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 東京の地名の由来
 東京知ったかぶり!

 平成17年2月11日発信  リンクフリー
 地名の由来東京23区辞典 引用自由
練馬区の地名の由来
現在進行形の調査なれば、逐次、誤謬訂正・新規追加あり。御用心御用心

ご意見とご教示→メール
  
 
★各区夫々の主な記事 
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 足 立 区  ビートたけし 関原不動 赤門寺 千住 都立舎人公園
 下山事件 西新井大師 大鷲神社 伊興寺町
 六阿弥陀 木余り阿弥陀 荒川バラバラ事件 炎天寺
 尾崎豊終焉の地 尾崎の部屋
 女子高生コンクリート詰め殺人事件
 
 荒 川 区   あらかわ遊園 北島康介 諏訪台寺町 三河島事故
 開成中学校・高等学校 尾久の原公園 大関横丁
 素盞雄神社 天王祭 大橋 谷中延命院一件
 「あしたのジョー」「巨人の星」
 【巻末特集】 江戸しぐさ
 【巻末特集】 小股の切れ上がったいい女 

 板 橋 区   自殺願望女性救助駅前交番警察官殉職事故 松月院
 東京大仏 縁切榎 大東文化大学 帝京大学 板橋宿
 東京家政大学 中山道 板橋宿 国立極地研究所
 板橋事件 加賀藩前田家下屋敷
 
 江戸川区   葛西臨海公園 インド人 小松川女子高生殺人事件
 都県境未定地 おくまんだし 妙見島 影向の松
 目黄不動 平井聖天 食用蛙供養塔 紅葉川高校
 江戸風鈴 立木観音 タワーホール船堀 雷不動
  
 大 田 区   池上本門寺 光明寺 大森海苔 磐井神社 松竹キネマ
 御菜八ヶ浦 羽田空港 大鳥居 八景坂 六郷神社
 大森ふるさとの海辺公園 馬込文士村 万福寺 梅屋敷
 洗足池
  
 葛 飾 区   式部薬師秘話 お花茶屋 金町浄水場 「こち亀」銅像群
 香取神社 東京拘置所 柴又女子大生殺人放火事件 
 男はつらいよ 柴又帝釈天 郷土と天文博物館 立石祠
 かつしかシンフォニーヒルズ 新宿の問屋場跡 葛西神社
 葛西囃子 美弥子ちゃん誘拐殺人事件 半田稲荷
 水元公園 しばられ地蔵 木下川薬師 堀切菖蒲園
 
 北  区   静勝寺 小山酒造 新河岸川 飛鳥山公園 金剛寺
 装束稲荷 王子神社 王子稲荷 名主の滝 近藤勇墓
 医心方 亀の子束子 旧古河庭園 田端文士芸術村
 
【巻末特集】 隅田川 (渡しと橋) 
 江 東 区   外郎売  永代橋落橋事件 亀戸天神 カトレア
 ヒストリーガレージ キッザニア 戦災資料センター
 深川江戸資料館 富岡八幡 元八幡 砂町商店街
 東京海洋大学 東西線転倒事故 有明コロシアム 萩寺
 
 品 川 区   品川トランク詰め殺人事件 星薬科 船の科学館
 鈴ヶ森 立正大学 香蘭女子 杉野ドレメ 品川神社
 荏原神社 光福寺 大崎新都心 清泉女子大 品川寺
 品川宿 昭和大学 戸越銀座 第一京浜 ところてん
 
 渋 谷 区   明治神宮 慶応幼稚舎 尾崎豊の碑  忠犬ハチ公
 ライフル乱射事件 渋谷川  夫バラバラ殺人事件
 妹バラバラ殺人事件 モリブデン 文化女子大 NHK
 広尾病院事件 文化村 尾崎豊の碑 ワシントンハイツ
 聖心女子大 東京女学館 日本共産党 女子大生誘拐
 アメリカ橋 安藤組 国学院 金王神社 青山学院
 
 新 宿 区  浄瑠璃坂の仇討 新宿胴体遺棄事件 新宿騒乱事件
 八幡様  陸軍士官学校 赤線地帯 防衛省・市谷駐屯地
 岡田有希子飛び降り自殺 オリンピック東京大会
 東海道四谷怪談 追分交番爆破事件 鉄腕アトム
 歌声喫茶 名曲喫茶 どん底 新宿高野 中村屋 闇市 
 731部隊 学習院女子 早稲田大学 抜弁天 歌舞伎町
 
 杉 並 区   青梅・甲州・五日市街道 観泉寺 永福寺 高円寺
 不美人=ブスとは?  大宮八幡 ガンダム 妙法寺
 立教女学院 スチュワーデス殺人事件 東京女子大
 一家皆殺し放火 「疑惑の銃弾」 三浦和義 
 天保新水堀用水
 
 墨 田 区   東京スカイツリー 相撲は国技ではない 大相撲事件 
 隅田川七福神 妊婦たらい回し死亡事件 回向院
 握りずし発祥 震災慰霊堂 鬼平・遠山の金さん
 王貞治生誕地 玉の井バラバラ事件 江戸東京博物館
 吾嬬神社 本所七不思議 もゝんじや 法恩寺 蓮華寺
 
 世田谷区   バンク・約束手形  花形敬  ウルトラマン 民家園 
 静嘉堂文庫 ボロ市 鷺草 西福寺 軍都池尻 東名
 羽根木公園 砧公園 駒沢公園 祖師谷一家殺人事件
 九品仏 多摩美 国学院 東農大 NHK技研 豪徳寺
 世田谷美術館 馬事公苑 烏山寺町 次大夫堀 仙川
 
 台 東 区   浅草寺 仲見世 浅草神社 三社祭 花やしき 上野公園
 鬼灯市 酉の市 待乳山聖天 佃煮元祖 旧岩崎邸
 八百善 今戸神社 アメ横 寛永寺 不忍池 花の吉原
 上野動物園 東京国立博物館 駒形どぜう 鬼子母神
 東京本願寺 東京芸大 谷中墓地 笹の雪 吉展ちゃん
 
 中 央 区   「銀ブラ」って、ブラブラ歩くことじゃないよ。 パウリスタ
 東京大空襲 アメリカの占領 蘭学事始 ティファニー 
 エルメス シャネル コーチ パリー セリーヌ プラダ
 カルティエ ディオール ルイ・ヴィトン 不二家不祥事
 三越・松屋・松坂屋・大丸・高島屋 築地本願寺 日本橋
 H&M 歌舞伎座 白木屋火事 日本銀行 金春芸者
 日本海軍発祥地 新橋演舞場 明治座 ハヤシライス
 
 千代田区   靖国問題・A級戦犯 女子学院 暁星 将門塚 消防庁
 警視庁 ていぱーく 桜田門外の変 ニコライ堂 武道館
 九段会館 楠公像 ホテルニュージャパン火災 近衛師団
 秋葉原無差別殺傷事件 神田明神 FM東京 丸ビル
 新丸ビル 丸の内物語 三菱重工ビル爆破事件 国会
 雙葉 専修大 日大 法大 明大、電機大 大妻 番町小
 東郷平八郎 日比谷公園 国際フォーラム 北辰一刀流
 
 豊 島 区   池袋の女 染井吉野 女子栄養学園 染井霊園 中山道
 おばあちゃんの原宿 とげぬき地蔵 庚申塚 本妙寺
 雑司が谷墓地 鬼子母神 土田邸爆破事件 山吹伝説
 目白不動 帝銀事件 立教 学習院 豊島岡女子学園
 【巻末特集】 東京の暴力団
 
 中 野 区   新井薬師 上高田寺町 童謡「たき火」 中野サンプラザ
 近隣騒音殺人事件 福蔵院 八幡神社(鷺ノ宮) 成願寺
 宝仙院 堀越学園 桃園川 丸井本店 中野ブロードウェイ
 東中野電車追突事故 光倶楽部事件 哲学堂公園 桃園
 【巻末特集】 江戸城 城門と橋
 
 練 馬 区   いろはかるた 練馬バラバラ殺人事件 としまえん
 ちひろ美術館 三宝寺 石神井公園 長命寺 清戸道
 良弁塚 武蔵大学 金乗院 練馬寺町 武蔵音大 
 グランドハイツ 練馬少年鑑別所 首継ぎ地蔵 円明院
 妙福寺 春日神社 増島家薬医門 練馬大根 愛染院 
 
 文 京 区   狛江 振袖火事 東京大学 拓殖大学 御茶ノ水女子大
 東京高等師範 教育大学 護国寺 弥生式土器 伝通院
 聖マリア大聖堂 高津教授殺人事件 東京ドーム 六義園
 小石川植物園 元町公園 桜蔭学園 順天堂大 かねやす
 日本女子大 湯島聖堂 湯島天神 東洋大 共同印刷争議
 港  区   増上寺 フリーメイスン 永坂更科 麻布学園 氷川神社
 乃木大将 ミッドタウン 六本木ヒルズ 善福寺 霊南坂
 東洋英和 ケネディ暗殺宇宙中継 愛宕山 小便小僧
 レインボウブリッジ 東京タワー 慶応義塾 自然教育園
 明治学院 虎ノ門事件 東宮御所 日本経緯度原点
 9・11(アメリカ同時多発テロ) 首謀者はチェイニー
 
 目 黒 区   滝坂道 目黒不動 法華騒動 円融寺 五百羅漢 東工大
 目黒ショック 日比谷線脱線事故 駒場野一揆 旧制一高
 駒場東大 駒場学園 滝坂道 行人坂大火 雅叙園 騎兵
 目切坂 権之助坂 太鼓橋 茶屋坂 槍ヶ崎事件 祐天寺
 酸素魚雷 音羽ゆりかご会 八雲学園 目黒のさんま
 
   
 



練馬区の地形
 練馬区は、ほぼ全域が武蔵野台地の中央部北側に位置している。これら台地には、石神井川・白子
川などの小河川や水路などによって削られて形成された大小の谷が複雑に分布している。平坦である
がため水量がなく、水田には向かず、江戸の近郊農村として、野菜の供給地となった。その最たるも
のが練馬大根で、漬物業が発達した。ただ台地の中央に位置するため運搬に苦労した。北の荒川に下
りて水運を利用するか、川越街道→中山道、清戸道の長い道程を牛車・馬車で直接運ぶかするしかな
かった。


■地形・地質と住宅地盤
 台地面
 比較的海抜高度が高く起伏の少ない平坦面で、関東ローム層と呼ばれる火山灰土で覆われている。
関東ローム層は、上部のローム土(赤土)と下部の凝灰質粘土に大別されるが、自然堆積したローム
土は、安定しており比較的大きな強度が期待できるため、表土部分に注意すれば住宅地盤として良好
な場合が多い。区の大部分。
 

 
台地と低地の境
 台地の側面が低地側へと下っている傾斜面で、台地面と同様に安定した地盤となっている場所もあ
るが、後背地から浸透してくる雨水や地下水の影響で地盤が軟弱化したり、雨洗によって台地側から
運ばれて再堆積した軟弱土が分布する。また人為的に造成されていることも多く、場所によっては盛
土の厚さが異なるように地盤のバランスが悪くなっていることがある。従って不同沈下を防止するよ
うな基礎補強策が必要となることも多い。
 

 
谷底低地
 台地部が小さい河川などによって削られて形成された低地で、台地部の間に樹枝状に分布している。
台地を形成していた土砂が再堆積した土や有機質土(腐植土)などが分布しており、非常に軟弱な地
盤となっている。したがって、長期的な沈下(圧密沈下)を防止するような基礎補強策が必要となる
ことが多い。石神井川・白子川の各流域、小河川の流域。
 



練馬区の変遷
 現在の練馬区の区域に入る江戸時代の中新井村・中村・上練馬村・下練馬村・上土支田村・下土支
田村・上石神井村・下石神井村・田中村・田中新田・谷原村(やわらむら)・関村・竹下新田・江古田
新田・小榑村・橋戸村の16ヶ村は次のような経過を辿った。

 ●明治2年1月13日豊島郡の江古田新田を除く13ヶ村は小菅県、2月9日品川県に編入。同4
年7月14日廃藩置県により品川県が廃され東京府に編入、戸籍法、地租改正角など一連の中央集権
化の過程で、大区小区制を強化、それにより当区は第八大区に配され自治権喪失した。この大久保利
通の専制強圧政治に国民は猛反発、不平武士の義挙が各地に起こり、やがて全国的な住民権運動に発
展していった。これ対して大久保が弾圧と暗殺で応じたため国民の怒りは頂点に達し、同11年5月
14日大久保が天誅を恐れて仮皇居への通勤路を変えた麹町清水谷の沢道で正義の刃の下に斬殺され
権力の座から引き摺り下ろされた。親玉を取られた内務官僚は周章狼狽、てんやわんやの大騒ぎの上
2ヶ月後の7月22日大慌てに大区小区制を廃して「郡区町村編制令」を施行、それにより北豊島郡
に復し、同22年4月25日新政府として初めて自治権を認めた「市制町村制」を公布、5月1日下
練馬村・上練馬村・石神井村・中新井村となる。
 

 ●
明治2年1月13日豊島郡江古田新田は小菅県、15日後の1月28日に大宮県(9月29日浦
和県と改称)編入。しかし大区小区制では第八大区に編入、同11年「郡区町村編制令」により東京
府北豊島郡上板橋村所属。
 

 ●明治3年10月新座郡(にいくらぐん)の小榑村・橋戸村は浦和県から品川県に編入、同6年入間
県に編入、同8年熊谷県編入(※角川日本地名大辞典によると6年6月15日入間県は熊谷県に改まっ
ている。8年編入は解らない)。同9年旧入間県は埼玉県に編入して、同11年「郡区町村編制令」
により埼玉県新座郡に復す。同24年「市制町村制」により2村は合併して「榑橋村」となる。同年
9月新座郡新倉村長久保とともに東京府に編成替えとなり石神井村の上土支田とあわさって北豊島郡
大泉村となる。

 昭和3年下練馬村が町制に移行、同7年東京市周辺郡部の都市化により東京市と合併して20区を
増設することになり北豊島郡練馬町・上練馬村・石神井村・大泉村・中新井村の1町4ヶ村は板橋区
内の48町となる。同22年東京都35区の再編統合により板橋区から独立、同52年45町となっ
て今日に至っている。新住居表示は西大泉町1179番地のみが飛地のまま未実施で残っている。
 区役所は豊玉北6丁目にあり、友好・姉妹都市は北京市海淀区・イプスウィッチ市(オーストラリ
ア)・長野県武石村。

 ●小学校67(国立1 区立65 私立1)
 東京学芸大学附属大泉
 南町・開進第一・開進第二・開進第三・開進第四・小竹・旭丘・豊玉・豊玉第二・豊玉東・豊玉南
 ・練馬・練馬第二・練馬第三・練馬東・向山・中村・中村西・泉新・谷原・北原・富士見台・南が
 丘・石神井東・南田中・光和・石神井・石神井西・上石神井・上石神井北・下石神井・石神井台・
 関町・関町北・立野・大泉・大泉東・大泉西・大泉南・大泉北・大泉第一・大泉第二・大泉第三・
 大泉第四・大泉第六・大泉学園・大泉学園緑・大泉学園桜・橋戸・旭町・光が丘四季の香(光が丘
 第一+光が丘第二)・光が丘春の風(光が丘第三+光が丘第四)・光が丘夏の雲(
光が丘第五・光
 が丘第六)・光が丘秋の陽(光が丘第七+田柄第三)・光が丘第八・田柄・田柄第二・春日・高松
 ・豊渓・八坂・北町・北町西・仲町・早宮
 東京三育

 ●中学校38(国立1、区立34 私立3)
 東京学芸大学附属大泉
 開進第一・開進第ニ・開進第三・開進第四・旭丘・豊玉・豊玉第二・貫井・中村・三原台・谷原・
 南が丘・
石神井・石神井南・石神井東・石神井西・上石神井・関・大泉学園・大泉学園桜・大泉・
 大泉第二・大泉北・大泉西・豊渓・光が丘第一・光が丘第二・光が丘第三・光が丘第四・田柄・
 馬・練馬東・八坂
北町
 
武蔵・富士見・東京女子学院

 ※「開進」の由来
 「開智以進徳(智を開き以て徳に進まん)」という言葉に由来する。明治15年下練馬村だった当
 時、新しく公立学校を作るに当たり、氷川神社の神主だった風祭宝信が、この言葉を選んで「開進
 学校」と命名したと伝えられている。



 ●中等教育学校 1(国立1、私立4)
 東京学芸大学附属国際


 ●高等学校14(都立9、国立1、私立4)
 東京学芸大学附属大泉
 第四商業・井草・石神井・大泉桜・大泉・光丘・田柄・練馬・練馬工業
 武蔵・富士見・東京女子学院・早稲田学院

 ●大学
 上智大学神学部・日本大学芸術学部・武蔵大学・武蔵音楽大学

 ●図書館12、中央図書館はない
 光が丘・練馬・石神井・平和台・大泉・関町・貫井・稲荷山・小竹・南大泉・春日町・南田中

 ●文化施設
 郷土資料室・光が丘公園・城北公園・美術館ぐらいで練馬らしく文化行政は発展途上。マイナー区
からメジャー区へ1日も早い精進が望まれる。江戸川が先か練馬が先かというところ・・・


 練馬の由来
 ①、むかし野武士があちこちの牧場から馬を盗んでは調練して売っていた「練馬」説。
 ②、豊島氏の家臣志野(篠)某が馬術に長(た)け、家来に盛んに乗馬させた「乗馬」説。
 ③、土器を作るため赤土を練った「練り場」説。
 ④、古代の官道の「乗潴(のりぬま)」説。
 ⑤、石神井川流域の低地は広大な湖沼地帯で下流の水田地帯から見て奥の沼「根沼」説。
 などがこじつけられているがどれもスカッとこない。しかし三宝寺池・氷川神社・厳島神社・石神
井神社・水神碑などなどからして、この地に住んだ人々は水を大切に思うこと一入(ひとしお)だった
とすると根沼説がぴったしかな?・・・練馬という馬はいないし、乗潴駅も今ひとつハッキリしない
が場所は練馬4丁目の白山神社だといわれている。野武士が練馬した牧場が金乗院の付近とすれば錦
2丁目、根沼とすれば奥の沼のあったところは豊島園の石神井川狭隘部ということになる。太田道灌
の記録や『小田原衆所領役帳』には「練間」とあり、新田義貞が鎌倉攻めの時豊島氏の献じた馬が活
躍した戦功説もある。


   練馬野は住み憂かりける杉名かな(村山古郷)
   
風呂吹きや曾て練馬の雪の不二(水原秋桜子)
 
 


練馬のいろはかるた
   い 一番昔の大欅(けやき)      ろ 良弁(ろうべん)僧都の経塚
   は 花の名所の高稲荷         に 二月初午おびしゃの日
   ほ 法華の万灯妙福寺         へ 塀をめぐらす鑑別所
   と 豊島氏滅ぶ石神井城        ち ちゃが馬飾る七夕まつり
   り 猟は御鷹場尾洲侯         ぬ ぬりかえられるグラントハイツ
   る 類ない沼沢植物群         を 青梅街道 石灰街道
   わ 若い芽はえる都民農園       か 川越街道練馬宿
   よ 嫁が怖がるお松様         た 田柄用水記念の碑
   れ 歴史が眠る十一ヶ寺        そ そば喰い地蔵は九品院
   つ 月待講の六地蔵          ね 練馬の母なる石神井川
   な 名主屋敷の長谷川家        ら 落城の悲話照姫塚
   む 武蔵野残す清戸道         う 馬の護りの子ノ観音
   ゐ 遺跡が語る練馬の古代       の 農民泣かせ 宿場の助郷
   お 大山詣も富士街道         く 区の花つつじ 区の木は辛夷(こぶし)
   や 薬師如来の石の像         ま 牧野博士の植物庭園
   け 剣聖柳生は広徳寺         ふ 不動尊の道しるべ
   こ 庚申塔は百三十基         え 江古田富士たつ浅間神社
   て 鉄道開通火車站之碑        あ 愛染院の大根碑
   さ 三百余年の高野槙         き 清長画く芝居の板絵
   ゆ 夕日に映える三重塔        め めの字の絵馬は南蔵院
   み みんなで普請宮田橋        し 守護使不入の三宝寺
   ゑ 絵馬にかかれた お浜井戸      ひ 東の高野山長命寺
   も 森に静まる土支田八幡       せ 千川上水多摩の水
   す 水車を回す白子川         ん 運命の城練間城

  いろはにほへと ちりぬるを わかよたれそ つねならむ
  うゐのおくやま けふこへて あさきゆめみし ゑひもせすん

  色は匂へど 散りぬるを 我が世誰そ 常ならむ
  有為の奥山 今日越えて 浅き夢見じ 酔ひもせず ん
 

 平安時代末期に流行し、『涅槃経(ねはんきょう)』の「諸行無常 是正滅法 生滅滅己 寂滅為
楽」を表すと言われる。香りよく色美しく咲き誇っている花も、やがては散ってしまう(諸行無常)。
この世に生きる私たちとて、いつまでも生き続けられるものではない。(是生滅法)。この無常の、
有為転変の迷いの奥山を今乗り越えて(生滅滅己)。悟りの世界に至れば、もはや儚い夢を見ること
なく、現象の仮相の世界に酔いしれることもない安らかな心境だ(寂滅為楽)。
 「今様」という形式(七五を四回繰り返す)を守り、その上、全ての仮名を1回ずつ使うという制
約のもとで、これだけの意味のある歌が作られたことは、奇跡と呼んでも過言ではないだろうか。
 えっ、どうだい? いろはうたの他にも、同じ条件で書かれた詩がある。
 

あめつちうた(平安時代初期)
  あめつちほしそら(天地星空)    やまかはみねたに(山川峰谷)
  くもきりむろこけ(雲霧室苔)    ひといぬうへすゑ(人犬上末)
  ゆわさるおふせよ(硫黄猿生ふせよ) えのえをなれゐて(榎の枝を馴れ居て)

あめつちのうた
(本居宣長作)
  あめふれは ゐせきをこゆる(雨降れば 井堰を越ゆる)
  みつわけて やすくもろひと(水分けて安く諸人)
  おりたちうゑし むらなへ (下り立ち植ゑし 群苗)
  そのいねよ まほにさかえぬ(その稲よ 真穂に栄えぬ)

ひふみうた(うたとして、祝詞として、祓詞として読む場合、それぞれに、区切る箇所が違う。以
下は祝詞の場合の三五七区切り)
  ひふみ よいむなや こともち(一二三四五六七八九十百千)
  ろらねしきる ゆゐつわぬ そをたはくめか
  うおえ にさりへて のますあせゑほれーけー

 このほかにも十ほどありそうだ。
 
 



○名木百選
  1土支田八幡宮の杉樹群  2加藤家の欅       3妙延寺の公孫樹
  4北野神社の報路地無患子 5本間家の桜並木     6学芸大付属大泉小の月桂樹
  7学芸大付属大泉中のヒマラヤ杉並木         8牧野博士の仙台屋桜
 、9牧野博士の篦の木、   10都営アパート第二公園の枝垂れ柳
  11大泉井頭公園の丸葉柳  12大泉井頭公園の丸葉柳  13諏訪神社の檜
  14高橋家の欅       15高橋家の柿ノ木    、16高橋家の欅
  17八坂神社の榧      18八坂神社の公孫樹    19加藤家の欅
  20伏見稲荷の榧     、21金乗院の公孫樹     23西本村稲荷の欅
  24開進第一中のスダ椎   25開進第一小の楠     26堰婆さんの黒松
  27内田家の欅       28練馬東小の藤      29春日神社の犬四手
 、30春日神社の榎      31寿福寺の楠       32愛染院の白侘助
  33氷川神社の楠      34愛宕神社の白樫     35愛宕神社の柊
  36八幡神社の犬四手    37八幡神社の椋ノ木    38佐久間家の糯ノ木
  39御岳神社の榊      40増田家の椋ノ木     41光が丘公園のアメリカ鈴懸
  42光が丘公園の銀杏並木  43光が丘公園の楠     44光が丘公園の染井吉野
  45光が丘公園のマテバ椎 、46四季の香公園の小楢   47妙安寺の黒松
  48妙安寺の欅       49谷治家の欅       50氷川神社の藪椿
  51長命寺の公孫樹     52長命寺の白樫(1)    53長命寺の白樫(2)
  54長命寺の菩提樹     55田中山憩いの森の山桜  56和田稲荷の白樫
  57禅定院の比翼桧葉    58石神井公園の水木    59石神井公園の辛夷
  60石神井公園の山桜    61石神井公園の落羽松   62石神井公園の染井吉野並木
、 63石神井公園の檪     64石神井公園の白雲木   65石神井公園の白樫
  66石神井公園の唐楓    68石神井公園の百合ノ樹  69石神井公園の椋ノ木、
  70石神井公園のメタセコイア、71石神井公園の椋ノ木  72石神井公園の椨ノ木
  73権藤家の白木蓮     74権藤家のスダ椎     74道場寺の黒松
  75三宝寺の赤松      77三宝寺の公孫樹     78三宝寺の猿巣滑
  79けやき憩いの森の蔓梅擬 80石神井川河川敷の黒山ナラシ
 、81尾崎家の粗樫      82イエズス会神学院の桜並木、
  83関町北小の大王松    84天祖若宮八幡宮の赤松  85武蔵関公園の赤松
  86武蔵関公園の椋ノ木   87武蔵関公園の栃ノ木   88武蔵関公園の桂
  89浅間神社の欅      90武蔵大学のトネリコ   91武蔵大学の欅
  92武蔵大学犬桜      93武蔵大学の枝垂れ桜   94武蔵大学のいろは紅葉
 、95豊玉小のヒマラヤ杉   96氷川神社の榧      97富士稲荷の楠
  98豊玉東小の真弓     99練馬公民館の染井吉野  100神田家の赤樫
  101白山神社の大欅(1)   102白山神社の大欅(2)   103円光院の公孫樹
  105浅見家の大盞木     106光伝寺の高野槇     107氷川神社の椋ノ木
 

 ●練馬区農業体験農園
 練馬区では、平成8年4月より同12年を除いて毎年1園ずつが開園されている。

   1.農と緑の体験塾     加藤 義松  南大泉3-17   平成8年
   2.大泉風の学校がっこう  白石 好孝  大泉町1-54     9年
   3.田柄すずしろ農園    吉田 忠男  田 柄1-29    10年
   4.イガさんの畑      五十 嵐透  土支田1-35    11年
   5.学田体験農園      神田  耕  中村南1- 4    13年
   6.農学校 石泉愛らんど  本橋 邦浩  石神井台6-5    14年
   7.緑の散歩道       小美濃昌一  大泉学園町3-4   15年
   8.どろんこ わぁるど   内堀 雅巳  西大泉2-25    16年
   9.井頭体験農園      山口 米蔵  東大泉7-27    17年
  10.百匁の里        加藤 正明  大泉学園町3-17  18年
  11.楽農くらぶ       荘  光男  三原台3-27    19年
  12.南大泉やさい村     山口 幸治  南大泉4-39    20年
  13.農の詩         富岡 忠明  石神井町5-15   21年
  14.旬感倶楽部       井口 和喜  南大泉1-6     22年
  15.あーばん あぐりぱーく
            石神井台 尾崎 賀一  石神井台8-2    23年

 練馬区農業体験農園は、農家が開設運営している農園だ。練馬区より、農園の整備運営する費用が
助成される。栽培する作物の選定、作付け計画は、園主が行ない、種、苗、肥料、資材、農具などの
用意もする。園主が野菜作りの講習会を開き、農園利用者には作付けから収穫までの農業体験をして
貰う。1区画の面積は、約30㎡。
 農業体験農園の利用者募集案内は、「ねりま区報」に掲載される。希望者は1月末日までに往復ハ
ガキで希望する農園の園主に直接申し込む。希望者多数の場合は、区職員立ち会いで、園主が抽選を
行う。利用が決まった人は、各農園の説明会が、2月中旬から3月上旬に開かれる。ここで利用者は
契約書を書き、また利用料の支払う。年間利用料は、入園料と収穫が予定される野菜の代金として、
31000円(区外の者は43000円)。
 春に作付けされる野菜は、トマト、キュウリ、ナス、枝豆、トウモロコシなど、秋の作付けは、ネ
ギ、大根、ブロッコリー、キャベツなど。年間では、延べ20品目以上になる。農業体験農園では、
園主が野菜作りの講習会(作付け時期には月に1~2回)を開き、種、苗や肥料など用意します。だ
から、野菜作りの経験のない人でも、収穫の喜びを味わうことができる。農園利用者には、最初に野
菜の代金として支払いが済んでいるので、収穫したての新鮮な野菜を直ぐに持ち帰って、美味しく食
べることができる。
 



■石神井川
 小平市花小金井南町に源を発し、東京都北部を東へ流れて北区堀船3丁目で隅田川に合流する。小
平市、西東京市、練馬区、板橋区、北区の各自治体を経る。練馬区に入ると武蔵関公園の富士見池、
石神井公園の三宝寺池、豊島園池などの湧水や河床からの湧水を合わせ、流量を増してくる。しかし
現在、富士見池や三宝寺池は湧水が減少し、地下水の揚水などによって池の水が維持されている。三
宝寺池と石神井池は石神井川に接続していないが、富士見池は僅かな溢水が石神井川に流入してる。
富士見池は調整池の役割も果たしている。水害防止のため、富士見池調整池(練馬区関町北3丁目)
が昭和48年に建設された。かつて中流域には「関の溜井」と呼ばれる池があった。この池は残って
いないが、武蔵関公園内にある富士見池がほぼ同じ位置に存在する。

 溜渕橋
 関町北3丁目5番15号~45番に架かる。西東京市との境をなす。下流側のみ歩道境界線が引い
 てある。架橋年不明。

 
とちの木橋
 関町北坂丁目5番25号~45番武蔵関公園に架かる歩行者専用橋。昭和58年3月完成。

 よしきり橋
 関町北3丁目44蕃2号~45番武蔵関公園に架かる歩行者専用橋。架橋年不明。

 緑橋
 関町北3丁目42蕃8号~45番武蔵関公園に架かる歩行者専用橋。昭和54年11月完成。

 つたや橋
 関町北3丁目42蕃11号~45番武蔵関公園に架かる歩行者専用橋。昭和54年11月完成。

 武蔵関公園橋
 関町北3丁目45番武蔵関公園内に架かる公園橋。架橋年不明。

 弁天橋
 関町北3丁目37蕃10~11号に架かる。架橋年不明。歩道なし。

 長者橋
 関町北2丁目34番・3丁目28番~4丁目2・18番に架かる。橋北は直ぐ西武池袋線の踏切。
 昭和43年8月完成。歩道あり(境界線のみ)。

 西武石神井川橋梁
 関町北2番29・30番~4丁目2番に架かる鉄道橋梁だが、周辺を暗渠化して駐輪場としている
 ので橋の感じがしない。橋が川に対して斜めに架かっているための措置だ。しかも真ん中は踏切な
 ので一般橋といえなくもない。歩行者専用橋で車道はない。。

 
睦橋歩道橋(むつみばしほどうきょう)
 関町北4丁目2番内に架かる歩行者専用橋。架橋年不明。

 若宮橋
 関町北4丁目2・3番~6・7蕃に架かる。架橋年不明。歩道なし。

 関新橋
 関町北4丁目3・4番~5・6番に架かる。昭和54年3月完成。歩道なし。

 庚申橋
 関町北4丁目4番・関町東17番~関町北4丁目5番・石神井台7丁目9番に架かる。昭和53年
 3月完成。歩道あり。

 稲荷橋
 関町東2丁目16・17番~石神井台7丁目8・9蕃に架かる。昭和47年5月完成。歩道がある
 (境界線のみ)。

 日之出橋
 関町東2丁目8・16番~石神井台5・6番に架かる。昭和42年3月完成。歩道(境界線のみ)

 曙橋
 関町東2丁目7番・8番~石神井台4丁目5番・6番に架かる。架橋年不明。歩道なし。

 
西豊城橋(にしとよしろばし)
 関町東2丁目7番・上石神井4丁目32番~石神井台4丁目5番・7丁目1番に架かる。架橋年不
 明。歩道なし。

 
豊栄橋(ほうえいばし)
 上石神井4丁目21・32番~石神井台4丁目5番に架かる。架橋年不明。下流側に歩道あり。

 集い橋
 上石神井4丁目21番~石神井台4丁目5番に架かる。架橋年不明。歩道なし。

 
豊城歩道橋
 上石神井4丁目21番~石神井台4丁目5番に架かる歩行者専用橋。架橋年不明。

 豊城橋
 上石神井4丁目8・21番~石神井台4丁目3・5番に架かる。昭和49年3月完成。歩道上流側
 にある。

 扇橋
 上石神井3丁目34・4丁目8番~石神井台4丁目1・3番に架かり、新青梅街道を通す。架橋年
 不 明。歩道あり。

 
小ヶ谷戸橋
 上石神井3丁目34・35番~石神井台4丁目1番に架かる。昭和54年11月完成。歩道なし。

 愛宕橋
 上石神井3丁目35・36番~石神井台2丁目5番・4丁目1番に架かり、上石神井通りを通す。
 架橋年不明。歩道あり。

 栄橋
 上石神井3丁目21・22番~石神井台2丁目1・2番に架かる歩行者専用橋。架橋年不明。

 上御成橋(かみおなりばし)
 上石神井3丁目19・20番~石神井台1丁目9番・2丁目丁目1番に架かる、架橋年不明。歩道
 あり。

 
松之木橋
 上石神井3丁目19番~石神井台1丁目1・2番に架かる。昭和43年3月完成。下流側に歩道境
 界線が引いてある。

 蛍橋
 上石神井3丁目19番・下石神井6丁目44番~石神井台1丁目1番・石神井町5番11号に架か
 り、井草通りを通す。昭和43年3月完成。歩道あり。

 
茜歩道橋
 下石神井6丁目34番~石神井町5丁目9・10番に架かる歩行者専用橋。平成19年6月完成。

 根ヶ原橋
 下石神井6丁目33・34番~石神井町5丁目7・9番に架かる。

 
睦橋(むつみばし)
 石神井町5丁目6・7番~下石神井6丁目24・28番に架かる。平成15年4月完成。歩道境界
 線あり。

 
豊島橋
 石神井町5丁目5・6番~下石神井3丁目37号・6丁目22番に架かり、都道25号線旧早稲田
 通りを通す。平成22年3月完成。歩道がある。

 
憩い橋
 石神井町5丁目4・5番~下石神井3丁目31・36番に架かる歩行者専用橋。平成20年9月完
 成。

 
坂下橋
 石神井町5丁目3・4番~下石神井3丁目26・30番に架かる。平成20年6月完成。

 
‐‐橋
 石神井町5丁目2・3番~下石神井3丁目25番に架かる歩行者専用橋。橋名・架橋年記載なし。

 山下橋
 石神井町1丁目1番・5丁目1番~下石神井3丁目25番・南田中5丁目25番に架かる。昭和1
0年代に石神井公園駅と千川通りを結ぶ道路として開通した。現在の橋は同50年3月完成。下流側
に歩道がある。この橋の北側の和田堀にも橋が架かっていたが橋名は判らない。昭和20~38年の
間に河道が付け替えられ山下橋の上流で石神井川に落ちるようにした。

 
和田前歩道橋
 石神井町1丁目1番~南田中5丁目25番に架かる歩行者専用橋。架橋年不明。

 
南田中橋
 石神井町1丁目1番~南田中5丁目25番に架かる。平成6年3月完成。歩道あり。

 
平和みあい橋
 石神井町1丁目1番~南田中5丁目25番に架かる歩行者専用橋。平面Y字形の3方向に渡る。

 
長光寺橋
 石神井町1丁目1番・高野台1丁目1番~南田中3丁目31蕃・5丁目25番に架かり、都道44
 3号線笹目通りを通す。昭和58年5月完成。両側とも落下防止なのか、転落防止なのか、歩道の
 外側に目隠しがついてる。

 
長光寺歩道橋
 高野台1丁目1番~南田中3丁目31号に架かる歩行者専用橋。

 
薬師堂橋
 高野台1丁目1番~南田中3丁目31蕃に架かり、西武池袋線に並行する。平成6年3月完成。歩
 道あり。

 
西武石神井川橋梁
 高野台1丁目5番~南田中3丁目7番に架かる西武池袋線鉄橋。

 
下薬師堂橋
 高野台1丁目5番~富士見台3丁目59番に架かる。西武線に沿って下流(東)側。歩道がある。
 平成12年6月完成。

 
高冨士橋
 高野台1丁目5・6番~富士見台3丁目59・60番に架かる。平成12年3月完成。歩道あり。

 
富士見橋
 高野台1丁目6・10番~富士見台3丁目60番・4丁目39番に架かる。平成13年3月完成。
 歩道なし。

 
高野橋
 高野台1丁目11・19番~富士見台4丁目40・41番に架かる。平成10年3月。歩道なし。

 
すずしろ橋
 高野台1丁目19・20番~富士見台4丁目41・44番に架かる。平成17年7月完成。歩道あ
 り。下流側には境界小柱が5本ほど立っている。

 
谷原二之橋
 高野台1丁目20番・2丁目10番~富士見台4丁目44・45番に架かる。平成12年3月完成。
 歩道あり。

 
桜見橋
 高野台2丁目9・10番~富士見台4丁目45・49番に架かる。平成11年3月完成。歩道ある
 も境界線のみ。

 
谷原三之橋
 高野台2丁目8・9番~富士見台4丁目23・49番に架かる。平成10年3月。歩道あるも境界
 線のみ。

 
こぶし橋
 高野台2丁目6・7番~富士見台4丁目23番に架かる歩行者専用橋。平成9年3月。

 
大野橋
 高野台2丁目1・6番~富士見台4丁目21・22番に架かる。平成15年3月完成。歩道なし。

 
上新田橋(かみにったばし)
 高野台2丁目1番・高松3丁目4番~富士見台4丁目20番・貫井4丁目46番に架かる。平成8
 年3月完成。歩道あり。

 
境橋
 高松3丁目3・4番~貫井4丁目46・47番に架かる。平成元年3月完成。歩道なし。

 竹橋
 高松3丁目2・3番~貫井4丁目47番に架かる。平成2年6月完成。歩道なし。

 練馬大橋
 高松3丁目1・2番~・貫井4丁目47番・5丁目30番に架かり都道8号線目白通りを通す。昭
 和38年3月完成。6車線・歩道あり。

 高松橋
 高松1丁目1番~貫井5丁目30に架かり都道311号線環八通り(外回り側道)を通す。本線高
 架に隣接並行する。上流側に歩道がある。

 環状八号線陸橋
 貫井4丁目47番~高松2丁目13番に架かり都道311号線環八通り本線を通す。

 貫井橋
 高松3丁目1番~貫井5丁目30番に架かり都道311号線環八通り(内回り側道)を通す。本線
 高架に隣接並行する。下流側にほどうがある。

 小橋
 高松2丁目1番・2丁目5番~貫井5丁目28・30番に架かる。平成2年3月完成。歩道なし。

 新小橋
 高松2丁目1・2番~貫井5丁目24・25番に架かる。架橋年不明。歩道なし。

 道楽橋
 高松1丁目8番・2丁目1番~貫井5丁目24番・向山4丁目36番に架かる。平成2年5月完成。
 歩道あり。

 
神路橋(しんみちばし)
 高松1丁目4・7番~向山4丁目35・36番に架かる。平成10年8月完成。歩道あり。

 
西田中橋
 高松1丁目1番・春日町5丁目4番~向山4丁目31・32に架かる。平成9年6月完成。歩道な
 し。

 田中橋
 春日町5丁目2・3番~向山4丁目27・28番に架かる。平成9年3月完成。歩道なし。

 
石川橋
 春日町5丁目1番~向山3丁目29号に架かる。架橋年不明。歩道なし。

 豊島園内10橋

 
中之橋
 春日町1丁目1番・早宮3丁目58蕃~向山3丁目25番・練馬4丁目20番に架かる。昭和63
 年3月完成。歩道あり。

 南宮橋(なんぐうばし)
 早宮3丁目54・55番~練馬4丁目20・21番に架かる。昭和61年3月完成。歩道あり(境
 界線のみ)。

 
西早宮橋
 早宮3丁目53・54番~向山4丁目31・32番に架かる。架橋年不明。

 
東山下橋
 早宮3丁目30・49番~練馬4丁目32・33番に架かる。昭和62年6月完成。歩道なし。

 
東中央橋
 早宮3丁目27・29番~練馬2丁目29番・4丁目33番に架かる。昭和61年3月完成。歩道
 あり(境界線のみ)。

 
糀谷橋(こうじやばし)
 早宮3丁目26・27番~練馬2丁目29番に架かる。昭和60年3月完成。歩道あり(境界線の み)。

 
大橋
 早宮3丁目1・21番~練馬2丁目33・34番に架かる。昭和59年3月完成。歩道あり(境界
 線のみ)。

 
新大橋
 早宮1・3丁目~練馬2丁目34号・桜台6丁目43番に架かり、都道442号北町豊玉線を通す。
 昭和61年2月完成。歩道あり(境界線のみ)。

 
早宮橋
 早宮1丁目30・32番~桜台6丁目41・42番に架かる歩行者専用橋。昭和60年3月完成。

 
高稲荷橋
 早宮1丁目20・21番~桜台6丁目38番に架かる。昭和62年2月完成。歩道なし。

 
鎌田橋
 早宮1丁目8・19番~桜台6丁目35・36番に架かる。昭和61年12月完成。歩道あり(境
 界線のみ)。

 
四宮宿橋(しのみやじゅくばし)
 氷川台3丁目41番・早宮1丁目6番~桜台6丁目34番に架かる。昭和62年3月完成。歩道あ
 り(境界小柱)

 
丸山橋
 氷川台3丁目38・47番~桜台3丁目46・47番に架かる。昭和61年1月完成。歩道あり(境
界線のみ)。

 
正久保橋(まさくぼばし)
 氷川台3丁目35・38番~桜台3丁目12・45番に架かる。昭和58年3月完成。歩道あり。

 
宮宿橋(みやじゅくばし)
 氷川台3丁目2Ⅰ・34番~桜台3丁目10・11番に架かる。昭和58年3月完成。歩道がある
 (境界線のみ)。

 
仲羽橋(なかはねばし)
 氷川台3丁目7・20番~桜台3丁目10番・羽沢3丁目40番に架かる。昭和56年11月完成。
 歩道あり。歩道あり(境界線のみ)。

 羽根沢橋
 氷川台3丁目6・7番~羽沢3丁目28・40番に架かる。昭和56年3月完成。歩道線あり(下
 流側にポール羅列)

 羽根木橋
 氷川台3丁目5・6番~羽沢3丁目27・28番に架かる。 昭和53年3月完成。歩道なし。

 開進橋
 氷川台3丁目2・5番~羽沢3丁目22・27番に架かる。昭和53年3月完成。歩道なし。

 湿気味橋(しっけみはし)
 氷川台1丁目8番・3丁目1番・羽沢3丁目17・21番に架かる。昭和53年3月完成。歩道線
 あり。2車線。

 羽城歩道橋
 氷川台3丁目7番城北中央公園都民の森~羽沢3丁目15・16番に架かる歩行者専用橋。練馬区
 内最期の橋。
 
 



○じゃあよ、練馬区の地名の由来を始めっからな!

【旭丘】(あさひがおか)1~2丁目                  昭和62年1月1日
 江古田新田。明治11年「郡区町村編制法」により北豊島郡に所属、同22年「市制町村制」に
より上板橋村大字江古田新田となった。昭和7年北豊島郡が東京市に編入され板橋区江古田町とな
り、同22年板橋区から分離した練馬区に所属した。中野区江古田と紛らわしく区別する必要があっ
たため、同35年地番整理野際、新町名を付すこととし、住民投票により小竹町の一部をあわせた
町域を旭ヶ丘小学校から拝借して旭ヶ丘とした。同62年新住居表示により栄町の一部をあわせた
町域を現行の「旭丘」に変え、同時に旭ヶ丘小学校・旭ヶ丘中学校も「ヶ」の字を削除した。
 上板橋村字江古田新田は小竹とともに板橋警察署江古田駐在所の管内だった。昭和12年江古田
駐在所が練馬警察署の管轄になり、同19年板橋区練馬支所が出来たとき、警察の管轄に合わせて
行政管轄も練馬支所扱いとなった。同22年練馬支所が板橋区から離れて練馬区となった時、特に
問題にもならずそのままとなった。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『練馬区史』『練馬の歴史』など。

 旭丘の由来
 この町と小竹町は昭和22年練馬区が独立する際、板橋区上板橋町から分与されたもの。だから
地図を見ると妙に出っ張ってる。その時上板橋第三小学校も練馬区に移管され、校歌の一節「昇る
朝日」をヒントに、区内では最初に朝日を仰ぐ東端の高台に位置することから旭ヶ丘小学校(昭和
38年から「旭丘」)と改称した。因みに板橋区では第三は欠番になっている。
 区内で最も人口密度が高く、1丁目に西武池袋線江古田駅と日芸(日大芸術学部)、隣町に武蔵
音大があり、さながら学生街となっている。ごみごみした割には文化性は高く区内唯一なのだ。1
丁目と2丁目の境を西武鉄道の線路が分ける。文京区目白坂から続く清戸道は大正から昭和初期に
は「汚穢(おわい)街道」と蔑まれたものだが、都心と北多摩を結ぶ重要な幹線道路だった。加えて
沿道に千川上水が流れ、その河畔は「新小金井」と呼ばれた桜の名所で「旭に匂う桜花」が花を添
えた。人々は
美しい桜並木を楽しんだものだが、昭和30年代に暗渠化され、桜木も伐採されて殺
風景なコンクリートとアスファルトの道になってしまった。

   『ねりま区報』昭和59年7月1日号掲載
    西武池袋線江古田駅周辺は学生街である。都心に近いだけに、町の発展は最も早く、
   商店数も人口密度も区内屈指という。昭和7年板橋区成立以来、江古田町と呼ばれてい
   たが、同22年練馬区独立の際、練馬区に編入され、同35年地番整理で現町名に改め
   た。元々は江戸時代から上板橋村字江古田といって、多摩郡江古田村(中野区)の新田
   であった。だから本村へ名前を譲ったことになる。残ったのは駅名と銀行の支店の名前
   だけになった。新しい町名にはいろいろ議論があった。結局は住民投票で、地元小学校
   の名に肖って旭丘に決まった。
    旭丘小学校も、元は板橋第三小学校といっていたが、練馬区に編入されたために改称
   した。区内で最初に朝日を仰ぐ丘という意味である。むかし、汚穢街道といわれた清戸
   道は、並行している千川上水が昭和30年頃暗渠化、見違えるようになった。新小金井
   桜と謳われた上水沿いの桜並木も、その時に伐られてしまった。大正4年の植樹記念碑
   が浅間神社の一隅に残っている。
 



■赤鳥居 ◇

 旭丘1丁目19番5号と26番1号の間に千川通りに面してある。潜って30m程の右手に穴守稲
荷神社がある。


■穴守稲荷神社 ◇

 旭丘1丁目20番5号にある小社。旭丘東町々会の建物の1階部分にある。石の鳥居は立派だが、
路地なので、建物と道路ぎりぎりに建っている。赤い旗に「穴守稲荷神社」とある。かつては龍田稲
荷といったらしい。千川通り沿いの路地に赤い鳥居があるので、「赤鳥居」の俗称がある。


■千川子育稲荷神社 
撤去
 旭丘1丁目37番5号にある。この稲荷も元は千川堤にあったものを暗渠化の際に偶々信仰の篤い
人の加護でここに移設された。赤ん坊の夜泣きに大変ご利益があるというので、今も初午の祭りが行
われている。
 ところが、何と! 現在はなくなっており更地になっている。


■えごのみ児童遊園

 旭丘1丁目44番8号にある区立公園。


■旭丘なかよし緑地

 旭丘1丁目54番7号にある区立公園。


■小祠
 旭丘1丁目58番9号(17号?)、千川通りの路地の、そのまた路地の奥にある小祠。古い航空
写真を見ると農家か大きな屋敷があるので、その屋敷稲荷か、千川の川畔にあったのを移したものか
だろう。


ストアハウス・江古田スタジオ
 旭丘1丁目76番8号第五東京ビル4・5階にある。西部池袋線の江古田駅南口の直ぐ前だ。ST
ORE HOUSEは、劇場、ロビー、稽古場を備えた空間だ。演劇、舞踏、ダンス、ジャンルを超え
て様々なアートの発信地になろうと考えている。俗に「江古田ストアハウス」と呼ばれる。


■江古田駅

 旭丘1丁目78番にある西武池袋線の停車場。大正11年11月1日という1並びの日に追加開業
した駅。平成22年1月9日より、新橋上駅舎の供用が開始された。
 ホームは元々地上島式2面4線構造だったが、東長崎駅に待避機能が整備されたことで、平成20
年6月14日から外側の線路は使われなくなり、その後しばらくして1番線と4番線の線路が撤去さ
れて相対式2面2線構造になった。ホームと改札階を結ぶエレベーターは、新駅舎供用と同時使用を
開始した。改札口は1ヶ所で、出口は南口と北口の2ヶ所。かつての南口改札は地上駅舎内にあり、
北口改札は跨線橋の上にあった。
 駅名の読みは「えこだ」だが、地名としては「えごた」が正式。都営大江戸線の新江古田駅は「し
んえごた」と読む。現在は練馬区内には江古田の地名はなく、中野区内にその地名が残っている。な
ぜ駅名の読みが地名と変わったかは諸説あるが、面白い説では西武鉄道がイメージをよくするために
「エゴ」から「エコ」に変えたなんてものもある。

 新橋上駅舎の階段部分などの工事が行われている。平成23年9月頃までに新しい階段やエレベー
ターが整備され、同年度中に周辺再整備も含めた全ての工事が完了する予定。


夏雪山広原院能満寺
 旭丘2丁目15番4号にある真言宗の大きな寺。この寺は、元和の頃(1615~23)夏に雪が
降って、広い原っぱが美しいと聞いて訪れた源心僧都が、ここに堂宇を造り寺としたという。後に火
災に遭ったりして、天明六年(1786)十一世住職克龍が再建した。この時に造営したという大日
堂が現在も残っている。境内参道に石仏群がある。享保十三年(1728) 造立の青面金剛像の庚申
塔、
元禄十年(1697) 造立の薬師如来像、延宝四年(1676) 造立の地蔵像、覆屋に入ってる
「千川延命地蔵」がある。地蔵と並んで御詠歌の碑もあって、その碑文に、大正14年10月21日
上水浚えをした時に見つけたことが書かれている。千川上水の暗渠化工事のためここに移されたもの
だ。千川は地表から消えてしまった。

   
能満寺案内
   山 号 夏雪山 廣原院
   本 尊 不動明王
   開 基 源心僧都
   宗 派 真言宗豊山派
   総本山 長谷寺 奈良県桜井市初瀬
   祖 師 宗祖弘法大師(空海)
   中興祖 興教大師(覚鑁)
   派 祖 専誉僧正
   開 宗 真言宗は、平安時代初期に弘法大師によって中国からもたらされ、わが国で開宗
       されました。
   敎 え 教えの中心はマンダラ思想です。世の中にはいろいろな宗教や思想がありますが
       よく観察してみると、一番底に共通の原点があります。この原点が大日如来とい
       う仏さまです。一切の諸尊は、それがお薬師さま、観音さま、お地蔵さま、お不
       動さまであれ、すべて大日如来の身を変えたお姿(応化神)なのです。したがっ
       てもともとのところは、広い視野で物を見ながら深く考えて、敬虔に力強く、人
       生を生き切り、平和な社会を築くことです。


 旭丘の地蔵道標
 蓮台上地蔵尊立像丸彫り。像高105cm・台石20cm。台石右面中央に「右ハ かわごゑかいど
う」。後は隣の石碑と接近し過ぎて確認不能。台石左面中央には「左ハ たな志加」台石上に地蔵立像
(蓮台)の丸彫を載せる  


■旭丘小学校

 旭丘2丁目21番1号にある区立校。町名の由来となった学校だ。昭和7年9月「東京府東京市上
板橋第二小学校分教場」として設立。同13年1月「東京府東京市上板橋第三小学校」として独立。
同14年2月校歌制定

 校歌「
昇る朝日に」 作詞・稲葉幹一  作曲・福井直秋
  1.昇る朝日に
    森は紫 丘は緑よ
    これぞ吾等が心の学び舎
  2.窓は夕焼け
    大空澄みて富士は浮かぶよ
    これぞ吾等が希望の学び舎
  3.えご花咲きし
    昔偲べば働きの跡
    これぞ吾等が努めの学び舎


 同22年8月練馬区の分離独立により、練馬区に所属したため「東京都練馬区立旭ヶ丘小学校」に
校名変更。同35年小竹小学校を分校。同38年「旭ヶ丘」から「旭丘」に変更。同62年10月創
立50周年記念。平成20年創立70周年を迎える。


財団法人東京都医療保険協会練馬総合病院
 旭丘2丁目24番1号にある、昭和23年3月15日東京都で戦後初めて開院した総合病院。初め
日大芸術学部東隣の41番1号にあり「練馬病院」といった。同25年内科・外科・小児科・産婦人
科・皮膚泌尿器科・耳鼻咽喉科・眼科の7科となり労災指定病院となった。同26年の統計では14
3に1人が結核にかかっていた。おいらの近所にも結核患者の家庭があり、1つ上の友達がいて、遊
びに行っては母親に叱られたっけ。その所為か、肺門リンパ腺が腫れて半年学校を休んださ。頭が良
かったので落第はしなかったけどね。それから40年、医者に「既往症は?」と聞かれて、その話を
すると「そんな痕跡はありませんねぇ。その医者に騙されたんですよ」だってさ。おいらの半年の休
学は一体全体何だったんだよ。だから当時結核は深刻な病気で、練馬病院もこのような医療情勢を受
け、結核療養に力を入れた医療を行った。
 同28年には利用組合出資金を基礎に財団法人東京都医療保険協会「東京練馬病院」に発展した。
同30年東京都職員組合の要望により、結核病床を80床に増やし、同32年156床を数えた。同
38年総合病院となり現在の病院名となった。同45年地上7階・地下2階・254床の近代的な高
層建物となった。同61年CT(コンピュータ断層撮影装置)を導入。
 平成2年人間ドック開設。同3年在宅医療室開設。同4年MRI(磁気共鳴診断装置)導入。
 同18年12月30日現在地(21番・23番・24番)に建てられた地上5階・地下1階の新し
い建物に移り、新時代に入った。


■旭丘中学校

 旭丘2丁目40番1号にある区立校。昭和22年5月都立第4商業学校において「東京都板橋区練
馬東中学校」として開校。8月練馬区独立のため「東京都練馬区立練馬東中学校」と改称。同23年
9月現在の鉄筋校舎の位置に木造2階建て校舎落成。同24年平屋3教室増築。同26年「東京都練
馬区立旭丘中学校」と改称。同26年校章制定。同27年校旗樹立、校歌制定。

 校歌「
丘の名に負う」  作詞・竹島羽衣  作曲・小松耕輔
  1.丘の名に負う朝日影
    仰ぐ心も晴れやかに
    良き師 良き友 睦まじく
    理想目指して吾等は励む
  2.学校続くこの里
    包む青葉の生き生きと
    希望に燃えて一筋筋に
    進みて往かん 正義の道を
  3.身をば練馬の練り鍛え
    徳の高峯 智の泉
    登りて汲みて いざ共に
    高く母校の名をば揚げむ


 同31年南側西校舎(木造2階建て6教室)落成。同32年創立10周年記念式典。講堂兼体育館
完成。同35年南側東校舎(木造2階建て6教室)落成。同38年第一期鉄筋コンクリート造り校舎
(普通4教室・特別4教室)落成。同39年第二期鉄筋コンクリート造り校舎(普通8教室)。同4
2年創立20周年記念式典。同45年プール完成。同48年第三期鉄筋コンクリート造り校舎(普通
8教室)。同50年第四期鉄筋コンクリート造り3階建校舎落成。同52年創立30周年記念式典。
校庭舗装・スプリンクラー設置。同56年視聴覚室にLL機器導入設置。同63年1年遅れの創立3
0周年記念式典(校歌碑・校歌字幕寄贈)。
 平成3年国旗掲揚塔完成。ガス暖房設置。ゆとり教室改修(多目的視聴覚室、コンピュータ・ルー
ム、ふれあい教室など)。同6年緑化。同7年シンボルツリー(辛夷)植樹。同8年備蓄倉庫完成。
オーストラリア・イスプウィチ市交流生徒2名来校。同9年創立50周年記念式典(新校旗・徳峯智
泉石碑寄贈)。同10年校舎大規模改修耐震化。同11年プール改修、防水強化。同12年体育館改
修。保育園分室設置。同13年校庭砂場改修。給食室改修。同15年中庭に備蓄倉庫設置。


財団法人東京都医療保険協会練馬総合病院 
移転 
 旭丘2丁目24番1号にあった都立病院。昭和23年3月15日東京都で戦後初めて開院した総合
病院。平成18年12月30日旭丘1丁目24番1号に移転した。線路を挟んで反対側の旭丘文花通
りに面して建つ。跡地は日大芸術学部の敷地となった。

 
本間千代子
 昭和30から40年代初めのアイドル。東映の女優となり、日活の吉永小百合と人気を二分した。
その彼女が同40年5月22日この病院に入院した。急性盲腸炎だということだったが、堕胎だとの
噂が飛んでマスコミが病院前に押し寄せた。大騒ぎだった。同41年歌手の守屋浩と結婚するものの
離婚。同51年幼馴染のプロデューサーひのきしんじと結婚して引退。2人の息子も無事育て上げて
結婚させた。子育てが一段落し48歳になった平成5年、裕次郎の母校に憧れ、慶應義塾大学文学部
(通信教育課程)に入学。6年かけて、同11年3月に卒業を果たしている。そして同20年日本大
学大学院博士課程前期課程に入学、人間科学を専攻している。同22年年9月17日に日本コロムビ
アから「青春スター ~ときめきのヒロイン~本間千代子・高石かつ枝・高田美和」が発売された。
本間千代子の作品は41曲が収録されており、彼女初の本格CD‐BOXといえる。


■日本大学藝術学部
(日芸)
 
旭丘2丁目42番1号にある。芸術学部は、大正10年法文学部の中に「美学科」が誕生した時に
始まる。同13年3月法文学部美学科を「法文学部文学科文学芸術専攻」と改称。12月専門部文科
文学芸術専攻を併設。同15年法文学部文学科文学芸術専攻を「法文学部文学科外国文学芸術専攻」
と改称。昭和2年法文学部文学科外国文学芸術専攻を英文学専攻と芸術学専攻に分離。同4年法文学
部文学科芸術学専攻に映画課程を設置。専門部文科文学芸術専攻に文学、演劇、映画、美術、音楽の
各部門を設置。同6年法文学部(芸術学専攻)・専門部(文学芸術専攻)共に東京神田鈴木町に移転。
8年東京本郷金助町に移転し、実習室を整備した。この頃「日本大学芸術学園」と呼称した。同1
2年法文学部文学科芸術学専攻を「法文学部芸術学科(文芸学、演劇美学、映画美学、美術史、音楽
美学各専攻)に改組。同14年専門部文科文化芸術専攻を芸術科(創作、演劇、映画、美術、音楽各
専攻)に改組。付属として専科(実技科)、邦楽舞踊科、児童学園を併設。
 同年4月神田から現在地(江古田校舎)に移転。同18年戦局の悪化による文部省当局の美術科・
創作科の廃止要請に対し、已むなく専門部芸術科は、創作科と宣伝芸術科を合併して宣伝文芸科に、
美術科と商工美術科を合併して工作美術科とした。結局、芸術科の8専攻科は演劇科、映画科、音楽
科、写真科、宣伝文芸科、工作美術科の6専攻科となった。同19年教育に関する戦時非常措置によ
り理科系統に転換するの已むなきに至り、文科系である専門部芸術科の学生募集を停止した。専門部
工科(芸術科を転換、駿河台工科と区別のため専門部板橋工科と通称)の中に新たに写真工業科、映
画工業科の2科を設置し、戦時中は芸術教育を工科系の中で担当した。同20年3月専門部工科(板
橋工科)に音響器械科、光学器械科の2科を増設した。対米敗戦により、同19年4月以降停止して
いた専門部芸術科(写真科、映画科、文芸科、音楽科の各専攻科)を復活、同時に造形科を新設し5
科となった。なお法文学部芸術学科は戦時中も存続を保ち、新制大学への移行の基礎となった。
 同21年専門部工科(板橋工科)として設立されていた写真工業科、映画工業科、音響器械科、光
学器械科の4科は学生募集を停止。同11月芸術科校舎本館全焼。同23年専門部工科(板橋工科)
廃止。同24年学制改革により新制学部に移行、「芸術学部」となり、まず写真・映画・美術・音楽
・文芸の5学科設置。同25年芸術学部校舎内に芸術学部所管の定時制による「日本大学江古田高等
学校」を設置。演劇学科を増設し6学科となる。同26年大学院に芸術学研究科(修士課程)文芸学
専攻が設置され、芸術学部内に併置された。同31年専門部各科廃止。創設35周年記念式典。同3
3年短期大学部の中に放送科が設置され、芸術学部内に併置。同35年放送学科を増設し、7学科と
なった。短期大学部放送科の募集停止。同44年芸術学部芸術研究所設置。同45年日本大学江古田
高等学校休校。同47年創設50周年記念式典。同50年短期大学部放送科廃止。同51年日本大学
江古田高等学校廃止。入学定員を450名から600名に変更。同53年所沢市に校地を購入。同5
6年創設60周年記念式典。同61年中華人民共和国・北京広播学院(中国伝媒大学)と学術・文化
交流に関する覚書調印。同63年所沢校地に新校舎建設開始。入学定員を820名に変更。
 平成元年所沢校舎を開設し、専門科目の一部を含む教養課程移転。同3年創設70周年記念式典。
同5年大学院芸術学研究科(修士課程)に4専攻(映像芸術専攻、造形芸術専攻、音楽芸術専攻、舞
台芸術専攻)を増設し5専攻となった。所沢校舎開設5周年記念式典。同6年芸術資料館を設置。同
7年学院芸術学研究科博士後期課程(芸術専攻)増設。同8年デザイン学科を増設し8学科となる。
入学定員を840名に変更。同10年所沢校舎開設10周年記念式典。同13年創設80周年記念式
典。同16年4月所沢校舎テレビスタジオ棟竣工。7月江古田キャンパス整備事業を実施し新校舎建
設工事開始。所沢校舎美術棟・文芸棟・デザイン棟竣工。同19年江古田校東棟落成。同20年4月
江古田校南棟・食堂棟落成。9月江古田校舎大ホール落成。同21年江古田校舎西棟落成。

 
芸術資料館
 
芸術資料館は、芸術に関する資料のさらなる収集と保管、展示ならびに調査・研究を行い、あわせ
て教職員、学生、および一般の利用に供することを目的として設立された。
 


【旭町】(あさひまち)1~3丁目                最終昭和58年3月1日
 下土支田村。明治11年北豊島郡所属、同22年上練馬村大字下土支田。昭和7年北豊島郡が東
京市に編入され板橋区練馬土支田町1~2丁目。同22年板橋区から分離した練馬区に所属。同2
4年1丁目のみ独立して旭町。同43年10月1日新住居表示により旭町の大部分に高松町2丁目
の一部をあわせた町域を「旭町」とし、同58年光が丘の一部を二丁目に編入して現行の「旭町」
が確定した。それで町内に光丘高校がある。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『練馬区史』『練馬の歴史』など。

 旭町の由来
 昭和24年練馬の冠称を外した際、土支田1丁目は独立することが町会で決議され、土支田1丁
目では泥臭く長ったらしいので改名することにし、爽やかに昇る朝日の勢いに肖らんと旭町をと命
名した。

   『ねりま区報』 昭和59年11月11日掲載
   昔は土支田村といった。江戸時代の土支田村は今の旭町、土支田、東大泉の全部と、光
   が丘、三原台の一部を含む大村であった。村は幅1Km余、全長約6Km、上組と下組
   に分かれていた。ここは下組であった。明治になって上・下両組は別々の村となった。
   今の旭町と土支田は下土支田村に、東大泉は上土支田村になった。明治22年町村制が
   布かれ、下土支田村は上練馬村に併合、上練馬村大字土支田と呼ばれ、昭和7年板橋区
   成立のとき練馬土支田町1丁目となった(2丁目は今の土支田)。
    昭和22年8月板橋区から練馬区が独立した。それまで練馬何町、石神井何町といっ
   ていた練馬・石神井の冠称を、同24年1月1日を期して取ることになった。土支田1
   丁目ではその際、町会有志を中心に町名変更が発議された。

    土支田1丁目では字数が多いし泥臭い。希望の持てる明るい簡単な町名がよい

   ということで旭町に一決した。以来同43年住居表示にもそのまま旭町が踏襲された。
   町内には江戸時代からの歴史をもつ妙安寺(旭町3丁目10番)、本覚寺(旭町1丁目
   26番)、昭和36年田端から移った仲台寺(旭町1丁目20番)がある。
 



旭町一丁目緑地

 旭町1丁目7番1号にある区立公園。


■旭町児童遊園

 旭町1丁目11番6号にある区立公園。


■もくば地頭遊園

 旭町1丁目16番1号にある区立公園。


称念山仲台寺

 旭町1丁目20番1号にある浄土宗の寺。天文元年(1532)称念上人により北区田端に創建。
昭和20年アメリカ軍の空爆により焼失、同36年地元の要望でその旧地を小学校用地に提供し、本
覚寺の南に移転してきた。昭和62年鉄筋コンクリート造りの現在の本堂が落慶。本尊の阿弥陀如来
像は、伝教大師(最澄)の作と伝えられ、「雷よけ阿弥陀」とも呼ばれている。その昔、境内、周辺
には木々が茂り、しばしば雷が落ち、火災が発生したが、寺には一度も落雷することが無かったこと
から名づけられた。
 広々としたなかなかの境内だが、樹木がないのが寂しい。門前には、安永六年(1777)王子駒
込辺三十三観音霊場制定の際、仲台寺が西国十番三室戸寺の写しとして選ばれた時の石碑がある。参
道に寛文八年(1668)建立の庚申塔など沢山の石仏が優しく迎えてくれる。如意輪観音、延命地
蔵、聖観音、大日如来、六字名号塔などなど数10体ある。、本堂左が庫裏、墓地は奥。

   仲台寺
   仲台寺は、浄土宗の寺院で、山号を称念山といいます。天正年間(1532~55)称念
   上人によって田端村(北区)に創建されました。
   昭和20年戦災により堂宇ことごとく焼失しましたが、同36年、地元の要望で寺域を小
   学校用地に提供し、この地に移転してきました。
   本尊は阿弥陀如来、脇侍は観音・勢至両菩薩です。阿弥陀如来は平安時代の作といわれて
   います。
   門前にある安永六年(1777)の碑は、王子・駒込辺三十三観音霊場制度の際、仲台寺
   が西国十番札所宇治三室戸寺の写しとして選ばれた時の石碑です。
   参道左にある如意輪観音の庚申塔は、寛文八年(1668)巣鴨村の人びとによって造立
   されたものです。如意輪観音を主尊とする庚申塔は全国的にも珍しいといわれています。
   平成20年3月                         練馬区教育委員会
 


