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東京の地名の由来 東京23区辞典
 東京知ったかぶり!
 平成17年2月11日発信  リンクフリー
 地名の由来東京23区辞典 引用自由

   目黒区の地名の由来
             形の調査なれば、逐次、誤謬訂正・新規追加あり。御用心御用心。 
 

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 【巻末特集】 隅田川 (渡しと橋)
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 秋葉原無差別殺傷事件 神田明神 FM東京 丸ビル
 新丸ビル 丸の内物語 三菱重工ビル爆破事件 国会
 雙葉 専修大 日大 法大 明大、電機大 大妻 番町小
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 酸素魚雷 音羽ゆりかご会 八雲学園 目黒のさんま
 
   



 目黒区の地形
 目黒区は、武蔵野台地の東地域(荏原台・淀橋台)に位置しており、区のほぼ全域が台地上にある。
これら台地面には目黒川・呑川・立会川とその他の小河川、水路などによって刻み込まれて形成され
た谷地が樹枝状に分布している。高さは海抜30~45mと安定している。
  

■地形・地質と住宅地盤

 
台地面
 比較的海抜高度が高く起伏の少ない平坦面で、関東ローム層と呼ばれる火山灰土で覆われている。
関東ローム層は、上部のローム土(赤土)と下部の凝灰質粘土に大別されるが、自然堆積したローム
土は、安定しており比較的大きな強度が期待できるため、表土部分に注意すれば住宅地盤として良好
な場合が多い。区の大部分に相当し緑ヶ丘など南部に高級住宅地がある。全体に住宅地として穏やか
な環境にある。駒場・青葉台・三田など目黒川北側の台地、中央部の台地、柿の木坂・平町・大岡山
・南の台地、東が丘・自由が丘の台地の4つの高台。
 

 
台地と低地の境
 台地の側面が低地側へと下っている斜面で、台地面と同様に安定した地盤となっている場所もある
にはあるが、後背地から浸透してくる雨水や地下水の影響で地盤が軟弱化したり、雨洗によって台地
側から運ばれて再堆積した軟弱土が分布している。また人為的に造成されているため、場所によって
盛土の厚さが異なるように地盤のバランスが悪くなっていることがある。従って不同沈下を防止する
ような基礎補強策が必要となることも多い。目黒川と呑川付近には坂が多く、然も急な坂が目立つ。
 

 
谷底低地
 台地部が小さい河川などによって削られて形成された低地で、台地部の間に樹枝状に分布している。
台地を形成していた土砂が再堆積した土や有機質土(腐植土)などが分布しており、非常に軟弱な地
盤となっている。だから長期的な沈下(圧密沈下)を防止するような基礎補強策が必要となることが
多い。目黒川・蛇崩川・呑川・呑川柿の木坂支流・立会川・九品仏川の各流域にある低地だ。目黒川
を除いて総て暗渠としたので、現在では川の氾濫はないが大量の雨が降った場合にこの低地に多量の
水が集中する可能性は失われていない。また目黒川は氾濫川としてしばしば水害をもたらしたが、た
めに上流部(烏山川・北沢川)を暗渠とし、昭和50年代後半に浚渫して川底を下げたが、だからと
いって100%その危険性が薄れた訳ではなく、現在もしばしばキャパシティを超えると溢水し道路
冠水することがある。徹底した安心が欲しい人は、目黒川の沿線低地には居を求めぬことだ。
 目黒川の浸食は、上流部では浅く、下流部では深い谷を作り、深いところでは台地面から20m以
上もある。立会川は、深さ2、3m位の幅広いくぼ地を作って流れ、呑川は、川の西側を浸食して深
さ10mぐらいの谷を作っている。
 
 



目黒区の変遷

 東京府
 現在の目黒区の区域に入る江戸時代の三田村・上目黒村・中目黒村・下目黒村・碑文谷村・衾村は
慶応四年(明治元年)六月二十九日勘定奉行代官を改称した武蔵知県事に属し、明治2年2月9日品
川県(三田村は東京府)編入、同4年7月14日の廃藩置県により11月2日品川県が廃されて東京
府に編入。同7年3月8日大区小区制により荏原郡が廃され第七大区に編入され自治権を喪失した。
この大久保利通の専制政治に全国的に不平武士が抵抗したが、大久保が正義の刃の下に天誅にあって
死亡すると、新政府は大慌てに大区小区制を撤回、同11年7月22日「郡区町村編制法」を施行し
て荏原郡を復し、同22年4月1日「市制町村制」により三田村と上目黒村・中目黒村・下目黒村が
合併して「目黒村」、碑文谷村・衾村が合併して「碑衾村」が成立。大正11年12月1日目黒村が、
昭和2年4月1日碑衾村が町制に移行した。昭和7年10月1日東京市の膨張により市周辺の5郡を
市域に組み込んで20区を増設することになり目黒町と碑衾町が合併して一区44町となった。目黒
町の方が都心に近く繁栄していたので目黒を区名とした。同18年7月1日内務省の支配権拡大の企
図から府県制を改正、東京府と東京市を廃して新たに東京都を発足させ直轄力を強化した。

 東京都
 同20年敗戦。同21年9月27日占領米軍の民主化政策により「都制・府県制・市制・町村制」
が改正され、各首長は全て公選制となった。これには大久保式専制中央集権政治による国民完全支配
を目指す内務官僚等は、己れの権力が抉られることに危機感を感じて猛烈に反対した。しかし情けな
いことにアメリカ人に人倫の道を説かれ私利私欲に走る専制政治の非を悟らされ漸くすごすごと引き
下がった。同22年3月15日戦禍で体力の落ちた都心区を廃置分合して22区制が発足、4月17
日市制町村制を廃し地方自治法が施行され内務官僚は卒倒した。8月1日練馬区が独立して23区制
確立。同37年5月10日住居表示に関する法律が施行され、万人に判り易い新住居表示が実施され
た。
 平成16年町数は27。区役所は上目黒にある。特産品は大田区小山に始まった孟宗竹、それに菜
種油だったが、今や農家は数えるほどしかない。国立教育研究所・防衛研究所・日本近代文学館・東
京近代文学館・川の資料館・日本民芸館・目黒寄生虫館・目黒郷土資料館・香取正彦記念館・目黒不
動・祐天寺・円融寺などの文化施設がある。
 姉妹・友好都市は北京崇文区と長野県東御市(とうみし)。


■名誉区民

 王貞治(プロ野球)・太田久行(作家)・鮎川英男(愛隣会)・亀谷了(寄生虫館)・加藤いさ子
(ユネスコ協会)・磯村英一(都立大教授)・岸田利子(碑文谷彫宗家)・渡邊彌太郎(目黒区陸上
競技協会)・藤林益三(弁護士)・香取正彦(鋳金作家)・藤山一郎(音楽家)・安藤森衛(区議会
議員)・薬師寺尊正(人権擁護委員)・君塚幸吉(元目黒区長)
 


■教育施設

 
小学校24(区立22・私立2)

 八雲・菅刈・下目黒・碑・中目黒・油面・大岡山・烏森・向原・五本木・鷹番・田道・月光原・
 駒場・緑ヶ丘・原町・不動・上目黒・東根・中根・宮前・東山
 
目黒星美学園 トキワ松学園

 中学校15(区立9・私立6)
 第一・第七~第十一 東山 目黒中央(第二・第五・第六) 大鳥(第三・第四)
 
日出・日本工業大学駒場・トキワ松学園・多摩大学目黒・目黒学院・八雲学園

 
中等教育学校(都立1)

 桜修館(旧都立大附属高校)

 高等学校11(都立3 私立8)
 駒場・目黒・国際
 
日本工業大学駒場・東京学園・トキワ松学園・自由ヶ丘学園・日出・目黒学園・八雲学園・多摩
 大学目黒

 大学4(国立2 私立2)
 東京大学教養学部(旧制第一高等学校)・東京工業大学・産業能率大学(代官山校舎)・東京医療
保健大学(東が丘看護学部)
 都立大は多摩に移転して、今は首都大学東京になっている。


■目黒区興津健康学園

 千葉県勝浦市興津143番地にある。区立小学校の3年生から6年生で、太りぎみ、軽いぜん息が
ある、食べ物の好き嫌いがある、体が弱いといった健康に課題を持つ子どもたちを対象にした全寮制
の区立小学校だ。学習は目黒区立の小学校と同じように進められ、その上恵まれた自然環境と少人数
を生かして、一人一人の個性を生かした肌理細かな教育が行われている。


■八ヶ岳林間学校
 山梨県北杜市清里字念場原3545番地にある小学生対象の区の宿泊施設。一般区民の利用可。



■北軽井沢林間学校
 群馬県吾妻郡長野原町大字北軽井沢宇南木山熊の内2032-2208にある中学生対象の宿泊施
設。一般区民の利用可。
 


 目黒の由来
 「めくろ」とも読み、由来には、①.牧場の畦道(免畦・馬畦)説。
                ②.慈覚大師の目の黒い不動尊像説(目黒不動)。
                ③.馬の目や毛の色(馬黒)、馬の名前説。
                ④.地味説

 などがあるが、どれとも決めがたい状況にあり、正確なところは判らない。
 文字についても種々の説がある。上目黒で江戸時代に栄えていた加藤家の家譜によると、天正年中
の事実を記したところに「荏原郡菅刈庄免畔」と、つまり「免畔」という文字が記されている。従っ
て当時は免畔と書いたのだろういう説もあるが、天正よりも10余年も前の永禄二年(1559)に
改正された『北条家人分限帳』に「目黒」と書いてあることから、天正以前から目黒を用いていたこ
とは疑いない。免畔は洒落書きではあるまいか。
 また不動尊縁起に「慈覚大師大同三年(808)上洛の途次妻驪(めくろ)の里に宿り・・・」と
あり、この字は松沢家が所蔵する慈海僧正の経巻にも認められている。また「天正年中青山伯耆守の
所領となる及び妻驪を改めて目黒と言ふ。蓋し和訓相通ずればなり・・・」ともある。 

 
牧場の畦道(免畦・馬畦)説

 馬畦(めくろ)の畦は、田んぼの畦道(あぜみち)ではなくて馬が逃げ出さないように盛り土した
牧場囲いの土手のことで。どんなものか実見したい人は世田谷区の九品仏浄真寺に行くがいい。寺は
奥沢城址だ。中世の乗馬飛越防止の館囲いの土手が残っている。高さにして2mばかり、それほど高
くはない。サラブレッドなら簡単に飛越するが、和馬はロバを大きくした程度の大きさだからこれで
十分だった。飛越のためには助走路が必要だから外周を壕または軟弱地盤にしておけば強襲は防御で
きた。

 慈覚大師の目の黒い不動尊像説
 滝泉寺の不動尊像は、大同年間(806~9)に慈覚大師が比叡山に向かう途中、霊夢に突き動か
されて彫刻し安置したものだといわれている。村名になってもおかしくないほど古い訳だ。不動尊像
の目を黒く塗っていたことから「目黒不動」と呼ばれ、江戸五色不動の一つに数えられる。しかし五
色不動は目黄・目青が新設された明治に入ってからのことで、それまでは三不動だったらしいので、
不動尊明王の目の黒いのは当たり前だから、それほど意識したろうか。他の色なら判らぬでもないが
・・・・『小田原衆所領役帳』に「目黒本町」があり、それが何処だかは詳らかではないが、現在の
目黒本町は目黒村とは無縁なのだ。目黒不動の近辺が最も早く開けたので、その辺りじゃないかとい
われている。正保~元禄のころに上・中・下3つの目黒村に分かれた。

 
馬の目や毛の色(馬黒)、馬の名前説

 武蔵国は牧場が多かったので馬に因んで名づけられた地名が少なくない。馬込・駒込・駒岡・駒林
・馬引沢・駒沢・練馬・有馬・駒場・駒井など、その例はいくらもある。また昔は眼色・毛色を以て
馬の名とし、それが地名となったものもあるから、目黒・馬黒となったというのも、強ちなくはない。
日本武尊が東征の時、1頭の青毛(黒色の毛)の駿馬を手に入れ、これを乗馬(じょうめ)として愛
でたという。これを漢字に宛て「驪」と書き、これを愛馬とし、「愛でる驪」つまり「愛驪(めぐろ)」
転じて「目黒」となったと説く。

 
地味説

 芽久呂から来たもので、農産物が地味に恵まれ、良く生育する意。そのことから芽久呂と呼び、そ
れが不動尊の目黒と韻が通じて居る結果、現在の地を冠するに至ったという。
 


■名誉区民14名
 君塚幸吉(目黒区長)・薬師寺尊正(人権擁護委員)・安藤信衛(区議)・藤山一郎(流行歌手)
香取正彦(鋳金)・藤林益三(弁護士)・渡邊彌太郎(陸上競技協会名誉会長)・岸田利子(碑文谷
彫宗家)・磯村英一(都立大名誉教授)・加藤いさ子(目黒ユネスコ協会名誉会長)・亀谷了(寄生
虫館)・鮎川英男(社会福祉法人愛隣会会長)・太田久行(作家)・王貞治(プロ野球)


■区の花  ハギ(萩)
 豆科。 学名は Lespedeza thunbergii(宮城の萩) Lespedeza bicolor var. japonica (山萩)
Lespedeza : ハギ属 thunbergii はスウェーデンの植物学者「ツンベルク」の名前、bicolorは「二
色の」、japonica は「日本の」、 Lespedeza(レスペデーザ)は、18世紀後半の、アメリカのフロ
リダ州知事のスペイン人「Cespedes」の名前にちなむのだが、誤植のため Cespedes が Lespedez に
なった。開花時期は、6・5月頃~10月末頃。秋の七草のひとつ。

   ハギ、ススキ、キキョウ、ナデシコ、オミナエシ、クズ、フジバカマ、秋の七草

 
日本各地の山野でごく普通に見られ、萩といえば山萩(やまはぎ)を指す。東京近辺で見られるも
のは 「宮城の萩」と 「山萩」がほとんど。

   をとめらに行き逢ひの早稲を刈る時になりにけらしも萩の花咲く(万葉集)
 
  さを鹿の啼きそめしより宮城野の萩の下露おかぬ日ぞなき(藤原良経)   


■区の木  シイ(椎)

 ブナ科シイ属(Castanopsis)に属する樹木の総称。他にマテバシイ属マテバシイ(Pasania edul
is)もこの名で呼ばれる。果実のドングリ(椎の実)は食べられるので、古くから親しまれている。
照葉樹林の代表的構成種でもある。暖帯の平地における普通種で、琉球列島・九州から本州にかけて
の照葉樹林において多く見られる。いずれも生でも食べることができる実をつけるため、縄文時代に
は重要な食料であったといわれ、現在まで親しまれている。日本のシイ属には、ツブラジイ(コジイ、
C. cuspidata)とスダジイ(ナガジイ、イタジイ、C. sieboldii)の2種が分布してる。両者は共通
点が多く、区別が困難な場合や、中間と思われるものもある。
 大きいものは25mにも達する大木となる。大木では樹冠が丸く傘状になる。葉はカシ類としては
小さめで、艶のある深緑、やや卵形で先端が伸びた鋭尖頭、葉裏は灰褐色になる。花は雌雄別花序で、
カシ類の多くが風媒花で花びら等を持たないのと同じ構造だが、シイの雄花は枝先に密生し、全体が
黄色に明るく色づく。また香りが強く、栗に近い生臭い香りで、昆虫がよく集まる。雌花も穂状につ
き、果実は翌年に熟し一つの枝に数個が並ぶ。普通のドングリは帽子を被っているように一部が包に
つつまれている。ところが、シイは実が完全に包につつまれて熟し、それが裂けて外に出る。果実は
いわゆるドングリ(堅果)だが、やや小型で色が黒く、お尻の白い部分との境の段差が、はっきりし
ない。殻を割ると中の種子は白く、生で食べるとやや甘みがある。また葉の裏は金色がかって見え、
葉にはギザギザがない。

   家にあれば笥に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る(有間皇子)


■区の鳥  シジュウカラ(四十雀)
 学名は Parus major。いわゆるカラ類の中の代表的な鳥である。英名 Great Tit は大きなカラ類
の意。現在シジュウカラは70円切手のデザインのモデルになっている。その名前の由来は、木々の
間を「落ち着きなく始終動き回る」ことから。漢字表記は「四十雀」で、一羽で雀40羽分の価値が
あることからといわれる。全長15cmほどで、ほぼスズメと同じだが、体重は約3分の2。首から
腹にかけてのネクタイのような黒い模様が特徴的である。この模様は、巣立ち後の最初の換羽で現れ、
オスの方がメスより太く、野外で性を識別する最大のポイントとなる。なお、生息地域によって腹部
の羽色には大きな変異があり、日本などに生息するものは最初の換羽で概ね白色(南西諸島では灰色
味が増す)に変化するが、ヨーロッパ~ロシア中央部などに生息する個体は、黄色のままで変化が少
ない。
 


 ■区長自殺
 平成16年4月7日午前5時50分頃、東京都目黒区碑文谷のマンションで、この部屋に住む目黒
区長薬師寺克一(71)が首を吊っているのを妻が発見、119番した。病院で約1時間後に死亡が
確認された。区長は最近「体の具合が悪い。疲れた」と家族に漏らし、遺書とみられるメモがポケッ
トに残されていた。警視庁碑文谷署は自殺とみている。
 調べでは、区長は寝間着姿で、中庭から地下に通じる階段の手すりに荷造りの紐を掛け、首を吊っ
ていた。区長を巡っては、社会福祉法人「西原樹林会」の特別養護老人ホーム建設をめぐる補助金不
正受給事件に絡み、元目黒区議が区に約1500万円の損害賠償を求めた訴訟で近く証人として申請
される予定だった。区長は、目黒区助役を経て平成10年10月に初当選し、2期目だった。

 ■目黒ショック(議員不正)
 平成18年12月頃、区の大多数の区会議員が政務調査費を不正に使用もしくは私的流用をしてい
るとオンブズマンが主張したことにはじまった政治的混乱騒動。オンブズマンの発表情報を逸早く掴
んだ公明党目黒区議団全員が政務調査費を返還し辞任したことから公になった。本件をきっかけに、
マスコミの調査や報道が始まり、他の地方自治体でも同様のことが行われていることが明らかになり、
騒ぎが全国に広がった。一方で騒動の発端となった目黒区では、私的流用を指摘された側からは「平
成18年5月頃より、私的流用を批判された独歩の会の議員がオンブズマン(元自民党区議)と組ん
で、自分と対立する議員に疑義をかけて騒ぎ立てた政争である」との説明も行われている。しかし公
金を横領(ネコババ)するのは政治家・官僚役人と決まっており、これは常識だ。税金を誤魔化して
何とか払うまいとするのは国民で、政治の解らない国民が、政治の解らない立候補者から選んで議会
に送り込むんだから天下の政治がうまくいく訳がない。税金の無駄遣いは、「世に盗人の種」が尽き
ないのと同様、未来永劫無くなることはない。税金の半分は、政治家と官僚役人が名目は国民のため
と法螺吹いて、私利私欲のために使うものなのだ。これからも区議会議員が、区の職員が何だかんだ
と、金を悪徳に使わないことはありえないよ。もしそうなったら区議になる者は皆無となる。お零れ
頂戴・お役得があるからこそ、区議・区職員はやってられるんじゃないか。区民のために命を張る人
間がこの世の中に一人でもいるか? 口では何とでもいえるんだよ。人殺しだって「人は殺しちゃい
けない」っていうだろ!
 
 



 おっとっとう、お待たせ、お待たせ、目黒の本題に入りませう!
 だがよ、目黒駅は品川区上大崎なんだよ。

【青葉台】(あおばだい)1~4丁目               最終昭和44年1月1日
 上目黒村字別所の内。同11年大区小区制の廃止により荏原郡に復し、同22年「市制町村制」
により目黒村大字上目黒。大正11年目黒町大字上目黒字別所・柳町・氷川。昭和7年目黒区上目
黒1丁目・6~8丁目の各一部。同43年新住居表示により上目黒1・6・8丁目の各一部をあわ
せた町域を1~2丁目に分け、同44年現上目黒7~8丁目・駒場町の各一部をあわせた町域を3
~4丁目に分けて現行の「青葉台」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『目黒区史』『目黒の歴史』など。

 青葉台の由来
 目黒川の北、西郷山公園のある一円の新地名。この地は猿楽塚下の鎌倉道の目切坂をはじめ鬱蒼
とした樹林に恵まれ、春から秋口まで青々とした風情になるので青葉の台地をイメージして命名さ
れた。青葉には若さ溌剌とした清廉さが篭ることによる。山手通りと旧山手通りに挟まれた区域。
創立100年の菅刈小学校がある。横浜の青葉台とよく混同される。同じ国道246号線(玉川通
り―厚木街道)沿いにあるので無理もないか。


■西郷橋
 青葉台1丁目1番1号にある、西郷山と鉢山の谷間に渡された陸橋。旧山手通りを通す。西郷山に
架かるのでその名がある。西郷山は西郷隆盛の弟従道の屋敷があったことによる。橋の殆どは渋谷区
側にある。


■産業能率大学(代官山キャンパス)
 青葉台1丁目4番4号にある。産能マネージメントスクールと大学院の一部がある。本部は等々力
の自由ヶ丘キャンパス、他に伊勢原市に湘南キャンパスがある。
 創立者である上野陽一が普及に努めたマネジメントの思想と理念について、理論・基礎研究の成果
を社会に還元し、ビジネスの場での実践・応用を教育・指導する。本学は、産業界に最も近い高等教
育機関として、これから社会に出て行く人材と既に社会に出ている人材それぞれを、社会が求め、社
会で活躍できる人材として育成している。

 校歌「
経営科学の礎を」 作詞:玉井貢  作曲:服部正
  1.経営科学の礎を
    築きし父の跡偲び
    教えを求めてこの庭に
    集いし者よ 我らこそ
    時代を荷う責重し
    ああ我らの産業能率大
  2.汲めど尽きせぬ独創を
    極むる道は険しくも
    進取の気性 直向きに
    学びぞ取らん我らこそ
    時代を開く誇りあり
    ああ我らの産業能率大
  3.高き理想と現実を
    世界に結ぶは難くとも
    弛まぬ努力と叡知もて
    成し遂げ抜かん我らこそ
    未来に画く夢多し
    ああ我らの産業能率大



東京目黒美空ひばり記念館
 青葉台1丁目4番12号にある美空ひばりの旧宅公開。平成26年5月28日開館。

   人をお招きすることが好きだったひばりの思い出の詰まった自宅ならではの温かい雰囲気
   四季折々の花の咲くお庭等、ひばりが愛した景観を直に体感してください。
   和室では、ひばりが愛した季節のお茶とお菓子をご用意しております。
   お寛ぎ頂き乍ら、ひばりとの思い出をたくさん持ち帰っていただきます。
   人を自宅に招くことが好きだったひばりの自宅ならではの温かい雰囲気を感じてください。


 
エントランス
 入館前にひばりの歴史ダイジェスト映像を見ることができる。売店がある。

 

 四季折々の樹種が奏でる空間で、ひばりがいつも佇んでいたところ。芸能生活での悩みや苦しみを
癒すひばりの憩いの場所。

 和室
 ひばりがいつも招客していた場所。多くの芸能人や著名人と語り合った。

 美空ひばり
 昭和12年5月29日生まれ。血液型O型。神奈川県横浜市磯子区滝頭に生まれる。本名加藤和枝
戦後。日本の復興を歌で支え、生涯芸道一筋に生きた昭和の歌姫。太平洋戦争敗戦の翌年、僅か9歳
で芸能界デビュー。以来1931曲のレコーディング。170本の映画出演。芝居では4600回の
座長公演。コンサート興行に於いては8000万人を動員。
 金色有効賞、紺綬褒章、日本レコード大賞、ブルーリボン賞などなど数多くの賞を受賞。
 平成元年6月24日歿。その7月女性初の国民栄誉賞を受賞。

 流行歌「
みだれ髪」 作詞:星野哲郎  作曲:船村徹
  1.髪の乱れに手をやれば
    紅い蹴出しが風に舞う
    憎や恋しや塩谷の岬
    投げて届かぬ想いの糸が
    胸に絡んで涙を絞る
  2.棄てたお方の幸せを
    祈る女の性悲し
    辛や重たや我が恋ながら
    冲の瀬を行く底引き網の
    船に乗せたいこの片情け
  3.春は二重に巻いた帯
    三重に枚ても余る秋
    暗や涯てなや塩谷の岬
    見えぬ心を照らしておくれ
    一人ぼっちにしないでおくれ
      


■上村坂
(うえむらざか)
 青葉台1丁目4・7・8番と5・6番の間の坂道。山手通りの一商高交差点から南の方に少し曲が
りながら下る。坂下は比較的緩やかだが、坂上になるほど傾斜が急になる。「かみむらざか」と読む
が正しいが、「うえむらざか」と誤読したものが通称となった。坂下に標柱がある。

   上村坂
   明治時代、この坂の上に海軍大将上村彦之丞(かみむらひこのじょう)邸があったので上
   村坂と呼ばれるようになった。
   昭和58年3月                         目黒区教育委員会


■北野神社
 青葉台1丁目16番2号にある。祭神は、菅原道真で、元中川修理太夫の抱屋敷内(西郷山公園)
にあったものを、明治13年に現在地に移したという。伝説によれば上目黒村の農民秋元市郎兵衛が
土中から菅公像を発掘し、これを崇祀したことに始まるという。近くの人々により毎年9月第3土・
日曜に例大祭が行われている。管理は氷川神社が兼ねる。


没落するソニー創業家(盛田昭夫家〕
 青葉台2丁目5番6号にある豪邸。井深大と盛田昭夫。敗戦直後、東京・日本橋の白木屋3階で2
人が手を携えて作った東京通信工業株式会社(ソニー)は、日本の戦後復興を上回るスピードで「世
界のソニー」への道を駆け上がっていった。その故盛田昭夫の妻良子が平成27年3月14日に死去
した。享年85歳だった。ソニーの古手役員やOBたちの間では「ミセス」で通っていた。昭和57
年から平成7年まで社長を務めた大賀典雄は、しばしば良子にここ青葉台の盛田邸に呼び出された。
 良子に詰問され不機嫌になって本社に帰ってくる大賀を、何人もの社員が目撃している。
 平成7年大賀の跡を受けて社長になった出井伸之は、良子の覚えが愛でたかった。欧州に留学して
いた盛田の長男と長女の面倒を見たことから、盛田家と家族ぐるみの付き合いに発展していた。盛田
の長男の妻は、出井の従兄弟の娘だ。血の繋がりはないが、出井は盛田ファミリーの一員と見なされ
て、「盛田家の家庭教師」といって憚らないソニー幹部もいた。出井が社長に就いたのは、良子の強
い意向が働いた結果だといわれる。同17年出井が後任に指名したハワード・ストリンガー会長兼C
ODへの申し送り事項の中に、「良子氏をリスペクト(尊重)せよ」という内容が入っていたとされ
る。まあそれほどうるさいおばあちゃんだったのだろう。
 盛田昭夫の次男昌夫は、同年6月に開かれたソニー・ミュージックエンタテインメント(SME)
の株主総会で会長を退任し、ソニーグループのアドバイザーに退いた。盛田家の資産管理会社レイケ
イは、同7年時点ではソニーの筆頭株主だった。併し今では大株主名簿に名前が見当たらない。盛田
家とソニーをつなぎ留めていた良子が亡くなり完全に縁が切れたのだ。
 [長男英夫が事業の失敗を繰り返す]
 盛田家がソニーの大株主でなくなったのは、英夫が手掛けた事業の失敗の穴を埋めるために、持ち
株を売り払ったからだ。平成5年昭夫が病に倒れると、英夫は社長を務めるレイケイが保有するソニ
ー株式を担保に巨額の資金を調達し、様々な事業に注ぎ込んだ。併し事業は失敗の繰り返しだった。
 最初に手掛けたのは、新潟県妙高市の大規模スキー場「新井リゾート」だった。日本が世界に誇る
高級保養地を目指し、レイケイの投資額は500億円に及んだが、時はバブル崩壊で開業当初から苦
戦を強いられた。続いて米コロラド州の大規模スキー場を100億円で買収。最後には自動車レース
のF1関連事業で230億円の巨額損失を出し、レイケイは税金も払えなくなり、同17年6月に解
散した。事業が失敗するたびに同社はソニー株式を次々と売却し、最後には保有するソニー株を総て
失った。こうして盛田家は、ソニーのオーナーの座から滑り落ちたのだ。
 [出資先が詐欺事件を起こす]
 昭夫が設立した鈴渓(れいけい)学術財団、盛田国際教育振興財団は、同25年12月に解散。昭
夫の死後、理事長に就任した英夫が財団の基本財産に手をつけていたことを文部科学省から指摘され
たからだ。両財団は盛田アセットマネジメントに貸し付けていた。盛田アセットは盛田家の江戸時代
から続く家業である酒造会社の盛田からスピンアウトした、英夫の資産管理会社である。レイケイで
失敗した英夫は盛田アセットを拠点に復活に懸けた。資金は財団の金だった。
 同17年に、ヒマラヤ東京というパンメーカーに出資した。子供に人気のアニメキャラ「甲虫王者
ムシキング」のカード入りパンだが、これも失敗。同社は同19年に破産。同社創業者は詐欺事件で
逮捕された。足りない資金を埋め合わせるために、億単位の詐欺事件を起こしていたのだ。ヒマラヤ
東京は、盛田家の名前を出すことで取引を拡大してきた。この事件で盛田家は信用を失墜させ、英夫
が資金を流用していた2つの財団は解散に追い込まれた。良子葬儀の喪主は、長男の英夫ではなく、
次男の昌夫だった。
 [放蕩息子 道楽息子]
 英夫はこんなレッテルを貼られちゃったけど。2代目ってえのは親父がよっぽどしっかりした子育
て感覚を持ってないと立派に育たない。武田信玄の財産を食い潰した勝頼はバカ息子だが、徳川家康
は2代目を秀忠に指名して徳川家を300年の安泰に導いた。
 まあ〝ついてない男〟〝生涯運のない男〟っているものさ。努力でも、知性の無さでも、無茶苦茶
でもないのさ。本人が悪いってことじゃないんだが、何をやっても上手く回らないんだね。成功した
奴だって、努力したから、辛抱したから、頭が良かったからじゃない。運なんだよ、巡り合わせなん
だよ。おいらなんざ、健康に留意したこともないし、健康に気を使ってなんざいないけど、病気って
したこともないし、風邪も引いたことない。3度入院したが、全部怪我だ。だから昭夫は失敗男で人
生を終わるかも知れないが、土壇場で大成功するかもしれない。総て神様の思し召しなんだよ。
 因みに女優岡崎由紀との離婚で運を掴み損ねたかな。良子が疫病神だったむのかも。
 しかししかし盛田家は名門中の名門の家柄、清酒「ねのひ」の盛田酒造だ。16代久左衛門の英夫
が駄目だぐらいで消えてなくなりはしないよ。
 今昇りっ調子のテニスプレーヤー錦織圭のスポンサー家だからね。 


■西郷山公園(西郷従道邸の東北半)
 青葉台2丁目10番28号にある区立公園。旧山手通り沿いの高台から山の斜面になっているとこ
ろにあり、特徴は丘と緑と20mの落差をもつ人口の滝。眺望も素晴らしく目黒の街並みや、冬の晴
れた日に富士山も眺められ、区民の憩いの場として親しまれている。公園は西郷隆盛の弟従道の屋敷
跡で来客用洋館が有名で、犬山の明治村に移築保存されている。西郷屋敷の敷地は広大で西郷山下に
も菅刈公園が展開している。この辺りは江戸時代は柳町と呼ばれ、荒城の月で知られる豊後岡藩(竹
田)の城主中川家の抱屋敷で、老樹鬱蒼と茂り、中央には三田用水から引いた池水があり、その頃か
ら既に林泉の美しさでは近郊随一といわれていた。
 明治10年従道が兄隆盛のために購入したが、西南戦争で隆盛が大久保利通に攻め殺されたため、
自己の別邸とした。同20年フランス人技師デスカスと鈴木孝太郎2人の設計で、木造2階建ての洋
館が建てられ、同22年には旧薩摩藩棟梁の設計で書院造りの建屋も完成し、庭園とともに東京一の
名邸と謳われた。名士の訪れることも多く、中でも海軍大臣であった時には、明治天皇・皇后陛下の
ご来臨もあった程で、その時には薩摩踊りや相撲が披露されたという。この華やかな一時期を過ぎ、
同35年に従道が永眠すると、ここが西郷家の本宅となった。昭和16年西郷家が渋谷に移転して、
箱根土地の堤康次郎(西武グループの創始者)が所有すると、堤は池を埋め立て、名木を伐採し、大
半を分譲地として売り飛ばしてしまったため、流石の名邸もその面影をすっかり失ってしまった。僅
かに戦災を免れて残った西洋館が華やかな時代を忍ばせていたもののが、それも同35年愛知県犬山
市の明治村に移され、旧西郷邸は壊滅した。
 しかし同56年5月28日区立公園として開園、池を昔のままに復活さ、一生懸命保全に努めてい
る。ただ周辺の環境もあり、昔日には及ぶべくもない。
 台地の端の斜面を利用して造られたため、斜面には20mの落差を持つ人工の滝が作られているほ
か、緩やかな坂道の園路や展望台が設けられ、冬のよく晴れた日には遠くの富士山も望める。台地の
上には、明るい芝生広場とこれを一周する園路・人工の流れを配し、子どもたちが伸び伸び遊べるス
ペースになっている。滝や展望台からの眺めを楽しみ、憩いの一時きを過ごしては如何かな!

   西郷山公園の由来
   この附近は、明治の初め西郷従道が、郷里鹿児島に帰った兄隆盛の再起を願って入手した
   ものであります。西郷隆盛が歿した後、この地に従道が別邸を造りました。当時は六万平
   方米の敷地に、洋館・和館などが建てられ、池のある回遊式の庭園は、附近随一の名園と
   いわれ、いつしか人々は、この一帯を「西郷山」と呼ぶようになりました。
   この西郷邸の跡地の一部に、目黒区が公園を造ることを伝え聞いた鹿児島県や県下十四市
   から、西郷さんゆかりの地であるこの公園に、ぜひ記念樹を植えたいとして、約二十本の
   樹木が寄贈されました。これらは当公園の北側鹿児島県記念樹コーナーとして植樹されて
   おります。
   この公園の建設に際し、ご協力をいただきました関係各位に深く感謝の意を表するととも
   に多くの人々が利用されるよう願うものであります。
   寄贈県市名
   鹿児島県 鹿児島市 川内市 鹿屋市 枕崎市 串木野市 阿久根市 名瀬市 出水市
   大口市 指宿市 加世田市 国分市 西之表市 垂水市
   昭和56年5月吉日                      目黒区長 塚本俊雄

 ハナミズキ
 浩宮徳仁親王の結婚を祝って区が植樹した。


■菅刈公園
(西郷従道邸の西南半)
 青葉台2丁目11番25号にある区立公園。江戸時代には豊後岡藩の下屋敷、明治以後は西郷隆盛
の弟従道邸、昭和16年堤康次郎が所有した。この公園は従道邸の西南の半部に当たる。昭和20年
の航空写真では畑地、同38年では住宅地となっている。日本庭園は、遺跡の調査をもとに一部が復
元され、江戸時代の典型的な大名庭園の面影を再現している。昭和56年5月28日に西郷山公園と
同時に開園した。
 園内には芝生広場・子どもの遊び場・斜面の緑地を保全する区域を設けると共に、復原庭園の脇に
は、展示室・和室・庭園展望室をそなえた和館を設置した。大名庭園を見ながら憩いの一時を過ごし
人気の和室を利用して茶会を開くのも一興、太閤秀吉の気分に浸れるかも!


 
菅刈の謂れ

 「菅刈荘」という荘園があったことによるが、世田谷区経堂に「菅刈橋」の跡があり、相当な広さ
があったものと思われる。「菅刈り」とは水田として開発するためにスゲを刈った「菅刈地」ことを
表し、それを地名とし、荘園として寄進した時に冠称としたのだろう。
 「菅」は、「カヤツリグサ科」の1つの属だ。つまり「植物界・被子植物門・単子葉植物綱・カヤ
ツリグサ目・カヤツリグサ科・スゲ属」に分類される植物で、身近なものも多いが非常に種類が多く、
固定が困難なことでも有名。大部分が多年生の草木で、多くは花時を除いて茎は短くて立ち上がらず、
大抵は細長い根出葉を多数つける。地下茎を横に這わせるものは、広がったまばらな集団になり、そ
うでないものは、まとまった株立ちになるものが多い。草原・森林・海岸
その他、さまざまな環境に
生息する種がある。湿った所に生育するものが多く、湿地や渓流沿いに集中する傾向がり、湿原では、
スゲ類が優占する草原になることがある。北海道などの湿原では、スゲ類の大株が、湿地のあちこち
に固まりを作り盛り上がって見えるのを「谷地坊主(やちぼうず)」と呼ぶ。水中に根を張って葉を
水面に突き出す抽水性の種もあるが、真に水草的なものはない。

 明治天皇行幸所西郷邸碑
 南の入口を入ったところ、和館の手前にある記念碑。目黒別邸の歴史で最大の出来事といえば、明
治天皇の行幸だ。「明治天皇紀」の明治22年5月24日の条に、この日、天皇は午前10時50分
に目黒別邸に到着し、「楼上御覧所」から数十番の相撲を見物した。また午餐の間、薩摩踊りと象の
曲芸を見物、さらに午後から「楼上御覧所」で再び相撲を見物したという。

 石碑の正面に

   
明治天皇行幸西郷邸

 と刻み、左面に 

   史蹟名勝天然記念物保存法により史蹟として
   昭和八年八月文部大臣指定


 右面に、

   昭和十年三月建設

 と刻んでいる。

 三尊石
 芝生広場の一画にある。庭石の一種で、三つの自然石を、主尊となる大石を中央に据え、両脇に小
振りの石を置くデザインをいう。仏教の三尊仏に肖ったものだ。三尊仏は、阿弥陀三尊(阿弥陀如来
・勢至菩薩・観世音菩薩)、薬師三尊(薬師如来・日光菩薩・学校菩薩)、釈迦三尊(釈迦如来・文
殊菩薩・普賢菩薩)などがある。日本庭園にはポピュラーな石の配置だ。

 枝垂桜
 芝生広場にある。西郷従道の曽孫一同の寄贈になる。 
 


■桜樹記念碑
 青葉台2丁目18番1号、南部橋の北詰にある。植樹は昭和の初め、碑建立は昭和11年、目黒橋
付近からの碑の移設は昭和61年頃だ。

   櫻樹 記念碑
      
従二位侯爵 西郷従徳

 碑の裏側には、

   昭和二年目黒川改修工事竣成と相俟って市街の風景を存する爲め両岸一帯に櫻樹を植付永
   久に記念すべく有志の計畫に図り成りたるもの也 
   昭和十一年丙子年三月建立


 と刻まれている。由来の横には発起人の名前がある。一人目は西郷従徳。近くの西郷山公園でおな
じみ西郷従道(西郷隆盛の弟)の息子だ。記念碑は西郷従徳の揮毫。発起人の二人目は朝倉虎治郎。
朝倉家は代官山ヒルサイドテラス一帯の大地主であり、虎治郎の自宅として大正8年に建てられた旧
朝倉家住宅は国の重要文化財に指定され、一般公開されている。
 右隣にある区の説明碑。

   記念碑の説明
   この記念碑は、昭和の初めに行われた目黒川の初期の改修にあわせて、地元の有志の方々
   により植樹された桜を、紀念して建てられたものです。建てられた当時は、ここより上流
   の目黒橋の近くにありましたが、昭和56年から昭和61年にかけて行われた護岸改修に
   ともない、この場所に移しました。
   また柳橋から目黒橋の間に植えられた桜、昔の護岸の時に植えてあったものを再び植え直
   したものです。
   昭和62年3月                           東京都目黒区 
 


■相の坂
 青葉台3丁目2・3番と4・5番の間の坂道。菅刈小学校の北西脇を、南西から北東方向に、さら
に北方に曲がりながら登る坂道。坂下部は緩やかだが半ばから上部にかけて傾斜が急になっていく。
坂下に区の木製標柱がある。

   相の坂
   大坂(玉川通り)と新道坂(駒沢通り)の間(あい)にあるので「あいの坂」と呼ばれる
   ようになった。
   昭和58年3月                         目黒区教育委員会


■菅刈小学校
 青葉台3丁目3番26号にある。明治8年上目黒村215番地(上目黒3‐44、烏森小学校の西
辺り)に「第二中学区第十七番公立小学菅刈学校」として設立。同23年「目黒村立菅刈小学校」と
改称。同26年小学校令公布により修業年限4年の「東京府荏原郡菅刈尋常小学校」と改称。同31
年寿福寺付近に移転。同41年上目黒字柳町519番地(現在地)に移転。旧校地を分校とするも数
年で廃止。
 昭和3年烏森尋常小学校の開設に伴い一部学区を移管。同7年周辺郡部の東京市併呑により目黒区
成立。「東京府東京市菅刈尋常小学校」と改称。1515名28学級。同8年駒場分教場6学級開設。
同9年駒場分教場を分離し駒場尋常小学校を分校。同16年国民学校令により「東京府東京市菅刈国
民学校」と改称。児童数1581名。12月日米開戦。同18年都制施行により「東京都菅刈国民学
校」と改称。同19年3年生以上福鳥県南会津郡田島町へ集団疎開。同20年5月愚かなアメリカ軍
の非人道的無差別空爆により学校全焼。8月日本はならず者国家アメリカの軍門に降り敗戦。以後属
国となり、唯々諾々といいなりになる保守傀儡政権を保持せざるを得ない今日的不幸を背負い込む。
もう200兆円がとこ持っていかれたし、これからの若者は愚かなアメリカ軍の尖兵(手先)として
危険な戦線で扱き使われるだろうよ。9月中目黒国民学校で授業再開。
 同21年仮校舎落成。同22年アメリカの強制による学制改革により「東京都目黒区立管刈小学校」
と改称。同24年木造2階建て校舎落成。同30年児童数1906名37学級。創立80周年記念式
典・図書室開設。同31年東山分教場開設・3年生8学級が通学。同33年東山分教場を分離し東山
小学校を分校。同34年特殊学級2学級開設。同37年第一期改築鉄筋コンクリート造り校舎校舎落
成・体育館完成。同40年創立90周年記念式典 プレイマウント完成。同44年プール完成。同4
8年鉄筋コンクリート造り校舎化完了。同50年創立100周年記念式典。同60周年記念式典。平
成2年第一・第二校舎大改修完了。創立115周年記念式典。同7年創立120周年記念式典。同1
4年コンピュータルーム開設。同17年創立130周年記念式典。同20年特別教室(図工室、理科
室、会議室、学習室、PTA室)。パソコン入れ替え。同21年パソコンLAN整備。校庭芝生化完
了。

 校歌「名にし負いたる」 作詞・難波敬明  作曲不詳(2番以下なし)
    名にし負いたる菅刈の
    学びの庭に育つなる
    大和撫子 女郎花
(おみなえし)
    恵みの露に潤いて
    教え違えず咲き出でよ
    進み行く世に麗しく


■菅刈街かど公園
 青葉台3丁目7番13号にある区立の小公園。平成元年12月16日開園。山手通りに面した憩い
のスペース
。 


■目黒市場跡
 青葉台4丁目1番と渋谷区神泉町22番で作る三角地帯に青物市場があった。
 


■青葉台四丁目街かど公園
 青葉台4丁目4番8号にある区立の小公園。平成14年4月2日開園。ビルの谷間の憩いの間。


真如山大教寺
 青葉台4丁目7番7号にある日蓮宗の寺。山手通りに面し立派な塀に階段がついている。これを上
がると山門、境内は静寂な環境。正面に鉄筋コンクリート造り銅版葺きの屋根ながら、形は藁葺きの
農家風の本堂。その右に庫裏。これも鉄筋コンクリート造り。綺麗ですっきりした境内だ。玉川通り
側にも入口はあるが、かつてはこちらが表で、山手通り側は崖だった。
 正保二年(1645)に身延山末として大僧都大乗院日達上人が下高井戸村(杉並区内)に建立し
た寺だ。第10世正保院日住上人の時盛んになり、正徳三年(1713)下馬引沢村(世田谷区内)
に移転、その後寺運は傾き廃寺同様の状態に陥った。明治28年檀家総代池上光蔵・加藤信吉・加藤
兵太夫が発起人となり、当時寺の寺務取扱で妙善寺住職だった日解に謀り、上目黒村(現在地)に移
転、興隆した。昭和9年には本堂を新築し面目を一新した。10月21日の御会式は、中目黒正覚寺
の御会式と並び称される。「新編武蔵風土記稿」の下馬引澤村の項に、

   大教寺
   年貢地下馬引澤の内東方にあり。法華宗身延久遠寺の末、本覚真如山と号。開山大乗院大
   僧都日達聖人と云、万治四年二月十三日寂す。当寺昔は多磨郡下高井戸村に有しを、故有
   て此地へ移され今も当寺の持地三段彼村に有。
   門、南向両柱の間八尺。
   客殿、五間に六間、是も南に向ふ。大教寺と云扁額あり、本尊三宝祖師を安。
   鐘楼、門を入て左方にあり九尺四方、鐘長三尺径二尺、享保七壬寅十一月和田源助寄進の
   事を鐘銘文なし。
   寺宝
   釈迦像一体。赤旗檀を以て彫刻す。長一尺二三寸浅野式部少輔の室寄附すといふ。
   釈迦歯一枚。珠塔中にあり。長一寸八分日本伝来三枚の一と云。
   舎利七粒、浅野安芸守寄附なり。

 とある。

 真如堂
 斎場。本堂とは独立しており。宗教宗旨を問わず利用可能。


■大坂・大坂橋
 青葉台4丁目7番と8番の間、大教寺の南の、西に下る急坂(大山道)だ。この大山道(旧道)は
明治40年の玉川電車新道と昭和40年敷設の新山手通りに断ち切られてしまった。今は細い歩道と
して名残が残されている。大山道(玉川通り)を西に行くと、山手通りに降りる手前(青葉台4‐7
‐1)に右に降りて行く道がある。これが大阪の始まりだが、明治時代に5m削平されているので、
当時の坂道ではないが、それを行って玉川通りの陸橋(大坂橋)の下を潜り、突き当たって右に折れ
て、山手通りを越えて再び玉川通り(大山道)に合流したS字道が、ほぼ旧道の道筋だが、部分的に
しか残っていない。坂名は大山道にある48本もの坂の中で最も急で長い坂道だったのでその名がついた。

   大坂
   厚木街道(江戸から厚木まで)のり間にあった48坂のうち、急坂で一番大きな坂だった
   ので、大坂と呼ばれるようになったという。この坂標識の北側の坂が旧道で南側の坂が新
   道である。
   平成20年3月                         目黒区教育委員会


 玉川通り(246号線)を大橋の方に下る陸橋を「大坂橋」というのは、この坂道に因む。陸橋の
架橋は明治40年に新道の開発により、大坂上の桜の木も切り取られ、急な坂は改善されたが、何故
新道開発することになったかというと、池尻駐屯の砲兵隊が青山練兵場の往復に、この坂が難所であ
り、ある時、遂に砲車が転落して死傷者が出た。軍は意を決し大坂を削平した。5m下げたという。
しかし5m下げたとはいえ、玉電にとっては最難所となっていた。下りで暴走することもあった。旧
山手通りも、昭和の初めに三田用水に沿って作られた新道だ。その昔は現在の山手通りのところは、
目黒川の支流が数本流れていた湿地帯で、水田に利用していた。

   鮎はナーエ・・・・・・
   大坂くげんだ団子屋起きたか


 この歌は、江戸時代厚木街道(矢倉沢往還 大山道 玉川通り)一番の難所だった大坂のことを歌っ
たものだ。その頃相模川でとれた鮎は、厚木から江戸の魚市場へ、夜通し若者たちの足によって運ば
れていた。鮎を担いだ若者たちは、急な坂に息を切らせ、「大坂くげんだ」と苦しさを歌ったという。
この歌に出てくる「団子屋」は、大坂を上りきったところの大きな榎の木の下にあったという茶屋の
こと。「団子屋起きたか」と歌われているのは、野菜などは朝早く市場へ出すので、きっと早く上り
切ってこの茶屋で一服して、苦しかった上り坂の疲れを少しでも癒したいと思ったに違いない。今でも自転車で上るには苦しい急な長い坂道だよ。反対側は道玄坂。旧道坂上に標柱が建ててある。


■大坂緑地
 青葉台4丁目7番8号にある区の所有地。大坂の旧道横の傾斜地に当り、斜面緑地を保存。立ち入
りはできないが、立ち入ろうにも樹木が生い茂り、入っても意味がない。平成7年6月14日開園。
 大坂は、大山道当時、大きくSの字を描いていた坂道で、旧道が一部残っているが、とてもとても
江戸時代の風情を髣髴とさせるものは何もない。現在直線の玉川通りは「大坂橋」という陸橋になっ
ている。橋の下は湿地帯で、目黒川に通じる小川が数流流れていた。
 


【油面】(あぶらめん)
 中町から中央町2丁目に及ぶ目黒村の旧字名。江戸時代中ごろ菜種の栽培が盛んになり、採取さ
れた菜種油は芝増上寺などに奉納され、そのため租税が免除されていたので「油免」の名が生まれ
「油面」に転化したという説と、韓国では「面」は村を意味し、油面は菜種油の採れる村の意だとす
る説がある。地名としては消滅したが通り・交差点・公園・商店街・住区センターにその名が残っ
ている。これここ特別の地名でなく各地に見られるありふれたものだ。
 


【大岡山】(おおおかやま)1~2丁目                 昭和40年1月1日
 袋村字平(たいら)北大岡山・平南大岡山・平鉄飛・平中里・谷二枚橋。往時は、名前の通り森林
に覆われた山で、狐や狸が自由に走り回っていた。明治11年大区小区制の廃止により荏原郡に復
し、同22年「市制町村制」により碑衾村大字衾の内。昭和2年碑衾町大字袋の内。大正12年そ
んなところに目蒲線が敷かれ「大岡山駅」が設けられると、翌年浅草区蔵前から東京高等工業学校
(のち東京工業大学)が移転してきて、周辺が急速に住宅地に変貌していった。昭和7年目黒区の
成立により碑衾町大字衾小字大岡山・平銕飛(たいらてっぴ)・平中里・谷二枚橋(やにまいばし)
を町域として「大岡山」を起立、同40年新住居表示により1~2丁目に分けて現行の「大岡山」
とした。大岡山駅は住所的には大田区北千束に位置する。だから大岡山は東工大だ!

 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『目黒区史』『目黒の歴史』など。

 大岡山の由来
 地名の由来だが、土地っ子は「おおかやま」と発音する。大官山(おおかんやま)といった時代
もあったらしい。目黒区では呑川の東側の高台、目黒台の西端部の岡(低い山・傾斜地)を大岡山
と呼んだのではなかろうかと想像している。人間は最初低湿地に生活の基盤を持ったので、周りは
必ず山か岡か台か原だ。


■大岡山公園
 大岡山1丁目8番4号にある区立公園。昭和6年1月26日開園。螺旋状の黄色い滑り台がついた
アスレチック遊具がある。


■鴬坂
 大岡山2丁目4番と21番の間の坂道。往時、両側に杉小立と竹林があり、鴬の鳴き声の聞こえる
長閑で風流な所だったので、鴬坂と呼んだのであろうといわれている。坂の半ば、標柱の近くに石造
りの標柱があり「鶯坂」と旧字で刻み、「ウグイス」とフリガナが振ってある。

   
鶯坂
   昔このあたりは切り通しになっていて、両側に竹や杉が茂り、鶯がよく訪れて鳴いていた
   のでこの坂名になったといわれる。
   平成21年3月                         目黒区教育委員会


■飛翔
 大岡山2丁目10番1号東工大蔵前会館の前にある宮田亮平のオブジェ。平成21年5月26日設
置。、


■東京工業大学
大岡山キャンパス
 大岡山2丁目12番1号に本部がある国立大学。呑川を挟んで大岡山2丁目9・10・12番と緑
が丘1丁目9番に跨ってある。
 明治14年蔵前に「東京職工学校」として開校。同23年「東京工業学校」と改称、同34年「東
京高等工業学校」と改称、関東大震災で被災して翌年現在地に移転、昭和4年大学に昇格、染料化学
科・紡織学科・窯業学科・応用化学科・電気化学科・機械工学科・電気工学科・建築学科の8学科と
数学教室・物理学教室・物理化学教室・分析化学教室の4教室を設置。同5年無機化学教室・有機化
学教室を設置。同7年附属予備部設置。同9年建築材料研究所を併設。同10年工業経済教室を設置。
同14年資源化学研究所・航空機工学科を設置。同15年化学工学教室を廃止し化学工学科を新設。
同16年金属工学科・燃料工学科を新設。12月日米開戦。同17年附属高等工業教員養成所を設置。
同18年窯業研究所を併設。特別研究生制度発足。幹部技術者講習所・附属予備部特別予科を設置。
同19年電子工学研究所を併設。
附属工業専門部(機械科・電気科・電気通信科・航空機科・金属工
学科・化学工学科)を設置。燃料科学研究所を併置。同20年附属工業専門部に窯業科を設置。8月
日本は、ならず者国家アメリカの軍門に降り敗戦。以後属国となり、唯々諾々といいなりになる保守
傀儡政権を保持せざるをえない今日的不幸を背負い込む。もう200兆円以上持っていかれた。これ
からの若者はアメリカ軍の尖兵として最前線の激戦地に持っていかれるぞ。
 同21年電子工学研究所を「電気科学研究所」と改称。同23年附属工業専門部廃止。
同24年
立学校設置法公布により「国立東京工業大学」新設。工学部設置。旧制東京工業大学、同附属予備部、
同附属高等工業教員養成所は新制に包括し、建築材料研究所・資源化学研究所・精密機械研究所・窯
業研究所・電気科学研究所・燃料科学研究所を併置。同26年千葉大学東京工業専門学校附属電波工
芸高等学校及び同附属工芸高等学校を本学工学部附属工業高等学校(港区)を移管。同27年附属予
備部・附属高等工業教員養成所廃止。同28年大学院工学研究科(応用物理学・化学と化学工学・機
械工学・電気工学・金属工学・繊維工学・建築学の7専攻)新設。同29年建築材料研究所・資源化
学研究所・精密機械研究所・窯業研究所・電気科学研究所・燃料科学研究所を、建築材料研究所・資
源化学研究所・精密工学研究所・窯業研究所に整備し、学部に印刷技術研究施設を設置。講座制を新
設。同30年工学部を「理工学部(数学・物理学・化学・化学工学・機械工学・電気工学・金属工学
・繊維工学・建築学・経営工学の10学科)に改称。同31年理工学部に原子炉研究施設を設置。大
学院工学研究科を大学院理工学研究科に改称。同32年大学院理工学研究科に原子核工学専攻を設置。
同33年建築材料研究所と窯業研究所を統合し、工業材料研究所を併置。同35年理工学部に数学科
・物理学科・化学科・金属工学科・繊維工学科・無機材料工学科・化学工学科・工業化学科・機械工
学科・制御工学科・経営工学科・電気工学科・電子工分子工学科,応用電気化学科・生産機械工学科
設置学科・建築学科の14学科設置。同36年応用物理学科・工業教員養成所を設置。同37年高分
子工学科・応用電気化学科・生産機械工学科を設置。同38年大学院の名称・課程を理工学研究科―
5年課程と規定。理工学部に酵素化学研究施設を設置。工業化学科を合成化学科と改称。同39年原
子炉研究施設を廃止し、原子炉工学研究所を併置。土木工学科設置。印刷技術研究施設を印写工学研
究施設と改称。同40年電子物理工学科を設置。酵素化学研究施設を天然物化学研究施設と改称。同
41年社会工学科設置。同42年機械物理工学科設置。理工学部を「理学部」と「工学部」に分離し、
天然物化学研究施設は理学部に、印写工学研究施設・附属工業高等学校は工学部にそれぞれ附属と決
める。同44年工業教員養成所を廃止。同45年理学部に情報科学科を設置。工学部応用電気化学科
を電気化学科と改称。同46年工学部繊維工学科を有機材料工学科と改称。保健管理センター設置。
同48年教育工学開発センター設置。工学部の化学工学科・合成化学科・電気化学科を改組し化学工
学科に変更。同49年工学部の電気工学科・電子工学科・電子物理工学科を改組し、新たに電気・電
子工学科、電子物理工学科、情報工学科を設置。工学部附属印写工学研究施設を同附属像情報工学研
究施設と改称。 資源化学研究所に附属資源循環研究施設を設置。 同50年大学院総合理工学研究科
(物理情報工学・電子化学・社会開発工学・精密機械システム・材料科学・電子システム・化学環境
工学・生命化学・エネルギー科学・システム科学の10専攻)を新設。総合情報処理センター設置。
同51年工業材料研究所に附属水熱合成材料実験施設を設置。同53年長津田地区に附属図書館長津
田分館を設置。同54年長津田地区に総合理工学研究科等事務部を設置し、長津田地区の事務を一元
化。理工学国際交流センター設置。同56年極低温エネルギー実験センター設置。同57年研究・情
報交流センター設置。同58年文教施設総合研究センターを設置。同59年工業材料研究所附属水熱
合成材料実験施設を廃止。工業材料研究所附属新素材セラミック実験施設を設置。同61年理学部附
属天然物化学研究施設を廃止。理学部に生命理学科、工学部に生物工学科を設置。同62年工学部電
気・電子工学科及び電子物理工学科を改組し、電気・電子工学科と電子物理工学科を新設。同63年
理学部に生体機構学科、工学部に生体分子工学科を設置。留学生教育センター・草津白根火山観測所
を設置。工業材料研究所附属新素材セラミックス実験施設を廃止し、同附属セラミックス研究センタ
ー設置。
 平成元年遺伝子実験施設を設置。同2年生命理工学部を新設し理学部の生命理学科・生体機構学科
工学部の生物工学科・生体分子工学科を移管。同3年極低温エネルギー実験センターを廃止。大学院
総合理工学研究科の生命科学専攻を知能科学専攻に改称。極低温システム研究センターを設置。大学
院生命理工学研究科(バイオサイエンス・バイオテクノロジーの2専攻)を設置。炭素循環素材研究
センターを設置。理学部に地球・惑星科学科を設置。同5年大学院総合理工学研究科に環境物理工学
専攻を新設。工学部の機械工学科。生産機械工学科・機械物理工学科・制御工学科・経営工学科を改
組し、機械科学科・機械知能システム学科・機械宇宙学科・制御システム工学科・経営システム工学
科を設置。文教施設総合研究センターを廃し、文教施設研究開発センターを設置。同6年大学院情報
理工学研究科(数理・計算科学、計算工学・情報環境学の3専攻)を新設。留学生教育センターを廃
止し、留学生センターを設置。量子効果エレクトロニクス研究センター・生物実験センターを設置。
同7年大学院総合理工学研究科の社会開発工学・エネルギー科学専攻を改組し、人間環境システム・
創造エネルギー専攻に転換。工学部化学工学科・機械科学科・電子物理工学科・土木工学科を改組し、
化学工学科・機械科学科・電子物理工学科・土木工学科・開発システム工学科を設置。同8年大学院
社会理工学研究科(人間行動システム・価値システム・経営工学・社会工学の4専攻)を設置。大学
院理工学研究科に地球惑星科学専攻を設置。大学院総合理工学研究科の知能科学・システム科学専攻
を改組し、知能システム科学専攻を設置。理学部地球・惑星科学科を地球惑星科学科に改称。外国語
研究教育センターを設置。工業材料研究所を改組し、応用セラミックス研究所を併置。工業材料研究
所附属セラミックス研究センターを改組し、応用セラミック研究所附属構造デザイン研究センターを
設置。同9年アイソトープ総合センターを設置。大学院総合理工学研究科の電子化学・材料科学専攻
を改組し、物質電子化学・材料物理科学・物質科学創造専攻を設置。同10年大学院理工学研究科の
数学・物理学・化学・応用物理学・地球惑星科学・金属工学(一部)・有機材料工学(一部)・無機
材料工学(一部)・化学工学(一部)・高分子工学専攻(一部)を改組し、数学・基礎物理学・物性物
理学・化学・地球惑星科学・物質科学専攻を設置。大学院総合理工学研究科の化学環境工学・環境物
理工学専攻を改組し、化学環境学・環境理工学創造専攻を設置。理学部数学科・物理学科・化学科・
応用物理学科・情報科学科・地球惑星科学科を改組し、数学科・物理学科・化学科・情報科学科・地
球惑星科学科を設置。研究・情報交流センターを廃止し、フロンティア創造共同研究センターを設置。
同11年理財工学研究センターを設置。大学院理工学研究科に国際開発工学専攻を設置。金属工学・
有機材料工学・無機材料工学・化学工学・高分子工学専攻を改組し、材料工学、有機・高分子物質・
応用化学・化学工学専攻を設置。大学院生命理工学研究科のバイオサイエンス(一部)とバイオテク
ノロジー専攻(一部)を改組し、分子生命科学・生命情報・生体分子機能工学専攻を設置。大学院総
合理工学研究科の物理情報工学・電子システム専攻を改組し、物理情報システム創造・電子機能シス
テム専攻を設置。生命理工学部生命理学科・生体機構学科・生物工学科・生体分子工学科を改組し、
生命科学科・生命工学科を設置。
 同12年草津白根火山観測所を廃止し、火山流体研究センターを設置。大学院理工学研究科機械工
学・生産機械工学・機械物理工学・制御工学・電気電子工学・電子物理工学・土木工学・建築学専攻
を改組し、機械物理工学・機械制御システム・機械宇宙システム・電気電子工学・電子物理工学・集
積システム・土木工学・建築学専攻を設置。像情報工学研究施設を工学部附属施設から大学院理工学
研究科附属施設へ移行。大学院生命理工学研究科バイオサイエンス・バイオテクノロジー専攻を改組
し、生体システム・生物プロセス専攻を設置。工学部電気・電子工学科・電子物理工学科・情報工学
科を改組し、電気電子工学科・情報工学科を設置。精密工学研究所に附属マイクロシステム研究セン
ターを設置。副学長制度を導入し、副学長(教育担当)・副学長(研究担当)を設置。同13年総合
情報処理センター・理工学国際交流センターを廃止し、学術国際情報センターを設置。極低温システ
ム研究センターを廃止し、極低温物性研究センターを設置。長津田キャンパスを「すずかけ台キャン
パス」と改称。附属図書館長津田分館をすずかけ台分館と改称。同14年炭素循環素材研究センター
を廃止し、炭素循環エネルギー研究センターを設置。総合理工学研究科等事務部をすずかけ台地区事
務部と改称。「評価室」「国際室」「総合安全管理センター」「広報・社会連携センター」を設置(学
内措置)。同15年文教施設研究開発センターを廃止し、教育環境創造研究センターを設置。遺伝子
実験施設・生物実験センター・アイソトープ総合センターを廃止し、バイオ研究基盤支援総合センタ
ーを設置。大学院総合理工学研究科精密機械システム専攻をメカノマイクロ工学専攻と改称。同15
年「教育推進室」「都市地震工学センター」「産学連携推進本部」を設置(学内措置)。同16年国
立大学法人東京工業大学設立。量子効果エレクトロニクス研究センターを廃止し、量子ナノエレクト
ロニクス研究センターを設置。「企画室」及び「財務管理室」を設置。同17年大学院イノベーショ
ンマネジメント研究科(技術経営・イノベーションの2専攻)設置。工学部附属工業高等学校を改組
し、附属科学技術高等学校を設置。理財工学研究センターを廃止、設置。大規模知識資源センター・イ
ンスティテューショナル技術経営学研究センター・量子ナノ物理学研究センター・バイオフロンティ
アセンター・エージェントベース社会システム科学研究センター・分子理工学センター・地球史研究
センター・ものつくり教育研究支援センターを設置。大学院総合理工学研究科物理情報システム創造
専攻・電子機能システム専攻を改組し、物理電子システム創造専攻・物理情報システム専攻を設置。
先進ナノマテリアル研究センターを設置。統合研究院を設置。同18年革新的原子力研究センターを
設置。応用セラミックス研究所附属構造デザイン研究センターを廃止し、応用セラミックス研究所附
属セキュアマテリアル研究センターを設置。スーパーメカノシステム創造開発センター・学生支援セ
ンター・世界文明センターを設置。グローバルエッジ研究院を設置。集積光電子工学研究センターを
設置。同19年「入試室」「技術部」を設置。土木工学科を土木・環境工学科と改称。「情報基盤統
括室」「経営戦略室」を設置(学内措置)。広報・社会連携センターを廃止し、広報センター、社会
連携センターを設置(学内措置)。フロンティア創造共同研究センター、ベンチャー・ビジネス・ラ
ボラトリー、統合研究館、インキュベーションセンターを統合し、フロンティア研究センターを設置。
 こうも目まぐるしく変わっちゃあ、学生も先生もてえへんだろ!  

 校歌「
逝く者は」 作詞・三好達治  作曲・諸井三郎
  1.逝く者は斯くのごときか
    長江は昼と夜となし
    はるけき日 ゆかしきいさを
    指す方の はた窮みなき
    嘆じてん 聖さびはや
  2.悠久の 黄金の環
    めぐりくる陽は久方ゆ
    青春の園生にたらふ
    手力はわがもろ腕に
    重き扉をいざ若人よ
  3.くろがねの扉を開け
    工人よ 窮理者よ友
    かつは見よ みどりの木の間
    すばる星 灯を点じたり
    友垣が 七つの窓べ
  4.七彩のものの文すべ
    ただ光 彼方に白し
    さやかなり 月毛なりかし
    騎してゆけ はるけくもこそ
    大き岡 こえていく岡

 略称
 平成14年それまで全学的に統一されていなかった略称に関する申し合わせをし略称を制定した。
日本語の略称は「東工大」、英文表記の略称は「Tokyo tech」だ。「学内外で本学を略称
表記する際には、上記の表記を使用していただきますようお願いします」とのこと。守ってやれよ。

 ●飛翔
 

 ダルマインコ
 大学の周辺は朝夕けたたましい鳥の奇声に悩まされる。全体にウグイス色で黄色いくちばしに赤い
胸のけばけばしいこの鳥は、日本在来種ではなく南方の鳥だ。飼主の手から、あるいは業者のところ
から逃げてこの寒い日本に適応したのだ、地元の人が気づいたのが昭和60年というから相当古い。
巣食う木は大学の南2号館前の2、3本のイチョウの木に限定される。何故そうなのかは判っていな
い。日中は駒込公園に行くらしいのだが何故そこに留まらないのか?
 
