八幡の 学び舎 輝く
 


■馬場子育稲荷大明神 ◇

 西尾久3丁目14番8号にある小祠。
 


■水神祠
 ✓
 西尾久3丁目14番の土手っぷちにある小祠。水難水害から逃れられるように祀った。
  


金亀山宝蔵院地正寺

 西尾久3丁目16番19号にある新義真言宗の寺。寛永十年(1633)に奝賢(ちょうけん)に
より創建。左が墓地、右が庫裏、それを通り過ぎて右に本堂、規模の大きな立派な本堂。屋根の金の
シャチホコらしきもの、これを「鴟尾(しび)」というが立派。東大寺の大仏殿のが有名だ。これが
天守閣の鯱に変化する。明治の初期まで閻魔堂があったが、火災で失った。阿弥陀三尊の板碑や、元
禄四年(1692)の願文が納められている木造不動明王を所蔵している。

 不動明王板碑
 境内にある不動明王を描いた石碑。

 阿弥陀三尊板碑

   阿弥陀三尊板碑(寳蔵院)
   寳蔵院は、金亀山地正寺と号する。開山は寛永十年(1633)に没した奝賢、明治の初
   期まで閻魔堂があったが、火災で失った。所蔵する板碑は、下部が欠けていて、年未詳で
   あるが、阿弥陀三尊の種子と天蓋・瓔珞が施されている。そのほか、元禄四年の願文が納
   められている木造不動明王、近世の山水画などを所蔵する。境内には、奝賢を供養するた
   めに造られて寛永十年銘の宝篋印塔、一石で造られた一石五輪塔などがある。また、地蔵
   山墓地(西尾久2-25)の同院管理墓地内には、万治元年(1658)銘ほか、4基の
   庚申塔が立っている。                      荒川区教育委員会
 


■小台の渡し

 西尾久3丁目26番の川岸にあった。昭和55年頃の説明板は以下の通り。隅田川の渡しと橋につ
いては、「北区」の巻末に詳細をしるしてある。

   
これより西へ 約60m
   
小台の渡し
   この渡しは、尾久の渡し、小田井の渡しとも呼ばれ、西新井大師、六阿弥陀詣りのため、
   重要な渡しであった。                      荒川区教育委員会
 


■空を見る少女像 ◇

 西尾久3丁目26番、小台橋南西の橋詰にある銅像。掛井五郎の作品。半ば仰向けに横たわるよう
な、そう、腹筋体操で起き上がるような姿で空を見上げる少女は、何を想っているのかね? その表
情は、モディリアーニの描く女性像にも似た、とらえどころのないまなざしを揺らめかせて魅力的。
この像の周囲は、自転車を止めて中学生が缶コーヒーを飲んだり、散歩中の男性が一服したりと、憩
いの場所になっている。
 


■聖橋中学校・高等学校 
廃校

 西尾久4丁目6番、西尾久四丁目公園・都営西尾久4丁目アパート4号棟のところにあった。
明治
36年東京市浅草区森下町に「東京商工学校」創立。同43年「東京高等商工学校」と改称。大正1
1年東京市神田区駿河台3丁目2番地に移転。昭和13年商業科を廃し、3年制の高等工科を設置し
「聖橋高等工学校」と改称。同19年財団法人聖橋学園設立。同22年戦勝国アメリカの強制による
学制改革により「聖橋中学校」となる。同23年新学制により「聖橋高等学校(普通科・機械科)」
創立。同26年学校法人聖橋学園に組織変更。9月尾久町5丁目871番地の新校舎に移転。同27
年定時制に商業科併設。同36年埼玉県大里郡岡部町普済寺1690番地に「聖橋学園埼玉工業高等
学校(機械科)」を開校。同37年「聖橋学園埼玉工業高等学校」閉校。跡地に「聖橋工業高等専門
学校」開設。同46年「聖橋中学校・聖橋高等学校(全日制・定時制)」閉校。

 この学校法人は現在「埼玉工業大学」「埼玉工業大学専門学校」を運営している。
 


■西尾久四丁目公園

 西尾久4丁目6番3号、明治通り沿いに位置し、西尾久みどり保育園の裏にある区立公園。昭和5
4年7月15日開園。螺旋状の滑り台があるカラフルな複合遊具やブランコがある。


■西尾久みどりひろば館

 西尾久4丁目6番4号にある区の施設。


■西尾久四丁目南児童遊園

 西尾久4丁目11番1号にある区立公園。昭和58年10月11日開園。すべり台やブランコ、ス
プリング遊具、砂場がある。トイレ無し。


■西尾久四丁目北公園

 西尾久4丁目12番6号にある区立公園。昭和56年4月1日開園。田端スカイハイツの西側、南
側の2ヶ所に分かれている。カラフルな遊具と長短のブランコ、砂場がある。


■西尾久四丁目児童遊園(おさかな公園)

 西尾久4丁目17番9号にある区立公園。昭和46年4月1日開園。滑り台や絵合わせボードで遊
べる複合遊具があり、これが魚の形をしているのに因んで「おさかな公園」と呼ばれている。オート
バイや飛行機のバネ式遊具もあり、小さい子どもも楽しんで遊ぶことができ。


■幼児投げ捨て殺人事件

 西尾久4丁目25番10号日神パレステージ田端の13階自宅ベランダから我が子(5歳)を地上
に投下して殺した事件。平成27年5月12日、昨年12月29日深夜長男光希が転落して死亡した
事故で、警視庁は長男を自宅の窓から落として殺害したとして母親加藤愛(35歳)を再逮捕した。
加藤は光希が死亡する1週間前に、区内のホテルで光希の首を絞めて殺害しようとしたとして殺人未
遂の疑いで逮捕・起訴されていた。その後の警視庁の取り調べに対し、加藤容疑者は「もうウソはつ
けない。反省しようという気持ちが芽生えた」と、殺害について関与を認めた。加藤は「育てていく
自信がなくなった」と供述しているという。


■後田尋常小学校(後田国民学校)跡

 西尾久4丁目30番28号の荒川七中のところに、昭和5年から同20年まであった。
 


■第七中学校
(荒川七中)
 西尾久4丁目30番28号にある区立校。昭和22年5月3日大門小学校に開校。東南隅の13教
室を借りて授業を開始。6月19日正式に「東京都荒川区立荒川第七中学校」と校名決定。同23年
3月第1回卒業式。同24年赤土小学校内に分教場開設。同25年後田小学校跡地に新校舎起工式。
同26年4月木造2階建て独立校舎13教室他落成、移転。9月校歌制定。

 校歌
「朝に富岳を」 作詞・サトウ・ハチロー  作曲・足羽章
  1.朝に富岳を眺めて語り
    夕に筑波を望みて誓う
    集いて学ぶは若人われ等
    青雲棚引き大志は燃える
    おお わが母校 おお わが母校
    荒川第七中学校
  2.互いに敬い励まし合いて
    体を鍛えて他日に備う
    瞳に輝く若さと希望
    等しく愛する真理と正義
    おお わが母校 おお わが母校
    荒川第七中学校
  3.尊き師の恩 父母の恩
    忍びて溢るる涙は清し
    礼節徳義を身につけ守り
    正しく進めば日毎に愉し
    おお わが母校 おお わが母校
    荒川第七中学校
  4.青空仰ぎて荒川河畔
    唄うはそも何 母校の讃歌
    悠々流れる川面に弾ずみ
    微風に打ち乗り四方に響く
    おお わが母校 おお わが母校
    荒川第七中学校


 同28年1月第1期校舎増築3教室。4月荒川第九中学校を分校。同30年第2期校舎増築4教室。
同32年独立図書館落成。同34年体育館完成。同36年第1期鉄筋コンクリート造り4階建て校舎
12教室落成。同38年尾久八幡中学校を分校。同39年ミルク給食室完成してミルク給食実施。同
40年校庭舗装。同44年完全給食実施。同45年4月30日第2期鉄筋コンクリート造り4階建て
校舎12教室落成。6月後田小時代からのプール解体。7月新しいプール完成。同47年木造校舎完
全撤去。同48年3月創立25周年記念式典。11月完成校舎落成式。平成9年創立50周年。


■錦州餃子「華味」
 西尾久5丁目2番1号、小台通り商店街にある。遼寧省錦州は、北京の東北に位置する歴史のある
町で、南は遼東湾に面している。料理は北京料理で、家庭では日常的に餃子をよく食べるそうだ。錦
州餃子という名前は、店主小川玉恵が錦州出身なので記念に名付けたもので、料理名とは異なる。残
留孤児の夫が埼玉県で肉親が見つかったのを機に、平成元年娘夫婦の4人で日本に移住し、最初はあ
らかわ遊園の傍に住んだ。帰国後言葉も通じない中で苦労を重ね、あるとき友人を招いて開いたホー
ムパーティの家庭料理を褒められ、店を開くように奨められて、平成11年ついに決心して現在地に
開店した。餃子をメインにした中国家庭料理で、客は常連ばかり、至って評判がいい。テレビで紹介
されたのが人気の秘密とか。


■条里の遺跡の碑 ◇

 西尾久5丁目3番1号、都電荒川線小台停留所から旧小台通りを南下すると、奈良時代の条里制史
跡の標示石柱が、路傍、民家の壁際に建っている。説明板がなかったら全く判らない。明治末年ころ
人文地理学者小田内通敏が東京府による史跡調査を担当した折、尾久西小学校付近一帯に、班田制に
よる条里の遺跡と思われる水田区画が残っていたといわれ、その保存法を進言して標示石を立てたと
いう。しかし結果としては、町も、区も、府も対策を講じることなく宅地への転換を許し、あたら古
代遺跡を失ってしまった。

  、条里の遺跡
   大化元年(645)以後行われた耕地(区画)整理を条里制とよび、主として平野盆地な
   どの平地に見られる。条里があったことで、奈良時代には既にこの辺りが平地であったこ
   とがわかる。
   「条里南道」の碑は、明治20年頃に小田内通敏が東京府史蹟調査の折に、その保存法を
   進言して標示されたものである。当時下尾久村や町屋にもこの田園区画が残っていたとい
   われる。                            荒川区教育委員会
  

   
条里南道の碑
  「条里南道」と記されたこの碑は、明治20年(1887)ころ、人文地理学者の小田内
   通敏が東京府史跡調査を行った際に、このあたりに残っていた条里制の遺構の保存を進言
   して建てられた。
    条里制とは、古代の耕地の区画制度であり、基盤の目のような整然とした地割りが行わ
   れた。このように区画された耕地は、7世紀末ごろ制定されたという班田収授の法に基づ
   き、農民に口分田として分け与えられた。かつて荒川流域には多くの条里制の遺構があっ
   たが、現在では上・中流域にわずかにみられるのみである。     荒川区教育委員会
 


■西尾久五丁目児童遊園

 西尾久5丁目5番11号にある区立公園。昭和46年4月1日開園。園内貮複合遊具やブランコ、
砂場があり、明るく綺麗。園内に、豚と亀の形をしたベンチがあることから「ぶたかめ公園」と呼ば
れ親しまれている。複合遊具は、子どもの年齢に応じた遊び方を楽しめる。


■小台渡停留所 → 小台(三ノ輪橋行きホーム)

 西尾久5丁目8番にある都電荒川線の停留所。大正2丁目4月1日「小台渡停留所」として開業し
た。隅田川の渡船「小台の渡し」の船着場の道に面して設けられた。昭和7年にこの辺りが東京市に
組み込まれると、翌年に小台橋が架設され、渡船は次第に必要度が薄れ、何時しか廃止となった。そ
れで同15年頃に「渡」の字が外された。この経緯を知らないと、足立区の地名を荒川区にある駅が
名乗っているのか理解に苦しむだろう。
 


■京願寺

 西尾久5丁目26番17号にある浄土真宗本願寺派の寺。分譲住宅様の建物で、表札には「頓所」
とあるが、辞書には「屯所」はあっても「頓所」はない。説教所か祈祷所のようなところか。それとも
名字なのか?
  


■尾久西小学校

 西尾久5丁目27番12号にある区立校。大正12年4月「東京府北豊島郡尾久西尋常小学校」と
して開校。尾久本校の一部を借り授業開始。13学級785名。職員10名。同5月現在地に校舎落
成。木造2階建て11教室。昭和5年後田小学校分校。同7年東京市に編入され「東京府東京市尾久
西尋常小学校」と改称。同16年勅令148号国民学校令により「東京府東京市尾久西国民学校」と
改称。同18年都制施行により「東京都尾久西国民学校」と改称。同19年学童疎開のため約600
名が福島県小野新町・滝根村へ。同20年アメリカ軍の無差別空爆
により全校舎焼失。卒業生台帳も
焼失し、この年度から新た台帳を起こす。戦後、疎開児童の第1回引き揚げ。大門小学校の校舎を一
部借用し授業開始。同21年新校舎8教室落成。大門小学校より戻る。この日を現在の開校記念日と
する。同22年アメリカ軍の強制による学校教育法施行により「東京都荒川区立尾久西小学校」に改
称。同25年尾久第六小学校を分校。同33年校歌制定。

 校歌「四方にひろがる」 尾久西小学校 詞選  作曲・貴島清彦
  1.四方に広がる大海に
    流れて止まぬ荒川の
    豊けき姿 尾久西に
    正しく仲よく励み行く
    我等の前に道のあり
    世界に続く道のあり
  2.筑波下しの風清く 
    楽しく集う学び舎に
    誠の道を求めつつ
    進む我等に望みあり 
    文化の光 照り映えて 
    理想に燃ゆる 尾久西校

 同34年小台橋小学校を分校。平成15年小台橋小学校を吸収併合。創立80周年。同17年校庭全
面芝生化。


■西尾久五三丁目グリーンスポット

 西尾久5丁目27番12にある区立小公園。


■荒川遊園地前(早稲田行きホーム)

 西尾久5丁目28番にある都電荒川線の停留所。大正2年4月1日開業。都電になって「尾久六丁
目停留所」に改称したが、また旧称に戻って現在に至っている。
 


■尾久教会

 西尾久6丁目2番7号にある法華宗本門流の道場。看板に「尾久教会鬼子母神」とあるだけで、他
の文字は見当たらない。民家のような、寺のような・・・
 


■天善教東京大教会

 尾久西6丁目4番にある。栃木県日光市小来川に神社があるが詳細不明。


■荒川遊園発着場

 尾久西6丁目9番7号先にある東京水辺ラインの発着場。特定の月に1~2回程度、水・木曜日に
水上バスが運航している。なお水上バスは、天候等により欠航する。運航コース及び発着時間等につ
いては、東京都公園協会にお問い合わせること。03‐5608‐8869
 


■西尾久六丁目グリーンスポット

 西尾久6丁目10番21号にある区立小公園。


仏立山本華寺
 西尾久6丁目14番15号にある本門仏立宗の寺。詳細不明。


■川の手ウィスキー「都電エクセレンス」

 西尾久6丁目30番7号にある寺島酒店(寺島薬品)の逸品。都電沿線の緑化推進として、区が昭
和61年から7年かけて植栽した17000本ものバラの中を快走する都電8500形をデザインし
たボトルに澄みきった空気と清涼な水の高原でじっくりと熟成されたウィスキーの逸品を詰めた、平
成5年3月発売より愛され続けている商品だ。香りと口に含んだ時の円やかさは筆舌に尽くし難く、
ロックでも、水割りでも香味の足腰が強く、バランスが崩れない。 03-3893-4082


■延命子育地蔵堂 ◇

 尾久西6丁目32番4号にある。3丁目8番7号にあったものを移設したものか?・・・
 寛文九年(1669)・宝永二年(1705)銘の日待供養碑2基をはじめ、寛永二十年(164
3)銘の地蔵菩薩と他に地蔵尊2基がある。日待供養塔は庚申塔。1基は、中央に「奉供養庚申□中
諸願成就攸」、右に「宝永七庚寅歳□月吉日」、左に「武州豊嶋郡上尾久村講中」、もう1基は、
央に「奉庚申供養待」「二世安楽所」、右に「享保六辛丑年」(1721)、左に「□ □月四□」
と刻む。1番左の気味の悪い地蔵尊は、稚児像に地蔵の首を挿げ替えたので違和感があり、気味悪く

感じられるのだろう。首の向きも少しずれている。石の五重塔や石碑などが狭い空間に詰め込まれて
いる。都市化、宅地化で邪魔にされたそこら中の石造物を掻き集めたんだろうね。

   日待供養塔二基と延命子育地蔵地蔵尊
   ここには寛文九年・宝永二年銘の日待供養碑2基(区登録有形民俗文化財)を始め、寛永
   二十年銘の地蔵菩薩や庚申塔等、江戸時代に建てられたいくつかの石造物がある。中でも
   日待供養塔は、江戸時代初期のものであり、現在のところ区内ではここ以外確認されてい
   ない。
   日待とは、決められた日に講中が集まって日の出を待ちながら一夜を明かす行事である。
   日待供養塔には上尾久村講中の村人の名前が刻まれており、江戸時代、日待や庚申塔など
   の民間信仰が存在していたことがうかがえる。
   延命子育地蔵は、かつて荒川遊園通りの西側にあったが、戦後、道の向かい側の現在地へ
   移転した。延命・子育にご利益があるといわれ、今も多くの信仰を集めている。毎月2日
   ・12日・22日の「2の日」に縁日があり、毎年7月12日に祭りを行う。
                                   荒川区教育委員会


あらかわ遊園(荒川遊園A地区)

 西尾久6丁目35・36番の隅田川端にある区立公園。四季を通じて花と緑に囲まれた都区内でも
特色のある有料公園で、面積は22581㎡。川側の入口は「東京水辺ライン」の船着場に通じでお
り、小台橋が真近に見える。明治5年石神仲右衛門氏によつて十二天の森と小台の渡しの中間、荒川
の南岸沿いに小規模な煉瓦工場が建設された。この辺りはかつての藤堂和泉守高虎下屋敷跡で「屋敷
山の池田」といわれていた。その後この工場は、鳥井某の手を経た後、明治28年広岡幾次郎に譲渡
され、一時は隆盛を極めたが、のちに出火するに及んで全施設を焼失した。ここにおいて広岡は開通
後間もない王子電車(荒川線)の状況に着目し、当時その王子電気軌道株式会社の社長だった金光庸
夫の援助を得て工場の敷地を遊園地の創設に当てることを画策した。専門家を招いて行われた整地、
施設の築造、建造物の配置、植樹などに払われた献身的な努力と周到な企画は巨額の資本の投入を促
し、大正11年一部設備の完成を待って、広岡個人の経営の下「あらかわ遊園」の誕生をみた。
 民営「あらかわ遊園」誕生当時のあらかわ遊園の案内には、

   東京に最も近き避暑地   山水木石園内貳萬坪完備
   暑さ知らずの仙境     凉味萬斛、風景絶景
   有名なるあら川大瀧あり  安全飛行塔數十臺建設


 とある。『尾久の民俗』(荒川区教育委員会、平成3年)P8~9には、『新興の尾久町』(下谷新
聞北豊島支社、大正12年)より引用して、

   大正十一年には、広岡勘兵衛が船方の煉瓦工場を廃して、荒川遊園を開園した。近くに住
   む石神寅松氏は荒川遊園について「道路境木材塀は全部煉瓦塀にして、南側一帯は土盛し
   て滝も造り、水は井戸を掘った。お宮(稲荷様)の池は広く、貸しボートを浮かべ、水は荒
   川の水を利用した由。開園当日は、地元町会(小橋町会)として役員総出で交通整理その他
   を手伝った。花火も盛んに上げ、園内の滝の前では仕掛け花火を上げた。特別大玉を上げ
   たが、ここでは危険であるため、尾久西校正門西方にある野球場で二尺玉とか三尺玉を打
   ち上げた。


 と記されている。翌年9月の関東大震災における被害も短期で復旧し、逐次拡充された諸施設は行
楽地・避暑地として城北の名園と謳われるに至った。
 しかし広岡歿後、昭和初頭の不景気に遊園の経営も困難を極め、昭和7年遊園の経営一切は王子電
気軌道株式会社の手に委ねられることになった。その後第二次大戦の勃発に際して遊園の施設は放置
され、昭和16年園内に高射砲陣地が設置されるに及んで全くの荒廃地と化した。
 同18年都制実施直後、企業整備によって王子電気軌道株式会社は解消させられ、電気事業は「関東
配電」に、電車事業は「東京都電気局」に夫々吸収され、遊園の敷地は残存施設と共に関東配電株式
会社の所有に帰した。
 終戦後も暫く放置状態にあった遊園は、殆どその設備を失い、僅かに旧大浴場を改修した関東配電
株式会社の寮と旧兵舎の戦災者住宅がみられるに過ぎなかった。この間にあって、同21年遊園の敷
地は、都の都市計画決定に基づき緑地帯建設指定区域にされ、区においても、東京都建設局の指導と
援助の下に児童のための健全な社会環境の育成を目標にした遊園地の再建運動を展開した。かくて同
24年7月、とりあえず東京都関東配電株式会社との間に行われた遊園の敷地に関する貸借契約の締
結を待って、直ちに「児童福祉
法」に基づく同年度工事として着手し、ここに区立児童遊園の設置をみた。さらに同25年3月「建
設省告示第104号」を以て「都市計画荒川公園」として指定を受け、児童の綜合公園として逐次施
設の拡充に努め、同年8月1日に「区立荒川遊園」として開園するに至った。
 以後、同27年つり堀オープン。同32年野外ステージ付き児童館完成。同42年大温室完成。同
61年全面改造工事着手。同62年「魚つりの広場(釣堀)」オープン。平成元年「どうぶつ広場」
「しばふ広場」オープン。同2年「のりもの広場」「レストハウス」オープン。同3年「クラフトハ
ウス」「水あそびの広場」「アリスの広場」などが全面オ-プン。同5年「スポーツハウス」オープ
ン。同6年「地下駐車場」オープン。同12年開園50周年。同15年「都電6000形(一球さん
号)」を常設展示。同年「キッズランド」オープン。同16年「しばふ広場」にふあふあ(2基)オ
ープン。同18年「キッズランド」閉園。しばふ広場にあったふあふあ(2基)を、水あそび広場横
に移転し「ふあふあランド」オープン。
 入園料:大人は200円、小・中学生は100円。※ただし春・夏・冬休み期間を除く平日は無料
だよ。65歳以上は100円。未就学児はいつでも無料。休園は、火曜日(火曜日が祝日の場合は翌
日)、年末年始(12月29日~1月1日)ただし春休み期間、夏休み期間と冬休み期間は無休だよ。
開館は9時~17時(夏休み期間の日曜日とGWの日曜、祝日は雨天を除き18時まで。
 03‐3893‐6003。
 隅田川寄りに「東京水辺ライン」の船の発着場がある。休日のみ運航。

 いこいの広場・スワンの滝・ふれあいハウス(ミニ都電博物館)・ふれあいランド・水あそび広場
・アリスの広場・アリスの広場(水上ステージ)・水辺の広場・キャンディハウス(売店)・のりも
の広場・どうぶつ広場・ふれあい広場・しばふ広場・ポニー乗馬・うおつり広場・ちびっこ広場・ち
びっこ広場売店。

 旅人(I LOVE)
 入口前左手脇にある彫刻。この作品は平成19年東京藝術大学大学院修了作品で、第1回荒川区長
賞を受賞した作品だ。作者は富山出身の平田昌輝で、金沢現代彫刻展出展等北陸地方で活躍中の若手
彫刻家。

   今ははや一夜の夢となりにけり 往き来あまたのかりのやどやど

 長い旅の途中、同じ宿で出会った人たちが、しばらくの間、仲良くしたり時にはけんかをしたり、
時を同じくして過ごす。しかし朝がくれば、銘々の方向に旅立って行く。多くの出会いと別れを繰り
返し、独り旅をしているのが人間なのかもしれない。「袖ふれあうも多生の縁」といいながら、家族
・兄弟・友人となる人は一体どんな因縁があったのか? この『旅人』という作品は、そんな旅人た
ちの像だ。

 笑う少女
 遊園内ふれあいハウスの前にある可愛い彫刻作品。和服姿の幼い女の子のブロンズ像で、題名通り
口に手を当て、嬉しくて仕方ないような満面の笑みの愛くるしさだ。作者は、長崎の平和祈念像や国
会議事堂内の板垣退助翁像で知られる日本彫刻界の重鎮北村西望。重厚な作調で知られるが、このよ
うに温かみのある作品も残したんだねぇ。大正15年設置。上智厚生館保育園に同じ「笑う少女」と
いう銅像があるが、少しだけ違う。西望の作品は、区役所前の荒川公園に「夢」の像がある。おいら
「不動明王坐像」を持ってる。

 ヨウルブッキの旅
 遊園内ふれあいハウスの近くにある橇(そり)の彫刻作品。この作品は平成22年に東京藝術大学
を卒業した飯田麻里作の、第5回荒川区長賞を授賞した作品だ。Joulupukki(ヨウルプッ
キ)とはデンマーク語でサンタクロースのこと。クリスマスにはこの橇に乗って世界中の子供たちに
プレゼントを届けて回るんだ。

 一球さん
 都電車両6000形6152の愛称。一度は引退し応急車として車庫で控えていたが、塗色も60
00形登場期のものを復元してイベント車両として復活した。6000形唯一の都電現役車両として
愛されたが、京福電車の事故による旧構造車両の運行停止に伴い、平成13年12月引退。その後荒
川区が入札し獲得。同15年3月近隣のあらかわ遊園に保存されることになった。「一球さん」とい
う愛称は、照明が1基の設置であることに由来する。昭和24年7

 荒川線のワンマン化に伴い、残存する本形式は大半が廃車となったが、唯一6152のみが応急車
として残された。この際台車が初期型のD‐10から廃車になった車両のD‐16に振り返られたと
される。当初は車内には工具などが置かれており、営業運転は行っていなかった。その後、6152
は昭和62年に外部塗色を昭和20年代後半当時の深緑とクリーム色に似せた「金太郎塗り」に塗り
変えた上でイベント車両として復活。好評を博し、翌同63年には車体更新が行われた。
 平成5年3月6日に臨時検査が行われることとなり、一時運転が休止された。その頃の同車は所々
で塗装が欠落し、黄色い下地が散見していた。同月20日検査を終えた同車は再び営業運転に復帰。
この時に車体の修理・再塗装が行われ、塗色を従来の濃緑から黄緑に近い淡い緑に変更、室内灯も直
管蛍光灯から輪形蛍光灯・カバー付きとなった。
 同6年頃から車体側面の車体番号の前に東京都のシンボルマークである銀杏マークが入れられた。
同年3月には電車無線が取り付けられ、扉脇に「93」という識別番号が記入(由来は「一球さん」
の「きゅうさん」)されるなど、時代の流れに合わせて少しずつその姿を変えていった。
 前照灯が1ヶ所であることから「一球さん」と呼ばれ、長く親しまれて運用されていたが、京福電
気鉄道(えちぜん鉄道)越前本線列車衝突事故後、ブレーキ系統が1系統しかないことが問題となっ
た。また改修する場合、その費用に3000万円を要するとの試算が発表された。しかし財政難の東
京都にはその費用負担ができないため、惜しまれつつ平成12年12月に休車となり、翌年12月に
廃車となった。廃車後、保存を求める声が多数寄せられたため、解体処分は行われなかった。しかし
同車を荒川車庫構内で静態保存する場合、改修費を含めて5000万円を要するということが明らか
になり、荒川車庫内での保存を断念(荒川車庫内での保存は平成20年6月の6086号まで待つこ
とになる)。その後、譲渡先をインターネットで公募し、複数の候補の中から選ばれたあらかわ遊園
に静態保存されることになったという次第。その後荒廃が進んだため、同19年に大規模な整備が行
われた。その際、車番表示の書体が若干異なるものに変わっている。東京都交通局は、本形式に代わ
るイベント車両として9000形を新造し、同年5月27日から荒川線で営業運転を開始した。


 
ドリーム号
 都電車輌7500形に似せたあらかわ遊園の附帯バス。平成3年4月27日新装なったあらかわ遊
園オープニングで「ミニ都電」としてお披露目。同年5月8日「ドリーム号」として運行開始。外装
内装とも本物に似せた20人乗りのマイクロバスだ。区内の団体送迎や日祝の日暮里・南千住駅連絡
バスとして、その他、遊覧・イベント用として無料運行してる。

 東京配電
 大戦中の企業整備で、明治16年創業の「東京電燈」など幾つかの配電事業社が統合されて誕生し
た会社で、王子電気軌道もこの流れの中に飲み込まれていったことになる。そしてこの関東配電こそ、
何を隠そう、昭和26年5月1日に発足した「東京電力株式会社」の前身なのだ。

 
●ジェットコースター緊急停止
 平成30年3月23日午後2時5分頃、「ジェットコースターが止まり、乗客が取り残されてる」
との110番通報があった。駆け付けた消防隊員が梯子を使い、約1時間20分後に、駆け付けた消
防隊員が、3~15歳の子供を含む乗客19人を救助した。先頭車両の後輪が脱輪しており、警視庁
尾久署が状況を調べている。乗っていた乗客に怪我人はいなかった。
 同園によると、ファミリーコースターは最高時速13.7kmで、「日本で一番遅いジェットコース
ター」だ。同日朝の点検で異常はなかったといい、24日は臨時休園して遊具の総点検を行う。三男
(6歳)と乗っていた墨田区の主婦(43歳)は「緩やかに走っていたので、止まったことに気づか
なかった」と話していた。



■煉瓦工場跡

 昭和30年代まで、あらかわ遊園付近に広岡煉瓦工場、旭電化近辺に戸田煉瓦工場と山本煉瓦工場、
華蔵院の付近に鈴木煉瓦工場と、四つの煉瓦工場があった。


■荒川遊園地前(三ノ輪橋行きホーム)

 西尾久7丁目無番地にある都電荒川線の停留所。大正2年4月1日王子電気軌道の停留所として開
業。都電になって「尾久六丁目停留所」と改称。その後旧称に戻った。
 


■西尾久七丁目児童遊園

 西尾久7丁目16番9号にある区立公園。昭和52年4月1日開園。


■あらかわ遊園運動場(荒川遊園C地区)

 西尾久8丁目1番1号にある区のスポーツ施設。少年野球場、サッカー場など多目的広場。管理事
務所はスポーツハウスにある。

 「聖なるもののリピド~空へ」
 荒川遊園前駅傍の公園入口と荒川遊園前交番の間にある本田貴侶作のブロンズ彫刻。逆立ちした女
性の恍惚とした表情に心惹かれる。昭和57年設置。

 「母と子供たち」
 あらかわ遊園運動場前にある平井一雄作の黒花崗岩彫刻。子供2人を抱いた女性が毅然と座ってい
る作品。

 「風の軌跡
 あらかわ遊園運動場前にある、日の光にキラキラ輝く大きな作品。風に動く大きなモビールは、飛
行機のようにも風車のようにも形を変えて目が離せない楽しさ。ジュラルミンとステンレススティー
ルを駆使する大隅秀雄の作品。

   あらかわの史跡・文化財
   
煉瓦工場と荒川遊園
   明治・大正期、荒川(現隅田川)沿いにはいくつもの煉瓦工場があった。土が煉瓦の製造
   に適していたことと、船運が期待されてのことである。
   旭電化跡地(東尾久七丁目)付近にあった戸田・山本煉瓦工場、華蔵院(東尾久八丁目)
   付近にあった鈴木煉瓦工場などである。なかでも古いのが、明治5年に石神仲衛門氏が設
   立した煉瓦工場だという。後の広岡煉瓦工場である。
   その跡地にできた「あらかわ遊園」は、大正11年に開園した都内でも古い民営遊園地で、
   大小の滝・築山・池・観月橋・総檜展望台などを備え、たいへんな賑わいをみせた。太平
   洋戦争中は高射砲の陣地となり一時閉鎖されたが、昭和25年、区立荒川遊園として生ま
   れ変わった。                          荒川区教育委員会


■あらかわ遊園スポーツハウス
荒川遊園C地区
 西尾久8丁目3番1号にある区のスポーツ施設。平成5年7月24日オープン。ドーム開閉式屋根
のある25m×15m公認プールや15m×5m子供プールはともに温水。その他、アリーナやトレ
ーニングルームを備えている。

 「夢色の風」
 スポーツハウス前にある、風を身にまとったかのような、凛とした眼差しの女性座像。端正な女性
美を追求する津野充聡氏ブロンズ彫刻。平成7年制作。


■あらかわ遊園キッズランド(荒川遊園B地区) → 上尾久公園

 西尾久8丁目10番にある区の施設。夏は子供用プール、秋から春は遊具を設置してキッズランド
として開放している。区のホームページには「上尾久公園」という文言はでてくるが、区の公園一覧
には見当たらない。

 「三級天使の日曜日」
 明るい色とジクソーパズルのようなユニークな形の5つの作品。山本信の連作。子供たちに大人気
の作品群はFRP(ガラス繊維強化プラスチック)製。一級に上がらないと天使の輪と羽は貰えない
のか? 昭和60年設置。

 「Kissing Fish」
 遊園前の小さな公園の入口近くに、ぽってりと丸くユーモラスな石の魚たちがキスを交わしている
彫刻がある。日本だけでなくヨーロッパでも活動している加藤可奈衛の花崗岩の作品。昭和41年の
制作。

 「ウェザー・ガール」
 公園の真ん中に銀の柱がある。その真下に立って上を見上げてると、ステンレススチールの綺麗な
脚線がわかります。この秀逸なアイデアと遊び心が、作者の関正司の持ち味なのだ。


■西尾久八丁目児童遊園
 西尾久8丁目12番8号、尾久第六小学校のそばにある区立公園。昭和60年12月10日開園。
滑り台が一体となったカラフルな複合遊具は、滑る・登る・渡る・揺れる・回るなど、様々な動きを
楽しめる新感覚のアクション遊具で、とても人気がある。また小さい子も楽しめる砂場もある。


■尾久第六小学校
 西尾久8丁目26番9号にある区立校。昭和26年開校。同32年校歌制定。平成13年創立50
周年。

 校歌
「朝の満潮」 作詞・勝承夫  作曲・平井康三郎
  1.朝の満潮 荒川に
    希望が溢れる 光が寄せる
    元気な吾等は 太陽を
    心に持って伸びる子だ
    見よ 尾久第六に輝く力
  2.サイレン高鳴り 新しい
    文化を生み出す吾等の町よ
    小さい吾等もこの肩に
    日本の明日を担うのだ
    見よ 尾久第六に漲る力
  3.何時も仲良く大空に
    飛び立つ若鶏 平和の鴎
    明るい吾等の 美しい
    校風守る自治の子だ
    見よ 尾久第六に楽しい母校


■都電荒川車庫

 西尾久8丁目33番7号にある、都交通局荒川電車営業所・荒川保守庁舎と荒川線唯一の車庫があ
る。もう都電の車庫はここしか残っていない。

 都電おもいで広場
 車庫前の展示スペース。懐かしい停留場をイメージしたスペースに貴重な都電の旧型車両2両を展
示している。入場は無料。展示車両(PCCカー)の中に、都電が元気に走っていた昭和30年代の
世界観をテーマにした「おもいでジオラマ」と、都電にまつわる様々なものを展示する「おもいでグ
ラフィティーボックス」を設置している。

 5500形(5501号車)
 昭和29年製造。アメリカの最新の技術を導入して作られた車両で、独特の流線型の車体と低騒音
・高加速の高性能を持ち、通称「PCCカー」と呼ばれた。三田車庫に配属され、1系統(品川駅前
~上野駅前)で使用された。

 旧7500形(7505号車)
 昭和37年製造。都電としては珍しい2つ目のライトが特徴。当初は青山車庫、その後、路線の縮
小に伴い荒川車庫に配属された。引退前の数年間は、主に朝ラッシュ時の通学輸送に活躍し、「学園
号」の愛称で親しまれた。


■西尾久ふれあい館

 西尾久8丁目33番31号にある区の施設。区では、乳幼児から高齢者まで、凡る世代の区民が交
流し、自主的な活動ができる地域コミュニティの場として設置している。また、従来の「ひろば館」
も、サークル活動や小規模の会合など、地域の区民の交流の場として利用てせきる。3階のベランダ
で野菜、果物、花を育てている。今年度は、高齢者事業でトウモロコシ、幼児事業でメロンを収穫し
た。また、1階には幼児タイムで制作したカラフルなプランターに花が咲き、メダカや金魚もいる。
どの世代にも「来て良かった」と思って貰える館を目指しているとか。


■荒川車庫前

 西尾久8丁目42番にある都電荒川線の停留所。対面式ホーム。大正2年4月1日王子電気軌道の
「船方車庫前」として開業。都営後現名に改称。


都電荒川線
 三ノ輪橋から早稲田までの間を運行している都営の路面電車の路線。王子電気軌道を東京市都が買
収したもので、東電の生き残り路線だ。道路と併用区間は、明治通り(国道122号線)上を走る飛鳥
山~王子駅前間のほかに数ヶ所あるが、大部分が専用軌道だ。現在は1両編成(単行)のワンマン運転
で運行している。運珍の支払いにはパス共通カードが使用可能であり、車体には「バス共通カード取
扱車」の表示がある。
 なお平成19年3月18日にはICカード「PASMO」が導入され、路線バスはもちろん、連絡可
能な鉄道でも利用できるようになった。ただしパスネットは使えない。
 昭和35年以降のモータリゼーションの発達による路面電車廃止という流れの中で、例外的に27
系統(三ノ輪橋~赤羽)と32系統(荒川車庫前~早稲田)は、ともに路線の大半が元々私鉄(王子
電気軌道)によって建設された路線ということもあって、多くが専用軌道だった。だから江ノ島電鉄
や京成電車のように郊外電車の風潮が元々強かったのだ。また代替バスの運転が難しい。ほぼ並行す
る明治通りは恒常的に渋滞が酷く、バスでは定時運行が困難なのだ。沿線住民・都民からの存続要望
が強かった。結局北本通り上にあった27系統の一部王子駅前~赤羽間(現在この区間には都営バス
王57系統が運行されている)が廃止されただけで生き残った。昭和49年にそれまで別系統として
運行されていた27系統と32系統を統合し「荒川線」と改称した。因みに27系統終点の「赤羽」
とは、現在のJRの赤羽駅ではなく、都道311号線(環八通り)・国道122号線(北本通り)の
「赤羽交差点」付近で、現在の東京メトロ南北線、埼玉高速鉄道線赤羽岩淵駅の地上付近だ。
 三ノ輪の交差点から日光街道を北へ3分程歩くと、レトロな「梅沢写真館」ビルが左手に現れる。
このビルは旧「王子電気軌道」本社ビルといわれ、ビルの中の通路をくぐると、昭和30~40年代
を思い起こさせる商店街の中に、起点の三ノ輪橋電停がある。乗客は主婦や都営交通のシルバーパス
を所持する高齢者層が多く、電車はいわゆる下町の生活感が漂う中を走って行く。右手に水再生セン
ター(下水処理場)が見える。ここは日本初の下水処理場で、処理場の上に造られた人工地盤に荒川
自然公園がある。約5分後、京成本線と東京メトロ千代田線が交差する町屋駅前電停に到着する。平
成時代に入って行われた再開発前は、ホームと一体化した木造の大衆食堂やパチンコ店、売店、写真
店などがある、生活感あふれる気取らない下町の光景が残っていたが、再開発に伴い大きく様変わり
した。町屋駅前からは、川の手沿いの下町の住宅や町工場が密集する地区を走る。15分程走ると、
近在の手軽なスポットである荒川遊園地前を経て、荒川線の中枢荒川電車営業所のある荒川車庫前を
過ぎ、王子駅前停留所に到着する。
 


【西日暮里】(にしにっぽり)1~6丁目                昭和41年3月1日
 新堀村。入堀とも書いた。明治11年「郡区町村編制法」により北豊島郡に復した時に「日暮里」
をあえて「にっぽり」と読ませて新堀村を日暮里村と改めた。同22年「市制町村制」自治が少し
拡大され日暮里村・金杉村の一部と谷中本村が合併して新しい日暮里村となりその大字。大正2年
日暮里町大字日暮里。昭和7年荒川区が成立して日暮里1~9丁目と日暮里渡辺町に分かれる。同
9年日暮里渡辺町を9丁目に編入して戦後に至る。同41年新住居表示により日暮里4~9丁目・
三河島4~6丁目・尾久2丁目の全部または一部をあわせた町域を現行の「西日暮里」とした。
 日暮里の名の起こりとなった見晴らしの良い高台を有する。3~4丁目は西日暮里駅の西側地区
で区で唯一の高所。ここに道灌山と風流な寺々がある。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『荒川区史』など。

 西日暮里の由来
 町名は日暮里の西半を占めることによる。日暮里の由来は次項「日暮里」へ。
 


■真土小学校跡

 西日暮里1丁目5番8号の区施設のところにあった。校舎はそのままで、荒川のぞみの会ボンエル
フ、東京都教職員組合荒川支部、まごころ作業所、荒川第三・第四あさがお作業所が入っている。


 荒川のぞみの会
 知的障害者児を持つ親の会として活動し、知的障害者児及びその家族の福祉増進と親睦を図り、障
害者児に対する理解の念を啓発するなど活動中。


■三河島駅

 西日暮里1丁目6番10号にあるJR常磐線の停車場。常磐線は元々田端が起点だったが、明治3
8年4月1日に現在と同じ日暮里からのルートが開業した。そのとき田端からのルートと日暮里から
のルートの合流点に設けられたのがこの駅だ。田端からのルートも現存しており、貨物列車などが使
用している。そのために昭和37年「三河島事故」が起きた。ホームは高架島式1面2線構造。15
両編成対応の長いホームを持つが、屋根は改札側の半分ほどにしか掛っていない。雨天時にこの駅で
降りる際は、できるだけ水戸寄りの車両に乗ったほうがよい。ホームと改札階を結ぶエレベーターは
未設置。改札口・出口は1ヶ所のみで1階にある。

 三河島駅前再開発
 駅周辺は、駅前にふさわしい土地の有効利用・高度利用が十分に図られておらず、駅前商業地とし
ての活気や賑わいが不足している。また広場等のゆとりある歩行者空間が少なく、幅員の狭い道路が
多い等、防災上の課題も抱えている。これらの課題を解決するため、市街地再開発事業によって、道
路、広場等の整備を行うと共に、商業・業務機能等の都市機能と、都市型居住機能が調和した、魅力
ある複合市街地を形成し、地域の活性化を図る。

 ・北地区
 平成11年1月には「三河島駅周辺地区再開発推進協議会」が発足し、その後、同16年6月には
関係地権者により市街地再開発事業に向けた「三河島駅北地区第一種市街地再開発準備組合」が設立
された。現在は、都市計画決定に向けた事業計画等の検討を行っている。

 ・南地区
 平成15年1月には「まちづくり懇談会」が発足し、その後、同16年2月には、関係地権者によ
り市街地再開発事業に向けた「三河島駅南地区第一種市街地再開発準備組合」が設立された。同20
年6月に都市計画決定、同22年10月には「三河島駅前南地区市街地再開発組合」が設立され、現
在は権利変換計画認可に向けた調整を行っている。
 


■西日暮里一丁目広場

 西日暮里1丁目6番20号にある区立公園。常磐線三河島駅の南側(駅裏)にあり、走る電車を見
ることができる細長い公園。三河島駅の裏は自転車置き場とこの公園しかなく、首都圏の駅とは思え
ないほど静かな場所。その駅裏に沿って緑地、広場、遊具などが点在している。ブランコや砂場、ゲ
ートボール場もあって地域の人に親しまれよく利用されている。

 せせらぎの小路
 せせらぎが流れ、四季を通して地域の憩いの場だ。季節の草花を見ながら、せせらぎのそばをゆっ
くり歩く散歩コースはおすすめ。石碑がある。

   せせらぎの小路
     平成四年四月

 BLACK uniform
 公園にある彫刻作品は浦山一雄のブロンズ像。若い女性がしっかりと両足を踏み締め突っ立ってい
る、少し幼さの残る表情で前を見つめる真摯な眼差しが生命感を持って伝わってくる。少々X脚が気
になるわい。
 


■真土児童遊園

 西日暮里1丁目11番7号にある区立公園。昭和45年4月13日開園。ブランコ、滑り台がある
小さな公園。


■小鳩児童遊園

 西日暮里1丁目17番5号にある区立公園。昭和39年7月1日開園。名前の由来は近くの商店街
「子鳩商店会」が地域で親しまれていることによる。略して「はと公園」とも呼ばれている。園内中
央に滑り台があり、広場や砂場、ブランコ、鉄棒なども設置され、広くて明るい児童遊園だ。


■真土公園

 西日暮里1丁目26番9号。三河島駅の北側にある区立公園。遊具は鉄棒だけだが、広場になって
いるので鬼ごっこやかけっこもおもいっきり走り回って楽しめる。


■メンチカツ 精肉店「きたじま」(株式会社北島商店)

 西日暮里1丁目41番3号にあるオリンピック(アテネ・北京両大会)のゴールドメダリスト北島
康介の実家。西日暮里駅前の通りを宮地ロータリーに向って3分の2ほど行った左手にある。孝行息
子のお蔭で大繁盛。道灌山通り商和会商店街も大盛り上がりだ。メンチカツがヒット商品で、メンチ
カツサンドも売れに売れている。限定販売で恵比寿三越のデパ地下や羽田空港辺りでも販売したそう
だ。
 名物のメンチカツは本人も大好物だ。元々メンチカツは昭和55年頃に製造販売を中止していたが、
平成15年の世界選手権での北島のインタビューで「実家のメンチカツが大好物だといった途端に問
い合わせが殺到したため、嬉しい悲鳴を上げて復活した。アテネ五輪では2冠を獲得した直後の休日
に、この名物メンチカツを買い求める客が殺到。2時間待ちの行列ができ、交通整理のために警察官
が出動する騒ぎとなった。北京五輪で金メダルを獲得した際にも同様の現象が起きており、顧客には
これを買うために遠方から駆けつける人もおり、最大時50人並びで全長20mの行列になるほどの
大反響。しかしこれからは大変だ。日本全国からメンチカツ、メンチカツサンドを買いにやって来る。
おいらの近くのスーパーでも売ってるんで時々買って食べてらぁな。

 
北島康介

 競泳選手。アテネオリンピック並びに北京オリンピックの平泳ぎ100m・200mゴールドメダ
リストで、世界記録保持者。道灌山幼稚園・千駄木小学校・文林中学校・本郷高等学校・本郷高等学
校、日本体育大学体育学部卒業。同大学院中退。東京スイミングセンター(東京SC)、日本コカコ
ーラ所属。身長178cm、体重73kg。血液型B型。中学時代は陸上部に所属したが、2年生の
時に、東京SCのコーチ平井伯昌に才能を見出される。その後日体大に進学、大学4年の時に、日本
学生選手権大会(インカレ)で100・200m平泳ぎで2冠、学生新記録で優勝。大学対抗400
mメドレーリレーでも活躍し5人抜きで日体大を準優勝に導いた。大学院に進んだが、選手活動に専
念するため平成18年に中退した。日本オリンピック委員会が、同17年度からが始めた選手強化キャ
ンペーンのシンボルアスリート制度を用いず、日本コカコーラと所属契約を結ぶことになり、スイミ
ングキャップやレーシングゴーグル、水着にコカコーラのロゴを入れて大会に出場する。クロールも
速く、個人メドレーで日本で5本の指に入るレベルにある。

 チョー気持ちいい
 平成16年8月15日アテネオリンピック男子平泳ぎ100mで金メダル獲得。タイムは1分00
秒08。インタビューで「チョー気持ちいい、鳥肌ものです」とコメント。因みにこの「チョー気持
ちいい」は、この年の新語・流行語大賞の年間大賞にも選ばれた。同日、100m背泳ぎ優勝のアー
ソン・ピアソル(アメリカ)が「北島はスタート時に禁止されているドルフィンキックを行った」と
いちゃもんをつけたが、大きな問題にはならなかった。ピアソルやアメリカ記者団がおこなった「北
島泳法違反」の発言は、ずるいアメリカの北島に対する心理的揺さぶりとみる者も居たが、その後違
反ぎりぎりの泳法をとる選手の有利を防ぐために平成18年のシーズンから「スタートとターン直後
に限りドルフィンキックを1回打つこと」を認めるルール改正への流れとなった


■蛇塚 ◇

 西日暮里1丁目44番4号にある石碑。

   蛇塚
   新堀村字蛇塚と呼ばれたこの地は、江戸時代は新堀村と谷中本村との入会地で、塚は両村
   の境に位置していた。蛇塚という字名は、この塚に由来する。
   文政十一年(1828)成立の江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』には「蛇塚 陸田の
   内にあり」と記されており、昔は田畑の中に祀られていたことが分かる。
   現在の碑は、大正の初めに折田長次郎氏によって再建されたもの。蛇塚の名称を後世に残
   すために建てられたという。「蛇塚弁財天」として祀られている。
                                   荒川区教育委員会


■與楽地蔵尊 ◇

 西日暮里1丁目50番9号ハイツ堀内の西北の角地にある地蔵堂。與は与の旧字。


■豊川稲荷社 ◇

 直ぐ隣のハイツ堀内の敷地内にある。塀の内にあるから屋敷稲荷。


■新交通システム日暮里・舎人線
 荒川区内を通過する平成19年度開業予定の都営新交通システム(実際は平成20年に開業し、日
暮里・舎人ライナーと命名された)。
 
昭和59年11月29日、荒川区長などにより「尾久舎人新線」の導入要望書が運輸大臣に提出さ
れ、導入に向けてスタートした。日暮里駅を起点に、西日暮里駅・赤土小学校・熊野前の各駅(区内
4駅)を通過し、足立区の見沼代親水公園までの全13駅、9.7kmを結ぶ。経営主体は、東京都地
下鉄建設だが、開業後は東京都交通局となった)。
 新交通システムは、「ゆりかもめ」のように、高架専用線を走行する無人コンピュータ制御運転、
ゴムタイヤ使用の、低公害交通機関。当初平成15年開業予定だったが延期に次ぐ延期
で、同20年3月の開業となった。車両は5両編成で定員は約300人、最高速度60km、平均速
度約29kmで、舎人公園にできる車両基地内中央指令所から集中管理し自動運転される。


■西日暮里二丁目北児童遊園

 西日暮里2丁目2番8号にある区立公園。昭和58年4月1日開園。土山があることから「お山公
園」と呼ばれている。お山の斜面は、木の根や滑り止めなどで小さい子は躓き易いので注意が必要。
広場があり、かけっこや鬼ごっこも楽しめまる。園内には、多くの木があって四季折々に楽しめる。
夏場は日陰が多く涼しいが、虫に噛まれるよ。


■佐竹屋敷と渡辺町

 西日暮里2丁目7~22番にあった秋田藩佐竹家の抱え屋敷跡だ。近代に一時期、渡辺町と呼ばれ
た。駅を背に道灌山通りを南西方面へ進むと、右手に開成学園がある。その開成学園の背後に続く道
灌山の西側斜面はかつて名園衆楽園などを有した佐竹藩抱屋敷があったとこだ。しかし明治期以降に
なって、荒れ放題で孟宗竹が生い茂り、佐竹っ原と呼ばれるようになっていた。だ
が大正5年渡辺銀
行の渡辺治右衛門により宅地開発が行われると600のひぐらし公園を有し、上下水道ガス電話
を完備した理想都市「渡辺町」が誕生した。桜並木通りをも擁していた通称渡辺町には、野上弥生子
など多くの文化人が移り住み、大正13年には、関東大震災による校舎焼失をきっかけとして、神田
淡路町より開成学園が移ってきている。その後渡辺町は、昭和2年の金融恐慌の折に、渡辺の手から
離れ、荒川区が誕生した昭和7年正式に「日暮里渡辺町」となったが、同9年には日暮里九丁目に併
合されている。その後その美しい街並みは、アメリカ軍の非人道的無差別空爆により一変してしまっ
ている。

 日暮里駅から西に向かい、開成学園正門を過ぎたところの本館南棟の角を右手に入る道がある。ま
た一つ先の西日暮里四丁目交差点から右手に入る道、さらに次の右手に入る道、これらに挟まれた一
帯は、現在でも比較的整然とした区画を形成している。これが渡辺町の名残り。三本の右手への道の
うち、中央の道筋、つまり西日暮里四丁目交差点から千歳湯までの一方通行は、渡辺町の桜並木のあっ
たところだ。
 


■日暮里ひろば館

 西日暮里2丁目10番9号にある区の施設。


■回天一枝 (大田道灌騎馬疾駆像)
 西日暮里2丁目19番、日暮里駅東口駅前の道灌広場に騎馬銅像がある。橋本活道(かつどう)作
「回天一枝」というそうだ。作者と鈴木俊一都知事とで命名したと伝わる。平成元年12月13日に
ライオンズクラブ国際協会より東京荒川ライオンズクラブ創立25周年を記念して区へ寄贈され、道
灌にゆかりの深い地である日暮里に設置することになった。道灌像は他に東京フォーラム(旧都庁)
と新宿中央公園にある。フォーラムのは狩装束の立像。新宿のは山吹伝説の場面だ。お陰で「山吹の
里」は40ヶ所ほど名乗りを上げているそうだ。