法光山本覚寺

 旭町1丁目26番5号にある日蓮宗の寺。江戸中期に江戸から移転してきたという。不受不施派の
騒動で逃げてきたのではないか? このため信者は江戸市中の者が多かったらしく、山門のところに
京橋題目講中の日蓮上人五百遠忌の碑がある。北野神社に境内を貸しているような格好で寺域は広く
ない。その北野神社の別当寺だった。道沿いに庫裏、右と奥は墓所がある。

   本覚寺と北野神社(天満宮)
   本覚寺は日蓮宗で、雑司谷法明寺末、山号を法光山といいます。創建の時代は詳かではあ
   りませんが、開山の寺の記録で日栄上人(寛永十九年〔1642〕寂)、新編武蔵風土記
   稿で日円上人(元和三年〔1617〕寂)と伝えます。開基は法光院常蓮、俗名小島兵庫
   (慶長元年〔1596〕没)とありますから、江戸初期の創建にちがいありません。
   北野神社は(天満宮)は、小島家の伝えでは、同じ頃同家の鬼門除けとして建立され、の
   ちに村人から「八丁堀の天神様」と呼ばれ崇敬をあつめました。幕末までは本覚寺が別当
   の天神社でしたが、明治の神仏分離で北野神社と称しました。今も神仏習合時代のたたず
   まいを残しています。
   本覚寺の「天眼願満日蓮大菩薩像」は室町時代の作と伝え、近在はもちろん、江戸市中か
   らの信仰もあつめてきました。門前の日蓮聖人五百遠忌題目碑は安永二年(1773)に
   江戸下町の講中と、土支田村の人びとによって建立されたものです。寄進者の中に御殿女
   中らしい名も見られ、信仰の層の広さがうかがえます。
   北野神社には江戸時代からの絵馬が数多く奉納されています。祭神菅原道真公に学問の向
   上成就を祈願したものでしょう。境内に法光稲荷が祀られています。
   昭和60年3月                         練馬区教育委員会


■北野神社

 旭町1丁目26番本覚寺と同一敷地にある。『新編武蔵風土記稿』に記載がないので古い創建では
なさそうだ。土支田村の名主だった旭町1丁目29番の小島家が所蔵している『土支田村明細帳』に
「本覚寺持ち 天神社」と記録が残る。ということは、本覚寺が移転してきてから天神社はできたも
のと思われる。鳥居には北野天満宮の篆額が懸かり、鳥居横に本覚寺の題目塔がある。額絵馬数点が
綺麗に保存されている。同じ形の石祠か3基あるが名前は判らない。一番右のものは赤い鳥居がある
ので稲荷社だろう。


■あさひ児童遊園

 旭町1丁目27番16号にある区立公園。


■八丁堀児童公園

 旭町1丁目33番11号にある。都立光が丘公園のすぐ西側にある公園。この周辺は武蔵野土支田
村八丁堀と呼ばれ、八丁(900m)ほどの用水路があったそうで、その地名を残したいという地元
住民の要望によりこの公園名になったという。

   八丁堀児童公園の由来
   その昔、寛文三年(1663)頃、この地方は武蔵国土支田村字八丁堀と称し、時代の変
   遷と共に、東京府北豊島郡下土士田村、東京市板橋区、練馬区旭町とうつり変わり、現在
   のように開発されてきました。その影には古くからこの地方に住み、困難な生活に堪えて
   きた先住者たちの苦労が偲ばれます。そのような困難な生活を改善すべくつくられた用水
   堀の工事は、おそらく難工事だったでしょう。この堀が約八丁(900m)あったところ
   から八丁堀の名が生れたと言い伝えられています。
   各地で地名の変更が盛んに行われ、由緒ある地名が消えて行く昨今、この八丁堀の名称を
   残したいと思う多くの住民の総意に基づき、この公園を八丁堀児童公園と名付け、長く八
   丁堀の名を保存し、発展を願いたいものです。            旭町一丁目町会
                                   光が丘第一自治会

 牧場の朝
 分部順治の彫刻作品。少年と仔馬。


■イーグルガーデン緑地

 旭町1丁目38番14号にある区立公園。


■光丘高等学校

 旭町2丁目1番35号にある普通科の都立高校。昭和50年光丘高等学校設立認可。同51年1月
光が丘1番地(現在地)に校舎建設着工。校歌制定。

 校歌「」 作詞:初代校長宮澤康造(団の後輩)  作曲:団伊久磨

 同年4月都立世田谷工業高等学校にて入学式。同校付属中学校の校舎を仮校舎として授業開始。1
0月校舎第一期工事3階まで完了。11月新校舎で開校式、授業に入る。12月校舎第2期工事5階
まで完成。当時の光が丘は、「グラントハイツ(旧陸軍成増飛行場)の再開発中」の状態で、光が丘
団地の造成さえもなされておらず、付近に、当校舎を除くと3階建て以上の建造物は、皆無に等しい
状態だった。また当校校庭以外は、上述の開発中をを理由として一般人は立入禁止状態だった。同5
2年体育館完成。校舎前庭植栽、防球網、テニスコート2面など環境整備完了。同53年3月プール
完成。グラウンド整備。第二次環境整備。5月「東京都立光丘高等学校」として開校。同56年3月
特別教室4室増築。同58年新住居表示により、耕地のある光が丘1番の一部が旭町に編入され現住
所となる。同63年臨時学級増により新一年生は9学級となる。
 平成3年学級減により第一学年より6学級(1学級40名)となる。中国帰国子女受入校となる。
同9年校舎大規模改修。同10年創立20周年記念式典(練馬文化センター)。同11年体育館改修
完了。同17年創立30周年記念式典。


■独立行政法人科学技術振興機構・情報資料館
 旭町2丁目8番18号にある旧日本科学技術情報センター資料室。科学技術振興機構(JST)は
平成8年10月1日、昭和57年設立の日本科学技術情報センター(JICST)と同61年設立の
新技術事業団とが統合して、科学技術振興のための基盤整備と先端的・独創的な研究開発の推進、並
びに科学技術理解増進事業の推進を目的として設立された。それにより資料室は情報資料館に改称し
た。資料館では、JSTが収集した科学技術文献資料を所蔵しており、誰でも所蔵資料の閲覧と複写
が可能だ。資料館は国内外の平成4年から最新の資料までを扱っており、それ以前については筑波セ
ンターで公開している。所蔵資料の館外への貸し出しは行っていない。


■旭町はんのき緑地

 旭町2丁目9番4号にある区立公園。


■稲荷神社

 旭町2丁目9番13号東南角にある小社。社前左に廻国供養塔がある。

 丸彫聖観音立像 廻国供養塔
まるぼりしょうかんのんりゅうぞうかいこくくようとう
 ゼンリン住宅地図には「地蔵尊」と記してある。地図屋には地蔵も観音も区別はつかねえわなぁ。
石像はみんなお地蔵さんだ。日本は現在47都道府県の行政区分だが、昔は66の国に分かれていた
から、これを総て廻って各国の寺に納経することを「六十六ヶ国廻国」といい、坊さんの一つの修行
の形だった。この供養塔はそれが無事終わったことを記念して建てたもの。丸彫り聖観音立像を備
えたものは区内では珍しいです。

 総高131cm。台座からの像そのものの高さは86cm、台石に「土支田八丁堀」や享保十三年
(1728)の制作年、造立者名が陰刻されており、右手が一部折損している。昭和18年陸軍の飛
行場が設置されるまでは高松にあった。今となってはどの辺りか見当もつかない。

 台石正面に、

   天下泰平 国土安全 六十六部供養佛 願主道法 敬白

 と銘があり、
願主名が判明している。また、台石の右側面には、

   武州豊嶌郡土支田八丁堀 加藤作兵衛 享保十三戊申稔十月吉日

 左側面に

   願以此功徳普及於一切我等與衆生皆共成佛道(このくどくをもていっさいをふきゅうし、
   われらとしゅじょうみなともにぶつどうをなすことをねがう

 と、制作年月、
造立者や造立の主旨などが陰刻されている。


■庚申塔 ◇

 旭町2丁目9番13号の光が丘パークヴィラの外壁に埋め込まれてお堂はある。以前は路傍の小堂
だったが、今は肩身が狭く、何だか窮屈そうだ。塔は、唐破風笠付角柱型。日月・青面金剛像・鬼・
三猿、
「元禄九丙子天」「霜月廿七日」「武刕豊嶋郡」「土支田村」「奉造立石塔庚申供養二世安楽
欽言所」と刻む。



■光が丘公園(一部)

 旭町2丁目11番は光が丘公園の西北部の極一部がある。


■上練馬公園

 旭町2丁目28番1号にある区立公園。


旭町小学校
 旭町2丁目29番にある区立校。昭和30年9月豊渓小学校旭町分校として開校。同32年東京都
練馬区立旭町小学校として独立。同35年校歌・校旗制定。

 校歌「
学校は何処?」 作詞作曲不明
  1.学校は何処? と聞く人に見せましょう
    風 美しいこの丘を
    秩父の山の紫を
    毎日元気に心を磨く
    皆の笑顔 この明るさを
    ああ旭町小学校
  2.卒業は何時? と聞く人に誇りましょう
    日に日に励む勉強を
    六年間の成長を
    桜に朝日の真心だけが
    何時何時までも変わらぬことを
    ああ旭町小学校
  3.望みは何? と聞く人に答えましょう
    日本の明日の幸せを
    世界の明日の幸せを
    正しく仲良く生きてく今日の
    私の僕のこの幸せよ
    ああ旭町小学校

 同40年校庭開放開始。プール竣工。同41年創立10周年記念式典。野外ステージ完成。同48
年南校舎改築落成。同50年北校舎・体育館完成。同51年創立20周年記念式典。同61年30周
年記念式典。
 平成元年陶芸小屋完成。同3年防災放送設置。同8年防災井戸設置。同9年創立40周年記念式典
同12年パソコン(パーソナルコンピュータ)ルーム完成。同14年パソコンルームにエアコン(エ
アコンディショナー)設置。同15年防水水槽新設。給食室増築。同16年給食調理業務民間委託に
よる自校給食開始。豊渓中学校との親子給食開始。ホームページ開設。同17年プール改修。同19
年木彫校歌設置。創立50周年記念展覧会。同20年区立小学校2学期制開始。全教室にエアコン設
置。同21年校舎耐震化。


■旭町二丁目公園

 旭町2丁目39番1号にある区立公園。


■兎月園跡

 旭丘3丁目2~5番・7番・8番・20~23番にあった。光が丘の北、埼玉県和光市の東、川越
街道の南という微妙な位置にあり、3丁目の豊渓中学校から妙安寺一帯に、東武東上線沿線の開発を
目指した遊園地があった。動物園・グランド・フラワーガーデン・映画館・大型浴場・料亭・茶屋・
レストラン・ボート池・桜並木と何でもありで、驚くことに入園無料だった。休日には多くの来園者
で賑わったが、日米戦争で訪れる人がなくなり閉園せざるを得なくなった。
 大正13年、東武鉄道の
創設者、根津嘉一郎の協力を得て、貿易商の花岡知爾(ともちか)によっ
て開設された(豊島園の開園がその2年後)。妙安寺の寺領の一部を借り、華族や富裕層向けの会員
制施設「成増農園」を始めたのが最初。豊渓中学校
の周辺一帯(旭町3丁目)の1万坪の元々は農地
だったところに、貸農園と数寄屋造りの茶店や料亭ができ、その後、ボート遊び遊びのできる池、テ
ニスコート、小動物園、運動場、映画館、露天風呂を備えた浴場などが整備され、一種のヘルスセン
ター的な総合娯楽施設となった。料亭は政財界の大物が多く利用する場所として賑わった。

 なお、隣には、経営者・花岡知爾の兄が始めた花岡学院があった。
 現在も兎月園商店街として名前が残っている。なお園にあった勝海舟邸長屋門は、昭和35年石神
井台の三宝寺に移築された。3丁目の西武バスの停留所に何ともドジなことに「戸月院通り」という
のがあった。一見ありそうな名前だが、そんな寺はなし、聞くと兎月園通りの聞き間違いらしい。地
元が猛反発により「旭町」に改称したようだ。東武の兎月園を名乗りたくなかったのかな? どっち
にしろみっともない話だ。


豊渓中学校
 旭町3丁目5番10号にある区立校。昭和22年旧豊渓青年学校職員室を使用、豊渓小学校2教室
を借用し、「東京都板橋区立豊渓中学校」として開校。生徒79名でスタート。同23年校章制定。
同25年現在地に校舎落成。同26年校舎落成式。同27年創立5周年記念式典。同31年校地を拡
張。北校舎落成。同32年創立10周年記念式典。校旗・校歌制定。

 校歌「
昇る朝日の」 作詞・島来展也  作曲・金子三雄
  1.昇る朝日の光に映えて
    遥かに仰ぐ富士の山
    おゝ若い日の理想に燃えて
    真理の道を開こうよ
    豊渓中学 心の故郷よ
  2.若芽伸び行く兎月ヶ丘に
    友愛結ぶ学び舎の
    おゝ若い日の心に育つ
    築いた自治の花は咲く
    豊渓中学 心の兄弟よ
  3.今に巣立ちのこの雛鳥を
    恩師の翼に抱えられ
    お若い日の身と三年の教え
    自由の空に鳩は舞う
    豊渓中学 心の父母よ


 同35年東校舎落成。同36年北校舎落成。同39年体育館完成。同41年第一期鉄筋コンクリー
ト造り校舎落成。同42年創立20周年記念式典。同46年第二期鉄筋コンクリート造り校舎落成。
同47年プール用地のため校地拡張。同48年プール完成。同49年正門完成。同50年第三期鉄筋
コンクリート造り校舎落成。同52年創立30周年記念式典。同56年鉄筋コンクリート造り東校舎
落成。校庭整備(鉄棒・砂場・撒水設備)。同62年創立40周年記念式典。同63年校庭防球ネッ
ト完成。
 平成元年LL教室開設。同5年FF暖房設備取付。同6年窓枠アルミサッシ化。同9年機械警備開
始。新体育館・北門・西門完成。創立50周年記念式典。同11年図書室エアコン設置。校舎天井改
修。調理室改修。同12年音楽室・会議室・保健室改修。同13年教室床改修。同14年非常通知装
置設置。第一理科室改修。同16年アスベスト除去。同17年視聴覚教室床改修。冷水器4ヶ所に設
置。同18年特別教室に扇風機設置。給水管改修。同19年創立60周年記念式典。被服教室にエア
コン設置。同20年普通教室エアコン設置。同22年校舎耐震化。視聴覚教室エアコン設置。職員室
床改修。防火シャッター。


長久山妙安寺
 旭町3丁目10番11号にある日蓮宗の寺。入口の左に「ねりまの名木クロマツ」とある。開山は
日雄上人、開基は江戸時代初期の京都所司代板倉伊賀守勝重という古刹だ。参道50mで山門だ。境
内は広い。明治33年本堂再建、山門は昭和13年の建立。左に墓所、右は催場だ。

   妙安寺
   妙安寺は日蓮宗の寺院で、山号を長久山といいます。開山は駿河蓮永寺の日雄上人(元和
   元年 1615没)、開基は板倉伊賀守勝重(寛永元年 1624没)と伝えます。
   勝重は、徳川家康江戸入府以前からの重臣で、天正十四年(1586)駿府町奉行を勤め
   ましたが、日雄上人とは親交も厚く、その学徳を深く尊崇しておりました。家康入府後、
   勝重はこの辺りを知行したので、早速上人を招いて当山を創建したものと思われます。広
   大な寺領を寄進し、徳川家の武運長久を祈願して長久山と名付けたといいます。
   明治半ば、火災により堂宇ことごとく焼失しましたが、同33年本堂再建、38年山門も
   竣工しました。
   本堂手前の板碑形題目碑は八世日如上人(享保十九年 1734没)の代に造立された貴
   重な石造物です。また山門前には文化八年(1811)の題目碑、文政十年(1827)
   の見上げるような宝篋印塔などがあります。
   昭和60年3月                         練馬区教育委員会


■出世稲荷神社

 旭町3丁目17番4号にある。鳥居を潜り、石段を登った小高い丘に社殿がある。かつてはここか
ら白子川が見下ろせたという。昔は小さな祠で、石段はなく、山道で、登りは大変に険しかったそう
だ。今は上を削平し、元の祠を後に下げ、現在の社殿は何処からか移築したものだとか。出世稲荷の
「出世」は、川越街道も近かったので、川越城主が江戸への往来の途次、この稲荷社によって出世を
祈願したということから、この名がつけられたと伝えている。そのためか、出世を望む武士の参詣者
が多かった。出世祈願をした武士らしき名前の記載された額絵馬が保存されている。

   出世稲荷神社
   本社の創建は詳らかではありませんが、小島家文書の(練馬区指定文化財)「享和四年(1
   804)二月豊島郡土支田村、村方之儀明細書上下書」は「稲荷社長武間横八尺」と記さ
   れています。
   「出世稲荷神社」の名称がついた理由は、次のように伝えられています。
   「この北方に川越街道があるので、昔、川越城主が江戸との間を往復する時、出世の祈願
   をしたところからいつしかこの名がつけられ、(中略)、松平信綱や柳沢吉保のように老
   中、大老の要職についた大名があり、(中略)そうした大名が出世を祈願してお参りした
   ので評判になったのであろう」(練馬の伝説より)
   昔は小さな祠でしたが、元の祠を後ろに移転して本殿とし、深川神明宮から移築した社殿
   を幣殿・拝殿として現在のような社殿としたものです。
   鳥居の手前右手に「出世稲荷大明神」明治15年の社号塔があります。また、稲荷神社に
   は普通狐型の狛犬がありますが、境内には獅子型の狛犬が置かれています。これは大正末
   期から太平洋戦争頃までこの辺りにあった兎就園という遊園地内の神社に置かれていたと
   いわれるもので、地域の歴史をものがたるものといえます。境内に残る樹木は昔の面影を
   よく残しています。
   平成2年10月                         練馬区教育委員会


■旭町かりん児童遊園

 旭町3丁目32番24号にある区立公園。
 


【大泉学園町】(おおいずみがくえんちょう)1~9丁目        昭和57年12月1日
 小榑村下小榑。「こぐれ」と読む。明治9年埼玉県編入。同11年「郡区町村編制法」により新
座郡所属。同22年「市制町村制」により榑橋村大字小榑となる。同24年北豊島郡に編入、大泉
村大字下小榑。昭和7年北豊島郡が東京市に編入されて板橋区大泉学園町。同22年板橋区から分
離した練馬区に所属。同57年新住居表示により大泉学園町の大部分に北大泉町・西大泉町の各ご
く一部をあわせた町域を区内最大の面積を誇る現行の「大泉学園町」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『練馬区史』『練馬の歴史』など。

 大泉学園町の由来
 東急王国を築き上げた〝強盗慶太〟こと五島慶太と張り合った箱根土地(コクド)の〝ピストル
堤〟の異名を取った
堤康次郎の野望と村民の希望で、小田急の成城学園や玉川学園のような学園都
市を目指して東京商科大学(一橋大学)の転地を待ったのだが、大学の教授陣が汚穢鉄道のイメー
ジの強い武蔵野鉄道を嫌い、箱根土地が国鉄中央本線沿線の谷保村(現国立市)に所有していた広
大な土地を要求、神田区の僅かの大学敷地と等価交換して移転した。そのため昭和8年東大泉駅を
大泉学園駅に改めたものの分譲地は売れず、「大泉学園」はついに日の目を見ることはなかった。
町の北部が碁盤の目状なのはその当時の名残りだ。武蔵野鉄道はイメージ・アップのため買収した
弱小鉄道の名前を前面に押し出したり、プロ野球チームを持ってみたり、有名女優に分譲地を提供
したりしたものゝ、練馬・埼玉では小田急沿線や東急沿線のように高級感を醸そうとすること自体
が土台無理な話で小田急に支えられて持っているような鉄道会社だ。いずれ小田急に吸収される可
能性もあるが堅実賢明な小田急のこと厄介を背負い込まないだろうよ・・・
 東京市は今の大泉公園の辺りの森林を借り受けてレジャー農園を開設、市民農園とも呼ばれて一
時は大いに賑わったものだ。現在もバス停留所に都民農園の名が残っている。駅前からの桜並木は
当時植えられたもので、大泉学園通りは桜通り・桜街道と呼ばれた。昭和12年政友会と民政党が、
それぞれ世田谷と大泉に師範学校(学芸大学→首都大学東京)を誘致しようと争った。長い間の念
願だった地元は、チャンス到来とばかりに猛烈な誘致合戦を推し進めた。当時江古田に住んでいた
社会大衆党の松谷与次郎議員も応援に加わった。松谷議員の参加は非常な強みとなって誘致運動は
見事に成功し、大泉移転は決定した。ところが、ちょうどこの年、新興キネマ東京撮影所が東大泉
にできて、撮影も始まった。そのことから思わぬ横槍が入った。学校側の反対だ。撮影所があるか
らという訳だが、当時歌舞伎役者は別格として、映画演劇の俳優はヤクザ、新聞記者同様に尊敬さ
れない職業の一つだった。一般人が俳優をやろうものなら、親子の縁は切られるほどだった。で、
その反対理由が振るっている。

   軽薄華美の服装をした俳優たちと、苟(いやしくも)神聖なる教育者の卵を養成する
   学校の学生たちが、同じホームで乗降するのは風紀上好ましくない。


 これには地元は弱ったらしく折角決まったものを覆されては大変と、撮影所用に駅を新設すると
提案したが、鉄道側が拒絶した。そこで考えた末、南側に改札口を設けることで一件は落着したが、
結局大学は来なかった。同18年戦争の雲行きが怪しくなり始めた頃、埼玉県に接する辺りに陸軍
士官学校が開校し、戦後は占領米軍野「アサカキャンプ・サウスエリア」となったが、同48年に
返還されると文教地区(9丁目)とになり、何とか学園町の体裁を整えるに至っている。しかし堤
は西武を追われてしまった。
 なお9丁目に大泉学園桜小・中学校、大泉学園高等学校があるが、これは大泉学園という学校で
はなく、地名大泉学園を冠した公立学校だ。

 小榑の由来
 さて小榑村の「榑」は一定の長さに切り揃えた丸太のことで、「小榑」はその中繰りした円面を
同じ扇面に八等分した桶や屋根材などを作る原材料をいう。延暦十年(791)の太政官符では「長
さ1丈2尺×幅6寸×厚さ4寸」と定められたが、鎌倉時代には長さ7、8尺、室町時代には5、
6尺と短くなっていき、割も四等分、六等分のものも出現した。小榑村はその生産地だったから大
蔵や小椋などと同じで木地師によって開かれたというか、彼らが住み着いて生業(なりわい)をした
村。往時は鳥も通わぬら深山幽谷だった。別に帰化人説がある。関東には高麗人の居留地が多く新
座郡は元の新羅郡だったりする。それで「古呉」または「高句麗」の転じたものじゃないのかとい
う意見も提示されている。

   『ねりま区報』 昭和59年6月21日号掲載
    
区の西北端に位置し、町の面積は区内最大。古くは小榑(こぐれ)村といった。明治
   24年埼玉県から東京府に併合、大泉村となった。村役場は今の中島児童遊園(大泉学
   園町2丁目2番)の所に置かれた(記念碑が建っている)。
    大正震災直後、箱根土地という会社がここに一大学園都市を開発しようと計画した。
   碁盤目のように整備した土地は坪10円で売り出された。今では夢のような話である。
   昭和7年板橋区成立の時、大泉学園町と名付け、それまで東大泉駅といっていた駅名も
   今の名前に改めた。しかし大学誘致も、住宅開発も思うに任せなかった。
   一方東京市は付近の山林を借りて開墾、今でいうレジャー農園を開設した(大泉公園の
   ところ)。市民農園と呼ばれ一時は大いに賑わった。都民農園のバス停はその名残りで
   駅前からの桜並木も、そのころ植えられた。昭和18年朝霞(旧キャンプ朝霞南地区)
   に陸軍士官学校が開校され、表門が東京側の大泉学園町にできた。戦後、米軍と自衛隊
   が使用、昭和48年に返還された。そこには現在、小・中・高校のほか各種の教育施設
   や公園ができ学園の名にふさわしい街づくりが整ってきた。町も急成長を遂げている。
 



■関越道高架下利用計画問題

 大泉学園町1丁目~大泉町5丁目に亘る1kmの関越自動車道新潟線高架下を利用するのかしない
のかということで、賛成派と反対派が全く譲らず、練馬区が計画を立ててから未だに着工に至ってい
ない。この地区の高速道路下は「町を分断しない」というコンセプト(概念)で、盛土にせず、風通
しのよい高架方式にしたという経緯があるが、暗黙の了解で、文書などは残されていない。確かに現
在に至るまで高架下は金網フェンスで囲まれ未利用の空間となっている。向こう側が見通せるという
ことは、分断されたというイメージは沸いて来ない。
 当該区間の高架下の土地は、第1種中高層住宅専用地域(西端部分のみ近隣商業地域)に指定され
ている。周辺の土地利用状況は、住宅・店舗・公園及び学校となっている。また当該高架下区間には
当該区間に沿って、側道と共に歩道(復員4m程度)・緑地帯が整備されており、それらに隣接する
公共施設として「こぐれの森緑地(約6000㎡)」「大泉北小学校(約13000㎡)」がある。
交通面では、当該高架下を、練馬主要区道57号線をはじめ南北方向に抜ける道路と、練馬区道32
‐505号線をはじめ東西方向に走る側道が、それぞれ整備されており、南北方向、東西方向とも十
分な往来が可能となっている。また都市計画道路補助第135号線(大泉学園通り)が当該区間の西
側で接しており、最寄り駅である西武池袋線大泉学園駅からの路線バスが走っている。
 利用計画では、高齢者センター、近隣町会の資材倉庫、スポーツ施設、関連駐車場を整備すること
になっている。ただこの区間総てが密閉封鎖される訳ではなく、施設は部分部分に設置される。
 地域の活性化が図られるということは、人と車が集中する訳で、そんなところに高齢者が利用する
施設が作られると高齢者の危険度が増すという矛盾が生じる。


■花の庭街かどの森

 大泉学園町1丁目13番にある区立公園。


■学園町みのり憩いの森

 大泉学園町1丁目17番にある区立公園。
 


■職質警察官轢き逃げ事件

 大泉学園町1丁目32番3号北の関越道側道で、平成27年10月13日午前10時半頃、石神井
警察署の男性警察官(26歳)が、携帯電話で通話しながら運転している軽トラックを発見し、男性
警察官は自転車で20mほど軽トラックを追跡、渋滞で軽トラックが停車したところで運転していた
男に職務質問していたところ突然、男が軽トラックを急発進させた。警察官は手をかけたのが引っか
かって、そのまま10mばかり引っ張られて路上を転がり、軽トラックはそのまま逃走した。目撃者
の通報でパトカーが駆け付け、犯人の緊急手配が行われ、倒れた警察官は救急車で病院に送られたが
肋骨と足首を折る重傷。
 翌14日朝、目撃された番号や監視カメラの情報から、逃走した男を、所沢市在住の鈴木義勝(7
9歳)と断定し緊急逮捕した。鈴木は職質されたことが気に入らず犯行に及んだようだ。これで免許
証は没収されるし、仕事はなくなるし、どうすんだよ、これからの老後を・・・


■大根本舗栄泉
 大泉学園町1丁目12番2号にある和菓子屋。練馬大根をコンセプトに、商品をコーディネート。
すずしろ(黄味餡をホワイトチョコでくるんだもの)、練馬大根饅頭、練馬大根最中が揃う。練馬土
産にはよかろうさ。


■大泉中島公園
 大泉学園町2丁目2番2号にある区立公園。

 大泉村役場跡碑
 公園全体がそうだ。大正11年に建てられたものだが、つい最近まであったのに取り壊して公園に
してしまった。愚かなことだ。何でも新しくすれば良いというものではない。何でも西洋人のするよ
うにすれば良いのではない。たとえ西洋では良いことでも日本ではやってはならないということもあ
る。阿呆にならぬことだ。公園の西北角に「大泉村役場建築記念碑」と「平和記念之碑」が並んで建
っている。役場の建物は大正11年に木造二階建てで建てられ、昭和7年板橋区になった後も、公の
建物としていろいろなものに使われたが、老朽化が激しくなったたため昭和59ま年に取り壊され、
跡地を公園とした。

 
大泉村役場跡碑

   大泉村役場跡
   荒野拓夢遥 粒粒皆辛苦
   流転甍竝多 白水尚東流


 区の説明板。

   大泉村役場跡
   明治22年町村制の施行で、埼玉県新座郡に属していた小榑村(現大泉学園町・西大泉・
   南大泉)と橋戸村(大泉町)は合併して榑橋村となりました。同24年榑橋村は東京府北
   豊島郡に編入、同時に石神井村大字土支田(東大泉)と新倉村長久保を合して大泉村が成
   立しました。
   村役場は初め、ここから西約200mの本照寺隣接の村長宅に設けられましたが、大正1
   1年新しくここに村役場の建設をみました、
   翌12年には武蔵野鉄道東大泉駅(現大泉学園駅)ができ、村発展のきざしがみられる時
   期でした。
   大泉村役場建築記念碑には、村長はじめ多数の村民の氏名が刻まれ、新しい期待がこめら
   れています。
   それから幾年月、板橋区時代、練馬区独立を経て、建物は公共施設などとして利用されて
   きましたが、昭和54年老朽化のため取り壊されました。
   昭和61年3月                         練馬区教育委員会


 
平和記念之碑
 大泉地区から出征して戦死した289名もの名前が刻まれている。


加藤山法性院
 大泉学園町2丁目18番36号にある日蓮宗の寺。ここも鉄筋コンクリート造りだ。もともとこの
寺はこの地に多い加藤一族の氏寺として建立されたもので、天正二年(1574)の草創と伝えられ
ている。本堂には「安政五代戊午歳如月清正公尊像」が安置されている。これは千葉県日本寺の住職
だった日成上人から、加藤氏に因んで、安政五年(1853)に贈られたものだ。特に未年生まれの
男子の武運長久に恵みが多いとして、戦時中出征兵士やその家族の無事帰還を祈願するものが多かっ
た。

 慈母観音像
 本堂の左前にある露仏。生々しい授乳姿は珍しい。北村西望を彷彿とさせる塑像だ。しかもコンク
リート製だ。


■大泉図書館

 
大泉学園町2丁目21番17号にある区立図書館。

 エチュード
 岸崎夜光の作の裸婦像。160cm。昭和60年10月9日設置。


■西本村憩いの森

 
大泉学園町2丁目23番にある区立公園。


■小美濃家文書(非公開)
 大泉学園町2丁目23番65号にある小美濃家(おみのけ)に伝わる江戸時代の村方文書から大正
期の300点以上の
文書群。小美濃家は、江戸時代には小榑村の村役人を、明治期以降は大泉村の村
長などを務めた。宝暦四年(1754)の
小榑村柄様子明細帳のほか、江戸時代の年貢や土地集積に
関わる内容の
文書・記録が多く残されるとともに、明治末期から大正初期にかけての大泉村役場や泉
小学校改築に関する
文書がある。江戸時代の小榑村村政、支配などの様子や、近代の大泉村の行政、
教育を知ることができる史料です。


■西本村
憩いの森
 大泉学園町2丁目23番にある小美濃家の里山を解放したもの。大泉学園の静かな住宅街にあり、
旧地名を「西本村」といっていた場所にある。この憩いの森は、雑木林とクリの木からなる。大きな
大木の木陰の森林浴ができたり、秋になると栗が実るので栗拾いも出来る。


■学園原っぱ公園

 
大泉学園町2丁目27番24号にある区立公園。


■惣兵衛の力石

 大泉学園町2丁目27番14号にある。中島公園の西側の路地を北に上がって突き当たった加藤家
の壁際に丸石の馬頭観音がある。これが力持ち惣兵衛の伝説の石だ。
 力自慢の惣兵衛は、ある時江戸の武家屋敷で、その家の主人から乞われて大きな庭石を持ち上げた
と思いねぇ。褒美としてその石と賞金を貰い、石は馬の背につけて意気揚々と帰ってきたものの、村
の外れまで戻って来ると、石の重さに耐えかねて、老馬はとうとう息絶えてしまった。長年大切にし
ていた馬が死んで初めて、力自慢をしていたことの愚かさをしみじみと悟るのだった。馬の亡骸を家
の側に葬るとその上に丸石を置いて供養した。石には、

   天保十一年(1840)庚子年九月加藤惣兵衛建之

 とある。


法光山善行院妙典寺
 
大泉学園町2丁目27番54号にある日蓮宗の寺。鉄筋コンクリート3階建ての近代建築で、昭和
45年の建立。八間四方の正方形、宝珠鬼瓦が、周囲の緑に映えている。1階は車庫、2階が書院、
3階が本堂となっている。明治初期に無住だったため、これといった資料はないが、大正時代に檀家
7軒によって復興が計られ今日に至っている。昭和30年墓地整備の際に天正十一年と文明十九年の
2枚の板碑が発掘された。「新編武蔵風土記稿」の西中山妙福寺の項に、

   
塔頭善行院、山号寺号等ナシ。法性院ノ側ニアリ

 と記されている。また寺附明細改帳には、

   武州小榑村御朱印地法種山妙福寺寺末、御年貢地境内8畝歩、御代官平岩右膳殿支配御年貢
   地


 とある。寺の「慶讃史」(日蓮宗宗務総長日幹大僧正書)によると、

   
本山第六祖善行院日応上人閑居の地也

 とあり、日応上人は、延徳二年(1490)九月八日とあるので、草創はおよそ500年前と考え
られる。なお、開基の加藤朽之亮については、開山と併記してある木碑以外は不明である。本尊の三
宝尊は、安永年間(1772~81)喜見院日明上人の再興と寺伝では伝えている。

 ●日蓮上人像・観音立像・地蔵尊立像
  


むくのき児童遊園
 
大泉学園町2丁目32番24号にある区立公園。


農業体験農場・緑の散歩道

 
大泉学園町3丁目4番にある農業体験農園。練馬区では、平成8年4月より毎年1園ずつ練馬区農
業体験農園が開園されている。ここは平成15年7番目の体験農園として農家小美濃昌一が開設運営
している農園。区から農園の整備、運営にかかる費用が助成される。栽培する作物の選定、作付け計
画は園主が行ない、種、苗、肥料、資材、農具などの用意もする。園主が野菜作りの講習会を開き、
農園利用者は作付けから収穫までの農業体験ができる。1区画の面積は約30㎡。


■学園町柿の木果樹の森

 大泉学園町3丁目5番にある。


立野山さくら緑地
 
大泉学園町3丁目6番43号にある区立公園。

泉ヶ丘児童遊園
 
大泉学園町3丁目7番11号にある区立公園。


■立野山の森緑地

 
大泉学園町3丁目9番28号にある区立公園。


農業体験農場・百匁の里

 
大泉学園町3丁目17番にある。練馬区では、平成8年4月から毎年1園づつ農業体験農園が開園
されている。この農業体験農園は、平成18年10番目の体験農園として農家加藤正明が開設運営し
ている農園。区から農園の整備、運営にかかる費用が助成される。栽培する作物の選定、作付け計画
は園主が行ない、種、苗、肥料、資材、農具などの用意もする。園主が野菜作りの講習会を開き、農
園利用者は作付けから収穫までの農業体験ができる。1区画の面積は、約30㎡。


■大泉なかよし緑地

 
大泉学園町3丁目17番32号にある区立公園。


■大泉第三小学校

 大泉学園町3丁目22番1号にある。大正8年大泉小学校分校として設立。昭和8年大泉学園町に
改築移転。同19年4月15日「東京都大泉第三国民学校」として独立。
 同22年4月1日「東京都板橋区立大泉第三小学校」に校名変更。8月1日練馬区成立により「東
京都練馬立大泉第三小学校」に校名変更。同34年11月22日校歌制定。

 校歌「
若草萌える」 作詞作曲不明
  1.若草萌える武蔵野の
    風に緑の朝風に
    今朝も歌声 響かせて
    通おう みんな朗らかに
    漲る光を浴びて立つ
    大泉第三小学校 大泉第三小学校
  2.遥かに富士も浮かんでる
    空に明るい大空に
    今日も瞳を輝かし
    学ぼう みんな新しく
    溢れる望みが湧いて出る
    大泉第三小学校 大泉第三小学校
  3.巣立ちの鳥が、若鳥が
    いつも元気に飛び交わす
    庭の公孫樹の木のように
    伸びよう みんな逞しく
    豊かな自然に囲まれた
    大泉第三小学校 大泉第三小学校

 平成6年創立50周年記念式典。同16年開校60周年記念式典。
 


■こぐれの森緑地
 大泉学園町4丁目2番4号にある区立公園。「雑木林」をそのまま残して整備したもの。南側広場
には木製遊具があり、新鮮な空気の中で、伸び伸び汗をかきながら遊ぶことができる。北側の雑木林
には、園路沿いに山野草や実のなる植物を植え、小鳥や虫たちがこの森に集まりやすいように工夫し
てある。


■大泉学園小学校
 大泉学園町4丁目7番1号にある区立校。昭和43年「東京都練馬区立大泉学園小学校」として開
校。児童数824名でスタート。同44年校章制定。第一次増築4教室落成。プール完成。同45年
1月第二次増築3教室・西昇降口落成。12月第三次増築8教室落成。同48年校歌制定。大泉北小
学校新設により生徒350名移籍。
 同52年校庭整備スプリンクラー設置。大泉学園緑小学校新設により生徒31名移籍。同53年創
立10周年記念式典。
同55年大泉学園桜小学校新設により生徒354名移籍。同59年学区変更。
同63年創立20周年記念式典。
 平成3年ゆとり教室活用化(開放型図書館・和室・ランチルーム)。同7年FFガス暖房設置。同
8年避難拠点防災井戸設置。同9年パソコンルーム開設。同10年創立30周年記念式典。同13年
心身障害(知的障害)学級開設。


■影山の森緑地
 大泉学園町4丁目15番15号にある区立公園。かつて武蔵野の「雑木林」で、ムクノキ、シラカ
シ、タケなどいろいろな樹木があり、小鳥たちも沢山集まってくる区内でも貴重な森の1つ。散策の
途中、自然の小窓を除いてみませんか(区広報)。


■大泉学園中学校

 
大泉学園町4丁目17番32号にある区立校。
昭和36現在地に校舎建築着工。同37年「東京都
練馬区立大泉学園中学校」として開校。仮校舎大泉中学校内(学級数11)。6月新校舎竣功移転。
校章制定。10月開校式・校歌制定。

 同38年屋内体育館兼講堂完成。プール落成。同39年第一期増築4教室落成(学級数15)。同
41年第二期増築8教室落成(学級数18)。同42年完全給食開始。第三期増築3教室(学級数2
1)
・給食室落成。同43年校旗制定。同44年都上水道敷設・学校水道に連結。第四期増設3教室
落成(学級数24)。同45年プレハブ4教室設置(学級数28)。同46年隣接私有地借用(16
50㎡)。プレハブ7教室設置(学級数32)。同47年八坂中学校新設、新1・2年生の一部移籍
(学級数31)。同47年9月借用地買収(1650㎡)。創立10周年記念式典。同48年大泉西
中学校新設、新1・2年生の一部移籍(学級数22)。同49年校庭整備・スプリンクラー設置。同
51年プレハブ4教室設置(学級数26)。同52年プレハブ9教室設置(学級数31)。同53年
大泉北中学校新設、新2・3年生の一部移籍(学級数21)。同54年テニスコート設置。校内放送
設備改修。同55年校舎内外壁塗装。同56年大泉学園桜中学校新設、新2・3年生の一部移籍(学
級数15)。第2音楽教室改修。同57年プール改修。創立20周年記念式典。同60プール改修。
校庭南側防球ネット設置。校庭整備。同61年特別教室(理科・家庭科)改修。同62年校舎改修工
事(窓枠アルミサッシ化・外壁塗装・屋上防水)。同63年校舎(床・天井)・電気設備・トイレ改
修。LL教室開設。校地拡張1422㎡買収。
 平成元年ガス・下水道切替。同2年理科室・家庭科教室改修、パソコン室・視聴覚室・教育相談室
・和室設置。同3年パソコン購入設置(21台)。同4年第二屋内運動場を新設。同5体育館・プー
ル改修。第二屋内運動場新設。創立30周年記念式典。同7年校庭東側防球ネット設置。校庭テニス
コート整地。同8給食休憩室改修。同11年正門扉門塀改修。パソコン新機種設置(42台)。校舎
耐震化。同12年防火水槽設置。同13年正門アコーディオン門扉設置。同14年創立40周年記念
式典。同15年備蓄倉庫設置。給食室増築。同16年給食自体調理開始。同17年体育館耐震化。同
20年普通教室エアコン設置。同21年屋上緑化。


■あおい公園

 
大泉学園町4丁目18番6号にある区立公園。


■大泉郵便局

 
大泉学園町4丁目20番23号にある普通局。


■大泉学園町庚申塔 ✓

 
大泉学園町4丁目27番にある? 写真はある。


■学園みどり児童遊園

 
大泉学園町5丁目10番30号にある区立公園。


■大泉学園緑小学校

 
大泉学園町5丁目11番47号にある区立校。沿革不明。

 校歌「
緑爽やか」 作詞・大場雅子  作曲・大田辰郎
  1.緑爽やか大泉
    桜並木を通い来て
    ここに集まる私達
    溢れる愛に包まれて
    心豊かに育ちます
    ああその名も明るい
    大泉学園緑小学校
  2.空澄み渡る大泉
    遥かに浮かぶ富士を見て
    ここに学ぶ私達
    希望の若芽すくすくと
    知識を深め伸びて行く
    ああその名も健やか
    大泉学園緑小学校
  3.土の香残る大泉
    欅の木々に囲まれて
    ここに遊ぶ私達
    力を合わせ皆共に
    未来に向い羽ばたこう
    ああその名も清らか
    大泉学園緑小学校
 


■大泉学園町体育館・屋内プール

 
大泉学園町5丁目14番24号にある区の施設。

 
微風の頃(1)(2)
 (1)は、島田紘一呂作の長椅子に寝る猫と開いた本、90cm。
 (2)も、島田作の椅子に寝る猫と見張りをするダックスフント。90cm。
 平成10年3月31日設置。長尾基金第6号。
 


■すずしろ公園

 
大泉学園町5丁目14番36号にある区立公園。


練馬一家5人殺人事件
 大泉学園町6丁目15番11号で起きた猟奇殺人・遺体損壊事件。昭和58年2月2日不動産鑑定
士朝倉幸治郎(48歳)は東京地裁で競売に掛けられた前記番地の三角地の物件(木造2階建て、6
24㎡)を競売で落札して購入した。代金の1億600万円は、資産の殆どを担保に入れて銀行から
1億数千万円を借り入れた。その利子は月100万近くにもなる。朝倉は所有権移転登記を済ませる
と直ぐに転売すべく走り回り、漸く4月13日渋谷の不動産屋と売買契約を成立させた。値段は1億
2950円。明け渡し期限は6月30日、朝倉は不動産屋から内金1500万円を受け取った。
 この物件には、新宿区西早稲田にある日本洋書販売配給会社の商品管理課長の白井明(45歳)一
家6人が住んでいた。だから立退料(500万円)は必要だが、それを支払ってもなお1000万円
程度の儲けになると見込んでいた。朝倉は落札した翌日から立退き交渉を始めたが、白井が期限まで
に立ち退いてくれなければ、転売先に内金の倍額の3000万円を払わなければならないことになる。
1日も早く立ち退いて貰いたい朝倉は、3日に1回は交渉のために白井の家を訪問した。しかし白井
は根性のひね曲がった男で、なんだかんだといい逃れをして、のらりくらりはぐらかし、一向に立ち
退く素振りを見せなかった。朝倉の不幸はここに始まった。だが白井も悲劇の地獄へ自ら踏み込んで
いた。
 業を煮やした朝倉は強制明け渡しの裁判に打ってでたが、白井は悪魔に囁かれるまま引き伸ばし作
戦に入った。朝倉は「裁判を取り下げれば直ぐにでも出て行く」と言明した白井を信用して取り下げ
てみたが、それはあくどい白井の罠に嵌ったに過ぎなかった。人間の真の恐ろしさを知らぬ白井は北
叟笑む。その後朝倉が訪れても引越しの準備はおろか、白井夫婦の態度は白々しいものだった。もし
この時に白井夫妻が人間の真心を持ち合わせていたら地獄の坩堝がすぐそこに口を開けていることに
気づいたろう。常識的に考えても、何の権利もない白井がそのまま居座れば、殺人といわずとも何ら
かの悲劇の起こるだろうことは想像できたはずだ。頭の良くない人間というのはどうしようもないも
のがある。

 
和知利夫
 実はこの物件は白井の妻幸子(41歳)の父親、町田市中町1丁目11番21号の多摩建設社長和
知利夫(65歳)が、昭和33年に地元の地主から購入して所有していたものだった。和知はこれを
担保に、豊玉北6丁目15番の共栄信用金庫から次々と融資を受け、その根抵当権は同41年~55
年までに7回嵩上げされ、最終的には2億円に達していた。この間土地建物を担保に6000万円を
第一勧銀(現みずほ銀行)から2年間借りてたこともある。同56年港区の知人からも1000円の
抵当を設定され、2億1000万円の〝キズ〟が付いていた。和知は悪知恵を働かせて、そこに住まわ
せている娘夫婦との間に「土地を30000円、家屋を70000円で貸す」という借地権を設定、
この設定によって借地権を確保し競売を逃れようとの悪意を旗印としたのだ。しかし共栄信金は最早
返済はなされないものと判断し、同57年3月土地建物を競売にかけ、それを朝倉が落札したという
訳だ。和知は最早人の道を外れ、強欲の鬼と化した。経緯を知らぬ白井に立ち退かぬように指示した
のだ。つまり悪魔は義父和知だったのだ。もし白井が、この極悪非道の和知の指示に従わなければ悲
劇は起きなかったろう。和知は立退料の釣り上げを画策していた。500万円のところを3000万
円要求したといわれる。和知という男は不動産をいじくることに長けていた。裁判好きでテクニック
を承知していた。当時会社を倒産させており、立退料で再起を期していた節がある。だが悪党といえ
ども素人の悲しさ、引き際を知らなかった。「バクチは2割5分増し」という諺がある。プロの賭博
師は目立つような大勝はしないものなのだ。無論貸元もぼろ儲けはしない。和知は悪欲にかまける余
り「窮鼠猫を噛む」ということも知らなかった。知らん振りをしてれば未来永劫居座り続けることが
出来るとでも思ったのか? 白井夫妻は和知にいわれるまま朝倉を小馬鹿にし続けた。坩堝の剣が峰
に立っているとも知らずにだ。もし業突く張りの和知さえいなかったら事件は起きなかったろう。

 殺意
 
朝倉は白井夫妻のおちょくりに感情が激し次第に殺意を抱くようになる。朝倉も知らず知らず悪魔
の糸に手繰り寄せられていった。朝倉は一般に大人しい腰の低い人という評判だった。秋田県の出身
で、秋田県高校の夜間部を卒業した。朝倉は昼間働いていた訳ではない。とにかく漢字が書けなかっ
た。書く文章は殆どが仮名で、非常に読みづらかったそうだ。昭和29年日大法学部法律学科にコネ
入学する。最初の試験で、カンニングペーパーを弁当の米粒で答案用紙に貼って提出し、1ヶ月の停
学を食らった剛の者だ。教授に「学校で勉強しても尾いていけないから、下宿で一人で勉強しろ」と
見放された。しかし同33年字も書けない朝倉だったが落第もせず無事卒業した。翌年下宿の娘と出
来たので結婚して秋田に帰った。秋田では暴力団のように顔の利く父の三次の経営する「朝倉市場」
を手伝った。市場は事実上は姉夫婦が切り盛りしていた。この年長女が生まれた。同35年父三次が
死んでその遺産相続の席で、弟が義兄に「乗っ取った」と罵ったことで弟を刺した。正義感が強く何
事にも筋を通さなければ気がすまない性格だった。翌36年9月10日やはり遺産相続のことで揉め、
弟が闇雲に家族に暴力を振るったということを聞いて、説教をしにいったが、弟が聞き入れないので
包丁で左目を刺し、頭も数回刺した。弟はほ這う這うの体で逃れたが失明した。長男が誕生した年、
つまり昭和37年8月7日秋田地裁で殺人未遂と傷害の罪で3年の判決を受け、翌38年5月から2
年間、習志野刑務所に服役している。同40年5月出所すると杉並区の成田東に住み、新宿区の不動
産鑑定所に鑑定士のアシスタントとして勤めながら鑑定士の勉強を始めた。この不動産鑑定所は学校
も経営しており、日曜日に講義があった。朝倉は真面目に勉強に勤しんだ。同46年10月不動産鑑
定士の二次試験に合格、不動産鑑定士補になり、同50年鑑定士の登録をした。同51年8月15日
自宅に「株式会社東洋不動産鑑定所」を設立して不動産鑑定業を開始した。同54年四谷4丁目のマ
ンションの一室を購入し事務所を移した。同57年7月社号を「朝倉不動産鑑定所」に改め都知事か
ら宅地建物取引業の免許を受け不動産取引も開始した。
 朝倉は不動産鑑定士としての目は厳しく詳細で信用は絶大だった。2人いる子供の教育も厳格で立
派な父親だと近所でも好評だった。その立派な父親で、信用ある不動産鑑定士の朝倉が何故不動産屋
紛いのことをやったのか? 朝倉に親の遺産が2000万円転がり込んでいた。人生も仕事も順風満
帆だった朝倉は、調子に乗ってそれを大きくしようと考えた。今回の取引が初めてで、不動産鑑定士
としては一流でも、商売は素人だ。キズ物件にはプロの不動産屋は手を出さない。だからこそ朝倉の
手に落ちたのだ。手練手管の悪党和知、その手先の白井夫妻に弄ばれた朝倉の怒りは自然だ。

   殺すしかない。一家皆殺しにしてやる

 終に怒髪天を突いた。5月下旬から綿密な計画を立て始めた。完全犯罪でなければならない。死体
は富士山麓の樹海に棄てることにした。その運搬には車が必要なので車を購入、ペーパードライバー
なので教習所で再教育も受けた。天候が悪かった場合の死体の一時保管場所として1DKのアパート
も借り、万全の態勢を整えた。後は犯行を決意するだけだ。
 このとき限度を知らぬ和知と白井夫妻は、愚かにも勝ち誇っていた。

 凶行
 
6月27日午後2時45分朝倉は白井宅の直ぐ近くに停めた乗用車から降りると、手提げバッグ一
つを持って白井宅に向った。バッグには金槌2本と着替え用のトレーニングウェアが入っていった。
金槌の1本は直ぐ取り出せるように外側に付いているポケットだ。
 朝倉は勝手口に回って中へ聞こえ入れた。妻幸子が出てきた。
 「立退きのことでお伺いました」
 いつもの言葉を繰り返した。幸子も馬鹿だった。ここで異常に気づくべきだった。
 「主人がいないので判りません」
 幸子もいつもの言葉を繰り返した。
 朝倉は凄みを利かしていい放った
 「ここは私の土地だ。何時になったら出て行くんだ」
 幸子はそれを聞いても、いつもの小馬鹿にした目線を送って奥の居間に引っ込んだ。後ろめたいも
のがあるからだ。いつもなら朝倉はここで踵を返すのだが、しかしこの日は台所に上りこみ、幸子の
後を追った。12畳の洋間には、食事用のテーブルの脇に幸子、小学校に上ったばかりの昌子(6歳)、
次男の正利(1歳)が立っていた。
 「もう話し合う余地はねえんだよ!」
 この時幸子は朝倉の殺気を感じて戦慄、初めて己の愚かさに後悔した。朝倉はバッグのポケットか
ら金槌を取り出すと、幸子の正面から頭に一撃を加えた。幸子は狂気を察してダイニングルームに逃
げたが。朝倉は追いかけて流しの前で幸子の襟首を捕まえた。
 「すいません。出ます。直ぐに立ち退きます」
 遅きに失した。朝倉はもう聞く耳を持たなかった。幸子に正義を知らしめるべきだとのみ考えて攻
撃を加えた。幸子は崩れ落ちた。この日は奇しくも幸子の41歳の誕生日だった。前日は次女明子の
誕生日で2日続けて誕生パーティが開かれることになっていた。幸子が死んだと確認すると、鬼と化
した朝倉にもう容赦はなかった。幼児の泣き声が外に漏れてはまずいと考え、正利も一撃で仕留めた。
台所の包丁で喉を切ったという新聞記事もある。朝倉は居間に引き返すと、目の前の惨劇に魂を奪わ
れて逃げることも出来ない昌子をとっ掴まえると首を絞めた。朝倉は死んだと判断して手を離したが、
彼女の死因は溺死で、後に風呂桶に放り込まれたためだった。
 朝倉は3人の遺体を風呂場に運び込むと、ダイニングルームの幸子の血をふき取り、風呂場に戻っ
て幸子と正利の着衣を包丁で切って剥ぎ取り、正利は浴槽に放り込んだ。昌子の着衣をとらなかった
のは不憫に思ったからだと後から語っている。朝倉は結果としてまだ生きていた昌子を抱えると頭か
ら湯船に沈めた。それから剥ぎ取った衣類を、そこにあった洗濯機で水洗いし、脱水すると、それを
持って2階に上り、そこにあったビニール袋に詰めた。
 午後3時過ぎ次女の明子(9歳)が「ただいま」と声を掛けて帰ってきた。勝手口からダイニング
ルームを通って居間に入っ来ると、朝倉に気がついたが、黙って2階に上ろうとした。朝倉はすかさ
ず「お姉ちゃんは何時帰ってくるの?」と優しく声を掛けた。
 「学校の遠足で29日の夜帰ってくる」
 朝倉は明子の前に立ちはだかり、明子を持ち上げるように首を絞め、脱力するまでそうし続けた。
明子の死亡を確認すると衣服を脱がせて浴槽に放り込んだ。その衣類も水洗いして2階のビニール袋
に詰め込んだ。
 後は眼目の白井のみだ。朝倉はこの家の主人である明の殺害準備に取り掛かった。血で汚れたトレ
ーニングウェアを新しいトレーニングウェアに着替えると、外に出て車のトランクから、マサカリ、
タオル、軍手など用意した殺人道具を詰め込んだナップサックを持つと、居間に戻り、再び汚れたウェ
アに着替えると、白井の帰宅を待った。
 白井は会社を午後6時半に出ると、同僚と高田馬場駅前の寿司屋で酒を飲み、同9時ごろ帰宅、勝
手口からダイニングルームを通って居間に入ってきた。
 朝倉は立ち上がって「立退きのお話できました」といった。トレーニングウェアの下には白井はマ
サカリを忍ばせている。白井は妻子の不在を訝しく思いつつも、「まあ座りましょうや」と声を掛け
て食事用のテーブルの椅子に座った。朝倉も座った。白井は蝙蝠傘を脇ではなく机の上に置き、眼鏡
と時計を外して机に置いた。朝倉はいつもの気弱な不動産鑑定士ではない。白井は気づいていた。こ
こで初めて大変なことをしでかしたと後悔した。もっと早く立ち退くべきだったと、真人間になるべ
きだったと。白井の実家は名刹だった。
 朝倉は白井に注意を払いながら、
 「私の方は事態が切迫しているんだ!」
 といって立ち上がった。白井もつられて立ち上がった。運が悪かった。朝倉はすかさず右手の拳を
白井の鳩尾(みぞおち)に捻じ込んだ。高校のときにボクシング部に所属していた朝倉のパンチは凄
かった。白井はウッと声を発して前屈みになった。朝倉はその左首にマサカリを叩き込んだ鮮血が吹
き飛び朝倉は返り血を浴びた。白井は「殺される」と思い、「朝倉は本気だ」と後悔した。和知の悪
相が目に浮かんだ。白井は身体を起こそうとしたが、そこへ第2撃が加えられた。それで白井は息の
根を止められた。後悔は先に立たぬものだ。
 なお長男は享利といい、事件前年の11月に幸子の不注意で死なせて仕舞っていたので、事件当日
は存在しなかった。

 
バラバラ
 ここからが地獄絵図だ。和知という守銭奴がいなかったら、白井一家6人は幸せな人生を送ったこ
とだろう。朝倉は、白井の襟首を掴むと引きずって風呂場に運び込むと衣服を切って剥ぎ取り、遺体
は湯船に押し込んだ。直ぐに解体しなかったのは、物音が漏れては危険だと考えたからだ。衣類はや
はり水洗いしてから2階に持っていき別の部屋の紙袋に入れた。
 翌28日午前4時半また着替えた朝倉は、車を朝倉の家の前に移動させると、電動肉挽き機、骨剥
き包丁、のこぎり、ビニール袋を取り出すと白井宅に運び込み、車を元の位置に戻した。詳細は省く
が、パンツ一丁になり、まず白井を解体し18個に分けると、ビニール袋に詰め、運び出しやすいよ
うに玄関に置いた。内臓は肉挽き機に掛けてミンチにしてトイレに流した。白井の解体が終わったの
は朝の6時半だった。続いて幸子の解体に取り掛かり、首と両腕、膝を切断したところで、人の気配
がしたので浴槽に戻した。気配がなくなったので正利の頭を落とそうとしたが、包丁の先が折れ、う
まくいかないので止め休憩することにした。午前7時を回っていた。

 
逮捕
 朝倉はパンツを洗って2階に干し、トレーニングウェアを着て居間のソファで休んでいると、隣家
の主婦が、幸子の母親に頼まれて様子を伺いに来た。朝倉は「ここの人たちは引っ越しました」と説
明し、「イチノセ」と名乗った。主婦はその旨を母親に伝えた。母親は不思議に思い、息子たちにそ
の話をした。兄弟は姉一家の立退きトラブルを知っていた。姉一家が監禁されているのかも知れない
と判断して、午前11頃頃兄弟で石神井署を訪れた。午後1時前警察と兄弟は白井宅に到着した。警
察官が勝手口から入ろうとしたが、ノブが中で縛ってあって開かない。警察官は無理やり引っ張って
10cmばかりの隙間を作ると
   誰かいますか? 石神井署の者です
 と聞こえ入れた。朝倉は「はい今行きます」
 と答えて、慌てて玄関から逃げると、車に乗り込もうとした。そこへ気を利かせて表に回ってきた
警察官に見つかり、「何で入ったんだ?」と問い詰められて、一家殺人を自供、緊急逮捕された。朝
倉は至って正常だった。取り調べには至って素直に応じ、何をも隠さず、スラスラというか、ベラベ
ラというか、自供した。刑事の手を煩わさない容疑者だった。態度は紳士的で、あの残虐非道の行為
をした人間とはとても思えなかったとは担当刑事の弁。
 朝倉の白井に対する憎悪は
相当なものだったのだろう。「すっきりしました」。溜飲が降りたのか
・・・
留置第一日から高いびきをかいて眠り、魘されることはなかったという。
                        *
 守銭奴の和知は、己の強欲から娘夫婦一家を残虐な事件に巻き込んだことを反省した風はない。そ
の後も被害者面をして生きた。この男さえいなかったら・・・

 その後 
 長女の厚子は事件の当日、区立大泉学園緑小学校の林間学校で長野県にいた。事件は校長に伝えら
れたが、校長はそのむごたらしさが与える影響の大きさに鑑み、厚子に知らせることはできなかった。
帰京した厚子を迎えたのは明の兄正雄夫婦で、親族会議の決定により、「全員交通事故で死んだ」と
告げられた。一家の葬儀は正雄が住職を務める春日町の愛染院で行われた。厚子は葬儀には参列させ
て貰えなかった。厚子に本当のことが知らされるのはずっと後のことだ。厚子の身の振り方について
は親族会議で衆議の結果、伯父正雄の第七子として養子縁組して正雄の次女となり、練馬小学校に転
校した。
 平成20年彼女は35歳になる。
 残虐が行われた物件は、渋谷の不動産業者が登録し、建物を解体、整地して駐車場になったが、平
成15年ごろ分譲地となり、現在5軒の分譲住宅が建っている。多分住んでる人たちはおどろおどろ
しい惨劇の場だったとは知らされていまい。遠い昔の出来事だ。
 朝倉のその後は、
 昭和60年12月20日 東京地裁「死刑」判決。
 平成02年01月23日 東京高裁 控訴棄却
 平成08年11月14日 最高裁 上告棄却 死刑確定
 平成13年12月27日 死刑執行 行年66歳だった。

 沖雅也自殺事件
 朝倉が白井の首をのこぎりで挽いている丁度そのころ、俳優沖雅也が、何を苦にしたか、新宿京王
プラザホテルの最上階(47階)からダイビングして自殺した。その日の夕刊に掲載されたが、練馬
の事件は午後1時に判明しているのに夕刊には載ってない。



■大泉学園町五丁目街かどの森

 
大泉学園町5丁目18番にある区立公園。


■おもかげの森緑地

 
大泉学園町6丁目3番37号にある区立公園。


■さくら公園

 
大泉学園町6丁目4番23号にある区立公園。


■学園児童遊園

 
大泉学園町6丁目11番3号にある区立公園。


■おもむき街かどの森

 
大泉学園町6丁目17番にある区立公園。


■やまばと児童遊園

 
大泉学園町6丁目21番32号にある区立公園。


■大泉公園

 大泉学園町6丁目26番26号にある。区の西北、新座市との境近くの静かな住宅街に位置し、古
くは「広沢の原」、明治の頃は「長久保山」と呼ばれていた。この公園には、大正13年学園都市の
計画を機に地元の人たちが妙福寺より土地を借り受け、野遊場および農園として整備し、住民に開放
した歴史がある。区立公園となった現在も、四季おりおりの花が咲き、区民の憩いの場として親しま
れている。

   大泉公園の由来
   古は此の地を広沢の原と呼び、明治24年大泉村となり誰云うとなく長久保やまという。
   公園付近八町余は妙福寺の御朱印地故に御朱印と呼びたり。大正の世、村長見留勝氏は古
   河市兵衛氏と親友にして屢々此の山林に狩猟を行い中央の情勢を把握す。会々箱根土地会
   社々長、堤康次郎氏の開発構想に共鳴し大正十三年箱根強羅の温泉に地主達を招待させ大
   泉学園都市計画の賛同に至らしむ。
   駅北口より二粁の新道を拓き其の北側に五十万坪の区画に着手す。駅名を大泉学園駅と改
   め、一ツ橋大学の誘致の運動を展開しつつ同十五年工事完了、当時十三才の水谷八重子を
   始め芸人多数来場し花火の音高らかに祝典と宣伝行事に村は未曽有の祭典に沸けり。折り
   しも電灯の投入と土地資金の流通に依り、文化の向上、村民意識の改良大なり。昭和九年
   当町会長鈴木乙免氏は風致協会を作り協会は妙福寺の山林一町二反を野遊地に、東京市農
   会は三町七反を市民農園に夫々借地して作る。市は多額の費用を投じて野遊地に万般の施
   設をなす。秋期には甘藷掘り、運動会等市民多数が来訪し東京の一名所となる。
   敗戦により農園は農地解放され幻に消ゆ。昭和四十六年加藤惣一郎氏は加藤源蔵氏と計り
   公園買上げの陳情書を作り運動を現緑町会に一任す。忽陳情は採択され都は全域改修して
   同四十九年大泉公園と改まる。
   今尚野趣漫々豊かにして武蔵野の面影を止む。四十年の住民の熱意と奉仕により作られた
   栄光の公園に緑永へに豊にして園林遊楽良く町の文化の中核をなし豊かな心のふれ合いの
   広場たりれ。
   思うに半世紀を経て今日都市美の華を咲かせた町づくりは全く見留村長の先見愛郷の賜に
   してもし此の町づくり無くば、後日予科士官学校用地となりしは云うを俟たず。しかるに
   移り行く時の流れ、流転して止まぬ世は偉大な指導者の賢明な功績を忘れ去りたり。昔を
   知る桜花年々相似たり。松が枝不断の経を誦するも語らず。
   1987年 丁卯春            大泉学園町 緑町会 建立 憂えてしるす

 五月の女
 桜井祐一作のカーディガンを着た裸婦像。178cm。昭和63年11月30日設置。


■大泉聖書教会

 大泉学園町6丁目28番3号の住宅街にある小さなキリスト教会。


■銘菓爾比久良(にいくら)の「大吾」
 大泉学園町6丁目28番43号にある和菓子屋。野火の里・三味最中・ほのか・上生菓子・杏餅・
水ようかん・黒豆団子・どらやき・栗饅頭・スウィートぽてと・らく酪など多彩なラインナップ。

 爾比久良
 武蔵野の面影を今に残すこの辺り、古の呼称「新倉」から名付けたもので、自信をもって薦めるこ
とが出来る名産品だ。昭和天皇御訪米の折に御調製献上、また新聞・テレビ・うまいものガイドブッ
ク等にも、ふるさと自慢の銘菓として評判がいい。
 周りは卵黄と白餡を程よく調和させた黄味羽二重時雨餡。中に上質の小豆餡と一粒栗を使用してい
る。口の中でサラリと溶ける風雅な甘さと歯ごたえは、抹茶・緑茶にしっくりと合い、和菓子ならで
はの独特な味が広がる。お茶受けにはもちろん、様の接待や進物として、いいんじゃないか。夏は冷
して食うとこれがまた美味いんだ。
 


■名代惣兵衛最中
 大泉学園町7丁目2番26号、大泉学園郵便局交差点を東に入ったところにある「あわ家惣兵衛」
の名物。歯ごたえのある求肥(ぎゅうひ)入り最中。粒あんたっぷり、食べ応えあり! 求肥は、こ
ねた白玉粉を蒸し、砂糖・水飴を加え、火にかけて練りかためた飴菓子。柔らかく弾力がある。名前
は練馬区史の力持ち「惣兵衛物語」より採用。力持ちと力餅をかけて餅入りだ。練馬土産には最適。
「惣兵衛の力石」そのものは2丁目7番にある。


■大泉風致地区公園

 大泉学園町7丁目7番26号にある区立園。風致地区の閑静な住宅街の屋敷跡に作られ、屋敷の樹
木や庭石を利用し周辺の環境との調和を図っている。直径80cm、高さ20mのイチョウは、区の
保護樹木に指定され、晩秋の頃、周りの木々とのコントラストが美しく、訪れる人に安らぎを与えている。