 


【大橋】(おおはし)1~2丁目                     昭和44年1月1日
 上目黒村の内。同11年大区小区制廃止により荏原郡に復し、同22年「市制町村制」により目
黒村大字上目黒の内。大正11年目黒町大字上目黒の内。昭和7年目黒区上目黒7~8丁目の内。
同44年新住居表示により、上目黒7~8丁目の各一部をあわせた町域を1~2丁目に分けて、現
行の「大橋」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『目黒区史』『目黒の歴史』など。

 
大橋の由来
 町名は住民投票により「青葉台5~6丁目」「南駒場」を押さえて選択された。江戸時代に大橋
村はなく上目黒の内だった。橋そのものは、玉川通り(国道246号線)が目黒川を跨ぐところに
現在も懸かっている。烏山川と北沢川が合流して広大な沼沢地を作り蛇池とも龍池とも呼ばれてい
たが、池尻のところに矢倉沢往還(大山道=厚木街道=玉川通り)が通り、川幅か湿地かが広かっ
たのだろう、飛び石橋や丸木橋ではとても誤魔化せるものではなく、大きなしっかりとした橋を架
ける必要があった。それまでは、渡渉していたか渡し舟でもあったものか、遠回りしたという記録
も特にはない。川は自然の産物と認識している人が多いようだが、全ての河川は人間が拵えたもの
だ。つまり水路を切って誘導しているのだ。水は低きに流れるが流路は定まったものではない。そ
れが自然川なのだ。谷間でも無い限り自然状態では水路は乱れて当たり前だ。それを人間が土地利
用をするために流路を固定したのだ。だから洪水が起きるのだ。かつては目黒川も一本の流路では
なかった。まして大橋の架かる辺りは池尻(龍池の出口)で、川か湿地帯かといった按配だった。
『江戸情報地図』を見てもその様子は伺える。
 文化年間(19世紀初頭)「上目黒村の中村勘右衛門が幕府に願い出て許可を貰い、長さ7間×
幅9尺の土橋(つちはし)を架け、傍らに水車がある(新編武蔵風土記稿)」というから大凡橋長
13m弱の橋だ。当時としては巨大な橋だ。橋名は「池尻橋」とでもすべきところ、内陸部では珍
しいちゃんとした橋だったためか、創架当初から「大橋」と呼んでいたようであり、その後正式に
名称となった。
 現在の橋は、昭和2年に架けた橋長12m20cm×橋幅14m20cmの鋼桁橋を、東京オリ
ンピック開催の同39年までに高速道路の架設とともに改修したもので、通称「ニーヨンロク」と
呼ばれる玉川通りを通し、川に対して右斜めに架かっている斜橋である。親柱はコンクリート角柱、
高欄は鉄製でこげ茶色。桁は空色。橋詰広場はない。
 奇しくも昭和52年に開通した田園都市線の地下駅は「池尻大橋」。将来そういう名の橋があっ
たと誤解させるだろう。だから大橋は目黒川の大橋だ! 創架年は延宝年間(1673)説もある。
 玉川電車の「大橋停留所」ができてから、大橋はその周辺を指すようになり、戦前は、「池尻」
といえば砲兵の、「大橋」といえば騎兵の代名詞だった。だからこの町には軍人(士官)が多く住
んでおり、まさに軍都そのものだった。大橋の商店街は軍服仕立・軍隊用雑貨・徽章・土産物など
を扱う商店が多かった。現在この地区に学校・病院などの公共施設が多いのは軍用地の跡地利用だ
からだ。今、山手通りの地下に高速道路を通す工事が行われており、首都高渋谷線と交差するため
インターチェンジ工事が進められている。

 ※土橋
 
「つちはし」とも「どばし」とも読むが、厳密にいうと、その違いは、板橋の上に土を置いて橋
板を保護したものが「つちはし」で、「どばし」は土手橋のこと、中央部に土管などを埋めて水通
ししてあるものをいう。
 


■首都高中央環状新宿線 大橋ジャンクション
 大橋1丁目4・5番、9~12番は東急バス大橋営業所、住宅を立ち退かせて、玉川通り(国道2
46号)上を通過している高速3号渋谷線と中央環状新宿線及び計画中の中央環状品川線を接続する
もので、ループ状態のジャンクション内には大橋換気所(仮称)が設置され。首都高道路の出入口と
なる施設と2棟の再開発ビルが建設され、平成21年完成予定。規模は霞ヶ丘国立競技場がスッポリ
入る大きさ。
 当地には昭和44年まで東急玉川線大橋車庫が設置されていた。東急玉川線の廃止後は東急バス大
橋営業所となったが、平成14年に廃止された。
 平成22年3月28日中央環状新宿線の全通(大橋JCT~西新宿JCT)により部分的に供用を
開始した。残る品川線区間の大井JCT~大橋JCT間は平成26年度の開通に向けて建設が進めら
れている。

 大橋JCT~大井町JCT 開通
 平成27年3月7日16時に供用された。中央環状品川線は池袋の北西にある要町付近から南が、
山手トンネルという長いトンネルになっている。今回開通した区間はその山手トンネルの延伸で、大
橋ジャンクションから南へ大井ジャンクションの手前まで続く約8kmの長いトンネル。要町から合
わせると約18.2kmの長いトンネルになり、道路トンネルとしては現在1位の関越トンネル(約1
1km)を抜いて日本一の長さになる。
 


■目黒天空公園
 大橋1丁目9番2号の首都高大橋JCT上に整備された区立公園。
平成25年3月30日の開園。
最も低い部分で地上11m、最も高い部分で地上35mなので高低差が約24mあり、延長距離が約
400m、平均勾配約6%のループ状の形状になっている。首都高速道路において、高架の3号渋谷
線と地下トンネルの中央環状線をジャンクションで結ぶためには、高低差の問題と用地の問題があっ
た。そのため、少ない敷地面積で高低差を稼げるループ状として建設されたのが大橋ジャンクション
だ。その建設計画として環境対策が盛り込まれ、また、公園の数が少なく面積も狭い都心において子
どもたちが走り回れる場所が欲しいという住民のニーズにも応える形で緑地化、公園化する案が採用
された。庭園の造成にあたっては、目黒区が首都高速道路から占用使用許可を受け、都市公園法に基
づく立体都市公園として整備した。
 平成25年度の各賞受賞
 土木学会賞・照明学会照明普及賞・グッドデザイン賞・第29回「都市公園コンクール」国土交通
大臣賞・全建賞受賞
 平成26年第13回屋上壁面特殊緑化技術コンクール屋上緑化部門:国土交通大臣賞受賞。

 ・東口広場
  入口景観としてシンボリックな景観植栽で、展望台デッキからアカマツ越しに富士山を望む
  ことができるエリア
 ・四季の庭
  四季の移ろいと変化を楽しめる植栽で、花の香りが漂うように北から南に花の段々畑がある
  エリア
 ・あそびの広場
  穏やかな曲線を描く築山とタギョウショウの丸みを帯びた樹形を組み合わせ、野の原の景色
  を演出したエリア
 ・くつろぎの広場
  四阿周辺の伝統的な日本庭園の植栽、くつろぎの芝生広場、つづら折り園路の混植植栽、信
  楽焼きの大鉢に植えられた仕立物のクロマツなど、多様な景観が楽しめるエリア
 ・潤いの森
  雑木を主体とした散策を楽しめる植栽で、明るく開放的な花の広場と木陰を楽しむ雑木のト
  ンネルがあるエリア
 ・コミュニティスペース
  暮らしの中で親しまれている花木・果樹、野菜、つる植物、花に香りがあり、実のなる柑橘
  類が植栽されたエリア
 ・西口広場
  集いの広場に、心地よい緑陰をもたらす樹木として紅葉の美しいコハウチワカエデを主木と
  し、また香りがある低木植栽が来園者を迎えるエリア
 ・もてなしの庭
  かつて目黒でタケノコ栽培が盛んであったことにちなみ、竹林を表現したエリア
 ・アプローチの空間
  勾配や段差を活かした信楽焼きの縁石等で植栽帯を設け、日陰に耐える地被植栽が混植され
  ているエリア
 ・奥の庭
  景石や陶板で特徴づけた枯山水と、日陰に耐え、葉色の美しい斑入りの地被植栽を主体とし
  明るいイメージを演出したエリア

 全国初のジャンクション屋上の公園として話題になっているが、第29回都市公園コンクール 企
画・独創部門において国土交通大臣賞を受賞した。また、目黒天空庭園を含む大橋ジャンクションが
平成25年グッドデザイン特別賞・「グッドデザイン・未来づくりデザイン賞」を受賞した。 
 オーバス夢ひろばは、目黒天空庭園の内側の1階にある広場。フットサルコート、じゃぶじゃぶ池
などが配置されており、屋外イベントの開催も可能。

 オーパス夢ひろば
 大橋1丁目9番4号の首都高大橋JCTの中央部の谷底のようなスペースに整備された区立公園。
巨大な壁に囲まれた敷地のため、上空に伸びる樹形の美しい樹木、カツラを主木として広場から見え
る構造物の修景を図ったエリアだ。

 おおはし里の杜
 換気所屋上の特殊な形状(勾配約28%の斜面と上方・下方の平面部で構成)を、昭和初期のかつ
ての目黒川の河岸段丘に見立て、斜面林、草地、湧水とせせらぎ、池、水田を設置してある。目黒川
周辺の原風景に基づく植栽景観を再生すると共に、多様な生き物の生育空間となる環境を創出するこ
とを目標として整備。

 プリズムタワー
 大規模タワーマンションとして賃貸が可能。庭園の西側に位置しており、庭園に直結した通路があ
る。

 クロスエタワー
 大規模タワーマンションだが、6階のフィットネスルームや2階のスーパーマーケットなど公共施
設もテナントとして入っている。庭園の北東側に位置しており、庭園と直結している9階には目黒区
立大橋図書館がある。

 大橋図書館
 クロスエタワーの9階にある区立図書館。
 


■遠江橋
 大橋2丁目1番、松見坂下の今は暗渠となった空川に架かっていた橋。滝坂道を通した。この橋は
伊達遠江守が創設したためその名がある。明治に入って、明治天皇行幸に伴い西欧技術を取り入れた
ドーム型の橋に改築され「新遠江橋」となった。

   大正2年道路を改修し、現在の松見坂と新遠江橋となった。

 という記事があったが、昭和40年代に松見坂の道路拡張工事が行われ、また新山手通りの敷設、渋
目陸橋の構築で、松見坂一帯はガラリと変貌した。松見坂地蔵が僅かに名残を留めている。


 空川(そらがわ)
 東大Ⅱキャンパスを水源とし駒場野を流れ、松見坂下を通って大山道を越え、目黒川に注いでいた。
目黒川自体現在の流路ではなく蛇行しており、空川も下流では蛇行しているので、現在の暗渠は昔の
流路ではない。
 


■松見坂地蔵尊
 大橋2丁目1番、松見坂下の旧滝坂道沿いにある。交差点のすぐ側だ。すぐ前の三叉路は嘗ては四
辻だった。坂下で事故でもあったものか、道中の無事を祈るためか、供養のために建てられたのだろ
う。悪疫を防ぐ利益があると地元の人に大切に祀られている。

   松見坂地蔵尊
   「郷土目黒十集」には駒場の東の入口を松見坂地蔵が西の入口を駒場地蔵が護ってござる
   むかし隣村から駒場(昔しは此の辺は駒場村であった)に侵入しようとする悪疫をふせぐ
   ために祀ったという言い伝えである
   厂史的には手がかりとして松見坂地蔵尊前に保存設置してある手洗鉢台座に享保十一年と
   きざまれている 今から二百七十三年前である 初めの建立年代は相当古いというだけで
   定かではない
   これからはこの地域と密着した松見坂地蔵尊を安んじ町の人々の生活の安全と住よい町造
   りを祈願していきたいと思い 地域住民有志保存会を発足させた。毎年四月四日を松見坂
   地蔵尊の祭日とし この日は地域住民の多数の参加を今からお願いしておく
   平成十二年一月吉日                      松見坂地蔵尊保存会
   


■松見坂
 大橋2丁目1番の松見坂下(新遠江橋)から駒場高校正門前に上がって行く坂道で、現在の坂は盛
土してなだらかに改良してある。「松見」は道玄坂上に立っていた「道玄物見の松」という、一本だ
けひょろ高い松ノ木があり、それが見えたことからそう呼ばれたという。結構きつい勾配で、自転車
では辛い。道玄坂の由来となった大和田道玄は、和田義盛の一族とかで、道玄坂で山賊というから、
追剥というか恐喝(かつあげ)というか、とにかく旅人に悪事を働いて荒稼ぎしてたということだ。
 今、坂下に新遠江橋という橋が暗渠となった空川に架かっている。以前には、この新道の下に僅か
に残っている旧松見坂の道を渡していた遠江橋が架かっていた。伊達遠江守が創架したもので、明治
になって、明治天皇行幸に伴い西欧技術を取り入れたドーム型の橋に改築された。大正2年、道路を
改修し、現在の松見坂と新遠江橋となった。坂下に東京都が設置した石の標識が建っている。

   松見坂
   この坂から,「道玄物見の松」(土賊の道玄がその松に登って 往来の人を見下ろし,手下
   に命じて 衣服や携帯品を掠奪したために その名がついた) がよく見えたので,松見坂と
   呼ばれるようになったといわれる。
   また,坂の途中に「松見地蔵」があったので坂の名になったという説もある。昔は,この
   坂の北西には,駒場野と呼ばれる 広大な原野があったが,今はその面影もない。
   昭和五十八年三月                             東京都
 


■第一中学校 大樹深根
 大橋2丁目11番1号にある区立校。昭和22年5月5日東京都民生局世話課(陸軍輜重兵学校跡
地)において「東京都目黒区立第一中学校」として開校。同26年校旗樹立・校歌制定。

 校歌「都の西方」 作詞・草野心平  作曲・伊藤翁介
  1.都の西方目黒が丘に
    集う我等の希望は遥か
    ばら色に映ゆ夕の空よ
    鳴呼一つ星金に輝く
    目黒 目黒 おお目黒
    我等が母校目黒一中
  2.腕を組みて堅くぞ誓う
    永遠の友情烈しきちぎり
    恩師の教え胸にたたみて
    学ぶ我等の血潮溢るる
    目黒 目黒 おお目黒
    我等が母校目黒一中
  3.翠藍の空隈なく晴れて
    鳴呼翻える栄ある校旗
    歌え諸共歌声強く
    高鳴りひびけ若き世代に
    目黒 目黒 おお目黒
    我等が母校目黒一中


 同29年現在地に木造校舎・体育館兼慊堂落成、移転。同31年分教場開設。同33年分教場を廃
し、東山中学校を分校。同36年プール完成。同37年鉄筋コンクリート造り第一校舎落成。同43
年体育館完成。同52年鉄筋コンクリート造り第二校舎落成。同54年制服ブレザーとともにネクタ
イの着用を開始。同55年玄関を改修し、区長揮毫による校名額を掲額。同59年第一校舎・正門・
調理室など改修。同63年職員室・校長室の改装。同63年体育館前にラバーコート完成。
 平成2年コンピュータ室・多目的室完成。同3年スプリンクラー装置。同7年校庭放送設備改修。
同9年創立50周年記念式典。同14年普通教室冷房化・体育館耐震改修工事完成。同16年パソコ
ン入れ替え。同19年2学期制開始。創立60周年記念式典。同20年体育館床張替。同21年ラバ
ーコート張替。
 


■輜重兵第一大隊跡
 大橋2丁目11~18番を締めていた。第一師団麾下の食糧・補給・輸送任務部隊。


■近衛輜重兵第一大隊跡
 大橋2丁目19~21番を締め、半分は世田谷区にかかっていた。近衛師団麾下の食糧・補給・輸
送任務部隊。


■輜重兵と輜重輸卒
 戦闘行動の上で兵站業務は極めて重要であり、輜重(しちょう)とはこの兵站業務を専門とする兵
科だ。水食料・武器弾薬・各種資材など様々な物資を第一線部隊に輸送して、同部隊の戦闘力を維持
増進することが主任務であり、貨物トラックなどの大型車両を保有するが、武装は自衛に限定される
ため比較的軽装備だ。但し敵は後方連絡線を断とうとすることから、ゲリラの遊撃や航空阻止の対象
となりやすく、一端攻撃を受けると戦闘力に乏しい輜重兵は大きな損害を受ける場合もある。航空阻
止は輜重兵、 つまりは補給部隊やその主要交通路(橋・隋道・鉄道・港湾など)を主な攻撃目標とす

 
日本軍では国内的な事情で自動車運転免許の取得者自体が非常に少なく、軍隊に入って生まれて初
めて自動車に触れる者までいた時代だった。また軍隊内では、最前線で直接敵と交戦しないので、交
戦部隊の兵士たちから「輜重輸卒が兵隊ならば、蝶々蜻蛉も鳥の内」と蔑まれたが、
しかしながら輜
重兵と輜重輸卒とは全く別個の存在で、輜重輸卒は元来軍夫が担っていた単純機械的労働に従事する
に過ぎない雑卒だが、輜重兵は兵卒・下士官クラスであっても多数の輜重輸卒を監督する立場にあり、
個々の兵卒の能力が重視された。反面将校では身体の故障から第一線に服することが困難になった者
が転科したり、士官学校での成績が低かったり、素行に問題のあった者が振り分けられることが多く、
冷遇されがちだった。また輜重兵科は明治40年まで陸軍大学校への入校を認められず、以降も第二
次世界大戦中まで毎年一人入れるかどうかだった。そのため陸軍幼年学校が陸軍予科士官学校に改組
され、卒業前に輜重兵科と発表された者の落胆は大変なものだったよ。これは日本陸軍のみならず、
どこの世界でもいえることであり、一般企業で言えば、倉庫番でもやらされるような感覚だ。裏方の
仕事などやりたくないという気質によるものである。
 


■上目黒
氷川神社

 大橋2丁目16番21号、玉川通りに面してある。上目黒村の鎮守で、天正(1573~92)の
頃に村の旧家加藤氏が甲州上野原の産土神をこの地に迎えたといわれている。祭神は素佐之男命を主
神に・天照大神・蒼稲魂命・菅原道真が合祀されている。例大祭は毎年8月の第4土・日曜日。崖の
上に祀られたので、鳥居から急な石段となる。この小松石造りの52段の階段は文化十三年(181
6)に建設され、明治40年に改修された。この石段下の左には、石段の修築記念碑・石坂再建供養
塔と天保十三年(1842)に建てた「大山道」の石造道標がある。境内には、花崗岩造りの4基の
鳥居、小松石造りの1対の狛犬、目黒元富士から移した仙元講の碑など数多くの石造文化財が、大切
に保存されている。区の説明板は、

   氷川神社
   氷川神社は、旧上目黒村の鎭守で、天正年間(1573~1592)旧加藤氏が甲州上野
   原の産土神をこの地に迎えたものであるといわれています。
   祭神は素戔嗚神を主神とし、天照大神、倉稲魂命、菅原道真を合祀しています。
   正面の石段は小松石造りで、文化十三年(1816)建設され、明治38年に改修された
   ものです。境内には、花崗岩造りの4基の鳥居や小松石造りの2対の狛犬があります。ま
   た石段の下に「武州荏原郡菅刈荘目黒郷」と刻まれた供養塔や、天保十三年(1842)
   に建てられた大山道の道標があります。道標には、正面に「大山道 せたがや道、玉川道」
   右面に「右ひろう めぐろ、池がみ 品川みち」左面に「青山 あざぶ道」背面には「天
   保十三年年寅正月吉日 上目黒坂上 願主徳兵衛」と彫られています。もと道路の向うに
   建てられていました。この前の玉川通りは、江戸時代に大山街道と呼ばれ大山石尊詣の道
   として有名でした。
   平成元年3月                          目黒区教育委員会

 とある。「街道」という表現は明治以後の呼称で、江戸時代以前に「鎌倉街道」という呼び方はな
かった。だから「かいどう」という場合は「海道」と書き、海岸線に沿った、一部船路を採る道をい
った。元々は「東海道・南海道・西海道」は行政区分で、北海道は明治以後の設置だ。
 新しい区の説明板は以下の通り。

   
氷川神社
   祭神は素盞鳴命を主神とし、天照大御神、菅原道真を合祀しています。旧上目黒村の鎮守
   で、天正年間(1573~1592)に上目黒村の旧家加藤氏がこの地に迎えたといわれ
   ています。
   正面の石段は文化13年(1816)に造られましたが、明治38年に前を通る大山街道
   (玉川通り)を拡張する際に、現在の急勾配な石段に改修されました。境内には、花崗岩
   造りの4基の鳥居や
小松石造りの2対の狛犬があります。
   また、石段の下には「武州荏原郡菅刈荘目黒郷」と刻まれた供養塔や、天保十三年(18
   12)に建てられた大山道の道標があります。大山道は江戸時代、石尊参り(神奈川県伊
   勢原市の大山への参詣)をする多くの人々が利用しました。
   境内には、目切坂上(上目黒1-8付近)にあった目黒の元富士から石碑などが移され、
   「目黒富士」と称す登山道が築かれています。
   平成22年3月                         目黒区教育委員会

 目黒富士浅間神社
 脇参道を登って境内に入った所に小ぶりの富士浅間神社が建っていて、右脇目黒富士浅間神社の標
柱が、その後ろに目黒富士の説明板が立っている。

   目黒富士
   江戸時代に富士山を対象とした民間信仰が広まる中、富士講という団体が各地に作られ、
   富士講の人々は富士山に登るほかに身近なところに小型の富士山(富士塚)を築き、これ
   に登って山頂の石祠を拝みました。
   目黒区内には二つの富士塚がありました。一つは文化九年(1812)に目切坂上(上目
   黒1-8)に築かれたもので「元富士」と呼び、後に別所坂上(中目黒2-1)に築かれ
   たもう一つの富士塚を「新富士」と呼びました。元富士は高さ12mで石祠(浅間神社)
   を祀っていましたが、明治11年に取り壊しとなり、この氷川神社の境内に石祠や富士講
   の石碑を移しました。
   昭和52年(1977)7月に富士山に見立てた登山道を開き、境内の角を「目黒富士」
   と呼ぶようになりました。7月1日には山開きの例祭が行われています。
   平成22年3月                        目黒区教育委員会正

 大山道道標
 表面に「大山道 せたがや道 玉川通」、右面に「右ひろう めぐろ 池がミ 品川みち」、左面
に「青山 あさぶみち」とある。大橋氷川神社石段下、玉川通りの車の排気ガスを受けながら立って
いる。大山道は、相模街道、矢倉沢往還、厚木街道ともいい、大山へ雨乞いに行く農民が通った道で
もある。


■東邦大学医学部附属大橋病院 → 東邦大学医療センター
大橋病院

 大橋2丁目17番6号にある総合病院。昭和39年に開設され、総合病院として地域の中核病院の
役割を果たしてき。今、医療行政は大きく変革し、医療行為そのものも、良質で効率的な医療の提供
が求められ、患者を顧客として、提供する側の医療から、受け手の患者への医療へと変化している。
そして安全で、信頼のおける医療行為が求められることは無論、情報の開示、医療の標準化、患者へ
の充分なインフォームド・コンセント(理解しやすい説明)など、示された病院からの情報を基に、
患者が病院を選別している時代だ。これらのニーズに対し、充分満足されるために、病院内のスタッ
フの意識改革と構造改革を積極的に進めている。また全ての教員が患者への病院という意識を持ち、
患者と接する全てのスタッフが〝優しい心・親切な心〟を持つように教育している。今までにない外
来として、平成15年9月から女性医師による女性患者様のための外来(精神的悩み、婦人科疾患、
泌尿器疾患、乳腺、肛門など)肛門外来の新設、また生活習慣病ケア外来と人間ドック・検診を兼ね
た総合健康相談センターを、更に形成外科・皮膚科が美容医学センター、内科と整形外科によるリュ
ウマチ関節外科センターを立ち上げるなど、患者に判り易く、ニーズに応じた診療体制の再構築を心
がけている。


■駒場高等学校
 大橋2丁目18番1号(輜重兵第一大隊駐屯跡地の一部)にある都立校。俗に「都立駒場」の名で
通る。明治35年麻布日ヶ窪(現港区立六本木中学校)に「東京府立第三高等女学校」として開校。
戦前から女子高等教育の名門「府立三女」としてその名を馳せ、「浅草の一女(白鴎高校)・小石川
の二女(竹早高校)・麻布の三女」として並び称されていた。
 戦後の学制改革により男女共学に移行した後も、各界に多彩な人材を送り出してきた。特に都立高
校全盛期において、女子では最難関校の一つに数えられた。
 昭和18年都制施行により「東京都立第三高等女学校」と改称。同21年戦禍により現在地に移転。
同23年学制改革により「東京都立第三女子新制高等学校」と改称。同25年男女共学化、普通科に
芸術科・保健体育科を併設して全国初の綜合高校となり「東京都立駒場高等学校」と改称。同26年
創立50周年記念式典。同窓会である「松桜会」の尽力で麻布の旧校地から現在地に「仰光寮」(香
淳皇后の東宮妃教育時代の御学問所=お花御殿)を移設。同27年学区合同選抜制度。同37年鉄筋
コンクリート造り4階建て校舎落成。同42年学校群制度で新宿高校と21群を組む。同47年芸術
科は東京都立芸術高等学校として分校。保健体育科は今日まで引き続き、普通科との併設という特徴
を活かし、相互に良好な影響を及ぼし合う良き校風を維持・醸成し、生徒一人ひとりが「豊かな個性」
を伸ばし、「学習と「部活動」に真摯に取り組み、活力溢れる学校を創っている。バスケットボール
部をはじめバレーボール部やサッカー部、陸上部、水泳部などは全国的にも強豪として知られるなど、
実力派の運動部が多く揃っている。同57年グループ合同選抜制度導入、戸山・青山・新宿・都立大
附属・広尾・目黒・赤城台の各校と共に21グループを組む。
 平成5年校舎新築。正面玄関の階段塔が聳え立ち、両翼に特別教室を配置、アプローチ広場を包み
込むように立っている。地下1階地上5階の本館には、普通教室の外、保健室・図書館・LL教室・
コンピュータ教室・理科実験室・家庭科実習室・視聴覚室など、凡る設備完備。
 また体育施設には特に力を入れている。体育館は2棟、第一体育館には広いフロアーと高い天井の
大きな第一アリーナ、182畳の柔道場、大きなピットのある専用の体操場、剣道場、それにトレー
ニングルームがある。第二体育館は屋根が開閉式になったドーム付きプールと球技フロアのある第二
アリーナで、生徒ホール兼食堂もできたよ。平成6年やや遅きに失した感があるが都立潰しの悪制度
から漸く脱却し入試単独選抜に戻る。同8年校舎大改修。同9年定時制課程廃止。同13年保健体育
科50周年記念式典。同14年創立100周年記念式典。同18年進学型教育課程の実施。長期休業
日等の弾力的運用試行校指定。土曜授業開始。文科省「学力向上拠点形成事業」指定都教育庁「部活
動推進指定校」「IT教育普及支援校」指定。同19年都教育庁「重点支援校」指定(~21年度)、
難関大学を中心とした進学実績の向上を目指す「進学重点特別推進指定校」指定(~24年度)。

 校歌「大空高く」 原作詞・千家尊福  作曲・小山作之助
    大空高く富士ヶ嶺白く
    若草燃ゆる駒場の丘に
    松の緑の栄ゆる園生
    真金白珠装える文の舎
    慕いて集える我らの友よ
    朝日に匂える桜の類
    輝く緑の松にも競え
    松よ桜よ誠の栞
    かたみに鍛えて業をも励み
    珠とも磨きて世をしも照らせ
    珠よ真金よ 我らが願い
    光よ誠よ 我らが望みを


 「ハイレベルな文武両道の進学校」を目指しており、土曜授業の導入や進学指導体制の整備が進む
中、部活動加入率は10割近くと極めて高い数値を維持している。近代的な校舎や複数のアリーナ、
開閉式のドーム型温水プールなど都内有数の設備を持つ一方で、歴史的建造物である仰光寮が保存さ
れているなど、伝統校としての一面も窺うことができる。

 卒業生にはこんな人が
 小森和子(映画評論家)・山谷えり子(政治家)・岸朝子(料理評論家)・張富士夫(トヨタ自動
車社長)・大宅映子(政治評論家 大宅壮一の娘)・森山真弓(政治家)・加賀美幸子(NHKアナ
ウンサー)・桐山洋子(作家)・加藤登紀子(歌手)・吉永小百合(女優 昭和35年入学、翌年転
校)阿木燿子(作詞家 昭和36年入学 翌年転校)・鮫島有美子(オペラ歌手 芸術科)・高畑百
合子(TBSアナウンサー)・長谷直美(女優)・岡田伊登子(日本画家)・渡辺やよい(漫画家)
・小川阿佐美(女優)・加藤到(映画監督)・四家文子(声楽家)・根岸吉太郎(映画監督)・影山
仁美(女優)・菅家ゆかり(日テレ・アナウンサー)
 


■芸術高等学校 → 総合芸術高等学校・駒場校舎 移転閉校
 大橋2丁目18番58号(輜重兵第一大隊駐屯跡地の一部)にある都立校。昭和25年都立駒場高
校に芸術科(音楽科・美術科各20名)設置。同46年芸術科新校舎(A・B棟)落成。新入生より
音楽科・美術科それぞれ1学級を40名づつとなる。同47年都立駒場高等学校より独立、「東京都
立芸術高等学校」として発足。同48年校旗樹立。同50年C棟落成。同56年創立10周年記念式
典。同59年D棟落成。
 平成3年創立20周年記念式典。同9年A棟耐震化。同10年B棟耐震化。同13年創立30周年
記念式典。
 音楽科は、鍵盤楽器(ピアノ)・弦楽器・管弦楽器・打楽器・声楽・楽理・作曲の7コース
 美術科は 日本画・油絵・彫刻・デザイン・芸術学の5コース

 男女共学だが、85%以上は女子。大半は1時間30分以上かけて通学している。
 平成23年「東京都立総合芸術高等学校」と改称。新宿区富久町に新校舎建設。舞台表現科(演劇
と舞踏)新設。美術科と舞台表現科は市谷商業高等学校跡地(神楽坂校舎)に移転。新学年より美術
科を2学級としたため、全4学級となる。本年度中に富久町に移転。同24年閉校。

 卒業生にはこんな人が
 木下牧子(合唱曲作曲家)・鮫島有美子(ソプラノ)・平松英子(ソプラノ)・海老名泰葉(春風
亭小朝の元妻)・岩代太郎(作曲家)・桜玉吉(イラスト)・林田球(漫画家)・竹田愛里(声優)
・上田真樹(作曲家)・鳥羽亜矢子(ピアニスト)・青木野枝(彫刻家)・河内遥(漫画家)・藤崎
彩織(ミュージシャン)・上野星矢(フルート)

 ※跡地には平成17年に小中高一貫校が開校予定。


 
■目黒川
 概ね烏山川と北沢川を合わせて目黒・品川両区を流れて江戸湾に出た川。川口部では品川といった。
川は人間の作ったもので、現在の流路は大正12年~昭和12年代に拵えたものだ。昔の流路は一定
ではなく数流があった。また昔は固有名詞をこだわらないので、この流れが目黒川、この流れが青葉
川という概念を持たなかった。だから同じ川に2つも3つも名前があった。日本の山や川が固定の1
つの名前で呼ばれるようになるのは明治22年からのこと。隅田川が正式名称になるのは実に昭和4
0年である。目黒川は今のように深く掘り下げた人工溝渠ではなく浅い流れだった。子供たちが泳ぎ、
川遊びをし、フナやドジョウを獲り、土手ですみれ、たんぽぽを摘んだりした長閑な牧歌的風情は全
くない。
 農村時代の目黒川流域は区で最大の米作地帯で、川岸には豊かな水を受けて回る水車小屋が点在し、
コットンコツトンとのんびりとした音を立てながら精米や製粉、雑穀加工が行われていた。しかし都
市化の波により大正末にはなくなってしまった。

 
友禅流し
 
川沿いに染物屋があり昭和30年頃まではそんな風物詩も見られた。友禅は優美な織物で、染物を
清流に晒すと糊が洗い流され、一層染めの美しさを増す。そのために染物屋の前には、川へ降りる石
段がつけられ、近年まで残っていたが、昭和50年代の改修工事で撤去されてしまった。

 大橋(玉川通り)・常盤橋・万代橋・氷川橋・東山橋・目黒橋(山手通り)・中の橋・南部橋・柳
橋・千歳橋・天神橋・緑橋・朝日橋・宿山橋・桜橋・別所・東横線鉄橋・日の出橋・宝来橋・皀樹橋
(駒沢通り)・田楽橋・なかめ公園橋・中里橋・田道橋・ふれあい橋・目黒新橋(目黒通り)・太鼓
橋(行人坂)・目黒線鉄橋・亀の甲橋・市場橋・谷山橋・本村橋・五反田大橋(桜田通り)・大崎橋
・池上線鉄橋・ふれあいK字橋・山手線等鉄橋・山本橋・御成橋・鈴懸歩道橋・小関橋・森永橋・居
木橋(山手通り)・山手線等鉄橋・御嶽橋・東海道線等鉄橋・要津橋・東海橋(東海道)・京浜本線
鉄橋・荏川橋・鎮守橋・品川橋(旧東海道)・新品川橋(八ツ山通り)・昭和橋(海岸通り)・東品
川橋。


■こまばエミナース
 閉館
 大橋2丁目19番5号(近衛輜重兵大隊駐屯跡地の一部)にあるホテル。昭和54年10月渋谷か
らほど近い駒場の丘にオープンし、名前の「エミナース」はフランス語の「Eminencs」で、
「丘」を表し、まあ日本流にいうなら「駒場ヶ丘ホテル」ってとこか。しかし運営母体が、あの悪名
高い、国民年金を食い潰して平然と生き続けている社保庁だ。東京だから儲かるんだろうね。「国民
年金中央会館」というのが本名で、レストラン、会議室、結婚式場、宴会場、大ホール、チャペル、
文化学園とてんこ盛りだ。
 平成22年3月悪運尽きたのか、閉館してしまった。けして赤字だったから止めた訳ではなく、年
間10億程度の利益はあった。跡地は既に野村不動産に売却済みだ。85億6500万円だそうだ。
跡地はマンション(駒場プラウド)になるそうだ。


■御狩場御用屋敷跡

 大橋2丁目20番4号に区の説明板がたっている。大橋2丁目11番の西半、16番の西北部、1
7~23番、世田谷区池尻4丁目の東側の一部に亘る面積を占めた。御狩場(駒場野一円)の管理事
務を司った。〝権兵衛が種蒔く〟の菅沼権兵衛が居たところでもある。鳥見役の次位の網差役を代々
務めた河井家は今も駒場に住んでいるという。

   御用屋敷跡
   江戸時代には、ここより北の方に駒場野と呼ばれる16万坪(528000㎡)に及ぶ広
   大な原が広がっていました。享保二年(1716)から駒場野は将軍家の鷹狩の場となり
   将軍がしばしば鷹狩に来ました。将軍が鷹狩に来た時に、食事や休憩の場となったり、平
   素狩場の管理や準備に当たる鳥見役人が詰めていた所が「御用屋敷」で、その建物がこの
   辺りに、建っていました。この屋敷の敷地の中には、将軍家のための「御薬園」があり、
   薬用のための植物が栽培されていました。
   昭和61年3月                      東京都目黒区教育委員会
 
 


【柿の木坂】(かきのきざか)1~3丁目               昭和40年1月1日
 衾村。明治11年大区小区制の廃止により荏原郡に復し、同22年「市制町村制」により碑衾村
大字衾 昭和2年碑衾町大字衾 昭和7年衾小字東柿木坂北・東柿木坂南・東三谷・東下通・東谷
戸・東曾根・東中丸をあわせて目黒区柿の木坂町とし、同40年新住居表示により中根町のごくご
く一部をあわせた町域を現行の「柿の木坂」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『目黒区史』『目黒の歴史』など。

 柿の木坂の由来
 坂は柿の木坂と平町の間の目黒通りが東京方向に上りになっているところ、往時は南側に湾曲し
た急坂で神田や京橋の市場へ出荷する神奈川・世田谷・目黒の農民たちにとって厄介極まりない難
所中の難所だった。坂名の由来は、

 ①、坂道の脇に大きな柿ノ木が生えていたとする説と、
 ②、柿の実を市場へ納めるため柿生(現川崎市)の辺りからやってくる農民の荷車が上るの
   に四苦八苦しているときに、村の若者が後押しして手伝う振りをして柿の実を抜き取る
   ので「柿抜き坂」の悪名が起き、それでは聞こえが悪いので柿ノ木坂に言い換えたとい
   う不名誉な説、
 ③、さらに秋になるとたわわに実った農家の柿ノ木が見える坂の上からの観望から「柿ノ木
   の見える坂」の名が起きたという説、
 ④、この辺りは人家もなく寂しいところだったので追剥(おいはぎ=恐喝強盗)に襲われな
   いよう夕方時分には駆け抜けて通ったことから「駆け抜け坂」と呼ばれて、それが訛っ
   て、「柿の木坂」になったという由来(こじつけ)もある。

 坂上近く、目黒通り北側の歩道に標柱がある。

   柿の木坂
   坂の途中に目に付く大きな柿の木があったので、この名が付いたといわれる。また近所
   の子供がこの坂を通る野菜を運ぶ荷車から柿を盗ったため「柿抜き坂」が変って「柿の
   木坂」となったという説もある。目黒通りが今のように広くなる前は、現在の東横線高
   架橋の高さまで上る急坂だった。                     東京都


 坂の頂を殿山といい、碑文谷村と衾村の境界だった。ちょうど環七通り柿の木坂陸橋の下だ。
 Wikipediaに「柿の木坂」の記事があるので紹介しておく。

   当時の柿の木坂は周囲の農家や商人が大八車に荷物を載せて行き来する為に使われ、急
   で長く続く坂を登るのは慣れていても大変な作業であった。その為、登坂中にはスリに
   荷物を盗まれる事も多く、積荷を荷台から抜き取る行為が「引っ掻き抜く」と呼ばれて
   いた。それが転じて「掻き抜き坂」となり、明治の初め頃には「柿」が当て字として広
   く使われるようになり現在の地名の元となった。尚、柿の木坂を登り切った環七通りと
   の交差点には「岡田屋足袋店」という創業明治19年の足袋店があり(平成14年廃業
   ・平成18年解体)敷地内の目黒通り面してあった高さ10m程の柿の木が通りから目
   立っていたために地名と結びつけて説明される事が多くあったが、これは大正9年前後
   から後の時期に植えられたもので、地名とは無関係である。また柿の木坂には多くの柿
   の木が多く存在していたからという説があるが、これはこの地域が大規模再開発等の対
   象とならずに古い景観が多く残った事によるものである。昭和初期より前の東京におい
   て柿の木は非常にポピュラーな樹木であり、柿の木坂周辺において特別に多くの柿の木
   が散見されていたという記録は無い。その為、地名が実際の柿の木や柿を由来としてい
   るという説は誤りである可能性が高い。柿の木坂の由来に関する足袋店店主の証言は、
   目黒区立中央町社会教育館に保管されている「足袋のおもいで」という記録書籍にも一
   部が記述されている。


東根北野神社
 柿の木坂1丁目32番18号にある。祭神は日本武尊で、国常立命・弟橘媛命を合祀している。神
社の前が天神坂と呼ばれるように、地元で天神様と親しまれてきた北野神社は、元は農業神として田
んぼの脇にあった。社の内陣には衣冠束帯姿で、身の丈が25cmほどの像があり、毎年3月25日
の例大祭に公開されている。また俳句の記された絵馬や、正月の破魔矢なども奉納されている。鳥居
の右手には「衾第一耕地整理完成記念碑」がある。耕地整理というのは、入り組んだ畦道や細かい敷
地を整え、碁盤の目状に整然とした町(方形田)にするために行われるもので、衾村では昭和初期に
施行された。碑には「総面積57町5反4畝、工事着手昭和7年3月10日、完成昭和11年11月
30日・・・」などの記録が記されている。神社もこの時の耕地整理によって現在地に移された。
 境内の案内板に、
 
   天満宮の内陣には菅原道真公のご神体(木彫りの天神様)がお祀りされています。ご神体
   はいつの時代のものかわかりません。しかし平成13年7月奉賛会有志が御神体と社殿の
   下部と基礎を修復した時に、御神体の下部に「安永六丁酉九月二十五日 再興 小杉山十
   五世日従(花押)」と墨書が発見され、安永六年(1777)9月25日に小杉山常円寺
   十五世日従住職が再興したことが分かりました。


 とある。
 


天神坂
 柿の木坂1丁目と八雲1丁目の間、区民キャンパス公園(都立大学跡地)の東側を南に下る坂道。

   天神坂
   坂の途中に天神様(菅原道真)を祀る北野神社があるので、この坂名となった。
もとは駒
   沢方面へと通じる古道であったが、現在は区画整理により直線的になり道筋も変更になっ
   ている。
   平成21年3月                          目黒教育委員会
 


【上目黒】(かみめぐろ)1~5丁目                     昭和43年1月1日
 上目黒村。明治11年大区小区制の廃止により荏原郡に復し、同22年「市制町村制」により目
黒村大字上目黒字別所・伊勢脇・諏訪山・烏森・蛇崩。大正11年目黒町大字上目黒。昭和7年目
黒区上目黒1~4・6丁目となり、同44年新住居表示により上目黒2~3丁目の全部に、1・3
・6丁目の各一部をあわせた町域を現行の「上目黒」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『目黒区史』『目黒の歴史』など。

 上目黒の由来
 上は京都に近い方を上とする約束事による。他の上目黒村の村域は中央町・中目黒・中町・青葉
台・東山・祐天寺・五本木・大橋に分散した。町内はほぼ住宅街で烏森小学校のほかに特別なもの
はない。


■目切坂(暗闇坂)
 上目黒1丁目と青葉台1丁目の境をなす坂道で、この道はかつての鎌倉道だ。目切の名の起こりは

 ①.石臼の目を切る職人伊藤興右衛門が住んでいたことによるという説と、
 ②.往時は鬱蒼たる森林地帯の暗闇坂であり、坂道が曲がりくねったギザギザ坂だった
   ので、廻り坂と呼ばれたのが訛ったという説、
 ③.ギザギザが鋸の目切りを連想させたという説
 ④.丸旦山の斜面に対して斜めに切り通したので、石臼の目切のようだといったという説

 などがあるが、これと断定できるものはない。樹木の鬱蒼と生い茂った坂道で、大正頃まで追剥(お
いはぎ)も出るようなところだった。今でもひったくりをする不良がいるように、いつの時代も悪ガ
キはいるもんだ。それで「暗闇坂」「閉切坂」の別称があった。いまでもしっとりとした坂道である
ことに変わりはない。坂下の道路端に区の標柱がある。

   目切坂
   この付近にうすの目切りをする石工が住んでいたので目切坂と呼ばれるようになったとい
   われる。また斜め切通しなので目切坂と呼ばれるようになったともいわれる。
   昭和58年3月                         目黒区教育委員会


 標柱の近くの植栽の中に説明板がある。

   めぐろの風景 目黒区みどりの散歩道
   
目切坂と旧鎌倉街道
   目の前の坂が目切坂。江戸時代、近くに石ウスの目切りをする腕の良い石工が住んでいた
   ことから、この名前がついたという。この道はかつての鎌倉街道でもある。源頼朝が鎌倉
   に幕府を開いた後、変事の際に援軍が鎌倉に急行できるようにとつくられた道の一つ。
   「いざ鎌倉へ」鎧かぶとの武者たちが馬を飛ばしたのは800年も昔の話だ。


■新道坂
 上目黒1丁目1番と2番の間、槍ヶ崎の交差点から駒沢通りを南に40mばかり下ると右に逸れ、
目黒川へ下っていく坂道。坂の傾斜は緩やか。坂の名の由来は坂上近くにある都が建てた標識に次
の通り記載されている。

   新道坂
   坂名は、別所坂と目切坂の間に新しく開かれたため、新道坂と呼ぶようになった。坂上の
   左右に見えるコンクリートの擁壁は三田用水の名残である。三田用水は、寛文四年(16
   64)芝白金御殿の池水を引くために玉川上水の分水路として作られ、この尾根を通って
   三田・芝方面に流れていた。人々は農業・工業・雑用水として利用したが昭和五十年その
   流れを止め、約三百年に亘る歴史を閉じた。線路際の狭い坂が旧道である。   東京都


 駒沢通りは、江戸時代からあり「世田谷道」と呼ばれた鎌倉道で、不思議なことに坂道の記載がな
い。新道は明治時代に開かれた道で、世田谷道と区別するために新道、新道坂と呼んだようだ。丁度
目切坂と別所坂の中間に当る。
 槍が崎とは、槍の穂先のように突き出た地形だったようで、今は切り崩されて無い。
 


■元富士跡

 上目黒1丁目8番10号キングホームスのところにあった。以前ここは根津嘉一郎の屋敷があった
ところで、今はマンションになっている。
 文化九年(1812)目黒・馬引沢・深沢・芝金杉・麻布仙台坂・麻布新町・麻布六本木・麻布坂
下町・麻布善福寺門前などの講員によって富士塚が築造され、高さ12mで九十九折れの登山道も造
り、山頂に浅間神社が祀ってあった。文化二年(1819)に近藤重蔵が邸内に築いた中目黒の富士
塚は、上目黒の富士塚に対して新富士と呼ばれたため、相対的にこちらの富士塚は「元富士」と呼ば
れた。この2つの富士塚は好一対をなして眺めも美しく、広重の錦絵にも描かれて、東都名所の1つ
だった。毎年六月一日に山開きといってお祭が催されたが、江戸中の富士講中が全部参詣し、その他
の参拝者も多数あり、香具師が仮店を張り、山頂から餅を撒いて参詣人に振舞うなど、大変に賑わっ
たという。その後次第に富士信仰が衰えていき、終に明治11年浅間神社の石祠・鳥居を撤去し、富
士講の碑石も大橋氷川神社に移されてしまい、その敷地は岩倉家の所有から根津家のものとなり、美
しかった山容も取り崩されて山形を失い、今は殺風景なマンションが建つのみだ。

   目黒元富士跡
   江戸時代に、富士山を対象とした民間信仰が広まり、人々が集まって講をつくった。それ
   を富士講という。富士講の人々は富士山に登るほかに、身近なところに小型の富士を築き
   これに登って山頂の石祠を拝んだ。
   このマンションの敷地にあった富士は、文化九年(1812)上目黒の富士講の人々が築
   いたもので、高さは12mもあったという。文政二年(1819)中目黒二丁目に新しく
   富士が築かれ、それを新富士と呼ぶようになってから、ここの富士は元富士といわれるよ
   うになった。
   元富士は明治11年に取りこわされ、石祠や講の碑は昭和18年上目黒氷川神社に移され
   た。
   昭和58年3月                      東京都目黒区教育委員会
 


■現耀寺
 上目黒1丁目18番2号鈴木ビルの2階にある日蓮宗の寺。1階の上がり口に目黒川地蔵尊が安置
されている。前は目黒川で、詳細不明。
 明治34年江東区太平に開創し、昭和11年に移転してきたという。

 

■目黒ゲートタウン

 上目黒2丁目1番1号にある複合施設。平成14年4月中目黒駅前というか横に完成した上目黒2
丁目再開発地区である。タワー棟(地上25階建て)、ハイツ棟(地上15階建て)、テラス棟(地
上5階建て)の3棟で構成されている。タワー棟はオフィスビル、ハイツ棟は4~12階が都市再生
機構(UR)の賃貸住宅で13~15階とテラス棟が地権者住宅となっている。


 
浮遊する雲
 タワー棟のゲート部分にあるジャン=フランソワ・ブランのオブジェ。壮大な天空をテーマにした
雲の作品が軽やかに浮かんでいる。夜間にライトアップされると、また別の印象を与える。平成17
年の制作。

 
百の月の池
 タワービルの地下オープンスペースに展開されたジャン=フランソワ・ブランの作品。「月が波間
に揺れ、いくつも反射する様をイメージした」床面に緑色の光がランダムにやわらかく明滅し、建築
空間全体をアートと見立てている。

 
都市の祝祭-City festival
 タワー棟の南側、2棟の壁面の記号用の飾りとその間にある象のオブジェほか。東京に留学してい
たこともあるレバノン在住のアーティストで建築家のナディム・カラムの作品。都市の祝祭というテ
ーマで、施設内の各所で様々なモチーフのキャラクターを設置。非常に数が多いので、ぜひあちこち
探してみほしい。ファーレ立川にも作品がある。

 流浪の第六天社
 タワー棟の南の側面、目黒銀座通りに面してこぢんまりしたお宮が鎮座している。巨大な高層ビル
の下の小さな白木造りの社殿は、ちょっと場違いな建物という感じがしないでもない。狭いが綺麗に
整備された境内では、「第六天社」の文字がくっきりと刻まれている巾の広い刀身のような形をした
古びた石碑がすぐ目に付く。祭神は天神さまから六代目の神様、面足尊(おもだるのみこと)・惶根
尊(かしこねのみこと)だそうで、これが神社名になった。創建はいつごろか分からない。元はもっ
と山手通り寄りの高架際(2丁目1番6号)にあり、さらにその前は石川橋、今の山手通りのところ
に架かっていた橋際に祀られており、現在の3丁目地域にあった「石川田圃」、同6丁目地域にあっ
た「小川田圃」を水害や旱魃から守る神様として信仰されていた。農業の守護神だった訳だが、明治
45年の社閣併合令、つまり明治政府の神社合併策によって現在も大橋2丁目に鎮座している氷川神
社に合祀され、その後社地跡も環状6号線(山手通り)の敷設のため失われてしまった。しかし地元
では単独の神社として復活させようとの要望が強く昭和10年その願いを叶えた。復興の地は、現在
の目黒銀座と蛇崩川の間の路地裏だった。後に周囲が飲食店に囲まれたような状態になったが、地元
の信仰の厚さは変わらなかった。
 平成になって中目黒駅前の再開発で第六天社の土地がまた失われた。同11年ご神体は近くの中目
黒の八幡神社に遷され、再び仮住まいとなったが、地元の人たちはこの神さまを見捨てるような不義
理はしなかった。現在地に新しい社殿を造営して同14年3月祭神を戻して安置した。流転の農業神
は、高層ビルの陰に漸く安住の地を得たのだ。
 流石に10年を超えると古めかしくなり似合ってきた。

   第六天社
   この社祠は第六天社と呼ばれ、最初は石川橋の付近(現在の上目黒2丁目側)にありまし
   たが、明治末期から大正初期にかけて推進された神社合併政策により、上目黒氷川神社(現
   在の大橋2丁目16番21号)に合祀されました。
   その後、道路建設(現在の山手通り)により、最初にありました第六天社の土地もとり払
   われましたので、昭和10年11月地主朝倉氏の協力を得て、地元融資の発起により上目
   黒2丁目1番6号に社祠が再建されました。
   また、中目黒駅前最開発に伴い、平成11年3月中目黒八幡神社に仮安置されましたが、
   平成14年3月目黒銀座通りに面するこの場所に移されました。
   祭神は、天神六代の神である面足尊、惶根尊です。昔、近くにあった石川田圃(旧上目黒
   3丁目地域)や小川田圃(旧上目黒6丁目地域)を水害や旱魃などから守る農村の守護神
   ・厄除けの神としてまつられていました。
   現在は、健康長寿、商売繁盛、家内安全の神として地元の人たちに厚く信仰され、毎年1
   月、5月、9月の例祭には中目黒八幡神社の神官により祭事が行われています。
   平成14年3月                         目黒区教育委員会



■目黒銀座(伊勢脇通り)
 上目黒2丁目の中目黒駅の東南側を東横線とほぼ平行に祐天寺の方に延びる商店街。伊勢脇道とか
伊勢脇通りと呼ぶ。平成14年3月に中目黒の新たなシンボルとして中目黒GTが完成し、夜9時4
5分まで開館している中目黒駅前図書館、150人まで利用できる中目黒GTプラザホールなどが新
たに設られ、翌年の15年1月には区役所が移転してきた。昭和54年に誕生した目黒銀座音頭が、
夏のお祭りで阿波踊りとともに踊られていたが、平成16年からはよさこいも加わり、いっそう賑や
かになった。
 地方に銀座が500ほどもあるというが、戸越銀座が最初だ。しかし戸越銀座はただ肖っただけで
はなく、銀座の火事で出た瓦礫を譲り受けて、湿地を改良して水捌けの良い土地にした。それで戸越
銀座と命名した訳だ。目黒銀座は銀座とは全く無縁だ。


■けこぼ坂
 上目黒2丁目と中目黒3丁目の間、駒沢通りの中目黒交差点から目黒区役所の方に上がっていく坂
道。昔、恵比寿方面から別所坂を下り、さいかち橋で目黒川を渡り、この坂道を通って祐天寺門前か
ら碑文谷に至る交通の要衡だった。槍が崎を通る世田谷道(駒沢通り)より近道だからだ。そのため
古くから何回となく急な個所を切り取る切り通しの工事を繰り返し、同坂の距離はかなり長くなり、
頂上部の勾配も緩やかなものになった。切り取られた両側の土手の法面は崩れ易く、赤土の塊がぼろ
ぼろ毀れ落ち、道幅を狭めていた事さえあったという。こんな状態を、古い目黒の方言で「けこぼ」
と称し名前の由来になったという。けこぼ坂は駒沢通りとなり主要な交通路であり、朝夕の混雑は
有名だ。坂下から上がって左側の高台の上に中目黒小学校があり、その向かいにアメリカンスクール
(千代田生命→目黒区役所)があった。坂の途中にある目黒消防署中目黒出張所には、かつて高い火
の見櫓があったが、高いビルやマンションが建ち、また電話の普及により役を果たさなくなり、消滅
した。

   けこぼ坂
   この道は昔の祐天寺道で祐天寺を経て碑文谷衾に向かう目黒の主要道路だった。嘗てこの
   辺りは急坂であったため、斜面を切り開く切通しの工事が何回となく繰り返された。その
   結果道の両側の土手はますます高くなり、風雨にさらされた土手からは赤土のかたまりが
   ざらざらこぼれおちた。この状態を目黒の古い方言で「けこぼ」といい土地の人々はこの
   坂を「けこぼ坂」と呼んでいた。              昭和59年3月 東京都
 


■けこぼ坂街かど公園
 上目黒2丁目9番18号にある区立の小公園。平成9年3月31日開園。駒沢通りに面した憩いの
スペース。
 


■けこぼ坂庚申塔
 上目黒2丁目10番4号けぼこ坂下、区役所の直近、駒沢通りに面してある。何といっても覆屋が
凄い。御影石造りだが、頑丈なこと夥しい。一度見に行ってご覧な。庚申塔1基にこれほどまでする
かというほど見事な作りだ。声も出ないというか、笑っちゃうというか・・・
 


■愛国報恩教会
 上目黒2丁目14番7号にある法華宗本門流の寺。詳細不明。 


■目黒銀座観音(馬頭観世音)
 上目黒2丁目14番にある小堂。大正時代の終わりごろ、乳牛牧場や馬力運送する業者がこの辺り
に多かったことから、何名かが発起人となり牛馬の息災を護り、亡くなった動物の霊を弔うために建
てられたとか。毎月9日を縁日と定め、この日はお参りに来る人もひときわ多い。現在ある社殿は、
昭和10年にできたものであり、同31年に「目黒銀座観音」と称されることになった。
 馬頭観音は当時の主たる労働力・運搬力だった馬に感謝するために建てられる供養塔だ。死馬を埋
めた場所や坂道、川端などに建てた。

   目黒銀座観音
   大正時代の終り頃、この辺りには小規模の乳牛牧場や馬力運送を業とする者も多く、目黒
   恵比寿畜舎運送組合を結成していました。その第業の小林氏や土地の開発に熱心であった
   神山氏等が発起人となって、牛馬の息災を護り、死後の菩提を弔うとともに、土地の開発
   を願い東松山市上岡の妙安寺から霊験あらたかな馬頭観音の分霊を勧請し安置しました。
   その後、新たに木彫24.3cm(約8寸)の馬頭観音像も安置され、大正12年に妙安寺
   住職を招いて盛大な入仏開眼式が執行されました。境内に建つ最大の碑は、その勧請記念
   の碑です。正面に「大正12年7月19日馬頭尊記念 武州上岡妙安寺住職第19世仏光」
   とあり、背面に恵比寿や目黒の寄付者200余命の名前が刻まれています。翌大正13年
   3月19日に第1回の大祭が執行され、50数頭の馬も参列したといわれています。
   以後、毎月9の日を縁日と定めてきました。現在の社殿は、昭和10年の建築であり、昭
   和31年12月に目黒銀座観音と改称されました。江戸時代からの馬頭観音信仰を伝える
   貴重な資料でもあります。
   平成5年3月                          目黒区教育委員会

 観音橋
 かつて蛇崩川に架かっていた。川が暗渠とされたため撤去された。今は暗渠上に設けられた駐輪場
の名前として残っている。橋跡は中目黒駅西のガード(諏訪山第一架道橋)の直ぐ南。
 


■旧
千代田生命本社ビル → 目黒区役所

 
上目黒2丁目19番15号にある区役所は、平成15年中央町から、昭和41年村野藤吾設計が設
計した旧千代田生命本社ビル跡へ移って目黒総合庁舎とした。改修に当たっては、文化財的な価値が
尊重され、村野の意匠の重要な部分は当時の姿を留めている。日本の近現代建築を語る上で重要な位
置にある旧千代田生命本社ビルだ。村野の建築は、細部に至るまで肌理細かな心遣いと仕上げがなさ
れており、それが特色の1つにもなっている。今も残る茶室や和室、そしてエントランスホールのディ
テールには、その丁寧な設計と施工の仕上げの技が確認でき、現代の視点から見ても、全体から部分
に亘るこだわり方には独特の哲学が感じとれる。


■けこぼ坂
 上目黒2丁目と中目黒3丁目の境、山手通り中目黒交差点から駒沢通りを西に上る坂道。坂道は旧
祐天寺道の一部で、古くは下渋谷から別所坂を下り、皂樹(さいかち)橋で目黒川を渡り、この坂道
を通って祐天寺前から碑文谷に至る交通の要衝だった。そのため古くから何回となく急な箇所を切り
取る工事を繰り返し、同坂の距離はかなり長くなり、頂上部の勾配も緩やかなものになった。でもマ
マチャリじゃあきついがよ。道路面の変化は、両側の土手の法面にも変化を与え、高い法面は崩れや
すく、赤土の塊がざらざらこぼれ、道幅を狭めていたことさえあったという。この状態を古い目黒の
方言で「けこぼ」と称し、名前の由来になったという。現在坂は駒沢通りの一部となり、現在も主要
な交通路である。区役所前の坂道。


■けこぼ坂庚申塔

 区役所の敷地の東端角、駒沢通りに面してある。大谷石の覆屋の中にある。


■中目黒しぜんとなかよし公園

 上目黒2丁目19番18号にある。平成15年1月の目黒区の庁舎移転に伴い、同年3月31日に
開園した庁舎前の区立公園。駒沢通りに面しているが、樹木に囲まれており穏やかな雰囲気だ。
 公園内には、平和の石や落ちバンクがある。

 平和の石
 国際平和年の昭和61年、広島市と目黒区の職員の交流がきっかけとなり、当時の荒木武広島市長
から、被爆した旧広島市庁舎の階段の一部が核兵器の廃絶と世界恒久平和実現のシンボルとして寄贈
されたもので、区ではこれを「平和の石」と命名しました。広島に原爆が投下された8月6日は、毎
年「平和の石のつどい」が開催される。

 落ち葉ンク・落ちバンク
 その落ち葉溜めのことを「落ち葉ンク」と名付けて、腐植土を作る運動。目黒区では、公園や学校
などに落ち葉だめをつくって、花壇に利用する土を作ったり、虫たちの棲処にする活動を始めた。
 


■庚申塔 
番地違い 
 上目黒2丁目29番にあるらしい。で、探した。
 天祖神社は32番だが、境内の一部が僅か乍ら29番に入っており、庚申塔は境内にあった。庚申
塔は29番と表記されるが、29番側にある訳ではない。この庚申塔については、次項の天祖神社に
記載してある。


■天祖神社

 上目黒2丁目32番15号にある。祭神は天照皇太神を祀っている。創建の年月は詳かでないが、
境内の老木が多く、かなり古い時代の創建と考えられる例祭は毎年9月第1日曜日に行われ神官は十
日森神社社掌が兼ねている。社殿は昭和8年の造営だとか。
 「新編武蔵風土記稿」の上目黒村の項に、

   神明社
   除地四畝九歩、同じ邊にあり。これも小祠なり。

 とある。区の説明板は以下の通り。

   天祖神社
   古くから伊勢森と言うこの地に鎮座している神社で、天照大神を祭神として祀り、地元人
   の深い崇敬を受けています。創建の年代は不明ですが、境内には樹齢数百年と推定される
   老樹が多く、その年代から考えてもかなり古い時代の創建と思われます。
   現在の社殿は昭和8年5月に新築されたものです。毎年9月の第1土、日に例大祭が行わ
   れ、現伊勢脇町会、現祐天寺町会員が氏子として祭事を行っています。なお、本殿右奥に
   は神輿蔵があり、一年中宮神輿が見学できます。
   境内には、宝永五年(1708)と、道標をかねている享保元年(1716)年の2基の
   庚申塔が建立されています。
   平成17年9月                         目黒区教育委員会

 庚申塔2基
 共に青面金剛と三猿が彫られたものだ。一方は宝永五年(1707)の年号、もう一方は享保元年
(1716)の年号が刻まれており、享保の年号を持つ塔は道標にもなっていたという。道標の銘は
「是より末町さき四辻、大道九品仏道、右せたかい道、左ふとう道」とあるとか。この庚申塔はもと
もと、駒沢通りを少し西へ行ったところにあったと、郷土史家は語る。例の庚申みちとの交差点辺り
にあったようだ。道をまっすぐ行けば九品仏、庚申みちを右に行けば世田谷、左に行けば目黒不動と
いうことになり一致する。昭和15年に、駒沢通りがオリンピックの準備のために拡張された折にこ
こへ移ってきたという。それまで駒沢通りは、祐天寺の先で大きく左へそれていたそうだ。
 区の説明板は以下の通り。

   天祖神社の庚申塔                     目黒2-32‐15
   この2基の庚申塔は駒形で、宝永、享保の頃の建立で、両碑とも駒型、合掌六臂、日月二
   鶏、三猿の青面金剛像です。
   右側の享保の碑は彫像碑にはめずらしく
道標を兼ねているもので、区内の道標碑としては
   最古のものです。道標碑がこの時代に作られたのは、江戸の人たちの社寺編覧が盛んになっ
   たことと関係があるのでしょう。
   左側の碑は宝永五年の銘があり、講中九人の名が掘られています。
   道標には、「これより町さき四辻 大道、九品仏道 右せたがや道 左ふどう道」と銘文
   があります。
   町はずれの道をさのまま進めば浄真寺の九品仏へ、右は世田谷方面、左は目黒不動へとい
   う訳です。
   この碑は、はじめ辻前の街道の際にあったものです。
   平成元年3月                       東京都目黒区教育委員会

   天祖神社の庚申塔                     目黒2-32‐15
   この2基の庚申塔は駒形で、合掌六臂の青面金剛、日月、二鶏、三猿が浮き彫りされてい
   ます。江戸時代、農村では60日に1度巡ってくる庚申の日に人々が集まって青面金剛を
   まつり、飲食をしながら夜を明かす庚申待という民間信仰が盛んに行われていました。庚
   申待を18回終えた後に建てたのが庚申塔です。右側の庚申塔は享保元年(1716)の
   建立で、彫像面には珍しく道標を兼ねていて、区内の道標碑としては最古のものです。右
   側面の道標銘には、
     是より末町さき四辻、大道九品仏道、右せたがや道、左へふとう道
   と刻まれており、それぞれが九品仏(浄真寺)、世田谷、目黒不動へ続く道だったことが
   わかります。左側の庚申塔は宝永五年(1708)の建立で「奉待庚申青面金剛」の銘と
   講中9人の名が彫られています。
   平成22年3月                         目黒区教育委員会
 


■伊勢脇公園
 上目黒2丁目32番19号にある区立公園。天祖神社の隣にあり、昭和52年3月20日に開園し
た。目黒区総合庁舎からも近く、地元に愛されている公園の1つ。ブランコやすべり台などの遊具が
ある。「伊勢脇」とは「天祖神社脇」のことだ。天祖神社は神明社で、神明は天照大神のこと。つま
り伊勢神宮の天照大神を勧請している。それで伊勢脇どいう訳だ。


■イカロ
 上目黒2丁目44番24号Coms中目黒4階にあるイタリア料理店。モダンなビルに控えめな看
板。小さな店だが、広い窓に囲まれて開放感がある。テーブル掛け無しの食卓に椅子、気軽なトラッ
トリア(食堂)の雰囲気。シェフは7年のイタリア滞在の経験料理に生かし、ワイン通の兄がサービ
スを担う。料理の種類は豊富で、特に手打ちパスタが充実している。スペシャリテはパッパルデッレ
ア(トスカーナ地方のリボン型のパスタ)蝦夷鹿の煮込みソース。和牛頬肉のグーラシュ(ハンガリ
ー風シチュー)はシェフが得意とする北イタリアの料理。
 18時~1時(土曜日は24時まで) 休み:日曜・年末年始  03‐5724‐8085

 ミシュランガイド東京 
 『2011』から『2014』まで3年連続で星1つを取っている。
 


■小川坂

 上目黒3丁目と東山1丁目の境、中目黒駅から山手通りを大橋方面へ向かって歩くと、上目黒交差
点から西へ斜めに入る道がある。烏森小学校の方へ上る道だ。弓のような弧を描く緩やかな坂で周辺
に旧家小川家所有の土地が多かったのこの名前となったらしい。
 この坂道も鎌倉街道の一部で、坂を下ると目黒川に架かる宿山橋から目切坂を経て渋谷へと続き、
坂を上ると寿福寺から碑文谷八幡宮、下野毛へと通ずる。昔、坂東武者が鎌倉目指して駆けたこの坂
も、現代の馬「自動車」にとっては下りだけの一方通行路。坂は何処が坂上か判らぬほど緩やかだ。
で、小川坂上道標なるものが、烏森小学校内にある。元の場所は上目黒3、5丁目と東山1丁目の接
する三叉路だ。小川坂からいうと300m西に当たる。

 (注)鎌倉街道は江戸時代以降の呼称で、古くは鎌倉往還、鎌倉道だ。鎌倉に通ずる道、またその
道に通ずる道は総て鎌倉道といい、関東地方に無数にある。つまり東海道も、奥州街道も鎌倉道だ。
 区の昭和58年3月設置の木製の標柱は、ステンレス製の説明板に替わった。文章は全く同一だ。

   小川坂
   かつてこの一帯を「小川」といい坂下に広がっていた田んぼを「小川田んぼ」と呼んだ。
   この辺りの旧家小川家が地名のの由来といわれる。また、この坂のある道は、鎌倉へ通じ
   る道として中世のころ開かれた鎌倉道であった。
   平成21年3月                         目黒区教育委員会



■中目黒駅

 上目黒3丁目4番1号にある東急東横線と地下鉄日比谷線の停車場。昭和2年8月28東京横浜電
鉄が渋谷~丸子多摩川(多摩川)間を開業させたのと同時にできた駅。地下鉄日比谷線は昭和39年
7月22日に乗り入れ、日比谷線が全通した同年8月29日から東横線との直通運転を開始した。ホ
ームは高架島式2面4線構造。外側のホームを東横線、内側のホームを日比谷線が使用する。エレベ
ーター完備。改札口は1階にある1ヶ所のみ(東急・東京地下鉄共通)で、出口は山手通りに面する
正面の大きな出口と、南側の路地に出る小さな出口の2ヶ所。さて中目黒とは豪く離れており、何で
上目黒じゃないの? 
 この駅ができた時、230m南、大鳥神社交差点のところに路面電車の玉川電鉄の中目黒停留所が
あった。これに連絡することを明示するために、上目黒1816番地なのに、中目黒と名乗った理由
らしい。目黒川皂樹橋(さいかちばし)南に設置された中目黒停留所は、山手線の外側に突出した東
京市電網のいわば終点・起点となっていた。当時橋南は道路の西端が上目黒と中目黒の境界になって
おり、路面内に設置された停留所は中目黒に属し、停留所名はそれに従ったものだ。後に境界は東縁
に変更された。この停留所は路線が昭和42年に廃止されたため同時に撤去された。最初から上目黒
にしとけばよかったのに・・・
 

 ●日比谷線中目黒事故
 平成12年3月8日(水)午前9時頃、中目黒駅手前の急曲線で、日比谷線を走っていた北千住発
東急東横線直通菊名行き(営団03系03‐102編成)の最後尾車両が、左右車輪にかかる重量の
不均衡、脱線防止ガード(ガードレール)非設置を主とする複数の要因で、緩和曲線の捻れ部で乗り
上がり脱線。横取りポイントに誘導され、対向の中目黒発東武線直通竹ノ塚行き(東武20050系
21582編成)と側面衝突、大破して死者5名、負傷者64名を出した。営団地下鉄にとっては
身事故を除く初の
死亡事故となった。

 営団での輪重比管理は平成4年に半蔵門線車庫で2度の脱線事故を経験して、社内調査でその必要
性が指摘され、職場からは輪重計設置要求が出されていたが却下・放置された。半蔵門線車両のみの
輪重調整に留めた事で、日比谷線には輪重比30%を超える車両が走り、半径140m以下に脱線防
止ガード設置という営団の極端に低い設置基準で、現場の半径160.1mには、脱線防止ガードが無
く惨事を防げなかった。また東横線横浜脱線事故が全く同様の輪重比の不均衡で起こり、以後±10
%以内に調整し半径450m以下の全カーブに脱線防止ガードを設置していたが、これについて運輸
省が全事業者に通達を出す事は無かったので、営団でも点検されなかった。
なおこの事故の報道にお
いては、複数要因が重なって発生した脱線事故であることをもって、国鉄が「競合脱線」と説明した
昭和38年の鶴見事故と比較されることが一部にあった。また、この事故が法改正を促し航空・鉄道
事故調査委員会発足の契機にもなった。


 慰霊祭
 日比谷線の脱線衝突事故から8年になる同20年3月8日朝、東京都目黒区の中目黒駅近くの現場
で慰霊祭があった。事故発生と同じ午前9時1分から、遺族や東京メトロの役員らが線路脇の慰霊碑
に献花して犠牲者の冥福を祈った。


■中目黒駅前街かど公園

 上目黒3丁目4番2号にある区立公園。平成14年3月26日開園。電車に乗る前後に、ほっと一
息つく憩いの場。
 


■天雅

 上目黒3丁目16番13号Cube-M地下1階にある日本料理店。愛知県の実家が営む天ぷら割
烹の店で長年修業した店主が東京に進出。この店の魅力は、手の込んだ日本料理と天ぷらのどちらも
楽しめること。品数も十分に満足できる。
 18時~23時(最終注文21時半) 定休日 月曜日 8月中旬 年末年始
 03‐6303‐4003

 ミシュランガイド東京 
 『2014』で初めて星1つを取った。


■国土地理院
 九段南に移転
 上目黒3丁目24番に昭和33年7月から同54年4月まであった国の機関。当初は内務省地理調
査所と称し、昭和35年から国土地理院となった。
 跡地は、東山公園・東山地区センター・特養老人ホームとなった。


■東山公園

 上目黒3丁目24番にある区立公園。昭和59年3月29日開園。平成9年度に拡張。平成22年
度に拡張。平成23年3月31日に拡張整備が完了し、草はら広場やスポーツ等広場など、一層の充
実が図られた。

 国土地理院跡地記念碑
 地球の球形を決めるための測量の基準となる国際重力点があったことから、跡地記念碑には、この
地点の標高31.93mと重力値979.76ガルが記載されている。

