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 東京の地名の由来
 東京知ったかぶり!
平成17年2月11日発信  リンクフリー
地名の由来 東京23区辞典  引用自由

    足立区の地名の由来
       現在も進行形の調査なので誤謬訂正と記事追加のあることをご承知ください。

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【巻末特集】 江戸しぐさ
 【巻末特集】 小股の切れ上がったいい女
 板 橋 区  自殺願望女性救助駅前交番警察官殉職事故 松月院
 東京大仏 縁切榎 大東文化大学 帝京大学 板橋宿
 東京家政大学 中山道 板橋宿 国立極地研究所
 板橋事件 加賀藩前田家下屋敷
 江戸川区  葛西臨海公園 インド人 小松川女子高生殺人事件 
 都県境未定地 おくまんだし 妙見島 影向の松
 目黄不動 平井聖天 食用蛙供養塔 紅葉川高校
 江戸風鈴 立木観音 タワーホール船堀 雷不動
 大 田 区  池上本門寺 光明寺 大森海苔 磐井神社 松竹キネマ
 御菜八ヶ浦 羽田空港 大鳥居 八景坂 六郷神社
 大森ふるさとの海辺公園 馬込文士村 万福寺 梅屋敷
 洗足池
 葛 飾 区  式部薬師秘話 お花茶屋 金町浄水場 「こち亀」銅像群
 香取神社 東京拘置所 柴又女子大生殺人放火事件 
 男はつらいよ 柴又帝釈天 郷土と天文博物館 立石祠
 かつしかシンフォニーヒルズ 新宿の問屋場跡 葛西神社
 葛西囃子 美弥子ちゃん誘拐殺人事件 半田稲荷
 水元公園 しばられ地蔵 木下川薬師 堀切菖蒲園
 北  区  静勝寺 小山酒造 新河岸川 飛鳥山公園 金剛寺
 装束稲荷 王子神社 王子稲荷 名主の滝 近藤勇墓
 医心方 亀の子束子 旧古河庭園 田端文士芸術村

 【巻末特集】 隅田川 (渡しと橋)
 江 東 区  外郎売  永代橋落橋事件 亀戸天神 カトレア
 ヒストリーガレージ キッザニア 戦災資料センター
 深川江戸資料館 富岡八幡 元八幡 砂町商店街
 東京海洋大学 東西線転倒事故 有明コロシアム 萩寺
 品 川 区  品川トランク詰め殺人事件 星薬科 船の科学館
 鈴ヶ森 立正大学 香蘭女子 杉野ドレメ 品川神社
 荏原神社 光福寺 大崎新都心 清泉女子大 品川寺
 品川宿 昭和大学 戸越銀座 第一京浜 ところてん
 渋 谷 区  明治神宮 慶応幼稚舎 尾崎豊の碑  忠犬ハチ公
 ライフル乱射事件 渋谷川  夫バラバラ殺人事件
 妹バラバラ殺人事件 モリブデン 文化女子大 NHK
 広尾病院事件 文化村 尾崎豊の碑 ワシントンハイツ
 聖心女子大 東京女学館 日本共産党 女子大生誘拐
 アメリカ橋 安藤組 国学院 金王神社 青山学院
 
 新 宿 区  浄瑠璃坂の仇討 新宿胴体遺棄事件 新宿騒乱事件
 八幡様  陸軍士官学校 赤線地帯 防衛省・市谷駐屯地
 岡田有希子飛び降り自殺 オリンピック東京大会
 東海道四谷怪談 追分交番爆破事件 鉄腕アトム 
 
731部隊 学習院女子 早稲田大学 抜弁天 歌舞伎町
 歌声喫茶 名曲喫茶 どん底 新宿高野 中村屋 闇市
 杉 並 区  青梅・甲州・五日市街道 観泉寺 永福寺 高円寺
 不美人=ブスとは?  大宮八幡 ガンダム 妙法寺
 立教女学院 スチュワーデス殺人事件 東京女子大
 一家皆殺し放火 「疑惑の銃弾」 三浦和義 
 天保新水堀用水 
 墨 田 区  東京スカイツリー 相撲は国技ではない 大相撲事件 
 隅田川七福神 妊婦たらい回し死亡事件 回向院
 握りずし発祥 震災慰霊堂 鬼平・遠山の金さん
 王貞治生誕地 玉の井バラバラ事件 江戸東京博物館
 吾嬬神社 本所七不思議 もゝんじや 法恩寺 蓮華寺
 
 世田谷区 バンク・約束手形  花形敬  ウルトラマン 民家園 
 静嘉堂文庫 ボロ市 鷺草 西福寺 軍都池尻 東名
 羽根木公園 砧公園 駒沢公園 祖師谷一家殺人事件
 九品仏 多摩美 国学院 東農大 NHK技研 豪徳寺
 世田谷美術館 馬事公苑 烏山寺町 次大夫堀 仙川
 台 東 区  浅草寺 仲見世 浅草神社 三社祭 花やしき 上野公園
 鬼灯市 酉の市 待乳山聖天 佃煮元祖 旧岩崎邸
 八百善 今戸神社 アメ横 寛永寺 不忍池 花の吉原
 上野動物園 東京国立博物館 駒形どぜう 鬼子母神
 東京本願寺 東京芸大 谷中墓地 笹の雪 吉展ちゃん
 中 央 区  「銀ブラ」って、ブラブラ歩くことじゃないよ。 パウリスタ
 東京大空襲 アメリカの占領 蘭学事始 ティファニー 
 エルメス シャネル コーチ パリー セリーヌ プラダ
 カルティエ ディオール ルイ・ヴィトン 不二家不祥事
 三越・松屋・松坂屋・大丸・高島屋 築地本願寺 日本橋
 H&M 歌舞伎座 白木屋火事 日本銀行 金春芸者
 日本海軍発祥地 新橋演舞場 明治座 ハヤシライス

 千代田区  靖国問題・A級戦犯 女子学院 暁星 将門塚 消防庁
 警視庁 ていぱーく 桜田門外の変 ニコライ堂 武道館
 九段会館 楠公像 ホテルニュージャパン火災 近衛師団
 秋葉原無差別殺傷事件 神田明神 FM東京 丸ビル
 新丸ビル 丸の内物語 三菱重工ビル爆破事件 国会
 雙葉 専修大 日大 法大 明大、電機大 大妻 番町小
 東郷平八郎 日比谷公園 国際フォーラム 北辰一刀流
 豊 島 区  池袋の女 染井吉野 女子栄養学園 染井霊園 中山道
 おばあちゃんの原宿 とげぬき地蔵 庚申塚 本妙寺
 雑司が谷墓地 鬼子母神 土田邸爆破事件 山吹伝説
 目白不動 帝銀事件 立教 学習院 豊島岡女子学園

 【巻末特集】 東京の暴力団
 中 野 区  新井薬師 上高田寺町 童謡「たき火」 中野サンプラザ
 近隣騒音殺人事件 福蔵院 八幡神社(鷺ノ宮) 成願寺
 宝仙院 堀越学園 桃園川 丸井本店 中野ブロードウェイ
 東中野電車追突事故 光倶楽部事件 哲学堂公園 桃園

 
【巻末特集】 江戸城 城門と橋 
 練 馬 区  いろはかるた 練馬バラバラ殺人事件 としまえん 
 ちひろ美術館 三宝寺 石神井公園 長命寺 清戸道
 良弁塚 武蔵大学 金乗院 練馬寺町 武蔵音大 
 グランドハイツ 練馬少年鑑別所 首継ぎ地蔵 円明院
 妙福寺 春日神社 増島家薬医門 練馬大根 愛染院 
 文 京 区  狛江 振袖火事 東京大学 拓殖大学 御茶ノ水女子大
 東京高等師範 教育大学 護国寺 弥生式土器 伝通院
 聖マリア大聖堂 高津教授殺人事件 東京ドーム 六義園
 小石川植物園 元町公園 桜蔭学園 順天堂大 かねやす
 日本女子大 湯島聖堂 湯島天神 東洋大 共同印刷争議
 港  区  増上寺 フリーメイスン 永坂更科 麻布学園 氷川神社
 乃木大将 ミッドタウン 六本木ヒルズ 善福寺 霊南坂
 東洋英和 ケネディ暗殺宇宙中継 愛宕山 小便小僧
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 明治学院 虎ノ門事件 東宮御所 日本経緯度原点
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 目黒ショック 日比谷線脱線事故 駒場野一揆 旧制一高
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 酸素魚雷 音羽ゆりかご会 八雲学園 目黒のさんま
   




 「尾崎豊終焉の地」「尾崎の部屋」は、千住河原町へどうぞ。
 「女子高生・・・」は、・・・綾瀬だ


足立区の地形

 足立区は全域が低地と微高地(自然堤防)で構成されている。上野台地と松戸台地の間にあって平
均で25m低い。つまり立川ローム層・武蔵野ローム層・下末吉層が氷河期に削り取られて出現した
広大なU字谷の底に位置する。ほぼ国道4号線を境にして、東側に、昔はかなり内陸に入り込んでい
た東京湾を由来とする海岸低地が、西側には荒川と隅田川の、過去幾度かの氾濫によって発達した荒
川氾濫低地が分布しており、部分的に混在している。またこれらの低地には自然堤防と呼ばれる砂分
を主体とした微高地(特に西側に多く分布)が散在している。比率的には微高地は区全体の3分の1
を占める。全体として東京低地なので、栗原の堤防が切れると、一溜まりもない水害地となるぞぉ。
広大なU字谷の谷底に位置することを忘れたらあかんよ。



■地形・地質と住宅基盤

 
氾濫低地
 
荒川や毛長川流域に広く分布する標高の低い平坦面である。地下水位が高く、軟弱な粘土やシルト
(泥地)が厚く分布しているため、長期的な沈下(圧密沈下)が問題になっている場所が多く、適切
な基礎補強策が必要ってことよ。

 
海岸低地
 東京湾沿岸に広く分布する標高の低い平坦面である。地下水位が高く、上部には緩い砂や軟弱なシ
ルト(泥地)などが分布しているため、標準的な基礎では、十分な耐力を確保することが困難であり、
適切な基礎補強策が必要となるわいな。

 
自然堤防
 周囲の氾濫低地や海岸低地と比べ海抜高度が僅かに高くなった微高地形で、本来は河川に沿って帯
状に分布する。河川によって運搬された砂や砂礫が浅い深度から分布しているため、住宅地盤として
は比較的良好な場合も多い。しかし河川の度重なる氾濫と蛇行によって、自然堤防の上に軟弱な粘性
土や緩い砂が新たに堆積し、自然堤防が埋没している場合には、基礎補強対策が必要となる。



■毛長堀沿岸地帯
 毛長堀は昔沼沢状態だった川で、埼玉県川口市に源があり、全長7Km、幅6m、東京都と埼玉県
との境を流れているが、東京都に所属する川岸は、舎人、伊興、花畑の一部に入り、新郷、谷塚、草
加の一部が埼玉県に所属し、足立区舎人先、川口市江戸袋・八幡木から都県境に沿って流れ、足立区
花畑町北部で綾瀬川と合流している。この毛長堀の改修工事が綾瀬川との合流点から水神、伊興上谷
下(いこうかみやじった)にかけて実施された時、種々の弥生時代の遺物が出土した。区内の遺跡の
多くは、毛長堀沿岸地帯、江戸袋―伊興―花畑にかけて分布しており、伊興遺跡もその一つだ。この
遺跡は、これら遺跡群の中央部に当たり、南東の葛飾区の柴又―新宿―立石の遺跡群と相対している。
毛長堀沿岸地帯は、東は古利根川、綾瀬川に、南は荒川に面しており、江戸袋は足立台地の最南端に
位置している。従って土地は平坦で殆ど高低がなく、僅かに北西部寄りに高く、南東部にかけて低く
なっている。遺跡は標高3m内外のものが最も多く、地質は大体沖積新層埴土で、利根川と荒川とに
よって堆積されたものなんだよ。
 足立区は石器時代はまだ海の底、縄文時代に陸地になっていったので、人が住むようになったのは
3世紀末〜4世紀初めごろと考えられている。これ以前の遺物遺跡は発見されていない。



■主な河川及び橋梁

 
隅田川
  新神谷橋・新田橋・新豊橋・小台橋・尾久橋・尾竹橋・千住大橋・常磐線鉄橋・つくばエキ
  スプレス鉄橋・日比谷線鉄橋、千住汐入大橋。
  ※南岸は、概ね北区、荒川区であり、北岸の新田、宮城、小台、千住の各地区は、北側を平
  行して流れる荒川にはさまれた帯状の島状地域となっている。

 
荒川
  鹿浜橋・五色桜橋(首都高王子線)・江北橋・扇大橋・西新井橋・千住新橋・千代田線鉄橋
  ・常磐線鉄橋・つくばエキスプレス鉄橋・東武伊勢崎線鉄橋、京成本線鉄橋・堀切橋
  ※当区内の流域は、水害防止のため荒川放水路として隅田川に並行して掘削された人工河川
  であるため河川敷が広くとられており、氾濫防止のため堤防が高く設けられている。そのた
  め橋の数は交通量に比して少なく車両混雑が頻発しており、南北両岸地域の交流や、バス交
  通に頼る西部北岸地域から都心方面へのアクセスの妨げとなっている。反面、広大な河川敷
  を利用してサイクリングロードや野球場などのレクリエーション施設が整備されており、区
  民の憩いの場としての面も持ち合わせている。


 
綾瀬川
  
桑袋大橋・浮花橋・内匠橋・新加平橋・綾瀬新橋・五兵衛新橋・伊藤谷橋・千代田線鉄橋・
  常磐線鉄橋。寛永時代に運河として開鑿された人工河川。

 
中川
  飯塚橋。
  ※東岸は葛飾区

 
新芝川
  入谷大橋・南平大橋
  西岸は概ね川口市だが、同市東領家の一部は東岸だ。

 
毛長川 
  中居橋・砂小橋・舎人二つ橋・毛長橋・谷塚橋・東武伊勢崎線鉄橋・毛長堀橋・水神橋・花
  畑大橋・鷲宮橋
  ※北岸は草加市。



足立区の歴史

 
奈良時代
 
 足立区に関する最も古い記録は、天平七年(735)足立から奈良の都へ「蓮の実」を送ったと書
かれている「木簡」だ。平城京遺跡から出土した。その頃、既に大和朝廷に支配される状態にあり、
収穫した産物を、国の中心である奈良の都へ届けるような関係にあったと思われる。湿地を蓮田とし
て利用していたんだろうね。蓮の実は「薬」として使われていたとようだ。木簡とは薄く削った木の
札で、今日でいうメモ、記録帳、荷札のことだ。遠く離れた奈良までどのように運ばれたのか、どう
いうルートを通ったのかなどは不明だ。舟により太平洋沿岸を伝って行ったか、険しい難路を馬の背
に揺られて行ったかしたんだろう。今から1300年以上も前から、足立と奈良との間で物流があっ
たということは大変興味深いねぇ。しかしこの頃の足立は埼玉県の北足立をも含むから、足立区内か
ら送ったかどうかは判らない。

 平安時代
 今から900年以上前、源頼義・義家・義光一行は、京都から東北征伐に向かう途中に足立を通り、
戦が無事に勝利するよう神仏に祈ったといわれる。謂れのある土地を辿ると、道が一本に繋がってい
て、古くから東北へ向かう道が区内を通っていたことが判る。源頼義、義家、義光親子が自分達の目
印の「白幡」を立てたという伊興の「白幡塚」現在は公園になっている。
 「千住大橋の架橋」「千住宿の制定」、そして「綾瀬川の改修と見沼代用水の整備」が行われた江
戸時代に、足立区は大きく変貌を遂げた。時の将軍徳川家康は江戸を水害から守る為に、関東地方の
川の流れを変え、綾瀬川を修復、利根川の流路を移し、足立や埼玉県の田畑の質の向上に成功する。
そして千住大橋を架け、「藩」という国の間を往来しやすくしたため、江戸は爆発的に人口が増加、
千住には江戸へ出荷する野菜市場が設けられ、足立の人々は、野菜を市場に届けた。葦で覆われた土
地も、耕した人が使える権利を与えたので、人々は一所懸命に湿地を開発田畑に変えて行った。

 
鎌倉・室町時代

 鎌倉幕府の編纂した公的記録「吾妻鏡」に、元暦元年(1184)足立遠元という武士が奥州合戦
の際、源頼朝に従って出発し、側近として活躍をしたとある。その後も足立氏の名は度々登場する。
また康元元年(1256)街道に夜盗、強盗が出没するので伊古宇又次郎らに街道筋の警護が命じら
れている。伊古宇氏は伊興周辺を支配する武士であることから、奥州へ通ずる主要な道筋となってい
た「伊興」周辺の、治安維持の役目を担うよう命じられたのだろう。また盗賊が横行するという事は、
十分に人の往来があり、集落もあったことが判る。
 戦国時代、
伊古宇氏は衰退し、代わって千葉氏が渕江・伊興・保木間を領有し、後北条氏に従属し
ている。千住は千葉氏一族が住んだ≠アとから起きた地名だともいわれている。

 江戸時代
 天正十八年(1590)徳川家康が江戸に入り、慶長八年(1603)幕府を開いて政治の中心を
江戸に移した。当時下町低地には利根川、荒川などの大河川が流れ、下流の首都江戸も含めて度々水
害の被害に悩まされていた。幕府は河川の改修に取り掛かり、利根川を東遷させて河口を銚子へ向け、
また荒川は入間川に移し、江戸を水害から守ると共に、足立区域については、見沼代用水を整備し、
悪水落としの新綾瀬川を開き農業基盤を整えた。
 また千住大橋を架け、江戸4宿の1つとして千住宿を整え、日光街道も整備していった。この千住
には、物資の集散地として青物市場も出来、近郷近在から農業産品を始め多量の物資が流通して賑わ
い始めた。舟運によって入間、川越と結ばれ、物資・文化が行き来した。
 新田開発の政策も取られ、神奈川や八王子、埼玉からも人々がやってきて入植した。大消費地江戸
近郊の地の利を生かし米・野菜を中心に農業生産に精を出した。こうして苦難に苦難を重ねて次第に
耕地を増やして行き、忽ちにして湿地は農地に生まれ変わった。

 
東京府

 
現在の足立区の区域に入る江戸時代の41町村は、慶応四年(1868)武蔵知県事桑山圭助に属
し、同2年1月13日〜同4年11月13日の小菅県を経て東京府に編入、同7年3月8日
「大区小
区制」の拡大で第10区に組み入れられ自治権喪失。同8年11月22日埼玉県から舎人村を編入、
明治11年7月22日大区小区制の失敗に鑑み発布された「郡区町村編制法」により全域が南足立郡
に復し、国民の輿望による更なる自治権拡張のため、同22年5月1日「郡区町村編制法」を廃した
新たな自治法「市制町村制」により千住町・西新井村・梅島村・江北村・綾瀬村・東淵江村・花畑村
・淵江村・舎人村の1町8ヶ村に統合されて自治権は少し拡大した。

 
千 住 町 千住北組・千住中組
 
西新井村 西新井村・本木村・興野村
 
梅 島 村 梅田村・島根村・小右衛門新田・栗原村
 
江 北 村 小台村・沼田村・堀内村・鹿浜村・鹿浜新田・加々皿沼・宮城村
 
綾 瀬 村 次郎左衛門新田・弥五郎新田・五兵衛新田・伊藤谷村
 
花 畑 村 花又村・六ツ木村・内匠新田・久左衛門新田・辰沼新田・久右衛門新田
       長左衛門新田・嘉兵衛新田
 
東淵江村 佐野新田・大谷田村・長右衛門新田・蒲原村・北三谷村・普賢寺村
 
淵 江 村 保木間村・六月村・竹塚村・伊興村
 
舎 人 村 古千谷村・舎人村・入谷村

 同24年5月1日淵江村から伊興村が分離して1町9ヶ村、昭和3年梅島村と西新井村が町制に移
行して3町7ヶ村、同7年10月1日東京市の20区増設によりに市に編入、南足立郡下の町村が統
一して一区となり、郡名を区名にスライドして足立区106町となった。

 東京都
 昭和18年「府県制改正」により東京都所属、同21年9月27日「都制改正」により知事・区長
が任命制から公選制に移り自治権が大幅に拡大した。国家主義の内務省官僚が権力の喪失を嘆いて大
反対したものの、占領軍が「私利私欲に走らず国民を自由にしてやれよ」と諭して押し切った。内務
官僚は泣く泣く引き下がって臍を噛んだ。同37年5月10日「住居表示に関する法律」が施行され
たが、この区の大半は不名誉な施行除外だった。
 しかし平成16年現在86町のほとんどで完了、新住居表示未実施は千住2〜3丁目・千住橋戸町
・千住緑町の4町のみ。舎人町・古千谷1〜2丁目・西伊興町・入谷町の一部が残っているが舍人公
園に吸収される町域で、公園が完成すれば旧町名は消滅する。
 「東京のチベット」「埼玉の植民地」「彼氏に住んで欲しくない23区ナンバー1」というイメー
ジだというのを足立区の人から聞いた。田舎っぽいのは西武線沿線だし、逆説的には足立区の人は自
慢してるんだと思う。この区だけはマンション団地になって欲しくない。筑波エキスプレスの開通で
都心と直結したし、新交通システム日暮里舎人線も開通、総合病院もあり、練馬・江戸川両区を越え
ている。このホームページのアクセス数は、ここんところ足立区が世田谷区を押さえてトップを維持
している。もう「東京のチベット」などとはいわせない。
 区役所は中央本町にあり、友好・姉妹都市はベルモント(オーストラリア)。
 参考資料『足立区史』『足立区の歴史』『大日本地名辞典』など。



■教育施設

 
小学校( 区立校 72 私立校 0 )

 千住第五・千住第八・西新井・西新井第一・西新井第二・興本扇学園・本木・本木東・寺地・
 関原・江北・高野・扇・鹿浜・鹿浜第一・鹿浜西・新田・宮城・舎人・梅島・梅島第一・梅島
 第二・島根・亀田・栗原・栗島・東栗原・加平・弥生・五反野・弘道・弘道第一・綾瀬・東加
 平・東渕江・中川・北山谷・大谷田・長門・花畑・花畑第一・花畑西・渕江・渕江第一・保木
 間・竹の塚・伊興・東伊興・西伊興・中川北・上沼田・北鹿浜・青井・花保・中島根・古千谷
 ・東綾瀬・栗原北・平野・辰沼・六木・中川東・皿沼・舎人第一 
 千寿本町(千寿第一・千寿旭)・千寿桜(千寿第六・千寿第七)・桜花(花畑東・桑袋)・西
 保木間(渕江第二・竹の塚北)・足立入谷(入谷・入谷南)・千寿(千寿・千寿第二)・千寿
 常東(千寿第四・柳原)・千寿双葉(千寿第三・元宿)。(下線校は統合校)

 中学校( 区立 37  私立校 2)
 第一・第四・第五・第六・第七・第八・第九・第十・第十一・第十二・第十三・第十四・江南
 ・新田・江北・鹿浜・東島根・渕江・竹の塚・東綾瀬・花畑・蒲原・青井・西新井・入谷・上
 沼田・伊興・花畑北・谷中・花保・栗島・興本扇学園・加賀・入谷南・六月
 千寿青葉(第三+第十五)・千寿桜堤(第二+第十六)。下線校は統合校
 
足立学園・潤徳女子

 高等学校 ( 都立校 9  私立 3)
 青井・足立工業・*足立・足立西・足立東・足立新田・*荒川商業・*江北・淵江
 *は定時制あり
 
足立学園・潤徳女子・菊花女子

 
大学・短期大学
 帝京科学大学・東京未来大学・放送大学足立学習センター・東京芸術大学千住校・東京芸術大
 学音楽学部アートリエゾンセンター

 
養護学校 3

 足立・城北・南花畑



■文化施設

 図書館 16

 伊興・梅田・興本・江北・佐野・鹿浜・常東・新田・竹ノ塚・中央・舎人・東和・花畑・保塚
・宮城 他にやよい区政資料室・産業情報室・男女参画プラザ消費者センター資料室がある。

 郷土博物館・都立東京武道館・愛恵まちづくり記念館・足立生物園・ギャラクシティ(西新井
ホール・こども科学館)・エルソフィア(女性センターなどの複合施設)・学びピア21(区立
中央図書館)・シアター1010・足立産業芸術プラザ(東京芸術センター)・西新井大師・舍
人公園・都市農業公園・東綾瀬公園・ベルモント公園・五反野親水緑道・上沼田東公園・宮城ゆ
うゆう公園・柳原千草園・桑袋ビオトープ公園・大鷲神社・西新井大師・関原不動・赤門寺・赤
不動・・・




 区歌
わがまち足立」 橋本完寿郎・作詞作曲  團伊玖磨・補作
  1.笑顔 人の和 手を繋ごう
    あの町 この町 公園に
    五色桜よ 平和の花よ
    永久に咲かせる故郷は
    ああ我が町 この花の下
    ああ故郷 我が足立
  2.緑は生命 触れ合いの
    広場を飾るチューリップ
    明るく 強く 伸びやかに
    歌声溢れる故郷は
    ああ我が町 この歌の下
    ああ故郷 我が足立
  3.輝く未来よ 若人よ
    明日への夢を 限りなく
    川面は移す青い空
    高く広がる故郷は
    ああ我が町 この空の下
    ああ故郷 わが足立



 足立音頭(昭和25年制定)
    思い焦がれたあの娘に逢うて
    恨むまいぞ得切り花小花
    並ぶ菅笠笑顔が漏れる
    やがて嬉しい秋祭り
    テモサッテモ
    足立よいとこ 足立よいとこ米どころ
    スッチョンナ




 新足立音頭(昭和45年制定)
  1.ハァーソレ
    千住大橋 渡れば響く
    卸市場の勇み声 チョイト
    あなた環七 わたしゃ四号線
    花の足立で縁結び 縁結び
    足立音頭で チョイサッサ
    ソレ チョイ チョイ
  2.ハァーソレ
    藤か牡丹か お大師様か
    両手合わせる恋娘 チョイト
    見たか浮き彫り 大鷲 氷川
    偲ぶ一茶の炎天寺 炎天寺
    足立音頭で チョイサッサ
    ソレ チョイ チョイ
  3.昔米所(どこ) 黄金の穂波
    変わる足立は人の波 チョイト
    並ぶ団地の窓 窓 窓に
    月も射しこむ竹ノ塚 竹ノ塚
    足立音頭で チョイサッサ
    ソレ チョイ チョイ




■区の花 チューリップ

 平成4年制定。Tulip,Tulipia gesneriana ユリ科チューリップ属の植
物。
球根ができ、形態は有皮鱗茎。和名「は鬱金香(うこんこう)」、中近東では「ラーレ」と呼ばれ
る。アナトリア、イランからパミール高原、ヒンドゥークシュ山脈、カザフスタンのステップ地帯が
原産。多様な園芸品種が存在する。外観は、花弁が先端が丸いもの・尖ったもの・フリル状のものあ
る。咲き方は一重から八重。すぼまった状態で開花するものや花弁が外側へ反り返り全開して開花す
るものなど。花色も青以外の赤・黄・オレンジ・白・緑・紫などの単色や複数の色のものなど、数1
00品種のチューリップが存在する。青バラと同様に多くの育種家によって青いチューリップの開発
が進められているが、花弁全体が青い品種は発表されていない。チューリップの花を上から覗くと、
花弁の根元に青い部分が存在する。その部分には青い色素がみられ、その青い部分を増やすことで青
いチューリップを作る研究がされている。
 鹿浜2丁目の足立区都市農業公園では、春になるとチューリップが色鮮やかな花を咲かせ、訪れる
人たちの目を楽しませている。荒川河川敷にある花壇には、6種類(赤・白・黄色・ピンク・紫・黄
赤)約20000球が色毎に分けて植えらるが、毎年テーマに沿って絵を画くように、「ダイヤモン
ド富士」とか、園内にある「古民家」とかを表現しており、土手から眺めれば素晴らしいチューリッ
プのアートが楽しめる。植え込みの間には小道が設けられ、来園者は目前で花の美しさや記念写真の
撮影を堪能することができる。
 毎年4月20日頃に「春の花まつり」を開催。当日は、花と緑の即売会や裏千家による野点(のだ
て)などが催される。見ごろは、4月下旬までだよ。



■区の木 サクラ

 桜。平成4年制定。サクラの仲間は、バラ科に属する樹木。バラ科には、約100属、3000種
の植物があり、全世界に分布している。分類学的には、バラ科はサクラ亜科、ナシ亜科、バラ亜科、
シモツケ亜科の4つの亜科に分けられ、日本にはいずれの亜科も分布してい。
 日本には、サクラ亜科で主要なグループのサクラ属がある。サクラ属は落葉性で形状は高木、低木
など様だ。特徴としては、葉は互生で、鋸歯があり、托葉がある。また花は両性花で、がく片と花弁
は5枚(5数花)、多数の雄蕊があり、普通、雌蕊は、長い花柱となっている。
 果実は、核果で1個の種子がある。果実が食用とされるウメ、モモ、アンズなどは、桜の仲間で、
200種が主として北半球の温帯に分布している。ウメやモモ、スモモとサクラ属とは、@果実に縦
のくぼみがない、A内果皮に細かい毛がない、B頂芽があることなどで、分類されている。
 一般的に桜と呼ばれているのは、バラ科サクラ属の落葉性の樹木。サクラ属は主に北半球の温帯に
広く分布している。日本のサクラ亜属(ユスラウメなどを含まない))を細分して「群」として分類
すると、ヤマザクラ群、エドヒガン群、マメザクラ群、チョウジザクラ群、ミヤマザクラ群となる。
日本の山野に咲く主なサクラとしては、ヤマザクラ、オオヤマザクラ、カスミザクラ、オオシマザク
ラ、エドヒガンザクラ、マメザクラ、タカネザクラ、チョウジザクラ、ミヤマザクラなどがある。そ
してこれらの変種を合わせると、数10種以上が自生し、またこれらの種を基本に育種されている栽
培品種は600種類以上にもなる。全世界にある花を楽しむサクラの殆どは、日本のものばかり。
 サクラの種は、葉の鋸歯の形や、鋸歯の先端の形、葉柄の毛の有無、蜜腺、鱗片、花序の形、萼片
の鋸歯の有無やその形、樹形、花期、花弁の色、形、枚数などで分類する。



■区の鳥
 決めていない。



■名誉区民
 
 区制50周年を迎えた昭和57年に、区の発展及び区民の生活と文化の向上に貢献し、区民が郷土
の誇りとして尊敬し敬愛できる者を顕彰する「足立区名誉区民条例」を制定した。この条例に基づき
区制50周年、60周年、70周年を迎えたそれぞれの節目の年に、名誉区民としてふさわしい功績
をあげた者を顕彰している。
 50周年 大山雅二(東京府職員・初代足立区長)
 60周年 志村文蔵(足立1丁目町会長・各PTA会長など)
      遠峰冨次(区議会議員7期28年・区議会議長5期)
 70周年 田口富藏(本木南町会長・町会連合会長・区福祉協議会長など)
      鯨岡兵輔(区議会議員・都議会議員・衆議院議員12期36年・環境庁長官)
          



■この区からこんな人が育った
 ビートたけし・北野武(漫才師・司会者・映画監督)、北野大(武の兄・工学博士・コメンテイタ
ー)、浅野温子(女優)、田中好子(キャンディーズ 女優)、木村カエラ(歌手・モデル・タレン
ト)、原田芳雄(俳優)、小川眞由美(女優)、上原さくら(タレント)、SILVA(歌手)、原
田龍二(俳優)、高山みなみ(声優)、雛形あきこ(タレント)、前田健(ものまね)、早乙女勝元
(作家)、天野祐吉(コラムニスト 編集長)、永沢まこと(イラストレイター)、清水隆行(野球
選手)、斎藤雅樹(野球選手)、栃東大裕(大相撲大関)、森且行(競輪選手 SMAP)、武田幸
三(格闘家)、鴨下一郎(環境大臣)あたり。
 ※北野武はお笑い芸人から成り上がったといっては失礼だが、隠れた政治のご意見番的ところがあ
り、テレビ朝日で「テレビタックル」という政治番組のメイン司会者をやっているせいか、総理大臣
などから意見を求められるようだ。天皇陛下即位20周年記念の祝賀会にも芸能人として宮内庁から
招待され、本人はえらく遠慮したが、宮内庁のお膳立てで両陛下と歓談した。無論本人は恐縮するば
かりだったが・・・彼本人の感覚は平均的国民目線だ。



足立の由来
 『続日本紀』に初めて登場する。松平定常は、

   この辺りはむかし湿地が多く葦が繁茂していたので、葦が立つところ葦立≠ニ称した
   のに始まる


 と説く。葦と足の関係は、古来より和歌で葦を足にいいかけて、「葦の迷い」ということがある。
つまり葦の生い茂る間で迷うように、行き先に迷うこと、足の迷い≠意味している。葦が足に変
化することは不思議ではない。
 当時は埼玉県も武蔵国だから、足立郡は北に長く広大な範囲に及び、武蔵国の東部は元々が海で、
利根川が流れ込んでいた。やがて湿地となり砂州となりして陸地化したから、葦が自生していたとし
ても非常に理に適っている。『日本地理志料』に、

 
  郡池沼多く蘆葦叢生す。蓋し葦立の義なり。

 聖武天皇の天平年間(729〜748)に建てられた、武蔵国分寺跡から出土した瓦に足≠フ字
が付いており、足立郡からの寄進と考えられている。
 また「あだち」をインドネシア語で解すると「アタ・チ」、「広々とした場所に在るエリア」とな
るらしい。漠然としているが、これもなくはない。昔、東南アジアが大陥没して現在の地形になった
時、避難して移住してきたのが南方系と称する日本民族の一部で、大量にやってきた。日本人はマン
モスと共にやってきた北方系(秋田美人が代表)と、この南方系、それに朝鮮半島経由でやってきた
モンゴロイド、中国大陸南部から直接やってきた中国人、さらにペルシャ人、インド人などで構成さ
れ、種族的には136ほどにも分類されるそうだ。


 よほど有用な植物で、若芽は食用になるし、茎は葦簾(すだれ)・葦簀(よしず)・屋根・製紙の
材料になり、根は蘆根(ろこん)という漢方薬、煎じると利尿・止血・解毒に効果があり嘔吐を抑え
る。そして水辺に生えているだけで水質を保全する。育てるのに手間隙がかゝらないばかりか放っと
けば勝手に増えてくれるし、刈り取ったあと種を蒔く必要もない。雁は海で休むときの舟とするため
に葦の葉を加えて渡りに旅立つという。パスカルは人間を考える葦≠ニ準えた。豊葦原の瑞穂の
国≠ヘ美辞装飾の言葉だけではなかったのだ。葭・蘆・葦はみんな同じだが、

 「葭」は
若い葦、「蘆」は穂の出ぬ葦、「葦」は成長した葦 

 の違いがある。「芦」は本来別の草だが「蘆」の字の略字として用い、伊勢地方では「浜荻」と呼
ぶ。また荻窪の荻≠ヘ葦に似る。吉原遊郭は葺屋町(人形町辺)外の葦原を造成して作ったので、そ
の名となったもので、千束池跡に移転した新吉原はその名を継承したが千束池もまた一面の葦原だっ
た。
 以前はつい先頃まで、区内には葦簀屋(よしずや)が至るところにあって、生産販売していたもの
だ。近年河川敷の有効利用でグラウンド、緑地、公園にしたため、葦原は失われてしまったが、これ
が大変な間違いだということが判ってきた。というのは葦原は、水質浄化の役割を果たしていたのだ。
現在、霞ヶ浦では、浄化対策として葦原の復元に取り掛かっている。だからこそ「豊葦原」なのだ。
現代人はバカだねぇ!

 
二本の蘆束

 仏典にあるたとえ話。葦は1本1本が細く弱いために、それ独自では立つ事ができない。が2本、
3本と寄って立つことにより人を踏み迷わせる葦原を形成できる。これは世の中に存在する総てが、
それ独自で存在するのではなく、他との関わりによって存在し得ていることを教えているのだ。一方
だけを強めて、他を排除すると、バランスが崩れ、地球温暖化ということになり、却って己を害する
ことになるということだ。助け合えよ! 豊葦原の瑞穂の国は・・・と云うではないか。三本の矢・
三ツ矢と同義。 
 





○おーら足立区の町名の由来を始めっど。そこ、余所見すんな!


【青井】(あおい)1〜6丁目                     昭和41年1月1日
 昭和41年二ツ家町・四ツ家町・伊藤谷北町の大部分に小右衛門町・五反野北町/五兵衛町・西
加平町・東島根町・東栗原町の各一部をあわせた町域を現行の「青井」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『足立区史』など。

 青井の由来
 合併することになったものの町名についてはなかなか折り合いがつかねえ。そこでこの辺りの古
称が「精出耕地」という名前だったことから、気の利いた区の職員が
精≠ニ耕≠フ旁(つくり)
から
「青」と「井」を抽出するってえ漫画のような発想によって一件落着したって訳さ。「青は澄
み渡った紺碧の大空と緑の農産物、井≠ヘ尽きることのない湧泉を・・・」とこじつけて地域の
発展を祈念したってことよ、粋じゃねえか、元来精出とは最後まで残ってた荒地を、各村の先祖が
精を出し°齪Jに苦労を重ねて開墾したことで命名された経緯があるんだ。そんな開墾地も、つ
くばエクスプレスが敷設されて、大都会に変貌する。



■青井ふれあい公園
 1丁目3番にある区立公園。公園中央に円形の広場があり、階段状のステージ、ベンチが周囲に配
されている。割と樹木の多い公園だ。遊具は、大きな岩を使った複合遊具やアスレチック的なもの、
またパーゴラの後方に砂場があり、小さい子はこちらで遊んでいる。



■青井高等学校
 1丁目7番にある都立校。詳細不明。



■愛宕神社
 1丁目16番にある区内唯一の愛宕神社。神体は馬に乗った愛宕権現で、元々は旧家の屋敷神だっ
た。安産の神・火の用心の神として信仰が篤い。9月21日の彼岸の中日が祭日で、他に例のないこ
とだ。社前に宝永三年(1706)の供養塔、寛政十二年(1800)の庚申塔がある

 
二ツ家箕濃が谷囃子
 江戸時代の文化文政期ころ(約200年位前)二つ家の愛宕神社のお囃子として生まれ、口伝によ
り今日まで伝えられてきた。二つ家とは、今の青井1、2、4丁目付近に当たる。今、平田伊三郎(青
井中学校3代PTA会長)が会長として、伝統芸能の伝承に当たっている。3丁目でも原や島田とい
う人が継承者の育成に当たっているが、若手の継承者がいないということが悩みのタネ。国家がアメ
リカの属国で、小泉純一郎のように権力がアメリカべったりでベコペコだから、若者だってアメリカ
一辺倒だ。ロック、ロック、ロック、ロックンロールでい!



■四ツ家稲荷神社
 2丁目15番にある。祭神は宇迦能御霊命。例祭は9月15日。四ツ家は、鶴飼・市川・両高橋の
4家を「草分四ツ家」といい、それが地名になった。



安龍山正法院増福寺
 2丁目32番にある新義真言宗の小寺。本尊は阿弥陀如来、空也上人の作という。宝物に不動明王
があり、これも空也の作といわれる。元和元年(1615)慶龍法印の開山。山門入ると右手は庫裏、
左手と本堂の奥は墓地だ。荒川綾瀬88ヶ所霊場の49番札所。墓地に宝暦三年(1753)九月五
日法印快伝の墓碑がある。



■青井小学校
 3丁目12番にある区立校。昭和48年都市化により弘道第一小学校から分離して開校。

 校歌
はじめて会ったあの日から」 作詞・片岡輝  作曲・池辺晋一郎
  1.初めて会った あの日から
    僕らはみんな 心が一つ
    今は小さな蕾だけれど
    手に手を取って伸びて行くんだ
    青い青い 空めざし
     逞しく優しく豊かに
     君と僕 貴方と私は
     青井の子供
  2.嵐が叫ぶ日もあるさ
    僕らは決して負けはしないぞ
    今は小さな双葉だけれど
    肩を組み合い伸びて行くんだ
    高い高い 空めざし
     逞しく優しく豊かに
     君と僕 貴方と私は
     青井の子供
  3.やがては巣立つ日が来るさ
    僕らはきっと忘れはしない
    今は小さな若木だけれど
    力一杯 伸びて行くんだ
    広い広い 空めざし
     逞しく優しく豊かに
     君と僕 貴方と私は
     青井の子供


 同49年体育館完成。同51年プール完成。同53年校舎増築。特殊学級併設。同57年創立10
周年記念式典。平成2年校舎内外装。体育館改修。同3年コンピュータルーム設置。同4年創立20
周年記念式典。同14年創立30周年記念式典。同19年全教室冷房。耐震化完成。同20年創立3
5周年。



■ツクバエキスプレス/常磐新線
 平成17年8月24日開業。秋葉原と茨城県つくば市を結ぶ通勤鉄道。足立区では六町・青井・北
千住に駅が出来る。いずれはもっと増えるだろう。バスだけの交通機関だったところが都心へ直結す
るんだから町は豹変するさ。
 不動産屋にとっては金を生む土地、放っとく訳がねえだろ?



■青和コミュニティ公園
 3丁目23番にある。木が生い茂った遊具があるコーナーと広場とに分かれている。親子連れも数
多く来て、遊んでいるが、ゴミが散乱して汚い公園だ。弁当殻、コンビニ袋、菓子袋、空き缶が吹き
溜まっている。団地が多く余所者ばっかしだから清潔感がないんだろうね。集合住宅に住む人間の無
責任は、宿命だわいな。長くは住まないんだから。残念なことだ。国家権力があの体たらくだから、
仕方ねえのよ。



■青井駅

 3丁目24番にあるツクバエキスプレスの地下停車場。平成17年8月24日つくばエクスプレス
の開業と同時に設けられた駅だ。この周辺には駅がなかったため、住民にとっては利便性が飛躍的に
向上した。まあ沿線は大変だぁ。
 ホームは相対式2面2線構造で、地下2階にある。エレベーター・エスカレーター完備。
 改札口は1ヶ所のみで地下1階にある。出口はA1・A2の2ヶ所ある。
 各駅停車しか停まらないため、11時〜16時ころまでは、1時間あたり4本のみの運転となる。
都区内の駅としては最低水準の運転本数だが、それでもこれまでのように五反野駅や綾瀬駅まで行く
手間を考えれば格段に便利。そのうち増えるよ。



■青井中学校
 4丁目19番にある区立校。昭和48年第十一中学校から分校。平成15年創立30周年。
 



■青和憩いの森公園
 4丁目25番にある都営青井四町アパート4号棟西側のスペースにある区立公園。森とは名ばかり
で、それほど樹木がある訳でも広くもない。



二つ家の百躰庚申塔

 5丁目1番の二つ家バス停の角地にある。庚申塔を100個置いてあるという篤い信仰を表現する
もので「百庚申」と呼ばれる、これは初期のものらしい。塔は安山岩で、刻銘は「一天四海風雨順時
 百躰庚申塔 五穀豊登万民安寧」だ。信仰上は、造塔(作善)することにより功徳を得られると考
えられており、大きいものや、より多く、造塔する風潮があり、この場合は一基に百体の尊名を刻し
て、多くの功徳を願ったものだ。嘉永元年(1846)造。



弁財天

 5丁目1番にある。



■庚申塔

 5丁目1番にある。寛政十二年(1800)日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿を刻む。



■浅野家長屋門 
移築

 5丁目11番(青井5丁目住宅のあるところ)に増野製作所があり、そこにネ、大きな長屋門があっ
たのさ。1重2階建て、入母屋造りで桟瓦葺き、両袖に曲り屋の平屋建て長屋各1戸が附いてたよ。
元は綾瀬川の東岸上谷中村の名主浅野邸にあったものを、昭和14年に移築したって訳。その理由は
判んない。恐らく浅野邸を含む一帯が軍に接収されたためだろう。現在ここに長屋門はない。
 ※行方について増野製作所から回答があったよ。

   長屋門は足立区の有形民俗文化財に指定され、当社で保存しておりましたが、常磐新線
   の敷設に伴う道路工事のため、用地が買収され、足立区および東京都の御協力により、
   都市農業公園へ移築され、展示されています。物件は足立区へ寄贈しましたので、現在
   は足立の区有財産になっています。               増野製作所総務部



■栗島小学校
 6丁目13番にある。昭和28年梅島第一小学校分校として開校。同29年独立して栗島小学校と
改称。同30年校歌制定。

 校歌
西に富士の嶺」 作詞・サトウ八チロー  作曲・渡辺浦人
  1.西に富士の嶺 北には筑波
   春は緑の そよ風うけて
   誠求めて 日毎に通い
   互いに励まし楽しく学ぶ
   栗島 栗島 栗島小学校
  2.白い夏雲 輝く青葉
   右へ左へ飛び交う燕
   友と手を取り 未来を誓い
   働く喜び 浮かべて学ぶ
   栗島 栗島 栗島小学校
  3.道の野菊と微笑み交わし
   仰ぐ秋空 広がる希望
   体鍛えて正しく強く
   教え守りて進んで学ぶ
   栗島 栗島 栗島小学校
  4.雪に霙に霰に霜に
   星の冷たさ光に耐えて
   心磨きて優しく清く
   我が師を敬い 明るく学ぶ
   栗島 栗島 栗島小学校


 同34年創立50周年記念式典。同39年創立10周年記念式典。同40年分校独立(加平小学校)
独立で学区変更、一部生徒に加平小学校に転校。同45年東栗原小学校を分校。同50年創立20周
年記念式典。同58年創立30周年記念式典。平成5年創立50周年記念式典。同14年校舎耐震化。
同15年創立50周年記念式典。同19年校舎冷房化。



■庚申塔
 6丁目20番にある。寛政五年(1793)日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿を刻む駒型。




【足立】(あだち)1〜4丁目                     昭和39年7月1日
 区内最初の新住居表示を実施したところで、千住末広町・日吉町・千住高砂町の大部分に五反野
南町・伊藤谷西町・梅田町の各一部をあわせた町域の町名を区名からスライドして現行の「足立」
とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『足立区史』など。

 足立区足立の由来
 千住町と弥五郎新田が合体する訳だから「足立」と決まるまでの経緯は大変だったのよ。この2
つの町と村は水に油、犬とサル。ために町名を巡っての合意は容易じゃあなかった。そこで元区議
会議長大神田貞英が「区で初めての再編統合だよ。この事業成功のため旧町村時代の縄張り意識を
捨てて大道に着き、他地区への先鞭先駆けとしようや」と腹を割って説いて回ったところこの正論
には双方とも「もっともだ」と悉く同意。かくて足立区足立は誕生したって訳。
しかしここが足立
の発祥の地じゃあないよ
。悪しからず。町内を通る東武鉄道の駅は五反野と小菅、小学校も五反野
と千寿第五、足立は馴染んでないようだ。だから足立は千住新橋北詰だぁ〜 !