■西長久保憩いの森

 大泉学園町7丁目13番にある区立公園。


■くりの木の森緑地

 大泉学園町7丁目17番40号にある区立公園。


■学園さくら児童遊園

 大泉学園町7丁目19番34号にある区公立園。


■影山児童遊園

 大泉学園町8丁目5番5号にある区公立園。


■長久保緑地

 大泉学園町8丁目9番2号にある区公立園。


■大泉学園公園

 大泉学園町8丁目9番6号にある区公立園。


■西長久保緑地

 大泉学園町8丁目9番37号にある区公立園。


■長久保憩いの森

 大泉学園町8丁目24番にある区公立園。


■小社

 大泉学園町8丁目25番の西武バスの駐車場の中にある。赤く塗ってあるので屋敷稲荷だったのだ
ろう。


■長久保のけやき並木
 大泉学園町8丁目25~27番と28番・30番の間にある。大泉学園町八丁目の交差点から陸上
自衛隊朝霞駐屯地正門まで続く並木道。


■長久保氷川神社
 大泉学園町8丁目27番の長久保造園の端にある。新築記念碑と改築記念碑が立っている。それに
よると昭和4年の新築、平成12年改築。現代的住宅風の社殿がほとんど境内一杯に建っている。昭
和4年合祀の稲荷の小祠もある。鳥居は木製、祠は覆屋の中に大切に安置されている。


■学園びわのみ緑地

 大泉学園町8丁目36番3号にある区公立園。


■大泉学園高等学校 
閉校

 
大泉学園町9丁目1番1号にあった都立校。平成17年閉校。都立大泉北高等学校と統合して、北
高校の跡地にできた「都立大泉桜高等学校」にバトンタッチした。


■大泉学園桜中学校

 
大泉学園町9丁目2番1号にある区立校。昭和56年「東京都練馬区立大泉学園桜中学校」として
開校。同61年バックネット、防球フェンス完成。
 平成3年創立10周年記念式典。同40年コンピュータルーム開設。校庭緑化。国旗掲揚塔完成。
同13年創立20周年記念式典。同20年エアコン設置。同23年創立30周年記念式典。

 校歌「
武蔵野の学びの庭に」 作詞・五十島詩路  作曲・南弘明
  1.武蔵野の学びの庭に
    輩
(ともがらの声 楽し
    富士の峯より願いも高く
    五弁の理想を翳して
    ああ大泉桜中学校
  2.果てしなき天地の恵み
    松籟の歌に聴き
    今日を新たに学んで止まず
    平和の明かりを灯して育つ
    ああ慈
(いつく)しむ桜中学校
  3.限りある学窓三年
    何時の日か秋は来ぬ
    永遠に咲かせよ 桜花の標し
    世界に羽ばたく大志を抱く
    ああ学園の桜中学校


■大泉学園桜小学校

 
大泉学園町9丁目2番2号にある区立校。昭和55年大泉学園小学校内に「東京都練馬区立大泉学
園桜小学校」として開校。491名・13学級でスタート。8月大泉学園町3302番地(現在地)
に校舎落成・移転。10月校庭・図書館地域開放。同56年校歌・校章・校旗制定。開校記念式典。
校庭築山完成。

 校歌「
朝靄煙る」 作詞・大泉学園桜小学校 補作・吉田瑞穂  作曲・中田喜直
  1.朝靄煙る武蔵野の
    桜並木に囲まれて
    クリーム色の学び舎に
    息吹き始めた小さな芽
    大泉学園桜小学校
  2.秩父の連山眺めつつ
    知徳を磨き体を鍛え
    手と手を繋ぎ輪を作り
    未来の夢を語り合う
    大泉学園桜小学校
  3.学びの道に励みつつ
    清く正しく弛みなく
    希望は高く富士の如
    明日の日本を作り出す
    大泉学園桜小学校


 同57年体育館を地域開放。校庭整備・スプリンクラー12基設置。同58年雨水抑制排水工事完
了。同59年固定遊具アマゾンジャングル完成。同60年陶芸小屋完成。キウイ棚完成。同61年防
球ネット完成。校庭に車椅子用スロープをつける。同62年電動バスケットコール取付。
 平成元年校門表札を御影石製に取替。校舎FF暖房設置。創立10周年記念式典。同3年音楽室防
音扉取付。同4年創立10周年記念姿見2種取付。同7年プール目隠しフェンス取付。校庭緑化。同
9年陶芸ガス窯設置。同10年校庭木製遊具取替。同11年校舎窓強化ガラスに取替。学校園造成。
同12年パソコンルーム開設。10周年タイムカプセル掘り出し。創立20周年記念式典。同13年
視聴覚室を普通教室に転換。インターネット接続。同14年非常通報装置設置。同16年全教室にイ
ンターホーン設置。同17年普通教室に扇風機6台設置。冷水機6台設置。同18年3町合同防災訓
練。同19年防犯カメラ設置。同20年緑のカーテン設置。同21年校庭の一部芝生化。同22年太
陽光発電設備設置。


■大泉養護学校(小学部・中学部・高等部)→ 大泉特別支援学校

 
大泉学園町9丁目3番1号にある区立校。昭和55年北養護学校から分校し「東京都立大泉養護学
校」として開校。北養護学校から40名移籍。同58年瀬戸山文部大臣・平山都教育長視察。同60
年スクールバス駐車場完成。
 平成元年ベネズエラのペレス大統領夫人来校。創立10周年記念式典。同11年創立20周年記念
式典。同20年「東京都立大泉特別支援学校」と改称。同21年新校歌制定。


■大泉中央公園
 大泉学園町9丁目4番1号にある。キャンプ朝霞跡地の利用計画により、平成3年6月に全面開園
した。水の広場は大泉の名に相応しく、大きな噴水やモニュメントが爽やかで、心地よいせせらぎの
音が心を和ませてくれる。陽だまりの広場では、子どもたちが喜々として飛び回り、森では、小鳥た
ちの囀りが絶えまない。都会の喧騒を忘れ、親子で楽しい一時を過ごしてみたいもの。とは区の宣伝
文句。道路を挟んで北側に埼玉県立和光樹林公園が広がるがこれがまた倍ほども広い。


■東京ゴルフ倶楽部 
移転
 大泉学園町9丁目4番陸自朝霞駐屯地にあった。東京ゴルフ倶楽部は、大正2年井上準之助、樺山
愛輔らニューヨークやロンドンなどでゴルフに馴染んだ当時の各界指導者によって設立された日本で
初めての日本人の手によるゴルフ倶楽部だ。最初のコースは東京の駒沢(駒沢オリンピック公園)で
摂政宮時代の昭和天皇が、大正11年に英国皇太子、プリンス・オブ・ウェールズ殿下との親善ゴル
フを楽しまれたことで知られ、今も摂政杯、プリンス・オブ・ウェールズ杯競技が存続している。
 昭和7年、埼玉県朝霞に新しい用地を確保、英国から「アリソンバンカー」の名前を国内各地のコ
ースに残すことになるゴルフ場設計者C.H.アリソンを招き、本格的なコースが完成する。日本を
愛したチェコ出身の建築家アントニン・レーモンドの設計による白亜のクラブハウスも建設され、東
洋一のゴルフコースといわれた。同9年には、米メジャーリーグのホームラン王ベーブ・ルースもプ
レーしたことがある。併し忍び寄る戦火の中、この朝霞コースは、陸軍省に陸軍予科士官学校用地と
して買い上げられることになり、日米開戦前年の同15年朝霞コースはわずか8年間で姿を消すこと
になった。同年、現在地の埼玉県狭山でほぼ建設を終えていた「秩父カントリー倶楽部」と合併、2
度目の移転を果たす。メンバーの一人だった大谷光明が設計に当たった。戦時下の厳しい状況の下、
ゴルフクラブを風呂敷に包んで自転車で通った熱心なメンバーもいた。
 現在の朝霞駐屯地構内の池「びわ湖」は3番ショートホールの名残りだ。

 日英親善マッチ
 大正11年、当時、東京の駒沢にあった東京ゴルフ倶楽部で日英両国の皇太子によって行われたゴ
ルフマッチをいう。日本は摂政宮(昭和天皇)、英国はプリンス・オブ・ウェールズ(後のウィンザ
ー公)が出場され、ゴルフを通して両国の親善を深めようとした歴史的な背景がある。オリジナルの
カップは直径約2尺(約60cm)の大銀杯だった。正面に菊のご紋章が燥然と輝いていたが、残念
なことに太平洋戦争中、銀器献納のため姿を消してしまった。現在のものは、昭和29年に復元され
た2代目。いまJGAミュージアムに陳列されているのは故鍋島直映(元佐賀鍋島藩主)が手中にし
た大銀杯のレプリカだ。鍋島は東京ゴルフ倶楽部創設期からの会員で、大正11年秋の第1回摂政杯
の記念すべき優勝者になった。当時、東京・永田町にあった自邸に大銀杯を飾り、親しい友に披露し
ていた。ところが、翌12年9月、東京は関東大震災に見舞われ、鍋島邸も火災に遇ったことから大
銀杯も焼けてしまったろうと思われた。しかし、鍋島は避難する折、真っ先に大杯を持ち出し難を逃
れたというエピソードもある。


■大泉さくら運動公園

 大泉学園町9丁目4番5号にある区公立園。


■陸軍予科士官学校 
廃校
 大泉学園町9丁目4番陸自朝霞駐屯地にあった。
昭和19年市谷台(防衛省)に陸軍章・参謀本部
を移転させるために、陸軍士官学校・陸軍予科士官学校を他所に移す必要に迫られ、士官学校を座間
に、予科士官学校を東京ゴルフ倶楽部の跡地に移転してきた。
 終戦により廃校となり、敗戦後は、占アメリカ軍に接収され、更なる困難に曝された。
 


■陸上自衛隊朝霞駐屯地

 大泉学園町9丁目4番にある国の施設。練馬区の他、朝霞市、新座市、和光市に跨る。駐屯地指令
は東部方面総監部幕僚長が兼務(東部方面総監部の移駐前は第一施設団長長が兼務)。国道254号
(川越街道)に接する朝霞門の右側には「陸上自衛隊広報センター」が所在する。また隣接する朝霞
訓練場では3年に一度、自衛隊記念日に中央観閲式(観兵式)が実施される。前述のように駐屯地の
敷地は1都1県、1特別区3市に跨って所在しており、練馬区にかかるのは東部方面総監部庁舎及び
正門部分のみだが、駐屯地の住所は駐屯地司令部がある場所によって判別されるため、便宜上の住所
は〒178‐8501「東京都練馬区大泉学園町9丁目4番となる。


■延命地蔵 ✓

 大泉学園町9丁目29番?号にある?。写真はあるが場所が特定できない。
 


【大泉町】(おおいずみちょう)1~6丁目              昭和55年1月1日
 橋戸村。明治の初め上組・中組・下組に分かれ、同7年橋戸小学校開校。同11年「郡区町村編
制法」により埼玉県新座郡に所属、同22年「市制町村制」により橋榑村大字橋戸となったものゝ
東京府北多摩郡に編入。石神井村から離れた上土支田と合併し大泉村大字橋戸と変わった。昭和7
年北豊島郡が東京市に編入され板橋区北大泉町。同22年板橋区から分離して練馬区北大泉町。同
55年新住居表示により北大泉町の大部分に大泉学園町の一部をあわせ町域を1~5丁目に分けて
「北」の冠称を外し、現行の「大泉町1~5丁目」とし、同57年残りの北大泉町に大泉学園町の
一部を加えた町域を現行の「6丁目」として大泉町に加えた。旧称の橋戸の謂れは面白い。橋戸村
の草分け農家は八戸。それで「はちこ」が通称となり、やがて「はちと」に読まれ、まごまごする
内「はしと」に訛られたので「わざくれ(ええいクソ)!」とばかりに「橋戸村」としたという。
江戸・水戸・松戸などとは違う
「戸」な訳だ。しかし白子川の地形が作り出した「端の瀬戸」の意から起こった「端戸」とする説
もなくはない。初見は慶長の文献。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『練馬区史』『練馬の歴史』など。

 大泉の由来
 江戸時代に大泉村があった訳じゃないよ。現在区内に「大泉」の名のつく地名は、大泉町(橋戸
村)・大泉学園町(下小榑)・西大泉(中小榑)・南大泉(上小榑)・東大泉(上土支田)と五つ
あり広範囲に及んでいる。それで名前の起こりは面白い。明治22年4月埼玉県新座郡(にいくら
ぐん)小榑村と入間郡橋戸村が合併して新座郡榑橋村となった。しかし当時小学校を持つことはス
テータスで、全国的に教育熱が高まった。ところが学校の経費は村持ちで総予算の8割も占めたの
で運営は大変だった。そこで榑橋村は隣村の石神井村大字上土支田の豊西小学校(大泉東3-16
妙延寺内)が、榑橋小学校(西大泉3-11本照寺内)から600メートルほど東南にあるのに目
を付け、合体すれば経費が浮くことに思い至り、東京府への編入を申請した。5ヶ月後の9月新座
郡新倉郡字長久保とともに東京府豊島郡に所属替えとなり、上土支田とあわせて一村を作すことに
なった。ところがその村名につき橋榑村と上土支田の間で揉めに揉め(榑橋村は榑橋を、上土支田
は上土支田を主張)、折衷案として旧橋戸村が「いっそのこと各村から一字づつ採って戸榑田村と
いうのはどうか」と提案したが、最大面積の旧小榑村が「榑の字が二番目になっている」とクレー
ムをつけ、この名前もお釈迦になった。そこで豊西小学校(現大泉小学校)の関根雅樂蔵(せきね
うたぞう)校長が「それなら小井戸川(白子川)の湧水が等しく水田を養って3村全体を発展させ
るように願いを込め、小井戸川の〝小〟と井泉(井頭池=いがしらいけ)の〝泉〟を合わせて〝小
泉村(おいずみむら)としてはどうか?」と提案したところ、それには3村とも「妙案だ」と納得し
て郡役場に届け出た。ところが役人が「これだと〝こいずみ〟とも読める。どうせなら小井戸川に
は〝大泉堀(だいせんぼり)〟の別称もあることだしいっそのこと〝大泉村〟としてはどうか」と促
したので「それがいい」とあっさり合点したという。あれこれ揉めた割には意外に安直な決定だっ
た。だから大泉は、白子川の水源である井頭池だが、深草に埋もれていたのは遠のむかし、戦時中
に大泉女子拓務訓練所の実習田用に埋立てられ、今や川の一部となって無いにも等しい。大泉学園
町2丁目の大泉中島公園がかつての村役場の跡地で記念碑が立っているぞ。

   『ねりま区報』 昭和59年8月1日号掲載
    江戸時代から明治の中頃まで橋戸村といった。殆どが幕府直轄の村ばかりあった練馬
   区内としては、数少ない私領で、忍者服部半蔵率いる伊賀組の給地であった。その伊賀
   衆奉納の御手洗が氷川神社(大泉町5丁目15番)境内にある。地名の起こりは、村の
   開発者が八戸あったからとする説もあるが、白子川の地形がつくる「端の瀬戸」と解し
   た方が妥当のようだ。
    明治24年東京府へ編入され、大泉村大字橋戸といった。昭和7年市郡合併で板橋区
   になった時、大泉村は東・西・南・北大泉町と大泉学園町の5つに分かれた。旧橋戸村
   は北大泉町と呼ばれた。同22年練馬区成立後も町名はそのままだったが、同55年住
   居表示が実施され北をとって今の町名になった。北端のイメージを拭い去って、町発展
   の期待がこめられている。清水山憩いの森(大泉町1丁目6番)のカタクリ、八坂神社
   (大泉町1丁目44番)の富士山、大泉第一小学校(大泉町3丁目16番)正門脇の御
   鷹場の碑、人頭石で有名な教学院(大泉町6丁目24番)など、町内には史跡が多い。
 



■渡辺早生ごぼう

 渡辺正好が滝野川牛蒡を改良して育成し、昭和25年に種苗名称登録を受けた品種。秋播き、春播
き両用種なので各地で栽培されている。


■稲荷山公園

 大泉町1丁目3番18号にある区公立園。稲荷山遺跡でもある。


■稲荷山図書館

 
大泉町1丁目3番18号にある区立図書館。

 踊り子の朝
 高橋剛作。縄跳びを手にロープを足で踏んでいる裸婦像。195cm。昭和63年11月30日設
置。


■清水山憩いの森・カタクリの花

 大泉町1丁目6番、稲荷山憩いの森の続きにある。武蔵野の面影を留める樹林を残そうとの趣旨の
下に制定された「憩いの森」第1号に選ばれ、昭和50年に整備された。ここは練馬区の北西部を流
れる白子川に沿った湿り気のある北斜面の雑木林で、その名が示す通り尽きることなく清水が湧き、多
くのカタクリが群生している。30年ほど前までは、白子川沿いの斜面一帯に樹林が広がり、カタク
リの花もあちこちに見られたが、急激な都市化が進むにつれ、樹林が失われるとともにカタクリも清
水山憩いの森と稲荷山憩いの森のごく一部に残るだけとなってしまった。毎年桜の咲く頃になるとこ
の林は、愛らしい薄紫のカタクリの花で覆われる。景観のすばらしさ。湧出口から流入する河川まで
自然の状態。水量が多く、水に触れる憩いの場として親しまれていることから、「東京都名水57選」
に区内では唯一選ばれている。公園前の橋が不動橋で北に突き当たるところに中里の不動尊がある。
南の坂を登ると稲荷山憩いの森だ。

 カタクリ
 と聞いて思い浮かべるのはまず片栗粉だろう。カタクリはユリ科に属し、根は球根となり良質ので
んぷんが採れる。現在の片栗粉はジャガイモのデンプンで作られているのだが、昔はその名の通り、
このカタクリの根が使われていた。カタクリは本来日本にあった野草のようで、万葉集に次のような
大伴家持の歌がある。

   もののふの八十をとめらがくみまがふ 寺井の上の堅香子の花

 清水を汲みに集まる乙女たちの笑い声とその乙女たちを象徴するように咲いているカタクリ、こん
な華やいだ情景が浮かんでくるようだ。
 堅香子は万葉仮名で、正しく漢字で表すと「片鹿子」ではないかと、ナチュラリストの足田輝一は
いう。これはカタクリの葉が、花をつけるもの以外は1枚(片葉)で、しかもその葉には鹿の背のよ
うな斑点模様がついているからだろう。各地の方言でもカタコ、カタコユリ、カタバナなどカタ=片
という字がつくことが多くなっている。一方中国ではその根の形から、カタクリのことを「猪牙花」と
いい、ヨーロッパでもこの花と同じ仲間の花をDog'stoothviolet(犬の歯スミレ)という風に命名し
ている。 このようにカタクリの名は、日本では葉から、中国やヨーロッパでは球根から名付けられて
いる。このことは古くから日本では葉が、中国やヨーロッパでは球根が利用されていたことによるの
だろう。カタクリの花の美しさを観賞するだけでなく、植物と私たち人間とのつきあいの歴史に目を
向けた時、別の面から自然の美しさや偉大さにふれることができるのではないのかな!

 行人塚
 西側斜面にある。この敷地内が禅海という僧が入定したという伝説の「行人塚」があったといわれ
ている場所で、現在も小さな祠が残されている。『練馬の伝説』139ページに、

   北大泉町に別荘橋という橋がある。その橋のたもとに、村人たちが行人塚と呼んでいると
   ころがある。この塚は、教学院の過去帳に記されているところによれば、明暦三年八月に
   歿した禅海法師を葬ったものであることがわかる。この禅海法師にまつわる話が、次のよ
   うにいい伝えられている。
   別荘橋のたもと、白子川に面したところに一つの洞穴があった。この洞穴に、いつの頃か
   一人の僧がやってきて住つくようになった。やがて年老いた日々を送るようになった僧は、
   行脚にも出ず念仏に明けくれたのである。そして、ある日、里人に言うには、もし、愚僧
   の念仏の鐘の音が絶えてしまったときには、愚僧が臨終のときである。そのままにしてお
   いてくれれば、墓になるであろうと。
   現在、清水谷公園の一隅に祠があるが、誰がいつ頃造ったものかわからない。
   別荘橋というのは別の荘家があったという所から名づけられたという。


 とある。


■長久保道(引又道)

 大泉町1丁目6番清水山憩いの森の西側入口前歩道に標柱と説明板が建ててある。ひきまたみち 
引又は埼玉県志木の旧称。長久保は旧新倉村の字、現在の大泉学園町8、9丁目の一帯。道は土支田
通り交差点から西北に別荘坂を下り、別荘橋を渡り、らんとう坂を登る道。土支田や橋戸では東京に
農産物を出すのに荷車や馬車では遠過ぎるので引又に荷を送り、舟で荒川を下る方が手っ取り早かっ
た。勿論この道を東に行けば高松の宮田橋で清戸道に通じており、江戸へは一本道だった。

   
長 久 保 道

 区の説明板は以下の通り。

   長久保道
   長久保道は、清戸道の旧宮田橋付近で北に分かれ、富士街道を横切って光が丘南側の道路
   に出ます。その後、通称オリンピック道路を横断、土支田地蔵を左に見て、バス通りを越
   え別荘橋で白子川を渡り、そのまま北西、膝折で川越街道と合流します。
   起点となる宮田橋は石神井川の一支流に架かる橋でしたが、この付近は湿地帯のため通行
   が大変困難でした。そこで、この道を利用する人々が協力して石を敷きました。今もその
   記念碑が立っていますが、この道を利用したと思われる埼玉方面の村々の名が刻まれてい
   ます。
   長久保は旧新倉村の字名ですが、明治24年大泉村と合併し東京府に編入されました。現
   在の大泉町8、9丁目付近です。いつ頃から長久保道と呼ばれるようになったかは明かで
   はありませんが、『武蔵国新座郡村誌』(明治8年)橋戸村の項に『北の方下新倉村界あ
   り、来り下土支田村に出る。させる路にあらず』とあるのはこの道のことです。
   昭和59年3月                         練馬区教育委員会

 
別荘坂
 大泉町1丁目6・7番と同2丁目59番の間の坂道、白子川に架かる別荘橋から南に上がっていく
坂だ。途中左手に長久保道の道標と区教委の説明板が立っている。


 別荘橋
 長久保道が白子川を渡るところに架かっている。橋戸村を開いた荘家の分家が、他の荘家と区別す
るため荘埜と名乗り、その荘埜家が架けた橋なので、荘本家とは別の荘家(荘埜家)の意からそう命
名した。


■越後山憩いの森・中里さくら憩いの森

 
大泉町1丁目19番にある区立公園。
練馬区で一番大きな稲荷山憩いの森の近くにあり、傾斜地に
ある小さな森。この辺りには坂が多く、八坂という名前がついた学校もすぐ近くにある。越後山憩い
の森は斜面に細長くあるという感じで、そこに中里さくら憩いの森が隣接している。
 


■中里不動尊
 大泉町1丁目28番6号にある。白子川に不動橋が架かっているので、八坂神社への道標だったの
かな? 小祠の中に不動尊ともう一体の石像が祀られている。以前は2つ屋根だけの覆屋だったが、
現在のものは立派な御堂になっている。


■らんとう坂

 大泉町1丁目32番と33番の間、別荘橋から北に上がっていく長久保道の坂。追分で坂を西北に
上がって行く道が、長久保道だが、直線路に改めたのは戦後の耕地整理の時のことで、昭和38年に
は西に大きく迂回した旧道は失われている。
 「らんとう」は「卵塔」で、卵型の墓石のことで、僧侶や高貴な人の墓碑に用いられる。蓋し卵塔
場は墓場の同義語。そんな卵塔が坂の途中にあったことから「卵塔坂」と呼ばれ、蘭塔坂の字を用い
ることもあった。平仮名で表示するようになった謂れは不明。


■八坂神社
 大泉町1丁目44番の高台にある。参道は長く、かつては鬱蒼たる森林の中にあったという。まだ数
本残っているので、昔日の面影は僅かばかり残ってはいる。高い石段を息せき切って登ると、正面に
拝殿があり、斜め向かいには額殿がある。内部に明治から大正にかけての額絵馬が保存されている。
祭神は須佐之男命、創建年代は不明だが、京都八坂神社の分霊を勧請。祇園精舎の守護神は牛頭天王
で、この辺りを中里といったので「中里の天王様」と親しまれた。新編武蔵風土記稿にも記載のある
橋戸村の鎮守だった。
 境内の拝殿右に稲荷社鎮座している。左には御嶽神社が鎮座し、狼の狛犬が守護している。側には
太々神楽の石碑が立つ。太々神楽とはお神楽の一種で、戸隠神社や木曽御嶽神社、武蔵御嶽神社など
多くのお社に伝わる。ことに武蔵御嶽神社では、信者が太々神楽の舞を神前に奉納することが最高の
お参りとされていて、練馬をはじめ、東京の下町や埼玉、神奈川に太々神楽を伝える講が多数ある。
 境内の石碑から、橋戸村にも太々神楽を奉納する御嶽講があったことが伺える。

 中里富士
 八坂神社の境内にある富士塚。南側基部から12mの高さがあり、区内で最大級の規模を誇ってい
る。明治初期に丸吉講により築かれたと推定され、現在も地元の富士講により毎年行事が行われてい
る。明治初期の築造といわれているが、文政五年(1822)の石碑があることから、江戸時代には
既にその原型があったと思われる。またここにある36の石造物のうち「道祖神の碑」は区内で唯一
のものだそうだ。登山口からは一合目、二合目の標識も見られ、小御岳もある。又麓には風穴(御胎
内)もあるという念の入れようで、全くのミニ富士山といってよい。今は周辺に住宅が立て込んだた
め、昭和30年代の見晴らしというか景観というか、山頂からの眺めを見せてやれないのが残念だ。
白子川を挟んだ、田んぼや畑が一望でき、長閑な、今となっては夢のような農村の佇まいがあった。
今も新宿なんかに比べたらそれなりに田舎で、上を見ればキリがない。近くに幾つも自然を残した公
園があるので、今の子は今なりに楽しい田舎の時間を過ごしてるだろう。


   八坂神社と中里富士
   当社は旧橋戸村の鎮守で、祭神は須佐之男命です。いつの頃か、京都八坂神社(祇園社)
   の分霊を勧請して創建されました。祇園社の守護神は牛頭天王であり、このあたりの字を
   中里といったので、村人からは「中里の天王様」と親しまれてきました。
   境内末社に稲荷神社・浅間神社・御嶽神社が奉祀されています。額堂には江戸時代からの
   絵馬が数多く奉納されています。またむかしから境内の樹木の枝を折ると熱病にかかると
   いう言い伝えがあります。
   中里の富士塚は、南側の基部からの高さが約12m、径が約30m、区内最大規模の富士
   塚です。明治初期に講中によって築造されたといわれていますが、文政五年(1822)
   の石碑があることから、江戸時代、既にその原形があったと思われます。合目石に沿って
   頂上まで登ると、36基の石造物があります。なかでも道祖神の碑は区内で唯一のもので
   す。毎年8月1日に山開きが行われます。
    ○中里の富士塚(平成2年度練馬区指定文化財)
   平成21年3月                         練馬区教育委員会

 以前あった、昭和60年3月の説明板と同文。


■農業体験農場・大泉風のがっこう

 大泉町1丁目6番54号にある白石農園。農家が運営し区が補助する。練馬区では、平成8年4月
より毎年1園ずつ練馬区農業体験農園が開園されています
 


■精進場稲荷神社 ◇

 大泉町2丁目6番4号、大泉インターチェンジの東側にある。比丘尼稲荷とも。白子川沿いにある
ので水垢離場があったのか?


■橋戸小学校

 大泉町2丁目11番25号にある区立校。昭和52年3月大泉町1213番地(現在地)に校舎・
体育館・プール竣工。4月「東京都練馬区立橋戸小学校」として開校。八坂・大泉第一・豊渓・大泉
北・泉新の5小学校から606名移籍 112名入学 総計718名・18学級でスタート。12月
開校記念式典・校旗樹立・校歌制定。

 校歌「
緑の風が」 作詞・横山博秀  作曲・小出浩平
  1.緑の風が学びの庭に
    今日も楽しく歌ってる
    肩を並べて手を組んで
    力一杯励もうよ
    橋戸 橋戸 橋戸小
    伸び行く吾等
  2.富士が見ている学びの庭に
    若い力が満ちている
    雨にも風にも負けないで
    強い体を作ろうよ
    橋戸 橋戸 橋戸小
    頑張る吾等
  3.広い大空 学びの庭に
    智慧の泉が湧いている
    豊かな心はぐくんで
    希望のチャイム鳴らそうよ
    橋戸 橋戸 橋戸小
    吾等が母校


 同53年体育用砂場設置。開放型図書館開設。普通4教室増築。同60年校庭南側に防球網設置。
陶芸小屋完成。同62年創立10周年記念式典。同63年創立10周年記念植樹(ソメイヨシノ)。
 平成元年改元記念紅梅・白梅植栽。同3年校庭緑化。校庭ソーラー時計設置。同4年ゆとり教室の
「和室、会議室、ランチルーム、多目的室」改修。同7年校舎壁面改修。倉庫改築。プール改修。観
察池造成。同9年創立20周年記念式典。同12年パソコンルーム開設。同16年上水道配管交換。
同19年創立30周年記念式典。同21年校舎耐震化。
 


■西信寺別院・大泉霊園

 
大泉町2丁目57番21号にある。ここは動物専門の墓地で、結構広い。吉田茂の愛犬とか、名士の
ペットが多い。日本一のペット墓所と自慢してた。なお本家の西信寺は文京区大塚5丁目2番、護国
寺の隣にある浄土宗の寺。人の墓所はこちらだ。


■地蔵堂

 大泉町2丁目59番2号、白子川に架かる別荘橋の南詰にある。大小の覆屋があり、大きいほうに
舟形浮彫の地蔵尊立像が祀られていて、小さいほうのは駒型浮彫の石仏だが、青面金剛なのか、不動
明王なのかよく判らない。


■大泉インターチェンジ(IC)
 大泉町3丁目1~3番・4丁目1~3、22番・5丁目1~3番にある関東自動車道と東京外環状
自動車道の出入口と連絡路。ここから南へ外環線を延ばして中央・東名自動車道に繋ぐんだそうだ。
その予定路線上には都の職員が多く住んでいて、その反対運動が強くて測量もままならない。一体全
体いつになることやら。
 ICは、単に連絡の立体交差の場合、ジャンクションという場合がある(宮野木ジャンクション)。
そして首都高の出入口をランプというのは、一般道と首都高の連絡道が大概の場合「坂道」だからだ。
ランプの意味は「坂道・傾斜路」。
 


■大泉北高等学校 
閉校
 大泉町3丁目5番7号にあった都立校。平成16年閉校。都立大泉学園高等学校と統合して「都立
大泉桜高等学校」になった。次項に記載。
 


■大泉桜高等学校(新設)

 大泉町3丁目5番7号、大泉北高等学校跡に、平成17年に新設された総合学科単位制の都立校。

 校歌「
穏やかな陽に」 作詞・桑木健  作曲・糸川玲子
  1.穏やかな陽に包まれて
    友と語らう若人の
    澄んだ瞳に夢宿る
    学びの園に集い来る
    若き力に誓いあれ
    大泉桜 我が母校
  2.爽やかな風 吹き抜けて
    友と競わん情熱を
    秘めた心に夢開く
    学びの園に鍛えあう
    若き力に誇りあれ
    大泉桜 我が母校
  3.清らかな水 湧き出ずる
    友と伸ばそう その英知
    強き意欲で夢掴む
    学びの園に溢れ出る
    若き個性に飛躍あれ
    大泉桜 我が母校


■尾張殿鷹場碑
 大泉町3丁目16番23号、大泉第一小学校の校門の右脇にある。石の角柱で、高さ約1.2m。
江戸時代に建てられたものだが、造立年代は不明。正面に、

   
従是南北尾張殿鷹場

 と刻まれている。旧は大泉学園町の北端(押上)にあったという。道路整備か、陸軍の朝霞基地設
置の時に移されたのだろう。西大泉1丁目17番1号地先にあったものは、郷土資料室にある。
 寛永十年(1633)3代将軍家光は、江戸府内の周辺地域を徳川御三家の鷹場に指定した。鷹狩
りは、飼い馴らした鷹を放ち、小鳥や小動物を捕らえる狩猟法だ。それは軍事訓練や農村の視察に加
えて、農民に大名の威信を示すことを目的に、寛永八年(1631)から慶応三年(1867)まで
行われていた。1回の鷹狩りで300名あまりの尾張藩士が参加し、10日間ほど行われた。大名に
とって鷹狩りは華やかな行事だったが、鷹場に住む農民たちは人足として徴発されたほかに「犬猫は
放し飼いにしない」「手をたたかない」「案山子(かかし)を勝手に建てない」など細かい規定が設
けられ、破ると罰せられた。尾張徳川家の鷹狩場は入間、新座、多摩の地域に亘っており、その管理
は厳しく、常に鳥見役が区域内を見回っていた。小鳥を取ることは禁じられ、濫りに竹木を伐採する
ことも一切許されなかった。いざ鷹狩の際は道路や橋の修理、役人の送迎接待、荷物の運搬や当日の
人足など村人たちへの負担が義務づけられていた。鷹狩場というのは、狩をするためとの口実で乱開
発を防ぎ、自然環境保護のために設けられた。明治以後の政治は拝金と自然破壊だが、江戸時代は精
神も含めて人間に優しい自然保護の政治だった。これは東洋哲学の方がキリスト教的西洋哲学より精
神性が高く、未来的だといえるのだ。西洋哲学はアメリカの政策に見られるように破滅的で、将来は
必然的に破綻する。日本教(日本的宗教観)に頼らざるを得なくなるだろう。


■大泉第一小学校

 
大泉町3丁目16番23号にある区立校。明治30年大泉小学校の分校として開校。

 校歌「
南の空の富士山に」 作詞・八窪傳  作曲・警視庁音楽隊
  1.南の空の富士山に
    若い瞳が輝いて
    今日も泉は新しく
    望み豊かに湧いている
    ああ僕も私もここにいる
    伸びる大泉第一小
  2.緑の丘の学校に
    若い力が満ち溢れ
    明日の命を逞しく
    望み明るく育ててる
    ああ僕も私もここにいる
    伸びる大泉第一小

 昭和21年12月「東京都板橋区立大泉第一小学校」として独立。同22年練馬区成立により「東
京都練馬区立大泉第一小学校」と改称。同29年総改築して2階建てとなる(木造)。同31年創立
10周年記念式典。同36年校章制定。同39年校旗樹立。同40年鉄筋コンクリート造り3階建て
校舎落成。同41年創立20周年記念式典。同43年校門新設。プール完成。同44年鉄筋コンクリ
ート造り校舎増築。同51年体育館新築。同52年創立30周年記念式典。特別教室新築。給食室増
改築。校庭整地。同56年校庭にスプリンクラー設置。同57年開放図書館完成。同60年創立40
周年記念式典。同61年アメリカロッククリーク小学校と理科学習交流。
 同4年3旗掲揚塔完成。同5年飼育舎完成。給食リフト設置。同8年創立50周年記念式典。郷土
資料館完成。同9年パソコンルーム開設。同10念機械警備導入。同18年創立60周年記念式典。

 
学童切り付け事件
 平成25年6月28日午後1時45分頃、大泉第一小学校から、「ナイフを持った男に男児が切り
つけられた」と110番通報があった。警視庁によると、信号待ちしていた学童たちに、赤信号で停
車していた車から降りてきた男が、ナイフを振り回し無差別に学童らに切りつけた。それにより同小
の男子児童3人が首などを切りつけられ怪我をした。切りつけたのは3、40代の男で、青い乗用車
で逃走した。切り付けられた一年生3人の学童の内、6歳の2人は首を切られたものの軽傷、肘を切
られた7歳の学童が重傷だという。被害が少なくてすんだのは、学童誘導員広戸勇(71歳)が誘導
用の旗で逆襲し、学童らを守ったためだ。
 それから50分後の午後2時半頃、埼玉県警のパトカーが、逃走した車両番号と同じ青い乗用車を
発見、車内からナイフが発見されたので、銃砲刀剣不法所持の現行犯で逮捕、身柄は石神井署に送ら
れた。犯人小見祥太郎(47歳)は事件との関わりについては否定しているとか。小見は事件現場か
ら500mのところに母親と2人で住んでいる。精神に疾患があり、治療を受けているという。その
ため小見は仕事についておらず、奇声を発したり、突然激怒したり、その奇行は近所では評判だった
という。この小学校付近でも、通行人に突然殴りかかる事件が起きており、小見だったのではないか
と噂されている。また1ヶ月前に、小見らしき男が小学校に侵入しており、3日前には「大泉第一小
学校が気に食わない」と叫んでいることも目撃されていた。
 さて、では何故、警察は犯人を特定し追い詰めることが出来たのか? 犯人が逃走するのを見たダ
ンプの運転手(女性)が、機転を利かして暫く追跡、車両番号と逃走方向を警察に通報したためだ。
 広戸と女性運転手に警視総監賞の授与が検討されている。
 


■もみじ山憩いの森
 大泉町3丁目23番にある。白子川左岸の南向きの高台にあり、明るく見晴らしのよいところに位
置し、サクラ・アカマツ・イチョウ・ヤマモミジなど様々な樹木が植えられている。中でも60本以
上も植えられたヤマモミジは、秋になると区内随一の鮮やかな紅葉を見せてくれるよ。また森の中を
散歩できるように作られた通路には、ムラサキシキブなどが鮮やかな彩りを添え、訪れる人の心を和
ませる。小高い丘の上には四阿(あずまや)が建っており、ここから眺める近代的な光が丘のビル群
の景色は素晴らしいものだ。


サッカー少年バスから転落轢死事故
 大泉町4丁目9番 平成19年12月24日午後6時40分ごろ、大泉の外環自動車道大泉ジャン
クション関越自動車道分岐車線で、走行中のマイクロバスのドアが開き、埼玉県ふじみ野市の小学5
年吉崎健(11)が路上に転落、後続のトラックに轢かれ死亡した。埼玉県警高速隊が事故原因を調
査。同隊によると、マイクロバスは29人乗り。川越市、ふじみ野市などの小学生で構成されたサッ
カーチーム「川越福原SC」のメンバー24人と運転手、川越市今福の会社員の引地功一(よしかず
 33歳)コーチの計25人が乗っていた。茨城県かすみがうら市内での練習試合後、川越市方面に
帰る途中だった。引地と、吉崎少年を轢いたトラックの運転手中村光雄(25 毛呂山町南台)の二
人が逮捕された。引地は横ドアの自動・手動切替レバーを自動に切り替えることを忘れて走行してい
た。中村は制限速度を40Km以上オーバーし事故を未然に防げなかった。
 吉崎少年の遺族は事故後、彼の遺体が運ばれた同隊三郷分駐隊(三郷市)に駆け付け、事故の状況
について隊員から説明を受けた。父親の俊昭(42)は「クリスマスイブに、なんでこういうふうに
なっちゃったんだ」とつぶやくように話していたという。遺族は25日未明にふじみ野市の自宅マン
ションに帰宅。「気持ちの整理が全く付かない。今は話ができない」とうなだれたという。
 川越福原SCの引地晃康監督(52)は25日、「子供たちが楽しみにしていた遠征でこのような
ことが起こり、申し訳なく思っている」と頭を下げた。事故当時、運転手以外に引率者がいなかった
ことについて、「通常、サブコーチをつけて遠征しているが、24日は複数の遠征が重なったため、
スタッフが足りなかった。引率者が2人いれば事故を防げたかもしれない」と唇をかみしめた。健君
は幼稚園児だった約6年前、同SCに加入。明るい性格で、ムードメーカーとして存在感もあったと
いう。引地監督は「レギュラーに近づいているさなかの事故で、残念でならない」と肩を落とした。
 吉崎少年が通っていたふじみ野市立東原小学校では、25日朝から教員らが対応に追われた。武宮
俊夫校長(57)は「事故のことは昨夜、教育委員会からの連絡で知った。残念でならない」と沈痛
な表情で話した。同級生の女児(11)は「5年生の中でも一番サッカーが上手で、体育の授業でも
健君がいるチームは絶対負けなかった。人気者の健君が亡くなるなんて・・・」と絶句していた。
(読売新聞等の記事から抜粋)
 


■大泉北小学校

 
大泉町4丁目28番にある区立校。同49年大泉学園小学校と大泉第一小学校の学区の一部を分離
し、「東京都練馬区立大泉北小学校」として開校。校章制定。体育館・プール完成。校旗樹立。同5
1年合唱団NHK子ども音楽コンクール優秀賞。校庭拡張土地(3850㎡)買収。同58年創立1
0周年記念式典。同59年校庭西側拡張(1817.1㎡)。校庭整備・スプリンクラー設置。同61
年合唱団NHK都大会銅賞。
 平成元年区の平成記念樹、紅梅・白梅を観察池横に植樹。同2年ゆとり教室改修(多目的室、ラン
チルーム、図書室、印刷室など計7室)。同4年教室ガス暖房機設置。同5年プール補修。図書館開
放開始。校庭緑化。同6年創立20周年記念式典。同7年校庭に山桜など350本植樹。同11年校
舎の強化ガラス入替。同12年パソコンルーム開設。同13年校庭整地。同16年創立30周年記念
式典。同17年校舎の強化ガラス入替。同19年第2音楽室エアコン設置。同20年エアコン設置。
同21年大泉北小学童クラブ・ドロンコ山広場室開室。

 校歌「
大空めざす」 作詞・薩摩忠  作曲・川口晃
  1.大空目指す欅の木
    その健やかこそ理想の姿
    ああ 僕も私も 心豊かな
    大泉北小学校の子供
  2.希望は高い北極星
    そのきらやかさこそ誇りのマーク
    ああ 僕も私も 心豊かな
    大泉北小学校の子供
  3.伸び行く夢よ ハイウェイ
    その果てしなさこそ明るい未来
    ああ 僕も私も 心豊かな
    大泉北小学校の子供
 


■大泉北中学校

 
大泉町5丁目4番32号にある区立校。

 校歌「
武蔵野の台地」 作詞・五十島詩路  作曲・江崎健次郎
  1.武蔵野の台地 広がる処
    朝日に匂う桜の如
    集い学びし大北中は
    我が人生の基いなり
  2.雨にも負けぬ紫陽花の花
    素直に伸びゆ 若竹の
    緑の風に声ぞする
    競えよ学べと声ぞする
  3.淳風薫る 都西の衢
    茜の富士を霞み観て
    通い学びし大北中は
    我が人生の 門出なり
 
 


■庚申堂 ◇
 大泉町5丁目6番1号タックス関越練馬店の裏、スーパーバリュー練馬大泉店の駐車場の端にある
小祠。周りはすっかり変わったが、ここだけは昔のままだ。唐破風笠付角柱型 日月 青面金剛像 
三猿。 青面金剛像の上半身は摩滅。
「武刕新倉郡□・・・」「正徳5歳乙未十一月二十八日(17
15)」
左右の側面には蓮華の浮彫。 


大泉町氷川神社
 大泉町5丁目15番5号にある。派手な神社だ。一の鳥居・社号柱は平成16年の新調。かつて何
もなかった参道に平成5年製のピカピカの灯籠が18基も並んでいる。二の鳥居の後にも平成5年の
大灯籠が左右に2基、まるで新興宗教だ。鎮守の森は見る影もない。これは何故なのだ? そもそも
この神社は、この土地の草分け荘一族が橋戸にやってきたとき、己の番神として鬼門の方角に作った
社だ。創建年代は不明。祭神は素戔嗚尊・大己貴命・奇稲田姫命、相殿は愛宕社(香具槌命・火産霊
命)。明治7年村社、同13年社殿改築、昭和50年鉄筋
コンクリート造りに改築。愛宕神社(愛宕
下350番地)を合祀した後、その跡地は払い下げられて、29名の共有となった。それで恙無く半
世紀が過ぎた頃、関越自動車道の建設が決まり、跡地がその予定地に入ったため、神社は急遽所有者
と相談、昭和53年に19名から跡地の寄進を受け、同63年4億円で道路公団に売却、その資金を
以て大造改修に臨んだ。平成元年社務所新築。同2年石垣・階段の改修、同3年境内敷石と周辺の石
積み改修、一の鳥居・社号標柱・水盤舎新設、昭和5年駐車場・神楽殿・その他の整備で平成の大造
改修を落成した。かつてのロケーションは鎮守の森に囲まれ、南は白子川で、社は高台になっている
ので、川の流れや田園の佇まいがよく見えたが、拝金主義なのか、けばけばしくなっちゃって、馴染
む、溶け込むのに50年はかかるだろう。境内に稲荷神社・御嶽神社・弁天社ともう一社、琴平神社
の石碑が弁天社の前に据えてある。

   氷川神社
   当社の創立年月日は定かでありませんが、武蔵国一の宮氷川神社への崇敬の念から勧請し
   たもので、明治維新におよび、村民はここを当村(橋戸村)の鎮守と定め、明治7年に村
   社となりました。
   祭神は素戔鳴尊(すさのおのみこと)、大己貴命(おおなむちのみこと)、稲田姫命(い
   なだひめのみこと)で、相殿に愛宕神社{祭神・香具槌命(かぐつちのみこと)、火産霊
   命(ほむすびのみこと)}、境内社に稲荷神社、白山神社、弁天社、御嶽神社があります。
   明治13年社殿の改築が行われましたが、社殿の老朽化に伴い、昭和50年にいたり鉄筋
   コンクリート造り、銅板葺・流造に改築されました。
   稲荷神社は江戸時代、橋戸村に所領をもっていた伊賀組衆の守護神として祀られていまし
   たが、明治維新後、村民に下げ渡されました。もと村内愛宕社にあったといいます。
   稲荷神社の鳥居右手に嘉永二年(1849)伊賀組衆108名が奉納した御手洗石があり
   ます。それには、天正十八年(1590)徳川家康の入府に従って江戸周辺に給地を賜っ
   た伊賀衆の由緒が漢文で刻まれています。同時に奉納した石鳥居は破損して境内に保存さ
   れています。境内にはそのほか昭和7年市域合併記念の石灯籠や荘民由緒碑があります。
   当社は南に白子川を望む丘陵に位置し、四季を通じて深い緑につつまれています。
   昭和61年3月                         練馬区教育委員会

 伊賀衆奉納の水盤・鳥居
 「忍者」で有名な伊賀衆が奉納した水盤と鳥居が氷川神社の境内社稲荷神社の社殿前に置かれてい
る。稲荷社は元は愛宕神社の脇にあったという。鳥居は壊れているものの、嘉永二年(1849)の
銘がある。水盤は、石造で正面上段に家紋(源氏車に宝珠)、下段に相給年番・伊賀者組頭・地方掛
の9人の氏名が陰刻されている。右側面には、伊賀衆が橋戸村・土支田村を領し、稲荷社を建てた経
緯などが陰刻されている。
 鳥居は石造、横木は折れている。左右円柱に99人の奉納者の氏名が陰刻され、その中に伊賀者の
氏名が見える。背面に嘉永二年の名がある。

   伊賀衆奉納の水盤・鳥居
   嘉永二年(1849)銘。東京外環大泉インターチェンジ付近にあった愛宕神社脇の稲荷
   社のもの伝えられる。水盤側面に伊賀衆が水盤、鳥居を奉納した経緯などが刻まれ、鳥居
   と合わせて108人の氏名が刻まれている。
   平成15年3月                         練馬区教育委員会



■愛と人乃道(石造物) ◇

 大泉町5丁目28番3号先の関越道側道の植込みに据えてある。歩道の名称なのか何か判らない。
図柄は道祖神のような衣冠束帯の男性と十二単の女性が寄り添っている。後の建物はログハウスコミ
ュニティだが・・・区の施設のようだが、区のHPではヒットしない。


西円山教学院永福寺
 大泉町6丁目24番25号にある真言宗の寺。本尊は十一面観世音菩薩。文永五年(1268)長
全法印が開山。その後衰亡したが、永禄三年(1560)良賢法印により再興。江戸時代になって教
学院と呼ぶようになったとか。大正時代は貧乏寺で、昭和8年に入った住職が一念発起し、30年が
かりで本堂・庫裏を完成させた。院号の通りに教育熱心で、早くから幼稚園を設立して、地域社会に
奉仕するなど努力家だった。本堂は石段20段上がったところにあり、見晴らしが良い。参道の左は
墓所、右は寺務所と庫裏になっている。

   教学院
   教学院は、山号を西円山といい、真言宗智山派(豊島八十八ヶ霊場第46番札所)のお寺
   で本尊は十一面観世音菩薩です。
   寺伝によりますと、文永五年(1268)長全法印により開山され、その後正平九年(1
   54)児玉郡本庄城主の荘弘泰、弘朝父子が武蔵野合戦の後橋戸村に土着し、当寺を菩提
   寺としました。その後永い間衰微していたのを、永禄三年(1560)良賢法印が中興開
   山となって復興したといわれています。
   明るい墓地には江戸初期からの荘氏累代の五輪塔や宝篋印塔があります。また付近にあっ
   て廃寺となった真福寺歴代住職の墓もあります。
   境内には荘氏由緒碑や馬頭観音、奪衣婆、閻魔、十王像と壇拏幢(区登録文化財)は閻魔
   王の人頭杖を模したもので、元禄三年(1690)橋戸村の荘氏が造立したものです。
   昭和58年3月                         練馬区教育委員会

   同文

   平成7年10月                         練馬区教育委員会


 
閻魔・十王像と檀拏幢
 境内に、仏教の教義で死者を生前の善行・悪行により裁き、その死者の行くべき世界を定めるもの
とされる閻魔・十王の像があり、また閻魔の審判の様子を説き明かす檀拏幢という珍しい石造物もあ
る。冥界の10人の王である十王とは、変成王(へんじょうおう)
・秦広王・初江王・宋帝王・五官
王・閻魔王・太山王(だいざんおう)・平等王・都市王・五道転輸王だ。特に閻魔王は、地獄で悪を
裁くものとして伝えられている。閻魔・十王像は、石造の丸彫坐像。閻魔像は総高10cm、十王像
はいずれも72cmある。十王像10躯の内、5躯の頭部は、他像のもので接がれている。
 檀拏幢は、石造の竿状で蓮台の上に2つのが彫られ、総高95cmある。蓮台上の顔をよく見
ると、柔和な
女相と憤怒の男相がある。。閻魔が亡者を審判する時、重罪であれば憤怒の男相の口が
火を噴き、善行が勝れば柔和な
女相から芳香が漂うとされている。閻魔はこれを見て罪の軽重を判断
したといわれている。
 閻魔・十王像それぞれの背面と檀拏幢の蓮台には、元禄三年(1690)11月善日(ぜんじつ)
橋戸村出身の出家者庄氏浄信により建立されたことが刻まれており、これらは、一組を成して建て
られたと考えられる。
檀拏幢は、閻魔大王が人間の生前の善悪を審判するためのものとされている。
 檀拏幢まで備わった閻魔・十王像は少なく貴重な石塔だ。

 庚申塔
 境内にある自然石の碑。「庚申」、
台石に「明治三十七年辰八月建之」「瀧島亀五郎」と彫る。 


【春日町】(かすがちょう)1~6丁目                昭和42年1月1日
 上練馬村字中ノ宮・海老ヶ谷戸・尾崎。明治11年「郡区町村編制法」により北豊島郡所属、同
22年「市制町村制」により上練馬村の大字となる。昭和7年東京市に編入し板橋区練馬春日町1
~2丁目。同22年板橋区から分離して練馬区練馬春日町1~2丁目。同24年練馬の冠称を外し
て春日町。同42年新住居表示により春日町1~2丁目のごく一部を早宮に譲り、残余を整理して
1~6丁目に再編、現行の「春日町」とした。
 都道環状八号線の通る愛染院の近くの中の宮交差点に地下鉄大江戸線の練馬春日町駅が出来て、
後進区練馬の不面目を一新しようと奮闘中。西武鉄道の悩みと同じ悩みを払拭せんと懸命に頑張っ
ている。元々この辺りは名主宅があり、郷蔵があり、高札場があり、上練馬村の中心地だった。村
役場は初め5丁目の増田村長宅に、それから春日町交番交差点の東の環八通りの辺り(3丁目35)
に移した。明治10年練馬小学校は4丁目の愛染院に開校し、のち現在地(6丁目11)に移転し
た。初期の校舎が高松1丁目23番の上原宅に移築され納屋として使われて現存する。
 昭和28年23区では初の区営分譲住宅地が販売されたが、それだけ土地があった。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『練馬区史』『練馬の歴史』など。

 春日の由来
 5丁目2番にある旧村社春日神社による。「春日」としなかったのは、文京区春日があるからだ
が、あっちは春日局に因む。

   『ねりま区報』昭和60年6月1日掲載
    飛ぶ鳥のアスカ、春の日のカスガと大和の地名は優しく、雅やかだが、語源は今一つ
   はっきりしない。ここ春日町の名の起こりは、旧村社春日神社(春日町3丁目2番)に
   由来する。昭和7年、市郡合併で板橋区が成立、それまで上練馬村の中ノ宮・海老ケ谷
   戸・尾崎といっていた地域が春日町1、2丁目となった。
    春日神社は鎌倉時代、工藤祐経の孫、祐宗が頼朝に従って奥州征伐に向かう途中、自
   分の先祖藤原氏の氏神である大和の春日神社の祭神をここに勧請して、戦勝を祈願した
   のにはじまるという。その後、練馬城(今の豊島園)の城主豊島泰経も一族の守護神と
   して当社を深く崇敬した。豊島氏没落後、後の城主海老名左近はここを居館の一部とし
   た。小字海老ケ谷戸は海老名氏所縁の地名だという。
    神社は江戸時代、十羅刹女(じゅうらせつにょ)社と呼んでいたが、明治の神仏分離
   で、十羅刹女社は隣の寿福寺(春日町3丁目2番)へ、祭神は春日神社として祭られる
   ことになった。愛染院(春日町4丁目17番)前の交差点付近を中ノ宮という。江戸時
   代には近くに名主役宅や高札場、郷蔵などがあって村の中心だった。明治になってから
   そこに村役場や小学校、登記所ができた。春日小学校(春日町5丁目12号)建設によ
   り古代遺跡が発見され、練馬の歴史にとって貴重な資料が数多く出土した。遺跡は地名
   をとって尾崎遺跡と呼ばれている。
 



■中の宮牛蒡
 上練馬村字中の宮で生まれた品種。滝野川牛蒡から早生種を選び出し、鹿島安太郎が改良して、秋
播き夏穫りの安定した品種として栽培された。


■練馬城(豊島城)跡
 春日町1丁目1番の豊島園のところにあった。
鎌倉時代末期、豊島氏の一族で、ここより南西に位
置する石神井城の城主豊島泰景の弟景村が築城したとされる。豊島氏は平安時代から続く名門で、室
町時代には山内上杉氏の寄騎として石神井川流域に広大な領地を持つ国人領主に成長し、鎌倉公方の
守護役や関東管領の守護役を務めるなど名声も得た。しかし文明八年(1476)に勃発した長尾景
春の乱において豊島氏は景春に与し、鎮圧軍の太田道灌に攻められることとなる。翌九年四月、当時
石神井城の城主だった豊島泰経は、この練馬城近くの江古田付近で道灌軍を迎え撃ち(江古田・沼袋
の戦い)、記録では、この練馬城からも城兵が出撃し、泰経軍と合流して道灌軍に当たったとされる
が、結果は豊島氏の敗北に終わる。泰経は居城石神井城に逃れ、やがてその石神井城も攻められ落城
する。練馬城の落城の月日については明らかではないが、この江古田・沼袋の戦い直後に落城したも
のと思われる。その後は荒れるままに自然に返った。
 


■としまえん

 
春日町1丁目1番1号・向山3丁目25番1号にある遊園地。この遊園地の立地は、川南(向山)
が矢野山と呼ばれた雑木林、川北(春日町)は練馬城址の城山で、板橋の「なべや」の所有だった。
それが増田氏の手に移り、大正末期に樺太工業専務藤田好三郎が取得して遊園地として開園した。そ
の後安田信託が所有し、やがて〝ピストル堤〟の悪名で世を渡った国土開発・西武鉄道の堤康二郎が
手に収めて今日に至るが、平成17年息子の義明が経済的汚職により追放され、豊島園も堤の手を離
れ、西武は西武として自立の道を歩いている。遊園地が出来た当座は、大人の遊び場で、子供の遊園
地になったのは戦後のことだ。
 豊島城の名は〝豊島氏の城〟として豊島園のイメージから馴染んではいるが、「練馬城」が正しか
ろう。高橋源一郎は「矢野山城」だとしている。城というと姫路城のような石垣の城を連想がちだが
日本馬で飛び越えられない程度の高さの土塁で囲んだ館で、たいそうなものではない。


■みどり児童遊園

 
春日町1丁目1番120号にある区立公園。この公園を捜すのは難しい。何故なら1丁目1番はほ
ぼ豊島園の敷地で、この公園は、石神井川北岸の豊島園敷地の西南角先にある。つまり石川橋の東北詰にある小さな小さな子供の遊び場だ。


■春日ひだまり緑地

 
春日町1丁目20番14号にある区立公園。


■練馬東小学校
 
 春日町1丁目30番11号にある区立小学校。昭和35年4月練馬小学校春日町分校として本校に
併設して開校。9月校舎竣工に伴い現在地に移転。6教室にて授業開始。同36年独立し「東京都練
馬区立練馬東小学校」として創立。同40年開港5周年記念式典・校歌制定記念音楽会。

 校歌「
麗らかに照る」 作詞・小林純一  作曲・京鳩信
  1.麗らかに照る日の光
    欅の森の浅緑
    嗚呼その名も床しく美しい
    春日の大地 此処に建つ
    明るい校舎 高い窓
    練馬東小学校
  2.石神井の水 休みなく
    大川指して行くように
    さあ希望の瞳を輝かし
    未来を望む私達
    励もう日々にまた日々に
    練馬東小学校
  3.茄子紺色の鮮やかに
    はためく校旗先頭に
    さあ新たな時代を切り開く
    決意を胸に私達
    進もう今日も誇らしく
    練馬東小学校


 同41年岩石園・観察池完成。特殊学級2学級開設(児童15名入学)。同44年プール完成。
45年田柄第二小学校を分校。児童1081名(27学級・特殊2学級)移籍。同46年創立20周
年記念式典。
平成13年創立40周年を迎えた。同52年児童266名早宮小学校へ移籍。陶芸小屋
完成。同54年校庭整備・スプリンクラー設置。同55年防球ネット設置。創立20周年記念式典。
同58年練馬東小学校学童クラブ開設。同61年備蓄倉庫(3階)。同62年消防格納庫設置。砂場
新設。同63年高架水槽完成。自転車置場増設。 
 平成元年校庭整備。防球ネット増設。藤棚改修。同2年ゆとりルーム・心障ランチルーム改築。理
科室・第二音楽室改修。同3年飼育小屋改修。創立30周年記念式典。同4年校庭緑化。窓枠サッシ
化・強化ガラス取付。同7年教室床改修。同10年屋内消火栓設備改修。給食室開設。給湯器設置。
同11年校舎耐震化。同12年パソコンルーム開設。同13年インターネット接続。創立40周年記
念式典。同15年ホームページ公開。同16年東っちチャレンジスクール開催。学校安全安心ボラン
ティア事業始め。同17年子供たち見守り隊発足。同20年学校応援団設立。東っちひろば開設。同
22年創立50年記念バザール。
同23年創立50周年記念式典。

 
藤ノ木
 校庭の西南隅にある。根元近くの径1mという大木だ。5月の花の季節に長い花房をつける。江戸
時代北町の「藤棚」という染料店の店先にあり、川越街道の名物だった。その後成増の並木家に移り、
昭和初期に成増にできた遊園地「兎月園」へ売渡された。その後戦争で兎月園が閉鎖され、戦後跡地
は宅地化されることになり、藤の木は再び売り出されたが枯死寸前だった。昭和35年に練馬小学校
の分校が設立され、翌36年練馬東小学校として独立開校した時、創立の記念樹として地元の有志か
ら寄贈されたものだ。大事な木を枯らさないようにと、毎日石神井川より水を運んで管理してきたそ
うだ。


■庚申塔 ◇

 春日町1丁目32番9号篠田家所有地の東北角の土留めコンクリート塀の外にある。板状駒型。日
月・青面金剛像・邪鬼・三猿。「奉造立」「庚申尊像」「明和三丙戌年再興講中 願主十六人」(1
766)「これより左中村ミち 元禄十五年 願主六人」。中村には南蔵院がある。


■稲荷社 ◇

 春日町2丁目2番1号にある小社。社殿の前に門扉があり、施錠されている。


■春日公園

 
春日町2丁目4番30号にある区立公園。


■下久保憩いの森

 
春日町2丁目5番にある区立公園。


■春日なかよし公園

 
春日町2丁目7番16号にある区立公園。


■一里塚子育地蔵 ◇

 春日町2丁目9番8号の南西角地、環状8号線(富士街道)に面して立つ。一里塚といわれている
けれども、塚山がある訳でもなく、里程を示すものは何もない。川越街道から入って1里ぐらいのと
ころにあるのでそう呼んだのだろう。今祠堂の中には御嶽神社の神札、地蔵尊の奉納額。石仏は六十
六部供養塔と地蔵塔が2基あるのみで、地蔵も供養塔も、石造祠も造りは別々のものだ。多分あちこ
ちにあったものをここに寄せ集めたのだろう。どれか一つは元からあったかも知れない。環八道路敷
設前はこの地蔵の付近だけ道がやや細くなっており、しかも地蔵の前側は、茅葺きの家や竹薮もあっ
て旧街道のイメージを強く残していたが、今は全く失われてしまった。地蔵の背後は篠田家とその畑
地だが、一等地となってしまっては、畑地をいつまで維持できるか・・・ビルやマンションで埋め尽
くされ、この地蔵も撤去されるのは時間の問題だ。

   ふじ大山道
   ふじ大山道は、道者街道、富士街道とも呼ばれています。それは阿夫利山ともいわれた大
   山へ、また大山から富士山への道者達が通ったからです。北町1丁目で川越街道から分か
   れて、石神井、田無を経て、伊勢原(神奈川県)に達していました。練馬の中央部をほぼ
   東から西南に横断し、区内では約8kmに及んでいます。そしてその分岐点には「従是大
   山道」と刻んだ道しるべが建てられたのです。
   旧暦の6月は、俗に祭月と呼ばれているように、江戸や関東各地では、祭礼が盛んに行わ
   れました。阿夫利山も「水の無い月に雨降る山は聞き」とあるように、6月28日は、初
   山で、それから7月14日まで、連日、関東の村々から集まった大山講や富士講の人びと
   にぎわいました。その道者たちが通ったのが街道です。
   昭和63年3月                         練馬区教育委員会

   
ふじ大山道
   ふじ大山道は、大山街道、富士街道、道者街道とも呼ばれています。それは阿夫利神社と
   もいわれた大山(神奈川県)へ、また大山から富士山への道者たちが通った道です。
   この街道は、北町1丁目で旧川越街道から分かれて、石神井、田無を経て、神奈川県伊勢
   原市に達していました。練馬の中央部をほぼ東から西南に横断し、区内では約8kmに及
   んでいます。旧川越街道との分岐点には「従是(これより)大山道」と刻んだ道しるべが
   建てられました。
   旧暦の6月は、俗に祭月と呼ばれているように、江戸や関東各地では、祭礼が盛んに行わ
   れました。阿夫利山も「水の無い月に雨降る山は聞き」とあるように、6月28日は、初
   山で、それから7月14日まで、連日、関東の村々から集まった大山講や富士講の人びと
   にぎわいました。その道者たちが通ったのが街道です。
   平成21年3月                         練馬区教育委員会


■やしのみ公園

 
春日町2丁目9番32号にある区立公園。


■神社 ◇

 
春日町2丁目13番1号にある小祠。赤い鳥居なのでお稲荷さんだろう。空地に祠が2基ある 


■練馬東中学校

 
春日町2丁目14番22号にある区立校。昭和48年田柄中学校内に「東京都練馬区立練馬東中学
校」として開校(この校名は同26年まで旭丘中学校が名乗っていた校名だが、関連はない)。2年
生3学級128名・1年生7学級277名でスタート。7月第1回PTA総会開催。プール完成。9
月現在地に校舎落成して移転、開校式。10月校章制定 (2年生上野智子作入選)。同49年1月校
歌制定。

 校歌「
日輪は」 作詞・草野心平  作曲・渡辺浦人
  1.日輪は天に遍(あまね)
    年毎に四季は巡る
    吾等皆健やかにして
    相助け励み合いつつ
    自らの学を修める
    練馬東 吾等が母校
    栄
(は)えあれよ 吾等が校旗
  2.群青の空の遥かに
    秩父の嶺
(ね)や西の白富士
    その高さ吾等が理想
    朋輩
(ともがら)よ深く考え
    新しき文化創らん
    練馬東 吾等が母校
    輝けよ 吾等が未来


 同4月校旗樹立。講堂兼体育館落成。同50年校舎増築。同63年機械警備導入。
 平成2年第二体育館・プール完成。校舎内装。同3年校庭緑化。同5年校舎外装完了。創立20周
年記念式典。同7年校庭整備。同8年体育館外装完了。同10年調理室改修。同11年図書室・会議
室にエアコン設置。同13年第2理科室改修同15年創立30周年記念式典。
 


■庚申塔 ◇

 
春日町2丁目18番21号サンヒルズ角、田柄通りに面してある。唐破風笠付角柱型。日月・青面
金剛像。像下のスペースに「中田柄村」「施主吉田安右ヱ門」「施主拾人」、側面に蓮。台石に三猿
を刻む。「奉造立庚申像一基二世安楽祈依」「元禄九丙子天」(1696)「十二月十四日 


■はぎのき児童遊園

 
春日町2丁目27番28号にある区立公園。


■春日さつき緑地

 
春日町2丁目30番17号にある区立公園。


■春日しゃらのき児童遊園

 
春日町2丁目31番20号にある区立公園。


■春日神社

 春日町3丁目2番4号(社務所は10号)、豊島園の北側にある。日本三大仇討で有名な、曾我五
郎・十郎に討たれた工藤左衛門尉祐経の孫の祐家(祐宗とも)が、頼朝の奥州征伐に参加し、この地
に至ったとき藤原氏の氏神である春日明神を勧請して戦勝祈願したことで創建されたという。工藤氏
は「木工頭藤原」を略したもので藤原一門だ。因みに藤の付く苗字(斎藤・安藤・武藤・須藤など)
は押しなべて藤原系、藤原氏に荘園として土地の上りを提供した者の子孫だ。
 後年、豊島氏が守護神として崇め、豊島氏没落後は海老名左近の館になったと伝わり、字海老ヶ谷
戸(えびがいと)はその名残りという。江戸時代は十羅刹女社(じゅうらせつにょのやしろ)と呼ば
れて隣の寿福寺の管理下にあった。明治の神仏分離令で十羅刹女を寺に移して独立し、春日神社と称
するようになり、村の鎮守となった。本殿は春日造りで、右手には昭和32年に新築した神楽殿があ
り、南面には本殿と相対して春日鳥居が建っている。境内には天保七年(1836)の手水場、文久
元年(1861)の狛犬をはじめ、南側の道路脇には、文化元年(1804)の馬頭観音石塔、享保
九年(1724)の庚申塔などの貴重な石像物が保存されている。境内一段下のまばらな林の中に大
きな、「太平洋戦碑」と「表忠碑」が建っている。祭神は天児屋根大神。末社は稲荷・三峰・第六天
・恵比寿大黒天・道祖神。「練馬の神社」に、

   創建は不詳であるが、「北豊島郡神社誌」に「古老ノ伝フル所ニヨレバ、工藤左衛門尉祐
   経ノ孫祐宗ノ創立セルモノト云フ、按ズルニ祐宗ノ藤原鎌足ノ末裔タルト其ノ天児屋根命
   ヨリ出タルト・・・而シテ中世乱世ヲ経テ文明年間ニ至リ・・・豊島勘解由左衛門泰経等
   深ク当神社ヲ崇敬シ、一族ノ守護神トシテ奉仕セリト云フ・・・豊島氏没落ノ後練馬城海
   老名左近ノ居トナリ、又厚ク崇敬セリト云」とある。
   境内の石造物で古いのは、天保七年(1836)篠田藤五郎寄進の水盤と文久元年(18
   61)長谷川太左衛門寄進の狛犬(大正6年再建)、慶応二年(1866)の幟石である。
   社殿は大正6年の新築であり、神楽殿は昭和31年、絵馬殿は昭和40年の改築である。
   ほかに社殿脇には二個の力石がある。境内は広く、日露戦争記念碑、表忠碑、太平洋戦争
   碑が建ち、当地域の戦没者・従軍者名を記している。
   境内の樹木は多く、エノキ、イヌシデ、シラカシ、スダジイ、ニレの大樹が繁っている。
   また、境内脇には安永六年(1709)奉納の上練馬海老ヶ谷戸村結衆による青面金剛庚
   申塔がある。
   なお、江戸末期には宮司が庭泉堂塾を設け、近隣の各名主の子弟を集め、読み書きそろば
   んを教えたという。


 とある。

 庚申塔
 社殿の左隅に祀られている。春日町1‐13春日町一丁目交差点にあったもの。駒型。日月・青面
金剛像・邪鬼・三猿・二鶏。「武刕豊嶋郡上練馬海老ヶ谷戸村結衆四十八人」「奉造立庚申供養二世
安全祈所」「宝永六己丑天」(1709)「霜月吉日」  
 

 春日明神について
 春日大社は和銅三年(710)藤原不比等が先祖中臣氏の氏神である茨城県鹿嶋市鹿島神宮の鹿島
大神(武甕槌神=たけみかづちのかみ)を奈良阿部山に勧請し、藤原北家の永手が神護景雲二年(7
68)和邇一族の小野氏の氏神である春日は御蓋山(三笠山)の地主神である榎本明神の地を耳が聞
こえないのをよいことに騙し取って社を造営したのが始まりで、 祭神は鹿島大神(武甕槌神)だった
が、この時に香取大神(経津主神)・枚岡神(天児屋根神・比売神)を合祀して4座となり四所明神、
春日の地にあるので春日明神と称えた。平安時代藤原氏の隆盛とともに拡充し、一族の春日詣でによ
り崇敬を集め、地方に散った藤原氏が勧請して全国的に広まり、伊勢(神明/天祖)・石清水と並ん
で日本の三社と崇められている。ただし神社の数では稲荷明神が圧倒的に多い。阿部山は陰陽師阿部
晴明の先祖の地、すなわち藤原(中臣家」は神道家だし阿部家との繋がりは古いということだ。春日
そのものの由来は「幽処(かすが)」でひっそりとした原始林のあるところの意。余談だが江戸川区鹿
骨は鹿島大神が春日に向かう途次乗鹿が死んだ場所と伝えられている。
 


大林山景勝院寿福寺
 春日町3丁目2番22号にある真言宗豊山派の寺。春日神社の別当寺だった。本尊は薬師如来 豊
島88ヶ所の19番。創建は万治二年(1659)以前という。本堂は明治25年焼失、同43年再
建、現在の本堂は昭和4年の改築、比較的新しいが、寺院としての荘厳さを十分保っている。過去帳
などの調査により、愛染院の隠居寺ではなかろうかと考えられている。境内に庚申塔や筆塚のほか、
区指定の保護樹である楠の巨木が立つ。本堂左は墓所、右の寿福寺幼稚園は鉄筋コンクリート4階建
ての立派なもので、園児の黄色い声が賑やかだ。しかしうるさいと思うこの声を聞かないと人間は心
が安定しないのだ。人間は自分に子であろうがなかろうが、世の中に子供がいることを感じていない
と生きていられないのだ。その子供を殺してしまう奴の神経が判らない。病気かなぁ!