   
国土地理院跡地記念碑
   この地に昭和33年7月から昭和54年4月までの間、建設省国土地理院があり、国内の
   重要な測量地図の作成等を行っていました。ここには、地球の形を決めるための測量基準
   となる国際重力点がありました。
   昭和59年3月29日                 建設省国土地理院長 田島稔
                                        目黒区


 
一等水準点
 4つの石に囲まれて中央に水準点の石がある。傍らに説明板がある。


   
一等水準点 第11025号
   水準点は地図の作成や道路の建設等に必要な土地の高さを精密に測定するための基準とな
   るもので、全国の主な国道などに沿って、約2kmごとに設置してあります。
   水準点の高さを繰り返し測定することによって、土地の上下変動を精密に求め、地震予知
   や地盤沈下対策に重要な役割を果たしています。

     標高 31.1m
     北緯 35度31分
     東経 139度41分

                                  建設省 国土地理院
                                    東京都 目黒区
 


■上目黒三丁目夫婦殺傷事件
 上目黒3丁目33番7号の大原宅で起きた、同家の主人夫妻が何者かに襲撃され、夫が死亡、妻が
軽傷を負わされた事件。平成23年1月10日午後4時45分頃、インターホーンが鳴ったので、主
人の大原道夫(87歳)が応対に出ると、宅配業者だというので玄関ドアを開けると、いきなり鎌を
振るって道夫に襲い掛かった。妻瑠璃子(81歳)が叫び声を発すると近所に聞こえ、助けに来た隣
人が、道夫に馬乗りになっている男を発見、鎌を取り上げたが、犯人は果物ナイフを取り出して、道
夫の腹部を執拗に刺したという。その後近所の人に向かっていき、傍にあったスコップを取って身構
える隣人に対して威嚇し、後ずさりするのを見届けると、逃げようとしたが、玄関先においてあった
本人のものと思われる黒いカバンを持って走り去った。瑠璃子によると犯人とは初対面で、恨みを買
う覚えはないという。道夫も見たこともない男だといっていたようだ。11時25分頃死亡した。

 犯人逮捕
 平成23年2月10日福島県いわき市の無職、在日朝鮮人木村義昭(65歳)を殺人と傷害容疑で
逮捕した。そのきっかけは中目黒駅近辺での防犯カメラに写っていた犯人像、その後の捜査で、やは
り東京駅の防犯カメラに高速バスを利用する中目黒駅の防犯カメラに写っていた犯人と同じ服装をし
た男を発見、時間帯を絞って予約者名簿の中から木村を特定、いわき署で任意同行を求め、取り調べ
た結果、犯人と断定して逮捕、その日の内に目黒署に身柄を引き渡した。但し木村は黙秘。家宅捜査
でも当日の服装や所持していたカバンは見つかっていない。
 判決は無期懲役。ああまた朝鮮人か・・・
 

 ●在日朝鮮人の凶暴犯罪(全体の79%)
 大正10年「都電運転手等連続7人殺人10人傷害事件」 朝鮮人R無期懲役。
 大正12年「朴烈事件(皇族殺害計画未遂)」朴準植(戦後北朝鮮で処刑)・金文子(自殺)
 昭和 6年「荏原警察署巡査殺害事件」A→無期懲役 B→懲役6年
 昭和 7年「桜田門事件」の李奉昌(イボンチャン)死刑執行、
 昭和17年「多摩川流域軍需品窃盗団事件」朝鮮人104人逮捕
 昭和20年「名古屋少年匕首殺害事件」犯人逮捕後韓国へ逃亡 平成13年免訴
      「直江津駅リンチ殺害事件」犯人3人逮捕後韓国に逃亡
 昭和21年「東京・冨坂警察署襲撃事件」(朝鮮人暴動)
      「神戸・生田警察署襲撃事件」(朝鮮人暴動)
      「京都・七條警察署襲撃事件」(朝鮮人暴動)
      「日光中宮祠六人殺害放火事件」朴烈根(死刑執行)崔基業(死刑執行)
      「長崎警察署襲撃事件」(朝鮮人暴動)」
      「京都・七條警察署巡査殺害事件」 朝鮮人5人逮捕
      「長野・東條村強盗・警察官殺害事件」 朝鮮人4人逃亡
      「名古屋・中京私設警察リンチ事件」(日本人を監禁拷問)
      「富山駅前派出所襲撃事件」(朝鮮人暴動)
      「熊本・一勝地村農家六人殺害事件」 2人死刑執行・1人無期懲役
      「新潟・坂町事件」(警察官を集団暴行)12人検挙
      「新潟日報襲撃事件」(朝鮮人暴動)9人起訴
 昭和22年「山梨・百田駐在所巡査射殺事件」 北朝鮮人死刑執行 
      「神奈川税務署員殺害事件」(集団暴行)
      「北海道津別事件」(朝鮮人暴動)
      「秋田・尾花沢派出所襲撃事件」(朝鮮人暴動)
      「関東朝鮮人強盗団事件・池袋診療所強盗殺人事件」朝鮮人10人逮捕
 昭和23年「会津破蔵事件」(集団強盗)犯人3人逃亡中
      「浜松事件」(朝鮮人暴動)17人に懲役刑 『ヤクザの勲章』として有名。
      「阪神教育事件(朝鮮人学校事件:朝鮮人暴動)」
      「青森・五所川原抗争事件」(朝鮮人暴動)
      「仙台・評定河原事件」(朝鮮人暴動)
      「山口・宇部事件」(朝鮮人暴動)
      「東北・ワ号(涌谷)事件・朝鮮人窃盗団連続窃盗事件」40人に懲役刑
 昭和24年「島根・益田事件」(益田警察署襲撃事件:朝鮮人暴動)
      「新潟・高田濁酒事件」(朝鮮人暴動)
      「福井・本郷事件」(派出所襲撃集団暴行)
      「福島・平事件」(朝鮮人集団暴行)
      「岩手・塩釜事件」(総連・民団抗争)
      「山口・下関事件」(総連・民団抗争)
      「関東・朝鮮人強盗団事件」(260人検挙)
      「福井・武生事件」(朝鮮人集団暴行・放火)
 昭和25年「東京・台東会館事件」(朝鮮人暴動120人検挙)
      「岡山・連島町事件」(朝鮮人暴動8人検挙)
      「神戸・長田区役所襲撃事件」(朝鮮人暴動26人逮捕)
      「滋賀・大津地方検察庁襲撃事件」(朝鮮人暴動43人逮捕)
 昭和26年「三重・四日市事件」(朝鮮人暴動15人検挙)
      「東京王子朝鮮人学校事件」(朝鮮人暴動)
      「神奈川朝鮮人学校事件」(朝鮮人暴動28人検挙)
      「東京・日野事件」(朝鮮人暴動20人検挙)
      「兵庫・下里村役場集団恐喝事件」(朝鮮人暴動15人を検挙)
      「大阪・東成警察署襲撃事件」(朝鮮人暴動15人逮捕)
      「親子爆弾事件」(クラスター爆弾工場襲撃集団暴行)、
 昭和27年「青森・木造地区警察署襲撃事件」(朝鮮人暴動)
      「大阪・多奈川町事件」(朝鮮人暴動27人逮捕)
      「血のメーデー事件(朝鮮人デモ隊警察と衝突)」
      「広島地裁被疑者強奪事件」(朝鮮人暴動放火犯強奪)
      「名古屋・高田派出所襲撃事件」(朝鮮人暴動)
      「仙台・大梶南事件」(朝鮮人抗争)
      「奈良警察署官舎襲撃事件」(警察官の親に集団暴行:重体)」
      「山口・万来町事件」(朝鮮人集団暴行)
      「京都・島津三条工場事件」(朝鮮人が集団で押し寄せて警察に火炎瓶投擲)
      「滋賀・醒井事件」(朝鮮人暴動)
      「大阪・吹田事件」(朝鮮人集団凶暴化111人逮捕)
      「大阪・枚方事件」旧陸軍工廠→小松製作所枚方工場爆破放火98人検挙
      「名古屋・大須事件」(朝鮮人暴動)
      「群馬・警察予備隊相馬ヶ原駐屯地爆破未遂事件(5人逮捕)
      「長崎・大村収容所事件」(朝鮮人暴動)
      「青森・五所川原税務署襲撃事件(密造朝鮮人暴動)」
 昭和28年「別府市警察署襲撃事件」(朝鮮人暴動)、
 昭和30年「東京・上十条二丁目交番爆破事件」ダイナマイトを投げ込んで爆破、警察官重傷


 ※戦後の10年の暴徒化は、朝鮮人特有の民族病である火病(ファビョン)や、戦勝国民気取り
  もあるが、昭和30年を境に尻ぼそりになっていくのは、在日朝鮮人の自覚や反省によるので
  はなく、ユダヤの使嗾(そそのかし)がなくなったからだ。つまりユダヤがシフト替えして学
  生運動に転化していった。しかしその学生運動も、その手先は朝鮮人青年だった。また、こう
  してつらつら眺めてみると、朝鮮人の分布が津々浦々にまで及んでいるか判るというものだ。
  彼らは何も大阪にだけ集中している訳ではない。国会議員の七分の一近くに喃々とするという
  ことは、いかにユダヤの意思が、最早抵抗できぬところまでに至っているということだ。
   今、ISIS(イスラム国)なるテロ集団があるが、アルカイーダ同様、これもユダヤが組
  織したもので、ウサマ・ビンラーディンの母親はユダヤ系オマン人だ。同様、アブ・アクバル
  ・アル・バクダディは、本名はサイモン・エリオットというイスラエル人で、モサドのメンバ
  ーだ。アラブ人に成りすまして、アラブの若者を唆している。因みに「バクダディ」ってえの
  は、江戸っ子同様、「バクダッドの人」というコードネームだ。
  朝鮮人に日本名(通名)を名乗らせ、本名を隠させたのはユダヤ人で、ユダヤ人自身が、その
  国の名前を名乗って成りすましてきた。ロスチャイルドも、ロックフェラーも本名じゃない。
  フランスのオランド大統領も、ドイツのメルケル首相もユダヤ人、どうせパリ襲撃事件もその
  元はユダヤだ。何しろ平和を追求しすぎて国と国との戦争がなくなったから、武器が売れなく
  て、売れなく、生産過剰になっちゃうから、何としても償却しなくっちゃあ、というので、テ
  ロ組織を拵えて、騒ぎを起こし武器を売り捌いて帳尻を合わしてる。尖閣問題を引き起こした
  石原慎太郎もその手合いだよ。武器類償却のための日中戦争が企てられているのかも。戦争と
  革命はユダヤの金儲けの手段だからね、未来永劫なくならないよ。

 昭和33年「東京・小松川高等学校女子生徒殺人事件」(李珍宇)、死刑執行
 昭和34年「新潟・韓国工作員日赤センター爆破未遂事件」、
 昭和43年「静岡・金嬉老事件(人質立て籠もり事件)」、無期懲役
 昭和53~54年「東京埼玉連続幼女誘拐殺人事件」 宮崎勉(帰化)死刑執行
 平成 5年「埼玉愛犬家連続殺人事件」関根元・風間博子 死刑確定
 平成 9年「神戸連続児童殺傷事件」の酒鬼薔薇こと東真一郎また西岡真とも
      「奈良月ヶ瀬村女子中学生撲殺事件」の丘崎誠人(混血)無期懲役 獄中自殺。
 平成10年「和歌山毒物カレー殺人事件」の林真須美(帰化)、死刑判決
      「目白通り19人強姦強盗事件」の宋治悦(ソンチヨル)無期懲役 
 平成10~18年「大阪19人監禁強姦事件」の山元平和(金平和)無期懲役。
 平成11年「光市母子殺害事件」の大月(福田)孝行、死刑確定
      「新潟少女強姦事件」の崔智栄・金乗實
 平成12年「ルーシー・ブラックマン殺人死体遺棄事件」の織原城二(金聖鐘)無期懲役。
 平成13年「大阪教育大学付属池田小学校」の宅間守(兄は朝鮮名のまま)。死刑執行
 平成14年「大分老夫婦刺殺事件」金玟秀(キムミンス 留学生)無期懲役→懲役15年
 平成14~21年「鳥取連続6人不審死事件の上田美由紀 死刑判決
 平成15年「スーパーフリー事件(連続輪姦)」の和田真一郎(保釈後、和田耀平に改名)
 平成16年「山梨県二少女強姦事件」の高直幸、懲役15年
      「大牟田連続殺人死体遺棄事件」北村一家4人全員死刑確定
      「元千葉ロッテ投手強盗殺人死体遺棄事件」の小川博 無期懲役
 平成16~17年「大阪17人強姦事件」の松岡寿明(金寿明)、無期懲役
 平成17年「聖神中央教会事件」の永田保(金保)信者の娘22人を強姦。懲役20年
      「大阪・自殺サイト殺人事件」の前上博 死刑執行
      「千葉少女スーツケース詰め殺人事件」の長谷部泰輔(創価大)無期懲役
 平成18年「秋田児童連続殺人事件」の畠山鈴香 無期懲役
 平成19年「渋谷女子大生誘拐事件」伊金男・李勇(無期懲役)・崔基浩(懲役10年)
      「市川・英国人女性殺害・死体遺棄事件」市橋達也、無期懲役
      「長崎市長射殺事件」の城尾哲弥(白正哲) 無期懲役
      「佐賀入院患者人違い射殺事件」の今田文雄 無期懲役 死亡
 平成20年「秋葉原通り魔17人刺傷事件」加藤智大 死刑 弟優次自殺
 平成21年「首都圏連続不審死事件」の木嶋佳苗 死刑判決
      「新橋ストーカー耳かき店員殺害事件」林貢二(朴貢二)無期懲役。
      「千葉・松戸女子大生強姦殺人放火事件」の竪山辰美 無期懲役
 平成22年「大阪ミナミ女子高生連続16人強姦事件」の徐一(ソ・イル)懲役25年
      「マツダ本社工場車暴走連続殺人事件」の引寺利明 無期懲役
      「長岡京市義父母殺害事件」佐野敏男(李敏男)無期懲役
      「下関市6歳女児殺害事件」湖山忠志(許忠志)懲役30年
 平成23年「大津いじめ中学生自殺事件」通名山田晃也(事件後佐田に改称)
      「目黒夫婦殺傷事件」木村義昭 無期懲役
 平成24年「尼崎連続虐待殺人」の角田美代子(獄中自殺)、李正則(無期懲役)
 平成26年「佐世保同級生殺人解剖事件」の徳勝もなみ 精神病院送り、父親自殺。
      「兵庫・政務費詐取号泣釈明会見事件」の野々村竜太郎 初公判ドタキャン
 平成27年「川崎中学一年生リンチ殺人事件」の船橋龍一
      「大阪・高槻中一少年少女殺害事件」の山田浩二
      「虎ノ門弁護士男性器チョン切り事件」の小番一騎
      「小岩女子高校生強盗殺人」の青木正裕

 その他、強盗殺人、婦女暴行、幼児殺害100件ほどの凶悪犯罪が、在日若しくは帰化人の仕業と
なっている。中には態々韓国から出張してきて犯行を犯している奴がいる。おいらはガキの頃、朝鮮
人の凶悪残虐を目の辺りにしてるよ。
 外国人犯罪で窃盗は圧倒的に中国人だが、殺人・放火・強盗・暴行・障害・脅迫・恐喝は総て韓国
人・朝鮮人だ。これはおいらの想像じゃないよ。警察庁の発表だ。


 
何故朝鮮人・韓国人は凶暴事件を起こすのか?
 それには悲しい歴史事実がある。歴史始まって以来、朝鮮半島は中国の属国とされた。それはそれ
は悲惨な歴史だった。虐げられること3000年というからおっとろしい。朝鮮には、両班(リャン
パン・ヤンパン)と白丁(ぺクチョン)という身分関係があった。両班は、李氏朝鮮における支配階
級・貴族階級で、普通の人、良民をさした。両班とは、元々2つの班、文官(東班)、武官(西班)
の官僚組織のことだった。
 白丁とは、白い着物しか着れない哀れな身分の人、つまり賎民、奴隷階級の人をいった。韓国人の
殆どはこの奴隷身分だが、韓国人に「先祖は?」と訊くと、100人が100人、「両班だ」と答え
る。えーっ! 白丁の子孫は皆殺しにしちゃったっていうのかい? で、韓国では、人を罵倒する時
に「白丁野郎!(ペッチョンノム)」と使う。最大の侮辱語だ。日本にこれに匹敵する言葉はない。
だから、韓国で「私の先祖は白丁だ」といおうものなら、人間的扱いは受けない。
 朝鮮半島では「北鮮南韓」といいって、北鮮(高句麗)が支配階級で、南韓(三韓)は差別階級と
いう思いがある。経済的に優位に立つ現在でも、韓国は北朝鮮の風下に置かれている。横田めぐみが
拉致されたことになっているが、母親の早紀江は、梨本宮方子(朝鮮王国皇太子妃)の娘だ、つまり
お姫様だ。ということはめぐみもお姫様ということだ。そんじょそこいらの娘が学校帰りに拉致され
るかい。めぐみは朝鮮王女として金正日に嫁いだのだ。金正恩、恩は日本では「めぐみ」と読むんだ
よ。白丁は元々は身分で、中国の律令制度だ。当然それを模倣した日本にもあった。やがて日本では
「白徒」つまり「博徒」となった。やはり非差別階級だ。明治以後はヤクザとなった。そのため在日
の荒くれ者で、凶悪犯罪を犯さない者はみんなヤクザ・右翼になる。
 李氏朝鮮の時代に、身分制度が複雑化し、国王・両班・中人・常人・賎民に大別され、白丁は「ペ
クチョン/ベッチョン」と呼び。七般公賎(官奴婢・妓生・官女・駅卒・獄卒・犯罪逃亡者)、八般
私賎〔巫女・皮革業者・使令(宮中奏楽者)・僧侶・才人(芸人)・社堂(男の旅芸人)・挙史(女
の旅芸人)・白丁〕といわれた賎民階級の最下位に位置付けられた非差別民をさすこととなった。
 朝鮮半島において白丁は以下の差別を受けた。
  1.族譜(系図家譜)を持つことの禁止
  2.屠畜・食肉商・皮革業・骨細工・柳細工以外の職につくことの禁止
  3.常民との通婚禁止
  4.日当たりのよい場所、高地に住むことの禁止
  5.瓦屋根の建物に住むことの禁止。
  6.文字を知ること、通学の禁止
  7.他身分の者に敬語以外の使うことの禁止
  8.名前に「仁・義・礼・智・信・忠・君の文字の使用禁止
  9.姓を持つことの禁止
 10.公共の場への出入り禁止。
 11.葬式で棺桶使用禁止

 12.結婚式で桶の使用禁止
 13.墓を常民より高い位置・日当たりのよい場所作ることの禁止
 14.墓碑を建てることの禁止
 15.一般民の前でむねを歩くことの禁止
 これらの禁を破れば厳罰を受け、時にはリンチを受けて殺害された。その場合、殺害犯はなんの罰
も受けなかった。白丁は人間ではないとされていたためである。こういった差別は、上位身分になれ
ば逓減していったが、韓国民は概ね、中国人によって虐げられていた。
 で、この地獄の身分差別を打破したのは日本で、戸籍制度を取り入れて、身分制度を撤廃、総ての
朝鮮人を平等とし、身分を縛る禁止項目を廃止、総ての朝鮮人に学校教育を施した。これに両班は猛
反対したが、日本政府は断固として押し通した。朝鮮人らはこれに抵抗して、戸籍に旧身分を記入し
たり、履歴書に書かせるなどしそれが現在までも残っていおり、第二次世界大戦終結により、日本統
治の平穏な時代が過ぎると、ユダヤが隠れ宗主国となり、韓国民を苦しめている。韓国は世界で売春
と自殺とが最も多い国である。
 韓国が、世界遺産に「宮廷料理」なるものを申請した。和食は世界遺産に登録されたが、この宮廷
料理なるもの、「誰が食べたんだ!」といって拒絶された。奴隷国家に宮廷料理何ぞあるはずもなく
戦後の創作では図々しすぎるわな。韓国の歴史ドラマなるものが数々あるが、みんな柄物の衣裳を着
込んでいる。明治時代の日本統治以前の数々の写真を見ると、柄物を着ている民衆は一人もいない。
つまり中国の抑圧によって染織技術が発展しなかったため染物がなかったのだ。蓋し白丁なのだ。
 この欝々とした歴史を背負った朝鮮民族は、永い抑圧の中で民族病、国民病ともいうべき精神病を
患っていった。「火病(ファピョン)」という。


 
火病または鬱火病(ウラッピョン)
 これは、怒りの抑制を繰り返すことで、ストレス障害を起こす精神疾患を指す。ヒステリーと類似
した症状を発症する。アメリカ精神医学会は、火病を「朝鮮民族特有の文化依存症候群の1つ」とし
ている。症候として、疲労、不眠、パニック、切迫した死への恐怖、不快感、食欲不振、消化不良、
動悸息切れ、呼吸困難、全身の疼痛、心窩部に塊がある感覚などを呈する。英語では「anger syndro
me(憤怒症候群)」と訳され、原因は怒りの抑制によるとされている。本来、朝鮮民族が中国に立ち
向かって自立し、自分たちで勝ち取るべき権利を、日本が取り除いて上意下達で与えてしまったので
自由と平等を手に入れたものの、中途半端な精神状態に陥ってしまったのだ。本来、女性に多い病気
だが、時に男性において発症すると、発狂、奇声、自傷、自殺、泡口、忿怒、激情、暴行等凶暴化す
る。朝鮮人による婦女暴行、いじめ虐待、暴力行使、殺人、リンチ事件が多いのはこのためだ。天国
だった日本統治が終わると、経験の無い自尊自立に戸惑い、そしてユダヤの支配。朝鮮人は、平和を
謳歌する日本人に少なからぬ嫉妬心がある。彼らが悪魔だという日本に移住して日本人になりたがる
のは嫉妬の裏返しだ。日本、日本人が嫌いなら、韓国に帰ればいいのだが、日本人に成りすまして日
本定住を心から希望する。朝鮮人にとって日本は天国なのだ。どう抗っても日本を越えることはでき
ない。ユダヤの属国といいながら、日本は欧米先進国に伍して劣る所がない一流国家だ。これからも
朝鮮人韓国人による凶暴犯罪はなくなることはない。
 在日朝鮮人有力者らの希望で、韓国人犯罪者は本名を知られることがない。通名で通せるから、刑
期を終えた後、また別の通名に変えれば善良な日本人に成りすませる。こんなことでは在日の犯罪は
なくなることはあるまい。もし朝鮮名で立候補したら1人として国会議員なることはあるまい。
 


■諏訪山下馬頭観音

 上目黒3丁目34番13号、駐車場の隅、道路に面したところにある。
 


■烏森小学校

 上目黒3丁目37番27号にある。昭和3年菅刈小学校・中目黒尋常高等小学校から分離独立して
「東京府荏原郡烏森尋常小学校」として開校。校旗制定。同5年校歌制定。

 校歌「窓より望む富士の峯」 作詞・尾上八郎  作曲・松島ツネ
  1.窓より望む富士の峯
    朝夕渡る目黒川
    高き自然の化を受けて
    誠の心一筋に
    学ぶぞ我らの務めなる
  2.学びの道の行く手には
    永久の光ぞ輝ける
    古葉は止めぬ烏森
    日に新しき力持て
    いざや励まん我が友よ


 同10(7?)年「東京府東京市烏森尋常小学校」と改称。同15年不動小学校を分校。同16年
国民学校令により「東京府東京市烏森国民学校」と改称。上目黒国民学校の開校に伴い一部生徒を移
籍。12月日米開戦。同18年都制施行により「東京都烏森国民学校」と改称。同19年福島県江川
村に学童集団疎開。同20年愚かなアメリカ軍の非人道的無差別空爆により校舎全焼。8月日本は、
ならず者国家アメリカの軍門に降り惨めな敗戦。以後属国とされ、唯々諾々といいなりになる保守的
傀儡政権を保持せざるを得ない今日的不幸を背負い込む。もう200兆円以上持っていかれたし、米
兵に少女が犯されても、告訴を取り下げさせて泣き寝入りだ。これからの若者は米軍の尖兵として最
前線の激戦地に送り込まれるぞ。
 同22年2月仮校舎落成。4月アメリカの強制による学校教育法施行により「東京都目黒区立烏森
小学校」と改称。同25年木造2階建て校舎落成。同33年東山小学校を分校。同36年体育館兼講
堂完成。同38年~55年改築鉄筋コンクリート造り校舎落成。同42年創立40周年記念式典。同
43年プール完成。同52年創立50周年記念式典。同62年創立60周年記念式典。
 平成3年新体育館・新プール完成。同14年75周年を迎えた。同17年給食民間委託。同18年
2学期制導入。

 烏森の由来
 烏森稲荷神社があったことから、明治22年に町村制が敷かれ上目黒村が目黒村大字上目黒に成っ
た時、字名として誕生した。それまでは、周辺を含めたこの辺り一帯を「宿山」と呼んでいた。小字
というのは地租改正の時、明治政府の役人が土地を勝手に調査して区分図を作りそれに適当に名前を
記入したのが基となっており、地元の人が付けた訳ではない。地名として誕生してからの烏森地域は、
大正11年の町制を経て、区が誕生した昭和7年に上目黒三丁目1646~1785番地となり、さ
らに43年1月の新住居表示制では上目黒3丁目14~27番、36~44番となった。

 小川坂上道標
 門内にある。高さ90cm×幅21cm×厚さ30cm。

   目黒区文化財 小川坂上道標
   ・この道標(みちしるべ)は学校の門から西へ約100m行った角にあったが、保存のた
    めここに移した。
   ・文政十二年(1829)に上目黒村の人々によって建てられたことが裏に刻まれている。
    
 碑 文
   正面 欠損して文字不明
   右面 ふたご道並二十間程行
      西 阿巴しまほりのうち道
                有之
   左面 東 麻布ひろうまち道
      南 目黒ゆうてんぢ並不動尊
   裏面               清水藤左ヱ門
            上目黒村宿山組 同 源之丞
      文政十二丑年        同 利兵ヱ
                    同 吉之助
                    同 半兵ヱ
                    梅沢新三郎
                    菊 池 新 八
                    堀井磯左衛門
                    小川仁右ヱ門
                    高橋広右ヱ門
                    小野伊三良
                    ■榊山久蔵


■烏森
稲荷神社
 上目黒3丁目39番14号、蛇崩川の諏訪山橋北の台地に鎮座している。祭神は倉稲魂命。

 「新編武蔵風土記稿」に

   稲荷社
   除地五畝十五歩。小名宿山組にあり、一間四方。鎮座の年暦を詳にせず。社地に古木多し。
   入口に木の鳥居を並。

 とあり、区の説明板に、

   烏森稲荷神社
   この神社は、旧上目黒村宿山組の鎮守で、祭神は蒼稲魂命です。創立年月は不明ですがか
   なり古く、下馬引沢村の新堀新左衛門が寿福寺の境内に祀ってあった稲荷神をこの地に移
   したと伝えられています、農耕神として農作守護と村人の授福開運を祈願して崇敬されて
   きたのでしょう。その昔、宿山稲荷講の人達が江戸新橋の烏森稲荷へ参拝に行った時に、
   狐が白い馬になってついてきたのでそれを祀ったのが始まりという伝説もあります。また
   昭和29年草葺屋根を瓦葺にふきかえた時に、雨乞い祈願をしたものと思われる黒馬が一
   頭奉納されてあったことがわかりました。例祭は、毎年9月の第3土曜、日曜日です。境
   内には老樹が繁り清水が湧出して閑寂な雰囲気を作っています。
   平成3年3月                          目黒区教育委員会


 とある。


護法山西照寺

 上目黒3丁目44番6号にある真宗大谷派の小寺。大理石の門柱の内は狭い境内、直ぐに本堂、真
宗らしい落ち着いた寺だ。庫裏は左手に。明治16年港区内に建てられ、大正14年に現在地に移転
してきた。本尊は阿弥陀如来。
 


■刺抜稲荷神社

 上目黒4丁目8番8号の田中家の貸駐車場の端にある。稲荷社には、立派な石碑に神社の由来が書
かれている。

   由来記
   今から655年前、国内は南朝北朝に分れ戦乱の世となりました。このとき南朝の雄新田
   義貞公の弟 義興公が鎌倉攻めにあたり多摩川の矢口渡しにおいて 不遇の死を遂げられた
   ので家臣であった田中家の先祖が、この地に土着して主君の霊を弔うお堂を建てたのが創
   まりと伝えられています
   爾来一族のシンボルとして今日に至りましたが日頃参詣参拝される多くの信者さんからは
   霊験新たかなお稲荷さんと親しみ愛され崇敬されてまいりました。
   このたび老朽化のため建替えにあたり、こにルーツの概要を刻み遥か昔を偲び向後の資と
   します
   平成四年四月吉日(1992年)                      田中家
 


■稲荷坂

 上目黒4丁目7番と8番の間から南へ上がっていく坂道。8番8号の旧家田中家に刺抜稲荷がある
ことから、その名がある。
 


■謡坂
(うたいざか)
 上目黒4丁目30番と五本木1丁目6~8番の間の坂道。この名の坂は、近畿以東に40余りある
という その一つが目黒区にある。区のブログに、

   坂名の由来については、資料が少なく、確かをものはない。目黒区郷土研究会の資料によ
   ると 「ウタイ」の語源か、アイヌ語のウタ、出崎を意味するとある。蛇崩川は、昔、か
   なり大きな川だったらしく、その川に出崎があり、そこをこの坂がう回していたのではな
   いかとある。
   昭和17年から坂の中ほどに住む小沢夏哉さんに話を伺った。
   「私が、ここに来た当時は、道幅もせまく、もっと坂らしい坂でしたよ。道幅は1時間半
   ぐらいだったかな。追いはぎが出た寂しい坂でしたよ。坂名の由来ね・・・ 古くから住
   む地元の人でないと判らないんじゃないですか」というので、2、3人に訊いてみたが、
   判らない。そこで、地元の人で祐天寺界隈では、一番の長老といわれる田中守太郎さんに
   話を伺うことにした。
   「この辺には、昔は何もなかった。周囲は、畑とナラ林だけ。震災の後だったか、坂の脇
   に16軒長屋なんてものが建って、人がぽつりぽつりと住み始めたっけ。そこの人たちが
   『坂に何か名をつけよう』ということで「うたい坂」とつけたんだね。この長屋に長唄か
   踊りを教える人がいたなんて話も聞いたことがあったな」
   年々、古くから地元に住む人が減っていることもあって、区内にある沢山の坂の中でも、
   その名やそれにまつわる話の分かる人が少なくなってきている。
   現在の謡坂は、左右にギッシリ家が建ち並らび、アスファルトで舗装された道となってい
   る。


■宿山の庚申塔
 上目黒5丁目5番7号角、野沢通りに面して4基ある。以前は覆屋があったが朽ちて取り払われ、
露仏となった。西照寺の境外仏。付近に建てられていた庚申とを含めて、ここには4基の庚申塔があ
る。この中に目黒区としては唯一の延宝三年に建てられた地蔵庚申塔がある。

   宿山の庚申塔                          上目黒5‐5‐7
   江戸時代の農村では、庚申信仰が盛んで各集落に庚申講があったといいます。60日毎に
   めぐってくる庚申の日に、講の人々が集まって青面金剛、帝釈天、猿田彦などをまつり、
   飲食をともにしながら夜を明かす庚申待が行われました。そして庚申待を18回終えると
   供養や記念のために庚申塔を建立しました。この辺りは字名を宿山といいました。
   向って右から2番目の庚申塔は、元禄五年(1692)の造立で本尊を青面金剛とし、日
   月、二鶏と、三猿が正面左右の三面にそれぞれ一猿づつ浮彫されています。その左の庚申
   塔は地蔵菩薩を本尊とするもので、延宝三年(1675)に造立されました。一番左の庚
   申塔は宝永五年(1708)の造立で、青面金剛、日月、二鶏、三猿が刻まれています。
   平成22年12日                        目黒区教育委員会 


■半兵衛坂
 上目黒5丁目12番と18番の間の坂道。寿福寺前から蛇崩川(暗渠)へ下っていく。坂名の由来
は、この地の豪農清水家の当主半兵衛の名に因む。

   半兵衛坂
   江戸時代、この辺りに清水半兵衛を代々名乗る旧家があったため、半兵衛坂と呼ぶように
   なった。尚、この道路は昭和十五年の幻の東京オリンピックの際に整備されたので、通称
   「オリンピック道路」とも呼ばれる。
   平成二十一年三月                        目黒区教育委員会 
 


新清山観明院寿福寺

 上目黒5丁目16番6号にある天台宗の寺。滝泉寺の6末の1。宿山集落とは深い関係で結ばれた
由緒ある寺だ。元和元年(1615)大阿闍梨鳳算の開基。享保の頃中興の祖といわれる孝順の時護
国院の末となって栄え、護国院が廃寺となった後、目黒不動瀧泉寺の末寺となった。本堂は天明八年
(1788)5世知皎和尚の時再建したが、これが明治8年に焼失したため、同13年廃寺となった
行人坂明王院の本堂(念仏堂)を移して再々建したものだったが、昭和49年鉄筋コンクリートに改
めた。八百屋お七と吉三郎に因んだ念仏堂の額はこの寺に移され現存している。また本堂には、江戸
初期の作といわれる木彫彩色の青面金剛立像が祀られている。
 「新編武蔵風土記稿」の上目黒村の項に、

   壽福寺
   除地三段七畝十二歩、小名宿山組にあり。天台宗下目黒瀧泉寺の末なり。新清山と号す。
   開基は下馬引澤村の人民勝五郎といひしもののよし。今も其子孫吉兵衛と称して、現に其
   地に住居すれども、当寺草創の年代及び開山和尚の名さへも傳へず。中興の開山を法印高
   順と云。享保十二年十月廿三日示寂せり。客殿八間に六間半。本尊阿弥陀如来を安置せり。


 とある。区の説明板は以下の通り。

   寿福寺                           上目黒5‐16‐5
   この寺は、天台宗で、山号を新清山といい、元和元年(1615)大阿闍梨鳳算の開山で
   す。享保(1716~1736)のころ、中興の祖といわれる孝順のとき、護国院の末寺
   となって栄えました。
   以前の本堂は、行人坂明応院の阿弥陀堂を移したものでしたが、昭和50年、現在の鉄骨
   に建て替えられました。西蓮上人ゆかりのある念仏堂の扁額は、今も本堂に掲げられてい
   ます。また、本堂には、木彫彩色の立派な青面金剛像が祀られています。
   昭和55年6月                      東京都目黒区教育委員会

 文中「阿弥陀堂」とあるのは「念仏堂」のこと。阿弥陀堂が正しいかどうかは不明。

   
寿福寺
   「新清山観明院壽福寺」といい、天台宗でご本尊は阿弥陀如来です。元和元年(1615)
   鳳算大阿闍梨が創建されたと伝えられていますが、当境内にある鎌倉時代の板碑から、草
   創はさらに遡るものと推定されます。この寺は、享保の頃(1716~1735)中興の
   英主といわれる孝順大和尚のとき、上野護国院の末寺として大いに栄えました。
   現在の本堂は、昭和50年に、建替えられましたが、それまでの本堂は明治13年に行人
   坂の明王院念仏堂を移建したもので、その「念仏堂」の由緒ある扁額は今も掲げられてい
   ます。また、本堂には木彫彩色の青面金剛立像が安置されています。
   門前には、相生地蔵とよばれ信仰されている2體の延命地蔵尊や庚申塔などが立っていま
   す。また、宿山の烏森稲荷は元禄の頃(1688~1703)に当寺境内の稲荷社を移し
   たものです。                          目黒区教育委員会

 庚申塔・相生地蔵2体
 門前にある。

 区内最古の板碑
 寺宝。弘安二年(1279)に建てられた。

 〝種蒔き権兵衛〟初代川井権兵衛の墓
 墓地に、駒場野で〝種蒔き権兵衛〟の名で知られる綱差初代川井権兵衛の墓がある。初代は農民の
出で、戒名は華屋暁雲信士、寛延二年(1749)に没した。しかし全国各地に種蒔き権兵衛の話は
ある。

   権兵衛が種蒔きゃカラスがほじくる
   三度に一度は追わずばなるまい
 
 


【五本木】(ごほんぎ)1~3丁目                   昭和43年1月1日
 上目黒村・中目黒村。明治11年大区小区制の廃止により荏原郡に復し、同22年「市制町村制」
により目黒村上目黒・中目黒。大正11年目黒町大字上目黒・中目黒。昭和7年目黒区上目黒5丁
目。同43年新住居表示により上目黒5丁目のほぼ全部に、中目黒3丁目・三谷町の各一部をあわ
せた町域を現行の「五本木」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『目黒区史』『目黒の歴史』など。

 
五本木の由来
 町名は上目黒村字五本木組から採用した。鎌倉時代からあった地名と考えられ、五本の大樹が街
道脇にあったことによるらしく、守屋会館の北側の道は鎌倉道の名残りだという。街道は明治になっ
てさえ身の毛もよだつほど薄暗く、威勢のいい若者でも敬遠(しりごみ)したとか。今でなくてよかっ
たよ。
 


■芦毛塚

 野沢通り蛇崩(じゃくずれ)交差点に近い五本木1丁目と世田谷区下馬5丁目の境にある。『江戸
名所図会』には

   宿山という小地を称ふる地の里正(名主)金子氏構(かまえ)の内にあり、頼朝卿乗る所
   の芦毛の馬斃れたるを埋蔵せし旧跡云ふ


 と書かれ、『新編武蔵風土記稿』には

   下馬引沢の内上目黒の堺にありて凡そ二間四方の塚なり。昔頼朝御葦毛の馬に乗りて此塚
   を過ぎ給ふ時馬驚き沢中に陥り、忽死したるを埋めし処と云ふ

 と載せてある。塚は昭和5年の区画整理の際、塚を公有地として道幅を広くロータリーに造り替え、
33㎡の舟形にし、路面より1mぐらい高くしたようだが、今は高くはしてない。敷地の内にはサイ
カチやシラカシの樹木が茂り、「芦毛塚之碑」が建っている。


■銃暴発幼児死亡事故
 五本木1丁目11番2号の医師立松秀樹(39)宅で起きた悲劇。平成19年12月9日12時2
0分頃、「銃が暴発し、家族がけがをした」と119番通報があった。救急車が出向くと、1階の居
間に立松の次男で保育園児の直樹(2)が銃で右胸を撃たれており、直ちに病院に運ばれたが、同1
4時前死亡が確認された。失血死とみられている。警視庁は、一緒にいた幼稚園児の長男(5)が、
立松が隣の部屋に手入れ用の道具を取りに行き、その場を離れたその間に、子供2人が入室。好奇心
のままにライフル銃に触っている内、引鉄に触れ暴発したとみて、銃の管理に問題がなかったかどう
かを調べている。
 まぁ、とろいお父っつぁんだ。子供のいるところで銃の手入れをすること自体、大間違いだし、装
弾している状態で銃を手放すなよ。苦し紛れに「弾が入っているとは思わなかった」だと。それじゃ
あ馬鹿じゃん。鉄砲の所持を許された者が、弾の有無が判らねえんじゃあ、銃持つ資格なんてねえよ。
バカヤロウ こんなのが医者なんだから、危ねえ、危ねえ!
 


■上目黒小学校

 
五本木1丁目12番13号にある区立校。同16年4月烏森国民学校・五本木国民学校内に「東京
府東京市上目黒国民学校」として開校。5月現在地に校舎落成し、烏森国民学校・五本木国民学校で
授業中の本校児童を移す。入校式・開校式・落成式を行う。12月日米開戦。同18年都制施行によ
り「東京都上目黒国民学校」と改称。同19年福島県矢吹町に学童集団疎開。同20年8月日本は、
ならず者国家アメリカの軍門に降り惨めな敗戦。以後属国とされ、唯々諾々といいなりになる保守的
傀儡政権を保持せざるを得ない今日的不幸を背負い込む。もう200兆円以上を持っていかれたし、
米兵に少女が犯されても、告訴を取り下げさせて泣き寝入りだ。これからの若者は米軍の尖兵として
最前線の激戦地に送り込まれるぞ。
 同22年2月仮校舎落成。4月アメリカの強制による学制改革により「東京都目黒区立上目黒小学
校」と改称。同24年教室不足により第五中学校に間借り。同26年創立10周年記念音楽会で校歌
制定。

 校歌「豊かな光が」  作詞作曲不明 
  1.豊かな光が降り注ぎ
    輝く校舎の朝の窓
    小鳥の囀り空に満ち
    明るい希望が湧き上がる
  2.流れも清らな多摩川に
    踊るよ元気な鮎の子ら
    楽しい歌声風に乗せ
    行こうよ岸辺を足軽
(かろ)
  3.憧れ遥かに飛ぶ彼方
    清
(さや)かな富士の嶺望む丘
    桜の葉陰に慕い寄る
    心を育む我が母校
    ああ仰げ上目黒小学校
 

 同35年目黒区教育相談所を併設。同40年第一次鉄筋コンクリート造り校舎。同41年第二次鉄
筋コンクリート造り校舎。同45年25mプール完成。同46年上目黒小学校「学校ひろば」開始。
同49年鉄筋コンクリート造り校舎。同56年同窓会発足。
 平成3年創立50周年記念式典。同13年創立60周年記念式典。同22年NHK教育番組で、英
語活動の授業の様子を放映。同23年ビオトープ「上目自然ランド」改修。創立70周年記念式典。


■田切公園

 五本木1丁目17番18号にある区立公園。祐天寺駅から上目黒小学校前の坂道を上りきって右に
曲がるとある。さて「田切」とは、緩やかな傾斜地に川が流れ、その両岸が崖のようになっている地
形をいい、古語で「たぎる」とは傾斜地や崖などで、水が早く走り流れ落ちる様をいう。嘗て蛇崩川
とその支流の中の沢の流域で「たぎられた」ところがあり「田切」という地名が生まれたが、いつ頃
「田切」が地名となったかははっきりしない。正式には、町村制が施行された明治22年に東京府荏
原郡目黒村大字上目黒字田切(たぎれ)という字名として登場した。その後、荏原郡目黒町を経て、
昭和7年の区制施行により、目黒区上目黒五丁目となるまで、その名は使われていた。では「田切」
と呼ばれた地域は何処かというと、大凡、現在の五本木小学校・祐天寺駅・蛇崩橋に囲まれる、五本
木1丁目・2丁目~祐天寺1丁目・2丁目に跨る町域で、住居表示施行以前では、上目黒五丁目23
17番地から2537番地までの一帯を指している。
 現在傾斜地は宅地化され、蛇崩川は暗渠となり、「田切」の地名の起こりとなった往時の面影は跡
形もない。園内に由来を記した説明板がある。

   
田切公園のお話
   古い本によりますと、「田切」とは、ゆるやかな傾斜地に川が流れ、その両岸が崖のよう
   になっているところといわれています。また、古語で 「たぎる」 とは、傾斜地や崖など
   で水が早く走り流れ落ちるさまをいっています。
   むかし、このあたりは、蛇崩川とその支流である中の沢の流域で、文字どおり「たぎられ
   た」ところがあり、そこから、この「田切」という地名が生まれたのではないかと思われ
   ます。
   「田切」という字名の使用の始まりは、はっきりしていませんが、町村制が施行された明
   治22年に、目黒村大字上目黒字田切(たぎれ)として定められています。その後、この
   地名は目黒町を経て、昭和7年の区制施行により目黒区上目黒五丁目となるまで使用され
   ていましたが、昭和37年住居表示の実施によって五本木一丁目となり、現在に至ってい
   ます。
   さて「田切」という字名は、正式には「たぎれ」でありましたが、土地の方々は、むしろ
   「たぎり」と呼び親しく愛用したようです。
   この地に公園を開設するにあたり、皆さんのご要望やその昔をしのぶよすがにもと考え、
   その名を田切公園と命名いたしました。
   どうぞ、皆さんの憩いの場や遊びの場として末永く可愛がってください。
   昭和52年3月30日                        東京都目黒区


■芦毛塚街かど公園

 五本木1丁目18番9号にある区立の小公園。世田谷区との境を成す道路の中央に、シラカシやサ
イカチなどが繁った「芦毛塚」がある。公園は塚の南の道路際にある僅かのスペース。使い物になら
ない不等辺の土地なので公園のようにするしかなかった。平成14年3月6日開園。


■本覚院

 五本木1丁目44番7号にある法華真宗の寺。お寺とはいいがたい和風建築の住宅。


■五本木ふれあい街かど公園

 五本木2丁目19番6号にある区立の小公園。スプリング遊具・砂場がある。平成13年3月7日
開園。


■守屋教育会館
・守屋図書館

 五本木2丁目20番17号にある。学校教育の充実振興と社会教育の発展とを目的として、昭和4
6年に開設された。以来、区の「教育センター」としての機能を担い、各事業を展開している。主な
事業としては、教育に関する調査・研究、教職員の研修、めぐろエミール、教育相談、視聴覚ライブ
ラリー、児童・生徒科学教室、児童合唱教室などがある。

 
郷土資料室 移転
 会館の中、1階にある。昭和38年守屋図書館の増設の際に、同館内に設置されたのが始まりで、
ついで同46年教育会館の設立により、同館内に移された。
 平成20年9月拡充させて目黒第二中学校跡の1階に移転した。

 
目黒護国神社
 
教育会館北側の敷地内にある。

 五本木庚申塔群
 護国神社の側に在る。これら庚申塔群(堂内5基、堂外2基)は、かつての目黒地域の農民の生活
と民俗信仰を伝える資料だ。庚申塔群前の道は、古道の鎌倉道と伝わり、五本木集落の庚申塔を建て
るにふさわしい場所だったと思われる。最初に建てた場所から移されることなく今に伝わっている。

   五本木庚申塔群                   目黒区指定文化財 歴史資料
                              昭和55年9月9日  指定
   小堂内に庚申塔4基、地蔵1基、堂前右手前に念仏塔1基、堂外左後方に庚申塔1基が建っ
   ている。青面金剛、日月、二鶏、三猿などが浮き彫りされ、貞享三年(1686)から文
   化八年(1810)にかけての年号や五本木庚申塔講中の氏名が刻まれている。ここにあ
   る庚申塔は、大型で保存状態や作柄が良く、江戸時代中頃から全国の農村で盛んになった
   庚申信仰や農民の生活を知る上で、重要な資料である。
   庚申信仰とは、近世以降全国農村で盛んになった民間信仰で、庚申の日に青面金剛の掛軸
   などをまつり、会食懇談しながら徹夜する信仰行事であったが、18回の集会を終えると
   このような記念の庚申塔を建立し大祭を営んだのである。
   昭和56年11月                        目黒区教育委員会


   
五本木庚申塔群                   区指定文化財(歴史資料)
                               昭和55年9月9日 指定
                               五本木2丁目20番16号
   小堂内に庚申塔4基、地蔵1基が納められ、その手前に念仏塔1基、堂外左後方に庚申塔
   1基が建っています。屋根の下の庚申塔には、青面金剛、太陽と月、2羽の鶏、3匹の猿
   などが浮き彫りされ、貞享三年(1686)から文化八年(1810)にかけての年号や
   五本木庚申塔講中の氏名が刻まれています。ここにある庚申塔群は、作柄や保存状態が良
   く、江戸時代中頃から全国の農村で盛んになった庚申信仰を知る上で、重要な資料であり、
   初めに建てたと思われる場所に残っていることも貴重です。
   庚申信仰は、60日に一度の庚申の碑に青面金剛の掛軸などを祀り、会食懇談しながら徹
   夜する民間信仰で、これを18回終えた後に供養として建てたのが庚申塔です。
   なお五本木庚申塔群の前の道は、鎌倉へ通じる古道の鎌倉道であったと伝えられています。
   平成22年3月                         目黒区教育委員会



■五本木小学校

 五本木2丁目24番3号にある。昭和2年東横鉄道が開通し、五本木の辺りの農地にも住宅が建ち
始めたが、この辺りの子供は中目黒尋常高等小学校か油面尋常小学校に通っていた。同6年地元の輿
望を以て学校が作られることになり、2月から始めて8月に校舎が完成。9月中日黒尋常高等小学校
から235名、油面尋常小学校から322名の児童を迎え、「東京府荏原郡五本木尋常小学校」とし
て開校。同9年雨天体操場兼講堂完成。同16年国民学校令により「東京府東京市五本木国民学校」
と名称が変わり、この頃には児童の増加で教室が足らず二部授業が重なったため、目黒国民学校を分
校。開校10周年記念式典・校歌制定。

 校歌「都の西南」 作詞・高野辰之  作曲不詳
  1.都の西南目黒の里に
    御嶽神社の鎮まる処
    五本木国民学校ありて
    我ら千百学びに通う
  2.彼の富士の嶺は彼等の鑑
    御空に高く正しく清く
    四時聳えて雲霧去れば
    千古変わらぬ神代の姿
  3.健き體に朗の望
    一つ心に養い育て
    末頼もしき御国の民よ
    興亜の民よと世に歌われん


 12月日米開戦。同18年都制施行により「東京都五本木国民学校」と改称。同19年福島県白河
町に学童集団疎開。同20年ならず者国家アメリカの軍門に降り惨めな敗戦。以後属国とされ、唯々
諾々といいなりになる保守的傀儡政権を保持せざるを得ない今日的不幸を背負い込む。もう200兆
円以上を持っていかれたし、米兵に少女が犯されても、告訴を取り下げさせて泣き寝入りだ。これか
らの若者は米軍の尖兵として最前線の激戦地に送り込まれるぞ。
 同22年4月アメリカの強制による学制改革により「東京都目黒区立五本木小学校」と改称し、戦
後教育がスタートしたが、校舎がアメリカ軍に燃やされた不動小学校・鷹番小学校が校舎が建てられ
るまで合同授業となったため、教室が足らず大混雑で大混乱した。ララ物資によるミルク給食が開始
された。これが傷んでいて臭いんだ。よく飲んだものだよ。同25年鷹番・不動の児童はそれぞれの
母校へ帰校。同26年創立20周年記念式典・図書室完成・新校歌制定。

 校歌「初めて潜る校門に」  作詞・鹿島鳴秋  作曲・渡辺浦人
  1.初めて潜る校門に
    希望の胸は膨らんで
    桜の花も咲いていた
    年月経ってい今此処に
    ああ我ら楽しい五本木小学生
  2.緑の風の爽やかに
    心も弾む校庭よ
    飛んだり跳ねてまた明日
    元気でやろうお勉強
    ああ我ら伸び行く五本木小学生
  3.夕べの空に見る富士は
    平和の国の宝物
    ヒマラヤ杉に星が出て
    みんなの夢を歌ってる
    ああ我ら栄えある五本木小学生

 同28年中庭が舗装され、この夏から久里浜海岸で臨海学校が始まった。同29年ピアノ購入。同
30年奥多摩御岳で林間学校始まる。同31年視聴覚教室開設。同34年プール完成。同36年創立
30年記念式典。同36~54年鉄筋コンクリート校舎完成。平成13年に創立70周年を迎え、耐
震化も完了した。学校の周りは閑静な住宅地だが、その中央を東横線と駒沢通りが通っている。学区
域には、旧区役所、守屋教育会館、郷土資料室、守屋図書館があり目黒区の中心として栄え、教育環
境に恵まれている。
 


■妙見寺

 五本木2丁目28番17号にある日蓮宗の寺。大正8年の創建。本堂は鉄筋コンクリート2階建て
その左に墓地。
 


■ボンシュマン

 五本木2丁目40番19号5号にあるフレンチレストラン。フランス滞在時に最も影響を受けたの
はジョエル・ロブション門下のシェフ。総ての工程での緻密な仕事ぶりから、究極の基本を学んだ。
普遍的な味を求める彼の料理は、エスコフィエのレシピをベースに独自の解釈を加え、時代に合わせ
たものだ。煮詰めすぎない和牛の頬肉の赤ワイン煮込みは、ソースの香りが漂う軽い仕上がり。夜の
コースは選択の幅が広く、量の調整も可能。ワインは、マダムが料理人として修業したブルゴーニュ
の銘柄が多い。
 11時半~14時・18時~21時半 定休:水曜、年末年始 03‐3791‐3900

 ミシュランガイド東京 
 『2012』~『2014』と、3年連続で星1つを取った。
 


■五本木二丁目街かど公園

 五本木2丁目43番10号にある区立公園。
モミジ・カキノキ・コムラサキシキブなどの植物があ
り、広場には井戸がある。平成9年3月31日開園。


■五本木西みどり街かど公園

 五本木3丁目13番5号にある区立公園。滑り台や階段のついた組み合せ型遊具がある。平成11
年3月31日開園。
  
 


【駒場】(こまば)1~4丁目                      昭和43年1月1日
 上目黒村。明治11年大区小区制の廃止により荏原郡に復し、同22年「市制町村制」により目
黒村大字上目黒。大正11年目黒町大字上目黒小字駒場。昭和7年目黒区駒場町。同44年新住居
表示により一部を青葉台に譲り、残った町域を現行の「駒場」とした。駒場といえば東大、その東
大に考古美術品を展示する「教養学部美術博物館」がある。4丁目の駒場公園内「旧前田侯爵邸」
にあった「東京近代文学博物館」は平成14年になくなっちゃって建物だけの公開。同じ敷地内の
「日本近代文学館」はそのまま。また茶道・華道・俳句などの趣味的な集いに利用できる「駒場公
園和館」は一階が無料休憩所。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『目黒区史』『目黒の歴史』など。

 駒場の由来
 古代に馬牧場があったことによる。
 この辺りは代々木原から続く原野で、江戸以前から駒場原・駒場野と呼ばれた15万坪の原野で、
享保以来幕府の御鷹場となり諸役御免(非課税)の地だったが、鳥見役所が置かれ目黒方面の鳥獣
の管理をした。

   権兵衛が種蒔きゃ烏がほじくる 三度に一度は追わずばなるまい

 この里謡は、伊勢の相賀村の鉄砲の名人の権兵衛とも、駒場の餌付け御用を務めた綱差川井権兵
衛のことを歌ったものともいわれるが、彼はキジ捕り名人だった(目黒区史)。屋敷跡というのが
渋谷区富ヶ谷にあるらしい。駒場野は淡島通りの北部一円で、淡島通りは滝坂道ともいうが、家康
が四谷~調布の甲州街道を敷設するまでの府中道(甲州街道)だった。幕府が駒場野を扼したのは、
この街道を攻め寄せてくる敵を抑える意図を含む。鷹狩は将軍の気ままで贅沢なお遊びではない。
将軍に義務付けられた軍事演習である。また鷹場・鶴場・鷭場・御留は自然保護・乱開発防止など
の隠れた目論見もある。

   泰平の弓矢駒場の鳥脅し(案山子や鳴子/川柳)
 


駒場野一揆
 慶応三年(1867)幕府は将軍の鷹狩り場だった駒場野を軍事訓練所とするための建設工事に取
りかかった。しかし近隣の農民に何の補償も示さなかったため、彼らは激しく抵抗。岩波書店の『近
代日本総合年表』の、慶応三年の「社会」の項には「幕府、武蔵国荏原郡駒場野一帯を上地して散兵
伝習調練場としたため、農民騒擾おこる」とある。駒場野の農民は、将軍の鷹狩りのためにいつも迷
惑していた。奉仕ばかりでなく、畑や田圃が荒らされても我慢させられてきた。その怒りが爆発、駒
場野の番人小屋などを打ち壊すなどして建設そのものを中止に追い込んだ。更に幕府はその東の渋谷
の中豊沢村などにその矛先を差し替えたが、そこでも猛烈な反対に合い、結局断念せざるを得なかっ
た。幕府は高島平に転じたが、そこでも猛烈な反対のため計画倒れ、幕府の権威は地に堕ちた。

   駒場野の袖吹き返す朝風に鶉鳴くなり深草の中(狂歌)

 しかし維新後は、明治政府は強権を発動、農民の反対などものかわ、この街道を挟んで一円は軍事
施設が甍を競った。騎兵聯隊が駐箚すると駒場野は調練馬場となった。戦後軍用地は住宅団地・学校
用地・駒場野公園・入試センター・病院・警察用地などなどに変っている。


■栗原安秀中尉住宅跡
 駒場1丁目16番7号SHビル駒場がそうだ。説明板はない。栗原中尉は「2・26事件」の首謀
者の一人。彼もまたやんごとなき人の陰謀に巻き込まれた可愛そうな人だ。青年将校は乗せられた。
自分たちが蹶起したかのように見せかけられたのだ。これ以上はおいらの首が飛ぶ特定機密だから記
録には残せない。
  


■ミラヴィル
 駒場1丁目16番9号片桐ビル地下1階にあるフレンチレストラン。松見坂交差点の近くで、フラ
ンス料理という枠の中で、オリナリティーをいかに表現するかを追求している。「自分の店なんだか
ら、自分にしかできないことをやっている。平凡なことはやりたくない」というオーナーシェフの都
志見セイジ。平成元年から6年間フランスの修業経験で、最初の日本人として働いたレストランの料
理に影響を受け同12年にその店と同じ名で開業した。
 店内に入ると、壁に飾られている絵が目に入る。シェフ自身が趣味で描いているも。絵を描く時は
水彩、油絵、えんぴつ、何で描くかというのはこだわらない。とにかく感じたままに、そして感じる
絵を描きたいと思って描くだけとか。この感覚は料理にも通じ、料理も絵も音楽も、自分だけの作品
を創るということでは、感性と想像力が大切だと思う。その上でフランス料理をやっているわけだか
ら、美味しい料理、そして自分にしか創れないフランス料理にこだわって創っている。絵も描き、昔
はミュージシャンを目指していたこともあったというシェフならではの経験に基づいたクリエイティ
ブな発想が、料理にも窺える。スペシャリティはフォアグラと牛タンのサンマルク、瀬戸内海の天然
鯛と豚のソーセージ、牛の尾肉と豚足のパイ包み、ジャムを詰めたクレームダンジュ。4~5月はシェ
フの故郷である広島から直送の桜鯛を使った「桜鯛尽くし限定コース」を用意している。価格は手頃、
応対も親切。
 同名のキャバクラがあるので混同して道を過たないように。下半身の食物屋じゃないよ。
 12時~15時・18時~23時 03‐5738‐0418

 ミシュラン落ち 
 『2008』から3年連続で星1つを取ったが、『2011』で消えた。


■LETTERS8
 駒場1丁目16番12号にある「アルファベット文字」に関する様々なプロダクトを販売、マネー
ジメントしている。平成25年にオープンしたプロダクトやインテリアを取り扱うショップ。ネオン
サインや看板などに使われていた様々な文字が世界各地から集められた。オリジンの異なるアルファ
ベットたちが組み合わされた店内のディスプレイを見ていると、それぞれの文字が持つストーリーに
想像が膨らみ、それらをコレクトすることの面白さも肌で感じることができる。そんな日本初の文字
の専門店。店主清水大輔は、

   このお店を始める前に、アメリカから古材を輸入し、アパレルや美容室、レストランなど
   に納めている会社で15年くらい働いていました。その会社は一般のお客さん向けに、ア
   メリカの土臭い雰囲気のあるアンティーク雑貨や金物、塗料などを販売するショップを運
   営していたんですが、僕は昔からアメリカンカルチャーが好きで、20代の頃から将来は
   独立してお店を構えたいと考えていたので、ここでノウハウを学びたいという思いもあり
   ました。まだ入社する前に、お客さんとしてお店に行った時に、コンクリートを型に流し
   て作られた2、30cmくらいのアルファベットのオブジェがバラバラと置かれていたん
   ですが、それを見た時にアルファベット自体を売るというのも面白いなと思ったんです。
   その後、今から6年程前に、「KIDONO」という文字を売るショップがフランスにあ
   るということを知って、こういうことを日本でもやりたいと考えるようになりました。
   かな文字や漢字は、知り合いの看板屋さんに、お店がなくなったりして看板を壊すことが
   あったら譲って欲しいとお願いしたこともあったのですが、日本の場合は行政の決まりが
   厳しくて、解体業者がちゃんと廃棄したということを記録しないといけないらしいんで、
   難しいんです。


 とか。
 


■偕行社目黒住宅
 駒場1丁目16~18番にあった陸軍の将校用集合住宅地。松見坂下にはシンガポール陥落の名将
でフィリピン戦の敗将山下奉文(ともゆき)大将の邸宅があり、近くに住む栗原らはしばしば訪れて
意気軒昂だったという。山下財宝は天皇の金塊で現在もフィリピン山中に眠っている。「眠っていた
ら使えないではかいか」というなかれ、金は所持していることに価値がある。装飾に使われる以外の
金は大概金庫に眠っているだろ。世界一の金塊所有者は太古の昔から天皇家なのだ。蓋し〝黄金の国
ジパング〟は全く以て事実なのだ。


■松見坂公園
 駒場1丁目20番9号にある区立公園。平成19年2月17日開園。


蔵田山聖徳寺
 駒場1丁目34番にある浄土真宗本願寺派の寺。山門を入ると、正面が鉄筋コンクリート造り高床
式の本堂、右は庫裏、あとは一面の墓地。
 寛文三年(1663)教信上人により山梨県都留に開かれた正隆寺で、昭和2、3年頃に現在地に
越してきた。本尊は阿弥陀如来。
 


■東工学園中学校・東京工業高等学校
(平成20年校名変更
 駒場1丁目35番32号にある私立校。明治40年文京区小日向1丁目13番のとこに「東京工科
学校」として開校。同44年神田錦町3丁目24番のとこに移転。8月実習工場で組み立てた「日野
式2号機」が国産初飛行失敗(この複元機が大学美術館に展示してある)。大正2年神田大火災で焼
失。新校舎は設計から施工まで本学園関係者の手によって遂行した。同12年関東大震災で焼失。新
校舎は震災の教訓から耐震性、耐火性を考慮した鉄筋コンクリート造りとした(校舎の脇にあったヒ
マラヤ杉は、宮代キャンパスに移植されている)。
 昭和6年財団法人東工学園設立。「東京工業学校(甲種)」を併設。同10年東京工科学校を「東
京高等工科学校(乙種)」に改称
 同22年アメリカの強制による新学制により「東工学園中学校」開校。同23年東京高等工科学校
・東京工業学校を廃し、「東京工業高等学校」を開校。目黒区駒場町751番地(現在地)に建てた
新校舎に移転。同26年財団法人東工学園を学校法人東工学園と変更。同33年創立50周年記念式
典。第一期鉄筋コンクリート造り校舎落成。同36年第二期鉄筋コンクリート造り校舎落成。同39
年第三期鉄筋コンクリート造り校舎落成。同42年日本工業大学開学(埼玉県南埼玉郡宮代町学園4
丁目1番1号)。同43年創立60周年記念式典。同52年立70周年記念式典。学園歌制定。

 学園歌「
我が学舎に栄光あれ」 作詞作曲・神津善行
  1.集い来て 友よ輪を作り
    創り行こう我等が歴史
    此処に学びしその夢が
    何時か開く時
    友よまた会いて語り合おう
    弛まぬ努力こそ吾等の誓い
    我が学舎に 我が学舎に
    我が学舎に栄光あれ
  2.集い来て 友よ手を結び
    歩き行こう吾等が道を
    此処で育てしその花が
    何時か咲いた時
    友よまた会いて肩を組もう
    豊かな心こそ吾等の願い
    我が学舎に 我が学舎に
    我が学舎に栄光あれ


 同62年大学院設置。創立80周年記念式典。
 平成2年学校法人日本工業大学に名称変更したことにより、「日本工業大学附属中学校・東京工業
高等学校」と改称。(以下次項)
 


■日本工業大学附属中学校・東京工業高等学校 → 日本工業大学駒場中学校・高等学校

 駒場1丁目35番32号にある私立校。平成9年創立90周年記念式典・校舎大改修。同13年新
校舎落成。同17年神田キャンパス内に専門職大学院と日本工業大学専門学校を開校。高校に理数工
学科・国際工学科新設。同19年創立100周年記念式典。同20年男女共学の普通科を新設し進学
校に変身。少子化を見越しての改編。「日本工業大学駒場中学校・高等学校」と改称。
 


■Transfiguration“LINK”Ⅴ
 駒場1丁目44番14号朝日マンションA棟南西角にある竹内三雄のオブジェ。Transfiguration
“LYNC”シリーズの5番目の作品。


■第一師団輜重兵第一大隊跡

 駒場2丁目11~18番を占めていた日本陸軍の輸送部隊の一つ。

 輜重輸卒が兵隊ならば蝶々蜻蛉も鳥の内
 これには続きがあって、「焼いた魚が泳ぎだし、絵に描く達磨に手足出て、電信柱に花が咲く」と
云う輜重を愚弄した戯れ言だ。しかし「輜重兵」と「輜重輸卒」とは全く別個の存在で、輜重輸卒は
元来軍夫が担っていた単純機械的労働に従事するに過ぎない雑卒であるのに対して、輜重兵は兵卒・
下士官クラスであっても多数の輜重輸卒を監督する立場にあり、個々の兵卒の能力が重視された。反
面、将校では身体の故障から第一線に服することが困難になった者が転科したり、士官学校での成績
が低かったり、素行に問題のあった者が振り分けられることが多く、冷遇されがちだったった。
 また、輜重兵科は、明治24年まで陸軍大学校への入校を認められず、以降も第二次世界大戦中ま
で毎年一人入れるかどうかだった(例外は34期3名、35期2名、38期4名、48期2名)。そ
のため陸軍中央幼年学校本科が陸軍予科士官学校に改組され卒業前に兵科が発表される様になると、
輜重兵科と発表された者の落胆は大変なものだった。他にも、当時の帝国陸軍では兵科ごとに必ず「
兵科の歌」があったにも関わらず、輜重兵科だけその歌が作られていなかった。他にも、当時の帝国
陸軍では兵科ごとに必ず「兵科の歌」があったにも関わらず、輜重兵科だけその歌が作られていなか
った。これは他の兵科が最前線で働くのに対して、常に後方に待機して戦闘に加わらない兵科の性質
寄るものだ。この兵站軽視の思想による輜重部門の軽視は、太平洋戦争においてその弊害を色濃く表
した。例えばガダルカナル島の戦いやインパール作戦では、極めて杜撰な補給計画が大きな要因とな
り、多くの餓死者や戦病死者を出している。


■総務省情報通信政策研究所

 駒場2丁目17番20号にあった国の施設。


■駒場野公園
(拡張部)

 駒場2丁目17番20号にあった国分寺に移転した旧総務省情報通信政策研究所跡地を区が購入し
て公園とし、名称に困り既にある駒場野公園の一部とした。
 


■駒場地蔵尊(〆切地蔵)

 駒場2丁目17番20号駒場野公園拡張部の西南角外、淡島通りに面してある。
 釈迦の入寂後、弥勒菩薩が出現するまでの間、六道に輪廻する衆生を教化救済する菩薩が地蔵菩薩
である。6世紀の初め、インドの仏教破壊を憂慮した仏教徒が、「大日経」などに出てくる地蔵菩薩
を中心に、「地蔵本願経」を作ったが、この信仰が中国に伝えられ、「地蔵十王経」となった。中国
の民間信仰と融け合い、広く民衆の間に伝播した。「内に菩薩の行を秘し、外に比丘を現じ、左手に
宝珠を、右手に錫杖を持し、千葉の青蓮華に安住する」地蔵菩薩の像が世に流布した。
 わが国には8世紀ころ伝来、平安時代後期の貴族層に広まり、地獄の苦しみから救済してくれるの
が地蔵だとされ、鎌倉時代に入ると阿弥陀浄土信仰と融合して、広く民衆に広まっていった。道祖信
仰とも結び付き、村の辻々に像が建てられた。また、子どもを救済するという信仰がおこり、子安地
蔵となってあらゆる階層に浸透していった。江戸時代に最も盛んとなり、延命地蔵や六地蔵、千体地
蔵など各地で地蔵講が催された。

 地蔵尊
 駒場の東の入口を松見地蔵が、西の入口をこの地蔵が守っている。お堂の中には3の地蔵が並んで
おり、江戸時代の延宝から元禄年間に建立されたもののようである。板きれに由来らしきものを書い
たものがあったという。それには、

   コノ地蔵ハ、駒場、下代田、池尻ノ境ニアル仏デアリマス。昔ノ人ノ伝ヘ聞ク話ニヨルト
   明治初年以前、西駒場地蔵(一名〆切地蔵)ト申サレ、隣村ニ悪病流行致ス時ハ、当駒場
   ノ村人一同、百万遍ト云フ念仏ヲ唱ヘ、地蔵尊ニ願ヲ掛ケ、当時ニハ一名ノ病人モ無ク、
   安心シテ生活シテコラレタノ由、悪病悪魔〆切ト云フノデ、〆切地蔵ト申サレ、今デモ重
   病人ノ在る方ハ、〆切地蔵ニ一廻り(現今ノ一週間)モシ一廻りニテ御利益ナキ時ハ、二
   廻り御願申セバ、必ズ快方ニ向フトノ伝説デ御座リマス。又此ノ地蔵ニ「イタズラ」、又
   賽銭ヲ取ル不心得者ハ、一ヶ月以内ニ必ズ災難ニ遭フトノ事、又他何事ノ願デモ必ズ誠心
   誠意ノ方ニ成就スル事「ウタガイナシ」。

 
とあり、昔から霊験新たかで親しまれていたお地蔵様だ。
  


■近衛師団近衛輜重兵大隊跡

 駒場2丁目19~21番・世田谷区池尻4丁目4~6番を占めていた日本陸軍輸送部隊の一つ。移
転してきたのは明治25年。昭和11年聯隊に昇格。太平洋戦争では近衛師団が3つになったため近
衛第二師団に属した。