■千寿第五小学校

 1丁目13番にある。大正14年4月6日荒川放水路の開鑿により左岸地区の生徒は通学が困難と
なったため新設、千寿第五尋常小学校として開校した。昭和2年校旗制定。同13年校歌制定。

 校歌
清き流れの」 作詞・古谷田弥十郎  作曲・大中寅二
  1.清き流れの放水路
    遥かに仰ぐ富士が嶺の
    千代の眺めは末広く
    名も高砂の自治の里
  2.緑燃え立つ堤北の
    学びの園の百千草
(ももちぐさ)
    素直に伸びて健やかに
    床しき千寿第五校


 旧文部省で正式に認可された第一号の由緒ある校歌だ。誤記があって、「未→末」「郷→里」に訂
正するようにとの指導があった。

   昭和十三年三月二十五日寅学一九九四号ヲ以テ東京市千寿第五尋常小学校校歌ニ関シ
   申請ノ件本日指令相成リタル処右歌詞楽譜ハ別紙朱書ノ通訂正ノ上認可セラレタルモ
   ノニ付訂正の上教授セシメラルル様取計相成度


 同16年国民学校令により「東京市千寿第五国民学校」に改称。同18年都制施行により「東京都
千寿第五国民学校」と改称。プール完成。同19年学童疎開。同20年8月15日日本はアメリカ合
衆国の軍門に下り以来属国となる。同22年「区立千寿第五小学校」と改称。同27年五反野小学校
を分校。同28年弥生小学校を分校。同50年創立50周年。平成17年創立80周年。



■高砂神社
 1丁目27番にある稲荷。祭神は倉稲魂命(くらいなたまのみこと)。



■三十番神・七面大明神
 2丁目8番にある。

 法華信仰の特質(塩崎辧仁)
 法華宗の信仰集団はだいたい統一潔癖を主として発生したという特質があるので、復古的な回帰運
動の中には、不受不施派のような禁制宗教のようなものまであらわれてきた。このことは端的に法華
信仰の一面を窺うに十分な特徴の顕現ともいえよう。ところで、こうした主張が必ずしも一貫して法
華信仰史を貫いてきたとはいえない。
 歴史的流れの中に、社会的風潮の中で、修験道や陰陽道の影響を強く受けて、発生的にはいみ嫌っ
て破柝してきた修験や陰陽道の要素を次第に取り入れながら、社会的要請に馴染みながら教線を拡大
し集団は発展してきている。「真言亡国」と唱えて加持祈祷を破柝して出発した日蓮の主張にもかか
わらず、諸派の祈祷法が成立してきている。純粋的な立場からは雑乱信仰といわれているものの、俗
信とも云うべき稲荷信仰、最近では地蔵信仰までも組み入れられている。

 七面大明神(塩崎辧仁)
 七面信仰は日蓮宗に限っている。しかも日蓮宗のどこの寺院でも七面堂を裏山に別宮を作って勧請
しているものが多い。もし別堂がなくても本堂の一隅に必ず七面天女または七面大明神として祀って
あるのが常道である。というのは、七面大明神が法華経守護の大善神であり、法華経信心者の守護神
であるという意味である。陰陽道の方位説の中に八方とか八面とかいって中心として四囲東西南北と、
その間、東西・東北・西南・西北を入れて八方の方位を設定して、これを八面とする。このうち東北
(艮・うしとら)を鬼門として鬼が出入する方向として忌み嫌う。この方角の鬼門には殺気の荒神が
住んでいて、犯すものには災害をあたえるという。この災難を除き避けるために「鬼門除け」として
神仏を祀る。ところで東北(艮・うしとら)方位の反対方向西南(坤・ひつじさる)の方位を裏鬼門
として鬼門とともに忌み嫌う。
 ところで方位八面のうち、鬼門または裏鬼門の一面を閉じて残りの七面を開いていわゆる「あきの
方(歳徳神のめぐる方)」にして、吉方に開く神力が七面を開く大明神である。法華経の中に、末法
においてこの経を信じ広める者には必ず守護の神がつくという所説があり、陰陽道の鬼門一面を塞い
で七面を開く神、すなわち七面大明神こそ法華守護の大善神となる。日蓮宗では末法総鎮守法華守護
の七面大明神と勧請する。ここにも神仏習合のあとが見られる。
 日蓮が身延の山に入って間もなく、建冶三年(1277)の九月、説法の場に見なれない妙齢の婦
人がいた。本体は一丈あまりの竜であったが教化によって、七面の山に住む七面天女となって身延の
山の裏鬼門をおさえて山を守り、法華経の護法神となった。もともとこの山は山頂に七つの池に水を
貯え、池大明神が祀られていた。池大明神の成仏の姿が七面大明神であると考えられる。一旦垂跡さ
れると本地を訪ねられるが、女神のこと故、鬼子母神の娘、吉祥天であるといわれる。また本体が竜
神であったため法華経提婆品の八才竜女の成佛説や弁才天説もある。七面山は長い間女人禁制であっ
た。これは日蓮以前の真言修験の時代からであった。江戸初期、熱烈な法華経信者であった徳川家康
の側室お万の方が、山麓の白糸の滝で身を浄めて登ってから女人の参詣が許されるようになり、この
時から七面大明神は女人にも開放されるようになった。




■庚申塔
 2丁目31番にある。安永九年(1780)日月・青面金剛・二鬼・三猿を刻む。



■庚申塔2基
 2丁目36番にある。@寛政八年(1796)日月・青面金剛・一鬼・三猿「庚申供養塔」を刻む。
A文久二年(1862)日月「庚申塚」とのみ刻む。



■小菅駅
 2丁目46番にある東武伊勢崎線の停車場。大正13年10月1日五反野・梅島の両駅と同時に追
加開業された駅。ホームは高架島式1面2線構造で、複々線の内側を走る緩行線のみにホームがある。
ホームと改札階を結ぶエレベーターは設置している。改札口・出口は1ヶ所のみで、地上1階にある。
 小菅というのは駅の東に位置する葛飾区内の地名だ。小菅刑務所があったのでその名とした。



■五反野小学校
 3丁目11番5号にある。昭和27年9月1日足立区五反野南町1439番地に千寿第五小学校・
弘道小学校の2部授業解消のため開校、木造2階建(15教室)。校名は地域の名称に因んで「五反
野」小学校とし、開校記念日を10月28日とする。同29年8教室増築。同30年4教室増築。同
32年2教室。同35年体育館完成。同37年の開校記念日に創立10周年記念式典・校歌制定。

 校歌
輝いて雲は広がる」 作詞・中田浩一郎  作曲・石桁真礼生
  1.輝いて雲は広がる
    荒川の流れの辺り
    心合わせて今日の教えを
    学ぶ喜び 学ぶ喜び
    五反野小学校
  2.温かくいつも導く
    先生と友と手を取り
    進む大きな希望の道を
    みんな仲良く みんな仲良く
    五反野小学校
  3.西の宮 社の緑
    校庭に花は一杯
    並ぶ若木は 強く明るく
    空に伸びよう 空に伸びよう
    五反野小学校


 同38年プール完成。同45年第1次鉄筋校舎完成(8教室・3準備室)。同46年第2次鉄筋校
舎完成(8教室)。同47年創立20周年記念式典。第3次鉄筋校舎完成(4教室・図書室・家庭科
室・調理室)。同49年第4次鉄筋校舎完成(校長室・職員室・事務室・保健室・用務主事室・放送
室・2教室)。同52年体育館改築竣工。同54年区の科学教育センター校指定。プール付属設備全
面改修。同55年陶芸小屋完成。同56校庭の全面改修及びスプリンクラー設置。同57年創立30
周年記念式典。同62年日本間教室完成。同63年校舎窓枠アルミサッシ化。
 平成元年校舎内外装、耐震工事、体育館舞台改修。同4年創立40周年記念式典。同6年西門・渡
り廊下・防球ネット・給水設備改修。同9年体育館照明全面改修。創立45周年記念児童集会。同1
4年創立50周年記念式典。

 特色
 地域、保護者、学校の3者による「学校理事会」が運営方針を協議する「コミュニティスクール」
に指定されている。平成17年から教員公募制を実施するなど先駆的な取り組みを行っている。



■新道神社
 
3丁目11番にある。



■建碑の疏
 
3丁目27番にある。ウィキペディアに記載があるが不明。



■西ノ宮稲荷神社
 
3丁目28番にある。昭和54年刊行の『足立区の歴史』に、

   この神社は稲荷であるが、左手に鹿島神宮がある。珍しいのは茅葺きの覆堂で、3間
   1重の切妻屋根。回りは島格子造りで、後側と両脇が三方板庇付きである。内部に安
   置されている神宮は一間社流れ造りで、千鳥破風を取り入れたこけら葺きである。


 とある。しかし今はキンキラキンの社殿だ。荒川放水路開削以後弥五郎新田にあった三つの神社を
一ヶ所にまとめ、西の宮に合祀したものだ。祭神は宇迦能御魂命・須佐之男の2柱。祭日は9月15
日。客殿に浅間神社があり、境内に文化五年(1808)の2月の漱盥石がある。

 富士塚
 区の文化財に登録されている溶岩の塚山が築造されており、毎年6月30日に山開きが行われ七富
士参りの行者が白装束姿で「六根清浄、六根清浄」と唱えながら訪れる。

 梵天祭
 4月8日に行われている。役員が「梵天」を作り、神官によって祈祷された梵天は各家に配られ、
一年間無事息災を見守ってくれる霊験新たかな神社なのだ。



■五反野駅
 3丁目34番にある東武鉄道伊勢崎線の停車場。大正13年10月1日小菅・梅島の両駅と同時に
追加開業した。ホームは高架島式1面2線構造で、複々線の内側を走る緩行線のみにホームがある。
ホームと改札階を結ぶエレベーターはない。改札口は1ヶ所のみで、地上1階にある。出口は2ヶ所。
駅周辺は、商店街と住宅街の混在地区。つくばエクスプレスが開業するまでは、青井地区の最寄り駅
はこの五反野駅だった。



■氷川神社
 4丁目35番にある。祭神は素盞嗚尊(すさのおのみこと)。




【綾瀬】(あやせ)1〜7丁目                     昭和40年5月1日
 次郎左衛門新田・伊藤谷村・弥五郎新田・五兵衛新田・保木間飛地。次郎左衛門新田は、文禄慶
長のころに、次郎左衛門、権右衛門、庄兵衛などが開いたと伝えている。弥五郎と五兵衛について
は、西綾瀬に記述した。
 明治22年「市制町村制」により次郎左衛門新田・伊藤谷村・弥五郎新田・五兵衛新田・保木間
飛地をあわせて新たに綾瀬村を起立した。昭和7年足立区の成立により村は解体し、日の出町1〜
3丁目・五反野南町・五反野北町・二ツ家町・四ツ家町・五兵衛町・伊藤谷本町・伊藤谷東町・伊
藤谷北町・伊藤谷西町に分かれ戦後に至る。昭和40年新住居表示により伊藤谷本町・普賢寺町・
五兵衛町・北三谷町・伊藤谷東町・下谷中町の各一部をあわせた町域を現行の「綾瀬」とし、同4
3年上千葉町を1〜3丁目に編入した。その年の暮れ五兵衛町・下谷中町・東加平町の各一部をあ
わせた町域を7丁目として現行の綾瀬の新住居表示を完了した。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『足立区史』など。

 綾瀬の由来
 綾瀬川にある。だから綾瀬は綾瀬川だ。綾瀬とは幾流もの流れが交差して綾になって流れる様を
いう。
 綾瀬は綾瀬川の東側の南北に長い町。常磐線の綾瀬駅は昭和18年の開業。駅を中心としたトラ
イアングルに綾瀬三社と呼ばれる綾瀬神社(氷川神社・胡録神社)・綾瀬稲荷神社・北野神社があ
る。東京都の武道館があり、公園や橋名に旧称がばらまかれている。



■綾瀬川
 区内の綾瀬川は、花畑の北から中川に流れていたものを、寛永の頃に開鑿して隅田川に連絡した運
河(人工河川)なんだよ。江戸時代は「新綾瀬川」と記録してある。綾瀬の謂れは桶川市に端を発す
る綾瀬川によるが、綾瀬とは幾条にも入り乱れて流れる様をいう。「あやしの川」と呼ばれた古利根
川に嘉字を充てたものさ。


    ほのみえてうすくれなゐのひとむらハ綾瀬の岸のねぶの花かも(橘千蔭)
    錦そとみるやこころの綾瀬川うつるもみじにいつて折なむ(戸田茂睡)


 
橋梁
   綾 瀬 橋 昭和36年改架 橋長61.5m 復員20.5m 鋼橋
   綾瀬新橋 昭和 5年新架   32.4m    7.2m 鉄筋コンクリート橋
   嘉兵衛橋 昭和40年撤去 
首都高速道路加平インターチェンジ建設のため撤去
   新加平橋 昭和40年新架   36.8m   21.2m 鋼橋
   内 匠 橋 昭和39年新架   31.2m    7.1m 鋼橋
   伊藤谷橋 大正15年改架   31.3m    5.9m 鋼橋
   五兵衛橋 昭和11年改架   31.5m    4.3m 鉄筋コンクリート橋

 伊藤谷橋だけが区道橋、他は総て都道橋。

 
小菅どん
 昔、綾瀬の西の地、水戸徳川家の小菅御殿近くに「小菅どん」と呼ばれる大蛇がよく出没し、通る
人々を驚かしては、それを見て楽しんでいたという。正直者に危害を及ぼすことは、まるで一切なかっ
たが、大罪を犯したものや、不忠者はガブッと一呑みにしたそうだ。本当に見た人の話によると、醤
油小樽ほど(直径約50cm)の太さがあり、松ノ木のような色合い、大きさであったとのこと。大
正時代までは大蛇の通った跡がよく見つかったのさ。捕らえられたという記録がなく、死骸が見つかっ
たということもないから、今もいる近くにいるのだ。



■星野御三家(綾瀬の名家)
 1丁目9番・16番(伊藤谷本町356番地 伊藤谷村第5大区小ノ18区))に、草分けの星野
家が3家南北に並んでいるのでそう呼ぶ。西向かいの吉田家も草分けで、他に田中家、伊藤家がある。



■伊藤谷の宝珠山普門院(不動院)薬師寺
 1丁目14番にある新義真言宗豊ね山派の寺。創建は寛永九年(1632)、開山は智明法師(足
立区史には賢明法印とかいてある)、開基は根本佐右衛門だ。本尊は不動明王だが、後に薬師如来を
安置し寺号を薬師寺とした。眼病に効能があるという。山門を入って左手に墓所と薬師堂、右は庫裏、
庚申堂だ。
宝物に火焔のない不動明王の立像が、墓地に寛文五年(1665)八月二十五日銘の墓碑
がある。
 門前に大きな「庚申塔」があって、それには庚申信仰の説明が刻まれている。「人間の体の中に「三
尸の虫(さんしのむし)」が、常に人の善悪、過失を監視し、庚申の夜、虫は天に昇って天帝にその
人の善悪を告げる、罪科が多いと命が奪われる。そこで、60日目毎にやって来る庚申の晩は虫の昇
天を防ぐため、一晩中寝ずに過ごした。概略が説明板に書いてあるよ。

 水戸黄門縁の庚申塔
 薬師堂の真正面、本堂の右側に庚申堂があり、その堂内に鎮座しているのが耳病除けの青面金剛を
刻んだ庚申塔だ。この青面金剛は、水戸中納言徳川光圀公が特に信仰篤く、薬師堂内の薬師如来とと
もに江戸登城の折、帰還したというから、かなり古い時代のもので、利益のある神とされてきた。神
は色々の願いを叶えてくれるが、特に耳の病気で悩んでいる人に利益があり、全快した折には柄杓の
底に孔を開け、これをお礼として奉納する慣わしとなっている。現在も平癒祈願があるものと見えて、
真新しい柄杓が奉納されている。



■胡録神社 
氷川神社に合祀

 1丁目23番、綾瀬1丁目児童遊園のところにあった。祭神は淤母陀流命。文久二年(1862)
六月の漱盥石があった。



■氷川神社(綾瀬神社)

 1丁目34番にある元の氷川神社と胡録神社。祭神は須佐之男命と淤母陀流命。祭礼は10月1日。
本社はさいたま市大宮の氷川神社、武蔵野国の一ノ宮でその神徳を仰ぎ、明暦五年(1659)七月
二十七日の村草創時に勧請した。また合祀した胡録(やなぐい)神社は氏子区域にもう一社あった神
社で、宝暦五年三月十日鎮座との社伝がある。こっちは疫病退散を祈願する神社で、今も3月に春季
祭(鎮花祭)と称して祭事を執り行っている。文久二年(1862)銘の漱盥石と唐獅子一対がある。
昭和50年の建て替え時に胡録神社を合祀し、現在の町名「綾瀬」を入れて社名を「氷川神社」から
「綾瀬神社」に変更。因みに全国に氷川神社は261社あり、そのうち埼玉県に162社、東京には
68社。ほとんどが埼玉・東京にある。4丁目に綾瀬稲荷神社があるのでご注意を。



文殊山養福寺
 2丁目19番にある新義真言宗の寺。もと南葛飾郡亀青村青戸(葛飾区青戸8丁目18番)法持院
の末。本尊は薬師如来。永正年間(1504〜20)賢空によって中興した。かつてこの辺りは普賢
寺町の内だが、その町名はこの地に隣接する葛飾区上千葉町(東堀切)の普賢寺の寺領だったことに
よる。寛永六年(1629)十月四日銘の五輪塔、享保十九年(1734)の庚申塔、宝暦三年(1
753)の宝篋印塔がある。入口右は庫裏。鉄筋コンクリート造りの本堂。左手と本堂奥に墓地。大
きな楠がある。落ち着く寺だよ。

 
大楠(綾瀬3撰)
 区内随一の巨木。かつて、八ヶ村落としに架けられた円心橋(石造太鼓橋)、大室家の信長塀とと
もに綾瀬3撰に数えられた。



綾瀬天神 北野神社
 2丁目23番にある。祭神は菅原道真と倉稲魂命。言い伝えによれば永正元年(1504)後柏原
天皇の御代。足利11代将軍義澄の治世だとか。区内にあってはかなり古い創建だ。平成14年は鎮
座500年記念大祭に当たる。境内に元禄十三年(1700)十月の庚申塔がある。
 
氏子区域は、2〜3、5〜6丁目と東綾瀬の1丁目で、綾瀬2丁目は神社の鎮座地なので「宮元」
と呼んだり、また「郷」とも呼ばれていた。だが東隣の北三谷地区も「郷」と呼んだので、それと区
別する意味で「根郷(ねんご)」とも呼んだ。その根郷地区も、東・南・西3つの「厨子」に分けら
れ、5〜6丁目地区は「四町田(しちょうだ)」、あとの残りは「宿(しゅく)といった。五反野の
西ノ宮神社の管理で、10月1日の祭礼の際、昭和の初め頃まで「喧嘩獅子」といって雄獅子・雌獅
子・中獅子の獅子頭を担いで練り歩いた。現在は大人神輿・中神輿・子供神輿2台の4台の神輿が出
る。囃子は戦前には相原という笛の名手がいて盛んだったが戦争を機に途絶してしまった。が昭和4
5年に囃子方を再結成し佐野の海老沢氏から葛西囃子を習い、現在は20名ほどの会員がいるとか。

 庚申塔
 元禄十三年(1700)十月の銘がある。




■綾瀬駅
 3丁目1番にあるJR常磐線と東京メトロ千代田線の停車場。常磐線は昭和18年4月1日に追加
開業した駅。昭和46年4月20日には常磐線の複々線化とともに営団地下鉄千代田線が乗り入れ、
以後は営団(東京メトロ)が管理する駅となった。その後、北綾瀬までの支線は昭和54年に旅客営
業を開始している。
 ホームは基本的に高架島式2面3線構造だが、3・4番線ホームの東寄りには北綾瀬支線が使用す
る欠き取りホームの0番線がある。北綾瀬支線はワンマン運転を行うため、ホームドアが設けられて
いる。常磐線から千代田線へ直通する列車列車は1番線、千代田線から常磐線へ直通する列車は4番
線を使用し、中線の2・3番線を綾瀬折り返しの千代田線列車が使用している。2・3番線ホームに
着いた列車は両側のドアを開けるので、引き続き常磐線方面へ向かう客は進行方向左の3番線側、北
綾瀬へ向かう客は進行方向右の4番線側から降りれば、平行移動のみで乗り換えることができる。だ
が3番線側のドアは到着後しばらくすると閉められるてしまうので、松戸・我孫子方面へ行く場合は
間違えずに進行方向左側に降りることを忘れぬように。遠回りすることになるぞ。ホームと改札階を
結ぶエレベーターは、今のところ0・1・2番線ホームに1基のみ設けられており、3・4番線ホー
ムにはまだない。
 改札口は西出口と東出口の2ヶ所で、いずれも1階にある。
 この駅は都区内にある駅では唯一、JRが他社に営業を委託している駅なのだ。そのため「みどり
の窓口」もなく、スイカも当初は使えなかった。ホームの各表示板などもみんな東京メトロ仕様となっ
ている。JRの職員は、ここで交代する運転士と車掌しかいない。
 北千住〜綾瀬間はJR常磐線と東京メトロ千代田線の二重戸籍区間となっているため、この区間に
限っては東京メトロの運賃も安いほうのJRに合わせ130円となっている。
 国鉄の戦後三大ミステリーのひとつ「下山事件」で、初代国鉄総裁下山定則が轢死体で発見された
のは北千住〜綾瀬間の線路上。今もまだこの事件の謎は解明されていない。
 



■東京仏壇

 3丁目5番に東京唐木仏壇工業協同組合(03−3620−1201)がある。東京仏壇は会社の
名前じゃない。東京の伝統工芸品だ。
 今日仏壇といえば、箱型の置仏壇を思い浮かべる。しかし本来は、寺院などで仏像を安置する台座
のことを指していた。 文字どおり「仏像を安置する壇」ということであり、 木のほか土や石でも作
られていた。石製のものは、インドや中国の石窟のものを源流にしていたようだ。
 徳川幕府は、幕府を頂点とした封建制確立のため、仏教に対する保護と強化を進め、過去帳の整備
により寺院の力も大きくなり 都市には多くの寺院が建てられるようになった。
 東京仏壇は、元禄のはじめ、江戸の指物師が、仕事の合間に桑や欅などの堅木材を使い、独自の技
術・技法によって比較的淡白で飾りの少ない仏壇を作り出したのが始まりとされている。そして仏壇
に黒檀、紫檀などの唐木材を最初に使った人が、江戸仏師で3代目安田松慶(天保末)で、東京仏壇
はこれらの技術を綿々と受け継ぎ、その優美さは見るものを魅了し、自然と頭を垂れずにはおられな
い不思議な荘厳さを備えている。



■綾瀬のホタル・名勝円心橋(綾瀬3撰) 撤去

 
3丁目9番、鳩公園北西辺。古隅田川や綾瀬川では鮒や鯉など川魚は多くいた。そういう田んぼが
まだ多く存在していた昭和30年代中頃までは、そこいら中にホタルがいた。特に沢山出没したので、
綾瀬のホタルの名所として誰もが知っていたのが、古隅田川の北を東西に走る川(八ケ村落とし堀)
に架かる石造太鼓橋の「円心橋」周辺だった。
地元では橋の名前の由来ともどもよく知られていたと
ころで、必ずこの橋を通らないと他所へ行けない交通の要衝だったからだ。旧町村の古地図を見れば
一目瞭然だよ。
この地区は、元々「蛭沼耕地」と古称されていたところで低湿地の土地柄、ために夏
の昼には蝉時雨の声を聞き、夜にはホタルの飛び交う、趣のある田園風景だったんだよ。信じられな
いだろ?
 養福寺の大楠、大室家の信長塀とともに「綾瀬3撰」に数えられた。また橋に使われていた石の一
部が大室家の東南角の塀の基礎石として使われている。



■綾瀬小学校

 3丁目12番にある。昭和34年弘道小学校の分校として設置。同37年独立し「東京都足立区立
綾瀬小学校」として開校。同43年体育館完成。同44年東加平小学校を分校。同51年東綾瀬小学
校を分校。平成19年創立45周年。

 校歌
緑明るく」 作詞・土岐善麿  作曲・渡辺浦人
  1.緑明るく風晴れて
    道広々と輝くところ
    競えば健やかに溢れる力
    学べば賢く育つ心
    見よ 茂る葉も 開く花も
    希望と共に新しく
  2.いつも弛まず音清く
    波緩やかに流れる川よ
    互いに話し合う喜び深く
    正しく進もう遠く行こう
    ああ岸に沿い橋を越えて
    社会に尽くす明日のため
     みんな元気に足並み揃え
     集まれここに綾瀬小学校



■東京武道館
・大武道場
 3丁目20番にある都の武道場。日本武道館と間違える人が未だにいるそうだ。都の教育庁所管。



■東綾瀬中学校
 3丁目23番にある。昭和39年4月1日足立区立第十一中学校より独立。同40年3月12日校
旗・校歌発表。

 校歌
輝く空よ」 作詞・勝承夫  作曲・平井康三郎
  1.輝く空よ 果てない広野
    若い心も大らかに晴れ渡る
    聳え立つ学び舎に
    初春の花のように
    床しく香る若人吾等
    おお東綾瀬 幸ある母校
  2.文化を築く夢湧く世界
    西に東に鉄塔も逞しい
    自主の意気 燃え上がる
    新しい町の力
    明日待つ者が弛まず励む
    おお東綾瀬 楽しい母校
  3.親しい友と未来を語る
    高い屋上微風も和やかに
    紫の筑波山
    薄霞む昼の月も
    平和の気風 受け継ぐところ
    おお東綾瀬 栄えある母校

 同49年開校10周年記念式典。
 平成元年新体育館・プール完成。同5年創立30周年記念式典。同11年校舎耐震化。同15年創
立40周年。校庭に「東中開拓」の碑がある。同19年
普通教室空調工事完成。北玄関電子錠設置。
東・西・南・北監視カメラ設置




■大室家(綾瀬の名家)

 4丁目5番にある白壁土蔵のある日本建築。ビルだらけ、西洋建築だらけの中でニッポンに出会う
と何故かホッとするから不思議だねえ。今は質屋を営んでいるのだが、かつては晒し業が本業だった。

 
北側の信長塀(築地塀 綾瀬3撰)
 この塀は珍しく練塀ともいう。この塀の景観は、今はない円心橋と、区内随一の養福寺の大楠とと
もに「綾瀬3撰」に数えられた。築地塀の詳細は中野区の大和町の項に記載してある。



■綾瀬稲荷神社

 4丁目9番にある。総欅造りの本殿があり、慶長十九年(1614)創建の由来を記した社号石碑
がある。祭神は宇迦之御魂命・須佐之男命の2柱。境内にイチョウ、松の老樹があり、文化七年(1
810)の石鳥居がある。境内に富士浅間を祀り、明治42年7月と刻した先達嘉猫五兵衛の碑が建
つ。また文政八年(1825)の白狐一対。安永八年(1779)の石灯籠一対がある。1丁目に綾
瀬神社があるのでご注意を。

 
石燈籠
 安永八年(1779)三月の銘があり、には台石には「見猿・聞猿・云猿」の三猿が刻まれていて
とても珍しいものだ。なぜこんな珍しいものが建立されるることになったのか? 
 柴又の帝釈天(題経寺)といえば寅さんで有名だが、以前は60日に1度の庚申の日にお参りする
「庚申参り」で知られていた。今も帝釈天では、庚申の日には数十万人が参詣する。
 で、綾瀬地区でも江戸時代には、庚申信仰がとても盛んで、今も綾瀬2丁目地区には石祠型の庚申
塔が2基、区の文化財指定を受けている。そして本殿脇にある石燈籠は、燈籠ではなく、燈籠の形を
した庚申塔なのだ。江戸時代はこの庚申信仰が次第に盛んになり、柴又帝釈天の「庚申参り」が行わ
れるようになった安永年間には、「お稲荷さんをお参りする時は庚申さまも一緒にお参りしなければ
片参りになる」という話が広まった。今考えればなんの根拠もない話だが、当時の人間にとっては、
それはそれは大変なことだった。そこで当時の稲荷でも庚申塔を作り、一緒にお参り出来るようにし
ようと相談が持ち上がり、在り来たりの庚申塔では面白くないというので灯篭型にして、台座に庚申
の象徴である三猿を刻んだという訳。「灯篭型庚申塔」一対を社殿の前に奉納したのは、金子・新水
(清水)・高橋・六笠の宮総代4家だそうだ。
 社殿の両脇に置かれるので、特にこの庚申塔に手を合わせなくても。お稲荷さんに手を合わせただ
けで同時に庚申さまにもお参りしたことになるとい、まさに一石ニ鳥というか、一挙両得というか、
まさに画期的?なずぼら≠セ。

 
狛犬(しょうわ)
 本殿の前にある。平成12年4月落語家の三遊亭円丈が奉納したもの。区内在住の円丈は、狛犬の
研究家で「こまけん」というホームページを立ち上げてるよ。
 「しょうわ」とは、形の分類で、はじめ・江戸系・しょうわ系・京系・その他T・Uに分類され、
しょうわ系は、たてがみがカールしていて豊かである。阿、吽がはっきりしており、昭和になってひ
作られたものが多く、全国的に分布するが、静岡、愛知に多い。「しょうわ」は中でもしょうわ系の
基本に忠実なもので、他に、はじめしょうわ・尾下がりしょうわ・唐草しょうわ・唐草尾下がりしょ
うわ・鈴しょうわ・新しょうわがある。

 
綾瀬富士
 境内にある高さ2mほどの人工富士。頂に浅間社の石祠がある。この富士塚は初め神社境内右手南
側に造られたが、昭和2年に現在地に移設された。塚は、溶岩で固めた岩山であり、頂上には、浅間
社を祀つる祠(ほこら)が安置され、裏面には昭和2年7月1日の銘があるが、同52年再築された
ものだ。幾つかの塔碑の内、明治42年7月「山包丸渕講中の碑」は、先達金子五兵衛外世話人によっ
て献碑されたもの。最も新しい碑は「山包綾瀬講富士登山記念碑」で、昭和36年7月に建立してい
る。講社は、初め「山包丸渕講」といい、この地の旧名称渕江領の頭文字を丸で囲み、丸渕といった。
農民を中心に綾瀬村で結成され、江戸時代より農民に広まった富士山信仰を伝えるものとして、この
富士塚が昭和58年12月に、また山包丸渕富士講関係資料一式を昭和62年11月に、それぞれ区
登録有形民俗文化財とした。

 
御神明の親水(綾瀬の井戸)
 綾瀬には、かつて井戸が沢山あった。現プルミエの北方には、井戸水を使い鰻などの川魚を商う、
地元では有名な川魚問屋「鮒源」があった(現在2丁目に会社を構えている)。当然の事ながら各家
庭にも井戸はあったが、村中で一番水がおいしいと評判だったのは、実は綾瀬稲荷神社の真名井だっ
た。元々は境内の東寄りにあったという。明治20年5月手水舎の辺りに新たに井戸を掘った。その
東の十坪ほどの神池は、その形から瓢箪池と呼んでいた。池の北端(今の表参道の南側石灯籠辺り)
には、伏龍の黒松があり、瓢箪池の上方を覆うように枝が張り出す様は、言葉に表せぬ、いかにも神
域の池という景観を呈していた伝っている。また同39年大室貞蔵奉納の絵馬額にも、社頭の景色絵
図としてみる事が出来る。
 
さてその神池の傍にあった井戸こそが、誰というともなく「御神名の親水」(単に御神水ーごしん
すいー)と呼んでいた真名井だ。前述の絵馬額にもその呼び名が表記されており、既にその名が定着
していたことが判る。その真名井の水は冷たい時にはことさら甘く感じたそうだ。
 戦後しばらくして池ともども埋却され、現在は何もない。かつての面影を偲ぶことも出来ないが、
間違いなく存在していたという確証は、口伝のみではなく、神社境内で採掘したこの井戸掘りの様子
を描いた絵馬が実際に残っているからだ。後世にことの次第を残そうと衆議された絵馬額の寸法は、
縦70、横30センチ。時に明治20年5月のこと。書き残してくれた絵馬がその根拠となる訳で、
誠にもって幸いなことだ。願主は、金子伊之吉・清水安蔵・金子市吉。この他にも、明治時代の神社
境内を記した絵馬額にも散見できる。
 井戸掘りの絵馬はあまり類例がなく、また描かれた絵から、櫓組など井戸掘りの工法が判り、また
櫓の高さが井戸の深さに相当することや湧水豊かな様が桝組みから溢れ出ている水量で現すなど、絵
馬としては誠に貴重で、まさに珍品だという専門家の話から、現在は足立区郷土博物館に預けてあり、
同館2階に常設展示されているよ。井戸掘りの工法は「上総掘り」かな?
 また井戸堀りでの初水は、桝組から溢れ出たという話は、綾瀬の井戸堀りでは周知のことで、清水
金吉家の井戸もそうだったという。つまり綾瀬の井戸は、すこぶる水量豊富であったことが判る。元々
が海で、後に湿地帯となったところだからな。

 
「頼みます」神事
 昔、田植えの時分には、箕(み)に入れた苗と五合枡に入れた玄米を各家の人が神社に持ってきて
は大収穫ではなく、程々の収穫を神に祈願した。その時には「頼みます」と心の中で唱えながら神社
の周囲を3度、時計回りに収穫を願いながら歩くのだ。歩きながらの「頼みます」は、「田の箕増す」
に繋がる。つまり「田の収穫が上がり、それを入れる箕が増える」という言葉の変化で、豊作を予祝
するのだ。そして秋には「田野実満寿」で五穀豊穣を迎えられますようにと念じたのだ。五合枡に入
れるのは「半升(はんじょう)」が「繁盛」に繋がり、時計回りに歩くのも「日」が二つ重ねの「繁
昌」の字から、風雨の害なく、お天道様の日差しが頂ける事に繋がるとこじ付けた。昔は自然任せの
稲作があったので、太陽の恵みは、神様の恵みと直結していた時代の綾瀬昔話。また有名な古社には
田植祭が伝承されているが、やはり社殿を3周したり(松尾大社のおんだ祭り)、田んぼに見立てた
広場で早乙女がぐるぐる歩きながら田植えの所作、田歌を謡い、田舞いをする神社が多い。ちなみに
早乙女は8人が一般的で八乙女というんだよ。

 
五兵衛新田(綾瀬地区の呼称)お田植え歌
   若種植えよ 苗種植えよ
   女の手に 手を取りて
   拾い取るとよ 
   ヤーレー ヤレ



稲荷山蓮華院觀音寺
 4丁目9番、綾瀬駅のすぐ北にある新義真言宗豊山派の寺。開創は17世紀初頭、開山は賢智上人、
開基は初代金子五兵衛。五兵衛新田の名は正保の頃(1644〜47)から既に見え、五兵衛は寛永
四年(1627)に没し、開田院と号した。古くから一村の菩提寺として村民の崇敬篤く、現在の本
堂は大正4年の建築。門前に寛文四年(1644)十二月十五日銘の観音像がある。入口を入って右
が墓地、昭和49年建立の「遍照尊」の額がある宝塔。木造の六角堂で太子堂だという。左は鐘楼、
庫裏。本尊は江戸前期のものと考えられる十一面観世音菩薩立像だ。この辺りは五兵衛新田→五兵衛
町といったところで、墓地に草分(開発者)の金子五兵衛の墓がある。寛永四年(1627)当村村
創と記している。檀徒金子佐内家へは、幕末に近藤勇が新撰組(当時は甲陽鎮撫隊)の残党を引き連
れて逃げ込み宿陣を張ったが、観音寺にも多い時には81人が泊り込んだとか。観音寺から北へ、五
兵衛新橋の道路橋の下をくぐった右側の一円が「金子家」だ。



■金子家(綾瀬の名家)
 4丁目15番にある。

 
勝手に綾瀬川の堤を切った金子左内

 草分けで名主の金子左内は、自宅建築の資材を運搬するについて、量も寸法も膨大なため、綾瀬川
を使って運搬する計画ではあったが、家の傍の集積する場所までの手間が問題となった。そこで、綾
瀬川から自宅まで堀を掘り、なんと綾瀬川の堤も切ってしまい、綾瀬川の水を通して、その堀を利用
して資材搬入をしたというから豪気だ。近隣の村々、特に土地の低い地域から「いくら左内様の建替
えであっても、そんな事をされたら、田んぼも家も水浸しになる危険がある」と、掘削前に苦情や非
難が湧き起こったという。しかし左内は「何か不都合が起こったら、この左内が総て責任を取るから
心配するな。建屋が出来上がった暁には、ちゃんとする」と、この鶴の一声で掘削問題が決着したと
いう。時代劇で見るような話が実際にあった訳で、自宅に建築資材を運ぶ為、綾瀬川の堤さえも切っ
てしまった大名主がいたという、江戸時代の綾瀬の昔噺。
 当時の宮惣代の長人であった左内は、完成後、綾瀬稲荷宝前で「神恩奉謝と堤堅固の祈願祭」を挙
げた。近隣の小作には秋の料としての納米を「大祝い」とて減免し、村人にも祝い餅などを大いに振
る舞いったという。堤の一件や完成した家の大なることなどから「さすがは、左内様」と評判になっ
たという。金子家に伝わる話。

   宇喜田(江戸川区)の行船(田中家)か、五兵衛の左内か

 といわれる豪農が在住した。その五兵衛の左内(「佐内」表記もある)とは、綾瀬4丁目の金子左
内家のことだ。豪農の名に恥じない、それはそれは大きな家であったという。今尚伝え聞く話では、
大層大きな梁が何本もあって、特に土間を走る大きな梁は、その上で餅搗きが出来たという程巨大だっ
た。その家屋も、明治の御一新を経て、大なる家は経済的に困難が多く伴うので江戸時代から住み慣
れた家を取り壊し、藁葺屋根の、それでも一般よりは遥かに大きな家を建築した。それが昭和末年ま
での旧左内家住宅だった。現在目にする居宅は、平成に入り新築した建物だが、その周辺の団地は、
金子家の地所だ。そんな巨大な家だったために、幕末、近藤勇率いる新撰組に狙われることになる。
次項を読みゃあがれ。

 
そして新撰組が来ちゃったべさ
 新撰組近藤勇が流山で捉えられる前、慶応4年3月14日から4月1日までの19日間、あの新撰
組が、観音寺や近隣の家に分宿して屯していた。総勢227人もの大集団で、世情柄精神的な負担や、
その世話(経費)などで大層迷惑を蒙った上に、後日明治政府から、強い叱責があったという。近藤
勇らが五兵衛新田の金子家に滞在した事は、金子家の古文書(区登録文化財)に残っている。現在近
藤勇として一般に知られている袖内に腕組みした写真は、金子家が所蔵してるんだよ。4丁目15番
のマンション群が金子家で経営をしているものらしい。16番〜19番に金子姓が散見されるところ
から、この地区が金子左内の屋敷だったのだろう。  



■庚申塔

 4丁目20番にある。明和二年(1765)日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿を刻む。



■都立足立技術専門校 → 城東職業能力開発センター足立校

 5丁目6番にある。平成19年都技専は総て職能開発センターに名称変更した。城東は亀戸・江戸
川・足立・同台東分校を統合し、亀戸を本部校として創立した。



■東綾瀬公園

 5丁目3〜5番、8番、6丁目22〜24番、37番、42番にある。ここは、かつては水田だっ
たが、区画整理事業から生み出された余地を遊歩道で繋いだ平面逆L字型の細長い都立公園だ。公園
の全長は約2Kmで、園内には、サクラ、ラクウショウ、モミジバフウ、ツツジなど季節感を味わえ
る樹木が植えられている。公園西側の散歩道沿いには、花畑川を水源とするかつての農業用水を生か
したせせらぎが流れ、健康遊具やゲートボール場などが設置されている。また公園北側周辺には緑に
囲まれた各種の運動施設がある。現在三世代スポーツ公園として野球場、テニスコート、武道館、温
水プールなどを備えており、年齢を問わず楽しめる公園としても脚光を浴びているよ。

 
フラワーランド
 園内4ヶ所にあるフラワーランドには、春から夏にかけてネモフィラ、アイスランドポッピー、ヒ
ナゲシ、ヤグルマソウ、オオキンケイギク、ハルシャギク、ヒマワリなど、秋にはコスモスなどが、
年2回、種蒔きから育成され美しい花を咲かせているよ。また、野球場付近のせせらぎ沿いに広がる
赤やピンクのバラも見事なんだ。

 
遊歩道橋
 園内3ヶ所に、形が面白い造りの橋があり、プレイランド気分にさせてくれる。水車と河内堀滝に
はさまれた「河内橋」はアルルのはね橋風。サービスセンターのあるセンターゾーンには床タイルの
模様も美しい「三枚田橋」「北三谷橋」。幅の広い橋の上にたたずんで、頬を撫でる風を楽しんでい
る人もいるよ。



■クリスマスローズの若泉ファーム

 6丁目7番にある、冬季「庭の貴婦人」と呼ばれるクリスマスローズ・ガーデンハイブリットのシ
ングル(一重咲き)とダブルフラワー(八重咲き)を専門に交配育種し、オリジナルの種・苗・開花
株の卸売と小売の園芸農家だ。
 ガーデンハイブリット品種では、白の糸ピコティを始めバイカラー・ダークネクタリーなど、美し
い丸弁・カップ咲きのパステルカラーに彩られたクリスマスローズガーデンハイブリット・オリジナ
ルを作り出し、原種のニゲル・その他の交配種とともに園芸店への卸売りと、小売としてインターネッ
トでの通信販売を行っている。届ける種・苗・開花株の栽培については、参考になるようホームペー
ジサイトに、種苗からの基本的な育て方を含め、季節毎の栽培管理方法を解説し、「クリスマスロー
ズの育て方・月別管理園芸12ヶ月」には、1月から12月まで植物を栽培する上での注意ポイント
を載せているので、ド素人でも安直に始められる。ヘレボルス属の病気や害虫の病害虫対策・対処方
法のページを加え、「クリスマスローズの魅力」には、原種の種類・園芸品種・歴史や花にまつわる
物語・出来事・園芸の話題を、「写真ギャラリー」には若泉ファームで咲かせたオリジナルのクリス
マスローズのシングル花、パーティドレス系・オリエンタリス系ダブル花の画像を載せてある。これ
らの各ページは冬の庭の主役・癒しの花クリスマスローズの栽培に役立つよ。ホームページは通信販
売とともに、種・苗・開花株などを購入したあんたの栽培の役に立つよう、ブログでクリスマスロー
ズに関して季節毎のガーデニング情報を加え、更新している。清楚で気品のある冬の花「ガーデンハ
イブリット」を楽しんでみな!