   「回天一枝」                             橋本活道
   道灌の「山吹の一枝」の故事にちなんで、それを契機に文の道に目覚めたという道灌が、
   まさに「回天」の率いて文の道を極めていったことを表現しようと「回天一枝」という作
   品名を、作者の橋本氏と鈴木俊一元都知事がこの太田道灌騎馬像に命名いたしました。
   
-山吹の伝説-
    若き日の太田道灌が狩りの道中で雨に遭い、一件のあばら家に立ち寄り、蓑(みの)を借りよ
    うとしました。しかし少女は無言で山吹の一枝を差し出し、道灌は怒って雨の中を帰りました。
      その後家臣から、少女は「七重八重花は咲けども山吹の実のひとつだになきぞ悲しき」という
    古歌によせて、蓑ひとつない貧しさを山吹に託したのでしょうと聞き、己の無学さを恥じ、歌
    道にも励むようになったといわれています。
                  1989年 荒川ライオンズクラブ25周年記念 寄贈


 『常山紀談』巻之一に、

   太田左衛門大夫持資(道灌)は上杉宣政の長臣なり。鷹狩に出て雨に遭ひ、ある小屋に入
   て蓑をからんといふに、わかき女の何とも物をばいはずして、山吹の花一枝折りて出だし
   ければ、花を求むるにあらずとて怒りて帰りしに、是を聞きし人の、それは、
   七重八重花は咲けども山吹のみのひとつだになきぞ悲しき

   といふ古歌のこころなるべし、といふ。持資おどろきてそれより歌に志をよせけり


 とあるのが最初で、この伝説は史実ではないが、勉学の志を教導するために江戸時代に創り出され
た物語の一つだ。
 ある日狩に出た道灌が俄かの雨に降られ、とある農家に立ち寄って雨具を所望したところ、その家
の娘(老女ともいう)が黙って山吹の花の枝を差し出した。その心を解さぬ道灌が、

   大たわけこれが雨具かやい女(川柳)

 と怒ったか怒らなかったかは定かではないが、びしょ濡れになって帰って行った。
 帰館して家臣の中村重頼にこのことを尋ねると「古歌に掛けて蓑がないということでございましょ
う」との答え。道灌はなおチンプンカンプンだ。重頼は、「後拾遺集」は兼明親王の御歌に、

   七重八重花は咲けども山吹の 実の一つだになきぞ悲しき

 というのがあると以下をエピソードを説明した。
 昔、兼明親王が京都は小倉山に住んでいた時、友人がやってきて暫し歓談していざ帰ろうとすると
生憎の雨、友人が蓑を貸せと所望すると、何を思ったか親王は八重山吹の花一枝を手渡した。友人は
訳も分からず、雨に打たれつつ帰って行った。翌日、友人から手紙が届けられ、「山吹は実がないこ
とを知りました。山吹は『蓑がない』とおっしゃったんですね。浅学を恥じます」とあった。そこで
親王は上記の歌を友人に贈った。重頼は、娘はその謎掛けで山吹の枝を差し出したのだろうと推測し
た。

 ※ 山吹
 この和歌の所為で「山吹は実がならないんだ」と信じている人が多い訳だが、植物なんだから実が
ならない訳がない。山吹は一重のものと八重のものがあり、一重のものにはちゃんと実が付く。但し
固くて食用にはならない。たが八重のものは実が付かない。雄株だからだ。八重山吹や沈丁花を中国
から輸入する時、雌株は花が美しくないので輸入しなかったという。だから八重山吹には実が付かな
いのだ。繁殖は株分けで行う。

   ずぶぬれになって帰ると歌書を買い(川柳)
   雨宿りから両道の武士となり(川柳)


 道灌は己の無学を恥じると共に娘の博学多識を褒め、その地を「山吹の里」と名づけた、その後発
奮して猛勉強し、和歌の達人になったというお粗末だ。
 ありえぬことだが良く出来た創話で、ありそうなところが面白い。若い時の話だろうから帰った城
は江戸城じゃあなさそうだ。すると新宿区内説は弱くなる。実際の道灌は9歳の時から学問所に入っ
て猛烈に勉学に勤しんでいる。かくて名歌、

   急がずば濡れざらましを旅人の後より晴るる野路の村雨

 が生まれる。
 なお大久保の大聖院(新宿6丁目21番)に「紅皿欠皿の碑」がある。『新撰東京名所図会』に以
下の記述。

   応仁の頃、京家の武士、細川山名の合戦のみぎり、忍びて此の国に下り豊島の郡高田村に
   住居す。此の人妻に後れ一人の娘をもてり。しかるに所の者、その頃同所に後家暮らし 
   の女有りし家に世話し入夫とせしに、程なく後妻一女を生む。成人に随ひ姉は生質美しく
   に歌を好み、妹は容姿よろしからざりしかば、近辺の者、その善悪を皿に譬へて、姉を紅
   皿妹を欠皿とあだ名せり。母はこれを聞きて姉を憎み、父に対して種々讒言せしかば、後
   には父も疎みけれど、紅皿は孝心深く父母を恨みずに仕へける。

 この紅皿が、蓑を貸さなかった、否、和歌オタクの娘だ。彼女はその後は江戸城に召されて和歌友
だちになり、道灌の死後大久保に戻って生涯を終えたとも、尼になったともいう。道灌は45歳の時
の入道名で、それ以前は左金吾備中守資長また持資を名乗っていた。左金吾は左衛門太夫の唐名、備
中守の前は左衛門太夫を通り名としていた。


 
和歌の達人となった道灌が京に上ったときのエピソード

 土御門天皇から使者が来て「武蔵野は如何なる所か?」と御下問があり、

   露おかぬ方もありけり夕立の 空より広き武藏野の原

 とお答えした。すると「隅田川の都鳥はどんな鳥か?」とのお尋ね。しかし道灌は隅田川付近で
生まれた訳でも育った訳でもない。都鳥など見たことも聞いたこともなかった。誰が名づけたのか、
東国じゃあユリカモメってんだよお! また在原業平が詠んだ都鳥の歌などつゆ知らなかった。あ
りふれた鳥や虫などそんなに気にしないものだ。答えに窮した挙句、

   年経れど我がまだ知らぬ都鳥 隅田河原に宿はあれども

 と奉答した。またまた使者がやってきた。「東国の風景はどんなであるか?」
 道灌は我が意を得たりと筆を走らせた。

   わが庵は松原遠く海近く富士の高嶺を軒端にぞ見る

 帝は吾妻武者の素朴なお国自慢に頬笑まれたに違いない。御製を下された。

   武藏野は刈萱のみと思ひしにかかる言葉の花も咲くらむ
 

 さて豪放磊落な道灌も文明十八年(1486)夏、敵対する山内上杉氏に欺かれた主君扇谷上杉定
正によって相州糟谷の金山寺にて謀殺される。「当家滅亡」の怒声を残して。その予言通り扇谷上杉
氏は北条氏に滅ぼされ、道灌の子孫は幕末まで大名として残った。


■日暮里駅

 西日暮里2丁目19番にあるJRと京成電鉄、都営新交通の停車場。JRは、明治38年4月1日
の日本鉄道土浦線(常磐線の前身)の日暮里~三河島間開業とともにできた。これ以前、常磐線の起
点は田端駅で、上野発の列車はスイッチバックを強いられるという不便があった。京成電鉄は昭和6
年12月19日日暮里~青砥間の開業によって乗り入れた。昭和8年12月10日上野公園(京成上
野)へ延びるまで京成本線の起点を務めた。待望の都営日暮里・舎人ライナーは平成20年3月31
日に開業した。
 JR・京成合わせて地上島式4面8線構造で、北通路・中央通路・南通路・新南通路の4本の跨線
橋によって結ばれている。そのうち4面全てのホームを結んでいるのは北通路と中央通路のみで、南
通路・新南通路の2本はJRのホームだけを結んでいる。日暮里・舎人ライナーのホームは高架島式
1面2線構造で3階にある。
 JRの改札は北口と南口の2ヶ所で、いずれも橋上にある。北口改札は北側橋上駅舎内にあり、南
口改札は南通路にある。京成の改札は1ヶ所のみ北通路にある。またJRとの連絡改札口が1ヶ所あ
り、直接の乗換が可能になっている。北口駅舎には、東口と西口の2ヶ所の出口がある。日暮里・舎
人ライナーの改札は、ホームに直結する3階と2階の2ヶ所。出口は、東口、JR・京成連絡口、ポ
ートタワー口、ガーデンタワー口、尾久橋通り口の5ヶ所ある。
 都営日暮里・舎人ライナーの開業に伴い、日暮里駅の様相はがらっと変わった。バリアフリー化も
達成され、東口側には「サンマークシティ日暮里」という複合施設もできた。京成の駅は改良工事が
始まっており、平成21年頃には1階が上りホーム・2階が改札・3階が下りホームという構造に生
まれ変わる。下りホームは相対式2面1線構造になり、スカイライナー利用客とその他の客が別々の
ホームを利用することとなる。併せて南口改札も新設される予定だ。

 
エレベーター問題
 ホームと改札階を結ぶエレベーターは未設置だったが、平成19年秋までに北通路の拡幅工事に併
せて設置された。山手線・京浜東北線ホーム行きのエレベーター2基は平成18年秋に稼働開始し、
常磐線ホーム行きのエレベーターも同19年に完成。京成ホームのエレベーターは、同18年8月に
完成している。これまで「日暮里駅にエレベーターもエスカレーターもないのは、成田空港アクセス
でライバル関係にある、京成への乗換をしにくくするためのJRの陰謀だ」などと揶揄されてきたの
だが、エレベーターの設置によってトランクを持った海外渡航客らの不満も払拭されることとなり、
JRの陰謀(?)も雲散霧消したことになる。しかしJRは新宿~成田の特急を走らせたからね。

 ●櫻井孝昌転落轢死
 平成27年12月4日0時30分頃、京浜東北線のホームからメディアプロデューサーの櫻井孝昌
(49歳)が転落、折悪しく電車が入線し、足などを轢かれ、病院に運ばれたが死亡が確認された。
 櫻井は日本のアニメやアイドルグループなどを海外に発信する活動を行っており、多数の著書も出
版されている。目撃者の話などから櫻井は、酒に酔った状態だったとみられ、線路には転落したとみ
られる。
 櫻井は、日本のポップカルチャー研究家。早稲田大学政治経済学部卒。世界各地における日本発の
ポップカルチャー受容について研究している。外務省アニメ文化外交の派遣講師として、世界各国で
日本のアニメやファッション等ポップカルチャーに関する講演を行い、その経験を著書『アニメ文化
外交』『世界カワイイ革命』に纏めた。
  


■紅葉坂橋・もみじばし
 西日暮里2丁目19番と東日暮里5丁目53番の境目に架かる人道跨線橋。台東区の紅葉坂と日暮
里駅東口を繋ぐ利用度の高い歩道橋で、昭和3年頃に架設され、同45年に現在の幅に拡張された。


■下御隠殿橋

 西日暮里2丁目19番・58番の日暮里駅前のにある跨線橋。御殿坂下と東口を繋ぐ。橋の中ほど
には、トレインミュージアムと呼ばれるバルコニーが設置されてる。ここからは、その名の通り、数
多くの列車の通過を見ることができる。JRの新幹線や特急列車を始め京成線など、1日に20種類
約2500本の列車が行き交うくんだよ。これを「トレインミュージアム」という。見物絶好のテラ
スに説明碑がある。

   下御隠殿橋の完成にあたって
   旧下御隠殿橋は、コンクリートと鋼板でできた幅員が6mの橋で、昭和3年に建設されま
   した。その後、昭和39年2月に都市計画決定された東京都市計画道路補助線街路第18
   8号線の一部として、西日暮里2丁目、西日暮里3丁目及び谷中地域とを結ぶ重要な役割
   を果たしてきました。
   しかし、60余年に亘る長い年月と近年の車両交通の増加により、腐食やひび割れが著し
   く、通行の安全性を確保することが困難な状況になってきました。そのため、昭和63年
   2月に橋の幅員を15mとする都市計画変更を行い、損傷した橋を架け替えることになり
   ました。
   架け替えにあたっては、周辺地域の人々をはじめ多くの関係者の叡智を集め、景観と眺望
   に優れた橋として建設しました。それは、日暮里・谷中地区に数多く残る古い神社仏閣や
   文学碑などを中心とした歴史的な風情に配慮すること、新幹線をはじめ、数多くの種類の
   列車が1日2500本も通過する日本有数のこ線橋としての特性を活かすこと、日暮里駅
   は荒川区の玄関口であり品位と格調をもった橋とすること、を基本的な考え方にすえて整
   備しました。
   新しい下御隠殿橋は、和風的なデザインで、バルコニー付きの広い歩道があり、列車ウォッ
   チングができる生きたトレイン・ミュージアムとしてここに蘇りました。
   この橋が街に新たな表情を与え、荒川区の活力ある発展に大きく貢献することをここに祈
   念します。

   【橋の概要】  橋 格  1等橋
           形 式  3径間鋼ラーメン橋
           橋 長  100m
           幅 員  15m
           工 事  平成元年7月~平成7年3月
           示方書  道路橋示方書・同解説(昭55)
                     平成7年4月
                     東京都荒川区


■駄菓子屋横町 
再開発撤去

 西日暮里2丁目24番の辺りにあった「菓子玩具問屋街」。あったというのは、再開発でビル化の
ため、その立退きで業者が店仕舞いしたり、各地に散ってしまったのだ。いま仮店舗で3軒(あさひ
や・大屋商店・村山商店)が営業するが・・・どうなることやら。再開発ビルは平成20年に完成す
るが、どうせテナント料を高くとるだろうから、問屋街が戻ることはないだろう。追っ払うのが目的
であれば・・・
 大屋商店は、西日暮里2丁目25番1号ステーションガーデンタワー203号に、村山商店は、同
じガーデンタワーの1階に戻った。あさひやの消息は判らない。


■日暮里駅前再開発 
平成21年完成

 西日暮里2丁目20、23~25番地の日暮里駅周辺でも再開発がスタート。日暮里駅から西日暮
里駅方面の一画で、新交通システム
日暮里・舎人線(平成17年開業予定が同19年に伸び、結局同
20年3月30日開業)の導入により、新駅設置が計画されているエリアだ。このエリアは、ひぐら
しの里中央地区・北地区・西地区からなる。計画によると遠に完成しているのだが、毎年延期されて
未だに目処が立たない。新交通システムも「つくばエキスブレス」よりは早く開通するはずだったの
だが、同20年やっと何とか開業に漕ぎ着けた。

  ひぐらしの里・西地区
  2丁目20番に建つ高層ビル(25階/B3階・高さ99m予定)。実際は25階/B2階
 ・高さ94mだそうだ。1~3階が商業施設、4~6階が業務施設、7~25階が146戸の
 住宅。内8階~20階の104戸が都市再生機構による賃貸住宅。地下は駐輪場・駐車場等。

 
 
ひぐらしの里・中央地区
  2丁目24・25番煮立つ高層ビル(41階/B3階・高さ165m予定)。実際は40階
 /B2階・高さ約153mとのこと。1~5階が商業施設、6~9階が業務施設、11~40
 階が積水ハウス・旭化成ホームズの340戸の分譲マンション「ステーション・ガーデンタワ
 ー」だ。地下は駐輪場・駐車場等。地下駐車場入口に赤い鉄パイプを曲げて作ったオブジェが
 ある。

  ひぐらしの里・北地区
  2丁目23番に立つ高層ビル(33階/B3階・高さ約135m)。実際は36階/B2階
 ・高さ
140m。1~3階が商業施設、4~7階が業務施設、9~36階が旭化成ホームズ、
 首都圏不燃建築公社の
287戸の分譲住宅。


■ステーションガーデンタワー
 西日暮里2丁目25番1号にある。駅前再開発により建てられた、地上40階建てタワーマンショ
ン。日暮里駅とペストリアンデッキで直結し、交通アクセス良好。1階~5階は「サンマークシティ
日暮里」となっており、買い物環境も良好。ホテルライクな内廊下仕様に、コンシェルジュサービス
では、日常生活のきめ細やかなサポートを行っている。38階のビューラウンジは、街並みが一望で
きる寛ぎのスペース。共用部の電源には太陽光発電や風力発電を利用し、環境にも優しいだけでなく
非常時の電源としても利用される。各階にダストステーションが設けられ、クリーンなスペースを維
持。万全のセキュリティ対策で、暮らしの安全と安心を守り、快適なシティライフを過ごす環境だ。

 荒川都税事務所
 6階・7階に移転してき、同20年5月7日から教務を開始した。

 「昇龍」
 地上ペデストリアンデッキの下に、赤いうねうねっとした鉄パイプが天井に繋がっている。西、中
央、北地区共同開発を記念して作られたモニュメントだ、双つ龍が空に飛び立つ様をイメージしてい
る。平成20年設置。作者不明。


■神社 ◇

 西日暮里2丁目29番3号りそな銀行の裏横にある小祠。


■ひぐらし小学校

 西日暮里2丁目32番5号にある旧第四日暮里小学校跡地にある。昭和63年真土小学校と第四日
暮里小学校の統合決定。平成元年に旧真土小学校に開校。同3年旧第四日暮里小学校跡地に新校舎落
成し移転。同11年創立10周年。

 校歌
「新しい時に生まれて」 作詞・岩戸榮  作曲・泉八汐
    新しい時に生まれて
    新しい時代を作る
    心を繋ぐ学びの窓に
    科学する目 みんなの目
    開こう文化の町 日暮里
          ・
    日暮らしの里といわれた
    美しい昔を思う
    花咲く里に広がる力
    科学する手 みんなの手
    築こう緑の町 日暮里
          ・
    さあ 虹に向かって飛び立とう
    手を繋ぎ世界に 宇宙に
    みんなの誇り ひぐらし小学校

 卒業生吉村昭
 作家吉村昭は、昭和2年5月1日東京府北豊島郡日暮里町大字谷中本(東日暮里6丁目)に生まれ
18歳までを日暮里で生活。東京市立第四日暮里尋常小学校(ひぐらし小学校)、私立東京開成中学
校(開成中学高等学校)を経て、学習院大学に進学、在学中から文学を志す。
 昭和41年「星への旅」が第2回太宰治賞を受賞、同年ベストセラーとなった「戦艦武蔵」は、記
録文学に新しい分野をもたらした作品として高い評価を受けた。純文学的な小説だけでなく、戦史や
歴史を素材とした、緻密な取材と徹底した調査に基づく記録性の高い作品を数多く発表し続け、日本
芸術院賞をはじめとする数々の文学賞を受賞。日本文藝家協会理事、日本近代文学館理事、日本芸術
院第二部長の大役を担うなど、わが国の文学界に多大な功績を残した。
 代表作は「戦艦武蔵」「ポーツマスの旗」「桜田門外ノ変」「彰義隊」など。
 平成18年7月31日79歳で逝去。
 区では、平成4年、吉村氏に対して区民栄誉賞を贈ると共に、吉村作品が広く読み継がれるよう、
日暮里図書館内に吉村昭コーナーを設置し、氏より寄贈された愛用品類、原稿等を展示してきた。
 平成18年1月荒川区から氏に対して、同氏を顕彰し、将来の荒川区民が吉村文学を通してより深
く文学や文化芸術に触れる契機を提供すると共に、荒川区における文化を深めていくことにも寄与す
る文学館を設置したいという希望を申し入れた。これに対して、氏は「区の財政負担にならぬ範囲で
実施すること、できれば図書館のような施設と併設すること」を条件に文学館の設置を承諾し、資料
提供を約束した。区では、文学館の設置に向け検討を重ね、(仮称)荒川二丁目複合施設に吉村昭記
念文学館を設置するよう整備を進めている。同29年春完成予定。


■西日暮里二丁目ひろば館

 西日暮里2丁目32番25号にある区の施設。


■第十中学校
(荒川十中)
 閉校

 西日暮里2丁目36番8号の諏訪台中学校のところにあった区立校。


■諏訪台中学校

 西日暮里2丁目36番8号にある区立校。平成10年荒川第八中学校、荒川第十中学校、日暮里中
学校が統合し開校。平成13年道灌山中学校と第二段統合し現校舎に移転。校歌はあるが未入手。


■西日暮里2丁目区立諏訪台中学校前路上殺人事件
 平成13年8月30日午前5時10分頃、諏訪台中学校グランド南角交差点に於いて男性が殺され
ているのが発見された。被害者24歳男性。
 事件発生後、発生現場から立ち去った人物
 
年齢50歳位の小柄な男 黒っぽい帽子(野球帽様のもの)を被りグレーのジャンパーを着用して
いたという。こういう男を見た、知ってるという人。また現場から急ぎ立ち去った人、自転車、車を
見た人という人、衣服や手に血が付いているのを見た人、その他訝しく思っていることがある人は、
些細なことでもいいから、事件解決の糸口になるかも知れないので、申し訳ねえが、捜査本部に教え
てやってくんない。頼むよ兄貴!  03-3801-0110(内線3321)
 


■鍛冶稲荷神社 ◇

 西日暮里2丁目50番2号にある小社。

   当正一位鍛冶稲荷大明神は、伏見稲荷大明神を主神として江戸時代の初期、実蔵坊(現在
   杉並区高円寺 長善寺)の地内、北豊島郡新掘村大字谷中本字居村上に創建され、のち明
   暦二年(1656)に当地に遷座されたと伝えられています。当時から火伏せの神として
   村人の厚い信仰を集めました。
   近年は家業繁栄・交通安全・学業成就・家内の安全を祈る参拝者が多くなっております。
   ここ谷中本(現在の西日暮里2丁目)は生姜が多く作られていました。以来、谷中は生姜
   の代名詞として有名です。社殿は、昭和20年の空襲で焼失した後、現在地に移り、昭和
   49年5月に改築されました。毎年5月に行われる例祭は、遠く農業を営んでいた先祖か
   ら引継いでいる行事です。
   平成3年11月吉日                          鍛冶稲荷講


■御殿坂

 西日暮里3丁目1番・2番と台東区谷中の境、日暮里駅から西へ、諏方台寺町、夕やけだんだんの
方へ上がっていく坂道。古い標柱があった。

   御殿坂
   西日暮里三丁目と台東区谷中七丁目の境を七面坂から日暮里駅方面へ下る坂。江戸時代か
   ら用いられていた呼称である。当時の絵図などから、天王寺(現谷中墓地)の下を通り芋
   坂下に続いていたいたことがうかがえる。天保九年(1838)刊の「妙めを奇談」は寛
   永(1624~44)の頃、白山御殿(将軍綱吉の御殿)や小菅御殿(将軍御膳所)と同
   様の御殿がこのあたりにあったことにより付いたというが、坂名の由来は明確ではない。
                                   荒川区教育委員会


 新しい標柱の説明は以下の通り。

   御殿坂
   文政十二年(1829)に成立した『御府内備考』には、「感応寺と本行寺の間より根津
   坂本の方へ下る坂なり」とあるが、「根津」の誤写の可能性がある。明治5年『東京府志
   料』には、長さ十五間(約27.3m)×幅二間(約3.6m)とあるが、現在の坂の長さ
   50m以上あり、数値が合致しない。以前は、谷中への上り口に当たる急坂を「御殿坂」
   と呼んだが、日暮里駅やJRの路線ができた際に消滅したため、その名残である坂の上の
   部分をこう呼ぶようになったと考えられる。俗に御隠殿(寛永寺輪王寺宮の隠居所)がこ
   の先にあったからといわれるが、根拠は定かではない
   平成14年3月                          荒川教育委員会


諏方台寺町

月見の寺 
長久山本行寺
 
西日暮里3丁目1番3号にある日蓮宗の寺。開創は大永六年(1526)道灌の孫大和守資高が
明禅院日立を招いて平河口に建立したことに始まるが、慶長十年(1605)神田へ追いやられると、
慶安二年(1649)上野、さらに宝永六年(1709)上野大仏建立のため現在地にと、移転を繰
り返した。江戸時代には遠州掛川藩5万石太田家とその一族の墓所となり、寺宝として、天正十一年
(1583)七月二十九日に羽柴秀吉から太田三楽斎資正に宛てた書状をはじめとして、明治期の3
点を含む計9点の書状類が残されている。またそれに加えて、寛政三年(1791)十月作成の「太
田家霊簿」1冊がある。寺門に掲げる「長久山」の扁額は市川米庵の筆になる。境内は広くないが、
樹木が多く一息つける。墓地にシダレザクラ、ソメイヨシノがある。参道右手に筑波山人の書になる
「道灌丘の碑」、他に「山頭火句碑」「一茶句碑」がある。正面本堂は東洋建築史の大家伊藤忠太博
士の設計で、9間四面の木造銅板葺。墓地には市川寛斎・米庵父子の墓、幕末の大立者永井玄蕃頭尚
志の墓がある。

    日蓮宗長久山本行寺(月見寺)
   本行寺は、大永六年(1526)江戸城内平河口に建立され、江戸時代に神田・谷中を経
   て、宝永六年(1709現在地に移転した。景勝の地であったことから通称「月見寺」と
   も呼ばれていた。20世の日桓上人(俳号一瓢)は多くの俳人たちと交友があり、小林一
   茶はしばしば当寺を訪れ、「青い田の露を肴や独り酒」などの句を詠んでいる。
   儒学者市河寛斎・書家米庵父子や、幕末・維新期に活躍した永井尚志などの墓がある。戦
   国時代に太田道灌が斥侯台を築いたと伝える物見塚があったが、現在は寛延三年(175
   0)建碑の道灌丘碑のみ残る。                  荒川区教育委員会

 道灌丘の碑
 武蔵国を知りつくしていた太田道灌は、眺めがよいという地の利を利用してここに斥候台を築いて
いた。その後も物見塚として残っていたようだが、現在は寛延三年(1750)に建てられたこの碑
が残るのみだ。碑文はもう読めない。古くは赤羽から日暮里にかけてが道灌丘だった。

   道灌丘碑
   太田道灌が斥候台を築いたところを道灌物見塚と呼んでいる。
   塚は境内にあり、わたり二間ばかり、高さ一丈ばかり見事な塚なり(江戸砂子)
   とあるところから当時の模様が想像される。今は道灌丘碑を残すのみとなっている。
   この本行寺は、宝永六年(1709)谷中から移ったもので、景勝の地であったところか
   ら月見寺とも呼ばれていた。                   荒川区教育委員会

 
小林一茶の句碑

 20世住職日桓上人は一瓢の俳号をもつ俳人で、小林一茶らと交遊があった。

   陽炎や道灌どのの物見塚(文化八年一月二十九日)

 山頭火の句碑
 山頭火の句碑は全国に50もの数がありながら、東京には一つもないことを惜しんだのが彼の年来
の知己大山澄太だ。それには経緯がある。日暮里駅から数分のところにある月見寺本行寺は一茶と縁
(ゆかり)があり、昭和61年住職が一茶の句碑を建てようと、一茶研究の大家故萩原井泉水の夫人
に相談したところ、夫人に大山を紹介され、大山に依頼したところ快諾、そのとき大山は、東京に山
頭火の句碑がないことを訴え、費用は持つので一茶の句碑とともに山頭火の句碑を建てさせてほしい
と懇願され、住職が応じたので、その年の11月15日一度に二つの句碑が建った。その日大山は8
8歳で単身上京した。

   
ほっと月がある東京へ来た(山頭火)

 
種田山頭火
 日暮里寺町の本行寺に漂泊の詩人種田山頭火の句碑がある。都内で唯一つだそうだ。山頭火は「さ
んとうか」と読む。「歌の西行、連歌の宗祇、俳句の芭蕉」に詩の山頭火を加えて「四大漂泊詩人」
というとかいわないとか。山頭火は明治15年防府に生まれた。家は大地主で「大種田」といわれた名
家だったが、父親が放蕩者で、山頭火が11歳の時母が自殺、このショックは生涯つきまとったよう
で、死ぬまで位牌を携え、母の冥福を祈り続けた。早稲田大学在学中からすでに五七五の字数にこだ
わらない自律的俳句に心を寄せ、小川未明と並び称されるほどの文才を発揮したが、神経衰弱になっ
て卒業間近で中退してしまった。故郷に帰り、父の薦める結婚をしたが、大正15年種田家は破産、
その後は妻や家族をほったらかしにして酒びたりの放浪遍歴を続ける。
 そんな中に曹洞宗の望月義庵と出会い救われて出家、酒に溺れる暮らしから一転、朝夕六字名号を
唱え、鐘の音に心を打たれる安穏の日々に変わった。

   明け暮れに松風の鐘撞いて
   松はみな枝垂れて南無阿弥陀仏


 しかし定住ができない性分は変わらず、修行を重ねても、流浪への思いは断ち切れず、またまた漂
泊の旅が始まった。その旅は大正15年から8年間、距離にして46400㎞に及んだ。そんな行乞の
日常から、俳句を超えた名句が生まれていった。

   分け入っても分け入っても青い山
   秋風歩いても歩いても
   風の中己を責めつつ歩く
   しぐるるや道はひとすじ
   うしろ姿のしぐれてゆくか

 彼は不思議とどんなに疲れていても日記を書くことだけは怠らなかった。

   こんなにうまい水が音をたてていた
   こころ落ち着けば水の音
   月よ山よ私は旅に病んでいる


 やがて昭和14年死期の近づいたのを感じ、かねて青山の地と定めていた、心の師正岡子規の故郷
松山の終の棲家一草庵に落ち着く。

   落ち着いて死ねそうな草枯るる

  その翌年の秋祭りの句会に出席して、大いに酒に酔ったまま独り静かに世を去った。

 ●市川寛斎・米庵父子の墓
 寛斎は江戸中期の儒学者、漢詩人。寛延二年(1749)上野国甘楽郡南牧村(群馬県甘楽郡下仁
田村)に生まれ、江戸に出て昌平黌に学ぶ。寛政元年(189)江湖詩社を興す。細井良沢・林正良
について修学し、同三年(1791)に越中富山藩前田家の藩校広徳館に招かれ儒臣となり20年余
その職にあった。文政三年(1820)72歳で没した。著書に『上毛志料』『日本詩紀』『全唐詩
逸』などがある。

   都旧跡 市河寛斎墓
   所在 荒川区西日暮里3丁目1番地 本行寺内
   指定 昭和3年8月
   江戸中期の儒学者。漢詩人で富山藩の儒臣。名を世寧、字は子静または嘉祥。号を寛斎、
   年江、江? 、詩庵といい、通称を小左衛門と称した。上野国甘楽郡の人で、父は好?。
   寛斎は若くして学を好み、?を頼って江戸に遊び、林祭酒正良の門に入って修学し、この
   頃から名を知られるようになった。たまたま昌平黌の学員が欠けていたため、  任命さ
   れたが、病のため五年で辞任した。寛政三年(1791)富山藩に招かれ、その儒臣とし
   て二十余年その職にあったが、辞任した後、
 道を養い、小島梅外、柏木如亭、菊地  
   らを輩出、長崎に学び、さらに名を高めたが、文政三年(1820)七月十日、年七十二
   で歿した。著書には、「上毛志料」「日本詩記」「」「北里歌」「」など多い。
   昭和43年3月1日                       東京都教育委員会


 米庵は、江戸後期の書家で名を三亥(みつい)という。父は寛斎。号は小林林堂・金羽山人・百筆
斎・楽斎・顛道人などを用いた。寛政十一年(1799)書塾小林林堂を設けて、書の教授を以て広
く門戸を開いた。米庵は彼の蜀山人が、

   詩は詩仏 書は米庵に 狂歌俺 芸者小万に 料理八百善

 と詠んだ海内きっての名筆家だ。宗の朱元璋の書風を学んで門人5000人に及んだ。と巻菱湖・
貫名海屋と並んで「幕末の三筆」いわれている。安政五年(1858)コレラに罹って死亡した。著
書に『楷行薈編』『書画題跋』『書訣』『筆譜』などがあるよ。

   都旧跡 市河米庵墓
   所在 荒川区西日暮里3丁目1番地 本行寺内
   指定 昭和3年8月
   米庵は江戸後期の著名な書家で、巻菱湖、貫名海星とともに幕末の三筆と称せられた。
   名を三亥といい通称にも用いていた。字は孔陽、号は米庵、小左衛門を称していた。安
   永八己亥(1779)九月亥の日(九月十六日)の亥の刻に生まれ、これに因んで三亥
   と名付けられた。また小山林堂、金羽山人、百筆斎、楽斎、亦顛道人の号もある。米庵
   は特に楷書と、唐・宋・明・清の書風を研究し、隷書を得意とした。都指定文化財郷土
   資料「八丈島西山卜神居記録」は市川米庵の書であることは有名である。かつて加賀侯
   の客臣となったこともあり、安政四年(1857)七月十八日、年八十で歿した。著書
   には「家書訳」
「米庵墨談」「皇國州名歌」「西遊小草」「毛信遊草」などがある。
   昭和43年3月1日 建設                   東京都教育委員会
 

 
永井尚志の墓
 
「なおむね」と読むのが一般的であるが、永井家では「なおゆき」と読むととのこと。三河奥殿藩
の5代目藩主松平主水正乗尹(のりただ)とその側室の間に生まれた。父の乗尹の晩年に生まれた男
子だが、既に家督は養子の松平乗羨に譲られていたことから、藩主にはなれなかった。このため25
歳の頃、旗本永井能登守尚徳の家督を継ぐ。若くして俊秀の聞こえ高く安政年間に長崎で洋式海軍技
術について学び、幕府海軍の要職について長崎に海軍伝習所を設立し、勝海舟、中島三郎助、松岡岩
吉、肥田浜五郎らと日本海軍の基礎を固めた。大目付から若年寄に進み、慶応三年(1867)十月
十四日の将軍慶喜の「大政奉還」は実に坂本竜馬の発想、後藤象二郎の建白、尚志のプロデュースに
よって成功した。慶喜が奉った上奏文を書いたのは尚志自身である。もし大久保利通という悪魔さえ
存在しなかったら、日本はもっと平和で幸せな国家になれただろう。少なくともアメリカの属国には
なってなかったに違いない。維新後は御都合主義の新政府に請われて、大久保政府の能力不足をカバ
ー、明治5年開拓使御用掛、同8年元老院権大書記官となった。同24年76歳で没。

   都旧跡 永井尚志墓
   所在 荒川区西日暮里3丁目1番地
   指定 昭和3年8月
   江戸時代後期の幕府官僚。明治政府の官吏。なおむねとも読まれてきた。介堂と号し、名
   は岩之丞、玄蕃頭と呼ばれた。
   文化十三年(1816)十一月三日三河奥殿藩主大給松平主水正乗尹の子として生まれた。
   江戸に来て25歳の時、旗本永井能登守尚徳の養子となり、嘉永六年(1853)海防掛
   目付に抜擢された。安政二年(1855)我が国最初の海軍士官養成機関となった長崎海
   軍伝習所を統監した。その後初の外国奉行になり、新設の軍艦奉行となったが、安政の大
   獄で処罰された。文久二年(1862)軍艦操練所御用掛として復職した。京都町奉行を
   経て、慶応三年(1868)若年寄格として将軍徳川慶喜を補佐し、大政奉還の上表文を
   起草した。
   明治元年鳥羽伏見の戦いに敗れ、函館に逃れたが、明治5年許されて明治政府の開拓御用
   掛に任ぜられ、左院少議官、元老院権大書記官を歴任した。
   岩瀬忠震・大久保忠寛(一翁)らとともに阿部正弘に登用された幕府官僚の一人である。
   平成6年3月31日                       東京都教育委員会

 斎藤歓之助墓
 幕末の剣客。斎藤弥九郎の3男。神道無念流の剣術家。「鬼歓」の異名をとる。英徳院殿歡道日雄
大居士。兄に2代目斎藤弥九郎(新太郎)がいる。嘉永二年(1849)廻国修行中の兄新太郎が、
長州藩で剣術の稽古を見て、「黄金の鳥籠に雀を飼っているようなものだ」と放言した。これに怒っ
た長州藩士たちが練兵館(斎藤道場)に押し寄せて試合を挑んだ。新太郎は廻国修行中で不在だった
ため歓之助が相手になり、得意の突き一本で藩士たちを次々に突き倒した。中には数日間食べ物を飲
み込めなくなった者もいたという。この縁で、長州藩の桂小五郎・高杉晋作・品川弥次郎らが入門し
江戸詰めの藩士は皆、斎藤道場で剣術を学ぶことになった。
 同年5月肥前大村藩訪れた新太郎が大村藩士と試合をしたが、大村藩士の実力は新太郎に及ばなか
った。これに驚いた大村藩は、藩の剣術を改革するため江戸の玄武館、士学館、練兵館にそれぞれ少
数の藩士を入門させた。この時、練兵館に入門した荘勇雄は後に練兵館の塾頭となった。
 その荘が、藩主大村純熈や実父で家老の江頭官太夫に「神道無念流が実用に適する」と説いたこと
により、嘉永四年歓之助は大村藩に100石で江戸詰の馬廻として召し抱えられた。27000石の
大村藩では上級藩士の子弟出身の馬廻は40~60石程度、家老ですら200~400石程度であり
100石は大村藩としては破格の、さらに破格の待遇だった。
 その後は、大村に移り、剣術稽古を一刀流・新陰流から神道無念流に改める。幕末の大村騒動に巻
き込まれ、維新後東京に戻り、明治31年歿した。24歳から中風を患っていた。生涯、負けを取ら
れなかったが、久留米藩の剣豪松崎浪四郎に胴一本を取られている。


大黒山経王寺
 西日暮里3丁目2番6号にある日蓮宗の寺。身延山久遠寺の末寺。谷中七福神の一つ大黒天がある。
明暦元年(1655)この地の地主冠勝平(新堀村の名主冠権四郎家の祖)が要詮院日慶上人に寺地
を寄進したことに始まる。本堂の隣の大黒堂には日蓮上人の作と伝えられる大黒天が鎮守として祀ら
れている。前庭には、身延山にあった巨桜の分枝の摩尼珠桜(まにすざくら)があったが今はない。
大黒天はその巨桜の一枝で彫られたと伝える。創立の縁起については火災で焼けてしまったため不明
だ。「新編武蔵風土記稿」に、

   経王寺
   法華宗身延久遠寺末。大黒山と号す。開山日慶、明暦四年二月二十三日寂す。開基は名主
   権四郎が先祖、冠権四郎と云者の由、寛文九年正月二十七日死す。本尊三宝。
   大黒堂。日蓮作の像を安置し、三十番神を相殿とす。
   稲荷社。

 とある。区の説明板は以下の通り。

   大黒天 経王寺
   経王寺は日蓮宗の寺院で山郷を大黒山と称す。明暦元年当地の豪農冠勝平(新堀村の名主
   冠権四郎家の祖)が要詮院日慶のために寺地を寄進し、堂宇を建立したことに始まるとい
   う。本堂の隣の大黒堂には日蓮上人の作と伝えられる大黒天が鎮守として祀られており、
   地域の人々の崇敬を広くあつめている。
   慶応四年(1868)の上野戦争のとき敗走した彰義隊士をかくまったため、新政府軍の
   攻撃をうけることとなり、山門には今も銃弾の痕が残っている。   荒川区教育委員会

 山門(付門番所)
 建立年代は不明だが、江戸時代末期には既にあった。門番所は、門番ではあるが、武士は刀を差し
たまま境内に入れない仕来りなので、佩刀を預かる、御刀預かり所でもある。

   山門付門番所
   日蓮宗大黒山経王寺は、山梨県の身延山久遠寺末寺で、明暦元年(1655)の開創です。
   この山門の建立年代は不明ですが、江戸時代末期には既にあったようです。明治初年、旧
   幕府の家臣による彰義隊と新政府軍との上野戦争の際に、逃走した彰義隊戦士の一部が経
   王寺に隠れたために同寺は新政府軍に包囲されてしまいました。この山門には新政府軍が
   発砲した銃弾の痕が残っており、明治維新の動乱を物語っています。
   また、この門は右側に門番所が併置されていて、さらに築地塀に連なっており、木造建築
   の門の一つの型を示す貴重なものです               荒川区教育委員会

 彰義隊分営
 慶応四年(1868)上野戦争のとき谷中天王寺が彰義隊の分営となり、やがて敗色が濃くなった
際に、逃走した隊員を匿った。日暮里の諸寺院は彰義隊に加担したのだが、経王寺もそれ故に新政府
軍の砲撃を浴び、現存する門にはその弾痕が残っている。江戸300年の繁栄を象徴する東叡山寛永
寺の大伽藍はこのとき総て灰燼に帰し、日暮里の寺々にとっても一つの時代の終わりを告げた。

 
藤の花
 
一般にフジといえば藤棚を設けて下がり藤とするのが普通だが、ここでは棚を設けず自然の状態で
盆栽風に仕立てているのが特色だ。必見必見。また東日暮里3丁目37番の井上さん家の大藤はビル
の4階に達する立ち藤だ。これも必見だぁ!
 


法要山啓運寺

 西日暮里3丁目2番14号にある法華宗本門流の寺。元和元年(1615)円住院日立聖人が開山
となり、下谷一丁目に創建、元禄十一年下谷二丁目へ移転し、明治18年当地へ移転した。鉄筋コン
クリート造りの本堂、その左も右も墓。「御府内寺社備考」に、

   上総国長柄郡鷲巣村長国山鷲山寺末、下谷山下、法要山啓運寺、境内拝領地百六十八坪余。
   元和元年起立。但地処之儀は、元下谷一丁目罷在候処、元禄十一年東叡山御用地ニ付所替
   被仰付、同二丁目ニ而代地被下置候。其節拝領地ニ罷成、寺社御奉行松平志摩守様ニ而被
   仰付候。
   開山円住院日立聖人、正保元年六月九日。八十一歳寂。


 とある。区の説明板は以下の通り。

   木造毘沙門天像(啓運寺)
   啓運寺は、法華宗(本門流)の寺院で、法要山と号す。上野にあったが、明治18年に現
   在地に移転。毘沙門天は、多聞天ともいい、四方を守護する四天王の一つであるが、独立
   して福徳富貴の神としても信仰されている。当寺の毘沙門天は、台座の裏に「「寛政九年
   (1797)八月吉辰、仏師以東光雲」の墨書銘がある。その外境内には、延宝八年(1
   680)銘の庚申塔がある。この塔には、「三守庚申三尸伏、妙法、七守庚申三尸滅」の
   銘文のほか36名の施主名が刻まれており、区内唯一の日蓮宗系の庚申塔である。
                                   荒川区教育委員会

 毘沙門天は「谷中七福神」。

 ●庚申塔
 境内にある。延宝八年(1680)銘の庚申塔がある。この塔には、「三守庚申三戸伏、妙法、七
守庚申三戸滅」の銘文のほか三十六名の施主名が刻まれており、区内唯一の日蓮宗系の庚申塔だ。

 杵屋家の石碑

 
8世杵屋六三郎の墓
 天保十二年(1841)~明治39年。長唄三味線方。本名大槻金太郎。初名杵屋六太郎。前名5
代杵屋長次郎。晩名3代杵屋六翁。養父徳川家用達大槻新助。11歳の時、父の師7代杵屋六三郎の
門弟となる。技量に優れ、杵屋六太郎と名乗る。16歳で浅草守田座において初演。名を長次郎と改
める。明治7年8代杵屋六三郎を襲名。同26年杵屋六翁と改名。作曲:「王政復古」。享年66歳。
妻杵屋てる。長女3代杵屋ろく。正面「大槻家之墓」 「清光院六翁日照居士」。


補陀落山観音院養福寺

 西日暮里3丁目3番8号にある新義真言宗の寺。元和六年(1620)法印乗蓮が創建、湯島円満
寺の木食義高(享保三年寂)によって中興されした。東覚寺末。離末後、明治43年から田端与楽寺
末となった。本尊阿弥陀如来。宝永年間(1704~11)造立の仁王門は戦災をまぬかれ、近年改
装され、運慶作と伝わる仁王2体が安置されている。いかにも江戸の文人墨客に愛された「ひぐらし
の里」にある寺らしさがある。墓地には、大橋佐平・乙羽の墓。荒川辺八十八ヶ所霊場番7番札所、
豊島八十八ヶ所霊場番73番札所、上野王子駒込辺荒三十三ヶ所霊場27番札所だ。
 「新編武蔵風土記稿」に、

   養福寺
   新義真言宗田端村東覚寺門徒、補院山観王院と号す。中興は湯島円満寺住職木食義高なり。
   本尊弥陀。寺寶に台徳院殿御筆の色紙あり。伝来詳ならず。右の如し。
   いかへにむかし むすべる契にて この世にかかる 中の隔り
   天神社。
   諏訪社。
   観音堂。春日作の如意輪観音、弘法大師作の十一面観音、慈覚大師作の正観音を安置す。
   鐘楼。享保二年鋳造の鐘を掛く。
   仁王門。


 とある。

   荒川区指定文化財(平成2年3月20日指定)
   
善福寺仁王門
   この仁王門は、宝永年間(1704~1711)の建築と伝えられる。表側に安置されて
   いる仁王像の胎内から宝永四年(1707)の銘札が発見されており、門柱の上部等の木
   鼻・蟇股などに施された渦文の絵様から、銘札とほぼ同年代のものと推定される。裏側に
   は四天王の内の、広目天・多聞天の像が安置されている。旧本堂など江戸期の建造物は戦
   災で失ったが、この仁王門は焼失を免れ、近世建造物として現在にその姿を留めている。
                                   荒川区教育委員会

   養福寺と文人たち
   養福寺は真言宗豊山派の寺院で、補陀落山観音院と号し、湯島円満寺の木食義高(享保三
   年〔1718〕没)によって中興されたという。江戸時代、多くの文人たちが江戸の名所
   である「日暮里(ひぐらしのさと)」を訪れ、その足跡を残した。なかでも養福寺は「梅
   翁花樽碑」「雪の碑」「月の碑」などからなる『談林派歴代の句碑(区指定文化財)』や
   江戸の四大詩人の一人、柏木如亭を偲んで建てられた『柏木如亭の碑』、畸人で知られた
   自堕落先生こと山崎北華が自ら建てた「自堕落先生の墓」などさまざまな文人の碑が残る
   寺として知られている。                     荒川区教育委員会


 
大橋佐平
 天保六年(1836)越後長岡に生まれ、息子新太郎とともに新聞を発行していた。のちに上京、
明治30年に出版社「博文館」を創設、『日本大家論集』を始め『帝国文庫』『太陽』『少年世界』
『中学世界』『女学世界』『文芸倶楽部』『太平洋』など多岐にわたる文庫・雑誌・単行本を出版し
た。明治後半から大正にかけて日本最大の出版書店だった博文館では、巌谷小波・大橋乙羽・高山樗
牛・大町桂らが活躍、後に共同出版となる博文館印刷も含めて、わが国出版界の近代の草創期を語る
時、欠くことのでない存在だ。

 
大橋乙羽
 明治2年
羽前米沢の立町二ツ橋畔に生れた。日本の小説家、編集者。本名大橋又太郎。旧姓渡部。
父は渡部治兵衛、母はかつといい、旅館音羽屋を営んでいた。北堤小学校に入り、この頃から作文な
どが得意だった。卒業後、山形の十日町の呉服商富士屋で商売の見習いをしていたが、次第に文学を
志し実家へ戻り、友人と雑誌を作ったりしていた。20歳の時に磐梯山爆発の記事を出羽新聞に載せ
ところ、これが出版社東陽堂主人吾妻健三郎の目に留まり、上京し東陽堂に入社した。「風俗画報」
「絵画叢誌」を編集し政治小説「霹靂一声」などを書いたが、石橋思案と知り合い硯友社に入った。
「こぼれ松葉」「露小袖」「霜夜の虫」などを書き、「上杉鷹山」の挿絵を描いた寺崎広業の紹介で
博文館主人の大橋佐平を知った。尾崎紅葉の仲立ちでこの大橋家の養子となり、佐平の長女時子と結
婚。博文館に入り、支配人となって文筆活動を離れていった。一方で紀行文にも妙があり、思案と東
北を旅した際の『奥州日記』、同33年に外遊した際の『欧山米水』、特に紀行文集『千山万水』は
有名だ。外遊から帰国後の同34年腸チフスと筋膜炎を併発し、6月1日没した。


 梅翁花樽碑
 寛政四年(1792)談林派7代目の谷素外が談林派2代目井原西鶴の百回忌を記念してたてたも
ので、梅翁は談林派初代西山宗因。文政二年発行の『東都古墳志』に「西山宗因塚」として収録され
ている。

   於我何有哉
   江戸をもって鑑とす也 花に樽
   俳談林初祖 梅翁西山宗因

 右側面に、

   
我恋乃まつ島も唯初霞 松寿軒西鶴

 とある。宗因は、斬新奇抜な談林俳諧を大成させた人。素外はこの碑のほか「月の碑」「雪の碑」
を建立、本堂から仁王門まで64間余の石畳を敷き、総門の傍らに田地寄進などを記す石柱を建てて
いる。区の説明板は以下の通り。

   梅翁の碑
   梅翁とは俳人西山宗因の号で、その門人には井原西鶴をはじめとして多くの逸材を出して
   いる。宗因は寛文二年(1662)、郷里肥後(熊本県)から江戸に出て、談林派を大成
   した人である。
   梅翁の碑は、寛政四年(1792)西鶴の百回忌を記念して谷素外が供養として建碑した
   もので談林派六世までの句と名とその没年を刻んでいる。素外はこの花樽碑のほか、月の
   碑、雪の碑を建て、本堂から仁王門まで石畳を敷いている。     荒川区教育委員会


 
自堕落先生の墓
 自堕落先生は山崎北華。江戸中期の俳人・狂文家。名は浚明。通称は三左衛門。他に不量軒、無思
庵、捨楽斎などの戯号がある。諸藩に出仕したが、致仕して隠棲。医業を以て生活し俳諧に遊んだ。
『おくのほそ道』の跡を辿り、松尾芭蕉の霊と問答。さらには、『労四狂』に生と死の問題を凝視。
狂文集の嚆矢といえる『風俗文集』では、滑稽な表現の裏に冷徹な自己観察の目をみせる。その一生
は過激、憤激の情と自棄の思いが交錯した作品を生み出した。
 この一帯で、名木として江戸市民に親しまれた枝垂桜は今はないが、墓はこれを植えたという碑。
自堕落先生の名は『武功年表』元文四年の条に見え、

   通称山崎三郎右衛門、不思庵・不量軒・捨楽斎・確連房などの号を持ち、常に酒を飲み、
   俳諧をよくし、蕉門に遊べり


 とある。ところが、墓碑は本人が冗談で建てた代物。養福寺でウソの葬式を挙げ、ちゃっかり〝故
人〟の伝記などを自ら書いて文名を高めた。

 天明元年(1781)太田南畝は養福寺を訪れ、自堕落先生の墓を見て、『日ぐらしのにき』に書
いている。

   日ぐらしの里に入れば、七面の社あり。衆僧のどきやうの声高し。養福寺といふ寺に、自
   堕落先生の墓あり。先生は江戸の人なり。五君に鞍がへして志を得ず。髪をからわに結ひ、
   歯をかねにて染め、佯狂して俳諧師となる。庵を無思庵といひ、軒を不量軒と名づけ、斎
   を捨楽斎と号し、坊を確蓮坊と称す。昔の反古二卷をあらはす。その中に帰去来の辞を評
   して、淵明元来金持なるべし、わづかのあれ地をもちて、口をきくこそにくけれと、一口
   にはり込ししれものなり。


 ●柏山人碑(柏木如亭の碑)
 江戸の四大詩家といわれた如亭の碑。本堂の手前右側の椿の木の下に、隠れるようにひっそりと立
つ背の低い石碑がそれだ。
 「柏山人」とは、江戸時代後期の漢詩人、柏木如亭のこと。姓を1字にして呼ぶのは、中国に倣っ
た習慣。「山人」とは、都会を離れて暮らす風流人といった意味。
 柏木如亭は、江戸の生まれ。北は新潟から西は岡山まで、生涯を旅に明け暮れた漂泊の詩人として
近年、とみに再評価されている。この石碑は、彼が旅先の京都で亡くなった後、友人や弟子が建てた
もの。名高い詩人にしては質素なのは、名利を追わなかったその生涯を表しているかのようだ。
 碑文の読みどころは、中盤、「得る所の潤筆は・・・」以降だろうか。魚肉のたのしみ、風月の遊
び、衣服の好みなど、如亭の人柄が印象深く描かれていく。そして「色食は性と成りて、天真爛熳
と結論づけるあたりは、この詩人の自由奔放な生き方をうまく表現した、名文句だろう。
 文章を起草した葛西因是は、大阪に生まれて江戸で暮らした漢学者。柏木如亭とは若い頃からの友
人だが、如亭が放浪の旅に出て以降はあまり会う機会もなかったようだ。それでもお互いを忘れるこ
とのなかった友情のあり方は、碑文の前半にも現れていて、少しく胸を打つ。
 清書を担当した大窪詩仏は、茨城県生まれの漢詩人。題額の安部晴親は土御門晴親ともいい、有名
な安倍晴明の子孫の陰陽師だ。

