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 東京の地名の由来
 東京知ったかぶり!

 平成17年2月11日発信  リンクフリー
 地名の由来東京23区辞典 引用自由

中野区の地名の由来
現在進行形の調査なれば、逐次、誤謬訂正・記事追加あり、チェック怠りなく。

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 足 立 区   ビートたけし 関原不動 赤門寺 千住
 都立舎人公園 下山事件 西新井大師
 大鷲神社 伊興寺町 六阿弥陀
 木余り阿弥陀 荒川バラバラ事件 炎天寺
 尾崎豊終焉の地 尾崎の部屋
 女子高生コンクリート詰め殺人事件
 荒 川 区  あらかわ遊園 北島康介 諏訪台寺町
 三河島事故 開成中学校・高等学校
 尾久の原公園 大関横丁 素盞雄神社
 天王祭 大橋谷中延命院一件
 「あしたのジョー」「巨人の星」
 【巻末特集】 江戸しぐさ
 
【巻末特集】 小股の切れ上がったいい女
 板 橋 区  自殺願望女性救助駅前交番警察官殉職事故
 松月院 東京大仏 縁切榎 大東文化大学
 帝京大学 板橋宿 東京家政大学 中山道
 板橋宿 国立極地研究所 板橋事件
 加賀藩前田家下屋敷
 江戸川区  葛西臨海公園小松川女子高生殺人事件
 インド人  都県境未定地 おくまんだし
 妙見島 影向の松 目黄不動 平井聖天
 食用蛙供養塔 紅葉川高校 江戸風鈴
 立木観音 タワーホール船堀 雷不動
 大 田 区  池上本門寺 光明寺 大森海苔 磐井神社
 松竹キネマ 御菜八ヶ浦 羽田空港 大鳥居
 八景坂 六郷神社 大森ふるさとの海辺公園
 馬込文士村 万福寺 梅屋敷 洗足池
 
 葛 飾 区  式部薬師秘話 お花茶屋 金町浄水場
 「こち亀」銅像群 香取神社 東京拘置所
 柴又女子大生殺人放火事件 男はつらいよ
 柴又帝釈天 郷土と天文博物館 立石祠
 かつしかシンフォニーヒルズ 半田稲荷
 葛西神社 葛西囃子 新宿の問屋場跡
 美弥子ちゃん誘拐殺人事件 水元公園
 しばられ地蔵 木下川薬師 堀切菖蒲園
 北  区   静勝寺 小山酒造 新河岸川 飛鳥山公園
 金剛寺 装束稲荷 王子神社 王子稲荷
 名主の滝 近藤勇墓 医心方 亀の子束子
 旧古河庭園 田端文士芸術村

 【巻末特集】 隅田川 (渡しと橋) 
 江 東 区   外郎売  永代橋落橋事件 亀戸天神
 カトレア ヒストリーガレージ キッザニア
 戦災資料センター 深川江戸資料館
 富岡八幡 元八幡 砂町商店街
 東京海洋大学 東西線転倒事故
 有明コロシアム 萩寺
 品 川 区  品川トランク詰め殺人事件 星薬科
 船の科学館 鈴ヶ森 立正大学 香蘭女子
 杉野ドレメ 品川神社 荏原神社 光福寺
 大崎新都心 清泉女子大 品川寺
 品川宿 昭和大学 戸越銀座 第一京浜
 ところてん
 
 渋 谷 区  明治神宮 慶応幼稚舎 尾崎豊の碑
 忠犬ハチ公 ライフル乱射事件 渋谷川
 夫バラバラ殺人事件 妹バラバラ殺人事件
 モリブデン 文化女子大 広尾病院事件
 NHK 文化村 ワシントンハイツ
 聖心女子大 東京女学館 日本共産党
 女子大生誘拐 アメリカ橋 安藤組 国学院
 金王神社 青山学院 
 新 宿 区   浄瑠璃坂の仇討 新宿胴体遺棄事件
 新宿騒乱事件 八幡様  陸軍士官学校
 赤線地帯 防衛省・市谷駐屯地 鉄腕アトム
 岡田有希子飛び降り自殺 東海道四谷怪談 
 オリンピック東京大会 追分交番爆破事件
 抜弁天 731部隊 学習院女子 早稲田大学
 歌舞伎町 歌声喫茶 名曲喫茶 どん底
 新宿高野 中村屋 闇市 
 杉 並 区  青梅・甲州・五日市街道 観泉寺 永福寺
 高円寺 不美人=ブスとは? 大宮八幡
 ガンダム 妙法寺 立教女学院
 スチュワーデス殺人事件 東京女子大
 一家皆殺し放火 「疑惑の銃弾」 三浦和義 
 天保新水堀用水 
 墨 田 区   東京スカイツリー 相撲は国技ではない
 大相撲事件 隅田川七福神 回向院
 妊婦たらい回し死亡事件 握りずし発祥
 震災慰霊堂 鬼平・遠山の金さん 法恩寺
 王貞治生誕地 玉の井バラバラ事件
 江戸東京博物館 吾嬬神社 本所七不思議
 もゝんじや 蓮華寺 
 
 世田谷区  バンク・約束手形  花形敬 西福寺
 ウルトラマン 民家園 静嘉堂文庫
 ボロ市 鷺草 軍都池尻 羽根木公園
 砧公園 東名 駒沢公園 九品仏
 祖師谷一家殺人事件 多摩美 国学院
 東農大 NHK技研 豪徳寺
 世田谷美術館 馬事公苑 烏山寺町
 次大夫堀 仙川
 台 東 区   浅草寺 仲見世 浅草神社 三社祭 花やしき
 上野公園 鬼灯市 酉の市 待乳山聖天
 佃煮元祖 旧岩崎邸 八百善 今戸神社
 アメ横 寛永寺 不忍池 花の吉原
 上野動物園 東京国立博物館 駒形どぜう
 鬼子母神 東京本願寺 東京芸大 谷中墓地
 笹の雪 吉展ちゃん
 
 中 央 区  「銀ブラ」って、ブラブラ歩くことじゃないよ。
 
パウリスタ 東京大空襲 アメリカの占領
 蘭学事始 ティファニー エルメス シャネル
 コーチ パリー セリーヌ プラダ カルティエ
 ディオール ルイ・ヴィトン 不二家不祥事
 三越・松屋・松坂屋・大丸・高島屋 日本橋
 築地本願寺 H&M 歌舞伎座 日本銀行
 白木屋火事 金春芸者 日本海軍発祥地
 新橋演舞場 明治座 ハヤシライス
 千代田区   靖国問題・A級戦犯 女子学院 暁星 将門塚
 消防庁 警視庁 ていぱーく 桜田門外の変
 ニコライ堂 武道館 九段会館 楠公像
 ホテルニュージャパン火災 近衛師団
 秋葉原無差別殺傷事件 神田明神 FM東京
 丸ビル 新丸ビル 丸の内物語 北辰一刀流
 三菱重工ビル爆破事件 国会 雙葉 専修大
 日大 法大 明大、電機大 大妻 番町小
 東郷平八郎 日比谷公園 国際フォーラム
 豊 島 区  池袋の女 染井吉野 女子栄養学園
 染井霊園 中山道 おばあちゃんの原宿
 とげぬき地蔵 庚申塚 本妙寺 鬼子母神
 雑司が谷墓地 土田邸爆破事件 山吹伝説
 目白不動 帝銀事件 立教 学習院
 豊島岡女子学園
 【巻末特集】 東京の暴力団
 中 野 区  新井薬師 上高田寺町 童謡「たき火」
 中野サンプラザ 近隣騒音殺人事件 福蔵院
 八幡神社(鷺ノ宮) 成願寺 宝仙院 堀越学園
 桃園 桃園川 丸井本店 中野ブロードウェイ
 東中野電車追突事故 光倶楽部事件
 哲学堂公園
 
【巻末特集】 江戸城 城門と橋  
 練 馬 区   いろはかるた 練馬バラバラ殺人事件
 としまえん ちひろ美術館 三宝寺 長命寺
 石神井公園 清戸道 良弁塚 武蔵大学
 金乗院 練馬寺町 武蔵音大 グランドハイツ
 練馬少年鑑別所 首継ぎ地蔵 円明院
 妙福寺 春日神社 練馬大根 愛染院
 増島家薬医門
 
 文 京 区  狛江 振袖火事 東京大学 拓殖大学
 御茶ノ水女子大 東京高等師範 教育大学
 護国寺 弥生式土器 伝通院 聖マリア大聖堂
 高津教授殺人事件 東京ドーム 六義園
 小石川植物園 元町公園 桜蔭学園
 順天堂大 かねやす 日本女子大 湯島聖堂
 湯島天神 東洋大 共同印刷争議
 
 港  区  増上寺 永坂更科 麻布学園 氷川神社
 乃木大将 ミッドタウン 善福寺 霊南坂
 六本木ヒルズ 東洋英和 フリーメイスン
 愛宕山 ケネディ暗殺宇宙中継 小便小僧
 明治学院 レインボウブリッジ 東京タワー
 慶応義塾 自然教育園 虎ノ門事件
 東宮御所 日本経緯度原点
 アメリカ同時多発テロ 首謀者はチェイニー
 目 黒 区   滝坂道 目黒不動 法華騒動 円融寺
 五百羅漢 東工大 目黒ショック 雅叙園
 日比谷線脱線事故 駒場野一揆 旧制一高
 駒場東大 駒場学園 滝坂道 行人坂大火
 騎兵 目切坂 権之助坂 太鼓橋 茶屋坂
 槍ヶ崎事件 祐天寺 酸素魚雷
 音羽ゆりかご会 八雲学園 目黒のさんま
  
   


「江戸城・内堀の橋」 は容量上、このページの巻末に記述したんだ。
 

中野区の地形
 中野区は、武蔵野台地中央部に位置し、区内の大半は台地面で占められている。これら台地面には、
北部域を東西に流れる妙正寺川や南の善福寺川、東側境界に沿う神田川などの小河川に刻まれ、大小
の谷地が形成されている。
  

地形・地質と住宅地盤

 
台地面  比較的海抜高度が高く起伏の少ない平坦面で、関東ローム層と呼ばれる火山灰土で覆わ
れている。関東ローム層は、上部のローム土(赤土)と下部の凝灰質粘土に大別されるが、自然堆積
したローム土は、安定しており比較的大きな強度が期待できるため、表土部分に注意すれば住宅地盤
として良好な場合が多い。

 
谷底低地  台地部が小さい河川などによって削られて形成された低地で、台地部の間に樹枝状に
分布している。台地を形成していた土砂が再堆積した土や有機質土(腐植土)などが分布しており、
非常に軟弱な地盤となっている。従って長期的な沈下(圧密沈下)を防止するような基礎補強策が必
要となることが多い。妙正寺川・桃園川・善福寺川・神田川の流域。中でも善福寺川は多量の雨が降
ると、溢水して道路冠水、床上浸水はしばしばある。緊急時の水処理のための遊水地を環七の下に準
備したのだが、それでも捌けないことが判っている。計画時の計算が地球温暖化以前で、最近の多雨
現象には頭を悩ませている。
 
 



 中野区の変遷
 現在の中野区の区域に入る江戸時代の中野村・本郷村・本郷新田村・雑色・上沼袋・下沼袋・新井
村・上高田村・上鷺宮村・下鷺宮・江古田・片山村の12ヶ村は、慶応四年(1868)武蔵知県事
に属し、同2年2月9日品川県、同4年7月14日東京府に編入、同5年5月22日神奈川県へ移動、
同8月19日東京府に戻入、同6年7月28日地租改正公布。同7年3月8日大区小区制により第八
大区に編入。同11年「郡区町村編制令」により東多摩郡に編入、同22年「市制町村制」により中
野村・野方村が成立。同29年東多摩郡と南豊島郡が合併して豊多摩郡となる。同郡に所属。同30
年中野村が、大正13年野方村が町制に移行、昭和7年東京市の20区増設により同市に編入されて
中野・野方両町が合併して中野区発足。区名は中野町が中野駅を中心に発展していて農村だった野方
町を半歩リードしていたので中野区に落ち着いた。中野の「中」と野方の「野」の合成だといえなく
もない。このときの町名数は中野60・野方17。同35年の住居表示法により町名改正・街区番号
整理が進み、同52年までに19町となり現在に至ってる。

 区役所は中野駅北口の中野4丁目。友好姉妹都市は北京市西城区と福島県常葉町(ときわまち)。
図書館は8館、中央図書館は充実しており、歴史民俗資料館も小ぶりながらまとまりがある。私設文
化施設としておもちゃ美術館、嫁菜の花美術館があり、古刹は宝仙寺、成願寺、福蔵院など。哲学堂
は東洋大学の前身、現在は市民公園となっている。刑務所跡も平和の森公園に生まれ変わった。さて
新宿区の落合地区(上落合・中井・中落合・下落合・西落合)は中野区に入れる予定だったが「中野
は田舎だから」とワガママをいい、押しかけ女房よろしく強引に新宿区(当時淀橋区)に潜り込んだ。
それで中野区と新宿区の形が歪(いびつ)なのだ。かつての中野は犬小屋・スパイ養成所・刑務所・
結核療養所と暗いイメージが漂っていた。落合が逃げたのもむべなるかなか・・・戦後は犬繋がりで
スパイ養成所は警察学校とはなったが、結核療養所(国立中野病院)は役目を終えて今はなく住宅団
地と公園になるようだ。刑務所は公園と汚水処理場に変わった。

 小学校26(区立25・私立1)
 桃園・桃園第二・桃花(桃園第三+桃丘+仲町)・中野神明・多田・新山・塔山・谷戸・中野本郷
 ・江古田・鷺宮・西中野・上高田・啓明・向台・北原・新井・大和・若宮・江原・武蔵台・上鷺宮
 ・白桜(中野昭和+東中野)・平和の森(野方+沼袋の一部)・緑野(丸山+沼袋の残部)
 
宝仙学園・新渡戸文化
 
  統合予定 [中野神明+多田+新山] [桃園+向台][大和+若宮][鷺宮+西中野]
  平成17~同31年の15年間で8校を閉校し、21校体制とする。

 中学校17(区立11校・国立1・私立5)
 第二・第三・第四・第五・第七・第八・第十・北中野・緑野(第六・第十一)・南中野(第一・中
 野富士見)・中野(第九+中央)
 
宝仙学園・大妻中野・実践学園・新渡戸文化(東京文化)・明治大学附属中野

  統合予定 [三中+五中+十中][四中・八中]
  平成17~同31年の15年間で5校を閉校し、9校体制とする。


 中等教育学校(国立1)
 東京大学教育学部附属中等教育学校


 高校13(都立5、私立7
 富士・中野工業・鷺宮・武蔵丘・四谷商業
 
稔ヶ丘・明治大学附属中野・新渡戸文化(東京文化)・大妻中野・宝仙学園・実践学園・東亜学園
 ・堀越

 

 大学・短大
 
東京工芸
 短大3(
新渡戸文化(東京文化)・宝仙学園・国際 


 中野の由来
 中野郷。武蔵野の真ん中にある郷の意だ。熊野那智大社の御師米良家の古文書群(米良文書)に初
見する。すなわち貞治元年(1362)『武蔵国願文』だ。次が応永二十七年(1420)の『江戸
氏庶流書立』に、「中野殿・阿佐谷殿」が見える。

   武蔵野の中なるゆゑ中野といふ。往古はこの武蔵野も上野・中野・末野といふあり。今上
   野・末野所在詳らかならず


 と『求涼雑記』にはある。別には善福寺川と妙正寺川の中の郷の意でもあるとか。慶長のころ江戸
幕府により郷を分解して中野諸村が起立、その諸村の一つが中野村。伝説代よれば天慶二年(939)
に「中野の原」で平将門の弟将頼が討ち死にしたという。
 


 中野長者伝説
 応永年間(1394~1412)に紀州熊野の神官家の出自を持つ鈴木九郎重家(成願寺では九郎
と重家は別人としている)がこの地を開拓し「中野長者(朝日長者)」と呼ばれて本町2丁目の成願
寺(正観寺)を開基したという。紀州海草郡藤白の荘司鈴木重倫は熊野三山に奉仕して源氏の恩顧を
受けた。そのため子の重家は源義経を追って奥州平泉向かい義経に従ったものの、義経は兄頼朝の軍
に攻められて行方知らずになってしまった。遺体がないことから蝦夷(北海道)に逃れたとも、さら
にモンゴルに渡り成吉思汗(ジンギスカン)になったとも伝説は語られる。日本の家紋の総てのデザ
インはペルシャの遺跡に見られるらしいが、たった一つ「笹竜胆(ささりんどう)」だけが無いとい
う。ところが数百年前からあるというモンゴルの建物には「笹竜胆」と同じデザインが描かれている。
おいらも雑誌か何かで写真を見たことがある。高木彬光の小説『成吉思汗の秘密』はこの義経伝説を
題材にしたもので、とても面白い歴史ミステリーだ。
 そんな訳で主を失った重家は、当てもなく放浪しやがて中野に辿り着いて苦労の末朝日長者となっ
た。この人は実在の人かどうかは判らないが、いろんな逸話を残している。その一つが蓄えた財産を
隠すために下人に黄金を運ばせて神田川を越え今の十二社熊野神社の辺りに埋めたが、その場所を知
る下人を殺して帰ってきたので、神田川近くでその往来を見ていた者が怪しんで川に架かる橋を「姿
見ずの橋」と呼んだ。今の淀橋だ。ところが九郎の娘小笹が婚礼の前日突然蛇となり、十二社温泉の
ところにあった弁天池に身投げしたが遺体が発見できなかった。それで「姿見ずの橋」と呼んだとい
う別の説もある。とにかく強欲の重家は娘の入水を受けて悔い改め、南足柄市関本の古刹最乗寺の舂
屋宗能(しゅおくそうのう)禅師に懺悔して救いを求めた。禅師が早速池の端で祈祷すると果たして
小笹が元の姿に戻って冥土へ旅立ったので、重家は禅師に帰依し、名を正蓮と改め、隠した黄金で中
野成願寺と七つの塔を建て、熊野十二所権現を勧請し、大久保から高田までに散在した仏供養の百八
塚を築いたという。108は煩悩の数。 明治維新まで戸山町にあった世外寺の役者堂には、重家の
笈(背負い箱)と法螺貝が残されていた。伝説は好き者の創作だろうが鈴木家は存在した。七塔の一
つ三重塔が戦前まで区立十中の角地にあったが戦災で焼失、最近青梅街道に面して立つ名刹宝仙寺の
境内に再建された。なお中野を開発したのは堀江氏で、代々杉並・中野の総名主を務め、累代の墓所
が宝仙寺にある。
 鈴木姓は紀伊熊野の一族の名前で、熊野権現の宣教師として全国各地に散り、そして土着したこと
により、全国区の名字となった。特に東京には紀州人が多く移住した。隅田川・豊島・王子・飛鳥山
など、和歌山県にある地名が数多く移されている。
 
 



 それでは中野区の地名について始めっからね! 

新井】(あらい)1~5丁目                     昭和41年2月1日
 新井村。同11年「郡区町村編制法」により東多摩郡に編入、同22年「市制町村制」により野
方村大字新井となり、同29年豊多摩郡所属。同43年市谷監獄の廃止に伴い、思想犯・政治犯・
権力に批判的な進歩的文化人などを収容する豊多摩監獄(のち中野刑務所)を誘致した。昨今では
刑務所とか留置場を設置するとなると住民の猛反対運動がニュースになるが、明治の頃は今の企業
誘致のようなもので政府機関なら何でも歓迎された。新政府に迎合したのだ。石川島から監獄を移
した巣鴨村では提灯行列までしてお祭り騒ぎだった。大正13年町制移行して野方町大字新井。昭
和昭和2年新井薬師駅の開設で発展、同7年東京市に編入され中野区新井薬師町起立。翌8年新井
町に改称。同41年新住居表示により一部を松ヶ丘1~2丁目と中野4~5丁目に譲り、同時に新
井町1~4丁目に野方町2丁目・昭和通3丁目の各一部をあわせた町域を現行の「新井」とし1~
5丁目に分けた。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『中野区史』『中野の歴史』など。

 新井の由来
 応永13年(1406)足利の臣矢田義泉が一族で開拓、同20年(1413)梅原郷主左衛門
が来て住み、村の共同井戸を掘ったことから新井の名が起こった(窪寺文書)。井戸の開鑿は元亀
元年(1570)ともいわれる。どうあれ地名は新しい井戸もしくは用水にちなむ名前ではあるよ
うだ。新堀と同義。名主は窪寺家と山口家とで交互に務め、両家が開基となって松高山梅窓院薬王
寺を建立した。本尊は薬師如来石像。「子育薬師」と呼ばれ、新井薬師といえば西武線の駅名になっ
たほど近隣に聞こえた名刹だ。中野通りと早稲田通りの交差する新井町交差点はドライバーには知
られた十字路だが、以前は中野通りはなく、昭和30年代後半から拡張工事が始まり目白通りから
甲州街道まで、同40年には全通したが、新井町から南の一部は立ち退き問題で揉め長い間狭いま
まで渋滞してた。通りは笹塚から北沢大山谷間が平成17年に開通したので、山手通りの東大裏ま
で繋がったことになる。
 さて新井といえば新井薬師と西新井大師はよく新井繋がりで混同されるし、「東にあるのになぜ
西新井?」と不思議がられるが地名的にも宗教的にも全く関係がない。こっちの新井は土着の侍の
掘った井戸か用水だが、西新井は大師堂の西側の弘法大師に関わる加持井だ。
だから新井は新井薬師の境内の井戸だ!
 


■子育地蔵

 新井1丁目1番20号、薬師柳通りを入った直ぐ左手にある丸彫りの地蔵尊。「延享三丙寅(17
46)十月吉日 武州多摩郡中野村打越 これより右はあらい村 梅照院江三丁道」と刻んである。
明治の中頃首が折れ、昭和29年にも火災で首が折れた。堂宇は火災後に建てたが、その後に建て直
したかどうかは不詳。隣の大谷工務店が管理責任者。
 


■さくらの名所
新井五差路/国道サクラ並木
 新井1丁目から蓮華寺まで(4丁目と5丁目の間)の中野通りは両側歩道にソメイヨシノが植えら
れていて、長大な桜並木は、非常に珍しい国道の桜並木となっている。平成6年には、「新日本街路
樹百景」に選ばれた。

 中野通り桜まつり
 毎年4月初旬に行われる中野区最大のイベント。ただピンクの提灯が
ケバい、下品と、評判が宜し
くない。サクラが凄い分、実行委員も舞い上がっちゃうんだろうが、ほどほどに。

 サクラの辻

 交差点南の歩道のスペースにある小緑地。植込みに桜木が植えられ、名主の子孫の窪寺登の好きな
「プリンセス雅」もチャッカリ植えてある。


 
「桜雲と童子」「桜もちと童女」
 と銘打った銅像が愛らしい。ご他聞に洩れずライオンズクラブの寄贈だ。ライオンズクラブも、ロ
ータリークラブも、フリーメイソンと同じユダヤの親睦団体だ。


■薬師柳通り

 新井1、2丁目の間の通り。新井薬師前の新井1丁目交差点から東南に早稲田通りに至る道路は、
歩・車道の境に両側共に柳並木となっている。風に靡く柳ヶ枝は風情があるよ。でもさ、柳は色町を
示す木でもあるのさ。花柳界っていうだろ? 中国で色町の入口に柳の木を植えたんだ。それで柳町
というと色町につける町名なんだ。吉原に「見返り柳」ってあるだろ。 


■新美南吉旧居跡
 新井1丁目12番3号ヴィラ花水木のところ。当時の所番地は「中野区新井薬師町509番地川村
方」だ。平成24年まで旧態を維持していたが、建て替えて1Kのアパートになった。
 戦前の児童文学作家。本名新美正八。旧姓は渡邉だが母方の祖母の養子となり新美姓となった。
 雑誌『赤い鳥』出身の作家の一人であり、彼の代表作『ごん狐』(昭和7年)はこの雑誌に掲載さ
れたのが初出。結核により29歳の若さで亡くなったため、作品数は多くない。童話の他に童謡、短
歌、詩、俳句や戯曲も残した。彼の生前から発表の機会を多く提供していた友人の巽聖歌は、南吉の
死後もその作品を広める努力をした。地方で教師を務め若くして亡くなった童話作家という共通点か
ら宮沢賢治との比較で語られることも多い。賢治が独特の宗教観・宇宙観で人を客体化して時にシニ
カルな筆致で語るのに対し、南吉はあくまでも人から視た主観的・情緒的な視線で自分の周囲の生活
の中から拾い上げた素朴なエピソードを脚色したり膨らませた味わい深い作風で、「北の賢治、南の
南吉」と呼ばれ好対照をなしている。作品の多くは、故郷である半田市岩滑新田(やなべしんでん)
を舞台としたものであり、特に少年たちが主人公となる作品では、「久助君」「森医院の徳一君」な
ど、同じ学校の同じ学年を舞台としたものが多い。主人公は「久助君」「大作君」など作品によって
変わるが、「徳一君」や「兵太郎君」などはほとんどの話に登場して世界観をつなげる役目を果たし
ている。出身地の半田には、新美南吉記念館のほか、彼の実家や作品ゆかりの場所を巡るウォーキン
グコースも作られている。またその功績を讃えて「新美南吉児童文学賞」「新見南吉童話賞」が創設
されている。
 


■新井東公園

 新井1丁目19番4号にある区立公園。


■新井薬師道標

 新井1丁目36番1号先にある現代の道標。薬師あいロードのアーチの柱の下部。

   
薬師参道


■おもちゃ美術館 
移転
 新井2丁目12番10号の芸術教育研究所内にあった。昭和59年「世界のおもちゃと友達になろ
う」のスローガンのもとに開館。常設展示とテーマ展示、ライブラリー、手作り教室など「みる・作
る・かりて遊ぶ」と3つの機能を備えた美術館だった。系列のおもちゃ美術館は全国に16ヶ所ある
そうな。世界各国の木製おもちゃ、赤ちゃんが初めて出会うおもちゃ、NPO法人日本グッド・トイ
委員会によって選定されたグッド・トイなどなど、楽しいおもちゃが勢揃い。大人から子どもまで楽
しめる空間だ。1階書籍・おもちゃショップ、2階おもちゃライブラリー展示コーナーとプレイルー
ム、3階企画展・手作りおもちゃ教室、おもちゃ教室、子どもアートスクール、親子リトミックス教
室、4階世界のおもちゃ常設展示。に
 開館時間10:30~16:00。休館日 金曜日・火曜日(団体限定)3歳以上有料 
 03-3387-5461
 
※平成19年廃校となった新宿区立四谷第四小学校の旧校舎に移転した。


■新井南公園

 新井2丁目31番9号にある区立公園。


■野方児童館・野方児童遊園

 新井2丁目48番10号にある区立公園。


■草の実公園

 新井2丁目51番15号にある区立公園。公園のある場所は隣り合ってる44番。


■柏公園

 新井3丁目24番1号にある区立公園。道路を挟んで草の実公園の斜向かいにある。


■野方小学校 →
閉校
 新井3丁目29番1号にあった区立校。区の中心、妙正寺川の南の高台に位置し、富士山の眺望に
恵まれた環境にある。歴史と伝統に支えられ、校章の大根の花に象徴される豊かで清い心を育む。明
治5年荒佐尾野見七郎の隠居所を学舎として創立され、桃園小学校分校となり、同15年桃園小より
分離し「沼畊小学校」創立。同36年「野方尋常小学校」と改称。同38年高等小学校と合併し「野
方尋常高等小学校」と改称。大正15年野方第四(上高田小学校)、野方第五(啓明小学校)2校を
分校。
 昭和7年東京市に併合され「東京府東京市野方尋常小学校」と改称。同11年北原尋常小学校を分
校。同13年新井尋常小学校を分校。同16年勅令148号国民学校令により「東京府東京市野方国
民学校と改称。12月日米開戦。同18年都制施行により「東京都野方国民学校」と改称。同19年
学童集団疎開(福島県飯坂町ほか)。同20年8月日本敗戦。10月疎開解除により学童帰校。
 同22年戦勝国アメリカにの強制による学校教育法施行により「東京都中野区立野方小学校」と改
称。同30年全国学生音楽コンクールに優勝。同32年沼袋小学校を分校。同48年創立100周年
記念式典。
 平成19年創立125周年。同23年沼袋小学校の廃校に伴い、同校の西武線以南の学区を、また
桃丘小学校の統廃合に伴い、同校の中央線以北の学区を吸収。新校は野方小学校に置かれ、野方小学
校の校舎を建て替える。なお工事期間は沼袋小学校を仮校舎とする。

 旧校歌
「御代しろしめす」 作詞・14代校長坂野碌壽  作曲・福井直秋
  1.御代しろしめす大君の
    宮居に近き武蔵野に
    明暮冨士を仰ぎつつ
    我が学び舎は聳えたり
  2.このよき村に三つながら
    みはらしひろく庭清く
    心地良き地建てられし
    われらの校よき校よ
  3.このよき校に学ぶもの
    勅語の御主意(みことのむね)をかしこみて
    先ず忠孝を第一に
    学びの業に励むべし

  4.家治むるも国のため
    村にぎわすも国のため
    なお進みてな世を益し

    君と国とに尽くしてん


 新校歌
「空の広さが」 作詞・副田凱馬  作曲・武田恵喜秀
  1.空の広さが 明るさが
    母の瞳で 優しさで
    僕を 私を 抱いている
    御覧 飛んでいる白い雲
    みんなを呼んでる招いてる
    今日も望みの野方小学校
  2.月は東に 日は西に
    菜の花 吹く風 光る風
    僕の 私の 胸を吹く
    平和は人の心から
    よい子の歌から 学びから
    今日も楽しい野方小学校
  3.照る日の幸に恵まれて
    この地 この里 野方原
    私たちが 僕たちが
    力合わせて 美しい
    文化の花を咲かすのだ
    実る大地の野方小学校


 愛唱歌
「丘の上」 作詞・村山高士  作曲・佐藤公威
  1.吹くよ朝風 丘の上
    光は踊る ピチピチピチと
    吾等元気な子どもらは
    朝だ かがやく太陽だ
    さあ 肩をくんで
    ララララ・・・ラン
    行こう 吾等の野方校
  2.歌うよ小鳥は 丘の上
    心は弾む ランランランと
    吾等元気な子どもらは
    鳥だ 明るい青空だ
    さあ 胸をはって
    ララララ・・・ラン
    歌おう 吾等の野方校
 


■平和の森小学校 新設

 新井3丁目29番1号にある区立校。平成23年野方小学校と沼袋小学校の一部を統合して「中野
区立平和の森小学校」として開校。

 校歌「
きみはたからもの」 作詞:伊沢弘  作曲:後藤浩明
  1.君が嬉しい時には一緒に笑おう
    明るい笑顔で明日を夢見る輝く瞳
    今 新しい未来が始まるよ
    さあ進もう 手を繋ごう理想の道を
    ああ仲良く生きる平和の森
    君は宝物
  2.君が悲しい時には一緒に語ろう
    明るい笑顔で ここで会った喜び胸に
    今 温かい心が芽生えるよ
    さあ歌おう 肩を組もう 希望の歌を
    ああ優しく生きる平和の森
    君は宝物 君は宝物 


■中野刑務所

 新井3丁目37番全域にあった。明治8年小伝馬町牢屋敷が市谷谷町に移り、未決囚のみの「市谷
谷町囚獄役所」となる。同10年既決囚も取り扱う。同12年高橋お伝斬首刑に処せらる。同34年
東京駅新設のため「警視庁鍛冶橋監獄署」が移転してくることになり、市谷台町への移転が決定。同
36年新設の監獄に移って「市谷監獄」と改称。旧地に鍛冶橋監獄署が移転してきて「東京監獄」と
なる。同43年豊玉郡野方への移転決定。同44年1月24日大逆事件の幸徳秋水に絞首刑執行。同
45年北原白秋、人妻松下俊子との姦通容疑で14日間収監されるも公判で無罪免訴となる。
 明治43年豊玉郡野方村に豊多摩監獄完成。大正4年市谷監獄を廃す。同11年豊多摩刑務所と改
称、「治安維持法」による、政治犯や思想犯を多く収容していたことで有名。昭和21年連合軍に接
収され連合軍の営倉( stockade スタッケード)として使用される。返還後、同32年から中野刑務
所として復活。昭和30年代全学連の活動が活発になり「60年安保」の公安被告の収容施設に充て
られ、同40年代になると70年安保や学園紛争の被告たちが収容された。しかし同50年代になる
と、中野区民の緑と水の防災公園の実現に向けての刑務所解放運動によって、同58年3月に廃庁と
なった。正門だけが記念として、平和の森公園内(正しくは法務省矯正研修所東京支所内)に残され
ている。

 
中野刑務所表門
 レンガの表門は後藤慶二の設計による、大正時代の名建築といわれている。門は、法務省の敷地内
にあるため、見学には受付が必要だ。でも見るだけなら外から見えるし、写真も撮れる。中に入って
見るほどのものじゃない。

 中野刑務所およびその前身の監獄に収監されていた有名人)
 大杉栄、荒畑寒村、亀井勝一郎、小林多喜二、中野重治、埴谷雄高、河上肇、三木清(獄死)、藤本
敏夫(加藤登紀子と獄中結婚)ほか。
 


■中野水再生センター

 新井3丁目37番4号にある都水道局の施設。


■平和の森公園

 新井3丁目37番6号にある区立公園。ここは、昭和58年3月に70年余りの歴史を閉じた中野
(豊多摩)刑務所跡地の一部に、同60年に新しく開設された公園で、区内では哲学堂公園に次ぐ広
さを誇る。その他にも、児童コーナー、少年のスポーツ広場、じゃぶじゃぶ池、ジョギングコースな
どもあり一日中たっぷり楽しめるところだ。

 平和記念碑
 昭和61年設置。この碑にはめこまれた石は、広島市庁舎被爆敷石を譲り受けたものだ。原爆の凄
まじさが刻みこまれたこの石に、「憲法擁護・非核都市の宣言」が記されている。

   平和記念碑
   この記念碑は、中野区の「憲法擁護・非核都市の宣言」四周年及び国際連合の定めた「国
   際平和年」を記念し、昭和61年8月に建立されたものです。「憲法擁護・非核都市の宣
   言」は、中野区民の平和への力強い願いから生まれました。昭和57年6月、同宣言を求
   める請願が、区民11973名の署名とともに区議会に提出され、同議会はこれを採択し
   ました。これを受けて中野区は、同年8月15日に「憲法擁護・非核都市の宣言」を宣言
   しました。
   宣言文が刻まれている石は、広島市庁舎で使われていた被爆敷石で、広島市のご好意によ
   り、当区が譲り受けたものです。                      中野区


   憲法擁護・非核都市の宣言
   まちには こどもの笑顔がある
   ひろばには 若者の歌がある
   ここには 私たちのくらしがある
   海を越えた かなたにも
   同じ人間の くらしがある
   いま 地球をおおう 核兵器は
   あらゆる いのちの営みを
   この しあわせを 奪い去る
   私たちの憲法はくらしを守り
   自由を守り恒久の平和を誓う
   私たちは この憲法を大切にし
   世界中の人びとと 手をつなぎ
   核をもつ すべての国に
   核兵器をすてよ と 訴える
   この区民の声を
   憲法擁護・非核都市 中野区の
   宣言とする
   昭和57年8月15日
            中 野 区


 遺跡(復元住居)
 またこの公園は大きな遺跡(平和の森公園北遺跡)の上にある。「明石原人」の発見で知られた早
稲田大学の直良信夫博士によって、昭和38年に土器や住居跡が確認され、大きな遺跡の所在が推定
されていた。区では公園工事の前に発掘調査を行い、弥生時代を主とする約100軒の住居跡と土器
など多数の遺物を発見し、未調査の区域もふくめて「平和の森公園北遺跡」と命名した。都内でも屈
指のこの遺跡は、大規模な弥生時代のムラがあったことや、縄文時代、古墳時代の様子についても貴
重な資料を提供してくれた。代表的な出土品は区立歴史民俗資料館や平和の森公園事務所内に展示さ
れ、また園内には、弥生時代後期の住居が資料を元に復元されている。

   弥生時代後期
   復 元 住 居


 
薬師平和の森散歩(案内板)
 スポーツ広場(グラウンド)の西、妙正寺川に近いところにある。

   平和の森公園と弥生時代の遺蹟
   明治43年市ヶ谷から移転して以来、中野刑務所は七十余年間この地にありましたが、昭
   和58年廃庁となりました。平和の森公園はこの中野刑務所跡地に作られ、昭和60年に
   開園したみどりの防災公園です。
   園内には先土器時代(約13000年前)から江戸時代末期までの複合遺跡である。平和
   の森北遺跡が発見されています。特に弥生時代後期(約1800年前)の竪穴式住居跡や
   土器が多く、隣接する新井三丁目遺跡を含めて約260軒もの住居を持つ集落が発見され
   ました。当時の村の有力者の墓と見られる方形周溝墓が区内で初めて発見されました。



■北野神社(新井天神)

 新井4丁目15番3号ある大社。中野通りに面している。池のある新井薬師公園の西側だよ。
 祭神は菅原道真。創建は不明だが、天正年間(1573~92)に新井薬師の開祖行春が村人とともに小祠を改めて天満宮としたのが始まり。毎年暮れの酉の日には市が立ち賑わいを見せる。
 境内に大島神社・伏見稲荷と小祠(水神?)が祀られている。石碑は幾つかあるが、これといった
ものはない。歌碑もあるが、字が読めない。珍しいのは水盤舎で、現代風のデザインで合掌造り風、
コンクリートの打ちっぱなしで千木がある。
 境内には「新井」という地名の由来ともなった井戸が現在も使用されている。新井薬師にも新井の
井戸があるが、水を求めて彼方此方掘ったんだろうね。

 
プリンセス雅
 ここにも新種の桜「プリンセス雅」が植えられていて、平成13年の愛子様ご誕生を記念して植え
たとある。

   かすみたつのぼる旭日に輝きてみやび豊かに花の路(窪寺登)

 と和歌と俳句がミックスしたようなのが、添えられている。物好きだ。説明板がある。

   プリンセス
   此の桜の木は、平成5年6月9日に皇太子妃・雅子様御成婚記念として新種の桜の木をプ
   リンセス・雅と名称登録された銘木です。
   平成13年12月1日敬宮愛子様ご誕生をご慶祝申し上げ此処に植樹をいたしました。
   かすみ立つ のぼる旭に かがやきて みやびゆたかに 花の路     窪寺登 植樹

 
社号塔
 菅公御神忌千百年記念建立。書は一道浅沼栄一。

 
奉納碑
 参道左にある。

   奉納 敷石貮拾間
       當所消防


 
窪寺傳吉顕彰碑
 参道左にある。後ろにコンクリート柱2本が建てられ注連縄が渡されている。

   藍綬褒章受章に輝く東京都議会議員窪寺傳吉君は氏子総代として此度社殿の改修に当り、
   多額の私財を奉獻され、或いは大鳥神社を奉斎される等、その功績は枚挙に遑なく、敬神
   崇祖の精神涵養に資するところ洵に代なるものがあります。
   我々は君の志を深く徳としここに顕彰碑を建立して後世に留めることに致します。
   昭和33年9月建之                       北野神社氏子一同


 
新井復興土區画整理組合竣功記念碑
 東角の区画、駐車場の隅にある。地図が刻まれている。昭和37年建立。

 
撫で牛
 参道左にある。「撫で牛は天神様のおつかいです。ご自身の悪い所(良くなりたい所)を撫でて下
さい」と説明してある。

 
力石と能宣朝臣の梅の花歌碑
 力石を環状列石(ストーンサークル)のように並べた中央に歌碑が建ててある。

   梅の花 匂ふあたりの 夕ぐれは
       あやなく人に あやまたれつゝ
   明治三十三年九月建之     立軒書
                當所氏子中


 傍らに手書きの説明板が2つ。

   梅の花匂ふあたりの夕ぐれは
    あやなく人にあやまたれつゝ
   作者 大中臣能宣朝臣
(延喜三年~正暦二年
                    921~991年)


   力石
   思いを込めて奉納された「力石」は「磐座」として
   神様が降りてこられると考えられてきました

 
五重石塔と紀元二千六百年記念植樹之碑
 参道左手にある。「紀元」とは、明治維新の時、長州藩の連中が、西暦に基づいて「これくらいだ
ろう」と適当に勘案した年代表記だ。一万年前の遺蹟があるのに、たった2600年てことはないだ
ろう。大体、西暦そのものが、中国に年号があることを知って、中世にユダヤ人が拵えたいいかげん
なものだ。第一、キリストその人が実在した人物じゃない。

 
伏見稲荷大明神
 参道左手にある境内社。

 
大鳥神社
 参道左手にある境内社。掲額に、

   大鳥神社
   
昭和六十三年十一月酉日
   
氏子 窪寺昌也謹書

 とある。窪寺傳吉顕彰碑に傳吉が奉斎したとあるから、窪寺が勧請したのかな。窪寺家は新井の草
分で中野の名家。   


■豊川稲荷神社
 新井5丁目3番4号、新井薬師梅照院入口の右隣にある小祠。


■治眼薬師・
子育薬師・
新井薬師
新井山梅照院薬王寺
 新井5丁目3番5号にある新義真言宗豊山派の寺。弘法大師作の本尊薬師如来・如意輪観音2体1
仏は、新田源氏本家の守護仏で、新田義貞の次男義興の上野国太田領金山居城の頃は、足利尊氏の乱
で兵馬倥偬(戦争が忙しい)だったため供事が怠りがちになった。ある夜持仏の薬師堂の屋根から不
思議な光が発し遠くへ飛び去るのを家来が見て、薬師堂を開いて見ると本尊が消えていた。それを聞
きつけた義興も驚いて手分けして探させたが発見できなかった。然るに真夜中過ぎ、敵の計略によっ
て城は焼け落ちてしまった。結局新田家は滅び去る。
 さてそれから遥かの年代を経て、行春という僧(北条の臣梅原将監という武士)が、新井村に草庵
を結び、日夜真言の修行に励んでいたところ、庭の古い松と梅の木元から光明が輝く夜が数日も続き、
不思議に思った行春は村人と一緒に調べてみると、梅ノ木の中から薬師如来像が出てきたんだと。時
に天正十四年(1586)のことだ。そこで村の草分の窪寺藤左衛門・窪寺七兵衛・山口庄左衛門の
発願に従い、力を協わせて一寺を建て、梅より松ノ木へ光明が照らされた由により、寺号を松高山梅
照院とした。本尊は薬師如来と如意輪観音の2仏1体の黄金仏で、高さが1寸6分(約5cm)の小
さなものだ。、弘法大師の作と伝えられる。
 縁起はこうとして、実際は矢田義泉が持仏を奉じて隠れるように住んでいたのだろう。梅ノ木を目
印に持仏は埋めて隠したのではないか、それを偶々梅原が見出したというところじゃないのかな。縁
起は相談して決めたんだろう。
 ところでおいらは新田の一門、と親父がいってた。調べた訳じゃないから真偽のほどは判らない。
人は出自を飾りたがる。系図屋という商売は現在もある。何処かで歴史上の人物に繋げば、後は自動
的にその子孫になってしまう。織田信長は平氏だったり、藤原氏だったり、何度も替えている。徳川
家康だって本人自身松平かどうか怪しいものなのだ。大名は押しなべて似たり寄ったり、何処の馬の
骨か判ったものじゃない。我が家も分家の分家の、末端の分家だろうから、えばっていうほどのこと
がらじゃあないが、新田義貞の持仏がここにあるなんて知らなかったなぁ。
 秘仏の開帳は12年に一度、寅年に行われる。次は平成34年かな。

 
光明真言
 オン アボキャ ベイロシャノウ マカボダラ マニ ハンドマ ジンバラ ハラバリタヤ ウン
  唵  阿謨伽  尾盧  左曩   摩訶母捺囉 麽抳 鉢納麽 入嚩攞  鉢囉韈哆野  吽
 意味
  オーム 不空なる御方よ 毘盧遮那仏よ 偉大なる印を有する御方よ 宝珠よ 蓮華よ
  光明を放ち給え フーン

   梅照院
   除地、九畝六歩、外に二段五畝。当村と上高田村との接地にあり。松高山と号す。新義真
   言宗にて、当郡中野村宝仙寺末。客殿六間四方南向。本尊薬師坐像の石佛にて、長一寸八
   分、厨子に入。開山を快儀と云。正保三年四月五日示寂す。又云天正年中行春と云僧開基
   せしと。其後第六世朝曇を中興とす。此僧の頃より本尊の霊験世にあらはる。子育薬師と
   称して遠近ことって歩を運ぶ者多し。就中近き比江戸日本橋邊の商売願をかけしに、速に
   霊数を蒙ふりしかば、渇仰斜ならず、その後同志参詣の者の便りせんとて、豊島郡下高田
   馬場のほとりより、道の辻辻に碑標をたてて方角を示す。これより次第に参詣の者多くな
   りて、今は新井の薬師とて其名隠れなきことにぞなりける。
   門、柱間九尺、南向、梅照院の額をかかぐ。(新編武蔵風土記稿)

 寺号碑(2代目)
 門前左にある。これは平成25年に新調されたものだ。初代のものは記憶にない。

   真言宗豊山派             平成二十五年五月吉日建立
   
新井山梅照院                二十四世英昭代
       博光謹書           
創雲書道会理事長
                            石飛博光謹

 
新東京百景の碑・副碑
 門前右にある。

   新東京百景
   
新 井 薬 師
    
東京都知事鈴木俊一書

 副碑は以下の通り。

   東京都では『都民の日』制定30周年を記念し新東京百景を選定され古刹当山新井薬師は
   昭和五十七年都民多数の投票に依りめでたくも新東京百景第十七位に入選す 仍って茲に
   新井薬師奉賛会は初代会長衆議院議員高橋一郎の斡旋による都知事鈴木俊一氏の揮毫を得
   会の浄財を以ってこの記念碑をこんりゅうす
                  昭和六十二年四月吉日  新井薬師奉賛会一同
                                   貫主 智英代
 作家椿八郎の句碑
 山門前右にある標柱。

   たんぽぽや薬師如来の手には壺

 椿は、日本の作家。眼科医。本名は藤森章。長野県筑摩郡松本町(現松本市)生まれ。旧制松本中
学(現長野県立松本深志高等学校)を経て、慶應義塾大学医学部卒業後、大正14年同大眼科教室助
手。その後は満鉄長春医院眼科医長、満鉄撫順医院眼科医長を歴任し、昭和21年引きげて、東京電
力病院眼科医長などを歴任した。大学在学中、本名で正木不如丘主宰の同人誌『脈』に小品を発表。
同24年『宝石』に「カメレオン黄金虫」を発表し推理小説作家として登場。同26年に『宝石』に
発表した『扉』が翌年の第5回探偵作家クラブ賞候補作となる。同38年、木々高太郎、白石潔らと
ともに同人誌『詩と小説と評論』を創刊。同53年日本医科芸術クラブ大賞受賞。日本探偵作家クラ
ブの会員章である「ポーの指輪」の提唱者、佐藤春夫の「火眼記」のモデルでもある。

 
猫足燈籠
 山門前右にある。

 
御府内八十八ヶ所碑
 山門前左にある。

       松山良蔵
   御府内八十八箇所
   
弘法大師
   第七拾一番


 
本堂再建供養塔
 門を入った左手にある。再建に尽くした住職運樹と信徒の信仰心に応えるために、安永八己亥年春(1779)後継者の英俊が高野山延命院の引導地蔵尊を模して建立したものだ。

   本堂再建供養塔
   この塔は、梅照院(新井薬師)の再建に尽した住職運樹の業績と信徒の信仰心に応えるた
   めに、安永七年後継者の英俊が高野山延命院の引導地蔵尊を模して建立したものです。
   碑文によれば、
   「梅照院は、天正十四年(1586)行春が建立したことに始まる。本尊の薬師仏は弘法
   大師の手刻といわれている。住職が薬師仏のお告げでつくった小児の妙薬(夢想丸)は、
   どんな難病なも効能があった。延享元年(1744)運樹が住職に迎えられるとご利益が
   広まり、いっそう寺運が盛んとなった。明和元年(1764)寺院が焼失した。
   老僧運樹はただちに仮仏殿を造り、さらに本堂再建の大願をたて、趣意書を示して広く喜
   捨を募った。しかし明和四年(1767)本堂の再建を待たず七十五歳で歿した。跡を継
   いだ英俊は、十年以上も苦労の末、安永八年(1779)の春、ついに本堂の落成に至っ
   た」ことが記されています。
   昭和56年3月                          中野教育委員会


 百度石
 供養塔の直ぐ側にある1.5mばかりの石柱、世田谷世話人と彫ってある。願掛け石だ。

 広風句碑
 百度石の奥にある。昭和43年に建てたものだが誰か判らない。有名人ではないらしい。

   
土も奈き巌に生き抜く冬の松

 
大山阿夫利神社碑
 句碑の奥にある。


 
弘法大師像
 薬師堂前左方にある。行脚姿の弘法大師の銅像。

 
観音像 ✓
 薬師堂前左にある。

   聖観世音菩薩
   昭和六十三年十月卅日 施主栗田康次
              施主谷村信◇
        梅照院廿三世権大僧正◇◇

 
供養碑
 
薬師堂前にある。

   
  永代月護摩
   奉 
護摩木地所千坪
     武蔵國熊谷街
   納 菓子舗中家堂 中村藤吉
     明治二十六年四月

 
龍彫刻の石燈籠
 薬師堂前左にある。

 
薬師堂
 
門を入った左手にある。掲額は以下の通り。

   藥師靈堂
     小峯柳多謹書
        印(小峰柳多)印(寛山)
     奉納者矢島正吉


 治眼薬師子育薬師
 
この薬師如来が、2代将軍秀忠の第5子東福門院和子のが悪質の眼病に罹り、八方手を尽くした効
なく、最後の望みとて、ここの薬師如来に祈願したところ忽ち治癒したことから、「眼の薬師」の名
で知られるようになった。
 中興の祖といわれる第6世朝曇の一代前の住職の玄鏡和尚が「夢想丸」という丸薬を作り、祈願に
来た難病の子供に与えたところ忽ち治ったことから信仰が盛んになり、そう呼ばれるようになった。
文化・文政のころ(1804~30)のことだ。

 供養碑
 
薬師堂裏にある。

   浅 永代御膳料金壱百圓
   草 
明 治 講
     大正三年四月


 
弁天像と五輪塔
 門を入った右手にある。

 
ねがい地蔵
 水掛け不動ならぬ水掛け地蔵だ。不動堂の前にある。

 
不動堂
 門を入った右手にある。

 
子育地蔵
 不動堂前左にある銅製立像


 白龍権現水屋
 不動堂の左前にある水盤舎。

 
  白龍権現水屋建立之記
   新井の地名の由来は古文書『新井埜草別調べ』によれば「名水湧き出でたる故に村名を新
   井と名づく」とあり。この地は名水随所に湧出せしが時代と共に次第に減じ都市化の進展
   に伴い名井ことごとく枯渇し新井の由来を知らすべき証し全て消失せり。
   当山梅照院の瓢箪池(新井薬師公園)もその昔冷泉滝の如く水垢離場として修行の道場と
   なせり。故に「垢離不動明王」を安置し尊信す 白蛇常に不動明王のお傍にありて守護す
   るが如し。しかるに公園造成以後は冷泉の涌出も絶えたるにより窪寺伝吉氏が昭和35年
   に境内に出世垢離不動明王堂を建立霊験灼然として今に多くの信宗をあつむ。
   白蛇の令を供養せんと貫主智英僧正発願せられ龍王のおすがたに三十三之宝珠を奉ずる石
   像を刻明王の使者白龍権現として不動堂に祀る
   この度等大悲殿の建立のおり地下二米程の處に御影石の上蓋に保護されたる大井戸を発見
   す。涌き出ずる水清洌にして名井の出現を見たり。これぞ権現の導きなりと貫主その瑞祥
   を奉戴す。
   一夜夢枕に不動明王現れ「大悲殿に聖観世音菩薩を迎えて井戸の冷泉を閼伽水として衆生
   に施さば即ち利益増長、抜苦与楽せん」と告げ給う。この霊示により同信を募り島根琴次
   郎、相原新吉両氏と共に双龍を鋳造して水屋を建立す。
   功徳の霊泉、末永くあらんことを祈念する
   昭和60年4月吉日                       発願人窪寺克己記

 
新井
 鐘楼と水盤舎の間にある。新井の名前の由来となった井戸。つまり用水の源。

 
鐘楼
 不動堂の左斜め後ろにある。

 弘法大師一千百五十年御遠忌重塔
 鐘楼の北側に昭和56年に建てたという十三重石塔。

 渋谷講の五重石
 十三重塔の奥隣にある。相当古い。台座の上に建っているので7、8mはある。

 
新東京名勝選外十六景新井薬師の碑
 五重石塔の奥隣にる。

   新東京名勝
   選外十六景 
新井薬師

 「プリンセス雅」銘の桜
 門を入って右手奥にある。これは埼玉県の桜圃場で発見された桜の新品種で、徳仁皇太子御成婚記
念に、雅子妃に肖って「プリンセス雅」と名称登録された桜。。

   プリンセス雅
   此の桜の木は平成5年6月9日に皇太子妃・雅子様御成婚記念として新種の桜の木をブリ
   ンセス・雅と名称登録された銘木です。
   平成13年12月敬宮愛子様ご誕生をご慶祝申し上げ此処に植樹いたしました。
    かすみ立つのぼる旭にかがやきてみやび豊かに花の路         窪寺登 植樹
   平成13年12月吉日                中野通り桜祭り実行委員会建立


 
永代御膳料碑
 プリンセス雅の奥の植栽にある。

   永代御膳料
   
金貮百圓
   昭和十二年五月吉日
   神田區須田町三丁目
       佐志田長兵衛


 
六日講の碑
 さらに奥にある。

   永代護摩木山四百五拾坪
   
東京 六日講
   明治二十二年九月・・・


 
瑠璃堂(本堂)
 正面にある。廊下続きで右に庫裏、庫裏の裏に大悲殿と続く。元禄六年、明和元年、明治元年と、
度々焼失したが、本尊は幸い無事で再建されている.そして昭和20年アメリカ軍の無差別空爆によっ
ても本堂・太子堂・庫裏などすべて焼失したが、この時も本尊だけは無事だった。
 掲額は「瑠璃殿 大僧正教純 印(護國寺貫首)印(沙門教純) 昭和24年5月2日 靜岳作」

 
木製唐獅子一対
 瑠璃堂内にある。

 十二神
将 新設
 瑠璃堂内にある。平成8年から5年の歳月をかけて、足立区の仏師石黒見一(71歳)が彫刻した
渾身の作だ。平成25年5月25日開眼法要が執行され、145年振りに復活した。
 参拝の際に、本堂の外から堂内上部に安置されている十二神将は拝めるが、毎月8の付く縁日の日
(8日・18日・28日)は、本堂の中に入って間近で拝める。参拝時間9時~16時。十二神将そ
れぞれの「ある部分」に、隠れミッキーならぬ、〝隠れ梅マー〟が入っている。これは梅照院を守る
十二神将ならではもの! 探してみんしゃい!!


   宮毘羅(くびら) 大将。干支は子。弥勒菩薩の化身。
   伐折羅(ばさら) 大将。干支は丑。勢至菩薩の化身。
   迷企羅(めきら) 大将。干支は寅。阿弥陀如来の化身。

   安底羅(あんちら)大将。干支は卯。観音菩薩の化身。
   頞儞羅(あにら) 大将。干支は辰。摩利支天の化身。
   珊底羅(さんちら)大将。干支は巳。虚空蔵菩薩の化身。
   因達羅(いんだら)大将。干支は午。地蔵菩薩の化身。
   波夷羅(はいら) 大将。干支は未。文殊菩薩の化身。
   摩虎羅(まこら) 大将。干支は申。薬師如来の化身。
   真達羅(しんだら)大将。干支は酉。普賢菩薩の化身。
   招杜羅(しょうとら)大将。干支は戌。金剛手菩薩の化身。
   毘羯羅(びきゃら)大将。干支は亥。釈迦如来の化身。


 薬師如来という仏は、人々を苦しみから救い出したいと「十二大願」を立てて、苦行に励み、その
苦行によって、全ての衆生を無明の病疾から救い出すことができる仏となった。
 病や苦悩を癒すことに優れている薬師如来は「医王」とも呼ばれ、阿弥陀如来の西方極楽浄土と対
をなす東方浄瑠璃という浄土に住んでいて、現世での肉体的な病苦のみならず、来世にまで福徳・利
楽を与えてくれる。この「十二大願」が成就してしまうと困る者がいる。人々を惑わし苦しめる多く
の魔障たちは、薬師如来の願いが成就せぬように多くの妨害を企てる。この時、薬師如来を守護する
ため、魔障たちと戦った十二体の善神がいた。この善神たちを「十二神將」という。
 十二神將は、各々が七千もの眷属神という将兵を随える大将として、薬師如来を中央として12の
方位に陣を張り、いつ何時攻め入るか分からない魔障たちから守り続けている。総勢八万四千という
大軍を率いなければならぬ程の厳しい戦いにあり、常に命を懸けて薬師如来と信仰する人々を守護す
る十二神將たちは、当然の事ながら大変険しい姿をしている。しかし、その本当の姿は、薬師如来の
願いを無事に成就させたいと心から願う12体の仏が姿を変え、十二神將として影となって助けてい
るのだ。しかもこの仏たちは、大日如来や阿弥陀如来をはじめとする、私たちにとっても馴染みの深
い仏様たちなのだ。

 
本尊前立阿弥陀如来
 瑠璃堂内正面にある。

 
本尊
 弘法大師空海が、薬師如来像と如意輪観音像を背中合わせに彫った高さ約5.5cmの黄金仏が安置
されている。秘仏なので普段は直接拜むことはできない。二仏一体の本尊は寅年にのみ開帳される。

 
六地蔵
 南口左にある。

 
三界万霊
 六地蔵の横に石仏を集めた場所がある。

 
惇信院献燈
 本堂左後方にある大灯籠。惇信院は、9代将軍徳川家重の諡号だが、彼なのか?

 
一心講の碑
 本堂裏にある。

       祠堂金五拾圓
   奉 淺 御供米田地六百坪
   獻 艸 
一心講
       明治十八年・・・


 
遍照講の碑
 本堂裏にある。

   奉 護摩本山之◇
     
遍照講
   納 祠堂金百圓


 
和合講中の碑
 本堂裏にある。

   
奉納 和合講中

 
永久講の碑
 本堂裏にある。

   
永久講

 
四谷十五日講の碑
 本堂裏にある。

   奉獻永代御膳料
   金七十五圓
   四谷十五日講


 
鹿濱護摩講の碑など
 本堂裏にある。

 
油講の碑
 本堂裏にある。

 以和為尊像
 本堂裏手にある。銅像は、左官職組合連合会中野支部が昭和35年に立てた16歳の聖徳太子像。
左官の鶴谷善平が鏝一丁で作り上げたものだ。

   聖徳太子講中
   左官職組合連合会中野支部
   昭和三十五年四月吉日建之
      梅照院大僧正聖道代
         鶴谷善平謹作


 由来銘文は以下の通り。

   このご尊像は、聖徳太子御年十六才のお姿にて聖徳太子の遺訓を仰ぐため、組合員鶴谷善
   平氏が、昭和三十四年十月五日より多忙の寸暇をさき、意に満つるまでの一念に祈りを込
   めて制作したるものなり。
   中野支部の協力のもとに梅照院のご協賛と後援により、この場所に建立せるものなり。
   思うに 戦後建築職人の技能の低下が嘆かれ、特に我々左官職も稍もすると技能を軽んじ
   社会的にも軽視されがちな傾向多々ある今日、鶴谷氏大いにこれを憂い、技能者養成指導
   員の技術に対する重要性の再認識と次代をになう後輩諸氏が聖徳太子の遺徳を遵じ奉ると
   共に技能の向上を促す念願にて制作せるものなり。
   左官技能者も氏の如く強固なる制作熱意あらば、鏝一丁にて斯くの如き気品高き御尊像制
   作可能なるを如実に示せり。願わくは同職各位におかれても上述の意を参考にされ、益々
   機能練磨と新人育成に努力し業界発展の資に供せらるれば甚だ幸いなり。
   新井山梅照院の御厚志と鶴谷善平氏の意志を讃え茲に由来を記すものなり。
   昭和35年4月5日                東京都左官職組合連合会中野支部
                                     飯田圭市謹書

 大悲殿
 瑠璃殿の裏手にある葬儀会館。

 植木市
 
毎月8の日は縁日大変賑やかだ。特に植木市は30店もの店が並び超有名だ。

 骨董市
 毎月第一日曜日に開かれる。昭和51年に始まったこの市は、古物のみの扱いで新物は売らせない。
乃木神社の骨董市と共に関東では歴史のある市として信用が高い。

 
●サクラの寺
 
境内には慈母観音像とシダレザクラ、山門とソメイヨシノなど写真の構図によいポジションがあち
こちにある。だから春はプロの写真家の参詣が多くなる。が、早朝意外は・・・・人、人、人で、な
かなかシャッターチャンスは来ないよ。


■サクラの名所
新井薬師公園

 新井4丁目15番と5丁目4番、本堂の裏手の公園は境内の内だったが、大正3年に公園として開
放し、昭和9年に東京市に提供された。現在は区立新井薬師公園となっている。ケヤキやサクラなど
の木々があり、特に、春先のサクラはとても見事で、サクラのトンネルができるなど、中野通りのサ
クラ並木とあわせてサクラの名所といえる。公園内には緑陰広場、児童館、じゃぶじゃぶ池、砂場な
どもあり、子供達の格好の遊び場になっている。中野通りをはさんだ北野神社側にはひょうたん池が
あり、貴重な水辺空間となっている。

 
表忠碑
 園内にある、日清、日露、日独各戦役における戦没者、出征者の慰霊碑。昭和3年11月3日、帝
国在郷軍人會野方町分会第ニ班の建立。

   表忠碑
   陸軍大将一戸兵衛
   
 


【江古田】(えごた)1~4丁目                    昭和38年10月1日
 江古田村。江戸時代になると村は庄左衛門組と孫右衛門組に分かれるが元禄の頃庄左衛門組は太
左衛門組に改まり、江戸末期に喜兵衛組が加わって三組になった。明治維新後は一村のまま存続し、
同11年「郡区町村編制法」により東多摩郡所属、同22年「市制町村制」により野方村大字江古
田。同29年豊多摩郡所属。大正13年町制移行して野方村大字江古田。同7年東京市に編入され
て中野区江古田1~4丁目。同38年新住居表示法により1~3丁目を再編して一部を松ヶ丘・荏
原町に譲り現行の「江古田1~3丁目」とし、翌39年4丁目の一部を丸山・沼袋・野方に移し、
残りをを現行の「江古田4丁目」とした。だから江古田は江古田1丁目だ! 
 読みは「えごた」「えこた」が正しいが、西武線江古田駅の読みは「えこだ」で押し通している。
まあ近江商人の、しかも堤の西武鉄道だから道理も道義もねえなぁしゃぁあんめえよ。知れたこと
さ。都営大江戸線の新江古田駅は「しんえごた」だからね。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『中野区史』『中野の歴史』など。

 
江古田の由来
 ①、エゴノキの原を開墾し、川端にエゴノキを植えていたことによるという説。
 ②、アイヌ語の「集団・密集」を意味する言葉によるという説。
 ③、江(中新井川)の傍に古田があった。古田は江戸時代より前に開発された田畑。
 エゴノキは落葉小高木。初夏に白い花を咲かせ、材は固く器物を作り床柱とした。若い実には毒
があり、潰して川に流すと魚が浮くので漁労にも使用した。さて西武池袋線の江古田
駅がある練馬区旭丘は「江古田新田村」で、明治22年上板橋村の大字、昭和7年板橋区江古田町。
同22年練馬区へ移管、同35年旭丘に改称。中野区江古田は本来の「江古田村」で室町時代から
ある。蓮華寺・水の塔公園がある。
 


■江古田の旧家

 深野・堀野・佐久間・高崎・木村・白井・山崎・小川の8家をいう。 


■水の塔公園
野方給水塔
 江古田1丁目3番1号にある。蓮華寺の東側に聳えるドームの塔だ。高さが33mあり、少し前
まで、敗戦直前にアメリカ軍の艦載機が機銃掃射した弾痕跡が壁面に残っていた。配水塔は、ドイ
ツで衛生工学を学び淀橋浄水場を造った「近代上水道の父」中島鋭治博士が設計した。着工は昭和
2年、完成は同5年だ。基部の直径約18mの鉄筋コンクリート造り。アメ公ってえのは破壊願望
が強えから何でも壊したがる。バカに付ける薬はないっていうが、どうしようもない民族だよ。給
水塔が弾薬庫に見えるか? 昭和6年に荒玉水道の給水塔として建てられ、同47年に使用が中止
されたのを受けて、翌年区が塔を含む敷地を買収し幼稚園と児童遊園を拵えた。塔を壊そうとした
があまりにも堅牢で解体費用が莫大な予算となるので持て余していたところ、都が災害時飲料水補
給用として使うことを計画し、同52年常時2000tを貯える水瓶として復活した。それにより
周囲が公園に整備され「水の塔公園」となった。


星光山蓮華寺

 江古田1丁目6番4号にある日蓮宗の寺。中野駅から北へ中野通りを突き当たったところだ。身延
山久遠寺の末寺。本尊は日蓮聖人尊定の大曼荼羅。天授元年(1375)の創立で、開基檀越は深野
孫右衛門、開山は時仏院大樹阿闍梨日山上人。初めは神奈川県橘樹郡星川村に建てられた。元文五年
(1740)当時は寺院の新規建立が許されなかったので、寺社奉行に願い出て、星川村にあった廃
寺を移し再建したという。日蓮坐像は高弟日朗の作で、日蓮自身が火防厄除・開運守護の開眼をした
と伝えられている。
 新青梅街道に面する石段を登ると参道の左右が墓地となっている。左側の墓域の中ほどに本人がデ
ザインしたという変わった形の井上円了(東洋大学の創設者)の墓がある。井上家は南東の哲学堂公
園東の住宅域に健在だ。
 寺に「お腹お籠り清正公」という加藤清正像がある。お腹の中にもう一つの清正像が納めてあり、
日本唯一の尊像といわれている。かつて天変地変の起こるたびに身代わり清正公と称して、村の辻々
で災難調伏の祈願をしたという。その他子育鬼子母神、北辰妙見菩薩、地蔵菩薩、諏訪大明神、龍神、
三穂稲荷大明神、宝永元年の甲申塚、芭蕉塚などがある。建物としては本堂、多宝塔、鐘楼などがあ
る。「新編武蔵風土記稿」に、

   蓮華寺
   年貢地、境内三畝。東の方豊島郡葛が谷村境にあり。日光山と号す。日蓮宗にて池上本門
   寺末なり。当寺もと橘樹郡星川村にありしを、七十年ほど以前此地へ移せりと。開山を日
   山と云。示寂の年月詳ならざれど、第11世日道は貞享二年七月十二日寂すといへば古き寺
   なるべし。中興を日匡と号す、寛保元年十二月某に示寂す。開山より第十九世にあたれり。
   過去帳を閲るにその裏に当寺開基日山檀越大籠院起立願主深野氏とあり。また客殿の願主
   浄心俗称義右衛門と見えたり。思ふに浄心信仰のあまり堂宇建立の願を立しが、かく檀家
   も乏しくては後破壊に及ばんとき、繕冶のことおぼつかなきことにおもひ此地へ引移、堂
   宇を建立せしかば、村の旧家深野伊右衛門若干の地を寄附せしなるべし。此伊右衛門は当
   村名主孫右衛門が本家なり。又入間郡川越町朝田山行傳寺は永和年中の草創にして、開山
   日山は池上本門寺第四世の僧と云。則当寺開山と同人なるか、深見氏のこと後の旧家の條
   に出せり。合せみるべし。客殿は三間に三間半南向きにて八寸なるを安せり。


 とある。

 
●サクラの寺
 シダレザクラ3本、ソメイヨシノ5本があって4月初めには静かな花見を楽しむことが出来る。そ
の後は哲学堂公園に足を延ばすとよい。歩くと十分ほどで着くよ。大和町に同名の寺があるんで間違
えんなよ。

 
題目塔
 蓮華寺境内に上がる石段下左にある。

   正面 
南無妙法蓮華経

   左面 
三寶祖師御報恩

   裏面 
若經巻所住之處若於園中若於林
      中若於樹下若於僧坊若白衣舎若
      在殿堂若山谷曠野是中皆應起塔
      供養所以者何當知是處即是道塲


   右面 
善■院信日專信士   施主 岸岡十兵衛

 ※
は、隥の字の「豆」の部分が「生」になっている字。

 
地蔵尊石像百度石・庚申塔
 参道右手にある。

 
深野辰右衛門君之碑
 参道右手、東門近くにある顕彰碑。明治31年 山崎香山の書。劣化により文字が読み取れない。
天正年間、榊原夫人を火葬に附した跡で、深野孫右衛門が田畑一丁五反歩余を寄進し、元文四年星川
村(神奈川県)の廃寺を現地に引地寺として、同五年、時の寺社奉行大岡越前守に願い出て堂宇を建
立した。その功績を顕彰した碑。

 
宗祖六百五拾年遠忌御報恩記念碑
 東門近くにある題目塔。

   
南無妙法蓮華経

   
宗祖六百五拾年遠忌御報恩

   如日月光明能除諸幽冥  
日月の光明のもろもろの幽冥を除くがごとく
   斯人行世間能滅衆生闇  
この人世間に行じてよく衆生の闇を滅す

 「陽光や月光が暗い所を除くように、修行者がそ夫々の生活の場で人々の闇を照らす」の意。

 
井上円了の墓
 参道左手にある。3段の台座に井桁を乗せその上に円を置く変わった墓碑、「井の上に円」で井上
円了を表わしてい
るのか。多様な視点を育てる学問としての哲学に着目し、後に東洋大学となる哲学館を設立した。ま
た、迷信を打破する立場から妖怪を研究し『妖怪学講義』などを著した。「お化け博士」、「妖怪博
士」などと呼ばれた。

   中野区登録文化財
   
井上円了の墓所
   ここは、哲学堂を創った井上円了の墓所です。
   円了は、安政五年(1858)現在の新潟県三島郡越路町に生まれ、哲学者であり、また
   教育者として、明治の中頃から大正にかけて多彩な活動をくりひろげました。
   とくに、西洋哲学による仏教の新しい解釈に基づいた既成仏教の革新、キリスト教の批判
   や迷信打破の運動は、わが国の文化史上特筆されるものといわれています。
   また、哲学館(後の東洋大学)と哲学堂を創立したのは、円了が提唱する「護国愛理」を
   もとに学校教育と社会教育の振興をはかるためでした。こうして、国民道徳の普及と向上
   「考える人」の養成をめざし国家への報恩を願ったといわれています。
   円了は大正8年巡回講演の旅行中、中国大連市(現旅大市)で病死し、東洋大学関係者の
   縁故で当寺に葬られました。井桁の上に円形の石を置いて井上円了の名前を表現した墓石
   のデザインは円了の生前の発意といわれています。
   昭和58年3月                         中野区教育委員会

   
円正面  井上圓了之墓

   
円裏面  甫水院釋圓了
        芳田院釋妙敬

   
井桁右  碑製故博士剏意
        面發書奉滌博士

   
井桁左  造碑者山尾新三郎
        銹刻者田中良雄

 井桁両側面に銘文があるが、石の状態と達筆のため難読。省略する。大正5年 友人土屋弘撰・書

 武蔵野芭蕉塚・芭蕉句碑
 参道左手にある。共に自然石の碑。

   
芭蕉翁

   初しくれ猿も小蓑をほしけなり(初時雨 猿も小蓑を欲しげなり)


 元禄二年(1689)9月、芭蕉46歳の時の作品『猿蓑』冒頭の句。芭蕉が『奥の細道』の旅を
終え、伊勢へ足をのばした後、故郷上野へ帰る途中に伊賀街道の長野峠で詠んだものとされている。
碑は明治29年11月の、芭蕉塚は昭和2年の建立。

 
武蔵野芭蕉塚建設記念碑・芳名碑
 芭蕉碑の後ろにある。

 扇面形の題額

   朝夕の ともや 野の月 山の雪
       公雄 印:七十叟 芭蕉庵

   寄付者芳名

 碑陰

   
武蔵野芭蕉塚建設記念 昭和2年
   當山十八世金子日聡代 芭蕉堂□□公□□ 建之

 
石工名あり。

 
静山句碑
 左手石碑群の中にある。

   
乾坤に 聲ひかせて 郭公   靜山

 碑陰に自伝和文碑文がある。昭和5年 熊澤靜山 印:芭蕉庵 靜山。
 碑陰枠外に 當山十八世金子日聡代 祠堂金拾五圓也、と刻んでいる。


 
奉納句碑
 参道左手碑群の中にある句碑だ。

   奉納
   
露清き 南無妙法の 蓮華かな  古泉

 日聰諸人の墓・叙傳碑
 参道左手にある。

   遠壽院三十世
   
妙俊院日聰聖人
   里光山十八世 男爵南部日實

   當山十八世中興遠壽院丗世僧正妙俊院日聰上人叙傳碑
   昭和十五年 遠壽院日秀書


 宝篋印塔
 参道左手にある。

 
淨行菩薩像
 墓地入口にある。

 
稲荷社
 左奥にある。清正公・諏訪大明神・竜神・三穂稲荷大明神を合祀する。

 
懺悔堂
 本堂前左手にある。

 
日蓮宗祈祷所石柱
 懺悔堂の横奥にある。

   
日蓮宗祈祷所 江古田蓮華寺

 
本堂再建事業碑
 本堂前にある大きな石碑。

   
本堂再建事業碑

 
山号額
 本堂の掲額。

   
星光山 南部日實

 
喜寿句碑
 本堂前にある。

   題額  喜壽 □□日聡
   
碑文  蓮の華に かねて乗のも がつてんぢや
         一世はせを堂 印:七十七叟 公雄
                   宇田川黄美刻


   碑陰  
義捐者芳名(略)  

 鬼子母神堂
 「生髪鬼子母神像」を祀り、高さ2.7m で、69384人の女性から1人3本づつの頭髪を貰い
頭に埋め込んである。堂は大正8年に建立された。

 鐘楼
 明治初期近隣15ヶ村より時の鐘を打つことを願い出て、2時間毎に鐘を打ち村人に知らせた。朝
な夕なの農家の生活には、不可欠のものとなり、〝時の鐘〟といわれて村人に親しまれた。


■第六天社跡
 江古田1丁目6番19号(本庄宅)のところに祠があった。今は江古田1丁目20番15の深野家
の屋敷内に移されているという。
 


■名主屋敷

 江古田1丁目20番15号にある深野家。、


■垢離取不動尊

 江古田1丁目28番7号、不動橋の東詰にある。かつては江古田大橋の南10mの辺りにあったと
いう。現在のものは再建したもので、以前のものが消失した理由は判らない。昭和20年の愚かなア
メリカ軍の無差別空爆の煽りを食ったのだろうか?
 