 
さし石横綱・若泉与八
 明治後半の話。「さし石」とは神事で、重い石を頭上に差し上げること。関東では「力石」という
のが一般的だ。しかし神事は次第に一般化し、やがて「男の心意気」となり、村々で一人前の男とし
て認められるための若衆の通過儀礼の一つとなった。今でいう重量挙げだ。
 さらに関東一円の村々から力自慢が成田山新勝寺に集い、「石相撲」と称された石差し大会があっ
た。その大会において力自慢を誇ったのが、ファーム主人若泉克志(かつゆき)の曽祖父與八氏その
人だ。明治の末には横綱を張っていたほどの力持ちで、関東一円にその名が知れ渡っていたという。
それを証明する優勝額が寺に奉掲してあったが、大正時代の火災で焼失してしまったそうだ。誠に残
念なことだ。しかし当時さし上げた記念の「さし石」が、若泉家の庭に残されている。さし石と刻ま
れてあるのものが4つ。貫目の打刻されてあるのが1つある。刻まれていないが、さし石に相当され
るものはあと3つほどある。
 さし石に打刻されている重量は、貫目表記でその重さ48貫。今の単位で言うと180kgになる。
さし石の重さの単位は米俵一俵が基本で16貫目(60kg)。先代の與吉氏が祖父に伝え聞き、さ
らに若泉の当代が聞いたという石ざしのコツは、胸の所から一気に持ち上げる時に、体のバランスを
取りながら、右足(右利きの場合)を肩幅になるように後ろに引くのだそうだ。
 それには怪力の上、修練も大事でコツは聞いて知っていても習得するのは難しいよ。そんな石ざし
の奥義を人に平気で教えていた成田山石ざし大会の横綱が、綾瀬に実在していたってこと。



■東綾瀬せせらぎ水路

 6丁目24にある区立公園。都立東綾瀬公園と一体的にある。

 
じゃぶじゃぶ池
 小さい子たちが、安心して水に親しんで遊べるように整備された無料の施設だ。区内に21ヶ所あ
り、それぞれ特徴がある。オムツの取れた赤ちゃん以上の幼児が、保護者同伴で夏の間だけ利用でき
る。事故が起きないよういろいろ制約があるのは当然だ。



■下の公園

 7丁目5番にある区立公園。遊具もあるし、樹木も多いし・・・

 
じゃぶじゃぶ池
 小さい子たちが、安心して水に親しんで遊べるように整備された無料の施設だ。区内に21ヶ所あ
り、それぞれ特徴がある。ここは直径3mのちっちゃなプールだから安心も安心。オムツの取れた赤
ちゃん以上の幼児が、保護者同伴で夏の間だけ利用できる。事故が起きないよういろいろ制約がある
のは当然だ。



淵江山龍慶寺
 7丁目10番にある曹洞宗の禅寺。本尊は釈迦牟尼仏だ。その他に薬師如来、承陽大師木像、常済
大師木像、閻魔大王木像、不動明王、釈迦誕生銅仏、釈迦涅槃図、十三仏画、十六善神画などが安置
されている。寛永八年(1631)に勧請した薬師如来は聖徳太子の作といわれてる。正保三年(1
646)八月の創建で、開山は埼玉県北葛飾郡幸松村(春日部市)の浄春院第7世天室秀梵和尚を拝
請、開基は牛込五郎兵衛という。門を入ると参道左右に石積みの基壇があり、その上に見事な石像を
安置している。左に地蔵菩薩、右に聖観世音菩薩、いずれも天保五年(1834)千住二丁目の旅籠
幸手屋の主神谷万右衛門が施主となって建てたものだ。
 参道口右横に「水神宮」がある。 千住絵馬の「鷹」が奉納されていた。諸願成就。高く飛ぶとこ
ろから立身出世などを祈願する善男善女が多い。



○綾瀬母子殺人冤罪事件
 
昭和63年11月綾瀬のマンションで、母親と当時小学1年生の長男が絞殺された事件で、中学3
年生の3人が逮捕された。少年らは自白した後無罪を主張した。結局1人はアリバイが成立して無罪、
警察のでっち上げということが判明して、あとの2人もまた証拠不十分で不起訴処分となった。自白
の背景には、警察の取調べでの暴行・脅迫があったとされている。またアリバイのあることを知りな
がら取り調べを続けていたともされ、少年の1人は「警察は怖かった。最後になってもやっていない
といえば暴行されると思った」と証言。あまりにも辛い取り調べから、留置場で自殺を図ろうとさえ
したという。栃木の連れ回し殺人も、警察官の怠慢が判決され、警察は面子を落とし続けている。た
ぶん一生懸命仕事をせずに所得を得たいのだ。楽して金儲けは・・・政治家が悪いのだ。
 詳細は、横川和夫・保坂渉共著『ぼくたちやっていない−東京・綾瀬母子強盗殺人事件』を読まれ
ることをお奨めする。1325円だ。



女子高生コンクリート詰め殺人事件
 平成元年3月29日綾瀬署は江東区若洲の埋め立て地で、コンクリート詰めのドラム缶の中から布
団に巻かれた女性の死体を発見した。コンクリートで密封されていたため遺体は腐敗していなかった
が、遺体の状況はあまりにも惨たらしいもので、女性の顔面は変形と陥没が酷く、外見からの判別は
全く不可能。全身が殴打によって腫れ上り、ライターで焼かれた痕も多数あった。そして皮下脂肪の
厚さは通常の3分の2しかなく著しい栄養失調状態だった。
 この犯行発覚は、意外なことで、平成元年3月29日練馬少年鑑別所で綾瀬警察署の捜査官が昭和
63年11月8日に強姦窃盗などにより少年鑑別所に送られた少年Aを取り調べた際、捜査官が何気
なくいった「お前、人を殺しちゃ駄目じゃないか」という言葉に、他の3人が自供したと勘違いした
ドジにある。
                     *
 昭和63年11月25日午後8時過ぎ埼玉県三郷市内をバイクで走行中、アルバイト先から自転車
に乗って帰宅する途中だった県立高校3年生(17歳)を見かけると、少年Aは少年Cに対し、「あ
の女、蹴れ。あとはうまくやるから」と命じ、Cは言われた通りに、バイクで近づき、左足で右腰を
思いっきり蹴って、角を曲がって様子を見た。少高生はバランスを失い、自転車に乗ったまま転倒、
側溝に落ちた。そこへAが近づき「大丈夫ですか」と優しく声をかけ、助け起こすと「あいつは気違
いだ。俺も脅された。危ないから送っていってやる」といって、近くにある倉庫の暗がりで「俺はヤ
クザの幹部だ。お前はヤクザから狙われている」と脅し、ホテルに連れ込んで強姦した。それから4
1日間に亘って綾瀬のCの自宅に監禁。鬼畜のようなすさまじい暴行と陵辱の限りを尽くして殺害し
た。主犯の4人は某暴力団の青年部組織「極青会」の構成員(全部で10人程度)で、埼玉県三郷市
一円で車シルビアを使い毎日のように婦女暴行を繰り返し、少女監禁中もそうしていたという。
 逮捕後犯行の中心となった少年4人は、成人と同様の刑事裁判が妥当とされ、結果、実刑判決を受
け少年刑務所に服役した。判決は主犯格のA(当時18歳)は懲役20年、サブリーダー格のB(同
17歳)は懲役5年以上10年以下。またC(同16歳)は懲役5年以上9年以下、D(同17歳)
は5年以上7年以下だった。4人とも出所したが、Bは平成16年暴行脅迫事件を惹起し実名神作譲
(現姓小倉)が公表された。判決は懲役4年で再服役している。A・C・Dは精神に異常をきたして
いるとされる。E・F・Gは比較的普通のようだが、内面は判らない。年を取って肉体が弱ると妄想
から精神に異常を来す可能性はある。しかしこんな犯罪を犯すということは、幼少期の教育に問題が
あり、精神に異常を来たす以前に精神異常者だ。
 また被害者の家族にも精神病に陥った二次被害者がいる。加害者の家族はいたたまれず事件後直ぐ
に慌てて町から逃げ出し、被害者の家族に謝罪し続けているが、折り合いはついてないようだ。Aの
親は自宅を売った金5000万円を支払っており、Bの親は弁護士に賠償金を積み立てているとか。
C〜Gの親の動向は判らない。そのほか被害者少女に性的暴行を加え、この残酷な虐待殺人事件に関
わった少年は数十人いて、逮捕はおろか事情聴取すら受けていない者が多数いる。彼らは罪の意識は
なくのうのうと平和な家庭を築き善人面して生きている。監禁・殺人の事実を知っていたと思われる
人は100人に達するが通報なり情報提供した者は一人もいない。
 加害者少年Cの両親は共産党の地方幹部で、警察が逮捕状を取った段階で弁護士を用意し、家宅捜
索も弁護士立ち会いの下で行われた。党は、事件後すぐの段階でCの両親を除名、党とは一切関係が
ないと発表。そして「監禁という認識がなかった」「少女は帰る気がなかった」など、Cの母親の自
己弁護的記事を、機関紙「赤旗」によって5月20日〜27日連載コラムでバックアップ。少女の方
に落ち度があるという情報は出元がこれだ。共産主義革命の前に自分たちのセガレの教育の間違いを
認めるべきではないのか。共産党員諸君! 子弟の犯罪は多いぞ。
 加害者の家族もまた逆説的な意味での被害者だ。Aは平成19年2月に出獄した。
 この事件を扱ったビデオ作品が2種類存在するが、1本は会社が倒産して幻のビデオとなり入手困
難。今1本は劇場公開予定だったが、脅迫的抗議が殺到し上映を断念した。しかしその後渋谷で1週
間だけ公開されたそうだ。話題にもならずこのビデオも幻となった。苦労すれば入手は困難ではない。
                     *
 ※ 近頃、どの筋が漏らしたものか・・・、実名が出た。A.宮野裕史(平成19年仮出獄)、B.小
倉譲(前出)。C.湊伸治(共産党員の息子。犯行現場の提供者)。D.渡辺泰史(少年院でイジメに
遭い、出所後ひきこもり)。E.中村高次(些細なことで宮野・小倉・湊にリンチされたらしい。「現
在、地元のスナックで事件のことを面白おかしく語る無反省人間」と注釈がついてる)。F.伊原某、
結婚し女の子を設け、新聞配達で生計を立てているとのこと。Gについては記載がない。
 このことでブログ上で喧々囂々の非難、侃々諤々の議論が起こっている。服役によって罪は消えた
とするもの、この事件は民主主義で語るべきものではなく、加害者たちは自殺するか、殺されるべき
だとするもの、生々しい議論が展開されている。可哀相なのは伊原の娘だ。足立区に住んでいたとし
たら、イジメに遭うだろうし、遭わないまでも事実を知ったら、正常な神経では生きていられない。
悩みは人知れず大きなものとなろう。お節介な奴がいて耳打ちするものだ。この項でも匿名にしてあ
る。宮野は養子縁組をして本名を隠している。

 以下の記事を記すブログ「全面的徹底改造計画その壱 女子高生コンクリート詰め殺人事件回顧」
 (http://blog.goo.ne.jp/adlum99v3t/e/c252a320f8d2ceb51b4e8b9116030a63)があった。

 ●横山裕史(旧氏名宮野裕史)‐養子縁組により姓名変更
 昭和45年4月30日生まれ、身長160cm。葛飾区において証券会社社員の父宮野良規、ピア
ノ教師をする母静江の長男として生まれる。一家には他に妹がいる。幼少期から粗暴さをし、裕史の
家庭内暴力により両親は離婚。綾瀬小学校、東綾瀬中学校を経て、東海大学高輪台高校に入学し、柔
道部に所属したものの、1学年3学期で中退。昭和62年3月上旬から昭和63年8月下旬まで、区
内の有限会社中村タイルでタイル工として勤務。同年8月下旬から平成元年1月下旬まで、区内の暴
力団極東組関口一家桜誠会幹部豊田倖一営業の生花店「フラワーフレンド」でバイトしていた。この
当時、地元の不良を集め極東会の傘下組織「極青会」を組織。
 平成19年2月千葉刑務所仮出獄、東大阪市において2ヶ月半の保護観察の後、栃木県小山市に転
居、日研総業の派遣社員。5月新座市、9月川口市蓮沼298栄ハイツ201に居住。(有)宮内解
体工業所(川口市大字芝5374−24)に勤務。同20年秋取手の実母が経営する寝具店で働く。
現在の居住地不明。

 ●神作譲(旧氏名小倉譲)‐準主犯
 昭和46年5月11日足立区内において、父小倉彰、母悦子の長男として生まれる。両親別居によ
り姉と共に母に育てられ、東加平小学校、東綾瀬中学校を経て、修徳高等学校に入学したが、1学生
2学期で中退し、その後居酒屋店員、運転助手、配線工等職を転々とし、昭和63年秋頃から、平成
元年1月下旬まで、区内の暴力団極東組関口一家桜誠会幹部豊田倖一営業の生花店「フラワーフレン
ド」で、アルバイトをしていた。刑期終了後、別の監禁傷害で服役。平成20年末出所。足立区千住
4丁目5番14号コーポ藤善に居住とか。ご近所さんはご注意!

 ●湊伸治‐監禁場所となった自宅2階の提供者
 昭和47年12月16日生まれ。平成18年秋まで京都市伏見区向島二ノ丸町向島住宅に両親の湊
靖人・ます子(共に日本共産党員)と同居。その後リヒテンシュタイン国籍の女性と婚姻し、大阪に
新居を構える。寝屋川市、羽曳野市と移りながら介護の資格を取得。寝屋川の「トーカイ21」に暫
く勤務。同19年秋頃、茨城県龍ヶ崎市のパチンコ屋に勤務との情報あり。

 ●渡邊恭史
 昭和46年12月18日練馬区において、父渡邊一弘、母ヤスの長男として生まれ、5歳の時、両
親が離婚し、以後区内に移り、美容師の母で育てられ、東加平小学校、東綾瀬中学校を経て、都立本
所工業高校(定時制)に進学したが、1学年1学期で中退。溶接工、空調設備作業員等の職を転々と
する。現在横浜市金沢区六浦東で姉夫婦と同居。生活保護を受けているとか。日本はいい国だ!

 ●相田孝一(旧氏名垣東孝一)
 昭和47年生まれ、妻と娘2人暮らし。平成18年に長女が中学入学、苛められることに怯え、離
婚し、直ぐに再婚、妻の旧姓相田に改姓し、忌まわしい犯罪者の臭いを消すに必死。次女は小学生。
所沢周辺に居住しているとか。




【伊興】(いこう)1〜5丁目                   昭和62年10月10日
 伊興村。明治22年「市制町村制」により南足立郡淵江村の大字となったものの、2年後に独立
して南足立郡伊興村となり、昭和7年足立区が成立すると伊興町谷下・伊興町聖堂・伊興町五庵・
伊興町狭間・伊興町白幡・伊興町前沼・伊興町見通・伊興町大境・伊興町諏訪木・伊興町五反田・
伊興町本町・伊興町吉浜・伊興町一丁目・伊興町番田・伊興町京伝・伊興町槐戸の16町に分かれ
戦後に至る。昭和62年伊興町本町・伊興町大境・伊興町見通・伊興町諏訪木と西伊興町の各一部
をあわせた町域を現行の「伊興」とした。それにしても○○が丘、××台と見てくれのみを追って
命名する軽薄短小の風潮の中で、伊興という古い地名を残した足立区は偉い。とにかくややこしい
ところがスッキリしたし万々歳だ。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『足立区史』など。

 伊興の由来
 
由来は判んねえ。北部には弥生時代から人が住み着いたようで遺跡が公園として保存されてるよ。
古墳時代には大規模集落があったらしい。しかし当時「いこう」と呼んでいたかどうかも判らない
のだ。「やこう」なら荒地、湿地ということが考えられる。インドネシア語で解釈すると「イ・コ
ウ」は「丘のそば」だそうだが、これは地形上理に適っている。伊興の北方は毛長川の大湿地帯で、
字を「谷下」と書いて「やじった」と読む。読めネエヨ。僅かに『吾妻鏡』に地頭として伊古宇氏
が見える。その伊古宇にしてからが『姓氏家系辞書』には記載がない。いま竹の塚に谷古宇家があ
る。



■神社
 1丁目18番にある小祠。



無量山源正寺
 2丁目2番(旧伊興町本町3099番地)にある新義真言宗豊山派の寺。往古、ここは地蔵堂で、
玄性寺と称した。境内に「南無阿弥陀仏、相阿弥陀仏、延徳三年(1491)六月三日」と刻した板
碑があるので、元は時宗だったのが、源正寺に合わせられたもののようだ。「新編武蔵風土記稿」で
もそう記している。本尊は地蔵菩薩。中興開山真海は明暦二年(1656)十月十七日に示寂。現在
は奈良長谷寺の直末。寺域から天文七年(1538)の板碑が出た。入口右に3地蔵、左六地蔵。墓
地の中に参道があり、50mほどで右折すると、柱が褐色に塗られた鉄筋コンクリート造り造りの本
堂。その右に庫裏がある。



■伊興図書館・伊興体育館
 
2丁目4番にある。 



■西伊興小学校
 2丁目6番にある。昭和47年西新井第二小学校から分離して開校。平成14年創立30周年。

 校歌
諏訪木の緑」 作詞・校歌作成委員会  作曲・高木東六
   諏訪木のみどり 風さわやかに
   明るい歌声 ひびかせて
   みんなよい子の 西伊興
   あなたもわたしも からだをきたえ
   いっしょうけんめい 勉強だ
   とても明るい 西伊興小学校
 



■妙撞庵

 2丁目9番にある。堂の掲額に「地蔵堂」とある。 こじんまりとした堂で、左に庫裏もある。



■若宮八幡宮

 2丁目12番にある横沼厨子の鎮守。祭神は誉田別尊(応神天皇)だ。祭日は9月15日。境内に
古禄(第六天)神社・天満宮・三峯神社が移築されて摂社となっている。嘉永七年(1854)銘の
漱盥石がある。終戦後ぐらいまでは、厨子内を東西に分けて、年番が中心となって行事を担当してい
たが、現在では町会主体となり、町会の神社部で祭などの行事を執行している。なお嘉永七年(17
27)八月銘の旗立台がある。



阿遮山福寿院

 2丁目18番(旧伊興町本町3009番地)、横沼厨子にある新義真言宗豊山派の寺。もと西新井
大師総持寺の末寺で、本尊は不動明王。荒綾88ヶ所霊場の第45番札所。山門を潜ると右手に6地
蔵が迎える。左側は併設の福寿院幼稚園で境内は共用。墓地の中の道が参道になっていて、正面に鉄
筋コンクリート2階建ての本堂、これはなかなか立派なお堂で、屋根の天辺に宝珠が光ってる。境内
に朝比奈正清の石碑があり、

   妙法心正院孝親善定位 本国駿河 生国武蔵 朝比奈八右衛門藤原正清寛文十二壬子三
   月二十八日


 と刻してある。また弘治二年(1556)妙喜禅定尼の板碑が出た。



■稲荷社
 3丁目7番にある小祠



寿福山長勝寺
 3丁目11番(旧伊興町大境1761番地)、横沼厨子にある日蓮宗の寺。万治二年(1659)
の創建で、開山は智勝院日座上人、開基はこの地で代々名主を務めた旧家宮城清左衛門吉重だ。千葉
次郎勝胤の自邸の一部を寄進して建てたと伝わってる。日座は谷在家本応寺第10代日福上人の法弟、
清左衛門は武人で当地に住し、子孫は代々名主を務めた。本尊は日蓮上人奠定の大曼荼羅。本堂は瓦
葺き総檜造り、境内は樹木が生い茂り、樹齢400年以上の巨松がある。綺麗なお寺だ。近くの民家
の裏にある千葉勝胤の墓の維持管理はこの寺がやっているよ。



■千葉次郎勝胤の墓
 
3丁目23番の藤波五家に囲まれた狭い路地の奥に寂しく1基の石碑が建っているが、これは墓で
はなく家臣が建てた供養塔だそうだ。王子道に沿っているところを見ると、何かを誇示したかったも
のか? 中世から戦国時代にかけて南関東に勇名を馳せた千葉氏は、各地で栄えたが、江戸に太田道
灌が伸してくると道灌に従い、その死後は小田原北条氏に従った。勝胤は文明三年(1471)に生
まれ、天文二年(1533年)に63歳で歿しているが、記録がなくその生涯は不明なところが多い。
佐倉城を本拠としたはずの勝胤の墓がここにあるのは不思議な訳だ。永禄二年(1559)の「小田
原衆所領役帳」に千葉氏の下足立における役高が出ていること、またこの石碑を建てた者が、宮城三
右衛門・市原四郎兵衛・宮城忠左衛門・常田次郎右衛門とあり氏姓から足立在方の家臣団と思われる
ことなどから、おそらくは主君の供養碑として建てられたものだろうと想像する訳だ。それにしても
簡素な碑であること、ここが1つだけの離れ墓地であること、不思議は多い。



苗間戸稲荷
 3丁目23番、横沼ズシ
にある。終戦後ぐらいまで稲荷講があり、初午の日には講中の家に集まっ
て酒を飲んだりしたが、経費が大変なので止めた。現在では町会の神社部が主体となって初午を行っ
ている。

 
黒松
 高さ20mの松。足立区の保存樹。竹ノ塚駅からも見えた高さの大木で、伊興のランドマークだっ
たが、近頃はマンションなど高層建築物が建ち、地元でもこの見事な黒松のことを忘れかけているぞ。
おいおいそれはないだろ。



■早房御嶽神社

 4丁目7番にある小祠。



■庚申塔

 4丁目9番にある青面金剛。元禄五年(1692)「奉待庚心講」一鬼・二鶏・三猿を刻む。



宝光山実相院横沼寺

 4丁目15番(旧伊興町本町3461番地)、横沼厨子にある真言宗豊山派西新井大師総持寺の末
寺。立派な門を入ると、石の仁王像が2体建っている、石の仁王像があるのは区内ではここだけだ。
左手に鐘楼
右手には催場、庫裏、弁天堂と並び、正面に観世音と掲額のある本堂。石碑も多い。
尊の子育観音(聖観音)は行基作とか。立像で6尺3寸というから立派なものだ、そのほか紀伊宰相
徳川宗将(むねまさ)が母乳が出るようになった御礼奉納の両界曼荼羅、幕末の騒乱を物語る「浪人
征伐横死万霊之墓」などがある。現在の本堂は明治22年の建立。墓地は本堂の裏手にあり広い。


 
伊興の子育観音・本尊略縁起版木
 『新編武蔵国風土記稿』に、

   伊興に観音堂があり、行基作の観音像が祀ってあり、その縁起に、康平六癸卯(106
   3)の春、八幡太郎義家父子が奥州征伐の時、村内の応現寺に宿陣し、この観音に宿願
   して勝利得たので、京に帰る時、13町の寺領を寄進した。その後武蔵守藤原成美が位
   階を捨てて東国に下向、この堂に籠って、仏閣僧院七堂伽藍を建立したが、文永元年(1
   264)五月十七日に火災に遭って寺宝、記録などを失ってしまった。だから縁起は少々
   怪しいが、その頃の境内は広大だった。ここから西の方7、8町に仁王島というという
   字があるが、これは昔、観音堂の仁王門があったところというなど、寺の歴史を記した
   略縁起の版木がある。


 中世の作と思われる本尊聖観世音菩薩像とともに都重宝の指定を受けた。母乳の出ないご婦人の信
仰が篤く「伊興の子育観音」として江戸時代から参詣人が絶えない。赤山街道伊興町前沼の交差点は、
尾竹橋通りが新設される前は、観音橋交差点といい、見沼代用水が流れていたころ王子道を通す観音
橋が架かっていたが、この橋の名は子育観音に由来する。
 像の大きさは、高さ171cm、肘張45cm、裾張30.7cm ほぼ等身大だ。
 版木は縦23.3cm、横41cm、厚さ1.8cmで、素材は桜の木。



■伊興小学校

 4丁目16番にある。明治7年1月22日第5番中学区4番小学新井学校の9番分校として設置さ
れ、同9年10月16日現在地に新校舎を新築して開校。同28年4ヶ年修業の高等科併置して「伊
興尋常高等小学校」となる。同37年高等科廃止。同38年高等科再置。同40年火災により校舎焼
失。福寿院に仮校舎。同41年新校舎落成。
 昭和7年市郡併合により「東京市伊興尋常高等小学校」と改称。昭和16年「東京市伊興国民学校」
と改称。同18年「東京都伊興国民学校」と改称。同22年「区立伊興小学校」と改称。校歌制定。

 校歌
我が伊興」 作詞・芳賀富美男  作曲・大熊信次
  1.都の塵を他所に見て
    清き流れの荒川に
    朝夕
(あしたゆうべ)に湯浴みして
    此処に育ちし 我が伊興
  2.東に筑波 西に富士
    平和の旗は棚引きて
    自由の鐘の鳴る処
    此処に建ちたる 我が伊興
  3.春の桜に秋の稲
    希望は翔ける大空に
    野山の幸は限りなく
    此処に伸び行く 我が伊興


 同46年東伊興小学校を分校。同51年創立100周年。平成18年創立130周年。



蓮栄山真国寺
 5丁目1番(旧伊興町本町3715番地)にある日蓮宗中山法華寺の末寺。建武二年(1335)
の草創というが詳らかではない。本尊は釈迦牟尼仏、その脇に日親作という祖師の木像を安置する。
中興開山経蔵院日安上人は、延享元年(1744)四月十五日に示寂している。宝物として立正大師
立像。鬼子母神像などがあり、本尊の祖師像については『新編武蔵国風土記稿』に

   日親の作の由添状あり。左に載す

 として、

   この宗祖の儀は、応永三十二年(1425)二月春、日親上人堪忍力行法御成就の砌、
   御一代法花弘通無難之誓いを込め、法花堂に於ておいて一刀三礼尊像疑い無き者也。
    慶長元申(1596)十月十三日
                                  十四世日院在判
    桜井嘉七に之を与ふ。


 とある。享保十七年(1732)の墓碑がある。



■やくっさま 医王院薬師寺

 5丁目4番(旧伊興本町3678番地)にある曹洞宗の寺。元浅草橋場総泉寺(板橋区に移転)の
末寺。開山は万治二年(1659)八月九日に示寂した粛洲厳和尚。本尊は薬師如来で、眼病に効験
がある。山門の左に仁王さんの一人が鎮座している。入ると、50mばかりの参道があって。左に小
堂、右は催場か。更に進むと、正面の本堂は質素、柱が灰色、戸は白に塗ってある。本堂の左は墓地
で、右は庫裏。大般若経六百巻を所蔵しているんだよ。

 大般若会
 これは大般若経六百巻を転読(飛び飛びに読むこと)して諸悪を遠避け、悪疫を退散させるなどの
願いを成就させようという法会。ここ薬師寺では、毎年6月26、7日の両日に亘って行われてきた
が、昭和33、4年頃に自然消滅した。これはまず和尚が般若経を転読してから、六百巻ある般若経
を6棹の真四角な木箱に納め、その上を筵で包み、上部に丈夫な担ぎ棒をつけ荒縄で固定する。それ
をそれぞれ若者2人で担ぎ、26日には北根から早房・横沼の順に、27日には下り戸・大西島・小
西島の順に一軒一軒奥座敷に安置して回るのだ。これを土地の人は「でえはんにゃえ」いっとった。
かつて伊興で祭といえば、この大般若会だけだったので、村の人々はこの日の来るのを心待ちにして
いた。この日ばかりは学校も半ドンで授業を終わったそうで、子どもたちにとっても楽しい一日だっ
た。そこで大般若経が回ってくる家では、煎餅や蒸かし芋などを用意して、ついてくる子供たちに振
舞ったものだ。それが子供には嬉しくてねぇ。また担ぎ手の若者には、酒や馳走を用意して労った。
 村内の家々を回る順番は、前以てきちんと決められており、これを続に「大般若回り」と唱えて、
急を要する触れ継ぎ、回覧板のネットワークに利用していた。



■神社
 5丁目7番にある小祠。
  



■大西島八幡社
 5丁目13番にある。



■伊興中学校

 5丁目17番にある区立校。昭和53年第十四中学校から分校して開校。詳細不明。




【伊興本町】(いこうほんちょう)1〜2丁目             平成9年10月4日
 平成9年伊興町五庵に、伊興町前沼・伊興町狭間・伊興町本町と東伊興町の各一部をあわせた町
域を現行の「伊興本町」とした。本町は、村なり地域なりの中心地の意だが、この町は伊興前沼が
ほとんどだ。かつての伊興本町は伊興2・4〜5丁目辺り。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『足立区史』など。

 伊興の由来
 由来は判んねえ。北部には弥生時代から人が住み着いたようで遺跡が公園として保存されてるよ。
古墳時代には大規模集落があったらしい。しかし当時「いこう」と呼んでいたかどうかも判らない
のだ。「やこう」なら荒地、湿地ということが考えられる。インドネシア語で解釈すると「イ・コ
ウ」は「丘のそば」だそうだが、これは地形上理に適っている。伊興の北方は毛長川の大湿地帯で、
字を「谷下」と書いて「やじった」と読む。読めネエヨ。僅かに『吾妻鏡』に地頭として伊古宇氏
が見える。その伊古宇にしてからが『姓氏家系辞書』には記載がない。いま竹の塚に谷古宇姓が沢
山ある。



南昌山東岳寺

 
1丁目5番地(旧伊興町前沼1210番地)、尾竹橋通りに面してある曹洞宗の単立寺。浅草東岳
寺の別院。都重要文化財の浮世絵師安藤広重の墓、その隣に昭和32年広重百回忌に当たり浅草北松
山町から移した記念碑がある。

 初代安藤広重墓・記念碑
 境内にある。広重は浮世絵の大家で、寛政九年(1797)江戸八重洲河岸の定火消安藤源右衛門
の子に生まれた。本姓は田中、幼名は徳太郎、後に重右衛門、徳兵衛を名乗った。父の友人岡島林斎
から狩野派の手ほどきを受け、絵筆に親しんだ。が、13歳で両親と死別、父祖の家業を嫌って家督
を譲り、文化八年(1812)歌川豊弘に師事して浮世絵を学び、翌年歌川の画姓を許され、歌川広
重と称した。当初美人画を描いたが芽が出ず、諸派の画法を学ぶと共に、洋画の遠近法を加味して風
景画に転じ、天保三年(1832)幕府の一行に加わり、京に向かって東海道の旅に立ち、一代の傑
作『東海道五十三次』発表して一躍名声を得、一流の絵師と認められるようになった。その作風は、
純客観的視覚を以て自然を描写し、しかも情趣ある日本的な風景画を完成させた。『東都名所百景』
『近江八景』は名作だ。安政五年(1858)62歳で没した。墓石は震災と戦災で破壊されたため
昭和33年に再建した。記念碑は大正13年に建てられたまま。

   
あづま路に筆を残して旅の空、西の御国の名どころを見む

 辞世の句が直筆で刻まれている.

 
ジョン・スチュアート・ハッパーの墓
 記念碑の右隣にある。広重を海外に紹介したアメリカ人だ。和英両文の墓碑銘があり、和文は藤懸
静也、英文はヨネ・ノグチと呼ばれた詩人野口米次郎の撰文になる。
 そのほか江戸時代に風靡した川柳の出版元「柳多留版元花屋久次郎遺跡」の碑が建つ。



西島山煎雲院応現寺
 伊興本町2丁目3番(旧伊興町狭間612番地)にある時宗の寺。藤沢市にある時総本山清浄光寺
(俗に遊行寺)の末寺。古くは天台宗で、八幡太郎義家が庇護した寺だったが、永仁のころ(129
3〜99)遊行二世真教上人が巡化の際に改宗したという伊興地区最古の寺だ。本尊の阿弥陀三尊は
恵心僧都の作といわれ、境内には樹齢200年以上のイチョウの木がある。また境内に経塚があり、
ここから経筒、六器、五鈷鈴などとともに、国宝に準ずる貴重な藤原期の冑、その他平安時代の太刀、
古銭などが出土した。また寺門は17世覚阿上人が寛永十四年に建立したもので、四脚門。下谷広徳
寺(練馬区に移転)の門と共に、彫刻は左甚五郎の作と伝わる。
 天文・永禄の時宗板碑3枚が残る。本堂の右は庫裏、左は墓地、山門と参道が素晴らしい。古刹の
品格を十二分に持った寺だよ。

 
山門
 この寺の宝物は山門だ。補修こそされているが寛永十四年(1637)に建てられた区内最古の木
造建造物だ。切妻造り桟瓦葺き。四脚門で、江戸初期の寺門建築の特徴をよく示している。また本堂
前にある2基の元興寺型多角形の石燈籠は、承応三年(1654)の造立で、山門と共に貴重な文化
財だ。

 
星兜
 明治12年旧寺域から室町時代と思われる経塚が発見され、経筒・五鈷鈴・唐宋の古銭などと一緒
に兜鉢が出土し、鉢に星(鉢板を固定する鋲を装飾的に並べたもの)があるところから一般に「星兜」
と呼ばれる。つまり全体にぶつぶつがある兜だ。逆につるつるの兜は「坊主兜」という。この星兜は
の鉢は5世紀頃の作に属すが、補修してツバ(目庇=まびさし)を付けてあり、その様式は中世に属
すためこれ1つで兜の変遷が判るという貴重なもの。それより5世紀のものを1000年後にリサイ
クルして活用してたことのほうがビックリしないか? 現在東京国立博物館に保存されている。



■専念寺
 2丁目14番にある浄土真宗本願寺派の寺。伊興寺町の最南端にある。元本木町2丁目2132番
地(関原3丁目3番)から移転した(?)




【入谷】(いりや)1〜9丁目                    最終平成5年8月1日
 「舎人の入谷」と呼ばれていたところで、江戸の初期(正保のころ)に舎人村から分離独立した。
しかしその村域は一塊ではなく飛地の集合体で、舎人村と村域が入り混じっていた。
 明治22年「市制町村制」により新らしい舎人村の大字、昭和7年足立区入谷町となり戦後へ至
る。昭和60年2月1日入谷町・舎人町の各一部をあわせた町域を現行の「入谷3〜4・6・8〜
9丁目」、入谷町・北鹿浜町・加賀皿沼町の各一部を併せた町域を現行の「7丁目」。平成元年5
月15日入谷町・舎人町の各一部をあわせた町域を現行の「5丁目」、同5年入谷町・舎人町・舎
人1丁目・同5丁目の各一部をあわせた町域を現行の「1〜2丁目」として新住居表示を完了。つ
いこの間まで広大な耕地だったから、区画といい街づくりといい大雑把だ。土地を広大に使ってい
るが殺風景。 6〜9丁目は新開地で、6丁目は市場や倉庫、トラックセンターのみ、7〜9丁目
も商業地区で住宅は非常に少ない。水田変じて町となるだ。

【入谷町】
 現在残り僅かの入谷町が今も舎人公園内にあるが、いずれ消滅する。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『足立区史』など。

 入谷の由来
 毛長堀から入り込んだ湿地帯だったことによる。だから入谷は神領堀跡(道路)だ! 神領とは
寛永寺領のこっちゃ。「おそれ入谷の鬼子母神」は台東区上野。
 なお入谷町が舎人公園と尾久橋通りの内に舎人町とともにわずかの面積で残っているが、いずれ
舎人公園となる。
 



寿海山三蔵院徳枝寺

 1丁目2番(旧舎人町3673番地)にある新義真言宗豊山派の寺。本尊は地蔵菩薩。開山は文治
三年(1187)三月十五日に寂滅した了政阿闍梨。元は円通寺の末寺だったが、昭和14年10月
28日奈良長谷寺の直末となった。寛保二年(1742)権大僧都憲意の墓がある。



■入谷日の出公園
 1丁目3番にある。ロケットを組み込んだ総合遊具があることから、ロケット公園という別称があ
る。広場があるだけ、樹木の少ない公園だ。モニュメントなどいろいろある。



金籠山三宝(観音)院円通寺

 1丁目6番(旧入谷町69番地)に昔からある新義真言宗豊山派の小寺。本尊は不動明王、元西新
井大師総持寺の末。入口を入ると六地蔵のお出迎え。西から入るのだが木造トタン屋根の本堂は南向
きだ。本堂の右手と奥は庫裏。本堂前面南側は墓地。新しい墓が多い。観音堂の聖観音菩薩立像は3
0cm、行基の作と伝わる。この堂の鰐口の銘に、

 
  奉果立願志趣者為天地長久御願 応永十三年(1406)十二月一日 敬白

 とある。寺宝として700年以上前のものと思われる薬師仏があり、墓地に寛文九年(1669)
の墓碑がある。なお明治9年入谷の協和小学校がここを仮校舎として開設されていた。



■神社
 
1丁目10番にある小祠。



■地蔵堂
 
1丁目19番、南光寺の隣にある。墓があり、人も住んでいる。南光寺のものか?



青龍山医王院南光寺
 
1丁目19番(旧入谷町821番地)に昔からある新義真言宗豊山派の寺。本尊は不動明王。開山
は不詳。中興の円祐は弘安三年(1280)四月二十日示寂。参道の右は水子地蔵、観音、地蔵、薬
師堂、庫裏と並んでいる。左側は墓地だが休憩所もある。墓地から権大僧正良賢の墓、天文十二年八
月十五日銘の板碑が出た。また享保元年(1716)銘の六地蔵がある。 



■入谷南中学校
 
1丁目24番にある。昭和61年の新設校。平成18年創立20周年。

 校歌
風澄みて」 作詞・伊藤道人  作曲・団伊玖磨
  1.風澄みて北は 都の北は
    はろばろと開ける大地
    光溢れる舎人の里に
    新たなる学び舎建てり
    入谷南中 おお我が母校
    入谷南中 我が母校
  2.雲間射す陽射し 雄々しき光
    若人の未来を照らす
    大空遠く希望
(のぞみ)遥かに
    嗚呼悠々と隅田の流れ
    入谷南中 おお我が母校
    入谷南中 我が母校



■入谷中郷公園

 1丁目28番にある。



■入谷中郷北公園

 2丁目5番にある。



神社
 
2丁目16番にある小祠。



一向山法随院称名寺
 
2丁目15番(旧入谷町320番地)にある浄土宗の寺。本尊は阿弥陀如来。慶長年間(1596
〜1614)の創建で、開山を専誉知雲といい、源証寺の末寺という。



五台山太子院源証寺
 2丁目15番(旧入谷町319番地)にある昭和23年からの単立寺院。元は浄土宗知恩院の末寺
だった。入谷山とも号す。天文元年(1532)十蓮社念誉一向源証上人(天文五年〈1536〉十
一月十一日示寂)の創建という古寺。鐘楼には正徳二年(1712)鋳造の鐘が掛けてある。本尊は
阿弥陀仏。本堂は昭和47年に改築されたが、文久三年(1863)に建てられた茅葺の本堂の主材
をそのまま使用してる立派なものだ。境内に明治5年増上寺温誉大宜大僧正の名号を刻した自然石が
ある。墓地に寛文十一年(1671)の墓碑がある。

 
太子堂
 江戸中期の建築物で重要である。堂内に高さ90cmの本尊聖徳太子像があり、彩色豊かで美しい。
古い像だが年代不詳。聖徳太子の自作と伝わり、霊験あらたかだとか。明治末年忌日2月22日に、
区内の鳶職が大勢集まり、護摩を修して太子講が行われた。



■白幡八幡跡→氷川神社
 2丁目25番にある。舎人氷川神社とは500mと離れていない。鳥居を潜ると、「入谷古墳跡」
の石碑が建っている。そこから大きな円形の塚があり、頂に社殿がある。この塚は「新編武蔵風土記
稿」にも書かれており、昔から古墳として知られていた。馬鹿な役人が勝手に区画整理計画を立て、
邪魔だから削り取るというので、地元が猛反発、無学な役人は人の道をとくとくと説明され、初めて
歴史の大切さを悟らされて計画案をボツにした。しかし足立区は進歩的な心算で古道を消し去り碁盤
の目状に新道を配し得意がってる。将来必ず歴史を否定したことの損害を蒙る時が来る。この神社は
明治7年に舎人の氷川神社から分祀された。それまでここには八幡社があり「白幡八幡」といってい
た。文化十三年(1816)の月山・湯殿山・羽黒山の石碑がある。祭日は9月28日。

 白蛇
 境内に、神の使いの白蛇が棲んでいた。たまにその姿を、道路や田の畦に姿を現した後には、決まっ
て大雨が降ったり、大風が吹いたり、ただならないことが起こった。初めのうちは判らなかった村人
たちも、度重なるうちにそれに気づき、そこで村の何処かで白蛇を見かけると「白蛇様がお現れになっ
たぞ」と互いに知らせあい、雨戸を打ちつけたり、倒れ易いものには養生をしたりと、天災に備える
ようにした。そのお陰で、舎人村では天災による被害は、あったとしても最小限に留まり、他村より
少なかったそうだ。村人は白蛇に感謝し、大切に扱ったという。



■入谷中学校

 3丁目6番にある区立校。昭和51年第十四中学校から分校して開校。平成18年創立30周年。

 校歌
新しき泉あり」 作詞・勝承夫  作曲・南弘明
  1.新しき泉あり
    若き力の湧くところ
    心触れ合う楽しき集い
    足立に伸び行く欅はここに
    自立を誓う入谷の母校 入谷の母校
  2.温かき光あり
    高き理想を生むところ
    明日の世界を目指して進む
    社会の為に 平和の為に
    文化を築く若人吾等 若人吾等
  3.梅こぶし香りあり
    清き校風継ぐところ
    永久に栄えある歴史を創る
    姿勢を正し規律を守る
    弛まぬ誇り入谷の母校 入谷の母校 
   



入谷小学校 廃校
 3丁目8番にあった。昭和50年舎人小学校から分離して開校。平成13年3月31日閉校。同4
月1日入谷南小学校と統合して、足立入谷小学校となった。



■足立入谷小学校
 3丁目8番にある統合新設校。平成13年4月1日開校。

 校歌
新たなる」 作詞・津布久郁夫校長 輔作・笹倉敬子  作曲・遠矢良英
  1.新たなる風が光るよ
    白鷺の舞い立つところ
    微笑は泉の如く
    優しく清く伸びやかに
    ああ心 永遠に輝け
    永遠に輝け 足立入谷小学校
  2.咲き誇る花を仰いで
    荒川の流れの辺り
    逞しく身体を鍛え
    明るく強く伸びやかに
    嗚呼心 夢もはばたけ
    夢もはばたけ 足立入谷小学校
 



■神明宮
 4丁目7番にある小祠。祭神は天照大神。創建は詳らかではないが、文化二年(1805)九月奉
納の太々神楽の絵馬があるので、それ以前だ。



■入谷中央公園

 4丁目16番ある。少年のためのスポーツ広場がある。



■入谷緑地公園
 5丁目1番にある細長い区立公園。遊具は全くない。森のような公園で薄暗い。それで入口に交番
があるのか? 前にコンビニがあり便利。



■神社
 5丁目16番にある小祠。



■中央卸売市場北足立市場
 6丁目3番にある。



■神社
 7丁目16番にある小祠。



元妻バラバラ殺人事件
 平成19年6月14日午前1時50分ごろ、警視庁竹の塚署に「元妻の遺体を切断した」と男女2
人が自首してきた。この2人が住む8丁目3番の住宅を同署員が調べたところ、2階の居間で、女性
の遺体がバラバラに切断されてポリ袋数個に入れられているのが見つかり、同署は2人を死体損壊容
疑で緊急逮捕した。逮捕されたのは、NHK委託集金員の志賀耕二(47)、内縁の妻の無職人見朋
子(34)の両容疑者。遺体は志賀容疑者の前妻の無職志賀美穂さん(40)で、頭部や両手、両足
などをバラバラにされていた。調べによると、美穂さんは4年前に志賀容疑者と離婚したが、その後
も中学生の子供2人とともに、志賀容疑者との同居と別居を繰り返していた。今年4月ごろからは、
人見容疑者と志賀容疑者が3階で、美穂さんと2人の子供は1階で暮らしていたという。志賀容疑者
は「5月下旬に(美穂さんを)殴ったら死んでしまった。今月上旬、遺体を(人見容疑者と)一緒に
切断した」と供述しており、同署で死因を調べている。志賀容疑者は5月上旬にも、別の女性に付き
まとったうえ顔を殴るなどしたとして、同署が傷害事件の容疑者として内偵捜査していたところだっ
た。
 NHK広報局の話「職員ではないとはいえ、受信料の契約・収納業務を委託している事業者が逮捕
されたことは誠に遺憾で、心よりおわび申し上げます」と消気ていた。



■入谷南小学校 
廃校
 8丁目11番、KITクラブ21クラブハウスのところにあった。平成13年3月31日に閉校。
同4月1日入谷小学校と統合して、足立入谷小学校となった。



■トーキョージャンボゴルフセンター
 9丁目26番にある。




【梅島】(うめじま)1〜3丁目                     昭和41年4月1日
 明治22年「市制町村制」によって梅田村・島根村・栗原村・小右衛門新田が連合して一村をな
したとき梅島村成立。昭和3年町制に移行。同7年足立区が成立して梅田町・栗原町・島根町・小
右衛門町となる。小右衛門新田は渡辺小右衛門が開発したことによる新村の意。
 41年千住弥生町・梅島町・島根町・千住栄町・栗原町・梅田町の各一部をあわせた町域を現行
の「梅島」とした。だから梅島は東武鉄道梅島駅、環七通り梅島陸橋だ!
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『足立区史』など。

 梅島の由来
 
田と根から一字づつとって合成した地名。梅島村も梅島と呼ばれる島もなかった。



■第四中学校
 1丁目2番地にある。昭和11年に足立第二高等小学校として開校し、同16年足立第二国民学校
と改称し、さらに同18年東京都第二国民学校と改称し、同22年3月31日に廃校となった同校跡
地に、翌日新制中学校として開校した。平成19年創立60周年。卒業生に越境入学したビートたけ
しがいる。

 
夜間学校
 昭和26年開校。同46年新校舎落成し、夜間学級専用教室ができる。平成13年創立50周年。 



■文彰寺
 1丁目23番にある浄土真宗大谷派の寺。入口の角に表札があるだけで、案内板、掲示板などはな
い。詳細不詳。庭は全部墓地になっていてその奥に本堂を含む母屋がある。建物はモルタルのアパー
ト風、ただ1階は高く、屋根が寺風で、両脇に火頭窓があるところなど一般住宅とは異なっている。



■ベルモント公園
 1丁目33番にある、平成5年足立区が姉妹都市となったオーストラリアのベルモント市との友好
を記念して設けられた公園。普通の街の公園の広さ。ギャラリーでは、オーストラリアの民芸品、日
用品、ベルモント市からの寄贈品を展示展示している。起伏のある芝生、小さい子供向けの遊具等が
ある。ブラシノキなどのオーストラリア原産の植物のほか、バラなどが植えられており、きれいな公
園となってる。レストランはないぞ。弁当持ってけ!