   柏山人碑
   山人客遊四方其迹多在信濃越後或在伊勢駿河又在平安備中聞其在北忽又在南又
   遠在西數年間有時歸江戸歸輙數過我敘舊情談唐詩去則辭別文化甲戌冬歸来一再
   見訪不辭而去不知其所在不見山人四五年或傳在越後或云在伊勢文政己夘秋聞其
   赴音云七月十日以病卒于平安寓舍葬于東山長樂寺行年五十七歳方知甲戌一見其
   為永訣嗚呼哀哉山人家世以木匠受俸米於
   征夷府又毎任役受直得贏余自不乏衣食山人棄而不事山野之人不尚文墨山人沽吟
   詠書畫焉唯恐價不高所得潤筆盡揮之噉啖狭斜魚肉非嚼大塊不飽風月之遊老不減
   少壮衣服斬新務逐時世雖不嗜酒好與嫖客歌娼混坐時々作戯劇打諢之語盖色食成
   性天真爛熳人亦無以是疵山人其詩與常陸大窪行天民讃岐池桐孫無弦齊名始喜南
   宋諸家後宗唐詩蘭苕翡翠點綴得法優稱清麗作家有如亭集二巻又有四家絶句集皆
   已布世四家者河柏大窪池上毛河子静先生以詩領袖一世三家従而唱和其名輷海内
   柏乃山人也尚應有遺詩不知其存亡山人名昶字永日姓柏氏棄家之後下髪號如亭山
   人江戸神田郷參河町人也初有妻子皆亡一弟位立人業醫弟子信濃高一魯聖誕與其
   友備前紀選春琴商議募力於江戸及南北諸故舊買石立碑浪花葛質休文於山人尤舊
   故作之辭曰
    出而為人家何必常此入而為地無四方此嬴博之間延陵以葬此長樂之山體魄宜
    壙此南有嘉魚鱠必佳蘇此北有竒味羹必★魚此伊勢之曲越後之舞此急絃高調更
    有江戸此四方之招魂無不之此山人有靈仿佛来饗勿遲々此
   文政三年歳在庚辰夏六月          浪花葛質述   常陸大窪行書
                  陰陽頭安部晴親題額  刻字人 江戸廣羣鶴

   (読み下し)
   柏山人の碑
   山人は四方に客遊す。其の迹、多く信濃・越後に在り、或いは伊勢・駿河に在り、又、平
   安・備中の間に在り。其の北に在るを聞くや、忽ち又南に在り。又遠く西に在ること数年
   間、時有りて江戸に帰る。帰れば輙(すなわ)ち数々
しばしば)我に過(よ)ぎり、旧
   情を叙し、唐詩を談ず。去るときは則ち辞別す。文化甲戌の冬、帰来して一再、訪れらる
   も、辞せずして去り、其の所在を知らず。山人を見ざること四五年、或いは越後に在りと
   伝え、或いは伊勢に在りと云う。文政己卯の秋、其の赴音を聞く。云う、七月十日、病を
   以て平安の寓舎に卒し、東山長楽寺に葬らる、と。行年、五十七歳。方に甲戌の一見、其
   の永訣と為るを知る。嗚呼哀しきかな。山人、家は世々木匠を以て俸米(ほうまい)を征
   夷府に受く。又、役に任ずる毎に直を受け、贏余を得る。自ずから衣食に乏しからずも、
   山人、棄てて事とせず。山野の人は、文墨を尚(とうと)ばず。山人、吟詠書画を沽る、
   唯だ価の高からざるを恐る。得る所の潤筆は尽(ことごと)く之を揮いて狭斜に噉啖(
   んたん)
す。魚肉は大塊を嚼むに非あらざれば飽かず。風月の遊は老いても少壮より減
   ぜず。衣服は斬新にして務めて時世を逐う。酒は嗜まずと雖も、好んで嫖客歌娼と混坐
   して、時々に戯劇打諢の語を作す。蓋し、色食は性と成りて、天真爛熳、人、亦是を以
   て山人を疵そしる無し。其の詩、常陸の大窪行天民と、讃岐の池桐孫無弦と名を斉しくす。
   始め、南宋諸家を歓び、後には唐詩を宗とす。蘭苕翡翠、点綴するに法を得、優に清麗作
   家と称さる。如亭集二巻有り、又四家絶句集有り。皆、已に世に布く。四家とは、河・柏
   ・大窪・池なり。上毛の河子静先生は、詩を以て一世に領袖たり。三家従いて唱和す。其
   の名、海内に輷(とどろ)く。柏は乃ち山人なり。尚応(まさ)に遺詩有るべきも其の存
   亡を知らず。山人、名は昶(ちょう)、字は永日、姓は柏(はく)氏。家を棄てての後、
   髪を下ろして如亭と号す。山人、江戸神田郷参河町の人なり。初め妻子有るも皆、亡ず。
   一弟、位立人、医を業とす。弟子
信濃の高一魯聖誕、其の友備前の紀春琴と商
   議して、力を江戸及び南北の諸故旧に募り、石を買いて碑を立つ。浪花の葛休文、山人
   に於いて尤も旧し。故に之が辞を作りて曰く、
    出でて人と為る、家、何ぞ必ずしも常あらん
    入りて土と為る、地、四方無し
    嬴博(えいはく)の間、延陵は以て葬られ
    長楽の山、体魄は宜しく壙(ほうむ)るべし
    南に嘉魚有れば、鱠(なます)は必ず佳蘇かそ
    北に奇味有れば、羹あつものは必ず★魚(かぎょ)
    伊勢の曲、越後の舞
    急絃高調、更に江戸有り
    四方の招くに、魂、之(ゆ)かざる無し
    山人、霊有らば、仿仏として来たり饗せよ、遅々たること勿かれ
   文政三年、歳は庚辰に在り、夏の六月   浪花の葛質、述べ   常陸の大窪行、書す
                    陰陽頭、安部晴親、題額す  刻字人 江戸広群鶴

 ※ ★は、「口」の下に「大」を書く字。

 弘法大師像
 境内にある。


■日暮小学校跡

 西日暮里3丁目3番12号の「区立諏訪台ひろば館」のところ(日暮里6番地)にあった。明治1
3年谷中天王寺中門前の瑞林寺境内にあった寺子屋から分離。敷地550坪、校舎は茅葺き15坪、
児童15名、教員2名でスタートした。同18年府知事の認可を得て日暮小学校が開校。この地区で
最初の小学校だった。明治43年に第二日暮里尋常小学校が分立、大正2年第一日暮里尋常小学校に
改称、
昭和11年現在地(3丁目7番)に移転。昭和22年第一日暮里小学校と改称して今日に至ってる。

   日暮里小学校跡
   明治13年5月谷中天王寺門前の瑞輪寺境内にあった寺子屋を、日暮里6番地(現ニコニ
   コ会館敷地)に分離し、明治18年6月29日に公立日暮里小学校が生まれた。校舎は
   葺15坪
(約50㎡)一棟、児童数15名、教員2名・1学級であった。
   昭和7年10月1日東京市第一日暮里尋常高等小学校と改称。同11年11月27日日暮
   里9丁目1080番地、旧花見寺跡に新築移転した。
                                   荒川区教育委員会

 ※文中「
明治18年6月29日に公立日暮里小学校が生まれた」とあるのは区の混同で「日暮小学
校」の間違い。日暮里となるのは大正2年のことだ。

   日暮里小学校跡
   明治13年5月谷中天王寺門前の瑞輪寺境内にあった寺子屋が、日暮里6番地(現諏訪台
   ひろば館あたり)に分離移転したという。その後、公立小学校設置の必要性に迫られてい
   た日暮里村・谷中本村・谷中村の三村が、東京府知事に設置を嘆願。明治18年に認可さ
   れ、公立日暮小学校が誕生した。開校当時、児童数36名、教員2名・1学級で、校舎は
   萱葺15坪(約50㎡)一棟の規模であったという。
   大正2年校名を第一日暮里尋常高等小学校と改称。昭和11年11月日暮里9丁目108
   0番地、旧星雲寺内(現在の区立第一日暮里小学校)に新築移転した。
                                   荒川区教育委員会


■諏訪台ひろば館

 西日暮里3丁目3番12号にある区の施設。


雪見の寺 法輪山法憧院浄光寺
 西日暮里3丁目4番3号、諏方神社の南隣で富士見坂の突き当たりにある新義真言宗の寺。開基は
太田道灌とも、豊島経泰とも伝わるが、創建年代は不詳。諏方神社の別当寺であったことから、同社
の創建年代と同時期の元久二年(1202)前後の創建と推定できる。元禄四年(1691)には空
無上人の勧化により江戸六地蔵の一つが安置された。高台に位置するため眺望絶景で、ために雪見に
適うとされて雪見寺と呼ばれている。元文二年(1737)将軍吉宗が鷹狩の時訪れ、同五年(17
40)に御膳所となり、それにまつわる将軍腰掛の石が境内に残されている。
 「新編武蔵風土記稿」の諏方神社の項に、

   別当浄光寺
   新義真言宗田端与楽寺末、法輪山法幢院と号す。本尊薬師。元文二年四月十四日、有徳院
   殿御遊猟の時始て当寺へ成せ給ひ、同五年正月二十五日御膳所に命せられしより、今も此
   邊放鷹の節は御膳所となれり。
   御腰掛石。庭前にあり。有徳院殿始て渡御ありし時憩せ給ふ石なりと云傳ふ。
   人麿社。頓阿作の像を安す。享保年中起立す。
   地蔵。銅像にて近郷六地蔵(江戸六地蔵)の一なり。

 とある。

 
東都六地蔵(江戸東部六地蔵)
 
門を入って左手にある銅像1丈の地蔵菩薩立像、元禄四年(1691)空無上人が勧化したもので、
東都六地蔵の3番に数えられたと説明はしている。駒込瑞秦寺・千駄木専念寺・下谷七軒町心行寺・
上野大仏堂・浅草寺正智院とここの地蔵だ。それで「東都歳時記」によると、東都六地蔵の鋳造は、
下谷七軒町心行寺二世空無上人の発願により、僅かな日数で江戸市民の浄財が集まって完成したとい
う。ちなみに門前の諏訪台通りは、江戸時代は、岩淵・王子街道を経て中山道に至る近道で往来の多
い街道だった。猶現存するのは廃寺となった専念寺とここだけ、瑞泰寺は昭和61年に再鋳した。

   江戸六地蔵(浄光寺)
   元禄四年(1691)銅像の高さ約3メートル(1丈)の地蔵菩薩が江戸六ヶ所に、六地
   蔵として空無上人の勧化によるもので、上人は銅像の作者としてもその道の大家だったと
   いわれている。浄光寺の門前は「地蔵前」とも呼ばれる。境内には「鶴お成り」の時の、
   「将軍腰掛けの石」があるが、諏訪台上にあって眺めが大変に良いので、雪見寺とも呼ば
   れた                              荒川区教育委員会

   
江戸六地蔵と雪見寺(浄光寺)
   山門を潜って左手に、高さ1丈(約3m)の銅造地蔵菩薩がある。元禄四年(1691)
   空無上人の勧化により江戸東6ヶ所に六地蔵として開眼された。もと門の傍らの地蔵堂に
   安置されていたもので門前は「地蔵前」ともよばれる。
   浄光寺は、真言宗豊山派の寺院。法輪山法幢院と称し、江戸時代までは諏方社の別当寺で
   あった。元文二年(1737)8代将軍吉宗が鷹狩の際に御成りになり、元文五年(17
   40)以降御膳所となった。境内に「将軍腰かけの石」がある。眺望にすぐれた諏訪台上
   にあり、特に雪景色がすばらしいというので「雪見寺」ともよばれた。
                                   荒川区教育委員会

 浄光寺八景
 筑波茂陰・黒髪晴雪・前畔落雁・後岳夜鹿・墨田秋月・利根遠帆・暮荘圓雨・神詞老松をいう。今
残っているのは神詞老松、諏方神社の松のみだ。



■地蔵坂

 西日暮里3丁目4番の諏方神社の境内から西日暮里駅の西側の小道に降りる雁木坂(石段)。小道
は駅東端の下をトンネル(諏訪坂ガード)で潜って東口方面に連絡している。

   地蔵坂
   この坂はJR西日暮里駅の西わきへ屈折して下る坂である。坂名の由来は、諏方神社の別
   当寺であった浄光寺に、江戸六地蔵の三番目として有名な地蔵尊が安置されていることに
   因むという。                            荒川区教育委員会


■諏方神社(諏訪神社)

 西日暮里3丁目4番8号にある日暮里谷中の総鎮守。境内は1500坪(3300㎡)余り、都心
では珍しくなった銀杏の大樹が見事だ。元亨二年(1323)豊島左衛門尉経泰が信濃国の上諏訪社
を勧請したと伝える。祭神は本社と同じ建御名方命だが、社名の「訪」は「方」の字が当てられる。
分社の中でも数社しかない。文安のころ太田道灌が江戸城の鎮守として5石を寄進したといい、その
黒印状なるものにより、慶安二年(1650)将軍家光から社領5石の朱印状が与えられている。江
戸時代の祭礼は、神輿を芋洗橋(神田川昌平橋)まで担ぎ、そこから舟で隅田川を回り、荒木田の里
で神酒をあげて帰社したという。境内末社御嶽神社・日枝神社はアメリカ軍の無差別の空爆で燃やさ
れたが、文化年間に厄病払いのために作られた山車だけは焼け残った。焼失を免れた稲荷神社では、
橋場の真崎稲荷、三河島の宮地稲荷と並んで二月の初午が盛大に行われる。
 えっ? 「諏訪」を「諏方」と書く由来? 判んねぇ。

   「諏方神社」御社名に就いて
    当社は、信州・諏訪大社の御分社ですが、御社名は「諏方神社」と申し上げます。この
   「諏方」は古来の表記であり、御社名や古文書等に使用例を見ることができます。 
   抑も信州・諏訪地方は往古、「洲羽」「須波」などと表されていましたが、和銅六年(7
   13)の「畿内七道諸国郡郷の名は好き字を著けよ(続日本紀)」の制以降、「諏訪」と
   なったようです。しかし中世から近世にかけて「諏方」の表記も併せて多く用いられるよ
   うになり、その傾向は国の記録や公の文書にも及び、大社に納められた奉納の品にも見ら
   れました。こうした中、天保五年(1834)諏訪・高島藩に於いては、「諏訪」と書く
   旨指令が出されるという動きもありましたが、近年に至り全国的に地名、人名などに於て
   「諏訪」が通常の表記となり、御社名などに残っていた「諏方」は使われなくなっていっ
   たようです(現在、御社名としては、全国の御分社8千有余社の内数社にみられます)。
   当社におきましては、所蔵する元禄時代の軸(細井廣澤書)に「諏方大明神」とあること
   に拠りまして「諏方神社」を御社名としています。             諏方神社

 とあらーな。

   
諏方大明神略縁起
   源義朝家臣豊島兵四郎、義朝落命後の永暦元年(1160)生国信州下諏訪に蟄居、諏訪明神
   を信心し、再び源氏に忠勤せんと願うも病に相果てり。子息平六郎困窮甚だしき余り、家
   の再興を諏訪明神に祈誓せるに霊夢あり。現れたる貴人の宣託に従いて湖水に向かうに、
   水中より光の発するを見、潜りてその元を尋ねるに御神体と思しき物を得。平六郎之を祀
   りて朝夕信心せるに家は漸く栄え、治承四年(1180)の頼朝挙兵に於ては軍功数度に
   及び、此れに仍って元久二年(1205)、武蔵国中豊島郡を領地に賜る。是より豊島左
   衛門経泰と名告り、信州より遷奉る御神体を東の方、山麓に奉祀せり。扠、嫡子左近太郎
   の代に至りて家は没落せるも社は其の儘に在りしが、或る時盗賊の押し入りたる事有り。
   御神体を持ち手逃げ去りしが、途上、俄かに立ち竦みたるに、土民此れを取り押さえ、御
   神体を社へ遷し奉りき。土民等此処を以て其の神徳を敬い、産土神と仰ぎ奉れり。その後
   時を経、山上開削されし折、麓より当地に遷し奉りき、と伝えたり。


 「新編武蔵風土記稿」に、

   諏訪社
   (新堀)村内及谷中の惣鎮守とす。一寸許なる薄黒き円石を神体とす。社領五石の御朱印
   は慶安二年附らる。元享年中豊島左衛門尉経泰信州の諏訪を勧請せる由縁起に載たり。例
   祭七月二十六日社邊東の方を諏訪台とし、眺望勝景の地なり。林信充か浄光寺八景詩歌は
   則此処にての作なり。所謂八景は筑波茂陰、黒髪晴雪、前畦落雁、後岳夜鹿、隅田秋月、
   利根遠帆、暮荘烟雨、髪祠老松なり。皆望中の景色なり。
   末社。山王、稲荷。


 とある。区の説明板は以下の通り。

   諏方神社
   元久二年(1205)豊島左衛門尉経泰の造営と伝えられる。その後、文安二年(144
   5)には、太田道灌がこの地を江戸の出城として修復し、城郭内の鎮守とした。
   江戸時代、この祭礼は、神輿を芋洗橋(神田昌平橋)までかつぎ、それから船で浅草大門
   通りを経て、荒木田の郷で御神酒をそなえ帰座したと伝えている。
   新堀村・谷中の総鎮守として知られている。            荒川区教育委員会



 境内に神楽殿、神輿庫、末広稲荷社・銭降稲荷社は境内社、御嶽山大神・八海山大神・三笠山大神
は石碑。三宝荒神社・三峰神社は石祠。鳥居は区の登録文化財。他に
諏方神社文書・庚申塔2基(元
禄十二年十月月吉日銘他)が区の登録文化財となっている。 

   諏方神社
   信濃国(長野県)上諏訪社と同じ建御名方命(たけみなかたのみこと)を祀る。当社の縁
   起によると、元久二年(1205)豊島左衛門尉経泰の造営と伝える。江戸時代、3代将
   軍徳川家光に社領五石を安堵され、日暮里・谷中の総鎮守として広く信仰を集めた。
   旧暦七月二十七日の祭礼では、囃屋台・山車を引き回し神輿渡御が行われた。神田芋洗橋
   まで担ぎ、そこから船で浅草・隅田川を経て、荒木田の郷で御神酒を供えて帰座したと伝
   えている。拝殿の脇には元禄十二年(1699)銘・元禄十四年(1701)銘の燈籠型
   の庚申塔が並んで建てられている。                荒川区教育委員会

 
源為朝公の山車
 諏方神社の名物。

   
源為朝公の山車
   この人形はだしにしつらえ、御輿と共に巡行したもので、平安時代末期武勇に猛けた「源
   為朝」鎮西八郎為朝公を擬してある。製作年は安政(1854~1860)とあるが作者
   は現在不詳。当時の日暮里諏方様の山車は、江戸の中でも有名であり且つ格式の高いもの
   であった。特に日清戦勝の祝賀会が皇居前広場で行われた時、東京中の山車が勢揃いした。
   その勢揃いの順位が3番目、道中鳶頭連中が木遣りと芸者の手古舞を、2頭の牛車が引い
   て参列し妍を競ったといわれる。
   明治の終わり頃までは本祭りの度に牛と子供連中に曳かせたが、その後土地の発展に従い
   電線などにより不可能となり、氏子有志が組織した「祖崇会」が維持管理し人形だけ飾っ
   た。戦後からそれが自然と消滅して、人形は倉庫の中に保管したがその痛みが激しく、こ
   のままでは朽ち惜しいということで、金子正男・工藤三郎両氏相計い昔日の姿に復元した
   ものである。
   平成元年10月27日                         平塚春造記

 三宝荒神社
 境内にある小祠。

 三峯神社
 境内にある。

 谷中生姜
 境内にJA東京の説明板がある。

   江戸・東京の農業 谷中ショウガ
   諏方神社周辺(荒川区西日暮里2丁目、5丁目)は、かつて江戸時代からショウガの産地
   で、農家の人達は豊作のきがんに当社を訪れました。
   ショウガは、保水力のある肥よくな土壌で栽培すると、柔らかく品質の善いものが穫れま
   すが、この環境にぴったりの谷中で穫れるショウガはあまり辛くもなく、クリーム色の地
   下茎の節に赤味が入り美しく、スジも少なく味噌をつけて食べると、歯ざわりと風味が良
   く、江戸庶民の好んだ野菜のひとつです。
   収穫時がちょうどお盆の時期にあたるため、商人や職人、谷中の寺社等が、お中元の贈答
   品に利用したため江戸中の評判になり、ショウガの特産地となりました。
   以来、「谷中」の名はショウガの代名詞となり、今でも粋な符丁として、市場や居酒屋等
   で呼ばれています。
   明治16年に上野と熊谷の間に鉄道が敷かれて急速に市街化が進み、大正末期には尾久、
   さらに荒川を渡って埼玉県へとショウガの産地は移って行きました。
                          平成9年度JA東京グループ
                          農業協同組合法施行五十周年記念事業


■諏訪台
 道灌山に続く南の高台(西日暮里公園や社寺地)をいう。諏方神社があるのでその名がある。古代人
が住んだところで、当時崖下は海だった。江戸時代には崖から音無川の清流に向かって土器を投げ、
それが虚空を切って飛び舞う「かわらけ投げ」で名高く。川柳や狂歌によく詠まれてる。

   村つづき青田を走る汽車見えて諏訪の茶屋は凉しかりけり(伊藤左千夫)

   
諏訪台
   諏方神社のある諏訪台は、縄文・弥生期の先住民の生活を伝える台地であり、また、荒川
   区内を一望におさめる景勝随一の土地である。
   享保十八年(1733)林伸充は、この台に臨んで漢詩十二景詩を作っている。
    筑波茂陰、秩父遠影、滝野川夕照、梶原村田家、王子深林、平塚落雁、鵠台秋月、
    染井夜雨、黒髪山残雪、豊島川帰帆、中里晩鐘、西原晴嵐
   東北の一角には、佐竹侯の下屋敷が置かれたこともある。      荒川区教育委員会

   
諏訪台
   諏訪台は、縄文・弥生時代から人々が生活を営んでいた場所であり、景勝の地としても知
   られている。
   江戸時代、四季折々の景色を楽しむ客でおおいに賑わった。安藤広重の『名所江戸百景』
   の中にも諏訪台の春景色が描かれている。また、「土器投げ」という遊びが流行し、「花
   の散るたびに土器それるなり」など川柳にも詠まれた。
   享保十三年(1728)浄光寺の住職宝山が、『諏訪浄光寺八景詩歌』を板行。筑波茂陰
   ・黒髪晴雪・前畦落雁・後岳夜鹿・隅田秋月・利根遠帆・暮荘炬雨・神祠老杉の八景を巧
   みに詠んだ諸家の詩歌が収められている。             荒川区教育委員会

 ●諏訪と諏方

 「すわ」は、普通「諏訪」と書くが、ここの「すわ神社」も「すわ台」も「言」偏のない「諏方」
と書く。由来はあるのだろうが判らない。日暮里にある「すわ台中学校」は「諏訪台」と書いている。
元々は「すわ」は「諏方」と書いたものだが、何時の頃からか「諏訪」と書くようになり、瞬く間に
それが定着してしまったという。現在、8000社の内、2、3が「諏方」を守っている。


■地蔵坂

 諏方神社から道灌山下(西日暮里駅)の方に下る雁木(石段)坂。名前の地蔵は、浄光寺の地蔵に
因む。

   地蔵坂
   この坂はJR西日暮里駅の西わきへ屈折して下る坂である。坂名の由来は、諏訪神社の別
   当寺であった浄光寺に、江戸六地蔵の三番目として有名な地蔵尊が安置されていることに
   ちなむという。                         荒川区教育委員会
 


■間の坂

 西日暮里3丁目5番1号と西日暮里駅の壁面との間を南にS字に上って行く一方通行の坂道。


■西日暮里公園

 西日暮里3丁目5番5号、諏方台の北部。西日暮里駅を背にして道灌山通りに面している左手の高
台の上にある。こじんまりとした公園だが、樹木生い茂り昼間でも少し暗く感じる。すぐ脇に西日暮
里の駅があるが、駅を含む周囲の騒がしさが一瞬遮断されるような雰囲気を持ってる。この公園へは
西日暮里駅に沿うような急坂「間の坂」を上って、上り切ったところの右手に入口がある。日暮里駅
からは、延命院と経王寺の間の道、諏訪台通りを北上すれば、諏方神社を過ぎた突き当たりに入口が
ある。
 この公園は、元々は、西南方崖下に隣接する青雲寺の寺域だったが、明治末期に寺院再興のために
加賀前田家の墓地にと売却された土地で、昭和47年に前田家が金沢に墓所を弾き移したため、跡地
を区が買い取って公園とした。少しも美観維持への努力が払われておらず、区職員の美意識の向上を
叱咤激励する。園内には、2人の裸女が背中合わせで腕を組んでいる彫刻「環」が置かれている外は
特に目立つものは無い。しかしかつて青雲寺の境内であった時代には、「滝沢馬琴の筆塚」や「日暮
里舟繋の松の碑」があった。現在それらは、崖下の青雲寺境内に移されている。

   青雲寺境内と前田家墓地
   かつてこの地には、太田道灌の砦に荷を運んでいた舟人が目印にしたという舟繋松があり
   荒川(隅田川)の雄大な流れ、筑波・日光山の山影を望むことができる景勝地として、多
   くの人々が訪れた。花見寺の1つ青雲寺(西日暮里3丁目6番)の境内の一部で、金毘羅
   社なども祀られていた。
   明治7年、この一帯が、旧加賀藩前田家に売却くされ、同家墓地となった。前田家12代
   当主斉泰から4代にわたって神式の墓地として使われたが、昭和47年に国許に改葬され
   翌48年その跡地にこの西日暮里公園が開設された。
   なお、この地にあった日暮里舟繋の松の碑や滝沢馬琴筆塚の碑などは、現在の青雲寺本堂
   前に移されている。                       荒川区教育委員会


 公園の説明板は、2枚の屏風折りになっていて、それが3組がある。まず「道灌山」と題したもの
は、

道灌山(説明板)
 右に道灌山の錦絵、左側に2段の説明文が記されている。さながら本の1頁をでかくしたようだ。
古いものと新しいものがあって、まず古いものから。

   
道灌山

   道灌山は、谷中・日暮里から飛鳥山までをいい、区内で最も標高の高い台地で、約21m
   あります。
   このあたりに最初に人が住むようになったのは、約3000年前の縄文時代で、直ぐ下ま
   で海でした。近くから出土した土器や貝塚、住居跡から、当時の人たちは質の高いすぐれ
   た文化を持っていたことがわかります。
   戦国時代の武将・太田持資(入道して道灌1431~86)は江戸城を築き、この地を支
   配下に置き、出城としての物見塚をつくりました。「道灌山」の名は、太田道灌に因んで
   つけられたといいます。
   江戸時代になると、ここにたくさんの寺院ができ、景観の美しさと台地からの眺めのすば
   らしさをめでる人々や、台地で土器投げに興ずる人たちで、四季を通じて江戸市民の行楽
   の地でした。
    花の頃、けふもあすかもあさってもあかぬ眺めに日ぐらしの里
   雪見寺(淨光寺)、月見寺(本行寺)、花見寺(青雲寺・修性院)で、春の諏訪台の花見
   時、秋の虫聞きなど、長谷川雪旦や安藤広重ほかの著名な絵師のよい題材となり、「江戸
   名所図会」「名所江戸百景」に当時の美しい様子が描かれています。
   道灌山は薬草の産地としても知られている。台地下の農地は谷中しょうがの名産地でした。
    岡の茶屋に我れ喰い残す柿の種 投げれば筑波にとどくべらなり 正岡子規
   子規がこの地に遊んだ時、遠く筑波山、日光連山が一望できる見晴らしのよいところでし
   た。
   またここは、明治時代の旧前田家墓地となり、昭和47年から、荒川区西日暮里公園とし
   て区民のいこいの広場となりました。

 次いで新しいもの。

   道灌山は、上野から飛鳥山へと続く台地上に位置します。安政三年(1856)の「根岸
   谷中日暮里豊島辺図」では、現在の西日暮里付近にその名が記されています。この公園を
   含む台地上に広がる寺町あたりはひぐらしの里と呼ばれていました。
   道灌山地名の由来として、中世、新堀の(日暮里)の土豪、関道閑が屋敷を構えたとか、
   江戸城を築いた太田道灌の出城を造ったなどの伝承があります。
   ひぐらしの里は、江戸時代、人々が日の暮れるのも忘れて四季おりおりの景色を楽しんだ
   ところから「新堀」に「日暮里」の文字をあてたといわれます。
   道灌山・ひぐらしの里は、荒川区内で最も古い歴史をもつところです。このあたりから出
   土した土器や住居址などは、縄文時代から数千年にわたって人々の営みが続けられたこと
   を物語っています。
   道灌山の大半は秋田藩主佐竹氏の抱屋敷になりますが、東の崖ぎわは人々の行楽地で、筑
   波・日光の山々などを展望できたといいます。また薬草が豊富で、多くの採集者が訪れま
   した。ひぐらしの里では、寺社が競って庭園を造り、さながら台地全体が一大庭園のよう
   でした。
    桃さくら鯛より酒のさかなにはみどころ多き日ぐらしの里 十返舎一九
   雪見寺(淨光寺)、月見寺(本行寺)、花見寺(青雲寺・修性院)、諏訪台の花見、道灌
   山の虫聞きなど、長谷川雪旦や安藤広重ほかの著名な絵師の画題となり、今日にその作品
   が伝えられています。明治時代、正岡子規も道灌山・ひぐらしの里あたりをめぐり、『道
   灌山』という紀行文を著しました。
    山も無き武蔵野の原を眺めけり 車立てたる道灌山の上  子規
   昭和48年、ここ西日暮里公園が開園し、区民のいこいの場となっています。 


 
道灌山虫聴
 右側に虫聴きの絵、左側に2段の説明文が記されている。

   江戸時代から明治時代にかけて、道灌山は虫聴きの名所だった。
   『江戸名所花暦』(文政十年(1827)刊行 文は岡山鳥で、絵は長谷川雪丹)には、
   つぎのように書かれています。
                 虫
   「道灌山 日暮より王子への道筋、飛鳥山への続きなり。むかし太田道灌出城の跡なりと
   いう。くさくさの虫ありて、人まつ虫のなきいつれはふりいて、なく鈴虫に、馬追い虫、
   轡虫のかしましきあり。おのおのその音いろを聞んとて、袂すヽしき秋風の夕暮より人人
   是にあつまれり。
   虫聴きの名所は、道灌山が最も有名で、とくに松虫が多く、澄んだ音色が聞けたといいま
   す。このほか、真崎(南千住白鬚橋のたもと)、隅田川東岸(牛嶋神社あたり)、三河島
   (荒木田の原あたり)、王子・飛鳥山辺、麻布広尾の原が虫聴きの名所でした。
   『東都歳時記』によれば、旧暦7月の末、夏の終わりから秋の初めにかけて、「虫聴」が
   さかんだったと記されている。
   道灌山虫聴の絵は、雪丹、安藤広重、尾形月耕が描いた3種類があります。広重の絵は公
   園入口に模写したものがあります。
   尾形月耕は、明治期に活躍した画家で、岡倉天心らとともに、美術界発展に尽くした人で
   す。新聞の口絵、挿絵が有名でした。
   この絵は、道灌山に月が昇る頃、中腹むしろを敷き、虫かごに虫を入れて鳴かせ、てくさ
   んの虫に音色を催促しています。坂を上ってくる女性が足音をしのばせている姿もほほえ
   ましく感じます。
   この絵は、明治末頃の作と思われますが、秋の夜長に涼を求めて、老若男女がここにあつ
   まり、自然の美しさ、すばらしさを楽しんでいたのです。


 「江戸名所図会」(道灌山聴蟲)に宝井其角の句が載っている。

   まくり手に松むしさがす浅茅哉

 明治時代、正岡子規も道灌山・ひぐらしの里あたりをめぐり、『道灌山』という紀行文を著した。

   山も無き武蔵野の原をながめけり車立てたる道灌山の上

 改修
 園内の暗さ、施設の老朽化、不法占拠などの苦情が増えたため、区では安全・衛生・環境などの面
から公園の再生を図る改修事業を平成20年から開始した。同21年基本設計、同22年実施設計、
同23年改修工事。

 
道灌船繋松(説明板)
 どうかんふなつぎのまつ 低地が海だった頃に、船繋ぎの目標となった松をいい、後には附近の河
川を行き交う船の目印になった。崖上の2本の松に道灌が直接船を舫(もや)い繋いだ訳ではない。
元々船繋松といってたものを、道灌山にあることによるのか、何時の頃からか「道灌船繋松」という
ようになった。

   道灌船繋松

   道灌船繋松のことは『江戸名所図会』〔天保七年刊(1836)、斎藤幸雄・幸孝・幸成
   (月岑)の3代3人が文章を書き、長谷川雪旦が絵を描く〕にくわしく書かれています。
    青雲寺の境内、涯に臨みうっそうとしてそびえたり、往古二株ありしが、一株は往ん
    じ安永元年の秋、大風に吹き折れて、今は一木のみ残れり。(中略)
    或人曰く、往昔このふもとは豊島川に続きし入江にて、道灌の砦城ありし頃は、米穀
    その外すべて運送の船なり、この松を目当にせしものにて、つなぐといふもあながち
    繋ぎとどむるの議にはあらず、これは舟人の詞にして、つなぐといふは目的とするな
    どといえるに同じ心とぞ、よってその後道灌山の船繋ぎの松と称して、はるかにこの
    所の松を目当にせしを誤りて道灌船繋の松と唱ふるとぞ
   長谷川雪旦は、「日暮里惣図」と題し、この地域を七枚に画いています。道灌山から諏訪
   神社、浄光寺、養福寺、本行寺まで、当時の様子がわかります。
   道灌船繋松は、この絵の中でも台地上に高くそびえています。安永元年(1772)の秋
   台風のため一本が折れ、残り一本になってしまったようです。この松をなつかしんで、「日
   暮里繋舟松之碑」が、道潅山に建てられましたが、現在は、青雲寺本堂脇に移されていま
   す。建碑の年月はわかっていません。
   天明五年(1785)に鳥居清長の描いた墨本「画本物見岡」の「日暮里青雲寺境内」の
   絵に、この石碑を眺めている人たちの姿がみられることから、石碑は安永元年から天明五
   年までの十三年間に建てられたことがわかります。
   道灌山の船繋松は、ここのシンボルであり、地域の人たちに親しまれ、大切にされていま
   した。


 天明元年(1781)太田蜀山人がやってきて、

   太田金吾の船繋松あり。桑田碧海手のうらをかへせるがごとし

 と書き、現在金沢文庫に移設されている「日野大納言の碑」を見て狂歌を作っている。

   三河島みな土器に埋むとて この碑(いしぶみ)の欠けず崩れず

 今日松ノ木は存在しないが、それを記念する碑は、天明五年(1785)の本に描かれているとい
う。船繋松の碑は青雲寺にある。

 日野大納言について
 「日野大納言の碑」の詳細は不明だが、日野大納言資枝が日暮里に関して歌を詠んでいる。

   東なる日くらしの里ハ花のころ貴賎群集して佳景を賞するよし歌よめと乞れしかは従一位
   日野大納言資枝卿
   
たれとなく咲添ふ花のかけとひてけに日くらしの里そにきはふ

 とある。碑は恐らくこの和歌を建てたものだろう。日野資枝は、烏丸光広、烏丸資慶の子孫で「今
人丸」と呼ばれた烏丸光栄の子であり、中世から近世へ細々と連続してきた古今伝授の流れに貢献し
てきた家系に連なっている。日野資枝は柳沢信鴻の歌道上の師であり、その子柳沢保光に古今伝授を
施している。

 「環」
 立川義明作の3人の裸婦銅像。少女たちのすらりと伸びた美しい肢体が、何かを取り巻くように、
守るように囲んでいる。一体全体何を守っているのか? もしかすると彼女たちが腕を絡め合わせて
作った「環」は、生命の輪なのかも。恐ろしい事件の多発する現在なればこそ、この像の美しさ、気
高さが身に沁みる。



■花見寺
 浄居山
青雲寺
 西日暮里3丁目6番4号、西日暮里公園の西下にある臨済宗妙心寺派の寺。公園も元々はこの寺の
境内だった。「日暮里花見寺3ヶ寺」の一つ。他は妙隆寺と修性院。開山は智光禅師、初め入間郡に
浄居寺(じょうごじ)として開いたが、その後荒廃した。宝暦年間(1751~64)この寂れてい
た浄居寺を、堀田相模守正亮が、現在地に引移して再興したので、山号を浄居山、寺号を正亮の法号
青雲院に因んで「青雲寺」とし、堀田氏代々の道場となった。
 江戸時代には、江の島を模した岩窟内の弁天社、山上の二つ観音、布袋堂、弁天本社、恵比寿・大
黒の秋葉社、日暮宮などが境内にあった。明和のころに妙隆寺(この寺は世田谷区瀬田に移転し玉川
寺となった)、修性院の境内と続いた大庭園が切り開かれ、江戸市民遊覧の地、花見寺として親しま
れた。しかし文化四年(1807)火災で伽藍を焼失、文政の頃庭園も廃園となり、谷中七福神の一
つ恵比寿堂は明治になって再建されたが、戦災でまた焼失した。「新編武蔵風土記稿」に、

   青雲寺
   禅宗臨済派京都妙心寺末、浄居山と号す。開山智光禅師なり。宝暦年中掘田相模守正亮中
   興す。本尊観音を安す。元は妙隆寺・修正院と同く庭中を巧みに造りて遊歴の人集える寺
   なりしが、今は庭園となれり。
   金比羅社。境内の鎮とす。此余昔は観音堂・秋葉・熊野・稲荷・浅間・弁天・大黒・恵比
   寿・布袋堂等ありしが、文化四年焼失して再建ならず。
   船繋松。境内東北の崖にあり、古木は枯て植継しものとみゆ。往昔この崖下まで入海なり
   し時、船と繋きしゆへ、かく名付と云傳ふれと、もとより造なる拠なし。樹下に船繋松の
   碑を建て銘文を刻す。


 とある。谷中七福神の恵比寿を祀ってるよ。

 花の名所であったことを詠ったもの

   花の頃けふもあすかもあさっても飽かぬ眺めにひぐらしの里

 日野資枝の歌碑

   たれとなく咲きそう花のかげとひてけふひぐらしの里ぞにぎわふ

 太田南畝(蜀山人)の狂詩

   
上野ト飛鳥トヲ兼ヌ 花ハ開ク日暮里 三絃茶弁当 多クハ幕ノ裏ニ有リ

 日莫里繋舟梥之碑(太田道灌船繋ぎ松の石碑)
 西日暮里駅のすぐ西側にある小高い丘は、室町時代の武将太田道灌に縁があって、道灌山と呼ばれ
ている。その頂上に、嘗ては遠くから見ても一際目立つ「崖に臨み鬱蒼としてそびえた松(江戸名所
図会)」の木があり、太田道灌が船を繋いだという伝説から「舟繋ぎの松」と呼ばれていた。この石
碑は、江戸時代にそのそばに建てられたもので、かつては青雲寺の境内だったことから、現在は、道
灌山の西側の同寺本堂前右手にに移築されている。因みに左手の碑は「瀧沢馬琴の筆塚」だ。
 太田道灌は、江戸城を築いたことで有名だが、当時の江戸は、干潟の広がる海辺だった。碑文では
その風景を想像しながら、この松に舟を繋いだのは道灌だろうかと、一世の英雄に思いを馳せている。
事実としてはそういうことはなかったかもしれないが、文章からは、太田道灌に対する熱い想いが伝
わってくる。
 碑を建てたのは、江戸の木挽町(現在の銀座の一角、歌舞伎座の辺)に住む平田初麻呂というご隠
 居。文章を書き、清書した入江北海は、伊賀上野藩の藤堂家に仕えた儒学者。太い筆で書かれた文
字は、けして整ってはいないが、なんともいえぬ味わいがある。
 碑そのものに建碑年は書かれてはいないが、江戸の出来事を年代順に記した『武江年表』という本
には、安永元年(1772)にこの碑が建てられた、という記事がある。また江戸の名所を絵で紹介
した『絵本物見岡』という本にも、この石碑が出てくる。これらからすると、木挽町のご隠居が建て
たこの石碑は、結構評判が高かったようだ。
 なお、残念なことに、碑文には最初と最後に剝落があり、完全には判読できない。
 なお現在松は枯死したため存在しない。

   日莫里繋舟梥之碑
   其始也苦於雉兎中而厄於絓繋終歴
   千載而不改者唯松獨也日莫里青雲
   寺林有号曰繋舟枀葢古者從阜東匯
   皆澤囙澤為隍倚舟于門或其然乎滄
   桑屢變不可謂毋也初太田持資用俶
   儻之節振威於東諸州信當世徤壯傑
   士也晩入道稱道灌志尚風雅即繋舟
   於斯阜者邪山曰衟灌里曰日莫日莫
   即訓消日也可以徴焉逸民初麻呂遊
   觀於斯適有槩然於心而出涕悪夫涕
   之無識也謁余為辤刻之于石銘曰日
   莫之里遺愛之虗楚者松感茲居諸厥
   □□□□□□鋤魂如不朽消揺斯閭
          北海入江貞撰并書

   (裏面)
   江都鋸匠街平田初麻呂建之

   (読み下し)
   日莫里の舟を繫ぐ松の碑
   其の始まりや、雉兎(ちと)の中(うち)に苦しみて絓繋(かいけい)に厄せられ、終
   (つい)に千載を歴(ふ)れども改めざるは、唯だ松独りのみなり。日莫里の青雲寺の
   林に、号して舟を繋ぐ松と曰うもの有り。蓋し、古(いにしえ)は、阜(おか)より東
   の匯(めぐ
りは皆みなにして、因りて沢を隍(ほり)と為す。舟を門に倚するも
   或いは其れ然らんか。滄桑屢々(しばしば)変ず、毋(な)しと謂うべからざるなり。
   初め太田持資、俶儻(てきとう)の節を用(も)って威を東の諸州に振るう。信(まこ
   と)
に当世の健壮の傑士なり。晩に道に入り道灌と称し、志、風雅を尚(とうと)ぶ。
   即ち舟を斯の阜に繋ぐ者か。山は曰わく道灌、里は曰わく日莫。日莫とは即ち日を消す
   と訓ずるなり。以て徴すべし。逸民初麻呂、斯に遊観し、適々(たまたま)心に慨然
   る有りて、涕(なみだ)を出だす。夫の涕の識る無きを悪(にく)むなり。余に謁
   て辞を為らしめ、之を石に刻む。
   銘に曰わく、
   日莫の里、遺愛の虗(おか)
   楚々たるは松、茲に感じて諸(ここ)に居る
   厥□□□、□□□鋤(判読不能)
   魂は朽ちざるが如く、斯の閭(むら)に消揺(しょうよう)
                             北海入江貞、撰し并びに書す

   (裏面)
   江都鋸匠街(きょしょうがい)の平田初麻呂、之を建つ

 ●金毘羅権現鎮座の碑
 西日暮里公園のところにあった石碑群を移したので碑は多く、享和年間(1801~04)境内に
住んでいた狂歌師安井甘露庵を祀る「安井金毘羅宮」は、文化七年馬琴の筆で、本所松阪町の書籍商
平林正五郎により建てられた。側面に馬琴一家の狂歌が刻まれている


   
雲と雪と五分五分に見る山桜もう一寸も目をはなされじ

 という花見寺にふさわしい文化元年(1804)の歌碑がある。

 瀧沢馬琴の硯塚
 寛政十年(1798)建立のこの碑は硯を立てた形で建てられている。

   馬琴の筆塚・硯塚(花見寺)
   江戸中期に「ひぐらしの里」として市民に親しまれたこの地は、四季に花が咲き花見寺の
   名を生んだ。この青雲寺は、七福神の一つ「恵比須」が祀られており、境内には道灌船繋
   松の碑をはじめ、瀧沢馬琴の硯塚(寛政十年・1798)、同じく筆塚(文化七年・18
   10)、享和年間(1801~3)の狂歌師安井甘露庵の碑があり、往時をしのばせるも
   のが多い。                           荒川区教育委員会

 瘞筆冢銘(滝沢馬琴筆塚の碑)
 
えいひつちょうめい(ふでをうずむつかのめい)と読む
『椿説弓張月』が好評だったことから書
店が発起人となり、篆額は狩谷棭斎
えきさい)。撰文は馬琴の儒学の師亀田鵬斎
 
『南総里見八犬伝』をはじめとして生涯に250もの書を著したので、使い尽くした筆が机上に山
をなし、その禿筆を供養するために、文化七年(1810)に建立した。
 滝沢馬琴は、現在では曲亭馬琴と呼ぶ方が正式。『椿説弓張月』『南総里見八犬伝』などの作品で
有名な、いわずと知れた江戸時代後期の大作家。
 「瘞筆」の「瘞」とは、土の中に埋めること。馬琴が使い古した筆を埋めた、所謂「筆塚」に建て
られたのがこの石碑で、元は当時青雲寺の境内だった道灌山の上にあったが、明治になって移築され
たものだ。
 碑文を書いた亀田鵬斎は、江戸の人で、名は長興。当時最高の漢詩人の一人で、馬琴の漢学の師匠
でもある。
 碑文は、馬琴の業績を格調高く紹介するところから始まる。併し後半、「毛穎」なる人物が登場す
ると、調子が一転。「穎」とは穂先のことで、「毛穎」とは、姓は毛、名は穎と、筆に人間めいた名
前を付けて呼んでみたもの。実は、中国の唐王朝の時代の文豪韓愈に「毛穎伝」という、筆の一生を
歴史書風に真面目腐って書いたユーモラスな文章がある。この碑文は、それを踏まえたもので、真面
目に見える中に隠されたユーモアを味わうのが読みどころだとか。
 また、裏面には、馬琴のプロフィールと、筆塚が作られるに至った経緯が、やはり鵬斎によって簡
単に記されている。

   (表面)
   瘞筆冢銘
   曲亭翁者稗官者流也譱飾亡根之事以醒里耳綴鑿空之話以振恒
   心雖戯謔似弄世頗寓勸懲焉其所著傳奇小説大小凢二百餘種皆
   随時尚而標其異追世態而悉其變今年新於去年朙年新於今年是
   以詞中搆無數之幻緣紙上現無邉之化境一創一奇百創百奇漏天
   機者為不尠矣其無邉無數之寓言雖盡出於翁一人之意匠假毛穎
   氏之資者二十年於此噫毛穎氏亦甚勞矣夫稗官脞記者鄙事也毛
   穎氏勞於鄙事而費其精精費則頭禿頭禿則人弃之既假其資而弃
   之則其精蘊而鬱矣豈得無祟耶於是欲瘞其枯管而祀之中山途遥
   言歸未迨因留殯于東都之郊擧之以布囊斂之以瓦甎庶幾永安于
   茲冢在於谷中新堀山之上乃建之石而勒其銘不亡勞也銘曰
   若魂氣則無不之也無不化也汝化矣則將奚處奚歸乎問之無聲叩
   之無音汝傚毘耶氏之黙耶抑患貫中氏之瘖耶瘖乎黙乎吁戯乎噫
   得無箴後之戯謔乎於是乎銘于石
   文化六年己巳春二月
                     鵬齋龜田 興撰并書
                     棭齋狩谷 望之篆額


   (読み下し)
   瘞筆の冢の銘
   曲亭翁は稗官者流(はいかんしゃりゅう)なり。善く亡根の事を飾りて以て里耳を醒ま
   し、鑿空(さくくう)の話を綴りて以て恒心を振るわす。戯謔して世を弄ぶに似たりと
   雖も、頗る勧懲を寓せり。其の著す所の伝奇小説は大小凡そ二百余種、皆、時尚に随
   て其の異を標(しるし)、世態を追いて其の変を悉す。今年は去年より新たに、明年は
   今年より新たなり。是を以て詞中に無数の幻縁(げんえん)を搆(かま)え、紙上に無
   辺の化境を現す。一創一奇、百創百奇、天機を漏らす者尠からずと為す。其れ無辺無数
   の寓言、尽く翁一人の意匠に出ずると雖も、毛穎氏の資を仮る者(こと)、此に二十年
   なり。噫、毛穎氏も亦甚だ労せり。夫れ稗官の脞記(ざき)するは鄙事(ひじ)なり。
   毛穎氏は鄙事に労して其の精を費やす。精費ゆれば則ち頭禿げ、頭禿ぐれば則ち人之
   弃(す)つ。既に其の資を仮りて之を弃つれば、則ち其の精、蘊(うん)にして鬱なら
   ん。豈祟る無きを得んや。是に於いて其の枯管を瘞めて之を祀らんと欲す。中山は途
   かにして言ここに帰るも未だ迨(およ)ばず。因りて殯(ひん)を東都の郊に留め、之
   を挙ぐるに布囊(ふのう)を以てし、之を斂(おさ)むるに瓦甎(がせん)を以てす。
   庶幾(こいねごうらく)は、永く茲に安んぜんことを。冢(つか)は谷中新堀山(にっ
   ぽりやま)
の上に在り。乃ち之が石を建てて其の銘を勒す。労を亡ぜざるなり。銘に曰
   わく、
   魂気の若(ごと)きは則ち之()かざる無きなり、化せざる無きなり
   汝、化するや、則ち将に奚(いず)くに処(お)り、奚くに帰せんとするか
   之に問うも声無く、之を叩くも音無し
    汝は毘耶氏(びやし)の黙に倣(なら)うか
   抑(そもそも)貫中氏の瘖(いん)を患(わずら)うか
   瘖か黙か、吁(ああ)、戯れか
   噫(ああ)、後の戯謔を箴(しん)する無きを得んや
   是に於いてか、石に銘す
   文化六年己巳、春二月                鵬斎亀田興、撰し并びに書す
                             棭斎狩谷望之、篆額

   (裏面)
   翁名觧字瑣吉一称馬琴曲亭其別號也姓滝澤氏江戸人世仕某藩
   為武弁之家父諱興義性長技撃而射御之術無不悉極其奥矣有子
   數人翁其季也翁以多病故去而隱市其所著詭詞冊子巧冩憂樂愁
   啼嬉笑怒罵之光景使閨人穉子估客村農不能不為觧頤酸鼻千般
   萬般之状是以名噪一時坊賈捷利者獲翁之新著以為居奇而得其
   贏餘者有年矣今茲坊賈等與翁嗣子興繼相謀而建之葢飲水思源
   之誼云                   鵬齋興再識

   (読み下し)
   翁、名は解(とく
、字は瑣吉(さきち)。一に馬琴と称す。曲亭は其の別号なり。姓
   は滝沢氏、江戸の人なり。世々某藩に仕えて武弁の家たり。父、諱は興義。性、技撃に
   長じて
射御の術、悉く其の奥を極めざる無し。子数人有り、翁は其の季(末っ子)
   り。翁、多病を以ての故に去りて市に隠る。其の著す所の詭詞冊子、巧みに憂楽・愁啼
   ・嬉笑・怒罵の光景を写し、閨人・穉子(ちし
・估客・村農をして解頤・酸鼻・千般
   万般の状を為さざる能わざらしむ。是を以て名、一時に噪(さわが)しく
坊賈(ぼう
   こ)
の利に捷(はや)きは、翁の新著を獲て以て奇を居くと為して
其の贏余(えい
   よ)
を得る者、年有り。今茲、坊賈等、翁の嗣子興継と相謀りて之を建つ。蓋し水を飲
   みて源を思うの誼なりと云う。                 鵬斎興、再び識す

 平井金毘羅大権現鎮座碑
 本所松坂町の狂歌師平井正五郎(甘露庵)が文化七年(1810)に建てたもの。
 


■「バックレス」

 西日暮里3丁目7番12号にある高橋宝飾の前にある椅子に腰かけて足を延ばした女性像。洋服の
背中が大きく開いている。Backless・・・。


■第一日暮里小学校

 西日暮里3丁目7番15号にある区立校。明治18年「日暮小学校」として日暮里六番地に開校。
同34年谷中本1005番地に分教場設置。「日暮尋常小学校」と改称。同43年第二日暮里小学校
分校。大正2年「第一日暮里尋常高等小学校」と改称。同12年「第一日暮里尋常小学校」と改称。
 昭和2年分教場を独立させて第五日暮里尋常小学校とする。同7年東京市編入により「東京市第一
日暮里尋常小学校」と改称。同11年現在地に移転。同16年勅令148号国民学校令により「東京
市第一日暮里国民学校」と改称。12月日米開戦。同18年都制施行により「東京都第一日暮里国民
学校」と改称。同19年学童集団疎開。同20年3月アメリカ軍の無差別空爆により校舎全焼。日暮
里9丁目6番地で授業再開。
 同22年戦勝国アメリカの干渉による学校教育法施行により「東京都荒川区立第一日暮里小学校」
と改称し現在地に戻る。同30年創立70周年記念式典、校歌制定。

 校歌
「雲照る空に」 作詞・土岐善麿  作曲・信時潔
  1.雲照る空に 富士は聳え
    街の彼方に筑波は霞む
    諏方の森陰 緑の風に
    学べば新し 東よ西よ
    心は開けて 身も健やか
  2.春より秋へ 肩を並べ
    夏を冬へと 手に手を繋ぐ
    清く正しく 日毎に励み
    語れば昔の桜の花も
    輝き咲き添うこの高台