■御嶽社跡

 江古田1丁目33番5号の江古田一丁目町会会館のところにあった。江古田氷川神社に合祀したの
ち、祠は1丁目4番11号の旧家深野家(水の塔の北)に安置してある。


■江古一御嶽公園

 荏子田1丁目34番15号にある小さな区立公園。


■第七中学校
 江古田2丁目9番にある。昭和23年江古田小学校を仮校舎に「東京都中野区立第七中学校」とし
て開校。校章制定。PTA結成。同24年新校舎一部完成。生徒の一部移転。同25年校舎完成。全
生徒移転。同28年障害児学級新設。同29年校歌制定。

 校歌
「若葉若き」 作詞・村松アサ  作曲・折田泉
  1.若葉若き 
    吾等ここに集いて
    ぐんぐん育たん それぞれの
    尊き力 育みて
    押し退ける気持ち退け
    睦み合い 敬いあいて
    共に鍛えん
    友よ今日も明日も
  2.若葉若き
    吾等心開き
    にこにこ伸びん天地の
    正気を受けて張り切って
    楽しさも苦労も共に
    語り合いまろびあいて
    努めて学ばん
    友よ弛まず倦まず

 同30年プール完成。同32年創立10周年記念式典。同36年体育館完成。同37年生徒標準服
制定。同42年創立20周年記念式典。同52年創立30周年記念式典。同53年校庭整備。同61
年障害児学級等閉鎖。同62年創立40周年記念式典。
 平成4年パソコンルーム開設。同7年和室・放送システム整備。同8年校舎耐震化。同9年創立5
0周年記念式典。同15年エアコン整備。同20年第一・第二美術室、第二音楽室移転。特別支援学
級D組新設工事。同21年体育館耐震化。特別支援学級D組開設。同25年東京消防庁より東京都内
公立学校第1号となる「救命講習受講優良証」を受賞。同27年第二理科室エアコン設置。


■さくらの名所
青梅街道第七中学校前
 江古田2丁目と沼袋2丁目の間の新青梅街道の桜並木。 
 


■江古田小学校

 江古田2丁目13番28号にある区立校。えごたしょうがっこう。明治9年豊玉学校の東福寺分校
を創設。同15前身の「遷喬小学校」誕生。遷喬は、春に鶯が谷を出て喬木に停まることに准えて、
子どもたちが一生懸命学んで成長して欲しいという気持ちを込めて命名した。
同36年「野方東尋常
小学校」と改称(俗に東校と呼ばれた)。同45年校章・校歌制定(野方東尋常小学校、野方西尋常
小学校、野方高等小学校3校共通)

 旧校歌「
御代しろしめす」 作詞作曲・3代校長松村文弥
  1.御代しろしめす大君の
    宮居に近き武蔵野に
    田畑肥えたる地を占めし
    野方の村よ よき村よ
  2.このよき村に三つながら
    みはらしひろく庭清く
    心地良き地建てられし
    われらの校よき校よ
  3.このよき校に学ぶもの
    勅語の御主意
(みことのむね)をかしこみて
    先ず忠孝を第一に
    学びの業に励むべし

  4.家治むるも国のため
    村にぎわすも国のため
    なお進みてな世を益し

    君と国とに尽くしてん


 昭和3年新校舎建築起工 12月新校舎に移転完了。校旗・校章制定。同4年校舎落成・開校の式
典を挙行。校地2357坪(うち運動場1566坪)校舎木造スレート葺2階建て15室。昭和7年
創立50周年。同16年東京市江古田国民学校と改称。同18年東京都江古田国民学校と改称。同1
9年学童疎開。同20年終戦となり分散教育停止。憲兵隊に校舎を貨す。焼失した上高田小学校に校
舎の一部を貨す。疎開地より全員復帰 平常授業を開始。同21年私立東亜商業学校に校舎の一部を
貨す。給食開始。同22区立江古田小学校と改称。同26年校歌制定。

 校歌「花開く地の上に」  作詞・薮田義雄  作曲・岡本敏明
  1.花開く地の上に
    喜びは声合わす
    希望の春
    萌え上がる 萌え上がる
    萌え上がる命 みな輝く
    われら われら われら
    江古田小学校
  2.色鳥飛びかけり
    喜びは声合わす
    実りの秋
    
揺り上げる
 揺り上げる
    揺り上げる こだま輝く
    われら われら われら
    江古田小学校


 同27年江原小学校と丸山小学校を分校。同39年国立中野病院内に分教場開設(~昭和61年ま
で)。同56年開校100周年記念式典。

 江古田百周年を祝う歌「空よ風よ」 永光智子(6年生)作詞 岩本真理子(4年生)学校補作
    空よ風よ太陽よ
    今日は開校百周年
    夢を大きく膨らませ
    優しく賢く逞しく
    明日に向かって羽ばたこう
    江古田 江古田 
    みんなの江古田小学校


 同57年「百周年記念」碑建立。第18回卒業生・名誉都民山崎喜作と名が刻んである。平成18
年創立125周年。


■お経塚跡 経塚地蔵

 江古田2丁目14番6号、氷川神社の参道口にある豊島塚の1つ。大正9年の写真によると、人の
高さほどの塚の中ほどに地蔵尊が建っている。今は塚がない。昔、東福寺が火事に遭った時、燃えた
経典などを埋めて塚を作り供養したところなのでその名があるという。ここは豊島塚の一つで、大正
の頃、この土地を均した時、地中から人骨と一緒に、茶筒形をした金属製のものを掘り出した。恐ら
く経筒だったのだろうと考えられているが、何時の間にか無くなり、誰も中を改めた者がなく、その
確証はないのだ。人骨はこの地の片隅に埋めて、その上に地蔵の石像が建てられた。おいらはここが
最初の東福寺だったところだと思うよ。豊島塚というのは、江古田原沼袋合戦(豊島氏と太田道灌の
戦闘)で死んだ人々を葬ったところだ。

   お経塚
   大正時代までは、左の写真にあるように背丈ほどの塚でした。大正時代に塚の盛り土を整
   地したとき、人骨とともに経筒らしいものが出土したという記録があります。
   言い伝えでは、東福寺が火災で焼けたときの経文や過去帳などの灰を埋めて塚を造ったと
   いわれています。
   平成5年3月                          中野区教育委員会


 ※写真割愛。


■江古田二丁目公園

 江古田2丁目21番にある小さな区立公園。


■本多山公園
 江古田3丁目8番3号都営江古田三丁目アパートの北にある区立公園。


■三波春夫御殿跡

 江古田3丁目9番2号、東福寺の裏は本田山といい、歌謡界の大御所だった三波春夫の御殿跡だ。
今はマンション(ベルテ中野江古田)に建て替えて財産を保全している2代目豊和は偉い。3代目の
教育が大変さ。締めても緩めても大変なのが3代目教育というものだ。


金峰山施尊院
東福寺
 江古田3丁目9番15号、かつての中野結核療養所の下にある新義真言宗豊山派の寺。
 寺は建久年間(1190~99)江古田村の堀野二郎右衛門が、江古田一御嶽公園のところにあっ
た御嶽神社(大正2年氷川神社に合祀)の社僧源教上人の教化(きょうげ)を受けて深く帰依し、神
社南麓に堂宇を建てたという。その時に上人から寺号を頂戴したってえ訳さ。本尊の不動明王立像は、
弘法大師の手になる一本彫りってえから驚くじゃあねえか。天正の頃(1573~92)祝融の災い
にあって古記録一切を焼失したという。祝融ってえのは火事のこったよ。寛永の頃(17世紀初め)
寺地を本田(現在地)に移して再建し、承応四年に8間半×7間の本堂が完成した。その記念樹の銀
杏が、山門(※本来山門というのは比叡山のみ、三門は三解脱門)は閉鎖されてるんで、通用門から
入ったところに立っている。区の保護樹の第1号だ。傍らには石仏六地蔵が綺麗に並べられている。
 江戸時代には3代将軍家光が鷹狩の際に寄って休息し、8代将軍吉宗は御膳所に指定して休息し、
中食(なかじき)を摂っていた。本堂内陣左側の客殿は将軍御成間といわれて一段高くなっていたが、
昭和42~43年の改築で取り壊して、跡に「徳川将軍御膳所跡」の記念碑が建ててある。その時の
改築で本堂・書院・庫裏・太子堂が完成した。境内にある大イチョウは樹齢約300年といわれ、本
堂落成の記念樹として植えられたものだ。
新編武蔵風土記稿」に 

   (江古田村)東福寺
   除地五段。村の南の方鷺ノ宮村境にあり。金峯山世尊院と号す。新義真言宗にて中野村宝
   仙寺の末。此寺元は村内御嶽山の邊にありしを、年月詳ならず此処へ移したりと云。本堂
   は八間半に七間。本尊不動の立像長一尺二寸。開山詳ならず。法流の祖を法運と云。享保
   七年十一月五日示寂。開基は村民次郎右衛門が先祖にて、天正年中に起立といへど其詳な
   ることを傳へず。
   鐘楼。本堂の西にあり。鐘は宝永七年の銘を彫れり。


 とある。

   このお寺の主旨
   宗 派 真言宗豊山派
   総本山 豊山長谷寺 奈良県桜井市初瀬
   祖 師 宗 祖 弘法大師 空海上人
       中興祖 興教大師 覚鑁上人
       派 祖      専誉僧正
   開 宗 真言密教は、平安初期に弘法大師によって中国からもたらされ、わが国で開宗さ
       れました。その特徴は理性と感性の両面から密教的な安心が得られるという点に
       あります。
   教 え 教えの中心はマンダラ思想です。世の中にはいろいろな宗教や思想がありますが
       よく観察してみると、一番底に共通の原点があります。この原点が大日如来とい
       う仏縁です。一切の諸尊は、それがお薬師さま、観音さま、お地蔵さま、お不動
       さまであれ、総て大日如来の身を変えたお姿(応化身)なのです。
       したがって、もとめるところは広い視野で、物を見ながら深く考えて、敬虔に力
       強く、人生を生き切り、平和な社会を作ることです。
   読誦するお経
       般若理趣経・陀羅尼・般若心経・観音経などをお読み致しております。
   光明真言
 オン アボキャ ベイロシャノウ マカボダラ マニハンドラジンバラ ハラ
        バリタヤ ウン
        (大日如来の智慧の光によって私たちの心に光明が挿し込む)
 

 大師堂
 境内に建っている堂。

 
弘法大師像
 境内にある行脚姿の立像。

 
覚鑁像
 境内の祠の中に鎮座している。興敎大師。真言宗中興の祖。新義真言宗の開祖。

 鐘楼
 一段と高いところにある。

 大蔵院不動尊
 境内にある岩の上に彫る不動尊。。 

 徳川将軍御膳所跡
 境内に建っている石碑。旧ここに将軍の「御成りの間」のある建物があった。昭和42年の改築の
際に取り壊された。

   徳川将軍御膳所跡
   当寺は、享保十三年(1728)春、8代将軍吉宗が、鷹狩りのおり、御膳所となり、休
   息と食事をしたところです。以前は旧本堂の西側奥に寺社奉行の命で改宗した「お成りの
   間」がありましたが、建物が古くなにったため、昭和42年の改築のとき取り壊され、そ
   の跡に記念碑が建てられました。
   鷹狩りは、飼いならした鷹を放って獲物を捕らえる狩猟法で、表向きは将軍の遊びでした
   が、幕府による江戸近郊の農業・治安の維持の維持を果していました。吉宗は、5代将軍
   綱吉の時に廃止されたこの制度を復活し、中野など江戸近郊六6か所の鷹場を指定しまし
   た。指定された村々の農民たちは、鷹場役人に監督され、日常野鳥の見張りや鷹場の維持
   に使役される他、農作業や家の修復に至るまであらゆる制約をうけていました。
   将軍来遊の時の古い記録によれば、食事の準備から道路や橋の整備など、地元の人たちが
   大きな負担を強いられていたことがうかがえます。
   昭和57年2月                         中野区教育委員会


■氷川神社

 江古田3丁目13番6号にある江古田村の鎮守。祭神は素盞雄尊。鎮座の年代は不明。口碑による
と寛正元年(1460)に村人が素戔嗚の武徳を慕い、この地に小祠を建てたのが始めだと伝えてい
る。
 初め牛頭天王社といい、元禄九年(1696)に氷川社に改めた。弘化三年(1846)に建てら
れた拝殿は現在の神楽殿で、現在の拝殿は昭和7年に建築したもの。例大祭に神楽殿で獅子舞が奉納
されるが、これは「江古田の獅子舞」として有名。大正2年に1丁目33番のところにあった御嶽神
社を合祀した。なお神楽殿は昭和56年に花火か何かの火で萱葺きの屋根が焼け、建物に被害がなかっ
たの幸いだった。以来現在の銅板葺きとなっている。「新編武蔵風土記稿」江古田村の項に、

   氷川社
   除地三段七畝、西の方にあり、村の鎮守なり、社は五尺四方、上屋三間に二間南向にて、
   前に石の鳥居をたつ、松杉の森あり、鎮座の年代詳ならず、例祭は九月二十九日。


 
神楽殿
 素晴らしいデザインだ。一般的なものではない。かといって奇を衒ったものではない。

 
稲荷神社・熊野八幡・北野天満社・霊神社
 境内社。

 江古田の獅子舞
 その起源は御嶽神社と東福寺によって鎌倉時代に始められたといわれている。初め御嶽神社の神事
だったが、大正2年氷川神社に合祀されてから氷川神社で行われるようになった。この獅子舞は、素
朴古雅で田楽舞の正しい演舞法を伝えた郷土芸能として知られている。その衣装や演出は昔の伝統や
格式を少しも崩さず約700年も続けられている。例大祭は10月の第一日曜日であるが、当日は1
丁目20番の深野家に集まって衣装などを整えて出発、新青梅街道を通って氷川神社まで、盛大な獅
子舞行列が行われる。各町の神輿・太鼓を先頭に金棒・標旗・氏子総代などが続き、そして青龍・花
笠・大獅子・白狐・花笠・女獅子・朱雀・花笠・中獅子・玄武・花笠・笛方9人などの大行列だ。行
列が神社に到着し、しばらく休んだあと、神楽殿で獅子舞が始まる。舞台の後には「御用」と書かれ
た提灯が掲げられている。これは東福寺の舞台で将軍上覧以後、江戸幕府が獅子舞のため特に使用を
許可したものだそうだ。記録では正保の頃(1644~48)3代将軍家光が鷹狩にきたとき獅子舞
を上覧したとある。

 
日露戦役紀念碑
 境内左樹林内にある。野方村から日露戦争に出征した兵士を讃える記念碑。

   
日露戦役記念碑

   明治四十一年年十月
   奥多摩郡野方村兵義會江古田支部 建立
      東京衛戊総督陸軍大将川村景明書
  


■国立療養所
中野病院
 江古田3丁目14番にあった結核療養所。大正9年東京市療養所として創設。昭和18日本医療団
へ移管。同22年厚生省へ移管、国立中野療養所発足。同42年国立療養所中野病院に改称。平成5
年国立病院医療センターに統合され閉院した。
 跡地は江古田合同住宅、東京警察病院看護専門学校運動場、国立医療センター宿舎と遊休地となっ
ている。東京オリンピックの頃に行ったことがあるが、大変な田舎、山間地に行ったような思いをし
た記憶がある。大スター三波春夫の家も山の上で、現在ベルテ中野江古田になってるが、当時は外か
ら見えなかった。病院は結核療養所らしく、森というか、林というか、山の中にいるようだった。中
野にビルディングがあったかどうか記憶は定かではないが、くすんだ仕舞家(しもたや)が並んでた
のは覚えている。当時どういう訳か、中央線沿線に住んでる奴は馬鹿にされ、高円寺以西の奴は、決
して住んでるところをいわなかったものだ。何でだろうねぇ、中央線沿線は汚かったのは汚かったかっ
たよ。
 現在病院のあった北部の森は取っ払われて、何もない。高台なので、晴れた日は広々としていて清々
しい。気宇広大たる気分になれる。何れ公園になるのだろう。


■さくらの名所
北江古田公園 → 江古田の森公園

 江古田3丁目14番19号、平成19年4月1日開園の江古田川沿いにある公園で、河川が氾濫し
た時、水を導いて、下流での洪水を防ぐ遊水池の機能を持たせてある。周囲はジョギングコースをか
ねた散策路になっており、旧国立療養所中野病院跡地の樹林にも接しているので豊富な緑に恵まれて
いる。広大なので晴れた日の青空は、清々しい開放感を与えてくれる。また園内には、縄文時代早期
・前期・中期・後期にわたる低湿地遺跡である北江古田遺跡がある。この遺跡からは、縄文中期(約
4500年前)に属する貯蔵穴などに使われた土坑から、カゴやクルミなど貴重な遺物が出土した。
祭祀に使われたと思われる一群の土器も注目され、その中には、植物の繊維をよってタガをかけた赤塗
りの珍しい浅鉢もあった。その他投網(とあみ)の先につける土器の破片で作った(土錘)が多量に発
見された。網で魚獲ってたんだねぇ。この時代の人々が植物や動物の他に妙正寺川辺りの魚をとって
暮らしていたことが窺われる。
 


■江古田修道院
ベタニアの家
 江古田3丁目15番2号にあるキリスト教会。

 
フロジャク神父像
 この教会を、昭和5年6月27日に創立した、Dough33年慈生会病院を開院して貧しい人々
を救済した。


■山崎記念中野区立歴史民俗資料館
 江古田4丁目3番4号にある区の施設。昭和60年名誉都民である造り酒屋山崎喜作から資料館用
地に役立ててほしいと醸造所跡地2600㎡を寄付されたことを契機に、平成元年郷土の文化遺産を
保存し展示活用して行くために、歴史民俗資料館として、中野文化センターから移設した。区内の歴
史的民俗資料を公開展示している。展示室が3つあって、常設展示室以外に、企画展示室、特別展示
室がある。企画展示室では企画展以外にも年間を通していろいろな行事に関わる物や遺跡調査の結果
などをミニ展として展示している。特別展示室は美術工芸品を中心に2ヶ月周期で展示替え。常設展
示もジオラマなどを使って解りやすく古代から現代までを解説している。
 開館は、月曜日・第三日曜日・年末年始の休館日を除く毎日の9:00
~17:00。 03-3319-9221

 
保護林と生垣醤油屋の椎の木
 資料館の東隣、ここはかつて旧江古田村の名主の一人、山崎家の屋敷だ。鬱蒼と繁る木々の中でも、
特に奥庭のシイの大木は自然のまま保護されている。樹齢は凡そ600年で、その枝は庭を覆ってし
まうほど見事だ。彰義隊の敗残兵が根元で休憩したと伝えられる、この椎の木は「醤油屋の椎の木」
と呼ばれて、村人に親しまれてきた。また、人の背丈よりも高く、門の前に立つと思わず溜息が出そ
うな生垣も一見の価値ありだ。

 椎宮稲荷
 山崎家の屋敷神。敷地内にある小。
 


■中野の名家 山崎喜兵衛家

 江古田4丁目3番10号にある。屋号を「ヤマキ」といい、6代目まで喜兵衛を名乗った。7代目
松太郎、8代目は喜作。寛延三年(1750)に初代が、本家徳兵衛から手元金70両と田畑8反歩
を分け与えられて独立し、一家を興したときに「ヤマキ山崎家」は始まった。農業の傍ら手元金で質
屋を開業、蓄えができた安永五年(1776)に醤油醸造に転じた。質屋と醸造の成功で、山崎家は
江古田村ばかりか中野周辺でも有力な富家となった。
 また経営の能力と手腕を買われ、3代目の時に江古田村丸山組の名主に押され、明治維新までその
任に当たった。3代と4代が活躍した文化文政期は山崎家の家業が最も繁盛した時だった。家業の醤
油は年平均730石を生産販売し、質屋業の方も毎年640両平均の質物を保管していた。その結果
質地流れ売却益などで、かなりの土地を集積所有するに至った。
 この文化文政期は江戸文化の最盛期といわれ、江戸の生活様式や道具類が近郊農村へも流入してき
た時期であり、千駄木に支店を持ち醤油問屋仲間に加入していた山崎家が、江戸の町人文化を逸早く
採り入れたのは当然だった。山崎家に伝わる衣食住に関わる道具の多くはこの時期に江戸において買
い求めたものだ。これらは郷土資料館で見られる。
 また江戸の文人たちが、江戸近郊の散策を行う途中に江古田辺りに立ち寄った記録、松尾嘉陵の『嘉
陵紀行』、十方庵敬順の『遊歴雑記』などに「醤油造りの山崎家」として記録されるほどに、山崎家
の名は知られるようになっていた。しかしこの繁栄は天保飢饉や幕末の政情不安のために何度か危機
に陥った。この困難の時期を乗り切ったのが6代目、彼は先代が早く病死したために、僅か18歳で
家督を相続し、江古田村の名主としての重責を果たし家業を守った。維新後は官選名主・戸長を経て、
東京府会議員、野方村々長を務めた。
 6代目が政界で活躍する間、家業を継いだのが松太郎で7代目を継いだ。明治21年初代から続け
てきた醤油醸造を一大決心を以て止め、近代産業に転じた。



■国際短期大学

 江古田4丁目8番・15番・24番にある。 英称(Kokusai Junior College)。高木章(衆議
院)により昭和8年設立された中野高等無線電信学校
が起源となっている。昭和21年国際外国語
学校を設立。同25年国際外国語学校を母体として国際短期大学(英語科)を設立。同37年短大に
電気通信科を設置。平成5年狭山グランドを竣工。同6年電気通信科を情報通信科に名称変更。同1
0年50周年記念ARENA(体育館)を竣工。同13年英語科を英語コミュニケーション学科に、
情報通信科を情報ネットワーク学科に名称変更して今日に至っている。専門学校のような小ぢんまり
としたキャンパスだ。


■江古四しいの木公園

 江古田4丁目14番の都営住宅に付帯する区立公園。


■江古田児童遊園 ?

 江古田4丁目16番あるというる区立公園だがこの住所には見当たらない。ブログにはこの住所で
紹介されている。当該地には「社会福祉法人森友会」になっている。
 


江原町】(えはらちょう)1~3丁目               昭和38年10月1日
 江古田村太左衛門組。同11年「郡区町村編制法」により東多摩郡に編入、同22年「市制町村
制」により野方村大字江古田 同29年豊多摩郡。大正13年町制移行して野方町大字江古田。昭和
7年東京市に編入されて中野区江古田1~4丁目。翌8年江原公園開園。同27年江原小学校開校。
同38年新住居表示により江古田2丁目の全部に、1~3丁目と新井町の各一部をあわせた町域を
現行の「江原町」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『中野区史』『中野の歴史』など。

 江原の由来
 江原公園・江原小学校からの転用による。その「江原」は、江古田原の「江」と「原」、原は太
左衛門の姓「原」を組み合わせたものともいう。江原という原っぱ、江原という字があった訳では
ない。
 この町名も揉めた。前年(昭和37年)夏中野区議会で決定した途端から、江原町となる旧江古
田2丁目の住民が「町名改悪反対」と書いた白だすきを肩にかけ、連日大型バス3台を連ねて区役
所へデモンストレーション(示威脅迫)。この波状攻撃はその年の暮れまで続いた。区では地元町会
と区議団に説明了解を得ていたが、地元住民への連絡説明が行き届いていなかったことが原因だっ
た。結局町会役員が全員引責辞任して翌年漸く江原町に落ち着いたというお粗末。住民は古戦場の
「江古田原」が望みだったんだと。
 


■金井塚跡

 江原町1丁目9番にあった豊島塚の一つ。江原保育園の東側の辺りと思われるが、住宅地に造成さ
れてしまったので、跡地を特定できない。この金井塚の天辺に建ててあった庚申塔は、3丁目12番
の「原の観音堂・不動堂」に移してある。


■江原公園
 江原町1丁目15番にある区立公園。広場には多くの木陰があり、その下ではお年寄りがゲートボ
ールを楽しんでいる姿や、親子で遊ぶ姿が見られ、夏には幼児が水遊びできるじゃぶじゃぶ池も開設
される。
 


■江原小学校

 江原1丁目39番1号にある区立校。昭和27年江古田小学校から分校して独立「東京都中野区立
江原小学校」として開校。同30年に校歌制定。

 校歌「江原のみどり」 作詞・大木惇夫  作曲・重松明広
  1.江原の緑 豊けくて
    床しや 我が学びの庭
    努め励みて健やかに
    宜しき知慧を汲み取られ
    嗚呼 清しさよ
  2.野花の香る武蔵野に
    楽しや 望みの丘
    人の世のため健やかに
    正しき道を踏み行かん
    嗚呼 青空の明るさよ
  3.富士ヶ嶺 遠く仰ぎ見て
    嬉しや 我が団居
(まどい)の園
    睦み親しみ健やかに
    優しき心 培わん
    嗚呼 夕星の清けさよ

 同32年校旗樹立。プール完成。同34年ソニー賞受賞。同37年創立10周年記念式典。同47
年創立20周年記念式典。同51年第1期鉄筋コンクリート造り校舎落成。同53年茶の木1000
本植樹。同54年「日中友好の船訪日団」30名来校参観。NHK全国音楽コンクール東京地方最優
秀校。同56年TBSこども音楽コンクール優秀賞。同57年創立30周年記念式典。
 平成2年第一・第二校庭スプリンクラー設置。同4年3階3の教室エアコン設置。地域生涯学習館
「江原キャンパス」完成。創立40周年記念式典。同5年韓国教育使節団訪問(26名)授業参観。
学校給食優良学校・文部大臣賞受賞。同6年ソーラー時計設置。同8年実行委員会方式で「岩井臨海
学園」実施。同11年ベネズエラ国営テレビ取材。同13年プールシャワー温水化。同14年給食調
理業務民間業者委託。創立50周年記念式典。同19年わんば学級開級。同20年第一校庭芝生化。


■須賀稲荷神社

 江原町1丁目44番2号にある中社。古くより牛頭天王と宇迦之御魂神の2祠があったといい、昭
和40年代に入り2祠を合祀、現在地へ移転の上、同42年に須賀稲荷神社として創立した。祭神は
素戔嗚尊、宇迦之御魂神。説明板に、

   遥か昔から、中野区江原町3丁目17番地(こぐま公園の所)に二つの小さな祠があり、
   それぞれ牛頭天王(ゴズテンノウ)と宇迦之御魂神(ウガノミタマノカミ)が祀られてお
   りました。その祠の西側では清水が滾々と湧きでて、細い流れをなしていたことから、土
   地の人々が五穀の豊穣と疫病除けを祈願して祠を祀ったものだと伝えられています。悪疫
   の流行を防ぐ神として「じゅくじゅく天王様」と庶民から親しまれ、多くの信仰を集めて
   きました。牛頭天王は悪疫を防ぐ神の素戔嗚尊(スサノオノミコト)と同一され、また社
   名の「須賀」とは、天照大神の弟である素戔嗚尊が出雲の国の斐伊川の上流で八岐大蛇を
   退治した時に「吾れ此の地に来たりて心須賀、須賀し」と述べ、宮居を創立したという故
   事に基づき名づけられた名称です。「宇迦之御魂」は稲魂(イナダマ)の意で、「稲荷」
   の語源である稲成(イネナリ)、つまり、稲の育つ様を言い表した言葉から来たとされて
   います。江原町は昭和30年代になって、人口増と東京オリンピック開催を契機に道路整
   備が進捗し、目白通りの交通量が激増し、天王様の境内での祭礼、町の諸行事の開催は危
   険な為、困惑しておりました。地元有志の努力により現在地に二神を合祀して移転し、昭
   和42年2月13日に宗教法人須賀稲荷神社を創立、昭和47年1月に諸建物の建設を起
   工、同年6月25日に神社、社務所(公民館併設)、神楽殿が完成しました。その後江原
   町公民館運営委員会や町会、若睦が管理運営を行ってきましたが、平成17年5月29日
   「須賀稲荷神社氏子会」が発足され現在に至っています。


■新江古田駅

 江原町2丁目29番3号にある都営地下鉄大江戸線の停車場。練馬区との境目にあり、北側の出口
は、豊玉北1丁目6番にある。平成9年の都営12号線新宿~練馬間延伸時に開業した駅。ホームは
島式1面2線構造で地下2階にある。ホームと改札階を結ぶエレベーターは完備。改札口は1ヶ所の
みで、地下1階にある。
 西武池袋線の江古田駅は「えこだ」と読むが、新江古田駅は「しんえごた」と読む。中野区内に現
存する「江古田」という地名は「えごた」と読むのが正しい。

 
大停電

 平成19年10月23日午前8時10分頃、都営地下鉄大江戸線豊島駅~中井駅間で停電が発生し、
一時全線が不通となった。このうち光が丘駅発の電車(八両編成)が新江古田駅の約200m手前の
トンネル内で停止したため、乗客約1300人が約2時間に亘って閉じ込められた。大江戸線はコス
トと削減のため、チューブと呼ばれるトンネルがコンパクトに作られており、断面積は普通の地下鉄
の2分の1しかない。つまり電車から横には下りられないのだ。そのため空気の流通は悪く、電車内
は停電で冷房が効かぬばかりか酸欠状態となり、体調を崩したり、気分を悪くした人が続出した。都
営地下鉄としては通電にばかり気を取られて、避難を考えることがなかった。ために避難を決断した
のは2時間後となったお粗末。乗客を電車前方に降ろし、新江古田駅まで徒歩で避難誘導したほか、
「気分が悪い」などと訴えた女性の乗客計10人が病院に運ばれた。
 東京都交通局によると、大江戸線が全線ストップしたのは平成12年の開業以来、初めてという。
停電区間は練馬変電所と中井変電所が電気を供給しているが、今回この練馬変電所が何らかの理由で
送電をしなくなり、そのため中井変電所に異常な負荷がかかり、自動的に停電したものというが、詳
しい原因は判らぬまま3時間後に復旧した。この間全線で運行を取りやめたため、93000人の足
に影響が出た。荀子の矛盾論に、

   一事を興すは一事を喪うに如かず

 という言葉がある。両方良いのは頬被りで、建設コストは下げるというメリットはあったかもしれ
ないが、乗客の危険度は倍増したのだ。もしこれが火災だったら、全員死んでたかもよ。恐ろしや、
恐ろしや、あな恐ろしや、恐ろしや。
                     *
 都営地下鉄は「原因は練馬変電所のスイッチが「off」になっており、それで中井変電所に負荷
がかかり、ブレーカーが自動的に落ちたため」と説明、スイッチを「off」にしたのは、点検会社
の社員で、点検終了後にスイッチを戻すのを忘れたそうだ。 早よ、避難誘導せえや。


■原の不動堂・観音堂
 江原町3丁目12番12号にある東福寺別院。『中野区の歴史』の説明では、

   いつ建てられたか不明であるが、江戸時代には東福寺持ちの寮であったという。堂内に
   は、聖観音菩薩立像と聖徳太子像・阿弥陀如来像・弘法大師像を安置されている。観音
   堂の右に不動堂があり昭和52年に不動尊客殿が新築された


 と。住宅地図によると、この説明とは不動堂と観音堂の位置が入れ替わってる。しかし現地に行っ
てみるとお堂は一つで、観音堂のあるべきところは住宅で、堂らしきものはない。不動尊客殿という
のは一体全体どこにあるのだ?

   観音堂の左隅に、宝暦十三年(1763)の銘がある高さ50cmほどの庚申塔がある。
   駒型で青面金剛と三猿が彫られている。
この庚申塔は豊島塚の一つ金井塚にあったもの
   を移したものだ。塚は現在の江原町1丁目9番にあったが、今はその形跡すらなく住宅
   地となっている。庚申塔は塚の中央にあって「庚塚」とも呼ばれたが、狐が棲んでたこ
   とから「狐塚」とも呼んでいた


 とも。これを信ずるならばお堂は観音堂ということになり、不動堂がどこにあるのかだ。それはと
もかく「狐塚の狐」について、昭和50年11月15日号の『中野区報』に、

   この狐は近所では決していたずらはしなかったが、遠くの農家からたびたび鶏を盗って
   きたそうだ。狐は、口に咥えてきた鶏を塚のある畑の畦に一時埋めておいて、鶏の体温
   が冷えてから掘り出して食べるという習性があった。この近所の人たちはそのことをよ
   く知っていて、狐より先に掘り出して、ごちそうにありついたこともしばしばあったと
   伝えられている

 とある。

 庚塚の庚申塔
 「観音堂の左隅」というやつだが、現在は6基ならんで建てられている内の右から2番目の青面金
剛がくっきりしているのがそれだ。何とも愛らしいではないか。江古田原の片町の11軒の人々によっ
て祀られていた。マラリアに似た瘧(おこり)という病気の神様としてお参りにくる人も多かったら
しいよ。
                     *
 ってぇんで再確認の旅へ
 平成19年2月2日ぶらぶらと江原にやってきた。するとどうだ。不動堂はそっくり建て替えられ
てピッカピカの御堂に・・・観音堂と称する住宅も改修されてペンキ塗り立てだ。まだ外構工事の途
中で、落慶までに今しばらくの時間がかかりそうだ。今回初めて奥の院というのがあるのを知った。
堂裏、塀との隙間1mばかりのところに塀にもたせかけるように溶岩だかコンクリートだかで1mほ
どの片山が築かれ、不動明王他の石像が安置されているではないか。以前にもあったのかなぁ? 庚
申塔などはそのままだった。江原には路傍の石仏は、3丁目12番の1基を除いてなく、総て東福寺
か、原の観音堂に集められているという。江原はなんだか広々としてるなぁ。空が青いよ。


■こぐま公園
 江原町3丁目17番3号にある小さな区立公園。


■寛政の地蔵尊
 江原町3丁目26番5号先の民家(建て替えてグランドマンション)の角地に舟形の地蔵尊が建っ
ている。寛政九年(1797)の銘があり、当時この地に疫病がはやり、その祈願のために建てられ
た。一時自動販売機に前を塞がれていたが、今は撤去されてすっきりしている。地蔵は舟型半身の浮
き彫りで、

   寛政九年(1797)吉日、修行仏子無障難菩提行願 不退輯四恩法界諸衆生平等利益證
   妙是光明真言 男女講中


 とある。寛政時代にこの辺りに疫病が流行り、その祈願の為に建てられたものという。建っている
場所が不自然で、それが区画整理によるものか、とこかから移設したものか判らない。路傍の石仏は、
江原ではここだけで、あとはみんな東福寺か、東福寺別院(原の観音堂)かに集められてるという。


■江原屋敷森緑地

 江原町3丁目32番2号にある区立公園。この地の江戸時代からの旧家、花咲(花崎)家の庭の一
部で、当時の屋敷林が残っており、平成4年に中野区が買い取り、屋敷林のある都市緑地として整備
保存して行く事になり、同6年4月に開園した。南北に細長い約300坪の緑地には、農村時代の屋
敷林に見られる、風除けのカシやケヤキの木や目隠しに用いられたアオキが残され、また薬用の桂皮
やニッキ等の香辛料に用いられる、インドシナや中国南部が原産とされるクスノキ科の常緑高木の肉
桂(ニッケイ)も生えているよ。でも森っつう感じじゃぁない。
 


【上鷺宮】(かみさぎのみや)1~5丁目               昭和40年7月1日
 中野郷上鷺宮村。同11年「郡区町村編制法」により東多摩郡に編入、同22年「市制町村制」
により野方村大字上鷺宮。同29年豊多摩郡。大正13年町制移行して野方町大字上鷺宮。昭和7
年東京市に編入されて中野区鷺宮5~6丁目。同40年新住居表示により鷺宮5~6丁目の新青梅
街道より北側をシャッフルして現行の「上鷺宮」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『中野区史』『中野の歴史』など。

 上鷺宮の由来
 江戸時代初期鷺宮村を上・下二つに分かち京都に近い方を上としたことによる。昔は緩やかに千
川上水が流れ白鷺舞い飛ぶ長閑な田園も今は一面せせこましい住宅地に変じている。鷺宮は村の鎮
守八幡神社による。西武池袋線富士見台駅の南口一帯だから練馬区と勘違いしそうだ。『東京新地
図』によると昭和35年当時人家もまばらで交番を置くほどではないところ、それでも物騒だから
というので交番の設置の申請をした。それで2年後の37年駐在所が置かれることになったのだが、
その名前をどうするかで一悶着。ひたすら練馬区と間違えそうな生活圏のため「練馬区的であるべ
きで富士見台駐在所にしよう」という少数意見に悩まされ、結果中を取って「鷺の台駐在所」とい
うことで決着したんだそうだが、あちこちで結構つまらないことで揉めてるものだ。現在「上鷺宮
派出所」というのがそれだろうか、なら旧住民の希望通りに落ち着いている訳だ。
 


■子連れ願かけ地蔵

 上鷺宮1丁目2番14号の中杉通り「こぶし園入口」交差点の角にある。北向きに建っているので
「北向地蔵」ともいわれ、大きい舟型地蔵尊は、高さ約1.5m で「正徳五乙未十月」の銘と、

 
  奉供養念仏講中 上鷺宮村願主 篠氏 敬白

 と刻まれている。小さい舟型地蔵尊は80cmほどの高さで、

   奉造立為供養念仏二世安楽 多摩郡上鷺宮村 篠丈右衛門

 とあるが、造立年は不明だ。この2体の地蔵に祈願をする人は、白装束で夜中にお参りし、一心に
祈願しながら子ども(小さい方)の地蔵を倒すのだそうだ。そうすると親の地蔵は子どもを起こして
貰いたいため、願い事を聞き届けてくれるという。願い事が叶ったら、祈願した人は、自分が倒した
地蔵を起こしに行く。こんな風変わりな信仰は、人家もまばらだった昭和30年ごろまで見られたが
今はやろうにも傍は幹線道路で、夜中といえども車の通行はあり、街路灯などで明るく、白装束でう
ろうろしてたら、すぐに警察に通報されるだろう。第一地蔵が倒れてたら起こしてしまうだろう。そ
ういう信仰を続けるには、神社か寺に移さないと無理だな。もっとも今は像の根元はコンクリートで
がっちり固めてある。合掌してたら、通りすがりのおっさんが、「俺の町さの地蔵だ」といわんばか
りに、お地蔵さんに最敬礼していった???


■上鷺宮小学校

 上鷺宮1丁目24番36号にある。昭和54年創立の、区で1番新しい小学校。平成21年創立3
0周年を迎えた。

 校歌
「いのち」 作詞・宗左近  作曲・三善晃
  1.お早うさん あら カタツムリ
    るん るん る るん るん
    お早うさん カタツムリ
    宇宙人なのね 光にまみれて
    嬉しいな 嬉しいな
    いらっしゃい カタツムリ
    ここは上鷺宮小学校 上鷺宮小学校
    露のおいしさ 教えてね
    露のおいしさ 教えてね
  2.こんにちわ まあ ミズスマシ
    すい すい す すい すい
    こんにちわ ミズスマシ
    美容師さんなのね 鏡を磨いて
    楽しいな 楽しいな
    遊ぼうよ ミズスマシ
    ここは上鷺宮小学校 上鷺宮小学校
    水の明るさ 頂戴ね
    水の明るさ 頂戴ね
  3.こんばんわ やあ テントウムシ
    てん てん て てん てん
    こんばんわ テントウムシ
    エンジニアさんなのね 太陽運んで
    素敵だな 素敵だな
    学ぼうよ テントウムシ
    ここは上鷺宮小学校 上鷺宮小学校
    夢の明かりを灯してね
    夢の明かりを灯してね
  4.あら まあ やあ ねえ 生徒くん
    らん らん ら らん らん
    あら まあ やあ 生徒くん
    お友達なの大空見上げて
    幸せね 幸せね
    歌おうよ
 みんなして
    ここは上鷺宮小学校 上鷺宮小学校
    虹の噴水あげようね


■つげの木地蔵

 上鷺宮2丁目10番1号、新青梅街道「武蔵ヶ丘高校入口」の三差路を北へちょこっと入った角地
にある。丸彫。台座に寛政三年(1791)の銘があり「鷺宮念仏講」と刻まれている。昭和20年
ごろまでは大きな拓植の木が地蔵尊を覆い、洞のようになっていたのでこの名で呼ばれるようになっ
た。本尊は敗戦後間もない頃、ダンプカーに突っ込まれて破壊、現在のものは、同29年に再建され
たものだ。地蔵尊の前に「つげの木地蔵尊 右目白道 左田無道」と刻まれた道標が建っている。

   つげの木勿体なや御堂こわせしダンプ車 地蔵さんとがめ願わぬ石仏さま

 
という随分字余りの短歌が貼ってある。ここにはダンプがぶっ壊したと書いてあるのに、区の資料
はどれも終戦後に盗まれたとある。どういうこっちゃ?


■武蔵丘高等学校

 上鷺宮2丁目14番1号にある都立校。昭和16年府立第21中学校として開校。同18年都立武
蔵中学校と改称。同23年武蔵新制高等学校となる。同25年新制高等学校の名称変更に伴い校名を
都立武蔵丘高等学校とするとともに男女共学実施。同26年校歌・校章制定、校旗樹立。

 校歌「風のささやき」  作詞・勝承夫  作曲・安部幸明
  1.風の囁き 漲る光
    若い想いを 彩る緑
    歌え若人 武蔵丘に
    夢多き友 常に集る
    おお 力あり 我が母校
  2.鳥の行方は 秩父か富士か
    空を仰げば 心は踊る
    高き文化を目ざして進む
    純情の道 自治の学舎
    おお 誇りあり わが母校
  3.芽ぶく銀杏に 希望を語り
    秋は櫟の林に憩ふ
    歌え青春 真理を追いて
    感激の日々 常に我等に
    おお 栄あり わが母校


 平成3年創立50年(式典は前年に行った)。同18年創立65周年。


■上鷺東公園

 上鷺宮2丁目18番、静かな住宅地の中にある区立公園で、大きなケヤキが繁っている。木陰には
いると気持ち良さを感じるよ。いろいろな遊び道具があるので、いつも子供たちが一杯で賑やかだ。
特にじゃぶじゃぶ池を開放する夏には、周辺にに黄色い子供たちの声が響く。広場では、ゲートボー
ルを楽しんでいる人も多く、見てるのも面白いよ。秋には、紅葉の季節に立ち寄ってみな。公園の中
には、紅葉したもの、早くも落葉したものなど、様々な樹木の秋が見られるぞ。


■北原神社

 上鷺宮2丁目23番3号にある。きたっぱら、と読む。鷺宮八幡神社の北にある一面の平原という
意味で、今の上鷺宮地域は北原(きたっぱら)と呼ばれていた。

 ●笠付庚申塔
 表に、日月・瑞雲・合掌青面金剛・1鬼・2鶏・3猿の浮き彫り、右面に「明和八辛卯歳(177
1)十月吉日 奉造立青面金剛講中二世安楽所 是ヨリ右ぬくい道」、左面「是ヨリ左やはら道 鷺
宮講中三拾人願主篠勝右衛門」とある。何処かの道標だったんだ
  


■吉原元厚生事務次官の妻 刺傷事件
■山口元厚生事務次官夫妻 刺殺事件
 上鷺宮2丁目24番28号で起きた刺傷事件。平成20年11月18日午後6時半頃、元厚生事務
次官吉原健二(76)宅で、妻靖子(72)が玄関ドアを開けたところ、宅配便を装った男に突然、
胸部や腹部など数ヶ所を刃物で刺された。靖子は搬送の際、救急隊員に話すことはできたが、病院の
集中治療室に入った。帰宅途中の通行人が「助けて」との声を聞いており、路上で人が倒れていると
の通報があった。靖子は自宅から数m離れた路上で倒れていた。凶器は見つかっていないという。吉
原宅は夫婦と息子の3人暮らし。当時、靖子は一人で家にいたという。男は身長約160センチで普

の体格。30歳ぐらいで、色が不明の野球帽をかぶっていたという。この日午前中にさいたま市で、
やはり元厚生事務次官の山口夫妻が殺害されていることから、連続テロも視野に捜査を続けている。
警視庁によると、靖子は「宅配便です」という声がして玄関を開けたところ、いきなり刺されたとい
う。警視庁は殺人未遂容疑で野方署に捜査本部を設置。政府関係者によると、靖子は救急車内では意識
があり「主人が狙われているかもしれない」と話したという。
                     *
 この事件の起きる約8時間前、つまり18日10時20分頃、さいたま市南区別所2丁目の元厚生
事務次官山口剛彦(66)方で、山口本人と妻美知子(61)が血を流して死亡しているのを、近所
の住民が見つけ、警察へ通報した。埼玉県警捜査1課と浦和署は、2人がいずれも刃物で刺されてい
ることなどから、殺人事件として捜査を始めた。山口夫妻は玄関で並ぶように倒れ、ドア寄りの美知
子の遺体には深い刺し傷が複数あった。凶器は見つかっておらず、2人とも殺害された可能性が高い
という。2人の出血は胸と腹から大量にあり、血が戸外まで流れており、近所の人から110番があっ
た。
 山口夫妻は2人暮らし。室内に目立った物色の跡はなく、凶器も見つかっていない。2人とも普段
着姿で着衣に乱れはなく、玄関内に並んだ状態であおむけに倒れていた。県警は遺体の状況などから
17日深夜までに殺害された可能性が高いとみている。血痕の付いた足跡が山口宅付近の路上に残っ
ており、犯人は徒歩で逃走したとみられる。
 玄関にカギはかかっておらず、山口はワイシャツにズボン、美知子はシャツにスカート姿のいずれ
も普段着姿だった。
 亡くなった山口剛彦と妻が襲われた吉原健二に共通するのは、ともに厚生省(現厚生労働省)が手
がける社会保障政策の屋台骨である「年金」のスペシャリストという点だ。共に年金局長、事務次官
を歴任している。入省年次は吉原が10年先輩だが、昭和59年6月から60年8月までの1年2ヶ
月間、「吉原年金局長―山口年金課長」のコンビを組んだ。同60年には、基礎年金制度や、会社員
の妻も年金の被保険者となる仕組みを導入する法改正など年金改革に取り組んだ。基礎年金制度は、
現在の年金制度の骨格で、それまで別々の制度だった厚生年金と国民年金が一部統合され、年金財政
の基盤は従来より安定した。また従来は会社員の妻の専業主婦は離婚した場合に無年金となってしま
うリスクがあったが、同時に発足した第3号被保険者制度で会社員の妻は保険料の負担なしに基礎年
金を受け取れるようになり、「国民皆年金」に近づいた。障害者への年金給付も拡充された。
 吉原は、厚生年金基金連合会理事長、財団法人厚生年金事業振興団理事長、財団法人日本訪問看護
振興財団理事長、財団法人年金シニアプラン総合研究機構理事、財団法人難病医学研究財団理事長を
渡り歩いて退職金をがっぽりせしめている、まあ国民の敵的な元官僚で、年金の著作もあり、私利私
欲の徒、金の亡者といわれてもしかたがない。本人は「恨みを買う覚えはない」といってるそうだが、
そんな感覚だから悪徳官僚を地でいけるのだ。しかし口とは裏腹に襲われることを予想とていたのか、
身辺警戒には凄まじい気の使いようだったとは、近所の人の弁。少しは自覚あるのかな?
 山口は東京都出身で、昭和40年に東大法学部を卒業して厚生省(厚生労働省)に入省したキャリ
ア。出世コースに乗り、官房長や保険局長を歴任し、平成8年11月に岡光賄賂事件の後、厚生事務
次官を引き受け、地に堕ちた厚生省を建て直し、同11年8月に退官、天下って港区の独立行政法人
「福祉医療機構」の理事長となり、今年3月まで甘い汁を吸っていた。報道では無職と報道されたが、
実は都道府県民共済グループの元受団体「全国生活協同組合連合会」の理事長で、火曜日のみ出勤の
大名暮らし。しかも勤務先は歩いて数分の距離。これじゃあ狙われるわなぁ。
 警視庁などは厚生労働省元幹部で天下り組の警戒を強化する。
                     *
 山口方でも犯人が宅配便と偽り玄関に侵入した疑いがあり、警察庁は旧厚生省幹部を狙った連続テ
ロの可能性があるとみて、全国の警察に関係者の警備強化を指示。官僚トップ経験者を狙った連続テ
ロとみられる事件は戦後初めてで、19日に警視庁と埼玉県警の捜査幹部を警察庁に集め、合同捜査
会議を開いた。
 厚生労働省によると、現在の基礎年金制度を創設する昭和60年の年金法改正当時、吉原が年金局
長を、山口が年金課長をそれぞれ務めていた。厚労省は歴代の事務次官、社会保険庁長官、年金局幹
部の身辺警戒を警察庁に要請。庁舎入口と大臣官房のあるフロアの警備員を19日から増やすことを
決めた。
                     *
 戦後の厚生官僚の出鱈目体たらくからすれば、1人や2人の被害者が出たとしても、不謹慎ながら
「当然」といえる悪徳振りだ。今や国民のための公僕が、国民の負担、国民の敵にさえなりつつある。
社会保険庁の悪逆非道は職員全員を死刑にしてしまえという声が上がるほどの無茶苦茶振りで、この
ような事件が、青天の霹靂ではなく、起こるべくして起こった当然の帰結ではあったろう。2人の元
官僚は現在も天下り役人として、大して働きもせず税金を蝕んでいる。これがヨーロッパなら既にク
ーデタが起き、悪徳官僚と天下り官僚達は、雁首揃えて血祭りに上げられているよ。明治維新以来の
保守政治が、官僚政治であり、官僚たちの手前勝手悪逆非道を放任してきた結果でもある。日本の官
僚たちは、国賊の汚名を返上し、心を正し、正義の公僕に立ち返って、私利私欲ではなく国民のため
の行政に勇往邁進すべき時なのだ。税金をなんとかポケットにいれよう浅ましさから脱却しなきゃあ、
治まらないよ。目覚めよ悪徳官僚たち! 達観せよ! 私利私欲を捨てて聖人たれ! 日本には異常
者も跳ね上がり者もごしゃまんといる。悪事を働いて隙を見せるなよ!

 毎日新聞の誤報
 19日朝刊に、

   ◇ネットに犯行示唆? ウィキペディアに吉原さん「暗殺」
   吉原靖子さんが刺された事件の約6時間前に、インターネットの「フリー百科事典・ウィ
   キペディア」に犯行を示唆する書き込みがあったことが分かった。


 と掲載したが、確かにウィキペディア「社会保険庁長官」には、

   ×は暗殺された人物を表す。
   ×吉原健二 厚生省年金局長 ※ 1986年6月13日 - 1988年6月7日


 とある。但し吉原健二は妻が重傷なだけで本人は殺害されていない。単なる編集ミスだ。しかしこ
れは現在も訂正されていない。そして「社会保険庁長官の変更遍歴」には

   2008年11月18日 (火)12:27 Popons

 とある。この12:27
を日本時間と勘違いしたのが毎日新聞の誤報だ。
 (
Poponsは全くの無実なのに殺人犯扱いされた)
 これは協定世界時間で、日本時間に直すと「UTC+9時間」 つまり「21:27」  殺害時
刻は日本時間18時で、当然事件後の書き込みだが、見た目の表記時間を見て犯行より前に書き込み
が行われたと毎日新聞の編集者は解釈した訳だ。マスコミュニケーション(大衆報道)というものは、
必ず正義ではないし、また必ず正確ではない。「テレビでいった」から、「新聞に書いてあった」か
ら必ず正しいとはいえないのだ。かつてヒットラーはラジオ放送をたくみに操ってドイツ国民を誤導
した。またクイズ番組の解答などにも間違いはある。トーク番組でのコメンテイーターの発言にもし
ばしばウソまたは認識違い、誤解記憶があるし、特に民間放送のアナウンサーは頻繁に麻生総理大臣
並に誤読する。

   UTC(協定世界時)≒GMT(グリニッジ標準時)

 UTC
 全世界で、時刻を記録する際に使われる公式な時刻。天体観測を元に定めるGMT(グリニッジ標
準時)とほぼ同じだが、SI単位系の1秒(セシウム133が、91億9263万1770回振動す
る時間)を原子時計で計測して決定しており、GMTにおける昭和33年1月1日0時0分0秒から
の経過時間を原子時計でカウントして定めた時刻だ。「国際原子時」に、GMTとの「ずれ」を調整
するための「閏秒」を追加したものがUTCだ。海の潮汐運動がブレーキとなり、地球の自転周期は
年々長くなっているため、放っておけばGMTとUTCは100年で約18秒ずれてしまう。このず
れを1秒以下に抑えるために、ずれが0.8秒を超えるとUTCに閏秒を追加して、GMTとの差を詰
める。閏秒は凡そ1年に1回挿入されているんだよ。

 ●犯人出頭
 元厚生事務次官宅連続殺傷事件で、警視庁は23日未明「自分が元次官を殺した」と出頭した男に
ついて、車内にナイフを所持していたとして、銃刀法違反の疑いで逮捕した。逮捕されたのは、山口
県出身で佐賀大学中退、さいたま市北区東大成町の無職小泉毅(46)。ナイフには血痕があり、同
庁は供述や所持品などから事件に関与した疑いがあるとの見方を固めており、自宅を家宅捜索して全
容解明を進めた。
 調べに対し、同容疑者は「(ナイフは)自分のもので間違いない」と述べ、逮捕容疑を認めている
という。調べによると、同容疑者は22日午後9時半ごろ、同庁本部正面玄関北側に駐車した車の中
に刃渡り約20センチのナイフ1本を所持していた疑い。ナイフの刃幅は5cm以下で、血が柄まで
付着しており、洗った形跡はなかった。
 ナイフは後部座席の足元にある巾着袋に入れてあった。 同座席からは吉原宅宛の段ボールも見つ
かった。運転免許証を所持しており、車はレンタカーだった。
 同容疑者は軽自動車で乗り付け、機動隊員に「俺が事務次官を殺した」と話した上、複数のナイフ
が見つかったため、麹町署に任意同行した。出頭先が事件所轄署ではなく警視庁であり、数日おいて
凶器を持って出頭する方式は、やくざのそれと酷似しており、背後関係もあるのではないかとの疑い
があり、それも視野に入れての捜査となる。
 11月25日までに、小泉が練った10人前後の殺害計画の全貌が明らかになった。犯行動機は、
旧厚生省の所管する保健所に殺処分された犬の恨みなどとし、復讐代行人を気取っている。しかし現
実には所持金数千円と底をついており、生活苦から「仕事人」騙って八つ当たり的凶行に走った疑い
が強い。小泉の行動は常軌を逸しており、供述に嘘がなければ、動機は「昔、保健所にペットを殺さ
れ腹が立った」からというもの。
 これだけの理由で、襲われた山口宅、吉原宅をはじめ厚生事務次官経験者10人前後の自宅住所を
図書館で調べ上げている。出頭時に使ったレンタカーからはサバイバルナイフなど計10本の刃物を
押収。血の付着した犯行に使ったとみられるナイフは、犯行時に自分がけがをしないよう刃と柄の間
にプラスチック製の鍔を取り付けていた。
 問題はその収入だ。無職で殆ど家に籠っているのに、10年間アパート代を滞納したことがないば
かりか、女性にスッポン料理を馳走したり、頻繁にキャバクラで遊んだりしているのだが、インター
ネットを利用して利益を得ていたのか・・・

 
40代の犯行
 40代になると人生の先が見え始める。その中で軌道に乗り損なっている人間は焦りを覚えるし、
建て直しを図ろうと考える。そして「自分は出世している筈なのに」と自惚れる人間で、鰥寡孤独つ
まり「やもう」は、起死回生の一発勝負に出る。それは名を残すことだ。しかし人生成功の見込みは
ないのだから、名を残すことといえば「途轍もない犯罪を犯す」ことしかない。為すべきか為さざる
べきか、はたまたそれが問題だ。ハムレットじゃないが鰥寡孤独の40代は煩悶する。大概の者はそ
こで挫折して人生を諦めるのだが、跳ね上がり者はいるもので、どんどんどんどん己を追い込んでい
く。それが犯罪のイメージトレーニングとなり、計画を練り、下見するようになると、宝くじでも当
たらない限り思いとどまることはない。まあそれを専門家は「悪魔に憑り付かれた」という。昔、山
口二矢(おとや)という少年が日本社会党の浅沼稲次郎委員長を刺殺した時、「恐るべき17歳」と
いう言葉が流行ったものだが、殺人年齢で一番多いのが「47歳」という統計がある。恐るべきは4
0代なのだ。この年齢は落ち着いて犯行を犯す体力と精神が涵養される時期なのだ。


■とちのき通り

 上鷺宮3丁目7番の南の通り。トチノキは、天狗の団扇に似た大きな葉をつけます。四季それぞれ
道行く人を楽しませてくれるんだよ。
 


■アカシア通り

 上鷺宮3丁目7番から8番にかけての西側歩道にある。区内では、ニセアカシアの街路樹は非常に
珍しい。ツツジの植え込みもあり、ゆったりとした雰囲気がある。近年このニセアカシアが傷み、一
部をヤマボウシに植え替えた。


■さくら通り
 上鷺宮3丁目7・8番の東の通り、「こんなところに?」というところの桜並木だ。車が少なく静
かな通り。つまり住宅街の中にあって通り抜けになってないからだ。春はゆっくり花見をしながら散
策できるよ。秋は秋で舞い散る木の葉に趣きがある。


■アカシア広場
 上鷺宮3丁目8番14号にある区立公園。ザパークハウス上鷺宮の南側だ。


■かみさぎ幼稚園

 上鷺宮4丁目8番12号にある区立園。


■上鷺公園

 上鷺宮4丁目8番13号にある区立公園だが、住所は道路向かいの5丁目28番36号になってい
る。何故だ?


■かみさぎ児童館・かみさぎ児童遊園

 上鷺宮3丁目9番19号にある区立公園


■上鷺いこい公園

 上鷺宮4丁目12番1号にある小さな小さな区立公園。


■風の子ひろば

 上鷺宮4丁目13番3号にある区立公園。
 

■武蔵台小学校

 上鷺宮5丁目1番1号にある区立校。昭和33年の新設校。静かな住宅街のなかにあり、校庭に並
ぶ六本のイチョウの木は学校のシンボルだ。30年以上になる吹奏楽団の活動などで豊かの心を育ん
でいる。沿革不明。

 校歌
「野の風晴れて」 作詞・土岐善麿  作曲・平井康三郎
  1.野の風晴れて広々と
    緑明るく溢れるところ
    春は雲雀が空に囀り
    秋は道端の草も染まるよ
    共に仲よく決まりよく
    何時も揃って武蔵台
  2.雲かと見れば遥々と
    富士の光か 秩父の影か
    学ぶ心も絶えず開けて
    励み比べ合い育つ力よ
    一人一人が健やかに
    何時も楽しい武蔵台
     ああこの平和 この希望
     ここに武蔵台小学校



■北中野中学校

 上鷺宮5丁目7番1号にある。昭和35年第八中学校分校として現在地に開校。同36年自立して
「東京都中野区立北中野中学校」として開校。同40年創立5周年記念式典。同46年創立10周年
記念式典。同55年創立20周年記念式典。同60年中野・ウェリントン友好子ども交流。
なる。平成2年創立30周年記念式典。同5年父母と教師の会(PTA)が地域活動で文部大臣賞受
賞。同10年東京都公立中学校PTA広報紙コンクール最優秀賞。同11年中野・ウェリントン友好
子ども交流。中野区総合体育大会陸上競技大会 男子総合優勝・女子総合優勝。中野区総合体育大会
駅伝大会男子優勝・女子準優勝。同13年中野区総合体育大会陸上競技大会 男子総合優勝・女子総
合準優勝。創立40周年記念式典。同16年吹奏楽部・東日本大会フェスティバル大賞受賞(B組)
同18年創立45周年。同21年中野・ウェリントン友好子ども交流。薬物乱用防止ポスターコンク
ール東京都最優秀賞受賞。同22年校庭改修。吹奏楽部3年連続金賞受賞・全国大会予選に進出(A
組)。

 校歌
「高くはるかに」  作詞・土岐善麿  作曲・渡邊浦人
  1.高く遥かに冨士は聳え
    奥深く遠く秩父は霞む
    武蔵野の空の光の中に
    明るい姿 素直な心を
    互いに認め信じ合いつつ
    学ぼう今日も健やかに
  2.緑 戦
(そよ)がす朝の風に
    広々と続く希望の道よ
    溢れる生命 力に満ちて
    知りゆく世界 成し行く喜び
    ひとしく誓い たすけあいつつ
    進もう絶えず弛みなく
    新たな意気に みなこぞる
    見よ北中野中学校



■北中野公園

 上鷺宮5丁目8番にある区立公園。


■四谷商業高等学校 
閉校

 上鷺宮5丁目11番1号にあった都立校。大正13年「東京市立四谷商業学校」として開校。昭和
18年都制施行により都立校となる。同23年「都立四谷商業高等学校」と改称。同38年に三光町
(現在の新宿5丁目の新宿区役所第二分庁舎建設地)から現在地に移転。平成16年創立80周年を
迎える。同19年全日制閉課程、同22年定時制の閉課程を以て閉校。

 校歌
「あたらしき世を」 村野四郎・作詞  弘田龍太郎・作曲
  1.あたらしき世を ひらきゆく
    わかき願いは 花のごと
    この学びやに かおるかな
    ああ 技の道 みがきつつ
    日々にいそしむ この幸を
    いざや歌わん たからかに
 
 2.若葉のみどり 雪の庭
    友とまなびし 若き日の
    思いは永遠(とわ)に 忘るまじ
    ああ 清らかに たくましく
    四谷商業 栄(はえ)あれと
    いざや歌わん もろともに



■稔ヶ丘高等学校

 上鷺宮5丁目11番1号にある都立校。平成19年都立四谷商業高等学校・鷺宮高等学校・石神井
高等学校・大泉高等学校、第四四谷商業高等学校の定時制を統合したチャレンジスクール。四谷商業
高等学校内に開校し、四谷商業高等学校の閉校に伴いその跡地を継承した。三部授業の単位制。男女
共学で定時制課程、総合学科二学期制。

 校歌「朝日の中に」
  1.朝日の中に清々し
    霜に負けぬ麦の芽の
    新たなる私を見つけ
    仲間を思い 共に学び
    勁
(つよ)い心を支えよう 稔ヶ丘高校
  2.午後の日差しも柔らかに
    風に戦ぐ麦の浪
    自立する力を鍛え
    知恵逞しく 心健やかに
    勁い心を育もう 稔ヶ丘高校
  3.星の光を 仰ぎ見て
    豊かに実る麦の秋
    胸を張り自信を掴み
    果たせる役目 身に纏い
    勁い心を培おう 稔ヶ丘高校


■上鷺西公園

 上鷺宮5丁目17番20号にある小さな小さな区立公園。


■八成公園

 上鷺宮5丁目19番32号にある区立公園。


■武蔵台公園

 上鷺宮5丁目26番20号にある区立の雑木林公園。千川通りから南の方へ歩くと、右手にこんも
りとした小さな林が見える。林は、武蔵野の面影を残すクヌギ、コナラ、シデなどの区内では数少な
い雑木林なのだ。夏は木陰をつくり、秋には紅葉やドングリ拾いを楽しむことができる。また鳥のさ
えずりもよく聞こえ、静かで落ち着いた憩いの場を提供している。園内には東屋があり、東屋から見
る景色は、四季折々の移り変わりが味わえ、一度訪れてみるのも悪くはないぜ。


■上鷺公園 ?