 
近衛輜重兵第二聯隊・第三聯隊

 太平洋戦争で、近衛兵が2個師団編成になった時輜重兵聯隊は近衛第二師団に属し、近衛第一師団
には輜重兵は置かれなかった。他の輜重兵聯隊よりも、兵員・装備の面で優遇された他は、特に変わ
るところはない。本土決戦準備のため千葉で編成されたに近衛第三師団に近衛輜重兵第三聯隊が所属。
という訳で近衛輜重兵第一聯隊は存在しない。

 重機発射試験場跡
 敗戦により軍隊が解散されて60年以上経っているため当時のものは残っていないが、この近衛輜
重兵大隊跡にはちょっと変わったものが現存している。駒場東邦中高の南端に妙に凸凹したコンクリ
ートの建物だ。これはかつて屋内射撃場として使われていたもの。射撃に対する耐久性と防音性を兼
ね備えるべく壁の厚さが30cmもある。また屋根や側面が複雑な凹凸になっているのも防音効果を
狙った形状だとか。
 長く日通の倉庫として使われていたが、今では別の業者が倉庫として使用している他、防音性を活
用して音楽用の貸スタジオとしても利用されている。意外だが実に上手い使い方だ。
 


■駒場野公園
(本園)

 駒場2丁目19番70号にある区立公園。この一帯は、かつて人の背ほどもある笹が一面に生え、
所々に松林が茂る広い原野で、駒場野と呼ばれていた。明治になると、農業の近代化を図るため、こ
の広い原野を利用して「駒場農学校」が開校し、近代農業の総合的教育・研究の場となった。明治1
4年この農学校にドイツ人ケルネルが農芸化学の教師として着任し、土壌や肥料の研究を行って大き
な成果をあげた。園内にある水田は、この実験を行った場所で、農学発祥の地「ケルネル田圃」と呼
ばれ、稲作は筑波大学付属駒場中・高校の生徒達によって今でも行われている。
 駒場農学校はその後東京農林学校、東京帝国大学農科大学、農学部移転後は農業教員養成所等を経
て、東京農業教育専門学校、戦後は東京教育大学農学部となり、昭和53年に筑波へ移転した。東京
教育大学農学部がつくば市に移転し、つくば大学になった後 半分が公園として整備され、昭和61
年に開園した。 広さ2.8haの園内には、雑木林や水田(ケルネル田圃)があって、かつての駒場
野の面影を少し残して、野鳥なども数多く生息している。近代農学発祥の地だ。他の半分は入試セン
ター、国際高校になっている。
 園内の樹木には、全国の県木を植栽した北国の林、関東・関西の雑木林、南の国の林のほか、果樹
園、サルスベリの林などがあり、十月ザクラ・兼六園菊ザクラなど22品種の桜も植えられている。
また水遊びのできる流れとジャブジャブ池、鳥たちを楽しむバードサンクチュアリ、デイキャンプが
できる広場など、自然とふれあう工夫がいろいろある。
 なお公園の南側には、駒場体育館、テニスコート、ゲートボールの施設があり、公園の東側には駒
場野公園の豊かな自然を紹介する自然観察舎がある。

   ケルネル田圃
   ケルネル田圃は、旧駒場農学校の実習田です。
   駒場農学校は, 明治政府が近代農学に基礎をおく欧米農法をとりいれるために、農業指導
   者を養成する学校として明治11年に設置されました。
   札幌農学校がアメリカ系統の農業技術を導入したのに対して、駒場農学校にはドイツ系統
   の農学がとりいれられました。
   ドイツ人のオスカー・ケルネルは、駒場農学校の教師として招かれ、日本農業の特質を配
   慮しながら農芸化学を応用した実験を中心に土壌、肥料などの研究と教育をおこない、多
   くの成果を収めました。
   ドイツ人教師ケルネルの名をつけたケルネル田圃は、新しい日本農業の指導者を育てた駒
   場農学校の実習地の跡として貴重な史跡です。
   なお駒場農学校は、後に東京農林学校となり、東京帝国大学農科大学等を経て筑波大学に
   継承されました。
   現在ケルネル田圃では筑波大学附属駒場中学校、高等学校により教育水田として生徒が実
   習しています。

 駒場農学碑
 園内にある。昭和11年6月27日除幕。

   
駒場農學碑

   駒場農学園ハ明治十一年一月二十四日明治天皇親ク此処ニ開校ノ典ヲ挙ケ給ヒシヨリ始メ
   駒場農学校ト称シ中頃東京農林学校終ニ東京帝国大学農学部ト改メ始終我国農林畜産水産
   各事業ノ淵源ヲナセリ今ヤ学園ハ一層ノ発展ヲ期シ此地ヲ去ッテ別ニ所ヲ得タリ然レドモ
   吾等此処ニ業ヲ卒スル者追懐思慕何ソ勝ヘン玆ニ碑ヲ建テ永ク記念ノ標識トス
   昭和十一年三月吉日                          高橋偵造書


 水田の碑
 「ケルネル田圃」は公園中央から西寄りの低地にあり、これを見下ろす位置に石碑が建っている。
碑文にあるように、この地は明治初年に開校した駒場農学校の実習用の農場で、その後も所属する学
校は変わったものの、ずっと実習田として利用されてきて現在は筑波大学附属駒場中・高校の実習田
となっている。その意味でこの地は「近代農学研究発祥の地」であり、同時に「農業教育発祥の地」
でもある。

   水田の碑
   駒場農学校の跡地
   
近代農学研究・農業教育発祥の地

   この水田は、明治11年ここ駒場野に開校した農学校の農場の一部でわが国最初の試験田
   実習田として近代日本の発展を支える淵源の一をなした農学校は、いくたびか学制の変更
   により、名称を変えてその歴史を継ぐ学校がこの地で発展を重ねた。
   その間この水田は近代農学研究発祥の地にふさわしい沿革をたどり、国際的協力のもとに
   初めて本邦近代農業の研究と教育とが進められ幾多人材の輩出を見た。
   本校は東京農業教育専門学校附属中学校として、昭和22年開校以来右の歴史の流れを継
   いで、この水田を教育の場に活用する栄光に恵まれ、耕作をづけて、本年創立40周年を
   迎えた
   そもそも農は、人類生存の基をなす営みである本校は、この水田のもつ歴史的意味に想い
   を致し、幾多先輩の偉業を想起しつつこれを永く後世に伝えたいと考え、ゆかりある方々
   の翕然たる協力を得て、ここにこの碑を建立する。なお建立に際し地元目黒区の理解と協
   力のあったことを録して 感謝の意を表する
    昭和62年10月               筑波大学附属駒場中学校・高等学校

 裏面

   農事修学場 農学校 駒場農学校 東京農林学校 帝国大学農科大学 東京帝国大学農科
   大学 東京帝国大学農学部 東京大学農学部 東京帝国大学農科大学・専科 東京帝国大
   学農学部実科 東京高等農林学校 東京農工大学農学部
   東京帝国大学農科大学附属農業教員養成所 東京帝国大学農学部農業教員養成所 東京農
   業教育専門学校 東京農業教育専門学校附属農業教員養成所 東京農業教育専門学校附属
   女子農業教員養成所 東京教育大学農学部 筑波大学農林学系・農林工学系・応用生物化学
   系
   東京農業教育専門学校附属中学校 東京教育大学東京農業教育専門学校附属中・高等学校
   東京教育大学附属駒場中・高等学校 筑波大学附属駒場中・高等学校

   この水田碑は 右の関係者の方々及び東京都目黒区の協力によって建立した。

 22種類のサクラ
 ソメイヨシノ(染井吉野)、コヒガン(小彼岸)、オオシマザクラ(大島桜)、ヤエベニシダレ、
(八重紅枝垂)、ジュウガツザクラ(十月桜)、センダイシダレ(仙台枝垂)、オオヤマザクラ(大
山桜)、スルガダイニオイ(駿河台匂)、ウコン(鬱金桜)、フユザクラ(冬桜)、ヤエベニヒガン
(八重紅彼岸)、ヤエベニオオシマ(八重紅大島)、エドヒガン(江戸彼岸)、オモイガワ(思川)
イチヨウ(一葉)、ヒナギクザクラ(雛菊桜)、ケンロクエンキクザクラ(兼六園菊桜)、カンザン
(関山)、イヌザクラ(犬桜)、ヤマザクラ(山桜)、ウワミズザクラ(上溝桜)で21種。
最後の一種、マメザクラ(豆桜)は拡張部付近にある。

 少年裸像「鳩」
 昭和61年瀬戸剛の作品裸。ヤンキー座り。異様に長い腕。五分刈りのパンチパーマ。無邪気な表
情。粗末な局所。正面からはとても正視できない。瀬戸の「少年」シリーズの1つ。茂みのちょうど
真ん中に彫刻が置かれてるという珍しい設置のされ方だ。草取りをしているようにも見えるが,足元
に鳩を呼んでいる様子を表していることから「鳩」という題がつけられている。鳩の像はなく,周り
には銘板もないので、その場で見ただけで想像するのはなかなか難しい。


■駒場体育館

 駒場2丁目19番39号にある区の施設。体育室・トレーニングルーム・ランニングコース・プー
ル・テニスコートがあり有料。9~21時。休館日は月曜日(祝日の場合は翌日)と年末年始。
 プールは9~20時半 大人300円・中学生以下150円。
 体育室は大人200円・中学生以下100円。上履き・運動靴は自分で用意すること


■英語の 国際高等学校
 駒場2丁目19番59号にある都立校。平成元年開校。
都立高校としては唯一の国際学科を設置し
ている学校で、同18年度の大学センター試験では英語の学校平均点が文京区の桜蔭に次いで全国2
番目の実績を残すなど、語学力に自信ある生徒が広く集まっている。入試問題は英語のみ自校作成問
題を導入しており、その難易度は他校とは一線を画し、高度な英語力が要求される。男女共学である
が女子の比率が高く、3~5:1程の割合だ。帰国生枠や在京外国人枠もあり帰国子女からの人気も
高い。同16~18年度まで文部科学省からスーパーイングリッシュ・ランゲージハイスクール (S
ELHi)の指定を受けていた。外国語の授業では海外の出版物が多く利用されている。ドイツ語・
スペイン語・フランス語・中国語の履修も可能であり、高い語学力を付けることができる。「課題研
究」が3年間必修となっており、入念な調査研究の下、本格的な論文執筆が行われる。独自科目であ
る「国際理解」では、文化理解・社会理解・環境表現の3分野について、学校製作の独自のテキスト
を用いて学ばれている。教科によっては大学教養レベルの高度な授業も行われている。そのため受験
生全般に大変高い人気を誇ってる。


■駒場三丁目もちの木公園

 駒場3丁目2番20号にある区立公園。平成17年10月8日開園。


■駒場東大前駅

 駒場3丁目9番1号にある井の頭線の停車場。昭和40年7月11日に駒場駅と東大前駅が統合し
て両駅の中間に誕生した。だから駅名は、「駒場の東大前にある駅」の意ではなく「駒場・東大前」
駅なのだ。現在も駅跡の南に「東大前商店街」がある。
 ホームは島式1面2線。周囲の地形が傾斜しているため、ホームの渋谷寄りは地上で、吉祥寺寄り
は高架となっており、ホームと改札を結ぶエレベーターは西口にのみ設けられている。改札口は渋谷
寄りの橋上駅舎2階にある東口と吉祥寺寄りの高架下にある西口の2ヶ所。出口は西口1ヶ所、東口
2ヶ所の計3ヶ所で、東口の北側出口には「東大口」という固有の名称が付けられている。

 駒場駅
 駒場小学校西の踏切のところにあった。昭和8年「西駒場駅」として開業。同12年「駒場駅」と
改称。同40年東大前駅と統合して廃駅。

 東大前駅
 東大梅林門の南の踏切のところにあった。昭和8年「東駒場駅」として開業。同11年「一高前駅」
と改称。同26年「東大前駅」と改称。同40年駒場駅と統合して廃駅。


■駒場農学校

 明治10年駒場野の一画に開校した。前身は内藤新宿にあった内務省勧業寮の農事修学場で米から
教師を招いて先進国の農業技術を学ぶのを目的とした。この学校は、クラーク博士で有名な札幌農学
校がアメリカ式の農業を基本としたのに対しドイツ農法を柱とした。そのシンボルともいえるのが、
明治14年に赴任してきたオスカー・ケルネル(ケンネル)で、彼は水田の土壌の研究と稲作肥料の
研究に多くの業績を残し、古来から日本で用いられてきた人糞尿・大豆粕・干鰯などの肥料や伝統的
農法を積極的に研究し、近代的視点から評価や批判をし、我国の水耕農業に大きな足跡を残した。ま
た日本で初めて化学肥料の使用を試みた。日本人教師としては群馬県出身の優れた農業指導者船津伝
次平(ふなつでんじべい)がいた。彼が学生たちと開墾した実習田で、ケルネルが土壌や肥料の改良
に取り組んだ。船津はそれまでの日本農法に西洋の近代農法を積極的に取り入れた。学校は明治19
年東京山林学校と合併して「東京農林学校」となり、同23年「帝国大学農科大学」となった。さら
にその後は「東京帝国大学農学部」「東京教育大学農学部」となり、昭和53年に東教大農学部が筑波
に移転するまで駒場は農業教育の一中心地だった。今東京大学教養学部構内に「駒場農学碑」が建っ
ている。
 また京王井の頭線駒場東大前駅西方の東教大農学部の跡地 約2.8haは駒場野の面影を残す「駒場
野公園」として昭和61年に開園した。入り口に近い低地には、船津が開墾しケルネルが実習に使っ
た水田がケルネル(ケンネル)田圃と名付けられて保存されている。井の頭線の駒場駅近くに見え
る水田群だ。目黒区内の残された唯一の水田で、今も筑波大附属中学・高校生がそこで体験学習を行っ
ている。また北区飛鳥山の児童公園内には故郷赤城山麓に向かって建てられた「船津翁の碑」がある。
 


 ■旧制第一高等学校(一高)
 駒場3丁目の東大教養学部のところにあった。明治7年官立東京外国語学校英語科が官立東京英語
学校と改称。同10年東京英語学校と官立東京開成学校普通科(予科)が合併し、東京大学予備門を設
立。その後、東大医学部予科、東京法学校予科、東京外国語学校仏学科・独学科を併合。同19年帝
国大学令・中学校令に伴う改正で、工科大学予科を併合、「第一高等中学校」となる。同22年一ツ
橋から本郷向ヶ岡(東大農学部のある区域)に移転。同23年木下廣次校長が学生自治を承認(自治
寮開設)。同27年高等学校令により「第一高等学校」となる。
 昭和10年等価交換により帝国大学農学部の駒場跡に移転。同22年東京帝国大学は東京大学に改
称。同24年「東京大学第一高等学校」になる。新制東大の教養学部も生まれる。(同24年7月~
同25年3月の間、東大一高と東大教養学部は同居していたが、同25年3月を以て東京大学第一高
等学校は廃校となる。

 旧制高校のナンバースクールにおいて、奇数番号の学校には校歌がない。その理由は判らない。そ
れに代わるものともいえないが、生活施設である学生寮の歌、寮祭記念歌、寮歌が自然発生した。

 
第11回紀念祭西寮寮歌「春爛漫の花の色」
 明治34年 作詞・矢野勘治 作曲・原雄太郎
  1.春爛漫の花の色
    紫匂う雲間より
    紅深き朝日影
    長閑けき光さし添えば
    鳥は囀り蝶は舞い
    散り来る花も光あり
  2.秋玲瓏の夕紅葉
    山の端近くかぎろえる
    血潮の色の夕日影
    岡の紅葉に移ろば
    錦栄えある心地して
    入相の鐘暮れて行く
  3.夫れ濁流に魚住まず
    秀麗の地に健児あり
    勤倹尚武の旗の色
    自治共同の笛の声
    白雲靡く向陵に
    籠るも久し十余年
  4.鳴呼衰えぬ東洋の
    二千余載の君子国
    銀鞍白馬華を衒い
    翠袖玉釵美を盡くし
    栄華の夢を貪りて
    文明の化に人酔えり
  5.港を遠み夜は暗く
    逆巻く怒濤の大洋に
    木の葉の如く漂へる
    梶の緒絶えたる小舟すら
    遥かに見ゆる明星の
    光に行手を定むなり
  6.自治の光は常暗の
    国をも照す北斗星
    大和島根の人々の
    心の梶を定むなり
    若し夫れ自治のあらずんば
    此国民を如何にせむ


 「春爛漫」は、作詞矢野勘治(翌年の「嗚呼玉杯」の作詞者) 作曲豊原雄太郎(一高野球部の名
捕手)による一高の明治34年第11回記念祭寮歌だ。この歌が発表されるや、忽ちにして日本全国
津々浦々で流行し、特に当時の女子学生の愛唱歌となった。「嗚呼玉杯に」とともに、一高を代表す
る寮歌だ。

   明治34年「春爛漫」が作られた年の4月、隅田川のボートレースに際してこの歌が歌わ
   れ外部の人に伝わったが、またその年の7月、作詞者の矢野が帰郷の途次京都に立寄り、
   京都府立高等女学校を訪れたところ、早くもその寄宿舎からこの歌が洩れてくるのを聞い
   たという(高橋佐門「旧制高等学校研究ー校風寮歌編34頁)


 矢野大先輩自身も昭和35年11月3日付朝日新聞「六十年・夢心地の感懐」において、

   この『春爛漫』は殊に大いに愛唱され、寮内各所にその歌声を絶たず、終に校外に出て、
   都鄙青年男女の間伝播し、燎原火の如く全国を風靡し大流行を来たせり


 と述懐している。それほどの有名歌でありながら、同じ一高生の間でも歌詞の一部が異なった歌い
方がされることがあり、必ずしも統一されていない。「紅深き」→「紅淡き」、「翠袖玉劍」→「
袖玉簪
」「翠袖玉釵」、「文明の華」→「文明の化」、「国を照する」→「国をも照らす」「国を照
らせる」と変えて歌われる。「淡き」は「長閑けき光」に合わせたものだろうと考えられ、「翠袖玉
」は「銀鞍白馬」に対応させた
ものだが、女性に愛唱されたためか「簪・(共に「かんざし」の
意)に置き換えられた。「国を照らする」は明治37年の寮歌集製作の際の誤植と見られ、「国を照
らせる」だったのではあろう。「国をも照らす」とは北斗星が別のものを照らしていて「国をも」と
なるのが文法だが、北斗星が何を照らしているのか意味不明だ。またメロディも原譜と現在歌われて
いるものとでは大いに違っている。

 第12回紀念祭東寮寮歌「嗚呼玉杯に花受けて」
 明治35年 作詞・矢野勘治 作曲・楠正一
  1.嗚呼玉杯に花受けて
    緑酒に月の影宿し
    治安の夢に耽りたる
    栄華の巷低く見て
    向ヶ岡にそそり立つ
    五寮の健児 意気高し
  2.芙蓉の雪の精をとり
    芳野の花の華を奪い
    清き心の益良雄が
    剣と筆とをとり持ちて
    一度起たば何事か
    人世の偉業 成らざらん
  3.濁れる海に漂える
    我国民を救わんと
    逆巻く浪を掻き分けて
    自治の大船勇ましく
    尚武の風を帆に孕み
    船出せしより十二年
  4.花咲き花は移ろひて
    露置き露の干るが如
    星霜移り人は去り
    梶取る舟師
(かこ)は代わるとも
    我乗る船は常へに
    理想の自治に進むなり
  5.行途を拒む者あらば
    斬りて捨つるに何かある
    破邪の剣を抜き持ちて
    舳に立ちて我呼ば
    魑魅魍魎も影潜め
    金波銀波の海静か


 この歌には長調と短調と2通りのメロディがあり、長調はアップテンポ、元気で威勢がいいが、短
調は逍遥歌的で、静かで落ち着いた感じがする。この2曲の他にも名曲といわれる一高寮歌は多数愛
唱されている。因みに第一高等学校の寮歌は3000曲に上るという。

 嗚呼玉杯之碑
 東大駒場の南西隅にある102号館の西側に建っている。
  


 駒場東大 ■東京大学大学院総合文化研究科・教養学部
 駒場3丁目の9割を占める。かつては農学部の敷地で、昭和10年文京区弥生にあった旧制第一高
等学校と等価交換して
第一高等学校の敷地となった。 このとき敷地交換を求めた帝国大学側は、主
要な建物を建造することを約束し、これによって現在の1号館をはじめとする建物が本郷キャンパス
と同じ様式で造られた。当時の建物のうち現存しているのは1号館および講堂(900番教室)、図
書館の一部、101号館だけだ。戦後の学制改革で旧制高校は新制大学に移行したので、第一高等学
校も東京大学に包摂されて教養学部となった。いわゆる駒場東大だ。キャンパスは大戦中被災して荒
廃したが、新制大学発足後とくに植樹に力を入れ、緑の復元に努めた。今では名物になっている桜木
も戦後植樹されたものが多く、ラグビー場の土手の桜並木もその1つだ。他に、ストレンジ先生レリ
ーフ、イチョウ並木、桜と石碑、松と石碑、ここに一高ありきの碑、一高大扉、矢内原門跡の碑、駒
場農学碑、嗚呼玉杯之碑、ブッチール先生胸像、アリヴェ先生胸像などの文化財がある。

 学舎
 1~18号館(4号館欠)、101号館(昭和10年特設高等科校舎)、102号館、105号館、
900番教室(昭和13年一高講堂)、身体運動科学研究棟、数理科学研究科棟、情報教育北棟、情
報教育南棟、多目的ホール、アドバンス・リサーチ・ラボラトリー、アメリカ太平洋地域研究センタ
ー(旧アメリカ研究資料センター 14号館)

 その他の施設
 学生会館、駒場図書館(8号館)、自然科学図書館(14号館)、駒場博物館(美術博物館・自然
科学博物館)、保健センター駒場支所、駒場ファカルティハウス(国際学術交流会館 旧同窓会館)、
アドミニストレーション棟・学際交流ホール、課外活動施設、サークル(キャンパスプラザ)A棟、
サークル(キャンパスプラザ)B棟、コミュニケーションプラザ和館、コミュニケーション北館、コ
ミュニケーション南館、同窓会館対応プレハブ、正門、坂下門、西門、北門、裏門、工事門(臨時の
門)、梅林門、炊事門、一二郎池、噴水、矢内原公園

 スポーツ施設
 第一体育館、第二体育館、トレーニング体育館、野球場、ラグビー場、弓道場・浩然堂、テニスコ
ート3ヶ所・第一グラウンド・第二グラウンド・バレーボールコート

 ストレンジ先生顕彰碑
 トレーニング体育館左前にある。開学130周年を記念して平成16年に建てられた記念レリーフ
だ。

   Frederihk William Strange(1854~89)
   英国デヴォンシャー州に生まれた。イートン校、オクフォード大学を卒業 1875(明
   治8)年来日 東京英語学校  東京大学予備門  第一高等中学校の各教諭として英語
   を教える傍ら ボート フットボール ベースボール 各種陸上競技など欧米のあらゆる
   近代スポーツの紹介と奨励に努めた 1883年先生が著した小冊子『アウトドア・ゲー
   ムス』は、わが國の近代スポーツ解説書の原点となった。
   先生自身 万能スポーツマンで とくに先生の奨励と指導のもとに創始された 帝國大学
   の陸上運動会ならびに 水上運動会(ボートレース)は わが國の最も権威ある運動会と
   なった 一高開学130周年を迎えるにあたり 「日本近代スポーツの父」と称される 
   先生の遺徳を偲び偉業を後世に伝えたい
   2004(平成16)年11月1日                   一高同窓会

 男女共同参画支援施設
 裏門付近にあった東大駒場地区保育所を、平成16年に移転し、男女共同参画のための支援施設と
して整備したもの。場所は教職員用テニスコートの南側。同保育所は昭和46年に設立されて以来、
駒場の教職員や学生、周辺住民の育児をサポートしてきた。この間、園舎が老朽化し、特に阪神大震
災以降、耐震性が問題視された。現在都の認証保育所A型。運営はNPO法人「駒場保育の会」が担
う。園児は寝返りを打てるようになるとおむつからパンツとなり、泥んこ遊びを楽しみ、キャンパス
をくまなくお散歩する。5歳児から高尾山登山に挑戦し、毎朝の雑巾がけで働くことを学ぶ。今時珍
しい腕白小僧やお転婆娘が、毎日元気よく通園する。

 旧寮遺構
 コミュニケーションブラザ南館の中庭にある。モニュメントは地下道入口の外壁の一部。傍らに説
明碑がある。碑面右半は当時の写真、左半は以下に記す碑文だ。

   第一高等学校寄宿寮跡
   このコミュニケーションプラザの敷地にはかつて旧制第一高等学校寄宿寮が存在した。旧
   制第一高等学校は、明治7年東京英語学校として開校し、東京大学予備門(明治10年)
   第一高等中学校(明治19年)を経て、明治27年第一高等学校となり、太平洋戦争敗戦
   後の学校制度改革(昭和25年)により廃止されるまで、2万2千余の人材を送り出し、
   我が国の発展に多大の貢献をした。
   明治23年木下校長により、本郷キャンパツ(現在農学部)の寄宿寮での学生による自治
   が認められ、その後、第一高等学校廃止まで自治寮の制度は多くの因襲を克服して守られ
   た。
   昭和10年関東大震災を契機として農学部との敷地交換により、この駒場の地に移転した
   が、本郷の寄宿寮(8寮)は新たな4棟の寄宿寮〔南寮・中寮・北寮・明寮(昭和14年
   増設)〕となり、寮生約千二百名による自治寮運営は継続された。
   一高寄宿寮の特徴は、入学生全員が寮の生活を送ること(所謂全寮制)にあった。生徒は
   全員入寮し、立法(総代会)行政(寄宿寮委員会)がすべて生徒の自主運営によったので
   ある。学生による懲罰委員会の退寮の決定は、学校による退学とされた。寮の規模は、南
   亮・中寮・北寮が各階自習室、寝室10室(3階)、明寮のみ自習室、寝室5室(3階)
   であり、寮の間を結ぶ渡り廊下からは本館(現1号館)、図書館(現駒場博物館)及び特
   髙館(現101号館)への地下道が設けられた。
   この中庭あるアーチは地下道入口の上屋の外壁の一部である。昭和24年学制改革により
   東京大学教養学部発足に伴い全寮制は廃止されたが、その後も東京大学駒場寮として学生
   による自治は続けられた。

 「一高ここにありき」の碑
 駒場キャンパス正門入って左側にある。正門門扉中央には未だに一高の校章が残されている。門扉
そのものが記念碑だ。

 橄欖の木植樹記念碑
 本館正面右にある橄欖の木の記念碑。元々は斎藤阿具一高教授がドイツ留学より持ち帰って向ヶ丘
に植えたもので、一高の駒場移転に際して現在地に移植された。碑正面、

   
橄欖

 裏面

   
昭和八年 教授斎藤阿具寄贈

 橄欖は、正しくはカンラン科の常緑高木。葉は羽状複葉で、春になると白い小花をつける。緑色で
卵形の実は食用。中国南部の原産で、鹿児島南部で栽培される。うおのほねぬき。時としてオリーブ
の誤訳に用いられている。

 松の木植樹記念碑
 本館正面左脇にある松の木の植樹記念碑。明治33年に植樹したということは、農学部との校地交
換の際に移植したものか? 隣の橄欖の木が移植したものだから移植したんだよ。きっと。

  
 春宮慶禮紀念之松
   明治三十三年五月十日
   第一髙等學校生徒植之
 

 一高本館(東大駒場1号館)
 昭和8年に建てられた、駒場キャンパスのシンボルである一高本館時計台(現在の1号館)、本郷
キャンパスの安田講堂と共に、内田洋三東京帝大建築科教授の設計による。平成12年に国の登録有
形文化財に指定された。建物裏に掲げられている「國」入りの校章、説明板に、

   このアーケードの上壁面にある紋章は、旧制第一高等学校の校旗であった「護國旗」のレ
   リーフである。護國旗は金糸に輝く柏葉と橄欖の徽章の中央に「國」の字を配し、二条の
   白線を持つ真紅の旗である。明治22年2月5日校旗として制定された。

 とある。

 一高人孔
 101号館前のマンホール。「一高下水」と刻してある。

 柏蔭舎
 駒場キャンパスにおける伝統文化の実践の場として設けられた施設で、現在の建物は老朽化した旧
柏蔭舎に代わるものとして平成8年6月に落成した。純然たる日本家屋で10畳の和室2部屋からな
り、それを囲んでL字型の一間廊下、玄関、水屋ならびに納戸がある。奥の部屋は、茶室として用い
られるように床の間と炉を備えている。手前の部屋は畳敷きの汎用スペースだが、学生からのアイディ
アを取り入れて、畳を上げると稽古舞台としても使えるように設計された。建築に当たっては、農学
部演習林から選び抜かれた木材が用いられたんだよ。東大だねぇ。

 教養の道(銀杏並木)
 駒場Ⅰキャンパスを東西に横切るイチョウの並木道は、教養学部を特徴づける道として教養の道と
名付けられた。道の北側には10の照明が埋め込まれている。各々の照明にはデザインが施され、西
側には教養という言葉から連想される言葉と図案が、道の中程には東京大学の図書に押されている蔵
書印が、東側には身体と精神の関わりを表すシンボルが描かれている。

 ルヴェソンヴェール駒場
 駒場ファカルティハウス1階にあるレストラン。嘗ての同窓会館の洋館部分を平成16年に改装し
て食堂とした。

 
ファカルティクラブ橄欖
 駒場ファカルティハウス2階にあるフランス料理屋。

 イタリアントマト・カフェジュニア東大駒場店
 コミュニケーションプラザ南館1階にある喫茶店。

 カフェテリア若葉
 コミュニケーションプラザ南館1階にある喫茶店。

 ダイニング銀杏
 コミュニケーションプラザ南館2階にある食堂。

 CAFETERIA KOMOREBI
 21KOMCEE地下1階にある喫茶店。

 アリヴェ先生胸像
 同窓会館の跡地に建つ駒場ファカルティハウスの南にピュッツェル先生の胸像と並んである。明治
10年に来日し、以後25年に亘って第一高等学校で、フランス語・ラテン語・哲学・世界史を教授
した。碑文に、

   Jaen-Baptist Auther Arrivet
   Born in France ,Jaen-Baptist Auther Arrivet came to Japan in 1877 to
   teach French, Latin, philosophy and World Histry at the First Higher Scho
   ool(Ichiko). For 25 years, he contributed to french language education in J
   apan.

 とある。

 ピュッツェル先生胸像
 同窓会館の跡地に建つ駒場ファカルティハウスの南にアリヴェ先生の胸像と並んである。明治17
年に来日し、明治36年に東京で歿するまで
 16年以上に亘りドイツ語・ラテン語・世界史の教壇
に立った。碑文に、

   
Friedrich Putzier
 
  Born in Germany,Friedrich Putzier came to Japan in 1884 and served at t
   he First Higher School(Ichiko). for more than 16 years as a pecturer in
   erman, Latin and World Histry until he died in Tokyo in 1901.He used t
   o say that Japan was his adopted homeland.

 とある。

 嗚呼玉杯之碑
 102号館の西、アリヴェ先生・ピュッツェル先生両胸像の近くにある。一高の代表寮歌「嗚呼玉
杯に花享けて(明治35年)」の記念歌碑。昭和31年に建てられた。背面の碑文。

   明治卅五年矢野勘治君作詞楠正一君作曲の嗚呼玉杯の歌は永く愛唱せられ開校以来の端艇
   部歌に代わりて校歌と称すべきものなり遂に廣く一般に流傳して青春の徒を感奮興起せし
   めたり・・・・・
   今年二月同窓有志嗚呼玉杯會を結成し歌碑を駒場の校址に建て後世に傳えんことを謀り十
   一月その工を竣ふ

 駒場農学碑
 昭和11年、一高とのキャンパス交換の際に、駒場が農学発祥地であることを伝えるために建てら
れた。現在、駒場キャンパスの900番教室の南側にある。駒場農学碑の左側にある碑文石、除幕式
の写真と異なり、現在はほぼ直立した状態になっている。碑文は以下の通り。

   駒場農学園ハ明治十一年一月二十四日明治天皇親ク此処ニ開校ノ典ヲ挙ケ給ヒシヨリ始メ
   駒場農学校ト称シ中頃東京農林学校終ニ東京帝国大学農学部ト改メ始終我国農林畜産水産
   各事業ノ淵源ヲナセリ今ヤ学園ハ一層ノ発展ヲ期シ此地ヲ去ッテ別ニ所ヲ得タリ然レドモ
   吾等此処ニ業ヲ卒スル者追懐思慕何ソ勝ヘン玆ニ碑ヲ建テ永ク記念ノ標識トス
   昭和十一年三月吉日                          高橋偵造書

 新墾之碑
 矢内原門跡碑の近くに、平成21年に建てられた。代表寮歌の一つ、昭和12年に作られた「新墾
の丘の上に」の記念歌碑。背面の碑文に「『新墾』は、昭和10年東京帝国大学農学部との敷地交換
により本郷からこの地に移転して直後の寮歌であり『駒場の玉杯』ともいわれ、多くの寮生・卒業生
に愛唱された」とある。

   
新墾之碑
   平成21年10月1日 一高同窓会

 一高寮歌「新墾の」  作詞:田中隆行  作曲:服部正夫
    序
  1.新墾
にひはりの此の丘の上
    移り來し二歳
ふたとせの春
    綠なす眞理
まこと欣求もとめつゝ
    萬巻書
よろずふみさぐるも空し
    永久
とこしへ昏迷まよひ抱きて
    向陵
をかを去る日の近きかな

    追懐
(おもいで)
  2.
旗薄
はたすすき野邊に靡きて
    片割れの夕月落ちぬ
    燦
きらめきの星は語らひ
    
微香
ほのかを大地つち囁けど
    玉の緒は繋ぎもあへず
    ひたぶるの男の子の
なやみ
    
みつの城も消えゆけば
    逝きし友そぞろ偲ばる
  3.ひた寄する沈淪
ほろびの中を
    
甦生
たちかへる制覇の戰
    祝
ほぎ歌ふ若人の
    一條
ひとすじの涙しずく
    望月の盈つれば虧くる
    嘆にも
橄欖
オリヴの梢
    仰ぎつゝ光榮
はえある城を
    動揺
ゆるぎなくり行かんかな
  3.理智咲けるラインのほとり
    藝術
たくみすローマの丘に
    東帝國
ひんがし精神こころ文化(ひかり)
    見よ今し流れ出づるを
    柏蔭に憩ひし男の子
    立て歩め光の中を
    國民の重き責任
せめ負ひ
    五大洲
あめつちに雄叫びせんか
  4.霞立つ紫の丘
    公孫樹
いてふみち黄葉もみづる下を
    彷徨
さまよひし嘆の胸に
    久遠
とことは思索おもひはひそむ
    失はじ我等が衿恃
ほこり
    護り來し
傳統
つたへ法火ともし
    浄らかに燃え盛る時
    繼ぎゆかな來ん若人に

    結
  5.思出は盡ず湧きくれ
    逼り來ぬ別離
わかれとき
    玉蜻
かぎろひの夕さり來れば
    暮れ殘る時計臺
うてなめぐりて
    集ひ寄る和魂にぎたまの群
    
ことほぎの酒掬まんかな

 矢内原門跡碑

 矢内原門は正規の門ではなく、「矢内原通行口」といった方が正しく、大学を囲む柵の、駒場商店
街方面へ行くのに至便な位置に開けられた幅1mほどの通用口の名前だった。矢内原忠雄が東大教養
学部長の時代に、学生の試験ボイコットの際に正門がピケットにより通行できなくなった。その時、
学部長自ら生垣を押し分けて通り、以後公認の通路となったと伝えらる。また以前よりの抜け道だっ
たが、矢内原学部長がピケ対策として「特別に、門以外の場所を通行してよい」旨の告知を行ったこ
とから学生が公然と通行するに至ったものだともいわれる。東京大学教養学部の前身である旧制第一
高等学校では正規の門以外は絶対に通らないという「正門主義」があったこと、矢内原がその後も学
生のストライキ等には厳しい態度を貫き、ストライキを指導した学生を退学とする「矢内原三原則」
を打ち出した人物であることなどもこのエピソードの背景となっている。近年の駒場キャンパスの整
備事業で、柵の位置が大きく移動し、矢内原門は自然消滅した。現在、跡地付近は「矢内原公園」と
呼ばれる小公園となり、「矢内原門跡」という石碑が設置されている。
 


東京大学大学院総合文化研究所・教養学部 駒場博物館
 03-5454-6188
 教養学部内にある美術博物館と自然科学博物館・オルガン委員会を総称していう。建物は旧制第一
高等学校の図書館をリニューアルしたもの。平成15年、この建物に全面的な改修が施された後、長
年に亘って別々の場所で独自の活動を行ってきた二つの博物館がはじめて同じ建物で活動することに
なった。美術博物館の展示室は1階、自然科学博物館の展示室は2階にある。駒場博物館の両翼であ
る2つの博物館は、それぞれの個性を生かしつつ連携し、定期的に共催の展覧会を催すなど、総合文
化研究科・教養学部ならではの文系・理系の垣根を越えた活動を行っている。

 
美術博物館
 初代矢内原忠雄学部長の、文系・理系横断型総合教育構想の一環として、昭和26年に開始し。1
0年間資料蒐集して、同36年第二本館内に展示室を開設、週2回の常設展示を実現した。同46年
第一高等学校からの図書館内部が改造され、展示室はその2階に移り、以後常設展示日は週3日となっ
た。さらに毎年本収蔵品を中心とする多彩な特別展示や、美術・音楽・文学など各分野の第一線で活
躍している人々を講師とする講演会を開催して来た。平成12年本館1階に置かれていた教務課が、
総合図書館新築に伴って旧総合図書館に移動する計画が立てれ具体化されるに従い、本館全体も改装
されることになった。1・2階の仕切りを外して、建物の中央部を吹き抜けの大きな展示室とし、そ
の手前を2階建てに改造して、2階を自然科学館、1階を事務室・セミナー室などとした。同15年1
1月第一高等学校図書館のシックな風格を継承した本格的美術博物館としてリニューアルオープン。
本館には長年の蒐集によって明治・大正期以来の良質な日本画・洋画、日本と東アジア諸地域の貴重
な美術品や出土遺物、アンデス民俗資料などの多様な古典的・伝統的作品ともに、マルセル・デュシャ
ンの大作「大ガラス」をはじめ、様々な現代アートも収蔵されている。なのに無料だ。大好きだよ東
大!


 
自然科学博物館
 教養学部での一般教育に資することを目的として昭和28年に設置されたもので、本学部における
主に自然科学系の教員をメンバーとする「自然科学博物館委員会」によって運営されている。展示場
所は、駒場博物館の2階にある。1階美術博物館と同じく、一般にも公開している。収蔵標本として
は、鉱物、岩石、化石、蝶類、甲虫類、キノコ類などの標本、脊椎動物の骨格標本を蔵している。ま
た西洋科学や工学の導入時に用いられた実験機器、測量器具、模型教材なども保管している。現在は、
理化学実験機器を中心とした常設展示をしている。これも無料だ。腐っても東大だね。

 
オルガン委員会
 昭和52年森泰吉郎氏(森ビル株式会社初代社長)の寄贈によって、緑に囲まれた900番教室(講
堂)にパイプオルガンが設置された。
以来定期的に演奏会が無料で開催され、東大の学生はもとより、
広く市民の方々にも愛されている。


 
東大友の会
 
入会すると、図書館も利用でき、特典が一杯だよ~ん。 

 学生自治会、全学連(民青系)脱退

 戦後の学生運動の象徴だった全学連(全日本学生自治会総連合)に所属する東京大学教養学部学生
自治会が、全学連と都学連(東京都学生自治会連合)から脱退することを代議員大会で決定した。同
自治会は理由について「日本共産党による全学連と都学連を通じた不当な支配から脱却するため」と
している。同自治会は全学連の中核的存在。関係者は「全学連にとって存続に関わる問題で共産党勢
力の凋落(ちょうらく)を裏付ける動き」と指摘している。
 全学連は現在、5つの党派が独自に名乗っているが、同自治会が所属していたのは最大組織とされ
る共産党系の日本民主青年同盟系(民青系)全学連。同自治会執行部によると、共産党は長年、学生
党員を正副委員長に就任させることで、党の指示通りに自治会が動くよう画策。直接または全学連、
都学連を通じて署名活動を指示するなどしてきたという。
 平成23年秋、中国籍の委員長を中心に脱退へ向けた議論が高まり、執行部内の党員も党に反旗を
翻して同調。同24年6月14日に開かれた代議員大会で脱退が決議された。しかし共産党東京都委
員会、全学連共に「不当な介入は一切ない」とした。

 全学連
 各大学にある学生自治会の全国組織。学費値上げ反対闘争を背景に、昭和23年に約15
0大学、20万人以上で結成されたが、徐々に対立を深め、共産主義者同盟(ブント)などの各派に
分裂。新左翼系は無党派学生らと全共闘を結成し安保闘争に参加するが、抗争などで弱体化した。民
青系全学連は現在、活動実態のある加盟数を37としているが、実際は10程度とされる。最早全学
連に昔日の勢いはない。権力によって丸め込まれ、学生は生気を奪われてノンポリばかり。これじゃ
あ権力にとって都合はいいが、日本の未来は絶望的だ。権力は最早半島人の為すがままよ。


■駒場小学校

 駒場3丁目11番13号にある。昭和7年(『目黒区教育百年のあゆみ』では8年だ)菅刈尋常小
学校分教場として開設。同9年「東京府東京市駒場尋常小学校」として独立開校。同16年国民学校
令により「東京府東京市駒場国民学校」と改称。12月日米開戦。同18年都制施行により「東京都駒
場森国民学校」と改称。同19年福島県大戸村に学童集団疎開。同20年愚かなアメリカ軍の非人道
的無差別空爆により校舎全焼。8月日本は、ならず者国家アメリカの軍門に降り敗戦。以後属国とさ
れ、唯々諾々といいなりになる保守的傀儡政権を保持せざるを得ない今日的不幸を背負い込む。もう
200兆円以上持って行かれたし、米兵に少女が犯されても、告訴を取り下げさせて泣き寝入りだ。
これからの若者は米軍の尖兵として最前線の激戦地に送り込まれるぞ。
 敗戦後青空教室。第一高等学校の雨天体操場に間借りして授業。同22年アメリカの強制による学
制改革により「東京都目黒区立駒場小学校」と改称。同23年7月仮校舎落成。同25年木造2階建
て校舎が落成。同42~49年鉄筋コンクリート造り校舎落成。屋上にプール。平成16年創開校7
0周年記念式典。

 校歌「紫の春」 
  1.紫の春 星の秋
    鋼の冬や雲の夏
    柏の徽章 輝かし
    我らは潜る松の門
    ああ駒場 駒場
    我らが母校 駒場
  2.新たに興る日本の
    大いなる夢抱きつつ
    共々熱く結び合い
    学ばんいざ諸共に
    ああ駒場 駒場
    我らが母校 駒場
  3.師の恩深く胸に生き
    友情固く永遠に
    柏の徽章 松の門
    我が学舎よ 栄えあれ
    ああ駒場 駒場
    我らが母校 駒場


 明治天皇駒場野聖跡碑
 駒場東大坂下門を入った左手にある。明治3年4月17日に駒場野で練兵天覧御幸があったことを
記念した碑。昭和12年6月に前田邸敷地内に建てられたが、後に現在地に移された。

   
明治天皇駒場野聖跡

   昭和拾貳年六月建立、
   
駒場野聖蹟保存會顧問侯爵前田利爲
   駒場野聖蹟保存會長 侯爵西郷従徳、
  、同     副會長 侯爵東郷彪、
   同     理事長   井川建次郎、
   同     理 事   栗田和一、
         
石材業   海老澤政五郎刻

 
駒場野の説明板
 校門脇にある。今はないか?

   駒場野
   このあたり一帯は、昔駒場野と呼ばれ、53万㎡もあった広い原野で、上・中・下目黒三
   村の共有の林場でした。
   享保初年 (1716年頃)江戸幕府が目黒筋の鷹場を開いた時に、将軍家の狩猟地をはじ
   めとして、幕府の御用屋敷や御薬園に使われました。有名な〝種まき権兵衛〟の川井家は
   代々狩猟用の鳥の餌付けや網さしの役に当っていました。
   明治になってからは、この駒場野は駒場農学校、練兵場、兵営になり、今は、東京大学教
   養学部、東京教育大学農学部、都立駒場高等学校などの学園や日本民芸館、近代文学館、
   都近代文学博物館などの文化施設や駒場公園、住宅地になっています。
   昭和47年9月                      東京都目黒区教育委員会


 ※種まき権兵衛は、川井家ではなく菅沼家。墓もある。川井家は駒場御用屋敷の次席の網差役、大
いなる間違いだ。川井家は現在も駒場に住んでいる。
 


■日本民芸館

 駒場4丁目3番地33号、駒場公園のすぐ隣にある。創立者の柳宗悦は「民衆の芸術品」を展示し
たいと思い、全国を廻って捨てられかけていた日用品を買い集めた。昭和11年に建った素敵な日本
家屋は黒い屋根瓦に白い漆喰の外壁。通りを挟んで建つ素晴らしい長屋門は19世紀のもので、栃木
県から少しずつ運んだそうだ。

 本館
 本館のうち昭和11年に竣工した建物部分を旧館と呼ぶ。旧館は柳宗悦が中心となり設計されたも
ので、外観・各展示室ともに和風意匠を基調としながらも随所に洋風を取入れた施設となっている。
旧館および道路に面した石塀は、平成11年に国の有形文化財に登録された。なお新館は旧大広間の
あった位置に昭和57年に建て替えたものだ。

 西館(旧柳宗悦私邸)
 本館道路向いに建つ西館(旧柳宗悦邸)は、栃木県から移築した石屋根の長屋門と、それに付設し
た母屋からなっている。日本民藝館開館1年前の昭和10年に完成、母屋の設計は旧館と同じく柳宗
悦。72歳で没するまで、宗悦が生活の拠点とした建物である。

 ・不二の碑
 西館長屋門の左側のスペースにある。柳宗理の作品で、日本民芸館創立50周年の記念碑として昭
和61年に建てられた。他に小さな石仏と五輪塔、道祖神?、梵字を記した大きな板碑様の石碑があ
る。
 


■駒場公園

 駒場4丁目3番、4丁目の東半を占める。江戸時代の鷹場駒場野の一部で、明治時代からは駒場農
学校、のちの帝国大学農学部の敷地の一部となった。大正の終わりに本郷の前田邸・第一高等学校と
農学部敷地の一部とが等価交換され、農学部跡は国立第一高等学校と前田邸に生まれ変わった。戦後
アメリカ占領軍に接収され、昭和39年返還に伴い東京都の所有となり都立駒塲公園が建設された。
同42年日本近代文学館・東京都近代文学博物館が開館、同50年管理が区に移管され4月1日に開
園した。

 
日本近代文学館
 駒場4丁目3番55号、駒場公園内にある。昭和37年5月散逸の甚だしい近代文学関係の資料を
収集・保存するため、文壇・学界・マスコミ関係者113名によって発起され、各界に文学ミュージ
アム設立の欠くべからざることを訴え、発起者たちの献身と各界からの絶大な援助によって、同42
年4月竣工・開館した。この間館の設立に参加した人はおよそ15000名に達している。開館後も
引き続き文壇・学界関係者の奉仕と、出版社・新聞社、その他各方面からの強い協力によって維持運
営されていた。
 

 
東京都近代文学館
 閉鎖
 駒場4丁目3番の旧前田侯爵邸の中にあったが、平成14年3月閉館した。
 

 
旧前田侯爵邸 和館休館

 旧加賀100万石前田本家利為(としなり)侯爵家の本邸として、昭和4年に竣工した建物。設計者
は東京帝国大学教授塚本靖だったが、実際の設計は技師高橋禎太郎が担当した。建物の規模は地上3
階・地下1階。建築面積342坪(約1200㎡)の鉄筋コンクーリート造り。英国の後期ゴシック
様式を簡略化したチューダー様式のデザインで、玄関ポーチの扁平アーチにその特徴が見られる。外
壁はスクラッチタイル貼り、アクセントに大華石を用い、屋根は銅板葺きだ。内部は各部屋にイタリ
ア産大理石のマントルピースがあるという豪華さで、建築当時、東洋一の邸宅と称されたという。太平
洋戦争中ボルネオ方面司令官として出征していた侯爵が不幸にも戦死したため人手に渡ったという。
戦後連合軍に接収され、極東軍司令官の官舎としてが使われていたが、同39年に返還され都の所有
となった。同42年東京都近代文学博物館に衣替えし、庭園も公園として一般に開放されたが、文学
博物館は平成14年閉館。土日祭日のみ建物を公開している。この建物は大正末から昭和初期に建て
られた大邸宅建築を代表する一つで機能性を重視し、当時における最新の技術を駆使している。内部
の改造は少なく竣工時の雰囲気をよく留め、上流社会の生活を偲ぶことができる貴重な歴史的建造物
なのだ。見学は土・日・祝・祭日のみ。
 昭和5年完成の2階建て書院造りの日本家屋は、1階が洋館と渡り廊下で繋がっている。ロンドン
駐在武官だった侯爵が、外人客の接待のために建てたともいわれている。
 現在は都指定有形文化財の洋館が土、日曜日と祝日に、和館といわれている日本家屋の1階広間が
月曜以外の日に休憩所として無料開放されている。

   東京都指定有形文化財(建造物)
   旧前田侯爵邸洋館
                  所在地:目黒区駒場4-3-55 目黒区立駒場公園内
                  指 定:平成3年3月8日
   旧加賀藩主の系譜をひく前田家の本邸として、昭和4年5月に竣工した建物である。設計
   者は東京帝国大学教授塚本靖であったが、実際の設計は技師高橋禎太郎が担当した。建物
   の規模は地上3階、地下1階。建築面積は1129.4㎡。鉄筋コンクリート造で、外壁は
   スクラッチタイルを貼り、アクセントに大華石を用い、屋根は銅板葺きである。
   前田侯爵邸は昭和20年9月、連合軍に接収され、極東軍司令官の官舎として使われてい
   たが、昭和42年4月、東京都近代文学博物館に衣替えし一般に公開された。
   この建物は大正末から昭和初期に建てられた大邸宅建築を代表する一つで機能性を重視し
   当時における最新の技術を駆使している。内部の改造は少なく竣工時の雰囲気を良く留め
   上流社会の生活を偲ぶことができる貴重な歴史的建造物である。
   平成4年3月31日 建設                    東京都教育委員会

   
前田邸和館
   和館は昭和5年に建てられた旧前田家の駒場邸です。今般、目黒区で修復いたしました。
   尚、施設は中島飛行機製作所、占領軍司令部の公邸としての利用など変遷を辿り、壁紙、
   照明器具、釘かくしなど現存しないものもありました。
   屋根瓦の破損 銅板の腐食が多くあり、雨漏りが酷い状態で、大雨の度に部屋が水浸しに
   なってきました。そこで和館は昭和63年から4年かけて修復工事を行いました。
   建築当時の建物を現存する図面、写真などで調査しましたが、戦争で焼けたりしましたの
   で、充分な資料が残っておりません。今後も、庭園、建物(煎茶亭・事務所)の復原修復
   を計画しています。
   平成3年12月25日                   目黒区土木部公園緑地課

 ※ 和館は平成28年3月31日まで耐震補強工事のため一時休館する。    


■前田育徳会

 駒場4丁目3番55号、駒塲公園正門の左隣に前田家、右隣に育徳会・尊経閣があり、加賀100
万石の財宝を管理している法人だ。その所蔵の美術・工芸品・書画典籍は総数90点もあり、総て国
の重文で内22点が国宝だ。非公開で特別許可を得られた人だけが見られるが。ただ貸出出品はして
いるので、時々運がよければどこかでお目にかかれるさ。


■東京大学駒場Ⅱ(リサーチ)キャンパス

 駒場4丁目6番1号、4丁目の西半を占める。元々は工学部の敷地だった。明治19年帝国大学設
置 東京大学工芸学部と工部大学校の合併により工科大学(後の工学部虎ノ門)を設置。同21年工
科大学施設を本郷に新築(虎ノ門より移転)。同30年帝国大学を東京帝国大学に改称。大正8年工
科大学は工学部となる。昭和17年本郷地区を第一工学部に改称、千葉市に第二工学部を設置し、同
22年東京帝国大学から帝国を外し「東京大学」に改称。同24年新制東京大学となる。生産技術研
究所・先端科学技術研究センター・国際産学共同研究センターがある。

 生産技術研究所(東大生研)
 昭和24年5月31日設立。昭和17年第二工学部設立。千葉市弥生町1丁目8番地に設立され、
幾多の俊秀を世に送り出し、昭和26年まで存続した。生研は、その第二工学部内に同24年5月3
1日「生産に関する技術的諸問題の科学的総合研究ならびに研究成果の実用化試験」を目的として設
置された。 同29年試験高炉実験の開始。 同30年観測ロケット研究開発の開始。国際地球観測年
(昭和32~33年)に参加するため、文部省測地審議会の要請に応じて研究開発を開始。同37年
区米軍が撤退した六本木7-22のハーディーバラックス(旧麻布第三聯隊跡地)へ移転。大型実験
設備を含む施設は附属の千葉実験所として残った。同40年前年の新潟地震を契機として千葉実験所
に当時としては最大規模の振動台を設置した。同48年計測技術開発センター設置。同50年複合材
料技術センター設置。同52年多次元画像情報処理センター設置。同59年機能エレクトロ二クス研
究センター設置。同60年先端素材開発センター設置。
 平成2年寄付研究部門の設置。インフォメーション・フュージョン(リコー)。同3年インテリジェ
ント・メカトロニクス(東芝)、グローブ・エンジニアリング(トヨタ)、国際災害軽減工学研究センタ
ー設置。同6年概念情報工学研究センター設置。LIMMS/CNRS‐IIS国際連携研究センタ
ー設置。同7年材料界面マイクロ工学研究センター設置。同9年東大駒場Ⅱキャンパス内に生研・先
端研合同起工式。同10年東大駒場Ⅱキャンパスに移転。同11年海中工学研究センター設置。創立
50周年記念式典。
 1.研究実験棟 鉄骨鉄筋コンクリート造り地下1階地上8階建て
 2.第45号館 鉄筋コンクリート造り地下1階地上5階建て
 3.試作工場棟 鉄筋コンクリート造り2階階て(機械・部品作成)
 4.食堂会議棟 プレハブ造り2階建て
 5.図 書 棟 プレハブ造り2階建て
 6.総合研究棟 鉄骨鉄筋コンクリート造地下1階地上7階建て(実験)

 先端科学技術研究センター(東大先端研)
 昭和62年5月21日先端科学技術研究センター(基幹7研究分野、教官数14)発足。我が国の
国立大学初の寄付研究部門を開設。同63年19基幹研究分野、4客員分野、4寄付研究部門(全教
官数48名)に拡充。平成4年大学院の工学系研究科先端学工学専攻博士課程設置。先端研は18基
幹研究分野に変更。同8年文部省「卓越した研究拠点(COE)」に設定。同9年知的財産権大部門
設置(先端研は21基幹分野となる)。同10年駒場オープンラボラトリー設立。株式会社先端科学
技術イキュベーションセンター設立。同11年先端経済工学研究センター(AEE)設立。22基幹
分野・6客員分野・4寄付研究部門(全教官数52名)に改組。同13年先端科学技術エンタープラ
イズ株式会社設立。科学技術振興調整費戦略的研究拠点「人間と社会に向かう先端科学技術オープン
ラボ」計画開始。先端テクノロジービジネスセンター(ActeB)設立。同14年特任教員/研究
員を含むオープンラボプロジェクト開始。同16年国立大学法人東京大学発足。我国初の寄付基金研
究部門を開設。ActeBの産学連携機能を吸収経営戦略企画室を発足。

 Capo PELICANO(カポ・ペリカーノ)駒場店
 駒場リサーチキャンパス生研AN棟1階にある。


 
◆設立の4モットー
 ①.学際性、②.流動性、③.国際性、④.公開性

 国際・産学共同研究センター(CCR)
 平成8年東京大学においてインキュベート(孵卵)された研究成果を企業化に向けて更に増進するプ
ロジェクトの遂行、国際産学共同研究全般の推進を目的として、駒場リサーチキャンパスにある生産
技術研究所と先端科学技術研究センターが中心となり設立された全学組織だ。
 我が国では、「科学技術創造立国」の実現に向け、産業技術力の強化を経済の持続的な発展を図る
ための基盤であると位置づけ、創造性のある研究及び開発、そしてその成果の事業化の促進に取り組
んでいる。東大でも、産業界等との共同研究や技術移転を通して積極的に社会へ貢献したいと考え、
取り組みを進めている。
 その一環として、東京大学国際・産学共同研究センターでは、産業界等との連携を推進することを
目的に、東大の研究者が提案する産学連携のためのテーマをデータベース化し、インターネット上で
一般に公開している。これらの提案テーマは、東大の研究者の希望する共同研究テーマであり、バイ
オテクノロジー、環境・エネルギー、機械、情報・通信、エレクトロニクスなど多方面の分野に亘っ
ている。またテーマ内容は、コンサルティングからソフトウェアの共同開発、産業界等の持つスキル
を活かした相互補完的な研究開発など多彩だよ。
 HPを開くか、メールするか、電話してみたら?

   ◆テクノロジー・リエゾン・フェロー制度
   我が国では技術の発掘、知的財産、技術移転、ベンチャー企業の育成などに関わるテクノ
   ロジー・マネージャーの数が不足し、これまでその育成もほとんど行われていなかった。
   CCRでは、大学と産業界との間の技術を介在した連携活動(産学連携)を推進・管理する
   ための人材を育成することを目的として「テクノロジー・リエゾン・フェロー(TLF)
   制度」を平成12年度より新たに発足させている。
 


■欠け庚申塔

 駒場4丁目8番3号の桑原家の前、駒場通りに面してそれはある。現在のビルを建てる前の木造の
住宅を建てる時に地中から出て来たので、粗末にもできないので、玄関前の脇に祀っているとか。上
部は欠損してなく、下部のみだが、蓮の花が浮き彫りされているので庚申塔だろうという。


■三角橋

 駒場4丁目8・9番の境、目黒区の西北端、渋谷区と世田谷区に接するところに三角橋交差点があ
る。橋は三田用水に架かっていた。橋の由来は伝わってないが、按ずるに、ここは溝ヶ谷分水が分岐
したとこで、三角地帯になっていたことから、小名にその名が起きたのではなかろうか? 明治時代
にはこの辺りの字を三角といった。地名が先か、橋の名が先かは判らない。

 溝ヶ谷用水(分水
 三角橋の西で三田用水から養水を受けた用水で、南下して北沢用水に注いだ小河川。
 
 



 ●滝坂道 府中道=戦国時代以前の甲州街道
 新宿追分(新宿伊勢丹のところ)から調布市滝坂までの甲州街道(国道20号線)は徳川家康が道
の無いところに軍事的意味を以て拵えたものだ。だから棒道な訳で、それにより半蔵門・四谷門が開
かれたのだ。
 ポイントを紹介しておく。矢倉沢往還(大山道→厚木街道→玉川通り)の道玄坂交番脇が起点。神
泉へ下る坂道を下り「神泉谷」へ、当時はあった三田用水(旧山手通り)にぶつかってそこの水番の
親父に会釈して越え橋を渡り、その先の路地とを進むと山手通り渋目陸橋にぶつかる。現在は直進で
きないが、かつては直進の下り坂で荷車泣かせだった。街道北の陸橋下に公設青果市場があったが名
残りは何もない。坂下で左折、往時目黒川の支流が流れていて「遠江橋」という名の橋が架かってた。
新道ができた時そっちの橋は「新遠江橋)といったが、現在は淡島通りの拡張と川の暗渠化ですっか
り様子が変わってしまった。橋詰めの松見地蔵(移設したが現存)で道中の無事を祈り、そこから西
の大坂(松見坂)を登る覚悟をした。

 胸突き八丁の急坂を上りきるとそこは駒場野で、江戸時代は街道の南側が御鳥見役の御用屋敷、明
治以後は騎兵実施学校・近衛輜重大隊・騎兵第一聯隊が営門を揃えていた。北側は「御鷹場」で全く
の雑林原野、明治以後は騎兵の調練馬場・偕行社(陸軍)住宅・東京帝国大学農学部(前田侯爵邸・旧
制第一高等学校)・航空研究所風洞部の建物が林間や畑中に建ってた。野中の道を過ぎると村境に駒
場地蔵(現存)が建っている。下代田村(代沢)に入ると下りの富士見坂だ。そこは追分で、直進する
と淡島道、朱門を擁する名家阿川家や北沢神社・森厳寺(淡島様)を経て下北沢に至る。向うの山は
多聞寺山で世田谷城の出城跡。現在は多聞小学校。本街道の富士見坂を下ったところが北沢川の渓谷
で「大石橋(だいしばし)」が架かっていた。その昔は、今では想像すらできない深山幽谷、難所中
の難所で、橋を架ける工事はそれはそれは大変だったという。主導的に働いた藤助という人の功績を
讃えて近くの角地に「日本廻国供養之石塔」が建っている。代田村の「東向地蔵」は前の大戦の空襲
で破壊されて今はない。 そこから円泉ヶ丘の「陸軍第二衛戍病院(世田谷病院→国立小児病院→廃
院)」を舐めるように右にカーブして西へ。円泉ヶ丘は円泉寺のある丘の意。「太子堂の円泉寺」が
あることによる。

 「代沢十字路」を越えてしばらく行くと若林村で、常林寺(廃寺)の前は二股になっているが直進
路は戦後の新道だ。本道をそのまま進むが環状七号線の敷設で断ち切られっちまった。梅が丘に入る
と住宅街の中を行くので古道のイメージはない。「松原宿」でクランク、この辺りは竹の上といい、
南方に世田谷城(豪徳寺・世田谷公園一円)があるため竹林を設けて目隠しにしたとか。東急世田谷
線を越える。ここに「宮坂駅」があったが今は廃されて豪徳寺前駅(宮坂駅)に名前を移した。その
宮坂は踏切を越えて南側にあるが、這って登るような急坂で旅人泣かせだったとか。宮は世田谷神社。
本道を行くと右手に常徳院がある。かつては船橋村にあったが吉良氏が世田谷城の出城の機能を持た
せて現在地に移転させた。少し行くと地蔵尊が建つ追分(岐路)がある。直進が本道で南に分かれる
道が村道(バイパス)だ。経堂の繁華街を避けるため牛車や馬車・大八車の専用道として拵えたんだ
と。経堂駅東の大踏切(現在は高架になってガード下になった)を越える。駅の周りは随分変わった
よ。バスがやっと駅前に乗り入れるらしい。

 さて街道だが、すずらん通り商店街からは正式名称を「都道調布・経堂停車馬線」というそうだ。
経堂小学校の前でバイパスが合流してくる。商店街の外れが赤堤通りと接する。イトーヨーカドウの
前で左に逸れ、ここから本道は一部が失われる。八幡山村の八幡神社前に出てさら西へ、明大グラウ
ンドの裏、清掃工場の北側を過ぎると名無しの下り坂、南側に共同墓地があった。坂下は金川(烏山
川の一つ)で坂下橋を渡ると一面の水田だった。進んで小川を越えた突き当たりに都動物管理事務所
がある。戦後の野犬狩りのためにできた役所だ。千歳台の交差点で環状八号線を越える。ここはさら
に低地で水無川(烏山川の一つ)が流れていたが埋め立てて高さを調節した。

 「だんご坂」を登る。右手はガスタンク、さらに北は水無川を越えて芦花公園。徳富蘆花の農家的
屋敷跡だ。やがて品川用水にぶつかる。千歳農協前の交差点だが、かつては喜平橋といい用水沿いの
道路は橋を境にクランクしていた。品川用水は削り取られて今はない。西に行く。南は青山大学工学
部・千歳中学校・塚戸小学校、北は千歳高等学校。バスがすれ違うのが苦しい狭い道だったが、現在
は榎十字路まで拡張した。榎十字路は新道が出来て現在五差路、田無六郷道と交差した。安穏寺坂を下
ると祖師谷田圃。現在は駒大グランドや都立祖師谷公園の一部となっている。公園用地の中に世田谷
一家殺人事件の現場となった家が残されている。かつて仙川(せんがわ)は数流あり、現在のように
一本の大きな川にしたのは最近のことだ。宮下橋を渡り神明坂を登る。三差路を南に取ると成城に至
る成城通り。本道を西するとまた三差路(若葉町の交差点)に出くわす、調布市との境目だ。南に向
かうとこれまた成城に至る。仙川駅入口の十字路は桐朋学園の角、南すると狛江に至る。この辺りは
かつては鬱蒼たる森林の只中で、追剥(おいはき)に身包み剥がされる可哀想な旅人もいたそうだ。

 やがて大正橋に差し掛かる。京王線を越える跨線橋だが、これは切通しで京王電鉄が削り取ったも
のだ。その以前は橋を渡ったところを通っていた。現在も一部が道路として残っている。橋から先、
本道は失われる。戦後甲州街道を拡張して削り取ったため大幅な地形の改変が行われ、滝坂道も現在
の切通しに移された。したがって滝坂は陰も形もなくなり空中になっちまった。滝坂の謂れは雨が降
る坂道が滝のように水が流れて通行不能になることからその名があったとか。ここから新宿3丁目交
差点までの甲州街道は徳川家康の命令で拵えたものだ。現在の甲州街道の北側に旧道(廃道766号
線)が残っており。かつての馬宿川口屋のお宅の門脇に「馬宿川口屋瀧坂道旧道」の石碑が建ってい
る。旧道を西に行って甲州街道と合流するところの交差点は「滝坂下」という。
 


【下目黒】(しもめぐろ)1~6丁目                 昭和42年3月1日
 下目黒村。明治11年大区小区制の廃止により荏原郡に復し、同22年「市制町村制」により目
黒村大字下目黒。大正11年目黒町大字下目黒。昭和7年目黒区下目黒1~4丁目。同42年新住
居表示により、下目黒2~4丁目の各大半に1丁目の一部をあわせた町域を現行の「下目黒」とし
た。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『目黒区史』『目黒の歴史』など。

  下目黒の由来
 目黒村が江戸時代に上・中・下に三分され、その下目黒村だったことによる。五百羅漢・目黒不
動・林試の森がある。江戸時代はこっちが中心地だったンだゾー。


■富士見茶屋跡
 下目黒1丁目1番3号のホリプロビルのところ、行人坂を往来する者を目当てのお休み処だった。
 このビルの坂に面した植栽に説明板が建っている。

   目黒区みどりの散歩道◉不動コース
   富士見茶屋と夕日の岡
   江戸時代、この辺には「富士見茶屋」があり、大勢の参詣客や旅人がここで一服、秀麗な
   富士の眺めを楽しんだ。また坂の周辺は夕日と紅葉が見事で、「夕日の岡」と呼ばれてい
   た。

 釈敬順(しゃくけいじゅん)は文政年間(1818~30)に、この富士見茶屋を訪れ、『十方庵
遊歴雑記』の中で概ね次のように記している。
 目黒行人坂の北側の道沿いの坂の上、淨覚寺の東隣に富士見茶屋がある。西の方には田畑や丘陵が
見渡せ、快晴の日には正面に富士山が見える。左下方に目をやると、坂を上り下りする人々や五百羅
漢の石像が見える。また、遠く池上辺りの森林まで眺望でき、その景色は素晴らしい。『江戸名所図
会』に「西南遥かにひらけて芙蓉の白峯を望む。・・・実に佳景なり」とある。しかし庭が西向きで
狭く、すぐ垣根があり、夏は蒸し暑く耐え難いので、富士山を眺めるのには、下高田村(豊島区高田)
の茶店が第一で、第二は目黒村別所(中目黒)の新富士である。と。
    


■目黒のさんま「菜の花」
 下目黒1丁目1番15号にあるさんま料理屋。目黒でさんまを食べるならここ。小さなビルだが、
表に「爺ヶ茶屋殿にささげしさんまかな」の句が大書してある。」


■行人坂(目黒雅叙園の説明標識)
 下目黒1丁目3番15号角、雅叙園入口の道路向かいの植栽にある。

   行人坂
   行人坂の由来は大円寺にまつわるもので、寛永年間(1624)この辺りに巣食う、住民
   を苦しめている不良のやからを放逐する為に、徳川家は奥州(湯殿山)から高僧行人「大
   海法師」を勧請して開山した。その時不良のやからを一掃した功で、家康から「大円寺」
   の寺号を与えられた。当時この寺に「行人」が多く住んでいた為、いつとはなしに江戸市
   中に通じるこの坂道は行人坂と呼ばれるようになった。          目黒雅叙園


■ラッセ

 目黒1丁目4番15号ヴェローナ目黒地下1階にあるイタリアンレストラン。ロンバルディア地方
の「ダル・ベスカトーレ」で3年半修業した若き料理人が、平成23年に自身の店を開いた。北イタ
リアの郷土料理を独自の感性でアレンジし、洗練された一皿に仕上げる。名物はイタリア産チーズ4
種を合わせたラヴィオリ。ディナーは5~6皿構成のコースが基本で、さほど内容が変わらないラン
チコースは特にお値打ちだ。ワインはイタリアとフランス産を中心に揃えている。気さくな接客も好
印象。
 12時~15時・18時~23時 定休:日曜、年末年始 03‐6417‐9250