     広き世界に みな挙れ
     第一日暮里小学校に

 

 同60年創立100年記念式典、「ふくろうの像」設置。平成17年創立120周年。


 
ふくろうの像(正直親切の記念碑)
 
東側のさくら門前右脇にある。構内に入らなくても見ることはできる。フクロウの像は、開校10
0周年を記念し制作された。
校歌にも謳われる諏訪の森にふさわしい「森の知者」として第一日小の
子どもたちのシンボルとなり親しまれている。また「正直親切」の文字は卒業生である高村光太郎の
直筆で、昭和26年岩手県山口小学校の児童のために書かれたもの。高村規と財団法人高村記念会の
厚意により100周年記念碑に使わせて貰った。「自分に正直に」「人には親切に」、いまではこの
「正直親切」は校訓になっている。
 高村光太郎は、明治23年に日暮里小学校に転入し、本校を卒業した。彫刻家として優れた作品を
残し、また詩や絵、書にも多くの作品を残している。光太郎は、それらの作品から人を愛し自然を愛
する人間としての生き方を教えている。

   創立百周年記念
   
高村光太郎書「正直親切」の記念碑
   「正直親切」の文字は、本校卒業生である高村光太郎の直筆で、昭和26年岩手県山口小
   学校の児童のためにかかれたものを、高村規氏、財団法人高村記念会のご厚意により創立
   百周年記念碑に使わせていただきました。
   高村光太郎は、明治23年に下谷区練塀小学校から日暮里小学校(当時は現在の福祉館の
   場所に校舎がありました)に転校、ここで勉強し小学校を卒業しました。
   その後、彫刻家としてすぐれた作品をつくり、また詩や絵もかき、立派な書を数多く残し
   ています。ここで大切なのは、それらの作品を通して光太郎が人を愛し、自然を愛する人
   間としての生き方を教えていることです。先輩光太郎が心をこめてかいた「正直親切」の
   文字が、本校に学ぶ児童一人ひとりの心の中に、いつまでも生き、その成長を支えること
   を望みます。
   「フクロウ」の像は、石彫家飯田雅光氏の作で、本校校歌にもある〝諏訪の森かげ、みど
   りの風に〟ふさわしい《森の知者》として、一日小の子どもたちのシンボルとなり、永く
   親しまれることを願っています。
   昭和60年11月9日               東京都荒川区立第一日暮里小学校
                               創立百周年記念事業協賛会

   本校は彫刻家高村光太郎氏の卒業した小学校です
   
高村光太郎書「正直親切」の記念碑がございます。
   どうぞご自由にご覧ください。
 


■太平洋美術会研究所

 西日暮里3丁目7番29号、諏方台通りに面してある。ちょうど諏方神社の西の入口の真向かい。
その裏手隣接の崖下は第一日暮里小の校地だ。太平洋美術会は、一見したところ、何の変哲も無い小
さな町のアトリエといった感じだが、どっこい日本美術史上に名を残す存在なのだ。しかしそんな研
究所が荒川区にあることは一般にはあまり知られていない。
 太平洋美術会は、 その前身である明治美術会の結成以来一世紀あまり明治、大正、昭和、平成の4
世代に亘り輝かしい伝統を築き上げてきた我国の洋画及び彫刻界に最古の歴史を誇る美術
団体だ
。明
治22年小山正太郎、浅井忠等によって創立された「明治美術会」は、同35年「太平洋画会」と改
称し、当時の洋画会の新人満谷国四郎、吉田博、中川八郎、石川寅治、石井柏亭、大下籐次郎、丸山
晩霞などにより、同年3月上野公園第5号館において第1回展を開催した。こののち日本近代美術史
の曙を拓いた人々の作品だ。
 明治37年には谷中清水町に洋画研究所を開設し、翌年同研究所を谷中真島町に移して後進の育成
に努め、さらに昭和4年には研究所を「太平洋美術学校」と改め、初代校長は中村不折が務めた。官
立の美術学校と対抗して、当時在野における唯一の存在として、幾多の英俊鬼才を日本洋画壇に送り
出した。しかし戦時中は美術界も受難の時代、「画家も彫刻家も作家も国に殉ずべし」という体制の
下では、各自戦争産業面をテーマとした制作や陳列をせざるを得なかった。また戦後の混乱の中で一
時期、朱葉会・新構造などと連立展を組織して展覧会を続けたが、数年にして再び太平洋独自の展覧
会を開催することができるようになった。
 昭和29年には代表布施信太郎の下、第50回記念展を開催。この記念展に陳列された太平洋画会
関係の物故作家や現代大家の作品は、黎明期以来半世紀に亘る我国近代美術界の巨歩を示したものと
して注目された。同30年染織部を、満留満、野口道方などにより創設して伝統技術に新しい生命を
注ぎ、翌31年には彫刻部も充実させて澤田政廣、堀進二ら斯界第一線の指導者が復帰した。版画部
は同47年に部会として独立し、独自の版画表現を目指している。この間、太平洋美術学校は、昭和
20年3月にアメリカ軍の無差別空爆に遭い、由緒ある校舎は焼失したため休校の已むなきに至った
が、その後会員一同の協力によって西日暮里は諏訪神社横に校舎を完成し、同32年11月3日堀進
二代表を校長として開校、現在までに数多の作家を輩出してきた。同じ年「太平洋画会」を「太平洋
美術会」と改め、昭和50年12月には社団法人として認可され、平成16年5月第100回記念展
を迎え、百年史を編纂刊行した。
 太平洋美術会は、現在鈴木克久会長以下洋画、彫刻、版画、染織の各部に会員、会友560余名を
擁して制作、発表のほか、研究所における後進の教育・指導・育成などの活動を通じて我国美術界に
寄与している。
 余談だが、後に高村光太郎の妻になった長沼智恵子が日本女子大卒業後明治40年に学んでいる。
智恵子のいわば母校太平洋画会が、昭和11年に現在地に移転してきた第一日暮里小学校の隣りに所
在するのも何か因縁めいている。第一日暮里小学校は、智恵子の夫高村光太郎の母校で、明治23年
の在籍時は、浄光寺南側に在あって日暮小学校といった。これまたあまり知られていない事実ではな
かろうか。

   太平洋美術会
   太平洋美術会は、明治35年にその前身である太平洋画会が創設されて以来、明治、大正、
   昭和、平成の四世代のわたる輝かしい伝統を築き上げてきた、我が国の洋画及び彫刻界に
   おける最古の歴史を誇る団体です。
   明治37年に谷中清水町に洋画研究所を開設後、昭和4年に研究所を太平洋美術学校と改
   め、官立の学校に対抗し、在野の立場から坂本繁ニ郎、中村彝、高村智恵子など、幾多の
   英才鬼才を我が国洋画壇に送り込んできました。
   昭和20年3月の戦災による校舎焼失後、会員一同の協力により、諏方前のこの場所に再
   建され、昭和32年名称を太平洋美術会と改め、現在に至っています。
   平成7年度開始の「ディスカバーあらかわ 区内の風景画展」「荒川区を描く絵画講習会」
   開催など、荒川区の芸術・文化振興にも多大な貢献をされています。
   平成14年に100周年を迎えた伝統あるこの団体が荒川区に本拠を構えていることは、
   荒川区民の誇りとするところであり、ここに太平洋美術会の足跡を記し、その功績を讃え
   るものであります。
   平成19年9月                              荒川区


■花見寺② 
運啓山修性院純光寺

 西日暮里3丁目7番12号にある日蓮宗の寺。身延山久遠寺の末。天正元年(1573)豊島郡田
中村(板橋区)に谷中感応寺の修性院日運上人が創立し、寛文三年(1664)現在地に移転したと
伝わる。かつては第一日暮里小学校も、北側の住宅地も境内だった。宝暦六年(1757)京都の庭
師岡扇計に庭を作らせ築山や奇岩、橋などを配したところ、隣接の青雲寺と妙隆寺が倣って、庭続き
の花見寺となった。江戸市民の年中行事の始めは七福神で、ここの布袋は特に「日ぐらしの布袋」と
親しまれている。江戸中期頃からこの辺りは「日ぐらしの里」と呼ばれていて、江戸近郊の行楽地と
して賑わった。
 境内には儒者至誠堂を開いた日雄荊山の衣幘(サク)蔵碑がある。娘は教育者で竹陰女塾を開いた
直子だ。「新編武蔵風土記稿」に、

   修性院 法華宗:下総国中山法華経寺末。運啓山純光寺と号す。天正元年郡中田中村に草
   創ありしを寛文三年当所へ移転すと云。又昔は谷中感応寺(天王寺)の末なりしに、元禄
   十一年彼寺改宗に因て身延の直末となれり。開山日運、慶長六年五月六日寂す。本尊三宝。
   当寺も宝暦年中より庭前に仮山等を造りて都人遊観の地となれり。
   三十番神堂。聖徳太子及毘沙門の像をも安置す。毘沙門は伝教大師の作と云。


 とある。

 ひぐらしの布袋尊
 布袋尊は笑顔を浮かべた円満な容姿で親しまれているが、元は中国出身の禅僧で実在した人物だ。
常に布袋を背負い、その中に沢山の福財を入れていたという。七福神で布袋尊が司るのは〝大量〟。
本物の布袋尊像(木像)は本堂の中に祀られていて、高さ2m、重200km(?)もあり、ほのぼ
のとした顔ながら、存在感がある。残念ながら、通常は見られませんが、「七福神巡り」が開基され
るお正月と、他に毎年11月23日(祝日)に開かれている「布袋尊祭」で公開さる。この布袋尊像
は、木像なので200kmもあるようには見えないが、「木像だが、漆喰で塗り固められているので
重くなっている」とのこと。寺の外壁は淡いホワイトピンクで、8枚の布袋尊のタイル漫画絵が貼ら
れている。

   日ぐらしの布袋尊
   修性院の布袋は、谷中七福神の一つで、「日ぐらしの布袋」ともよばれる。谷中七福神め
   ぐりは、江戸市中で最も古い歴史をもち、年初めにあたって江戸市民が行う年中行事の一
   つであった。江戸時代の中期頃から、このあたり一帯は俗に「ひぐらしの里」とよばれ、
   江戸近郊の行楽地として賑わった。ことに修性院・妙隆寺(身延山関東別院玉川寺)・青
   雲寺は、境内に多数の花樹を植えて、「花見寺」の名にふさわしい庭園を作り、四季折々
   の草花を楽しむことができたという。境内には、江戸時代の儒者・日尾荊山の衣幘碑があ
   る。                              荒川区教育委員会


■花見寺
 妙隆寺跡

 西日暮里3丁目7番6~11号、修性院の南の住宅地のあるブロックに寺はあった。元禄七年(1
694)に移転してきたという。寛延元年(1748)境内東側の崖を利用して庭園を造り、桜・ツ
ツジを植えて以来花見寺と呼ばれたとあるが、この点修性院の記録と齟齬をきたす。寺は明治初年廃
寺となり、法統と檀家は修性院に引き継がれている。昭和初期寺の新造が認められなかった時、この
寺を引き継ぐ形で世田谷区瀬田に移して身延山関東別院玉川寺となった。

 跡地
 明治38年東京女子体操音楽学校(東京女子体育大学)が移転してきた。東京女子体育大学は東京
女子体操音楽学校の名前に改称した明治35年を創立年としており、平成14年に創立100周年を
迎えたが、学校法人藤村学園の名に残る藤村トヨが東京女子体操音楽学校の運営に乗り出したのは

41年のことだった。それは、まさに日暮里妙隆寺跡に在った時代であり、藤村学園スタートの地
といえるんじゃないか。その後、同
校は、42年に下谷区三崎町に転出、翌43年日暮里村105
4番地(西日暮里4丁目29番)に移転、大正11年まで所在している。

 その後の跡地は、芝居小屋花見座を経て、明治43年7月
福宝堂の日暮里花見寺撮影所が開設され
ている。映画史にも登場する日本映画黎明期の撮影所だった。江戸時代より「日暮里の林泉」として
知られたこの界隈は、ロケ地としても最適地だったのかもしれない。
 福宝堂は、その後大正元年横田商会、吉沢商店、Mパテー社と合同し、日本活動写真株式会社(日
活)を設立している。というのが、区の資料などに示されている内容だ。ただ明治44年発行の地図
には、崖側に妙隆寺の名が、坂下側に花見座の名があること、大正15年発行の「日暮里町史」には
「妙隆寺・・・・現住職渡邊教通氏は大正5年・・・就職せり」という記載がある。


■富士見坂
(花見坂・妙隆寺坂)
 寺跡南(西日暮里3丁目7番と8番の境)を東に上がっていく坂。現在でも富士は見えるが。前方
にマンションが建ったので右側半分しか見えなくなった。坂を上がり切ったところを諏方台という。

   
富士見坂
   坂下の北側の墓地は日蓮宗妙隆寺(修性院に合併)の跡。妙隆寺が花見寺と呼ばれたこと
   から、この坂も通称「花見坂」、または「妙隆寺坂」と称された。
   都内各地に残る「富士見」を冠する地名のなかで、現在でも富士山を望むことができる坂
   である。                            荒川区教育委員会
   
日暮里の富士見坂から実際に美しい富士山の姿が見られることから「関東の富士見百景」に選定され
   ています。秋から冬の空気が澄んでいる晴れた日が見頃です。
 


■浦山一雄の彫刻「バックレス」

 西日暮里3丁目7番32号、太平洋美術会の3軒ほど南の「高橋宝飾」の入口脇に置かれている。
第5回日展出品作で、背中を大きく開いたドレスの少女をモデルとした作品だ。浦山は、町屋3丁目
在住の彫刻家で日展の評議員。少女モデルの彫刻が多く、荒川区内では、この他に、南千住図書館前
の「夢・現」など3体が公開されている。


■六阿弥陀道

 富士見坂下の南北にはしる道。南に進めば、谷中ぎんざの商店街入口に出るし、北に進めば道灌山
通りの西日暮里四丁目交差点に出る。六阿弥陀道というのは、江戸時代に流行した六阿弥陀詣での道
筋だったことによる。六阿弥陀詣でとは、行基作成といわれる六体の阿弥陀像を安置した六つの寺を
巡るのである。奈良時代の頃より始まり、春秋のお彼岸に、お遍路さんのような格好で巡礼したらし
い。諏訪台下を沿う曲がりくねったこの道は、田端の第四番与楽寺と上野広小路の第五番常楽院を結
ぶルートだった。富士見坂から南寄りの南泉寺前に石碑が建てられている。


瑞応山南泉寺
 西日暮里3丁目8番3号にある臨済宗妙心寺派の寺。大愚(寛文九年(1669)寂)が開山とな
り、元和二年(1616)徳川家から境内3200余坪を拝領し創建、将軍家光・家綱に仕えた老女
岡野が中興。その遺言により貞享三年(1686)寺領30石の朱印状を拝領したという。なお大愚
は東久留米米津寺を開山した臨済宗の名僧。
 右に本堂、正面は玄関になっているらしく変った造りだ。本堂前の庭は上出来。
 「新編武蔵風土記稿」に、

   南泉寺
   同宗同末(禅宗臨済派京都妙心寺末)瑞應山と号す。元和二年の起立にして、開山大愚寛
   文九年七月16日寂。本尊釈迦。中興開基は岡野と云老女なり。こは大猷院殿厳有院殿に
   仕へ奉り、化粧料三百石を賜り延宝四年七月十三日歳七十三にて死し、遺言の願に由て上
   り地の内三十石を当寺へ附せられ、貞享三年御朱印を賜はれり。
   寺宝。
   厳有院殿御書一軸。達磨を書かせ給ふ。
   朝鮮国王所持扇一本。象牙の平骨にて人物山水等を彫刻す。小骨十本は加羅なり。地紙惣
   金表面に山水、裏面に梅鳥を墨にて書く。
   以上二品延宝年中住持定水拝領せし由云傳ふ。
   天神弁天合社。
   鐘楼。寛文五年鋳造の鐘を掛く。
   寺中、息心院。

 本尊木造聖観音立像
 本堂内の木造聖観音立像は、美濃遠山氏の念持仏。厨子に遠山氏の家門、「遠山家 息心庵本尊、
正観音菩薩、安政四年丁巳七月十日」の銘がある。上半身等に江戸期の補修が加えられているが、鎌
倉期の作と推定される。その他。善光寺式阿弥陀三尊の一部と思われる銅造菩薩立像を所蔵。

   美濃遠山氏の聖観音(南泉寺)
   山号を瑞応山と称する臨済宗妙心寺派の寺。元和二年(1616)徳川家から境内三千二
   百余坪を拝領し大愚が開創した。その後、將軍家光・家綱に仕えた老女岡野の遺言により
   貞享三年(1686)朱印地三十石を賜った。
   本堂内の木造聖観音立像は、美濃遠山氏の念持仏。厨子に遠山氏の家紋、「遠山家 息心
   菴本尊、聖観音菩薩、安政四年丁巳星七月十日」の銘がある。上半身等に江戸期の補修が
   加えられているが、鎌倉期の作と推定される。その他、善光寺式阿弥陀三尊の一部と思わ
   れる銅造菩薩立像を所蔵。境内には、菅谷不動、講談師松林伯円の墓等がある。
                                   荒川区教育委員会


 お招ぎ堂(お招き様、お客神様、招客明神)
 『おまねぎ』と描かれた看板が掲げられた祠は境内の奥にある。かつてこの地に多くいた遊女たち
が商売繁盛に祈願した性神石群だ。左に男根石・右に男女の混合石・真ん中にはお尻形石像が砂埃を
被って奉られてる。これら3体の上にもう1体天然石がある。断面に何か模様のようなものが浮かん
でいる。寺によると観音菩薩が浮き出ているらしい。

 団十郎不動
 山門に入ると左手に団十郎不動の標柱がある。明治時代の九代目市川団十郎の弟子の新蔵が目を患
い、南泉寺の菅谷不動尊に平癒の願を掛けたところ治癒したことから「団十郎不動」と呼ばれるよう
になった。不動堂は本堂左にある。

 蛙塚
 供養碑。水鉢の前面には「奉改修 國際産業KK」と記載されている。碑の裏面には「亀戸町 施
主 本多藤太郎 大正六年五月十三日建之」とある。右隣の石灯籠の裏にも同じ日付と寄贈主の名前
が刻まれている。大正時代に、カエルやヒキガエルの皮を使って靴や袋物を製造していた国際産業株
式会社というところが、役に立ってくれたカエルたちの供養のために建立したもの。

 
初代・2代松林伯円の墓

 初代は江戸中橋の講談席「堀川」の子で、助太郎または助次郎といった。初代神田伯龍に入門、の
ち松林亭伯円と号した。安政二年(1855)の大地震で圧死した。2代目は、常陸国下館藩士の子
として生まれ、本名は若林義行。初め伊東潮花に入門。20歳の時初代の芸養子となる。講談の名手
であったのみならず『天保六歌撰』『安政三組盃月』など70余の講談を創作した。寺は3丁目8番
にある。

 白井光太郎の墓
 植物学者・植物病理学の権威。東京帝国大学名誉教授。白井久人の長男。越前福井出身。明治5年
藩主松平春嶽より英語を学び、東京英学校・東京大学予備門を経て、東京帝国大学理科大学植物学科
に入り、同19年卒業。同16年家督を相続。同20年駒場東京農林学校教授。同32年植物病理学
研究のためドイツに留学。帰国後、東京帝国大学農科大学助教授。同40年同教授。同43年理学博
士。大正14年退官して東京帝国大学名誉教授。稲熱病病原菌の発見・梨赤星病菌の中間寄生決定等
の歴史的偉業をなした。日本植物病理学会を設立し初代会長となり、天然記念物の保存を訴え、今日
保存するようになったのは白井光太郎の功績だ。昭和7年5月30日不老長寿薬(烏頭)の配剤を間
違え急死した。行年70歳。従三位勲二等旭日重光章。著書「日本植物年表」「植物妖異考」「日本
菌類目録」「最新植物病理学」。

 
六阿弥陀道石柱
 門前にある。


日照山法光寺
 
西日暮里3丁目8番6号にある法華宗の寺。慶安三年(1650)港区赤坂に開基し、新宿区四谷
坂町への移転を経て、現在の日暮里富士見坂下へ移転した。本堂には美濃遠山氏の念持仏である聖観
音立像が祀られている。

 陸軍少年飛行兵慰霊碑
 門前にある。当時の住職が軍隊に従事したことが由縁で建立された。

   捧 陸軍少年飛行兵慰霊 1970 3 21

 傍らに立つ説明板に、

   慰霊碑由来
   ノモンハン事変以来終戦に至るまで陸軍少年飛行兵として戦野に赴きし者四萬五千にして
   空陸海に散華せし者数うるに限り無し 依って生存者遺族有志相集いて誠を捧げんとして
   是を建立す。行き交う人々心あらば一遍の回向を賜らんことを      沙門 某 敬白


 とある。


宝珠山延命院

 西日暮里3丁目10番1号にある日蓮宗の寺。開基は4代将軍家綱の乳母三沢局だ。家綱出生の際
に、安産を祈祷した慧照院日長が、三沢の局の信施を受け甲州身延山の七面大明神を勧請、慶安元年
(1648)別当寺として延命院を開創したという。七面大明神は秘仏とされて七面堂に祀られてい
る。境内には樹齢六百年を越えるといわれる大椎の木があり、都の天然記念物に指定されている。

 
七面大明神
 願望成就には鏡七つと面七つを御礼奉納するのが因縁だ。七面天女、七面大菩薩ともいい、七面は
「ななおもて」と読む。元政上人の「七面大明神縁起」によれば、吉祥天の垂迹で、身延山の鬼門を
閉じて七面を開くのでこの名がある。なお七面大明神の本地は法華経第十二の八歳の龍女とする説も
ある。建治三年(1192)日蓮聖人が身延で説法をしていると、聴衆の中に美しい婦人がいた。南
部実長はこの見覚えのない美女を何者であるか不審に思うと、日蓮聖人は婦人に「本体を皆さんに見
せてあげなさい」といわれた。するとご婦人は一丈あまりの竜に姿を変え、「私は七面山にすむ七面
天女で身延山と法華経の護法神です」といって身延山西南方の七面山に飛び去ったという。聖人が寂
滅されて16年目の永仁五5年(1297)日朗上人と南部実長は、標高1982mの七面山に登り、
山頂の一の池の傍らに堂を建て、敬慎院として七面大明神を祀ると、法華経の守護神として広く信仰
されるようになり、徳川家康の側室お万の方が、七面山の表参道の入口の「白糸の滝」で水行し、そ
れまで女人禁制の七面山に初めて登詣したことで、男女を問わず霊験新たかな七面大明神信仰はいよ
いよ盛んになった。
 七面山は法華経の聖地とされ多くの行者や法華経の力を体験した人々の参拝が多い霊山なのだ。迎
拝台から拝む霊峰富士に上るご来光の見える見えないによって、参拝者の魂や行動をはかるとされて
いる。何はともあれ素晴らしい大観望でこれこそ絶景というべきだろう。すぐ隣に世界で一番高いと
ころにあるお題目(南無妙法蓮華経)として有名な平和記念塔が天を貫く勢いで建っている。

 
大椎
 境内にある都の天然記念物。シイはブナ科に属し、日本の照葉樹林の最も中心となる常緑高木。実
(堅果)は渋みがなく、やや透明な白色で食用となり、また庭園樹としても広く利用されている。延
命院のシイは、幾年月を経て尚力強い枝ぶりの見事なスダジイで、他に高い木の無い境内を、芝生が
広々と見せている。天保七年(1836)開板の「江戸名所図会」巻五の「日暮里惣図」に、現在地
と思われる位置に本樹の全容が描かれていて、当時から地域の人々に親しまれた老樹であることが伺
われる。平成9年の採寸では幹周り5m50cmの巨樹だったが、同14年5月に幹内部の腐朽が原
因で南側の大枝が崩落し、安全のため現在の樹形に保っている。

   七面大明神と延命院の大椎
   日蓮宗の寺院で宝珠山と号する。開基は四代将軍徳川家綱の乳母三沢局。家綱出産の際に
   安産を祈禱した慧照院日長が、三沢局の信施を受け、甲州(山梨県)身延山の七面大明神
   を勧請、慶安元年(1648)別当寺として延命院を開創したという。
   七面大明神には、胎内に慶安三年(1650)法寿院日命が願主となり、仏師弥兵衛の手
   で作られたことを記した銘文がある。秘仏とされ、七面堂に祀られている。これにちなん
   で、門前から宗林寺(台東区)方面に下る坂は七面坂と呼ばれる。
   境内には樹齢六百年を越えるといわれる大椎(都指定天然記念物)がある。
                                   荒川区教育委員会

 七面坂
 門前から宗林寺(台東区)方面に下る坂道。七面堂に因んで名づけられた。

   七面坂
   殿坂上から台東区町名寺の墓地裏を経て、宗林寺(通称萩寺)の前へ下る坂道をいう。坂
   名の由来は、坂上北側の宝珠山延命院の七面堂にちなむ。      荒川区教育委員会


 台東区の説明板は以下の通り。


   
七面坂(しちめんざか)
   宝暦年間の『再校江戸砂子』に「宗林寺前より七面へゆく坂」とある。宗林寺(台東区谷
   中3‐10)は坂下にある旧日蓮宗の寺。七面は坂上の北側にある日蓮宗延命院(荒川区
   西日暮里3-10)の七面堂を指す。七面堂は甲斐国(山梨県)身延山久遠寺の西方、七
   面山から勧請した日蓮宗の守護神七面天女を祀る堂である。
   坂は『御府内備考』の文政九年(1826)の書上によれば、幅二間(約3.6m)ほど、
   長さ五十間(約90m)高さ二丈(約6m)ほどあった。
   なお宗林寺は『再校江戸砂子』に、蛍の所在地とし、そのホタルは他より大きく、光もよ
   いと記され、のちには、境内にハギが多かったので、萩寺と呼ばれた。
   昭和54年3月                         台東区教育委員会

 現在のものは同文で「平成6年3月」に改修したもの。 

 
●八百屋お七
 
この七面大明神に願掛けして寛文八年(1668)に生まれたのが「お七」という訳だ。お七が寺
小姓に色事で入れあげることになる因果応報が、そもそもの延命院にあったのだ。お七は実在し、天
和三年(1683)3月29日に鈴ヶ森刑場にて火炙りの刑に処せられたのは事実だが、物語は種々
あってその経緯すらカオスの中にある。恋した相手も、吉三郎に始まって生田庄之助、佐兵衛と定ま
らない。16歳の少女の極刑だというので江戸市民の情を誘い、脚色されて芝居の題材に取り上げら
れた。当時の歌舞伎というのはワイドショウのようなもので、センセーショナルな事件は総て芝居に
している。お七の芝居には次のようなものがある。

 『伊達娘恋緋鹿子』 安永二年(1773)四月、 大坂堀江座。菅専助作。
 『其往昔恋江戸染』 文化六年(1809)三月、 江戸森田座。
 『松竹梅雪曙』   安政三年(1858)十一月、江戸市村座。河竹黙阿弥作。

 
●谷中延命院一件
  延命院で起きた大奥女中を巻き込んだ女犯スキャンダル事件、11代将軍家斉の治世を揺るがせ
た大醜聞だ。延命院の住持は日潤(日道)といい、歌舞伎役者中村菊五郎の隠し子だといわれ、稀代
の色男だった。
 上方歌舞伎の大立者初代尾上菊五郎の倅丑之助は幼い頃から芸道に励み、父と共に江戸の舞台も踏
み将来を嘱望されていた。しかし母親が菊五郎の正妻でなかったために締め出されてしまった。丑之
助は自暴自棄になり、遊び回って、江戸へ出奔、嘗て贔屓にしてくれた延命院住職日暁に泣き付き寺
に転げ込んだ。根が真面目な丑之助は名を道暁と名乗り修行に励んだ。やがて頭のいい道暁は立派な
僧になり、日暁没後、住職となり名も日潤と改めた。しかし運命とは皮肉なもので、日潤の親譲りの
美貌が仇となり地獄への道が開いてしまう。女が日潤に眼をつけ、評判が評判を呼び、女たちが信仰
ではなく日潤目当てに押し寄せるようになった。お布施は山のように集まり、自然、延命院は裕福と
なり、そうなると女たちの欲求は止まらなくなり、露骨に誘惑してくるようになった。男と女とどっ
ちが〝助兵衛〟かというと、圧倒的に女で、浮気も女の方が激しい。お嬢様といわれる大金持ちの農
家の娘が、許嫁がありながら男を造り、その男が殺した女の死体遺棄を手伝ってとっ捕まった事件が
あったろう。女の貞操は家柄でもなきゃ教養でもない。
 そうなると大奥の女たちの耳にも噂は届く。そんな様子に目を付けたのが納所坊主柳全だ。流石の
日潤も悲しい男の性、悶々と苦しんでいたから、柳全に唆されるまま女犯の罪を犯してしまう。一度
覚えた快楽の穴は、落ちると這い上がることは至難の技となる。女たちは押し寄せる、選り取り見取
りだ。日潤は驀進する。大奥の梅村を始めとして多数の大奥女中と情を通じているという噂が飛び、
寺に日参する女たちは引きも切らず、夜毎淫靡狂乱の痴態が繰り広げられていた。しかしそんな女た
ちの中に女密偵がいたことは、根が初な日潤は知る由もないし考えもしなかった。関係した女性は数
百人。見逃せなくなった時の寺社奉行脇坂淡路守安董(やすただ)は慎重に内偵を進めた結果、享和三
年(1803)五月二十六日院に踏み込むと、破戒坊主として日潤、柳全を逮捕、室内にいた女性達
を補導した。同年八月裁判の結果、柳全は晒した上、触頭の宗林寺へ引き渡され、日潤は死罪となっ
た。境内に立派な墓がある。破戒僧でも墓は在るんだ。
 さてさて女性信者については、2名が罰せられただけで、梅村などの西の丸の女中たちはお咎め無
しだった。当時将軍家斉は日蓮信者であり、一方西の丸の世子家慶は浄土宗で、大奥にはこの両宗の
軋轢葛藤が渦巻いていた。処分は、これらの複雑な事情を考慮の上の裁決だったといわれている。
 この事件後、天保十一~十二年の(1840)智泉院、鼠山感応寺と、大奥と破戒坊主絡みの事件
が続いたが、これらは何れも安董の先例に倣って大奥の女性たちの罪は不問に付す裁決となった。昔
からご婦人の支離滅裂は罰せられないものなのだ。現在でも離婚騒動においては妻の意思が絶対で、
夫の意見の容れられる余地はない。ぐずぐずいえばだらしないといわれ、あっさりすると人非人と罵
られる。ご婦人は常に外面を正義の中に置くから男どもご婦人に心許すなよ。
 ユーコリン(小倉優子)のような可憐な女の子でも、年を取りゃあ鬼にも般若にもなるんだ。若き
男よ、欲するままに努々快感是求める勿れ!

 と書いたら、平成27年国が、2、30代の男女にアンケートを取った。そうしたら驚くなかれ、
「恋人は要らない」との答えが、男女とも40%だったという。ユダヤが憲法24条を押し付けた効
果が表れてきたということだ。男女平等を訴え、女性の性解放を叫び、自由恋愛がこの世の至上とな
ると、男は女に嫌気が射してくる。パソコンが誰の手にも届き、AVが手軽に見られるようになると
一見男天国のようではあるが、その実際は男が去勢されてしまうのだ。ウーマンリブ運動、消費社会
化は誰がやったと思う? ロックフェラーだ。ユダヤは世界の金を集めることに汲々としている。憲
法24条は、純粋日本人を絶滅といわないまでも減殺する政策、オペレーションなのだ。
 いっておくが、ユダヤ人は現在も大家族主義で、結婚は見合で決めるのが主流だ。自由恋愛なんて
愚の骨頂。ユダヤ人は婚活なんて馬鹿なことはやってないよ。
 保育所が何故足りないのだ。大家族制度を壊したからだろう。核家族にしたからだ。ユダヤが何故
インディビデュアリズム(個人主義)を押し付けて来たか、君は解るか? それは日本人の団結を解
体するためなのだ。50年後、日本人の人口は6000万人程度に落ち込み、残りの6000万人は
朝鮮人と中国人と混血児(ハーフ)と、そしてアシュケナジー・ユダヤ人だ。その頃皇室には国際結
婚で碧い眼のプリンス、プリンセスが、愚かな日本人の羨望を浴びていることだろう。自衛隊は、ユ
ダヤの尖兵として純粋日本人のみが最前線に送られる。
 おいらはその頃にはいねぇや。

 
脇坂安董
 
わきさかやすただ。播磨国龍野51089石の藩主。寺社奉行は譜代大名の持ち役なのだが、外様
で初めてその役を仰せつかった。彼の先祖は「賎ヶ岳の七本槍」の一人脇坂甚内(淡路守)安治だ。
寺社奉行は、勘定奉行・御町奉行と共に、「三奉行」といわれる幕府機構中枢の重役要職だ。数ある
奉行の中で、寺社奉行だけは大名が勤めることになっていて、もっとも格が上だった。定員は四、五
名で、その重要な役柄から、譜代大名(家康以前からの徳川家の家臣)が勤めることになっていた。
 安董が寺社奉行に就任したのは、寛政三年(1791)。その昔、寺社奉行には奉行所付き役人と
いうものがいなかったので、大名である奉行は自分の家来を使って役を務めたが、交替すると、その
家来共々総て入れ替わってしまうので、いろいろ不都合が生じた。天明八年(1788)に「吟味物
調役」四人が配属され、それが安董就任の寛政三年(1791)に「留役」と改称され、更に寛政八年
(1796)に再び吟味物調役の呼称に戻った。
 文化十年(1813)十月安董は退任したが、十六年後の文政十二年十月に再び寺社奉行に拝命す
る。淡路守だった安董は中務大輔に改めていた。安董の再出馬は、仙石騒動が起こり、その裁定のた
めに将軍家斉直々のお声がかりだった。その安董再出馬を詠んだ川柳がある。

   古いたち又出て寺を騒がせる
   てんの為す災ひなどと芝でいひ

 「古いたち」も「てん」も安董のことを差し、芝は増上寺のことだ。「また取り締まられるのか」
という不安恐懼を詠んだものだ。聖職者は禁欲の裏返しでスケベなものだ。正視できないのが警察・
教師・医者の酒宴で「これでも女か!」と仰天すること夥しいものがあるぞ。だいぶ以前のことにな
るが、万世橋署々員の熱海でのご乱行は新聞沙汰にもなって、今や語り草だ。「いたち」「てん」は、
脇坂家の槍鞘のこと。それは雌雄のてんの皮で作られた対の槍鞘で、かつて足利尊氏が所有していた
という由緒物だ。それを先につけた二本の槍を駕籠先に立てての脇坂家の大名行列は名物だった。

   いたちを対々に振らせるは脇になし
   貂二匹輪違ひに尾を振って見せ


 輪違は脇坂家の紋所。上屋敷は汐留シティの復元された新橋停車場のある一帯だった。
 天保六年(1835)「仙石騒動」において厳正な審理を進め、幕吏の不公正な処置も残らず洗い
上げ、急転直下事件を解決させた見事な手腕は、現代官僚こそ見習うべきだよ。安董は徳川時代屈指
の能吏だったといえる。官吏諸役は勉強してご覧な。この時安董の下役として一所懸命に働いたのが
あの川路聖謨(かわじとしあきら)で、安董の推挙により出世街道を歩き、幕末に大活躍をしたこと
はご案内の通りだ。天保八年(1837)安董は外様大名としては初めて老中に昇進した。無類の働
きをしたのは語るまでもない。天保十二年(1841)逝去、享年八十六歳だった。


■日暮里延命院貝塚

 西日暮里3丁目13番、ゆうやけだんだんの北側にある。今から約4000年前の縄文時代後期の
貝塚だ。明治21年東京帝室博物館の関保之助氏によって発見され古くから知られる。昭和62年に
発掘調査が行われた。

   日暮里延命院貝塚
   西日暮里3丁目付近に存在した。今から3500年前、縄文時代後期の貝塚。武蔵野台地
   の東端、上野公園から谷中道灌山を経て飛鳥山に続く上野台地の南西部で、藍染川に向っ
   て緩やかに傾斜する面に位置する。明治21年関保之助が延命院の崖下の土取り工事現場
   で貝殻が掘り出され、土器片が含まれているのを偶然発見したことから、貝塚の存在が知
   られるようになった。昭和62年の発掘調査では、縄文人が採って食べたハマグリ、マガ
   キなどの貝類が最大1mも積み重なってできた貝塚が見つかった。その中にはイノシシ、
   シカなどの動物の骨や土器、石器などが多数混じって当時の地域の環境を探る貴重な資料
   となっている。                         荒川区教育委員会


■夕やけだんだん

 西日暮里3丁目13番・14番の境にある日暮里駅北口御殿坂から谷中銀座に通ずる階段坂。平成
2年10月公募により命名された。命名者はタウン誌「谷根千」の森まゆみ。何の変哲もない階段坂
であるが、西向きのため、夕焼けを眺める眼下に谷中銀座の喧騒が広がるシチューエーションだ。一
帯は、同8年NHK朝の連続テレビ小説「ひまわり」(松嶋菜々子主演)の舞台となった。なお現地
での表記は「夕やけだんだん」となっているよ


■花見寺前児童遊園

 西日暮里3丁目18番7号第一日暮里小学校の近くにある区立公園。昭和42年3月28日開園。
○△□の形を抜いたブロックとジャングルジムが一体となった遊具が特徴的。ブランコもある。


■道閑山 → 道灌山

 西日暮里4丁目1~7番一帯の高台の総称。JR側から見れば高いが、こんもりとした森や地面の
盛り上がりがあった訳ではない。風光明媚なところから、太田道灌が砦を築いたという伝説が生まれ
た。道灌とは、岩附(岩槻)城主太田資清(道真)の子左衛門大夫資長が、文明八年(1476)江戸
に青松寺を建立した頃から号したと思われる入道名(僧名)だ。しかしながら「どうかん」は「どう
かん」でも「道閑」と書く「どうかん」で、こちらの道閑は、関小次郎長耀入道道閑といい、この辺
りを領していて、日蓮上人に帰依し谷中の感応寺を建てた人物で、この辺りに別荘なのか何なのか屋
敷を構えていたらしい。説明板は以下の通り。

   道灌山
   上野からつづいているこのあたり一帯の台地は、道灌山とよばれ、江戸時代はながめがよ
   く、筑波や日光の連山、そして下総(市川)国府台などをのぞむことができた。
   当時は薬草が豊富で、年中採取者が訪れてきていたという。また「虫聞き」の名所として
   しられ、涼をを求めて人々が集まったところでもある。
   安藤広重の錦絵や正岡子規の俳句によっても当寺がしのばれる。   荒川区教育委員会


 江戸時代には、薬草取り、虫の音、土器(かわらけ)投げが流行り、道灌山名物となったが、土器投げ
と共に諏訪台に行楽客をとられ、道灌山は衰退していった。安藤広重の東都名所「道灌山虫聞図」、
長谷川雪旦の江戸名所図会挿絵「道灌山聴蟲」、月岡芳年の東都開花狂画名所「道灌山土器」の錦絵
がある。また薬草の宝庫で90種以上もあり、明治後期まで多くの採取者が訪れた。

   ガリバーが小人島かよ箱庭のすゑのものの人の動き出しも(正岡子規)
   岡の茶屋に我喰い残す柿の種投げれば筑波に届くべらけり(正岡子規)
 


■ひぐらし坂

 西日暮里4丁目1番と2番の間を、道灌山通りから離れて開成中学・高等学校の東側を北に上って
いく坂道。この坂は平成2年、「ひぐらしの里に因み、地元から要望」があって、道路の愛称として
命名された。日暮里、西日暮里周辺は昔から「新堀(にいほり)」と呼ばれていたが、江戸時代に風
光明媚な地であることから「日暮里」という字が当てられ、「ひぐらしの里」とも呼ばれるようにな
った。地名としても、明治10年に新堀村から日暮里村に正式に変更された。
 坂上と坂下に鋳物製の坂名塔が建ててある。

   ひぐらし坂
   
HIGURASHI SLOPE

 上り口のところにある説明板。珍しく横書き。

   道灌山遺跡
   昭和29年、弥生時代の住居址が発見された開成グラウンドほか、西日暮里4丁目の台地
   上は、縄文時代から江戸時代までの遺跡が残されている地域である。 荒川区教育委員会

 第二の曲がり角に区の2枚の説明板が建ててある。

   ここから西へ約10m
   
第一号住居址
   開成学園第二グラウンド内から発見された弥生時代中期の住居址である。平面形は四隅が
   丸い長方形を呈し、長径約5.6m、短径約4.4m、深さ約20cm。荒川区教育委員会

   道灌山遺跡
   開成学園第二グランドを中心に広がり、縄文時代(およそ8000年前)から江戸時代に
   わたって営まれた集落址である。
   これまでの調査により、縄文時代の住居址、弥生時代中期の住居址と溝(環濠)平安時代
   の住居址、江戸時代の溝などが検出されている。グランド北側から検出された環濠は、幅
   約1.6m、深さ1.3mで断面形がV字形を呈する。ほぼ東西に延び、台地上における弥
   生時代集落の居住区域の北限を示すものと思われる。   、    荒川区教育委員会
 


■佐竹抱屋敷跡

 西日暮里4丁目2番の開成中学校・高等学校の辺りに秋田藩佐竹家の抱え屋敷があった。大名屋敷
は幕府から与えられるが、抱え屋敷は自前で調達した購入地・借地。抱え屋敷は別荘というより、大
名屋敷で消費する野菜畑であることが多い。大名屋敷が大火で焼けた場合に一時的避難所としての側
面も持つ。

   日暮里佐竹屋敷跡
   ここは日暮里町でありながら渡辺町と呼ばれたところである。
   江戸時代秋田藩主205800石佐竹右京太夫抱屋敷跡で、敷地17000坪(約560
   00㎡)は区内武家屋敷は区内大名屋敷中最大のもので、渡辺銀行頭取渡辺治右衛門の所
   有するところとなり、この地を渡辺町とよんだ。昭和9年日暮里9丁目に統合され、のち
   現在の日暮里4丁目に改称された。                荒川区教育委員会
 


開成中学校・高等学校
 高校は西日暮里4丁目2番4号に、中学校は7番7号にある、日本で一等著名な進学校。明治24
年尋常中学校令により「尋常中学共立学校」を設立。大正8年「東京開成中学校」と改称。大正12
年に起きた関東大震災により淡路町校舎が焼失し、翌13年に現在地である道灌山に移転。昭和20
年には戦局悪化のため無試験入学となる。翌21年には入学試験が再開されるが、筆記試験が復活す
るのは同28年のことだ。学制改革により、同22に新制中学校(開成中学校)が発足し、続く23
年は新制高等学校(開成高等学校)が併設され、旧制の5年制中学から新制6年生中高一貫への移行
が完成する。同35年に高校募集(定員50名)を開始し、次いで同49年には高校募集枠が100
名に拡大され、現在の中学定員1学年300名・高校定員1学年400名体制となった。

  校歌
「常磐の緑」  作詞・古関 吉雄   作曲・信時潔
  1.常磐のみどり色映ゆる
     道灌山の学び舎に
    あこがれ集ふ若人が 
     遙けき行手のぞみつつ
     歌ふや生命の朝の歌
  2.黎明日本の夢破り
    文化の教え開きたる
    我が先人を思ふ時
     次代を背負ふ健児等が
     胸血高鳴りたぎつなり
  3.基は遠き伝統に
     若き心を培ひて
    ペンと剣の旗の下
    剛健の意気いや高く
     いざや進まんああ我ら
 

 
卒業生
 政・財界、法曹・学者には有名人はいず、中堅クラスが多い。マスコミ関係で、ナベツネこと読売
新聞の渡辺恒雄がいる。文学関係は多く、正岡子規、文化勲章を貰った斎藤茂吉、長谷川如是閑、作
家辻潤、中村真一郎、福永武彦、吉村昭、逢坂剛、松浦寿輝、映スポーツ評論家虫明亜呂無、画評論
家荻昌弘、脚本家野上龍雄が顔を並べる。芸術関係では何といっても演出家蜷川幸雄だろう。あとオ
ペラ歌手の岡村喬生、作曲家「さとうきび畑」の寺島尚彦とヒットメーカーの猪俣公章。イラストレ
ーター永沢まことといったところ。古いところでは日本海海戦の名参謀秋山真之(さねゆき)中将。
二・二六事件で殺された海軍大将岡田啓介首相。もしミッドウェー海戦をこの男に任せていたらアメ
リカに勝っただろうといわれる名提督山口多聞中将がいる


■道灌山
(説明板)

 西日暮里4丁目2番4号開成学園第二グラウンドの北側の道路端にたててある。

   あらかわの史跡・文化財
   
道灌山
   西日暮里四丁目の台地は、道灌山と呼ばれている。地名の由来として、太田道灌の砦跡と
   いう伝承や、地元の土豪で善性寺(東日暮里五丁目)の開基とされる関道閑の屋敷跡など
   の説がある。道灌山は眺望に優れ、秋田藩主佐竹右京大夫の抱屋敷や上覧場と呼ばれた見
   晴台などがあった。見晴台は庶民にも開放され、茶屋が設けられていた。眼下には、三河
   島や尾久の田園風景、筑波山や日光連山、下総国府台(千葉県市川市)などを望むことが
   できた。
   道灌山は、薬草摘みの場として知られ、一年中、採取者が訪れていた。また、虫聞きの名
   所としても名高く、秋の風情を求めて江戸の人びとがここに集まった。虫聞きの様子が、
   歌川広重の浮世絵などに描かれている。
   その後、田端の台地(北区)も道灌山と呼ばれるようになり、茶屋などが設けられ賑わいを
   見せるようになった。その一方で、ここ道灌山の物見台は寂れていったという。根岸(台
   東区)の正岡子規も道灌山をよく訪れ、紀行文「道灌山」を残したことで知られる。
                                   荒川区教育委員会


■道灌山遺跡

 西日暮里4丁目2番4号にある縄文時代から江戸時代にかけての複合遺跡。
向陵稲荷坂を上りきっ
たところの右手一帯に開成学園グラウンドが広がっている。この地で発掘された遺跡だ
。この遺跡は
明治の頃より知られていたが、昭和28年開成学園グラウンド新設工事の際の土器発掘をきっかけと
して、翌年以降、本格的な調査が始まった。この遺跡からは、古くは縄文前期の住居址や土器、弥生
~平安、江戸期の史料が出土している。

   道灌山遺跡
   昭和29年に、当開成学園のグランドを整地中、三つの竪穴式住居跡が発見された。三つ
   の住居跡は、形の大きさや構造から見て同じように作られたと考えられる。
   これらが同じ時期のものかは判らないが、出土した土器から見て、約4000年前の縄文
   前期から中期にかけてのものと推定される。またこの台地からは貝塚が発見されているこ
   とから、この辺りに幾つかの集落があったものと思われる。     荒川区教育委員会


 第一号住居址・環濠
 
弥生時代の住居址と集落の周りを囲んでいた環濠址。

 ひぐらし坂の下から二番目の曲がり角に区の2枚の説明板が建ててある。

   ここから西へ約10m
   
第一号住居址
   開成学園第二グラウンド内から発見された弥生時代中期の住居址である。平面形は四隅が
   丸い長方形を呈し、長径約5.6m、短径約4.4m、深さ約20cm。荒川区教育委員会

   
道灌山遺跡
   開成学園第二グランドを中心に広がり、縄文時代(およそ8000年前)から江戸時代に
   わたって営まれた集落址である。
   これまでの調査により、縄文時代の住居址、弥生時代中期の住居址と溝(環濠)平安時代
   の住居址、江戸時代の溝などが検出されている。グランド北側から検出された環濠は、幅
   約1.6m、深さ1.3mで断面形がV字形を呈する。ほぼ東西に延び、台地上における弥
   生時代集落の居住区域の北限を示すものと思われる。   、    荒川区教育委員会


■ひぐらし公園跡

 開成中学校の敷地に大正5年に造成された。何時開成学園が購入したのかは不明。


■日暮里第二児童遊園(城下の公園)

 西日暮里4丁目7番11号にある区立公園。昭和34年1月10日開園。道灌山幼稚園、開成中学
校に隣接する児童遊園、滑り台、スプリング遊具、砂場がある。



■道灌山坂

 西日暮里4丁目7番17号から東北に、道灌山幼稚園の北側を上がって行く坂道。坂上と坂下にく
の坂名塔が建ててある。標柱はない。区のブログの説明では、地元の要望と書かれており、坂名の設
定年度は平成18年となっている。乃ち、この道灌山坂の名称は、地元町会からの要望があり、荒川
区が道路の愛称として命名したものということになる。また高橋系吾は、この坂の南側にある道灌山
幼稚園の園長などを務め、多くの著書があるようだ。区内には無名の坂が無数にある。

   道灌山坂
   
高橋系吾 96歳 書


■向陵稲荷坂

 西日暮里4丁目7番と番の開成高等学校の開成中学高等学校の間の坂道。説明板はない。坂上と
坂下に金属製の坂名塔
が建ててあるが、飾りが異なっている。

   向 陵 稲 荷 坂
   
KORYOINARI SLOPE


■向陵稲荷神社

 西日暮里4丁目7番34号にある小祠。江戸時代初期に祀られたこの神社は、この地にあった佐竹
藩抱屋敷が本邸から鬼門の位置にあったために、屋敷内に設けられていたものだ。その後渡辺町の鎮
守として、ひぐらし公園(開成中の校地)に祀られ、大正15年に隣接の現在地に移転した。戦後そ
の跡地に新制の開成中学が開校した。

   向陵稲荷神社縁起
   当社は向陵稲荷大明神(宇伽之御魂神)を主神とし祭祀を行い、祭神の神徳をひろめ本神
   社を信奉する人々を教化育成し、家内安全・商売繁昌及び学業成就の神であります。
   当社は江戸時代初期より佐竹右京大夫の屋敷内に祀られておりましたが、大正の初期渡辺
   町(西日暮里4丁目の一部)の開設された時にひぐらし公園(開成学園中学校の校庭)に
   祀られ、町の鎮守と崇められていました。
   後、当所に移転しましたが、昭和20年の大戦災で全町焼土と化しましたが、当社は不思
   議にも戦火を免れ神威赫赫として現存し、昭和46年社殿を改築社務所を新設し、宗教法
   人向陵稲荷神社となりました。
   歳旦祭 1月1日
   初午祭 2月初午の日
   大 祭 5月5日
   月例祭 毎月5日


■江戸指物
 西日暮里4丁目18番に江戸指物協同組合があった。現在は台東区根岸5‐9‐17に移転。指物
といっても戦国時代に武将たちが背中に自己をアピールするために背中に立てた旗指物ではない。こ
の指物の「指す」は「差す」ともいい、物差しで板の寸法を測り、しっかり組合わせ、蓋や抽出のあ
る箱物類を作ることをいう。指物の歴史は京都が長く、平安時代の宮廷文化まで遡ることができ、当
時は大工職の手で作られていた。専門の指物師が生まれるのは室町時代以降、武家生活の中で、類、
箪笥類、机類の調度品が増え、また茶の湯の発達に伴い箱物類など指物への需要が増えてからのこと
といわれる。こうした指物師は、戸障子(建具職)、宮殿師(みやし=宮大工)、桧物師(ひものし
=曲物師)などどともに大工職から分化していったものだ。京都の指物は、朝廷や公家用の物、茶道
用の物が発達し、雅や侘の世界の用具として愛用されてきた。これに対し江戸指物は、将軍家、大名
家などの武家用、徳川中期以降台頭してきた商人用、そして江戸歌舞伎役者用(梨園指物)として多
く作られ今日に至ってる。桑、欅、桐など木目のきれいな原材料を生かし、外からは見えないところ
ほど技術を駆使し金釘打を施したりしないで作られる江戸指物には、職人の心意気が感じられる。切
る、削る、突く、彫るという四つに集約される指物の技には、頑固なまでの職人の個性がある。木と
いう生き物を相手にする、この世界に「硬い」「甘い」「とろい」「しぶい」「まろやか」「なま」
など独特の形容詞があるのは、この間の事情を物語るものやで。


■東京女子体操音楽学校
 移転
 西日暮里4丁目29番(日暮里村1054番地)に、明治43年から大正11年まで所在した東京
女子体育大学の前身校。


親子像・裸婦像

 西日暮里5丁目5番5号平の彫刻研究所にある平野千里の作品。常磐線の車窓から見える。


天竜山正覚寺

 西日暮里5丁目8番7号にある曹洞宗の寺。元和二年(1616)の開創、当初は真言宗醍醐寺派
だったが、慶安二年(1649)橋場総泉寺10世粛州嶺厳がに中興し、この時曹洞宗に改宗、正覚
寺と称した。鉄筋コンクリート2階建ての建物で、石段上がって2階が本堂。庫裏も寺務所も同じ建
物。石段左に文化十四年(1817)に建てた「うすさま明王石像」がある。

 うすさま明王像
 「うすさま」とは、梵語で、音訳して「烏枢沙摩明王」などと記す。不浄金剛・火頭金剛などと漢
訳され、総ての不浄・障害を除く力を持つといわれる。当寺の石像もトイレの神様と伝えられ、像容
は六臂で火焔を背にした憤怒形、上方には化仏が施されている。台石の文化十四年(1817)の造
像銘には「穢跡金剛陀羅尼壱千万篇供養塚」の外、女性2人の戒名も刻まれている。


■童子像「飛翔」

 西日暮里5丁目14番1号西日暮里5丁目交差点に面した太陽ビル前歩道橋下にある銅像。東京荒
川ライオンズクラブより、平成5年にクラブ設立30周年を記念して寄贈された。この飛翔は区内在
住の彫刻家であり、荒川区顧問である平野千里の作品で、未来を担う子供たちの成長への願いが込め
られた童子像となっている。平野の作品は町屋文化センターに「吉祥天像」、ふるさと文化館に「芭
蕉・旅立ち」がある。

   飛翔
   「飛翔」は、平成5年に、東京荒川ライオンズクラブが創立30周年を記念し、区内在住
   の彫刻家であり荒川区顧問である平野千里氏に依頼して制作し、区に寄贈されたブロンズ
   像です。二体のブロンズ像は、不動明王に従う童子をモチーフとし、悪事災難を取り除き
   あらゆる困難を打ち破る武具として、男の子は「金剛棒」、女の子は「三鈷杵(さんこし
   よ)」「輪宝(りんぼう)」を手にしています。「力強さ」や「知恵」「思いやり」を表
   現している童子達に、未来を担う子供達の成長への願いが込められています。  荒川区


■西日暮里駅

 西日暮里5丁目31・32・33番の接する、尾久橋通り上にある都営日暮里・舎人ライナーの停
車場。平成20年3月30日日暮里~見沼代親水公園間の開業時にできた。ホームは島式1面2線構
造で3階にある。ホームと改札階を結ぶエレベーターは完備。改札は1ヶ所で2階に、出口は4ヶ所
ある。乗り換えのために作られた駅だが、JRの西日暮里駅とは離れてる。乗り換えは次の日暮里駅
のほうが便利だ。


■道灌山中学校 
廃校

 西日暮里5丁目37番5号にあった区立校。平成10年廃校。荒川第十中学校・日暮里中学校と統
合して「諏訪台中学校」となった。跡地は、建物をそのままに改修して「西日暮里スタートアップオ
フィス」として利用している。


■西日暮里スタートアップオフィス

 西日暮里5丁目37番5号の道灌山中学校の建物を再利用した区の施設。現在その廃校舎は改装が
行われて、1・2階は20社の企業が入居するベンチャー支援施設、4階は日本語学校へと生まれ変
わっている。そして3階部分はロケセットとなっており、ドラマやCMのみならずバラエティー番組
等の撮影にも利用されている。なお一般の立入見学は許されない。プール・校庭は、駐輪場(西日暮
里第三自転車置場)、駐車場(シティパーク西日暮里第一)として活用されている。


西日暮里駅
 地下鉄の駅は西日暮里5丁目38番の地下、JRの駅は西日暮里5丁目22番にある。駅は地下鉄
千代田線と国鉄線の乗り換えのために設けられた、山手線内ではもっとも新しい駅。とはいえ国鉄の
駅と地下鉄の駅が同時にできた訳ではなく、まずは地下鉄の駅が昭和44年12月20日に開業、国
鉄の駅ができて乗り換え駅としての機能を果たすようになったのは、その約1年半後の同46年4月
20日からだ。
 千代田線のホームは地下1階が1番線、地下2階が2番線の二層構造。上下ホームを結ぶエレベー
ターは設置されているが、肝心の改札階へ行くエレベーターがない。JRのホームは高架島式2面4
線構造。後付けの駅だがなかなか幅の広いホームを持っている。ホームと改札階を結ぶエレベーター
は平成19年3月までに完成。JRの改札口は1ヶ所のみで1階にある。
 千代田線の改札口は2ヶ所で、出口は1~3の3ヶ所。その他、JRと千代田線を直接乗り換える
ための中間改札が地下1階にある。
 日暮里・舎人ライナーの西日暮里駅は少し離れている。

 ●特殊事情
 この駅ができた理由は、『都区内全駅ガイド』によると、常磐線が快速と千代田線直通の各駅停車
に分けられたことによる。各駅停車しか停まらない亀有や金町といった駅からは上野駅へ直通するこ
とができなくなったので、当時の国鉄は混雑する北千住ではなくこの西日暮里で山手線に乗り換えて
もらうルートを推奨したそうだ。しかしこれは「迷惑乗り入れ」の典型で、千代田線開業当初はかな
り乗客から批判を受けた。ちなみに亀有駅から上野駅まで、北千住で快速に乗り換えてJR線だけで
来るルートを取ると、運賃は210円。西日暮里で山手線に乗り換えると320円だ。これが1ヶ月
定期だと前者6300円、後者11690円。6カ月定期だと前者30240円、後者60100円
と、ほぼ倍の開きになってしまう。つまり会社から後者で定期代を貰って、前者で定期を買えば3万
円がとこポケットマネーが出来っちまうって寸法だ。悪党め!


