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 東京知ったかぶり!
 平成17年2月11日発信  リンクフリー
 地名の由来東京23区辞典 引用自由

 文京区の地名の由来
      現在進行形の調査なれば、逐次、誤謬訂正・新規追加あり。御用心 御用心

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 【巻末特集】 江戸しぐさ
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 槍ヶ崎事件 祐天寺 酸素魚雷
 音羽ゆりかご会 八雲学園 目黒のさんま 
 
   
 



文京区の地形
 武蔵野台地の東端部に位置しており、区内には台地が広く分布する。また東の境界沿いと南側の神
田川沿いは谷地となっており、区のほぼ中央部分にも比較的大きな谷地が縦方向に横たわっている。
 戦前本郷区と小石川区に分かれていたが、本郷区は本郷台地で、東は台東区との境を根津谷で区切
り、小石川区とは茗荷谷・小石川谷を境とした。本郷台は小石川谷の支谷である鶏声ヶ窪(指ヶ谷)
が入り込んで白山台を作る。なお本郷台は「山の手」の小指の位置に擬えられている。向ヶ丘は、上
野台から根津谷を挟んで向こうの台地の謂いで、本郷台全体ではなく東京大学一円の本郷台の部分を
指した。根津谷は石神井川の流路跡で、同川が飛鳥山で現在の川筋となってからは、染井などの湧水
を水源とする谷田川(藍染川)となった。小石川谷は谷端川(大下水・千川)、指ヶ谷は東大下水と
いう川が流れていた。小石川とは「石川の小流」の意で、石川とは石川原を伏流する川をいう。江戸
時代に千川用水から分水を受けるようになって千川と呼ばれるようになったが、このとき大きな川と
なり、不忍通りの猫股橋付近ではしばしば洪水を引き起こし、死者も出るような災害をもたらした。
 小石川区は、茗荷谷・小石川谷の西の雑司ヶ谷台・小日向台・小石川台・関口台で構成される。雑
司ヶ谷台・小日向台・小石川台の間に谷間はなく階段状に低くなる。関口台は音羽谷で区切られ、神
田川との間に伸びた舌状台地の先端部で目白台とも謂う。音羽谷は池袋の丸池からの弦巻川と、大塚
からの音羽川が平行して流れていたが、いずれも暗渠化して水面を覗うことはできない。なお小石川
台は山の手の薬指の部分に当たる。
 


■地形・地質と住宅地盤
 台地面
 比較的海抜高度が高く起伏の少ない平坦面で、関東ローム層と呼ばれる火山灰土で覆われている。
関東ローム層は、上部のローム層(赤土)と下部の凝灰岩粘土に大別されるが、自然堆積したローム
土は、安定しており比較的大きな強度が期待できるため、表土部分に注意すれば住宅地盤として良好
な場合が多い。区の大部分。
 

 
台地と低地の境
 台地の側面が低地側へと下る斜面で、台地面と同様に安定した地盤となっている場所もあるが、後
背地から浸透してくる雨水や地下水の影響で地盤が軟弱化したり、雨洗によって台地側から運ばれて
再堆積した軟弱土が分布する。また人為的に造成されていることも多く、場所によって盛土の厚さが
異なるように地盤のバランスが悪くなっていることがある。したがって、不同沈下を防止するような
基礎補強策が必要となることも多い。
 

 
谷底低地
 
台地部が小河川などによって削られて形成された低地で、台地部の間に樹枝状に分布している。台
地を形成していた土砂が再堆積した土や有機質土(腐植土)などが分布しており、非常に軟弱な地盤
となっている。したがって、長期的な沈下(圧密沈下)を防止するような基礎補強策が必要となるこ
とが多い。弦巻川・神田川の流域、茗荷谷、千川(谷端川)の流域、鶏声ヶ窪・指ヶ谷の流域、根津
谷、護国寺の東の谷。
 
 



文京区の変遷
 現在の文京区の区域に属する江戸時代の町々は、慶応4年(1868/明治元年)5月12日江戸府
所属。7月17日東京府所属。同7年大区小区制により第四・第五・第九大区に編入。この大久保利
通の独断専制に全国規模で不平武士が決起、これに大久保が弾圧で応じたためで各地に抗争が勃発し
た。その最たるものが明治10年の西南戦争で、大久保が己の独裁のために盟友である西郷隆盛まで
も屠ったためにいよいよ国民の敵と見なされ、大久保芟除こそが日本の目的となった。翌11年5月
14日誅殺から逃れるため仮皇居に向かう紀伊国坂の通勤路を、麹町は清水谷の沢道に変えた数日後、
大久保は正義の刃の下に斬殺され黄泉の国へ旅立たされた。親玉を取られた内務官僚たちは周章狼狽
してなすところを知らず。2ヶ月後の7月22日大区小区制を廃止して「郡区町村編制法」を施行、
本郷区・小石川区が成立し自治権を回復した。同22年5月1日「市制町村制」施行、同31年10
月1日東京市独立。同44年「市制町村制改正」により本郷・小石川・小日向を冠する各町はその冠
称を削除。昭和7年10月1日東京市35区制。同18年7月1日東京市の自治権が増大したことを
危惧する内務官僚が、「府県制」を改正して東京市と東京府を廃し東京都を誕生させた。直轄監理を
目指した。ところが敗戦で占領軍に支配されるところとなり、同21年9月27日知事・市区町村長
は公選制となったが、これには内務官僚が驚愕して占領軍に自治権の拡大をしないように申し入れた
が、逆に白人に強権政治や私利私欲の行政がどれほど愚かであるかを説かれ、涙ながらに非を悟って
立ち帰ったという。同22年戦災からの復興のための都心区の再編統合により本郷・小石川両区が合
併して一区(139町)となった。
 新住居表示は完了。平成16年の町名数は19。区役所は春日1丁目にある。藩邸・旗本士宅など
の武家屋敷が多かったため何となくしっとりとした住宅区となっており、都心にありながら中心3区
より喧騒のない上品な区に仕上がった。友好・姉妹都市は、サッカーのワールドカップ・ドイツ大会
の日本の初戦オーストラリア戦が行われた南ドイツの静かな文化都市カイザースラウテルン市。図
書館は8、ほかに国会図書館東洋文庫・永青文庫・ふるさと歴史館がある。小学校24(国立3、私
立1)・中学校27(国立3、私立13)・高校26(国立2私立20)大学は東大ほか東京医科歯科
・筑波(教育)・順天堂・東洋・中央(理工)・日本医科があり、短大は跡見学園・拓殖・東洋音楽・
東洋・東洋女子・文京学園など。文化施設は護国寺・伝通院・根津神社・湯島天神・白山神社・小石
川植物園・六義園・小石川後楽園・東大育徳園・関口芭蕉庵・東京ドームシティ・小石川公園・新小
石川公園・弥生式土器出土遺跡・・・


■カイザースラウテルン
 
 ドイツ連邦共和国のラインラント・ファルツ州の中心に位置し、フランクフルト市から南西へ約1
00kmの距離にある。面積は約139㎡で、文京区の約12倍、人口は約10万人。市の周辺は起
伏に富んだ大きな森に囲まれている。そこは静かな佇まいの中に、新旧の住宅地と緑の自然がよく調
和した古い歴史の美しい町だ。町には、大学や各種の学校が散在し、劇場、ホールなどの施設やサッ
カースタジアムなどのスポーツ施設も整備されている。FIFAワールドカップドイツ大会の開催都
市に選ばれ、フリッツ・バルタースタジアムで
日豪戦を含め合計5試合が行われた


文京の由来
 区名案を東京新聞が募集したところ、春日・湯島・富士見・音羽・山手などがあったが決定を見な
かった。偶然小石川区の職員案の中に「文京」があり、本郷区の統合交渉委員会に提案したところ、
両区の特徴が端的に表現されていて文字も書きやすいことから新区名として決定した。昭和22年3
月5日公布、同年3月15日施行。
 水戸藩邸で『大日本史』が編まれ、孔子廟(湯島聖堂)・桜峯塾(昌平黌/師範学校→東京師範学
校→東京高等師範学校・東京文理大学→東京教育大学→廃学/筑波大学新設)・帝国大学(東京大学)
・吉祥寺栴檀林(駒沢大学)・台湾協会学校(東洋協会専門学校→拓殖大学)・女子高等師範学校(御
茶ノ水女子大)・日本女子大学校(日本女子大学)・跡見女学校(跡見女子大学)・香蘭女学校(品
川区に移転)、日本女学校(相模女子大)など学校の多い文教区で、江戸時代から多くの文人墨客が
足跡を残してきた。その歴史からして「文化の京」と名づけるにふさわしかろう。落ち着くところに
落ち着いた観のある名だ。
 


■区歌
   「ああ大江戸の昔より」 作詞・佐藤春夫  作曲・弘田龍太郎
  1.あゝ大江戸の昔より
    ここは学びの土地にして
    紅の塵 近けれど
    緑の丘は静かなり
    書
(ふみ)よむ窓の多(さわ)なれば
    家 自
(おの)ずから品位あり
    都は文化の中心地
    わが区は都の文京区
  2.今 新時代
(あらたよ)の朝未明(あさまだき)
    自由民主の鐘の音に
    人は巷に迷へども
    我等が隣安らへり
    物知る人の多
(さわ)なれば
    町 自ずから平和あり
    都は文化の中心地
    わが区は都の文京区


■区の木
イチョウ・区の花 ツツジ
 区民と区との緑化活動のシンボルとして、区の木を「イチョウ」、区の花を「ツツジ」と定めた。
これは、昭和49年9月から12月にかけて公募したものから、文京区にふさわしく、既に多く植え
てあり、今後の植栽にも適していることなどを基準として、選定委員会を開いて決めたものだ。決し
て区職員の独走によるものではない。


■五大花まつり

 
うめまつり   メイン会場 湯島神社
 
さくらまつり  メイン会場 播磨坂
 
つつじまつり  メイン会場 根津神社
 
あじさいまつり メイン会場 白山神社
 
きくまつり   メイン会場 湯島神社


 ■江戸川という川 
 狛江とは
 井の頭池の古名で、上古よりこの池があることにより、この池を中心に5里一円は狛江郷と号した
(武蔵名所図会)。したがって狛江郷は現在の狛江市より広く、調布・三鷹・武蔵野3市、練馬・杉
並・世田谷3区、川崎市北部にまで及んでいたということだ。深大寺の創建は天平五年(733)と
伝わるが、開山の満功上人は高句麗からの渡来人福満と先住の娘との間に生まれてきた人という。高
句麗は高麗で、高麗は日本では「こま」と読む。土地の人とて渡来人であるから、そこには既に高麗
人の社会があった。つまり在日は太古の昔からいたのだ。戦後の歴代総理の中で日本人は田中角栄と
小渕敬三の2人といわれ、片山、岸、佐藤、阿部らは戦国時代以降の朝鮮部落出身だし、戦後に日本
人となった小泉純一郎、菅直人、野田佳彦など、ユダヤ資本の手先となって活躍した。それでも竹下
登はアメリカに逆らったという理由でハワイでCIAの手にかかって殺されたらしい。遺体は冷凍さ
れて突き返されたという。民主主義が聞いて呆れるぜ。
 狛江は「高麗の入江」 井の頭池を中心として半径12キロの円を描くと西辺に稲城の馬引沢、南
辺に馬絹・有馬、東南辺に馬畔(目黒)・駒場・馬引沢(上馬・下馬)・馬込、東辺に馬白(目白)
駒井・早稲田鶴巻・高田馬場・駒込、北辺に練馬がある。この馬または牧場に由縁のある地名のとこ
ろが、狛江を領した者の勢力範囲だったのだろう。狛江は、吉祥寺村起立後は「吉祥寺の池」と呼ば
れ、江戸幕府成立後は、三代将軍家光によって「井の頭池」と命名されて、終に狛江の名は忘れ去ら
れてしまった。なお井の頭とは「神田上水の水源地」の意だよ。
 

 
江戸川(神田川中流

 七ツ井(井の頭池)から出て江戸に向かって流れたのでその名で呼ばれるが、徳川氏の入国以前に
も江戸川だったのか、何処まで江戸川だったのか、また違うならどう呼んでいたのかが判らない。そ
れほど人が住んでいたとも思われないので名前はなかったかな? 古川という名があるが、新川があっ
て古川な訳だから、古川は神田上水が出来てからの神田上水上流の呼称ではあるまいか? 川は船河
原橋から新小川町の辺りにあった巨大な白鳥池に流れ込んで終わった。「平川」は白鳥池からの流れ
だ。だから江戸川は平川の上流でもあった。徳川家康の江戸御討ち入りにより飲料水の川とされてか
ら「神田上水」と呼ばれ、昭和40年の河川法で「神田川」に統一された。江戸時代神田上水の下流
は関口(洗堰)で上水が素堀(しらぼり)となって水道橋の方に向かうので、外濠に向かう2.2キロ
の流れ江戸川といった。この川は「御留川」つまり禁漁・禁泳の川で、船河原橋のところに堰が築か
れ、それを越えて外濠に落ちた魚は釣ってもよかったので、船河原橋は終日釣客で賑わったという。
堰から落ちる水はさながら滝の如くあり、瀑音轟いて「ドンドン」の俗称があった。

 島崎藤村の江戸川の景。
    水静かなる江戸川の
    流れの岸にうまれいで
    岸の桜の花影に
    われは処女となりにけり
    ひとりの姉をうしないて
    大宮内の門を出て
    けふ江戸川に来て見れば
    秋はさみしきながめかな
    桜の霜葉黄に落ちて
    ゆきてかえらぬ江戸川や
    流れゆく水静にて
    あゆみは遅きわかおもひ


 東京と千葉の境の川も江戸川というが、これも江戸に向かう川の意。その前は利根川で、更にその
以前は太日川といった。古東京湾が利根川の吐く土砂が堆積して陸地化し、その課程で低地となって
水が流れたものの一部で、初め利根川は隅田川だったが、利根川は陸地の活用のため次第に東遷、古
利根川を流れ、中川に移り、太日川に移り、現在の利根川は徳川家康の命令により、常陸川に付け替
えられたものだ。
 荒川は初め東流して利根川に流れ込んでいたが、その名の通り暴れ川で、農業の安定のために川越
で付け替えられ入間川に流し替えられた。入間川の下流は元利根川である隅田川でそれで昭和40年
河川法で隅田川になるまで、隅田川の本名は荒川だった。荒川放水路を新しい荒川としたためで、荒
川放水路を開鑿したことにより、入間川は新河岸川と改名した。
 

 
神田川
 
江戸川と外濠が合流するドンドン(船河原橋)から下流、御茶ノ水、柳原を経て隅田川に落ちるま
での川。現在は井の頭池からの全川の正式名称。江戸時代以前にはこの名の川はなかった。あったと
すれば今の日本橋川が改修される以前、小流であった頃そう呼ばれたかも知れない。 当時江戸湾や
日比谷入江には紅葉川・弦巻川・平川・谷端川・谷田川(旧石神井川)・千鳥が淵の川・桜川の水な
どが流れ込んでいた。これでは大雨になれば江戸は常に洪水にさらされる。無論それまでもしばしば
洪水に見舞われたが、当時の集落はポイントであり、高みに寄ればまあ何とか凌ぐことはできた。城
下町が面となれば為政者として治山治水は必須の事柄、幕府は大水を避ける必要に迫られる。それが
伊達家に掘らせた北面の外濠川だ。これは本郷台地先端の神田山を東西に切り通し、横山村と浅草村
の間を流れていた小流浅草川に繋ぐもので、悪戦苦闘して神田山を切り通したので「神田川」と名づ
けられた。

   仙台堀というべきを神田川(川柳)

 江戸へ流れ込むべき紅葉川・谷端川・弦巻川・谷田川の水はみんな神田川を通って隅田川に流れ、
谷田川(石神井川)が断ち切られたために、下流部は東西の堀留川になった。神田小川町の名となっ
た小川もこの時に消滅した。
 「神田上水」というのは関口の堰口から素堀となって万年樋(水道橋)江戸市中に地下水道として
配った上水道のこと。関口から上流の江戸川または井の頭川もそう呼んだ。

   神田川跨いで通る井の頭(川柳)
   江戸中をのたくりまわる井の頭(川柳)


■文京区の学校

 ●小学校24(区立20・国立3・私立1)
 青柳・大塚・駕籠町・金富(かなとみ)・窪町・小日向台町(こひなただいまち)・駒本・指ヶ谷
 ・汐見・昭和・誠之・関口台町・千駄木・根津・林町・本郷(真砂+元町)・明化・礫川(れきせ
 ん)・柳町・湯島
 東京学芸大学附属竹早・筑波大学附属・お茶の水大学附属
 日本女子大学附属豊明

 ●中学校27(区立11・国立3・私立13)
 第一・第三・第五・第六・第七・第八・第九・第十・文林・茗台・本郷(第二+第四)
 東京学芸大学附属竹早・筑波大学附属・お茶の水大学附属
 淑徳学園・京華・京華女子・京北・貞静学園・跡見学園・東邦・日本大学豊山・独協・桜蔭・郁文
 館・駒込学園・文京女子大学


 ●高等学校27(都立4・国立2・私立16)
 竹早・小石川・工芸・工芸(定時制)・向丘
 筑波大学附属・お茶の水大学附属(※なお学芸大附属高校は世田谷と大泉にある)
 京華・京華商業・京華女子・村田女子・東洋女子・桜蔭・跡見学園・京北学園白山・貞静学園・京
 北・日本大学豊山・文京学院女子・郁文館・郁文館国際・東京音楽大学附属・東邦音学大学附属・
 中央大学附属

 ●短期大学
 東邦音楽・文京学院・貞静学園

 ●大学(国立4 私立9)
 東京大学(本郷・弥生)・筑波(東京)・御茶ノ水女子・東京医科歯科(湯島)
 跡見学園女子(茗荷谷)・日本女子(目白)・順天堂(本郷)・日本医科・中央(後楽園)・放送(東
 京文京学習センター)・文京学院・東洋(白山・第二白山)・拓殖大学(茗荷谷)
 



そんじゃあ 文京区の地名について始めるぜい

【大塚】(おおつか)1~6丁目                    昭和41年4月1日
 小石川大塚上町・小石川大塚窪町・小石川大塚坂下町・小石川大塚仲町・小石川大塚町。慶応四
年(明治元年)東京府編入。同5年巣鴨辻町を小石川大塚辻町に改称、大塚各町は周辺武家地、寺
地を編入。同11年「郡区町村編制法」により小石川区に所属。同44年「市制町村制改正」によ
りそれぞれ小石川の冠称外した。昭和22年文京区に所属、同41年新住居表示により大塚町・大
塚仲町・大塚辻町・大塚上町・大塚坂下町の全部に大塚窪町・東青柳町・氷川下町の各一部をあわ
せた町域を現行の「大塚」とした。現在の大塚の町域は江戸時代では9割方藩邸士宅か寺社領で大
塚五町は僅かの面積だった。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『文京区史』『文京の歴史』など。

 大塚の由来
 本来茗荷谷北方の台地の通称で、「大きな塚」があったことによるが、その大塚について諸説あ
る。「塚」とは本来「盛土した墓」のことで、この大塚は、①古墳説。②太田道灌の物見台説(江
戸誌)。③水戸邸(?)内の一里塚説などがあり、一定しないが、何れにしろその大塚は昭和初期に
削土したため残っていない。写真はあり、高さ5尺(1m50cm)ばかりで、頂に榎の大樹朽木
が残っている。塚の前に大塚稲荷が祀ってあった。貞静学園の裏と説明している。『東京案内』に
「田圃中に一つの堆塚(たいちょう)があって〝大塚〟と呼んでおり、往古の一里塚とも道灌の狼
煙台跡ともいう」と記してある。


 
山手線の大塚駅は豊島区西巣鴨にあり

 本来の大塚とは縁も縁(ゆかり)もない。線路敷設も、駅開設も予定にはなく、諸事情で開設さ
れたもので、開設当時は低湿地で使い物にならないところであり、そのために線路が土手を築いて
敷設してある。だから大塚は昔も今も大塚の中心「大塚仲町(大塚3丁目)」だ! 池袋が戦後繁
華街となるまでは、大塚仲町が一大繁華街だったんだよ。

   鳥籠を手に取り提げて友と吾(わが) 鳥買いに行く大塚仲町(会津八一)
  

 おーい男女共学になっちゃったぞー!
■貞静学園幼稚園・中学校・高等学校・短期大学
 大塚1丁目2番10号、拓殖大学のすぐ北にある私立校。昭和5年高橋マキ「貞静学園」を創設。
同7年貞静幼稚園・保姆養成所開設、同9年商業科新設・保姆科に改称。同15年「貞静学園商業女
学校」設立。同16年財団法人化。「貞静学園女子商業学校」と改称。同20年日本敗戦。ならず者
国家アメリカの軍門に降り、属国となる。今日的不幸の始まり。
 同21年「貞静学園高等女学校」と改称。同22年アメリカの強制による新学制により「貞静学園
中学校」設置。同23年新学制による「貞静学園高等学校」設置。同26年学校法人に組織変更。同
同30年貞静学園高等保育学校(修業年限2ヶ年制)設置認可。文部省指定教員養成機関。貞静幼稚
園学校法人に設置変更認可。同37年軽井沢研修所新築落成。同53年保育専門学校専修学校として
認可。同55年創立50周年記念式典。同57年文京区小日向1‐26‐13に校地購入。同62年
保育専門学校校舎新築落成。
 平成2年貞静幼稚園舎改築落成。群馬県草津町落合に温泉付研修所落成。同11年保育専門学校に
介護福祉専攻科を新設し「貞静学園保育福祉専門学校」と改称。同12年創立70周年記念式典。同
14年第1期中学高等学校校舎新築落成。同16年第2期中学高等学校校舎新築落成。同17年創立
75周年記念式典。同20年短期大学開学。同23年男女共学化。
                      *
 創立以来様々な変遷を経て、現在では幼稚園、中学校・高等学校、保育福祉専門学校、短期大学を
擁する一大学校群と変貌した。「至誠、和敬、慈愛」を校訓として、誠実で豊かな人間愛に満ち、社
会に貢献できる人物の育成を目指して、開校以来弛むことなく力を注いでいる。

 
保育福祉専門学校
 昭和7年「保姆養成所」設立認可。同?年「貞静学園保育学校」と改称。同30年幼稚園教員養成
期間として文部省(文科省)指定を受ける。2年制・幼稚園教諭2種免許状取得。同?年「貞静学園
高等保育学校」と改称。同44年児童福祉に基づく保母の資格もあわせて取得できる機関として厚生
省(厚労省)指定を受ける。
同49年「貞静学園保育専門学校」と改称。同53年専修学校として認
可。同62年小日向1丁目26番の新校舎に移転。


■地名 大塚発祥の地の碑

 大塚1丁目3番8号、
茗荷谷駅前(茗荷坂の上)の三井住友銀行研修所内にあるらしい。探したん
だけどなぁ・・・・写真があるからあるんだよな。
 以下に示す碑文によると、明治33年に本郷区龍岡町に創立した日本女学校が、同43年に移転し
てきて、帝国女子専門学校を創立し、日本高等女学校を併設。大正4年同女学校内に静修実科女学校
を併設した。昭和20年愚かなアメリカ軍の非人道的無差別空爆により校舎は全焼した。
 相模女子大学とその付属中・高の旧地で、戦後相模大野に移転した。
 この日本高等女学校大塚校舎校庭の一隅の、樹木に囲まれた塚の上に稲荷の小祠があった。これは
先史時代の古墳で、滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』の主人公犬塚信乃戌孝の故郷〝大塚の里〟はこの
辺りをいい、大塚はこの古墳に因んだ地名。昭和46年東大名誉教授文学博士の宇野哲人が咆えてん
だから間違いあるまい。但し『府内備考』に旗本森川屋敷に大塚があるとしているが、森川屋敷は隣
の跡見学園の敷地に当たる。道灌の物見台・狼煙台は7ヶ所もあったというから。長い間にこんがら
がっちゃって無茶苦茶に認識されたのだろう。渋谷区初台も道灌の物見台・狼煙台に由来する。碑の
大塚、貞静学園裏の大塚、森川屋敷の大塚は同じ物を指していると思われる。

   
地名 大塚発祥の地
   日本高等女学校明治三十三年創立帝国女子専門学校明治四十三年創立静修女学校大正四年
   創立以上三校の旧校地ここ大塚七十番地の校庭の一隅に樹木に囲まれた稲荷の小祠があっ
   た。 元来これは先史時代の古墳で昔から大塚といわれて居り馬琴の八犬伝に見え大塚の里
   は即ちこの附近一帯の土地であってこの古墳に因んだ名称である。 小祠は学校と共に昭和
   二十年の戦災によって焼失し、その焼跡は三井銀行の所有となって二十五年の歳月が流れ
   た。 卒業生有志は由緒あるこの古墳の湮滅を憂い三井銀行に懇請して幸に承諾と後援とを
   得石碑を建立て永く後世に伝える
   昭和四十六年六月吉日
                         東京大学名誉教授文学博士 宇野哲人選
                                    干時齢九十七歳
                         日本書道連盟理事  青蓼 深沢邦一書
                           発起人 相模女子大学理事 上床雪
                                   建立  三井銀行
 


 
跡見学園中学校・高等学校
 大塚1丁目5番9番にある私立校。天保十一年(1840)創立者跡見花蹊は摂津国(現在の大阪
府)に生まれ、安政六年(1859)大阪中之島にて実家を引き継ぎ「跡見塾」の塾主となる。明治
8年東京神田仲猿楽町に「跡見学校」を開校。知育だけでなく情操教育にも重きを置いた跡見独自の
教育方針が確立する。同18年ワットソン夫人を招聘して英語教育。同21年小石川柳町の新校舎落
成。同42年創立35周年記念式典・跡見花蹊古稀祝賀会。大正2年新校舎落成式 財団法人「跡見
女学校」と改称。同14年創立50周年記念式典。同15年跡見花蹊没。
 昭和5年洋装制服制定。同7年小石川区大塚(現在の茗荷谷キャンパス)に新築移転。同9年創立
60周年記念式典。同19年跡見女学校を廃し「跡見高等女学校」となる。同20年愚かなアメリカ
軍の非人道的無差別空爆により校舎全焼。8月日本敗戦。ならず者国家の軍門に降り、哀れにもその
属国とされ、唯々諾々たる傀儡政治を行わざるを得ない今日的不幸を背負い込む。
 同22年アメリカ軍の強制による学制改革により「跡見学園中学部」を設置。同23年「跡見学園
高等学校」を設置。同25年短期大学快学。創立75周年記念式典。中等部を「跡見学園中学校」と
改称。同26年財団法人「跡見女学校」を廃し、学校法人「跡見学園」設立。同30年鵜原寮落成、
創立80周年記念式典。同32年北軽井沢浅間寮落成。同40年高等学校2年生、関西修学旅行へ出
発。新幹線利用第1号として話題に。創立90周年記念式典。同50年創立100周年記念式典。同
60年北軽井沢研修所竣工。創立110周年記念式典。
 平成2年中学校・高等学校新校舎竣工。跡見花蹊生誕150年記念式典。同7年跡見学園開学12
0周年記念式典。同17年創立130周年記念式典。

 
校歌「
はなざくら」 作詞・大和田建樹  作曲・多久毎 編曲・伊達愛
  1.学びの庭に咲き匂う
    大和心の花桜
    かざせやかざせ諸共に
    御世のめぐみのつゆそへて
  2.隔てぬ蔭に生い育つ
    同じ学びの姉妹
    解けや蕾の花の紐
    雨の情を母として
  3.萌ゆる草葉の野辺広く
    教えに洩るる色も無し
    花の下道跡留めて
    猶分け入らむ奥までも

 
跡見花渓胸像
 正門を入って行くと左手にある。登校時に校門でそっと立ち止まり一礼。下校時は校門を出る際に
そっと立ち止まり、振り返って一礼。いつの頃からか、生徒間で自然に生まれ現在も継承されている
風習だ。生徒が自ら伝統を重んじ、畏敬の念を込めて一礼をするなんて日本的だねぇ。世界でこんな
愛らしい風習を持つ学校はあるまい。

   
初代校長 跡見花渓先生像   


 天保十一年四月九日摂津国(大阪府)に生まれる。名は瀧野、雅号は花蹊、不言。12歳の頃まで
には一通りの画、琴を学び、16歳の秋、京都へ学問修行のため旅立つ。頼山陽の門下生である宮原
節庵の下、漢学・詩文・書法を、円山応立と中島来章に円山派の画を学ぶ。その後、摂津へ戻り、父
と大坂(大阪)中之島に跡見塾を開く。その傍ら山陽門下の後藤松陰に就いて漢学を学ぶ。明治3年
東京へ移り、同8年神田中猿楽町(千代田区三崎町)に跡見学校を開学。これより跡見学園の長い歴
史が始まる。花蹊は、教育者の前に画家として、また書家としてその名を広く知られており、諸芸術
の心を以て、新時代を生きる女性の育成に当たるべく跡見学校を開学したのでだ。


跡見学園大学(3・4年生)・短期大学(平成19年廃止)
 大塚1丁目5番9号にある私立女子学校。昭和21年跡見高等女学校に修業年限3年の専攻科[家
政科と文科(国文)]
設置。
同24年跡見学園高等学校に修業年限2年の専攻科を設置。同25年専
攻科を「跡見学園短期大学」に昇格。修業年限2年の文科(国文)と家政科(家政保健課程・生活芸
術課程)の2学科を設置。同27年跡見学園短期大学、生活芸術課程を家政科から独立させ、生活芸
術科を設置。同40年埼玉県新座市に「跡見学園女子大学」設立。国文学科・美学美術史学科の2学
科を設置。同42年大学に英文学科を増設。同49年大学に文化学科を増設。同57年短期大学文科
に英文専攻課程を増設。文科(国文専攻・英文専攻)となる。平成2年跡見花蹊生誕150年記念式
典催行。同4年大学に新図書館完成。同7年跡見学園短期大学を「跡見学園女子大学短期大学部」と
名称変更。跡見学園開学120周年・跡見学園女子大学創立30周年記念式典。跡見学園女子大学に
花蹊記念資料館完成。同8年跡見学園女子大学花蹊記念資料館、博物館相当施設の指定を受ける。マ
ルチメディア教育センター設置。同14年大学文学部に人文学科・臨床心理学科を開設。ネジメント
学部マネジメント学科開設。花蹊メモリアルホール完成。マルチメディア教育センターを情報メディ
アセンターに改組。同17年跡見学園開学130周年・跡見学園女子大学創立40周年記念式典。同
27年跡見学園開学140周年・跡見学園女子大学創立50周年記念式典。
 この学園は清泉女子大と共に目立たないが、お嬢様学園として知る人ぞ知る名門。
 1、2年生は新座キャンパス、3年生から茗荷谷キャンパス。

 
校歌「
はなざくら」 中・高校歌に同じ。

 泉会々歌「
すももあり」 作詞・伊藤嘉夫  作曲・明本京静
  1.李(すもも)あり 花咲けり
    湧き出いづる泉の辺
(ほとり)
    花の影 風の光
    小鳥来て 喉
(のんど)潤し
    微風に囀り交わす
    草敷きて友よ歌へや
    いざ いざ いざ 春の恵みを
  2.泉あり 年経たり
    苔生
(む)せる岩間を裂きて
    雲の影 星の匂い
    常若
(とこわか)の命の泉
    湧き溢れ 溢れ溢るる
    袖ひぢて友よ結べや
    いざ いざ いざ 清き泉を
  3.年毎に花は咲き
    常清く泉は湧けり
    花ぐはし やその処女
(おとめ)
    行き通よひ 泉を汲むに
    自ずから径
(こみち)は成りぬ
    諸共に友よ讃へむ
    いざ いざ いざ 永久の命を

 
北軽井沢研修所

 この北軽は浅間山を南に、白根山を北に望む大高原の中心部。雄大な自然に恵まれオゾンがいっぱ
いの健康地。海抜1100m、夏季の平均気温、摂氏20度、まさに絶好の避暑地といえる。

 
鵜原寮

 この地は房総半島の南端(外房)に位置し、夏涼冬暖の漁港として発達した勝浦市の一部で、理想
郷の絶景として名高く、昭和55年には勝浦海中公園もオープンし、波静かな海浜は海水浴場として
最適だ。


■東方文化学院東京研究所 → 東大東洋文化研究所・外務省研修所 
移転

 大塚1丁目7番1号にあった外務省の外郭団体。建物が凄い。中国本国には唐時代の建築はほとん
ど残っておらず「本物を見たかったら日本の奈良へ行け」といわれているとか。唐招提寺もその一つ
だが、それを模した鵄尾(しび)を頂いた大屋根をもつ建築が、茗荷谷駅から近い閑静な場所に建っ
ている。内田祥三が設計した嘗ての東方文化学院東京研究所で、戦後は同24年「東京大学東洋文化
研究所」に吸収され、建物は「外務省研修所」と折半して共同使用した。昭和42年東洋文化研修所
が東大本郷キャンパスに集約され転出、同年からは雅子妃殿下も学んだ「外務省研修所」が単独使用
した。平成7年に研修所が相模原に移転した後、建物の保存に理解を示した拓殖大学に売却され校舎
として使われている。
 建物は「日本趣味建築」といわれる鉄筋コンクリート造りの建築だ。明治33年清国(中国)に於
いて列国の侵略に対して秘密結社義和団の起こした事件(北清事変)の賠償金で建てられた、いわば
負の遺産だが、中国研究のメッカとして日中間の友好に多大な貢献を果たしもした。この建築と同じ
く賠償金で建てられた双子の建物がある。旧東方文化学院京都研究所だ。形も考え方も違う二卵双生
児ともいえる建築だが、現在の京都大学人文科学研究所で、同研究所は、東方文化研究所旧東方文
化学院京都研究所
)
・西洋文化研究所(旧ドイツ文化研究所)・旧人文科学研究所を統合したものだ。

 獅子像 移設
 建物前にあったが、平成7年外務省研修所が移転する際に東京大学本郷キャンパスの東洋文化研究
所前に移設された。
 


■拓殖大学国際教育会館 海外事情研究所・言語学研究所
 大塚1丁目7番1号にある。かつて東方文化研究所だったところで、現代的和風の、城か大名屋敷
のような威厳のある建物。昭和42年に東京大学東洋文化研究所が東京大学本郷キャンパスへ移転、
さらに省庁の研修施設を郊外へ移転する政府の方針によって、平成7年に外務省研修所が相模原市に
移転すると、同敷地の民間払い下げが検討されることとなった。その際建築物としての歴史的価値を
認める建築家と同所に大規模マンションが建設されることに懸念を持った地元住民によって「旧東方
文化学院の建物を生かす会」が結成され、保存運動が展開された。当初は東京大学が買い取るように
要望をしていたが財政問題などから買い取りを拒否、最終的に同建物の至近に大塚キャンパスを有す
る拓殖大学が同会の運動に理解を示したことから、財務省は同建物の保存を条件に払い下げを実施す
ることとなった次第。水面下で進められているという謀略、拓殖大学の国立化の先鞭かも知れない。
本来拓殖大学は外務省の外郭団体が作った大学で、卒業生は裏の外交に任じてきた。その縁で外務省
の文化財を譲り受けた(?) 隣に国立の御茶ノ水女子大学があるのにだ。 
 


■新大塚公園

 大塚1丁目8番1号にある区立公園。昭和40年11月1日開園。


■文京区教育センター

 大塚1丁目9番24号にあった。音羽中学校校舎建設のため解体。


■音羽中学校(校舎)

 大塚1丁目9番24号の教育センター跡地に校舎があり、同2丁目2番の旧第七中跡に運動場があ
る区立校。平成21年第五中学校と第七中学校が統合して新設され、第五中学校跡に開校。8月新校
舎が落成して移転。

 校歌「
音羽の杜に」 作詞作曲・山崎朋子
  1.音和の杜に羽ばたく鳥は
    翼を広げ明日へ飛び立つ
    夢を抱いて希望の未来へ
    生きる大地を見守るように
    この都の空に響け歌声
    声高らかに歌おう歌おう
  2.気高い心 高みに向かい
    仲間と共に励まし学ぼう
    強い思いと絆を育み
    生きる大地を共に歩こう
    この緑の丘に雲は棚引く
    心豊かに学ぼう学ぼう
     音羽の杜に生きる吾等は
     遥かな道程
(みちのり)信じて進もう
     共に未来を目指し・・・


■筑波大学付属中学校・高等学校

 大塚1丁目9番1号にある国立校。明治5年昌平黌跡(湯島1丁目5番地)に「師範学校」設立。
同6年師範学校に「附属小学校」を設置。同21年附属小学校に尋常中学科を創設し、教科を尋常小
学科、高等小学科、尋常中学科とし、「師範学校附属学校」と改称。同23年校舎を神田一ツ橋通町
に移転。同29年小学校から尋常中学科を分離し、校舎は高等師範学校構内に移す。附属小学校の名
称を改め、「附属尋常中学校並びに附属小学校」と改称。同30年校友会を桐陰会と改称。同32年
師範学校の改称により「高等師範学校附属中学校」と改称。同35年高等師範学校の改称により「東
京高等師範学校附属中学校」と改称。同43年小石川大塚窪町本校内の新築校舎に移転。
 昭和22年学制改革により「東京高等師範学校附属中学校」と改称。同23年「東京高等師範学校
附属高等学校」と改称。新制中学校設置。同24年東京高等師範学校が東京教育大学となったために
「東京教育大学附属中学校・高等学校」と改称。同25年男女共学開始。同53年東京教育大学がつ
くば市に移転して筑波大学となったため、「筑波大学付属中学校・高等学校」と改称。同63年創立
100周年記念式典。

 学訓 強く 正しく 朗らかに

 校歌「
桐蔭会々歌」 
  1.春湯陵の花の陰
    秋茗渓の月の下
    飛び交ふ胡蝶は風に舞ひ
    下行く水は楽奏づ
    慈愛平和に充ち満てる
    自然の寵児我なるぞ
  2.四海干戈の音止みて
    文化の光見え初めし
    元和偃武の古を
    想ふ学びの窓の下
    昌平黌の跡訪へば
    今も梢に仰ぐべし
  3.歴史の因み地理の縁
    この学園ぞ浅からぬ
    力山抜く英雄も
    気は世を蓋う豪傑も
    心の根ざし誰とてか
    幼時の教へによらざらん
  3.鳳雛未だ羽生え
    梧桐の上に霊気蔽ふ
    稚龍今なほ雲を得で
    茗渓のほとり紫雲立つ
    図南の翼うち張りて
    いづれの日にか昇るべき


 
中学校特別行事

 1年次、7月の4泊5日の「富浦生活」では千葉県内房の富浦へ遠泳をしにいく。大自然溢れる学
校の富浦寮で生活し、4日目には全員がおよそ2時間・約4kmを泳ぎ切る。寮の規模の関係から学
年を前半・後半に分け、日程をずらして行われる。2年次には学年全員で長野県の菅平へ行き、四阿
山(あずまやさん)に登る。そして3年次の5月に行われる修学旅行は、まさしく修学というべきカ
リキュラムだ。文学、自然、社会、勤労体験、芸術などのコースが教員側から設定され、生徒自ら行
きたいコースを選び、その中で自分の研究テーマを見つけ現地に行って考察するというものだ。1日
目に学年全員で富士山の5合目に上がり、フィールドワークを行った後、各コースに分かれ活動する。
その他毎年、校外学習として岩槻、長瀞、東京都美術館などに行く。

 
高等学校特別行事

 明治29年より毎年6月の第一土曜日に行われている、学習院高等科および学習院女子高等科との
総合定期戦は、筑附では「院戦」、学習院では「附属戦」の名で親しまれている。
 また大正9年に初めて行われた東京開成中学校(開成高等学校)とのボートレース、通称「開成レ
ース」は現在も行われ、日本で最も歴史を持つ対校ボートレースだ。平成20年現在、41勝39敗
と勝ち越している。
 そして毎年9月には同19年度で51回目を迎えた学園祭「桐陰祭」が2日間に渡り開催される。
第43回より校舎の壁には、毎年全校生徒で作り上げるモザイクアートが掲げられるようになった。
 1年次の夏には長野の蓼科にある、高校所有の「桐陰寮」へクラスごとに3泊4日の合宿に行く。
2年次の11月に行われる修学旅行の行き先は、大体京都または沖縄だ。平成19年度は、小島前シ
ンガポール大使が附属出身だったということもあり、初のシンガポールへの海外修学旅行となった。


 
卒業生が凄い!

 徳川好敏(日本初の飛行機野郎)・徳川圀順(水戸徳川家)・寺内寿一(陸軍元帥)・岡田信一郎
(建築家)・藤田嗣治(画家)・岸田劉生(画家)・
今村繁三(成蹊学園創設者)・岩崎小弥太(三
菱4代目総帥・成蹊学園創設者)・永井荷風(作家)・鳩山一郎(首相)・美濃部亮吉(都知事)・
正田英三郎(美智子皇后の父)・石川六郎(財界のドン)・鷹司信輔(公家・鳥類学者)・鷹司平通
(公家・鉄道研究家)・星新一(作家)・村松剛(文芸評論家)・中嶋健蔵(仏文学者)・芥川比呂
志(龍之介の子・新劇俳優)・今村昌平(映画監督)・大川慶次郎(競馬の神様)・俵孝太郎(政治
評論家)・中江陽三(NHKアナウンサー)・広瀬久美子(NHKアナウンサー)・外山雄三(音楽
家)・
野村萬歳(狂言師)・広瀬修子(NHKアナウンサー)・高井真理子(NHKアナウンサー
・鹿内宏明(フジテレビ総帥)・壇ふみ(タレント)・西脇亮輔(テレビ朝日アナウンサー・村上祐
子アナウンサーの旦那)・・・まだまだ書き切れないほどいる。川口順子・鳩山邦夫・片山さつきな
ど日本を駄目にした小泉の子分たちもそうだよ。
 しかし自動的に筑波大に進学できる訳じゃないよ。勉強しろ!


お茶の水女子大学
 大塚2丁目1番1号にある。明治8年湯島昌平黌に東京女子師範学校として開校。翌年日本で初め
ての幼稚園を付設。翌々年小学校を付設。同15年日本初の高等女学校を付設。同18年東京師範学
校に吸収され同校の女子部となる。同19年東京高等師範学校女子部となる。

 奉賀式歌「金剛石」「水の器」 御歌・照憲皇太后  作曲・奥好義
 同20年3月18日皇后陛下(照憲皇太后)より華族女学校(女子学習院)とともに賜わる。現在
は唱歌の扱いになっている。
 「金剛石」
    こんこうせきもみかかすは(金剛石も磨かずば)
    たまのひかりはそはさらむ(珠の光は添わざらん)
    ひともまなひてのちにこそ(人も学びて後にこそ)
    まことのとくはあらはるれ(真の徳は表るれ)

    とけいのはりのたえまなく(時計の針の絶え間無く)
    めくるかことくときのまの(巡るが如く時の間の)

    ひかけをしみてはけみなは(日影惜しみて励みなば)
    いかなるわさかならさらむ(如何なる業か成らざらん)
 
「水の器」
    みすはうつはにしたかひて(水は器に従いて)
    そのさまさまになりぬなり(その様々になりなり)
    ひとはましはるともにより(人は交わる友により)
    よきにあしきにうつるなり(良きに悪しきに映るなり)

    おのれにまさるよきともを(己に優る良き友を)
    えらひもとめてもろともに(選び求めて諸共に)
    こころのこまにむちうちて(心の駒に鞭打ちて)
    まなひのみちにすすめかし(学びの道に進めかし)


 同23年分離して高等女子師範学校となる。同41年奈良にも高等女子師範学校が開かれることに
なり東京を冠称。昭和7年現在地(陸奥磐城平藩安藤家下屋敷跡)に移転、敗戦を迎える。同24年
5月31日国立学校設置法の施行により、文学部・理家政学部の2学部で「お茶の水女子大学」が新
設され、東京女子高等師範学校は同大に包括され、11月東京女子高等師範学校創立75周年・お茶
の水女子大学開学記念式典が挙行された。同25年国立学校設置法の一部改正により文教育学部・理
学部・家政学部の3学部となる。同27年国立学校設置法の一部改正により東京女子高等師範学校が
廃され、附属女子高等学校・中学校・小学校・幼稚園は、お茶の水女子大学文教育学部附属となり現
在に至る。
 国立の女子大だけあってツワモノぞろい。女子寮でのエピソードには事欠かない。まあほどほどに
・・・

 校歌「みがかずば」 明治8年皇后陛下(照憲皇太后)から下賜された和歌に、同11年宮内省雅
楽課の東儀季熙が作曲した。大学から小学校まで同じ。

    みがかずば
    たまもかがみも
    なにかせん
    まなびのみちも
    かくこそありけれ

 
お茶漬け

 附属幼稚園→附属小学校→附属中学校→附属高等学校→お茶の水女子大と学んで、さらに居残って、
助手→助教授→教授となったお茶の水一筋の人を〝お茶漬け〟と呼ぶとか。

 なら、名誉教授になったら〝ぶぶ漬け〟とでもいうんだろうかねぇ!
 奈良女子大一筋の人は〝奈良漬け〟だったりして・・・
                        *
 と書いたら、山本という女性(?)からメールがあって、やっぱり奈良女では、奈良漬けというん
だそうだ。


■日本で初めての幼稚園 
お茶の水女子大学附属幼稚園
 大塚2丁目1番1号にある国立校。男女共学。明治9年11月16日東京女子師範学校の附属幼稚
園として、通称お茶の水、現在の文京区湯島3丁目に創立。同17年大暴風雨のため園舎破壊、本校
食堂にて保育を続けたが、同19年3月新築移転。同25年本園に分室を設置。同45年本園を第1
部、分室を第2部とする。大正12年関東大震災にて園舎焼失、10月20日より帝国女子専門学校
に仮保育所を設ける。翌年3月21日お茶の水に仮園舎新築移転。昭和7年現園舎に移転(文京区大
塚2-1-1)。同20年3~11月太平洋戦争激化のため閉園。同21年4月第1部、第2部の編成
を廃止。同24年3年保育再開。同27年お茶の水女子大学文教育学部附属幼稚園と称す。同55年
附属学校部ができ、お茶の水女子大学附属幼稚園となり、現在に至る。平成16年大学が国立大学法
人となる。

 松野クララ(クララ・ルイーズ・チーテルマン)
 フリードリッヒ・フレーベルが創立した保母学校に学ぶ。明治9年来日し、ドイツで知り合った松
野礀(まつのはざま、林学者、農商務省官吏)と結婚。日本人男性とドイツ人女性の国際結婚の第一
号だった。翌年、娘の文(ふみ、Frida Fumi)を出産。以後、日本における近代幼児教育の基盤整備
に取り組むが、同41年5月4日クララは夫の死去後にドイツに帰国し、昭和16年ベルリンにおい
て88歳で逝去した。なおクララが離日した時期や、その事情は定かではない。また墓所も研究者の
調査にもかかわらず不明のままだ。
 明治9年に設立された東京女子師範学校附属幼稚園にてて、初代監事(園長)関信三の下で首席保
母となり、豊田芙雄(ふゆ、女性)、近藤濱を保母として、フレーベルの恩物の使い方や遊戯、実際
的な保育の技法を通じて、フレーベルの教授法を初めて日本に導入するに当たり功績があった。また
同11年設置の同校保母練習科で保育法をも教授した。のち同14年以後は、華族女学校でピアノを
指導している。なお夫が死去した翌年の同42年、千葉県清澄山周辺にある東京大学千葉演習林の外
国樹種植栽一帯を「松野記念林」とし、クララの主導により外国樹種の記念植林が行われた。
 平成23年11月3日顕彰碑が青山墓地の墓碑の傍に建てられた。
 昭和51年11月16日発行の「幼稚園100年記念」郵便切手にクララが描かれている。図案左
上部の洋装の女性が彼女だ。

 
●遂に「女のような男子生徒」入学受入
 平成30年7月2日、戸籍上は男性でも性自認は女性のトランスジェンダーの学生を2020年度
から受け入れることを明らかにした。文部科学省では、「戸籍上男性のトランスジェンダーを受け入
れる女子大は、他に聞いたことがない」という。トランスジェンダーは、心と体の性が一致しない人
で、診断名は性同一性障害。お茶の水女子大は女性のみの入学を認めているが、男性のトランスジェ
ンダーを受け入れれば初めてという。実現する際には、出願時の判断基準のほか、入学後の他学生と
の関係や施設面での配慮などが必要とみられる。同大は近く記者会見を開き、受け入れの背景や制度
などについて説明する。他の女子大でも検討を開始している。抑々女子専用大学があること自体、男
女差別だし、時代遅れだ。女子専門教育を廃止するか、男子専門大学を認めるべきだ。  


お茶の水女子大学附属小学校
 大塚2丁目1番8号にある国立校。男女共学。明治10年の創立。

 「
わたしたちの歌
  1.桜並木は知っている
    入学進級春の日に
    胸の徽章の「小の字」が
    鏡の中に光るのを
    みんなみんな知っている
    みんなみんな知っている
  2.青桐の木は知っている
    今日も広がる青空が
    プールに飛沫上げること
    仲良く笑顔で語るのを
    みんなみんな知っている
    みんなみんな知っている
  3.金木犀は知っている
    応援合戦秋の日に
    逞しい子を見詰めてる
    「自主協同」の碑を
    みんなみんな知っている
    みんなみんな知っている 
  4.公孫樹の木々は知っている
    長い歴史のお茶の水
    今若い芽の子どもらが
    伸びてゆく日の輝きを
    みんなみんな知っている
    みんなみんな知っている


お茶の水女子大学附属中学校
 大塚2丁目1番1号にある国立校。男女共学。戦後、東京女子高等師範学校附属高等女学校が新制
中学校と高校に分かれてできた中学校。進学はエスカレートではなく、勉強しない女の子は中卒とな
るか、他の高校を受験する運命に。男子は当然全員追い出される。校歌は大学に同じ「みがかずば」
を唄う。


■お茶の水女子大学附属高等学校
 大塚2丁目1番1号にある国立校。女子のみ。進学はエスカレート式じゃないよ。ただし平成18
年度からお茶の水女子大学への特進プログラムが開始され、10人程度の連携進学枠が設けられた。

明治15年7月東京女子師範学校附属高等女学校として設立。昭和23年4月東京女子高等師範学校
附属高等学校となる。昭和27年5月お茶の水女子大学附属高等学校となる。校歌は大学と同じで、
「みがかずば」を唄う。
 
東京女子高等師範学校附属高等女学校の時代から「お茶の水」「茶水」の通称で全国に知られた名門
女子高。生徒数は少ないが、今でも東大への進学率は全国の女子高校の中でトップクラス。凄いよ。
「茶水」の生え抜きのご婦人に勝てる日本男子はいない。彼女らの前ではさしもの剛の者でも息を飲
んで立ち尽くす。 卒業生に日本人2人目の宇宙飛行士角野直子がいる。

 
角野直子
 松戸出身。東大工学部→ロータリークラブ国際奨学生として米国メリーランド大学留学→平成8年
3月東京大学航空宇宙工学専攻修士課程修了。同年4月旧宇宙開発事業団(宇宙航空研究開発機構)
に入社。同11年2月古川聡、星出彰彦とともに国際宇宙ステーション搭乗の宇宙飛行士候補者に選
ばれる。同12年12月に国際宇宙ステーションの運用管制官(当時)山崎大地と結婚。同13年9
月正式に宇宙飛行士となる。同14年8月女児出産。同16年5月ロシアのソユーズ宇宙船のフライ
トエンジニアの資格取得。同18年米航空宇宙局(NASA)のスペースシャトルの搭乗運用技術者
(MS)の資格取得。


第七中学校 閉校

 大塚2丁目2番1号にあった区立校。同22年アメリカ軍の強制による学制改革により、小石川工
業学校内に開校、同23年関口台町小学校内に移転。同26年現在地に新築移転。同29年2教室増
築・炊事場完成。校歌制定。

 校歌「
大塚台の緑萌え」 作詞・国語教諭中西美智子  作曲・音楽教諭山本洋子
  1.大塚台の緑萌え
    わが学舎は高く立つ
    春 花匂うこの丘に
    ああ文京七中の友よ
    高く高く学び進まん
  2.溢れる光 身に浴びて
    力の限り励みつつ
    夏 大空のその下に
    ああ文京七中の友よ
    強く強く身体鍛えん
  3.学びの窓に幸ありて
    富士の高嶺の遠く立つ
    秋 澄み亘るこの庭に
    ああ文京七中の友よ
    深く深く真実
(まこと)求めん
  4.険しき道も乗り越えて
    我らの窓に光あり
    風 吹きすさぶ冬の日も
    ああ 文京七中の友よ
    堅く堅く心結ばん

 応援歌「澄み行く空の」 作詞・河野幸子  作曲・福屋正之
 校歌が制定された昭和29年度の「友報」に掲載されている。資料から作者は当時の在校生だと思
われるが、作られたときの経緯など全く不明。学校では情報を求めている。
  1.澄み行く空の光を浴びて
    今日こそ奮わん我等の腕を
    どんな強敵おそれはしない
    元気一杯打ち破る
    頑張れ負けるなテープは近い
    奮え奮え我等の七中
  2.輝く空の光を浴びて
    今日こそ見せん我等の業を
    胸に勝利をしっかり抱き
    競えたたかえ思いきり
    頑張れ負けるなゴールは近い
    奮え奮え我等の七中


 同31年2教室・職員室・校長室・事務室・玄関落成。同35年鉄筋コンクリート造り校舎第一期
工事落成。同43年給食調理室落成。完全給食実施。同45年鉄筋コンクリート造り校舎第二期工事
落成。同49年体育館改修。同51年鉄筋コンクリート造り校舎第三期工事落成。同54年第一期校
舎サッシュ化工事。体育館屋根改修工事完了。平成9年創立50周年記念式典。少子化による生徒数
減少のため、同21年五中と統合のため閉校し、音羽中学校として五中跡に開校した。
 跡地は音羽中学校の運動場となる。校舎は斜向かいの1丁目9番に建つ。


■音羽中学校グラウンド

 大塚2丁目2番1号にある。校舎は斜向かいの1丁目9番24号旧第五中学校跡にあり、平成21
年第五中学校と第七中学校が統合して音羽中学校が新設され開校。8月旧五中跡に新校舎落成して移
転。現在はグランドのみ音羽中学校が使用している。


■神社

 大塚2丁目9番12号にある小祠。


■富士見坂

 大塚2丁目13~15番と5丁目の間の不忍通りの坂道。不忍通りを走る都電が昭和46年に廃止
された頃、良く晴れた日に文京区大塚3丁目(旧大塚仲町)交差点の富士見坂上に立つと、正面に富
士山がよく見えていた。当時は高いビルがなく、ゆっくりとした速度で坂を上り下りする都電の車窓
からも、シルエット富士の夕景を楽しめたものだ。交差点近くはかなりの急坂。サンフランシスコの
ケーブルカーを彷彿とさせる当時の都電風景があった。

   士見坂
   坂上からよく富士山が見えたので、この名がある。高台から富士山が眺められたのは、江
   戸時代の町の特色で、区内には同名の坂が他に2ヶ所ある。坂上の三角点は、標高28.9
   mで区内の幹線道路では最高地点となっている。昔は、狭くて急な坂道であった。大正1
   3年10月に、旧大塚仲町(大塚三丁目交差点)から護国寺前まで電車が開通した時、整
   備されて坂は緩やかになり、道幅も広くなった。また、この坂は、多くの文人に愛され、
   歌や随筆にとりあげられている。
   
    鳥籠を手に取り提げても 我が鳥買いに行く大塚仲町(会津八一)
    この道を行きつつ見やる谷越えて蒼くもけぶる護国寺の屋根(窪田空穂)

                文京区教育委員会 平成14年3月
  


■窪町小学校

 大塚3丁目2番3号にある区立校。明治20年頃の大塚窪町は荷馬車が1台通れるほどの道に面し
た片田舎だったが、同40年代に入って道路が拡張され街鉄線(路面電車)が敷かれると俄かに賑わ
うこととなった。大正11年大塚窪町8番地1号を校地に買収し、震災後の同14年校舎建設工事に
着手し、同15年「東京市窪町尋常小学校」として開校。児童は5年生までで912名20教室から
のスタートだった。昭和6年校歌制定。

 校歌「常盤色濃き栢の木の」 作詞・松井義雄  作曲・杉原雅之

  1.常盤色濃き栢(かや)の木の
    大空突いてすくすくと
    聳えて高い我が希望
    皆で仲よく腕くんで
    正しく素直に
    伸びようよ

  2.菊の香りは父母の
    恩愛深い真心と
    教えの庭に満ち匂う
    皆で元気によく学び
    文化の花を
    咲かそうよ 
  3.不断の雪の富士の山
    清い姿の静けさは
    国の印よ わが理想
    皆の力で築き上げ
    平和な日本を
    作ろうよ


 同9年プール完成。同16年国民学校令により「東京府東京市窪町国民学校」と改称。同18年都
制施行により「東京都窪町国民学校」と改称。同19年8月宮城県鳴子温泉に学童集団疎開。同20
年4月13日夜半から翌朝にかけて愚かなアメリカ軍による非人道的無差別空爆を受け、校門付近、
屋上等に火災を発生したが、校長山口友吉の指揮の下、宿直の教職員一致協力一丸となって消火活動
に努め被害を最少とした。8月日本は、ならず者国家アメリカの軍門に降り、以後その属国とされ、
唯々諾々といいなりになる傀儡政権に支配される今日的不幸を背負い込む。10月疎開解除により学
童帰校。同21年2月天皇陛下行幸御来校。同22年アメリカの強制による学制改革で6・3制とな
り「東京都文京区立窪町小学校」と改称。同23年新校歌制定。同30周年記念式典。同51年創立
50周年記念式典。同52年体育館・屋内プール完成。平成13年創立75周年記念式典。同18年
鉄筋コンクリート造り5階建て新校舎落成。
 


龍宝山高源院

 大塚3丁目8番4号にある曹洞宗の寺。ビルの合間の和風の寺。 


■大塚仲町公園
 本郷3丁目12番にある区立公園。昭和30年3月1日開園。


■大塚窪町公園
 本郷3丁目26番にある区立公園。昭和26年11月1日都立公園として開園。同28年8月1日
区立公園となった。


■「時の流れ」

 大塚3丁目28番7号の林野会館前にある石川葉子作の彫像。。

■栗生大盤

 大塚3丁目28番7号の林野会館にある。

   屋久杉は下屋久営林署が小杉谷事業所を大正13年間開設以来、昭和44年6月終山する
   まで44年間、小杉谷事業所を中心に伐採されてきましたが、終山と同時に全林野九州地
   方本部の要求に基づいて現在の栗生事業所を開設。同じ屋久杉でも樹齢1千年未満を「子
   杉」、1千年以上を「屋久杉」と呼んでおり世界最高の高令巨木であります。現存する最
   大の屋久杉は屋久町小杉谷標高1300メートル地点にあり、樹令推定7200年、樹高
   33メートル、胸高周囲16.1メートルの「縄文杉」であります。この盤木は栗生事業所
   内で伐採されたもので「栗生大盤」と命名し広く関係者の参考に供したい。
   1.樹種   屋久杉
   1.原生地  鹿児島県熊毛郡屋久町栗生
   1.樹令   2500年
   1.直径   最大1.60メートル
   1.材積   0.362立方メートル
   昭和52年2月                    全林野労働組合九州地方本部


大乗山広大院智香寺

 大塚3丁目28番12号にある浄土宗の寺。徳川家康の生母於大の方の墓所を守護するため、正保
元年(1644)当地に創建した。旧は小石川伝通院末。
 


■東京高等師範学校

 大塚3丁目29番1号にあった官立大学。維新の余塵残る明治5年4月文部省から「小学校教師教
導場ヲ建立スルノ伺」が正院に提出され、これにもとづき同年5月29日湯島の旧昌平黌跡に日本最
初の官立学校として「師範学校」が開設された(初代校長諸葛信澄)。生徒募集の結果300人余り
の志願者から合格者54名が8月に入学。アメリカ人のスコット(Marion McCarrell Scott)が
大学南校から教師に招かれ、アメリカの師範学校そのままの授業を開始した。当時教官はスコット1
人、授業科目も「教育之法」の1科目だった。
 同6年7月に初めての卒業生10名を出したが、それだけでは到底圧倒的な需要を満たすことはで
きなかった。そこで大阪、仙台、広島などに新たに師範学校が設けられ、同時に本学は「東京師範学
校」と改称され、各地の師範学校の教師を養成するという性格を持ってきた。同7年明治天皇参観の
際、スコットは「国家の富強に赴くはこの学校をもって嚆矢と為すべし」と述べている。明治8年に
は中学教員を養成する中学師範学科が新設された。親睦と修養を目的とする生徒寄合会も13年に生
まれ「強迫教育について」「天賦の人権」など政治や教育を、羽織袴で盛んに論じ、また卒業生の親
睦と教育の進歩を図ろうと同窓会「茗渓会」も15年に設立された。
 ※「強迫教育」とは「Compulsory Education」の訳語で「義務教育」のことだ。学校に入れたが
らない当時の親に教育を受けさせる義務を課したのは「強迫」だったからだ。義務教育は間違っても
「教育を受ける義務」ではない。
 同18年に本校監督となった森有礼は、盛んに校則の改革を行ない、本校を「教育の総本山」と称
えた。さらに初代文部大臣として明治19年に公布した一連の学校令により、国家主義的教育体制が
確立されて行くが、その一つが「師範学校令」だ。これにともない東京師範学校は中等学校の教員の
みを養成する「高等師範学校」となり、他の師範学校は尋常師範学校となった。
 森の考えた師範教育は、埼玉県師範学校における彼の訓辞によれば、日本を二等国から一等国にま
で高め、ついには「万国の冠」たらしめることを「日本男子の志」と考え、その原動力を「十中八九
此師範学校の力」に期待し、高師を「教育の本山」と考えたの訳だ。そして教員はまず「善良の人物」
でなければならない、それには「従順」「友情」「威儀」の3気質を備えるよう教育されなければな
らないと。この三気質は師範学校令の「順良、信愛、威重」と同じものであり、これが「師範タイプ」
の内容だ。そしてこの3つの目的を達するためには「兵式体操」を「利用すべき一法」と考えた。後
に森が出した「兵式体操に関する上奏案」には、

   厳粛ナル規律ヲ励行シテ、体育ノ発達ヲ致シ、学生ヲシテ武毅順良ノ中ニ感化セシメ、以
   テ忠君愛国ノ精神ヲ涵養シ艱難忍難ノ気力ヲ渙発セシメ他日人トナリ徴セラレテ兵トナル
   ニ於テハ、其効果著シキモノアラン


 と兵式体操の効能を考えていたのだ。この兵式体操は、この学校では既にすでに同18年に森が監
督に就任して真っ先にに行なっていたのだ。森など大久保イズムに感化された明治政府官僚は、義務
教育を国民のために強迫したのではなく、国家に都合のよい国民を作るために強迫したのだ。
 同19年8月には銃を肩にし剣を帯び、酷暑を冒して信甲駿相の山地を行軍した。陸軍省総務局制
規課長陸軍歩兵大佐山川浩(元会津藩家老、その後少将)を校長とし、松井少尉を現役のまま体操教
官とし、

   教場外一切の事業を以て気質鍛錬の資に供し、就中寄宿舎及び体操に係わるものを以て、
   教場外最重の事業として之に充つべきなり


 という文部訓令のもとに寄宿舎生活から服装にいたるまで完全に軍隊化された。同23年には「教
育勅語」が発布され、高等師範学校は忠君愛国の国家主義教育を推進するかなめとしての役割を果た
すことになった。
 同26年嘉納治五郎が校長になり、それまでスポーツには冷淡だった本校に柔道を奨励した。それ
によって次第に他のスポーツも行なわれるようになり、同29年には初めて運動会が開かれた。この
頃「高師か、一高(東大教育学部)か、蔵前(東京工業大学)か」と世に謳われ、高専中の最難関と
されていた。
 同35年広島にも高師が新設され、本校は「東京高等師範学校」と改称し、同36年には大塚の地、
陸奥守山藩松平大学頭邸跡に校舎を移した。現在加納治五郎銅像のある占春園はその邸の名園として
名の高かった庭園だ。移転当時、夏目金之介、上田敏、平田禿木なども教授として名を連ねていた。
桐の葉の徽章、襟章が定められたのもこの年。今まで学生は総て官費で賄われていたが、同37年に
初めて自費生の入学が許された。同44年にはそれまでの研究科の上に専攻科が設置された。
 

 校歌「
青雲の空に高く」  作詞・北原白秋  作曲・山田耕筰
  1.青雲
(あおぐも)の空に高く
    桐の葉と照り明るもの
    故あり大塚 我等興れり
    羽ばたく更正 自治よ自由
    文教新たに時代を指示せん
    挙れよ若人 栄あれこの岡
    愛なり道なり 使命は一
(いつ)なり
  2.朝光
(あさかげ)の勢(きおい)剛く
    桐の葉と照り明るもの
    学府よ大塚 志気は揚れり
    東の精神 西の科学
    生采離々たり 斉しく取るべし
    俟
(まつ)あれ人生 輝けこの地(つち)
    愛なり道なり 起つべき今なり
  3.大君の宮居近く
    桐の葉と照り明るもの
    母校よ大塚 甍魏々たり
    教化の国本
(こくほん) 真の知徳
    培え育てよ 理想に生きつつ
    与えよ総てを 没せよ己を
    愛なり道なり 至上の善なり
 

 この校歌は、東京高等師範学校の校歌であり、東京文理科大学の校歌であり、東京教育大学の校歌
ともなった。
 大正7年に大学令が公布されると、それに基づいて医専、高商、その他専門学校が大学に昇格した
が、高師は教員養成の最高機関としての長い伝統と自負にもかかわらず一人取り残された。このよう
な状況の中にあって、卒業生、在校生の中から昇格運動が惹起した。校友会は、

 宣揚歌 作詞・大和資雄  作曲者不詳(旧慶応大学応援歌)
  1.桐の葉は木に朽ちんより
    秋来なば先駈け散らん
    名のみなる廃墟を捨てて
    醒めて立て男の子ぞ吾等
  2.日の本の教えの庭に
    いと高き学び舎ありと
    人も知る茗渓の水
    よし涸れよ 濁さんよりは

 宣揚歌は大正7年の大学令公布に伴って起こった高等師範の大学昇格運動の中で、同8年当時文科
第一部乙組の2年生であった大和資雄(のちに高名な英文学者となる)が、この運動の応援歌として
作詞したもの。曲はもともと慶応で応援歌として使われていたものを流用したものであるという。
 なお3番、4番の歌詞は、大和が書いたものではない。東京教育大学から筑波大学に生まれ変わる
時、東京教育大学最後の学長となった大山信郎によって3番が作られた。「東京大塚の地の歴史はこ
こに終わるが、茗渓の歴史の流れは新天地筑波で永遠に続いていってほしい」そんな願いを込めたも
のだ。こうして桐の葉の伝統は新生筑波大学に受け継がれた。そして筑波大学開学30周年を迎えた
平成15年に北原保雄学長が作詞した。しかし蛇足に過ぎない。名を残したかったのだろう。

  
3.年を経て百年過ぎぬ
    今ここに水は渇るとも
    新泉は筑波の麓に
    いざ立たん若人吾等
  4.桐の葉は筑波の庭に
    いや繁り三十年過ぎぬ
    新しき世紀を拓き
    いざ行かん挙りて吾等
 

 昭和4年4月「東京文理科大学」が新設され(初代学長大瀬甚太郎)、東京高等師範学校はその事
実上の付属とされた。

   吾人はすでに忍ぶべきを忍び堪うべきを堪えたり。今や我らは起りて死力を尽して目的の
   貫徹に努むるのみ


 と宣言し、教授会、茗渓会と連携し、「教育尊重、精神文化の宣揚」をスローガンに掲げ、宣揚歌を
高唱し、「昇格か廃校か」の決意の下に運動を続け、大正12年、3年間の波乱の後にようやく「大
学」への昇格案が議会を通った。しかし折悪しく関東大震災が起こって大学開設は昭和4年まで延期
された。

   国家ニ須要ナル学術ノ理論及ビ応用ヲ教授シソノ蘊奥ヲ攻研スル

 と共に

 
  人格ノ陶冶及ビ国家思想ノ涵養ニ留意スル

 文理科大学は9学科15専攻を持つ学術研究の単科大学として出発した。昭和7年に高師の3年修
了者にも大学進学が認められることになり、高師は文理大の予科化の傾向をたどった。この年に本学
学位規定による最初の博士号が乙竹岩造教授(文博)に授与され、諸施設も付属臨海実験所が下田に、
付属高原生物研究所が菅平に設置され、付属図書館と茗渓会館の新築がなり、教育相談部も設置され
学術研究機関としての本学の体制が順次整っていった。
 一方こうした文理科大学に不満をもつ高師や茗渓会は、フランスのエコール・ノルマルに範をとっ
た師範大学に改編するよう度々運動したが成功せず、新制大学に発展する時に再燃することになる。
生徒寄合会から発足した校友会は大塚学友会となり、教育大学新聞の前身である「大塚学友会会報」
が昭和5年に創刊され、同14年には「文理科大学新聞」となり、文化活動にも運動にも目覚しく活
躍したが、第二次大戦の内に大塚学園報国会と改編させられ、学生一人一人の心の中に人間の尊さに
目覚める若人の苦悩を抱きながらも、隊組織に組み込まれていった。
 


■東京教育大学

 戦争は日本を大きく変え、文理科大学もその例にもれることは許されなかった。昭和20年5月、
戦禍で校舎の半分を焼失したがW館や図書館などが残ったので、辛うじて学問の水準を保った。その
後深刻な校舎不足に悩みながらも、戦後の新しい文化と教育を確立するため、文理科大学を革新する
機運が盛り上がり、文理大と高師の合併問題も持上がってきた。
 同23年2月、文理科大学から「我々の矜持した伝統も権威も今や崩落の危機に瀕する」に始まる
「文理科大学宣言」が発表された。下村寅太郎教授の起草といわれるこの宣言は、大学の任務は、
   最高の知性を結集して諸学において開明せられたる所を国家社会の究極目的に綜合統一す
   ること

 であり、
   文理科大学は人文科学と自然科学との真の綜合大学たるの実を挙げ両者の内面的浸透を実
   現することによって、新しき時代が要請し新しき時代を教育するにたえる教養人としての
   教師を打出すべきだ

 と結んでいる。この宣言によって東京文理科大学と東京高等師範学校の合同問題にも大きな波紋が
生じ、新しく東京教育大学が生まれるまで様々な紛争が渦巻いた。合同に当たって文理大側は、今ま
での文理大をより充実させ、一般的教養を深めさせると共に教職的教養を持つという「文理科大学案」
を提出した。これに対して高師側は、教育に関する理論と実践の最高総合研究機関とし、主に教育者
を養成する「教育大学案」を提示した。この2つの案が大学高師合同委員会において検討される一方、
学生大会でも「文理大案」に似た「学芸大学案」を打ち出し、茗渓会も「教育大学案」を作成した。
これらの案をもとにして新しい大学の構想が練られていたが、大学、高師の教授会の対立が激化し、
具体案はなかなか纏まらなかった。このように問題が紛糾し長引いたので合同委員会は解散し、新た
に新大学設置準備委員会が作られたが、これも大学と高師の対立により務台理作学長が辞任するとと
もに消滅した。その後も交渉が続けられ、漸く文理大、高師、東京農業教育専門学校、東京体育専門
学校の4校合同の案が決まり、5学部129講座の「東京教育大学(仮称)」が文部省に申請された。
 