 住所が上鷺宮5丁目28番36号になっているが、公園は道路向かいの4丁目8番13号にある。
 


【上高田】(かみたかだ)1~5丁目                 昭和41年2月1日
 上高田村。高田村だったが江戸初期に雑司ヶ谷と神田川の間に高田村が出来たので多摩郡野方領
上高田村と定められた。同11年「郡区町村編制法」により東多摩郡に編入、同22年「市制町村
制」により野方村大字上高田。同29年豊多摩郡所属。大正13年町制移行して野方町大字上高田。
昭和7年東京市に編入されて中野区上高田1~2丁目。同35年地番整理により1~5丁目隣、同
41年新住居表示法により昭和通1~3丁目の各一部をあわせた町域を現行の「上高田」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『中野区史』『中野の歴史』など。

 上高田の由来
 この辺りが高台で「高畑」と呼んでいたのが「高田」に転じたと伝わっている。「高」は、山ま
たは丘、高台の意で、低地、湿地ではないところに開いた農耕地のこと。高いところに開いた水田
を「山田」「高田」といい、「高橋」は山や丘に架けられた橋の意で、如何に多くの日本人(縄文
人)が高いところに住んでいたかが判る。後から来た水耕栽培の民族(弥生人)が、低地、湿地に
進入できたのは、古くから居た人々の生活圏ではなかったからだ。
 「上」は「京都に近い方の」の意。


■上高田寺町

 上高田1丁目1・2・27・31番の早稲田通り沿いと、4丁目9~14番に固まってある。明治
末年多くの寺が江戸から抜け出してきて近郊の郡部に移転した。上高田もその一つで「上高田寺町」
と俗称される。高輪が泉岳寺なら上高田は吉良の墓のある万昌院功運寺だ!


■薬師道供養塔(秩父百番供養塔)

 上高田1丁目1番1号大沢造園土木の東の角地、薬師道の起点、所沢道(早稲田通り)との追分に
当たるところにある角型供養塔だ。

   寛政十二年庚申(1800)八月吉日 南無阿弥陀佛 奉建立西国坂東秩父百番供養塔
   願主中野村打越 嶋崎治良兵衛

 と刻んである。現在願主の嶋崎家の子孫は逼塞して管理能力がなく、塔の隣の大沢家で維持管理し
ているとのこと。台石と右側の独立した石塔が道標になっており、薬師道の大切な案内になっていた。
この場所は新宿区の落合火葬場の入口になってるためか、お参りする人があり、お供えが絶えない。


■犬像
 上高田1丁目1番1号東京愛犬専門学校の前にあるトイプードルとコッカースパニエルの像。。


■正見寺
 上高田1丁目1番10号にある浄土真宗本願寺派の寺。応永の頃、江州栗田郡駒井城主駒井掃部介
高植が次代右近大夫宗高の菩提を弔うために1寺を建立した。その後15代の子は出家して祐念了順
となり、寛永五年(1628)江戸へ出て、赤坂一ツ木に正見寺を建立した。ところが江戸城の拡張
で外堀が掘られることになり、明暦三年(1657)四谷南元町に移転した。明治までは安泰だった
が、明治42年日本博覧会の開催予定により、現在の中野に再移転したってえ訳。
 昭和20年愚かなアメリカ軍の非人道的無差別空爆のとばっちりで堂宇は灰燼に帰したが、昭和4
6年までに再建落慶した。入口正面に本堂、左に庫裏、右手は墓と本堂の奥の墓に繋がる。本堂の柱
は白青色に塗られている。本尊は阿弥陀如来。

 寛政の三美人の一人「笠森お仙」の墓
 ここはお仙の嫁ぎ先倉地家の菩提寺だ。お仙は谷中の笠森稲荷前で水茶屋を営んでいた鍵屋の看板
娘で、錦絵の創始者鈴木春信のモデルとなり、浮世絵や芝居で持て囃されたが、後お庭番の倉地家に
嫁いだ。現在は子孫の希望で墓は非公開だ。

 武内桂舟の墓
 本堂と駐車場の間から入ったところにある。明治期に活躍した「がある。桂舟は『太陽』『文芸倶
楽部』などの挿絵を描いた。

 三木清の墓
 その奥に大正~昭和期の哲学者。昭和20年9月26日に東京豊多摩刑務所で獄死した。

 満州死亡者慰霊碑
 この碑についてネットしてもヒットしない。 


■白桜小学校
(統合新設)

 上高田1丁目2番28号にある区立校。平成21年2月10日校歌制定。

 校歌「高くかおる白桜小学校」 作詞・きたひろし(服部公一) 作曲・服部公一
  1.爽やかに晴れた空
    公孫樹がぐーんと背伸びする
    宇宙目指して学ぶ命
    聞いてよく見て考える
    鍛えあう強い体
    高く薫る僕たち私たちの
    白桜小学校
  2.夢一杯に光る空
    嬉しさ皆で分かち合い
    楽しく歌おう声弾ませて
    この町に学ぶ幸せ
    仲良しみんな世界の子供
    固く結ぶ僕たち私たちの
    白桜小学校


 4月中野昭和小学校と東中野の2小学校を統合し「中野区立白桜小学校」として開校。6月17日
開校記念式典(この日を開校記念日とする)。8月学校再編第3期校舎改修(廊下・階段等リニュー
アル 理科室移設工事)。10月キッズプラザ白桜開設。学童クラブと放課後居残り事業の学校内開
設。12月体育館耐震化。


■鳩の寺・
曹渓山青原寺

 上高田1丁目2番3号にある曹洞宗の寺。太田道灌の師であり、芝青松寺の開山として知られる雲
岡瞬徳禅師がNTT青山ビル(北青山2丁目7番地)のところに開創した。享保七年(1722)播
磨龍野城主脇坂中務少輔安清の香華院となったことで、脇坂家の菩提寺となった。青山北町にあった
頃は「鳩の寺」と呼ばれ、鳩が境内に巣食っていた。明治42年現在地に移り、同44年完了した。
昭和20年愚かなアメリカ軍の無差別空爆により堂宇を焼失した。同23年仮本堂を建て辛抱の時に
入った。苦節23年臥薪嘗胆の時を経た同46鉄筋コンクリート造りの現本堂と庫裏が完成、漸く復
興に漕ぎつけた。本尊は釈迦牟尼仏。
 入口をはいると正面に本堂、左手に鐘楼、庫裏は本堂の裏。墓地は自前で広い。

 大名墓・脇坂家墓所
 入口にある大きな唐破風型石塔に「子爵脇坂家累世家族墓」と刻まれているのが、「賤ヶ岳の七本
槍」の一人として活躍した「脇坂安治」の子孫代々の墓だ。

 朱楽管江(山崎景貫)の墓
 脇坂家墓所の通りを奥に進むと、江戸後期の狂歌師「があり、墓石には「運光院泰安道父居士 寥
照院弧月貞参大姉」と夫妻の戒名が刻まれている。夫人の「節松嫁々(ふしまつのかか)」も狂歌を
よくし、管江の没後に女流判者となった。
                       *
 寺の前、早稲田通りと東中野ギンザ通り・上高田中通りの出会う十字路は、青原寺駐在所前という
交差点だ。上高田中通りを行くと4丁目の寺町へ、東中野ギンザ通りを南下すると東中野駅へ辿り着
く。


金台山源通寺

 上高田1丁目2番7号にある浄土真宗大谷派の寺。本尊は阿弥陀如来。松本深志城主小笠原長時は
武田信玄と不和を生じ、戦に敗れ流浪の折、家臣に殺害された。長子長隆は福島家の重臣大橋氏の下
に匿われていたが、一念発起して東本願寺に入り得度出家、湯島南ヶ丘下花笠村の東本願寺掛所(別
院 神田御坊)に奉職した。慶長15年御坊地内に一宇を建立するが、明暦の大火(1657)で焼
失、広沢新田(西浅草1丁目)に移る。文化三年(1806)江戸の大火で再度焼失し、同七年(1
810)浅草清島町(東上野6丁目)に移転した。
 明治41年府令により立ち退き、多摩郡中野町字大塚の現在地に移転、今日に至ってる。文化財と
して親鸞聖人絵像(400年前下付)、三朝高僧真影(七高像 寛文十三年下付)などがある。正面
本堂の右に古聖会館と庫裏。隣の高徳寺との共同の墓地に河竹黙阿弥の墓がある。こじんまりとまと
まった寺だ。

 河竹黙阿弥の墓
 墓地入口の低い石垣に囲まれた中にある。近世の大戯作者河竹黙阿弥は、通称吉村新七、2代目河
竹新七を称した。5代目鶴屋南北の弟子で、江戸中村座の座付き作者となり、後4代目市川小団次、
9代目市川団十郎、5代目尾上菊五郎のため新作を書き、江戸歌舞伎の集大成屋といわれた。墓前の
小さな墓は初代新七のものだ。墓所に河竹家と吉村家の墓標が並んでいるが、吉村家の方に黙阿弥は
眠っている。

   河竹黙阿弥の墓
   江戸時代末から明治の中頃に活躍した大劇作家、河竹黙阿弥(本姓吉村、二代河竹新七、
   1816~1893)の墓所が、当寺の墓所入口にあります。
   黙阿弥は、鼠小僧次郎吉を義賊にした作品をはじめ、「三人吉三」や「白波五人男」など
   の盗賊を主人公とした生世話狂言で、世相を写実的に描く近代演劇への道を開きました。
   しかし幕府が写実的傾向を禁じて勧善懲悪を奨励したため、黙阿弥は作風の転換を強いら
   れ、その後、幕末・維新期の激動する社会のなかで、江戸時代後期の歌舞伎の創作法を整
   理・集大成し、「真の江戸演劇の大問屋」と坪内逍遥に評される仕事をなしとげました。
   黙阿弥の作品は、4代市川小団次をはじめとする歴代の名優によって演じられました。
   明治41年、当寺が移転したとき黙阿弥の墓も浅草から移されました。
   昭和57年2月                         中野区教育委員会



荒居山法喜院高徳寺

 上高田1丁目2番9号にある浄土真宗の寺。了智法師の開山。了智は江州佐々木源氏、初め高野山
にあり、のち親鸞聖人の法弟となり釈了智と号した。信州栗原に一寺を創建して正行寺とし、のち上
州荒居に移り荒居山(明見山)高徳寺を建立した。元亀年間(1570~73)に祝融に災いされ焼
失、寺跡を下総国小見村に移し、慶長年間(1596~1615)に八丁堀に移った。明暦の大火に
遭うも、その後は波乱もなく幕末に至る。慶応三年(1867)浅草の北松山町に移ったが、明治4
2年区画整理により、現在地に堂宇を移した。
 昭和20年愚かなアメリカ軍の無差別空爆のとばっちりを受けて、総て灰燼に帰し、同25年仮本
堂を建ち上げ、我慢の時を迎えた。再興されたのは同40年を越えてからだ。本尊は阿弥陀如来 入
口正面に本堂。キリッとした清潔な雰囲気が荘厳。右手に白い大きな新井白石ホールがある。いわず
とも江戸中期の儒学者・幕政家「新井白石」の菩提寺だ。「御府内寺社備考」報恩寺の項に、

   新居山法喜院高徳寺 地所百三十三坪当寺起立之儀、最初高野山に居て真言秘密の法を修
   行し、承永元年親鸞聖人越後国国府江下向し玉ふ御跡をしたひ、国府に行て法意を聴聞し
   て御弟子と成る。法名を了智と給ふ。其後信州栗原に趣て一宇を建立し正行寺と号す。亦
   年月を経て上州荒居に移て梵宇を建立して荒居山法喜院高徳寺と号す。一名明見山ともい
   ふ。開祖了智法印。本国近江、俗性佐々木家之一族也。安貞二年十二月十日寂。十二世了
   応法師。元亀年間甲州兵乱の為に下総の国相馬郡小目村に寺跡を移す。
   中興十四世宗信法師。慶長年中報恩寺の触下に属す。その頃田谷修理太夫の為に寺跡を焼
   失す。是に依て江戸下谷御小人町江寺跡を再建す。十七世了也権律師。慶安年中江戸八丁
   堀に 転住す。其後明暦三年の火災によりて浅草報恩寺境内へ寺跡を移す。廿二世了祐権
   律師。文化九申年十一月当地所江報恩寺移転の節、同境内へ転住いたし候。
   本尊阿弥陀如来、木立像丈壱尺八寸、頂仏師作。
   阿弥陀如来画像親鸞聖人真筆
   観音、丈壱寸三分、護摩の灰を以作る。右者弘法大師の作にして、当寺開山了知法印高野
   山に在りし時、常にこれを安置す。依て伝来なす。
   什物。
   一、宣如上人御筆消息一軸
   一、墨絵達磨一軸 雪舟之筆、賛有之。
   一、極彩色礼相女一軸 古永徳筆、賛有之。
   中興開基檀家新井筑後守。儒名白石先生。当主新井靭負。新井家先祖勘解由ト云。慶長十
   四年八月廿七日卒ス。法名荘厳院殿釈浄意大居士。同室慶長九年五月三日卒ス。法名貞順
   院殿釈妙意大姉。新井筑後守墓碑面左之通。右脇二、筑後守従五位諱君美年六十九。享保
   十年五月十九日卒。正面二、新井源公之墓法名慈清院殿釈浄覚大居士但石塔ニハ法名無之。
   同内室元文四年己未七月十八日卒。源公夫人之墓ト在之。法名清涼院殿釈妙慶信尼但右同
   断。中興開基本願寺御門跡御内石井三太夫正忠。慶安五年琢如上大江戸御下向之節御共二
   而下り浅草御房 二勤仕。由緒有之二付依命当寺檀家二候。享保五年三月二日卒。法名釈
    宗山。夫ヨリ当代迄代々三太 夫ト号ス。
   当寺末寺。
   高念寺。元禄年中無住二而廃寺二相成、本尊当寺二安置ス。但度々類焼移転等二而旧記古
   書物等不詳 候。本尊阿弥陀如来、木立像丈壱尺四寸。恵心僧都作。

 とある。


 新井白石の墓
 墓地中央にある石柵に囲まれた中にあり、高さ60cmほどで「新井源公之墓」と刻まれ、右の夫
人の墓には「源公夫人日氏之墓」とあり、墓前左右には一族の墓碑16基が相対して並んでいる。
白石は、木下順庵に学び、甲府の徳川綱豊の儒臣となり、綱豊が6代将軍家宣になると、側用人間部
詮房とともに幕政を補佐し、7代将軍家継が幼くして薨じると致仕(辞職)した。著書に『西洋紀聞』
『采覧異言』『折りたく柴の記』がある。 

   新井白石の墓                 東京都指定旧跡 大正8年10月指定
                      所在地 中野区上高田1-2-9 高徳寺墓地

   江戸中期の朱子学者。名は君美、通称勘解由、白石は号。木下順庵に朱子学を学び、その
   推挙により甲府の徳川綱豊(のちの家宣)の儒臣となり、宝永六年(1709)家宣が将
   軍になると幕臣として、間部詮房とともに家宣を補佐。正徳の冶を開き、教学と政治の一
   致につとめた。武家諸法度改訂、貨幣改鋳、船舶互市新令の施行、儀式典礼の整備などは
   そのおもな事蹟である。享保元年(1716)引退。学者として特にすぐれた合理性と実
   証を重んじ、朱子学的思考と実践の結合した合理主義者であり、日本古代史に合理的解釈
   を試み、外国事情にも意を用いた。主著「藩幹譜」「読史余論」「西洋紀聞」「折たく柴
   の記」など。
   平成10年3月建設                       東京都教育委員会

 ●沢村国太郎とマキノ智子夫妻の墓
 「加藤家之墓」とあり、裏面に長門裕之・南田洋子建立の銘があるのは、長門・津川雅彦兄弟の両
親の墓だ、2人とも役者で、智子は牧野一族の出だ。国太郎の弟は俳優加東大介、妹は女優沢村貞子
だ。  

 ●山野愛子の墓
 美容家。実家は向島で洋食屋を経営していたが、父は愛人の許に入りびたり。そんな父の姿に、母
はことあるごとに「これからは女も自立する時代」と説いたという。夫は逓信省の役人。関東大震災
の女性被災者のみすぼらしい姿をみて、美容の大切さを痛感したそうだ。ヤマノグループ創始者。日
本美容界のパイオニアとして知られる。日本初のパーマ指導技術者でもあり、我が国にパーマ技術を
普及させた。大正15年山野結髪所を開業。昭和9年中野に山野美容講習所(現在の山野美容専門学
校)を開設。昭和55年女性として初めて勲三等瑞宝章を受章。平成4年山野美容芸術短期大学を設
立し、初代学長に就任した。同7年死亡後、息子の正義が跡を継ぎ、その娘ジェーンが2代目愛子を
襲名して校長に任じている。お笑いコンビ「品川庄司」の品川祐の祖母だということはあまり知られ
ていない。
 


慈雲山龍興禅寺
 上高田1丁目2番12号にある臨済宗妙心寺派の寺。正面が銅板葺きの本堂で、厳しい雰囲気があ
る。本尊は釈迦牟尼仏。寛永六年(1629)玄門道幽和尚により、牛込津久戸明神下隆慶橋際に開
創された。もと釈迦文院と称えた草庵を1寺として建立、臨済宗妙心寺派に属した。釈迦文院は、慶
長十二年(1607)に徳川家康が立ち寄っている由緒ある草庵なのだ。家康が

   終に行く道とは誰も知りながら去年のさくらに風を待ちつつ

 と境内の桜樹を絶賛して詠んだと『遊歴雑記』にある。正保元年(1644)境内地が上地(接収)
となり、市谷八幡付近の四谷に移ったが、承応三年(1654)小石川小日向服部坂上に移転した。
 玄門大和尚は、寛文十三年(1673)四月廿六日に遷化(坊さんの死亡)するが、法嗣に竺道、
雲厳、端外、雪牛、黙宗があり、旗本諸士の帰依が深く、俗に「旗本寺」と呼ばれていた。5代将軍
綱吉に重用され甲府藩15万石の大名となり、さらに大老格老中にまで上り詰めた柳沢吉保との関係
は深く、雲厳に教えを乞うた吉保の書簡の数々が残っている。墓所には正室定子、側室橘染子の墓が
ある。右面に「施主甲斐少将吉保」と刻まれた文字が興味深い。右手奥には大河小説『石狩平野』で
好評を博した作家「
船山馨」の墓があり、洋風変形の自然石には自筆の「船山」が刻まれている。

 柳沢吉保側室梁子の墓
 墓地にある。 


■児童館昭和・昭和児童遊園
 
 上高田1丁目17番5号にある区立公園。


■さる寺・
蒼龍山松源寺
 
 上高田1丁目27番3号にある臨済宗の寺。風格のある山門の前に猿の石像を置き、出世正観世音
菩薩安置とある。本尊は釈迦如来と聖観音。本堂には赤い提灯がぶらさがっており、「観音正観音」
と書いてある。本堂は白木のままの古めかしい素朴な建物だ。江戸時代から観音霊場で、山手33ヶ
所の2番、東京33ヶ所の33番札所となっている。また5代将軍綱吉の書もあり、臨済宗妙心寺派
江戸触頭の大名寺としてその名を知られていた。
 初め麹町四番町に蓬山宗丘禅師の開山、戸田山城守忠昌を開基として創建されたが、年代は判らな
い。慶長十八年(1613)牛込神楽坂に移り、明治41年現在地に再移転した。
 猿寺の由来は、『江戸名所図会』に、

   昔も境内に猿を繋ぎて置きたりとて、今も世に猿と寺号(なづ)く


 とある。また元禄のころ、4代目の住職徳門和尚が渡船に乗ろうとして引き止められ、舟に乗りそ
びれてしまったところ、間もなく乗らなかった舟が沈み、難を免れたという話も伝わっている。
 本堂の裏手は墓地になっている。墓地には下野国宇都宮藩戸田家の歴代藩主墓所の外、足利藩戸田
家の歴代藩主墓所、また砲術稲富流の稲富直賢の墓がある。


松雲山(天寿山)宗清禅寺

 上高田1丁目27番6号にある曹洞宗の寺。立派な山門前に

   宗清禅寺 通称なが寺又たつ寺と云

 と刻んだ石柱が建ち、山門の天井に龍を描いていることから「たつ寺」と呼ばれたという。大きな
本堂、整然とした寺だ。右の庫裏も手入れが行き届いており禅寺らしい威厳が備わっている。前身は
牛込原町松雲寺と喜久井町浄泉寺。明治40年この2寺を合体して移転、松雲寺を名乗った。さらに
大正2年宗清寺と合併して芝松坂町より移転、松雲山宗清寺と号して今日に至っている。墓地に幕末
の外国奉行を務めた水野忠徳と、エコノミストで第二次大平内閣の外務大臣を務めた国際人の大来佐
武郎(おおきたさぶろう)の墓がある。

 ●水野忠徳の墓
 忠徳は幕末の外交で活躍した幕臣。500石取りの旗本で、筑後守、下総守を名乗った。彼は能吏
で、寄合席の座を暖める間もなく浦賀奉行、長崎奉行、勘定奉行、田安家々老、外国奉行、軍艦奉行、
箱館奉行などの要職を次から次へと歴任した。開明的な吏僚として、小泉純一郎のような口先三寸の
構造改革ではなくて、幕政改革と外交上の難件処理に手腕を揮い、列国との条約調印や横浜開港の衝
に当たった。安政元年(1854)にはプチャーチンと渡り合って千島の国境を策定している。現在
ロシアが力づくで不法占拠している北方領土(歯舞・色丹・国後・択捉の4島)だ。文久元年(18
61)には目付服部帰一を伴って小笠原諸島に上陸し「日本領土」であることを宣言した。

 ●大来佐武郎の墓
 おおきたさぶろう 府立一中 → 一高 → 帝大 → 逓信省という典型的なエリート官僚コース。戦
後吉田茂、池田勇人のブレーン。昭和期の官庁エコノミスト。元外相。戦後日本を代表する国際派エ
コノミストとして活躍した。国民所得倍増計画策定に関わったアンポンエコノミスト(経済安定本部
の経済人)としての知名度以上に、大来の名を大来たらしめた所以は、留学にと頼まれると紹介状を
人の区分け無く書いてくれることにあったと云われている。その人望の厚さが後年の民間出身として
の第2次大平内閣時代の外務大臣抜擢などに至ったとも云われている。


■円融観音(舟型)

 上高田1丁目27番16号、寺町裏手の昔は恐らく小川だったろう崖下の路地のクランクしたとこ
ろ、大信寺墓地の入口の手前左、宮崎家の軒下にある。本名を「観音融室妙圓禅定尼」という。保善
寺の住職が命名した。これは宮崎家が早稲田通りの近くに住んでたころ、その敷地内より発見された
ものといわれ、その地に堂宇を建てて安置し、 参拝する人もあったという。昭和10年昭和通り(早
稲田通り)の拡幅のため宮崎家に立ち退き命令が下り、現在地に引っ越す時に一緒に移設した。
 


■大信寺墓地

 上高田1丁目27番7号、つまり宗清寺の裏にある。消防署横の道から入って住宅の路地を入り、
崖下の曲がりくねっている細道を行くと入口がある。この墓地に日本画家「菱田春草」の墓がある。
大信寺は新宿区横寺町にある小さな寺だ。

 菱田春草
 明治期の日本画家。横山大観、下村観山と共に丘倉天心門下で、当時の日本画の革新に貢献した。

明治7年長野県飯田に生まれ。本名は三男治(みおじ)。同23年東京美術学校(東京芸術大学)に
入学。春草は大観、観山の1学年下に当たる。同校での師は狩野派の末裔である橋本雅邦。彼は大観
・観山と共に、当時校長だった岡倉天心の強い影響下にあった。過激な日本画改革論者の岡倉には反
対者も多く、同31年反対派に追われるように校長の職を辞した(反対派の撒いた怪文書が原因だっ
たとされる)。当時同校の教師をしていた春草や大観、観山も天心と行動を共にして学校を去り、在
野の美術団体である日本美術院の創設に参加した。その後春草は、同36年大観とともにインドへ渡
航。明治同37年には天心、大観とともにアメリカへ渡り、ヨーロッパを経て翌年帰国した。同39
年には日本美術院の五浦(いづら、北茨城市)移転とともに同地へ移り住み、大観、観山らとともに
制作をしたが、眼病治療のため、同41年には東京へ戻り、代々木に住んだ。代表作『落葉』は、当
時はまだ郊外だった代々木近辺の雑木林がモチーフになっている。同44年満37歳の誕生日を目前に
して腎臓疾患のため死亡した。
 


■盛高山保善寺 獅子寺 
 
上高田1丁目31番2号にある曹洞宗の寺。幼稚園が併設され、境内は共通だ。武田信玄の従弟に
当たる山梨恵林院二世の勅特賜円明宝鑑禅師蟠翁門龍大和尚(慶長十九年 1614)が開山となり
文禄二年(1593)に創建したという。墓地には武田家家臣団の墓が数多くあるそうだ。信玄マニ
アは必見! 3代将軍徳川家光が牛込にあった酒井家邸を訪問した折、保善寺に立寄り、獅子に似た
犬を拝領したことから「獅子寺」と称するようになったとか。
 明治39年現在地へ移転した。
 本堂は鉄筋コンクリート造りで2階にある。その正面には江戸時代の偉僧月舟禅師の筆になる「獅
師窟」の、本堂内陣の上には「大圓閣」の額が掲げられている。「御府内寺社備考」に、

   甲斐国山梨郡恵林院末
   牛込通寺町 龍峯山保善寺、境内拝領地二千二百七十坪
   開闢起立年代之儀於享保六丑年二月類焼之節旧記等焼失仕相分不申候。
   開山本寺二代蟠翁門龍大和尚慶安十九年二月八日示寂。
   本堂、間口八間半奥行六間半。
   本尊釈迦如来、丈高三尺八寸座像。


 とあり、門前の壁に嵌め込まれた説明板に、 

   曹洞宗 保善寺 通称獅子寺
   盛高山保善寺といい御本尊は釈迦牟尼佛をまつる。開山は勅特賜円明宝鑑禅師蟠翁門龍大
   和尚で武田信玄の従弟にあたる。文禄二年(1593)の創建、三代将軍家光公牛込酒井
   邸にあそびし折り当山に立寄られ獅子に似た犬を賜う。以後獅子寺と称す。
   明治三十九年牛込通寺町より当地に移る。本堂正面に月舟禅師筆「獅子窟」の額をかかぐ


 とある。

 しあわせ地蔵
 境内や墓地には地蔵尊が多く祀られていて、昭和40年代末ごろ地蔵苑が新設されて子どもたちに
親しまれている。赤い旗が10本ほどはためいてるからすぐに判るよ。

 
獅子寺の謂れ
 3代将軍徳川家光との因縁によるもので、家光来寺の折、頂戴した犬が唐獅子のようだったことに
よる。元禄二年(1689)五月十日の銘。

 獅子像
 門前にある。台座に「獅子寺」ときざんである。


乾龍山徳院

 上高田1丁目31番4号にある3階建てのビルだ。柱や梁を濃い茶色に塗っている。天徳会館とい
い、開山は吉祥寺5世用山元照大和尚、開基は加賀藩主3代前田利常夫人の天徳院(子々姫珠子)。
彼女は2代将軍秀忠の次女、兄は3代将軍家光、姉は千姫(天樹院)、妹松姫和子は、後水尾天皇の
皇后東福門院だ。なお彼女遺骨を納めた天徳院が、加州金沢と紀州高野山にある。この寺は初め牛込
の神楽坂近く赤城神社の東隣にあって見龍山仏性寺と号したが、後に乾龍山天徳院と改め、明治40
年に現在地に移転してきた。

 
梶川與惣兵衛頼照の墓
 墓地の無縁墓の中にある「謙亨院殿閑雲古水居士 卒年七十有亡」と刻んである墓石がそれだ。元
禄十四年三月十四日、江戸城殿中松之大廊下において、浅野内匠頭長矩が吉良上野介義央に刃傷に及
んだ際、内匠頭を後から羽交い絞めにして吉良を救った男だ。吉良の墓のある功運寺は、奇しくも4
丁目に越してきた。梶川は、旗本として当然の行動をし責められるところは一つとしてないのだが、
赤穂人気のために余計なことをしたと非難の対象にされてしまった。もしあの時手を拱いて傍観して
いたら、それこそ切腹もので、非難の集中砲火を浴びたろう。被害者吉良家は絶家、仲裁者梶川家も
絶家。不思議なことに加害者の方の浅野家、大石家は今も健在なのだ。

 鈴木家墓所
 この鈴木家は、新撰組の斎藤一の実家山口家の主家。近年絶家となったらしい。


■上一こなら公園

 上高田1丁目43番4号にある区立公園。


■馬頭観音像2基

 上高田1丁目49番17号の角地に安置してある。石造の観音像は角柱型で道標になっていた。ど
こかにあったものを移したものか。建立日は天保三辰(1832)四月吉日の建立。

   西国百ヶ所供養為二世安楽 羽黒山行者久兵衛

 とあり、その左には明治34年の馬頭観音があった。この2体は道路と同じ高さにあり、側に大き
な木があって、農村の素朴な面影が残っていたが、昭和45年の頃に現在の形にしたという。


■大川セイロ店 
 上高田1丁目50番7号にある曲げ輪っぱ屋。蒸籠(せいろ)とは文字通り「蒸す籠」だ。今でも蒸
し餃子や焼売といった、点心を作るのによく使われているので、自分で料理をしなくても、普段から
目にしている人は多いと思う。檜木の板を曲げて形作られており、その輪状の部分を「曲げ輪」(ま
げわ)と呼ぶ。「曲げ輪」を使った道具は、昔は風呂場の桶、水を飲む柄杓(ひしゃく)、炊いたご飯
を保管するお櫃(ひつ)等、古くから日用品として幅広く用いられ、我々の生活に溶け込んできた。大
相撲で力士が口を漱ぐ時に使う柄杓、NHKの大河ドラマで出てくる諸道具でよく見かける奴だ。福
山市の広島県立博物館には、今から約7~800年前という国内最古の筒が展示されているらしい。
それは1枚の檜を曲げて筒状にしたもので、桶の底板は小さな竹釘で止めてあり、周囲には漆が塗ら
れていた。檜には防虫効果があり、漆には防水・防腐の作用がある。従って水や食物を保管、保存す
るために造られた桶であったことが判る。しかしその技術の発祥と歴史については、残念ながら正確
なところははっきりしていない。仏教と同様にモンゴルから中国、アジア諸国を経て、日本に渡って
きたという説や日本が独自に有していた技術であったという説もある。また「曲げ輪」を用いた道具
は、石器時代にもあったのではないかという学説もあるようだが、いずれも諸説の域を出ていないの
が現状だ。
 有限会社大川セイロ店を経営する大川良夫は、先代である父喜三郎の後を継いで2代目。現在1人
で朝から晩まで、蒸籠をはじめとして柄杓、桶等の様々な「曲げ輪」に関する製作に取り組んでいる。
父は埼玉県小川町の農家の生まれ、次男だったので、他に何か仕事を見つけなければならなかった。
偶然親戚が蒸籠を造っていたことから弟子入り。やがて「本格的にやるなら東京へ」といわれて上京
し、巣鴨の『小田井商店』に勤める。戦争で焼け出されて店は新宿区落合に移るが、それ以後も喜三
郎は真面目に働き続け、昭和8年に上高田5丁目に店を構えた。その後、同20年に現在地に移って
今に至っている。良夫は父の跡を継いだが、父の勧めで日大商学部を卒業した。有事の際、大学を出
ていると士官になれるからというのが理由だが、良夫は別に必要を感じなかったという。おいらの親
父も同じことをいって大学に行かせたが、おいらも大学に行く必要は感じなかった。大卒で何かに役
立ったこともないし、得だったこともない。さて良夫の子どもは娘で、後は継がない。後釜は、本気
で弟子入りしてきて3年間みっちり修行して独立した山下晃弘、目黒の学芸大前駅近くで店を構えて
いる。 03-3386-5379

 
●馬毛織
 伝統工芸が次々と消えて行くなかで、良夫はいつしか伝統工芸保存会の会長を勤めるようになる。
様々な職人たちと交流を持つ中で、馬の尾の毛で編んだ「馬卦編(うまげあみ)・馬毛織(うまげお
り)」がなくなるという話を耳にした。日本では唯一、四国の大平トミが製作を続けていたのだ。こ
れは料理で何かをすり潰したり、裏ごしたりする際に使われてきたもで、蒸籠には縁のある道具の一
つだ。早速妻美富貴を連れて四国に習いに出かけた。また高松市の博物館に「馬毛織」の織機がある
ことを知った。問い合わせてみると、 「使い方が解らない」という。それならばとトミに教授を願っ
た。この時トミは85歳、この2年後に亡くなった。もう少し遅かったら、この織機の使い方は、そ
れこそ永遠に解らないことになっていたのだ。間一髪間に合った。それを思うと、 感慨深いものがあ
る。織機は結城紬の織機に似ていることから、結城の織機職人に製作してもらった。現在は商品とし
て売れる物が、大川セイロ店で作成できている。なおこの馬毛織ができるのは、美富貴一人しかいな
い。若者たちよ、跡を継げ!


■大妻中野中学校・高等学校

 上高田2丁目3番7号にある私立女学校。情報なく詳細不明。平成17年から中等教育(完全中高
一貫校)。大妻学園とは違う誠美学園の経営。しかし全く無縁でもないらしい。平成21~25年新
校舎建設。

 校歌「ここに集いしおとめらは」 作詞作曲・池内友次郎
  1.此処に集いし乙女等は
    若きを誇り溌剌と
    青春の日を重ねゆく
    此処に集いし乙女等よ
    麗しくあれ 清くあれ
    そして聞け 美しきその声を聞け
  2.此処に集いし乙女等は
    学びの道に励みつつ
    豊かなる智と徳を錬る
    此処に集いし乙女等よ
    健やかであれ 健気なれ
    そして見よ 幸深きその影を見よ
     乙女等よ この学園を讃え給え
     それ母校なり 愛しまれん


 ●池内友次郎
 俳人高浜虚子の次男。作曲家・音楽教育家。慶応大学を中途退学し、昭和2年フランスに留学、パ
リ音楽院で、P.フォシェやH.ビュッセルの下で作曲法と音楽理論を学んだ。帰国後同12年から日
本大学芸術科、同21年から東京音楽学校で教鞭をとる。戦後は、作曲活動を続けながら、東京芸術
大学作曲科教授として後進の育成にあたり、その門下からは、池辺晋一郎、黛敏郎、矢代秋雄、松村
禎三、三善晃など多くの作曲家が輩出。パリ音楽院でフランスの伝統的な作曲法を身につけた池内は
ダンディやビュッセルの多くの音楽理論書を翻訳して日本に紹介している。


■上高田2丁目公園

 上高田2丁目8番12にある区立公園。


■こぶし公園

 上高田2丁目32番3号にある区立公園。


■聖観音と笠付庚申塔
 行方不明発見
 上高田3丁目5番15号、路地の奥、道が鉤の手になるところのスペースにあった。スペースはそ
のままだが、2基の石仏はそっくりない。どこかに移設したのだろうか?
 元は3丁目1番の東角、上高田本通りと中通りの追分、今の上高田交番のところにあった。昭和5
年交番が設置される際、石仏が邪魔になるというので、ここが上高田3丁目6番の細井家の地所だっ
たことから、細井家の内墓の地に守り神として移したというのがこの場所だ。墓地と思われる場所は
駐車場になっているので、墓と一緒に菩提寺に移したのかも知れない。元の跡地には「あらいやくし
みち」の道標の石塔が建てられたがそれも細井家が引き取ったとか。
 舟型聖観音は、天明三癸卯(1783)十月吉日の建立。「奉供養百箇所正観音為二世安楽」とあ
る。二世は「あの世」、「死後もよろしく」の意。聖観音の石の下には馬頭観音の石が入っていると
いわれている。それは日露戦争の時、供出した馬が戦死したので、馬頭観音を作り供養していたが、
この場所に聖観音を移転させた時に合体したそうだ。上高田村は農耕馬が多くいたというので、今で
も年1回、土地の人が集って供養しているんだそうな。
 笠付庚申塔は、青面金剛 造立年不明。「奉造立庚申□□二世□□」とある。□のところは、 「供
養」「安楽」と入るのだろう。
                      ※
 さてその後、癪なので平成19年2月に調べてみた。墓地は5丁目の東光寺に移し、聖観音と庚申
塔は、平成2年に東光寺の細井家墓所に移したそうだ。気になる御仁は行ってみてみられい。


■上高田三丁目公園

 上高田3丁目10番4号にある区立公園。


馬頭観音
 上高田3丁目13番12号にある小堂。


欅の根痕と岩座
 上高田3丁目26番17号の鈴木家の入口の右側の門柱の役目を果たしている枯樹。繰りぬかれた
洞に石が祀られている。


『たきび』のうた発祥の地
 上高田3丁目26番17号の鈴木家の竹組みの垣根が、童謡「たき火」のモデルだそうで、竹垣の
一角に区の説明板が建っている。童謡の舞台となった垣根は「建仁寺垣」と呼ばれる垣根で、敷地の
東面の北半分と北面のみに設えられている。西面は椿の生垣、南面は他家と境を接している。

   
『たきび』のうた発祥の地
   かきねの かきねの まがりかど
   たきびだ たきびだ おちばたき
   『あたろうか』 『あたろうよ』
   きたかぜ ぴいぷう ふいている

   今も人々に愛唱されている「たきび」のうた。
   この童謡の作詞者巽聖歌(たつみせいか 本名野村七蔵 1905~1973)は、岩手
   県に生まれ、北原白秋に師事した詩人で、多くの優れた児童詩を残しました。聖歌は、こ
   の詩が作られた昭和5、6年頃から約13年の間、萬昌院のすぐ近く、現在の上高田4丁
   目に家を借りて住んでいました。朝な夕なにこのあたりを散歩しながら、「たきび」のう
   たの詩情をわかせたといわれています。
   歳月が流れ、武蔵野の景観が次第に消えていく中で、けやきの大木がそびえ、垣根の続く
   この一画は, 今もほのかに当時の面影をしのぶことができる場所といえましょう。
   昭和58年3月                         中野区教育委員会


 ●
建仁寺垣
 元々卒塔婆で作られたもの。高さは6尺で統一され、結び目の位置も下から5寸・1尺・1尺・1
尺と場所が決まっていて、シュロ縄で結ぶ。しっかりとした仕事で作られた垣根は10年保つ事がで
き、その度にすべて作り直すのだそうだ。その垣根を維持しているのが1丁目49番の「庭竹」の親
父鈴木竹一だ。童謡の頃の竹垣を作ったのは竹一の祖父竹次郎。同姓なので同族だろう。「庭竹」に
行ってみな。竹細工が面白いよ。普段は仕事で、いるかいねえか判らねえから、
 電話 03-3385-8743 していきなよ。
 また竹垣は、大正時代のガーデニングで爆発的に流行したもので、江戸時代に竹垣があった訳では
ない。歳月が流れ、武蔵野の景観が次第に消えていく中で、けやきの大木が聳え、垣根の続く、この
一画は、今もほのかに当時の面影を偲ぶことができる場所といえる。鈴木家は、瓦屋根であるものの
昔の建屋であり、昔農家だった人が、都市化で俄か成金となり、マンションや豪勢な住宅に建て替え
る中、頑なに古風を保っているのは立派だ。

 ●童謡「たき火」
 
今も多くの人びとに愛唱されている。作詞の巽聖歌(野村七蔵)は岩手県に生まれ、北原白秋に師
事した人で、多くの優れた児童詩を残した。聖歌は、この詩が作られた昭和5、6年頃から約13年
間、功運寺のすぐ近く、現在の上高田4丁目に家を借りて住んでいた。朝な夕なにこの辺りを散歩し
ている時、ちょうどこの家の庭で焚火をしている光景に出会い、「たき火」の歌の詩情を湧かせたと
いわれている。歳月が流れ、武蔵野の景観が次第に消えていくなかで、幹まわりが3~4メートルも
あろうかというケヤキや、ムクノキ、カシなどの大木と、竹の垣根が続き昔の大農家の面影を残して
いる。歌の中にでてくる「サザンカ」は、向かい側の農家の生け垣だったそうだが、今はその面影を
留めるものはない。

 唱歌
「たき火」 作詞・巽聖歌  作曲・渡辺茂
  1 垣根の 垣根の 曲がり角
    焚き火だ 焚き火だ 落ち葉焚き
    あたろうか あたろうよ
    北風ピープー 吹いている
  2 山茶花 山茶花 咲いた道
    焚き火だ 焚き火だ 落ち葉焚き
    あたろうか あたろうよ
    しもやけおててが もう痒い

 
保存生垣
 鈴木家の西側面の生垣塀。

   保存生け垣
   
平成21年度指定 第101号 延長31m 



地蔵尊

 上高田3丁目31番31号の道路際の覆屋の中にある。


大雄山境妙寺

 上高田4丁目9番3号にある天台宗の小寺。山門は立派だが、取り立てていうべきものはない。本
尊は阿弥陀三尊。初め日蓮宗に属し、高耀山寂光寺と称して麹町の貝塚の地にあった。寛永六年(1
629)の江戸城拡張のとき、千駄ヶ谷(国立競技場の一部)に移転した。元禄十一年(1698)
天台宗に改宗し、台宗開基は貞栄。中興十世智順の代、天保五年(1834)に現在の寺号に改称し
た。現在地に移転したのは大正四年、明治神宮外苑造営のため、薩長の明治政府に「邪魔だから出て
行け」と強制されてやってきた。過去帳に塙保己一の名がある。塙は5歳の時に失明したが、和漢に
通じ、『群書類従』の編集に40年の歳月を費やして完成した。墓は新宿区若葉2丁目の愛染院にあ
る。


恵日山金剛寺

 上高田4丁目9番8号にある曹洞宗の小寺。格式のありそうな風情だが、特に何もない。本尊は釈
迦牟尼仏。初めは慧日山。建長二年(1249)波多野中務大輔忠経が源頼朝を弔うために相州波多
野田原村に臨済宗の寺として建立した。 後に江戸下野入道道心が江戸小日向郷金杉村に移し、その
後文明年中(1469~87)に太田道灌が再興した。その時の開山は普応禅師、2代目は巨舟和尚
だ。さらに下って中興の叔悦禅師が、永正六年(1509)に曹洞宗に改めた。その後の詳細は今ん
とこ判んねえ。


東護山願正寺

 上高田4丁目10番1号にある浄土真宗大谷派の小寺。表に「新見豊前守正興の墓」なる看板があ
る。本尊は阿弥陀如来。天正十八年(1549)了善法師が外神田に創建したもので、初めは光瑞寺
と号していたが、後に本願寺に属して現号に改めた。寛永の頃は麹町にあったが、江戸城の外堀開鑿
のため立ち退きを要求され、延宝八年(1680)牛込原町に転じ、明治43年現在地に引っ越して
きた。墓地には幕末に外国奉行として活躍した新見正興の墓、砲術家井上外記の墓がある。

 新見豊前守正興の墓
 墓地にある。

   新見豊前守正興の墓所
   新見豊前守正興は、幕末に遣米使節の重責をはたした人です。安政六年(1859)年外
   国奉行に抜擢され、先に締結された日米修好通商条約の批准書交換のため特派使節になり
   ました。万延元年(1860)米船ポーハタン号に乗り、咸臨丸とともに品川を出港、ワ
   シントンでアメリカ大統領に会見して大任を無事に果たし、大西洋経由で帰国しましたが
   国内の情勢が急変し攘夷論が盛んな中で、正興は外国での見聞を生かす機会もなく、元治
   元年(1864)年職を免ぜられました。
   明治2年48歳で病没し、牛込原町(新宿区)に葬られましたが、墓は大正の初め、寺と
   ともに現在地に移転した。
   大正7年モーリス・アメリカ全権大使が、また昭和35年には、駐日大使ダグラス・マッ
   カーサー二世が墓を訪れ花を捧げました。
   昭和56年3月                         中野区教育委員会


 
日米親善記念碑
 境内にある。

 井上外記正継之墓
 元和年中(1615~1624)井上は一つの砲術の要領を編み出し、井上流という一流派をなし
た。外記流ともいい、子孫は江戸幕府の鉄砲方を勤めた。

 
柴田勝家と子孫の墓
 墓は福井の西光寺にあるはずだが、何故かここにもある?


月岬山神足寺

 上高田4丁目11番1号にある浄土真宗大谷派の寺。曲がりくねった石段を登って行くと境内だ。
山門は西から来る道にある。狭いが本堂前の植込みなどは手入れが行き届いている。
 本尊は阿弥陀如来。慶長十二年(1607)に江戸木挽町(歌舞伎座の近く)に土地を与えられ、
行心和上を開山開基として開創した。その後八丁堀、西久保赤羽、三田村と3ヶ所を移転、三田村に
おいては長く聞法の場として門信徒の教法に努めたが、明治43年16代憲英住職の時、そっくり移
築移転した。戦災にも遭わず、昭和33年本堂の改修を行ったのみだ。
 開基の行心和上は、100年に亘る一向一揆の天正七年(1579)に、本願寺11世顕如上人、
12世教如上人の二人を中心とする軍勢が織田信長の軍と戦っている時、伊豆の武士で伊東氏として
織田軍に加わっていた。その時織田の陣地に教如上人の書いた矢文が射込まれた。ちょうどそこに居
合わせた伊東氏はその矢文を読んで感銘を受け、織田信長の如何に誤まっているかを知り、秘かに抜
け出すと本願寺の見方となり、一揆が終わった後に出家し、行心と改めたのだ。

 軍人子育地蔵
 意味がよく判らない名前だ。


■安禅寺墓地・自証院墓地

 上高田4丁目12番にある。 


正覚山宝泉寺

 上高田4丁目13番1号にある曹洞宗の寺。本尊は釈迦牟尼仏。永禄五年(1562)吉祥寺3世
興山圭隆大和尚が清水門のところに開創した。慶長年間(1596~1614)に田安台に移されさ
らに元和二年(1616)江戸城の拡張のため牛込横手町(新宿区)移された。その後は安定して祝
融の災いもなく幕末・明治維新を迎えたが、明治41年現在地に移転した。
 入口の植込みと、その奥の質素な門が美しく、沿道からもよく見える。境内には小田原最乗寺の道
了堂があり、「道了さま」として人びとに親しまれている。
 奥州中村藩相馬家、奥州福島藩板倉家、備中庭瀬藩板倉家、3大名家の菩提寺だ。また墓地には剣
客岡田十松(藤田東湖筆)、北町奉行を務めた初鹿野依、儒者石川柳渓、儒者で荻生徂徠の門人長坂
黒肱などの墓もある。「牛込区史」に、

   正覺山寳泉寺 駒込吉祥寺末
   永禄五年清水門内に起立、慶長年中田安へ移轉元和二年横寺町に移る。開山吉祥寺三世奥
   山圭隆大和尚、永禄五年三月住職、同十一年八月遷化。中興龍尊和尚、舊境内拝領地二千
   二百四坪五分。


 とある。

 ●板倉内膳正重昌の墓
 高さ約3mの五輪塔の中央には「劔峰源光大居士」
その右に「寛永十五戌寅歳」、左に「正月朔
日」と刻まれている。寛永十五年は西暦1638年。これは重昌が「島原の乱」で戦死した日にあた
り、金石資料としても貴重なものだ。戒名に剣・剱の字の付く人は、刃物で殺されたり、切腹して死
んだ人につけられる。赤穂浪士は45人全員に剱の字が付いている。現在は坊さんが無学でいろんな
ことを知らないので、遺族に迎合して、金になるような戒名をつける。ためにこの原則は守られなく
なっている。重昌は、京都所司代板倉勝重の第三子で、のち三河(愛知県)の深溝城主となった。若
くして徳川家康の近習となり、方広寺の事件では使者として「国家安康」「君臣豊楽」の鐘銘は家康
批判であると豊臣方に強硬にせまり、これが発端となって豊臣氏の滅亡へと進んでいった。寛永十四
年(1637)年島原の乱が起こると、重昌は幕府の命を受けて九州諸大名を督励し、反徒の鎮定に
努めたが、強い抵抗にあって果たせず、幕府は再び老中松平信綱を派遣して指揮にあたらせることに
したため、責任を痛感した重昌は、翌年元旦「原城」を総攻撃し、自ら戦死を遂げた。

   倉内膳正重昌の墓所
   この宝泉寺には、板倉内膳正重昌の墓所があります。高さ約三メートルの五輪塔の中央に
   は剱峯源光大居士、その右に寛永十五戊寅歳(1638)、左に正月朔日と刻まれていま
   す。これは重昌が「島原の乱」で戦死した日に当り、金石史料としても貴重なものです。
   明治四十一年、牛込横寺町(新宿区)から移転してきました。
   重昌は、京都所司代板倉重勝の第三子で、のち三河(愛知県)の深溝城主となりました。
   若くして徳川家康の近習となり、方広寺の事件では使者として「国家安康」「君臣豊楽」
   の鐘銘は家康批判であると豊臣方に強硬にせまり、これが発端となって豊臣氏の滅亡へと
   進んでいきました。
   寛永十四年(1637)島原の乱が起ると、重昌は幕府の命を受けて九州諸大名を督励し、
   万徒の鎮定につとめました。しかし、強い抵抗にあって果さず、幕府は再び老中松平信綱
   を派遣して指揮にあたらせることにしたため、責任を痛感した重昌は、翌年元旦「原城」
   を総攻撃し、自らも戦死をとげました。
   昭和53年3月                         中野区教育委員会
  


万昌院功運寺

 上高田4丁目14番1号にある曹洞宗の寺。本尊は釈迦牟尼仏。この寺は元は万昌院と功運寺とい
う別々の寺だった。この辺りは高台の住宅地で、それほど高い建物もないので晴れた日は突き抜けた
爽快感がある。春の晴れた日に行けよ。

 万昌院は久宝山といい、 今川義元の三男長得が、上州室田の長年寺の喚英長応和尚(仏照円鑑禅
師)を招いて天正二年(1574)に麹町辺に開いた寺院で、江戸城の拡張により市ヶ谷に移り、さ
らに牛込筑土八幡町に移転して落ち着いたが、大正3年になって現在地に移転。同6年大火を蒙り、
記録書籍・書院・庫裡悉くを焼失した。
 長得の兄氏真の娘が吉良家14代義定に嫁し、さらに義定の子15代目義弥が氏真の孫娘を迎えた
ので、今川・吉良両家とも足利の支流で、両家の関係が二重三重に濃くなった。この縁で義定‐義弥
‐義冬‐義央(上野介)の墓が設けられたのだろう。

 功運寺の開基は永井尚政で、龍谷山と号した。 永井家は、平治の乱に敗れた源義朝(頼朝・義経
の父)を裏切って騙まし討ちした長田忠致の末裔で、長田姓では具合悪いので尚政の父直勝の時、永
井に改めて先祖の恥を隠した。小牧長久手の戦いで、秀吉の大将池田信輝を討ち取ったのはこの直勝
で、そのため直勝は信輝の子輝政に随分怨まれたようだ。永井家はその後栄進して常陸笠間3万2千
石から古河7万2千石、ついで淀10万6千石まで加増された。その後宮津7万3千石・河内3万3
千石に別れ、宮津藩は尚長のとき内藤忠勝に斬られて改易。後に大和新庄/櫛羅(くじら)藩1万石
として復活した。この寺は尚政が、祖父重元、父直勝の菩提のため、慶長三年(1598)黙宝を迎
えて桜田門外に建立、後に三田(港中学校・普連土学園・教育センターの一帯)に移転、大正3年現
在地に転じ、昭和23年万昌院と合併した。

 糟屋武則墓
 戦国武将。賤ヶ岳七本槍の一人。

 永井家墓所
 功運寺開基である永井尚政より永井家の菩提寺となる。永井家の墓域には、将軍家綱の法要という
大切な儀式の最中に浅野長矩の叔父内藤忠勝に殺された永井尚長の墓もある。

 吉良上野介義央の墓
 赤穂事件で有名な吉良上野だ。「東海道四谷怪談」のお岩同様、彼も歌舞伎によって悪党にされた
1人だ。殿中松の廊下事件は、遺恨でも、意地悪でもない、単なる発作事故だ。浅野内匠は〝瘧〟と
いう病持ちで、花曇りの日には頭が締め付けられるような頭痛に悩まされていた。これは記録に残っ
ている。この痛みは激高すると治まるという変な病気だ。浅野はこの発作が起きた時、突然刃傷に及
んだが、吉良と判って斬った訳ではあるまい。発作が起きて抜刀し、訳もなく振り回した先に吉良が
いた。これを見ていたのは梶川与惣兵衛頼照と茶坊主だ。後ろから羽交い絞めにして取り押さえたが
発作が治まった浅野は事の重大さに狼狽えた。梶川は日記に、浅野が「遺恨覚えたか!」と叫んだと
記しており、遺恨説はここに根拠がある。
 多門伝八郎の聞き取りに、吉良は「乱心(発作)でござる」と浅野を庇っている。然るに浅野は、
乱心では武士の面目が立たないと思ったか、「遺恨あってのことでござる」と答えて事態を大きくし
た。多門は二度「乱心でござろう?」と聞き返している。乱心と認めれば、内匠は閉門蟄居で、浅野
家が潰されることはない。吉良家にも害は呼ばない。然るにこの思い遣りを全く理解できない犬侍は
「遺恨」だと言い張った。つまりこの一言で発作は刃傷事件となり、将軍綱吉の怒りを買って喧嘩と
認定され、喧嘩両成敗、浅野は切腹、御家は断絶、吉良は押し込めというまさかの判決。空気の読め
ない田舎大名の独りよがりでどえらいこっちゃ。大石はさぞ「馬鹿殿」と臍を噛んだことだろう。

   吉良家の墓所
   この万昌院は、もと千代田区永田町にありましたが、のち新宿区の市谷、筑土八幡を経て
   大正2年現在地に移ってきました。
   幕府高家の吉良家は、この寺を菩提寺としていました。義定・義弥・義冬・義央の4代に
   亘ってその墓石・供養塔が建てられています。高さの違いはありますが、いずれも宝篋印
   塔です。相輪部の彫りが深く、特に請花(うけばな)や笠部の隅飾突起は、どれも外方に
   向かって突出するなど江戸時代の作風を示しています。
   義央の石碑面に「元禄十五壬午年十二月十五日」と刻まれているのは、赤穂浪士の討ち入
   りの際に死去した史実を裏付ける金石文として興味深いものです。
   なお昭和55年義央の墓前には「吉良家忠臣供養塔」と「吉良邸討死忠臣墓誌」か建てら
   れました。
   昭和56年3月                         中野区教育委員会

 栗崎通有墓
 南蛮外科医。吉良上野介が浅野長矩によって傷を負わされた時、道有が手厚く治療した。討ち入り
後、上野介の首と胴体を縫い合わせたのも道有だ。

 大関増業の墓
 荒川区区に大関横丁の名を残す大名だ。

 ●水野十郎左衛門墓
 旗本奴(不良旗本)「白柄組」の首領として市中を横行無瀬の生活を送っていたが、町奴(侠客)
幡随院長兵衛との確執で、彼を騙し討ちにして殺したことで有名。幕府は素行不良の罪で切腹を命じ
た。暴走族は大昔からいるんだ。

 長沼国郷墓
 直心影流の剣豪。長沼家は剣術家の家柄で、国郷は最も有名。今日の剣道で使用している面・篭手
胴などの防具を完成させた。

 初代~3代歌川豊国墓
 浮世絵師。初代は歌川春英に学び、美人風俗画に秀でた。また役者絵でも数多くの作品がある。

 林芙美子の墓
 作家。落合三輪に在住し、『放浪記』『浮雲』などの名作を残した。

 花の寺
 林芙美子の墓の側に4月の初めに、優雅なアンズの花が華やかに咲く。ピンク色をしたアンズは、
ウメの仲間だが、花はウメよりずっと大きく見栄えがする。
 


■上高田台公園

 上高田4丁目17番4号にある区立公園。功運寺の墓地の北西に当たる。


■第五中学校
(第三中学校、第十中学校と統合予定)

 上高田4丁目28番1号にある区立校。昭和22年第六中学校に間借りして「東京都中野区立第五
中学校」として開校。同24年現在地に第1期木造校舎落成。同26年第2期木造校舎落成。同27
年第3期木造校舎落成。同29年第4期・第5期木造校舎落成。同32年創立10周年記念式典。同
34年体育館完成。同36年6期鉄筋コンクリート造り校舎落成。同42年第11期(最後)鉄筋コ
ンクリート造り校舎落成。創立20周年記念式典。同43年完全給食開始。同44年第一回中野区総
合体育大会陸上競技優勝。同47年第三・第四校舎北面窓枠サッシ化。改築校舎 (普通教室1、特別
教室5、各室隼備室4、教材室4)。同52年創立30周年記念式典。改築校舎(特別教室2、普通
教室2、準備室3、便所1)落成。同59年LL教室開設。同60年区総体駅伝大会(多摩湖)男子
代表優勝。
同62年創立40周年記念式典。同63年第20回中野区給合体育大会・陸上競技男子優
勝。

 平成元年第21回中野区紀合体育大会・陸上競技男子優勝。同4年ラグビー部関東大会出場。同5
年コンピュータルーム開設。同6年コンピュータ部 全国My-Town-Mapソフトコンクール
最優秀賞。同7年ドリームルーム完成。同8年ラグビー部第8回東京都公立中学校9人制大会優勝。
第28回中野区総体陸上男子総合優勝。同
9年ニュージーランドウェリントンより7名の中学生が留
学。
創立50周年記念式典。同10年新校旗樹立。同11年ニューヨーク教育使節団訪問。同14年
法務大臣より感謝状贈呈。同16年
インターネット接続。同17年二学期制試行校。同19年ニュー
ジーランドウェリントンより7名の中学生が留学。創立
60周年記念式典。同20年中野区総合体育
大会陸上競技男子優勝


 校歌
「清き泉」 作詞・甘利実  作曲・砂原隆治
  1.清き泉 湧き出でて
    緑の丘 巡る辺
(ほとり)
    真理の道を求めては
    高き希望に胸躍る
    常に正しく学ぶ吾等
    中野五中 中野五中
  2.広き心 育てつつ
    昴
(スバル)の星 睦ぶこと
    世界を繋ぐ愛の手に
    平和の花が咲いて行く
    常に明るく学ぶ吾等
    中野五中 中野五中
  3.若き力 健やかに
    自由の鐘 響き渡る
    文科の光 身に受けて
    日に日に伸ばせ 自らを
    常に楽しく学ぶ吾等
    中野五中 中野五中



■東光寺別院 桜ヶ池不動尊

 上高田4丁目32番12号にある境外仏堂。かつては北側に池があったが、現在は造成されて平地
になっている。境内に拵えた池がある。湧水があるのだろう、チョロチョロ音がしているさ。西に高
くなっているが、西方の高台に氷川神社がある。


■氷川神社

 上高田4丁目42番1号にある大社。上高田一円の鎮守として享徳ニ年(1453)素盞雄の御神
徳を慕う土地の人々が武蔵国一の宮水川神社より御神霊を勧請し、社を建てたのを嚆矢とする。古老
の記憶によれば大正初期本殿の規模は一間四方で、覆屋の下にあって、境内地の面積は470㎡(1
42坪)の小規模な神社。氏子は100戸だったが、大正11年氏子から土地の寄進を受け、境内地
を広げ現在の形態へと発展した。その後新築の計画が立案され、直ちに着工、大正15年遷座祭が行
われ、今日の氷川神社の姿がほぼ完成した。神社は太平洋戦争の戦禍を免れ、敬神の念厚い氏子によ
り、昭和29年には神楽殿が新築された。以後大祭の復活など各種の復興整備が進められ、昭和63
年に宿願の社務所が完成し、上高田一円の鎮守として神威を整えるに及んでいる。
 「新編武蔵風土記稿」に、

   (上高田村)氷川社
   除地百五十坪。東の方にあり。村の鎮守なり。本社は一間四方、拝殿2二間四方、東向にて
   前に鳥居を建つ。
   天満宮
   除地四畝。東光寺の北の方にあり。社は六尺四方南向。小さき鳥居をたつ。
   八幡社
   除地2畝20歩。東北の方にあり。一間四方の社にして南に向ふ。鳥居をたてり。例祭は6
   月17日。
   右の三社何れも村内東光寺持。


 とあり、境内の説明板に、

   当氷川神社は上高田一円の鎮守として享徳二年(1453)素戔鳴尊の御神徳を慕う土地の
   人々が、武蔵国一の宮氷川神社より御神霊を勧請し、お社を建てたのを嚆矢といたします。
   長禄年間(1457~60)太田道灌は、しばしば当社に詣で、松一株を植栽したと伝えら
   れております。この松は目の高さ幹回り約4mの御神木となり大切に保護されておりました
   が、昭和12年枯木となりました。また正保年間(1644~48)に代官野村彦太夫為重
   が社殿の修復をしたと江戸時代「武蔵風土記」に記されております。古老の記憶によれば、
   大正初期(1912~20)本殿の規模は一間四方にて、覆屋の下にあったとの事でありま
   す。当時氏子は100戸、境内地の面積は470平方(142坪)の小規模な神社でありま
   したが、大正11年氏子より土地の寄進を受け、境内地を広げ現在の形態へと発展いたしま
   した。大正12年に至り社殿新築の計画が立案され、直ちに着工、大正15年10月遷座祭
   が執り行われ、今日の氷川神社の姿がほぼ完成いたしました。また昭和10年以降、手水舎、
   鳥居、石燈籠、手水盤、狛犬等の奉献がありました。当神社は不幸な太平洋戦争による戦禍
   はまぬがれたものの、戦後の混乱の中にあって境内の整備は行き届かぬままでありました。
   幸い敬神の念厚い氏子により昭和29年には神楽殿が新築され、以後大祭の復活など各種の
   復興整備が進められました。昭和63年に宿願の社務所が完成し、上高田一円の鎮守として
   神威をととえるに及んでおります。

 とある。

 神輿
 大正15年本殿の遷座祭が行われた後の昭和3年、昭和天皇の即位の大礼が行われた頃より新調の
気運が盛り上がり、神興の選定方策、資金計画等が進められた。昭和8年3月千葉行徳の神輿師後藤
茂助名人が展示用として作成中だった神輿に白羽の矢をたてて交渉、9月に納入された。費用は2千
円で、現在価格にして2億円と推定される。以来祭礼に際し、一大イベントとして隔年、渡御が行わ
れていたが、太平洋戦争が始まり、昭和17年の神田祭を最後に東京の祭りは休止された。アメリカ
の空襲により焼失したものが多い中で、この神輿は幸いにもいずれの災害も免れ、終戦後各地に東京
都復興祭が挙行されるや、いち早く大祭を復活させた。以来その花形として3年に一度の渡御が行わ
れ、今日に至っている。

 表忠碑
 左奥高台にある。この地域人々が、護国のために出征して戦没したことを供養する。日露戦役戦死者2柱、日露戦役出征者、日独戦出征者、満洲事変出征者。
 追刻は、支那事変・大東亜戦争:上高田に現住し、本籍を有する者の家族の英霊97柱。

   皇太子殿下
   
御降誕記念

   
表 忠 碑
   
昭和九年十月建立   陸軍大臣林銑十郎書

 
副碑

   昭和十二年七月月八日盧溝橋に端を発した支那事変も十六年十二月八日大東亜戦争へと拡
   大し、前後九年の長きに亘り、戦も二十年八月十五日遂に終戦となりもって今日に至る。
   往事を回想すれば灌漑に絶えざるものがあり、ここに終戦20周年を迎うるに当り、われら
   有志相謀り、この間の戦没者を顕彰し、且つ永遠の平和を祈念するため、わが上高田に現
   住し、本籍を有する者の家族の英霊97柱の芳名を表忠碑に刻し、更にこの副碑を建立し
   平和の礎として永くその勲を伝えんとす。
   昭和四十年八月十五日 追祀                   上高田英霊顕彰会
                               靖国神社宮司 筑波藤麿書
 

■中野区立上高田運動施設

 上高田5丁目6番1号にある区立公園。


■中野上高田公園

 上高田5丁目7番1号にある区立公園。


■馬頭観音

 上高田5丁目13番2号の覆屋の中にある石像。


■三井文庫

 上高田5丁目16番1号にある、社会経済史々料の保存・公開、調査研究を行う史料館(本館)と
美術品の保存・公開、調査、研究を行う三井記念美術館(別館)からなる非営利の研究機関(財団法
人)だ。史料館の起源は、20世紀初頭に遡ることができようが、昭和40年に財団法人として新た
に発足し、特に公益に資するものとして発足以来、文部科学省から特定公益増進法人(現在の名称)
の認定を受けた。三井文庫の運営は賛助会社からの寄附によって支えられている。寄附してくれぇ!