■新三河島駅

 西日暮里6丁目2番にある京成電鉄の停車場。昭和6年12年19日青砥~日暮里間開業と同時に
設けられ
た。ホームは高架島式1面2線構造。ホームと改札階を結ぶエレベーターは設置済み。改札口・出口
は1ヶ所のみで1階にあり、駅は明治通りを跨いだ位置にある。


■西日暮里六丁目公園

 西日暮里6丁目11番2号にある区立公園。昭和61年4月1日開園。タイヤのブランコがあるこ
とから「タイヤ公園」と呼ばれている。回ったり揺れたり、自由に楽しめる。また、砂場には象の滑
り台があることから「ぞう公園」とも呼ばれている。


■江戸里神楽

 西日暮里6丁目15番6号松本ビルの松本源之助の率いる松本社中が保持する江戸里神楽は、荒川
区で継承されている民俗芸能。
埼玉・鷲宮神社の神楽を源とし「日暮里式‐土師(はじ)流」と呼ば
れ、東京都無形民俗文化財に指定され、平成2年2月22日には、芸術選奨文部大臣賞を受賞した。
里神楽は江戸時代から庶民に人気があった。宮中や伊勢神宮などの御神楽(みかぐら)に対して、民
間を中心とした神楽だ。神事やおとぎ話などを題材とし、太鼓・笛などの楽器とともに演じるスタイ
ルは、パントタイムと同じように黙劇だ。

 ●松本源之助お神楽学校
 昭和23年に自宅に設立し後継者を育成。生徒の中に外国人、演劇人多数。伝統芸の継承のみなら
ず、現代音楽、演劇とのジョイントを図る試みを次々と発表している。少人数のグループレッスンを
中心に、講師の楽しく、粋な語り口で説明しながら、親切、丁寧に指導している。各種オリジナル教材
も充実。
 


■「響 Echo」

 西日暮里6丁目17番6号日暮里区民事務所に設置されている楽器を手にした少女の像。小堤良一
の彫刻。小堤は東京藝術大学美術部彫刻科卒業後、同大学院も終え、数々の賞を獲得し、あでやかな
女性像などでつとに知られている。全身でリズムを取るかのように、手も足ものびやかに演奏をする
少女、その音色までがまさに響いてきそうな出来栄えだ。
 


■西日暮里ふれあい館

 西日暮里6丁目24番4号にある区の施設。区では、乳幼児から高齢者まで、凡る世代の区民が交
流し、自主的な活動ができる地域コミュニティの場として設置された。また、従来の「ひろば館」も
サークル活動や小規模の会合など、地域の区民の交流の場として利用できる。
 この館では、年齢別幼児タイムがとても充実している。小学生は卓球に夢中。毎週水曜は「ダンス
サークルJUMP」の活動がある。高年者事業においても高年者の意見を反映できるような事業を心
掛けている。月1回の盆踊り事業も始まっている。


■冠新道図書サービスステーション(SS)

 西日暮里6丁目25番14号にある区の文化施設。日暮里図書館から遠い西日暮里地域の区民に対
する図書館サービスの充実のために、冠新道商興会に面するマンション兼店舗1階の一室を借りて、
日暮里図書館の分室として活動している。絵本や実用書主体の小規模な分室だが、区内の図書館の資
料を取り寄せ、ここで借りて、ここに返すことができる。ベビーステーションを設置し、子ども連れ
の利用にも便利なため、多くの親子連れが利用している。


■第六日暮里小学校

 西日暮里6丁目35番16号にある。大正14年「東京府北豊島郡第六日暮里尋常小学校」として
開校。昭和7年東京市編入により「東京府東京市第六日暮里尋常小学校」と改称。同16年勅令14
8号国民学校令により「東京府東京市第六日暮里国民学校」と改称。12月日米開戦。同18年都制
施行により「東京都第六日暮里国民学校」と改称。同19年学童集団疎開(福島県田村郡船引町)。
同20年アメリカ軍の無差別空爆により全校舎焼失。8月日本敗戦。10月疎開解除により全学童帰
校。同22年戦勝国アメリカの強制による学校教育法の施行により「東京都荒川区立第六日暮里小学
校」と改称。同34年校歌制定。

 校歌
「緑の色も」 作詞・小林純一  作曲・渡辺浦人
  1.緑の色も爽やかな
    上野の台地 諏訪の森
    望むこの窓 この校舎
    第六日暮里小学校
    さあ溢れる光り浴びながら
    学ぼう日日に新しく
  2.桜の花が美しく
    欅の幹が健やかかに
    育つこの庭 この校舎
    第六日暮里小学校
    さあ明るい風に今日もまた
    伸びようみんな逞しく
  3.青空過(よぎ)る高架線
    また雲を呼ぶ鉄塔が
    光るこの町 この校舎
    第六日暮里小学校
    さあ希望の瞳 輝かし
    歌おう今日も声高く


 
 同51年創立50周年。平成17年創立80周年。


■西日暮里六丁目児童遊園

 西日暮里6丁目45番4号にある区立公園。昭和50年4月1日開園。滑り台、鉄棒、ブランコが
ある。


■韓国人、警察官切り付け事件

 西日暮里6丁目47番6号先、尾久橋通り中央分離帯で起きた事故と事件。平成30年5月2日2
1時半頃、パトカーに追跡されていた軽自動車が対向車線に入って逆走し、中央分離帯の車止めを薙
ぎ倒して停車した。警察官が50歳代の運転手に職務尋問しようとしたところ、行き成り包丁で切り
付け警察官に怪我を負わせた。運転手は助手席にいたポルトガル人(50歳代)と口論になり、ポル
このポルトガル人の腹を刺し、己の喉も刺した。二人とも病院に運ばれたが、命に別状はない。車に
は2歳児が乗せられてり、運転していた韓国人の子供ということだ。
 男はDVのため妻と別居中で、妻と子供は神奈川県の隔離施設に入っており、そこから盗み出した
という。韓国人だから火病(ファビョン)が起きたのだろう。


■花崗岩彫刻「雲の上」

 東日暮里6丁目57番3号の洋品店「SUGITA」の前の歩道にあるオブジェ。子供が、ふんわ
りと幸せそうに雲(クッション?)に埋もれている姿。あどけない表情が見る人の笑みを誘う。素材
の固さを微塵も感じさせることのない、温かい作風を持つ昭和62年宮澤光造の彫刻。


■女性像

 東日暮里6丁目57番7号の資生堂日暮里ビルの歩道にある銅像。


■花崗岩彫刻「豊穣の門」

 東日暮里6丁目57番7号の資生堂日暮里ビル前の歩道にあるオブジェ。日暮里駅から東に200
m、中央通りに面してある。ここは別名「布の町」、服だけでなく生地や装飾品などを扱う店舗が多
数連なる日暮里繊維問屋街として有名。いつもお洒落好きの女性たちで活気づいている。こうしたス
トリートに野外彫刻? と不思議に思う向きもあるかもしれないが、これが意外と違和感がない。
 「豊穣の門」は、宇宙や環境などのグローバルな視点と活動が注目されている彫刻家深田充夫の作
品だ。この〝門〟は「どんな空間に繋がっているのかな?」などと考えていれば待ち時間も苦になら
ない・・・? 平成2年制作。
 



 【日暮里】

 
新堀の由来
 「にっぽり」という地名は、既に中世においてその存在が明らかで、文安五年(1448)の熊野
那智文書『熊野領豊島年貢目録』に「三百文にっぽり妙円」とある。また『小田原衆所領役帳』では、
遠山弥九郎の所領役高に「四拾五貫文江戸新堀」が記載されている。
 ①、新治、新墾で「開墾地」のことだと『武蔵国志』はいう。これは江戸川区新堀(しんぼ
   り)と同じ説だ。
 ②、谷中の西北を新堀といい太田道灌の出城跡だと『紫の一本』はいう。
 ③、後北条氏の家臣遠山孫九郎が居館を築いて新しく濠を掘った(『新編武蔵風土記』)と
   いう説、
 ④、「いや掘ったのは関道灌だ」などの諸説がある。
 ⑤、インドネシア語で解すると「ニヒ・ポリ」「嶮しいたるみ皺のような崖のある土地」と
   いうことになるらしい。高台はそんな感じだ

 
日暮里の由来
 江戸時代中頃(享保年間)から、道灌山よりの眺望が評判となり、

   
青い田の露をさかなや一人酒(小林一茶)

 眼下の新堀村はもとより日光連山・筑波山・下総国府台(こうのだい)が一望の景勝地、日が暮れ
るまで見ても見飽きぬことから「日暮らしの里」と呼ばれるようになった。

   桃桜 鯛より酒の肴には見所多き日暮らしの里(十返舎一九)

 やがて「日暮らしの里」は道灌山から南の諏訪台に移る。感応寺(天王寺)裏門から道灌山までの
寺町で、花見寺と呼ばれたのは彼岸桜の妙隆寺(廃寺)・修性院・養福寺・経王寺、彼岸桜と白桜の青
雲寺・延命院だ。月見寺で知られたのは本行寺。雪見寺と謳われた浄光寺は元文二年(1737)八
代将軍吉宗が鷹狩の折に立ち寄って以来御膳所となった。諏訪台は今も昔も変わらぬ寺の町。平日で
も観光客で賑わっている。区内唯一の高台だ。

   夕霧に谷中の寺は見えずなりて日ぐらしの里にひびく入相(戸田茂睡)

   
花のころ けふもあすかもあさっても飽かぬながめに日暮らしの里

 だから西日暮里は道灌山(西日暮里公園)から諏訪台(寺町)だ!

   日暮里やただ植木屋の冬木立(子規)
   稲の花道灌山の日和かな(久保田万太郎)

  
 日暮里へ師走の道の続きけり(久保田万太郎)
  
 又しても火事日暮里や酉の市(増田龍雨)
 


【東尾久】(ひがしおぐ)1~8丁目                  昭和39年7月1日
 下尾久村。同22年「市制町村制」により尾久村の大字。大正12年尾久町の大字。昭和7年荒
川区が成立して尾久町となりその1~3丁目・9~10丁目を形成、同39年尾久町1~4丁目・
8~10丁目・三河島町6丁目・日暮里7丁目・町屋2丁目の全部または一部をあわせた町域を現
行の「東尾久」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『荒川区史』など。

 
東尾久について
 町名は尾久町の東半に位置することによる。この辺りの開発は古く、ビル工事現場から牡蠣の養
殖遺跡が発見された。尾久が海岸だったころの名残だ。そのころ江戸はまだ海の中。

 「おぐ」か「おく」か?
 「おぐ」が正しい。「おく」は、明治時代、駅名を付けた時の新政府役人どもの誤表記だった。
しかも尾久駅の所在地は北区昭和町。尾久は区内で最古の地名で、鎌倉幕府が編纂した歴史書「吾
妻鏡」に「犬食」と表記されているが、犬は誤表記で大食(オグ)→尾久となる。

 消えた桜草
 現在の原公園の辺りは江戸時代には桜草の名所だったが、新田の開発などで消滅した。
 


■浄善寺
 東尾久1丁目3番10号にある浄土真宗大谷派の小寺。昭和4年開創。入口の門扉が鍵がかかって
入れない。参道が続いているが狭いので、その先が判らない。普通の住宅のようだ。


■東京電力荒川電力所尾久変電所
 東尾久1丁目21番にある。


■東尾久小沼ひろば館
 東尾久1丁目21番23号にある区の施設。


■金相寺

 東尾久1丁目23番1号にある浄土真宗の寺。本堂は木造で庭は狭い。一軒おいて隣に洗心浄苑と
いう墓地がある。
 


■東尾久一丁目児童遊園(もみじ公園 便所公園)

 東尾久1丁目24番21号にある区立公園。昭和43年4月1日開園。紅葉が綺麗なことから「も
みじ公園」と呼ばれたり、公園の出入口にトイレがあることから「便所公園」と呼ばれたりと、地域
で親しまれている。ブランコ、回転遊具、スプリング遊具、木製の平均台、砂場がある。


■東京女子医科大学・第二病院
東医療センター
 東尾久2丁目1番10号にある。昭和9年東京女子医学専門学校尾久病院として開業。昭和11年
第二病院と改称。27年東京女子医科大学第二病院と改称。 新外来棟と救命救急センターの完成に
より、策1次施設整備計画はほぼ完成し、東京都北東部の地域中核病院としての地位が確立された。
現在第2次施設整備計画として、新病棟が平成16年3月に完成した。東医療センターに名称変更が
なされたのが何時か判らない。第二病院の看板は今猶掲げられているが、東京女子医科大学の医療施
設には第二病院の名称は見当たらない。アンテナ医院として、田端駅前クリニックと田端NSKビル
クリニックがある。


■宮ノ前駅

 東尾久2丁目3番・4番にホームが離れてある都営荒川線の停留所。駅名はホーム北にある尾久八
幡神社の前であることによる。


■東尾久二丁目児童遊園(お豆腐公園)

 東尾久2丁目9番3号にある区立公園。昭和44年4月1日開園。児童遊園の前に豆腐屋があるこ
とから「お豆腐公園」と呼ばれている。滑り台と車のハンドルや数字合わせの双六がついた複合遊具
がある。ブランコや砂場、スプリング遊具など、高さが低い遊具もあるので、小さい子でも遊ぶこと
ができる。サクラとハナミズキが綺麗。トイレ無し。


■第九中学校
(荒川九中)

 東尾久2丁目23番5号にある。昭和28年第七中学校より分校して旧八城学校の跡地に開校。4
14名移籍。PTA創立。同29年校地拡張。同30年東側4教室増築完成。同32年夜間学級を併
設。同35年校地拡張。同36年特別教室4階建新館落成。体育館完成。同38年創立10周年記念
式典。同40年3月東側校舎放火により焼失。11月プレハブ校舎完成。同42年夜間学級創立10
周年記念式典。同44年完全給食実施。同45年夜間学級ご飯給食実施。同47年校舎改築第1期鉄
筋コンクリート造り4階建て校舎落成。夜間学級「基礎学力促進学級」を新設。同48年校舎改築第
2期鉄筋コンクリート造り3階建て校舎落成。同49年旧木造校舎解体。同50年組み立て式プール
完成。同51年校舎・校庭改修。同53年創立25周年記念式典。同57年夜間学級創立25周年記
念式典。同58年創立30周年記念式典。同61年情緒障害児童学級を併設。同62年夜間学級創立
30周年記念式典。同11年体育館バスケットゴール電動化。
 平成3年給食室改修。同5年体育館舞台下パイプ椅子収納設備・電動スクリーン設備取付。創立4
0周年記念講演会(山田洋次監督)。校内放送・電話大規模改修。創立40周年記念式典。同9年夜
間学級創立40周年記念式典。同14年全教室エアコン設置。同15年創立50周年記念式典。同1
6年校庭改修。同17年図書室移設。同18年全トイレ全面改修。同19年校舎・体育館外壁全面改
修。夜間学級創立50周年記念式典。同20年第一・第二理科室改修。

 校歌「
空を仰げば」 作詞・サトーハチロー  作曲・渡辺浦人
  1.空を仰げばあふれる若さ
    流れる雲に未来を誓う
    夢と希望は大きく広く
    今日も明るく健やかに
    われらの荒川第九中学校
  2.川風薫る学びの道を
    友と手を取り楽しく通う
    体を鍛え知徳を磨き
    我が師我が友伝えて響く
    われらの荒川第九中学校
  3.励み勤しむ三年の月日
    春は微風秋には雨よ
    冬は木枯らし真夏の昼も
    とこしえ心の糧として
    われらの荒川第九中学校


 
映画「学校」
 下町の夜間中学校の様相を主題とした松竹の名作山田洋次監督作品「学校」。全編において荒川九
中が舞台となっている。映画は、町屋駅前のウエストヒル屋上から九中方面を撮影したと思われるシ
ーンから始まり、町屋二丁目の都電停留場で主演の西田敏行が踏切を越えるシーンへと続くなど、近
隣の風景も登場した。九中については、校舎はもちろんのこと、校旗・校章や夜間中学併設の告知看
板などが登場した。


■本町通児童遊園

 東尾久2丁目37番13号、尾久本町通りにある区立公園。昭和42年3月28日開園。春には桜
が綺麗なことから「さくら公園」とも呼ばれている。象の形をしたすべり台、大きなアスレチック遊
具を設置してい。アスレチック遊具は、縄梯子や太鼓梯子で登ることができ、ブランコや吊り橋もつ
いている。その他、スプリング遊具や鉄棒、砂場もある。トイレ無し。


■赤土小学校

 東尾久2丁目43番9号にある。大正13年尾久尋常小学校から分かれて「赤土尋常小学校」とし
て開校。昭和7年周辺郡部の東京市併呑により「東京府東京市赤土尋常小学校」と改称。同16年勅
令第148号国民学校令により「東京府東京市赤土国民学校」と改称。12月日米開戦。同18年都
制施行により「東京都赤土国民学校」と改称。同19年学童集団疎開。同20年アメリカの軍門に降
り日本敗戦。10月疎開解除により学童帰校。
 同22年戦勝国アメリカの強制による学校教育法の施行により「東京都荒川区立赤土小学校」と改
称。同39年ブール完成。同49年鉄筋コンクリート造り校舎落成。創立50周年記念式典。
 平成3年大規模改修(外壁、上下水道、屋上、校長室の移動等)。同4年ランチルーム開設。同6
大規模改修(普通教室18室、体育館、埋設管)
創立70周年記念式典。同9年コンピュータル
ーム開設。同12年インターネット接続。校舎耐震化。同16年創立80周年記念式典。同19年防
犯カメラ設置。

 校歌
「都の城北」 作詞・井上晴雄  作曲・三島安秀
  1.都の城北荒川の
    水の流れの淀みなく
    文化の光 照り映えて
    希望に燃えて栄え行く
    我が懐かしき学び舎の
    赤土に集う嬉しさよ
  2.霞む筑波の紫や
    高く聳ゆる雪の富士
    その面影の気高さを
    朝な夕なに望み見て
    我が懐かしき学び舎の
    赤土に集う楽しさよ


■桐山部屋
 閉鎖
 東尾久2丁目47番7号にあった区内で2番目に開設された大相撲部屋。平成7年2月創設。元小
結黒瀬川の桐山国由親方が指導する。関取は徳瀬川。

 閉鎖
 平成23年1月23日(初場所千秋楽)を最後に閉鎖となった。師匠の桐山親方(元小結黒瀬川)
と幕内徳瀬川ら力士は同じ立浪一門の朝日山部屋へ移籍する。力士数が5人と少なく、充実した稽古
ができないことから閉鎖を決めたという。同親方は「力士のことを第一に考えた。強くなってほしい
という思いだけで、寂しさはない」と話し、節目の場所で9勝を挙げた徳瀬川は「自分のことに集中
して勝ち越せればいいと思っていた」と安堵感に浸った。
 大相撲の弟子不足は深刻なようだ。桐山親方は「弟子が減ってけいこより雑用が多くなってしまっ
た。本来の目的である部屋運営はできない」と話している。
 人気が低迷する大相撲の門を叩く若者の数は年々減少。全体の力士数は〝若貴ブーム〟に沸いた同
6年夏場所の943人をピークに現在は686人。部屋数も2004年の55を最高に現在は51に
減り、所属力士がひとケタの部屋は18もある。今後も力士不足で閉鎖を余儀なくされる部屋が続出
する可能性も。相撲部屋も生き残りに必死だ。


二葉山尾久院
満光寺
 東尾久3丁目2番4号にある浄土宗の寺。増上寺の末寺。「阿弥陀如来の光が満ちあふれる寺」と
いう意味が寺号に込められている。江戸時代に相次いで発生した水害によって詳細な歴史は失われて
しまったが、当初は天台宗の寺院として南北朝末期から室町時代に建立されたと推測されている。開
山は真蓮社実誉智天和尚。開基は上野二葉村の名主二葉和泉守。初めは南北朝時代に上野不忍池畔の
穴の稲荷の上に創建された天台宗寺院だったが、江戸時代の寛永寺建立に際し現在地に移転した。本
尊の阿弥陀三尊像は恵心僧都の作と伝える。境内に、二葉地蔵、二羽稲荷、二葉閻魔大王などを祀っ
た二葉家縁(ゆかり)の堂宇がある。稲荷のみ「葉」でなく「羽」の字が使われているが、2枚の羽
が組み合わさった満光寺の寺紋「違い鷹の羽」に通じている。二葉家の家紋でもあろう。
 永和元年(1375)銘をはじめ、天文年間(1532~55)にいたる6基の板碑や、2基の庚
申塔を有する。また紙本着色山越え阿弥陀図、元禄十年(1697)銘の木造智天上人坐像、満光寺
文書などを所蔵。境内には二葉地蔵、二羽稲荷など、二葉家所縁のものが多い、木造閻魔坐像は二葉
閻魔とも呼ばれ、頭部の内部に元禄十六年未七月の銘がある。(
 昭和44年建築の、現代的デザインの立派な朱塗りの山門、本堂は鉄筋コンクリート造りの2階建
てで、石段により直接2階へ。左は庫裏だがこれも鉄筋コンクリート造り。当時、二羽稲荷社と二葉
閻魔堂は失われ、本体だけが本堂に祀られていたが、同49年に、江戸時代の記録に基づいて再建し
た。また同61年から墓地の整備工事に着手し、納骨堂の上に阿弥陀如来像を安置し、尾久本町通り
に面した場所にあった二葉地蔵もそちらに移した。毎月9の付く日に催されている満光寺の縁日(1
6:00~21:00)は、この二葉地蔵の縁日だ。昭和45年から境内は、ラジオ体操の会場にも
なっているが、参加者の中には毎朝欠かさず、阿弥陀如来・二葉地蔵・二羽稲荷・二葉閻魔に参る人
もいる。 本堂の右は墓地、

 荒川区登録文化財は、
紙本着色仏涅槃図・木造智天上人坐像・木造閻魔坐像元禄十六年七月銘・満
光寺文書・板碑6基永和元年六月十二日銘他・庚申塔2基承応三年二月八日銘他がある。
 
「新編武蔵風土記稿」に、

   満光寺
   浄土宗芝増上寺末。二葉山尾久院と号す。本尊三尊の阿弥陀坐像、長2尺、恵心僧都の作。
   稲荷社。
   閻魔堂。


 とある。

   上野二葉家と満光寺
   満光寺は浄土宗の寺院で、二葉山尾久院と号する。もと天台宗で室町時代の創建と伝える。
   浄土宗寺院としての開山は、智天上人(慶長二十年没)、開基は上野二葉村(坂本村・現
   台東区)名主二葉和泉守。上野不忍池の付近にあったものが、寛永寺の造営で現在地に移
   転したという。
   永和元年(1375)銘をはじめ、天文年間(1532~55)にいたる6基の板碑や、
   2基の庚申塔を有する。また、紙本着色山越阿弥陀図、元禄十年(1697)銘の木造智
   天上人坐像、満光寺文書などを所蔵、境内には二葉地蔵、二葉稲荷など、二葉家所縁のも
   のが多い。木造閻魔坐像は二葉閻魔とも呼ばれ、頭部の内側に「元禄十六年七月」の銘が
   ある。                             荒川区教育委員会

 ●二羽地蔵尊・二羽稲荷社・二羽閻魔堂
 寛永寺の建立で上野山から寺とともに移された。

 
私立井上小学校
 下尾久村で初めての小学校が、明治15年、この地(当時の北豊島郡下尾久村927番地)に開校
した。田辺勗が設立した「私立田辺小学校」だ。同19年1月廃校となるが、3月山口県から上京し
た井上孫次郎によって「私立井上小学校」が新たに誕生した。井上は校主と教員と兼ね、下尾久村の
教育の発展に尽力した。同32年までの存続が確認されているが、その後の経緯は不詳。この先に阿
遮院蓮華寺に墓がある。

   私立井上小学校跡(満光寺)
   下尾久村で初めての小学校が明治15年に開かれている。校名を井上小学校と呼んでいた。
   当寺は、上野(二葉村)の二葉家が不忍池の近くに開いたものであるが、寛永寺が建てら
   れることになったため、今のところに移った。その後、二葉家は坂本村の名主を務め、輪
   王寺の宮様に、正月には必ず土地の名産「二葉ごぼう」を献上したといわれる。
                                荒川区教育委員会説明板


■東尾久三丁目駅

 東尾久3丁目4番・7番にある都電荒川線の停留所。大正2年4月1日王子電気軌道の停留所とし
て開業。


■コーディエールヤマツ 閉店
 東尾久3丁目4番5号にあった洋菓子屋。アクセッサーからのメールによると「今はない」という
ことで調べたが、閉店したことは事実のようだが、移転したのかどうかも含めて詳細は不明。

 
フランス菓子「川の手の里」
 
この洋菓子屋の評判の菓子さ。新鮮な玉子、フレッシュバター、小麦粉、アーモンドナッツパウダ
ーを使い、しっとりと焼き上げた。アーモンド・スポンジとフレッシュバターの軽い塩味が特徴。調
和のとれた、豊潤な香りの広がるフランス菓子の逸品生菓子。冷蔵庫に保管して早めに食べんだよ。


■東尾久三丁目児童遊園

 東尾久3丁目5番1号にある区立公園。昭和44年4月1日開園。通りから小路を少し入ったとこ
ろにある住宅に囲まれた小さな園地。ブランコと砂場がある。トイレ無し。


■東尾久ひろば館
 東尾久3丁目5番3号にある区の施設。


■東尾久三丁目ひろば館
 東尾久3丁目5番17号にある区の施設。
 


■阿遮羅山
阿遮院蓮華寺
 東尾久3丁目6番25号にある真言宗豊山派の寺。開基開創は不明だが、尾久における最古の寺院
と伝える。本尊阿遮羅明王(不動尊)は良弁僧都の作。不動尊の梵名がアシャラナータで、山号となっ
た。延元三年(1338)の板碑が所蔵され、境内には元禄十四年(1701)の光明真言供養塔が
ある。豊島八十八ヶ所の63番。荒川辺八十八ヶ所の10番、御府内二十一ヶ所の19番。入口から
50mの参道で山門、右寄りに本堂、その右は庫裏。本堂の左と奥は墓地だ。
 「新編武蔵風土記稿」に、

   阿遮院
   新義真言宗、田端与楽寺の末。阿遮山蓮華寺と号す。本尊不動。
   稲荷社


 とある。


 百万遍念仏講用具
 
百万遍念仏講に使用する鉦(かね)と大きな数珠がある。


■東尾久三丁目北児童遊園(三角公園)

 東尾久3丁目18番4号にある区立公園。昭和54年5月15日開園。都電通り沿いにあって、敷
地が三角であることから「三角公園」とも呼ばれている。まるで木登りをするような登り棒が設置さ
れていたり、平均台や縄梯子、滑り台が一体となったアスレチック遊具もある。遊具は高い所が多い
ので、小さい子にはちょっと無理。小さい子は砂場遊びがあるよ。


■伏見稲荷社 ◇

 東尾久3丁目18番8号レジデンスタケウチの裏にある小祠。


■東尾久三丁目西児童遊園

 東尾久3丁目24番7号にある区立公園。昭和48年6月23日開園。ブランコ、すべり台、ジャ
ングルジム、砂場があるが、トイレ無し。


■熊野前停留所(三ノ輪橋行きホーム)

 東尾久3丁目36番にある都営荒川線の停留所。かつて熊野前交差点辺りに熊野神社があったこと
から電停名がついたが、神社がなくなったのは明治時代なので、開設当時には既になかった。停留所
は尾久橋通りとの交差点にあり、熊野前陸橋が頭上を横切っている。この先小台までの2区間は併用
軌道区間になるが、車道との間は縁石で仕切られているので実質は専用軌道だ。
 平成20年3月開業の新交通システム「日暮里・舎人ライナー」の駅が開業して乗換駅として機能
することとなった。


■熊野前駅

 東尾久3丁目37番、尾久橋通りの扇大橋のランプ(勾配)の東にある都営日暮里・舎人ライナーの
停車場。平成20年3月30日の日暮里~見沼代親水公園間の開業と同時にできた。ホームは3階に
あり、島式1面2線構造だ。改札階とホームを結ぶエレベーター完備。改札口は1ヶ所のみで2階に
ある。出口は荒川線口・中央口・南口・尾久小口の4ヶ所で、中央口を除く3ヶ所の出口にエレベー
ターがある。
 日暮里・舎人ライナーが都営の他路線に接続しているのは、この熊野前駅だけ。荒川線口を出ると
すぐ目の前に都電荒川線の熊野前停留所停があるので乗り換えは便利


■熊野前陸橋

 東尾久3丁目37番尾久橋通りが都電荒川線と熊野前交差点を越える陸橋。都道58号台東鳩ヶ谷
線(起点:台東区根岸3丁目の(尾竹橋通り~終点:足立区舎人4丁目の都県境)、東京都市計画道路
幹線街路放射第11号線=尾久橋通り)の都電と交差する部分に設けられた高架橋。陸橋部分は4車
線で、都電荒川線と東京都道306号王子千住南砂町線の支線(、都道313号上野尾竹橋線の2つ
をオーバークロスしている。陸橋の東側を日暮里・舎人ライナーが通っており、その高架橋と並ぶ形
で南北方向に架橋されている。また陸橋の東隣には日暮里・舎人ライナーの熊野前駅があり、都電荒
川線熊野前駅との乗換駅になっている。尾久橋通りは熊野前陸橋の手前までは地平を通っていて、熊
野前陸橋の部分で都電と都道306号線支線を越えるために高架になるが、その先の陸橋北部でもこ
の高架は続いていて、隅田川を渡る尾久橋と荒川を渡る扇大橋まで同じ高さでそのまま続いている。


■赤土小学校前駅

 東尾久3丁目43番、尾久橋通り上にある都電日暮里・舎人ライナーの停車場。平成20年3月3
0日の日暮里~見沼代親水公園間の開業と同時にできた。ホームは島式1面2線構造で3階にある。
ホームと改札階をぶエレベーターも設置されている。改札口は1ヶ所のみで2階にある。出口は東口
と西口の2ヶ所で、両方にエレベーターがある。
 赤土小学校前駅は都内で唯一、「小学校前」を名乗っている駅だ。「小学校前」を名乗る駅は札幌
市電に「幌南小学校前」と「資生館小学校前」があるのみで、全国的に見ても非常に珍しいそうだよ。
駅名マニアがそういってる。


■東尾久四丁目児童遊園

 東尾久4丁目12番1号にある区立公園。昭和51年4月1日開園。カラフルなスプリング遊具が
あり、緑が多い。ブランコや砂場もある。トイレ無し。


■東尾久上児童遊園

 東尾久4丁目24番10号にある区立公園。昭和47年7月1日開園。鉄棒や滑り台が一体となっ
た複合遊具やブランコ、砂場などがありる。どれも赤、青、黄、緑色とカラフルに彩られていて、と
ても明るい雰囲気だ。カバやキリンの絵がついたベンチは子どもにも人気。


■尾久第一児童遊園

 東尾久4丁目45番3号にある区立公園。昭和25年4月15日開園。ブルーの滑り台と、オート
バイの形をしたスプリング遊具、砂場がある。


■町田
桐箪笥製作所

 東尾久5丁目1番7号にある。住宅街の一画にひっそりと佇んでいる「町田桐タンス製作所」は、
荒川区の無形文化財に指定されている町田金三郎の店だ。金三郎の父親初代昇吉が、大正12年に創
業し、以来約80年に亘って東尾久で桐箪笥を制作してきた。金三郎は、昭和22年から昇吉に師事
し、この道50年を超えるベテラン職人。現在は息子3代目好男と共に制作に励んでいる。嫁入り道
具の1つとして有名な桐箪笥は、耐火性・耐湿性・気密性に優れ、古来から衣類の収納家具として重
宝されてきた。江戸時代初頭の大阪で誕生し、江戸では元禄三年(1690)に桐タンスを制作した
という記録が残されている。今日では婚礼家具という概念から解放され、審美眼を備えた、真に価値
のある良質のものを求める人々から人気を集めている。町田親子は、受け継がれてきた伝統の技を守
りながらも、現代の若い人々の好みに合わせた作品の制作にも余念がない。
 薄い灰色に木目が美しい仕上げは「時代焼き」という。桐の表面をバーナーで焼いて焦し、天然の
塗料を塗り、さらに拭き取る技法だ。人気商品は「総桐ローチェスト」「総桐チェスト1」「総桐チェ
スト2」など。値段が高く感じられるが、他の桐箪笥店と比べるとかなりのお手ごろ価格、工場直販
だからこそ実現できる。「桐箪笥」と銘打ち、破格の値段で販売している業者もあるが、中には粗悪
なものもあるそうなので、くれぐれもご注意なすってやってくんねぇ。購入後のアフターケアも万全
だよ。桐は湿度により膨張する素材なので、地域・気候が変わると引き出しが開かなくなるなどのト
ラブルが発生することがあるが、そのような場合は町田親子が出張して削り、調節してくれるんさ。
その他、古くなり隙間が空くなどのトラブルを抱えた桐箪笥を削り直し、新品のように美しくリフォ
ームすることも請け負っている。この様に、お直しができることも桐タンスの魅力のひとつだ。永く大
切に使うことができる素晴らしい家具なんだわい。


■尾久小学校

 東尾久5丁目6番7号にある区立校。明治20年11月、前年1月に閉校となった華蔵院の私立田
辺小学校を再興して「公立尾久小学校」として開校。同32年私立井上小学校を吸収。
 大正8年現在地に新校舎が完成して移転。昭和7年周辺郡部が東京市に併呑されたことにより「東
京府東京市立尾久尋常小学校」と改称。同16年勅令148号国民学校令により「東京府東京市尾久
国民学校」と改称。12月日米開戦。同19年学童集団疎開。同20年ならず者国家アメリカの軍門
に降り日本敗戦。10月疎開解除により学童帰校。
 同22年戦勝国アメリカの強制による学校教育法の施行により「東京都荒川区立尾久小学校」と改
称。同30年校歌制定。

 校歌「東の空に」制定  作詞・野口孝信  作曲・藤井豊子
  1.東の空に希望の雲が湧き
    熱い瞳に誠求めて
    若竹のように只一筋に
    学ぶ我等
    尾久 尾久の子我等
  2.明るい庭に理想の光浴び
    強い身体に力を込めて
    若竹のように只一筋に
    励む我
    尾久 尾久の子我等
  3.栄ある窓に歓喜の声が満ち
    清い心に平和目指して
    若竹のように只一筋に
    進む我等
    尾久 尾久の子我等


 同32年創立70周年記念式典。昭和43年鉄筋コンクリート造り校舎3階建て6教室。同48年
まで工事は続き鉄筋コンクリート造り校舎完成。同51年体育館完成。同62年創立100周年記念
式典。
 平成8年学校園・防災井戸完成。同9年コンピュータ・ルーム開設。同9年創立110周年記念式
典。同12年校舎耐震化。ランチルーム完成。同19年創立120周年記念式典。


■伏見稲荷神社 ◇
 東尾久5丁目6番9号、尾久小学校の裏の熊野前商店街の一角にある小祠。

 
杉野中尉殉難碑
 境内に建てられている。大正6年陸軍工兵杉野治義が千葉県の下志津飛行場から所沢飛行場へ帰航
中、当時はまだ尾久小学校も移転してきておらず純農村の水田だったこの場所に突風に煽られて墜落
した。当時は一望千里で千住の町が見えたそうだ。明治43年徳川好敏大尉が代々木練兵場で初飛行
を行ってから7年目の事故だった。翌年に碑が建てられ、昭和42年の50回忌に当たり、商店街の
人々によって法要が営まれた。

   杉野中尉殉難遺跡

 区の説明板は以下の通り。


   航空界初の事故
   わが国の初飛行は明治43年のことで、徳川好敏大尉が代々木練兵場で高度70mで約3
   0m飛んでいる。それから7年後にして尊い犠牲が生まれた。陸軍工兵杉野治義中尉(2
   7歳)が、陸軍野外飛行で下志津から高度500mで所沢へ帰航中、突風に襲われて尾久
   村の水田に墜落したのである。大正6年3月25日午前11時40分の出来事であった。
                                   荒川区教育委員会


■男女平等推進センター(アクト21 熊野前ひろば館)
 東尾久5丁目9番3号にある区の施設。男女平等推進センターは、男女が互いにその人権を尊重し
つつ、責任を分かち合い、性別にかかわりなく、一人ひとりがその個性と能力を発揮し、凡る場に参
画できる豊かで平和な男女平等社会の実現にむけて活動するための場だ。また区民の相互交流と自主
的な活動を応援するための施設でもある。
 ひろば館は、乳幼児から高齢者まで、あらゆる世代の区民が交流し、自主的な活動ができる地域コ
ミュニティの場として「ふれあい館」を設置している。また、従来の「ひろば館」も、サークル活動
や小規模の会合など、地域の区民の交流の場として利用できる。

 「もう来るかな?」
 建物内にある。酒場保夫の木彫裸婦像。材質は楠。昭和59年制作。

 「風の音」
 建物内にある。内田痲ゆの大理石作品。平成20年制作。


■東尾久五丁目児童遊園

 東尾久5丁目9番4号、熊野前ひろば館の前のスペースにある区立公園。平成8年9月1日開園。
遊具もトイレもないただの広場。トイレ無し。

 「どうぞ!
 敷地入口にある。渡邊敏泰のブロンズ像。少女と弟の像。平成17年制作。


■熊野前停留所(早稲田行きホーム)

 東尾久5丁目12番にある。詳細は三ノ輪橋行きホームに記載。


■稲荷神社 ◇

 東尾久5丁目13番7号にある。駐車場の奥、築山の上にある立派なものだ。


■熊野前南児童遊園(くまのまえはっぴー公園)

 東尾久5丁目21番10号、にある区立公園。平成23年4月1日熊野前商店街の中に開設。地域
でのイベントのほか、防災時にも活用できる大きな広場が特徴。滑り台や縄梯子で遊べる複合遊具に
は、鯨の絵が描かれている。トイレ無し。


■宮の前ひろば館

 東尾久5丁目31番11号にある区の施設。


■東京電力田端変電所

 東尾久5丁目45番11号にある。


■宮前児童遊園(ひこうき公園)

 東尾久5丁目46番14号にある区立公園。昭和40年4月1日開園。一際目を引くカラフルな飛
行機の形をした複合遊具がある。胴体部分はジャングルジムのようになっていて、高いところに登っ
ての冒険気分を味わえる。滑り台、砂場、スプリング遊具もある。園内中央に鉄塔がある。近くに尾
久消防署、尾久警察署があるので、緊急の場合も安心だ。


■尾久第三児童遊園

 東尾久6丁目5番10号、下町の路地と縁側がテーマに整備された区立公園。昭和35年2月6日
開園。太鼓梯子がついた滑り台やブランコ、砂場、スプリング遊具がある。


■子育地蔵尊 ◇

 東尾久6丁目12番26号にある地蔵堂。入口脇に立派な標柱がある。 


■尾久第四児童遊園(四季のかおり公園)

 東尾久6丁目21番2号にある区立公園。昭和36年4月1日開園。三方の道路に接した、明るく
見通しの良い園地。ブランコ、砂場、鉄棒がある。


大龍山天照寺
 東尾久6丁目22番2号にある曹洞宗系単立の寺。昭和17年の創立。通りを入った奥に普通の民
家。表札に天照寺と書いてある。その他は不明。


■下尾久不動堂(出世石尊) ◇

 東尾久6丁目31番2号にある堂宇。延元三年~興国三年(暦応元年~康永元年 1338~42)
頃、地震が頻発するので、村人たちが不思議に思ってこの場所に来てみたら地面から2尺ばかり異形
な石が生えていたという伝説を持つ。地盤隆起があったのかも。そこで村人は石神として崇め、これ
をお堂に祀ったのが始まりで、関東周辺に石神信仰は広く分布しているが、上尾久村の小名「石神」
はこの石尊に因むという。この石尊を祀る講は「出世講」と呼ばれ現在も続いている。石尊が鎮座し
ている堂宇は施錠されており、扉の引手のような部分の穴から中を覗き見る仕様となっている。
堂内
には60cmばかりの砂岩が2つ鎮座しているのが見て取れる。
何らかの加工痕?と思われる縦筋が
入っており、これが伝説でいう所の「武士に切られた刀傷」だろう。古墳の石室材の一部かと問われ
ると微妙な気もするが、この奥の薄暗くなっている部分にも何やら石材のようなものが見える(奥に
は石碑が幾つかあり、その台座なのかも知れないが、薄暗くてよく判らない)。堂裏は一段高くなっ
ている。ていうか、堂のある場所が一段掘り窪められているようにも見え、石室を掘り崩した跡のよ
うだ。河原石が敷かれているのも石室の床っぽいが、後世の造作かも知れない。社殿左側の庚申塔に
は、元禄十一年(1698)建立の紀念銘がある。
『新編武蔵風土記稿』の下尾久村の条に、石尊に
ついて、


   社ハナシ、高四尺許ノ自然石二ツ並ベリ。他ニ入ルコト深カラザル由ヲイヘバ、先年堀ン
   トセシニ堀出シ得ズ。由テ権現ニ崇メ祭レリト云。近年傍ニ石尊ト彫シ碑ヲ立。阿遮院持
   下同じ。
   石神社
   神体は石剣なり、長二尺許。


 と記しており、天保十四年(1843)阿遮院で書き上げた「境内略絵図坪数等書上帳」には、当
時の境内は20坪半と記録されている。4尺というのは偶々掘り下げていた時に遭遇したのだろう。

   下尾久石尊
   歴應(1338~42)の頃、しばしば起こる地震に、村人が不思議に思ってこの地を訪
   れたところ、地より2尺(約60cm)ばかりの異形な石が生えていたという。一名「出
   世石尊」。石神と崇め、祀るようになったと伝える。文政十一年(1828)成立の「新
   編武蔵風土記稿」には「阿遮院持」と記載。天保十四年(1843)の書上帳には、境内
   25坪(約80㎡)
   この石尊を祀る講は「出世講」と呼ばれ、現在でも続けられている。石神信仰は関東周辺
   に広く分布しており、下尾久字石神といわれたこの周辺の字名も、これに因んだものと思
   われる。
   社殿左側の庚申塔には、元禄十一年(1698)十一月吉祥日の紀年銘がある。
                                   荒川区教育委員会


 三社供養塔
 堂右横にある、

   湯殿山
   月 山 三社供養塔    講中
   羽黒山


 
庚申塔
 堂前左にある。

       元禄十一戊寅年
   奉供養庚申講為二世安楽也
       十一月吉祥日」

 説話 角力をとる鷺
 昔々、下尾久村の石尊の裏の田圃に一羽の鷺が住んでいた。この鷺は夜な夜な人に化けて出て、そ
こを通る村の若者を投げ飛ばし、通行の邪魔をして人々を困らせていた。この評判を聞いた一人の武
士が、その鷺を退治しようと思い、角力を挑む鷺に挑戦。鷺と思って斬りつけたところ、斬りつけた
のは石尊だった。現在石尊に残っている傷跡は、その時の太刀跡であるといい伝えられている。また
石尊にはもう一つ、掘っても掘っても掘りだせない不思議な石だといういい伝えがあります。南千住
の素盞雄神社、葛飾の立石、鹿嶋神宮の要石など各地に、三日三晩、七日七夜掘っても石の根が出て
こないそうだ。石神信仰という。また「角力」は、今でいう「相撲」のことで、「ちからくらべ」と
も読み、昔の土俵は正方形だった。その名残りが、今の丸く埋め込んだ土俵の外側に、四角く土俵を
埋め込んであるのがそれだ。丸い土俵は江戸の勧進相撲からだ。


■北豊島中学校・高等学校

 東尾久6丁目34番24号にある私立校。沿革不明。

 校歌
「天地のむた」  作詞作曲不明
  1.天地のむた極み無く
    世界に輝く日の本の
    婦人の分に目覚めつつ
    誠の道を雄々しく開かん
    いざ乙女子 我等
  2.朝日に匂う桜花
    心の色も言の葉も
    気高く清く淑やかに
    知徳を磨き 鍛えん体を
    いざ乙女子 我等


 秋上ハル
 島根県松江市出身。生家は日本最古の神社と伝えられる神魂神社。小学校教諭を経験の後大正デモ
クラシーの潮流の中、女性の地位向上のための活動に参加。大正15年真に自立した女性・社会に貢
献できる女性の育成を目指し、現在地(当時の北豊島郡尾久町)に「北豊島女学校」を設立。人間愛
を基調とし、真に才能ある者の芽を育て伸ばす個性尊重の教育に情熱を傾けた。大正15年の創立と
いうことは、平成17年が80周年ということだな。


■子育地蔵堂 ◇

 東尾久6丁目34番24号、北豊島中学校・高等学校の敷地に食い込むような形で建っている。


■尾久小公園

 東尾久6丁目42番6号にある津立公園。昭和25年11月30日開園。近年リニューアルした複
合遊具が人気の公園。複合遊具には、大小の滑り台、吊り橋、岩登りが一体となっていて、工夫して
遊ぶことができる。キリン、ゾウ、カメの置物遊具や、柵が付いた砂場もあるので、小さい子も安全
に楽しめるよ。


■尾久の原

 東尾久7丁目から町屋5、6丁目にかけての泥土質の原野は、荒木田の原に続く草原で、桜草の自
生地。人々を苦しめた大河の氾濫は、一方ででその泥水に覆われる肥沃な土地に桜草を育てた。ただ隅
田川の沿岸は概ね桜草の原っぱだった。この桜草は江戸で大人気で、春は農家の人が花売りに出た。毎
日とっても採り切れぬほど一面花の絨毯だった訳。このほか多くの植物、くらく・ゆきみそう・ひめ
きんばい・はなやすり・なずな・たがらし・のにんじん・れんげそう・のえんどう・はんのき・ちょ
うじそうなどが繁茂していたんだそうだ。写真もないぐらいだから相当昔のことなんだろう。この辺
りは白魚のよく獲れたところで、桜草の赤きに白魚を添えて土産にしたなんて、粋だねぇ、江戸っ子
は。
 


■旭電化跡

 東尾久運動場・尾久の原公園・首都大学東京荒川キャンパス・東尾久浄化センターを合わせた地域
は「旭電化跡地」と呼ばれている。荒川区最大の工場として名を馳せた旭電化工業株式会社尾久工場
は大正6年から操業し、第2次世界大戦時には、アメリカ軍による史上初の日本本土空爆の目標とし
て狙われる程、産業基幹施設として重要な工場だった。昭和40年に都市化の波に押されて工場を移
転することが決定し、同52年に都がその敷地を購入した。
 その後「旭電化跡地利用計画協議会」が発足し、現在に至っている。今、大きな建て看板が記念碑
の如く建っていて跡地を示している。


■尾久の原公園

 東尾久7丁目1番にある都立公園。平成5年6月1日開園。大正6年創業の旭電化尾久工場跡地に
現在も造成中で、最終的には運動施設や多目的広場を持った10haの大公園となる予定。下水道施
設の整備に合わせて公園整備を行うので、この公園の整備完了までには、10年以上の歳月を要する
ことになる。
平成5年からすでに開園している区域には、芝生広場、クローバーの広場、小流などの施設が提供さ
れている。特に小さい子供たちを対象とした人工の小川は、連日多くの区民に利用されている。また
北側の一帯にシダレザクラを植樹し、サクラの名所づくりを進めている。隣の東尾久運動場と、北側
には道路を挟んで隅田川・荒川が流れているため、視界を遮るものがあまりなく、都心には珍しく開
放感のある空間が広がっている。この公園には特別な遊具や庭園はほとんどない。「何もない」それ
がこの公園の魅力なのだ。東京都が土地を払い下げした後、その利用方法を巡って紛糾。計画が定ま
らぬままに数年が経ち、やがて気が付くと、ヨシやヒメガマなどが風にそよぐ湿地・シロツメクサや
オオバコが自生する草原の姿がそこにあった。自然保護団体の尽力などにより、野生が回帰した姿を
そのまま活かす形で、平成5年に都立公園としてオープンした。以来子供から高齢者まで、沢山の人
が訪れる人気のスポットとなったってえ訳よ。小田原評定も怪我の功名でい。
 公園の名物はトンボだよ。都心ではシオカラトンボですらあまり見かけないが、ここでは何と約3
0種のトンボが生息してるんだ。あの緑色で美しいギンヤンマもいるんだぜ。トンボ以外にも様々な
野鳥が飛来しており、池にはザリガニやカエル、アメンボなどがいる。正に都会のオアシスさ。子供
たちが夢中んなってオタマジャクシなどの捕獲に奮闘している姿は、笑っちゃう。今も昔も変わりは
ねえやな。ったく。
 また、広い園内にはジョギングやウォーキングに適している舗装路や、犬の散歩にもうってつけの
草原もある。ただし、犬のフンの始末は必ず飼い主が責任を持って行えよ。給食代は払わねえなんて
しみったれてる前に、人間として、てめえの始末はてめえでつけろ。放し飼いも厳禁だからな。
 前にも書いたが、10年後までには浄化センターの上にも草地等を造営し、尾久の原公園の敷地が
拡がっているはずだ。枝垂れ桜も増え、今後ますます目が離せない区民自慢の公園となるに違いない。
水元公園よりいいかも。