 ミシュランガイド東京 
 『2012』~『2014』と、3年連続で星1つを取った。


■行人坂

 下目黒1丁目8番大円寺北側を西へ下る坂道。坂上は品川区上大崎だ。目黒駅から太鼓橋に下る急
坂は、江戸時代に権之助坂が開かれるまでは、二子道として江戸市中から目黒筋に通じる主要な道路
だった。今は、権之助坂の方が広くて賑やかだが、「江戸名所図会」には、

   目黒へ下る坂をいふ。寛永の頃、湯殿山の行者某、大日如来の堂を建立し、大円寺と号す

 とある。坂の名は、湯殿山の行者(法印大海)が大日如来堂(大円寺)を建て修行を始めたところ
多くの行者が集まり住むようになり、いつしかそう呼ぶようになったという。坂の途中にある勢至菩
薩堂の脇にある案内板には、

   寛永の頃、出羽(山形県)の湯殿山の行者が、この辺りに大日如来堂を建立し修行を始め
   ました。次第に多くの行人が集まり住むようになったので、行人坂と呼ばれるようになっ
   たといわれています。
   平成11年11月                        目黒区教育委員会

 とある。永井荷風がこの行人坂を、大正の初め頃、『日和下駄』の「第11夕日附富士眺望」の中
で次のように書いている。

   東都の西郊目黒に夕日ヶ岡といふがあり、大久保に西向天神といふがある。俱に夕日の美
   しきを見るがために人の知る所となった。これ元より江戸時代の事にして、今日わざわざ
   かかる辺鄙の岡に杖を留めて夕陽を見るが如き愚をなすものはあるまい。
   しかし私は日頃頻に東京の風景をさぐりて歩くに当って、ひの都会の美観と夕陽との関係
   甚だ浅からぬ事を知った。
   立派な二重橋の眺望でも城壁の上なる松の木立を越えて、西の空一帯に夕日の燃えたつ時
   最も偉大なる壮観を呈する。暗緑色の松と、晩霞の濃い紫と、この夕日の空の紅色はとは
   独り東京のみならず日本の風土特有の色彩である。
   夕焼の空は堀割に臨む白い土蔵のの壁に反射し、あるいは夕風を孕で進む荷船の帆を染め
   て、ここにもまた意外なる美観を作る。けれども夕日と東京の美的関係を論ぜんには、四
   谷、麹町、青山、白金の大通の如く、西向きなっている一本筋の長い街路について見るの
   が一番便宜である。神田川や八丁堀なぞという川筋、また隅田川沿岸の如きは夕陽の美を
   俟たざるも、それぞれ他の趣味によって、それ相応の特徴を附する事ができる。これに反
   して麹町から四谷を四谷を過ぎて新宿に及ぶ大通、芝白金から目黒行人坂に至る街路の如
   きは、以前からいやに駄々っ広いばかりで、何一ツ人の目を惹に足るべきものもなく全く
   場末の汚い往来に過ぎない。雪にも月にも何の風情を増しはせぬ。風が吹けば砂烟には行
   手は見えず、雨が降れば泥濘、人の踵を没っせんばかりとなる。かかる無味殺風景の山の
   手の大通をば幾分たりとも美しいとか何とか思わせるのは、全く夕陽の関係があるがため
   のみである。
   


■目黒川架橋供養勢至菩薩石像
目黒区指定文化財)

 下目黒1丁目8番大円寺の門の東脇にある小堂。石像脇に弁財天の石像がある。堂と塀との僅かの
隙間に区の説明板が嵌め込まれていて、2段構成になっている。上段が勢至菩薩の、下段が行人坂の
説明となっている。

   目黒川架橋供養勢至菩薩石像
   この石像は、大円寺門前の左上方にある勢至堂内に置かれている。下から台座(977c
   m)、蓮座(20cm)、頭上に金 のついた宝瓶をかぶり、両手合掌、半跏趺坐の勢至
   菩薩坐像(52cm)の3段からできている。台座の前面と両側面に、江戸中期における
   目黒川架橋のことを語る銘文が刻まれている。
   銘文によると、宝永元年(1704)に、西蓮という僧が目黒不動と浅草観音に毎日参詣
   し、往復の途中、江戸市民の報謝を受け、両岸に石壁を築いて、雁歯橋を架けたことが判
   る。雁歯橋し勢至菩薩石像に刻まれた銘文は、行人坂造道と目黒川架橋の史実を物語る貴
   重な資料である。                 目黒区指定有形文化財 歴史資料
                            昭和54年3月27日 指定


   目黒川架橋供養勢至菩薩石像(区指定文化財)
                   大円寺境内
   下から台座(97cm)、蓮座(20cm)、頭上に宝瓶(ほうびょう)のついた宝冠を
   かぶり、両手合掌、半跏趺座の勢至菩薩像(52cm)の3段になっています。
   台座の全面と両側面に、江戸中期における目黒川架橋のことを語る銘文が刻まれています。
   銘文によると、宝永元年(1704)に西運という僧が目黒不動と浅草観音毎日参詣し、
   往復の途中江戸市民の報謝を受け、両岸に石壁を築いて、雁歯橋を架けたことが判る。目
   黒川架橋の史実を物語る貴重な資料ではある。
   平成3年3月                          目黒区教育委員会


 なお文中「毎日」とあるのは「隔日」で、流石に如何に健脚の時代でも毎日は物理的に不可能だ。


松林山
大円寺

 下目黒1丁目8番、目黒駅を出て、行人坂を下るとすぐ左手にある。その向こうは広大幽邃(ゆう
すい)な雅叙園ホテルで、東京砂漠のオアシスをなしている。かつてこの辺りは「夕陽ヶ丘」と呼ば
れ、落日の景の美しい紅葉の名所だった。
 寺は、寛永元年(1624)出羽三山は湯殿山の大海法印が、寺の前の坂(行人坂)を切り開き、
大日金輪を祀って祈願の道場を開いたのがその始まりであると伝えられてい。この坊さんの験力は凄
かったと見えて、門前の坂を往来する行人が引きも切らず、それで「行人坂」
の名が生まれた。行人
とは、出家しないで、つまり坊さんにならず在家のまま修行する行者のことをいう。3世権大僧都養
海の時盛大だった。別に7世権大僧都亮祐を中興開山としている。本尊の清涼寺式釈迦如来立像は本
堂正面に安置されてある。都内最古の仏像で、昭和32年国の重要文化財に指定された。

 坂上にあった
富士見茶屋
(ホリプロのビルのあるところ)も名所だった。

   大円寺
   天台宗で、寛永の初め、湯殿山の行人大海法印が、この坂をきりひらき、大日金輪を祀っ
   て大円寺を建てました。行人坂の名はこれから起こりました。
   明和九年二月(1722)本堂から出火、江戸六百余町を焼き、多くの死者を出したので
   その供養のためにお造られた「釈迦三尊・十六大弟子」、五百羅漢の石像を造りました。
   東京都ではこれらの石仏群を、文化財として郷土資料に指定しました。
   また、当寺には、嵯峨の清凉寺型釈迦如来(国の重要文化財指定)や十一面観音立像、西
   蓮ゆかりの阿弥陀三尊など多くの仏像が知られています。このほかに『八百屋お七』の情
   人吉三(出家して西蓮)の墓や西蓮にちなんだ木像、念仏堂があります。
   昭和54年9月                         目黒区教育委員会


   大円寺(天台宗)
   この寺は「松林山大円寺」といいます。寛永の初め湯殿山の大海法印が寺の前の坂(行人
   坂)を切り開き、大日金輪を祀って祈願の道場を開いたのがその始まりと伝えられていま
   す。本寺には、〝生身の釈迦如来〟といわれている木造「清涼寺式釈迦如来立像」(国指
   定文化財)、木造「十一面観音立像」(区指定文化財)、徳川家の繁栄と江戸発展守護の
   ための「三面大黒天像」(山手七福神の一つ)などが安置されています。
   明和九年二月(1722)本堂から出火、江戸六百余町を焼き、多くの死者を出しました
   が、その供養のためにお造られた「釈迦三尊・十六大弟子」、五百羅漢の像等の「大円寺
   石仏群」(都指定文化財)が建てられています。また阿弥陀堂には「木造阿弥陀三尊像」
   (区指定文化財)や八百やお七の火事にまつわる西運上人の木像、お七地蔵などが祀られ
   ています。境内には行人坂敷石造道供養碑」(区指定文化財)、「目黒川架橋供養勢至菩
   薩心像」(区指定文化財)、西運の墓、などがあります。江戸の面影を残している行人坂
   の景観や老樹古木のしげる境内は緑の自然と古い歴史が薫る静かな美しい浄域を守ってい
   ます。
   平成3年3月                          目黒区教育委員会


 
寺門
 近年の建立。

 清涼寺式釈迦如来立像
 この仏像は、永観元年(983)南都東大寺の学僧奝然が宋の商人陳仁夾らの船に乗って宋国に渡
り、山西省の五台山に登ってそこの清涼寺で、天竺から伝来した釈迦像を拝した。奝然はその美しい
姿に胸を打たれて、模刻を日本に持って帰りたいと訴えた。その願望は受け入れられ、杭州まで像を
移し、名工張延皎・張廷襲兄弟に依頼、一年半掛けて模刻仏を作って貰った。別には台州で模刻した
優填王(うでんおう)所造の栴檀釈迦像を貰って帰朝という説もある。 寛和二年(986)または
永延元年(987)京都西北の愛宕山を中国の五台山に見立てて、ここに伽藍を建て大清涼寺と号す
ることを奏請したが実現せず、長和五年(1016)に没した。そこで弟子の盛算は、愛宕山麓にある
浄土宗棲霞寺内の釈迦堂に奝然請来の栴構釈迦像を安置して「清涼寺」と号することを勅許された。
棲霞寺に仮寓した清涼寺は、この釈迦像が三国伝来の霊像であり、また生身の如来でもあるとの信仰
が高揚するに伴い次第に大きくなり、棲霞寺とその立場が入れ替わった。平安時代末から、生身如来
から霊験を受けようとする多数の参詣・参籠者で娠わい、また浄土教の発展と相まって嵯峨近辺に隠
遁する聖たちの宗教活動の拠点ともなった。
 この釈迦像はその美しいことが全国的に轟き渡って、盛んに模刻仏が地方の寺に安置されるように
なった。全国で80体以上といわれているが、東京周辺たけで8体が確認されている。大円寺の釈迦
如来像は、昭和34年に解体修理したとき胎内から出た品々より、建久四年(1193)彫刻奉納、
祈願者は丹治乙犬女だと判った。

 念仏堂
 明応院に身を寄せた西蓮が、浅草寺に日参する念仏行を始めて27年後、境内に建立された。明治
の始め明応院が廃寺となり、大円寺境内に移された。

 江戸三大黒/七福神
 伝通院・上野の護国院と並んで大黒信仰で繁盛したという。本堂前に七福神像がある。

 薬師如来坐像
 本堂前にある露仏。体の悪い部分に金箔を貼るので金仏となりつつある。

 大円寺石仏群(昭和45年8月3日 東京都指定文化財)
 境内塀際にある。

   都郷土資料 大円寺石仏群
   明和九年(1772)二月に江戸市街地を焼いた大火があり、火元と見られたのが大円寺
   であった。大円寺では焼死した人びとを供養するために、天明頃(1781~9)境内に
   五百羅漢を建立した、と『新編武蔵風土記稿』はき記載している。しかし判読できる銘文
   によると、明和の大火で死亡した者のみの供養ではなさそうであるが、江戸災害史の貴重
   な記念物であることに変わりはない。


 とろけ地蔵
 石仏群の前にある。顔や手がとろけたような異様な石仏だが、悩み事をとろけさせてくれるのだそ
うだ。江戸時代に、漁師が海から引き揚げたものらしいが、詳細は不明。最初からとろけていた訳で
はなく、明和九年の行人坂の大火の高熱を浴びてこうなったんだと。

 
木造十一面観音立像(昭和59年3月31日 目黒区指定文化財)
 この像は一木彫刻で、表面がかなりやつれ、面相も衣文線も制作当初の鋭い彫りの調子を失ってい
るが、造法も作風も古様を伝えている。やや面長な面相、伏眼がちの眼の表現、細身で長身な体躯等
何れも藤原時代の特色を示し、区内の彫刻の中では最も古い遺品の一つと推定される貴重なもの。

 行人坂敷石造道供養碑
 上部が円い石標。

   
   行人坂敷石造道供養碑
   この供養碑は、高さ164cm。碑の上部に種子(梵字)が刻まれている。
   下部の碑文によって、この板を利用する念仏行者たちが悪路に苦しむ人々を救うため、目
   黒不動尊や浅草観音に参詣し、通りがかりの人々から報謝を受け、これを資金として行人
   坂に敷石の道を造り、この成就と往来の安全と供養を祈願したことが理解できる。施主は
   西運で、元禄十六年(1703)の紀年があり、江戸と目黒の社寺を結ぶ重要な参詣路で
   あった行人坂開発の歴史を知るうえで貴重な歴史資料である。

                            目黒区指定有形文化財 歴史資料
                            昭和54年3月27日 指定


   行人坂敷石造道供養碑(区指定文化財)
   この供養碑は、高さ164cm。碑の上部に種子(梵字)キリーク(阿弥陀)サ(観音)
   サク(勢至)が刻まれています。下部の碑文によって、この板を利用する念仏行者たちが
   悪路に苦しむ人々を救うため、目黒不動瀧泉寺や浅草観音(浅草寺)に参詣し、通りがか
   りの人々から報謝を受け、これを資金として行人坂に敷石の道を造り、この成就と往来の
   安全と供養を祈願したことが判ります。施主は西運で、元禄十六年(1703)の紀年が
   あり、江戸と目黒の社寺を結ぶ重要な参詣路であった行人坂開発の歴史を知るうえで貴重
   な歴史資料です。
   平成3年3月                          目黒区教育委員会


 
八百屋お七と吉三の碑/お七地
 本堂手前にある。お七地蔵は西運上人。

   八百屋お七と吉三(西運)
   江戸時代、本郷の八百屋の娘お七は、天和二年(1682)の火事の際、自宅を焼かれ、
   暫くの間、駒込の円林寺に仮住まいしており、その時に寺小姓の吉三に恋したという。お
   七が十六歳、吉三が十八歳でした。恋いこがれたお七は、吉三に会いたい一心で、翌年自
   分の家に放火したために、江戸市中を引き回しの上、鈴ヶ森処刑場で火刑に処せられた。
   その後、一方の主人公「寺小姓吉三」は、お七の処刑後、僧となり、名を「西運」と改め、
   諸国を行脚、後に大円寺の下の明王院(目黒雅叙園)に入ってお七の菩提を弔うため、往
   復十里(約40km)の道のりを浅草観音まで、夜から明け方にかけて鉦を叩き念仏を唱
   え、隔夜日参り一万日の行を27年と5ヶ月を成し遂げ、お七が夢枕に立って成仏したこ
   とを告げられたことから、お七地蔵を作った。また西運は多くの江戸市民から浄財の寄進
   を受け、これを基金に行人坂の道を造り、目黒川に石の太鼓橋を架け、社会事業の数々を
   行った。

 
吉三郎

 この西運が、八百屋お七の思い人吉三郎とされているが、それを証明する
史的確証は全くなく、い
ろいろな男の名前が論われている。本駒込の吉祥寺では同寺の寺小姓だったとしているし、大円寺で
は、その吉三郎はお七処刑後出家して西運となり、南隣の雅叙園のとこにあった明王院に入門。お七
菩提のために「隔夜日参一万日」の行を行ったという。これは一日おきに目黒不動と浅草観音の間、
往復十里の道を夜から朝にかけて鉦を叩き、念仏を唱えながら通うもので、満願の日まで54年をも
要した。これが江戸市中の評判となって、多くの浄財が集まり、これを基金に目黒川に太鼓橋が架け
られ、行人坂に石畳が敷かれたという。その後西運は正徳元年(1711)の法然上人五百年遠忌に
常念仏堂を建立し、阿弥陀・観音・勢至の来迎三尊仏を祀っている。現在「行人坂敷石造堂供養碑」
が残っている。
 西運は浄土宗の僧で、初め鮫河橋(東宮御所の西)にあった嵩源寺の念仏道場で道心者として修行
していたが、明王院が衰微して無住となっていたので、そこに移って念仏三昧の修行に入った。そし
てそこから浅草観音へ隔夜日参して10000日に及んだという。その頃念仏行者でやはり浅草観音
へ一日も欠かさず千日参りをした行者がいる。鮫河橋の隣千日谷の道心胡念で、この行をなし遂げて
一寺を建て一行院と号し千日寺ともいわれた。この胡念は、寛永三年(1626)の入寂(死亡)だ
から、西運より先輩の僧で、西運は鮫河橋での修行時代に、この胡念の千日参りを知っていたろう。
西運は浄財を得て明王院の前に念仏堂を建てると、明王院の仏像を移し、阿弥陀三尊をはじめ諸仏像
を安置した。そして明王院と称し「念仏堂」三字の扁額を掲げた。この額はいま寿福寺に保存されて
いる。西運は元文五年(1740)に寂滅した。


 ●
阿弥陀堂・木造阿弥陀三尊(昭和59年3月31日 目黒区指定文化財指定)
 中尊阿弥陀如来像は来迎印を結び、左足を垂下した半跏の姿、観音像は蓮台をもち左膝を立てた典
型的な来迎形の阿弥陀三尊であるが中尊が半跏座の姿をとる例は珍しい三尊形式である。三尊とも江
戸時代の典型的な作風を示し、江戸時代の仏像がいずれもこじんまりとしているのに対し気宇広大な
特色を持っている。また両脇侍像蓮台の木札に明和七年(1770)大仏師桃水伊三郎等の銘がある
ことも貴重。

   木造阿弥陀三尊像                 目黒区指定有形文化財 彫刻
                              昭和59年3月31日 指定
   中尊阿弥陀如来像は来迎印を結び、左足を垂下した半跏の姿、観音像は蓮台を持ち左膝を
   立て、勢至像は合掌し右膝を立てた典型的な来迎形の阿弥陀三尊像であるが、中尊が半跏
   座の姿をとる例は少なく珍しい三尊形式である。
   三尊とも江戸時代の典型的な作風を示し、江戸時代の仏像が何れも小じんまりとしている
   のに対し気宇広大な特色を持っている。
   また明和七年(1770)大仏師桃水伊三郎等の銘があることも貴重である。
   昭和59年8月                         目黒区教育委員会

 西運上人像碑
 境内右手にある。大亦観風画の線刻と、

   吉三発心 只頼む 鐘の音聞けよ秋の暮


 の句が彫られている。木枯らし吹きすさぶ中、黒衣の裾をなびかせながら、隔夜日参一万日念仏行
を勤められている姿。

 お七地蔵
 西運上人像碑の横にある。唇に紅がさしてある。傍らの石柱。

   八百屋お七の恋人吉三はその後名を西運と改め
   お七の菩提を弔うため江戸市民から寄進された
   浄財を基に行人坂の石畳、太鼓橋を石橋にした

 道祖神
 西運上人像碑の前にある。

 十三層石塔
 道祖神の横にある。

 旧太鼓橋の石材
 境内にある。頂に可愛らしい老婆を乗せた標石角柱がある。

   目黒川の太鼓橋に使用された石材
   八百屋お七の恋人吉三はその後名を西運と改め
   お七の菩提を弔うため江戸市民から寄進された
   浄財を基に行人坂の石畳太鼓橋を石の橋にした


 庚申塔3基、愛らしい子供の六地蔵、身代わり地蔵尊 観世音菩薩立像



■目黒行人坂大火(明和の大火)
 明和九年二月二十九日(1772‐4‐1)に発生した大火事。明暦・文化と江戸三大大火の一。
行人坂大円寺から出火したため、目黒行人坂大火と呼ばれ、俗に「迷惑(明和九=めいわく)の大火
事」といわれる

 この日13時頃、目黒大円寺から出火した炎は南西からの風に煽られ、麻布、京橋、日本橋に襲い
かかり、江戸城下の武家屋敷を焼き尽くし、神田、千住方面まで燃え広がった。一旦は小塚原付近で
鎮火したものの、18時頃に本郷から再出火。駒込、根岸を焼いた。三十日の昼頃には鎮火したかに
見えたが、三月一日の10時頃馬喰町付近からまたもや再出火、東に燃え広がって日本橋地区は壊滅
した。類焼した町は934町、大名屋敷は169、橋は170、寺は382を数えた。山王神社、神
田明神、湯島天神、東本願寺、湯島聖堂も被災した。

 「明暦三年、明和九年、文化三年各出火記録控」によると、出火元は目黒の大円寺。火事の原因は
放火。犯人は武州熊谷無宿(住所不定)真秀(長五郎)という悪僧で火の回りが速く、慌てて何も
盗らず逃げた。真秀は火事場泥棒の常習犯だ。彼は火災後、立派な袈裟衣を着て高僧になりすまし町
を歩いていたが、踵に皹割れがあるのを怪しまれて、
火付け盗賊改長官である長谷川宜雄(長谷川宜
以の父)の手の者によって、同年四月頃に捕縛された。同年六月二十一日(1772‐7‐21)市
中引き回しの上、小塚原で火刑に処された。
  しかし寺の再建は許されず、仏像・過去帳は明王院預かりとなった。
 それから76年経った嘉永元年(1848)薩摩藩島津家の菩提寺なることで復活が許された。こ
の間に50年をかけて大火の犠牲者の霊を弔うために石の五百羅漢像を造った。500の数字の示す
通りなかなか揃わないものだが、中央の釈迦像を囲んで脇侍に普賢菩薩・文殊菩薩、十六人の弟子像、
合わせて509体が揃っている。都の説明では「大円寺石仏群」といい明和の火災の供養ばかりでは
ない銘文があるという。
明和九年は十一月十六日改元されて安永元年となったが、当時こんな世を嘆
いた落首が詠まれている。

   年号は安く永くとかはれども諸色高くて今に明和九(迷惑)



松樹山明王院茂林寺
 廃寺
 雅叙園ホテルのところにあった。本堂は小さく、寺域の一部を町家に貸し、後背の斜面3758坪
は大名の抱屋敷として、初め島津家に、次いで熊本の細川家、幕末には盛岡の南部家に貸して地代を
取り、寺の収入としていた。初め目黒不動の末寺として開山したのは栄運法印、中興は正蔵坊といわ
れているが、西運以前のことは文献がない。明王院は維新後に衰退、明治13年に廃寺となり、寺仏
などは大円寺に移された。現在大円寺別殿の阿弥陀堂に「阿弥陀三尊」が安置されているが、これが
明王院の本尊だった。
 明王院と大円寺の関係は、単に隣り合うというだけでなく、明和九年(1772)大円寺から発し
た「目黒行人坂の大火」のため、その出火元として大円寺の再建は許されず、本尊の大日如来や大黒
天の像は残ったので、隣の明王院に移して両寺合併の形となり、76年を経過した嘉永元年(184
8)薩摩藩島津家の支援で再建が許されて、明王院から独立した。ところが明治初年今度は明王院が
衰微して廃寺となったので、そのため本尊阿弥陀三尊・弁財天・十一面観音・清涼寺式釈迦像などが
大円寺に移されたという訳だ。したがって大円寺にある仏像や墓碑などは、混在してしまい、どれが
どっちにあったものかは判らなくなっている。なお明王院の本堂は明治13年に上目黒のやはり滝泉
寺末の寿福寺に移築された。


■太鼓橋

 目黒川に架かる橋。行人坂を下った通りにある。『新編武蔵風土記稿』には


   一円相唐橋行人坂にあり。目黒川に架す。長八間三尺・幅二間の石梁なり。水涯より石を
   重ね上げて造る。その形円なるゆえこの名あり。また太鼓の状にも似たれば太鼓橋ともい
   う。延享年中廻国の僧九州にてこの形の橋を見たりとてその製作にならい作りしが、欄干
   いまだ成就せざりしを後人継いで造作し、宝暦十四年より明和六年にいたりてついに落成
   す。そのことにあずかりし人々の名を碑に彫りて橋下に立つ

 とある。『東京市史稿』では、延宝年間(1673~80)の創架と、長さ8間3尺×幅2間の石
橋となっている。太鼓の由来は唐式石拱橋(1スパン充腹アーチ橋)の半円が水面に映ると円に見え
ることから準えたもので、俗称だった。大正9年9月1日の豪雨で流出した。現在の橋は昭和6年の
竣工なので、その間橋は架けられていたと思うが、大正12年から目黒川の拡幅深鑿工事が始まって
いるので仮橋と思われる。平成になって改装された。現在は太鼓橋が正式名称。
 


■目黒雅叙園ホテル

 下目黒1丁目8番1号にある高級ホテル。昭和3年東京芝浦に純日本式料亭「芝浦雅叙園」を創設
した
細川力蔵が、
昭和6年江戸名所の一つ「夕陽ヶ丘」の明王院跡の広大な土地を購入、「目黒雅叙
園」を創設した。総坪数は8000余坪、部屋数200余室。廊下だけでも数100m、絢爛豪華な
東洋一のホテル・レストラン・結婚式場・美術の殿堂として賑わいを見せる。
 特徴は、まるで美術館のように優美な館内の設えにある。黒漆に蝶貝を嵌め込んだ螺鈿、色鮮やか
な日本画と浮彫彫刻、手の込んだ組子をもつ建具。部屋毎に趣の異なる多様な意匠には驚かされる。
しかし少くすると共通した一つの美意識が流れているのを発見できる。それは江戸時代以前から受け
継がれてきた日本の伝統的建築の一端が根を下し実を結んだものであり、その豪華さは桃山風、さら
には日光東照宮の系列、或いは歌舞伎などに見られる江戸文化の流れに属するものといえる。各種の
要素を切り離して、抑制されたところに作られる透明で完結された美を目指すのではなく、欲求が素
直にぶつかり合ったところに生まれるエネルギーに美を探しているともいえるだろう。しかし実は、
「昭和の龍宮城」といわれた美術の殿堂も戦災や平成の改築で失われ、文化よりは金儲けって訳さ。
現在では漁樵の間・十畝の間・星光の間・草丘の間・清方の間・静水の間の6室と百段階段の部分が
保存されているのみで、宿泊室も60と激減した。
最近建て増しした部分は本屋を凌ぐ超近代高層テ
ナントビル(アルコタワー)で、終にここまで来たかの感強し。ああ雅叙園よ何処へ行く・・・

 百段階段
 通称で、かつての目黒雅叙園3号館にあたり、昭和10年に建てられた当園で現存する唯一の木造
建築。食事を楽しみ、晴れやかな宴が行われた7部屋を、99段の長い階段廊下が繋いでいる。階段
は厚さ約5cmの欅板を使用。階段で結ばれた各部屋はそれぞれ趣向が異なり、各部屋の天井や欄間
には、当時屈指の著名な画家達が創り上げた美の世界が描かれている。〝昭和の竜宮城〟と呼ばれた
目黒雅叙園の建物の特徴は、装飾の破格な豪華さにある。最近の研究によると、その豪華な装飾は桃
山風、更には日光東照宮の系列、或いは歌舞伎などに見られる江戸文化に属するものとも言え、なか
でも「百段階段」はその装飾の美しさから見ても、伝統的な美意識の最高到達点を示すものとされて
いる。平成21年3月、東京都の有形文化財に指定された。

 お七の井戸
 入口脇にある。決してお七の幽霊が出る訳ではないが、大円寺の西運が毎日浅草寺へ出かける時、
垢離を取った。西運は、お七が岡っ惚れした寺小姓の吉三郎だといわれている。井戸の上は竹筒を編
んだの簾状の蓋がしてある。庭の景色に溶け込んで、誰も意識しないだろう。

   お七の井戸
   八百やの娘お七は、恋いこがれた寺小姓吉三あいたさに自宅に放火し、鈴ヶ森で火刑にさ
   れた。吉三はお七の火刑後僧侶となり、名を西運と改め、明王院に入り、目黒不動と浅草
   観音の間、往復十里の道を念仏を唱えつつ隔夜一万日の行をなし遂げた。明王院という寺
   は、現在の目黒雅叙園エントランス付近から庭園にかけ明治13年頃まであった。この明
   王院境内の井戸で西運が念仏行に出かける前に、お七の菩提を念じながら水垢離をとった
   ことから「お七の井戸」と言い伝えられている。               雅叙園
  


■目黒雅叙園美術館

 下目黒1丁目8番1号にある。絢爛豪華な意匠で知られる目黒雅叙園の新装開業にともなって、創
業者細川力蔵の昭和初期から戦前までの日本画コレクションを中心に所蔵。雅叙園本体にも様々な美
術工芸作品が散りばめられている。建物自体が美術館状態で、所蔵品は県立美術館などの企画展に貸
し出すのがメイン、常設展示はないようだ。
 


■権之助坂
 下目黒1丁目と目黒1丁目の境、目黒通りが目黒川に架かる目黒新橋へ下る坂だ。意味深な名前だ
が、「権之助って誰?」 この辺を荒し回った悪党だと『目黒町誌』はいうが、江戸中期、中目黒の
田道(でんどう)に菅沼権之助という名主がおり。彼は本通りが行人坂という急坂なため、村人が怖
がって遠回りをしていることで心を痛め、村人の利便のためにと幕府に無届けで新坂を開き太鼓橋の
北に新橋を架けた。江戸時代の街道は戦略的に造られており、あえて一直線を避け、湾曲や筋違いに
作り、見通しを遮り、坂は九十九の胸突き坂とし、江戸侵攻軍の勢いを削ぐように拵えてあった。通
行人の利便など眼中になかったのだ。そのため権之助は刑に処せられることになり、当時は新坂と呼
ばれていたこの坂の上から生まれ育った我家を振り返りながら刑場に引かれていったという。村人は
権之助の村に尽くした功績を讃えて、最後に振り返ったこの坂を「権之助坂」と呼ぶようになったと
いうが、権之助の墓は中目黒5丁目6番の民間墓地にあり、江戸時代には罪人の墓は作ることが許さ
れないので、権之助の墓が幕府によって排斥されていないところをみると、勝手に坂を拵えたという
ことはなさそうだ。坂名に重みを持たせるために村人が拵えた寝物語だろう。仕来りを知っていれば
すぐに嘘だと判る話だ。
 ここの土地の年寄に聞いた話だが、新橋なんちゅうと欄干の付いた橋を想像するが、大正の頃は川
底に板が渡してあるだけで自動車はぬからないように慎重に渡っていたという。その頃は目黒も雑木
林や田圃、畑の方が多く、狐や狸が走り回っていたんだと。それで狐が人を化かすというある雑木林
の噂が飛んだのだが、事実は夜道を帰宅する芸者の姐さんたちが近道をしていたということだった。
昭和50年頃、目黒新橋交番の初老のお巡りさんは「一度も殺人強盗などの凶悪事件には出くわした
ことがない」といっていた。
 昔は、行人坂が江戸市中から目黒筋に通じる幹線道路であったが、権之助坂が開かれ、明治になっ
て鉄道が敷設されると坂の主役は、権之助坂の方に移った。とはいっても、明治のころの権之助坂は、
現在の坂より急で、車馬の往来が激しく、時には馬諸共脇の杉林に落ちることもあったというから、
決して十分な整備ではなかったのだ。坂下から新橋までの間は地盤が低く、大雨で目黒川が氾濫する
と橋だけが水面に頭を出していることがあった。目黒川には、水車が数ヶ所あったので、氾濫の一因
となったのではないかという。
 新橋と行人坂下の太鼓橋との間には梨畑があって、行楽客の休憩所にもなっていたが、度々の出水
で梨の木が枯れてしまい、その跡に盛土して開業したのが現在の「太鼓鰻」という。太鼓鰻の宣伝で
は、創業300年と謳ってるがね。
 昭和に入ると権之助坂の南側一部分譲されて家が建てられた。そのころの権之助坂は、今の行人坂
より狭く、向こう側(北側)は久米邸の石垣になっていて、そこに萩の花がこぼれるように咲いて、
それはそれは綺麗だった。ホタルが沢山いて、ホタルが5つ6つ固まって飛んでいるのが火の玉のよ
うに見えて、腰が抜けるほどびっくりする人もいたとか。秋にはそこここにスズムシやマツムシが鳴
いていて、思わず立ち止まったものだそうだ。
 さて商店街はというと、ここの商業の歴史は意外と浅い。戦時中は、駅付近に若干の商店があった
だけの寂しいところで、追剥も出たことがあるという。そんなところに、戦後ボツボツ露店が立ち並
ぶようになり、やがて定着して店舗を構え、地元のお客を相手に悠々と繁昌を続け今日の隆盛を見る
に至った。
 ところが昭和42年11月ターミナルビル、ステーションビルが次々に完成し、中央から有名店や
老舗が進出してくると、地元商店街の様子も一変し、それまでビルができれば人が集まるという期待
とは裏腹にさっぱり客が流れなくなったという。「束の間の太平の夢から、一遍に覚まされた」とあ
る商店主はいっているが、ここにも激しい時代の移り変わりを見る思いがする。坂の方も、権之助坂
の脇腹をけずるように、放射3号支線一が開通し、権之助坂は下りの一方通行にされてしまったが、
それでも朝夕は車の洪水を捌き切れずに喘いでいる。権之助も土の下で苦笑していることだろうよ。
 


■目黒新橋

 下目黒1・2丁目、目黒1・2丁目の接する位置にある、目黒川に架かる橋。江戸時代初期には架
橋されていたと資料にあるが、おいらが直接古老に聞いた話では。大正時代には橋は架かっていず、
河底に板が渡してあったという。それで足を濡らさずに川が渡れたとかで、自動車もパリダカレース
のように河底に降り、板を渡って河岸を登ってたそうだ。芸者の姉さんについていったら狸に化かさ
れたってことも聞いたとかで、当時は目黒もそんなとこだったってことだ。
 先代の橋が昭和8年に架けられ、現在の橋は平成8年の架け替え、河岸の桜が美しく見える橋とし
て名所の1つに数えられる。権之助坂下にあり、都道312号線白金等々力線・目黒通りを通す。行
人坂下の太鼓橋の一つ上流の橋だ。
 目黒川は、江戸時代は特に呼称はなく、水垢離を取ったことから「垢離取川」とは呼んだが、正式
名称ではない。何時から目黒川と呼んだかは判らないが、明治以後のことだ。北沢川と烏山川の合流
点の龍池から東京湾までの河川名で、河口付近は別に「品川」と呼ばれていた。世田谷区池尻はこの
池の出口、つまり目黒川が始まるところをいう。


■電車道

 権之助坂の下、目黒川に架かる新橋の袂から、西南は不動前方面へ向けて斜めに走る道がある。歩
道を含め、最大幅員18mに及ぶ立派な道だが、全長わずかに600m足らず。目黒不動交差点で山
手通りと交差した途端、万有製薬の東京物流センターにぶつかって、忽然と途切れる太く短い道だ。
戦前、東京市が天現寺・恵比寿長者丸間の市電路線を延長するために買収した軌道敷用地が、この道
の前身だ。昭和19年に既存の路線自体が廃止となったため、戦後新橋から終点予定地までの軌道敷
用地が、そのまま道路に生まれ変わった。柳並木があったため「柳通り」の名もあるが、現在はハナ
ミズキの並木道だ。昔を知る人の間では、今も「電車道」と呼ばれる。歴史を刻んだ道ではある。 
 


■目黒エンペラー

 下目黒2丁目1番6号にあるラブホテル。昭和48年の開業。おとぎ話の城のような外観、男女が
ゴンドラに乗り入浴するという「ゴンドラバス」等豪華な設備で、全国にお城型のラブホテルが増加
した。特に地方では存在感を目立たせなくては注目して貰い難かったことから、派手なネオンサイン
など人目を引く外観のホテルが特徴だった。秘め事をするのに何でド派手なのかというと、「ここは
ラブホテルですよ」と判り易くするためだ。だから入口は目立たぬように拵えてある。
 ラブホテルやモーテルという言葉は、昭和40年代からの使用で、江戸時代は「出合茶屋」、明治
末からは「連れ込み宿」「連れ込み旅館」といった。


■下二南
街かど公園

 下目黒2丁目14番15号にある区立公園。平成17年3月25日開園。
 


■大鳥
公園

 下目黒2丁目20番19号にある区立公園。平成3年3月31日に開園した目黒駅が最寄り駅の公
園。水位が低めのじゃぶじゃぶ池があって、子ども達に大人気。タイヤの遊具もある。


■金毘羅坂(金比羅坂)

 下目黒3丁目1番2号大鳥神社北の目黒通りを西に上がって行く坂道。
 酉の市では山の手一の賑わいを見せる目黒大鳥神社北側の目黒通りは、南西に向かって緩やかな上
り坂になっている。沿道南側にユニークな博物館の目黒寄生虫館が建っているこの坂には、金毘羅坂
の名がある。金毘羅とは、仏法の守護神の1つ金毘羅さまに他ならない。今は辺りにそれらしき神社や
寺は見当たらないが、かつて大鳥神社北西の丘上に金毘羅さまが鎮座していたので坂の名になった。

   金比羅坂
   社は、江戸名所図絵の押絵にその壮観がしのばれるが、明治の初めに廃寺となった。
   坂の東側には、明治四十年に目黒競馬場ができ、昭和八年に府中に移転するまで、この坂
   は競馬場にゆきかよう人々でにぎわった。
   昭和五十八年三月                             東京都


 『江戸名所図会』には「金毘羅大権現社」として


   同所二町ばかり西の方、通りを隔てゝあり。祭る所讃州象頭山金毘羅宮と同じ。同社を以
   て御城南鎮護神と称し奉れり

 と記されている。大鳥神社から200mほど西にあって、祭神は讃岐の金毘羅大権現、現在の香川
県の金毘羅宮と同じで江戸城南の守護神と称されたという訳だ。同書には木々に囲まれた社殿を描い
た「金毘羅社」の挿絵も載っている。
 江戸時代には随分繁栄した神さまで、大鳥神社・目黒不動尊と並んで「目黒三社」の1つに数えら
れた。ただ幕府編纂の『新編武蔵風土記稿』を見ると、この金毘羅は、正徳年間(1711~16)
開山の曹洞宗高幢寺(こうとうじ)の境内にあったとある。同寺は、『江戸名所図会』の「金毘羅大
権現社」の項には「別当は禅宗にして高幢寺といふ」とあるだけだ。しかし実際は、高幢寺開基後に
境内の一隅に金毘羅さんが勧請されたという『風土記稿』の記述通りだったのだろう。寺の名より金
毘羅の方が一般には通りがよく、高幢寺そのものも「金毘羅大権現」と呼ばれるようになったと見ら
れる。その高幢寺も明治8年に廃寺となって金毘羅もなくなり、坂名に名残をとどめるだけになった。


 東京都の建てた石造りの説明碑がある。

   坂の西側に金毘羅権現社(高幢寺)があったので、坂の名がついたといわれる。金毘羅権現
   社は、江戸名所図絵の押絵にその壮観がしのばれるが、明治の初めに廃寺となった。
   坂の東側には、明治四十年に目黒競馬場ができ、昭和八年に府中に移転するまで、この坂
   は競馬場にゆきかよう人々でにぎわった。
    昭和五十八年三月                           東京都

 と書いたら、北海道のお寺さんからメールがありました。

   下目黒の高幢寺は結局廃寺になりましたが、高幢寺最後の住職牧玄道は北海道上川郡東川
   村に来てお寺を建て、寺号山号を変えて東川寺として再出発致しました。その際元高幢寺
   の金比羅大権現等の什物を東川寺に搬入して現在に至っています。


 ところで富山市内に高幢寺という同名の寺がある。東川寺も高幢寺も共に曹洞宗だ。高幢寺にHP
が無いので詳細は不明だが、関係ないのかな?


 金比羅権現(高憧寺)
 東川寺前身「鳳林山高幢寺」は、寛延元年(1748)の開創で、武蔵国荏原郡下目黒にあって、
京都宇治田原の禪定寺末。開山に月舟宗胡禅師を拝請し、二世中興徳翁良高師は開創三世重開山高峰
源尊師の本師。以来十五世達宗(牧)玄道師まで至る。

   高憧寺
   境内年貢地一万坪。村の北によりてあり。曹洞宗山城國宇治田原禪定寺末、鳳林山傳燈院
   と號す。昔、當所、鳳林庵といへる庵室ありしが正徳年中、高峯和尚と云もの此庵に住せ
   り。その頃、神奈川宿金蔵院の境内に傳燈院高幢寺といへる廃寺あり。高峰それをここに
   移し、庵を改め一宇の寺院とす。故に庵號を以て山號とす。高峰、俗姓は源、氏は大田、
   名資尊、圖書資頼が子なり。貞享二年正月二十八日、年、十一にして薙染し加州大乘寺に
   入て參禪し、後諸國を遍歴す。高峰嘗て金毘羅を信じて一堂を起立すべき志あり。年を歴
   ていよいよ志あつかりける。後、此處に来り其願を遂たり。依て終焉の地と定めこの構營
   あり。又、大岡越前守、寺社奉行たりし頃、七堂伽藍建立の願も許されしかと、未造立の
   ことに及ばずして寛延3年7月19日、八十二歳にして入寂す。

   金毘羅大権現
   高幢寺境内にあり、三間に七間、幣殿三間四方、拝殿七間に三間、向拝三間四方、東に向
   う。金毘羅權現の五字を扁す。神像は木像、作知れず。長一尺五寸。祭禮年々十月十日、
   神樂を奏す。御城鎭護の神と仰ぎ、九條家より鎭護社の三字を賜はり、今寺に納む。又、
   辨天の像あり、長五寸餘、厨子の中に安じて堂中にあり。神奈川高幢寺に傳へし舊物なり。
   寺傳に云、高峯常に此の辨天を信ず。一日坐禪の間、一睡を催す。時に霊夢を蒙り、多年
   の応願成就の期至れり、その證として一銭を賜るとみて、夢さめたり。高峯、奇異の思を
   なし、懐中を探るに果して一銭を得たり。高峯歡喜浅からず。程なく當社を建立しける後、
   錢をば錢婆神と崇め今に社壇に安ずと云う。
   しかし明治の変動により、島津家の庇護を離れ廃寺同然となるに及び、明治32年高幢寺
   の歴住の位牌、金比羅大權現等の木像、島津藩主重豪書の大額、太鼓絵馬その他の什物と
   共に、高幢寺の最後の住職牧玄道師は、北海道上川郡東川村に行って東川寺を創立した。


 
「金毘羅大權現」のあった「高幢寺」が廃寺となった理由
 それは明治維新で江戸幕府が倒され、明治新政府が誕生したことと深く関係している。明治新政府
が慶応4年3月13日に発令した太政官布告「神佛分離令)」と、明治3年1月3日に出された詔書
「大教宣布」により、廃仏毀釈運動が起こり、仏教弾圧がなされたことによる。そのため多くの寺院
や仏像、経卷が破壊された。さらに明治4年1月5日の太政官布告で「寺社領上知令」が布告され寺
社の境内以外の領地が政府に取り上げられ、寺院は困窮し廃寺にせざるを得ないこととなった。
 「高幢寺」は曹洞宗の禅寺と云うよりも「金毘羅大權現」で有名だったため、神仏混交を禁止され
金毘羅大權現は神体とみなされ、神社で祭るものとされた。さらに金比羅大權現と書いた藩主・島津
重豪の薩摩藩はこの廃仏毀釈運動が他の所より厳しく行われた。薩摩藩内の寺院は殆ど破壊され、藩
主の菩提寺の福昌寺も破壊されたのだ。以上のように明治政府が急激に国家神道を進めてゆく事によ
り、残念ながら高幢寺もついに廃寺に追い込まれることになった訳だ。
 長州人というのは地理的関係から朝鮮人で構成されている。国家神道というのは、長州特有の神道
で朝鮮神道といっても過言ではない。明治維新を起したのは、ユダヤに唆された朝鮮系日本人たちで
それだからこそ伊藤博文は孝明天皇を弑逆できたのだ。長州に皇道立教会という精神組織があった。
これが、国家神道、創価学会、統一教会の母体だ。何れも朝鮮系の宗教組織。だからユダヤの指令に
よって日本の信仰、精神を破壊しようとしたのだ。安倍晋三はこうした長州人。ユダヤの手先として
またまた日本人を戦争で死なしめようとしている。ユダヤの狙いは天皇の地位だ。
 日本では、どんな死者に対しても供養するが、鎮魂はしない。鎮魂は朝鮮の儀式だ。何故靖国神社
が日本にあるのか? それは靖国神社の原点が、山口県熊毛郡田布施の招魂場だからだ。田布施は朝
鮮部落で幕末の志士と称する人間はここから出て来た。彼らは日本の仏教を潰し、国家神道一色にす
る必要があった。廃仏毀釈とは、日本を朝鮮化することだったのだ。幕末の志士、薩摩も長州もみん
な田布施(朝鮮部落)出身。坂本龍馬も同じ貉だ。安倍も、小泉も、同じ所だ。だから靖国参拝にこ
だわる。安倍が集団自衛権を振り回して戦争へ戦争へと追いやろうとするのも朝鮮系だからだ。

 金毘羅大權現(島津重豪・揮毫)の大額
 この大額は、高幢寺に掲げられていたもの。現在は北海道の東川寺に掲げている。額の全体の大き
さは縦124cm×横73cmある。「金毘羅大權現」と書いた人は「薩州三位中将榮翁八十八歳謹
書」とあります。江戸中期の薩摩藩主、島津重豪(しまづしげひで)が榮翁と号したことから、この
書は島津重豪の八十八歳の時の揮毫。島津重豪は天保四年(1833)八十九歳で亡くなったので、
この書は天保三年頃に揮毫されたものだろう。  


■大鳥神社(区内最古)

 下目黒3丁目1番2号にある。古代国常立尊を祀った小社だった。日本武尊が東夷征伐の時立ち寄
り平定の祈願をした。日本武尊はその後伊勢の能褒野(のぼの)で亡くなったので、その霊を祀り、
2柱の祭神となった。大同元年(808)神勅によって社殿を造営し大鳥神社と称した。今は弟橘媛
命も合わせて3柱の神社で、例大祭は重陽の節句。酉の市は他の鷲(おおとり)神社と同じように行
われる。境内にオオアカガシの巨木とキリシタン灯籠、庚申塔などがある。キリシタン灯籠は目黒駅西
北にあった松平主殿頭抱屋敷にあったものを移したのだが、南隣の別当寺大聖院
にもあり、どういう
割り振りをしたものか。

   大 鳥 神 社 御 由 緒
   御祭神 主祭神 日本武尊 景行天皇の皇子で、熊襲討伐。東国の蝦夷を平定。
       相殿神 国常立尊 日本の国開きの神様
           弟橘姫命 日本武尊の妃
   御由緒 例 祭 9月9日に近い日曜日
   景行天皇の御代(71~130)当所に国常立尊祀った社がありました。景行天皇の皇子
   である日本武尊は、天皇の命令で熊襲を討ち、その後、東国の蝦夷を平定しました。その
   東夷征伐の折当社に立寄られ、東夷を平定する祈願をなされ、また部下の「目の病」の治
   らんことをお願いなされたところ、東夷を平定し、部下の目の病が治ったことから、当社
   を盲神と称え、手近に持っておられた十握剣(とつかめのつるぎ)を当社に献って神恩に
   感謝されました。
   東征の後、近江伊吹山の妖賊を討伐になられましたが、病を薨ぜられました。日本書紀に
   「尊の亡骸を伊勢の能褒野に葬したところ、その陵より尊の霊が大きな白鳥となられ倭国
   指して飛ばれ、倭の琴弾原、河内の舊市邑に留り、その後、天に昇られた」とあり、この
   ことから日本武尊を鳥明神と申す訳です。当社の社伝によると、「尊の霊が当地に白鳥と
   してあらわれ給い、鳥明神として祀る」とあり、大同元年(806)社殿が造営されまし
   た。当社の社紋が鳳の紋を用いているのはそのためです。江戸図として最も古いされる長
   禄の江戸図(室町時代)に当社は鳥明神と記載されております。
   酉の市(八つ頭と熊手)
   当社の酉の市は都内でも古く、江戸時代に始まります。酉の市が毎年11月の「酉の日」
   に行われるのは、尊の熊襲征伐の出発日が酉の日だった為、その日を祭日としました。酉
   の日の当日、御神前に幣帛として「八つ頭」と「熊手」を奉献します。「八つ頭」は尊が
   東征の時、八族の各頭目を平定したご功業を具象化したもので、「熊手」は尊が焼津で焼
   き打ちに遭われた時、薙ぎ倒した草を当時武器であった熊手を以て掻き集めさせその火を
   防ぎ向火を以て賊を平らげ、九死に一生を得た事を偲び奉るためのものです。ここから古
   来より「八つ頭」は人の頭に立つように出世できるという縁起と結びつき、「熊手」は家
   内に宝を掻き込むという意味で縁起物として広く信仰を集めました。大鳥神社の社名「お
   おとり」は「大取」に通ずる為、宝物を大きく取り込むという商売繁昌開運招福の神様と
   して多くの人達の信仰を集めております。また酉の市当日は社殿においてこの縁起の元と
   なる「開運熊手守」が授与されます。


 「新編武蔵風土記稿」に、

   大鳥神社
   除地九百九十八坪。字新屋敷にあり。本社二間に三間東に向ふ。祭神は日本武尊。大同年
   中の鎮座なり。鳥居あり。柱間九尺、大鳥大明神の五字を扁素す。鳥居の内外に石階あり。
   神楽堂 本社の側にあり。二間に二間半。九月九日祭礼の日に神楽を奏す。
   稲荷社 本社に向って右にあり。小祠前に鳥居を立つ。


 とあり、区の説明板には、

   大鳥神社
   この神社は、日本武尊の東征とゆかりがあるといわれるこの地に、大同元年(806)創
   建された区内最古の神社です。江戸地図として古いものとされる「長禄江戸図」に画かれ
   ている古江戸9社の1つで、目黒村の総鎮守でもありした。祭神は日本武尊を主神とし国
   常立尊と弟橘媛命を合祀しています。
   毎年11月に開かれる酉の市は、東京では古いものの1つといわれており、現在でも都内
   では有数の賑わいをみせています。この市のいわれは、日本書紀に「十月己酉に日本武尊
   を遣わして、熊襲を討つ」とあり、尊の出発日が酉の日であったことから起こったといわ
   れています(実際は足立区の花畑神社が起源‐詳細はそちらへ)。
   毎年9月の例大祭には、目黒通りに大小30余基の町神輿が勢揃いします。それと共に社
   殿では、「太太神楽・剣の舞」が奉納されます。11月の酉の市では、「太太神楽・剣の
   舞」が神前で舞われます。境内には、東京都の天然記念物に指定された「オオアカガシ」
   の老木や三猿だけの延宝塔、元禄時代(1688~1703)や宝永年間(1704~1
   0)の屋根付庚申塔など5基の石造物もあります。また俗に切支丹燈籠といわれる「磯部
   式燈籠」や天保六年(1835)の酉の市に神楽を奉納した記念碑などもあります。
                                   目黒区教育委員会


 とある。また切支丹燈籠について、

   下目黒の大鳥神社所蔵で、昭和38年守屋図書館に開設された郷土資料室に出品公開され
   て以来、中庭で展示されていたものです。もとは千代ヶ崎(東京都教職員研修センター)
   の大村邸内にあり、かつてこの地にあった肥前島原藩主松平主殿頭の下屋敷に祀られ、秘
   かに信仰されていたものと伝えられています。竿下の下部に刻まれた像には足の表現がな
   く、イエス像を仏像形式に偽装した珍しい型の切支丹燈籠で、キリシタンへの弾圧と迫害
   が厳しくなった寛永・正保・慶安の頃から江戸中期にかけて作られたものと考えられます


 の掲示がある。

 剣の舞
 大鳥神社に伝えられている太々神楽(だいだいかぐら)「剣の舞」は、日本武尊の徳を讃え、十握
(ちつか)の剣を背に八の剣を使って踊る荘厳な舞だ。毎年9月9日重陽の節句に近い日曜日に行
われる「例大祭」で奉納される。太々神楽は、神前で祭典中に舞うもので、ヒョットコやオカメが出
てくる里神楽のようなレクリエーション的な要素はない。「の舞」もまた、で邪悪を払うという
古い神事そのものが芸能としての舞になったものともいわれる。

 酉の市
 11月の酉の日に行われる「酉の市」は、日本武尊を祭神とする鳥明神の特殊神事だ。古代、熊襲
蝦夷を平定した尊の戦勝記念と尊が焼津で火難を防いだことに由来する火難除けの神事であったと
伝えられる「酉の市」が酉の日に行われるのは、景行天皇紀に「二十七年年十月己酉に日本武尊を遣
して熊襲を撃つ」とあり、その出発の日が酉の日であったためといわれる。この日、神前には供物と
して八つ頭と熊手を奉納する。八つ頭は、日本武尊が東征の時、八族の各頭目を平定した功業を具象
化したもの。熊手は、尊が焼討ちの難に遭ったとき先が三方に分かれた金属製の熊手を持ってその火
を防ぎ、九死に一生を得たことを偲ぶものだ。
 大鳥神社「酉の市」の歴史は、天保六年(1835)11月、初の酉の日に下目黒の造り酒屋、大
国屋與兵衛が浅草から熊手を取り寄せたことに始まるという。元々は、付近の農民が野菜や実用品を
売るために開かれていたらしい。
 毎年、賑わいを見せる「酉の市」。日本武尊の武勇に纏わる八つ頭や熊手も、何時の頃からか、八
つ頭は人の頭に立つように出世する、熊手は家の中に宝をかき込む、という縁起物になっていった。
古代の神事に由来し、農民の市として始まったといわれる「酉の市」が歳月の流れと共にこれらの縁
起物と結びつき、庶民に親しまれる「お酉さま」へと変化していったのだろう。

 庚申塔
 社殿に向かって左側の奥に4基ある。
 


■キリシタン灯籠の大聖院 松輝山大聖院生運寺

 下目黒3丁目1番3号、大鳥神社の隣にある。目黒不動瀧泉寺の6末の1。弘治三年(1557)
良順僧正の開山。寛政十年(1798)に本堂を再建している。江戸時代を通じて大鳥神社の別当寺
だった。本尊の見返り阿弥陀像は、アメリカ軍の空爆で燃やされた。京都永観堂の仏像を模刻し、頭
を傾げていたので「見返り阿弥陀」と呼ばれた。その代わりとでもいうか、寺の名物は、昔はなかっ
た3基のキリシタン灯籠だ。千代が崎の松平主殿頭の抱屋敷にあった三体地蔵
大村邸だった大正
15年10月に移設されたものだ。その形は織部型灯籠に似ているぞ。

   新編武蔵風土記稿 荏原郡馬込領下目黒村
   大聖院、本社(大鳥神社)の隣にあり。天台宗。当村瀧泉寺末。松雲山と号す。開山良順
   僧正。永禄五年八月八日寂す。客殿四間四方東に向ふ。本尊阿弥陀如来。見返りの阿弥陀
   と称す。是五尺余。京都永観堂の像を模刻せしものと云。境内に青木敦書が壽塚あり。碑
   面に甘藷先生墓と題し、碑陰に甘藷を種しことしるしたり。

 切支丹燈籠
 境内に3基並んでいる。

   切支丹燈籠
   この3基の燈籠は、切支丹燈籠とか磯部式燈籠と呼ばれています。元は、三田千代ヶ崎の
   旧島原藩主松平主殿頭の下屋敷(後の大村伯邸)林泉中の小祠内にありましたが、大正1
   5年10月に当寺に移設したものです。中央の最も高い1基の棹石には変形T字クルスと
   キリスト像と思われる形状が、また左右面に漢詩が刻まれています。この燈籠は徳川幕府
   の弾圧を受けた隠れキリシタンが庭園の祠などに礼拝物として秘かに置かれたものだとい
   われています。歴史的に文化的価値が高く、全国的にも数少ない燈籠です。
   平成4年3月                          目黒区教育委員会


 
みかえり阿弥陀道標
 区内最古の道標。宝永三年(1706)の紀年がある。

   正面 
目黒総鎮守 大鳥大明神
   右面 
これよりみち一町     


霊雲山称明院蟠龍寺

 下目黒3丁目4番4号にある浄土宗の寺。区の説明では、慶安元年(1648)から行人坂にあっ
た称明院という小庵を、宝永七年(1710)増上寺の霊雲上人が浄土宗の戒律を復興するため現在
地に移したという。今この寺の本堂にある本尊阿弥陀如来坐像は藤原期の秀作で、城南方面で最も優
れた仏像といわれている。昭和38年都の有形文化財に指定された。天明年間(1781~1788)
に東都3番札所となり善光寺式阿弥陀三尊像も祀られている。
 「江戸名所図会」に載った境内は、当時の風趣が偲ばれ、元禄十一年(1698)建立のおしろい
地蔵尊がある。また山手七福神の1つであり、江戸裏鬼門の鎮守として裏山の岩窟内に石造弁財天、
弁天堂内に木造弁財天(八臂の天女像)が安置され、「岩屋弁天」といわれている。
 開山は霊雲上人だが、上人が八王子の大善寺へ去った後は無住となり、中目黒の浄土宗の律院であ
る長泉院が兼帯したことから、門前に「不許辛肉酒入山門」の結界石を建てた。境内の植栽に「下目
黒尋常小学校創立之碑」「藍蝋の歌碑」
がある。区の説明板は以下の通り。

   蟠龍寺                            下目黒3‐4‐4
   浄土宗で、宝永二年(1705)霊雲和尚が開山し、江戸時代から岩屋弁財天として知ら
   れていました。
   本尊阿弥陀如来像は、寄木造り、漆箔、像の高さが96.5cmで、形がよく整い、肉身が
   太く、張りもあり、衣文は流麗のうちに■味もあって、面相、体相とも、まことに円満、
   藤原時代末期の名作で、文化財として都有形文化財に指定されています。
   昭和53年1月                      東京都目黒区教育委員会

   蟠龍寺
   目黒行人坂付近にあった称明院〔慶安三年(1648)開創〕を、増上寺の霊雲上人が浄土
   宗の戒律を復興するため現在地に移し、宝永六年(1709)霊雲山称明院蟠龍寺と改名
   再建されました。次いで寛永六年(1794)律院と成りましたが、「不許辛肉酒入山門」
   の結界碑が名残りを今にとどめています。
   本堂には本尊として「木造阿弥陀如来像(都指定文化財)」があり、天明年間(1781
   ~88)に東都三番札所となり、善光寺式阿弥陀三尊像も祀られている。
   「江戸名所図会」に載った境内は、当寺の風趣が偲ばれ、元禄十一年(1698)建立の
   地蔵尊があります。また山手七福神の1つであり、江戸裏鬼門の鎮守として岩窟内に石造
   弁財天、弁天堂内に木造弁財天(八臂の天女像)が安置されています。さらに境内には、
   藍蝋の歌碑や下目黒尋常小学校創立之碑などもあります。
   平成7年3月                          目黒区教育委員会


 「江戸名所図会」の挿絵にある露座の丈六阿弥陀仏は、明治の廃仏毀釈のドサクサにイギリス人に
盗み取られ、ロンドンに運ばれたことまでは判っているが、それ以後は行方不明、今以て戻されてな
い。白人は他の文化遺産を盗む癖がある。
 

 と記述したら、白人と思われる方からメールがありました。原文のママ。

   先週、小生がパリのチェルヌスキ美術館に見学に参り、銅像の丈六の阿弥陀如来を拝見い
   たしました。フランス語の解説には〝
Meguro Manryu-ji〟と記されていました。秀作は確
   かに秀作では御座いますが、藤原時代とは思えません。蓮台のおのおのの連弁には浄土宗
   の高僧たちの筆跡が彫られて、増上寺や知恩院が並べられ、年号だけが見当たらなかった
   が、江戸時代と推察いたしました。
Manryu-ji が蟠龍寺と一致しているのか分かりません
   が、目黒区内には別の浄土宗の
Manryu-ji が見当たらない限り、同じ寺と思わざるを得ま
   せん。
美術館の方から聞いたところ、明治初期にイタリア生まれで、パリ住民の豪商チェ
   ルヌスキ氏が来日され、大仏を寺から譲る受けたと言う。白人のみならず、人間には文化
   財を収集する習慣があるのは否定できませんが、すべては盗難に限りません。まして明治
   の廃仏毀釈の嵐の中、寺の文化財を処分して難を逃れた例が少なくありません。南品川の
   品川寺の梵鐘の例も御座います。御参考下されたく存じます。
   平成18年10月2日

 で、寺に連絡したら、返事を頂戴した。


    さてご案内いただきましたパリ、チェルニスキー美術館所蔵の阿弥陀如来坐像の件でご
   ざいますが、およそ20数年前、パリ在住だった故フランク・ベルナール氏が当山をお訪
   ねになられまして、その所在についてお知らせを戴きました。
    その後先代住職が追跡調査を行いましたところ、明治4年にフランスへ横浜港から渡っ
   たようでございます。当時廃仏毀釈の荒波の中、当山は無住の荒れ寺でございました。そ
   の折、東洋の美術品を蒐集するために渡航されていたチェルニスキー氏にブローカーを通
   じて売却されたようです。文献には、住職がいなかったため、近隣の庄屋さんに幾許かの
   金品を支払ったとの記述がありました。結果として海外に寺宝が流出する事となってしま
   いましたが、かえって戦時下の供出を免れることで、現存し大切に所蔵していただいてい
   ることは、当山としても大変喜ばしい事と考えております。     合掌
                                    霊雲山蟠竜寺


 とのことでござんす。区教委などの文化財管理は徹底してないっちうこっちゃねぇ。盗まれたんじゃ
なくて、買い取られたのなら、それも訂正だし、存在が判ったら、存在場所を示さなあかん。区財産
を食い物にしてた議員のいたとこだし、いい加減な区政だ。

 
下目黒尋常小学校創立之碑
 細長い参道を100mほど西に進むと一番奥に本堂、その前に庫裏と小さな池があって、池脇のに
植込みの中に殆ど草むらに隠れるように、高さ1m足らずの小さい石碑が建っている。 碑はかなり風
化しており、文字を読み取るのは大変に難しい。目黒区は、江戸時代初期から三田・上目黒・中目黒
・下目黒・碑文谷・衾の6ヶ村に分かれていて、これがそのまま明治時代に受け継がれ、明治11年
からは東京荏原郡に属することになった。6ヶ村が目黒村・碑衾村の2村に統合されたのは明治22
年。これが合併して目黒区になったのが昭和7年のことだ。目黒区で最初の小学校は八雲小学校(明
治7年)、その後菅刈小学校に続いて、同11年に目黒区で3番目の小学校として下目黒尋常小学校
が、ここ蟠龍寺に設立された。 その後国民学校時代を経て、昭和22年目黒区立下目黒小学校となっ
た。

   下目黒尋常小学校創立之跡
   創立五十周年記念事業協賛会
   昭和三年十一月建之


 藍蝋の歌碑
 歌碑は目黒地区では唯一の江戸狂歌人の作。

   藍蝋の色なる池のはちす葉に月のきらめく露の銀でい(星月庵真近)

  七廻りの追福に石ぶみをいとなみて

   ふる寺の渇せぬ池に飛ぶほたる何とてびくの袖に入けむ(芝迺屋山陽)

 文化十一年(1814)歌友近江屋九兵衛の追悼費として山陽(能勢嘉門)が建てたと碑の側面に
刻んである。山陽は江戸後期の狂歌人を代表する人物で、芝将監橋の千村家の医師だった。

   めぐろ風景 目黒区みどりの散歩道
   蟠龍寺と弁天様
   この寺の創建は宝永六年(1709)。浄土律復興のため、増上寺の高僧霊雲上人が行人
   坂下の称明院をここに移し、蟠竜寺と改名された。本尊阿弥陀如来像(都文化財)・善光
   寺如来像が安置されている。本堂横の祠の中に山手七福神の石仏の弁財天があり、木造の
   弁財天は、お堂にまつってある。池の奥に「おしろい地蔵」の異名をもつ地蔵がひっそり
   と立つ。


 
岩屋弁在天
 本堂の右横に岩窟があり石像の弁財天坐像が祀られている。

 弁天堂
 岩屋弁天の他に弁天堂がある。この地は江戸城の裏鬼門に当り、その鎮守の為、弁天様が祀られて
いるという。鬼門、裏鬼門とも水関連を忌む為、水(川)の神である弁財天を祀って、封じているの
だ。堂内には、木像の弁天様を中心に、毘沙門天、大黒天が祀られている。

 おしろい地蔵
 弁天堂のすぐ裏手に顔が欠けた地蔵尊が安置されている。元々は浅草にあったそうだが、関東大震
災によって被災し、ここへ移されたとか。顔が欠けているのは震災の影響とのこと。それて『おしろ
い地蔵』と呼ばれていて、美顔祈願に多くの女性訪れているらしい。そもそもの由来は、顔にあばた
のあった娘さんが「あばたが消えますように」と願掛けしたところ、たちどころに綺麗に消えたとの
言い伝えによるものなのだそうだ。
 その利益を期待してか、江戸時代には歌舞伎役者が、美肌の願掛けに数多く訪れるようになったと
いう。当時使われていた白粉は鉛を多く含んでいたために、長期間使用をすると様々な中毒症状に侵
されて、時には命を落とす役者もいた。役者は顔が命ともいわれる職業。鉛の使用によって肌色も黒
ずんでしまうため、更に厚く白粉を塗りこめていたのだ。美しい肌を取り戻すため、使っている白粉
を持参して、おしろい地蔵の顔に白粉を塗り、美肌を祈ったのだといわれている。
 ※もう一つある地蔵尊は「水子地蔵」だから、お間違いなきよう・・・


たこ薬師 不老山成就院薬師寺
 下目黒3丁目11番11号にある別名「蛸薬師」という天台宗の寺。目黒不動門前の通りに面して
ある滝泉寺6末寺の1。
天安二年(858)慈覚大師の開山で、大師の自作と伝えられ3匹の蛸に支
えられる蓮華座に乗る薬師如来像だ。俗に蛸薬師とよばれ疫病除の仏として人々に崇められている。
慈覚大師が唐の国から帰る時、暴風に遭い、守本尊の小像を海に投じて風波を静めた。その後この小
像が蛸の頭上に乗って海岸に漂着したので、その形を採って薬師像を作り、胎内に小像を納めたと伝
わる。看板に、

   ありがたや福を吸い寄せる蛸薬師

 と大書している。御撫石というのがあって疣(いぼ)ができた時、薬師の真言「おんころころせん
だりまとうぎそわか」と唱えて患部を撫でると効き目がある。もっとも、

   イボの願なお出来そうなとこへかけ(川柳)

 江戸時代には境内に秋葉社があって、その別当寺だった関係から今でも秋葉三尺坊木像が十数体あ
る。三尺坊は不動の変身といわれ、不動像も本堂にある。
 境内には、徳川2代将軍秀忠の側室、お静の方が我が子保科正之の栄達を祈願し、大願成就のお礼
に奉納された「秋葉大権現」が併祀されている。この他に江戸時代の地蔵尊や庚申塔が建っている。
 区の説明板に、

   成就院(天台宗)
   天安二年(858)慈覚大師の開山で、本尊は大師の自作と伝えられ、3匹の蛸に支えら
   れ、蓮華座に乗る薬師如来像です。俗に蛸薬師と呼ばれ疫病神除けの仏として人々に崇め
   られている。
   こり寺の所有に浮世絵師鳥居清長(1752~1815)筆の歌舞伎十八番の一の出し物
   を描いた「矢の根五郎」の額がありますが、国の重要美術品に認定され、国立博物館に保
   管されています。
   境内には、徳川2代将軍秀忠の側室お静の方が我が子保科正之の栄達を祈願し、大願成就
   のお礼に奉納された「秋葉大権現」が併祀されています。この他に江戸時代の地蔵尊や庚
   申塔が建っています。
   平成3年3月                          目黒区教育委員会


 とある。

 浮世絵師鳥居清長筆「矢の根」大絵馬
 「矢の根」とは、歌舞伎十八番の1つで、曾我五郎が矢尻を研ぐ芝居だ。作者は浮世絵師鳥居家4
代清長で、昭和9年重要美術品に認定され、現在は上野の東京国立博物館に保管されている。

 お静地蔵
 本堂横に並んでいる7体の石仏。この内地蔵は左の3体のみだ。主尊は阿弥陀如来。
 お静は北条の旧臣神尾栄嘉(かんのさかよし)の娘で、
浪人の身となった栄嘉は、板橋郊外の竹村
に住みながら、徳川家への仕官を願っていたものの叶えられず、娘の静だけが、なんとか大奥の女中
として出仕できた。で、秀忠は将軍としての政務をこなす日々、時々は、その疲れを癒すように大乳
母殿のところにやってくる。そこで、この大乳母殿の下でかいがいしく働く静を見初めたという訳。
で、なるようになって、デキちゃった、
 がしかし、その頃の大奥は、二大勢力に分かれていた。一つは秀忠の恐い嫁さん、お江の方(おご
う 江与、崇源院、信長の妹お市の方と浅井長政の娘、6つ年上の姉さん女房)の一派と、大姥殿と
呼ばれる秀忠の乳母だった井上正就の母の一派だ。秀忠はどっちにも頭が上がらない。とても愛人の
入り込む余地なんてなかった。江戸時代を通じて秘かに毒殺することはよくあることだった。
 