 三井資料公開
 文庫には、三井財閥の統轄機関だった「三井合名会社・三井総元方・株式会社三井本社」の資料が
保存されている。これらの資料は、従来、未整理・未公開だったが、準備が整ったものから順次公開
することとなり、平成21年に三井合名会社資料の一部200点余を第1回分として公開した。
 続いて同22年11月1日より「三井合名会社資料」第2回分として、秘書課関係と会計課関係を
中心に、約170点の三井合名会社資料を公開した。主な資料としては、「秘書課議案」、「秘牒書
類」、「賓客招待簿」、「会計課議案並報告」などがある。資料年代は、関東大震災以降、昭和15
年の三井合名会社の解散(三井物産に併合)までとなる。

 別館三井記念美術館(中央区)
 5丁目16番にあった。同60年には文化史研究部門(別館)を併設し、数次にわたり三井家伝来
の美術品・郵便切手等の寄贈を受け、またその他の法人・個人からの寄附を受けて研究・公開してき
た。平成17年10月所蔵する美術品を公開するために三井記念美術館を開設したので、そちら移転
し、別館は閉鎖した。

 
三井墓地
 文庫の北側に独立してある。公開はしていない。


七星山光徳院

 上高田5丁目18番3号にある新義真言宗豊山派の寺。本尊は大日如来(金剛界)。亮珍の開山当
時は江戸城の半蔵門のところにあった。寛永寺代に城の拡張のため立ち退きを命じられ、市谷田町に
転じ、さらに牛込柳町に移り、明治43年27代隆和尚の時、現在地に移った。寺宝の千手観音は木
像で、高さ3尺3寸。延喜元年(902)菅原道真が筑紫へ左遷された時、自ら刻んで供養礼拝した
ものだという。ほんとかなぁ! その後久しく筑紫の千手坊にあったが、寛永十三年(1636)越
前宰相松平忠昌に男の子が生まれ、卜者に占わせたところ「千手観音の化体だ」と見立てた。この男
の子、仙菊丸と名付けられ、長じて松平中務大輔昌勝となるのだが、母が夢に、観世音が筑紫の千手
坊にあるのを見、家臣を派遣して越前福井の城中へ迎え、仙菊丸の守護本尊として身体安全息災延命
を祈った。
 その後縁あって中野宝仙寺の14世秀雄法印に預けられた。秀雄は宝仙寺から光徳院に転住となり、
尊像を守護して一宇を建立した。このときから一般の参拝を許すようになった。
 御府内八十八ヶ所霊場58番札所。山の手三十三観音霊場22番札所。


■日照山阿弥陀院
光寺
 上高田5丁目21番5号にある真言宗豊山派の寺。参道左手は勾配のきつい斜面の墓地、桜並木を
抜けると入口だが、山門も門柱もない。入ると左手に現代風の建物で「大日堂」とある。大きな銀杏
が亭々と聳え、木々の緑の間に境内が広がり、四季を通じて自然の息吹が聞こえるような静かな佇ま
いは、地域の人々の憩いの場所として親しまれている。入口際にある池は昔は湧水池だったものを今
に残したものだ。如意宝蔵大龍神を祀っている。また寺を包むように茂るシイの大木は、幹を焼夷弾
で焼かれた古木の根から生え育ったもので、生命の強さ、尊さを教えてくれている。昭和20年の愚
かなアメリカ軍の無差別空爆の煽りを受けて言葉の通り一物も残らず灰燼に帰し、現在焼失禅のもの
は全く残っていない。
 寺は、この地域の人々の菩提寺として江戸時代初期に建てられたようで、檀徒墓地に残る慶安・寛
文・貞享・元禄などの立年を持つ墓石が現存するし、墓地中央にある寛文三年(1663)銘の聖観
音像がそれを推測させる。寺の由緒は明らかではないが、開山は1世法印秀範和尚で、明暦二年(1
656)に入滅している。元禄時代以降は次第にはっきりし、境内に残る数々の如意輪観音座像は、
元禄三年(1690)のもので、村の住人14人により寄進されたとある。当時の上高田村は52石
余の年貢を納めていたに過ぎない貧しい村だっただけに、人々の信仰の熱意を感じる。
 また西武新宿線の踏切際にある庚申碑も寺で護持しているが、今に残る「お日待ち」の行事ととも
に江戸時代の庶民信仰の姿を伝えている。寺宝は、室町時代の木造の地蔵菩薩を除いては、古い遺品
は乏しいが、近代の名品として文化庁より保存を要請された桃山四条派の最後の人坂慶山画伯の仏画
が多数あるし、また近世の名仏師阿井瑞岑師の名作不動明王と薬師如来も祀られていて、いずれも大
切に護持されてるよ。
 なお末寺には、湧水で有名な4丁目桜ケ池不動院(4丁目32番)があり、その名は既に『江戸近
郊道しるべ』にも記されているほどなのだ。

   東光寺
   境内除地、八畝二十六歩。外に六段五畝。小名山の上にあり。日照山阿弥陀院と号す。新
   義真言宗にて中野村宝仙寺末。客殿七間四方南向。本尊薬師の立像長一尺五寸なるを安ず
   開山開基は詳ならず。(新編武蔵風土記稿)

 門柱
 右側に寺号。

 
大日堂
 門を入って左手にある。

   大日堂 豊山七十四世化主宥高

 
慈命観音
 参道左手にある。傍らに、マニ車・龍頭の水盤・ベアーズ(擬人化した小熊2匹の石像)がある。

   慈命観音 縁起
   この観音さまは、「慈命観音」と申し上げ、いのちをいつくしむお心をお持ちの方です。
   ご利益は、息災延命、諸願成就、願いを籠めるどなたにも「寝たきりになるこなく。天寿
   の続く限り、頭脳明晰、元気溌剌で最後は一週間ほどの病いで、家族に看取られながら、
   すっと消えてゆく」といった理想的終焉を守ってくださるよう発願されています。具合の
   悪い方は合掌してから水を掛けるなり、病む個所をたわしで洗い、お祈りしてください。
   真心こめた願う心は、感応道交を生み出しましょう。
   なお左手の廻る石には観音さまのご真言(オンアロリキャソロカ)が刻まれています。一
   回転させれば、ご真言を一遍唱えたことになります。            住職敬白


 
石の重塔
 参道右手にある。

 
如意輪観音石像
 参道右手にある。

 
宝塔と石仏3体
 参道右手にある。

 
新井薬師道標
 参道左手にある。

   
左あらいやくしみち

 
石仏群
 道標左手にある。

 
豊島八十八ヶ所霊場碑
 祖師堂参道にある。

   
豊島八十八ヶ所霊場八十七番弘法大師札所

 
弘法大師行脚像
 祖師堂前にある。

 
祖師堂
 本堂の左前方にある。弘法大師を祀る。扁額は

   遍照金剛
   
東光寺十二世賢三書  賢山
之印

 
水盤
 祖師堂左手にある。大きく「洗心」と刻んである。

 稲荷狐一対
 祖師堂左手、稲荷社前にある。

 
縁起碑
 寺族墓所にある。

   日照山阿弥陀院東光寺 縁起
   東光寺は十五世紀後半、太田氏江戸に集邑の頃より人の住み出した上高田邑の心の拠り処
   として藪中の北原に基礎を開いたと推察される。開山法印秀範和尚の没年は明暦二年(1
   656)以後、宥範・恵範・信元法印と代を継ぎ、享保九年(1724)寂の宥真法印を
   現在の法流初祖として法俊・満盛・照住・亮全・宥浄・浄賢和尚とへて現在に至る真言宗
   覚鑁の一寺である。
   旧記を欠いて初期を物語るものは石仏、石塔、祖信徒由緒書に限られるが、明和五年(1
   768)満盛法印の頃には上高田・新井・片山・葛ヶ谷・打越等の有志の により七間半
   ・五軒半の本堂に引き続き、台所・角居間に造作を落慶するなど当時しては盛んに活動し
   た棟札が記録されている。以後歴史はつまびらかでない。十世宥浄和尚、邑の農業発展に
   尽くし、十一世浄賢和尚、教育事業に意を注目し、重ねて昭和12年本堂再築成満するも
   昭和20年戦火のため堂宇一切を焼亡、烏有に帰す。
   昭和33年前住本堂再建を発願するも中道に遷化す。現住は業を受け継ぎ、爾来祖信徒の
   協力のもと境内を整備し、幼稚園・大日堂・不動院・普賢堂・奥書院・洋風客殿・什物蔵
   庫・祖廟・平和に禱る塔・阿字の墓・慈命観音井戸等を建立、輪奐の美を現在に至す。
   願わくは先師尊霊本尊加護のもと仏法伝播の悲願を支え賜らんことを。
      維時 平成9年9月吉祥日                  謹書

 
山田君碑
 坂本釤之助篆額 昭和9年建碑。西尾豊作譔・書 山田君は東亜商業学校の関係者。

 
阿字の墓(萬霊供養塔)
 墓地にある。中央の球石に梵字のアが刻まれ、右に観音菩薩、左に地蔵菩薩の像が建つ。


 平和に禱る碑・石仏群
 墓地にある。石仏は村のあちこちに散在していたものが、区画整理などで集められたのだろう。


 
地蔵坐像
 墓地にある。

 
六地蔵 2
 道路から墓地に入る左右にある。



■上高田北公園

 上高田5丁目29番1号にある区立公園。


■上高田小学校

 上高田5丁目35番3号にある。校門の両脇にヒマラヤスギが聳え立っている。大正12年の大震
災後、野方村の人口が激増し、野方尋常高等小学校(野方小学校)は狭隘を極め、上高田地区に分校
が計画され、同14年東京府豊多摩郡野方町上高田373番地(現在地)に4教室を野方尋常小学校
の仮教場として建設し、1年より4年まで8学級2部授業を開始した。同15年373~375番地
に亘る2383坪を敷地として木造2階建て1棟校舎竣工。野方第四尋常小学校と命名。昭和7年東
京市野方第四尋常小学校と改称。当時の校歌。

    東の海の空高く
    豊栄登る朝日子や
    その光なす日の下に
    あれこし我らが栄えある生命
    空の緑に照り映えて
    萌えずる野辺の草のごと
    伸びよ 伸びよ 栄えある生命
    強く 明るく 勇ましく


 同13年新井小学校を分校。同16年東京市上高田国民学校と改称。同18年東京都上高田国民学
校と改称。同19年学童疎開。 同20年愚かなアメリカ軍の無差別空爆により校舎焼失。敗戦。学
童帰宅。同22年中野区立上高田小学校。同28年・同29年全国唱歌ラジオコンクール全国大会優
勝。同29年第8回全日本学生音楽コンクール全国大会優勝。同33年ニッポン放送主催学校音楽コ
ンクールに優勝。同41年開校40周年記念式典挙行、新校歌設定。

 校歌
「上高田高く光れ」 作詞・阪田寛夫  作曲・服部公一
  1.上高田 高く光れ
    輝く太陽 空に燃え
    挨拶してる 笑ってる
    金色の蜜蜂たちが
    飛んでくるようだ
    だから光れ みんな光れ
    上高田の子ども
  2.上高田 高く伸びよ
    ヒマラヤ杉が天を指し
    緑の飛沫 噴きあげる
    武蔵野の昔の泉
    今も流れてる
    だから伸びよ みんな伸びよ
    上高田の子ども
  3.上高田 高く歌え
    嬉しい時は 肩を組
    悲しい時も 胸を張り
    素晴らしい未来の夢を
    いつも忘れない
    だから歌え みんな歌え
    上高田の子ども


 
同51年開校50周年。平成18年80周年。


■笠付庚申塔

 上高田5丁目38番1号、西武新宿線の踏切の北、大坂屋野本商店の前に西向きに建つ立派なもの
だ。青面金剛の陽刻、笠は左部分が欠落している。

   享保四己亥(1719)九月吉日 奉造立庚申供養講中祈二世安楽

 とある。この場合の二世とは「あの世」のことで「我が子」のことではないぞ。現在これを中心と
する庚申待ちの講中はのこっていない。石仏としての信仰面では、大変に霊験新たかで、上高田村で
病人が出たとき、特に耳、鼻、喉の疾患は、一心に祈願して、病が治ると底を抜いた柄杓に大願成就
と自分の名前を書いて供えたと伝わってる。東光寺の管理らしい。それなら取っ払われなかろう。


■新井薬師前駅

 上高田5丁目43番20号にある西武新宿線の停車場。昭和2年4月16日西武村山線(西武新宿
線の前身)高田馬場(仮)~東村山間開業と同時にできた駅。
 ホームは地上相対式2面2線構造。急カーブの途中にある。各ホームは跨線橋で結ばれている。跨
線橋にエレベーター・エスカレーターは付いていないが、改札口がそれぞれのホームにあるので必ず
しも渡らなくてよい。改札口・出口は、1番線側の南口と2番線側の北口(6時~22時半)の2ヶ
所。駅事務室と定期券売り場は南口にある。


■東亜学園高等学校

 上高田5丁目44番3号にある私立校。大正12年東亜商業学校(甲種実業男子5年制)創立。
和22年学制改革により学校法人東亜商業高等学校と改称。
東亜中学校併設。同26年野方学園高等
学校と改称。共学制採用 中学校廃校。同28年東亜商業高等学校と復称。同37年創立40周年記
念事業(4階20室、体育館等建設)。同39年「武道」を校技として採用。同40年全教室にTV
受像機を設置し、TVによる朝礼開始。同41年蓼科集団訓練所(現キャンパスロッジ)開設。男子
部・女子部の独立と共に普通科を男子部に設置.類型別コース制採用.制服を背広型に改定。「弁論」
を校技として採用。同45年普通科に体育コース設置。同48年創立50周年記念式典。同50年法
人名・校名を東亜学園高等学校
と改称。同52年小平市に総合グラウンド・合宿所建設。同57年普
通科に共学制採用。同58年創立60周年記念式典。小平校舎・第2体育館建設・テニスコート2面
に拡張。蓼科キャンパスロッジ思静館完成。授業5日制・土曜日をHR活動日として文化教育推進。
同60年小平体育館(トレーニングルーム・ダンス教室)完成。同62年沖縄県知事から平和教育に
感謝状。同63年創立65周年記念式典。
 平成5年創立70周年記念式典。記念事業(校舎内外改修及び塗装等)。同11年蓼科キャンパス
ロッジ完成。同15年創立80周年記念事業として新校舎落成。同16年普通科に特進コース設置。
同19年85周年記念式典。同27年文理コースを総合選抜コースに名称変更。

 校歌「
日に開けゆく武蔵野の」 作詞・東亜商業学校文芸部  作曲・戸山学校音楽隊
  1.日に展けゆく武蔵野の
    野方の春の曙に
    輝く希望
(のぞみ)胸に秘め
    重き使命を担いつつ
    ここに集いし健児らが
    不屈不撓の意気を見よ
  2.炎熱灼くが如き日も
    朔風肌を裂く夜半も
    不断の努力着実の
    歩みはよしや遅くとも
    高き理想を誰か知る
    いざ進まなむ諸共に
  3.分科の潮 逆巻きて
    世は混濁の渦を巻く
    庶莫 光は東
(ひんがし)
    空より来
(きた)る明日の日は
    商戦場裡に名を成して

    母校東亜の名を挙げむ

 
校訓碑
 左に入って左手突き当りにある。「東亜」及び校訓「他人親切叮嚀 自己奮励努力」は、明治の大
実業家渋沢栄一から贈られたものだが、その根底には、私利と公益は、決して相反するものではなく
利他の精神が流れている。

   校訓
   他人親切叮嚀
   自己奮勵努力

   贈校訓 渋澤栄一 大正十二年

 創立者寺本伊勢松と親交のあった渋沢栄一より本校に送られた校訓には、克己心をもって自己の可
能性を開発し、世界へ雄飛しようとする意欲と自立心を涵養し、奉仕の精神を尊重する若者を育てた
いとする願いが込められている。この校訓を解り易く表したものが、東亜学園の教育目的としての四
要締だ。

   東亜学園四要諦
   Ⅰ.自由な精神を持ち独立心旺盛な人間の育成
   Ⅱ.強固な意志を持ち華美流行に流されない人間の育成
   Ⅲ.利他の心を持ち常に努力する人間の育成
   Ⅳ.視野展望を世界に向ける人間の育成

 野球部 甲子園記録(通算5勝3敗)
 昭和61年夏 初戦2回戦敗退 ●
 昭和62年夏 準決勝敗退   ○○○○●
 平成 元年夏 2回戦敗退   ○●
 


【鷺宮】(さぎのみや)1~6丁目                   昭和40年7月1日
 上鷺宮村。同11年「郡区町村編制法」により東多摩郡に編入、同22年「市制町村制」により
野方村大字上鷺宮。同29年豊多摩郡。大正13年町制移行して野方村大字上鷺宮。昭和7年東京
市に編入されて中野区鷺宮3~6丁目。同40年新住居表示法により3丁目の大部分に4~6丁目
の各一部をあわせた町域(西武新宿線以北)を1~6丁目に分けて現行の「鷺宮」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『中野区史』『中野の歴史』など。

 
鷺宮の由来
 鎮守の森に当時はごく普通に農村に居た白鷺が群棲していたことによる。八幡神社が「鷺ノ森の
八幡様」「鷺ノ宮」と呼ばれ、その鷺ノ宮のある村ということで村名となったと説くのは『新編武
蔵風土記稿』。だから鷺宮は若宮(鷺ノ宮駅の南側)にある八幡神社だ!

   風吹けば峰におとなふ琴の音のしらべにかよふ松虫の声
 


■庚申堂
・大師道道標
 鷺宮1丁目1番9号、大師道・野方街道(本町通り)を西北に西武新宿線の踏切を越えた左側にあ
る。元々は100mほど野方の方に戻った三差路(若宮1丁目55番地の東角)にあった。庚申塔は
笠石付の青面金剛 

   正徳四甲午(1714)十月廿八日 奉供養庚申 さぎの宮村 願主8人

 と刻んである。堂の左側に昔のままに大師道の道標がある。左面「宝仙寺」右面「福蔵院」と刻し
ている。但し福蔵院へは直に通じている訳じゃない。何度か曲がらないと辿りつかないし、鷺宮駅の
伸長で切断され、乗り物では辿れない。歩道橋が付いているので辛うじて歩行では可能だ。二つとも
近所の人々の努力で非常によく保存されている。
 


清水山慶運寺

 鷺宮1丁目5番2号にある新義真言宗豊山派の新寺。本尊は不動明王。清水慶運が幸福とはと真剣
に考え、世俗の人生を投げ出して出家、一沙門となり大衆教化に恵心邁進した結果、不動明王のお姿
を開眼鎮霊し、現在地に建立した。あるかないかの寺で、住宅地図には載っていない。仏教連合会に
は登録してある。説法所のようなものだろう。所番地は雲岱荘というアパートで、雲が付いてるから
アパートの大家なのかもしれない。


■わかたけ公園

 鷺宮1丁目5番12号にある区立公園。


■都立家政駅

 鷺宮1丁目16番1号にある西武新宿線の停車場。昭和12年12月25日の開業。当時の駅名は
「府立家政駅」といったが、昭和18年10月1日東京府が東京都になった時に現在の駅名に改称さ
れた。都立家政は、旧東京都立中野家政女学校、都立鷺宮高等学校の前身だ。その都立中野家政女学
校が廃止されたのは昭和21年3月のことだったが、それから約60年経った今でも駅名はそのまま
残っている。地域名として定着しているので、特に駅名を変えようという動きはないようだ。同様の
例は都立大、学芸大がある。
 ホームは地上相対式2面2線構造。各ホームは地下道で結ばれている。改札口・出口は、1番線側
の南口と2番線側の北口(6時45分~21時半)の2ヶ所。駅事務室は南口。


■不動堂

 鷺宮1丁目30番22号にある。何の説明もない。資料もない。

 ●青面金剛
 不動堂の左前に建っている。以前は雑司谷道と中野道の三角地、1丁目30番、31番の接する新
青梅街道上に西向きに建っていた。背丈ほどの角柱。説明板に、

   青面金剛庚申塔
   この庚申塔は、寛政十二年(1800)に上鷺宮村の人たちによって建てられました。塔
   の各面には、一部欠けたところもありますが、それぞれ次の文字が刻まれています。
   ( 右 ) (聖観音菩薩種子)
         サ         聖観世音菩薩  なかのみち        南
   (正面) (青面金剛種子)   天下泰平
         ウン        国家安穏 
青面金剛           西
   ( 左 ) (馬頭観世音菩薩種子)
         カン        馬頭観世音菩薩 そふしかやみち      北
   ( 裏 )  寛政十二庚申    上鷺宮村
                     願主 大野重良右衛門
                              大野浅右衛門
                     當所       拾七人講中     東
   青面金剛は、悪疫を防ぎ、人々の健康長寿を、馬頭観音は牛馬の供養のために、そして聖
   観音には、苦難から救済されるようにとの、三つの願いが一つの塔に込められている珍し
   い石塔です。
   またこの塔には道しるべの意味もありました。もとは新青梅街道となかの道(庚申塔の前
   の道)との三叉路に建てられていましたが、新青梅街道の拡張工事のため、現在地へ移さ
   れたものです。
   平成2年3月                          中野区教育委員会

 とある。都立家政の交差点から東へ50mの追分、新青梅街道の元からあった道が「雑司ヶ谷道」
で、新青梅街道から別れて南に入って行く道が「中野道」だ。
      


■地蔵尊

 鷺宮3丁目8番1号の福蔵院墓地の隅にある。以前はこの地に寺があり、その墓地だった。寺が廃
寺になり、境内は住宅地となってしまったので、福蔵院が預かることになった。前の道は野方街道の
延長の大師道で、福蔵院へ至る。 地蔵は2体あり、何れも石の坐像。それぞれ寛政四壬子(179
2)十月吉日・宝暦十三年(1763)の銘がある。
 


■鷺ノ宮駅

 鷺宮3丁目15番1号にある西武新宿線の停車場。昭和2年4月16日西武村山線(西武新宿線の
前身)高田馬場(仮)~東村山間の開業と同時にできた駅。ホームは地上で、1番線が片面ホーム、
2・3番線が島式ホームの変則2面3線構造である。通常この構造では片面ホームと島式ホームが向
き合っているが、鷺ノ宮駅の場合は1番線ホームが2・3番線ホームに背を向けているのが特徴。下
り列車のみ待避が可能である。改札口は1ヶ所のみで、橋上駅舎内にある。出口は北口と南口の2ヶ
所。北口にはエレベーターが設置されている。高田馬場を出た急行・準急列車が初めて停車する駅。
北口側には、英会話教室などが入居する鷺ノ宮ステーションビルを併設している。


■みよし公園

 鷺宮3丁目19番12号にある区立公園。


■ふるさとの記(故郷の歴史の碑)

 鷺宮3丁目22番5号区立鷺宮図書館の玄関脇植栽の中に建ててある石碑。


■鷺宮小学校
(西中野小学校と統合予定)
 鷺宮3丁目31番4号にある区立校。花と緑が豊かで、水車の水音が聞こえる楽しい環境にある。
明治13年福蔵院を仮校舎として、当時の家塾(篠正元宅)を併せて「双鷺小学校」創立。明治17
年越後屋の北(4丁目34番)に移転。同19年遷喬小学校(江古田小学校)と合体して「江鷺小学
校」となるも折り合いつかず、同21年に分離して「双鷺小学校」に戻す。明治36年「野方西尋常
小学校」と改称。同41年6年制となる。昭和5年創立50周年。上鷺宮174番地に移転。同11
年北原小学校分校。校歌制定。

 校歌
「帝都の西は」
   帝都の西は清閑の 
   名に負う武蔵の只中に
   芙蓉の嶺のいや高く
   閃き立てり日章旗


 同16年勅令148号国民学校令公布により「東京市鷺宮国民学校」と改称。12月日米開戦。同
18年都制施行により「東京都鷺宮国民学校」と改称。同19年学童集団疎開。同20年日本敗戦。
10月疎開解除により学童帰校。

 同22年戦勝国アメリカの強制による学校教育法の施行により「東京都中野区立鷺宮小学校」と改
称。同26年若宮小学校分校。同31年分教場開設。同33年分教場を武蔵台小学校として分校。同
37年分教場開設。同40年分教場を西中野小学校として分校。

 校歌
「朝日に映ゆる武蔵野の」 作詞作曲・明本京静  監修・近衛秀麿  
   朝日に映ゆる武蔵野の
   名もなつかしき鷺宮
   ここに集いてなでしこの
   若き命は伸びて行く

 昭和55年創立100周年記念式典。

 創立百周年祝歌
「ぼくやわたしの鷺の宮」 作詞・田中弦子  作曲・宍戸晴美
   ぼくやわたしの鷺の宮
   生まれて百年 がんばるぞ
   なでしこさらさらゆれている
   おたまがチョコチョコおよいでる


 平成2年創立110周年記念式典。同12年120周年記念式典。同22年創立130周年記念式
典。


■鷺宮児童遊園

 鷺宮3丁目40番12号にある区立公園。


■第八中学校
(第四中学校と統合予定)
 鷺宮4丁目7番3号にある区立校。昭和22年鷺宮4丁目365番地の武蔵丘中学校(武蔵丘高等
学校)内に「東京都中野区立立第八中学校」として
開校。同24年鷺宮4丁目454番地(現在地)
校舎落成。同25年2月校歌制定。校舎(12教室)落成。

 校歌「望めば遥か」 作詞・勝承夫  作曲・平井康三郎
  1.望めば遥か 富士ヶ嶺映えて
    風も緑に希望漲る
    はばたけ若鳥 開ける蕾
    光この窓 吾等が誇り
    中野八中 吾等が誇り
  2.親しき友と集いて此処に
    結ぶ学び舎 愛の故郷
    はばたけ若鳥 開けよ蕾
    はためくこの旗 吾等が力
    中野八中 吾等が力
  3.伸びゆく者の喜び秘めて
    歌う未来よ 夢の数々
    はばたけ若鳥 開けよ蕾
    楽しきこの庭 吾等が母校
    中野八中 吾等が母校


 同32年創立10周年記念式典。同35年鷺宮6丁目596番地に分教場(8教室)設置。同36
年分教場を分離して北中野中学校とする。同37年体育館完成。同41年鉄筋コンクリート造り校舎
落成。同42年創立20周年記念式典。同49年校舎改築。同52年創立30周年記念式典。同54
校舎・校庭間の横断橋完成。バスケットボール部男子全国大会出場。同62年視聴覚教室完成。創
立40周年記念式典。

 平成7年小体育館(格技室)完成。同9年校舎耐震化。同9年創立50周年記念式典。同10年
クールカウンセラーによる教育相談室(カウンセリングルーム)開設。同12年横断橋に屋根取付。
同13年体育館屋根と教室窓の改修。同15年教室にエアコン設置。同18年上校庭人工芝敷設・小
体育館畳入替。学校緊急通報システム設置。
同19年創立60周年。


■笠石付供養塔

 鷺宮4丁目46番の駐車場の西南の角地に、植込みに抱かれるように旧道に面してある。元禄十五
年(1702)二月吉日 奉供養庚申二世安楽の文字と三猿のレリーフが彫ってある。


■供養地蔵尊と庚申塔

 鷺宮5丁目11番3号、旧家早船家の南縁にある。丸彫りだが中程より上は欠損している。放った
らかしで、祀られては居なさそうだ。罰が当たるぞ! 元文三戊午十一月吉日とあるから、1738
年。台石は道標。願主は早船二郎左衛門と大野清右衛門とある。
 笠付の庚申塔は、日月、青面金剛像、邪鬼、三猿、二鶏。「延享二乙丑(1745)十月吉日」。
「武刕多摩郡上鷺宮村」「願主篠太右衛門」「講中二十八人」だ。これも放ったらかしにされてる。
最近は行ってないので、どうなったか心配だ。
                      *
 と思って、平成19年2月初めに行ってみた。畑はブロック塀で囲まれ、角を窪ませて2体を安置
してあった。以前とは随分違う雰囲気だ。まるで住宅地みたいだ。さらに同23年には畑は、樹木が
植えられ庭になっていた。


■若葉公園

 鷺宮5丁目11番13号にある区立公園。


■御嶽神社・子育地蔵

 鷺宮5丁目12番1号にある小祠。前項の地蔵尊と路地を挟んで向いにある。

 
子育地蔵

 神社の東北角の生垣をへこませたところに祀られている丸彫りのお地蔵さんだ。建立日は宝暦九己
卯(1759)十月吉日とある。施主は大野弥三郎に子どもが育たないので、願を掛けて建てたもの
らしい。こちらは、お供えもあり、大切にされていた。
                        *
 向いの11番の地蔵の様子を見がてら行ってきた。生垣はブロック塀に変わっていたが、地蔵の様
子は変わっていなかった。やれやれだ。


■ギャラリー招福民芸館(猫グッズ専門店)

 鷺宮5丁目24番16号招福ビル1階にある。正式名称は株式会社デコールだ。招き猫をはじめ、
2000点を越える縁起物を展示。入場は無料。10時~18時、年中無休。猫グッズを売ってる店
として有名。博物館ほどの種類の招き猫を売ってる店という訳で、個人民芸館ではなく名前は屋号だ
からお間違いなく。 03-3990-5567


■三角広場

 鷺宮6丁目5番1号にある僅かな僅かなスペースの区立公園。


■鷺六公園

 鷺宮6丁目24番22号にある区立公園。


住宅火災 老姉妹焼死

 鷺宮6丁目28番16号の川和宅で、平成27年11月23日5時54分頃出火、近所の人の通報
で消防車22台が駆け付け消火にあたり、約1時間後に鎮火、隣家と2棟70㎡を焼いた。火元の家
の1階から老女2人の遺体が発見されたが、住人の66歳と60歳の姉妹と思われる。場所は西武新
宿線下井草駅の東北約350m、新青梅街道から南へ50mの住宅街。
 


■西鷺公園

 鷺宮6丁目31番1〇号にある区立公園。
 


【白鷺】(しらさぎ)1~3丁目                   昭和40年7月1日
 上鷺宮村・下鷺宮村。同11年「郡区町村編制法」により東多摩郡に編入、同22年「市制町村
制」により野方村の大字 同29年豊多摩郡に所属。大正13年町制移行して野方町の大字。昭和
7年東京市に編入されて中野区鷺宮1~4・6丁目。同40年新住居表示法により2丁目の全部に
4丁目の西武線以南、1・3・5丁目の各一部をあわせた町域を現行の「白鷺」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『中野区史』『中野の歴史』など。

 白鷺の由来
 鷺宮八幡神社とは関係なく東隣の元の別当寺真言宗豊山派福蔵院正幡寺の山号が「白鷺山(はく
ろさん)」から来ている。住民等は〝南鷺宮〟など〝鷺〟か〝宮〟かの字を残したいと考えていた
ところ、偶然福蔵院の山号に気づいた者がいて「しらさぎ」と読み替えて採用した。寺は大永元年
(1521)の開山といわれ、康平七年(1064)に勧請された鷺ノ宮の内懐に建立された。当
時シラサギはスズメやツバメ、カラスと同様ごくありふれた鳥だったから、都鳥(ユリカモメ)の
ように誰れかが珍しがるようなとりではなかった。だから白鷺はシラサギ群れ集う長閑なたたずま
いの鷺ノ宮村の素朴な寺院「福蔵院」だ。


中野近隣騒音殺人事件(白鷺1丁目1番4号)
 昭和57年10月6日午後6時、白鷺1丁目1番6号真弓方アパートに住む日本大学経済学部二部
村田等(22歳)が、その隣家1番4号の森田家に押し入り、食事中だった森田朝子(44歳)、長
男の健(10歳)、次男聡(4歳)をそれぞれ包丁で24ヶ所、18ヶ所、10ヶ所刺とし、さらに
1番6号の家主宅に入り込み真弓正次郎(90歳)の胸を一突きし、続けて次女の貞子(65歳)を
包丁で10ヶ所突いて、合わせて5人を殺害した。その後村田は部屋に戻り、血の付いた衣類を脱い
で着替え、自転車で逃走した。
 その以前、森田家に押し入った時朝子は110番し、説明する前に刺され、「キャッ」と悲鳴を上
げていた。警察はこれを逆探知、警察官を派遣した。逃げ出したものの行く当てのない村田は、近所
をうろついていたところを、不審に思った警察官に職務質問され、あっさり犯行を自供したため、緊
急逮捕した。村田は1年ほど前から真弓方に下宿していたが、半年ほど前から「テレビの音がうるさ
いので静かにしてほしい」と真弓に申し入れていた。同時に森田にも「子供の声がうるさい」と苦情
をいっていた。しかし自分の主張は聞き入れられず、村田は次第に「殺すしかないもの」と思い始め
ていた。犯行の10日ほど前に刃渡り16.5cmの文化包丁を買い込んで犯行に及んだ。
 村田の父親は中学校教師を経て国立市の市会議員、共産党の市議団長も務めており、母親も元教師
だ。村田は父親から一度も叱られたことがなく、母親に甘やかされて育ち、自分の思い通りにならな
いとイライラする性格だった。自宅で一浪して日大の夜間部に進んだ直後、両親から民青(民主青年
同盟=共産党青年部)に入らないかとオルグされた。これ以降親子の関係は断絶し、会話は全く途絶
えた。共産党員の子は親に反発して意外に共産党には入らない。大学3年のとき下宿した。1部編入
を希望したが叶わず、とうとう卒業の年を迎えてしまった。そしてこの頃から奇行が多くなった。下
宿の窓から帰宅途中の小学生に「うるさい黙れ」と怒鳴りつけたり、近所にもしばしば「テレビを消
せ」とネジ込んだ。アパートの隣の部屋の下宿生に連日クレームをつけ、壁を叩いたり、怒鳴ったり
を繰り返して、終に隣室を空き部屋にした。その異常な行為に周辺では「怖い大学生」と評判になっ
ていた。
 家主は2度村田父子を呼びつけて「下宿を引き払ってほしい」と懇願したが、父親は「卒業まで置
いてやってください」と頭を下げるだけだった。
 逮捕の翌日、村田は取調官に、「きょう会社訪問日なんですよ。やっぱり行けませんよねえ」といっ
たという。村田家の人々は「突発的な病気だと思う」と説明した。
 精神鑑定の結果、村田は「幻覚と妄想を伴う破瓜型精神分裂病と診断され、犯行時心神喪失状態に
あったとされた。同58年3月24日責任能力無しとして不起訴処分とし、世田谷区の松沢病院に措
置入院となった。共産党員の子弟だから責任能力ありとすると後々トラブルの元になると考えての処
置だろう。
 驚いたたことに、松沢病院では一度も精神分裂病と診断されておらず、入院当日から「幻覚妄想一
切なし」との診断だ。だからこれから僅か7ヶ月後の10月31日には措置解除となっちゃった。当
日村田に対し「精神保健センターへの通所」で十分としたものの、家族が帰宅を頑なに拒否し続けて
いるため、現在も「家族の希望」で入院したままだ。いわば無期懲役のような形で隔離されている。
家族とすれば厄介を背負うことになるし、また事件でも起こされたら堪らない。村田は3度も殴打事
件を起こしており、「やられた方が悪い。私は被害者た」といったらしいが、それでも病院は正常だ
という。異常でなければ、本人が退院の要求をするだろうに、しないところを見ると居心地がいいの
かも。村田は病院では「人格害者」として扱われているという。共産党員の子は割と凶悪犯罪を犯
すねぇ。そういやぁ共産思想の源流であるイルミナティも魔術だの悪魔教などおかしいや。


■白鷺ネムノギ公園
 白鷺1丁目7番16番にある区立公園。


■長屋門と保護屋敷林
 白鷺1丁目8番~10番にある。長屋門は9番21号の内田家にある。明治14年に建てられその
ままの姿を保っている。この付近は、ケヤキや常緑樹など、見上げるほどの木々が枝を張っている。
中杉通りに面したこの辺りには、武蔵野の防風林の面影が残されている。また生垣や石垣もあり、落
ち着いた感じのするところだ。


■こぶとり地蔵

 白鷺1丁目16番、福蔵院の向かいの角に建っている。「こぶとり」は「小太り」ではなくて「瘤
取り」だ。昔は衛生観念も悪く、いい薬もないから、いろんな病気に罹り、これがなかなか治らなく
て、疣や瘤、痘痕、吹き出物をそのままに生きていた。時代劇を見るとみんなつるんつるんの肌をし
ているが、大半がぶつぶつ顔だった。おいらの曾祖母は江戸時代の人で、絶世の美人だったらしいが
ジャギミッチャ(痘痕面)だったとか、化粧で隠すのに苦労したそうだ。そんな風で、治療はみんな
神頼みしたのだ。神社仏閣が繁盛しなくなったのは、一つに西洋医学が発達したためだ。それで人殺し
も怖がらなくなっちゃった。
 昔話に拠ると、瘤やおできが出来ると、小石を供えて、治るように祈願し、ご利益があって治癒す
ると、団子を供えてお礼するという風習だったとか。今でも小石が供えられてる。地蔵自体も大変素
朴であり、信仰も農村らしい。


白鷺山福蔵院正幡寺

 白鷺1丁目31番5号にある新義真言宗豊山派の寺。本尊は不動明王の坐像。開山を頼珍和上とい
い、大永元年(1521)に寂滅した。そのため『新編武蔵風土記稿』では、この寺の創建を「文亀
・永正の頃(1501~21)なるべし」と推測している。西隣にある八幡神社の鎮座の口碑と同じ
年代であるが、宝暦十二年(1762)隣の神社と共に火災に遭い、堂宇残らず灰になってしまい、
記録は残っていない。明治7年同じ村にあった同宗派の地福院と天福寺を合併とた。境内の鐘楼の梵
鐘に「寛延二年十月」の銘がある。現在の本堂・庫裏は第29代住職星野俊英が住職在世当時の昭和
35年に落慶を見たものだ。本堂右手の鐘楼堂は同38年に完成した。ビルに囲まれて息苦しそうな
寺院が多い中、七堂伽藍が並び立つ大寺院ではないが、現代的なものが目立たず天が広くて江戸時代
にタイムスリップしたかのようである。駒込吉祥寺ほどの広さはないけれども、樹林の中にあるにし
ては陰鬱さがない。
境内に本堂、庫裡、鐘楼、北向地蔵、垢離不動尊などがある。「新鍋ん武蔵風土
記稿」に、

   福蔵院
   除地二百四十坪。白鷺山正幡寺と号す。前の八幡(鷺宮八幡神社)の別当なり。則其御朱
   印地の内にあり。新義真言宗にて、当郡中野村宝仙寺末、開山を頼珍と云、大永元年五月
   示寂、第九世を鏡薫と云、慶安二年八月二十四日寂せり。此僧のとき八幡の御朱印を賜ひ
   しよし、かかる功あるにより中興とす。されば当寺の開基は文亀・永正の頃なるべし。宝
   暦十二年十二月丙丁の災にかかりて、堂宇残らず焼失せしかば詳なることを傳へず。今の
   客殿は其後造りしものなり。其広さ八間ぶ六間半南向、本尊不動の坐像長二尺、二童子も
   長二尺許、運慶の作と云、又は智證大師の作とも云傳ふ。
   鐘楼 本堂の右にあり、九尺四方、鐘のわたり二尺七寸、高さ五尺四寸、寛延二年鋳造せ
   しものなり(新編武蔵風土記稿)。

 とある。

 
十三仏
 山門の脇に、中野区の文化財の掲示板がある十三仏が並んでいる。これは、不動明王(初七日)、
釈迦如来(二七日)、文殊菩薩(三七日)、普賢菩薩(四七日)、地蔵菩薩(五七日)、弥勒菩薩(六
七)、薬師如来(七七日)、観世音菩薩(百箇日)、勢至菩薩(一周忌)、阿弥陀如来(三回忌)、
阿閦如来(七回忌)、大日如来(十三回忌)、虚空蔵菩薩(三十三回忌)をいうんだよ。この13の
仏菩薩は、死後の忌日を司るもので、冥界で生前の審判を受ける死者の救済を願って祀られた。この
ように自他の供養が纏めて修められることから、室町時代以降、民間で広く信仰された。銘によれば
8体は、寛文六年(1666)の大日如来像を最古として、貞享二年(1685)の普賢菩薩像に至
る19年間に造立された。残る5体は破損したものと見られ、現存するものは100余年後の寛政八
年(1796)に真言講中の27人によって再建されたものだ、このように13体揃った石像は都内
でも珍しく、他の石仏と同様、江戸時代後期の日常生活に深く根付いていた庶民信仰の現れといえ、
今でも石仏に向かって手を合わせる人を見かける。おいらも手をあわせたよ。

   福蔵院の十三仏
   ここにならぶ仏菩薩が十三仏です。不動明王(初七日)、釈迦如来(二七日)、文殊菩薩
   (三七日)、普賢菩薩(四七日)、地蔵菩薩(五七日)、弥勒菩薩(六七)、薬師如来(七
   七日)、観世音菩薩(百箇日)、勢至菩薩(一周忌)、阿弥陀如来(三回忌)、阿閦如来
   (七回忌)、大日如来(十三回忌)、虚空蔵菩薩(三十三回忌)です。この十三の仏菩薩
   は、死後の忌日をつかさどるもので、冥界で生前の審判を受ける死者の救済を願ってまつ
   られたものです。このように自他の供養まとめて修められることから、室町時代以降、民
   間で広く信仰されました。
   話によれば八体は寛文六年(1666)の大日如来像を最古として、む貞享二年(168
   5)の普賢菩薩像に至る十九年間に造立され、あとの五体は破損したものと見え、現存の
   ものは、百余年後の寛政八年(1796)に真言講中の27人によって再建されたもので
   す。このように石像で13体そろったものは都内でも珍しく、他の石仏と同様、江戸時代
   の日常生活に深く根付いていた庶民信仰の現れといえましょう。
   昭和56年3月                         中野区教育委員会


 
忠霊碑
 本殿正面樹林内にある。

   忠霊碑
   昭和四十一年九月建立 忠霊堂建立委員会


■鷺宮八幡神社(鷺宮の名の発祥の神社)
 白鷺1丁目31番10号、福蔵院の西隣にあり、区の説明板によると康平七年(1064)に勧請
された応神天皇を祭神として祀る鷺宮一円の鎮守。かつては老樹林立し鬱蒼たる森の中に鎮座してい
た。この森に鷺が群棲し、村の田んぼでは小魚や虫を啄ばむ姿が、雀が舞い飛ぶのと同じようにごく
当たり前の景色として見られていた。このため村人はこの宮森を「鷺ノ森」とか「鷺ノ宮」と呼び、
やがて村の名に採用した。神号も「鷺大明神」と呼ばれたが、正保二年(1645)今川直房がこの
地方を領するに及んで八幡神社と改称したという。江戸時代は幕府から朱印領7石余りを給せられて
いたが、区内では朱印を頂戴した唯一の神社なのだ。境内摂社に稲荷神社と御嶽神社がある。年1回行
われる「鷺宮囃子」は有名で、地域の人たちにより受け継がれている。「新編武蔵風土記稿」に、

   八幡社
   除地六十坪余、南の方下鷺ノ宮村境にあり、上下両村(上鷺ノ宮村・下鷺ノ宮村)の鎮守
   なり。神領御朱印7石余を附せらる。本社四尺に1間南向、拝殿三間半に二間。神体は木の
   立像にて衣冠を着し、馬上に跨りたる形なり。長一尺五寸、外に本地十一面観音木の立像
   長二尺五寸なるを安す。前に石にて作れる鳥居をたつ。古は大木数多ありて多くの鷺やど
   りしゆへ、土人鷺ノ森或は鷺ノ宮などいへり。されば古社なるべけれど、社傳を失ひたれ
   ば其詳なることをしらず。別当は福蔵院なり。

 とあり、区の説明板に、

   当社の創建は康平七年(1064)陸奥守源頼義勅を奉じ、東国平定後鎌倉街道に面した
   当地に社殿を建て、八幡神の御神霊を奉祀し戦勝感謝国家安泰、源氏の隆昌を祈願したの
   が始めであると伝えられる。往昔境内に老樹、林立し鷺が多く棲んでいたので、里人は鷺
   宮大明神と称し、これが地名の起因になった。正保二年(1645)今川直房所領の折、
   八幡神社と改称した。慶安二年(1648)以降江戸幕府より御朱印七石余を寄進せられ、
   中野区内に於て御朱印を付与された唯一の神社で崇敬厚き古社である。戦後宗教法人法に
   より発足し、昭和25年国有境内地3462平米(1049坪)の譲与を受け、同35年
   本殿、幣殿・拝殿50坪天地改築、及手水舎改築、明治百年記念事業として、同40年御
   嶽神社、同42年稲荷神社を堂舎境内に合併改築、同年神楽殿改築、参集殿新築、石塀設
   置、同50年天皇陛下御在位50年記念、狛犬設置、同56年本殿・幣殿屋根葺替え改修、
   同63年天皇陛下御在位60年記念事業として、社殿改修、常夜燈設置等神社の面目一新
   し、今日に至っている。

 とある。

 
稲荷神社

 旧下鷺宮一円の崇敬社で、祭神は宇迦之御魂命。江戸時代には、仙蔵院が別当寺だったが明治政府
の強制により分離した。言い伝えでは、正徳三年(1731)三月午の日に、万吉という村人が京都
伏見稲荷大明神を勧請したといわれている。社号も万吉稲荷と呼ばれていた。

 御嶽神社
 旧鷺宮一円の崇敬社で、祭神は櫛麻知命、木花開耶姫命を祀っている。青梅市の武州御嶽神社の分
社で、元亀三年(1572)悪疫が流行し、上鷺宮ではどこの家にも病人が出てしまった。そこで村
民が相談して、病気平癒を御嶽社に祈願したところ、霊験新たかに悪疫が治まった。このことがあっ
て、村内に御嶽の勧請が行われた。

 
日露戦役紀念碑
 境内左手にある。

   日露戦役紀念碑
   明治三十九年九月
     上下鷺宮中建立
   


■白鷺公園

 白鷺2丁目8番5号にある区立公園。


■白鷺ふれあい公園

 白鷺2丁目10番19号にある区立公園。


■庚申前(五辻)の五体仏(白鷺庚申塔)

 白鷺2丁目35番12号、賑やかな中杉通りの五差路に、庚申塔、地蔵尊、馬頭観音など五体の石
仏がある。明治時代に「流行病」があった時、大変に霊験新たかだったようで、今でも地域の人びと
に大切にされている。戦後はヤンチャ坊主らが悪戯して引き倒したりしてたそうだが、昭和30年頃
に今のように整備され、土地の人々が管理している。右から、
 舟型馬頭観世音、明和三丙戌(1766)菊田孫右衛門 下鷺宮村講中十八人
 駒型庚申塔青面金剛 延享三寅(1746) 二世安楽。鷺宮村講中十五人
 駒型庚申塔青面金剛 正徳二壬辰(1712) 二世安楽 願主同行八人敬白
 舟型地蔵尊 宝暦三癸(1753) 二世安楽 講中廿一人
 隅丸方型聖観音 大正8年 浅草寺写し 菊田兼次郎・菊田銀次郎・菊田倉吉
 「庚申前」というのは、この五差路一帯の小名で、今はいっても判る人はいないそうだ。


■そろの木公園

 白鷺2丁目38番・39番にある区立公園。そろの木は四手(シデ)だよ。武蔵野の雑木林によく
見られた樹木の一つで、白い幹には縞模様があり、滑らかな木肌が特徴。園内に見られる木々は、今
では珍しくなった大きなそろの木だ。この公園の脇には中野区第1号の保護樹林であるそろの木がの
びのびと繁っている。北側にある住宅団地も緑が豊かで、この一帯は鳥も多く集まってくる。この公
園の周辺は、静かな住宅地で生垣や竹林、樹林が多く、家を持ちたい人は一度参考に散策して見ると
おもしろいと思うよ。


■交通厄除地蔵

 白鷺2丁目48番2号の中杉通りに面した堂の中にあり、その横に数体の石仏と庚申塔などが建っ
ている。これらは妙正寺川を改修する時に周辺から集められたそうだ。福蔵院の境外仏堂。
 庚申塔は、寛保二壬戌(1742)九月吉日の建立。地蔵尊(丸彫)は、享保十六亥(1731)
十月吉日の建立。願主は篠勘三郎。この地蔵は、昭和38年頃、旧鷺宮の4丁目415番地の三差路
(白鷺4丁目45番篠家の南辺り)にあった、らしい。

 妙正寺川改修記念塔
 堂の左手にある。

   妙正寺川は昔無名の一野川にして住民は愛稱大河と呼び常に愛し親しまれ沿岸一帯の水田
   の灌漑用水なりしが江戸時代神田川補助用水として江戸城下民の為に供せられ明治初期に
   及び水源池名の妙正寺川と命名され今日に至るまた昭和の初期迄鯉鮒などの淡水魚が多く
   棲息し水流四季を通し常に清く豊かな水量と相俟って社寺付近の仰ぐ老杉鬱蒼たる緑樹梢
   を飛跳去来する野鳥の調声春に萌ゆる緑の草原絢爛競い咲く川堤の櫻など調和ある数々の
   風景の中に更に秋に至れば天高く朝陽に映える遥かに眺む秩父連峰の上に秀麗富士を望遠
   資金に鴨鷺など乱舞する容姿正に一幅の画の如くのどかな田園の景観天地の香り鮮やかに
   示されしが昭和の初期西武鉄道開通以来急速に発展され拓けゆく田畑は市街化に変転戦後
   に至り高層の建築櫛比軒を並ぶるに至るや逐年降雨の度び激しく氾濫沿岸住民浸水の被害
   とみに甚大なるに鏡み区議故塩沢俊一氏等を初め歴代都区議連と相寄り相扶け揺るぎなき
   鉄石の誓いの基に地域住民一丸となり改修促進の切なる叫びを訴え義を起し會を設け切々
   たる陳情請願に及びしこと實に十数回苦節二十数年の久しきに亘り辛酸苦闘煩悩の一途を
   辿る折時の区長上山輝一氏の代、同宿命下に在りし都下各河川関係市区町村等相寄りこの
   窮状打開せんが爲、國及び都に対し改修促進の議を進め組織を結成一大運動を展開官民一
   体の實を挙げ
   捲土重来遂に初期の目的を貫徹多年に亘る住民待望の夢開き悲願ようやく達成を見るに至
   り快なる哉昭和四十三年三月完工を期す関係住民斉しく歓喜感激しこの喜びを未来永劫に
   伝えんと共に悠久不変水禍根絶を期し理想の境地たらんことを祈念し有志相企り聖地を撰
   び本碑を建立す。し
   昭和四十七年十月一日                   妙正寺川改修促進会有志
                                    撰文 中庭正次


鷺宮体育館・鷺宮運動広場

 白鷺3丁目1番13号にある区立公園。

 
「はる」
 体育館入口横の植栽に建つ高聖雅秋作の裸婦像。 


西中野児童遊園

 白鷺3丁目15番5号にある区立公園。


■びんの小さな博物館・ボトルシアター

 白鷺3丁目17番12号にある私設博物館。およそ5万本のビンを収容した「ボトルシアター」。
武蔵大学で教鞭を執る庄司太一のコレクション。現在その館長を務め、新井薬師で骨董露天商も営み
「ビン妖怪」と呼ばれている。著書『びんだま飛ばそ』(パルコ出版)『平成ボトルブルース』(廣
済堂出版)がある。父は蘭学者庄司三男だ。
 そんな訳で開館は不定期、要予約だ。03-3337-8685。11時~16時 300円


■西中野小学校
(鷺宮小学校と統合予定)
 白鷺3丁目9番2号、区の北西部に位置し、南に妙正寺川が流れ、白鷺や鴨が飛来する緑豊かな住
宅地にある。昭和37年鷺宮小学校の分校設置。同40年自立し「東京都中野区立西中野小学校」と
して開校。校歌校章制定。

 校歌
「光はいいな」 作詞・勝承夫  作曲・小出浩平
  1.光はいいな 明るく清く
    胸に希望が湧き上がる 燃え上がる
    みんな仲よし西中野
    自主の気風も溌剌と
    強くやりぬく楽しい力

 同45年創立5周年記念式典。同50年10周年記念式典。同55年15周年記念式典。同60年
創立20周年記念式典。平成元年1年前倒しで創立25周年記念式典。同7年創立30周年同12年
創立35周年記念式典。同14年HP設定。同17年創立40周年記念式典。。    
 


【中央】(ちゅうおう)1~5丁目               昭和42年6月1日
 中野村。同11年「郡区町村編制法」により東多摩郡に編入、同22年「市制町村制」により中
野村大字中野、同29年豊多摩郡。同30年町制移行して中野町大字中野、昭和7年東京市に編入
されて中野区本町通1~5丁目・小淀町・塔の山町・宮前町・仲町・上町・橋場町・宮園通1~5
丁目。同42年新住居表示法により青梅街道以北の本町通1~5丁目・小淀町・塔の山町・宮前町
・仲町・上町・橋場町・大久保通り以南の宮園通1~5丁目・川添町の一部をあわせた町域を現行
の「中央」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『中野区史』『中野の歴史』など。

 中央について
 町が区の中心的な環境にあるとの自認による。しかし区役所は中野区4丁目にあり、豊島区池袋
と同じで区の中心となるべきものは一切ない。このとき大田・江戸川両区に中央、足立区に中央本
町・目黒区に中央町があったのでこっそり登録した。台東区では中央は門前払いしている。中野区
の場合数町を寄せ集めた町域ゆえに、各町が納得する地名となると、この何とも無味乾燥な町名を
選ぶしかなかったのだろう。2丁目に中野一の大寺明王山宝仙寺がある。
 


■「神田川」歌碑

 中央1丁目13番9号にある。大久保通りの神田川に架かる「末広橋」の傍の遊歩道の公園部(区
立公園ではない)に70年代の名曲「神田川」(作詞:喜多條忠)の歌碑がある。同じくかぐや姫の
「赤ちょうちん」と一緒に四畳半ソングと呼ばれていた。「昭和」の匂いの1つだ。曲中で唄われた
「二人で行った横丁の風呂屋」のモデルとされる銭湯はもう少し下流の西早稲田3丁目にあった。全
く日常に使わないから、アクセント、イントネーションが違う。無理ないよな。
 平成になってからは銭湯も随分減って、大規模なスーパー銭湯に様変わりしつつあり、風呂桶の中
に入れた石鹸のカタカタ鳴る音がもの悲しいなんて、今の人にはピンと来ないだろう。
 こないだ舞台の時代劇を見たが、今は死後となってる江戸時代の言葉は、全く日常に使わないから
アクセント、イントネーションが出鱈目に違う。無理ないよな。

 今の人は銭湯帰りに近くの公衆電話から掛けた故郷への電話、落ちてゆくコインの音と重なって淋
しく心に残るっていっても、公衆電話、ピンク電話、赤電話ってことが死語だ。老いた人には曲のイ
ントロがかかると鼻の奥がツンとなる。
 神田川は井の頭公園の池が源流って知ってるか。御茶ノ水駅近くの聖橋が架かっているのも神田川
で、両国橋のところで隅田川に注ぐ東京都の一級河川だ。今は随分綺麗になって、昔の「ちょっと汚
くて貧しい感じ」のイメージもなくなったね。

   神田川
   貴方はもう忘れたかしら
   赤い手ぬぐいマフラーにして
   二人で行った横丁の風呂屋
   一緒に出ようねっていったのに
   いつも私が待たされた
   洗い髪が芯まで冷えて
   小さな石けんかたかた鳴った
   貴女は私のからだを抱いて
   冷たいねって言ったのよ
   若かったあの頃
     なにも怖くなかった
   ただ貴方のやさしさが怖かった

         作詞 喜多條 忠
         作曲 南こうせつ

 時計塔
 碑の側に建っている。
      


■田替橋親柱

 中央1丁目14番1号先の桃園川緑道に記念碑のように4本残されている。


■小淀橋親柱

 中央1丁目16番6号先桃園川緑道に記念碑のように4本残されている。
 青梅街道の淀橋の横にも同名の橋があったようで、要約するが、

   本郷村地内で分岐した用水に架かっていたのが小淀橋。「本郷村絵図」に淀橋と並んで描
   かれている橋で、江戸時代からそう呼ばれており、「武蔵名勝図会」は「淀橋より往来十
   八間をへだて、小溝に架す」と書いている。「江戸名所図会」に「淀はしハ成子と中野と
   の間にわたせり、大橋小橋ありて・・・・」とあるように、淀橋とワンセットの小さい方
   の橋の意だった。その規模は「豊多摩郡誌」(大正5年)では「構造石造 延長三間幅員
   三・五間」となっているが、「中野町誌」(昭和8年)の橋梁リストには登場しない。代
   わって名所旧跡の項に、「近年道路改修の際埋められて全く形を失えり」とある。「江戸
   名所図会/淀橋水車」に「成子宿と中野村との間に架す。大小二橋ありて、橋より此方に
   水車あり。昔大将軍家此地に御放鷹の頃、山城の淀に準擬、此橋を淀橋と唱べき旨上意あ
   り、因て號とすといへり」「舊名は面影の橋、姿見ずの橋なども呼たりしとなり」


 こんなブログがあった。
 淀橋から西の中野区の角に淀橋の親柱と同じデザインの小振りな
親柱様のものが残っている。これがその小淀橋なのか?


■成趣園 → 山岡鉄舟邸跡
→ 後伏見宮別邸 → 鎮国山高歩院
 中央1丁目17番3号の高歩院は、明治になって山岡鉄舟が一時住んだ屋敷跡の一部だ。鉄舟の住
む前は加太氏の別荘だった。加太氏は、江戸12商の一人といわれる麹町の豪商伊勢八(伊勢屋八兵
衛)だ。鉄舟の跡は、後伏見宮の別邸となった後、高歩院となった。高歩は鉄舟の諱。たかゆきと読
んだ。いまでも安積良斉が選し、巻菱湖が書いた「成趣園記」なる碑がある。それによると、この地
は古くから加太氏の所有で、通称小淀山は老松古梅鬱蒼として昼なお暗く、里人は天狗が住むと恐れ、
天狗山と呼んで通行する人もなかったという。良斉は加太誠之の依頼で天保十一年(1840)に碑
文を書いたのだが、その誠之の父八兵衛が小淀山に初めて斧を入れ、数室の雅致に富んだ家を建てて、
これを成趣園と命名したという。以下に銘文全文を記す。

 
  成趣園記
   加太誠之、性醇謹、從予而學。一日来請曰、西郊有先人弊墅在焉。先生一遊、而為之記、
   使吾兄弟子孫不忘先人之澤則幸矣。
   予不忍違其請、相随而去。從四谷可半里、有村曰中野。其北邱陵蜒蜒而起、草樹森欝、覺
   有異境。曰小淀山。即成趣園也。園為加太氏之有久矣。而蕪廢不治、其先人始剪◇榛莽、
   構堂數間。頗雅潔。繚以矮垣、緑野平林村落之勝、可坐而玩。
   堂之南栽梅數十株、花時皎如玉雪、清香拂拂襲人。堂之北喬松成林、老幹矯然、作蒼龍挐
   雲状。自松林東迤而下、蔬圃連畛。其南引渠水以爲池、泓澄彎環、雲天落鏡。池畔置天妃
   祠、怪石錯峙。檉柳楓松之屬、扶疏成蔭、與水光相映帶。祠後土山隆起。西則峭崖壁立、
   喬柯蔽天。其下巨窟呀然、疑有神物蔵其中。
   此皆可以盪塵襟、怡神觀、憺然忘歸。而規畫布置、清遠蕭閒、純乎天趣、不肯加土木雕飾
   之巧。固非居于市井、而争贏利於刀錐之末者、所能領解也。
   蓋先人儉乎身、勤乎業、家道益裕。而惟文史自娯、常喜誦陶淵明歸去来辭、暇即徜徉山庄
   之中、灌花鉏菜、自以爲天下至樂。視世之衣帽華鮮、沈酣於聲色、而相誇以奢靡者、氷炭
   在襟、夷然不屑。故其經營之法亦類其為人。豈不尤可嘉也哉。
   因謂成立之難如升天、覆墜之易如燎毛。誠之兄弟子孫、能継先人之志、夙夜兢兢、惟勤儉
   是守、而不流於奢傲、則加太氏與茲園、將亘百世、而益榮矣。可不勉哉。
   昔蘇東坡記靈壁張氏園亭、推其先人之澤、而望子孫以修德。予雖非其人、然擧而告之者、
   亦惟欲使子孫不失先人之業焉爾。先人諱惟孝、有二子、長孝成、次即誠之、皆好學云。
   天保十一年庚子春二月                 艮齋安積信撰 菱湖巻大任書

 読み下し文

   成趣園の記
   加太誠之、性は醇謹、予に従いて学ぶ。一日来り請いて曰わく、「西郊に先人の弊墅在る
   有り。先生一遊し、而して之が記を為(つく)りて、吾兄弟子孫をして先人の沢を忘れざら
   しむれば、則ち幸いなり」と。
   予其の請いに違うるに忍びず、相い随いて去る。四谷より半里ばかり、村有りて中野と曰
   う。其の北は邱陵蜒蜒として起こり、草樹森欝、異境有りと覚ゆ。小淀山と曰う。即ち成
   趣園なり。園は加太氏の有と為りて久し。而れども蕪廃して治めず、其の先人始めて榛莽
   を剪◇し、堂を数間に構う。頗る雅潔なり。繚らすに矮垣を以てし、緑野平林村落の勝、
   坐して玩すべし。
   堂の南に梅を栽うること数十株、花時には皎として玉雪の如く、清香払払として人を襲う。
   堂の北は喬松林を成し、老幹矯然として、蒼龍雲を挐くの状を作す。松林より東のかた迤
   (ゆ)きて下れば、蔬圃(そほ)畛を連ぬ。其の南は渠水を引きて以て池と為し、泓澄彎環、
   雲天鏡に落つ。池畔に天妃祠を置き、怪石錯峙す。檉柳楓松の属、扶疏(ふそ)して蔭を成
   し、水光と相い映帯す。祠後に土山隆起す。西は則ち峭崖壁立し、喬柯天を蔽う。其の下
   には巨窟呀然として、神物の其の中に蔵する有るかと疑う。
   此れ皆以て塵襟を盪(あら)い、神観を怡(よろこ)ばしむべく、憺然として帰るを忘る。而
   して清遠たる蕭間、純乎たる天趣を規画布置し、肯えて土木雕飾の巧を加えず。固より市
   井に居りて贏利を刀錐の末に争う者の能く領解する所にあらざるなり。
   蓋し先人、身、倹にして、業に勤め、家道益ゝ裕かなり。而して惟だ文史のみ自ら娯しみ、
   常に陶淵明帰去来の辞を喜誦し、暇あれば即ち山庄の中に徜徉し、花に灌ぎ菜を鉏き、自
   ら以て天下の至楽と為す。世の衣帽華鮮、声色に沈酣し、而して相い誇るに奢靡を以てす
   る者に視(くら)ぶれば、氷炭襟に在るとも、夷然として屑(いさぎよ)しとせず。故に其の
   経営の法も亦た其の人と為りに類す。豈に尤も嘉(よみ)すべからざらんや。
   因りて謂う、「成立の難きは天に升るが如く、覆墜(ふくつい)の易きは毛を燎(や)くが如
   し」と。誠之兄弟子孫、能く先人の志を継ぎ、夙夜兢兢、惟だ勤倹を是れ守り、而して奢
   傲に流れざれば、則ち加太氏と茲の園と、将に百世に亘りて益ゝ栄えんとす。勉めざるべ
   けんや。
   昔蘇東坡、霊壁(れいへき)の張氏の園亭を記し、其の先人の沢を推し、而して子孫の以て
   徳を修むるを望む。予其の人にあらずと雖も、然れども挙げて之を告ぐるの者、亦た惟だ
   子孫をして先人の業を失わざらしめんと欲するのみ。先人諱は惟孝、二子有り、長は孝成、
   次は即ち誠之、皆学を好むと云う。
   天保十一年庚子春二月           艮斎安積信撰す 菱湖巻大任(おおに)書す


 とある。鉄舟がここに何時から住んだか判らないが、明治6年には住んでいた記録があるから、慶
喜に従って住んでいた静岡から上京した同4年からだろう。
 同11年8月「竹橋騒動」があり(あるいは明治6年の皇居炎上の時ともいう)、その報に接する
や、明治天皇の傅役(養育係)だった鉄舟は着換えの余裕もなく寝衣に袴をつけ、腰に一刀をたばさ
んで、馬を駆って馳せ参じ、御宸慮を安じ奉った。しかしその時「側近に奉侍すべき身が、急場の間
に合い兼ねるような遠い所にいたのでは恐懼に堪えぬ」と感じ、四谷の仮御所(迎賓館)の真近に居
を移し、小淀の方は伏見宮家に献上し、以来その別邸となっていた。伏見宮別邸となってからは大正
天皇の御幼少時代に何回か御来遊のあった由緒ある屋敷も、星還り歳移って昭和17年には大阪の一
老人の手に渡ってしまった。老人は以上の謂れを知って、その中心部の池を環る一角「成趣園」を、
当時臨済宗管長だった関精拙禅師に寄進した。精拙はここにおいて「乃ち一茎草を挿んで鎮国山高歩
院と名づく」る「鎮国の道場」を建立しよう発願して、広く同信同願の士に助力を求めた。それで池
中の島上に六角堂を営み、鉄舟の念持仏であった聖観世音菩薩像及び鉄舟居士の位牌を祀り、一面。

   この聖蹟史跡を後世に遺し且つ鉄舟居士尽忠報国の真精神を顕揚して、やがて鎮国の霊場
   とも成し得れば


 と考えた。翌年5月落慶するも、同20年の愚かなアメリカ軍の無差別空爆によって、その鬱蒼た
る後背林は跡方もなく消え、また精拙が龍王池と称した池も潰え、紛争の結果、敷地も縮少して、今
は僅かに250坪の地に、建坪41坪の見る影もない文字通りの茅庵となった。檀家はなく、墓地も
なく、同22年ころはただ焼け残りの書院があるのみで、寺財とて悉く焼失し、正にボロ鉄といわれ
た「高歩に傚う」には持って来いだった。精拙は、滴水禅師を勧請開山とするつもりで、自らは「高
歩第一世」の印まで彫っていたが、和尚遷化ののち牧翁管長、無文老師等と相談の結果、精拙和尚を
開山とした(高歩院縁起)。高歩は鉄舟の本名「たかゆき」である。なお寺院の扱いを受けてないのか、
中野区の寺院には載っていない最小の禅寺、鉄舟会禅道場だ。


■ゆりの木公園

 中央1丁目20番9号にある区立公園。


■小淀公園

 中央1丁目24番4号にある区立公園。


■高稲荷
・中本稲荷(中本一稲荷)神社
 中央1丁目35番2号、賑やかな青梅街道沿い中野坂の途中にある。急な石段を登ると小さな祠。
鳥居から見ると西新宿がすぐだ(直前に再開発ビルが建っちゃっいて景観は台無しだ)。中本一とは
中野本町一丁目の略。以前はそういう住所だったのよ。こんなところに残されていること自体不思議
だが、ということは、逆をいうと戦前は弩田舎だったっちうこっちゃねえ。山手通りと青梅街道の拡
張で、中野坂上の一円は大激変だ!