 
尾久の原愛好会
 
目的、尾久の原公園等の自然観察を通じ都会における自然の有様に関心を持ち、身近な所から環境
保全運動を行う。活動は、尾久の原公園の自然観察会及びクリーン大作戦。ザリガニとり、尾久の原
公園写真展、環境保全運動の学習会と関連団体の交流などなど。年会費必要。月例自然観察会の実施
:毎月第4日曜日、10時~12時 10時までに尾久の原公園管理事務所前に集合(12月~2月
は除く)。事務局・問い合せ先、
 〒116-0012 荒川区東尾久6丁目16番22号 喫茶「フェルメール」気付。
 TEL&FAX 03-3809-5256


■東尾久運動場

 東尾久7丁目1番1号、旭電化跡地の一部で、都立尾久の原公園と都立首都大学東京・荒川キャン
パス(旧都立保健科学大学)の間に位置している。サッカー・野球などに利用されている2面の多目
的広場(2時間350円、中学生以下300円)、ゲートボール・ペタンク(スケールの大きいビー
玉遊びのような競技)・グラウンドゴルフ(テニスボールなどの球で行うゴルフに似た競技)など、
主に高齢者の方々が利用する3面の小広場、5面のテニスコート、そして駐車場がある。広いスペー
スがあるので、各種大会にも利用されているさ。
 多目的広場をサッカー・野球で利用する場合は、荒川総合スポーツセンターでのチーム登録が必要
となる。登録する人は区内在住・在勤・在学の方に限る。チーム登録が完了したら荒川総合スポーツ
センター・インターネット・携帯電話等から抽選の申込みを行う。抽選後に空きがあれば、随時予約
を受け付けているので確認してみな。またコートの利用は、多目的広場・小広場・テニスコート共に
原則として18時までとなっている。日が暮れたら家に帰れってことよ。おいらがガキの時分にゃあ
4時だぜ、4時になったら家に帰れって、サイレンがなるんだよ。夏なんかどうするよ。だから子取
り(拉致誘拐)なんざなかったよ。


■下水道局東尾久浄化センター

 東尾久7丁目2番にある。


■都立保健科学大学 →
首都大学東京・荒川キャンパス・

 東尾久7丁目2番10号にある。昭和61年東京都立医療技術短期大学開学。平成10年東京都立
保健科学大学開学(短大募集停止)。同12年短大閉鎖。同14年大学院修士課程設置。同16年大
学院博士課程設置。同17年首都大学東京に統合され、保健科学大学の募集停止。


■隅田川旧防潮堤の碑

 東尾久7丁目3番、都下水道局東尾久浄化センター北側のスーパー堤防のテラスにある。カミソリ
堤防といわれた防潮壁の一部が切り残されてモニュメントとしている。現在隅田川の堤防は町と川を
分断してきたカミソリ堤防から順次親水性のあるスーパー堤防に作り変えられている。この記念物は
旧堤防の姿を後世に残すものだ。カミソリ堤防は昭和32年に建設が始まり、この辺りは同45年前
後に建設された。それまではカミソリ堤防の一番下ぐらいの高さの堤防だった。
 なおこのモニュメントとほぼ同じものが、南千住8丁目水神大橋の近くにある。

   隅田川旧防潮堤
   隅田川の下流部一帯は海抜ゼロメートル以下の地域が広がっています。このため東京都で
   は、高潮や洪水の対策として昭和32年から隅田川のコンクリート防潮堤建設に着手し、
   昭和50年に概成しました。高潮や洪水に対する危険は大幅に減少しましたが、隅田川と
   町は分断されてしまい、河川から都民を遠ざける結果を招いてしまいました。
    現在は、高潮や洪水に対し、より安全性が高く、都民が河川と親しめる潤いのある水辺
   環境に配慮した堤防へと造り替えています。
    新しい隅田川堤防の整備に当り、これまで幾多の台風、洪水から地域を守ってきた直立
   した防潮堤を後世に伝えるため、その一部を保存するものです。
                                    平成19年3月
                                     東京都建設局


■上尾久の馬捨場跡

 東尾久7丁目4番にあった死馬処理場の跡地。現在馬頭観音・竹駒稲荷などが祀られているが実際
あった位置より50mほど東に寄っており、鬱蒼とした木々は移されなかったので墓地のようだ、ま
たスーパー堤防などの構築により、江戸時代の状況とは随分様変わりしており、往時を偲ぶ縁(よす
が)はない。後ろにあったコンクリートの防潮壁は取り払われたので対岸の見通しが利くようになっ
た。現在祠が3つ、地蔵、庚申塔、灯籠などの石造物が10数基ある。昭和63年頃の説明板は以下
の通り。

   馬捨場跡
   隅田川沿いのこの土地は、尾久村の古地図に「死馬捨場」と記されている。
   尾久は、区内で最も遅く、昭和の初期まで農耕がおこなわれていたところで、馬頭観音信
   仰も明治末期まで生きていたところでもある。この一画の土地には、馬を描いた絵馬を奉
   納したり、「イヌソトバ」などを供えるという珍しい風習があった。
   ここには元禄・宝永のころ(1688~1710)の供養碑が散在している。
                                   荒川区教育委員会

 23区でも農村には何処にでもあった。ただ供養しなくなって供養塔などを取っ払っちゃって住宅
にしたから判らないだけだ。マンション建設現場などから時折骨が出てきて工事人夫が大騒ぎする。
ここは辛うじて祠が残っており、供養塔や小灯篭が散在しているのも、近郊農村の面影をつい最近ま
で残していたこの付近にふさわしい光景ともいえる。現在は隅田川スーパー堤防の工事用パネルで塞
がれてしまったので状態は不明。結局は取っ払われて、どこぞの寺に移設してしまうのだろう?
                      ※
 その後、パネルが取り払われた。綺麗に整理されて、供養塔なども整然と並べられている。

   
上尾久の馬捨場跡(馬頭観音)
   馬捨場の本来の位置および範囲は、東尾久7丁目3612、3484番地あたり(西方に
   50mのところ)、と推定される。平成12年スーパー堤防の建設に伴って、小祠や石造
   物がここに移設された。
    かつて荒川沿いのこの辺りは秣場と呼ばれていた。秣場とは、田畑への施肥である刈敷
   きや牛馬の飼料とする草の共有の採取地のことをいう。江戸後期には新田開発されていく
   が、その呼称は地名として時代まで使われていた。
    この秣場の中に、馬捨場はあった。牛馬は田畑を耕すため、荷物の運搬に欠かせない動
   物であり、特に馬は、軍事用、宿駅の維持のために重視された。しかし年老いたり、死ん
   だ際には、ここに持ち込まれ、解体されて、武具・太鼓などの皮製品や、肥料・薬品など
   の製品として活用されることになっていた。こういった馬捨場は他の各村々にも存在し、
   生類憐み令では、解体後の丁重な埋納が求められた。
    明治時代になって、馬捨場は使命を終えるが、荷を運ぶ運送業者の信仰を集めたり、戦
   争で徴用された馬を供養する場ともなり、跡地は別の意味合いを帯びて行くようになった。
   近年まで馬の供養のための絵馬を奉納したり、生木で作ったY字型のイヌソトバを納める
   習俗が残っていたという。現在天保十二年(1841)及び大正時代の馬頭観音のほか、
   竹駒稲荷などが祀られ、また開発によって移された石塔類も置かれている。この内寛永十
   五年(1638)十二月八日銘の庚申塔は荒川区最古のものである。

                                   荒川区教育委員会


■緊急時用防災船着場(浮桟橋)

 東尾久7丁目4番にある。


■尾久橋

 東尾久8丁目と足立区小台を結ぶ隅田川に架かる橋梁。詳細は、北区の巻末「隅田川」を参照して
やってくんない。


■熊の前公園

 東尾久8丁目1番1号にある区立公園。昭和32年6月29日開園。首都大学東京の荒川キャンパ
ス西側だ。交番が隣接することから交番の裏公園と呼ばれたり、かつて園内に設置していたアスレチ
ック遊具のロープがくもの巣のように見えたことから名残で蜘蛛の巣公園と呼ばれたりしている。


■東尾久八丁目グリーンスポット

 東尾久8丁目5番1号にある区立小公園。


■デルタ造船所 移転
 東尾久8丁目6番にあった漕艇競技用ボートレース艇の造船所。昭和3年の創業以来、オリンピッ
ク、世界大会、国体、インターハイ等の各種ボートの提供を続けている。世界の最先端を行く舟艇の
開発、生産、販売を行う日本国内唯一の企業。尾久橋脇、隅田川堤防に接する工場は名物風景だったが
平成12年茨城県稲敷郡新利根町の下太田第二地区工業団地に転出した。現住所は稲敷市太田444
6番地。


■稲荷神社(王子稲荷大明神) ◇

 東尾久8丁目12番8号にある小社。


■熊野前の辻(熊野神社旧地 熊野前交差点 熊野前陸橋)

 東尾久8丁目13・14番、熊野前交差点の西北角辺りに熊野神社があったことで辻の名前が起こ
り、地名にこそならなかったが、ポイント名として、駅や交差点、商店街、陸橋、歩道橋などの名前
に残っている。特に商店街は、ビートたけしの『元気が出るテレビ』という番組で取り上げられ、商店
街を活性化させた面白い町だ。神社は道路事情で邪魔になったのだろう、明治11年西へ500mば
かりのところにある八幡社に合祀した。だから熊野前に熊野神社はないんだよ。
 


■尾久第五児童遊園(コロコロ公園 おばけ公園)

 東尾久8丁目21番6号にある区立公園。昭和38年6月26日開園。ローラー滑り台があること
から「コロコロ公園」と呼ばれたり、「おばけ公園」とも呼ばれ、地域で親しまれている。ブランコ
、シーソー、砂場、小さなジャングルジムがあり、小さな子でも楽しむことができる。トイレ無し。


■熊野の渡し

 東尾久8丁目25番1号、尾久橋の南詰、途中から下の道に降りる階段下脇に区の説明板がある。

   これより北に約50メートル
   
熊野の渡し
   東尾久8丁目と足立区小台1丁目を結んだこの渡しは、昭和25年3月まで近隣の住民に
   親しまれ利用されていた。                    荒川区教育委員会


■輪王寺宮の隠れ屋敷跡
 東尾久8丁目25番3号の遠藤邸のところにあった。


■玄琳牡丹屋敷跡
 東尾久8丁目26番の辺りにあった医師佐治玄琳の屋敷は牡丹の見事さから牡丹屋敷といわれた。


■華蔵院旧薬師堂墓地

 東尾久8丁目41番にある。墓地内に六地蔵がある。


■尾久消防署

 東尾久8丁目44番4号にある。


■宮前第二児童遊園(おすもう公園)

 東尾久8丁目45番5号にある区立公園。昭和47年4月1日開園。かつて土俵があったことから
「おすもう公園」と呼ばれ、子どもたちから親しまれている。緑が多く、広々としており、鉄棒、ブ
ランコ、滑り台、砂場、スプリング遊具がある。トイレ無し。


大悲山華蔵院観音寺

 東尾久8丁目46番2号にある真言宗豊山派の寺。けぞういんと読む。開山など委細不明。室町時
代末期から江戸時代初期にかけての創建と推定される。観応二年(1351)の板碑があるというか
ら相当古いんだろう。
荒川辺八十八番札所の11番。豊島八十八番観音霊場の54番。山門を入ると
すぐ本堂、鉄筋コンクリート2階建て、石段を上がって2階で参拝。本堂の左と奥は墓地。右は庫裏
本堂脇に小さな池があり、そこに露出の水子地蔵が安置されている。墓地に上尾久村代々の名主江川
佐十郎家の墓所がある。
 この寺が所蔵する中世に造られた板碑二基の内一つは、他に例を見ない「光明遍照偈板碑」という
物だそうだ。

 光明遍照偈板碑
 阿弥陀の種子を光明遍照偈(こうみょうへんしょうげ)が取り囲む形態の板碑。

   光明遍照偈板碑(華蔵院)
   華蔵院は、大悲山観音寺と号する真言宗の寺院。開創は未詳だが、中世に作られた板碑2
   基を所蔵する。内1基は「光明遍照十万世界 念仏衆生摂取不捨」の光明遍照偈が、阿弥
   陀の種子(梵字:キリーク)を月輪のように取り囲む形態のもので、他に例を見ない。そ
   のほか、境内には庚申塔・宝篋印塔など多数の石塔が残されている。
   また当院は江戸時代末期より上尾久村の教育の場となった。弘化二年(1845)寺子屋
   江川堂が開かれ、明治11年には私立田辺小学校が開校。現在の尾久小学校の前身である。
                                   荒川区教育委員会


 尾久小学校発祥の地
 
華蔵院にある
弘化二年(1845)この何代目かの名主江川佐十郎が境内に寺子屋「江川堂」を
開設し、明治11年それを引き継いで私立田辺小学校が設立され、満光院の私立井上小学校とともに、
同20年公立尾久小学校として開校した。現在地5丁目6番に移ったのは大正8年のことだ。

   尾久小学校発祥の地(花蔵院)
   当院は、上尾久村と呼ばれた農村時代からの子弟教育の場で、弘化二年(1843)に江
   川堂が開かれた。明治11年には私立田辺小学校として開校されている。それが現在の尾
   久小学校である。
   また隅田川(荒川)面している当院は、小台橋と尾竹橋の漕艇2000m、尾久コースの
   中央に位置してボート界・・・・・・る。             荒川区教育委員会


 ネットで調べても尾久に「花蔵院」と表記する寺はないので、区の誤記と思われる。   


●暴力団手首ラーメン出汁事件
 昭和53年7月5日警視庁捜査4課と赤坂署は、広域暴力団の住吉連合K会A幹部(29歳)の遺
体を兵庫県と岡山県の二ヶ所の山林から発見した。遺体は腐乱しており頭部・胴体・両手・両足がバ
ラバラにされていたが背中の刺青が「天女」であることから同幹部であると確認された。だが何故か
両手首が発見できなかった。査本部がこれまでに捜査した結果、このA幹部と先に殺人容疑で逮捕さ
れた同幹部山本勇治(30歳)はK会の組長代行のポストと屋台ラーメンの縄張りで日頃から抗争が
絶えなかった。そこで、山本は子分4人と共謀し兄貴格のA幹部を殺害。殺害後、子分の郷里に近い
兵庫県と岡山県に遺体をバラバラにして遺棄したことが判明した。
 捜査本部は、両手首が見つからぬことに疑問を抱き、山本を厳しく追及した結果、

   指の指紋から身元が判明することを恐れ、A幹部の両手首を持ち帰った。その後、両手首
   の始末に困り、子分達が商売にしている屋台ラーメンのダシとして使用し、煮え残った骨
   は金槌で粉々にして捨てた


 と自供した。この事件の新聞報道で都民はパニックに陥った。屋台ラーメンを利用した客から警察
に問い合わせが殺到。ラーメン業界も売上が3割ダウンという事態に陥った。事態を重く見た警察も
見解が割れて大騒動となった。まず所轄の赤坂署は、

   手首でダシを取った屋台ラーメンで、尾久~荒川土手~西日暮里のコースを流したが、
   チャルメラは吹かず、客にもネタが無いから断った


 という自供を取ったのに対して、警視庁捜査4課は、

   午後5時から9時間も屋台を引いて一杯も売らなかったという自供を信じろという方が無
   理じゃありませんか?


 という見解だった。この捜査4課の発表は業界から猛烈な抗議を受けた。営業妨害だと糾弾された
捜査4課は、10月4日に、

    手首ラーメンは、その他の状況から売られなかった

 と〝弁明〟した。しかし食わされた奴はいるんだろうねぇ。同54年9月26日東京地裁は、山本
に懲役17年(求刑は無期懲役)、他の4人に同8年~12年の判決をいい渡した。もう全員出所し
ている。


【東日暮里】(ひがしにっぽり)1~6丁目              昭和41年3月1日
 谷中本村・金杉村。明治22年「市制町村制」により日暮里村の大字、大正2年日暮里町の大字
となり、昭和7年荒川区の成立で日暮里町1~9丁目となり、その内の1~5丁目。同41年日暮
里町1~3丁目と三河島1~3丁目に、日暮里町4~5丁目・三河島町4丁目・南千住町1丁目の
各一部をあわせた町域を現行の「東日暮里」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『荒川区史』など。

 
東日暮里について
 町名は日暮里町の東半である事による。日暮里の由来は「日暮里」参照
 


■池田屋敷跡

 東日暮里1丁目3・4・6・8・14・17番に亘る区域にあった。昭和53年頃の説明板は以下
の通り。

   池田屋敷跡
   旗本3000石池田播磨守下屋敷は、明治通りの南側で、大関横丁を挟んで北の宗対馬守
   下屋敷に対していた。池田屋敷は寛文元年(1661)に拝領し、幕末維新まであった。
   上屋敷が江戸城周辺に置かれたのに対して、別邸である下屋敷は江戸周辺に置かれたので
   ある。
   池田屋敷は4901坪(約16200㎡)で、別に抱屋敷745坪(約2500㎡)を有
   していた。                           荒川区教育委員会


■豊川稲荷神社 ◇

 東日暮里1丁目6番13号にある。路地の小路のさらに曲がったところにある。路地からは見えな
い。屋敷稲荷か?


■ガード下壁画

 東日暮里1丁目10番常磐線19第3三河島ガード南の壁面に描かれた絵画。東藝大の制作。


■日暮里公園

 東日暮里1丁目11番10号にある区立公園。
かんかん森通りに面している。開園したのは昭和戦
争末期の18年のことで、古くから地域の人々に親しまれてきた。かつて、童謡詩人中村雨紅がこの
地域の小学校へ教師として赴任し、童謡「夕焼け小焼け」を作詞したことから夕やけ公園とも呼ばれ
ている。昭和62年にリニューアルされて現在の形になり、今は大きく分けて5つのエリア(ローラ
ー滑り台・自由広場・冒険広場・幼児広場・シンボル広場)に分かれている。

 ・ローラー滑り台
 「土の山」の上から延びているローラー滑り台は、なんと長さ16m。小さい子にも大人気。その
ため、子どもたちには「ローラー公園」とも呼ばれている。
 ・自由広場
 遮るもののない広々とした広場なので鬼ごっこやかけっこなども元気いっぱいに楽しめる。
 ・冒険広場
 ロープにぶら下がって遊べるターザンロープや複合遊具などがあり、冒険遊びを楽しめる。小さい
子は保護者と一緒に遊べばよい。
 ・幼児広場
 ブランコや子馬の乗り物、砂遊び場などがある。親は子どもの様子を見ながら小さなベンチでひと
休みすればよい。
 ・シンボル広場
 「夕やけの詩」の彫刻があ。

 「夕焼けの詩」
 イタリアの彫刻家彫刻家エミール・グレコの弟子の弟子でもある重岡健治の作品。重岡の作品は、
他に荒川総合スポーツセンターに「昇華(しょうか)」、日暮里南公園に「躍動」がある。

 「まほろば」
 宮澤光造の作品。“まほろば”とは好い場所の意味。像のほころんだ表情がそれを示しているかの
ようだ。


■東日暮里ふれあい館

 東日暮里1丁目17番13号にある区の施設。区では、乳幼児から高齢者まで、凡る世代の区民が
交流し、自主的な活動ができる地域コミュニティの場として設置された。また、従来の「ひろば館」
も、サークル活動や小規模の会合など、地域の区民の交流の場として利用できる。館は、都営住宅の
下にあって周辺住民からも見守られ安全に過ごせる環境の中にある施設だ。日々の遊びや行事活動を
充実させて、乳幼児から高齢者まで、誰がいつ遊びに来ても楽しめるアットホームなふれあい館だ。


■東日暮里一丁目公園

 東日暮里1丁目17番22号にある区立公園。第二東日暮里保育園の西側にあり、北西側には大型
のスーパーがある。日中は買い物帰りの休憩などに立ち寄る人も多くいる。背の高い樹木は少なめで
開放的な雰囲気。見晴らしがいいので、少し離れていても子どもが動き回っている様子が確認できる
ので安心だ。
 この公園は、滑り台が一体となった2種類の複合遊具、砂場、スライダー、バネ式遊具などがあり
子どもの成長に合わせて種々な遊びができる。公園の西寄りに位置する広場は、子どもたちが走り回
るには十分な広さ。追いかけっこなど、思いっきり体を動かすことができる。広々としたスペースが
あるので、子どもたちにとっては魅力的な遊び場だね。


■本清寺

 東日暮里2丁目14番2号にある浄土真宗本願寺派の寺。千田七郎宗純が、石山合戦(戦国時代)
後に福井に創建したと伝えられ、大正末期に当地へ移転した。玄関には本願寺のビラが貼ってある。
寺自身としてはあまり活動してないようだ。でも併設の真成幼稚園が同じ建物(4階建ての立派なビ
ル)の中にあり、賑やかな声がしている。このお寺さんは幼稚園の方が本業なのかもしれない。それ
で良いような気もする。


■東日暮里二丁目児童遊園(かば公園)

 東日暮里2丁目17番11号にある区立公園。昭和53年4月1日開園。かばの滑り台があること
から「かば公園」と呼ばれている。滑り台の階段を登る時は、手すりがないので小さい子にはちょっ
と無理かな。鉄棒や砂場もあるからまっいいか。


■同潤会三ノ輪アパート 解体
 東日暮里2丁目36番1・2号にあった集合住宅。昭和3年建築の鉄筋コンクリート造り4階建て
ビルタイプの建物だったが、老朽化は否めず、ところどころコンクリートが剥がれ落ち、内部鉄筋は
露出して錆び、崩壊寸前で、平成18年解体予定の筈だったが、折り合いがつかないのか、延び延び
になって、漸く建替えが決まったらしい。新しいマンションは同21年完成予定。


 ●同潤会(どうじゅんかい)

 関東大震災後、国策により設立された財団法人で住宅供給を目的として設立された。戦後建設省(国
交省)所轄のもとに設立された日本住宅公団(現都市再生機構)と機能などは類似するが、組織・財
政・人的構成等の直接の系譜関係はなく、また所轄官庁も違うため、所謂「前身」とは言い難い。
 大正12年関東大震災により、東京・横浜の市街地は大きな被害を受け、下町地区では木造住宅が
密集しており、街区の整備も遅れていたことから被害を大きくした。既に震災前から、不燃造の集合
住宅の必要性が認識され、東京市・横浜市では鉄筋ブロック造りの集合住宅を造り始めていたが、計
画的な供給が課題になった。内務省(総務省)は国内外から寄せられた義捐金の中から1000万円
の支出を決定し、震災の翌年同13年5月財団法人同潤会が設立され、都市計画家、建築家が評議員
や理事に就任した。さっそく東京・横浜に木造バラックの仮設住宅を建設し、同14年から同潤会最
初の鉄筋コンクリート造りの集合住宅である中之郷アパートの建設が始められ、同15年に竣工した。
中之郷アパートの設計は、東大建築学科の内田祥三研究室で行われた。以後は同潤会の設計部が中心
になって東京・横浜に次々と「同潤会アパート」が建設された。同潤会が目指したものは主に都市中
間層向けの良質な住宅供給で、スラム対策の住宅建設も行ったが、同潤会アパートの建設は昭和9年
竣工の江戸川アパートを以て終了した。鉄筋コンクリート造りの住宅はコストが嵩み、家賃収入のみ
でまかなうことは困難だった。同潤会では昭和3年頃から手掛けていた木造平屋建ての分譲住宅の供
給に専念することになった。同潤会は、戦時体制中の同16年住宅営団が発足すると業務を引継ぎ解
散した。しかし住宅営団は物資不足のため殆ど成果を上げることが出来ず、そのまま終戦を迎え、昭
和21年に連合軍最高司令官司令部(GHQ)の命令により解散を命じられた。しかし住宅営団は後
に設立される日本住宅公団に大きな影響を与えた。住宅営団解散後は、同潤会から引き継いだアパー
トの多くは東京都が管理し、その後払い下げられた。


■三河島事故列車脱線転覆三重衝突事故
 東日暮里3丁目2番付近。昭和37年5月3日21時36分ころ、当時の三河島3丁目2737番
地先で発生した3重列車転覆事故。蒸気機関車(D51)364号に牽引された45両編成の田端操
車場発―水戸行き第287貨物列車が、出発信号機の停止信号を行き過ぎて安全側線に進入し脱線。
先頭の機関車と次位のタンク車(タキ50044)が下り本線上に飛び出した。その直後に三河島駅
を1分遅れで出発し、下り本線を進行してきた上野発―取手行き下り第2117H電車(72系6両
編成)が下り本線上の貨物列車に衝突。2117Hの先頭車と2両目の車両が脱線し、上り本線上に
飛び出した。さらに約6分後、その現場に上野行きの上り第2000H電車(72系9両編成)が進
入し、上り本線上に停止していた2117Hの先頭車と衝突した。これにより2117Hの先頭車と
2両目の前部が原形を留めず粉砕された。上り2000Hは先頭車が原形を留めず粉砕され、2両目
は築堤下に転落して線路脇の倉庫に突っ込み、3両目も築堤下に転落、4両目が脱線した。

 
結果
 死者160人、負傷者296人を出す大惨事となった。これは国鉄五大事故の一つとなり、この事
故をきっかけとしてプロ野球球団「国鉄スワローズ」が、フジサンケイグループに売却された。現在
の「ヤクルトスワローズ」だ。 未だに身元不明の犠牲者が一人おり、駅近くの寺に無縁仏として葬
られている。事故の犠牲者の中には、当時の人気漫才コンビ「栗友一休・三休」も含まれていた。事
故後生き残った栗友三休は春日三球として再起した。 

 ●原因
 最初の287下り貨物列車の脱線の原因は、機関士の信号誤認とされた。これは錯覚の一つである
仮現運動によって信号の誤認が起こったという報告がある。287列車は通常では三河島駅を通過し
てそのまま下り本線に入るが、当日は2117Hが遅れていたために三河島駅で待避することになっ
た。しかし機関士は三河島駅の場内信号機の黄信号を見落として駅構内へ進入し、出発信号機の赤信
号に気付き慌てて非常ブレーキを作動させたものの減速が間に合わず安全側線に進入、脱線したとさ
れた。また最初の衝突の後、約6分間に亘って両列車の乗務員も三河島駅職員も、上り線に対する列
車防護の初歩的措置を誰も行わなかったことが、上り2000H電車の突入の原因になった。貨物列
車と下り2117H電車の衝突後、その電車の乗客は、桜木町事故の教訓をもとに分かりやすく整備
された非常用ドアコックを操作して列車外へ避難していた。その時点では死者は出ていなかったが、
2000H電車が突入した際、線路上に降りていた多数の乗客を巻き込んだことで、これほどにまで
人的被害が拡大する結果となってしまった。

 
自動列車停止装置(ATS)
 
この事故を機に計画を前倒しにする形で国鉄全線に設置されることになり、昭和41年までに一応
の整備を完了した。それまで使われていた車内警報装置、国電区間での採用後、昭和31年の六軒事
故を受けて全国主要各線へ設置を行う予定になっていたが、これには列車を自動停止させる機能がな
く、この種の信号冒進事故を物理的に防ぐことができなかった。平成17年4月の福知山線脱線事故
では、このATS装置が経費節約のため設置されていなかったというから恐ろしい。鉄道はまだまだ
危険なのだ。

 
信号炎管・列車防護無線装置
 この事故を承けて全列車に軌道短絡器など防護七つ道具の整備を行い、常磐線に乗り入れる全列車
を対象にまず信号炎管が取り付けられ、後に列車防護無線装置が開発され装備された。

 
鉄道労働科学研究所の設立
 この事故受けて、鉄道の安全のために、人間工学・心理学・精神医学的見地から職員の労働管理を
行うことが求められた。この対策として中央鉄道学園能率管理研究所と厚生局安全衛生課を統合し、
昭和38年6月「鉄道労働科学研究所」を設立した。現在は組織統合により「鉄総合技術研究所」と
なっている。


■東京朝鮮第一初・中級学校

 東日暮里3丁目8番5号にある民族学校。日本人は悪口で「チョンコウ」という。「朝校」の意か
な。北朝鮮系の学校だが、在日の韓国人も入学する。在日の韓国人・朝鮮人は、芸能界、スポーツ界
で広く活躍している。あっと驚くような超有名なスターも数多くいるが、本人の希望で日本人名で通
しているので、その名前は記録しない。ただ力道山、大木金太郎、岡晴夫、安田成美はカミングアウ
トした。在日はもう5世の時代に突入しており、彼ら自身半島人の実感がない。自覚は押し付けられ
た観念で、日本人と何ら変わるところがないのだ。おいらの同級生に韓国名で通す友がいた。彼の親
兄弟親戚はひた隠しにしているのにだ。おいらは彼を偉く評価している。お前さんの隣にも耐えて偲
んでいる在日の人はいるよ。穿鑿する必要はないがね。

   人種の色と地の境、我が立つ前に差別無し(拓殖大学校歌)

 昭和12年三河島8丁目1318番地の朝鮮総聯荒川支部事務所の12畳部屋に「国語講習所」を
設立。教師1名、生徒18名だった。同22年現在地に木造校舎(8教室)竣工。台東区と北区の朝
聯学園を統合し「東京第1朝聯初等学園」と改称。同23年「東京第一朝聯小学校」と改称。同24
年「朝鮮人学校閉鎖令」が発令、「東京都立第一朝鮮人小学校」に強制移管される。同30年「東京
朝鮮第1初級学校」に改称。同34年中級部を併設し、「東京朝鮮第1初・中級学校」に改称。同3
5年「東京朝鮮第13初級学校 (文京区)」を統合。平成7年創立50周年。同9年全国中学校体育
連盟(中体連)主催大会参加が可能になり、荒川区中体連サッカー春・夏大会「優勝」。荒川区中体
連バスケットボール新人大会「優勝」。同14年在日朝鮮人中央体育大会バスケットボール部・女子
優勝。同17年創立60周年。


■第六天社 → 胡禄神社 → 神々森猿田彦神社

 東日暮里3丁目8番8号にある小社。「かんかんもり」と読む。汐入の胡録神社の分家と云われ、
天正十五年頃より第六天社として祀られていた。明治に入り胡録神社、次いで猿田彦神社と改称して
いる。神輿庫には、伊予河野家・時宗(河野家出身の一遍上人)紋で、金杉村鎮守の元三島神社と同
じ紋が描かれている。

   神々の森猿田彦神社
   江戸時代は「第六天社」と称した当地を「カンカン森」と呼んだ。社前の「カンカン森通
   り」という通称はこれに由来する。以前はこの通りを「第六天通り」とも呼んでいた。明
   治中期。カンカン森は、音無川沿いに開けた田圃の中にあり、竹薮が茂る淋しい所であっ
   たという。なお第六天社は胡録神社に改称、後に猿田彦神社と改めた。土地の作神、守護
   神として旧金杉神社の人々に崇拝されている。
    境内に、胎蔵界大日如来の種子(梵字)を刻む享保十三年(1728)銘の庚申塔、根
   岸氏子中が文化七年(1810)に寄進した手水鉢、本殿内に「猿田彦太神」の銘を刻む
   自然石型の庚申塔などがある。この庚申塔台石正面には「峡田領金杉村大塚講中」の文字
   が、その左側面には14名の名が刻まれている。
    なお、毎年9月1日に4ヶ町の氏子によって当社の例大祭が行われ、毎年1度本殿が開
   扉される。                           荒川区教育委員会

   神々の森猿田彦神社
   猿田彦神社の鎮座の年代は寛永三年、徳川3代将軍家光が僧天海の薦めにより寛永寺を設
   立し東叡山と称し、其の後正保十三年十二月東叡山領を定め、現荒川区はそのうちの峡田
   領、岩渕領に含まれ、当時日暮里町は新堀村と云われ、風景非常に良く之を望むる時霊暉
   の西に傾くを忘るる故里、民称して日暮らしの里と云い後人之を唱えて日暮里と称す。当
   時の伝説に依ると峡田領、岩渕領の領界に桧五寸角長さ二間の杭打込み領界を明らかにす
   る為、其の上に猿田彦神を御祀したとある(現在の神々森猿田彦神社)。
    社には正徳二年及び享保十三年の庚申塔・天水鉢が現存して居る。旧金杉村(現台東区
   下根岸と日暮里の一部)の村民は作神として尊崇し霊験灼かなる神に威徳を慕い村民は土
   地の守護神として御祭した。大正末期まで田圃の中に森が在り百年以上も経た老松覆い繁
   り現在の敷地の数倍を有し森に入った人影は周囲より見えず、茂みは昼尚暗き為神々しさ
   に人呼んで俗に神々森と云った。月次祭は毎月1日、例祭は9月1日である。
    胡録神社(現神々森猿田彦神社)は汐入の胡録神社の分家と云われ、天正十五年頃祀り
   せしものと伝えられる。祭神は面足尊と惶根尊である。古くは第六天と称されていたが、
   明治初年神仏分離の際に今の名称に改められたものにて、元来第六天は仏法の破却する第
   六天魔王で忌むべき方角の地に阿修羅を祀り鎮めて村落生活の安全を期す為に御祀りした
   ものである。
   昭和35年9月1日                         六ヶ町連合会


■日暮里中学校 
閉校

 東日暮里3丁目9番21号の「日暮里コミュニティーハウス」のところにあった。八中・十中と統
合して諏訪台中学校となった。

 コレクティブハウスかんかん森
 日暮里中学校の跡地に建てられた12階建ての複合施設「日暮里コミュニティーハウス」。保育園
・診療所(1階)と高齢者が自立して生活する住宅(7~11階)や介護型の高齢者住宅(4~6階)
に挟まれた2、3階部分が、多世代賃貸住宅「コレクティブハウスかんかん森」だ。耳慣れない言葉だ
が、コレクティブハウスとはマンションや団地、社宅や寮とは明らかに違うよ。
 概念は「個人や家族の自由でプライバシーのある生活を基本に、複数の世帯が日常生活の一部を共
同化して生活の合理化をはかり、共有の生活空間を充実させ、そのような住コミュニティを居住者自身
が作り育てていく」ことで、「コレクティブハウスかんかん森」では各世帯の独立した賃貸住宅のほ
かに、共有のスペース(キッチン、食堂、リビングルーム、図書コーナー、工作室、洗濯室・家事コ
ーナー、菜園、倉庫)が有り、居住者の創意工夫と話し合いにより共有のスペースの管理運営を行い、
料理や掃除などにも主体的に関わる。コレクティブハウジングというライフスタイルは、北欧では1
920年代から積極的に取り入れられていますが、日本では、多世代型のコレクティブハウスはこの
「コレクティブハウスかんかん森」が初の試み。
 「コレクティブハウスかんかん森」の住人は28世帯、年齢は0才~80才と様々。かんかん森は
道路向かいの猿田彦神社。


■妙法寺

 東日暮里3丁目10番24号にある日蓮宗の寺。大正時代の開創とか。鉄筋コンクリート造りの3
階建てビル。取って付けたような破風が物悲しい。本堂は一階正面にある。「諸仏事引き受けます」
の貼り看板は寂しい限りだ。仏事が商売か・・・


■第三日暮里小学校

 東日暮里3丁目10番17号にある区立校。大正7年6月22日「東京府北豊島郡第三日暮里尋常
小学校」として開校。同14年日暮里大火により焼失。昭和2年鉄筋コンクリート造り校舎落成。同
7年東京市編入により「東京府東京市第三日暮里尋常小学校」と改称。同16年勅令第148号国民
学校令により「東京府東京市第三日暮里国民学校」と改称。同12月日米開戦。同18年都制施行に
より「東京都第三日暮里国民学校」と改称。同19年8月学童集団疎開(福島県石川町・母畑村)。
同20年8月アメリカの軍門に降り日本敗戦。10月疎開解除により学童帰校。
 同21年戦勝国アメリカの強制による学校教育法施行により「東京都荒川区立第三日暮里小学校」
と改称。同24年校歌制定。

 校歌
「朝風かおる」 作詞・比留間喬介  作曲・小島喜久寿
  1.朝風薫るよ 朗らかに
    大東京の丘の上
    休まず通う子どもらを
    富士も遠くで見詰めてる
    元気で通えよい子ども
    三日 三日 良い学校
  2.力と智慧で新しい
    日本を築く子供たち
    お行の松のあのように
    強く大きくのびるのだ
    日毎に伸びよ 良い子供
    三日 三日 よい学校
  3.楽しく学び今日の日の
    日暮れの里にキラキラと
    希望の星が光ってる
    上野の鐘も鳴っている
    仲良く学べ 良い子供
    三日 三日 良い学校


 同28年地元の協賛により講堂建設。
 同58年全校舎建て替え一新。平成10年創立80周年記念式典。


 
夕焼け小焼けの塔
 昭和59年6月27日の建立。同時に「時計塔」竣工。若き中村雨紅が本格的に童話・童謡創作活
動を開始し、「夕焼け小焼け」などを作詞したのは第三日暮里小学校に勤務していた頃。この縁を喜
びとして、昭和59年第三日暮里小学校の地域の方々によって「夕焼け小焼けの塔」が建てられた。


  
 夕焼小焼
    夕焼小焼で
    日が暮れて
    山のお寺の
    鐘が鳴る
    お手々つないで
    皆帰ろ
    烏も一緒に
    帰りましょう

   
夕焼け小焼けの塔

 
中村雨紅
 本名高井宮吉。雨紅は、師範学校卒業後の大正5年日暮里町第二日暮里小学校に赴任し、同8年第
三日暮里小学校に転任した。同12年まで三日小に在職し、その間に「夕焼け小焼け」を作詞した。
大正12年に雑誌に掲載され、長野市出身の作曲家草川信によって名曲が完成した。雨紅は、生まれ
故郷の八王子の恩方(おんがた)から通勤し、帰宅中の故郷の夕焼けを見て作詞、草川は長野の夕焼
けを思い出して作曲したという。
 「夕焼け小焼け」にちなんだ碑が全国各地に、といっても兵庫・和歌山・静岡・秋田・神奈川・渋
谷区に各1、長野に8、八王子に2建てられている。当区では、第二日暮里小前にも「ゆうやけこや
けの碑」がある。


■日暮里土地区画整理記念碑

 東日暮里3丁目10番17号の第三日暮里小学校の前にある。住宅密集地帯となった日暮里地区は
「火事は日暮里谷中本」といわれるほど火事が多かった。大正14年金杉一帯は大火に見舞われ、全
焼1700戸、半焼400戸、焼失面積46000坪、第三、第五日暮里小学校は全焼という大被害
を蒙り、これを契機として区画整理組合が結成された。ところが翌年谷中本でも大火があり、またま
た区画整理組合の設立を見た。こうして中央を南北に通じる府道134号線(三河島駅前通り=尾竹
橋通り)と日暮里・三河島線を幹線とする道路が旭町から日暮里駅に通じる道路によって連結され、
昭和2年に完成し
た。この大規模な区画整理を記念して建てられたのが、小学校前にあるの記念碑なのだ。


■東日暮里三丁目児童遊園

 東日暮里3丁目14番5号にある区立公園。昭和58年4月1日開園。ブランコと螺旋の滑り台が
一体となったアスレチック遊具、ゾウやアシカのスプリング遊具がある。普通の滑り台もあるし、砂
場もある。


■夕焼け小焼けふれあい館

 東日暮里1丁目17番13号にある区の施設。区では、乳幼児から高齢者まで、凡る世代の区民が
交流し、自主的な活動ができる地域コミュニティの場として設置された。また、従来の「ひろば館」
も、サークル活動や小規模の会合など、地域の区民の交流の場として利用できる。
 この館は、心を育む遊びをクリエートする。特に「あらかわの心」つまり「あいさつ」「きまり」
「おもいやり」「体験」「見守り」これらの5つの心を繋ぐ取組みを大切にする。同時に、乳幼児と
保護者、小学生、中高生、成人や高齢者など世代を超えたふれあいと繋がりを大事にしていく。


■日暮里大火
 東日暮里3丁目23番の一帯。昭和38年4月2日14時56分ころ、ゴム工場において、火災原
因をマッチでたばこに火をつけ、燃えているマッチ棒を接着剤の入った缶に投げ捨てたためとする出
火。火災概要は、北の風10.5m の強風下で、火災警報発令時に発生した火災で、火の粉が飛び延
焼拡大した。出動車輌・人員は消防車80台、1100人。被害状況は、全焼36棟、5098㎡ 
負傷者約220名にも上った。
 この火災をこの近所で体験した小原保が、「吉展ちゃん身代金誘拐殺人事件」の容疑で取調べられ、
白を切り通していたが、雑談の中で「日暮里の大火を見た」と発言したことでアリバイが崩れ、逮捕
自供、死刑に処せられた。もしこの火災がなかったら、事件は迷宮に入っていたのだ。


顕真山蓮念寺

 東日暮里3丁目32番8号にある浄土真宗大谷派の寺。大正初期に、長野県中野市より当地へ移転
してきた。第二次世界大戦中に足立区東伊興へ疎開(現伊興山蓮念寺)していましたが、戦後当地に
戻った。本尊の阿弥陀如来立像は三河円立寺から移したもので、一時三河円立寺の住職を兼務してい
た。4階建てのビル。


■藤の大滝
 東日暮里3丁目37番6号の井上さん家(ち)のビルの角に植えられている藤ノ木は「藤の大滝」と
仇名されるだけあって藤棚を設けず自然に任せたためまっすぐ伸びて三階にまで達しちゃった。花房
が垂れ下がる季節にはさながら藤の大滝だ。これはあんさんの人生に於いて一度でいいから見ときな
はれ。ほんまに見事なもんだっせ。


■東日暮里第一児童遊園

 東日暮里3丁目37番6号にある区立公園。昭和25年4月15日開園。ブランコと螺旋型滑り台
が一体となった複合遊具に、○×の絵合わせボードがあることから「○×公園」と呼ばれている。回
転遊具、スプリング遊具、シーソー、砂場がある。


■東日暮里四丁目児童遊園(緑と広場の公園)

 東日暮里4丁目15番9号にある区立公園。昭和43年4月1日開園。緑と赤の螺旋型とローラー
型の2種類の滑り台がある。鉄棒や砂場、スプリング遊具や広場もあるので小さい子も楽しめる。


■武蔵川部屋 → 藤島部屋
 東日暮里4丁目27番1号にある相撲部屋(力士養成所)。昭和55年九州場所を最後に引退した
横綱三重の海(石山五郎)が年寄山科(後に武蔵川)を襲名、翌56年8月出羽の海部屋から円満独
立し江東区平野に部屋を開き、平成元年現在地に移転した。ここから快進撃が始まる。和歌ノ山(山
分親方)、武蔵丸(武蔵丸親方)、武双山(藤島親方)、出島(大鳴門親方)、雅山、垣添、武州山、
武雄山などを輩出した。
 出羽海部屋は常陸山の「不許分家独立」の不文律により長年分家独立を認めなかったが、この武蔵
川部屋は大正8年に当時まだ現役の横綱栃木山が常陸山直々に許可を受けて春日野部屋を創設して以
来実に62年ぶりの円満独立だった。円満独立できた背景には、三重ノ海の人格を評価して武蔵川の
名跡を譲った元理事長の先代武蔵川(元前頭出羽ノの花)が、独立を全面的にバックアップしたこと
があげられる。というのは横綱千代の山が独立して九重部屋を起こす時、この不文律で揉め、殺すの
殺さぬのの騒動に発展、周囲の取り成しで部屋独立は認められたものの、出羽の海部屋を破門、出入
り禁止となったため、高砂部屋の系列になった。九重は奮闘努力して北の冨士・千代の富士を2人の
名横綱を世に送った。
 三保ヶ関部屋がすんなり独立したのは、この部屋は元々が大坂相撲の部屋で、大相撲の大合併で東
京にやってきて、先々代がなくなった時、その力士たちが出羽の海預かりとなったためで、大関増位
山が引退した時、跡を継いで部屋を再興した。現在息子の大関増位山が跡を継いでいる。
 平成20年9月一連の不祥事で、指導力のない北の湖理事長が辞任させられ、その難局に対処する
ための理事長として武蔵川親方が選任された。
 しかし平成22年6月に発覚した暴力団・野球賭博問題で謹慎となり、謹慎中に胃癌摘出と種種雑
多の困難に抗し得ず、理事長職を放駒(元大関魁傑)に譲った。また部屋は弟子の藤島(元大関武双
山)に売却することとした。なおこの引渡しは今回の問題とは関係なく、理事長職に専念するため1
年前から決定していたことだという。名籍の変更は行わず、部屋名称は「藤島部屋」となる。


■第二日暮里小学校

 東日暮里5丁目2番1号にある区立校。明治42年11月に「東京府北豊島郡日暮里尋常高等小学
校」の分教場として開校し授業を始める。同43年4月「東京府北豊島郡第二日暮里尋常小学校」と
改称。昭和7年10月東京市編入により「東京府東京市第二日暮里尋常小学校」と改称。同16年勅
令148号国民学校令により「東京府東京市第二日暮里国民学校」と改称。12月日米開戦。同18
年都制施行により「東京都第二日暮里国民学校」と改称。同19年学童集団疎開。同20年8月アメ
リカの軍門に降り日本敗戦。10月疎開解除により学童帰校。
 同21年第五日暮里小学校を併合。同22年戦勝国アメリカの強制による学校教育法の施行により
「東京都荒川区立第二日暮里小学校」と改称し、今日に至り、平成21年創立100周年を迎えた。

 校歌
「谷中の森の」 作詞・石川昇  作曲・古関祐而
   谷中の森の緑に映えて
   そびえる校舎だ 輝く窓だ
   みんな明るい希望に燃えて
   こころ朗らか楽しく学ぶ
   ああ我らの学校 第二日暮里


 ゆうやけこやけの碑
 碑を建てた因縁は、高井宮吉(作詞家の中村雨紅)が大正5年に着任し、同8年に第三日暮里小学
校に転任するまで教鞭をとったことによる。

   ゆうやけこやけでひがくれて
   やまのおてらのかねがらる
   おててつないでみなかえろ
   からすといっしょにかえりましょ
   こどもがかえったあとからは
   まあるいおおきなおつきさま
   ことりがゆめをみるころは
   そらにはきらきらきんのほし

   
ゆうやけこやけの碑(自筆)
   この歌の作者 中村雨紅(本名 高井宮吉)氏は、大正5年青年教師(訓導)として第一
   歩を本校で歩み始めました。その後、第三日暮里小学校が開校し異動しました。そのころ
   「ゆうやけこやけ」の歌がうまれました。校舎の壁面のモチーフは、夕やけを表現したも
   のです。そのほかにも、作者直筆の色紙などを大切にしています。
                               荒川区立第二日暮里小学校

 少年像
 
リレーで、走り出してバトンを受け取ろうとするところ。


聖天山円能院

 東日暮里5丁目7番11号にある高野山真言宗の寺。民家のような寺のような。説教場か? 大正
時代に泪橋附近に創建したとか。


■荒川パレスボール
 廃業

 東日暮里5丁目13番16号にあった区内唯一の手書きのスコアが現存している貴重なボウリング
場だった。昭和44年の創業以来変わらぬ建物は、レトロな雰囲気が漂う荒川区らしい佇まいだ。そ
の評判が広がり、テレビのコマーシャルなどの撮影に利用されることもある。レトロというか、古い
というか・・・たまにBGМに演歌が流れてらぁね。社長は、数々の大会で優勝経験のある山崎行夫
プロが務めてる。このボウルの一等の魅力は、下町ならではの人情味に溢れた客と、アットホームな
スタッフにあった。50~60代の地元の常連客を中心に、皆和気藹藹とプレイを楽しんだ。スタッ
フは創業当時から務めている50代の人が多く、そのボウリングの腕前はプロ級でい。初心者は、思
い切ってスタッフにコーチを頼んでみい。無料で優しく丁寧に教えてくれるよ。またマイボールに穴
を開ける「ドリラー」の横野五十二丸(いそじまる)の技術は折り紙付き。このドリラー如何によっ
てボールの品質は大きく左右されるのだが、横野を慕って荒川パレスボウルを訪れる人は後を絶たな
い。なお女子のプロボウラー小須田礼子は横野の妻だ。料金は、1ゲーム450円。3ゲームをプレ
イすると1ゲーム無料券が1枚進呈された。毎月第1火曜日の「山崎行夫プロ監修の練習会」(2時
間投げ放題1500円)は、山崎プロ自らによる指導が受けられるのでセミプロに大人気。他にも投
げ放題コースとして、毎月第1土曜の「大人のボウリング教室」・毎月第2土曜の「親子ボウリング
教室」・毎月第2~4月曜の「月曜練習会(コーチは今泉)」などがある。また小学生以下の子供用
のガーター無し・バンパーレーンもあった。
 平成17年1月31日で営業を終了した。
 跡地は「オリンピック」になるらしい。


■都立竹台高等学校

 東日暮里5丁目14番1号にある。昭和10年「東京市立第四高等女学校」(市立高女としては忍
岡・目黒に次いで4校目)として下谷区上野公園凌雲院内(今の噴水の近く竹の台というところ)に
創立。同18年都制実施により校名を「都立竹台高等女学校」と改称。同23年学制改革に伴い「都
立竹台女子新制高等学校」と校名変更。同25年男女共学を実施し、「都立竹台高等学校」と校名を
変更した。同29年現在地に移転。平成12年創立60周年。

 校歌
「稜線鋭く」 作詞・土岐善麿  作曲・芥川也寸志
   稜線鋭く 空晴れて
   弧線静かに 風渡る
   真理の光 雲と輝き
   自主の力は 花と薫れ
   ここに溢れる 若き希望よ
   春秋常に 新たなり


 
竹台の由来
 慈覚大師が、唐の五台山から竹を根分けして持ち帰り、法灯の絶えざる印として比叡山に移植した
ものを、さらに根分けして上野寛永寺の根本中堂に移したことからこの地名となった。この由緒ある
竹は、現在も寛永寺の根本中堂の前に繁茂している。

 卒業生
 府立五女に転向した小説家の有吉佐和子、お笑い芸人から画家に転向した片岡鶴太郎、未だにこぶ
平の方が通りのいい9代目林家正蔵、その弟で三平を襲名するとか空恐ろしいことを考えて実行した
林家いっ平、「ピカチュウ」の声を出す大谷育江などがいる。おいらの卒業した小・中・高からは一
人の有名人も出てないよ。何故なんでい!


■松村重貴智・吉田實・中村文雄像

 東日暮里5丁目17番12号の国際理容専門学校本館前に並ぶ3基の胸像。松村は初代校長・理事
長。昭和38年紫綬褒章受章。吉田は2代校長・理事長。昭和50年紫綬褒章受賞。中村は3代校長
・理事長。平成16年瑞宝双光章受賞。学校は昭和30年設立。


■神愛教会

 東日暮里5丁目18番9号にある日本聖公会のチャーチ。明治39年初代牧師後藤粂吉によって活
動開始。関東大震災後、現在地に移転。平成18年7月に100周年を迎えた。以前の建物は三角屋
根の横に尖塔のついたものだったが、現在のブロック積みのようなものに建替えたようだ。


■日暮里南公園

 東日暮里5丁目19番1号にある区立公園。昭和40年7月30日開園。日暮里駅から近く、大き
な広場や遊具のあることから、多くの人に親しまれている。園内は、噴水広場、芝生広場、ふれあい
広場、ちびっこ広場の4つの広場に分かれている。樹木が沢山あり木陰もできるので、夏の外遊びに
もお勧めの公園。園内に彫刻が多いのも特徴の一つ。子どもが喜びそうなユーモラスな作品もあるの
で、一緒に探してみるのも一興。
 噴水広場は夏の人気スポット! 「躍動の像」という彫刻が噴水となり、その一帯が「ジャブジャ
ブ池」となり、水遊びが楽しめる。

 「躍動の像」
 水場にある、神話世界を彷彿させる青銅色の立像。日暮里駅前の太田道灌の騎馬像の制作でも知ら
れ、僧侶でもある彫刻家橋本活道の作品。その生き生きとしたダイナミズムに瞠目する。

 「躍動」
 入口の傍にあるアルミニウムの彫刻。直線と曲線でデフォルメされた少女像は、伊豆在住の作家重
岡健治の手になる作品。

 「喪失した森から」
 青いフェンスの近くにある。石垣の上に赤御影石でできた彫刻がそっとひそんでいる。ユーモラス
な顔をした赤い魚、これは古代魚シーラカンスなのか?