さすがにそんな空気を読んだお静は、大乳母殿とも相談して宿下がりを申し出て実家に戻るこの
頃の神尾家は、父栄加は既に亡く、兄の嘉右衛門の代になっていたが、やはり家族の意見も同じ。問
題が大きくならないうちに腹の子を始末することになった。
 ところが、お静のことが忘れられない秀忠・・・大姥殿を通じて、何度も出仕の誘いがかる。そし
て、再出仕すれば、秀忠の深い愛に包まれて、またまた懐妊・・・今度も、やっぱり実家に戻ってお
腹の子を処分しようとする静だったが、猛反対したのが弟の才兵衛だった。「将軍様の子を2度も始
末したら天罰が下るのではないか」と、姉の婿に当たる竹村助兵衛次俊にお静を預ける。・・・とは
いえ「本当にこのまま、そっと子供を産んでもよいものだろうか」と悩むお静に、強い味方が登場し
た。武田信玄のの二人の娘・・・次女の見性院と6女の信松院の姉妹だった。
 見性院は、穴山梅雪の嫁さんで、夫の死後600石を賜り、江戸城の北の丸に住んでいた。一方の
信松院は、尼になる前は松姫と呼ばれ、織田信長の長男信忠の許嫁だった。武田家滅亡後は八王子の
信松院の庵主となって、一族の菩提を弔っていた。そこで信松院は、お静を連れて見性院の知行地=
武州足立郡大牧村に行き、ここで心静かに出産できるよう段取りを整え。この時、氷川神社に奉納し
た祈願文が、現在のさいたま市の重要文化財として残されている。
 こうして、信松院や見性院の家臣たちに見守られ、静は、その言葉通り、慶長十六年(1611)
五月六日無時男の子を出産する「徳川実記」によれば、さすがに子供ができたことを黙っている訳
にはいかない竹村助兵衛が町奉行に報告。そこから老中の土井利勝を通じて、男子の誕生を聞いた秀
忠は、「身に覚えがある」として家紋の入った小袖と共に「幸松」の名を贈った。天下のご落胤だ。
 幸松は見性院に養育せられ、さらに武田の旧臣信州高遠城主保科正光の養子となり、跡目を継いで
松平正之となり、会津23万石の太守となった。

   《お静地蔵尊・由来記》
   右 準胝観音・聖観音・十一面観音
   中 阿弥陀如来
   左 金剛願地蔵・金剛幢地蔵・金剛宝地蔵
   この石仏群は、徳川2代将軍秀忠公の側室お静の方の発願で奉納されたものです。お静は
   江戸城大奥にあがり将軍の寵愛を受け、「お腹様」になることを願い、3体の観音像を納
   め奉り、その素願かない慶長十六年(1611)に男子「幸松麿」をさずかります。その
   後秀忠公正室浅井崇源院の威勢を畏れながらも、その恙ないご成育を祈り3体の地蔵を刻
   み納められます。また家康公の側室見性院殿(武田信玄公の娘)の庇護もあり、保科正光
   公の養子となり、元服後、保科正之となります。
   元和年間、3代将軍家光公は、目黒で鷹狩りの際、当寺に参拝され、舜興和尚(中興15
   世)とのご法談の折、正之公との浅からぬ縁を知り、それにより寛永八年、正之公は信州
   高遠城主となります。お静は大願成就の御礼として、阿弥陀如来像を納め奉りました。
   正之公は後に山形城主、さらに正保元年会津23万石の城主となり、会津松平家の祖とな
   ります。また家光公の命により、4代将軍家綱公の後見人として幕政に力を注ぎ、善政を
   施されました。お静地蔵はその由来により、古くから縁結び・子宝・子育・出世・福徳・
   開運を願う人々の信仰を集めてこられました。      平成一五年癸未年 道文之記

 ※なお見性院は穴山梅雪の正室で、家康は江戸で面倒を見たが側室にした訳ではない。


■東昌寺 
廃寺
 下目黒3丁目16番にあった普化宗の寺。明治になって廃寺となった。現在は住宅が建て込んでい
て痕跡を探すことは難しい。

 普化宗・虚無僧
 
普化宗(ふけしゅう)は、禅宗のひとつ。9世紀二中国で臨済義玄と交流のあった普化から始まっ
たため、臨済禅の一派ともされる。普化は神異の僧であり、神仙的な逸事も多く伝説的要素が強い。
虚托(尺八)を吹きながら旅をする虚無僧(こむそう)で有名。建長元年(1249)日本から宋国
に渡った心地覚心が、同六年(1254)普化宗16代目孫張参の弟子である宝伏・国佐・理正・僧
恕の4人の居士を伴い帰国することで日本に伝わった。紀伊由良の興国寺山内に普化庵を建て居所と
した。その後心地覚心の法孫にあたる金先がでて、北条義時の帰依を受け、下総国小金(松戸市)に
一月寺を開創し、道場ができている。なお普化宗を公称し一つの宗派として活動するのは、近世に入っ
てからだ。 江戸時代には虚無僧の集団が形成された特殊な宗派で、教義や信仰上の内実はほとんど
なく、尺八を法器と称して禅の修行や托鉢のために吹奏した。幕府により虚無僧の入宗の資格や服装
も決められるなど組織化され、諸国通行の自由など種々の特権を持っていたため隠密の役も務めたと
いわれる。幕府との繋がりが強かったため、明治4年新政府より解体され、宗派としては失われてい
る。しかし尺八や虚托の師匠としてその質を伝える流れが現在にも伝わっており、尺八の歴史上重要
な存在だ。
 


■比翼塚

 目黒不動の仁王門前の一角にある。昔、ここには普化宗の東昌寺があった。江戸時代の初め、鳥取
藩士平井権八は父の同僚本庄助太夫を斬殺して江戸に逐電(ちくてん=逃亡)。新吉原三浦屋の遊女
小紫と馴染となって金に困り、浅草日本堤で通行人から金銭を奪ったり、辻斬り殺人や強盗を重ねて
小紫に会いにいった。ある時この寺の住僧随川に匿われ尺八を習った。それで改心した権八は死ぬ前
にもう一度両親に会いたいと、虚無僧となって郷里鳥取に帰ったが、既に両親とも他界していた。観
念した権八は江戸に戻って自首し、鈴ヶ森で処刑された。随川によって遺骸は東昌寺に葬られたが、
そこへ小紫が吉原から抜け出てきて権八の墓の前で後追い心中したので、心ある人々が二人を哀れん
で建てたのがこの塚だとか。
 後に寺が廃寺となり、塚は近所の路傍に移したがやがて壊れ、昭和9年に料亭角伊勢と町会、二業
組合の手で再建された。それも今次大戦で被災したまま長い間放置されていたが、土地の所有者が変
わったので、昭和37年移されて現在地に落ち着いた。
 この塚と対照的に「連理塚」というのが品川区西五反田の安楽寺にある。元は目黒行人坂浄覚寺に
あって、東昌寺の塚は権八、浄覚寺の塚は小紫の墓といわれた。その訳は、小紫は東昌寺行きつくこ
とができず、夜になって行人坂の暗闇で方角を失い自刃したというのだ。この小紫の墓が連理塚で、
比翼・連理と対になって二人を偲ばせた。やがて浄覚寺も廃寺となり、墓は安楽寺へ移されてから連
理塚に白井権八・小紫の名が彫られ、権八小紫の塚が2つになった。勿論経緯の真偽の程は不明。

   処刑された愛人白井権八と、彼の墓前で自害した遊女小紫。その悲話は『後追い心中』と
   して歌舞伎などで有名だが、この比翼塚は、2人の来世での幸せを祈り建てられたという。
                                        目黒区


 ※白井権八というのは、平井権八をモデルとした歌舞伎や浄瑠璃の主人公の名前だ。江戸に出奔し
て行く美貌の若侍白井権八が、鈴ヶ森で大勢の雲助に絡まれて、已むなく切り払って立ち去ろうとし
た時、江戸の侠客幡随院長兵衛が駕籠の中から権八を呼び止める「お若えの、お待ちなせぇやし」の
名場面。正当防衛とはいえ人を斬ったのを見られた権八は狼狽えるが、長兵衛は口外しないと安心さ
せ「いつでも訪ねてごぜえやせ。陰膳据えて待っておりやす」と江戸での再会を約束する。
 実際には権八が生れる頃に長兵衛は、旗本奴の水野十郎左衛門殺されていない。

 かむろ坂
 品川区西五反田4丁目にある坂。「かむろ」とは「禿」と書き、少女のお河童頭のことで、「はげ」
ではない。遊郭では、花魁の身の回りの世話をする少女のことを、その髪型から「かむろ」と呼んだ。
小紫についてきたかむろが小紫とはぐれてしまい、この坂で行き倒れたとか暴漢に襲われて死んだと
かのことがあって、村人がこのかむろを哀れんで「禿坂」と呼ぶようになったというんだよ。つるっ
つるで滑って転び易い坂も・・・かむろ坂っていうがね。


五百羅漢 天恩山五百大阿羅漢寺
 下目黒3丁目20番11号にある無宗派(昭和23年黄檗宗から独立)の寺。開山は京都万福寺の
2世木庵の門弟鉄眼禅師。開基は松雲元慶だ。寺の縁起によると、松雲は京都の仏師で九兵衛元慶と
いった。寛文十年(1670)22歳の時に仏門に入り、難波瑞龍寺の住持鉄眼の弟子となった。貞
享四年(1687)豊後の耶馬溪の羅漢寺の五百羅漢石像を見て一念発起、元禄四年(1691)
戸に下って、
五百羅漢の木像彫造に取り掛かり、1号完成。同五年蔵前の16人の豪商が、松雲の彫
像支援ののため、浅草寺の塔頭寿命院境内に仮屋を建立。同六年正月、羅漢像50体完成。丈六釈迦
如来像彫造に着手。同七年桂昌院、公金を下賜し10尊を彫営する。以後施財日々に多く、3~5年
の間に松雲の願いは殆ど叶う。同八年松雲の五百羅漢像、公聴に達し、本所五の橋の南に土地を賜わ
る。黄檗高泉を迎えて点眼供養し天恩山羅漢寺と号し、開山は師の鉄眼を勧請し、己は開基、黄檗山
万福寺末となる。同九年開創。円満供養法会を営み、牧野成貞内室高祥院が鐘を鋳して献納。仮堂前
に石燈籠設置。同十三年(1700)五百羅漢像完成、ほかに弥陀三尊など38体を彫刻した。松雲
は仮本堂を本建築にして大伽藍にしようと努めたが、果たせぬまま、宝永七年(1710)67歳で
遷化した。
 本建築を行い、大伽藍としたのは3世象先和尚だ。五代将軍綱吉さらには8代将軍吉宗の庇護を得
て繁栄を誇り、「本所の羅漢」として人気を博すと、享保二年(1717)から十有余年を費やして
仏殿・僧房などの堂宇を竣工させた。吉宗が寄進した右繞三匝堂(俗に「さざい堂」と称し、螺旋状
二重階段により右へ右へ登っていくと三階に達し、更に右に進むと自然に一階に下る仕組みで、百観
音が祀られてあった)が六本木ヒルズ的評判をとり、江戸市民が踵を接して押し寄せた。以来大衆の
参詣するもの多く盛んな日を続けてきたが、度々の風水害や、安政の大地震などで堂塔の倒壊破損が
あり、明治に入ると荒廃した。同20年本所緑町に移り、同41年に「大日本名所図会」によると明
治初年、内務省に届けられた仏像460体が、この頃には370体程度しか残っていなかったとか。
 同41年東京府荏原郡目黒町大字下目黒六八一番地(現在地)にやってきた。大正6年大暴風雨に
より大破、同12年関東大震災により大破。以後無住となり堂舎は腐朽し、仏像も雨露に晒されるこ
ととなった。素より檀家のない寺では施す述もなく、仏像の一部は持ち去られ荒れるがままだった。
 しかし昭和12年安藤妙照尼が羅漢寺の零落ぶりを目の辺りにし、再建を発願。同13年妙照尼は
住持となり、
入山以来戦中戦後の困難を何とか持ち堪え、同23年独立して禅宗羅漢寺派となる。同
26年日比谷公会堂で万国戦歿者慰霊大会が開かれ、羅漢寺の梵鐘が鳴らされた。同27年武蔵野民
族展で、東横が出品した仏像が松雲作の五百羅漢像11体と判明した。徳川夢声らにより境内に「原
爆殉難碑」建立。同28年平山蘆江歌碑建立。魚鳥供養催行。同29年高浜虚子句碑建つ。同33興
安友愛の碑建つ。同45年木造釈迦三尊など仏像18体、五百羅漢坐像294体、紙本墨書の寄進者
名簿5冊、石像松雲禅師塔1基が都の重要文化財に指定され、他に梵鐘「平和の鐘」が重要美術品に
認定された。東急不動産から五百羅漢像11体が返還され、重要文化財に追加指定。同47年庖魂の
碑建立。
 同54年日高宗敏貫主によって再建計画が立てられ、同56年多くの困難を乗り越えて近代的な現
在の堂宇が完成し、名実ともに「目黒の羅漢」として蘇った。
 なお世田谷観音に流出した羅漢像9体が安置されている。

   羅漢寺
                           下目黒3‐20‐11
   この寺は、元禄八年(1696)江戸本所に建てられた有名な寺でしたが、明治42年こ
   こに移されました。
   本堂およぴ回廊に安置されている五百羅漢像は、元禄年間松雲元慶禅師が、各方面から寄
   進を受けて、自ら彫刻したものです。
   木造の釈迦三尊や五百羅漢等305体の像は、それぞれ造った姿の違った人間像として、
   巧みに表現されており、しかもこのような丸型の像が多量存在することは珍しく、近世彫
   刻史上注目すべき美術品といわれています。昭和45年に東京都指定文化財に指定されま
   した。
   屋上にある銅鐘は安永三年(1774)、田中丹後守藤原重行作で、他に類例のない特徴
   を持ち、鉄牛道機の銘を持ち、国の重要美術品に認定を受けています。
   昭和56年5月                         目黒区教育委員会


 木造釈迦三尊及び五百羅漢等像305躯
 阿弥陀三尊ほか大迦葉阿難陀両尊者立像:2躯、十六羅漢立像:5躯、十一面観世音菩薩立像、十
一面観世音菩薩立像、地蔵菩薩坐像、仏形坐像、菩提達磨坐像、鉄眼道光禅師倚像、松雲元慶禅師倚
像、白沢(獏王)像、五百羅漢坐像:287躯。

   都重宝 木造釈迦如来坐像及び五百羅漢等像
                    所在 東京都目黒区下目黒3‐20‐11 羅漢寺
                    指定 昭和45年8月3日
   目黒の五百羅漢として著名なこれら仏像群は現在305体を数える。作者は松雲元慶で元
   禄時代のせいさくである。
   元慶は京都に生まれ、豊前耶馬渓の羅漢寺石造五百羅漢像に触発され、貞享年間(168
   4~1688)江戸浅草寺の支院に身を寄せて彫刻を始めた。十有余年を経て、本尊釈迦
   如来像をはじめ、五百余体を完成、師鉄眼を開山に天恩山羅漢寺を大島村(現江東区〉に
   建立した。のち本所緑町(墨田区)に転じ、明治42年さらに目黒の現在地に移転した。
   昭和56年5月5日に再興され、歴史的遺産が保存されることになった。
   昭和56年8月6日建設                     東京都教育委員会


 羅漢銅像
 ビルの前スペースに建ててある。台座に、

   
不退法尊者

   
苦しさに負けず いつも心あかるく 最善を盡す

 と刻んである。

   金箔の奥眼低鼻竹の春(原 裕)
   蓑虫のもぞもぞのぞく羅漢かな(丹所石蓴)

 区の説明板に、

   五百羅漢寺                        下目黒3‐20‐11
   天恩山五百羅漢寺は、元禄八年(1695)鉄眼禅師を開山として、江戸本所(江東区大
   島の羅漢寺)に創建された黄檗宗の寺でした。当時境内には、さざい堂(三匝堂)という
   建物があり、内部が螺旋階段になっていて、一同に諸仏を拝観できると人気を博しました。
   明治41年ここ下目黒の地に移り、現在は浄土宗系の単立の寺です。
   本堂および回廊に安置さている五百羅漢像等はそのほとんどが、松雲元慶が各方面から寄
   進を受け、十余年掛けて自ら彫刻したものです。木造釈迦三尊像及び五百羅漢像の305
   体の像(都指定文化財)は、それぞれ違った人間像として巧みに表現されており、しかも
   このような大型の像が、多量かつ一堂に安置されていることは珍しく、近世彫刻史上注目
   すべき貴重なものです。
   書院屋上にある梵鐘は安永三年(1774)田中丹波守藤原重行作で、他にあまり類例の
   ない特徴を持ち、国の重要美術品の認定を受けています。
   平成21年3月                          目黒教育委員会

 とある。

 
 バク 羅漢の中には腹をマルク切り開いた物、入浴中のものなど珍奇な物もあり、見て回れば興は
尽きない。その中に獏という異獣が一匹ある。龍、麒麟、鳳凰のような架空の動物で、辟邪、白沢な
どとも称した。実は中国ではそれぞれ違うのだが、日本では一緒くたにされている。で、かつて寺が
本所五ツ目にあった当時に、堂内の護法神宮前に相棒相棒の天禄(麒麟に似る)と並んでいて、我々
にとってのゴジラのように、江戸っ子にとっては馴染みの怪獣だった。この白沢(獏)は、初め頭上
に生えていた二本の角を失っているが、顔に目が3つあるほかは脇腹にも左右に3つづつ立派な目が
あるので江戸の名物になっていた。『江戸名所図会』の挿絵でも八っつぁんと熊さんが品定めしてい
る。脇腹の目の位置が鍼灸の壺の「脇章門」に当るので、川柳にこう詠われている。

   白沢はわきじゃうもんで人を見る


 
渋谷翁寿蔵碑 逸失
 再建前に失われたという。今井雄作篆額、五峯高林寛撰并書て、昭和五年に建てられたものだそう
だ。

 
銅鐘
 昭和26年に日比谷で催された世界平和祭に出品して「平和の鐘」と呼ばれた。鐘銘は鉄牛禅師の
撰で、五百羅漢造立と開基の由来を記し、鐘は下総関宿の領主牧野貞成の夫人が寄進した旨が刻まれ
ている。

 庚申塔
 境内にある。舟形光背型浮彫。日月・青面金剛・邪鬼・二鶏・三猿。台座正面に「本所四っ目松代
町」、左面に「享保伍年庚子三月吉日」と刻む。寺の説明板は以下の通り。

   庚申塔
   庚申の日には、眠っている人の体内から三尸の虫が脱け出して聖天し、天帝にその人の罪
   過を告げるので、罪業のある者は天帝によって生命を縮められるという思想があり、その
   ため庚申の日には眠らずに一夜を明かす風習が古くからありました。庚申塔は、この三尸
   の害を防ぐためにつくられたものです。
   この塔には憤怒の相をした青面金剛が赤子をつかみ、邪鬼を両足で踏みつけた図が、また
   台座には三猿が刻まれています。青面金剛は身は青く目は赤く、六臂には武器を持った金
   剛童子で、大怪力があり、これを祈念するとき、よく病魔、悪鬼、女魔、悪童を退散する
   ことができるといわれています。
   この庚申塔は本所松代町の市原多良兵衛ら庚申講の人達が享保五年(1720)に造立し
   たものです。


 お鯉さん
 戦中戦後の住職安藤妙照尼は、新橋板新道の「照近江」で左褄を取って出ていた芸妓で、15世市
村羽左衛門や力士荒岩との経緯で嬌名を馳せ、後に総理大臣桂太郎の愛妾にもなった女性だ。大正2
年に桂が亡くなった後、もともと男勝りのお鯉はじっとしていられなかった。カフェや待合を経営し
たりした。だが、勝気な気性が警察とトラブルを起こし、そのとき彼女の身元引受人になった戦前の右
翼の大立者頭山満の「尼になれ」の一言で尼僧になり、彼の世話で昭和13年に羅漢寺の住職になっ
た。今お鯉観音の下に眠っている「お鯉さん」こそその人だ。彼女の知己だった俳人高浜虚子の碑は、
お鯉観音を拝した句を刻む。

   盂蘭盆会遠きゆかりと伏し拝む

 そのお鯉さん・妙照尼に関する数々のエピソードを、彼女と親しかった井上直明氏が『らかんじ物
語』に書いてある。氏は太平洋戦争中の陸軍司政官で、戦後は経済安定本部員から多く
の会社の役員を歴任、羅漢寺総代も勤めた。

 俗謡碑
 都新聞の艶種記事を書き、長谷川伸や江戸川乱歩らと雑誌「大衆文芸」の創刊にも加わった平山蘆
江の碑だ。

   この辺りいつも二人で歩いたところ思い出してははまりみち

 原爆の碑(移動演劇さくら隊殉難碑)
 鐘楼の横に建てられている。昭和20年8月広島で被爆した移動演劇班「さくら隊」の俳優丸山定
夫ら9名の慰霊碑だ。第2次世界大戦中、日本では演劇も戦意高揚に利用され、日本移動演劇連盟と
いう組織ができ、進歩的な新劇人たちも加盟を余儀なくされた。その1つが俳優丸山定夫たちの「苦
楽座移動隊」だった。苦楽座公演は各地で好評を得た。だが戦局は悪化の一方で、昭和20年東京の
劇場のほとんどが空襲で失われ、連盟は傘下の劇団の疎開を決め、苦楽座は広島市に行くことになっ
た。同市はこの年の2月から3月にかけての公演先で、出発の6月「桜隊」と改称した。広島には丸
山を始め人気女優の園井恵子ら15人が疎開、現地や近県で公演活動を続けた。運命の8月6日宿舎
兼事務所には9人がいた。原爆は宿舎の西700メートル余の地に投下された。女優森下彰子・羽原
京子・島本ツヤ子、裏方の笠絅子・小室喜代の5人は即死だった。
 丸山は倒壊した家から抜け出して近くの学校にいたのを東京から駆け付けた隊員に探し出され、厳
島の寺に運ばれたが、原爆症で苦しんだ挙げ句、終戦の翌日死去した。園井と舞台監督の高山象三は
広島を抜け出し、宝塚市の知り合いの家にたどり着いたものの、高山は20日、園井は21日亡くなっ
た。女優沖みどりは、1枚のシーツに身をくるまって東京の実家に戻り、16日に現在の東大付属病
院に入院した。しかし24日には他の3人と同じように死んでいった。全員20代から40代の前途
ある身だった。石碑は、9人の遺骨を預かっていた元苦楽座員で往年の名弁士徳川夢声が、羅漢寺と
相談、寺から石の提供を受け、敗戦の傷痕もまだ癒えやらぬ同27年、丸山とともに被爆した園井恵
子の知己であり、碑銘を記した徳川夢声とも知音のあった小久江慈雲尼(お鯉さんの次の住職)の貴
い浄財で建立された。碑陰に柳原白蓮の歌1首を刻む。

   原爆の御霊に誓う人の世に浄土をたてむみそなはしてよ 
 
 
原爆を日本に落としたのは誰だ?
 原爆を直接投下したのは、アメリカ陸軍航空軍第509混成部隊第393爆撃戦隊のB‐29〝エ
ノラゲイ〟のポール・ティベッツ機長以下12名のクルーだ。ただ彼らは作戦を実行するように命令
され、軍人兵士として忠実に命令を実行に移しただけの者たちだ。彼らでなくとも命令が下れば、他
のクルーでも命令を遵守して投下したろう。つまり投下実行者が落とした訳ではない。
 命令の発動者はトルーマン大統領であるが、原爆投下は、彼が、急死したルーズベルト大統領の後
を受けて思いも寄らず大統領になってしまった。立場上、彼が神のように善人だったとしても彼の意
思では原爆投下を阻止することはできなかった。つまり彼は原爆投下の命令を発動するために大統領
にされたようなものなのだ。
 面白い話をしよう。広島に落とす予定の原爆のニックネームは「スィンマン」、しかし実際に落と
されたのは「リトルボーイ」、長崎に落としたのは「ファッツマン」。スィンマンは「ノッポ」、リ
トルボーイは「チビ」、ファッツマンは「デブ」だ。この意味するところは、ノッポはルーズベルト
で、デブはチャーチル。とするとチビは、ヒトラーか、スターリン、いや昭和天皇も背が低い。アメ
リカはスィンマンからリトルボーイへの変更について、「長大な形を半分に縮小したから」と説明し
ている。原爆投下の「マンハッタン計画」についてアメリカ人の軍人たちは反対で、計画そのものを
阻止しようとした動きがあった。その時期ルーズベルトも不名誉な大統領の名を残したくなくて躊躇
していた。業を煮やしたユダヤ人たちはルーズベルトを死に追いやる。実際は暗殺だったとか。だか
らトルーマンとして否も応もなかった。原爆投下は日本とユダヤの間で合意されたもので、日本の戦
争は原爆投下の条件作りのパーフォーマンスだった。
 ところで昭和20年7月12日日本の原爆が完成したという。これをアメリカに投下すれば勝つと
の奏上を受けて、昭和天皇は激怒したといわれる。不名誉な最初の国になれないと拒絶し、直ちに破
棄するよう命じたと。モスクワのアーカイブスに、1945年7月14日シベリア発信の電文が残っ
ているという。「本日日本軍から原爆を受領した」という電文だ。当時、日本には理研の仁科良雄博
士のチームの他に、北朝鮮に2ヶ所海軍の研究所、満州に5ヶ所陸軍の研究所があったという。
 で、リトルボーイだが、昭和天皇ことだとすると辻褄が合ってくる。広島に投下された原爆のニッ
クネームがリトルボーイであるのは、面当てや当てこすりではなく、日本製だということを示してい
るのかもしれない。つまり原爆投下は日本とユダヤの合作ではなかったか? だからこそ昭和天皇は
戦争責任を問われなかった。いや問われないことは、第二次世界大戦以前に決まっていた。原爆投下
も決まっていたのだ。大平洋戦争は茶番劇、日本とユダヤの合作で負けるとスケジュールされた戦争
を日本国民は無駄に戦わされたのだ。無駄死にを強いられた。だから英霊と騙されて靖国神社に閉じ
込められたのだ。昭和天皇は生涯原爆に関してコメントしていない。遺憾の意さえ表明しなかったし
被爆者への見舞いはおろか広島にすら足を踏み入れなかった。これは何を意味するのか?
 我々人類が、本腰を入れて敵として対峙しなければならないのは、たった一握りのユダヤ人だ。彼
らは各国国民に成りすましてユダヤ人の本性を隠している。そんな輩は日本にも大勢いる。
 「鎮魂」という言葉を君は知っているか? これは朝鮮語だ。日本の神道に鎮魂の式はない。鎮魂
招魂の式は朝鮮人の儀式で、属国文化の表徴だ。日本人はどんな霊に対しても鎮魂はしない。供養を
するのだ。靖国神社のその起源は、山口県熊毛郡田布施の招魂場だ。田布施は朝鮮部落で、幕末の志
士は総てここから出ている。国家神道も、創価学会も、統一教会も、皇道立教会に端を発している。
文鮮明は大成建設の社員で岸信介の子分だ。岸も、安倍もこの田布施の出身だ。もっというなら、共
産党を拵えたのは明治天皇で、野坂参三も宮本顕治も田布施の人間だ。
 日本の戦争がパーフォーマンスでなかったら、正々堂々と戦ったのなら、戦死した将兵に英霊の冠
を被せる必要はない。靖国神社に閉じ込めて鎮魂の式を行うことはない。嘘の戦争で将兵を騙して殺
したから、招魂してお詫びする魂鎮めの式を行わなければならないのだ。

 
何故「ヒロシマ」だったのか?
 つまり明治天皇(大室寅之祐)は田布施の出身であるといわれることを、昭和天皇は嫌い、つまり
明治天皇の過去を消し去りたかったのではなかろうか。広島と田布施は近い。広島に投下すれば田布
施も消え去る? しかし原爆の効果は期待したものではなく、広島の市街地という狭い範囲しか焼き
尽くさなかった。だからこそ昭和天皇は広島行幸を避け続けたのだ。
 安倍晋三は、「未来永劫、日本が戦争する国にはならない」と嘯いている。その保証が何処にある
のか? 30年後の総理大臣が「戦争する」と決めれば、強引に戦争するだろう。例え安倍が反対し
てもだ。戦前の日本と何一つ変わっていない。何時も悲しむのは国民だけだ。ユダヤめ!

 目黒の秋刀魚標柱
 墨書の板看板が建ててある。今あるかどうか?

   目黒の秋刀魚発祥の家 爺ヶ茶屋荘主人
   爺ヶ茶屋殿に捧げし秋刀魚かな  信水


■羅漢寺川

 羅漢寺の前を通るのでこの名があるが、大同三年(808)開創の目黒不動前を流れもするし、流
れている長さも目黒不動前の方が長いのに、何で不動川とならなかったんだろう? 況して羅漢寺は
明治40年に越してきたのだから、江戸時代以前は何と呼んでいたんだべか? 
 聞くところによると、当時はあまり人も住んでおらず、せせらき程度の小川では名前もなく、「不
動前の川」「御林裏の川」などといって区別したという。
 川は、目黒本町1・4・3丁目、品川区小山台2丁目が接する辺りにあった湧水に端を発し、東流
して林試の森の北、目黒不動・羅漢寺・海福寺の南を通り、山手通りを越えて目黒川に落ちた。
 支流は3本ほどあった。流路跡は総て暗渠で、道路や遊歩道(プムロムナード)としてほぼ残って
いる。一部2流の箇所がある。


■海福寺

 下目黒3丁目20番9号にある黄檗宗(おうばくしゅう)の寺。万治元年(1658)隠元禅師が
江戸深川(明治小学校のところ)に開創した。ということになっているが、新山仁右衛門という人が
起こした真言宗の寺を、妻の兄の独本が譲り受け、彼が隠元の弟子となり、隠元が将軍家綱の招きに
よって江戸へ下った時これに従い、自分の寺に案内して黄檗宗に改宗、堂宇を建てて隠元禅師に開山
になってもらい、己は2世住持となった。これは隠元が宇治に万福寺を建てるより3年前のことだか
ら、我が国黄檗宗の最初の寺という理屈だ。明治43年水害に遭い現在地に移った。
 本尊は釈迦牟尼仏で、他に四天王像や隠元禅師の像、木造阿弥陀如来立像(区指定文化財)が安置
されている。木造阿弥陀如来像は彫刻技法の特徴などから、12世紀頃に京都あるいはその周辺で制
作されたものと考えられ、都内で現存している希少な例だ。山門に赤い四脚門(区指定文化財)は明
治後期に新宿区上落合の泰雲寺(廃寺)から移建したもの。山門左手前の「文化四年永代橋崩落横死
者供養塔及び石碑」(都指定文化財)は、文化四年(1807)の深川富岡八幡宮大祭の時に起こっ
た、永代橋崩落事件の死者供養のために建てられたものだ。また境内の梵鐘(都指定文化財)は天和
三年(1683)武州江戸中村喜兵衛藤原正次の件で、中国の鐘の形式に似ながら日本の古鐘の形式
に範をとるという特異な考案によるもので、江戸時代の梵鐘中でも類例の少ない遺品だ。
 区の説明板に、

   海福寺
   明から来朝した隠元隆埼が万冶元年(1658)に江戸深川に開創した黄檗宗の寺でした
   が、明治43年に現在地へ移転しました。本尊は釈迦牟尼仏で、他に四天王像や隠元禅師
   の像、木造阿弥陀如来立像(区指定文化財)が安置されています。木造阿弥陀如来像は彫
   刻技法の特徴などから12世紀頃に京都あるいはその周辺で制作されたものと考えられ、
   都内で現存している希少な例です。
   山門=赤い四脚門(区指定文化財)は、明治後期に新宿区上落合の泰雲寺(廃寺)から移
   築したものです。山門左手前の「文化四年永代橋崩落横死者供養塔及び石碑(都指定文化
   財)」は、文化四年(1807)の深川富岡八幡宮大祭の時に起こった、永代橋崩落事件
   の死者供養のために建てられたものです。
   また境内の梵鐘(都指定文化財)は天和三年(1683)武州江戸中村喜兵衛藤原正次の
   作で、中国の鐘の形式に似ながら日本の古鐘の形式に範をとるという特異な考案によるも
   ので、江戸時代の梵鐘中でも類例の少ない遺品です。
   昭和21年3月                         目黒区教育委員会

 とあり、廃寺となった泰雲寺について「新編武蔵風土記稿」の上落合村の項に、に、

   泰雲寺
   禅宗黄檗派、山城国宇治萬福寺末、黄龍山蓮乗院と号す。元禄六年法雲院慈栄了然尼中興
   し、白翁道泰を勧請して第一世に居らしむ。了然尼は甲州武田支族の女にして東福門院に
   仕へ奉りし人なり。本尊如意輪観音行基の作。堂中に常憲院殿の尊碑を安す。寺寶に飯次
   杓子を蔵す。飯次は朱塗にて牡丹の模様あり。杓子には葵御紋を模書す。其余長持あり、
   黒塗にて葵及び五七の桐の紋あり。これは松平越後守より寄附すと云。当寺宝暦十二年
   月此邊御放鷹のとき御膳所となりしより、しばしば御膳所となりしが今は中絶せり。
   鐘楼。鐘は近き頃鋳造のものにて銘文なし


 とある。
 

 黄檗宗
 中国の福建省福清に「黄檗山」という名山がある。ここには樹皮が染料や漢方薬になる「黄檗(き
はだ)」の木が繁茂しているのでこの名があるが、ここに起こった中国禅の一派が黄檗宗だ。これを
日本にもたらした隠元隆琦はこの山で修行し、47歳の時印可を受け、承応三年(1654)63歳
のとき招かれて長崎に来た。この時弟子だけではなく、文人・仏具師・靴造りに至るまで伴い、隠元
豆や、今では寺には付き物の「木魚」などももたらした。最初は3年で帰える予定が、後水尾天皇や
大老酒井忠勝の帰依も厚く、混迷する当時の禅海のためにと強く永住を切望され、終に帰国を断念し
た。しかし故国に80余歳の母を残しており、「帰ってきて」という母からの再三の手紙を貼り合わ
せて観音像を作り、毎日礼拝しては親不幸を詫びたという。こういったところに、日本人の得手勝手、
自分さえよけれは後はどうなろうと知らないという自己中心性が現われる。民族の性格というものは
変わるようで変わりはしないんだよ。もう間もなく日本国憲法は改められ、自衛隊は防衛軍から国軍
になる。そして官僚と軍人が勝手気儘に振舞う国に変わって行くのさ。各々方お覚悟召されい。泣き
言は今の内だぞ。
 さて禅師が永住を決意したと聞くや、多くの信者が努力して、寛文元年(1661)京都宇治に明
様式そのままの「黄檗山万福寺」の建立にかかり、18年を費やして竣工させた。隠元は延宝元年(1
673)82歳で亡くなるが、その前年、朝廷から「大光普照国師」の号を贈られている。

 山門
 四脚門(区指定文化財) この赤門は、上落合の泰雲寺の山門だったが、明治維新で廃寺となった
時、旧伊予宇和島藩伊達家が購入して海福寺に寄進移築したものだ。

   海福寺四脚門                   目黒区指定有形文化財 建築物
                             昭和59年3月31日 指 定
   海福寺四脚門は、明治後期に新宿区上落合の泰雲寺にあったものを移建したものであるが
   その後の長い年月の間に、海福寺境内や周辺の環境によく調和しており、落ち着きのある
   景観をうみだす重要な建物として定着している。
   また、四脚門は中央にある親柱二本とその前後に二本づつある四本の控柱からきた名称で
   日本建築の代表的な門の形式であり、当四脚門はその細部絵様の様式において、江戸時代
   中期の特質を備える貴重なものである。
   昭和59年8月                         目黒区教育委員会


 花木
 境内はあまり広くないが、ウメ、ツバキ、サクラ、ツツジ、ボタン、コデマリ、ザクロ、ナツツバ
キなどのほか、草花ではミヤコワスレ、キキョウ、ヒガンバナなどが植えられていて花の寺ムードが
濃厚だ。春は取り取りのツツジの花が咲く頃が最も華やかだ。夏はサルスベリ、2ケ月近く咲き続け
て目を楽しませてくれる。

 
九層石塔
 境内に建っている。その昔武田信玄の屋形にあったと伝えられる珍品で、『江戸名所図会』はその
図まで載せて

   寺境池のかたはらにあり。高さは一丈ばかりの石の塔也。相伝ふ、武田信玄のものなり
   と。むかし土屋氏某これを持ち伝へしが、当寺へうつし建つるといへり


 と紹介している。図会の記載は、当然海福寺がまだ深川寺町通り(江東区深川2丁目付近)にあっ
た時のものだが、塔のことは寺の挿絵の書き込みにも、

   武田信玄の持ちつたへたりと云石の塔壱基堂前池の傍にあり

 とある。昔から、海福寺といえば9層の塔というほどの存在だったのだろう。


 永代橋落橋供養塔
 門前左手に4mもある宝篋印塔が2基あり、その前に「永代橋沈溺横死者亡霊塚」という碑が建っ
ている。文化四年(1807)深川八幡の祭りの日、押し寄せる見物人で永代橋が持ち堪えられず橋
の一部が崩落して大変な犠牲者が出た。
 この「落橋事件」については「北区 隅田川」に詳述してある。参照されたい。
 寺の説明板と区の説明板が建ててある。

   文化四年八月十九日深川八幡の祭礼の時、人出のため永代橋が落ち落ち、数百人の人々が
   水死しました。その霊を供養するため木場の人々が建立した供養塔です。これは昔は大変
   有名な事件で歌舞伎では黙阿弥作「八幡祭望月賑(はちまんまつりよいみやのにぎわい)」
   落語では粗忽者の武兵衛が水死者に間違えられ自分の遺体を確認に行くという「永代橋」
   の素材となっています。

   東京都指定有形文化財(歴史資料)
   
文化四年永代橋崩落横死者供養塔及び石碑
   文化四年(1807)の深川八幡宮の大祭は、大喧嘩が原因で中止されていた祭りが12
   年ぶりに催されたため大変な賑わいだった。しかし将軍世子らの御座船が、永代橋の下を
   通過する間、一時的に橋上の通行が禁止された。通行止めが解除されて一斉に群衆が橋を
   渡った時に、橋の中央付近が崩落し、多くの人が隅田川に転落、多数の溺死者を出す、江
   戸開府以来の大惨事が発生した。
   事件後、当時永代橋に近い深川寺町通り(江東区深川2丁目付近)にあった黄檗宗水寿山
   海福寺に無縁仏が埋葬された。そして百日忌に供養塔が、安政三年(1856)の五十回
   忌に石碑が、海福寺境内に建立された。海福寺は明治43年に目黒区下目黒の現在地に移
   転したが、その際にこの供養塔及び石碑も移設され、現在に至っている。
   この事件は後に、戯作者山東京伝の『夢の浮橋』や京伝の弟山東京山の『蜘蛛の糸巻』、
   滝沢馬琴の『兎園小説余録』に所収されるなど、江戸市民に大きな衝撃を与えた。溺死者
   440名ともいわれた空前の大惨事を、江戸市民がどのように受け止め、後世に伝えたか
   を明らかにする重要な資料である。
   平成23年3月 建設                      東京都教育委員会


 隠元雲頭塔
 当寺は明から来朝した日本黄檗宗の開祖の隠元が万治元年に江戸深川に開創したことに始まる。こ
の雲頭塔は隠元の墓だ。なお「隠元豆」は隠元禅師が明から持ってきて日本に伝えた豆。

 梵鐘
 都内第一の逸品で、総高139.5cm、竜頭高26cm、口径78.8cm、口径の厚さ8cm、
天和二年(1682)江戸の中村喜兵衛藤原正次の作。「支那禅刹図式」「黄檗清規」などに図示さ
れている近世支那鐘に似ながら、日本上代の鐘の形制に範をとった特異な考案になるもので江戸時代
の梵鐘中類例の少ない遺品と思われる。雲形の裾は黄檗宗風の珍しい形式だ。昭和54年出版の本に
「鐘楼がないので本堂に安置してある」と書いてあるから、鐘楼はその後に建てたんだ。狭い境内だ
から苦労したろう
 


■江戸三不動
 目黒不動(泰叡山滝泉寺)・目白不動(新長谷寺→金乗院)・目赤不動(本駒込南谷寺)。五色は
誰の発想か判らないが、明治13年に不動明王の五色の旗の色の欠けている黄色と青色を創作したよ
うだ。だからこの色の不動尊を主張する寺院が幾つかある訳だ。天海僧正の発想や家光の指定という
のは、目黄・目青の寺院の創作だろう。七福神巡りも似たり寄ったりで参詣客獲得のためのキャンペ
ーンだ。浅草寺の引き網観音伝説、浅茅ヶ原伝説、関原不動伝説、山吹の里伝説、梅若伝説、土用の
鰻伝説etcetc みんなキャンペーンだ。

 日本三不動
 目黒不動・成田不動・熊本の木原不動をいう。


目黒不動
 下目黒3丁目20番26号にある天台宗の寺。
泰叡山瀧泉寺 といい不動明王を本尊とする関東最
古の不動霊場だ。天台宗の座主慈覚大師(円仁)によって大同三年(808)に開山。元和元年(1
615)には火災で堂宇の大半を焼失したが、3代将軍家光が鷹狩に来た時、本陣をこの寺に置いた
ことが縁で庇護を受け、寛永元年(1925)に本堂・早尾権現・大行事権現堂・供所・鐘楼・観音
堂・仁王門・開山堂が再建され、新たに不動堂を建立した。


   
寛永六年六月上旬より目黒村不動尊諸願成就する由にて江戸中老若男女群集す

 寛永七年(1630)に増築され、ほぼ現在の規模にになったのだが、同年八月天海僧正より護国
院と滝泉寺の両寺一主の令書が下され、上野護国院第一世生順(しょうじゅん)が兼管して中興の第
一世となってから寺運は急速に栄えていった。生順は同十一年(1634)殿閣を改修したので寺観
は一層整備され、53棟の多きに及んだ。
 第二世慈海宋順は、明暦三年(1657)五月から3年間兼管した。宋順は寛永元年下目黒村の須
田家に生まれ、僧侶になることを志し、のち生順に師事して大成した名僧だ。目黒に生まれて滝泉寺
中興二世になったことは最大の喜びだったろうが、後日、泰叡山裏に恵日院を創し、数多い著述を残
した学問上の功績は高く評価されている。
 その後も寺は、歴代将軍の鷹狩りの御膳所のとなり、将軍家の庇護を受け続けて繁栄した。環境は
景勝に恵まれ、江戸庶民の信仰と行楽地として評判をとり、江戸から明治・大正にかけて繁栄を極め
門前も賑わった。境内は台地の突端に広がり、清冽な清水が滾々と湧き、老樹生い繁り、独鈷の瀧が
開創以来千百有余年滔々と落ちている。壮麗を極めた古い建物は、第二次世界大戦の時、愚かなアメ
リカ軍の空爆で大半を焼失したが、戦後本堂・仁王門・書院・鐘楼などが再建された。焼け残った「前
不動」 「勢至堂」「鐘楼」は江戸中期の仏堂建築として貴重な文化財だ。しかし鐘楼は昭和26年浮
浪者の失火によって焼け落ちた。仁王門は同36年に建立され、唯一前不動堂は、昭和47年扁額と
ともにと有形文化財に指定された。区の説明板に、

   目黒不動
   天台宗泰叡山龍泉寺は、大同三年(808)に慈覚大師が開創したといわれ、不動明王を
   本尊とし、通称「目黒不動尊」と呼び親しまれています。
   江戸時代には三代将軍徳川家光の帰依により堂塔伽藍の造営が行われ、それ以後幕府の厚
   い保護を受けました。また、江戸三不動(目黒・目白・目赤)の一つとして広く人々の信
   仰を集め、江戸近郊における有名な行楽地になり、門前町とともに大いに賑わいました。
   さらに江戸時代後期には富くじが行われるようになり、湯島天神と谷中感応寺(天王寺)
   と並んで「江戸の三富」と称されました。
   壮麗をきわめた境内の古い建物は、戦災でその大半が焼失しましたが、本堂、仁王門、書
   院、鐘楼などの再建が着々と進められ、「前不動堂」(都指定文化財)と「勢至堂」(区
   指定文化財)は災厄を免れ、江戸時代の仏堂建築の貴重な姿を今日に伝えています。
   その昔、境内には「銅造役の行者倚像」「銅造大日如来坐像」(共に区指定文化財)「仁
   王門」「大本堂」「垢離堂」「延命地蔵尊」「八大童子の山」「勢至堂」「観音堂」「前
   不動堂」「地蔵堂」「降魔の三鈷剣」「独鈷の滝」「水かけ不動」「養老考子」「鷹居の
   松跡」「腰立不動」「本居長世碑」「意思不動繪尊」「力石」「男坂」「阿弥陀堂」「北
   一輝先生顕彰碑」「三福神(山手七福神 恵比寿天」「豊川稲荷」「地主神」「三界万霊
   塔(無縁塔)」「野村宗十郎銅像」があります。
   裏山一帯は、縄文時代から弥生時代までの遺跡が確認され、墓地には甘藷先生として知ら
   れる青木昆陽の墓(国指定史跡)があります。
   昭和61年3月                         目黒区教育委員会

 とある。かつての末寺は区内の大円寺・成就院・大聖院、西五反田の安養院。

 
慈覚大師円仁

 下野国(栃木県)壬生の生まれで、僧となって円仁と名乗った。15歳のとき比叡山に修行するた
め郷里を発ち、目黒の里に立ち寄った。そこには日本武尊を祀る大鳥神社がある。社に神体がなかっ
たので、里人が円仁に武尊の容姿を彫刻してくれと頼んだ。そこで円仁は荒武者の姿を彫って里人に
示した。その姿は日本武尊が焼津原で、賊どもに偽られて、犬を連れて狩に出たところ、四方の枯草
に火を放たれ、剣を抜き、犬を放って火を消している姿で、後には火が燃えている。里人はこれこそ
武尊の姿であると喜んで神殿に奉安した。それで円仁は比叡山に登って修行を積み、承和五年(83
8)45歳のとき唐に渡って長安の青龍寺へ参拝、そこで眼にした仏像は、自分が目黒の里で彫った
日本武尊の木像と同じ姿であり、これが不動明王であることを初めて知った。承和十四年(847)
に帰国し、翌年父母の安否を尋ねるため品川まできた時、両親の死亡が判ったので草庵を編み、目黒
の里に行って「神社に納めた木像は不動明王であった」ことを里人に説き、品川の草庵に移して親の
供養として、常行三昧に修した。これが後に常行寺の起こりとなる。
 目黒の里人は円仁に不動像を品川から目黒に戻すように願った。天安二年(858)円仁は阿弥陀
像を新たに彫刻して草庵に安置すると、不動像は滝のある目黒の丘に遷し、別当寺として滝泉寺を建
てた。弘治三年(1557)に堂宇の修繕をし、そのとき創建当時の棟札が見つかった。その後本寺
を滝泉寺とし、支院大聖院・明王院・安養院・成就院を構えた。元和元年(1615)に在家の失火
が燃え移り、堂宇は悉く失われた。この火災で記録の大部が失われ詳細は不明となった。寛永元年(1
624)将軍家光が鷹狩に来て、鷹が行方不明になったので、目黒不動の別当実栄に祈祷を命じたと
ころ、鷹が帰ってきたので家光は大いに喜び、不動明王のご利益を感じ、荒廃していた不動堂と別当
滝泉寺の改築を2回に渡って行い、上野東叡山の末寺として、護国院の住職が兼帯することとなった。
そのため面目を一新して、江戸から参詣人も多く、繁盛して江戸の名所となった。
 

 
富くじ

 文化九年(1812)湯島天神と目黒不動での興行が許されたが、谷中の感王寺(天王寺)を加え
て〝江戸の三富〟といわれるほど盛んだった。今の宝くじだ。

 
境内の諸物
 仁王門阿弥陀堂(本坊)・野村宗十郎胸像(活版技術の泰斗)・精霊堂・地蔵堂・水子供養聖霊
堂・
無縁塔(三界万霊供養塔)・山の不動(腰立不動)・本居長世歌碑・勢至堂・千家華塚・青木昆
陽先生之碑・甘藷講碑・北一輝先生之碑・前不動堂・垢離堂・独鈷の滝・水かけ不動尊・慧光照無量
刻石・独股霊泉碑・唐銅役行者(神変大菩薩)・春洞西川先生碑(明治の書の大家)・刷毛筆供養塔
・市川先生退筆塚・観音堂・書院・阿弥陀堂・滝泉寺本坊・寺務所・祈祷殿(自動車お祓い)・秀農
鈴木九太夫碑・米翁之碑・八大童子再建記念千人碑・八大童子再建記念碑・八大童子の山・鷹居の松
・男坂・女坂・大本堂・大日如来金銅仏・延命地蔵菩薩像・大日如来遷座供養碑・愛染明王供養塔・
降魔の三鈷剣・意志不動尊・力石。
 墓地には家光の鷹祈祷の実栄はじめ、甘藷先生之墓、革命家北一輝の墓、極東裁判で東条の頭を叩
いた大川周明の墓などがある。

 仁王門
 戦災焼失により昭和36年に再建。阿形(開口那羅延金剛)、吽形(閉口密迹金剛)、階上に韋駄
天を祀る。

   『仁王尊』仁王門に立つ金剛力士の二尊を云う
   第二次世界大戦の戦火は、目黒にも及び、昭和20年5月24日、目黒不動尊は、その一
   部の建物を残して灰塵に帰した。戦後の復興は、まず本堂の再建にはじまり、昭和25年
   いちはやくその完成をみた。次は、由緒正しき仁王門ということになった。昭和29年、
   ふるくから和菓子司として知られていた当地玉川屋3代目主人小川雄一氏りよ女夫妻は、
   すすんで仁王尊像の寄進を青木大僧正に申しいで、その制作を、当時本邦木彫界の雄とし
   て知られていた後藤良氏に依嘱した。後藤氏はこれを快諾すると同時に、これによって昭
   和の男性美を永久に留めたいと考えて、モデルとして窪田登氏を選んだ。ことは順調に進
   み、弟綿引司郎氏の協力をえて、昭和32年早春三尺の原型が完成した。それと同時に、
   後藤氏は76才の生涯を突如として閉じたのであった。原型から木に写す作業は、綿引司
   郎氏・■■正■氏・吉田暁未氏の協力によって行われ、昭和35年8月26日めでたく完
   成、のみ納め式が行われた。仁王門の完成をまって、昭和36年4月2日落慶式が行われ
   た。その前夜後藤夫人イク女は、重荷をおろしたかのように急逝したのであった。
   『狛犬』
   この狛犬も後藤良氏の作品である。生前制作された石膏の原型は、転々ところをかえ、そ
   のたびに破損していった。後藤氏の曾孫安原森武氏は、彫刻家としてこれを正視するにし
   のびず、自らのアトリエに引きとって修理を行っていた。これを知った玉川屋の子息小川
   隆氏らく女夫妻は、本年4月逝去した母堂りよ女の善捉をとむらうため、その寄進を吉田
   貫主に申しでた。昭和52年7月2日その落慶式が行われたのである。
   昭和52年7月5日                    世話人代表 亀谷子■記

 春洞西川先生碑
 門を潜り境内に入ると目に飛び込んでくる。本堂へ通じる石段(男坂)の右側に建つ。隷書の題は
豊道春海の手になるもので、碑陰記に「大正十年八月 門人武田白謹撰 豊道慶中謹書」とある。発
起人には武田霞洞、豊道春海、諸井春畦、中村春坡、諸井華畦、岩楯春梢、安本春湖、花房雲山の高
弟8名が名を連ねる。
 春洞は、明治大正にかけて活躍した書道大家で、漢魏六朝をはじめ各体に抜きんで、その門に学ぶ
者2000名といわれた。明治の漢字書道界で最も多くの門下を擁したのは日下部鳴鶴だが、これに
拮抗する唯一の大きな系列を形成したのが春洞だ。今日の漢字書道界の基礎は殆どこの2人の系列を
中心に造られている。

 地蔵堂
 仁王門を潜った右手奥にある。閻魔大王と奪衣婆も祀ってある。 

 
観音堂
 仁王門を潜った右手奥にある。江戸三十三観音の結願札所。聖観音、千手観音、十一面観音を祀る。

 精霊堂
 仁王門を潜った右手奥にある。

 阿弥陀堂
 仁王門を潜った右方向にある大きな建物。本坊、阿弥陀三尊を祀る。

 野村宗十郎像
 仁王門の傍らにある。野村宗十郎は我が国の印刷技術の泰斗。和文ポイント活字を創製し印刷活字
の革新に寄与した人。築地活版製造所の社長で、日本に明朝体活字を普及させた。服部東十郎の長男
として長崎の薩摩屋敷に生まれる。明治2年父の従兄野村金吾(全吉?)の養子となり、日本の活版
の鼻祖本木昌三の長崎新町の塾「新街私塾」にて英漢数学を修める傍ら活版技術を習得。同5年大坂
の開成学校に学ぶ。同6年東京英語学校および大学予備門に入るも中退し、簿記学校に転校。同12
年大蔵省銀行局に出仕。のち累進し国立銀行検査官。同22年東京築地活版製造所に入社し、同社を
一流の活字製造所にし、同26年支配人となる。同36年第5回内国勧業博覧会に明朝体活字など9
ポイント活字数十種を出品し、その後新聞社に採用され、我が国印刷文化史に大きな足跡を残した。
同39年取締役兼支配人、翌年名村泰蔵の後に続き社長となる。この間、ポイントシステムの米国雑
誌の記事を訳し、秀英舎の印刷雑誌に掲載。大正5年紫綬褒章。同10年文部省国語調査委員。正七
位。享年69歳。墓は谷中墓地、徳川慶喜墓所の後、岡家墓所の裏手にある。
 銘文の書に鵬齋の匂いを感じ、銅板の末尾を観ると「昭和五年六月 亀田雲鵬書 堀進二作像 遠
藤隆吉記」とあった。雲鵬は鵬齋の曽孫。画家でもある。
 碑文

   君諱宗十郎安政四年五月四日出于長崎薩摩屋敷服部氏出嗣堅邦民少入新街新塾受活版術于
   昌造本木翁明治六年入東京大學豫備門■病退十二年任大蔵省銀行局員尋轉主計局二十二年
   辤官入築地活版製造所四十年奉社長君之在社也晨起夜寐看社務遊■技嘗創九波■活字問諳
   桒■発大阪博覧会九波因行乎巫昉于払也大正二年官賜藍綬褒章賞馬受又慨活字常軆紛乳如
   決決諮衆家出又省略點劃肌論■可讀不可讀其■力■啇於活版術也経任国語調査会委員焉十
   二年■関東地震災起活版所帰烏有氏日夜黽勉■厭復興胡■■■假年俄然病歿大正十四年四
   月二十三日也特旨叙正七位                   文学博士遠藤隆吉記
   昭和五年六月上浣
                          堀 進二作像
                                     亀田雲鵬 書

 碑裏

   
昭龢五季六月(昭和5年6月)
   建設委員
    石丸祐正
    島連太郎
    大澤長橘
   築石者
    ■田保治郎(■は天にもう一本━を増やした字)


 
勢至堂

   
   
滝泉寺                      目黒区指定有形文化財・建造物
                             昭和59年3月31日 指 定
   滝泉寺勢至堂は江戸時代中期の創建とみられ、建築各部に後世の改変が甚だしいが、全体
   的な形姿や細部絵様に優れた意匠の特質を保存している。特に前不動との関連で、その細
   部絵様の一部に寛永中興期の龍泉寺の面影を伝えていることは注目すべきである。
   また現在の敷地は当所からのものではなく、昭和44年以降に前不動の手前り移築された
   ものであるが、今では南斜面の緑の中に溶け込み、龍泉寺境内の優れた景観を形成する貴
   重なものである。
   昭和59年8月                         目黒区教育委員会


   
瀧泉寺勢至堂(目黒区指定文化財 昭和59年3月31日指定
   龍泉寺勢至堂は江戸時代中期の創建とみられ、勢至菩薩像が安置されています。建築各部
   にわたって後世の改変が甚だしいですが、全体的な形姿や細部絵様に優れた意匠の特質を
   保存しており、その姿に寛永中興期の龍泉寺の面影を残しています。
   向かって右の前不動堂(都指定文化財)との関連をみると、勢至堂は前不動堂より建築意
   匠上の格は低いものの、細部に類似性が見られることから、勢至堂は前不動堂の建立から
   それほど時間のたたない内に、前不動堂を意識して造営されたと推察できます。
   現在の場所は創建当初からのものではなく、以前は前不動堂の前方にありましたが、昭和
   44年に行われた前不動堂の修理後に移されました。今では南斜面の緑の中に溶け込み、
   龍泉寺境内の優れた景観を形成しています。
   平成21年3月                         目黒区教育委員会


 
馬頭観音
 境内に立つ古木の根本にある。


 
花木

 境内は広く、阿弥陀堂を中心にイチョウ、クスノキ、ケヤキなどの大樹が茂り、都会の中にある大
きな森といった感じだ。すぐ続きにさらに巨大な林試の森公園がある。ウメ、サクラ、ツツジ、フジ、
ボタン、アジサイ、サルスベリなどがあり、早春から秋まで花が絶えることはない。印象深いのは春
のサクラ、初夏のアジサイ、カルミヤなどだが、秋も深まった11月半ばに真っ黄色に染まるイチョ
ウと、カエデの紅葉が競い合う光景も見事。

 前不動堂
 不動堂前男坂石段下、独鈷の滝の左の崖上にある。江戸時代中期の建築になり、『江戸名所図会』
天機之部・目黒不動の条には、現在位置付近に「前不動」として図示されている。内には本尊木造不
動明王立像などを安置し、庶民信仰の便を図ったものといわれるが、武士階級と庶民階級との差別が
感じられる。江戸時代中期の仏堂建築として比較的よく旧規を保っている。前不動は都指定の有形文
化財だ。
 扁額「前不動堂」には佐玄竜書の署名があるが、筆者佐々木玄竜は、慶安三年(1650)江戸生
まれ、通称万次郎、池庵を号していた。書風一家をなし、享保七年(1722)に歿した。この扁額
は堂建立当時のものと思われる。

   前不動堂附扁額一面(東京都指定文化財 昭和41年3月31日指定)
   「江戸名所図会」天璣之部、目黒不動堂の条に、現位置附近に「前不動」として図示され
   ている。扁額「前不動堂」には「佐玄竜書」の署名があるが、筆者佐々木玄龍は通称万次
   郎、池庵を号する。慶安三年(1650)江戸に生まれ、書風一家をなし、享保七年(1
   722)に歿した。この扁額は堂建立当時のものと思われる。
   龍泉寺本堂前石階の下、独鈷滝の左の崖下にあり、内には本尊木造不動明王立像などを安
   置し庶民信仰の便を計ったものと思われ、江戸時代中期の仏堂建築として比較的よく旧規
   を保っている。
   東京都文化財保護条例(昭和51年3月31日)により、文化財の指定種別を都重宝から
   東京都指定有形文化財に変更しましたので、石造標識については、このように読み替えて
   下さい。
   昭和52年11月3日建設                    東京都教育委員会

 
本居長世の碑

 勢至堂の下にある。長世は宣長の孫か、ひ孫。「十五夜お月さん」の楽譜の冒頭部分が刻まれてい
る。


   童謡は第一流の詩人が子供のために詩を書き第一流の音楽家が曲を付けた世界に誇る日本
   の児童文化財です。本居長世は音楽学校で中山晋平、弘田龍太郎を教えるかたわら「七つ
   の子」「青い目の人形」「赤い靴」「めえめえ小山羊」「お山の大将」のような作品を自
   身作曲して世に送りました。ことに大正9年野口雨情の詩に作曲した「十五夜お月さん」
   はいかにも日本的な旋律に変奏曲的な伴奏を配したもので、この種の先駆的作品として重
   んじられました。本居長世はこれらの曲を作ったころ、この目黒不動のすぐ隣に住んでお
   り、月の夜この瀧泉寺の境内を散歩しながら想を練ったことでしょう。
   今ここに本居長世氏の曲の碑を建てて、氏の功績を記念したいと思います。
                                   本居長世を慕う会
                                 童謡の里めぐろ保存会

 腰立不動堂(山不動)
 本居長世の歌碑の隣にある。

   妙なる力に起こされて 二度(ふたたび)世に立つ不動尊
   亀の祝の末広く 朝日の昇る見事さで
   東都の集い善男女 すくいとらすぞ 妙なる力
   昭和32年12月15日         泰叡山瀧泉寺


 山不動と呼ばれる腰立不動は立身出世のお不動さんだ。

 
三界万霊塔

 仁王門から左手の一番奥にある結界の供養塔。三界とは、欲界、色界、無色界。万霊というのは、
欲、色、無色界の有情無常の精霊などの凡る世界を指している。それらを供養することが三界万霊塔
の役目で、ここでは地蔵菩薩が手伝っている。

 
銅造役行者倚像(えんのぎょうじゃいぞう)
 役小角(えんのおづの)の腰かけた姿の銅像。

   銅造役行者倚像
目黒区指定有形文化財・彫刻)    昭和59年3月31日指定
   別名『神変大菩薩』とも云い、修験道の開祖、足・腰を強靭にしてくれる。この像はやや
   痩せ形の神秘的な面相、均整のとれた体躯や手足の表現、法衣や袈裟の衣文のしわなども
   まことに巧みで江戸時代の銅造彫刻としては優れた遺品の一つである。また、像の腹部、
   胸部、腕部等に寛政八年(1796)神田に住んでいた鋳工大田駿河守藤原正義作の刻銘
   があることも貴重である。
   昭和59年8月                      東京都目黒区教育委員会
 

 
鷹居の松跡

   鷹居の松
   徳川3代将軍家光が寛永の頃、不動尊の近くで狩猟中に、可愛がっていた鷹が行方不明に
   なりました。その時不動堂別当の実栄という僧に祈らせたところ、鷹は忽ちここにあった
   大きな松の枝に飛び戻ってきたと伝えられています。今はその松の跡だけが残り、標石が
   立っています。家光は大いに喜び、この松を「鷹居の松(たかすえのまつ)」と命名する
   と共にこの不動尊を深く尊信し、火災のために堂塔悉く烏有に帰した当寺再建のため、堂
   塔を寄進し、寛永十一年(1634)には諸堂末寺等50余棟に及ぶ壮大な堂塔が完成し
   たといいます。また、歴代の将軍も家光の志を継いで参詣する者が多く、江戸庶民もその
   風にならい、不動信仰は隆盛を極め江戸随一の名所となりました。
   平成元年3月                       東京都目黒区教育委員会

 
独鈷の滝
 境内に入ってすぐ、不動堂に続く階段の左側にある。慈覚大師が寺の敷地を示すために仏具の独鈷
を投げたところ、そこに泉が涌き、滝になったという。男滝・女滝ともに水勢も衰えず昔のままだ。
御手洗場の外、飲み水用の水場もある。垢離場で禊する人もなくなって、身代りの「水かけ不動」が
屹立している。さて柄杓があるので、その水を飲んだらば、脇に「飲めません」だと。もう飲んじゃっ
たよ。しかし私の守護神は不動明王、流石に下痢も何もしなかった。若い頃、知床半島のウトロに網
元の息子がいて、それが学友で、夏休みのバイトがてら、数人でそいつん家に遊びに行ったことがあ
る。定置網を仕掛ける仕事で、多少きつかったが3週間やり遂げた。それが自慢じゃない。打ち上げ
の宴会で漁師鍋を囲んだが、私たちはたらふく食べて、翌日さよならして東京に戻った。やがて秋、
夏休みが明けてみんな登校してきた。網元の息子が「帰って、何もなかったか?」と問う。みな口々
に「腹を壊した」とか「下痢をした」という。知床でも漁師たちがのた打ち回ったらしい。私は何事
もなかった。悪魔と罵られたことはいうまでもない。私は生まれて以来(このかた)無病息災だ。い
まだ悪いところは1つもない。体を鍛え栄養たっぷりな物を食ってるスポーツ
選手やお相撲さんが風
邪を引く。私はこれが不思議でならない。私なんざ貧乏人で美味いものなど食ったことはないし、イ
ンフルエンザの予防注射はしたこともないが、毎冬無事に過ごしてる。暖房も電気炬燵だけ、風呂場
は隙間風が吹き込んでるよ。

   このお滝は今を去る1200年程前、泰叡山瀧泉寺をお開きになった慈覚大師円仁が堂塔
   建設の敷地を占って、御自身が持っていた独鈷(とっこ)を投げたところ、忽ち滝泉が湧
   き出したので之を「独鈷の滝(とっこのたき)」と名付けられた。それより今日迄どんな
   に旱天が続いても涸れることもなく、滔々と落ちており、長く不動行者の水垢離の道場と
   して利用されてきた。今日都内では大変珍しい名所である。
           泰叡山瀧泉寺

 
養老孝子像
 水場にある。

 
水かけ不動明王
 独鈷の滝にある。

   当山の開基は天台座主第三祖慈覚大師円仁で、千二百有余年前の大同三年(808)大師
   自ら御本尊を彫刻し安置されたことに創まります。
   天安二年、大師が法具〝独鈷〟を投じて堂宇造営の敷地を卜されたところ、泉が忽ち湧出
   し涸れることのないその瀧泉は「独鈷の瀧」と称されました。
   大師はお堂の棟札に、「大聖不動明王心身安養呪願成就瀧泉長久」と認め「瀧泉寺」と号
   され、「泰叡」の勅額を賜りし清和の御代に「泰叡山」が山号と定められました。春に花
   夏瀧しぶき、秋紅葉、冬積もる雪と、関東最古の不動霊場は四季折折の風情が輝き、善男
   善女の心に安らぎをもたらします。
   「独鈷の瀧」は不動行者の水垢離場となり、江戸幕末には西郷南洲翁が薩摩藩主島津斉彬
   公の当病平癒を祈願されました。

   目黒不動尊御詠歌

    清らけき目黒の杜の独鈷瀧 災厄難を除ける不動尊

   ここに、身代りで瀧泉に打たれてくださる「水かけ不動明王」が造立され。より清らかな
   心と身で目黒の不動さまに参脂できることとなりました。
   合掌礼拝して「独鈷の瀧」の霊水をかけ、洗心浄魂されて、大慈大悲の不動明王と大願成
   就のご縁をお結びください。
   平成8年5月吉日                  目黒不動尊別當 泰叡山瀧泉寺

 
北一輝先生之碑
 2・26事件の青年将校たちの精神的支柱となった革命思想家。北は直接行動をした訳ではないが
首謀者と見做されて処刑された。その著作「日本改造法案大綱」は現在も保守政党の国粋主義的傾向
を持つ議員の裏バイブルとなっている。憲法を変えようとする人々は大概これが背景にある。つまり
2・26事件は未だに決着を見ていないのだ。駐車場に接して勢至堂と前不動堂の間に隠れるように
立っている。可成り大きな碑(高さ約3m)で、上に横に「北一輝先生碑」と彫って有るが、これは
生前一輝と親しかった国民党の外交部長張群による書だという。撰文は大川周明・書は玄林武田梅に
よる。昭和33年の建立。

   この碑は北一輝先生の顕彰碑で大川周明氏の文によるものです。先生は明治16年佐渡ヶ
   島に生れた憂国の士で、大正デモクラシーの時代に中国に渡り、中国革命を援助し又日本
   改造論を叫び、国家主義の頭目として、特に陸軍の青年将校を刺戟し多くの信奉者を得た。
   時適的々満州事変前後より先生の思想はファシスト化し、遂に2・26事件を惹起する要
   因になった。勿論直接行動には参加しなかったが、首謀者として昭和12年銃殺刑に処せ
   られた。併し先生の生涯支えたものは、奇しくも法華経の信仰であったことは有名である。

   毎年8月19日祥月命日には今も尚全国の有志が追悼法要を厳修している。
                                     泰叡山滝泉寺

 
青木昆陽先生之碑
 
仁王門を入って左手の斜面「前不動堂」の下にある。明治44年に甘藷組合がに建てた高さ7mも
ある仙台稲井石の堂々たる偉容だが、この手の碑の悲しいところは、読めないことだ。何のための碑
なんだろうね。撰文は大槻文彦、揮毫は野村素助、題額は辻新次、碑裏派「文部省書き方手本」の西
脇呉石、発案者賛同者の名前がずらりと300ほどもが並ぶ。榎本武揚・芳賀矢一・新渡戸稲造・大
槻文彦らの外、角界の名士、地元有志、川越鉄道会社、甘藷小売組合、東京甘藷赤心組合などの文字
が目立っているのは、流石に甘藷先生の碑だ。