「波光」

 中央1丁目38番1号住友中野坂上ビルのオープンスペースにある五十嵐威暢作の大きな鉄のオブ
ジェ。


■第十中学校
(第三中学校、第五中学校と統合予定)
 中央1丁目41番1号にある区立校。昭和29年「東京都中野区立第十中学校」として開校。堀越
高等学校の校庭を借りて入学式。7月校舎落成。同30年4月第一期校舎増築。同31年2月第二期
校舎増築。校旗樹立。校歌制定。宝仙学園講堂にて発表。

 校歌
「背には時代負い」 作詞・谷田慶子  作曲・中村茂隆 2人とも同校教諭だ。
  1.背には時代負い 手には友を抱き
    大きな輪を作る 皆一つになって
    熱情と理知とを悉く合わせ
    結び合う力は 我らの富と宝
    若者の行くところ
    緑の旗がはためく
    生きる名誉を証しするために
    その旗は中野十中の旗
    天に届けよ 
  2.昨日は今日を思い 今日は明日を望み
    はてしない理想を 高く懸けて進む
    遥かな行く手には 知恵の山と海
    我らの前には常に新しい道
    若者の行くところ
    明るい歌が湧き起こる
    進む未来を指し示す為に
    その歌は中野十中の歌
    世に轟けよ

 同34年第三期校舎増築。同35年区中学校連合陸上競技大会で男女とも総合優勝し完全優勝。男
子400mリレー中学日本新記録。全国大会優勝 800mリレー全国大会入賞。同36年中野科学
センタ科学教室設置。新体育館完成。区中学校連合陸上競技大会で男女とも総合優勝し完全優勝連覇。
同37年鉄筋コンクリート3階建て新校舎落成(旧館)。区中学校連合陸上競技大会で男女とも総合
優勝し完全優勝3連覇。同38年創立10周年記念式典。同41年9月25日台風26号被害(ガラ
ス107枚、屋根瓦30枚破損 樹木4本、焼却炉煙突倒れる)。区総合体育大会女子バレーボール
部優勝。同42年区サッカー新人戦優勝。同43年完全給食開始。都中学校陸上競技地区大会におい
て1年女子400mリレー優勝。同49年新校舎落成。創立20周年記念式典。同53年クラブハウ
ス、備蓄倉庫、藤棚完成。同58年区総体陸上競技大会において2年女子400mリレー優勝。都新
人戦男子バレー部優勝。LL教室設置。同59年区剣道大会低学年部優勝。男子バレー関東大会ベス
ト8。全国大会初戦敗退。創立30周年記念式典。

 三十周年賛歌
「さやかに流る」 作詞・辰野雄一(3年生)  作曲・瀬崎由美(3年生)
    清かに流る神田川
    空には高層ビルの群れ
    常に弛
(たゆ)まず行くところ
    中野十中三十年
    あゝ輝き匂う我が母校

 平成3年体育館内部改修。固定舞台新設。緞帳暗幕新調。同4年学校週5日制導入(第2土曜日休
業)。給食室全面改修。同6年創立40周年記念式典。同8年教室にテレビ設置。同11年男子バレ
ーボール部春季区大会優勝。同13年区総合体育大会陸上女子リレー優勝。男子剣道団体優勝。同1
4年男子剣道春季大会団体優勝。同15年区総合体育大会女子剣道団体優勝。同16年創立50周年
記念式典。


■宝仙寺三重塔跡

 中央1丁目41番1号に石碑がある。かつて第十中学校構内に建っていたが、現在は金網で区画さ
れている。字名の塔山は、三重塔こ因んだものだ。写真を見ると森に囲まれた原っぱの中央に建って
いる。周囲に疎らに木が植えられている。自然木で仏教的意味を持って植えられているそうだ。この
境内には遊具が据えられていたが、土地の人は公園ではないといい、公園と呼ばれることを酷く嫌っ
たそうだ。
 三重塔は、寛永年間(17世紀前半~中葉)の建築で、高さ24m、屋根は檜皮葺で、江戸近郊で
唯一の三重塔だったという。17世紀半ば(宝暦の頃)に一度焼失し、18世紀末(安永年間)に再
建されたが、昭和20年5月25日のアメリカ軍の無差別な爆撃により焼失、現在第十中学校の西北
の角地に跡碑が建っている。惜しくも昭和20年5月の愚かなアメリカ軍の無差別大空襲で焼失した。
残されている写真や実測図から、池上本門寺五重塔、上野寛永寺五重塔と並んで、江戸時代初期の典
型的な建造物であったことが判る。古記録によれば、中野村の飯塚惣兵衛夫妻が施主になって建立し
たとあり、かつては夫妻の木像が塔内に安置されていた。当時三重塔を造るのは貴族・上級武士が施
主となるのが通常なので、地元の農民が施主になったという点でも、極めて特筆されるものでもある。
平成4年3代目の三重塔が宝仙寺境内に建てられた。


■庚申堂
 石神じゃないよ!
 中央1丁目41番1号、第十中の西側、三重塔の近くにある。瓦屋根コンクリート造りでちゃんと
したものだ。庚申塔は、青面金剛、「あおづらきんたけ」と読むんじゃないよ。「しょうめんこんご
う」と読むんだよ、恥かくからな。笠付円筒型で、宝永五戊子(1708)十月吉日 奉供養庚申講
為二世安楽」、「二世安楽」とは「子供たちの安全」じゃないぞ。「あの世でもよろしく」ってこっ
た。堂宇は戦後に建てられたものだ。この庚申は愚かなアメリカ軍の無差別空爆でもろに被弾し、破
損極めて著しく、講中が破片を集めてコンクリートで棒状にしたもので、「石棒さま」とはいうもの
の、最初からこの形だった訳ではない。アメリカに対する日本人の深い遺恨が込められて荒ぶる神と
なっている。由緒を尋ねる人は、石神信仰の一例と誤解するかも知れない。しかしこれは紛れもなく
霊験今猶続く、歴とした庚申塔なのだ。土地の人は、同舎の周りを掃き清め、撒水し、敬虔な誓願を
続けている。元々村人にによって庚申講が作られ、その行事が慣習化され受け継がれていたが、その
守り本尊がこの石仏だった。今次大戦のアメリカ軍の愚行によって破壊されたため、刻字は全く読む
ことは出来なくなったことは残念だが、話によると、場所は数回替わっているようだ。戦前までは現
在地から南へ70mほどのところにあったようだ。この信仰母体ともいうべき講や寄合は戦後の事情
で解散したが、近隣の篤信の人々によって、供養の行事が続けられていることは極めて珍しいことだ。
権力は国民の過去を絶ち切って、権力に都合のよい国民に仕立て上げようとしているが、どっこいそ
うはいかないのだろう。国民の逆襲は必ずあるということの証明だ。


■塔山小学校

 中央1丁目49番1号にある区立校。山手通りと大久保通りが交差する宮下交差点の側にある。か
つては山手通りはなく、桃園川の南に面した長閑な田舎の学校だったが、十中のとこの三重塔もなく
なって、昨今は山手通りも拡張して大喧騒の中の学校になっちまったよ。
 大正15年「豊多摩郡桃園第五尋常小学校」として創立、桃園尋常小学校及び桃園第二尋常小学校
から分離収容開校する。昭和16年勅令148号国民学校令により「東京府東京市塔山国民学校」と
改称。校名の由来は「三重塔のある山」から、この辺りの小名を「塔の山(とうのやま)」といった
ことによる。同18年都制施行により「東京都塔山国民学校」と改称。同20年愚かなアメリカ軍の
無差別空爆により校舎全焼。8月日米戦争敗戦。
 同22年占領軍アメリカの強制による学校教育法の施行により「東京都中野区立塔山小学校」と改
称。仮校舎完成。同25年新校舎5教室落成。同
29年プール完成。同30校舎完成。同40年創立
40周年記念式典。同42年体育館落成。
同50年創立50周年記念式典。同60年創立60周年記
念式典。
 平成7年創立70周年記念式典。同17年創立80周年記念式典。同20年キッズプラザ開設。

 校歌
「おたがいに」 作詞・清水重道  作曲・信時潔
  1.お互いに励まし合って
    健やかな社会を作ろう
    そうだ伸び伸びと
    科学する力を養う
    塔山の子供に
    新しい知識が輝くよ
  2.お互いに敬い合って
    清らかな日本築こう
    そうだ しみじみと
    人の道 歩み窮める
    塔山の子供に
    新しい理想があふれるよ

  3.お互いに労わりあって
    朗らかな世界守ろう
    そうだ 溌剌と
    塔山の子供に
    新しい生命が微笑むよ



■桃園川緑道

 中央1丁目50番にある桃園川暗渠上スペースを利用した区立公園。

 
中野三重塔図の碑・翼のオブジェ
 中央1丁目52番7号先緑道植栽にある。


■中野坂上駅
 中央2丁目1番2号にある東京メトロ丸の内線の停車場。昭和36年2月8日荻窪線(丸ノ内線)
新宿~新中野間延伸時に開業した。同時に、方南町支線の中野坂上~中野富士見町間も開通した。大
江戸線は平成9年12月19日に乗り入れた。丸ノ内線のホームは島式2面3線構造で、青梅街道の
地下2階にある。中線の2番線は方南町支線の列車が使用し、どちらのホームからも直接乗り換えら
れるように、電車は両側のドアを開けて待っている。方南町支線の列車はワンマン運転を行っている
ため、2番線にのみホームドアが設置されている。ホームと改札階を結ぶエレベーターは未設置だ。
改札口は2ヶ所で、出口は1・2番、山手通り地下に建設された都営大江戸線とは地下で連絡してい
る。


■中野坂上駅
 中央2丁目2番28号にある都営地下鉄大江戸線の停車場。平成9年12月19日都営地下鉄12
号線の開業と同時に開業した。同12年4月20日大江戸線と改称。

 駅は中央環状新宿線の直下にある。駅名併称は「実践学園中・高等学校前」だが、到着時の案内放
送では「堀越学園、宝仙学園へお越しの方は、こちらでお降り下さい」と流されている。第十中学校
宝仙学園より遠いが、東京地下鉄丸の内線とは地下で繋がっている。
平成21年1月頃から、駅名標
の下に「東京工芸大学前」の副名称板が設置された。

 ホームは島式1面2線で、地下5階にある。そのため改札口からホームまでのエスカレーターが非
常に長いのが特徴だ。
改札口は1ヶ所。出口は1・2・A1・A2の計4ヶ所。エレベーターはA1
出口にあるが、丸ノ内線の改札には行けない。

 
「未来の扉」
 一つしかない改札前の壁画(銅版レリーフ)。壁面が本棚で占められ、その中央に存在感たっぷり
に配置された扉。そして、書棚のあちらこちらに歩く猫。猫の愛らしさにほっこりしつつ、中央の未
来への扉をあけてみたくなる、そんなアート。


■さくらの名所
塔の山公園
 中央2丁目7番にある区立公園。桜の木が公園の中央にあったり、園内の坂道に笹の植え込みがあ
るなど、よい散歩道となっているよ。字塔山にあるのでその名があるが、公園の中に三重塔が建てて
あった訳ではない。
 

■白玉稲荷

 中央2丁目8番24号、山手通り沿いの人々で賑わう場所にある。元々は宝仙寺境内にあったが、
明治維新後の神仏分離の際に、ここに分社され、以後この地で崇められてきた。ここの石鳥居には、
「奉納 歳豊饒 小下中」「明治十四年己十月」そして願主として浅田甚右エ門以下50人の氏名が
刻まれている。この文は、浅田澱橋を介して、明治の初め頃の漢学者南摩綱紀の依頼によって成瀬泰
域が書いたもので、その書風は、区内の金石文のなかでも風格のある名筆といわれている。

   白玉稲荷神社の鳥居
   白玉稲荷神社は、もとは宝仙寺境内にありましたが、明治維新後の神仏分離の際に、ここ
   に分社され、以後、この地であがめられてきた社です。
   この石の鳥居には、「奉納 歳豊饒 小下中」「明治十四年己十月」、そして願主として
   浅田甚右ヱ門以下五十人の氏名が刻まれています。
   青梅街道に面した家いえは江戸時代末期、半商半農の生活を営んでおり、問屋場の置かれ
   た街道筋には人家も多く、村内は上・中・下の三宿に分けられていました。鳥居に刻まれ
   た「小下中」というのは、下町をさらに大・小に分けた内の小下組中という意味で、この
   近辺が小下に属していたのでしょう。この文は、浅田澱橋氏を介し、明治の初め頃の漢学
   者 南摩綱紀の依頼によって成瀬大域が書いたもので、その書風は、区内の金石文の中で
   も風格のある名筆といわれています。
   この鳥居に刻まれた金石文によって、地名の移り変わりがわかるとともに、この地に住ん
   でいた有力者たちの姿を想像することができます。
   昭和58年3月                         中野区教育委員会

 ●
馬頭観世音

 境内にある。「七拾番 讃岐国大山寺写 (梵字)本尊 馬頭観世音 文久□壬戌二月吉日」とあ
る。□は剥落しているが、文久の壬戌は「二年」なので□は「二」と考えて間違いない。碑面の下方
に弘法大師の法体像が半肉彫りに陽刻されている。この碑は馬の供養のために建てられたことは明ら
かだ。この形式と似たものが宝仙寺に10体ほどある。何れも大師信仰に基づく四国八十八ヶ所巡礼
の記念の意味を持つものと考えられる。この観音像は馬祭りの行事を偲ぶ人たちが、この文久二年の
ものを記念として残したものではなかろうか。

 ●
常明灯
 戦火を受けて焼けただれた。白玉稲荷神社は、元は宝仙寺境内にあったが、明治維新以後の神仏分
離の際に、現在の場所に分社された。だが今も繋がりはある。 


■塔ノ下橋親柱
 中央2丁目19番6号先桃園川緑道に残る橋の遺構。


■東雲橋
 中央2丁目22番13号先桃園川緑道に残る橋の遺構。


■宮前橋親柱
 中央2丁目23番5号先桃園川緑道に残る橋の遺構。宮前の宮が見当たらない。宝仙寺はあるが、
神社は無い。


■宝仙橋親柱
 中央2丁目27番9号先桃園川緑道に残る橋の遺構。南に向かうと宝仙寺にぶつかる。


■宝仙学園(幼・小・中高・大学)
 中央2丁目28番3号に中学高等学校が、中央2丁目33番26号に幼稚園・小学校・こども教育
宝仙大学がある。
 昭和2年、緑深い中野の杜に感応幼稚園が創設され、翌年中野高等女学校が設立された。宝仙学園
の誕生だ。学園の創設者は、宝仙寺第50世住職冨田大僧正だ。当時寺院が学校を経営し、しかも女
子教育を行うことは、画期的なことだった。でも寺は、道場であり、学ぶところで奈良仏教ては、修
行僧を学生(かくしょう)というんだよね。

   そもそも寺院は法事のみを執り行う所にあらず。社会に奉仕するも寺院の使命。さらに
   古来、諸国に国分寺が置かれ、近世における寺子屋と呼ばれる頃までそこは国民教育の
   場であったように、寺院は教育の源泉であり、社会の中枢に位置する存在である


 これは、中野高等女学校設立趣意書の一文だ。創立者は、寺のあるべき姿を思考し、そこに教育事
業を見出されたのだ。境内を長らく占拠していた中野町役場が立ち去った後の建物が寄贈されたとい
うこともある。
 富田住職が教育事業を選ばれた背景には、真言宗の開祖・弘法大師の教えがあった。平安時代の初
期、弘法大師によって日本で初めての私学「綜藝種智院(しゅげいしゅちいん)」が創設された。高
校の「日本史」で習ったろう。その頃は、地方に国学(学校)が設置されていたが、そこは東京大学
と同じで官吏を養成するための機関といった色合いが濃く、教育も儒教中心の教育だった。しかし綜
藝種智院では、大師の思想が色濃く投影され、広く庶民にも門戸が開かれるとともに、教育も凡る学
問を探究する、自由闊達な全人教育が行われた訳よ。弘法大師にほれ込んでた富田住職は、綜藝種智
院を理想の教育機関とみなし、自ら教育事業に取り組むに当たって、大師の思想を根底に置いたって
え次第さ 富田住職が目指す教育は「人間教育」だ。

   教育は人を養成するものであり、知識のみを植えつけるものではない

 というのが富田住職の教育理念で、この人間教育を実践するため、富田住職は「宗教的信念を根底
とする人格教育の達成」を教育目標に定められた。宗教的信念を得た人間は、どのような社会事情に
遭っても、自らの力で人生を切り拓いていく。一方、宗教は教えこむものでなく、自然のうちに感受
するものである。自然の感化により得た信念は偉大な力となり、人間形成の源泉となる。このような
信条のもとに、学園建設に当たっても、日々の生活で宗教的な雰囲気が感受できるようにと、その地
を宝仙寺の敷地内に定めたのだった。

   建学の精神
   鬱蒼と繁る樹林の中にそびえ建つ寺院の屋根を仰ぎ
   御堂から響く鐘の音を耳にし
   深閑とした寺庭に遊ぶ鳥たちを見て
   宇宙の事物に感応する心を養う
   自然のうちに感得した宗教的信念は偉大な力となり
   いつの時代も、どのような社会事情に遭遇しても
   変わることはなく、揺らぐこともない

 昭和2年感応幼稚園開園。同3年中野高等女学校開校。当時としては画期的な鉄筋コンクリート造
りの地上3階・地下1階、スチーム暖房などを設置した耐震耐火の校舎が建設された。同6~8年
学の精神を象徴する校章・校旗・校歌を制定


 学園校歌
「あさみどり」 作詞・北原白秋  作曲・山田耕筰
   あさみどり 空は広く
   かぎりなしこの地
   光あれよ母の愛に
   生れいづるものみな
   聚まれよひとつに
   鐘は鳴れりこの朝
   すがすがし現身
   日を仰ぎ 少女立てり


 校章の三角形は、胎蔵界曼荼羅の遍知院(仏母院)を表している。この校章の基本形は、建学の精
神を象徴するものとして、現在も宝仙学園の全部門で使われている。また校歌は、「母の愛を讃美す
る」中野高等女学校の個性が表現された。

 同15年日本初の給食実施。 同20年愚かなアメリカ軍の非人道的無差別空爆により母体の宝仙
寺焼失。中野高等女学校の校舎のみその災禍から免れた。
 敗戦後、学制改革により小・中学校を経営する私学は財団法人化が必須の条件となった。当時は寺
の復興資金を集めるのに苦慮している状況だったが、宝仙学園は困難を承知で財団法人化に踏み切る
とともに6年制の中学校・高等学校となった。さらに同26年には学校法人に改組され、今日の学園
組織の基礎を築いた。同28年小学校を開校し、幼稚園から短期大学までの一貫教育体制を確立。
 
 宝仙小学校校歌
「学園の庭に」 作詞・笹沢美明  作曲・岡本敏明
   学園の庭にそびえる銀杏の木立
   春はみどりに 秋は金色
   私たちも育ちます
   ああ宝仙の銀杏のわれら

 同20年男女共学の「こども教育宝仙大学」開学。同22年短期大学閉鎖。


■中野公務員住宅裏(やままさ醤油醸造所)のレンガ塀

 中央2丁目32番1号、関東財務局中野住宅。ここは、かつて明治のころに作られた赤いレンガ塀
が続いていた所で、一部は、モニュメントとして10mばかりが小公園のところに残されている。こ
のモニュメントは、明治初期創業の山政醤油醸造所のレンガ塀の北側の一部を移設したものだ。建造
は、明治32年と推定される。中野での初期洋風レンガ構造物といわれている。浅田銀行本店を手掛
けた中野在住の棟梁と弟子たちによって醸造所の蔵と共に築かれた。石灰、海草のつのまた、砂など
で固める日本の伝統的な漆喰壁の技術と、フランス積みといわれるレンガ積み工法で造られている。
当時、レンガ塀の築かれた青梅街道沿いは、中野の商工業の中心地として賑わっていた。また味噌・
醤油の醸造は、そば粉製造とともに中野の代表的な地場産業だった。
 


■犬坂

 中央2丁目33番、宝仙寺と宝仙寺学園の間のクランクしている坂道。
 


明王山聖無動院
宝仙
 中央2丁目33番3号にある新義真言宗豊山派の寺。青梅街道と山手通りの交差点が「中野坂上」
で地下鉄の駅もある。ここから西に青梅街道を5分ばかり行くと北側に仁王門が現れる。元禄十四年
(1701)尾張徳川分家の高須松平義行が書いた縁起書によると、草創は、阿佐ヶ谷駅の北側、世
尊院のところで、

   堀河天皇の寛治年間(1087~94)に八幡太郎義家が後三年役(清原家衡の征討)
   の戦勝を謝して念持仏不動明王を祀る一寺を阿佐ヶ谷神明宮の近くに同宮の別当寺とし
   て建立した


 という。このとき土地の稲荷神が現われて義家に一顆の珠を与え、

   この珠は、希世の珍、宝中の仙である。これを持ってお守りとすれば、すなわち武運長
   久、法灯永く明らかならん


 といって白狐となり去っていったので、寺号を宝仙寺にしたと伝わっている。鎌倉時代、相模大山
の中興の祖願行防憲静が留錫、不動明王像を刻んで安置した。
 現在地に移ったのは、永享元年(1429)中興第一世の聖水の時だ。以来連綿と栄え、寛永十三
年(1636)13世賢海、14世秀雄の時、飯塚惣兵衛夫妻の寄進により第十中学校のところに三重
塔が建立された(昭和20年焼失)。境内には「寺号標」「仁王門」「中野町役場跡の碑」、近隣の
農家で使用していた石臼を集めた「臼塚」「六地蔵と見送り地蔵」「堀江家墓所」「本堂」「白玉稲
荷」「大書院」「大師堂」「無名五輪塔」「大師堂」「三重塔」「御影堂(六角堂)」などがあり、
節分に行われる
僧兵行列は有名だ。説明板に、

   武州多摩郡中野明王山聖無動院宝仙寺縁起によると、宝仙寺は、平安後期の寛治年間、源
   義家によって創建されました。このとき義家は、奥州・後三年の役を平定して凱旋帰京の
   途中にあり、陣中に護持していた不動明王像を安置するための一寺を建立したのでした。
   その地は、父頼義がかつて祭祀した八幡社のある阿佐ヶ谷の地で、この造寺竣成の時、地
   主稲荷の神が出現して義家に一顆の珠を与え「この珠は希世之珍 宝中之仙である。是を
   以って鎮となさば、則ち武運長久、法燈永く明かならん」といいおわるや、白狐となって
   去りました。これにより山号を明王山、寺号を宝仙寺と号したと伝えられています。


 とあり、「新編武蔵風土記稿」に、

   境内一萬五千五十二坪。往還の内小名中宿下宿の境にあり。明王山聖不動院と号す。新義
   真言宗、無本寺にて天正十九年御朱印十五石を賜ひ、慶安元年八月十七日八石六斗余を増
   して、都合二十三石六斗余の寺領となれり。
   傳へ云、昔堀河院の御宇寛治年中鎮守府将軍源義家奥州の夷賊を征伐し、御利運ありしか
   ば凱陣の後、当寺を建立し給ふと云。されど往古の事なれば其詳なる事をしらず、当寺昔
   は、和田村八幡(大宮八幡神社)の別当なりしが、社地への路程へだたりて不便なれば、
   末寺にその職をゆづれりと云。されば八幡鎮座の時、当寺を起立して別当に附られしにや、
   中興開山を聖永といふ。永享三年二月二十四日示寂す。末寺32ヶ寺、門徒二十六ヶ寺を
   統べ司どれり。(中略)
   本堂。
   宝形作りにて、十間に九間南向、御座所二間に二間半。御成の時御膳所なり。本尊は不動
   の坐像にて、長一尺七寸五分。良弁の作。外に四大明王の四体を安す。木の立像にて長二
   尺三寸五分。願行の作と云。古位牌一基あり。碑面に云将軍頼義公信・信海将軍義家公信
   了と彫りてあり。
   御成門。
   本堂より西南の方にあり。九尺四方。鐘のわたり、二尺七寸。高五尺。牧野備後守の寄附
   なり。(中略)
   阿弥陀堂。
   本堂の西の方にあり、四間に三間東向、弥陀の本尊は坐像、長一尺五寸。(中略)
   観音堂。
   境内西南の方にあり。六間に三間の堂なり。東向、本尊如意輪観音木の坐像にて長一尺一
   寸。


 とある。

 仁王門
 阿・吽一対の仁王像が納められた山門。

 御影堂
 弘法大師を祀っている。

   御影堂とは、弘法大師の御影すなわちお姿を安置してあるお堂のことです。
   このお堂は三間四方の純木造建築です。
   このお堂に安置してある日輪弘法大師像は脱活乾漆という漆と麻布で作られており、この
   技法でこのような大きな佛像は壹千年以上も絶えて作られておりませんでした。
   この弘法大師像は座像で高さは後背までいれて約3mです。
       明王山宝仙寺

 ●
中野町役場跡

 仁王門の左手、大イチョウの根元に「中野町役場跡」記念碑がある。明治28年から36年間も無
料で提供されていたことを感謝したもの。大イチョウは戦災に遭ったものの現在でも健在だ。移転し
た後の役場の建物は無償で寺に寄贈され、寺経営の幼稚園や保母養成所に当てられた。現在は50世
富田教純大僧正の努力で、幼稚園、女子高等学校、短大へと発展し、社会強化に大いに貢献している。
やりくり坊主に見習わせたい。

 ●堀江家墓所
 
平安末期に越前からやってきてこの中野郷を開発した堀江家累代の墓域がある。小田原北条氏時代
には中野郷5ヶ村の小代官に任ぜられ、江戸時代には中野宿の問屋場役人を務めた名家だったが、何
が災いしたか、天罰でも受けるような悪事を働いたか、第16代恭一を最後として今は絶家となって
いる。

   堀江家の墓所
   堀江家の起りは明らかではありませんが、12代重賢の徳川幕府への届出書によれば、越
   前(福井県)から同家の先祖、兵部という人が農民10数人とともにこの地に来て、弘治
   元年(1555)中野の開発に着手したとされています。
   当時、関東を支配していた小田原北条氏から小代官に任ぜられ、歴代の当主は、中野村の
   名主として中野とその近郷の有力な指導者となりました。
   堀江家がはたした業績によって、中野村はしだいに発展していきました。その間の村政及
   び幕府との関係文書は、現在「堀江家文書」として東京都立大学に保管され、研究に供さ
   れています。
   堀江家は、将軍鷹場の村むらへの御用触次、青梅街道中野宿の問屋場役人、組合村寄場役
   人のほか、江戸城内への種物・なす苗の上納など各方面に事跡を残しましたが、明治以降
   も中野の町村政のためにはたした業績はまことに大きく、現在の中野区の発展の礎となっ
   ています。
   昭和56年3月                         中野区教育委員会


 三重塔
 
平成4年の興教大師850年御遠忌記念事業として宝仙寺境内に再建された。以前、第十中学校の
ところに建てられていて、愚かなアメリカ軍の空爆により焼失させられた塔とほぼ同じ規模。


   当寺の三重塔は寛永十三年(1636)に建立された塔が飛地境内の塔ノ山公園(現在の
   中野区区立第十中学校)にありましたが、昭和20年の戦災で焼失致しました。
   平成4年の興教大師850年御遠忌記念として再建されました。
   この塔は焼失した塔とほぼ同じ高さの約20mで奈良法起寺に範をとり飛鳥様式の純木造
   建築で心柱は基壇まで貫通しています。
   塔内には大日如来を中心とした胎藏界五佛が安置されております。    明王山宝仙寺


 見送り地蔵(引導地蔵)
 六地蔵と共に境内にある坐像。

 石臼塚
 境内に石臼が積み上げられている。

   中野区と新宿区との間を流れる神田川には江戸時代から水車が設けられて、そば粉を挽く
   ことに使われていた。
   そばの一大消費地となった江戸・東京に向けて玄そばが全国から中野に集められ製粉の一
   大拠点となり、中野から東京中のそば店に供給されたため、中野そばとまで言われるよう
   になった。
   その後、機械化により使われなくなった石臼は、道端に放置され見向かれなくなっていっ
   た。それを見て当山、宝仙寺第50世住職富田敦純大僧正(宝仙学園創立者)が、人の食
   のために貢献した石臼を大切に供養すべきであるとして、境内に「石臼塚」を立て供養し
   た。
   平成18年12月吉日                  献額 中野区商店街連合会
                                 社団法人 中野法人会

 僧兵行列
 
節分の日に行なわれる行事としてはユニークなもので、外国人にも注目されている。鎧の上に黒染
めの衣、白頭巾をかぶり足駄、長刀を携えた僧兵が、50人ほども行列をなして青梅街道を練り歩く。
元来と僧兵は寺を守るためのものだったが、いつの頃からか善男善女を鬼から守るものとされるよう
になり、節分の時に登場するようになった。僧兵に扮した檀家衆と年男らが近くの明徳稲荷神社(中
央2丁目52番)の境内に集まり、法螺貝の音を合図に宝仙寺までの約500mを練り歩く。寺に到
着するとおよそ30分の護摩焚きが行なわれて厄除けを祈願、続いて年男らとともに僧兵たちが既に
設けられている壇上から勢いよく豆まきをする。宝仙寺は八幡太郎義家の創建と伝えられる古刹だが、
戦争で堂塔伽藍の総てを焼失した。ところが焼け跡の地下から僧兵の遺品が発見されたことから、寺
院再建の行事として昭和28年から僧兵行列を行なったのが、この行事の始まりだ。


■実践学園中学校・高等学校

 中央2丁目34番2号にある私学の中高一貫校。明治23年新潟からやってきた高橋新一郎が神田
表神保町(神保町1丁目17番)に書籍文具店「東京堂」を開店した。大正時代になって大発展し、
社員は300人を数えるばかりになった。そこでさらなる発展を見越し、大正14年人材確保のため
高等小学校を優秀な成績で卒業した少年社員を雇い、商業学校に通わせることにした。これが図に当
たり優秀な人材は集ったものの、委託教育では思うように育たず、不良化する者が現れるに及んで、
自前の学校を持つことを決心した。
 昭和2年神田区錦町三丁目十五番地に木造3階建て校舎を建て「東京堂教習所」を設立。その後錦
町三丁目十八番地に木造鉄網入りモルタル造り2階建ての新校舎を建てて移転、同10年「東京堂実
践商業高等学校」として文部省から認可。同16年出版物取次会社統合により日本出版配給株式会社
設立により経営主体は財団法人東京堂学園より財団法人実践学園に移る。日米戦争で負け戦に転じた
同17年現在地に移転。同18年昼間部開設。
 同23年学制改革により「実践学園高等学校」と改称。同25年法令により日本出版配給株式会社
閉鎖となり実践学園の独立経営となる。同26年制度改革により財団法人実践学園は学校法人実践学
園と改称。同29年「実践商業高等学校」と改称。同39年高尾総合運動場造成。同60年東中野寮
完成。同62年校舎2号館落成。
 平成2年「実践学園高等学校」と改称。同4年平澤記念高尾研修センター完成。同7年校舎1号館
落成。同8年実践学園中学校を設置して中高一貫教育校となる。同13年高尾トレーニングセンター
完成。校舎3号館落成。同15年総合体育館完成。創立75周年記念式典。同17年図書蔵書管理シ
ステム導入。校内LAN環境整備・全普通教室にパソコン1台設置。同18年軽井沢平澤記念研修セ
ンター(セミナーハウス)完成。高尾総合運動場全面人工芝敷設・平澤記念研修センター全面改装。
同19年 IWB(Interactive White Board)の普通教室設置。創立80周年記念式典。同20年1
号館屋上第1期緑化「21世紀eco実践の森」完成。同21年第2期緑化「実践農園」完成。同2
2年高尾研修センター2号館完成。「実践の森・実践農園」第9回屋上・壁面・特殊緑化技術コンク
ールの屋上部門で環境大臣賞受賞。同23年自由学習館落成。

 校歌「
ふり放(さ)けて」 
   ふり放けて
   永久に遥けき青雲に
   心は寄りぬ大き静けさ
   いよよ仰がむ
 

 中学・高校の男子卓球部、高校女子バスケットボール部はインターハイなど全国大会出場の常連校。
高校男子サッカー部、高校女子バレーボール部。高校男子バドミントン部も全国大会出場経験がある。


■かえで公園

 中央2丁目35番7号にある区立公園。


■金剛橋親柱
 中央2丁目38番1号先桃園川緑道に残る橋の遺構。金剛は仏教用語で最も固い物の意。


■金渓橋親柱
 中央2丁目39番11号先桃園川緑道に残る橋の遺構。


■宮前公園

 中央2丁目39番15号にある区立公園。宮前の宮が見当たらない。


■本町通り公園(さんかく公園)

 中央2丁目46番の北の三角地にある区立公園。住所は西隣の2丁目51番15号となっている。


■中野警察署

 中央2丁目47番2号にある。中野区の南半分、中野駅北口から南側の地域を管轄している。沿革
は不明。


■明徳稲荷神社

 中央2丁目52番1号、さんかく公園(本町通り公園)の前にあるちっぽけな神社。小っちゃい故
に土地の人々のもの。江戸時代に中野村の名主を務めた堀江家の敷地(21000㎡)の東北の隅に
位置している。東北の方角は古来、鬼や災難が入ってくるという「鬼門」として忌み嫌われていた。
このため堀江家では、屋敷内に稲荷神を祀って鬼門除けとした。堀江家文書によれば、中野宿での市
場の繁栄と安全のために祀った市神という神社の記録があり、これが明徳稲荷なのではないかとも考
えられる。大正時代に地元の人達が堀江家から稲荷社を譲り受け、現在に至っている。関東大震災と
太平洋戦争の際に罹災しているため、建造物や古記録は残っていないが、狐の彫り物のある慶応三年
(1867)の手水鉢に僅かながら往時を偲ぶことができる。この社には、明徳稲荷のほか、火伏せ
の秋葉神社と雨乞いの榛名神社とが合祀されている。


仲町保育園・ひまわり公園

 中央2丁目52番15号にある区立公園。


松吟山常昌院

 中央2丁目53番1号にある曹洞宗の寺。本尊は虚空蔵菩薩。もと「安心庵」として文禄年間(1
592~96)の開創という。開山恕仲天誾大和尚、開基頓宗観了尼大和尚。天保年間(1830~
44)駒込高林寺(元御茶ノ水にあって御茶ノ水発祥の寺)徒弟野村観了尼これを薫ず。2世恵海尼
により現在地に移り「松吟庵」と改称。昭和10年愛知県豊橋市の遠州大洞院末寺「常昌院」の寺号
を移し、本堂・庫裏を完成させるも、同20年愚かなアメリカ軍の無差別空爆で焼き尽くされ、5世
秀明尼は仮本堂を建てて宣教活動を続け、特に曹洞宗梅花流(御詠歌)創立の中心的存在として、正伝
師範(最高指導者)となり活躍した。その活動は全国各地にまで及んだという。さて本堂は鉄筋コン
クリート造り。「昭和48年堂宇完成」とある写真は、住宅のような造りで、現在の物とは異なる。
写真に間違いがなければ平成になって寺院らしいものに建て替えたということになる。墓はない。都
会の小寺。明徳稲荷の北隣に当たる。稲荷は堀江家の鬼門に建てられたというから、ちょうど堀江屋
敷の直北に位置することになる。何らかの援助があったからではないのか?


みずき公園

 中央2丁目54番6号にある区立公園。


■堀越学園・堀越高等学校

 中央2丁目56番2号にある私立校。大正12年堀越高等女学校として、女性に豊かな教育機会を
という主旨を掲げ創立。同22年新学制により旧制1~3学年が堀越中学校。翌年旧制4学年以上が
堀越高等学校となる。同26年「私立学校法」の制定により、学校法人堀越学園となる。同27男子
部設置。同34年普通科課程、商業科課程を設置。同44年3月制服のデザインを一新、ブレザー、
エンブレムの斬新なものとなる。春の甲子園第41回選抜高校野球大会に東京代表として初出場、準
優勝を果たす。同48年創立50周年。教職員がヨーロッパ各国を1ヶ月視察。体育コース及び芸能
コースを設置。
 同57年8月全日本学生油絵コンクールでグランプリ最優秀賞を受賞。同61年3月男子庭球部第
8回全国選抜高校庭球大会で初優勝。8月男子庭球部(個人・団体)高校総体で優勝。同62年3月
中学校廃止。8月男子庭球部高校総体で優勝。同63年8月男子庭球部高校総体で優勝。平成2年8
月美術部学展3部門でグランプリ受賞。男子硬式庭球部高校総体で優勝。同4年8月校舎外装、食堂、
スタンド改修工事が完了。美術部学展「デザイン」部門グランプリ、最優秀学校賞を受賞。同8年4
月コース名称を変更。アトランタオリンピック代表として卒業生2名(野村智宏・鈴木貴男)が出場。
同9年8月美術部学展「油絵」部門グランプリを受賞。同10年8月テニス部(男・女団体)高校総
体で優勝。同11年8月美術部、学展「デザイン」「彫刻」部門グランプリ、最優秀学校賞を受賞。
8月美術部学展最優秀学校賞を受賞。同15年8月美術部、学展最優秀学校賞を受賞。平成20年創
立85周年。卒業生に有名スポーツ選手、芸能タレント、歌手が膨大な数いる。

 校歌
「紫匂う」 作詞・小島政吉 堀越克明改作(平成元年) 作曲・島崎赤太郎
  1.紫匂う武蔵の広野
    冨士の高嶺は軒端に近く
    野川の音は枕に通う
    ああ麗し我らが中野
  2.歳経る蔦菱も新たな平成ぞ
    心清明けく喜び満ちて
    学ぶ若人我等の幸よ
    ああ嬉しや我が学び舎
  3.出でや今より勤しみ励み
    心正しく身は健やかに
    伸びよ若人 光の中を
    ああ楽しや我が行く手

 応援歌「
紺碧の空に」  作詞・堀越克明  作曲・鈴木伊三夫
  1.紺碧の空 聳え立つ
    吾等が母校 学びの庭よ
    太陽を胸に持つ若さの心
    出でや歩まん足音高く
    ああ堀越の
    堀越健児の意気高し
  2.武蔵野の原にいや栄え
    学びの歴史十歳ぞ五度
    太陽の教えをば今こそ見せむ
    出でや歌わん声高らかに
    あ堀越の
    堀越健児の血は滾る
  3.紫草の丘の上に
    集まる吾等千余の息吹き
    太陽の心持て雄雄しく行かむ
    出でや時代の鐘打ち鳴らす
    あ堀越の
    堀越健児の時来たる


 
●TBS連続ドラマで不適切台詞
 平成26年10月26日放送のTBS(東京放送)連続ドラマ「ごめんね青春!」(脚本:宮藤官
九郎 主演:関ジャニ∞錦戸亮 日曜日21時~)第3話で不適切な表現があったとして、堀越学園
の苦情に対してTBSは正式に謝罪した。
 問題の表現は、錦戸演じる高校教師原平助が受け持つクラスの落ちこぼれ生徒7人が、平助の実家
(お寺)で勉強合宿をしているシーンでの台詞。平助の義理の姉で、お色気満点の原エレナ(中村静
香)に生徒の一人が「お姉さん・・・この問題・・・」と勉強を教えて貰おうとお願いすると、エレ
ナが「それは無理。私、堀越だから」と返すやり取りがあった。
 エレナは元グラビアアイドルという設定で、堀越が芸能人多く通うことで知られるが、それで問題
視された。公式サイトに掲載されたお詫び文では、

   「ごめんね青春!」第3話についてのお詫び
   いつも「ごめんね青春!」を応援していただいてありがとうございます。10月26日放
   送の「ごめんね青春!」のなかで、台詞に実在の学校名を使い、視聴者の皆様に誤解を与
   える表現がありました。校長先生から、今現在の学校についてのご説明も戴き、私どもも
   お詫びすべきと考えました このような表現は、日々の学業に励んでいらっしゃる在校生
   の皆様、今後の進路として考えている受験生を始めとして、先生、保護者の皆様、学校関
   係者の皆様にご迷惑をおかけするものでした。学校を舞台に「理想郷のような青春」を描
   こうとする本番組の主旨からしても番組制作者としての配慮が足らなかった点を深く反省
   しております。今後、このようなことがないように十分注意して番組制作するとともに、
   今回ご迷惑をおかけした皆様に改めて深くお詫び申し上げます。

 と綴っている。
  


■布袋尊石像
 中央2丁目58番21号にある。布袋様の笑顔が特徴の石像。思わず笑ってしまうから不思議だ。
戦前に地元の製造会社の社長が家内安全、商売繁盛を願って建てたんだそうだ。その後布袋像は傷む
一方だったが、マンション建設の時に修復され今の場所に移された。
 この石像の向かいには、宮前公園がある。桃園川緑道に面したこの付近には、ケヤキ、サクラ、イ
ヌシデの木陰があり、ゆっくり休むことができるよ。


■俳優椿隆之ゴルフクラブで殴られ顔に怪我
 中央2丁目58番21号コーポ中野前の事件だ。平成28年11月8日21時10分頃、友人と酒
を飲んだ俳優椿隆之が同コーポ前で、バイクで出てきた男(29歳)と接触しそうになり口論になっ
た。双方怪我はなかったようだが、その男が弟岡崎豪(22歳)を呼び出した。ケータイで電話でも
したのだろう。豪はゴルフのクラブを持って押っ取り刀で駆け付けてきた。供述によると「態度が気
に食わなかったから殴った」ということだからいきなり殴った訳ではなさそうだ。近所の人が目撃し
て警察に連絡、呆気なく豪は現行犯逮捕された。
 兄貴も情けない男だ。加勢に弟を呼びつけて犯罪者にしてしまう。弟は巻き込まれて、執行猶予が
付くとしても暫くは不自由の身となる。しかも前科者だ。29歳にもなったら素直に謝れよ。
 椿は舞台俳優で、「仮面ライダー剣(ブレイド)」で主役の剣崎一見を演じた。出演予定だった舞
台「ギャグマシーン3号」(12~13日、阿佐ヶ谷アートスペースプロット)は治療に専念するた
め降板する。
 気の利いた事務所なら弁護士を立てて損害賠償と慰謝料を請求するぞ。100万円は固い。阿呆な
兄弟だよ。


■仲園橋跡
 中央3丁目10番9号先桃園川緑道に残る橋の遺構。


■慈眼堂橋親柱
 中央3丁目11番10号先桃園川緑道に残る橋の遺構。慈眼堂は中央3‐33‐3の慈眼寺。


■北裏橋親柱
 中央3丁目15番11号先桃園川緑道に残る橋の遺構。


仲町公園

 中央3丁目17番6号にある区立公園。


■仲町小学校

 中央3丁目19番1号にある。昭和12年校舎落成。同13年谷戸小学校より分校し「東京府東京
市仲町小学校」と命名。同16年勅令148号「国民学校令」により「東京府東京市仲町国民学校」
と改称。同18年都制施行により「東京都仲町国民学校」と改称。同20年愚かなアメリカ軍の無差
別空爆により全校焼失。同22年戦勝国アメリカの強制による「学校教育法」施行により「東京都中
野区立仲町小学校」と改称。同32年校歌制定。

 校歌「
仲町台を」 作詞・3代校長及川林次 品川緑朗職員補作  作曲・阿部政男(8期生)
  1.仲町台を渡り行く
    緑の風に眉を上げ
    燃え立つ望み抱きつつ
    集う 吾等 吾等
    輝く胸に誇りあり
  2.学びの庭の年月に
    体を鍛え心とも
    豊かに収め磨きつつ
    進む 吾等 吾等
    理想の扉 開きつつ
  3.武蔵の野辺に星移り
    変れど尽きぬ雲の色
    正しき道を選びつつ
    励む 吾等 吾等
    平和の空の 太陽

 同33年開校20周年記念式典。同38年創立25執念記念式典。同45年弱視学級開設。同
53
年創立40周年記念式典。同43年創立30周年記念式典。同56年弱視学級を 「けやき学級」と
命名。
同63年創立50周年記念式典。
 平成5年第1回ふれあいの集い同9年開校60周年記念式典。同19年創立70周年記念式典。
創立70周年を最後に閉校、桃園第三小学校に統合される。同20年3月お別れ会。


■白玉稲荷神社

 中央3丁目23番15号にある。


■中野消防署・中野消防本部

 中央3丁目25番3号にある。


福王山弥勒院
慈眼寺

 中央3丁目33番3号の青梅街道沿いにある真言宗豊山派の寺。ピンクのブロック塀、中が見通せ
るので直ぐ判る。天文十三年(1544)現在の慈眼堂橋の南西方(字仲町嵯峨里=中央3丁目7番
付近)に建てられた。その東の堀越学園のところともいう。開山は天文十三年(1544)権大僧都
法印貞運。現在地にいつ移ったのかは判らないが、江戸時代にに移転した。氷川神社の別当寺。本尊
は聖観世音、釈迦如来、弥勒菩薩。
 境内は広いが、駐車スペースなのだろう。全面アスファルト舗装、右の壁際に鐘楼があるが、タイ
の寺院のようなやつだ。本堂は鉄筋コンクリート造りながら和風で重々しい、その右に、これまたタ
イにあるようなキンピカの仏舎利塔、パコタってえのか? 鐘楼とともに嫌でも人目を惹きつける。
調べてみると、バンコックにある王立一級寺院ワット・サケートより寄贈された釈尊の遺骨一粒、カ
ピラバストゥで出土したものが奉安され、東京における東南アジアの仏教徒の信仰を集めているんだ
と。因みにタイの人々はこの塔を「トウキョウ・プラパトムチェディ(東京の最初の塔)と呼んでい
るらしい。「新編武蔵風土記稿」に、

   除地六千九百七十五坪。往還の内小名上宿にあり。福王山弥勒院と号す。新義真言宗にて
   村内宝仙寺末。
   本堂は近き比(ころ)雷火にて焼失せしゆへ、今は仮堂なり。本尊正観音木の坐像にて長
   一尺四寸。開山詳ならず。開基は天文13年といへば、古き寺なれども其詳なること傳へず。

 とある。

 ●六地蔵
 
平成16年に建立したてのピッカピカの六地蔵だ。

 ●氷川堂
 
境内に入って本堂前左手にある。15世氷川坊覚順を祀っている。江戸末期の僧侶で、足の痛む人
を見ると遠路を厭わずおぶってやったり、腹痛の人には薬を与えるなど大変に慈悲深い坊さんで、村
人から「生き仏」と慕われたんだそうだよ。

 ●石仏群
 左の墓地側の壁に「慈眼寺の石仏群」といわれる2、30基の庚申塔、地蔵尊、供養塔、馬頭観音、
観音像が並べてある。ここには元禄三年(1690)から寛保二年(1742)までのものが6基あ
る。このうち4基は上宿(中央二丁目付近)、新町(本町六丁目)、西町(中央五丁目)の青梅街道
沿道にあったが、道路拡幅のため、桃園第三小学校の大欅の根元に移設され、さらに昭和30年にこ
の寺に安置された。
 向かって左側の文化十三年(1816)の馬頭観音は、頭上に馬頭をつけ角柱部分は道標になって
いる。

   左あふめ道(青梅)右いくさ道(井草)

 と記されていて、元々は青梅街道と石神井道とが分岐する中央4丁目3番の「追分」の三叉路(中
央4丁目)にあったものだ。
 当寺が別当寺だった東中野の氷川神社の第二鳥居の横っちょにある敷石供養塔、それによれば安政
六年(1859)83歳の覚順が敷石を補修したということを説明している。

   ここにある石仏は馬頭観音や庚申塔などで、向かって左側の文化十三年(1816)の馬
   頭観音は、頭上に馬頭をつけ角柱部分は道しるべになっています。左あふめ道(青梅)、
   右いくさ道(井草)と記されていて、旧は青梅街道と石神井道とが分岐する追分の三叉路
   (中央4丁目)にありました。庚申塔は干支の庚申に由来するもので、日月、青面金剛、
   邪鬼、三匹の猿、鶏などが彫られています。ここには、元禄三年(1690)から寛保二
   年(1742)までのものが6基あります、このうち4基は、上宿(中央2丁目付近)、
   新町(本町6丁目)、西町(中央5丁目)の青梅街道の沿道にありましたが、道路拡張の
   ため、桃園第三小学校の大ケヤキの根元に移設され、さらに昭和30年(1955)に当
   寺院の境内に安置されたものです。                中野区教育委員会


児童館仲町・仲町児童遊園

 中央3丁目41番12号にある区立公園。


寿光山正行寺

 中央3丁目47番4号の浄土真宗本願寺派の寺。本尊は阿弥陀如来。親鸞聖人が勧めた浄土門の布
教伝道を、28代に亘り飛騨国鉄と小笠原諸島でやってきた先祖の血を享けてきた釈行雄により、昭
和12年区内前原町(南台2丁目)に久遠山教会として創建したが、同20年愚かなアメリカ軍の見
境のない空爆で堂宇を燃やされっちまったので、同22年に区内本郷通り(弥生町2丁目)に久遠山
正行寺として再建した。同30年ますますの布教伝道のため現在地に移転、寿光山正行寺とし、中野
めぐみ幼稚園を設立した。山号は「無量寿無量光」からきている。同57年鉄筋コンクリート造り2
階建ての冷暖房完備の本堂・庫裏が完成した。2階が本堂で、脇に3階建の住宅もある。まとまって
いるが、何か拒絶感がある。墓地は無いが、境外墓地と納骨堂が小金井の多磨霊園の隣にある。


■三味線橋(さみせんばし)
 中央3丁目47番と4丁目42番の間、桃園川に架かる橋。現在は暗渠となり、遊歩道になってい
るが、一部橋の遺構(親柱)が残されている。昭和35年3月の架橋。南へ鍋屋横丁まで三味線通り
商店街となっている。陶製の説明碑がある。

   三味線橋の由来
   三味線橋は、江戸時代中頃から盛んになった新井薬師参詣のための「薬師みち」に架けら
   れた橋として、村人はもとより近在の人びとに頻繁に利用されました。
   橋の名前は、この辺りを通るといつも近くの家で弾く三味線の音が聞こえてきたからとい
   われています。                              中野区


■中野追分

 中央4丁目3番、青梅街道から、斜めに北に入り中野通りにつながる道は、むかし大きな道の分か
れるところを指す「追分」の地名で呼ばれていた。追分公園の前の道は、江戸時代には石神井道と呼
ばれ、青梅街道からここで分かれて北上し、鷺宮で現在の新青梅街道と合流する江戸と西郊の村々を
繋ぐ道だった。 幅二間(約3.6m)の道に、野菜や肥料を積んだ荷車が行き交い、追分は人びとで賑
わった。明治以降はこの辺りには映画館などもでき、繁華街が形作られた。また杉並区の高井戸から
この追分へ出て、さらに板橋へいたる中世の古道、鎌倉街道があったという話を伝える江戸時代の文
献もあり、この辺りが古くから交通の要衝の地だったことが伺われる。ここにあった馬頭観音は慈眼
寺に移した。


追分公園

 中央4丁目7番7号にある区立公園。


■お伊勢の宮・天祖神社

 中央4丁目13番10号にある。広い境内には、ケヤキ、イチョウ、カヤ、シデなどの大きな木が
木陰を作っている。この神社は、神官がいないので町会の人々の手によって守られている。夏には近
隣の子どもたちが集まってデイキャンプやサマーステイが行われるなど、地域で「お伊勢の宮」と呼
ばれて親しまれている。玉垣はなく、参道の敷石以外は土で、何だか広々としている。綺麗に清掃さ
れているのが嬉しい。


太子山徳蔵寺

 中央4丁目14番9号の浄土真宗大谷派の寺。慶長五年()越後国柿崎に開山された徳蔵寺の18
世住職釈義空が大正時代に東京での布教の道場として淀橋区百人町に説教場を開設した。昭和の初め
釈範之が現在地に独立し、徳蔵寺として建立した。道路に面して鉄筋コンクリート造りの2階建ての
ビル、1階は寺務所、2階が本堂。大きくはないが内陣はきちんとしている。左に3階建ての住宅。
静かなお寺だが、何だか寂しいなぁ。閉鎖寺が多くなったよ。入るを躊躇躑躅(ちゅうちょてきちょ
く)させる寺は寺じゃない。建て替え前の建物は、甲府にあった代官所の建物だったという。文化財
を何処にやっちゃったんだよぉ。


上町公園

 中央4丁目36番5号にある区立公園。


上町橋親柱

 中央4丁目46番1号先にある桃園川緑道に残る橋の遺構。


■箱堰
橋親柱

 中央4丁目46番11号先にある桃園川緑道に残る橋の遺構。


いちょう公園

 中央4丁目50番50号にある区立公園。


御伊勢橋親柱

 中央4丁目51番1号先にある桃園川緑道に残る橋の遺構。この近くに神明・伊勢・天祖神社は見あたらない。


上宮橋親柱

 中央4丁目56番1号先にある桃園川緑道に残る橋の遺構。「かみみやはし」と読む。


北煌橋親柱

 中央4丁目59番16号先にある桃園川緑道に残る橋の遺構。何と読むんでしょう? きたきらめ
きはし? ほっこうばし?


■中野組合病院 → 中野総合病院

 中央4丁目59番16号にある。昭和7年5月27日新渡戸稲造博士(旧5千円紙幣の肖像)・賀
川豊彦などの主唱によって医療生活共同組合を設立、翌年現在地に中野組合病院として創立された、
日本で最初の医療利用組合の病院だ。同44年現在名に改称、地域医療の中枢病院として「誠実」を
理念とし、患者サービス・医療技術の向上に努めている。


桃園川公園

 中央4丁目60番桃園川暗渠上にある区立公園。


■賀川豊彦像

 中央4丁目60番、病院北側の桃園川公園にある。組合病院を設立したことを讃えて、昭和42年
5月27日病院創立35周年を記念して建立された。大正・昭和期のキリスト教社会運動家で、戦前
日本の労働運動、農民運動、無産政党運動、生活協同組合運動において重要な役割を担ったおっさん
だ。キリスト教における博愛の精神を実践した、 「貧民街の聖者」として日本以上に世界的な知名度
が高い。ワシントンに銅像があるそうだ。


桃園橋親柱

 中央4丁目61番と5丁目49番の間、中野通りを通し、桃園川緑道に残る橋の遺構。昭和11年
3月の架橋。 


なつめ公園

 中央5丁目6番の路地の奥にある区立公園。


■神社

 中央5丁目10番27号にある小祠。鳥居もある立派なもの。鳥居が赤く無いので稲荷では無いよ
うだ。


■西町天神社(天祖神社)

 中央5丁目19番18号、青梅街道沿いにある。9月15日の大祭には、神輿が神社から杉山公園
の方へと繰り出される。入口には幹径70cmを超える大イチョウがあり、その他に境内には2本の
保護樹木もある。
 


中央西公園

 中央5丁目27番4号にある区立公園。


橋場公園

 中央5丁目41番3号にある区立公園。


公園橋跡

 中央5丁目41番3号橋場公園に渡る桃園川緑道に残る橋の遺構。


中央公園

 中央5丁目42番桃花小学校の東にある区立公園。


■桃園第三小学校 
閉校

 中央5丁目43番1号にある。大正11年桃園第二尋常小学校内に「東京府豊玉郡桃園第三尋常小
学校」として開校。10月現在地に2階建て校舎(14教室)落成して移転。敷地一帯は斜面。けや
きの下は小川が流れ、富士山がよく見えた。夏の夜は蛙の声がよく聞こえ、宿直しても人がなく怖い
くらいだった。秋には柿が実り、両側は山で麦畑だった。ムジナや狸が出没したという。同13年校
庭は南北に細長く上下2段。5年生まで2部授業。児童数1291名。今が嘘みたいだ。第一次増築
校舎2階建て14教室落成し2部授業解消。同14年全国デットボール大会優勝(国民新聞主催)。
海老茶のユニホームだった。同15年第二次増築校舎(理科室、同準備室など)落成。
 昭和4年校歌制定。

 校歌
「天そそりたつ」 作詞・中村孝也  作曲・信時潔
  1.天そそりたつ富士の根の
    高き姿を仰ぎつつ
    高きを思う心持て
    教えの山を登り行く
    我らの袂に風吹き満ちて
    代々の恵みの露こそかかれ
  2.目も遥かなる武蔵野の
    遠き彼方(あなた)を眺めつつ
    遠きを慕う心持て
    学びの道を進み行く
    我らの頭に日は照り映えて
    平和の光 輝き渡る
  3.名も美しき桃園の
    清き香りを身に染めつ
    清きを愛ずる心持て
    緑の丘に建てられし
    我らの学び舎 花咲き匂い
    見よこの栄えを言祝ぎ交わす


 同6年全国小学校対抗陸上競技大会優勝。同7年周辺郡部の東京市併呑により「東京府東京市桃園
第三小学校」と改称。同9年衛生室新築落成。同10年生徒数1631名。同12年生徒200名谷
戸尋常小学校に移籍。同15年火災により第一次校舎10教室・衛生室・物置を焼失。同16年1月
焼失校舎分を新築。4月勅令148号「国民学校令」により「東京府東京市桃園第三国民学校」と改
称。同18年3月プール完成。7月都制施行により「東京都桃園第三国民学校」と改称。同19年
野県伊奈郡中蓑輪・東蓑輪・蓑輪・東春近・美すずの5ヶ村に学童集団疎開(明音寺学寮4・5・6
年生80余名)。火事あり、学童疎開ありで、将に〝受難の時代〟だった。

 同20年8月日米戦争敗戦。11月疎開解除により学童帰校。同22年アメリカの強制による学校
教育法により「東京都中野区立桃園第三小学校」と改称。同23年給食室新築落成。ララ物資による
臭いミルク給食開始。同25年火災により東側校舎10教室・第2音楽室焼失。同26年焼失校舎再
建。臼井氏所有地1300㎡を校舎敷地に購入。同27年創立30周年記念式典。同28年第4代校
長に唱歌「もみじ」の編曲者中野義美見就任。以来当校の愛唱歌となる。

 愛唱歌「
もみじ」 作詞:高野辰之  作曲:岡本貞一 編曲:中野義見
  1.秋の夕日に照る山紅葉
    濃いも薄いも数ある中に
    松を彩る楓や蔦は
    山の麓の裾模様
  3.谷の流れに散り浮く紅葉
    波に揺られて離れてよって
    赤や黄色の色様々に
    水の上にも織る錦


 同29年大欅買収。同31年分教場開設。同32年桃丘小学校を分校。創立35周年記念式典。同
33年生徒数1885名。アジア競技大会に児童鼓笛隊出演。同35年第1期鉄筋校舎6教室落成。
同38年体育館完成。創立40周年記念式典。母の像建立(青井忠治寄贈)。同41年第2期鉄琴校
舎9教室・給食調理室落成。同42年第3期鉄筋校舎特別教室落成。同43年視聴覚学級設置。同4
4年言語障害学級設置。第4期鉄筋校舎6教室完成。同47年校帽制定。創立50周年記念式典。

 創立50周年記念歌「けやきのうた」 作詞:笠原牧子(生徒母) 作曲:平野洋子(六年生)。
   たかいたかいけやきだよ
   みどりのこずえに朝日がのぼり
   ぼくとわたしの希望をのせて
   小鳥といっしょに歌おうよ


 同48年自然園完成。同52年創立55年記念式典。同53年全教室カラーテレビ設置。同54年
箱根仙石原林間学校終了(5年生)。同56年全教室・体育館に電子親子時計設置。7月福島県常葉
町林間学校開始(5年生)。同57年創立60周年記念式典・100周年に開くタイムカプセル埋設。
同58年岩井臨海学校開始。同61年常葉町山根小学校とホームステイ交流。同63年校庭・体育倉
庫・飼育小屋・温室完成。
 平成2年2月トンガ教育省管理部首席教育官来校。9月インドネシア教育視察団来校。11月バー
レーン教育賞教育施設管理局長来校。同3年中国作家協会代表団来校。同4年創立70周年記念式典。
この時より開門太鼓始まる。同5年韓国訪日教育研修団来校。第22回(昭和19年度)国民学校卒
業式挙行。同8年アメリカ教育視察団19名来校(クローズアップ財団)学童と給食を食べる。同9
年創立75周年記念児童集会。同14年カザフスタン公営放送局取材。創立80周年記念式典。同1
9年創立85周年。同20年仲町小学校と桃丘小学校の生徒激減により、統合合併。新校名は桃花小
学校。青梅街道以南の学区は中野本郷小学校に移管。

 千年ケヤキ
 
グラウンドの片隅に、推定樹齢凡そ600年といわれるケヤキの木がある。昭和45年1月18日
~8月18日日本経済新聞紙上で、井上靖の小説『欅の木』が連載された。この小説には正門脇の欅
の大樹が登場する。「堂々たる風格」等、校庭で欅を見ながら感想を述べている場面が架かれてる。
初版本は集英社。後に文春文庫で出されている。

 ●さくら並木
 また春にはフェンス沿いの桜が咲いて綺麗だ。


■桃花小学校

 中央5丁目43番1号にある。平成20年桃園第三と桃丘と仲町の3小学校を統合して創立。

 校歌
「根を張る力」 作詞・谷川俊太郎  作曲・谷川賢作
  1 根をはる力 健やかに
    欅と共に今日も学ぼう
    梢は高く宇宙を指して
    明日を夢みる 心育む
  2 優しく開く桃の花
    水面に映る友だちの顔
    生命を結ぶ見えない絆
    桃花は実る未来の空に


■桃園川
 杉並の天沼弁天社内にあった弁天池(天沼)を源とし、東へ向かい末広橋脇で神田川に合流した川。
かつては流域が湿地帯で、十数流の流路を描いている地図がある。やがて一本の川にまとめて、流域
は水田となり、長閑な農村風景を演出したが、新宿が都市化するに連れて、ドーナツ化現象で市街地
化し、不心得な田舎者が、ゴミを川へ投棄するようになり、大雨の時、それらが橋脚に引っかかって、
水の流れるを塞ぎ、洪水となることがあった。土地の人は高台に住むが田舎者は湿地帯に住む。現在
でも東京の山の手で洪水は毎年のようにある。それで農業用水としての役目を終えたことでもあり、
昭和60年代に全面暗渠化し、桃園川幹線という下水道に生まれ変わった。桃園の名は、家光が高円
寺に設けた桃の園を「桃園(とうえん)」と名付けたことに因む。中野区からの橋は、西田橋・竹橋
・鳥見橋・宮園橋・公園橋・桃園橋(中野通り)・橋場橋・北煌橋・上宮橋・御伊勢橋・箱堰橋・□
町橋・三味線橋・北裏橋・仲園橋・慈限堂橋・金渓橋・金剛橋・宝仙橋・宮前橋・東雲橋・塔ノ下橋
・宮下橋(山手通り)・立田橋・戸井橋・睦橋・小淀橋・田替橋→神田川。

 
桃園川緑道
 暗渠の上にできた緑道で杉並区境まで続いています。赤いレンガで作られた花壇には、ツツジ、カ
ンツバキ、ピラカンサ、ハナモモ、ヤマブキなどが植えられ、季節の花を咲かせる。中野通りより西
側の遊歩道にはカラフルなタイルが敷かれていて見た目も鮮やかだ。また車が通らないので、橋場公
園や宮前公園などへ散策するにも便利。


宮園橋親柱

 中央5丁目47・48番と中野3丁目8・番の間にある桃園川緑道に残る橋の遺構。大久保通りを
通す。
 


【中野】(なかの)1~6丁目                   昭和41年10月1日
 中野村。同11年「郡区町村編制法」により東多摩郡に編入、同22年「市制町村制」により中
野村大字中野 同29年豊多摩郡。同30年町制移行して中野町大字中野。昭和6年字(あざ)の
地番改正で相生町・小滝町・囲町・上町・川添町・文園町・小淀町・桜山町・昭和通1~3丁目・
城山町・住吉町・千光前町・高根町・千代田町・天神町・道玄町・東郷町・塔の山町・仲町・西町
・橋場町・氷川町・宮園通1~5丁目・中野駅前・打越町・上ノ原町・宮里町・本町通1~6丁目
・桃園町・朝日ヶ丘の30町に分かれた。翌年東京市に編入されて野方町と合併して中野区となり、
町名はそのまま引き継いだ。同41年新住居表示法により大久保通り以北の宮園通2~5丁目・城
山町・千光前町・中野駅前・桃園町・囲町・打越町・天神町・文園町・昭和通1~3丁目と、新井
町・野方2丁目・大和町の各ごく一部をあわせた町域を現行の「中野」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『中野区史』『中野の歴史』など。

 中野の由来
 地名の由来は武蔵野の中の野、中野郷による。詳細は区の由来に記述。
 


■遂に強姦魔 矢野知之 御用
 中野区中野に住む矢野知之(34歳)は、平成27年4月20日鍵のかかっていない就寝中の女性
(27歳)宅に侵入し、鋏を見せて「刺すぞ」などと脅し、暴行したとして、警視庁捜査1課は5月
2日、強姦などの疑いで逮捕された。捜査1課によると矢野は「間違いありません」と容疑を認めて
いるという。
 この界隈では、平成25年秋ごろから同様の手口の被害が数件発生しており、捜査1課は関連を調
べる。アパート周辺の防犯カメラの映像などから矢野容疑者の関与が浮上。現場に残された遺留物と
DNA型が一致した。こういう奴は病気なんだから、去勢(睾丸摘出)してやることが、本人のため
に親切なんだ。強姦魔は癖だから必ず再犯する。また刑務所に入らなければならないじゃないか。こ
れは精神論じゃない。意思薄弱の病気の問題なのだ。「強姦した者は必ず死刑」となれば、レイプは
激減するが、男尊女卑の感覚から強姦罪って罰が軽いんだよ。またやっちゃうのさ。強姦→刑務所→
出所→強姦→刑務所、これを繰り返してる奴は何人もいるよ。


■谷戸小学校

 中野1丁目26番1号にある区立校。昭和3年桃園第五尋常小学校から分離して「東京府豊多摩郡
谷戸尋常小学校」として開校。5月5日を開校記念日とする。同5年校歌制定。

 校歌「見る目遥けき」 作詞・高野辰之  作曲・信時潔
   見る目遥けき武蔵野の原
   林開けて家建ち並び
   道広まりて車行き交う
   驚くべきは人の力
   日に日におこり 日に日に伸ぶ
   学ぶわれらもかくてこそ


 同7年東京市谷戸尋常高等小学校と改称。同16年勅令148号国民学校令公布により「東京府東
京市谷戸国民学校」と改称。12月日米開戦。同17年プール完成。同18年都制施行により「東京
都谷戸国民学校」と改称。同19年長野県諏訪地方にに学童集団疎開。同20年5月26日愚かなア
メリカ軍による非人道的無差別空爆により校舎全焼。事務室を桃園第二国民学校に移す。8月日本敗
戦。10月疎開解除により学童帰京。11月桃園第二国民学校に間借りして授業再開。
 同22年戦勝国アメリカの強制による学校教育法の施行により「東京都中野区立谷戸小学校」と改
称。校舎(6教室)復興。同24年キティ台風により校舎大破。同26年完全給食実施。同32年木
造校舎落成。同33年創立30周年記念式典。同36年開校記念日を6月5日に変更。同42年体育
館完成。同43年第1期鉄筋コンクリート造り校舎(普通教室3、音楽室、理科室、図工室)落成。
プール改修築。創立40周年記念式典。同44年第2期鉄筋コンクリート造り校舎(普通教室6)落
成。同45年第3期鉄筋コンクリート造り校舎(普通教室9)落成。同46年低鉄棒・国旗掲揚塔完
成。同48年プール更衣室完成。裏側に教材園完成。同49年第4期鉄筋コンクリート造り校舎(普
通教室4、職員室、家庭科室、放送室、更衣室、給食室、図書室)落成。同50年校庭整備(ダスト
舗装、スプリンクラー、花壇、フェンス、正門、東門、池、水田、水生植物園、植樹)。同52年谷
戸運動公園使用開始。全教室にカラーテレビ設置。同53年創立50周年記念式典。同57年校庭補
修。同60年校舎窓枠アルミサッシ化。同62年楽焼小屋新設。同63年創立60周年記念式典。
 平成8年コンピュータルーム開設。同10年創立70周年記念式典。同20年創立80周年記念式
典。


■やまぶき公園

 中野1丁目31番4号セラピーヌーベルの東南角地周辺にある僅かな面積の区立公園。、


■谷戸運動公園

 中野1丁目31番5番にある区立公園。


■城山

 中野1丁目33番、谷戸運動公園北側のこの辺りは 城山町とよばれ、運動公園裏に幅5.4mほど
の土塁が残っていた。平成3年マンション(グランデ城山)建設に先立つ区教育委員会の発掘調査で
は、土塁と建物跡が明らかにされている。延宝三年(1675)の記録では、

   中野村のうちに九百坪ほど土手を築き、から堀を掘ったところがあり、これを昔から城
   山と申し伝えている。そこは、もともと名主堀江卯右衛門の先祖からの屋敷で、いまは
   年貢地になり、代々卯右衛門が所持している


 と見える。堀江氏は、天正四年(1576)戦国大名後北条氏領中野郷を治める小代官を務め、次
いで豊臣秀吉の指令も受けた中野の土豪だったから、戦国末期の城山は、小城砦を兼ねた土豪屋敷で
あったことが考えられる。湧水のある桃園川の谷戸を抑え、野方丘陵の東南を占める城山は、平忠常
の城砦跡、また豊嶋氏と戦った太田道灌の陣地「道灌砦」跡などともいわれている。

   城山
   この辺りは、もと城山町とよばれ、谷戸運動公園裏に幅5.4mほどの土塁が残っていまし
   た。 延宝三年(1675)の村の記録には「中野村の内に900坪ほど土手を築き、空堀
   を掘ったところがあり、これを昔から城山と申し伝えている。そこは元々名主堀江卯右衛
   門の先祖からの屋敷地で、今は年貢地になり、代々卯右衛門が所持している」とみえてい
   ます。堀江氏は天正四年(1576)戦国大名後北条氏領中野五郷を治める小代官を務め
   次いで豊臣秀吉の指令も受けた中野の土豪でしたから、戦国末期の城山は、小城砦を兼ね
   た土豪屋敷であった事が考えられます。湧水のある中野川の谷戸をおさえ、野方丘陵の東
   南を占める城山は、平忠常の城砦跡、あるいは豊島氏と戦った太田道灌の陣地「道灌砦」
   跡などとも云われています。
   昭和57年2月                         中野区教育委員会
 
 

■城山公園

 中野1丁目44番1号にある区立公園。


■東京府立農事試験場跡

 中野1丁目44番の城山公園から大久保通りにかけての一円に、明治33年東京で最初の農事試験
場が開設された。ここでは新しい農業技術の開発やその成果を見習生の養成・講習・実施指導に生か
して普及する方法を取ったが、試験場の活動は、野菜や草花の温室による促成栽培試験なども含め、
多くの面で東京近郊の農業技術改良に影響を与えた。この新しい農業の象徴ともいえる農業試験場も
都市化の波におされて大正13年立川町(立川市)に移転していった。

   東京府立 農事試験場の跡
   このあたりから、大久保通りに及ぶ約2.7K㎡の一帯は、東京府が明治33年に設立した
   最初の府立農事試験場が置かれていました。
   江戸時代末頃から、豊かな経験と技術をもつ各地の「老農」と呼ばれる人たちの相互交流
   による農業改良が行われていましたが、この農事試験場では新しい農業技術の開発やその
   成果を見習生の養成・講習・実地指導に生かして普及する方法をとりました。
   試験場の活動は、国の指定補助を受けて園芸部が行った。野菜や草花温室による促成栽培
   試験なども含め、多くの面で東京近郊の農業技術改良に少なからぬ影響を与えました。
   この新しい農業の象徴ともといえる農事試験場も 都市化の波に押されて、大正13年立
   川へ移転してい来ました。
   昭和58年3月                         中野区教育委員会
、 


■第九中学校
 閉校
 中野1丁目57番12号にある。同25年中野区橋場町51番地に「東京都中野区立第九中学校」
として開校。9月3日桃園第三小学校の小出火において類災。同日中野区囲町5番地(旧中野電信隊
跡)に移転。9月28日校舎(普通教室7、校長室、職員室、事務室、衛生室、用務員室、宿直室)
落成。この日を開校記念日とする。同26年6月6教室(普通教室4、理科室、柔道教室)増築、2
部授業解消。12月6教室増築。同28年校歌制定

 校歌
「日の光」 作詞・木俣修  作曲・平井康三郎
  1.日の光 澄み明る窓に
    今日も徹
(とお)りて
    みずみすし もの学ぶ声
    燃えはずむ瞳に
    呼ぶ夢も新しく高く
    磨けよ 常に吾等
    栄えあれ 我が学び舎
    中野 中野 中野九中
  2.土の息 打ち薫る庭に
    今日も集いて
    清々しい勢い立つ影
    伸び育つ命に
    追う技も美しく強く
    鍛えよ 常に吾等
    幸あれ 我が学び舎
    中野 中野 中野九中
  3.風の音 冴え響く空に
    今日も願いて
    限りなし平和への道
    愛深き心に
    行く方も健やかに直く
    努めよ 常に吾等
    輝け 我が学び舎

    中野 中野 中野九中

 同29年5月2年4学級は六中に間借り。7月6教室増築(2年4学級は帰校)。12月2教室増
築。同31年2教室増築。同33年新井町に分校設立。同34年創立10周年記念式典。同35年分
校独立して中央中学校となる。同36年開校記念日を5月1日に変更。同38年ララ物資ミルク給食
開始。校旗樹立。同39年東京オリンピック観戦。同40年5分間体操開始(午後1時)。水泳教室
を谷戸小学校で開催。同41年水泳教室を桃丘小学校で実施。3月現在地に新校舎落成して、4月移
転。同42年完全給食開始。校舎移転記念式典。同44年カルタ大会開始。同45年欧州教育事情視
察団来校。創立20周年記念式典。同48年西校舎の窓防音サッシ化。同49年プール温水化。紅葉
山広場を第二グラウンドとして使用認可。同53年校地拡張。同54年校舎北側・南東側校庭整備。
同55年創立30周年記念式典。同57年LL機器を視聴覚室に設置。屋上改装舗装。同59年校地
拡張。同61年PTA「朝のあいさつ運動」開始。外国人講師来校。東校舎の窓防音サッシ化。プー
ル改修。同62年プール土日一般公開。
 平成元年職員室エアコン設置。校庭拡張。同2年創立40周年記念式典。同3年ニュージーランド
ウェリントンの生徒が本校に体験入学。同4年パソコンルーム改修。同6年校舎エアコン設置。同7
年防災井戸完成。
同12年給食調理業務民間委託。創立50周年記念式典。同13年スクールカウン
セラー配属。同15年国連「国際平和デー」教育プログラムに対して「学校賞」授賞。同22年創立
60周年記念式典。同24年
分校中央中学校と統合して中野中学校となる。もみじ山通り以東の学区
は第十中学校に転籍。


■中野中学校
 移転予定
 中野1丁目57番12号にある。平成24年第九中学校と中央中学校が統合して「中野区立中野中
学校」として開校。平成26年中央中学校跡地に新築の校舎に移転予定。


■紅葉山公園

 中野2丁目5番1号にある区立公園。園内にはシイの木の森を背景に、池や橋が設けられ、秋には
紅葉が楽しめる。文化・芸術活動の場である広場には、彫刻と時計をあしらったモニュメントを置い
ており、正面入り口には自然石のオブジェがある。空を見る少年像、空を見る少女像、ロダンの「考
える人」像もあれば、蒸気機関車(SL)C11(368)も展示してある。
 「考える人」の台座の公園の説明文は以下の通り。

   紅葉山公園あんない
   この「紅葉山公園」は、中野区の東京開都100年記念事業として建設されたものです。当
   地は、もと石森芳太郎氏の所有地でしたが、古く大正年間からもみじの大樹が数多く植込
   まれ、「もみじ山」と呼ばれて四季折々の風情を伝えてきました。しかし大戦をはさんで
   いつしかもみじも散逸し、もみじ山の名だけが残ってしまいました。
   このたび装いを新たにし、区立紅葉山公園として再び区民に親しまれることになりました。
   公園面積 5162㎡  開園 昭和44年                 中野区

 平和の礎の碑
 園内にある。

   
平和の礎
   戦後二十年區民の総意により記念の碑ここに建立さる平和の礎となりし幾多の英霊以て瞑
   すべし
   昭和40年4月13日                 中野區遺族会会長 田沢鐐二

 蒸気機関車C‐11=368号
 
代表的なタンク機関車で、昭和7年C‐10の改良型として都市近郊や支線の旅客用に誕生したが
やがて貨物用・入換用にと用途を広げ、15年間で400輌近く製造された。
 368は昭和21年製作で、第4次製造に含まれる車輌だ。標準型と異なり炭車上部が斜でなくな
ったり、サイドタンクやキャブ下側の線が変更されたりしている。
 ここへ来るまで延べ113万kmを走破し、昭和47年7月まで石巻線(宮城県石巻~女川間)で
活躍していた。


■もみじ山文化センター/
なかのZERO

 中野2丁目9番7号にある区の文化施設。音楽、演劇の両立をはかった多目的ホールは、コンサー
トや講演会に利用できる大ホール・小ホールの外、視聴覚ホール・リハーサル室・和室・学習室6室
・美術工芸室・多目的練習室・化学実験室・展示ギャラリー・スタジオ2室・音楽室・美術ギャラリ
ーなどがある。利用するには利用者登録が必要だ。またプラネタリウムや生涯学習に関する情報の提
供や相談業務を行う「生涯学習活動・支援コーナー」もある。向いが量販店なので混雑すること夥し
い。だから集客は見込める。図書館は素晴らしいよ。

 
無題
 センター前にあるモニュメント。

 中央図書館
 
2丁目9番、もみじ山センター内に平成5年開館(区立図書館の創設は昭和23年)。蔵書約50
万冊。中央図書館としては充実している。

 
「本を読む」
 図書館前のスペースにある関孝行のマンガチックな猫が本を読んでる石の彫刻。関は、上野アメ横
の「賑わいの像」も彫っている。

 大ホール
 1292席(1F=1014席・2F=278席 オーケストラピット使用時=1164席 障害
者用椅子4席、難聴者用補助装置(誘導磁気ループ式)親子室、楽屋6室、シャワー室2。舞台間口
22m(可動式プロセニアムアーチにより、18~14.4mまで間口変更可。高さは7.2m)、中
央部の高さ11.4m、奥行14m(前舞台使用時 18m) 残響時間空席時約2.5秒(500Hz)。

 
小ホール
 
550席という手頃な広さのホールで、中規模な講演会、映画会、演劇などにぴったりだよ。客席
はゆったりとして、最後部の客席からでも舞台がよく見渡せる。舞台間口12m、高さ5.5m、奥行
7.5m 残響時間 空席時約0.8秒(500Hz)。

 
「祈る少女」
 2階食堂前にある山本雅彦の銅像。

 プラネタリウム
 西館4階にある。14時・16時の2回投影。03-5340-5045

 
泥棒に入られた?
 平成16年5月8日午前8時45分発覚。本館2階事務所施設課に於いて、前日夜2人の職員が確
認して手提げ金庫を大型金庫に仕舞って帰り、翌朝出金した職員が確認したところ収納金12051
95円が、あーら不思議や不思議、そっくり消え失せていたという。泥棒の入った形跡はないが現金
がないことは事実だから、理事長名で警察に届け出た。しかし現在も捜査中・・・つまり犯人は判ら
ない。あいつだろ!