■御隠殿坂橋

 台東区根岸2丁目23番にある人道の跨線橋。昭和3年頃に架橋されたという。御隠殿とは、上野
輪王寺宮の隠居屋敷で、宝暦三年(1753)に寛永寺第七世門主公遵法親王の時に「御隠殿」が建
てられた。寛永寺の住職にあたる門主は代々皇室から法親王が降下し就任してきた。明治以降この制
度は無くなったが、この一帯3千坪の屋敷に造営されていた。風光明媚、四季の情緒に富んだこの場
所には打ってつけだった。建物は幕末、上野の戦争で焼失していて、現在はその面影は全くない。


■御隠殿橋
 廃橋
 東日暮里5丁目40番と台東区根岸2丁目20番・21番の交点、谷中墓地の御隠殿坂を下ったと
ころの音無川に架かっていた。御隠殿に入る橋だ。昭和8年に音無川が暗渠となって撤去されたので
今は普通の道路と変わりない。この辺は「根岸の里」と呼ばれて風光明媚だったので別荘地だった。
 以下に区の説明板を示す。上が昭和57年頃のもの、下は平成のもの。

   御隠殿橋
   御隠殿は、宝暦三年(1753)上野寛永寺門主輪王寺宮の隠居所としてつくられた。御
   隠殿橋は、その正門前の音無川にかけられた御影石づくりのものであった。
   橋の長さ約2.7m、幅約3.9m、、44cm角2本。33cm角9本の石材で作られた
   立派な橋だったが、昭和8年音無川暗渠工事で取り除かれ、橋げただけが道路の下に残っ
   ている。                            荒川区教育委員会


   
御隠
殿橋
   御隠殿は、宝暦四年(1754)上野寛永寺門主輪王寺宮の隠居所となった。御隠殿橋は
   その正門前の音無川にかけられた橋であった。橋の長さ約2.7m、幅約3.9m、石材で
   作られた立派な橋だったが、昭和8年音無川暗渠工事で取り除かれ、橋げただけが道路の
   下に残っている。
   往時、このあたりは水鶏の名所で、やや下流には水鶏橋がかかっていた。
                                   荒川区教育委員会

 ※区は、御隠殿(別邸 隠居所)が、宝暦三乃至四年に建てられたように記しているが、実際の創
建年は記録になく不明だ。ただ幕府編纂の絵図『御符内沿革図書』には、宝暦三年七月に「百姓地四
反一畝」を買上げ、「御隠殿前芝地」としたという記述があり、この年までには建造されていたよう
だ。敷地はおよそ三千数百坪、入谷田圃の展望と老松の林に包まれた池をもつ優雅な庭園で、ことに
ここから眺める月は美しかったといわれている。
 輪王寺宮は1年の内9ヶ月は上野に常在していたので、その時は、寛永寺本坊(東京国立博物館構
内)で公務に就き、この御隠殿は休息の場として利用された。また谷中七丁目と上野桜木二丁目の境
からJRの跨線橋へ至る御隠殿坂は、輪王寺宮が寛永寺と御隠殿を往復するために設けられた。
 慶応四年(1868)五月御隠殿は彰義隊の戦いによって焼失し、現在では全くその跡を留めてい
ない。


関妙山善性寺

 東日暮里5丁目41番14号にある日蓮宗の寺。開創は長享元年(1487)だが、草創は鎌倉時
代にまで遡る古刹。伝道活動中の日蓮上人は、しばしば関善左衛門邸の側を通っていた。ある日難産
に苦しむ善左衛門の妻の願いに応え、杓子に曼荼羅を書いて与えたところ、無事男子を出産した。日
蓮上人の徳に触れ、深く帰依した善左衛門は、邸内に小宇を建て、杓子と日蓮上人像を安置した。こ
れが善性寺の濫觴(はじまり)だ。江戸時代には6代将軍家宣の生母長昌院(お保良の方)が深く帰
依したことから、家宣の弟、松平清武を初祖とする越智松平家の葬地と定められた。境内には清武の
墓をはじめ越智松平家歴代の墓、浜田藩殉難碑(越智松平藩が島根県浜田に移される)などがある。

   芋坂も団子も月のゆかりかな

 子規の碑だ。春には本堂脇のしだれ桜が美しく、訪れれば君の目を楽しませてくれるぞ。

 ●大黒天堂・不二大黒天像
 安土桃山期と伝えられる。信仰を集めているよ。


 
名横綱双葉山定次の墓
 昭和13年に横綱を張るや69連勝の偉業をなした名横綱。その記録は未だに破られていない。し
かも後で判ったことだが、右目は殆ど見えず、右手の人差指は子供のころの怪我で曲がらなかったと
いうのだ。これでは距離感は掴めず、右回しは取れないということだ。にもかかわらず、そのハンデ
を誰も気がつかなかったのだ。もし誰かが70連勝したとしても双葉山の記録には到底及ばない。現
在第二位は千代の富士の53連勝、大鵬でも45連勝。朝青龍がやれるかなってところだ。八百長騒
動がくっついちゃあなぁ・・・

 
石橋湛山の墓
 明治から昭和にかけ、ジャーナリスト・政治家・経済評論家として活躍した。

 
中村又五郎の碑
 
名脇役で知られる歌舞伎役者の碑。碑文は小山内薫が書いた。

 
中西忠兵衛子正の墓
 小野派一刀流四世。

 ●将軍橋
 かつて寺の前に音無川が流れ、橋は将軍家宣が渡ったことでそう呼ばれるようになった。音無川は
石神井川の分流。無論今は暗渠となり道路となり、川の匂いもしない。その元は王子にあり、川沿い
の道は王子街道と呼ばれた。

   将軍橋と芋坂
   将軍橋は、善性寺の門前を流れる音無川にかけられたはしである。宝永年間(1710~
   年ごろ)当時、松平右近将監がひきこもっており、兄の将軍家重が御成になったとき造ら
   れたことからこの名がつけられたものである。
   音無川は江戸時代をとおして、農業用水として村民のたいせつな水源であり、今は暗渠に
   なっているが、台東区ざかいを流れて山谷堀で、隅田川にそそいでいる。
   寺のむかい芋坂下には、文政二年(1819)に開かれた藤の木茶屋(今の羽二重餅団子)
   がある。そこにある王子道。芋坂の道しるべは、区内でもめずらしいものである。
                                   荒川区教育委員会

   
将軍橋と芋坂(善性寺)
   善性寺は日蓮宗の寺院で、長享元年(1487)の開創と伝える。寛文四年(1664)
   6代将軍徳川家宣の生母長昌院が葬られて以来、将軍家ゆかりの寺となった。
   宝永年間(1704~1711)家宣の弟の松平清武がここに隠棲し、家宣のお成りがし
   ばしばあったことから、門前の音無川にかけられた橋に将軍橋の名がつけられた。善性寺
   の向い、芋坂下には文政二年(1819)に開かれたという藤の木茶屋(今の「羽二重団
   子」)がある。

   芋坂も団子も月のゆかりかな 子規
                                   荒川区教育委員会


■隼人稲荷神社 ◇

 東日暮里5丁目41番14号、善性寺の山門脇に小さいお堂があり、木立の下薄暗い中に祀られて
いる。小さいが手入れが良く行き届いている。羽二重団子の向かいだ。


■「黒い天使」

 西日暮里5丁目47番18号、尾久橋通り日暮里駅前交差点の東南角の歩道にある銅製オブジェ。
吉田隆の作品で、吉田は金沢美術工芸大学彫刻研究科修了後、高村光太郎賞展で優秀賞受賞するなど
数々の賞を受賞し、活躍している。昭和60年制作。


■「闘うデボラ」

 東日暮里5丁目50番14号石畑ビル前の歩道にある黒花崗岩のオブジェ。染色体を彷彿とさせる
変わった形をしたこの作品は岡村謹史の手になる。岡村は、平成22年第95回記念二科展で会員賞
を受賞するなど活躍している。


■日暮里サニーホール

 東日暮里5丁目50番5号のホテルラングウッド4階にある区のホール。音楽会、演劇、展示会、
講演会など幅広い用途にフレキシブルに対応できる多目的空間だ。舞台、音響、照明設備もサニーホ
ールならではの演出が可能。オリジナル文化をクリエイトするにふさわしい設計で、スポーツ施設O
SSO(オッソ)も同じ建物内にある。

 「月涼」
 4階フロアにある銀色裸婦立像。雨宮敬子作。


■泉福稲荷大明神 ◇

 東日暮里5丁目52番2号神谷ビルの敷地にある屋敷神。駅の近くに幟が立っている。今は線路沿
いにビルがあるが、嘗ては線路敷の方まで神谷家の土地であったらしく、当時から祀られていたそう
だ。日暮里駅ができたのは明治38年なので、それ以前の創建。現在の社殿は昭和56年に再建され
たもの。小さいが鳥居や台座を含めて、かなり立派なもの。毎年旧暦の二の午の日が例祭日となって
いる。稲荷に通じる扉はいつもは閉まっていて立入禁止だが、この例祭の日だけは解放されており、
断れば参拝は可能。地図で探しても外からは見えない。建物の裏だ。


■芋坂・芋坂跨線橋

 東日暮里5丁目52番と54番の間、羽二重団子の西側の路地を入って谷中の台地に上っていった
坂道。鉄道の敷設で廃道となり、現在は跨線橋が設置されている。芋坂の謂れは、この付近で自然薯
(山芋)が採れたことによる。

   芋坂
   善性寺門前から谷中墓地へのぼる坂。坂の由来は未詳。明治15年ころ、日本鉄道会社の
   東北線(現JR)が通じて分断され、その形状が失われてしまった。 伊藤晴雨が描いた
   「根岸八景」の「芋坂の晩鐘」は、天王寺の五重塔を望む芋坂の長閑な佇まいをよくあら
   わしている。
                          荒川区教育委員会


■羽二重団子

 東日暮里5丁目54番3号、谷中天王寺裏の芋坂(自然薯が取れた)を下ると善性寺前、その右手
前角地にある。文政二年(1819)芋坂下の寛永寺出入りの植木屋庄五郎が旅人相手にの藤の木茶
屋を開いて、庭を自慢の団子屋を始めた。この団子の肌理の細かさが羽二重のようだと評判を取り、
それではと屋号にしてしまった。明治の文豪にも愛され、森鴎外、夏目漱石、正岡子規、泉鏡花、田
山花袋らが贔屓にし、司馬遼太郎も「坂の上の雲」に記述している。
  
 根岸名物芋坂団子売り切れ申し候の笹の雪

   団子の由来
   芋坂も団子も月のゆかりかな 子規

   江戸文化開花期の文化文政の頃、遥かな荒川の風光に恵まれたこの辺り日暮らしの里は、
   音無川のせせらぎと小粋な根岸の三味の音もきこえる塵外の小天地でありました。
   文政二年、小店の初代庄五郎が、ここ音無川のほとり芋坂の現在地に「藤の木茶屋」を開
   業し、街道往来の人々に団子を供しておりました。
   この団子がきめが細かくて羽二重のようだと称され、そのまま菓名となっていつしか商号
   も「羽二重団子」となり、開業以来今も江戸の風味と面影をうけ継いでおります。

   根岸名所ノ内
   芋坂の団子屋寐たりけふの月
      正岡子規 明治三十年

   名月や月の根岸の串だんご
      正岡子規 明治三十一年


   いも坂みち
   自然薯(山芋)がこの付近で取れたことに因むこの坂道は、彰義隊士の退口であったとも
   伝えられている。慶應四年(1868)5月15日上野の戦争で敗れた彰義隊士数百名は
   かねて定めていた芋坂の退却路に到達、官軍の追跡を逃れる為、台上から北方遥かな日光
   を目指し落ちて行くことに衆議一決。手負い数名を乞われる儘に絶命させ、芋坂を駆け下
   りたと云う。その折数名が当店に侵入、刀、槍を縁下に投げ込み、野良着に変装して行っ
   た。その彰義隊士の遺したものは当店舗内に展示してある。
                                      羽二重団子

 正岡子規の句碑
 店の前の道、王子街道から芋坂に曲がる店の角に王子街道の標柱に並んである。

   
芋坂も団子も月のゆかりかな

 店頭の説明。

   正岡子規と当店
   子規居士が上根岸82番地に居を構えたのが明治25年である。爾来亡くなる明治35年
   までの10年間随分とご愛顧いただいたと当店4代目は伝える。『仰臥漫録』から明治3
   4年9月4日の日記を抜粋すると「芋坂團子を買来らしむ(これに付悶着あり)。あん付
   三本焼一本を食ふ。麦湯一杯」とある。多分悶着とは、妹の律さんと当店の団子のことで
   言い争いがあったのであろう。旺盛な食欲が日記から推測でき、死を目前にした子規居士
   の人間味を髣髴とさせる。
     観月会
   芋坂の団子の起こり尋ねけり
     根津名所の内
   芋坂の団子や寝たりけふの月
     短歌会第四回
   芋坂の団子売る店にぎわひて団子くふ人団子もむ人         俳句稿第一巻より
                                   子 規 歌 集 より


■東日暮里六丁目児童遊園

 東日暮里6丁目5番5号にある区立公園。昭和50年4月1日開園。設置されているジャングルジ
ムと滑り台は、カラフルで可愛く、高さも低いので小さいお子さん向けだ。その他、ブランコがあり
ます。


■東京桐箪笥

 東日暮里6丁目13番15号に東京桐箪笥組合(03-3806-1664)がある。東京の伝統
工芸品。日本の代表的な収納家具といえば桐箪笥。その発生は意外と新しく、江戸時代の初め寛文時
代(17世紀後半)に大坂で作られたのが最初といわれている。一般に普及したのは18世紀に入っ
てからで、当時は神田や浅草で製作され、金具職人もその近くに住んでいたようだ。明治時代には政
府の殖産振興策によって各地で次々と博覧会が開催され、明治23年の第3回内国勧業博覧会には初
めて洋服箪笥が登場し注目を浴びた。昭和に入ると大衆向きの箪笥の需要が多くなり、デザインにも
様々な工夫が凝らされるようになった。基本的には昭和初期のデザインが今も変らずに続いている。
かつては女児が生まれると桐の木を植え、やがて嫁入り道具として成長した木で桐箪笥を作る風習が
あった。湿度の高い日本では軽くて柔らかく通気性に富んだ桐は衣類や大切な品々を保管するのに適
した良材であることを、昔の人々は経験から知っていたのだ。さらに桐は耐火性に優れており火災の
時も水がかかるとその吸収が早く、いわゆる目がつまって内側に炎が入るのを防いだ。東京桐箪笥は
最上とされる会津桐や南部桐を使って、一棹一棹丁寧に仕上げられている。江戸職人の技と気質を受
け継ぐ東京桐箪笥。美しい柾目やしっとりとした色調は室内調度品として独自の気品と優雅さを醸し
ている。


■「響 echo」

 東日暮里6丁目17番6号荒川区役所日暮里区民事務所前にあるフルートを吹く少女立像。東京藝
術大学卒業後、数々の賞を獲得し、あでやかな女性像などでつとに知られる小堤良一の作品。全身で
リズムを取るかのように、手も足も伸びやかに演奏をする少女、その音色までがまさに響いてきそう
な出来栄えだ。
 


■東日暮里六丁目西児童遊園(図書館公園)

 東日暮里6丁目38番3号にある区立公園。昭和55年4月1日開園。日暮里図書館に隣接してい
るため「図書館公園」とも呼ばれている。緑があり木陰が多くあり、天気の良い日にはベンチで読書
する人もいる。アスレチック遊具、砂場、スプリング遊具がある。


■日暮里図書館

 東日暮里6丁目38番4号にある区の文化施設。昭和54年6月11日開設。


■第八中学校
(荒川八中)

 東日暮里6丁目47番1号の諏訪台中第二校庭のところにあった、十中・道灌山中・日暮里中と統
合して2丁目の諏訪台中学校となった。卒業生に地下鉄漫才で一世を風靡した春日三球・照代の春日
三球と、帽子の芸人早野凡平の2人がいて、「4000人も卒業生がいるのに、有名人はこの2人だ
けで、政治家も学者もスポーツマンも誰もいない」と三球がこぼしてた。2人いりゃあ充分だよ。お
いらなんざ、小・中・高と、一人として有名人なんか出てねえよ。

 春日三球
 本郷で生まれ、すぐ日暮里へ移り、三河島駅近くの真土小学校に入学、卒業したのは、何故か? 
第八峡田小学校。そこから荒川区立第八中学校に行った。リガール千太・万吉の門下生で、別の男性
と『栗友一休・三休』の名で漫才コンビを組み、昭和32年初舞台。『栗友』の屋号は、当時南千住
にあった漫才の定打寄席『栗友亭』に因んだもの。並居る若手の中でもテンポの良さで売り出し、同
37年には春のNHK漫才コンクールで優勝するなど、順風満帆のように思われた。ところがその直
後の同年5月に、相方の一休が『三河島事故』によって急逝したため、上方で、両親に『春日目玉・
玉吉』を持ち、姉妹で『春日淳子・照代』で13歳で初舞台、姉が結婚したためコンビを解消、引退
したばかりの妻の照代と同40年に『春日三球・照代』を組み直し、夫婦漫才コンビで再出発した。
売れる前は三球がウクレレを、照代がギターを持ち、テーマソングの『線路は続くよ。どこまでも』
を歌ってから音曲漫才を展開していたが、次第にボケを活かしたしゃべくりに徹するようになり、同
45年代中頃には『地下鉄漫才』が大ブレークして全国区になった。地下鉄ネタに続き、新幹線ネタ
や山手線ネタなどの鉄道ネタ、タクシーやエスカレーターといった乗り物全般に関するネタをシリー
ズ化して人気を維持した。しかし同62年に妻の照代が急逝し、三球は再び人気絶頂で相方を失う憂
き目に遭う。失意の三球を見兼ねた周囲が、漫才経験のある若手女性芸人芳賀みちるを世話してコン
ビを組ませ、舞台に復帰させたものの、くすぶったまま約1年で解消。三球はその後も暫く精彩を欠
くが、傷心が癒えると共にピンの漫談家として再起した。
 巣鴨地蔵通り商店街に、山藤章二筆の巨大な似顔絵看板を掲げた『健康肌着の店‐春日三球の店』
も経営し、ババシャツブームに乗って盛業中。巣鴨繋がりで、青空うれしと組んでの掛け合いも時折
見せているが、本格的な漫才コンビ再結成には至っていない。


【町屋】(まちや)1~8丁目                     昭和38年6月1日
  町屋村。鎌倉時代の板碑が発見されているので、その頃には開発されていたと思われる(荒川区
史)。江戸時代は寛永寺領。明治22年「市制町村制」により三河島村の大字。大正9年三河島町
の大字となり、昭和7年荒川区成立時に一部を尾久町に譲って町屋1~3丁目となって戦後に至る。
同36年一部を荒川に移し、翌年残りの大部分に三河島町と尾久町の各一部を編入した町域を町屋
1~3丁目とし、同38年その町屋をの全部に三河島町7~9丁目・尾久町1・9~10丁目の各
一部をあわせた町域を現行の「町屋1~8丁目」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『荒川区史』など。

 
町屋の由来
 この地が古くから開け町場を形成していたことによるという。町屋というのは普通名詞で村の集
落とは違って人家の密集した商業域をいう。つまり普通名詞の町屋でこの地を特定している内に固
有名詞になったというのだが、神社仏閣もなく、街道筋でもないのに何故ここに町屋形成されたの
か説明がつかない。
 「まちや」をインドネシア語で解すると「マチ・イア」「水をたらふく呑んでいる低地」という
ことになるらしい。そういうところではある。
 別に真土谷(まつちや=土器を作る良質の粘土)が採れた沢という説がある。こっちのほうが真っ
当かも知れない。荒木田の畑土は、壁土・焼き物の土として町屋の特産品でもあった。特産品とい
えば「荒木田ダイコン」だったが、これも消えた。8丁目と千住緑町を結んだ一本松の渡し、7丁
目と千住桜木町1丁目を結ぶお茶屋の渡し、6丁目と千住桜木町2丁目を結んだ大渡しがあった。
 


■一本松グリーンスポット

 町屋1丁目9番14号にある区立の小公園。区のグリーンスポットの説明では住所が14号、町屋
の一本松の説明では、一本松グリーンスポットの住所は16号となっている。変なの!

 「愛」
 どっしりとした石の台座の上に、寝転んだ母が嬰児を抱き上げ喜びに弾むブロンズ像。


■町屋の一本松跡

 町屋1丁目9番16号にある「一本松グリーンスポット」の一角に「町屋の一本松」の跡がある。
今1本の松の木があるが、これは「一本松」ではない。残念ながらアメリカ軍の無差別空爆の熱で枯
れてしまい植え替えられたものだ。だから現在の松は「二代目」と呼ぶべきべきものだ。
 町屋の一本松は、元禄六年(1693)に町屋村と三河島村との境に植えられたものと伝えられて
いる。丸い小山となった庚申塚に松の巨木がポツンと佇む姿は、さぞかし印象的だっただろう。「三
河島八景」の中に「庚申の暮雪」という絵が残されており、雪景色の中にそびえ立つ一本松の姿が描
かれている。
 高徳の僧がさる代官により斬首され、首を曝されたという伝承から別名「首懸けの松」とも呼ばれ
ていた。また枯れた松を植え替えた際に、根元の地中から数100年を経た刀や人骨が発掘されたと
か。この場所は、江戸時代の人にとっては、ちょっとしたホラースポットだったのかもね。巨大な松
の木は、一体どんな歴史事実を目撃してきたんだろうか?

   町屋の一本松
   樹齢三百数十年を数える老松も戦災で枯死してしまったが、松の根元から数百年を経た人
   骨刀剣等が発掘されたと伝えられている。
   庚申祠堂などのあるのを見ると、何か由緒の場所であろう。由来を刻んだ石碑は風雨に曝
   されて読むことはできない。
   古老の伝えるところでは、この松を「山伏の松」と呼んでいたという。
                                   荒川区教育委員会

 荒川不動堂
 古い写真に一本松のところに「荒川不動堂」と銘打った、立派な瓦屋根の小堂の写っている写真が
残っているが、これをネットで探しても一切ヒットしない。何処に移したのだろうか? 昭和54年
の日付があるので、撤去したとすればつい最近のことだ。

 ●庚申塔
 一本松の根元にあった寛文八年(1668)9月吉日銘の「庚申塔」は今も残されてる。庚申塔と
は、干支の庚申の日に「庚申講」を3年間続けた記念に建立された石碑で、全国各地に見られる。庚
申信仰は中国から伝来し、江戸時代に爆発的に流行した。「申」は干支で猿に例えられることから、
「見ざる、言わざる、聞かざる」の3猿や「猿田彦神」などが塔に刻まれることが多かったようだ。
猿田彦神は道祖神としても崇められていたため、庚申信仰は道祖神信仰と結びついて各地に広がって
いった。また塔には村の名前や庚申講に参加した人の名前なども記されている。

 「愛」
 スペースの中にある彫刻。。一色邦彦の作品。一色は動きのある裸婦像で知られる作家で、東京藝
術大学彫刻家卒業後、彫刻の森美術館大賞展で優秀賞、高村光太郎大賞展で美ヶ原高原美術館賞を受
賞するなど、数々の賞を受賞している。このブロンズ像でも、嬰児を抱え上げて喜びに弾む若い母の
姿が活写されている。人々の憩いの中心で母子像は今日も楽しげだ。


■一本松児童遊園(憩いの公園 はと公園)

 町屋1丁目10番2号町屋保育園の近くにある区立公園。昭和40年7月20日開園。太鼓梯子や
滑り台、鉄棒が一体となったカラフルな複合遊具がある。砂場やストレッチ遊具、スプリング遊具も
あるので、お子さんの年齢に応じて遊ぶことができる。鳩がいることから「はと公園」とか「憩いの
公園」とも呼ばれている。


■町屋火葬場

 町屋1丁目23番にある東京博善町屋斎場の旧称。斎場敷地の西端に掲げられた区の説明板。

   町屋火葬場
   町屋火葬場は、江戸五三昧の歴史を伝える。江戸五三昧とは千駄木、桐ヶ谷、渋谷、焙禄
   新田、小塚原にあった火葬場をいう。小塚原の火葬場は寛文九年(1669)に下谷・浅
   草辺りの寺院から移されたもので、火葬寺、火屋(ほや)とも呼ばれた。明治20年周辺
   の市街地化により廃止。2年後町屋に移転。一方火葬場増設許可が下り、同20年東京博
   善社が日暮里火葬場を新設、その後同火葬場は町屋火葬場の隣地に移ることになり、同3
   7年の移転とともに町屋火葬場と合併した。            荒川区教育委員会

 昭和57年頃のものは以下の通り。

   
町屋火葬場
   寛文九年(1669)に下谷・浅草あたりの火葬寺が小塚原に移され、明治10年には小
   塚原焼場となり、同20年日暮里火葬場が、同26年町屋火葬場がそれぞれ開場しており
   本区における火葬場の歴史は300年に及んでいる。特に安政五年(1858)のコレラ
   をはじめとする伝染病の流行は明治になってさらに酷く、多くの死者を出したので、壮大
   な規模と近代的設備を持った日暮里火葬場が、さらに町屋火葬場がつくられたのである。
                                   荒川区教育委員会

 東京博善といえば、都内最大の民営火葬場運営会社にして、明治以来の古い歴史を誇る名門。町屋斎
場は東博が現在運営する6ケ所の施設でも最大級で、江戸時代にまで由来を遡れるという由緒正しい
施設。前の「サンパール通り」はかつて「博善社通り」と呼ばれていた霊柩車街道だった。火葬場は、
最初は明治20年廃業の千住火葬場(寛文九年(1669)開設の小塚原火葬場)を継承した「町屋
火葬会社」によって用地取得、建設、運営等が行われた。一方明治20年日暮里に設けた東博「日暮
里火葬場」が、市街地化の影響をで移転を余儀なくされ町屋火葬会社の隣接地に移転申請したが、両
者はやがて合併し、同37年町屋日暮里火葬場となった。最盛期は、東京市の死者の半数を処理する規
模で、石川啄木も森鴎外もここから天に旅立っている。現在、東京博善株式会社町屋斎場として運営
している。敷地規模、炉数、利用区域等から見て、現代でも桐ヶ谷を凌ぐ都内最ふるさと大級の施設
だ。
 敷地の西端の植込みには、歴史を物語る石の門柱と迎え地蔵が並べられている。昔は敷地東の正門
内側の脇にあったという。右から「町屋火葬場」の門柱、前身である「日暮里火葬場」の門柱、「東
京博善社」の社名を記した門柱、左の木の影にも社名門柱がある。前にあるのは古い迎え仏。どこに
あったものかは判らないが、もしかしたら江戸時代の火葬寺まで遡れるかも知れない。西側の式場棟
は、ホテルなみにゴージャスだとか、「至れり着く尽せり」とはといいながら、昔を知る人で嘆く人
もいる。かつては一般棟のバーナーの音が物凄くて、京成ガード下あたりまで響いていた。今は微か
な通風音と装置動作音ぐらいしか聞こえなくなっている。中には集塵機やブロワーその他が収められ
ているらしく、都市ガスを燃料とする東博の炉は火葬時間が短いだけでなく、新施設では薄煙はおろ
か陽炎さえ見えないそうだ。


■藍染公園

 町屋1丁目34番9号にある区立公園。昭和44年4月1日開園。宇宙公園のコンセプト。園内に
ある区の説明板に、

   この公園は「宇宙」をイメージした公園です。
   公園の中央部には、宇宙空間として太陽系の惑星の絵がある階段を設け、左側には緑豊か
   な地球の中にロケットを形どった形どったトイレ、また右側には  あふれる月の中に宇
   宙船、月面車などを形どった遊具を設置しております。
   これらにより、子供たちが将来への夢が広がるように願っております。
                                   荒川区公園緑地課


 とある。文中の「形どった」は「模った」の誤記。
 かつては藍染が盛んな地域で藍染川と呼ばれる荒川水系の古石神井川の流路が流れていたため、公
園名として残っている。子どもたちの将来への夢が広がるようにという願いから、宇宙をイメージし
て作られた公園だ。近くには、区のふれあい館や保育園があり、多くの子供で賑わっている。
 公園の緑豊かな植栽地球の中に、ロケットを模ったトイレがあり、宇宙船から滑り降りるような長
い滑り台もある。ブランコや砂場もあるので、小さい子も楽しめるよ。


■町屋区民事務所ひろば館
 
移転
 町屋1丁目35番8号にある区の施設。町屋2‐8‐9に移転「町屋二丁目ひろば館」となった。
跡地は藍染公園の隣にあり暫定広場となっている。


■荒川山吹ふれあい館

 町屋1丁目35番8号にある区の施設。区では、乳幼児から高齢者まで、凡る世代の区民が交流し
自主的な活動ができる地域コミュニティの場として設置している。また従来の「ひろば館」も、サー
クル活動や小規模の会合など、地域のみなさんの交流の場として利用できる。
 この館は、世代を問わず、赤ちゃんから年寄りまで、区民ならいつでも利用できる施設だ。館内に
は、乳幼児と保護者の方が一緒に遊べる専用の部屋や、小・中・高校生が遊べる多目的室、創作室、
音楽室、また、成人の事業として使用している40畳の舞台付きの和室も完備している。中でも、創
作室にはふれあい館で唯一の窯室があり、陶芸教室を年に数回行っているのは、ここのみだ。


■第五中学校
(荒川五中)

 町屋1丁目37番16号にある区立校。昭和22年第九峡田小学校内に創立。同24年第四峡田小
学校内に仮校舎設立。同27年現在地に移転、現在に至る。平成19年創立60周年。

 校歌
「青桐の」 作詞・野上彰  作曲・長谷川良夫
  1.青桐の葉末鳴らして
    戦ぎ行く風は明るし
    教えの儘に睦びて集う
    吾等常に新たなる
    望み持てよ
  2.筑波山 北に遥かに
    荒川の草は伸び行く
    学びの庭の歴史を担う
    吾等常に大いなる
    誇りを持てよ
  3.花吹雪散り飛ぶ朝も
    木枯らしの高き夕べも
    勤しみ励み心を潜め
    吾等常に清らなる
    理想を持てよ
    第五 第五 第五荒川中学


■液体力学

 町屋2丁目2番3号にある町屋駅前にあるスポーツグッズ関係の古物商。テレビ東京の「なんでも
鑑定団」をはじめとして数々の番組に出演し、スポーツ用品などの鑑定をしている前野重雄の店。ショ
ーウィンドウには「突撃! となりの晩ごはん」のしゃもじや「ターミネーター」のシュワルツネッ
ガーのマスク。ここはスポーツ用品店のはずでは? と不思議に思いながら店内に入ると、そこには
壁と天井全てを埋め尽くす、スポーツ関連に留まらない商品がズラリと並んでいる。「個人商店は、
その店主の頭の中にあるものを売るのが正しいと思う」と語る前野。母親が営んでいた婦人靴店を継
ぎはしたが限界を感じ、昭和45年から自分の好きなものだけを扱うことにした。
 まずはアメリカのメジャーリーグの、止め具の付いていない「キャップ」。これを日本で初めて販
売したのは前野だ、現在では日本に普及したのでもうすぐ取り扱いを止めるそうだ。今のイチオシ商
品は軟式野球のグラブ「軟式革命」。前野さんと伝説のグラブ職人江頭重利さんとの共同開発商品で、
プロ野球の選手がわざわざ買いにくるほどの優れものだ。商品は、選手が使っているのと全く同じも
ので、レプリカやファン用のグッズではない。
 さらに前野の真骨頂、選手が実際に使用した、マニアが泣いて喜ぶ貴重なグッズもあるが、大切に
してくれる人にだけ買ってほしいということで、目立つところには陳列されてない。アメリカのバイ
ヤーの中でも、このレアグッズを手に入れる前野の腕は5本の指に入る。情報収集が一番大切で、そ
のグッズにまつわる様々なエピソードごと客に提供しているのだそうだ。レアグッズは主に流体力学
のweb-site通信販売で取引している。 また出会いの中で親しくなったなった日本の野球選手
や芸能人から譲って貰った品は、オークションでの売り、全て「MAKE A WISH OF J
APAN」に寄付をしているとのこと。出会いを大切にし、次の縁に繋げる、前野の荒川っ子気質を
感じさせる。寄付したお金を間違えて利益に計上されたこともある。03‐3895‐8463。

 
前野重雄
 「流体力学」社長。東京都出身。台東区立根岸小学校卒業。旧姓は宇野。スポーツグッズ評論家。テ
レビ東京の『開運なんでも鑑定団』など多くのテレビ番組において鑑定士を務めていることで有名。
中学3年生の頃より雑誌(少年ジャンプ・週間ポスト・女性セブン)取材記者を務め、その後ハワイ
州立大学入学のためにホノルル市へ渡り、昭和44年より同地で女性誌芸能誌各誌(契約)の駐在記
者となる。同49年までユナイト映画の契約社員。16ミリ映画で70年代ロックシーンを収める(現
在のビデオクリップの原型を制作)。帰国後雑誌取材記者としてプロ野球の舞台裏に関わる。平成3
年には小説の執筆にもチャレンジし、初の長編「川崎球場ドリーム」で、『週刊少年ジャンプ・小説
ノンフィクョン大賞』一席入選を果たした。所属事務所の資料によれば、執筆やコメントの専門分野
は、「東京スタヂアム研究」「野球道具」「高校生の見た70年代安保、全共闘時代」「住む感覚の
ハワイ」「地上の日系人的「真珠湾研究」「各企業主催のチャリティオークション」「あらゆるモノ
の現在的価値」「競馬(馬主一族としての目線)」での司会で「この人がマイクを持てば募金が3倍
にハネ上がる」との実績を誇っているそうだ。


■原稲荷神社
(町屋稲荷)

 町屋2丁目8番7号にある。創建は不詳だが、江戸時代は町屋村の鎮守だった。天正十八年(15
90)徳川家康の江戸入部に伴って三河の農民が町屋に移住し、この神社を建立したともいわれてい
る。現在は毎年6月に行われる素盞雄神社の天王祭で神輿が泊まる「御旅所」として知られている。
町屋の地の神として親しまれ、境内は町会・高齢者団体・青少年団体などの活動場所や集合場所とし
ても利用されている。祭神は稲荷だから「倉稲魂命」。素盞雄神社の素盞雄尊の息子で、日本全国に
ある稲荷神社で祀られている。今では商工業に利益のある神様として信仰を集めているが、本来は五
穀豊穣の神とされていた。このことから、三河国から来た農民たちが原稲荷を建立したという説が信
憑性を帯びてくる。
 また一般的に稲荷というと狐だが、狐は倉稲魂命の御先(みさき=使い)なのだ。実は秋の刈り取
り時期になると狐が現れるので、当時の人は、稲の神が様子を見に狐を派遣したと考えたのだ。狐は
出産と冬仕度で秋枯れ野にでてくるのだが、それを神と結びつけた人間は偉い!
 
   稲荷神社(原稲荷)
   稲荷神社は通称原稲荷・町屋稲荷とも呼ばれ、五穀豊穣の神である倉稲魂命を祀る。その
   創祀年は不明だが、天正十八年(1590)徳川家康の江戸入部にともなって三河国(愛
   知県)の百姓が町屋に移住してきた時にさかのぼる。という伝承がある。
   社殿右脇の庚申塔は、江戸初期の正保四年(1647)二月吉日の紀年銘をもち、四組の
   夫婦によって建てられたことがわかる。全国的にも珍しい、阿弥陀三尊の線刻が施されて
   いる。                             荒川区教育委員


 
阿弥陀三尊の庚申塔
 社殿右脇にある。この塔は正保四年(1647)二月吉日銘で、4組の夫婦によって建てられたこ
とが判る。また庚申塔としては珍しい「阿弥陀三尊」の像が刻まれている。


■アフリカ屋

 町屋2丁目9番8号にあるアフリカ雑貨と下駄を扱ってる不思議な店。店の前を通ると誰もが「こ
こは一体何だろう」と訝しく思うはず。アフリカ各国から直輸入した雑貨や衣類などを販売している
茂木佐和子が経営する店だ。もともと両親が営んでいる下駄屋を、アフリカグッズを日本に紹介した
いと思っていた佐和子が、本人によると「勝手に半分占領した」のだそうだ。看板と日覆いにはよく見
ると「あつみや」の文字。これはもう半分の下駄屋の名前だ。
 アフリカ雑貨の取り扱いを開始したのは平成6年。当時の町屋近辺には町工場が多く、そこで働く
アフリカ人の輪で商売が広がっていった。今でもアフリカの人が、店内で縫製を手伝ってくれている。
客は、区外からウェブサイトを見て来る30代以上が多いという。
 一等の人気商品は、プリントやろうけつ染めによるアフリカの「生地」(90cm1250~30
00円、幅112.5~120cm)、パソコンやテレビ、携帯電話などの奇抜なものからアフリカの
民族的な模様まで、実に様々な柄、模様がある。この工業製品の染色技術は、昭和初期に日本の企業
が現地に技術協力を行い、それが定着したことから生まれたそうだ。またこの素敵な生地を利用して
衣類や小物を作り、販売している。両親の下駄屋の技術を活かして、鼻緒の布をアフリカの生地に替え
た「下駄」なども人気らしい。他にも、手織布、アンティークのベネチアンビーズ、フェアトレード
のビーズアクセサリー、セネガル人のデザイナーによる1点ものの帽子、ジャンべなどの楽器、といっ
た多彩な商品が揃ってる。中でもリサイクル製品がユニークで可愛らしく、空き缶で作った「アタッ
シュケース」、缶詰めで作ったピアノ「ブルキナファリ」など、アフリカの人々の創意工夫に驚くよ。
 アフリカ屋は、荒川区国際交流協会の会員だ。同協会が主催の「外国人による日本語弁論大会」な
どに協力している。また区内在住・在勤・在学の方のために開催されている「アフリカ文化理解講座
アフロダンス」の講師を茂木さんの愛娘日光さんが務めるなど、荒川区の異文化交流に寄与している
ぜ。
 


■町屋二丁目ひろば館

 町屋2丁目8番13号にある区の施設。1丁目35番


■第四峡田小学校

 町屋2丁目11番6号にある区立校。沿革不明。HPは稚拙。

 校歌「豊かなる」 作詞作曲不詳 当時の教諭たち。
   豊かなる荒川の水よ
   はるかなる白妙の冨士よ
   若き命の希望に燃えて
   ともに学びつ育ちゆかん
 


■ゆうゆう都電

 町屋2丁目17番2号いずみマンション1階の和菓子屋「竹隆庵岡埜町屋店」の売れ筋菓子。都電
の形をした乳菓。「こめ大福」でおなじみだが、「ゆうゆう都電」は町屋店11周年を記念して作ら
れた町屋店のみの限定商品。素朴でやさしい甘さを楽しんでやってくんない。
 03-3810-4617
 


■町屋二丁目児童遊園(くすのき山公園)

 町屋1丁目10番2号にある区立公園。昭和22年4月1日開園。公園の中央に大きな楠の木があ
る山があることから、「くすのき山公園」とも呼ばれている。冒険遊びのできるアスレチック遊具と
カラフルな複合遊具、スプリング遊具などがある。山の周りは散歩にぴったり。


医王山普門院慈眼寺
 町屋2丁目20番12号にある真言宗豊山派の寺。慶長三年(1598)に創建され、元は阿遮院
末、現在は田端与楽寺末。本尊の薬師瑠璃光如来は眼病や産婦の乳の出がよくなるなどの霊験がある
といわれ特に女性の信仰を集めている。荒川辺八十八ヶ所霊場9番札所、豊島八十八ヶ所霊場65番
札所。鉄筋コンクリート4階建ての立派なビルだ。3階に露出の金色仏が安置され、広く凡夫を見下
ろして救済してる。寺の境内はすべて墓地だ。門が閉ざされている閉鎖寺。
 「新編武蔵風土記稿」には、

   慈眼寺
   新義真言宗、下尾久村阿遮院の末、医王山普門院と号す。本尊十一面観音。

 とある。


稲荷社 ◇
 町屋2丁目23番2号にある小祠。屋敷稲荷か?


■町屋三丁目グリーンスポット

 町屋3丁目2番3号にある区立小公園。
 


■おぼろ豆腐・朝日屋鯨井商店

 町屋3丁目7番2号にある昭和19年創業の豆腐屋。「おぼろ豆腐」の元祖だ。店主の鯨井安雄は
平成11年に「荒川マイスター」として表彰された程の腕前で、区内また台東区には弟子が何人もい
る。昭和35年に都が開催した豆腐製造のコンテストで優勝したこともあり、都豆腐商工組合の理事
を18年間努めるなど、マイスターと呼ばれるに相応しい実績を誇る。開店当時はラッパを吹きなが
ら行商して歩いたが、今では3店鋪を構えるまでになった。

 豆腐の命は、水・大豆・にがり。素材にはこだわりがある。水は、水道水を特別な濾過器で濾して
使う。豆の種類には茶目・白目・黒目があり、糖度の高い茶目や、国産大豆のフクユタカ(佐賀県小
城郡三日月町長神田産)を使用している。大豆は、最近ではロシアや中国でも需要が高まりつつあり、
さらに収穫の出来不出来で相場が変動するが、材料は厳選しつつ何とか値段はそのままで手元に届け
たいと本人の弁。「客に喜ばれ身体に良いものを作る」のが信条。常時30点ほどの商品が店頭に並
んでいる。中でも「おぼろ豆腐」を始め、「刺身湯葉」「ざる豆腐」は大人気で、夕方には売り切れ
てしまう。その他、豆乳、木綿豆腐、絹ごし豆腐、がんもどき、豆腐ハンバーグなどもあるよ。


■町屋第四児童遊園

 町屋3丁目10番13号にある御伽の国をテーマにして整備された区立公園で「ながぐつ公園」と
も呼ばれている。昭和37年8月7日開園。お城のようなすべり台が特徴的。シーソーやブランコ、
スプリング遊具もあり、お子さんの年齢に応じて遊ぶことができる。木々が多いため、夏は防虫対策
を行うとよい。


■第五峡田小学校

 町屋3丁目17番24号にある区立校。昭和6年「東京府北豊島郡第五峡田尋常小学校」として開
校。同7年東京市編入により「東京府東京市第五峡牟田尋常小学校」と改称。同16年勅令第148
号国民学校令により「東京府東京市第五峡田国民学校」と改称。12月日米開戦。同18年都制施行
により「東京都第五峡田国民学校」と改称。同19年学童集団疎開。同20年アメリカ軍の無差別空
爆により全校舎焼失したため、仮校舎を第七峡田小学校に置く。8月アメリカ軍の軍門に降り日本敗
戦。10月疎開解除により学童帰校。
 同22年戦勝国アメリカの強制による学校教育法の施行により「東京都荒川区立第五峡田小学校」
と改称。同32年校歌制定。

 校歌
「荒川の」 作詞・土岐善麿  作曲・信時潔
  1.荒川の緩やかに流れるところ
    町の空 広々と富士は遠く
    絶えず行き交う車と人の
    互いに道を譲り合う時
    心も明るい銀杏の緑よ
  2.新しく友情の花咲くところ
    爽やかな風が吹く窓を開け
    強く正しくみな睦まじく
    励まし学ぶ喜び深く
    力を合わせて勤しむ我らぞ
     あヽわれら 楽しく育つ
     第五峡田小学校


 同45年鉄筋コンクリート造り校舎6教室落成・体育館完成。同49年プール完成。同56年創立
50周年記念式典。
 平成元年機械警備設置。同2年校庭夜間照明設置。同3年創立60周年記念式典。同7年コンピュ
ータルーム設置。同8年校舎耐震化。同9年備蓄倉庫設置。同11年給食調理業務民間委託。同13
年創立70周年記念式典。同23年創立80周年記念式典。


■日本水族館

 町屋3丁目22番11号、尾竹橋通り沿いにある日本最大級の熱帯魚専門店。昭和42年資本金7
00万円で創業。同56年本社を現在地に移転。同57年資本金2100万円に増資。平成9年トロ
ピランド相模原店開店。同11年トロピランド小平店開店。同17年資本金4200万円に増資。同
18年6月私募債発行により隣地の6階建てビル取得。7月隣地の7階建てビル取得。同19年創業
40周年。同20年本社裏駐車場購入。同21年パウパウアクアガーデン銀座店の営業権譲受。同2
2年パウパウアクアガーデン新宿店譲受。
 民間の熱帯魚屋であるが、展示されている種類は豊富で、地域の子どもたちにとって学ぶことの多
い店だ。この店でピラニアやアロワナなどを初めて見た人も多いことだろう。業界では、小売のみな
らず、卸でも知られた存在だ。
 


町屋成田山竜福寺

 町屋3丁目26番10号にある真言宗智山派、成田山新勝寺の末寺。昭和元年竜海師が成田山深川
不動堂から御分霊を迎え、当地で創建した。入口の石柱には「町屋不動尊」とあり、本堂の掲額には
「町屋成田山」とある。また本堂左の庫裏の玄関には成田山東京大槻講寺務所という看板がかかって
いる。なかなか賑やかそうだ。墓地はない。

■町屋三丁目児童遊園(さくら公園 ぞう公園)

 町屋3丁目27番6号にある区立公園。昭和54年6月1日開園。住宅街の中にあって、みんなの
憩いの場所として親しまれている。欅や桜などの樹木が多くあることから、さくら公園とも、また丸
みをおびた象の遊具があるため「ぞう公園」とも呼ばれている。背中が滑り台になっているほか、鎖
の梯子や足場を攀じ登っても遊べる。中にも入れるので、小さい子は隠れん坊なども楽しめそう。鉄
棒やブランコ、スプリング遊具のほか、奥には砂場もある。


■町屋四丁目グリーンスポット

 町屋4丁目1番10号にある区立小公園。


■町屋第二児童遊園(ひこうき公園)

 町屋4丁目3番10号町屋保育園の近くにある区立公園。昭和54年6月1日開園。


■上智厚生館保育園

 町屋4丁目9番10号にある上智クリニック(旧上智厚生病院)の保育施設。昭和6年開園。同2
3年事業認可。保育目標は、「太陽のように明るく」「お花のようにきれいな心」「いつもにこにこ
笑顔であいさつ」。キリスト的情操教育に基づいた人格形成を目標として、産休明けの乳児から学令
までの幼児の保育を行っている。

 「笑う少女」
 園内にある彫刻。北村西望の大正15年の作品だが設置年は不明。あらかわ遊園にもある。ポーズ
は同じだが表情がちょっと違う。台座右面に、

   太陽のようにあかるく、お花のようにきれいな心、いつもにこにこ笑顔であいさつ

 とある。

 「なかよし」
 園内にある。麦藁帽子を被った男の児。昭和61年北村西望102歳の作品。

 「よろこび」
 園内にある。可愛らしい女の児。昭和59年北村西望100歳の作品。幼女乍ら色っぽい。

 
「敬愛」
 園内にある彫刻。母と幼女の像。富永直樹の作品。


■ぬりえ美術館

 町屋4丁目11番8号にある。下町情緒あふれる都電荒川線の沿線、「町屋二丁目」駅のほど近く
に、平成14年8月「ぬりえ美術館」がオープンした。館長は、「きいちのぬりえ」で知られるぬり
え作家蔦谷喜一の姪に当たる金子マサ。化粧品会社のキャリアウーマンだったマサは、海外で仕事を
することが多かった。「ジャパン・アズ・ナンバーワン」という言葉が至極当然のように使われた時
期で、日本人としての誇りを持ちながらバリバリと仕事をこなしていた。しかし病気の母親を看護す
ることになり、平成12年5月に会社を辞める事態に。退職後仕事から解放され、自分の周りの状況
を冷静に眺められるようになって、マサは「日本人が戦後50余年の間に、誠実、勤勉、謙虚といっ
た美徳を、忘れたり、捨ててきたのではないか」と思うようになった。バブル崩壊後回復の見えない
経済状況に、すっかり日本人としての自信を無くした人々。古いものの良さを再認識させ、精神を豊
かにすることで彼らを元気づけたいと考えた
 マサは、幼い頃から親しんできた「ぬりえ」に着目した。ぬりえは子供の遊びであり、心の情操を
養う、心の遊び。そして、子供が触れる最初の文化だ。「子供時代に遊んだぬりえを通じて、日本の
良さが見直せたら・・・」そう思いつくと、自宅を改築する機会が訪れ、1階にぬりえの美術館を開
設しようと決心した。幸い友人にデザインや展示関係の仕事をする者がいたので個人的に協力を依頼
し、友人や地元の業者を使って設備・什器を整えた。美術館は受付横の月替わりのコーナーと奥の企
画展示のコーナーに分かれていて、随時展示替えが行われる。ぬりえを通じて当時の子供の遊びの様
子をうかがうという趣向だが、女の子の遊びが生き生きと描かれていて、見ていると楽しくなる。制
作年代は、昭和20年代後半から40年代、特に20年代後半から30年代が多く、「きいち」を中
心に「まつお」、「ひでを」、「フジオ」、「たけを」などの作品が並ぶ。訪れた50~60代の女性
の中には、ぬりえを見て感極まって泣き出す人もいるという。普段は思い出しもしない昔の事が、ぬ
りえをみた瞬間、パッと蘇るそうで、ここのぬりえは見学者の子供時代の記憶の扉を開く「鍵」の役
割も果たしている。
 土・日・祝・祭日のみ開館―12時~18時。有料 03-3892-5391
 山岡鉄舟研究会と書いてある。不似合いだぁ!
 