 しかし校名に纏わる紛争は絶えず、「東京教育大学」を支持する高師、農専、体専側と、それでは
教員養成のみが強調されて学術研究の面が疎かにされるから他の名称にすべきだという文理大側とは
互いに譲らず、その上大学自治会も新大学の名称を「文理科大学」と固執し、ストライキも辞さない
強硬な態度を示した。このような事態に文部省が「文教大学」の案を出すなどいろいろ妥協工作が行
なわれたが成功しなかった。結局高師側の運動が効を奏して、昭和24年6月1日「東京教育大学」
が設置されたが、文理大教授の大部分は教育大学への不参加を表明するに至った。その紛争解決の目
途も立たない時に初代学長として文部省社会教育局長柴沼直が就任し、紛争解決のために文理大教授
の脱退派に「大学の運営は文理大の意見に従う」旨の約束を行ない、脱退派の教授福原麟太郎、石山
脩平、藤岡由夫らを夫々文、教育、理の各学部長とし、評議員を各学部予定教授から単記投票で選出
させ、評議会では文理大教授が絶対多数を占めるようにお膳立てをすることにより、脱退声明組を翻
意させることに成功した。それ以後、評議会が唯一の合議機関として全権を掌握し、大学の運営は文
理大の意見に従って行なわれることになったので、新制大学は旧制文理科大学の支配下に置かれてし
まった。このような中で、同24年7月、文教理農体の5学部38専攻をもつ総合大学へと発展した
「東京教育大学」の第1回入学式が行なわれ、800名が入学した。一方22年には教育基本法が制
定され、「真理と平和を希求する人間の育成を期する」という根本理念が明示され、この精神に基づ
いて様々な教育改革が行なわれた。同24年の「教員養成は大学の学部で行なう」という開放的な教
員養成制度もその1つであり、戦前の師範学校方式とはまったく異なる方向だった。
 発足当初の東京教育大学では、旧制大学の人事権がそのまま継承されたので、新制大学の人事権ま
でも実質的に旧制大学の意のままに行なわれていた。しかしこれに対して新制大学の内部に速やかに
新制学部の教授会を開くべしとする批判の声があがり、大学自治の中心はあくまで教授会であるとす
る文学部教授、助教授たちの集会の議決により、教授会設置を評議会に要請する提案が出された。こ
の情勢を敏感に見て取った学長は先手を打って教授会設置を決定した。実に新制大学設置後、3年ぶ
りの27年4月だった。
 これを機会として文学部教授会は、大学管理の民主的改革に着手した。その一つは教授会の人事選
考の際の組織を「各学部で定める」こととして、助教授、専任講師にも参加の道を開いた。その後、
同29年に文学部教授会は教育2法反対を議決し、国会へ伝達するという大塚学園建設以来未曾有の
事態を現出させた。同31年には朝永振一郎教授が学長となり、教育大の一層の発展のために努力し
た。同27年、同32年の警官の学内スパイ事件、同32年の砂川闘争に関連した学生の誤認逮捕事
件に対する抗議では、警視総監をして陳謝させた。同37年に三輪知雄教授が学長に選出されるまで
の朝永学長の時代(任期4年と再任2年の2期6年)は後年「朝永時代」とも呼ばれ、この時期がい
わば東京教育大学の黄金時代だった。
 
 同35年の安保闘争の時期には、東大が全学連主流派の拠点校であったのに対し、教育大は反主流
派の中心的存在でだった。同年6月10日全学連反主流派によってハガチー事件が起こされるが、こ
の事件の捜査のため、同月13日深夜学生自治会室に突如として警官隊が乱入した。これは大学責任
者の立ち会いもない違法行為であり、学生、教授を含めて空前の抗議行動が起こった。連日全学総決
起大会が開かれ、教育大だけで2000人のデモが行われた。教授会、評議会は警視庁に抗議し、各
大学、関係各方面に訴えた。また同37年の大学管理法問題では、学生は全国に先がけて闘争を組み、
評議会、各教授会は全国に「国家権力の大学支配に反対」をアピールして注目された。
 同40年6月日本史の家永三郎教授が教科書検定違憲訴訟を起こし、同年10月には物理学の朝永
振一郎教授が湯川秀樹に続く日本人として2人目のノーベル賞を受賞して注目された。同42年の最
初の「建国記念の日」に際しては、大塚史学会を中心に反対運動が盛り上がり、折からの雪の中、同
盟登校が行われて注目された。またこの年の春には経済学の美濃部亮吉教授が定年を待たずに退官し
て東京都知事選に立候補、東京に革新都政を実現し、同54年の引退まで12年間に亘って東京都知
事を務めた。ただ学者都政は莫大な赤字を残して財政を逼迫させた。
 安保闘争後の学生運動の分裂の時期において、教育大の学生運動はセクト的に私物化された「全学
連」の結成、再建などに反対し、自治会の共闘を積み重ねる中から真の全学連を再建せよと主張し、
各種の自称「全学連」には与しなかった。一時期民青系自治会執行部が成立した際、民青系の「全学
連」に加盟したことがあったが、後に学生大会の動議で否認された。

 
寮歌「桐花寮の歌」
  作詞・葛原しげる  作曲・堀内敬三
  1.野山の霞後にして
    都大路の花吹雪
    分けては集ふ大塚の
    占春園の朝ばらけ
    さわやかに ほがらかに
    若き日の 希望にをどる胸よ 友よ
  2.燦爛として昇る日に
    映えて輝くあかね雲
    どよもすばかり高鳴るや
    生命は永久の自治の鐘
    はれやかに ほこりかに
    若人に 起てよと響く自治の鐘よ
  3.野山の草木生ほすべく
    桐の葉かげに湧き出づる
    久遠の泉共に汲む
    桐花の寮の夕まぐれ
    床しくも 豊けくも
    若き日の 思ひは遠き歌よ 友よ
  4.煌々として永劫の
    自治の鏡と澄むか月
    仰ぎて磨き茗渓に
    古きを矜る我が歴史
    新しく 進みゆく
    若人の 行く手を照らす自治の鐘よ


 桐花寮とは東京高等師範学校、東京文理科大学、東京教育大学時代に大塚にあった学生寮。昭和6
年に作詞されて以来、寮生に愛唱されてきたこの歌は、一番では朝方を、二番では活気にあふれた朝
を、三番では暮れ行く夕を、四番では煌々と月の輝く夜を歌っている。ふるさとを後にし、希望を胸
に花の都大路を友と歩く若き学生たちの思いは今も昔も変わらぬものだ。
 

 
筑波移転問題

 東京教育大学は、文学部、教育学部、理学部が文京区大塚に、農学部が目黒区駒場に、体育学部が
渋谷区幡ヶ谷に、学生寮その他の施設が都内各所に散在するいわゆる「蛸足大学」だった。そのため
キャンパスの統合は長年の念願であり、評議会は同37年自主移転の基本方針を決定し、八王子南部
地区が候補にあげられたが、同38年地価高騰によりこれを断念した。その直後に文部省から学長に
新都市計画の概要が知らされ、ここに筑波移転問題が発生することとなった。理学部出身の三輪知雄
学長は筑波移転に積極的だったが、文学部では慎重論が強かった。同41年10月評議会の席上、学
長と一部の評議員が、移転に慎重な文学部の代表を「罵倒」するというようなことも起こり、これに
抗議して和歌森太郎教授が文学部長を辞任するというような事態も発生した。こうして筑波移転を巡
り、推進派と文学部との対立が徐々に強まっていった。同42年6月10日の評議会は、文学部の意
向を無視して筑波移転を希望すると決定し、これを学長の意向表明として文部省に伝え、政府もこの
意向を受けて教育大など36機関の移転計画を発表した。
 文学部はこれに対し「5学部一致の原則」に反すると抗議して撤回を要求したが、推進派の決意も
固く、以後は文学部の意向は無視したまま着々と移転推進を図っていくことになる。
 教育大の学生運動は、安保闘争以後、主として構改派(旧全学連反主流派の中心部分が構造改革論
の立場を採り、同36年に共産党の影響から離脱したもの)によって指導されてきており、筑波問題
が登場した際、学生自治会は、移転反対はラッダイト運動(産業革命期の機械破壊運動のことで、こ
こでは社会進歩に反対する反動的な運動という趣旨)であるとして「反対論に反対」の立場を採り、
但し非民主的な決定には反対するとして全学的な討論の場の保障を要求していた。構改派としては、
移転問題を契機として、学生も運営に参加するような形での大幅な大学改革を実現したいと考えてい
た訳だ。構改派は学生を大学の主要な構成員であるとして、単なる受益者とは考えておらず、学生の
大学運営への参加は制度的にも障されるべきものと考えていた。当時掲げられていたスローガンには
「大学を平和と社会進歩の砦に」というのがあるが、その趣旨は理解できるんじゃない。そのため学
長選挙への学生の参加を要求したりした訳だが、そのような要求は実現しないまま、一方的に推進を
図る当局のやり方に一般学生の不信感が募り、同40年には文・理両学部において最初から反対論を
唱えてきた民青系に執行部が移動するような事態が生じて、構改派も筑波問題を契機とする「構造改
革」を断念し白紙撤回要求へと転換した。構改派の考える「大学改革」というようなものは、最初か
ら「幻想」だったのだ。
 
 同42年に入ると、評議会の文学部の意向を無視した運営について、抗議の意味で波状的に学生の
ストライキが行なわれるようになった。しかし学長以下推進派のやり方に変化はなく、翌43年には
三輪光雄が新学長に就任するも状況は変わらず、学生は決定の白紙撤回を求めて、本館封鎖、大塚地
区封鎖などの闘争を行なった。この過程において民青系から構改系に再び運動の主導権が移行し、文
学部学生自治会を基礎に形成された文学部自治会闘争委員会(文自闘)は他学部学生と協力して全学
闘争委員会(全学闘)を結成し、闘争を指導した。これに対し三輪学長が紛争の責任をとるとして辞
任した後、同44年2月末、宮島龍興学長代行が機動隊を大塚構内に導入して学生を排除し、その後
は機動隊を常駐させて学生を入構させないロックアウト体制に入った。ロックアウトは「大学占拠」
を基軸として運動を構築してきた全学闘争委員会にとっては大きな打撃となり、集会をするにも中央
大学、法政大学、山手教会など学外施設を借りざるをえない亡命生活状態になった。全学闘争委員会
は何度か「大塚奪還闘争」を試みたが、機動隊が占拠するキャンパスを実際に「奪還」することは困
難で、闘争の度に多数の逮捕者を出すことにもなった。9月17日の全国全共闘連合初の統一行動で
ある「教育大奪還闘争」も、さしたる成果をあげることなく終わり、同45年に入ると、それまで筑
波闘争をリードしてきた全学闘争委員会内部に、それまでの総括と今後の方針を巡って分裂と混乱が
起き、指導的機能を喪失して自滅してしまった。ロックアウトは「教育大学新聞」にも打撃だった。
大塚の部室が使えなくなったため、「教育大学新聞」は編集長の下宿などを部室がわりに使いながら
細々と発行されていた。ろくに会員も集まらなくなった状態で、新聞の定期刊行を続けた当時の編集
部の根性は見上げたものだ。
 ロックアウト下の7月4日評議会はマスタープラン委員会から提出された「筑波における新大学の
ビジョン」を評議会原案として採択し、24日には筑波移転を最終決定。この筑波新大学は文部省の
筑波新大学創設準備調査会が計画を練っており、大学当局が移転を決定したからといって本学の案が
採用されるというものではなく、いわば大学が身売りを決定したようなものだが、その基本的方向は
学長、副学長などに権力を集中し、大学をピラミッド型の中央集権的官僚制の組織に再編成するもの
だった。つまり移転問題は当初は「東京教育大学」の場所的移転の問題として発生したが、結果的に
は「東京教育大学」を解体し、「筑波新大学」を創設するという「内容移転」に変わった訳だ。他大
学の全共闘運動の一部で「大学解体」なるスローガンが叫ばれていたが、本学の場合は権力と一体と
なった大学当局が自ら「大学解体=再編成」を行なおうとしたものなのだ。10月14日、文学部は
ロックアウト下の検問体制下で授業を再開する。同45年宮島龍興学長代行は学長となり、1年余り
に及んだロックアウトも同年4月には解除されるが、この間ストライキとロックアウトで2年近くの
あいだ正常な授業が行なわれず、同44年度の入学試験も、文学部、教育学部、理学部、農学部の4
学部で中止される事態となった。同43~44年にかけては、全国各地の学園で学園闘争が高揚し、
全国全共闘連合なども作られたりしたのだが、教育大の筑波移転を巡る紛争は、それが極めて長期に
亘ったという点で他に例を見ないものであり、この間大半の学生が留年することとなり、特に文学部
学生の場合は2年間の留年は普通だった。また相当多数の学生が大学に見切りをつけ中途退学する道
を選んでいる。部外者が作成したサイトの中には、教育大の移転問題を巡る紛争のなかで、団交や吊
るし上げがあったなどと書いているものもあるが、これは他大学の紛争の例から見て、多分そうだっ
たに違いないという憶測に基づくものだ。団交の実現は全学闘の要求ではあったが、実際のところ長
期に及ぶ紛争の中で、只の一度も団交など行なわれず、従って物理的に吊るし上げようはなかった。
団交がなかった紛争というのも、他に例を見ないものであるかもしれないが、そうなったのも、大学
執行部=推進派が一貫して話し合い拒否の姿勢を貫いたからだ。各学部の教授、学生による学部集会
や、推進派教授に対し「団交」を要求した集会などはあったが、大学執行部が当事者となったもので
はないから、本来の団交とはいえまい。尤も団交や話し合いがあったとしても、移転推進と移転決定
白紙撤回では水と油で妥協の余地があったとは思えないから、推進派の立場からすれば「話し合い拒
否」は自明のことだったろう。筑波移転は決まったことで変更などはありえぬことだったのだ。権力
とはそういうものなのだ。
 移転推進派の最大の実力者は、理学部物理学科の福田信之教授であるといわれていたが、福田は或
る雑誌の座談会で、紛争解決の原則は(1)話し合いはしない、(2)妥協はしない、(3)遠慮なく
機動隊を使うことだ、と、得意げに述べている。事態は総て彼の「3原則」通りに進行したといえ、
福田こそは筑波大学建学の最大の功労者であったといえる。その証が、彼は三輪知雄、宮島龍興に続
いて筑波大学の学長になったことだ。福田は反対派の学生を捕まえて、「お前はレーニンを読んでる
か? 俺は全部読んでるぞ」などとからかっていたそうだが、福田3原則にはレーニン主義の影響が
感じられる。レーニンのプロレタリア独裁論に倣って推進派独裁をやっているかのようだった。
 

 
閉学

 同48年9月には「筑波大学法」が国会で成立し、同10月1日、筑波移転の推進役だった三輪知
雄元学長を初代学長として筑波大学が開学する。この年は東京教育大学としての最後の学部学生が入
学した年であり(文・理・体の場合。教・農は49年)、東京教育大学新聞会が会としての機能を停
止して廃刊された年でもあった。一方同49年には最後の東京教育大学の学長として教育学部の大山
信郎が就任した。同52年3月30日筑波移転に抵抗し続けた文学部は最後の教授会を開き、翌31
日定員は消滅、全国有数を誇った文学部教授陣は各地の大学へと散っていった。つまり東京教育大学
文学部の伝統は、筑波大学には引き継がれていないのだ。教育学部、農学部は1年延命したが、53
年3月31日をもって閉学した。
 

 
教育大学新聞 
廃刊
 東京教育大学終末期の5年間には既に存在しなかったが、昭和5年の「大塚学友会会報」同14年
の「文理科大学新聞」以来の学生新聞の伝統は、筑波大学には継承されなかった。何故なら筑波大学
当局は「大学新聞」と名のつくものは学生には発行させないとし、大学当局自ら「筑波大学新聞」を
刊行することにしたからだ。つまり独立した編集権を持つ新聞を認めず、単なる広報紙にした訳だ。
大学権力は新聞とはいかなるものか、理解していないといえよう。いや知って権力を行使したのだ。
素よりこの国に民主主義などないからねぇ。但し東京教育大学新聞会OBで、筑波大学の教官になっ
た者が、昔の経験を買われて「筑波大学新聞」の編集に当たったというから、その意味では少しばか
りの継承関係があるといえなくもない。しかし実際には教官ばかりでは大学新聞の編集など出来るは
ずもなく、学生アルバイトを雇ったようだが、そのアルバイト学生が独立して刊行し始めたのが現在
の「筑波学生新聞」だということだ。当然今以て当局非公認の団体ということだ。本来大久保イズム
で作られた官立大学たからねぇ。しゃあないこったよ。
 

 
東京教育大学跡地
 3丁目29番全体が、水戸徳川家の分家守山藩松平家の屋敷地で、つくば市に移転する前の東京教
育大学の敷地でもあった。筑波移転は大騒動で、移転反対派と賛成派で揉めに揉めたが、移転してし
まうと「移転して良かった」となるから不思議だねぇ。まあ学生運動で政府が転覆されても堪らんと
いうので、大学を郊外に分散しようという国家権力の思惑もあったし、大学は大学で広々としたとこ
ろで運営したいと思っていたから、大学という大学は相次いで都外に出て行った。ために学生は次第
にノンポリとなり、国家都心には権力に都合の良い環境が整った。ホリエモンや村上世彰らの守銭奴
の輩出は、国家権力も学生も共に正義を忘却の彼方に置いたからだ。政府はアメリカに媚び、保守政
党は戦前帰りを模索する。
 さて跡地の現在は、教育の森公園・文京スポーツセンター・筑波大学学校教育部・筑波大学付属小
学校・占春園に分かれている。

 ●
日本サッカー初の対抗戦

 「東京高等師範学校沿革史」によると、同26年に校長に就任した嘉納治五郎は、柔道を始め各種
の運動を奨励し、同29年には生徒を正会員、教師を特別会員とする「運動会」を組織。生徒たちは
毎日30分以上の運動をすることになったが(課外活動の開始)、その際設立された8部の中には、
柔道部・撃剣および銃槍部・弓技部・器械体操部・ローンテニス部・ベースボール部・自転車部のほ
か、フットボール部の名前も記録されている。
 日本においてサッカーらしいサッカーがプレーされるようになったのは、明治28年ごろのこと。
「対列フットボール」や「円陣フットボール」がどのような変遷を辿ったのか、或いは初期のルール
がどのようなものだったかについての詳細は不明だが、当時の文献を紐解くと、多少のルールの違い
はあれ、この頃から各地でサッカーがゲームとしてプレーされ出したことが窺える。
 日本のサッカーが、いよいよ本格的な普及を始めるのは、同35年東京高等師範で指導に当たって
坪井玄道が欧米視察から帰日したことがきっかけだ。坪井は、帰日後校友会のフットボール部の部長
に就任。それに伴い、東京高等師範では彼の持ち帰った書物を基にフットボールの研究が進み、10
月に行われた東京高等師範の大運動会で、モデルゲームの1つとしてフットボールが披露された。こ
の時披露されたのは、6人1組でのゲームだったとか。
 そんな東京高等師範のサッカーにかける情熱は、ますます熱くなることはあっても、決して衰える
ことはなかった。そしてとうとう、日本で初めての外国人との対戦に漕ぎ着ける。時は同37年2月
6日。相手は横浜外国人クラブだった。当日は、坪井玄道、馬上幸太郎、可児徳の3人の教官と数十
人の学友とともに、11名の選手たちは横浜へ遠征。上下白のユニフォームで戦った。試合は30分
ハーフ。「高等師範は経験がないようだからあえて最強メンバーは出さない」という横浜外国人クラ
ブに対し、必死になって対戦した東京高等師範だったが、その実力差はいかんともしがたく、結果は
0-9の大敗。試合後は、両者入り混じって30分間プレーした後、選手はビールの招待を受けたと
記録されている。日本がサッカーらしいサッカーに触れてから、まだ1年強。当然言えば当然の結果
だった。
 
 日本のサッカーが本格的に全国へ普及していくきっかけを作った東京高等師範学校。その後も、日
本におけるサッカーの普及と強化の中心として活動し、「日本のサッカーの宗家」としての役割を確
固たるものにしていく。その恵まれた環境を、同37年9月に金沢の第四高等師範学校から東京高等
師範に転勤してきたスコットランド生まれのイギリス人、デ・ハビラントは、「余本校に来り、初め
て日本における理想的フットボールを見た」と発言したという。その後も横浜外国人クラブとの対抗
戦は毎年行われた。2回目の対戦となったのは同38年1月26日。この試合は90分で行われてい
る。当時東京高等師範では、デ・ハビラントが指導に当たっており、この試合は自らもセンターホワ
ードとして出場する熱の入れようだったが、前半を終わって0-5のリードを奪われ、後半はメンバ
ー全員を代えて臨んだものの0-1。トータル0-6と全く歯が立たなかった。
 3回目の試合は同39年1月30日。しかしこの時は、レギュラーメンバー4名を栃木師範、群馬
師範にコーチとして派遣させていた時期と重なり、ベストメンバーを組めずに横浜に遠征した。60
分間で行われたこの試合では、前半こそ0-0と健闘したが、結局0-1で敗戦を喫している。続く
4回目の対戦は、同年2月17日に大塚グラウンドで行われた。90分で行われたこの試合、ホーム
グラウンドで戦う東京高等師範は前半を1-0とリードして折り返したが、後半にオウンゴールで追
いつかれ、惜しくも引き分けに終わっている。
 4度目の対戦で引き分けたことで東京高等師範は大いに盛り上がった。しかしやはり外国人チーム
の壁は厚く、その後の対戦でも実力の違いを見せ付けられることになる。
 そんな状況の中で、東京高等師範は自らサッカーを研究する傍ら、普及活動にも随分と力を入れて
おり、各地の師範学校へ出向いては積極的にサッカーの指導を行っている。また各地の師範学校もこ
れを受け入れ、しばしば、東京高等師範へサッカーの指導を依頼した。さらに、東京高等師範学校の
卒業生たちが、各地の師範学校や中学校に教師として赴任することによって、サッカーを通した交流
が行われるようになっていった。
 
 こうした状況の変化が、内輪の練習試合に終始していた状況を少しずつ変えていった。そして、そ
れまで行われていた試合から「練習」という文字が取れて、やがて対抗戦へと発展していくことにな
る。そのきっかけとなったのが、同40年6月1日に青山師範学校と東京高等師範との間で行われた
練習試合だ。その1年前東京高等師範に正式に依頼し、部員を招いて指導を受けていた青山師範は、
1年間の指導を受けた後、腕試しのために東京高等師範にやってたのだ。この日3チーム分のメンバ
ーを揃えて東京高等師範にやって来た青山師範は、40分×3本という変則ゲームを実施。結果は4
-1で高等師範が勝っている。当時は正規の時間内で勝敗をつけるというのではなく、練習の目的や
参加する選手たちの人数に合わせて、試合形式でトレーニングを実施するという意味合いで試合が行
われていたらしくいわゆる「ミニゲーム」や、紅白戦のようなものだったようだ。
 同じ年の11月16日、再び東京高等師範に出向いた青山師範は、今度は前後半90分で決着をつ
ける正規のゲームを実施した。これが日本における日本人同士での最初の対抗戦として記されている。
試合結果は、東京高等師範の指導のもとで腕を磨いてきた青山師範だったが前半を終えて0-4。後
半も次々に得点を奪われ、結局1-8で敗れた。完封試合とはいかなかったが、東京高等師範が先輩
の力を見せつけた形になった。
 さて横浜外国人クラブとの対抗戦、同39年12月には0-6。翌40年には2度対戦して、それ
ぞれ0-5、0-7と完敗。そして9度目の対戦となった同41年1月11日の対戦でも0-7で敗
戦。全く歯が立たなかった。
 そして迎えた同42年1月、大塚のグラウンドに横浜外国人クラブを招いて行われた10回目の対
戦で、東京高等師範は初めて横浜外国人クラブに1-0で勝利する。この年は、この試合を含めて2
月までに3試合を行ったが、続く2試合も4-1、2-1と勝利を収めて3連勝。見事に過去9試合
の雪辱を果たした。当時の新聞は各紙とも、この快挙を大々的に報じ、東京高等師範関係者も、数年
来の研究・努力の賜物と喜びを隠さなかった。
 初期の段階では、日本のサッカーは東京高等師範学校を中心にプレーされていた。そしてその成果
は横浜外国人クラブとの試合に3連勝するという成果をもたらしたのだが、日本人同士の正式な試合
ということになると、この時期は、まだ殆ど行われていなかった。試合といえば、東京高等師範の内
輪で練習試合をするか、横浜外国人クラブや、外国人子弟が通う学校との練習試合をする程度。一般
の人たちがサッカーをプレーする機会は、まだまだ少なかった。
 


■筑波大学附属小学校

 大塚3丁目29番1号にある。
 「戦前」
 明治6年神田宮本町に東京師範学校の附属小学校として開校し、男子72名・女子32名の計10
5名でスタート。同7年天皇の行幸を仰ぎ。同19年「東京高等師範学校」と改称。天皇再び行幸。
同21年「附属学校小学科」と改称。尋常中学科を併置。制帽制服制定。同23年神田一ツ橋通町に
移転。同29年尋常中学科を分離。小学科を「附属小学校」と改称。同30年第二部尋常小学科・第
二部高等小学科を創設。同35年「東京高等師範学校附属小学校」と改称。同37年第三部を小石川
区大塚窪町の新校舎に移す。同42年第一部・第二部も窪町校舎に移す。同44年創立40周年記念
式典。名代として皇太子行啓。
 大正9年全校を5部に分ける。同12年創立50周年記念式典。第四部尋常科単級を廃し、第四部
高等科を新設。昭和2年第二部高等小学校を廃す。第四部高等小学校課程と第三・四部尋常小学校の
学級を再編。練馬の中村橋に農園を開設。同11年新校舎(1号館)落成。同12年農園を保谷に移
す。同16年国民学校令により「東京高等師範学校附属国民学校」と改称。12月日米開戦。同20
年新潟県南魚沼郡中の島村に集団疎開。8月日本は、ならず者国家アメリカの軍門に降り、以後属国
とされ、アメリカのいいなりになる傀儡政権に支配される今日的不幸を背負い込む。敗戦により高等
科廃止。10月疎開解除により学童帰校。
 [戦後]
 昭和23年創立75周年記念式典。同24年学制改革により「東京教育大学」が創設され「東京教
育大学附属小学校」と改称。同28年第四部を増設。プール完成。同31年低学年用新校舎落成、運
動場整備。同33年山梨県北巨摩郡高根町清里八ヶ岳山麓に若桐寮開設。同34年第五部を教育学部
に移管。同38年2号館落成。同46年3号館落成。同48年新体育館(現第二体育館)落成。創立
100周年記念式典。
 同53年東京教育大学閉学、筑波大学開学により「筑波大学附属小学校」と改称。同57年プール
新設第二運動場竣工。同62音楽棟・焼成室落成。同63年1号館から順次改修。若桐寮児童宿泊棟
(2号館)落成。平成4年若桐寮本館改築。同6年校舎全面建替え。落成式。同15年創立130周
年記念式典。
 


筑波大学東京キャンパス大塚地区校舎
■放送大学東京文京学習センター 
10月リニューアルオープン

 大塚3丁目29番1号にある。東京教育大学が筑波大学となって茨城県に転出していった後も、東
京に残した大学施設。研究センターや学校教育部などがある。平成23年10月1日リニューアルオ
ープンする。

 
「若竹」
 玄関前植栽にある青年立像。

 
「記念撮影‐通り過ぎる人‐」
 植栽にある彫刻。二人の女性が背向いに立ち、その間に建物の窓の一部を切り取ったようなものが
建ててある。峯田敏郎の作品。
 


■占春園
 大塚3丁目29番のある東京教育大学の跡地にある。水戸徳川家2代光圀の弟松平頼元が、万治二年
(1659)ここに屋敷を構えた。その子頼貞は陸奥国守山藩主として20000石を領し大学頭と
なった。占春園はこの松平家の屋敷内の庭園の名残で、斜面地を利用した自然豊かな庭園だ。ホトト
ギスの名所として知られていた。
 
占春園は都市公園ではないが、都市公園である「教育の森公園」に隣接すると共に、合わせて都市
計画公園である「文京中央公園」に含まれている。筑波大学附属小学校の自然観察の場ともなってい
るが、一般区民にも開放されている。ここは、明るく広々とした教育の森公園とは異なり、斜面と低
地を利用した園内は様々な樹木が鬱蒼と生い茂り、笹に覆われた樹木の下には細い階段状の園路が池
に向かって下っている。中島のある池の回りには大木が生い茂り、静かな雰囲気を漂わせる。東側の
低地にある広場には見事な枝ぶりの桂が3本ある。また教育の森公園側の入口近くには日本では珍し
い白松や大王松がある。

   占春園
   守山藩の上屋敷の庭園であった。延享三年(西紀一七四六)に建てられた碑文は、
   「我が公の園は占春と名づく。その中観る所は、梅桜桃李、林鳥池魚、緑竹丹楓、秋月
    冬雪、凡そ四時の景有らざるは莫し」
   とある。当時は江戸の三名園(青山の池田邸、溜池の黒田邸)の一つであったという。池
   を落英池、橋を折柳橋という。

                                 昭和57年10月1日
                                 筑   波   大   学

   
占春園                             大塚
3丁目29番
   この辺りは、幕末までの200年ほどの間、徳川光圀の弟を藩祖とする陸奥守守山藩松平
   家の上、中屋敷の地であった。占春園は、この屋敷内に開かれた庭園の名残である。「林
   には鳥、池には魚、緑の竹と赤い楓、秋の月、冬の雪」と、四季それぞれの庭の美しさで
   その名が知られ、当時の江戸三名園にの一つに数えられていた。明治36年東京高等師範
   学校(戦後の東京教育大学、筑波大学に改組)が、湯島からこの地に移り、占春園は、校
   地の一部になった。現在は、筑波大学付属小学校の自然観察園として、同校が管理し、区
   民にも公開されている。
   平成3年3月                          文京区教育委員会

 占春園碑
 
園内にある。延享三年(1746)3月に建てられたものだ。その碑文は、三代藩主松平頼寛に命
じられた藩士岡田宜汎が撰び宇留野震が揮毫した。頼元(恭公)から頼貞(荘公)、そして頼寛(我
公)に至る松平家3代が愛でた占春園を賞讃するもので、桜をはじめとして四季の美を備え、野鳥が
集まる様子が詠み込まれている。その扁額には「占春園碑」とあったと見られる。本文は、碑自体に
破損があり、また摩滅も甚だしいが、東京教育大学名誉教授鎌田正が『東京市史稿』遊園篇第一(東
京市役所 1929)pp.363-365を基にし、次のように紹介している(「占春園の碑」、『桐
葉』61号、1977年、p.2)。

   我公之園、名占春。其中所観、梅桜桃李、林鳥池魚、緑竹丹楓秋月冬雪、凡四時之景、莫
   不有焉。而名以占春者何也。園旧有古桜樹、蔽芾数丈。春花可愛、夏蔭可憩。先君恭公之
   少壮也、馳馬試剣、毎繁靶於此樹而憩焉。因名云駒繋。至荘公之幼也、猶及視之。於是暮
   年、花下開宴、毎会子弟、必指樹称慕焉。我公追慕眷恋、専心所留、遂繞此樹、増植桜数
   百株、花時会賓友、鼓瑟吹笙、式燕以敖、旨酒欣欣、燔炙芬芬、殽核維旅、羽觴無算。豈
   啻四美具乎哉。物其多矣、維其嘉矣。偕謡既酔之章、且献南山之寿。我公称觴、顧命臣宜
   汎曰、是瞻匪亦所為。後世子孫、徒為游楽之場是懼焉。子為余書於石。宜汎捧稽首曰、桑
   梓有敬、燕胥思危。誦美有辞、陳信無愧。謹寿斯石。万有千載、本支百世、永承景福之賜
   時延享丙寅春三月                          岡田宜汎捧撰
                                     宇留野震謹書


 読み下し文をサービスしとくよ。

   我が公の園は、占春と名づく。其の中、観る所は、梅桜桃李、林鳥池魚、緑竹丹楓、秋月
   冬雪、凡そ四時の景、有らざるは莫し。而して名づくるに占春を以てする者は何ぞや。園
   は旧古桜樹有り、蔽芾たる数丈。春花愛す可く、夏蔭憩ふ可し。先君恭公の少壮なりしと
   き、馬を馳せ剣を試み、毎に靶を此の樹に繋ぎて憩へり。因りて名づけて駒繋といへり。
   荘公の幼なるに至るまで、猶ほ之を視るに及ぶ。是に於て暮年まで、花下に宴を開き、子
   弟を会する毎に、必ず樹を指して称慕せりといふ。
   我が公追慕眷恋いし、心を留むる所に専らにし、遂に此の樹を繞り、桜数百株を増植し、
   花時に賓友を会し、瑟を鼓し笙を吹き、式て燕し以て敖び、旨酒欣欣、燔炙芬芬、殽核維
   れ旅ね、羽觴算無し。豈に啻だに四美具はるのみならんや。物其れ多く、維れ其れ嘉なり。
   偕に既酔の章を謡ひ、且つ南山の寿を献ず。
   我が公觴を称げ、顧みて臣宜汎に命じて曰く、是の瞻匪も亦為す所。後世子孫、徒らに游
   楽の場と為すを是れ懼る。子、余が為に石に書せと。宜汎捧じて稽首して曰く、桑梓敬す
   る有り、燕胥して危きを思ふ。美を誦して辞有り、信を陳べて愧づる無し。謹みて斯の石
   に寿ぐ。万有千載、本支百世、永く景福の賜を承けんことをと。

 
旧守山藩邸碑文
 園内にある。大学の説明版は以下の通り。

   
旧守山藩邸碑文
   この碑は、延享三年(西暦一七四六年)春三月に建てられたといわれるから、今から二百
   三十年ほど前になる。ここ吹上邸を上屋敷とされた守山藩主松平頼寛(三代目)が、その
   臣岡田宜汎に命じて記させたもので、高さ一.四米、幅〇.七七米の鉄平石に刻まれた碑で
   ある。この碑文には、藩祖頼元より頼寛に及ぶ三代の占春園にまつわる記事があり、特に
   占春園と命名された由来を持り持つ古桜樹や、桜花の春に催された佳会の盛宴などが興味
   深く記されていて、往時の大学頭邸の景観と歴史が追憶される。
     我公之園名占春。其中所觀、梅櫻桃李、林鳥池魚、緑竹丹楓秋月冬雪、凡四時之景
     莫不有焉。而名以占春者何也。園舊有古櫻樹、蔽芾数丈。春花可愛、夏蔭可憩。
     先君恭公之少壮也、馳馬試剣、毎繁靶於此樹而憩焉。因名云駒繋。至荘公之幼也、
     猶及視之。於是暮年、花下開宴、毎会子弟、必指樹称慕焉。
     我公追慕眷恋、専心所留、遂繞此樹、増植桜数百株、花時会賓友、鼓瑟吹笙、式燕
     以敖、旨酒欣欣、燔炙芬芬、殽核維旅、羽觴無算。豈啻四美具乎哉。物其多矣、維
     其嘉矣。偕謡既酔之章、且献南山之壽。
     我公称觴、顧命臣
宜汎曰、是瞻匪亦所為。後世子孫、徒為游楽之場是懼焉。子為余
     書於石。宜汎捧稽首曰、桑梓有敬、燕胥思危。誦美有辞、陳信無愧。謹寿斯石。万
     有千載、本支百世、永承景福之賜
     時延享丙寅春三月                       岡田
宜汎捧撰
                                    宇留野
謹書
   占春園は春爛漫たる桜樹を始めとして四時の美をそなえた名園で、杜鵑も巣を作るという
   野趣に富み、冬春の候には多くの鴨が園地に聚まり、青山の池田邸、溜池の黒田邸と合わ
   せて江戸の三名園と称せられたという。
   本学は、その史実をここに記して占春園を永久に記念するものである。

   昭和52年1月                           東京教育大学

 
木斛の碑
 もう一つの碑。東京キャンパス文京校舎の前に立つ石碑で、一名に「木斛の碑」と呼ばれる。これ
は、水戸藩主徳川斉修(号は天然子)の撰んだ文を記している。
 斉修は、文政十年(1827)の冬に礫川邸(礫川=小石川の水戸藩上屋敷)で火災に遭った。幕
命によって、夫人峰姫(11代将軍徳川家斉の娘)と共に守山藩主松平頼慎の吹上邸(上屋敷)に身
を寄せた。屋敷内には山水の勝景が多く、庭園の東には梅林があった.翌十一年春に、その梅林へ行っ
て梅花を賞でると、前年の憂鬱を忘れられ、それで七言律詩を詠んだという。従って、この碑は文政
十一年に建てられたものと推定されている。
 この碑文も摩滅が甚だしいため、本学名誉教授中村俊也の解説「旧守山藩邸内碑文」(『桐葉』6
0号、pp.2-4、1976)から、その原文および訓読文を引用する。

   木斛の碑
   東京教育大学の大塚の敷地は、その昔、水戸家の分家である守山藩主松平大学頭の上屋敷
   であった。文政十年(西暦1827年)に小石川水戸中納言の礫川邸が類焼し、当主8代
   目の斉修公(水戸烈公の兄)は夫人峰姫と共に駒籠邸に難を避け、そこから大塚吹上の松
   平大学頭の屋敷に移った。これを迎えた大学頭頼愼公はよく斉修公(天然子)を待遇した
   ので、公はその厚意を謝し、吹上邸の庭(占春園)の景観を称えて詠んだのがこの碑文で
   格調たかいものである。
      丁亥之春、礫川邸罹災。以
     
幕府之命、與夫人峰姫遷居於
     守山侯吹上邸。々中多山水之
     
勝。園之東有梅林。明年、春
     遊于林中賞花、頗忘舊歳之憂
     
因賦一律 以攄幽懷云
      吹上邸中山苑東 幾株梅樹遠連空
      落英渓畔千林雪 斜月樓頭一笛風
      疎影婆娑留舞鶴 清香馥郁伴詩翁
      人間何處無春色 春色須從此地融
                  天然子
   昭和52年1月                           東京教育大学
  


 読み下し文。

   丁亥の冬、礫川邸災に罹る。幕府の命を以て、夫人峰姫と居を守山侯の吹上邸に遷す。々
   (=邸)中山水の勝多し。園の東に梅林有り。明年、春、林中に遊びて、花を賞で、頗ぶ
   る旧歳の憂ひを忘る。因って一律を賦し、以て幽懐を攄ぶと云ふ。
    吹上邸中山苑の東 幾株の梅樹遠く空に連なる
    落英渓畔千林の雪 斜月楼頭一笛の風
    疎影婆娑として舞鶴を留め 清香馥郁として詩翁を伴なふ
    人間何れの処にか春色無からん 春色は須らく此の地従り融らぐべし     天然子

 行幸記念碑
 昭和6年10月30日東京高等師範学校創立60周年記念式典に天皇陛下の行幸を仰ぎ、それを記念して建てられた記念碑で、行幸に当たり勅語を賜った。左手には附属小学校の通用口が見える。

   行幸記念碑

   昭和六年十月三十日、東京高等師範学校創立六十年記念式ヲ挙グルニ当リ、畏クモ天皇陛
   下ニハ記念式式場並ニ東京文理科大学及東京高等師範学校ニ行幸アラセラレ、特ニ文部大
   臣ヲ御前ニ召シ、教育ノ任ニアルモノニ対シテ優渥ナル勅語ヲ下シ給フ
   健全ナル国民ノ養成ハ一ニ師表タルモノノ特化ニ竢ツ、
   事ニ教育ニ従フモノ其レ奮励努力セヨ
   聖慮深遠、真ニ恐懼感激ニ堪ヘズ、曩ニ明治天皇再度行幸アラセラレ、次テ大正天皇東宮
   ニ在シシ時、御名代トシテ行啓アリ、今又此ノ光栄ニ浴ス、吾等謹ミテ聖旨ヲ体シ、夙夜
   ニ淬礪シテ学ニ勉メ、徳ヲ磨キ、各其ノ本分ヲ完ウシ、以テ皇恩ノ万一ニ酬イ奉ラムコト
   ヲ期ス、茲ニ東京文理科大学及東京高等師範学校教職員・卒業者・学生・生徒・児童等相
   謀リ、之ヲ碑石ニ勒シテ、永ク後世ニ伝フ
   昭和七年十月三十日


 裏面

   宮内大臣一木喜徳郎 題字
   東京文理科大学長
   東京高等師範学校長 大瀬甚太郎撰文
   東京高等師範学校講師田代其次書


 傍らに筑波大学の説明板が建っている。

   行幸記念碑
   昭和6年10月30日東京高等師範学校創立60周年記念式典に天皇陛下の行幸を仰ぎ、
   それを記念して建てられた。行幸にあたり、「健全ナル国民の養成ハ一ニ師表夕ルモノノ
   徳化ニ竢ツ事ニ教育ニ従フモノ其レ奮励努カセヨ」との勅語を賜わった。
                             (昭和7年10月30日建立)
                                 昭和57年10月1日
                                       筑波大学

 小径の入り口にある占春園の説明版。

   
占春園
   守山藩の上屋敷の庭園であった。延享三年〈西紀一七四六)に建てられた碑文に『我が公
   の園は占春と名づく。その中観る所は、梅桜桃李、林鳥池魚、緑竹丹楓、秋月冬雪、凡そ
   四時の景有らざるは莫し』とある。当時は江戸の三名園の一つであったという。池を落英
   池、橋を折柳橋という。
   昭和五七年一〇月一日                          筑波大学

 嘉納治五郎像
 園内にある。嘉納治五郎先生は明治23年12月に生まれ、東京帝国大学を卒業後、講道館柔道を
創設した。その後、本学の前身である高等師範学校・東京高等師範学校の校長を3期23年半に亘っ
て務め、教育改革を行いつつ、日本の学校教育の充実、体育・スポーツの発展、そしてオリンピック
・ムーブメントの推進に活躍した。昭和10年7月頃には、翌年に喜寿を迎える嘉納治五郎を記念す
る寿像(生存中の肖像)を坪井玄道像の前方に建立することが計画され、嘉納治五郎先生教育功労記
念会が発足した。朝倉文夫製作の像が鋳造され、昭和11年11月28日に除幕された。像は太平洋
戦争中に供出の憂き目に遭い、御影石の台座は土中に埋められてしまった。
 没後20年目の昭和33年11月14日に、大塚のキャンパス内にある庭園占春園内に、園内に再
設置除幕された。朝倉文夫が製作した銅像の原型が残されており、それを用いての再建だった。翌々
年の35年10月29日には、生誕100年を記念し、同じ原型を用いた像が講道館本館前にも建設
除幕された。嘉納を敬愛した幸田文は、この像の周囲に小鳥が集まることを願い、実のなる木を植樹
したという。
 筑波大学の大学会館前にも、嘉納治五郎生誕150周年を迎えた、平成22年12月10日に台東
区立朝倉彫塑館の監修の下、岡宮慶昇により、これらと同じ原型を使用して鋳造された像が建立され
た。
教育者として、国際人として、未来を見据えて行動した嘉納治五郎の考えと足跡は、目指すべき
人材やその育成のあり方、世界における日本の役割を考える指針を与えてくれることだろう。

   嘉納治五郎先生像

 裏に回ると「文夫作」と、台座には

   嘉納先生のご功績を讃えて建てた銅像は
   戦時中供出された
   今再建して永く御遺徳をしのぶよすがとする
   昭和三十三年十一月  嘉納先生銅像再建會

 と彫られている。区の説明板は以下の通り。

   嘉納治五郎先生像
   明治26年9月より、大正8年まで、再度にわたり通算24年の長きにわたり、東京高等
   師範学校校長の要職にあられ、わが国師範教育の振興に大きな功績を残された。また講道
   館柔道の創始者、国際オリンピック委員としての活躍と功績は、あまりにも有名である。
   (昭和33年11月再建)                  昭和57年10月1日
                                    筑 波 大 学
  



教育の森公園

 大塚3丁目29番2号の東京教育大学の跡地利用で昭和61年10月13日に開園した区立の「水
と緑の防災公園」だ。災害時の広域避難場所となっているため、中央部に避難広場となる自由広場が
あり、隣接する文京スポーツセンターと一体化して救援活動に使用される。地下貯水槽や放水設備を
設け、周囲には門や塀を設けず、入口を多くとり、主要園路が広く直線状となっているのが特徴。ま
た自由広場の周りには、じゃぶじゃぶ池や緑濃い樹林帯、山岳風の景観の林間広場、二つの半月池や
石張りの正門広場等を配すると共に、既存の桜並木も見事だ。園内には「文京区非核平和都市宣言」
を記念する彫刻を始めとして3点の彫刻がある。ここは筑波大学附属小学校の自然観察の場となって
いるが、文京区が維持管理を行い一般に開放している。

   教育の森公園                           大塚3‐29
   この地は、徳川光圀の弟頼元が、万治二年(1659)に屋敷とした。その子頼貞は元禄
   十三年(1700)常陸国茨城・同行方・陸奥守山の3郡2万石を受け、守山藩主として
   大学頭(だいがくかみ)を名乗った。邸内敷地62000坪という。
   氷川下の低地にある池は、当時吹上邸として有名な占春園の名残である。ホトトギスの名
   所だったという。
   明治36年東京高等師範学校が、お茶の水(現東京医科歯科大学の所在地)から移転して
   来た。戦後、東京教育大学、筑波大学へと発展した。
   昭和59年区民の念願により、旧東京教育大学のうち、約29ヘクタールの払い下げを受
   け、区民の憩いの場、防災広場、スポーツセンターとして活用するため、都心の緑の地と
   して設計した。そして由緒ある地を「教育の森公園」と命名した。
   昭和62年3月                         文京区教育委員会

 
フィオーネとアリアン
 園内にある朝倉響子作の女性二人がベンチに腰掛けている銅像。

 
平和の天使
 園内にある御正進の彫像。右手でホルンを奏で、左手で鳩をかかえている女性像。

 TO AND FRO 遊動
 園内にある、平成3年フィンランドのRaimo Utriainenn作のオブジェ。


■文京スポーツセンター

 大塚3丁目29番2号の東京教育大学の跡地にできた区の施設。競技場・柔道場・剣道場・弓道場
・卓球場・多目的室・会議室・プールなどが利用できる。
 


■湯立坂
 大塚3丁目と小石川5丁目の間の坂道。坂の右側は筑波大学学校教育部、教育の森公園がある。写
真の通り、坂の中ほどは木々に覆われて薄暗くなっています。坂上はカイザースラウテルン広場。営
団地下鉄茗荷谷駅のそばです


   
湯立坂(ゆたてさか)
   「里人の説に往古はこの坂の下は大河の入江にて氷川の明神へは河を隔てて渡ることを得
   ず。故に此所の氏子ども此坂にて湯花を奉りしより坂の名となれり。」(江戸志)
   新編武蔵風土記稿には、この辺りのことを簸川原(ひかははら)とあり、アユ、ウナギそ
   してセリなどのとれる所としている。事実小石河(後年千川とも云う)が流れていた。

    我方を思ひゆかめて小石河 いづこを瀬とかこひ渡るらむ(道興准后)

   「廻国雑記」(文明十八年六月より三月までの北陸、関東、奥州諸国の遊歴見記)より。
                 郷土愛をはぐくむ文化財  
              文京区教育委員会  昭和48年3月


■窪町東公園
 大塚3丁目30~32番にある区立公園。昭和28年9月1日開園。

 
「神話空間への招待」
 平成5年カイザースラウテルン市と姉妹都市縁組したことを記念してルンブラ夫妻から寄贈された
5基のオブジェ。ユニコーン(一角獣)、魚(顔はフリードリッヒ一世)、アンモナイト(日本文化
の源と発展を表している)、かたつむり(
渦巻きは「進化」「静寂と瞑想」を現す)2基。


■白鷺坂
 大塚3丁目と4丁目の間の坂道。千川通りと不忍通りが交差する千石3丁目交差点から西南へ大塚
3丁目交差点まで上っている長い坂。大塚小学校前の植込みに区の説明板がある。

   白鷺坂
   このあたり一帯は、かつて伊達宇和島藩主の下屋敷であった。近くの区立大塚小学校地は
   池を中心とした伊達屋敷の庭園部に相当すると伝えられる。明治時代を迎えて荒廃するが
   「古木老樹が鬱蒼と繁り、白鷺の集巣地となって日夜その鳴声に悩まされたものである」
   とは土地の古老の話である。この白鷺に魅せられたアララギの歌人、古泉千樫(こいずみ
   ちかし)は、ここに毎日通いつめて白鷺を題材とした短歌を作ったといわれる。
   明治末期の市区改正に伴う道路整備によって、不忍通りの前身が伊達屋敷内を貫通したた
   め往時を偲ぶものもなく、そこに出来たこの長い坂道にも坂名のないままであったが、誰
   れいうとなく白鷺にちなんだ坂名が愛称となった。大正から昭和にかけての人によってつ
   けられた坂名といえる。御殿廃止後、幕府の薬園(現在の小石川植物園)となる。坂の西
   側の「本念寺」には、蜀山人(太田南畝)の墓がある。

    鷺の群 数限りなき鷺の群 騒然として寂しきものを(古泉千樫)

             東京都文京区教育委員会   昭和63年3月


 とある。坂上の大塚3丁目交差点で富士見坂と接する。


■大塚小学校
廃校 復活
 大塚4丁目1番7号にある区立校。

 [戦前]
 大正9年青柳尋常小学校から分校して大塚仲町41番地(現在地)の木造2階建て新校舎に「東京
市大塚尋常小学校」として開校。1500名28学級からのスタートだった。同15年窪町尋常小学
校分校。同16年国民学校令により「東京市大塚国民学校」と改称。12月日米開戦。同18年都制
施行により「東京都大塚国民学校」と改称。同19年学童疎開。同20年愚かなアメリカ軍の非人道
的無差別空爆により学校壊滅。8月日本敗戦。ならず者国家アメリカの軍門に降り、以後属国とされ、
唯々諾々といいなりの傀儡政権を抱える今日的不幸を背負い込むことになった。10月疎開解除によ
り学童帰校するも学校なく、窪町国民学校に収容。同21年再起ならず廃校となる。

 [戦後] 
 昭和29年旧校地「東京都文京区大塚小学校」として復興。1~4年生155名8学級でスタート。
6月7日開校式(開校記念日)。緑の帽子着用開始。同32年創立50周年記念式典。同32年7月
まで3回増築が行われ20教室・2特別教室となる。同39年復興10周年記念式典・校歌制定。同
41年体育館落成。同45年鉄筋コンクリート造り校舎に全面建替え。1年遅れで復興15周年記念
式典。平成16年復興50周年記念式典。同22年創立90周年記念式典。

 五大集会
 「こいのぼり」「七夕」「秋祭り」「さようなら・・年」「豆まき」をいうとか。

 希望の石・トーテムポール・灯台
 「希望の石」は、群馬県鬼石町三波から運んできた大石。自然の悠久・根気・厳粛を表わし、①明
朗で意志の強い健康な子供を目指す。「トーテムポール」は、精神面の信仰・崇拝・創造を表わし、
②知性を高め個性豊かな子供を目指す。「灯台」は、社会面の協力・奉仕・清廉を表わし、③社会性
を身に付け、実践力ある子供を目指す。

 校旗掲揚
 毎日、音楽クラブの校歌演奏とともに行われ、集会委員2名が輪番で誇りと名誉を担って掲揚。


■かるた記念大塚会館

 大塚4丁目13番5号にある区の施設。全日本かるた協会の2代目会長だった伊藤秀文が私財を投
げ打って建築した「伊藤かるた会館」がその後、区に寄贈されて「かるた記念大塚会館」となった。
今は大塚地域活動センターによって管理されて集会などにも使うことができる。
 玄関ホールには木製のかるたや江戸時代からの百人一首も展示されている。正面が54畳のかるた
「道場」。こちらの畳には「縁」がない。かるた競技には縁の無い平らな畳が必要だから。
 「ちはやふる」と言う「かるた」をテーマにしたアニメの舞台としても登場する場所。
 館内に伊藤秀文の胸像がある。日本かるた協会の本部も100mほど離れた不忍通り沿いにある。

   文京区立かるた大塚会館
   この会館は、伊藤秀文氏が小倉百人一首の全国組織を作った父秀吉の遺志を継ぎ、かる
   たの普及を目的に、昭和62年「伊藤かるた会館」として建てられ、後世にかるたを伝
   えるとともに、区民が利用できる会館として、平成2年に文京区に寄付されました。
   平成3年                                文京区
 


■大塚看護専門学校 
閉校

 大塚4丁目21番5号にあった都立校。平成16年を以て閉校。
 


■養育院 →
東京市養育院 板橋へ移転
 大塚4丁目21番(東京都観察医務院)・豊島区南大塚2丁目8番(大塚病院)に跨ってあった。
長州藩の下屋敷跡だ、明治5年にロシアの皇太子大使アレクセイが、東京に訪れることになったのが
きっかけで作られることとなった。ロシアの皇太子が東京に来るというので、時の政府の要人は、東
京を少しよく見せないと、当時の不平等条約を是正することができなくなると東京を見渡した。その
頃東京には、明治維新の犠牲になって浮浪化している人たちが目についていた。今の言葉でいえばホ
ームレスの人たちがロシアの皇太子の目に止まったら恥ずかしい、とにかく彼らを何処かに収容しよ
うということになった。つまりその人たちを、いま東大の赤門の傍にあった加賀屋敷の真っ暗で陽の
当たらない長屋に窮民約240人を閉じ込めてしまったのだ。「帝都の恥かくし」という言葉が当時
の公文書に記録されている。
 その後、こうして集めたホームレスの人たちの生活を面倒みるのが「営繕会議所」だった。現在の
商工会議所で、その事務長が渋沢栄一だった。渋沢は、働く力のない人については公的に面倒をみる
のが当然である、と主張していた。彼は、徳川慶喜の弟である徳川昭武の随員としてフランスにいっ
た時(パリ万博の幕府代表)に、フランスで大きな慈善院がどの町にも存在していることを知った。
渋沢は、そこで身寄りがなく働けない人が生活している姿を見ており、江戸時代の七分積金制の残り
を使いながら、彼らを養育した。七分積金制は、養育院ばかりでなく、銀座のガス燈などにも使われ
たから、だんだん少なくなっていった。そのため渋沢は、東京府が養育院を引き受けて、働けない人
を公的に養育していくことが必要だということを訴え続けた。今の生活保護政策だ。在日朝鮮人の大
半を養っている生活保護はこの名残という訳だ。その時期の問題の一つに、ギリギリの僅かなお金で
本当に生きてるだけの養育しかされなかったということだ。暫く長谷部善七という江戸時代の非人を
扱っていた人へ預けていたが、本郷から浅草溜に移転することになり、それも経費が足りないという
ことで、結果的に
、同9年上野護国院跡に移して「東京府養育院」と称した。ところが上野でも「博
物館を作ろうとしているのに見苦しい」ということで、同12年神田和泉町1番地の元藤堂家上屋敷
跡に移され、
同18年本所区長岡町へと転々とした。その経費は、寛政年間(1789~1801)
に老中松平定信が江戸町法の改正によって得た七分積金から支出した。一方で東京府議会では、どう
して彼らを養育しなければならないのかという議論が高まったりして、大変不安定な状況が続いてい
た。その頃、有名な東洋経済新報社を建てた田口卯吉が「税金を使って、貧乏で働けない人を養育す
ることは結果的に怠け者を作ることになる。税金で養うべきではない」という意見を述べた。それに
対して、論語をよく読んでいた渋沢栄一は、政治は論語でいう仁に基いて行なうのは当然であると公
立で続けることを主張したが、次第に田口の議論が力を持つようになり、委任経営で行なう時期を迎
える。それでも渋沢は訴え続けて、やっと東京市営になったのが、同22年のことだ。加えて「転々
と転居することは、そこで生活を続けている人にとってもよいことではない。フランスをはじめ当時
のヨーロッパには大きな慈善施設があって、しっかりした建物である」と渋沢栄一はいい、大塚にそ
の建設を求めたのだ。
東京市移管により「東京市養育院」と改称、行路病人の救療、棄児・遺児・迷
子なども教育し、現在の児童福祉施設に繋がっている。
 同29年3月本所からこの地小石川区大塚辻町・仲町・下巣鴨町に新築移転し、これから近代的な
施設となった。この大塚の建物を見てみると、作った方もさることながら、当時の日本の慈善施設に
比べて、施設としては非常によくできていた。銀行などを建てた妻木頼黄という一流の建築家に頼ん
で建てさせたということだ。そして渋沢は官界財界に顔をきかせながら院長職を約60年間も続けた
のだ。
 大正12年関東大震災の罹災傷病者救護のため、東京市は内務省の委託により30ヶ所の外来診療
所と大塚、広尾、本所、深川、青山の簡易療養所を設置。養育院は板橋に移転、約27年間この地にあった。
 3年後の大正15年、東京市立養育院跡地の一部に市立病院建設決定(市参事会議決第72号)、
関東大震災後の首都圏復興事業の一環として、中産階級以下の傷病者の診療を目的に養育院跡に市立
病院の建設を着工した。現在の都立大塚病院(豊島区南大塚)だ。
 因みに養育院は、平成12年廃止され、現在は存在していない。


■全日本かるた協会本部

 大塚4丁目39番12号にある一般社団法人。『小倉百人一首』を活用して行う競技かるたの大会
や、『小倉百人一首』に関する調査・研究、講演会・講習会等を通して、広く日本文化の振興・発展
に努めている。
 『小倉百人一首』のように、約800年もの長きに亘り、広く庶民に親しまれてきた古典は他にな
い。そのような『小倉百人一首』を用いての競技かるたは、名人・クイーン戦を頂点に、全国大会が
各地で年間約60回行われ、学校の部活動等も含めると、かるた人口も約100万人となった。また
タイ、中国、アメリカなど、海外からの参加者も年々増え、海外からも注目されるようになった。


■波切不動 本伝寺

 大塚4丁目42番23号にある日蓮宗の寺。立派な山門を入ると正面に本堂、右に庫裏。手前には
赤い幟の稲荷大明神と地蔵堂。左は駐車場と波切不動堂。右の端に通用門があり、奥の院と墓地と、
境内は広いし一等地で威張っているような・・・法仙院日影上人の開山。

 波切不動
 はじめ伊勢の国の或る村に安置されてあったのを、かの日蓮上人が伊勢路を旅するうち、霖雨のた
め水量を増した河を渡りかねている時、老爺に姿を変えた不動明王が河の水を切って上人を渡河せし
めたという。この不動明王の本尊を東国へ運び、大塚の地に移したのも日蓮上人だとか。


東邦音楽大学附属東邦中学校・高等学校/短期大学

 大塚4丁目46番9号にある私立校。昭和9年「東京高等音楽学院分教場」開場認可。同13年三
室戸為光が権利を継承し「東邦音楽学校」と改称。全国唯一の昼夜2部制の音楽学校を発足。同14
年小石川区大塚上町25番地(現在地)に校舎落成。東邦音楽学校を大塚駅前より移転。「東邦商業
女学校」を併設。「東邦の歌」制定。当時在職教員たちの作。

 校歌「
東邦の歌」 作詞・植村敏夫  作曲・服部正 編曲・芝祐久
  1.喜び常に涌く泉
    溢れて爽に鳴る処
    ミューズの恵み深ければ
    愉しき旋律
(うた)を奏でつつ
    若人集う学び舎ぞ
    東邦 東邦 吾等が東邦
  2.装いなりて新しく
    掲げし旗に君看ず
    調和の心 類なく
    いみじき薫陶
(おしえ)仰ぎつつ
    若人集う学び舎ぞ
    東邦 東邦 吾等が東邦

  3.学びし技は人格こそ
    磨きて光る珠玉
(たから)なれ
    朝な夕なに心して
    撓
(たゆ)まで勉め励みつつ
    若人集う学び舎ぞ
    東邦 東邦 吾等が東邦

 ※3番の「撓(たゆ)まで」は「弛まで」の誤りだろう。「撓」は「たわむ」だ。

 同15年東邦商業女学校を「東邦女学校」と改称。同21年財団法人三室戸学園設立。同22年東
邦女学校が5年制の「東邦高等女学校」に組織替え。男女共学の東邦中学校新設。同23年東邦高等
女学校を移行した男女共学の「東邦高等学校」設置。普通科と全国初の音楽科開設。同26年財団法
人三室戸学園を「学校法人三室戸学園」に組織変更。短期大学併設。同29年講堂完成。同31年八
王子市川口町に校外運動場を設置。同37年本校舎竣工(3号館)。東邦第二高等学校川越に開学。同
40年川越キャンパスに東邦音楽大学(音楽学部音楽学科)開学。同43年大塚で昭和14年から使
用の校舎の一部360㎡を川越に移転し、記念校舎として復元。同44年東邦第二高等学校普通科を
音楽科に移行。同49年三室戸学園創立35周年記念事業の一環として、静岡県伊豆に三室戸学園大
仁学寮が完成。同56年大塚キャンパスに図書館竣工。同60年大塚キャンパスの学園本部棟(4号
館)竣工。同63年創立者三室戸為光逝去。
 平成2年創立50周年記念式典。外国人留学生制度が発足。同3年オーストリアのウィーン市ツィ
グラーガッセに日本の音楽大学として初めての海外研修所「東邦ウィーンアカデミー」を開設。大塚
キャンパスの校舎(7号館)竣工。同5年東邦ウィーンアカデミー研修を、本年度大学入学生より必修
科目(短大生は選択科目)とする。同8年東邦音楽学校再開。同9年中学校・高等学校校舎(8号館)
竣工。同13年東邦中学校・東邦高等学校・東邦第二高等学校を「東邦音楽大学附属東邦中学校・東
邦音楽大学附属東邦高等学校・東邦音楽大学附属東邦第二高等学校」と改称。東邦ウィーンアカデミ
ーをウィーン市13区(ヒーティング)へ移転。同16年音楽ホール「東邦音楽大学グランツザール」
(14号館)竣工。川越キャンパスに大学院開学。大塚キャンパスに東邦音大エクステンションセン
ターを開設。同17年戦前から大塚キャンパスで使用していた記念校舎が『川越市百選』と『川越市
重要建築物』が指定されたのを機に、名称を『東邦音楽学校三室戸記念館』とする。また「東邦音楽
大学グランツザール」が川越市都市景観『都市景観デザイン賞』、埼玉県より『2004年彩の国景
観賞』を受賞。同18年東邦音楽大学グランツザールが第32回東京建築賞建築作品コンクール一般
部門一類において「優秀賞」を受賞。
 


■東京市立 → 東京都立 → 文京区立大塚公園

 大塚4丁目49番にあり、一部豊島区に掛かっている。板橋に移転した養育院の一部。大塚病院建
設時
に「公債償還基金経済所属地」として取得した土地が、利用しにくい崖地と窪地だった。この土
地を 1年間の欧米視察旅行から帰国したばかりの井上清東京市公園課長が、市街地の画期的な市立
公園とすべく、欧米風の設計施工を行ない、大塚公園を造園した。
 
昭和3年に開園した由緒ある公園で、同18年10月1日都立公園、同25年10月1日区立公園
となった。同63年~平成3年にかけて改修が行われ、春日通りに面した入口広場は、石張りの奥の
藤棚と共にモダン(現代的)な雰囲気を漂わせている。入口から右手に行くとろにテラス(露檀)が
あり、その前のトレリス(格子垣)が落ち着いた景観を造り出している。そこから一段下がったとこ
ろには、開放的な階段広場に挟まれたバルコニーがあり、そこからは広い自由広場が眺められる。ケ
ヤキなどの大木に囲まれた自由広場からは、パーゴラの後ろの大噴水を望むことが出来、高さ4mの
シャンパングラスの形をした台からは、水が噴出し石張りの池に落下している。この公園は歴史の古
さを感じさせる中に、現代的なデザインを取り入れているのが特徴だ。

 EVE(イブ)像
 EVEと名づけられた女性の立像。船越保武の作品。

 大塚地蔵尊
 公園内の1ヶ所に集められている。

   子育・開運
大塚地蔵尊

   庚申塔の由来
   文 字 塔  延宝二年(1674)
          奉造立庚申供養二世安楽修
   地   蔵  正面三猿 寛文五年(1665)
          石碑一尊二世為安楽庚申供養成就修施工
   大日如来像  正面三猿 年代不詳
          奉造立庚申供養二世安楽所施主十九名
   観   音  正面三猿梵字有り 延宝六年(1678)八月大吉日
          奉造立庚申供養二世安楽成施主26名

   右の庚申供養塔は大塚辻町(現大塚5丁目9番)路傍にそれぞれ300年以前に往時の里
   人が豊作を祈り二世安楽の祈願をこめて奉造立して供養を続けられ、幾代かの世代に守ら
   れて今日に及んでいる。昭和20年不幸戦火に被災しその後大塚公園に移された。
   昭和61年14月吉日                       大塚上辻地蔵講

 現在説明板は同文で、平成8年に建て替えられている。

   
大塚地蔵尊・庚申塔の由来
   (上記と同文)
   平成8年12月吉日                        大塚上辻地蔵講
                                 (新大塚駅前商店会)

 
露壇
 公園内にある。

   露壇
   「露壇」とは、テラスのことです。16~17世紀のイタリアでは、地中海に面した丘陵
   地に裕福な市民のビラ(別荘)が多く造られました。そこでは斜面を階段状に造成した土
   地に、カスケード(水階段)やテラス(露壇)で結んだ庭を造り、下方に広がる風景を庭
   の一部に取り入れる(借景)という独特の庭園の様式が発達し、「イタリア・ルネサンス
   式」又は「露壇式」と呼ばれています。文京区の公園では、大塚公園の他、元町公園(昭
   和5年開園)にも同様のデザインがみられます。
   この露壇は昭和3年に造られ、長い年月の間に老朽化が進みましたが、平成元年開園当時
   の姿に復元しました。                         文京区役所
 

 ●
文京区ラジオ体操発祥の地

 大塚公園に、少年が体操をしている彫刻とそれに添えられた碑がある。

   文京区ラジオ体操発祥の地
   文京区のラジオ体操は、昭和4年1月13日大塚仲町(現大塚4丁目42番)の本伝寺境
   内に町内有史が集まったのを始まりとする。その後隣接各町会の有志が合流し、3月27
   日会場を当地に移し、大塚公園ラジオ体操会と称した。
   ラジオ体操60年にあたり、これを記念する。
   平成元年3月27日                       文京区教育委員会

 
住好稲荷社
 大塚公園の南隅にある小社。極めて整備されている。

   由緒書
   御祭神 宇加之御魂大神
       豊川荼枳尼天
       住好稲荷権現
   御創建 明治四十二年六月
       当社は松平家の下屋敷の
       邸内社として鎮座されしものに
       て久蔦作左衛門之を祀る。
       澁澤榮一市長の時
       市の所有となり 社も残地され
       戦後は文京区の管理に移り
       荒廃せらるも地元崇敬者相集
       い勧請しこれを継承 社の復興に
       努力し今日に至る
   御例祭 毎年二月執行
   御神徳 信者の開運 火防を始めとし
       交通安全 事業繁栄 招福
       除災 学業増進 諸願成就等
       御霊験灼たかにして
       御神徳をいただくもの多し
   昭和六十一年十一月
   
奉獻 勧請者代表
       神官 古塚真祥
 


■新大塚駅

 大塚4丁目51番にある東京メトロ丸の内線の停車場。昭和29年1月20日丸ノ内線池袋~御茶
ノ水間開業と同時に設けられた駅。この区間は、丸ノ内線で最初の開業区間だ。ホームは相対式2面
2線構造で、地下1階にある。ホームの池袋寄り2両分ほどは後から延長されたため、幅が1メート
ルほどしかない。それぞれのホームは完全独立していて連絡通路はない。改札口・出口は各ホームに
1ヶ所づつの計2ヶ所がある。どちらの出口もエレベーターを備えている。
 駅は文京区と豊島区に跨った位置にある。上記の通りホームが独立しているので、乗車する方向に
よって出入口を使い分ける必要があるが、各出口は交差点の斜向かいにあるので結構不便だ。

 
●ケータイ、モバイルバッテリー出火
 平成30年10月28日21時前、電車内で、乗客の男性(20代)が持っていた携帯バッテリー
から火が出た。警視庁などによると、電車内の非常用ボタンが押されたため、駅員が119番通報し
乗客全員を新大塚駅で降ろした後、10分ほどで火が消し止められた。バッテリーは中国製だとか。
よくもまあ、中国製、韓国製のものを買うよねぇ。信じられないよ。国民性ががさつなんだから、作
るもんだっていい加減に決まってんじゃん。犯罪者を見ろ、韓国人、中国人だらけだ。
  


■善心寺

 大塚5丁目2番7号にある法華宗陣門流の寺。


仏法山法樹院西信寺

 大塚5丁目2番10号にある浄土宗の寺。小石川西岸寺開山単称長察大和尚が寛永二年(1625
 寛文二年(1662)の説もある)当地に開山した。練馬区大泉に別院大泉寺を別院。
 


■ポポー広場

 大塚5丁目13番15号にある区立公園。平成17年4月1日開園。木造住宅が密集する大塚5・
6丁目地区に、災害時に備えた空間を作ろうと、住民と区と共に設置した。普段は児童遊園として、
災害時には非難場所や防災拠点として活用される。数個の石の椅子を配置しただけのシンプルな広場
で、中央には芝生があり、そのシンボルツリーとしてポポーの木が植えてある。

 
ポポーの木
 ポポーは北米産で、バンレイシ科の温帯果実。耐寒及び病害虫に強いことから比較的に栽培が可能
な果樹だ。6月頃には暗紫色の花が咲き、アケビに似た実がなる。また、秋の紅葉も美しいので1年
を通して楽しむことができる。  


■大塚五丁目児童遊園

 大塚5丁目16番21号にある区立公園。昭和42年12月6日開園。


■吹上稲荷神社

 大塚5丁目21番11号にある。元和八年(1622)2代将軍徳川秀忠が、日光山から稲荷の神
体を賜り、江戸城内吹上御殿内に「東稲荷宮」と称したのが始まり。5代綱吉の時江戸城内から一ツ
橋に遷し、その後水戸徳川家の分家守山藩松平大学頭頼貞が拝領し、その邸内(3丁目29番)に移
し、宝暦元年(1751)大塚村の鎮守として松平家から拝受して、小石川4丁目の善仁寺に移し、
今日の社名に改名、吹上は吹上坂に由来する。その後護国寺、薬師寺等を転々とし、明治45年に現
在地に落ち着いた。大塚先儒墓所を管理している。

   吹上稲荷神社略記
   ●御祭神 保食之大神
   ●御祭日 例大祭 九月二十二日
        中 祭 二月二十二日
            五月二十二日
        月次祭 毎月一日
   ●御由緒 元和八年(1622)徳川秀忠が下野国日光山より稲荷大神の御神体を戴き、
        江戸城中紅葉山吹上御殿に「東稲荷宮」と称し、海川山野産食物の神として、
        幕府が崇敬し奉り、武家諸公の信仰が厚かった。
        後に、徳川家から水戸家の分家松平大学頭家へ、そして宝暦三年(1751)
        に大塚村民の鎮守神として現小石川4丁目に伊遷し、崇敬者多数に及び武家の
        信仰も厚かった。また、この時に江戸城中吹上御殿に鎮座せられるを以て、吹
        上稲荷神社と改名奉った。その後、護国寺月光殿から大塚上町へ、そして大塚
        仲町と伊遷し、明治45年に大塚坂下町(現在地)に遷座し奉り、今日に及ぶ.
   ●御神徳 五穀豊穣
        厄災攘伐
        鎮  竃
        幸運招来
        商売繁昌
        諸願成就
   平成8年8月吉日                         奉納 安田重春
                                       安田咲子