■足立消防署
 2丁目1番にある。



■小右衛門稲荷神社(裾引稲荷)
 2丁目24番にある。今から数百年前のこと、岩槻の太田氏に仕え、徳川家康の江戸討入り後も、
同じ岩槻城主高力河内守の家人をしていた渡辺小右衛門という人がこの地に移ってきた。彼が主家を
何故去ったのかというと、理由ははっきりしないが、村田利兵衛と共に、同僚の高橋伴右衛門を斬っ
たため逐電したのだ。しかし逃れてきたものの日は落ちて思案に暮れていると、どこからともなく一
匹の狐が現れて、小右衛門の袴の裾を引くではないか。引かれるままに付いていくと小堂ある。これ
幸いと一夜を明かした。翌朝目を覚まして堂を出てみると、6軒ほどの家がちらほらと目に付いた。
がその外は一面の荒野だ。そこで白狐に引かれてきたのも神の引き合わせと思い、この地に腰を据え
て開墾することにした。そこで村田を呼び寄せ、先住の日比谷・中館・岩館・相沢・深井・佐倉井の
6人にも声をかけて、開発に取り掛かった。この端緒を作った白狐との縁を忘れぬため稲荷を祀り、
「裾引稲荷大明神」としたという。現在は開発者を忘れないように小右衛門稲荷神社と呼んでいる。
小右衛門の墓は、稲荷に隣接した墓地の中にある。



■梅島陸橋
 2丁目31番にある。島根1丁目・平野1丁目・中央本町5丁目の接する国道4号線(日光街道バ
イパス)を環七通りが跨ぐところをいう。
 しかし昭和8年〜43年、梅島陸橋といえば、旧日光街道が東武線を越す跨線橋だった。



三宝山実修寺
 3丁目7番にある創価学会の寺。建物は鉄筋コンクリート造りタイル貼りのビルで、学校的雰囲気。
昭和43年日蓮正宗大石寺第66代法主日達上人により開創したが、跡を継いだ次男が、創価学会と
の抗争の時、学会側に付いたため破門され、日蓮正宗の一門から除籍された。他には葛飾区の常光寺、
目黒区の妙真寺がある。



竹乃家
 3丁目9番にある和菓子屋。昭和元年創業。手作りをモットーに、材料には特に気を使い、北海道
小豆、手亡など最高級なものを用いて、風味豊かな菓子作りをしている。梅いちりん、栗づくしがお
すすめ。



第十中学校
 3丁目23番にある。昭和22年教育基本法により梅島第一小学校に併設して創立。後援会設立。
同24年校舎落成。アメリカにより後援会を解散させられ、PTA設立。校歌制定。

 校歌白雲なびく」 作詞・伊藤正明  作曲・藤田政夫
   白雲なびく富士の嶺
   遥けき流れ荒川の
   自然の雄を集めたる
   見よ武蔵野の原頭に
   自治の光に輝きて
   そびゆる母校 我が十中


 同29年第三期増築。同31年第四期増築。同34年東島根分校設置。国道より東側の生徒を通学
させ、同35年9月分離、東島根中学校とした。同36年増築工事完了。体育館完成。同37年鉄筋
コンクリート造り校舎落成。同41年鉄筋コンクリート造り校舎増築。同42年プール完成。同46
年鉄筋コンクリート造り増築校舎落成(給食室、普通教室7)。給食開始。同49年鉄筋コンクリー
ト造り校舎(普通教室・理科室・調理室・被服室)落成。同50年鉄筋コンクリート造り校舎改築(8
教室)。同52年鉄筋コンクリート造り校舎(普通教室3・技術室・理科室・美術室2・特殊)落成。
創立30周年記念式典。同57年体育館改築。校庭改修。同61年東・北校舎窓枠アルミサッシ化。
同62年六月中学校に生徒104名・教師1名移行。創立40周年記念式典。平成5年コンピュータ
ルーム完成。給食民間委託。同9年創立50周年記念式典。同19年創立60周年記念式典。



■梅島第一小学校
 3丁目37番地にあるビートたけし(北野武)の母校。昭和8年梅島小学校から分校創立。同16
年東京市梅島第一国民学校と改称。同17年栗原国民学校を分校。同18年東京都梅島第一国民学校
と改称。同22年区立梅島第一小学校と改称。同29年栗島小学校を分校。同36年島根小学校を分
校。同49年中島根小学校を分校。同58年創立50周年。平成20年創立75周年を迎える。



■ビートたけし・北野武
 足立区島根町1115番地に父菊次郎、母さきの四男として生まれ、TVの本放送が始まった昭和
28年梅島第一小学校入学。同34年小学校卒業、第四中学校に越境入学。同37年中学校卒業、都
立足立高等学校入学。東京オリンピックの翌年の同40年明治大学工学部
するも中退。但し平成16
年に特別卒業認定者に選ばれる。そのため学歴は明治大学工学部卒となっている。学生時代はジャズ
に傾倒し、新宿のLefty Candyt≠初めとしたジャズ喫茶や新宿アシベ、当時の文化人の交流の場
所、風月堂にも入り浸っており、たまに来る依頼でジャズ喫茶のボーイもしていたが、ジャズの見識
は一部で有名であった。この頃は青春の葛藤期でもあり、プロボクサーを目指してジムに通い、また
2種免許を取得してタクシーの運転手をしたりアルバイト三昧の青春時代を過ごした。
 その後、映画を観るために浅草へ頻繁に通う内に浅草6区にあったストリップ劇場浅草フランス座
のエレベーターボーイのアルバイトしていたが、同劇場を取り仕切る「浅草の首領」こと深見千三郎
に師事し、前座芸人北千太(北野姓と師匠の名前からの芸名だが、以後名前は頻繁に変わった)とし
てコント(軽演劇)を学んだ。幕間コントに出演して腕を磨き、芸人としてタップダンスの修業にも
励む。前座仲間とのコントコンビでのデビューを目指すが、仲間の病気により頓挫。なお当時の同僚
として作家の井上雅義がいる。

 舞台中心の昔の浅草と違いテレビが台頭して来た浅草は、隆盛時代と比べ物にならぬほど寂れて、
観光地として以外の存在もなくなり、実質ショウビジネスのメッカとしての終焉を迎えようとしてい
た。当時浅草ロック座に在籍していた兼子二郎(ビートきよし。現在はビートキヨシ)に誘われて漫
才を組むも全く芽が出ないため、兼子の発案で『有名な師匠の弟子になった方がいい』と戦略的に松
鶴家千代若・千代菊門下に入る。「わっかるかなあ わかんねえだろうなあ」のギャグで一世を風靡
した松鶴家千とせは兄弟子に当たる。元はエノケンや古川緑波のように、ボードビリアンから銀幕デ
ビュー迄を視野に入れて志も高く軽演劇を教えていた師匠の深見は、『色物をやるために芸事を教え
たんじゃねえ』とたけしを破門同然に突き放した。一方たけしはコンビ松鶴家二郎・次郎の2代目次
郎となり漫才師。後にコンビ名を空たかし・きよし(たかしが北野、きよしが兼子)にするが、この
頃は兼子主導で漫才を進行させていた。さらに「ツービート」と改名してからは、旧来のツッコミと
ボケのスタイルから脱却して、たけしがネタを一人で喋り続け、きよしが時折たしなめるというスタ
イルにチェンジしたが売れる所までは行かず行き詰まる。
 
そんな折に大阪で新進漫才師として頭角を現して来たB&Bのスタイルに触発され、スピードを早
めて喋りまくるスタイルへ変貌した。この頃漫画家の高信太郎や業界人から注目される中、太田プロ
に所属。時はマンザイブーム(旧来の漫才≠ニ区別するためにカタカナ表記)のムーブメントが起
こり、「赤信号みんなで渡れば恐くない」などの毒舌漫才と毒舌ネタを売り物とした芸風に完全にシ
フトした。しかし当時はアイドル性と女性ファンが取り囲むブームにより、B&B、ザぼんち、島田
紳助竜介、のりお・よしお等の後塵を浴びる3、4番目の人気順位だった。しかしファンは圧倒的に
男性が多かった特異のコンビだった。あくまで漫才でトップを狙うたけしを裏切るように、きよしか
ら『漫才はきついからもうやめよう』とフジテレビTHE MANZAI‐5を最後にツービートは
解散した。漫才時代は「ツービートのわっ毒ガスだ」などの著作も手がける。望まずしてピン芸人に
なったたけしはオールナイトニッポンやTHE MANZAIからの発展番組「オレたちひょうきん
族」に出演してピン芸人のビートたけし≠ニして世間に知られるようになる。これを機にたけしと
きよしは天と地に分かれる。

 
ビートたけしのオールナイトニッポン
 ニッポン放送系の深夜放送ラジオ番組でビートたけしの評価は一気に高まった。本人が当時を述懐
するに『とにかく一人で喋ると間が空く事がものすごく恐かった』という通り、トークの速度はもの
すごく密度が濃い。当時のファンの中心層だった大学生は必ずテープに録音してから何度も聞き直さ
ないと全内容が捕捉出来なかったほどだった。ただ横で笑っているだけのように見られていた放送作
家高田文夫は、実はたけしのハイテンションを絶妙な間合いの合いの手で支えていた。当時は同じ事
務所の(たけしが紹介した)片岡鶴太郎もに参加していた。この番組から出た本は、今でいう語り
起こし≠ナ構成は主に高田によるものだった。またハガキ職人と呼ばれた熱心な投稿者の存在も大き
く、このスタイルは後の「とんねるずのオールナイトニッポン」「ナインティナインのオールナイト
ニッポン」「伊集院光深夜の馬鹿力」など、お笑い系パーソナリティの放送構成モデルとなった。次
第にそのまんま東(宮崎県知事東国原英夫)を最初とした弟子志願者が現れ始め、日本一周をラジオ
で中継させたりする『弟子やめさせコーナー』もあり、鶴太郎と交代するように、たけしの大量の弟
子たちの「たけし軍団」も放送に加わる様になった。放送の構成は週の出来事をおもしろおかしく話
す内容が大半だが、時に三島由紀夫に傾倒するや、2時間三島を語るなどの講義モード≠ノなった
時もあった。また中国で日本人修学旅行生が鉄道の大事故で亡くなるなどの社会的な問題が起こった
際には放送をボイコットしたり、風邪による体調不良で休んだこともあった。こんな時は急遽たけし
軍団のメンバーが番組を引き受けてフォローした。


 
オレたちひょうきん族
 たけしがメインで、明石家さんま、島田紳介、片岡鶴太郎たちと出演したフジテレビの看板番組。
当時のお化け番組ドリフターズの『8時だヨ! 全員集合』(TBS)を放送終了に追い込み、80
年代のバラエティ番組の金字塔となった。『オレたちひょうきん族』の人気コーナーでたけしが主役
のヒーローコント『THE タケちゃん MAN』は当時一世を風靡し、これに肖ってに「タケちゃん
マンライス」なる料理が登場するようになったりした。これで明石家さんま、島田紳助を一流に育て
上げた。


 
風雲!たけし城
 マンザイブームは、それまでドリフターズや萩本欽一などお笑いスターを中心に据えて存立してい
たバラエティ番組を大きく変えるきっかけになった。「オレたちひょうきん族」で茶の間に認知され
たビートたけしは、その「ひょうきん族」自体では、明石家さんまへの突っ込み役に徹することが多
かったが、「お笑いサドンデス」「笑ってポン」などで、それまでの平和型のコントやギャグよりも、
むしろ過激で無謀な方向性のギャグを志向した。
 そして昭和60年以降のバラエティ黄金期では一般視聴者(素人)を重要な役割で参加させる番組
を提示する。それまでバラエティ番組は(欽ちゃんファミリーの「気仙沼ちゃん」などごく一部の例
外を除いて)あくまで芸人主導のものとされていた常識を覆し、ビートたけしは素人とたけし軍団を
対抗させる形で、素人も主役に据えたのが最大の特徴だ。「風雲!たけし城」では一般の参加者が、た
けしと軍団が構える『たけし城』に様々なゲーム形式の障害を乗り越えて行くという「攻略ドラマ」
を中心に据えた番組構成とした。考え抜かれた各ステージにおける参加者のリアクションの面白さは
世界的な普遍性を持ち、世界各国での吹き替え版はもとより、権利を購入して現地キャストで製作し
た番組が放送されて人気を博した。本家のTBSは、同じ緑山スタジオを舞台に「筋肉番付」「SA
SUKE」、最近では「キャプテン・ドみの」など、「風雲!たけし城」を原点とする亜流番組を作
り続けている。
 「たけしのスポーツ大将」では、陸上競技、草野球、ママさんバレー、サッカー、水泳などの昔
取った杵柄℃ゥ慢の素人と、たけし軍団が競う趣向をとった。たけし軍団では歯が立たない場合は、
100m走ではカール君、水泳ではトビウオ君、野球では球道君といった機械仕掛けのキャラクター
を登場させ、シュールな笑いを喚起した。
 「天才たけしの元気が出るテレビ」では、様々な素人を『街の話題』的に取り上げたり、ダンスが
若者に浸透してきているニーズをいち早く察知し「ダンス甲子園」のコーナーを設けるなどの企画が
光った。象徴的なのは番組内の企画コーナー「たけしサンタ」であり、子供が寝静まった枕元にサン
タの扮装をしたたけしがプレゼントを届け、気づいて起きた子供のリアクションを愉しむというもの
が大当たりした。この「元気が出るテレビ」のスタイルは「ねるとん紅鯨団」や「浅草橋ヤング洋品
店」へ引き継がれた。
 これら各局視聴率のトップを誇った番組のほとんどがビートたけし本人の企画と構成で、そのキー
ワードは『夢』だといえる。一般視聴者が様々な形で参加し愉しむというコンセプトはどれも一貫し
たもので、ファミリー参加型の家族リレーや家族大会等、視聴者が後々までも自らの語り草にできる
ような良質な番組だった。

 たけしが用いて業界に浸透した言葉

 オープントークで「と、いう訳で・・・」から始まるあの独特のフレーズは、当初「どういう訳な
んだよ!」と突っ込みを貰うためのものだったが、今では疑問を持たずにそれ以後のタレントが当た
り前のように用いている。「肉付けされた白骨死体みてぇな顔じゃねぇか」のように、『?みたいな』
の例え表現形式も、ツービート時代にビートたけしが使い始めたもので、以後のお笑い系タレントが
やはり当たり前に用いている。らにさ「訳のわからねぇこといってんじゃねえよ!」の訳の判らな
い≠ニいう表現も、以前は日常で用いられることはさほど無かったが、常用されるようになったのは
ビートたけし以後だ。余りに浸透し過ぎて居るが故にこれらの言葉を現在では誰も意識する事がない。


 
ビートたけしのTVタックル

 平成元年7月3日に「どーする?!TVタックル」という番組名でスタート。関口弘とビートた
けしのダブル司会の対談形式で、毎回「日本人と○○」というテーマだった。翌年3月26日放送分
で関口が降板、そのため翌3年4月1日から「ビートたけしのTVタックル」と番組名を変更、ビ
ートたけしの冠番組となり、様々な時事問題をテーマとして各界の著名人などのパネリストによる論
争を繰り広げる内容になった。パネリストの1人に田嶋陽子法政大学教授がいて、よく女性問題など
を扱って他のパネリストとバトルを繰り広げ、特に桝添要一とは罵り合いになるほどだった。同13
年田嶋が参議院議員選挙に立候補した際、立候補前に田嶋が出演した収録分が放送できなくなり編集
で何とか乗り切った。またその選挙活動を密着で放送した。
 同年1月頃、裏番組の月9ドラマ(フジテレビ)の視聴率が全話30%以上の快挙の煽りを受けて
視聴率が低迷、その年の秋に打ち切りが検討された。しかし4月に小泉政権が誕生し政治・選挙の特
集を放送したところ、みるみる数字が上がった。このことから、それ以降政治的な内容を扱うことが
多くなり、ゲストも主に現職国会議員や三宅久之などの政治評論家などが出演するようになる。同1
8年春の改編では、フジテレビ月9ドラマ以外の裏番組を終了、或いは放送枠移動に追い込み、テレ
ビ朝日の看板番組の一つに成長した。
 2世のお坊ちゃん議員で政権放り投げ総理安倍晋三や参議院の重鎮で民主党の女性議員に敗れた片
山虎之助といった自民党幹部も出演している。これにより、以前に比べバラエティの要素が少なくな
り、ゲストを含め多少「朝まで生テレビ」と被っているように思われるが、国会議員の冗談めいた発
言や、浜田幸一がそのキャラクターから「悪党党」幹事長として辛辣な意見で笑いを呼ぶ。因みに浜
田は、なぜか森喜朗(もり よしろう)のことを「もりきろう」と呼ぶ。
 人気コーナーの「永田町時代劇」では、現在の政局の動きを時代劇ドラマでコミカルに描き、平沢
勝栄などの現職議員も本人役で出演し、ついには三宅久之まで出演するようになり、出演者のバラエ
ティ慣れが見て取れる。そのために「朝まで生テレビ」や「サンデープロジェクト」のような硬派な
討論番組とは対照的に今の政治経済に対して悪乗り気味に風刺するスタイルが視聴者に受けているこ
とは事実。討論番組の形式だが実際にはディレクターによりエンターテインメント色を強めて脚色さ
れている。特に近年、政治風刺番組に路線変更してからは、パネリストの勢いが凄まじく、たけしが
押されっぱなしになる展開になっている。全オンエアでたけしが喋ってる時間は毎回数分でしかない。
その事でゲスト出演した野坂昭如に批判された事もある。
 政治風刺番組に路線変更してからは、結論が出ることなく、次の議題へ移る事が非常に多い。たけ
しも結論を出そうともせず、そのまま総括せずに終わらせる方式を黙認している。このためもはや討
論番組ではなくなっているという意見もある。視聴者が判断すればよいことだ。
 オープニングの出演者紹介ではビートたけし、阿川佐和子、大竹まことについては「(内容が毎回
変わる紹介文が入り)〜いつもの3人組でお送りします」(大竹欠席時には「いつもの2人組」)と
オチ扱いで紹介されるが、日テレの「笑点」の大喜利における、歌丸によるメンバー紹介に類似して
いる。オープニングテーマは「カルメン前奏曲」。エンディングでは不定期に「喫煙コーナー」でた
けしと大竹がその日の議論やパネリストについてタバコを吸いながらボヤく場面がある。しかし近年
は2人とも禁煙してるらしく、タバコを吸っていない。たまにゲストも参加することもある。概ね1
〜2日前に収録されているが、選挙投票日の翌日が放送日当日にあたるため、当日昼に収録され編集
し放送するいわゆる「撮って出し」の形式で放送されている日もある。また収録日後〜放送日までの
間に当日取り上げる話題で最新の情報がある場合はVTR部分を編集している。VTR中に出演者の
声が聞こえない場合がそれだ。
 たけしの政治的発言は国民目線で非常に安定している。番組中は殆ど喋らないし、議論には全く加
わらない。また司会でありながら、進行は阿川に任せっぱなしで、番組中の発言はほんの数分だ。そ
れでいて、重みがあり、出演者が一目置いているのが見て取れる。それどころか、発言中たけしをチ
ラ見してたけしの心中を覗う出演者もいる。たけしの発言は決して出演者の意見を否定したり、同調
したりすることはなく、一般的な感想をボソッと述べるだけだ。その結果その見識は高く評価され、
総理大臣あたりに会食に招待される。たけしはその会談内容についてはいつも「世間話程度」としか
いわないが、そうとうレベルの高い相談をされているようだ。平成21年天皇陛下在位20年式典に
芸能人として唯1人招待され、宮内庁職員によって強引に両陛下に紹介されたが、たけしは恐縮三昧
の場面がテレビで放映された。たけしの政治的価値が高まっているということだ。


 レギュラー
 ビートたけし(司会・「悪党党」総裁、放送開始から)、阿川佐和子(準司会・「悪党党」副総裁、
平成10年2月よりレギュラー出演)、大竹まこと(パネリスト・「悪党党」党員、同年4月より正
式にレギュラー出演)、江口ともみ(ナビゲーター、阿川が欠席時に準司会を担当したこともある)

 
映画『戦場のメリークリスマス(Merry Christmas Mr.Lawrence)』
 大島渚監督作品で、大島の代表作。ビートたけしの起用はまさに慧眼。日本・英国・豪州・新国の
合作映画。昭和58年公開。第二次世大戦をテーマにした戦争映画でありながら、戦闘シーンは一切
登場しない。また出演者は総て男性という異色映画。原作は南ア出身の英国人小説家ローレンス・ヴァ
ン・デル・ポストの『影の獄にて』。作者自身の捕虜集要所体験に基づいてる。
日本人がメガホンを
取った戦争映画ながらメッセージ性は薄い。しかしその根底にある日本独特の「武士道」「仏教観」
や、英国人、欧米人にある「エリート意識」「信仰心」「誇り」などがより尊く描かれ、またそれを
超えた友情の存在とそれへの相克がクライマックスにまで盛り上げられていく。その一方でハラ軍曹
(ビートたけし)らに見られる日本軍の朝鮮人軍属や捕虜に対する不当な扱いや、英国などにおける
障害者への蔑視行為など闇歴史の描写も容赦なく描いている。また後期の大島作品に底流する「異常
状況の中で形作られる高雅な性愛」というテーマも、日英の登場人物らのホモセクシュアルな感情と
して(婉曲的ながら)描写されている。
 出演は、ビートたけし、坂本龍一、デヴィット・ボウイなど。また音楽も坂本が担当。人気タレン
のたけし、人気テクノポップバンドYMО(イエロー・マジック・オーケストラ)の坂本龍一、そし
て英国の人気ロック歌手のボウイと、話題性十分の出演者だった。
 カンヌ映画祭
に出品され、グランプリ最有力の前評判だったが、結局今村昌平監督の『楢山節考』
に掻っ攫われた。賞レースには敗北したが、映画は大絶賛を受けた。これを機にたけしは映画への出
演を重ね、やがては本名の「北野武」で映画監督となる。


 
映画監督北野武
 当初は、売れっ子芸能人の道楽的な見方をなされていたが、現在では世界的な評価を確立している。
ビジュアル面での最大の特徴は、「キタノブルー」と評される青の色使い。また、多くの作品で登場
人物の「死」が描かれ、青みの深い画面のもたらすひんやりした映像感覚と相俟って全編に静謐な不
気味さを醸し出している。こうした一貫したカラーを持つ一方で、撮影時のアングルや編集のリズム、
自身の絵画の導入、CGによるエフェクトなど、一作ごとに新たなチャレンジや創意も感じさせる。
映像に一層の格調高さを与えている久石譲の音楽(3作目以降)も重要な存在だ。
  平成 元年 『その男、凶暴につき』
  平成 2年 『3‐4 X10月』
  平成 3年 『あの夏、いちばん静かな海』
  平成 5年 『ソナチネ』
  平成 7年 『みんな〜やってるか』
  平成 8年 『キッズ・リターン』
  平成10年 『HANA‐BI』
  平和11年 『菊次郎の夏』
  平成13年 『BROTHER』
  平成14年 『Dolls』
  平成15年 『座頭市』
  平成17年 『takeshis'』
  平成19年 『監督・ばんざい!』
  平成20年 『アキレスと亀』
  平成22年 『アウトレイジ』


 
フライデー襲撃事件
 昭和61年12月9日、たけしが、たけし軍団とともに講談社のフライデー編集部を襲い乱暴を働
いて逮捕され。その結果東京地裁において懲役6ヶ月・執行猶予2年の判決を言い渡され確定した。
そのために、たけしのレギュラー番組で人気だった「天才たけしの元気が出るテレビ」「風雲!たけ
し城」「スーパーJOCKEY」「たけし・所のドラキュラが狙っている」の出演を謹慎のため半年
間遠慮した。襲撃した理由は、当時たけしが交際していた女子大生にフライデー記者が校門で急襲取
材をしたための報復といわれている。また、たけしを弟子の様に可愛がっていた横山やすしは「悪い
のんは、たけしやない! 悪いのは雑誌『フライデー』や!」とフライデーの取材方法に対して痛烈
に批判をした。
 フライデーはその報復として、たけしの一番弟子だった東国原英夫(そのまんま東)宮崎県知事の
粗捜しに躍起で、批判記事を掲載し続けており、知事が失敗することを望んでいる。

 
バイク転倒事故
 平成6年8月2日午前1時40分ごろ、東宮御所鮫河橋門前の都道で、酒に酔った勢いで知人の新
品原付バイクを運転して転倒事故を惹き起こし、入院生活などで半年間ブラウン管から姿を消した。
酒気帯び運転にて書類送検されるも単独の自損事故のため起訴猶予。反則点数7点、免許停止30日。
退院時、顔面は半分麻痺した状態だったが、リハビリにより回復し、復帰当時は「頭にボルトが入っ
ていて飛行機の金属探知機に引っかかる」「顔面の麻痺が治らなかったら芸名をマヒナスターズにし
ます」と自らの怪我をネタにしていた。またたけしが司会を行っていた番組は他の出演者が司会代理
を行っていたが、「平成教育委員会」はたけしと仲の良い明石家さんま、所ジョージ、大橋巨泉が代
理講師をつとめた。

 
芸大教授
 平成17年4月から東京芸術大学に新設された大学院映像研究科の教授および映画専攻長に就任し
た。監督領域の教授は北野武と黒澤清の2名のみ。次兄の北野大も淑徳大学の教授なので兄弟で教授
となった。




【梅田】(うめだ)1〜8丁目                     昭和40年1月1日
 梅田村。明治22年「市制町村制」による梅島村の大字、昭和3年梅島町の大字、同7年足立区
が成立して梅田町となり戦後へ至る。同39〜45年新住居表示により、足立・梅田・中央本町・
梅島・西新井本町・関原に分解した。現行の梅田は同40年新住居表示により梅田町・千住八千代
町の大部分に小右衛門町・千住高砂町・梅島町・島根町の各一部をあわせた町域を1〜8丁目に分
けている。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『足立区史』など。

 梅田の由来
 @、この辺りは淵江村といっていたが、海に開いた川口にできた寄り州だったので「海田」とい
  われ、いつしかそれが転訛したとする説。
 A、平安末期に源為義の三男義広が一時逗留したことがあり、その縁で五代孫の久広がやってき
  て梅田を名乗り村名も改めたという説(新編武蔵風土記)
 とがある。2丁目の明王院は義広の建立と伝え、彼が天満宮を勧請して明王院に万徳山梅林寺の
号をつけた。しかし梅田氏は義広から22代のときに去って以来未だに戻らない。見つけたら「早
く戻れ」といってやっちゃあくんねえかい。
 梅田村は日光街道奥州街道)沿いに開け、街道の両側は一面の田圃だったよ。

   千住出れば奥街道の青嵐(子規)
   
長閑さや千住曲がれば野が見ゆる
   釣って来た中に梅田の菱の花
   つい掘った池に梅田の水馬(みずすまし)


 だから梅田は赤不動(明王院)でい! 関原不動も近くにある。



■十三間道路→国道4号線(日光街道バイパス→日光街道)
 千住新橋の北、梅田交差点から水神橋までの間の道幅十三間の軍用道路をいった。戦後暫く、道路
の中央が無舗装だった。昭和9年に千住新橋が架かり、都電が千住から延伸されるといわれていた。
戦時中には、滑走路になる(航空機材が近いなどともいわれていた。
 十三間道路は各地にあり、明治神宮の西参道、目白通り、第二京浜国道などもそう呼ばれていたが、
砲車回し、戦車回転の必要幅員が基準になっている。



■西新井緑地

 1・3・4丁目の河川敷に数面の野球グラウンドがある。



■真福寺
 1丁目1番にある新義真言宗豊山派の寺。本尊は阿弥陀如来。延宝元年(1673)に賢清によっ
て開山。旧弥五郎新田268番地に創建されたが、大正4年荒川放水路(荒川)開鑿のため現在地に
移転、本堂は昭和20年愚かなアメリカ軍の空爆により焼失した。現在の本堂は鉄筋コンクリート造
りの2階建て。石段で本堂へ上がる。荒川にかかる千住新橋の北詰の角地で、外からもよく見える。
掲額「常楽仏殿」。山門の右手は墓地、その奥は庫裏。左は催場。墓地に元禄四年(1691)銘の
墓碑、天保十四年(1843)5月建立の無縁塔がある。



■満徳寺 ?
 1丁目3番にあったという浄土真宗の寺。本尊は阿弥陀如来。昭和13年の創立とか。



千住宝光教会
 1丁目11番にある日蓮宗の小寺。



大光山善立寺
 1丁目26番にある日蓮宗の寺。草創は浅草新寺町、家康の信頼厚く、身延山江戸三役寺の一つと
して、江戸触頭(えどふれがしら)の寺格を持っていた。昭和20年愚かなアメリカ軍の無差別空爆
により焼失、同26年現在地を求めて移転、客殿および本堂は翌年11月に落成した。静かな田舎にこ
したはずだったが、あれよあれよという間に都市化の波に飲み込まれて都会の真ん中になってしまっ
た。本尊は日蓮大菩薩。現在の堂宇は、コンクリート造りの本堂・庫裏・催場一体の建物だ。寺宝と
して日蓮上人真筆の「下山御消息」の断片がある。また什宝の大型木造観音像は、約800年前のも
のをいう。

 初代林家正楽の墓
 昭和40年になくなった紙切り芸の名人。客の要求に応じてハサミで白紙を切り抜いて絵かを作る
芸だ。細かいところまで表現する芸は見事だった。一柳金次郎(いちやなぎきんじろう)。五明楼春
輔(後の6代目林家正蔵)を訪ねる。正福と名乗ってセミプロとなる。睦会が設立の騒動の時に下地
ありと認められ二つ目となり「睦」の字に因んで睦月家林蔵(むつきやりんぞう、林蔵は3代目にな
る。)を名乗る。その2年後に6代目桂才賀を襲名。この当時は噺家不足と大量真打昇進がきっかけ
であったため、2年での準真打昇進だった。噺家としては出身地だった信州の訛りが直らずうまくい
かなかった。紙切りを披露するにいたったのは睦会の忘年会で、それが好評となったの大正12年の
関東大震災もあり紙切り師になるに至った。その後正楽を名乗り真打となった。新作落語の『峠の茶
屋』は初代正楽の作。享年70歳。
 跡を初代林家小正楽が継ぎ、平成10年没。同12年に2代目小正楽が3代目を継いでいる。
 なお4代目林家正蔵、その弟子林家林喬、奇術の帰天斎正一が林家正楽を名乗っているが、代数に
は数えない。上方落語にも同じ名跡があり、6代目を数えるが、現在はいない。



■一家無理心中事件
 2丁目7番、日光街道に面した極普通の民家で起きた。この事件は平成20年2月11日午後3時
半ごろ、「キカイの東和」経営の佐々木亨容疑者(52)の自宅兼工場で、佐々木と母親の得子(8
5)、そして妻の和子(49)が死亡しているのが見つかり、二男で都立高校1年の晃(15)が重
傷を負った。長男は偶々出かけていて無事だった。
 警視庁のその後の調べで、住宅の1階では、刃渡り20センチの血の付いた鉈(なた)が見つかっ
ており、夫以外の2人は鉈で頭を割られるなどして殺されていたことが判った。晃も左の側頭部を襲
われた上、両手首を切断されたと見られている。一方、佐々木は首の左側を鉈で切って死亡したとみ
られ、また2階の廊下に佐々木が書いたと見られる血の付いたA4判の便箋1枚があり、「母親だけ
を連れて行くつもりだったが、どうしてもみんなを残していけない。家族を守れなくて情けない」と
いった内容が8、9行走り書きされていた。警視庁は佐々木が書いたとみている。晃が病院へ運ばれ
る際、「オヤジにやられた」と話したということからも、警視庁は、佐々木が無理心中を図った可能
性があるとみて、殺人・殺人未遂事件として捜査に入った。
 佐々木は父親から町工場を引き継ぎ、自宅1階を作業場として機械の修理や中古機械の販売を行っ
ていた。妻の和子とも修理で出入りしていた縫製工場で知り合ったという。2人の息子にも恵まれ、
休日にはお揃いのヘルメット姿で自転車に乗り、仲良くサイクリングに出かける姿を近所の人は目に
していた。また一家揃っての買い物や、子供が機械器具を片づけるなど、手伝いをしていた姿もあっ
た。和子はサイクリングについて近隣に「お金もかからないし、健康にもいいからね」と話し、はにか
んでいたという。そんな様子から近隣に一家は「幸せそのもの」と写っていた。だが数年前から徐々
に一家を取り巻く環境に変化が生じ始めてきた。町工場に不況の影響が出始めたためだ。安い中国の
機械に押され、佐々木が修理した機械を車に積み込んで搬送する姿が見られなくなった。工場のシャッ
ターも閉まる日が多くなり、近所の人は「どうやって生計を立てているのか、みんな心配していた」
と漏らす。3日ほど前には、固く閉まったシャッターの奥から「分かっているんだろう」と、佐々木
らしき男性が怒鳴る声を聞いた人がいる。「揉めていたんですかね。こんなことになるなんて・・・」
と肩を落とした。
 鈴木は日本テレビに手紙と不動産契約の書類を送り、借地権契約で誤解的トラブルがあったことを
匂わせている。専門家が書類を見たところ、書類に不備もいんちきもなく、悪徳不動産屋の口車に乗
せられて不利益を蒙ったということではないようだ。契約素人の悲しさ、思い違いをして思ったよう
にならなかったこと、寝たきりの母の介護・・・、息子達の学費、生活、諸々を考えるとこういう方
法しか思い至らなかったのだろう。真面目な人間が落ちる地獄だ。真面目な人間は真面目であるが故
に視野が狭い。つまり選択肢が少ない。結果最悪のパターンを選択してしまう。平たくいえば悪霊に
憑依れるのだ。おいらの守護神は不動明王だよ。真言を申し上げると常に最良の道を教えてくれるの
さ。



■梅島第二小学校
 3丁目27番にある。昭和8年梅島尋常高等小学校分教場として開設。同19年梅島第二国民学校
として独立開校。同20年空襲により校舎焼失。同22年区立梅島第二小学校と改称。同29年創立
10周年記念式典および校歌制定。同39年体育館完成。創立20周年記念式典。

 校歌
前に荒川放水路」 作詞・田辺弥太郎  作曲・大和田愛羅
  1.前に荒川放水路
    朝夕富士を 仰ぎつつ
    清く気高き心持て
    いざや励まん我が友よ
    輝く我らの 梅二校
  2.文化の光射す処
    梅田に因む梅の花
    強く床しき心持て
    いざや学ばん我が友よ
    輝く我らの梅二校
  3.平和漲る日本の
    大きな望み抱きつつ
    正しく明るき心持て
    いざや進まん我が友よ
    輝く我らの梅二校

 同45年鉄筋校舎完成落成式・創立25周年記念式典。プール完成。

 第二校歌
友達」 作詞・平成11年度6年生  作曲・松沼由起子教諭
  1. ねぇおぼえている おはようって言ったら
    すぐ友だちになった
    ねぇおぼえている あそぼうって言ったら
    学校がたのしくなった
    歌おう 心がはずむ 歌おうよ いっしょに
    友だちは いくつ年をとっても友だちさ
  2. ねぇ おぼえている こんにちはって言ったら
    すぐ友だちになった
    ねぇ おぼえている さあ行こうって言ったら
    歩くのが楽しくなった
    おどろう 体がはずむ おどろうよ いっしょに
    友だちは いくつ 年をとっても友だちさ


 同47年給食室完成。同創立50年30周年記念式典。同59年創立40周年記念式典。同60年
農園完成。平成6年創立50周年記念式典。同16年創立60周年記念式典。



■石不動堂
 
3丁目18番にある。旧道の荒川土手下、川田橋交差点から北へ梅島駅方向へ進んで、信号を2つ
越した先、すぐ赤不動・明王院への入る角地に小さなお不動堂がある。堂には「石不動尊」と書かれ、
お堂の扉には小さな竹筒が下がってる。耳を患う人は、ここに願を掛け、治れば竹筒に酒をいれて奉
納するという。堂前に「子育八彦尊道」と彫った道標が建っている。



赤不動 万徳山明王院梅林寺

 4丁目15番にある真言宗豊山派吉祥院の末寺。本尊は感得不動明王。入口を入ると、右に江戸時
代初期に建立された立派な赤塗りの堂があり、通称「赤不動」と呼ばれる。普通不動明王は怒りで紅
潮していることを表して赤塗りなものだ。正面は本堂で。開創は治承二年(1178)六条判官源為
義の三男志田先生義広(しだせんじょうよしひろ)。宝物は『明王院縁起』『天満宮縁起』『感得不
動明王由来記』、如意輪観音像などがある。境内は広い。不動堂の奥は墓地で道を隔てて東にもある。
江戸時代3代将軍家光、8代将軍吉宗が鷹狩の際に使用する御膳所(食事を摂る場所)であり、その
記録が残されている。

 如意輪観世音菩薩坐像
 木像の縁起については、必ずしも明確ではないが、『新編武蔵国風土記稿』に、

   三石本尊地蔵ヲ安ス古ハ如意輪観音ヲ安セリト云・・・

 とあり、この像がかなり古くから明王院に保存されてきたことが判る。像の大きさ、総高41cm、
面奥行9.5cm、像高34cm、臂張20cm、膝張36cm、膝高17.5cm。元来六臂だが、
頬に掌先が触れる左の第一臂と、掌先が触地印を結ぶ右の第一臂を残すのみで、他は何れも欠失して
いる。またこの二臂も完全ではなく、指先の部分や掌の部分がそれぞれ欠けており、全体の像容につ
いては想像すべくもないまた顔面の玉眼は瞼の部分が干割れしている。
 この像は造像後、破損の都度修理をしているが、仏師の手を経ないために、不完全な修理のまま保
存されてきたものだ。像底から胎内を見ると、寄木法や内刳りの手法が簡単に理解できる。また胎内
には、造仏銘の外、以下のような縁起が墨書され、木像の変転の様子が窺える。

   応安二年(1368)十二月十七日 作者法眼院秀

   為令法久住利益人天
   本堂破壊而以後多年時節以爾興
   三間四面堂社一宇永正十八年(1521)辛巳正月六日
   創立同柱正月廿八壬午同棟上■日曜笙宝
     旦那 鈴木雅
        穂常信 (書印) 大工太良左衛門

   観音破壊而後
   修補仕事明王院三代目住僧海伝作之■ 寛文元年(1661)辛午閏八月吉日


 とあり、この像は六百余年の昔、足利義満が将軍職に着いた頃に造られ、2度補修されたことが判
る。この像の特徴は、彩色や漆箔を施さない檀像様式で、仏像が礼拝の対象から造形的な観賞へと移
行する時代の様式といえる。この像は永正十八年(1521)正月六日吉野如意輪堂創建の頃から3
間四面の同舎に安置されていたという。

 八彦尊
 石不動の小祠の脇に「子育八彦尊是り二丁行く」と書かれた道標がある。道標の指示通り進むと明
王院の門前に出、この境内に祀られている子供の守り神だ。祠は本堂の横にあって、小振りながら立
派なものだ。咳の神様としても知られ、多くの信心を集めてきた。祭神は八彦尊 願掛けの赤白の襷
が一杯かかってるよ。子育八彦尊として崇敬されているが、咳の止まらない人が祈り、寺から「おけ
さ」を借りて、治ったら新しい「おけさ」を奉納する習俗がある。「咳の不動様のおけさ」として有
名だっちゃ。現在でも色とりどりの「おけさ」が奉納されてらぁね。
 今でも咳止めの御札や御符が寺から出されている。八彦尊を祀ったのは、明王院中興の祖真雄和尚
で、霊験の新たかなるを聞き、越後の弥彦神社に赴き、2尺8寸の八彦尊坐像を、この寺に捧持した
というが、越後の人は文句をいわなかったのかね? 真雄は、自ら建立した不動堂の横に一祠を建て
て安置したのが今の堂だそうだ。。 

 
赤不動堂
 
本堂の右側にある。本尊の不動尊は弘法大師42歳の時の作といい、京都の歌の中山清閑寺にあっ
たものを、寛保二年(1742)に当時の住職が譲り受けたと、盗んだんじゃないと、縁起に詳しい。
この不動尊を「感得不動明王」という。堂は、昭和48年に現在地に改築されたが、『江戸名所図会』
に出てくる堂宇は、これより北にあり、木造朱塗りの大堂だった。赤不動の所以だわいな。

 小泉伝蔵埋永寧夫の碑
 不動堂の裏手にある。小泉は梅田村の生まれで、幕末期における関流和算の大家だった。寺に門人
による算額が所蔵されている。

 
算額
 和算というのは日本式数学で、極めて高度な数学。洋算に比べて知的要素が高い。数学の問題を漢
語で書いて寺社に掲額する。即ち問題を解けという訳だ。参詣した者で、力のあるものが解き、答え
を掲額して去る。中には問題を書き残していく剛の者もいた。レベルが高すぎておいらにはチンプン
カンプンだい。漢字を読むだけで一苦労さ。まぁ法隆寺や出雲大社を建てたんだから、数学は大変な
ものだったろうよ。何でも曲尺(かねじゃく)で円周率だって、何だって弾き出すってえから凄いよ。

 梅田天神祠
 境内にあった小祠だが、今は廃絶してない。『江戸名所図会』に記載がある。



■都下水道局梅田ポンプ所

 4丁目24番にある。



■庚申塔
 4丁目32番にある。寛延三年(1750)日月・青面金剛「奉造立庚申」一鬼・三猿が刻んであ
る。



■三峯神社
 4丁目40番にある。



■梅田稲荷神社
 5丁目9番にある。社殿の左側に禊教の教祖井上正鉄と妻の安西男也の墓が二人の高弟の墓ととも
に並んでいる。ほかに神社の玉垣に沿ったところに庚申塔と外荒神の2基を祀った庚申堂がある。も
と梅田堀の端にあったものを地元の人々がここに安置したもので野仏の保存が図られている。文久元
年(1861)九月銘の漱盥石がある。



普光山遍照院
 5丁目9番、梅田稲荷の東北隣にある真言宗の寺。本尊は大日如来。享保六年(1721)二月念
仏講供養塔、貞享年中(1684〜87)の墓碑がある。コンクリート造り2階建ての本堂の周囲は
参道を残してすべて墓地。奥に庫裏がある。ここは明治13年梅田・栗原両村によって公立楳栗(う
めぐり)小学校が開かれたところだ。



■庚申塔
 6丁目9番にある。寛文五年(1665)「奉造立庚□□□」の文字と3猿を刻む光背地蔵と寛文
八年(1668)「奉造立庚申供養□□二世安楽所」と3猿を刻む光背型。



■梅田神明宮
 6丁目19番にある。祭神は天照大神、慶長年間(1596〜1615)の勧請という。例祭は4
月15日。

 井上正鐵の碑
 鳥居を潜ると左右に大きな碑がある。左は天保11年(1840)にこの神明宮の神職で、禊教を
唱えて庶民を教導した井上正鐵の事歴を刻した教祖の碑だ。右は「貫天地」と題して禊教徒の名が刻
まれている。さらに参道左側に低い歌碑がある。明治27年建立。