   寿福寺
   寿福寺は大林山最勝院といい、真言宗豊山派です。本尊は薬師如来で、豊島八十八か所第
   19番札所でもあります。開創は詳らかではありませんが『新編武蔵風土記稿』に「開山
   秀信、万治二年(1659)十二月寂ス」とあり、寺の記録にも慶安二年(1649)の
   記述があることから、それ以前の創建であることが分かります。
   明治26年失火により全焼しましたが、本尊の薬師如来は幸い焼失を免れました。明治4
   3年本堂と堂内のほとんどを再建しましたが、まだ不十分な状態でした。そのため、本尊
   薬師如来の御影を厨子に入れて背負い、近郷近在に喜捨を願って巡行したので、人びとは
   「巡行薬師」と呼んで親しみ敬いました。集まった浄財で仏具等を整備してお堂が完成し
   ました。現在の本堂は、昭和4年に改築されたものです。
   境内の十羅刹女神社は、古くは隣地の春日神社に祀られていましたが、明治時代の廃仏棄
   釈でここに遷らされました。
   延宝三年(1675)の庚申塔は青面金剛像の刻まれる塔としては区内最古のものです。
   また江戸時代後期に上練馬村で家塾を開いていた河野鎮平(天保六年(1835)没)の
   筆子碑は、区の登録文化財です。
   寺宝には、平安時代の絵師として有名な巨勢金岡筆と伝えられる六字名号の軸物がありま
   す。
   平成21年3月                         練馬区教育委員会


 河野鎮平筆子碑
 幕末ごろ寿福寺の近くで家塾を開いていた河野を偲んで、明治時代に筆子たち(教え子)が建てた
角柱型台石付で、墓石と見紛うよ。 高さ1.6m、正面に「賢堂学翁信士」、左面に「江府小川町産
 河野鎮平筆塚 天保六年三月三日逝」、裏面に「上田柄、神明谷戸、八丁堀、中之宮、海老谷戸」
など近在の16名の発起人の氏名が、台石には筆子95人の氏名が陰刻されている。

   練馬区登録史跡
   
河野鎮平筆子塚
   江戸時代にこの附近で家塾を開いていたと伝えられる河野鎮平(賢堂・天保六年〔183
   5〕没)を偲んで、百人を超える教え子たちが立てた石碑。
   平成15年3月                         練馬区教育委員会
 


■春日三丁目公園

 
春日町3丁目10番7号にある区立公園。


■春日児童遊園

 
春日町3丁目10番22号にある区立公園。


■練馬大根栽培之地の碑

 春日町3丁目15番9号ラデッシュメゾン(アパート)前にある。丸石に、

   練馬大根さいばいの地の碑

 と刻み、傍らに説明板がある。

   練馬大根さいばいの地の碑
   練馬大根は、大正から昭和の初め頃まで、練馬春日町をはじめ練馬一帯で生産は最盛期で
   ありました。練馬大根栽培の先駆者、鹿嶋又六が練馬大根栽培を始めてから、約300年
   の歴史を持つ練馬の特産物「練馬大根」は、昭和30年代に都市化や病害などのため、農
   家の自家用を除いて完全に姿を消しました。
   平成元年から、練馬区は「練馬大根育成事業」として、農家に依頼して、年間6000本
   生産するようになりました。練馬大根が生産されなくなっても、幻の大根と言われても、
   我々の祖先の人達が、体を張って研究を重ね継承してきた、練馬の誇り練馬大根と、この
   地が練馬大根の生産地であったことを、なんとかして次世代に伝承するため、平成12年
   を迎えることを契機として「練馬大根栽培之地」の碑を建立しました。
   鹿島家7代目の鹿島萬嗣は、8人の子宝に恵まれ、地域社会の発展と街づくりを使命に、
   野菜づくりと、練馬大根づくりに一生を捧げることを理想としていました。晩年、練馬農
   協総会会場の議長席にて倒れて、この世を去りました。
   志半ばで逝った父の遺志をくみ、後世に伝えようとする共通の願いを子供達が碑に刻み、
   一人ひとりが沢庵漬に使用していた重石を持ち寄り、8個の石で護りながら地域の発展と
   文化のまち「ふるさとねりま」を誇りために建立したものです。
    鹿島信一 鹿島正治 鹿島清子 岡田とみ 鹿島文子 浅見静子 池田敏子 武井和子
   平成11年12月吉日 


■名主屋敷 名主役宅長谷川家住宅

 春日町3丁目29番3号にあった。建物は文化・文政(1809~29)頃のもので、江戸時代の
名主の権威と格式を示す堂々たる建築だった。玄関の式台も当時の姿そのままに保存されていたし、
それに合わせた門も立派だ。昔はこの門と玄関を通れるのは代官と名主だけで、家族や家人、村人、
供の者は出入りが憚られた。通用の門と入口が別にあって、このことは厳格に守られた。この建物ほ
どよく保存されていたものは東京全体を見ても殆ど数は少なかった。練馬区の文化財として第一級の
ものだとあったのでチェックに行くと、外からしか判らないが、どうやら瓦葺きの屋根なので当代が
建て替えてしまったようだ。どこかに移築しなかったのかなぁ。30年代まではあちこちにあった農
家だが、昭和40年代からのマンションブームに乗っかって、拝金主義に陥った当代たちが先祖伝来
の文化財を易々と金に替えていった。浅ましいことよのう!
 区の文化財一覧には「長谷川家文書」はあるが、建物等は消滅している。

   名主役宅
   長谷川家は、上練馬の名主の家です。上練馬村は寛永十六年(1639)に初めて検地を
   を受け、千二百四十二石余の近世村落となりました。のちに村高二千六百四十六石余とな
   りますが、延宝元年(1673)頃の長谷川家の持高は九十六石余でした。
   現在の建物は、文化文政(1804~1829)頃のものですが、りっぱな門のほかに玄
   関と式台があり、そのようすは■■れど昔のままで、江戸時代の名主の権威と格式を十分
   しのぶことができます。
   門と玄関は、■■諸々の代官や他村の名主らの出入口で、平百姓や供の人々はここを出入
   りできませんでした。玄関の脇に梅の古木がありますが、太田道灌の梅好きにあやかった
   植樹ということです。
   昭和46年8月1日                       練馬区教育委員会
 


■練馬春日駅

 春日町3丁目29番にある都営地下鉄大江戸線の停車場。平成3年12月10日都営12号線の最
初の区間である練馬~光が丘間が開業した時に開業した。ホームは島式1面2線構造で地下2階にあ
る。ホームと改札階を結ぶエレベーターは完備。改札口は1ヶ所のみで地下1階にある。出口はA1
~A3の3ヶ所。
 


■春日中の宮児童遊園

 
春日町3丁目29番13号にある区立公園。


■又六庚申塔 
移設
 春日町3丁目33番の環八通り上にあったが、平成10年環八通りの敷設で旧道が失われ、庚申塔
は春日町4‐16‐9の春日町青少年館内に移した。


■ふじ大山道標柱

 春日町4丁目16番1号の愛染院入口前左にある。

   
ふじ大山道
   ふじ大山道は道者街道、富士街道ともよばれています。それは阿夫利山ともいわれた大山
   へ、また大山から富士山への道者が通ったからです。北町1丁目で川越街道から分かれて
   石神井、田無を経て伊勢原(神奈川県)に達していました。練馬の中央部をほぼ東から西
   南に横断して区内では約8kmに及んでいます。そしてその分岐点には、「従是大山道」
   と刻んだ道しるべが建てられたのです。
   旧暦の6月は、俗に祭月とよばれているように、江戸や関東の各地では、祭礼がさかんに
   行われました。阿夫利山も「水の無い月に雨降る山は開き」とあるように、6月28日が
   初山で、それから7月14日まで、連日、関東の村々から集まった人々でにぎわいました。
   その白衣の道者たちが通ったのがこの街道です。
   昭和583月                          練馬区教育委員会


■練馬大根碑

 春日町4丁目16番1号の愛染院参道口左手にある。大根といえば練馬、練馬といえば大根といわ
れるほど「練馬大根」は有名だが、その昔、上練馬村の鹿島又六が作り始めたといわれている。また
一説には将軍綱吉公が下練馬村に栽培を命じ、旧家の大木金兵衛に年々献上させたとも伝えられてい
る。元禄年間(1688~1704)には、練馬の特産物となった。江戸の発展、さらに東京となっ
て庶民の需要に応えるため大量の大根が栽培され、全国的にその名を謳われるほどになった。しかし
昭和7年練馬が板橋区として東京市に組み込まれ、都市計画が進むに連れて生産力は落ち、次第に衰
退を続け、西郊の地に移っていった。このため沢庵漬の生産に集中することを余儀なくされたが、そ
れでも年産額80000樽に達した。碑はこれを記念して昭和15年11月に、鹿島安太郎が委員長
となって建立した。

   
練 馬 大 根 之 碑
      東京府知事川西實三


 と刻む下に碑文、

   蔬菜は人生一日も欠き難き必須の食品なり特に大根は滋味豊潤にして栄養に秀て久しきに
   保ちて替る所なく煮沸干燥或は生食して各種の調理に適す若し夫れ沢庵漬に到りては通歳
   尽くるを知らず効用の甚大なる蔬菜の首位を占む今や声誉中外に高き我が練馬大根は由来
   甚だ久しく徳川五代将軍綱吉が館林城主右馬頭たりし時宮重の種子を尾張に取り上練馬の
   百姓又六に与へて栽培せしむるに起ると伝ふ文献散逸して拠るべきもの乏しと雖とも寛文
   中綱吉が再次練馬に来遊せしは史籍に載せられ当時の御殿阯なるもの今に存するを思へば
   伝説に基く所ありて直に斥くべきにあらず爾来地味に適して栽培に努めしより久からずし
   て優秀なる品種を作り練馬大根の称を得て主要物産となり疾く寛政の頃には宮重を凌ぎて
   日本一の推賞を蒙るに至れり
    抑も練馬の地たる鎌倉時代の末葉に当り豪族豊嶋景村来住せしより文明中太田道潅の政
   略に遭て亡ぶるまで世々其の一族の守る所として知られしも其の名は大根に依りて始て広
   く著はる而して輓近国運の伸長は歳と共に其の需用を増し加ふるに沢庵漬として遥かに海
   外に輸出さる、より競ふて之栽培を計り傍近数里殊に盛なるものありと雖ども尚且つ足ら
   ざるを感ぜしむ 昭和七年十月東京市に編入の事あり都市計画の進程に伴ひて耕耘の地積
   徐に減退を告げ其の栽培の中心は傍近の地に移るの余儀なきを覚えしむ現時沢沢庵漬の年
   額八万余樽に達せるは最高潮と称すべきか 滋に光栄輝く皇妃二千六百年に当り奉賛の赤
   誠を捧げて崇高なる感激に浸ると共に東京練馬漬物組合一同相胥り地を相して各自壓石を
   供出して基壇に充て其の旨を石に刻して後昆に遺さんと欲す偶々其の記を予に嘱せらる丶
   も不文敢て当らず予や尾張の出にして居を此地に営み大根の由来と稍々相似たるものある
   は多少の縁因なきにあらず奇と云ふベきか辞するに由なきより乃ち筆を呵して其の梗概を
   記す
   昭和15年11月                         柴田常恵  撰
                                    練月山亮通 書

 区の説明板は以下の通り。

   
練馬大根の碑
   練馬といえば大根、大根といえば練馬といわれるほど、練馬の名は、大根によって、人々
   に親しまれてきました。
   練馬大根のはじまりについては、将軍徳川綱吉が尾張(愛知県)から種子をとりよせ、百
   姓大木金兵衛に作らせたとか、上練馬村の百姓又六が作り出したとかの、話が伝えられて
   います。
   江戸の発展、さらに東京都なって、大量の大根が作られるようになりました。練馬大根の
   沢庵漬けは、特産として全国的に有名になりました。これを記念して昭和16年4月に建
   てられたのが、この大根碑です。
   練馬大根の品種改良と普及育成に生涯をささげた鹿島安太郎の顕彰碑も、これと並んで昭
   和40年4月に建てられました。
   この奥の練月山愛染院は、真言宗の寺です。江戸時代に寺領二十石を与えられました。境
   内の、沢庵石を磁石とした鐘楼には、元禄十四年(1710)鋳造の梵鐘が残されていま
   す。
   平成2年10月                         練馬区教育委員会

 ※文中「鹿島安太郎の顕彰碑も、これと並んで昭和40年4月に建てられました」とあるが、碑の
建立日の日付は「昭和41年の誤記」。



■鹿島安太郎翁顕彰碑

 春日町4丁目16番1号の愛染院参道に、大根碑と並んで建つ。又六を先祖に持つ安太郎は、練馬
大根の品種改良に献身的な努力を重ねた1人だ。しかし一度環境が悪化し、バイラス病によって練馬
大根の作柄が不振となるに及んで、逸早く転換作物として甘藍(キャベツ)や洋菜類を導入。機を見
るに敏なるを以て農業経済の振興を図ったことは、練馬大根とともに、忘れることのできない人物で
あると顕彰したのがこの碑という訳だ。

   
鹿島安太郎翁顕彰碑
      文部大臣中村梅吉書


 と刻む下に碑文、

   鹿島安太郎先生は明治16年3月2日東京都練馬区春日町の農家に生まる 青年の頃より
   農事に対する研究心旺盛所以謂「考える農民」であった 常に農業振興の重要性を力説し
   地域農業の進展に尽力され就中練馬大根の品種改良と栽培及び加工技術の改善を図り之が
   普及に献身的努力をされ更に馬鈴薯栽培の改善など地域の農家経済を有利に導かれた功績
   は極めて大きい 戦後特産練馬大根も環境の悪化により作柄不振加えて食生活の洋風化に
   伴い需要の低下するに及び逸早くこの動向を察知して之が轉換作として甘藍及び洋菜類の
   導入を普及に盡力されたのである 今や當区は都内随一の甘藍産地となっているがこれ偏
   に先生の鋭い先見の明の賜である この間数多くの農業団体の要職にあって盡きところの
   ない情熱を農業の改良と普及はもとより後輩の育成指導にも意を注ぎ練馬農業の先覚者と
   して農民の心の程であった 先生は温厚篤實終始一貫生涯を農業一筋に捧げ心より王を愛
   し王とともに生きてこられたこの精神こそまことに崇高である先生の数限りない労苦と功
   績が認められ昭和33年11月3日黄綬褒章受章の栄誉を受けらる 近年都市の膨張によ
   り都内園芸地帯の耕地は蚕食され営農環境は悪化の一途を辿り今後農園芸の進路には極め
   てきびしいものがあるとき先生には82歳を一期として永遠の眠りにつかれた昭和40年4
   月4日先生の多年に亘る偉大なる功績に対し特旨をもって従六位勲六等に叙せられ軍光旭
   日章を授与せられたのである
   茲に先生の御遺徳を讃え輝かしい足跡を後世に傳えるため御功績の一端を記す
   昭和41年4月23日
                     鹿島安太郎翁顕彰記念碑建立発起人総代加藤源蔵


■春日町青少年館

 春日町4丁目16番9号にある区の施設。

 
床運動
 床運動のポーズをとる青年の銅像。併しどう見ても空手のようだ。岡本錦明の作品。像高170c
m。昭和62年12月12日設置。

 又六庚申塔
 館外にある。板状駒型浮彫 日月 青面金剛像 三猿。

   
左 面 享保二丁酉霜月十日
   
正面左 中宮村講中十三人
   正面中 日月 青面金剛像 三猿

   
正面右 奉造立庚申二世安樂所
   
右面右 親講 鹿嶋又六

   
又六庚申塔
   練馬大根発祥に関わる石造物です。青面金剛像と三猿が彫られている庚申塔で「中宮村」
   講中十三人」「享保二(1717)丁酉霜月十日」「講親 鹿嶋又六」などの銘がありま
   す。庚申塔は室町時代より民間信仰として盛んであった庚申信仰に関わる記念塔です。
   「又六」は、「武蔵演路(安永九年・1780)」で練馬大根を作り始めた上練馬村の百
   姓として紹介されており、「又六」の実在を証明する唯一の遺物となっています。練馬大
   根発祥については、徳川綱吉が脚気のため練馬で療養していた時、旧家に栽培させたとの
   説や又六に宮重大根の種を与え栽培させたとの伝説もあります。
   この庚申塔は、春日町3丁目33番の富士海道沿いに立っていました。道路拡幅整備のた
   め仮に移設したものです。
   平成10年5月                         練馬区教育委員会

 馬頭観音
 庚申塔の左にある。

   正面
右 豊嶋郡練馬之内海老谷戸村
   正面左 
安永七戌年霜月□~□
   向右面 
右ハ中村南蔵院道
   向左面 
左ハぞうしかや道

   
海老谷戸の馬頭観音道しるべ
   この西側一帯古い地名である「海老谷戸」の人々が、安永七年(1778)に安全祈願な
   どのために建てたものです。元はここから南東へ1.3km程の豊島園沿いの道が、二又に
   分かれた道(練馬4‐18の北端)にあり、側面には「右ハ中村南蔵院道」「左ハざうし
   かや道」と記され、道しるべになっていました。
   平成18年3月                         練馬区教育委員会
 
 


ふじ大山道

 春日町4丁目16番21号の愛染院の参道口の門柱脇に道標がある。前の道がふじ大山道だ。

   ふじ大山道
   ふじ大山道は道者街道、富士街道ともよばれています。それは阿夫利山ともいわれた大山
   へ、また大山から富士山への道者が通ったからです。北町1丁目で川越街道から分かれて
   石神井、田無を経て伊勢原(神奈川県)に達していました。練馬の中央部をほぼ東から西
   南に横断して区内では約8kmに及んでいます。そしてその分岐点には、「従是大山道」
   と刻んだ道しるべが建てられたのです。
   旧暦の6月は、俗に祭月とよばれているように、江戸や関東の各地では、祭礼がさかんに
   行われました。阿夫利山も「水の無い月に雨降る山は開き」とあるように、6月28日が
   初山で、それから7月14日まで、連日、関東の村々から集まった人々でにぎわいました。
   その白衣の道者たちが通ったのがこの街道です。
   昭和58年3月                         練馬区教育委員会


練月山観音寺愛染院

 春日町4丁目17番1号にある真言宗豊山派の寺。豊島88ヶ所の26番。開山・開基は能円房尊
岳で、永享五年(1433)または同九年(1437)と古く、最初は尾崎の地(春日小学校付近)
に創建され、寛永年間(1924~44)に中興尊智によって現在地に移されたという。『新編武蔵
国風土記稿』に、

   愛染院 新義真言宗。京都御室仁和寺末。練月山観音寺ト号ス。本尊愛染ヲ安ス。中興
   尊智。正保三年三月二十日寂ス。寺領十二石一斗ノ御朱印ハ、慶安二年十一月十七日賜
   レリ


 と記してある。この朱印状は3代将軍家光の時のもので、以後歴代の朱印状が寺宝として保存され
ている。朱印状は明治になって薩長政府に没収されて焼却処分されたのが普通で、良くぞ残っていた
と思う。大概の寺ではないはハズなのだ。
 本尊は愛染明王。昭和55年に本堂、大師堂、表書院、鐘楼、稲荷社、山門を完成したとあるが、
古いものもあるので改修したものもありそう。広い境内で、本堂の周囲はすべて墓所だ。墓地の真中
に大師堂があり、歴史を思わせるようなお堂だ。入口には大きな石柱があり、表示板によると、寺の
前の道路は「ふじ大山道」といい、川越街道を北町1丁目まで来ると、そこで分岐して石神井田無を
経て伊勢原に向かう大山道へとつながる歴史的な道だった。本尊は珍しく単独の愛染明王。これは秘
仏で開帳もない。寛永年間(1624~43)には大伽藍を建造し、その威容を誇っていたという。
寛政年間(789~1801)火災により、現存の山門を残して建物は全て焼失してしまったとか。
その後は衰微し、明治の廃仏毀釈では末寺の成就院(向山)・高松寺(高松)・養福寺(上田柄)・
泉蔵院(中田柄)を併合した。昭和3年に本堂などが再建された。境内に西山稲荷祠、元文四年(1
739)銘の六地蔵や、天保八年1837)銘の弘法大師一千年供養塔、高松寺合併について記す
明治25年の宝篋印塔などの石像物がある。なお練馬区「ねりまの散歩道」では、弘法大師銘を天保
二年(1831)としている。しかし弘法大師の入定は承和二年(835)三月二十一日なので一千
年忌は天保六年に当たる。墓地には名主長谷川家の五輪塔の墓石もある。
 区の説明板は以下の通り。

   愛染院
   愛染院は、練月山愛染院観音寺といい、真言宗豊山派(豊島八十八ヶ所第26番札所)の
   寺院で、本尊は愛染明王です。
   縁起によると永享九年(1473)能円房尊岳が尾崎の地(現在の春日小学校付近)に開
   いた寺で、寛永年間(1624~1644)に権大僧都尊智によって現在地に移され、中
   興したといわれます。
   江戸時代には12石余の朱印地がありました。慶安二年(1649)の徳川家光朱印状を
   はじめとして、徳川将軍家が愛染院の寺領と同寺管理の若宮八幡(現八幡神社・高松)の
   社領8石を安堵した朱印状が残されています。
   また寛政年間(1789~1801)の火災により、元禄十年(1697)の山門と元禄
   十四年(1701)の梵鐘を残して建造物はことごとく焼失したといいます。
   明治の廃仏棄釈の際、末寺の成就院(向山)・高松寺(高松)・養福寺・泉蔵院(田柄)
   の4ヶ寺を当寺に合併しました。境内には、高松寺合併について記した明治25年の宝篋
   院塔があります。この他、弘法大師座像(木像)などの仏像が所蔵されており、境内には
   西山稲荷祠や六地蔵(元文四年〔1739〕)をはじめ弘法大師一千年供養塔、敷石供養
   碑など数多くの石造物があります。
   昭和55年11月、3年の歳月を費やし本堂・大師堂・表書院・鐘楼・稲荷社・山門など
   諸堂伽藍が完成し、入仏落慶法要が盛大に挙行されました。
   ◆練馬区指定・登録有形文化財
   「愛染院の梵鐘」平成18年年2月登録
   「愛染院文書」平成20年1月登録 平成22年1月指定
   平成22年3月                         練馬区教育委員会


 
愛染院文書
 徳川将軍家愛染院に発給した朱印状など合計67点の文書群だ。朱印状は、愛染院(新義真言宗
仁和寺末、真福寺触下)の寺領12石1斗と同寺が管理していた若宮八幡(高松八幡神社 高松1丁
目16番)の社領8石を将軍家が安堵したものだ。
 慶安二年(1649)の徳川家光朱印状をはじめ
貞享二年(1685)綱吉、享保年(171
8)
吉宗、延享四年(1747)家重、宝暦十二年(1762)家治天明八年(1788)家斉
天保十年(1839)家慶
安政二年(1855)家定万延元年(1860)家茂の朱印状9点が
一括されて漆塗りの御朱印箱に納められている。これはとっても珍しいことで、というのは明治維新
の時、明治政府は徳川幕府が発行したものは総て取り上げたはずなのだ。当時の住職が言葉巧みにご
まかして隠し持っていたのだろう。
 また、天保九年(1836)「御朱印御改ニ付諸事留記(ごしゅいんおんあらためにつきしょじと
めき)」など朱印状が下賜される際の手続きに関わる文書55点が残る。その他、天保五年(183
4)に智積院・小池坊愛染院常法談所であることを許可した免状など3点の文書が伝わる。
 徳川将軍家の寺社領安堵の朱印状とその関係文書などがまとまって残る文書群だ。


 
梵鐘
 高さ134cm、口径77cm。上部の周囲に庇状の突起、下部には唐草文様、蓮華座と光明真言
などの月輪が鋳出されている。江戸時代の元禄十四年(1701)に木村将監安継により造られたこ
とが記されており、区内では古い梵鐘の一つだ。
 
艶(あで)やかで美しい切妻の鐘楼は、昭和27~8年のものだ。この頃沢山の練馬大根がモザイ
ク病に罹ってしまい、農家の人たちがとても困っていた。そこで、住職をはじめ寺を支える人たちが
300年の大根栽培供養のために、鐘楼の土台となる基壇を、働く人の汗がしみた、沢庵漬けの重石
で築くことにした。地元の春日町をはじめ、向山、田柄、貫井地区の農家が、1軒につき3個ほどの
沢庵石を持ち寄ったところ、大小500個余の丸石が集まった。その石を、高さ約3m四方に積みあ
げて基壇にしたものが今も残っている。西側の壁には銘文がはめこまれている。

   練馬区登録有形文化財
   愛染院の梵鐘                     平成18年2月登録
   元禄十四年(1710)銘、作者は木村将監安継です。区内では古い部類の梵鐘です。 
   平成18年3月                         練馬区教育委員会


 
花の寺
 境内にはハナモクレン・ツバキ・サクラ・ボタン・フジなどが植えられており、手入れの行き届い
た庭園となっている。本堂前には、赤とピンクの花をつけるツバキが寄り添って植えられていて、3
月から4月ににかけて艶(あで)やかに咲くのが目を引く。 その傍には「名木100選」に選ばれ
ている白ワビスケがある。樹高が6mもあって、緑の葉の中に沢山の愛らしい花をつける姿が印象的
だ。この周辺にはハナモクレンもあって3月下旬には純白の花が咲く光景はまぶしい。境内は静寂に
包まれ、実に雰囲気のよい花の寺だ。

 庚申塔 ◇
 愛染院の南西角の外側、三叉路に面してある。石造唐破風笠付角柱型。日月・青面金剛像・邪鬼・
三猿・蓮華。
「享保十六年辛亥天十一月朔日」(1731)、「奉造立庚申供養二世安楽所」「武州
豊嶋郡上練馬邑中宮村」

 六十六部供養塔、山門(元禄十年)、鐘楼(元禄十年)、延命地蔵(元禄十年・天保八年・安永二
年・昭和49年)、六地蔵(宝暦十一年)、六地蔵(元文4年)、念仏地蔵4体(享保十七年)、
師堂、九重石塔、
宝篋印塔(昭和3年再建)、観音石像、板碑、馬頭観音(大正5年)、墓地入口地
蔵2体。 
 


■こんにちは公園

 
春日町4丁目21番23号にある区立公園。


臥龍山
南松寺
 
 春日町4丁目25番13号にある浄土真宗高田派の寺。境内には種々な石碑があり、まるで古刹の
ようだ。参道は左にカーブしてから東に進み北に折れる。正面に左客殿、右本堂と並ぶ。墓地は参道
の右手にある。「御府内寺社備考」の唯念寺の項に、

   南松寺。
   開基光沢院宗雲法印。寛永二年七月二十九日寂。
   本尊立像阿弥陀如来。
   祖師親鸞上人画像。
   聖徳皇太子画像。


 とある。寺のHPに沿革が記してあるので掲載する。

   南松寺の沿革 ~14代住職の話~
   江戸時代の初め元和年間(1615~23)に房総の守・里見家の臣森氏作内義政の八男
   であった法名光澤院釈紫廓宗霊法師が下谷沼(姫ヶ池?)付近に「松寿庵」を開創しまし
   た。その後、明暦三年や安政二年の江戸大火を始め、幾度かの被災を経て、浅草区南松山
   町辺りに現寺の礎を築いたことが、寺名の謂れかと推測できます。そして江戸の大刹であ
   る唯念寺の塔頭として歴代住職が護寺に勤め、中興第九世遠慶院釋頓融淳實法師の時、寺
   院の形体も整い、【臥龍山南松寺】と称しました。

   しかし大正12年9月1日の関東大震災で、一帯は火の海となり、当時の住職第十二世範
   壽が辛うじて本尊と過去帳および数点の備品を運び出したのみで、多くは灰燼に帰しまし
   た。その後庫裏と仮本堂を建築するも、震災後の区画整理に協力し、昭和3年に練馬の現
   在地へと移転いたしました。この地に再び仮本堂と庫裏を建て、当時の筆頭総代により、
   多くの庭石や池をめぐらした庭作りが進められました。
   残念ながらその後の戦災の混乱により、当寺建設された池は存在しておりませんが、その
   畔に配されていました石造りの多層塔や庭石の一部は昔のままの姿を留めており、当寺の
   良きシンボルとなっております。
   時が経ち、第十四代になり現本堂の建立を行いました。続いて客殿庫裏が筆頭総代を始め
   多くの檀信徒のご協力を頂き、平成元年に竣工し現在に至ります。
   今日までの南松寺の歴史に思いを馳せると共に、歴代総代を始め、檀信徒の皆様のご尽力
   に深く感謝いたします。                           合掌


 文中「房総の守」は「安房守」の意か、「房総の守護」の意か不明。房総を千葉県全域と解するな
ら里見家が房総全体を支配したことはない。
 下谷沼については不明だが、姫ヶ池は台東区入谷・下谷にあった池、徳川家康の江戸お討ち入り後
間もなく埋め立てられ、宅地や水田となった。規模は判らない。
 「明暦三年や安政二年」は幕初と幕末、被災したことは解るが、幕末以前に寺は存在したろうから
文自体が間違っている。また安政二年は大火というよりは大地震だ。
 「勤め」は「努め」の誤記。「形体」は「体裁」か?


■けやき児童遊公園

 
春日町4丁目26番14号にある区立公園。


■なんじゃもんじゃ緑地

 
春日町4丁目26番29号にある区立公園。


■練馬高等学校

 
春日町4丁目28番25号にある都立校。昭和38年12月28日東京都教育委員会規則第20号
により設立許可。同39年練馬区貫井3-45-19都立の第四商業高等学校内に「東京都立練馬高
等学校」として開校。6学級編成。同41年現在地に校舎落成して移転。同43年8学級編成。同4
4年普通教室6室増築・体育館完成。同45年プール竣工。同48年創立10周年記念式典・講演会
(お茶の水女子大学教授外山滋比古)。同53年度新1年生より制服着用。同56年臨時学級増によ
り9学級となる。同58年創立20周年記念誌発行。同59年創立20周年式典。同63年校舎改築
着工。
 平成2年校舎落成引越。同4年創立30周年・校舎落成記念式典。同7年新入生から推薦入学導入
・6学級編成。同16年創立40周年記念式典・記念誌発行。

  1.朝なり 直射
(たださ)す光に
    校塔は輝き 若き声上がる
    理想に生くる者
    みな聡し 吾等が百千
(ももち)の瞳
    彼の空に富士は招く
    幸
(さきわ)は 夙
(つと)に満ちたり
    吾等練馬 練馬高等学校
  2.
開けよ この窓この胸
    学統を守りて清き血は弾む
    使命を担う者
    みな正し吾等が和める息吹
    地
(つち)広く靄は青む
    新人は強く豊けし
    吾等練馬 練馬高等学校

  3.明るし 三年
(みとせ)の春秋(はるあき)
    良き友と諸共 溌剌と鍛ふ
    久遠を思う者
    みな美
(くは)し吾等が世紀の歩み
    この道に風は薫る
    栄光は既に至れり
    吾等練馬 練馬高等学校
 


■春日憩いの森

 
春日町5丁目11番にある区立公園。


■春日小学校

 春日町5丁目12番1号(グラウンドと体育館は11番)にある区立小学校。昭和53年仮称「春
日小学校」建設用地買収。同54年尾崎遺跡発掘調査。同55年建設着工。同56年校名「東京都練
馬区立春日小学校」決定。同57年練馬小より192名、向山小から128名、高松小より46名が
移籍して開校。台風18号来襲石神井川氾濫、学区内に床上浸水被害。校章制定(出口光男考案)、校
旗樹立。開校記念式典・校歌制定。遊具施設設置。
 同58年理化学習園設置。郷土資料室開室。同59年藤棚設置。校庭整備・スプリンクラー設置。
遊具施設新設。同62年陶芸小屋設置。体育館バスケットゴール設置。同63年緑化整備「春日の流
れ」。
 平成元年石神井川氾濫。向山地区浸水。校舎南側壁面に校章取付。同2年屋上プール防風網取付。
同3年創立10周年記念バザール。同4年創立10周年記念式典。同6年校庭整備。9年水車小屋設
置(中舘久寄贈)。同11年りんご畑鳥避けネット完成。北校舎非常階段設備。南校舎改修。同12
年コンピュータルーム開設。同13年創立20周年記念バザール。同14年おやじの会発足。保護者
の会をPTAに組織変更。開校20周年記念式典。同15年第二(南)校庭は区内で初めての「自然
芝」の校庭になった。広さは約900㎡ある。その芝生の校庭はまさに緑の絨毯。児童は裸足で跳び
回ったり、寝転んだりと大喜だ。同19年創立25周年記念式典。
 

 
尾崎遺跡(おさきいせき)
 小学校建設のための調査で、旧石器~中近世の複合遺跡があることが判り、昭和54~55年にか
けて本格的発掘調査で、練馬を知るための貴重な資料が得られ、翌年「尾崎遺跡」として東京都の史
跡に指定された。出土品は「春日小学校尾崎遺跡資料展示室」に納められ無料で見学することができ
る。小学校だけに子供の目線で設定されており、解りやすさを追求している。珍品は平安時代の「火
きり臼」だ。無料。

   東京都指定史跡
   
尾崎遺跡               東京都練馬区春日町5丁目3066番地ほか
                       指定 昭 和 5 8 年 5 月 6 日
   練馬区立春日小学校建設に伴う事前調査が昭和54年7月~10月及び55年1月~6月
   の2度に亘って行われ、先土器時代、縄文時代草創期~晩期、弥生時代、古墳時代、奈良
   時代、平安時代及び中世~近世に亘る各時代の遺構、遺物が発掘された。
   先土器、縄文時代が本遺跡の主要な時期であり、特に縄文人が関東平野一帯に広く居住域
   を拡げはじめる頃の撚糸文系遺物を豊富に出土した点において、区部唯一の遺跡といって
   よい。石神井川中流域における先史、古代の研究に重要な役割を果すものと考えられる。
   昭和58年10月1日建設                    東京都教育委員会

   
尾崎遺跡
   本遺跡は春日小学校付近に所在する、旧石器時代から江戸時代までの長い時代にわたる複
   合遺跡です。遺跡名は、この付近の旧上練馬村当時の字名が尾崎であったところから名づ
   けられています。遺跡は武蔵野台地の東北縁近くにあり、標高30m~40mで、石神井川
   北岸に発達した段丘の南斜面から低地にかけて立地しています。春日小学校建設に先立っ
   て昭和54~55年に発掘調査が実施され、石神井川中流域の歴史を明らかにする貴重な
   考古資料が得られました。
   今から12000年以上前の先史時代に属する立川ローム層中から礫群の豊富な石器類、
   同時代の泥炭層から氷河時代の自然環境を推定する手がかりとして■■遺跡が見つかりま
   した。さらに時代が下がって、縄文時代早期の無文・撚糸文・押型文・条痕文などの縄文
   土器や弥生土器、奈良・平安時代の竪穴住居址(3軒)、井戸跡や火きり臼、土師器、須
   恵器、鎌倉~江戸時代の排水路と見られる溝跡、井戸跡、基礎群、ピット(柱穴等)跡群
   や陶磁器、古銭、■■、鉄製品、青銅製品、木製品、自然遺物(貝殻・種子)など各時代
   の遺構、遺物が発見されています。
   現在、遺跡の内、台地部は校舎北側の校庭下にそのまま保存され、都の指定史跡となって
   います。主な発掘出土品は学校内の資料展示室に保管されています・
   昭和58年3月                         練馬区教育委員会

   尾崎遺跡(昭和58年度 都指定遺跡)
   上記と同文
   ○尾崎遺跡出土品(平成4年度 練馬区指定文化財)
   平成21年3月                         練馬区教育委員会
 


■春日ぐみのみ児童遊園

 
春日町5丁目20番1号にある区立公園。


■庚申塔 ✓

 
春日町5丁目21番 


■春日西公園

 
春日町5丁目21番17号にある区立公園。


■相原正太郎家住宅

 
春日町5丁目24番18号にある。幕末期の商家住宅。農村における商家住宅のあり方を示すもの
だ。東の道路側は三和土(たたき=土間)で「みせ」を配し、西側は床上部となっている。茅葺屋根
だったが、もう建て直しちゃったかなぁ。写真撮るなら急いだがいいよ。グーグル写真によると、屋
根は銅板か鉄板葺きとなり、戸はサッシ戸になってる。密接した隣家が相原屋本店なので店舗はこち
らに移してあるようだ。


■春日町図書館

 春日町5丁目31番2号にある区立図書館。


■春五やまもも緑地

 
春日町5丁目33番11号にある区立公園。


■耳塚(
圓淨法師塚)
 春日町5丁目35番5号の、今はマンションに建て替えてしまった旧家鹿島家の南にある起伏のな
い土地に築かれた、径約10m、高さ約1.5mの円墳状を呈する塚だ。 所在地はかつて上練馬村中
ノ宮と高松の境であり、辻だった。西側の道路により裾の一部が削平されてしまった。頂上に小祠が
あり、内には板石の碑が建っている。正面に「圓淨法師位」、裏面に8人の建碑の発起人氏名と「明
治四十四年(1911)四月建之」の陰刻がある。道路に面した西側には大谷石を配した階段が造ら
れている。
 耳塚は、むかしこの辺りに信仰心の篤い老婆がいた。老婆は生きているのが嫌になり、村人に頼ん
で棺桶に入れて埋めて貰い、鉦を叩きながら往生した入定塚だという。それから少くして不思議なこ
とに竹筒に耳を当てたり、花立に溜まった水で耳を洗うと耳の病気がよくなった。このことが近在に
知れ渡り、多くの人がお参りするようになったとか。塚の上に祠が祀ってあり、花が飾られていた。
 比較的大きな近世、近代の埋葬遺構としての高塚であり、形式がほぼ完全に残っているものでは区
内唯一のものだ。

   圓浄法師塚(耳塚)
   この塚は耳塚と呼ばれ、次のような伝説が伝わっています。むかし上練馬村字仲の宮(春
   日町5丁目)に信仰心のあつい老婆がいました。老婆は生きて行くのが嫌になり、村人た
   ちに頼んで桶に入れて埋めてもらい、鉦を叩きながら往生しました。それから暫くして、
   不思議なことに耳の悪い人が竹筒に耳をあてたり、花立てに溜まった水で耳を洗うと耳の
   病気がよくなりました。このことが近在に知れ渡り、多くの人がお参りするようになりま
   した。
   現在は「円浄法師之位」と記した明治44年の石碑が建っています。
   平成9年7月                          練馬区教育委員会
  


■春日町かしのき緑地

 
春日町5丁目35番5号にある区立公園。


■東京法務局練馬出張所

 春日町5丁目35番33号にある。


■大成神社

 
春日町6丁目3番3号富士街道に面してあるが、とても神社とは思えない建物、洒落たイタリアン
レストランみたいだ。民家をそのまま利用したものなのだろう。案内板がなかったら誰も判らない。
 右の案内板に、

   
大成神社練馬春日町御社殿

 と筆書きしてある。隣の案内板に由緒書の紙が貼ってある。

   大成神社縁起
   御祭神 大国主大御神
   御祭日 5月28日
   月次祭 毎月28日
   縁 起 平素信仰する守護神であります。
       大国主大御神が平成15年5月28日突然ご降臨になって神通力を賜りました。
       併せて当地にご神殿を造営して苦しむ者を救えとの御託宣を戴きました。
       大御神様のご熱愛を■じた教義を広め、皆様が日々の生活の中で遭遇する精神的
       な悩み、身体的な悩み、経済的な悩み等を大御神様にお伺いし助言を戴き、その
       悩みを解消することをするお社です。              社主 天光
   伝 承 
   御神徳 家内安全・良縁成就・子宝授与・商売繁昌・事業繁栄・学業成就
       病気平癒・厄災除難・合格祈願


■すずしろ西公園

 
春日町6丁目3番14号にある区立公園。


■新場憩いの森

 
春日町6丁目9番にある区立公園。


■新場の森公園

 
春日町6丁目9番24号にある区立公園。


■練馬小学校

 
春日町6丁目11番36号にある区立校。明治10年5月上練馬村2294番地増田藤助所有の倉
庫を借用して「東京府豊島郡上練馬村練馬尋常小学校」として開校。同22年校舎を建て移転(位置
不明)。校庭478坪(1577㎡)・児童数170名。同33年校舎増築・児童数313名。同3
8年校章制定。児童数504名。

 校歌「
この道は」 作詞・稲森禎蔵  作曲・青山靖次
  1.この道は富士へ行く道
    行き交いて
    踏み重ねたる足跡よ
    ああ あずま人
    剛健と誠を今に
    世紀吾等
  2.この野辺は富士高き野辺
    朝な夕な
    振り仰ぎ見る眼差しよ
    ああ ふみてらす
    清明と練馬を此処に
    世紀吾等


 大正11年校舎改築。校地拡張1837坪(6062㎡)。
 昭和6年旧校舎改築。校地拡張2018坪(6659㎡)。分教場設置。昭和7年周辺郡部が東京
市に併呑され「東京府東京市練馬尋常小学校」と改称。同16年勅令148号国民学校令により「東
京府東京市練馬国民学校」と改称。同18年都制施行により「東京都練馬国民学校」と改称。分教場
を「東京都練馬第二国民学校」として分校。
 同22年4月アメリカの強制による学校教育法施行により「東京都板橋区立練馬小学校」と改称。
8月練馬区の成立により「東京都練馬区立練馬小学校」と改称。同29年講堂完成。同30年田柄分
校設置。同32年田柄分校を田柄小学校として分離。同35年春日町分校設置。同36年春日町分校
を練馬東小学校として分離。
 同38年現在地に校舎落成して移転。同39年校舎増築。体育館完成。同40年創立88周年記念
式典。同43年高松小学校新設に伴い児童325名移籍。プール完成。同45年田柄第二小学校新設
に伴い243名移籍。同47年児童会交通事故防止協力により警視総監賞受賞。同52年創立100
周年記念式典。同58年視聴覚室、第二音楽室、保健室改修。同60年校舎耐震化。図書館開放化改
築。体育館改築。同62年創立110周年記念式典。同63年アスベスト撤去。
 平成元年校舎窓枠アルミサッシ化。陶芸小屋・窯設置。同2年校地拡張1337㎡(405坪)。
同4年給食室全面改修。同3年理科室前面改修。ガス暖房設置。同5年ゆとり教室改修(和室・ラン
チルーム・視聴覚室・多目的室)。プール飛込台撤去。同9年創立120周年記念式典。同11年コ
ンピュータルーム開設。同13年コンピュータルームにエアコン設置。同16年音楽室防音扉取付。
同19年創立130周年記念式典。同20年二学期制に移行。普通教室にエアコン設置。教職員全員
にパソコン配置。同21年校庭一部芝生化。緑のカーテン設置。百葉箱設置。
 


■円明地蔵尊 ◇
 春日町6丁目12番2号、立松家の角、富士街道に面して北側の信号から3軒目の民家の右側にあ
る。安永三年(1774)造立の石造半円型浮彫延命地蔵尊立像。
 


■中ノ宮竹林憩いの森
 春日町6丁目13番にある区立公園。 


■中ノ宮竹林公園

 
春日町6丁目13番28号にある区立公園
 


【上石神井】(かみしゃくじい)1~4丁目              昭和60年6月1日
 上石神井村。明治11年「郡区町村編制法」により北豊島郡に所属、同22年「市制町村制」に
より石神井村大字上石神井となる。昭和7年北豊島郡が東京市に編入され板橋区上石神井1~2丁
目。同22年板橋区から分離した練馬区に所属。同45年新住居表示により2丁目のほぼ全部を石
神井台1~8丁目、1丁目野ほぼ全部を上石神井1~2丁目とし、同53年残り部分を関町に分与
した。同60年上石神井1~2丁目のほぼ大部分に下石神井1丁目・関町1~2丁目の各ごく一部
をあわせた町域を1~4丁目に再編し現行の「上石神井」とし、境界整理で千川通り以南を上石神
井南町・関町東に譲った。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『練馬区史』『練馬の歴史』など。

 上石神井の由来
 「上」は京都に近い方ということだが、明治以後は東京が首都のようになって逆転、江戸時代は
上洛といえば京都に行くことだったが、現在は上京といえば東京に行くことだ。しかし法律上「遷
都」は行われていないから、上京というのは間違いだ。町内に西武線の上石神井駅がある。ほかに
は上智大学神学部ぐらいで何もない住宅地。また早稲田学院のところは字を〝愛宕〟といったが、
太田道灌が豊島氏を攻めたとき布陣した愛宕山と伝わる。
 石神井の由来は、【石神井町】に記載してある。


   『ねりま区報』 昭和60年5月21日号掲載
   上、下石神井村は元は1つであった。『小田原衆所領役帳』に「太田新六郎知行十七貫
   五百文江戸石神井」とある。新六郎は太田資高の子で、母は北條氏綱の娘、当時江戸随
   一の在地土豪であった。永禄六年(1563)北條氏康に反抗したが安房に敗走した。
   『新編武蔵風土記稿』には、その時この辺りは闘いの衢(ちまた)となり、田畑、屋敷
   は荒廃した。のち徳川家康が江戸入りしたころ、高橋、尾崎、田中、桜井、本橋などと
   いう人たちが開墾したという。
    明治22年町村制施行で石神井村大字上石神井となり、昭和7年、板橋区成立の時、
   上石神井1、2丁目となった。2丁目は石神井川の北、今の石神井台である。1丁目は
   昔のままの上石神井の地名で、昭和60年6月1日に住居表示が実施され、1~4丁目
   の新しい街区ができた。
    石神井川を北に臨む早稲田高等学院(上石神井3丁目31番)は、文明九年(147
   7)大田道灌が石神井城を攻めたとき布陣した愛宕山である。愛宕橋の愛宕はその名残
   り。智福寺(石神井台4丁目9番)は、昭和40年港区芝田町から現在地に移った。境
   内に江戸時代から有名な塩を上げて願いごとを叶えて貰う「塩上地蔵」が祀られている。


■上石神井駅

 上石神井1丁目2番にある西武新宿線の停車場。昭和2年4月16日西武村山線(西武新宿線の前
身)高田馬場(仮)~東村山間の開業と同時にできた駅。
 ホームは、地上島式2面3線構造。真ん中の線路には両側にホームがあり、特急・急行・準急列車
を待避する各駅停車が使用する。ホームと改札階を結ぶエレベーターは設置済み。
 改札口は橋上駅舎内に1カ所。出口は北口と南口の2カ所がある。双方の出口にエレベーターが設置
されている。
 上石神井駅は、鷺ノ宮駅を出た急行・準急列車が次に停車する駅。下りの準急はここから先各駅停
車となる。駅の上井草寄りには上石神井車両管理所があり、上石神井を始発・終着とする列車も一部
にある。西武池袋線の石神井公園駅とは、直線距離でも約2Km離れている。


■丘野橋庚申堂 ◇

 上石神井1丁目3番の高橋千川駐車場の南西角、千川通りに面してある。板状駒型。日月・青面金
剛像・三猿。
向かって右面に「奉造立南無帝釈天王」「上石神井村」、左面に「宝永第二乙酉天十月
吉日」(1705)と刻む。
 


■上石神井駅前児童遊園

 上石神井1丁目5番2号にある区立公園。


■上石千川児童遊園

 上石神井1丁目8番3号にある区立公園。


■立野橋庚申堂 ◇

 上石神井1丁目11番3号、立野橋交差点、中川薬局の角地にある。かつて千川上水に架かってい
た立野橋は、現在、千川り上石神井駅へ通じるバスりが交差する交差点の標識に名をめている
のみ。この交差点の東北角に堂が建ち、宝永元年(1704)造の「庚申塔」。総高120cmと、
天保十三年(1842)造の「出羽三山大権現百八十八ヶ寺観音供養塔」。総高149cmが安置さ
れている。

   千川上水
   千川上水は、本郷、下谷、浅草方面の飲料水として元禄九年(1696)に玉川上水から
   分水された水路です。
   設計者は川村瑞賢と伝えられ、徳兵衛・太兵衛の両人が工事を請負ました。上保谷村(西
   東京市)の分水口から巣鴨村(現豊島区)までの22kmは素掘りで、その先は地中に木
   樋(木製の管)を埋めるという大工事でした。費用は幕府の支出を大幅に上回る総額13
   40両余でしたが、差額の480両を私費で賄った徳兵衛と太兵衛はその功により、千川
   の姓と帯刀を許され、子孫は代々千川取締役をつとめました。
   宝永四年(1707)には、請願により上水沿い20ヶ村に農業用水としての利用が許さ
   れました。千川から水を引いた水田面積は100町歩余になりました。
   近代以降は、印刷局や王子製紙などで工業用水として大量に使われたほか、飲料水や消火
   用水、六義園の地水などにも使用されました。現在この附近は、川辺の桜並木もなくなり
   水路は暗渠となっています。
   
上石神井立野の庚申塔
   
出羽三山大権現百八十八ヶ寺観音供養塔
   祠内の左側にある庚申塔は、宝永元年(1704)にら上石神井立野村の人びとにより建
   てられ、正面には青面金剛立像と三猿像が浮彫りされています。かつて多く見られた旧道
   の辻に所在する庚申塔の姿を残しています。
   右側の供養塔は、天保十三年(1842)に建てられ、出羽三山(湯殿山・月山・羽黒山)
   と四国・西国・坂東・秩父百八十八ヶ所観音の文字が刻まれています。
   ○練馬区登録有形民俗文化財 平成24年1月登録
   平成25年3月                         練馬区教育委員会

 庚申塔
 板状駒型。日月・青面金剛像・三猿。
向かって右側「奉造立庚申供養尊像一基願望成就所」、左側
「宝永元甲申十一月廿四日」(1704)と刻む。


■平成公園

 上石神井1丁目32番33号にある区立公園。


■上石神井体育館

 上石神井町1丁目32番37号にある。上石神井体育館は地域のスポーツ活動の一層の振興を目指
し、区内で3番目の区立体育館として平成3年1月にオープンした地上1階地下2階の建物だ。温水
プールを併設した体育館で、1年中を通して水泳が楽しめます。またトレーニング室には、エアロバ
イク、コンビネーションマシンなど最新のトレーニング機器が充実しており、健康・体力作りに多く
の人たちが利用している。

 (よう)
 分部順治作の裸婦像。173cm。平成2年12月7日設置。
 


■井草高等学校

 上石神井2丁目2番43号にある都立校。昭和16年東京府立第18高等女学校として、中野区鷺
宮5丁目382番地に開校。同17年「東京府立井草高等女学校」と改称。同18年板橋区上石神井
1丁目40番地の現在地に移転。同18年都制施行により「東京都立井草高等女学校」と改称。

 校歌「
堤の櫻」 作詞:土岐善麿  作曲:山田耕筰
  1.堤の櫻 花咲き匂ひ
    野辺の空 澄みて高し
    ああ井草 井草の春秋
    正しき道を踏み締めて
    育まん我ら乙女の力
  2.欅の緑 風吹き匂い
    富士の影 常に清し
    あゝ井草 井草の朝夕
    御国の栄え実に帯びて
    勤しまん我を皆の務めを


 同23年学制改革により「東京都立井草新制高等学校」設置(全日制1学年5学級、定時制1学年
1学級)。同25年「東京都立井草高等学校」と改称。男女共学となる。同30年第1学年を6学級
とし男女同数とする。同34年第1学年を7学級とする。同35年校旗制定。同38年第1学年を1
0学級とする。同39年第1学年を9学級とする。同42年入学選抜制度の改革により第34群(井
草・石神井・大泉)に所属。同57年入学選抜制度の再改革により、32グループに所属。
 平成3年創立50周年記念式典。同4年第1学年を8学級とする。同6年入学選抜制度の失敗によ
り単独選抜制に戻す。同7年推薦入学制度を導入。平成8年第1学年を7学級とする。同14年学校
完全5日制に移行。同18年第1学年を6学級とする。

 校歌「
花びら影深く」 作詞・土岐善麿  作曲・芥川也寸志
  1.花びら影深く 八重桜咲き渡り
    春また夏へ
    照りそう躑躅
(つつじ)の色鮮やか
    希望豊かに
    常に友よ 胸を開けば
    親愛和気溢れ 礼譲吾等楽し
  2.公孫樹は黄葉
(もみじ)して風清く翻り
    秋また冬へ
    遠富士 彩雲 雪輝き
    前途明るく
    常に友よ 誓い重ねて
    踏み行く自主の道 協同吾等楽し
     ああ井草 吾等此処に
     世界の前に
     吾等あり 吾等あり 井草高校


■きりのき街かどの森

 上石神井2丁目8番にある区立公園。


■観音山憩いの森

 上石神井2丁目10番にある区立公園。


■上石神井東公園

 上石神井2丁目16番27号にある区立公園。


■地蔵

 上石神井3丁目6番1号の駐車場の角地にある。交通事故でもあったか、畑の野仏だったか? 


■上石神井児童遊園

 上石神井3丁目7番2号にある区立公園。


■稲荷社

 上石神井3丁目11番9号にある小祠だが、赤い鳥居が見えるので稲荷だろう。木々に囲まれた中
にあったが、木々が伐採されてしまって、剥き出しとなり、それはそれは憐れな姿を曝す。


■上石もくれん児童遊園

 上石神井3丁目16番16号にある区立公園。


■さくらの辻公園

 上石神井3丁目19番10号にある区立公園。


■屋敷稲荷

 上石神井3丁目30番8号高橋宅にある小祠。


■早稲田大学高等学院

 上石神井3丁目31番1号にある私立校。校歌は「都の西北」。

 
  早稲田大学高等学院が「学院」の名をもって呼ばれることは,すでに久しい。それは19
   20(大正9)年4月旧制度の高等予科を廃して,当時の高等学校令に基づき、新たに早
   稲田大学附属早稲田高等学院が発足したことに始まる。校舎は大学にほど近い穴八幡の下
   現在記念会堂が建っているところだった。はじめ3年修業制の第一部と2年制の第二部と
   が併立されていたが、1922(大正11)年からそれぞれ第一高等学院・第二高等学院
   として独立し、第二高等学院は大学構内の新設校舎に移された。卒業生は早稲田大学各学
   部へ進学し、一種の学院気質というべきものが早稲田の空気に深く影響するところがあっ
   たことは見逃せない。そしてそれが学院の伝統ともなっていった。
    終戦は、早稲田大学にも未だ嘗てない全面的な学制の改革をもたらした。1949(昭
   和24)年4月旧第一高等学院(新宿区戸山町)を土台に、新制高等学校としての、早稲
   田大学附属早稲田高等学院が新発足したことも、その現れの1つに外ならない。高等学院
   の卒業生がみな早稲田大学へ進学するということは、また同時に早稲田大学の中核体たる
   べき責任が継承されたことでもあった。同年4月23日大隈講堂において行われた第1回
   入学式で、竹野長次学院長は次のような式辞を述べている。

    「本学院は,早稲田大学の建学の精神に基づき、中学校における教育を基礎として、
    高等普通教育の完成を果たすことを目的とするものであるが、学部への進学を目指す
    諸君は、飽くまでも早稲田大学の中核体たる人物となるべく努力してもらいたい。そ
    のためには勉学に励み,生活に密着した学問を心掛け、豊かな人間性を培って欲しい。
    次に諸君は自主性と独創性を涵養し給え。自由の天地は自主性ある人間にのみ開かれ
    る。自らの判断による行動は尊い。記憶だけの知識を排し、実生活や実際的な活動と
    遊離しない学問を修得するように心掛けたい」

   1950(昭和25)年9月に早稲田大学高等学院と名を改め、1956(昭和31)年
   「都の西北」の地を離れて現在の練馬区上石神井に移転した。この地は昔,太田道灌が砦
   とした愛宕城址である。移転以来、早稲田の杜を石神井に再現しようとの念願は、積極的
   な植樹と移植によって学園にふさわしい落ち着いた環境を持つに至った。講堂、体育館、
   図書室、LL教室、コンピュータ教室、理科実験室等も完備。南北両グラウンドを含め、
   約5万㎡の校地を持っている。都心を離れた、郊外の閑静な恵まれた環境である。


海見山無量院智福寺
 上石神井4丁目9番26号にある浄土宗の寺。寛永二年(1625)一空上人が東新橋に開山し、
その後芝田町に移転した。昭和41年7月現在地へ移転してきた。「芝區誌」に、

   智福寺 田町六丁目十六番地
   智恩院の末派に属し、海見山無量院と號する。寛永二年春櫻田元町に草創したが、其後其
   處が御用地となつた爲め、現在の場所に移轉した。開山を一空といふ。寺中に耶蘇舊教徒
   原主水外三十六殉教者の焚死の跡と稱するものがある。


 とあり、「練馬の寺院」に、

   智福寺の寺伝によると、開山の地は、現在の港区東新橋であったがここが幕府入用の地とな
   り、移転の申し入れがあった。そこで寺の総ては、港区芝田町(札の辻)に移転した。こ
   こは前方に品川の海を眺め、後方に小高い丘を背負うという自然景観にも恵まれていた。
   その上、ここは御仕置の地であったので寺に縁もあり、申し分のない場所と選定された。
   ところが明治44年から2回にわたるがけくずれの災害で建物墓地等が土中に埋没する大
   きな災害を受けた。また第二次世界大戦の戦災にも見舞われている。このような自然災害
   をうけやすい立地条件にあった寺を、池田常光住職(16世)の代に、寺の敷地を外部に
   譲り、新たに昭和41年7月、現在地へ寺のすべてを移転した。


 とある。

 三体地蔵
 境内にある。


■上石神井小学校

 上石神井4丁目10番9号にある区立校。昭和29年石神井西小学校から分校し「東京都練馬区立
上石神井小学校」として開校。同32年第二校舎改築。体育館完成。同34年体育館完成。同35年
第三校舎落成。同39年創立10周年記念式典。同45年プール完成。同48年4階建て第二校舎落
成。同49年創立20周年記念式典。同54年校旗樹立。同57年創立30周年記念式典。同63年
開放図書館落成。
 平成2年体育館緞帳取替え。中校舎、南2階校舎木製床の張り替え。同5年全教室FF暖房設置。
同6年体育館外装、和室、家庭科室、第2音楽室改修。同7年創立40周年記念式典。同8年防災井
戸完成。同9年飼育小屋改修。同11年ウサギ小屋改修。同12年コンピュータルーム開設。同13
年コンピュータルームエアコン設置。同14年中庭踏石設置。同16年創立50周年記念式典。同1
7年冷水機設置。校舎配水管全面改修。体育館耐震化。

 校歌「
武蔵野の緑」 作詞・江間章子  作曲・福井文彦
  1.武蔵野の緑を浴びて
    育つ 育つ 上石神井の
    私達 輝く光 希望の光
    明るく元気で 今日も励もう
  2.声を合わせ 手と手と取って
    歌う 歌う 上石神井の
    勇気のある子 親切な子よ
    楽しく皆で 今日も進もう
 


■上石神井ちびっこ児童遊園

 上石神井4丁目11番11号にある区立公園。


■上石神井憩いの森

 上石神井4丁目13番にある区立公園。


■上石神井中学校

 上石神井4丁目15番27号にある区立校。昭和34年石神井西中学校から分校して「東京都練馬
区立上石神井中学校」として開校。校章制定。同37年鉄筋コンクリート造り校舎・体育館落成。校
歌発表。

 校歌「
緑の光」 作詞・土岐善麿  作曲・渡辺浦人
  1.緑の光を映す空の広さよ
    野の草 風薫る 道の長さよ
    山に丘に影動き
    池に川に水響く
    総ては共に力合わせて
    平和と希望の中にあり
  2.誠実 内なるものの外に溢れて
    友情 清らかに変わることなし
    学び 励む 窓の下
    鍛え 競う 庭の上
    集まれ 此処に 各々正しく
    皆健やかに 常にあれ
     新たなる世に立つ吾等ぞ
     見よ 見よ 上石神井中学校


 同44年創立10周年記念式典。同54年創立20周年記念式典。
 平成元年創立30周年記念式典。同10年創立40周年記念式典。同21年情緒障害等通級指導学
級「青空学級」開級。創立50周年記念式典。


■イエズス会神学院イエズス修道院

 上石神井南町4丁目32番11号にある。HPもできないようだし詳細不明。上智大学神学部の図
書館が残っている。上智大学神学部は道路向かい関町東2‐7にあって、現在は東京カトリック神学
院になっている。日本におけるイエズス会はフランシスコ・ザビエルに始まるが、イエズス会は日本
をキリスト教国とし日本侵略を目論んだが、豊臣秀吉や徳川家康のキリシタン禁令、鎖国により挫折
300年を経た幕末に長州藩を唆して明治維新、しかしキリスト教国にすることはできなかった。そ
して日米戦争に導き、終戦後に目的を達しようしたが、日本人は、キリスト教を、宗教というより、
ファッションとして捉え、現在クリスチャンは260万いるといわれるが、その殆どは賛美歌が歌え
るからとか、軽い動機で、「日曜毎に教会に詰める人は少ない」と牧師や神父が嘆いている。日本人
は多神教の神頼みだから、一神教は頼りないのだ。しかも神を信じての他力本願は日本人には似つか
わしくない。
 しかしイエズス会・ユダヤ教・国際資本、人によっては爬虫類的異星人等は、日本完全占領を狙っ
ている。各々方、努々怠りなく。アメリカの属国としてもう半分はやられてるけどな。何せ200兆
円はもう持っていかれて、返してこねえし、アメリカ軍も撤退しねえや。憲法改正・再軍備なんてほ
ざいている奴がいるけど、そんなことを連中が許す訳ねえだろう。
 イエズスは、イエスのロマンス語表現で、イエスのこと。イエスとは「救う者」の意。
 イエズス会はキリスト教世界制覇のために作られた軍事組織。フランシスコ・ザビエルは日本占領
目的で日本にやってきたが、果たせず、追放された。しかしその怨念は倒幕示唆となって長州に資金
援助したが、明治維新となっても日本人は踊らなかった。それで日米戦争に誘い込み、マッカーサー
をしてキリスト教国家にせんとしたが、果たせないままだ。平成23年小学生から英語を教えること
になったが、これが英語の国語化の走りだ。〝日本語を廃して英語を国語に〟という動きは、マッカ
ーサーの目論見だった。日本人が英語で日常生活を送るようになれば、自然クリスチャンが増えると
いう目論見だ。「イエズス会」はイコール「ユダヤ国際資本」で、まあ30年もすれば日本は全く完
璧にユダヤに支配されるだろう。天皇も白人に取って代わられるぜ。
 但し、その目論見にも大いなるネックがある。奴等が今一その気にならないのは、地震と台風だ。
東日本大地震でなおさらビビッてしまった。奴等のせめてもの願いは、日本が復讐にやってこないこ
とだけだ。


■ノートルダム・ド・ヴィ(いのちの聖母会修道院)

 上石神井南町4丁目32番35号にある。この会は昭和4年カルメル会司祭の幼きイエスのマリー
・エウジェンヌ(ウージェーヌ 本名はアンリ・グリアルー)が3人の女性を集めて創立、従来の修
道生活とは一線を画して世間に属しながら、カルメル会の霊性に則した奉献生活を提供した。会名は
南フランスはプロヴァンス地方に位置し、7世紀から巡礼地として栄えた、榎の生い茂る谷間の小さ
なヴナスク村の聖堂に安置されている聖母像に由来する。同23年に認可され、フランスを始め、ヨ
ーロッパ、アジアなどの全世界に広がり、宣教活動に取り組んでいる。
 聖母は、既にノートルダム・ド・ヴィの創立のために場所を備えていた。それは7世紀の昔から巡
礼地として親しまれていた古い聖堂だった。聖母はそこで様々なしるしを通して、自分が真にノート
ルダム・ド・ヴィ、「ノートルダム」は中世の呼び方で聖母マリアを示し、「ヴィ」は「いのち」、
つまり「いのちの聖母」であることを示していた。だからノートルダム・ド・ヴィの真の創立者は聖
母であるともいえる。マリー・エウジェンヌは次のように述べている。

   ここで、聖母マリアはいのちの母です。私たちがいるのは、聖母の家です。マリアはこの
   場所を、自分の豊かな恵みと、力強い実りの力を示すために選ばれました


 マリーはこの生命の聖母に強く心を捉え、聖母は自分を選んで自分の創立の道具とした。マリーは
司牧に携わる中で、カルメル会の教えを喜んで受け入れる多くの人々がいるのに気づき、「祈り」に
よって聖性に至る道はすべての人に開かれているにちがいない。修道院の中ではなく、社会のただ中
でカルメルの教えを生きながら、それを伝える人々がいてもいいはずだ、とマリーは考えた。しかし
その考えは自分のものではなく、神からのものであることをよく承知し、死の7ヶ月前にも再びこう
語った。

   ノートルダム・ド・ヴィを創立したのは聖霊であるということ。聖霊がすべてを行い、す
   べてを開花させ、会をその完成へと導いて下さるということ。それが私の心の奥底にある
   深い確信です
 


【上石神井南町】(かみしゃくじいみなみちょう)          昭和59年6月1日
 下石神井村字原久保。明治11年「郡区町村編制法」により北豊島郡に所属した、同22年「市
制町村制」により石神井村大字下石神井。昭和7年北豊島郡が東京市に編入され板橋区下石神井1
丁目。同22年板橋区から分離した練馬区に所属。同59年新住居表示により千川通り・以南の下
石神井1丁目に、上石神井1丁目・関町1丁目の各ごく一部をあわせた町域を現行の「上石神井南
町」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『練馬区史』『練馬の歴史』など。

 上石神井南町について
 町域が上石神井の南側にあることによるが、上石神井村の村域に属した訳ではない。石神井の由
来については【石神井町】を参照されたい。

   『ねりま区報』 昭和60年6月21日号掲載
    昭和59年6月住居表示の実施で新しく生まれた、区内では栄町に次ぐ2番目に小さ
   い町である。元は下石神井原久保といった。村の南西部にあたり、千川上水の南側へ張
   り出した小字である。昭和7年板橋区編入の時も下石神井1丁目の一部であった。それ
   が上石神井に変わったのである。
   4月21日号(下石神井の説明)で村名の上下は京都の方向が上(かみ)、江戸の方向
   は下(しも)と書いた。2、3人の区民の方から石神井川や、白子川の川上、川下によ
   るのでは、とのご指摘があった。確かに村名以下の小地名では、河川や丘陵の上下で分
   けた例はあるが、公の村名の場合は京中心と見たほうがよい。ここの町名を下石神井か
   ら上石神井へ変更した理由は、西武新宿線上石神井駅の南だからということである。地
   域内には以前の地名、「原久保児童遊園」などの名が残っている。
    町の東端、下石神井4丁目との境に西武線踏切がある。傍らに千川上水の掘り割の跡
   が残っている。「千川上水橋梁」と呼ばれるその鉄橋は、1926年製で、西武鉄道開
   通当初のものである。



■原久保児童遊園

 上石神井南町7番14号にある区立公園。


■下石神井緑地

 上石神井南10番21号にある区立公園。
 


【北町】(きたまち)1~8丁目                    昭和41年6月1日
 下練馬村。練馬村は古くからあった。江戸初期に上下2村に分かれ、明治11年「郡区町村編制
法」により北豊島郡に所属、同22年「市制町村制」により1村で下練馬村となる。昭和3年町制
に移行して練馬町。同7年周辺郡部を東京市に編入し板橋区練馬北町1~3丁目。同22年板橋区
から分離した練馬区に所属。同24年練馬の冠称を取り北町1~3丁目となる。同41年新住居表
示により北町1~3丁目の大部分を再編して1~8丁目に分けて現行の「北町」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『練馬区史』『練馬の歴史』など。

   『ねりま区報』 昭和59年6月11日掲載
   東武東上線・東武練馬駅を南へ出ると、旧川越街道である。既に鎌倉時代から、江戸と
   川越を結ぶ重要な道路であった。江戸時代には、ここに練馬の宿場が置かれ、東から下
   宿・中宿・上宿の名で呼ばれていた。本陣や問屋場の跡はもう尋ぬべくもないが、今も
   残る石観音(北町丁目38番)や浅間神社の佇まいの中に遠い歴史の匂いを感ずる。下
   宿と中宿の中程から富士大山道(富士街道)が分かれる。富士山や大山石尊への参詣道
   である。不動明王を彫った「これより大山道」の道標(北町1丁目25番)が建つ。※
   環状8号線と旧川越街道との立体交差のため、不動明王は所有者の許へ、道標は北町児
   童遊園(北町1丁目38番15号)へ移転していたが、環八通りの完成と共に、ほぼ元
   の位置に戻され、立派な覆屋の中に安置されている。 
   大正3年開通の東上線(現東武東上線)は、17年間練馬を素通りしていた。昭和6年
   漸く東武練馬駅ができると、付近に住宅が増え、商店街が発展してきた。翌7年市郡合
   併で板橋区になった時、旧下練馬村の北の端だということで「練馬北町」と名付けられ
   た。現在の町名は、昭和41年旧町名を踏襲して、住居表示により実施された。
    明治以来練馬の農業を支えてきた田柄用水は暗渠化され、遊歩道となった。信仰の道
   富士大山道は拡幅され、そこには区内初の地下鉄駅ができている。


 北町の由来
 練馬町の北部地域だったことによる。昭和7年の板橋区編入のとき練馬町を北・仲・南に分けた
時の名残り。川越街道下練馬宿の中心地。旧道と新道が走る。4丁目に陸上自衛隊練馬駐屯地があ
り、交通機関は昭和6年にようやく設置された東上線東武練馬駅。南境の富士街道は環八通りが被
ることになっており拡張整備が進んで部分開通している。板橋にかけても工事は進み、旧川越街道
の雰囲気も随分変わってきた。だから北町は川越街道だ!
 