 ※「厚かった」は「篤かった」の誤植。松平大学頭家は守山藩松平家。

 
神狐一対
 東京現存最古だとか。
 


■大塚先儒墓所

 大塚5丁目23番1号にある。寛文十年(1670)林羅山の弟子で、水戸藩祖頼房の儒臣人見卜
幽軒(道生)がこの地に没し、その遺体をその邸内に埋葬したのが起こり、以来幕府儒者の木下順庵
・室鳩巣・柴野栗山・尾藤二州・古賀精里・岡田寒泉・栗本鋤雲らを埋葬、現在63基ある。中でも
柴野・尾藤・岡田(古賀)は〝寛政の3博士〟。
埋葬は儒葬・儒礼という儒教の方式によっている。
墓石には戒名ではなく「○○先生之墓」と刻んである。儒者の遺体を多数埋葬した場所なので、維新
後墓所が荒れたので〝儒者捨て場〟などと俗称された。しかし明治34年東京帝国大学総長浜尾新ら
によって保存会が組織され、大正3年整備を完了した。昭和5年以降、東京市(当時)と斯文会とが
共同で先儒祭を行っていたが、太平洋戦争により中断された。戦後、斯文会によって先儒祭が再開さ
れ、以後、毎年挙行されている。普段は施錠されているが、吹上稲荷神社に頼み込めば開けてくれますよ。

 古賀精里の墓
 文政五年建立。藤原忠升撰 子煜書 石師は廣羣鶴鐫。


   
精里古賀先生之墓

 
古賀侗葊の墓
 征夷府故學士侗葊古賀先生墓碑銘 嘉永戊申(元) 板倉勝明撰 子増書 五世廣羣鶴鐫

   
侗葊古賀先生之墓

 
古賀増長長女ことの墓
 慶応四年建立。古賀増長誌 廣群鶴刻 

   
筑後守古賀増長女阿琴墓

 
尾藤二洲の墓
 寛政三博士の1人。文化癸酉(十)年没 池孝暢記

   
江戸故教官二洲藤先生墓

 
尾藤遺徳阡の墓
 文化十年 孝肇表

   
尾藤氏遺徳阡之墓

 
柴田栗山の墓
 寛政三博士の1人。文化十年建之 廣瀬政典撰 杉浦吉綂書

   
征夷府故伴讀栗山先生之墓


 大塚先儒墓記碑
 墓所にある。大正4年の建立。大塚先儒墓所保存會撰 榎本勝多書 井龜泉鐫。

   
大塚先儒墓記

 
岡田寒泉の墓
 極めてシンプルな墓標。寛政三博士の1人。

   
故博士寒泉岡田先生之墓

 
室鳩巣の墓
 これも極めてシンプル。

   
室鳩巣先生之墓


■豊島ヶ岡御陵 → 豊島岡墓地

 大塚5丁目39番1号、護国寺の東側にある。元々は隣接する護国寺の境内だったが、明治政府に
より召し上げられた場所だ。大久保利通の謀略で天皇が江戸城に住まいとすることになって、皇族も
江戸に住むことを余儀なくされた。それで区内では小高い標高34m近辺にあるため、権現山などと
呼ばれていたところを「豊島ヶ岡」と改名し、皇族の墓所とした。江戸時代中期以降、天皇家の墓所
は京都の泉涌寺にあり、その他の宮家も京都市内および周辺地区の寺院に墓所が点在してる状況であ
り、いずれも明治以降に事実上の首都(法律上は現在も京都)となった東京からは遠方にあった。そ
のため明治6年に明治天皇の第一皇子である稚瑞照彦尊(わかみつてるひこのみこと)が死産した際
には、東京市周辺に墓所及び葬送儀式を行う広い面積を持つ場所が必要となった。明治政府が複数の
候補地の中からこの地を選定し、明治6年9月22日に「豊島ヶ岡御陵」と命名して使用を開始、以
降、皇族の葬送儀式を執り行う場所として、また墓地として利用されている。
 現在の皇室典範では、天皇及び皇后の墓を「陵(みささぎ)」、それ以外の皇族の墓を「墓」と名
称を区別しているため、「豊島岡墓地」が正式名称となった。皇室陵墓のため、まず一般民が入るこ
とは出来ない。もし何かの間違いでうろつこうものなら、捕まってしまう。
 稚瑞照彦尊をはじめ皇子・皇女が葬られ、明治天皇の生母中山慶子とその父中山忠能の霊も眠って
いる。有栖川宮、小松宮、北白川宮、東久邇宮、秩父宮、高松宮、三笠宮、高円宮などの宮家の墓も
ある。おいらは特別の理由で中に入れて貰ったことがあるが、中は森然としていて全く墓地という雰
囲気ではなく、墓石が並んでいる訳でもない。墓所というよりは森の中という感じだ。


■護国寺駅

 大塚5丁目40番にある東京メトロ有楽町線の停車場。昭和49年10月30日有楽町線池袋~銀
座一丁目間開業と同時に設けられた駅。ホームは、島式1面2線構造で、地下2階にある。ホームと
改札階を結ぶエレベーターは設置済みだ。改札口は2ヶ所で、出口は1~6の6ヶ所だ。地上へ上が
るエレベーターは6番出口に併設されている。
 この駅は、講談社と光文社の最寄り駅だ。神保町駅付近にある小学館や集英社で形成する「一ツ橋
グループ」に対し、こちらは「音羽グループ」と呼ばれている。
 


■神齢山悉地院護国寺
 大塚5丁目40番1号にある真言宗豊山派の寺院。大和長谷寺の末で別格本山。創建より前、館林
城にあった桂昌院(徳川綱吉の生母)が、上野国(群馬県)碓氷八幡宮の別当大聖護国寺の亮賢僧正
の徳を慕い厚く帰依していた。綱吉が5代の将軍職を嗣ぐことになり、桂昌院も江戸城三の丸に移住
した。天和元年(1681)二月桂昌院の発願によって、幕府所属の高田薬園の地に堂宇を建立し、
亮賢僧正を招いて開山した。桂昌院の念持仏の天然琥珀如意輪観世音菩薩像を本尊と仰ぎ「神齢山悉
地院護国寺」と称え寺領300石を賜った。貞享四年(1687)に開山の亮賢僧正が遷化したため
高弟賢広僧正が跡を嗣いだ。なお開山亮賢僧正の墓は、大正14年東京府により史蹟に指定されてい
る。

 元禄七年(1694)には寺運益々興隆し、300石を加増されて600石となった。翌八年快意
僧正が第三世を嗣ぐと、同十年(1697)観音堂新営を命じられ、約半年余りの工事日数でこの大
造宮は完成し、同年八月落慶した。なお高田薬園は、牛込薬草園、大塚薬草園、目白薬草園などいろ
いろに呼ばれ、護国寺の建立で南麻布に移された。そして白金御殿の建設のため、移されることにな
り、その行き先が白山御殿跡で、今の小石川植物園だ。
 宝永四年(1707)3世快意僧正は神田橋の護持院住職となり亮貞僧正が第4世を嗣いだ。当時
常陸筑波山の別院知足院の隆光僧正は綱吉の信仰を専らにし、神田橋外に巨刹を興し護持院と改称し
将軍家祈願の任に当り、寺領1500石、真言新義僧録、さらには大僧正に任ぜられるなど綱吉の信
頼を一身に集めていた。護国寺と護持院との関係は深く、両寺共幕府に奉仕し、その信仰を専有する
に至っていた。その後享保二年(1717)正月神田橋護持院は火災を受け、上野寛永寺と並び称せ
られた巨刹も堂塔一宇残らず焼失した。その後幕命により護持院を護国寺に合伴し、観音堂の方を護
国寺、本坊を護持院とし、護持院の住職が当寺住職を兼ねることとなった。両寺領合せて2700石、
幕府祈願の任を変りなく勤め、江戸時代の名所として人々に親しまれてきたが、維新を迎え政治機構
一変し護持院は廃寺となった。護国寺は現存して第一世亮賢僧正の法脈を保持し続けている。
 明治16年失火により旧本坊を焼失、さらに大正15年には天和創建以来の本堂を失い、元禄十年
(1697)徳川綱吉により建立された観音堂を移して本堂とした。また近江三井寺より品川区御殿
山の原邸を経て、昭和3年移築された月光殿(重文)は桃山期の建築美を今に伝えている。そのほか
薬師堂・大師堂・多宝塔・忠霊堂や創建当時のものと伝えられる仁王門・惣門・中門と、多くの堂宇
が保存また再建されている。元禄文化の粋を集めた書画・什器の他、国宝、重要文化財等の数多くが
寺宝とされている。震災・戦災と二度の大災害に襲われさらに都心にありながら、江戸初期の面影を
今に伝える当寺の姿は、訪れる人々の心のふれあいの場として、昔も今も変りなく親しまれている。

   はる雨や編笠ごしの音羽やま(成美)
   護国寺の涅槃年々拝みけり(野村喜舟)
 

 
花の寺
 広大な境内にはウメ、コブシ、ツバキ、サトザクラ、ソメイヨシノ、ツツジ、サツキなど沢山の花
木が植えられており、早春から初夏にかけて魅力ある花模様を見ることが出来る。特に絵になるのは
4月初めのソメイヨシノ、半ばのサトザクラ、ツツジ。
 

 寺号塔と弘法大師霊場
 仁王門(八脚門)前、左右にある。

   大本山護国寺

   
弘法大師霊塲
   明治四十三年庚戌五月 

 仁王門
 八脚門、切妻造りで丹塗。元禄期造営の本堂、薬師堂や大師堂などからなる徳川将軍家の祈願寺と
して、元禄10年造営の観音堂(現本堂)などよりやや時代を下ると考えられているが、他の堂宇と
同じく元禄期に建立された可能性もある。正面両脇間に金剛力士像(右に吽形、左に阿形)、背画両
脇間に仏法を守る仏像である二天像(右に増長天、左に広目天)を安置する。が、二尊の表情がマン
ガチックで、ちっとも怖くない。大丈夫? どっちかいうと可愛らしい。

   護国寺仁王門  区指定有形文化財
   八脚門、切妻造で丹塗。元禄期造営の本堂、薬師堂や大師堂などから成る徳川将軍の祈願
   寺としての伽藍の中で、重要な表門である。建立の年代については、元禄十年(1697)
   造営の観音堂(現本堂)などよりやや時代が下がると考えられる。正面(南側)の両脇に
   金剛力士像(右側阿形像・左側吽形像)、背面(北側)の両脇には、二天像(右側増長天
   ・左側広目天)の仏法を守る仏像が安置されている。

    護国寺の山門の朱の丸柱強きものこそ美しきあれ(窪田空穂)

             東京都文京区教育委員会 平成2年3月
 

 
本坊
 仁王門を入った右手にある庫裏・寺務所。一時護持院だったことがある。
 

 からすの赤ちゃんの歌碑(音羽ゆりかご会40周年記念碑)
 「からすの赤ちゃん」は、音羽ゆりかご会の海沼実の作詞作曲で発表された。海沼の三回忌を期し
て建てられたものでもある。碑文はなく、一番の歌詞だけが彫られている。

   からすの赤ちゃん
         海沼実 作詞
             作曲
   からすの赤ちゃん なぜなくの

   こけこっこの おばさんに
   あかいおぼうし ほしいよ
   あかいおくつも ほしいよと
   かあかあ なくのね

 2番以下は次の通り

  2.めえめえ山羊さん 何故鳴くの
    お里の 母さんに
    お眠に なったよ
    甘いおっぱい 頂戴ねと
    めえめえ 鳴くのね
  3.迷子の鳩さん 何故鳴くの
    みみずく小父さんに
    夜路は怖いよ
    鬼灯提灯 貸しとくれと
    ほろほろ 鳴くのね
  4.狐の赤ちゃん 何故鳴くの
    三日月小母さんに
    木の葉で簪(かんざし) 買っとくれ
    小石で花櫛 買っとくれと
    こんこん 鳴くのね


 音羽ゆりかご会
 不老門に上がる石段下東側にあった。児童合唱団「音羽ゆりかご会」は、昭和8年に護国寺で発足
した日本で最も伝統のある児童合唱団だ。現在は目黒区三田1丁目9番に移転しているが、戦中から
戦後の間もない時期には「東京放送児童合唱団」として、また戦後は「鉄腕アトム」をはじめとする
アニメソングなどのジャンルでは「コロムビアゆりかご会」の名で広く活躍してきた。創設者海沼実
(かいぬまみのる)は「お猿のかごや」「里の秋」「みかんの花咲く丘」など3000曲余りの童謡
を、その生涯の中で作曲した。また戦後童謡大ブームの先駆け的存在である川田3姉妹(正子・孝子
・美智子)をはじめ、数多い童謡歌手をプロデュースしてきたことでも知られている。

 創設から70年余の年月を経て、今なお日本の児童音楽界を牽引車的にリードする音羽ゆりかご会
は、国際舞台での活躍や音楽祭での入賞なども多く、アジアで屈指の国際派名門合唱団
として幅広い
活躍をしている。

 珪化木
 富士道入り口の左隣にある背の高い木の根元。1億5000年を経過しているという化石化した木
の株。

 私立獣医学校発祥の地
 富士道入り口近くにある。

 
音羽富士
 不老門の右手斜面を利用して作られている。富士道と刻んだ碑の後ろに鳥居と神橋が在り登山道が
続く。

   護国寺本坊新築を記念し、富士山登山道修復及び社殿を再興す 平成元年7月吉祥日

 寺院の境内にある富士塚は、神仏分離のあった後の今日では、希少な存在だ。傾斜面にボク石や庭
石を配し、その間を縫って電光状に登山道が作られ、登山道の両側や山裾などには数多くの石碑が建
てられている。塚の向かって右側には、石を積み上げてつくった洞窟がある。これは胎内を象ったも
のと思われ、洞窟の奥には木花咲耶姫命の陰刻像を彫った碑が収められている。
 洞窟の斜め右上に「小御嶽石尊大権現・大天狗・小天狗」と刻んだ自然石の碑があり、傍らに小天
狗の像を陰刻した石碑がある。この辺りを小御嶽の位置としているのだろう。富士講の碑は地元の山
護講以外には、小日向の丸谷講、巣鴨の丸嘉講、音羽3丁目の丸藤講、四谷の山参講、池袋・鷺ノ宮
や落合周辺の月参講などの講が献じた碑があり、山護という講はここだけの講であるが、交際の広い
講であったことを示している。小御嶽石尊大権現の碑は文化十四年(1818)の造立で、東青柳町
の人たちの寄進によるもので、これと「文化十四丁丑歳」在銘の石造鳥居が塚を築いた際の石造遺物
と考えられ、この塚の築造説を裏付けている。江戸時代は本堂の遥か西方にあったようだ。
  

 
惣門(護国寺正門)
 通りに面した入口の門。建造年代は元禄時代と推定されている。一時期護持院の山門とされたが、
本来的には方丈の門で、現在も方丈への入口に建っている。形式は社寺系のものではなく、『江戸名
所図会』所収の絵を見ると、右側に番所がある。これは5万石以上の格式を持つ大名屋敷の表門と考
えられる。寺の山門に大名の屋敷門を移築した例はあるが、護国寺ほどの寺でその記録がないのが不
思議だ。


   
護国寺惣門 1棟    区指定有形文化財
   この惣門は、護国寺の方丈への軸線上にあり、寺院の門と共に住宅の門という性格を併せ持っ
   いる。形式は、社寺系のものではなく、江戸時代武家屋敷門の五万石以上の大名クラスの格式
   に相当する形式と威容をもっている。 当寺が幕府の厚い庇護のもとで、 高い格式を保持した
   歴史を反映している。大名屋敷表門で現存するものは、いずれも江戸時代後期のものであるの
   に対して、 この門は、中期元禄年間のもので、特に重要な文化財である。
              東京都文京区教育委員会 昭和63年3月
 

 
手水舎
 石段下にある。手洗水盤が置かれているが、この水盤について傍に寺院の説明がある。それによる
と水盤は唐銅蓮葉形手洗水盤1対2基で、5代将軍徳川綱吉の生母桂昌院から寄進されたものだ。元
禄十年(1697)頃に鋳造、江戸鋳物師椎名伊豫良寛の製作とされている。手水舎は、江戸時代後
期の「江戸名所図会」にも描かれていて、江戸元禄期から明治大正期には境内の湧水を利用する珍し
い自噴式の手洗水盤だった。
  

 
民謡碑
 不老門前の植栽にある。江差追分の研究を続けた青木好月を顕彰して昭和57年に建てたものだ。

 
義海和尚咸恩碑
 不老門の前左手の植込みに聳える碑は、護国寺住職から総本山長谷寺化主となった高城義海を讃え
るために建てられた。和尚は豊山中学校(日大豊山高校)を創設したことでも知られる。とにかく偉
い坊さんなのだ。題書は従二位勲一等子爵三浦梧楼(観樹)。西南戦争で第三旅団長を務め、韓国駐
在特命全権大使の職にあった時に「閔妃事件」に深く関わったとされる、褒められない人物で、後に
学院々長、宮中顧問官などに登り詰めた。 碑陰の銘は「」とある。

   義海和尚咸恩
   従一位勲一等子爵三浦梧楼  

   義海和尚碑銘
   義海師越記横江村人本姓岡田氏後冒高城氏出塵
   之後法徳益塵普東京音羽護國寺住職遂陞爲豐山
   長谷寺化主任大僧正天海寛裕與■■言如對春風
   而■事明鼔區處有方■掾綱領振粛宗規聲譽隆起
   推爲密門垗渠矣明治四十四年五月十一日寂世壽
   七十六歳碩者交友門下胥謀檄感恩碑于神齡山上
   傳予銘其背銘曰
    厥義如山 厥祷如海 一代法勲 燦然光彩
    密門雋雄 越界元愷 豐碑巍巍 
屹崎百歳
    大正十年五月吉祥  下毛鶏足寺小住正盛撰并書

 
水屋
 仁王門を潜り石畳をまっすぐ、石段手前左右にある。夫々に大きな水盤がある。

   
唐銅蓮葉形手洗水盤  一対二基
   この手洗水盤は、江戸幕府五代将軍徳川綱吉公の御生母桂昌院殿一位尼公より御寄進であ
   る.当山の縁起伝承と明治末期から昭和初期の鋳金家・金工史家香取秀真氏の調査記録に、
   元禄十年(1697)頃に鋳造され、江戸鋳物師椎名伊豫良寛の製作と記載されている。
   この手水舎は、江戸時代後期に刊行された「江戸名所図会」にも描かれており、江戸元禄
   期から明治大正期には当山境内の湧水を利用する大変珍しい自噴式手洗水盤でした。この
   度、篤信の御方より浄財を寄進賜り改修復元する事が出来ました。元禄期より観音さまの
   加護を求め、この参道を歩む大勢の参詣者に親しまれた手洗水盤にて心身を清め、ご本尊
   さまへお参り下さい。

   南無観世音菩薩                                     平成二十年十二月吉祥日
                                
大本山護国

 
不老門
 仁王門を潜り石畳まっすぐ通り本堂(観音堂)に続く石段の中腹にある中門。三尾邦三の寄進によ
り、昭和13年4月亀山茶碗の記念として建立される。鶴は千年亀は万年といわれるように、この門
を潜ると病気にならず、長寿でいて欲しいという願いが込められた門だ。形式は天狗や牛若丸で有名
な鞍馬山の山門を模した。扁額は徳川家達という。
 不老門右手に三笠亭、仲麿堂、箒庵、左手に羅装庵、円成庵、不昧軒、宗澄庵が並ぶ。

 安倍仲麿塚
 不門老を潜った右手にある碑。

   
安倍仲麿塚

   此碑舊在大和國安倍邨人没
   藁業無人剥蘚者大正十三年
   甲子仲秋移置斯地題詩于其
   陰箒庵逸人

   戀闕葵心欲想誰向東拝
   賦望郷詞千秋唯有天邊
   月盾照招魂苔字碑

 鐡中宗室碑
 不門老を潜った右手にある碑。

   和敬静寂

   利休十三世孫之碑
   裏千家茶道家元故円能斎鐡中宗室書居士
    空 日 庵 田 中 宗 卜 居 士
    為報恩今日庵東京報恩會建之
    時ニ昭和九年十一月
         東京報恩會総代 戸田宗見

 大師堂
 不門老を潜った右手にある。元禄14年(1701)再営の薬師堂を、大正15年以降に大修理し
て現在地に移築したものと考えられている。ここには弘法大師、興教大師、本覚大師の三尊が安置さ
れているという。祖師の前には護摩壇がありお護摩が修される。太子堂と書いたものもある。
 手前に六地蔵が並んでいる。地蔵尊立像もある。

 一言地蔵堂
 大師堂前の崖の小さな祠。この地蔵尊は、どんな願いもかなえてくれるが、一度に願えるのは一言
だけという。複数の願いをしてしまうと願いは叶わないんだとさ。

 
納札塚
 大師堂前、鐘楼下にある。

   東京納札會
   
納札塚   

 
留魂碑と慰霊碑
 大師堂先、鐘楼下にある。

   
陰陽道先師留魂碑
   
社団
   
法人 大日本陰陽會 森田春鶴刻

   留魂碑合祀祭神
   
慰霊碑

 鐘楼
 大師堂の先にある。鐘楼形式の中では、格式の高い袴腰付重層入母屋造りの形式で、江戸時代中期
の建立だ。袴腰は石積みを擬した人造石洗出仕上げ。天保七年(1836)刊行の『江戸名所図会』
に描かれ、焼失した記録がないことから、現在の鐘楼が天保期に存在していたことが判る。都内では
同種の遺構のほとんどが失われているので貴重な建造物だ。

   護国寺鐘楼(付梵鐘)1棟   大塚5-40-1  区指定建造物
   鐘楼の中では、 伝統を重んじた格式の高い袴腰付重層入母屋造の形式で、 江戸時代中期
   の造営である。 都内同種の遺構がほとんど失われているなかで、 当時の様式を伝える貴
   重な文化遺産である。
   また、この鐘楼の梵鐘は、天和2年(1682)に寄進されたものである。銘文は、五代
   将軍綱吉の生母桂昌院による観音堂建立の事情が述べられ、護国寺が、将軍家の祈願寺と
   して、幕府の厚い庇護を得ていたことを示す貴重な歴史資料である。
               文京区教育委員会 平成11年3月


 梵鐘
 天和2年(1682)に寄進されたもの。銘文には将軍徳川綱吉の生母桂昌院による観音堂建立の
事情が記され、護国寺が、将軍家の祈願寺として、幕府の厚い庇護を得たことを示す貴重な歴史的資
料だ。
 

 
鳩山一郎・薫夫妻像
 鐘楼の近くにある。鳩山一郎のモットーである「友愛」が書かれている。護国寺から江戸川橋に向
う途中に音羽御殿と呼ばれる鳩山邸(鳩山会館)がある。
 昭和21年の総選挙で自由党が第一党になると、鳩山総裁が首相の指名を待つばかりだったが、就
任を目前にして公職追放となる。また追放解除目前の同26年脳梗塞で倒れ、不運な状態が続いたこ
とから世の同情を集めていた。貴族主義的でワンマンと呼ばれた吉田茂が不人気で政権を降りた後、
同29~31年の間首相を務め、鳩山ブームを巻き起こした。 

 吉田のアメリカ中心の外交から転換し、懸案だった日ソ国交回復を成し遂げた。盟友で寝業師とい
われた三木武吉の尽力により民主党・自由党の保守合同を成し遂げ、自由民主党を結成。これにより
保守勢力と社会主義勢力を軸とした55年体制が確立した。日本の独立という視点から再軍備を唱え、
改憲を公約にしたが、与党で改憲に必要な三分の二議席には達せず。また改憲を試みるために小選挙
区中心の選挙制度の導入を図ったが、改憲に反対の野党はもちろん選挙区割りが旧民主党系よりとい
う批判が与党内からも出たため、実現には至らなかった。なおこの一連の動きについてゲリマンダー
ならぬハトマンダーと批判された。
 祖父博房は旧美作勝山藩士、父和夫は文部省第一期留学生で、弁護士、東京府議、衆議院議長を務
めた。母春子は、東京女子師範学校(お茶の水女子大学)の英語教師。明治19年共立女子職業学校
(共立女子大学)を創立した。弟秀夫は民法学者。学校の成績は秀夫の方が優秀で、賢弟愚兄といわ
れた。秀夫の妻・千代子は菊池大麓の次女なので、鳩山家は菊池家を通じて日本最大の学者一族「箕
作家」と閨閥で繋がることになった。妻薫は、共立女子大学長などを務めた教育者。結婚前、鳩山が
薫に宛てたラブレターは『若き血の清く燃えて』(講談社、平成8年)として刊行されている。お坊
ちゃん育ちのせいか、時折気に入らない事があると同志や家族に向けて癇癪を起こす事があり、薫に
対しても暴力を振るう事があった。それに対して薫は「私を相手に暴力を振るう事があっても同志の
方にそのような振舞いをしてはいけません」といって諭した。後に脳梗塞で倒れても以前の薫の教え
を守っていたために同志達が離れる事も無く、以後鳩山は薫を非常に大切にするようになったという。
息子威一郎は外務大臣、孫にちょっと頼りない由紀夫と邦夫がいる。
 

 多宝塔
 石段を登り終え、一息ついた左手に悠然とたたずむ。昭和13年4月に建立された。多宝塔は《法
華経》見宝塔品に由来し、多宝如来をまつる塔が始まりといわれている。高野山の根本大塔とは形式
は異なるが、多宝塔も大日如来そのものを具現した塔だ。
 当山に縁が深い真言宗豊山派の総本山、奈良の長谷寺には白鳳時代の朱鳥元年(686)銘を持つ
国宝、銅版法華説相図に千仏多宝仏塔があり、多宝塔の歴史を伝える貴重な資料として有名だ。当山
の多宝塔は近江石山寺の多宝塔を模範にした。形式は二重の宝塔であり、初重は四角形の3間、上層
部の軸部が柱形をしており、上下の連続部は饅頭形《亀腹》が特色だ。茶道で有名な高橋箒庵の呼び
かけにより、仰木魯堂、田中親美等が塔の建築、装飾を担当し、本尊大日如来は彫刻家長谷川栄によっ
て作成された。本尊を始め装飾全部を昭和の最高の技術で完成され、時代の特長を今に伝えている。
雪化粧をした幽玄的な多宝塔を、一度はお参りしていただきたいものです。

 観音堂(本堂)
 不老門正面にある。元禄時代の建築工芸の粋を結集した大建造物で、大正15年に本堂が焼けてし
まったので移築して本堂に代えた。桁行7間×梁間7間、一重入母屋造り、向拝3間、瓦棒銅板葺。
その雄大さは都下隋一のものと賞されている。昭和25年に国の重文に指定されている。
 
 五代将軍綱吉の命により着工からわずか半年余りで落慶された大型七間の仏堂。江戸時代の社寺建
築の特徴は、装飾が冗長的で意匠過剰になるが、このような大型仏堂を短期間に造立する技術が出来
上がっていたということだ。元禄時代の建築工芸の粋を結集した本堂の屋根は江戸時代から使われ始
めた瓦棒銅板葺、組物は鎌倉時代以降仏堂に人が入るようになってからあまり使われることのなかっ
た三手先を復活させている。また江戸時代以降の特徴として、頭貫などの先端には別材で動物の彫刻
を施した掛鼻(かけはな)が多く使われている。外回りは、正面の建具に双折れの桟唐戸が使われ、
窓は古代から中世に多用された連子窓だ。外壁には横羽目の板張りで、貫を使わ長押を多く用いてい
る。元禄時代の建築だが、古代から中世の様式を数多く取り入れている。これらは当時流行った復古
調の現れと見ることができる。

 大仏
 本堂右手にある。総高2.5mと大仏様の中では比較的小ぶりながら、立派な台座に鎮座してるため
かなり大きく見感じる。不思議なことに、案内図や境内マップなどには一切記載されていない。説明
板もない。

 
針供養塚
 大仏の傍らにある石碑。

   針供養塚

   弘法大師千五拾年御遠忌記念
   真言宗豊山派佛教婦人會
   會長 山口貴美子
   會員一同
   昭和五十八年三月三十日建之


 
筆塚
 大仏の傍らにある石碑。

   
筆塚

   銘文
   真洞 川瀬正一郎撰并書

   發願 書真會 川瀬真洞
   協賛 護国寺
   後援 サンケイ新聞社
      瑞雲書道會
      社団法人
      全日本書道連盟


 
除闇の碑
 大仏の傍らにある。

   
除闇

   三月堂 元興寺 榮山寺 平等院
   般若寺 燈明寺 當麻寺 多武峰
   蝉 丸 太 秦 八 幡 柚之木
   西之屋 猿 鳥 祓 戸 奥之院
   ■明寺 法花寺 蓮華寺 雲 卜


 忠霊堂
 本堂の左手にある葬儀場だ。。
 

 薬師堂
 本堂の左手奥にある。元禄四年(1691)創建時の一切経堂を移築したもの。大正15年の火災
後の復興に際し、本堂をはじめ境内建造物の大々的な移築と用途変更が行われた。大師堂が焼けた関
係で薬師堂を大師堂跡地に移して大師堂とし、薬師堂の跡地に一切経堂を移して旧薬師堂に代えたと
考えられている。


   護国寺薬師堂 1棟 区指定建造物
   薬師堂は、元禄四年(1691)の建立になる一切経堂を現在の位置に移築し、薬師堂と
   して使用するようになったものである。大きな特徴は、柱間に花頭窓を据えていることな
   ど禅宗様建築の手法をとりいれていることである。小規模であるが、創建以後大きな改変
   もなく、元禄期の標準的な遺構として価値ある建造物である。
               文京区教育委員会 昭和52年2月

 
象供養碑
 象牙組合の建立。昭和27年の建立。現在も像供養は行われている。

 
忠魂塚記念碑
 大正15年建立。平沼淑郎撰・書。仮名交り文。

 
主真權僧正碑銘并序
 享保二十年建立。

 音羽講中庚申塔
 薬師堂の脇にひっそりとある。こんな立派な庚申塔は見たことがない。総高210cm、塔身部5
2cm、正面に「庚申」の文字。三猿がその台座を支え、「天明五乙巳歳十一月吉祥日」と刻む。
 その下の台座に精巧な龍の模様をあしらい、基壇部
の正面に「音羽下町講中 総代弥太郎 音羽町
九丁目伊豆屋太郎 願主金屋新八 武江小日向水道町石工安部勘助 細工人安富興兵衛」と刻む。

   
音羽講中庚申塔 一基         大塚5‐40‐1 国指定有形民俗文化財
   この庚申塔は全国にその例をみない形式で、当時の民俗や習俗を知る貴重な資料である。
   塔は規模も大きく(総高210cm)、基壇部、台座、塔部から形作られている。
   塔部は台座上の三猿によって空中で支えられ、天明五年の銘がある。
   台座は須弥壇形式(仏像を乗せる台)で、その四面に肉彫り装飾、返花紋様が施され、そ
   の彫りは精巧且つ華麗である。基壇部分には、門前の音羽通りの人々の76人の名が刻ま
   れている。当寺お互い力を合わせ、金銭を出し合う共同社会の成立や信仰心の深さなど知
   る上で貴重な資料である。
   庚申信仰は、庚申の夜(60日毎)講の当番の家で、般若心経を唱え、なごやかに夜を過
   ごす風習があった。寝ると体内の三尸の虫が抜け出て、天帝にその人の罪を伝え、早死に
   させるといわれていた。
                  -郷土をはぐくむ文化財-
                    文京区教育委員会      平成11年3月
   

 
庚申塔
 境内あちこちにある。正徳二年銘庚申塔、元禄二年銘庚申塔、正徳六年銘庚申塔、延宝八年銘庚申
塔。圧巻は天明五年銘の庚申塔だ。

 月光殿
 旧日光院客殿 構造は、桁行7間×梁間6間、一重入母屋造り、妻入り、正面軒唐破風付き。中門
が付属していて、その構造は、桁行1間×梁間1間、切妻造り、総桟瓦葺きだ。元は滋賀県大津市に
ある園城寺(三井寺)子院日光院の書院だった。明治20年それを御殿山原邸に移し、大正15年寄
贈により、昭和3年現在地に移築した。建築年代は桃山時代。国の重文に指定されている。

 
茶室
 護国寺が他の寺院と異なる特徴は、境内に数多く由緒ある茶室を擁し、都内で大寄せの茶会が開か
れるということだ。これは明治から昭和にかけて茶の湯の世界で活躍した数寄者高橋の力に由るとこ
ろが大きい。益田孝(純翁)の御殿山から原富太郎(三渓)の三渓園へと続けられてきた歴史ある茶
会「大師会」は、箒庵の肝煎りで護国寺で開催され、昭和49年からは根津美術館に引き継がれた。
 茶室として使われている最も大きい建物は月光殿だ。この建物は旧は大津の園城寺(三井寺)の塔
頭日光院客殿を、明治時代に原六郎が品川御殿山の自邸内に移築し「慶長館」と称していたもので、
昭和3年に茶道本山の中心にふさわしい建物として、高橋箒庵が現在地に移築し「月光殿」と改称し
た。桃山期の書院様式を伝える代表的建築で、上段の床の間には狩野永徳の筆になる絵があり、昭和
32年には国の重要文化財に指定された。
 茶席はこの他に、月窓軒、化生庵、艸蕾庵、不昧軒、圓成庵、宗澄庵、羅装庵と多種多様の茶席が
整っている。これらは貸席だが、箒庵の名を取った非公開の茶室「箒庵」もある。
 護国寺は区内にあって足の便が良く、夫々の茶室の路地の風情が異なっていることから、大寄せの
茶会を開催する最適の条件を備えているため、年間を通じて頻繁に茶会が開かれている。
 毎年12月には、翌年の茶席の席割が決められるので、春秋の気候の良い週末に急に茶会を開こう
としても、割り込みは難しいぞ。こうした中にあって、毎年12月第2日曜日には茶道各流派(表千
家・裏千家・遠州流・江戸千家・大日本茶道学会)の家元と有志による「護国寺慈善茶会」が歳末助
け合い運動の一環として開催され続けていることは大変なことだ。

 
高橋箒庵
 護国寺にとって、箒庵は將に中興の祖ともいえる。箒庵は、京都における大徳寺のような茶の湯の
本山を護国寺に作ろうとという壮大な心算を持っていた。そのため、茶道本山に相応しい象徴として
松江に移転しようとしていた松平不昧(松江7代目藩主治郷)の墓を三条實美の墓所の隣に移して、
これを茶道本山の「本尊」とした。箒庵は月光殿の移築にも尽力し、奈良の高市にあった阿倍仲麿塚
を移して仲麿堂を建て、小間の茶室「箒庵」を置いて、大正14年5月に茶室開きを行った。不昧の
墓の移転に伴って、松平家から裏門、蹲踞石、石灯籠も護国寺に寄贈され、それを受けて茶室建設を
企図し、茶道具商人に働きかけて、大正15年に完成したのが圓成庵だ。
 このように、護国寺建物の内、高橋箒庵がその建築や移築に関わったものは、月光殿、艸蕾庵、不
昧軒、圓成庵、仲麿堂、茶室「箒庵」など多数に上り、その上大正11年11月には20基の名物石
灯籠も起草している。これらの石灯籠は南都(奈良)の寺院の中から特に美しい形のものを選んで模
造したもので「除闇遍明」の記念碑の記念碑と共に鐘楼の脇に並んでいる。
 箒庵は昭和12年12月12日に77歳で亡くなったが、多宝塔の完成を見ることなく、この世を
去った。箒庵は、生前鐘楼脇に自らの墓所を求め、自然石の下に眠っている。なお、艸蕾庵に隣接し
ている立礼席の正面には箒庵が置かれ、今でも護国寺の茶席を静かに見守っている。
 箒庵没後翌13年には益田孝、同14年には原富太郎、同15年には根津嘉一郎(青山)と、明治
以降の数寄の世界をリードしてきた大御所が次々に世を去って、ここに近代数寄者の時代は終焉を迎
えた。

 
棋聖宗印之碑 奎堂顕
 昭和11年建立の比較的新しいもの。将棋界の最後の家元で11世名人8代目伊藤宗印の顕彰碑。
篆額は総理大臣を務めた正二位勲一等伯爵清浦圭吾。「奎堂」は圭吾の号。松平康国の撰文を、月出
東山が書している。昭和11年5月門人小菅剣之助が建てたものだ。

   棋聖宗印之碑
          圭吾題


   正二位勲一等伯爵清浦圭吾題額
   夫れ将棋は大橋伊藤の両家、之が大宗たり。門望相若き名手、踵を接す。然れども、入神
   の技に至りては、独り伊藤宗印を推し、古今独歩の称あり。頃者小菅君剣之助同志と謀り、
   将に其碑を建てて、以て之を不朽にせんとし、状を持し来りて、余に文を請いて曰く
    剣之助、幼より伊藤宗印先生に従ひて将棋を学ぶ。先生、孺子教ふべしとなし、耳堤
    面命して其蘊を極め奨励備に至る。其将棋新報を刊行して後学に資するや、剣之助を
    して其事に当らしむ。剣之助の不敏を以て品八段を忝くするものは実に先生善誘の賜
    なり。先生歿後故ありて業を改むと雖も、師恩の深き未だ嘗て一日も忘れたることあ
    らず。今年已に七十二、親炙の時を回顧すれば、恍として夢の如し。而して先生の温
    容彷彿眼に在り。追慕の念老て益々切。是れ建碑の已む能はざる所以なり。
   とす。按ずるに宗印、本姓は上野、小字は房次郎。文政九年江戸に生る。七、八歳已に将
   棋を能くし、十歳、大橋宗桂の門に入り、十三歳、初段を許さる。弘化二年六段に進み、
   棋宗伊藤家を襲ぎ、名を印寿と改め、幕府の棊院に仕ふ。嘉永五年昇りて七段となり、復
   た宗印を名とし、研思精慮漸く神妙の域に達す。明治十二年第十一世名人に推され、名声
   天下に高く教を請ふ者門に満つ。二十六年病を以て歿す。享年六十六。人となり磊落にし
   て恬淡温厚にして方正、愛敬せざるなし。嗚呼、師弟の道廃れたる久し。弟子たる者、往々
   師に背き、恩を忘れ、甚しき者は視ること路人の如し。是れ其師たる者も亦、責を免るる
   事を得ず。然るに小菅君の如きは、乃ち先師に綣(?)たるもの四十五年、齢古稀を過ぐ
   るも尚ほ報恩の志を懐く。其の情義に厚きこと此の如し。余是に於て、宗印の師道あるこ
   とを知る。豈将た神技の其名を千秋に留むるのみならんや。
   是れ以て表せざるべからず。図りて概略を敘す。
   昭和十一年一月                      松平康国撰 月出東山書


 
紀念碑(警部巡査戦士の碑)
 宗印之碑の左隣にある小碑。西南戦争で戦死した警察官の慰霊碑。明治十三年の建立で、額は隷書で東伏見嘉彰(仁和寺宮、小松宮彰仁)の書。碑文は中村正直の撰書を井亀泉が刻している。

   
討薩之役東京警視第四方面第四分署警部巡査従軍死之者
   二十人同僚悼之建記念碑於小石川音羽護國寺以来其忠
   余銘余曩應東京各區長請作招
   不有死者

   二品勲一等■正東伏見嘉彰題額
   明治十三年一月二十八日 東京小石川區 中村正直撰幷書
                         井亀泉刻

 とあり、碑裏には20人の名が井亀泉により刻している。

   戦死名
   緒方 惟典  狩野山弼成  喜多川亀太郎、 八重盛政尊
   高橋常太郎  永井房之進  川北 悦介   遠山錬三郎
   小林 明躬  常木 廣順  上野太郎   三枝吉廣
   福井 正利  山口作次郎  岩嵜  中   和田正一
   籠楽正之助  安楽正之助  本郷 雅郎   関口孝久


 尚、東京警視第二方面第一分署警部巡査之碑「表忠旌功」は愛宕神社内に、東京警視第六方面第一
分署警部巡査之碑「戦死士招魂之碑」が青山霊園警視庁墓地の中に残っている。

 
報国六烈士碑
 碑は明治41年に建てられた。篆額は元帥大山巌、撰文陸軍中将福島安正、書丹は齋藤清太郎、千
光群玉刻。
 日露開戦後、ロシア軍背後の交通・通信線を破壊する使命を帯びた特別任務班が編成された。この
構想は参謀次長時代の児玉源太郎によるものだった。横川省三を班長とする第一班(脇光三・沖禎介
・松崎保一・中山忠熊・田村一三)は、東清鉄道を爆破するために支那(中国)から満州(中国東北
地区)へ向かった。明治37年4月12日鉄橋爆破を目前にして、横川と沖はロシア軍に逮捕され、
脇ら4人は再度集結する際、土民の襲撃により殺されたと伝えられている。彼らの任務は失敗に終っ
たが、再度の後方撹乱を恐れたロシア軍がかなりの勢力を鉄道警備に回さなざるを得なくなり、敵の
戦力を削ぐという目的は達成することが出来た。横川らはハルピンで銃殺されたが、その堂々とした
姿勢は、世界に対して武士道を示すものだった。
 明治41年護国寺に碑が建立されたのをはじめ、大正10年には満州ハルピンに建てられた「志士
之碑」など、国の内外に彼らを顕彰する碑が建てられ、昭和6年拓殖大学内に「烈士脇光三碑」が建
立された。この碑は文京キャンパスにあったが、現在は八王子キャンパスに移設されている。碑の後
には乃木希典の縁と伝えられている水師営のナツメの種から生まれた木が植えられている。昭和18
年2月21日八木原太郎作少将、北野源治、大寄文友が発起人となり彦根城の内壕にも烈士脇光三碑
(題額:陸軍大将荒木貞夫、撰書:彦根市長松山藤太郎)が建立されたが、昭和20年敗戦と共に姿
を消した。現在に至るも戻されていない。軍国主義者といわれるのが怖いのだろう。

 
田中光顕の墓従一位勲一等田中光顕之墓
 本堂向かって右側にある。田中光顕は、土佐高岡郡佐川村の出身で、土佐勤王党に加盟して元治元
年(1864)脱藩。慶應三年(1867)中岡慎太郎を首領とする陸援隊に加入。維新後は新政府
の要路を歴任し、明治末期には10年に亘って宮内大臣を務めた。昭和14年没。行年97歳。

 
大隈重信の墓従一位勲一等公爵大隈重信墓)
 
田中光顕の墓に隣り合ってある。墓前には早稲田や憲政党から贈られた石燈篭が立ち並ぶ。大隈は
佐賀藩の出身で、維新政府成立直後、徴士参与職外国人事務局判事として、キリスト教徒処分問題で
パークスと論争し、その実力を評価された。その後も外交、財政に手腕を発揮し大久保利通からも信
頼を受けた。明治十四年の政変で長州閥と対立して政界を追われ、立憲改進党を結成してその党首と
なる。明治22年黒田内閣の外相として条約改正に当たっていたが、玄洋社来島恒喜に爆弾を投げら
れ右脚を失った。大正11年、85歳で死去。
 大隈は明治時代後半、権勢家となり、中央政界を牛耳った。大正天皇は大隈重信と柳原愛子との子
で明治天皇(地家寅吉→大室寅之祐)の子ではないらしい。明治天皇の子は昭和天皇で、母親は貞明
皇后、彼女は朝鮮人朱貞明だって。別の説では、西園寺八郎と朱貞明の子だとか。西園寺八郎は毛利
元徳の8男で、西園寺公望の養子だ。さらに浩宮は徳川恒孝(つねなり)の子だとか。恒孝は明治天
皇(大室寅之祐)の弟の家系で、徳川本家の養子に入った人だとか。皇太子妃は、宮内庁の意向を無
視して外務省ゴリ押しして入内させたものだ。小和田家は、新潟の名門とされているが、新潟の名門
小和田家では「うちとは関係ありません」とそっけない。曽祖父金吉の出自が判らない。宮内庁が調
査しようとしたら部落同盟から横槍が入ってできずに、御成婚となった。雅子妃が病気なのは、宮内
庁の拒絶だろう。浩宮退位説が出る始末。天皇家は実権を持たない。しかし天皇を隠れ蓑に、天皇家
の資産は天文学的に4京円を下らないとか。天皇は出歩いて金を使えないから、誰かが使っている訳
だ。資産運用は三菱と三井がやっている。三菱はフリーメイソンのトーマス・グラバーが拵え、三井
は小栗上野介が梃入れした。この国は国家予算の他に、別枠の予算がある。竹下登と小渕敬三はユダ
ヤに拷問死させられたというし、田中角栄、大平正芳、橋本竜太郎は一服盛られたとか・・・権力の
世界は恐ろしいねぇ。桑原!、桑原! 名もない一般人でよかったと思うよ、つくづく。

 
國民敬慕の碑
 大熊重信敬慕の碑。昭和7年國民敬慕會が建てた。 
 

 梔園小出翁碑
 明治42年の建立で、歌人小出粲(さん)の顕彰碑。行書の題額は山縣含雪とあるから、山縣有朋
の揮毫。高島張輔の撰文を岡山高陰が書している。高陰は、恒川宕谷や巌谷一六に学んだ後、かな書
道を研究し一家をなした。小出は高陰の和歌の師匠だ。

 
西國三十三所写し碑
 墓地近くにある道標。何処かに建てたものを引き取ったのだろう。

   西國三十三所寫

   
さんけいみち

   
寛政三辛亥十月  礫川田保守書
      
小日向水道町講中

 
桂昌殿
 護国寺の斎場。

 
故内大臣正一位大勲位三条公(三條実美)神道碑
 本堂右手の三條公墓地の前にある。神道碑(しんどうひ)とは、墓所の墓道に建てる頌徳碑だ。明
治45年に伏見宮貞愛親王篆額、股野琢(藍田)が勅撰し、大正10年に杉渓言長(六橋)が揮毫、
建碑は同14年だから発想から随分長い時間を経たものだ。股野の当時の肩書きは帝室博物館総長、
杉渓は貴族院議員。篆額は伏見宮貞愛が書いている。神道碑は、明治10年の木戸孝允をはじめ、大
久保利通・毛利敬親・大原重徳・岩倉具視・広沢真臣・島津久光・三條の8基が建てられたが、勅令
から15年、明治31年に建てられた「毛利公碑」は例外で、全て大正になっての建碑だ。東京の神
道碑は、松陰神社の「広沢公神道碑」の外、鳴鶴書で有名な「大久保公神道碑」(青山霊園)「大原
公神道碑」(谷中墓地)「岩倉公神道碑」(品川海晏寺)と、ここ護国寺にある「三條公神道碑」の
5基がある。
 

 
故内大臣正一位大勲位三条公墓
 三条実美は、明治の元勲。姉小路公知と共に尊攘派の公家の中心人物として、長州藩と提携して活
動した。文久三年(1863)八月十八日の政変により朝廷を追放され、長州へ都落ちした。元治元
年(1864)の第一次長州征伐(幕長戦争)には太宰府へ移され、幽閉生活を送っている。慶応三
年(1868)の王政復古で表舞台に復帰した。戊辰戦争では関東観察使として江戸へ赴く。明治元
年(1688)岩倉具視と共に副総裁に就任。その後、右大臣、太政大臣に任ぜられた。
 以後、国運の発展に貢献した。明治22年一時内閣総理大臣を兼任した。同24年55歳で死去。
国葬。55歳。なお父は、安政の大獄で処分されている。

 
感舊之碑
 三條碑の隣にある。実美が没した翌年の明治25年に建てられたもの。四條隆謌、東久世通禧など
10名が碑陰に名を連ね、文久三年癸亥の変、所謂〝七卿落ち〟以来の盟友を偲んでいる。

   感舊之碑

   文久癸亥秋八月 國下発起・・・
   者會妙法院議後慨■然西下・・・
   大宰府糺合志士■勵列藩四・・・
   今上践祚■■復位擢爲輔相・・・
   二十四年如一日實爲中興元・・・
   ■焉長逝
   天子震悼■朝三日海内莫不・・・
   艱難者乎回 碑墓前■表感・・・
   明治二十五年八月 
 

 
亮賢僧正の墓
 護国寺の開山。快意律師ともいう。亮賢は上野国碓氷八幡宮の別当大聖護国寺の僧正だった。5代
将軍綱吉の生母桂昌は、亮賢に安産を祈願して貰い、生まれた子に極めて至貴の相ありといわれたた
め、大いに喜び、常に亮賢に護持の祈祷を依頼した。この子が綱吉で、後に5代目の将軍職に就いた。
桂昌院は綱吉にねだり、護国寺を建立して貰い、その開山に亮賢を呼び寄せた。亮賢は、綱吉と桂昌
院から厚い信任を受け、二人は屡ば護国寺に参詣し、亮賢もまた江戸城に伺候した。貞享四年(16
87)に遷化。
 

 
墓地(有名人の墓がこしゃまんとある)
 江戸時代は将軍家の祈願寺であったため、歴代の住職のほか墓はなかったが、三条実美の墓所が設
けられて以来、墓地が開かれた。ジョサイア・コンドル(建築家・東大教授)、安田善次郎家墓所、
町田忠治(政治家)、松平治郷(不昧公)、鳥尾小弥太(政治家)、元帥山県有朋、田中光顕(政治
家)、大隈重信(早稲田大学創立者)、山田顕義(軍人・日大創立者)、河野広中(政治家)、下田歌子(教育家)、大倉喜八郎(実業家)、池田成彬(財界人)・潔(英語学者)、団琢磨(実業家)・伊玖磨(音楽家)、松村謙三(政治家)、梅謙次郎(法学者)、益田孝(鈍翁=三井財閥の大番頭)、高橋義雄(箒庵)、大山倍達(格闘家)、野村吉三郎(海軍軍人→日米開戦時の駐米大使)、野間清治(講談社創業者)などの墓碑がある。不忍通り沿いにある共葬墓地には、井上正夫(俳優)、横田喜三郎(最高裁長官)など、上げたらキリがないほどまだまだごしゃまんと・・・
 沼波瓊音、野中千代子、芳賀矢一、平田東助、

 
ジョサイア・コンドル墓碑

       IN MEMORY OF
   JOSIAH CONDER F.R.I.B.A
     BORN SEPT.28.1852.DIED JUNE 21.1920
          AND OF HIS WIFE
        KUME CONDER
     BORN DEC.16.1854. DIED JUNE 10.1920
        "LIFES WORK WELL DONE”
          "LOVING AND TRUE”
              +
      工学博士ジョサイア・コンデル之墓
         大正九年六月二十一日
         妻コンデル・久米子之墓
          大正九年六月十日


 
大山倍達の墓誌
 墓標背後の壁面に貼り付けてある。

   大山倍達
   空手バカ一代
   雲を得て龍となり
   カラテの父となる

   国際空手道連盟極真会館創立者
   大山倍達は、直接打撃制である
   極真カラテを創始し、自らの手
   で全世界に広めました。
   また、武道の世界ばかりでなく
   一般の人々にも信義と勇気を示
   しました。この墓碑は遺族代表
   大山智弥子の意思により、世界
   中の門下生の力を結集して建立
   されたものです。
   平成十年四月二十六日
       国際空手道連盟極真会

 浦部武夫胸像
 墓地にある。福岡出身の都議会副議長経験者。大した人材でもないのによくもまあ厚顔無恥にこん
なものを建てるよなぁ。誰も興味を持たないよ。

 
益田孝胸像
 墓地にある。佐渡出身の実業家。三井物産の社長をやった人。結構有名だよ。


 
東京音羽陸軍墓地

 護国寺墓地の中にある。本堂左手奥、突き当たったところをさらに左に折れると見えてくる。陸軍
墓地自体は、戦後しばらくまで、相当広大な敷地を有していたようで、昭和28年戦没者墓苑設置に
際して場所を選定する時も、ここがその候補地となったこともあった。現在はこじんまりとした規模
となり、個人墓は30基ばかり、ほかに日清戦争戦没者の遺骨を祀る護国寺多宝塔、日露戦争戦没者
の合葬墓、満州事変の戦没者合葬墓、それに正面中央に「音羽陸軍埋葬地英霊之塔」と記された石碑
とその背後の堂が建っているぐらいだ。

 
入口の英霊之塔由来碑

   
音羽陸軍埋葬地英霊の由来
   この地は戦前、明治以降の近衛その他の在京部隊に在籍し、幾多の戦役等で身を挺して勇
   戦敢闘され、国に殉じた二千四百余柱の英霊を埋葬した墓地でしたが、戦後は護国寺が管
   理しています。本英霊之塔は昭和三十二年十一月、護国寺第五十一世岡本教海大僧正の建
   立によるもので、中央に英霊と仏像を安置した英霊之塔、その周囲に有縁墓地四十を配し
   て現在の姿に改葬され、殉国の英霊の眠る聖地となりました。毎年十一月には、その遺徳
   を偲び顕彰する慰霊祭が行われ、敬虔な感謝の誠が捧げられております。
   平成七年十一月十一日              財団法人 日本郷友連盟東京都支部
 

 
日清戦争戦没者の遺骨を祀る護国寺多宝塔
 この多宝塔は、明治25年12月21日に建立されたもので、当初戦没者遺骨との関係は希薄だっ
たものと思われる。しかし同27~8年日清戦争で遼東半島の戦場で戦病没した軍人の遺骨を収集、
本国に送還して一時京都泉涌寺舎利殿に仮安置していたものを、同35年この寺に忠霊堂を建てて、
多宝塔の拝殿とした時、同年11月2日遺骨も移してこの塔下に埋葬し、慰霊の大法要を営んだ。そ
の後この塔は長い年月、風雨にさらされ破損も甚だしかったのだが、平成8年音羽陸軍埋葬地遺族会
の協賛を得て、この場所に移築した。陸軍墓地の入口左側に、このことを記した側板が平成8年11
月11日の日付をつけて建てられている。
 興味深いのは、忠霊堂が明治35年に建てられているということだ。大阪の仮忠霊堂の建築が太平
洋戦争の最中だったことと考えると、何故8年後なんだという疑問が湧いてくる。
 碑文の通りだとすると、ここに埋葬されている遺骨は、第1師団や近衛師団など東京中心の軍人兵
士に限らず、全国的な広がりを持つものと考えられる、実態はどういうものなんだろうかね? 大阪
の真田山陸軍墓地にも日清戦争関係の軍人や軍役夫の墓碑が多数あるが、それとの関係はどうなって
るのか? 艶かしい疑問が沸々と湧いてきた・・・

   多宝塔
   この多宝塔はもと当山の薬師堂の西側に、昭和二十五年十二月二十一日に建立されたもの
   である。明治二十七・八年の日清戦争で遼東半島の各地の野に戦病没した軍人の遺骨を収
   集、本国に送還し一時京都泉涌寺の舎利殿に仮安置された。明治三十五年秋、多寶塔の正
   面に拝殿としての忠霊堂が完成、同年十一月二日当山に遺骨も移され、塔下に埋葬、慰霊
   大法要が厳修された。その後、この塔は長い年月風雨に曝され近年は破損甚だしく、今般
   大修理を施し、音羽陸軍埋葬地遺族会の協賛を得て、この地に移築建立した。
   平成八年十一月十一日                        大本山護國寺
 

 日露戦争戦没者の合葬墓

 この墓は、「音羽陸軍埋葬地英霊之塔」と記された石碑の背後にある堂の向かって右側にある。

   陸軍軍人合葬之墓

   明治三十七八年戦役死没将校以下遺骨
   明治三十九年八月建之

 満州事変の戦没者合葬墓

 この墓は、上の堂を中心にちょうど対になる位置に建てられている。

   陸軍軍人合葬之墓

 右面に

   昭和七年十二月建
     陸軍中将林仙之書


 左面に

   
満州事変死没将校以下

 と刻まれている。
 

 
個人の墓
 ごく少数建っています。これについては、墓地入口の由来碑に「有縁墓地四十」という文字がある
以外に説明できるものはとくに見当たらない。この説明によれば、現在の墓地を作ったのは昭和32
年11月のことで、この時、元の埋葬地に大幅な手が加えられ、「英霊之塔」も作られた。さらに平
成8年には多宝塔も移築されたのだが、個人墓は、昭和32年の時点で遺族が判明したもののみを4
0基に限って残したのだろう。2400以上もあった墓標の内、有縁の物が40基というのは・・・ちょっと少ないんじゃないの? 連絡が取れたものだけということかな。なお今も40基あるのかど
うかは不明。とにかく護国寺墓地内の「陸軍墓地」からは、真田山陸軍墓地のうに、かつての陸軍墓
地の有様を偲ぶことは大変困難だ。もとの墓地がどう広がっていたのかも定ではない。遺族の子孫は
確実にいるのに、遺族会の会員は減少する一方なのと軌を一にする。
 安倍晋三が、アメリカが押し付けた憲法だから、自主憲法を作るという。そして再軍備。正気の沙
汰か? 安倍は朝鮮系と知られている。日本の国会議員の5分の1近くは在日だ。多額納税者上位1
0人の内の7人は在日だ。テレビに出てくるタレント、芸人、俳優、ジャーナリストらはその殆どが
在日だ。たった1%にも満たない在日が支配している国で、自主憲法が聞いて呆れるぜ。


文京区幼女殺し事件(音羽幼女殺人事件)
 大塚5丁目40番1号護国寺境内にある同寺経営の「音羽幼稚園」で起きた園児の母親による園児
殺害死体遺棄事件。平成11年11月22日午前11時30分、文京区の主婦山田みつ子(当時35
歳)は、自宅マンションから600mほど離れた音羽幼稚園に長男を迎えるため、2歳になる長女を
自転車に乗せてやってきた。園庭では、迎えの母親が多数いて子供たちが教室から出てくるのを待っ
ていた。若山春奈(当時2歳)の母親も長男を出迎えるため、2人で音羽幼稚園に着く。11時38
分頃、教室から出てきた園児は、そのままブランコに乗ったり、鬼ごっこで遊び回わっていた。母親
たちも仲の良いグループに分かれて世間話を始めるという、幼稚園なら何処にでもある風景だった。
同50分頃、春奈の母親が、娘の姿が見えないことに気づく。他の母親たちも園内を捜し始め、「春
ちゃんを見なかった?」と周りに声を掛ける。自転車の後側に長男、前側に長女を乗せて自宅に帰ろ
うとしたみつ子の所にも、春奈ちゃんの母親は声を掛けている。その時みつ子は首を左右に振り、口
元に薄笑いを浮かべていた。その時にバランスを失い、前籠に入れていた黒いバッグが落ちたので、
慌ててそれを拾い上げて走り去った。
 午後1時30分頃、春奈の母親は、大塚警察署に春奈の行方不明を通報した。連絡してあった会社
役員の父親も急遽帰宅。営利誘拐の可能性があるとみて、脅迫電話の逆探待機をすることになるが、
当日・翌日と脅迫電話は鳴らなかった・・・
 春奈が行方不明になってから3日後の11月25日午後3時40分頃、僧呂である夫に付き添われ
みつ子は有楽町の丸の内警察署に自首した。丸の内署から連絡を受けた大塚警察署の担当刑事が駆け
つけてみつ子に事情聴取する。そしてみつ子の供述通り、静岡県の実家の裏庭に春奈が埋められてい
たため、同日山田みつ子を殺人容疑で逮捕した。同じ幼稚園に通う仲の良い友達の母親同士が、加害
者と被害者であったことに世間は大きな衝撃を受けた。
 みつ子は、昭和39年1月21日静岡県大井川町生まれ。静岡日赤病院で看護婦として勤務した後
平成5年4月に10歳年上の僧呂と結婚し、文京区のマンションに居住した。内向的な山田みつ子は
近所に友達もできず孤独な生活を余儀なくされるが、翌年の同6年1月に長男が生まれると、近くの
公園へ頻繁に行くようになる。所謂「公園デビュー」だ。その年の夏、春奈ちゃんの母親も長男を連
れて公園で遊ばせていたため2人は知り合う。特に双方の長男の誕生日が2日違いということもあっ
て親近感を得たようだ。第2子の誕生も殆ど一緒で、一緒に安産の祈祷に出かけたり食事したりと周
囲から仲の良い母親同士と見られていた。
 
長男が地元の音羽幼稚園に通うようになると、いつも明るく社交的だった春奈の母親は、みつ子以
外の母親達との交流が活発になる。一方みつ子は相変わらず友人関係がうまくできない。長男もそれ
ぞれの趣向が変化していき、次第に交流が無くなっていく。それをみつ子は「自分を無視している」
「冷たい」と思うようになる。同11年に入ると、みつ子が春奈の母親に対する屈折した不満は殺意
に変化していく。春奈の母親の行動全てが、自分に対する当てつけと思うようになる一方、周囲から
「仲の良い母親同士」という関係の維持に相当無理をしていたようだ。「春奈ちゃんの母親が居なけ
れば、こんな辛い思いをしないですむ」という思いが、「春奈ちゃんを殺せば、2度と春奈ちゃんの
母親と会わないですむ」という思いに変化し、それは日増しに募っていった。
 犯行当日、みつ子は長男を迎えるため音羽幼稚園に着くと、園庭の隅で遊んでいる春奈を目撃。回
りを見ると誰も居ない。そこで殺るのは今しかないと咄嗟に春奈を抱きかかえて、境内の公衆トイレ
に入り、春奈ちゃんが巻いていたマフラーで絞殺。その後いつも持参している黒いバックに春奈を入
れ、なにくわぬ顔で再び幼稚園に戻り、長男と長女を自転車に乗せて自宅に帰ろうとした。その時前
述の通り春奈の母親が「春菜を見なかった?」と問いかけたのだった。その時バランスを崩して前籠
から落とした黒バッグに、愛娘が死体になって入っているなど夢にも思わなかった。その後みつ子は
夫が勤めている寺に子供を預けて、静岡県の実家に向かう。当日は母親が居なかったため、納屋から
スコップを取り出すことができず、手で裏庭の土を掘り、黒いカバンから春奈を出して埋めた。世間
では、この事件を「お受験競争の果ての殺人事件」と評している。確かに、この地域では国立付属の
お茶の水幼稚園から小学校~高校へという過度な受験競争があったのも事実で、母親同士がライバル
という厳しい現実があったようだ。
 その後東京地裁で検事側は「懲役18年」の求刑をしているが、春奈の遺族は極刑を希望するコメ
ントを発表した。

 
判決

 平成13年一審で懲役14年の判決。しかし検察が軽すぎるとして控訴。同14年11月27日そ
の控訴審で東京高裁は「被害者の心情を酌み取っておらず量刑が軽すぎる」として地裁判決を破棄、
1審より1年重い懲役15年の判決をいい渡した。この結果を受けて弁護側と検察側はいずれも上告
期限までに上告しないことを決めたため高裁判決懲役15年が確定した。
 同14年12月4日東京地裁は春奈の両親が春奈を殺害したみつ子に対して約1億3700万円の
損害賠償を求めた民事裁判で、みつ子に約6100万円の損害賠償の支払いを命じる判決をし、その
うち約1970万円は、両親の請求通り毎月22日の月命日に約8万円ずつ分割で20年かけて支払
うよう命じた。しかしみつ子は同判決に基づく支払いを実行しておらず、春奈の両親がみつ子が受刑
中の刑務所に請求書を郵送しているが、みつ子から返信が無いままだ。恐らくみつ子は意地を張り、
反省の心などかけらもなく、のうのうと行き通す。
平成26年もう出所した。50歳だ。
 


■日本大学豊山中学校・高等学校

 大塚5丁目40番8号にある私立校。明治36年豊山中学校として開校。
 昭和27年日本大学に買収され「日本大学豊山学園」となり、同29年から校名を「日本大学豊山
中学校・高等学校」と改称。同34年校舎2号館新築竣工。同36年校舎3号館新築竣工。同39年
校舎4号館(体育館・室内温水プール)新築竣工。同40千葉県九十九里浜に野栄学寮新築竣工。同
41年板橋区中台に日本大学豊山女子高等学校開校。同42年校舎1号館新築竣工(7階にプラネタ
リウム設置)。同校舎5号館新築竣工。同57年日本大学豊山女子高等学校分離独立。同59年日本
大学豊山中学校・高等学校創設30周年記念式典。平成4年コンピュータ教室新築竣工。同6年創設
40周年記念式典。同8年野栄学寮閉寮。同12年野栄学寮解体。校訓「強く 正しく 大らかに」制
定。甲子園出場記念碑建立。

 学園歌「
朝は呼ぶ」 作詞・神保光太郎  作曲・阿部幸明
  1.朝は呼ぶ大東京の空明けそめて
    我ら若き桜花 日本の希望
    大いなる未来をめざし
    我ら 我ら ここに競う
    輝く母校 輝く輝く母校
  2.森は呼ぶ 歴史も古き豊島ヶ丘よ
    我ら若き桜花 日本の希望
    朽つるなき真理を求め
    我ら 我ら ここに学ぶ
    輝く母校 輝く輝く母校
  3.友は呼ぶ決意は燃えて 相寄る魂
    我ら若き桜花 日本の希望
    新しい世界を訪ね
    我ら 我ら ここに進む
    輝く母校 輝く輝く母校


■希望の坂(青柳の坂)

 大塚5丁目40番18号、不忍通りの護国寺西交差点付近。「区立アカデミー音羽」の西側から青
柳小学校校門を通り校庭に上る坂道。昭和53年3月6年生が卒業制作のレリーフを、坂道の東側の
壁に取り付け、その時、今までの「青柳の坂」の名を子どもたちから募集。全員一致で「希望の坂」
と決定した。元々は陸軍墓地への参道だった。


   希望の坂
   この坂の名は青柳小学校のみなさんからの募集により、昭和53年につけられました。青
   柳小学校は大正3年旧西青柳町に開校し、町名を校名としました。
   小学校は昭和35年高速道路建設のため現在地に移転されました。坂上には新校舎記念碑
   が立ち、坂道は子どもたちが楽しく学べる通学路であり、希望にみちた子どもたちの将来
   を願って、坂の名を「希望の坂」としました。平成6年開校80周年記念に「希望の坂」
   の歌の発表がありました。

   希望の坂の上から元気な声が聞こえる
   青い空に 白い校舎 明るく歌う声
   緑に囲まれた青柳小学校
   この坂道は ぼくの宝だ いつまでも忘れない


                 文京区教育委員会   平成12年3月

 坂道横の土留めの壁面に「希望の坂」の歌詞のレリーフが貼られている。生徒作品。

   希望の坂の上から
   元気な声が聞こえる
   青い空に白い校舎
   明るく歌う声
   緑に囲まれた
   青柳小学校
   この坂道は
   僕の宝だ
   いつまでも
   忘れない


■陸軍墓地

 大塚5丁目40番18号の青柳小学校のあるところは墓地だった。その跡地に青柳小学がやってき
たのは昭和35年のことだ。以前は坂下の高速道路下、今の首都高管理事務所付近にあった。 


■青柳小学校・青柳幼稚園

 大塚5丁目40番18号にある区立校。「希望の坂」と名づけた長い坂道を登っていくと校門があ
る。大正元年東京市有地(小石川区西青柳町7番地=護国寺西交差点内)敷地無償使用申請。同2年
認可。同3年校舎落成。「東京市青柳尋常小学校」として開校。1年生371名入学。小日向台町尋
常小学校から516名、黒田尋常小学校から274名、私立音羽小学校その他から137名移籍。1
298名21学級でスタートした。校名の青柳は町名を冠したが、町名の青柳は、音羽と同様江戸城
大奥の中﨟(御殿女中)の名前で、町域が拝領地だったことによる。同6年校舎増築。昭和16年勅
令148号国民学校令により「東京府東京市青柳国民学校」と改称。12月日米開戦。同18年都制
施行により「東京都青柳国民学校」と改称。同19年宮城県鳴子温泉ホテルに学童集団疎開。同20
年8月日本は、ならず者国家アメリカの軍門に降り敗戦。以後属国となり、いいなりに政治を行わな
ければならない今日的不幸を背負い込む。10月疎開解除により学童帰校。
 同22年アメリカの強制による学制改革により「東京都文京区立青柳小学校」と改称。同23年校
歌制定。

 校歌「
柳にそよ風」 作詞・服部嘉香教諭  作曲・井上武士教諭
  1.柳にそよ風 爽やかに
    今日も嬉しい青柳校
    学びの道を一筋に
    勤(いそ)しみ 励み 進もうよ
    みんなの日本をよくしよう

  2.徽章の桜は輝いて
    いつも楽しい青柳校
    正しい道を忘れずに
    明るく 強く 進もうよ
    みんなの日本をよくしよう

  3.時代の光に包まれて
    明日も明るい青柳校
    希望の道を元気よく
    手に手を取って進もうよ
    みんなの日本をよくしよう
  4.文化の林に分け入って
    真理の花を摘むは誰
    平和日本の曙に
 
   花束翳し進もうよ
    みんなで世界をよくしよう


 同32年道路向いの護国寺の旧陸軍墓地跡を買収、新校地決定。同35年大塚坂下町21番地(現
在地)の新校舎に移転。9月プール完成。同37年体育館。同38年開校50周年記念式典。平成2
年特別教室(家庭科室・音楽室・図書室・視聴覚室)全面改修。同3年給食室・主事室改修。同4年
校長室・職員室・理科室・図工室全面改修。同6年開校80周年記念式典。同7年コンピュータ室新
設。同10年校庭全面人工芝に改修。同13年給食民間委託。同16年開校90周年記念式典。

 校章
 桜の花を取り入れたのは初代校長神蔵幾太郎が、

  見渡せば柳桜を扱き混ぜて都ぞ春の錦なりけり

 という平安時代の歌から採ったという。大正3年木立や清流に囲まれた自然の中に木の香も高く、
開校当時の佇まいが彷彿として沸いてくる。文京区も本郷の辺りを除けば農村、江戸の田舎だったの
だ。

 「たてた時より美しく」の碑
 記念碑。詳細不明。
 


■開運坂

 大塚5丁目30・31番と6丁目11番の間の坂道。

   開運坂
   坂名の由来については、よくわからないが、運を開く吉兆を意味するめでたい名をつけた
   ものであろう。
   このあたりは、富士見坂(大塚3丁目の交差点から護国寺前)の下であるところから、旧
   町名を大塚坂下町といった。それでこの坂の下の道を坂下通りとも呼んでいる。
   坂の上の南側には、五代将軍徳川綱吉の生母桂昌院の願いで建てられた護国寺がある。護
   国寺の東側には、明治6年に開かれた豊島岡墓地(皇族墓地)がある。
   豊島岡墓地の東側は大塚先儒墓所である。江戸時代の高名な儒学者である、木下順庵、室
   鳩巣、尾藤二州や古賀精里などの墓がある。

    護国寺に住みている鳩 屋根はなれ 高く飛びおり春日の空に(窪田空穂)

               文京区教育委員会 昭和56年7月


■大塚坂下町公園

 大塚6丁目10番と12番に跨って斜面緑地にある区立公園。平成15年4月1日開園


■えのき広場

 大塚6丁目19番5号にある区立公園。平成17年4月1日開園。


■大塚児童遊園

 大塚6丁目22番20号にある区立公園。昭和42年3月28日開園。


■ひょうたん広場

 大塚6丁目33番11号にある区立公園。平成17年4月1日開園。
 


【音羽】(おとわ)1~2丁目                    昭和42年1月1日
 雑司ヶ谷村・小日向村・関口村。元禄十年(1697)護国寺領となり門前が起立したが、

   護国寺を素通りにする風車(川柳)

 といった案配で、風車(雑司ヶ谷の鬼子母神)に客を取られて家作人が集まらず、やむなく奥女
中音羽が給わった。その後漸く茶店などが出来、宝永の頃は岡場所の一つとして賑わうようになっ
ていった。正徳三年(1713)町奉行支配となって音羽町となったが、享保八年(1723)大岡
越前により風俗美化のために町屋は取り払われて寺社奉行支配に戻された。7年後の享保五年(1
730)再び町屋が許されると、延享二年(1745)には歓楽街が復活して町奉行支配に戻され
た。護国寺領ヶ町の一つで1~9丁目があった。道を挟んで両側に町があったので都合18町の遊
び場があった。
 同11年「郡区町村編制法」により小石川区に所属。昭和22年文京区に所属、同41年新住居
表示により音羽町の大部分に小日向台町3丁目・関口町・桜木町・雑司ヶ谷町・小日向水道町・東
青柳町・西青柳町の各一部をあわせた町域を現行の「音羽」とした。音羽といえば鳩山御殿だろ!
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『文京区史』『文京の歴史』など。

 音羽の由来
 
奥女中音羽の拝領地だったことによる。桜木町・青柳町も音羽と同じ奥女中桜木と青柳の拝領地
の名残り町だ。

 音羽通り
 江戸川橋から北へ真っ直ぐに伸びる広い通りは、護国寺に突き当たる音羽通り。天和元年(16
81)に護国寺を創建した五代将軍綱吉によって開かれた将軍御成道だった。通りに面した町家も
綱吉が開いたものだが、町名の音羽は、この御成道沿いの町家になかなか家作人が集まらなかった
ことから、元禄十年(1697)になって、綱吉の生母桂昌院に使えた奥女中音羽に対して家作が
与えられたことに因む。音羽通りは、東の小日向台と西の目白台に挟まれた谷地であり、通りの左
右には、かつて神田川に注いでいた水窪川と弦巻川の2つの流れがあり、江戸時代には豊富な水量
を生かして紙漉きが代表的な産業として発展していた。当初は信州飯田から製造技法が伝えられ、
天保年間(1830-44)をピークに紙の生産が行われてきたが、明治に入ると主体は紙細工の
原料紙に変わり、明治末にはちり紙や封筒の原料を生産するようになった。明治中期で70軒を数
えた紙漉き家は、和紙から洋紙への需要の変化、都市化による水質の悪化、震災による水脈の変化
などで、戦中には全ての紙すき家が廃業したという。近くには明治9年に阿波国忌部神社から音羽
の紙すき家一同が勧請した天日鷲(あめのひわし)神社がある。鷲は「和紙」に通じ、和紙の町の
昔を今に伝える唯一と言っていい痕跡となっている。

   音羽通り
   護国寺は、5代将軍綱吉の生母桂昌院が天和元年(1681)に建立した。のち将軍家の
   祈願寺とない、供揃1000人以上で度々参詣したので、将軍御成道として音羽通りは整
   備された。幕府は音羽町の地番を、桂昌院の生地である京都の一~九条にちなんで1~9
   丁目とした。また、当時江戸市中いずれの町も城を中心に1丁目を置くならいだったが、
   音羽町だけは護国寺側を1丁目とした。そこに幕府の配慮がうかがえる。音羽の地番と1
   箱に9丁入っていた豆腐とをかけ、

   豆腐なら一ト箱ばかりの音羽町(古川柳)

   Gokokuji Temple and Otowa dori Avenue
   Gokokuji Temple was built by Keishoin,mother of the Fifth Shogun Tsunayos
   hi in 1681.
   Later,asa the Shoguns visited and prayed with 1000 or more atendants,Otowa do
   ri Avenue was fixed to accomodate such visits.
  