   散れや散れ散りてぞ花は根に帰る実を結ぶとぞ人は知らずや

 天保の改革で不満分子を扇動していると疑られ、幕府の弾圧にあって正鉄の遺詠が刻み込まれてい
る。ここが神道13派の一教派禊教の発祥地なのだ。どうだ判ったかぁ!
 井上正鐵は、諏訪の人。安藤真鐵の子で、神道・仏教を修学し、後に禊教を唱えて諸公庶民を教導
した。天保十二年(1841)幕府は衆庶を煽動するものとして逮捕し三宅島に配流した。正鐵は在
島7年、嘉永二年(1849)二月十八日その地に没した。行年60歳。明治元年大赦により、遺骨
を足立郡の梅田と谷中に分骨した。 



■佐竹稲荷神社
 6丁目28番の中ほどにある小っちゃな神社。この稲荷はいぼ稲荷≠フ別称があり、豆腐と油揚
げを供え、その食断ちをすると、いぼが取れるといわれている。この辺りは江戸時代出羽久保田(秋
田)藩佐竹家の抱屋敷のあったところで、この稲荷は鬼門除けの屋敷神だった。『新編武蔵風土記稿』
に「佐竹徳寿丸抱屋敷」とあり、徳寿丸は佐竹義宣の幼名で、慶長七年(1602)水戸から秋田に
移封されたときの藩主だ。秋田藩ではこの梅田屋敷を参勤交代の時に休息所としたり、江戸大火の場
合の避難場所として利用した。
 神社の前に区が建てた「佐竹屋敷跡」の石柱が建っている。



■第九中学校
 6丁目32番にある。昭和22年梅島小学校内に開校。同31年校歌制定。平成9年創立50周年
式典挙行した。



■梅田図書館
 7丁目13番にある。



■カトリック梅田教会
 7丁目19番にある足立教会の分教会。昭和61年創立。教会堂の名は「労働者聖ヨゼフ」。



■富士屋
 7丁目34番にある和菓子屋。家庭で、また親しい友達、グループの皆と団欒の一時、富士屋の和
菓子を器の仲間に入れてやってちょ。創業以来80有余年利用を感謝しつつ精進している。
 練切(ねりきり)、長崎カステラが秀逸。



■梅島小学校
 7丁目35番にある。明治15年楳栗小学校開校。同22年正矯尋常小学校島根分校と弘道尋常小
学校小右衛門分校が合併して梅島尋常小学校と改称(創立の年)。同25年現在地に校舎新築移転。
大正12年関東大震災で被災。昭和7年東京市梅島尋常小学校と改称。同8年梅島第一尋常小学校を
分校。同年分教場設置。同13年創立50周年。同16年東京市梅島国民学校と改称。同19年8月
長野市善光寺などへ集団学童疎開。分教場を分離し梅島第二国民学校とする。同20年愚かなアメリ
カ軍の空襲により校舎一部被害。同11月疎開解除帰校。同22年区立梅島小学校と改称。同30年
梅田町に分校→同31年分離して亀田小学校とする。同63年創立100周年記念式典。平成20年
創立120周年を迎える。

 校歌
あしたに向こう筑波山」 作者不詳
  1.明日に向こう筑波山
    夕べに仰ぐ富士の嶺の
    気高き姿 鏡にて
    吾等が心を磨かまし
  2.匂える梅を名に負える
    この学び舎の我が友よ
    弛まず日々に集いきて
    
強くこの身を鍛えなん
  3.遥けき道を一筋に
    誓う教えを踏み行かん
    見よ日章旗さながらに
  
  吾等が行く手 光あり




■梅島駅
 7丁目37番にある東武伊勢崎線の停車場。大正13年10月1日に小菅・五反野の両駅と同時に
追加開業した。ホームは高架島式1面2線構造だが、やや特殊な構造をしている。確かに島式ホーム
なのだがその幅がやや狭いため、ホームの長さを2倍取って、電車が互い違いに停車するようにして
ある。電車が停まる反対側は壁で完全に仕切ってあり、そこだけ見るとまるで片面ホームのようだ。
複々線の内側を走る緩行線にのみホームがあるので、各駅停車以外の電車は停まらない。ホームと改
札階を結ぶエレベーターは設置してある。
 改札口は1ヶ所のみで、地上1階にある。出口は2ヶ所。
 梅島〜西新井間の左手には電車の修繕をする東武鉄道西新井工場があったが、平成16年3月で閉
鎖された。



■旧梅島陸橋
 梅島陸橋といえば国道4号線(日光街道バイパス)を跨ぐ環七通りの陸橋を指すが、昭和8年から
同43年までは、日光街道(旧日光街道)が東武鉄道を越える跨線橋のことだった。
 現在は、高速道路そのものが「橋の連続」といえるほど、高架道路が日本全国を一本の橋」となっ
て連なっているが、戦後の30年代までは、主要都市のごく重要な場所でしか「陸橋」はなく、殆ん
ど鉄道と道路は「地上交差」=「踏切」によって道路は鉄道を踏越していた。足立区の「梅島陸橋」
は東武鉄道を跨ぐ「東京名所
」の一つとして、「陸橋」といえば「梅島陸橋」を指していたのだ。
現在は東武鉄道が高架になり、「梅島陸橋」とは、環七が国道4号線を跨ぐものを指すようになった。



■梅田亀田公園
 8丁目13番、亀田小学校前にある区立公園。昔はこの公園の先の所に中央図書館があった。この
辺りは、大きなマンションが多く割には、公園は少ないので、このように大きな公園は、みんなの憩
いの場だ。当日も、噴水の周りには、近所の人なのか、ベンチで仲間と歓談をしている姿がある。遊
具もあり、幼児を連れたお母さんたちが子どもを遊ばせている。

 
じゃぶじゃぶ池
 円形の幼児用プール。すぐ隣の藤棚の下では大人もひと休み。小さい子たちが、安心して水に水に
親しんで遊べるように整備された無料の施設だ。区内に21ヶ所あり、それぞれ特徴があるんだ。オ
ムツの取れた赤ちゃん以上が幼児が、保護者同伴で夏の間だけ利用できる。事故が起きないよういろ
いろ制約があるのは当然だ。オシメの取れた幼児なら誰でも利用できる。




【扇】(おうぎ)1〜3丁目                    最終平成元年5月15日
 本木村。昭和49年7月1日新住居表示により本木町4〜5丁目と北宮城町の大部分に上沼田町
・下沼田町・高野町・西新井町の各一部をあわせた町域を現行の「扇」とし、平成元年本木4丁目
の全部と本木町6丁目の一部を1丁目に、本木5丁目と北宮城町の残り全部、本木6丁目・宮城町
・小台町・下沼田町・小台大門町の各一部を2丁目に編入した。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『足立区史』など。

 扇の由来
 町の平面形が北端を要として見ると扇形に見えなくもないところから「末広がりに発展すること
を祈念」して選択された創作名。2丁目に本木の名の起こりとなった性翁寺がある。だから扇は扇
小学校か、扇大橋か。



■水芹
 日本原産野菜。200年ばかり前、本木村の小宮新右衛門が初めてセリを栽培したのが起源となっ
て、荒川沿いの低湿地に広がり、江戸末期から水芹の特産地だった。戦前の水芹は、茎が透き通るよ
うに白く、柔らかく、長く、香りがよいほど上物とされた。当時は一寸一両≠ニいう言葉も生まれ
たほどで、長いほど高値で売れた。農家では1cmでも長くなるように工夫を凝らした物で、まさに農
芸の芸≠フ競演だった。しかし真冬に腰まで浸かっての長い水芹を抜き取る作業は骨身に堪えた。
郷土資料館に往時長靴代わりに使用した「履き桶」と呼ばれる細長い筒状の木桶が展示されている。
戦後の最盛期に40戸もあった栽培農家も、今や1軒あるかないかだよ。では覚え歌を教えたる。

  
せりなずな ごぎょうはこべら ほとけのざ すずなすずしろ 春の七草

  (芹、薺、御形、繁縷、仏の座、菘、蘿蔔、春の七草)

 芹は水芹、薺(なずな)はぺんぺん草、御形は母子草、仏の座はタビラコ、菘(すずな)=蕪蘿蔔
(すずしろ)は大根だ。

  はぎおばな ききょうなでしこ おみなえし くずふじばかま 秋の七草

  (萩、尾花、桔梗、撫子、女郎花、葛、藤袴、秋の七草)
 尾花はススキで、春と秋の七草を覚えるための和歌なんだよーっと。



■憩いの広場・野球場・ゴルフ練習場など運動施設
 1、2丁目の河川敷にある。



■夕顔観音 阿修羅山観音院瑞応寺
 1丁目5番にある真言宗豊山派吉祥院の末寺。明応七年(1498)の草創(新編武蔵風土記稿)
といい、本尊に観世音を安置し夕顔観音≠ニ呼ばれる。千葉氏が彫って納めたものだからだ。中世、
、下総から武蔵一円に勢力を張っていた千葉常胤(正しくは千葉介平常胤だ)の一族、夕顔姫がこの
辺りに住み、持仏堂として建てたのがそもそもだという。アメリカ軍の無差別空爆で建物・本尊・什
宝・珍器を焼失したが、昔は相当な伽藍だったという。昭和50年ころ浮御堂風な本堂を建て、堂内
に新たな夕顔観音が製作され安置されている。また内部の壁面に正応二年(1289)のをはじめ1
3基の板碑がはめ込まれており、基数は区内一だ。参道を50mで左に折れると本堂。本堂の左が庫
裏。右は境内と墓地。本尊は聖観世音菩薩。寺紋は月星。寛永十三年(1636)の五輪塔、天和二
年(1682)の笠塔婆、そのほか石造物が多数ある。



■寺地小学校
 1丁目7番にある。昭和9年本木尋常小学校寺地分校設置。同15年独立して「東京市立寺地尋常
小学校」として開校。同16年勅令148号国民学校令により「東京市寺地国民学校」と改称。同1
8年都制施行により「東京都寺地国民学校」と改称。同22年アメリカ軍の強制による地方自治法と
学校教育法施行により「東京都足立区立寺地小学校」と改称。同65年創立50周年。平成22年創
立70周年を迎える。

 校歌
風に歌うは」 作詞・国分伝三  作曲・西崎嘉太郎
   風に歌うはそよぐ葦
   白く光るは川の面
   続く緑の草原に
   希望のこだま打ち上げる
   われら われら 寺地小学校



■川名家屋敷稲荷
 1丁目14番の川名邸内にある



■庚申塔
 1丁目27番にある。青面金剛・三猿を刻む。造立年不明。



■御嶽神社
 1丁目28番にある。祭神は国常立命。例祭は9月19日。創建は寛永十六年(1639)という。
境内に寛政五年(1793)二月銘の庚申塔、天保四年(1833)六月銘の水神の碑がある。



■馬頭観音
 1丁目34番にある。



■大江戸
 2丁目8番にある和菓子屋。きんつばと人形焼の名店。
 



■三島神社
 2丁目9番にある。祭神は大山津見命。例祭は9月19日。創建は慶長の頃(1596〜1614)。
阿出川権左衛門知康が、この地に来住して土地の開発に努め、年来信仰する三島大明神を勧請したの
に始まる。社前に元禄十一年(1698)九月銘の仁王像、延宝六年(1678)八月銘の石灯籠、
元禄十年11月銘の庚申塔がある。



■庚申塔
 2丁目13番にある。「奉待庚申供養安楽成就所」2猿、寛文元年(1661)を刻む。



木余り阿弥陀 龍燈山貞香院性翁寺
 2丁目19番にある浄土宗の寺。明応元年(1492)に書かれた縁起がある古刹。本木の地名に
所縁のある「木余如来」「六阿弥陀草創」「足立姫旧跡」など郷土色豊かな伝説と史跡がある。

 木造阿弥陀如来坐像
 行基作と伝わる「木余り如来」は、総高42cm、膝張32cm、膝高5cm、肩幅23cm頭部
長12.5cm、台座高33cmだ。 引っくり返して下から胴の中を見ると、膝の部分がいかにも根
本の部分で作ったと思わせるような張りを持っている。造像の手法は寄木法だ。金貼の美しい坐像で、
都の重宝に指定されている文化財だが、金箔や7つの仏化を配した光背は後補のものだ。台座の刻字
から江戸時代に修復されていることが判る。
 この由来について、明応元年(1492)六月行蓮社正誉上人龍呑筆の「本尊彫刻之意趣」なる縁
起がある。

 阿出川家墓所
 開基の対馬守貞次をはじめとする阿出川一族の墓所がある。阿出川家は小田原北条氏の家臣、主家
滅亡により帰農し、この辺りを開発した。

 足立姫の墓・大菩提樹
 本堂左手の墓地にあり、新旧2つの墓碑が建っている。また菩提樹は姫の数珠から一夜に生じたと
いう伝説がある。

 行基
 奈良時代の僧。和泉の人。俗姓高志氏。道昭・義淵らに法相教学を学ぶ。のち諸国をめぐり、架橋
・築堤など社会事業を行い、民衆を教化し行基菩薩と敬われた。その活動が僧尼令に反するとして弾
圧されたが、やがて聖武天皇の帰依を受け、東大寺・国分寺の造営に尽力し、大僧正に任ぜられ、ま
た大菩薩の号を賜った。

 疣取り地蔵 
 体に疣(イボ)ができて困っている人が、イボを取り除くために祈願する。お陰でイボが取れると
お礼に塩をかけるのだ。これは不衛生で皮膚病患者が多かったことと、塩が貴重な時代、貴重な塩を
寺に奉納したのだろうが、寺が受け取らない今では、地蔵の周辺に山積みするので、どこの塩地蔵も
像が溶けている。



■江北橋
 2丁目16番と宮城2丁目9番を結ぶ隅田川に架かる橋。



■扇大橋駅
 2丁目21番と25番の境、尾久橋通り上にある都営日暮里・舎人ライナーの停車場。平成20年
3月30日の日暮里〜見沼代親水公園間の開業と同時にできた。ホームは島式1面2線構造で3階に
ある。ホームと改札階を結ぶエレベーター設置。改札口は1ヶ所のみで2階にある。出口は東口と西
口の2ヶ所で、両方にエレベーターがある。
 駅名になっている扇大橋は、駅南側にある荒川に架かる橋だ。日暮里・舎人ライナーはこの扇大橋
の北側で首都高速道路中央環状線の上を跨ぐため、この辺りが高架橋の最高地点となっている。高さ
は約30mで、眺めは最高に良いよ。



■高野駅
 2丁目44番と3丁目4番の境、尾久橋通り上にある都営日暮里・舎人ライナーの停車場。平成2
0年3月30日の日暮里〜見沼代親水公園間の開業と同時にできた。ホームは島式1面2線構造で3
階にある。ホームと改札階を結ぶエレベーターは設置。改札口は1ヶ所のみで2階にある。出口は東
口と西口の2ヶ所で、両方にエレベーターがある。
 駅名はかつての高野町に因む。



■阿弥陀堂
 3丁目11番にある吉祥院の境外仏堂。堂と庫裏がある。。



■扇小学校

 2丁目30番にある区立校。昭和45年高野小学校から分離して開校。平成17年創立35周年。



■倉橋護謨工業東京工場
 3丁目14番にある
。 



■扇中学校 → 興本扇学園西校舎
 3丁目18番にあった
区立校。昭和57年開校〜平成17年閉校。翌18年隣の興本小学校と統合
して足立区興本扇学園となり、西校舎として5〜9年生が通学する。 



■興本小学校 → 興本扇学園東校舎
 3丁目22番にあった区立校。昭和37年西新井小学校から独立し開校。平成17年創立35周年
を機に閉校。翌18年隣の扇中学校と統合して足立区興本扇学園となり、小学校の校舎は、学園の東
校舎として1〜4年生が通学している。5〜9年生は旧扇中学校に。



■彫刻のある公園
 3丁目24番にある。
 
LOLUS IN THE SKY'89 大隅秀雄作。
 
けい 真海朗作の裸婦像。
 
STREAM‐SIDE  T・INAGA




【大谷田】(おおやた)1〜5丁目               最終昭和51年10月1日
 大谷田村。元和二年(1616)十月十日の伊奈半十郎の書状の文中に「淵江之内大谷田新田開之
事」とあり河合左内らによって開発された。『正保改定図』には大谷田村とある。明治22年の「市
制町村制」により東淵江村の大字となり、昭和7年足立区の成立で大谷田町となって戦後に至る。
同35年西南の一部が大谷田新町1〜2丁目として独立したので、残余の大谷田町は1〜3丁目と
なった。同42年7月1日大谷田町と佐野町の各一部をあわせた町域を現行の「大谷田1〜2丁目」
とし、同48年11月1日大谷田新町2丁目の全部と大谷田町・大谷田新町1丁目・長門町・上谷
町中の各一部をあわせた町域を現行の「3〜4丁目」とし、同51年大谷田町と佐野町の各一部を
2丁目に編入し、大谷田町・佐野町・辰沼町の各一部をあわせた町域を現行の「5丁目」として大
谷田の新住居表示は完了した。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『足立区史』など。

 大谷田の由来
 地名の由来は判っていない。元々海にできた土地だから山坂はなく、したがって谷もできる訳は
なく不思議な地名である。水捌けのよくない土地だったらしく、それを表そうとしたための命名(た
とえば大きな湿地帯)ではないかと考えられている。綾瀬川と中川の間は低地帯でかつては利根川
や隅田川が大谷田の中で低地といえば中川と葛西用水の間の大谷田コミュニティ道路かなぁ。むか
し葛西用水に沿って堀川が走っていた。



■大谷田1丁目団地
 1丁目1番にある。元の日立製作所戦車工場跡地だ。



典勇山常善院神勝寺
 1丁目33番にある新義真言宗の寺。本尊は伝行基作の不動明王。葛飾区金町の金蓮院の末寺で、
古くは田中山と号した。昭和14年長谷寺の末寺となり、同26年4月本山根来寺の直末となった。
本堂は木造平屋建て方形造りで、他に大師堂、薬師堂がある。元和元年(1615)の創建、開基は
宇田川出雲だ。この辺りは享保年中(1716〜35)8代将軍が鷹狩の折に立ち寄り、寛政元年(1
789)十一月五日には11代将軍家斉の御膳所となっていたという。隣接の亀有村や千住宿に鳥見
役がおり、中川・綾瀬川・隅田川の沿岸は都鳥だけではなく、野鳥の群生地だった。檀家は佐野、大
谷田、中川の範囲。境内には樹木が多く、大イチョウがある。
 宝物は大般若経600巻。釈迦涅槃像、半鐘、境内に寛永八年(1631)九月銘の石碑、正徳三
年(1713)三月銘の宝篋印塔がある。

 
六地蔵
 境内に宝永五年(1708)の珍しい「六地蔵」がある。瓦葺の覆堂に守られた石造群の中央にあ
る六面幢のもの。六角型の石のそれぞれの面に法印・陀羅尼・法性・地持・勝軍・宝性の6体の地蔵
を表わしている。

 
大涅槃画像
 寺宝。弘化二年(1845)に奉納された。

 
大般若経600巻
 この寺にもあり、昭和36年までこの経本を箱に入れ4地区を練り歩いた。いわゆる大般若祭とい
う古来からの行事だった。この経本は天明五年(1785)から4年がかりで近郷近在の信徒が寄進
した鉄眼版だ。

 
子育て地蔵
 場所不明。区教委の『民間信仰』に記載がある。「下(現在は隅田自治会)で祀っている。8月2
4日が祭日で、常善院の住職がお経を上げる。また子供会でお参りする。地蔵は現在は東向きだが、
以前は南向きに立っており、その前に空き地があって子供の通学時の集合場所や遊び場になっていた。
戦後、この空き地に町内の消防具置場を建て、その際にお地蔵様も現在の位置に動かした。この時か
ら、子供に親しまれてきたこのお地蔵様を「子育て地蔵」とよぶようになり、現在まで線香やお供物
が絶えることのないほどさかんに祀られるようになった」



■第十二中学校
 1丁目37番にある区立校。太平洋戦争の敗北による教育基本法と学校教育法の制定により新しい
学制(六・三制)が実施されると、地方自治体は新制区立中学校の開設を迫られた。しかし当時は戦
後間もない物資的資金的不足をきたした社会的混乱期にあり、財政難に喘ぐ地方自治体に新学校を建
設する余裕などなかった。こうした状況下でたまたま軍需産業日立精機の青年学校が廃校していたこ
とで、足立区は渡りに船とばかりにこの廃校舎を購入し新制足立区立第十二中学校の校舎として昭和
22年4月開校した。7教室しかない小規模な校舎だったが、当時は学制が施行されて日が浅く、ま
た混乱期であったことから開校当時の生徒児童数も僅か8名という寂しい出発だった。
 しかし
生徒児童数が次第に増加すると既存の校舎だけでは対応しきれなくなり、同25年7月に第
一次校舎増築が行われ、新たに西校舎6教室が設けられた。同27年1月足立区立中学校駅伝大会に
おいて3年連続優勝を果たし、優勝旗が永久授与された。同30年区の5哩ロードレース大会にて3
年連続優勝を遂げ優勝カップが永久授与された。同31年区立中学校駅伝大会にて再び3年連続優勝
を果たし優勝旗を永久授与された。都合6年連続優勝。
 その後も生徒数は増加の一途をたどり、二次・三次と増築を進め、同31年には東和に蒲原分校を
設立、翌32年分離して蒲原中学校とした。同32年都中学校対抗陸上競技大会にて優勝。
 生徒規模の拡大に対して学校規模の方は旧青年学校時代の用地をそのまま引き継いだままで、校地
の拡大は遅れており、度重なる校舎増築で運動場がなくなってしまった。そこで区は隣接していた寺
院「福寿院」の敷地を運動場として借用していたが、同34年に新たに鉄筋校舎を建てるに当たり、
更なる用地拡大が必要となった。区は福寿院住職と檀徒総代と侃侃諤諤の議論の末に借用地約400
0uと福寿院境内1650uの買収に合意し、寺院は建物および墓地を現在地大谷田3丁目へ移した。
こうした寺院側の画期的な協力によって鉄筋校舎の増築と拡大が進められ、同36年にはさらに引揚
寮跡地約5000uが運動場(新グラウンド)として開設されるなど、徐々に現在の姿へと変わって
いった。生徒増加の頂点は昭和38年であり、この年度の在籍生徒児童数は1281名という規模だっ
た。同54年花保中学校分校。平成9年創立50周年。



■庚申塔
 1丁目37番にある元禄四年(1691)の日月・青面金剛。この庚申塔を祀る庚申講は昭和の始
めには既になかったようだ。同51年ごろまでは、念仏講の年寄たちが初庚申の時などに塔の前で念
仏を行っていた。



■中川東小学校
 2丁目1番にある区立校。昭和47年日立製作亀有工場の土浦移転が決定すると、同列の関連工場
群もこの地域から同時移転することになり、跡地に大型公営住宅と下水処理場の建設が決定された。
当時この地域の初等教育機関は区立中川小学校のみで、団地が竣工して新規入居者が大挙してこの地
域に移入した場合、当然として学生児童数も増えることが予想された。その場合既存の中川小学校だ
けでは学生児童が溢れてしまうことは明白であり、急遽団地建設と同時、昭和55年に開設されたの
がこの小学校だ。なおこの学校用地も日立建機工場跡地だ。
 校歌はある。門倉訣の作詞、田村徹の作曲だ。

 足立区東部の住宅街の中、周囲に区立おおやた幼保園や区立中川小学校、区立第十二中学校、都立
足立東高校といった教育機関が多数立地する文教地域の一角に位置する。隣接する葛西用水路には桜
並木が広がり、季節ごとに学校を彩ってくれるほか、学校周囲のフェンスにはこの学校児童が描いた
多数の壁画が掛けられており、道行く人々の目を楽しませてくれる。その立地条件から学生児童の多
くは南に隣接する大谷田団地の居住児童である。卒業生徒の多くは十二中や近隣の公立中学校へ進学
する。



■足立東高等学校

 2丁目3番にある都立高校。昭和51年都立水元高校内の仮校舎にて開校。同年現在地に完成した
新校舎に移る。平成17年創立30周年。

 校歌
古利根干潟に」 作詞・山本和夫  作曲・平井康三郎
  1.古利根干潟に文化の咲きし
    太古の偲び武蔵野の
    日の出仰げば憧れは
    日に新しく 明日の世界に拡がりて
    不退転 その意志毅く
    知性を高める心は豊か
    吾等は足立東高校生
  2.遙かに富士ヶ峰 彼方に筑波
    両座の空に鮮やかに
    虹の立つ見ゆ 手を繋ぎ
    日に新しく 睦む吾等のその証し
    思いやる 心は渥く
    相寄る心は対話に融ける
    吾等は足立東高校生
  3.青空爽か たわわに稔る
    稲穂の如く稔りゆく
    不壊の哲理は奏鳴し
    日に新しく 未知の天地に羽博かん
    自主自立 その気も崇く
    無限を凝視める大視野に立つ
    吾等は足立東高校生 




長慶山立応寺
 2丁目21番(旧大谷田町105番地)にある日蓮宗の寺。本尊は三宝だ。元和二年(1616)
五月二十七日の創建で、開山は円立院日仁上人。その墓碑がある。大概門が閉まっている閉鎖寺で、
情けなくも心を閉ざしている。



延命山福寿院
 3丁目11番(旧大谷田新町2丁目)にある新義真言宗豊山派の寺。本尊は地蔵菩薩。もと葛飾区
金町の金蓮院の末。慶安4年の墓碑がある。



■中川小学校
 3丁目17番にある区立校。昭和33年現在地に東淵江小学校の分校として開校。同37年独立し
て中川小学校となる。昭和47年中川北小学校を分校。平成14年創立40周年。



■梅の名所大谷田公園
 4丁目4番にある。園内にある約160本のウメのうち、約110本が梅園内に植えられている。
この梅園には四阿(あづまや)、木道があり、ゆったりとウメの花を観賞することができる。例年2月
中旬には、「梅まつり」を開催しています。
 バーベキュー施設がある。無料だが申し込みが必要。03‐3620-1256



■郷土資料館
 5丁目20番にある。講堂なんかも持っている結構大きな建物だ。展示室は3つあって、その内第
二展示室は企画展・特別展用とのことで、常設展示は第一・第三展示室とホール2階部分をぐるりと
廻っている廊下の4辺が第1〜4ギャラリーとなっていてショーケースによる農機具や信仰関係の展
示がされている。区立の博物館としての規模は普通か。館の背後には庭園もあり、ゆっくり出来るス
ペースとなっています。第一展示室は地質時代から現代に至るまでの足立地域の歴史。第三展示室は
部屋全体が2つの家の内部を復元した形になっている。この部屋に入るとセンサーが感知して、案内
のアナウンスが中を順次解説してくれる。農家の台所、農家にあった漉返紙(再生紙)を作る紙漉場、
紙問屋の帳場と続く。




【興野】(おきの)1〜2丁目                    昭和44年12月1日
 興野村。明治22年「市制町村制」により西新井町の大字となり、昭和7年足立区の成立で興野
町となって戦後に至る。同44年興野町と本木町3丁目の各一部をあわせた町域を現行の「興野」
とし現在に至っている。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『足立区史』など。

 興野の由来
 地名は本木村の奥≠フ意で「奥野村」と唱えたのが、草書で書くと「奥」と「興」は酷似して
おり、誤読か転写ミスで「興野」になったのだろうと考えられており、町のすぐ北の隣町に「奥野
邑公園」を設置している。また地名用語では荒野・高野・興野などはいずれも「こうや」と呼んで
新開地を表したので興野はその和訓ではないかと説く説もある。まだまだ農地の目立つ新興住宅地
域。



■松月
 1丁目5番にある和菓子屋。イトーヨーカ堂西新井店のすぐ前に開業して30年。和菓子の心を大
切にした四季折々の季節感のある菓子、下町情緒が感じられる親しみのある菓子を多数取り揃えてい
る。商品は総てこの店自慢の自家製餡を使用した和菓子の製造販売。

 団子 3種
 最高級の上新粉で搗きあげた3種の団子。みたらし団子、あん団子、そしてよもぎをふんだんに使っ
てある草団子。いずれも柔らかく歯ごたえのあるよう仕上げてるぞ。



■東京朝鮮第四初中級学校
 1丁目18番にある。昭和20年9月立本木町で「国語講習所」として発足。その時の生徒は20
名、教員3名だった。同22年「東京朝鮮足立初等学院」と改称。同23年「東京朝鮮第四小学校」
に改称。同30年「東京朝鮮第四初級学校」と改称。同39年「東京朝鮮第四初中級学校」と改称。
同41年鉄筋校舎完成。同59年現在地に新校舎完成して移転。平成7年創立50周年。この学校は、
低学年(1〜3年)、高学年(4〜6年)、中級部(1〜3年)の9年間で構成されている。民族の
言葉、歴史、地理、文化、風習を身につけながら日本で生きて行くために日本の学校と同等の科目を
同時に習っている。現在は3、4世が主流だが、韓国から来た子どもたちも一緒に学んでいる。



興野神社

 2丁目1番にある。祭神は須佐之男命、誉田別尊、建御名方命の3柱。元は氷川神社と呼んでいた
が、昭和15年に興野神社と改称した。昔は寺だったという言い伝えがあり、その根拠として拝殿の
柱が赤塗りであることがいわれている。本殿の中には石の仏像があるという。その本殿は大正3年の
建立。稲荷・八幡・三峰の3社が合祀されている。境内に見事な大イチョウと寛政八年(1796)
の漱盥石がある
 本祭は9月15日。13日には幟を立て、14日が宵宮だ。本祭には神輿・お囃子・神楽が出る。
また昭和初期には花農家が多かったので花の展覧会が催されていた。幟は6間〜7間ほどあり、幟の
建て方は現在鳶職が行っているが、以前は泰子の合図で村の若者と中年の男が集まり、枠を作ってい
けていた。神輿は昭和7、8頃に、東厨子で味噌を作っていた人が株で儲けた金で買って寄付した。
当時のお金で数百円だったとか。東厨子への寄付だったが、今は興野全体の神輿となっている。

 
獅子頭
 江戸時代に病気退散のため担いで廻った大型のもの。祭礼の際には獅子堂という組立式の堂を作っ
て安置していた。この獅子堂は戦争中薪にして燃やしてしまったんだと。

 
大イチョウ
 本殿を覆い隠すように、まっすぐに伸びている2本のイチョウの巨木は圧巻だ! 幹の周囲は最大
で4.42mもあり、区内で最も太いことで知られている。



■善応寺
 2丁目20番にある真言宗豊山派の寺院。門柱左手に「浄土宗善応寺」、右手に「元浅草橋場くさ
もち寺」と刻まれている。この寺は旧大谷田善応寺と浅草橋場の正憶院(くさもち寺)が合併した寺
で、善応寺が貞治二年(1363)寛朝上人の開山、正憶院が天正十一年(1583)の創建と伝え
られ、行基作と伝えられる薬師像がある。本尊は聖観音で、本堂は昭和40年に改築された鉄筋コン
クリート造りの壮大なもので、境内の大師堂は慶長二年(1597)の建築といわれる。四国八十八ヶ
所の本尊を線刻した石碣群があり、元治元年(1864)に拵えたものだ。それから応永八年(14
01)を筆頭に以降の板碑が沢山出てさ、その他寛永十一年(1634)九月二十七日銘の地蔵、寛
保元年(1741)七月三日銘の宝篋印塔があるんだよ。

 遊女供養塔
 正憶院にあったもの。

 石橋供養塔



■雷神様
 2丁目25番の辺りにあったが、昭和7年8月本木の妙見社に合祀され中曽根神社となった。その
日夜中に白装束で担いで行ったという。このことを興野では「雷神が神明に嫁にいった」と表現する。



庚申塔2基

 2丁目30番にある。一つは「奉納庚申供養」の文字と3猿を刻む板碑型。もう一つは正徳四年(1
714)日月・青面金剛「奉納庚申為…」一鬼・二鶏・三猿が彫ってある。




【小台】(おだい)1〜2丁目                     昭和41年4月1日
 沼田村から独立したという。元和二年(1616)に見えるのでそれ以前の開村。明治22年「市
制町村制」により江北村の大字、昭和7年足立区が成立して小台町となリ、同23年本木6丁目の
一部を編入した。同41年新住居表示により、小台町の大部分に宮城町の各一部をあわせた町域を
「小台」とし、平成元年小台町・本木6丁目宮城町の各一部を編入して今日に至っている。1丁目
の住宅地はごく僅か、1〜5番、11番、13〜27番はほぼ企業用地。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『足立区史』など。

 小台の由来
 地名の
由来は不明だが集落は一段高いところにあった。小台は微高地(小さな台地)に村を開い
たことによるものか? 小台の本村は荒川放水路の開鑿に飲み込まれて失われ、現在の町域は当時
の萱野か耕地で集落はなく、わずかに小台の渡し場周辺に数軒の人家が見られたという。町内に特
別なものは何もない。だから小台は小台橋だ!



■安全稲荷
 1丁目2番にある。



■足立小台駅
 1丁目20番、尾久橋通りの東側にある都営日暮里・舎人ライナーの停車場。平成20年3月30
日開業と同時ににできた。ホームは島式1面2線構造で3階にある。ホームと改札階を結ぶエレベー
ター設置。改札口は1ヶ所のみで2階にある。出口は東口の1ヶ所のみで、段差なしでロータリーが
ある駅前広場へ出ることができる。この広場は堤防上を走る道路と同じ高さにあり1階のように見え
るが実は2階なのだ。堤防の下へ下りることができるエレベーターもある。
 足立小台駅がある小台地区は、隅田川と荒川に挟まれた東西に細長い地区だ。都電荒川線に小台停
留所があるが、こちらは小台ではなく荒川区西尾久にある。



■荒川商業高等学校
 2丁目1番にある都立高校。委細不詳



■天祖神社
 2丁目9番にある。昭和30年に小台住民の強い要望により、江北氷川神社に合祀されていた天祖
神社を分祀して、新たに社殿を創建した。境内には水神などを祀っており、隅田川・荒川に挟まれた
当地の水神に対する厚い崇敬が窺える。祭神は天照大神。例祭は9月15日。 



金龍山珠明院
 2丁目42番にある曹洞宗の寺。本尊は聖観音像。開山は存廓大和尚、弘治元年(1555)十一
月五日に示寂した。現在の堂宇は戦後の再建で、木造の瓦葺きだ。入口すぐに板碑型庚申塔はじめ数
基の石造物が並び建つ。その中に等身大の地蔵があり、

   六地蔵弐番目武州江戸講中
   元禄十二己卯年七月十五日


 の銘文があり、江戸地蔵詣でのなごりと『新編武蔵風土記稿』にある。桐之谷にあった真長庵は、
荒川放水路(今の荒川)開鑿で立ち退きとなり、本尊の聖徳太子と堂宇がここに移転している。宝物
に幅約2.7mの大涅槃の大掛軸がある。また墓地に寛永
二年(1625)、同十一年(1634)銘の庚申塔がある。



■小台の七庚申
 2丁目47番の下川宅の東北角にある。荒川放水路は江北村から多くの農民を追い払い、田畑を潰
した。ここにある7基の庚申塔は、放水路となってしまったところにあったものだ。下田亀蔵が大正
初年に集めてここに安置した。承応三年(1654)をはじめ、元禄・正徳・元文のものだ。何れも
青面金剛と3猿が陽刻されてる立派なもの。



○小台殺人事件 (未解決)
 平成11年5月6日午前9時50分頃足立区小台2丁目のアパート「沢田荘」101号室で、この
部屋に住む会社員(63)が腹部から血を流して死んでいるのを、訪ねて来た勤務先の社長が見つけ
通報した。警視庁捜査一課と西新井署の調べによると、六畳間の布団の上にうつぶせで倒れ、左右の
腋腹を1ヶ所ずつ刺されていた外、首にも傷があった。凶器は見つかっていない。被害者の男性は一
人暮らしで、荒川区内の冷凍機設備工事会社に勤務。会社が休みの5日の朝、自転車で出かけるのを
アパートの人が見ている外、室内に晩酌の跡があったことから、同日夜に殺された可能性が高い。6
日朝被害者の男性が出勤しないのを心配して社長が訪れ、鍵がかかっていたため、管理人に合鍵を借
りて入った。なお5日夜、自宅で男と話している姿を近所の人に目撃されており、このことからも5
日深夜〜6日未明に殺害された疑いが強い。なお重要参考人として、被害者の郵便局の口座から現金
59万円を引き出した人物を手配している。




【加賀】(かが)1〜2丁目                      昭和50年7月1日
 十九世紀半ばに成立した加々皿沼村。そのむかしは加々と皿沼は別々で鹿浜村の小名加賀と皿沼
だった。明治22年「市制町村制」により江北村の大字、昭和7年足立区加賀皿沼町となり戦後に
至る。昭和50年新住居表示により加賀皿沼町・北鹿浜町・北堀之内の各一部をあわせた町域を現
行の「加賀」とした。新住居表示の際○○が丘%Iな意見もあったが、土地の人たちがしっかり
していたので軽薄に流されなかった。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『足立区史』など。

 加賀の由来
 加賀が残ったのは良いのだが、由来はさっぱり判らない。加賀国とは関係ないようで白山神社も
ない。「カガ」は地名用語では「耕作化不能の平坦な草地また露出した岩」とあり、とすれば加賀
は「耕地化できない荒地」つまり不毛の地だったのか? 芝原だったのか・・・ 板橋区加賀とは
ちょっと違う。だから加賀の加賀らしいところは見つからない。加賀稲荷神社と加賀天満宮が向か
いあってある。



■庚申塔

 2丁目6番の加賀町会会館にある。「奉造立庚申之石塔為二世安楽也」と刻んだ板碑と「庚心講」
と刻んだ丸彫り地蔵。



■加賀天満宮

 2丁目18番にある小社。皿沼小学校の通学路安全点検で、子どもが引っ張り込まれる心配がある
のではという声があり、塀の高さを低くした。



■加賀稲荷神社

 2丁目19番にある。祭神は宇迦能御魂命。例祭は9月17日。創建は不詳。もと浅香氏の氏神だっ
たのを嘉永の頃(1848〜53)に現在地に遷座して村の鎮守とした。向方にある浅香氏の墓碑に
は、嘉永八年(1631)十二月一日の銘があり、境内には文久年間の手水石、嘉永三年(1850)
造の白狐像がある。この社は古来より風病に霊験があるといわれ、近在はもとより埼玉方面からの参
拝者も多い。



■加賀中学校
 2丁目25番にある区立校。昭和59年開校。平成15年創立20周年。

 校歌
緑になろう」 作詞・友竹辰  作曲・友竹正則 編曲・亀山法男
  1.緑になろう みんなで高く
    空に向かって 伸び続けよう
    公孫樹のように爽やかに繁く
    憩いを宿す 緑になろう
    どんなに風が 吹きすさぶ時も
    加賀 加賀 加賀 我ららの中学校
    加賀 加賀 加賀 我らの母校
  2.翼になろう みんなで遥か
    微風に乗って飛び続けよう
    白鳩のように優しく敏く
    平和を謳う翼になろう
    どんな雲が厚く閉ざしても
    加賀 加賀 加賀 我ららの中学校
    加賀 加賀 加賀 我らの母校
  2.光になろう みんなで遠く
    宇宙の彼方 明日に向かおう
    太陽のように暖かく強く
    希望を目指す光になろう
    どんなに夜が暗く深くても
    
加賀 加賀 加賀 我ららの中学校
    加賀 加賀 加賀 我らの母校
  




【加平】(かへい)1〜3丁目                    昭和43年12月1日
 首都高の「加平ランプ」で有名だが、慶長〜元和のころ神奈川県の稲毛からやってきた伊藤嘉兵
衛が開発した「
嘉兵衛新田」に始まり、寛永の綾瀬川新鑿により東西に二分された。明治22年「市
制町村制」により花畑村大字嘉兵衛新田となり、昭和7年足立区の成立で綾瀬川を境に東・西加平
町に分かれた。 同43年新住居表示により東加平町は一部を綾瀬7丁目に譲り、残りの大部分に、
五兵衛町・下谷中町・内匠町・花畑町の各一部をあわせた町域を現行の「加平」とした。同46年
残余の一部を谷中2丁目に、同48年一部を谷中4丁目に譲り新住居表示を完了。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『足立区史』など。

 加平の由来
 伊藤嘉兵衛の嘉℃嘯ゥら「加」を抽出し、兵衛≠「平」に直したものだ。理由は「嘉兵衛」
では画数が多くて煩雑だということだ。環七通りを通す綾瀬川に架かる橋を「新加平橋」という。
その南に嘉兵衛橋が架かっていたが加平ランプ建設のため撤去されてしまった。
 加平は、江戸時代の嘉兵衛新田の東川端・菖蒲沼・井堀添の三つの字(あざ)を基礎として成立
した。嘉兵衛新田が開かれる以前のこの地域は「ヤムラ」と呼ばれていたという。ヤムラは谷村と
も八村とも書かれていたが、開拓前のこの地域は低湿地帯であり、「谷」とは、そこから付けられ
た名であることが多い。実際、中川西岸に「大谷田」、加平と大谷田の間に「谷中」があることか
ら考えると「谷村」方が適切だろう。



■えぼ地蔵
 1丁目1番、環七通り南側の首都高速6号線加平ランプ裏の道路沿いに小さな祠がある。この祠に
祀られている身の丈1m程の地蔵像が『えぼ地蔵』だ。元は現在地より40mほど西の旧嘉兵衛橋東
詰に安置してあったが、昭和39年区画整理によって現在地に移されたのだ。

 由来は、次のような話が伝わっている。
 寛永年間(1624〜44)に綾瀬川が運河として新たに開削され、その後元禄八年(1695)
頃に川幅を拡張する工事を行なった。その際,嘉兵衛橋の直ぐ上の所から発掘されたのが、この『え
ぼ地蔵』で嘉兵衛橋東詰の伊藤時雄の先祖の土地の一角に祠を作り祀られるようになった。
 ご利益は、いぼで悩んでいる人が、この『えぼ地蔵』に「いぼが取れます様に」と願をかけ、供え
てある塩を持ち帰り、これを数回いぼに付けているといぼがとれたという。そして地蔵像の霊感によ
りいぼが取れた人は、持ち帰った塩の倍の塩を地蔵像に供えます。こうして供えられた塩が、また次
の人のいぼとりに使われていったということだ。



■環七通り西行き首都高加平ランプ
 1丁目2番にある。東行きランプと合わせて「目玉ランプ」と俗称する。航空写真で見ると、ルー
プ式ダブルデッキの構造が二つ、丸く見えるので、そう呼んだのだろう。



■環七通り西行き首都高加平パーキングエリア
 1丁目2番にある。



■神社
 1丁目2番にある小祠。



■東加平小学校
 
 1丁目12番にある。昭和44年綾瀬小学校から分離して開校。平成16年創立35周年。

 校歌
」 中村明・作詞 石田成太郎・補  渡辺公子・作曲 早川正昭・補
  1.風 風 風 
    風が流れる 大空に
    元気な声がこだまする
    今日も学んで よく遊び
    明るい心 育てよう
  2.顔 顔 顔
    顔が並んだ校庭に
    仲良く友と手を繋ぎ
    今日も楽しく運動し
    体を強く鍛えよう
  3.夢 夢 夢
    夢が膨らむ この胸に
    希望の光 輝かせ
    伸び行く日本を受け継ぐと
    正しく広く考えよう
     みんなの学校 東加平




円光院円泉寺

 2丁目6番(東加平362番地)にある浄土宗の寺。本尊は阿弥陀如来。延宝年間(1673〜1
680)開山は単蓮社歴呑和尚、開基は伊藤嘉兵衛と伝わる。伊藤さん家は西加平にある。現在の本
堂は昭和28年10月の建築だ。寛永六年(1629)七月二十三日と刻す供養塔と寛政九年(17
97)正月、文政十一年(1828)十二月銘の庚申塔2基がある。



涌徳山本修寺
 2丁目15番にある日蓮正宗の布教所。寺風でない建物は落ち着いた雰囲気だ。創価学会との関連
は判らない。
 と書いたら、お寺さんからメールがありました。

   足立区加平の記述中、「本修寺」の項目において、「創価学会との関係は分からない」
   との評論がありましたが、当寺は。創価学会とは全く無縁であり、宗祖日蓮大聖人の「み
   教え」を約750年間純粋に守り、伝え、その時代時代で懸命の布教に励む「日蓮正宗」
   の正統な寺院であることを念のため申し上げます。

 
詳細が判った。昭和48年梅島に日蓮正宗の実修寺という寺が開創されたが、平成9年の騒動で離
脱して創価学会に走った。それでその代わりとして平成6年に総本山大石寺第67代法主日顕上人に
よって開創したという訳だ。