 ●国家の犯行?
 昔、日本銀行で1000万円入りのジュラルミンケースが忽然と消えた。日昼のことであり、担当
の職員がほんのちょっと目を逸らした瞬間の出来事だった。ガードマンはジュラルミンケースを持っ
た人間の外出を確認していないので、内部犯行ということになった。しかし犯人は判らぬまま迷宮に
入っちゃった。これはやくざの親分から聞いた話だが、犯人は意外な人物(ちょっと説明できない)
で、起訴することもできない。そこで悪戯ということで済ませたとか、済ませなかったとか・・・ 
因みに日本のスイス銀行預金高第1位は安倍晋三の秘密結社長州黒手組、2位は解放同盟。3位が天
皇家だという。天皇家はアルゼンチンの銀行にも莫大な預金があり、日本一いやロスチャイルドを抜
いて世界一なのかもしれない。ユダヤ資本がそれを狙っているとかも? もし女性天皇が出現して、
欧州王家と国際結婚というようなことになれば、その実行だといえる。ユダヤの手先で朝鮮系日本人
である小泉純一郎が皇室典範を書き換えて女系天皇を認めさせようとしたが失敗している。
 さて近頃銀行強盗がなくなったのは、「秋田グループ」の年齢的消滅だといわれている。秋田グル
ープとは、噂によると、リーダーが秋田県在住で、それで秋田を冠称するのだが、リーダーというよ
りはコーディネーターで、それぞれ匿名のその道の専門家が集められ、役割分担をして行動に移ると
いう。リーダーは新しい金庫が納入された時点で設計図を持っているらしいんだ。銀行強盗というの
は、金庫師と泥棒との知恵比べだそうで、けして単独犯ではない頭脳集団で、金に困って犯行を行う
ということではないようなのだ。何故なら彼らは紳士で、普通一般の一市民として真っ当に暮らして
いるという。もしかすると彼等は国家もしくはユダヤ資本の裏機関なのかも知れない。
 「3億円事件」の犯人も国家機関の犯行だという説はある。つまり「億」という金額を国民の意識
の中で一般化させる必要があったというのだ。今「3億円」と聞いて、誰も巨額とは思わないのは、
そのためだ。ホリエモンや村上が懐にした金は数百億円だし、国家予算は何百兆円だ。日本人の貯金
額は1200兆円だとか。最早政治家や官僚がごまかす金も億単位で、これも国民は驚かなくなって
いる。悪徳政治家金丸信の事務所に紙袋に入れた5億円が無造作に置いてあったとか、元首相の橋本
竜太郎が1億円の小切手を受け取っておきながら「記憶にない」といったが、実際記憶にないんだと
思う。彼らにとって1億円なんぞ、おいらの10円くらいの感覚なんだから。そのための「3億円事
件」だったという訳だ。
 太平洋戦争を3年半戦えたのは、それだけの備蓄があったからだ。緒戦、パレンバン、パリクパパ
ンに世界初の落下傘(パラシュート)部隊を投下してボルネオを攻略したのは石油の確保だ。つまり
政治家と官僚が、社保庁にしろ、防施庁にしろ、国交省・財務省・外務省etcetc、ごまかした金は、
私腹を肥やしているのではなく、国家の裏金(戦争準備金)としてプールしていってんじゃないかと
思っちゃう。明治から太平洋戦争まで、石油を営々として備蓄してきたんだもの、国家主義者たちが
何考えてるか判んないだろ。広島・長崎で被爆して原水爆に懲りてるのかと思ったら、国家主義者中
川昭一や麻生太郎は、核装備の議論をしようというのだから恐ろしい。2人は「非核三原則は堅持す
るが、議論はしてもいい」とはどういうこっちゃ? なら何の議論をするんだい? 自民・民主の議
員で20%が再軍備どころか、核装備論者だという。公明党も平和主義を棄てて、自民党国家主義を
助長してる。困ったこっちゃ。権力者は目的のために国民をだますからなぁ・・・
 憲法9条を変え戦闘をし易くする、教育基本法を戦前に戻す・・・後30年以内に、間違いなく日
本は再軍備するね。戦前に戻って国家主義者・軍国主義者の天下。また国民は地獄へ堕ちるか・・・
自虐民族日本国民の面目躍如でい。坂本龍馬よ、出てきてくれぇ! もう大久保利通はいらねえよ。
政治家と官僚を一括して南硫黄島へ島送りにしよう。

 ●日本の核保有
 中川昭一や麻生太郎等の国家主義者が、北朝鮮の核実験騒動で「核装備論争」を盛んに打ち上げて
るのは、国民に対してではなく、アメリカへアドバルーンを上げているのだ。国家主義者たちは意識
の中では非核三原則など糞食らえだ。元々日本は潜在保有国で、持つ技術と能力は既にある。ただ組
み立てるか組み立てないかだけのことだ。だから「持つべきだ」というのは「アメリカへの物申し」
で、北朝鮮や中国への脅しではない。彼らは日本は密かに保有していると想定している。海千山千の
日本だ、もう既に持ってたって可笑しくはない。戦艦大和のようなあんなでっかいものでも、戦前の
国民は全く知らされてなかったくらいだから、実は核兵器ぐらい自衛隊が保有してても不思議ではな
い。とにかく嘘の多い日本の権力者たちだ、何を隠してるやら・・・
 アメリカによって北朝鮮が潰されないのは、北朝鮮があることで東アジアは不安定で、不安定なら
ばこそアメリカ軍の駐留に意味がある。もし北朝鮮をなくしてしまい。東アジアに平和が訪れてしま
えば、アメリカの日本基地保有は意味のないことになり、アメリカ軍は日本から撤退しなければなら
ないことになる。本心は、日本のアメリカに対する復讐をさせないためにこそ日本に駐留しているア
メリカ軍は、だからこそ北朝鮮を日本の脅威として未来永劫存在せしめなければならない必須の理由
がある。だから北朝鮮が核を保有してもアメリカの核の傘の内にいれば安全だと口を酸っぱくしてい
うのだ。日本が核兵器を持てば、それは将来必ずアメリカに向けられることは間違いないからだ。ア
メリカが最も恐れることは、日本の復讐だ! 真珠湾奇襲プロジェクトを考察すれば、人工衛星とイ
ンターネットの世界では、日本のアメリカ本土攻撃は、当時に比べれば格段に容易になっている。も
うドスは喉元に突きつけられているといっても過言ではあるまい。陸上自衛隊や護衛艦隊が攻めてい
くようなアナログ戦争、ミサイルを撃ち込むような時代遅れの戦争でない戦争を仕掛ける可能性が日
本にはある。携帯電話器がアメリカを潰滅する武器となり得るのだ。だから阿倍晋三が「憲法第九条
不要論」を外国メディアにぶちまけるし、中川・麻生らが暗に「核保有」を論争としてやろうと叫ぶ
のだ。国会議員の3分の1は、彼らと同じ考えだという。ただ選挙に落ちるから口にしないだけだ。
当然民主党にもそういった考えを持つ者はいる。最後はアメリカが、憲法第九条廃止に応じるか否か
だ。阿倍が総理大臣になって中国に先に行き、アメリカに行ってないことに意味がある。核保有はア
メリカが許すまいが、日本国民が持つと意識すれば、アメリカとてそれを打ち壊すことが出来ない。
アメリカにとって北朝鮮というカードは諸刃の剣なのだ。打ち方を間違えれば、一気にアメリカが累
卵の危うきに立つ。
 拉致問題はアメリカが解決しなければならない事態になりつつある。乞うご期待だ!
 中川昭一や麻生太郎等の国家主義者が、北朝鮮の核実験騒動で「核装備論争」盛んに打ち上げてい
るのは、国民に対してではなく、アメリカへアドバルーンを上げているのだ。国家主義者たちは意識
の中では非核三原則など糞食らえだ。元々日本は潜在保有国で、持つ技術と能力は既にある。ただ組
み立てるか組み立てないかだけのことだ。だから「持つべきだ」というのは「アメリカへの物申し」
で、北朝鮮や中国への脅しではない。彼らは日本は密かに保有していると想像している。海千山千の
日本だ、もう既に持ってても可笑しくはない。戦艦大和のようなあんなでっかいものでも、戦前の国
民は全く知らされてなかったくらいだから、実は核兵器ぐらい自衛隊が保有してても不思議ではない。
とにかく嘘の多い日本の権力者たち何を隠してるやら・・・
 実は日本が核兵器を持っても、北京や平壌を攻撃することはできない。何故なら、その放射能を浴
びるのは日本だからだ。日本の核攻撃はアメリカに向けてしかできない代物なのだ。
 


■千光前通り

 中野2丁目8、9、12、14番、中野駅から、なかのZERO(もみじ山文化センターと中央図
書館のある複合施設)や紅葉山公園へ向かう「千光前通り(ZERO通り)」を、平成5年文化と芸
術の香りのする歩行者優先型のコミュニティ道路として整備している。電線を地中化して歩道を拡幅
した上でタイル装し、植樹やオブジェ(ペガサス・守護神・プロメテウス・風の形)設置をした。ま
たJRの線路ぎわの壁にはレンガ積み壁面と窓が描かれている。


■電車が動いた事件

 中野2丁目10番のJR中野電車区で、昨年11月23日に行われた「働く電車大集合!の「運転
士体験」のイベントに参加していた幼児がハンドルを最速にしたところ、走らないはずの電車が、約
9m先の車止めに向かって動き出すトラブルがあったことが、平成28年126日分かった。添乗し
ていた運転士が慌ててブレーキをかけて停止したが、構内にATS(自動列車停止装置)は設置され
ておらず、専門家は「車止めに衝突する可能性もあった」と問題視している。子供たちが参加する鉄
道イベントの安全管理態勢が問われる。!


■風の形
 中野2丁目11番6号にある山本衛士のオブジェ。幾つもの線(パイプ)で風を表現している。


■勤労福祉会館

 中野2丁目13番14号にある区の施設。JR中野駅南口から

 
ケヤキ広場
 サクラなどの木が沢山残っており、また入口の大きなケヤキが、レンガ造りの建物によく映え、落
ち着いた雰囲気を醸し出している。会館斜め前にある樹林も含めたこの辺りは、野鳥も多く集まって
きて、ウグイス、メジロ、カワラヒワ、ツグミ、シジュウカラ、トラツグミ、セグロセキレイ、キジ
バトの姿が見られる。

 護憲の像-母と子の平和-
 憲法擁護と平和の願いをこめて漫画家の森哲郎氏から区に寄付されたブロンズ像だ。昭和59年5
月3日勤労福祉会館女性会館の前庭に設置した。作者は江田正盛。


■躍動・日本の会員制総合スポーツクラブ発祥の地碑

 中野2丁目14番1号東京アスレチッククラブ(TACビル)前にあるオブジェと碑。

   日本の会員制総合スポーツクラブ発祥の地
   1970年7月15日創立
   東京アスレチッククラブ


■ペガサス

 中野2丁目14番21号先歩道上にある。ギリシャ神話、ローマ神話のペガソスの英語読み。羽を
持つ馬、天馬のこと。いろんなものの名称に用いられる。


■プロメテウス
 中野2丁目14番24号先歩道上にある銅像。プロメテウスはギリシャ神話の神々ティターン(タ
イタン)族の1神。イーアペトスの子。アトラス、メノイテオス、エピメテウスと兄弟。デウカリオ
ーンの父。ゼウスの反対を押し切り、天界の火を勝手に人類に与えた神として知られる。また人間を
創造した神ともいわれる。その名は、pro(先に、前に)+metheus(考える者)と分解で
き、「先見の明を持つ者」「熟慮する者」の意だ。

 
プロメテウスの火
 プロメテウスはゼウスの命令に背きながらも、人類が幸せになると信じて火を与えた。天地創造の
力を持つ「神の焔」を、未熟な存在である人類に渡すことは、神々の間では禁忌(タブー)となって
いた。人類は火を基盤とした文明や技術など多くの恩恵を受けたが、同時にゼウスの予言通り、その
火を使って武器を作り戦争を始めるに至った。現在に至るまで、火は人類の進化や文明の発達に大き
な役割を果たしているが、一つ間違えれば、総てを焼き尽くす恐ろしい火になってしまう。
 このことから「プロメテウスの火」とは、原子力など、人間の力では制御できないほど強大でリス
クの大きい科学技術の暗喩としてしばしば用いられる。昭和50年に書かれた『プロメテウス・クラ
イシス』というアメリカの小説がある。

鳥見橋親柱

 中野3丁目8番1号先桃園川緑道に残る橋の遺構。架橋当時のものではないかもしれない。


西田橋親柱

 中野3丁目11番17号先桃園川緑道に残る橋の遺構。架橋当時のものではないかもしれい。


竹橋親柱

 中野3丁目13番1号先桃園川緑道に残る橋の遺構。架橋当時のものではないかもしれない。


■北一輝逮捕場所(自宅)

 中野3丁目15番・18番の境界を中心としたところ(中野区桃園町40番地)に梅屋庄吉の別荘
があり、それを昭和10年10月から借りていた。当時は森のようなところで、家々が密集している
というようなことはなかった。前の道は飼葉道、東北へ上がると中野駅に、南西へ下るとおそ祖師様
(妙法寺)に至る。


子宝公園

 中野3丁目16番1号にあるベンチが2つだけの小さな区立公園。


大詔奉戴記念碑

 中野3丁目19番2号にある戦前の遺物。辺りに何の説明もないが、、

    国 威 宣 揚
      陸軍大将 男爵 本庄繁謹書

 
むかって左の側面に

    昭和十八年十二月八日大詔奉戴記念

 右側面

    桃園子寶會建之


 とある。建碑の2年前の昭和16年12月8日は、真珠湾攻撃によって日本が大東亜戦争(第二次
世界大戦・太平洋戦争)を始めた日。天皇による宣戦布告(宣戦の詔勅)が発せられたことを受けて
戦時中は12月8日だけではなく毎月8日が大詔奉戴(天皇の言葉をありがたく戴く)日と定められ
ていた。おいらは7月8日生まれなので、母親がよく「大詔奉戴日生まれだ」といって自慢してた。
その日は子供たちは学校で、天皇皇后の写真(御真影)が収められた奉安殿の前に小さい前ならえを
して整列させられたという。
 本庄繁邸は、当時の地名表記で「上の原町8番地(東中野2丁目)」にあった。本庄は昭和6年の
満州事変の時の関東軍司令官だった軍人だ。どういういわれで、この碑がここに建てられそして今も
残されているのか、判らない。文化財にはなってないようだ。近年まで世田谷区にもあったが撤去さ
れてしまった。
 なお、この石碑が建っている場所の近く(桃園町40番地=中野3丁目16番)には、異色の革命
思想家北一輝(きたいっき)が逮捕・処刑されるまで住んでいたそうだ。千数百坪もあるという敷地に
洋館の2階建て、庭は一面の芝生、向うに谷あり山ありという豪壮な邸宅だった。今は公務員住宅。


囲桃園公園

 中野3丁目20番1号と21番10号にある区立公園。


桃園公園

 中野3丁目21番18号にある区立公園


ポケットスクエア

 中野3丁目21・22番にある劇場街の総称。三つの建物にある四つの小劇場。ザ・ポケット、中
野劇場MOMO、テアトルBONBON、劇場HOPE。事務所は中野3丁目22番8号中野シアタ
ーハイツ1階 03‐3381‐8422
 貸し稽古場 江東区亀戸8丁目23番2号 やまとビル301号室

 ザ・ポケット
 中野3丁目22番8号にある小劇場。平成10年5月オープン。ポケットスクエアの中心となる劇
場で、客席数はポケットスクエア内で最大を誇る。180の座席数と使い勝手のよい舞台スペースで
オープン以来様々な劇団によって利用されている。

 劇場MOMO
 中野3丁目21番10号にある小劇場。平成12年2月にプレオープン。同年5月にオープン。約
90席というキャパシティでは稀有な天井の高さと、使い勝手のよいロビーを有する。また楽屋と兼
用の奈落は使い易く、演出に幅を持たせることのできる作りになっている。
 地下1階と4階に稽古場があって貸し出している。

 テアトルBONBON
  中野3丁目21番10号にある小劇場。平成21年10月オープン。ザ・ポケットと劇場MOM
O、両劇場の運営から得た経験を基に造られた劇場。ポケットスクエアの中で最も天井が高く、その
空間は実際よりも雄大に感じられる設計になっている。

 劇場HOPE
 中野3丁目21番10号にある小劇場。平成21年年10月オープン。ポケットスクエアの中で唯
一の地下劇場。客席数は約70席と、ポケットスクエア内で一番小振りの劇場ながら、この規模の小
劇場設備としては有数の充実度を誇る。劇場の名前は「この小屋から巣立って大きくなって欲しい」
という願いがこめられている。


■守護神

 中野3丁目23番1号ニューグリーンビル前のほどうにある羽を広げた鷲像。

   守護神
   1993‐6


■御立場(鷹場)・桃花名所
 中野3丁目28番の辺りだと「歩いて見ました東京の街」に写真がある。30万坪の敷地に最盛期
10万頭いたといわれる犬屋敷が廃止後、どうなったか記録にないが、跡地に、8代将軍吉宗の時代
になって紅白の桃木が植えられ、吉宗は鷹狩りの度にこの地を訪れた。小高い丘があり、眺めも良い
この地は休息に持って来いだ。そこで吉宗は御立場を築き「桃園」と命名した。近隣の村々にも桃木
を植えることを奨励したので、中野村の一円数里は春毎に桃の花が咲き乱れ、さながら桃源郷の様相
を呈した。江戸中の人びとが押し寄せ、花の下で饗宴を繰り広げ、村人の建てる臨時の茶屋も11軒
を数えるほどだったという。


○|○| 丸井本店 閉店
→ 中野マルイ
 中野3丁目34番28号にある。中野は丸井の創業の地で、確か? ・・・青梅街道に面して2階
建てのビルがあったが・・・それが何処だったか判らない。当時は青梅街道は今の3分の1ほどの道
路幅で、バスが漸くすれ違えた。丸井創業の地は拡張で青梅街道になってしまったのかなぁ・・・ 
中野駅前に進出したのは、東京オリンピックのころだと思うよ・・・現在とは違うような、反対側に
あったんじゃぁなかったっけか? 中野通りはガードを潜ると、急に細くなり、新井町の交差点のと
ころで止まってたんだよ。早稲田通りなんていわなくて、昭和通りと呼んでた。
 本店といっても、名ばかりで、新宿が丸井の中心だ。東京に対する京都のようなもので、創業の地
を忘れないということか。戦後中野南口が都会っぽくなったのは丸井のお蔭だ。なお本店は、中央線
北側の中野4丁目3番2号に移転している。


■家庭教師センター発祥の地

 中野3丁目36番12号、JR中野駅南口の100m西側に7階建ての〝お城スタイル〟と自称す
る小型のビル「日本家庭教師会館」がある。このビルの前に金属柱型の発祥碑が建っている。碑は、
うっかりすると見逃してしまうような地味なものだが、ビル前の壁面は「プロ家庭教師憲章」「プロ
家庭教師の父冠称の由来」「受験生応援歌の碑」など様々なプレートがところ狭しと貼り付けられ、
多数のふくろうの彫刻もあり、賑やかなこと夥しい。 「発祥の地・由来記」の文章は、 かなり宣伝臭
が強いもので、全体として良い趣味ではない。

   家庭教師センター発祥の地‐The Birth-place of a Center for Tutors
   ここ「日本家庭教師会館」(中野区中野3丁目36番12号)の地を「家庭教師センター
   発祥の地」と定め、未来永劫、後世に伝えるため、全国の家庭教師並びに家庭教師派遣
   業者の協賛によりモニュメントを建立するものである
   平成8年5月4日

   (副碑プレート)
   家庭教師センター発祥の地 (TM)
   The Birth-place of a Center for Tutors
   東京都中野区中野3丁目36番12号
   日本家庭教師会館

   
由来記
    わが国初の「家庭教師センター」は、前身である私塾「和光学院」が1959年5月4
   日、埼玉県与野市上峰の地に誕生し、その学院における「塾教育の一環」として、「プロ
   家庭教師の父」・ふくろう博士古川のぼる氏が「プロ家庭教師指導システム」を創案し、
   「家庭教師センター」と命名して設立したのに始まる。このことはNHKテレビをはじめ、
   各民放テレビ局、ラジオ各局、朝日新聞・毎日新聞・読売新聞, 産経新聞, 日本教育新聞、
   教育報道新聞等による全国的な報道により高い評価を受けている。
    その後、受験競争が過熱化し、社会のニーズに応えるため、1971年10月1日東京
   都新宿区百人町の地に進出した。そしてこの本部移転を記念し「日本家庭教師センター学
   院」と改称した。同年11月1日個別教育の指導研究と普及推進を図るために日本家庭教
   師協会を設立し、 初代会長に古川のぼる氏が就任した。
   1980年7月1日日本一の高層ビル(当時)「池袋サンシャイン60ビル」に学院本部を
   移し、サンシャイン家庭教師養成学院ならびにサンシャイン医学教育研究所を開校する一
   方、学院長である教育評論家・ふくろう博士・古川のぼる氏は家庭教師・教育関係図書を
   60冊余り刊行し、さらにプロ家庭教師イメージ・ソング「夢ある子らの未来のために」、
   受験生応援歌「はばたけ!禁多浪」、現代童謡「べんきょうの歌」などを作詩しプロデュ
   ースしている。
    家庭教師派遣業界のパイオニア、そしてリーダーとして、1984年7月17日家庭教
   師派遣業界の地位向上と確立を目指して、全日本家庭教師センター連盟を設立し、初代会
   長に就任した。1992年10月には通産省より「継続的役務取引適正化研究会委員」を
   委嘱され、翌年6月19日「家庭教師派遣業自主規制委員会」会長に就任し, 消費者「被
   害・苦情・トラブル」等の解消に尽力し, また「プロ家庭教師憲章」を創案, 「ベスト・
   テューター賞」を創設, ならびに「2月9日」を「家庭教師の日」と命名した。つづいて
   「プロ家庭教師指導システム」を、韓国はじめ世界各国へ広め、指導技術の教授、家庭教
   師派遣業会・家庭教師の地位向上に貢献した。
   1995年10月1日東京都中野区中野3丁目36番12号の地に、待望久しい「日本家
   庭教師センター学院」本社7階新社屋ビルを竣工した。さらに「日本家庭教師会館」の建
   設を機に、この地を「家庭教師センター発祥の地」と定め、全国の家庭教師、家庭教師派
   遣業者、ならびに一般社会の協賛により、未来永劫、後世に伝えるため、モニュメントを
   建立するものである。                    1996.5.4
   ----------------------------
     日本家庭教師会館
     東京都中野区中野3丁目36番12号 03‐3380‐2960
                            家庭教師派遣業自主規制委員会
                            家庭教師派遣業倫理審議委員会
                            唖然日本家庭教師センター連盟
                            日本家庭教師協会
                            日本家庭教師センター学院
                            日本プロ家庭教師養成学院
                            チャレンジ インターナショナル


■中野不動
桃園山善成寺

 中野3丁目39番10号、桃園通りにある真言宗豊山派の不動堂。御囲(犬小屋)に隣接し、往時
は風光明媚な桃園だったところだ。昭和初期正衆和尚の夢枕に白髪の老人が現れて「この地に不動明
王を祀り、衆生を教化せよ」とのお告げがあったという。このことから本尊は正衆の発願により、特
に成田山新勝寺中興大18世管主荒木僧正が開眼した身色青黒色の開運不動明王を祀っている。寺号
は「よくなる」→「善く成る」から来ている。


■ほりのうちみち石柱

 中野3丁目40番3号ピースフル桃ケ丘(セブンイレブン中野桃園店)の角地にある。ここの三叉
路南西に向かう道は堀之内の妙法寺に通ずる。明治29年馬糧商関口兵蔵が私財を擲って開鑿新設し
た道で、俗にに「飼葉屋道」「飼葉道」と呼ばれた。


■桃丘小学校
 廃校
 中野3丁目40番23号にある区立校。昭和31年桃園第三小学校の分校として開校、同32年独
立して「東京都中野区立桃丘小学校」となった新設校。平成19年やっと創立50年を迎えたが、生
徒の激減により、同20年廃校となり本校学区は桃園第三小学校に統合された。中央線以北の学区は
野方小学校に編入。統合校名は「中野区立桃花小学校」 跡地に記念碑が建てられている。

 校歌「
日の下に」 作詞・薮田義雄  作曲・岡本敏明
   日の下に 手をつなぎ
   輪をなして めぐる子ら
   美しい時の流れに
   清らかな 白玉と 磨かれて
   輝く 輝く 輝くわれら
   桃丘 われら


 跡地利用
 閉校直後の校舎の暫定利用として、平成20年4月から23年3月までの3ヶ年は、桃が丘保育園
・学童クラブを開設する。また桃花小学校(現桃園第三小学校)の体育館の建て替えに伴い、体育館
と特別支援学級(難聴・言語障害)の施設の代替としても利用する。暫定利用後の同23年度以降に
文化芸術活動や都市型産業の育成を支援するための施設として整備する。平成18年1月に策定され
た「新しい中野をつくる10か年計画」に基づき、文化芸術活動を支援する施設を整備し、合わせて
産業起業関係の事務所を併設することにしている。また「中野駅周辺地区まちづくりのグランドデザ
イン」では、桃丘小学校の周辺地域を文化芸術活動を通じて都市型産業の育成を支援するエリアとす
ることを想定しており、その将来像に向けて整備する。同20年度に同小学校跡地活用基本計画を策
定する。


■中野サンプラザ
 中野4丁目1番1号にある宿泊・音楽などの複合施設で、特にコンサート会場として有名だ。昭和
48年6月1日開業。旧労働省所管の特殊法人だった雇用促進事業団(現在は独立特殊法人雇用・能
力開発機構によって建設された。この時の正式名称は「全国勤労青少年会館」だ。駅前という好立地
に恵まれ、稼働率は高かったが、事業団の放漫経営のため赤字が続いた。その後、事業団が独立行政
法人化されることに伴って売却されることとなった。このため中野区と地元の金融機関・企業等が出
資して所有会社「株式会社まちづくり中野21」および運営会社「株式会社中野サンプラザ」が設立
され、平成16年12月より民営となった。

 ●コンサートホール
 
オープン以来、コンサートホールとして内外の著名なアーティストが公演し、日本はもとより、世
界中にサンプラザホールの名が知れ渡った。21階て建ビルの1階より4階まで、2222席からな
る大空間を、ポップス、ロック、ミュージカルと、あらゆる音楽等の広場として利用されている。 
 他に、結婚式場(6階)、研修室(7・8階)、テニスコート(8階)、レンタルオフィス(9階)、
宴会場(10~15階)、宿泊施設(16~19階)、レストラン(地下1階・1階・20階)、フィッ
トネススタジオ(地下1階)、プール(地下2階)、ボウリング場(地下2階)がある。


■サンプラザ中野

 中野裕貴(ひろたか)は、山梨県南アルプス市生まれ、千葉県流山育ちのミュージシャンであり、
文筆家、山口のばら」名義で作詞も行なっている。所属事務所はアミューズ。身長181cm。スキ
ンヘッドとサングラスがトレードマーク。離婚した妻との間に娘がいる。娘の名前は、爆風スランプ
のデビューアルバムに因み「よい子」と名付けている。千葉県立東葛飾高等学校では陸上競技部に所
属(種目はやり投げ)。卒業後、現役で早稲田大学社会学部に合格するが、一浪して政治経済学部に
入学、8年後に除籍。一部では卒業と記載されたプロフィールが見られるが、『クイズ$ミリオネア』
で、みのもんたにもいわれたように「優秀な成績で除籍」というところ、『クイズ!ヘキサゴン』の島
田紳介とのトークで「除籍が真実」と判明。またかつて『ザ・ベストテン』に出演した際「8年行っ
て立派に辞めました」と発言している。名前の由来は中野サンプラザに出演した際、自分の苗字も『中
野』だったことで、ひっくり返してペンネーム及び芸名にしたという。テレビ朝日のワイドスクラン
ブルにコメンテーターとして出演する際には、「サンプラザ・ホメオパス・中野」と称する。「コメ
ンテーターとして出演する際には、「サンプラザ・ホメオパス・中野』とします」と同番組内初出演
時(平成8年10月16日に公言した。ホメオパスというのはドイツでの新医療を行う医者の事で、
彼は4年かけて免許を取得したという。彼も40歳を過ぎたよ。爺ィになったんだなぁ。その所為か
最近精悍さが失せ、老人ぽくなったよなぁ。


■サンクオーレタワー

 中野4丁目3番1号にある高層ビル。

 
無題
 隣の丸井本社ビルとの間のオープンスペースにある巨大なオブジェ。


■丸井本店

 中野4丁目3番2号にある。


■中野区役所・中野区議会

 中野4丁目8番1号にある。

 ●
かこい

 区役所正面入口外左手の植栽に、5匹の犬の銅像と説明板が据えてある。平成3年に東セントラル
ライオンズクラブの寄贈とあり、彫刻家として高野雅秋、山崎敬三の名を記している。「かこい」と
は「囲い」で、犬屋敷のあったことの記念碑だ。

   かこい
   この付近一帯は、徳川5代将軍綱吉の時代(元禄八年‐1670)に作られた「犬小屋」
   があった。
   犬の像は、語り伝えようと、東京セントラルライオンズクラブが寄贈したものです。
   1991年10月                             中野区

 江戸時代、徳川綱吉が統治する元禄八年(1695)から宝永六年(1709)の間、中野は現在
の区役所を中心として、北は早稲田通りから南は大久保通り辺りまで、東はZEROから西は環七辺
りまで、全て犬の住居だった。その面積は最盛期で約30万坪(東京ドーム約20個分)と言われ、
その中になんと約80000頭の犬が住んでいた。この犬の住居には、5つの大きな犬囲いがあり、
それぞれの囲いには「犬小屋」「餌場」「日除け場」「子犬養育場」などが完備され、他にも、専門
の医者や役人なども配備されていた。現在、中野区役所前にあるのが、犬囲い跡を伝える犬像だ。区
役所のある中野4丁目一帯の「囲町」という旧名は、この犬囲いがあったことに由来する。


 ●区制50年記念児童タイムカプセル
 敷地に入って右の植込みにある。昭和57年に埋めたんだ・・・平成19年で25周年、当時10
歳として35歳か・・・50年となると齡60歳・・・生きてるのかよ。

 ●ライオン像
 玄関の右の植込みにある。ライオンズクラブの寄贈。ライオンズクラブも、ロータリークラブも、
フリーメイソンと同じユダヤ直営の親睦団体だ。

 ●史跡の碑
 ライオン像の右にある石碑。中野の犬屋敷について説明してある。昭和43年の建碑。昔は垂直に
建ててあったが、現在は寝かせてある。犬屋敷は五つのブロックに分かれ、一の囲は、中野駅から東
の中野1丁目へかけて、二の囲いは中野通りの東西、中野4、5丁目にかかる一帯、三の囲はほぼか
つての警察学校の敷地跡、四の囲は環七通りの辺りまで、五の囲は中央線の南、桃園通りから西、高
円寺南5丁目へかけてという、膨大な面積だった。

   史跡
   表題 東京都中野区長上山輝一書
   古来中野後は武蔵野の中央に位する意と新編武蔵風土寄稿に述べられ、慶永年間(140
   0)紀州の人鈴木九郎正蓮がこの地を拓き、文明九年(1477)四月には太田同感が江
   古田原に豊島氏と戦い、これを破って江戸築城の基を開いた。永禄年間(1560)の小
   田原衆所領役帳には、中野内正歓寺、阿佐谷、大場などの地名があり、本郷、雑色、江古
   田等を抱合した今日の中野区の先駆が既に見られる。
   この地は江戸初期より将軍、大名の鷹狩の地として著名であり、元禄八年(1695)に
   は5代将軍綱吉が「生類憐みの令」を出して犬小屋を設ける多数の犬を飼育し、次いで享
   保二十年(1736)八代将軍吉宗はこの地の景勝を賞して桃園を経営せしめ、御立場、
   大名山等を設けて江戸士民遊歩の處とした。降って明治29年に中野電信隊、鉄道隊、気
   球大隊が創設され、次いで陸軍中野学校が設置せられた。特に電信隊は永く存して我国電
   信技術の発達に貢献する処、大であった。
   昭和20年8月15日第二次世界大戦の終結に伴い、一時進駐軍の駐留するところとなり
   これが撤収の後、警察大学校の設立ありたるも、その後この地は中野区発展の要衝とすべ
   しとの衆議に応え、同校の移転跡地の内、その一部は庁舎建設用地として中野区有地とな
   し。昭和43年10日本庁舎落成と共に、中野区政中核の地と定められた。
   昭和43年10月5日              東京都文化財専門委員 稲村坦元撰
                                      郷達殖謹書


 ●中野の犬屋敷
 
昭和56年建てた区教委の説明板。

   中野の犬屋敷
   犬屋敷は、5代将軍徳川綱吉が設けた江戸幕府の野犬保護施設で、犬を囲って飼育したこ
   とから「お囲い御用屋敷」ともいった。中野4丁目あたりの旧町名「囲町」はこれに由来す
   る。綱吉は「生類憐みの令」によって殺生を禁じ、特に犬の保護策を強行して、江戸郊外
   の中野に最も大規模な犬屋敷を造らせ、支配役以下多数の役人や医者を置いて、野犬の飼
   育に当らせた。犬屋敷は元禄八年(1695)末に収容を開始し、綱吉の死去により宝永
   6年(1709)に廃止されるまで、15年間存続した。敷地は現在の区役所を中心にJ
   R中央線を挟んで約30万坪(100h)に及び、5つの犬囲いには、各数百棟の犬小屋
   ・餌場・火除け場・子犬養育場があって、最盛期には8万数千頭、飼料費は年額9万8千
   両にも達した。その後、幕府は方針を変えて、雌犬の収容を主体とし、他の近在の農家に
   飼育料をつけて預けることにした。犬屋敷の莫大な費用は、江戸の商家や天領の農民達の
   負担で賄われた。
   昭和56年3月                         中野区教育委員会

 「憲法擁護・非核都市」宣言塔
 敷地入口右の植栽にある、昭和58年「憲法擁護・非核都市の宣言」1周年を記念して設置された
時計塔。宣言文とスローガンが記されている。

                         まちには  こどもの笑顔がある
                         ひろばには  若者の歌がある
                         ここには  私たちのくらしがある
                         海を越えた  かなたにも
                         同じ人間の  くらしがある
                         いま  地球をおおう  核兵器は
                         あらゆる  いのちの営みを
                         この  しあわせを  奪い去る
                         私たちの憲法は
                         くらしを守り  自由を守り
   
憲法擁護・非核都市の宣言 恒久の平和を誓う
                         私たちは  この憲法を大切にし
                         世界中の人びとと  手をつなぎ
         昭和57年8月15日      核をもつ  すべての国に
                         核兵器をすてよ  と  訴える
            中野区          この区民の声を
                         憲法擁護・非核都市  中野区の
                         宣言とする

 傍らの説明板は以下の通り。

   「憲法擁護・非核都市」宣言塔
   1983(昭和58)年「憲法擁護・非核都市の宣言」1周年を記念して設置。「憲法を
   大切にし、世界中の人びとと 手をつなぎ 核を持つすべての国に 核兵器をすてよと訴
   える」という。宣言に込められた区民の願いをあらわす中野区のシンボルです。
   現在の塔は、1992(平成4)年8月に、宣言10周年にあたり建て替えたものです。
                                        中野区

 「家族」
 時計塔と同じ植栽にあるオブジェ。家族愛を抽象的に表現した山本雅彦の葉サボテンの様な作品。

 
●ワイセツ犯罪元臨時職員不正アクセス事件
 平成29年1月12日中野区役所の元臨時職員高橋健一郎(29歳)が、住民の個人情報を見るこ
とができる区の住民情報基盤システムから女性の個人情報を取得し、女性宅に侵入した疑いで再逮捕
された。高橋はこれまでに5件の強制猥褻事件の容疑者として逮捕・起訴されており、性犯罪の常習
者だった。高橋は去年まで市役所の区民サービス課でマイナンバーカードの交付などを担当しており
区内に住む住人の名前や住所といった個人情報を閲覧できる立場にあった。職権を乱用し手に入れた
1人暮らしの女性の住所などから侵入・強制猥褻を繰り返し逮捕されたもの。再逮捕の理由は個人情
報の盗用を禁じた区の個人情報保護条例違反と、20代の女性が住むマンションのベランダに3回侵
入し、下着の写真を撮るなどした住居侵入だ。こういう男は何度刑務所に入れても同じことを繰り返
す。病気なんだから、睾丸を剔出してやることが本当の治療だ。


■ケヤキ通り

 中野4丁目7、8番、囲町公園東側にある。区内でも最もゆったりとした並木道。四季を通じて街を
彩っており、ジョギングをする人、散歩をする人など、様々な人たちが並木道を楽しんでいる。平成
8年に地域の人たちにより「けやき通り」の愛称がつけられた。


■無題

 中野4丁目9番18号NTTドコモ中野ビル前にあるモニュメント(金属の塔)。


■囲町公園

 中野4丁目10番、ケヤキ並木の西側、区役所の隣にある公園。五代将軍綱吉の「生類憐みの令」
によって作られた犬屋敷の中心に当たる。専用のゲートボール場がありお年寄りの姿が絶えない。サ
クラ、シイノキ、ヤマモモなどが植えられている。


■中央中学校
 閉校
 中野4丁目12番7号、早稲田通りに面してある。昭和34年第九中学校分校として新井町636
番地に開校。同35年独立して「東京都中野区立中央中学校」となる。同36年校歌制定。

 校歌「希望輝く」 作詞・勝承夫  作曲・平井康三郎
  1.希望輝く大東京の
    空から朝の光が寄せる
    力強く聳え立つ
    白亜の窓も清らかに
    中野中央 われら幸あれ
  2.弾むボールよ 溢れる歌よ
    胸には固く自立の誓い
    桃の園の由緒にも
    平和の理想 美しく
    仰ぐ校風 若い誇りよ


 同37年体育館完成。同39年校旗樹立。同45年創立10周年記念式典。同47年学校緑化。同
55年創立20周年記念式典。新井町から現在地に移った時期は判らない。昭和41年まで第八中学
校があったので、その後だろう。
 平成元年創立30周年記念式典。同4年校庭一般開放。同11年創立40周年記念式典。同13年
バルルーム(教育相談室)開設。同21創立50周年記念式典。同24年本校第九中学校と統合され
中野中学校となる。跡地は同26年新校舎の完成次第、中野中学校となる。


■中野中学校
 中野4丁目12番7号に校舎新築中。平成26年完成予定。

 校歌「日が昇る」 作詞・金沢智恵子  作曲・橋本祥路
  1.日が昇る 新しい都会(まち)
    希望溢れる光を乗せて
    春は桜咲き 花の命を輝かす
    今 心寄せ合い 見つめ 確かめ
    生きる証を刻むのだ
    讃えよ 讃えよ 誇れる仲間たち
    中野中学 我が母校
  2.風戦
(そよ)ぐ新しい都会に
    緑溢れる生命(いのち)の鼓動
    春は柔らかに 優しく香る桃の花
    今 心寄せ合い 学び 憧れ
    自分の夢を探すのだ
    讃えよ 讃えよ 誇れる仲間たち
    中野中学 我が母校


■野方警察署
 中野4丁目12番1号にある。昭和11年中野警察署から独立。昭和32年3階建てビル新築。同
61年4階建てビルに建て替え現在に至る。


■中野犬屋敷

 中野4丁目全域。五代将軍徳川綱吉が設けた幕府の野犬保護施設で、犬を囲って飼育していたこと
から「お囲い御用屋敷」といった。4丁目辺の旧町名「囲町」はこれに由来する。元禄八年(169
5)末に収容を開始し、綱吉の死後宝永六(1709)年に廃止するまで、15年間存続した。敷地
は現在の中野区役所を中心にJR中央線をはさんで約30万坪(100ha)に及び、5つの犬囲に
は、各数百棟の犬小屋・餌場・日除場・子犬養育場があって最盛期には8万数千頭、飼料費は年額9
8000両にも達した。その後、幕府は方針を変えて、雌犬の収容を主体とし、他の近在の農家に養
育料をつけて預けることにした。犬屋敷の莫大な費用は、江戸の商家や天領の農民たちの負担で賄わ
れた。「お犬様の囲い銅像」が区役所の正面外構に設置してある。


 ●「生類憐みの令」(中野御囲)
 江戸幕府五代将軍徳川綱吉は生来学問好きで、太平に甘んじてで堕落してきた人々を儒学や仏教の
教えにより教化することを目指した将軍だ。ためにその綱吉の前半生の政策は評価されることが少な
くないが、後半生に所謂「生類憐みの令」を実施したことで、名声に大きく傷がつき、「犬公方」と
まで揶揄されることとなった。
 綱吉が生類憐みの令を施行したきっかけになったのは、一般に次のような逸話を以て解釈されてい
る。彼は天和三年(1683)に世継の徳松を失った後、嗣子に恵まれなかったが、このことを悩ん
だ桂昌院(綱吉の母)は尊崇する僧隆光に相談した。すると隆光は「前世で殺生をした報い。子供が
欲しいなら、生類への憐みを心がけ、特に将軍は戌年生まれなので犬を大事にするように」と回答し、
これが悪法のトリガーになったとされている。しかし、この話は巷間の噂に類する話であり、実際に
は綱吉自身が自らの長寿を祈念して始めたという説もある。
 「生類憐みの令」と呼ばれるものは、一つの法令によるものでなく、貞享二年(1685)以降に
次々と公布された生き物に関する幕府令を総括したものをいう。まず貞享二年七月に「将軍の御成の
道筋に犬や猫が飛び出して来ても構わないからつなぐことは無用とせよ」と発せられた。続いて馬の
筋をのばして外形を良くすることが禁止され、幕府御台所で鳥類・貝類・海老を食材とすることが禁
止された。以後次第にエスカレートしていき、次のような幕令が公表されることになる。

  ①.江戸町内のすべての飼い犬の数や毛色等を帳簿に記すこと。
    野良犬には食事を与えること。
    犬が行方不明になったらほうぼう探すこと。
    大八車や牛車は犬を挽き殺さない
    よう注意すること。犬同士の喧嘩は水をかけてすること。
  ②.重病になった牛や馬などを遺棄することの禁止。
    牛馬に重い荷物を背負わすことも禁止。
  ③.食料のために魚・鳥・亀・貝などを飼育して売ることを禁止。
  ④.ドブの水を往来に撒くとぼうふらが死んでしまうので禁止。


 徳川家康以来将軍の贅沢な遊戯(実際は軍事訓練)だった「鷹狩」も元禄六年(1693)に廃止
され、鷹匠などの役人は犬小屋役人に転じ、鷹は陸奥の小名浜に放たれた。江戸の町名で鷹狩に纏わ
るものは変更され、鷹匠町は小川町、餌差町は富坂町へと改名を余儀なくされた。このようにして保
護された生類は、牛・馬・犬・猫・猿・鶏・亀・蛇・鼠や魚類・鳥類など有り凡るものに及んだ。
 元来「生類憐みの令」は幕法なので、各藩領には適用はされなかったが、次第に幕府に迎合する藩
もあらわれた。肥前の小城藩では蠅たたきの製造販売を中止させている。
 このような異常な幕法の発布と同時に違反者に対する取締も強化されていった。将軍の側近に奉公
するものは、のみ、しらみ、蚊、蠅も殺さないことを誓紙に認めさせられた。実際の判例は常軌を逸
している。あるものは頬にたかった蚊を潰したという罪で、またあるものは台所の井戸に猫が落ちた
罪で、それぞれ遠島になった。或る者は病気になった5歳の子どもの治療にツバメを食べると治ると
聞き及び、吹き矢でツバメを射落とした。その結果、親子ともどもで処刑された。
 このようにこの幕令に違反した結果、働き手を失い、家族が離散した人々は数十万人にも及んだと
いう。
 その一方、甘やかされた犬は増長し、路上で人に平気でかみつき、捨て子を襲うなどの事件が発生
した。この事態に対応するため、幕府は野犬収容施設を喜多見・四谷・中野などに設けた。
 最初に建設された大久保犬小屋は約2万5千坪の敷地を有し、続いて建設された中野御囲は総面積
16万坪の敷地の中に290棟の犬小屋と子犬養育施設まで設置された。元禄八年(1695)には
10万頭が預けられ、1頭につき1日当たり米2合と銀2分が経費としてかかったという。この総費
用が幕府の歳入の一割を占めたというのだから、馬鹿馬鹿しい。この費用自体も江戸の町人から徴収
したもので、払えないものは豆や藁などの物納を要求された。この結果日増しに民衆の間には怨嗟の
声が広がり強まっていった。一方で、御蔭を蒙り左団扇になったのは犬医者だった。
 なんだかんだでこの生類の憐みの令は24年間も継続された。宝永六年(1709)綱吉が死の床
についた際、この幕法の継続を願ったが、最高権力者の遺言にも関わらず、続く6代将軍徳川家宣は
綱吉の死後、ただちに廃止した。ようやくコントのような日常から人々は開放されたのだ。と

 ●「生類憐みの令」の裏の理由
 中野といえば犬公方徳川綱吉だ。元禄八年(1695)江戸中の野犬4200匹余を収容保護した。
「中野御囲(なかのおかこい)」だ。それが囲町の名の起こりだが、生類憐みの令を天下の愚法だと罵
る学者がいる。木を見て森を見ぬ粗忽者だ。天下の法が個人の恣意で発せられる筈もない。この法の
趣旨は動物を大事にしろということ、つまり狩猟・肉食の禁止なのだ。全国各地の天領、親藩領・譜
代大名領に乙女山(御留山)が定められた。個人の趣味を停止させようというのではないのだ。日本
民族は本来肉食民族で菜食主義者は後から来た仏教徒だけだ。現在でも神道と仏教徒
では神道信者の方が遥かに多い。
 寺は本来「道場」の意だが、「最後はお寺さんにお世話になるんだから」と日本人の9割は葬儀場
と勘違いしている。僧侶とは「人間のあるべき心」を学ぶ学生のことで心身ともに修行する人たちだ。
死者に引導を渡す職業に就くためにやってる訳じゃない。僧侶は「死者に見(まみ)えず」といい、本
来葬儀屋なんかやっちゃいけないのだ。江戸時代、寺は神社より上位にあって神社の別当となり神道
を管理してきた。白徒(先住民=神道信者)を抑えるためにだ。日本では仏教が6世紀半ばころ伝来
したことは教わるが、神道がいつ伝来したのかは教わらない。己の神だからどっかから持ってきたも
のではないからだ。さて狩猟が駄目となると肉や革で飯を食ってる白徒たちは経済的基盤・資金力を
失う。その親玉が願人坊主上がりの洒井氏だ。徳川家を作った功労者の子孫だから恥をかかさないで
力を殺ぐには、大変なエネルギーを必要とした。かくて「下馬将軍」と渾名されて将軍以上の力を振
るった洒井忠清は失脚した。
 蚊も殺すなとは本来の目的を隠蔽するためのテクニック、法律には本音と建前がある。イラク特措
法の建前は「イラク再建支援」だが、本音は「アメリカのためにする援護射撃」だ。労働三法の建前
は「労働者の保護」だが、本音は「安定した税金の収奪」にある。機嫌よく働かせて稼ぎを上げさせ
た上で掠り(税金)を多く取ろう魂胆だ。この世の中に国民のための法律など世界中の何処を探しても
存在しない。法律というものは究極、権力のためにこそあるものなのだ。民主主義であれ君主主義で
あれだ。かくて愚法は次代家宣のとき廃される。目的を完遂したからだ。この時から差別社会(同和
問題)が始まった。
 この法律により島流しにされたカラスとトンビの話は文京区「春日」に記してある。

 ●
日本人は太古から肉食主義
 しかし日本人は太古の昔から鍋物が主食だ。鳥団子鍋・鶏水炊き・桜鍋(馬肉なべ)・紅葉鍋(鹿鍋)
・牡丹鍋(猪鍋)・犬鍋・熊鍋・牛鍋・ちゃんこ・すき焼きなどなど。日本人が肉を食わずに米だけを
食ってたというのは迷信だ。我々の先祖がマンモスを追って日本に辿り着いたことを忘れたか。遺跡
から動物の骨は大量に出ているし、家康は牛すき焼きで朝鮮使節を持てなした。水戸黄門は醍醐(チ
ーズのようなもの)を作っていたし、井伊直弼が水戸浪士に暗殺されたのは200年贈り続けてきた
近江牛の贈呈を止めたことを遺恨に含んだからだともいわれている。米を引っさげてきたのは後から
来た連中だ。
 現在も日本国民には山の民と海の民と田の民の別がある。


 ●森鴎外のあやまち 脚気衝心(賢者高木兼寛VS愚者森鴎外) 
 コシヒカリが登場するのが戦後ということは、もし日本人が米を主食としてきたのなら2千年もの
間まずい米を食ってきたことになる。農家が米を生産するのは米を売るためで食べるためじゃない。
すなわち換金作物だ。年貢率四公六民は農民から4割を搾取するのではなくて、領主が土地を示して
「ここで米を作るなら。労賃経費ひっくるめて6割を与える」ということだ。日本人が米を主食と認
識するようになったのは明治以後、徴兵令によって皆兵給食となってからだ。米は兵粮として扱いや
すい食糧なので軍隊では兵士に食わせる必要があった。精米ばかりを食べてるってえと「脚気衝心」
になる。江戸に出た奉公人が主人から米ばかり食わされて罹る病気を「江戸病」「江戸患い」といっ
た。その不足するビタミンを補ったのが蕎麦で、だからこそ江戸っ子は蕎麦っ食いになったのだ。
 軍隊で米ばっかり食わされる山家育ちの兵士たちが頭にきて「肉食わせろ運動」を起こした事があ
る。それを受けておかずに肉を採りいれることになった。それこそが「肉じゃが」「とんかつ」「カ
レーライス」なのだ。洋食は軍隊帰りが、中華料理は日中戦争経験者が全国に広めたものだ。
 海軍では「龍驤事件」の経験から高木兼寛の献策で「筑波」実験航海を経て早々に米飯を麦飯に切
り代えてこの問題を解決したが、陸軍では森鴎外が細菌論を頑強に主張して白米無罪論を捨て切れな
かったたため、日清戦争では戦死453名に対して脚気死亡者4064名に上り、日露戦争では戦死
48400人、戦病死37200人の内、27800人が脚気衝心に罹って死亡した。明治38年陸
軍の脚気患者25万人に対して海軍は105人という少なさだった。この期に及んで陸軍は鴎外の細
菌説に見切りををつけ、漸く米麦混合食とした。その後北里柴三郎によって脚気細菌説は科学的根拠
を以て完全に否定されたが、鴎外はなお自説を曲げず、ついに謝罪せぬまま退役した。鴎外の頭と心
が多少柔らかかったら陸軍ももう少し何とかなったかも知れない。物書きとしては少々の才能はあっ
たかも知れないが、軍医監としては全く才能のない男だった。なお高木は東京慈恵会病院、同大学の
創始者で、日本で最初に看護婦養成の必要を説き実践した救国の医学者なのだ。


 
●陸軍中野学校
 その後中野御囲は囲町となり、そこに密かに陸軍の犬を育てる「陸軍中野学校」が設置されたのは
偶然か? 市川雷蔵主演で映画化されたスパイ養成所だ。当時表立ってその名の学校があった訳では
なく、一般には憲兵隊、通信隊と信じられていた。当然最上級の機密のことであれば、中野学校はな
い訳で、戦艦「大和」とともに、戦後になって公表された。現在でも国家に公表できない組織やシス
テムはあるだろう。現代日本にスパイはいないとされているが、いると公表したらスパイ活動じゃあ
ない。人数は判らないが、スパイ活動をしている役人はいるだろうさ。いないことになってるほうが
活動は至ってしやすい。日本のテレビに出演している外国人は、一応スパイと考えていい。何もスパ
イといえば007のように危険な活動をするスーパーマンじゃない。戦後帰国した横浜の有名パン屋
の親父はイギリスの大佐だった。
 戦後数十年してルバング島で発見され大騒ぎとなった残地諜者小野田寛郎少尉のことはもう忘れた
かな? 彼はブラジルに移住し、小野田牧場を経営する傍ら、90歳近い今も日伯間を往復し、福島
県塙町で小野田自然塾を開きアウトドアライフを指導している。
 陸軍の秘密戦要員を育成する学校。そもそも陸軍には独立した『諜報・謀略組織』はなく、参謀本
部第2部がその種の任務を担当していたが充分ではなかった。支那事変(戦後に日支事変と改称、さ
らに日中戦争と改称)は益々激化し、単なる武力だけでは事変は解決しえないことを痛感した軍首脳
は、
国際情勢/機密情報の収集分析、②宣伝工作、③謀略活動を任務とする参謀本部第2部第8課
(謀略課)を新設し、初代課長には影佐禎昭大佐(26)が任じられた。影佐大佐はのちに「王精衛
工作」 即ち汪兆銘を重慶から離反させることを支援した人物であり、南京政府軍事顧問も勤めるこ
とになる中国通だった。おいらの親父も憲兵だが、諜報活動をしていたといっとったよ。
 一方陸軍省も諜報・謀略の重大さを認識し、陸軍省兵務局内に防衛課を新設、防諜任務を担当する
こととなった。さらに牛込の陸軍軍医学校と騎兵第1聯隊の間に庁舎を新築、「兵務局分室」を設立
した。海軍は既に軍令部第3部の第5課がアメリカ、第6課が支那、第7課がソ連・欧州、第8課が
イギリス連邦をそれぞれ担当して機能しており、こと諜報に関しては陸軍より一日の長があった。そ
うした中で、諜報戦の重要性を強調し、さらなる充実した専門機関/専門要員の養成機関の設置を検
討していた陸軍省兵務局の秋草俊中佐(26)や軍務局の岩畔豪雄中佐(30)などが中心となって
昭和12年12月 陸軍省兵務局内に情報勤務要員養成所設立準備事務局が設置された。昭和13年
4月には、防諜研究所新設に関する命令により準備を進め、陸軍大臣に属する『後方勤務要員養成所』
の名称で秘密戦 即ち謀略・防諜・宣伝の要員を養成する期間が東京九段に設置された。初代後方勤
務要員養成所長として、設立準備委員の主唱者であった秋草俊中佐が任じられ、昭和13年7月第1
期学生19名が入所し教育を開始した。士官学校出身者から学生を選抜されることも検討されたが、
近代戦の在り方を想定していた設立準備委員は、軍人勅諭や典範令で軍人精神を叩き込まれた陸士出
身者では複雑で臨機応変なる諜報活動は勤まらないであろうとして、予備士官(幹部候補生)出身者
から選抜採用された(のちに陸士出身者も甲種学生として採用した)。各部隊から推薦された人物を
まず憲兵隊が改めて調査し、選考された人材のみ東京に召集し、適正と人物試験を厳格に行い、第1
期生19名を採用、校門には「陸軍省通信研究所」という表札が掲げられていた。部内では秘匿名称
として「軍事調査部」とか「東部第33部隊』と呼称された。諜報学校の職員及び学生は、軍服着用
が認められず、それどころか本名を捨てさせられ、偽名(防諜名)を名乗ることとなった。

 第1期生の教育時間は、学科(軍事学・外国語学・社会学など)1110時間。術科(武術・暗号
・写真撮影ほか)262時間。術外(細菌学・心理学・犯罪手口・自動車と航空機実習・忍術など)
495時間。ほかに実習が準備されており、大東亜戦争勃発後は占領地行政に関する教育も併せて行っ
た。同14年7月第1期生18名(1名は中退)が卒業。当初は長期の外国駐在勤務務を想定してい
たが、在外武官室勤務者は多くなく、寧ろ戦局に応じて関東軍、支那派遣軍などの特務機関勤務者が
多数を占めた。同15年8月「後方勤務要員養成所」を改組して中野駅前(現在の中野区役所一帯)
に「陸軍中野学校」として開校。陸軍大臣の隷下に属し、同17年からは参謀総長の隷下に入った。
同19年8月遊撃戦部隊幹部要員の短期養成を目的として静岡県盤田郡に「二俣分校」を開校。小野
田寛郎などの残置諜者を輩出した。本校卒業生は約2200名に達し、世界の至るところで特殊任務
に就き大きな業績を挙げた。自衛隊も富士学校で養成してるらしい。らしいというのは性格上断定す
べき事柄ではないからだ。スパイのいない国はない。小野田寛郎少尉二世は世界中にいるさ。無論北
朝鮮にもだ。しかしいないことになっている。
 中野学校が明るみに出たのは、戦艦大和と同じで戦後のことだ。当然軍機密だから公表される性格
のものではない。昭和41~43年に市川雷蔵主演の映画で一遍に有名になった。父が憲兵でその系
統の職務についていたこともあって5作品(陸軍中野学校・陸軍中野学校雲一号作戦・陸軍中野学校
竜三号作戦・陸軍中野学校密命・陸軍中野学校開戦前夜)を全部リアルタイムで見た。戦争や軍を題
材にしていながら戦争映画ではなく、惹きこまれていく映画だった。面長な雷蔵の顔が父親に被って
いたのかも。


■警察大学校 
移転

 中野4丁目13番・22番にあった警大(National Police Academy)とは、警察法第27条を
設置根拠とする、警察庁直轄の警察実務に関する最高教育機関である。警察上級幹部に対し必要な知
識・技能、指導能力及び管理能力を修得させるための教養を行うほか、警察業務に関する研究を行う
機関であり、平成13年から府中市に置かれている。「警察大学」とも略称されるため、学校教育法
に定められた大学と誤解されることが多いのだが、こちらは文部科学省の所管下ではない大学校であ
り、従って一般の入学などは行われていない。警察大学校長が校務を掌理し、副校長が校長の補佐を
行う。研修管理官が命を受け、警察大学校の所掌事務のうち重要事項に係るものの企画、立案及び調
整を行い、並びに当該事務に関し、政策的見地から総括して指導を行う。また教授、助教授が置かれ
ている他、校長は特に必要がある場合は講師を委嘱出来る。明治18年に設立された警官練習所を前
身とし、その後再度の改編を経て、昭和21年に中央警察学校、同23年には現在の警察大学校に。
平成13年に府中市朝日町3丁目11番に移転した。跡地は早稲田通り面した部分が東京警察病院と
なった。その他の跡地は再開発となり、平成25年「中野四季の都市(まち)となった。


■中野四季の都市(まち)

 中野4丁目10~13番・21番・22番にある。この地は江戸時代、生類憐みの令で有名な5代
将軍徳川綱吉が設けた野犬保護施設である「お囲い犬屋敷」があった。中野4丁目の旧名「囲町」は
これに由来する。この屋敷の広さは現在の中野区役所付近を中心として中野四季の都市を含めた約3
0万坪の土地にもなり、生類憐みの令で殺生が禁じられた野犬の保護が行われていた。この施設は元
禄八年(1695)から綱吉の死去によって宝永六年(1709)に廃止されるまで続いた。その後
8代将軍徳川吉宗の時代になると、お囲い跡の一部に桃の木が植えられ、江戸市民に親しまれたとい
う。
 時は移り明治時代となり、中野四季の都市のある一帯には陸軍の施設が置かれることになった。明
治30年一帯には陸軍の鉄道隊・電信隊・気球隊が置かれ、後に交通兵団司令部も置かれた。その後
鉄道隊・気球隊が千葉県に移り、一帯は電信隊のみが置かれ第一電信連隊と称した。その後昭和14
年陸軍中野学校が移転・開設。戦後、跡地には警察大学校と警視庁警察学校が置かれ、平成13年ま
で使われた。警察学校などが府中市に移転後、跡地の再開発がなされ、平成24年3月23日区画道
路が開通、以後、オフィスビルや大学施設、防災公園、病院などが立ち並ぶ施設へと変わった。
 施工地区面積:約16.8ha。

 中野セントラルパーク東棟
 地下2階・地上10階。高さ50m60cm。平成24年3月竣工。

 中野セントラルパーク南棟
 地下1階・地上22階。高さ99m60cm。平成24年6月竣工。

 
中野四季の森公園
 敷地中央部にできた防災公園。面積は約1.5ha。 広場などが主体の公園で近隣のオフィスビル
で働く人や大学キャンパスの学生など多くの人に利用されている。「中野にぎわいフェスタ」などの
大型イベントをはじめ、大規模災害時にはそれに対応できる様に防災施設も備わっている。公園は道
路の反対側にも拡張される予定だ。開園平成24年4月1日。

 東京警察病院
 平成8年千代田区富士見から移転して来た。

 
早稲田大学中野キャンパス(中野コミュニティプラザ)
 キャンパス内には留学生などを含む寄宿舎と地域に開かれた生涯学習の場を提供する施設ができる
予定。警察病院の西隣。

 帝京平成大学中野キャンパス
 早稲田大学と警察病院の南側。薬学部・現代ライフ学部・ヒューマンケア学部の看護学科の学部や
大学院が進出してくる予定。


 
明治大学中野キャンパス
 帝京平成大学の南側、地下1階・地上14階。国際日本学部や総合数理学部などの学部・大学院が
進出してくる予定。

 警視庁新庁舎
 帝京平成大学

 
野方警察署 
 中野4丁目12番1号に既設。

 
中野区役所新庁舎
 中野4丁目11番の中野区立体育館、アーバンネット中野ビルのところに建てる予定。

 
中野区立中野中学校
 平成24年に閉鎖された跡地に、同26年に移転してくる。


■東京警察病院

 中野4丁目22番1号にある。
 [富士見時代]
 大正9年財団法人自警会設立。昭和4年千代田区富士見町に自警会の職域病院として「東京警察病
院」開院。同7年新館完成。同11年2・26事件救護活動。同20年愚かなアメリカ軍の非人道的
無差別空爆による被災者救護活動。8月敗戦により一般に門戸を開く。同27年メーデー事件救護活
動。府中療養所設置。同29年二重橋事件救護活動。創立25周年記念式典。同34年高等看護学院
開校。同35年第1次安保闘争救護活動。同40年別館完成。同41年多摩分院開院。同42年羽田
闘争救護活動。同43年本館落成。同44年新館落成。同45年救急センター開設。全館竣工により
落成式。第2次安保闘争救護活動。同46年沖縄闘争救護活動。同47年あさま山荘事件救護活動。
多摩分院本館完成。同48年消化器センター設置。同49年三菱重工本社爆破事件救護活動。同52
年循環器センター設置。同54年創立50周年記念式典。同56年外来治療薬剤は院外処方制度に移
行。同59年脳神経センター設置。同60年集中治療室(ICU)運用開始。同63年循環器科・消
化器科新設(24時間救急体制)。地下鉄サリン事件救護活動。
 平成2年MRI導入。同3年新病院構想策定。同4年多摩分院を西東京警察病院に改称。同7年地
下鉄サリン事件救護活動。オウム事件救護活動。同8年ペルー日本大使公邸事件で医療チーム派遣。
同9年東京都災害時後方医療施設。同13年医療連携室設置。同12年MRI導入。同14年アンギ
オ更新。CT更新。東京都CCUネットワーク加入。同17年警察大学校跡地に新病院建設開始。同
20年3月14日閉院。

 [中野時代]
 平成20年4月1日中野区の現在地に新病院落成して移転開院。同21年集中治療センター設置。
同22年人工関節センター設置。病床区分届出(一般病床415)

 
摂政宮殿下行啓記念碑
 植栽の奥の方に建てっ放しになっていた。現在は早稲田通り側に移され、フェンスが金網なので、
外から出も見られるようになった。「昭和六年三月」の建立。

   
摂政宮殿下行啓記念碑
      大正十二年五月二十八日


 
陸軍中野学校趾碑
 旧位置より移転して、早稲田通り側にある。行啓記念碑と共に、フェンスが金網なので、外から確
認できるようになった。

   
陸軍中野学校趾

 碑裏の銘文は以下の通り。

   國際情勢の緊迫と列強秘密戦の激化に鑑み軍は昭和十三年七月九段に後方勤務養成所を臨
   設 翌年四月現在地に移設し昭和十五年八月これを陸軍中野学校と改称した
   昭和二十年四月群馬件富岡町に移転するまで六星霜全軍より厳重に審査簡抜せる要員を集
   め情報勤務教育を施すと共に国軍高度の秘密戦研究に当たった 
   創設の精神を発揚し負荷重責を果たすため本校は特に精神の陶冶を重視してその中心とし
   て楠公社を建立学生は夙夜この社頭に魂の修練を重ねた此の碑の立つ所即跡地である。
                          陸軍中野学校 初代幹事 福本亀治 謹書
                                   中野校友会 建立


■早稲田通りスダジイ並木

 警察大学校などの跡地前の早稲田通り沿いに、鬱蒼と繁るスダジイ並木が続く。太い幹に割れ目が
入っており力強さを感じさせてくれる。


■すみれ公園

 中野5丁目5番15号にある区立公園。。


■打越天神 北野神社

 中野5丁目8番1号にある。5丁目の東側は、昭和41年まで天神町と呼ばれていた。創建年代は
不詳。「新編武蔵風土記稿」に、中野村に「小名、打越、西北の方を云」とあり、天神社が中野村の
北境にあるということから、「新編武蔵風土記稿」の編纂された江戸時代末期には既に勧請されたい
たこと判る。