■川越街道

 国道254号線の元になった街道は400年前にできた。日本橋を起点として中山道を進み、板橋
宿平尾で分かれて川越に至る道。その間に「上板橋(板橋区)」→「下練馬(練馬区)」→「白子(
和光市)」→「膝折(朝霞市)」→「大和田(新座市)」→、「大井(大井町)」の順で6ヶ村に宿
場が設置されていた。
 川越藩主の参勤交代のほか、仙波東照宮への参詣や鷹狩りのため、江戸から将軍を始め幕府要人た
ちの通る重要な街道だった。現在はバイパスの敷設で道筋は変わったが、新道は国道254号線とな
り、車の絶えることがない大動脈だ。
 川越街道は、江戸幕府3代将軍家光が仙波東照宮への参詣の折に作られた。江戸時代には「川越往
還」や単に「脇往還」などとも呼ばれていた。脇往還とは本街道に対しての裏街道で、2級国道的な
意味合いがある。遠回りだが急坂がなく女性に優しい街道であることから「姫街道」「女道」などと
も呼ばれた。板橋から川越、熊谷、高崎で、また内山峠を越えて佐久、上田でそれぞれ中山道に合流
した。


■北町一丁目公園

 北町1丁目6番5号にある区立公園。


■棚橋跡

 北町1丁目10番12号と18番5号の西端、環八通り際、田柄川(緑道)に架かっていた。現在
緑道に親柱が2本記念碑として残されている。片方が欠けているのが本物らしい。環八通りを跨ぐ緑
道の歩道橋だけは完成しており、川越街道を越える陸橋を北に下ると、旧川越街道は地下をトンネル
で潜る設計だ。平成18年に開通。
 


■棚橋の安楽子育地蔵尊

 北町1丁目11番15号の追分、棚橋のすぐ南にある。天明四年(1784)内田久右衛門が願主
となって建立した。練馬村には内田姓の旧家は多いので、どこの久右衛門なんだろうか? 直ぐ近く
にも数軒ある。この辺りは環状8号線が通って激変した。
 


■ふじ大山道(富士街道)

 大山街道は下練馬宿で川越街道と分岐して、練馬のほぼ中央を東から南西に走り、田無、府中を経
て相模国(神奈川)に達している。大山は、富士山や筑波山とともに関東の霊場として信仰の対象と
なっていた。この大山詣の人々の中には、さらに足を延ばして富士詣を兼ねるものも多いため、別名
富士街道ともいわれ、現在は正式名称となっている。約1200年前から当時の武蔵国府(府中市)に
通ずる道として開かれ、練馬区で最も古い街道といわれている。このルートはほぼ直線の区間が多い
ので「棒道」と呼ばれ、一種の軍事道路であったと考えられる。
 


■北町小学校

 北町1丁目14番11号にある区立校。沿革不明。

 校歌「
清い光の朝空に」 作詞・勝承夫  作曲・平井康三郎
  1.清い光の朝空に
    巣立つ元気な青い鳥小鳥
    吾等は希望の胸を張り
    仲良く励む北町の
    楽しい子供 果てなく進む
  2.日毎伸び行く東京の
    町に羽ばたく強い鳥小鳥
    吾等は夢見る遣り遂げる
    進取の気風 北町の
    歴史を築く明るい力
  3.若い翼で風を切り
    明日の日本を背負う鳥小鳥
    吾等はこの肩 組み合わせ
    受け継ぐ平和 北町の
    楽しい子供 練馬の誇り


■徳川綱吉御殿跡之碑
 北町1丁目14番11号の北町小学校の北西角にある。徳川幕府開幕400年を記念して平成15
年11月16日区によって建てられた。銭型で真ん中の四角い部分に碑文が書かれている。

   この付近一帯はかつて『御殿』と呼ばれた土地であった。
   後に江戸幕府第五代将軍となる徳川綱吉が寛文年間(十七世紀後半)にこの地を『鷹場』
   とし、宿泊所と『鷹場御殿』を建てたことに由来する。
   江戸幕府四百年を記念して之を建つ
   平成15年11月吉日                           練馬区


 なお、綱吉は将軍就任後に鷹狩り制度と御殿を廃止した
 5代将軍徳川綱吉がまだ右馬頭(うまのかみ)だった頃、脚気衝心を患った。その療養のため、陰
陽師に占わせたところ、「馬」の字の付く土地で治養するとよいという結果。それで調べると豊嶋郡
の練馬が方角もよいということで、御殿を下練馬村(北町)に建てて療養した。この当時大根は脚気
(かっけ)に効果があるとのことで、尾張から種を取り寄せ、近在の百姓、大木金兵衛に作らせたと
ころすばらしい大根ができ、病気もよくなった。将軍となった後も村民に大根を栽培させ、献上させ
たという伝説がこの土地にある。
 将軍綱吉が狩にきた時に泊まっていたたという建物跡が北町に残っている。北町小学校には記念碑
も建てられた。右馬頭(綱吉)と練馬の地とは鷹狩を通して接点があったことは確認されている。次
に下練馬村に綱吉御殿があったことの関連資料を調べた人がいるので紹介しよう。
 川越街道下練馬宿(北町)の本陣を営んでた木下家に伝わった「木下家文書」の「寛延三年(17
50)の替地証文」に「御殿」の地名が出てくる。この古文書は下練馬村の茂左衛門と名主の作右衛
門の間で取り交わされたもので、御殿の畑を町屋敷などの代替地にするという証文だ。下練馬村にこ
の当時「御殿」の小名があったことが判る。今のところ最も古い記録で、綱吉の将軍在位「延宝八年
~宝永六年(1680~1709)」から約半世紀後の記録だ。
 さらに関連資料として下練馬村の出来事などを記した『御府内位村方旧記』(区指定文化財)には、
元禄十年(1697)に護国寺(文京区)を建てる際に、下練馬村の館林様(綱吉)御殿を引き移し
たとの記載がある。また金乗院の朱印地にあったと記されている。この『御府内位村方旧記』の成立
年代は明らかではないが、江戸時代後期には既に、綱吉御殿のことが伝承されていたといえる。護国
寺観音堂造替の元禄十年は『御府内位村方旧記』の記載と一致するが、護国寺側史料では新材で金乗
院堂宇を改築したとの記載もあり、護国寺との関連性は確認できない。江戸後期に編纂された『新編
武蔵風土記稿』では、下練馬村屋敷の項に、

   村ノ南ニアリ右馬頭ト称セルモノ住ストイフ其姓氏及何人タル事ヲ伝ヘス 今陸田トナ
   リ御殿表門裏門等ノ小名アリ礎ナト掘出ス事ママアリト云


 と記されている。一方、大正7年に発行された『北豊島群誌』御殿跡の項には、字御殿にあり、延
宝五年(1677)綱吉が脚気治療のため御殿を建て同8年まで療養した。その殿舎は後に金乗院住
職が賜ったと記されている。この記述はその後の『武蔵野歴史地理』に記される伝説と一部が合致し
ている。というこっちゃ。
 綱吉御殿は将軍就任前の延宝五年前後に練馬での鷹狩のため、下練馬村に建てられたようだ。そし
て将軍就任後は鷹場制度の解体に向けた政策を推進したことから、自ら練馬の鷹狩御殿を廃止したこ
とは理に叶っている。その場所は畑となり、下練馬村の地名として伝わった。近代の(明治9年?)
記録では、「武蔵国下練馬村全図」に「御殿跡」と位置が記載されている。現在の北町1丁目(陸上
自衛隊練馬駐屯地)辺りに当たるが、この界隈に御殿が建てられていたのだろう。綱吉の脚気治療説
は史料では確認されず、『北豊島群誌』に記されている練馬御殿で療養したとされる延宝五年は、側
室のお伝が鶴姫を出産、その後同7年には男子の徳松も生まれており、病気療養中とは裏腹に祝事が
続いている。
 練馬大根発祥に関しては、様々な伝承、伝説が伝わっているが、綱吉と関連づけるものは現在のと
ころ近代以降の記録に限られている。余談ではあるが、綱吉の母、家光側室のお玉の方の兄は、『元
正間記』では京都の大根売りの太郎兵衛とされている。唯一綱吉と大根と結びつきを考えさせる記載
だ。
 


■観音像 ◇
 北町1丁目18番6号木屋製作所の角地にある。


■稲荷社
 北町1丁目22番12号、旧川越街道に面する竹寿司と茶の丸美屋の間を入った横町の奥にある
  


■下練馬の大山道道標
東高野山道標 
撤去
 北町1丁目25番の不動寝具屋の建物横の壁際に東向きにあったが、環八通りの敷設で立ち退きと
なり、撤去され、環八通りの完成まで、1丁目38番の北町児童遊園に移された。現在寝具店はない
が、ほぼ旧位置に戻され北向に建っている。

   大山街道の道標
   この道標は、川越街道と大山街道との分岐点に、天下泰平・國家安全を祈って、宝暦三年
   (1753)八月、内田又右衛門と黒木庄左衛門によって建てられたものです。
   又右衛門は下練馬村の名主で、角柱の上の坐像は不動明王です。
   大山は神奈川県の中央にあって阿夫利山(雨降山)ともいい、広く関東地方の人々から信
   仰され、毎夏、登山参詣する道者の群れで賑わっていました。江戸から大山へ行く道は、
     もありましたが、その1つがこの道で、白衣の道者通っていきました。
   大山から富士に廻る人も多かったので、富士街道とも道者街道とも呼ばれています。
   側にあるのは、東高野山(長命寺)への案内の道標です。
   昭和50年3月                         練馬区教育委員会


■下練馬の大山道道標
東高野山道標 再置
 北町1丁目25番の旧川越街道に面した歩道にある。丁度環八通りの北町トンネルの上だ。旧川越
街道と大山街道の追分に宝暦三年(1753)8月下練馬村の名主内田久右衛門と並木庄右衛門が天
下泰平・国土安全を祈って建てたものだ。角柱に「従是大山道」と記し、上部に不動明王坐像を据え
ている。大山(丹沢)は神奈川県の中央にあって阿夫利山(雨降山)ともいい、かつて広く関東地方
の人々から富士山とともに信仰され、登山・参詣する道者の群れで賑わっていた。なおこの道標と並
んで、東高野といわれ庶民信仰の厚かった長命寺(高野台3丁目)への道標もある。環八通りの敷設
で、北町1丁目38番の北町児童遊園に移されていたが、環八通り完成後ほぼ旧地(旧地より西へ約
8m)に戻され、北向きに建てられた。
 高さ約1.5mの石造物。 宝暦三年(1753)に下練馬村講中によって建てられた。正面に「従
是大山道」と願主名が記されており、向かって右面に講名、左面には年記と「ふじ山道 田なしへ三
里 府中へ五里」と刻んである。以前は取り壊された建物の角にあって間違いない道標だった。

   大山街道の道標
   この道標は、川越街道と大山道の分岐点に、天下泰平・国家安全を祈って、宝暦三年(1
   753)八月、内藤又右衛門と黒木庄左衛門によって立てられたものです。
   又右衛門は、下練馬村の名主で角柱の上の坐像は不動明王です。
   大山は、神奈川県の中央にあって、阿夫利山「雨降山」ともいい、広く関東地方の人々か
   ら信仰され、登山参詣する道者の群れでにぎわっていました。江戸から大山に行く道は、
   幾筋もありましたが、その一つがこの道で、白衣の道者たちがこの道を通っていきました。
   大山から富士に廻る人も多かったので、富士街道とも道者街道とも呼ばれています。
   そばにあるのは、東高野(長命寺)への案内の道標です。
   昭和50年3月                         練馬区教育委員会

   
下練馬の大山道道標(平成5年度 練馬区指定文化財)
   旧川越街道と富士大山道の分岐点に宝暦三年(1753)八月、下練馬村講中によって建
   てられた道標です。上部の不動明王像は後に制作されたものです。
   江戸時代に盛んであった富士・大山信仰に関する資料として貴重なものです。
   平成20年6月                         練馬区教育委員会

   東高野山道標
   「左東高野山道」と刻まれた角柱は、高野台3丁目の長命寺への道しるべです。長命寺派
   紀伊の高野山を模して伽藍を整え、山号を東高野山と称しています。
   この二つの道標は、環状8号線の工事により元の位置から8mほど西側に移動し、現在の
   場所に設置されたものです。
   移転前は、相模の大山への道しるべとして、また東高野山への道しるべとして江戸方面か
   ら来る人々のため、東南東の向きに置かれていました。現在は見学しやすいよう向きを変
   えています。
   平成20年6月                         練馬区教育委員会
 


■稲荷社
 ✓

 北町1丁目27番10号、旧川越街道から細い路地を入った右手にあるが、現在は周辺の建物と共
に取り払われてマンション(プリモレガーロ東部練馬)になっている。移設したか、撤去したかは不
明だ。


北町児童遊園 → 電車の見える公園

 北町1丁目38番23号にある区立公園。一時期、大山道道標と長命寺道標が移設されていた。


■北町弁天宮茅(ちがや)馬飾り

 北町1丁目39番17号にある扶桑教の神社。茅馬飾りは、戦前まで区内の農家でよく行われてい
た七夕の風習だ。短冊などを飾った2本の笹竹の間に荒縄を渡し、それに馬の形に作った「茅馬」を
雌雄一対にして向かい合わせに吊るす。雄は頭をもたげた勇壮な姿、雌はうつむきかげんで控えめな
姿をしている。昔、カヤの一種である茅(チガヤ)で作ったことからこの名で呼ばれている。最近で
は藁に似た真菰(マコモ=イネ科の多年草)や藺草(イグサ)が使われている。茅馬飾りは、平成4
年に区の無形民俗文化財に登録され、今では、この飾りを作れる人も少なくなり、区内では3人が、
茅馬飾りの製作技術保持者として認定されているという。しかし後進の指導もしてるし、小学校でも
教えるので途絶えることはなさそうだ。
 


■馬頭観音堂

 北町1丁目44番27号と45番10号とが、板橋区上板橋2丁目と接する変則の四辻(交差点)
の真中にある南向きの小祠。文化十二年(1815)造立の駒型浮彫石像1基と、造立年代不明の1
基が大切に祀られている。ただよくも車にぶつけられないもんだなと感心する。石像の側面には「右
王子道 東戸田渡シ道」と陰刻があり、またもう1基の側面にも「左戸田道 下練馬 右したばしみち」
の陰刻がある。


北町ふれあい公園

 北町2丁目17番16号にある区立公園。


■阿弥陀堂

 北町2丁目18番1号にある阿弥陀寺の境外堂。寺っぽくないが、墓地があるので寺かなぁ・・・
という雰囲気。ここの墓地に千川用水を開鑿した千川家代々の墓がある。

   阿弥陀堂と千川家墓所
   この阿弥陀堂は、『新編武蔵風土記稿』に「阿弥陀堂ニ 一ハ金乗院持、 一ハ清性寺持
   ニテ弥陀ハ春日ノ作ナリ」とあるうちの後者に当たります。清性寺は明治に廃寺となり、
   金乗院と合併しました。本堂の釣鐘は文政三年(1820)のものですが、銘文に「神明
   山清性寺持阿弥陀堂」と記されています。
   墓地には千川家累代の墓があります。千川家は千川上水開設の功労者として知られていま
   す。千川上水は元禄九年(1696)江戸下町方面の飲料水として玉川上水から分水され
   た水道で、工事には徳兵衛・太兵衛の二人が当たりました。私費を投じて工事を完成させ
   た功績により、両人は江戸幕府から苗字帯刀を許され、千川家の姓を賜りました。
   開通から10年後の宝永四年(1707)、上水は附20ヶ村の農民の願いで、感慨用水
   として利用できるようになりました。両人の子孫は代々下練馬村(現在の北町)に住み、
   千川上水の取締役として維持管理に努めました。
   この墓所には初代徳兵衛から数えて3代目の源蔵以下4代善蔵、5代仙輔、6代民蔵、7
   代右保などの墓が建っています。
   平成21年3月                         練馬区教育委員会


 千川家墓所
 一番奥にあり、寛文二年(1662)の初代徳兵衛から、2代長左衛門→3代源蔵→4代善蔵→5
代仙之助(仙輔)→6代民蔵→7代祐保(右保)→8代菊次郎→9代善造→10代惣平の名が墓誌に
並ぶ。墓誌は訪れる一般の人向けに親切な記述だ。十代惣平は昭和19年の死亡ということは戦死だ
ろうか、その妻は同59年に没している。記録はこれが最後だ。ということは、現当主は60年以上
家を持ち堪えているということだな。
 千川上水は、本郷、下谷、浅草方面の飲料水として元禄九年(1696)に玉川上水から分水された
上水道だ(現在は暗渠)。設計者は河村瑞軒と伝えられ、仙川村出身と伝えられる徳兵衛、太兵衛の
2人が工事を請け負った。
 分水口から巣鴨までの費用は、1千340両余りを要し、幕府が支出したのはこのうち860両余
りに過ぎなかった。そのため2人は私費を投じて工事を成し遂げたのだ。しかし徳兵衛、太兵衛両人
は、その功によって千川の姓と帯刀を許され、その子孫は代々千川上水の取締役を務め、幕府からそ
の役両を得た。
 徳兵衛の千川家は、3代源蔵の時に下練馬村(現在の北町2丁目)に移り住んだ。太兵衛の千川家は
文京区か北区かに健在のようだ。


北町わかば児童遊園

 北町2丁目28番1号にある区立公園。


■北町観音堂

 北町2丁目38番2号、旧川越街道に面する三角地にある。脇の道を入ると東武練馬駅だ。仁王、
聖観音、馬頭観音がそれぞれ
門と堂に納まっている。江戸周辺を紀行した小石川の僧が著した『遊歴
雑記』に文化十二年に訪れた記述があり、往来の人々の信仰や、赤塚村への分岐の目印だったことが
判る。敷地に太平洋戦争の慰霊碑と堂宇建立記念碑が建つ。

   北町観音堂(石観音堂)
   ここには、天和二年(1682)銘の「北町聖観音堂」や庚申塔など多くの石造物があり
   ます。江戸周辺を探訪した小石川の僧が著した紀行文『遊歴雑記』にも、文化十二(18
   15)年にここを訪れた記述があり、往来の人々の信仰や、赤塚村への分岐道の目印だっ
   たことが分かります。
   ◎練馬区指定有形民俗文化財
   
北町聖観音坐像      平成8年2月指定
   高さ270cm。区内最大の石仏。背には「武州河越多賀町隔夜浅草光岳宗智月参所 奉
   新造正観音為四恩報謝也 旹(時)天和二年八月・・・、台座には川越街道沿いの29の
   地名が刻まれています。

   ◎練馬区登録有形文化財
   
北町の仁王像      平成11年1月登録
   向かって右 阿形像、左 吽形像。重厚な造りの像で、両像の背には「天和三年・・・・
   奉立之施主光岳宗智・・・」の銘があり、聖観音坐像建立の翌年に建てられたことが分か
   ります。

   平成11年3月                         練馬区教育委員会


 
聖観音坐像

 総高270cm、区内に残る最大の石仏で小さな口元が愛苦しい。天和二年(1682)銘があり、
台座には街道沿線の29もの地名が刻まれている。観音堂は昭和53年建てた。

 
仁王像
 天和三年(1683)造。向かって右が阿像、左が吽像だ。1mほどの像で、したがって門も2m
ばかり、大きなものではない、これも昭和53年の建立。

 正観音堂標柱
 昭和42年建立

 馬頭観音 ◇
 外の海鼠塀の区画にある。

 庚申塔2基 ◇
 外の海鼠塀の区画にある。
 左、笠付角型、青面金剛像・邪鬼・三猿・二鶏。「奉造立青面金剛二世安楽祈」「願主 五郎右衛
門」「正徳四(1714)甲午天八月十九日」
「武刕豊嶋郡下練馬村」「施主 弐拾七人」
、右、笠付角型、青面金剛像・邪鬼・三猿・二鶏。「寛延三年(1750)庚午十一月吉日」

 薬師如来石像 ◇
 外の海鼠塀の区画にある。貞享三年(1686)造立。

   川越街道
   この道は、むかし江戸と川越を結ぶ道路です。太田道灌の頃には既に開かれて、北武蔵と
   南武蔵を結ぶ重要な道でした。
   江戸時代になって、この道を通った大名は川越藩主だけでした。したがって宿泊の必要が
   少なく、下練馬宿には大きな旅籠もなく、庶民を相手にした休み茶屋が数軒あったくらい
   です。「栗より(九里四里)うまい十三里」は川越芋の宣伝文句として有名ですが、実は
   江戸・川越間は、九里と四里で、計十三里(約51km)でした。
   川越街道は、練馬区の北部をかすめているにすぎませんが、下練馬宿内のこのあたりは、
   昭和27年に南側に沿って作られた20kmの道路に比べると、昔の面影をとどめていま
   す。
   昭和42年11月                        練馬区教育委員会

   旧川越街道
   この道は、戦国時代の太田道灌が川越城と江戸城を築いたころ、二つの城を結ぶ重要な役
   割を果たす道でした。
   江戸城には中山道板橋宿平尾の追分で分かれる脇往還として栄えました。日本橋から川越
   城下まで「栗(九里)より(四里)うまい十三里」とうたわれ、川越藷の宣伝にも一役か
   いました。
   下練馬宿は「川越道中ノ馬次ニシテ、上板橋村ヘ二十六丁、下白子村ヘ一里十丁、道幅五
   間、南ヘ折ルレバ相州大山ヘノ往来ナリ」とあります。川越寄りを上宿、江戸寄りを下宿、
   真ん中を中宿とよびました。
   上宿の石観音の所で徳丸から吹上観音堂への道が分かれています。
   通行の大名は川越藩主のみで、とまることはありませんが、本陣と脇本陣、馬継の問屋場
   などがありました。旅の商人や富士大山詣、秩父巡礼のための木賃宿もありました。
   浅間神社の富士山、大山不動尊の道標、石観音の石造物に昔の街道の面影を偲ぶことがで
   きます。
   平成6年3月                          練馬区教育委員会


   旧川越街道
   この道は、むかし江戸と川越を結ぶ道路でした。室町時代の太田道灌の頃には既に開かれ
   ていて、北武蔵と南武蔵を結ぶ重要な道でした。
   江戸時代、参勤交代でこの道を通った大名は川越藩だけでした。したがって宿泊の必要が
   少なく、下練馬宿には大きな旅籠がありません。庶民を相手にした休み茶屋が数軒ある程
   度でした。
   「栗より(九里四里)うまい十三里」は川越芋の宣伝文句として有名ですが、江戸・川越
   間は九里足す四里の計十三里(約51km)でした。
   このあたりは下練馬宿と呼ばれていましたが、交通の要所に石造物や道標があり、むかし
   の街道の雰囲気が残っています。
   平成21年3月                         練馬区教育委員会
 


■浅間神社
 北町2丁目41番1号旧川越街道に面してある。創建は明らかでないが、川越街道の宿場町として
わった土地柄、江戸時代から祭礼は行われただろう。5代将軍綱吉の時代に町を上げて祭礼が行われ
たとも伝えられている。とにかくここは川越街道の宿場町であったことと、富士大山道の道筋である
ため、富士信仰の神社として立地条件はいい。このため人々の信仰の中心となったことはいうまでも
ない。鳥居は、明治5年建立の明神鳥居(一の鳥居)と社殿前の大正4年建立(二の鳥居)があり、
社殿は珍しい石造りだ。社殿に向かって左側に、傾斜面を利用した冨士塚があり、その脇に富士講の
記念碑沢山建てられている。その中に「昭和2年6月1日止宿中」とあるものに、

   
氏子総数出場六百人、諸職人百五拾人

 と刻まれているのを見ると、大変な動員力を持った富士講があったことに驚かされる。富士大山道
の分岐から近いので、富士山へ向かう道者は必ずお参りしただろう。狛犬は昭和50年の建立。

 
冨士塚
 鳥居・石段の左側のにある。下練馬上宿、中宿の丸吉講によって、江戸時代に築かれたものという。
高さ5m、径15mで、現在も町会の有志により、7月1日に山開きが行われている。明治5年と昭
和2年に修復された
富士山の合目に因んで、ジグザグの登山道の折れ曲がる地点に合目石が配置さ
れている。一・三・四・六・七・八の6つの合目石が確認できる。 三合目には一対の石猿が、また
山頂には石宮が祀られている。山道には要所に溶岩塊を配し、狭いながらも手の込んだ人造富士に作
り上げている。その他
守護神の大天狗・烏天狗、富士講の開祖覚行法師像がある。

 
旧川越街道下練馬宿の開設板
 境内入口に
ある。

   旧川越街道下練馬宿
   この道は、戦国時代の太田道灌が川越城と江戸城をを築いたころ、二つの城を結ぶ重要な
   役割を果たす道でした。
   江戸城には中山道板橋宿平尾の追分で分かれる脇往還として栄えました。日本橋から川越
   城下まで「栗(九里)より(四里)うまい十三里」とうたわれ、川越藷(いも)の宣伝にも一
   役買いました。
   下練馬宿は「川越道中ノ馬次ニシテ、上板橋村ヘ二十六丁、下白子村ヘ一里十丁、道幅五
   間、南ヘ折ルレバ相州大山ヘノ往来ナリ」とあります。川越寄りを上宿、江戸寄りを下宿
   真ん中を中宿とよびました。
   上宿の石観音の所で徳丸から吹上観音堂への道が分かれています。
   通行の大名は川越藩主のみで、とまることはありませんが、本陣と脇本陣、馬継の問屋場
   などがありました。旅の商人や富士大山詣、秩父巡礼のための木賃宿もありました。
   浅間神社の富士山、大山不動尊の道標、石観音の石造物に昔の面影を偲ぶことができます。
   平成6年3月                          練馬区教育委員会
 


■清性寺跡

 北町2丁目41番1号、浅間神社の裏手に本堂や庫裏はないが、小堂と墓地だけが残り、侘しさを
漂わせている。
寺は江戸時代初期からあり、明治までは相当な堂宇伽藍で『新編武蔵風土記稿』にこ
う記録されている。

   金乗院末、下三ヶ寺並に同じ、神明山観音院と号す。本尊不動は弘法大師の作。長さ一
   尺二寸立像、法流開山快遍宝暦十一年二月二十七日化す。


 とある。突き当たりにある歴代住職の墓石の戒名を見ると、かなりの高僧だったことが判り、寺の
権威の高さが伺える。境内には明治初期まで鐘楼があったといわれ、寺域はかなり広大だった。墓地
入口にある「招魂碑」には、千川上水の開鑿者千川家の名前をはじめ、多くの阿弥陀堂有力者名前が
刻まれている。このことから阿弥陀堂との関係の深さを物語る。また阿弥陀堂の凡鐘には「清性寺持
ち」と刻まれており、歴史的な流れからも寺と阿弥陀堂は一体だったものと判断できる。このことを
捉え、双方の墓石などの年代を追うと、寺には寛文二年(1662)の住職の墓、同十一年(167
1)尼僧の墓があり、江戸初期の寺の存在が実証されるものだ。また阿弥陀堂の墓地では寛文二年の
千川家のものが最も古く、創世記の双方の重みが感じられる。また現存する「下練馬村絵図」を見る
と寺の規模を知ることができる。本尊不動は弘法大師作ということだが年代不明。火災で全体が焦げ、
腕はなくなったものの現存しており、ほかに弘法大師像、木魚などがあり、同年代と思われる。この
ような古い仏像は北町には存在せず、町としての宝物だ。

 
白狐稲荷
 清性寺小堂の隣にある。説明板に「白い狐像が浮き出て見える霊石で、板橋区徳丸の斎藤家から祀
りこみを依頼された。斎藤家によれば、これは太閤秀吉の守り神だったが関が原の戦いの折、秀頼が
石田三成に託した。戦に敗れた三成は越後に逃れ、宿の主人に預けたため捕らわれて死罪になったと
いわれており、もしこの霊石を手放さなかったら難に遭わなかったといわれ、その後はこの宿の災難
避けの稲荷となっていたものだそうで、斎藤家はその子孫に当たる」とある。しかし三成は伊吹山中
で田中吉政に捕らえられており、越後というのはどういうこっちゃ? また斎藤家は誰に依頼したの
かが判らない。
 


■北町あおば公園

 北町2丁目41番17号にある区立公園。


■くちなし慕情

 作詞・ちあき哲也  作曲・水森英夫  歌唱・松尾雄史
  1.織部の花瓶に梔子(くちなし)を挿せば
    いつか夕陽に染まる路地
    練馬、北町 三丁目
    こんな名もない お店でも
    帰る貴方の幻 待って
    今日も掛けます 麻暖簾
  2.ちょっとがひと月 半年も過ぎて
    けりをつけなというお客
    いいえ無邪気な男
(ひと)なのよ
    誰か道草 させるだけ
    直ぐに脹
(ふく)れる大人気(おとなげ)なさも
    今となっては 懐かしい
  3.お悪戯
(いた)をしたがる駄々っ子の後を
    追ってみたって 仕方ない
    練馬、北町 三丁目
    幼馴染みのあなたなら
    私、姉にも 母にもなれる
    明日も掛けます 麻暖簾
 


■北町中学校

 北町3丁目1番34号にある区立校。昭和33年開進第一中学校から分校(2年生165名移籍)
し「東京都練馬区北町中学校」として開校。新入生160名、都合325名でスタート。5月北町2
丁目155番地(現在地)に落成の新校舎に移転(普通教室6他、延191坪)校地拡張437坪。
同34年第1期増築(普通教室10、特別教室3、校長室、職員室、準備室、放送室)。バックネッ
ト完成。同35年校歌制定。第2期増築(普通教室1、特別教室3、準備室2)落成式・校歌発表。
掘り抜き井戸開鑿。

 校歌「
紫匂う」 作詞・高津才次郎  作曲・外山国彦
  1.紫匂う武蔵野に
    愛に潤う教え草
    文化に栄ゆる花開く
    行く手の望み一筋に
    誠を 北町中学校
  2.木立に畑に家群に
    生気漲る吾等また
    励み勤しみ自主自立
    健く正しく伸び行かん
    力を 北町中学校
  3.見よ雲晴れし空の果て
    天そそり立つ富士の峰
    その気高さに身を修め
    その清しさに知を磨く
    光を 北町中学校


 同36年校地拡張536坪。第3期増築(普通教室4)。同37年屋内体育館完成。25mプール
完成。同38年創立5周年記念式典。同41年現在の住居表示に変更。同42年給食室設置・給食開
始(センター方式)。同43年校旗樹立。創立10周年記念式典。同45年校内都市水道配管通水。
同47年第1期鉄筋コンクリート造り校舎(普通教室6、特別教室4、給食室、用務室、その他)落
成。同49年第2期鉄筋コンクリート造り校舎(普通教室10、保健室、給食調理室、放送室、職員
室、会議室、校長室、事務室、更衣室等)落成。同50年第3期鉄筋コンクリート造り校舎(普通教
室8、特別教室6、準備室、教材室、その他)落成。同53年創立20周年記念式典・応援歌制定。
同54年西門完成、校庭西側舗装。同58年備蓄倉庫、体育倉庫完成。同60年渡り廊下改修。グラ
ンド整備。果樹園完成。同63体育館・プール改築、格技室完成。創立30周年記念式典。
 平成3年学校緑化。同5年東側校舎(和室・視聴覚室・家庭科室他)改修。同10年校歌編曲。同
同窓会設立。避難拠点防災井戸開鑿。創立40周年記念式典。同12年地域で2日間に亘り2年生が
「職業体験」を実施。同15年ホームページ公開。校舎耐震化。同20年エアコン設置。校庭照明設
置。創立50周年記念式典。太陽光発電設置。
 


みちのべ緑地

 北町3丁目7番6号にある区立公園。


北町みのり公園

 北町3丁目13番9号にある区立公園。


北町三丁目児童遊園

 北町3丁目14番14号にある区立公園。


■いま坂
どら焼「神馬屋松原」

 北町3丁目20番2号にあるどら焼きの専門店。神馬屋と書いて「じんめや」と読む。明治8年に
和菓子屋として創業、以来「いま坂どら焼」として知られている。それは伝統の「いま坂餅入」、「小
倉あん」をベースに現在では特製のブルーベリー餡、苺餡、コーヒ-餡など14種類、季節限定を含
めると17種類のどら焼を取り揃えている。時代によって変化する味覚にマッチするよう、基本を守
りつつ、時代の流れにチャレンジする創作どら焼だ。
 


■陸上自衛隊練馬駐屯地
 北町4丁目1番1号にある東京防衛の中心部隊。昭和5年東京第一陸軍造兵廠練馬倉庫が完成。敷
地面積10000坪。同18年敷地内に陸軍第一造兵廠構内駅(後の啓示線)開業。同21年陸軍第
一造兵廠構内駅を練馬倉庫駅に改称。同26年警察予備隊が久里浜から移転。敷地面積を80000
坪に拡張。同34年練馬倉庫駅廃止。平成14年第1師団が政経中枢師団へ改編。

 
第一師団
 第一師団司令部・師団司令部付隊・第一普通科連隊(歩兵聯隊)・第一通信大隊・第一後方支援連
隊(輜重隊)・第一科学防護隊→第一特殊武器防護隊・第一偵察隊・第一音楽隊・第102地区警備
隊・第316基地通信隊・第388会計隊・練馬駐屯地業務隊がある。
 東京都・神奈川県・埼玉県・千葉県・茨城県・山梨県・静岡県の1都6県の防衛・警備および災害
派遣などについて担当している。首都圏を40分で制圧する能力がある。準備万端用意周到、虎視眈
耽其欲逐逐として手薬煉引いて待機している。

 東部方面総監直轄部隊
 東部方面通信群第105基地システム通信大隊第316基地通信中隊・東部方面会計隊第338会
計隊・練馬駐屯地業務隊がある。

 防衛大臣直轄部隊
 東部方面警務隊第126地区警務隊。警務隊は昔でいう憲兵。憲兵程権力はないが。


うめのき憩いの森

 北町5丁目3番にある区立公園。


北五らいらっく児童遊園

 北町5丁目3番23号にある区立公園。


北町こぶし緑地

 北町5丁目4番25号にある区立公園。


田柄川緑道

 北町5丁目14番にある区立公園。


わらべ児童遊園

 北町6丁目16番1号にある区立公園。


■最勝寺

 北町6丁目16番14号にある浄土真宗本願寺派の寺。近代的はインド風の鉄筋コンクリート造り
建築で、本堂は2階。外階段で上がる。隣に寺経営の鉄筋コンクリート造り3階建ての「みのり保育
園」があり、賑やかな黄色い声が聞こえるのは、何とも心地よい。
 


北町なかよし公

 北町6丁目19番7号にある区立公園。


北町やまびこ公園

 北町6丁目32番34号にある区立公園。


■北町西小学校

 北町7丁目3番8号にある区立校。詳細不明。


■どんぐり山憩いの森

 北町7丁目12番2号にある区立公園。区内で3番目の憩いの森として、昭和52年に開設した。
クヌギ、コナラ、ケヤキなどが茂る林は、子供達から「ドングリ拾い」の恰好の場として親しまれて
いるよ。


■どんぐり山の森緑地

 北町7丁目12番15号にある区立公園。


■北保険相談所

 北町8丁目2番11号にある区の施設。

 ザリガニ釣り
 寒河江淳二作の胡坐に座り込んでザリガニとりに夢中の少年裸像。80cm。平成元年12月15
日設置。


■庚申塔

 北町8丁目5番9号にあったが、今は見当たらない。


■北西大松公園

 北町8丁目15番11号にある区立公園。


■大松氷川神社(松の木の氷川様)

 北町8丁目22番1号にある。一般道になった部分を含めて参道は長い。詳細不明。

   氷川神社
   当社は「大松の氷川様」といわれてきました。大松とは下練馬村の小字の名です。
   祭神は建速須佐之男命です。境内社に御嶽神社(日本武尊)、富士神社(木之花開邪姫命)、
   稲荷神社(伊邪那美命)などがあります。さらに、この神社の特徴として参道脇に富士塚
   があります。江戸時代中頃から、江戸を中心に盛行した、富士信仰の丸吉講によって築か
   れたものです。頂上の石宮は天保六年(1835)再建、塚中腹の御手洗石は同九年(1
   838)再建と刻まれていますから、それ以前の築造であることにちがいありません。ほ
   かに明治・大正時代の富士登山記念碑などがあります。因みに鈴原神社の碑は富士山一合
   目にある同神社の登拝記念に建てたものです。これらの境内社や石造物から、当社は江戸
   時代より練馬近在の富士講・御嶽講など民間信仰の中心であったことがうかがわれます。
   昭和61年4月                         練馬区教育委員会


 冨士塚
 
江戸時代中頃から昭和初め頃にかけて、江戸八百八講と言われるように、富士山や神奈川の大山、長
野の御嶽に登拝しに行く富士講や大山講、御嶽講などの山岳信仰者の集まりが練馬区内にも沢山あっ
た。富士講は、霊峰富士に登り浅間神社に参拝することを目的に結成されたもの。年ごとに講の代表
者として参拝するものを選び、必要な経費を講員全員で負担していた。江戸時代末期ごろから、代表
者に選ばれなかった講員でも信仰欲を満たせるようにと、富士山に似せた富士塚が各地に築かれた。
富士塚に登拝すると、実際に富士山に出かけたのと同じ利益があるとされていた。氷川神社の富士塚
は、丸吉講の講中によって鳥居脇に築かれ、北側基部からの高さが約3.7m、径が約15m ある。
富士塚に建てられている石造物から、江戸時代に築造された可能性もある。現在講は消滅し、行事は
行われていな
い。 


■北八風の子公園

 北町7丁目31番20号にある区立公園。


■庚申塚 ◇

 北町8丁目37番19号先、川越街道の歩道上の中央分離帯のような植栽の中に東向きに建ててあ
る。自然石に「庚申塚」と彫り、その右に「右 川こ江(川越)」、左に「左り ところ沢」、裏面
に「明治十四年二月 田中兼吉」と刻んでいる。
 


【向山】(こうやま)1~4丁目                   昭和40年4月1日
 上練馬村向山。明治11年「郡区町村編制法」により北豊島郡所属、同22年「市制町村制」に
より上練馬村大字上練馬となる。昭和7年北豊島郡が東京市に編入され板橋区練馬向山町。同22
年板橋区から分離した練馬区所属。同24年練馬の冠称を取り向山町。同40年新住居表示により
向山町に中村北2~3丁目・貫井町の各一部をあわせた町域を、現行の「向山」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『練馬区史』『練馬の歴史』など。

 向山の由来
 
豊島城(現豊島園)から見て石神井川対岸の山の意。現在豊島園の住所は向山3丁目で石神井川
は園内を流れるので、だから向山は豊島園の南半だ。山というより森林だったのだろう。土地の人
は「こやま」と発音する。重箱読みではなくて「むこうやま」の「む」が黙音となり「こうやま」
に短縮したものだ。一方、土地の桑島新一は、「神山と書いたものもあり、国衙領の山としての、
国府山(こふやま)ではないか」と想像する。

   『ねりま区報』 昭和60年7月1日号掲載
    昭和40年住居表示が実施された。昭和7年板橋区成立の時、練馬向山町となり、そ
    の後、練馬区独立に際し、他の町と同様に冠称が取れて向山町となった。江戸時代は
   『新編武蔵風土記稿』にある上練馬村の小名向山であった。明治22年町村制で、東向
   山、西向山、北向山、向山ヶ谷戸(やと)などに分割された。今はコウヤマというが、
   昔からの土地の人はコヤマと短く発音する習慣がある。コウヤマは重箱読みなので地名
   古来の呼び方ではないかもしれない。石神井川左岸の高台から南を望み、向い(前方)
   の山という意味でムカウヤマと呼んだのであろう。旭町と和光市の境に白子向山(むこ
   うやま)の地名が現にバス停の名で残っている。
    豊島園(向山3丁目)の一部は中世関東武士の雄、豊島氏の居城練馬城の跡である。
   園内にはその欠片(かけら)も見出せないが、南側の外縁、区立向山庭園(向山3丁目
   1番)との間に城の堀割の跡などを偲ぶことができる。続く南の台地は、見事に区画さ
   れた住宅地である。関東大震災後から昭和初期にかけて造られたいわゆる文化住宅街で
   ある。練馬城の南という意味で城南住宅と呼ばれている。人々は組合組織の町包みで、
   緑の保護育成に努め、区との間に「みどりの推進協定」を結んでいる。
 



■としまえん
 豊島園遊園地。大正15年先行開園、翌年全面開園した大人の遊園地。昭和33年株式会社。同4
2年から花火大会開催。園内の「としまえんのもり昆虫館」は約40種類の外国原産の昆虫や、それ
に関わる生物を展示。特に世界最大のカブトムシ「ヘラクレスオオカブトムシ」など大型の甲虫やハ
ナカマキリ・ナナフシなど珍しい昆虫を生きたまま見れるほか昆虫関連グッズも販売してる。また平
成16年温泉「豊島園庭の湯」を開湯。ただし入口は別だぞ。また子供は駄目だよ。これは馬鹿当た
りして、東京ドームの「スパ・ラクーア」・お台場の「大江戸温泉物語」と並んで、東京三大人気温
泉だそうな。


■向山庚申塔 ◇

 
向山1丁目3番9号、アパートとアパートの間、目白通りに面してある唐破風笠付角柱型。

   
正面右 奉造立庚申供養二世安楽全祈所
   正面中 
日月 青面金剛像 邪鬼 三猿 ニ鶏
   正面左 宝永六己丑天十月吉日敬白


■向山一丁目公園

 
向山1丁目13番14号にある区立公園。


■稲荷社

 
向山2丁目1番5号にある小祠。


■水と雲の公園

 
向山2丁目3番18号にある区立公園。

 真昼のUFO
 古賀忠雄の作品。木馬に乗った少年が空を見上げている銅像。平成元年設置。

 夢路
 忠雄の息子晟の作品。両手を胸前で合わせ何かを祈るような着物姿の少女の立像。平成元年設置。


■こばと児童遊園

 
向山2丁目10番15にある区立公園。


■向山小学校

 
向山2丁目14番11号にある区立校。昭和34年現在地に校舎落成。7月練馬第二小学校向山分
校開設。同35年「東京都練馬区向山小学校」として独立開校。PTA創立総会。同36年校地拡張
・第二次校舎落成(普通4教室)。同41年創立5周年記念式典。校旗樹立・校歌校章制定。体育館
完成。

 校歌「
輝き注ぐ日の光」 作詞・松本正勝  作曲・菊田要
  1.輝き注ぐ日の光
    潤い豊か 地の恵み
    向山の地に芽生えして
    二葉の吾等 限り無く
    備わる力を伸ばそうよ 伸ばそうよ
  2.緑の木陰 薔薇の花
    明るさ溢れ 並ぶ顔
    向山小に学び合う
    二葉の吾等 逞しく
    励まし労わり 結ぼうよ 結ぼうよ
  3.世界を巡る空と空
    世界を繋ぐ海と海
    向山の地を巣立つとも
    二葉の吾等 新しく
    未来の世界を築こうよ 築こうよ


 同43年プール完成。同44年3月第三次校舎落成(普通3教室・準備室3)。11月第四次校舎
落成(普通6教室)。同45年創立10周年記念式典・観察池完成。同52年第五次校舎落成(普通
2教室・特別3教室)。同53年陶芸小屋設置。同54年全校カラーテレビ化。同55年創立20周
年記念式典。同56年築山完成。同57年春日小学校へ129名移籍。同60年校地270坪買収。
果樹園設置。同61年第二校庭新設。アルミサッシ化。同62年給食室改修。同63年アスベスト撤
去。
 平成元年応接室・給食室リフト改修。図書館完成。同2年開校30周年記念子供祭・記念式典。飼
育舎・体育倉庫完成。同5年体育館改修。同7年プール改修。FF暖房設置。同9年音楽室防音扉設
置。同10年防災井戸掘削。同11年百葉箱設置。同12年創立40周年記念式典。同16年学童ク
ラブ新築。同17年普通教室扇風機取付。各階冷水器取付。同19年体育館・プール新設。同20年
西校舎(管理棟)耐震化。普通教室エアコン設置。同22年創立50周年記念式典。
 


■向山

 向山3丁目1番21号にある区立公園。自然の木立や地形、湧水を利用した庭園は、ひっそりとし
た佇まいで、茶室や四阿(あずまや)、井筒などが、一層日本的な風情を醸し出している。昭和53
年12月区の「みどりの保全モデル地区」第1号に指定された城南住宅地区にあり、豊かな周辺の緑
と調和している。この付近から北側の豊島園にかけての一帯は、中世豊島氏の一拠点であった練馬城
址で、昔は「矢の山」と呼んでいた。庭園の池付近は古くから湧水池であったとかで、ここから北の
石神井川に向かって堀の役割を果たしていたようだ。
 ※平成18年11月26日「紅白饅頭」さんからご指摘がありました。これは向山公園ではなく、
「向山庭園」の誤りだというので、調査し下記のように
訂正いたします
                      *
 豊島園駅から少し西、窪地に這うように、緩やかな長い坂がある。また豊島園は、本来近くを流れ
る石神井川の流れに沿って勢力を広げた、豊島氏9代目泰景の弟、影村が居城していたとされる豊島
城のあったところだ。この窪地は、その城の空堀の部分ではないかといわれており、この窪地の傾斜
部分にあるのが「向山庭園」だ。またこの場所は、浜口内閣の頃、江木鉄道大臣の邸宅跡でもあり、
昭和55年に開園した。敷地は2613㎡余あり、純和風の建物と茶室、池を有する日本庭園となっ
ている。建物から茶室にかけては勾配があり、土留めの石垣は、城の石垣を彷彿とさせる。石垣の有
る園路の脇には、石橋を渡したひょうたん池と茶室があり、清涼感のする空間だ。庭園周辺は、昭和
53年に練馬区で、初めて「みどりの保全モデル地区」第1号に指定された閑静な住宅街で、すぐ傍
に遊園地があるとは思えない程、静かな場所でもある。そのためか、しばしば、茶会や連珠(五目並
べ)の試合なども行われている。純日本風の建物の施設を利用する際には、前もって予約が必要だが
庭園内を散策するのは、受付に声をかけると無料で入園できる。
 


■向山ヶ谷戸緑地

 
向山3丁目9番31号にある区立公園。


■向山公園

 向山3丁目13番5号、閑静な住宅街の中にある区立公園。公園地は、緩やかに北側に傾斜してお
り、南北に長い形状をしている。公園が住宅街の中にある割には、意外と広く、傾斜に合わせて段段
畑のように広がる園地には、藤棚の付いた砂場や、かなり背の高い雲梯の遊具が置かれている。中央
部から、北側の奥には、大きなけやきが、何本もあり、夏場は、子供の遊ぶ砂場に涼やかに日陰を落
としてくれる。


■むかいはら児童遊園

 
向山4丁目4番14号にある区立公園。
 
 


【小竹町】(こたけちょう)1~2丁目                昭和62年1月1日
 上板橋村小竹。明治11年「郡区町村編制法」により北豊島郡に所属、同22年「市制町村制」
により上板橋村字小竹。昭和7年北豊島郡が東京市に編入され板橋区小竹町。同22年板橋区から
分離した練馬区に所属。同35年地番整理により小竹町1~2丁目となり、同62年新住居表示に
より現行の「小竹町」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『練馬区史』『練馬の歴史』など。


 練馬区所管となった理由
 なぜ練馬区に譲渡されたのかというと、上板橋村字小竹と江古田新田は板橋警察署江古田駐在所
の管轄だった。昭和12年練馬警察署管内となり、同19年に板橋区練馬支所が出来た時、 警察の
管轄に合わせて行政管轄も練馬支所の扱いとなった。それで練馬区が分立した時、そのままとなっ
たものだ。
 会津中将保科正之の生母お静の方は「武州板橋在竹村の娘」とされているが、板橋に竹村はない
ので、この小竹村のことではないかと考えられている。

   
夏の夜は篠の小竹の節近み そよや程なく明くるなりけり(山家集 西行)

 小竹の由来
 正確には小竹が何を意味するのかは判ってない。崖や急斜面を表す「タケ」によるか? この辺
りが茅原だったので、それを小竹と擬(なぞら)えたか。福岡県小竹町の場合は、古来町内の街道
沿いに竹薮が生い茂り、「小竹の処」といわれたのが町名の起源となったといわれている。
また茅原
浅間神社に、天保十年(1839)若しくは文化年間(19世紀初頭)に築造された富士塚があり
「江古田富士」の名で親しまれている。江古田駅北口前にあり、この神社の参詣者のために停車場
が出来たといっても過言ではない。富士塚を一名小御嶽神社というので「富士塚→小御嶽→小竹」
といったものか? 富士塚を作ったのは中村・中新井・下練馬の連合富士講である「小竹丸祓講」
だ。小竹は講元の姓かも知れない。
 とにかく小竹は茅原浅間神社の富士塚だ!

   『ねりま区報』 昭和59年8月11日号掲載
   江戸時代、上板橋村の内の小竹村といった。江戸中期の庚申塔(小竹町1丁目15番)
   に「上板橋小竹村」とある。会津23万石保科正之は二代将軍秀忠の庶子であり、その
   生母お静の方は武州板橋在、竹村の大工の娘といわれている。板橋の近くに竹村という
   村はなく、それはこの小竹村だとする説が昔からある。練馬で脚気の養生をした五代将
   軍綱吉の生母桂昌院は、京都の町娘であったというのだから、小竹村の娘が将軍の寵愛
   を受けても不思議はない。
    昭和7年東京市域拡張による35区制で板橋区が誕生、小竹町となった。同22年練
   馬区成立の時、以前から江古田町(現旭丘)とともに練馬支所管内であった関係で、練
   馬区に編入された。同35年地番整理で、1、2丁目に分かれた。同58年6月24日
   区立小竹小学校の下に営団地下鉄有楽町線の「小竹向原」駅ができ、小竹の名は一躍有
   名になった。この駅はまた西武有楽町線の分岐駅でもある。
 



■やくも公園

 
小竹町1丁目13番5号にある区立公園。


■庚申塔 ◇

 小竹町1丁目18番9号の東北角の僅かなスペースに5基ある。
 ①.駒型。日月・青面金剛像・邪鬼・三猿・二鶏。「奉新造立石塔一基為二世安楽也」「享保二丁
   酉天十一月吉日」(1717)「武刕豊嶋郡上板橋小竹村」
 ②.板碑型。三猿・蓮華。「奉造立庚申供養二世安楽所」「寛文十三癸丑年」(1673)
 ③.唐破風笠付角柱型。日月・青面金剛像・邪鬼・三猿・二鶏。「明和九壬辰年十月吉日」(17
   72)「講中二十六人」。
 ④.舟形光背型。日月・青面金剛像・三猿。「奉造立庚申供養二世安楽所」「延宝八庚申八月吉日」
   (1680)。
  ➄.唐破風笠付角柱型。剥離が激しい。「元禄十一戊寅天」(1698)「奉寄進庚申供養」


■小竹児童遊園

 
小竹町1丁目22番6号にある区立公園。


■茅原浅間神社

 小竹町1丁目59番2号にある。かつてこの辺りは茅原だったことにより、その名がある。江戸時
代は「富士浅間社」と呼ばれ、富士講の上板橋、中新井、下練馬村の富士道者に崇敬された。以前は
清戸道から真っ直ぐに参道があったが、大正4年に武蔵野鉄道が開通し、しかもここに江古田駅がで
きたため参道は断ち切られ、現在のような形となった。平成13年神社西側の浅間通りの拡張工事に
ともない、門の部分が改築された。拝殿の裏は江古田富士で人口に膾炙している人工富士だ。
 

 江古田富士
 「駅からこんなに近いの?」の代表格がこの富士塚だ。黒御影石の石碑が立派だ。門や柵も新しく
建て直されさっぱりとしている
冨士塚は本殿の右奥に大きく聳え立つ。。国と区指定重要有形文化
財とのことで柵の中にあり、普段は登れない。頂上には天保十年(1839)造立の石祠が祀ってあ
る。冨士塚は高さ8m、径30mで天保九年(1838)の築造、関東大震災の時に崩壊大正1
3年修築された。後方の斜面は途中からコンクリートで補強され、前方のみを観賞する富士だが歴史
を感じさせる。登山道に各種の石造物が立つ。国と区の有形民俗文化財に指定されている。

   練馬区登録有形民俗文化財
   国指定重要有形民俗文化財
   
江古田の富士塚
   江古田の富士塚は、富士講の一派小竹丸祓講によって天保十年(1839)に築造された
   ものと考えられますが、一説には文化年間(1804~1818)の築造ともいわれてい
   ます。高さ約8m、直径約30m、関東大震災の時に損滅しましたが、その後復旧され、
   塚全体が富士の溶岩で覆われています。
   頂上の唐破風屋根のついた石祠は、天保十年に造立されたもので、経ケ嶽・太郎坊・小嶽
   神社の石碑や、大天狗・小天狗・神猿などの石像もあり、元治二年(1865)の講碑、
   大正12年震災時の御神体修築の碑などが建っています。社殿の前には文化四年(180
   7)の石燈籠や文化九年(1812)手水鉢なども残っています。
   都区内の富士塚の中では大規模な部類に属し、庶民信仰の様相を示すものとして、昭和5
   4年5月21日国の重要有形民俗文化財に指定されました。
   平成元年3月                          練馬区教育委員会

 富士講関係資料
 国の指定文化財「江古田の富士塚」に関係する富士山信仰の団体の「小竹祓講(はらいこう)」が
用いた祭りの道具箱類。お炊きあげ道具、旗、御身貫(おみぬき)が伝わってい。お炊きあげ道具の
一つである火打箱に明治15年と読める墨書がある。江戸時代から昭和の戦前まで盛んだった富士山
信仰の様子を伝えるものだ。


 千川桜楓碑
 駅寄りの境内に建っている。これは大正天皇御大典を祝して千川沿い7Kmに亘って桜・楓120
0本を植えた記念のもので、大正4年に千川沿いに建てられたが、道路拡張のためここに移されたも
のだ。
 碑文によれば、この事業は篤志が集まって計画を立て、村会で議決して東京府知事の許可を得たと
のこと。碑文の起草や清書を名高い文人や書家には頼まず、当時の北豊島郡長大野徳太郎が筆を執っ
たというのも、そういう自発性の反映であるように思われる。末尾の詩では、玉川上水に張り合う名
勝としたい、ともあって、地元の思いがよく表れている。
 その千川上水も、現在は暗渠となって、地上を千川通りが走る。この石碑は、元々は江古田駅の南
側、千川通り沿いにあったものを、区画整理の際に移動したのだ。千川通りには今でも春になると桜
が美しく咲き誇りますが、この碑には、区の説明板などは一切ない。

   千川堤植桜楓碑
   千川上水之始在元禄九年起新座郡保谷至豊島郡巣鴨凡六里亘湯島上野浅草宝永四年上水両
   岸植樹且許灌漑享保七年有故止上水爾来沿革殆廃慶応元年築反射炉於滝野川也命用此水至
   明治三年又廃焉及後沿岸村落戸口繁殖人文発達慨堤塘之荒蕪水路之淟涊望其改修者多大正
   三年下練馬村篤志者与衆謀建修水行伐荊棘植桜楓之議欲以為祝今上践祚大礼之記念也村長
   納之稟郡長知照中新井長崎上板橋諸村長各村皆経村会決議四村聯合得府知事之允可有志者
   亦捐貲援労拮据数月今茲三月功成新植桜楓実千数百株経村
   落過田圃蜿蜒亘一里二十余町頃者武蔵野鉄道沿流開通此地慶福亦将加多也銘曰
   千川上水昔汪洋 北及忍岡南聖堂 後停上水灌新秧 幾年豊稔歌穣穣 物換世遷榛莽荒
   時到栽桜皆賛襄 暖雪香雲漲野塘 擬凌玉川雄一方 千樹紅於秋待霜 錦繡堤外稲雲黄
   化被草木葛民康 合同民力祝大嘗 此挙此功弗可忘 春秋長作後人慶
   大正四年十一月建          東京府北豊島郡長正七位勲六等大野徳太郎撰幷書

   (読み下し)
   千川上水の始まりは元禄九年に在り。新座郡保谷に起こり豊島郡巣鴨に至る凡そ六里、湯
   島・上野・浅草に亘る。宝永四年上水の両岸に樹を植え、且つ灌漑を許す。享保七年故
   りて上水を止む。爾来、沿革殆ど廃す。慶応元年、反射炉を滝野川に築くや、命じて此の
   水を用う。明治三年に至り又廃せり。後に沿岸の村落、戸口繁殖し人文発達するに及び堤
   塘の荒蕪こうぶ
水路の淟涊(てんでん)を慨(なげ)き、其の改修を望む者多し。大正
   三年、下練馬村の篤志なる者、衆と謀りて、水行を修め荊棘を伐り桜・楓を植うるの議を
   建つ。以て今上の践祚の大礼を祝うの記念と為さんと欲するなり。村長、之を納め、郡長
   に稟(もう)し、中新井・長崎・上板橋の諸村長に知照す。各村、皆、村会の決議を経、

   四村聯合して府知事の允可を得有志の者、亦貲を捐(す)て労を援(たす)け、拮
   据(きっきょ)すること数月、今茲(こんじ)の三月、功成る。新たに桜・楓を植うるこ
   と実に千数百株。村落を経、田圃を過(よ)ぎること蜿蜒(えんえん)一里二十余町に亘
   
る。頃者(このごろ)武蔵野鉄道、流れに沿いて開通し、此の地の慶福、亦た将に多きを
   加えんとするなり。
   銘に曰わく、
   千川上水、昔、汪洋(おうよう)たり 北は忍ヶ岡に及び、南は聖堂
   後、上水を停(とど)むるも新秧(しんおう)に灌(そそ)
   幾年の豊稔(ほうねん)、穣穣(じょうじょう)を歌う
   物換(わ)り世遷(うつ)りて、榛莽(しんもう)荒れたるも
   時到りて桜を栽(う)え、皆、賛して襄(たす)
   暖雪(だんせつ)香雲(こううん)、野塘(やとう)に漲(みなぎ)
   玉川を凌(しの)ぎ一方に雄たらんと擬す 千樹 紅にして、秋に霜を待ち
   錦繡(きんしゅう)の堤外、稲雲(とううん)黄なり
   化して草木を被(おお)い、葛民(かつみん)康らかに
   民力を合同して大嘗(だいじょう)を祝う 此の挙、此の功、忘るべからず
   春秋、長く後人の慶びと作(な)さん
   大正四年十一月建つ       東京府北豊島郡長正七位勲六等大野徳太郎撰幷びに書
 


■江古田駅北公園

 
小竹町1丁目60番3号にある区立公園。


■どれみふあ緑地

 
小竹町1丁目69番21号にある区立公園。


■水琴緑地

 
小竹町1丁目73番1号にある区立公園。


■小竹向原駅

 小竹町2丁目6番にある西武鉄道と東京メトロ有楽町線の停車場。昭和58年6月24日の有楽町
線営団成増(地下鉄成増)~池袋間開業時に設けられた駅。同年10月1日には西武有楽町線新桜台
~小竹向原間も開業したが、西武有楽町線が練馬まで延びるのは平成6年になってからだった。同2
0年6月14日からは、副都心線も乗り入れている。
 ホームは島式2面4線構造で、地下2階にある。ホームと改札階を結ぶエレベーターは設置済み。
 改札口は2ヶ所で、出口は1~4の4ヶ所。地上へ上がるエレベーターは3番出口に併設されてい
小竹向原駅は「小竹小学校前」という副駅名を持っている。これは、駅工事の際に小竹小学校が
敷地を提供したためだ。同38年体育館完成。
 


■小竹小学校

 
小竹町2丁目6番7号にある区立校。昭和34年4月旭丘小学校小竹町分校として同校内に開校。
9月現在地に校舎落成して移転。同35年4教室増築。「東京都練馬区立小竹小学校」として開校。
同36年増築竣工(教室4、特別室3、準備室、便所など)。校歌制定。

 校歌「
風薫る
  1.風薫る小竹の丘の空遠く
    富士を仰いで湧き上がる
    高い望みに胸を張り
    皆学ぼう ああ小竹小学校
  2.若竹の緑 清かに 雨風に
    尚逞しくすくすくと
    伸びる力よ 鍛えよう
    心と体 ああ小竹小学校
  3.鳴り渡る文化の響き 明日を呼ぶ
    明るい子供 世に尽くす
    誓いに燃えて手を繋ぎ
    皆進もう ああ小竹小学校