■町屋四丁目児童遊園

 町屋4丁目13番16号にある区立公園。平成21年4月1日開園。滑り台が一体となっていて、
簡単なクライミングができる複合遊具がある。大きく口をあけたカバの遊具も子どもたちには人気。
鉄棒やスプリング遊具もあり、お子さんの年齢に応じて遊ぶことができる。


■神社 ◇

 町屋4丁目13番30号の三角地帯にある小祠。


■信八屋

 町屋4丁目21番16号にあるもんじゃ焼き屋。最近「もんじゃ焼き=月島」のイメージが強くな
りつつあるが、荒川区は、知る人ぞ知る「もんじゃ焼き」の真の元祖なのだ。中でも、町屋には多く
のもんじゃ屋がある。その1つがこの店だ。昭和38年創業。現在は安房信子がひとりで切り盛りし
ている。店名は、主人の名前「平八郎」と彼女の名「信子」から1字づつとってつけた。山形出身の
彼女は芋煮会は知っていても、もんじゃ焼きを知らなかった。銭湯の帰り道、かき氷を食べによく立
ち寄った駄菓子屋で、もんじゃ焼きに群がる子供たちを見た信子は、子供好きだし、これなら自分に
もできるかもという簡単な気持ちで店を始めたとか。故あって当初のお得意様は近所の子供たちだっ
た。もんじゃの味は安房さんのオリジナルで、レシピは企業秘密。当時よく来ていた子供たちが大人
になって子供や孫を連れて来店することもあるそうで、「おばちゃんも、味も、昔と変わらないね」
といってくれるのが何よりも嬉しいのだそうだ。最近はテレビ番組で取り上げられることも多く、店
には演歌歌手氷川きよしをはじめ、芸能人のサインが並んでいる。そのお蔭で、区外からの客も増え
てきた。わざわざ仙台や京都から来る剛の者もいたんだと。
 驚きのメニューは「100円もんじゃ」だ。「そばもんじゃ」「カレーもんじゃ」など5種類があ
る。子供たちがお小遣いで遊びに来れるようにと、採算を無視して続けている。この値段を守るため
に彼女は最近までパートに通っていたそうだ。また彼女がお薦めの「五目もんじゃ」は絶品。他にも
「明太もんじゃ」や「キムチもんじゃ」など、14種類ある。またお好み焼きは「五目天」をはじめ
6種類、「たこ焼き」はスタンダードなものから「海老チーズ」といった変り種まで、いろいろな味
が楽しめる。メニューの中には子供たちが自ら考えて、ポスターまで描いてくれるものもある。他の
街では見られない、世代を超えた交流が信八屋を支えているのかもしれないね。


■大門小学校
 町屋4丁目27番8号にある区立校。大正15年3月木造2階建て校舎11教室落成。「東京府北
豊島郡大門尋常小学校」として開校。昭和7年東京市編入により「東京府東京市大門尋常小学校」と
改称。同16年勅令148号国民学校令により「東京府東京市大門国民学校」と改称。12月日米開
戦。同18年都制施行により「東京都大門国民学校」と改称。同19年学童集団疎開。同20年8月
アメリカの軍門に降り日本敗戦。10月疎開解除により学童帰校。
 同22年戦勝国アメリカの強制による学校教育法の施行により「東京都荒川区立大門小学校」と改
称。同29年心障学級設立。同38年校舎改築・鉄筋コンクリート造り校舎3階建て16教室、管理
室7室等落成。同39年第2期校舎改築・鉄筋コンクリート造り3階建て校舎落成。同40年3月第
3期校舎改築・鉄筋コンクリート造り3階建て校舎落成。4月体育館完成。9月校庭舗装、校門構築
竣工。11月校舎改築落成式・創立40周年記念式典。同47年プール改築完成。同61年新体育館
完成。
 平成6年校庭・校門改修。同7年創立70周年記念式典。同10年校舎耐震化。同11年コンピュ
ータルーム開設。同13年教科担任制推進校指定。同16年パソコン総取替え。同17年創立80周
年記念式典。

 校歌
「たなびく煙の」  作詞・平野四郎  作曲・金子三雄
  1.棚引く煙の影映し
    静かに流るる荒川の
    工都の息吹 吹くところ
    礎固くそそり立つ

    その名も雄々し我が大門
  2.手に手を取りて集い寄る
    強く正しく朗らかに
    我らがはぐむ 麗しき
    学びの庭に咲く花の
    自治の香りもいや高し
  3.いざや友人
(ともびと) 師と親の
    愛と導き 身にしめて
    心を磨け 一筋に
    遥かに臨む富士の嶺
    希望は高し ああ大門


■町屋第三児童遊園(フィトネス公園 さくら公園)

 町屋4丁目4番20号にある区立公園。昭和34年4月20日開園。ストレッチ遊具があることか
ら「フィットネス公園」と呼ばれている。そのほか、カラフルな複合遊具、ブランコ、砂場も設置し
ている。木陰も多くあり、春には桜が綺麗なことから「さくら公園」とも呼ばれている。


■あらかわ交通公園 → ツインシティ
(区営町屋5丁目住宅・都営町屋5丁目アパート)

 町屋5丁目9番2・3号、旭電化跡地に隣接した交通公園は立体交差のある楽しい公園だった。公
園跡に立つビルは区営町屋5丁目住宅・都営町屋5丁目第3アパート(共に22階)からなる双子の
賃貸住宅(ツインシティ)で、一部旭電化跡地に跨り、「電化跡地利用計画」として平成10年完成
した。恰も尾久の原公園を我が庭としているかのようだ。贅沢この上ない。
 なお交通公園は、下水道局三河島処理場に蓋をして造られた「荒川自然公園」の第3期工事の際に
自然公園内に交通園として引き継がれており、同7年4月1日に開園した。


■原公園

 町屋5丁目9番7号にある区立公園。平成10年4月1日開園。町屋5丁目にある都営住宅と区民
住宅のマンションに囲まれた公園。滑り台と鉄棒が一体となったカラフルな複合遊具がある。ブラン
コや砂場、スプリング遊具もあって小さい子も楽しめねぞ。遊具を見渡せる位置にベンチがるので、
遊ぶ子どもを見守るのには最適だ。


■町屋図書館

 西尾久5丁目11番18号にある。昭和51年10月1日開設。


■町屋五丁目南公園

 町屋5丁目11番20号にある区立公園。昭和52年4月15日開園。原中学校の東側にある。町
屋図書館が近くにあることから図書館公園とも呼ばれている。カラフルな大型の複合遊具や鉄棒、広
場がある。緑のゴムチップが敷いてある地面が軟らかいエリアは小さい子が走り回るのにぴったり。


■原中学校

 町屋5丁目12番の旧荒川六中跡にある。平成6年荒川第六中学校と尾竹橋中学校を統合して創立
した新設校。校名は「荒木田の原」「尾久の原」などの昔日の環境による。初め尾竹橋中学校の校舎
を使い、六中跡地に新校舎を建てて移った。尾竹橋中の跡地は都営アパート。

 校歌
「尾久の原」 作詞・校歌制定委員会 補作・松井孝夫  作曲・松井孝夫
  1.尾久の原を戦ぐ 風は優しくて
    桜の花が清らかに咲き誇る
    未知なる明日に夢を抱き
    明るい笑顔で さあ行こう
    我等の原中学校 希望を胸に
    新しい世界を 築いて行こう
  2.朝陽浴びて光る 緩やかな流れ
    隅田川の辺 大らかに育ちゆく
    未知なる明日に 心ときめき
    元気な笑顔で さあゆこう
    我等の原中学校 理想を胸に
    新しい世界へ 羽ばたいて行こう


■荒木田の原

 今となっては想像もできないが、7丁目から8丁目の第七峡田小学校にかけては、春ともなれば、
スミレやレンゲ草が咲き乱れた草原だった。文政十年(1827)刊行の岡山鳥編『江戸名所花暦』
(天保八年に『江戸遊覧花暦』と題して刊行)に

   遊客酒肴をもたらしきたって興ずること、日の西山に傾くを知らず

 と描かれた市民行楽の地。『新編武蔵風土記稿』三河島村の条にも、道灌山からこの原を遠望すれ
ば、

   土地ウチ開ケ、其サ青海原ノ如キ絶景


 だったと記している。蜀山人こと太田南畝も文化五年(1808)に荒木田の原を見ようとしてこ
の近くまでやってきたらしい。『花時遍遊』に、

   此頃、荒木田の原と云ひて野遊によろしといふことをきゝたれば・・・


 とある。また「荒木田大根」の産地でもあり、壁土や焼き物の土として知られた「荒木田土」の故郷
でもある。


■町屋五丁目北公園

 町屋5丁目17番3号、原中学校の北側にある区立公園。昭和52年4月15日開園。遊具はない
が、木々に囲まれ緑が多く、落ち着いた大人の公園。木陰のベンチでゆっくりしなはれ。


■町屋五丁目児童遊園

 町屋5丁目17番13号にある区立公園。昭和52年4月20日の開園。ジャングルジムと一体と
なったすべり台、ブランコ、スプリング遊具がある。石の滑り台は、階段のほか、石を掴み乍ら攀じ
登ると滑ることができる。


■新渡し跡

 町屋5丁目と6丁目の境辺りの隅田川の堤防に区の説明板が建っている。

   新渡し
   現在の町屋5丁目と6丁目の境付近から足立区千住桜木2丁目との間を結んでいた。明治
   30年の里道の殉死報告書に既に記載されており、明治後期の頃から昭和前期にかけて、
   足立区西新井方面への渡しとして多くの人々に利用された。東方にあったお竹の渡しに対
   して新たに設けられたので新渡しと称したという。昭和9年に尾竹橋が架橋され、次第に
   衰退し廃止された。                        荒川教育委員会


■江川堀児童遊園(ばかぼん公園)

 町屋6丁目4番12号にある区立公園。昭和46年4月1日開園。荒木田ふれあい館の近く。以前
から小学生たちが「バカボン公園」と呼び親しんでいる。雲梯や滑り台がついた複合遊具、砂場、ブ
ランコ、スプリング遊具がある。


■尾久第二児童遊園(すごろく公園)

 町屋6丁目8番8号にある区立公園。昭和35年2月6日開園。児童遊園がある町屋6丁目の地域
は、昭和38年に住居表示変更するまで「尾久10丁目」と呼ばれていた。地元の皆さんの要望によ
り地域の歴史を後世に伝えるべく今でも名称に「尾久」の地名が残されている。園内には、双六を楽
しめるボードが設置されていることから「すごろく公園」とも呼ばれている。雲梯や滑り台が一体と
なった遊具、鉄棒、砂場、スプリング遊具がある。


■荒木田ふれあい館

 町屋6丁目13番2号にある区の施設。区では、乳幼児から高齢者まで、凡る世代の区民が交流し
自主的な活動ができる地域コミュニティの場として設置している。また従来の「ひろば館」も、サー
クル活動や小規模の会合など、地域のみなさんの交流の場として利用できる。
 この館では、サークル活動に力を入れており、フラダンス・ヨガ・着付・古典舞踊・社交ダンス・
囲碁・書道・手話・介護者教室などを実施している。また、未就学児向け事業のダンス、フットサル
教室や、児童向け事業のダンス教室、一輪車教室なども人気だとかです。


■町屋六丁目児童遊園

 町屋6丁目22番3号にある区立公園。昭和49年4月1日開園。周りをマンションで囲まれてい
る。螺旋の滑り台や砂場、ブランコ、二宮金次郎の像がある。中央に桜の木がある広場では、「だる
まさんがころんだ」を楽しむこともできる。


■町屋六丁目東児童遊園

 町屋6丁目36番17号にある区立公園。昭和58年10月11日開園。小さい乍ら砂場、ブラン
コ、スプリング遊具がある。


■尾竹橋中学校 
廃校

 町屋6丁目37番、都営町屋6丁目アパート1号棟のところにあったが、平成6年荒川六中と統合
して原中学校になった。六中跡地に新校舎を建設する間、原中学校だったが、原中学校の旧六中校地
への移転と共に空き校舎となったのを小学校に見立てて、草彅剛主演のTBSドラマ「先生知らない
の?」の撮影に使われたことあんだよ。


■町屋六丁目北児童遊園

 町屋6丁目37番2号にある区立公園。平成15年4月1日開園。黄緑色のジャングルジムやすべ
り台、砂場、車やくじらの形をしたスプリング遊具がある。


■槇の屋のおぢ

 現在の町屋7丁目の尾竹橋公園付近は「槙の屋」といわれ、昔、それはそれは大きな雑木林があっ
た。槙の屋は荒川が大きく彎曲しているところで、江戸時代川越夜船の船頭にとっての難所とされて
いた。ある朝早く、市場へ野菜を売りに出かけた町屋の百姓が、荷の重さに疲れ、一本の丸太に腰かけ
て一服していると、なぜか丸太が動くのだ。不思議に思って丸太をよく見ると、それは縦に動いてい
るではないか。なんと百姓が座っていたのは丸太ではなく大蛇だったのだ。あまりにも大きな蛇だっ
たので、それが通った跡は、幅一尺にも草が押しつぶされていた。それを見た百姓は、腰を抜かさん
ばかりにびっくりして、逃げ帰ったそうだ。これと似た話が足立区側にもあり、所は「牧の原」とい
う。


■荒木田公園

 町屋7丁目4番5号にある区立公園。昭和43年9月1日開園。


■光明寺

 町屋7丁目5番の浄土真宗大谷派の寺。昭和9年第一峡田小学校正門前に「光明庵」として創建、
同15年当地に移転し「尾竹橋説教所」と改称。同23年に光明寺とした。民家のようなこじんまり
とした寺で、墓もない。


■町屋七丁目北児童遊園

 町屋7丁目5番8号にある区立公園。昭和61年4月1日開園。緑があり、木陰が多い小公園。ブ
ランコと滑り台が一体となった遊具がある。


■都立荒川産院 → 特別養護老人ホームさくら館

 町屋7丁目10番の北養会特別擁護老人ホームさくら館のところにあった。子供の多かった時代の
象徴的な荒川産院は、昭和11年7月に「東京市立荒川産院・乳児院」として開院、同18年7月都
制施行により「東京都立荒川産院」となった。少子化の流れや施設老朽化により平成6年12月末で
その役目を終えた。跡地には病院建設などの案もあったが、同14年3月特別養護老人ホーム用地と
して売却が決定し、
老人ホームは、同16年に開所した。


■町屋七丁目公園

 町屋7丁目16番6号にある区立公園。平成19年4月16日開園。広々とした日当たりの良い公
園。螺旋状の滑り台がついているカラフルな複合遊具やスプリング遊具がある。広場があるので、走
り回って楽しみんしゃい。


■尾竹橋公園

 町屋7丁目17番6号にある区立公園。昭和30年11月27日開園。鳩の多いハト公園。カラフ
ルなすべり台、ブランコ、雲梯がある。広場やキャッチボール場も設置されている(一部立入禁止区
域あり)。


■町屋七丁目児童遊園

 町屋7丁目19番8号にある区立公園。昭和56年4月1日開園。ボードや縄でのクライミングや
雲梯ができるカラフルなアスレチック遊具がある。馬とうさぎのスプリング遊具、砂場、ブランコな
ど幼児向き遊具もある。


■町屋八丁目児童遊園

 町屋8丁目2番5号にある区立公園。昭和49年4月1日開園。グー、チョキ、パーを飾ったカラ
フルな複合遊具があることから「じゃんけん公園」と呼ばれている。複合遊具には、波や螺旋状の滑
り台がついていたり、店のカウンターや車のハンドルがついていたりと、いろいろ楽しむことができ
る。ブランコや砂場、スプリング遊具もあり、小さい子も大丈夫。


江戸指物木村
 町屋8丁目9番5号にある木村利男の工房。江戸指物は、金釘を使わず、物差しで寸法を測り木を
組み合わせて作る和家具のことだ。物はいいけど高いよ。江戸指物木村というのは台東区下谷にもあ
る。


■第七峡田小学校

 町屋8丁目19番12号にある区立校。昭和12年「東京府東京市第七峡田尋常小学校」として開
校。同16年勅令148号国民学校令により「東京市第七峡田国民学校」と改称。12月日米開戦。
同18年都制施行により「東京都第七峡田国民学校」と改称。同19年学童集団疎開。同20年8月
アメリカの軍門に降り日本敗戦。10月疎開解除により学童帰校。
 同21年12月学校給食開始。同22年戦勝国アメリカの強制による学校教育法施行により「東京
都荒川区立第七峡田小学校」と改称。同32年創立20周年記念式典・校歌制定。

 校歌波音ゆたかに」  作詞・土岐善麿  作曲・平井康三郎
  1.波音豊かに荒川流れて
    青空遥かに霞むは筑波よ
    仰げ富士をさらに高く
    風も爽やか銀杏が散るよ
    春も秋も 明るく正しく
    見るもの聞くもの みな楽し
  2.親しく元気に希望を語りて
    学べば新たに溢れる力よ
    競え強く絶えず広く
    花は輝き鴎も飛ぶよ
    手に手組みて 自由の道行く
    第七峡田小学校


 同34年プール完成。同38年体育館・給食室完成。同41年第1期鉄筋コンクリート造り校舎9
教室落成。同42年第2期鉄筋コンクリート造り校舎9教室落成。同46年第3期鉄筋コンクリート
造り校舎落成。同47年第4期鉄筋コンクリート造り校舎落成。同62年創立50周年記念式典。
 平成9年コンピュータルーム開設。同12年ランチルーム完成。同13年給食調理民間委託。イン
ターネット接続。同15年パソコン機種更新。プール改修。同16年英語教室開設。同17年普通教
室増設。図書室エアコン設置。同18年太陽光パネル屋上設置。同19年70周年記念式典。


■「巨人の星」

 原作梶原一騎、画川崎のぼるによる町屋の長屋を舞台とするスポーツ根性マンガとアニメ。アニメ
の中で星一徹宛ての郵便物に「荒川区町屋9-16」という住所が明記されている。もっとも、実在
の町屋は8丁目までであるが、河崎実の研究本に次の一文がある。

   ・・・これを町屋の本屋で買っている読者諸君、驚きそして誇りに思いたまえ。日本で
   一番有名なド根性親子の長屋は、まさにその辺りにあったのだ!

 主題歌「行け行け飛雄馬」 作詞/東京ムービー企画部  作曲/渡辺岳夫
  1.思いこんだら 試練の道を
    行くが男の ど根性
    真っ赤に燃える 王者のしるし
    巨人の星を つかむまで
    血の汗流せ 涙をふくな
    行け行け飛雄馬 どんと行け
  2.腕も折れよと 投げぬく闘志
    熱球うなる ど根性
    泥にまみれ マウント踏んで
    勝利の凱歌を あげるまで
    血の汗流せ 涙をふくな
    行け行け飛雄馬 どんと行け
  3.やるぞどこまでも 命をかけて
    父ときたえた ど根性
    でっかく生きろ 剛球燃えろ
    男の誓いを 果たすまで
    血の汗流せ 涙をふくな
    行け行け飛雄馬 どんと行け


 主人公の星飛雄馬、かつて巨人軍の三塁手だった父一徹により幼年時から野球のための英才教育を
施される。プロ野球の読売ジャイアンツに入団後、ライバルの花形満や左門豊作らを相手に大リーグ
ボールを武器に戦う。いわゆるスポーツ根性野球漫画の走りともいえる作品。「巨人の星(通称「左
腕編」)は、昭和41~46年まで『週間少年マガジン』に連載され、『週刊少年マガジン』連載直
後にKC(講談社コミックス)全19巻で刊行された。KCスペシャル版と平成7年の文庫版では全
11集だ。その続編『新巨人の星』は同51年~54年まで『週間読売』に連載された。
 『巨人の星』・『新巨人の星』共に読売テレビ系でテレビアニメ化され、アニメ映画も7作品が製
作されている。左腕編と『新巨人の星』の間の時期を描いた『巨人の星・外伝〜それからの飛雄馬』
も読切で『週刊少年マガジン』に掲載されており、飛雄馬失踪(5年間)の開始から3年後を扱って
いる。これは『新巨人の星』の文庫版の巻末に収録されており、同53年掲載で『週刊読売』の『新
巨人の星』掲載期間と重なるが、河崎実『巨人の星の謎』では「昭和48年」であるとしている。

 講談社漫画文庫『新巨人の星』で「新魔球の章」と『巨人の星・外伝』を収録した第6巻平成8年
版では、巻末に『新巨人の星』の初出が『週刊読売』昭和51年10月2日号~同54年4月15日
号に掲載、『それからの飛雄馬』は『週刊少年マガジン』同53年2月12日号に掲載とある。

 登場人物
 星飛雄馬(ほしひゅうま アニメ声優‐古谷徹)
 本作の主人公。時に挫折しつつ、努力と根性で徒只管(ただひたすら)に〝巨人の星〟を目指し、
 魔球大リーグボールを生み出す。

 星一徹(ほしいってつ アニメ声優‐加藤精三)
 飛雄馬の父。飛雄馬に数々の試練を与えた〝野球の鬼(球鬼)〝。 最終的には自身が敵と化し、飛
 雄馬の前に立ちはだかる。

 星明子(ほしあきこ アニメ声優‐白石冬実)
 飛雄馬の心優しき姉。母のいない星家唯一の女性でもあり、飛雄馬にとっては母親に限りなく近い
 存在。巨人の投手となった飛雄馬と中日の打撃コーチとなった一徹が対立した際、家を出てガソリ
 ンスタンドで働く。この時花形満と出会い、後に彼と結婚する切っ掛けとなった。伴宙太も告白し
 たが、玉砕している。

 伴宙太(ばんちゅうた アニメ声優‐八奈見乗児)
 飛雄馬とは青雲高校からの友人。義に篤く涙もろい。物語後半では中日に移籍。一徹と共に星の敵
 となり、後に明子に告白するも振られる。『新巨人の星』では再び飛雄馬の支援者になっている。

 花形満(はながたみつる アニメ声優‐井上真樹夫)
 飛雄馬を〝我が生涯のライバル〟と見做し、挑み続ける花形モーターズの御曹司。阪神に入団。苦
 心の末大リーグボール1号を打つ。リメイク版『新約「巨人の星」花形』では主人公を務める。後
 に星明子と結婚し、飛雄馬の義理の兄になる。新巨人の星では飛雄馬の復活を助けるも、本格的に
 投手として復活した後はかつての熱い思いが甦り、ヤクルトに入団。再びライバルとなった。

 左門豊作(さもんほうさく アニメ声優‐兼本新吾)
 飛雄馬が高校時代より縁を持った、熊本出身の巨漢スラッガー。大洋に入団。後に飛雄馬に惚れて
 いた女番長京子が、飛雄馬のために手の腱を切った際に自分も好きだった彼女に尽し、妻とする。

 アームストロング・オズマ アニメ声優‐小林清志
 アメリカ大リーグ・セントルイス・カーディナルスの元選手。一徹のいる中日に契約選手として入
 団。その際一徹に飛雄馬が子供の頃巻いていた大リーグボール養成ギプスをオズマ用にしたものを
 巻かされ、ヘロヘロになりながら、「イエス サー ボス」といいながら振りまくり、花形が破り
 ながらも自身をも滅ぼしかけた大リーグボール1号を完全攻略した。帰国後はベトナム戦争に出征
 し、そこで受けた傷がもとで非業の死を遂げる。

 速水譲次(はやみ じょうじ アニメ声優‐羽佐間道夫)
 元陸上競技候補生の巨人軍選手。巨人入団テスト最終選考でのスパイクの紐作戦にて自慢の足を見
 せるも、夢中になった飛雄馬の魔送球の前に敗れるが、伴とともに補欠入団となった。

 牧場春彦(まきば はるひこ アニメ声優‐野沢那智・仲村秀生・富山敬)
 常にスケッチブックを持ち歩いている漫画家志望の青雲高校生。後に漫画家となる。飛雄馬が退学
 になった伴大造襲撃事件では、暗器(武器)を使って襲撃。伴宙太は初め飛雄馬を疑い、闇鍋を行
 う。牧場の悲しい身の上を知った飛雄馬は身代わりになるが、牧場は宙太に事実を告げる。また、
 二軍登板の際に飛雄馬のスコアをつけ、左門が飛雄馬の球質の軽さを見抜くきっかけになる。

 日高美奈(ひだか みな アニメ声優‐松尾佳子)
 宮崎の山奥の沖診療所で働く。飛雄馬の恋の相手。

 京子(きょうこ アニメ声優‐武藤礼子・小山まみ(茉美)
 新宿繁華街で名の知れた「竜巻グループ」の女番長。通称お京さん。後に左門の妻。大リーグボー
 ル3号のヒントになった。

 オーロラ三人娘(橘ルミ・桜井エミ・松田マキ)
 飛雄馬が一時期付き合うことになったタレント橘ルミ(増山江威子)が所属する女性3人組のアイ
 ドルグループ。星飛雄馬がライバル、中日ドラゴンズのアームストロング・オズマに「おまえは野
 球ロボットなのだ」と指弾され、投げやりに人間らしさを求め女性アイドルグループ「オーロラ三
 人娘」橘ルミと付き合う。
 そのオーロラ三人娘」がアニメ版で歌ってヒットチャート上昇中という設定なのが「クールな恋」
 だ。

    I love you, I love you forever more
    I love you, I love you forever more
    愛しすぎたから こわい
    別れがこわい
    青い月影をあびて 一人で祈る
    Oh it isn't cool today
    Baby please don't run away

 何故か数年前から日本テレビ日曜夜10時半「中井正広のブラックバラエティ」で使われている。
 最近の人でも聴いたことのある人も多いだろう。リアルタイムで聴いた人なら分かるだろうが、当
 時この曲が浪花節ド根性ものの「巨人の星」流れる違和感があったが、曲そのものは素敵だった。
 それもそのはずだ。この曲は「巨人の星」オリジナルソングではなく、横浜・本牧出身の都会派グ
 ループサウンズ「ゴールデン・カップス」が昭和43年9月1日に実際にレコードリリースした和
 製R&Bの本物なのだ。「クールな恋」がリアルタイムでオンエアされた昭和40代、スパイダー
 ス、ブルーコメッツ、タイガース、テンプターズに代表されるグループサウンズの大ブームが巻き
 起こっていた。さらに言えば「巨人の星」の主題歌は軍歌調であまりに有名な「ゆけゆけ飛雄馬」
 だ。しかし挿入曲に回された「友情の虹」が第1候補だったことはあまり知られていない。これも
 グループサウンズの影響を受けたまさにクールでオシャレな曲だ。そしてこの「友情の虹」を歌っ
 ていたジ・エコーズのメンバーの1人が、昭和46年暮れ日本レコード大賞を獲得した尾崎紀世彦
 なのだ。さて、どうだろうか。「巨人の星」と日本のポップスとの意外な関係。


■町屋八丁目南児童遊園

 町屋8丁目21番12号にある区立公園。昭和54年10月15日開園。下水道局町屋ポンプ所の
近くにある小さな児童遊園です。ブランコ、鉄棒、砂場があります



【南千住】(みなみせんじゅ)1~8丁目               昭和42年5月1日
 新しい町名だ。江戸時代は小塚原村と中村。小塚原は素盞雄神社の霊石「瑞光石」が出てきた塚
をその大きさから小塚といい、原っぱだったので「小塚の原」といったことからは村名にしたとい
う説と、骨ヶ原を小塚原に書き改めたという説がある。骨ヶ原が刑場にちなむことはいうまでもな
い。現在の吉野通り(奥州街道)は「コツ通り」といったものだ。川北の千住村は奥州道(鎌倉街
道)の関門として関所が置かれるほど重要な地で、慶長二年(1597)人馬の継ぎ立て村とされ、
寛永二年(1625)に日光街道の初駅(第一宿)を置くことが定められた。当初は小規模なもの
だったが、元和3年(1617)に石出掃部が堤を築いた掃部堤以北の地が、万治年間には掃部宿
として認められ千住宿に加宿され宿場は南へ伸びた。さらに河原町、橋戸町へ伸びて、やがて大橋
(千住大橋)以南の小塚原村・中村までが宿場となり最盛期の千住宿を完成させた。時移って明治
2年明治政府は元来の千住宿を「千住宿北組」、掃部宿・河原町・橋戸町を「千住宿中組」、大橋
以南を「千住宿南組」に分け、同11年「郡区町村編制法」により千住宿南組は北豊島郡の所属に
戻り、南足立郡に属した北組・中組と別れることになった。この時に「宿」が取れて「千住南組」
となり、明治22年「市制町村制」により千住南組・地方橋場町・三ノ輪村・千束村・三河島村・
下谷三ノ輪町の各一部と下谷通新町が合併して初めて「南千住町」を称えた。同28年隅田川貨物
駅、翌年常磐線南千住駅が開設され、北千住とは別に発展していく。昭和3~4年1~10丁目に
分かれ、同7年荒川区が成立してその南千住町となって戦後に至る。同42年新住居表示で1丁目
の一部を東日暮里1丁目に譲り現行の「南千住」となった。
 6丁目の素盞雄神社の裏手、南千住中学校の跡地に、郷土資料館である「荒川ふるさと文化館」
がある。
  参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『荒川区史』など。

 南千住の由来
 江戸時代に南千住という地名も言葉もなかった。千住五丁目から中村町まで千住宿として一体の
もので、まあ精々祭りの綱引きの際に、大橋を境に力を比べのために分かれるくらいなものだ。無
論同時に巨大な宿場町が出現したのではなく、千住1丁目から北に伸びた千住宿と、大橋の南の小
塚原村・中村は発生時期にずれはある。その間の掃部宿は更に遅く、別々に発達して、その結果くっ
ついてしまって長大な千住宿となった。端から端まで3㎞以上もある。明治になって行政区が大橋
を境に足立郡と豊島区に分かれたことで南北の意識が湧いた。その認識から明治22年の町村合併
の時「南千住町」を合意名とした。これが南千住の名の起こりである。このとき大橋から北の千住
は決して「北千住町」などとは名乗らなかった。しかし明治28年常磐線が敷設されて北千住駅、
南千住駅が開設され、千住という町が南北に分かれたように錯覚している人は多い。南千住は千住
の南外側の町の意だ。

   
千住宿
   慶長九年(1604)日本橋を起点として五街道が定められている。奥州街道の第一の
   宿場が千住宿であって。その中心は本宿と呼ばれ、現在の北千住がそれにあたる。
   大橋南側から「コツ通り」に至るこの辺りに、小塚原町・中村町があって下宿と呼ばれ
   問屋・商店・遊女屋などが建ち並んでいた。江戸の宿場の中では、この千住宿(本宿と
   下宿)が最も長い宿場通りであった。              荒川区教育委員会
  


■都電荒川線・荒川一中前停留所

 南千住1丁目1番に対面ホームがあり、名前の荒川一中は荒川1丁目にある。この線で一番新しい
平成12年11月11日の開業。なんと荒川線における新停留所の開業は70年ぶりだった。副名称は
「ジョイフル三ノ輪前」。ジョイフル三ノ輪とは、三ノ輪橋から荒川線と並行して続くアーケード商
店街の名前だ。
 


■第六瑞光小学校
六瑞小

 南千住1丁目4番11号にある区立校。昭和15年「東京府東京市第六瑞光尋常小学校」として開
校。同16年勅令148号国民学校令により「東京府東京市第六瑞光国民学校」と改称。12月日米
開戦。同18年都制施行により「東京都第六瑞光国民学校」と改称。同19年学童集団疎開。同20
年8月アメリカ軍の軍門に降り日本敗戦。10月疎開解除により学童帰校。
 同22年戦勝国アメリカの強制による学校教育法の施行により「東京都荒川区立第六瑞光小学校」
と改称。平成12年創立60周年。

 校歌
「みやこの空に」 作詞・六瑞校歌委員会  作曲・下総皖一
  1.都の空に春煙り
    輝き染むる桜花
    今ぞ 吾等の学び舎に
    知恵の若草萌え出でよ
    いざ共に憧憬の
    文化の扉 開かなん
  2.武蔵野原の果て遠く
    夏雲高く上る時
    今ぞ 繁れる荒川の
    岸辺の葦を踏み分けて
    いざ共にいや深き
    真理の泉汲み出でん
  3.曙 籠むる川霧に
    目覚めを告ぐる 川蒸気
    今ぞ 明け行く澪先に
    群れて和めよ鴎鳥
    いざ共に進み行く
    平和の旗を手に取らん
  4.世界を結ぶ生産の
    響きを上ぐる我が町を
    今ぞ 吾等が後受けて
    強く世に立つ時近し
    いざ共に開け行く
    進歩の歴史 踏み継がん

 同30年心障学級開設。同37年歯の健康優良校指定。同41年子供郵便局大蔵大臣賞受賞。同4
3年学校保健優良校指定。同44年学校花壇優良校指定。同63年マーチングバンド結成。
 平成9年コンピュータルーム開設。同19年コンピュータ校内LAN設置。

 マーチングバンド
 平成元年東京大会・関東大会出場。同9年東京大会・全国大会(神戸)出場。同10年東京大会・
全国大会(幕張)出場。同11年マーチングバンド東京大会・全国大会(神戸)出場。同12年マー
チングバンド東京大会出場・全国大会3年連続出場記念招待演奏。同13年
マーチングバンド東京大
会・全国大会(神戸)出場。荒川区青少年団体表彰。
同14年世界大会(幕張)・東京大会・全国大
会(幕張)出場、「豊かな心を育む荒川3つの行動プラン」をオープニング演奏。同15年東京大会
出場。同16年全日本小学生バンドフェスティバル東京都大会金賞受賞。同17~19年全日本小学
生バンドフェスティバル東京都大会銀賞受賞。
同20年全日本小学生バンドフェスティバル東京都大
会金賞受賞。同21年
全日本小学生バンドフェスティバル東京都大会銀賞受賞。同22年全日本小学
生バンドフェスティバル東京都大会金賞受賞。同23年安全ステーション設置。

 
男女学童像
 平成16年卒業記念作品。
 


■大関横丁

 明治通りと日光街道の交差点をいうが、大関は、かつてイトウヨーカ堂の西半と第六瑞光小学校の
一帯に、寛文の頃(1661~2)から下屋敷があった下野黒羽藩々主の姓、横丁はその下屋敷に至
る道の意。横丁の奥は焼場道に繋がり
清水ノ森と地蔵堀に接する寂しいところだった。

 
横丁はほぼそこにしかいけない道そこへ至る道のことをいい、木戸がない一般道。丁には「行
    き会う
行き交う」の意がある。

 
横町の方は地主が拵えた新道(じんみち)の内、幕府に公認されたものをいう公用語。横町とは
    大通りから横っちょに入った路地のことだ。「横町」は大店の隠居が管理することが多く、
    「横町の隠居」とはいうが、「横丁の隠居」とはいわない。

 横丁と横町は似て非なる全く別のもの。横丁は四谷に多く、大横丁のほか、十三・御仮屋・車内門
・舟板・麹屋・菱屋・太宗寺・湯屋・浄雲寺・竜昌寺・小達・西念寺・天王・石切・法蔵寺・忍原・
右馬殿などを冠した横丁が見られるが、全て目的地を表している。
 さて大関横丁が現在のどこかというと、大関横町交差点(最近は表示していない)から西の明治通
りで、東尾久変電所の辺りまでをいった。明治通りは拡張したものだから、当時の道幅は2間(約2
m)ほどだった。常磐線ガード下の区教育委員会の説明版では「大関横町」となっており大いなる間
違いをしでかしている。

   大関横町
   大関横町は、下野黒羽藩主の大関信濃守下屋敷(南千住1丁目1~8番付近)の南と西を
   取囲んでいた道である。南側の道は現在の明治通り。西側の道をはさんで伊予新谷藩主加
   藤大蔵少輔下屋敷(荒川1丁目36~38番付近)があった。
   明治通りに拡張される前の道幅は、約ニ間(約4m)で、大関横町から三河島道(区立第
   一中学校の南側の道)に入ると前方に地蔵堀の石地蔵などを望むことができたという。
                                   荒川区教育委員会


 ●
大関横丁由来之碑
 第六瑞光小学校の北角都電荒川線の線路際ところに建てられている。同碑文を示す。

   大関横丁由来之碑
   下野国黒羽藩大関増業公は智徳兼備の英傑にして藩政を行ふに教育を以てし自一千余巻の
   書を著しているが特に黒羽藩日本書紀三十巻同文字錯乱備考三巻より六吏兵随二十三巻を
   経て止才枢要五百二十九巻に主たるものを体系の根巻とした中でも止才枢要は百七十六巻
   を伝記資料篇三百五十三巻を本文とする科学的編慕法による構想雄大内容充実世界に誇る
   べき不朽の名著と云はれる在職十三年にして病の為引退して此処箕輪の別邸乗化亭に住み
   括嚢齋と号し奇方歌道茶道等に精通し人心救済に盡力したが弘化二年(1845)三月十
   九日六十五歳の生涯を終った大正十三年(1924)三月十一日特旨を以て正四位を贈ら
   れた世人大関公の偉徳を讃えて此処を呼ぶに大関横丁と称えた
   昭和三十九年十月                       大関横丁吏蹟保存会


 これも間違いで、大正時代に増業を讃えてそう呼ばれた訳ではなく、江戸市民の利便のための俗称
で、寛文の当初から誰いうとなくそう呼んでいた。また一般大名は無官五位の朝散太夫で正四位は二
階級特進だがそれほどのことではない。これが江戸時代なら、正四位は越前松平・高松松平2家のみ
の羽林公だ。
 


■ガード下壁画

 南千住1丁目7番常磐線19第3三河島ガードの壁面に描かれた鷹狩の絵画。東藝大制作。


■大関屋敷跡

 南千住1丁目1~8番の全部、9~11番、東日暮里1丁目7番の各一部を合わせた地域。下野黒
羽藩大関家下屋敷・抱屋敷があり、面積は、抱屋敷を含めて8100坪(約27000㎡)だった。
黒羽藩27代増業は、膨大な図書の編纂と藩政改革で知られる。文政七年(1824)の隠居後、こ
の下屋敷に閑居した。大関横丁は三ノ輪村の辻から大関家下屋敷表門前に至る専用道だ。現在の明治
通り。さらに西側に小道を迂回すると伊予(愛媛県)新谷藩主加藤出雲下守屋敷(荒川1丁目36~
38番付近)があった。昭和50年代ころの説明板に、

   大関屋敷跡
   下野黒羽藩主大関氏は、寛文元年(1661)幕府からこの地に下屋敷を拝領した。屋敷
   は明治通り、一中前通り、都電に囲まれて、南千住図書館を東の縁とした一画である。

   
27代増業は著書が千巻にも及び、31代増裕は若年寄兼海軍奉行の職にあり、勝安房守
   軍艦奉行とともに幕末に活躍するなど、代々名君が出たので、大関横丁の名も残っている
   のであろう。                          荒川区教育委員会


 とある。増裕は、狂歌に、

   夫婦して江戸の町々を乗りあるき 異国の真似する馬鹿の大関

 と評判となった、平成年代の説明板は以下の通り。

   大関屋敷跡
   下野黒羽藩主大関氏は、寛文元年(1661)幕府からこの地に下屋敷を拝領した。その
   範囲は南千住1丁目1~8番、10、11番の一部の辺りと推定される。面積は抱屋敷を
   含めて8100坪(約26700平方メートル)であった。
   黒羽藩二十七代増業は膨大な図書の編纂と、藩政改革で知られる。文政7年(1824)
   の隠居後、この下屋敷に閑居した。
   また、三十一代増裕は若年寄兼海軍奉行の要職にあり、軍艦奉行勝海舟とともに幕末に活
   躍している。                          荒川区教育委員会


■都電荒川線・三ノ輪橋停留所

 南千住1丁目12番にある始点・終点停留所。大正2年4月1日開業。名前の三ノ輪橋は、かつて
音無川に架かる橋で日光街道を通していた。戦後も橋の遺構が永く残っていたが、最近見ないところ
を見ると、取っ払っちゃったんだな。薔薇が奇麗な駅として「関東の駅百選」に選ばれている。5~
6月が見頃だよ~ん。橋の近くに吉原女郎の遺体を投げ込んだ浄閑寺がある。駅の周辺には特に何も
ないが下町色の濃い商店街が広がっている。
 古い地図を見ると、日光街道で都電に接続しており、停留所は1丁目15番のドミール三ノ輪のとこ
ろにあったのかも。

 
駅はバラ園
 駅前広場には、約40種類のバラが植えられていて、春になると、様々な色と香りのバラで、まるで
バの美術館だ。故ダイアナ元英皇太子妃の気品ある美しさが表現された『ダイアナ・プリンセス・オ
ブ・ウェールズ』もあるよ。ぜひ一度見てみない。ウルメール・ムーンスター、新雪、アカベラ、紫
香、ブルー・ムーン、ダブル・ディライト、カルト・ブラッシュ、エバー・ゴールド、銀世界、ゴー
ルド・バニー、ゴールデン・ハート、羽衣、ハーモニー、春の舞、インディアン・メイアンディナ、
香貴、ラバグルート、ミスター・リンカーン、錦、オレンジ・メイアンディナ、ピース、プリンセス
・アイコ、連弾、聖火、ザ・マッカートニー・ローズ、宴、ウィンナー・シャルメ、ホワイト・クリ
スマス。
 


■南千住一丁目緑地

 南千住1丁目12番11号にある区立小公園。


■対馬府中藩 宗屋敷跡

 南千住1丁目12・13番の全部と、9~11番と東日暮里1丁目7番の一部を合わせた地域。対
馬府中藩宗家の下屋敷があった。一部旗本屋敷を含む。寛文元年(1661)幕府から拝領した。面
積7800坪(約25600㎡)。この屋敷の東南の角に辻番屋があった。武家屋敷近辺の取締りの
ために設けられたものだ。辻番は交番の元になっている。

   宗対馬守下屋敷跡
   宗対馬守下屋敷は、寛文元年(1661)幕府から拝領した。凡そ新開地を北とし、明治
   通りを南、東は日光街道で、西は南千住図書館辺りの一角がその跡である。
   日光東照宮の造営では、元和三年(1617)にその第1期工事を終わり、7年後には上
   野輪王寺宮の日光参詣が行われている。
   上野・金杉、そしてこの宗下屋敷前から下谷通新町を経て千住の宿が休憩地であった。
                                   荒川区教育委員会

   
宗屋敷跡
   対馬藩主の宗対馬守の下屋敷は、寛文元年(1661)に幕府から拝領した。面積810
   0坪(約26000㎡)。都電荒川線を北限とし、南は明治通り、東は日光街道より一本
   西側の道、西は南千住1丁目9番辺りまでが屋敷の範囲と推定される。
   この屋敷の南東の角に辻番所があった。武家屋敷近辺の取り締まりのため設けられたもの
   である。                            荒川区教育委員会


■白龍神社
(白龍稲荷神社) 

 南千住1丁目13番4号、三ノ輪橋駅前にある稲荷小社。
 鳥居の掲額に「白龍弁財天」と刻んである。提灯には「白龍大神・伏見稲荷大明神・里見稲荷大明
神・御嶽大神」とかいてある。


■稲荷大明神 ◇
 
 南千住1丁目13番21号空地の隅にある小祠。路地に背を向けている。


■王子電気鉄道本社ビル → 梅沢写真会館

 南千住1丁目15番6号にある。1階が三ノ輪橋停留所への通路になっているが、この3階建ての
ビルは、かつての「王子電気鉄道会社」の本社だ。


■白龍弁財天?

 
南千住1丁目17番7号にあるというが見当たらない。線路斜向かいの1丁目13‐4の白龍神社
の鳥居の掲額に「白龍弁財天」と刻んである。


■中島弁財天 ◇

 南千住1丁目23番11号愛の家グループホーム荒川南千住の南の道路に面してある小祠。

   中島弁財天の由来
   「元弁天湯」は大正時代創業で、関東大震災や空襲をくぐり抜けた建物は「都内最古級」
   と云われ百年近く地域に親しまれてきましたが、東日本大震災で配管等に甚大な被害が出
   て閉業しました。
   その女湯の脱衣場の中庭に置かれていたのが七福神のひとつ、この弁天様です。開運、商
   売繁盛、弁活、芸術、財神、延寿の神 弁財天として安置致しました。
   かつて、江戸時代から明治2年の版籍奉還まで、大名伊勢亀山藩主石川家(六万石)の下
   屋敷・抱屋敷として立地し、その屋敷内に大きな弁天池があり、その中の島に祀られてい
   た「中島弁財天」に由来するものであります。


■石川屋敷跡

 南千住1丁目26番の瑞光公園の辺りにあった。園内の区の説明板は以下の通り。

   石川屋敷跡
   石川日向守屋敷は、三ノ輪新開地一帯にあって、総坪数15040坪(36400㎡)に
   も及ぶ広さであった。万治元年(1658)播磨守総長の時に、三河島、三ノ輪、小塚原
   3ヶ村の内、10530坪(34700㎡)の地を拝領し中屋敷を造築、寛文五年(16
   65)三河島重右衛門の580坪(約1700㎡)を買い上げ、屋敷、庭園を造築した。
   この石川屋敷では、4月から7月までを限り鉄炮稽古をしたという。 荒川区教育委員会


■瑞光公園

 南千住1丁目26番10号にある区立公園。昭和32年12月10日開園。瑞光小学校の南側にあ
る。「瑞光石の光」をテーマに整備した。ユニークなシーソーやすべり台、ブランコ、砂場がある。


満海山公春院
千日寺
 南千住1丁目32番9号にある浄土宗の寺。浅草聖徳寺の末寺として、寛文十年(1670)に創
建したという。本堂の左と奥に墓地。右は庫裏。

 ●証拠の松
 明治の末頃で周囲が約4m、高さ14m、樹齢は優に500年を越すといわれる松の木があった。

   公春院の松
   公春院の巨松は、明治の末頃で周囲が約4m、高さ14m、樹齢は優に500年を越すも
   のであったといわれる。
   『遊歴雑記』(文政十二年〔1829〕)にも、東武三十六名松の1つ「証拠の松」とし
   て記されている。江戸時代、新しく寺院を建てることは禁止されていた。幕府の役人が当
   寺の開創年代を調べにきた際に、松の雄大な様子が新しい寺院ではないことを証明した。
   以来「証拠の松」と呼ばれるようになったという。
   寺内に、天明七年(1787)銘太鼓、紙本着色仏涅槃図、寛文十年(1670)銘手水
   鉢などがある。                         荒川区教育委員会


■稲荷社 ✓

 南千住1丁目32番11号にあるらしい。


■ライオン親子像

 南千住1丁目32番19号ライオンズ東京三ノ輪レジデンス玄関前にある。平成27年2月23日
に竣工した。形は三越のライオン像と同じだが、リアルではない。


■瑞光小学校(瑞小)

 南千住1丁目51番1号にある区立校。明治20年千住南組字大門に「瑞光尋常小学校学校」とし
て開校(校名の揮毫は勝海舟)。同21年校旗制定。同22年町村合同により「東京府北豊島郡瑞光
尋常高等小学校」と改称。同32年学帽・徽章制定。大正10年現在地に移転。昭和7年東京市編入
により「東京府東京市瑞光尋常高等小学校」となる。同16年勅令148号国民学校令により「東京
府東京市瑞光国民学校」と改称。12月日米開戦。同18年都制施行により「東京都瑞光国民学校」
と改称。同19年福島県桑折町に学童集団疎開。10月疎開解除により学童帰校。同20年アメリカ
の軍門に降り日本敗戦。10月疎開解除により学童帰校。
 同22年戦勝国アメリカの強制による学校教育法の施行により「東京都荒川区立瑞光小学校」と改
称。同32年校歌制定。


 校歌「荒川の」 作詞・作曲上野麟慧智
  1.荒川の流るる辺
    平和にも栄える里よ
    高い知と強い体で
    美しく育って行こう
    吾が郷の 吾が学び舎よ
    楽しきは瑞光小学校
  2.朝風に汽笛木霊し
    夕雲に店の灯映えて
    働けと町が教える
    その精神 身に修めよう
    吾が郷の 吾が学び舎よ
    嬉しきは瑞光小学校
  3.瑞光は 古き千住を
    新しく進めるところ
    師と友と明日の希望に
    手を取って務め励もう
    吾が郷の吾が学び舎よ
    輝けり瑞光小学校


 同47年鉄筋コンクリート造り4階建て校舎落成。創立85周年記念植樹「瑞光の森」。同62年
創立100周年記念碑を建てる。
 平成2年ランチルーム開設。同4年文部省中国等帰国孤児子女教育研究協力校指定。同9年校舎耐
震化。創立110周年記念式典。同16年英語教室整備。同19年創立120周年記念式典。


神烏山真正寺
 南千住1丁目56番9号にある曹洞宗の寺。四ツ谷天龍寺を開山した特賜心翁永伝禅師大和尚(寛
文十四年寂)の隠居寺として湯島に開山、寛文元年(1661)浅草から移転してきた。その時門前
町も同時に作られた。「御府内寺社備考」に、

   四谷天龍寺末 下谷通新町 神島山真正寺、境内御年貢地千四百三十坪。
   起立之儀は、慶長十三年処之湯島ニ御座候処、御用ニ付被召上浅草へ替地被下有故而浅草
   寺地加藤出羽守殿ヘ相渡候後、寛文元年浅草当地ヘ易地ニ罷成候。
   開山特賜心翁永伝禅師大和尚、寛文十四年十二月二十八日寂。心翁永伝儀は遠州倉見領西
   郷村法泉寺ニ住持之節、西月友船公を天文二十三年十一月八日御引導焼香仕候。就夫御当
   地へ法泉寺を以、御上意引来候。右友船公は、台徳院御母公台院様之御親父ニ御座候。依
   之東照宮様関東御入国之砌ニ本多佐渡守へ被、仰付友船公之御位牌御当地へ引移候ニ付、
   則心翁僧御位牌持参仕候。早速於牛込寺地拝領被仰付、天龍寺与寺号御改開闢ニは友船公
   を御開基与被為成、境内三万六千坪被下置心翁住持仕候。其後程過、寛永十一・十二両年
   二万坪余為御用地被召上、境内も狭ク友船公供具等も不如意ニ相成候得共、右由緒之事故、
   明暦三年大火之節従手前奉願上候而、八王子千人同心衆之御宿仕候。則御城普請請御成就
   之後心翁僧御城へ被為召松平伊豆守殿松平右京亮殿安藤次右衛門殿松平平六郎左衛門殿御
   同席ニ而伊豆守殿被仰渡候は、此度千人同心之御宿仕候段達上意聞御悦候ニ被思召候。依
   之白銀五百枚被下置御府内寺院多中御大切之折柄御用立候上は何様之儀有之候共、寺地之
   異変有之間敷由、被、仰渡候。同明年台徳院様27年御忌ニ御当被遊候節、心翁弟子就界ト
   申僧御由緒申立為御法事千人ヘ湖御回向執行申上候。其後天和三年類焼仕候得共、為御用
   地被召上。只今は四ツ谷新宿之先於追分寺地拝領被仰付罷在候。右心翁永伝儀は弟子就界
   ニ住職相譲隠居奉願上居候処、隠居寺地湯島ニ拝領被仰付。則西月友船公宝台院様ニ方御
   開基ニ被為成、寺号御改心翁開山被仰付付住持仕候。右天龍寺心翁初住職之地故真正寺本
   寺ニ致置候。其真正寺起立は慶長十三年。其後湯島地御用地ニ被召上、浅草替地拝領被仰
   付候処、弟子道廓住職中故有而浅草寺地加藤出羽守殿ヘ相譲候。寛文元年従浅草当郷ヘ替
   地寺建立仕。尤其節本多佐渡守殿御所持ニ而加藤出羽守殿ヘ寺院相譲候ト申伝候。門前町
   屋共相求候由申伝候。門算町屋惣家作御免被仰付候年代記録虫喰候故相分り不申。其後寛
   延二年三月中門前町屋類焼仕貧寺故門前町屋間口十間之所迄は奉願上作事仕残り門前地は
   当分之内畳坪ニいたし罷在候。往来除之ため兎角矢来ニ奉願上致置候。


 とある。

 護国観音
 境内にある露仏。
 

 ●
門前

 東西20間半、南北24間半(約1600㎡)ほどの土地だが本区におけるただ一つの門前町だっ
た。町奉行支配地で、寛延二年(1749)3月に類焼の後、家作と畑地に分けられた。明治2年地名
を下谷真正寺町と改めたが、同12年下谷通新町に併合された。

   真正寺門前町
   寛文元年(1661)真正寺が浅草から当地に移転してきた時に、真正寺門前町も同時に
   作られた。東西二十間三尺、南北二十四間二尺(面積約1600㎡)程の土地であるが、
   本区におけるただ1つの門前町である。
   町奉行支配地で、寛延二年(1749)3月に類焼の後、家作と畑地に分けられた。明治
   2年(1869)地名を下谷真正寺町と改めたが、明治12年(1879)下谷通新町に
   合併された。                          荒川区教育委員会
 


南千住第四児童遊園

 南千住1丁目56番11号にある区立公園。昭和25年4月26日開園。日光街道の三ノ輪橋近く
にあるリニューアルされた小公園。スプリング遊具がある。隣接して交番、一時利用ができる自転車
置場がある。


百観音/補陀山
円通寺
 南千住1丁目59番11号の日光街道沿いにある曹洞宗の寺。門前に秩父・坂東・西国霊場の観音
像を安置した観音堂があったことにより俗称を「百観音」といった。この観音堂は安政二年(185
5)の大地震で崩壊し、今は門前に「百くわんおん」と彫った石塔が残るだけ。下谷の広徳寺、入谷の
鬼子母神とともに「下谷の三寺」といわれ、「箕輪の円通寺」の名で親しまれていた。本堂前の享保
七年(1722)造塔の石造七重塔に刻まれた縁起によれば、延暦10年(791)坂上田村麻呂の
創建と伝え、境内は方六里にして観音原と呼ばれたとか。この辺りを小塚原というのは、八幡太郎義
家が奥州征討の時に討ち取った48の首を埋めて塚を築いたことによるという伝えがある。中興の開
山は観月徹禅大和尚。

   百観音 円通寺
   延暦十年(791)坂上田村麻呂が開創したと伝える。また源義家が奥州を鎮定した時、
   討ちとった四十八の首を寺域内に埋めて塚を築いたので、この辺りを小塚原とよぶように
   なったという。
   江戸時代、下谷の広徳寺・入谷の鬼子母神とともに「下谷の三寺」とよばれた。秩父・坂
   東・西国霊場の百体の観音像を安置した観音堂があったことから「百観音」の通称で親し
   まれたが、観音堂は安政二年(1855)の大地震で倒壊した。
   境内には、石造七重塔、彰義隊士の墓、永仁四年(1296)銘を始めとする板碑4基(区
   指定文化財)などがある。                    荒川区教育委員会

 「新編武蔵風土記稿」に、

   円通寺
   禅宗曹洞派、坂本宗慶寺末。補弥陀山通則院と号す。本尊釈迦。開山僧観月、正徳三年に
   寂す。
   観音堂。本尊正観音坐像、長1尺許慈覚大師の作。
   大日堂。古佛堂と号す。
   鐘楼。享保元年の鐘を掛。

 とある。文化財として
板碑4基(永仁四年十月銘他 荒川区指定文化財)・彰義隊戦死者の墓東京
都旧跡指定)・寛永寺黒門・七重の塔・死節之墓(荒川区史跡)がある。

 本堂
 ちょっと変っていて、現代風鉄筋コンクリート造りはいいのだが、屋根の上に七重の塔が聳え、そ
の正面に巨大な観音像が立っている。昭和59年の建立。


 黒門

 本堂前左手にある。明治40年上野博物館に移築してあった東叡山寛永寺の表門を譲り受けて移設
した。慶応四年五月十五日のいわゆる「上野戦争」で「彰義隊」は壊滅したが、この時円通寺の仏磨
和尚は、寛永寺御用商人の三河屋幸三郎と諮って累々たる隊士の遺体226体を火葬にして円通寺に
合葬した。弾痕を今に残す黒門はこうした因縁で移された訳さ。だから上野公園にある黒門はレプリ
カってこと。というものの、こちらも昭和60年に大改修したので、上野戦争当時のままではなく、腐
食部分は新材に取り替えた。従って弾痕もドリルで本物そっくりに開けてある部分もある。