■音羽の紙

 天保四年(1833)信州伊那の久保田増平が紙漉(かみすき)の技術を持ち込んで音羽の製紙業が
始まる。明治になるといよいよ盛んとなり紙漉業者79軒を数えるに至ったが、機械製紙の発展と市
街地化で衰退し、その名残りとしてか講談社がある。


■鷺坂

 音羽1丁目1番と2番の間、目白坂下から東北東に上がり、さらに小日向2丁目19番と21番の
間を上がって左に曲がる坂道。


■今宮神社

 音羽1丁目4番4号にある。元禄十年(1697)桂昌院殿の発願により、護国寺建立に際して、
京都柴野今宮神社より分霊を迎えて創建、明治6年神仏分離策によりに遷座したという。

   今宮神社御由緒(通称今宮五社)
   当社は元禄十年(1697)十月徳川5代将軍綱吉、犬公方の御生母桂昌院殿の発願によ
   り、護国寺御建立の時、同所に京都柴野今宮神社より御分霊を迎えて鎮座した。明治元年
   の神仏分離により、明治6年7月音羽9丁目の現在地に遷座した。
   五社今宮とは、伊勢神宮・今宮神社・春日大社・石清水八幡神社・熊野大社を示している。
   創祀以来300年余青柳・音羽・桜木の鎮守神として崇敬され、明治12年12月にはコ
   レラ伝染除の祭典が執行され、京都今宮神社同様病気平癒の御利益があったとのことであ
   る。狛犬は宝暦四年(1754)八丁堀の石工小右エ門作である。
   例大祭 9月第1土・日曜日
   境内末社の天日鷲神社(天日鷲命)紙祖神は明治9年阿波国忌部神社より音羽の紙漉家一
   同によって建立されたものであり、11月の酉の日には商売繁盛の熊手を授与している。
   御祭神
   天照大御神(伊勢神宮)皇祖神・国土安泰・福徳開運
   素盞鳴尊(今宮神社・熊野大社)畏神・疫神・健康神
   伊弉冉尊(熊野大社)子孫繁栄
   誉田別尊(石清水八幡神社)治山治水・裁縫織物
   天児屋根尊(春日大社)災難厄除・出世開運
   大国主命(今宮神社)医薬・商売繁盛
   事代主命(今宮神社)商売繁盛・金運
   速玉大神(熊野大社)誓約事
   大宮比売命(春日大社)酒醸・芸事上達・成就
   少毘古那命 医薬・医療
   猿田彦命 交通安全・旅行安全
   菅原道真 学問


 天日鷲神社
 境内末社。鷲が和紙に韻が通じることから紙祖神とみなされ、明治9年阿波国(徳島県)忌部神社
より音羽の紙漉家一同によって勧請されたものであり、11月の酉の日には、商売繁盛の熊手を授与
している。


■八幡坂

 音羽1丁目4番と6番の間の東へ上がる階段状の坂道。八幡さんの北側にあるのでその名がある。

   八幡坂
   『八幡坂は小日向台三丁目より屈折して、今宮神社の傍に下る坂をいふ。安政四年(18
   57)の切絵図にも八幡坂とあり。』と東京名所図会にある。明治時代のはじめまで、現
   在の今宮神社の地に田中八幡宮があったので、八幡坂とよばれた。坂上の高台一帯は「久
   世山」といわれ、かつて下総関宿藩主久世氏の屋敷があった所である。
   
平成5年3月                          文京区教育委員会
 


■鳩山会館

 音羽1丁目7番1号にある民主党の国会議員鳩山由紀夫の邸宅(本人は大田区のマンションに住ん
でるらしい)。所謂「鳩山御殿」「音羽御殿」と呼ばれる建物だ。美作国勝山藩(岡山県北部)出身
の鳩山和夫がこの地に居を構えたのは明治24年。和夫は弁護士の地位向上、私学の発展、立憲政治
の発展と進歩を理想とした。今の洋館は大正13年長男一郎によって建てられた。設計を手がけたの
は友人の岡田信一郎で、大正・昭和を代表する建築家として知られる。しかし彼の作品は戦後、文化
財破壊に頓着のない森ビルの再開発によって悉く破壊された。一郎は初代自由民主党総裁で、首相の
時、日ソ国交回復をやった。彼の妻薫は共立女子学園の理事長を務めた。
 一郎の没後、傷みが酷くなったが、このたび大修復を加え、往年の輝きを回復した。修復に当り、一
郎、その夫人で教育者の薫、威一郎を記念する部屋を設け、公開することになった。バラの庭を前に
建つイギリス風の外観、ハトをモチーフとするステンドグラス、アダムスタイルの応接室、朝倉文夫
作の和夫・春子夫婦像、などなど見るべきものは多い。大広間がパーティなどに利用できるほか、映
画のロケ地としても利用できる。
 入館料 大人500円 10時~16時(月曜休館) 03-5976-2800

 鳩山和夫胸像・春子銅像
 庭園にある。和夫が胸像、春子が腰掛像。ちょっとそぐわないが、別々に建てたものを合体したも
のか。作者は朝倉文夫。
 江戸末期の美作国勝山藩江戸士士で、江戸留守居役博房の4男。明治維新後は政治家、代言人(弁
護士)となった。正四位勲三等法学博士。外務次官、衆議院議長を歴任し、教育でも専修学校(専修
大学)の設立に大きく貢献。また東京専門学校(早稲田大学)の校長なども務めた。長男は一郎(総
理大臣)次男は秀夫(法学者)。由紀夫(総理大臣)は曾孫に当たる。
 妻の春子は、信濃国松本藩戸田家家臣
渡辺久右衛門(多賀努)の5女。明治になって一家は多賀と
改姓。東京女学校を経て東京女子師範学校を卒業。鳩山和夫と結婚。母校に奉職した。彼女は教育者
で共立女子大学の創立者。津田梅子(津田塾大学創立者)、成瀬仁蔵(日本女子大学創立者)、吉岡
弥生(東京女子医科大学創立者)、横井玉子(女子美術大学創立者)、戸板関子(戸板学園創立者)
などと並ぶ日本の女子高等教育の基盤づくりに活躍した「明治クリスチャン教育家」の内の一人。


 鳩山一郎・薫
 政治家。第52・53・54代の内閣総理大臣。正二位大勲位。大正元年東京市議会議員に当選。
同4年に衆議院議員に当選して以来、政党政治家として活動。昭和29~31年に首相を務めた。首
相在任中、保守合同を成し遂げ自由民主党の初代総裁となり、ソビエト連邦(ロシア)との国交回復
を実現した。フリーメーソンリーとして夙に有名。
 妻の薫(薫子)は、福岡県出身。右翼団体玄洋社を経て衆議院議員となった寺田栄の長女。13歳
で母親を亡くし、祖母を助け、弟や妹の面倒をみながら、麹町の女子学院の英語科に通い、18歳の
時鳩山家の養女となり、高等教育を受けた。20歳で一郎と結婚。昭和13年の義母春子の跡を継い
で、第7代共立女子学園理事長となった。同31年一郎に同行し訪ソ。勲一等瑞宝章を授与された。

 
鳩山一郎銅像
 庭に建ててあるツェレテリ・ズラブ・コンスタンノビッチの作品。鳩山一郎の日ロ平和条約締結に
対する熱い思いをロシアに伝えるべく銅像をモスクワに向けて建立、平成9年2月28日ロシアのフ
ラトコフ首相、ベールイ特命全権大使、オルジョニキーゼ・モスクワ副市長、銅像制作者ツェレテリ
ロシア美術アカデミー総裁来日。日本側の多くの賓客を招待し、銅像除幕式を挙行した。デザインは
晩年の鳩山一郎の歩行姿。作者ツェレテリはユダヤ系グルジャ人、アシュケナジーだとか。鳩山はフ
リーメイソンだからさもありなん人選だね。

 鳩山威一郎・安子
 東京都出身。高等師範附属小学校(筑波大学附属小学校
)、東京府立高等学校(東京都立大学→首
都大学東京)を経て、東京帝国大学法学部をトップで卒業後、大蔵省に入省、同期に柏木雄介、加治
木俊道など。入省後すぐに海軍に召集された。ブリジストン創業者石橋正二郎の長女安子と結婚。召
集解除により大蔵省(財務省)復職。主計局畑を歩み、主計局長から事務次官就任。次官在任中の昭
和47年田中角栄首相の「日本列島改造論」を背景とした総理の至上命令として、鳩山次官以下、相
沢英之主計局長(女優司葉子の夫)、樋口収理財局長、高木文雄主税局長らで、同48年度の超大型
予算を組むこととなった。のちに、同46年のニクソン・ショックに伴うインフレの兆しがあったこ
とや、同48年10月からのオイルショックなどと相まって、戦後最悪の狂乱物価を招いた超インフ
レ予算として批判されることとなった。同49年参議院議員に初当選。同51年当選1回ながら福田
赳夫内閣の外務大臣に抜擢されるなど、毛並みも良い「大物官僚」出身の政治家として期待されたも
のの、病気がちで政界では目立った活躍は出来ず、3期務めた政界を引退した。
 妻の安子は、ブリジストン創業者石橋正二郎の長女、由紀夫・邦夫の母。東京府立第二高等女学校
(都立竹早高等学校)→女子学院高等部卒業。2人の息子の政治資金や民主党結成費など、政治家一
族・鳩山家を金銭面で支援している。

 鳩山由紀夫・幸
(みゆき) 友紀夫に改名
 音羽御殿に威一郎・安子の長男として生まれる(噂では朝鮮人女性との子、幸夫人は朝鮮人)。
 学習院初等科・中等科、都立小石川高等学校を経て、東京大学工学部応用物理・計数工学科を卒業。
その後昭和51年スタンフォード大学の博士課程で オペレーションズ・リサーチを専攻しPh.Dを
取得。東京工業大学助手、同56年に曾祖父和夫が設立に大きく貢献した専修大学の経営学部助教授
に就任したが、同59年3月に政界入りを志して退職した。政治家を志したきっかけは中川一郎の存
在だったといわれるが、由紀夫は、直接のきっかけは三枝三郎の引退と主張ている。同年第38回総
選挙で、自民党の公認を得た田中派新人として、鳩山家が牧場を所有し鳩山神社という神社がある祖
父の代からの地盤北海道から出馬、初の選挙スローガンは科学者を志望していた自身の経歴をアピー
ルした「政治を科学する」だった。得票数では同じ自民党の高橋辰夫に次いで2番目の得票数で当選
した。小選挙区になった平成8年以降は、鳩山家が開拓した地域は選挙区から外れている。なお地方
区分の選挙区自体は祖父と重複していないため、祖父の地盤を世襲していないと扱われている。当時
39歳、弟邦夫に遅れること10年と、決して早いとはいえない政界入りだったが、豊富な資金力に
加え、祖父以来の人脈や名門出身の毛並みの良さ・知名度に支えられ、短期間で頭角を現し、90年
代の政界再編期に、一躍中心的存在となっていった。昭和63年には61年当選組を中心とした派閥
横断的な政策集団として、後の新党さきがけの母体となる「ユートピア政治研究会」を結成、リクル
ート疑惑に揺れる党内にあって、自民党の巨額の政治資金の実態を明らかにして反響を呼び、90年
代の「政治改革」運動の萌芽となった。平成5年政治改革を巡って自民党を離党。武村正義らと新党
さきがけを結成し参加。総選挙後、非自民・非共産連立政権で成立した細川護煕内閣では内閣官房副
長官(政務)に就任し、新党さきがけ代表の武村官房長官、代表代行の田中秀征首相特別補佐、日本
新党代表幹事で、後に、新党さきがけに移籍する荒井聡と共に細川内閣を支えた。日本社会党委員長
村山富市を首班とする自社さ連立政権では、さきがけ初代代表幹事園田博之の官房副長官就任に伴い、
後任の幹事長として政権を支えた。同6年秋、翌春の北海道知事選に出馬が取り沙汰され本人も乗り
気だったが、村山と武村と井出正一の説得で断念。自民党と自由連合の共同推薦候補伊東秀子を支持
したが、横路孝弘後継で新進党と日本社会党の推薦候補堀達也に敗北した。同7年参議院議員選挙で
新党さきがけ代表幹事として山中あき子を北海道選挙区で擁立画策したが山中は辞退。同8年春頃か
ら新党さきがけの党名を発案した簗瀬進や簗瀬と同じ選挙区の新進党幹部船田元と新党構想を打ち上
げる。船田との新党作りは挫折したが、横路、簗瀬、菅直人、弟の邦夫と共に民主党(旧)を結党。
「排除の論理」で武村と袂を分かった。民主党では幹事長代理を経て、同11年の代表選挙に勝利。
公約として正面から憲法の改正を掲げて話題となった。同12年の総選挙、同13年の参院選など、
国政選挙の度に党勢を拡大させたが、同14年統一補選での惨敗と自由党との統一会派騒動をめぐる
党内混乱の責任を取る形で代表を辞任。その後も、民主党内で最大派閥(民主党では「派閥」とは表
現せず「グループ」としている)「鳩山グループ(政権公約を実現する会)を率いて憲法問題や北朝
鮮による日本人拉致問題などについて積極的に発言するなど一定の影響力を維持している。同17年
の総選挙で民主党が敗北したことを受けての代表選挙では、当初小沢一郎、菅直人らと後継代表の一
本化を図るが、中堅・若手の代表格である前原誠司が立候補を表明したため水泡に帰したものの、前
原執行部で幹事長に就任。同18年に発生した堀江メール問題では、当時幹事長にも関わらず、こと
の発端となったメールに関し、永田・前原両議員から事前にほとんど何の相談も受けていなかったと
される。前原執行部が総辞職すると幹事長を引責辞任することを表明するが、同年4月前原辞任に伴
う代表選で小沢一郎が当選すると、幹事長に留任した。新潟県中越沖地震発生当時、新潟市内での演
説を予定し、新幹線で向かっていたが、高崎駅で下車して、自動車で柏崎市入りした。党新潟県中越
沖地震対策本部長に就任。同19年の参院選大勝を受けての党役員人事で引き続き、党幹事長に留任。
同21年小沢一郎代表の辞任を受け、かねてからの主張どおり党幹事長を辞職。その後の党代表選挙
で岡田克也を破り、代表に就任。その年の総選挙にて、民主党は単独政党としては史上最多の308
議席を獲得。9月16日衆参両院の首班指名選挙を経て、第93代内閣総理大臣に就任。「友愛」を
スローガンに掲げるが、「友愛」は秘密結社フリーメーソンのスローガンであり、祖父一郎がそのメ
ンバーだったこともあり、由紀夫もそのメンバーだろうといわれている。フリーメーソンについては
港区に記載しているので、そちらを参照して頂きたいが、秘密結社といわれる所以は何事も公表しな
いからで、世界制覇を目論むとされるが、表立って何かをした、またはしていることはない。彼らは
単なる親睦団体だという。日本人メンバーは5000人程度らしい。
 平成25年由紀夫の「由」を、友愛の「友」に替え、「友紀夫」に改名した。
 長男紀一郎は東大教授。
 鳩山邦夫は弟。妻の幸は朝鮮の出身で、元タカラジェンヌ「若みゆき」だ。由紀夫が、しばしば問
題発言をし、日本のことを考えないのは、やはり朝鮮人であることに起因していよう。彼には基本的
に日本人の感覚がないのだ。朝鮮人であることをカミングアウトした方が楽になれるだろう。

 
鳩山邦夫・エミリー

 東京都出身。政治家。衆議院議員。「邦」の字体は、へんの縦の払いが上にはみ出ないのが正式と
される。威一郎の次男として生まれる。学習院初等科・中等科、東京教育大学附属高等学校(筑波大
学附属高等学校)を経て、東京大学法学部卒業。早くから政界入りを志望し、田中角栄の秘書として
政治家修行を積む。昭和51年新自由クラブ推薦で旧東京8区から出馬し当選するが、その後新自由
クラブを離党。同54年の総選挙では苦杯を喫するも、翌年の総選挙で復帰。自民党・木曜クラブを
経て経世会に所属。平成4年には文部大臣に就任し、一斉業者テストの廃止を行った。政治改革を巡
り同5年に自民党を離党、無所属で選挙を勝ち抜いた後、日本新党・新生党・公明党を中心とした非
自民連立政権に参加。同6年羽田内閣で労働大臣に就任し、同年12月には新進党結党に参加。同8
年に新進党を離党し、兄・由紀夫らと旧民主党を結党、副代表に就任する。さらに同10年民主党の
結成に参加し、党副代表・東京都連初代会長就任。しかし党の路線を巡り、徐々に兄弟間で対立が目
立つようになっていった。その後民主党を離党し、同11年都知事選立候補。不出馬を表明した青島
幸男都知事の後継指名と民主党のみならず生活者ネット・改革クラブの推薦を受け、選挙戦では乱立
する有力候補の1人となるが、石原慎太郎の前に次点に終わり敗北(同3位は邦夫と東大法学部同級
生舛添要一)。選挙戦で民主党の全党的な支援を受け、同党衆院議員の岩國哲人が選対本部長、吉田
公一が事務総長を務めた。都知事選落選後は民主党と距離を置き、やがて自民党に復党する(かねて
から邦夫は、民主党の実質的なオーナーである兄由紀夫との不仲が囁かれており、都知事選出馬は民
主党を離党するための口実だったとする見方もある)。東京都二区補欠選挙には系列都議中山義活を
擁立し、邦夫の中選挙区時代からのライバルで、同8年第41回総選挙で邦夫に敗北し比例復活した
深谷隆司は自民党総務会長に在職中のために不出馬、中山が初当選した。平成12年の第42回総選
挙では、自らは東京ブロック比例単独候補として出馬し、東京2区で深谷を支援した(邦夫は当選し
たが、深谷は通商産業大学在任中でありながら比例復活が出来ず、落選)。同14年に衆院議院運営
委員長に就任した。同15年第43回総選挙では突然「あのような人物を一国の総理にする訳にはい
かない」と、民主党代表菅直人の選出選挙区である東京18に転出し立候補。民主党の創設者同士の
戦いとして注目され、一時は「逆転」と報道されるほど猛追したが及ばず、小選挙区は落選したが、
比例東京ブロックの名簿順位で優遇されていたことから復活当選した。同17回の第44回総選挙か
ら、母方の祖父石橋正二郎(ブリジストン創業者)の出身地である久留米市を主要地盤とする福岡6
区へ選挙区を移し、自身の東大法学部同級生で兄由紀夫の側近古賀一成を破り小選挙区で当選を果た
した。同18年9月の自民党総裁選への立候補に向け活動していたが、推薦人を集められず立候補を
断念。麻生太郎の支持に回った。自民党復党以降無派閥を通していたが、かつて所属した経世会の流
れを汲む平成研究会に入会した。同19年の安部内閣で法務大臣に就任。同19年総裁選にて、立候
補者の麻生太郎幹事長の20名の推薦人の内、推薦人代表となる。麻生支持に回ったことから福田康
夫内閣への入閣はないと思われていたが、引き続き法務大臣に再任された。同20年平成研究会役員
人事で、会長代理から改編された会長代行に就任。同年9月には麻生内閣で総務大臣、内閣府特命担
当大臣(地方分権改革担当)就任するも、翌21年日本郵政西川善文社長の進退問題を受け、麻生首
相から事実上罷免される形で総務相を辞任した。罷免以降は離党や新党立ち上げを匂わす発言を繰り
返し、議員を集めて自らが手料理を振舞う「有機野菜を食べる会」を開催したり平沼赳夫と会談する
など積極的な動きを見せている。平成22年1月に発足した議員グループ「のぞみ」も邦夫が黒幕と
見られている。邦夫は見た目、兄由紀夫と違ってごつい厳つい顔をしているが、お坊ちゃんであるこ
とに変わりはない。外見とは裏腹にひ弱だ。平成28年6月21日病死。行年67歳。
 長男太郎、長女華子、次男二郎(衆議院議員)。

 
鳩山由紀夫政治資金収支報告書虚偽記載問題
 鳩山威一郎には由紀夫と邦夫の倅がいて、由紀夫は民主党の代表となり、邦夫は自民党にこだわっ
て吠えている。平成21年の政権交代で由紀夫は内閣総理大臣になったのだが。この由紀夫は、今、
同年6月政治資金管理団体「友愛政経懇話会」の政治資金収支報告書に、故人からの献金が記載され
ていることが発覚。少なくとも5人の「故人」が延べ10回、5年に渡っておよそ120万円を献金
したことになっていた。同月、実際には由紀夫に献金していないのにもかかわらず、「友愛政経懇話
会」へ個人献金したとして収支報告書に記載されている人が複数いることが発覚した。また記載され
たリストの中には住所自体が存在せず、実際には存在していない人物も含まれていたことも発覚。由
紀夫はこの問題が報道されたことを受けて、五百蔵洋一弁護士に調査を依頼、6月30日に記者会見
で調査内容を公表した。それによれば、実体のない、問題のある寄付は少なくとも同17年からの4
年間で延べ193人分、総額2177万円に上った。由紀夫はこれらの虚偽記載について、会計実務
担当の公設秘書が独断でやったとし、この公設秘書を解任・解雇した。なお、調査は現在も続行中。
この問題は名簿に死亡した人物の名前が多数含まれていることから、故人献金問題といわれている。
 調査の過程で、「友愛政経懇話会」の政治資金収支報告書の中で、5万円以下などの条件を満たす
匿名の個人献金の総額が同15~19年の5年間で計に億3千万円に上り、国会議員の中で突出して
多いことが判った。由紀夫の個人献金の内、5万円以下のために献金者の匿名が認められる小口献金
の同15~19年の5年間の年平均額は約4600万円となっており、ここ5代の自民党総裁、民主
党経験者の年平均額の約140万円を大きく上回っており、同15年には1500人以上の匿名者か
らの小口献金があったとしている。由紀夫はお坊ちゃんで世間知らず、金銭には無頓着で「良きに計
らえ」と家来任せであるのは仕方がない。それが親の躾であるし、子供の時からそう育てられた。金
銭感覚は0だから、経済はチンプンカンプンで、庶民の心など理解しろというのがどだい無理だ。
 フリージャーナリストの二木啓孝が「日刊ゲンダイ」在籍時に、雑談でサラリーマンの平均年収に
話が及んだ時、由紀夫が、

   そうですか。そんなに給料減ってるんですか。今サラリーマン平均1000万ぐらいで
   すか?


 と発言したため、「政権獲得のためにもこの事は伏せておくよう」進言したという。その程度だ。
 由紀夫は、憲法改正を標榜しているし、祖父一郎は再軍備論者だった。戦後65年経つのに戦後は
未だ終わらず、アメリカの支配下にあり属国状態の儘だ。アメリカ軍基地や施設は、日本が貸与して
いるものではなく、現在に至るも占領下にある。日米安保条約はアメリカが強制しているもので、日
本に自発性はない。日本の安全を保障する名目だが、事実は日本を管理するための条件付けだ。日本
としては完全撤退が夢だが、そうなると日本を守るのは日本人で、つまり再軍備となる。再軍備する
ということはつまり日本が完全独立国となり、アメリカの手を離れるということだ。そうすれば日本
がアメリカに逆らうという条件も生まれる訳で、アメリカが仮想敵国とされるということでもあり、
アメリカが危険に曝される。とアメリカ人は考える。アメリカ史上40万人のアメリカ市民を殺した
のは唯一日本だけだ。アメリカにとって最も恐ろしい油断のならない国は日本なのだから、アメリカ
が日本占領を放棄するはずもない。つまり属国状態は未来永劫続ける意思だ。彼らの表立っての日本
駐留理由は「東アジアの安定」だ。台湾問題・北朝鮮問題はアメリカにとってこれほどの好条件はな
い。アメリカはならず者国家と侮蔑する北朝鮮が核保有を宣言しても空爆することはない。イラクの
フセインは「核は持っていない」といっているのに「持っている」と断定して攻め込み、侵略占領し
たばかりか、その目的だった石油利権を奪ってしまった。東アジアの安定とは名ばかりで、不安定状
態こそがアメリカの望むところであり、アメリカの日本占領理由なのだ。
 憲法改正を明日にもやる勢いだった安倍晋三は薬を盛られて失脚、由紀夫も小沢一郎もアメリカに
とってみれば厄介者であり、沖縄の基地の一つでも撤去させられたら、将来の完全撤去が見えてしま
う。アメリカとすれば、由紀夫も小沢も葬り去らねば枕を高くしては眠れない。つまり由紀夫と小沢
の問題は二人を潰す謀略ではある。日本のマスコミは某宗教団体を通じてロックフェラーの支配下に
在り、マスコミは踊らされていることに気がつかない。民主党は日本国民の手によって抹殺し、アメ
リカの意思のままに動く自民・公明政権の復活はアメリカの課題ではある。ただアメリカが自由気儘
に振る舞えるのも神の御加護あるのみだ。神の御心はこれまた気儘。神に見放されたら、アメリカは
ローマ帝国が滅び去ったように消滅する。その時のアメリカ国民の悲劇は目を覆うばかりとなる。
 


■鼠坂

 音羽1丁目10・12番と13番・小日向3丁目18番の間の坂道。森鴎外の短編小説「鼠坂」の
舞台となった坂だ。

   
鼠 坂
   音羽の谷から小日向台地へ上る急坂であり。
   この小日向台地一帯は古くからひらけ、日頭といわれていた地帯である。
   鼠坂は音羽五丁目より新屋敷へのぼる坂なり、至ってほそき坂なれば鼠穴などといふ地名
   の類にてかくいふなるべし。(改撰江戸志)
   また、坂上からは音羽谷を現在の高速道路にそって流れていた弦巻川がながめられたこと
   から土地の人は〝水見坂〟ともいう。

                文京区教育委員会 昭和59年3月

   
鼠 坂
   音羽の谷から小日向台地へ上る急坂である。鼠坂の名の由来について、「御府内備考」は
   「鼠坂は音羽五丁目より新屋敷へのぼる坂なり、至てほそき坂なれば鼠穴などといふ地名
   の類にてかくいふなるべし」とある。
   森鴎外は「小日向から音羽に降りる鼠坂と云う坂がある。鼠でなくては上がり降りが出来
   ないと云う意味で附けた名ださうだ・・・人力車に乗って降りられないのは勿論、空車に
   して挽かせて降りることも出来ない。車を降りて徒歩で降りることさへ、雨上がりなんぞ
   にはむづかしい・・・」と小説「鼠坂」でこの坂を描写している。
   また、〝水見坂〟とも呼ばれていたという。この坂上からは、音羽谷を高速道路に沿って
   流れていた、弦巻川の水流が眺められたからである。
                文京区教育委員会 平成17年3月
 


■古川橋(
粗朶橋)

 音羽1丁目17番~水道2丁目に架かる橋。創架年代は不明であるが石切橋と同時期かそれより古
い頃からある橋のようだ。江戸時代には将軍の鷹狩の際の通路となり、幕府管理の御入用橋だったと
いう。この辺りの神田川はその昔、古川と称した時期があり、橋の南詰側には、昭和42年まで西古
川町、東古川町の地名があって、その名残を留めていた。かつてはこの辺りに薪の粗朶(そだ)を商
う者が多く住んだこととから粗朶町というという別名もあり、橋も粗朶橋(そだばし)とも呼ばれて
いたようだ。因みに粗朶とは、直径数cmの細い木の枝を集めて束状にした資材のこと、暗渠材(あ
んきょざい・暗渠とは地下に埋設したり、蓋たをしたりした水路)や土留、水中に沈めてエビなどを
誘い込む仕掛けの材料となったもの。


■掃部橋

 音羽1丁目18番~水道2丁目に架かる橋。紺屋(こうや)の吉岡掃部が住んでいたことによる命
名。掃部とは、律令制度における令外官「掃部寮」の職員をいう。職掌は、宮中行事に際して設営を
行い、また殿中の清掃を行う。「かもん」と読むが、正しくは「かにもり」だ。語源は、神話時代に
「ひこなぎさのみこと」という神様が生まれた時に、浜辺の蟹を箒で掃いたという神話があり、その
故事に因むとか。井伊大老は掃部頭(かもんのかみ)が通り名だが、掃部寮の長官ということだ。
 


■音羽児童遊園

 音羽1丁目19番5高速道路の下にある区立公園。昭和45年11月25日開園


■華水橋

 音羽1丁目21番~水道2丁目に架かる橋。平成17年に改架した新しい橋。神田川が増水した時
逸水を防ぐため親柱に遮蔽板を差し込む溝がついている。橋名の由来は不明。華は桜のことか?
 茶道では「井華水」といって「夜明けに汲む水」のことが書かれており、その性質は平で、甘く、
毒性がなく、病人の陰を滋養するための薬を煎じる時はこの水が最高だという。千家の茶道でも、こ
の水でお茶を立てるのが 一番いいという。そんなところからの命名か。
 


■裸婦像

 音羽1丁目26番1号大和出版前にある新道茂の銅像。新体操のリボンを振り回しているようなデ
ザイン。2体あるらしいが・・・


■島木赤彦旧居跡

 音羽1丁目27番9号(小石川区関口町174番地)に大正7年5月から約1年住み、麹町区下六
番町27番地佐々木方へ移転した
 


■「星のアーチ」

 音羽2丁目2番2号アベニュー音羽にある山本衛士のオブジェ。


■トレーラー横転事故

 音羽2丁目12番の首都高速道路護国寺ランプ料金所を入った本線との合流地点で起きた事故。平
成25年5月27日午後11時頃、トレーラーと乗用車が横転、乗用車を運転していた50歳ぐらい
の男性が助け出されたが死亡、トレーラーの運転手(30歳代)は全身を強く打って重傷だった。


■大塚警察署

 音羽2丁目12番26号にある。
 


■野間道場

 音羽2丁目12番21号の講談社の敷地内にある。大正末期初代社長野間清治の熱意によって創立
された。野間は学生時代から剣道と文筆と演説にほとんど熱狂的な興味を持っていて、その武道観と
して「剣道は人間道である」という。

   三尺の剣を以て立ち向うそこに宗教があり、 道徳があり、 社会がある、 智もあり勇もあ
   り仁もある、 社会の凡る姿がここに存する


 と。 その武道観として 「剣道即人生」 を標榜に、 社員の人づくりに剣の持つ理合をあてはめ推し進
めたことに、 野間道場は始まる。大正12年子の恒が15歳にして隣接大塚署稽古をつけ、 後に神道
無念流中山博道の有信館に入門した。 大正12年8月には教師として安部義一を招き、 翌年4月に和
佐田徹三を、 さらに14年4月に増田真助が師範兼社員として入社した。 これによって講談社の剣道
は活況を呈し、 その年の秋には野間邸内の裏の森に幅5間奥行き6間木造瓦ぶきの道場が建設した。
当時は午後4時から5時頃まで、 剣道の稽古時間は執務時間扱いとして少年社員に剣道を奨励した。
社長もまた忙しい中を道場に出ていていろいろ感想なり、 批評をしたり、 始終端然と座っていたので
弥が上にも盛んになった。
 昭和2年には第1回の剣道大会が開かれ、 同5年8月には第1回昭和天覧試合に指定選士として優
勝した持田盛二が朝鮮総督府の師範だったのを、 懇請して野間道場の師範に招き、同時に講談社社員
となった。 持田が道場に来てから剣士は激増、 教えを乞う剣道愛好家が東京は勿論全国から道場を訪
れるようになり、この時から午後の稽古と、さらに朝稽古を7時から8時まで一日2回となった。 同年
11月には道場を増築、 いよいよ飛躍の過程を辿る。毎朝の稽古には持田範士を筆頭に、増田真助、
矢木参三郎、大野友規、大畑郷一、桑田福太郎の各専任の師を始め、教士は4、50名に達し、稽古
も外来剣道家をはじめ、 少年剣士、 女性剣士を加えると100名を越える盛況となった。 道場が手狭
となり、昭和8年11月に第2回の大増築を行い、 稽古場だけでも幅5間、 長さ16間という民間道
場としては日本屈指の立派な大道場となり、 年と共にいよいよ発展していった。
 朝稽古が終ると先生方は、 順番に入浴し、 道場で出す朝がゆと味噌汁で朝食をとりながら懇談し、
爽快な気分でそれぞれの勤務先へ出かけていった。
 現在大御所といわれている剣道家は、 必ずといってよいくらい、 一度はこの道場を訪れている。同
9年5月野間道場史を飾るにふさわしい快挙があった。それは皇居内済寧館で行われた、 皇太子殿下
御生誕奉祝天覧試合において、野間恒が26歳にして東京府代表選士として2日間に亘る試合の末、見
事優勝を勝ち取った。 これによっていよいよ〝講談社の剣道〟が名実共に高く評価されるようになっ
た。 その後も恒は剣道に精進したが、 同13年30歳の若さで尊父野間清治のあとを追うように亡く
なったことは、 野間道場にとってもまた剣道界にとっても大きな損失だった。
 この間同2年6月の皇道義会主催の大会において、 大将野間恒、 中堅森寅雄、 先鋒土田仲次のメン
バーで優勝した。 以来同8年、同11年、同14年の皇道義会、 さらに同12年、同14年の全日本
官庁実業団体試合などで優勝した。 講談社剣道の躍進には目覚しいものがあった。
 なお同15年3月現在の講談社社員の有段者記録は、 五段4名、 四段33名、 三段21名、 二段3
2名、 初段116名、 計206名にのぼり、 錬士の称号を有する者は、19名だった。さらに同年6
月紀元二千六百年奉祝天覧試合が行われ、指定選士として講談社野間道場師範増田真助が出場、また府
県選士東京府代表として講談社社員望月正房が出場、師弟揃って優勝の栄誉を担ったことは、講談社野
間道場の歴史の上に輝く一頁を加え、 野間道場の名声をいよいよ天下に轟かせかせた。 この時既に初
代社長野間清治も恒もなく、 初代社長夫人が、 3代社長として剣道にも深い理解を示し、 道場は相変
わらず隆盛の一途を辿ったが、 第2次世界大戦も末期になると応召者も多く、 稽古をする人員も次第
に少なくなり、同19年頃には戦争も熾烈となり、 自然に道場から竹刀の音が消えていった。
 終戦とともにGHQの命令で剣道は中断された。当時野間道場は戦災社員の住宅として利用され、終
戦後も、暫くその状態が続いたが、 同30年頃から再び講談社社員道場として使用可能になり、それ
より先同27年5月に東京都剣道連盟が組織され、 剣道人口も増加してきたので、 当道場も37年秋
から再び一般愛好者に開放されることになった。
 朝稽古は7時から8時まで年中無休で、当時は持田盛二範士を中心に、 多数の剣道愛好者が集まり、
再び野間道場は盛況を取り戻した。

 解体撤去
 今、野間道場の建物は講談社の方針で平成19年に取り壊すことが決定、跡地にビルを建て、剣道
場は間借りする形で場所は与えられる。現道場を移築するか、廃棄するかは決まっていないが、立派
な和風の建物ではあるが、文化財として特に価値があるというほどのものではないらしく、区の方も
文化財としては認め難いというところ、移築するにしても適切な場所がない。会社側に今や剣道をす
る人はいないので、剣道そのものに冷淡だ。無用の長者と主張する。保存して無駄なものではないが、
現代の経済人に心の余裕はなく、頭の中は経済効率のみで、視野の狭い人間たちで満ち満ちている。
道場側も剣の心に道を求めず、懐古情緒に残置の意義を主張する。講談社の原点が潰滅せんとする時
に双方が意味のないところで鎬を削っている。講談社の未来は心もとない。潰れるはな!

 音羽の嵐
 平成21年10月末関係者からメールがあり、道場は解体されてしまったとのこと。お話では旧道
場に使用されていた釘などの鉄類を集めて鉄塊に戻し、それを日本刀に打ち直し、神刀「音羽の嵐」
を完成したとのこと。記述がないので詳細は不明だが、「新道場」の文言があるので、新しい野間道
場は完成しているようだ。
 
 


【春日】(かすが)1~2丁目                     昭和39年8月1日
 春日殿町。寛永七年(1630)春日局(家光の乳母)の願い出により下男30人が拝領した原
野が町屋となった。明治5年までに長右衛門屋敷と付近の武家地を合せて小石川春日町を称えた。
同11年「郡区町村編制法」により小石川区に所属。同44年「市制町村制改正」により小石川の
冠称を外した。昭和15年餌差町・下富坂町・小石川町の一部を合併して1~3丁目に分ける。同
22年文京区に所属、同39年新住居表示により小石川2丁目と仲町・金富町の全部に、春日町2
丁目・大和町・表町・水道町・大門町・同心町・第六天町の各一部を併せた町域を現行の「春日」
とした。これで1丁目は後楽となり、元々の春日町は本郷2丁目の内に取り込まれてしまった。こ
の町に嘉納柔道の「講道館」がある。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『文京区史』『文京の歴史』など。

 春日の由来
 春日局(かすがのつぼね)の願い出により下男30人の拝領地となったことによる。春日は奈良
県の地名で、由来は「幽処(かすか)=ひっそりとした原始林のある土地」の意。春日局は三代将軍
家光の乳母。しかし本当は母親ではなかったかと疑る向きもある。そう考えれば納得のいくことが
多い。秀忠夫妻が弟忠長を溺愛したこと・忠長が大坂百万石を要求したこと・家光が忠長を切腹に
追い込むこと・家光が祖父家康を異常に尊んだこと・春日局という名称は足利将軍の正室の称号と
して使われたものであること。春日局の墓は湯島4丁目、東京大学の東南、春日通りに面した麟祥
院にある。女性的な静かなたたずまいの寺だ。

   春の日を一町老女残すなり(川柳)
 


■後楽園駅

 春日1丁目2番にある東京メトロ丸の内線・南北線の停車場。昭和29年1月20日の丸ノ内線池
袋~御茶ノ水間開業と同時に設けられた。この区間は、丸ノ内線で最初の開業区間。南北線が乗り入
れたのは、それからだいぶ後の平成8年3月26日のことだ。
 丸ノ内線ホームは高架相対式2面2線ホームで地上2階にある。南北線ホームは島式1面2線ホー
ムで地下6階にある。全てのホームにエレベーターが設置済みである。
 改札口は3ヶ所あり、その他に都営三田線・大江戸線春日駅と直接つながる乗換専用の中間改札が
ある。出口は1~4a・4b~6・8の計8ヶ所。出口は基本的に春日駅と共用であるが、出口番号
はそれぞれ分離されている。
 東京ドームシティの最寄駅のひとつであり、南側にある水道橋駅に対して後楽園駅は北側にある。
東京ドームで巨人戦が開催される日は猛烈に混雑する。プロ野球を外野席で観戦する場合は、水道橋
駅を使うよりもコチラの方がずっと近い。逆にネット裏で観戦する場合は、水道橋駅の方が便利であ
る。
 後楽園駅は、関東の駅百選選定駅。選定理由は「東京ドームと遊園地を抱え開放的な地下空間を取
り入れた駅」となっている。「開放的な地下空間」は南北線ホーム真上の地下5階コンコースのこと
で、非常に高い天井に2本の大きな柱がそびえ立つ様は圧巻。南北に2ヶ所存在するが、ここが地下
であることを忘れそうなくらい広々としている。


■小石川税務署

 春日1丁目4番5号にある。


■牛天神(北野神社)

 春日1丁目5番2号にある。普通「天神」というと菅原道真の霊を祀ったものとされるが、元々は
天から降臨する神、つまり「天の神」を意味し、各地域社会ごとに祭られていたものだ。湯島にして
も北野神社にしても、古くから人々が居住していた水辺の集落だったことから考えて、天から降臨す
る自然神の小祠は作られていただろう。天神信仰の原始形はこうしたものだったが、古代末期菅原道
真の怨霊が雷神信仰と結びついて発展したことから、京都の北野天神社に祀り籠めて怨霊の祟りを鎮
めようとした。そのことが契機となって北野天神が有名になった。近世になって外部との交流機会が
増えるに従い、社格を整える必要に迫られ、北野天神もしくは菅原道真を勧請したというのが本当の
とこだろう。
 小石川のこの辺りも、湯島とほぼ同様な地形で特に入江になっていた。縁起によると、源頼朝が舟
を止めて凪を待っていると、夢枕に牛に乗った天神が出現したことになっている。そのために元暦元
年(1184)頼朝が創建したと伝える。しかし源氏の頼朝が菅原氏の氏の神を祭らねばならないの
か? 石清水八幡だろう。より古くには、山上(伝通院の辺)にあった神木の榎に神が降りたのが始
まりといい、また牛石と名づけられた巨石にも神の依代(よりしろ)としての意味があったかもしれ
ない。牛天神の謂れだ。

   御由緒書
   御社名 北野神社(牛天神)
   御祭神 菅原道真公
   御例祭 五月二十五日
   当社は寿永三年の春 右大将 源頼朝、鄕東国追悼の時 此処の入江の松に船を繋ぎ和波
   を待つ その間夢に菅神牛に乗りて現はれ 頼朝鄕に二つの幸のあらんことを告げ 武運
   満足の後は 必らずや社を営み報ゆべしと託し給ふ 頼朝卿夢覚めて傍を見れば 一つの
   岩石ありて 夢の中に菅神の乗り給ひし 牛に似たり依りて是を奇異とせしが 果して同
   年の秋賴家卿誕生あり 更に翌年には動かずして 平家を悉く退け国を鎮定せり その報
   寳として此処に 御神を勧請ありて御神領等を寄進す 因て御創立はこの年 元暦元年な
   り と云ふ
   御末社 太田神社(芸能の神)
       高木神社(五穀の神)

   
北野神社・中島歌子歌碑              (文京区春日1ノ5ノ2)
   北野神社は、江戸時代金杉天神、俗に牛天神と呼ばれた。ご祭神は、菅原道真公である。
   縁起によると寿永元年(1182)源頼朝が東国経営のとき台地下に舟をつなぎ、波風の
   しずまるのを待った。夢中に菅神(道真公)が現れて、二つの吉事があると伝えた。お告
   げの通り男子(頼家)が生まれ、平家を西海に追うことができた。頼朝は大いに喜び、元
   歴元年(1184)ここに社殿を造営したという。また夢さめて菅神の立っていた路に、
   牛の形をした石(牛石という)があった。(現在は社殿前にある)
   境内の南側に、中島歌子の(1844~1903)の歌碑がある。歌子はすぐ近くの安藤
   坂の歌塾「萩の舎」の塾主である。
   門人には、梨本宮妃、鍋島侯夫人や前田侯夫人など、上流中流層の婦人1000余人がい
   た。樋口一葉、三宅花圃らはその門弟である。
   歌碑は、歌子の死後、明治42年門下生によって建てられた。
         雪 中 竹
     ゆきのうちに根ざしかためて若竹の
         生いでんとしのひかりをぞ思う
                 郷土をはぐくむ文化財  
                                   文京区教育委員会
                                   昭和57年3月


 中島歌子の歌碑
 北野神社の54段の急な石段を上ると右手に歌碑「雪中竹」がある。歌子没後の明治42年に弟子
たちが建立したもので、弟子の鍋島侯夫人栄子の字で、

   
きのうちに祢(ね)ざしかためて若たけの 生ひでむとしの光をぞおもふ

 と刻まれている。堂々たる歌碑だ。歌子は、幼名トセ、号は萩園・萩の舎。水戸藩士林忠左衛門の
妻、池田利右衛門養女。加藤千浪門人。御歌所出仕・日本女子大学校国学教授を務める。門人に樋口
一葉がいる。明治36年歿、行年60歳。

 太田神社
 境内にある。高木神社を合祀。

   芸能の神・福の神 太田神社             春日1‐5‐2 北野神社内
   芸能の神天鈿女命と武の神猿田彦大神ををまつる。人々の信仰熱く、関東大震災の頃まで
   は、祭りの日ともなると、未明から深夜まで参拝の人で賑わったという。芸能の神として
   歌舞伎、新劇人など芸能人の信者を集め、名のある役者が度々訪れた。
   なおこの神社は、貧乏神といわれた黒闇天女(弁財天の姉)を祀っていたが、江戸の頃、
   この近くに住む貧乏旗本の窮状を救ってからは、福の神として庶民の信仰を集めるように
   なったという伝説が残っている。
   合祀の高木神社は、旧第六天町(小日向1丁目)にあった五穀豊穣の神である第六天社を
   道路拡張に伴いここにうつしたものである。
                 ━郷土愛をはぐくむ文化財━
                文京区教育委員会 平成元年3月
    


■牛坂

 春日1丁目4・5番(北野神社)と9番(区立第三中学校)の間の坂道。牛は北野神社にある牛石
に因む。

   
牛坂
   北野神社(牛天神)の北側の坂で、古くは潮見坂・蛎殻坂・鮫干坂など海に関連する坂名
   でも呼ばれていた。中世は、今の大曲あたりまで入江であったと考えられる。牛坂とは、
   牛天神の境内に牛石と呼ばれる大石があり、それが坂名の由来となったといわれる。(牛
   石はもと牛坂下にあった)
   『江戸志』に、源頼朝の東国経営のとき、小石川の入江に舟をとめ、老松に繋いで凪を待
   つ。その間、夢に菅中(菅原道真)が、牛に乗り衣冠を正して現われ、ふしぎなお告げを
   した。夢さめると牛に似た石があった。牛石これなりとある。
               文京区教育委員会 平成16年3月
 


■筑波大学附属大塚養護学校 → 附属大塚特別支援学校

 春日1丁目5番5号にある。明治41年東京高等師範学校附属小学校の第三部に、初めて補助学級
の名を冠した教育機関として設けられた。当時の第三部は単級学級(1年から6年まで)、二学級(1
・2・3年と4・5・6年)、複式学級など特殊な学級編成によったもので、研究を目的とした。補
助学級は、知的障害児の特別な教育という意味と、単級編成という意味で、第三部に属していた。同
45年2学級編成となる。大正9年附属小学校全体の機構が再編され、五部組織となり、従来の補助
学級は第五学部となる。
 昭和19年太平洋戦争の激化にともない、一時休校となる。
 同27年社会事情もだいたい安定し、昭和26年大学に特殊教育学科が設けられたことから、その
研究及び実習の機関が必要となり再編。同31年東京教育大学附属中学校特殊学級が1学級新設され
る。同34年大学内に養護学校運営委員会が設けられ、基本方針を打ち出し、附属小学校第五部、附
属中学校特殊学級をそれぞれ従来通り附属小、中学校との密接な関連を維持しながら、それぞれの特
殊学級部とし、統一的な運営をすることとなる。附属中学校特殊学級1学級増設。同35年従来の附
属小学校第五部(二学級)及び附属中学校特殊学級を母体として、養護学校が認可され、同時に小学部
及び中学部で各1学級増設。開校式。同37年高等部2学級新設。同38年幼稚部(5歳児1学級)
が新設され、同39年4月2年保育課程(4歳児1学級)が認められる。8月新校舎1・2号館が現
在地に完成し移転。同41年4月高等部一学級が増設され、幼2、小3、中3、高3の一貫学級編成
となる。8月第2期工事として講堂兼体育館及び作業室などが建築完成、新校舎落成記念式典及び祝
賀会を行う。同45年特別学級1学級新設。同46年特別学級1学級増設。同53年東京教育大学閉
学にともない、新設の筑波大学に移管。同59年3号館(幼稚部教室、遊戯室、小学部高学年教室、
音楽室など)増設。同60年1号館、2号館の改修工事が完了し、3号館増築と併せて落成式。平成
2年創立30周年記念式典。同4年国賓チェコスロバキア大統領夫妻来校。同10年国賓ブレア英国
首相夫妻来校。同11年国賓コロンビア大統領夫人来校。同17年国賓パラグアイ大統領夫人来校。

 校歌「
空には明るい緑の梢」 作詞・青木幹勇  作曲・井上武士
  1.空には明るい緑の梢
    ああ我ら若桐
    香り豊かな花を開こう
    紫の花 桐の花
  2.空に羽ばたく光の翼
    ああ我ら若鳩
    心素直に共に育とう
    真心の友 桐の友


 
特別支援学校とは・・・

 障害により学習上・生活上の困難がある子どもに対して、特別支援教育の理念に則った教育を行う
学校で、平成19年の学校教育法改正によって誕生し、それまでの聾・盲・養護学校を一本化し、そ
れぞれの学校毎に主たる障害種が決められる。在籍する幼児・児童・生徒に教育を施すだけではなく
地域の幼稚園、小・中・高等学校に在籍する幼児児童生徒の教育に関する助言・支援、いわゆる「セ
ンター的機能」も担うよう定義されている。従来の障害に加えて、発達障害などの子どもたちにも、
地域や学校で総合的で全体的な配慮と支援をしていくことになる。なお高等特別支援学校、特別支援
学校高等部では源流留置がない(高等学校とは違い、定期考査をしないところもある)。法施行年に
校名を変更した盲学校・聾学校・養護学校は、既存の学校916校のうち182校、都内では1校。


■小石川区役所跡

 春日1丁目9番21号、文京保健所小石川保健サービスセンターのところにあった。


■萩の舎跡

 
春日1丁目9番27号(ロータリーパレス春日安藤坂)、伝通院参道安藤坂に面してあった中島歌
子が主宰した歌塾だ。樋口一葉が14歳から亡くなるまで学んだところでもある。歌子は幼名を「と
せ」といい、夫と死別後、桂園派の和歌を加藤千浪に学び、自立して萩の舎(はぎのや)を主宰した。
最盛期には梨本宮姫、鍋島・前田両公爵夫人など上流階級の子1000余人で賑わったという。今は
何も残っていない。中島歌子は水戸藩士林忠左衛門の妻だったが、忠左衛門が天狗党に加わって亡く
なったため、実家に戻って歌塾を開いた。

   萩の舎跡                         春日1丁目9番27号
   塾主中島歌子(弘化元年~明治36年)は、幼名とせといい、日本橋に生まれた。水戸藩
   士の夫林忠左衛門が天狗党に加わって獄死したため、実家の旅人宿池田家にもどり、桂園
   派の和歌を加藤千浪に学び、実家の隣に歌塾萩の舎を開いた。
   御歌所寄人伊藤祐命(すけのぶ)、小出粲(つぶら)の援助で、おもに上、中流層の婦人
   を教え、門弟1000余人といわれた。歌集『萩のしづく』(2卷・明治41年刊)など
   がある。明治36年歌子の死去と共に萩の舎は廃絶した。
   樋口一葉(明治5年~明治29年)は、父の知人の紹介で萩の舎に入門した。一時(明治
   23年・18歳)内弟子として、ここに寄宿したこともある。佐佐木信綱は、姉弟子の田
   辺竜子(三宅花圃)、伊東夏子と一葉の3人を萩の舎の三才媛と称した。一葉はここで歌
   作と歌を作るため必要な古典の読解に励んだ。姉弟子の田辺竜子の『藪の鶯』の刊行に刺
   激されて、近世・近代の小説を読み、半井桃水に師事して、処女作『闇桜』を発表(明治
   25年)して、小説家の道に進んだ。
   近くの北野神社(牛天神・春日1-5-2)境内に中島歌子の歌碑がある。
                -郷土愛をはぐくむ文化財-
               
文京区教育委員会 昭和56年3月
 


■春日一丁目児童遊園

 春日1丁目9番29号にある区立公園。昭和45年2月19日開園。


■第三中学校

 春日1丁目9番31号にある区立校。昭和22年
新制中学校として分散校舎で開校、生徒数376
名でスタート。同24年三井邸敷地を譲り受けた現校地に校舎落成。9月20日「三中賛歌」制定。
レコードに吹き込まれて発表された。作詞は野口清教諭、作曲は新島正之による。現在では、応援歌
のような性格のものに変わってきたが、発表は校歌より8年も古く、2番の歌詞には、本校の教育目
標であった「正しく、清く、美しく」が謳われている。

 三中賛歌「富士の高嶺を」 作詞・野口清教諭  作曲・新島正之教諭
  1.富士の高嶺を望みみて
    高き理想に胸ならし
    世界に知識求めつつ
    学び励まんもろともに
    その名も燦と輝ける
    三中 三中 あゝわが母校
  2.学びの高嶺文の海
    峻しく荒き行末を
    正しく強く美しく
    学び励まんもろともに
    その名も燦と輝ける
    三中 三中 あゝわが母校
  3.平和の光空に満ち
    若き使命を背に負いて
    心も身をも鍛えつつ
    我等が母校の名を揚げん
    その名も燦と輝ける
    三中 三中 文京三中


 同26年生徒数1780名の区内最大規模校。新校舎落成。校歌は歌詞を広く一般生徒から募集し
同32年9月13日坂田利一教諭ほか5名の校歌選定委員会によって補正して完成した。

 校歌「東雲の空」 作詞・公募校歌選定委員会  作曲・新島正之教諭。
  1.東雲の空ほのぼのと
    明けそめてはや文京の
    安藤坂に聳え立つ
    わが三中の学び校舎
    正しき道を求めんと
    集うわれらに望みあり
  2.真澄の空の陽を受けて
    学びの泉汲みつがむ
    身もすこやかに励みつつ
    自主協同の逞しさ
    その名も高き文京の
    あゝわが三中に誇りあれ
  3.希望の丘に風薫る
    清き心に根ざしよく
    自由の枝を繁らせて
    平和の実求めんと
    われら理想に燃えさかる
    あゝわが三中に栄えあれ


 同35年体育館完成。同37年プール完成。同52年記念碑建立。平成2年コンピュータ室。同9
年創立50周年記念式典。

 校名について
 三中の校地は、三井本家の屋敷跡だ。当時のPTAの熱意と三井家の教育に対する深い理解と厚意
により、この地に「第三中学校」の礎が築かれた。校名はその三井家に因んで第三中学校と名づけら
れた。とは学校の言い分だが、区内3番目の中学校だからだろう。ただそういう理由で、「三」使用
を優先させたということはあるかも知れない。
 


金剛山常泉院
 春日1丁目9番3号にある新義真言宗豊山派の寺。創建年代不詳。卓圍法印が開基となり江戸時代
初期(寛永四年以前)に創建したと伝えられる。御府内八十八ヶ所霊場86番札所。
 「御府内寺社備考」に、

   本所弥勒寺末 小石川不唱小名 金剛山弥勒寺常泉院 起立年代不詳。
   客殿、本尊両部大日如来二体。中尊弥勒菩薩木座像。弘法大師木坐像、
   御府内八十八ヶ所霊場86番札所。
   興教大師木座像。不動明王木立像。愛染明王木立像。地蔵菩薩木坐像。子安観世音木立像。
   閻魔王木立像、丈三尺 首ハ運慶作。
   石地蔵尊、丈二尺五寸。
   宝篋印塔。
   以上酉戌書上


 とある。墓地に
江戸時代末期の侠客〝相政〟こと山中政五郎の墓、明治時代の落語家6代目朝寝
坊夢楽の墓、明治時代の文学者林田春潮の墓、近代登山家小島鳥水の墓がある。

 山中政五郎の墓
 日本橋箔屋町に一家を構え〝日本橋の相政〟で通る。屋号「相模屋」。

 朝寝坊夢楽の墓
 落語家。本名永瀬徳久。素人時代から本名で壮士として政談演説を主催していた。明治17年頃に
長崎で4代目三遊亭圓生の門下で三遊亭圓喬(無断に名乗ったので公認の代数に数えられていない)
と名乗っている。その後活動の拠点を京都に移し、同24年8月に笑福亭圓寿と改名し人気を博して
いた。翌年上京して三遊派に入り、同25年には本名で寄席に出演している。

 その後立花家橘之助と恋仲になり、同26年3月に2人で名古屋へ駆け落ちに走る。ここで2世曽
呂利新左衛門と出会ったのを機に、大阪の寄席に出演するようになる。圓寿から同29年8月には三
遊亭圓相となり、後に東京に戻ってに全亭武生と改め、同31年に6代目夢楽を襲名。同32年、後
の永井荷風はこの夢楽の門下に入って夢之助を名乗っていたが、半年後に寄席に出演していたところ
を父の使用人に見つかったため、家に連れ戻されてしまったという。同39年11月頃から肺病にか
かって体を壊し、翌年死去。享年49歳。

 林田春潮の墓
 明治~大正時代の美術評論家。明治7年長崎県生まれ。本名源太郎。東京専門学校(早稲田大学)
卒業後、同34年都新聞に入社。同紙のほか「中央公論」「中央美術」「読売新聞」などで活動を続
けた。大正11年死去。著書に「日本美術史講談」(共著)。

 小島烏水(新田次郎『剣岳 点の記』の主人公)
 登山家、文芸批評家、随筆家、浮世絵・西洋版画蒐集研究家。明治6年香川県生まれ。本名久太。
横浜商業学校卒業。横浜正金銀行(東京銀行→東京UFJ三菱銀行)入行。定年まで勤め、シアトル
支店長などを歴任。横浜商業学校時代に友人と雑誌『学燈』を編集するなど、早くから文筆に興味を
持つ。銀行に入ってから、明治29年に出した『一葉女史』により評論家として世に注目される。ま
た、登山家としても知られ、同30立川から甲府の昇仙峡まで徒歩で青梅街道を歩く、同32年休暇
に浅間山~木曽へ山旅するなど、旅を趣味とした。志賀重昴の『日本風景論』の影響もあるといわれ
中部地方の山々(日本アルプス)へ入るようになる。木暮理太郎、田山花袋、バジル・ホール・チェ
ンバレン(王堂チェンバレン)、ウォルター・ウェストンと交遊がある。同38年山岳会創設。昭和
6年日本山岳初代会長。

   余が槍ヶ岳登山を思い立ちたるは一朝一夕のことにあらず
   何が故に然りしか
   山 高ければなり
   山尖りて険しければなり

 平成23年6月20日に全国ロードショーの山岳映画「剣岳 点の記」(木村大作監督)の主人公
としてえがかれている。明治40年古来前人未踏の「死の山」といわれてきた北アルプスの名峰剣岳
(2999m)に、不屈の闘志、献身の心、仲間の絆を信じて挑んだ男たちの物語だ。山岳小説の創
始者ともいわれる新田次郎の著作の映画化したものだ。監督は「鉄道員(ぽっぽや)」などを撮影し
てきた撮影技師の木村大作。50年の映画人生すべてをかけて取り組んだ初めての監督作品。
 また浮世絵や西洋版画の収集家・研究家としても知られ、収集した浮世絵や西洋版画のうち900
点余りが、横浜美術館に収蔵されている。沼田英子『小島烏水西洋版画コレクション』(有鱗堂、平
成15年)や横浜美術館編『小島烏水版画コレクション 山と文学、そして美術』(大修館書店、平
成19年)がある。



■日限不動 東光山荘厳院西岸寺
 春日1丁目12番12号にある浄土宗の寺。元和二年(1616)開山単称長察和尚。開基は内藤
家と小田切家。本尊は木造阿弥陀如来立像。高さ3尺 伝恵心僧都作。阿弥陀如来を中心にして向っ
て右に観音菩薩、左に勢至菩薩、さらにその外側に善導大師と法然上人の御像を祀っている。

 最も古いコンクリート造りの本堂
 鉄筋コンクリート造り2階建て(1階は半地下の納骨堂墓地)。昭和2年関東大震災の被害を省み
て、当時としては前例のないコンクリート造り耐震耐火の本堂を建立。本堂の下を納骨堂墓地にして
それまでの外墓地からご先祖一体づつを改めて焼骨にして納めた。
 同20年愚かなアメリカ軍の空爆で被弾、大屋根は焼け落ちたが建物そのものは内部に火を入れず
に焼け残り、本尊とその荘厳、過去帳等を焼失せずに済んだ。同29年に修復、さらに平成8年に大
改修を施し、既に築80年を経た現存する最も古いコンクリート造りの本堂だ。

 日限不動
 寛文十一(1671)年七月朔日 近隣の名家金杉六左衛門が寄進した。六左衛門は我が子の病弱
を嘆き、不動尊に三七日の間昼夜を問わず一心に祈誓をしたところ、その願満の暁、眼前に不動明王
が現れ、

   我を信ずる者は寿命長久福徳円満如意吉祥にして病気病難忽ち平癒せしめ六親眷属七世の
   父母現世に無病息災、悪事災難を除き望みに随い開運安穏をあたう、また我像を建立し菩
   提所に安置すれば信ずる者の諸願速やかに成就せしむ


 とのお告げを蒙むる。我が子の病も忽ち癒えその恩徳を報ぜんがためこの尊像を建立し西岸寺に寄
像したと由緒書きにある。
 昭和20年3月と5月愚かなアメリカ軍の空襲で不動堂は焼失したが、不動本像は石像であったた
め焼け残った。しかし損傷は大きく、平成8年に不動堂を再建した折、新しく唐金で不動像を造り、
その胎内に石像をお納めした。日限の由来は、7日または5日と〝日を限って〟願をかけて祈ったこ
とによる。旧い記録には、特に足痛の病の平癒を祈る者多く、加持の草履を請け、満願の日に新しい
草履を納めたとある。現在は1月28日の初不動の時だけ護摩を焚き、信者の家内安全、商売繁昌、
身体健全、交通安全、心願成就等万事吉祥を祈願している。元日午前0時より祈願法要を勤め2時ま
で開堂、また三箇日は早朝より夕方まで開堂する。開運御守あり。初不動で護摩祈願(護摩札)を希
望する人は前以て、03‐3811‐3715に連絡すれば案内してくれる。


■中央大学理工学部
 春日1丁目13番5号に後楽園キャンパスがある。昭和24年開設。理工学部と大学院理工学研究
科は、中央大学の「知」の創造部門。東京ドームを間近に臨む後楽園キャンパス、3駅5路線が利用
できる交通の要衝にある。ここには研究者、学生、企業が集まり、共に研究し、成果を社会に還元し
続けてきた。中央理工は、「研究」という実学的な教育方法を通じて、学生、教員、そして大学その
ものが成長する姿のありのままを社会に示し、次世代の上昇志向に応えるとは、学校の弁。
中央大学
の詳細は千代田区神田錦町に詳述。

 
●高窪教授殺人事件
 平成21年1月14日午前10時32分頃、1号館4階のトイレで男性が背中などを刺されて殺害
された事件で、この人の身元は、同大理工学部電気電子情報通信工学科の高窪統(はじめ)教授(4
5 電子工学)と判明した。高窪教授は、背中などを少なくとも十数ヶ所刺されており、同11時3
0分搬送先の病院で死亡した。同庁は、同教授が背後から襲われたとみており、富坂署に特捜本部を
設置した。1号館は研究棟で教室は無く、日ごろから所在する人は少ないという。トイレから出てき
た不審な人物が目撃されており、30歳くらいの黒っぽい服装をした男で、逃走経路は不明。キャン
パスに門は4ヶ所あり、何れも春日通りに面しているが、不審者は目撃されていない。通行人が不審
者を見かけたという申し出はなされていない。最寄の地下鉄の駅のトイレに血痕があり、警察は付近
を封鎖して鑑識に入った。
 大学の広報室などによると、同教授は「高機能集積回路」が専門。上智大学大学院理工学研究科博
士課程修了後、平成9年4月に中央大助教授、同15年4月に教授に就任した。祖父・父母・妻が大
学で教鞭を執っている学者一家で、学生にも評判は良く、他人に恨まれる要素は少ない。個人的なト
ラブルか、逆恨みか、勘違いか? 常識的には恨む要素でないことでも軽薄に恨んで、凶暴に走る傾
向があるのが現代社会だから、何が起きても不思議ではない。
 一日経って教授は、背中側に15ヶ所、手や腕などに防御創が5ヶ所ほど、都合20ヶ所ほどを刺
されたり切られたりしていることが判った。また血痕がトイレから直近の中央階段方向にさらに一階
まで、点々とあり、階段を使って逃走したしたものと考えられる。しかしこの血痕は目視できるほど
の大きさはないとのこと。最初の発見者はトイレに向かう時、犯人と思われる男と擦れ違っており、
その直後に倒れている教授を発見している。彼は不審者がエレベーターを利用する様子はなく、階段
を逃げたようだったと答えているとのこと。またその不審者の服装年齢などは、黒のニット帽、黒っ
ぽいコート、20歳代後半から30歳代、身長は170~175cmの「男」に見えたという。
 捜査本部は、「さらなる詳細な検死の結果、細かい傷を数えると、全体で60ヶ所にも及び、馬乗
りになって執拗に5分間以上刺し続けたようだと発表した。であれば、返り血を相当浴びているだろ
うし、そんな人間が真昼間、何処を逃走したとしても見つからない訳はなく、学内にいて〝知らぬ顔
の半兵衛〟を決め込んでいるのではないか?
 また、世田谷区成城2丁目の高窪宅の周辺150m以内の電信柱に、ペイント・スプレーで書かれ
た文字、「殺」が4ヶ所、「死」が2ヶ所、「呪殺」が1ヶ所あることが判り、捜査本部では関連を
調べている。それを目撃した人の話では、犯行のあった14日以前に書かれていたという。実見した
が、最近書かれたものではない。
 成城では、昔、〝世界の三船〟三船敏郎が演技上の対立から黒沢明映画監督の自宅塀に、「死ね」
などの落書きをし、猟銃をぶっ放したとか、糞尿をぶち撒いたという逸話が残っている。

 犯人逮捕
 5月21日深夜、警視庁は中大卒で高窪教授の教え子だった神奈川県平塚市山下、アルバイト店員
山本竜太(28)を殺人容疑で逮捕した。発表によると、山本は「男子トイレで先生を何回も刺して
殺したことは間違いない」と容疑を認めているが、動機については「今は話したくない」と供述して
いるという。山本は1月14日午前10時20分頃、同キャンパス1号館4階のトイレ内で、高窪教
授の背中や胸など数10ヶ所を用意していた刃物で刺して失血死させた疑い。山本は1年留年して平
成16年3月に同大理工学部電気電子情報通信工学科を卒業しており、卒業論文は高窪教授の指導を
受けたという。
 犯人が特定されたのは、同庁に「卒業生に思い込みの激しい人物がいる」との情報が寄せられ、山
本が浮上した。また高窪教授が昨年5月頃、学生らに対し、山本容疑者を名指しして、「大学に来た
ら教えてほしい」などと話していたことが捜査過程で判り、現場に残された大量の血痕や教授の指先
に付着していた微物のDNA鑑定からも容疑が強まったことから、逮捕当日の昼前、山本に任意同行
を求め事情を聞いていた。山本は東京都出身で、卒業後は大手の食品製造管理会社に就職した後、航
空機器製造販売会社など計5社を転々とし、2年ほど前からは、自宅近くのホームセンターでアルバ
イト店員として勤務。事件後も普段通り仕事に出ていた。

 教授学内殺人
 キャンパス内での教授殺人は、昭和62年7月22日朝、広島大学岡本哲彦学部長(61歳)が学
部長室で胸や背中など4ヶ所を刺されて死んでいるのを同大学庶務係りの事務員が発見した。岡本学
部長の死体には砂や水が掛けられており、相当強い恨みのある者の犯行と想定された。死亡推定時間
は前日21日の午後10時前後と見られた。21日の夜、岡本学部長は同大学の藤井教授の教え子た
ちとのコンパに出席。午後9時30分頃学部長室に戻ったところを襲われたと見られていた。捜査本
部は学部長の研究室関係、知人関係を中心に捜査を開始。そして事件から73日後の10月2日、同
学部長の助手である末光博(44歳)を逮捕した。捜査本部は、末光が助教授になれないことを恨ん
で岡本学部長を殺害したと断定。殺人容疑で逮捕したのだった。
 また平成3年7月11日には筑波大学の五十嵐一(ひとし)教授が殺されている。五十嵐教授は当
時小説「悪魔の詩」を翻訳して出版しており、イランのイスラム教シーア派が殺人予告をしていたこ
とから、犯人はイラン人と見做されてはいるが、目撃者もおらず、確実に翻訳に関わっての殺人かど
うかも判っていない。捜査が進展しないまま、平成18年7月11日15年の時効が成立した。