 
日蓮正宗
(にちれんしょうしゅう)
 日蓮を宗祖とし、日興を派祖とする仏教の宗派の1つ。日蓮系の諸宗派のなかでは、日蓮本仏論、
勝劣派などを教義とする富士門流(日興門流)に属し、「興門八本山」のうち、大石寺(総本山)、
下条妙蓮寺(本山)の2本山が所属する、富士門流中の有力宗派だ。
 宗祖の入滅後、6弟子の1人だった日興が、総本山として大石寺(たいせきじ)を建て「御開山」、
乃ち事実上の開祖となり、その教義的方向性を決定づけたが、日興は7年留まると石川氏の招きで大
石寺を退出、晩年は重須談所(現在の日蓮宗北山本門寺根源・重須本門寺)に移住し、日目に血脈を
譲ったのち、晩年は師弟の教育・指導に当たり、この地で没した。日蓮正宗と正式に名乗るのは明治
45年で、それまでは日蓮宗勝劣派の一宗派(大石寺派)、一時は富士門流各山と連合し「日蓮宗興
門派・日蓮本門宗」という富士門流八本山による連合宗派も作っていた。日蓮本門宗時代は、管長は
八本山からの輪番制となったが、大石寺本末・中末が政府に独立が公許されこれから独立し、明治3
3年「日蓮宗富士派」と公称し、同45年に日蓮正宗と改称し現在に至るが、法華経正宗分の意味合
いからであろうか、少なくとも江戸時代中期には自宗派を「正宗」と呼ぶことがあったことが金沢郷
土史の文献「正宗の題目」から分かるという。

 ・歴史
 日興は、宗祖の本弟子6老僧の1人として積極的な折伏(しゃくぶく)に目覚しい成果をあげ、特
に駿河(静岡県)において強力な教団組織を創りあげた。この急速な布教展開は他宗派関係者や鎌倉
幕府内権力者の警戒心を招き、(弘安二年(1279)には熱原郷付近の僧俗が徹底的な弾圧を受け、
最終的に3名の農民信徒が殉教を遂げるという事件も起きている(熱原法難)。宗祖日蓮滅後廟所の
6弟子による輪番制が敷かれたが、

   戦乱や疫病、遠方の布教活動を理由に日興以外の五弟子が輪番制を放棄。本弟子6老僧
   の1人の日向の示唆によって地頭波木井坊六郎実長が謗法行為をして、身延山久遠寺別
   当職の日興はやむなく身延離山した。


 と、日蓮正宗や日蓮本宗などの日興門流でいわれている。日興は、正応二年(1289)に多宝富
士山下之坊を開山し、多宝富士山下之坊は現在では富士門流・日興門流発祥の聖地とされている。翌正
応三年(1290)日興は南條時光の寄進によって富士山の麓に大石寺を開いた。その後長きに亘っ
て、通称とて「富士門流or日興門流」と呼ばれた「日興の日蓮宗」の流れを汲む諸派は、勝劣派・
一致派48本山が戦前の宗教政策により連合した日蓮宗とは教義的にも宗教行為の交流はないが、学
術面での交流を持っており、日蓮宗僧侶が大石寺に訪れることがある。とりわけ日蓮正宗では現在で
も、日蓮の正しい教えが日興 - 日目 - 日道と続く法脈以外には伝わらなかったとして、日朗系など
の全ての他門流、さらには他の富士門流諸派(後世になって日蓮宗と妥協的な態度を取るようになり、
大石寺に従わなくなった)までも全て謗法としている。江戸時代、大石寺は江戸城では独礼席を許さ
れ、また第25世の日宥は後水尾天皇の皇孫であり、第6代将軍徳川家宣正室の天英院の猶子(養子)
に迎えられている他、皇室や公家・将軍家や大名家などの崇敬を得たが、他の宗派と同様に布教活動
は江戸幕府の厳しい統制を受け続け・加賀藩・仙台藩・伊那・尾張墓・八戸藩などの各地では法難が
続発した。尚「金沢法難」は身延山久遠寺を総本山とする一致派日蓮宗の石川県羽咋市・金栄山妙成
寺(後に本山)が、加賀藩に虚偽の答申をしたために日蓮正宗が被った法難で、後に一致派日蓮宗妙
成寺は虚偽答申の犯罪行為が露見し、閉門蟄居の刑を受けている。このように日蓮正宗が被った法難
の殆どは身延山久遠寺を本山とする一致派日蓮宗の讒言によって被るに至った例が多い。なおこの金
沢法難については郷土史家の向敏子の著による『金沢法難を尋ねて』に詳しく書かれているよ。
 さて明治維新を迎えると、大石寺教団と国家権力との間に新たな緊張関係が生まれた。つまり神道
の国教化を宗教政策の根幹とした明治政府は、仏教各派に対しては、行政制度上の統合整理強制によっ
て分割支配を図る方針を採った。この背景として、日蓮宗管長新井日薩らによる「全日蓮門下の統合」
を目指す画策もあった。そこで大石寺第54世日胤は、明治6年に教部省へ「大石寺一本寺独立願」
を提出し、以降も数度に亘って諌暁を繰り返したが、遂に容れられず、結果的に同9年より、富士門
流の系列に属する大石寺・下条妙蓮寺・北山本門寺・京都要法寺・小泉久遠寺・保田妙本寺・西山本
門寺・伊豆実成寺の8本山は行政上、日蓮宗興門派(後に日蓮本門宗と改称)として分類され、行政
上の宗派代表としての「興門派管長(本門宗管長)」の職は、8本山が交代で務めるという形を余儀
なくされ、同14〜15年にかけては第55世法主日布は第4代の、同24〜25年にかけては第5
6世法主日応が第5代の管長に就任している。大石寺派僧俗にしてみれば、大石寺の住職は依然変わ
りなく法主(ほっす)の地位ではあるが、管長の地位は謗法の人間が占めている場合もある、などと
いう、信仰上極めて耐え難い異常事態が続き、教団の存立そのものも危ぶまれる事態となった。しか
しその後日布・日応と、数度にわたり政府への抗議活動と他の7本山に対する破折活動が続けられた
結果、漸く同33年本門宗からの分離独立が認可されて「日蓮宗富士派」と公称するようになった。
そして明治45年6月7日第57世日正の決定により、現在の「日蓮正宗」へと宗派名の変更が行わ
れた。

 ・創価学会は信徒団体ではなかった
 なお昭和5年に、牧口常三郎、戸田城聖らにより、日蓮正宗の教義と牧口の「価値論」を合体させ
た教義を奉ずる教育団体として「創価教育学会」が設立され、初代会長には牧口が就任したが、日蓮
正宗では信徒団体として認めなかった。牧口は調書に「創価教育学会は純然たる日蓮正宗ではなく、
自分の価値論を実践する一個の独立した団体だった」と供述している。太平洋戦争終結後、第2代会
長に就任した戸田は、創価教育学会の名称を「創価学会」と改称、以後日蓮正宗も格段に発展するこ
ととなった。とりわけ昭和35年第3代会長池田大作(現名誉会長)の会長就任以降、大石寺には、
従来の法華講(旧来の檀家)と創価学会信者の寄進により大客殿や正本堂などが建立されるなど、長
らく双方の間には蜜月状態が続いた。しかし次第に創価学会において教義の変更が相次ぐようになり、
同50年代前期の路線問題を経て、平成3年11月28日日蓮正宗宗門は、当時の第67世法主日顕
の名前で創価学会を破門処分にした。しかし宗務院録事にも創価学会の組織結成を許可した事実が記
載されていないため、日蓮正宗と創価学会は一致派日蓮宗と立正佼成会の関係と同じで、正規の信徒
団体とはいえないとも指摘されている。日蓮正宗の信徒団体(講中)は末寺住職(指導教師)と信徒
の代表が宗務院に「組織結成許可願」を提出し、宗務院で審議の得て日蓮正宗の管長である法主が組
織結成許可書に署名押印するが、創価学会は組織許可書の交付も受けていなければ、初めから指導教
師も存在しておらず、宗内ではゲスト的に扱われていた訳だ。
 創価学会は元々は井上日召の系譜を引く右翼団体で、戦後成太作(池田大作)に乗っ取られて朝鮮
系の宗教的政治団体となったものなのだ。現在では在日韓国朝鮮人が組織中枢を占め、ロックフェラ
ー財団の支援を受けて日本の完全支配を目的とする。というのは、彼らは戦前日本に支配された恨み
というか、トラウマというか、日本人に日本の政治を任せていたら、またぞろ日本に朝鮮半島が侵略
されるという危惧感がある。またアメリカ(ユダヤ)としても日本の復讐を恐れるから、韓国人朝鮮
人を介して間接統治しておく必要がある。もしMMサテライト、アトミックボン、トランスミッター
が普通にある現代において、もし日本がブリッツ(奇襲)を行ったら、アメリカは一溜りもない。瞬
時にしてアメリカの都市という都市はシティボンによって雲散霧消してしまう。アメリカも必死だ。
 在日・帰化人の日本浸透は、創価学会と公明党に留まらない。自民党・民主党はじめ各政党、官庁
官僚、財界、芸能界、スポーツ界と広く侵入し来たって、裏社会には部落系と合わさって9割に垂ん
とする。第二次世界大戦に敗北した時に日本は終わらされてしまったのだ。お前さんの知る有名人は
政治家も、役人も、学者も、ジャーナリストも、歌手も、俳優女優も、スポーツ選手も、大概は韓国
朝鮮人だ。日本人の名前を名乗るから日本人な訳じゃない。




■天祖神社
 3丁目5番にある嘉兵衛新田の鎮守。現在は嘉兵衛新田の東半に当たる加平の鎮守。祭神は天照大
神。祭日は10月16日。大鷲神社の管理。境内に寛政八年(1796)



■加平第二公園
 3丁目5番にある区立公園。公園というよりも庭園といった方がよい。よく整備された植木だ。緑
がまぶしい!テニスコート分くらいの広場もある。



■加平第一公園
 3丁目13番にある区立公園。東側はマンションだか、あとは低層の建物。この辺は、道幅が広い
ので圧迫感が無い。マンション側に遊具類が配され、広々とした広場がある。石造りの亀の椅子が面
白い。




【北加平町】(きたかへいちょう)                  昭和53年4月1日
 花畑村・芦川内匠が開発した内匠新田。昭和37年花畑町・神明町・内匠町・東加平町の各一部
をあわせた町域をことから北加平町とした。同53年新住居表示により東加平町・北加平町・神明
町・花畑町の各一部をあわせた町域を現行の「北加平町」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『足立区史』など。

 北加平について
 加平の北方に位置することによる。加平でもなく花畑でもない中途半端なエリアだ。明地・駐車
場の目立つ発展途上の住宅地。特にランドマークはないよ。
 
ウィキペディアに、以下の記事がある。

   綾瀬川東岸、加平地域の北部に位置する。住居表示における丁目がなく、それ単体で
   町域を形成する小さな町だ。町内に目だった大規模建造物は存在せず、中低層住宅街
   の中に倉庫が点在しており、商業店舗も特に見られない。この原因としては東を東京
   メトロの綾瀬車両基地、西を綾瀬川に囲まれた閉鎖的地理がこの地域の発展を妨げて
   いるとも考えられる。町内には駐車場や倉庫が多いが、これは言い換えれば交通事情
   が改善されさえすれば、今後のさらなる発展の余地があるということである。



■B29墜落

 
昭和20年4月13日アメリカの戦略爆撃機B29が墜落する事件が起きた。墜落箇所は現在の北
加平町12番8号付近だ。戦後になって墜落死したこのB29乗組員13名のための追悼碑と無名戦
士之墓が建設されたが、その後の土地区画整理事業で碑と墓は跡形も無く撤去され、近隣住民の殆ど
も戦後に新たに引っ越してきたものばかりであり、現在ではこの秘話を知る住民はほとんどいない。
B29とはボーイング社製の29番目の爆撃専用機のことで、愛称は「スーパー・フォートレス」、
「大空の要塞」とか「超空の要塞」と訳された。日本にはこれほどの大型爆撃機は無かったが、構想
として「富嶽」というエンジン6基を積んだ超大型戦略爆撃機製造計画があった。




【栗原】(くりはら)1〜4丁目                  最終昭和49年7月1日
 石塚村。元禄のころ栗原村に変わるが理由は判らない。明治22年「市制町村制」により梅島村
の大字となり、昭和7年足立区の成立で栗原町となって戦後に至る。同46年8月1日栗原町・六
月町の各一部をあわせた町域を現行の「栗原1〜2丁目」とし、同49年栗原町・西新井町の各一
部をあわせた町域を現行の「3〜4丁目」として新住居表示を完了、他は梅島、竹の塚、西新井、
島根、六月、西新井栄町に分散。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『足立区史』など。

 栗原の由来
 
由来は判んねえ。天文十年(1541)甲州から栗原左衛門尉が一族を率いてやってきたとう記
録はあるものの開墾したとは伝わってはないんよ。天正十年(1582)には大曾根村(八潮市)
の方に移ってしまう。しかも栗原左衛門尉といえば信盛、彼は武田信玄の二十四将の一人。武田家
の滅亡前にこんなところをウロウロ歩ってる訳もねえと思うんだけどな・・・ 栗の木の原っぱと
いうのも聞かないしなぁ???



■栗原山東菜
 「くりはらやまひがしな」じゃない「くりはらさんとうな」と読む。山東とは中国の山東半島だ。
白菜・キャベツのように葉が巻いて玉状になることを「結球」という。普通白菜は結球化するが、外
の葉が巻くだけで芯の葉は巻かず筒状、ラッパ状になる白菜の品種がある。それが半結球菜で普通「山
東菜(さんとうな)」と呼ばれる。区内では西新井付近で盛んに栽培されて新品種「西新井山東」が作
られ、その後栗原町で改良された「栗原山東」という品種が栽培されるようになった。これはこの地
方の特徴で畑と水田が混在し、畑が水田より僅か30〜50センチほどの高さで、種を播いた後に旱
魃がきても被害が出にくかったのさ。「栗原山東」は区内でも作る人がなくなった。現在は足立区の
北の八潮市・三郷市に移っている。足立区も市街地になってしまったんだなぁ!・・・



■ギャラクシティ
 1丁目3番にある、こども科学館と西新井文化ホールを総称した愛称。由来は、「ギャラクシー(宇
宙)+シティ(街)」から来ている。

 
西新井文化ホール
 
施設の貸し出し、講座・イベントの開催を行っている。ホール(902席+車椅子スペース)舞台
(約470u)、楽屋(3室)、シャワー室、リハーサル室がある。
03‐5242‐8161

 こども科学館
 平成18年4月から科学展示を閉鎖して青少年センターに代えた。施設の貸し出し、講座・イベン
トの開催を行っている。プラネタリウムホール、コンピュータールーム、イベントホール、研修室(2
階、3階)がある。

 青少年センター
 若い仲間のグループ活動や出会いの場。施設の貸し出しやイベントの開催を行っている。音楽室、
レクリエーションホールなどがある。



■猿仏塚

 1丁目4番の東南角、島根小学校の西南門の前、足立こども科学館の駐輪場の北側にある。3基の
石塔が並んでおり、猿仏塚という標柱が建っている。右が寛永十四年(1637)の念仏講衆供養塔、
他は庚申塔で、寛永八年(1631)と延宝八年(1680)のもの。「石堺村大施主十二人」とあ
るが意味は不明。寛永六年の庚申塔は区内で二番目に古い。
 由来は、この辺りの或る農家に飼われていた利口な一匹の猿が、何時ものように留守番をしている
と、寝かせてあった赤ん坊が泣き出した。家人が風呂にいれると泣き止むのを学習していた猿は、む
ずかる子に行水させようとしたが、猿知恵の悲しさで、湯を薄めることまで気づかず、熱湯に入れた
ため赤ん坊を死なせてしまった。とんだことをしでかしたと思った猿は、それから数日間、餌も食べ
ずに墓守りを続けてがししてしまった。哀れに思った家人と村人は、猿をここに葬ると楓の木を植え、
塚を築いて供養したという。しかしこの話は、井原西鶴の『懐硯』に筑紫の国の物語として既に載っ
ており、太宰治も『新諸国噺』でこの話を書いているが、恐らくは庚申待ちの夜話として、この話は
流布したものだろうという。
 ただ風習として面白いのは、この塚が何時しか子供の厄除け塚となり、子供が病災に見舞われると
泥団子を供えて願を掛け、それが叶うと米団子を供えるようになったことだ。この願掛けは次第に減っ
ていったが、今でも信ずる人はいて、この風習は続いている。



■井堀北公園

 1丁目15番にある。東武線がすぐ脇を通り、向かいには、勝田堀公園がある。栗原地下道と西新
井駅側にある小さい地下道との間にある公園だ。中規模公園でじゃぶじゃぶ池も遊具も種類があるよ。
ベンチにはご近所の人なのか寛いでいる姿がある。

 
じゃぶじゃぶ池
 小さい子たちが、安心して水に親しんで遊べるように整備された無料の施設だ。区内に21ヶ所あ
り、それぞれ特徴がある。ここはかわいらしい人気だ。オムツの取れた赤ちゃん以上の幼児が、保護
者同伴で夏の間だけ利用できる。事故が起きないよういろいろ制約があるのは当然だ。



■栗原団地

 2丁目5〜7番・11番を占める。



■氷川神社

 2丁目1番にある。祭神は素盞嗚尊・誉田別尊の2柱。境内に松、銀杏などの老木が茂り、第六天
社、稲荷の小祠がある。明治初年八幡社を合祀した。天明八年(1788)七月の漱盥石がある。
 



■石塚公園
 2丁目3番にある、区画整理の余地を区立児童公園とした。遊具も多く、まあ普通の児童公園だ。
石塚は栗原村の旧称。江戸時代に栗原村となってからは字として残っていた。



■庚申塔

 3丁目5番の木島邸にある光背型地蔵。同番地に木島家は3家ある。



迦羅陀山千蔵院満願寺

 3丁目6番にある新義真言宗豊山派の寺。西新井西新井大師総持寺の末寺だったが、昭和14年、
総本山長谷寺直末となった。開基は不祥だが、『本尊地蔵縁起』に、

   天正二年七月二四日、不思議な廻国の異形の翁、延命地蔵を負い来り、時の住職覚雅に
   授く。学雅以って、当寺の本尊とする


 とあり、人皇五5代文徳天皇の臣、参議小野篁卿の作と伝えられている。古は小庵であって修験者
千蔵坊という者が住し、その名の一字を取ったといわれている。大正12年、関東大震災で伽藍が大
破し、昭和20年4月13日愚かなアメリカ軍の無差別空爆によって本堂・庫裡を焼失したが、本尊
の延命地蔵菩薩像は無事搬出された。以来同45年に本堂・山門を完成し、同60年、遠忌記念事業
として、墓地改修、弘法大師修行像、聖観音像、六地蔵、水屋を建立、碁盤の目のように整備された
墓地を日夜聖観音が見守っている。また平成3年に現在の書院、庫裡が完成した。寛永五年(162
8)の墓碑、貞享二年(1685)の石地蔵、宝暦四年(1754)の漱盥石(手水鉢)がある。

 狸塚
 和尚が悪戯で狸を焼き殺してしまったので供養のために建てた供養塔。



無量山徳寿院栗原寺
 4丁目1番にある新義真言宗の小さな寺。西新井大師総持寺の末寺。本尊は阿弥陀如来三尊種子。
開山は享保七年(1722)十二月二十四日に寂滅した栄祐和尚。現在の本堂と庫裡は、明治38年
の建築で、墓地に寛文十一年(1671)の墓碑、元禄十四年(1701)の庚申塔がある。



■庚申塔2基
 4丁目4番にある。「弥陀三尊種子 奉供養庚申待念佛講結衆二世安楽」の文字を刻む。延宝八年
(1680)に建てた板碑型。もう一つは安永三年(1774)日月「青面金剛」三猿を刻む。



■栗原北小学校
 4丁目25番にある区立校。昭和52年栗原東小学校から分離して開校。平成19年創立30周年。

 校歌
春はかすみに」 作詞・若山芳枝  作曲・南弘明
  1.春は霞に包まれて
    白き学舎 若き樹々
    秋は真澄の陽に映えて
    輝く吾等の栗北小
  2.足立の郷に根を下ろし
    知識の恵み 枝に受け
    幾年月も揺るぎなく
    伸び行く吾等の栗北小
  3.空に理想の虹を掛け
    正しき道を一筋に
    希望に燃えて逞しく
    羽ばたく吾等の栗北小




【弘道】(こうどう)1〜2丁目                    昭和41年1月1日
 弥五郎新田。昭和41年新住居表示により五反野北町の大部分に四ツ家町・伊藤谷西町・五兵衛
町の各一部をあわせた町域を現行の「弘道」とし、明治11年に開校した小学校名から拝借した。
2丁目はほとんどが都営団地。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『足立区史』など。

 弘道の由来
 幕末に水戸学を修めた中村宗右衛門という勤皇浪士が寺子屋を開き、その流れを汲む小学校はそ
の縁故から水戸藩校「弘道館」を大いに意識して校名に採用した。
 その水戸弘道館は『論語』衛霊篇の

   
人能弘道非道弘人(人能ク道ヲ弘ム。道人ヲ弘ムルニ非ズ)

から選んでいる。しかし現在弘道小学校の住所は西綾瀬4丁目になった。

■第十一中学校

 1丁目20番にある区立校。昭和22年旧制都立江北中学校に間借りして開校。同23年私立東洋
学園校舎に生徒収容。同24年私立東洋学園を買収、現在地に移転。同32年創立10周年を記念し
て校歌制定。同33年3階建て鉄筋校舎に改築。同39年東綾瀬中学校を分校。同48年青井中学校
を分校。平成9年創立50周年記念庭園完成。平成19年創立60周年。

 校歌富士ヶ嶺を」 作詞・作曲不詳
  1.富士が根を空の遥かに
    甍高きこの学び舎
    勤しみて吾等極めん 雲は上がる
    夙
(つと)に立つべし 逞しく今日を
    吾等が足立 足立第十一中学校
  2.綾瀬川 水は光りて
    緑あかるこの園の辺
    健やかに吾等鍛えん 友は呼べり
    直くつくべし 若人の責に
    吾等が足立 足立第十一中学校
  3.五反野は実り豊
(ゆた)けく
    たいきますむこの通い路
    美しく吾等夢みん 風は薫る
    期して待つべし 朗らかに明日を
    吾等が足立 足立第十一中学校

 
シベリア校舎
 戦後の校舎がバラック(簡易な急造の貧弱な建物)だったので、床は所々抜け、窓はガラスでなく、
今の網戸にセロハンを張ったようなものだった。冬は北風がピュ-ピュ-と隙間から入り、とても寒く
て凍えながら勉強したものだ。厳寒の地、ソ連(ロシア)のシベリアをイメージしたもの。当時70
万からの日本兵が抑留されていたので、とても身近な言葉だった。
 しかし当時隙間風の吹き込むようなオンボロ校舎は日本中にあったよ。



■弘道第一小学校

 1丁目38番にある。昭和40年4月弘道小学校分校として設置。同年9月独立して弘道第一小学
校開校。同41年校歌・校旗制定。同48年青井小学校を分校。平成17年創立40周年。

 校歌
都の北に」 作詞・古賀残星  作曲・安西愛子
  1.都の北に春の風
    人は集まり野は開け
    紫匂う筑波山
    心豊かに智を磨く
    ああ弘道 弘道第一小学校
  2.梅の香りは床しくも
    学びの庭に咲く歴史
    利根の流れは遥かにも
    体鍛えて生き生きと
    ああ弘道 弘道第一小学校
  3.秩父連山雪白
(きよ)
    寒風厳し人の道
    よい子 よい友 手を取って
    仲良く仰ぐ青い空
    ああ弘道 弘道第一小学校



■庚申塔

 1丁目39番にある。宝暦八年(1758)日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿を刻む。




【江北】(こうほく)1〜7丁目                 最終昭和51年10月1日
 江北村などはない。明治22年「市制町村制」により沼田・鹿浜・鹿浜新田・加々皿沼・高野・
谷在家・宮城・堀之内・小台の9ヶ村が連合して初めて江北村が成立したが、昭和7年足立区の成
立により小台大門町・小台町・南宮城町・北宮城町・下沼田町・上沼田町・沼田川端町・南堀之内
町・北堀之内町・高野町・谷在家町・南鹿浜町・北鹿浜町・加賀皿沼町・新田上町・新田下町に分
かれたため江北の名は消滅した。
 昭和44年8月1日新住居表示を実施して下沼田町・上沼田町の大部分に北宮城町・高野町・小
台大門町・南堀之内町・北堀之内町・沼田川端町・谷在家町北鹿浜町の各一部をあわせた町域の町
名に「江北」の名を復活させて「1〜4丁目」とし、同46年5月1日上沼田町・谷在家町・高野
町・北鹿浜町・北堀之内町の各一部をあわせた町域を「6〜7丁目」、同51年残りの高野町の全
部に上沼田町の一部をあわせた町域を「5丁目」とし、平成元年下沼田町・小台大門町・南堀之内
町・宮城町の各一部を2丁目を編入して新住居表示を完了した。昔のお花畑もとにかく住宅団地だ
らけだ。江北小学校・高野小学校・上沼田小学校と小学校が三つもある。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『足立区史』など。

 江北の由来
 江は墨江(ぼっこう)で隅田川の漢風表現。江戸の文人・漢学者が唱えた。それで向島一円を「江
南」というのに対する千住以北の汎称(漠然とした地域名)



■江北中学校
 1丁目17番にある区立校。昭和37年第五中学校分校として開校。同38年独立して江北中学校
となる。同41年プール完成。同42年校歌制定。

 校歌不明

 同43年完全給食開始。同47年創立10周年記念式典。同49年校舎8教室(特別4・普通4)
増築。同57年創立20周年記念式典。同59年正門・東壁面完成。同62年新体育館完成。
 平成3年校庭全面改修。同4年創立30周年記念式典。同5年コンピュータールーム・新図書室完
成。同7年オーストラリア・ベルモント教育使節団来校。同10年スクールカウンセラー配置。同1
3年校舎耐震化完了。同14年創立40周年記念式典。同18年校舎冷房化完了。同19年数学少人
数授業開始。2階3年生教室間仕切り新装完了。



六阿弥陀二番札所 宮城山円明(延命)院恵明寺
 2丁目4番にある単立寺院。むかしは新義真言宗豊山派だった。明治7年か9年の12月小台村に
あった甘露山応味院延命寺を合併した。本尊阿弥陀仏は、六阿弥陀の一つで、木造の坐像。身長90
cm、その胴内に天文年間(1532〜55)に修理したと書かれており、都文化財調査委員稲村坦
元の鑑定によれば、平安末期から鎌倉初期の作だという。この仏像は、元々延命寺にあったもので、
従って六阿弥陀詣での道順は変わった。寺宝として鳥羽僧正作の不動明王像掛軸、後白河法皇の宸翰
(直筆の手紙)、弘法大師像などがある。



■サクラの名所 江北五色桜/栽桜記碑
 江北橋の北詰に建てられていたが、現在は2丁目8番の五色堤公園に移設された。江北地区の人々
の脳裏から離れないものに、昭和20年頃まであった「五色桜」がある。明治19年に植樹されて以
来その思いは強く、今日に至ってもなおその復興のために力を注いでいる。高さ1mほどの碑には、
五色桜植樹の経緯が記されており、碑文の年月は明治34年3月になってるのに、
『足立区の歴史』
では、碑は、大正14年に江北五色桜が国の名勝に指定されたことを記念して建てられたものだとあ
る。どういうこと?

   賎の女も慣れぬお世辞や花盛(梅子)

 当時の熊谷堤(荒川土手)はデコボコで、歩くのも困難な状態だったそうだ。明治18年管内巡視
中に沼田に立ち寄った東京府知事渡辺洪基に、後に江北村初代村長になる清水謙吾(当時沼田村外3
か村の戸長)が、補修工事の許可を求めて認可され、翌年には堤の補修が完成した。清水は、桜を堤
の上に植えることを発案、南足立郡長の賛成も得て、植樹する苗木は、開花の時期が長い八重の里桜
を選び、 明治19年78種3225本が、長さ3200余間(約5.8km)の堤防上に植えつけら
れた。この資金は関係地元民の醵金(金銭を出し合う)によるもので、その総額は295円だったと
いうことだ。
 五色の代表的なものは、白妙(白)、関山(赤)、鬱金(黄緑)、八重紫桜(紫)、薄墨(白に近
い灰色)だということだ。
 碑が建てられたのは大正14年だが、文章自体は明治24年に、清水謙吾が記した「栽桜記」が基
になっている。清水は、植樹から5年経ち、長じた江北五色桜を、奈良の吉野・京都の嵐山の桜と並
びうる存在として、誇りを以て書き記している。桜の寿命は50年といわれるので、30年目ごろが
最盛期な訳だが。江北五色桜の場合は、明治末期からが最盛期だった。この花見のために、隅田川に
は多くの乗合船が出たり、そのころ盛んとなった隅田川定期航路が、臨時便を江北まで延長したりし
て、その賑わいに地元は大変に潤った。五色桜の名は、当時の新聞に「五色に彩られ」と記事が紹介
されたことに始まるという。『足立区の歴史』に、

   「人の浪よるや堤の花ざかり」(積雪)を「二、三里は桜に歩む堤哉」(猷浦)と散策す
   れば、「川越しに冨士を粧ふさくら哉」(小石)と冨士もほんのり張るの粧いをして見え、
   その川の流れには「つつみ十里さくらの外は白帆かな」(笑山) 白帆の舟が音もなく滑
   るように川を下って行く。「荒川へやがて散りこむさくら哉」(香山) 花びのら散るの
   はさびしく、「江北の名残もつきぬさくら哉」(如一)と、人々は春の過ぎるのを惜し
   み、「惜みおしみ桜に暮れて土手の月」(祐宣)と月夜の風情を詠んでいる。


 
三親王の訪問
 
明治43年4月24日、時の皇孫,迪宮(みちのみや=昭和天皇)・淳宮(あつのみや=秩父宮)
・光宮(てるのみや=高松宮)の三親王が、花が一番見事だといわれた熊の木辺りまで、2頭立ての
馬車で桜見物に訪れられたことがある。見物の後、江北小学校の1教室を休憩所に立ち寄り、徒歩で
当時まだ野道だった大師道を進み、西新井大師を参詣された。

 
五色堤公園

 2丁目8番にある

 里帰り桜
 昭和27年日米親善のためにポトマック河畔の苗木555本が寄贈され、孫桜の里帰りと喜ばれ、
それを機に全国の桜の名所から再び珍種が集められて、荒川堤下・国道4号線・西新井大師などに植
えられたが、堤下と国道の桜は排気ガスのため全滅した。尾崎行雄東京市長によってワシントン市へ
贈られ、ポトマック河畔に育った荒川の桜が、レーガン大統領ナンシー夫人によって再び里帰りして
復活への道が開かれた。かつての荒川堤の桜は78種もあったと言われ、楊貴妃・鬱金・駿河台匂・
御車還・一葉・関山・松月などなど、五色桜復活に賭ける地元の熱意は高く、首都高速王子線で、世
界最大の2階建て構造(ダブルデッキ)の江北ジャンクションは『五色桜大橋』と名付けられた。

 「名勝荒川堤櫻」の碑
 江北橋北詰付近にあるらしい。未確認。名勝解除になっているので区役所で撤去して保管してる可
能性もある。
 ※発見! 荒川の改修工事によって桜の木は切り取られ「記念碑」は現在は都市農業公園に隣接す
る新しい荒川堤防上に移されてたよ。



草堂山地福寺
 2丁目38番にある単立寺院。かつては新義真言宗豊山派恵明寺の末寺だった。本尊は地蔵菩薩。
客尊として氷川神社の本地仏である十一面観世音を安置している。本堂は昭和13年2月の建築だ。
本堂の右は鉄筋コンクリート2階建ての庫裏というか住宅。入口が閉まっている閉鎖寺で、墓所あり
と書いてあるが境内には見当たらない。



■江北総社・氷川神社
 2丁目43番にある。神社一帯は、『足立姫伝説』(聖武天皇の御代・いまから約1300年前)
発祥の地としても知られ、江戸時代には「六阿弥陀詣」の参詣者で大変賑わいを見せた地域だ。現存
する手水鉢(庚申塔も兼ねている大変珍しいもの)には、今から約300年前、元禄十二年(169
9)に下・上沼田両村の氏子中によって奉納されたものという刻印があり、当時より地域の篤い崇敬
を受けていた事が窺える。当神社は、明治初年村社に昇格し、同時に旧江北村(沼田、鹿浜、鹿浜新
田、加賀皿沼、高野、谷在家、宮城、小台、堀之内)9ヵ村の総本社となり、お正月、節分、九月の
秋季大祭には盛大な祭礼行事が執り行われている。
 戦後までは、旧江北村全体から、江北小学校に子どもたちが通っていたため、境内で遊んだ経験を
持つ人は多く、学校の記念日、神社祭礼日などには、全校生徒が連なって氷川神社にお参りして、紅
白の饅頭を貰って帰ったものだ。昔の江北小学校の応援歌の中には氷川神社が歌われており、当時の
子供たちには思いで深い場所だった。境内に唯一残る桜の木は、神社のすぐ近くにあった、荒川の五
色桜並木の株分けだといわれている。
 平成11年には、地元氏子、並びに旧江北村全体の氏子・崇敬者から氷川神社宮御神輿・御神輿蔵
改修の奉納を受け、現在でも連綿として篤き崇敬を受けている。元旦は、大太鼓の音とともに多くの
参拝者で賑わう。初詣の参拝者には、20年ほど前から神前に上がっていた甘酒を振る舞っており、
参拝者同士の会話の場として近隣に有名となり、現在では多くの近隣の神社で、これに倣って初詣の
接待がなされている。初詣や大祭、節分祭などの祭事の時は、旧江北村17社の総本社であることか
ら多くの人々で、境内が埋め尽くされる。その数も年々増えてきており、近年益々その賑わいを増し
ているよ。
 大祭では、境内には露店が並び、夜には奉納踊り、氏子町内では御神輿・山車が練り歩く。節分祭
では、豆撒きを行い、氏子の子供などが、大勢やってくる。近隣の神社の中では、例年総本社である
氷川神社が最後になるため、他の神社からの子供たちも相俟って、境内は人、人、人で一杯になる。
 現在の本殿は、今から約170年前の天保四年(1833)に再建、拝殿は明治8年の再建と伝え
られており、多くの戦・震災を免れて、昭和59年の「昭和の大改修工事」を経て、現在にその荘厳
華麗な姿を残している。また平成13年には都内でも有数の大きさを誇る『提灯掛け』が奉納される
など、現在でも連綿と地域の篤い信仰が受け継がれている。




■北野神社
 3丁目18番にある天神社。創建は文久年間(1861〜1863)と伝えられ、元は江北氷川神
社の境外末社であった社といわれている。祭りは、村時代は上沼田の西厨子と北厨子で1年交替で行っ
ていたともいわれているが、上沼田町会ができてからは町会単位で行われている。祭礼日は9月25
日。24日は宵宮(よみや)で神楽が舞われ、25日には芝居などが行われた。このように天神社に
は神楽や囃子があったが、これらを伝承していた山崎新一・江川鎌太郎・清水水平・小泉寅吉などの
人々が戦死してしまい、戦後は途絶してしまった。
 三峰神社を合祀している。この三峰神社は、元は荒川の五色桜を植えた清水家の屋敷内に祀られて
いたが、関東大震災後2年ほどして清水家が村外に移転した際、分家の屋敷に移され、その後に北の
神社に合祀された。祭神は菅原道真。例祭は8月25日。



瑠璃光山薬王院
 3丁目18番にある新義真言宗西新井大師総持寺の末寺。昭和14年12月27日奈良長谷寺の直
末となった。元禄年間(1688〜1703)の創建で、開山乗禅法印は宝永三年(1706)八月
十一日に示寂した。本尊の薬師如来は仏師春日の作という。足立区では珍しく開かれた寺で、入口の
左は墓所、参道が右に曲がって本堂となる。本堂の左が庫裏だ。
 明治7年4月小学校が開設せられ、同20年11月熊ノ木に校舎が新築されるまで教育の場に充て
られた。



如意輪山(光明山)清観院慈眼寺
 3丁目24番にある新義真言宗豊山派西新井大師総持寺の末寺。元応二年(1320)の草創で、
開山は興源僧都だ。本尊は如意輪観音菩薩像。安置仏として延命地蔵、不動明王像がある。入口の前
も、入っても墓地。正面に本堂。その右に庫裏がある。きちんとしている寺だ。境内から元応二年(1
320)、暦応三年(1340)の板碑がでた。



■船津家墓地
 3丁目26番にある。船津家はこの辺りの名家で、27番に大きな屋敷がある。



■船津家屋敷
 3丁目27番にある。船津静作は江北五色桜の功労者で、昭和4年1月23日71歳で没。



■神社
 3丁目29番にある小祠。



■帝釈天
 3丁目47番、宇田川家の西角にある小堂。

 
庚申塔
 眼鏡橋の袂の宇田川家の脇にある。かつては荒川の五色桜を植えた清水家の屋敷のところにあり、
同家で管理していたが、大正15年頃に清水家が上沼田を離れることになり、懇意にしていた宇田川
家に預け今日に至っている。



■江北小学校
 3丁目50番にある。明治7年6月第五中学区四番公立小学新井学校の三番分校(本木)・四番分
校(宮城)・五番分校(沼田)・六番分校として開設。同7月五番分校は独立して第十番公立小学沼
田学校創立。同11月六番分校は独立して第十二番公立小学鹿浜学校を創立。同10年沼田学校は三
番分校・四番分校を併合。同16年鹿浜学校新田分校設立。。同19年沼田学校は沼田尋常小学校と
なる。沼田村熊ノ木145番地に新校舎落成。同33年東京府足立郡沼田尋常小学校と改称。同24
年鹿浜学校押部分校設立。同25年新田・押部両分校独立開校。同31年江北高等小学校開設→同3
3年沼田尋常小学校に合併。同37年新田・鹿浜・押部3小学校を沼田尋常小学校に合併し江北尋常
高等小学校となる。3校は分教場として存続。大正14年押部分教場は宮城に移転して宮城分教場と
なる。昭和7年江北尋常高等小学校は現在地に新校舎落成して移転。同16年東京市江北国民学校と
改称。同18年東京都江北国民学校と改称。長野県湯田中へ疎開開始。同20年愚かなアメリカ軍の
無差別爆撃のため校舎全焼。同年8月敗戦。同22年区立江北小学校と改称。宮城分校を分離し宮城
小学校とする。同23年鹿浜分校・新田分校を分離し鹿浜小学校・新田小学校とする。同29年校歌
制定。同38年高野小学校を分校。同39〜48年4期の工事で鉄筋校舎完成。同45年扇小学校を
分校。平成16年創立130周年。

 校歌
清く流るる荒川の」 作詞・酒井鋳亮 校訂・永井麟太郎  作曲・渡辺浦人
  1.清く流るる荒川の
    五色の桜の名に匂う
    我が学舎の建つところ
    永久に平和の光あり 光あり
  2.西に芙蓉の峰仰ぎ
    東に筑波を見晴るかし
    聳ゆる校庭の公孫樹こそ
    伸び行く我らのしるしなれ
  3.歴史に輝く学舎の
    教えを忘れず身につけて
    希望溢るる江北の
    文化を此処に打ち立てん

 江北音頭(創立110年記念歌) 作詞・堀口奈々  作曲・片岡洋子
                  補作・舟口千秋  編曲・神立和明

  1.遥かに続く荒川土手の
    青葉揺れるよ 風受けて
    ここは江北 五色の桜
    江北音頭で どどんがどん
  2.凧揚げ ボロ市 華やかな
    行事の花が咲き誇る
    ここは江北 百十周年
    江北音頭で どどんがどん
  3.光溢れる この校庭に
    集うみんなと大公孫樹
    ここは江北 手と手を繋ぎ
    江北音頭で どどんがどん


 ※創立130周年を記念した江北音頭があるが、2番の歌詞「凧揚げ ボロ市 華やかな」を「み
んなで遊ぼう楽しい集会」に、「百十周年」を「歴史のある」に差し替えただけのものだ。誰が変え
たのか不明だし、あまり意味がないように思う。

 
公孫樹
 学校のシンボル。明治20年頃に植えられた。昭和20年の東京大空襲で木造校舎は焼失したが、
このイチョウは、焼けて傷ついた部分があったものの、幸運にも生き残った。樹齢が100年以上経っ
た現在でも、平成15年に樹勢回復処置を施したので、元気よく枝を大きく広げ、幹は天に向かって
真っ直ぐに伸び、高く聳えているよ。2世は昭和49年の植樹だ。



■都下水道局熊ノ木ポンプ所
 3丁目51番にある。



■狐火
 古老の話によると3丁目と4丁目の境の道(江戸道)、特別養護老人ホーム・ハピネスあだちの東
側辺りに出たという。



■上沼田第六公園
 4丁目8番、都営上沼田団地の東側にある区立公園だ。球技のできる広場とできない広場がある。
パンダの椅子が可愛い。手入れの大変そうな公園。



■江北平成公園
 4丁目16番、都営上沼田団地の中にある近年できた区立公園。団地の直近にあるのに子どもの姿
がない。遊具はあるが雑草が生い茂っている。子どもが遊んでいない証拠だ。

 
青嵐
 嶋崎達哉作 第5回足立区野外彫刻コンクール入賞作品。 



■江北駅
 4丁目30番と西新井本町2丁目32番、尾久橋通り上にある都営日暮里・舎人ライナーの停車場。
平成20年3月30日の日暮里〜見沼代親水公園間の開業と同時にできた。ホームは島式1面2線構
造で3階にある。ホームと改札階を結ぶエレベーター設置。改札口は1ヶ所のみで2階にある。出口
は東口と西口の2ヶ所で、両方にエレベーターがある。



■高野小学校こうやしょうがっこう)

 5丁目5丁目4番にある区立校。昭和38年江北小学校から1〜5年405人を分離し「東京都足
立区高野小学校」として開校。同41年に校歌制定。

 校歌
理想の夢を」 作詞・吉田司  作曲・福田芳尚
  1.理想の夢を胸に抱き
    強く踏み出せ 今朝からは
    学びの道を一筋に
    朝日は輝く高野小
  2.互いに交わす友情は
    広い大きな輪になって
    みんなの幸せ築くのだ
    望みは膨らむ高野小
  3.多くの試練(ためし)耐え抜いて
    香り床しく咲く花の
    誉れを共に目指すの 未来溢れる高野小

 同42年プール竣工。同44年学童クラブ併設。同45年体育館完成。扇小学校新設により一部学
区移譲。同57年青空学級教室全面改修。同59年
学童クラブを西新井本町住区センタ−内に移転。
 平成2年AV教室完成。夜間照明設置。同8年パソコン教室完成。同13年教室耐震化完了。同1
4年地方自治法・学校教育法改正により「足立区立高野小学校」と改称。パソコンルーム移設。イン
ターネット接続。同15年創立40周年記念式典。同21年パソコンルーム整備によりパソコン40
台購入。同22年デジタル化に伴い大型テレビ各階配置。
 



■上沼田中学校

 5丁目14番1号にある区立校。昭和51年4月第八中学校から分校して第八中学校内に「東京都
立上沼田中学校」として開校。同8月現在地に新校舎(鉄筋コンクリート造り4階建て体育館内蔵校
舎・屋上アルミプール5コース併設)落成。移転。同59年「上沼田中学校生徒健全育成会」設立。
同61年創立10周年記念式典。
 平成3年創立15周年記念式典。同5年コンピュータルーム完成。同8年創立20周年記念式典。
同15年「上沼田中学校生徒健全育成会」創立20周年記念式典。同18年創立30周年。同20年
校舎耐震化完了。校庭改修。

 
あいうえお学校
 あ ・・・・ あいさつが飛び交う学校
 い ・・・・ いじめのない学校
 う ・・・・ 美しい学校
 え ・・・・ 笑顔のあふれる学校
 お ・・・・ 思いやりのある学校



■足立西高等学校

 5丁目7番1号にある都立高校。昭和48年12月足立高校上沼田分校として設立認可。同49年
「東京都立足立西高等学校」として開校。都立深川商業高等学校内仮校舎で授業開始。同50年7月
足立区上沼田町1380番地の現在地に校舎(普通18教室・特別2教室)完成し移転。10月第二
期校舎(特別教室・管理室)完成。同51年第三期工事(格技場)完成。所在地を「江北5丁目7番
1号」に変更。同52年1月校庭整備。4月最終工事(テニスコート・裏門)終了。同58年創立1
0周年記念式典。同61年第二校庭整備。
 平成5年創立20周年記念式典。同7年第一期大規模改修工事(A工区)完了。同8年4月制服改
訂。7月第一期大規模改修工事(B工区)完了。12月第二期大規模改修工事(体育館など)完了。
同9年第二期大規模工事(校庭など)完了。同15年創立30周年。

 校歌不明。



■上沼田小学校
 6丁目10番にある区立校。昭和47年鹿浜第一小学校内に、同校分校として上沼田小学校が開校。
同8月現在地に校舎完成して移転。校章・校旗・校歌制定。同56年創立10周年記念式典。
 平成3年創立20周年記念式典。同13年ビオトープ完成。創立記念式典。同22年平成21年度
「21世紀・新しい時代の健康教育推進校」優秀校受賞。

 校歌
朝日の注ぐ校庭に」 作詞・校歌制定委員会  作曲・土肥泰
  1.朝日の注ぐ校庭に
    響く明るく歌う声
    心も体も逞しく
    集う我らの上沼田
  2.活気に満ちた教室に
    元気いっぱい挙手の波
    深く考え真剣に
    学ぶ我らの上沼田
  3.いつも未来を目指しつつ
    喜び悲しみ共にして
    励まし合って助け合い
    進む我らの上沼田



■上沼田東公園

 6丁目10番にある区立公園。野球場.テニスコートも併設 野球場の周りはジョギングコースと
なっている緑の多い公園だ。遊具も砂場あるよ。尾久橋通り、江北六丁目団地の南にある公園らしい
公園だ。



■神社
 6丁目21番にある小祠。



■西新井大師西駅
 6丁目30番と西新井7丁目16番の境、尾久橋通り上にある都営日暮里・舎人ライナーの停車場。
平成20年3月30日日暮里〜見沼代親水公園間の開業と同時にできた。ホームは島式1面2線構造
で3階にある。ホームと改札階を結ぶエレベーター設置。改札口は1ヶ所のみで2階にある。出口は
東口と西口の2ヶ所で、双方にエレベーターがある。
 駅名となっている西新井大師までは直線距離で1kmほど東に離れている上、最短距離で行こうと
すると道が入り組んでいて分かりにくい。西新井大師参拝は、東武大師線の大師前駅を利用したほう
がいいな。



■子の神稲荷神社
 7丁目3番にある小社。この稲荷は古くは3丁目の小泉家の屋敷神だったが、近在の西山三家によっ
て奉祀されていた社で、創建は150年くらい前といわれている。本殿には安政四年(1857)奉
納の鈴がある。上沼田に火事が多かった時に「吾の子の神に方に祀ればこの村のを火災から守る」と
いうお告げがあり、現在地に祀るようになったという。戦前は上沼田全体で祀っていたが、現在では
北厨子だけで祀ってる。祭神は倉稲魂命。例祭は9月17日。安政四年(1858)奉納の鈴がある。



■上沼田北公園
 7丁目16番にある遊具の多い区立の児童公園だ。第八中学校の側



■第八中学校

 7丁目17番11号にある。昭和22年堀之内826番地の旧江北青年学校校舎を利用して「東京
都足立区立第八中学校」として開校。PTA結成。同23年上沼田1752番地(現在地)に新校舎
落成して移転。同28年江南中学校を分校。同40年プール完成。同41年鹿浜中を分校。同52年
上沼田中学校を分校。同58年新体育館完成。同60年プール改修。
 平成9年創立50周年記念式典。同19年創立60周年記念式典。
 校歌不明。





【古千谷】(こぢや)1〜2丁目                    昭和45年4月1日
 古千谷村。昔は「こちや」といった。東屋と書き、古千谷に改めたという。東屋(こちや)は「あ
ずまや」とも読み「四阿」とも書く。つまり平面が正方形の建屋で、吾東地方に多い構造建築だっ
たので「あずまや」「こちや」と呼ばれる。昭和45年の新住居表示により古千谷町の大部分で1
〜5丁目とした。しかし平成7年再び住居表示を実施して3〜5丁目を「古千谷本町1〜4丁目」
とし、1〜2丁目はままその残した。その町域は舎人公園またその予定地であり、いずれは同公園
に吸収されて消える運命にある。平成19年2月26日区の回答。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『足立区史』など。

   古千谷一、二丁目は、「都立舎人公園」建設地の中にあり、工事の完成を待って住居
   表示を実施します。確定ではありませんが、公園の一部に「舎人公園」という町名が
   ありますので、同町名になるかと思われます。なお舎人町・入谷町はまだ消滅してお
   りません。                      戸籍住民課住居表示担当


 古千谷の由来
 名主権蔵が所有した元和時分の文書に、東屋≠ニあり「こちや」と読むとか。寛永の水帳には
古千谷≠ニある。「荒地谷(こうちや)」は未開の湿地帯だが、これに東屋または古千谷の字を当
てたのかもしれない。江戸川区に谷河内(やごうち)、大田区に「糀谷(こうじや)」がある。地名用
語の「コウチ」は「洪水のあったところ」を意味する。谷(や)は沢、湿地、低地の意。新潟県の小
千谷(おぢや)は「落合」に由来するとか! また東屋は関東に多い屋根の形式かも知れない。新
宿区の四谷が四屋(四阿→東屋)と考えられているからだ。
 「こぢや」をインドネシア語で解すると「コチ・イア」、「(舎人町を)二つに分断している土
地」となるらしい。地形的に・・・?