   (中野村)天神社
   除地、一段六畝廿歩、村の北境にあり、社は四尺五寸に六尺、鳥居あり、村民持なり。

 
石仏
 本殿東側に立つ青面金剛像2基と如意輪観音像は、いずれも元禄期に彫刻・造立されたものだ。刻
文の「打越村 願主 鈴木 保坂」は、古くからこの地に住んでいた村人と思われる。その人々が中
心になって、庚申講や如意輪観音講を作り、近くの村人を一堂に集めて、講の座を幾度も重ねたのだ
ろう。江戸時代も元禄頃になると、伝統的な信仰行事も次第に民衆化され、いつしか娯楽的な面が強
くなっていった。この3基の石仏は、以前この神社前の道路脇にあったといわれ、講の結成を記念し、
あわせて青梅街道から新井薬師へ参詣する人びとの安全を祈り、道しるべもかねて造立されたものだ。
社前の道を西北に上っていくと、薬師柳通りに至った。昭和7年ころの境内工事の際に社殿東側の現
在地に移したようだ。人びとの安全を祈ることにより、その功徳で自分たちが幸せになれるように願っ
た、当時の村人たちの素朴な信仰を窺うことができる。

 天神伏見稲荷社
 境内にある小祠。覆屋がある。

 燈籠建設の碑
 境内にある。

   御大典記念 燈籠建設の碑 陸軍大将岸本鹿太郎書


■天神公園

 中野5丁目8番15号にある区立公園。
 


■天神小公園

 中野5丁目19番20号にある小公園というほど狭くはない区立公園。


■打越保育園・打越公園

 中野5丁目26番12号にある区立公園。


■中野駅

 中野5丁目31番1号にあるJRと東京メトロの停車場。明治22年4月11日の甲武鉄道新宿~
立川間開業時からある。但し開業当初は中野通りの西、桃園通りの突き当たりのところにあった。中
野駅の拡大化ができないため、現在位置に駅を移すことになり、南北の駅前広場のところを4m掘り
下げて造成し、中野五差路から北口までの中野通りを新設した。地下鉄東西線は昭和41年3月16
日になっての開業。
 ホームはJR・東京メトロ共同で、高架島式4面8線構造である。ホームと改札階を結ぶエレベー
ターは未設置。改札口・出口は南口と北口の2カ所。駅の改札業務はJRが一貫して行ってる。
 駅の東側に中野電車区があることにより、中央・総武線の各駅停車には中野駅を始発・終着とする
ものが多くある。要注意だ。
 中野駅のホームはその列車によって発着番線が変わることがある。例えば中央線各駅停車の西行き
電車などは、その列車が東西線からの直通か否かによって1番線から出たり3番線から出たりする。
中央線快速の下り列車も通常は6番線を使用するが、特急列車の通過待ちをする際などには7番線か
ら発車する。次の電車はどのホームから出るのか、ホームに上る前に電光掲示板でよく確認すること。
確認を怠ると、次の電車が隣のホームに到着し、あっという間に行ってしまうことにもなる。多くの
人が慌てたり、悔しがったりしている。慣れないとややこしい駅だ。

 
●タクシーが歩道の信号灯に激突大破
 平成29年1月19日昼前の11時過ぎ、個人タクシーが中野通り南行きガード下横断歩道手前の
信号灯柱にガードレールを突き破って激突、歩道に乗り上げて止まった。車から白煙が立ち、一時大
騒ぎとなったが、間もなく沈静化した。タクシーの運転手と巻き添えを食って転倒し頭を打った男性
は、病院に運ばれたが生命に別条はなく、運転手は大腿骨を折る重傷。


■あじさい公園

 中野5丁目34番12号にある区立公園。


■昭三公園

 中野5丁目34番12号にある区立公園。


■お宅ビル・
中野ブロードウェイ

 中野5丁目52番15号にある昭和41年に完成したビル。10階建てのうち地下1階から4階ま
では商業施設、5階以上は住宅施設になっている。青島幸男や「ザ・タイガース」時代の沢田研二な
ど著名人が多く住み、今ホリエモンや村上世彰などIT成金で話題の六本木ヒルズにも通じる高級マ
ンションと娯楽施設を兼ね備えた複合施設の走りだ。このビルのできる前のこの辺りは、今でもそう
だが、狭い路地に、小店が犇き、飲食店が多く、一大歓楽街だった。売春も行われていてポン引きも
多く出没、やくざ屋のお兄さんもウロウロしてたし、大変におっかないところだった。当時中野通り
は部分的にしか開通してなかった。全通したのは、実に平成17年のことだ。

 地下1階と1階は食品や日常生活雑貨を中心とする商店街で、地下1階には大手スーパー西友が入
店している(ただし他の西友に比べると極めて狭い)がある。2階から4階は、漫画、アニメ、アイ
ドル、音楽、おもちゃ、サブカルといったマニア、オタク向けの店舗が約半数に上るほど集まり、日々
多くのマニアたちが訪れる。このため「オタクビル」の異名も持つ。近年何かとマスコミが興味本位
で取り上げる秋葉原を嫌って出店を希望する者も多いという。JR中央線沿線はアニメ制作会社や大
学、若者といったマニア向け商品の顧客層が多く、昭和55年にこのビルで開業した古漫画専門店「ま
んだらけ」は次第に拡張していった。同業他社も進出し、現在に至っている。本来4階はクリニック
モールとして計画されていたんだけどなぁ。
 完成時に分譲形式を取ったために、大手デベロッパーではなく地元の小規模の不動産屋が賃貸する
形が取られており、狭い店舗スペースが密集する形となっている。また特徴の一つとして、築年数な
どの理由により賃料が安い。このため、資金の少ない若者層でも簡単に出店しやすく人気が高いこと
から、2~4階には空き店舗が少ない。その一方で急速なオタク・サブカル関係店舗の増大に対して、
それ以前から本ビルで経営しているそれ以外の店舗からは「お宅ビル」のイメージけにより却って、
自分達の商売に対してはイメージダウンに繋がるのではと危惧する声も上がっている。一方フロアの
所有権が複雑であることから、まとまった店舗スペースを確保することは不可能に近い。「まんだら
け」の店舗が飛び地状態で分散しているのもこの理由による。またこれらの理由により将来の建て替
えを危惧する声もある。また完成後40年を経て、これからの老朽化とその対策が一つの大きな課題
だわな。


さくら公園 土地交換

 中野6丁目2番4号にある区立公園。以前は6番21号にあったが、中野学園と等価交換して、平
成25年3月29日に開園した。中野学園は名目上の明大中野の運営母体。


臥雲山龍昌寺

 中野6丁目3番7号にある曹洞宗の寺。入口の石碑に「永徳稲荷、千両観音 龍昌寺」とある。永
禄二年(1559)青松寺七世陽翁俊鷟大和尚(慶長元年 1596)が開山となり創建。明治維新
後当地へ移転したという。門を入ると狭い境内の正面に本堂。右は庫裏、左が小さな観音様と鐘楼、
その先には塀沿いに墓が並び、それが本堂の裏に続く。早稲田通りに面し、入口が「桃太郎寿司」と
「東京オート洗車中野店」の間にあり、まさに洗車屋の屋根の下を潜って門になる。それ故に案内や
掲示板がない。墓などは綺麗に整備され、掃除も行き届いているが、閉鎖寺。「御府内寺社備考」に、

   芝貝塚青松寺末、四谷塩町三丁目 臥雲山龍昌寺、境内年貢地三千百四坪 開闢起立之儀
   者永禄二年中与申仰候。開山本寺七世陽翁俊鷟大和尚慶長元丙申年六月二十六日示寂。
   二代目勅特賜普光禅師を青松寺より・・・~以下略。


■そらまめ公園

 中野6丁目6番8号ディアクオーレ中野文園の北側にある区立公園。


■児童館文園・文園公園

 中野6丁目10番6号にある区立公園。


■桃園第二小学校

 中野6丁目13番1号にある。大正6年桃園尋常小学校分教場設置。同10年独立して「東京府豊
多摩郡中野町立桃園第二尋常小学校」として開校。昭和7年周辺郡部の東京市編入により「東京府東
京市桃園第二尋常小学校」と改称。同8年校歌を制定。

 校歌
「心も広き武蔵野に」 作歌・葛原幽  作曲・山田源一郎  和声・草川宣雄
  1.心も広き武蔵野に
    朝日まずさす喜びの
    われら少年少女には
    朝日のごときのぞみあり
    桃園第二のまなびやの
    おしえ尊しこのおしえ


 同16年勅令148号国民学校令公布により「東京府東京市桃園第二国民学校」と改称。12月日
米開戦。同18年都制施行により「東京都桃園第二国民学校」と改称。
 同22年戦勝国アメリカの強制による学校教育法施行により「中野区立桃園第二小学校」と改称。
 ※以下不明。


■中国人女子大学院生殺人事件

 中野6丁目20番5号大内ハイツの2階廊下で起きた事件。平成28年11月3日法政大学大学院
生江歌(24歳)がルームメイトと帰宅したところ、待ち伏せていた男に首を刺されて殺された。ル
ームメイトは先に部屋に入っていて無事だった。江歌は昨年4月に来日、語学学校に通って日本語を
習得し、今年4月に大学院に入学したばかりだった。母子家庭に育ち、母1人子1人で、遺体引取り
にきた母親は憔悴し切っていた。犯人は目撃されていて、日本人を含む東洋人とのこと。
 11月24日、警視庁は江歌を殺害したとして大学院生陳世峰(25歳)を逮捕した。陳は江歌の
同居人と8月まで交際しており、別れ話が拗れてストーカーとなったため、江歌が「私の部屋に来れ
ば」と誘い同居していた。陳はそこを嗅ぎつけて待ち伏せしていた。
 浅はかな! こういうと女性は怒るが、たかが女如きで人生棒に振るなよ。結局こいつは、罪滅ぼ
しをしたところで、役立たずの穀潰しだ。人殺しで大成した奴はいなよ。


■文園西公園

 中野6丁目23番13号にある区立公園。
 


【沼袋】(ぬまぶくろ)1~4丁目                 昭和39年12月1日
 沼袋村。江戸時代に上・下に分かれる。同11年「郡区町村編制法」により東多摩郡に復し、同
22年「市制町村制」により野方町大字上沼袋・下沼袋。同29年豊多摩郡所属。大正13年町制
に移行し野方村大字上沼袋・下沼袋。昭和7年東京市に編入されて中野区沼袋南2~3丁目(上沼
袋)、沼袋南1丁目・沼袋北1~2丁目(下沼袋)。同9年沼袋北1丁目は沼袋町、2丁目は野方
町、沼袋南は野方町と大和町になった。同39年新住居表示により沼袋町に新青梅街道以南の江古
田4丁目をあわせた町域を現行の「沼袋」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『中野区史』『中野の歴史』など。

 沼袋の由来
 地形が台地に囲まれた水捌けの悪い湿地帯で雨の度に出水し天然の遊水池となり、水が引くと多
くの沼(水たまり)が出来る、その様子がまるで袋(行き止まりの窪)に詰めたように見えたこと
からその名が起きた。池袋や島袋と同じだ。地名は室町時代には見え、太田道灌と豊島一揆の合戦
場として有名だ。だから沼袋は沼袋駅のところだ!
 


■東京大越瓜

 おおしろうり シロウリは奈良漬用のウリで、その字は中国南部の「越」から付けたという。越の
南がベトナムで「越南」と書く。シロウリは夏作物として豊島・練馬・中野区で栽培された。練馬大
根の産地で漬物屋を兼ねた農家も多く、大根が秋から冬の収穫に対し、シロウリは夏の収穫ですこぶ
る都合が良かった。大泉の渡辺家では栽培している物があまりに大きいので、品質を落とさずに小型
化する改良を続け、昭和30年正好の代に格好のものを作り上げ「泉大越瓜」と命名した。これを機
に改良が進み、そうした積み重ねの結果「東京大越瓜」が育成され、現在では千葉県始め各地で作ら
れている。


■沼袋公園

 沼袋1丁目19番3号の区立公園。


■氷川神社

 沼袋1丁目31番4号の妙正寺川の低地を南に見下ろせる高台にあり、太田道灌の陣屋が設けられ
たところ所と伝えられている。下沼袋村の鎮守。社伝によると、正平年間(1346~70)に村人
が素戔嗚尊の武勇を慕い、武蔵大宮の氷川社から勧請したと伝えられている。大正11年の社殿改築
の際に、貞治元年(1362)の銘がある板碑が出土した。また昭和2年の社務所新築の時には境内
から弥生式土器が数個発見された。「新編武蔵風土記稿」に、

   (下沼袋村)氷川社
   除地九段。小名大下前にあり。村の鎮守なり。本社二間四方、拝殿二間に三間南向。本地
   十一面観音、木の立像六寸五分なるを安す。前に鳥居をたつ。鎮座の年代詳ならず。上沼
   袋村清谷寺の持なり。

 とある。

 
社号石標
 入口前ある。

   氷川神社

   明治維新百年を記念して社号標を献納す
   昭和四十三年九月       原正書


 東京市編入記念碑
 大鳥居を潜り社殿への石段の右側に力石が数個置かれている。そのそばに「東京市域拡張記念松 
昭和七年十月一日」と刻まれた石碑がある。文字は当時の東京市長永田秀次郎の筆によるものだ。。
松ノ木はもうないが、中野区が誕生した時の記念碑でもある。

 
奉納碑
 記念碑の隣にある。

     沼袋町 矢島森太郎
   奉     嗣子 良一
     
土地八十坪 
   納 昭和三十一年十月吉日
     氷川神社宮司小俣鐐書


 石燈籠一対
 参道左右にある。向かって右は台座に龍、左は虎を刻む。

 御大典記念石階
 参道正面。

   御大典記念
   平成二年十一月

   氏子中

 
文久四年の石鳥居
 本殿境内前にある。「天下泰平 国土安穏」と刻む。

 
力石
 参道右に七つある。

   力石
   力石は、昔、若者たちが力比べに使ったものです。現代とは違い、娯楽が少なかった時代
   には、祭りの日、若者たちが大きな石を持ち上げて、その力を競い合い、持ち上げた石に
   重量や姓名を刻んで奉納しました。
   刻まれている銘文から二拾五貫目(約93Kg)~四拾八貫目(約180Kg)を持ち上
   げ奉納したことが判ります。
   力比べの行事は、娯楽の面だけではなく、力石の多くが神社の境内にあることからも、本
   来は神事儀礼であり、また重い石を持ち上げることにより一人前として社会に認められた
   当時の通過儀礼ひとつでもありました。
   平成5年3月                          中野区教育委員会


 
東京大越瓜
 参道右にある農協説明板。「とうきょうおおしろうり」と読むんだ。

   江戸・東京の農業 東京大越瓜
   この地域は江戸時代から、昭和の初期にわたり、シロウリの特産地でした。旧武州田畑村
   付近から、旧豊島郡野方村(現在の中野区野方・鷺宮地域)の東京区部の北西部一帯は、
   一部水田のほか広い武蔵野の畑作地帯でした。シロウリの畑は低地から台地まで広く適し
   たので、夏の野菜として盛んに栽培されていました。江戸時代後半から明治にかけては、
   漬物というとシロウリに限られ、キュウリは顧みられませんでした。
   シロウリには漬物用専用の小型で緑色のものと、漬物あるいは煮物用にも使われた長さ6
   0センチにも及ぶ大型で淡緑色のものとがあましたが、この地方では大シロウリと呼ばれ
   る後者のものが特産で、季節には農家の女性たちが庭先でウリを縦割りにして、ハマグリ
   貝で種をかきだしていた情景が各所で みられたものです。
   大シロウリは奈良漬けとして有名ですが、当地域も宅地化と共に産地は他の地域に移って
   いきました。                 平成9年度JA東京グループ
                          農業協同組合法施行五十周年記念事業
                          東京中央農業協同組合

 
造営記念碑
 参道左手にある社殿造営記念碑。表側に芳名録、裏側に記念銘文がある。変なの!

   氷川神社社殿御造営奉賛者芳名

   氷川神成社殿御造営記念碑
   昭和六十三年六月吉日


 
平成造営記念碑
 参道左手にある社殿造営記念碑。表側に芳名録、裏側に記念銘文がある。変なの!

   氷川神社平成社殿御造営奉賛者芳名

   氷川神社平成社殿御造営記念碑
   平成三年八月吉日


 道灌杉の切り株
 境内には、シデ・マツ・ヒノキなどの大木が繁茂しており、ここには武蔵野の林の面影が残されて
おり、これらは保護樹林に指定されている。以前「道灌杉」と呼ばれる大杉があったが今はない。文
明9年(1477)太田道灌と豊島泰経一族が江古田ヶ原・沼袋で最も激しく戦闘を交えたのは、こ
の神社から新青梅街道周辺であったと推定されている。その時道灌が社殿の前に苗木を植え、勝利を
祈願したものと伝えられている。この杉の木が聳え立っていた当時の写真では、高さ30mに達し、
樹齢数百年になると思われる巨樹だった。幹の目通りに七五三繩を廻らし手厚く管理していたが、惜
しくも昭和19年に枯れてしまい、今は切り株だけが残っている。
 道灌は豊島戦の前に夥しい神社に戦勝祈願をしているが、よくもまぁそんな暇があったものだね。
それとも使いに行かせたのか? それじゃあご利益ないだろう・・・ 村人が箔付けに来たことにし
て作り話をしたか。

   道灌杉
   この柵内の地面の上に僅かに姿を現わしている根株は、かって道灌杉と呼ばれていた御神
   木のなごりです。この木がそびえ立っていた当時の写真を見ると、高さ三十メートルに達
   し、樹齢数百年になると思われる巨樹でした。また、幹のまわりには、しめ縄をめぐらし
   ていましたが、惜しくも昭和十九十九年頃、枯れてしまいました。
   当神社の御祭神は須佐之男命で、正平年間(1346~1370)の頃、武蔵国の一の宮
   である埼玉県大宮市の氷川神社から分霊をここに移しましたのが始まりです。
   文明九年(1477)四月、太田道灌と豊島泰経が江古田が原・沼袋で戦闘を交えたのは
   当神社から新青梅街道あたりにかけてのことであったと推定されます。その時、太田道灌
   は社殿の前に杉の苗木を植え、勝利を祈願したのが、この道灌杉であると伝えられていま
   す。
   昭和59年3月                         中野区教育委員会


 
由緒碑
 道灌杉根株近くにある。

   由緒
   神社名 氷川神社
   御祭神 須佐之男命
   鎮座地 東京都中野区沼袋一丁目三十一番地
   当社は今より凡そ六百余年前、人皇九十七代後村上天皇の正平年間、後光厳院の貞治元年
   武蔵国一の宮なる大宮鎮座氷川神社の御分霊を◇きて沼袋・野方一円の鎮守として奉祀せ
   るを始まる。
   文明九年四月、太田道灌と豊島一族と江古田原・沼袋の地で合戦の際、当社一帯の高丘は
   太田道灌の本陣にして、戦勝を祈願し社頭に杉一株を獻植す。後年、道灌杉と稱せられ老
   杉天を圧してありしも昭和17年惜しくも枯損せり。
   正保年間代官野村彦太夫社殿を修築す。文久四年石鳥居を建て、明治13年社殿を改築し
   大正11年拝殿を改修す。大正十五年社分所を新築、昭和十五年皇紀二千六百年記念とし
   て表参道に石鳥居を建立、昭和30年神楽殿を改築、昭和37年手水舎を新築、昭和43
   年建国記念日制定記念として裏参道に石鳥居を建立、昭和45年明治百年記念として玉垣
   ・社号標奉納せられ神域漸く整ひたり。

 ※.大宮市は合併により。現在はさいたま市となっている。また、道灌が植えた杉はあちこちにあ
る。源義家や太田道灌が土地の神社にお参りしたのは住民宣撫策だ。

 三本願い松
 本殿前左手、裏参道にある。「悪しきことはスギ去れ、願い叶う松」 杉の木に願いをかけて不運
災難から逃れ、松の木に幸福を願うと必ず叶うと信じられてきた。豊かな森がいつも身近にあった日
本人は自然の恩恵や営み、特に宿る魂に対する謙虚な姿勢があった。

 
日露戦役紀念碑
 西側玉垣側にある。

   日露戦役紀念碑
   元帥侯爵山縣有朋書

 
中野七福神
 西側玉垣側にある七福神の石像。有りと凡る幸運を齎してくれる七福神は、室町時代頃から 幸運
・福運、特に金運を授けてくれる七神として纏めて信仰されている。谷中七福神から始まったとも、
向島七福神が最初ともいわれる。

   中野七福神由来
        〈商売繁昌・航海、漁業の神様〉
   恵比寿神 釣竿と鯛を持つ姿は「釣りして網せず」の清い心を象徴し、先を見通して少し
        ずつ竿で釣るというところから、商売繁盛の神とされています。
        〈財宝、五穀豊穣の神様〉
   大 黒 天 振れば何でも出る打ち出の小槌は無限の財宝を象徴するのと同時に「槌」は
        「土」に通じることから豊作の神とされています。
        〈芸能上達、金運、商売繁盛の神様〉
   弁 財 天 琵琶を持つ容姿端麗な女神です。音楽、弁舌の神として信仰されながら、のち
        に財産の神としての性格も合わせ持つようになりました。
        〈疫病、災難除け、智恵の神様〉
   毘沙門天 右手の宝棒で怨敵を討ち、左手の宝塔で人々に福徳を与える仏教四天王の一人.
        別名、多聞天とも呼ばれ、知恵の神としても信仰されています。
        〈家内安全、金運、福徳の神様〉
   布 袋 尊 
泣いて暮らすも一生。笑って暮らすも一生。同じ暮らすなら笑って暮らせ」と
        いう楽天的な生き方が「至福」の象徴になっています。
        〈幸福、富貴、長寿の神様〉
   福 禄 寿 長頭、白い髭で亀をしたがえています。幸福の「福」、富貴の「禄」、長寿の
        「寿」これら3つの徳を備えた神様です。
        〈長寿、富財、諸病平癒の神様〉
   寿 老 人 長寿の象徴の鹿を連れ、人々の安全と健康を守る神様です。杖に結ばれた巻物
        には、人間の寿命が記されているといわれています
 


■沼袋駅

 沼袋1丁目35番1号にある西武新宿線の停車場。昭和2年4月16日西武村山線(西武新宿線の
前身)高田馬場(仮)~東村山間開業と同時にできた駅。ホームは地上相対式2面2線構造で、内側
に2本の通過線を持ち、この駅で優等列車の待避も行われる。北側の上りホームが1番線で、南側の
下りホームが2番線である。各ホームは跨線橋で結ばれている。改札口・出口は、1番線側の北口と
2番線側の南口(7時~22時)の2ヶ所。駅事務室は北口にある。駅前の道は練馬の清戸道(旧目
白通り)と所沢道(早稲田通り)を繋いでいるが、妙正寺川を渡る橋が「新道橋」なので、明治以後
の街道かも知れない。


■地蔵と庚申塔

 沼袋2丁目10番1号にある共同墓地の中にある。但し庚申塔は現在失われており、跡にはポリプ
ロピレンのゴミいれが置いてある。何だかなぁ? 墓地は施錠されており入れない。
 地蔵尊は、寛延三年庚午(1749)十月吉日の建立で、

   奉造立地蔵尊為西国坂東秩父百ヶ所四国八十八所供養 施主矢島甚五左衛門

 とある。昭和10年ごろまでは旧府道(淀橋~白子線)沿いに東向きに建てられていたが、家の建
て替えの際に邪魔だというので移したという。あ~あ、可哀相なこっちゃ。
 今は無い、地蔵の右側にあった庚申塔は、笠付で 正徳五己未(1715)十一月廿八日の建立。
「奉造庚申供養二世安楽所 武州多麻郡沼袋村 願主矢島六郎衛門」とあり、他に10人の名前が刻
んである。区に問い合わせたら、「実相院に移してある」というので一応いってみたが、野仏がやた
らめったらあって、庚申塔だけだって10基ばかりある。字は読めないし、もともと矢島家の寺だか
ら右を見ても左を見ても矢島のオンパレードでい。


住心山周清院正法寺

 沼袋2丁目19番26号にある浄土宗の寺。本尊は阿弥陀如来。慶長19年(1614)駿府(静
岡市)の宝台院の末寺として日本橋馬喰町に創立。開山は圓蓮社満誉善空上人だ。明暦の大火で罹災
し、浅草新寺町に移転した。江戸中後期、庶民に親しまれた「水掛地蔵」は江戸東方48ヶ所地蔵尊
参りの第31番目に揚げられていたが、大正12年関東大震災で堂宇焼失とともに3mの石像も倒壊
してしまった。大正14年現在地に堂宇を再建したが、「水掛地蔵」は移すことができなかった。昭
和20年愚かなアメリカ軍の無差別空爆の煽りを受けて3度目の焼失、0からの出発となった。同2
3年仮本堂を建て、再建できたのは同31年のことだった。門を入ると左に六地蔵、正面が本堂、左
手正面に墓地がある。

   駿河国宝台院末 浅草新寺町
   住心山周清院正法寺 境内古跡拝領地1000坪
   慶長十五年馬喰町ニ而寺地拝領起立仕候処、明暦三年正月十八日類焼仕、同年十月当所ヘ
   替地拝領仕引移申候。
   開山円蓮社満誉上人善空和尚、寛永十三年正月十四日卒。
   本堂本尊阿弥陀如来坐像 善導大師 円光大師 子安観音
   寺中 長松院 天明元年取崩置候


永康山東照院貞源寺

 沼袋2丁目19番28号にある浄土宗の寺。門を入って参道を10mばかりで正面に法悦地蔵。そ
の右が本堂。全体は狭いが整然としている。戦国時代の末、三河国の東正寺に慶誉春公という僧がい
て、徳川家康の信奉篤く、「天下を取ったときには近くに寺を構えてくれ」といわれていた。家康は
江戸に入り天下を取ると、約束通り江戸城内に土地を与えた。そこで春公は本尊の阿弥陀仏を背負っ
て江戸に赴き寺を建立、永康山東正寺と号した。慶長八年(1603)春公は遷化し、寺は火災によ
り焼滅した。2代将軍秀忠はお茶の水に替地を与えたので2代目重的和尚はそこに本堂を再建した。
これも明暦の大火で焼失し、4代将軍家綱から浅草松葉町に替地を受け、5代残公和尚が伽藍堂宇を
再々建した。浅草に移って間もなく、寛永寺の近くに同号の寺があって紛らわしいとの達しがあり、
家康と縁もあることだし、院号を東照院、寺号は開山春公の師匠貞蓮社源誉から2字を頂戴して、永
康山東照院貞源寺とすることにした。大正12年関東大震災により総てを焼失し、復興の区画整理の
ため現在地に移転、17代学道の努力により一大復興がなされたが、昭和20年の愚かなアメリカ軍
の無差別空爆によりまたも灰燼に帰し、艱難辛苦臥薪嘗胆の末、同36年18代宏清によって再建整
備された。平成18年本堂を改修した。「御府内寺社備考」に、

   増上寺末 浅草不唱小名 栄広山東照院貞源寺 境内拝領地九百七十三坪
   慶長六年月日不知 神君御鷹狩之節、御曲輪内ニ而凡そ五十間四方程之処拝領仕。其後年
   月不知類焼仕。台徳院様御代御茶ノ水ニ而替地拝領仕。其後酉年正月十八日類焼。以後唯
   今之地所拝領仕候。開山正蓮社慶誉春公上人求然和尚。慶長八年三月十六日御茶ノ水ニ而
   寂。中興開山第六世高誉。本堂 本尊三尊阿弥陀如来。


 とある。
 

 伊庭八郎の墓
 墓地の伊庭家墓所にある。伊庭家のお墓は5基ずつ2列に向かい合って建てられ、他とは違った雰
囲気をかもし出しており、鳥羽伏見から箱館まで戦って五稜郭で亡くなった、「隻腕の剣士」として
有名な八郎の墓碑は向かって左側、手前から2基目にある。戒名が実母と共に刻まれているが、八郎
の遺骨は函館に埋葬されていて無い。その右隣は八郎の実父軍兵衛秀業(8代目)、左隣は養父軍兵
衛秀俊(9代目)、向かいの真ん中は初代是水軒秀明、その1番奥は星亨を暗殺した八郎の末弟想太
郎の夫々の墓碑。

 だったが、平成18年改葬されて、駐車場正面に一列に配置し直された。向かって1番左が初代
庭是水軒秀明
の墓碑、そして右へ順番に代が下り、右から2基目が「伊庭っち」伊庭八郎の、1番右
想太郎の墓碑。さらに右には伊庭家の由来を記した碑も新しく建てられている。限りある境内を有
効利用して檀家を増やそうという魂胆と、八郎の墓を訪ねてくる者にその都度一々説明する煩わしさ
から、墓苑整備を行ったのだろう。墓地を売るサイトがあった。

 延命地蔵
 墓地にある。彫りの美しい坐像。


瑠璃光山禅定院薬王寺

 沼袋2丁目28番2号にある新義真言宗豊山派の寺。本尊は不動明王。寺伝によれば南北朝時代中
期の貞治元年(1362)の創立と伝えられる。区内でも最も創建の古い寺の一つで、鎌倉幕府滅亡
の際、北条氏の家臣である伊藤氏がこの地に落ちのびて来て開いたものだ。開創の地は新橋村(下沼
袋村の分村)だったが、のち現在地に移した。前の本尊は薬師瑠璃光如来で、山号寺号はこれに由来
している。現在の本尊は鎌倉時代後期の作とされる不動明王立像だ。
 また沼袋の旧家伊藤家の菩提寺でもあり「伊藤寺」と俗称されている。宝暦八年(1758)火災
に遭い建物は悉く焼失したが、天明元年(1781)法印弁龍が本堂・庫裏を再建したという。

   (上沼袋村)禅定院
   除地百四十坪。村の東北の方小名内匠にあり。瑠璃光山薬王寺と号す。新義真言宗にて是
   も宝仙寺末。客殿7間に5間、西向にて本尊不動、木の立像にて長1尺5寸。開山詳ならず。
   薬師堂、客殿の東の方にあり。三間に三間半。木の立像長三尺九寸なるを安ず。運慶の作
   と云(新編武蔵風土記稿)。


 大イチョウ
 山門を入ってすぐ右手に、区内で一番大きいといわれている樹齢推定600年以上の立派な木があ
る。秋、黄色に色づいた葉は見事だというが、まだ見てない。

 
庚申塔
 笠付の立派な庚申塔。三猿もくっきり。

 ●花の寺
 明治18年「御府内八十八ヶ所」の第48番霊場の弘法大師像が安置された。23区内の寺として
は広く、ウメ、ツバキ、サクラ、ツツジ、ボタン、ヤマブキ、サルスベリ、オオデマリなどの花木の
ほか、シバザクラ、ハスなどの花があり、四季を通じて花が見られる花の寺だ。中でも見応えのある
花は、4月半ば過ぎから花の時期を迎えるボタンは必見だ。同じ時期には派手な黄色の花でボリュー
ム感のある八重咲きのヤマブキも咲いて花の寺ムードを満喫できるのがいい。また早春2月半ばから
3月初めにかけては本堂に紅白のウメが咲き馥郁たる香りが漂うのもも魅力だ。庭園内中央に作られ
ている池では、7月から8月にかけてハスの花が妖艶な姿で咲く光景は浄土の世界さながらだ。元々
寺は道場であり、天国のテーマパーク、人々に天国を知らしめるための布教だから、寺の雰囲気は大
切な要素だった。東大寺大仏殿の前の広場も往時は花咲き乱れる見事な庭園だった。池坊の華道も仏
教に発しているのだ。


■百観音霊場
新補陀落山明治寺

 沼袋2丁目28番20号にある真言宗東寺派の寺、禅定院の裏手にある。本尊は如意輪観世音。開
基は草野栄照尼。開山は松田密信大僧正。明治45年明治天皇のご病気快方を祈願して観世音菩薩一
体を造立し、祈願所を設立したのに始まる。そしてこの場所を一大観音道場に創立しようと、大正元
年最初の観世音菩薩の開眼供養を行い百観音の建設が始まった。完成したのは5年後。境内には、西
国三十三ヶ所、坂東三十三ヶ所、秩父三十四ヶ所、都合百ヶ所の観音霊場、各札所の本尊の姿をした
石像が安置されている。現在境内に並ぶ観音像は176体あり、奇岩、奇石と樹木を組み合わせ、そ
こに様々な石像をうまく配置してある。この中には子育観音、魚籃観音妻夫観音などのほか、六代目
(尾上菊五郎)奉納の馬頭観音、旧華族、政財界の名士から、近郷近在の篤志家まで名を連ねた観音
像などが数多く建てられていて、さながら観音浄土を感じさせてくれる。本堂の落慶は翌6年のこと
で、宗教法人としたのは昭和11年、明治天皇に因んで明治寺とした。
 毎年7月末の日曜日、観音像に蝋燭を捧げる献灯会(けんとうえ)が行われる。現在境内の一部が
児童遊園になっている。また境内の隣には百観音公園がある。園内はクスノキ、ムクノキ、イチョウ、
ユリノキなど緑が多いため野鳥や昆虫が集まってくる。

 ●
本堂前のイチョウ
 昭和20年5月25日の空襲で炎上した本堂の熱で片側が焼かれ、その時に洞穴ができた大イチョ
ウの木だ。この洞穴は、以前は人が入れるぐらいの大きさがあったが、今も成長を続け、その成長に
伴い、焼失した部分を包み込んでだんだん小さくなってきている。

 ●黒田貞治先生の碑
 境内に建っている。文久三年(1863)越後高田に生まれた黒田は、日本の学校教育の草創期に
西欧の進んだ制度を取り入れ、日本のペスタロッチともいわれた。この碑は大正3年に弟子たちがた
てたもの。
 またこの碑文は日本で最初に口語体で書かれた貴重な碑(いしぶみ)だ。

 ●ペスタロッチ
 
[Johann Heinrich Pestalozzi](1746-1827) は、スイスの教育家。ルソーの影響を受け、孤児の教
育・民衆教育の改善に尽くした。人間性の陶冶の基礎は家庭および小学校教育にあるとし、児童の自
発的活動を重視する直感的方法を唱導。また社会改革は教育によってなされると主張した。
 著書に「隠者の夕暮」他がある。


■百観音公園

 沼袋2丁目28番20号にある区立公園。


■玉井稲荷大明神
 沼袋2丁目28番20号の明治寺の西北角地にある小祠。


法光山久成寺

 沼袋2丁目28番30号にある日蓮宗の寺。本尊は十界勧請の大曼荼羅。慶長12年大仙院日善上
人が幕府より牛込弁天町に寺地を給せられて開基したもので、享保の頃は大変な隆盛を極めたが、そ
の後は逼塞した。幕末の嘉永には祝融の災いに見舞われ、その後再建したものの、明治44年に現在
地に移転、昭和20年愚かなアメリカ軍の無差別空爆に遭い再び総てを焼失した。ただ住職の尽力で
船守祖師像は辛うじて守り通すことができた。
 石板貼りコンクリート造りの門構えは立派だ。まるでお金持ちの門構え。入ると斜め向きに本堂が
建っており、その先が庫裏だ。入口左は駐車場。墓は本堂の奥にある。静かな浄域だ。

 
船守祖師像

 日蓮聖人が鎌倉幕府の罰により伊豆に流された時、日蓮を救い出し、その教化を受けて檀家となっ
た船守弥三郎の請により、日蓮の直弟子日実が刻したものと伝えられる。


■大岡稲荷教会

 沼袋2丁目29番12号にある。道路に鳥居がある。小さい車が1台やっと通れるか。社は個人宅
の庭かと思われるようなところにある。


   御祭神 稲荷大神=宇荷御魂神
       御名大岡稲荷大神
   例大祭 4月12日 月次祭12日 大秡式12月31日
   御神徳 衣食住の租神 農工商の守護神
   御祭神大岡稲荷大神は言い伝えによりますと、大和の國山辺郡石の上神宮(奈良県)の程
   近き郷に鎮座ましまして、後に平安朝の始めのころ紀朝臣良門卿が越後の國に赴任する折
   産業商易の守り神として永く長岡に鎮座し当地の発展に大きくつながりました 時移り星
   替りて明治維新を迎え聖地も々越後の栃尾の岡に移り、当時植村家に勤務いたしておりま
   した開祖(常吉翁)が古志郡桂谷の岡に本宮を定め奉遷発祀いたしたのであります。
   翁逝去の後、その子兄弟5人心を一にして敬神発祀の至誠を継続し、去る昭和24年当地
   沼袋に社殿を造営し、翌昭和25年2月5日立春初午吉日をもって鎮座祭を遷成し、同時
   に宗教法人大岡稲荷教会と称するに至りました 以上大神の御縁起の大略でございます。
   平成参年四月吉日


十善山密蔵院蓮花寺

 沼袋2丁目33番4号にある真言宗御室派の小寺。冠木門が珍しい。境内は狭く寺っぽくない。本
堂は普通の家で、中央の広間を本堂にして仏壇を置き、開けっ放しにしている。
 本尊は大日如来。慶長十二年(1607)北条氏直の持仏将軍地蔵を本尊とし祈願所として小田原
城内に創建された。のち同16年に江戸矢の倉(東日本橋)に方30間を拝領し、住職法印恵誉聖人
は本尊将軍地蔵を捧持して移り、殿堂を結集した。その後正保元年(1646)に浅草寺町に替地を
与えられ移転、以来御室法親王の隠室となり、代々仁和寺門跡に直属していたが、時とともに衰退し
ていった。明治36年明治寺の開山でもある松田密信僧正が住職となると寺運の復興に尽力し、墓地
を現在地に移し、一意精進していたが、関東大震災で堂宇が全焼した。間もなく檀家信徒の協力で再
建し、墓地には管理所として葬祭場、客殿なども整備し、寺運漸く盛昌に向かった。どん底から這い
上がったのだ。ところが昭和20年愚かなアメリカ軍の無差別空爆により、浅草の伽藍は燃やし尽く
され灰燼に帰してしまった。同25年現在地に建屋を建てて本堂とし、現在に至っている。御府内八
十八ヶ所霊場41番札所。


■丸山塚公園

 沼袋2丁目40番18号にある区立公園。昭和50年代初め頃にできた区立公園。今、丸山塚はな
く、木立公園となっている。丸山塚は豊島塚の一つで、豊島一族と太田道灌軍が争った江古田原沼袋
合戦の戦没者を埋葬したところだ。この一帯に幾つもあったが今は、住宅の為に取り壊して一つも残
されていない。歴史は抹殺されっちまったよ。

 豊島二百柱社
 
公園の奥の隅っこにひっそりと鎮座している。戦没者の霊を祀ったもので、土地の人が浄財を持ち
寄って、戦後の昭和41年に建立した。

 古戦場の碑
 社の左前にある石碑。昭和41年に社と共に建立された。


■沼袋小学校
 閉校
 沼袋3丁目13番2号にある区立校。詳細不明。ただ平成18年が創立50周年だから、昭和31
年開校の新設校。全校生徒200人規模の小っちゃ学校だ。平成23年廃校となり、西武線以北の学
区は丸山小学校に統合されて緑野小学校、以南は野方小学校に統合されて平和の森小学校となった。

 校歌
「赤い頬っぺを見てごらん」 作詞・伊吹とおる  作曲・飯田三郎
  1.赤い頬っぺを見てごらん
    まるい頬っぺを見てごらん
    雨にも風にも負けないで
    笑顔と笑顔がはずんでる
    明るい学園その名は沼袋
  2.青い大空 見てごらん
    高い大空 見てごらん
    手と手を繋いで胸張った
    希望に膨らむ朝の色
    明るい学園その名は沼袋
  3.白いあの屋根 見てごらん
    広いあの庭 見てごらん
    明日を羽搏く雛鳥の
    翼を育てる愛の家
    明るい学園その名は沼袋



■沼袋西公園

 沼袋3丁目14番1号にある区立公園。


珠光山地蔵院清谷寺

 沼袋3丁目21番7号にある新義真言宗豊山派長谷寺の末寺。本尊は延命地蔵菩薩・日輪大師・不
動明王・薬師如来。中興開山恵深大法師。開基覚宥法師。本村の内出というところにあり、地蔵堂が
あって「地蔵屋敷」と呼ばれていた。いつの頃か恵深大法師がやってきて地蔵屋敷に一寺を建て、延
命地蔵を本尊とし中興の祖となった。明治30~35年野方村の役場が置かれていた。村中の鎮守氷
川、八幡、第六天の別当寺で、覚宥法師前後のことは不祥だが、この寺は吉祥に恵まれた古い精舎で
あり、応永六年(1399)に建立された十三仏種子の板碑が区の文化財として現存し、開山の年代
が推測される。「新編武蔵風土記稿」に、

   (上沼袋村)清谷寺
   除地百五十坪、東北の方にあり、珠光山地蔵院と号す。新義真言宗にて中野村宝仙寺末、
   客殿七間に五間西向、本尊は地蔵の木像長一尺三寸、厨子に入、作詳ならず。過去帳に載
   る所は当寺古へは、地蔵堂屋敷なりしを、年代詳ならず惠深と云僧一寺を建立し、元より
   ある所の地蔵を本尊とす。ゆへに此僧を中興開山とすと見えたり。往古地蔵堂を創立せし
   僧は詳ならず。又云其比は氷川八幡第六天を進退すと。氷川(沼袋氷川神社)は今下の村
   に属す。第六天はいづれなりや今よりしれず。


 とある。

 
寺号塔
 入口前にある。

   真言宗
   豊山派 珠光山地蔵院
清谷寺

 裏面。


   爲 賢清院殿秋岳定道居士
          施主 竹内正枝
             竹内富司
   維時 昭和六十三年十一月吉日
       定額位
       集 議 大僧正聖賢代

 奉納碑・青石塔婆
 本堂前右ある。塔婆は碑の右にある。

   奉納
   
爲先祖累代菩提
   施主 松本亀次郎
   昭和十二年六月吉日


 十三仏板碑
 元は墓地にあったが現在は本堂前右に移されている。いろいろな仏・菩薩・明王などは、それぞれ
が固有の梵字を持っており、これを「種子(しゅじ)」という。この板碑は、秩父の緑泥片岩に、表も裏も梵字で刻まれている。金剛界大日を主尊とし、右側上から胎蔵界大日・勢至・薬師・地蔵・文珠・不動、左側上から具足胎蔵界大日・阿弥陀・観音・弥勒・普賢・釈迦が刻まれ、中央に「応永六年巳卯十月十五日逆修心信結衆十敬白」と記されてい。
 板碑研究家の大家川勝政太郎博士によると、

   鎌倉後期の鋭利感ある様式から見ると、板碑形式も梵字も穏やかであるところに、室町様
   式らしさが窺われる。普通板碑の形式で完全なものとしては、清谷寺の板碑が全国的にも
   最古のものであり、梵字の配列は右下から左へ、右上へと千鳥式に上っていくのが珍しい、
   かつ貴重なものである。

 と著書に記している。銘文によれば、約600年前に信仰の厚い人々が心を合わせて逆修供養のた
めに造立したことが判り、当時の民間信仰の一端を示している。「逆修」とは、造立者が生前に予め
死後の供養を自ら行うことだ。死後の菩薩を弔う追善供養に比べて、遥かに功徳が勝っているという
「七分全得」の教義に基づいたものといわれている。この十三仏板碑は、当時の人びとの信仰を探る
優れた資料であり、また都内の石造美術遺品の中でも特に貴重なものなのだよ。
 
一般に十三仏とは、①初七日(不動明王)、②二七日(釈迦如来)、③三七日(文殊菩薩)、④四
七日(普賢菩薩)、⑤五七日(地蔵菩薩)、⑥六七日(弥勒菩薩)、⑦七七日(薬師如来)、⑧百ヶ
日(観音菩薩)、⑨一周忌(勢至菩薩)、⑩三回忌(阿弥陀如来)、⑪七回忌(阿閦如来)、⑫十三
回忌(大日如来)、⑬三十三回忌(虚空蔵菩薩)だが、ここのものは、⑪胎蔵界大日(アーク)、⑫
胎蔵界大日(アーンク)、⑬金剛界大日(バーンク)となっている。◯内番号は十三仏の順序。

 
記念碑
 庫裡左前にある。

   客殿並幼稚園
   新築落成記念


 
中野小鳩幼稚園
 境内右手にある。

 
修業大師像
 本堂前左にある。

   弘法大師千五百年
   御遠忌記念

   維時昭和五十五年三月吉日
   清谷寺第二十七代
   大僧正 聖賢代


 
聖光廟
 本堂左横にある。標石に「平成六年秋」と刻む。

 
六地蔵
 本堂左横にある。

 
石仏群
 本堂左横にある。その中の地蔵の台石の上に、円形の、弘法大師と思われる僧のレリーフがある。その経文。

   
縦雖不見我現相  たとい我が現相を見ずと雖も
   
毎見我形像    我が形像を見る毎に
   
生真相想     真相の想を生じ
   
毎聞我経     我が経を聞く毎に
   
住我言音思    我が現音の思に住せば
   
我以定慧力    我が定慧力を以て
   
攝取不捨     摂取して捨てず


■さんかく公園

 沼袋3丁目24番13号三角地にある区立公園。本町通り公園はさんかく公園の俗称がある。


如意輪山
実相院世尊寺
 沼袋4丁目1番1号にある新義真言宗豊山派の寺。本尊は十一面観音。寺伝によれば正平七年(1
352)足利地方を本拠とする新田一族が信濃宮宗良親王を奉じて武蔵に出陣し、足利軍と戦った時
新田六郎左衛門政義の三男、矢島三郎信氏の子孫である矢島内匠、矢島図書が戦いに破れ、結城氏一
族とともに沼袋村に来て住みついたのが起源であるとされている。そのため沼袋から江古田にかけて
矢島性が多く、檀信徒も矢島姓を名乗る家が半数以上を占め、別名「矢島寺」とも呼ばれている。豊
島八十八ヶ所霊場74番札所。寛永から慶安年間(1624~52)に中興開山第一世の権大僧都専
尊が本堂を建立した。
 その後幾多の変遷があり、一時荒廃し、他の寺の兼務寺だったこともあるが、昭和56年に本堂も
落慶して今日に至っている。

 庚申塔
 境内に4基ある。

 ●さくらの名所
 境内にはソメイヨシノ3本、シダレザクラ2本、サトザクラ10数本など3種類の桜木があり、4
月初めから中半に掛けて見事な景観に包まれる。半ば過ぎからはボタンの鉢、50鉢以上が置かれる
ほか、ツツジ、サツキなどが咲き、華やかな情景となる。写真家、画家の好む観察が出来るのが魅力
だ。


■なんじゃもんじゃの木

 沼袋4丁目25番15号の古茶宅の庭にある。大きな木だというに、狭苦しい住宅街の中だから伸
び伸びとという訳にはいかない。枝の中を電線が何本も通っているし、隣家側の枝は切られてしまっ
てらぁね。都会では仕方あんめぇ。2階建ての屋根ほどの高さなのだがドーム状に枝葉が生い茂り、
花の最盛期は一週間ぐらいのものだが、太陽に照らされると、4枚の細い白い小さな花びらを持った
花が、クリームをあわ立てたように、綿帽子を被せたように、粉雪が積もったように、ぽわっと木全
体を覆い尽くす。見た人が「何じゃ」「何ちゅうもんじゃ」とびっくり驚いたことからそう呼ばれる
ようになったんだそうだが、桜や梅に見慣れた目で出くわすと誰でも驚くわな。あまりに驚いて「何の
木?」「何の木?」と尋ねる人が多いんだろう。開花の季節には、古美術商のその家の前に、しおり
のような小さな説明書が「どうぞご自由にお持ちください」との添書きと共に置かれている。家を平
屋から2階建てに新築する時に、邪魔になるっちゅうんで太い枝を切ったんだそうだが、今では家と
この木がとても馴染んで素晴らしい佇まいなってるねぇ。
 この木の本名は「ヒトツバタゴ(一つ葉たご)」、愛知・岐阜・対馬だけに自生するんだそうだ。
これほどまでに珍木なのだが、自然を大事にする中野区の保護樹木の指定を受けてはいない。おいら
の知る限りでは、神宮外苑絵画館前、新宿御苑温室前、杉並の大宮八幡、深大寺、世田谷弦巻の民家
にある。ほんの少し西に行くとハンカチの木もあるよ。


■延命地蔵

 沼袋4丁目31番15号、新青梅街道の沼袋交差角のライオンズマンションのビルとビルの間の奥
まったところにある。この地は500年ほど前は原っぱで、文明九年(1477)豊島一円の豪族豊
島一族と関東管領上杉氏の子分太田道灌が熾烈な戦闘を繰り広げた古戦場だ。その時の戦死者を埋め
た豊島塚があちこちに幾つもあり、ここには金塚という埋葬地があった。この塚からは、昭和の区画
整理の際には何とリアカー3台分もの人骨が出てきたってえんだから、いかにこの時の戦いが凄まじ
かったか判ろうってもんだ。それだけ凄まじい戦いだったっちうことは、その戦いに敗れた豊島一族
の怨念もまたそりゃあ凄まじいに決まってて、江古田から沼袋にかけての新青梅街道一円は、昔から
「出る」ところ、心霊スポットとして秘かに知れ渡ってた。江戸時代には、この近辺にある橋が豊島一
族家臣渡辺氏の呪いで、「渡った者は死んでしまう」というかなり直截的怨念の表現方法をとった言
い伝えがあったり、昭和になってからでも区画整理などで住宅地化された古戦場跡地に住む人々が悪
夢に魘されたりと、かなり地縛霊の強い土地柄なのだ。
 この地蔵尊は昭和12年に建てられた新しいものだ。それまでこの近辺では事故や不幸が相次ぎ、
不思議な出来事も頻繁に起きたという。掘り出した人骨は練馬区の寺院の無縁仏として収納したのだ
が、人々は墓暴きの怨念が祟っていると判断し、「それらの霊を慰めるために塚のあった場所に祀っ
たらどうか」ということで延命地蔵を祀ったという次第だ。そのためかどうかは判らないが、その後
何事も起きなくなって今日に至っている。毎月7日に納経供養を欠かさないのはいうまでもない。場
所は放置自転車がごしゃまんとあって判りにくいよ。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏 


■笠付庚申塔

 沼袋4丁目33番6号にある。元は沼袋交差点から西に2、30mのところにあった中村道(第十
一中学校の北側の道)と鷺宮道(新青梅街道)の追分に建っていたものを、道路拡張のために移設し
たものだ。素晴らしく状態のよいもので剥落などはみられない。正徳三年癸巳(1713)十一月一
日の建立で、「武刕(州)多麻郡江古田村講中二十四人」、側面に「右中村道、左さぎのみや」と刻
み、道標の役目も果たしている。大正頃までは厚く供養されていたが、その後戦争の時代に突入して
顧みられることもなくなった。戦後も随分経ったころ、これじゃあいけないということに気づいた土
地の人々は、昭和40年代後半頃から、年1回十一月末から12月初めに巡り来る庚申の日に納経供
養しているよ。


■ハンカチの木

 沼袋4丁目34番5号の小島宅にあるオオギリ科の高木。中国南西部の高山に自生する珍しい樹木
で、フランス人のアルマン・ダビッド神父が19世紀末に発見した。神父の名を採り、属名は「ダビ
ディア」とつけられた珍しい一属一種。毎年4月~7月にかけて白いハンカチが引っかかっているか
のように見える苞をつける。苞が花びらのように見えるが、花は、真ん中の小さく黒く丸く見えるの
がそれで、沢山の花が集まったものだ。ハンカチの木は2種類あって一つはこの一般的なものと、も
う一つはアカネ科ムッサエンダ(コンロンカ)属のムッサエンダ・フィリッピカに近いものがある。
こちらはフィリピン、ニューギニア原産の半蔓性低木で、白いのは萼片だが、ちっともハンカチっぽ
くはない。おいらの知る限りでは、一般的なハンカチの木は、他に新宿御苑正門を入って右手広場、
文京区の小石川植物園、礫川公園にある。


■沼四緑の公園

 沼袋4丁目35番18号にある区立公園。
 


【野方】(のがた)1~5丁目                昭和39年12月1日
 上沼袋村・下沼袋村。同11年「郡区町村編制法」により東多摩郡に編入、同22年「市制町村
制」により上鷺宮村・下鷺宮村・上沼袋村・下沼袋村・上高田村・新井村・江古田村の7ヶ村が合
併したとき村名を共通項であるかつての野方領から選択した。野方村大字上沼袋・下沼袋。同29
年豊多摩郡所属。大正13年町制移行して野方町大字上沼袋・下沼袋。昭和7年東京市に編入され
て中野区沼袋北・沼袋南。同9年沼袋北2丁目・沼袋南1丁目を野方町1~2丁目とした。同39
年新住居表示法により町域を整理して一部を大和町・若宮・中野・新井に譲り、同時に江古田4丁
目・鷺宮3丁目・大和町の各一部をあわせた町域を1~5丁目に分け現行の「野方」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『中野区史』『中野の歴史』など。

 野方の由来
 武蔵野の山方・里方に対する野付・野方。幕府の野方領は豊島郡40ヶ村・多摩郡54ヶ村・新
座郡34ヶ村、都合128ヶ村に及ぶが、行政単位ではなく地方・地区・地域を表すのみ。武蔵野
が原野であったことは中野村が3、小野村が2、そのほか日野野津村・原野村・入野村・野塩村・
野上・野辺村があったことで想像がつく(武蔵名所考)。妙正寺川が町域を東西に貫き町を南北に
分ける。野方警察署は野方になくて中野4丁目に、野方小学校は新井3丁目ある。野方にあるのは
北原小学校。


■野方の発展
 のんびりとした片田舎の野方町が町場化し始めたのは、川越鉄道(西武新宿線)の野方駅が出来て
からだ。野方村が町制を敷いたのが大正12年で、駅は昭和2年だから、野方町になって4年後に鉄
道が敷かれたことになる。駅は野方街道(本町通り)から離れた北方に建てられ、駅と街道を繋ぐ駅
前通りに商店街が産声を上げた。花野屋というがっしりとした店構えの乾物屋がまず開店し、建売の
店舗が並んだ。街道には店は疎(まば)らで、乗降客もぱらりぱらりだった。それが今や乗降客約23
000人、商店は400軒を越える発展振り、シャッター商店街を嘆く今日、野方は衰えを知らない。
無論商店街の発展の背景には、住宅街の激増がある。ここより都心寄りの新井薬師、中井、沼袋はよ
いところだが、斎場が見えるとか、刑務所や結核療養所が近いとかの不具合な条件があって毛嫌いさ
れ、幸か不幸か、野方には何も見るべきものがなかった。この何もないのが好まれたのだろう、結局
野方に住宅は集まった。激動は戦後にやってきた。沼袋など周辺の町が、愚かなアメリカ軍の捨て爆
弾で灰燼に帰した中、野方の町は3000軒そっくり戦火から免れたのだ。アメリカ軍のへなちょこ
爆弾など弾き飛ばしたのだ。都立家政、鷺宮にも店は少なく、沿線の住民は、遠くは上石神井、田無
辺りから野方に物資を求め、野方の銭湯は空前の大入りを続けた。100軒以上の店舗が健在で物資
は野方に集まった。「野方には何でもあって安い」という評判が立って、当時都内で物資があって安
いところは、板橋の大山、目黒の武蔵小山と野方といわれたものだった。


■辻地蔵

 野方1丁目1番1号、野方警察署前の一方通行の道路の角に、角柱に陽刻(浮き彫り)の地蔵尊が
民家(遠藤文具店)の壁際に建っており、子育地蔵として付近の人がお花を添えたりしている。寛保
元年(1741)辛酉年三月の建立で願主は浄念とある。左面に、「沼袋村新橋念佛講中」と刻む。 区教委発行『路傍の石仏をてずねて』に、

   その昔角に饅頭屋があり、等身大の地蔵が安置されていたが、邪魔になったので移動させ、
   小さいものをに取り替えてしまったところ、間もなく饅頭屋に不幸が起こったり、地蔵が
   夢枕に現われ、『よくも自分の体をこんなに小さくしたな』と呪ったので、また元の位置
   に戻し、供養した。


 とある。等身大の地蔵は今はないが、その時の台石と思われる四方に東西南北の文字が一字ずつ刻
んである石が傍らにある。また「中野宝仙寺 高田 鷺宮」など文字が刻まれた古い道しるべも側に
建っているが、何時からここにあるのか判らない。意識しなければ見過ごしてしまうよ。

 
道標
 並んである。

   此方中野宝仙寺

   此方上高田


 その他早稲田通りに面して小さな三猿を刻んだ庚申塔があったようだが、昭和51年にはなくなってたようだ。
 ここは野方街道(福蔵院道)の起点で交通量の多いところなのだが、事故がないそうだ。それで感
謝の意味を込め、また子どもたちの健やかな成長を願って、毎年10月24日に地元商店会や近隣の
人たちの手で供養が行われているらしいよ。
    


■妻戀稲荷神社

 野方1丁目5番4号にある小社。明治の初めまでこの土地に住んでいた「矢島源左衛門家」によっ
て祀られていた。そのため、別名を「源左稲荷」ともいう。現在は土地の旧家の人たちが年番交代で
管理しており、矢島源左衛門の一族で、信心の深かった者がこの土地を去る際、周辺の土地を人に貸
し、その地代で稲荷社を管理してほしいとお願いしていったとか。俗には源左衛門が亡くなった妻を
偲んで妻恋稲荷を祀ったといわれているが、文化三年(1806)に作成された「下沼袋絵図」にそ
の位置が書かれていることから、「文化年間以前に湯島本社から妻恋神社の分霊をこの地に勧請した
と思われる」とのことだ。
 矢島英雄 著『実相院と 沼袋、野方、豊玉の歴史』に、

   この神社の創建が江戸の文化三年以前であったことが、同年に作成された上、下沼袋村絵
   図(東京都立大学蔵、複製パネルが中野区立歴史民族資料館に展示されている)にその位
   置が稲荷社として示されていることから分かります。
   そして文政年間に編纂された新編武蔵風土記稿の下沼袋村郷新橋村の条にも「稲荷社、村
   民の持ちなり」と記されております。
   但し、その記載された位置は村つまり下沼袋村郷新橋村の北とあり、誤っております。
   ~中略~
   この妻恋稲荷の名称より考えて、野方一丁目の稲荷社は文化年間以前にその湯島の本社の
   分霊をこの地に矢島源左衛門により勧請されたのだと思われます。


 とある。

 
霊窟(狐穴)
 入口を入った左手、溶岩でできている。赤い鳥居がある。稲荷(狐)の出入口か?

 
手押しポンプ
 入口を入った右手にある。

 
神狐一対
 裏には、

   
大正三年二月初午

 彫られている。

 
猫足の石燈籠一対
 社殿前にある。上段台座裏には、

   昭和六年
   十月造之


 下段台座裏には、

   中野町追分
     石工田中酒造三


 と刻む。

 
地蔵祠
 社殿右前横にある。木造小祠内に地蔵菩薩立が安置されている。

   明和三年 丙戌 年十月廿八日
   慧唫襌童子


 と書かれているという。慧唫襌童子(けいぎんぜんどうじ)については情報がない。 


■寒念仏供養塔
と馬頭観世音 撤去
 野方1丁目9番1号にあった角柱型の供養塔と自然石の馬頭観世音碑。供養塔は、正面中央上部に
小さな阿弥陀如来が陽刻され、下に釋了識法師、左側面に寒念仏供養塔、右側面に松原権之助が刻ま
れている。馬頭観世音は、文字が彫られ、裏に明治40年6月 松原久次郎・矢島粂五郎と彫ってあ
る。写真は残っている。平成19年2月に探したが見当たらなかった。側の人に尋ねたら、何時だっ
たか撤去したという。撤去の賛否で揉めに揉めたが、結局なくしてしまったという。何処にやったの
か判らないと老人は苦笑いした。
                       *
 で、調べてみた。寒念仏供養塔ほかは沼袋の実相院に、馬頭観世音碑だけは府中市浅見川3丁目1
5番の慈恵院に移してある。現物は見てないがそういう情報だ。ん、と合点がいったら、行ってみて
みい。まだあるかもよ。


■野方ひがし公園
 野方1丁目12番にある区立公園。


■田中千禾夫・澄江旧居跡碑
 野方1丁目25番8番の角地にある。2m方形の区画の2面が高さ1m程の石壁となっており、そ
の一面に、

   
田中千禾夫・澄江 旧居跡

 と刻んである。平面は円形の5段の階段になっていて中央の地面に至る。高低差は30cm程。


■嫁菜の花美術館 閉館?
 野方1丁目25番9番にある白い外観の喫茶店に併設された小さな美術館。昭和63年作家田中澄
江・劇作家田中千禾夫夫妻の庭に長男聖夫・恭子夫婦が建てたアトリエ跡に建てられ、田中家といっ
ても画家恭子が運営する。「人知れずひっそりと咲いている画家の卵の作品を世に出すお手伝いがし
たい」と思いたって建てちゃった。女という文字の入った花の名の美術館にしたいと思ってたらたま
たま思いついたのが「嫁菜」だったとか。清く可憐に咲く様を無名作家に見立てたのだろう。新人の
作品を展示する。
 栗の木の脇の小さな石の階段をとんとんと下りれば、そこが愛らしい美術館の入口だ。正面は半円
型のカウンター、右手にティールーム、カウンターの前の廊下の突き当たりが一階展示室、その横の
階段を上れば第二、第三のギャラリーがある。四季を映す樹々や草花、猫も遊ぶ。好評のアップルパ
イはティーとともにいただける。毎年1月~3月には恒例になっているお雛さま展が開催される。女
の子には嬉しいスペースだ。休館日は月・火曜日お盆前後に不定休がある。この美術館を知らずして
「東京の女よ」威張る勿れだ。 
03-3387-7777
 
平成22年頃から閉鎖しているらしい。

 【ヨメナ】
 
夏から秋9月頃にかけて少し湿った田や道の端に群れて咲く。 丈は80cm位で薄紫の花色はす
ばらしい。新芽や若葉はゆがいて食べると美味い。が、ヨメナは関西にしかなく、関東地方のはカン
トウヨメナ(関東嫁菜)だそうで、こちらは食用にしない。
                     *
 嫁菜の花といっても、嫁菜専門でも、草花専門でもない、普通の企画展をする美術館だ。嫁菜の花
は恭子の著作の名であり、その本は個人美術館建設奮闘記なのだ。
 はじめ恭子が「美術館を作りたい」といい出した時は、誰もが軽いジョークと思い聞き流した。「美
術館なんて金持ちのすることだよ。僕たちにどうしてそんな夢みたいなことができるんだ」と、まず
聖夫が反対した。だが恭子は諦めなかった。どんな美術館を作りたいのか、少しずつ構想をまとめて
はノートに記し、辛抱強く説得していった。自身洋画家でもある恭子は、年に何回か団体展に出品し
て賞を貰ったり貰わなかったりに一喜一憂するような画家生活に日頃から疑問を抱いていたいたとい
う。人に認められようと認められまいと、純粋に自分の喜びのために作品を作っている人が世の中に
は沢山いる。人知れずひっそりと咲いている、そんな人々の作品をこの世に出してあげたい。「嫁菜
の花」という美術館の名前は自然に浮かんできた。
 「こんな場所に美術館を作ってだれが見にきます。それに、こんな僅かな土地にどうやって美術館
が建つんです。建築費用はどうするんです」と猛反対だった義母澄江も、黙って聞いていて最後に一
言「やってみなさい」といってくれた義父千夭夫さんに倣って協力態勢に入った。オープニングは恭
子の弟子でもある加藤恵子という女性の刺繍展だった。これが素敵なもので弾みがついた。以後プロ
ではないが、個性のある、しかもプロ以上の腕前の作品を展示している。毎回好評で知る人ぞ知る美
術館なのだ。展覧会によってはマスコミに取り上げられ、そうすると連日押すな押すなの大盛況で、
却って困った事になる嬉しい悲鳴。
 田中澄江は平成12年昇天した。90歳だった。府中カトリック墓地に夫千禾夫とともに眠ってい
る。平成19年1月25日野方に行ってみた。木曜日なのに閉まってた。澄江が丹精の庭は荒れ果て
ている。どういうこっちゃ?


■一丁目地蔵

 野方1丁目28番6号、嫁菜の花美術館の向かいの角地にある緑に囲まれた小さな地蔵だ。赤い前
かけがとてもかわいいのが特徴だが、よく注意しないと見過ごしてしまうよ。相当新しい石像だ。マ
ンションのアクセサリーか? 水子供養か?