■中央大学高等学校

 春日1丁目13番27号(中央大学8号館)にある私立校。小金井にあるのは「中央大学附属高等
学校」。昭和3年中央大学商業学校創立開校(甲種・商業科夜間4年制)。初代校長に馬場愿治中央
大学学長が就任。同23年通信教育部開設。「中央大学高等学校」と改称(商業科夜間4年制)。同
32年普通科設置。同41年商業科の募集停止。同55年8月文京区春日の中央大学理工学部校舎に
移転。現在に至る。同57~59年東京都高等学校定通制体育大会総合優勝3連覇。同63年創立6
0周年記念式典挙行。平成元年新入生から修業年限3年制に移行。平成4年4年制最終卒業生と3年
制第一回卒業生が同時卒業。同15年理工学部新棟2・3階に高校施設完成。

 制服
 生徒の意見も採り入れてデザインされた制服。男女共、シャツは2色から選択。女子はリボンとネ
クタイを好みに応じて選ぶことができ、替えスカートと夏用リボンも着用できる。ボタンは、家族的
情味を象徴する「もみじ葵」をデザイン化したものを採用している。


■陸軍工科学校跡→ 東京都戦没者霊苑

 春日1丁目14番4号にある慰霊施設。第二次世界大戦における東京都の戦没者の霊が祀られてい
る。東京都では16万余りの戦没者がでた。それを受けて、戦没者の慰霊と平和の願いを込め、昭和
35年6月に忠霊塔建設予定地だったところ(陸軍工科学校跡地)に建立された。老朽化したため大
改修され、同63年3月に完成し現在の姿となる。設計は相田武文。山本健吉による碑文がある。戦
没日本兵の遺品展示室もあるよ。都福祉保健局生活福祉部の所管だから詳細はそちらへ。

 陸軍工科学校
 明治5年フランス陸軍ルボン大尉が、水戸藩邸に伝諸工集所を開設。同18年砲兵工廠生徒学舎設
立。同29年4月7日陸軍砲兵工科学校となり、大正9年8月陸軍工科学校と改称、昭和13年10
月神奈川県高座郡大野村(相模原市の麻布大学のところ)に移転し、同15年に陸軍兵器学校と改称
して終戦を迎えた。最盛期には学生4000人、軍属1000名にも及んだ。
 隣の礫川公園に跡碑が建てられている。

 鎮魂の碑
 参列広場の正面に、池(水盤)を配置し、池の中に高さ3.36mの人工滝がある。滝を背景に、そ
の中心の水面に浮かぶ形で、高さ1.59mの門形の白御影石に囲まれた黒御影石の碑があり、当時の
鈴木都知事による「鎮魂」の文字が刻まれている。黒御影石の面に、山本健吉選書による平和への願
いを記した文章が刻まれている。

   鎮魂

   碑文
   あの苦しい戦いのあと、40有余年、私たちは身近に一発の銃声も聞かず、過ごして来ま
   した。あの日々のことはあたかも一睡の悪夢のように、遠く悲しく谺して来ます。
   だが、忘れることが出来ましょうか。かつて東京都の同胞たちの16万にも及ぶ人々が、
   陸に海に散華されたことを。あなた方のその悲しい「死」がなかったら、私たちの今日の
   「生」もないことを。そして後から生まれてくる者たちの「いのち」のさきわいのために
   私たちは何時までも
   あなた方の前に祈り続けることでしょう。
   この奥津城どころは、私たちのこの祈りと誓いの場です。同時に、すべての都民の心の憩
   いの苑でもありましょう。
   この慰霊、鎮魂の丘に、御こころ永遠に安かれと、茲にこれが辞を作る。
                                       山本健吉

   
由来文
   東京都戦歿者霊苑は昭和6年の満州事変から日中戦争を経て、昭和20年8月の太平洋戦
   争終結までの東京都関係戦歿者約16万人の霊をまつる。
   敷地は、昭和15年に忠霊塔建設予定地に選ばれた小石川陸軍工科学校跡地である。
   昭和35年、ここに東京都戦歿者霊苑が建設されたが、それは歳月の中に老朽した。また
   年々齢を加える遺族が、安全に慰霊祭に参加するための配慮も必要となった。そこで戦歿
   者の慰霊と平和への願いを新たに、このたび全面改修を行い、昭和63年3月に完成した。
   設計は建築家相田武文、碑文は芸術院会員、文化勲章受章者山本健吉、碑銘の揮毫は東京
   都知事鈴木俊一による。私たち都民はこの霊苑につどい、霊前にぬかずき、改めて戦争と
   は何であったかを深く考えたい。戦歿者の御霊にお願い申上げる。お声を風に托して、戦
   争の実態を私たちに語り聞かせて頂きたい。そして私たちが強い意志と英知をもって、平
   和を守るという至情の命題に取り組めるよう、お導きいただきたい。霊苑が戦歿者の御霊
   と私たちの心の通い路になることを願って、ここに謹んでその由来を記す。
                                      角田 房子

 御製碑
 昭和55年11月17日 日本遺族会創立30周年記念式典 昭和天皇御製。


   みそとせをへにける今ものこされし うからの幸をただ祈るなり

 ※ うから=親族


■礫川公園
 春日1丁目15番1号にある区立公園。「れきせん」とよむ。昭和39年8月1日都立公園として開園。同40年4月1日区に移管され区立公園となった。小石川台地の東端に二段構成で造られた。
文京シビックセンタービルの西側に道路を挟んで位置している。歩道部分は広がっていて公園と繋が
り一体的な広場となっている。広場から一段上がった所からは地下鉄後楽園駅への入口へと直接繋が
っている。シビックセンター(文京区役所)を背にして左側の正面には、高さ10mに及ぶ「カスケ
ード(階段水路)」がある。イタリアルネッサンス式の造園手法を取り入れていて、以前は3段の階
段を水が勢いよく流れ落ちていた。駅に近い植え込みには、サトウハチローに因んだハゼノキや東京
では数少ないハンカチノキが植栽されている。
 「礫川」は「小石川」の漢風表現。「礫」は「つぶて」と読み「小石」の意。

 
カスケード
 段をなして落ちる人工の流れ、水階段ともいう。西洋の庭園特にイタリア・ルネサンス式庭園に、
優れた作品が多く見られる。一口にカスケードといっても全長、幅、段差そして階段の数など区々だ。
自然の滝に匹敵する雄大なものもあれば、小規模で可愛らしいものもある。また階段の周辺に彫刻を
施したり、植込みをあしらったりすることでも趣は変わる。現在カスケードは復元リニューアルされ、
春の花と水階段がいっしょに楽しめるようになっている。

 
ハゼノキ
 ウルシ科に属しており、樹高は10mほどになる。枝は疎らに出て、4枚から7枚の小葉が、30
cmの枝の先に羽のような形に集まってつく。5月~6月にかけて開花し、11月頃になると美しい
紅葉を楽しむことができる。またハゼノキの実からは蝋がとれることでも知られているが、今では昔
ながらの手法で蝋燭を作っているところは極僅かしか残っていない。第一ハゼの実を採る人が居なく
なっている。

 
ハンカチノキ
 大きな純白の2枚の包葉がまるでハンカチのように見えことからこの名前がある。4月から5月に
開花し、春風に揺れ動くさまはえもいわれぬ風情がある。

 
春日局の像
 公園内にある高橋剛の銅製立像。昔、春日1丁目の東、本郷1丁目33番の辺りに春日局の領地が
あり、そこに仕える小者たちを住まわしていたので、春日殿町の俗称が起こり、春日の地名の由来と
なった。その縁でこの公園に銅像が建てられた。春日局が何かしたということではない。春日局の墓
は本郷4丁目の麟祥院にある。

   春日局和歌
   
西に入る月を誘い法を得て今日ぞ火宅を逃れぬるかな

 台座銘と副碑の銘文は以下の通り。

   春日局之像
   高橋剛作 題字 文京区長成島正嗣

   
文京区と春日局
   文京区「春日」の地名は、春日局が乳母として仕えた三代将軍徳川家光より拝領した土地
   に由来し昔は春日殿町と呼ばれていました。また春日局の菩提寺麟祥院が湯島にあり、文
   京区は春日局と歴史的に深い縁があります。昭和64年1月より1年間NHK大河ドラマ
   「春日局」が放映されました。文京区ではこれを契機として「文京区春日局推進協議会」
   を設立し区民の皆様と共に区内の活性化、地域の振興を図ることを目的として種々の事業
   を推進しました。ここに本地業を記念して春日局像を建立することにいたしました。
   平成元年12月吉日                文京区春日局推進協議会
                                文京区
                                文京区産業連合会
                                東京商工会議所文京支部
                                文京区観光協会
                                文京区商店街連合会
                                文京区町会連合会
                                文京区旅館協同組合

 
諸工伝習所跡記念碑/陸軍砲兵工科・工科学校跡記念碑
 公園の階段を上がり、左手の突き当たりにある。2つの碑は同じところに建てられている。向かっ
て左が諸工伝習所跡碑、右が陸軍砲兵工科・工科学校跡碑だ。

   諸工伝習所
   明治5年、政府はフランスの砲兵大尉ジョルジュ・ルボンを招聘し、ここに諸工伝習所を
   創設した。その後、名称はいろいろ変わったが敗戦までの73年間、陸軍技術の教育が続
   けられた。ここが近代陸軍技術教育の発祥の地である。
   明治5年「諸工伝習所」開校
   明治23年「陸軍砲兵工科学舎」と改称
   明治29年「陸軍砲兵工科学校」と改称
   大正9年「陸軍工科学校」と改称
   昭和15年「陸軍兵器学校」と改称
   昭和20年8月閉校


 陸軍砲兵工科・工兵学校跡碑の碑裏の碑文。

   ここは近代陸軍技術教育発祥の地である。明治5年7月15日政府は佛国砲兵大尉ジョル
   ジュ・ルボン氏を招聘しここに諸工伝習所を創立してから第2次世界大戦終結までその名
   は陸軍砲兵工科学校、陸軍工科学校、陸軍兵器学校とかわったが、73年間絶ゆることな
   く陸軍技術の教育が続けられた。本年は諸工伝習所創立100周年にあたるのでその教育
   を受けた有志がここに碑を建てて先達の歩みに思いをいたすものである。
   昭和47年7月15日

 東京砲兵工廠の射撃場入口跡
 東京メトロ丸の内線後楽園駅のホームから見える土手の一部に煉瓦積みの壁があるが、これは東京
砲兵工廠の射撃場入口跡だ。射撃場は、昭和17年から日本ライフル射撃協会が「小石川トンネル射
撃場」として使用していたが、現在は使われておらず、入口部分はコンクリートで塞がれている。
 なお文京区ふるさと歴史資料館に内部の写真が展示してある。
 このトンネルは初の国産軍用小銃である村田銃の増産体制のために建設されたと考えられ、主に軍
用小銃や機関銃の試射用(訓練・弾道実験等)の場所として使用されていた。戦後、食糧不足を補うた
め椎茸栽培が行われた。関係者によって再開が宿望され、昭和25年4月2日ライフルボア射撃場に
生まれ変わって開場した。トンネルの全長は約280m。3射座で、50m地点に土手・監的壕を築
き、照明や標的を設置した。後に2階建ての管理棟が建設された。
 昭和27年のヘルシンキオリンピックが行われる際には、参加の為に第1回の全日本小銃射撃大会
が開催された。また同29年には第1回全日本学生ライフル射撃選手権大会が開催され、同39年の
東京オリンピックの際には、選手強化拠点として運用された。
 このトンネル射撃場には、後楽園駅からの直通路が存在し、駅から直接訪れることが可能なことや
文京区役所近くの駐車場を利用できるなどの利便性に優れ、多くの人々に愛用されてきたが、平成1
1年3月31日国に返還され、終焉を迎えた。
 現在は国有未利用工作物として関東財務局東京財務事務所が管理している。



■春日駅

 春日1丁目16番17号にある都営地下鉄大江戸線と三田線の停車場。南北線の後楽園駅と繋がっ
てる。昭和47年6月30日三田線(当時は都営6号線)の日比谷~巣鴨間延伸時に設けられた駅。
大江戸線は平成12年12月12日に乗り入れた。
 三田線のホームは相対式2面2線構造で、白山通りの地下1階にある。上下ホームは地下2階の通
路で結ばれている。大江戸線のホームは島式1面2線構造で、春日通りの地下3階にある。ホームと
改札階を結ぶエレベーターは完備されている。改札口は、三田線4ヶ所と大江戸線1ヶ所の計5ヶ所。
その他東京メトロ後楽園駅との連絡改札が地下5階にある。出口はA1~A6の6ヶ所だが、後楽園
駅5・6・8番出口も利用可能。「文京シビックセンター前」という副駅名がある。シビックセンタ
ーとは区役所。地下でも繋がっている。

 
Sizzling Lives
 大江戸線駅構内にある矢荻喜従郎のグラフィックアート。

   Coca‐Cola
         
シーズリングライブス
   
Sizzling Lives
   
シーズリングライブスは立ち上がる躍動感、湧き上がる生命感
   アーティスト矢荻喜従郎
   
2000年


■文京シビックセンター(文京区役所)

 春日1丁目16番21号にある文京区民施設とホール、区役所などの公共機関からなる総合施設。
25階の展望ラウンジからは、富士山・秩父連峰・筑波山を望む雄大な330度のパノラマを楽しめ
る。

 
「人間・・・夢」
 25階の展望ラウンジの壁面を飾る菅井汲の作品。「NOXU」に見えなくもない。菅井は、世界的に知られる幾何学的形態を描くアーティスト。

 
「平和之女神」
 2階にある北村西望の作品。疾駆する馬に跨る女神像。

 
アート・ウォール・シビック
 地下1階吹き抜け周囲の壁がギャラリーになっており、若手芸術家の創作活動の発表の場。応募者
の作品を月ごとに紹介している。

 
「ローリー」「リサ」
 地下2階にある朝倉響子の女性の上半身像。彼女らしい作品。

 文京シビックホール
 正式名称は「響きの森 文京公会堂旧文京公会堂の跡地に文京区庁舎と一体化した複合施設。
文京シビックセンターの中心施設として、平成6年に新設された1800余席の大ホールを持ちコン
サートや各種催し物が開催される。


■神田上水石樋の石
 春日1丁目16番28号先、春日町交差点角の植栽にある。説明板は以下の通り。

   神田上水石樋の石
   ここに使われている石は、江戸時代に神田上水で使われていた石樋の一部で、昭和62年
   外堀通りの工事中に現在の水道橋付近から発掘されたものです。
   神田上水とは近世都市のの江戸で最初に整備された上水道であり、徳川家康が江戸入りと
   同時に造らせたと言われています。水源となる井の頭池の湧水を、大洗堰(現在の文京区
   関口)を経てから水戸屋敷(現在の小石川後楽園一帯)に入れ、そこから先は暗渠(地下
   の樋)で通しています。この暗渠で使われていたのが石樋(石で作った樋)です。なお、
   お茶の水坂からは、掛樋(木で作った樋)で神田川の上を横断させて、神田・日本橋方面
   に飲料水として給水されていました。                    文京区


■講道館

 春日1丁目16番30号にある柔道のメッカ。柔道の祖嘉納治五郎は、明治15年初めて下谷区北
稲荷町に道場を開いた。その後神田区南神保町、麹町区上二番町、同富士見町と道場を新築移転し、
明治22年本郷区真砂町にあった陸軍省の建物に移ったのが当区内に移った最初だ。その後明治26
年下富坂町に移り、昭和8東京ドームホテル東側の水道橋際に移転し、現在地には昭和33年に移っ
た。510畳の大道場を持つ柔道の総本山。柔道資料館・柔道図書館も併設する。
 柔道とは、それまでにあった小具足・組討・柔術・合気道・合気柔術・竹内流小具足など格闘技の
良いとこ取りをした安全格闘技で、勝負の優劣を競うものではなく、心・技・体を練磨することを目
的としている。東京五輪以来オリンピックの正式種目になっている。お家芸のはずが体力の差は如何
ともしがたく、男女合わせて10ほどもある種目のうち金メダルは三つか四つしか取れない現状だ。
ジュウドー・ニッポンはもう過去の夢?・・・
 大相撲、剣道、合気道、空手も外国人の天下だ。日本の国技は全滅だぁ!
 ユダヤが日本を狙って、日本の技に浸透している。日本を奪い取るためにはニッポンを隅から隅ま
で、心の中まで知り尽くすことだ。そろりそろりと浸透してくるのはユダヤの常套手段だ。キリスト
教という毒振り撒いてヨーロッパを席巻した。ヨーロッパの王家はみんなユダヤ人だよ。勿論アメリ
カはユダヤ人国家さ。日本国民にハーフの割合が高くなる。白人が多くなる。そうしてユダヤがゆっ
くりやってくる。皇室の国際結婚、段取りは着々と進んでいる。

 嘉納治五郎像
 正面にある。昭和35年10月28日治五郎の生誕100年を記念して建てられた朝倉文夫の作。

   生誕百季記念
   
嘉納治五郎先生像
   昭和三十五年十月廿八日

 正力松太郎胸像
 
富山県出身。日本の警察官僚。連合軍にA級戦犯とされ死刑を宣告されるも、CIAの手先となる
ことで死刑を免れ、コードネーム「ポダム」なるエージェントとなった。実業家、政治家、元読売新
聞社主を務め、原子力発電所を中曽根康弘らを駆使して誘致した張本人。富山県人ではあるが、朝鮮
系かどうかは不明。日本を裏切ったということ、私利私欲に走ったということは日本人ではない可能
性が高い。日本には成りすまし朝鮮人・中国人が多いんだ。
 柔道との関係は、四高を卒業して東大に入った時、講道館に入門し。さらに柔道の修行に励んだ。
その後、警視庁警務部長・読売新聞社社長さらに国務大臣等を勤める傍ら、実業界から柔道の普及に
努め、昭和33年の講道館移転や東京オリンピック開催に向けての日本武道館の建設に大きく貢献し
た。これらの功績により、昭和44年柔道専門家以外で初の講道館十段となった。
   


■安藤坂
 春日1丁目と2丁目の間の坂道。

   安藤坂
   この坂は、伝通院前から神田川に下る坂である。江戸時代から幅の広い坂道であったが、
   1909年(明治42年)に路面電車(市電)を通すにあたりゆるやかにされた。
   坂の西側に安藤飛騨守の上屋敷があったことに因んで、戦前は「安藤殿坂」。戦後になっ
   て「安藤坂」とよばれるようになった。古くは坂下あたりは入江で、漁をする人が坂上に
   網を干したことから、また江戸時代に御鷹掛けの組屋敷があって鳥網を干したことから、
   「網干坂」ともよばれた。                    文京区教育委員会
 


■河中俊四郎碑
 春日2丁目1番6号春日ビューハイツ横にある。本を開いた形の石碑。

   河中俊四郎翁は明治21年広島県下賀茂村に生る。河中豊助四男。出版報国を念とし、大
   正5年良書普及会を創立。82年の生涯を終えるまで50有余年 唯一筋に良書の刊行を
   通じ 地方自治の振興と警察行政の発展に尽す。その功により昭和41年7月警察協力章
   を受け、特に同年11月勲四等瑞宝章賜興の栄に耀く。真摯誠実勤勉無比 翁の志は財団
   法人河中自治振興財団と共に長く世に伝えられよう
    昭和46年10月                         小林興三次撰
 


■学校図書センター(社団法人全国学校図書館協議会)
 春日2丁目2番7号にある。昭和25年設立。HPによると、

   今日、学校図書館は様々な資料・情報の活用を通して子どもたちの「自ら学ぶ力」をはぐ
   くむ活動の拠点(学習・情報センター機能)、読書を通して子どもたちの豊かな人間性を
   はぐくむ活動の拠点(読書センター機能)として、その役割が大いに期待されている。社
   団法人全国学校図書館協議会(Japan School Library Association(全国SLA)は、
   各都道府県の学校図書館研究団体(各県SLA)と協力して、学校図書館の充実発展と青
   少年読書の振興を図るために様々な活動を行っている。


 とか。


■カラスとトンビの島流し
 春日2丁目4番・21番の辺に、江戸時代「御鳥籠」存在した。「生類憐みの令」の裏については
中野区に記したが、この話はあまり知られてないのでチェックしておく。生類憐みの令は動物保護法
で、役人によっては行き過ぎた取締りをしたため愚法と呼ばれるに至った。従来鳥類については鳥役
人の管理で元々殺生は厳禁だったが、カラスとトンビにおいては江戸市中で被害甚大だったため、カ
ラスとトンビだけは法を無視して捕えることになり、それを集めて一時保管してたのが「御鳥籠」だ。
跡地の現在は、東京メトロ丸の内線のトンネル導入路が掘られて切り通されたので 分断され跨線橋
が架かっている。近くにある金富小学校は禁鳶ではないかと想像する人がいる(実際は金剛寺坂と富
坂の頭文字を合わせた)。さて捕らえたカラスとトンビだが、法令の手前殺す訳には行かない。それ
ではというので島流しとし、人間の囚人と同じ扱いで、真顔で真剣神妙に八丈島に送られたという。
 


宝福山龍閑寺
 春日2丁目6番12号にある浄土宗の寺。


■金富小学校

 春日2丁目6番15にある区立校。校庭は少し離れて東側にある。明治41年4月18日木造2階
建て校舎が誕生した当時、礫川・明化・黒田・第一(柳町)・第二(小日向台)が開校していたが、
公立学校の数は不足していた。前年の法律改正でこの年度から小学校尋常科の修業年限が4年制から
6年制から替わり、小学校の数、施設ともますます不足することとなった。そこで第三小学校の開校
が急がれた。新入生250名、黒田・礫川・私学などから807名が移籍、1057名でスタート、
「東京市こいしかわ金富尋常小学校」として開校した。大正15年講堂を含む北側校舎増改築。昭和
9年職員室を含む西側校舎改築。同16年国民学校令により「東京府東京市金富国民学校」と改称。
12月日米開戦。同18年都制施行により「東京都金富国民学校」と改称。同19年宮城県鳴子温泉
に学童集団疎開。昭和20年愚かなアメリカ軍の非人道的無差別空爆により東京は火の海とされ、8
月日本はならず者国家アメリカの軍門に降り、以後属国とされ、唯々諾々といいなりになる傀儡政権
を保持しなければならない哀れな今日的不幸を背負い込む。同22年アメリカ軍の強制による学制改
革により「東京都文京区金富小学校」と改称。同23年新運動場完成。同25年アメリカの強制によ
り父兄会を廃し、PTAを設立。校歌制定。

 校歌「
その名ゆかしき」 作詞作曲・大槻貞一
  1.その名ゆかしき江戸川河畔
    秀麗富士を仰ぎて建てる
    これぞ楽しき我らが母校
    学ばん我らは金富健児
  2.瑞祥多き五三の桐は
    進む前途に希望の光
    これぞめでたき我らが徽章
    翳さん我らは金富健児
  3.強く正しく朗らかなれと
    学びの庭に手に手を取りて
    これぞ定むる我らが校訓
    守らん我らは金富健児


 同33年創立50周年。同39年プール完成。同42年「母校を忘れずに」碑建立。同43年創立
60周年記念式典。同53年創立70周年記念式典。同54年校舎全面建替えのため仮校舎に移転。
同55年旧校舎解体。同57年新校舎竣工。


 校名の由来
 東京市小石川第三尋常小学校として、開校準備を進めてきたが、開校直前地元の要望により所在地
金富町の金富を冠することになった。因みに地名金富の由来は、明治初年金杉水道町・金剛寺門前・
富坂新町を合併して一つ町とした時、それぞれの頭文字を取って組み合わせたものだ。
 


■新坂(今井坂)
 春日2丁目8番の東側の坂道。昔、この坂上の蜂谷孫十郎の屋敷に、兼平桜と名付けられた大木が
あり、この名前が今井兼平にちなんだものだったので、こう呼ばれるようになったいわれている。
 この坂の西側は、徳川最後の将軍徳川慶喜が明治34年以後住んだところで、大正2年にここで亡
くなった。

   今井坂(新坂)
   『改撰江戸志』には、「新坂は金剛寺の西なり、案[あんずる]に此坂は新に開けし坂な
   ればとてかかる名あるならん、別に仔細はあらじ、或はいふ正徳の頃(1711~16)
   開けしと」とある。新坂の名のおこりである。
   今井坂の名の起こりは、『続江戸砂子』に、「坂の上の蜂谷孫十郎殿屋敷の内に兼平桜(今
   井四郎兼平の名に因む)と名づけた大木があった。これにより今井坂と呼ぶようになった」
   とある。
   この坂の上、西側一帯は、現在財務省の宿舎になっている。ここは徳川最後の将軍慶喜が
   明治34年以後住んだところである。慶喜は自分が生まれた、小石川水戸屋敷に近い、こ
   の地を愛した。慶喜はここで、専ら趣味の生活を送り、大正2年に没した。現在その面影
   を残すものは、入口に繁る大公孫樹のみである。

    この町に遊びくらして三年居き寺の墓やぶ深くなりたり(釈迢空)

   (この町とは旧金富町をさす)
                文京区教育委員会 平成13年3月

 今井兼平
 いまいかねひら。平安時代末期の武将。正式な名乗りは中原兼平。父は中原兼遠。木曽義仲の乳母
子で義仲四天王の一人。兄に樋口兼光、姉妹に巴御前がいる。信濃国筑摩郡今井(松本市)の地を領
して今井を称した。



■徳川慶喜終焉の地
 春日2丁目8番1~5号がそれに当たる。慶喜は水戸徳川藩主斉明の子として江戸藩邸(東京ドー
ムシティ・小石川後楽園・中央大学工学部)で生まれ、一橋家の家督を継ぎ、慶応二年(1866)
15代将軍に就任。翌年大政を奉還したが、大久保利通の策略で妨害され、鳥羽伏見の戦とそれに続
く江戸開府の後、恭順の意を表すことで赦され、水戸にて謹慎の後駿府に隠棲した。明治30年東京
に戻り、同34年この地に移り住み、もっぱら趣味の世界に生きたという。晩年に旧三百諸侯を招い
てパーティを開いた時、薩長土肥の島津・毛利・山内・鍋島は呼んだのに、一人芸州広島藩浅野長勲
(ながこと)だけには招待状を送らなかった。長州征伐の時、広島藩が勝利の帰趨を決めたが、徳川
家を裏切って長州に味方したからだ。もし広島藩が徳川家に味方して長州藩を廃絶していたら、明治
維新はなかったかも知れないし、あってももっと違った形になっていたろう。明治天皇はいなかった
かもしれないのだ。慶喜はよほどそのことを恨んでいた?。そして怨みつつ大正2年11月この地で
没した。享年77歳。墓は谷中霊園に孤立してある。生家の水戸屋敷(後楽園)を懐かしみ、そこに
近いこの地を日々愛していたとか。

   
徳川慶喜屋敷跡

 区の説明版は以下の通り。

   川慶喜終焉の地          文京区春日2-8-7 大蔵省第六天町宿舎
   徳川幕府最後の将軍慶喜は、水戸藩主斉昭の七男として、1837年(天保8年)小石川
   の上屋敷(現小石川後楽園一帯)で生まれた。その後御三卿の一家である一橋家を相続し
   た。ついで幕末の動乱のさなか、長州攻めの陣中で没した14代将軍家茂のあとを継ぎ、
   1866年(慶応2)15代将軍となった。翌慶応3年、大政を奉還し、鳥羽伏見の戦い
   の後、天皇に対し恭順の意を表して水戸で謹慎、その後、駿府(静岡)に隠棲した。18
   97年(明治30)東京の巣鴨に、明治34年、誕生の地である旧水戸屋敷に近いこの地
   に移った。現在も残るイチョウの大木の左手に、車寄せ玄関があった。慶喜は、その後、
   公爵、勲一等旭日大授章を授けられた。1913年(大正2)11月22日、急性肺炎の
   ためこの地で没した。76歳、寛永寺墓地に葬られた。
   平成8年3月                          文京区教育委員会


■大蔵省第六天町宿舎

 春日2丁目8番の一等地にあった。徳川慶喜家だったが、戦後この場所は財務省の管理地になり官
舎が建てられていたが、払い下げるの下げないのと揉めて、財務省が売り惜しんでた。結局国際仏教
大学に払い下げられて消滅した。


■国際仏教学大学院大学

 春日2丁目8番9号(かつての1~9号)にある霊友会の教育機関。平成7年文部省より学校法人
国際仏教学院および国際仏教学大学院大学仏教学研究科の設置認可。5年一貫の教育課程を組み、文
献学と文化学の両方面から仏教学に必要な方法論を修得させる。また博士の学位を取得できるよう専
任の教員が1対1で指導に当たる。同8年港区虎ノ門5丁目3番23号に「国際仏教学大学院大学」
として開学。定員50人の日本で1番小さな大学。同17年より文部科学省私立大学学術研究高度化
推進事業学術フロンティア「奈良平安古写経研究拠点の形成」に選定された。日本中に散らばる古写
経の調査を実施している。同22年現在地に移転。


■小石川高等小学校 
廃校 → 小石川工業高等学校・小石川高等学校 移転

 春日2丁目9番5号にあった公立校。明治41年竹早町109番地に開校。昭和3年当地に新校舎
を建て移転。鉄筋コンクリート造り3階建て地下1階の校舎は当時の建築の粋を集めて設計され、近
代的設備を有するモデルスクールとして建設された。同22年戦勝国アメリカの強制による学制改革
により廃校。跡地に小石川工高・小石川高校が同居し、同24年小石川工高が転出。同32年小石川
高校も転出。その後一中、三中が短期間使用した。そのためすっかり荒れ果てて、天井から壁、床が
真っ黒になり傷んでしまった。


■茗台中学校

 春日2丁目9番5号にある区立校。昭和35年小石川高等学校跡地(小石川高等小学校故地)だっ
たところ=同心町20番地(現在地)に「東京都文京区立第十二中学校」として開校。間もなく「地
域と密着させ、個性ある学校にとの関係各位の要望から、校地が茗荷谷の台地に位置するところから
「東京都文京区茗台中学校」と改称した。開校とともに始まったのが校舎の清掃と整備で、職員生徒
一丸となって努力し、日数を費やして本来の姿に戻してから授業は始められた。生徒は、金富・小日
向・指ヶ谷・柳町・礫川・窪町・その他の小学校からの新入生275名と、一中・三中・五中から移
籍の2年生115名でスタートした。通学区は一中・三中・五中から割いたので、新入生は6校の小
学校からやってくることになり、
それは現在も変わらない特色となっている。校舎は、定時制工高と
共用(普通教室9、特別教室1、講堂)したものもあり、専用は普通教室9、特別教室7、管理室1
2という状況だった。生徒川森節子作詞作曲「小高い丘」が校歌的に愛唱され、生徒・卒業生・父母
に歌われた。同39年4年間定時制工高との同居が続いたが、小石川工校は新宿区富久町の本校に移
転、念願の完全独立校となった。同40年創立5周年記念式典・校歌制定。 これまで歌われてきた「小高い丘」は生徒会々歌となる。

 校歌「
若い光」 作詞・勝承夫  作曲・平井康三郎
  1.若い光を翼に受けて
    羽ばたく若鶏 伸び行く我ら
    自主の意気 溌剌と
    燃え上がるこの窓は
    世界の空を見晴らすところ
    茗台中学 我らの母校
  2.芽吹く緑も優しく強く
    揃う若竹 根強い力
    新しい日本を
    担うものここにあり
    平和の文化 楽しく築く
    茗台中学 弛まず進む
  3.夏の四阿山 瞼に晴れて
    夢見る若人 変わらぬ誓い
    友情を何時までも
    この胸に何時までも
    称えて歌おう果てない未来
    茗台中学 我らの母校


 同42年プール完成。同43年校庭拡張。同45年創立10周年記念。同48年体育館竣工。同5
5年開校20周年記念式典。


■庚申坂(切支丹坂)

 春日2丁目9番5号と小日向4丁目1番6号間にある雁木坂。地下鉄丸ノ内線が地上部分を走行す
るエリア。坂の直下には丸ノ内線のガードがあり、高架下トンネルを人が通行する場面などと併せて
春日通り方向に上る石階段部分を活用した撮影が可能だ。階段を上りきると、右側に区立茗台中学校
がある。階段上からは丸ノ内線の線路を見下ろす形になり、遠くを走る地下鉄車両を背景に収めるこ
ともできる、印象的なロケーション。
 庚申塔は、坂下にあったが、小日向4‐3‐11の藤寺(伝明寺)門前にあるのがそれという。

   
寛文十庚戌年三月三日 奉■庚申為諸願成就也

 と銘文があり、江戸時代の記録『御府内備考』に、

   
庚申坂 ・・・享保の頃までは庚申の碑ありしゆへの名なり

 とあるので時代も一致する。つまり、寛文十年造のこの碑は享保年間(1716~1735)には
既に存在していたことになり、最も怪しい。然も門前にある。最初から門前にあったということも不
自然、何処からか持ってきた感が強いので、これが一番可能性が高い。
 第2の候補(伊勢屋十一面観音堂の仏像群)
 庚申坂に一番近いスポットで、伝明寺の南端の角地に唐突にある祠。丸の内線が通るので線路区域
にあったものを移転した仏像の集合体という感じのもの。建物自体はボルトナットで施工されている
ので、さほど古いものではないようだ。昭和期に建てられたものだろう。「伊勢屋」の所在を調べよ
うにも、「江戸に多いもの伊勢屋、稲荷と犬の糞」というように、あまりに伊勢屋が多くて特定不可
能。この仏像の集合体の中に庚申信仰のシンボルである青面金剛がある。細やかな表現の高い完成度
の仏像。隠れた名作といえる。併しコンクリートで埋められいるので碑文が見えないのだ。碑文があり、条件を満たせば、庚申坂に一番近いし、考えられる。

   
庚申坂 こうしんざか
   「小日向第六天町の北,小石川同心町の界を東より西へ下る坂あり・・・略・・・この坂
   を切支丹坂というは誤りなり,本名〝庚申坂〟。昔,坂下に庚申の碑あり・・・」『東京
   名所図会』
   庚申信仰は 庚申の日(60日ごと) 人が眠ると 三尸(さんし)の虫が 人のからだからでて天
   にのぼり、天帝にその人の罪を告げるというところから,人々は一晩中夜明かしをした。
   この信仰は中国から伝わり,江戸時代に盛んになった。したがって切支丹坂はこの坂の地
   下鉄ガードの向側の坂のことである。
   「・・・両側の藪の間を上る坂あり・・・これが真の切支丹坂なり」 『東京名所図会』

   とぼとぼと老宣教師ののぼりくる春の暮れがたの切支丹坂(金子薫園)
                 郷土をはぐくむ文化財  
   
           文京区教育委員会  昭和60年3月


■クラウン カレー専門店エース
(茗荷谷店)
 春日2丁目10番13号原島ビルにある知る人ぞ知る老舗のカレー専門店。味もさることながらリ
ーズナブルな価格で本格的なカレーが楽しめる。店内もきれいで店員の対応もよく、待ち時間も2~
3分で量もまずまず。お勧め。小石川郵便局の反対側にある。
 


■春日二丁目児童遊園

 春日2丁目11番5号にある区立公園。昭和46年3月23日開園。


■多福院
 春日2丁目13番7号にある曹洞宗の寺。狭い路地の奥の安アパートのさらに奥にある。狭い境内
の小さな寺だが墓地だってある。


■金剛寺坂
 春日2丁目17番と20番の間の坂道。

   金剛寺坂
   江戸時代、この坂の西側、金富小学校寄りに金剛寺という禅寺があった。 
   この寺の脇にある坂道なので、この名がついた。小石川台地から、神田上水が流れていた
   水道通り(巻石通り)に下る坂の一つである。
   この坂の東寄り(春日2‐20‐25辺り)で、明治12年に生まれ、少年時代をすごし
   た永井荷風は、当時の「黒田小学校」(昭和20年廃校 現在の旧第五中学校のある所)に
   この坂を通って通っていた。荷風は、昭和16年久しぶりにこの坂を訪ずれ、昔を懐しん
   でいる様子を日記に記している。
               文京区教育委員会 平成元年3月


■永井荷風生育地
 春日2丁目20番25号の辺り。区の説明板が立っている。

   永井荷風生育地
   永井荷風(1879~1959)小説家、随筆家。本名:荘吉。別号断腸亭主人など。作
   品には、「アメリカ物語」「腕くらべ」「墨東綺譚」や「断腸亭日記」などがある。
   荷風は、明治12年12月すぐ左の細い道の左側20番25号あたり(旧金富町45番地)
   で生まれた。そして、明治26年飯田町に移るまで、約13年間住んだ。(その間1年ほ
   ど麹町の官舎へ)。明治19年には、黒田小学校(現区立五中の地)に入学し4年で卒業
   して旧竹早町の旧師範学校付属小学校に入った。「狐」(明治42年作)という作品に、
   生家の思い出がつづられている。
    「旧幕の御家人や旗本の空屋敷が其処ここ此処に売り物となっていたのをば、其の頃
     私の父は三軒ほど一まとめに買ひ占め、古びた庭園の木立をそのままに広い邸宅を
     新築した。・・・」
   小石川は、荷風の生まれ育った地で愛着が深く、明治41年に外国から帰ってくると、こ
   の辺りを訪ねて「伝通院」を書いた。
    「私の幼い時の幸福なる記憶も此の伝通院の古刹を中心として。常に其の周囲を離れ
     ぬのである・・・」
                文京区教育委員会 平成5年3月


 とある。


■川口アパート
 春日2丁目21番5号にある民間の集合住宅。昭和40年に建てられた当時「日本の高級マンショ
ンの代表作のひとつ」なんだそうだ。おいらその頃東京にいたけど聞いたことねえよなぁ。春日2丁
目のこのアパート周辺は、永井荷風が幼少の頃を過ごした場所としても知られ、今でも三井邸があっ
たりする土地柄で、セレブリティの家やマンションが多く、高台の閑静な隠れた一等地。停めてる車
もやはり違う。
 このアパートは、作家川口松太郎が初代のオーナーだが、松太郎の息子が、有名な、アラフォー世
代なら誰でも知っている川口浩探検隊で日曜日のお茶の間を毎週ドキドキさせた俳優川口浩ファミリ
ーのアパートなのだ。そして、川口夫妻は無論のこと、野際陽子や加賀まりこなどが住んでいたこと
でも有名だった。おいらの住んでるアパートも昭和42年で、築40年以上。ところがこの頃の鉄筋
コンクリート造りの建物は結構頑丈に造ってあって地震に強い。何度か大きな揺れを経験したが、皹
(ひび)1つ入ってない。老朽化はしてるのだろうが、しっかりとした佇まいとセレブリティな雰囲
気は十分に伝わってくる。まさにモダン建築の象徴そのものだ。


■稲荷蕎麦 萬盛
 春日2丁目24番15号102にある蕎麦屋。沢蔵司が傳通院で修行中、傳通院の門前に蕎麦を商
う店が有り、よく蕎麦を食べに行っていたと記されている。主人もよくその徳を慕って常に供養して
いたとされ、沢蔵司稲荷尊として祀られてから社前に蕎麦を献じていたと記録にある。江戸中期・後
期の縁起、略縁起にもまだ蕎麦の奉納が続いていると記され、明治や昭和初期の記録にも奉納が続い
ていると書かれている。現在でもその日の初茹で(初釜)の蕎麦が朱塗りの箱に収められ奉納され続
けている。縁起や記録からも判るが、開創依頼380有余年連綿と蕎麦の奉納が続いているというこ
とにただただ驚きと共に代々続く店主の信仰、澤蔵司稲荷尊の利益を拝するのみだ。
 伝通院前交差点向かいの茶色のマンション、コンビニの隣りにある。尚、日曜祭日は休みだよ。


【小石川】(こいしかわ)1~5丁目                 昭和41年4月1日
 小石川村。藩邸士宅・寺社地・小石川戸崎町・小石川柳町・小石川掃除町・小石川上富坂町・小
石川中富坂町・小石川下富坂町・小石川西富坂町・小石川仲町。明治2年小石川久堅町・小石川竹
早町・小石川初音町・小石川表町成立。同11年「郡区町村編制法」により小石川区に所属。同4
4年「市制町村制改正」により小石川を冠称する町名から冠称を外した。昭和14年掃除町を八千
代町に改称、翌15年上富坂町・中富坂町・下富坂町・西富坂町・仲町をあわせて富坂1~2丁目
とした。同22年文京区所属。同39年新住居表示により春日町3丁目・初音町・富坂1~2丁目
の全部に久堅町・表町・竹早町・八千代町・柳町・戸崎町の各一部をあわせた町域を現行の「小石
川1~4丁目」とし、同41年久堅町・竹早町・白山御殿町・大塚窪町の各一部をあわせた町域を
現行の「5丁目」とした。なお明治5年に水戸藩邸の後楽園部分を小石川町としたが、同39年の
新住居表示により後楽・春日に取り込まれてしまった。だから小石川は千川通りだ!
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『文京区史』『文京の歴史』など。

 小石川の由来
 豊島区要町の粟島神社の湧水(弁天池)に発して長崎・池袋・大塚を流れた谷端川の下流を「小
石川」といい、千川上水から養水を受けたので「千川」ともいった。中国風には礫川(れきせん)
といい礫川会館・礫川公園など現在も使われている。小石川の謂れは、この辺りの谷端川は、①小
石(礫)の多い川原を流れていた(江戸砂子)とする説と、②加賀国石川郡から白山神社を勧請し
たことにより小・石川(神社略紀)とする説がある。現在文京区に神田川以外に川は全く流れてい
ないが、つい先ごろまでは弦巻川・千川・東大下水(指ヶ谷)・桜川等が流れていた。本郷にも川
はあったんだよ。
   我が方を思い深めて小石川 いつを瀬にとか恋渡るらむ(道興准后)


■谷端川(小石川・千川分水・千川・大下水)

 むかし人が住みついた頃は幾条かの流れがあったことは否めない。どの流れを谷端川と呼んだか判
らないが、室町時代には一本の川に整えられて小石川と呼んでいたようだ。『南総里見八犬伝』に小
石川に舟を浮かべて投網を打つ場面があり、滝沢馬琴が考証にうるさかったことを考えると、そんな
規模の川だったのだろう。大正時代に猫又橋の辺りでしばしば洪が水になって住民が被害を受けたと
いう記録もある。千川上水から養い水(加水)を受けたのが「谷端川」で、谷端川は「小石川」の源
流、豊島区要町2丁目14番の粟島神社の弁天池を水源とし南に流れて長崎鼻を迂回すべく西武線椎
名町駅の西で線路を越え、駅南をぐるりと回って山手通りを越し東に流れて北に向きを変え再び線路
を越えて、山手通りに沿いつつ北上する。この辺りが大湿地帯だったころ池袋・金井窪・巣鴨の地名
が生まれたと思われる。川は池袋3丁目の区境を明治通りまで行って大塚に入り、南に下り、小石川
植物園(白山御殿)南の千川通りを流れ、伝通院寿経院の裏を通り、小石川1丁目の道路のところを
行き、水戸屋敷に入って後楽園の池水を潤して神田川に落ちた。いつしか水量不足となったものと見
え、弁天池の北、要町交差点の辺りで千川上水から養水を受けた。それで谷端川も、小石川も「千川
分水」「千川」と呼ばれるようになった。千川上水を開鑿したのは金七・茂兵衛の二人で、金七は練
馬に住んだが茂兵衛は小石川指ヶ谷肴町に住居を構え「千川屋敷」と俗称された。町場に入って「西
大下水」と呼ばれたのは「上水ではない」の意で、現代人の認識する汚水のながれる下水ではない。
まあいわば立ち小便をしたからといって首を刎ねられることはないということだ。また現代の汚水と
違って化学物質が入っていないので、それほどの汚水でもない訳だ。昭和6~9年に暗渠になり、そ
の上を千川通りと称する都道補助79号線が走っている。


■礫川浮世絵美術館

 小石川1丁目2番3号小石川春日ビル5階にある。浮世絵は、身近な江戸時代の庶民風俗を描いた
絵画だ。その殆どが木版画で、版元の企画により、歌麿や北斎、広重などの町絵師が下絵を描き、彫
師・摺師との共同制作による、誰もが安価で気安く入手でき楽しめたものだった。海外では、浮世絵
は日本文化の代表として芸術性が高く評価されると共に、印象派に大きな影響を与え、ゴッホが模写
したことは有名。この美術館は、浮世絵の正しい理解と啓蒙をめざし、毎月約40点づつ新しい企画
で入れ替えして展示している。開館時間:11時~18時 休館日:月曜日と毎月26日以降月末 
入場料500円(団体400円)、学生400円(団体300円)
 問い合わせ03‐3812‐7312
 


■「ひそかな楽しみ」

 小石川1丁目12番16号小石川TGビル前ににある高田洋一の作品。何か大きな葉っぱというか
舟の櫂(オール)というかが、プロペラ様というか、逆さまの椰子の木様というか、天井から8枚が
ぶら下っている。

   「ひそかな楽しみ」
   彫刻家
   高田洋一
   毎日忙しくここを訪れる人たちは
   この黄色い翼と出あっていったい何と思うだろう
   時にゆっくりと、時にリズミカルに
   風の流れと戯れる翼
   見えない風の姿が見えてくる
   案外そんなことがこのビルを訪れる人たちにとって
   ひそかな楽しみ
   となってくれればと思う
   1989・11・18


 
西洋彫刻
 地下1階にある大理石の幼児二人の像。


■はつね広場

 小石川1丁目9番14号にある区立公園。平成16年3月8日開園。


■塩大福・豆大福

 小石川1丁目14番7号にある和菓子屋「浅田屋」の名代商品。明治30年創業以来100年余に
亘り愛されている大福餅だ。塩味と甘味のバランスのとれた餡を、杵つき餅で包んだ。1日100個
しか作れないため、近くに行くことがあったら、3時までに行って食うてみてみい。遠方の人は絶対
に予約せえよ。03‐3811‐6151


■柳町遊び場

 小石川1丁目23番2号にある小さな区立公園。平成3年4月1日開園。


■柳町小学校

 小石川1丁目23番16号にある区立校。「やなぎちょう」と読む。明治の中頃には小石川区内の
小学校は礫川・明化・黒田の3校だった。東京市の発展に伴い転入者が増え、宅地化が進み、就学児
童は増加の一途を辿り、この3校だけでは収容しきれなくなっており、私立の小学校に委嘱する状態
だった。そこで明治31年に小学校新設の議が小石川区会に起こり、翌年必要度の高い柳町に決定し
た。校地については難航したが、柳町28番地の壁紙製造所一帯540坪を買収し、同34年着工、
10月に校舎が完成して「東京市第一尋常小学校」として開校。229名の児童でスタートした。同
37年高等科を設置し「東京市第一尋常高等小学校」と改称。同38年金富尋常小学校が新設され、
ナンバースクール名を廃し、地名を冠することになり「東京市柳町尋常高等小学校」と改称。同39
年夜学校併設。大正8年後援会新設。同10年校舎増築。同14年創立25周年記念式典。校歌(旧
校歌)制定。
 昭和6年創立30周年記念式典。同9年養護学級設置。同16年国民学校により「東京市柳町国民
学校」と改称。12月日米開戦。同17年プール完成。同18年夜学校廃止。都制施行により「東京
都礫川国民学校」と改称。同19年宮城県鳴子町(鹿島屋・玉屋滝島)に集団疎開。同20年5月2
7日海軍記念日愚かなアメリカ軍の非人道的無差別空爆により校舎は全焼し一切が灰燼に帰す。8月
日本はならず者国家アメリカの軍門に降り敗戦、以後哀れにも悲しくも属国とされ、唯々諾々とアメ
リカのいいなりとなる保守傀儡政権を保持せざるをえない今日的不幸を背負い込む。
 同22年アメリカの強制による学制改革のため「東京都文京区立柳町小学校」と改称。同23年こ
れもアメリカの強制により後援会を解散し、PTAに変える。同25年校歌制定。

 校歌「
仰ぐ青空」 作詞・西條八十  作曲・渡辺浦人
  1.仰ぐ青空 明るい心
    今日も揃った元気なわれら
    ああ学校は楽しいところ
    柳 柳 柳町
    みどり芽をふく柳のように
    ほがらに伸び行く小学生われら
  2.友は仲良し 手に手をとって
    磨く心と鍛える体だ
    ああ学校は楽しいところ
    柳 柳 柳町
    伸びて未来の 日本を担う
    希望は輝く小学生われら


 同29~34年校舎改築。同38~41年鉄筋コンクリート造り校舎に建替え。同45年プール完
成。同46年創立70周年記念式典。同48年4特別教室増築。同56年80周年記念式典。同60
年体育館改築。平成13年創立100周年。


■小石川一丁目児童遊園

 小石川1丁目24番16号にある小さな区立公園。平成3年4月1日開園。


■富坂

 小石川2丁目と春日1丁目の間の坂道。別名: 西富坂・飛坂・鳶坂 距離:422m 高低差:15
m28cm。小石川2丁目1番1号の標識は以下の通り。


   「とび坂は小石川水戸宰相光圀卿の御屋敷のうしろ、えさし待ちより春日殿町へ下る坂、
   元は此処に鳶多くして女童の手に持たる肴をも舞下りてとる故とび坂と云」と「紫一本」
   にある。鳶が多くいたので、鳶坂、転じて富坂となった。
   また春日町交差点の谷(二ヶ谷)をはさんで、東西に坂がまたがって飛んでいるため飛坂
   ともいわれた。そして伝通院の方を西富坂、本郷の方を東富坂(真砂坂)ともいう。都内
   に多くある坂名の一つである。
   この近く礫川小学校裏にあった「いろは館」に島木赤彦が下宿し、〝アララギ〟の編集に
   あたっていた。
     富坂の冬木の上の星月夜 いたくふけたりわれのかへりは
     島木赤彦(本名=久保田俊彦 1876~1926)
   平成12年3月                         文京区教育委員会
 


■堀坂

 小石川2丁目3~5番と20番の間の坂道。初め「宮内坂(くないざか)」、別に名主の名前から
「源三坂」と呼ばれていた。堀坂と呼ばれるようになったのは文政の頃から。坂の途中左手に菊池寛
の旧宅跡がある。坂上の角に三浦梧楼終焉の地の石碑があったが、何時の間にか撤去されてしまい行
方不明だったが、近くに再建された。。

   
堀坂(宮内坂 源三坂)
   「堀坂は中富坂町の西より東の方、即ち餌差町に下る坂をいふ。もと其の北側に堀内蔵助
   (2300石)の邸ありしに因れり。今坂の中途に〝ほりさか〟と仮字にてしるしたる石
   標あり。此坂は従来宮内坂又は源三坂と唱へたるものにて。堀坂といへるは其後の称なり
   といふ」(『新撰東京名所図会』)
   この場所の北側に旗本堀家の分家利直(後に利尚、通称宮内)の屋敷があったことから、
   この坂は別名「宮内坂」と名づけられた。また、当地の名主鎌田源三の名から「源三坂」
   ともいわれた。「堀坂」という名称は、文政の頃、堀家が坂の修理をして「ほりさか」と
   刻んだ石標を建てたことからいわれるようになった。
   坂下に“こんにゃくえんま”の伝説で名高い「源覚寺」がある。
                 郷土愛をはぐくむ文化財  
              文京区教育委員会  平成16年3月


 ほりさかの碑
 行安看護婦家政婦紹介所の建物の道路に面した壁際にある。文政の頃建てたというから、元からこ
こにあったのかどうかは不明。
 


■菊池寛旧居跡

 小石川2丁目4番12号(小石川区中富坂3番地に大正7年9月から)→ 小石川2丁目4番3号
(小石川区中富坂17番地に大正9年2月から)に住んでいた。大正11年秋に小石川区林町19番
地に転居した。
 菊池寛は、大正~昭和時代の小説家、劇作家。明治21年生まれ。第3・第4次「新思潮」同人。
大正7年「忠直卿行状記」などの明確なテーマをもった小説で認められる。同9年「真珠夫人」を書
き、通俗小説に転じる。同12年雑誌「文芸春秋」を創刊して、芥川賞、直木賞、菊池寛賞を創設。
芸術院会員。昭和23年死去。61歳。香川県出身。京都帝大卒。本名は寛。ほかに戯曲「父帰る」
小説「恩讐の彼方に」など。
   悪妻は百年の不作であるという。しかし女性にとって、悪夫は百年の飢饉である
 


■小石川大神宮

 小石川2丁目5番7号佐々木ビルB棟にある。


■島木赤彦旧居跡(いろは館)

 小石川2丁目10番1号(小石川区上富坂町23番地)のいろは館に下宿していた。明治27年長
野師範学校に入学、卒業後小学校の教員生活を送ったが、子規の影響で伊藤左千夫に師事。左千夫の
死の翌年の大正3年4月上京、いろは館に下宿。その年の秋、八丈島に渡り、帰って白山御殿町に居
住。同年、再びいろは館に下宿。同9年ごろから「アララギ」の編集に専念。また童謡を作り多くの
人から愛唱された。
 


■礫川小学校

 小石川2丁目13番2号にある区立校。「れきせん」と読む。「礫」とは「小石」の意で、江戸の
文人が「小石川」を漢風に「礫川」と書き換えて、その気になっていたことによる。初めは「こいし
かわ」と読んだが、同7年から「れきせん」と読み替えることにした。
 明治6年伝通院境内の開山堂を借り受けて「第一大区第四中学第三番小学礫川学校」として、第一
番湯島、第二番錦華に続いて3番目に開校した。時に児童数65名。教科は、読書・習字・算数の初
歩を教え、授業料は三段階で50銭・25銭・12銭5厘で徴収した。同9年に第1回の卒業式が行
われ18名が卒業した。修業年限が6年になるのは明治40年になってからだ。
 同9年児童数増加(273名)のため校地の拡張が求められ、区内有志者の寄付金1588円を得
て、校舎建築用地の下付を東京府に願い出たところ、小石川表町44番地の伝通院学頭寮弘教館所在
地500余坪を下付されたので、同建物を購入し、大修理を施して移転した。これは現在地の一部だ。
同10年東京府から1542坪を下付され、その一部を売って経費に充てた。夜学を開設し昼間学業
に従うことのできない者に授業した。同11年最初の全科卒業生7名。同12年学制を廃し教育令施
行。学区番号がなくなり「東京府小石川区礫川小学校」と改称。同14年初めて級長を置く。同15
年初めて校長を任命、それまでは主宰訓導といった。同16年西南隅に平屋校舎を増築。新たに体操
術を実施。教科に英語が加わる。一部2階建て木造校舎を増築。同19年小学校令により「東京府礫
川尋常小学校」と改称。同20年初めて「運動会」を飛鳥山公園で行う。同22年東京市制実施によ
り「東京市小石川区礫川尋常小学校」と改称。同23年洋風2階建て新校舎9教室落成。「教育に関
する勅語」発布。同25年教科に唱歌・裁縫・図画を加える。同27年校章制定。同32年学校医が
置かれ初めて身体検査実施。同33年教師の宿直開始。同34年水道敷設。同35年創立30周年記
念式典。新入学児童多数のため二部授業実施。10月2階建て校舎4教室増築。同38年水戸藩邸跡
の砲兵工廠で火薬庫爆発があり校舎の一部破損。同41年小学校令改正により修学義務年限6年とな
る。同41年東南アジアからの留学児童を引き受ける。同42年校舎増築。同44年卒業生の寄付に
より校旗作製。
 大正2年実業専修学校を併設。同3年雨天体操場(体育館)の物置から出火、折からの東南の風に
煽られて校舎を全焼。そのため柳町・金富・指ヶ谷・高等小学校に分散して間借り授業。同4年隣地
の海軍大将三須宗太郎宅500坪を購入し、新校舎を建築、全生徒1200名余が帰校。同5年後援
会を組織。同11年創立50周年記念式典。校歌制定

 校歌「明治六年の弥生月」 作詞・訓導 寺田代治  作曲・音楽訓導 水谷志奇男
  1.明治六年
(むとせ)の弥生月
    都の春に先駆けて
    萌え出で初めし教え草
    果てしも知れぬ武蔵野の
    広き恵みに潤いて
    いよよ豊けく育
(おお)したつ
  2.開山堂の昔より
    教えの御勅
(みのり)かしこみつ
    月日は巡り年ゆきて
    幾その移り織りなせる
    百有余年の永き史
    いよよ励みて飾らなむ
  3.小石川瀬の石
(いわ)走り
    清
(さや)かに響く其の下(もと)
    慈
(なさけ)に生(お)うる撫子(なでしこ)
    天津日影の隈もなき
    御代の光に照り映えて
    いよよ床しく薫るらむ


 同年12月電話設置。同12年児童図書館を開館。児童の自治当番制を実施。25mの標準プール
完成し、プール開きの当日関東大震災が発生し使用不能となる。同13年2月プール改修完了。寒中
水泳会を行う。9月プール開き第1回水上競技会を開催。同2年日本初の難聴学級を併設。区の水泳
大会を当校プールで挙行。同16年国民学校令により「東京市礫川国民学校」と改称。12月日米開
戦。同18年都制施行により「東京都礫川国民学校」と改称。同19年宮城県鳴子町(遊泉閣・姥の
湯〈源蔵湯〉)に集団疎開。同20年5月27日海軍記念日愚かなアメリカ軍の非人道的無差別空爆
により校舎は全焼し一切灰燼に帰す。8月日本はならず者国家アメリカの軍門に降り敗戦、以後属国
とされ、唯々諾々とアメリカのいいなりになる保守傀儡政権を保持せざるをえない今日的不幸を背負
い込む。
 同21年御殿町国民学校の廃校により吸収、柳町国民学校に間借りして授業。同22年占領軍アメ
リカの強制による学制改革のため「東京都文京区立礫川小学校」と改称。同23年5月後援会を解散
し、アメリカが強制したPTAに変更。7月岩井臨海学校(民宿)開始。同25年完全給食実施。同
26年教員の宿直制を廃止し警備員を置く。同27年東京都小学校音楽中央大会に出演、最優秀賞を
受賞。創立80周年記念式典。同29年4月表町校舎改築第1期工事4教室落成。10月第2期工事
13教室落成。同30年ドイツ人イースト・エーシア・ミッションの所有地384坪を購入し校地拡
張。同31年第3期工事8教室落成。同32年第4期工事4特別教室・資料室など落成。同35年体
育館落成。給食調理室改築。同47~48年校舎全面改築・鉄筋コンクリート造り校舎となる。日本
初の小学校プールは解体される。同48年創立100周年記念式典。同50年防火用井戸掘削。大・
小ブール完成。体育館用倉庫完成、校庭整備舗装。小鳥小屋、理科観察用池、学校園など新設。
 平成8年創立135周年記念式典。  

 周辺のこと
 開校から昭和の初めころにかけて、小石川区役所は歩いて3分程の安藤坂にあったし、郵便局も警
察署も銀行も伝通院の門前町に並び建ち、市電(路面電車)は、高等師範行きと早稲田からの引込線
があるという具合に、この辺りは小石川区(文京区西半)の政治・経済・文化・交通などの大中心地
だった。繁華街としては大塚(大塚3丁目)の方が華やかだったかもしれないけどね。近くには伝通
院の大伽藍に加えて、樋口一葉の生家礫川堂、幸田露伴邸、紅屋菓子店、水戸家江戸屋敷庭園「後楽
園」などがあった。また秋から冬の季節には、江戸川橋から早稲田にかけて眺望する富士が特に美し
く、葛飾北斎は「礫川雪の旦」と題して美しい富岳の姿を残してらぁね。
 現在の周辺の様子は、春日通りを隔てて文京三中・筑波大附属大塚養護学校、その下に小石川区役
所跡、現在小石川保健所が建っている。春日通りを西に進むと学芸大附属竹早小・中・高等学校、小
石川郵便局、〝天下の拓大〟拓殖大学、跡見学園、貞静学園、お茶の水女子大学、筑波大学学校教育
部などがあり、逆に東に富坂を下れば、中央大学理工学部、礫川公園、文京区役所、後楽園、東京ド
ーム、後楽園遊園地などがある。学校の前には富坂警察署、古流アカデミー、伝通院経営の淑徳学園、
澤蔵司稲荷、柳町商店街と続く。

 日本最古の小学校プールがあった
 大正12年8月我国の小学校では最初のプールが完成し、開場式の予定された9月1日に関東大震
災が起きて亀裂が入り、水が溢れ出して式は中止された。翌13年2月に改修が終わり、寒中水泳会
をやって気炎をあげ、7月にプール開きの式を行った記録に残っている。梶田充允訓導(教諭)の猛
特訓は、学校では語り草になっている。昭和2年7月小プールを増設、それから50年経った同48
年校舎改築の際に老朽化のため取り壊された。


■富坂警察署

 小石川2丁目14番2号にある。明治8年「警視庁第四方面第四署」として開署。同14年「第四
方面小石川警察署」となり、翌年に赤レンガ造りの平屋の庁舎が現在地に完成。同43年小石川区内
に富坂・指ヶ谷・白山・大塚・小日向の5署が設置されたが、大正2年6月には、統廃合により「小
石川富坂署」と小石川大塚署の2署に統廃合された。
 昭和12年「富坂警察署」と改称、現在に至っている。


■浪越学園・日本指圧専門学校

 小石川2丁目15番6号にある。指圧師浪越徳二郎が残した遺産だ。日本で唯一の専門学校。指圧
とは、読んで字の如く「指で圧す治療法」。指圧の精神は、相手に対する思いやりと労わりの心。

   指圧の心は母ごころ おせば生命の泉湧く


 
のスローガンが物語っている。指圧は、指のふれあいを通じて人に喜びを与え、自分も喜びに生き
ることが出来る素晴らしい技。相手に注ぐ愛があってこそ一層の効果を生み出す。地球汚染や環境破
壊が進む中で、世界の人々の心と体を癒す指圧。指圧は医療の原点だ。指圧をすると、人体の疲労物
質の80%までがグリコーゲンに転化、60兆余の細胞が活性化する。指圧は、自然治癒力を呼び起
こし、病気の予防、治療に効果を上げ、健康な体作りに役立つ最も自然な科学的な治療法だ。その一
流スペシャリストを育成する日本で唯一つの専門学校であり、カリキュラム、講師陣とも非常に充実
していて国内のみならず世界から高く評価されているんだよ。国際大会も開かれているし、世界のあ
ちこちに学校も設立した。

 
浪越徳次郎胸像
 正門を入った正面にある。同じ銅像が北海道虻田郡留寿都村赤い靴ふるさと公園にある。

   
創立者 浪越徳次郎先生


■光雲寺

 小石川2丁目16番2号にある浄土宗の寺。詳細不明。


■上富坂教会

 小石川2丁目17番33号にある日本基督教団の伝道所。詳細不明。


■六角坂

 小石川2丁目17番と18番の間の坂道。

   六角坂
   「六角坂は上餌差町より伝通院の裏門の前に出る坂なり、古くより高家六角氏の屋敷の前
   なる坂故にかくいえり」(『改撰江戸志』)とある。『江戸切絵図』(万延二年(186
   1)の尾張屋清七板)をみると、この坂が直角に曲がっているあたりに、六角越前守の屋
   敷があったことがわかる。
   餌差町は、慶長年間(1596~1615)、鷹狩りの鷹の餌になる小鳥を刺し捕らえる
   ことを司る「御餌差衆」の屋敷がおかれた所である。近くに歌人島木赤彦が下宿し、『ア
   ララギ』の編集にあたった「いろは館」があった。

                文京区教育委員会 昭和63年3月
 


■三浦梧楼終焉の地の碑
 撤去→再置
 小石川2丁目20番10号の西南の角地に建っていたが、一時撤去されていた。現在旧位置より北
へ15mのグランツオーベル小石川の角地に移設された。
 観樹と号す。現在の山口県萩市に陪臣(家臣の家来)の子として生まれる。藩士でなければ明倫館
に入学できないので、藩士五十部吉平の5男三浦道庵の養子となり、明倫館で学んだ。奇兵隊に入隊
して第2次長州征伐や戊辰戦争に従軍。維新後は兵部省に出仕、明治7年には陸軍省第三局長として
台湾出兵に反対。同9年萩の乱の鎮定に赴き、翌年の西南戦争では第三旅団長として各地を転戦、城
山を陥落させた。同11年中将となり、西部監軍部長。長州出身ながら藩閥政治に反対する立場をと
り、また山縣有朋とは奇兵隊時代から不仲であったこともあり、谷干城・鳥居小弥太・曽我祐準らと
共に反主流派を形成し、月曜会の中心人物として山縣有朋・大山巌らと対立した。同14年の開拓使
官有物払い下げ事件では、上記3人と連名で、議会開設及び憲法制定を訴える建白書を提出し、翌年
陸軍士官学校長長に左遷された。同18年に陸軍卿の大山と共に欧州の兵制を視察し、同19年に帰
国、陸軍改革の意見書を提出したが、同20翌年に熊本鎮台司令長官に左遷される。同21年予備役
に編入。同年から明治25年まで学習院院長。同23年7月に子爵による互選で貴族院議員に選出さ
れたが、翌年9月に辞職する。明治28年9月1日在朝鮮国特命全権公使に就任。公使館付武官で朝
鮮政府軍部顧問の楠瀬幸彦中佐や、邦字新聞「漢城新報」社長の安達謙蔵らの協力を得て、同年10
月8日の閔妃暗殺を指揮したとされ(乙未事変)、事変後、関わったとされる他の日本人とともに日
本に召還され広島で投獄された。翌年広島地裁や同地で開かれた軍法会議の結果、証拠不十分として
日本人関係者は全員無罪となり釈放された。同43年には枢密顧問官に就任、また宮中顧問官などの
要職を歴任する。大正期には「藩閥打倒」を唱え、政界の黒幕としても活動、政党政治期(及びその
直前期)の大正5年と同13年の2度に亘り、対立する政党間の党首会談の仲介などを行った。特に
後者の会談は後に「護憲三派」結成の合意がなされた会談として歴史に名を残している。最晩年に口
述筆記で、著作を2冊出版している。大正15年没。

   昭和八年一月十八日
   
三浦梧楼卿終焉之地

 町会の説明版。

   三浦梧楼終焉の地
   三浦梧楼(観樹と号す)将軍は長州(山口県)萩に生まれ、文久三年十九歳の時、高杉晋
   作の率いる奇兵隊に参加し大活躍した。明治維新後は陸軍省に入り陸軍中将に昇進した。
   退官後は貴族院議員、学習院々長、枢密院顧問官などを歴任、子爵に列せられ、政界軍部
   に於けるご意見番として隠然たる努力があった。嘗て本町会の設立に当って非常に力を貸
   して町会長に推戴した等も伝えられている。大正15年当地で亡くなられたので、ここに
   生前尽された将軍の偉徳を偲んで碑を建立した。
   昭和57年8月吉日                        富坂二丁目町会


龍頭山宝珠院善雄寺

 小石川2丁目22番2号にある浄土宗の寺。深蓮社信誉笈廓上人が開山となり元和年間(1615
~24)神田駿河台に創建、元和七年当地へ移転したという。『小石川區史』に、

   龍頭山寶樹院善雄寺。浄土宗鎮西派、總本山知恩院末。本尊は阿彌陀如来である。當寺の
   開基は元和年中で三橋但馬之輔が寺地を寄進し、深蓮社信譽上人を開山とし、駿河臺に一
   宇を建立した(開基の歿年が元和三年だから、それ以前に建立されたものと思はれる)元
   和七年、お茶の水總堀堀鑿のため御用地となつたので今の地へ移轉し、承應三年境内を拝
   領地として賜はつた。開山信譽上人は慶安四年二月十九日寂で、『文政書上』には境内拝
   領地九百七十六坪半と記されてゐる。當寺には幕末の畫家福田半香の墓がある。


 とある。

 福田半香の墓(半香翁墓碍銘)
 江戸末期の南画家。遠江国(静岡県)見附の生まれ。名は佶、字は吉人、通称は恭三郎。暁斎、暁
夢生とも号した。初め掛川藩(静岡県)の絵師村松以弘、次いで勾田台嶺に学び、天保年間(180
4~44)に入ってから渡辺崋山についた。蛮社の獄(1839)で蟄居後の崋山を田原(愛知県)
に訪ね、画事でもって慰めた。当初花鳥画も描いたが、崋山同門の椿椿山がこれを得意としたため、
山水画に変わり、崋山没後は水墨の山水画をよくした。


こんにゃく閻魔 常光山源覚寺

 小石川2丁目23番14号にある浄土宗の寺。寛永元年(1642)伝通院3世定誉随波の開山。
参道右手に墓地。正面に閻魔堂。左に鉄筋コンクリート7階建てビルの本堂兼庫裏

 こんにゃく閻魔

 木造閻魔大王坐像は区有形文化財。100.4cm、ヒノキ寄木造りで鎌倉時代の作。 寛文十二年
(1672に仏師竹内浄正が修理。玉眼嵌入。右目部分が割れて黄濁しているが、これには伝説があ
る。宝暦の頃(1751~61)眼病を患った老婆が思い余って閻魔大王に21日間の祈願を籠めた
ところ、夢枕に大王が現れ「われの日月に等しき両眼のうち、一つをえぐり取って汝に授くべし」と
いったという。そして夢のお告げの通り、老婆の眼は満願の日に完治した。老婆は大王の慈悲に感謝
して、改めて本堂の像を見ると大王の右眼が盲となっていたので、以来老婆は好物の「こんにゃく」
を断ち、それを供えるようにしたというのが、こんにゃく閻魔の由来。こんにゃくは「困厄」だとい
う。

 塩地蔵
 境内左手奥にあり、塩で埋まっている。寺が開かれた寛永元年(1624)以前よりこの地にあっ
たという。地蔵の体に塩を盛ってお参りすることからその名があり、古来より塩は清めとして用いら
れ、参詣者が身体健康を祈願したようだ。

 毘沙門天堂
 境内右手奥にある。小石川七福神の1。

 汎太平洋の鐘(梵鐘)

 元禄三年(1690)粉河丹後守の鋳造により奉納される。理由経緯は不明だが、昭和12年サイ
パン島の南洋寺に吊るされる。同19年サイパン島軍民玉砕し、鐘は消失する。同40年ミツエ・ヘ
スターが、アメリカテキサス州オデッサ市で発見。同49年カリフォルニア州オークランド市のD・
V・クレヤーがサンフランシスコのさくら祭に出展後、好意を以て返還した。帰還時には鐘楼はなく
粗末な構造物にぶら下げられていたが、現在は立派な鐘楼に吊るされている。

 
嫁入橋
 千川(小石川大下水)に架かっていた源覚寺の参道橋。源覚寺橋ともいうが武家方持ちというから、
近所の侍屋敷が架橋管理したものなのだろう。嫁入りの名の謂れは、明治の初めこの近くに住む士分
株を持った大地主北村家が嫁を迎えるに当たり、関係する店子一同で改装して祝った。橋は親柱に擬
宝珠を取り付けた立派なものだったという。長さ1丈2尺(約3m60cm)×幅6尺余(2m弱)
この橋を渡って嫁いできた嫁さんは、昭和18年ごろ80歳余で亡くなったとか。橋も川も昭和9年
には無くなった。


■小石川七福神

 平成7年に始まった新しい七福神だ。
   小日向深光寺(恵比寿)
   徳雲寺(弁財天=蛇男)
   極楽水/宗慶寺(弁財天・寿老人)
   真珠院(布袋尊)
   福聚院(大黒天)
   源覚寺(毘沙門天)
   東京ドーム22番ゲート(福禄寿)。


■善光寺坂

 小石川2丁目と3丁目の間を東から西に上る坂道。坂の中ほどの北側に坂名の由来となった小石川
善光寺がある。また坂上部に慈眼院「澤蔵司稲荷」があり、澤蔵司の修行僧の姿をした稲荷大明神が
伝通院で浄土宗を学んだとの言い伝えが「江戸名所図会」等にある。その澤蔵司の魂が宿っていると
いう椋の木があり、椋の木のある坂上から更に進むと伝通院前に出る。