長慶山妙蓮寺

 3丁目13番にある日蓮宗の寺。



普照山如意輪院浄光寺
 4丁目12番にある浄土宗の寺。創建は享禄三年(1530)、開山は専誉上人。開基は古千谷開
拓者の一人花井肥前守正義、本尊は阿弥陀三尊と如意輪観音。入口を入って左が墓地、その左は「と
ねり幼稚園」。正面に本堂、その右庫は裏。



古谷山浄光院全学寺
 4丁目21番にある浄土宗の寺。開基は延徳二年(1490)真野日向守梅敷。本尊は阿弥陀三
尊、正面本堂で左から回って右裏が墓地。本堂の右は庫裏。




【古千谷本町】(こぢやほんちょう)1〜4丁目            平成7年7月24日
 古千谷村。明治22年「市制町村制」により舎人村の大字となり、昭和7年足立区の成立により
古千谷町となって戦後に至る。平成7年古千谷3〜5丁目と舎人1〜3丁目を改編し入谷町・古千
谷町・東伊興町の各一部を加えて自立、現行の「古千谷本町」とした。新興の住宅街で何にもござ
いません。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『足立区史』など。

 古千谷本町について
 「古千谷の本当の町」の意だろうが、「古千谷」は消滅する運命にあり、本町を付する必要はな
い。古千谷を廃して本町を付加しなければならない必然性は見出せないのだ。他に古千谷はなく紛
らわしくもない・・・



■神社
 1丁目8番にある。



■長慶山妙蓮寺
 1丁目13番(古千谷町977番地)に昔からある日蓮宗の寺。応永年中(1394〜1427)
の創建。本尊は三宝と日蓮2人の尊像。開山は日英といい、天正年中(1573〜91)の中興を日
慶という。元中山法華寺の末寺。山門を入ると正面に本堂がある。その後ろは墓地。



■氷川神社
 2丁目2番にある古千谷村の鎮守。本殿を瓦葺にしたのは大正10年だという。氏子会は特になく、
費用を町会費から出していたら、昭和50年代初めに信仰心のない人から疑問が投げかけられ、已む
なく氏子を募集した。氏子の範囲は古千谷に限られ、それは現在も変わらない。氏子の数は1割ほど
減ったが、若者の信仰心がなくなったためだ。
 7月30日にミヤナゲといって氏子総出で掃除をした。今は参加自由だが、昔は村八分になってし
まうので、代理を立てるか、酒1升を差し出した。
 昭和52年神輿を買った。それ以前はなく、神主を呼んで祝詞を上げるだけだった。神主は千住神
社の宮司が兼ねている。

 
村八分
 8分の付き合いの意で、村の掟に従わない行為をした場合、10の共同行為(葬儀・消火・元服(成
人式)・祝言(結婚式)・出産・家作・看病・災害・年忌法要・旅行)の内、葬儀と消火を除く八っ
つの付き合い絶って懲らしめることだ。二つの付き合いは、死体を放置されると死臭が漂うことと伝
染病の防止のためで、消火は延焼を恐れるからだ。これを課されると入会地などの共同所有地が使え
なくなり事実上生活が出来なくなる。しかし村落の中で掟や秩序は合法的でなくその地域の有力者の
利益に沿うものも少なく無く、公平な秩序維持活動とはいえない。いじめの最たるものだ。ストレス
解消のための悪意ともいえる。現在でも地方に行けばないことではない。しかし現在では脅迫罪が適
用されることがある。

 
天神社
 境内にある。戦前、和裁を習っているお針子が、1月25日の例祭や2月の天神の日にお参りに来
ていた。



普照山如意輪院浄光寺
 2丁目12番(旧古千谷町784番地)にある浄土宗の寺。全学寺の末寺。享禄三年(1530)
の創建。開山は専誉上人、開基は古千谷開拓者の一人である花井肥前守正義で、本尊は阿弥陀三尊と
如意輪観世音菩薩だ。花井氏が持仏の如意輪観世音を納めたことに始まり、その以前には観音堂があっ
たという。江戸時代の初め花井氏が新田開発の時、古千谷村の鎮守として氷川神社を勧請し、菩提寺
としてこの寺を開いたという。入口を入って左が墓地、正面に本堂、その右が庫裏。隣に「とねり幼
稚園」を併設している。墓地に花井肥前守正義、奥野日向守梅敷の墓がある。花井日向守は奥野氏の
支族だ、共に古千谷開発の功労者。花井家は代々名主を務めた。
 春秋の両彼岸と8月16日には施餓鬼を、10月18日に十夜法要を行う。
 境内に文政六年(1823)建立の「七字題目塔」がある。

 
妖剣
 花井正義が帰農する時、一度抜いたら血を見るまでは納まらないという妖剣を持っていて、何度売っ
ても戻ってきたという話が残っている。

 
大般若経600巻
 6月20日に全部出して風を入れるために五穀豊穣を祈って転読する。この時版木で刷ったお札を
出した。日は明らかではないが、昔から村の行事で、浄光寺と全学寺の檀家に茣蓙を敷いて大般若経
600巻を担いで入り込んだ。戦後幾らか行われたが、担ぎ手がいなくなって何時しか行われなくなっ
てしまった。この時も版木で刷ったお札を出していた。



古谷山浄光院全学寺
 2丁目22番(旧古千谷町784番地)にある浄土宗の寺。開基は真野日向守梅敷で、代々この村
の名主を務めた花井氏の先祖。延徳二年(1490)の開創。本尊は阿弥陀三尊、元は加倉村(埼玉
県岩槻市)浄国寺の末寺。正面本堂で左から回ると右裏が墓地。本堂の右に庫裏。境内の六地蔵の銘
は、元禄八年(1695)十一月二十五日。享保十一年(1726)正月二十七日銘の庚申塔がある。



■浅間神社
 3丁目2番ある小社。村で祀っており、7月1日神主を呼んで祝詞を上げて貰う。昔はぞろぞろと
お参りに来たというが、今は忘れられかけている。
 



■石合戦

 2丁目と4丁目の境の古千谷橋の交差点付近にあった舎人村と伊興村の境で行われた子供の喧嘩。
石合戦が一般に行われるようになったのは江戸時代になってからで、初めは五月の節句に行われた行
事だったが、村と村の子供の喧嘩として繰り返されるようになり、その頃はどこの村にもガキ大将が
率いる子供の集団があって、石合戦は子供の遊戯となっていた。それこそ本気で小石を投げあうので、
瘤や傷を拵える者がかなり出た。それでもそれがきっかけで子供たちは結束し、ガキ大将を中心とし
てより堅固になっていった。今はそんな場所もなくなり、集団化するのはもっと大人の暴走族で、子
供たちが集団で遊ぶ姿は見られない。ガキ大将がいなくなって子供の縦社会がなくなり、上級生の目
を意識しない同級生同士が内々で争うようになり、イジメ問題は発生した。そういう意味では、子供
社会も「個」となったのだ。これは封建社会を否定しながら、封建的な静まりを期待する大人の精神
矛盾がもたらしたものだ。



■古千谷小学校

 4丁目12にある区立校。昭和51年舎人小学校から分離し開校。平成18年創立30周年。




【佐野】(さの)1〜2丁目                      昭和51年1月1日
 佐野新田。明治22年「市制・町村制」により東淵江村大字佐野新田となり、昭和7年足立区佐
野町。同51年新住居表示を実施して町域を整理、佐野町の大部分に大谷田町・六木町の各一部を
あわせて現行の「佐野」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『足立区史』など。

 佐野の由来
 文禄二年(1593)千葉勝胤の子孫といわれる
佐野新蔵胤信が開墾し子孫が代々名主を務めて
きた
ことによる。佐野家は1丁目に健在する。だから佐野は佐野神社だぁ!



■柳野稲荷神社

 1丁目14番にある村の鎮守。佐野氏の氏神を祭ったという。しかし名主の佐野家は自分の屋敷神
を祀り、氏子にはなっていない。大正12年ごろまでは川外(綾瀬川河川敷)にあり、関東大震災の
少し前に河川が買い上げられて現在地に遷座した。祭神は妙見(国常立命)と稲荷(倉稲魂命)。祭
日は10月17日。「元禄十六年(1703)九月淵江庄佐野新田」と刻した石灯籠がある。また宝
永七年(1710)の鰐口がある。金町の飯田稲荷の管理。



■名主屋敷

 1丁目31番にある佐野邸だ。屋敷林3000坪の内、北部と東部を「佐野憩いの森緑地」として
開放している。『新編武蔵風土記稿』に、

   
佐野新田は江戸より行程四里許、当村は名主勘蔵が先祖新蔵胤信と云うもの、文禄二
   年(1593)開発して己の家名を以て佐野新田と名づく・・・(中略)その頃は民
   家わずかに七軒なり、今は二一軒に及べり・・・


 名主屋敷跡としては近郷近在随一の規模だ。鬱蒼と古木が繁茂し昼尚暗い。広大な屋敷の四囲は土
塁と構堀(かまえぼり)が廻らされており、まさに戦国時代の館(やかた)か小城の体である。千葉
勝胤の子孫の気概か格式か・・・茅葺きの大邸宅は既に近代建築に建て替えられているが、回遊式の
大庭園や妙見社など屋敷神が、かつての強大な名主の生活を髣髴とさせる。佐野家からは膨大な量の
古文書がでており、文化財調査が進められている。また江戸時代の各種什器類が豊富に保存されてい
て、区の郷土資料として重要だ。

 
屋敷稲荷

 広大な屋敷の内にあり、佐野家だけが祀っている。村の鎮守の氏子にはなっていない。



■佐野いこいの森緑地

 1丁目31番、佐野邸の北裏にある屋敷林が解放された公園。毎週
曜日のみ開園。開園時間
は、2月〜10月は午前9時から午後5時まで、11月〜1月は午前10時から午後4時までとなっ
てるんで、行くの際はご注意、ご注意。また12月29日から1月3日までは休園している。貴重な
森の自然環境を将来に亘って保全するために開園を制限しているので、理解したったれえや。
 まちづくり課みどりのまちづくり係 電話03-3880-5111(代表) 内線 2451 



■足立区佐野センター

 2丁目43番にある区の施設。区民事務所・佐野図書館・体育館・社会教育館・地域学習センター
・老人館・児童館などがある。




【皿沼】(さらぬま)1〜3丁目                    昭和50年7月1日
 十九世紀半ばに成立した加々皿沼村の内、その昔は別々で鹿浜村の小名だった。明治22年「市
制町村制」により江北村の大字加賀皿沼となり、昭和7年足立区の成立により加賀皿沼町となって
戦後に至る同50年加賀皿沼町・北鹿浜町・谷在家町・上沼田町・西伊興町・舎人町・入谷町の各
一部をあわせた町域を現行の「皿沼」として加賀と別れた。町名選択の際「○○ヶ丘」的な軽薄な
提案もあったが、賢明な土地の年寄たちが首を縦に振らず安直に流されることはなかった。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『足立区史』など。

 皿沼の由来
 謂れは伝わっていない。地名用語では「さら」は、「新しい・浅い、または崖」だ。とすると「さ
らぬま」は「浅い沼→水気の多い湿地」ということになるが・・・ 確かに皿沼は排水が悪く大雨
が降ると冠水してしまう水田地帯だった。40年ほど前、大雨が降って足立区や葛飾区の低地が5
0cmから1mも冠水したことがある。私自身経験した。そのとき大型トラックに乗っていたので
金町の会社に無事帰り着いたが、乗用車などは水に浸かって立ち往生、人は泳ぐようにして歩いて
いた。皿沼小学校・皿沼稲荷神社がある。



皿沼不動 皿沼山永昌院合掌庵

 1丁目4番にある単立寺院。元は天台宗だった。本尊は阿弥陀如来と不動明王。この寺は修験山伏
の伝統を継ぐ道場で、現在も不動教団を組織している。入口に風邪封じの観音が建つ。入って左手は
墓地、庭がなく庫裏も一緒で鉄筋コンクリート2階建ての本堂。皿沼不動は、関東36不動霊場の2
5番札所。「地神様」とも呼ばれ、建築あるいは婚姻などに関する占いを行う。かつては押部の家の
地鎮祭も大抵は皿沼不動でやっていた。現在は地鎮祭は上沼田氷川神社が行うことが多い。元禄五年
(1692)の墓碑がある。



皿沼美容師殺人事件
 1丁目5番4号にあるパーマ「ビューティさん」で起きた事件。平成22年10月2日午前8時半
過ぎ、美容室兼アパートの1階で、ここに住む美容師の近藤由美子(68)が台所で胸から血を流し
俯せになって倒れているのを孫の男児(7)が見つけた。女性は病院に運ばれたが、胸を刃物で数ヶ
所刺されていて、間もなく死亡した。
 警視庁西新井署によると、凶器は先の尖った片刃の刃物とみられ、室内に物色されたような跡はな
いという。現場から凶器が見つかっていないことなどから、警視庁は殺人事件と断定し、特別捜査本
部を設置して捜査を開始した。
 発表された被害者の写真は3、40歳代のものと思われるが、涼しい顔立ちの超美人だ。



■小祠

 1丁目16番1号にある。



■皿沼小学校

 1丁目19番にある区立校。昭和57年の新設校。平成19年創立25周年。

 校歌
ぼくらはあおぐ太陽を」 作詞・片岡輝  作曲・芥川也寸志
  1.僕らは仰ぐ太陽を
    仲間と肩を抱き合って
    ほらほら熱い希望が
    心にぐんぐん湧き上がる
    皿沼 皿沼 僕らの学び舎
    昔は鹿の遊んでた緑が萌える この大地
  2.僕らは走る太陽へ
    明日の夢を追いかけて
    ほら ほら 熱い勇気が
    身体にぐんぐん湧き上がる
    皿沼 皿沼 僕らの故郷
    昔の人が耕した
    緑が薫る この大地



■末日聖徒イエスキリスト教会・足立ワード

 2丁目20番にある。一般に「モルモン教会」あるいは「モルモン教」として知られている。本部
は、アメリカ合衆国ユタ州ソルトレイク。米国で興ったキリスト教系の新興宗教団体。
 天保元年(1830)ニューヨーク州でジョセフ・スミス・ジュニアを含む6人を代表として設立
された。弘化元年(1844)ジョセフの暗殺後、モルモン開拓者はブリガム・ヤングに率いられ、
ソルトレイク湖畔に入植した。世界への拡大はこの時から始まった。現在の会員数は教会の公式発表で
は全世界で1200万人超(但しバプテスマを受けていない8歳未満の末日聖徒家族の子供を含む)。
アメリカ国内においては4位の規模としているが、平成13年のニュヨーク市立大学の調査では、1
0位に留まると推定している。日本国内に約320ヶ所の礼拝施設を構えているという。

 
異端?
 イエス・キリストを信仰対象としている点や、聖典の一つとして聖書を用いているなどの点から、
「キリスト教の一教派」との印象を与えやすい。しかし主要なキリスト諸教派とは大きく異なる教義
や儀式が多く、キリスト教系の新興宗教と定義されるのが普通だ。
 特に信ずることによる救い(信仰義認)を否定し、伝統キリスト教の信仰の要としている聖書を不
完全なものとし、モルモン独自の聖典「モルモン書」をその上に置き、さらに教会の最高責任者であ
る地上唯一の預言者「大管長」の語る神の預言をさらに絶対のものとしている。これが伝統的なキリ
スト教会には受け入れられない最大の要因になっている。
 また三位一体という伝統的な考えを否定しているところも大きい。そのために、カトリック教会や
主要なプロテスタント諸教派からは「異端」あるいは「キリスト教ではない」とみなされている。一
方「末日聖徒イエス・キリスト教会」としての主張としては、イエス・キリストが設立した真実の教
会は、十二使徒の死後、サタンの策略により地上から消滅しており、カトリックやプロテスタントは
総て誤ったか、あるいは不完全な教会としている。そのためプロテスタント諸教派がカトリック教会
から「改革」した教会であるのに対し、この世の終わり(末日)が近づく現代に、一度消滅した原始
キリスト教会を復興した地上で唯一の神の教会という意味を込めて、「末日聖徒イエス・キリスト教
会」と呼んでいる。
 この教会を「カルト」とみなす研究者も少なくない。日本在住の研究者では浅見定雄、パスカル・
ズィヴィー、ウィリアム・ウッドなどが有名。またフランス国民議会は、セクト調査委員会報告書(平
成7年)にセクトの1つとして末日聖徒イエス・キリスト教会の名前を挙げている。
(※セクトとは、カルトが反社会的な宗教団体なのに対し、宗教に限定しない反社会的団体という広
義の意味を持つ)

 
モルモン書
 
古代アメリカ大陸に実在したとされる預言者モロナイの示現を受け、ジョセフ・スミス・ジュニア
が実際に掘り起こした金でできた書物を翻訳したものとされてるんだ。それは古代ヘブライ語(変体
エジプト文字)を聖霊の助けにより英語に「翻訳」したとされているが、書物は天に返したってえか
ら確認のしようはないわな。内容としては、紀元前約600年、預言者エレミヤの時代に、主の導き
によりイスラエルから脱出した家族が海を越えてアメリカ大陸に渡り、そこで殖え広がった話が載っ
ている。そしてその子孫は神の側についたニーファイ人と神に逆らったレーマン人に別れ、常に戦い
が繰り広げられた。レーマン人は神によって呪いを受け膚の色を黒く汚くされ、膚の白く麗しいニー
ファイ人と区別された。しかしニーファイ人は代を重ねる内に慢心が起り、いつしか神から離れ滅ん
でしまう。この辺りは19世紀の終わり頃、高い文化を持ったネイティブ・アメリカン(インディア
ン)はヘブル人の子孫ではないかということが囁かれてていたことから、ジョセフ・スミスがそこか
ら着想を得て書いた創作だと指摘する向きも多く、また罪を肌の色と結びつけているところに有色人
種への蔑視を指摘する声もある。(現代の人類学者の多くはDNA的見地から、ネイティブ・アメリ
カンの祖先はヘブル人でなくモンゴロイドだと断定している。さらに現在発行されているモルモン書
では、ニーファイ人を「清い民」として膚の色の言及は削除されている。しかしこれもかつての人種
差別の教義を隠蔽するため、聖典を書き換えたという批判もある。
 

 一夫多妻婚
 末日聖徒は多妻婚そのものは古来からイスラエルで行われており、聖書の記述からも神に認められ
た正しい教義と主張しており、預言者ジョセフ・スミス・ジュニア周辺の人物の証言から、天保二年
(1831)には、多妻婚の原則は神から啓示されていたということになっている。同十四年(18
43)に文書として記録され(教義と聖約第132章)、嘉永五年(1852)8月29日第2代大
管長ブリガム・ヤングの指示により公式の教義として発表された。しかし伝統キリスト教の考えはこ
れと異なり、聖書には人の考えで一夫多妻が行われても神が直接命じている個所はない(アブラハム
とサラの例)。また新約時代には一夫一妻制が普通になっており、キリストも「二人は一体になる」
という表現で夫婦を語っている。またジョセフ・スミスには未亡人でない人妻が妻になるケースもあ
り、この点では多妻婚というより乱婚という見方もできる。旧約でも姦淫の罪(ダビデ王のときのバ
テシェバ事件が好例)に当たるということが一般的見解だったことから、モルモン教への批判は当時
から厳しいものだった。
 またモルモン教徒がモルモン帝国を作るという見方もあったため、連邦政府との全面戦争の危険も
出てきた。この時期、明治23年9月24日第4代大管長ウィルフォード・ウッドラフは、多妻婚の
廃止を「公式の宣言」として発表。10月6日に教会の総大会で正式に承認された。これは多妻婚が
過ちだったのではなく、神の命により停止されたということだと主張した。以降多妻婚は教義として
は認められていない。しかしこれを世俗に迎合したと考えるグループが末日聖徒から離れて分派を作
り、現在でも一夫多妻を続ける原理主義的モルモン教徒も存在する。

 
著名な聖徒
 タレントの斎藤由貴、斎藤こず恵、何やってんのか判らないケント・ギルバート、ケント・デリカッ
ト、プロレスラーで故人のジャイアント馬場。



皿沼稲荷神社

 3丁目15番にある。
祭神は倉稲魂命。例祭は9月15日。創建は不詳。社殿の彫刻は優れており、
境内には寛永五年(1628)九月二十七碑銘の庚申塔、文化四年(1807)銘の漱盥石がある。
この地は区内でもまだ田園風景を残す貴重な地域となっており、氏子一同の敬神の念も篤く、近年社
殿の新築を完成させたピカピカの神社だ。




【鹿浜】(しかはま)1〜8丁目                  最終昭和50年7月1日
 鹿浜村は、正保以前に27人の人々によって開かれ、現在鈴木家、大谷家などはその子孫だとい
う。鹿浜新田は、元禄以前に、武州大里郡上吉見領辺から庄左衛門、三郎兵衛などという人がやっ
てきて開発したというものの詳細不明。明治22年ともに江北村大字鹿浜。昭和7年足立区南鹿浜
町・北鹿浜町。昭和36年南鹿浜町は新田2丁目となり鹿浜の名を捨てた。同43年12月1日北
鹿浜町・北堀之内町・北昭和町・上沼田町・加賀皿沼町の各一部をあわせた町域を現行の「鹿浜1
〜5丁目」とし、同50年北鹿浜町・加賀皿沼町・北堀之内町・上沼田町の各一部をあわせた町域
を現行の「鹿浜6〜8丁目」として追加した。
 平成元年に南鹿浜町の一部を1丁目に、北鹿浜町・南鹿浜町・新田上町の各一部を2丁目に編入
して現行の「鹿浜」が完成した。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『足立区史』など。

 鹿浜の由来
 古くは「ししはま」ともいった。土地の人で「しっしゃま」と発音する人もいる。江戸川区に鹿
骨(ししぼね)があり、鹿をししと読むのは「肉」を「しし」といい、鹿や猪など食用動物を「し
し」と総称したことによる。筋肉のことを「ししむら」というんだよ。
 江戸時代初期江戸周りでは農産物における鹿の被害は少なくなかった。この地の宝蔵寺の山号は
鹿浜山(ろくひんざん)という。寺が所蔵する正和元年(1312)の古碑に鹿浜村が見えるが、
地名が先か山号が先か判らないものの、鹿が水を飲みに来るような環境だったのだろう。遺跡から
ニホンジカの骨や角が発掘されている。荒川(旧荒川放水路)は明治末〜大正初めの掘削だから、
鹿が群れ集ったであろう川浜は隅田川(当時は利根川)の川岸か、海退以前の砂州ということにな
る。その頃は今の流路では無かったろうから、鹿の居た浜はどの辺りをいったものか判らない。ま
た鹿は鹿島神宮の神鹿だったかも知れない。奈良の春日大社へ運ぶ途中だったのかも・・・・
 「しし」は「地崩れ」のこともいうので「崩れやすく安定しない河川敷の状態」をいったとも考
えられる。この「しし」にも「鹿」の字を当てる例が多く、何れも後に「しか」と読まれている。
さらに、水分を大量に含んだ土のことを「シシ」というので、湿地の川岸を「シシハマ」といった
とも考えられる。足立区は元々は海で利根川の吐く土砂の堆積でできた土地だから、水気の多い湿
地帯の時期が長く続いていたとしても不思議はない。

 鹿浜橋は区内の環七通りがまだ完成しない頃によく通った。梅島の陸橋はまだなく畑の真ん中に
出来立てのほやほやの綾瀬警察署がポツンと建っていた。当然大谷田七差路のとこにはまだ日立亀
有工場が健在だった。



■虫切り
 環七通りを西新井方面から鹿浜橋に向かって進むと、鹿浜橋手前の左手に「鹿浜虫切り」という看
板があった。最近通っていないので、現在もあるかどうかは定かではないが、昔から人々に親しまれ
た秘薬だ。かつて行基菩薩が仏法を広めるために、諸国行脚の途次に鹿浜に立ち寄り、かなり長い期
間滞在したそうだ。行基は旅立つ時、長逗留のお礼にと子供の病気に効く秘薬を伝授していった。そ
の秘薬を今に伝えているというのが「鹿浜の虫切り」で、子供の体内にあると考えた「疳の虫」を封
じる秘薬だ。「疳の虫」は、現代風にいえば「神経過敏症」のことで、夜泣き・不眠・いらいら・食
欲不振・下痢・吐き気などを総称する。昔は小児科医という専業医がいなかったので、鹿浜周辺に限
らず、遠いところからも治療を受けに来たのだそうだ。特に桜の季節は、花見がてらの人も多く、渡
し舟は増便したほどだったとか。そして虫切りの家の前には露店が連なり、それはそれは賑やかだっ
たとか。それが周辺が住宅で埋め尽くされるようになっても看板を掲げているということは、行基の
秘薬を今に受け継ぎ、利用する親がいるということだ。



■江北公園

 1丁目2番、鹿浜橋のすぐ近くにある区立公園。同じ名前の公園が5丁目にもある。

 
FRENDS
 正面入口にいきなり少年と動物の銅像。銘板に「第四回足立区野外彫刻コンクール入賞作品 テー
マ桜・ふれあい 大道寺光弘 1993 作者の言葉 無邪気に遊ぶ二人は友達。子どもと動物をテ
ーマに製作しました」とある。



■庚申塔

 1丁目5番にある。享保十七年(1732)日月・青面金剛「奉庚申供養」一鬼・二鶏・三猿を刻
む駒型。



鹿浜薬師 五智山長楽寺

 1丁目13番にある新義真言宗智山派宝蔵寺の末寺。延享年間(1744〜47)の創建で、開山
は行厳、本尊は大日如来。本堂は大正2年の建築。薬師堂の薬師像は伝聖徳太子作だ。また境内から
文明七年(1475)銘の板碑がでた。



■鹿浜橋・首都高鹿浜ランプ

 2丁目7番にある。



■糀屋氷川神社

 2丁目18番にある。300年以前の明暦の頃(1655〜57)の鎮座と伝わる。社殿には貞享
二年(1685)間の扁額と弘化二年(1845)の絵馬がある。祭神は須佐之男命。例祭は9月1
5日。境内にケヤキの巨樹があり、裏手に円形の塚があり、南泉寺一世の五輪塔、寛永三年(162
6)年銘の清円権大僧都覚了和尚の墓がある。俗に上氷川∞糀屋の樋川様≠ニ呼ばれている。

 鹿浜の獅子舞
 起源寛永十八年(1641)大和国の工匠藤原久次は、日光東照官造官の帰りに病を得、鹿浜村で
療養することになった。その礼として椛屋氷川神社を創建し、村人たちに獅子舞を伝え、獅子頭・太
鼓、装束など道具一式を長持ちに入れて椛屋氷川神社の隣の南泉寺(現在は廃寺)に保管したと伝え
られている。村人たちは「こんな贅沢なものを作る余裕があるのなら年貢を増やすぞ」と代官からい
われるのを恐れ、洪水で獅子頭が荒川に漂着したことにした。昭和37年獅子舞は後継者不足のため
一時中断したが、鹿浜中学校の生徒たちが熱心に稽古し、同44年に復興した。現在では島・糀屋・
東・古内の各聚落の神社で、年毎の持ち回りで行われ、「鹿浜の獅子舞」として足立区の無形文化財
に指定されている。奉納は毎年9月15日「鹿浜の獅子舞」が乱舞する。様式は花畑の大鷲神社の獅
子舞とほとんど変わらない。



■糀屋金比羅神社

 所番地不明。創建は不詳、その霊験は高く地域の崇敬を受けている。社殿には古代の遺物で作成し
たと思われる蝋燭台があり、その歴史を窺わせる。



■島糀屋公園
 2丁目22番、島氷川神社の側にある区立公園。広い林の中に大きな滑り台や野球場があり、砂場
が3ヶ所もある。



■島氷川神社

 2丁目28番にある。祭神は須佐之男命。例祭は9月15日。創建は約300年以前、明暦年間(1
655〜57)の鎮座という。境内末社は諏訪神社と稲荷神社。俗に糀屋の氷川神社に対して下氷
川∞島の氷川様≠ニ呼ぶ。天保十三年(1842)の漱盥石がある。
 「鹿浜の獅子舞」については2丁目18番の糀屋氷川神社を参照されたい。



■鹿浜西小学校
 2丁目24番にある区立校。昭和44年鹿浜小学校から分校して開校。平成16年創立35周年。

 校歌
明け初める」 作詞・及川五郎  作曲・八村義男
  1.明け初める鹿の浜辺
    昔偲びて名は残る
    秩父の流れ荒川の
    葦たつ足立 西の門
    開く我ら 我ら鹿西校
  2.輝ける学びの庭
    望め逞し風に立つ
    富士の緑の視野広く
    貫く心一筋に
    伸びる我ら 我ら鹿西校
  3.新しき世界の日本
    汗も涙も共々に
    光を目指し作り出す
    力と技をいざ振るえ
    築く我ら 我ら鹿西校




■都市農業公園
 2丁目44番にある区立公園。その主旨は、

   農業は、人類が生きるために最初につくりだした文化です。そして今日のように機械化が
   進む前は、落葉でたい肥をつくったり、作物からもらったエネルギーをまた大地に戻した
   りと、自然環境にうまく適応しながら続けられてきました。また、作物だけでなく土器を
   作ったり、布を織ったり、紙を漉いたり、自然の中から色々な暮らしの道具を生み出して
   きました。都市化が進み、環境悪化が叫ばれている現在、今こそ、もう一度、人間が自然
   と仲良く暮らしていた頃のしくみを見直す時にきています。

 
とある。二つの建物が移築保存されている。

 谷久門
 元の名主屋敷の長屋門。元々は上谷中村の名主浅野久右衛門家の門だったことから谷久門(やきゅ
うもん)と呼ばれていたそうだ。1重2階建ての入母屋造りで桟瓦葺き、両袖に曲り屋の平屋建て長
屋各一戸が附いている。昭和14年青井の増野製作所足立工場に移され、同工場の茨城転出に伴い区
に委譲され、この公園に移築された。

 和井田家住宅
 花畑にあった古民家。和井田という農家の住宅だった。



■神社

 3丁目3番にある。



■古内天祖神社

 3丁目12番にある。祭神は天照大神。祭日は9月25日。創建は不詳なれど、宝暦年間(175
1)ごろと伝わる。境内には天保十二年の漱盥石がある。
 「鹿浜の獅子舞」については2丁目18番の糀屋氷川神社を参照されたい。



■鹿浜校趾公園

 3丁目14番にある区立公園。

 
プール
 25mプールと幼児用プールがある。利用できる期間は7月15日〜8月31日。2時間毎の交替
制で有料。幼児とは2歳以上でおしめのとれたもの。小学3年生以下のものは保護者の同伴が必要。
水着着用のこと(保護者も)。スケベ映像を撮る輩が多いのでカメラ、ビデオなどの持込禁止。ただ
ただ納涼と遊泳のみに専念せよ。スケベーは忘却せよ。 



医壺山(いこざん)福寿院宝蔵寺 
 3丁目20番にある真言宗智山派の寺。弘安年間(1278〜87)の創建で、「新編武蔵風土記
稿」に、

   開山良算は正和元年(1312)十二月廿一日寂す、境内に碑あり

 とある。この板碑が残っている。正和元年は1312年だ。元は荒川(隅田川)堤外に在ったが、
しばしば水害を蒙るので、それを避けるため、寛保二年(1742)現在地に移り、寛延年間(174
8〜50)に伽藍が完成し、法燈を近隣に輝かした。現在の堂宇は大正14年に再建されたもので、
往時の盛容偲ぶべくもない。瓦葺き寄棟で唐破風付き、障子の火頭窓があり、古風な佇まいに親しみ
が持てる。本尊は木造薬師如来坐像で、南北朝か室町時代初期の作といわれている。薬師像は3体あ
るが、何れも小さい。伝弘法大師作の琥珀楊柳観世音像は、伝行基作の木造立像とともに寺宝となっ
ている。
 その他元この寺の仏像だった不動明王は円空仏で、この辺りでは大変珍しいものだが、加賀2丁目
6番の阿弥陀堂に安置されている。
 明治7年鹿浜小学校の仮校舎に充てられ教育の道場となった(足立区史)。元々「寺」=「道場」
だ。



■北鹿浜交通公園

 3丁目26番にある区立公園。区内に箇3所ある交通公園の一つ。楽しみながら交通ルールを学べ
る園内には、バッテリーカー、自転車、足踏みゴーカートに一輪車の練習場と一日遊べる楽しい公園
だ。入園は無料だよ。遊具も揃っているし、消防車もある。展示室にはジオラマもがある。

 
蒸気機関車
 公園に入ってスグに展示されている。この蒸気機関車はC5075(中距離用小型テンダ機関車)
といい、昭和2年に製造され、同46年まで200万kmも走り続けた。

 
じゃぶじゃぶ池
 小さい子たちが、安心して水に親しんで遊べるように整備された無料の施設だ。区内に21ヶ所あ
り、それぞれ特徴がある。ここは池の中の船に乗ると、船長さんになった気分さ。オムツの取れた赤
ちゃん以上の幼児が、保護者同伴で夏の間だけ利用できる。事故が起きないよういろいろ制約がある
のは当然だ。

 
●サクラの名所
 交通公園として有名だが、実は花見スポットとしても有名なのだ。奥に芝生があり、ここが花見ポ
イントとなっている。但し開場時間が午前9時から午後4時30分までなので、昼間だけの花見スポッ
トだ。夜のドンチャン騒ぎは馬鹿げてるからね。




■八幡社と木神様

 4丁目3番(北鹿浜町2399番地)にある高橋家の庭にケヤキの巨木があり、この樹の下に八幡
社がある。祭神は誉田別尊(応神天皇)。祭日は8月25日。元応二年(1320)、嘉暦二年(1
327)などの板碑が出た。

 
木神様
 八幡社の側に数枚の板碑とともに、次のような石碑が立っている。

   境内の欅枯れ朽ちるとも一切の刃物を当てるべからず、この地所は本人の自由ならず
   万一名義替わるとも何代の後までも買売を許さず


 このケヤキの傍らに大杉があり、その根元から梵字の巻物1巻が出たともいわれ、また数百年前、
ケヤキを切った際には、血が流れ出たとも語り継がれている。その後、このケヤキの大枝が折れる時
は、必ず家族や村一帯に異変が起こるといい、前記巻物は八幡社の脇神体として祭られている。



■北野稲荷神社(東北野神社)

 4丁目10番にある。伝承によれば、創建は文政年間という。祭神は菅原道真。祭日は9月25日。
創立は文政年間(1818〜29)という。相殿に稲荷神を奉祀し「東両社」ともいわれる。元々島
氷川神社の境外末社で、大正年間社務所の失火により本社とも焼失するが、ただちに再建され現在に
至る。この神社は「鹿浜の獅子舞」発祥の宮としても知られ、この社の氏子の青年に限り獅子舞を奉
仕する習わしがあった。「鹿浜の獅子舞」については2丁目18番の糀屋氷川神社を参照されたい。
なおこの獅子舞に用いる太鼓の胴に、元禄四年(1691)八月丸山三右衛門作と書いてある。



■鹿浜小学校
 4丁目20番22号にある区立校。明治7年6月第五中学区四番公立小学五番分校創設。同年11
月第十二番公立小学鹿浜学校として独立開校。同16年新田分校設立。同24年押部分校設立。同2
5年新田分校・押部分校を分離し新田小学校・押部小学校とする。同37年新田小・押部小と共に沼
田尋常小学校と合併し「江北尋常高等小学校」を構成、新田・押部・鹿浜3校はそれぞれその分教場
となる。大正12年関東大震災により校舎全壊。同15校舎落成。同23年区立鹿浜小学校開校。同
41年鹿浜第一小学校分校。同44年鹿浜西小学校を分校。平成10年創立50周年。



■道祖神・庚申塔
 4丁目29番にあるらしい。鹿浜マック前というのだが、マクドナルド鹿浜四丁目店のことかなぁ
・・・ 写真では2基、ブロック造りの覆屋の中にある。
 庚申塔は、享保19年(1734)日月・青面金剛「奉造立青面金剛庚申橋・・・」一鬼・三猿を
刻む。




■江北公園

 5丁目8〜10番にある区立公園。同じ名前の公園が1丁目にもある。



■北鹿浜小学校
 5丁目26、27番にある区立校。昭和48年鉄筋コンクリート造り3階建て校舎落成。鹿浜小学
校から分校し「東京都足立区立北鹿浜小学校」として開校。9月校歌制定。

 校歌
そよ風わたる」 作詞・山県衛  作曲・迫田時雄
  1.そよ風渡る鹿浜の
    朝日に映える学び舎は
    みんなの希望 北鹿浜小学校
    心あわせて 明るく伸びよう
  2.豊かな流れ荒川の
    弾む心に白雲飛ぶよ
    みんなの希望 北鹿浜小学校
    力合わせて元気に伸びよう


 同49年第二期工事校舎増築(普通6教室・体育館)。同50年第三期工事校舎増築(普通3教室
・図書室・第二音楽室・家庭科料理室)完成。同51年プール完成。同52年第四期工事(普通3教
室)。創立5周年記念式典。同57年創立10周年記念式典。
 平成2年校舎・体育館内外装工事完了。校舎北側側面に、児童より募集した作品をもとにした鹿の
絵が完成。同4年創立20周年記念式典。
      



■鹿浜中学校
 5丁目18番1号にある区立校。昭和41年第八中学校から分離して開校。平成18年創立40周
年。

 校歌
くまなく晴れた」 作詞・サトウハチロ  作曲・大中寅二
  1.隈なく晴れた青空よりも
    なお澄み渡る吾等の心
    正しき生活 重ねる努力
    明日を目指して ひたすら学ぶ
    溢れる 溢れる 溢れる力
    鹿浜 鹿浜 我が母校
  2.東に筑波 西には富士を
    眺めて友と語るは何ぞ
    豊かな健康 高める教養
    胸へ張り付けこの日も励む
    漂う 漂う 漂う友情
    鹿浜 鹿浜 我が母校
  3.唄えば声は一つとなりて
    やさしく風にとけ込み響く
    輝く校風 明るき未来
    喜び讃えて日毎に進む
    漲る 漲る 漲る熱意
    鹿浜 鹿浜 我が母校




■寒緋ざくら・押部公園
 6丁目6番・8番にある。区の鹿浜センターが同居している。公園の周りを取り囲む「寒緋ざくら」
が綺麗だよ。遊具、アスレチック、広場と揃っている。



■鹿浜センター
 6丁目8番にある区の施設。区民事務所・住区センター・地域学習センター・児童館・老人館・鹿
浜図書館などがあり、押部公園も併設している。



■押部八幡神社

 7丁目19番にある。祭神は誉田別尊(応神天皇)。例祭は8月25日。当社は徳川時代中期の創
建と伝えられ、大正12年の関東大震災で社殿が破損したが、直ちに再建し現在に至る。管理は上沼
田氷川神社。浅間神社が合祀されている。境内に天保九年(1838)銘の漱盥石、文化五年(18
08)八月銘の石鳥居がある。
 当社の祭礼は派手なことで知られ、隔年の本祭りには「プロの芸人」が参加する。古くよりお囃子
が伝えられ、現在でも連綿と受け継がれてる。氏子組織は、昔から押部に住んでいた45軒ほどから
なる前・中道・北の厨子から各2人、氏子総代を出すが世襲。

 幟新調
 蝉が鳴く押部八幡神社の境内で、平成18年8月26日・27日両日の午前9時から午後3時に行
われる夏祭りに使う祭礼用の幟(のぼり)が完成し修払式を行った。
 幟竿は、檜の丸太で、長さ10m、径約20cm、その上に青竹約1.5m、またその上に榊が飾っ
てあり、白布に「奉納 押部八幡神社 平成十八年八月吉日 氏子中」と書かれておりとても立派な
幟だ。
 午前11時45分から、江北氷川神社の宮司により、祝詞をあげて修払式を行った。神社には約1
0人の氏子総代が集まり榊を奉げた。現在この地区には1400世帯があり、祭り当日には毎年約2
000人ぐらい人々が集まる。従来8月24日・25日に行われていたが、8年前ぐらいから、8月
最終の土、日曜日に行われるようになり、比較的に参加者も多くなっている。



甘露山阿弥陀院
 7丁目19番にある単立寺院。元は新義真言宗智山派宝蔵寺の末寺だった。質素な佇まいだ、整理
整頓が綺麗に行き届いている。正面に鉄筋コンクリート造り本堂と庫裏。墓地は参道左右とと奥、さ
らに押部八幡の前にもある。本尊の阿弥陀如来は伝恵心僧都作。寺宝に曼荼羅絵図一幅がある。寺域
に寛文元年(1661)銘の庚申塔、元禄二年(1689)の墓碑がある。



■小宮稲荷社

 7丁目20番にある小祠。16番の小宮家の屋敷稲荷か?