 同38年体育館完成。校歌制定(学校HPのまま)。同39年校庭排水設備完成。同40年創立5
周年記念造園。同41年増築竣工(教室4、職員室、事務室)。同42年プール完成。同45年創立
10周年記念式典。同50年増築竣工(特別教室3、校長室、応接室他)。校庭整地。遊具完成。同
54年プール移設。同55年創立20周年記念式典。観察池完成。同56年校庭整備・スプリンクラ
ー設置。同57年校庭直下工事(地下鉄・道路トンネル)終了。同57年校庭整備・遊具移動。同5
9年体育館完成。小竹の森植栽完了。同60年スプリンクラー増設。校舎窓サッシ化。屋上舗装。同
61年水道管更正。同63年校庭緑化。非常放送設備設置。『ソニー教育賞』受賞。
 平成2年全教室FF暖房設置。創立30周年記念式典。同3年正門改修。校庭改修。同4年小鳥小
屋改修。小竹の森整備。同5年給食室改修。同6年ゆとりの教室完成。同7年陶芸小屋設置。同8年
教室・図書館開放。同9年防災井戸掘削。焼却炉撤去。同10年「才能開発実践教育賞」受賞。同1
2年コンピュータ・ルーム開設(22台)。東校舎耐震化。創立40周年記念式典。同13年プール
改修。小竹の森ザリガニ池完成。教室に安全防護柵設置。同14年第4回朝日のびのび教育賞受賞。
同17年全教室に6台の扇風機設置。パソコン新機種に取替え。同18年水飲み場改修。同18年緊
急通報システム装置設置。同20年学校応援団発足。普通教室エアコン設置。校務事務パソコン化。
 


■八雲神社

 小竹町2丁目42番12号にある。


■小竹図書館

 
小竹町2丁目43番1号にある。


■日本力行会

 小竹町2丁目43番1号にある学校法人。日本力行会は、日本民族の心と生活の救済「霊肉救済」
を旗印に明治30年島貫兵太夫牧師によって創立され、既に100年以上の歴史を積み重ねてきた。
当時、日本は海外移住の指導をする機関が少なかったため、苦学生へのホーム開放に始まり、日本人
の海外への発展と重要性を訴えながら「渡米部」「日米女学校」「日米実業学校」など関連教育施設
を創立したり、「渡米新報」を発行するなど、苦学生及び移住希望者に幾多の便宜を与えた。その結
果、北米・中南米・東南アジア・旧満州(現中国東北部)などへ約3万人の移住者を送り出した。ま
た、地域の要望に応えて昭和21年に創立された「りっこう幼稚園」(「力行幼稚園」より改名)も創
立68周年を迎え、6000余名の卒園生は各方面で活躍しており、また、当財団創立90周年記念
行事として留学生会館「力行会館」を開設、約120名の日本人学生・海外からの留学生の宿舎とし
て生活を共にし、国際感覚を身につけ、日本語や日本の科学技術の習得をはじめ、文化・伝統を身に
つけて会館を巣立った約3000人の留学生が現在世界中で各分野に活躍している。さらに、平成2
6年12月1日には、永年の念願だった「学校法人」として東京都より認可を受けた。 


■そらしど緑地

 
小竹町2丁目45番1号にある区立公園。


■篠家

 
江戸時代の建築で、沢庵小屋(漬物小屋)下屋(しもや 下肥小屋)が、今も残っているそうだが
未確認。篠家は、1丁目20番、23番、2丁目27番、40番にある。何処だ?。
 桜台1‐37‐20にも篠家がある。
 


■小竹町二丁目緑地

 
小竹町2丁目62番7号にある区立公園。


■小竹みどり公園

 小竹町2丁目70番1号にある区立公園。要町通りと環状七号線の交差点の近くにある公園。公園
は段差になっている。


■かなで緑地

 
小竹町2丁目79番5号にある区立公園。
 


【栄町】(さかえちょう)                   昭和62年1月1日
 下練馬村羽根沢。地租改正で羽根木・北羽沢・南羽沢・羽沢前の四つの小字(こあざ)に分かれ、
明治11年「郡区町村編制法」により北豊島郡所属、同22年「市制町村制」により下練馬村が一
村で独立。昭和7年北豊島郡が東京市に編入され板橋区練馬南町1丁目。同22年板橋区から分離
した練馬区に所属。同24年練馬の冠称を取り南町1丁目。同37年区は元の小字通りに羽沢1~
4丁目とする計画で、羽沢前を1丁目に予定していたが、江古田駅を擁して繁盛するだけに足並み
を揃えたがらず、遅れた地域と一緒では何かと負担を強いられると思ったか、儲けを吸い上げられ
るとでも感じたか、新住民の多い町域なので1町独立の欲望が強く他の羽沢と一線を引いて自分勝
手に栄町を名乗って自立した。同62年新住居表示によりごく一部を旭丘1丁目に譲り、残りの町
域を現行の「栄町」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『練馬区史』『練馬の歴史』など。

 栄町の由来
 西武池袋線江古田駅周辺の商業地区であるためその繁栄を願い命名された。また一般に栄町は村
境、郷境の町場に付けられることが多く〝境〟を美しく言い替えるということがあるらしく、この
地も下練馬の村境に位置することは位置する。とにかく江古田駅周辺の栄町・小竹町・旭丘・豊玉
上はゴミゴミしてせせこましく細い路地ばかりの人口密集地帯だ。しかも大学が二つもあるので安
普請のアパートの多い学生街でもある。練馬区の緑と太陽のイメージからは程遠い奇異な地域だ。
江古田ニコニコロードはむかしの高田道、古い往還で鉄道敷設以前から開けていたところではある。
駅北の浅間神社は富士講の、線路南側の武蔵野稲荷神社は「お百度参り」して商売繁盛を願う人々
の信仰を集めている。高田道はそれらの参道でもあった。

   『ねりま区報』 昭和60年2月1日号掲載
    栄町は区内の町単位で一番面積が小さく、人口と世帯の密度は最高である。さしずめ
   練馬の下町というところか。江戸時代は下練馬村の小名羽根沢の内だった。明治になっ
   て羽根沢は羽根木、北羽沢、南羽沢、羽沢前の四つに分かれた。ここは羽沢前であった。
   昭和7年市郡合併が行われた。練馬、石神井、大泉は北豊島郡から新たにできた板橋区
   に属した。羽沢地区は練馬南町1丁目となった。同22年練馬区が独立した。暫くして
   地番整理が検討され始めた。南町1丁目は、むかしの四つの小字のとおり、羽沢1~4
   丁目とする計画であった。しかし江古田駅周辺の商業地域と、その他の住居地域とで、
   町名についての合意がならず、1丁目となるはずであった羽沢前だけが栄町を名乗り、
   羽沢は3丁目までとなった。
    栄町の名は、もちろん練馬区の表玄関としての町の繁栄を願って名付けられたのであ
   る。都内の栄町は十指に余る。古い地名の栄は堺や境に通じ、郡や村の境に多くみられ
   る。奇しくもここは旧下練馬、上板橋、中新井3か村の村境であった。
 



■清戸道の石柱

 栄町7番1号浩生会スズキ病院先の千川通り歩道の植え込みの中に区教委の説明版と共に立ってい
る。この石柱は千川通りに何ヶ所か建てててある。説明板の文言は皆同じだ。

   清戸道と千川上水
   この前の道路を清戸道といいます。清戸道は練馬区のほぼ中央を東西に横断し、区内の延
   長は約15kmになります。東へ行くと目白駅を経て江戸川橋に至り、西へは保谷・新座
   ・東久留米を経て清戸(清瀬市)に達します。大正4年武蔵野鉄道が開通するまでは練馬
   ・石神井・大泉から市中へ出るのに、この道が最も近道でした。朝早く大根などの野菜を
   積んで町に向かい、昼過ぎには下肥を積んで帰ります。清戸道は練馬の農業にとって無く
   てはならない道でした。
   この辺は清戸道に沿って千川上水が流れていましたので、千川通りともいいます。千川上
   水は、元禄九年(1696)玉川上水より分水された上水道です。開鑿から10年後の宝
   永四年(1707)、上水沿いに20ヶ村の農民の願いで灌漑用水として利用することが
   許されました。用水の管理は、工事を完成させた功により代々千川家が当たりました。千
   川の水を引いた田は、1反(10a)について玄米3升(5.4ℓ)をを水料として千川家
   に差し出しました。千川の水の恩恵を受けた田は、全部で100町歩(100ha)にも
   及んだといいます。田に引いた分水の跡が、今も中村橋・桜台駅前・武蔵大学内・羽沢な
   どに残っています。昭和20年代の終わり頃から暗渠になりました。
   昭和60年3月                         練馬区教育委員会


■武蔵野稲荷神社

 栄町10番1号にある。江古田稲荷。古くから多くの善男善女の篤い信仰に支えられて今日に至っ
たが、特に商売繁昌、無病息災、禍転じて福となす“つなぎの神様”江古田のお稲荷さんとして知ら
れ、境内には開運幟が翻って、植裁された深い緑の中で鮮やかに映えている。一の鳥居から三の鳥居
まであり、これを潜ればすぐ拝殿がある。境内の奥、小高い塚には奥の院があったが、昭和51年古
い拝殿を取り壊して新しい拝殿を建てた。この塚は円墳の遺跡ではないかとも、豊島塚の一つではな
いかとも見られているが、改まって調査はされていない。大正初期ごろまで、この塚に狐が住み着い
ていて清戸道を通る人たちに悪さをした。このため夜遊びして、夜遅くこの道を通るなと教訓めいた
話も残されている。そうはいっても子狐が死んだ時、近所の人はこれを哀れに思って埋葬し、子供た
ちがよく育つようにと祈って「子守塚」を建てた。それがいつしか子育稲荷として信仰を集めるよう
になったものだ。表口と裏口に、武蔵大の学生の通り抜けを断る旨の建て看板が立ててある。朝晩素
通りの学生が大挙してぞろぞろ通り抜けされたら、神様もおちおち眠ってられねえはなぁ・・・
 神門、身代わり稲荷(高天原)、身代わり地蔵、大黒天、馬頭観音、子守塚がある。
 「練馬の神社」に、

   鎮座の年代は不詳。現在、本殿の建っている小高い塚は、瓢箪塚あるいは割塚(後が二個
   に割れているところから)とも言われた(明治初年の地図による)。また文明9年(14
   77)、江古田・沼袋の戦で太田道灌によって滅ぼされた豊島軍の死者を葬った豊島氏の
   塚との言い伝えもある。古い塚であることは確かで、その守りとして稲荷が祀られたと考
   えられる。塚には白狐が十数匹も棲んでいたので白狐塚とも言った。ある時死んだ子狐を
   埋めて供養し幼児がよく育つようにと祈ったのが子守塚だと言う。
   明治、大正から昭和と、商家、歌舞伎役者、馬主、事業家等の信仰を集め、平成となった
   現在でも除災招福、病気平癒、商売繁昌の祈願が多い。弥栄天神は京都北野天満宮より勧
   請されたものである。
   境内建造物は、大正7年建築の際儀殿を除いて、昭和50年から5ヶ年計画で、本殿、拝
   殿、鳥居、随神門と新築整備されたものである。その際、塚の後の割れている所は、本殿
   整備のため埋め戻された。手水舎は大黒が臼造りをしている珍しい作品である。
   参道はサクラ、イチョウなどの落葉樹がトンネルのように茂り、春は花、秋は紅葉で彩ら
   れる。
   なお、昔は「三の稲荷」とも言って、三の日の縁日が大変な人出で賑わったが、今は行わ
   れていない。


 とある。
 


■さかえ児童遊園

 栄町15番7号にある区立公園。


■栄町公園

 栄町16番4号にある区立公園。


■浅間湯

 栄町38番3号にある。公衆浴場を身近なコミュニティー施設として活用しようという趣旨の下に
東京都が昭和58年に指定したコミュニティー・セントウ第1号の銭湯だ。2階には、舞台のついた
和室を備えたコミュニティーホールがあり、地域の人々の集会場として音楽の練習やヨガ教室など、
様々な目的に使われている。また正面に置かれた瀬戸物の狸がユーモラスな姿を見せており、この銭
湯の名物となっている。
 


■音大通り広場緑地

 栄町38番5号にある区立公園。


■さくら児童遊園

 栄町40番11号にある区立公園。


■庚申塚 ◇

 栄町46番1号の尖端、西武有楽町線新桜台駅と西武池袋線の江古田駅との間の江古田ゆうゆうロ
ード商店街の途中の五差路にある。駒型、日月・青面金剛像・邪鬼・三猿・二鶏。
「明和二己酉歳十
月十八日」(1765)、「下練馬村内羽根沢講中廿四人 願主敬白」


   庚申塚の謂れ
   平安時代の初めに、人間の豊かで。長生きをしたい、その気持ちが庚申信仰になった。人
   間の体の中の三尸の虫が、庚申の夜、寝ている間に天に昇り、天帝に告げ口をして寿命を
   奪われないようにするために、庚申の日にみんなで夜通し楽しく過ごして、三尸の虫に昇
   天の機会を与えないようにする。
   この庚申塚は、1765年の明和二年十月十八日に建立されました。
 


【桜台】(さくらだい)1~6丁目                  昭和38年2月1日
 下練馬村。明治11年「郡区町村編制法」により北豊島郡所属、同22年「市制町村制」により
単独で下練馬村となる。昭和3年町制に移行して練馬町。同7年北豊島郡が東京市に編入され板橋
区練馬南町2~3丁目。同22年板橋区から分離した練馬区に所属。同24年練馬の冠称を外し南
町2~3丁目。同37年地番整理で南町2丁目を桜台1~3丁目とし、同38年練馬とともに都内
第一号である新住居表示により南町3丁目と桜台3丁目の一部をあわせた町域を現行の「桜台4~
6丁目」とした。同64年桜台1~3丁目に新住居表示を実施して現行の「桜台1~3丁目」とし
た。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『練馬区史』『練馬の歴史』など。

 桜台の由来
 昭和11年開業の桜台駅による。この名の台地はなかったが、桜の名所として知られる高稲荷神
社が石神井川南岸の台地にあり、南限の千川堤の桜並木は〝新小金井〟と謳われたほどであり、そ
ういう環境から駅名は創作された。ここも最近まで農村のイメージが強いところだった。なお北町
の陸自練馬駐屯地の辺りに桜台という字があったのは関係ないか。


   『ねりま区報』 昭和60年4月1日号掲載
   桜台は、石神井川の桜と、千川の桜に囲まれた文字通り桜の町であったが、千川の桜は
   今はない。その千川の桜は、大正4年天皇ご即位を記念して、千川上水沿いの村々が桜
   や楓を7kmに亘って植樹したものである。また石神井川の桜は、昭和9年皇太子御誕
   生を記念して沿岸の有志が植えた。江古田から練馬まで、千川堤の桜は、玉川上水の小
   金井堤の桜に対して、「新小金井の桜」と呼ばれ、東京の新名所となった。
    昭和4年下練馬村から練馬町へ、さらに同7年市郡合併で、板橋区練馬南町の内2・
   3丁目となった。武蔵野鉄道開通(大正4年)からだいぶ遅れて昭和11年に駅ができ、
   桜の名所に因んで「桜台」とつけられた。旧下練馬村(今の北町の自衛隊付近)に桜台
   という小字があった。それもヒントになったという。
    同22年練馬区が独立した。初の区役所は開進第三小(桜台2丁目18番)講堂に置
   かれ、今も校庭にその記念碑がある。同28年頃から千川は暗渠化され、両岸の桜は、
   次々につぎつぎに伐られていった。
    同7年南町2丁目が地番整理で桜台1~3丁目となった。翌38年に決まったばかり
   の住居表示に関する法律で、南町3丁目が桜台4~6丁目となった。地番整理と住居表
   示が半分ずつの町も珍しい。桜台4~6丁目は同時に実施された練馬と共に住居表示の
   都内第1号である。
    広徳寺(桜台6丁目20番)は関東大震災で下谷から移ってきた。柳生三代をはじめ
   多くの大名墓があることで知られる。石神井川の畔に「お浜井戸」(同6丁目32番)
   と呼ばれる所がある。氷川神社(氷川台4丁目47番)の御神体が流れ着いた場所だと
   いう。3年に一度の春の大祭で、お里帰りの御神幸があり、ここで鶴の舞が行われる。
   高稲荷神社(桜台6丁目25番)の桜はその頃丁度満開である。
 


■清戸道の石柱 ◇

 桜台1丁目2番3号先の歩道の植え込みの中に、区教委の説明版と共に建っている。

   
清 戸 道

   清戸道と千川上水
   この前の道路を清戸道といいます。清戸道は練馬区のほぼ中央を東西に横断し、区内の延
   長は約15kmになります。東へ行くと目白駅を経て江戸川橋に至り、西へは保谷・新座
   ・東久留米を経て清戸(清瀬市)に達します。大正4年武蔵野鉄道が開通するまでは練馬
   ・石神井・大泉から市中へ出るのに、この道が最も近道でした。朝早く大根などの野菜を
   積んで町に向かい、昼過ぎには下肥を積んで帰ります。清戸道は練馬の農業にとって無く
   てはならない道でした。
   この辺は清戸道に沿って千川上水が流れていましたので、千川通りともいいます。千川上
   水は、元禄九年(1696)玉川上水より分水された上水道です。開鑿から10年後の宝
   永四年(1707)、上水沿いに20ヶ村の農民の願いで灌漑用水として利用することが
   許されました。用水の管理は、工事を完成させた功により代々千川家が当たりました。千
   川の水を引いた田は、1反(10a)について玄米3升(5.4ℓ)をを水料として千川家
   に差し出しました。千川の水の恩恵を受けた田は、全部で100町歩(100ha)にも
   及んだといいます。田に引いた分水の跡が、今も中村橋・桜台駅前・武蔵大学内・羽沢な
   どに残っています。昭和20年代の終わり頃から暗渠になりました。
   昭和60年3月                         練馬区教育委員会


■桜の碑

 桜台1丁目4番11号のコープとうきょうの前の歩道(千川上水暗渠上)にある。

   
桜の碑

   桜の記念碑
   この前の道を清戸道といいます。清戸道は練馬区のほぼ中央を東西に横断し、区内の延
   長は約15kmになります。東へ行くと目白駅を経て江戸川橋に至り、西へは保谷・東
   久留米を経て清戸(清瀬市)に達します。この辺りは清戸道に沿って千川上水が流れて
   いましたので千川通りともいいます。千川上水は、元禄九年(1696)江戸下町方面
   の飲み水として玉川上水より分水された上水道です。開通から十年後の宝永四年(17
   07)上水沿い20ヶ村の願いで、灌漑用水として利用することが許されました。用水
   の管理は、工事を完成させた功により代々千川家が当りました。千川の水を引いた田は
   一反(10a)につき玄米三升(5.4l)を水料として千川家に差し出しました。千川
   の水の恩恵を受けた田は、全部で百町歩(100ha)にも及んだといいます。田へ引
   いた分水の跡が、今も中村橋・桜台駅前・武蔵大学内・羽沢などに残っています。
    桜台という地名は、この千川上水沿いに植えられた桜並木に因んで付けられた駅の名
   前によったものです。記念碑は、このことを記念して地元の有志の方々が区に寄贈され
   たものです。
   昭和63年3月                        練馬区教育委員会
 


■桜台駅

 桜台1丁目4番にある西武池袋線の停車場。昭和11年7月10日開業。西武池袋線ではやや新し
い駅。終戦間際に一端営業が休止されたが、同23年4月1日に復活した。平成9年に上下線が共に
高架化され、現在の駅舎は平成11年に完成した。
 ホームは高架島式1面2線構造。ホームと改札階を結ぶエレベーターは完備されている。
 改札口は1ヶ所のみで、地上1階にある。出口は、北口と南口の2ヶ所。
 桜台駅は住宅街の間に無理やり造ったような駅で、外から見るとかなり窮屈な印象がある。駅前広
場のようなものは全くない。

 「愛と平和」 
撤去
 駅前にあった古賀忠雄作の幼児を右肩に乗せた男性裸像。222cm。平成5年設置。これは翌年に開園した平成つつじ公園に移設された。(※「歩いて見ました東京の街」による情報)
 


■新桜台駅

 桜台1丁目28番11号にある西武有楽町線の停車場。西武鉄道単独の駅では唯一の地下駅。昭和
58年10月1日の西武有楽町線新桜台~小竹向原間開業と同時にできた。練馬~新桜台間が開業す
る平成6年12月までの11年間は終着駅として、その間は営団からの片乗り入れだけで運転されて
いた。
 ホームは相対式2面2線構造で地下2階にある。ホームと改札階を結ぶエレベーターは、平成20
年4月に設置された。改札口は1ヶ所のみで、地下1階にある。出口は出口1~出口4の4ヶ所。地
上と改札階を結ぶエレベーターは、平成20年4月に出口3に設置された。
 新桜台駅は紛れもない西武鉄道の駅だが、構内の案内表示は東京メトロのものによく似ている。


■庚申塔

 桜台1丁目33番3号の角地にある。


■桜台児童遊園

 桜台1丁目46番10号にある区立公園。


■開進第三小学校

 桜台2丁目18番1号にある区立校。昭和6年校舎落成。同7年1月開進第一尋常小学校分校とし
て開校。同4月「東京府東京市開進第三尋常小学校」として独立。同9年校旗制定・校歌制定。

 校歌「
緑萌え立つ」 作詞・清水敏伯  作曲・渡辺浦人
  1.緑萌え立つ武蔵野に
    希望の泉 湧く所
    誠の心 一筋に
    足並み揃え 進み行く
    楽しき母校 その名こそ
    ああ開進第三小学校
  2.光溢れる学び舎に
    声高らかに響く歌
    清く明るく健やかに
    若き命を育て行く
    楽しき母校 その名こそ
    ああ開進第三小学校


 同16年勅令第148号国民学校令により「東京府東京市開進第三国民学校」と改称。同12月日
米開戦。同18年都制施行による。同19年学童集団疎開。同20年8月日本敗戦。
 同10月疎開解除により集団疎開児童帰校。同22年アメリカの強制による学校教育法施行により
「東京都板橋区立開進第三小学校」と改称。8月練馬区の独立により「東京都練馬区立開進第三小学
校」と改称。同57年鉄筋コンクリート造り校舎竣工(普通教室30、特別教室9)。創立50周年
記念式典。
 平成4年創立60周年記念式典。中華人民共和国北京市海淀区教育局長学校訪問。海淀実験小学校
との友好校取り決め。同14年開校70周年記念式典。

 
埼玉道碑
 正門脇の植栽の中にある。

   埼玉道
   埼玉道は、清戸道(千川通り)を江古田駅の南、二又で北西に分かれて、埼玉県の戸田市
   方面に至る道です。二又は下練馬・上板橋・中新井の三か村の境界でした。
   二又から西武池袋線の踏切を越えると間もなく庚申塔があります。明和二年(1765)
   羽根沢の人たちが造立したものです。さらに環七通りを過ぎ、開進小学校脇を北に進むと
   正久保橋に出ます。新道は橋を渡り北西にまっすぐ伸びていますが、旧道は東へ迂回して
   光伝寺脇へ出ます。光伝寺には昔の正久保橋の親柱が保存されており、石橋を架けて村人
   の労苦を救った僧教海の功績を今に伝えています。道は旧下練馬村の鎮守氷川神社の北を
   回り、再び新道に出ます。途中右手に宝永二年(1705)の庚申塔や正徳三年(171
   3)の地蔵菩薩像が見えます。
   新道は開進第一小学校の南で旧下練馬道と交叉し、さらに直進して丸久保で大山街道と交
   わります。傍らに道しるべを兼ねた馬頭観音が建っており「高田二里 ぞうし賀や二里」
   と彫ってあります。これまでの道を逆に辿ると高田・雑司ヶ谷へ着き、別名高田道と言っ
   て雑司ヶ谷鬼子母神への信仰の道でもありました。
   埼玉道は、旧上・下練馬村の境(北町と田柄の境)を北へのぼり、川越街道を渡って下赤
   塚から荒川早瀬の渡しへ出ます。渡しを越すと埼玉県です。埼玉道と呼ばれる所以です。
   平成21年3月                         練馬区教育委員会


 
開進第三小学校碑
 正門脇の植栽の中にある。校号標なのかもしれない。隣に練馬区独立記念碑がある。


■練馬区独立記念碑・練馬区役所発祥の地

 桜台2丁目18番1号の開進第三小学校の正門脇の植栽にある。東京に〝区〟が制定されたのは、
明治11年のことで,都心部に15区が定められ、この範囲が「東京市」、区部の外側は「東京府」
となった。この時は、現在の千代田・中央・文京・台東及び新宿区などの一部が含まれていて,麹町
区・麻布区・神田区・日本橋区など、現在よりも細かく区分されていた。昭和7年になり、周辺町村
が編入されて新たに20区が定められて35区となり、その範囲は現在の23区とほぼ一致する。昭
和18年になると、東京市および東京府は統合されて「東京都」となった。
 戦後、昭和22年5月に35区は再編されて22区となったが、面積が広く人口が急増しつつあっ
た板橋区は2分割されることとなり、8月に「練馬区」が誕生した。これによって現在の東京23区
の形が完成した。
 新しく発足した練馬区はこの地に臨時の区役所を設け、2年後の昭和24年に、現在地(練馬区豊
玉北6丁目=ここから南西に約2km)に新しい区役所を新設して移転した。
 この碑は、以前校庭にあった。その頃は隅切り(角の面取り)はしてなかった。また上の日時計も
小さな物だった。

   
練馬区独立記念碑
   
練馬区役所発祥の地

   練馬区は昭和二十二年八月一日板橋区より分離
   独立しこの地に練馬区役所を設けた

   昭和二十二年十月議員三十六名による第一回の
   練馬区議会がこの地において開催された

   ここに練馬区独立三十周年を記念しこの碑を建
   立する
              昭和五十二年八月一日
               練馬区長 田畑健介


 傍らの説明板。

   練馬区は昭和22年8月1日に板橋区から分離独立し、この地に練馬区役所を設けました。
   この記念碑は、和52年に練馬区立開進第三小学校の校庭に練馬区独立30周年を記念し
   建立されたものですが、練馬区独立60周年を機に東側道路面に移設し、広く区民の皆様
   に親しんでいただくことにしました。
   平成19年8月1日                            練馬区
 


■桜台かしのき緑地

 桜台2丁目46番10号にある区立公園。


■しいのみ公園

 桜台2丁目49番5号にある区立公園。


■くまのやま緑地

 桜台3丁目6番1号にある区立公園。


■熊野稲荷神社(林稲荷神社)

 桜台3丁目16番3号にある小社。入口が固く閉ざされていて詳細不明。豊玉北1‐7に由緒ある
「林稲荷神社」がある。創建の時期や由緒等は明らかでない。土地の古老の話によると、相当に古く
から在ったらしく、地元では熊野稲荷神社とも呼んでいる。明治の中頃、桜台3-18に分社され二
つに分かれたが、今は元のように現在地に祀られている。
 石造物で古いものは、明治34年、38年の鳥居である。境内は周囲をブロック塀で囲み施錠され
ている。昔は、二月の初午には、おびしゃの祭りが執り行われていた
 


■開進第三中学校

 桜台3丁目28番1号にある区立校。同22年都立第四商業高校を仮校舎に「東京都板橋区立開進
第三中学校」として開校。後援会結成。校舎建設期成会結成。8月練馬区独立により「東京都練馬区
立開進第三中学校」と改称。10月練馬区江古田1875番地に校地決定。同23年校舎落成。練馬
東中学校と共に移転。同24年後援会をPTAに改組。同校舎建設期成会結成。増築工事竣工(3教
室)。同25年練馬区南町2‐39‐11に校地決定。同26年木造校舎落成(北棟10教室)。移
転。同27年第一次校舎増築。同28年第二次校舎増築。同29年第三次校舎増築。同31年第四次
校舎増築。同32年体育館兼講堂竣工。創立10周年記念式典。同34年校庭舗装(NC式)完了。
同35年仮校舎落成(運動場に6教室)。同37年鉄筋コンクリート造り校舎(普通教室4、特別教
室4)落成。プール完成。同42年創立20周年記念式典。同47年鉄筋コンクリート造り校舎(6
教室)落成。同48鉄筋コンクリート造り校舎落成(全校舎鉄筋コンクリート造り校舎となる)。同
50年「弱視教室」開級。同52年創立30周年記念式典。同57年新体育館兼講堂完成。同58年
LL教室開設。同59年中庭完成(いそしみの庭)。同60年韓国教育視察団来校。同61年創立4
0周年記念式典。
 平成元年中庭・擁壁緑化。窓枠サッシ取替。音楽室改修。同2年中庭「希望の庭」と命名。同3年
パソコン教室開設。同9年「希望の庭」50周年記念植樹。同9年創立50周年記念式典。同10年
「心の教室」開設。創立50周年記念同窓会総会。中央トイレ洋式化。同12年「第二音楽室」改修
完了。同14年正門横ヒマラヤ杉を伐採し、新しいヒマラヤ杉植樹。同15年普通教室扇風機設置。
同16年西トイレ洋式化。給食室増築。同18年中央校舎耐震化。同19年中央トイレをドライ方式
化。創立60周年記念同窓会総会。創立60周年記念式典。同21年西校舎新築。体育館耐震化。校
庭大規模改修。

 校歌「
薫る若葉の」 作詞作曲不詳
  1.薫る若葉の丘の上に
    花は匂いて紫の
    勤しみの庭 高らかに
    自主の鐘は鳴り響く
    香りぞ高き開進三中
  2.若き命の曙に
    希望の光 輝きて
    心育み学び行く
    吾等が行く手 いや照らす
    いざ伸び行かん開進三中
  3.一日省み憩う時
    胸は踊りて明日を待つ
    学びの契り千載に
    交わり行かん我が友よ
    床しき母校 開進三中
 


■桜台体育館

 桜台3丁目28番1番に開三中の体育館と並んである区の施設。


■杉の子児童遊園

 桜台3丁目34番11号にある区立公園。


■三丁目森公園

 桜台3丁目39番20号にある区立公園。子供が多い。


■桜台ふじ公園

 桜台4丁目21番12号にある区立公園。


■庚申塔

 桜台5丁目2番9号ハイムマキの角地塀際に石塔が4基並んでいる内の右から2番目と一番左。4
基とも花が飾ってあるので見捨てられてはいないのだろう。

 板状駒型庚申塔
 日月・青面金剛像・邪鬼・三猿・二鶏。「延享二己丑天」(1745)、「下練馬湿化味村」「願
主 小泉権右衛門」「九月吉日」「講中 拾壱人」

 板状駒型庚申塔
 道標を兼ねる。日月・青面金剛像・三猿。「寛政九丁巳年十月吉日」(1797)「右 荒井梅松
院道」「左 雑司ケ谷道」「世話人 四郎右衛門」「講中 九人」と刻む。因みに「荒井梅照院」は
「新井薬師」のこと。


■開進第二小学校

 桜台5丁目10番5番にある区立校。明治5年下練馬村192番地の松山為三郎が私塾「梅堂(松
山塾」を開業。同11年東京府北豊島郡下練馬村となる。同19年東京府北豊島郡下練馬村宿化味所
在の私立松山小学校(明治7~19年)を「開進尋常高等小学校分教場」として開設(1教室複式)。
同44年同村西原5684番地(現在地)に校舎を新設(2教室複式)。
 大正3増改築して3学級編成。同11年2教室増築4学級編成。同14年2教室増築6学級編成。
 昭和2年6教室にて8学級編成。同3年校地として6745.7㎡を借り入れ、その後買収。「東京
府北豊島郡下練馬村開進第二尋常小学校」として独立。区内9番目の開校、14教室でスタート。正
面校舎木造2階建て尋常小学校5年までを収容(11学級編成)。同4年校歌制定。町制施行により
「東京府北豊島郡下練馬町開進第二尋常小学校」と改称。

 同6年校舎増築。同7年東京市の周辺郡部併呑により板橋区練馬南町となり、「東京府東京市開進
第二尋常高等小学校」と改称。同8年創立5周年記念式典。同13年創立10周年記念式典。同16
年勅令148号国民学校令により「東京府東京市開進第二国民学校」と改称。9月北側及び南側校舎
増改築(教室5・衛生室)。12月日米開戦。同18年都制施行により「東京都開進第二国民学校」
と改称。同19年学童集団疎開。同20年8月アメリカの軍門に降り日本敗戦。
 同10月疎開解除により学童帰校。同21年不定期に給食。同22年アメリカの強制による学校教
育法施行により「東京都板橋区立開進第二小学校」と改称。開進第二中学校、本校を仮校舎として開
校。10月練馬区独立により「東京都練馬区立開進第二小学校」と改称。PTA創設。同23年創立
20周年記念式典。中庭松生け垣完成・児童文庫誕生・各教室のスピーカー設置。同24年満2ヶ年
校舎を貸与した開進第二中学校が新校舎に移転。2部授業の解除。同25年完全給食。同26年北側
校地拡張(1997㎡)・新設調理室完成・北側新設運動場完成。同27年南町小学校を分校。児童
538名移籍。同33年創立30周年記念展覧会開催。同34年30周年と講堂落成記念式典。北側
校地拡張(1262㎡)。同38年桜台に地名変更。同39年第一次鉄筋コンクリート造り3階建て
校舎落成(普通教室6、理科・音楽・図工室)。同40年第二次鉄筋コンクリート造り校舎落成(普
通教室1,家庭科・図書室)。同41年第三次鉄筋コンクリート造り校舎落成(普通教室4、保健室
・給食調理室)。同43年第四次鉄筋コンクリート造り校舎落成(普通教室4、職員室・校長室・用
務員室)。同44年木造校舎完全撤去。第五次鉄筋コンクリート造り校舎落成(普通教室3)。創立
40周年・校舎改築落成記念式典。プール完成。同46年鉄筋コンクリート造り校舎落成(普通教室
5)落成。同47年第七次鉄筋コンクリート造り校舎落成(普通教室3)。同49年防球ネット・校
庭スプリンクラー設置。同50年東側防球ネット設置。同53年創立50周年記念式典。同62年窓
枠全面サッシ化。同63年創立60周年記念式典。
 平成2年校庭全面改修。同4年ゆとり教室改修(和室・会議室・視聴覚室・家庭科室・図書室・校
長室・第二音楽室)同5年校庭緑化。観察池完成。同6年体育館に木彫りの校歌設置。FF暖房機
設置。同10年創立70周年記念式典。同12年パソコンルーム開設。同20年創立80周年記念式
典。
 


■小林家住宅

 桜台5丁目11番5号にある民家。昭和27年に建てられた丸太小屋風の瀟洒な木造2階建ての洋
式住宅。屋根は石板を鱗状に葺いている。外観は半割丸太を用いた外壁化粧、急傾斜と緩傾斜を巧み
に組み合わせた屋根、筋交いを化粧に見せるなどして山小屋風な建物を特徴付けており、内部も贅を
尽くした山小屋風、田舎風の造りとなっている。
メルヘンチックで女性好みの住宅だ。まぁステキ! 


■ジダ公園

 桜台5丁目22番19号にある区立公園。


■庚申塔 
移転
 桜台5丁目31番2号にあったが、土地売却により高稲荷公園に遷された。当該説明板では、「桜
台5‐43」にあったとあるが、像容からしてここのものである。練馬区教育委員会編「庚申塔」で
はここから移したと記してある。
 板状駒型、青面金剛像。「奉造立庚申待成就所」「干時元禄二天己巳二月十七日」


■庚申塔 ◇

 桜台5丁目39番7号の木造アパート(コーポよこやま)の角地に2基ある。板状駒型。日月・青
面金剛像・三猿・二鶏。「奉待庚申供養塔」「安永九庚子歳二月吉祥日」(1780)と刻む。


■石地蔵 ✓

 桜台6丁目17番13号の角地にあった。大きな地蔵1基、小さい地蔵3体。小さい地蔵3体は一
つの石に彫られている。当該番地には見当たらない。


円満山広徳寺

 桜台6丁目20番19号にある臨済宗大徳寺派の寺院。20000坪の敷地は、東京の寺では最大
級だ。現在の規模では浅草寺が約30000坪でトップ。それに次ぐ。その次が芝増上寺の1600
0坪だからその大きさが判ろうというものだ。
元は元亀・天正の頃(1570~91)箱根湯本早雲
寺の末寺として小田原に創建されたが、
天正十九年(1591)希叟和尚の時、家康に招かれて江戸
神田に移り、寛永十二年(1635)下谷(台東区役所の一帯)に大伽藍を建立した。当時は増上寺
・吉祥寺・本願寺とともに江戸の大寺として朱印100石の格式を誇った。
 大正12年関東大震災後、最初塔頭の円照院と墓地が移り、それを別院とした。昭和27年桂徳院
が移って来、同46年意を決して別院の円照院を秩父両神村に移した上、広徳寺も移って、旧前田侯
爵邸の書院や茶室が移設された。同50年代初めに本堂を修復、平成2年開山明叟和尚400年忌を
記念して庫裏・位牌堂を建て替え、現在の佇まいとなった。堂塔伽藍悉く改まり、名にし負う総門も
変わったが、

   広徳寺日本一の大旦那(川柳)

 と謳われた広大な20000㎡もの卵塔場はそっくりそのまま移された。墓地には加賀前田家、会
津松平家、剣法柳生真陰流宗矩父子の柳生家、筑後柳川城主立花宗茂の立花家、そのほか日向秋月家、
小笠原家、小出家、小堀家、織田家、横山家など近世大名20余家と近衛家の墓がある。一般に江戸
時代の墓の多くは指定文化財だ。ところがこの寺の墓にはそれが無い。入口に「拝観お断り」の冷た
い文字。寺では、文化財指定の話はあるが一般公開しなければならなくなり、墓所や寺が荒れるので
断っているとのこと。一つの卓見だ。さすが坊主! しかし公開している寺で墓所が荒れている寺は
ない。管理不行き届きで、新しい墓を隙間があれば詰め込んでいるという大雑把な大寺院はある。1
人で行って丁重に依願し、拓本など採らないという礼儀を弁えれば、坊主とて人の子、優しい心にな
らぬでもないぞ。
格式の高い大名寺。そんじょそこいらの寺院と一緒くたにしちゃあいけねえよ。こ
この坊主は実は鼻の高い天狗なんだ。

 境内の庭はとても美しく5月にはボタンの花が咲く。また一般の方を対象とした精神的修業の暁天
(早朝)坐禅会を毎週行っている。境内に6基の石仏がビッチリ並べてあるが、何故か半分埋められ
ている

   臨済宗大徳寺派
   
円満山廣徳寺(広徳寺)
   北條氏政の子、岩槻(埼玉県)城主太田氏房が明叟和尚を小田原に招き、早雲寺の子院と
   して開山したのが創建で、小田原城落城(1590)の際、焼失したと伝えられています。
   その後、徳川家康が二世希叟和尚を江戸神田に招き再興しました。寛永十二年(1635)
   には下谷に移り、加賀前田家をはじめ諸大名を檀家とする江戸屈指の大寺院となりました。
   しかし関東大震災で寺域は焼失し、その後の区画整理のため、大正14年からこの地に墓
   地を移し別院としました。昭和46年には本坊も移し、平成2年の開山明叟和尚四百遠年
   諱を記念して、庫裡、位牌堂を建て替え、現在のたたずまいとなりました。
   墓地には、剣法の指南役として有名な柳生宗矩、三厳(十兵衛)父子の墓や将軍家茶道指
   南役で庭園築造にも事蹟のあった小堀遠州の墓(茶人らしい笠付棗形の墓石)があります。
   三厳と遠州は沢庵禅師を通じて禅にも深い理解がありました。
   その他、文禄・慶長の役で活躍した立花宗茂や、江戸時代の詩人菊池五山、菊池秋峯、大
   内熊耳など、大名、学者、文人の墓所が数多くあります。
   ここは禅の修行場でもあります。
   平成7年6月                          練馬区教育委員会

 この寺は台東区役所のところにあった。 

 
短脚の総門
 江戸時代、「びっくり下谷の広徳寺」「如何した門だよ広徳寺」と軽口を叩かれたのは、その寺門
にある。この寺の総門は見てくれが立派でも大きい訳でもない。屋根構えが大きく柱が短い、何とも
頭でっかちな違和感の強い門構えだったのだ。しかし火事と喧嘩が花のお江戸にあって300年近く、
一度も火災に遭わなかったという奇跡を持つ。伝説によれば、加賀の前田家が総門を寄進するに当た
り、浅草諏訪町の大工政五郎に普請方を依頼した。この時政五郎は内職(うちしょく)の左甚五郎に
設計を命じたが、折悪しく「父危篤」の報が入ったため、急遽帰国してしまった。その留守中弟分の
職人が柱寸を1尺短く設計図に描いたので、見栄えの悪い門が出来上がったという次第だ。面目を失っ
た政五郎は責任を取って自殺したという。話はまだこれからだ。
 その後元禄の頃(1688~1704)上野寛永寺の輪王寺宮が浅草観音に赴く途中、
この門を見
て「何とも不思議な門よ」と訝り供の者に謂れを尋ねた。供が伝聞を答えると、「何も死ぬことはな
かった」といい、次のような話をされたという。
 「昔、平安京を造営している時、都の正門である羅生門を検分された柏原院(桓武天皇)が『高す
ぎるから一尺切り詰めよ』と命じた。その後再び巡った時、院は『以前一尺つめよと命じたが足りな
かった。一尺五寸というべきだった』と後悔された。この時杢工頭(もくのかみ)は、申し訳なさそ
うに下を向き、『実はあの時、一尺つめよと伺いましたが、それでは余りに低くなりすぎると思い、
独断で五寸しか詰めませんでした」と吐露した。すると院は「この都の地勢では風当たりが強かろう
から、できるだけ低目に抑える方がよいと思うのだ」と呟かれたが、時遅し既に落成してしまってい
た。果たせるかな門はその後強風に煽られて三回も倒壊した。思うに江戸も南は海、北は山が遠く四
辺風が強い、人家が多いので定めし火事の憂いが起こるだろう。その点このように屋根を低く作った
のは、むしろ風避け火除けの名作とというべきなのだ」
 羅生門が三回倒れたかどうかは判らないが、延暦十四年(795)完成間近の平安京が大風を受け
て殆ど倒壊したことは記録にあり、桓武天皇が長大息しことが土台にあっての話ではあろう。広徳寺
の門が燃えなかったことについては、火事の度に屋根の隅の亀瓦が水を噴いて火を移さなかったとか、
前田家の消防隊「加賀鳶」が守ったとか、それなりの防火の配慮があって燃えなかった。運だけでは
ないのだ。残念ながら関東大震災では持たず焼失してしまった。現在の総門はコンクリートの柱が2
本だけ。再建してくれぇー

 菊池五山の墓
 江戸時代後期の漢詩人。菊池寛は傍系の子孫。

 立花宗成の墓
 戦国時代の武将で、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての大名。大伴氏の一族で重臣。陸奥棚
倉藩主主、築後柳河藩の初代藩主。関ヶ原の戦いで改易後、大名として復帰した武将は多くいるが、
旧領に復帰した武将は宗茂ただ一人のみ


■桂徳寺
 広徳寺と同じ敷地内にあり、慶長七年(1602)滝川壱岐守正利が滝川下総守雄親の菩提所とし
て建立した広徳寺塔頭の一つ。禅の修行場で墓地はない。ふりかえ地蔵の石碑がある。こじんまりし
た寺だ。
 


■高稲荷神社

 桜台6丁目25番7号にある。祭神は保食命。昔神社の下の公園のところは薄暗い大沼で、そこに
大蛇が棲んでいた。秋になると紅葉が美しく、遠方から人々が紅葉狩りにくるほどだった。この近く
の旧家篠家の若者も、釣竿を担いで毎日のように魚獲りにやってきた。実はそれは口実で、紅葉狩り
に来る美しい娘に会うためだった。ある日その娘がいないので、心落ち着かなくなってうろうろ徘徊
していると、沼の奥の方に佇んでいる娘を発見、我を忘れて駆け寄ると、慌てていたためか足を取ら
れて沼に落ち、溺死してしまった。村人たちは若者が大蛇に見込まれて沼に引きずり込まれて命を落
としたと考え、その霊を慰めるために祀ったのがこの高稲荷だと『練馬区史』はいう。そのため土地
の人は、高稲荷の周辺だけは動・植物の保護をしてきたということだ。昔の人は頭がいいね。こうい
う言い伝えを拵えて自然保護をやったんだ! 由緒は詳らかではないが、古来「高稲荷」と称して土
地の農民が崇敬してきた。「北豊島郡神社誌」に

   崇敬者、練馬町字南北二軒在家ノ字、五十戸

 とあり、境内の「社殿新築記念の碑(昭和56年)」には、

   
高稲荷神社は文政五年(1822)の頃より下練馬村三軒在家の守護神として尊栄頗る篤
   いものであったが・・・


 と記されている。境内の石造物で古いのは、社殿前の嘉永六年(1853)の鳥居だ。社殿は昭和
 55年の新築で、その記念の碑と並んで建つ「社殿改築記念碑(昭和6年)」が半世紀近くの経過
を語っている。境内にある樹木は、その殆んどがサクラである。前記昭和6年の社殿改築記念碑が、

   
神域内の桜の古木と共に附近一帯は近郊における桜の名所として訪れる者が極めて多い

 と記しているのが頷ける。

 
 林昭三作の中学生くらいの少女像。160cm。昭和61年10月16日設置。


■お浜井戸

 桜台6丁目32番1号にある公園のように整備された空地。入口にはプラスチックの鎖がかけてあ
るが、跨いで入れぬことはない。玉砂利が敷いてあるだけで、ベンチがある訳じゃなし、入る謂れが
ない。現在の氷川台氷川神社の神体が石神井川を流れてきたのを、拾って祭った最初の地であるとさ
れている。その後神体は氷川神社の地に移され、このため、春の祭りには「お里帰り」の神事が行わ
れている。お浜井戸の石柱と氷川神社発祥之地の碑がある。

   氷川神社の由来
    古老口碑に御花園天皇の長禄元年に、渋川義鏡が足利成氏との戦に向かう途中 此処石
   神井川の急流に出会ふ。淀む処に泉 渾々として湧出る水際の井戸、即ち御浜井戸と称す
   暫く兵士を休めてその傍に祠を建て須佐之男尊を祀り九月五日武運長久を祈る この流水
   を水田に用い一帯を良田となす 近郷の農家の崇敬の的となり親しまれた。後、海老名左
   近住するに及び観世音を安置せる観音山 即ち今の地に遷さる 霊験あらたか 五十一宇
   の総鎮守となる。現今祈年祭に合せて毎年四月九日 祭神の御里帰りと称し、神社より此
   処え神輿渡御が行われる。行列は神幸旗を先頭に五色の吹流し 太鼓の響にのって氏子の
   人等の道中歌、此処に神輿を奉安し 獅子の舞で祓い清め 子孫繁栄五穀豊穣を祈る雌雄
   二羽の鶴の舞が行われ その夜神社で田遊びの行事が行われる由緒ある処です。
   昭和四十七年四月吉日


 ※文中の「御花園」は「後花園」の誤記と思われる。御花園天皇という天皇は存在しないし、長禄
年間の天皇は後花園天皇だからだ。
 「おはま」が、地名なのか、人名なのか不明。川っ淵という意味の浜で、尊敬冠詞の「御」を付け
て「御浜」と呼んだものと推量する。


■高稲荷公園

 桜台6丁目40番1号にある区立公園。


 庚申塔
 桜台6丁目40番1号高稲荷公園の北側、川沿いの道に面して道路側に向いて建ててある。

   庚申塔
   この庚申塔は、かつて埼玉道から現在の新桜台駅辺りで分岐して北西に伸び、石神井川の
   大橋を渡ってふじ大山道へ至る旧道の辻(桜台5‐43)に所在しました。
   正面中央に青面金剛立像が浮彫りされ、上部に青面金剛を表わす梵字「ウーン」が刻まれ
   ます。向かって右側に「奉造立庚申待成就所」、左側に「于時元禄二天己巳二月二十七日
   両脇に「敬白」、下部に8人の氏名が刻まれます。元禄二年(1689)二月二十七日に
   8人が庚申待の成就を記念して造立した庚申塔であると考えられます。
   平成26年3月                         練馬区教育委員会

 旧位置が、練馬区教育委員会編『庚申塔』では「桜台5‐31」とある。

 「道」
 園内にある林昭三作の少女像。屋外彫刻。昭和61年10月16日設置。
 


【下石神井】(しもしゃくじい)1~6丁目              昭和48年8月1日
 下石神井村。明治11年「郡区町村編制法」により北豊島郡に所属、同22年「市制町村制」に
より石神井村大字下石神井となる。昭和7年北豊島郡が東京市に編入され板橋区下石神井1~2丁
目。同22年板橋区から分離した練馬区に所属。同48年新住居表示により南田中町と境界整理を
して、下石神井1丁目の大部分の町域を現行の「下石神井」とした。 
 4丁目に岩崎ちひろの自宅を改装した「ちひろ美術館・東京」がある。彼女の柔らかでほのぼの
としたタッチの絵は心を和ませる。今でもちひろファンは多い。旦那が共産党の松本善明。安曇野
にも美術館がある。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『練馬区史』『練馬の歴史』など。

 下石神井のについて
 町名は下石神井村の名を継承した。石神井の由来は、【石神井町】に記載。


   『ねりま区報』 昭和60年4月21日号掲載
    江戸時代以前の下石神井村は上石神井村と一つの郷であった。上下二つの村に分かれ
   るのは、正保年間(1644~8)に書かれた『武蔵田園簿』からである。そのころ幕
   府の命令で、大きな村は二つに分割された。上、下練馬村も同じである。
    明治維新で東京が首都となった。鉄道も東京へ向かって上りというようになった。そ
   れ以前は京都が中心だったので、京から江戸へは下りであった。品物も京からの「下り
   物」は高級品で、江戸で出来る品は〝くだらない〟物であった。地名の付け方も京に近
   い方が上(かみ)、遠い方が下(しも)である。石神井や練馬でも西が上、東が下であ
   る。明治22年町村制施行で石神井村大字下石神井となり、昭和7年、板橋区成立で下
   石神井1、2丁目となった。2丁目は石神井川より北、今の石神井町である。1丁目は
   同48年旧南田中町の一部を合併して、住居表示が実施された。歴史的な地名、下石神
   井は健在である。天祖神社(下石神井6丁目1番)境内、延宝二年(1674)の庚申
   塔に「石神井郷神明村」と彫ってある。この辺を俗に神明村と呼んでいたらしい。天祖
   神社は昔、神明様といっていた。御嶽神社(下石神井4丁目34番)は明治から大正に
   かけて、区内で盛んだった御嶽信仰の佇まいを残している。
 


■向三谷緑地

 下石神井1丁目1番16号にある区立公園。


■下石神井ふれあい緑地

 下石神井1丁目3番9号にある区立公園。


■向三谷公園

 下石神井1丁目3番39号にある区立公園。


■庚申塔・馬頭観音 ◇

 
下石神井1丁目9番3号本橋家の東南角地にある。丁度住宅公園の真北だ。

 庚申塔
 板状駒型浮彫。日月・青面金剛像・邪鬼・三猿、「庚申」「元禄十三天」「十月廿八日」「下石神
井村 施主本橋権左衛門」「同行十二人」

 
馬頭観音
 舟型後背型。馬頭観音像。
右「□~□音二世安楽□」「願主 本橋□~□」、左「宝永三丙戌天十
一月廿五日」「施主 □人」


■下石神井一丁目緑地

 下石神井1丁目9番13号にある区立公園。


■石神井南中学校

 
下石神井2丁目7番23号にある区立校。昭和36年「東京都練馬区立石神井南中学校」として開
校。同38年屋内運動場(体育館)完成。同44年北校舎増築。同45年プール完成。同54年南が
丘中学校分校。同63年LL教室・視聴覚室・図書室完成。
 平成4年パソコンルーム開設。同13年創立40周年記念式典。同14年図書室移設。同16年正
門改修。同18年体育館耐震化。

 校歌「
緑輝く」  作詞作曲不詳
  1.緑輝く武蔵野の
    泉の辺 花清く
    心豊かに学び行く
    母校吾等の石南中
     友情の輪を高らかに
     結び掲げるその時に
     空に香し虹の橋
  2.茜の空に富士映えて
    緑の翼 より高く
    理想の道は厳しくも
    フェニックスのそのように
     真実求め進み行く
     若人吾等溌剌と
     大地に溢れる自主の歌
    ああ栄光永遠に
    石神井南中学校
 


■下石神井小学校

 
下石神井2丁目20番18号にある区立校。昭和46年石神井小学校内に「東京都練馬区立下石神
井小学校」として開校。児童690名でスタート。6月1日新校舎(現在地)に移転。同47年プー
ル完成。同48年体育館完成。校旗樹立・校歌制定。

 校歌「
輝く緑」 作詞・熊谷郁夫  作曲・平井康三郎
  1.輝く緑 満ち溢れ
    躑躅の花も香しい
    心豊かに健やかに
    若き命は伸びて行く
    元気一杯 今日もまた
    楽しく学ぶ下石神井よ 吾等が母校
  2.青空遠く富士仰ぎ
    高き望みを誓い合う
    明るく清く逞しく
    若き命は伸びて行く
    元気一杯 明日もまた
    楽しく学ぶ下石神井よ 吾等が母校


 同49年校舎増築(普通教室2・図工室・視聴覚室・図書室)。同50年岩石園(教材園)完成。
同51年創立5周年記念事業(航空写真撮影・写真展・地域の資料目録・全校写生会・5年の記録)
同56年創立10周年記念式典。同63年体育館天井・校舎のアスベスト撤去。
 平成3年創立20周年記念式典。同5年校庭緑化。FF暖房設置。同9年防災天井設置。同10年
コンピュータルーム開設。同12年パソコン設置。プール改修。同13年全教室ドア改修。コンピュ
ータルームにエアコン設置。インターネット開始。創立30周年記念式典。同14年体育館耐震化。
同16年校庭整備・スプリンクラー設置。同17年全教室扇風機設置。同20年全教室にエアコン設
置。


■法音寺東京支院
 下石神井2丁目36番20号にある日蓮宗の寺。
鉄筋コンクリート造りの建物はまるで体育館のよ
うだ。入り辛い雰囲気がある。境内に子育鬼子母神堂がある。


■下石神井坂下公園

 下石神井3丁目4番12号にある区立公園。

 
所沢道道標
 園内の道路側に標石柱と区の説明板が建ててある。

   
所 澤 道

 区の説明板は以下の通り。


   
所沢道
   所沢道は、八成橋で杉並区から練馬区に入ります。禅定院前で向きを西に変え、道場寺・
   三宝寺を通って、富士街道を横断した後、南大泉を経て、保谷市に入り、所沢へと通じて
   います、概ね今の早稲田通りです。
   「新編武蔵風土記稿」では、この道のことを、単に「所沢ヘノ道」と記してあり、はっき
   り「所沢道」と書かれたのは、「石神井村誌」(大正4年)が初めてです。
   関東大震災後、都市計画により名称が「昭和通り」となり、大部分の区間で拡張工事が行
   われましたが、禅定院から石神井小学校の間には、今も所々に旧い道が残っています。
   八成橋には谷原長命寺の道標があります。江戸の文人太田南畝が、「石神井三宝寺遊記」
   で歩んだ道であり、大泉・石神井から江戸方面への産業の道であったと共に、江戸からの
   参詣・行楽の道でもありました。
   昭和59年3月                         練馬区教育委員会


 文中の「早稲田通り」は現在の「旧早稲田通り」、太田南畝は、「太田蜀山人」であり、「四方赤
良」でもある。



■和田前憩いの森

 下石神井3丁目25番にある区立公園。


■下石神井千川児童遊園

 下石神井4丁目4番1号にある区立公園。


■いわさきちひろ絵本美術館 → ちひろ美術館・東京

 
下石神井4丁目7番2号にある市立美術館区立校。昭和51年いわさきちひろ記念事業団設立。同
52年いわさきちひろ絵本美術館開館(初代館長飯沢匡)。同53年いわさきちひろ絵本美術館を博
物館登録。同56年B棟増築。同58年C棟増築。新館開館。同60年東南側に庭を拡張し四阿(東
屋)を建築。同62年エントランスと前庭を拡張新設。
 平成7年飯沢館長死去により2代目館長に黒柳徹子就任。安曇野ちひろ美術館開館。同9年「ちひ
ろ美術館」に改称。開館20周年。同13年新ちひろ美術館建設着工。同14年開館25周年を記念
して新ちひろ美術館開館。同19年開館30周年。

 いわさきちひろ
 本名は松本知弘(旧姓岩崎)。共産党国会議員松本善明の妻。福井県武生市出身の画家・絵本作家
だ。初期の作品には、岩崎ちひろ・岩崎千尋・イワサキチヒロ名義で発表された作品がある。恵まれ
た家庭に生まれた知弘は三姉妹の長女。東京府立第六高等女学校(都立三田高等学校)に進学、2年
生の時、母の勧めで岡田三郎助の門を叩き、デッサンや油絵を学び、朱葉会の展覧会で入賞を果たし
た。卒業後岡田の美術学校に進まんとしたが、母の反対で第六高女の補習科に進んだ。18歳の時コ
ロンビア洋裁学院に入学し、小田周洋に師事して、藤原行成流の書を習い始めたが、ここでも忽ち才
能を発揮し、小田の代わりを務めることもあった。20歳の時、親の勧めで婿を取ったが、夫を好き
になれなかった。夫の勤務地だった満州に渡るも夫は自殺、二度と結婚しないと心に誓う。帰国した
知弘は、中谷泰に師事して油絵を習い始め、小田に再び書を習う。
 戦後、共産党の考えに心を動かされ入党。
上京して人民新聞社の記者となる。日本共産党宣伝部芸術学
校に入り丸木俊に師事。
同24年画家として自立。同25年松本善明と出会い意気投合して結婚。
長男猛を設けるも、多忙のため長野に移住していた両親に預け、10時間もかけて通った。同25~
30年頃のちひろは油彩画も多く手がけており、仕事は広告ポスターや雑誌、教科書のカットや表紙
絵などが主だった。昭和27年下石神井の現在地に自宅を建てる。この頃に始まるヒゲタ醤油の広告
の絵は、殆ど制約を受けずちひろに自由に筆をふるわせてくれる貴重な仕事で、同29年には朝日広
告準グランプリを受賞。ヒゲタの挿絵はちひろが童画家として著名になってからも凡そ20年間続い
たという。同49年死亡。
 


■あざみ児童遊園

 下石神井3丁目20番15号にある区立公園。


■下石神井の馬頭観音 ◇

 下石神井4丁目28番12号、千川通り沿いの塩谷ビルの左角にある小堂。旧位置よりは東へ数1
0m移動している。今は無い追分(三叉路)に建ててあった。

   
南無馬頭観世音


■下石神井憩いの森

 下石神井4丁目30番にある区立公園。


■御嶽神社

 下石神井4丁目34番9号にある中社。創立年代は不詳だが文化・文政年間(1804~30)と
推定される。その頃木曽御嶽講に入った石塚平左衛門が分霊を祀ったのが始まりといわれる。その後
先達を務めた石塚忠明は、大正2年東京一山講社を組織し、御嶽登山50余回、講員は千八百余名に
達した。中座の地位を与えられ一山忠明教会を創立した。
 境内石造物はすべて明治以後のもの。明治19年の一山霊神三十七年祭碑が最も古い。社殿は明治
39年に本殿新築と拝殿の修補を行い(本殿基礎台石)、社殿改築は大正7~9年大。震災後の社殿
再建は拝殿の額に大正13年とある。なお本殿建築の棟梁本橋治郎右衛門は、後に明光治輝霊神とさ
れている。社殿の随所に十六弁菊花紋が使用されているが、その由緒は不明。御嶽神社燈籠奉納記念
碑(明治38年)、土留石奉納記念碑(明治39年)、御嶽神社奉納金壱百円也碑(明治44年)、
御大典境内地拡張之碑(大正4年)、社殿改築記念碑(大正9年)、鳥居建設記念碑(大正13年)
金弐百円奉納碑(大正14年)のほかに御嶽大神一心・覚明・普寛・一山霊神(明治30年)、明光
治輝霊神(大正3年)、一山忠明霊神四十年祭(昭和33年)の碑がある。
 社殿脇に御嶽山に見たてた築山があり、祭神の3体の石像が立っている。
 例祭には、戦前まで火渡りの行事が行われていた。
 境内樹木はケヤキ、スダジィ、シラカシ、ムクロジが太幹である。

   御嶽神社
   下石神井御嶽神社は、天保頃(1830)当地の石塚平左衛門によって創建されたと伝え
   られます。そのころ江戸を中心に行者一山の布教で木曽御嶽山への信仰が広まっていまし
   た。当地はその御嶽山の分霊を祀ったのが始まりといわれます。祭神は国常立命・大己貴
   神・少名彦神の三神です。
   その後、石塚忠明によって一山講社が組織され、逐次、講の拡大がはかられ、盛時には1
   800名の講員がありました。
   御嶽神社と並んで一山神社が祀られています。祭神は講祖一山霊神です。
   本殿は明治30年、拝殿は大正11年の建築になるものです。神紋は一山系笠印の富士に
   丸三紋と十六弁菊花紋です。
   御嶽神社と一山神社の間に岩を積んだ小丘があり、三体の石の祭神像が祀られています。
   そのほか各種霊神像や中興の先達一山・忠明の顕彰碑などがあります。境内には数多くの
   欅や銀杏の大樹が茂り、四季を通じて訪れる人々に静かな和らぎと潤いを与えてくれます。
   昭和63年3月                         練馬区教育委員会


■上久保不動尊・延命地蔵尊 ◇
 
 下石神井5丁目2番1号の角地にある小さな不動堂。


■墓地 
撤去
 下石神井5丁目6番34号にあの三角地にあったが撤去された。昔は、農地に普通にあったのだろ
うが、宅地化の波に飲み込まれて立地がとても不自然なものになっちゃたのだろう。駐車スペースに
変っている。
 


■加藤稲荷 ◇

 下石神井5丁目6番43号の高木家の邸内にある。クランクした路地の奥にある。住宅地図参照の
こと。この付近に加藤姓の旧家はなく、詳細不明。
 


■丸彫青面金剛庚申塔 ◇
 下石神井5丁目7番11号(サンコーポ松下)の東北角にある。石造で高さ約1m48cm、方形
の台石に、

   享保十二丁未天武州豊嶋郡下石神井村 奉庚申 願主小川八兵衛講中三十四人 六月吉日

 と陰刻してある。丸彫像の台座には邪鬼と三猿が陽刻されており、像と一体の一ツ石だ。しかしお
腹の辺りで折れ、補修した痕がある。区内には130余りの庚申塔がある。中でも、この庚申塔は、
青面金剛立像を丸彫りした大変珍しいものだ享保十二年(1727)に伊保ヶ谷戸(下石神井付近
の旧字名
の講中の人たちによって建てられた。憤怒の相をした青面金剛が台座部分に浮き彫りされ
邪鬼を踏みつけ、その下には青面金剛の使いを表す「見ざる、聞かざる、言わざる」の三猿が浮き
彫りされている。このように豪華で賑やかな飾りつけは、江戸時代中期の庚申塔の特徴。
 現在でも伊保ヶ谷戸の庚申講の人たちによって、庚申待ちの行事が年に数回行われる。昭和40年
頃、この庚申塔に自動車が衝突し、塔は2つに折れてしまったが、講の人たちによって修復され、現
在も大切にされています。
「享保十二丁未天」「武刕豊嶋郡 下石神井村」「奉待庚申」「願主 小
川八兵衛」「講中 三十四人」「六月吉日」


下石神井天祖神社

 下石神井6丁目1番6号にある。創建年代不詳。延宝二年(1674)の庚申塔があることから、
江戸時代初期には神明祠か伊勢の遥拝所があったのではないかといわれている。
 『練馬の神社』による縁起。

   由緒創立年代不詳。『新編武蔵風土記稿』下石神井村の項に「神明社持前(三宝寺)二同
   ジ。村ノ鎮守ナリ」とあり、『東京府志料』下石神井村の項には
    天祖神社八雲淡島ノ二神ヲ合祀ス社地二百四十九坪
   と記される。江戸後期には神明社と呼ばれていたことがわかる。当社の創建は相当古く、
   江戸初期にはすでに存在したようで、『練馬区史(昭和32年)』は次のように述べる。
    ・・・当社の付近に神明前と呼ばれる地名があり、社の前にある延宝二年(1674)
    の庚申塔には石神井郷神明村という村名が彫りつけてある故、古くからここに神明祠
    か伊勢の遥拝所があったと思われる
   と。社殿は明治18年(1885)の建築である。
   境内石造物では安政四年(1857)の燈籠が古い。その他、庚申塔(延宝二年)、廿三
   夜待供養塔(文化二十二年=1816)、地蔵菩薩立像(享保二年=1717)、鳥居建
   設記念碑(大正2年)、慰霊碑(昭和41年・戦没者35名)がある。また四個の力石が
   ある。
   樹木は少ないが、スダジィ、イチョウ、ケヤキ、カヤが太幹である。

 区の説明板は以下の通り。

   氷川神社
   当社の創建は詳らかではありませんが、江戸時代に編さんされた「新編武蔵風土記稿」に
   は、「神明社、持前ニ同シ村ノ鎮守ナリ」とあり、明治7年刊行の「東京府志料」には、
   「天祖神社 八雲淡島ノ二神ヲ合祀ス 社地二百四十九坪」と記されています。江戸時代
   には神明社と呼ばれていたようで、鳥居をくぐった右側に立つ庚申塔には「石神井郷神明
   村」とも刻まれています。現在の社殿は明治18年の建築です。
   境内には安政年間(1854~60)の燈籠や享保二年(1717)の延命地蔵などの石
   造物があります。
   
●練馬区登録有形民俗文化財(平成14年2月登録)
   二十三夜待供養塔
   地蔵と庚申塔の隣に立てられている角柱形の石造物です。正面に勢至菩薩と「廿三夜待供
   養塔 文化十三丙子年(1816)二月吉日建之」、右側面に「武州豊嶋郡下石神井村」
   台石には造立者の名などが記されています。
   二十三夜待は月を拝み飲食を共にする月待ち行事です。
   区内でも二十三夜待が行われていたことをこの石造物が伝えています。
   平成14年3月                         練馬区教育委員会

 
二十三夜待供養塔

 境内の鳥居脇に建っている。文化十三年(1816)に下石神井村の二十三夜講が建立した。石造
で、高さ117cm×角柱の幅35cm×奥行20cm、台石の上に乗っかっている。正面上部に勢
至菩薩坐像が円の中に浮き彫りされ、正面に「二十三夜待供養 文化十三年丙子年」、右面に「武州
豊嶋郡下石神井村」、台石には願主、世話人をはじめ講中23人の名が刻まれている。
 ほかに笠付庚申塔と地蔵尊の石造物がある。