   善光寺坂
   坂の途中に善光寺があるので寺の名をとって坂名とした。善光寺は慶長七年(1602)
   の創建と伝えられ、伝通院(徳川将軍家の菩提寺)の塔頭で、縁受院と称した。明治十七
   年(1884)に善光寺と改称し、信州の善光寺の分院となった。したがって明治時代の
   新しい坂名である。坂上の歩道のまん中に椋の老木がある。古来、この木には、坂の北側
   にある稲荷に祀られている、澤蔵司の魂が宿るといわれている。なお、坂上の慈眼院の境
   内には礫川や小石川の地名に因む松尾芭蕉翁の句碑が建立されている。
  
    一しぐれ 礫や降りて小石川 (はせを 芭蕉)

   またこの界隈には幸田露伴・徳田秋声や島木赤彦、古泉千樫ら文人、歌人が住み活躍した。
                 郷土愛をはぐくむ文化財  
              文京区教育委員会  平成13年3月


とうがらし地蔵 霊応山福聚院鎮護寺

 小石川3丁目2番23号、伝通院の中門(正面入口)左前にある浄土宗の寺。伝通院末で、本尊は
三国伝来の大黒天だ。三国伝来とは、インド、中国、韓国を経てきたということだ。寺伝によれば、
この大黒尊像は第36代孝明天皇の時代に、高麗の大臣、録来の土古という人が日本に帰化し、朝廷
に仕えた際に護持した大黒天であるといわれている。その後近江国蒲生郡より江戸に移され、安永四
年(1775)伝通院第36世霊応上人が、現在の福聚院の地に祀り、江戸七福神の一つとして知ら
れるようになった。
 この大黒天は身に甲冑を着用し、外からの災難を防ぎ、右手に宝袋、左手に宝棒を護持して、福録
を与えるといわれていた。特に、60日毎に回ってくる甲子の日には参拝者も多く、縁日もたった。
 永井荷風の作品に

   最初のロマンチズムを伝えてくれたのは大黒天の縁日に欠かさず出て来たカラクリの見世
   物と辻講釈の爺さんとであった

 とある。今でも甲子の日には家内繁栄、商売繁盛、心願成就、病気平癒、交通安全、厄除祈願など
の護摩札祈願をしている。「小石川七福神」の一つとしての大黒天木造大黒天坐像は、区の有形文化
財だ。本堂の右に安置してある。境内は福寿幼稚園の園庭となっていて幼稚園は右手にある。境内に
とうがらし地蔵がある。

 大黒天坐像
 像高(右足下より)47.2cm。ヒノキ材、漆箔、彩色。小像ながら簡素な彫法により彫刻的量感
がよく表れてて、見るべきものがある木造彫刻で、特に数少ない古式武装神スタイルを整えているこ
とと、その製作年代を鎌倉時代に遡ることなどを含め貴重な文化財だ。
 大黒天信仰は8世紀にわが国に伝わり、以来、大国主命伝説と習合して寺院の食堂に祀ると繁栄を
招くといわれている。江戸時代になって民間信仰として広まり農神として祀られ、七福神の仲間に数
えられるようになった。しかし、本来は仏法護持の戦闘神として憤怒形をしているものであることを
考えると、この大黒天像は本来のスタイルを尊重している坐像だといえる。

 とうがらし地蔵
 むかし唐辛子の好きな婆ちゃんがいた。持病の咳で苦しみ、医者に唐辛子を禁じられた。死後遺言
により地蔵を祀ったら、誰いうと無く「お参りすると咳が出なくなると伝えられ、祈願する人が増え
たとか。全快のお礼に唐辛子を数珠繋ぎにして地蔵の首に掛けるという風習になり、何時からとも無
く「とうがらし地蔵」「咳止め地蔵」として崇められ親しまれている。


■見樹院

 小石川3丁目4番14号にある浄土宗の寺。鎖国令の出た寛永十年(1633)九月十六日丹波国
(京都府)桑田郡、亀山城主大給松平左近将監源成重が卒し、その法名を見樹院殿覚誉円徹大禅定門
と称して、小石川伝通院に埋葬した。
 廷宝三年(1675)になり、後嗣である豊後国府内(大分市)城主大給忠昭が、見樹院殿霊位の
追善供養のため、伝通院山内に大給松平成重を開基とし、諦誉直絃上人を開山上人として迎え別院を
建立、見樹院と称えた。これが現在の見樹院の始まり。以後大給家代々の菩提所となると共に、伝通
院の塔頭寺院となった。
 明治維新の廃仏棄釈、戦災等で往時の威勢は失せ、関東大震災後、諸般の事情により寺域が縮小さ
れ、墓地がコンクリート製の堂内に納められることになったため、多摩墓地などへ墓所を移転する檀
家も出た。太平洋戦争後は、全檀家が協力し再建に着手、昭和37年に墓地改装から、本堂、庫裡の
新築など復興に努め、浄土宗開宗八百年、見樹院創建三百年に当る昭和49年、昭和20年5月25
日の愚かなアメリカ軍の空襲により焼失した戦前の堂宇以上の床面積を持つまでの立派な伽藍に整備
された。

 大給松平成重
 文禄三年(1594)~寛永十年(1633)。江戸時代前期の大名。松平一生(徳川氏の一族)
の嫡男。慶長九年(1604)父の一生が死去したため、その後を継いで下野国板橋に1万石を領し
た。同十九年(1614)大久保忠隣改易の連座で里見忠義が改易されると、その城受け渡しと破却
に任に当たった。同年冬からの大坂冬の陣では小田原城の守備を、翌年の大坂夏の陣では本戦に参加
し、首級を12を挙げる活躍を見せ、その功により、元和三年(1617)三河国西尾2万石に加増
移封された。同7年(1621)にはさらに2000石加増され、都合22000石で丹波国亀山藩
に移封された。寛永三年(1626)徳川秀忠・徳川家光父子の上洛に付き従うなど活躍し、寛永十
年(1633)40歳で死去した。法名は見樹院殿覚誉円徹大居士。最初は深川の法禅寺に葬られた
が、後に小石川伝通院に改葬されている。


無量山法蔵院

 小石川3丁目5番4号にある浄土宗の寺。詳細不明


無量山真珠院
全忠寺

 小石川3丁目7番4号にある浄土宗の寺。
水野隼人正忠清(徳川家康生母・於大の方の甥)が開基
となり正保四年(1647)に創建したという水野家の菩提寺。入口右に「小石川七福神」の布袋尊
が、
左には平和観音を安置。観音の並びに地下道入口がある。その先に墓地、浄土苑、月かげ会館が
ある。本堂は正面で鉄筋コンクリート作りで、円形の面白い形をしている。本堂の右は庫裏。墓地に
水野忠清(沼津藩祖)、鈴木茂三郎(社会党委員長)、山岸徳平(国文学者)などの墓がある。

 水野忠清(隼人正)
 
天正十年三河生まれ。刈谷藩主水野惣兵衛忠重の四男。大坂夏の陣に旗本先備えとして従軍。元和
二年(1616)父祖以来の功により三河刈谷藩2万石を与えられる。寛永九年(1632)三河吉
田4万石に移封、同十九年信濃松本藩7万石初代藩主。正保四年没。行年66歳。この系統は6代ま
松本藩主を務めるが、7代忠友の時沼津藩に転封となり幕末まで維持する。それで忠清が沼津藩祖と
いわれる。

 鈴木茂三郎(もさぶろう)
 大正から昭和時代の社会運動家、政治家。
明治26年愛知県生まれ。早大卒。新聞記者を経て無産
政党の結成にかかわる。太平洋戦争後、社会党の結成に参加し、昭和21年衆議院議員に当選(以後
9回連続)。同26年党委員長となり、平和4原則をかかげる。同年の社会党分裂後、左派社会党委
員長。同30~35年統一会党委員長。同45年死去。77歳。早大卒。著作に『ある社会主義者の
半生』などがある。

 山岸徳平
 
昭和時代の国文学者。明治26年新潟県生まれ。東京帝大卒。学習院、東京教育大の教授を経て、
実践女子大教授、学長を務めた。上代から近世までの日本文学全般および漢詩文を研究対象とし、特
に『源氏物語』の研究で知られる。昭和62年死去。93歳。号は岸廼舎(きしのや)。著作に「堤中
納言物語全註解」「近世漢文学史」などがある。


■三百坂

 小石川3丁目8番と4丁目2番の間の坂道。

   
三百坂
   別の名を 三貌坂ともいう。文京区教育委員会の坂名標によると、「江戸志によると、松
   平播磨守の屋敷から少し離れたところにある坂です。松平家では新しく召し抱えた〝徒の
   者〟を屋敷のしきたりで早くしかも正確に役に立つ者かどうかを試すために この坂を利
   用したという。主君が登城のとき 玄関で目見えさせ、後衣服を改めて、この坂で供の列
   に加わらせた。もし、坂を過ぎるまでに追いつけなかったら罰金として三百文を出させた。
   このことから家人たちは「三貌坂」を「三百坂」と唱え、世人もこの坂を通称とするよう
   になった。
               文京区教育委員会 昭和55年1月


■淑徳学園中学校・高等学校 → 淑徳SC中学部・高等部

 小石川3丁目14番3号にある伝通院が運営する私立校。明治25年尼僧輪島聞声(もんじょう)
により「淑徳女学校」として創立。同26年「淑徳婦人会」創設。同39年高等女学校令により「淑
徳高等女学校」と改称。淑徳家政女学校」を併設。大正9年輪島聞声遷化(死亡)。
 昭和3年モダンな新校舎落成。同4年制服が和服から洋服に。同10年制服制定。同13年浄土宗
教育資団に経営移管。同20年愚かなアメリカ軍の非人道的無差別空爆により校舎全焼。
 同22年戦勝国アメリカの強制による学制改革により「淑徳学園中学部」設立。校舎復興。同23
年「淑徳学園高等学校」設立。財団法人淑徳学園に経営移管。同31年高校の制服が背広型に変更。
同33年高等学校専攻科を設置。
 平成4年創立100周年記念式典。同19年新校舎竣工。同20年から完全中高一貫教育校となり
「淑徳SC中学部・高等部」と改称。
 校歌「
嵐を凌ぎ」 作詞・武島羽衣  作曲・坂本その
  1.嵐を凌ぎ霜に耐え
    気高く清く真心の
    珠を磨けと万代
(よろずよ)
    鏡を示す法
(のり)の月
  2.あゝ法の月仰ぎつつ
    才の技ぶり智の香り
    徳の実 円
(まる)く結ぶべき
    花の乙女と咲き出でん


 ※SCは「Successful career= 出世・人生的成功」
  板橋の淑徳中学校高等学校は、姉妹校ではないが、同じ「淑徳女学校」から派生した女学校だ。


無量山 伝通院 寿経寺
 小石川3丁目14番6号にある浄土宗の大寺。でんずういん。京都知恩院末の古刹。応永二十二年
(1415)浄土宗七祖の了誉聖冏(りょうよしょうげい)上人が当地の極楽水(現在の吉水山宗慶
寺のところ)に草庵を結んで開創し、無量山寿経寺と称した。慶長七年(1602)八月生母於大の
方を亡くした徳川家康は、遺言通り遺骸を伏見から江戸に運ぶと、大塚の智香寺(智光寺)で火葬、
位牌は蒲郡の極楽寺に置き、関宿の光岳寺など各地に菩提寺を建立した。翌八年(1603)遺骨を
現在地に埋葬すると、増上寺の開山西誉聖総の切望により堂宇を建立すると寿経寺を移し、母の法号
「伝通院殿容誉光岳智光大禅定尼」に因んで院号を伝通院とした。関東十八檀林の第一とされ、本堂
・方丈・開山堂・学寮など100余の建物群が甍を競い、それはそれは盛観だったという。寛永寺・
増上寺と並んで「江戸三霊山」に数えられ、徳川氏に縁の女性・子供の多くが埋葬されている。朱印
830石
を拝領、徳川家の菩提所となり、数多くの末寺を擁していた。江戸三十三観音霊場12番札

 明治23年淑徳女学校、現在の淑徳SCを創始した。永井荷風が随筆『伝通院』を書き、「バリに
ノートルダムがあるように、東京には伝通院がある」と絶賛した。夏目漱石も若い頃にこの近くに下
宿していたため、小説『こころ』で伝通院に言及している。幸田露伴一家は大正13年年に伝通院の
近くに転居して、現在も子孫が住んでいる。戦災で堂宇悉く灰燼に帰したが、昭和24年本堂を再建、
同63年新しい世紀の宗教活動に対応できる新本堂を建立。平成9年に繊月会館を建立。同11年に
は観音堂を建立し現在に至っている。

 古泉千樫の歌碑
 山門脇にある。元々は墓地右奥の千樫の墓所にあったものを移設した。

   
雑然と鷺は群れつつおのがじしあなやるせなき姿なりけり

 橋本德壽の歌碑
 境内にある。

   
春いまださわがしからぬ空のいろ辛夷の花は白く咲きたり

 
水町京子の歌碑
 境内にある。

   
わがこころの林泉のかへではやくるなくしばらくあるをあわれといはむ  

 ジョセフ岡本三衛門神父供養碑
 入口を入って左手隅に隠すようにしてある。墓石様の碑の正面に「入専浄真信士霊 貞享二年乙丑
七月二十五日」とあり、説明板が添えてある。ジョセフ岡本は、ジュゼッペ・キアラというイタリア
はシシリー島出身の宣教師で、寛永二十年(1643)マカオから5人で美大島に渡り、直ぐ捕まっ
て拷問され全員棄教、キアラは正保三年(1646)江戸小石川の切支丹屋敷に外部と遮断され幽閉
された。そこは切支丹取締の総元締切支丹奉行井上筑後守の下屋敷(切支丹屋敷)だった。井上が狙っ
たのは司祭たちの本心の如何に拘わららず転んだとして隔離し、根を絶ち葉を枯らすことだったよう
だ。その頃伝馬町の牢で斬罪になった岡本三衛門という男の姓名と、その後家と子供、さらに10人
扶持と下男下女を貰ったキアラこと岡本三衛門は、その屋敷の中で88歳で死ぬまで暮らしたという。
墓は雑司ヶ谷墓地にあったが、昭和になって二人のイタリア人が来日して警察官立ち会いで持ち去っ
たと。

 
指塚・物故指聖供養塔
 指塚は、平成14年9月22日、指圧師の名を高からしめた浪越徳治郎が会長だった日本指圧協会
が建てた。

   指もてもろもろの病を癒し、人々に救いと慶びを与え、先に逝かれし指聖の御名をとどめ、
   その御霊に、後継ぎし者等の誠を捧げ、その功徳を永えに讃えんとしてこの塚を建つ。
   昭和45年9月23日                        日本指圧協会

 浪越学園は中門を出て、参堂東側にある。

 如是我聞の碑
 にょぜがもん(そう私は聞いた) 書家中村素堂の書。平成7年建立。

 
●伝通院(於大の方)の墓)
 三河刈谷城主水野忠政の娘で、名を大といった。天文十年(1541)岡崎城主松平広忠に嫁ぎ、
翌年に竹千代(家康)を生む。忠政死後水野家を継いだ兄・信元は織田家に付き、今川家の保護を受
けていた広忠は、今川家を慮ってお大を離縁し苅谷へ帰した。人質として織田方や今川方を転々とす
る家康を慰め、常に衣服や菓子を贈って見舞い、音信を絶やすことがなかった。家康も生母の至情を
忘れる事なく天下統一後には阿古屋城主久松俊勝と再婚しいていたお大の方を、全く実家の者として
迎え入れ た。慶長七年(1602)伏見城で逝去。行年75歳。 墓石は巨大だ。
 法名は、傳通院殿蓉誉光岳智香大禅定尼。

 
於奈津の方の墓
 長谷川藤直の娘で、家康の晩年に側室になり駿府城に入る。家康の死後に江戸城三の丸屋敷に入り
その後は家光を補佐。万治三年(1660)80歳で逝去。

 
天樹院(千姫)の墓
 2代将軍徳川秀忠と織田信長の妹お市の方の次女逵子との娘。家康の孫、政略上7歳で従兄弟の豊
臣秀頼と結婚させられて大坂城に入った。秀頼の母淀君は伯母だ。それほどつらい事ではない。大坂
落城の時、家康は「助けた者には姫をやる」と公言して、それを信じた坂崎出羽守直盛が火傷を負い
ながらも無事救出した。しかし家康は約束を反故、桑名城主本多忠政の子の忠刻と再婚するが、この
嫁入り道中に直盛は単身で斬り込んだが捕らえられ自害して果てた。津和野5万石を棒に振ってまで
男の意地を貫いた。法名は、天樹院殿栄誉源法松山大禅定尼


 
孝子の方の墓
 鷹司孝子。徳川家光の正室。関白左大臣鷹司信房卿の姫君で、慶長七年京都に生まれる。摂関家出
身の姫が江戸に下って将軍夫人となった最初の女性、寛永二年(1625)24歳の時、将軍家光と
婚礼、御台所(正室)となる。家光との仲は必ずしも和合せず、子供にも恵まれなかった。武家の生
活に馴染めぬまま延宝二年73歳で逝去した。法名は本理院殿照誉円光徹心大姉。

 
沢宣嘉の墓
 
幕末の公家。姉小路公遂
の5男として生まれる。後、公卿沢為量の継養子となる。安政五年(18
58)の日米修好通商条約締結の際は養父為量と共に勅許に反対して「廷臣八十八卿列参事件」に関
わった。以後朝廷内において尊皇攘夷派として活動した。文久三年(1863)八月に会津藩と薩摩
藩が結託して長州藩が京都から追放された「八月十八日の政変」により朝廷から追放されて三条実美
ら6人の公卿と共に長州へ
都落ちする。世にいう「七卿落ち」の1人だ。長州へ逃れた後は各地へ潜
伏し、10月平野国臣に担がれてその気になり但馬国生野で挙兵、「生野の変」を起こすも、3日で
恐れをなして再び長州に逃げ、讃岐に潜伏する。
 慶応三年(1867)王政復古の後は、新政府の参与、九州鎮撫総督、長崎府知事などの要職を務
め、明治2年に外国官知事から外務卿になり、外交に携わるが、同6年38歳の若さで病死した。

 墓は都の旧跡に指定されている。

 
清川八郎・妻阿連の墓
 幕末の勤皇の志士。出羽国清川村の郷士斎藤治兵衛の子で、のち郷土の地名を採って清川正明と名
乗り、通り名を八郎と称した。真木和泉・平野国臣らの尊皇攘夷運動に参画したが寺田屋事件に失望
し、文久三年(1863)幕府浪士隊に参画した。しかし攘夷派だったことが禍を呼び、同年麻布赤
羽橋で、幕府見廻組に暗殺された。行年34歳。

 
杉浦重剛の墓
 教育家・評論家。明治21年三宅雪嶺と雑誌『日本人』を発刊し、欧化主義に反対して国粋主義を
唱えた。衆議院議員・国学院学監・東亜同文書院々長を歴任し、大正13年70歳で没した。

   杉浦重剛の墓
   安政二年~大正13年(1852~1924)
   滋賀県の生まれ、幼名を謙次郎。号は梅窓または天台道士。
   明治3年東京大学南校に入学。明治9年英国に留学する。明治18年東京英語学校を創立
   した。後年、国学院学監。皇典講究所幹事長。東亜同文書院長などをつとめ、大正3年東宮
   御学問所御用掛となった。明治・大正時代の教育者、評論家としての活躍は著名である。
   平成元年3月                          文京区教育委員会

 
高畠達四郎の墓
 画家。独立美術教会会員、「暮色」で毎日芸術賞を受賞。林武、野口弥太郎と並ぶ3大巨匠の一人

 
佐藤春夫の墓
 佐藤は詩人・小説家。生田長江・与謝野鉄幹・永井荷風に師事し、浪漫主義詩人として出発する。
のち耽美的作風で文壇に重きを置いた。昭和35年文化勲章を受賞し、同39年72歳で没した。

 
柴田錬三郎の墓
 細いピラミットのように段の高さは同じで8段積みだ。逓減率も同じ。3段目から下に中央に一字
づつ「斎・藤・家・之・墓」と刻字してある。横に「眠狂四郎」の円月殺法に因んで石の球体が据え
てある。本斎藤錬三郎。岡山県邑久郡鶴山村(現備前市)の地主・柴田知太の3男として生まれる。
遠藤周作や吉行淳之介とは遠縁にあたる。慶應義塾大学予科3年の時、『十円紙幣』を『三田文學』
に発表。昭和15年斎藤エイ子(仏文学者斎藤磯雄の妹)と結婚。斎藤家の婿養子となり斎藤錬三郎
となる。同年慶應義塾大学文学部支那文学科卒業、日本出版協会に勤める。また同年長女美夏江が誕
生。同17年召集され、同20年南方へ派遣される途中、バシー海峡で敵襲に会い乗艦が撃沈、7時
間漂流する。同24年文筆活動に入り、同26年6月に『三田文學』に発表した『デス・マスク』が
第25回芥川賞・第25回直木賞候補に入る。翌年『イエスの裔』で第26回直木賞受賞。同年『真
説河内山宗俊』発表以後は、時代小説を次々と発表。またこれ以降の現代小説では『チャンスは三度
ある』などがある。同44年『三国志英雄ここにあり』で第4回吉川英治文学賞を受賞。随筆・エッ
セイも多数発表している。肺性心の為、慶應義塾大学病院で死去。享年61歳。遺作は『復讐四十七
士(未完)』。

 
橋本明治の墓
 画家。日本芸術院会員。
島根県那賀郡浜田町(浜田市)生まれ。昭和4年より帝展に出品、同6年
東京美術学校日本画科卒、松岡映丘に師事。同12年新文展で特選。同15~25年法隆寺金堂壁画
模写に従事。戦後、日展に出品。同23年創造美術結成に参加するが、後に脱退して官展に戻る。同
26年芸術選奨文部大臣賞受賞。同27年日展審査員。同30年日本芸術院賞受賞。同33年日展評
議員。同44年日展理事。同46年日本芸術院会員。同47年日展常務理事。同49年文化勲章受章
受賞、文化功労賞受賞。平成3年没。                        *
 
 他に小栗虫太郎(探偵小説家)、簡野道明(漢学者)、西尾良伯(蘭学者)、久野久子(音楽家)
古泉千樫(歌人)などの墓碑がある。


■処静院跡

 小石川3丁目14番8号の関東財務局小石川住宅のところにあった。伝通院の入口(中門跡)の左
側に「不許酒葷入門内」の石柱が立っている。これは処静院の門前に立っていたもので、処静院は伝
通院の塔頭の1つだった。家裁に遭い、淑徳学園前に移り、のち廃寺となった。

 
浪士組(後の新撰組)結成
 文久三年(1863)二月四日、新撰組の元になる浪士組の結成がここ処静院で行われた。中心人
物は清河八郎で、目付は鵜殿鳩翁・取締山岡鉄舟、処静院住職とは鉄舟が懇意だった。清河は鉄舟宅
(現竹早公園辺り)に止宿。試衛館道場の近藤勇・土方歳三・沖田総司などが隊員として参加し、総
勢250名は、同月八日中山道を京都に上っていった。


■浄台院

 小石川3丁目15番9号にある浄土宗の小寺。


■小石川善光寺 月参堂
 3丁目17番8号にある浄土宗の長野善光寺の分院。伝慶長七年(1602)於大の方(徳川家康
の母、伝通院)の守り本尊を安置し、初め善光寺如来堂と称し、古くは「縁受院」と号していたが、
明治17年信州善光寺の分院となり「小石川善光寺」と改称した。赤い山門が二つあり、境内に信州
善光寺月参講の大きな石碑が建っている。寺の前の坂は、そのとおり善光寺坂と呼ばれて、坂上に伝
通院がある。寺の前と月参堂裏に墓地がある。

 鶴峯戊申の墓
 善光寺墓地の鶴峯家墓所内にある。戊申(しげのぶ)は国学者で、通称を彦一郎といった。平田篤胤
に学んで博学で知られ蘭学にも通じていた。神職の出で、諸国を遊歴していたが、江戸に出た際に、
水戸藩主徳川斉昭に拝謁し、藩士に加えられた。明治以来今日も「邪馬台国論争」に関する出版物は
多い。戊申は九州説を唱え、明治以後の研究の基礎を作った人でその説は科学性の面で高く評価され
た。安政六年(1859)没。


■老椋
 善光寺坂に立ち姿の見事な椋の大樹があるが、これには沢蔵司が宿っているといわれ道路拡張の時、
道を二股にして避けて通した。現在もそのままだ。


■慈眼院
(山号寺号無し)

 小石川3丁目17番12号にある浄土宗の寺。元和六年(1620)伝通院中興1世正誉廓山の創
建。伝太田道灌念持仏の沢蔵司十一面観世音菩薩像を祀ったのに始まる。また境内には松尾芭蕉の句
碑、滝澤公雄の句碑、杉崎月香の句碑がある。石垣の修復は平成17~18年にかけて行われた。

 禊観音
 境内にある水掛け観音。

 芭蕉句碑  
 松尾芭蕉が延宝五年(1677)俳諧宗匠として立机した(プロの俳諧師になった)34歳の時の
作。この頃から4年間ほどは神田上水の工事に従事したとされ、この地には馴染みの深い俳人の一人
だ。この句は本郷壱岐坂(東京ドーム東側の坂)の中程に有った芭蕉と同郷(伊賀上野)の戸田権太
夫邸から小石川澤蔵司稲荷方面を詠んだ句だ。澤蔵司稲荷では江戸時代から句会が開催されており、
その「芭蕉堂」同人 滝澤公雄が発起人となり、大正7年10月12日の芭蕉翁の命日に澤蔵司稲荷
境内に建立された。現在もこの地に残る「小石川」「礫川」を詠み込んだ句として地元の人々から親
しまれている。

   
一しぐれ 礫や降りて小石川


 滝澤公雄句碑

 明治時代の芭蕉堂主宰滝澤公雄が伝通院の七不思議の一つ、伝通院山内の蛙は学寮の修行僧の勉学
の邪魔にならないように声を出して啼かないとの故事に因み詠んだ句とされる。大きな根府川産の石
に刻まれた句は、明治45年1月芭蕉堂俳諧「山吹叢誌二百号」記念に芭蕉堂門友中が発起人となり
境内に建立された。句碑背面には発起人等の名前が刻まれている。当時の芭蕉堂の隆盛が偲ばれる。
両句碑共に戦災の火も被らず往事の面影を留めている。

   
月かげにしのぶや聲のなき蛙

 杉崎月香傘寿記念句碑
 平成元年秋大祭 月曜会同人の建立。石垣解体修復工事中に澤蔵司稲荷での句会「月曜会」に参加
していた信者の一人から指摘された。この句は、ソメイヨシノではなく、八重桜「普賢象」の満開の
時に詠んだ句であると。それでその後、信者から寄進のあった普賢象の八重桜の傍に句碑を移動。

   しばらくは落花の中に立ち尽くす


■3稲荷小祠

 善光寺月参堂と沢蔵司稲荷の間の敷地に、稲荷の小祠三社が縦に並んでいる。面積の割にあわない
空間で、入口に狛犬も据えてある。平成5年の住宅地図には山内という宅地を示しているが、住宅が
あったような様子はない。


沢蔵司稲荷
(たくぞうすいなり)
 小石川3丁目17番12号、慈眼院の奥にある。縁起によると元和四年(1618)四月学寮主極
山和尚の門を澤蔵司と名乗る一僧が浄土教の修学したいと訪ね栴談林に入門した。だが極めて才識絶
倫優秀にして僅か3年余りで浄土教の奥義を修得した。そして同六年五月七日の夜、方丈廓山和尚と
学寮長極山和尚の夢枕に立ち

   そもそも余は太田道潅公が千代田城内に勧請せる稲荷大明神なるが浄土の法味を受け多年
   の大望ここに達せり。今より元の神に帰りて長く当山を守護して法澤の荷恩に報い長く有
   縁の衆生を救い、諸願必ず満足せしめん。速く一社を建立して稲荷大明神を祀るべし


 
と告げて、暁の雲にかくれたという。(「江戸名所図会」「江戸志」)。そこで廓山上人は沢蔵司
稲荷を境内に祭り慈眼院を別当寺とした。江戸時代から参詣する人が多く繁栄した。
「東京名所図会」には、「東裏の崖下に狐棲(狐の棲む)の洞穴あり」とある。今も霊窟と称する窪
地があり、奥に洞穴があって、稲荷が祭られている。
 また沢蔵司は伝通院門前のそば屋「萬盛」によくそばを食べに行った。沢蔵司が帰ると売上金に必
ず木の葉が混じっていて、店の主人は稲荷大明神だと驚き、毎朝最初のそばを稲荷に供え、稲荷蕎麦
と称えたという。これは現在も続いている。その稲荷蕎麦「萬盛」は、春日2丁目24番、伝通院前
交差点の西南の角、コンビニの隣にある。
 また、すぐ前の善光寺坂に椋の老樹があるが、これには沢蔵司が宿っているといわれる。道路拡幅
の時、道を二股にして避けて通るようにした。その木の前に幸田露伴旧宅がある。

   沢蔵司 てんぷらそばがお気に入り(古川柳)

   慈眼院・沢蔵司稲荷                   小石川3‐17‐12
   伝通院の学寮(栴檀林といって修行するところ)に、沢蔵司という修行僧がいた。僅か3
   年で浄土宗の奥義を極めた。元和六年(1620)五月七日の夜、学寮長の極山和尚の夢
   枕に立った。
    そもそも余は千代田城の内の稲荷大明神である。かねて浄土宗の勉学をしたいと思っ
    ていたが、多年の希望をここに達した。今より元の神にかえるが永く当山(伝通院)
    を守護して恩に報いよう」
   と告げて、暁の雲に隠れたという(「江戸名所図会」「江戸志」)。
   そこで伝通院の住職廓山上人は、沢蔵司稲荷を境内に祭り、慈眼院を別当寺とした。江戸
   時代から参拝する人が多く繁栄した。
   『東京名所図会』には、「東裏の崖下に狐棲(狐のすむ)の洞穴あり」とある。今も霊窟
   と称する窪地があり、奥に洞穴があって稲荷が祀られている。
   伝通院の門前のそぱ屋に沢蔵司はよくそばを食べに行った。沢蔵司が来た時は、売上の中
   に必ず木の葉が入っていた。主人は沢蔵司が稲荷大明神であったかと驚き、毎朝「お初」
   そばを供え、いなりそぱと称したという。
   またすぐ側の善光寺坂に椋の老樹があるが、これには沢蔵司が宿っているといわれる。道
   路拡幅の時、道をふたまたにしてよけて通るようにした。

                 ━郷土愛をはぐくむ文化財━
               文京区教育委員会 昭和56年9月


■幸田露伴宅

 小石川3丁目17番16号の西南角地にあり、現在孫が住んでいる。露伴は小説家。名は成行。露
伴は号で、別に蝸牛庵と号した。東洋思想に基づく独自の作風で、尾崎紅葉と並び称された。明治4
1年露伴は向島寺島村(墨田区東向島1‐7)に新居を構えた。昭和2年5月小石川区表町79番地
に移転し、同12年文化勲章を受賞した。文化勲章は、同年2月11日建国記念日に制定され、露伴
は佐佐木信綱・横山大観ら9名とともに、第一回の受賞者だった。同20年3月に長野県埴科郡坂城
町に疎開、戦後上京し、同22年7月市川市菅野の仮住居で80年の生涯を閉じた。表町の自宅はア
メリカ軍の空爆で焼かれ、昭和22年11月焼け跡に新築した。この家には娘の文が住んだが、その
文も死んだ。墓は本門寺にある。


■井上児童遊園 → 井上公園

 小石川3丁目20番11号にある区立公園。昭和42年3月28日井上家より敷地の寄贈を受け、
都立公園として整備。平成26年4月1日区に移管され区立公園となった。平成26年4月1日改修
により児童遊園から一般の公園にチェンジした。

 
井上哲次郎宅跡
 
公園内にある。井上は、明治・大正時代の哲学者。巽軒と号す。安政二
年(1855)筑前太宰府の医家に生まれた。東京帝国大学卒業後ドイツに留学し、帰国して母校の
教授となり、ドイツ観念論哲学の導入に努めた。明治24に教育勅語の注釈書『勅語衍義』を著して
忠君愛国の精神を鼓吹し、同26年には『教育ト宗教ノ衝突』を発表して、キリスト教を、教育勅語
に反する反国家なものであると攻撃するなど国家主義の論陣を張った。このおっさんが戦前悪の根源
やったんや。この地は同25~昭和19年に没するまで住んだところで、母屋はアメリカ軍の空爆で
焼失した。正方形に近い敷地の西南隅に、御影石の門柱、南隅の道路沿いに大正8年コンクリート造
りの二階建ての旧書庫と明治36年建造の木骨煉瓦造りの二階建ての土蔵とが並んでいる。敷地の大
部分は区立児童公園となっている。

   井上哲次郎宅跡                          都指定史跡
                                 小石川3-20‐11
   井上哲次郎(1855~1944)は、筑前大宰府に生まれ、巽軒と号した。東大教授と
   なり、従来の英仏系の哲学に対して、新たにドイツ系哲学を移し、日本の観念論哲学の樹
   立に寄与した。著書には「巽軒論文初集」「日本古学派之哲学」「新体詩抄」、漢詩「孝
   女白菊詩」、漢詩集「巽軒詩抄」などがある。この地は、明治25年から亡くなる昭和1
   9年まで住居のあった所である。旧宅は戦災で焼失したが、書庫であった土蔵二棟が残っ
   た。跡地は、現在文京区立井上児童遊園となっている。土蔵のうち、手前の一棟は、明治
   36年の建造で木骨レンガ作り二階建てである。奥の一棟は、鉄筋コンクリート造り二階
   建てで、大正8年の建築である。関東大震災や戦災で、隣接家屋は焼失したが、土蔵内に
   収納された物品は安全であった。土蔵は防災建築史上からも貴重なものである。土蔵二棟
   は、昭和56年3月、文京区教育委員会が補修整備を行なった。
                 ━郷土愛をはぐくむ文京区━
                    文京区教育委員会         平成10年3月


■小石川三丁目緑地
 小石川3丁目22番にある細長い区立公園。平成17年4月1日開園。
 小石川3丁目24番にあるほんの僅かの区立公園。平成17年4月1日開園。
 この2ヶ所は随分離れている。別名称にしてもいいほど離れている。A・Bとか、北・南とかの区
分けもしていない。


■外山正一旧居跡

 小石川3丁目27番15号フォルム小石川のところだ。明治前半期の社会学者、教育行政家。家禄
220俵の旗本、幕府講武所歩兵指南役の外山忠兵衛正義・廉子の長男として江戸小石川柳町(文京
区)に生まれる。幼名捨八、号はゝ山(ちゅざん)。親は武芸で身を立たせようとしたが、学問で頭
角を表す。蕃書調所に入り、2年後開成所教授方となる。6年間の英・米留学を終えて直ちに東京開
成学校教授となる。明治10年東京大学創設第一陣の邦人教授となり、以降文学部長、文科大学長、
東京帝国大学総長(4代目)などを歴任、一時期文相にも就任。帝大社会学講座の初代担当教授。明
治20年代から積極的に大学論を展開し『藩閥の将来』『教育制度論』を刊行。漢字廃止を主張し羅
馬字会を創設、井上哲次郎らと『新体詩抄』を、上田万年らと『新体詩歌集』を刊行、東京女学館、
正則中学校の創設など活動は多方面に亘り、赤門の暴君、赤門天狗などの異名を持つ行動的知識人と
いわれた。著作は『ゝ山存稿』(前・後編)


■八千代町児童遊園

 小石川3丁目30番7号にある区立公園。昭和24年4月1日開園。


小石川一家殺傷事件
 小石川3丁目36番9号のチラシ製作業「三成社紙工」江成三男宅で起きた事件。平成19年3月
28日午前0時17分ごろ「民家で家族が血だらけになっている」と110番があり、警視庁富坂署
員が駆けつけたところ、胸や腹などを刺された男女6人が見つかり、三男(74)・敏子(70)と
息子征男の嫁伸子(37)の3人が心肺停止状態だった。3人は病院に運ばれたが間もなく死亡。征
男(42)が「自分がやった」と話し、征男が無理心中を図ったこと認めた。
 調べでは、この家は三男・敏子・征男・伸子と3人の孫の7人家族。死亡した3人の他、8歳の長
男が左胸を刺されて重傷、3歳の次男も怪我。征男も胸と腹に刺し傷があった。もう1人の12歳の
長女は父親の異常行動に戦慄し、隣家に駆け込んだことで事件が発覚し、本人は無事だった。三男は
2階の介護ベッドの上、敏子は隣りの部屋の布団の上に倒れていた。また伸子は3階のリビングで襲
われたとみられる。
 小石川は明治以来製本業者の町だったが、時代の趨勢で本を読む人が減少し、製本業・印刷業その
ものが衰退し始めており、この業種が立ち行かなくなりつつある。それで廃業する業者が増え、その
跡地にマンションが建って住宅地化し、騒音を出す製本業はいよいよ窮地に立たされる羽目に。そん
な中取引2割を閉める業者が廃業、さらに取引の3割を占める別の業者が埼玉県戸田市に移転するこ
とになり、収入は半減。征男は戸田への移転も考えたものの、創業者である父三男は寝たきりで、移
転に反対したらしい。そんなこんなで切羽詰った征男は考えあぐねて一家心中を決行したものらしい。
長女は「お父さんは仕事のことで悩んでいて、ストレスが溜まっていた」と語る。


■竹早高等学校

 小石川4丁目2番1号にある都立校。明治32年「高等女学校令」公布。修業年限4年を原則とし
3年5年も認める。7月東京府は高等女学校規則を改正し、修業年限を5ヶ年とする。
 同33年2東京府女子師範学校に併設して「東京府第二高等女学校」設立(師範学校及ビ高等女学
校設置ノ件告示)。同34年7月「東京府立第二高等女学校」と改称して開校。それまでに全国で3
7校開校、東京は「東京府高等女学校」1校のみ。
この年18校が増設され、内15校が東京だ。
田要三郎『同窓会報の発刊を祝す』の4ページに


   之(東京府高等女学校)を浅草に移し、其の規模を拡張して之を第一とし、小石川に第二
   を設け、又新に麻布に第三を建つるの議を決し、三校鼎立し以て府下女学校の中堅を形成
   せんとせり


 とある。4月本科第一、第二、第三の3学年の生徒を募集。補習科併置。補習科は府立第一高等女
学校生徒と小学校教員志望者に特別の教育をするのが目的。従来府立第一高等女学校にあったものを
便宜上本校に移管したもの。第一学年40名・第二学年44名・第三学年50名・補習科43名の計
177名でスタート(7月までに7名が退学)。5月1日より授業開始 教室不足のため、小石川区
久堅町49番地
光圓寺別堂に仮教場3教室を設置。9月小石川区竹早町にあった東京府師範学校(男
子校)が赤坂区青山に転出した跡地(現在地)に移転。普通教室及び生徒控所完成。仮教場を撤し、
全生徒校内において授業開始。11月7日開校式挙行。この日を開校記念日と定める。
 同34年第一回生卒業式。同窓会創設。補習科廃止。文部省「高等女学校令」施行規則公布。4月
第四学年2学級、その他各1学級、合計6学級編成。運動奨励。

   毎日放課後、1時間以内は運動すべし


 土曜日には一時間居残って運動することが許される。女子師範とともに全校で江ノ島に遠足。11
月7日開校記念日行事として午後運動会を実施(但し雨天)。明治35年府立第三高等女学校新設に
伴い、府立高等女学校学則発布。第五学年2学級、その他各1学級の6学級編成。女子師範とともに
全校逗子に遠足。女子師範と合同で学芸会(校友会)開催。食堂・調理室・浴室・洗濯所・理髪室な
ど完成。11月作法教室及び裁縫教室に充つべき2階建て教場1棟新築落成。いずれも、女子師範学
校の方にも記載があり。どのように使用されたのか不明。『会報」では作法教室と裁縫教室は第二高
等女学校独自に持てるようになったとある。
 同37年日露開戦に際し宣戦の詔勅を奉読し、これに関する文部大臣の訓令を朗読。また戦時にお
ける生徒の心得を訓諭する。義金箱を校内に設け、生徒有志から募金して在校生徒全員の名を以て軍
に寄付。北米聖路易萬國博覧会に生徒の作品出品、金牌を受ける。11月府立第一高等女学校で第1
回運動会開催。第4回秋季大運動会。
 同38千葉県稲毛海岸に遠足。11月7日創立記念式と第五回秋季大運動会(午前9時半~午後4
時)。14日女子師範学校寄宿舎湯呑所から出火、食堂および炊事場を除き全焼。
 同40年補習科学則制定。補習科の復活。校歌制定(東京女子師範学校と共通)。作詞は畠山健。
作曲は岡野貞一。文部省、師範学校規程を公布。高等女学校卒業者を入学させる本科第二部を設置。
6月上野の「内國大博覧会」見学。義務教育年限延長に伴い、高等女学校への入学資格を「尋常小学
校卒業程度」とする。
 同42年「服装の制限・校外教授・大清潔法・薙刀の教授・校友会・同窓会・運動会」などを改正
もしくは創始。校外授業;1年に5回、見学会。学年により計画。数名の教員が引率。大清潔法;毎
週月曜日に全校挙げて大掃除を施行。校友会;全校生徒の団体。学芸部(国語・英語・図書・習字の
諸科)・運動部(弓術・薙刀・遊戯・庭球の諸科)・娯楽部(園芸・工芸・音楽の諸科)。各自随意
の科を選択。自由に練習。今日の部活。
 同43年創立10周年記念式典。服装規程制定。綿服で袴の腰被に白の縒り糸を通し、これを床上
五寸の高さに穿き、リボンは巾2吋(インチ)以下の物のみ許され、上靴下靴を履き替えることに定
められる。同44年第11回同窓会で規則改正。毎年2回の会報を発行決定。同窓会『会報』第1号
を発刊。補習科廃止。
 
 大正3年従来の「校長事務取扱制」を廃し、独立した校長を置く。同4年全校で逗子に遠足。同6
年校舎一部改築竣工。暴風雨の風水害救済のために秋季運動会を中止とし、校友会から金100円を
支出し、東京市に寄付することを決定。校友会学芸大会は開催。創立記念式実施。恒例の大運動会中
止。同10年生徒募集倍加。甲乙2学級編成となる。日光宿泊旅行実施。宿泊旅行の初めとなる。同
窓会を「篁会」と改称。これまでの校長会長制を改め、独立して理事制とする。11年学制頒布50
周年記念式典。記念事業として運動場完備、ブルマ-を用いる運動服が定められ、運動盛んとなり、
「竹早チ-ム」の黄金時代始まる。第五学年最初の関西旅行実施。生徒自治会成立。購買部設置。同
12年関東大震災の被害を受ける。しかし焼失は免れる。東京女子高等師範学校に校舎の一部を貸与
し、帝都教育会、教員保姆傳習所、同寄宿舎を本校に収容する。女子師範と共に全校で飯能に遠足。
同13年修学旅行実施。千葉県姉ヶ崎へ遠足。校友会主催の音楽会開催。千葉県佐貫に水泳部設置。
校友会遠足部で富士登山。高等女学校生徒60名参加。五年生、女子師範生徒と一緒に日光へ修学旅
行。11月大日本体育同志会主催全日本籠球競技会に優勝。極東オリンピック大会に籠球(バスケッ
トボール)選手を送る。同14年創立25周年記念式典。世界籠球自由選手権大会に優勝。
 昭和2年極東オリンピック大会に東京代表として籠球選手を送る。明治神宮体育大会籠球に優勝。
服装自由型洋服となり、色、生地等に制限なくなる。同4年女学校体育聯盟競技会排球(バレーボー
ル)優勝。夏季臨海学校はこの年より千葉で開かれる。同本校校章制定。セーラー服を制服として採
用。同5年朝礼を実施。創立30周年記念奉祝運動会を上井草運動場に開催。記念式典を講堂にて挙
行。同6年高松宮妃殿下御来臨。校旗制定。同8年賀陽宮恒憲王殿下御来臨。校舎改築工事開始。同
9年明治神宮奉祝体育大会籠球に優勝。10年初めて新年歌会を催し、以後年中行事となる。同11
年新校舎落成移転。補習科設置。女学校教育の補習として家庭的教養を与えることを目的とする。同
14年第五学年の関西旅行を朝鮮まで延長。創立40周年記念祝賀大運動会開催。同15年改築落成
と合わせ、創立40周年記念式典。同16年従来の補習科を「専攻科」と改める。北多摩小平に農園
を設ける。杉浦重剛記念碑(本校校地の一部は杉浦の称好塾の在った所)除幕式。「報國團」結成式
を挙行。同17年小平農園農舎新築落成。修業年限短縮に関する学制改革案決定により、中等学校4
年制となる。同18年賀陽宮妃殿下・同女王殿下御来臨、授業演技を巡覧される。東京第一師範学校
設置され、東京府女子師範学校はその女子部に移管され、額田登女子部長が校長職務を兼務。職員は
各々師範高女のいずれかにその所属となるも、実際上は従来と変更なし。5月国民勤労報國隊出動令
により一日から第五学年生東京陸軍兵器補給廠及び鶴岡計器製作所に出勤。都制施行により「東京都
立第二高等女学校」と改称。第三、第四学年生共同印刷会社に出勤。同19年決戦非常措置要綱公布
により生徒動員体制整えられる。同20決戦教育措置要綱決定。学校における授業は向こう一年間停
止。職員は兼務を解かれる。5月愚かなアメリカ軍の非人道的無差別空爆により女子寮舎半焼。被災
者を校舎に収容。8月日本は、ならず者国家アメリカの軍門に降り敗戦、以後属国となり唯々諾々と
いいなりになる傀儡政権を保持する今日的不幸を背負い込む。8月28日教育を開戦前の状態に復元
する旨通達。新教育方針発表。戦時教育令廃止。
 同21年高女5年制復活。但し希望により本学年に限り希望者には4年卒業を認める。父兄後援会
設立。同22年次年度新制高等学校として発足するため新入生は募集停止。プ-ル開き挙行(戦時中
使用中止)。生徒自治会結成。師範学校との附属関係解消し独立。第五学年生箱根一泊旅行実施。宿
泊旅行復活。同23年校名に関して生徒の意見調査。新校名を「東京都立第二女子新制高等学校」と
定める。4月新制高等学校として発足。学級編成は附設中学3年2学級、高校1年3学級、同2年2
学級、同3年1学級の合計9学級(?)とする。定時制(夜間授業)開設。臨海学校(房州)復活。
11月新制高等学校発足設備資金獲得のため後援会、篁会、職員、生徒協同して本校始めてのバザ-
を開き、音楽会、映画会、演劇会を催す。同24年高等学校設置基準に従い、名実共に新制高等学校
として発足。男女共学制実施。男子生徒5名照れながら第一学年に入学。生徒総数528名。従来の
自治会、校友会の合同組織として「生徒会」結成。アメリカの強制により、従来の父兄後援会を解消
してPTA竹早会創立。第3学年生関西旅行実施。11月創立50周年記念式典。

 同24年男女共学。同25年「東京都立竹早高等学校」と改称。同27年学区合同選抜制度参加。
同42年学校群制度導入、小石川高校と41群を組む。同57年グループ合同選抜制度導入。41グ
ループに編成される。合同選抜の弊害のため公立高校の凋落が酷くなったので、平成6年度から単独
選抜に戻し、昔日の夢を追うこととなる。
 偏差値63、20位前後。トップは国立の69。

 校歌「
ヒマラヤ杉に」 作詞作曲不明
  1.ヒマラヤ杉に新芽
(にひめ)萌えて
    窓は明り 声は弾む
    竹早よ 我がこの高校
    眞実一路 ここに学びて
    幸を呼ばむ 携へて友と
    盡くるなし 篤き微笑
    ああ 青春に光りあれ
  2.朝
(あした)の空に風は通ひ
    時計台は夢を誘ふ
    竹早よ 我がこの高校
    清心溌剌 ここに汗して
    理想に生きむ おのかじし高く
    築きゆけ 永久
(とは)の平和(やはらぎ)
    ああ 新人に力あれ
  3.茜の雲の果に清く
    富士が峰は影と浮ぶ
    竹早よ 我がこの高校
    協同親和 道を踏まへば
    いよよ映えむ 輝ける伝統
    潔し三つの春秋
(はるあき)
    ああ 若人に栄あれ

 ※「おのがじし」は「己が為し」で、「銘々に、それぞれに、各自」の意。


■東京学芸大学附属竹早幼稚園竹早園舎・竹早小学校

 小石川4丁目2番1号にある私立校。
明治33年創立したため、現在の竹早小学校の創立もこの年
ということになっている。隣接する附属竹早幼稚園との幼小一貫教育を行っており、公式ホームペー
ジも共同使用。また平成16年には国立法人化により、校名を「東京学芸大学教育学部附属竹早小学
校」から変更。東京学芸大学の附属学校として教員の育成を行うため、教育実地研究(教育実習)の
指導に当たる使命を持っている。校前にバス停があることから、バス通学する児童も少なくない。本
校の領域に附属竹早中学校、附属竹早幼稚園あるが、隣にある竹早高校は附属ではなく都立なので関
係はな。兄弟校として、附属世田谷・附属大泉・附属小金井の3校がある。

 杉原重剛の称好塾跡
 幼稚園の中にある。元々この地に杉浦重剛の私塾があった。江戸川の同人社(中村正直)、三田の
慶応義塾(福沢諭吉)と並び三大家塾といわれた。

   
杉浦重剛先生穪好塾舊趾


■東京学芸大学教育学部附属竹早中学校
 小石川4丁目2番1号にある公立校。昭和35年東京学芸大学附属新設中学校から改称したものに
当たり、その前身は東京学芸大学附属竹早学校(東京第一師範学校女子部附属中学校→東京学芸大学
東京第一師範学校竹早附属中学校)と、東京学芸大学附属追分中学校(東京第二師範学校女子部附属
中学校→東京学芸大学東京第二師範学校追分附属中学校)だ。この2つの学校は同22年の同じ年に
創立したため、現在の竹早中学校の創立もこの年ということになっている。
 昭和22年アメリカの強制による63制実施により、「東京第一師範学校女子部附属中学校」を文
京区久堅町8番地の附属小学校校内に創設。また「東京第二師範学校女子部附属中学校」を文京区東
片町2番地の女子部内に創設。同24年国立学校設立法施行令により、校名をそれぞれ「東京学芸大
学東京第一師範学校竹早附属中学校」「東京学芸大学東京第二師範学校追分附属中学校」と改称。同
26年それぞれ「東京学芸大学附属竹早中学校」と「東京学芸大学附属追分中学校」と改称。同29
年「東京学芸大学附属竹早中学校」「東京学芸大学附属追分中学校」を廃し、東京学芸大学附属「新
設」中学校を、文京区竹早町8番地竹早分校校舎あとに設置し、前記両校の生徒を収容する。特殊学
級を開設し「若竹学級」と称す。同31年校歌制定(作詞・大木惇夫 作曲・長谷川良夫)。同32
年第二運動場の一隅に武道場竣工。同35年「東京学芸大学教育学部附属竹早中学校」と改称。「若
竹学級」は附属養護学校として独立。校舎建替え、都立竹早高校と分離のため、練馬区東大泉の東京
学芸大学教育学部附属大泉中学校敷地内仮校舎として移転。同45年新校舎落成し大泉の仮校舎より
復帰。都立竹早高校との校舎の分離が実現。体育館兼講堂および屋上プールが新築完工。同51年海
外帰国子女15名を一般学級に受け入れ。同61年武道館落成。平成9年全面建替え新校舎竣工。体
育館兼講堂・屋上プール完成。創立50周年記念式典。
 平成16年に国立大学法人化により、校名を東京学芸大学教育学部附属竹早中学校から変更した。
東京学芸大学の附属学校として教員の育成を行うため、教育実地研究(教育実習)の指導に当たる使
命を持っている。校前にバス停があることから、バス通学の生徒も少なくない。本校の領域には、附
属竹早小学校、附属竹早幼稚園もあるが、隣にある竹早高校は学芸大学附属ではなく都立高校であり
無関係である(但し以前は校地や校舎を共有しており、現在も本校からの進学者がある。東京学芸大
学附属高校には半数以上の生徒が進学できるがレベルは高い。兄弟校として、附属世田谷・附属大泉
・附属小金井の3校がある。


■小石川郵便局

 小石川4丁目4番2号にある。


■吹上坂

 小石川4丁目6番と19番の間を北に上がる坂道。別名「かむろさか(禿坂)」昔、

   吹上坂                        小石川4‐14と15の間
   
この辺りを吹上村といった。この土地から名づけられたと思われる。

   
吹上坂は松平播磨守の屋敷の坂をいへり(改選江戸志)

   なお、別名「禿坂」の禿は河童に通じ、都内六ヶ所にあるが、いずれもかっては近くに古
   池や川などがあって寂しい所とされている地域の坂名である。この坂も善仁寺前から宗慶
   寺極楽水のそばへ下り、坂下は「播磨たんぼ」といわれた水田であり、しかも小石川が流
   れていた。
   この水田や川は鷺の群がるよき場所であり、大正時代でもその面影を止めていた。

   雑然と鷺は群れつつおのがじし あなやるせなき姿なりけり  古泉千樫
                 郷土愛をはぐくむ文化財  
               文京区教育委員会  平成元年3月


■手塚良仙屋敷跡

 小石川4丁目10番10号アカデミーハイツのところにあった。『鉄腕アトム』で知られる国民的
漫画家手塚治の曽祖父。彼は蘭方医として小石川種痘所の創設に貢献した人。治の漫画『陽だまりの
樹』にその生き様が描かれている。治が医者の家の子でなかったら、鉄腕アトムは発想していなかっ
たろう。空想科学マンガだが、極めて医学的だもの。
 手塚良仙(光照)の子。本名は光享。良庵を名乗り緒方洪庵の適塾入門。福沢諭吉らと交友。江戸
に帰って大槻俊斎、伊東玄朴らとお玉ヶ池種痘所を設立。
父の跡を継ぎ良仙と改名し、幕府歩兵屯所
付医師となり、維新後、第二本帝国陸軍軍医となる(大尉相当官)。西南戦争に従軍、現地九州で赤
痢に罹り、長崎陸軍病院にて没す。


■印刷工芸高等学校
 廃校
 → 日本プリンティングアカデミー
 小石川4丁目10番10号アカデミーハイツのところにあった私立校。大正11年共同印刷株式会
社元社長大橋光吉によって、印刷技術者養成を目的として「精美堂印刷学校」の名で開校した。昭和
10年「印刷青年学校」と改称。同12年共同印刷実務青年学校開校。同23年財団法人「私立印刷
工芸学校」と改称。同26年学校法人「印刷工芸高等学校」と改称。同55年までは存在したが、そ
れ以後についてはインターネットで検索しても0件だ。恐らく廃校になったのだろう。移転、改称な
ど一切判らない。
 より高い教養と人格の練成に力を注ぐと共に、技術教育を通じて勤労に対する正しい信念を確立し、
国家並びに社会の要望する品位高く責任を重んずる教養の深い印刷工業人の育成に努めることを建学
の精神としていた。印刷技術の教育は特に実習を重視し、そのために設備の充実に力を注いでいた。
募集人員僅かに40名1学級で経営を度外視し、少数精鋭主義で高度の印刷教育を実施し成果を上げ
た。入学と同時に製版関係、印刷関係、製本、一般の優良会社に勤務することが出来、給与を受けな
がら修学できる特典があった。

 と書いたら、ある方からメールを頂戴しました。

   初めまして。いつも興味深くページを拝見させて頂いております。
   先程、文京区は小石川の項を眺めていました所、「印刷工芸高等学校」のその後について
   杳として知れずとの事でしたが、1978年(昭和53年)4月1日に「日本プリンティ
   ングアカデミー」と名称変更がなされております。その事は
   http://www.kyodoprinting.co.jp/company-profile/100ani/kp100.html
   上記URLにある「共同印刷100年の歩み」と言うページにある年表でご確認頂けます。また
   「日本プリンティングアカデミー」にはWEBサイトがあり
   http://www.jpa.ac.jp/ このURLで御覧頂けます。御節介ながら御注進と言う事にて
   失礼いたします。

 で、その後 →日本プリンティングアカデミー 小石川4丁目13番2号に記載。
 


梵音山慈照院
 小石川4丁目12番6号にある曹洞宗の寺。寛永八年(1631)伝通院の姉慈照院の孫の中山五
平次が開基となり、白雲慈眼を開山とし、慈照院の菩提寺として建立。赤い山門を入ると境内の正面
に本堂、庫裏は右、墓地は左だ。緑の多い寺で都会では珍しくなったお寺らしい寺。静寂な和の庭園
は素晴らしい。

 
辰巳屋惣兵衛の墓
 惣兵衛は本名を平井辰五郎といい、伝通院前茶漬飯屋の主。壮年のころは任侠を以て知られ、後狂
言神楽を工夫し、江戸の祭礼には必ずといってよいほど顔を出したといわれ、文政四年(1821)
に89歳の長寿を全うした。戒名は、快楽遊仙居士。墓は台石に「辰巳屋」と刻み、その上に3基の
墓石が並ぶ。左右の石には代々の戒名が彫ってある。ところが中央の墓石は面白いんだ。昭和5年刊
の『大東京の史蹟と名所』の表現を借りるなら「老人の振袖姿にて娘風に扮し、舞踊せる姿を刻して
いる」というものだ。同書の表題は『「舞踊姿浮彫墓」一風変わった墓石だ』。一風変わった墓だか
ら紹介されたのだろう。

   辰巳屋惣兵衛の墓               慈照院 文京区小石川4‐12‐6
   江戸中期の遊侠人で、本名は平井辰五郎といった。伝通院に居住して、茶漬け飯・田楽豆
   腐屋を開業した。しかし、店は家人任せ、もっぱら、遊侠の生活にふけっていた。
   辰五郎は生来、踊りが好きで、若い頃から暇をみては、踊りに時を費やした。特に踊りの
   名声を高めたのは、女装して面白おかしい所作をとりいれてからである。
   山王権現社、神田明神社のほか、江戸市中の各神社の祭礼での活躍はいうにおよばず、大
   名邸での宴会の余興にも招かれるようになった。そのような時、自分は遊戯のために踊る
   のであり、といって金銭を受け取らなかったという。
               郷土をはぐくむ文化財  
                文京区教育委員会            平成10年3月


■神社

 小石川4丁目12番6号、慈照院の南角にある小祠。
 


仲台山医王院光円寺
 小石川4丁目12番8号にある。創建年代は不詳だが、天平十三年(741)行基菩薩が創建した
と伝えられる。その後伝通院開山了誉上人が浄土宗に改め中興開山したという。

   芝増上寺末、小石川久保町
   中臺山医王院光円寺、境内三千坪内二反二畝廿九歩伝通院領年貢地
   起立之儀相知不申候得共元禄六酉年二月書上よると天平十三年行基菩薩起立し候其後・・
   ・・(中略)伝通院開山了誉上人中興当寺開山而浄土宗と相成申候。
   開山行基菩薩天平二十に年二月二日寂。
   中興開山了誉上人応永廿七年九月廿七日寂。
   本堂六間半七間半。本尊薬師如来木立像丈七寸五分行基作六阿弥陀元本元ハ堂ニ有之候。
   ・・・(中略)十二神木立像丈一尺五寸行基作。善導大師、円光大師。熊野権現、丈五寸
   二分坐像行基作。大黒天、丈七寸二分行基作。地蔵六対、今ハ三体有之元別堂有之候、当
   時本堂ニ安置。韋駄天。焔魔王、坐像丈一尺三寸二分行基作。阿弥陀如来、信本尊ト唱丈
   二尺五寸恵心僧都作。本堂薬師如来有候安永年中伝通院ヨリ寄附。開山行基自作像丈一尺
   五寸。中興了誉上人座像、丈同。
   観音堂 間口四間三尺奥行三間。子安観世音、立像行基作丈二尺五寸。
   地蔵堂、間口四尺奥行六尺。地蔵尊、石立像丈一尺二寸(御府内寺社備考)


 墓地に跡見花渓(跡見学園の創立者、南画家)、吹田順助(ドイツ文学者)鹿都部真顔(狂歌師)
の墓がある。

 鹿都部真顔の墓(しかつべまがお)
 江戸時代の狂歌作者。通称は北川嘉兵衛。鹿津部真顔とも。紀真顔、狂歌堂、万葉亭、四方歌垣、
四方真顔など、多くの別号があり、恋川好町の戯号では洒落本、黄表紙を書いた。江戸数寄屋橋門外
で汁粉屋を営む。早くは天明二年(1782)の「三囲社頭狂歌」に狂詠がみえる。翌三年の『万載
狂歌集』『狂歌若葉集』にも入集、はじめ、元木網門下で「落栗連」に属していたが、同四年ごろ、
四方赤良(大田南畝)の「四方側」に入り、らに同年中に算木有政らと「スキヤ連」を結び、主宰者
となった。狂歌評判記『俳優風』(天明五年か?)では、後年確執を生じた宿屋飯盛(石川雅望)が立
役巻頭、真顔は巻軸におかれて称揚されている。同七年頃には、馬場金埒、頭光、飯盛と共に「狂歌
四天王」と称されるにいたった。寛政三年(1791)に冤罪により江戸払いとなった飯盛に対し、
真顔は寛政六年に赤良から四方姓を譲られ、四方真顔と号し、以後没するまで狂歌壇の雄たる存在と
なった。文化五年(1808)頃より、狂歌は天明振りをよしとする飯盛に対して、真顔は鎌倉・室
町期の狂歌こそが本来の姿であるとして、和歌に接近した狂歌=俳諧歌を提唱し、飯盛との間に論争
を生じる。また真顔は狂歌の点料で生計をたてた最初の人でもあり、化政期には門人は3000人と
いわれ、その勢力範囲は北は陸奥から南は九州にまで及んでいた。しかし性格には尊大なところがあ
り、文政十一年(1823)京都の縉紳家より宗匠号を贈られてからは水干烏帽子をつけ、堂上的な
態度で人に接したと伝えられるが、その俳諧歌は面白味に欠け、一般からは親しまれなかった。晩年
は家庭的にも恵まれず、貧窮のうちに没し、万巻の蔵書は散逸した。

 跡見花渓の墓
 幕末明治期に活躍した女性画家、教育者。跡見女学校(跡見学園)の創始者。摂津国西成郡木津村
(大阪市西成区)生まれ。名は竜野。父重敬は寺子屋を営む。母は幾野。12歳の時石垣東山に書を
学び、その後禎野楚山について画を学ぶ。安政三年(1856)年京都に遊学し、詩文、書法を頼山
陽門下の宮原節庵に、画を円山応立、中島来章、日根対山に学ぶ。同五年には大坂中之島の父の私塾
を助け。慶応二年(1866)京都に私塾を開く。明治3年東京に移住。宮中の女官教育に当たる。
同5年には宮中に召され昭憲皇太后の御前で揮毫した。同8年東京神田猿楽町に跡見女学校を開く。
同23年上野美術会にて御前揮毫する。代表作に「四季花卉図」(跡見学園蔵)がある。

 
吹田順助の墓
  明治~昭和時代のドイツ文学者。明治16年12月24日生まれ。東北帝大農科大学(東北大)
予科、東京商大(一橋大)、中央大などの教授を歴任。札幌で有島武郎と交遊。文芸思想史を研究し
ヘッベル、ヘルダーリンなどの作品を翻訳。昭和38年7月20日死去。79歳。東京出身。東京帝
大卒。号は蘆風(ろふう)。著作に「近代独逸(ドイツ)思潮史」など。
 


■小石川四丁目児童遊園

 小石川4丁目13番1号にある区立公園。昭和54年9月19日開園。


■日本プリンティングアカデミー
 小石川4丁目13番2号にある。昭和53年印刷工芸高等学校を廃し「日本プリンティングアカデ
ミー」開校。同55年法人名も日本プリンティングアカデミーに改称。印刷及び関連業界の支援によ
りグラフィックメディアに関する本邦唯一の学校となった。平成20年開校40年目(創立から86
年目)を迎え、1000名以上の卒生が全国各地で企業のトップ(経営者)・中堅幹部・第一線の
営業マン・エンジニアとして活躍している。


石川山善仁寺

 小石川4丁目13番19号にある浄土真宗大谷派の寺。


共同印刷争議事件
 小石川4丁目14番17号にある共同印刷の大正期における労働争議。大正13年5月不況下の中
で我が国最大の印刷工場は博文館印刷所第二工場から出火、工場・倉庫・日本書籍会社等が燃えて、
20数台の印刷機と活字を焼失した。職場を失った工員たちは職場集会を開いて団結、それが始まり
だった。この印刷所は明治30年博文館主大橋佐平、自社の書籍・雑誌を印刷するため、共同印刷の
前身である博文館印刷工場を京橋区竹川町(銀座6丁目)に創設、翌年小石川区久堅町(現本社所在
地)に移転し、合資会社博進社工場と改称した。同38年博文館印刷所と改名し、これを機に博文館
の印刷工場から脱皮して独立した印刷会社となった。大正7年には株式会社に改組している。同14
年社長大橋光吉は欧米に渡って、焼失工場に据える最新式印刷機及び製本機械・自動針金背綴機を買
い付けて帰国、量産態勢を作り上げた。この年の暮、光吉が創設した美術印刷中心の精美堂と合併し
て「共同印刷株式会社」を設立、工員995名+一般社員1143名を擁する規模となり、関連子会
社を含め一大印刷村の中核が小石川に出現した。
 同15年1月会社側は自動化に伴う操業と不況を理由に隔日出勤と時間短縮を発表した。19日職
工側は2000人に膨れ上がった従業員が集まり、評議会系の出版労働組合の指導の下に翌日から罷
業(ストライキ)決行に打って出た。これに対し会社側は全員の解雇を通告、21日には全員に書留
郵便で解雇通知を発送して工場を閉鎖した。昔の経営者は程度の低い守銭奴が多かったので、子供じ
みた意地ばった態度に出たものだ。こうした険悪な状況の下、2月1日職工たちは生活基盤確保のた
め工場への押しかけを図り、警察隊と衝突、大乱闘となり、140名の検挙者を出し、警官200名
負傷という事態となった。富坂署は逮捕者で溢れ、演武場までも留置場に当てる始末。続く4日にも
職工300名と警察隊の激突があり、まさに泥沼の様相を呈した。
 この騒動で、博文館以来共同印刷に印刷製本を依頼していた出版社が支障を懐になり、小石川での
大手版元大日本雄弁会講談社の雑誌『現代』『婦人倶楽部』などに影響が出て、ダイヤモンド社の社
長石山賢吉が調停役となった。しかし会社側は3日付で新規社員の募集を始めていたことなどから職
工側は態度を硬化し、若手アナキスト系組合員は次々と検挙され専務宅放火事件に至った。石山の調
停は2月19日労使ともに、日給の半額支給、工場規約の改正、職長会解散など10ヶ条で折り合い
がついた。翌20日にその手打式を行うことになっていたが、会社側は突如中止した。新規採用組と
切り崩しで裏切らせた職工らに「われわれを見捨てる」のか吊るし上げられたからだ。会社側は第二
の争議、新労組誕生を恐れて妥協しなかったのだ。長期化に伴い、職工側は生活資金と争議資金に苦
しみ、厳しい警察の監視の下で発狂者や自殺者を出し、脱落する者も少なくなかったが、3月18日
石山が再び調停し、会社側が12万円を職工側に渡し、200名を復帰させることにより、妥結を見
るに至った。この争議が、戦前における我が国労使双方にもたらした教訓は、誠に大きく労働運動姿
史の中で大正期の総括でもあった。
 共同印刷は、その後アメリカ製オフセット印刷機械・輪転機などの設備投資を行い、人員整理に成
功し、昭和3年以降の出版不況を乗り切って今日がある。


■大日本印刷の誕生

 一方この労働争議により、その後講談社などが共同印刷への発注を取りやめた関係上、その受注先
となった秀英社と日清印刷らが、この大型大量印刷に対応すべく合併し、大日本印刷が誕生した。以
後共同印刷は大日本印刷に後塵を拝して大きく水をあけられることとなり、天変地異でも起こらない
限り追い越すことは未来永劫ありえないといわれている。漁父の利とはまさにいいえて妙だわい!


■吉水山朝覚院
宗慶寺

 小石川4丁目15番17号にある浄土宗の寺。応永二十二年(1415)浄土宗の中興の祖了誉聖
冏(りょうよしょうげい)上人が極楽水といわれる湧き水の辺りに庵を開き伝法院寿経寺としたこと
を起源とする。伝通院の元となった寺だ。慶長七年(1602)に家康の生母於大の方が没し、伝通
院寿経寺を菩提所とする下命があったが、境内地が狭く、新たに一寺を建立して移し菩提所とした。
それが伝通院寿経寺だ。
 その後家康の側室だった茶阿局(ちゃあのつぼね)が宗慶尼と称し、ここで元和七年(1621)
に没するまでを隠栖していたことから、彼女の法名「朝覚院殿貞誉宗慶大禅定尼」に因んで朝覚院宗
慶寺と称するようになった。徳川家の家紋三葉葵が金色に輝いてるよ。山号の吉水は極楽水のこと。

 茶阿局の墓碑
 本堂階段左脇にある宝篋印塔。遠江国金谷の生まれで、百姓の出身であるという。鍛冶屋の八蔵に
嫁いで一女をもうけたが夫が口論の末殺されたことから、鷹狩に来た家康に犯人を直訴したという逸
話がある。その後、家康の側室となり、辰千代(忠輝)・松千代の双子を産んだ。聡明な女性で、晩
年の家康に仕え、家康が没するまでの間、終始看護を担い死に水をとったといわれる。家康死後に落
飾し「朝覚院」と号し、その後、駿府城から江戸に移って、宗慶寺に隠棲、死去した。

   茶阿局墓碑                        (小石川41517)
   この墓碑は、元和七年(1621)の年紀を持つ古い宝篋印塔。太平洋戦争により、宗慶
   寺は大きな被害を受けたが、当時と檀信徒の絶大な協力で、この墓碑は、旧観を今に残し
   ている。葵の紋が鮮やかである。
   茶阿局は駿河(静岡県)の人で、徳川家康の側室として、家康の六男忠輝(松平)の生母
   となった。家康の没後、髪をおろして朝覚院と称し、飛騨高山に  中の忠輝を案じなが
   ら元和七年六月十二日、没した。
   法名「朝覚院殿貞誉宗慶大禅定尼」にちなんで、寺は宗慶寺と称するようになった。この
   寺の創建は古く、応永二十二年(1415)と伝えられ、家康の生母伝通院(於大の方)
   の墓所のある伝通院とゆかりの深い寺である。
      浄土宗 吉水山朝覚院宗慶寺
                郷土愛をはぐくむ文化財   
              文京区教育委員会 昭和63年3月

 野口勝一の碑(珂北野口先生之碑)
 明治時代の政治家。嘉永元年十月生まれ。自由民権論に共感し、茨城県会議員を経て、明治25年
衆議院議員(当選3回、自由党)。茨城日日新聞社長。書画をよくし、蝦蟇(がま)の絵が得意だっ
た。明治38年11月23日死去。58歳。茨城県出身。茨城師範卒。号は珂北また北厳。


■極楽水

 小石川4丁目16番の小石川パークタワーマンションの敷地ところに、整備された湧水があり、区
の説明板が貼り付けてある。『文京区の歴史』の宗慶寺、共同印刷松栄グラウンド(マンション)の
2ヶ所と書いてあるが、寺の方は石碑だけで、極楽水はマンションのところだけだと、寺の方でいっ
てらぁね。

   極楽水(ごくらくすい)      文京区小石川4-16 小石川パークタワー敷地内
   ここは、了誉聖冏上人(りょうよしょうけいしょうにん)が、応永二十二年(1415)
   伝通院の元ともなった庵を結んだ所で、後に吉水山宗慶寺の境内となった。現在の宗慶寺
   は、すぐ下にある。『江戸名所記』に、
    小石川吉水の極楽の井は、そのかみ 伝通院の開山了誉上人よし水の寺に おわせし
    時に、竜女形をあらわして上人にまみえ奉り、仏法の深き旨を求めしかば、上人はす
    なわち 弥陀の本願、他力の実義を ねんごろにしめし賜うに その報恩としてこの
    名水を出して奉りけり
   とある。現在の極楽水は、小石川パークタワーの手によって近代風に整備されたものであ
   る。
              文京区教育委員会 平成5年10月


■播磨坂・都道環状3号線
 
松平播磨守頼隆の屋敷地だったところを南北に分断するかのように、広々とした道路が東西に45
0mばかり走っており、4丁目と5丁目の境界をなす。この道が坂道になっているので松平頼隆の官
名播磨守に因んで播磨坂と命名した。この道路は、戦後新設の計画道路で未完の環状3号線(外苑東
通り)の一部なのだ。今、新宿区の柳町辺りだから全部が通じるまでとなると後50年はかかるだろ
う。果たしてその時東京はあるのか?