                         錦雞間祗候正三位勲一等男爵辻新次篆額
   我邦洋学之盛実創于昆陽青木先生矣先生学在経済其開洋学植蕃藷皆出於開物成務之意云先
   生諱敦書字厚甫通称文蔵昆陽其号源姓青木氏其先摂州多田祠官飯倉権守末国後子孫住州之
   伝法村為農考諱末友称半右衛門移于江戸日本橋小田原街開魚肆称佃屋娶医村上宗伯女以元
   禄十一年五月十二日誕先生先生幼而好学後往京師受業東涯伊藤先生主躬行実践不屑詞章学
   成帰江戸下帷八町堀授徒享保十一年十月末友君病歿服喪三年越十五年十月村上氏亦病歿復
   服喪三年方考妣之在病也先生奉養看護無所不至其居喪自禁酒肉旦夕食粥人皆感其至孝家在
   町奉行与力加藤枝直邸内枝直視先生篤行具状町奉行大岡忠相忠相問先生所志先是先生以為
   官宥罪囚竄海島者在今保天寿而島中乏穀往往餓死若植蕃藷則可以救之因求其種子試植之下
   総馬加村且著蕃藷考示其培法効用至是出其書以呈町奉行供之大将軍之覧乃有命求蕃藷種於
   薩州植之小石川薬園使先生培養且官梓行其書幷種子頒之伊豆七島八丈島佐渡島及諸州我邦
   殖蕃藷実始于此時享保二十年也忠相知先生可用命為司書吏且請特許覧官庫之書元文四年三
   月始挙賜俸十人口延享四年七月任評定所儒者賜廩米百五十苞為世禄明和四年二月昇任書物
   奉行初寛永中幕府厳禁舶齎洋書享保五年解禁当先生閲官庫書見中有和蘭書意謂得読之則必
   益於世方此時大将軍長天文之学一日覧和蘭天文図精緻曰図既如此其書之精妙可知侍臣啓曰
   青木文蔵嘗欲学之於是命先生攻和蘭書実寛保元年也和蘭甲必丹毎年従長崎来謁大将軍先生
   就其寓学延享元年遂往長崎就和蘭人刻苦学修長崎有和蘭象胥亦禁読其書聞先生受特命亦就
   請先生稟之幕府命許之象胥之得読洋書亦始于此先生東帰之後将大開洋学不幸会大将軍薨忠
   相亦逝然尚就甲必丹矻矻匪懈著和蘭文字略考和蘭話訳文訳等時有中津藩医前野良沢聞先生
   通和蘭書来学先生挙其所得悉授之時明和六年也而其十月十二日病歿年七十二有一女養幕府
   臣川口氏子三郎左衛門為嗣配以女七世孫泰吉今住静岡初元文寛保之間先生奉命巡歴武相甲
   信豆遠参七州採収民間遺書七十九部献之先生別所著経済纂要官職略記刑法国字訳国家食貨
   略国家金銀銭譜昆陽漫録草廬雑談等廿五部皆写献之官亦可以見其経済与博識矣先生墓在武
   州目黒不動堂背後小邱題曰甘藷先生墓都下販甘藷者結社修理数次馬加村民亦祠祀先生嗚呼
   先生欧学首唱之功終致今日邦家之隆運而其経世済時之効亦可謂閎且遠矣明治四十年十一月
   十五日 朝廷褒先生功特贈正四位於是有志者胥謀将建碑於目黒不動堂前嘱銘文彦文彦王父
   玄沢実承先生学統者因謹録事蹟係銘曰
   先生之学 躬践実施 志之所在 経世済時 始植蕃藷 覃施全国 流人不飢 貧民足食
   慧眼一瞥 知欧学要 開鑿混沌 䟽通七竅 英俊継起 研鑽拡張 学術治法 煥乎発光
   朝命贈位 名溢海宇 創業垂統 沢流千古
   明治四十四年十月               帝国学士院会員文学博士 大槻文彦撰
                         錦雞間祗候正三位勲一等男爵野邨素介書

   (読み下し)
   我が邦の洋学の盛んなるは、実に昆陽青木先生に創(はじま)れり。先生の学は経済に在
   り
の洋学を開き蕃藷(ばんしょ)を植うるは皆、開物成務(かいぶつせいむ)の意に
   出ずと云う。先生、諱(いみな)は敦書(あつのり)
字(あざな)は厚甫、通称文蔵、
   昆陽は其の号、源姓青木氏なり。其の先は摂州多田の祠官、飯倉権守末国。後、子孫、州
   の伝法村に住み農を為す。考、諱は末友、半右衛門と称す。江戸日本橋小田原街に移り、
   魚肆(ぎょし)を開き、佃屋と称す
医、村上宗伯の女(むすめ)を娶る。元禄十一年
   五月十二日を以て先生を誕む。先生、幼くして学を好み、後、京師に往きて業を東涯伊藤
   先生に受く。躬行(きゅうこう)実践を主とし、詞章を屑(かえりみ)ず。学成りて江戸
   に帰り、帷(とばり)を下して八町堀にて徒に授く。享保十一年十月、末友君病歿(びょ
   うぼつ)
す。服喪すること三年、越えて十五年十月、村上氏も亦た病歿す。復た服喪す
   ること三年。考妣(こうひ)の病に在るに方(た)りてや、先生の奉養看護、至らざる
   所無し。其の喪に居りては、自ら酒肉を禁じ、旦夕(たんせき)粥を食う。人、皆其の至
   孝に感ず。家は町奉行与力、加藤枝直の邸内に在り。枝直、先生の篤行(とっこう)を視
   て、具(つぶさ)に町奉行大岡忠相に状す。忠相、先生の志す所を問う。是に先だちて先
   生以為(おもえらく)、官の罪囚を宥し海島に竄する者、今に在りて天寿を保つ。而るに
   島中は穀乏しく、往往にして餓死す。若し蕃藷を植うれば則ち以て之を救うべし、と。因
   
りて其の種子を求めて試みに之を下総馬加(まくわり)村に植え、且つ蕃藷考を著し其の
   培法効用を示す。是に至りて其の書を出だして以て呈す。町奉行、之を大将軍の覧に供す。
   乃ち命有り、蕃藷の種を薩州に求め、之を小石川薬園に植え、先生をして培養せしむ。且
   つ官、其の書を梓行(しこう)し、幷びに種子は之を伊豆七島・八丈島・佐渡島及び諸州
   に頒つ。我が邦の蕃藷を殖すは実に此これに始む。時に享保二十年なり。忠相、先生の用
   うべきを知り、命じて司書吏と為し、且つ請いて官庫の書を覧(み)るを特許す。元文四
   年三月、始めて挙げられ俸ほう十人口を賜る。延享四年七月、評定所儒者に任ぜられ廩米
   百五十苞を賜り世禄と為す。明和四年二月、昇りて書物奉行に任ず。初め寛永中、幕府、
   洋書を舶齎(はくせい)するを厳禁す。享保五年、解禁す。先生、官庫の書を閲(け)み
   
するに当たり、中に和蘭(オランダ)の書有るを見る。意謂(おも)うに、之を読むを得
   れば則ち必ず世に益せん、と。此の時に方たりて、大将軍、天文の学に長ず。一日、和蘭
   の天文図の精緻なるを覧て曰く、図、既に此の如し、其の書の精妙知るべし、と。侍臣
   啓して曰く、青木文蔵、嘗て之を学ばんと欲す、と。是に於いて、先生に命じて和蘭の書
   を攻(おさ)めしむ。実に寛保元年なり。和蘭の甲必丹(カピタン)毎年、長崎より来た
   りて大将軍に謁す。先生、其の寓に就きて学ぶ。延享元年遂に長崎に往き、和蘭人に就き
   て刻苦学修す。長崎に和蘭の象胥(しょうしょ)有り、亦た其の書を読むを禁ず。先生
   の特命を受くるを聞き、亦た就きて請う。先生、之を稟す。幕府、命じて之を許す。象胥
   の洋書を読むを得るも亦た此に始む。先生、東帰の後、将に大いに洋学を開かんとするも
   不幸にして会(たま)たま大将軍薨(こう)じ、忠相も亦た逝く。然れども尚、甲必丹に
   就きて矻矻(こつこつ)として懈(おこた)ること匪(な)し。和蘭文字略考・和蘭話訳
   文訳等を著す。時に中津藩医前野良沢有りて、先生の和蘭の書に通ずるを聞き、来たりて
   学ぶ。先生、其の得る所を挙げて悉く之を授く。時に明和六年なり。而るに其の十月十二
   日、病歿す。年七十二。一女有り、幕府の臣、川口氏の子、三郎左衛門を養いて嗣と為し
  、配するに女を以てす。七世の孫泰吉、今、静岡に住む。初め元文・寛保の間、先生、命を
   奉じて武・相・甲・信・豆・遠・参の七州を巡歴し、民間の遺書七十九部を採収して之を
   献ず。先生、別に著す所、経済纂要・官職略記・刑法国字訳・国家食貨略・国家金銀銭譜
   ・昆陽漫録・草廬雑談等廿五部、皆写して之を官に献ず。亦た以て其の経済と博識とを見
   るべきかな。先生の墓は、武州目黒不動堂の背後の小邱(しょうきゅう)に在り、題して
   甘藷(かんしょ)先生の墓と曰う。都下の甘藷を販(ひさ)ぐ者、社を結び修理すること
   数次、馬加村の民も亦た先生を祠祀す。嗚呼、先生の欧学首唱の功、終ついに今日の邦家
   の隆運を致す。而るに其の経世済時の効も亦た、閎(ひろ)く且つ遠きと謂うべきかな。
   明治四十年十一月十五日、朝廷、先生の功を褒め、特に正四位を贈る。是に於いて、有志
   の者胥ともに謀りて、将に碑を目黒不動堂前に建てんとし、銘を文彦に嘱す。文彦の王父
   玄沢、実に先生の学統を承くる者なり。因りて謹みて事蹟を録す。
   係銘(けいめい)に曰く、
   先生の学は、躬践実施し 志の在る所は経世済時 始めて蕃藷を植え
   全国に覃(ふか)く施す 流人は飢えず、貧民も食足る 
   慧眼(けいがん)は一瞥(いちべつ)して、欧学の要を知る
   混沌を開鑿し、七竅(しちきょう)を䟽通す 英俊 継ぎ起こり 
   研鑽(けんさん)し拡張す 学術と治法、煥乎(かんこ)として光を発す
   朝(ちょう)は命じて位を贈り、名は海宇に溢
   業を創(はじ)め統を垂れ、沢(たく)は千古に流れん


 隣に芝麻布の甘藷組合が建てた「甘藷講碑」がある。毎年10月28日の緑日に昆陽の遺徳を偲ぶ
「甘藷まつり」を催し、この日ばかりは昔日の賑わいが・・・ 甘藷先生とは江戸時代の蘭学者青木
昆陽(通称文蔵)。生前自ら「甘藷先生墓」と刻み、遺言として「死後は目黒に葬り、父と娘も一緒
に埋葬して欲しい」と云い残し、ために目黒不動の杜の一角に青木昆陽の墓がある。昆陽は晩年、富
士を望められる景勝地目黒を好み、大鳥神社裏に別荘を構え、当時住職だった須田一族の篤信を得て
隠居所とし、明和六年(1769)に没してる。

 
大本堂
 
アメリカ軍の空爆で焼け落ちたが、昭和24年いち早く再建された。物のない時代の建築としては
立派なもので、天井画の竜は画伯川端竜子の遺作。
   不動明王   泰叡山瀧泉寺の本尊にして秘仏
   虚空蔵菩薩  福徳智恵を蔵する仏
   普賢菩薩   文殊菩薩と共にお釈迦さまの働きを助ける
   愛染明王   愛欲の世界をそのまま真理の世界に導く仏で一般には恋愛の仏でもある
   文殊菩薩   「三人よれば文殊の智恵」の諺通り、高な智恵を授けてくれる仏
   生順僧正像  泰叡山瀧泉寺中興の祖、天海僧正の弟子
   慈海僧正像  泰叡山瀧泉寺中興第二祖、著名な学僧、当下目黒出身

 意志不動尊(石不動尊)
 本堂左手にある石仏。

 不動明王碑
 まるで墓石のような石造物。梵字の下に朱文字で「不動明王」と刻んである。説明板等はない。

 微笑観世音菩薩立像
 不動明王碑の隣にある。春の陽光の下、すらりとした立ち姿で優しい微笑を浮かべている石像。

 愛染明王坐像
 微笑観音菩薩の隣にあるの石像。愛染明王は、人間の煩悩と愛欲を転じて仏道に導く仏。剣を持ち
大きな光背を背負ったすさまじい姿だが、縁結びの仏としても信仰されている。

 縁結び 愛染明王坐像
 微笑観音の隣にある。台座の方がでっかい。

   「良縁成就」のお参りの仕方
   1.愛染明王の台座の前で絵馬を両手にはさみ、胸元で合掌する。
   2.男:右側より時計回りに心を静めてまわる。
     女:左側より時計回りに心を静めてまわる。
   3.愛染明王の前に戻ったら一礼する
     絵馬掛けに絵馬を奉納する。

 護衛不動尊
 本堂の右手にある。

 
鐘楼
 
アメリカ軍の空爆をかわして、折角生き残ったのに、昭和26年浮浪者の火の不始末で炎上焼失し
てしまった。現在のものは鐘楼も梵鐘も昭和40年の新製。

 地主神
 山の頂にある石造小祠。

 八大童子の山
 不動明王の眷属として恭敬礼拝する者を影の形に随うが如く守り衆生救済に活躍する童子たちであ
る。不動明王の使者であり、三十六童子の代表だ。
 向かって右から
   慧喜童子(えきどうじ)
   指徳童子(しとくどうじ)
   鳥倶婆誐童子(うくばきゃどうじ)
   矜迦羅童子(こんがらどうじ)
   不動明王(ふどうみょうおう)
   阿耨逹多童子(あのくたつたどうじ)
   制吨迦童子(せいたかどうじ)
   慧光童子(えこうどうじ)
   淸淨童子(しゅうじょうどうじ)

 
銅製大日如来坐像露仏
 
本堂の後にある。延宝三年(1675)の建立、本来屋内仏だったのだが、アメリカ軍の空爆で堂
宇を焼かれて以来、露仏のままで誠に申し訳ない限りだ。

   銅造大日如来坐像 目黒区指定文化財(彫刻) 昭和59年3月31日指定)
   不動明王の本地仏にして大本堂裏に安置。この像は宝髪、頭部、体躯、両腕、膝等十数か
   所に分けて鋳造し、それを寄せて一体とした吹きよせの技法で造られている。体躯にくら
   べ頭部を大きく造るのは大仏像共通の特色で、面相も体躯も衣文表現もよく整っている。
   また、台座の蓮弁に開眼の年、入仏開眼供養の際の導師や僧俗の暦名等を記し、制作年代
   は天和三年(1683)江戸に住む鋳物師横山半右衛門尉正重作等の刻名があることも貴
   重である。
   昭和59年8月                      東京都目黒区教育委員会

   銅造大日如来坐像目黒区指定文化財 昭和59年3月31日指定)
   蓮華座に結枷趺坐しているこの坐像は宝髪、頭部、体躰、両腕、膝等十数ヶ所に分けて鋳
   造し、それを寄せて一体とした吹きよせの技法で造られています。総高385cm、座高
   281.5cm、頭長は121cmで、体躰にくらべ頭部を大きく造るのは大仏像共通の特
   色であり、面相も体躰も衣文表現もよく整っています。
   現在は露座となっていますが、「江戸名所図会」の目黒不動堂の挿図より、江戸時代には
   堂舎の中にあったことがわかります。台座の蓮弁には開眼の年、入仏開眼供養の際の導師
   や僧侶の歴史が刻まれると共に、多数の施主名と供養者名が見えることから、大衆による
   造像だったことがうかがえます。また刻銘から制作年の天和三年(1683)と制作者が
   江戸に住む鋳物師横山半右衛門尉正重であることがわかることも貴重です。
   昭和59年8月                      東京都目黒区教育委員会

 側に碑がある。

   
大日如来遷座供養碑

 青木昆陽の墓
 墓地にある。

   青木昆陽墓(国指定史跡 昭和18年5月1日指定)
   江戸中期の儒者。通称は文蔵。元禄十一年(1698)生まれ、京都の儒者伊藤東涯に学
   ぶ。幕臣大岡忠相の知遇を得て幕府に仕え書物方となり、のち評定所儒者・書物奉行とな
   る。彼は八代将軍徳川吉宗の命により蘭学を学び、長崎に遊学し、「和蘭文字略考」「和
   蘭貨幣考」「和蘭語訳」などを著述する。また「蕃薯考」を著し、救荒作物として甘藷の
   栽培を奨励したために”甘藷先生”と呼ばれた。一方、幕命によりしばしば関東・東海地
   方に出向き古文書を調査・収集した。明和六年(1769)歿。行年72歳。


 北一輝の墓
 ぼちにある。一輝は明治16年佐渡の湊町で酒造業を営む北家に生まれた。父は初代の両津町長と
なった北慶太郎です。2歳下の弟吟吉は、後に衆議院議員となった。夷の若林朔汀に漢学を習った一
輝は、佐渡中学校(現佐渡高校)で飛び進級するほどの秀才だった。しかし眼病や読書へ熱中し、3
年後に退学した。その後上京し、社会主義思想に傾倒して中国に渡った。大正5年「日本改造法案大
綱」を著し、帰国後は陸軍青年将校に信奉された。昭和11年に二・二六事件が起こり、直接事件に
関係していなかった一輝も思想的な指導者と見なされて逮捕され、翌年死刑となった。
 二・二六事件には裏があり、単純に若手将校が蹶起して鎮圧された事件ではない。深く秩父宮が関
わっているし、後に起る日中戦争を考えると別のところに意思があり、青年将校らは騙されてその手
先に使われた感がある。日中戦争~太平洋戦争は侵略戦争ではなく、秩父宮が主導した金の強奪戦争
だったというのが本筋だ。これを昭和12年のお歌会始めのお題〝百合〟に因み「黄金の百合作戦」
という。この金塊は34万tといわれ、フィリピン山中137ヶ所に埋蔵した。これが山下財宝とい
われるもので、天皇家の財産として記録されている。天皇が世界最大の信用を持つのは、4京円以上
といわれる、天皇名義の巨万の富が背景にある。これはユダヤ国際資本も承知したことで、ユダヤが
日本を属国としているのか、日本がユダヤをコントロールしているのか、混沌として判らない。
 実墓は佐渡の青山墓地にあり、門下の西田税の遺骨も一緒に埋却されているとか。

 大川周明の墓
 大川は、日本の思想家。東亜経済調査局、満鉄調査部に勤務し、拓殖大学教授を兼任。「特許植民
会社制度研究」で法学博士の学位を受け、法政大学教授大陸部(専門部)部長となる。その思想は近
代日本の西洋化に対決し、精神面では日本主義、内政面では社会主義もしくは統制経済、外交面では
アジア主義を唱道した。なお極東裁判において、民間人としては唯一A級戦犯の容疑で起訴されたこ
とでも知られる。しかし、裁判中東条英機の頭を叩くなど、精神障害と診断され裁かれなかった。晩
年はコーラン全文を翻訳するなどイスラーム研究でも知られた。
 世田谷区の精神病院(松沢病院)に入院中に極東裁判が終了し、裁かれないまま自由の身となり、
晩年は神奈川県の自宅で過ごし、昭和32年に没した。


■三福社

 山手七福神の恵比寿を祭る。入口の標柱に朱文字で、

   
江戸最初 山の手七福神恵比寿神

 とある。池畔に三福神(弁財天・大黒天・恵比寿天)が祀られ、ここが山の手七福神の恵比寿天と
なっている。弁財天は七福神中の紅一点、美しい音楽の女神である。

   金明湧水
   福銭洗い
   三福神にお参りしてから、ご縁に導かれますように
   洗う金に五円を添えて  一緒に洗ってください

 豊川枳尼真天(豊川稲荷)と稲荷が横にある。
 


■門前

 
江戸時代純農村地帯だった目黒区の中で、目黒不動門前が唯一町を形成した。江戸の町域の拡大は、
寛文二年(1662)、正徳三年(1713)に続いて、延享三年(1746)に行われた。この時
新たに町奉行の支配地になったのは、寺社奉行の支配下にあった門前町だ。現在港区になる高輪・麻
布・白金の門前とともに、目黒不動門前が町奉行支配に組み入れられたのだ。「武江年表」に既に寛
永六年(1629)六月上旬より


   目黒村不動尊、諸願成就するよしにて、俄かに江戸中老若男女群集す

 とあるが、寛永十一年(1634)には将軍家光によって目黒不動の普請が行われ、立派な堂宇が
完成し、境内も整備され、このころから門前が賑わい始めた。江戸時代後期になると、門前町はます
ます盛んな様相を呈してくる。文化十一年(1814)頃の状況は、


   門前町南の方弐町東へ折れ曲がりて蟠竜寺前迄、長さ凡そ7、8町、両側軒を連ねて建
   つづき、不動尊爰(ここ)にあるを以て辺鄙ながら市中は賑わしく、酒楼食店幾許か有
   りて大旨弁用す。猶又境内には真粉を黄・紅・白を三色に練て、樹の花の咲し風情に作
   りひさぐを名産として目黒の餅花と称し、子供の遊びものとす


 と「十方庵遊歴雑記」とある。門前町では、名産の餅花が子供に人気があったらしいが、他にも「江
戸砂子」には御福餅や粟餅・川口屋餅なども売られていたという。ただ珍しいことに岡場所はなく、
売春は行われていなかった。みんな品川へ二度参り。

   餅花を提げて難所へ差し掛かり


 成就院向かいの「センチュリーコート和田」は、『江戸名所図会』の挿絵に「たち花や」と書いた
茶店の裔、そこから30mほど西の「食い処七力(しちりき)」は、渡辺崋山が描いた漫画漫文の紀
行絵巻『目黒詣』の一場面になっている。その時彼らの詠んだ狂歌2首、

   皆人の酔は臥すともひ(し)ちりきや ねの高きにぞおどろかれぬる
   横笛によい婦もあってひ(し)ちりきや 人目多くて笙琴もなし


 その西の南側、脇道の奥に見える山門は滝泉寺の支院、寝釈迦で知られる「安養院」だが品川区だ。
その参道口の左側角に「桐屋」という飴屋があった。宝永の頃の創業だ。盛時には浅草雷門、麻布四
ノ橋南の田島町にも支店を出していた。『江戸名所図会』の挿絵には、三井の越後屋呉服店並の2ペ
ージ見開きで扱われているし、嘉永五年(1852)二月には12代将軍家慶の鷹野の折、飴引きを
上覧に供したとの記録も残る目黒唯一の名店だった。

   云いわけの御みやを召せと桐や云い(川柳)

 品川の娼家へ登楼しようとするものに姦計を薦めるの図だ。しかし幕末の激動期に目黒を離れた桐
屋は、その後の消息は不明だったが、昭和50年ごろの調査で、明治の半ば頃浅草へ逼塞したが、後
に家を興す者があって、その裔は横浜で富裕に暮らしているとのこと。桐屋歴代の墓は安養院にある。
参道口右側榎本食品店・フレッシュコートカワイのところは、明治の政客を得意とした「内田屋」が
あった。成就院の前、羅漢寺・海福寺参道の東側には「橋和屋」があり、諸藩の留守居役(外交が仕
事で派手に遊んだもの)の利用が多かった。これらを「御留守居茶屋」と俗称した。渡辺崋山が囚わ
れの身となった時、救出に骨を折った松崎慊堂は、この店を贔屓にしたことを日記に書いている。そ
の50m西の目黒不動へ曲がる四つ角が「角伊勢」、その隣の「大国屋」なども粟餅や筍飯で名を売
り、明治以後の繁栄期にも弦歌を響かせた。
また飴や粟餅のほか御福餅、そして餅花という木や竹の
先にしん粉細工をつけたものなど、この辺りで商う名物は、江戸時代の黄表紙や川柳などにしばしば
取り上げられている。


   栄華のうちに粟餅が固くなり(川柳)


 不動参詣の帰途、土産の餅花や粟餅を持ったまま品川の遊郭へひっかかるのは、川柳の好材料だっ
たが、これは恋川春町の黄表紙本『金々先生栄花夢』(金兵衛という男が、目黒不動門前の店で粟餅
が出来上がるのを待つ間の転寝に見た栄華と没落の夢物語)を利かせた秀句なのだとか。不動門前は
これほどの繁盛にもかかわらず娼婦がましいものは全くなく、厳重な監視が永続した。もっとも品川
が面白かったことも否めない。

   目黒の町は長い町 長いけれども一夜の宿はござらぬ(麦打唄)

 今も門前は商店街の体をなしているが、侘しさは否めない。甘藷まつりの旗が風にひらひらと揺れ
ている。
 江戸郊外の名所として多くの参拝者が訪れるようになったのは、徳川3代将軍家光が再興してから
のことだ。将軍はこの付近で鷹狩りをした際、瀧泉寺で食事するのを例とした。江戸で繁盛した寺は
必ず将軍家の後援がある。将軍参拝のアッピールがあってから目黒不動は大繁盛だ。門前には料理屋
が軒を並べたほか、名物の粟餅、飴、しん粉細工の餅花などを売る店も多かった。『図会』には、目
黒飴の店の繁盛ぶりが挿絵になっている。現在の門前も各種の店が軒を連ね相応に繁盛しているよう
だが、残念ながら昔の名物は姿を消してしまったよ。祭でもなけりゃ、参拝者はまばら、いつ行って
も混雑はない。


■三折坂

 下目黒3丁目20番24号目黒不動の西側の坂道。Sの字を描くように曲がっているので、三折の
名がついた。左手の背丈ほどに積まれた石垣の上には、ササやクヌギがうっそうと生い茂り、右手に
は住宅が建ち並ぶ、落ち着きのある坂道だ。坂を下ると、右側の石がきから、わき水が流れ落ちてい
る。滝泉寺の“独鈷の滝”と同し水脈なのか? 水量は豊富で近所の人びとが打ち水などに使ってい
る。縁日や10月の甘藷祭りともなると参拝客で大いに賑わう。


■不動公園

 下目黒3丁目21番9号にある区立公園。目黒不動尊の裏山に隣接している。目黒区では最も古い
公園のひとつで、昭和9年に東京市が公園として開園した。公園には大きな段差があり、上の広場は
幼児向きの遊具がある。昔、相撲場だったという下段の広場と、上段の広場を繋ぐ大きな滑り台は子
ども達の人気の的。夏には流れ水遊びもできる。またこの辺りは縄文・弥生時代の集落の遺跡があり
公園の下にも、いくつかの住居跡が眠っている。区立公園としては昭和25年10月1日開園。

 国旗掲揚台
 戦前からある公園でよく見かける奴だ。懐かしい「国威宣揚」だ。安倍晋三はこういう時代に戻し
たいんだろうな。国威発揚して国民死すだ。珍しく説明板が建ててある。

   この国旗掲揚台は改修以前は上の広場にあったもので、不動公園の歴史の一部として残し
   ました。
   正面に、
   国威宣揚 皇紀二千五百九十五年
        紀元之佳節建之
        従二位侯爵西郷従徳書
   右側面  目黒不動公園開園祝賀協賛會
   左側面  下目黒三丁目西町町會
   と書かれています。
   また、隣の銘板は、開園(昭和9年12月25日)当初より正面入口の壁にはめ込まれて
   いたものを復元し、記念碑として残したものです。
   平成2年9月                       目黒区土木部公園緑地課
 


■第三中学校 
廃校
 下目黒3丁目23番18号にあった区立校。同22年田道小学校内に「東京都目黒区立第三中学校」
として開校。同24年現在地に移転。同26年第一期増築(4教室)。同28年2月第二期増築(4
教室)。3月校歌制定。

 校歌「朝日影」 作詞・今泉忠義  作曲・信時潔
  1.朝日影
    映るも早きこの丘や
    文化に薫る古へを現代に生かして
    見よ ここに我らが街は明け渡る
    輝け 文化 この街に
    学べ 共々ひばりが丘の我が中学に
  2.昼なれば
    勤しむ友よ 窓々に
    心理究むと揚ぐる声 四方に木霊し
    見よ 日々に知識は広くなり優る
    輝け 文化 この街に
    学べ 共々ひばりが丘の我が中学に
  3.帰り来て
    静かに照らす 燈の下に
    思いは到る 愛と和の心豊かに
    見よ いよよ 我は拓かむこの道を
    輝け 文化 この街に
    学べ 共々ひばりが丘の我が中学に

 同30年第三期増築(4教室)。同33年第四期増築(2教室)。同35年鉄筋4階建て教室落成。
同36年体育館兼講堂完成。同38年給食調理室完成。同39年プール完成。同40年体育倉庫・給
食室完成。同42年特殊学級校舎改装。同43年体育館付属更衣室・トイレ完成。同50年心障学級
教室・技術科室完成。同53年音楽室・図書室・家庭科室・視聴覚室完成。同54年音楽室冷房化。
同55年校庭開放用外トイレ新設。同57年プール循環濾過装置取付。旧校舎外壁塗装。同60年正
門及び通用門改修。
 平成3年重層体育館完成。正門・横門グリーンベルト完成。同5年第一校舎改修。同14年普通教
室エアコン設置。同27年第四中学校と統合し「目黒区立大鳥中学校」となる


■大鳥中学校

 下目黒3丁目23番18号にある区立校。平成27年第三中学校と第四中学校を統合して「目黒区
立大鳥中学校」として開校。

 校歌「
青く澄み渡る」  作詞:校歌検討部会  作詞:小川智之(三中卒業生)
  1.青く澄み渡る広い空の下
    今日も絶えない笑顔がある
    共に学び合い 共に助け合い
    かけがえのない仲間がいる
    まだ見ぬ道の先に
    どんな未来があるの
    いつの日も希望を抱いて行きたい
  2.目黒で勤しみ誇り高く持ち
    いつも素直な心であれ
    自らを信じ自らを愛し
    心の強さ 育てながら
    どんな遠い夢でも
    叶う未来はあるよ
    いちの日か 道は拓けるよ
     今、明日に向かって歩いていく
     見上げればいつも空がある
     恐れずに負けずに生きていこう
     心に翼を広げて
     飛翔
(はばたけ)大鳥のように      


■目黒寄生虫館

 下目黒4丁目1番1号にある。目黒通りの金毘羅坂を上っていくと、左手に世界でただ1つの寄生
虫の博物館がある。昭和28年医学博士亀谷了が私財を投じて設立した研究機関で、寄生虫の研究・
資料・標本の収集展示・出版活動などを行っている。寄生虫分類学に関する資料、1000点以上に
及ぶ標本を保有し、国内外の研究者はもとより一般にも公開し、貸出しもている。
 8.8m の日本海裂頭条虫(サナダムシ)の実物液浸標本、人体の重要な寄生虫、シーラカンスの
寄生虫などの展示がある。こっちは気色悪いが、面白い。一見気味の悪い印象を受けるが、生物は互
いに関係しながら生活していて、寄生虫はその関係が直接的になっただけと見ることができる。しか
も寄生動物の種類は全動物の6%、7万種に達するほどで、その調査研究は欠かせない。
 さて寄生虫は、例外はあるが宿主があるから生きていけるので、普通は宿主に害は及ぼさないもの
だという。だから同館の1、2階に展示されているさまざまな標本や説明図などを見学していると、
寄生虫に親しみが湧いてこないでもない。尤も人間の腸粘膜に吸着していたという長さ8.8mもの大
型サナダムシの実物標本の展示には一瞬たじろぐが、これが寄生していた人には自覚症状がほとんど
なかったという説明が付いている。館内ではTシャツやペンダントなどの寄生虫グッズも販売してい
る。「ここにしかない品物なので若い人に人気があります」ということでサナダムシなどの模様があ
るTシャツなどが結構売れているそうだ。入館は無料だし一見の価値あり。月曜が休館日だよ。

 亀谷了(さとる)
 平成9年9月1日名誉区民。目黒寄生虫館名誉館長、医学博士。目黒寄生虫館の創始者。寄生虫の
分類・形態の研究を主体として研究活動を続け、寄生虫館を世界有数の研究センターに育てた。同時
に、資料を展示公開して寄生虫に関する知識の普及啓発に尽力した。また、区立小学校PTA会長、
目黒ユネスコ協会副会長等の活動を通じ地域社会の発展に貢献した。平成14年7月24日逝去。  
 


目黒学園女子中学校・商業高等学校 → 目黒学園女子中学校・高等学校 校名変更

 下目黒4丁目10番24号にあった私立女子校。昭和12年「目黒商業女学校」の設立認可。設立
者田村國雄、校長に就任。同18年設立者を財団法人田村学園に変更し田村國雄理事長に就任。「目
黒女子商業学校」と改称。同23年新学制により「目黒学園女子商業高等学校」と改称。同26年私
立学校法により学校法人田村学園に組織変更。同36年田村理事長教育功労者として文部大臣表彰。
同37年田村理事長 学校法人渋谷教育学園理事長に就任し、両学園は姉妹校となる。同42年創立
30周年記念式典。同45年設立者田村國雄理事長・校長逝去。田村邦彦 理事長・校長に就任。同
50年田村邦彦理事長 学校法人青葉学園理事長・青葉学園短期大学学長に就任。両学園は姉妹校と
なる。同54年山中湖畔寮開設。同61年横浜市緑区鉄町に総合グラウンド・セミナーハウス完成。
同63年東京都多摩市に聖ヶ丘高等学校を設置。平成元年東京都多摩市に多摩大学を設置。同2年普
通科を設置し、校名を「目黒学園女子高等学校」と改称。同3年多摩大学附属聖ヶ丘中学校を設置。
多摩大学に大学院設置。同6年中等教育化を睨み「目黒学園女子中学校」開校。同7年4月目黒学園女
子中学校を「多摩大学目黒中学校」と改称。9月目黒学園女子高等学校を「多摩大学目黒高等学校」
と改称。


■多摩大学目黒中学校・高等学校

 下目黒4丁目10番24号にある私立共学校。同7年4月目黒学園女子中学校を「多摩大学目黒中
学校」と改称。9月目黒学園女子高等学校を、「多摩大学目黒高等学校」と改称。同8年少子化を見
据えて多摩大学目黒中学校を男女共学化。同10年多摩大学目黒高等学校も男女共学化。

 学園歌この輝ける日々よ」 作詞・阿久悠 作曲・三木たかし 編曲・奥慶一
    心に翼を見つけた日から
    明日はまぶしい光にあふれ
    翔び立つ夢を語るのも
    彼方の世界思うのも 
    今あればこそ 今生きてこそ
    この輝ける日々よ いつまでも
    今あればこそ 今生きてこそ
    この輝ける日々よ いつまでも
    瞳に希望を映した日から
    時代は魅惑の友達となり
    流れる風に急ぐのも 
    移ろう季節に迷うのも
    青春(はる)あればこそ 青春いきてこそ
    この輝ける日々よ いつまでも
    青春あればこそ 青春いきてこそ
    この輝ける日々よ いつまでも
    今あらばこそ 今生きてこそ
    この輝ける日々よ いつまでも


■目黒競馬場跡碑

 下目黒4丁目11番16号先歩道に、目黒通りに面して記念碑が建ってる。下目黒5丁目と目黒4
丁目の境の目黒通りに元競馬場の交差点があり、近くに東急バスの元競馬場前停留所、元競馬場通り
がある。初めは競馬場は、靖国神社の前の参道のところにあったが、日露戦争勝利後の軍国化により
不謹慎だというので、明治40年下目黒4~5丁目に移ってきた。しかし東京のドーナツ化現象で宅
地化の波が押し寄せ、昭和8年に府中に移り東京競馬場となった。
 馬の銅像は30cmぐらいのものだが、初期のダービー馬を多数排出した種牡馬トウルヌソル号、
第1回日本ダービー馬「ワカタカ号」の父である。昭和58年第50回日本ダービーを記念して目黒
区が建てたものだ。競馬場の遺物は残っていないが、馬場の外周道路の3分の1が、一方通行の区道
になって残っている。厩舎のあったところは目黒通りの北、目黒4丁目9~11番の区域で。競走馬
を供養した馬頭観音が目黒不動にある。また「目黒記念」というレースは、昭和7年に第一回東京優
駿(日本ダービー)が開催された由緒ある競馬場でありながら、翌年には府中競馬場に移転すること
が決まっていたので、目黒競馬場の名を残すために創設された。

   


   
トウルヌソル号
   第1、5、6、8、9、12回日本ダービー優勝馬の父
   刻作者 池田勇八 1928
   鋳造者 西村義男 1983

   
目黒競馬場跡
   明治40年政府の馬質改良奨励により、この地に目黒競馬場が開設された。それ以来、昭
   和8年府中市に移転するまで、明治・大正・昭和の3代を通して、ここで競馬が開催され
   た。また目黒競馬場は、昭和7年第1回日本ダービーが開催された記念すべき地である。
   この碑は、當時の歴史を後世に伝え残すとともに、第50回日本ダービーを記念して、日
   本中央競馬会および大鳥前元競馬場商店街振興組合のご協力により建立された。
   昭和56年11月                     東京都目黒区教育委員会
                                 目黒区長


 競馬場跡の区の説明板は不動小学校の校門脇にある。

 外周の道
 今日も当時の名残を留めているのが、住宅街を縫うように綺麗な弧を描いて続く。多摩大学目黒高
等学校裏の五差路から大きく半円を描いている。その後不動小学校まで真っすぐに延びる道は後付道
路で当時はなかった。
 


■備前町講中道標

 下目黒4丁目20番12号の秋吉家の前、道路に面してある。目黒不動の傍に存在した道しるべ。
明和五年(1768)の造立。
移動されて個人宅に残されている。正面に合掌した地蔵菩薩の浮彫と
「法界萬霊」の文字。左右に地名が、左祐天寺道 右目黒道
。左面に目黒不動門前あたりの地名であ
る備前町の講の名前が記されている。


■さくらの里街かど公園
 下目黒5丁目13番10号にある区立公園。園内にある大きな桜の木は、目黒競馬場があった当時
のもの。以前、目黒競馬場の塀に沿って桜並木があったが、その1本がここに残されている。東京大
空襲や数ある台風の際も生き残り、地元の住民に大切にされている。

   さくらの由来
   目黒競馬場は、明治40年12月に社団法人東京競馬倶楽部によって創立され、春秋2季
   の競馬シーズンは人気を集めて大変な賑わいであった。昭和7年に第1回日本ダービーが
   盛大に行われた地である。その後住宅地化の波に押され敷地も手狭になったので、昭和8
   年馬頭観音と共に府中市に移転して東京競馬場となった。
   競馬場のあった一帯は、大部分が寺山と呼ばれていたところで、その跡は、国立教育研究
   所や東京学園高等学校、区立不動小学校などや住宅地となっている。今でも住宅地の中に
   当時のコースそのままに曲がっている道路が残っている。
   このサクラは、目黒競馬場があった当時の桜木といわれ、昭和9年秋、台風の影響で倒木
   した後も、地元の熱い要望により区が復旧したもので、区民に愛されているサクラです。


■元競馬南泉公園
 下目黒5丁目24番16号にある区立公園。平成23年10月12日開園。この一帯は農林中央金
庫の集合住宅のあったところ、現在は細かく分譲され、一戸建て住宅が建ち並んでいる。公園はその
一角にある。子どもから高齢者までが遊び、憩える場として、「草の広場」「遊具のある広場」「シ
ンボルツリーのある広場」と趣を変える3つの広場があります。さらに住宅地の中の憩いの空間とな
るよう、シンボルツリーの山法師をはじめ、花木や紅葉など四季の移ろいを楽しめる植栽となってい
る。
  


■都立林試の森公園
 下目黒5丁目37番と品川区小山台2丁目6
7番にある。明治33年(1900)6月に当時の
農商務省林野整理局が「目黒試験苗圃(びょうほ)」としてスタート。その後「林業試験場」に名称を
変更、林野庁の付属となり昭和53年まで使用されてきた。筑波研究学園都市の建設に伴い跡地を整
備し、「目黒公園」の暫定開放期間を経て、平成元年6月1日からは「都立公園」として生まれ変わ
り開園した。

 
林業研究発祥の地
 林業試験場とは国内外の樹木を日本の風土でどこまで育つのか確めるために設立さた。公園内の東
寄りの広場の隅に、発祥碑とその説明の副碑が並んで建っている。
この地は名前の通り元「林業試験
場」があった場所で、試験場が筑波に移転した後に公園として公開された。
公園は東西700m、南
北250mと細長く、面積は120000㎡(23000坪)ある。 林業試験場時代からの約250
種類の樹木がうまく活かされており、公園全体が植物園となっている。 ただし樹木中心なので草花は
少ない。

   林業
研究発祥の地

   顧みれば、明治11年東京府下西ヶ原で開始された樹木試験場の事業を受けて、明治33
   年この地に農商務省目黒試験苗圃が設定され、明治38年11月1日山林局林業試験所が
   発祥した。以来、昭和53年3月農林省林野庁林業試験場として筑波研究学園都市へ移転
   するまで、日本の森林、林業、林産業の研究の中心として輝かしい業績をあげてきた。こ
   の間数多くの国内外の研究者がこの地を訪れ「林業試験場」の名は世界に広く知れわたっ
   た。林業試験場は現在筑波の地において森林総合研究所として発展を続けている。この度
   跡地に「林試の森公園」が建設されるにあたり、林業試験場の栄光をたたえ、関係者多数
   のご賛同を得て記念碑を建立する。
   平成4年6月吉日            林業研究発祥の地記念碑建立事業実行委員会


 林業研究発祥の地というのは、ちょといい過ぎじゃないか。植林活動は太古の昔からやっており、
日本の植林の技術、思想は、昨日今日の知的経験じゃあない。無論現代林業の知識の比ではないし、維
新後の林業政策は悉く誤っている。杉を植え過ぎた結果、花粉症などという負の副産物を背負っちゃっ
た。軽薄に先人の知恵を打っ棄って何でもかんでも西洋かぶれするからだ。馬鹿な官僚しか抱えるこ
とのできない日本国民は不幸な国民だわいな。
 


■三十間堀庚申塔

 下目黒5丁目37番5号の瀧泉寺の墓地内にある。
 


■石古坂

 下目黒5丁目37号林試の森公園の東側にある坂道。坂の東側は品川区西五反田。名前の由来には
いくつかの説があるが、一般的には石ころが多い坂だったので「石ころ」が転じて「石古坂」と呼ば
れるようになったという説が有力。他には、近くに「石河(いしこ)」という屋敷があったという説
や、飲料に適した清流を「石川(河)」と呼び、付近を流れる羅漢寺川がそうした清流だったという
説がある。
 


■目黒消防署

 下目黒6丁目1番22号にある。
 


■国立教育政策研究所・教育図書館 
移転

 下目黒6丁目5番22号にあった文部科学省の天下り団体。昭和20年10月「教育研修所」の設
置。同24年6月教育研修所を廃し、品川区上大崎に「国立教育研究所」設置。同40年5月下目黒
へ移転。同47年5月科学教育センター設置。同62年5月教育情報センター設置。平成元年改組改
編。同11年6月創立50周年記念式典。同13年1月省庁再編に伴い改組・再編「国立教育政策研
究所」と改称。教育課程研究センター・生徒指導研究センター設置。4月社会教育実践研究センター
設置、教育研究情報センター改組。国立教育会館の解散による一部業務移管。同16年教育課程研究
センターに学力調査課設置。平成20年12月中央合同庁舎7号館へ移転。教育図書館も移転、3月
3日からオープンしている(要予約)。
 


■不動小学校

 下目黒6丁目11番35号、かつてあった目黒競馬場の第3コーナー付近にある。昭和15年4月
油面尋常小学校内に下目黒・油面・月光原の3尋常小学校の児童の一部を移籍して開校。5月現在地
に校舎が落成して移転。
同16年国民学校令により「東京府東京市不動国民学校」と改称。12月日
米開戦。同18年都制施行により「東京都不動国民学校」と改称。同19年3年生以上山梨県大和村
に集団疎開。同20年5月愚かなアメリカ軍の非人道的無差別空爆により学校焼失。青空授業。8月
日本は、ならず者国家アメリカの軍門に降り敗戦、以後属国となり、唯々諾々といいなりになる保守
傀儡政権を保持せざるを得ない今日的不幸を背負い込む。もう200兆円がとこ持っていかれたし、
これからの若者は愚かなアメリカ軍の尖兵(手先)として危険な最前線の激戦地で扱き使われるだろ
うよ。
 10月疎開解除により学童帰京。五本木小学校に間借りして授業。同22年アメリカの強制による
学制改革により「東京都目黒区立不動小学校」と改称。同23年仮校舎で
8教室復旧。同32年木造
2階建て校舎落成。同38年屋内体操場兼講堂完成。同44年屋内体操場附属施設・給食室完成。同
48~49年鉄筋コンクリート造り校舎落成。同55年創立40周年記念式典。同57年プール完成。
 平成2年創立50周年記念式典。同7年給食室改修。同8年プール改修。同11年インターネット
に接続。同12年創立60周年記念式典・ホームページ開設。

 校歌「賑やかな道」 作詞・阿久悠  作曲・三木たかし 編曲・奥慶一
  1.賑やかな道 広い道から
    静かな道 狭い道から
    集まってここに一緒に
    楽しく学び 正しく育てば
    空も明るく 広がる緑よ
    森の小鳥も来て遊べ
  2.新しいことこれも初めて
    良く見て知り 聞いて考え
    励み合い共に丈夫に
    揃って競い親しく語れば
    富士も遠くに聳える目黒よ
    みんな仲良く働こう
     輝く旗の誉れになって
     進もう不動小学校 

 
目黒競馬場跡
 説明板が不動小学校の東北にある通用門の外脇にある。

   目黒競馬場跡                     下目黒4・5・6丁目一帯
   目黒競馬場は、明治40年12月に
社団法人東京競馬倶楽部によって創立され、春秋2季
   の競馬シーズンは人気を集めて大変な賑わいでした。この辺り一帯が競馬場の跡で、昭和
   7年に第1回日本ダービーが盛大に行われた地です。その後住宅地化の波に押され、敷地
   も手狭になったので、昭和8年府中市に移転して東京競馬場となりました。
   競馬場の跡は、現在、国立教育研究所や東京学園高等学校、区立不動小学校などや住宅地
   となっています。今でも住宅地の中に当時のコースそのままに曲がっている道路が残って
   います。なお目黒通りにはバス停に「元競馬場」の名が残り、商店会の人々によって「競
   馬場跡」の記念碑が建てられています。
   平成3年3月                       東京都目黒区教育委員会
 


■東京学園高等学校

 下目黒6丁目12番25号にある私立校。
明治22年我が国最初の私立商業学校として誕生した。
当時の内閣官報局と、一橋大学の前身である東京高等商業学校の教授などが設立に係わり、

   高きに過ぎず、低きに失しない中等程度の商業教育を施し社会の要請に応じる人材を育成
   する


 という趣旨に基づき私立の学校としては珍しい官界主導で生まれた。大正10年夜間甲種商業学校
(第1号)。昭和14年創立50周年記念式典。同18年昼間部設立認可。同23年学制改革により
組織替えし「東京商業高等学校」と改称。同34年海南講堂落成。同43年普通科新設。同48年「東
京学園高等学校」と改称。同54年創立90周年記念式典。南校舎・体
育館。同57年管理棟落成。
 平成元年創立100周年記念式典。同6年普通科に普通コース・特進コース設置。同8年商業科を
廃し、普通科の中に専門コースとして設置。同10年創立110周年記念式典。同12年新体育館完
成。特進コースの募集停止。同14年週5日制実施・土曜講座開設。同17年普通科専門コースを改
め普通科情報ビジネスコースに改称。普通科選抜コースを設置。

 
特徴

 毎学期2回ほど頭髪検査を行う。その他にも自動車免許を取得することも原則として禁止。携帯電
話の持ち込みも駄目だが、ゲーム機の持ち込みは規定されていない。校舎はガス・ヒートポンプによ
る冷暖房完備している。新体育館は校舎とは別の場所にある。
 


■タイ王国大使館・武官事務所

 下目黒6丁目15番21号にあるタイ国の三軍の軍人詰所。大使館そのものは、品川区大崎3丁目
に、商務参事官事務所は千代田区麹町5丁目4番セタニビル6階にある。
 


■第四中学校 廃校
 下目黒6丁目18番2号にあった区立校。同22年油面小学校内に開校。校章制定。同23年6月
27日油面小学校内に独立校舎落成。この日を開校記念日とする。同24年PTA創立。同26年現在地に新校舎落成して移転。同27年校歌制定。

 校歌「校舎の窓にも」 作詞・土岐善麿  作曲・信時潔
  1.校舎の窓にも 往来の路にも
    遥かに聳えて富士の山あり
    我らは 我らは 学び学ぶ
    総て正しく常に新たに
    知りゆく楽しさ 希望に満ちて
  2.若葉のそよ風 辛夷
(こぶし)は開きて
    雲行く校庭 清水湧きたり
    我らは 我らは 励み励む
    自主に集える清き友情
    鳥鳴き花さく自由の天地
  3.東西文化の 境を広げて
    世界は等しく若く逞し
    我らは 我らは 進み進む
    春は桜の 秋は紅葉の
    輝く平和の時代に立ちて
     健康 我らにあり
     明朗 目黒にあり
     四中 われらの母校よ


 同28年校旗制定。同33年開校10周年記念式典。文部省産業教育指定校。同35年鉄筋4階建
て校舎6教室など完成。同37年屋内運動場兼講堂完成。同38年プール完成。同55年鉄筋校舎第
5期増改築完成。同60年鉄筋校舎耐震工事完成。同63年新しい体育館とプール完成。平成3年コ
ンピュータルーム完成。同14年普通教室に冷房設置。同27年第三中学校と統合して「目黒区立第
三中学校」となる。

 跡地利用は未定。
 
 

【蛇崩】(じゃくずれ)
 蛇崩川が護岸工事によってコンクリートに固められる以前、一部の岸の地固めが緩く、群棲する
蛇が絡まりあって団子状になり自重で崩れ落ちるようにぼろぼろと地崩れが起きる自然現象を、蛇
崩れに擬えてそう呼んだのが地名となり川の名となった。いうなれば地崩れ、砂崩れが、転訛した
もので、地質の危険さを知らしめたかったのだろう。
 目黒区では地崩れを「砂崩れ(さくずれ)」と解し「じゃくずれ」と読んで、蛇行して流れる川の
様から「蛇」の字を当てたと考えている。『編武蔵風土記稿』では

   昔蛇崩川の大水のとき崖崩れがあって大蛇が出たので地名となった。

 と説明している。現在蛇崩川は暗渠となり地表から隠されてしまったが源流は世田谷馬事公苑近
くの湧水池だった。字蛇崩は祐天寺1丁目1~21番、上目黒4丁目1~21番・28~45番辺
り。
 こんな蛇崩川緑道の散歩を楽しんだのが、戦後の代表的歌人で芸術院会員だった佐藤佐太郎だ。
昭和46年から目黒に住んでいた佐藤は、できて間もない緑道をよく散策した。

   蛇崩の道の桜はさきそめて今日往路より帰路花多し今

 旧川端橋下の側壁に、昭和53年に彼が詠んだこの歌を始めとする蛇崩の桜の歌3首を刻んだ金
属板が掲示されている。
 
 


【自由が丘】(じゆうがおか)1~3丁目               昭和40年1月1日
 衾村。明治11年大区小区制の廃止により荏原郡に復し、同22年「市制町村制」により碑衾村
大字衾字谷畑(やばた)。昭和2年碑衾町大字衾字谷畑。同7年目黒区が成立したとき学園のある碑
衾町大字衾の一部を自由ヶ丘に改称し初めて町名としたが、土地の栗山久次郎の強力な支援があっ
たことは見逃せない。同40年新住居表示により緑が丘の一部をあわせた町域を発音に基づく表示
として「ヶ」を「が」に代えて現行の「自由が丘」とした。駅名も翌年「自由が丘」に改称。町域
は北に高く南は九品仏川の低地となっており、女性に人気の商業地区となっている。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『目黒区史』『目黒の歴史』など。

 
自由が丘の由来
 昭和2年欧米を見聞して帰国した手塚岸衛は自由教育を提唱して千葉県大多喜中学校校長となる
も思いが強過ぎて挫折し、碑衾町に「自由ヶ丘学園」を開校した。同年東横線、同4年大井町線が
それぞれ開通してその交点の駅は、近傍の浄真寺の通称から「九品仏駅」と名づけられた。しかし
2年後に大井町線が大岡山から二子玉川まで延長し浄真寺参道にできる駅に「九品仏駅」の名前を
付けたいと住民の申し出があって改名することになったので、旧村名の「衾駅」としようとしたと
ころ、舞踏家の石井漠らが運動して「自由ヶ丘駅」とするように東急に要望、結果「自由ヶ丘駅」
が誕生した。当時駅利用者の大半が自由ヶ丘学園の生徒だったという。当時モダンなこの駅名はバ
カ受けし芸能人や文化人が高級住宅を求めて蝟集するようになると駅の周辺が急速に発展し、新住
民たちは郵便物に「自由ヶ丘駅前○番地」と書くなど次第に通称ながら地名化した。だから自由が
丘は自由ヶ丘学園だ。
 但し地形的には九品仏川の形成する谷間(湿地帯)で、南の高台が田園調布だ。

 自由が丘とユーグレナ(ミドリムシ)
 自由が丘商店街振興組合ユーグレナ社は、平成24年10月1日(月)よりコラボレーション企画
として自由が丘商店街振興組合に加盟する飲食店9店舗にて「ユーグレナ・ファームの緑汁」を使用
したフードやドリンクを提供する。

 クルン・サイアム アティック(1丁目13番13号)
 和良 自由が丘(1丁目16番9号)
 自由が丘ロール屋(1丁目23番2号)
 稲毛屋(1丁目26番6号)
 パスタバルMikiya's(1丁目26番20号笹川ビル2階)
 Feve 自由が丘(1丁目29番14号フロントビル1階)
 モンサンクレール(2丁目22番4号)
 自由が丘スイーツフォレストパティスリーアンファンス(2丁目25番7号ラ・クール自由が丘2F)
 ネバーランド(世田谷区奥沢5丁目28番15号昇栄ビル204)

 ユーグレナ・ファームの緑汁が、他社店舗のメニューに使用されること及び提供されることは初め
てとなる。今回の企画は、「生活の中から人と地球の健康を支える」ことを方針とするユーグレナ社
の未来農業「ユーグレナ・ファーム」と、森林化計画やミツバチを育てる「おかばちプロジェクト」
などを積極的に行なっている自由が丘の思いが合致したことから開始した。実施においては自由が丘
商店街振興組合がまとめ役となり、店舗、自由が丘商店街振興組合とユーグレナ社にて協議を行いなが
らメニューの決定を行った。なお各店舗のコラボレーション商品には、沖縄県石垣島で培養した石垣
産ユーグレナ(ミドリムシ)が入った料理にも使える粉末ドリンク「ユーグレナ・ファームの緑汁を
使用している。またコラボレーション商品を提供する各店舗の所在地、メニュー詳細やユーグレナ・
ファームについてなどを記載した「自由が丘おいしい未来が体験できるMAP」を作成し、東急大井
町・東横線自由が丘駅構内や自由が丘インフォメーションセンターなどにて9月28日より配布して
いる。
 今後も自由が丘商店街振興組合とユーグレナ社は、今回のコラボレーション企画のフィードバック
を行いながら、自由が丘の街から地球にも人にも優しいライフスタイルの提案を推進していく。
 なお、株式会社ユーグレナは、東京大学内にある東京大学の営利会社。

 ユーグレナ藻
(ユーグレナそう、euglenids)
 鞭毛虫の一群で、運動性のある藻類として有名なミドリムシを含む単細胞真核藻類のグループ。凡
そ40属1000種が知られており、分類上はユーグレナ植物門を形成する。主に富栄養条件の淡水
域に分布し、水田や水溜りに普通に見られる。少数ながら、海域に棲む種や共生性の種も含まれる。
大部分のユーグレナ藻は葉緑体を持っており、光合成を行って独立栄養生活を営むが、捕食性のもの
や吸収栄養性の種もある。

 ミドリムシ
(緑虫)
 ユーグレナ植物門ユーグレナ藻綱ユーグレナ目に属する鞭毛虫の仲間であるミドリムシ属Eugl
enaの総称。Euglenaの由来は「eu(美しい)+glena(眼点)」。名称としてミドリ
ムシの代わりに「ユーグレナ」を用いる場合も多く、「ユーグレナ植物」と呼ぶこともある。古くは
ユーグレムシの名称が使われたこともある。ミドリムシの名は、広義にはミドリムシ植物門Eugl
enophyta全体の総称として用いられる。鞭毛運動をする動物的性質をもちながら同時に植物
として葉緑体を持ち光合成を行う為、「単細胞生物は動物/植物の区別が難しい」という話の好例と
して挙げられることが多い。これはミドリムシ植物門がボド類のような原生動物と緑色藻類との真核
共生により成立した生物群であるためである。それゆえミドリムシ植物門にはPeranema属の
ように葉緑体を持たず捕食生活を行う生物群も現存する。
 ミドリムシには、体にとってあまりよくないコレステロールや中性脂肪などの、有害な物質を吸収
して体の外へ排出して体内を浄化する作用がある「パラミロン」といわれる成分があって、免疫機能
に作用して、抗菌や代謝機能の改善の効果があるという。抗ウイルスも期待出来るので、風邪などに
も有効な気がする。体の免疫力も高めてくれちゃうんだよ。財団法人日本食品分析センターの分析に
よると以下の59もの栄養素が含まれているという。

 ビタミン   
 βカロチン、ビタミンB1、ビタミンB2、ビタミンB6、ビタミンB12、ビタミンC、
 ビタミンD、ビタミンE、ビタミンK1、葉酸、ナイアシン、パントテン酸、ビオチン
 ミネラル
 亜鉛、リン、カルシウム、マグネシウム、ナトリウム、カリウム、鉄、マンガン、クロム、銅
 アミノ酸
 バリン☆、ロイシン☆、イソロイシン☆、アラニン、アルギニン、リジン☆、アスパラギン酸
 グルタミン酸、プロリン/スレオニン☆、メチオニン☆、フェニルアラニン☆、ヒスチジン☆、
 チロシン、トリプトファン☆、グリシン、セリン、シスチン(☆は必須アミノ酸)
 不飽和脂肪酸
 DHA、EPA、ミリストレイン酸、パルミトレイン酸、オレイン酸、リノール酸、リルン酸
 アラキジン酸、エイコサジエン酸、ジホモγ-リノレン酸、アラキドン酸、ドコサテトラエン酸、
 ドコサペンタエン酸
 その他
 パラミロン、β-グルカン、クロロフィル、ルテイン、ゼアキサンチン、GABA
 


■自由が丘駅

 自由が丘1丁目9番8号にある東急大井町線(地上)と東横線(高架)の停車場。昭和2年8月2
8日渋谷駅~丸子多摩川駅(多摩川駅)間が開通した時に「九品仏前駅」として1面2線で開業。渋
谷駅~神奈川駅(廃駅)間が直通運転となり「東横線」とする。同4年10月22日周辺住民の要望
により「自由ヶ丘駅」に改称。同11月1日大井町線開通、乗換駅となる。
 同34年東横線ホームが島式2面4線となる。同36年駅前ロータリーに女神像設置。同41年1
月20日住居表示に従って「自由が丘駅」と改称。
 改良工事
 平成17年度からエレベーター、エスカレータの設置を中心に耐震補強、バリアフリー化を目的と
する改良工事を開始。正面口のエレベーター設置に伴い、正面口が狭くなることから、10月1日北
口改札が完成。同時に、ランキンランキンの出店、テコプラザ、定期券売り場の移転、トイレ、改札
外の交番の改装も行われた。同19年10月にコンコース部の改良工事完成。
 平成18年2月7日大井町線1番線ホームより、東横線3~6番線への上昇エスカレーター竣工。
3月31日東横線ホームと大井町線ホームとを結ぶエレベーター4台が供用開始。同19年3月下旬
正面口前と東横線ホームを結ぶエスカレータ4基完成。新コンコース開通。同20年3月、28日か
らの大井町線における急行運転開始に向け、6両編成対応ホーム延伸工事完了。

 同21年3月、東京地下鉄副都心線との相互直通運転開始に向け、特急・通勤特急・急行における
10両編成の列車停車に伴うホーム延伸を行うための高架橋補強工事に着手。同24年3月30日、
「~スマートモデル自由が丘駅あかりプロジェクト~」:東急線の駅では初めてとなる全駅LED照
明として、駅構内総てを調光・調色LED照明及びLEDサインとし、さらにシースルー改札と定期
券うりばには、一般照明としては日本初の実用的設置となる次世代照明「有機EL(有機エレクトロ
ルミネッセンス)照明器具」を導入。同25年東横線ホーム延伸部供用開始。3月31日照明更新。 プラットホーム
 大井町線は地上相対式2面2線(1・2番線)、東横線は高架の島式2面2線(3~6番線)。改
札は正面・南・北の3ヶ所。

 駅前広場「女神広場」
 戦後、駅前広場が設けられ、昭和36年女神像「あおぞら」設置、平成23年再整備され、歩行者
優先のための「女神広場」となった。


   
自由が丘駅前広場の生い立ち
   昭和の初め、この地には田畑がのどかに広がっていました。
   昭和2年、当時の衾西部耕地整理組合長の栗山久次郎氏が街の発展のためにと五島慶太氏
   とと交渉を重ね、この地に駅を誘致することに成功しました。当時は「九品仏」という駅
   でしたが、昭和4年には大井町線も通り、駅の名称も「自由ヶ丘」と改名し、場所も現在
   の位置に移されました。
   その後、自由が丘の街は、商店街、住宅街とも発展を遂げ、駅前には建物が建ち並んでい
   ましたが、戦争が激しくなるとともに、建物は強制疎開で取り壊しとなり、残存していた
   建物も昭和20年の空襲で焼失し、自由が丘の街は焼け野原になってしまいました。
   戦後、駅前の復興について話し合いが行われましたが、元のような商店街を望む人と、駅
   前広場を作ったほうが良いという人との間で大論争があったといいます。結果として駅前
   広場をつくることに決まりましたが、当時から先進的な考えを持っていた自由が丘の人々
   の気質が垣間見られます。
   昭和22年に駅前広場が完成しましたが、しばらくの間はわずかな植え込みにロータリー
   があるだけで、決して立派なものではありませんでした。やがて駅前も商店街としての街
   並みが整うににつれて、街のシンボルとして外国の広場のように彫像を設けたらどうかと
   いう話になり、当時の商店街連合組合の事業として実施することになりました。
   彫像の制作は、彫刻家の澤田政廣氏に依頼し、完成したのが自由の女神像「あおぞら」で
   す。昭和36年のことでした。以来、自由の女神像は街のシンボルとして、自由が丘の街
   を見守り続けています。
   このたびの自由が丘駅前広場整備は、自由が丘住民代表と目黒区が2年半にわたる検討を
   経て完成したものです。これまでの車優先のロータリーから安心して歩けるように歩道を
   拡幅し、女神広場も設けました。進取の気性に富んだ先人の努力に感謝しつつ、人に優し
   い自由が丘駅前広場をいつまでも美しく保ち、楽しく活用したいものです。
                                  平成23年 目黒区


 
あおぞら
 駅前ロータリーにある澤田政廣作の女神像。昭和36年設置。

   あ お ぞ ら
   彫刻制作     題字揮毫
   澤田政廣     石井漠
   Seiko Sawada  Baku Ishii

 自由が丘緑道ギャラリー-JIYUUGAOKA RYOKUDO GALLERY
 九品仏川緑道東横線ガード壁画と写真展示。ガード下壁面の落書き防止のためのアート化事業。片
面にはアフロヘアの女性の絵、もう片面には自由が丘77年の歴史を写真で見ることができる。



■谷畑辨財天

 自由が丘1丁目15番、熊野神社からほど近い東横線のガードそばの路地奥に鎮座している。道路
から社殿は全く見えず、道端に標識がなければ弁天さまの存在に気付く人はいないだろう。今は住宅
が立て込んでいるこの辺りも、昔は清水が湧き出て、飲み水や田畑の用水として使われていた。それ
に感謝して地主が弁天さまを祀ったのだという。境内には狭いながらも池があり小さな社殿にはサカ
キが供えられていて、今も地元の信仰は厚い。その隣には馬はいつも人間の役に立っていたというこ
とで、「馬霊魂」という馬の霊を慰める石碑も建っている。

   谷畑辨財天縁起
   ここにお祀りしてある谷畑弁財天の地は、以前このあたりが碑衾村大字谷畑と呼ばれてい
   たころ、いつも清泉が湧き出しており、住民は何れも多大な恩恵を受けていた。この地の
   所有者安藤与四郎氏の先祖は、解脱金剛尊者のご神示により辨天様の霊地であることがわ
   かり、谷畑辨財天の神号を奉り、自由が丘の守護神として建立し、信仰を続けてきた。辨
   財天は七福神中の女神であり、「水の神」とも「財宝の神」とも崇められ、信仰者に無限
   の恵みを与え給うことは知られている。御神徳の無辺ならんことを祈念し縁起を記す。
   平成14年4月20日

   馬霊魂
   古来、人世は馬力に負うところ多大である。文明如何に進むとも、基礎に馬の犠牲あるこ
   とを忘れてはならない。感謝をもって馬霊魂を供養し、馬が持つ天性を菩薩行に表現する
   なら、生活上起こりやすい、色欲財欲による悩み、また親子夫婦嫁姑間などにおける反目
   闘争による苦しみから救済される、また疾風迅雷の如き速さと活動力、従順性と忠実性は
   能く交通安全の守護神として素晴らしい働きを示す。更に肩、足腰の痛みなどに不思議な
   ご加護がある。この碑は昭和十二年、解脱金剛尊者の揮毫によるものである。
   平成15年4月8日


■睦坂

 自由が丘1丁目19番と20番の間の坂道。昭和の初めの耕地整理で新しく敷設された道路。当時
この付近に住んでいた人たちが親睦を願って名付けたという。むつみざか。

   
睦坂
   この坂のある道は、昭和の初めに耕地整理によって新たに造られた道である。当時この付
   近に住んでいた人々が親睦を願って名付けた。
   平成21年3月                         目黒区教育委員会


■谷畑の権現様 熊野神社

 自由が丘1丁目24番21号にある。自由が丘・緑が丘(旧谷畑)を中心氏子とする鎮守で、伊邪
那美命を祭神とし「谷畑の権現さま」として親しまれてきた。社殿は昭和42年に新築されたが、そ
れまでは茅葺の質素ながら重厚な立派な社殿だった。例大祭は毎年9月第1土・日曜日。この日「目
黒囃子」が奉納される。

 栗山久次郎翁銅像
 参道の奥右側にある。昭和10年の建立。栗山は碑衾村の村長として地域の発展に尽くし、村内の
耕地整理に貢献した。世田谷吉良氏の家臣筋に当たる栗山家は八雲に健在だ。銅像横に久次郎の顕彰
碑が建つ。

   栗山久次郎顕彰碑
   自由が丘誕生の祖として、ここに銅像が建立されている栗山久次郎は、嘉永六年(185
   3)三月十六日に旧家栗山家の長男として誕生した。この年はペリー提督率いる黒船が浦
   賀沖に来航し、長い鎖国から日本が世界に登場する契機となった年であり、つづいて徳川
   幕府は慶応三年(1867)に大政奉還し、明治の幕開けとなった。
    明治20年5月翁は34歳の若さで衾村戸長となり、市町村制施行を機に、同22年6
   月碑衾村村長に任命された。我々の自由が丘、緑ヶ丘は昔から熊野神社を中心に住民の心
   を一つに結集し、進取の気風に富む土地柄だったが、翁は地域の指導者として地域住民の
   信頼の下に旧憲法発布等の激動する時代の中で、絶えず新しい時代に対する慧眼を以て村
   政、教育文化の向上にその情熱を注いだのである。特に晩年には耕地整理事業の必要を提
   唱し、自ら発表の第一人者として現在の自由が丘駅の誘致に尽力され、十年余の年月をか
   けて耕地整理事業を完成した。中でも特筆すべきは、旧来の碑衾町字衾の
   地名を、地域の発展を願う住民の意の下に碑衾町大字自由ヶ丘と改名を決断したことであ
   る。この時の自由ヶ丘の命名が現在の街の基盤となった。
    この翁の徳功を讃え、我々有志一同は、翁の銅像を建立50年を記念し、この顕彰碑建
   立するものである。
   昭和62年10月25日                   栗山久次郎遺徳顕彰会
 


■古桑庵
(こそうあん)
 自由が丘1丁目24番23号にある古民家を利用した喫茶店。夏目漱石の娘婿宅だったそうで、今
は人形作家渡辺芙久子の自宅だ。離れのギャラリーや茶室には、自由に見学できる渡辺制作の人形が
並んでいる。縮緬など和の織物を用い、手仕事で作られた小さな人形たちは、みんな穏やかで懐かし
い表情をしている。お茶のいただける部屋は入ってすぐの右手の部屋と、今は滅多に見られなくなっ
た「縁側」を通っていく左手奥の2部屋。どちらも、昔の普通の民家に座っておもてなしされている
ような、或は遠い田舎の家に来ているかのような錯覚に囚われる。
 小さな和菓子が添えられた抹茶の味も、もてなししてくれ女主人の笑顔も、素朴で穏やか。束の間
別世界に来たような長閑な時間を楽しむことができるよ。日曜日は混むので要注意だよ。
 03‐3718‐4203