■野方一丁目公園
 野方1丁目32番6号にある区立公園。


■早稲田通り公園
 野方1丁目35番6号にある区立公園。


■もみの木公園
 野方1丁目38番9号にある区立公園。


■こまどり公園
 野方1丁目57番2号にある区立公園。


■野方第二公園
 野方2丁目14番2号にある区立公園。


■南向地蔵と庚申塔

 野方2丁目14番1号、野方第二公園の西南角の西向かいにある。元々は56番地先の四辻にあっ
たが、交通煩瑣のため、邪魔でない現在地に移した。右の船型光背子育地蔵は、

   為奉造立地蔵尊二世安楽所 元禄二己巳(1689)十月二十八日

 とあり、名前などが刻まれている。認定証なるものが貼ってある。

       認定証
   野方第二公園西の地蔵
   上は多彩な中野の魅力の一端
   を担う地域資源であるため、
   中野区認定観光資源として認
   定したことをここに証する。
   平成26年2月18日
     中野区長 田中大輔


 左の庚申塔は、

   貞享四年(1687)十月善日 奉供養庚申二世安楽所 武州多麻郡沼袋村 秋元弥右
   衛門道行十四人


 とあり、下部に三猿が陽刻されている。なおここから西に環七へ出たところ55番に新しい交通安
全地蔵がある。


■三谷稲荷社

 野方2丁目27番15号の東北角にある小祠。 


■北向地蔵

 野方2丁目29番11号の東北の角にある。北を向いた地蔵は珍しく、利益があるというので遠く
からお参りにくる人もいる。剥落があり、年代の判読は出来ない。この辺りは旧称を三谷といい、北
三谷と前三谷に分かれていて、旧家の13軒が念仏講を続けているという。毎年6月24日は、午後
5時30分から地蔵供養が行われる。左の馬頭観世音は、正面中央上部がに小さな馬頭観世音が陽刻
され、下に「奉巡礼西国坂東秩父百箇所供養 為二世安楽也 享和二年戌(1802)」とある。こ
れは三谷の人たちが、西国33ヶ所、坂東33ヶ所、秩父34ヶ所、都合100ヶ所の観音霊場を巡
礼した記念に建てたものだ。堂前に如意輪観音のレリーフ像がある。どこかから移したものだろう。


■地蔵

 野方2丁目55番1号の西南角、環七通りの歩道に面してある。56番地先の四辻にあったが、交
通煩瑣のため、2丁目14番に移したのを心配した人が建てたものだという。面白いのはその隣にあ
る朽ちた角木柱だ。水が供えられており、線香立てや花立てがある。


■たんぽぽ公園

 野方2丁目61番3号にある区立公園。


■中野工業高等学校

 野方3丁目5番5号にある都立校。この学校は共に大正2年に設立された「高井戸実業補修学校」
及び「桃井実業補修学校」の両校に由来する。その後、両校共数次にわたる組織変更・校名変更等を
重ね、それぞれ「東京都立農産化学工芸学校」及び「東京都立杉並工業学校」と改称された。昭和2
1年「都立農産化学工業学校」と「都立杉並工業学校」を統合して桃園町15番地に「東京都立農産
工業学校」を開校。同22年中学校併設。同23年学制改革(都令第42号)により「東京都立中野
工業新制高等学校」と改称、機械工作、食品化学工業の2課程を設置
同24年化学工業課程追加設
置。
同25年都立高設置令第11条により「東京都立中野工業高等学校」に改称。同30年野方町1
丁目1001番地(現在地)に校地を買収、
校舎を新築し移転。同31年校舎(特別教室4、普通教
室2、準備室4)落成。
同32年校舎(普通教室6)落成。化学工業課程実験実習室・機械工作課程
実習工場
完成。
同33年全日制機械工作課程を機械科に、化学工業課程を工業化学科に、食品化学工
業課程を食品化学科に変更。食品化学科実験実習室完成。変電室、妙正寺川橋梁2脚竣工
。同34年
校舎(普通教室2、図書室1、職員室1)落成。工業化学科実験実習室完成。機械科実験実習工場・
給食室完成。同35年体育館兼講堂完成。創立15周年、校舎講堂完成記念式典。同38年食品化学
科を食品工業科と変更。山梨県北巨摩郡高根町字樫山字念場ケ原3545番地に八ケ岳山麓清里寮完
成。同42年第1期改築校舎落成。
同43年第2期改築校舎落成。同44年第3期改築校舎落成。同
45年第4期改築校舎落成。同46年プール完成。同47年食堂棟・第1期工業化学科実習棟改築落
成。同49年第2期実習棟改築落成。同50年第3期実習棟改築落成。同54年実習棟排木処理装置
設置。同59年パソコン41台設置。同60年妙正寺川橋梁屋根架設。創立40周年記念式典。

 平成元年機械科実習棟改築。同1~2年校舎改修。同2~3年体育棟改修。同4年LL教室開設。
同5年機械科・食品工業科・工業化学科の3科を廃止し、総合技術科のみを設置。家庭科教室改修。

同7年創立50周年記念式典。同16年清里寮閉寮。同16~17年校舎耐震化。同18~19年校
庭改修。
同22年妙正寺川拡幅。

 校歌
「若き日の」 作詞・勝承夫  作曲・平井康三郎
   若き日のよろこびを
   ここに讃えて集るわれら
   みどりの窓に希望を仰ぎ
   流れる水に未来を思う
   わが行くところ 大空か 大海か
   果て無きものを目指しつつ
   中野工業 われらは進む


 制定歌
「香りゆかしき」 作詞・真壁寛  作曲・舟田均
   香りゆかしき武蔵野の
   常盤の森を懐かしみ
   慕い寄る学徒のいや増して
   明日の科学に挑むとき
   英気は土を揺るがしつ


 杉並工業学校当時の校歌
   名に負う武蔵の大野の中に
   霊峰冨士を日毎に仰ぎ
   燃ゆる血潮を工
(たくみ)の業(わざ)
   捧げて建てる我らが母校


■第六中学校
(第十一中学校と統合して閉校
 野方3丁目6番にある。昭和22年創立。同25年校歌制定。

 校歌「白妙に」 作詞・大木惇夫  作曲・長谷川良夫
  1.白妙にかがよう不二や
    雲の影 翔け行く如し
    清
(さや)けし 吾等望み新し
    この園に智慧
(ちえ)を研(みが)きて
    蒼空
(あおぞら)の心理を探(たず)ねん
    伸びらかに ああ慎ましく
  2.武蔵野の丘辺の緑
    麦の穂の伸び行く如く
    康
(やす)けし吾等思い明るし
    この園に睦み培い
    労りて良き実を結ばん
    健やかに ああ逞しく
  3.水清き妙正寺川
    朝に夜に絶えせぬ如し
    弛まじ吾等団欒
(まどい)頼もし
    この園に徳を養い
    省みて正義を慕はん
    清らかに ああ美しく

 平成9年創立50周年。同14年週5日制。同20年閉校し、分校第十一中学校と統合して緑野中
学校となり、校地は第十一中学校後に移る。環七通り以西の学区を第四中学校に移管。


■追分地蔵(がんかけ地蔵)

 野方3丁目7番1号、野方街道の緩やかな坂の上の追分(岐路)に瓦屋根の地蔵堂がある。「がん
かけ地蔵」だ。清谷寺への入口の角、小さな堂の中に地蔵尊と庚申塔が建っている。丸彫りの地蔵の
台石に、

   秩父坂東西国右百箇所奉納為二世安楽也 願主沼袋村矢島辰右衛門

 とあり、その他「そめ、いち、多よ」など女の名もみえる。延享元甲子(1744)九月吉日に建
てたものだ。この地蔵には特に名前はないが、近隣の人が線香や花を供え、常に周囲を清掃している
ので、悪戯する子どももなく、大切に保存されている。

 
道標
 追分の突先にある現代の道標。

   中野区史跡めぐり道標

   → 清谷寺
   中野史跡めぐり
   ← 野方駅

 笠付庚申塔
 正面に青面金剛、三猿、鶏が、側面に蓮の花と葉が彫ってあり、

   奉造立二世祈る青面金剛安楽所 願主矢島久右衛門妻講中三十一人敬白

 側面に、

   享保二十一年丙辰(1736)三月吉祥日

 と記してある。また台石に「右中村道、左さぎのみや道」。中村道を行くと清谷寺、くろんぼ川の
お地蔵さんに行き着く。

 
二十三夜の碑
 堂宇の脇に立っている。大正末期この追分一円の土地のことで揉め事が、起ったとき近所に御岳教
の「おんたけさん」と呼ばれた人がいて、その人に祈祷をして貰ったところ、「むかしこの土地に二
十三夜の碑があった。それを再建しろ」とのお告げ。そこで関係者が昭和2年12月14日にこの碑
を建てたとのことだ。碑は根部川石で、表に大きく「二十三夜」と彫り、裏に施主8人の名前が彫っ
てある。揉め事? さあどうなったのかねえ・・・・収まったんじゃないの?

       認定証
   二十三夜塔
   上は多彩な中野の魅力の一端
   を担う地域資源であるため、
   中野区認定観光資源として認
   定したことをここに証する。
   平成26年2月18日
     中野区長 田中大輔


 月待ち
 十三夜、十五夜、十七夜、十九夜、二十三夜、二十六夜など特定の月齢の夜に、人々が集まって月
の出るのを待って供物を供え、飲食を共にすることをいう。毎月祀(まつ)る例は少なく、正月、5
月、9月の3回、あるいは正月、11月の一定の月を祀る所が多くある。月待は、組とか小字(こあ
ざ)を単位とすることが多く、年齢によるもの、性別によるもの、あるいは特定の職業者だけの信仰
者によるものなど様々だ。今でも講の組織になっていることが多くある。

   庚申塔には、太陽と着き、青面金剛、3匹の猿、鶏などが彫られています。この付近の人々
   31人が建立したもので、石の側面には享保二十一丙辰天三月吉祥日(1736)と彫っ
   てあります。台石には「右中村道 左さぎのみや道」と記され、道標の役を果たしていま
   した。
   地蔵尊は、延享元年(1744)九月建立されたもので、沼袋村の矢島亦右衛門のほかに、
   とめ、多よ、いちなど女性の名前が記されています。台石には、秩父、坂東、西国の観音
   霊場百ヶ所を巡り、長寿福楽と来世での安穏を願った旨の文字が読みとれます。
   二十三夜の碑は、昔、この辺りで疫病がはやったことがあり、祈祷師から以前にこの地に
   あったはずの二十三夜塔を再建するようにとのお告げがあり、関係者8人によって昭和2
   年に建てられたものと伝えられています。
   平成12年5月                         中野区教育委員会


■くろんぼ川のお地蔵さん

 野方4丁目1番16号、中村道を歩んで踏切を越えたところ、伊藤宅(メゾンドソワ)の塀に張り
付くように笠付庚申塔が道路際に建っている。陽刻は地蔵尊ではない。青面金剛のようだ。昔はくろ
んぼ川と呼ばれた用水が走り、その川の畔は化け物が出没し、この辺りの人に怖がられていた。そこ
で人々は何かの崇りであろうと考え、草ぼうぼうの辻の塚があった現在地に庚申塔を建てて供養した
と『路傍の石仏をたずねて』に書いてある。現在は暗渠になって用水があったことなど想像もさせな
いし、往還があったことも考えられない。前の道は東へ沼袋、北へ中村に至る追分になっている。そ
の道標の役目を果たしている。


■野方第一公園

 野方4丁目36番3号にある小さな区立公園だが、南向きのため日当たりがよく日向ぼっこもでき
る。木製遊具をはじめ遊具が充実しているよ。


■東山公園

 野方4丁目41番33号にある区立公園。静かな住宅地に囲まれており、落ち着いた雰囲気がある公園内には、アカマツ、クロマツ、カエデ、クスノキなどがあり緑は豊か。親子連れで楽しむ姿がよ
く見かけられる。いい公園だ。一画に五重塔、雪見燈籠がある。


■野方町役場跡

 野方5丁目3番1号の野方地域センターのあるところ。明治22年町村制に際して江古田・上高田
・新井・上沼袋・下沼袋・上鷺宮・下鷺宮の7ヶ村が合併して野方村となり、同35年全村のほぼ中
央に当る大字下沼袋829番地の民家を立ち退かせて村役場を建てた。それまでは東方にある清谷寺
にあった。その後建て替えられ、大正3年からは町制を敷いたので町役場となり、昭和7年の中野区
成立までその役目を果たした。現在環七通りに敷地の一部を取られたが、旧野方町地域の行政を担っ
て区政に貢献している。中庭の隅に記念碑が建てられている。

   野方町役場跡の沿革
   この地は昭和7年10年1日東京市中野区が発足するまで東京府豊多摩郡野方町役場が置
   かれた場所である。
   明治22年4月町村制の実施に伴い、江古田・上鷺宮・下鷺宮・新井・上高田・上沼袋・
   下沼袋の7ヶ村は合併し新たに野方町となり、さらに大正13年4月1日町制を施行し野
   方町となった。明治35年当寺の村長菊田賢治郎が、大字下沼袋829番地に村役場を建
   設した。町制の施行とともに町役場となり、初代町長深野亀太郎、2代町長伊藤徳蔵の2
   代5年に亘って町制が行われたが、その後昭和4年1月野方町1丁目825番地のこの地
   に庁舎を建設して3代町長小川順之助、4代町長吉田輝一に至る4年間中野区創設まで野
   方町の町政が執られた。
   ここに、区政施行30周年を迎えるにあたり、碑を建設してながく後世に伝えようとする
   ものである。
   昭和37年10月1日                      中野区長皆川五郎
 


■野方の笑い地蔵

 野方5丁目18番2号。戦前の野方駅は狢(ムジナ)が出るような寂しいところだったが、戦災を
免れたお蔭で物資が集まり、商店や住人が増えた。戦後の苦しい生活の中で、人々が笑いを取り戻す
ことと、商店街の繁栄を祈願して安置されたんだ。笑い地蔵を持ってきたのは、笑い地蔵の南側、今
の奥平医院のところにあった映画館「西武座」の館主阪本恒雄だ。偶々地蔵の夢を見たのをきっかけ
に、鷺宮福蔵院の星野俊英の導きで、新井薬師の坂平安の邸内に霊験新たかな地蔵尊のあることを知
り、同憂の士を語らい、地蔵の姿を拝したところ笑い顔だったので、これは「笑い地蔵だ」と喜んで
昭和22年1月にこの地に移して「笑い地蔵尊」として建立したものだ。この地蔵尊湧出の日だった
ので、これから六の日を縁日と決めたので、6日、16日、26日を商店街の安売り日としたので、
地蔵の縁日には野方の人口に倍する人々が押し寄せるようになった。しかし何時しか縁日は忘れられ
安売りだけが目立つようになり、阪本家も没落した。現在地蔵保存会が作られその人たちによって大
切にされており、毎年10月26日に供養が行われている。

 ●
弘法大師石塔
 地蔵の傍らにある。本町通りとみつわ通りの追分、三角っ原の角ちに建っていたものを移したもの
だ。追分を左に行かなければ鷺宮福蔵院には辿り着かないが、この道標には「右鷺宮福蔵院」と刻ま
れている。ただ右本町通りを西に進むと左側に庚申堂があり、そこにも大師道の道標がある。現在は
西武新宿線の踏切北(鷺宮1丁目6番)に移されている。 


■マンション火災

 野方5丁目25番1号ツインビルで、平成29年3月8日朝9時頃発生した火事。5階の部屋約2
0平方メートルを焼き、消し止められた。住人の女性1人が煙を吸うなどし、病院に運ばれたが軽傷
だった。現場は、西武新宿線野方駅から東南に150m程離れた、環七通りの側道と古道の交わる商
店街の一角。


■くるみ公園

 野方5丁目28番2号にある区立公園。


■野方駅

 野方6丁目3番3号にある西武新宿線の停車場。野方駅は昭和2年4月16日、西武村山線(西武
新宿線の前身)高田馬場(仮)~東村山間の開業と同時にできた駅だ。ホームは地上島式1面2線構
造で、駅舎とは跨線橋で結ばれている。エレベーター・エスカレーターはない。乗降客の割には小さ
な駅で、駅前ターミナルもなければ、バスも乗り入れていない。野方街道(本町通り)から離れたと
ころに建てたため、街道との連絡道、駅前通りは狭い。連絡線は町役場前(野方ウィズ)の「野方停
留所」が最も近い。新宿西口・中野駅・阿佐ヶ谷駅・高円寺駅・五日市街道営業所に通じている。ま
た環七通りの北方に「野方駅北口停留所」があり、練馬、板橋方面と繋がっている。改札口・出口は
1ヶ所のみで、線路南側にしかないため、北側の利用客は踏切に妨げられてやや不便を強いられてい
た。しかし平成21年には北口が開かれる予定になっている。
                       *

 平成22年3月28日、新たに北口が開設され、同時に新駅舎の供用を開始した。南口は同年10
月に完成し、南口の駅前広場は同年12月より使用を開始した。ホーム長の関係上8両編成までの列
車しか停車する事ができない。新宿線で各駅停車のみが停車する駅の中では、唯一の島式ホームを持
つ駅である。また、ホーム幅の都合上、エスカレーターは上りと下りが別々に設置されている。



■北原小学校

 野方6丁目30番6号にある。昭和11年「東京府東京市北原尋常小学校」として開校。同14年
大和尋常小学校を分校。同16年勅令148号国民学校令公布により「東京府東京市北原国民学校」
と改称。12月日米開戦。同17年校歌制定。

 校歌「紫にほふ武蔵野の」 作詞・金田正雄  作曲・大沼哲記
    紫匂う武蔵野の
    面影深き野方領
    清き富士ヶ嶺窓に見て
    わが北原はここに立つ


 同18年プール完成。都制施行により「東京都北原国民学校」と改称。同19年学童集団疎開。同
20年8月日本敗戦。10月疎開解除により学童帰校。
 同22年戦勝国アメリカの強制による学校教育法の施行により「東京都中野区立北原小学校」と改
称。同25年完全給食。同26年創立15周年記念式典。校歌制定。

 校歌
「校舎に窓に」 作詞・吉岡吉雄  作曲・岡本敏明
  1.校舎に窓に躍る陽が
    豊かな笑顔 照らしもえ
    輝く望み胸に湧く
    ああ今起つ北原小学校
  2.大空渡る 白雲は
    思いをのせて遥々と
    海越え野越え飛んでゆく
    ああ伸びゆく北原小学校
  3.清かな風よ 歌運べ
    花咲き匂う明日の世の
    扉を開く子等の歌
    ああ栄えよ 北原小学校


 同39年校旗新調。同44年第1期鉄筋コンクリート造り校舎落成。同45~57年肢体不自由児
訪問学級。同61年創立50周年。タイムカプセル埋設。
 平成元年多目的ルーム完成。同9年パソコンルーム開設。同15年校舎エアコン設置。同18年創
立70周年記念式典。同21年屋上芝生化。


■こうさぎ公園

 野方6丁目44番3号にある区立公園。
 


【東中野】(ひがしなかの)1~5丁目               昭和41年10月1日
 中野村。同11年「郡区町村編制法」により東多摩郡に編入、同22年「市制町村制」により中
野村大字中野 同29年豊多摩郡。同30年町制移行して中野町大字中野、昭和7年東京市に編入
されて中野区中野30町の内。同41年新住居表示法により氷川町・上の原町・高根町・桜山町・
住吉町・小滝町に、川添町の大部分・早稲田通り以南の昭和通1丁目をあわせた町域を現行の「東
中野」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『中野区史』『中野の歴史』など。

 東中野の由来
 中野の東部地区の意だが国鉄の駅名により命名した。だから東中野は東中野駅だ!
 


■2000円 ソフトクリーム

 東中野1丁目1番2号プライマリービル1階にある洋菓子屋「ドロップス・スウィート・ラボラト
リー」の商品。何故そんなに高いのか? 
実はここの製品に使われている牛乳がタダモノじゃない。
北海道は帯広の南、中札内村にある想いやりファームの想いやり牛乳を使用している。この牛乳は、
日本で唯一加熱殺菌を一切する必要がなく、搾ったそのままをビンに詰めた母乳そのものの牛乳だ。
じゃあ美味いかというというと、一般の甘いこってりとしたソフトクリームに慣れている御仁には、
物足りないか、不味いか、2000円はべらぼうだと感じるか。牛乳だって500円を超える。


■氷川神社

 東中野1丁目11番1号にある中野村の総鎮守社で、創建は長元三年(1030)源頼信が平忠常
討伐の際に、武蔵一宮氷川神社(さいたま市大宮神社)のから勧請したと伝えられている。室町時代
の応永年間に社殿を改築した伝えもあるから、中野村の開発とともに鎮座も古いことが窺われる。文
明9年(1477)太田道灌が豊島泰経・泰明兄弟との戦前に戦勝祈願し、凱旋後社殿を造営した。
 祭神は素佐之男尊・稲田比売尊・大己貴尊の3社で、例祭は9月の第3土・日曜日だが、昔は26
・27両日だった。
 江戸時代には護摩修行が行われ、湯立神楽をあげ、淀橋・上宿・下宿・西町・仲宿・打越・囲・原
の氏子がそれぞれの地区の幟や提灯の美を競った。豊年には、獅子舞・相撲・力石競べなども行われ
て、近在を揚げての盛大な行事だった。明治・大正期の華麗な神楽や山車の巡行はいまも語り草になっ
ている。拝殿にある中世の石の狛犬をはじめ、境内には中野の歴史を語る多くの資料がある。
 「新編武蔵風土記稿」に、

   (中野村)氷川社
   除地、一町二段八歩、村の中央よりは東南の方によりてあり、本社は一間に八尺、本地十
   一面観音の立像長一尺七寸五分なるを安ず、前立に素盞嗚尊・稲田姫・大己貴命の木像三
   軀を安す。各長一尺七寸二分、拝殿三間半に三間、鳥居二基あり、一基は木にて、一基は
   石なり、左右に松檜並びたてり、鎮座の年代詳ならず、正五九月廿七日神酒を供す、村内
   宝仙寺の持。


 とある。

 庚申塔
 三猿。平成6年区の有形文化財。


■氷川公園

 東中野1丁目11番1号氷川神社の北側にある区立公園。


■第六天神社

 東中野1丁目15番9号にある中社。


■川添公園

 東中野1丁目22番8号にある区立公園。


■妙栄教会

 東中野1丁目38番11号にある日蓮宗の説法所。渡辺宅だ。昭和27年渡辺貞順により創立され
た。住宅地図に「渡辺」としか書いてないので止めているかも知れない。


■上の原公園

 東中野2丁目6番1号にある区立公園。


■梅若能楽学院会館(梅若能楽堂)

 東中野2丁目6番14号の梅若流の能学校。梅若流とは、大正14年から昭和29年まで存在した
能楽の流派。観世流から梅若派の梅若万三郎、二世梅若実、六世観世鐡之丞が離脱して創設。昭和2
9年に能楽協会の斡旋で観世流に復帰している。
 同36年開校。建築家大江宏が設計を手掛けた内装は、コンクリート打ちっ放しの内壁に、大胆に
配置された組木細工を思わせる階段はグーだ。
 


■藤の花

 東中野2丁目23番にある。5月になると住宅街の塀に沿って、薄紫色の花をつけ、道ゆく人々の
心を和ませてくれる。


■高根公園

 東中野2丁目34番8号氷川神社の北側にある区立公園。


■歴史と文化の散歩道碑(新宿今昔散歩)

 東中野2丁目48番1号先万亀橋袂に神田川についての説明がある。

   神田川
   神田川は、三鷹市の井の頭池、杉並区の善福寺池と妙正寺池を水源とし、中野区、新宿区
   文京区と東に流れ、千代田区で日本橋川と二つに分れ、隅田川に注ぐ総延長25.5kmの
   川です。井の頭池から文京区関口台町までは神田上水、飯田橋駅付近までを江戸川、そし
   て隅田川までを神田川と呼んでいましたが、昭和40年の河川法の改正によって神田川に
   統一されました。江戸の町はこの神田川を中心に成立したといえるほど江戸経済にとって
   重要な川でした。上流部の神田上水は、江戸の上水道として、開削されたもので、のちに
   は灌漑用水にも利用されていました。中野区の辺りでは、川流の所々に分水口が設けられ
   、水車がまわっていたといいます。

   中野区


■さくらの名所 桜山通り
 東中野3丁目2番付近のJR沿線の桜並木。


■明大中野
(明治大学附属中野中学校高等学校)

 東中野3丁目3番4号(一部中野6丁目2番)にある私立校。昭和4年にPL教団の御木徳一が、
財団法人『徳光育英会』を創立し、「中野中学校」として開校。昭和20年愚かなアメリカ軍の無差
別空爆により校舎全焼。
 同22年新制中学校認可、同23年高等学校認可。同24年明治大学の附属となり、名目上「中野
学園」の運営だが、明治大学が直接運営となり「明治大学附属中野中学校・高等学校」と改称。同2
5年定時制併設。同30年創立25周年記念式典。同31年3号館落成。同32年館山臨海施設(鏡
明寮)完成。同35年創立40周年記念式典。同36年新校舎建設5年計画・1号館(特別教室)落
成。同38年2号館(普通教室)落成。同40年講堂落成。八ヶ岳富士見高原・林間施設(岳明寮)
落成。同50年4号館落成。同51年6号館落成。同54年創立50周年記念式典。同57年八王子
戸吹総合グラウンド完成。同58年岳明寮新築完成。鏡明寮新築完成。同59年創立55周年記念事
業・明治大学付属中野八王子中学校高等学校開校。
 平成元年創立60周年記念事業・温水プール付体育館新築完成。同11年創立70周年記念式典。
同16年創立75周年記念式典。

 中野学園校歌
「武蔵野台の」 作詞・葛原しげる  作曲・納所辧次郎
  1.武蔵野台の朝日影
    匂う桜の誇らしさ
    世の人の為 国のた為
    心を磨き 身を練らば
    栄誉は永劫に輝かむ
  2.日に幾度か麗しく
    色こそ変はれ芙蓉峰
    霞に雲にはた雪に
    千古の容姿 動き無く
    質実剛健 諭すなり
  3.大天地に処得て
    照る日 照る月 戦ぐ風
    己の責務 果てしては

    協同自治を誓ふ子に
    気高く清き伴侶たらん

 中野学園応援歌 作詞・片桐誠 藤井慶継  作曲・熊野直俊 編曲・南ひろよし
  1.緑滴
(したた)る桜山
    憧れ集う幾千の
    健児一度奮起せば
    勝利は常に我にあり
    おお覇者中野 おお中野
  2.意気旺
(さか)んなる我友よ
    血潮は赤く火と燃えて
    豪気堂々いざ行かん
    共に母校の名を上げん
    おお覇者中野 おお中野
  3.おお偉大なる学び舎に
    伝統の本 若人が
    無限の希望 空に持ち
    高く母校の名を上げん
    おお覇者中野 おお中野

 片岡誠像
 昭和21年に第八代校長に就任、50余年もの長きに亘り当校の発展に寄与した。
  


■地下鉄大江戸線・東中野駅

 東中野3丁目8番16号にある都営地下鉄大江戸線の停車場。JR東中野駅とは直接連絡はしてい
ない。平成9年12月17日開業し、JR中央線と連絡している。ホームは島式1面2線構造で、山
手通りの地下4階にある。ホームと改札階を結ぶエレベーターは完備。改札は地下1階にある1ヶ所
のみで、出口はA1・A2の2ヶ所。

 
「遥かなる時が」
 改札内にある深井隆の壁画作品。

   「遥かなる時が
   悠久の時の流れの中にある
      時代の移り変わりと発展
   空を舞う翼は、はるか昔から時空を越えて今へ
      そして未来へと導いてくれるでしょう
                 作家 深井隆

   寄贈 財団法人 日本宝くじ協会
      平成9年11月

   この作品は宝くじの宣伝普及を目的として制作されたものです。
   


■みどり公園

 東中野3丁目11番13号にある区立公園。


■朝霞女子中学生拉致監禁事件(解決)

 東中野3丁目13番16号ホワイトコーポ原田1階に少女を監禁していた事件。平成26年3月1
0日夕方、何者かが朝霞市朝日5丁目付近の路上で学校帰りの中学生齋藤杏花(あんな 13歳)を
連れ去った。その後、警察の捜査、家族の追求にも拘わらず、行方は杳として判らず、家出か、誘拐
か、誘拐としても身代金の請求は無く、犯人像も浮かばぬまま2年が経った。テレビでも何度も特番
が組まれ公開捜査が行われたが、確たる情報は何ももたらされなかった。「もう殺されちゃったんだ
よ」と世間に声が上がるようになった同28年3月27日、突如、杏花から母親に電話が入った。無
事を確認した母親は直ちに警察に電話するように指示、杏花が警察に電話して無事警察官に保護され
た。
 犯人確保しない段階での発表に「問題だ」との声もあったが、本人の無事がが確認され、身体にも
異常がないということで、犯人を除く全国民がホッとして拍手喝采した。
 28日3時15分、静岡県伊東市十足(とおたり)の林道で警察に「血だらけの人が歩いている」
との新聞配達の人から通報を受けた警察が直ちに急行、3時22分身柄を保護したところ、免許証か
ら杏花拉致の容疑者寺内樺風(かぶ)であることが判明、朝霞署に連絡すると共に、治療のために順
天堂大学附属静岡病院に入院させた。逮捕状は請求してあるが逮捕はされてない。寺内は首をカッタ
ーナイフで切り、自殺を図ったが果たせなかったようだ。来島恒喜じゃあるまいし喉笛を掻っ切るの
は尋常の覚悟ではできる技じゃない。死ぬ気はなかったろう。
 拉致状況は、杏花の語るところによると、帰宅途中家の前で寺内が近づいてきて「お父さんとお母
さんが離婚した。貴女を弁護士が保護するので、車に乗って欲しい」と言葉巧みに誘い込んだとか。
寺内の風貌からして疑わなかったとしても無理からぬこと。寺内は悪党根性が希薄だったんだろう。
殺されなかったのはせめてもの幸いだ。
 さて名前、「樺風」はあまりに日本的でないので「在日外国人では?」との声が上がっている。出
身は大阪府池田市綾羽2丁目2番26号で、あの在日宅間事件で天下に名を轟かせた大教大附属池田
の中高卒だという。家族は両親と妹。平成23年に千葉大学工学部に入学し、今月卒業したばかり。
大学はそう発表している。3年前にアメリカのパイロット養成学校に留学し、操縦免状を取得してい
る。幼い頃から飛行機に興味があったとかで、綽名は〝パイロット〟どうしてかなぁ・・・ 在日の
ために就活がうまくいかなかったのか・・・ 就職は消防設備会社に決まっていたらしい。そのため
先月中野区に転居したようだ。それまでは千葉県千葉市稲毛区轟町2丁目4番25号塩住ビル3階の
2DKの部屋に2人で住んでいた。済し崩し的に結婚しようとの甘い考えがあったのか? それとも
ロリコンの方を優先してしまったのか。在日が支配してる国なんだから、差別など無いだろうに、火
病が出たのか?・・・ 樺風が日本人ならとんでもない野郎だ。

 さあて無事救われたものの、杏花のこれからが大変だ。好奇の目が降り注ぐ。中学二年生からやり
直すのか、高校に入るのか・・・ 中学校では校長が「卒業証書を直接渡したい」といってるし・・
・ 写真は公開されているので最早有名人だ、何処にも逃げる訳に行かないし、親は「そっとしとい
てくれ」の願望だが、心無い世間は決して放っていてはくれない。何処に引っ越したところで結果は
同じだ。家の前はマスコミが張り込み、物見高い人だかりが続くし、心の中に土足でどかどかと上が
り込んでくる。どうせなら外国で暮らすしかあるまい。少なくとも75日は地獄の日々だ。
 一番の解決策は、苦しくて耐えきれないだろうが、居直って記者会見し喋ることだ。それが好奇の
目を殺ぐ最善の策だ。隠すと、何かあったに違いないと下司の勘繰りを容れたがるものだ。週刊文春
が有る事無い事書き立てるぞ。そうだこっちからスプリングセンテンスに売り込めばいい。

 また寺内の実家が大変なことに。防犯機器通信販売の会社だから、仕事をやっている訳に行かずブ
ログを閉鎖して休業、妹は赤っ恥をかいて学校にも行けない地獄に陥った。計画的犯行とはいうが、
こうなる結果は想定していなかったとすれば、計画的というよりは、発情するままの行き当りばった
りの犯行じゃねえか。頭がいい・賢い・勉強ができるという3要素は夫々に違い、この3つを併せ持
つ人間は存在しない。国立大学に行ったからといって頭がいい訳でも、賢い訳でもない。ただ勉強が
出来たというだけで、その学力を応用できるか、行かせるかは別の問題だ。おいらの高校の教頭先生
は東大出だったが、出世コースから外れてパチンコ三昧が日常でよく揶揄ったもんだ。中卒でも億兆
の金を稼ぐ者もいるし、東大出ても人殺しはいる。その程度さ、世の中は。


■桜山公園

 東中野3丁目22番1号にある区立公園。


■東中野駅
 東中野4丁目1~4番にあるJR中央総武線各駅停車の停車場。明治39年6月14日甲武鉄道の
柏木合図所を「柏木停車場」に改め開業、大正6年1月1日「東中野停車場」に改称。山手通りを通
している駅上陸橋は昭和19年に完成し「桜川橋」という。桜山町と氷川町に架かるからだ。谷は自
然のもので、鉄道敷設のために切り通したものではなく「桐ヶ谷」という歴とした谷間だ。同59年
2月1日荷物の取り扱いを廃止。同63年駅構内で衝突事故。この事故によってJR首都圏地域でAT
S装置をいち早く導入することとなった。平成9年大江戸線東中野駅が開業、乗換駅となる。
 ホームは地上島式1面2線構造で、2つの橋上駅舎を持つ。ホームと改札階を結ぶエレベーターは、
あとからできた西口橋上駅舎に設けられている。改札口は東口と西口の2ヶ所で出口は各橋上駅舎に
2ヶ所づつの計4ヶ所がある。


■東中野駅電車追突事故
 昭和63年12月5日、この東中野駅に停車していた津田沼発中野行下り各駅停車(103系10
両編成)に、後続電車千葉発中野行下り各駅停車(201系10両編成)が追突、後続電車の運転士
と乗客1名が死亡、116名が重軽傷を負う民営化後初の重大事故となった。この事故を機に、AT
S‐Pの導入が進められた。両端のクハ201‐3、クハ103‐278を除く18両が廃車となっ
た。
 当時のATS‐B型は警報が停止信号の約600m手前から作動し、更に東中野駅手前約137m
設置されていた場内信号直下警報コイルでも警報を受けたはずだが、確認扱いと呼ぶ操作さえすれば
そのまま進行が可能で、さらに当時慢性化していた遅延の回避のため『一旦停止と25km/h以下
での移動を定めた運転規則を無視して良い』などという千葉支社からの通達が出されており、列車の
遅れを回復しようとした運転士がこれに従い進行して見通しが悪い現場で停止中の先行列車に気付く
のが遅れたために事故が起きたと見られる。レール面の衝突前非常制動痕は7mだった(この他、運
転手に健康面で何らかの急変が発生した可能性も報道されたことがある)。過去にも同じ地点で電車
が追突した事故が2度(昭和39年、同55年)もあるが、どちらの場合も停止信号警報の確認扱い
をした後に一旦停止しないまま進行する「追い上げ運転」を行ったことが原因だった。この地点の事
故は3度目だが、3度の事故とも追突した電車の行先は「中野行」で、終着駅での折り返し時間が非
常に短いために運転士は新宿~東中野間で走行中に持ち物をまとめるのが常態化していたといい、そ
れと前の電車が見えない線路配置が重なって事故を誘発した可能性も事故直後の報道で指摘されてい
た。
 この事故を契機にATS‐B型を使っていた首都圏と大阪圏を含む稠密ダイヤ線区全区間では、停
止予定位置を基準にそれぞれの列車の減速性能から各地点の限界速度を定める速度パターン照査によ
り確認扱いをなくして確実に強制停止させられるATS‐Pへの切替を進めた。しかし米軍燃料輸送
列車事故対応で設置した場内信号直下地上子相当添線軌道回路の機能が警報ではなく、当時の国鉄広
報内容通り強制停止であれば、充分避けられた惨事だったようだ。
 事故を起こした編成は両者共に同線では特徴のある編成だった。103系(ラシ336編成)は山
手線において最後まで残っていた2編成のうちの1本であり、同年6月のさよなら運転後、他線への
貸し出しを経て、11月に101系最後の編成の置き換え用として習志野電車区に転入したばかりの
編成だったが、僅か約に2週間後に事故に巻き込まれた。一方、201系(ミツ6編成)は昭和56年
に中央快速線への201系量産車の第一陣として投入された5編成のうちの1本であり、数年で緩行
線へ転用され、その当時は検査入場までの間オレンジ色で緩行線に運用されていた編成だった。事故
によって該当車両は車両の基礎自体が損傷したため修理は不可能となり、衝突部から一番離れた2両
を残して警察の検証後に収容先の中野電車区で解体された。残りの201系1両(クハ201‐3)
と103系1両(クハ103‐278)は予備車両となった。クハ103‐278は事故車補充用と
して三鷹電車区に貸し出され、その後青梅線や南武線に配属され、最後は総武線に復帰したのちに廃
車となっている。クハ201‐3は復旧直後にこの事故以降緊急整備されたATSに対応する改造の
ために編成から外された車両に代わって運用されたが、平成2年代初めに三鷹電車区在籍の201系
全編成の改造が終了した後は使用目的も無く放置されていた(その後同9年年の中央線大月駅列車衝
突事故の後、事故車であったクハ200‐116の代替とする案があり、大井工場へ回送されたが使
用されることはなかった)。その後同13年11月を以て三鷹電車区から201系自体が引退し、使
い道が完全に無くなり、平成17年12月に大宮総合車輌センターに廃車回送され、これを以てカナリ
アイエローの201系は消滅した。


■ポレポレ坐

 東中野4丁目4番1号、東中野駅前にあるポレポレ坐ビル。ユニークな施設や事務所が入った民間
の建物だ。

 ●
ポレポレ東中野
 
地下にあるミニシアター。97席と小スペースながら大画面を採用している。
 03-3371-0088

 ●エイブル・アート・ジャパン
 3階に事務所がある。同団体は身体障害・知的障害・精神障害など様々な障害者たちを芸術で繋ぐ
全国組織。障害者の絵画や音楽、演劇などに対する豊かな感性を伸ばし、発表の機会を提供しようと、
全国の障害者グループ・個人のネットワークを築き、活動を支援。公募展覧会や芸術祭などを開いて
いる。事務所内には公募展などの作品集をはじめ、書籍類も置いている。ボランティアの人々も出入
りしている。関心のある人は訪ねてみてみい。 03-3364-2140 


■梁川剛一記念美術館 
解体

 東中野4丁目20番8号にあった私立美術館。平成61年に開館、平成元年閉館。僅か3年の生命
だった。現在は分譲住宅が建っている。


■すみよし公園

 東中野4丁目25番6号にある区立公園。


■落合郵便局

 東中野4丁目27番21号にある。


■日本閣
 解体

 東中野5丁目1番のところにあった結婚式場。かつては「東中野といえば日本閣」だったのだ。東
中野のホームから北を見るとコンクリートの壁。日本閣の看板がけばけばしい。これを内側から見る
と純日本庭園で、コンクリートの壁のところは、驚くなかれ、華厳の滝のようなすっごいウォールに
なっていたのだ。嘘を絵に描いたような日本閣だったが、当時は人気があった。
 2番にできた「WEST53rd」も日本閣で、平成17年10月1日にリニューアルオープンし
たんだそうだ。2番地だけなので縮小したんだ! 1番地の広大な空地はどうなるんだろう? WE
STがあるということは、EASTができるのか?
 日本閣は、大正3年に鈴木磯五郎が釣堀を始めたことに始まる。同9年割烹料亭「寿々木家」創業、
昭和10年このころ田舎者が東京に蝟集するようになり、大きな家に住む訳にもいかない彼らに、結
婚式場を提供してやれば喜ぶに違いないと、都内初の結婚式場設立、日本閣に改称した。案の定田舎
者たちはこれに飛びつき、連日押すな押すなの大盛況となったが、同20年愚かなアメリカ軍の無差
別空爆のために建物は総て燃やされてしまい、社会情勢などから、戦後は昭和26年に復興した。その
後稼ぎに稼いだが、同業他社が柳の下のドジョウを狙い、雨後の筍のようにあっちにもこっちにもで
きたため稼ぎが薄くなり、縮小発展せざるを得なくなった。平成16年建て替えのため休業、翌年隣
地にWEST53rd日本閣を開業。

 跡地
 三井不動産のツインタワーの高層マンションとなっている。
 


WEST53rd
(ウェストフィフティサード)日本閣

 東中野5丁目2番1号の三角地に移った結婚式場。
 


■ひがしなかの幼稚園

 東中野5丁目8番21号にある区立園。


■第三中学校
(第五中学校・第十中学校と統合予定)
 東中野5丁目12番1号にある区立校。昭和22年4月桃園第二小学校の中に「東京都中野区立第
三中学校」として開校。同23日現在地に建てた新校舎に移転。校章・校歌制定。

 校歌
「明るく広き」 作詞・柳沢加九治  作曲・岩河三郎
  1.明るき広き武蔵野の
    紫匂う神田川
    辺
(ほとり)に萌ゆる若草の
    緑 清
(さや)けく健やかに
    伸びる三中 若人吾等 若人吾等
    伸びよ 伸びよ三中 若人吾等
  2.その名もしるき音滝の
    昔を偲ぶ蛍火に
    香りも高く日の本の
    文化の光 輝かん
    仰げ三中 若人吾等 若人吾等
    仰げ 仰げ三中 若人吾等
  3.堅き誓いに手を取りて
    高き理想を語りつつ
    学びに技に秀でたる
    正しき人とならめやと
    奮え三中 若人吾等 若人吾等
    奮え 奮え三中 若人吾等


 同24年校舎増築(10教室)。同27年プール完成。同31年校旗樹立。創立10周年記念式典。
同35年校舎増築。同38年体育館完成。同41年創立20周年記念式典。同44年給食室完成・給
食開始。同52年創立30周年記念式典・文化祭。同62年創立40周年記念式典。
 平成元年・ウェリントン生徒22名体験入学。東京都中学校吹奏楽コンクール一位金賞受賞。第1
9回全国バスケットボール大会(女子)優勝。同2年生徒15名ウェリントン訪問。同3年AVスタ
ジオ完成。同5年コンピュータルーム開設。同8年芹澤光治良記念文庫開所。同9年創立50周年記
念式典。同11年インターネット接続。ウェリントン生徒2名体験入学。同14年中野区帰国生徒受
入重点校指定。同19年創立60周年。

 ●芹澤光治良記念文庫

 『人間の運命』『巴里に死す』などの作品で知られる作家、芹澤光治良の記念文庫が中学校内にあ
る。遺族から寄贈された自筆原稿や手紙などに加え、中学校が独自に収集した著書や作品を掲載した
雑誌、デビュー作を掲載した「改造」などが展示されている。芹澤は平成5年に97歳で亡くなるま
で、長年に亘り5丁目に住んでいた。生前、中学校を何度か訪れ「三中生諸君、勉学には主体的で」
と書いた色紙も贈っている。こうした縁で、遺族から遺品が寄贈され、生誕100年に当たる同8年、
記念文庫が作られた。文庫は、中学校の1階の教室を利用。見学は無料だが、なんせ物騒なご時勢、
出刃包丁を持って走り回られても困るんで、予約が必要だ。 03-3362-5236


■けやき公園

 東中野5丁目13番1号にある区立公園。


■おたき公園

 東中野5丁目23番8号にある区立公園。


■瀧山稲荷社

 東中野5丁目26番8号にある。石段がきつい。「龍山」と記した記事やHPもある。


■中山御立場跡

 江戸時代、東中野小学校の付近には、将軍の御立場があった。幕府が指定した御鷹場の一つで鷹狩
をしたところだ。旗本の中山主馬の屋敷があったので、中山御立場と呼ばれた。武蔵名勝図絵や中野
村絵図、堀江家文書などの古文書に記録が見られる。この高台の南西に御立場、東寄り(東中野小学
校の辺)に屋敷があった。堀江家文書によると、宝暦十三年(1763)三月10代将軍家治は、早
朝半蔵門を出発し、四ッ谷を経て、淀橋を渡り、青梅街道から御囲跡御立場に着き雉狩。青梅街道に
戻り雑司谷道を通り、上落合の泰雲寺で食事を済ませ、中山御立場で再び雉狩。その後小滝橋を渡り、
高田馬場、神楽坂を経て、田安門から帰城している。なお中野へは、徳川家光、吉宗、家斉等が鷹狩
りに来たことが、前記堀江家文書に記されている。それで御成山と呼ばれるようになった。

 ●華洲園
 明治になって京都の両替商仙波家の土地となり、仙波山と呼ばれたが、明治末から大正にかけて、
この高台には「華洲園」という花畑が広がっていた。園内を散策したり、見物がてら花を買い求めた
りなど、各地から人々が訪れたといわれている。その後宅地分譲され、高級住宅地となり、政府高官
や高級軍人が邸宅を構えて住んだ。人々は華洲園の名を愛し、華洲園といえば小滝台の住宅地を指す
ようになった。しかし戦後小刻みに分割されて中級の住宅地に堕すと、俄か東京人が蝟集して、何時
しか華洲園の名は忘れられていった。


■東中野小学校 
廃校

 東中野5丁目27番8号にあった。昭和7年第三中学校のところに「東京府東多摩郡中野町立東中
野尋常小学校」として開校。10月東多摩郡の東京市併呑により「東京府東京市東中野尋常小学校」
と改称。同16年勅令148号国民学校令公布により「東京府東京市東中野国民学校」と改称。12
月日米開戦。同18年都制施行により「東京都東中野国民学校」と改称。同19年学童集団疎開。同
20年愚かなアメリカ軍の非人道的無差別空爆により校舎全焼。8月日本敗戦。10月疎開解除によ
り学童帰京。中野昭和小学校、塔山小学校に間借り授業。同21年3月31日を以て廃校。学区をそ
れぞれ中野昭和小学校、塔山小学校に移譲。

 校歌
「起き伏す丘陵」  作詞・吉岡郷甫  作曲・田村虎蔵
  1.起き伏す丘陵 緑樹に埋めて
    東中野の、大気は澄めり
    見よや学園色とりどりに
    千草八千草 花咲き匂う
  2.日に日にいそしく学ばん 共に
    朝夕楽しく遊ばん共に
    いよよ栄ゆく大東京の
    民の中なる民としならむ
  3.真玉と磨かむ我等が心
    真金と鍛えむ我等が体
    皇威輝く大日本の
    民の中なる民としならむ

 
応援歌「指折りなべて」 作詞・吉岡卿甫  作曲・田村虎蔵
  1.指折りなべて待ちわびし
    運動会は 今日なるぞ
    いざ奮い立て 年頃を
    鍛え来たれる身体の
    力をここに傾けむ
    フレーフレー我が友
    フレーフレー我が友
  2.紺碧の天 高うして
    地に清秋の色満てり
    いざ奮い立て 年頃を
    磨き来たれる精神の
     光をここに現わさむ
    フレーフレー我が友
    フレーフレー我が友


 
復興 → 閉校
 昭和31年中野昭和小学校、塔山小学校の学区から分離し、中野昭和小学校分校として開校し、同
32年「東京都中野区立東中野小学校」として再興。平成19年創立50周年記念式典。しかし同2
1年本校中野昭和小学校と統合し2度目の廃校となる。中央線以南の学区は塔山小学校に戻す。児童
は「白桜小学校」となった中野昭和小学校の校舎に移った。


■東中野小学校跡地
 東中野5丁目27番8号の跡地利用は未定。現在は校舎を区民に開放している。売るとか売らない
とか揉めている。
 


【本町】(ほんちょう)1~6丁目                  昭和42年6月1日
 中野村・本郷村。同11年「郡区町村編制法」により東多摩郡に編入、同22年「市制町村制」
によ中野村の各大字 同29年豊多摩郡に所属。同30年町制移行して中野町大字、昭和6年青梅
街道の沿線に新し作った字に、豊多摩郡の政治文化の中心地であるとして本町通と命名し、同7年
東京市に編入されて中野区本町通とし1~6丁目に分けた。同42年新住居表示法により青梅街道
と神田川の間の区域、青梅街道以南の本町通1~6丁目・相生町・朝日ヶ丘・東郷町・道玄町・宮
里町・千代田町・西町をあわせた町域を現行の「本町」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『中野区史』『中野の歴史』など。

 本町の由来
 中野郷の本郷中心地)であり堀江氏が開拓したところでもある。宝仙寺が近くにある青梅街道
と山手通りの交差点中野坂上の一帯が本町の本町だ! 2丁目に中野長者が建てたという成願寺、
3丁目に桃園小学校、4丁目に中野本郷小学校がある。


■あいおいポケットパーク

 本町1丁目1番7号神田川沿いにある区立公園。


■神田川はなひろば

 本町1丁目2番7号神田川沿いにある区立公園。


■若の芽公園

 本町1丁目5番7号にある区立公園。


■中野坂標識板

 本町1丁目15番17号のトヨタレンタカー前歩道に建ててある。

   中野坂
   中野の名称については,江戸名所図会などに,武蔵野の中央にあることから「中野」と呼
   ばれるようになったことが記されている。
   青梅街道のこの辺りは,江戸の頃から 堀の内のお祖師様 として知られる妙法寺への参詣
   者の通り道としても賑わっていた。坂上には「弁慶」という菓子店と「大団子」と称する
   団子屋があり、「弁慶」の水飴と「大団子」のつけ焼団子が、当時中野の名物として知ら
   れ、堀の内祖師帰りの土産として好評を博した。
   昭和59年3月                              東京都
 


■なかの坂公園

 本町1丁目15番18号にある区立公園。
 


■相生一番坂

 本町1丁目16番の西側の坂道。


■相生二番坂

 本町1丁目23番の東側の坂道。
 


■本一公園

 本町1丁目23番3号にある区立公園。
 


■石森ビル前の石臼

 本町1丁目32番28号、青梅街道に面したビルの入口に巨大な石臼の石車が置かれている。これ
は以前そば粉を挽くのに使われていたそうだ。まあちょっとしたニュース。
 ああそうそう、江戸から明治時代は、江戸の蕎麦は、中野の神田川の水車で挽かれ、中野の蕎麦粉
が原料だった。製粉の機械化により、中野の製粉業は衰退してしまったのだ。この石車はその名残り
で、石森さん家(ち)も粉屋だったのかな?
 


■東京工芸大学芸術情報館

 本町2丁目4番にある。大学における情報公開と社会貢献の機軸機関(エクステンション・センタ
ー)として、地域社会は当然として、広く芸術創造や芸術教育に関心を持つ人々に教育研究の成果を
発表し、それを社会資産として共有・活用するための様々な事業を展開する。各種の展覧会・展示会
や公開講座をはじめ、芸術文化に関する社会人向けの再教育プログラムの展開、さらには市民の芸術
文化活動を支援する情報サービスなどなど、これらの実践を通じて大学と社会が互いに協力し合いな
がら、美を崇敬する心と知を尽くす技とが調和した21世紀の新たな精神文化を築くための道程を探
るために創設したってこった。写大ギャラリー、大講義室、AVセミナー室、展示室、会議室、大学
院研究室、法人事務局がある。


八大山霊妙寺

 本町2丁目6番9号による法華宗陣門流の寺。本尊は十界勧請大曼荼羅。開山開基の松永行誓上人
は、新潟県坂町本伝寺の住職だったが、昭和の初め後進に跡を譲り、布教のため単身上京した。居を
麻布霞町に定め、首都布教に努め、多くの信徒を教化育成したが、昭和8年遷化。
 2世日信は現在地に霊妙教会を設立し、信徒の結束に尽力したが、昭和19年3月の戦火で堂宇が
全焼し、已む無く新潟三条に久成院に引き籠った。
 3世日勤は信徒秋山、橋本をはじめとする篤信者の帰依を得て、焼け跡に堂宇を建て、同28年宗
教法人霊妙寺として寺号を公表した。
 4世日行は着任後、納骨堂、庫裏を建立した。22年間の在職中は布教活動に努め、同56年に弟
子隆静に法灯を譲り隠退した。
 5世隆静も、先師よりの意を継ぎ、布教教化に尽力している。4階建ての立派な鉄筋コンクリート
造りのビル。1階が本堂かな。それで入口のドアなど立派すぎて入り難い。冷たい感じを与えている。
昭和末期の写真では寺らしい建物だが、何でこんな浅ましいことになってしまったのか、欲か? 芭
蕉の心にはまだまだだ。


■宝生山八津御嶽神社

 本町2丁目7番6号にあるビルの内部にある。平成27年まで「宝生教東京本部教会」といった。 主祭神は「元無極体天御中主国常立之尊産土之大御神」の3神で、祭神は国主之命 事代主之命 大己貴之命 少名彦之命 天津児屋根之命 天津大山祇之命の6神。
 この神社は800余年の歴史を有する八津御嶽神社の分社として、大正10年に本宮(現在の山梨
県南巨摩郡南部町)より、一人の神主が東京(現在地ではなく、当初は浅草橋界隈)に出てきたこと
が始まる。以来、古よりの教え(神の心に従って罪穢れなく、清らかで明るくおおらかに生きる)に
従い、「夫婦、そして家庭が円満で幸せであってこそ、国の未来も拓かれる」という(自家成立)の
考え方を堅持。現在でも首都圏に暮らすご家族の幸せを支える守り神として、多くの皆様に親しまれ
ている。
 神田川沿いのビル1階に鳥居を嵌め込んでいる。ビルの左側にも小さいが立派な社祠があって、特
に名前は判らないが、ビルの壁に「東郷の宮」の説明板が貼り付けてあるので「東郷の宮」というのだろう。

 
小さな社(東郷の宮?)
 ビルに接してすぐ隣にある。

   宝生
(ほうせい) 東郷の宮由緒書き
   主祭神 天御中主之命 国常立之命 産土之大神
   東郷の名称は、この辺りの旧町名の「東郷町」からきております。
   宝生の名称は、右の建物の中に鎮座の八津御嶽神社〔文治元年(1185)後鳥羽天皇の
   御代、鎌倉時代の守護地頭職が現在の山梨県南巨摩郡南部町の地に、なだらかな宝生山の
   ふもと(本宮)〕、時の地頭職八津多門左衛門藤原時種公の「国家安穏・五穀豊穣」を祈
   念し鎮座したことが起源です。
   大正元年中興の祖藤原如涼師の「生きている事が宝」と全国各地のにご神徳の教導をして
   以来、平成24年7月30日百周年を記念して神田川遊歩道沿いの東郷町に鎮座されまし
   た。
   人々の健康を守り、自家成立繁盛、子育ての力、智恵の力をいただくやすらぎの宮です。
   各種御祈祷は右の本殿にて参拝できます。         宝生山八津御嶽神社敬神会

 この文章を作文した人は国語が苦手か、近隣の外国人だろう。日本語の体を成していない。だから
何を言ってるのか、言いたいのか全く判らない。社祠の前に歌碑がある。これもよく判らない歌だ。
行徳って誰。何ちゅう羽かねん。

   
若き日の川面の花に面影をやさしさのみにこころぞ痛む 行徳

 
本宮
 現在の山梨県南巨摩郡南部町内船の辺りは、昔から「地頭屋敷」と呼ばれていた。文治元年(11
85)、源頼朝が全国に守護・地頭を設置した際、佐渡の国八津郷の郷士「八津多聞左ェ門藤原時種
(やつたもんざえもんふじわらのときたね)」がこの地に地頭職として着任し、地頭屋敷が建てられ
たことによる。嘗ては内船区小字八津という地名だったが、この地名も八津氏の名前に由来する。
 当地に着任した八津氏は地頭屋敷の戌亥の方(北西)に「御嶽神社」を創建し、所領安堵と天下泰
平祈願の社とした。丑寅の方向(東北)には鬼門除けの「天神社」、辰巳の方(東南)には恵方除け
の浅間社。午の方(南)に当たる場所には「豊受大神」。酉の方(西)には、武運祈願のために「八
幡神社」が祀られた。これらを総称して「内船五社」という。
 御嶽神社では、代々の地頭職が祭主として奉仕してきたが、世が代わり、地頭職が廃止されてから
は、八津氏の裔である山本家を中心に祭儀が執り行われた。八津氏が御嶽神社の祭神としたのは「大
己貴之命(おおあなむちのみこと)」と「少名彦之命(すくなひこのみこと)」だった。
 その後、教祖は「元無極体天御中主国常立之尊産土之大御神(げんむきょくたいあめのみなかぬし
くにとこだちのみことうぶどのおおみかみ)」を主祭神とした。「大国主之命(おおくにぬしのみこ
と)」「事代主之命(ことしろぬしのみこと)」「天津児屋根之命(あまつこやねのみこと)」「天
津大山祇之命(あまつおおやまづみのみこと)」を招聘し、寶生山八津御嶽神社(ほうせいざんやつ
みたけじんじゃ)と改称した。この寶生山八津御嶽神社が本宮だ(文中の神様の名称は、教祖の言い
伝え通りだ)。



■東京写真大学 → 東京工芸大学
(Tokyo Polytechnic University)

 本町2丁目9番5号にある工学部と芸術学部からなる私立大学大学名の「工芸」は、工業と芸術
を示しており、手工芸品の工芸のではない。旧大学名の東京写真大学に由来する「写大」の略称でも
知られている。小西六写真工業、今のコニカミノルタの6代目杉浦六右衛門の、

   日本の写真技術の振興に寄与する人材を世に送り出し、国家の発展に貢献するためには、
   写真教育を行う専門の学校が必要である


 という理念を継ぎ、7代目杉浦六右衛門により、大正12年に代々幡町幡ヶ谷(渋谷区幡ヶ谷)に
「小西写真専門学校」として設立。日本では数少ない、写真学科を設置した大学だ。同15年「東京
写真専門学校」に改称。同19年「東京写真工業専門学校」。同25年新学制による「東京写真短期
大学」を現在地中野キャンパスに設立。同41年神奈川県厚木市(厚木キャンパス)に「東京写真大
学工学部」を開設。東京写真短期大学を「東京写真大学短期大学部」に変更。同52年「東京工芸大
短期大学部」と改称。翌53年大学院設置。同57年女子短期大学部秘書科開設。平成6年短期大学
部を4年制に移行し「東京工芸大学芸術学部」を開設。同9年短期大学部を廃止。同10年中野キャ
ンパスに大学院開設。平成3年女子短大秘書科をビジネス情報学科に変更。
 写真家は当然として各分野に多くの有名人を排出している。

 ●
写大スタジオ(中野キャンパス)
 非常に歴史の古い写真スタジオで、天皇家・皇族をはじめ多数の著名人の写真撮影に使用されてい
る。

 ●
写大ギャラリー
(中野キャンパス)
 昭和45年代から開設されている写真美術館で、大学本部の校舎1階にある。ほぼ常時企画展を開
催しており、土門拳の館所蔵のオリジナルプリントの写真展のほか、内外の著名な写真家の企画展を
開示・一般公開している。会期中は無休のため一般の入場者も多く、中野坂上駅に近い著名な写真ギャ
ラリーとして、良く知られている。


 ●中野図書館(中野キャンパス)
 古い写真関係文献を多数所蔵している図書館で、東京写真大学工学部開設時にその蔵書の一部を中
央図書館(厚木キャンパス)に移管している。現在は、写真とデザインと芸術関係を主として配架・
所蔵している。


■石垣の続く道

 本町2丁目12番と3丁目7番の間の道。元の本郷道。曲がりくねった坂道の両側に高さ1m玉石
の石垣が続いており、緑も豊富で静かなたたたずまいは散策に最適。すっごいよ。
 と思ってたら、平成19年1月郵政宿舎が取っ払われてて妙な具合だ。建て替えかなぁ、小泉に民
営化を強制させられて、仕方なく売っ飛ばしたんかなぁ!
 石垣は最初西側の鶴家の先代が戦前に拵えたもので開かずの門を建てた。これに対抗したのかどう
かは判らないが、向かいの元の地主黒木家でも別の方法で石垣を組み、やはり立派な門を拵えた。そ
の後どうした訳だか判らないが黒木家は去り、跡地に郵政省がやってきて職員住宅を建てた。門は壊
しっちっちまった。鶴家の門も戦災でやられ、戦後そっくりに復元した。


■本町図書館と花村四郎法務大臣

 本町2丁目13番2号にある区立図書館で、規模は小さい。地域資料の場所を聞いたら、一旦2階
に上って、奥のコーナーにいって、また階段を降りたところだという。1階にありながら、2階から
行く、緊急避難の時はとうするんだようと思いながら、2階に上ると、いきなり花村四郎法務大臣の
胸像に出くわした。帰る時に訪ねると、花村が土地建物を区に寄贈したのだという。政治家って私利
私欲の徒ばかりじゃないんだ・・・! 面白いのは、初め入口を入ったところに設置され、ところが
次第に邪魔になり、やがて位置を替え、それでも邪魔なので現在の場所へ追いやったとは・・・・の
弁。銅像なんだから敷地入口の脇に据えときゃいいんだよ。花村先生もとんだ虚仮(笑いもの)にさ
れたもんだ。
 花村は、「コンサイス日本人名事典」によると、長野県出身。日本大学卒業。東京市会・都議会議
員、東京弁護士会副会長などを経て、昭和17年衆院議員に当選。鳩山一郎直系で鳩山の秘書官とな
り、戦後自由党結成に参加。同29年第一次・同30年第二次鳩山内閣の法務大臣に起用され、のち
裁判官弾劾裁判所長などを務め法務関係で活躍した。著書に『最近の欧米をめぐりて』がある。
 


■東郷公園

 本町2丁目14番2号にある区立公園。

 
憲法擁護・非核都市の宣言碑
 北の入口を入った左手にある。

 
  憲法擁護・非核都市の宣言
   まちには こどもの笑顔がある
   ひろばには 若者の歌がある
   ここには 私たちのくらしがある
   海を越えた かなたにも
   同じ人間の くらしがある
   いま 地球をおおう 核兵器は
   あらゆる いのちの営みを
   この しあわせを 奪い去る
   私たちの憲法はくらしを守り
   自由を守り恒久の平和を誓う
   私たちは この憲法を大切にし
   世界中の人びとと 手をつなぎ
   核をもつ すべての国に
   核兵器をすてよ と 訴える
   この区民の声を
   憲法擁護・非核都市 中野区の
   宣言とする
   昭和57年8月15日
          中野区


■地蔵尊

 本町2丁目24番3号成願寺駐車場にある石像。

 
地蔵尊
 同じ駐車場内にある。 


■百体観音 多寶山成願寺
 本町2丁目26番6号ある曹洞宗の寺。神田川の長者橋(山手通り)を北へ渡ったすぐ左手に明朝
様式の、竜宮城のような門がある。長者伝説の鈴木九郎が西新宿は十二社の御手洗池で入水自殺した
娘小笹の供養のため自宅を寺としたのが始まりという。その時は小笹の戒名真窓正観禅女から正観寺
と名づけたようだ。「鈴木」というのは熊野の行者が全国布教の時、獣除けと杖代わりに持って歩い
た数個の鉄輪のついた棒で、それが姓となったものである。鈴木姓にはもう一つ魚の鱸(すずき)か
らきたものがある。世田谷の上北沢を開発したのも熊野の鈴木氏で、室町中期に紀州から人々が大量
に移動したものらしい。鈴木九郎の墓は圓通閣(百観音堂)の左手。境内は山手通りの拡張で削り取
られ狭くなった。龍風閣(開山堂)、本堂(大雄宝殿)、洗心閣、長者閣の仏堂がある。
 「成願寺案内」によると、

   およそ600年昔の応永年間、この地に鈴木九郎という人が住み着きました。あたりは見
   渡すかぎりのススキの原っぱでした。九郎は荒れた土地をすこしずつひらきながら田を造
   り馬を育てていました。ですが食べ物のない日もある、貧しい暮らしでした。
    ある日、九郎はやせた馬を1頭つれて千葉の方の馬市へ出かけました。その途中、浅草
   の観音さま(浅草寺)にお詣りをしてこんなお願いをしました。
   「どうか観音さま、馬がよい値で売れますように。この馬が売れて、そのお金のなかに大
   観通宝が混ざっていたら、それはぜんぶ観音さまにさしあげます」と。
    さて、そうして馬市に行くと、馬は思ったよりずいぶん高く売れました。「これは観音
   さまのおかげじゃ」と九郎は大喜び。ところが受け取ったお金を見てみると、みんな大観
   通宝だったのです。「これは困った。大観通宝はみんな観音さまにさしあげるといってし
   まった・・・それでは一銭も残らない」
   さんざん迷った九郎ですがついに決心しました。
   「やはり約束は守らなければならない。馬が高く売れることだけ願った自分がいけなかっ
   た。お金はしっかり働いて手に入れなければならないと観音さまが教えてくださったのだ
   ろう」
   翌日から九郎は今まで以上に働いて財をなし、多くの人々も慕い集まって、中野長者とよ
   ばれるようになりました。しかし思わぬ不幸がやってきます。一人娘の小笹が、病気で亡
   くなってしまったのです。九郎夫妻の悲しみはたいへんなものでした。東西の社寺でお祈
   りをし、南北の偉い人を尋ねましたが心は晴れません。
   永享十年(1488)小田原の最乗寺に参拝、5世春屋宗能禅師の励ましによって九郎は、
   十ニ社の敷地に御堂を建てて禅師一行を招き、小笹の供養と曹洞禅の普及に精進しました。
   これが成願寺のはじまりです。


 とある。

 
三門(三解脱門)
 お寺の正門を「さんもん」というのは正しくは三解脱門の略で三門。決して山門ではない。特に禅
宗の寺は、山門という場所を表すのではなく、仏教の教えを象徴する名称だ。山門は元来比叡山延暦
寺固有の略称で、近頃では、味噌も糞も一緒くたにして寺門を山門というようになった。そのため、
三門の両袖には堅固な塀がない。これは、三門が大門や総門のように、妄りに部外者が入らないよう
にする防犯上の門ではなく、仏教の教理を表わす象徴的な門であることを示している。しかし日本人
だけが住んでいるのならともかく、近隣の諸外国から犯罪を犯す目的でやってくる外国人が多く、わ
ざわざ旅行でやってきて、寺や神社に侵入して金品を盗み、仏像などを破壊していく輩も徘徊してい
るので、寛大に見過ごしてはいられない。日本は殆ど犯罪の無い国だが、起きている犯罪の9割は近
隣の外国人の犯行だと警察庁が発表している。

 
成願寺石標
 三門前右手にある。

   中野長者開基
   
多寶山成願禪寺

 
百体観音石標
 三門前左手にある。

   
開運 百体観世音菩薩

 
石仏群とカエル像
 三門前右手の方にある。

 
達磨図
 三門の右方向、山手通り側の擁壁画。

   
莫妄想

 敷石供養塔
 三門内脇にある観音像と地蔵尊像。

 
不動明王像
 三門内脇にある。

 
六地蔵
 三門内左にある。

 
微笑観音
 六地蔵の右横にある。

 
長者閣(斎場)
 三門北横にある。

 
観音像
 長者閣前にある。

 
洗心閣
 本堂右前、長者閣の北側にある。

 
五重石塔
 洗心堂左手にある。

 
馬頭観音像
 洗心堂左手にある。

 
鐘馗像(舜学義尭和尚の像
 本堂前右手にある力強く説法像。鐘馗様ほど恐々しくはない。モデルは33世舜學義尭和尚だとの
こと。台座に以下を刻む。

   昭和五十五年五月五日
   
無用它用
   
      舜學義尭

 
大雄宝殿(本堂)
 三門を入って右手方向にある。大雄宝殿は禅宗で本堂のことをいう。

   大雄宝殿  舜學義尭

 

 大雄宝殿の正面の柱に掛かる。舂屋宗能の語言葉で、余語翠巌の書。南書院に肉筆がある。

   去年の梅本年の柳
   
顔色馨香旧に依る

 
龍風閣(開山堂)
 本堂の前左にある。掲額は「龍鳳閣 洞法大峯□祥醫談書」。

 

 龍風閣正面の柱に掛かる。對聯は、平13年の書。

   不二法門傳祖脈
   
大千世界仰宗風
     天童禅寺廣修 印
(中国天童山主)

 
百体観音堂(圓通閣)
 
龍風閣の横にある。観音と縁の深いこの寺には、江戸中期より百体観音があったが、愚かなアメリ
カ軍の無差別空爆により焼き尽くされてしまった。百体観音とは西国33ヶ所、坂東33ヶ所、秩父
34ヶ所を合わせた100霊場の本尊をいう。百観音の信仰は江戸の初め頃より盛んになったが、幕
府の政策により、諸国を自由に旅することは極めて難しく、一般庶民が霊場を巡礼することは殆ど不
可能だった。そこで百体の観音像を安置し、そこへ参ると100霊場を巡礼するのと同じ功徳が得ら
れるとされた。文政元年(1818)に記された『嘉陵紀行』の成願寺の項には、

   門より本堂まで三十五、六間入った所に百観音堂かやふきなり

 と見える。掲額は、「圓通閣 舜学義堯 印
(利萬大千)」正面の楹聯は、唐の慧能大鑑の詩句。

   菩提本無樹明鏡亦非台
   
佛性常清浄何処有塵埃
         最乘翠巖叟 印
(大雄山主)

 
青面金剛金剛像
 圓通閣の左前にある。面白い表情の庚申塔だ。

 
梅山芳春夫人篠氏墓表
 圓通閣の横にある。文政辛巳年 龜田興撰併書 孝子並木文晉建。

 
石仏群
 圓通閣の横手に17基ばかり並べてある。あちこちにあったものが集められたのだろう。

 
観音像
 長者塚の前にある。変わったデザインの観音像。

 
無縁法界塔
 武藏國多摩郡本郷村成願寺無縁塔記 嘉永二年 憲齋源大彭書

 
長者塚
 圓通閣の南横の一画にある。

 
井本氏の宝篋印塔
 長者塚碑の左横にある。

 
観世音石像
 南書院前にある。

 
南書院
 36畳ある部屋は檀信徒の会食控室として使用している。故吉田武雄棟梁の独力で、平成10年に
完成した。月例井上坐禅会は、ここを会場としている。


 ●
近藤勇との関わり

 近藤勇の妻つねと一人娘の瓊が、近藤の弟子で、神奈川奉行所に勤め、後に勝海舟に近藤の助命嘆
願をする福田平馬の世話で、牛込の二十騎町から移り住んだといわれているが、寺には新選組関係の
資料は全く残っておらず、さらにこの辺り一帯は、愚かなアメリカ軍の非人道的無差別空爆ですっか
り焼けてしまったので、今となってはつね母子がここにいた痕跡やここへ移った理由など、詳しいこ
とは殆ど何も判らない。「新選組遺聞」によると、後に瓊の婿養子となった近藤(宮川)勇五郎もこ
こで一緒に暮らし、療養中の沖田も駕籠でよくやって来ていたとか・・・

 十六羅漢
 羅漢とは阿羅漢の略で、本来は最高の悟り達した聖者をいう。境内のあちこちに配置されている。

 
四阿
 
あずまや 休憩所として使っている建築物の柱はスダジイで、愚かなアメリカ軍の無差別空爆で一
面の焼野ヶ原となった時、当時の義尭大和尚が植樹したもので、区の保護林に指定されていた。山手
通り拡幅工事に伴い、伐採を余儀なくされた。スダジイの命を惜しみ、この四阿に姿を変えて親しん
で貰っている。四阿とは四つの阿、「阿」は屋根面をいい、四つの屋根面が同じということ。つまり
平面正方形の家屋をいう。「あずまや」とは「東家」「東屋」「吾妻家」で、関東地方に多かった建
物だったので上方方面でそう呼んだことによる。

 
烏枢沙摩明王
 境内にある。うすさまみょうおうと読む。

 
筒井と双体さま
 墓地入口前にある。井戸と桶置場が一体になっている。

 
阿弥陀如来像
 墓地入口にある。

 
三界万霊塔
 墓地にある。

 
鍋島家墓所(分家蓮池鍋島家墓所)
 九郎の墓の左の小路を入っていった墓地の中ほどに左手に、蓮池藩52600石の鍋島家の墓所が
ある。蓮池藩は鍋島勝茂の4男直澄が、蓮池に分封されたのを藩祖とする。2世直之の子千熊を寛文
九年(1669)十一月に葬ったことに始まる。

   鍋島家の墓所
   この成願寺には、大名蓮池鍋島家の墓所があります。中野区在来の寺院で大名家の墓所が
   あるのはここだけです。
   蓮池(佐賀市東部)の鍋島家は、直澄が寛永十六年(1639)五万二千六百石を与えら
   れ分家したのに始まります。
   墓域に入ると十基の墓石が立ち並んでいます。手前の自然石が4代藩主直恒の供養碑、三
   番目の四角いのが墓石です。銘文によれば、直恒は、寛延二年(1749)に麻布龍土町
   (港区)の藩邸で病死し、衾村(目黒区)に葬られましたが、のちその墓は成願寺に移さ
   れました。
   他の八基の墓は、2代直之から8代直与、9代直紀の子供たちのものです。
   墓地の右手奥に鍋島地蔵と呼ばれる地蔵姿の墓碑があり、この姫の名や死因など詳しいこ
   とは判りませ