   
播磨坂
   この道路は、終戦後の区画整理によって造られたもので、一般にいわれる環三道路(環状
   3号線)である。
   かつて、このあたりは松平播磨守の広大な屋敷のあった所である。坂下の底地一帯を「播
   磨たんぼ」といい伝えており、この坂道もこの土地の人は播磨坂とよんでいる。
   昭和35年頃、「全区を花でうずめる運動」が進められ、この道路も道の両側と中央に樹
   令15年位の桜の木約130本が植えられた。そして地元の婦人会の努力によって、「環
   三のグリーンベルト」は立派に育てられている。昭和43年から桜まつりが行われ、文京
   区の新名所となった。

                文京区教育委員会 昭和53年3月

   
環三通り桜並木の由来
   かつて、この辺りは常陸府中藩主松平播磨守の上屋敷で、坂下には千川(小石川)が流れ、
   「播磨田圃」といわれた田圃があった。戦後にできたこの坂は、播磨屋敷の跡地を通り、
   「播磨田圃」へ下る坂ということで、「播磨坂」とよぶようになった。
   坂の桜並木は、戦後間もない昭和22年地元の人たちが植えたのが始まりである。同28年
   には小針平三氏他、有志からの苗木寄贈により桜並木が生まれた。その後、並木植樹帯の整
   備が進み、平成7年には装いを新たにした桜並木が完成した。
   昭和43年には「さくらまつり」が地元町会・婦人会の協力で開始され、今日まで桜の名所
   として区民に親しまれている。
                文京区教育委員会  平成8年3月


 「哲学者」「地下水」
 さくら並木内にある掛井五郎のオブジェ。

 
「はるのうた」
 さくら並木内にある山本正道の彫像。どこかでみたような・・・母子像。

 
「風韻」
 さくら並木内にある佐藤忠良の女性像。 


■さくらまつり
 
文京区5大花まつりというのがある。播磨坂は道の両側に桜樹が植えられており、区では「文京の
桜並木」とか「環3の桜並木」と呼んでまつりのメイン会場としている。なるほどシーズンには見事
に咲き誇ってるよ。


■高橋泥舟養家跡

 小石川5丁目1番にあった。幕末の地図に「高橋連之助」とある。泥舟の養父の包承(かねつぐ)
だ。泥舟は江戸で旗本山岡正業の次男として生まれる。幼名を謙三郎。後に精一郎。通称精一。諱は
政晃。号を忍歳といい、泥舟は後年の雅号だ。生家の山岡家は槍の自得院流(忍心流)の名家で、精
妙を謳われた長兄高橋静山に就いて槍を修行、海内無双、神業に達したとの評を得るまでになる。生
家の男子がみな他家へ出た後で、静山が27歳の若さで死亡し、跡継ぎが無かったため、山岡家に残
る妹英子の婿養子に迎えた門人の小野鉄太郎が後の山岡鉄舟で、泥舟の義弟にあたる。そしてこの2
人に加えて勝海舟が幕末に活躍したので三人を合わせて「幕末三舟」という。


■常願寺

 小石川5丁目7番5号にある浄土真宗大谷派の寺。


■第一中学校

 小石川5丁目8番9号にある区立校。
昭和22年「東京都文京区立第一中学校」として開校。都立
第五、第二女子高等学校の借数室で授業開始。生徒目黒鉱三の原図案による校章・バッジを制定。
立小石川・竹早高等学校、窪町小学校の借数室で授業。同24年第1期工事北校舎11教室完工。同
第2期工事東校舎6教室及び地階2室完工。校歌制定


 校歌「
都の最中文京の」 作詞・教頭久保次助  作曲・井上武士
  1.都の最中
(もなか)文京の
    古き所縁(ゆかり)の園の森
    燃ゆる若葉に輝けば
    此処竹早のよき丘に
    集いて学ぶ若き子の
    望みは胸に満るかな
  2.芙蓉の峯の色映えて
    秋空高く澄み行けば
    菊香
(かぐ)しく咲き匂う
    此処竹早のよき丘に
    睦みて励む若き子の
    想いは空に通うかな
  3.波風よしや荒
(すさ)ぶとも
    永久に守らん人の幸
    努めは重し嗚呼吾等
    心を磨き身を鍛え
    誠の道の一筋に
    学びの業
(わざ)に勤しまん

 同29年
第3期工事東校舎増築4教室及び地階3室完工。同30年文部省産業教育校指定。同31
年第4
期増築工事完工。同32年創立10周年記念委員会より校旗とグランドピアノ寄贈。同34年
体育館完工。同37年
第5期増築工事完工。同38年第6期増改築工事完工。同39年ミルク給食実
施。
同41年完全給食作業室完工。同42年完全給食実施。浄化措置付きプール(25m×13m)
完工。同50年
第7期校舎改築工事完工。校庭を荒木田舗装。同51年グリーンフェンス工事完了。
同52年屋上防水工事。創立30周年記念式典
。同53年教室・廊下のタイル張替工事完了。同57
年体育館舞台増改築。校舎外装、窓改装工事完了。同58年給食室工事落成。同62年開校40周
年記念式典。同63年旗掲揚ポール完成。平成5年新体育館完成。開校50周年記念式典。同8年
壁サッシ改修・屋上防水工事完了。同9年創立50周年記念式典・同窓会より校旗一式の寄贈。同1
1年給食調理室ドライシステム化改修。同12年地方自治法改正により、東京都の冠称が外れ「文京
区立第一中学校」と改修。放送室改修。同13年給食調理業務民間委託開始。新校舎屋上防水工事、
外壁塗装工事完了。

 
クラブ活動

 昭和42年都総合体育大会バスケットボール女子優勝。区総合体育大会総合優勝(男子2位・女子
1位)。同43年区総合体育大会総合優勝(男子2位・女子1位)。同44年都総合体育大会バスケッ
トボール女子優勝。区総合体育大会総合優勝(男子2位・女子1位)。同45年都総合体育大会バス
ケットボール女子優勝。同47年都総合体育大会バスケットボール女子優勝・全国大会出場。
63
年都中学校ソフトテニス選手権大会男子団体優勝、関東大会出場。平成2年都中学校ソフトテニス新
人大会男子ダブルス準優勝(原田・田中組)。


■団平坂

 小石川5丁目9番と10番の間にある、竹早公園の前を北東に下っている坂道。坂の途中にある区
の標識には、次の通り記載されている。

   団平坂(丹平坂・袖引坂)
   「町内より東の方 松平播磨守御屋敷之下候坂にて、里俗団平坂と唱候 右は先年門前地
   之内に団平と申者舂米商売致住居仕罷候節より唱始候由申伝 年代等相知不申候」と『御
   府内備考』にある。団平という米つきを商売とする人が住んでいたので、その名がついた。
   何かで名の知られた人だったのであろう。庶民の名の付いた坂は珍しい。
   この坂の一つ東側の道の途中(小石川5‐11‐7)に、薄幸の詩人石川啄木の終焉の地
   がある。北海道の放浪生活の後上京して、文京区内を移り変わって4ヶ所目である。明治
   45年4月13日朝、26歳の若さで短い一生を終わった。

   椽先に枕出させて久し振りに夕べの空に認めるかな(石川啄木)

   直筆ノート最後から2首目
                 ━郷土愛をはぐくむ文化財━
               文京区教育委員会  平成5年3月
 


■竹早小学校跡 → 竹早公園
 小石川5丁目9番1号、団平坂上にある。ここにはかつて竹早尋常小学校(竹早国民学校)があっ
た。昭和28年9月1日区立公園に整備された。公園の入口にある説明板によると、

   竹早小学校(竹早国民学校)
   昭和3年4月1日竹早小学校がこの地で開校。旧竹早町と久堅町の一部を学区として、近
   隣4校からの5年生以下の児童472名と教員14名12学級をもってスタートした。
   現在の小石川図書館とテニスコートがある場所で、校舎は木造2階建てで、校名は、所在
   地の竹早町から採った。
   校訓〝剛健、協同、勤勉〟の下に、充実した新しい学校創りを目指して、児童も教職員も
   保護者も努力を傾けた。
   残念なことに、昭和20年5月25日の空襲により校舎が焼失し、同21年3月31日、
   在校生、卒業生の愛惜の想いを残し、18年間の歴史の幕を閉じた。
   校歌(一部) 
     理想も高く伸び出づる 
     竹の剛さを健げさを
     永劫(とわ)に矜(ほこ)りの竹早校
                  ━郷土愛をはぐくむ文化財━
                文京区教育委員会  平成8年3月

 とある。


■小石川図書館
 小石川5丁目9番20号にある。
 


■神社

 小石川5丁目11番1号にある小祠。
 


■石川啄木終焉の地の碑 
一時撤去 → 隣接地に設置

 小石川5丁目11番7号宇津木家の敷地の角地に石碑が建っていた。明治45年4月13日啄木は
小石川区久堅町74番地の宇津木家の借家で27歳の短い生命を閉じた。胸を病んでの早世だった。
碑の高さは3mの角柱。昭和42年3月1日都教育委員会が建立した。碑の正面には「都旧跡石川啄
木終焉の地」と刻まれていた。碑の建つ位置は宇津木家敷地内で道路際だ。
 啄木は詩人・歌人・評論家。本名は一という。盛岡中学校を中退した後、貧困のため郷里の渋民村
の小学校で代用教員をし、地方新聞の記者となって北海道を点々とする。明治41年4月に上京し、
5月本郷菊坂町82番地の赤心館に下宿した。9月には本郷区森川町1丁目の蓋平館別荘に移る。こ
の移転は下宿代が払えなくなり、友人金田一京助の援助を受け、金田一の下宿に転げ込んだのだ。つ
いで同42年6月家族を函館から迎え、本郷2丁目18番の理髪店「喜の床」新井こう方2階に間借
りした。そして同44年8月に喜の床から久堅町へ転居し、翌年4月病没した。喜の床は新井理髪店
と改称したが、往時の建物は本郷2丁目38番9号に残っていたが、改築することになって、明治村
に移築された。久堅町の家は借家で碑の建つ宇津木家は、啄木が借りた家の家持だ。
 碑は、平成20年に、小石川宇津木マンションがサンフロンティア不動産株式会社に買い取られ、
改修工事等のため一時撤去ということで撤去したが、サンフロンティアが韓国人かなんかで、いろい
ろ難癖つけてきたとかで、再設置の予定はない。ただマンションの壁に貼られた説明板だけはそのま
まだ。ただ壁は白い塗装のコンクリートだったが、茶色いタイル張りに替わっている。

   東京都指定旧跡
   
石川啄木終焉の地            所在地 文京区小石川5丁目11番7号
                         指 定 昭和27年11月3日
   石川啄木は、明治19年2月20日(または18年10月27日)岩手県南岩手郡日戸村
   (盛岡市玉山区日戸)の常光寺で生まれた。本名を一(はじめ)という。

    盛岡中学校入学後、『明星』を愛読し、文学を志した。生活のため、故郷で小学校代用教
   員となり、のち北海道に渡り地方新聞社の記者となったが、作家を志望して上京、朝日新
   聞社に勤務しながら創作活動を行った。歌集『一握の砂』『悲しき玩具』、詩集『あこが
   れ』『呼子と口笛』、評論『時代閉塞の現状』などを著した。
   啄木は、明治44年8月7日本郷弓町の喜之床(文京区本郷2丁目38番)の2階からこ
   の地の借家(小石川区久堅町74番地46号)に移り、翌年病没するまで居住した。
   この地に移った啄木は、既に病魔に侵されていた。明治45年4月13日午前9時30分
   父一禎、妻節子、友人の若山牧水に看取られながら、結核により26歳の若さで亡くなっ
   た。法名は啄木居士。
   平成20年12月 設置                     東京都教育委員会

 再設置の可能性

 隣接の空地は国有地で、平成14年度目処に区が購入を予定している。そこに急務だった
高齢者の
ショートステイ(短期入所生活介護)施設を建設すると同時に、敷地内に啄木の歌碑を建て、
1階に
も啄木に関するパネル展示コーナーを設け、一般の人も見学できるようにする。事業者は歌碑の設置
などへの協力を条件に募る。ここに都が管理している石碑を建てるかどうかは未定。

 新たな方向に
 区は平成24年10月、歌人石川啄木の終焉の地に隣接する国有地590㎡を取得。同26年度を
目途にショートステイ(短期入所生活介護)の施設を整備し、室内に啄木に関するパネル展示などの
コーナーを設ける。施設の外には隣接地が啄木の終焉の地と示す石碑を建てる。9月補正予算案に取
得費を計上する。石碑にはこの地で詠んだ2つの歌「呼吸すれば、胸の中にて鳴る音あり。凩(こが
らし)よりもさびしきその音!」と「眼閉づれど、心にうかぶ何もなし。さびしくも、また、眼をあ
けるかな」を刻む予定だ。
  


■石川啄木顕彰室・石川啄木終焉の地の歌碑

 小石川5丁目11番8号小石川五丁目短期入所生活介護施設内に平成27年3月22日開室。直筆
原稿レプリカ・年表・写真などを展示。入場無料。
 碑材は、啄木のふるさと盛岡にある「姫神山」の姫神小桜という石。直筆原稿を陶板に再現。歌碑
に刻まれているのは、没後に出版された『悲しき玩具』冒頭の2首だ。これが啄木最後の歌とされて
いる。

   呼吸すれば 胸の中にて鳴る音あり 凩(こがらし)よりもさびしきその音!
   音眼閉づれど 心にうかぶ何もなし。さびしくもまた眼をあけるかな
 
 

■国の重要文化財
 旧磯野家住宅(銅御殿)
 小石川5丁目19番4号、放送大学の下、湯立坂(ゆたてざか)の東側にある。現在は大谷美術館
所有。明治末から大正初め、7年の歳月をかけて建てられた和風建築物。屋根と壁を銅で葺いている
ため、建築当初はあかがね色に輝いており、地元の人々はこれを「銅御殿(あかがねごてん)」と呼
んできた。壁部分を銅板貼りすることは珍しくなく、かつての筑紫・小倉城や備後・福山城に見られ
たんだよ。
 施主の山林王磯野敬は予算と工期に制限を設けないという破格の条件で腕を見込んだ北見米造(当
時21歳)に設計・施工を担当させ、木曽檜や屋久島杉、御蔵島の桑、ベルギーから輸入品とされる
微妙に凸凹のあるガラスなどぜいを尽くした材料と名工の力作により7年の歳月をかけて大正元年に
竣工した。設計にあたって施主の意向は「寺院風であること、地震に絶対倒れず、火事で燃えてしま
わないものを」ということから、構造は寺院式、組み方は耐震式、外回りは耐火式として、伝統的な
構造形式に囚われず、徹底した処置が取られている。即ち屋根を銅板葺とし、重量を軽減し耐震的と
するとともに防火的とし、その形を簡単な入母屋造り一枚屋根に作ることによって雨仕舞を充分考慮
している。また外壁の壁は同じく防火的に銅板張とする。さらに床下の構造は防湿の立場から科学的
な独特の工夫が講ぜられている。これだけ徹底した構造上計画上の科学的な設計は、近代和風住宅の
名に相応しいものだ。

 
棟梁 北見米造
 彼は只の大工じゃあない、基本計画から設計、仕様、見積、工事、施工の全般に亙って遂行する能
力を持っていた。特に木工に関しては、木材の買付、製材、加工、必要な道具の製造までの実力者だっ
た。彼の許に集まった職人の数は100人を超えたといわれている。然し考えても見ろ、それがたっ
た21歳の若造だぞ。信じられるか? 木曽の檜を一山幾らで買い付け、鍛冶屋を現場に常駐させて
材木に合わせた刃物を造り、木取りでは、曲がりを直し、時間を措いてまた直し、それを繰り返しな
がら、大変な手間暇をかけて絶対に狂わない部材を拵えた。
 それ故に材料、仕上、施工の全てに最高の水準を示し、室内装飾として絵画、彫刻、工芸を配して
木造建築の造形を身上として総ての大工技術に徹底している。その上で建具とその組子の意匠には執
念を燃やし、自ら設計し、名人と呼ばれる職人を13人も集めて作成させたと伝わる。室内の壁は2
人の名左官が11枚塗りの土蔵壁を仕上げ、関東大震災の際にも皹(ひび)一つ入らなかったという。

 
硝子障子
 当時の住宅建築では珍しく、近代化の走りで、ベルギーから輸入したといわれる微妙な凸凹のある手作りの
重いガラスを上下2枚はめて丈夫に拵えてあるが、今でも滑りがよく、狂いがないそうだ。

 

 元は平らな地面だったものを、家を奈良東大寺の二月堂のように見せたいとの考えから、前をずっ
と掘り下げて、向こうの細い山に檜の植え、東山のような雰囲気を目論んだとか。植木職人は吉野竹
次郎という宮内庁御用の名人だった。庭石の多くは伊豆石で、伊豆から船で運び陸揚げした。最も大
きいものは、四国から取り寄せた大岩で、夜中に牛4頭で引いて運んだと伝えられている。新幹線の
車両を運ぶのと同じ発想だよ。

 

 さらに趣向を凝らしている。米造は「金をかけずに、誰にもできない立派な門を残そう」と考えて
木場に出向き、重しにしていた薪にするような材木を買ってきて、鉋屑で何日も燻し、植木屋に磨か
せて自分一人で組見上げた。絶対に狂いが生じないように工夫したせりを釣らせた屋根には、人の目
を引くために受け木を1本も通さず、扉は楠の一枚板を使っている。そして門柱は、四谷丸太という
曲がったものばかりを使い、石の中にほぞを1尺ぐらい入れるなど、地震に対して万全の構造を持た
せている。

 
隣接地野村不動産マンション建設問題

 貴重な戦前の建物が失われていく東京で、この「銅御殿」は関東大震災にも耐え、空襲からも免れ、
歴代所有者の維持管理により、極めて良好な状態で保存され続けて今日に至り、国の重要文化財に指
定されて、消滅の危機を乗り越えて保存されることになった。しかるにそのすぐ北隣で野村不動産が
地上14階・地下2階建の高層マンションの建設計画を臆面もなく打ち立てたから、さあ大変。この
文化財にどのような悪影響を与えるのか? 工事に伴う振動や騒音、地下掘削などによる、文化財へ
の悪影響はないのか? 高層建物によるビル風の影響は文化財に損傷を与えないのか?――いろいろ
と危惧されている。
 天下の野村不動産は、森ビルに劣らぬ私利私欲のデベロッパー。隣接地に銅御殿があることに目を
付けての建設計画だ。文化財や日本の美などは糞食らえ、頓着などはない。とにもかくにも金が儲か
りさえすれば、それで吉。見かけはともかく精神的なる悪徳業者だ。
 これが江戸時代なら、礼儀としてこんな計画は発想もしない。元々計画地も磯野
邸の内なのだ。
村不動産の社長始め野村の人間は、人間として真人間に戻るべきだ。

 ●
大岩

 牛4頭で引いて運んだ巨大な庭石で、これがマンション建設敷地との境目に据えてある。国の重要
文化財なので野村の方でも文化財保護法に抵触する恐れがあって勝手には動かせない。これが動かせ
ないとマンション計画は一頓挫する。
 日本では古代から、尊いものがある場所に「クラ」という言葉を使ってきた。「磐座(イワクラ)」
とは、「尊いものが降りてくる岩」の意だ。尊いものとは、先祖の霊であったり或いは土地に関わる
神霊だ。大岩は神霊や祖霊が現れ出てくるところに目印として置くものだ。一定の時に、一定の方向
から、一定の場所に、必ず降りてくる神霊や祖霊がいる。その霊に会うために、磐座という岩を置い
て信仰の対象としたのだ。六本木ヒルズが龍神池を潰して祟られているように、神霊を蔑ろにすると
祟られるぞ。
 


■久堅公園
 小石川5丁目27番1号にある区立公園。昭和26年11月1日都立公園として開園。同28年4
月1日区立公園となった。
 


【後楽】(こうらく)1~2丁目                   昭和39年8月1日
 小石川村。寛永の頃水戸藩邸となり明治維新に至る。明治5年小石川町を起立、陸軍東京砲兵工
廠が設置された。同11年「郡区町村編制法」により小石川区に所属。昭和12年その砲兵工廠が
小倉に移転すると「後楽園スタジアム」が設けられ、プロ野球のメッカとなった。同22年文京区
所属。同39年新住居表示により春日町1丁目・小石川1丁目・市兵衛河岸・新諏訪町・諏訪町・
江戸川町・大和町をあわせた町域を現行の「後楽」とした。
 2丁目にあった古代地中海の彫刻や壷・ランプなどを展示する「古代地中海美術館」は閉鎖?
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『文京区史』『文京の歴史』など。

 後楽の由来
 水戸徳川家上屋敷の庭園「後楽園」があったことによる。後楽の語源は「小石川後楽園」の項に
記述してある。


■水道橋駅

 後楽1丁目3番42号にある都営地下鉄三田線の停車場。昭和47年6月30日日比谷~巣鴨間延
長開業と同時にできた。ホームは島式1面2線構造で、白山通りの地下2階にある。ホームと改札階
を結ぶエレベーターは設置済み。改札は2ヶ所で、出口はA1~A6の6ヶ所だ。JRの駅とは神田
川を挟んだ位置にある。乗換には交差点を渡った上に橋を渡る必要があるので、雨の日には傘が必要
だ。東京ドームシティへの最寄り駅の1つで巨人戦開催日には特に混雑する。
 


■「遊」

 後楽1丁目3番61号東京ドームのエントランス白山通り側にある蓮田修吾郎のオブジェ。文化勲
章受章の鋳金家による作品。危ういバランスで連なる5つの立方体がアーチパイプに支えられている
様がユーモラスでもあり「遊び」を思わせる。


■「コスモスフラワー」
 後楽1丁目3番61号東京ドームの東南角のエントランスにある、木のような、きのこのような造
形物。黒田アキ(黒田明比呂)の作品。

 
白い石のオブジェ
 コスモスフラワーの奥に二つある。一部を加工した大理石が横たわっている。 


■藤田東湖先生護母致命之処の碑
 移設
 後楽1丁目3番40号の東南の角地先白山通り路上辺りに、茨城県人連合会によって建てられたも
のの、通りの拡張に際して道路上の障害物として撤去され、「小石川後楽園」内に移された。現在、
近く(後楽1-3-40)の白山通りの歩道上に区の説明板が建ててある。
 安政二年(1855)十月二十日江戸に大地震が起こった。世にい「安政の大地震」だ。この時東
湖は母を護ろうとしてこの地で圧死した。すなわち「護母致命之処(母を護らんとして死に致るのと
ころ)」だ。東湖は、勤皇家で水戸学派の儒者として名高い。幼名を武次郎、通称を虎之助・誠之進、
名を彪(たけき)といい、東湖は号だ。水戸藩士として彰考館総裁代理・郡奉行・江戸通事を歴任、
藩主継嗣問題では下士改革派の中心となって活躍し、斉昭を擁立した。結果斉昭が藩主になると、側
用人(秘書課長)に任じられて藩政に参与した。現在の東京ドームから小石川後楽園の一帯は水戸徳
川家の上屋敷だったところだ。東湖もここに住み、安政の大地震の被害者となった。

   藤田東湖護母致命のところ
   幕末の勤皇家藤田東湖は、水戸の藩士で、徳川斉昭の信任も、きわめてあつかった。
   弘化元年(1844)藩政改革に尽力したが、それが幕府の疑惑を招き、斉昭は謹慎に、
   東湖は蟄居の身となった。後に許され、斉昭は藩政に復帰し、東湖は江戸詰めを命ぜられ
   小石川の水戸藩邸に住み、側用人となった。
   安政二年(1855)大地震がおこり、藩邸が倒壊した。東湖は母を助けて外に出たが、
   母がその時、火鉢の火が危ないと、再び屋内に引かえした。東湖は母を救い出そうと家に
   戻った時、鴨居が落ちてきた。東湖は下に母を囲い、肩で鴨居を支え、かろうじて母を外
   に出した。しかし東湖は力つき、その下敷きになって圧死した。
   その場所は白山通りで、そこに記念碑があったが、拡幅工事のため道の中になってしまっ
   た。そこでその碑は、後楽園庭園内に移された。
                  ━郷土をはぐくむ文化財━
               文京区教育委員会   平成11年3月
    


■後楽園球場
 解体 →東京ドーム
 後楽1丁目3番61号にあった。大正から昭和にかけてスポーツの王座は、相撲と野球だった。野
球は早慶戦を中心とした東京五大学(のちに東京大学を加えて六大学)、春・夏の中等野球(高校野
球)、職業人の都市対抗野球に幅広い人気があった。昭和7年ごろから読売新聞の正力末太郎らが中
心となってプロ野球結成の動きが進み、さらにホームラン王ベーブ・ルースの来日などが刺激となっ
て、同9年に至って大日本東京野球倶楽部(巨人)が生まれ、同11年になると阪神、阪急など7球
団ができた。そこで東京でのプロ野球専用球場設置が叫ばれ、同年11月九州小倉に移転した小石川
砲兵工廠の跡地に株式会社後楽園スタジアムが発足、昭和12年9月11日完成した。予てからフラ
ンチャイズ制を提唱していた河野安通志・押川清の尽力により、東京巨人軍の正力松太郎や阪急の小
林一三らの出資を仰ぎ、球場直属の野球部である後楽園イーグルスの本拠地として竣工した。しかし
正力が最大の出資者となったため、東京巨人軍が優先使用権を獲得し、イーグルスは二番手に甘んじ
た。ほどなくして球場と球団の不和によりフランチャイズは解消され、昭和15年頃からは完全に東
京巨人軍のホームグラウンドとなり、昭和5年から平成までのプロ野球を支えた。30000人を収
容する後楽園球場の第一試合で、高松商業→慶応大学出身の水原茂が記念となる第一号ホームランを
放った。併し間もなく戦時体制となり、球場内は野菜畑と高射砲陣地と化した。
 戦後はアメリカ軍に奪い取られ、同21年4月になって漸く早慶戦が行われると、間もなくプロ野
球の試合も復活した。
昭和25年にはナイター設備を設置。昭和33年には両翼を拡張(78m→9
0m)するなど施設の整備に努めた。両翼90mと表示されたが、実測は85mほどであり、外野に
向って下り勾配となっており、打者ーにとって有利な球場として知られた。そのため両翼・センター
の距離表示が消去されたという経緯もある。ちなみに王貞治の通算本塁打記録を球団がギネスブック
に登録申請したが、日本の野球場がメジャーに比べて狭過ぎるとの理由から認められなかった。昭和
25年代は読売ジャイアンツ、国鉄スワローズ、毎日オリオンズ、大映ユニオンズ、東急フライヤー
ズの5球団が本拠地として構えるなど日本一の球場の名を縦(ほしいまま)にした。昭和35年代は
国鉄が明治神宮野球場、東急が駒沢球場、大毎(大映と毎日が合併)が東京スタジアムへと移転する
ものの、巨人戦の膨大な観客動員数に支えられ、野球のメッカとしての不動の地位を占めた。特に日
本最多のホームラン数を誇る王貞治は節目となるホームランの多くをこの球場で達成した。特に昭和
52年の756号新記録(ハンク・アーロンの世界記録755号)、同53年世界初の800号はこ
の球場で達成された。記録づくめの球場も老朽化とドーム球場の要望とにより解体、昭和63年「東
京ドーム球場」に生まれ変わった


■東京ドーム球場(ビッグエッグ)

 後楽1丁目3番61号にある。後楽園球場が日本初のドーム型球場「東京ドーム球場」に生まれ変
わり、一帯も東京ドームシティと呼ばれる娯楽センターとなった。後楽園の名で残っているのは地下
鉄の駅ぐらいだ。後楽園球場に引き続き東京巨人軍のフランチャイズで、平成15年札幌に移転した
日ハムファイターズもそれまで本拠地としていた。愛称はビッグエッグ。屋根は空気膜構造と呼ばれ
るもので、内部の空気圧を外部よりも 0.3%高くして膨らませている。圧力差を維持するために出
入口に手動式回転ドアやエアロックが設置されている。また隣接する小石川後楽園の日照に配慮する
ため、屋根の高さが外野方面に向かって低くなっていくように設計されている。
平成14年から「フィールドターフ」と呼ばれる新型人工芝を、野球場では日本で初めて採用した。
天然芝に近い感触の特殊な繊維とクッション材を採用し、選手の負担を軽減できる工夫を凝らしてい
る。
    建築面積 46755㎡(普段、東京ドームの面積といわれているもの)
    容  積 約 124万立方メートル
    階  数 地下2階・地上6階
    高  さ 最高部の高さ       地上59m190cm
         グラウンド面からの高さ    61m690cm
         グラウンド面       地下 5m500cm
    収容人員        55000人
    グラウンド面積     13000㎡
         両翼       100m
         外野センターまで 122m
         フェンスの高さ    4m

 
オブジェ
 ドーム前オープンスペースにあるガラス張りの四角錐(ビラミッド型)

 
王ゲート
 一塁側にある出入口。

   
OH □ GATE

 □の部分は王の一本足打法で構えた瞬間のレリーフ。

   王ゲート
   この王ゲートは、永年にわたり東京読売巨人軍の4番打者として後楽園球場の観衆を熱狂
   させ、戦後のプロ野球の黄金期を築いた王貞治氏の功績を讃えるため、昭和56年に旧後
   楽園球場の1番ゲートを王ゲートと命名し、このプレートを掲げ顕彰しました。同時に3
   番ゲートは長嶋ゲートと命名しました。

   昭和63年、東京ドーム誕生に際し、後楽園球場と共に両ゲートは姿を消しましたが、2
   枚のプレートは東京ドーム4階に移設され、その後もファンに親しまれて参りました。
   ここに東京ドーム開場10周年記念事業として、東京読売巨人軍のフランチャイズ球場で
   ある東京ドーム正面に、もう一度あの後楽園球場の王ゲート・長嶋ゲートのメモリアルプ
   レートを掲出することになり、王貞治氏を讃える王ケートは東京ドーム一塁側に、長嶋茂
   雄氏を讃える長嶋ゲートは東京ドーム三塁側に設けることになりました。
                                  平成9年3月16日
                                  株式会社東京ドーム


 
幸わせのBIGSTAR
 外周22ゲート前屋根下にあるフロアモニュメント。ユダヤの星に「天・地・春・夏・秋・冬」の6文字と中央に「啐啄」の説明が配されている。

   フロアモニュメント
   
幸わせのBIGSTAR
   この大きな星の上に立っていることを
   ほんの少し意識するだけで、
   あなたの上に
   幸せな時がおとずれることでしょう。

            天

   秋       啐啄        冬
      機が熟し、時を得て
      孵化の際、卵の内と外で
      雛鳥と親鳥とが同時に
      殻をつゝきあう、神秘的な
   夏   誕生の瞬間をとらえた言葉  春

            地

   天と地の間に在って四季の恵みに抱かれる 東京ドーム
   遥かな夢 果てしない希望を現実のものとして
   大きな感動の瞬間、瞬間を創造する東京ドーム
   幸わせのBIGSTAR
   私達の東京ドームBIGEGGそのものゝ象徴でもあります。
           麻生秀穂


 
長嶋ゲート
 三塁側にある出入口。プレートが貼ってある。

   
NAGASHIMA □ GATE

 □の部分は長島が打った瞬間のレリーフ。


   長嶋ゲート
   この長嶋ゲートは、永年にわたり東京読売巨人軍の4番打者として後楽園球場の観衆を熱
   狂させ、戦後のプロ野球の黄金期を築いた長嶋茂雄氏の功績を讃えるため、昭和56年に
   旧後楽園球場の3番ゲートを長嶋ゲートと命名し、このプレートを掲げ顕彰しました。同
   時に1番ゲートは王ゲートと命名しました。
   昭和63年、東京ドーム誕生に際し、後楽園球場と共に両ゲートは姿を消しましたが、2
   枚のプレートは東京ドーム4階に移設され、その後もファンに親しまれて参りました。
   ここに東京ドーム開場10周年記念事業として、東京読売巨人軍のフランチャイズ球場で
   ある東京ドーム正面に、もう一度あの後楽園球場の王ゲート・長嶋ゲートのメモリアルプ
   レートを掲出することになり、王貞治氏を讃える王ケートは東京ドーム一塁側に、長嶋茂
   雄氏を讃える長嶋ゲートは東京ドーム三塁側に設けることになりました。
                                  平成9年3月16日
                                  株式会社東京ドーム
 

 
永久欠番プレート
 ユニホーム型のプレートに背番号の形で、観客席の柱に貼り付けてある。順番は、右から、1(王
貞治)、3(長嶋茂雄)、34(金田正一)、16(川上哲治)、4(黒沢俊夫)、14(沢村英治)の
6枚だ。
 
沢村栄治
 昭和11~18年。昭和22年7月9日永久欠番指定。プロ野球を広めた伝説の名投手。球界初の
ノーヒットノーランを記録するなど活躍したが、戦争に持っていかれ、昭和19年12月2日27歳
の若さで戦死。
 黒沢俊夫
 金鯱(昭和11~15年)・大洋(昭和16・17年)・西鉄(昭和18年)・巨人軍(昭和19
~22年)。昭和22年7月9日永久欠番指定。30歳を過ぎ円熟期に才能を開花。戦後の選手不足
時に4番打者で孤軍奮闘した。現役中の昭和22年6月23日腸チフスで急死。33歳。
 
川上哲治
 昭和13~33年。昭和40年1月18日永久欠番指定 打撃の神様」として、巨人の4番に君臨
した。首位打者5回の好打者。監督としても前人未踏のV9達成。しかし完全な野球をしたため、他
チームもそれに倣うところとなり、「プロ野球を駄目にした男」と評された。
 
金田正一(朝鮮系)
 国鉄(昭和25~39年)・巨人(昭和40~44年)。昭和45年4月2日永久欠番指定。通算
400勝は歴代最多。決して破られることのない超人的な記録を数々と残した。400勝といっても
勝ちそうになると勝手に救援に行って勝利をもぎとるということも多々あった。 
 長嶋茂雄(朝鮮系)
 昭和33~49年。昭和49年11月21日永久欠番指定 これといった記録は残さなかったが、
「ミスタープロ野球」として人気を博し、記憶に残る、一大プロ野球ブームを巻き起こした偉大なる
人物。監督としてはパッとせず、「名選手必ずしも名監督ならず」といわれた代表。平成25年5月
5日弟子の松井秀喜と共に国民栄誉賞を受賞した。しかしこの賞は王貞治のために創設されたプライ
スなので長島が「受け取る」ということは、内心に忸怩たるものはないのか。日本人なら遠慮すると
ころだが・・・
 
王貞治(中国系)
 昭和34年~55年。平成元年年3月16日永久欠番指定。世界記録868本塁打。昭和39年度
に日本記録の55本塁打達成(現在は2位)。三冠王2回。同52年9月5日国民栄誉賞受賞(第一
号)この賞は王のために創設された。


■野球体育博物館 → 野球殿堂博物館

 後楽1丁目3番61号の東京ドーム21番ゲートの右側にある日本の野球専門博物館。法人名は、
公益財団法人野球殿堂博物館。東京ドーム内に所在し、館内には野球殿堂などがある。
野球の歴史、
科学などを紹介、展示している。またプロ野球の投手を相手としたバッターボックス体験もできる。
野球界の発展に貢献し功労者として表彰された「野球殿堂入りの人々」すべてのブロンズ製肖像レリ
ーフを飾っているほか、野球の歴史にまつわる資料を数多く収蔵、展示している日本で唯一の野球専
門博物館。野球を愛する総ての人に一度は訪れてほしい充実のベースボール・カルチャー・スペース。
 昭和31年プロ野球公式戦開始20周年記念事業として、野球博物館・記念館といったものを造ろ
うという話が起き、また、同32年に死去した、(株)後楽園スタジアム第4代社長、田邊宗英の野
球をはじめスポーツに対する功績を記念する追善事業の計画があった。この2つの話が1つとなり、
後楽園第5代社長真鍋八千代、CIAの手先として原子力発電所を日本に持ってきた正力松太郎らが
音頭を取り、さらにプロ野球だけではなく、アマチュア野球界の協力を得て、日本野球界全体で運営
する野球殿堂・博物館として、同34年6月12日「野球体育博物館」の名前で開館し、「財団法人
野球体育博物館」により運営されてきた。同63年東京ドームの完成と同時に移設。平成21年50
周年を迎えた。公益法人改革により、平成25年4月1日付けで「公益財団法人野球殿堂博物館」に
法人改組され、施設名も冒頭の名称に変更された。同財団の役員は、プロ野球球団(NPB)のオー
ナーやアマチュア野球関係者らが務めており、理事長は、開館以来NPBのコミッショナーが兼務す
ることになっている。
 館内には、野球殿堂や資料展示室、図書室などがある。野球殿堂には、殿堂入りした選手や野球関
係者の肖像レリーフが展示してある。図書室には、野球に関連する書籍・雑誌を約5万冊所蔵してい
る。

 THE HONORABRE MEN 
 野球殿堂博物館入口(東京ドーム21番出口右側)の壁面アート。プロスポーツを題材とした作品
を多く手がけるスポーツアーティスト、テッド・タナベによるレリーフ作品。プロレスのレフェリー
ではない。壁一面に動きのあるダイナミックなレリーフを楽しめる。平成8年10月10日設置。

            タイトル
   
THE HONORABRE MEN
             制作者
           テッド
・タナベ
            制作年月日
         10・10・1996
      日本野球界に多大なる貢献をされた
      方々の栄誉を称えるために制作され
      た作品です。
        制作協力:長谷製陶株式会社

 王貞治756号本塁打記念銅版レリーフ
 館内に展示されている。嘗て後楽園球場の右翼外野席ボール落下点にあったもの。

   王 貞治 756号本塁打記念碑
   1977年9月3日 王貞治選手(ジャイアンツ)は、ハンク・アーロン選手の大リーグ
   本塁打記録を超す756本塁打を後楽園スタジアムで達成しました。これを記念して、ラ
   イトスタンの756本塁打落下地点に記念碑が建てられました。1987年後楽園スタジ
   アム解体の際に取り外し、当館に寄贈されました。

 ※記念碑は、国分寺の早稲田実業高等学校前広場にもある。


■鎮魂の碑

 年間8百万人を超える人々が訪れる東京ドーム。脚光を浴びている温浴施設ラクーア。人々の歓声
と悲鳴がこだまする街の一角に、野球を愛し、野球に愛された男たちの物語がきざまれた碑がある。
「鎮魂の碑」と刻まれたこの石碑は、戦争に散華した選手の霊を慰めるために建立されたものだ。プ
ロ野球創設時から、大東京の代表、あるいはリーグの指導者として、その目で選手を送り、また、戦
死の悲報を受け止めた、当時のセントラル・リーグ鈴木龍二会長の悲願が、下田コミッショナーをは
じめ、有志各位の協力を得て、昭和56年4月に旧後楽園球場脇に建立された。昭和63年3月に東
京ドームの完成にともない現在の場所に移設された。
 昭和12年7月7日蘆溝橋事件に端を発して、次第に拡大していった日中戦争、それに続く太平洋
戦争に於て、プロ野球は多くの選手を失った。苦難の道を歩んだ初期、プロ野球に多くのファンを引
きつけた一代の名投手沢村栄治、熱血を以て知られる吉原正喜、巨人・阪神の州崎の決戦に快腕をふ
るった景浦将など、プロ野球の礎を築いた名選手の多くが、戦場に赴いたまま、終に還らなかったの
だ。日本プロ野球の草創期にその青春を燃やし、運命に翻弄された若者たち。毎年、8月15日の終
戦記念日頃になると、碑の前には季節を飾る花々が献花されます。決して忘れてはならない日本プロ
野球史の物語がこの街の一角にはある。

   鎮魂の碑

   日本野球組織
   コミッショナー
      下田武三

   あ 青芝 憲一  あおしばけんいち   巨人    立命館大学  大正 8年
     青木  勤  あおきつしむ     阪急    藤岡中学校  大正10年
     天川清三郎  あまかわせいざぶろう 南海    平安中学校  大正 8年
     荒木 政公  あらきまさきみ    阪急    長崎海星中  大正 8年
   い 池田 久之  いけだひさゆき    阪急    長崎 商業  大正10年
     石井  豊  いしいゆたか     セネタース 中京 商業  大正 9年
     石丸 進一  いしまるしんいち   名古屋   佐賀 商業  大正11年
     伊藤健太郎  いとうけんたろう   巨人    千葉中学校  大正 5年
     伊東 甚吉  いとうじんきち    阪急    瀧川中学校  大正 9年
   う 上田  正  うえだただし     阪神    広島松本商  大正 3年
   え 遠藤忠二郎  えんどうちゅうじろう 大東京   早稲田大学  大正 6年
   お 太田 健一  おおたけんいち    イーグルス 早稲田実業  大正 7年
     大原 敏夫  おおはらとしお    阪急    越智中学校  大正 7年
     岡田 福吉  おかだふくよし    黒鷲‐大和 早稲田大学  大正 6年
     岡田 宗芳  おかだむねよし    阪神    広陵中学校  大正 6年
     小川 年安  おがわとしやす    阪神    慶応義塾大  明治44年
     小野寺 洋  おのでらひろし    黒鷲    志度 商業  大正10年
     織辺 由三  おりべよしぞう    セネタース 育英 商業  大正 9年
   か 戒能 朶一  かいのうだいち    名古屋   明治 大学  大正 5年
     景浦  将  かげうらまさる    阪神    立教 大学  大正 4年
     加藤 信夫  かとうのぶお     阪神    専修 大学  大正 6年
     川村 徳久  かわむらとくひさ   阪急    関西中学校  明治44年
   き 北原  昇  きたはらのぼる    南海    立教 大学  大正 6年
     鬼頭 数雄  きとうかずお     ライオン  日本 大学  大正 6年
     国久 松一  くにひさしょういち  南海    興国 商業  大正 8年
   く 倉  信雄  くらのぶお      巨人    法政 大学  明治43年
     桑島  甫  くわしまはじめ    阪急    慶応義塾大  大正 7年
   こ 後藤  正  ごとうただし     名古屋   慶応義塾大  大正 元年
   さ 沢村 栄治  さわむらえいじ    巨人    京都 商業  大正 6年
     三田 政夫  さんたまさお     巨人    瀧川中学校  大正 8年
   し 島本 義文  しまもとよしふみ   阪急    横浜高等工  明治44年
     白木 一二  しらきかずじ     名古屋   国学院大学  大正 4年
     新富卯三郎  しんとみうさぶろう  阪急    小倉 工業  大正 4年
   す 杉山東洋生  すぎやまとよお    イーグルス 中京 商業  大正10年
   た 高野 百介  たかのももすけ    南海    立教 大学  明治45年
     田部 武雄  たべたけお      巨人    明治 大学  明治39年
   つ 辻 源兵衛  つじげんべえ     阪神    海草中学校  大正14年
   て 寺内 一隆  てらうちかずたか   イーグルス 立教 大学  大正 元年
   な 永井 武雄  ながいたけお     大東京   慶応義塾大  明治37年
     中尾  長  なかおひさし     セネタース 明治 大学  明治43年
     中河 美芳  なかがわみよし    イーグルス 関西 大学  大正 9年
     中村 三郎  なかむらさぶろう   大東京   明治 大学  明治45年
     中村 政美  なかむらまさみ    巨人    長崎 商業  大正13年
     納屋 米吉  なやよねきち     南海    法政 大学  大正 3年
   に 西村 幸生  にしむらゆきお    阪神    関西 大学  明治43年
   の 野口  昇  のぐちのぼる     阪神    中京 商業  大正11年
   は 林  安夫  はやしやすお     朝日    一宮中学校  大正11年
     原  一朗  はらいちろう     阪神    呉港中学校  大正 7年
   ひ 平林 栄治  ひらばやしえいじ   阪神    松本 商業  大正 9年
     広瀬 習一  ひろせしゅういち   巨人    大津 商業  大正11年
   ふ 福士  勇  ふくしいさむ     ライオン  青森 商業  大正 8年
     伏見 五郎  ふしみごろう     イーグルス 函館中学校  大正 8年
   ま 前川 正義  まえかわまさよし   阪神    東邦 商業  大正12年
     前田喜代士  まえだきよし     名古屋   慶応義塾大  明治45年
     政野 岩夫  まさのいわお     南海    鹿児島実業  大正 9年
     増田  敏  ますだとし      南海    鹿児島実業  大正12年
     松下 繁二  まつしたしげじ    阪神    法政 大学  大正 5年
     松本 利一  まつもとりいち    金鯱    関西中学校  大正10年
   み 宮口 美吉  みやぐちよしきち   南海    京阪 商業  大正 8年
     三輪 八郎  みわはちろう     阪神    高崎中学校  大正10年
   む 村上 重夫  むらかみしげお    ライオン  明治 大学  大正 2年
     村瀬 一三  むらせいちぞう    名古屋   享栄 商業  大正 7年
     村松長太郎  むらまつちょうたろう セネタース 浪華 商業  大正10年
     村松 幸雄  むらまつゆきお    名古屋   掛川中学校  大正 9年
   も 森 国五郎  もりくにごろう    阪神    大分 商業  大正 8年
     森田  実  もりたみのる     金鯱    飯塚 商業  大正 8年
   や 八木  進  やぎすすむ      南海    関東学院中  大正13年
   よ 吉原 正喜  よしはらまさき    巨人    熊本 工業  大正 8年
   わ 渡辺  静  わたなべしずか    朝日    小諸 商業  大正12年


   追悼
   弟進一は名古屋軍の投手。昭和十八年二〇勝し、東西対抗にも選ばれた。召集は十二月一
   日佐世保海兵団。十九年航空少尉。神風特別攻撃隊、鹿屋神雷隊に配属された。二十年五
   月十一日正午出撃命令を受けた進一は、白球とグラブを手に戦友と投球。「よし、ストラ
   イク10本」そこで、ボールとグラブと〝敢闘〟と書いた鉢巻を友の手に託して機上の人
   となった。愛機はそのまま、南に敵艦を求めて飛び去った。「野球がやれたことは幸福で
   あった。忠と孝を貫いた一生であった。二十四歳で死んでも悔いはない。」ボールと共に
   届けられた遺書にはそうあった。真っ白いボールでキャッチボールをしている時、進一の
   胸の中には、生もなく死もなかった。              遺族代表 石丸藤吉

   第二次大戦に出陣し、プロ野球の未来に永遠の夢を託しつつ、戦塵に散華した選手諸君の
   霊を慰めるため、われら有志あいはかりてこれを建つ。            有志代表 鈴木龍二

   この碑の建設にあたり
   協力したる有志の人々
         池田恒雄  
※ベースボール・マガジン社社長
         石丸藤吉  
※親和交通社長
         下田武三  
※日本野球組織コミッショナー
         鈴木龍二  
※セントラルリーグ会長
         角屋久次  
※新潟県議会議員
         保坂 誠  
※後楽園スタジアム社長
    昭和五十六年四月

 池田はベースボール・マガシン社社長、石丸は親和交通社長、下田は日本野球組織コミッショナー
鈴木はセントラル・リーグ会長、角屋は新潟県県会議員、保坂は後楽園スタヂアム社長。この顔触れ
を眺めると売名行為にしか見えない。


■クリスタルポイント
 ドーム東南のオープンスペースにあるガラス張りの三角錐型の建物。


■読売新聞とプロ野球

 読売新聞のオーナーがコミッショナーを差し置いてプロ野球を牛耳るのは、東京六大学が人気を博
し、朝日・毎日両新聞社が高校野球(当時は中等野球)に協賛して大新聞になったことによる。出遅
れた読売新聞社はプロ野球に目を付けそれを立ち上げるべく「この指とまれ!」とやった。それで読
売新聞がプロ野球の盟主を自認し巨人軍中心の組織を作り上げているって訳。この状態は読売新聞が
尊大で横暴だというよりは、他球団がだらしなさ過ぎるのだ。巨人軍におんぶに抱っこされることを
願い、何の努力も払おうとしないからだ。読売新聞社の目標は新聞の拡販で、次のターゲットは北海
道。ファイターズは大事にされるぞ。ホリエモンが外されちゃったのは、かき回されて読売新聞が盟
主の座から引きずり降ろされるんじゃないかとナベツネ(渡辺恒雄)がびびったから。新聞はインタ
ーネットシステムが商売の敵だ。それで行儀のよい楽天三木谷を持ってきてお茶を濁したってこと。
しかし三木谷は一橋、この学閥がまた一筋縄ではいかない。箱根土地(コクド)の堤康次郎を恫喝し
て現在の大学敷地を取り上げた。石原慎太郎も一橋だぞ。さてさて。
 


読売巨人軍(読売ジャイアンツ)
 
日本の職業野球球団で、日本プロ野球機構のセントラル・リーグに所属する。日本に現存する12
球団の中で最初に結成された球団でもある。親会社は読売新聞。運営法人の商号は「株式会社読売巨
人軍」だ。「巨人ジャイアンツ」という言い方は誤りで、「巨人」か「ジャイアンツ」かだ。東京都
を保護地域とし、東京ドーム球場を専用球場(本拠地=フランチャイズ)としている。また二軍(イ
ースタン・リーグ所属)の本拠地は川崎市多摩区にある読売ジャイアンツ球場だ。

 
誕生

 昭和6年読売新聞社長の正力松太郎が中心となってメジャーリーグ(アメリカプロ野球)選抜軍を
日本に招待し、全日本軍や六大学を中心とした強豪大学チームとの試合を行い興行は成功を収めた。
これを受けて正力は再度のメジャーリーグ選抜軍の招待、特に前回かなわなかったブルースの招聘を
目論んだが、そこに1つの問題が発生した。同7年に文部省が発令した「野球統制令」だ。当時の日
本は大学野球全盛であったがこの統制令によってメジャーリーグ選抜を招聘したとしても大学チーム
を対戦相手とすることはできなくなった。そこで市岡忠男、浅沼誉夫、三宅大輔、鈴木惣太郎の4人
は、その対策として職業野球チームを結成することを正力に働きかける。その結果同9年6月9日日
本工業倶楽部で「職業野球団発起人会」が開かれ、11日に創立事務所が設けられた。平行して選手
獲得も行われプロ契約第1号選手として6月6日付で三原脩、第2号選手として6月15日付で苅田
久徳を獲得しチームが形作られていった。この時日米野球の期間中のみ契約するという選手と日米野
球後に発足する職業野球団とも契約するという選手とがあった。10月15日千葉の谷津海岸に新設
された谷津球場に30名の選手が集まりチームは結成され、11月2日横浜にメジャーリーグ選抜軍
が来日し全日本軍と全国で親善試合興行を行った。試合は全日本軍の15戦全敗(他に対全東京が1
試合、日米混合が2試合)で試合内容も圧倒的だったものの、ベーブ・ルース、ルー・ゲーリックら
を擁した全米軍は読売新聞の宣伝報道もあって大きな注目を集めた。この時の1試合が草薙球場にあ
る沢村栄治像とベーブ・ルース像の元となる、沢村が1失点完投した試合だ。12月26日に全日本
軍の選手を中心にした選手19名で株式会社大日本東京野球倶楽部が結成された。
 同10年1月14日~2月3日まで草薙球場で練習を重ね、2月14日第1次アメリカ遠征に出発
する。この時「大日本東京野球倶楽部」ではチーム名として長過ぎる事からアメリカで一般的であっ
たチームのニックネームをつけることが提案され、チーム名を「東京ジャイアンツ」とした。そして
帰国後、 同11年東京巨人軍へ正式改称。これが巨人軍の始まりだ。この第1次遠征ではマイナー
リーグクラスのチームを相手に128日間で109試合を行い、田部武雄が105盗塁を記録するな
ど善戦し、対戦成績は75勝33敗1分であった。7月16日に帰国し、9月6日からは国内各地を
転戦。これが翌年以降の職業野球団の相次ぐ結成の契機となった。同11年2月14日第2次アメリ
カ遠征に出発。その直前の2月9日から「巨人軍渡米送別試合兼金鯱軍結成試合」金鯱軍(中日ドラ
ゴンズ)と3試合を行った。これが現在のプロ野球組織に属する球団同士が行った初めての試合だ。
アメリカでは1次と同じくマイナーリーグクラスのチームを相手に10州を巡回して89日間で76
試合を行い、対戦成績は42勝33敗1分だった。
 

 
〝ベーブ〟ルース
 ジョージ・ハーマン・ルース。ベーブはニックネームで「童顔」の意だ。メジャーリーグの野球選
手。〝野球の神様〟といわれていて、国民的なヒーローでもある。最初に最初に野球殿堂入りを果た
した5人の中の1人で、ホームラン50本以上のシーズン記録を初めて立てた選手でもある。昭和2
年に記録したシーズン60ホームランの記録は、同36年にロジャー・マリスによって破られるまで
34年間、また生涯通算ホームラン714本は、同49年にハンク・アーロンに破られるまでの39
年間メジャーリーグの頂上だった。しかし彼の名声は他の2人より未だに語り継がれており、常に記
憶に新しい。
 しかし、彼が日本遠征軍に参加した理由は、野球のためとは表の理由で、実際はスパイとしてだっ
た。彼が撮影した記録が、日本空襲の資料となったことは記憶に留めておかざなるめい。
 


 [戦前] 解散
 同11年には正力の働きかけもあって巨人も含めて7つのプロ球団が結成され、「日本職業野球連
盟」も結成されてた。春には日本国内で初の職業野球リーグが開始されたが、巨人は上記のアメリカ
遠征のため春季大会を欠場し夏季大会から参加。この夏季大会で計2勝5敗と惨敗を喫し、9月5日
より館林の茂林寺分福球場で緊急合宿を行った。この時の猛練習は「茂林寺の千本ノック」という名
で知られている。秋季大会は6回の小規模リーグ戦の勝ち点制で開催され5回目のリーグ戦までリー
ドしていたが6回目のリーグ戦で大阪タイガース(阪神)に並ばれる。洲崎球場で3戦制の優勝決定
戦を行い、2勝1敗でタイガースを下し公式戦初優勝球団に輝いた。同12年9月11日には後楽園
球場が開場、以来実質的な本拠地として使用した。同14年にはマニラ遠征を2度行った。これ以降
戦前は11シーズンで8度の優勝を果たし、3度のノーヒット・ノランを達成した沢村、42勝をあ
げたスタルヒン、2度のノーヒットノーランを達成した中尾碩志(ひろし)、連続無失点記録62回・
シーズン防御率0.73(日本記録)を記録した藤本英雄、プロ選手第1号三原脩、日本プロ野球史上
初の2桁本塁打や三冠王(昭和40年プロ野球実行委員会認定)を記録した中島治康らを擁して第1
次黄金時代を築いた。この間プロ野球においても第二次世界大戦による影響は避けがたく、戦時召集
により中心選手の離脱も相次いだほか、同15年9月13日にはユニフォームのマークが「G」から
「巨」に改められるなど巨人にもその影響は及んだ。遂には同19年11月10日に野球試合不可能
として会社は存続するものの営業が中止され、球団は解散となった。11月13日には国の指導によ
り日本野球連盟が改称していた「日本野球報国会」がプロ野球の一時休止声明を発表し戦前のプロ野
球は終わった。
 なお同12年と13年には、2リーグ制導入以後スタートした今日の日本シリーズに相当する年間
総合優勝決定戦(7戦4勝制)が行われ、この時は春と秋のリーグ戦がおのおの独立したシーズンと
見なされているので、12年春と13年年秋のリーグ優勝は通算のリーグ優勝として回数にカウント
されている。ただし2年とも年間総合優勝決定戦で大阪タイガースに敗れたため日本一は逃した。
 

 
沢村栄治投手

 三重県宇治山田市(伊勢市)出身。京都商業学校(京都学園高等学校)の投手として昭和8年春、
同9年春・夏の中学野球大会(高校野球全国大会)に出場。大会終了後中退して、読売新聞社主催に
よる日米野球の全日本チームに参加。中退したのは、野球部内の他の生徒による下級生への暴行事件
が明るみに出て、甲子園出場が絶望的になったためだといわれている。等持院住職の栂道節が、大日
本東京野球倶楽部専務取締役に就任する市岡忠男に沢村を紹介した。その年の暮れ草薙球場で開かれ
たメジャーリーグ選抜軍との対戦でベーブ・ルース、ルー・ゲーリッグ、ジミー・フォックスをにし
とめるなどの好投を見せた。また別の試合では、ドロップ(カーブ)を投げる時に舌を出すという癖
を見抜かれて、10失点以上のメッタ打ちに遭っている。1試合を完封に抑え一矢を報いるはずだっ
たがこれも2130連続試合出場のルーの1発を浴び、シリーズは9戦全敗に終わった。その年の暮
れ、全日本チームを基礎としたプロ野球チーム「大日本東京野球倶楽部」(東京巨人軍、読売ジャイ
アンツ)の結成(正式設立は12月26日)に参加した。プロ野球リーグ開始の同11秋、初のノー
ヒットノーラン達成。大阪タイガースとの優勝決定戦に3連投し、巨人に初の優勝をもたらした。同
12年春には24勝を上げてプロ野球初のMVPに選出されるなど、短い期間に数々の記録を打ち立
てた。大学野球全盛の時代、日本のプロ野球リーグが軌道に乗ったのは、彼の功績に負うところが多
い。3度のノーヒットノーランを達成するなど、黎明期の巨人、日本プロ野球界を代表する快速球投
手として名を馳せた。
 巨人軍第一次米国遠征の折、三宅大輔監督の指導により、物理学の梃子の作用を応用する合理的な
投球方法で、投球の際にボールを握った右腕を後方にぐんと引くバックスイングと同時に、左足を思
い切り高く空中に揚げて、その大きな反動を最大限に利用し、鋭くボールを振り抜く方法を会得し、
それまでの剛速球にさらにスピードが乗り多大な効果を発揮した。三宅監督は沢村の旧来の投球フォ
ームがこれを利用するに適していたため取り入れたという。沢村は現在でも、古い球界関係者やファ
ンから「史上最高・最速の投手だった」といわれる。その球速については数々の伝説が残っており、
今でも果たして何キロだったのかとよく議論されるが、大きく分けて「黎明期のレベルの低かった時
代だから140キロ以下でも当時の打者には凄く速く見えたのだろう」という説と、「球速は天性の
肩の強さが重要であり、沢村は手榴弾投げ78mという強肩だったから、150キロ以上投げられた
のではないか」という説に2分される。平成11年にテレビの企画で映像から球速を測定する方法で
澤村の球速は159.4キロと測定された。
 また別のテレビの企画では、実際に沢村の投球を見たことのある生前の青田昇と千葉茂が、ピッチ
ングマシーンを相手にバッターボックスに立って沢村の球はどれくらいのものであったかを思い出し
てもらうというものがあったが、最終的に青田が「これぐらいだった」と感覚で思い出した時のマシ
ーンの速度は165キロだった。青田は、

   沢村さんは捕手のミットを目がけず、ホームベースの一番前へぶつけるつもりで投げた


 という。ホームベースを狙って投げても、普通ならワンバウンドの球がベースの上でも落ちず、逆
にホップして捕手のミットに収まるといっているため、初速から終速まで球威が全く落ちなかったと
十分考えられる。この時同席していた千葉もバットを構えて打席に立ち、沢村の球速と比べている。
マシーンが繰り出す球はゆうに150キロを超えているのに、

   ベース付近でボールが落ちているので、伸びがないし速く感じない、逆に上がらな(ホッ
   プしなければ)アカン!


 さらに

   澤村さんがマウンドで投げる球バネ(ボールを指で弾く時)の音、ビシッ、ビシッという
   球バネの音がベンチまで聞こえた


 ともいう。
 しかし最初の徴兵によって中国の戦地に赴き、ボールの3倍の重さのある手榴弾を投げさせられて
肩を痛め、戦闘中、左手を銃弾貫通の負傷、マラリアにも感染し、復帰後、何度か球場で倒れた。そ
のためオーバースローからの速球を投げられなくなったが、コントロールを武器に3度目のノーヒッ
トノーランを達成した。戦後広島の外木場義郎がこれに並んでいる。その内1回は完全試合だ。
 2度目の徴兵の後は、武器としていたコントロールも失って好成績を残すことができなくなったこ
とから巨人は契約を更改せず、同19年限りで解雇された。尚戦前のプロ野球は、戦局の悪化のため
同年のリーグ戦をもって中断)。投手としての最後の出場は、同18年7月6日の対阪神戦で、3回
5失点で降板となった。記録に残る最後の出場は10月24日の対阪神戦の2‐2で迎えた11回表
1死1・2塁で6番青田昇の代打としてであり、最終打席は阪神軍投手の若林忠志の初球を打って三
塁ファールフライだった。本人は移籍の希望を持っていたが、巨人軍オーナーから「沢村は、巨人の
沢村で終わるべきだ」と諭されての引退となった。
 同19年陸軍伍長(下士官の最下位 兵長の上)として3度目の応召中の12月2日、乗っていた
輸送船が台湾沖で米潜水艦により雷撃され戦死。2階級特進で兵長となる(記録のまま。曹長の誤り
か?)。享年満27歳没 。プロ野球通算63勝22敗、防御率1.74。
 戦死後の昭和22年7月9日巨人軍は沢村の功績を讃えて背番号14番を日本プロ野球史上初の永
久欠番に指定した(戦死から永久欠番指定までの間、今泉勝義や坂本茂が巨人の背番号14を使用し
ていた)。また同年沢村の功績と栄誉を称えて「沢村栄治賞」が設立された。阪神の豪打者影浦将と
は永遠のライバルだった。同34年野球殿堂入り。同31年6月25日第27回戦没者叙勲により勲
七等青色桐葉章追贈。
 現在までに沢村の切手が2度発行されている。まず同59年に日本プロ野球50周年記念切手3種
の内、「投手」と題する切手が沢村だ。公式に発表されていないが、巨人軍のユニフォームを着た独
特のフォームの投手であるため、モデルが沢村と確認できる。次に平成12年に発行された特殊切手
「20世紀デザイン切手」の第8集で、切手と共にシートの余白には彼の雄姿が大きく描かれてる。


 [戦後] 復活
 昭和21年に再結成し、リーグ戦再開より参加。同22年には読売新聞が経営に当たる事となり、
球団名を「東京読売巨人軍」に改称、ニックネームを「読売ジャイアンツ」とする。南海ホークスの
擡頭や、戦後の混乱で戦力確保への苦慮があり、球団史上初めて勝率5割を切るなど再開から3シー
ズン続けて優勝を逃すが、監督三原脩や「赤バット」の川上哲治、千葉茂、青田昇をはじめとする第
1次黄金時代の選手が戦地から続々と帰国してチームに復帰、また同23年のオフには南海の別所毅
彦を獲得するなどして徐々に戦力が充実。1リーグ最後の同24年には戦後初優勝を飾った。

 
分裂

 昭和24年のシーズンオフ、読売新聞社のライバルである毎日新聞(センバツ高校野球を後援)が
設立した毎日オリオンズのプロ野球参入に、後にセントラルリーグを結成するチームが読売新聞の横
暴に同調して反対、このことがきっかけとなって、読売新聞に唆された阪神・中日・松竹(現横浜)
・大洋(現横浜)・広島・西日本(解散)・国鉄(ヤクルト)からなる中央連盟(セントラル・リー
グ)と、読売新聞に弾き飛ばされた阪急(オリックス)・南海(ソフトバンク)・東急(北海道日ハ
ム)・大映(ロッテ)・毎日(ロッテ)・西鉄(西武)・近鉄(オリックス・東北楽天)からなる太
平洋連盟(パシフィック・リーグ)に分立した。読売新聞は、巨人軍を維持する理由において新聞拡
販の道具と見做して活用しており、関西の雄である毎日新聞は目の上のたんこぶだ。日本でプロ野球
を始めたのが読売新聞の正力松太郎であれば、毎日新聞などにちょっかいは出されたくないのも人情
だ。それで読売巨人軍がプロ野球機構を牛耳り、盟主を気取るのだ。

 
水原時代

 昭和25年に復員した水原茂を監督に据えて、リーグ分立1年目の同年こそ優勝を逃すものの、翌
26年からは同年に獲得した与那嶺要の活躍もあってリーグ3連覇、日本シリーズでは1リーグ時代
からの宿敵南海を3年連続で降し日本シリーズ3連覇を達成。第2次黄金時代を築き上げた。同27
年8月8日の広島11回戦の勝利で日本プロ野球史上初の公式戦通算1000勝を達成。その時点の
通算成績は1000勝518敗38分、勝率.659。 同28には初めての海外キャンプを西海岸サ
ンタマリアで行う、この年は開幕から一度も2位に転落することなく優勝、シーズンを通しての1位
独走優勝は球団史上唯一の記録となった。同29年は杉下茂を擁する中日ドラゴンズに優勝を奪われ
2位となるが、同30年にはリーグ優勝。日本シリーズでは南海ホークスとの対戦となり、1勝3敗
から3連勝して逆転日本一を達成。この頃から第2期黄金時代を支えた千葉茂、川上哲治らに衰えが
目立ち始め、水原は新旧交代を余儀なくされた。翌31年もリーグ優勝を果たし、日本シリーズでは
水原と入れ替わりに巨人を退団した三原脩監督率いる西鉄ライオンズとの対決となる。以後3年連続
して日本シリーズで対決となり、両者の戦いは「巌流島の決戦」とマスコミに喧伝された。いずれも
ライオンズに軍配が上がり、特に同33年の日本シリーズでは、第1戦から3連勝するも、第4戦か
ら稲尾和久の力投などで4連敗を喫し逆転優勝を許し、同34年もリーグ優勝は果たすが、日本シリ
ーズでは南海の杉浦の力投の前にストレートの4連敗で撃沈した。そして同35年は宿敵三原が当時
6年連続で最下位だった大洋監督に就任し、再び「巌流島の対決」と呼ばれる。大洋は三原マジック
と呼ばれた手腕によって巨人と優勝争いを演じ、ついに巨人を破ってリーグ優勝し、巨人は2位に終
わった。シーズン終了後宿敵三原に敗れた水原は勇退の已む無きに至った。
 水原の幸運は、昭和33年に長嶋茂雄、翌34年に王貞治がともに大きな期待を背負って入団した
ことだ。長嶋は1年目から本塁打・打点の2冠、打率2位と活躍し、王は初めこそ低迷したものの後
に〝世界の王〟となった。同34年6月25の阪神11回戦はプロ野球史上初めての天覧試合だが、
この試合で王・長嶋が初めて揃って本塁打を放ち、ONのアベックホームラン第1号となった。また
長嶋のこの日2本目となる本塁打はサヨナラホームランとなり勝利を収めた。

 
川上(V9)時代

 同36年川上哲治がヘッドコーチから昇格して監督に就任。1年目ながら打率と本塁打の2冠を獲
得した長嶋を中心に2位中日と1ゲーム差でリーグ優勝、日本シリーズでも南海を破って6年ぶりに
日本一を達成。しかし同37年にはこの年から一本足打法を始めた王が本塁打王と打点王を獲得した
が、長嶋の低迷と投手の駒不足もあって 混戦のセ・リーグで勝率0.515ながら4位、2リーグ分
裂後初めてのBクラスに終わる。同38には長嶋の復活と前年はに名に留まった2桁勝利投手を5名
出すなど投手陣が安定してリーグ優勝、日本シリーズではそれまで勝つことのできなかった西鉄を初
めて破り日本一になった。王と長嶋で打撃3部門だけでなく打点と本塁打の2位までをも占め、同3
9は王がシーズン記録となる55本塁打を記録するものの3位に終わる。この頃から巨人の3・4番
に固定された(両名の打順は流動的だった)王と長嶋は「ON砲」と呼ばれ、実力・人気ともに特別
な存在となっていた。また牧野茂、荒川博ら他球団出身のコーチが招かれ、同40年には金田正一が
国鉄から10選手制度を利用して移籍するなどこの年からの日本シリーズ9連覇へと続く素地が作ら
れた。また読売が金に物をいわせて形振り構わず他球団の中心選手を掻き集める浅ましさをどぎつく
して行く。

 9連覇

 昭和40~48年日本シリーズ9連覇を果たす。この時期は、一般的にV9(ブイナイン)と呼ば
れる。この記録に次ぐ日本シリーズ連覇は巨人(昭和26年から)・西鉄(昭和31年から)・阪急
(昭和50年から)・西武(同61年・平成2年から)の3連覇であり、他球団の追随を許さない大
記録となっている。また同年7月25日の中日11回戦の勝利で公式戦通算2000勝を達成、勝利
投手は宮田征典、勝ち越した後の8、9回を救援しての勝利であり、この年に巨人首脳陣が時代に先
駆けて行った投手分業制に従事した中で挙げた1勝だった。これ以来、宮田は〝8時半の男〟として
一躍注目を集めることとなる。この間、巨人はカラーテレビ普及による露出増加も相まって絶大な人
気を博し、俗に当時の子供が好きなものとして「巨人・大鵬・卵焼き」と並び称せられた。大鵬は当
時最強の横綱だ。また同時期に連載が開始した漫画『巨人の星』も人気を集め、プロ野球選手、特に
巨人軍の選手という職業は当時の子供たちの憧れの職業となった。V9の間、MVPを王は5回、長
嶋は3回受賞している。また川上監督や牧野ヘッドコーチの下でロスアンゼルス・ドジャースの戦術
「スモールボール」を取り入れ、先進的で緻密な野球が実践されたのも効果的だった。しかし野球は
ダイナミックな醍醐味を失い、勝つことのみにこだわる面白みのない野球に陥っていく。
 さて王と長嶋以外にも、金田正一・城之内邦雄・堀内恒夫・高橋一三、渡辺秀武などの投手や、森
昌彦捕手、土井正三・黒江透修(ゆきのぶ)内野手、柴田勲・末次利光・高田繁外野手など質の高い
選手が揃っていた。V9時代後半は長嶋など主力選手の高齢化と若手の台頭不足があり、前半よりも
苦戦することが多くなった。そして同49年中日に20年振りのリーグ優勝を許しV10を逸した。
この年を最後に川上監督は勇退、同時に長嶋・黒江・森も現役を引退した。OBの広岡達朗は、
   V9時代の途中当たりから、歯の浮くようなおべんちゃらをいうだけで、指導者の職責を
   果たしているといえるコーチがいなくなっていった。この頃から、選手を育てる、という
   方針はなくなりつつあった