■一誠堂美術館

 自由が丘1丁目25番9号セザーム自由が丘地下1階にある。フランスのアール・ヌーボーのガラ
ス工芸美術館。館内には自然や草花、昆虫などをモチーフにした優美なガラス工芸品の数々が展示さ
れている。
幻想的な美しさに、かねてより店主が魅せられて収集していたアール・ヌーヴォーのラン
プを中心に展示されている。繊細でこの上なく優美なガラス工芸品の数々、自然や草花、昆虫などを
モチーフとした幻想的な光の美しさの中に、ジャポニズムと呼ばれる日本的な表現を多く見ることが
できる。ヨーロッパの重々しい伝統や様式を払いのけ、新しい息吹きを持った表現を求めていたアー
ル・ヌーヴォーの作家たちは、日本美術を受け入れ始めていた。ヨーロッパの造形表現とはまったく
形式を異にした日本美術の持つ新鮮な表現性、リズミカルな装飾性、高度に洗練された技法に、驚き
と深い感銘を受け、その表現様式を吸収し、彼らの作品の中に投影させる芸術家たちが現われたのだ。
アール・ヌーヴォーのナンシ一派の中心的指導者、エミール・ガレをはじめとしてドーム兄弟、ミュ
ーラ一兄弟、アルジィ・ルソーなどの作家らは、ガラスのもつ美の可能性を追求し続けた。彼らの作
品と対峙した時、彼等のエスプリが直に我々の心に響く。
隣接する喫茶室「エミール」はアルフォン
ス・ミュシャのリトグラフに囲まれてるぜ。
 開館時間10時~18時 休館水曜日定休。03-3718-7183
 


■豊川稲荷

 自由が丘1丁目29番7号にある小祠。自由が丘北口駅前、一誠堂と山本山の間の路地に赤い鳥居
がある。見る人みんなが不思議に思ってる。これは、昭和9年駅前発展のために縁日をやろうという
ことになったが神様がいない。そこで神様を借りてくることになり、祀ったのが商売繁昌の豊川稲荷
という訳。毎月1、11、21日の縁日には、駅前一帯は露天商が立ち並び大変な賑わいとなった。
商売繁盛のご利益は絶大で、自由が丘は大発展した。しかし発展したお蔭で交通渋滞を来すようにな
り、縁日を続けることができなくなり、昭和33年で縁日は止めることとなった。
 小祠の隣にあった「魚や一心」は閉店してしまった。、


■九品仏駅 → 自由ヶ丘駅 → 自由が丘駅

 自由が丘1丁目30・31番にあるが、住所的には9番8号にある東急の大井町線と東横線の停車
場。昭和2年8月28日東京横浜電鉄が渋谷~丸子多摩川(多摩川)間を開業させたのと同時にでき
た駅。2年後の昭和4年11月1日には大井町線の自由が丘以西が開業。同年12月25日に反対側
も開業し、大井町線の直通運転が開始された。当初の駅名は「九品仏」といったが、大井町線により
九品仏浄真寺に近い駅ができることになったため、駅名をそちらに譲って「自由ヶ丘」と改称した。
 「ヶ」の字が「が」平仮名になったのは昭和41年の新住居表示に合わせたものだ。この駅は東横
線と大井町線が交わる立体交差駅だ。大井町線が使用する1・2番線ホームは地上相対式2面2線で、
東横線が使用する3~6番線ホームは高架島式2面4線構造だ。改札とホームを結ぶエスカレーター
・エレベーターは大井町線1番線ホームと東横線ホームを結ぶものが2基と、大井町線2番線ホーム
と東横線ホームを結ぶものが2基の計4基がある。これにより、全ての改札口と全てのホームがエレ
ベーターで結ばれている。改札口・出口は駅北西にある正面口と、1番線ホーム直結の南口の2ヶ所
だ。

 自由の女神像
 駅前ロータリーの中央の植栽にある銅像。正式名称は「蒼穹(あおぞら)」。澤田政廣の作品。体
育の日の連休に開催される「自由が丘女神まつり」は、数ある自由が丘のイベントの中でも最大スケ
ール。毎年約50万もの人が集まり賑わう。誕生したのは戦後復興の最中。外国の広場にあるような
彫像をと、昭和36年に彫刻家澤田政廣が制作した。当時から女性の多い街だったため、女神にした
という。女神の像が完成した12年後の同48年に、第1回女神まつりを開催。当時は仮装パレード
が主体だった。
 


■馬頭観音

 自由が丘2丁目6番19号の栗山家にある。


■自由が丘公園

 自由が丘2丁目8番18号にある区立公園。昭和47年3月30日開園。
 


■トモヱ学園跡

 自由が丘2丁目15番1~4号の大丸ピーコック自由ヶ丘店の敷地にあった私立幼稚園小学校(旧
制)。リトミック(自主的感性)教育を日本で初めて実践的に取り入れた学校として知られる。
 昭和3年手塚岸衛
がこの地に、旧制中学校、小学校、幼稚園からなる自由ヶ丘学園を創設、「自由
教育」を唱道した。同11年手塚が死亡したため学園は経営難に陥り、中学校部門を藤田喜作に譲り
現在の自由ヶ丘学園高等学校となる。
 翌12年成蹊小学校などで教鞭を執った小林宗作が、小学校と幼稚園を引き受ける形で「トモエ学
園」を創設、「リトミックによる創造教育」を実践した。同19年太平洋戦争の激化により、児童は
群馬県吾妻郡岩島村に疎開。同20年東京大空襲により校舎が焼失。のち幼稚園のみ再建。同21年
小学校廃校。同38年小林の死亡により幼稚園を閉園、以後休園とする。同53年トモエ幼稚園の廃
園が認可され
トモエ学園の歴史が完全に終わる。同63年有志により、跡地に以下の記念碑が建立
された。

                    自由が丘
               Notre Havre de Liberte Creation
   
                      自由と創造の我が母港
   1928年(昭和3年)手塚岸衛は、泉湧き老松仰ぎみるこの丘に小学校と幼稚園を創設
   「自由ヶ丘学園」となづけた。「自由が丘」の駅名と地名は、この学園名に由来する。手
   塚は大正から昭和にかけ、「自由教育」ょ唱導し、この地に理想の結実をめざしたが、1
   936年秋、志半ばにして没した。1937年小林(金子)宗作は、手塚のあとを受け、
   ここに「トモヱ学園」を起こし、「リトミックによる創造教育」を実践した。1945年
   戦災により学園は焼失したが、戦後幼稚園は復興し、1963年小林の死去に至るまで、
   その教育は続けられた。

     私たちこの地に学び育まれし者は、ここに行われた教育が、時をこえて生き続け
     ることを願い、恩師への敬愛と感謝の思いを込めて、この碑を建てる。


         1988年9月  自由ヶ丘学園小学校
                  トモエ学園 小学校 同窓生並びに関係者一同

 卒業生
 黒柳徹子(タレント)・津島恵子(女優)・池内淳子(女優)
 


■竜昌寺

 自由が丘2丁目15番13号にある曹洞宗の寺。石柱の標識のみ。立派な2階建てのビル。まだ駅
前の賑やかさが残っている一角だ。昭和初年に建てられ、昭和21年に越してきた。開創地は判らな
い。
 


■自由ヶ丘学園女学校地名の由来となった学校)
 自由が丘2丁目21番1号にあった私立校。昭和5年自由主義教育を目標に掲げた手塚岸衛により
創立したが、手塚が病に臥せったため立ちいかなくなった。
 この校名が駅名となり、駅前の俗称となり、地名となった。同41年地名も駅名も現代国語の用法
により「自由が丘」となっている。


■自由ヶ丘学園高等学校

 自由が丘2丁目21番1号にある私立校。昭和10年手塚岸衛の「自由ヶ丘学園」を立て直すべく
立ち上がったのが藤田喜作で、男子中学校として新しく出発し、質実剛健の野草的教育を目標に、手
塚の構想とは全く違った青少年の教育に専念。
 敗戦後、昭和23年アメリカの強制による学制改革により「自由ヶ丘学園中学校高等学校」として
最発足。同34年中学校の募集を停止し「自由ヶ丘学園高等学校」に改称。同39年鉄筋コンクリー
ト造り校舎化と教育設備整備。同43年1~3号館の建設により、校舎の鉄筋化をさらに進める。同
窓生によって藤田喜作の胸像が建立される。同48年藤田喜作逝去。妻京子が理事長に。同53年全
生徒の個人ロッカー設置。
 平成3年子息龍二理事長に就任。全館に冷暖房完備。同6年新体育館完成。中学校を正式に廃校。
同7年5号館新築。道場・図書室・LL教室・美術室完成。同8年6号館新築(家庭科実習室・理科
実験室・音楽室・トレーニング室・普通教室等)完成。学校隔週5日制実施。同9年1号館建替え新
築(6教室)。同10年2号館建替え新築(地下1階地上4階 事務室・生徒ホール・特別教室・普
通教室・礼法室・応接室・会議室・第1・2視聴覚室等)完成。推薦試験制度導入。同11年3号館
建替え新築(地下1階地上3階 コンピュータ室・トレーニング室・職員室・普通教室等)完成。校
庭整備。同13年付属棟(多目的実習教室)完成。創立70周年記念式典。同15年新カリキュラム
へ移行。同20年学校六日制実施。特待生制度導入。スクールeステーション導入。コンピュータル
ーム改装。同21年自立学習支援システム導入。同21年学習支援室開設。付属棟1階に普通教室増
設。

 校歌「
学校讃歌」 
  1.我らが象徴フェニックス
    いざ春風に羽ばたいて
    遠く駆けらん 我が友よ
    全人類の理想峰
    霞の中に我を呼ぶ。
    ああ学園 我が母校
  2.征けや真理の大道を
    暗黒の世は続くとも
    我が手に持てる灯火は
    希望の光明らかに
    征く手を遥か照らすなり
    ああ学園 我が母校
  3.起てや自由の丘の上
    高き大空青くして
    若き命は赤く燃ゆ
    歓喜に諸手高く上げ
    いざや踊らん若人よ
    ああ学園 我が母校


 
レスリング部
 東京都を代表する名門校。団体戦、個人戦問わず毎年全国大会に出場している。監督を務めている
のは、元日本チャンピオンでバルセロナ五輪に出場した奥山恵二。



■谷畑坂
 自由が丘2丁目(18番)と3丁目(6番)の間の坂道。6ヶ村に分れていた旧目黒のうち、自由
が丘一帯は衾村に属していた。衾村には
東根・平根・中根・谷畑の4つのがあり坂名も名に
因んでいる。「衾の不思議三つござる 曲り松、鷺草に竹の二股」と江戸時代から大正末期にかけて
目黒村、碑文谷村、衾村一帯にかけて歌われた麦打唄。今では、静かな住宅街となっているこの辺り
にも、麦を打つクルリ棒の音と農民の歌声が響いていたのだろう。標柱がある。

   谷畑坂
   旧衾村の字名「谷畑」というところにあるのて「谷畑坂」よばれた。この坂下は湿地で鷺
   草が自生していた。またこの道は、二子道(目黒通り)から九品仏方面への道として耕地
   整理以前から現在に近い形で、直線的にあった古道であった。
   平成21年3月                         目黒区教育委員会


■丸彫地蔵尊(九品仏道標) 移築
 自由が丘3丁目1番1号栗山家の角地にあった目黒通りから九品仏への道しるべ。昭和初期の耕地
整理以前は、九品仏の浄真寺へ行く道が今よりもっと北東側にあり、この道標はその追分にあったと
いう。寛保四年(1744)の建立で、浄土宗浄真寺に所縁のある信者が日蓮宗の多い衾村(ふすま
むら、現在の八雲・自由が丘の一部)に道標を立てるので、「南無妙法蓮華経」の文字を刻むことで
承諾されたと伝えられている。元禄の頃にはこの地域に九品仏詣での人々が立ち寄る茶店や念仏信者
の講宿が軒並みあったんだとか。地蔵像蓮座は明治19年に乗っけたものか。

   
   右面 
南妙法蓮華経
   正面 
左 九品佛
   左面 
南無阿弥陀仏

   九品仏道標
   この立派な高台座付丸彫地蔵像塔は、遠い江戸からの病気平癒祈願などで九品仏浄真寺へ
   参詣する人たちのための道標でした。正面に=左九品仏江、右面=南無妙法蓮華経、左面
   =南無阿弥陀仏、背面=為進誉昇安楽邦居士二世安楽也、于時寛保四年甲子二月十四日立、
   地蔵蓮座には明治19年9月吉日施主延命寺とあります。この碑を建てたのは九品仏で有
   名な浄真寺にゆかりのある浄土宗の信者ですが、日蓮宗信者の多い衾村の地に道標を建て
   るので「南無妙法蓮華経」の文字を刻むことを承諾させられたのだと言い伝えています。
   元禄のころには近くの寺郷あたりに九品仏詣での人の立ち寄る茶店や念仏信者の講宿も軒
   並みにあったそうです。
   平成4年3月                          目黒区教育委員会


 
移築場所
 自由が丘3丁目1番3号、目黒通りから50mばかり入ったところに移築された。開眼供養平成2
6年4月21日。
 


【洗足】(せんぞく)1~2丁目                   昭和43年1月1日
 碑文谷村。明治11年大区小区制の廃止により荏原郡に復し、同22年「市制町村制」により碑衾
村大字碑文谷。昭和2年碑衾町大字碑文谷字原町2丁目・原・南原。昭和7年目黒区の成立で洗足
となり、同43年新住居表示により富士見台・原町の各ごく一部をあわせた町域を現行の「洗足」
とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『目黒区史』『目黒の歴史』など。

 
洗足の由来
 町名は大正13年開業の目蒲鉄道洗足駅から拝借した。洗足駅は無論大田区の洗足池にちなむ。
この地域は田園都市構想の一環として開発され、雑木林と湿地は高級分譲地となり、郊外に住宅を
求める地方出の公務員・会社員に受けた。雅子皇太子妃の実家というんで商店街は大騒ぎだが、実
家は隣町の南1丁目の方だ。洗足は最寄駅ということ。
 


■洗足北街かど公園
 洗足1丁目9番5号にある区立公園。平成3年1月30日開園。住宅街の中にある静かな公園で、
カリンの木がある。木製のベンチで一日向ぼっこ、ポッカポカだ。


■洗足学園第一高等学校 
閉校

 洗足1丁目15番13号にある私立女子校。大正12年前田若尾、裁縫塾を開く。同13年前田は
当時の女子教育の在り方に非常な不甲斐なさを感じ、平塚村戸越(現在の品川区戸越)に「平塚裁縫
女学校」を設立。その後順調に成長を続け、同15年碑衾町碑文谷(現在地)に「洗足高等女学校」
開校。
 昭和5年財団法人洗足高等女学校設立 理事長前田若尾。
 同21年学校本部溝の口に移転、中学校を開校。同23年目黒の洗足高等女学校を「洗足学園第一
高等学校」と改称。同26年学校法人洗足学園に組織変更。昭和42年溝ノ口キャンパスに洗足学園
大学開学。同51年「洗足学園大学附属第一高等学校」と改称。
 平成14年「洗足学園第一高等学校」に戻称。同18年生徒募集停止。同20年閉校。
 なお洗足学園には、音楽大学・大学院(平成15年改称)、短期大学、高等学校音楽科、中学校高
等学校、小学校、幼稚園、音楽教室があり、キャンパスは目黒・溝の口・横浜にある。

 
「洗足」たる理由

 移転した当時、洗足の地名は無く、日蓮上人が足を洗ったという洗足池と目蒲鉄道の洗足駅がある
だけだった。クリスチャンの前田若尾は、「洗足」の言葉が『新約聖書』のヨハネによる福音書第1
3章の中にあることに気づき、校名に選んだという。
 処刑される前夜、キリストは12人の弟子たちと最後の晩餐を共にした。その席上キリストは自ら
盥(たらい)に水を汲み、弟子たちの足を洗い清め、

   我は主または師なるに、なお汝らの足を洗いたれば、汝らも互いに足を洗うべきなり。
   我汝らに模範を示せり、わがなせしごとく、汝らもなさんためなり


 と教えた。この教えにこめられた精神は、謙譲であり、愛であり、犠牲であり、奉仕だ。愛の心を
持って互いに他人の苦痛を分かち合い、世の混濁を清める犠牲的奉仕の心こそ、真に福祉への導きと
なる所以であり、勉学に励んで知識の向上を図るだけでなく、愛による奉仕の精神を養うことが本学
園の理想とするところだ。校名の「洗足」の名前はこれに基づいている。

 
跡地(クラッシィハウス目黒洗足)

 住友商事の「目黒区洗足1丁目計画」により、地上8階建て143戸のマンションになった。周辺
は住宅地で木造家屋が多く、住民は災害地の避難地として公園化を希望していた。そうは問屋が卸さ
ないのが、金、金、金の世の中だ。原発だって、金、金、金が裏にある。

 この学校に学んだ人
 水久保澄子(女優) 中退)・若杉嘉津子(女優)・安田章子(歌手由紀さおり)


■第九中学校
 洗足1丁目29番26号にある区立校。昭和22年原町小学校内に開校。校友会(生徒会)創立。
同24年。同25年校歌制定。

 校歌「仰げ秀麗富士が嶺」 作詞・  作曲・
  1.仰げ秀麗富士が嶺
    空は朗らかに清気あり
    培え質実剛健を
    光り輝く日と共に
    咲き誇りつつ永遠
(とことわ)
    巡る向日葵範として
    我らが第九中学校
  2.見よ麗しき洗足の
    杜に世紀は新しく
    修めよ智徳信念を
    暗きを厭い大らかに
    天に笑みつつ美しく
    清き向日葵範として
    我らが第九中学校
  3.未来は幸に満ちみてり
    知性は常に光あり
    自由と自治の心持て
    智を練り身をば鍛えつつ
    輝く時代作るのは
    我らを貫く大使命
    我らが第九中学校


 同27年校舎増築。同29年全校庭舗装。
同31年4教室および鉄筋階段完成。同32年更衣室・
保健室完成。同34年12教室と理科室完成。同35年家庭科室完成。同36年木工室・金工室内部
完成。同37年屋内運動場兼講堂完成。同38年プール竣工(25m×11m)。同44年完全給食に
伴う調理室完成。同46年鉄筋四階新校舎完成。同47年岩石園完成。同49年鉄筋三階新校舎完成。
同60年プール移転竣工。
 平成元年校章校舎壁面に設置。同2年教育相談室完成。同3年コンピュータ室完成。同5年グリー
ンベルト工事完成。同9年カウンセリングルーム完成。同12年校舎の耐震補強工事完了。同14年
普通教室・英数教室に冷房設置。同16年会議室に冷房設置。
 


■洗足ひだまり公園

 洗足2丁目18番9号にある区立公園。平成22年4月1日開園。子どもから高齢者までが遊び・
憩える場として、広場を中心に地域防災機能の向上などを図り、気軽に立ち寄れる身近なスペース。
また、公園全体で四季の移ろいが感じられる花木を中心に植栽してある。


■洗足駅

 洗足2丁目21番1号にある東急目黒線の停車場。大正12年3月11日目黒蒲田電鉄が目黒~丸
子(沼部)間を開業させた時にできた。ホームは地下1階にあり、相対式2面2線構造。目黒線はワ
ンマン運転を行うため、ホームドアが設置されている。改札とホームを結ぶエレベーターも完備。改
札口・出口は1ヶ所のみで1階にある。平成18年7月目黒線目黒~大岡山間の連続立体交差化事業
が完了したが、この洗足駅だけは駅西側で交差する環状七号線の踏切を解消するため、昭和40年に
地下化が完了している。目黒線が南北線・三田線と直通運転を始めるに当たって駅の内外が改良(ホ
ーム長延長など)がなされたが、現在の駅舎にも旧駅舎のイメージがよく残っている。
 


【平町】(たいらまち)1~2丁目                   昭和40年1月1日
 衾村。明治11年大区小区制の廃止により荏原郡に復し、同22年「市制町村制」により碑衾村
大字衾。 昭和2年碑衾町大字衾字平前・平南原・平北原・平稲荷丸。 昭和7年目黒区平町。同4
0年新住居表示を実施し現行の「平町」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『目黒区史』『目黒の歴史』など。

 
平の由来
 平坦地の意。平清盛とは無関係。大岡山小学校くらいで何もない。環七通り・目黒通りの交差す
る角地。


■酉蓮社成照院

 平町1丁目4番16号にある浄土宗の寺。「ゆうれんしゃじょうしょういん」と読む。鉄筋コンク
リート3階建てのビル。斎場にもなるようだ。隣に成照会館があるよ。


■桜森稲荷神社

 平町1丁目16番10号にある小社。祭神は蒼稲魂命で、古くは小杉家の屋敷稲荷として祀られ、
五穀豊穣・家内安全を祈願していた。その後〝平根〟といわれたこの辺りの氏神として信仰されてい
る。2月の初午には氏子の人たちが集まり、旗を立て、酒を飲んで初午祭りを行っている。桜森の名
は、むかし山桜が生い茂っていたことから名付けられたという。 裏手には。幹回り4.5mもある大
ケヤキがあり、区の保存樹に指定されている。

 
桜森神社前庚申塔
 入口石段を上がった鳥居前左手にコンリート造りの覆屋の中に2基ある。
 


■鉄飛坂

 平町2丁目と大岡山2丁目の境、呑川遊歩道の中里橋へ上る急坂で、坂上の北側に帝釈天を祭る小
堂がある。鉄飛とは大岡山に組み込まれた字名で、頂(てっぺん)のことという。明治25年編纂の
「衾村々誌」品川道の条に、

   鉄飛板あり、運輸便ならず、其坂下に呑川あり、之に架するを茶屋橋という

 とある。この橋名は、いつのまにか中里橋と変わった。

   鉄飛坂
   旧衾村の小字名「鉄飛」が坂名になったといわれる。「鉄飛」とはポルトガル人テッピョ
   ウスという人が住んでいたからとか、鉄砲鍛冶がいたからともいわれる。また「てっぴ」
   山頂・てっぺんを意味し、それが坂名になったといわれる。
   平成8年3月                          目黒区教育委員会

   
鉄飛坂
   「てっぴ」とは、山頂・てっぺんを意味し、それが坂名になったといわれるが。ほかにも
   テッピョウスという人が住んでいたからや、鉄砲鍛冶がいたからなど諸説がある。
   平成21年3月                         目黒区教育委員会

 鉄飛の由来
 
〝鉄飛〃という一風変わった名前から、何か謂れがありそうに思われるが、案の定、種々の説があ
る。そのーつは、①.徳川幕府の初期時代、佐渡金山奉行だった大久保石見守長安が、ポルトガル人
「ヒモンヤス」「テッピョウス」の2人に、鉱山採掘の方法を聴問し、佐渡金山の大改善を行おうと
したことかあった。このことは「慶長切支丹怪秘記」という書物にでているが、確説であるかどうか
疑わしい。またこの二人の名が今の碑文谷・鉄飛の起源であるとも記されてもいるが.碑文谷・鉄飛
という地名は、遥か以前からあり、これも当てにできない。
 その二つは、②.奥州征伐「後三年の役」に従軍した碑文谷の豪族、碑文谷太郎道政が捕虜として
した「鉄の飛」をこの辺に住まわせたということによるもの。
 その三つは、③.鎌倉時代、武蔵国の荏原二帝を領していたのが荏原太郎義利という領主であり、
その家臣鉄飛十郎兵衛が、板上に館を構え名主として居住していたことから、地名となった。元寇の
際の『金沢殿着到状』に載る鉄飛五郎との関連も指摘される。
 その四つは、④.「てっぴ」を「鉄砲」の転訛として、鉄砲鍛冶が住んでいたことに由来するとす
る説もある。
 なお、「全回方言辞典」によれば “テッピ” とは “山頂 ” “てっぺん”などの訛りである
とし、「綜合日本民俗語弄」には、比較的高所にある屋敷を〝テッピ〟 と呼ぶ例があったと記して
ある。


■大岡山小学校

 平町2丁目3番1号ある。昭和3年碑小学校から独立して東京府荏原群碑文谷1877番地(南3
丁目2番)に開校。同9年火災により校舎の一部を焼失。同10年平町86番地(現在地)に新築校
舎完成。同12年緑ヶ丘尋常小学校を分校。同13年原町尋常小学校を分校。創立10周年記念式典
・校歌制定。フィルムライブラリー「東京市教材映画目黒文庫」併設。
 同16年勅令148号「国民学校令」により「東京府東京市大岡山国民学校」と改称。12月日米
開戦。同18年都制施行により「東京都大岡山国民学校」と改称。同19年3年生以上山梨県甲府市
・韮山町に学童集団疎開。同20年5月愚かなアメリカ軍の非人道的無差別空爆により学校焼失。青
空授業。8月日本は、ならず者国家アメリカの軍門に降り敗戦、以後属国となり、唯々諾々といいな
りになる保守傀儡政権を保持せざるを得ない今日的不幸を背負い込む。もう200兆円がとこ持って
いかれたよ。女の子がレイプされても泣き寝入りだし、これからの若者はあの愚かなアメリカ軍の尖
兵(手先)として最も危険な最前線の激戦地で扱き使われるだろうよ。
 10月疎開解除により学童帰京。碑衾国民学校に間借り授業、以降八雲・緑ヶ丘・原町国民学校渡
り歩く流浪授業。
同22年アメリカの強制による学制改革により「東京都目黒区立大岡山小学校」と
改称。仮校舎落成帰校。同24年木造校舎落成。同27年創立25周年記念式典・新校旗・新校歌制


 校歌「
緑の森の丘に立つ」 作詞・江間章子  作曲・高田信一
  1.緑の森の丘に立つ
    僕らの学校
    元気良く正しく勇気あれと
    大空は教えます
    楽しい学校 
    私たちの仲良く学ぶ学校よ
  2.清らな富士よ師の守り
    僕らの学校
    日本の良い子は強く伸びる
    大空に答えます
    楽しい学校
    私たちの仲良く学ぶ学校よ


 同28年中根小学校を分校。同33年鉄筋3階建12教室・管理諸室完成。同36年図書室・視聴
覚室完成。同42年給食調理室増改築。同43年屋内運動場兼講堂及びプール完成。同46年校舎の
一部に防音装置・冷房装置を設置。同47年鉄筋4階建8教室完成。同52年開校50周年記念式典。
 平成元韓国教育視察団参観。同9年開校70周年記念式典。同12年NHK全国学校音楽コンクー
ル全国コンクール銅賞。同13年NHK全国学校音楽コンクール関東甲信越コンクール銀賞。同15
~19年NHK全国学校音楽コンクール全国大会金賞。開校80周年記念式典。


■庚申塔・馬頭観音2基

 平町2丁目14番6号平共同墓地内にある。庚申塔は「帝釈天王 延宝六戊午 十一月廾三日」、
馬頭観音1基は「昭和15年」、もう1基は「昭和60年7月」の建立。


■鉄飛坂帝釈堂

 平町2丁目18番13号にある。堂内には庚申塔など4基が鎮座している。
   ①.奉尊敬帰命帝釈天王 貞享二年乙丑十一月五日
   ②.奉敬礼帰命帝釈天王 延宝八庚申年十一月五日
   ③.南無妙法蓮華経(下部に帝釈天立像浮彫) 明治十四年十一月廿二日 帝釈講世話人
   ④.
長興長栄西山 賜紫日教? 四十七世嗣法  八十九翁
 さらに境内に2基。
   ⑤゜高さ約64cm・像高36cm 青面金剛立像(輪・矛・弓・二本矢)日月、瑞雲、鬼、
     二鶏、三猿
   ⑥.高さ約90cm 「庚申供養塔」

   鉄飛坂庚申塔群              目黒区指定有形文化財(歴史資料)
              
              昭和57年2月4日指定
   この小堂内に、次の庚申塔三基、題目塔一基がある。
   ・奉敬礼帰命帝釈天王 延宝八年 (1680)

   ・南無妙法蓮華経 天保十三年 (1837)
   ・南無妙法蓮華経 帝釈天画像 明治14年 (1881)
   ・奉尊敬帰命帝釈天王 貞享2年 (1685)
   江戸時代に、農村では庚申待ということが盛んに行われた。60日目毎に巡ってくる庚申
   の日に、講の人が集まって青面金剛・帝釈天・猿田彦などの神をまつり、飲食をともにし
   ながら夜を明かした。
   講の人々は一定年数の後に、その供養や記念のために石塔を建立したそれが庚申塔である。
   ここに残る庚申塔は、日蓮宗の題目または帝釈天を中止にした塔であるところに、またそ
   の講が、地元の人々により今日でも続けられているところに特色がある。
   昭和58年3月                      東京都目黒区教育委員会

 


【鷹番】(たかばん)1~3丁目                     昭和41年3月1日
 碑文谷村字鷹番。明治11年大区小区制の廃止によって荏原郡に復し、同22年「市制町村制」
により碑衾村大字碑文谷。昭和2年碑衾町大字碑文谷字鷹番。昭和7年目黒区の成立で碑衾町大字
碑文谷字五本木の東半・北三谷・西ノ前の各一部をあわせて鷹番町起立。同41年新住居表示によ
り一部を中央町に譲り、鷹番町・三谷町の大部分に本郷町・碑文谷町・清水町の各一部をあわせた
町域を現行の「鷹番」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『目黒区史』『目黒の歴史』など。

 
鷹番の由来
 江戸時代にこの地域に鷹番屋敷が置かれていたことに由来する。鷹番屋敷には役人がおり、鷹場
の近くに住む浪人の身元を調査したり、鳥獣の乱獲禁止の監視や乱開発取締りなどを行っていた。
江戸時代、目黒周辺には代々の徳川将軍がしばしば鷹狩りに来ていた。鷹狩りは放鷹といい、飼い
慣らした鷹を拳に据え、山野に放って野鳥を落としたり捕らえさせたりする狩猟で、将軍が放鷹を
行う場所を鷹場(たかば)、鷭場(ばんば)、御拳場(おこぶしば)、御留場(おとめば)などと
いった。この放鷹は本来、武の鍛錬と娯楽を兼ねた行事だが、鷹狩りに託して軍事的調練、地形理
解、領内の民情などを探るのが本意だった。8代将軍吉宗の頃には江戸周辺5里の範囲に六郷筋・
目黒筋・中野筋・戸田筋・岩槻筋・葛西筋の「江戸廻り六筋御鷹場」が設けられた。
 目黒筋の御鷹場はその一つで、鷹場組合、鳥見役所が設置され、鷹匠や鳥見の役などが置かれて
鷹の飼養、訓練や鷹場の管理に当たった。また鷹場の各所に鷹番を置いて鷹場への立ち入りを禁じ
た高札をたてて村の連帯責任で見晴らせたりした。この辺りは、目黒筋の鷹番が居住していた所で
その高札も保存されている。鷹番屋敷は中央町1丁目20番26号鷹番小学校の辺りとされている。


■庚申塔

 鷹番1丁5番15号の角地に小さな小さな祠があってその中にある。側の道は目黒通りの旧道。
 


■割烹すずき

 鷹番2丁目16番3号にある料理人鈴木好次が経営する割烹料理屋。東急東横線学芸大学駅の東口
商店街から道を入った閑静な住宅街の一角、京都のお茶屋を思わせる朱塗りの店構えが目印。木の扉
を開けると左側に6~7名程度座れる小上がり、店内奥には白木造りのカウンター7席があり、隠れ
家のような温かい雰囲気だ。板場はカウンターよりも一段低く作られており、料理人の繊細な包丁さ
ばきを間近で見ることができる。鈴木は、目黒区自由が丘にあったすし店で修行を積み、29歳で独
立。学芸大学駅近くに現店舗とは異なる飲食店を経営していたが、「学芸大学においしい店を作って
欲しい」という知人の一言がきっかけで、18年前に現在の場所へ移転して本格的な割烹料理店を始
めた。時にはフレンチやイタリアンなどのテイストもエッセンスに取り入れる鈴木の料理はそのほと
んどが独学。「一流料理店で修行をしても、舌や感性は自分で磨くしかない。私の修行の場は、お客
様のリクエストで始めた料理教室。お互いに勉強しあって、私がみなさんに育てていただいたような
もの」とは本人の弁。
 11時~14時・18時~23時。 03‐3710‐3696

 ミシュランガイド東京 
 『2008』から『2014』まで7年連続で星1つを取っている。
 


■笠間稲荷神社

 鷹番2丁目8番2号にある小社。祭神は宇迦御魂命。元は中目黒4丁目にあり、戦時中に2回遷座
の後、現在地に本格的社殿を建立。毎年初午祭には神官が派遣され、盛大な祭典が挙行される。

   笠間稲荷神社
   この稲荷は、昭和の初め中目黒4丁目にありました。その後2回ばかり遷座しましたが、
   講社は存続していました。昭和26年に講社の代表者池田米蔵氏が中心となり、この地に
   本格社殿を建立しました。
    この稲荷の根本社は、笠間稲荷(茨城県笠間市)にあり、毎年2月初午祭には盛大に祭
   典が行われます。祭神は宇迦御魂命で、御神像は狐に乗り、右手に稲穂を持ち、左手の掌
   に宝珠を乗せています。この御神像は百穀をほどこし国を富まし、家を栄えさせる意であ
   るといわれています。稲荷神社は、農耕神、商売繁盛の民間信仰として、日本各地に見ら
   れます。
    またイナリ「稲生り」の約音硬化で、イナリの神像が稲穂を荷っていたことから稲荷の
   字をあてるようになったといわれています。
   平成5年3月                          目黒区教育委員会


 これはちょっと間違いで、大昔、稲のなる頃、野狐が稲田に巣食い、稲穂を体につけて山に消える
ことがしばしば見受けられたので、当時の農民は、「狐は神の使いで、稲穂を神に届けているのだ」
と考えるようになり、狐を神の御先(みさき)、神を稲荷神と決めて、豊作を祈願するようになった
のだ。
 


■学芸大学駅

 鷹番3丁目2番1号にある東急東横線の停車場。昭和2年8月28日東京横浜電鉄丸子多摩川(多
摩川)駅→渋谷間延伸した時「碑文谷駅」として開業した。同11年電鉄会社が分譲住宅地を売り出
すために府立青山師範学校が下馬町3丁目に誘致し「青山師範駅」に改称。文教地区のイメージで好
印象を与え、売れ行きは上々だったという。同18年4月青山師範学校が第一師範学校に改称したた
め、12月1日「第一師範駅」に改称。同24年学制改革により第一師範学校が東京学芸大学として
発足したことにより、同27年7月1日「学芸大学駅」に改称。同39年東京学芸大学は世田谷校舎
を廃し小金井市に移転した。もう40年以上も主無しの駅名だ。この間入学試験で誤ってこの駅に降
りで、受験できなかった者は少なくはない。東急が駅名を変更しないのはその経費だ。少なくとも関
東一円の駅で、切符と案内板、コンピュータの変更を行わなければならない。ほっとこ、なぁ。
 ホームは高架島式1面2線構造。ホームと改札を結ぶエレベーターも完備。改札口は1ヶ所のみで、
1階にある。出口は西口と東口の2ヶ所。
 
 


【中央町】(ちゅうおうちょう)1~2丁目              昭和41年3月1日
 碑文谷村唐ヶ崎。明治11年大区小区制の廃止により荏原郡に復し、同22年の「市制町村制」
により碑衾村大字碑文谷。昭和2年碑衾町大字碑文谷。昭和7年目黒区唐ヶ崎町。同40年新住居
表示により唐ヶ崎町に上目黒5丁目・中目黒4丁目の各一部・鷹番町のごく一部をあわせた町域を
現行の「中央町」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『目黒区史』『目黒の歴史』など。

 中央町について
 初め上目黒側は「五本木」、中目黒側は「紅葉ヶ丘」、唐ヶ崎側は「中央」を提案した。この3
試案を3町でアンケートを取ったところ中央が過半数を占めた。区は都に渋々報告したところ案の
定〝待った〟がかかった。区は民意を無視できず、町をつけることで鮴押しした。中央本町としな
かったのは既に足立区が登録していたからだ。都は〝わざくれ〟と受理した。目黒本町と同様、無
味乾燥、全く人間味のない地名!


■地震の学習館
 中央町1丁目9番7号にある区の施設。大地震が起きた時に予想される様々な出来事を認識すると
ともに、現在とられている防災対策などの知識を深め、体験と学習を通じて自分自身の判断力、行動
力を高めるための施設。模型や実物展示、各種映像・音響装置により、臨場感溢れた疑似体験ができ
る。9時~5時 無料。


■鷹番屋敷跡
 中央町1丁目20番26号の鷹番小学校の辺りにあったとされる。
  


■鷹番小学校
 中央町1丁目20番26号にある。昭和7年1月荏原郡碑(いしぶみ)尋常高等小学校の分教場とし
て設置。7月「荏原郡鷹番尋常小学校」として独立開校。同9年月光原尋常小学校開設に伴い一部児
童が移籍。同16年国民学校令により「東京府東京市鷹番国民学校」と改称。12月日米開戦。同1
8年都制施行により「東京都鷹番国民学校」と改称。同19年給食場完成し給食開始。山梨県甲府市
に学童集団疎開。同20年愚かなアメリカ軍の非人道的無差別空爆により校舎全焼。五本木国民学校
に間借り。8月日本は、ならず者国家アメリカの軍門に降り敗戦。以後属国となり、唯々諾々として
いいなりになる保守傀儡政権を保持せざるをえない今日的不幸を背負い込む。もう200兆円以上が
とこ持って行かれたよ。女の子がレイプされても泣き寝入り、これからの若者はアメリカ軍の尖兵と
して最前線の激戦地に持って行かれるよ。覚悟しとけよ。
 同22年アメリカ軍の強制による学制改革により、「東京都目黒区立鷹番小学校」と改称。同23
年仮校舎ができ生徒帰校。同24年父母と先生の会結成。同27年図書室設置。同33年プール完成。
同34年火災により校舎の一部を焼失。同36年鉄筋校舎化工事。同38年体育館完成。同41年鉄
筋コンクリート造り校舎9教室落成。同45年鉄筋コンクリート造り校舎6教室落成。同48年鉄筋
コンクリート造り校舎6教室・職員室・放送室・給食室落成。同49年鉄筋コンクリート造り校舎1
5教室・7特別教室・校長室・主事室落成し、鉄筋校舎化工事一段落。同52年給食室増築。同54
年視聴覚室・第二理科室増築。
 平成2年校庭スプリンクラー設置。同3年パソコンルーム開設。同4年ランチルーム完成。同9年
校舎FF暖房化。同10年体育館耐震化完了。同13年北校舎耐震化完了。同14年南校舎耐震化完
了。同15年校庭全面改修。同18年校内LAN設置。
 校歌に校名がない素晴らしい校歌! 制定年は判らない。

 校歌「この道は」 作詞・内藤濯  作曲・小松清作
  1.この道は
    野辺より坂へ 坂より峰へ
    一筋に上り行く道
    いざいざ友よ つくづくと
    見よ この道の果てしなさ
  2.この道は
    子供心の花と咲けよと
    うらうらと照り光る道
    いざいざ友よ しみじみと
    見よ咲く花の美しさ
  3.この道は
    空晴れ渡り 風そよそよと
    吹き通う国へ行く道
    いざいざ友よ 寄り集い
    見よその国の和やかさ 


■目黒区役所旧地
 中央町2丁目4番のザ目黒四季レジデンスのところに以前の区役所があった。平成12年10月千
代田生命保険会社が更生特例法の申請をし破綻したため、管財人は目黒区に本社敷地・建物の購入を
打診した。かねてから本庁舎の手狭化に直面していた区は、この物件を取得し新庁舎として大規模に
改修を行った上で移転した。跡地は売却され、現在のマンションとなった。


■十日森稲荷
 中央町2丁目17番15号にある。社名は「稲荷の森」から転じたものだろう。この神社は五本木
の旧家島崎佐五衛門の邸内にあった屋敷神で、のちに今の所に移されたと伝えられている。祭神は蒼
稲魂命。五本木田圃の豊作守護神として崇め、雨乞い信仰のもとこの神社を祀ったに違いない。例大
祭は毎年9月14・15日。現在の本殿は明治17年の建築で、拝殿は昭和32年に建てられた。境
内は古木が繁り森閑とした雰囲気を醸している。『新編武蔵風土記稿』荏原郡馬込領上目黒村項に、

   稲荷社
   除地三畝、小名五本木組にあり、本社五尺四方、拝殿二間四方。前に鳥居を建、両柱の間
   六尺。是も鎮座の年代を傳へず。


 とある。


■中央緑地公園
 中央町2丁目26番6号にある区立公園。フィールドアスレチック用遊具がある。多くの木々に囲
まれた紅葉の綺麗なスペースだ。

 風と子供像
 2人の少年が駆けっこしている高橋剛の銅像。高橋は、大正10年8月31日山形県酒田市生まれ
の彫刻家。東京美術学校(東京芸大)木彫科卒。関野聖雲、北村西望に師事し、昭和22年日展に初
入選、同35年同会員。日展参事、日本彫刻会理事・委員長を務めた。子供たちの躍動感のある造形
が印象的。


■第六中学校 廃校
 中央町2丁目32番5号にあった区立校。昭和22年五本木小学校内に「東京都目黒区立第六中学
校」として開校。同24年5月第一次木造校舎が現在地に落成し、2・3年生が移転。同26年増築
校舎落成し1年生が移転、完全独立校となる。同53年鉄筋コンクリート造り校舎落成。

 校歌「叡智の白雪
  1.叡智の白雪 輝く富士の
    雄姿は我等の理想の姿ぞ
    文化の華をこの身につけて
    学び励み 君と共に往かん
    六中 六中・六中のペンは光る。
  2.平和の綾雲 棚引く空の
    自由のは我等の久遠の姿ぞ
    民主の愛をこの身につけて
    学び励み 君と共に往かん
    六中 六中・六中のペンは光る。
  3.知識の原流 流れる水の
    真理は我等の希望の姿ぞ
    科学の精をこの身につけて
    学び励み 君と共に往かん
    六中 六中・六中のペンは光る。
  4.緑地の学園 花咲く庭の
    香気は我等の誠の姿ぞ
    師恩の深さこの身につけて
    学び励み 君と共に往かん
    六中 六中・六中のペンは光る


 平成18年二中・五中と統合し「目黒区立中央中学校」となった。同20年3月まで旧六中の校舎
を使用し、同20年4月から旧五中の跡地に建てられた新校舎に移転。
 


■目黒中央中学校 移転

 中央町2丁目32番の旧六中跡に、平成18年4月~20年3月まであった。旧五中跡に新校舎が
落成して移転した。跡地利用は未定。
 


■スマイルプラザ中央町
 中央町2丁目32番5号にある。目黒中央中学校の仮設校舎として利用された本校舎を除く、西校
舎、東校舎、体育館および特別支援学級校舎が取り壊され、改装後、「スマイルプラザ中央町」とし
て利用されている。併設の中央町児童館、中央町児童館学童クラブは小学生、中学生、高校生に広く
利用され、敷地の一部は都道420号線の混雑緩和のための都道建設計画があるため整備がされた。


【中町】(なかちょう)1~2丁目                   昭和42年3月1日
 中目黒村。明治11年大区小区制の廃止により荏原郡に復し、同22年の「市制町村制」により
目黒村。大正11年目黒町。昭和7年目黒区上目黒5丁目・中目黒3~4丁目・下目黒4丁目。同
42年新住居表示により中目黒4丁目のほぼ全部に中目黒3丁目・下目黒4丁目の各一部を上目黒
5丁目の猫の額をあわせた町域を現行の「中町」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『目黒区史』『目黒の歴史』など。

  中町の由来
 中町の「中」は中目黒の「中」である。「なかまち」としなかったのは、世田谷区にあるか
らだ。純然たる住宅街。大正13年創立の油面小学校目黒公会堂がある。


■油面小学校
 中町1丁目5番4号にある区立校。大正14年下目黒・中目黒尋常小学校から一部児童を移管して
「東京府荏原郡油面尋常小学校」として開校。昭和6年五本木尋常小学校の開校に伴い一部児童を移
籍。同13年養護学級を設置。同15年不動尋常小学校の開校に伴い一部児童を移籍。同16年国民
学校令により「東京府東京市油面国民学校」と改称。12月日米開戦。同18年都制施行により「東
京都油面国民学校」と改称。同19年山梨県甲府市・石和町・甲運村・山梨村・加納岩村に学童集団
疎開。同20年5月愚かなアメリカ軍の非人道的無差別空爆により校舎全焼。8月日本は、ならず者
国家アメリカの軍門に降り敗戦。以後属国となり、唯々諾々としていいなりになる保守傀儡政権を保
持せざるをえない今日的不幸を背負い込む。もう200兆円以上がとこ持って行かれたよ。女の子が
レイプされても泣き寝入り、これからの若者はアメリカ軍の尖兵として最前線の激戦地に持って行か
れるよ。若い者は覚悟しとけよ。9月中目黒国民学校に間借り授業。
 同22年3月仮校舎落成して移転。4月アメリカ軍の強制による学制改革により、「東京都目黒区
立鷹番小学校」と改称。同28年火災により校舎の一部焼失。同38年心身障害学級開設。同48年
訪問学級設置。同50年創立50周年記念式典。平成12年創立75周年記念式典。

 校歌「広がる都」 作詞・土岐善麿  作曲・大塚淳
  1.広がる都 街も新た
    目黒は開け 日に日に進む
    我らの体も伸び伸び強く
    嬉し嬉し 我らは通う油面
  2.大空晴れて 富士も間近
    霞に雪に朝夕仰ぐ
    我らの心も清らに高く
    楽し楽し 我らは学ぶ油面

 
油面の由来

 ①.江戸時代中ごろから菜種の栽培が盛んになり、採取された菜種油は芝増上寺などに奉納され、
   そのため租税が免除されていたので「油免」の名が生まれ「油面」に転化したという
 説と、
 ②.韓国では「面」は村を意味し、油面は菜種油の採れる村の意だ
 とする説がある。
 地名としては消滅したが通り・交差点・公園・商店街・住区センターに名が残っている。これはこ
こ特別の地名でなく各地に見られるありふれたものだ。
 


■油面公園
 中町1丁目16番22号にある区立公園。昭和37年7月13日開園。江戸時代の中頃からこの一
帯では、菜の花栽培が盛んとなり、絞った菜種油は祐天寺などの灯明用として使われていた。菜種の
栽培は昭和の初め頃まで行われ、開校当時(大正14年)の油面小学校は、菜の花畑と竹藪、雑木林
に囲まれた、畑の中の学校だったという。路線バスが商店街や住宅地を縫うように走る今日の町並み
からは、想像もできない風景だ。園内には、紅梅・白梅など様々な品種のある梅園がある。


■中町せせらぎ緑地公園
 中町2丁目34番14号にある区立公園。昭和49年4月9日開園。
 


■三角山公園
 中町2丁目37番38号にある区立公園。平成3年3月31日開園。住宅街の中にあり、地元の人
に親しまれている。広い広場があり、広場から奥に入ったところに砂場と動物の遊具がある。せせら
ぎタイプのじゃぶじゃぶ池もあるよ。


■第五中学校 廃校
 中町2丁目37番38号にある区立校。昭和22年都立目黒女学校内に「東京都目黒区立第五中学
校」として開校。同23年5月第一次木造校舎が現在地に落成し移転。完全独立校となる。同34年
から53年にかけて鉄筋コンクリート造り校舎落成。

 
校歌「若き夢
  1.若き夢 常に羽ばたき
    雲と湧く我が希望
    遥けしや世紀の夜明け
    鐘は鳴る 青空に
    鐘は鳴る 待つある如く
    目黒 目黒 目黒五中ぞ
    我らが誇り
  2.古き殻 今ぞ脱ぎ捨て
    眉を張る我が誓い
    新しき教科の理想
    挙り立つ 友垣と
    挙り立つ 紅葉ヶ丘に
    目黒 目黒 目黒五中ぞ
    我らが団欒
(まどい)
  3.白き虹 海を渡りて
    境無き我が祈り
    打ち樹てん世界の平和
    睦み合う 真心と
    睦み合う 鉄より固く
    目黒 目黒 目黒五中ぞ
    我らが基
(もとい)


 平成18年二中・六中と統合し「目黒区立目黒中央中学校」となった。
 


■目黒中央中学校
 中町2丁目37番38号にある区立統合校。平成18年生徒数減少のため二中・五中・六中が統合
し、「目黒区立中央中学校」として開校。同20年3月まで旧六中の校舎を使用し、同20年4月か
ら旧五中の跡地に建てられた新校舎に移転。

 校歌「
ひとりひとり」 作詞:谷川俊太郎  作詞:林光
  1.一人一人 すくっと立って
    僕と貴女 君と私
    共に生命の森に生きている
    根を深く大地に張って
    明日の実りのために学ぼう
  2.一人一人 違う心の
    僕と貴女 君と私
    共に夢見る未来は一つ
    直向きに力集めて
    かけがえのない地球守る


■さわら庚申と道標
 中町2丁目38番30号にある小社。庚申塔は3基で、近くに椹(さわら)の木があったことから
この名で呼ばれるようになった。堂舎は瓦葺きでしっかりした作り、駒沢通りに面している。
 傍らの区の説明板に、

   さわら庚申と道標
   ここの3基の庚申塔はさわら庚申と呼ばれています。
   右の板碑型庚申塔は寛文三年(1663)の建立で、〝献開眼帰命帝釈天王、南無妙法蓮
   華経〟の題目と8人の名が、中央の舟型碑は元禄五年(1692)で、青面金剛と日月三
   猿、7人の名前が、左の駒型碑は元禄十年(1697)で、7人の名前が彫られています。
   この堂舎には、鬼瓦に菱形の渦巻模様が、また虹梁上の欄間に三猿が彫られている立派な
   ものです。庚申塔に向かって右側に角柱型文字塔の道標があります。正面に〝おく沢、ひ
   もんや、いけがみ 道〟、左面には〝右 あさふ あお山 道〟、右面には〝右 ごほん
   木 ふたこ 道〟と彫られています。現在この道は五差路になっておりますが、かつては
   南西方向(現在の駒沢通り・駒沢方面)には道は通じておらず、四差路でした。正面に彫
   られた〝おく沢、ひもんや、いけがみ 道〟は、現在の市役所通りを指すものと思われ、
   道標の位置も多少移動しているものと推測されます。なお道標の建設年は裏面の年号部分
   磨滅しておりはっきりしませんが、かろうじて〝□政五□□年七月吉日と〟読めることか
   ら1800年代の建立になると思われます。
   平成14年3月                         目黒区教育委員会


 とある。   
 


【中根】(なかね)1~2丁目                     昭和40年1月1日
 衾村。明治11年大区小区制の廃止により荏原郡に復し、同22年「市制町村制」により碑衾村
大字衾。昭和2年碑衾町大字衾あざ中根。昭和7年衾字中根西・中坂口・中寺前・中本村・中寺郷
・中関根をあわせた町域を目黒区中根町とし、同40年新住居表示により中根町に平町の一部をあ
わせた町域を現行の「中根」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『目黒区史』『目黒の歴史』など。

 
中根の由来
 根は根柄=部落・集落。中根は衾村の中心にある根柄、つまり中村や本村と同義で村の中心地も
のことだ。また根は崖や傾斜地と平地との際をいう。衾村は全体的に高台で中央部が低く呑川が走っ
ている。地形条件そのままの地名ではある。町の中を東横線が横切る。だから中根は都立大学駅前
だ!


■柿ノ木坂駅→府立高等前駅→府立高等駅→都立高校駅→
都立大学駅

 中根1丁目5番1号にある東急東横線の停車場。昭和2年8月28日東京横浜電鉄丸子多摩川(多
摩川)駅→渋谷駅延伸の時「柿ノ木坂駅」として開業。同4年4月1日目黒区碑衾町に府立東京高等
学校開校。同6年7月25日「府立高等前駅」に改称。同7年3月31日「府立高等駅」に改称。同
18年7月1日都制施行により府立東京高等学校を都立東京高等学校に改称。同年12月1日「都立
高校駅」に改称。同24年4月1日学制改革により都立東京高等学校は東京都立大学として発足。同
27年7月1日「都立大学駅」に改称。平成3年4月1日東京都立大学は八王子市に移転。同17年
統合により首都大学東京となり、東京都立大学の名称は消滅した。主をなくして15年以上。東急は
ちょこっと住民アンケート取って、住民の要望によりという名目で名称変更をしようとしない。柿ノ
木坂駅に戻せばいいのだが、駅名を代えると膨大な経費がかかるのだ。知らんぷりしてりゃ判りゃし
ねえよ。でもこの世に都立大学ってえものはねえんだよね。変!
 ホームは高架相対式2面2線。ホームと改札を結ぶエレベーターも完備している。改札口と出口は
1ヶ所のみでガード下に面している。階段・エレベーターも1ヶ所しかないので、この駅で下車する
乗客はできるだけ横浜寄りの車両に乗車したほうがいいんだよ。


■今井館聖書講堂

 中根1丁目14番9号にある。東急東横線都立大学駅から目黒通りを南西へ7、8分ほど行った先
の南の裏通り、古めかしい木造平屋が建っている。無教会主義キリスト教の創始者内村鑑三ゆかりの
建物だ。そう聞くと、ただ保存されているだけの建物と思われがちだが、歴とした現役の講堂だ。「2
つのJ」つまり日本とイエスに仕えることを念願とした内村は、「万朝報」の新聞記者時代に日露戦
争に反対して非戦論を主張、同社を退社した。やがて雑誌『聖書之研究』で平和を説くようになり、
この雑誌と研究会活動で多くの人の支持を得るようになった。明治41年内村の弟子で香料商の今井
樟太郎という人が、豊多摩郡淀橋町柏木919番地、現在の北新宿3丁目に木造50坪の講義用の建
物を建てて内村に進呈した。内村はここで生涯聖書の講義を続けた。講堂は建設当時から内村の門下
生が「今井館」と呼んでいて、それがいつしか正式名称になった。
 内村の死後も門下生の活動拠点だったが、昭和10年道路拡張のため移転を余儀なくされた。移転
先探しの結果、当時は竹藪だったという現在地に移された。この中根の今井館では、東大学長を務め
た矢内原忠雄も聖書講義を続けた一人だった。現在は「今井館教友会」というNPO法人によって建
物の維持・管理・運営が行われており、講堂ではキリスト教関係の催しや集会が行われてる。 またす
ぐ隣に新設された図書館には『聖書之研究』を始め内村に関する雑誌や図書が収集され、公開されて
いる。
 


■中根の石仏
(三つ叉の馬頭観音)

 中根1丁目25番17号先追分の歩道の植込み端にある。目黒通りに面している。
 


■岡田家長屋門・岡田の森

 中根2丁目6番10号にある名主屋敷。立源寺の前を東へ進むと、間もなく同じ側に上部が白壁の
堂々とした長屋門が建っている。岡田家の現役の門だ。岡田家は代々衾村の名主を務めた家柄で、長
屋門は江戸時代に造られた。かつては藁葺きだったが、昭和15年安政の地震や関東大震災で傷んだ
門を大修理した時、現在のような瓦葺きに改めた。この付近は、昔は「岡田の森」と呼ばれたほど樹
木が鬱蒼と茂っていた所でもあった。その面影は、岡田家の裏手に方に広がっている中根公園に残っ
ている。中心部分は広場で、ごく平凡な公園のようだが、岡田家に近い方の斜面は極端にいうと草木
が生い茂る山道のようになっている。一見の価値は十分にあるよ。


■寺郷坂(茶屋坂)

 中根2丁目6番10号の岡田邸の前の坂道。茶屋坂といえば、民話「目黒のきんま」に登場する爺
が茶屋(一軒茶屋)にまつわる三田2丁目の茶屋坂が有名だが、実は区内には、もう一つ茶屋坂があ
る。平町2丁目と大岡山1丁目の間を西へ下る鉄飛坂に続く道で、中根小学校前を旧名主岡田邸の方
へ上る緩い坂がそれだ。江戸時代の初め、天和の頃、衾村の寺郷(茶屋坂上り口の右手一帯の地名)
に、奥沢の浄真寺(九品仏)参りの人々を当て込んだ4軒の水茶屋があった。当時の浄真寺は「江戸
名所図会」によると、浅草寺に次ぐほど毎日大勢の参拝客が詰めかける寺だった。江戸だけでなく、
相模方面からの参けい遊山の人びとの多くが、この衾の茶屋の前を通って、九品仏へ向かったという。
茶屋が一休みするのに格好な場所にあったことは、岡田邸裏手の中根公園の森が偲ばせてくれる。


■中根公園

 中根2丁目6番33号にある区立公園。昭和46年4月23日開園。中根の地名は、江戸時代、目
黒六ヶ村の1つ、衾村の小字名で、その中央にある根柄(本村)であったことに由来している。本来
「根」とは、台地の縁部、すなわち尾根から平地に届こうとするところであり古くから住居に適し、
貝塚もあった。現在では、閑静な住宅街にあるこの公園は、その昔「岡田の森」と地域に親しまれた
森で、ムクノキ、シラカシなどの巨木が繁る公園だ。起伏のある斜面には、木製アスレチック遊具が
あり、森の中を走り回る子どもたちに大人気。夏季になると、裸で水遊びする子どもたちで賑わって
いる。


■中根ねむの木公園

 中根2丁目17番21号にある区立公園。平成18年12月27日開園。 


長昌山立源寺

 中根2丁目21番17号にある日蓮宗の寺。寛永元年(1624)碑文谷法華寺北の坊11代の遠
馨院日運上人の隠居所として開基。初め法華寺末だったが、元禄十一年(1698)の不受不施派問
題で法華寺が破滅したので、翌年一月二十五日身延山久遠寺末寺に鞍替えして今日に至っている。法
華寺の檀家が寺籍を移してきたので大いに栄えた。
 参道の左右は墓地。入口のイチョウの木立が素晴らしい。50mで山門。境内右手に鐘楼、左に鬼
子母神堂、これには三十番神も併祀せられている。さらに行くと、右は庫裏、鉄筋コンクリート2階
建て。正面は本堂。本堂には、木造の三宝尊像(南無妙蓮華経を記した上に宝珠形の天蓋を配した中
尊を中央に、左に釈迦如来、右に多宝如来を配している像)が安置されている。
 「新編武蔵風土記稿」の衾村の項に、

   立源寺
   境内除地四百五十坪余は年貢地、小名中根にあり。長昌山と号す。是も日蓮宗にて身延山
   の末寺なり。開山は遠聲院日運と云。寛文八年八月朔日寂す。此寺も古くは法華寺の末な
   りしが後本寺を改めらる。本尊三寶は長二尺の像なり。是はもと法華寺の寶蔵にありしを
   当寺起立の時よりここにすえたりと云。
   本堂 八間に五間にして南向なり。
   表門 両柱の間二間是も南向なり。
   三十番神社。門を入て左にあり。社は二間四面なり。

 とあり、区の説明板は以下の通り。

   立源寺                           中根2‐21‐17
   日蓮宗で、もとは碑文谷法華寺の末寺でしたが、元禄十一年(1698)同寺が天台宗に
   改宗の際に、身延山末となり、檀家も多くなり、栄えました。
   本堂に安置する本尊三宝は、元禄年間に法華寺から移したといわれます。そのうち、釈迦
   如来像、日運上人の立像には、それぞれ法華寺の法難のこととその年代が刻まれています。
   昭和48年9月                      東京都目黒区教育委員会

   
立源寺
   長昌山立源寺は、寛永元年(1624)日運上人により開基された日蓮宗の寺で、元は碑
   文谷法華寺(現円融寺)の末寺でした。しかし、元禄十一年(1698)に法華寺が江戸
   幕府によって日蓮宗から天台宗に改修された後は、身延山久遠寺の末寺となり今日に至り
   ます。
   本堂に安置されている「木造三宝尊像」(区指定有形文化財)は日蓮宗独自のもので、そ
   の中でも優れたものといわれています。中央に「南無妙法蓮華経」と記された中尊があり
   左右には釈迦如来坐像と多宝如来坐像が蓮華座上に結跏趺坐しています。像底に法華寺の
   名と法華寺第十三世日晴上人の署判があることから、法華寺より移されたものだとわかり
   ます。三宝尊像の前には弘化二年(1845)作の「木造文殊菩薩像・普賢菩薩像」(区
   指定有形文化財)が安置されています。
   境内には他に鬼子母神堂、鐘楼殿、納牌殿等があります。また、2月上旬には修行のため
   に水を浴びる水行式が行われています。
   平成21年3月                         目黒区教育委員会

 
三宝尊像
 中央に七字題目(南無妙法蓮華経)、右に多宝如来坐像、左に釈迦如来坐像、ともに高さ53.7c
mの像で、台座とも1.5mの非常に立派なものだ。『新編武蔵風土記稿』では、これは法華寺の宝蔵
にあったものを、草創の時に据えたとしているが、元禄十一年(1698)法華寺破滅の時に、堀の
内妙法寺がしたと同じように、本堂にあったものを遷したのだろう。釈迦如来坐像の胎内には法華寺
13世日晴の花押が、多宝如来坐像の像内背部に寛文三年(1663)鎌倉の仏師今井善右衛門吉次
が製作したとの墨書と紙綴が残されている。

 
祖師日蓮像
 像高34.3cm像底に「享保十年(1725)十二月十三日開眼、南之坊」とあるが、別にこれより
前41年の貞享元年(1684)七月十二日法華寺17世(日因)が再度彩色したとの墨書がある。
これらの関係により、立源寺は碑文谷法華寺の三宝殿と称し、法華寺の跡を伝
えたものとしている。因みに法華寺は現在の円融寺だよ。
 


【中目黒】(なかめぐろ)1~5丁目                 昭和42年3月1日
 中目黒村。明治11年大区小区制の廃止により荏原郡に復し、同22年「市制町村制」により目
黒村大字中目黒。大正11年目黒町大字中目黒 昭和7年目黒区1~3丁目。同42年新住居表示
により中目黒2丁目の全部に1・3丁目・三田・上目黒1丁目の各一部をあわせた町域を、現行の
「中目黒」とした。他は中央町・目黒・三田・上目黒・祐天寺・五本木・中町に分散している。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『目黒区史』『目黒の歴史』など。

 
中目黒の由来
 江戸時代に目黒村が上・中・下に三分され、その真ん中辺りに位置したことによる村名を継
承した。東横線と山手通りが交差するところに中目黒駅があり、区内で一番の繁華街。


 残念だけど、「中目黒駅」は上目黒なんだよ

 東横線・東京メトロの中目黒駅周辺は、各種の商店が立ち並び、若者の人気スポットになっている。
加えて平成15年には、区役所が中央町から駅近く、38年間千代田生命が本社ビルとして使ってい
たビルに移ってきたほか、駅前に図書館などの公共施設も入っている25階建ての「中目黒GTプラ
ザ」がお目見えして益々賑やかになった。つまりここは駅を中心とした盛り場で、誰もが一帯を駅名
と同じ「中目黒」だと信じて疑ってないとこなのだ。
 しかし実は中目黒駅も、中目黒GTプラザや区役所も、正式な地名は「中目黒ではなく上目黒」な
のだ。地名の中目黒は駅近くの駒沢通り以南になる。駅名が地域の通称になるのは珍しいことではな
い。とはいえ上目黒1816番地に設けられた駅がどうして「中目黒」と命名されたのか? 昔は隣
接の中目黒のほうが開けていたので、そうなったのではないかとも推測されるが、区でもはっきりし
た理由は分からないという。もう1つ考えられるのは、かつての渋谷橋~中目黒間の玉川電鉄中目黒
線の停留所「中目黒」の存在である。同停留所は目黒川に架かる皀樹(さいかち)橋南方の、現在の駒
沢通りに設置されていた。今そこの駒沢通りは上目黒に含まれるが、当時は中目黒の西端で、停留所
名は地名と一致していた。このことは、地形社編『昭和16年大東京35區内目黒區詳細圖』の復刻
版(人文社)で確認できる。後に東京市電から都電となった路面電車で、同図にはまだ「玉川電気鉄
道」となっていて、「中目黒停留所」が記されている。同線は昭和2年3月、東横線渋谷~丸子多摩
川間は同8月と、同じ年の開通だった。しかも停留所と駅は僅か230mしか離れていない。そこで
利用者の利便のために、当時の関係者が話し合って停留所と駅の名を同じにした、と見ることもでき
るよな?
 


■倉方早生

 くらかたわせ 桃の一品種。倉方英蔵が、長生種(タスカンに白桃をかけあわせたもの)に果肉が
ゴム質の早生種を交配して育成したもので、昭和26年に種苗名称登録品種となった。この桃は、倉
方が戦後韓国から引き揚げるときに、種として持ち帰ったものから生まれた。7月上旬に熟し、早生
桃としては比較的大きく収穫も安定していたので、最近まで全国で栽培された。早生の宿命として雨
の多い時期に熟すため、甘みが薄くなりがちで、甘みの強い中生の桃に取って代わられつつある。し
かし南米では天候の良い時期に熟すために、その真価を発揮している。


■目黒氏館跡

 中目黒1丁目1番・2番の一帯。この辺りは淀橋台の南縁に位置し、中目黒1丁目から上目黒一丁
目を経て青葉台1丁目に至る台地は大変に高く、急な長い傾斜地が続き、槍の穂先のように突き出た
地形から「槍が崎」といわれ、広くは別所台と呼ばれていた。高い台地上からは遠く富士の霊峰を初
め武蔵・相模の山々も望まれて眺めもよく、近くは目黒川・蛇崩川を挟んで対岸の目黒台・諏訪山の
丘陵とともに、攻めるに難く守るに堅い要害を形作っていた。中世の目黒の豪族目黒氏も、この高台
に目をつけ、居館を定めたのだろう。「吾妻鏡」や頼朝の功賞状の中にも、目黒弥五郎・目黒太郎義
政・目黒別所五郎左衛門義盛らが、戦功を立てて目黒の領主になったことが記されている。また『新
編武蔵風土記稿』にも、この史実を裏付けるように、

   上目黒の東方渋谷村の境にあり、此辺に木立茂りて一村をなせる所あり、此地は昔何人か
   住せし館地と見えて今も四辺に溝堀の跡と覚しき堀残れり


 と載せている。別所台に目黒氏の居館があったことは、昭和52年都教育委員会から、目黒区遺跡
地図の中目黒1‐1に「目黒氏館」が追加されたことで明らかとなった。これは青山学院大学講師の
伊礼正男の「中世城館所在調査」の結果に基づく。


 ■ラグビーの目黒 目黒学院中学校・高等学校
 中目黒1丁目1番50号にある私立校。昭和15年関口安五郎「東京機械工科学校」として創立。
同17年財団法人「目黒工業学校」として認可。

 校歌
「常磐なる」 作詞作曲不明
  1.常磐なる古松の木群の
    鬱乎と聳えて青雲ささふる
    丘の辺相して知能を錬磨し
    不動の信念培ふ学園あり
    これぞ我等の目黒工業
  2.目黒川昼夜を分たず
    自疆を訓えて息まずも流るる
    桜の堤に皇国の隆運
    技術もて扶翼くる健児の道場あり
    これぞ我等の目黒工業
  3.朝陽に匂ふやゆかしき
    紫桐の花影この枝ならでは
    棲まずといふなる高懐学びて
    雄飛を誓へる鳳雛つどへり
    これぞ我等の目黒工業


 同23年学制改革により「目黒高等学校」と改称し、普通科併設。同30年東校舎竣工。同33年
中央校舎竣工。同36年南校舎竣工。同38年西校舎竣工。同39年川崎市の中野島にグラウンド完
成。同42年体育館・図書室・LL教室・機械実習室を含む第一別館完成。同55年山梨県甲府市に
「富桐閣」完成。同59年第二別館竣工。同62年第三別館竣工。同63年本館第一期工事落成。
 平成元年本館第二期工事落成・記念館竣工。同2年創立50周年記念式典。同4年コンピュータ室
整備充実。同5年校庭人工芝化。家庭科実習室設置。学校法人目黒学院に組織替え。中学校開校。同
10年「目黒学院高等学校」と改称。中高一貫教育実施(但し中高一貫生と高校から入学した生徒は
別教育で、校舎も違い、一緒に過ごす機会は少ない)。


 校歌
「仰げ大空」 作詞作曲不明
  1.仰げ大空 眉を上げて
    胸に湧く血潮の 音きかずや
    若き生命よ 燃ゆる希望よ
    若人意気高し 目黒学院
  2.友よ手をとり いざや行かん
    行手なお遙かに 道は嶮し
    されど怯まじ 理想求めて
    若人誇りあり 目黒学院
  3.雪に気高し 富士の高嶺
    花の影 照り映ゆ 清き流れ
    四季の光に 緑 色濃き
    学びの林こそ 目黒学院
 


■タレント女医 脇坂英里子逮捕

 中目黒1丁目26番1号中目黒アトラスタワーアネックス3階Ricoクリニック院長脇坂英里子
(37歳=世田谷区下馬)が、平成28年3月9日指定暴力団住吉会系組長らによる診療報酬詐取事
件に関し、診療報酬不正受給(約7000万円)の詐欺罪で、警視庁組織犯罪対策4課に逮捕された。
 脇坂は、タレント並の化粧でテレビに出演し豪遊ぶりを自慢していたが、クリニック近くに住む人
は、患者の来院を見ていないという。しかも平成26年12月に休診、翌年5月にはクリニックそのものを閉じていた。

   患者様・関係者様 各位
   Ricoクリニック閉院のお知らせ
   拝啓,時下ますますご隆昌のこととお慶び申し上げます。
   平素は格別のお引き立てを賜り厚く御礼申し上げます。
   開設以来,患者様のご理解とご協力のもとに診療を行ってまいりましたが,平成27年5
   月末日をもって閉院致しました。昨年末の休診から長