■上久保児童遊園

 下石神井6丁目1番18号にある区立公園。


■池之台緑地

 下石神井6丁目14番27号にある区立公園。


■くらまえ緑地

 下石神井6丁目39番3号にある区立公園。
 


【石神井台】(しゃくじいだい)1~8丁目          昭和45年7月1日
 上石神井村字大門・沼部・西村・小関。明治11年「郡区町村編制法」により北豊島郡に所属、
同22年「市制町村制」により石神井村大字上石神井となる。昭和7年北豊島郡が東京市に編入さ
れ板橋区上石神井2丁目。同22年板橋区から分離した練馬区に所属。同45年新住居表示により
ごく一部を関町北に譲り、上石神井2丁目のほぼ全部に下石神井2丁目のごく一部(三宝寺池一帯)
をあわせた町域を現行の「石神井台」とした。

 石神井台について
 町名は石神井川北部の台地上に位置することによる。石神井の由来は【石神井町】に記載して
ある。

   『ねりま区報』 昭和60年3月21日号掲載
    旧上石神井村の内、石神井川の北、小字で大門、沼部、西村、小関をいう。大門という
   地名は、城や大寺の門前を指し、区内には、ここのほか練馬と高松に残っている。
    3代将軍家光は、鷹狩りの度によく三宝寺で休憩した(徳川実紀)。だから三宝寺の山
   門を御成門と呼ぶ。地名の大門は、その御成門に由来する。
    石神井の語源となった石神様は、一説に三宝寺池から出現したともいう。歴史的文献に
   見える石神井については、石神信仰そのものはさらに古く、扇山遺跡(石神井台4丁目)
   や、天祖東遺跡(関町北3丁目)などから縄文時代の石棒が発見されている。
    大門の地名は中世石神井城の大手門に起こるという説もある。その石神井城(石神井台
   1丁目)落城の悲話に登場する照姫を葬ったと伝える姫塚が、三宝寺池北側の台地上のあ
   る。傍らに城主豊島泰経の殿塚もある。
    明治22年上石神井村は下石神井、谷原、田中、上土支田、関の5ヶ村と合併、大きな
   石神井村の内の一つの大字となる。昭和7年板橋区上石神井が誕生。石神井川の南を1丁
   目、北を2丁目とした。同45年住居表示で、上石神井2丁目が石神井台となった。石神
   井川を南限とする広い台地だからである。
 


■練馬甘藍

 キャベツ 練馬といえば大根で、現在でも練馬と大根は付き物だ。それほど定着した大根だが実は
もう70年も前の戦前には作れなくなったのだ。多年の連作障害に加えて、昭和8年の異常旱魃が追
い討ちとなり、ウィルス病が大発生したため栽培が続けられなくなってしまった。その代替作物に選
ばれたのがキャベツだ。早い畑では、同14年頃には試作に入った。当時品種は種苗屋任せで、あれ
これ試みた末、同19年にサクセッション種に絞られて、戦後急速に広まった。同26年には作付け
面積が500ヘクタールにも及び、練馬区は都内最大のキャベツ供給地に転換した。今、井草通り沿
いのJA石神井ファーマーズセンター隣に「甘藍の碑」が建っている。碑の上のオブジェは練馬キャ
ベツ「錦秋」だよ。
 


■区内最古の学校・石神井小学校

 石神井台1丁目1番25号にある同校は、明治7年5月18日禅定院内に第3中学区第5番小学公
立豊島小学校の名で開校した練馬区で一等最初に設置された小学校だ。同9年境内に校舎を建築。3
4年後の同43年下石神井2丁目1050番地(現在の石神井図書館・郷土資料室のところ)に校舎
を新築して移った。昭和7年「東京府東京市石神井尋常高等小学校」と改名。同16年「東京府東京
市石神井国民学校」と改名。同18年「東京都石神井国民学校」と改名。同22年4月「東京都板
区立石神井小学校」と改名、同8月練馬区が成立して「東京都練馬区区立石神井小学校」と改名。同
26年開校77周年記念に校歌制定。

 校歌「朝は浅黄の靄に明け」 作詞・草野心平  作曲・宅孝二
   朝は浅黄の靄に明け
   夕べは金の陽が沈む
   水と緑の田園に
   我が学び舎は聳え立つ
   あーあ石神井 ああ石神井
   歴史は古き 我が石神井

 
同29年上石神井小学校を分校。同30年光和小学校分校。同
34年上石神井北小学校分校。同3
8年現在地に移り、同45年旧校地を区に返還、所在地を現在地に変更した。ために校地連絡橋はな
くなり随分雰囲気が変わった。同46年下石神井小学校分校。同49年開校100周年。平成16年
創立130周年。
 


■甘藍の碑

 石神井台1丁目1番31号JA東京あおば石神井ファーマーズセンターにある。生産量が都内最大
を誇り、特産物となったことを記念して平成10年に建立された。最初の計画では練馬駅前のホテル
前に建てることになっていたが、ホテル計画がぼしゃったために此処に建てることに計画変更となっ
た。キャベツ畑が描かれた記念碑は、キャベツをデザインしたユーモラスな形状が特徴。かつて練馬
区は、練馬大根の生産地として全国に知られていたが、昭和30年頃から大旱魃や度重なる病害によ
り栽培が衰退していく中、代わって生産量が増えたのがキャベツだ。現在はキャベツの生産量が区内
で最も多く、都内ナンバー1の生産量を誇っている。甘藍の碑がある周辺は、キャベツ畑が点在して
おり、収穫期には大きく成長し、ギッシリと並ぶ練馬産キャベツの姿を見ることができる。しかし、
全区が農村だったことが嘘の様に、平成の世の中では、区の全面積の7%しか農地はない。

   「甘藍の碑」
   東京ふるさと野菜供給事業25周年を記念し、練馬区の特産物キャベツを後世に伝え、生
   産者の労をたたえるため建立したもの。


亀頂山密乗院
三宝寺
 石神井町1丁目15番6号にある真言宗智山派の寺。寺の縁起では応永元年(1349)鎌倉大楽
寺の権大僧都幸尊法印が、石神井郷小仲原(現在の禅定院の辺り)に勅願寺として建立されたのを創
始とする。文明九年(1477)石神井城の落城後、大田道灌により城跡の一角である現在地に移さ
れ、この時に勅願寺の格を外されたと思われるが、天文十六年(1547)再び勅願寺になった。そ
の後北条氏より寺田・制札などを受け、天正十九年(1591)には徳川家康から朱印10石を賜っ
た。境内に山門・長屋門・鐘楼・大黒堂・根本大塔・大師堂・平和観音がある。
 

 山門
 四脚門(よつあしもん)で、屋根は、書物を開いて「へ」の字なりにしたような切妻造で、銅板葺き
だ。天井は、木を組んで格子形に仕上げた「格天井」となっている。家光が鷹狩の途次3度立ち寄っ
たことから「御成門」とされ、江戸期は一般の通行は禁じられていた。現在の門は文政十年(182
7)に改築されたが、寺では一番古い建物で、昭和28年に修復された。門以外の建物は、文久三年
(1863)と明治7年に焼失、その後に再建されたものだ。全体的に重厚な門で、ゾウやバクなど
の彫刻と細部絵様は江戸時代後期の特徴を示している。

 
田島鉄平君之碑
 山門を入った左手にある。養蚕に尽した人。

 長屋門
 御成門の東の門は、赤坂の勝海舟邸にあった門で、旭町にあった兎月園に移築されていたものを、
昭和35年に引き取った。


 梵鐘
 
本来僧に集合を知らせる合図として鳴らす仏具の一つだった。後に時刻を知らせたり、大晦日に煩
悩を払う除夜の鐘として使用されるようになった。三宝寺の梵鐘は、銅製で総高164.4cm、口径
85.8cm、縁厚9cm。銘文によれば、作者は江戸時代に多くの鐘を造った鋳物師(いもじ)とし
て知られた椎名伊予守藤原吉寛だ。皇居の平川門の橋の擬宝珠にこの名が刻んである。鐘は延宝三年
(1675)に制作され、鐘楼に掛けられた。

 正覚院
 長屋門を入った本堂前右手にある。
三宝寺六頭塔の一つの名である正覚院は、昭和51年客殿改築
の際に、昭和31年に建築された旧客殿を移築して名称を復活命名した。


 大黒堂・千体地蔵尊堂
 山門を入った左手にある。
昭和4年に大黒堂を創建した際に子育千体地蔵尊を合祀し、東京をはじ
め近在の甲子講中の結成を求め殷賑を極めた。現在の堂宇は、昭和59年に大黒天と千体地蔵尊を別
祀し、上階を大黒堂、下界を千体地蔵尊として改築された。


 大師堂
 
本堂の後ろ奥にあり、弘法大師を祀る宝形造りの堂。

 六地蔵と庚申塔
 墓地へと続く坂道に面してある。いつも献花が活けられている。この六地蔵はかつて下石神井一丁
目604番地にあり、近在の人々の信仰厚かったが、戦後の急激な人口増加による住宅建設のため道
路の拡張を迫られて移転を余儀なくされ、近隣と縁の深かった三宝寺が引き取ることとなった。


 根本大塔
 本堂の西側にある平成8年建立の
宝形造り2階建ての多宝塔。大日如来を安置する。

 平和大観音
 巨大な露仏。根本大塔の後方、西際に建つ。

 火伏稲荷社
 
境内にある小祠。

 馬とうかんぜおん塔
 馬頭観世音菩薩。かな文字で仏の姿を画いた珍しい塔が無縁墓の中に一つ、異彩を放って建ってい
る。安政元年(1858)に建てたものを、明治7年に再建した。

 庚申塔
 墓地入口の六地蔵と共に建つ。この塔は、かつて上石神井1丁目604番地にあったもの。板状駒
型。日月・青面金剛像・邪鬼・三猿・二鶏。「元禄九丙子年」(1696)「十一月廿一日」
 もう1基が長屋門の前にある。板状駒型。日月・青面金剛像・三猿。
「奉造立庚申構」「武州豊嶋郡」と刻む。

 ●花木
 ウメ・ボケ・サルスベリ・フジ・シダレウメ・シダレザクラなどがあるが、客殿前の枝振りのいい
シダレウメは秀逸だ。


豊島山無量院
道場寺
 石神井台1丁目16番7号にある曹洞宗の寺。石神井城主豊島兵部大輔輝時が、応安五年(137
2)に大岳禅師を招いて豊島家の菩提寺として建立したという。山門と鐘楼を、昭和45年に新装、
同49年には三重塔も建てた。いずれも総檜木造りの豪華さだ。永禄五年(1562)北条氏康より
頂戴した寅朱印状(土地などの無税証明書)は寺を再興隆させた
中世文書で、区内では数少ない貴重
なものだ。ほかに本堂に区内最古という板碑(青石塔婆)、卵塔場には大田道灌に滅ぼされた豊島泰
経等の墓と伝わる石塔3基がある。現在の堂宇は昭和12年に改築されたが、その後さらに唐招提寺
金堂を模して改築。落ち着いた静かな寺だ。市街地化の浸透が遅れ、現在でも田舎的な練馬区ならで
はの結果だろう。墓域には勝手に入れないからご注意。
 寺の角にお地蔵さんが建っている。

   道 場 寺
   道場寺は、豊島山といい曹洞宗の寺です。
   この寺は、文中元年(北朝応安五年、1372)、当時の石神井城主豊島景村の養子輝時
   (北条高時の孫)が、大覚禅師を招いて建てたもので、その時、輝時は自分の土地を寺に
   寄附して、豊島氏代々の菩提寺としたと伝えられています。
   今でも豊島氏の菩提が弔われ、境内には文明九年(1477)太田道灌に滅ぼされた豊島
   氏最後の城主泰経や一族の墓と伝えられる石塔3基があります。
   道場寺には、北条氏康印判状が所蔵されています。この古文書は、永禄五年(1562)
   四月二十一日小田原の北条氏康から禅居庵にあてて発給した虎の朱印状です。内容は、道
   場寺分の段銭、懸銭などの税金を免除するもので、練馬区内では、現在のところ練馬区に
   関係する唯一の後北条氏の文書です。
   境内の三重塔(昭和48年築)内には、人間国宝であった香取正彦作の金銅薬師如来像が
   置かれ、その台座にはスリランカより拝受の仏舎利が奉安されています。
   昭和49年10月                        練馬区教育委員会

   
道 場 寺
   道場寺は、豊島山といい曹洞宗(禅宗)の寺です。
   この寺は、文中元年(北朝応安五年、1372)、当時の石神井城主豊島景村の養子輝時
   (北条高時の孫)が、大覚禅師を招いて建てたもので、その時、輝時は自分の土地を寺に
   寄附して、豊島氏代々の菩提寺としたと伝えられています。
   今でも豊島氏の菩提が弔われ、境内には文明九年(1477)太田道灌に滅ぼされた豊島
   氏最後の城主泰経や一族の墓と伝えられる石塔3基があります。
   道場寺には、北条氏康印判状が所蔵されています。この古文書は、永禄五年(1562)
   四月二十一日小田原の北条氏康から禅居庵にあてて発給した虎の朱印状です。内容は、道
   場寺分の段銭、懸銭などの税金を免除するもので、練馬区内では、現在のところ練馬区に
   関係する唯一の後北条氏の文書です。
   境内の三重塔(昭和48年築)内には、人間国宝であった香取正彦作の金銅薬師如来像が
   置かれ、その台座にはスリランカより拝受の仏舎利が奉安されています。
    練馬区指定文化財
     
北条氏康印判状
   平成3年3月                          練馬区教育委員会
 


■区立石神井図書館・郷土資料室

 石神井台1丁目16番31号、図書館の地下にある。入口は別だよ。考古資料や農具・民具,また
練馬大根に関する資料を展示しており、図書等の閲覧もできる。しかし肩肘張った箱物ではなく、地
味な、素人っぽい、逆をいえばそれほど大したものではない。江戸川区の展示と同程度、僻地にあっ
ては仕方ないだろう。明治まで殆ど人の住んでなかったところだから、歴史資料の絶対数が少ないの
は当然のことだ。
 所蔵文化財は、縄文式竹かご、金銅製飾具、小島家文書、千川家文書、荘家文書、比丘尼橋遺跡出
土の旧石器、丸山東遺跡出土の木製品、武蔵関遺跡出土の大型槍先形石器、高稲荷遺跡出土の旧石器、
中ノ宮遺跡出土の小形壺型土器、八ヶ谷戸遺跡出土の大型把手付縄文土器、石神井城出土小刀、富士
講巡拝装束、棒屋資料、井戸替え用具、醤油製造用具。

 「大地への郷愁」
 敷地内にある北村善平の作品。中指と親指を指先で合わせた腕のリアルな彫刻。

   大地への郷愁
   おおいなる愛を育みし練馬の大地よ、永遠なれ
   昭和61年10月     制作者 北村善平

 石仏群 行方不明
 かつて樹々の根元に竹囲いで囲まれた地蔵やら庚申塔、石塔があったが、この辺りが再開発で美し
く整備されたがため、6基ばかりあったものが今はない。昭和59年までは確かにあった。
  

 東早淵遺跡出土の局部磨製石器
 平成2年の東早淵遺跡第4地点(早宮1-24)発掘調査出土品。24000年以上前の旧石器時
代の土層より出土した石斧3点で、2点が完全な形で出土し、大きいものは長さが約9cmある。1
点は刃の部分の破片。周りを細かく加工し、刃を中心に丁寧に磨かれたもの。区内では最も古い部類
の石器だ。
 

 
小竹遺跡出土の翡翠製大珠
 平成3年の小竹遺跡第2地点の発掘調査で、11号土坑から出土した縄文時代中期のものだ。長さ
50mm、幅20mm、厚さ7mm、重さ11g。大珠は垂れ飾りのひとつと考えられており、本例
は2か所に孔が穿たれている。形態は、定角式磨製石斧のように側面に面取り加工がみられ、端部が
やや薄く角張ったつくりになっている。また当該期における翡翠の産地は糸魚川流域を中心とする地
域に限られており、本遺跡で製作された痕跡もみられないことから製品として遺跡にもたらされたも
のと考えられる。大珠が出土した土坑の大きさは1.3m×1.75m×深さ0.3mで楕円形。
 翡翠製の大珠は、区内の遺跡で唯一の出土品であり、土坑から出土した点についても、大珠が墓の
副葬品として埋設されたことを示す貴重な資料だ。

 春日町出土壺型土器
 弥生時代後期のもので高さが31.5cm ある。つぼの口のへりに棒状の浮文、首の部分に円形の
浮文、胴には平行に羽状縄文(うじょうじょうもん)が施されており、文様帯(もんようたい)を除
いて赤く彩色されている。昭和8年前後に、春日町の尾崎遺跡近辺で道路工事の際に発見された。
 

 丸山東遺跡方形周溝墓出土品
 外環道路建設に先立ち、平成3~4年に発掘調査した丸山東遺跡(大泉町3丁目)方形周溝墓7基の
一括出土品。「方形周溝墓4号」を中心として、弥生式土器12点、ガラス玉71点、管玉5点、鉄
剣1口が出土した。調査では方形周溝墓の一群が明らかとなり、白子川流域の弥生時代後期の墓制を
知る貴重な発見となった。弥生式土器は壺形土器で、ほとんどが底部が破砕され、1点は口縁部破砕
だ。相模地域からの搬入品や在地製の土器が混在してお
り、当該期の壷形土器の様相が判る。玉類も当該期の典型的なものが揃っている。鉄剣は区内唯一の
出土であると共に、関東地方での稀少例でもある。
 武蔵野台地における弥生時代後期後半の方形周溝墓一括出土品として秀逸であり、副葬や祭祀の形
態を窺うことができる資料だ。

 尾張殿鷹場碑
 江戸時代、旧小榑(こぐれ)村(現在の西大泉・南大泉・大泉学園町一帯)と旧橋戸村(現在の大泉町
一帯)には、尾張徳川家の鷹場(専用狩猟地)があった。碑はその境界に建てられた石柱だ。
 鷹狩りは、飼い馴らした鷹を放ち、小鳥や小動物を捕らえる狩猟法。尾張徳川家の鷹狩りは、軍事
訓練や農村の視察に加えて、農民に大名の威信を示すことを目的に、寛永八年(1631年)から慶
応3年(1867年)まで行われていました。1回の鷹狩りで、300名あまりの尾張藩士が参加し、
10日間ほど行われた。大名にとって鷹狩りは華やかな行事だったが、鷹場内に住む農民は人足とし
て徴発されたほか、「犬猫は放し飼いにするな」「手を叩くな」「物音を立てるな」「騒ぐな」「か
かしを勝手に建てるな」など細かい規定が設けられ、破ったのが見つかると罰せられた。
 同鷹場碑は、高さ78cm、縦横15cmの石造角柱で、下部が欠損し3個体に折損している。造立
年は不明。正面には、「従是西北尾張殿鷹場」の文字が彫られている。大正2年頃までは南大泉1-
17-1地先、冨士街道と南から来る清戸道の辻に建てられていた。

 長享二年の申待板碑
 板碑は、板状の石を用いて卒塔婆の一種として発生した供養塔だが後には墓石の意味を持つように
なった。浄土宗、密教、禅、日蓮宗関係のものと、様々な種類がある。春日町で出土したといわれる
この申待板碑は、関東・四国地方で多用された緑泥片岩(りょくでいへんがん)製で、室町時代に造
られたものだ。高さ97.4cm、幅31cm、厚さ2.8cmの大きさで、天地の一部を欠損している。
天蓋(てんがい)、種子、蓮座の下に、

   
奉申待供養結衆 長享二年戊申(1488)十月廿九日融秀阿闍梨道弥門

 の文字が彫られている。続けて12人の名が彫られていることから、中世の民間信仰が窺える。長
享二年の銘がある申待板碑は、現在のところ国内で3番目に古い。
 

 木下家文書
 江戸時代に下練馬宿で本陣を経営し、名主を勤めていた木下家の文書類。寛永十九年(1642)
~明治期の53点が現存している。寛延三年(1750)の替地証文には「御殿」の地名が記されて
おり、第5代将軍徳川綱吉が、将軍就任前に鷹狩りに訪れた際の宿泊施設「御殿」との関連が伺われ
る。江戸時代の下練馬村の様子を知ることができる資料だ。
 
 栗原家文書
 上石神井村の名主、石神井村の村長などを勤めた栗原家に伝わっていた文書類。天保二年(183
1)の「議定一札之事(板橋宿代助郷御免除相願度ニ付)」から昭和8年の「石神井案内」まで52点
が現存している。江戸時代の文書は、天保期(1830~44)の助郷や慶応四年(1868)の「信
忠隊三宝寺江止宿諸入用覚帳」など旧幕府諸隊に関わるものが残っている。近代の文書では、明治4
1年の「御願(豊島氏貴重品池中探索ニ付)」、昭和6年の「東京府立公園設置願」など石神井村に
関するものが伝わっている。また江戸時代の上石神井村絵図面や地租改正事業に伴い作成されたと考
えられる、明治初期の上石神井村地引絵図などの絵図、地図も多く残されている。
 江戸後期以降の上石神井村・石神井村の様相を伝える文書類が残り、地域の歴史を知ることのでき
る資料だ。

 中野商店文書
 土支田4丁目で肥料や雑貨などを販売していた中野屋商店(加藤家)の営業関係文書類。明治7年
から昭和6年までの100点余りがあり、決算帳や仕入れ帳、販売簿などから、当時の商店営業の様
子を知ることができる。
 

 大八車
 全長279cmで、車輪の径は126cmある。御所車(ごしょくるま)型で、車軸も含め、全てが木
製で、江戸時代後期の製作と考えられる。車台の左側には、税金を納めたことを証明する明治4~6
年の検査印「免許入間県」の焼印がある。当時江戸の町へ野菜や練馬大根の沢庵漬けを運ぶのに使わ
れ、最近まで大泉町4丁目の農家で使用されていた。
 

 石神井西尋常小学校のリードオルガン
 石神井西小学校で使用されていた昭和初期製造の足踏みオルガン。明治19年に始まった尋常小学
校・高等小学校での唱歌教育のため、リードオルガンが各学校に配備されるようになった。このオル
ガンは、石神井西尋常小学校時代の昭和初期に配備された。国産オルガン初期の普及型リードオルガ
ンであり、唱歌や音楽教育の様子を伝えるものだ。
 

 沢庵漬製造用具
 練馬大根の漬物製造に使われていた諸道具。郷土資料室では、大根を洗うのに使用した籐束子(と
うたわし 約31cm×8cm)、大根の皮を剥がすのに使用した鮫の皮(約8~9cm)、長い大
根を洗うのに使用した
長径132cm、短径102cm、高さ38cm小判型洗い桶や口縁17
2cm、底面の径151cm、高さ182cmの
大樽・口縁97cm、底面の径89cm、高さ93
cmの
中樽・口縁54cm、底面の径45cm、高さ54cmの
小樽、重石を積み上げるのに使用し
た金づめなどがある。
 江戸時代、練馬の地域は人口100万人を超える江戸への野菜の供給地で、練馬大根も江戸へ送ら
れていた。明治の中頃には、練馬大根の生産は一層増え、沢庵漬けとして出荷されるようになった。
日清戦争の時には、沢庵漬けは軍隊に納める貴重な食料として大量生産された。この頃鉄道や船舶な
どの交通網が発達したこともあって、漬物の販路は拡大し、練馬大根の名は瞬く間に全国に知れ渡っ
た。その後、昭和8年の大旱魃や昭和25年までの数回に亘るモザイク病の発生、食生活の洋風化、
農地の減少などにより、昭和30年頃から栽培が衰退した。それからというもの練馬大根は出回らな
くなった。
 最近になって「あのポリポリとした、歯切れのよいたくあん漬けを味わいたい」との区民の声の高
まりとともに、区では、練馬大根を名産品として残していこうと、平成元年度から練馬大根の保存・
育成事業を始めている。これは、区内の農家に合計約6000本の練馬大根の栽培を委託し、区民の
収穫体験事業を行っている。また区内の漬物業者に委託して沢庵漬けにしている。沢庵漬けにした練
馬大根は、毎年1月に西武百貨店池袋店食品館地下1階で開催する「ねりま漬物物産展」で販売し、
残りを区内で販売している。


 たくあん漬け販売の問い合わせ先
 経済課 03-3993-1111(代表) 

 千川上水記録フィルム
 千川上水を流れに沿い、取水口から六義園までが、カラーリバーサルフィルムを使用して60コマ
で構成されている記録フィルム。タイトル画面に「千川上水製作練馬区教育委員会1952」とある
ことから、昭和27年に練馬区教育委員会が製作したものであることが判る。当時練馬区内において
も場所により暗渠化工事が進められている中、時期を失することなく工事の初期段階に於いて撮影さ
れ、またカラーフィルムを使用しているなど、暗渠となる前により良い記録を後世に残そうという意
図が明らかです。 このフィルムには、千川上水とともに周辺の風景が写され、広がる畑、交通量の
殆どない道、木造平屋の建物が軒を並べる商店街、橋や千川上水からの分水口、また千川上水と関わ
る水車や各種の工場など今では見ることができない千川上水とその流域の場景が記録されている。
 なお使用されたフィルムは、外型反転、感度ASA10、ライカ判、20枚撮り、昭和24年10
月に発売されたもの。千川上水の記録は、このフィルムの発売から約3年後でありまだまだ高価なカ
ラーフィルムを使用したことで、記録内容とともに一層貴重な資料となっている。

 内国勧業博覧会褒状
 明治10年明治政府が殖産興業政策の一環として開催した内国勧業博覧会に、上練馬村の相原房次
が沢庵漬を出品した折に受けた褒状。発行は内務卿従三位大久保利通だ。第一回の博覧会では、練馬
区域からは沢庵漬の他に大根・麦・牛蒡・茶などの農産物や桶・靴・木綿・絹糸など50点が出品さ
れ、賞牌や褒状7点を受けた記録が残っている。この資料はその内の1枚で、練馬大根沢庵漬が公に
表彰されたことを示す資料だ。


■所沢道道標
 石神井台1丁目16番31号の石神井台図書館の旧早稲田通りに面した敷地斜面に建ててある。

   所 澤 道

   
所沢道
   所沢道は、八成橋で杉並区から練馬区に入ります。禅定院の門前で向きを西に変え、道場
   寺・三宝寺の前を通って、富士街道を斜断した後、南大泉を経て保谷市に入り、所沢へと
   通じています。概ね今の早稲田通りです。
   「新編武蔵風土記稿」では、この道のことを単に「所沢ヘノ道」と記してあり、はっきり
   「所沢道」と書かれたのは、「石神井町誌」(大正14年)が初めてのようです。
   関東大震災後、都市計画により名称が「昭和通り」となり、大部分の区間で拡張工事が行
   われましたが、禅定院から石神井小学校の間には、今も所々に細い道が残っています。
   八成橋には谷原長命寺への道標があります。江戸の文人太田南畝が「石神井三宝寺遊記」
   で歩んだ道でもあり、大泉・石神井から江戸方面への産業の道でもあったと共に、江戸か
   らの参詣、行楽の道でもありました。
   昭和59年3月                         練馬区教育委員会


■栗原家長屋門
 石神井台1丁目18番11号にある。道場寺の西側の路地の突き当たりに見える。 


■氷川神社
 石神井台1丁目18番24号にある。応永年間(1394~1428)豊島氏が、武蔵一の宮氷川
神社の分霊を石神井城中に祀ったことに始まる。豊島氏没落後は谷原・田中・上石神井・下石神井・
関5ヶ村よりなる石神井郷の創鎮守として崇敬され今日に至っている。私が参詣した折は芽の輪潜り
の梅雨時のことで、本殿前にある数段の階に足をかけようとした刹那、石が動いたので腰を抜かしそ
うになった。ひょいと見ると亀だぁ! 甲羅が30cmほどの亀が歩ってる。なんと奇瑞なことよ。
三宝寺池の亀だろうが、まさかのところで出会うとはこれ吉兆、吉兆。「練馬の神社」に、

   「新編武蔵風土記稿」上石神井村の項に「氷川社 上下石神井関田中谷原五ヶ村ノ鎮守ナ
   リ。例祭9月20日。三宝寺ノ持。末社、天神、弁天、天王、第六天、稲荷」とある。
   「北豊島郡神社誌」には「由緒、往昔豊島氏が当国ノ一ノ宮、石神井台氷川神社ノ御分霊
   ヲ守護神トシテ場内に鎮斎セシヲ同氏没落後土着ノ住民之ヲ鎮守ト仰ギ尊崇セシモノナル
   ベシ。当社創立ノ際ハ城中ノ何処ニカ鎮座セシヲ、豊島氏没落後現在ノ位置ニ遷シ、石神
   井郷総鎮守トシテ・・・石神井郷ハ谷原、田中、上石神井、下石神井、関ノ五ヶ村。維新
   ノ際、当社ハ大字上石神井下石神井ノ鎮守ト定ムルニ至レリ。明治5年11月村社ニ被定
   同7年4月郷社ニ列セラル」と記されている。創建は応永年間(1394~1428)と
   される(東京府志料)。
(以下省略)

 とある。区の説明板は以下の通り。

   氷川神社
   氷川神社は、社伝によると応永年間(1394~)この地を領していた豊島氏が武蔵一ノ
   宮の分霊を奉斎して石神井城内に創建したといいます。祭神は須佐之男命・稲田姫命、大
   己貴神の三神です。文明九年(1477)石神井城落城のあとは、石神井郷の総鎮守とし
   て
上石神井、下石神井、谷原、田中、関の五ヶ村の人びとから崇敬されておりました。境
   内末社には江戸時代からの北野・須賀・稲荷をはじめ御嶽・八幡・三嶋・榛名・浅間・三
   峯・阿夫利の各社があります。
   境内には享保十二年(1727)石神井郷鎮守社と刻った御手洗鉢をはじめ、多くの石造
   物があります。中でも本殿瑞垣のうちにあります小振りながら古雅で風格のある灯籠は、
   元禄十二年(1699)豊島氏の子孫である豊島泰盈・泰音によって奉納されたものです。
   昭和58年3月                         練馬区教育委員会


   氷川神社
   氷川神社は、社伝によると応永年間(1394~1428)この地を領していた豊島氏が
   武蔵一ノ宮の分霊を奉斎して石神井城内に創建したといいます。祭神は須佐之男命・稲田
   姫命、大己貴神の三神です。文明九年(1477)石神井城落城のあとは、石神井郷の総
   鎮守として
上石神井、下石神井、谷原、田中、関の五ヶ村の人びとから崇敬されておりま
   した。境内末社には江戸時代からの北野・須賀・稲荷をはじめ御嶽・八幡・三嶋・榛名・
   浅間・三峯・阿夫利の各社があります。
   境内には享保十二年(1727)石神井郷鎮守社と刻った御手洗鉢をはじめ、多くの石造
   物があります。中でも本殿瑞垣のうちにあります小振りながら古雅で風格のある左右一対
   の石灯籠は、右側の竿に元禄十二年(1699)豊島泰盈が寄進したことが刻まれ、左側
   のものは、火袋が失われ銘文が欠落していますが、泰盈の子の泰音によって奉納されたと
   伝えられています。
   ○豊島氏奉納の石灯籠(平成6年度 練馬区指定文化財)
   ○氷川神社の水盤(昭和45年度 練馬区登録文化財)
   平成21年3月                         練馬区教育委員会


 拝殿左手前の石灯籠は豊島氏の子孫の泰盈・泰音父子によって、元禄十二年(1699)に奉納さ
れたものだ。その台柱には、

   大正十二年九月一日関東大震災ノ際倒潰セシヲ右寄付者ニ於テ今年十月九日修理再建シ
   タルモノナリ 記念ノ為茲ニ之ヲ録ス

 とある。東京西部で震災被害があった話は珍しい。
 その奥の水盤は享保十二年(1727)に据えられたもので区内では最古だという。
 境内末社は北野・須賀・稲荷・御嶽・八幡・三島・榛名・浅間・三峰・阿夫利の各社がある。


■石神井公園・石神井城址
 石神井台1丁目18番、24・25番の一部、26~30番、2丁目29番、石神井町5丁目20
・21・24番に跨ってある都立公園。昭和5年「石神井風致地区」に指定され、同10年には三宝
寺池の浮島植物群が「三宝寺池沼沢植物群落」として国の天然記念物に指定されて、同34年三宝寺
池、石神井池、石神井城址などを含む一帯18万㎡(5万5千坪)を都立公園として整備して公開し
た。

石神井城跡碑など
 石神井公園の中にある。城は、中世前期の方形城館で、小高い丘に立てた居館の周りを土塁や空濠
で防備を固めた城で、戦国時代の城郭からすれば鶏小屋みたいなものだが、この時代の喧嘩ではこの
程度のものでこと足りたのだ。前は石神井川、後ろは三宝寺池で天然の要害だもの、この辺りにはこ
れ以上の立地はないよ。


   東京都指定史跡
   
石神
井城跡
   石神井城は、秩父平氏の一族で、石神井川流域を中心とする現在の東京都区部北側の地域
   に平安時代末期から室町時代中期頃まで勢力を持っていた豊島氏の居城でした。石神井川
   と三宝寺に挟まれた標高約49mのの舌状大地上に所在し、東西約350m、南北約35
   0規模の主郭と外郭からなる、比較的単純な構造の中世城館です。昭和31年以降の数次
   の発掘調査によって、主郭や土塁築土から12世紀から16世紀前半まで属する陶磁器が
   出土しています。
   文明八年(1476)の長尾景春の乱の際、当時の城主豊島泰経は景春に与したので、扇
   谷上杉氏の家宰太田道灌に攻められることとなり、翌年、石神井城は落城しました。落城
   後、泰経が白馬に乘って三宝寺池深くに沈み、長女照姫も後を追って入水したなど、落城
   にまつわる伝説が伝えられています。
   平成24年3月 建設                      東京都教育委員会

   
石神井城の中心内郭跡
   石神井城は、平安時代の末期から室町時代まで現在の台東区、文京区、豊島区、北区、荒
   川区、板橋区、足立区、練馬区などやその周辺地域に勢力を持っていた豊島氏の居城の一
   つです。
   城の築城は、鎌倉時代後期と考えられ、文明九年(1477)四月二十八日に太田道灌に
   攻められ落城し、廃城になりました。『太田道灌状』によれば、最後の城主豊島泰経は、
   石神井城落城の後、平塚城(北区西ヶ原)に敗走し、その翌年の一月二十五日再び道灌に
   攻められ小机城(横浜市)に逃げています。その後の泰経の足取りは、記録として文献に
   残っていません。
   城は石神井川と三宝寺池に挟まれた台地上に築かれており、全体では9ha前後の規模で
   あったと推定されています。当時の城は、土塁と濠で土地を四角形に区画した場所(郭)
   をいくつか築き、防御施設としていました。例えば、城の東側は、ここより約100m程
   東の場所に幅7m程の濠で区画されていたと考えられ、西側はここより約220m程の場
   所に幅約9m程の濠と土塁で区画されていました。また北側と南側は、三宝寺池と石神井
   川という自然の地形を利用して防御されていました。
   この場所は、本城の中心となる郭で、土塁と濠がよく残っています。昭和42年の発掘調
   査では次のような規模の郭であることがわかりました。
     空濠 上 幅 11.6m
        底 幅  3  m
        深 さ  6.1m
     土塁 基底部 12.3m
        現在高  2.3m
   また内部は平坦であり、陶磁器片、かわらけ(素焼土器)、鉄釘なども出土しており、何
   らかの建物があったと考えられます。
   この地域は、濠と土塁がよく残っている大切な場所です。少しでも永くこの状態が残せる
   様、皆様のご協力をお願い致します。                    東京都  

   
石神井城主郭跡
   中世に活躍した武将、豊島氏の居城であった石神井城の中心部分です。三宝寺池側は崖で
   残る三方には、堀と土塁かせ築かれていました。内部(内郭)は平坦です。有事の際に利
   用する建物などがあったと考えられた場所です。
   平成10年から6年間にわたって実施した市民参加の発掘調査で、堀と土塁及び内郭の一
   部が明らかになりました。堀は調査地点で幅12m、深さ6mで、断面凵形に関東ローム
   層(赤土)を掘り下げ、底面を3mで平にした「箱堀」であることが分かりました。水が
   溜まっていた痕跡が無く、空堀です。また、掘り下上げた土は黒土を混ぜて少しづつ固め
   ながら内側に盛上げ、土塁を築いています。崩れていた土の量から推定すると、現在より
   も3m高かったと推定されます。堀と土塁を合わせるを合わせると、比較差10m程とな
   り、堅固な防御施設であったことが分かります。土塁からは14世紀後半からから15世
   紀に作られた常滑焼の甕や鉄製小刀が出土しています。内部の建物跡は明確にできません
   が、柱穴が発見されており、小規模な掘立柱建物が建てられていたと考えられます。
   調査では、12世紀~16世紀にかけての中国製の陶磁器や常滑焼、渥美焼などが少量で
   すが出土しており、豊島氏の財力を示すとともに、生活用具の出土は内部建物で居住して
   いたことの可能性を示しています。
   平成15年11月                        東   京   都
                                   練馬区教育委員会


 豊島泰経
 豊島氏は、平安時代末期に起こった平家の名族といわれ、その祖豊島清光は源頼朝の武蔵入りに貢
献。豊島次郎常家が武蔵国豊島・足立・多摩・児玉・新座5郡を領し、室町時代は山内上杉氏の麾下
で、石神井川流域に練馬(豊島)城、平塚城、石神井城などを築城して、かなり広大な所領をもつ国
人領主となった。
 常家より17代後裔が泰経だが、生年不詳。石神井城に誕生。父は新二郎経祐。文明八年(147
6)山内上杉家の家宰職相続が叶わなかった長尾景春が山内上杉氏に叛き、古河公方足利成氏方に身
を投ずると、これに呼応した勢力が、相模の溝呂木、小磯、小沢城や、武蔵の勝原城でも蜂起した。
元来扇谷上杉氏の家宰太田道灌が急速に伸びてきて、互いの所領が接するようになっていたため、泰
経は景春勢力に加担。弟の泰明と共に、太田道灌の江戸城、河越城との間を分断してのけ、これを機
として道灌は豊島氏征伐に乗り出す。翌九年年四月十三日、突如として道灌軍は豊島氏の支城の一つ
である弟泰明が守っていた平塚城(東京都北区西ヶ原)を攻めた。石神井城にいた泰経は、泰明から
の急報を受けて、道灌不在の江戸城を奪いとるため、平塚城救援には向かわず、江戸城を衝くべく出
兵した。泰経軍の動きを覚った道灌は、城外に放火するだけで平塚城攻撃を中止。全軍を西方転換さ
せ、江戸城に攻め上る泰経軍を迎え撃つべく進軍。四月十四日両軍は江古田原・沼袋原(妙正寺川と
神田川の合流点付近)で開戦。泰経軍は道灌を、平塚城から救援に来た弟の泰明と挟み撃ちにしたも
のの、野戦を得意とする道灌は足軽を駆使して勝利。泰明と板橋氏・赤塚氏など150人ほどは討死
した。泰経は本拠地の石神井城に引き上げ、道灌は軍を差し向けたため、十八日泰経は道灌に降参を
申し入れた。しかし開城の条件で折り合いがつかず、二十一日道灌が城を攻略。このとき城内から道
灌に内応があったといわれ、城は落城。道灌はさらに練馬、小沢城なども攻略した。
 泰経は、城の北三宝寺池に愛馬と共に沈んだとも、その娘と共に身を投げて死んだとも、夜陰に紛
れて逃げたとも伝わるが、以来豊島泰経の名は見ることがない。なお豊島氏の子孫は北条氏や武田家
などに仕え、やがて関東で天下を治めた徳川家旗本にも、豊島氏の名が見られる。2家に分かれて明
治まで存続した。
 

 三宝寺池
 鎌倉期に創建された三宝寺の北面に広がる湧泉で、水量は抜群、旱魃でも渇水しなかったんだよ。
現在でも湧水量は豊富だ。しかし近ごろでは井の頭池のようにポンプで吸い上げて養水しているとい
う噂を聞いた。三宝寺のほか道場寺・氷川神社・厳島神社・穴弁天・水神社・殿塚・姫塚・柘植の木
稲荷跡・栗原水車跡・野外ステージ・稲荷諏訪合神社・池淵史跡公園などがある。
 池畔にフェンスで囲ったところがある。

   フェンスで囲まれた場所は、東京都認定の史跡(石神井城跡)の中でも特に文化財(土塁
   ・空濠)の保存状態が良いところなので、糖分の間、養生が必要です。
   文化財保護のため、許可なしにはいることはできません。           東京都

 
姫塚・殿塚
 三宝寺池の北方の林の中にある。石神井城落城の時豊島泰経は家宝の黄金の鞍を置いた白馬に跨っ
て池に飛び込んで死んだといわれ、娘照姫も悲嘆のあまり後を追って入水したという豊島氏伝説が、
姫塚・殿塚として残っている。姫塚は塚をなし白柏(しらかし)の巨木に押されて倒れそうな小祠を
戴いている。殿塚は平地に墓石があるのみだ。
 史実は、泰経は平塚城に逃れ再起、太田道灌に攻められて敗れ、その後の記録はない。照姫が入水
したという確かな記録もない。伝説は寝物語として作られるから、真偽の程は全く判らない。
 照姫は、泰経の長女とも次女ともいう。泰明の妻という説もある。照日姫とも照子姫とも。区では
観光政策として、照姫伝説を生かして、毎年時代まつり「照姫まつり」を催している。
 豊島氏研究の先駆者平野実の「豊嶋氏の遺跡その他」(「豊嶋氏の研究」収録、昭和32年)によ
ると、泰経の墓とされる殿塚と姫塚は、肥後国の菊池氏のの家臣内田政治に嫁いだ泰経の二女秋子の
子孫という所伝を持つ人が、それに従って(昭和32年時点から)殿塚の場所に墓碑を、姫塚の場所
に秋子の姉の長女を弔う小さな社を建てて由来を記し、竹垣を結い囲んだものであるという。

        文明九年十月
   古墳姫塚石神井城主豊島太郎泰経女照子姫之塚

   姫塚の由来
   文明九年(1477)に石神井城が落城したとき城主豊島太郎泰経の後を追い、二女の照
   姫も三宝寺池に入水したという伝説があります。この塚は縁者が供養のため築いたといわ
   れます。
   平成元年4月                          練馬区教育委員会

 
石神井城址史蹟碑
 池に架かる橋の袂にある昭和12年に建てられた碑。題字は篆書。

   
石神井城址史蹟碑

   水鶏鳴き、蛍に名を得たる當石神井城址は、其昔豊島の豪族代々この池を中心に、付近一
   帯を居城となせしが、文明九年豊島勘解由左衛門尉泰經の代に至り、長尾景春は、管領上
   杉顕定に叛き、武蔵相模の同志と相謀り、兵を興すに及び當城主泰經及び平塚城主なる弟
   平左衛門尉泰明と共に景春に應じ、江戸河越の通路を断ちしかば、江戸在城の扇谷上杉定
   正の臣太田道灌、兵を率て平塚城を攻め、城下に火を放つとの報により、泰經直に之を救
   んと當城並に練馬城の兵を率いて馳向ふ途中、江古田ヶ原沼袋にて太田の軍と遭遇、激戦
   數刻にして遂に泰明及板橋赤塚の一族百五十有餘名討①す。太田勢は時を移さず練馬及當
   城に攻め入れば、豊島勢善く戦しも、衆寡敵せず城遂に陥落す。時に文明九年四月十八日
   の事なり。
   星移り物變わり春秋を重ぬること五百回、天地悠久に比すれば人生蜉蝣の如く、興亡轉た
   夢の如し。往時を顧る者些なく、年經るにつれ此の郷土の貴き史蹟を忘れらるゝを惜しみ
   て之を②に③して後世に傳ふ
    昭和十二年八月                         石神井風致協會

 ①は、亡の下に死、②は、臤の下に石、③は金編に携の旁

 
石神井城址碑
 池の畔にある。

   石神井城址

 碑のある区画の右に区の説明板がある。

   石神井城跡
   石神井城、中世武士の豊島氏の城です。
   豊島氏は、葛西、江戸両氏とともに、秩父流平氏で、鎌倉時代の末には、石神井郷を領有
   していました。
   室町時代に、城主の豊島泰経は、武蔵守護の上杉顕定にそむいた長尾景春に味方しました。
   そのために顕定を援助していた江戸城主上杉定正の重臣太田道灌は、文明九年(1477)
   四月、この城に泰経を攻めて、これを落としました。
   石神井城は、中世の平城の一つで、三宝寺池の谷と石神井川の低地とに挟まれた小高い丘
   陵の上にあって、その周囲は空堀や土囲でめぐらされていました。
   今でも空堀のあとの一部を見ることができますが、落城によって照姫が水中に身を投げた
   という伝説など数々の哀れな物語を秘めています。
   昭和58年3月                         練馬区教育委員会

 石神井池
 井草通りを挟んで東側に続くが昭和8年に水抜きのために湿地を掘って作った人工のボート池だ。

   強東風(つよごち)の磨き上げたる榛(はん)の空(広瀬一朗)
   
五月闇より石神井の流れかな(川端茅舎)
   
目高捕り三宝寺池も遠からず(村山古郷)
 


■厳島神社・宇賀神社(穴弁天)・水神社
 石神井台1丁目26番、三宝池の南面にある。
 


■東京海上日動 石神井体育館
 石神井台1丁目31番29号にある。


■石神井中学校

 石神井台1丁目32番1号にある区立校。同22年石神井小学校内に「東京都板橋区立石神井中学
校」として開校。8月練馬区独立により「東京都練馬区立石神井中学校」と改称。同24年11月現
在地に新校舎落成して移転。校章制定。同27年校地拡張。校歌制定。第一期校舎増築。

 校歌「
赤松の」 作詞・草野心平  作曲・伊藤翁介
  1.赤松の林の彼方
    見晴るかす富士の夕映え
    美しき四季の陽注ぎ
    聳え立つ我が学び舎ぞ
    石神井 ああ石神井
    吾等が母校 石神井
  2.只管に未来の為に
    吾等皆学に勤しみ
    真と善 美をも求める
    大き夢 胸に高鳴る
    石神井 ああ石神井
    吾等が母校 石神井
  3.冬は白 春は紫
    学び舎に充る青春
    挙りて力を合わし
    眉上げよ吾等朋輩
(ともがら)
    石神井 ああ石神井
    吾等が母校 石神井


 同28年正門脇樹木移植。31年第二期校舎増築。同32年創立10周年記念式典。第三期校舎増
築(音楽室、家庭科室、玄関教室4、用務員室)。同35年体育館兼講堂完成。同石神井南中学校分
校。同37年プール完成。体育館への渡り廊下完成。同39年ミルク給食開始。女子標準服制定。上
石神井北小学校PTAより桜木10本寄贈。同40年3月第一回不発弾処理。11月第二回不発弾処
理。同41年鉄筋コンクリート造り校舎(普通教室8・特別教室4)落成。同42年第一期鉄筋コン
クリート造り校舎増築。創立20周年記念式典。同43年第二期鉄筋コンクリート造り校舎増築。同
47年第三回不発弾処理。同48年自体校給食開始。同49年第三期鉄筋コンクリート造り校舎落成
して全ての鉄筋校舎完成。校庭整備・スプリンクラー設置。同51年体育倉庫完成。同52年創立3
0周年記念式典。農協より記念樹辛夷(こぶし)3本寄贈・記念教室時計設置・記念祝典歌発表。給
食シャワー室設置。同53年体育館改修。創立30周年記念野外彫刻完成・記念誌発行。プール全面
塗装。校庭全面改修。同57年防音化・エアコン設置。心身障害学級併設(中度知的発達障害)。同
62年創立40周年記念樹(はなみずき)植樹・記念式典。同63年記念誌発行。
 平成元年新体育施設(体育館・アリーナ・プール)完成。同2年校庭大改修。同4年コンピュータ
ルーム開設。同5年ゆとり教室(視聴覚室、図書室、第二美術室、教育相談室)改修。同9年50周
年記念式典・記念植樹(楠木)・記念誌発行。同11年西理科室改修。同19年創立60周年記念式
典。同21年第一期耐震化。同21年第二期耐震化。
 


■石神井台二丁目緑地

 石神井台2丁目8番6号にある区立公園。


閣名山釈迦本寺

 石神井台2丁目8番36号にある日蓮宗の寺。表札に「唱題行根本道場」とある。2階建ての洋式
建物で、外観からはとても寺とは思えない。


■石神井台くすのき緑地

 石神井台2丁目9番14号にある区立公園。


■石神井台公園

 石神井台2丁目17番9号にある区立公園。


■くりのみ緑地

 石神井台2丁目29番42号にある区立公園。


■沼部地蔵堂

 石神井台2丁目35番27号蕎麦屋「福田屋」の角地にある。石神井学園前交差点の東南角だ。福
田屋の建物は昔のままだ。
 

■大門南緑地

 石神井台3丁目1番4号にある区立公園。


■大門北緑地

 石神井台3丁目1番40号にある区立公園。


■新緑の森児童遊園

 石神井台3丁目2番16号にある区立公園。


■大門南緑地

 石神井台3丁目8番7号にある区立公園。


■翠泉公園

 石神井台3丁目40番2号にある区立公園。


■あさがお児童遊園

 石神井台4丁目1番26号にある区立公園。


■石神井台緑地

 石神井台4丁目1番36号にある区立公園。


■庚申塔 ◇

 石神井台4丁目4番東の三角地(墓地)内の高みにある。唐破風笠付角柱型。

   左面 奉造立庚申供養二世安樂所 武列上石神井村 雌鶏
   正面 
日月・青面金剛像・邪鬼・三猿・二鶏
   右面 
元禄五壬申天十一月十五日 同行十八人 敬白 雄鶏

 尚、「武列」は「武州」の誤記。 


■菊池寛別邸跡

 石神井台4丁目5番14号都営上石神井アパート14号棟の辺りにあった。妻の病気療養のために
購入した。菊池は文芸春秋の社長だったので「文春の森」と呼ばれた。


■上石神井公園

 石神井台4丁目5番56号にある区立公園。


■扇山公園

 石神井台4丁目5番67号にある区立公園。

 やすらぎ
 三坂制作の横たわる裸婦像。台石が小さいので不安定に感じてしまう。45cm。平成元年12月15日設置。


■神社 ✓

 石神井台4丁目7番3号の駐車場にある小祠。屋敷稲荷か? 


■轢き逃げ死亡事故

 石神井台4丁目10番の区道で起きた交通事故。平成27年4月16日午前7時半頃、近くに住む
清掃員の吉本忠司(68歳)が車に跳ねられて倒れているのが見つかり、搬送先の病院で死亡した。
警視庁は車が走り去ったことから、ひき逃げ事件として捜査していたが、ナンバーなどの特徴がよく
似たワンボックスカーが杉並区内の工事現場で見つかり、車の所有者で配管工の栗原穣(40歳)に
事情を聴いたところ、事故を起こしたことを認め、さらに息からアルコールが検出されたため、危険
運転致死と轢き逃げの疑いで逮捕した。


■扇橋公園

 石神井台4丁目10番11号にある区立公園。


■道しるべ地蔵 ◇

 石神井台4丁目15番の西角ある。以前は家屋があったが、空地となっているので家屋番号はないんだ。


■上石神井北小学校

 石神井台5丁目1番32号にある区立校。昭和34年練馬区立石神井小学校分教場として開設。鉄
筋コンクリート造り校舎(管理室・普通教室6・特別教室2。同35年校舎増築(普通教室6・昇降
口)。同36年「東京都練馬区立上石神井北小学校」として開校。校章制定。同37年校地拡張。同
39年校舎増築。校歌制定。

 校歌「
青だ 青空」  作詞・谷川俊太郎   作曲・服部公一
  1.青だ 青空 宇宙に続く
    知らないことなら勉強しよう
    皆未来を目指して進む
    僕の私の上北小
  2.緑 緑の香りと風だ
    丈夫な体を作って行こう
    皆力を合わして進む
    僕の私の上北小
  3.赤だ 輝く朝日の色だ
    平和な世界を守って行こう
    皆友達 地球の子供
    僕の私の上北小


 同40年創立5周年記念式典。同41年校舎増築(普通教室8・特別教室4)。学区変更(北部地
区を大泉南小学校へ、南部接続地区に都営団地が建設されたため同地域を編入)。児童急激に増加。
同42年体育館完成。同43年校地拡張。同44年校舎増築(普通教室6)。プール完成。同46年
創立10周年記念式典・PTAより校旗寄贈。同49年西側校舎非常階段取付。同51年創立15周
年記念式典。同54年野球バックネット新設。給食室改築。同56年創立20周年記念式典。水道受
水槽新設。校庭整備・スプリンクラー埋設。同58年校歌碑設置。通学区域再編成により、石神井台
3丁目27~37、41・42、6丁目1~10が大泉南小学校より帰戻。同60年陶芸小屋新設。
同61年創立25周年記念式典。窓枠アルミサッシ化。同63年第1音楽室・保健室・管理室にクー
ラー設置。
 平成元年体育館改修。給食室改修。同2年校庭緑化。同3年図書館開放。創立30周年記念式典。
同4年方位柱序幕。同5年校庭改修。同8年校庭改修。校庭南側拡張。創立35周年記念式典。校庭
南側拡張部分をクリリンと命名。8月プール開放。クリリンの野草園整備。同11年プール改修。同
12年コンピュータルーム開設。同13年創立40周年記念式典。タイムカプセル埋却。校章除幕。
同15年百葉箱設置。同16年震災総合訓練。
 


■石神井台かいどう緑地

 石神井台5丁目11番29号にある区立公園。


■あけぼの児童遊園

 石神井台5丁目17番23号にある区立公園。


■しいのき児童遊園
 石神井台5丁目22番35号にある区立公園。


庚申塚 ◇

 石神井台5丁目23番30号の角地にある。旧早稲田通り庚申塚交差点のところだ。過去には塚山
があっのかもしれないが、今は小さな覆屋に4基の石造物が並んでいる。
 庚申塔は、板状駒型。日月・青面金剛像・三猿・二鶏。
向かって右側

   奉造立庚申石佛為二世安楽也

 左側

   元禄五壬申天十一月十五日
   上石神井村 結衆廿八人

 と刻む。「元禄五壬申天」は「元禄五年(1692)」だ。
 元文五年(1740)造立の石灯籠型道標、高さ73cm×幅18cm×厚み15cm。笠と竿の
みで火袋は欠損している。

   石燈籠・竿部 右面 北ハひさおりみち   
          正面 奉納 石燈籠壱基
          左面 南ハ多かいどみち


 「ひさおりみち」は「膝折道」、「多かいどみち」は「高井戸道」。


■わんぱく児童遊園

 石神井台5丁目25番11号にある区立公園。


■おはよう児童遊園

 石神井台6丁目2番3号にある区立公園。


■沼辺緑地

 石神井台6丁目2番6号にある区立公園。


■ゆうやけ児童遊園

 石神井台6丁目5番4号にある区立公園。


農学校・石泉愛ランド

 
石神井台6丁目5番27号にある農業体験農園、平成14年に6番目として開園した。農家本橋邦
浩が開設運営し、区から整備、運営にかかる費用が助成される。栽培する作物の選定、作付け計画は
園主が行ない、種、苗、肥料、資材、農具などの用意もする。園主が野菜作りの講習会を開き、農園
利用者は作付けから収穫までの農業体験ができる。1区画の面積は約30㎡。
 


延命地蔵 ◇

 
石神井台6丁目14番1号の富士街道と保谷道(旧早稲田通り)の追分にある。


■小関庚申堂 ◇

 石神井台7丁目10番5号、庚申橋北交差点から東へ20m行った北側にある。中国の道教には、
人体に宿る三尸虫(さんしちゅう)が、庚申(60日に1回)の夜、睡眠中に脱出して天帝に罪禍を
告げ、生命を奪い、人を早死させるという考えがある。これは仏教ではなく中国の土俗信仰だ。三尸
の虫の脱出を防ぐため、寝ないで徹夜する習俗が庚申待または申待だ。近世に入ると庚申信仰は最盛
期を迎える。この結衆を記念して造立したのが庚申塔で、板碑や、青面金剛像、石像、文字庚申塔な
どいろいろな種類がある。ここにある庚申塔は、元禄四年(1691)小関村同行25人が寄進した
青面金剛像だ。6畳ほどの敷地の中の小社に納まっており、大事にされている。
 


■妙王稲荷大明神 ◇

 石神井台7丁目12番16号南にある小社。かつては山の中に祀られたのだろうが、周りが開発さ
れて、住宅街の真っ只中になってしまった。
 


■小関稲荷神社 ◇

 石神井台7丁目18番27号閻魔堂墓地の北隣にある。境内は児童遊園 


■松原閻魔堂墓地 ◇

 石神井台7丁目18番28号にある。多くの石造仏がある。


■石神井台うぐいす緑地

 石神井台7丁目22番21号にある区立公園。


■小関第二児童遊園

 石神井台7丁目23番17号にある区立公園。


■石神井台やすらぎ緑地

 石神井台7丁目23番23号にある区立公園。


■小関ふれあい公園

 石神井台7丁目24番14号にある区立公園。


■石神井台七丁目児童遊園

 石神井台7丁目24番45号にある区立公園。


■富士街道ケヤキ並木

 
石神井台8丁目にある。「けやき憩いの森」を起点として西方へ欅(ケヤキ)の並木が続く。この道
は昔「富士大山道」といわれ、「富士講」が盛んな頃、多くの道者が通った道だ。ケヤキの中で最も
古いものは、樹齢約200年以上といわれ、歴史の重みを今に伝えている。


■あーばん あぐりぱーく

 
石神井台8丁目2番にある農業体験農園。練馬区では、平成8年4月から毎年1園づつ農業体験農
園が開園されている。ここは平成23年15番目として開園。農家尾崎賀一が運営し、区から整備、
運営にかかる費用が助成される。栽培する作物の選定、作付け計画は園主が行ない種、苗、肥料、資
材、農具などの用意もする。園主が野菜作りの講習会を開き、農園利用者は作付けから収穫までの農
業体験ができる。1区画の面積は、約30㎡。
 


■松山憩いの森

 石神井台8丁目5番にある区立公園。


■石神井台八丁目児童遊園

 石神井台8丁目5番25号にある区立公園。 


■石神井台小学校

 石神井台8丁目6番33号にある区立校。昭和52年「東京都練馬区立石神井台小学校」として開
校。同53年校歌制定。

 校歌「
明るい光に」 作詞・町田弓郎  作曲・野田信一
  1.明るい光に包まれて
    心に養う賢さを
    ああ果てしなく開けゆく
    希望の丘 この丘に立つ
    石神井台 石神井台小学校
  2.軽やかに身を躍らせて
    強く鍛える健やかさ
    ああ逞しい力湧く
    命の泉 この泉こそ
    石神井台 石神井台小学校
  3.爽やかな風 頬に受け
    みんなで育てる友情を
    ああ 楽しさが溢れてる
    平和の広場 この広場こそ
    石神井台 石神井台小学校

 同54年自然観察池完成。同55年児童遊具施設完成。同58年藤棚・葡萄棚設置。同61年備蓄
倉庫設置。防球ネット完成。窓強化ガラス化。同62年体育館電動バスケットゴール設置。校歌碑建
立。創立10周年記念式典。
 平成元年視聴覚室開設。ゆとり教室、図書室改修。同2年校庭整備。同3年学童保育室増築。同4
年給食室改修。同5年校庭緑化。同7年石台ジャンボロング集会に都立石神井養護学園小学部招待・
交流。農機具倉庫設置。同8年陶芸小屋設置。観察池西側花壇完成。防災井戸完成。同9年創立20
周年記念式典。同12年コンピュータルーム。同16年避難拠点訓練。アスベスト撤去。同17年普
通教室扇風機設置。各階廊下冷水機設置。同19年創立30周年記念式典。体育館耐震化。同20年
アスベスト撤去。LAN配線。避難拠点連絡会再結成。


■さざんか児童遊園

 石神井台8丁目10番3号にある区立公園。 


■小関児童遊園

 石神井台8丁目14番2号にある区立公園。 


■小関ゆずりは緑地

 石神井台8丁目18番14号にある区立公園。


■石神井養護学校
→ 石神井特別支援学校
 石神井台8丁目20番35号にある都立校。 


■けやき憩いの森

 
石神井台8丁目21番にある区立公園。

 
ふじ大山道標柱 ◇
 
「けやき憩いの森」の富士街道に面した角地に建っている。この石柱は真新しく近年立てられたものだ。その脇に区教委の説明版が建っている。

   ふじ大山道
   ふじ大山道は道者街道、富士街道とも呼ばれています。それは阿夫利山ともいわれた大山
   へ、また大山から富士山への道者たちが通ったからです。北町1丁目で川越街道から分か
   れて、石神井、田無を経て伊勢原(神奈川県)に達していました。練馬の中央部をほぼ東
   から西南に横断して区内では約8kmに及んでいます。そしてその分岐点には「従是大山
   道」と刻んだ道しるべが建てられたのです。
   旧暦の6月は、俗に祭月と呼ばれているように、江戸や関東の各地では祭礼がさかんに行
   われました。阿夫利山も「水の無い月に雨降る山は開き」とあるように、6月28日が初
   山で、それから7月14日まで、連日、関東の村々からから集まった人々でにぎわいまし
   た。その白衣の道者たちが通ったのがこの街道です。
   昭和59年3月                         練馬区教育委員会

 句碑 ✓ 


■ふるさと憩いの森

 
石神井台8丁目21番にある区立自然公園。公園化するために鬱蒼たる森が林になってしまった。

 
地蔵尊 ◇
 南端にある小祠。
 


■石神井川
 かつては小平の鈴木新田、鈴木町1丁目の窪地に水源を発したが、現在では花小金井南町の小金井
ゴルフ場のところが起点となっている。川は東流して西東京市を過ぎ、練馬区の富士見池、三宝寺池、
田柄川の水を合わせて板橋区を流れ、北区に入って「滝野川」と呼ばれ王子で「音無川」を分かち、
更に東流して隅田川に流れ出る全長26kmの川。
 元は北区に入った辺りで真っ直ぐ谷田川(藍染川)の流路を流れて不忍池に入り、そのまま南下し
て千葉周作で゜有名なお玉ヶ池を経て、堀留川を川口として直接江戸湾に流れていた。王子から東へ
現在の流路になった理由はまだ判ってないが、この川を中心として栄えた「豪族豊島氏か矢島氏かが
掘り割ったのではないか」(鈴木理生)と想像されている。王子で「三ヶ村用水」「二十六ヶ村用水
(音無川→思川・山谷堀)」を分ける。

   この国の大地に咲く花桜木の花にぞ埋まる石神井の川

 石神井村を通るので川の名はあるが、全川統一の名称は明治20年代以後のことで、この川も関で
は「大川」、三宝寺池からは「三宝寺川」、豊島園付近では「石川」、王子付近では「滝野川」「王
子川」「音無川」「飛鳥川」などいろいろに呼ばれていた。長い川ほど沢山の名前を持っている。因
みに信濃千曲川が越後信濃川の上流だと知っている人は意外と少ない。
 


【石神井町】(しゃくじいまち)1~8丁目             昭和45年1月1日
 下石神井村字和田・北原・池淵。明治11年「郡区町村編制法」により北豊島郡所属、同22年
「市制町村制」により石神井村大字下石神井(和田・和田前・小中原・池淵・北原)となる。昭和
7年北豊島郡が東京市に編入され板橋区下石神井2丁目。同22年板橋区から分離した練馬区下石
神井2丁目。同45年新住居表示によりごく一部を関町北に譲り、下石神井2丁目のほぼ全部に、
南田中町・谷原2丁目飛地の各一部、東大泉町・上石神井2丁目のごく一部をあわせた町域を現行
の「石神井町」とした。8丁目は都営アパート造成のため2~8番が欠番になっている。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『練馬区史』『練馬の歴史』など。

 
石神井町について
 
町名は、下石神井町の中心部だったことで石神井町の名称を引き継いだ。現在も練馬区役所石神
井庁舎があって西部地区を所管している。町内に昭和8年3月末まで「石神井駅」といった「石神
井公園駅」がある。

 石神井の由来
 地名の起源は、村人が井戸(石神井町4‐26‐2)を掘ったところ霊石と思しき珍石が出てき
たので、これを石神(いしがみ→しゃくじん)として祀り(石神井神社)、石神の出た井戸なので
「石神井(しゃくじい)」と呼び、やがて地名となったという(新編武蔵風土記稿)。石神井台2
丁目の扇山遺跡からも花崗岩製の石棒が発見され、池淵遺跡や稲荷諏訪神社があるところからして
石神信仰は諏訪地方の発祥であるため諏訪族が移り住んだものと考えられている。
 石神は一般に「しゃくじ」とも読み、社宮司・三宮司・尺地とも書いた。石神は、自然石を神体
また神のよりましと見なす信仰が根本で、風土記・延喜式に記されている。神霊の憑いた石と判断
するには、その形・色・模様・音などに特徴を求めるほか、付近には全く石が見当たらないのに、
その場にだけ不自然にポツンと存在するなど、古代人が奇瑞と認める現象があった場合の石だ。石
が変形・成長したり、小石塊が分離して小石を生んだように見えたり、さざれ石のように小石が集
まって岩となったり、また持ち上げると予想より重いまたは軽いなどがそれだ。
 南千住の素盞雄神社の「瑞光石」は光り、大田区磐井神社の「鈴石」は鳴る。葛飾の「立石」や
鹿島神宮の「要石」はその長さが判らず、岩手県の名前のもととなった三ツ石岩には「鬼の手形」
が残るからおっとろしや。また神が宿るという信仰から神霊または貴人・高僧の腰掛石・休み石な
どの伝説を生んだりする。これは影向石、磐座などと同じように、そこで祭祀が営まれたと考えら
れる(柳田邦男『石神問答』)

   『ねりま区報』 昭和60年1月21日号掲載
    日頃私たちが、何気なく呼んでいる「シャクジー」の名も、全国的には難読地名の一
   つである。昔村人が井戸を掘っていたところ石棒が出てきた。石棒には奇端(きずい=
   めでたいことの前兆として現れた不思議な現象)があって、村人たちは、それを霊石と
   崇め、石神(いしがみ)様として祭った。通称石神神社、今の石神井神社(石神井町4
   丁目14番)の創祀である。何時か村の名もそれに因んで石神井と呼ぶようになった。
   ここは石神井発祥の地ということになる。一説に石神様は、三宝寺池から出現した石剣
   とも伝える。石神井の地名が歴史に顕れるのは古い。鎌倉時代の弘安五年(1282)
   宇多重広という武将が、娘の筥伊豆(はこいず)に石神井郷内の所領を譲った書付けが
   ある(内閣文庫「豊島宮城文書」)。また文安五年(1448)には石神井殿が熊野宮
   に年貢を寄進しているし、文明九年(1477)には有名な石神井合戦があって、領主
   豊島氏はその時滅亡した。
    江戸時代、石神井は上、下二つの村に分かれ、ここは下石神井村のうち和田、北原、
   池淵といった。明治22年町村制が施行され、上石神井村、下石神井村、関村、上土支
   田村が合併、大きな石神井村が生まれた。ここは大字下石神井となった。大きな石神井
   村の時代は43年間続いた。昭和7年板橋区成立のとき、下石神井2丁目となり、同2
   2年練馬区独立後もそのままだったが、同45年の住居表示で現町名となった。
    町の中央に石神井公園駅がある。駅は大正4年武蔵野鉄道開通と同時に開設された。
   最初は石神井駅といった。今も駅前広場の一隅に駅開業を記念して建てた「石神井火車
   站之碑」がある。
 