 という。まさに矛盾の最たるもので、幸運は転じて災いになって行く。この後、巨人が連覇を果た
す機会はなくなってしまった。

 
[低迷期Ⅰ](第一次長島時代)
 昭和50年、前年に引退した長島重雄が監督に就任。「クリーン・ベースボール」のキャッチフレ
ーズを挙げたが、自身の穴を埋められず、開幕6試合目で最下位に転落するとそのまま浮上すること
が出来ず、球団史上初の最下位を経験。全球団に負け越した上に9月には11連敗という球団史上最
悪の連敗を喫し、10月15日には広島の胴上げを本拠地後楽園で許した。その年のオフに日本ハム
から張本勲、太平洋から加藤初をトレードで補強、翌51年には前年の最下位から一転してリーグ優
勝を果たす(同一監督での最下位となった翌年の優勝は史上初)。しかし日本シリーズ、では上田利
治監督率いる阪急ブレーブスに3勝4敗で敗れる。同51年は王貞治が通算本塁打数の世界新記録を
樹立。チームも独走状態で2年連続でリーグ優勝を果たすが、日本シリーズではまたも阪急に1勝4
敗で敗れた。同53年は広岡達朗率いるヤクルトと優勝争いを繰り広げる。8月末にに位のヤクルト
に4.5ゲーム差をつけ 優勝は堅いと見られていたが、9月以降成績が急降下して、ヤクルトの前に
屈した。現金なものでこの時の戦いぶりから長嶋茂雄に対して監督としての資質に次第に疑問が投げ
かけられて行くようになる。そしてシーズンオフ、当時法政大学の江川卓(すぐる)の獲得を巡り、
所謂「江川事件(空白の一日)」が起きる。この年は5月まで首位に立ったものの、6月以降は成績
が次第に降下して行き、Bクラス5位に終わる。一方で中畑清が三塁のレギュラーを獲得するなど若
手の台頭も若干見られるようになる。シーズンオフに青田昇がヘッドコーチに就任し、伊東での秋季
キャンプでは松本(匡)、中畑、江川、西本、角らを猛練習で特訓した。後に「伊東キャンプ」とし
て語られていく。
 同55年は開幕早々ペナントレースから脱落し、長嶋に対する批判はこれまでにないほど高まって
いった。シーズン後半から若手を起用して5割Aクラスを確保した。しかしながら2リーグ分立後で
は球団史上初となる3年連続V逸であり、10月21日長嶋はチームの不振の責任を取って「男のケ
ジメ」という言葉を残し詰め腹を切る。当日スポーツニッポンが「長島解任」とスクープ報道したよ
うに、読売新聞の幹部、特に増上漫ナベツネ(渡辺恒雄)専断による事実上の馘首だった。この動き
に対してファンは激怒し、読売新聞・報知新聞(スポーツ報知)の購読打ち切りを行うファンが続出
した。ナベツネは中曽根康弘を後ろ盾に虎の威を借る狐として悪評を縦にする。呆れた王も愛想をつ
かして現役を引退、巨人一筋22年の現役生活にピリオドを打った。


 ●江川事件
 昭和53年のドラフト会議前日に読売巨人軍との電撃的な入団契約を結んだ法政大学の投手江川卓
の去就をめぐる一連の騒動をいう。「江川問題」「空白の一日」ともいわれる。
 ドラフト クラウンが交渉権
 法政大学では1年目からエースとして活躍し、通算47勝は史上2位、完封数17はリーグ記録、
ベストナインにも6度選ばれ、通算奪三振数443個(当時1位、現在2位)などの記録を残した。
大学4年となった昭和52年巨人入団希望を表明。巨人側も1位指名の方針を固めていた。11月に
行われたドラフト会議では当時のドラフトは4年前と同じく抽選によって球団の指名順位を決定する
「変則ウェーバー方式」であり、この時の指名順は1番目がクラウンライターライオンズ、2番目が
巨人だった。クラウンが江川指名回避し、地元出身の門田富昭を1位指名するという情報があったた
め、江川の巨人入団は確実と思われた。しかし当時観客動員で苦しんでいた福岡市の球団クラウンラ
イターが経営再建の切り札にする目的で江川を1位指名したため、巨人は指名できなくなった。結果
次善策として早稲田大学の捕手山倉和博を1位指名にして入団契約を結んだ。これに対し江川は「九
州は遠い」という理由で入団を拒否。なお江川は巨人でなくとも関東のセ・リーグ球団であるヤクル
ト、横浜大洋からの指名であれば入団するつもりだったという。この点について江川は後に、巨人と
の対戦機会が多いことに加え、当時交際中だった後の夫人が東京在住のため遠距離恋愛を避けたいと
いう点を考慮し、「首都圏のセ・リーグ球団なら」との思いを固めていたことを語っており、クラウ
ンライターは福岡市を本拠地とするパ・リーグ球団のため、江川が望む条件とは大きくかけ離れてい
た訳だ。なお大学時代のドラフト会議の少し前から、江川と江川の父親は在籍していた高校の理事長
であり地元出身の国会議員だった船田中とその秘書の蓮実進を尋ね、プロ野球入団について相談をし
ている。

 契約拒否・渡米 空白の一日(巨人指名)
 同53年大学卒業と同時に作新学院職員という身分でアメリカに野球留学を行った。大学から社会
人野球チームに入団すると、最低2年間はプロ野球の入団指名を受けることが禁じられるため、社会
人野球への選手登録をしないで翌年も指名が可能な野球留学を選択した。10月12日クラウンライ
ターの運営会社である福岡野球株式会社は西武グループに球団を譲渡、翌54年より球団名を西武ラ
イオンズに改めることになった。新生西武は本拠地を所沢市に移転させることを発表し、本拠地が関
東から遠隔地という拒否理由を取り除いている。クラウンライターから交渉権を引き継いだ西武は引
き続き江川と入団交渉を行うも、江川の翻意はなく、11月20日を以って、西武は江川との交渉権
を喪失。江川は2日後に予定されるドラフトの対象選手としてもう1度指名を待つ身となった。
 クラウンの江川強行指名については、裏で後述の西武グループへの身売り構想と交渉があり、でき
るだけ球団を高く売るために江川との交渉権とセットで売却したいために、江川を強行指名したとす
る裏取引説もあるにはある。
 11月20日江川はアメリカ留学を突如切り上げて緊急帰国。その翌日の11月21日午前中に、
巨人は江川と入団契約を締結。巨人側は「ドラフト会議の前日は自由の身分で、ドラフト外の選手と
して入団契約可能」と勝手に解釈し、つまり問い合わせも確認もせず、ドラフト外入団という姑息な
形で契約締結を決行した。当時の野球協約では、ドラフト会議で交渉権を得た球団がその選手と交渉
できるのは、翌年のドラフト会議の前々日までとされていた。この規定は前日まで交渉を続けた場合
には、その交渉地が遠隔地だった場合に、気象の急変などによって球団関係者がドラフト会議に出席
できず、ドラフト会議に支障をきたす恐れがあるため、ドラフト会議の準備期間(閉鎖日)として設
けたものだった。また当時のドラフト対象学生は「日本の中学・高校・大学に在学している者」であ
り、当時の江川は社会人野球にも行かなかったため、野球協約の文言上では「ドラフト対象外」だっ
た。日本野球機構はドラフト対象の範囲を広げるために、同52年7月31日の改正によってドラフ
ト対象選手を「日本の中学・高校・大学に在学した経験のある者」へ改正した。しかしこの新協約は
「次回ドラフト会議当日から発効する」ことになっていた。
 以上のことから、ドラフト会議の前日の11月21日には西武の交渉権が消滅しており、「日本の
中学・高校・大学に在学した経験のある者」をドラフト対象とするのはドラフト会議が行われる11
月22日以後であると巨人は解釈し、11月21日時点でドラフト対象外選手である江川と自由に契
約できると主張した。ドラフト対象選手を在学生野球選手と社会人野球選手に限定すると解釈できる
文言になっていたことは野球協約の抜け穴だったが、これを認めればドラフトの骨抜きになるため、
セントラル・リーグ会長の鈴木龍二は巨人との契約を無効とする裁定を下した。これに対し巨人が反
発。その抗議として、翌22日のドラフト会議をボイコットした。なお江川本人は「空白の一日」を
利用した契約の詳細については当日、つまり21日の朝に聞かされたという。実際、当初はアメリカ
でドラフト会議の結果を待つ予定で、会議終了後にロスアンゼルスのリトル・トーキョーにある日本
食レストラン「ほり川」で記者会見を行う段取りも組まれていたが、直前になり父親から「とにかく
帰って来い」との電話連絡を受け、慌てて帰国してきた。この問題は江川本人には道義的責任は全く
ない。大人たち、特に読売新聞のトップの姑息さに程度の低さが見て取れる。
 他球団は江川を指名する意思は無かったとされるが、巨人の抜け駆け契約に抗議する形で江川を指
名する球団が現れ、ドラフト会議において南海、近鉄、ロッテ、阪神の4球団が1位指名した。ボイ
コットした巨人を除く残り全球団が指名しなかったのは、江川を指名しても騒動や裁判に巻き込まれ
る恐れがあるためだ。確実に取れる選手を獲得するために江川指名を回避したのだ。この年から採用
された「複数球団による重複指名→抽選」方式によって、4球団の抽選の結果、阪神が交渉権を獲得
した。これに対し、プロ野球の盟主を気取る巨人側はあくまで江川との契約の正当性を主張。「全1
2球団が出席していないドラフト会議は無効であり、阪神に江川交渉権獲得はない」と日本野球機構
コミッショナーの金子鋭に提訴し、11月23日江川卓選手の地位保全の仮処分申請を東京地裁に申
請した。また巨人のオーナーだった正力亨は江川との交渉権が認められないのであれば巨人がセ・リ
ーグを脱退してドラフト制度に左右されない新リーグを作る構想を公言。そのため、11月中旬であ
りながら翌年の開催日程も組めない非常事態に追い込まれた。

 コミッショナー裁定 阪神に交渉権
 12月21日金子は「ドラフト会議欠席は巨人側が勝手に行ったこと」とし、ドラフト会議の結果
はそのまま有効に。その上で「江川と巨人による入団契約は認めない」ことと「阪神の江川に対する

交渉権獲得を認める」ことを正式に決定した。なお日本プロ野球において3回、またはそれ以上ドラ
フト1位指名を受けたのは江川だけだ。
 金子は巨人の訴えを退けたが、翌22日のプロ野球実行委員会にて「江川には一度阪神と入団契約
を交わして貰い、その後すぐに巨人にトレードさせる形での解決を望む」という〝強い要望〟を提示
した。これは巨人による江川獲得の正当性やセ・リーグを脱退と新リーグ構想を主張する一方で巨人
の横暴を批判する主張が真っ向から対立し、今後のプロ野球運営に支障が来たす可能性が出てきた。
そのため、金子は「江川の巨人入り」という巨人の当初の目的を達成させることによって、問題の解
決を図ろうとするものだった。野球協約では新人選手の公式戦開幕前の移籍は禁止されていたが、金
子はそれを承知の上でトレードによる解決を提案した。この〝強い要望〟を公表した時、金子は「各
球団の実行委員もほぼ同意してくれた」と語っているが、阪神はこれに強く反発、球団社長の小津正
次郎も「トレードには出さない」と繰り返し発言していた。一方巨人は前記のコミッショナー裁定を
受けて27日に「空白の一日」による江川との契約を解除した。これにより阪神が正式に江川との交
渉を開始することになったが、江川サイドはトレードの確約を得られないことから阪神に不信感を抱
き、契約交渉は捗らなかった。

 トレード決着
 しかし同54年1月31日巨人・阪神両球団は、「江川は一度阪神と入団契約を交わし、即日小林
繁との交換トレードをする」と発表。阪神は最終的に金子の要望を受け入れることとなった。これは
巨人のごり押しに屈するというよりも、阪神にとって大物とはいえ未知数の新人よりも実績のある投
手を獲得できるほうが得という計算もあったようだ。実際当時のドン・ブレイザー監督も「新人の代
わりに小林か新浦を獲れるならその方がありがたい」と語っていた。また当時のセ・リーグ会長の鈴
木は、

   金子がトレードを提案した時点で、既に阪神と水面下で交渉し、江川の契約即移籍の確約
   を得ていたはずだ。つまり小津が金子の要望に反対していたのはマスコミ向けのパーフォ
   ーマンスに過ぎなかった


 と推測している。トレードの一方の当事者だった小林はキャンプ地である宮崎に渡るため羽田空港
に向かっていたが、ここで球団関係者に呼び止められ、江川との交換トレードを告げられた。球団フ
ロントの説明・説得に応じ、この日の深夜に交換トレードが正式決定された。江川の阪神在籍時の背
番号は3だった。この解決策は特例であり、慣例および前例とはしないことになった。これによって
江川は念願の巨人入りを果たしたが、ファンやマスコミからはあまりにも唐突な展開だったため、電
撃トレードと騒がれた。また江川や巨人だけでなく、江川との交渉中は「トレードはしない」と発言
していながら唐突なトレード発表をした小津も強い批判を受けることになった。しかしその後、2月
8日のプロ野球実行委員会でこのトレードの野球協約違反が再び指摘された。上記の通り金子はこの
トレードが協約違反であることを承知で要望を出していたのだが、改めて指摘されたことにより、強
い要望を全面撤回し、両者は交換トレードという形を取らず、小林は交換選手なしで阪神に移籍(契
約上は金銭トレード。江川の契約金を巨人が支払うことで相殺となった)、江川は開幕日の4月7日
に巨人に移籍とされた。江川が巨人のキャンプやオープン戦に参加できなかったのはこのためだ。金
子は強権発動の責任を取る形でコミッショナーを辞任。辞任の際に、

   次のコミッショナーは法曹関係者にするように

 と言い残して辞任した。後継コミッショナーには外交官であり最高裁判所判事を務めた下田武三が
就任した。また同じプロ野球実行委員会で巨人は一連の騒動について全面的に謝罪し、公式戦開幕か
ら5月31日までの約2ヶ月間、江川の出場を自粛させることとした。誤って伝えられることが多い
が、あくまで自粛であり出場停止ではない。江川は6月1日に一軍選手登録され、翌2日阪神戦で初
登板した。これは当時、試合出場は登録翌日からと規定されていたためで、1日の同カードで登板し
ていた小林との対決は実現されなかった。江川と小林の初の直接対決は後述の2年後に実現した。な
お現在は規定が改正され、登録当日より試合出場が可能となっている。

 その後 
 この事件をきっかけに、ドラフト制度によって選手は自分の球団を選べず、憲法が定める「職業選
択の自由」に反するのではないかという議論が巨人の親会社である読売新聞を中心に起こり、国会で
も議題に上った。昭和53年2月16日には参議院法務委員会で質疑の対象になり、鈴木龍二、三原
脩、川上哲治など球界関係者5人が参考人として呼ばれた。後年選手が球団を選べる裁量を大きくす
るために、日本野球機構は逆指名制度(平成5~19年)の導入やFA制度を導入した。
 この江川事件は世間の総攻撃を受け、裏で政治家が動いていたことなどから江川自身にはダーティ
なイメージが付いて回り、沢村、別所、金田、稲尾、杉浦のような伝説として語られる大投手、名投
手としての成績を上げられぬまま、昭和62年に引退。在籍9年、通算成績135勝72敗 防御率
3.02 奪三振1366個。引退後も暗い事件のイメージは付いて回り、監督、コーチなど指導者と
しての声は一切かかることはない。不正契約さえなければ大投手にもなったろうに、浅はかな欲、愚
かな意地が人生を曲げてしまった。阪神に入っていれば、猛烈な黄金時代を築き、引退後はプロ野球
界に君臨していたことだろう。
 現在野球解説やバライティのタレントとして食い繋いでいる。まあ幸せな方だ。
 と思ったら、事業の失敗で負債50億円を抱えて四苦八苦のどん底に堕ちたという。
 借金もないおいらは貧乏だけど幸せだなぁ~


[低迷期Ⅱ]藤田・王監督時代
 第一次藤田時代
 昭和56年藤田元司が監督に就任。王貞治助監督、牧野茂ヘッドコーチによる「トロイカ体制」が
誕生。江川卓・西本聖・定岡正二、加藤初ら先発4本柱で投手王国を形成し(江川20勝・西本18
勝・定岡11勝・加藤12勝)、4年ぶりのリーグ制覇、日本シリーズで8年ぶりの日本一を達成。
なお、この年江川は史上5人目の投手5冠王(最優秀防御率、最多勝、最多勝率、最多奪三振、最多
完封)を取ってMVP、西本は沢村賞、角三男が最優秀救援投手を獲得するなど、投手タイトル独占
を達成、藤田監督の投手中心の守りの野球の成果が十分に発揮された。打者もルーキーの原辰徳が新
人王を獲得、篠塚利夫が3割5分7厘の高打率をマークして阪神藤田平と首位打者争いをするなど若
手の台頭が目立った。翌57年惜しくも0.5ゲーム差の2位となっている。 同58年にも松本匡史
が盗塁王(この時の盗塁76はセリーグ記録)、原辰徳が打点王を獲得するなどしてリーグ優勝する
が、日本シリーズでは西武との激闘の末、3勝4敗で敗れた。このシリーズでは、サヨナラ勝ちが3
度あり、日本シリーズ屈指の名勝負といわれている。なお、テレビのプロ野球中継で現在までで最も
視聴率が高かったのは第一次藤田監督時代(平均視聴率25.5%)だった。

 王監督時代
 同59~63年の5年間は王貞治が監督として指揮をとるが、同62年に1度優勝したのみで、同
年日本シリーズは同58年のリベンジ再びと期待されたが西武に2勝4敗で敗退。同63年からは本
拠地を後楽園球場から東京ドーム球場へ移転するが、吉村禎章(さだあき)やクロマティのリタイア
が響いて2位に転落、優勝した中日に12ゲーム差をつけられ、王はその責任を取って辞任した。こ
の後王はダイエー~ソフトバンクの監督として大活躍、平成18年WBCの監督として第一回大会で
日本を優勝に導いた。

 第二次藤田時代
 平成元年藤田が監督に復帰。斎藤雅樹(20勝・防御率1.62)、桑田真澄(17勝・防御率2.
60)、牧原寛己(12勝・防御率1.79)と3本柱を中心に投手王国を形成し、チームは2位の広
島に9ゲーム差をつけリーグ優勝を達成。日本シリーズでは近鉄に3連敗から4連勝し、逆転で17
回目の日本一に輝く。第3戦、近鉄の加藤哲郎が「シーズン中より楽に投げられました」と述べた主
旨のヒーローインタビューとその後にインタビュアーの「ロッテ(その年のパ・リーグ最下位)より
も(迫力がなかった)?」との質問に、加藤が「そうですね」と答えたことから「巨人はロッテより
も弱い」と報道され、原・駒田ら巨人の選手たちはこの大逆転についてこの報道が奮起となったと述
べている。
 同2年2年連続20勝した斎藤を筆頭に、桑田・宮本和知(各14勝)、木田優夫(12勝)、香
田勲男(11勝)と5人が2桁勝利を挙げ、完投数が70(130試合中)という先発投手中心のチ
ームでペナントをリードし、吉村のプロ野球史上初となるサヨナラ優勝決定ホームランにより史上最
速で2位広島とのゲーム差が22という圧倒的な強さで2年連続のリーグ優勝を果たす。しかし雪辱
を期して望んだ西武相手の日本シリーズでは、一転して先発投手陣が崩壊、攻守共に精彩を欠き4連
敗で惨敗し雪辱は成らなかった。
 同3年は、投手陣の不調と打撃不振が響き、昭和54年以来12年振りのBクラス(4位)。シー
ズン終了後、近藤ヘッドコーチ・松原打撃コーチが、不振の責任を取る形で退団した。
 同4年は序盤の不調が響き、5月には最下位に転落するが、大久保博元とロイド・モスビーの加入、
石毛博史がリリーフエースとして頭角を現したこと等により、前半戦が終了する頃には首位に躍り出
た。しかし8月に入ると急激に失速し、終盤のヤクルト・阪神・広島との接戦の結果、最終的に2位
となるも2年連続で優勝を逃した。この年限りで藤田監督は勇退。後任には「監督浪人」中の長嶋が
13年振りに復帰することになった。巨人人気が翳りを見せたためで、長島人気に肖ろうとした訳。


 [低迷期Ⅲ](第二次長嶋時代)
 平成5年長嶋監督が復帰、背番号は現役時代自らが付けていた「3」を2つ掛け合わせた「33」
とした。同年のドラフト会議で注目されていた松井秀喜の交渉権を阪神・中日・ダイエーとの競合の
末獲得。この松井がこの後、21世紀初めにかけて、チームの顔としても、打撃の中心としても、精
神的支柱としても重要な役割を果たした。また現役大リーガーのパーフィールドやヤクルトから長嶋
一茂を獲得して3年振りのリーグ優勝を期待されたが、打撃陣の不振から3に終わった。オフに、こ
の年から導入されたフリーエージェント(FA)制度によりFA宣言をした中日の落合博満を獲得す
る。ポジションが重複し、出場機会を奪われる事に危機感を持った駒田徳広が同様にFA宣言を行っ
て横浜へ移籍した。その横浜からは自由契約になった屋舗要を獲得した。
 同6年前半は投打ともに他のチームを圧倒したが、終盤最大10ゲーム差をつけていた2位中日に
追いつかれ、シーズン最終戦(10月8日の対中日戦〈ナゴヤ球場〉 所謂「10・8決戦」)が優
勝決定戦となり、史上初の同率チーム同士による最終試合での首位決戦という優勝決定戦は日本全国
の注目を集め、各マスコミでも大きく報道。長嶋監督は「国民的行事」と称した。その試合を槙原、
斎藤、桑田の当時のエース「3本柱」の継投で、リーグ優勝を達成。日本シリーズでは、4勝2敗で
西武を破り18回目の日本一に輝く。
 同7年は近鉄の阿波野秀幸を香田勲男との交換トレードで獲得。また広島の川口和久、ヤクルトの
広沢克実をFAで獲得、また同じヤクルトを自由契約となったハウエル、ミネソタ・ツインズのシェ
ーン・マックを獲得したものの3位に終わった。逆転優勝を目指して長嶋監督が言った言葉「メイク
ドラマ」は選手の奮起を促したのは語り草。同年の最終戦で原が現役を引退。巨人一筋15年の現役
生活にピリオドを打った。
 同8年シーズン中に補強したプリトーや松井の活躍等で、リーグ史上最大の11.5ゲーム差を撥
ね返してリーグ優勝を成し遂げた。前年の雪辱を果たしたことから、「メークドラマ」とはこの年の
大逆転を指すことが多い。日本シリーズではオリックスに3連敗から1勝した時点で「メークドラマ
再び」と期待されたが、第5戦に敗れ万事休した。
 同9年西武から清原和博がFA権を行使して入団。松井と共に、ON(王・長嶋)以来の強力な長
距離砲コンビ「MK砲」として期待された。この時清原に押し出されるように落合が「長嶋監督を悩
ませることはできない」と異例の会見を開いて日本ハムに移籍していった。ロッテを自由契約となっ
たヒルマンを獲得したが、ヒルマンを含め主力選手に故障者が続出し夏場まで最下位に沈むなど大苦
戦。最終的には4位でシーズンを終了。同年オフにはドラフト1順目で慶応のスラッガー高橋由伸を
引き当てた。
 同10年前半は横浜や中日との首位争いを繰り広げるが、前半戦の勝ち頭趙成珉がオールスターゲ
ームで右肘を故障。さらにガルベスの危険球退場でチームから離脱するなどアクシデントが響き3位
に終わる。同年オフにはドラフトで上原浩治、二岡智宏が入団した。
 同11年村田真一や広澤の離脱、後半戦は清原の故障によるシーズン離脱などもあったが、20勝
を上げた上原や途中獲得したマルティネスの活躍もあり2位となったものの優勝はできなかった。シ
ーズンオフ、広沢がヤクルト時代の活躍はできぬまま自由契約となり阪神に移籍していった。
 同12年はFA宣言をしていたダイエーの工藤公康と広島の江藤智、さらに阪神のメイを獲得。長
嶋は、江藤に背番号33を譲り自らが現役時代に付けていた背番号3を25年ぶりに復活させた。松
井が4番として定着、5番にマルティネス、清原、6番に高橋を擁した打線はシーズンで投打ともに
他を圧倒して2位中日に8ゲーム差をつけてリーグ優勝。9月24日の優勝決定戦では、0対4で迎
えた9回裏、江藤の満塁本塁打で同点に追いつき、直後に二岡がサヨナラ本塁打を放ち優勝した。日
本シリーズの相手は、長嶋と共にV9時代の主軸を担った王貞治が同7年年から率いるダイエーで、
「ON監督対決」として全国的に大いに盛り上がった。シリーズは、序盤こそ2連敗からのスタート
だったが、その後一気に4連勝し本拠地東京ドームで19回目の日本一を達成した。
 同13年は正捕手候補として阿部慎之助が入団。シーズン終盤までヤクルトと優勝を争ったが2位
に終わる。同年限りで長嶋監督は勇退し、終身名誉監督に就任した。それと同時に3本柱の槙原、斎
藤両投手、そして3本柱を支えた村田捕手が引退した。監督の後任は、原ヘッドコーチと決まった。

 [低迷期Ⅳ](原・堀内時代)
 第一次原時代
 平成14年原監督と鹿取義隆ヘッドコーチは投手陣を立て直し、1年目でセ・リーグの全球団から
勝ち越してのリーグ優勝を果たし、日本シリーズでも西武を相手に球団史上初の4連勝で20回目の
日本一に輝いた。シーズンオフに松井秀喜がFA権を行使してニューヨーク・ヤンキースへ移籍して
いった。
 同15年松井に代わる大砲としてヤクルトからペタジーニを獲得。原は守備位置の問題を解決でき
ず、鹿取コーチは一任されていた投手陣を整備できず3位に終わった。シーズン終盤には9連敗を喫
するなど、優勝した阪神に15.5ゲーム差をつけられてしまったのだ。 そして9月26日原は責任
を取り辞任した。辞任をするに当たってのセレモニーも行われなかった。辞任に関して、人気のある
原監督とナベツネとの確執がマスメディアに報じられ、それに失望した巨人ファンが離れる要因とな
り、この混乱が原因で川相昌弘がコーチ就任要請を辞退して中日に移籍した。

 堀内時代
 同16年からはV9時代のエース堀内恒夫が監督に就任。生え抜きの高橋らに加え、前年までで近
鉄との契約が終わったローズ、ダイエーから膝の靭帯を断裂した後出場のなかった小久保裕紀を獲得
した。かねてより所属する清原、ペタジーニ、江藤などの様々の球団で活躍した4番打者が1チーム
に顔を揃えるという超重量打線となった。長嶋終身名誉監督に「史上最強打線」と名付けられた打線
は、事実この年に年間259本塁打のプロ野球新記録を樹立。しかし、防御率の低下により成績は前
年と同じ3位だった。近鉄・オリックスの合併問題に端を発したプロ野球再編問題では、球団スカウ
トが行った明治大学一場靖弘投手への不正な金銭授受の責任を取りナベツネがオーナー職を辞任せざ
るを得なかった。巨人を悪くしたこの悪魔は今も読売新聞・巨人軍に巣食っている。
 同17年ポジション争いをやめさせ、打順を固定することにより1年を戦う打線として「不動明王
打」と名付けたが、高橋、二岡らが軒並み故障。この年から始まった「セ・パ交流戦」では4位(セ
・リーグでは阪神に次いで2位)と好調だったものの、8年ぶりにBクラスの5位に終わった。また
原監督辞任騒動から巨人人気が一気に下降した影響により、観客動員数の減少やテレビ視聴率の低下
が起こった。そのため日テレでも巨人戦中継の延長が中止されたり、その他の放送局でも延長時間の
短縮・中止や、深夜枠での録画・ダイジェスト版放送に差し替えが起きた。この低迷によってシーズ
ン中からストーブリーグを見越した活動が表面化し、成績不振と怪我の重なったローズや清原が8月
頃からチーム編成から外れ、また初の他球団出身監督として阪神の星野仙一シニアディレクターの名
前があがった。星野招聘の報道が表面化すると球団出身者のみが監督となってきた伝統を崩すことに
一部OBやファンが反発。星野は9月10日に会見を開き、阪神に残留することを表明した。10月
5日堀内監督は成績不振の責任を取って任期を1年残して退任、翌年からの新監督として原辰徳が2
年振りに復帰することを正式に発表した。

 [復興期](原時代)
 第二次原時代
 平成18年原が再就任すると復興の兆しが見え始める。4位、1位、1位、◎1位、3位、3位、
◎1位、1位、1位、2位とまずまずAクラスを維持する。◎は日本一(平成21・24年)。
 平成27年は、序盤こそ横浜と首位争いを演じたものの、終盤はヤクルトや阪神の後塵を拝するこ
とになる。そして9月27日に東京ドームでのヤクルト戦を、1勝2敗で落としてヤクルトの優勝マ
ジック3を点灯させたことが決定打となり、10月2日にヤクルトの優勝が決定したことでリーグ4
連覇への挑戦は失敗に終わり、レギュラーシーズンは2位で終えることになった。
 クライマックスシリーズのファーストステージは、シーズン3位の阪神と対戦、2勝1敗で勝ちあ
がり。そして迎えたシーズン1位のヤクルトとのファイナルステージに挑み、初戦こそキャプテン・
坂本の2ランホームランなどもあり勝利を挙げたものの、2戦目以降は勝ち頭のマイコラス・菅野で
落とし打線も2戦目以降は26イニング連続無得点とタイムリー欠乏症、さらに守備のミスのオンパ
レードで3連敗した。最終的には1勝4敗(アドバンテージ1敗含む)で、2年連続で日本シリーズ
進出を逃す結果となった。なお、巨人が2年連続でCSファイナルステージで敗退したのはこれが初
めて。そしてCS終了後、原監督は辞任を表明し、10月19日記者会見で原監督が監督退任を正式
表明し、第一次政権と合わせて10年間の監督生活にピリオドを打った。なお、次期監督として球団
OBで野球評論家の江川卓や川相昌弘ヘッドコーチの名前が下馬評だったが、長嶋茂雄が外野手兼1
軍打撃コーチの高橋由伸を推したため、急遽監督に就任。同時に引退試合もないまま、今季限りの現
役引退も併せて発表した。

 高橋時代
 平成28年圧倒的に強かった広島に優勝をさらわれ2位。日本シリーズ予選では横浜に敗れて出場
は叶わなかった。同29年度は4位、同30年度3位。高橋は成績不振を理由に辞任を表明した。
 次期監督に原辰徳の2度目の復帰が決定。高橋は球団の特別顧問に横滑りした。

 第三次原時代
 平成31年()

■清武反乱

 平成23年11月11日清武英利巨人軍代表が、突然文部科学省において緊急記者会見を開き、読
売新聞グループ本社会長兼主筆にして読売巨人軍球団会長でもあるナベツネこと渡邉恒雄が、予め球
団が決定したコーチ人事を承認したにもかかわらず、オーナーやGMである自分の頭越しにそれを覆
したことに対し、重大なコンプライアンス違反であると告発した。11月18日こうした動きを受け
球団側が『渡邉恒雄への告発会見などにより、球界を混乱させたこと』を理由として、讀賣巨人軍の
一切の役職から清武を解任した。ナベツネはもう85歳、いい加減若い者に譲ればいいのに、年甲斐
も無く、ああだこうだと力任せにやってくる。老害だ。アメリカに魂を売ってるボケ老人。いいかげ
んにしろ! ただナベツネの後ろにはCIAがついている。一筋縄ではいかないよ。
 11月25日清武は日本外国特派員協会において会見を開き、11日の会見を前に渡邉との電話に
おいて「俺は最後の独裁者だ」と言われ「君は破滅だぞ。読売新聞と全面戦争になるんだ」と恫喝さ
れたと述べ、江川を招聘しようとした渡邉とのやり取りを公表し、渡邉が独断で巨人の集客のために
江川を入閣させようとしたことを改めて批判している。これに対し桃井は会見を聞いて、清武の解任
理由は正当であることを確信した、と述べている。
 12月5日読売巨人軍と読売新聞グループ本社は清武を相手取り、コーチ人事を公表したことや、
渡邉が独断で覆したり、役職を剥奪したなどと虚偽の事実を語り、取締役の忠実義務に反し読売新聞
と巨人の名誉を傷つけたとして、約1億円の損害賠償を求める訴えを東京地裁に起こした。巨人の白
石興二郎オーナーは「清武氏の本当の動機がGM交代に対する私怨だ」とする談話を発表した。
  12月13日清武英利が東京地方裁判所に対し、渡邉恒雄及び読売新聞グループ本社を相手取って
約7500万円の損害賠償請求と自身に対する謝罪広告掲載を求める民事訴訟を提起した。これを受
けて清武が同日記者会見を行い、「正当な手続きにて確定し、行う予定であった読売巨人軍コーチ人
事を『鶴の一声』で覆そうとした渡邉恒雄氏の行為は、監督を始めとする巨人軍内部の人間並びに巨
人ファンの皆様に対する裏切り行為に他ならない」旨の声明を発表した。
 ・一審敗訴
 平成26年12月18日東京地裁は清武側に対し160万円の賠償を命じる判決を言い渡した。ま
た、清武側の請求は全て棄却された。これを受けて清武側は翌日に控訴している。まあ妥当な判決だ
わな。CIAには逆らえないってことよ。

■原辰徳不倫揉消し1億円支払い事件
 平成24年6月20日、リーグ戦再開を2日後に控え、交流戦初優勝の勢いに乗る原巨人を衝撃的
スキャンダルが襲った。「巨人原監督が元暴力団員に1億円払っていた!」と題し、週刊文春が6頁
亘って記事を掲載。発売前日のこの日に記事内容を把握した球団人は、午前11時に桃井恒和球団社
長らが都内の事務所で緊急会見を行った。

 記事内容を要約すると、それは24年前の昭和63年の出来事。兵庫県芦屋市内にある巨人定宿の
竹園旅館でアルバイトしていた女性と、当時現役の原は深い関係になった。その後、トラブルに発展
し、女性は堕胎、平成7年阪神大震災頃に失踪し、現在も所在不明。死亡しているか韓国に居るか。
 女性の当時の心情が綴られた日記が、元同僚を通じて暴力団関係者に渡った。
 それから18年後の平成18年8月、突然、原監督の携帯電話に見知らぬ男性(川岸洋一)から電
話が入り「(不倫スキャンダルを)表に出さないように解決するから」と1億円を要求。当時の巨人
コーチの名前も2人(岡崎、緒方)書かれていることから原監督は日記と引き換えに要求を呑んだ。
日記は処分したが、同21年になって別の男性から「日記を返せ」と原監督の自宅や球団事務所が嫌
がらせを受けたことで、球団は過去の恐喝事件を把握。警察に相談し、その数ヶ月後、男は威力業務
妨害で逮捕された、というものだ。
 この女性は、原だけではなく、岡崎や緒方、その他複数の選手と関係を持っており、特に原を好い
て日記に記録したものらしい。売春婦だったのかも。もっというなら、韓国系の人々の謀略で、初め
から意図されたものかもしれない。
 球団によると、原監督が現役だった昭和63年頃の女性問題で、平成18年に2人組の男に1億円
を要求され、支払いに応じたという。併し、相手が反社会的勢力であるとの認識はなく、そのような
勢力と交際したこともないとした。球団が警視庁に聞いたところでは、2人は暴力団員ではなかった
としている。球団が問題を把握したのは同21年。当時関係者と名乗る別の男が球団事務所に現れ、
嫌がらせ行為を繰り返したことから調査に乗り出した。球団が原監督に質したところ、過去の事実を
明かし、警視庁へと届け出た。但し、21年時点で、
2人組の内1人が既に事故死していたため、原
は被害届の提出を見送ったという。どうかな?
 球団は事実と異なるとした上で、名誉毀損による損害賠償請求訴訟を速やかに起こすと発表した。
 同24年12月に球団本部は発行元の文藝春秋を相手取り、名誉毀損での3000万円の損害賠償
と謝罪広告掲載を請求する訴訟を提起したが、同27年7月に東京地裁は請求を棄却。判決では「恐
喝をした者を一般的な意味で反社会的勢力と考えるのは妥当だ」として文春報道の真実相当性を認定
した。球団は直ちに控訴。
 同27年12月26日、控訴審判決で、東京高裁は、請求を棄却した一審東京地裁判決を支持し、
巨人側の控訴を棄却した。意地になった球団はなりふり構わず上告。
 平成28年6月28日、原辰徳監督(当時)の不倫揉消し金銭問題を巡る週刊文春の報道で名誉を
傷付けられたとして、発行元の文藝春秋に損害賠償と謝罪広告の掲載を求めた訴訟で、最高裁第3小
法廷(木内道祥裁判長)は、巨人側の上告を受理しない決定、報道を真実とし巨人の請求を棄却した2審東京高裁判決が確定した。
 恐喝をしたのは元東声会暴力団員川岸洋一で、東北楽天イーグルスの川岸強選手の父親。現在は熱
海のコンパニオン旅館「離れの宿ほのか」を経営。以前は歌舞伎町でぼったくりバーを経営。昏睡強
盗などを繰り返し懲役5年。その後歌舞伎町でカジノ経営にも手をつけるが、組と金銭トラブルを起
こし破門。現在経営している「離れの宿ほのか」も以前の歌舞伎町なみのぼったくりでトラブルが多
い。売春宿としてかなり有名で韓国の歌手グループも関係している。当然在日。そういう関係から、
中畑清や野村克也とも知己で、プロ野球関係者に複数の知り合いがある。原の携帯番号を教えたのは
中畑で、本人は否定しているが何らかの取り持ちをしたのかもしれない。
 こういう事件を「ひっかけ」という。
女、行方不明、一人事故死・・・恐ろしいねぇ。

■現役巨人軍選手野球賭博事件
 平成27年10月5日巨人軍は、配下の福田聡志投手(32歳)が「野球賭博をやっていたことが
明らかになった」として、同日付で野球協約第181条に基づいてコミッショナーに告発したと発表
した。福田は、知人男性と今年8月の夏の甲子園大会や巨人戦を含むプロ野球、米大リーグの試合を
対象に賭博行為を続け、負けの金額は百数十万円になった。知人が9月30日に川崎市内のジャイア
ンツ球場に取り立てに来たことで、今回の件が発覚した。知人と福田の賭けは刑法の賭博罪に当たる
疑いもあり、球団は警察への届け出も検討する。福田は、知人を紹介した笠原将生投手(24歳)と
共に謹慎処分となった。
 まあ「永久追放」は免れないだろう。ちょっとした愚かさが自殺行為となる。

 ●さらに
 10月21日、日本野球機構(NPB)は、プロ野球巨人の福田聡志が野球賭博をしていた問題を
調査委員会(委員長=大鶴基成弁護士)が調べたところ、福田の外に、巨人の笠原将生(しょうき 
24歳)と松本竜也(22歳)の2投手も賭博行為をしていたことが分かったと発表した。
 NPBによると、笠原投手は、福田投手と賭博を誘った男性を仲介していたとされていたが、自身
も昨年4~10月にプロ野球約10試合について賭博を行ったという。松本投手は昨年6~10月に
かけ、笠原投手を介してプロ野球の10数試合で賭博を行ったという。
 福田については今年5~9月にかけて高校野球や大リーグの勝敗で賭博をしたほか、8~9月にプ
ロ野球の約10試合でも賭博をしたと認定された。NPBの調査委員会の大鶴委員長は「3選手の携
帯電話を調べたところ、削除されたメールを復元して判明した。八百長の事実は今のところ認められ
ない」とした上で、「1カ月以内に最終報告を出したい」と話した。

 ●結論
 平成27年11月9日処分を発表した。福田聡志・笠原将生・松本竜也の3選手との契約解除と、
原沢敦球団代表が管理不行き届きの責任を取って辞任。なお同時に野球協約には抵触しないが、麻雀
とトランプの賭け事で金銭の遣り取りを10人以上の選手がやっていることも公表した。膿を出そう
とする姿勢を示そうとしているのだろうが、出しゃばりナベツネが物言わんのは可笑しいだろう。
 解雇3選手は、警視庁の取り調べを受けた。日本野球機構(NPB)の調査では、直接暴力団との
接触はなく、八百長試合もなかったと発表している。ダルビッシュ有の弟翔が、暴力団との繋がりで
野球賭博の胴元をやって5000万円を荒稼ぎで逮捕されている。ダルビッシュの弟でなかったら目
を付けられることはなかったろう。
 「じゃあ暴力団を法律で壊滅してしまえばいいではないか」というか? 暴力団とは戦後、不良人
間が蔓延し跳梁跋扈した時に毎日新聞が命名したものだが、暴力団、ヤクザ組織というものは、けし
て粗暴な暴力至上主義の人間たちの集団でもなければ、極悪非道の人間たちの講中でもない。これは
民族であって、歴史を背負った人々の切っても切れない血の繋がりを持った族をいう。公安委員会は
その構成を「部落民7割、朝鮮人・中国人3割」と発表している。政治家・芸能人・スポーツ選手に
朝鮮系日本人は非常に多い。テレビで活躍している有名人の殆どがそうだといっても過言ではない。
そういった人たちの身内や友人知人に暴力団員がいたら嫌でも付き合う訳だろう。親が暴力団員とい
う元タカラジェンヌがいる。彼女は糾弾されるべきなのか? 新聞沙汰にもならないではないか。
 では何故抹消できないかというと、権力者にとって使い勝手が良いということ、その後にユダヤ資
本がくっついているということのためだ。麻薬の大元は、アメリカ軍と中国軍だ。撲滅できる訳がな
いだろう。日本も戦前、麻薬で大儲けしてた。吉田茂の養父健三は、ジャーディン=マセソン商会の
日本支社長だった。ジャーディン=マセソン商会は、東インド会社から独立して、麻薬を広東に持ち
込んで阿片戦争を惹き起こした。吉田が中国大陸で麻生太賀吉と組んで麻薬を扱い、さるやんごとな
き人のための資産形成に寄与したことは有名な話だ。現在も権力者が、直接とはいわぬまでも関わり
ないとはいい切れまい。その役に任じるのが暴力団であり、国家がある限り、人類が生存する限り、
存在し続けるのさ。その最大のものが「CIA」だ。因みにロックフェラーは麻薬売買で伸し上がっ
てきたし、CIAは、ロックフェラー家の私設調査機関を国家のものとしたものだ。

 ●NPB裁決
 平成27年11月10日熊崎勝彦コミッショナーは、福田聡志・笠原将生・松本竜也3選手に対し
て八百長行為はなかったものの、隠蔽工作を図るなど虚偽の証言をしたことを重く受け止め、無期失
格(半永久追放)とした。また管理不行き届きで、巨人軍に対して制裁金1000万円を課した。


■あ~あ 松本京介もだ!
 平成28年3月8日巨人軍は大手町の読売新聞東京本社で緊急会見を開き、「高木京介投手(26
歳)が野球賭博に関与していた」と発表した。昨年11月、野球賭博に関与した所属3投手の契約を
解除。今回で4人目の発覚となり、NPBに告発した上で、久保社長は巨人ファン、日本国民に「誠
に申し訳ない」と謝罪。この事実を受けて、白石興二郎オーナー、桃井恒和会長と、日本の老害、プ
ロ野球のガンと騒がれているナベツネこと渡辺恒雄最高顧問が責任を取って辞任した。
 この日は、キャンプ地の宮崎市で球団内に新設された「紀律委員会」による再発防止に向けた研修
会を開いた。直前に巨人で主砲を務めた清原和博容疑者が覚せい剤取締法違反(所持)で現行犯逮捕
されたこともあり、監督、選手、球団スタッフら約200人が参加して野球賭博や薬物問題について
講習を受け、世間に向けて体質改善をアピールしていたが空振りに終わった。
 高木は、巨人軍の中継ぎ投手の中心、初登板以来139試合負け知らずの記録を持つ。高橋巨人は
いきなり出鼻をくじかれることになった。
 先月29日、あの鬼の「センテンス・スプリング(週刊文春)」から高木関与の取材を受けて調査
したところ、高木は当初は「名前を貸しただけ」と言い逃れしていたが、8日家族に促されて賭博行
為を認めて発覚した。前回の調査では、賭博をするきっかけとなった笠原と口裏合わせして、名乗り
出ることはなく逃れていた。巨人軍は甘く考えていたようで厳正な調査はしなかった。
 スタルヒン事件以来、汚れに汚れ、汚れ切ってる巨人軍。綺麗になるためには讀賣新聞から離れる
ことだ。讀賣の傘下じゃあ、これから先も汚れっ放しさ。どうせCIAの手先ポダムこと正力松太郎
の作った球団だもの碌なことはないさ。ナベツネは辞めても口出しはするよ。

 
●遂に笠原将生逮捕
 平成28年4月29日警視庁はプロ野球巨人の野球賭博問題で賭け金を集金するなど賭博の胴元の
手助けをしたとして、賭博開帳図利幇助の疑いで、元巨人の投手で飲食店経営笠原将生(しょうき)
(25歳)を逮捕した。組織犯罪対策4課によると、笠原容疑者は容疑を認めている。組対4課は同
日、笠原が関わった賭博の胴元で自称無職斉藤聡(38歳)を賭博開帳図利の疑いで逮捕した。昨年
10月に発覚した巨人の野球賭博問題は、ついに刑事事件に発展した。
 組対4課によると、笠原容疑者の逮捕容疑は、14年5月~昨年8月、プロ野球の10試合程度を
対象に、松本竜也(23歳)、高木京介(26歳)両元投手に野球賭博のルールを説明し、申し込み
の仲介や賭け金の集金を行い、胴元だった斉藤容疑者の犯行を手助けした疑い。調べに対し「間違い
ありません」と容疑を認めているという。10試合程度の中に巨人戦は含まれていないという。胴元
だった斉藤容疑者の逮捕容疑は、14年3月~昨年8月、プロ野球と夏の甲子園の試合計15試合程
度を対象に、笠原容疑者、松本、高木両元選手に賭けさせて野球賭博を開き、手数料名目の金銭を徴
収して利益を上げた疑い。逮捕後の調べに「はい、分かりました」と話しているという。
 笠原容疑者は福岡市内で逮捕された後、飛行機で東京に移送された。笠原は黒っぽい上着に灰色の
スエット姿。羽田空港では頭に布を被って顔を隠した状態でカメラのフラッシュの中を歩いた。「プ
ロ野球ファンに一言お願いします」などの報道陣からの問いかけには一切答えなかった。その後、黒
い捜査車両に乗り込み、原宿署に入った。署に入る際も、車の中で頭を伏せており、表情はうかがえ
なかった。笠原容疑者は13年頃、斉藤容疑者が経営していた飲食店で知り合った。斉藤は笠原の福
岡市の飲食店の立ち上げにも関わった。
 組対4課は、笠原容疑者らが関わった野球賭博の資金が暴力団に流れていなかったかなど、賭博の
実態解明を進める。同課は、福田、松本、高木の3元選手に任意で事情を聴いており、賭博容疑に当
たるか、慎重に調べている。
 平成28年7月12日賭博開帳図利容疑で名古屋市中区千代田大学院生松永成夫(40歳)と同市
丸の内大学院生大石健太郎(26歳)を逮捕した。大石は笠原の高校の先輩に当たる。
 大学院は名古屋商科大学が濃厚。


■声だし現金授受発覚
 平成28年3月14日になって巨人軍の野手と投手が夫々試合前に円陣を組み気合を入れて試合に
臨む際、声出しした選手に試合が勝った場合5000円を渡し、負けた場合は声出しした選手が一人
1000円づつ払うというやりとりが明るみに出た。これをバクチというかどうかだが、NPBは賭
博行為にはあたらないと巨人側に伝えていたそうで、野球賭博調査の時に既に判明していたが、発表
は控えていたた。
 これに関連して、15日、阪神と西武でも似たようなやりとりがあったと発表された。ヤクルトと
中日は、そのようなことはなかったとしている。これから開幕という時に・・・元々野球選手は、大
昔の話だが、やくざだった。最近でこそ紳士だなんていっているが、日本のプロスポーツは汚いとこ
ろから始まっている。それ仕方がないといえば仕方がなかった。
 


■元巨人軍の清原和博 覚醒剤所持使用逮捕
 平成28年2月2日20時48分頃、警視庁組織犯罪対策5課は、東麻布1丁目9番11号のサマ
セット麻布イーストトーキョー12階の清原和博(48歳)家宅捜索令状を以て自宅に踏み込み、折
よくというか折悪しくというか、その時清原は手に注射器とストローを持ち、テーブルの上には白い
結晶の入った袋を置いており、捜査員がそのままテーブルの上に置くように指示、清原は素直に從っ
たので、捜査員がチェックしたところ覚醒剤(0.1g)と確認された。清原は覚悟していたのか素直
に「覚醒剤は私のものに間違いありません」と容疑を認めたため、家宅捜査を実施した後、23時覚
醒剤取締法違反(所持)の疑いで現行犯逮捕した。
 清原は、自宅から警視庁本部に移送され、その後、病院に移され診察を受けた。2日深夜TBS系
「NEWS23」で警察関係者に連行される様子が映し出された。
 清原を巡っては、平成26年3月に「週刊文春」が、薬物治療のため都内の病院に緊急入院したと
報じた。所属事務所は、入院は糖尿病治療のためと反論。清原容疑者も「私は強い決意を持って、最
後まで戦います」とコメントしていた。しかし清原の薬物疑惑はそれ以前から広く蔓延しており、既
に巨人時代から使用していたとの噂もあり、警察は数年前から擧腹をマークしていたという。親しい
友人に飛鳥(宮崎重明)がおり、入手ルートは飛鳥ではと噂されてもいた。これらを受けて5課特命
は隠密裏に内偵捜査、3交代制の24時間張り込み捜査、監視カメラ、ごみチェック、潜入捜査、聞
き込み捜査を綿密に行っていた。清原は、その頃には上半身と足首に入れ墨を入れ、同年2月の巨人
キャンプには真っ白なスーツで訪問して驚かせるなど奇行が目立ち始めていた。妻に対して切れるこ
とが多くなり、包丁を持って追い掛け回すこともあったと、妻が述懐している。球界関係者は「呂律
(ろれつ)が回らず話が聞き取りづらい」と漏らしていた。その後、野球評論家としてだけでなく、
タレントとしての露出も激減。ただ報道から1年以上が経過し、最近ではテレビ出演も増えはじめ、
今年1月11日にはヤフオクドームで行われた名球会イベントに参加し、今月中にはプロ野球のキャ
ンプ地訪問も計画していた。
 清原は平成26年8月に、同12年に結婚した亜希夫人と離婚。最愛の2人の息子の親権は亜希夫
人が持つこととなり、孤独な生活を余儀なくされた。昨年3月には四国霊場八十八ヶ所を巡る遍路の
旅に出た。自暴自棄となる中、自殺まで考えたというが「仕事が減り、周りから人もいなくなってい
った。息子2人のおかげで生きていられる。自分自身を見つめ直すため」と歩き続けた。知人による
と、その長男が野球をやめたことに大きなショックを受けていたという。情緒不安定な面も見られ、
ブログでは1月19日に飲食店で一般客の態度に腹を立て、灰皿を叩き割ったという様子を、血のに
じむ自身の手のひらの写真と一緒にアップ。先月31日には、自身の高校時代の写真を掲載し「少年
達が甲子園を夢ではなく目標にしてほしい」と記すなど、野球への愛情を記していた。PL学園では
桑田真澄との「KKコンビ」で5季連続で甲子園に出場。輝かしい実績を引っ提げ、西武入団後も1
年目から主砲として活躍した。平成20年限りで現役を引退。歴代5位の525本塁打を放ったが、
個人タイトルには縁がなく「無冠の帝王」とも呼ばれた。「記録」ではなく「記憶」に残るお祭り男
として広くファンに愛されたが、晩年はケガに泣かされ、たどり着いた先は悲しすぎる末路だった。
 図体に似合わず気の小さい男で、在日だったこと(金和博 キムファヒョル)が今日の清原を拵え
てしまったろう。巨人軍で活躍することを夢見てドラフトに臨んだが、桑田と巨人軍に裏切られて西
武に追いやられた。FAで漸く夢の巨人軍へ入団したものの、尊敬する落合博満を追い落とすことに
なってなってしまった。それにしてはプレッシャーで目覚ましい活躍はできず、平凡な選手生活に終
わった。西武に居続けていれば、その後の野球人生は変わったろうし、西武の監督にもなれただろう
に。また薬物に手を出さなくても済んだろう。FAで巨人を選択した時、悪魔に取り憑かれたのだ。
こうなることは見え透いていたね。可哀想なことは、在日は、政治家・芸能人・格闘家・スポーツ選
手・暴力団・右翼に多く、純粋日本人より悪の道に導かれやすい。島田紳助が暴力団と交際したとい
うが、在日同士の交流であって暴力団と交際したいう意識認識はないだろう。親が暴力団の子供はど
うしたらいいんだろうかね。隣が暴力団だったら挨拶してもいけないのかね。寿司職人に暴力団員は
多いが、寿司食べられないじゃん。桑田が悪いんだよ。総ては・・・
  その後判ったこと
  押収した覚醒剤は0.047gだったこと、逮捕は、群馬県で覚醒剤を入手し女性と過ごした翌日
だった。覚醒剤使用は野球関係者の間では広く知られ、生放送番組のドタキャンが続き、野球解説な
どは出演禁止対象だった。やくざに憧れるようになり、入れ墨をしたり、やくざ風の服装をするよう
になった。覚醒剤使用について友人に勧められたことがきっかけで、その行為そのものを自慢してい
たし、六本木辺りのホステスに「アフターしよう」と誘い、六本木界隈では有名だった。マンション
は超高級なウィークリーマンションで、家賃は50万円だとか。甲子園球場では清原に関する展示物
を撤去された。不思議なことは何故もっと早く踏み込まなかったということだが、飛鳥を優先し、清
原を後回しにしたためだ。
 清原は野球をやらなければ、在日でなければ、巨人ファンにならなければ、桑田が早稲田に行って
いれば、巨人に行かなければ、普通の平凡な幸せは得ただろう。今日のことは、運命がどうあれ、桑
田がどうあれ、清原の選択ミスだ。何故落合を追い落としてまで尻尾を振って巨人に行ったのか? 
もし西武に居続けて現役を退いていれば、今頃は西武の監督として〝番長〟どころか〝球界のドン〟
にもなっていたろう。裏切られた巨人に行くだらしなさ、「俺は清原だ!」というアイデンティティ
のなさ。桑田に勝てなかった克己心のなさ。総ては清原の意思の弱さだ。火病だ。

 ●密売人逮捕
 2月15日17時頃、警視庁組織犯罪対策5課は、清原に覚醒剤を譲渡したとして、群馬県みどり
市在住で、清原逮捕後行方不明になっていた無職小林和之(44歳)を立ち回り先の沖縄県内で身柄
を確保し逮捕した。逮捕理由は、1月31日午後9時頃、群馬県太田市のコンビニ駐車場の車の中で
覚醒剤約0、2gを4万円で清原容疑者に譲り渡したとしている。本人は全面否認している。

 ●清原、覚醒剤使用で再逮捕
 2月23日午前、警視庁組織犯罪対策5課は、清原が覚醒剤を使用したとして再逮捕した。清原は
使用を認めている。入手先については未だ自供していない。

 ●保釈
 3月17日19時、保釈金500万円で保釈され、そのまま挨拶は文書のみで松戸市金ヶ作107
番地1の千葉西総合病院に入院した。ここでは糖尿病の治療に当たるという。覚醒剤の治療、所謂、
「シャブ抜き」については言及がない。清原は気が弱いからまたやって捕まるだろう。

 求刑
 平成28年5月17日求刑「懲役2年6月」、弁護側は執行猶予を求めて結審。

 判決
 平成28年5月31日判決「懲役2年6月・執行猶予4年」。清原が再犯をするのは時間の問題。
週刊文春が張り込みに入るぞ。警察もそれを待っている。有名人をいじくるのは面白いからね。

 清原和博
 きよはらかずひろ。昭42年8月18日大阪府岸和田生まれ。本名金和博(キムファヒョル)。父
は民団幹部。幼児より野球に親しみ、PL学園では5季連続甲子園出場を果たし主砲として通算13
本塁打。1、3年夏に優勝、2年時の春夏連続準優勝に貢献。昭和60年ドラフト1位で西武入団。
同61年に新人王を獲得。平成8年オフにFAで巨人移籍。同16年に2000本安打、同17年5
00本塁打を達成したが、同年オフに覚醒剤使用が原因で戦力外通告を受け、仰木オリックスに拾っ
て貰って移籍。同20年現役引退した。昭和63年最多勝利打点、平成2年、同4年最高出塁率、ベ
ストナイン3回、ゴールデングラブ賞5回。オールスター出場18回。右投げ右打ち、血液型B。


■日本野球協会を作れ!

 野球の改革は簡単だ。まず日本野球協会を立ち上げて「全ての野球」をこの傘下に置く。組織序列
は協会の直下に「プロ野球連盟」を置き、その下に「社会人野球連盟」と「学生野球連盟」を併置す
る。社会人野球連盟は草野球とリトルリーグを管理する。学生野球連盟は大学野球連盟→高校野球連
盟→中学校野球連盟→小学校野球連盟を統括する。また協会の直隷団体として審判連盟、野球場連盟、
監督コーチ指導者連盟、野球具生産者連盟を置く。協会の理事等の運営者はこの協会会員の中から選
任し、野球をやる者は全て会員登録しなければならず、その資格の取得(登録)は津々浦々に置く協
会支部で簡単にできるようにする。無論プロアマの往来は自由だ。全ての野球人は一つとなれ! 
 一新聞社の拡販の宣伝材料でいる内は駄目だぁ。したり顔でごちゃごちゃほざいてる爺っつぁまは
球界から永久追放しっちまいな。老害、老害、新聞なんて廃る商売だぁな。
 


■ウィンズ後楽園
 後楽1丁目3番61号にある日本中央競馬会の場外勝馬投票券発売所。競馬が開催されている競馬
場以外で勝馬投票券を発売する場所のことだ。短縮して「場外馬券発売所」「場外馬券売場」「場外
馬券場」、通人は単に「場外」とも呼ぶ。国に認められている天下の博打場だ。以前は心悪しき人々
の溜まり場のような場末的雰囲気の場所で、若い女性が足を踏み入れるには少々恐ろしいところだっ
たが、近年は品位向上に努め、明るい雰囲気を醸し、若い女性や普通の大学生が出入りしても安心し
て出入りできる場所になった。賭場、博打場というイメージが払拭され、宝くじ売場のようになった
のは良いことなのか?・・・
 


■東京ドームホテル
 後楽1丁目3番61号東京ドームシティ(東京ドームの一帯にある施設の総称)にある。東京ドー
ムの社有地である旧後楽園球場跡地の再開発事業により、平成9年に着工。同12年6月1日に新規
開業し、アミューズメントリゾートとしての「東京ドームシティ」構想の完成を見た。地上43階建
・高さ155m・全1006室(ドームの語呂に因み)。建築設計は丹下健三で、丹下の末期の大型
作品となった。客室は9階~41階にあり、南側のパレスビュー(皇居側)と、北側のパークビュー
(東京ドーム側)に分かれる。10のレストランとバー、大小18の宴会場、屋外のガーデンプール、
絵スティックサロン、ビジネスセンターなどがある。施設の大半は、東京ドームで催行する興行ジャ
ンル若しくはアミューズメント(アトラクションズ)をイメージテーマとした内装が施されている。
東京ドーム・ラクーア東京ドームと共に東京ドームシティの中核施設であり、イベント開催時の需要
を見越して後楽園・水道橋周辺では最大級のキャパシティを誇る。

 
「平和と繁栄」
 1階ロビーにある平山郁夫の作品。日本画の重鎮、教育者としても活動し、アジア文化の保護、普
及にも尽力した平山はパブリックアートにも熱心に取り組んだ。ホテルのロビーなのでじっくり鑑賞
とはいかないが、多くの宿泊客で賑わうロビーを3体の天女が静かに見つめている陶板モザイク画。


■後楽園資料展示室

 後楽1丁目4番13号、都下水道局後楽ポンプ所の裏、後楽緑道に面してある。小石川後楽園の資
料、写真、出土品などを展示している。後楽園のものではなく、悪名高い森ビルが建てたものだそう
だ。森ビルだからなぁ。何ともいえんよ。


■日中友好会館別館・日中学院後楽寮

 後楽1丁目5番3号にある。戦前、満州国留学生のための学生寮を運営していた財団法人満州国留
日学生輔導協会が、終戦により事業遂行が不可能となって解散、昭和28年5月23日付を以て設立
された財団法人「善隣学生会館」が、同協会の残余財産と学生寮運営事業を引き継ぎいだ。
 その後、昭和39年には、中国語学習のための専修学校「日中学院」を併設し、事業内容を拡張し
ていった。同47年になると日中国交正常化により、両国の交流は各分野で急速に深まり、同48年
からは中国人留学生の派遣が開始され、受入施設の充実の必要性が高まっていった。そして同55年
に、両国首脳会談で日本側から新しい会館建設計画が示され、計画具体化の段階で財団法人善隣学生
会館の土地が新会館候補地に選定され、財団法人善隣学生会館が新会館建設の事業主体に決まった。
建設事業は両国政府合意の国家的事業として位置づけられ、両国政府はもとより、広く各界各層の全
面的支援体制の確立が不可欠のため、同58年8月31日付を以て寄附行為及び理事構成の変更(政
・財界並びに中国民間代表の理事受入れ)による法人改組を行い、法人の名称を「財団法人日中友好
会館と変更した。新会館の建設は、同59年から開始され、同60年3月中国人留学生寮(後楽寮)
及び日中学院からなる別館が完成し、次いで同63年1月事務局・日中友好会館美術館・大ホール・
ホテル(後楽賓館)・貸室などからなる本館が完成した。
 平成24年公益法人制度改革に伴い、「公益財団法人日中友好会館」へ移行した。

 
唐獅子
 後楽寮入口に一対がデンと構えている。昭和13年4月設置。張景恵が寄贈したもので、清水多嘉
示が原型を造り、明石亀太郎が彫刻した。

 
廖承志胸像
 地下2階にある。リャオチョンチー。光緒34年(1908)~1983。中国の政治家。父は廖
仲愷。母は何香凝。両親の日本留学中に生れ、暁星暁星小学校に学び、1919年帰国。国民党に入
党。1927年再び来日、早稲田大学に入学し、翌年中退。中国共産党に入党し,ヨーロッパで活動
した。1932年ソ連を経て帰国。戦後は日中国交回復に尽力、日中友好に貢献した。日中友好協会
会長。日本での評判は悪くない。平成元年に設置された。

   
廖承志先生之像

 
古井喜實胸像
 地下2階にある。明治36年鳥取県生まれ。内務官僚・政治家。事務次官、厚生大臣、法務大臣。
衆議院議員当選11回。親中派で日中友好に貢献した。平成7年逝去。12年に設置された。

   
古井喜実先生之像


■後楽公園
 後楽1丁目6番6号の小石川後楽園の北西の角にある区立公園。昭和53年4月1日開園。


■小石川後楽園
 後楽1丁目6番6号にある都立公園。水戸藩邸の回遊式築山泉水庭園「後楽園」を、現在は都立公
園としての「小石川後楽園」という。そもそも寛永六年(1629)初代藩主頼房が着手して、水戸
黄門でお馴染みの2代藩主光圀公が引継ぎ。40年の歳月を費やして漸く完成させた国指定の特別史
跡。後楽は宋の范文正の書『岳陽楼記』の中にある、


   
士はまさに天下の憂いに先んじて憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ

 という武士の嗜みである「先憂後楽」の思想に則った命名だ。大正11年岡山城の庭園が史跡名勝
に指定され「後楽園」と登録されたため、翌年後れて登録されたとき小石川を冠するしかなかった。
しかし岡山の後楽園は、明治4年に名づけられたもので、それまでは城の背にあるので「後園」と呼
ばれていた。なお日本3名園は「岡山後楽園・金沢兼六園・水戸偕楽園」だ。また水戸黄門とは水戸
徳川家の当主が副将軍・少納言となることから、通称を少納言の唐名で呼ばれるためで、代々水戸黄門
だ。因みに将軍の唐名は「大樹公」だ。
 光圀は築庭に力を注ぎ、頼房の工夫を尊重しながらも己の趣味を生かしつつ造園した。当時亡命中
だった。明の遺臣朱舜水に意見を聞き、中国様式も採り入れた。「後楽」は光圀に命じられて舜水が
選んだ選んだものだ。光圀は舜水を尊敬し学問上の師と仰いでいた。それで造園に参画させたという。
小廬山・園月橋・西湖の長堤などは舜水の提案による築造で、今もそのまま残っている。和風の中に
中国風を織り込んだのがこの庭の特色の一つだ。庭園の様式は、池を中心とした回遊式。
池の水は神田上水(小石川素堀)の水を導いた。この水が水道橋を渡って神田一円に送られた。
 3代藩主綱條(つなえだ)の時代になると、元禄十五年(1702)に改修したが、翌年の大地震
のため損傷し、庭園の景観が変わった。改修は5代将軍綱吉の生母桂昌院来園に際して行われた。桂昌
院が歩行するのに危険ということで、奇岩巨石を除去したのだが、文化に対する興味のない人は得て
して無知を露呈する。まあ森ビルが再開発と唱えて旧跡を無視して破壊するのと共通する。そのため
豪壮を極めた極めた景観が著しく減殺されることとなった。さらに享保三年(1718)7歳の宗堯
(むねたか)4代藩主を継いだ。幼少のため実父の高松藩主松平頼豊が後見した。水戸藩主的な立場
にあった関係で、頼豊は後楽園を己の好みに改造してしまった。鳴門をはじめ、金毘羅堂・八幡堂(讃
岐石清水八幡)などを造り、四国の景を採り入れ、この時園景がさらに一変したといわれている。
 幕末になって文政十一年(1819)斉昭が9代藩主になると、創造時代の方針に従って旧に復す
ことに努めた。しかしあの安政の大地震で多大の被害を受けた。維新後広大な水戸小石川邸は兵部省
ついで陸軍用地とされたが、庭園部分は陸軍の秘園として保存された。大正12年史蹟名勝に指定さ
れ、昭和11年文化財として一時期文部省管轄となり、やがて東京市に移管され、同13年から一般
公開された。現在、前述の関係から正式に「小石川後楽園」といい、特別史跡及び特別名勝に指定さ
れている。管理者は東京都。園内の建造物は関東大震災のため、唐門・西行堂・九八屋・得仁堂を除
き総て焼失した。残ったものも、アメリカ軍の空爆で得仁堂以外は全部燃やされてしまった。現在も
復元されないままだ。

   特別史跡・特別名勝
   
小石川後楽園
   江戸時代初期、寛永六年(1629)に水戸徳川家の祖である頼房が、江戸の屋敷の後園
   として造られたもので、2代目藩主の光圀の代に完成したものです。光圀は造園に際し、
   明の儒者である朱瞬水の意見を取り入れ、中国の教え(士はまさに天下の憂いに先んじて
   憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ)から後楽園と名づけました。
   庭園は池を中心にした「回遊式泉水庭園」になっており、随所に中国の名所の名前をつけ
   景観を配し、中国趣味豊かなものになっています。そして、これらによって湖・山・川・
   田園などの景観が巧みに表現されています。
   なお、後楽園は昭和27年3月国の特別史跡、特別名勝の二重指定を受けているのは、浜
   離宮とここの二つだけです。全国でも京都の鹿苑寺(金閣寺)、慈照寺(銀閣寺)、醍醐
   寺三宝院の五ヶ所だけです。                        東京都

 江戸城の石垣石を再利用した石垣
 西門左手築地塀の石垣の一部(説明板設置個所)は、江戸城鍛冶橋門北側外堀城趾(千代田区丸の
内1丁目)から出土した石垣の石材を使い、本園の作られた江戸時代初期(17世紀初頭)の「打ち
込みハギ」と呼ばれる石積の技法で再現した。石材には、備中(岡山県)成羽藩主山崎家の(山)を
はじめ石垣を築いた大名を表す「刻印」や石割の際の「矢穴」が残っている。数字は発掘調査で出土
した時きつけた番号だ。
 石積みの方法は3つあり、自然石をバランスよく積み上げたものを「野面積み」、積み上げた石垣
に隙間ができないように小石を詰め込んで頑丈にする石積みを「打ち込み接ぎ」、石と石の間に隙間
ができないように接触面を綺麗に加工して積み上げた方法を「切り込み接ぎ」という。


 
枝垂れ桜
 戦後に植えたものか。

 
陰陽石
 陰石と陽石の2つの大石。陰石は女性器を、陽石は男性器を表している。これは何処の大名屋敷に
もあったもので、子宝に恵まれるように切実な祈りを込めて、目立たぬ場所にひっそりと置かれてい
た。江戸時代においては世継ぎを作ることは極めて重要な事で、徳川宗家の大奥や御三家・御三卿な
ども血筋が耐えないように作られたシステムだ。大名家も世継ぎが出来ないと御家断絶の危機がある
ために、子孫繁栄を願って設置していた。末期養子(藩主が死んでから跡継ぎを決めること)は禁止
されていた。そのため養子は生きている内に幕府に届けなければならす、届けた後に実子が生まれた
りして、御家騒動の原因ともなったから、早い内に実子が生まれることを願ったのだ。また男の子が
沢山生まれると、誰を跡継ぎにするか、家臣団の中に派閥ができ、これまた御家騒動となった。
 跡継ぎを作るためには、確率の上からも多くの女性と関係を持つ必要がある。側室制度はそのため
に設けられたもので、側室は「子供を生む装置」だった。昔はペニシリンもなく、妊娠すると「産褥
熱」に罹って死ぬことも多く、知性のある女性は妊娠することを拒み、従って性行為すら拒んだ、そ
して側室に跡継ぎを生ませたのだ
。そのことを「腹は借り物」といった。奥向きは女性天国で、家政
は女性たちが運営した。家政を司る女性群(奥女中)は高級家臣の娘たちが就任し、「お清の中﨟」
として、殿様が手をつけられない存在だった。大概の場合、側室は身分の低い家臣の娘、町人・百姓
(農民)が指名された。そんな女性たちでも世継ぎを生むとしばしば権力を握った。


 
涵徳亭(かんとくてい)
 
本園創建時代に造られた萱葺の茶室で硝子紙をもって障子としたため「ガラスの茶屋」と呼ばれて
いたのを、享保年間に林信篤が涵徳亭と名づけた。現在の建物は4代目で昭和61年に再建した。


 
一つ松(唐崎の松)
 池に面して1本の巨大な松がある。琵琶湖を模して作られた大泉水だが、一つ松は、琵琶湖の唐崎
の一つ松に因んで植えられたそう。


 
蓮池
 名の通り蓮が一杯繁茂している池。

 水掘れ石(みずぼれいし)
 水流の圧力で長い年月をかけて大きな穴が開いた岩。

 小廬山(しょうろざん)
 水掘れ石、蓮池の後ろにあるのがオカメザサに覆われた築山。中国の名勝地「廬山」に因んで京都
の清水寺一帯が小廬山と呼ばれている。大堰川上流がその小廬山一帯に似ていることから、藩主頼房
の求めに応え、林羅山が命名したという。

 
大堰川(おおいがわ)
 神田上水の水を引き入れた小川。ゆったりと流れている。3代将軍家光が設計に携わったとか。

 渡月橋(とげつきょう)
 大堰川にかかる低い土橋で、京都嵐山の「渡月橋」の名をとった。

 西湖の堤(さいこのつつみ)