■さざれ石

 (細石) 漢字の如く細かい礫(小石)の固まった石をいう。

   君が世は千代に八千代に細石の巌となりて苔の生すまで(日本国歌)

 わが国歌の意味は、単純には「長い時間・悠久の時・永遠」を歌っている。つまり泰平の世、平和
国家を念願するの心だ。「君が代は」は「天皇を戴いた世は」の意、つまり日本の社会。西洋思想家
やヨーロッパ至上主義者は、これを西洋の王制を持ち出して「天皇の所有する国」と吹聴して「封建
制の権化」だと非難する」。そんな難しく考えて「君が代は」と持ってきたのではない。色素抜けの
白人を信奉するあまり、研究もしないで騒いでら。そもそも「封建」とは、「封」は地方、「建」は法
律・制度である。平たくいえば「地方分権」だ。古代の中国には地方地方に集落があった。夏だ殷だ
の頃である。それがそれぞれ大きくなり連合して曲がりなりにも統一された中国国家となったのが、
「周」だ。つまり連合国家だからそれぞれの小国家の力が強い。この国家体制を「封建制」というの
だ。江戸時代は徳川幕府という統一政権はあったが、地方領国制だから封建制なのだ。それで封建的
という言葉が生まれたが、これを西洋かぶれした連中が、西洋のフューダリズムの訳語に適用したも
のだから、その非人間的な面のみを言葉の意味に捉え、バカ娘がおのれの我儘が通らぬときに「もう
お父さんったら封建的なんだから」と用いて誤解させてしまった。
 地方分権、 地方分権と騒ぐが、「地方分権にする」ということは江戸時代に戻すこと、難しくいうと
「廃県復藩」だ。ということは地方格差を認めなけりゃならんし、東京に出稼ぎに来て代々住み着い
ている東京都民の大半が己が母国(故郷)に税金を払うようになる。と、 東京は壊滅してしまう。 し
かも民主主義は全国平等で成り立ち、ために必然的に中央集権であるが、これが崩壊する訳だから平
等と民主主義も無くなるということ。よーく考えてみよう。
 次に「千代に八千代に」は、 次の、細石(さざれいし)に懸かって「千年も八千年も掛かってでき
た」の意、「細石の巌となりて」は「小石がくっ付き合ってできる細石が長ーい時間に重なり合って
大岩となり」の意、「苔の生すまで」は、岩に苔が生えるにはこれまた悠久の時を経なければならな
いので「長い時間」の意だ。結局日本国歌「君が代」は、 諸外国の国歌のように国のあり方をいって
る訳でもないし、国防意識を歌ってる訳でも、主義主張や思想を唱えてる訳でもない。ひたすら永遠
の時間をのみ歌っている珍しい国歌なのだ。
 で、「細石」だが各地にある。東京の近辺で、私の知る限りでは千鳥が淵「戦没者墓苑」と千葉県
下総中山の「法華経寺」、サンシャインの側の公園にある。それほど珍しい石ではないので、もっと
あるだろ。
 


■照姫まつり

 石神井の町興し。練馬に伝わる中世の悲劇のヒロイン照姫を偲ぶ祭り。秋の練馬まつりと並ぶ練馬
の二大まつりとしてすっかり定着した。華やかな時代衣装を身にまとった行列が、石神井公園の野外
ステージを出発し、約 2.5kmのコースを練り歩く。野外ステージと石神井公園駅前では、照姫・奥
方等の舞、武者による勇壮なパフォーマンスを予定している。行列の中心は照姫だが、豊島泰経とそ
の奥方を合わせた三役を乗せた輿が通るときには、沿道から「照姫様~」「泰経公~」と声のかかる
人気ぶり。一方、野外ステージで繰り広げられるお囃子、太鼓、キャラクターショーなどのパフォー
マンスも見逃すことができない楽しさとは実行委員会のPR。
 


■平成みあい橋

 石神井町1丁目1番と25番を結ぶ歩行者専用橋。笹目通り長光寺橋の西にある。平成3年「練馬
の橋・デザイン・コンテスト」で最優秀賞を受賞したデザインを元にして設計された三方橋で、同6
年に完成した。「みあい」とは、「三会」「見合」「美愛」などを表し、自然との出会い、人々との
語らい、そんな素晴らしい出会いがこの橋にあってほしいという区の願いが込められている。


■和田堀公園

 
石神井町1丁目1番11号にある区立公園。杉並区の和田堀公園が有名過ぎてこっちの情報は全く
ない。


■和田堀第二公園

 
石神井町1丁目1番37号にある区立公園。


■長光寺橋緑地

 
石神井町1丁目1番58号にある区立公園。


■和田堀こぶし緑地

 
石神井町1丁目18番11号にある区立公園。


■しゃくいち児童遊園

 
石神井町1丁目21番7号にある区立公園。


■和田稲荷神社(伝五郎稲荷)
 石神井町1丁目21番15号にある。かつては周辺地域、大字石神井和田地区の鎮守だった。名称
については地図などでは今日でも単に「稲荷神社」とだけ記されている。境内にある昭和7年建立の
石碑の背面には、

   三百餘年の昔 京都伏見乃里より(渡邊)傳五郎翁の遷し祀りしと云ふ

 と刻記され、旧別称の「伝五郎稲荷」はこの人物の名に由来する。明治以降は石神井公園南側に隣
接する石神井台氷川神社に合祀された。神社は南向の小坂路上に西向に在り、昼間は鳥居前のスライ
ド式ゲートが人幅程度開く。入口付近に「立入禁止区域」の標識と、「鳥獣保護区」の看板が立って
る。敷地はそれほど広くないが、常に竹箒で掃いた跡があるなど手入れの行き届いた様子が覗える。
社前の坂路では今日でも歩行者が時おり鳥居付近で一礼してから通過する姿が見受けられ、参拝客で
混雑することなどは無く、木々に覆われた閑静な神社境内となっている。入口の鳥居は台輪鳥居と呼
ばれる形式で、この形で現存するものは比較的数が少ない。敷地内のほぼ中央に立つ神木の白樫は、
高さ16m、幹周り3.8mで 樹種別では練馬区内最大。明治33年に奉納された神使の狐像と火焔
宝珠紋の手水舎がある。現在はこの手水舎に水は無い。また境内社として、本殿の左手奥北側の塚に
朱い鳥居があり荷田春満を祀っているとされる「荷田神社」がある。このほかに境内には入口付近に
先端の尖った百度石や「大東亜戦争戦没者慰霊碑」「御遷宮記念碑」など複数の巨石碑が建立されて
いる。
 


■石神井つばめ児童遊園

 
石神井町2丁目3番4号にある区立公園。


■光和小学校

 石神井町2丁目16番34号にある区立校。昭和30年「東京都練馬区立光和小学校」として開校
校章制定。同33年講堂兼体育館完成。同36年火災により16教室焼失。同38年鉄筋コンクリー
ト造り校舎24教室落成。同40年校旗樹立・校歌制定。創立10周年記念式典。
 同50年創立20周年記念式典。同52年校舎増築(特別8教室)落成により旧校舎の全容整う。
同60年創立30周年記念式典。同63年校庭緑化。
 平成3年教室開放施設(特別教室など)改築。同7年創立40周年記念式典。同8年新校地・バス
ケットコートを農園として整備。同14年校舎全面改築のため仮設校舎へ移転。同16年新校舎(プ
ール)完成。新校庭完成。同17年創立50周年記念式典。同18年体育館耐震化。同19年2学期
制開始。プールの庇完成。同20年スポーツ推進協力校。普通教室にエアコン設置。同21年ぴっか
りひろばスタート。


■むくのき公園

 
石神井町2丁目18番7号にある区立公園。


■和田緑地

 
石神井町2丁目26番26号にある区立公園。光和小学校の北側にある住宅地の隙間にある。


■和田児童遊園

 
石神井町2丁目28番30号にある区立公園。


■しいのみ緑地

 
石神井町2丁目33番8号にある区立公園。


■和田堀緑道

 
石神井町3丁目2番と3番の間にある区立公園。元の和田堀の河道跡に創られた遊歩道。

 和田堀
 かつては三宝寺池から石神井川に流れた川。昭和9年石神井池が造成されてからは、そこから石神
井川に流れた川。石神井川の直線化改修の際に山下橋の西側に落ちるように付け替えられた。それ以
前は南田中アパート38号棟の南辺りで合流していた。、


■和田堀緑地

 
石神井町3丁目3番にある区立公園。和田堀緑道と一体化している。


■笠松墓地
 石神井町3丁目9番1号にある渡辺一族の墓所。新道の予定地となり東側三分の一がカットされ墓
地は三角平面になってしまった。渡辺家は豊島氏の家臣で石神井城落城後、帰農したと伝えられる。
土地の名家であり、文政十年(1827)以後幕末まで、下石神井村の名主として「渡辺弥市」の名
が残っている。
 墓域に庚申塔が2基あり、唐破風笠付角柱型。日月・青面金剛像・二鶏・邪鬼・三猿。「元禄七甲
戊十一月七日」(1694)「奉庚申講供養」「
武州豊嶋郡下石神井村」。造立の願主には渡辺勇吉
の名が刻まれている。
 


■順正寺
 石神井町3丁目17番4号にある浄土真宗大谷派の寺。山号はない。本尊は阿弥陀如来。定例法話
が毎月第2日曜日2時から、聞法会が毎月2日夜7時からある。宗旨に関係なく、心迷える者は「ど
なたでも気軽に」とは親切な案内。参道は幅1m余ほどの狭い道で、角に看板がなかったら全く気づ
かない。そこを20mほど入った奥に、普通の民家の寺がある。道は整備されており、真ん中が排水
溝でコンクリートの蓋がしてある。朝晩の清掃も行き届いていて実に素晴らしい。親鸞の道場に適っ
ているが、入るには少々勇気が要る。


■石神井公園駅

 石神井町3丁目23番にある西武池袋線の停車場。大正4年4月15日武藏野鉄道開通と同時に開
設され、その時は「石神井駅」だった。昭和5年三宝寺池周辺が風致地区に指定され、同7年には石
神井風致地区協会が設立され、石神井池(ボート池)が造成されるなどし公園化が進められ、同8年
3月1日に「石神井公園駅」に改称した。都立公園として開園するのは昭和34年だ。開通当時、池
袋~飯能間全線12駅では最低運賃は1区間5銭、池袋まで13銭、全線52銭だった。動力車はド
イツ・ヘンシェル社製Cタンク蒸気機関車(SL)。平成の現在、高架複々線化工事が進行中。
 ホームはもともと地上島式2面4線構造だったが、高架化工事に伴って平成22年2月7日以降は
下り線が地上片面1面1線、上り線が高架島式1面2線という配置になっている。高架化工事完成後
は高架島式2面4線になる予定。ホームと改札階を結ぶエレベーターは、平成20年11月22日よ
り供用開始されている。高架化工事本格化前は、ホームと改札は跨線橋によって連絡されていた。
 改札口・出口は南北2ヶ所で、南口改札が地下の暫定連絡通路に、北口改札は地上にある。いずれ
も仮設のものである。なお高架化工事完了後にはお払い箱となる仮設の通路だが、南北自由通路とし
ての役割もあってエレベーターが完備している。
 また、地下にある南口改札付近には切符売り場がないので、定期券やSuica・PASMOのカ
ードを持っていない場合は階段を降りる前に切符を買う必要がある。
 石神井公園駅が高架化された暁には、エレベーターなどのバリアフリー設備も整った駅に生まれ変
わる。駅の両側にある踏切などは、都内でも有数の「開かずの踏切」として悪名高いが、高架化完成
後は全て解消される。現在は練馬高野台までの複々線も、石神井公園まで延びてくることになってい
る。

 高架化
 平成20年11月22日高架化工事に伴い、歩行者用跨線橋廃止。南北自由通路ができたことで、
とりあえず歩行者に限ってだけは南北の行き来が便利になった。同22年2月7日より、上り線ホー
ムのみ先に高架化され、地上線廃止。同23年4月17日
下り高架ホームの利用を開始、同時に下り
地上ホーム、仮設地下道、定期券販売窓口を廃止。同24年6月23日
下りホーム全面供用開始(1
番線使用開始により下り線が1面2線化)。同25年3月23日
西口開設。  

 
石神井火車站の碑

 石神井公園駅南口駅前にある。総高3m50cm、碑の高さ2m87cm、10cm、幅11cm。
「火車」は中国語で「汽車」の意。「站」は同じく「駅」だ。碑は大正9年に造立された。碑の表面
には、鉄道開通の喜び、駅の敷地5000坪を提供したこと、石神井城の豊島氏の歴史を述べ、三宝
寺池の散策や長命寺の参詣が大変便利になったことを、「今や鉄路一串、履物を泥にせずして遊ぶを
得、これ皆鉄路の賜物なり」と刻んである。裏面には敷地寄付者23人、主唱者5人の名前が刻んで
ある。碑の側に建つ大イチョウは、記念碑造立と同じ時に植えられたもので、当時は高さ4m、径1
0cmほどのもので、当時の駅舎の真正面に当たっていたそうだ。

   石神井火車站之碑
   大正四年四月武蔵野鉄道成矣其軌道起池袋訖飯能延長十有余里石神井駅恰当其軌路郷人挙
   賛之捐地五十余坪設火車站以資交通殖産之利便稽古治承四年有豊島権守平清光従源頼朝領
   此地六世孫泰景属上杉管領築城居此文明九年太田道灌率兵攻之勘解由左衛門尉泰経与其弟
   泰明戮力防之不利城遂陥其廃址至今犂然可考城之北有瀦水曰三宝寺池其周五百三十余歩清
   冽澂鑑冬温夏清窅邃可遊距駅少許又有東高野山長命密寺慶安四年慶算阿闍梨所開基寺境静
   閴賽者雲集焉矧以距京在指顧之間春秋佳日徜徉遊息之客常接跟踵有斯古蹟有斯浄区而車馬
   之便不完郷人太嗟之今也鉄路一串不泥履而得游是僉鉄路之賜也郷人徳之輒市石鑿其縁由眎
   後昆銘曰
   三宝寺池  明漪絶底  長命密寺  飛観霞啓
   鉄路貫道  人靡労髀  斯是祥禎  天秩有礼
                                       滑川達撰
   大正九年歳次庚申五月五日                     豊田利右衛門書
                                     今井亀鶴泉刻

   
〔意訳〕
   大正四年四月、武蔵野鉄道成れり。其の軌道、池袋に起こり飯能に訖いたる、延長十有余
   里。石神井駅、恰(あたか)も其の軌路に当たる。郷人挙(こぞ)って之に賛し、地を捐
   (す)つること五十余坪。火車站を設けて以て交通殖産の利便に資す。古(いにしえ)
   稽(かんが)うるに、治承四年豊島権守平清光有りて、源頼朝に従いて此の地を領す。六
   世の孫泰景、上杉管領に属して城を築きて此に居る。文明九年太田道灌、兵を率いて之を
   攻む。勘解由左衛門尉泰経、其の弟泰明と力を戮(あわ)せて之を防ぐも利あらず、城遂
   に陥る。其の廃址、今に至るまで犂然(りぜん)として考すべし。城の北に瀦水(ちょす
   い)
有り、三宝寺池と曰う。其の周五百三十余歩、清冽たる澂鑑(ちょうかん)なり。冬
   は温かく夏は清(すず)しく、窅邃(ようすい)として遊ぶべし。駅を距たること少し許
   りなり。又東高野山長命密寺も有り。慶安四年、慶算阿闍梨の開基する所。寺境静閴(せ
   いげき)
、賽者(さいしゃ)雲集す。矧(いわ)んや、京を距たること指顧しこの間に在
   るを以てをや。春秋の佳日、徜徉(しょうよう)遊息の客、常に跟踵(こんしょう)を接
   せん。斯(ここ)に古蹟有り、斯に浄区有り。而るに車馬の便、完からず。郷人太(
   なは
だ)之を嗟(なげ)く。今や鉄路一串(いっせん)して、履(くつ)を泥せずして游
   (あそ)ぶを得たり。是僉(みな)、鉄路の賜なり。郷人之を徳とし、輒(すなわ)ち石
   を市(か)い其の縁由(えんゆ)を鑿(うが)ちて後昆(こうこん)に眎(しめ)す。
    銘に曰わく、
    三宝寺池、明漪(めいい)底を絶ち 長命密寺、飛観霞に啓(ひら)
    鉄路は道を貫き、人は髀(もも)を労する靡(な)
    斯れ是れ祥禎(しょうてい)、天、有礼を秩(つい)ず          滑川達撰
   大正九年歳次庚申五月五日            
          豊田利右衛門書
                                
      今井亀鶴泉刻 


酉の市
■大鷲神社・大国天社 ◇

 石神井町3丁目25番26号、石神井公園駅のすぐ西にある。何もない境内に社殿だけが建ってい
る。境内はコンクリート打ちで一木一草もない雰囲気。まるで駐車場のようだ。祭神日本武尊・大鳥
連祖命。昭和の初め当地の人が石神井町3丁目18番付近に社殿を建て、甲府方面で射止めた大鷲を
剥製にして祀ったことに始まる。当社には大黒天が合祀されているが、その由来は境内にある「大国
主命御由来の碑」に記されている。その碑によれば、境内狭隘のために昭和7年に社殿を現在地に移
転し、石神井駅前通り在住の人たちにより協和会が作られ、地域発展・家業繁栄・子孫長久の守護神
としたという。現在の社殿は昭和11年に新築したもので、その記念に建てられた社号碑には「大鷲
神社」と記している。「練馬の神社」に、

   創立年代不詳。「東京都神社名鑑」によれば、日本武尊が東国の蝦夷征伐のため石神井村
   を通過の折、立寄られたので、後に村人がその高徳を慕って奉祀したのに始まるという。
   またこの地一帯は古くから御鷹場として有名であり、昭和の初め当地の人が甲府方面で射
   止めたという大鷹の剥製を、神社の大鳥に因むものとして奉納されたと伝える。
   合祀の大黒天社については、境内にある大国主神御由来碑(昭和7年)によれば、昭和4
   年石神井駅前20会員が協力して旧下石神井1317番地に社殿を建てて、大宮黒塚山か
   ら分霊勧請、昭和7年に現在地に遷した、とある。
   社殿には大鷲神社と大黒天社の社名札が掛かっている。境内石造物は、大鷲神社の社名碑
   (昭和11年)と鳥居(昭和15年)、水盤(年代不明)だけである。
   商売繁盛の神として、酉の市には、地元を中心に近郷から多くの崇敬者が参集する。
   境内樹木は少なく、目立つのはサクラである。


 とある。
 だだっ広かった駐車場のような境内は、ビルが建って、境内は俄然小さくなった。大鷲神社だけに
酉の市で知られた有名な神社だった。


■練馬区役所石神井庁舎(区民事務所石神井)

 石神井町3丁目30番26号にある。

 ロバと少年
 庁舎外にある銅像。古賀晟の作品。像高140cm。昭和60年10月9日設置。

 ふじ大山道道標
 庁舎右手植栽にあった。今はないかもしれない。庁舎の前はふじ大山道だ。

    ふじ大山道
   ふじ大山道は、道者街道、富士街道とも呼ばれています。それは阿夫利山ともいわれた大
   山へ、また大山から富士山への道者達が通ったからです。北町1丁目で川越街道から分か
   れて、石神井、田無を経て、伊勢原(神奈川県)に達していました。練馬の中央部をほぼ
   東から西南に横断し、区内では約8kmに及んでいます。そしてその分岐点には「従是大
   山道」と刻んだ道しるべが建てられたのです。
   旧暦の6月は、俗に祭月と呼ばれているように、江戸や関東各地では、祭礼が盛んに行わ
   れました。阿夫利山も「水の無い月に雨降る山は聞き」とあるように、6月28日は、初
   山で、それから7月14日まで、連日、関東の村々から集まった大山講や富士講の人びと
   にぎわいました。その道者たちが通ったのが街道です。
   昭和58年3月                         練馬区教育委員会
  


■永瀬義郎の館 → 永瀬義郎資料室

 石神井町4丁目8番11号の版画家永瀬義郎が晩年を過ごした自宅を開放して,昭和55年に開設
した。永瀬義郎は独学で版画を研究し、風景や花,女性などをテーマに描き、創作版画のパイオニア
と評された。資料室では版画や油絵などの作品が展示されている。著作の復刻本「版畫作る人へ」を
販売してるぞ。「畫」は「画」の旧字とされている。


■光和公園

 石神井町4丁目11番35号にある区立公園。

 まどか
 林昭三作の男の子と女の子の銅像。像高130cm。平成4年3月26日設置。


■石神井神社

 石神井町4丁目14番3号にある。祭神は少彦名命。神体は古俗「石神さま」と呼ばれた霊石だ。
これには「昔、村の人が井戸を掘ったところ、石の棒が現れた。この辺りにはあるはずのない不思議
な石だった。そこで村人はこれを神と崇めて祀り、小祠を建て「石神さま」と呼んだ。これが今の石
神井神社で、村の名が起こったという。つまり石神井とは石神の出た井戸の意で、石神井町4‐26
‐2に現存し、地域の人に大切に守られている。『新編武蔵風土記稿』には、

   石神井社 是村名の由て起こりし社なり。神体は則上石神井村三宝寺より出現せし石剣な
   り


 と記されている。『武藏野話』には長さ60cm×太さ30cmと寸法を記している。本来ならこっ
ちが石神井郷の総鎮守たるべきを、その地位を氷川神社に奪われてしまった。大きくもなくさりとて
小さくもない極ありふれた神社だ。またこの名の神社は川口・越谷・春日部などにも見られ、この町
特有の神社でもない。

   石神井神社
   石神井神社の由来は古く詳らかではありませんが、四神地名録・新編武蔵風土記稿など江
   戸の地誌には「石神の神社と号せる僅なる小社有り。神体は石にて神代より以前の石剣な
   り」とあります。いずれにしてもこの「石神の井」が石神井の地名の起こりとなったと思
   われます。
   本社の祭神は少彦名命でありますが、石剣もまた本殿の奥深く御神体として奉祀されてお
   ります。境内末社には稲荷神社があります。
   拝殿内には明治初期以降の大絵馬十数枚が奉納されています。保存が大変良く、破損や彩
   色の剥落は殆んどありません。江戸時代からつづいた中野の絵馬屋、鎌田東渓の作品二点
   があります。
   昭和58年3月                         練馬区教育委員会
 


■馬頭観音・小祠 
撤去

 石神井町4丁目19番11号の角地にある写真はあるが、現在は当該場所にはない。
 


■石神井発祥の井戸

 石神井町4丁目26番2号の駐車場の中にある。井戸を掘るということは、生活用水を得るという
こともあるが、灌漑用水を得ることが第一で、新井、染井、西新井などは湧水を求めて掘削したもの
だ。石神井は、石棒(石剣)が出てきたことから、それを神と見立て、石神の井(用水)としたこと
で、「いしがみのい→しゃくじんのい→しゃくじんい→しゃくじい」と転訛したものだ。
 地名としては鎌倉時代には見られるという。


■庚申塔 ✓

 石神井町5丁目7番11号の角にあるというが、当該番地にはない。


■石神井公園ふるさと文化館

 石神井町5丁目12番16号にある区の歴史資料館。平成22年に開設された。練馬区の歴史や伝
統文化、自然などについて、体験しながら楽しく学ぶことができ、観光情報も発信する新しい博物館。
 「ふ・る・さ・と」のコンセプトに基づいて、実際に触ることのできる展示物を通じての学習や体
験が可能。「ふ」=ふれあう(交流する)。「る」=ルーツを知る(学習する、探求する)。「さ」
=さわれる(体験する)。「と」=とりかえられる(更新性のある展示)だ。


 中野屋商店文書
 
土支田四丁目で肥料や雑貨などを販売していた中野屋商店(加藤家)の営業関係文書類。明治7年
から昭和6年までの100点余、決算帳や
仕入れ帳、販売簿などから、当時の商店営業の様子を知る
ことができる。

 庚申塔
 展示室内にある庚申待板碑3基。春日町の稲荷神社境内にあったものを展示。

 尾張殿鷹場碑
 江戸時代、旧小榑村(西大泉・南大泉・大泉学園町一帯)と旧橋戸村(大泉町一帯)には、尾張徳
川家の鷹場があった。その境界に建てられた石柱だ。
 鷹狩りは、飼い馴らした鷹を放ち、小鳥や小動物を捕らえる狩猟法です。尾張徳川家の鷹狩りは、
軍事訓練や農村の視察に加えて、民衆に大名の威信を示すことを目的に、寛永八年(1631)から
慶応三年(1867)まで行われていた。1回の鷹狩りで、300名あまりの尾張藩士が参加し、約
10日間行われた。大名にとって鷹狩りは華やかな行事だが、鷹場に住む人々は人足として徴発され
たほか、「犬猫は放し飼いにしない」「手をたたかない」「かかしを勝手に建てない」など細かい規
定が設けられ、破ると罰せられることがあった。
 同鷹場碑は、高さ78cm、縦・横15cmの石造角柱で、下部が欠損し、3個体になっている。
造立年は不明。正面には、

   従是西北尾張殿鷹場

 「これより西北おわりどのおたかば」の文字が彫られている。大正2年頃までは南大泉1丁目17
番1号(現在35号)に建っていた。


 石神井町庚申塔道標
 駒型。日月・六手合掌青面金剛立像・邪鬼・三猿を陽刻。台石正面にも三猿の陽刻。本体の三猿と
重複→別の碑から転用したものか? 
 正面右下隅に「右方 とく丸道」、同左下隅に「左方 はやセ道」。全高125cm(内、台石18
cm)、幅46cm、厚み28cm。

 やさしさについて
 林宏作の彫刻。段違いに向かい合う幼児像。高さ2m30cm。平成22年3月28日設置。長尾
幸作の寄付による基金第7号。


■石神井町役場跡

 石神井町5丁目13番10号の白百合福祉作業所の建っているところだ。


■池淵史跡公園

 石神井町5丁目13番にある。池淵とは「石神井池の淵」という意味で、近年遺跡が出土したとこ
ろだ。昭和31年から4回にわたり発掘調査され、遺跡保存のため、昭和52年公園として整備され
たが造られた。遺跡からは先土器時代、鎌倉時代、さらに室町時代の遺物まで出ている。石器・土器
・竪穴式住居や中世の陶器片などの遺物の紹介は園内の説明板で解りやすく説明されている。また小
・中学校の教科書に出てくる植物を集めた教材園や万葉コーナーなどもあり、散策しながら学習でき
るようになっている。公園内は、地中に残る遺跡を保存するために低木が多く、整然と植えられ、と
ても明るい感じだ。花の盛りにここを訪れる虫たちをみるのも楽しみの一つだろう。とは区の説明。

   あらまし
   池淵史跡公園は、昭和47年から48年にかけて調査発掘された池淵遺跡が埋蔵されてい
   ます。池淵遺跡は、南側を流れる石神井川と、北側の三宝寺、石神井池にはさまれた舌状
   の台地の上にあります。最も古い遺跡は、先土器時代、縄文時代のものから、新しくは鎌
   倉時代、室町時代のものにまで及び、多くの住居跡、窯跡、■■■が発見されています。
   なお、これらの一部が石神井図書館地下の郷土資料室に展示されています。
                              練馬区役所土木部 公園緑地課
 古代住居跡
 昭和47年の発掘調査で発見された竪穴住居跡。現在埋却。上部にそれを示す植込みを作り、柱5
本と説明板を建てている。


   
縄文時代の竪穴住居跡
   今から5000年前の住居跡が、昭和47年の発掘調査によりこの場所から発見されまし
   た。発掘後埋め戻し保存し、円形の植込みで表示しています。円く地面を掘り下げ住居の
   床とし、そこに数本の丸太を立て、円錐状の屋根を草で葺いた簡素な作りのすまいです。

 内田家住宅
 平成22年中村3丁目から移築した茅葺き農家の建物。明治20年の建築。

 園内の石造物
 西南部に2基、園内に3基、馬頭観音3基、道標1基がある。


■江戸筆・亀井
 石神井町5丁目14番2号にある筆工房。元まで崩して使える「さばき筆」。極小筆から太筆まで
800種以上をすべて手作りで作っています。明治初期から始まり、現在4代目。

 江戸筆(さばき筆)
 江戸時代も中期には、商人の台頭と共に「寺子屋」が急増し、庶民の間にも筆が普及、大量に需要さ
れる時代となり、江戸の筆職人の技術もさらに進歩し、多くの江戸名筆を生んだ。現在主流の製造法
「練りまぜ法」は、元禄時代に細井広沢により確立された手法で、明治5年の学制発布と共に急速に
広まった。京筆との違いは、京筆がは筆先を利用して書くのに対して、江戸筆は柔らかく、筆全体に
墨をくくませて書く。結果、何がどうなるかというと、筆画の「捺」つまり「右の払い」、同「鉤」
つまり「縦画からの左はね」が美しく納まる。つまり字の書き映えが美しく書けるので楷書向き。


農業体験農場・農の詩

 
石神井町5丁目15番にある練馬区農業体験農園。練馬区では、平成8年4月から毎年1園づつ農
業体験農園が開園されている。ここは平成21年13番目として開園。農家富岡忠明が運営し、区か
ら整備、運営にかかる費用が助成される。栽培する作物の選定、作付け計画は園主が行ない種、苗、
肥料、資材、農具などの用意もする。園主が野菜作りの講習会を開き、農園利用者は作付けから収穫
までの農業体験ができる。1区画の面積は、約30㎡。
 


■庚申塔 ◇

 
石神井町5丁目15番、農業体験農場の南の行き止まりの道(早稲田通りの一本北の道)の、石神
井公園野球場に上がる石段の左脇にある。この道は相当古い道で、嘗ては通じている。以前からこの
辺りに建っていたと思われる。体験農場や野球場のところは野小屋一つ無い、全くの農地だ。
 唐破風笠付角柱型。日月・青面金剛像・三猿・二鶏。「元禄四辛未歳」(1691)「十一月十六
日」。


照光山禅定院無量寺

 石神井町5丁目19番10号にある真言宗智山派の寺。明応三年(1494)願行上人が開いたとい
われ、この寺は文政年間(1818~1830)に祝融の災いに遭い、本堂、庫裡などを総て焼かれ
てしまったが、境内の応安~至徳(南北朝時代)年号の板碑によっても創建の古さを伺うことができ
る。安政四年(1857)に建てられた鐘楼前の石塔や、門前の堂宇に安置された六地蔵は石神井村
の光明真言講中によって造立されたものだ。本堂前の「寛文十三年十月朔日」と刻まれた織部灯籠は
その像容から別名キリシタン灯籠といわれ、区内でも珍しい石像物の1つだ。弘法大師像は腰掛姿で
これは珍しい。山門の右に大悲観音立像、その隣に鐘楼があるが、柱は修復されて美しくなり、屋根
は茅葺きという珍しさだ。鉄筋コンクリート造り本堂は正面。右は墓所、左は庫裏と催場になってい
る。名木ヒヨクヒバがある。なお現在の石神井小学校の全身である豊島小学校が、明治7年5月にこ
の寺を借りて開設されその記念碑が境内に残されている。

   禅定院
   禅定院は照光山無量寺といい、真言宗智山派(豊島八十八ヶ所霊場第70番札所)のお寺
   で、本尊は阿弥陀如来です。「新編武蔵風土記稿」によれば、今から約600年前、願行
   上人によって開かれたお寺であると伝えます。文政年間(1818~30)の火災で、建
   物・記録などことごとく焼失しましたが、境内にある応安、至徳(南北朝時代)年号の板
   碑によっても創建の古さをうかがうことができます。門前の堂宇に安置された六地蔵や鐘
   楼前の大宝篋印塔は石神井村の光明真言講中によって造立されたものです。本堂前の寛文
   十三年(1673)と刻まれた織部灯籠(区登録文化財)はその像容から別名キリシタン
   灯籠といわれ、区内でも珍しい石造物の一つに数えられています。墓地入口にいぼの治癒
   に霊験のあるいぼとり地蔵や、墓地内に寺子屋師匠の菩提を弔った筆子塚があります。ま
   た現在の石神井小学校の前身である豊島小学校は、明治7年区内初の公立小学校としてこ
   こに創立され、以来三十余年子弟の教育の場でした。
   昭和58年3月                         練馬区教育委員会

 石幢六面六地蔵
 総高80cmで笠が付いている。六角柱のそれぞれの面には、数珠・宝珠・幢・傘・錫杖を持ち合
掌している6体の地蔵が彫られています。これらは六地蔵といい、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・
天上のどこにいても救いの手をさしのべる六道救済の地蔵だ。台石には、正面に「武刕豊嶋郡下石神
井村 奉造立地蔵菩薩 講中二世安楽処 享保元丙申歳(1716)十月廿四日」、側面に願主36
人の名が刻まれている。

 
織部燈籠
 石造で総高126cm。笠と火袋を失い、台石はその後に備えられた。竿は上部にくびれを持ち、
裏面に長い衣を身につけた立像が彫られている。正面には「(種子)奉祈供養石燈籠為惣檀那逆修菩提
也」「導師法蓮社 常誉上人」「願主 西誉真念 富誉唯真 念誉道順」「寛文十三年癸丑天(16
73年)十月朔日」の文字が彫られている。
 石燈籠は本来昼に法会を行ったときに神に清めた火を奉納することを意味しており、照明用具では
ない。構成は、宝珠・笠・火袋・中台・竿・基壇からなる。

 十九夜塔
 鐘楼の前の石仏群の中にある。月待行事の一つ。月待行事とは、十五夜、十六夜、十九夜、二十二
夜、二十三夜などの特定の月齢の夜、「講中」と称する仲間が集まり、飲食を共にした後、経などを
唱えて月を拝み、悪霊を追い払うという宗教行事だ。文献史料からは室町時代から確認され、江戸時
代の文化・文政のころ全国的に流行した。板碑としては埼玉県富士見市の嘉吉三年(1441)のも
のを初見とする。特に普及したのが二十三夜に集まる二十三夜行事で、二十三夜講に集まった人々の
建てた二十三夜塔は全国の路傍などに広くみられる。十五夜塔も多い。群馬・栃木には「三日月様」
の塔も分布しており、集まる月齢に関しては地域的な片寄りも見られる。
 


■稲荷諏訪合神社

 
石神井町5丁目23番2号にある中社。由緒不詳。「新編武蔵風土記稿」下石神井村の項に、

   諏訪社、禅定院持。稲荷社三。一ハ道場寺、一ハ禅定院、一ハ村民の持

 とあり、この内の諏訪神社が稲荷社3の内の1社と合祀して、稲荷諏訪合神社と改めたという。明
治維新後のことだ。社殿は昭和54年に火災の難にあい、同55年鉄筋コンクリート造に改築した。
境内石造物では、燈籠と鳥居(大正11年)が古い。社殿改築記念碑(昭和32年)、玉垣工事寄付
者御芳名碑(昭和39年)、社殿改築記念碑(昭和55年)、社務所新築記念碑(昭和58年)があ
る。境内樹木に太幹のスダジイがある。境内社は根ヶ原諏訪社。
  


■もちの木児童遊園

 
石神井町6丁目17番10号にある区立公園。


■石神井警察署

 
石神井町6丁目17番26号にある。

 ●巡査部長が淫行 警察手帳を奪われる
 石神井署の男性巡査部長(42)が平成25年6月、勤務終了後に17歳と18歳の少女2人とラ
ブホテルに行き、警察手帳を盗まれていたことが、10月22日になって判明した。警視庁は窃盗容
疑少女2人を逮捕、家庭裁判所に送致した。弁護士は巡査部長が売買春を持ちかけた疑いがあると主
張。警視庁は児童買春・ポルノ禁止法違反容疑で捜査を開始した。
 田崎信幸弁護士の話では、巡査部長は6月中旬、勤務を終えて飲酒した後、埼玉県川口市内で当時
高校3年生だった少女らに声をかけて、ラブホテルに誘ったとされる。翌朝、客室内で目覚め、警察
手帳や所持金数万円などがなくなっていることに気づいたという。
 8月下旬、警視庁は窃盗容疑で2人を逮捕、2人が当時住んでいた部屋から警察手帳などを押収し
た。巡査部長は捜査過程で「路上で意気投合し2人を誘った」「酔っていて覚えていないが、金を渡
した可能性がある」などと説明したという。弁護士は「巡査部長が1人3万円を支払うといって児童
買春を持ちかけた。客室内で少女1人に警察手帳を示して猥褻な行為をした」と主張としている。
 警察手帳で代金を踏み倒そうとしたお巡りは不届き千万だが、売春で小遣い稼ぎをする女高生売春
婦も言語道断だ。

 ●スケベエ3大聖職
 1.警察官、2.教師。3、医者 というからねぇ。警察というところは、正義の官衙ではあるが
悪党の巣窟でもある。平成27年だけでも何人捕まったかよ。飲酒運転事故に人殺しまでだぜ。
 


■権藤家のスダジイ・ハクモクレン
 石神井町6丁目32番3号にある。このスダジイはテッポウムシに幹を食われても、なおいくつか
の枝を成長させている元気ものだ。スダジイとしては変わった姿をしているが、害虫に負けなかった
たくましい生命力を感じる。ハクモクレンも区の名木百選に選ばれている。
 


■石神井一里塚跡 ◇

 
石神井町7丁目1番2号、石神井公園駅西側踏切の直ぐ西にある。現在は塚や盛り土の跡は無く、
一里塚改築記念碑と、青面金剛が陽刻された庚申塔が立っているだけだ。
 庚申塔は、唐破風笠付角柱型。日月・青面金剛像・邪鬼・三猿。「延享三歳龍次丙寅十一月吉旦」
(1746)「武陽豊嶋郡下石神井邑」「願主 本橋惣右衛門」
「講衆四十三人」と刻む。


■石神井町七丁目緑地

 
石神井町7丁目3番22号にある区立公園。


■子育て地蔵尊・庚申塔 ◇

 
石神井町7丁目4番3号横にある小祠。隣は「子育地蔵遊び場」になっている。公孫樹の巨木があ
るので直ぐに判る。庚申塔は、板状駒型浮彫。日月 青面金剛像 邪鬼 三猿。武列豊嶋郡中武蔵下
石神井村」「元禄十一戊□十一月吉日」(1698)。

 大山街道
 富士街道に面した入口脇に、区教委の「大山街道」の説明版が立っている。

   大山街道
   大山街道は、道者街道、富士海道とも呼ばれています。それ阿夫利山ともいわれた大山へ
   ま大山から富士山への道者達が通ったからです。北町1丁目で川越街道から分かれて、石
   神井、田無を経て伊勢原(神奈川県)に達していました。練馬の中央部をほぼ東から南西
   に横断して区内では約8kmに及んでいます。そしてその分岐点には「ここより大山道」
   と刻んだ道しるべが建てられたのです。
   旧暦の6月は、俗に祭月と呼ばれているように、江戸や関東各地では、祭礼が盛んに行わ
   れました。阿夫利山も「水の無い月に雨降る山は開き」とあるように、6月28日が初山
   で、それから7月14日まで、連日、関東の村々から集まった人々で賑わいました。その
   白衣の道者達が通ったのがこの道です。
   昭和63年3月                         練馬区教育委員会
 


■石神井稲荷神社 ◇

 石神井町8丁目1番9号、西武新宿線北側の都営石神井町八丁目アパートの5号棟と9号棟の間の
草叢にある小祠。

   石神井稲荷
   茲、石神井ハイツのの広大な敷地は、大正12年関東大震災の頃は東京府北豊島郡石神井
   村大字下石神井と称し、旧制東京商科大学(一橋大学)の運動場だった。
   偶々神田一ツ橋の校舎を焼失したため、急遽仮校舎を新築し、翌13年4月より昭和8年
   8月小平に移るまでの約9年間余、商大予科生の学んだ場所である。
   当稲荷はそれより古くからここにあり、村人の崇敬厚く、且つここに集まり散じた数千の
   若者達を見守り、送り出してきた。境内の石鳥居は校舎竣工時、旧地主たる豊田銀右衛門
   氏の寄進による。
   社殿右手の予科校舎旧跡記念碑は、昭和523年入口の神社名碑及び赤鳥居と共に有志に
   より建立された。その際併せて社殿の修復を行い、敷石も寄進した。爾来16年、商大転
   入以来70周年を祈念して記す。
   平成6年10月                 社団法人如水会(一橋大学同窓会


 東京商科大学予科校舎旧跡標柱
 稲荷神社入口横の植栽に建つ。

   東京商科大学予科校舎旧跡
   右手石神井稲荷神社の社殿かたわらに、旧制東京商大(現・一橋大学)予科校舎旧跡記念
   碑及び神社神社入口に説明板あり。
   平成6年10月建之              財団法人 如水会(一橋大学同窓会)


 
東京商科大学予科石神井校舎旧跡石碑
 小っちゃな
石神井稲荷神社の祠の脇にある石神井校舎記念碑。
大正12年神田一ツ橋にあった校舎
が大震災で倒壊したためこの地にあった同校のグランドに仮校舎が建てられ、大正13年から昭和8
年まで予科の学生はここで学んだ。この碑はここで学んだ560名の人たちによって、昭和53年に
建てられたものだ。

   東京商科大學豫科石神井校舎舊跡
   東京商科大学予科校舎は大正十三年四月より昭和八年九月まで(1924~33)この地
   にあり この間ここで学んだ若人達はやがて襲い来る嵐の時代を前に 残された 最後の
   自由と 青春の日々を 謳歌し 誇り高い士魂商才の伝統に育まれその後本科を経て巣立
   ち逞しく爽やかに五大州に雄飛することができた
   烏兎怱怱五十年波乱万丈の明け暮れの後 今懐かしの故地石神井原に帰り来て見れば 景
   観激変し、昔を偲ぶよすがとてなく 一切は忘却の彼方へ消え去ろうとしている
   哀惜のの念 まことに 止みがたきものあり 春の日の花と輝く思い出に 集うはらから
   相計り ここに記念の碑を刻み、心の故郷とする
   昭和五十三年十一月                 石神井校舎で学んだ者たち建之


 句読点はない、文字間の隙間は碑文のまま。
 文中の「烏兎怱怱(うとそうそう)」は、「烏兎」が、中国では、太陽には金烏(きんう)という
三本足の烏が棲み、月には玉兎(ぎょくと)という兎が棲むと考えたことから、太陽と月の意。転じ
て、歳月のことを表わした。「怱々」は「早い、速い様、忙しいこと、慌ただしい様子」で、烏兎怱
怱は、「月日が流れるのは早い」という意味で用いる。そういえば、この大学にこのことを歌ったド
ンピシャの寮歌がある。

 惜別歌「
離別の悲歌
 作詞:依光良馨  作曲:青木利夫
  1.人の命の旅の空
    憧憬
(あこがれ)遠く集い寄り
    萌ゆる緑に駒止めて
    伝統
(つたえ)の小琴弄(まさぐ)りし
    三年の浪よ幻の
    光芒今し薄れては
    苧環
(おだまき)返す術も無く
    春永遠
(とことわ)の怨み有り
  2.隅田の誉れ多摩の栄え
    さては暗きに泣きし恋
    今小川辺に佇みて
    回顧の夢に耽る時
    解
(ほぐ)れて高き土の香や
    白光淡く東風
(こち)の吹け
    三年を偲ぶ草々に
    嗚呼断腸の想いする

  3.明日は別れて西東
    乾坤
(けんこん)如何に荒(すさ)ぶとも
    回
(めぐ)る潮の末かけて
    正しく強く幸あれと
    かたみに契る胸と胸
    甘美き情けの餞
(はなむけ)
    求道の友と酌み交わし
    涙に白む今宵哉
  4.哀れ果敢なき人の子よ
    円かに眠る揺籃
(ゆりかご)
    塒
(ねぐら)の森は朝焼けて
    亦 旅烏逝く雲に
    嘆きの色の深くとも
    若きに滾る血のあらば
    いざ声揃え歌わずや
    名残り尽きせぬ此の庭に
     
 


■寿緑地

 
石神井町7丁目8番14号にある区立公園。


■石神井えのき緑地

 
石神井町7丁目27番7号にある区立公園。


■石神井町七丁目児童遊園

 
石神井町7丁目25番15号にある区立公園。


■男女共同参画センターえーる

 石神井町8丁目1番10号にある区の施設。

 
 森豊一作の歌譜を手に歌っている女性像。160cm。昭和62年12月12日設置。


■石神井町八丁目児童遊園

 
石神井町8丁目1番11号にある区立公園。


■石神井町八丁目緑地

 
石神井町8丁目1番20号にある区立公園。 


■石神井町こぶし緑地

 
石神井町8丁目12番11号にある区立公園。


■梨の木緑地

 
石神井町8丁目18番5号にある区立公園。


■石神児童遊園

 
石神井町8丁目21番7号にある区立公園。


■やまぼうし緑地

 
石神井町8丁目42番9号にある区立公園。


■石神こぶし緑地

 
石神井町8丁目42番31号にある区立公園。
 


【関町北】(せきまちきた)1~5丁目                昭和53年1月1日
 関村と竹下新田上竹。明治11年「郡区町村編制法」により北豊島郡所属、同12年関村と竹下
新田が合併して関甲(関村)・関乙(竹下新田)と呼んだ。同22年「市制町村制」により石神井村大
字関甲・関乙となり、昭和7年北豊島郡が東京市に編入され板橋区石神井関町2~3丁目となった。
同22年板橋区から分離した練馬区所属、同24年石神井の冠称を外して関町5~6丁目。同53
年新住居表示により関町5~6丁目に2~4丁目・上石神井2丁目の各一部をあわせた町域を現行
の「関町北」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『練馬区史』『練馬の歴史』など。

 関の由来
 3説ある。①豊島氏が関所を置いたことによる。『新編武蔵風土記稿』に「豊島氏石神井城に在
城せし頃関を構へしところなり。今も大関小関の小名あるは其跡なり」とある。②富士見池に設け
た井関(堰)による。③この辺りの草分けの井口氏による。井口は井関と同意、堰とも書き「せき」
とも読むからだ。富士見池はむかし「関の溜井」と呼ばれていた。大正の半ば「若宮遊園」として
「豊島園もどき」を作ったが成り立たず、昭和13年東京府に寄付して今日の武蔵関公園となった。

 関町北について 
 町名は関町の北部地区の意。

   『ねりま区報』 昭和59年10月21日号掲載
    江戸時代の官選地誌『新編武蔵風土記稿』に「豊島氏石神井ニ在城セシ頃関ヲ構へシ
   所ナリ今モ大関小関ノ小名アルハ其遺跡ナリ」とある。これが関村の地名の起こりらし
   い。また、石神井川の堰に由来するという説もある。堰は古来、井関とか、井口という
   から、村の開発者で、本立寺(関町北4丁目16番)の開基である井口氏と地名の結び
   つきも考えられる。
    関町北は旧関村のうち北を富士街道、南を青梅街道で区切り、西東京市(旧保谷市)
   に接する。明治22年の町村制施行で、石神井村大字関となり、昭和7年板橋区誕生の
   時石神井関町となった。のち練馬区独立の際、石神井の冠称を取った。同53年住居表
   示が実施され現町名となった。
    明治7年区内で最初の公立学校の分校として創立した石神井西小学校は、同9年独立
   の際、豊島郡の豊と、関村の関をとって豊関学校といい、同35年、現在の校名に改め
   た。西武新宿線武蔵関駅は昭和2年の開設。同じ頃青梅街道との間20万坪(66㎡)
   に土地改良・区画整理事業が行われ、住宅地として分譲された。そのため、駅の乗降口
   が最近まで南口だけだったので駅南側の発展が早かった。町には溜淵遺跡、天祖神社東
   遺跡、天祖神社(旧番神様)などの史跡がある。



■石神井西小学校
 関町北1丁目1番5号にある。明治7年東京府豊島郡第三中学区五番小学豊島学校設立の際、関町
北4丁目の本立寺を仮校舎として同校三番分校を開設。同9年関村最勝寺を校舎として「第三中学区
第二二番公立小学関学校」として独立。同13年最勝寺から関村甲82番地の現在地へ移転、新校舎
を建築、敷地105坪、建物20.5坪。同34年北豊島郡関学校は廃止され、「北豊島郡石神井村立
石神井西小学校」となる。昭和7年東京市に編入、「東京府東京市石神井西尋常小学校」と改称。同
16年勅令148号「国民学校令」により「東京府東京市石神井西国民学校」に改称。同18年都制
施行により「東京都石神井西国民学校」と改称。同20年日米戦争敗戦。同22年アメリカの強制に
よる学制改革(学校教育法施行)により「東京都板橋区立石神井西小学校」と校名改称。同年練馬区
が成立して「練馬区立石神井西小学校」に変更。

 校歌「
所縁も深き
  1.所縁も深き武蔵野の
    泉の辺り緑濃き
    岡に聳ゆる学び舎は
    吾等が母校 石神井西小学校
  2.流れも清き石神井の
    豊かな土に恵まれて
    若き生命の伸び伸びと
    吾等が誇り 石神井西小学校
  3.遥かに仰ぐ富士の根の
    朝夕べに照り映えて
    
理想の花の咲き匂う
    吾等が誇り 石神井西小学校


 同31年関町小学校分離独立。昭和32年3月まで2部授業。同34年関町北小学校分離独立。同
37年立野小学校分離独立。同42年特殊学級開設。同46年校舎竣工。同51年開校100周年記
念式典挙行。

 開校100周年記念歌「
羽ばたけ西小
    みどりに染まる武蔵野の
    面影残す 町に今
    朝日を浴びて 光る窓
    日本で初めて 開かれた
    小学校のその一つ
    わたしたちの西小 わたしたちの西小
    石神井西小

 同61年創立110周年記念式典。
 平成3年創立120周年記念式典。13年創立125周年記念集会。同18年創立周年記念式典。
同23年135創立周年記念集会。

 
青梅街道道標
 正門脇にある。


   青梅街道
   青梅街道は慶長十一年(1606)江戸城の大改修に当って青梅付近の成木村・小曾木村
   などから江戸城修理に必要な石灰を搬送するため聞かれた道で、別名成木街道とも石灰街
   道とも呼ばれました。青梅から先は間道となって大菩薩峠を越え、甲州塩山付近で甲州街
   道に結ばれていることから甲州裏街道ともいわれ、またこのような産業道路としての役割
   のほかに武州御嶽詣の人々の参詣路でもありました。この道は甲州街道の内藤新宿から分
   岐して中野宿・田無宿・箱根ヶ崎宿を経由して青梅村へ至るものですが、区内では竹下新
   田・上石神井村・関村を通過しています。
   昭和59年3月                         練馬区教育委員会
  


■関区民センター

 関町北1丁目7番2号にある区の施設。

 夢路 振り返ってみれば
 古賀晟作のギターと回転椅子の上に置いたジャンバー。120cm。平成7年12月8日設置。長
尾基金第4号。


■武蔵関駅前緑地

 
関町北1丁目22番3号にある区立公園。


■共同墓地

 関町北1丁目25番にある。昔は畑中にあったのだろうが、今は住宅の只中だ。入口のところに達
筆で判読できない句碑、大灯籠、一千ヶ寺供養塔などがある。
 


■カトリック関町教会

 関町北2丁目11番7号にある。昭和32年の設立。信者は1000人ばかりのささやかな教会。
教会堂は「幼きイエスの聖テレジア」というらしい。


■武蔵関駅

 関町北2丁目29番にある西武新宿線の停車場。昭和2年4月16日西武鉄道村山線高田馬場~東
村山間の開業と同時にできた。ホームは、地上相対式2面2線構造。駅舎は橋上にある。改札口は、
橋上駅舎内の1ヶ所のみ。出口は南口と北口の2ヶ所なのだが、北口は「西武武蔵関ステーションビ
ル」と「ロータスロードビル」の2つのビルに出口を持っているため、実質的に3ヶ所である。エレ
ベーターは出口・ホームともに完備している。
 駅構内はバリアフリー化がなされ、平成17年6月までにリニューアルが完了した。北口には駅ビ
ルも併設しており、地味な割には充実した設備を持っている。
 


■井口稲荷

 関町北2丁目32番1号にある。中世三浦半島に勢力を張っていた三浦一族の支族の井口氏がやっ
てきて住み着き、代々大切に祀ってきた。永禄十三年(1570)伊豆半島伊東において、井口但馬
守義久が願主となり、同氏の氏祖三浦平太夫(たいらのだいぶ)為通から18代までの先祖を尊んで
「井口稲荷大明神」として祀り稲荷社を建立した。慶安二年(1649)伊東より豊島郡関村に移住
した時、矢倉台というところに社を移し開堂供養をした。この矢倉台は、どこか判らないが現在地だ
ろうという。狭い山の一部に据えたのだろうが、周囲が開発されて現代化したために、何か奇異な感
じがする。現在の社殿は石油ショックの昭和48年に改築したもの。寄進された鳥居が8基ある。毎
年2月の初午には、関町付近の井口諸家、その縁故、地元商店街各店、一般参詣者で賑わう。井口一
族の菩提寺本立寺の住職が読経の後、参列者が参拝する。4、5mの参道だが、狭いのでその入れ替
わりは苦労するだろう。病気の時は参拝してから医者に行くと治るといわれ、現代でも絵馬が奉納さ
れ、信仰の深さが窺われる。


■井口文書

 関町北2丁目、4丁目の井口正利、井口敏、井口栄一が所蔵している。井口家は、旧関村の開発に
関わった井口家の一族で、慶安年間(1648~1652)に分家し、江戸時代に村役人を務めた。
享保二十年(1735)の香具商人仲間掟儀定書印帳から、昭和3年の北豊島郡茶業組合人名簿まで
の文書・記録類74点を所蔵する。
 江戸期のものは19点が残る。香具商人に関わる文書の他、天明四年(1784)の関村絵図を始
め、寛政七年(1795)の竹下新田筋引絵図、慶応三年(1867)の溜井一件書類など、旧関村
や竹下新田の開発に関わるものがあり、地域の様相を伝える。
 明治以降のものは、同18年の相撲興行願、同じ年の菓子卸売営業免除鑑札など地域の生活に関わ
る史料が残っている。井口家一族に伝わる旧関村の文書群を構成する一部であり、地域の歴史を知る
上で貴重な文化財だ。
 


■かみたけ児童遊園

 
関町北3丁目20番17号にある区立公園。


■せきまち公園

 
関町北3丁目22番16号にある区立公園。


■関町小学校

 
関町北3丁目23番34号にある区立校。HPが稚拙で詳細不明。 


■天祖若宮八幡宮
 関町北3丁目34番32号にある。台地上にあるが、この台地は石器時代の遺跡で、石器類の出土
が多かったという。ここも三十番神だったが、明治の神仏分離で寺(本立寺?)に返し、天照大神を
祀って天祖神社と改め、明治4年村社に列し、村の氏神として現在に至っている。社殿は天保14年
(1843)の造立と伝えられている。明治になって茅葺き屋根に、当時は最新のトタン板を被せた
が、昭和48年に大造改修した。参道は長く、広い境内には安政四年丁巳年(1857)銘の石灯籠
などもある。練馬の名木のアカマツが社殿右にある。

   天祖若宮八幡宮
   若宮八幡宮は、奈良朝時代当地に武蔵関塞が設けられたとき、関塞守護神として奉斎され
   たと伝えられます。関塞廃止後、長い歳月を経て慶長年間に関村開村のおり村民の氏神と
   なったといいます。
   また天祖神社は「新編武蔵風土記稿」開村の条に「三十番神社、村ノ鎮守ナリ本立村持」
   と記載されているとおり、もとは「番神さま」と呼ばれていましたが、明治維新の神仏分
   離により天祖神社と改称されました。
   昭和49年関村の氏神、若宮八幡宮と天祖神社は合わせて天祖若宮八幡宮と呼ぶことにな
   りました。
   御祭神は、天祖神社は大日霎女貴尊、他に狭依姫命、倉稲魂命を合祀。若宮八幡宮は誉田
   別尊、仁徳天皇を奉斎しております。例大祭は9月28日です。
   天保十四年(1843)に造営された現社殿は、明治期に一部改修が行われましたが、昭
   和48年当時の遺構をのこして改築されました。
   参道には二基の石造明神鳥居(明治18年・昭和53年)があり、拝殿前には、安政四年
   (1857)の石燈籠をはじめ手水舎、狛犬記念碑があります。8000㎡余の境内は神
   楽殿、社務所などが整備され四季の緑におおわれています。
   平成62年3月                         練馬区教育委員会


■関北けやき児童遊園

 
関町北3丁目43番40号にある区立公園。


■武蔵関公園
 関町北3丁目45番1号にある区立公園。区の南西部に位置し武蔵野の面影を残すこの公園は、区
立公園の中では最も広く、昭和13年に東京市立公園として開園した歴史のある公園なのだ。コナラ
・クヌギなどの自然樹林と水に恵まれた環境は、渡り鳥も飛来する野鳥の楽園となっている。中央に
は「ひょうたん」を東西に置いたような池がある。古くから「関の溜井」または「富士見池」として
親しまれてきた。池には松の島と葦の島という2つの島があり、松の島には松や紫陽花が、葦の島に
は葦やメタセコイアが生い茂っており、夏には涼味ある風情を醸し出している。
 区の由緒板には以下のように記している。

   この地は古くは多摩新座豊島三郡の接界地点で旧豊島郡関町及び竹下新田の一部を占め武
   蔵野の情緒豊かな湧水池富士見池を中心とした景勝の地でありましたが昭和十三年十月西
   武鉄道株式会社並びに地元武蔵関公園建設協賛会の好意によって所有地一万四千坪を公園
   地として寄附せられましたここにここに本園の由緒を記して各位の芳志を永く後世に伝え
   るものであります。
   開園 昭和十三年十月                           練馬区


 都から区に移管されたのは昭和50年だ。

 花ごよみ
 矢野秀徳作の裸婦像。昭和60年10月9日設置。

 溜渕遺跡
 公園を含む西東京市との一帯に散在する。

   溜渕遺跡
   武蔵関公園の富士見池は、三宝寺池と並んで、かつては石神井川の水量の多くを供給して
   いた湧水池でした。この付近は戦前まで、武蔵野の面影を深く残していた丘陵地帯で、こ
   の池の周辺には原始・古代の遺跡が数多く点在しています。
   溜渕遺跡は、富士見池南側の標高57mの台地上にあり、西東京市の下野谷遺跡と連続す
   る約15万㎡がその範囲と指定されています。旧小字名で「溜渕」と呼ばれていたので溜
   渕遺跡と名付けられました。
   昭和30年、昭和55~56年にかけて2回の発掘調査が行われ、本遺跡が旧石器時代(約
   1万年以上前)から縄文時代後期にかけての貴重な遺跡であることが判りました。昭和5
   5年、56年の調査は、都営関町北第2アパート建て替えに先立ち、1万3千㎡の部分が
   対象となりました。この結果、旧石器時代の礫群、縄文時代の竪穴式住居址3軒、土坑4
   8基、屋外炉穴17基などの他に、中・近世の溝が発見され、ナイフ形石器、槍先形石器
   縄文時代早期(約8千年前)から後期にかけての土器などが発掘されました。旧石器時代
   は土器が用いられる以前の時代で、関東ローム層(赤土)の中で発見された礫群は、拳大
   ほどの河原石を集め、熟して蒸し焼きした調理場などと考えられています。礫群の周辺か
   らは、掻器(スクレイパー・木の皮などを剥ぐ)や槍先形などに混じって原石(黒曜石な
   ど)の砕片(フレイク、チップ)が出土しており、石器製作址と推定されています。縄文
   時代の屋外炉穴は、関東ローム層上面で発見されたもので、径約0.5~2mほどの穴を浅
   く掘り、その中で火を焚いた施設です。住居址の外で調理や暖をとった場所と理解されて
   います。
   溜渕遺跡から出土した遺物は教育委員会で保管しています。
   平成16年3月                     
    
練馬区教育委員会


■コンベンツァル聖フランシスコ修道会・関町修学院 
廃院か?
 関町北4丁目12番にあるカトリックの1つの神学校。ラテン語名称はOrdo Fratrum
 Minorum Conventualium で、略称 OFM Conv. 1210年アッシジ
のフランシスコが、イタリアのアッシジに創設したフランシスコ会の一会派。フランシスコは「小さ
き兄弟会」を創立したが、小さき兄弟会は後に3つの修道会に分割され、コンベンツアル聖フランシ
スコ修道会はその内の1つ。
 さて日本宣教は、昭和5年ポーランドの修道会クラクフ管区から、マキシミリアノ・コルベ神父、
ゼノ・ゼブロフスキー修道士、コンラド修道士が長崎に上陸。その1ヶ月後に雑誌「無原罪の聖母の
騎士」(現在の月刊「聖母の騎士」)を発行。なおコルベ神父に日本宣教を勧めたのは、当時ローマ
に留学していた里脇浅次郎神学生(後の長崎大司教、枢機卿)。
 コルベ神父は無原罪の聖母マリアを守護者とする聖母の騎士会(M.I.)を創設。またポーラン
ドの聖母の騎士修道院の創設者で、「アウシュビッツの聖人」として知られている。ポーランドにお
ける聖母の騎士会の活動が、出版などマスメディアを使った宣教活動に熱心だったため、修道会は日
本でも「聖母の騎士社」の名称で出版活動を行っている。最初の修道院は、大浦天主堂下にあった旧
雨森病院の建物を使用していたが、その後に本河内水源地近くの山林を入手し、自前の修道院を建て
た。戦後は出版による布教活動のほか、神学校を起源とする初中等教育事業(仁川学院、聖母の騎士
学園など)や福祉事業にも取り組んでいる。また平成9年より那覇教区長を務めるベラルド押川壽夫
司教はコンベンツァル会の出身で、日本管区長も歴任した。
 平成27年2月28日を以てホームページは閉ざされ、ネットサーフィンでも、関町修学院はヒッ
トしない。グーグル地図でもヒットしない。


関町北地区区民館
 関町北4丁目12番21号にある区の施設。

 蒼い空
 小池藤雄作の裸婦像。175cm。長尾基金第1号。平成5年8月5日設置。


法燿山本立寺
 関町北4丁目16番3号にある日蓮宗の寺。慶安二年(1649)開山は日誉上人、開基井口忠兵
衛によって建てられた。井口家は代々関村の名主を務めた家柄だ。この寺は、開山以来長い間法華経
の宣布道場としての役割を果たしてきた。本尊は特に「旭日蓮大菩薩」と呼ばれ、出世開運のお祖師
さまとして人々の信仰を今も集めている。お会式は大泉の妙福寺(11月9日)と重ならないように
1ヶ月ずらしてある。万燈行列など互いに応援に出る都合もあるからで、妙福寺とはいかに交流が深
かったかということが判ると同時に古地図にある清戸道が両方に通じていたということでもある。

   立ちわたる身のうき雲も晴れぬべし たえぬ御法
(みのり)の鷲の山風

 入口は整備された石段を上がり、昭和57年築造の山門を潜って境内に入ると、左は全部墓、右は
寺務所、正面の20段の石段を上がると本堂。本堂は昭和43年に鉄筋コンクリート造りとして完成

したもの。本堂左にキリスト教のような7、8mの三角錐の建屋がある。名前がないので何の目的な
のか判らないが供養塔らしい。何だか変? ある人は「近代建築の良さを取り入れた様式は、これか
らの寺院建築のあり方を示唆している」と迎合追従するが、おいらはインド式もタイ式も、西洋式も
どうもしっくりこない。お寺は茅葺よ。次が瓦葺きだ。アメリカ軍の無差別空爆で燃やされて、火事
が怖いのだろうが、鉄筋コンクリート造りの建築にはがっかりする。国のほうで木造建築の基準を緩
和してから、木造が増えている。寺や神社は日本の風土に合わせなきゃ。何でもアメリカ、アメリカ
じゃ、国が滅んでまうで。
 台地の鼻にあるので見晴らしが良いうえに、眼下に千川上水・西武新宿線が通る。かつてはよほど
の田舎があってそれはそれは目の保養になったろう。それが今や向かいの台地は住宅だらけ、情けな
いロケーションになってしまった。本堂左の鐘楼はまだ新しいので昭和50年頃の建立だろう。
 『練馬の寺院』に、

   『新編武蔵風土記稿』に、
    本立寺。法華宗。新座郡小榑村妙福寺末。法耀山ト号ス。本尊三宝祖師ヲ安ス。開山
    日誉。寛永二年寂ス。当時名主ヲ勤メシ政右衛門ト云ヒシモノ開基セリト云。
   とある。文政八年(一八二五)六月の『寺附明細改帳』に
    開祖真如院日誉上人法種山十一祖慶安二巳子四月十八日寂、開基人清光院日耀贈大徳
    俗名井口忠兵衛跡政右衛門ト申者御座候
   と記してある。
   寺伝によると、当山の御本尊はお立姿で、特に「旭日蓮大菩薩」と尊称され出世開運のお
   祖師さまとして、檀信徒の尊崇を集めてきた。なお歴代上人についての事績の一々は詳ら
   かでないが開山以来法華経宣布道場として法灯を今日に継いできている。
   旧本堂は、開山当時の建物と推定されていた。しかし極度に荒廃したので、昭和41年1
   1月に解体し、43年12月現在の鉄筋コンクリートの立派な本堂のほか、三角形に象っ
   た供養塔など近代的な建造物が竣工した。また57年には山門が建築された。
   本立寺のお会式に伴い、毎年12月9日・10日には門前に市(関のぼろ市)が立つ。江
   戸時代から始まったと伝えられ、昭和の初め頃には、正月用品や農具が売られていた。現
   在は、古道具や植木などを売る露店が二百軒以上並び多くの人々でにぎわう。

 とある。区の説明板は以下の通り。

   本立寺
   本立寺は、山号を法燿山といい、日蓮宗のお寺です。
   記録によりますと開祖は日誉上人、開基は井口忠兵衛と記されております。日誉上人は慶
   安二年(1649)寂、井口忠兵衛は寛永十六年(1639)関村検地の名主を勤めてい
   ますので、当寺の創建はその頃と思われます。
   本尊は特に、「旭日日蓮大菩薩」と尊称され、出世開運のお祖師様として多くの人々の崇
   敬をあつめております。
   墓地には開基以来関村名主を勤めた井口氏累代の墓があります。
   毎年12月9日にはお会式が行われ、10日にかけて門前に暮の市が立ちます。この市は
   昔は農具や呉服、古着などを売る店が多く「関のぼろ市(練馬区登録無形民俗文化財)」