■鹿濱稲荷

 8丁目5番にある小祠。鹿濱さん家の屋敷稲荷か?



■庚申塔2基

 8丁目16番にある。@宝暦十二年(1762)日月・青面金剛・一鬼・三猿を刻む。A日月・青
面金剛「奉納庚申」一鬼・三猿。造立年不明。



■庚申塔

 8丁目17番にある。日月・青面金剛・一鬼・三猿を刻む。造立年不明。




【島根】(しまね)1〜4丁目                     昭和42年5月1日
 古くは「島畑村」といったらしい。島根になつた時期は判らないが室町時代だろう。明治22年
の「市制町村制」により梅島村の大字となり、昭和7年足立区の成立で島根町となって戦後に至る。
同42年新住居表示により島根町・小右衛門町・東島根町・六月町の各一部をあわせた町域を現行
の「島根」とし、他は梅島・梅田・六月に分散した。日光街道の東西に開けた村だ。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『足立区史』など。

 島根の由来
 関東では水田の中に散在する陸田(畑)を「島畑(しまっぱた)」という。島根は島畑の多いところ
だったのか? 「根」は村の中心地の集落をいう。また島は微高地で島の根(水際)に開けた村の
意ではないかとも。とにかく開墾地のことではある。



■夏菊
 
西新井から江北にかけては仏花としての夏菊の一大産地で、大久保のツツジ、堀切の花菖蒲と並ん
で江戸三大名花に数えられた。明治以後は花の種類が増え、金盞花・アスター・百日草・花菖蒲など
の草花、夏菊・秋菊・百合・チューリップなどの球根切花、雪柳などの枝物、睡蓮などの水物、ポイ
ンセチアなどの鉢物が作られ、大正から戦後にかけて都内随一だった。夏菊は現在でも区が誇る花の
代表である。



■中島根小学校
 2丁目9番にある区立校。昭和49年梅島第一小学校から分離して開校。新校舎移転。校歌制定。

 校歌
光が降るよ」 作詞・勝承夫  作曲・小出浩平
  1.光が降るよ 明るい町に
    希望が湧くよ この庭に
    江戸の昔は実りの広場
    今は子供の夢実る
    楽しい学校 中島根
    伸びる我等の中島
  2.白梅咲くよ 香りも高く
    輝く校章 我が理想
    みんな元気で 仲良し小好し
    何時も心も清らかに
    弛まず進む中島根
    伸びる力の中島根


 同50年体育館完成。PTA設立。同51年プール完成。同52年校舎増築(図書室・家庭科室)。
同55年校庭整備。自転車置場完成。同57年レーガン桜5本植樹。陶芸小屋完成。同58年創立1
0周年記念式典。同59年創立10周年記念石碑除幕。同60年流水実験装置及びどろんこ遊び場完
成。同63年足立区立小学校足立サッカー大会優勝。足立区小学校陸上大会総合優勝。
 平成元年創立15年記念植樹。視聴覚教室開設。同2年浄化槽跡に記念樹園設置。同4年足立区中
央陸上大会女子800メートルリレー新記録樹立。同5年創立20周年子どもまつり・サンバ中島根
作成。同記念式典。同10年コンピュータルーム開設。同15年足立区サッカー大会優勝。同16年
緑のカーテン設置。土曜授業「算数教室」開設。本物の舞台芸術体験授業。校庭の芝生化。同17年
英語学習開始。コーラス部NHK合唱コンクール東京都予選において銀賞受賞。足立区陸上大会総合
優勝。一茶まつり全国小中学生俳句大会において「足立区長賞(学校賞)」受賞。同18年スプリンク
ラー設置。「緑はぐくむ会」発足。コーラス部NHK合唱コンクール東京都予選において銀賞受賞。
足立区陸上大会総合優勝。同19年3月隣家の火災により図書室等類焼。7月火災により閉ざされて
いた教室復興。コーラス部NHK合唱コンクール東京都予選において銅賞受賞。「声に出して本を読
む会」開始。同20年足立区水泳大会総合優勝。足立区陸上大会総合優勝。同21年学校ビオトープ
完成 全国学校ビオトープコンテスト銀賞受賞。


 
火事
 平成19年3月21日春分の日近くの火災で火を被り、図書室など一部校舎が類焼した。
 午後1時20分ごろ、足立区島根2丁目菅谷文夫(69)所有の木造2階建ての作業所兼住宅から
出火し、近隣の住宅や校舎などに燃え移った。火は約6時間後に消し止められたが、この火事で出火
元の作業所など2棟が全焼したほか、小学校の図書室など計10棟が祝融の災いに見舞われ、内2棟
は全焼した。出火原因は発表されていない。
 学校は大変だ。延焼そのものは大したものではないが、放水による水害で校舎全体が水浸し。翌日
が終業式、翌々日が卒業式で、何となく救われたような変な気分だ。都合のよいことに、春休みだし、
突貫工事で新調なるだろうさ。→7月24日復興した。



■島根公園
 2丁目14番にある区立公園。遊具に砂遊び場、子供向けの公園だ。



■庚申塔2基
 2丁目14番にある。一つは日月・青面金剛・一鬼・三猿を彫り、「現當二世造立之供養也」の文
字が刻んである。いま一つは宝永二年(1705)のもので「庚申供養」の文字のみ。



照涼山阿弥陀院来迎寺
 3丁目11番、島根小学校の東南方にある新義真言宗豊山派の寺。本尊は阿弥陀如来。建久六年(1
195)の草創というが、天和年中(1681〜83)に宥如和尚を第一世として再興した。門を入
ると樹齢400年以上といわれる大榎がある。その下に子育地蔵堂が建つ。その側に庚申塔が並んで
いる。手前から元禄四年(1691)、天和二年(1682)、寛文六年(1666)、正徳三年(1
713)のもので、型は舟型・将棋駒型があり、見事な造りだ。地蔵が刻んであるのは延宝四年(1
676)のもので、これは念仏講結衆の記念碑だ。



■島根小学校
 3丁目28番11号にある区立校。昭和36年梅島第一小学校の分校として開校。同年10月島根
小学校となる。同40年校歌制定。

 校歌
雲に呼びかけ」 作詞・サトウハチロー  作詞・渡辺浦人
  1.雲に呼びかけ 風とも語り
    肩を並べて 元気に通う
    毎日毎朝 にこやかに
    われらをやさしく 迎える母校
    ああ島根 島根小学校
  2.胸に教えを正しく記し
    声を合わせて楽しく歌う
    心も体も健やかに
    明るく育てと見守る母校
    ああ島根 島根小学校
  3.花を労り 小鳥を愛し
    友と笑顔で未来を誓う
    明日を目指して進めよと
    吾等をいつでも励ます母校
    ああ島根 島根小学校

 同42年創立5周年記念式典。同47年創立10周年記念式典。同50年中島根小学校の新設によ
り学区変更、生徒71名移籍。同56年創立20周年記念式典。同60年ソニー賞優良校受賞。同6
1年東京都統計グラフコンクール学校賞受賞。
 平成3年創立30周年記念式典。同11年校舎建て替えのため仮校舎へ移転。同14年新校舎落成
し移転。コンピュータルーム新規更新(コンピュータ21台)、インターネット接続。創立40周年
記念式典。同15年ホームページ開設。同16年元旦より学校内全面禁煙・開始〈健康学校宣言〉。
同17年島根アスレクラブ発足。同19年創立45周年。



天下長久山国土安穏寺
 4丁目4番に昔からある日蓮宗の寺。本尊は祖師奠定(てんじょう)の曼荼羅と祖師像。応永十七
年(1410)の創建といわれ、開山は経王院日通、開基は当地淵江の領主千葉太郎満胤。創建時は
長久山妙覚寺という普通の名前の寺だった。元和年中(1615〜23)2代将軍秀忠の鷹狩のとき
御膳所となり、3代将軍家光は数度来山、長久山という山号を喜び、4400坪の土地を喜捨して天
下泰平・国土安穏の祈願所とした。それで以後現在のような寺号となったって訳さ。ところがさぁ、
『足立区史』に

   慶安年間(1648〜51)八世蓮光院日芸上人は、宇都宮釣天井予言の功により、
   御朱印と、現山寺号を賜った。


 とある。しかし宇都宮釣天井事件は元和八年(1622)、秀忠の治世のことで、20年以上も前
のことさ。『足立区史』だって嘘を書いてるんだぜ。
 この寺は日光道中に接し、将軍が度々立ち寄った寺で、葵の御紋の使用を許され、ために諸大名も
中食休憩に便利なので頻繁にやってきおった。寺ぁ食堂じゃあねえっつうの! 古図に「御茶屋」と
記されている。
 日通については『安穏寺縁起』に詳細がある。
 街道より入口に御成橋(現在跡碑あり)を渡ると御成道、寺には将軍専用の入口「御成門」がある。
よく整えてある境内は美しく、本堂に中山法華経寺3世日祐上人自作の祖師像がある。什器・寺宝が
豊富で、日蓮聖人断簡、大涅槃図をはじめ、将軍使用の膳椀一式、洗足盥、貞龍院殿遺品、加藤清正
・徳川慶喜らの書軸、正安六年(1299)を始めとする板碑5枚などなどが保存されている。かつ
て鷲神社(わしじんじゃ)の別当だった。
 現在の本堂・庫裏・客殿は昭和2年〜6年の間に建築されたもので、40年代までかけてゆっくり
と整備された。
 山門前に構掘(かまえぼり)の跡らしき池があり、それに並行するように土塁が築造されているが、
この地域は江戸時代に構掘が開削されたケースが多いので、当時のものかもしれない。山門の東側に
ある仁王門には、昭和の再建ながら大草鞋が吊り下げられ、龍の天井絵も描かれ、なかなか見事なも
のだ。境内は緑豊かで静寂な空間ですが、その中に家光の手植えという松が枝を茂らせている。

 檀家組織
 檀家の範囲は島根とその周辺に限られていたが、現在は移転などで各地に分散している。しかし寺
行事などの面で寺と関わりが深いのは、どうしても島根を中心とした檀家となる。檀家組織は八つの
題目講に分かれており、島根の講は、鷲神社氏子組織の五つのズシに対応しており、上講中・中講中
・下講中・郷中講・北講中と呼ばれている。

 誦経の祖師
 日蓮上人は龍ノ口での法難を免れ、予てから上人に帰依していた、相模国の本間重連の屋敷に身を
寄せた。この本間一族は挙って法華経の信者だったが、その中でも次男の五郎重元は特に信仰心厚く、
下総中山法華経てらの日祐上人に師事した。日祐は重元の信仰心の厚さの旺盛なのに感動し、康永三
年(1344)自ら祖師像を刻んで与えた。祖師像を得た重元は感激し、信仰心益々募り、日夜祖師
像への勤行に励んだ。やがて重元は、息子の重氏に祖師像を譲ったが、重氏も父の意志を継いで信心
を怠らなかった。或る日重氏は、男子が授かったら出家させるので、この希望を叶えてくれと祈願し
た。するとその夜妻が、蓮華一茎が懐に入る夢を見、懐妊した。そして誕生したのが男子だったので、
見た夢に因んで蓮千代麻呂と名付けた。誕生を見た蓮千代麻呂は、7歳になると父親の希望通り出家
し、日祐の弟子となって日通と名乗った。日通は日祐の下で、13年ほど修行し、日祐が亡くなると、千
葉満胤の要請によって、足立は島根村の堂宇に祖父重元の代から伝わる祖師像を安置して開山となっ
た。
 さて江戸時代に入ると祖師像は、夜な夜な深更に及ぶや、経を唱えたというのだ。住職がふと目を
覚ますと、微かに本堂の方で、題目を唱える声が聞こえてくる。「はて? こんな時間に、しかも人
気のない本堂でと、不審に駆られながら本堂に行ってみると誰もいない。それなのに誦経の声はする
のだ。暗がりに目を凝らすと、実は本尊の祖師像が読経しているのだった。それで「誦経の祖師」と
呼ばれるようになった。このことが口から口へと伝わって、江戸の人々が、その有難い祖師像を是非
とも拝みたいというので、島根から何度も江戸へ出開帳したとか。
 杉並区堀之内3―52の宗延寺にも「読経の祖師」という像がある。



御嶽山正法院普門寺
 4丁目16番にある新義真言宗豊山派の小寺。延慶年間(1308〜10)の創建。、小さな本堂
に小さな庫裏がくっついている。本尊は十一面観世音菩薩、運慶の作というから驚きだ。盗まれない
ようにしてくれ。文政七年(1824)の宝篋印塔がある。



■金武屋敷長屋門
 国土安穏寺の西北、4丁目18番にある赤羽邸にある。ここは元島根村名主牛込氏の屋敷跡で周囲
に構堀を廻らし庭内約1町歩。人呼んで「金武屋敷」という。この屋敷のすぐ西北に普門寺があるが、
この寺の開基が『新編武蔵風土記稿』によると牛込金武とある。島根の歴史を残す建物だよ。
 赤羽家には、享保六年(1721)に発布された鷹番廃止を伝える高札も残されている。御触れの
内容は、「幕府は鷹場を管理する役人を常駐することを廃止したから、今後は村人達でぬかりなく管
理するように」という一方的な通告で、当時の民衆の嘆きが聞こえてくる。



■鷲神社
 4丁目25番にある。「おおとり」ではなく「わし」と読むんだよ。祭神は、日本武尊(やまとたけ
るのみこと)・誉田別命(ほんだわけのみこと)・国常立命(くにとこのたけのみこと)の3柱だ。
例祭は9月17日。暮の酉の市には参拝者が多い。末社は三峯社。
 鷲神社は旧利根川水系に多く祀られている。この社は文保二年(1318)島根村の鎮守として創
建され、当時は大鷲(おおとり)社と唱えたと伝わる。村は現在の島根・梅島・中央本町・平野・一ツ
家などの全部または一部を含む大村だった。村内に7祠が点在していたが、元禄の頃このうち八幡社
(誉田別命)、明神社(国常立命)の2柱の神と合祀し、「三社明神」の社として社名を「鷲神社」
に定めたという。社殿は氏子中の寄進により、昭和31年再建され、境内の整備も行なわれた。直線
的でさっぱりとした社殿が美しい。境内にある享保二年(1717)造の明神型石造鳥居は、昭和6
0年に区登録有形文化財に指定された。

 氏子組織
 島根村には五つのズシ(町会のようなもの。上・中・下・郷中・北)があり、ズシ毎に氏子組織が
構成されていた。現在その氏子中組織は奉賛会と呼んでいるが、一部〜五部まである各奉賛会がかつ
てのズシに対応している。

 
酉の市
 11月の酉の日には、オトリサマが行われ、神主が祈祷する。境内では熊手の販売が行われるほか
島根囃子や神代神楽の奉納なども行われる。

 島根囃子・島根神代神楽
 祭礼時に神楽殿で奉納される。囃子は葛西囃子→神田囃子の流れを汲む。江戸時代の末期に、田口
峯吉という人が、明治初年にかけて西新井・六月・栗原・谷塚・舎人などの各地に広めた。戦前は元
旦から七草の日まで、町内全域を流して歩いたそうだが、現在では交通事情などから、今では祭礼だ
けに行われている。昭和51年、同63年にそれぞれ区の登録無形文化財に。




【新田】(しんでん)1〜3丁目                  最終平成元年5月15日
 鹿浜新田。武州大里郡吉見(埼玉県)辺りからやってきた庄左衛門・三郎兵衛らが元禄以前に隅
田川の河川敷を開発したと伝わる。明治22年江北村大字鹿浜新田、昭和7年足立区新田上町・新
田下町。同36年新田上町・新田下町・沼田川端町・南堀之内町・南鹿浜町をあわせた町域を新田
1〜3丁目とした。 同41年7月1日新田1〜3丁目をそっくり地番変更した町域を新田1〜3
丁目とし、平成元年南鹿浜町・北鹿浜町・新田上町の各一部(全て荒川河川敷)を1丁目に、南鹿
浜町の一部(全て荒川と河川敷)を2丁目に、南鹿浜町・南堀之内町の各一部(全て荒川と河川敷)
を3丁目にそれぞれ編入して現行の「新田」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『足立区史』など。
                    *
 3丁目の西半はまだ古い住宅地だが、東半は再開発で、南千住汐入地区のように脱水害住宅地に
生まれ変わって、ハートアイランド新田となった。

 新田の由来
 地名は鹿浜村の南に、江戸時代に入ってから新しく水田を開いた村の意。江戸開幕以前の開発は
古田という。「○○新田」というのは「○○村」というのと同義。「××村」というのは「江戸時
代以前に開発された村」の意で、区別のためにそうした訳だ。荒川の開鑿で本区から切り離されて
島状になってしまったが、かろうじて鹿浜橋だけで繋がっている。隅田川に架かる橋に新田橋があ
る。



■都民ゴルフ場
 環七の鹿浜橋ICから約1km、荒川河川敷にある。首都圏から非常に近く、都内にあるゴルフ場
だ。距離は若干短めだが、食堂、風呂も完備で、格安な料金なので、誰でも気軽に通うことができる。
また早朝プレーや薄暮プレー、オープンコンペなど、その人に合ったプレー形態を楽しめる。



■新田稲荷神社

 1丁目8番にある。祭神は倉稲魂命。祭日は9月17日。創建は元禄十年(1697)九月、京都
の伏見稲荷を勧請したと伝えられている。社殿は戦災により焼失し、昭和22年に再建された。昔は
野新田(南鹿浜・南堀之内・新田上町・新田下町・沼田川端町)の鎮守だった。



■新田中学校
 → 移転 小中一貫校足立区新田学園
 1丁目21番にある。昭和34年江南中学校から分離して開校。平成16年創立45周年。小中一
貫校を目指す。3丁目34番に移転して、同22年新田中学校と合体して「足立区新田学園」となり
小中一貫校となった。



■順天中学校・高等学校
 2丁目9番にある私立校。天保五年(1834)
福田理軒が順天堂塾を大阪に創立。明治4年神田
仲猿楽町に移転し「順天求合社」と改称。同27年「尋常中学順天求合社」を設置。同32年「順天
求合社中学校」に改称。翌33年「順天中学校」に改称。大正2年神田の大火災で校舎全焼。同12
年関東大震災で再び校舎全焼。昭和3年神田三崎町に移転。同20年愚かなアメリカ軍による無差別
東京大空襲で校舎焼失。同23年学制改革により順天高等学校・順天中学校となる。同28年北区王
子に移転。同37年順天高等学校は女子校となる。同60年新田にグランドを移転し、体育館、研修
館等が完成する。平成2年高等学校は男女共学となる。平成17年新校舎落成。



■足立新田高等学校
 2丁目10番16号にある都立校。昭和54年地域の熱い想いによりに開校。それは校名からも窺
い知ることが出来る。本校は東京セロハン紙株式会社工場の跡地に建設された。校名については、当
初「江南高校」なる校名が都教委より示されたが、地元の強い要望により、自治会と協議の末現校名
となった。新田は江戸時代からの村名だ。平成16年創立25周年を迎える。

 校歌
おゝ広き海を」 作詞・青木薫  作曲・高沢智昌
  1.おお広き海を目指して
    おお隅田 南へ流れる
    武蔵野は青よりも青
    学修め人となり得て
    愛される桜草咲く
    素晴らしきは我が母校
    足立新田 足立新田高校
  2.おお風は季節傳えて
    おお若葉陽を受け輝く
    武蔵野は透き通る郷
    愛ありて素直な心
    美しく桜草咲く
    素晴らしきは我が母校
    足立新田 足立新田高校
  3.おお空よ 肥沃な大地
    おお汗よ 無限の憧れ
    武蔵野は千古の歴史
    強い意思 弛まぬ努力
    強かに桜草咲く
    素晴らしきは我が母校
    足立新田 足立新田高校



■新田小学校 → 小中一貫校足立区新田学園 移転
 2丁目30番にある。明治16年妙喜庵の内に鹿浜小学校分校開設。同25年独立して新田小学校
と改称。同33年茅葺12坪の校舎新築。同37年江北尋常小学校分教場となる。大正12年関東大
震災により校舎全焼。妙喜庵内に仮校舎。同15年校舎再建(木造瓦葺31坪)。昭和11年校地5
6坪拡張。同20年愚かなアメリカ軍の無差別空爆により校舎焼滅。南鹿浜町の大和寮を借りて授業。
同22年バラックの仮校舎完成。同23年区立新田小学校と改称。同28〜33年木造校舎に改築。
同41〜50年鉄筋校舎に改築。
 平成10年創立50周年。同22年新田中学校と合体して「足立区新田学園」となり小中一貫校と
なった。



■庚申塔
 3丁目34番にあったが再開発で移動した可能性が高い。再開発の責任者に庚申塔を残そうという
情感はないだろう。寛延三年(1750)日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿を刻む駒型。



■足立区新田学園
 2丁目34番2号にある区立の小中一貫校。平成22年新田小学校と新田中学校が合体して施設一
体型の小中一貫教育校「新田学園」として開設した。小学1年生から中学校3年生(9年生)までが
新たに建設された一つの校舎で学ぶことになった。

 校歌
光きらめく隅田川」 作詞・斎藤智子:八代知子  作曲・郡司博
  1.光きらめく隅田川
    豊かな流れに臨む地の
    希望溢れる学舎の
    高き理想を掲げつつ
    自主の意気持て伸び行く我ら
    明日の文化を担うため
    互いに励まん新田学園
  2.深き緑に風通い
    春を彩る桜草
    笑顔溢れる学舎に
    大きな夢を抱きつつ
    豊かな心 育む我ら
    明日への道を拓くため
    友と学ばん新田学園


 区の方針
   1.小中一貫教育の目的
     9年間を見通した学習指導の下で、小学校と中学校の接続を円滑にし、「確かな学
     力の向上」と「心の教育の充実」を図る。
   2.特色ある主な取り組み
     「興本扇学園」で実践している取り組みを、「新田学園」に生かす。
     @ 4・3・2制の実施
     9年間を、発達段階に応じて、T期(小1〜4年)、U期(小5〜中1年)、V期
     (中2・3年)に分け、小・中学校間の接続を円滑にするとともに、計画的・継続
     的な指導を行う。
     A 国際コミュニケーション科の新設(文部科学省より教育課程特例校の指定)
     コミュニケーション能力や課題解決能力などを育成するため、小学校1年生から発
     達段階に応じて、英語、国際理解学習、生き方を考える学習などに取り組む。
     B 教科担任制を段階的に導入
     学習難易度の上がる小学校高学年の一部教科で教科担任制とし、専門性の高い授業
     を行う。中学校の授業に向けた準備。
     C 小・中学校教員の授業交流の実施
     中学校教員が小学生に、小学校教員が中学生にそれぞれの特性を生かして、学習指
     導を行う。
     D 授業時間の増加
     1〜6年の国語と算数、3〜9年の豊かな心の時間(道徳)の授業時間を増やす。
     E 異学年交流
     合同行事に加え、異学年の子ども同士が日常的に交流する機会を増やし、思いやり
     の気持ちなどの豊かな社会性と人間性を育む。



■ハートアイランド新田
 3丁目34〜37番に建設された再開発の団地。荒川と隅田川に囲まれた総面積約20haの広大
な土地に、国や都、足立区などによる大規模な都市整備が進む足立区新田。この地にUR都市機構が
作り上げる計画戸数約3000戸の街。川岸一帯の地盤を広範囲に高くする「スーパー堤防」との一
体的な街づくりにより、リバーサイドの爽快な眺望と開放感を創出。都心10km圏とは思えない豊
かな水と緑に恵まれた環境を最大限に活かし、人と地球に優しい「環境共生都市」を実現している。
また都市計画公園やスーパーマーケット、保育園や小中学校まで街の内に有し、便利さと快適、安心
をも叶えている。
 



■新豊橋
 「しんとよばし」と読む。新しく隅田川に架かる橋。愛知県に同じ字でしんとよはし≠ニいうの
があるそうだ。工事中の仮称は「新田豊島橋」だった。足立区新田3丁目再開発地区(ハートアイラ
ンド新田)と豊島区豊島6丁目を結ぶので「新豊橋」、単純で判りやすい。川上に「新田橋」、川下
側に「新豊島橋」、こりゃ相変わらずの役人のなおざりな命名かと思ったら、これが公募で、中学3
年生広瀬美桜の作品らしい。まあ最初から決めてあって、彼女のを選んだってこともあるわな。とっ
ても無難だもの。


 
平成19年3月26日開通 鋼単純桁+アーチ複合橋。
 住宅市街地総合整備事業の一環である足立区と北区とを結ぶ道路の内、隅田川渡河地点に架けられ
た橋梁。周辺地域では都市機構による再開発が実施され、良好な住環境を形成している。橋は鋼単純
桁+アーチ複合橋。
長い歴史と伝統を持つ隅田川にふさわしく、且つ現代を反映した新しい橋梁を目
指してデザインがなされた。「地域住民にとっての日常的な道具としての美しさ」「人の温もりや時
代のメッセージを感じる橋」「時代の先端技術や新しい発想を採り入れた橋」などをコンセプトにデ
ザイン設定したそうだ。全体形状は周辺の建築に対する「適度な存在感」を表現するため、低ライズ
のアーチで支間中央を補強した桁橋とし、アーチ部の上面は4次曲線として滑らかさと美しさを感じ
させる形状とした。また主要色を日本の伝統色である銀鼠(ぎんねず)とし、落ち着いた中にも深み
のある色としているとか。アーチ吊り材はケーブルとして視線を遮らないようにしながらも、アクセ
ントカラーとして臙脂色(えんじいろ)とした。主要部材は溶接で接合し、全体が一塊としてシンプ
ルに見えるよう配慮している。高欄ポストは2枚板で構成して開放感を確保し、隅田川の上を軽やか
に渡る生活空間を創出したということだ。全体的には、白鬚橋や永代橋に似ていて、圧迫感がない。




【神明】(しんめい)1〜3丁目                    昭和53年4月1日
 土合村→久左衛門新田。福島正則の臣星野又太郎(彦六)が開発して「土合村」としたが、子の
久左衛門が「久左衛門新田」に改名した。明治22年花畑村大字神明となり、昭和7年足立区が成
立して神明町。神明は村の鎮守の天祖神社を神明さま′トんでいたことによる。同38年に神明
南町を分け、同53年新住居表示により神明町・花畑町・六木町の各一部をあわせた町域を現行の
「神明」とし今日に至ってる。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『足立区史』など。

 神明の由来
 天地神明に誓って≠フ神≠フ義と天照大神≠いう二義がある。天祖=神明=伊勢(神宮)
は同義で使いられ、伊勢神宮の分霊社を神明社といい、明治以後国家神道に則って明治政府の強制
により天祖神社を名乗らされたものが多い。



■赤稲荷神社

 1丁目1番にある。祭神は倉稲魂命(くらいなたまのみこと)。例祭は10月16日。内匠橋の東
詰にあり、かつて屋根を赤い砥の粉で塗ったことから、「赤稲荷」と呼ばれるようになったといわれて
いる。江戸時代、星野家(現在の神明1丁目12番)の屋敷神が大洪水で在地に流れ着いたのが縁で、
村に祀られるようになったと伝えられている。赤稲荷の社が壊れたりすると、必ずといっていいほど
村に災害が起こった。(木村栄一『神明の赤稲荷神社』より)
 大鷲神社が管理している。



■星野家(神明の名家)

 1丁目12番にある草分け星野又太郎の子孫の家。



■神明水の森公園

 3丁目がある。
ここにはレトロな風車がある。何となく「北の国から」に出てきそうな古臭い風車
だ。



■天祖神社

 3丁目18番にある地名の謂れとなった神社。祭神は天照大神。江戸時代後期には「神明社」と呼
ばれ、久左衛門新田の鎮守だったと『新編武蔵風土記』にある。明治以降、天祖神社と改称した。笹
目村から移住してきた星野又太郎が、土合村の開発に成功した事を祈念して子孫彦六により創建され、
元禄八年(1695)検地の際、久左衛門新田と村名を改称し、村の鎮守となった。現在ガラス張り
で大切に保護されている本殿は、天保年間(1830〜44) の建築と伝え
られている。
 一般に伊勢社、神明社など天照大神を祀る伊勢神宮系の神社は、明治政府の強制によって「天祖神
社」に改められている。大鷲神社の管理。明和三年(1766)九月銘の漱盥石がある。



安養山南蔵院
 3丁目18番にある真言宗智山派の寺。安行村(埼玉県川口市)慈林寺宝厳院の隠居寺として元和
五年(1619)に空深上人により開山され、開基は宥海和尚と伝えられている。本尊は行基の作と
伝えられる大日如来像。その右側に祀られている如意輪観世音菩薩像は、12年に1度午年の時に巡
る東京百観音巡りの第87番札所となっている。平常は秘仏として厨子に納められている。寺宝は不
動明王像、弘法大師像、興教大師像、閻魔法王像、大般若経600巻、墓地には久左衛門新田を起こ
した星野彦六の墓と伝えられる寛永七年(1630)の墓碑がある。
 



■東稲荷神社
 3丁目29・30番にあるま赤っかの社だ。神明水の森公園の近くに、古くから久左衛門の下地区
で祀る稲荷があり、赤稲荷に対して『東の稲荷』と呼ばれている。祭神は蒼稲魂命(うかのみたまの
みこと)。昔、内匠橋東詰めの金子家の屋敷にあった稲荷社を移したと伝わる。



【神明南】(しんめいみなみ)1〜2丁目                昭和53年4月1日
 昭和38年神明町の南半に花畑町・内匠町の各一部を加えた町域を神明南町とし、同53年神明
南町と内匠町の残り全部に花畑町の一部をあわせた町域を現行の「神明南」とした。町名は旧神明
町の南半であることによる。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『足立区史』など。

 神明南について
 神明村の南半であることによる。



■第十三中学校
 1丁目16番にある区立校。昭和22年花畑小学校内に開校。同23年現在地に校舎が落成して移
転。同32年創立10周年記念式典。同34年8教室増築。同36年校歌制定。

 校歌
輝く空よ」  作詞作曲不明
  1.輝く空よ 紺碧の空
    仰げば胸に希望が燃える
    山遠く紫に
    微風は広やかに
    吾等の足立十三中は
    力漲る楽しい母校
  2.綾瀬の水よ 昔を語れ
    時代は巡り 文化は進む
    芦の芽の緑にも
    若人は夢多く
    日本の明日をこの手に築く
    自主の精神 吾等の誇り
  3.湧き立つ歌よ 平和は此処に
    友情籠る真昼の星座
    花の春 雲の秋
    星霜は移るとも
    変わらぬ足立十三中の
    意気を受け継ぐ 栄えある吾等


 同37年体育館完成。同41年花畑中学校を分校。同42年第一期鉄筋コンクリート造り4階建て
校(8教室)増築。同42年創立20周年記念式典。同44年第二期鉄筋コンクリート造り校舎落成。
同45年第三期鉄筋コンクリート造り校舎落成。同46年第四期鉄筋コンクリート造り校舎落成。同
49年第五期鉄筋コンクリート造り校舎落成。同50年第六期鉄筋コンクリート造り校舎落成。同5
2年創立30周年記念式典。同54年校庭整備。同57年第七期鉄筋コンクリート造り校舎落成。体
育館完成。校舎増改築落成記念式典。同61年窓枠サッシ化完了。「十三中位置表示柱」設置。創立
40周年記念式典。同62年第二グラウンド完成。視聴覚教室設置。
 平成3年下水道工事完了。同4年コンピュータルーム開設。同8年上水道工事完了。創立50周年
記念式典。同10年新型パソコンに切り替え。同13年標準服改訂。ホームページ開設。校舎耐震化
完了。「職人の話を聞く会」開始。同14年「職場体験」開始。同15年桁川浄化活動開始。同18
年創立60周年記念式典。




【関原】(せきばら)1〜3丁目                   最終平成年5月15日
 昭和45年8月1日本木町1〜2丁目・梅田町・千住八千代町・西新井本町5丁目の各一部をあ
わせた町域を小学校名からとって「関原」とし、平成元年千住八千代町の全部と本木町1丁目の一
部を関原一丁目に編入して新住居表示を完了した。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『足立区史』など。

 関原の由来
 
弘化二年(1845)に再刻した『関原不動尊縁起』には、宝徳元年(1449)相模国足柄(神
奈川県)の信心深い小宮光徳という関守が霊夢を見て、桂花老人から「関の原という土地に良弁僧
都が彫った不動尊像を授ける」と告げられ、教えに従ってこの地にやってきて八幡宮の近くに草庵
を結んで尊像を祀ったことから「関原不動」が起こったと伝えるが、関の原はこの土地のきこりが
作った土地(?)の意だそうだ。その3年後に執事が配布した文書では濃州青野原から来たことに
なっている。青野原は関が原の東側の平坦地。関が原は無関係か? 関原小学校は昭和4年に本木
尋常小学校の分校ができた時、関原山不動院大聖寺の山号から関原分校と称したことによる。八幡
神社は大聖寺の南50mのところにある。
 しかし「足立区史」「足立の今昔」などによると、応仁年間(1467〜68)ある日小宮光徳
という関守が心経を口ずさみながら山林の中を歩いていると草堂があった。信仰に篤い光徳は草堂
に向かい合掌すると、堂の扉が開き一人の老人が出てきてこう告げた。「お前の来るのを長い間待っ
ていた。お前は武人としての生活をしているが、仏への信仰が篤く感心だ。私は桂花というものだ
が、この霊仏を守護して幾年かが経ってしまった。今この辺りを樵夫たちが関ヶ原といっているが、
その昔、良弁和尚がある大木の下に泊ったとき夢の中で光を放つ霊木を見た。翌朝この夢のことを
思い起こし、試しに大木に斧を下ろして見ると血が流れ出た。良弁はその木が不動明王の化身であ
ることを知り、すぐにその木で三体の不動明王の像を彫った。根元で作ったのがこの像で、その他
の尊像は、相模国大山口のと武蔵国大相模の不動明王だ。お前にこの本木で彫刻した尊像を与える。
早く戦から逃れて郷里に帰り明王に仕えよ。そうすれば四海泰平の時、必ず四方に良いことがあるだ
ろう」
 不思議な老人から尊像を与えられた光徳は、老人の言葉に感激して明王像を抱き、相模を越え、武
蔵国に入り、荏原・豊島・荒川を経て故郷に帰ってきた。妻は、夫が日輪を懐中に八大童子に護ら
れている夢を見て出迎えに来た。光徳は、不思議な一部始終を妻に話し、老人を戒師として八幡社
の側に草庵を作り持ってきた不動明王を安置し、自分は髪を剃って阿比丘と改め、妻は妙林と呼ぶ
ようになった。そして文明十七年(1485)に他界した。



■愛恵まちづくり記念館

 1丁目21番にある。愛恵学園の昭和5年竣工の幼稚園舎「愛の家」の再利用した区の施設。会議
室が3つあり、有料で貸し出している。03−3889−7520


■関原の森
 1丁目21番にある区の施設。愛恵学園の園地を広場として、有料で貸出している。

■まちづくり工房館・

 1丁目21番にある。平成6年竣工。区民のまちづくり活動の拠点及び区民相互の交流の場として
利用できる。また、まちと住まいの相談室を無料で開設している。
 会議室 約45u 定員 円卓型24名 講義型39名。



■八幡神社
 2丁目35番にある。創建が元禄元年(1688)というが、貞享年中(1684〜87)足柄の
関守だった小宮光徳が職を退いた後、この関の原の地に移住して、年来崇敬していた八幡宮を勧請し
たという。祭神は品陀和気命(誉田別尊=応神天皇)。境内に万延二年(1861)の漱盥石がある。



■関原不動 関原山不動院大聖寺
 2丁目22番、八幡神社の100m北にある新義真言宗豊山派吉祥院の末寺。文明四年(1472)
の創建で、本尊は伝良弁作の不動明王。現在の堂宇は嘉永元年(1848)五月深川木場講中が材木
その他を寄進して落成したもので、木造伽藍では区内一の大きさを誇り、昭和50年ごろ大修築した。
内部の華麗な大厨子、中の間の天井の浮彫り(エンボス)絵画など建立時の豪華さを今日に伝えてい
る。当山は眼病に効験があるといわれ、堂前の大提灯は8代目団十郎が眼病平癒に奉納したものとい
う。また慶応元年(1865)の大般若経600巻があり、毎年転読が行われる。また万治三年(1
660)の墓碑、寛文元年(1661)の庚申塔、天保七年(1836)の天水桶一対がある。
 境内は割と広く「関原不動の縁日(8の日)」に多数の出店があり、殊に正月・五月・九月の縁日
には猛烈な参詣人で賑わうんだそうだ。

 おびんずる様
 堂内を入って左側に赤,白,青と着物や紐が巻かれているのがそれ。一般には、自分が病んでる部分
を撫でると除病の功徳があるといわれ、頭や肩、膝などがピカピカになってる場合が多い。ここ関原
不動の「おびんずるさん」は、着物や紐で結ぶ・縛ることによって願を掛けるものか、色取り取りの
紐が一杯掛けられている。



長命山(題目山)常唱庵

 2丁目41番にある日蓮宗の寺。本尊は日蓮上人像。応永年間(1394〜1427)の創建で、
谷在家の本応寺の分寺だ。本堂は昭和42年建立の鉄筋コンクリート造り。本堂の左は庫裏で。前は
墓地。本堂は変った建築様式で目立つものの、境内はちょっと殺風景かな。寺域から貞和四年(13
48)、延文五年(1360)などの板碑が出土した。

 瀬田倉右衛門の碑
 墓地にある足立区登録文化財。倉右衛門は30年近くの歳月を本木小学校の訓導として子供の教育
に当たり、その識見で、地域の人々に多大な影響を与えた。
 



■庚申塔
 2丁目45番にある。「奉造立庚申供養石塔二世安楽処」二鶏・一猿、寛文四年(1664)を刻
む。



■専念寺 移転→ 若草専念寺幼稚園
 3丁目3番にあった浄土真宗本願寺派の寺。伊興本町の寺町に移転。幼稚園は寺の経営。

■第七中学校

 3丁目32番にある区立校。昭和22年関原小学校分教場を仮校舎に開校。同24年新築校舎完成。
平成9年創立50周年。
 



■関原小学校
 3丁目38番にある区立校。昭和4年現分校公園地に本木尋常小学校関原分教場開設。同7年東京
府南足立郡関原尋常小学校となる。同年10月東京市関原尋常小学校と改称。同16年東京市関原国
民学校と改称。同18年東京都関原国民学校となる。同19年戦争の熾烈化に伴い児童の集団疎開、
長野県野沢温泉へ。同22年区立関原小学校と改称。同39〜50年5期の工事で本校完成。同57
年創立50周年。平成14年創立70周年。

 校歌
風がささやく」 作詞・サトウハチロー  作曲・高毛礼誠
  1. 風が囁く 優しく歌う
    桐のしるしを 讃えてる
    肩を並べて毎朝通う
    光り輝くわが母校
    関原 関原 唱えて嬉し
    関原 関原 わが母校

  2. 雲が流れる 窓から覗く
    学ぶ姿を 眺めてる
    道は一筋 正しく清く
    いつも明るい わが母校
    関原 関原 唱えて嬉し
    関原 関原 わが母校
  3. 友が指さす 小鳥を招く
    胸に喜び溢れてる
    励む心に染み込む教え
    栄え栄えるわが母校
    関原 関原 唱えて嬉し

    関原 関原 わが母校


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【千住】(せんじゅ)1〜5丁目         2〜3丁目が未実施━昭和55年8月1日
 明治維新で千住宿は武蔵知県事の支配となり、明治2年小菅県に編入された。やがて徳川色を払
拭するため江戸町名の大改廃が行われ、千住1〜5丁目は「千住宿北組」,掃部宿・河原町・橋戸
町は「千住宿中組」、川南は「千住宿南組」と変えられてしまった。同11年「郡区町村編制令」
により橋北は南足立郡の管轄に戻り、千住に郡役所が設置され、町名変更により「千住北組」「千
住中組」となった。同22年の「市制町村制」により千住北組・千住南組・本木村・興野村・西新
井村・栗原村・島根村・小右衛門新田があわさって「千住町」が発足、昭和6年千住北組は千住町
大字千住1〜5丁目となり、翌年足立区千住1〜5丁目となって戦後に至る。同55年千住1・4
〜5丁目に新住居表示を実施、平成元年日の出町の一部を編入して現行の「千住1・4〜5丁目」
となったが、2〜3丁目が未実施な理由は判らない。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『足立区史』など。
                      *
 平成19年2月26日千住2、3丁目について区から回答があった。
   以前住居表示を実施するため区議会に提案いたしましたが、地元要望の町丁界と議
   会案が異なり、話がまとまらないまま今日に至ってます。機会を捕え地元調査が入
   る必要があると思います。           戸籍住民課住居表示担当

 千住の由来
 この辺りに人が住み着いたのは千年以上も前で、後鳥羽天皇の建久年間(1190〜98)に源頼
朝が奥州方面の防備として関所を設けたこともある。関屋は、関所の建物意で、そこから発した地
名なのだ。さて千住の名がつく以前のこの辺りの名称は判らない。鎌倉道の奥州道が通っていたの
だから地名はあったたろう。いや原っぱで何も無かったかもな。
 千住は千寿とも書くが由来は幾つかある。

 @、関所の設置から130年ばかり経った嘉暦二年(1327)新井図書政次が隅田川で投
   網を打って千手観音を得たことによる(新編武蔵風土記)。
    しかし残念なことにこの一番有力な千手観音説には大いなる矛盾がある。政次の子の
   兵部政勝が開基、勝運社専阿開山の勝専寺の縁起では、草創は文応元年(1260)と
   なっている。父親が網を打つ67年も前だ。2丁目にある三宮神山大鷲院勝専寺は二代
   将軍秀忠以来歴代将軍の鷹狩の際の御休息所で、朱門(御成門)を許された「赤門寺」
   だ。本陣代行として日光参拝の宮家公卿や日光門主の休憩宿泊の御用を務めた由緒ある
   真っ当な寺院なのだ。

 A、千葉一族が移り住んで「千葉氏が住む村」と呼んだのが村名化した。
 B、この地で生まれた足利幕府8代将軍義政の愛妾千寿の前に因む。
    だが、弘安二年(1279)の文書にすでに「千住」は地名として記されている。室
   町幕府は建武三年(1336)の開府だから、この説もあり得ぬ訳で、千住寿町の旧称
   は元千寿町だからこっちの方が古いのかも知れない。平安末期から鎌倉時代の初めに源
   頼朝の12人官女に選ばれた才女に「千寿の前」という女性がいるが、出生地は静岡県
   磐田市、また静岡市手越だという。

 C、インドネシア語で解すると「テネ・チウ」、「隅田川の流路がしつこく移動する所」だ
   そうだ。地形としてはありうる。
                      *
 しかし何があろうとも、とにかく千住村は起立開村した。日光に東照宮が造営されると寛永二年
(1625)日光道中が整備されて千住村が初駅と定められ「千住宿」となった。明暦のころ一〜
五丁目に分かれ、千住宮元町交差点の通りは荒川(隅田川)の堤防跡でそれ以南は河原に盛土して
日光街道を通し、大橋(千住大橋)に繋いでいた。後に本木村(区内)から石出掃部亮吉胤(掃部
介義胤とも)が出て、大橋と隅田堤の中間に新たに堤(掃部堤)を築き、万治元年(1658)河
原を開拓して宿場町(掃部宿)と農地を形成した。それで千住宿は、掃部宿・河原町・橋戸町まで
伸び、同三年(1660)橋南の豊島郡小塚原村・中村も加えて全体で「千住宿」になった。3キ
ロに及ぶ細長い宿場町だが、街道に面する家々が全て宿屋を営業していた訳じゃないよ。
 



■千住名物 大綱引き

 大橋の架った文禄三年(1594)六月八日の天王祭りの夜のイベントとして、大橋の上に大綱を
置き、橋の南北の町民・村民を挙って大綱を引き合い、その年の豊凶を占った。160年ほど続いた
が余りに熱が入りすぎて喧嘩が絶えなくなったので宝永のころに中止した。



■北千住?

 南千住駅に対して隅田川の北側にあるので「北千住駅」はあるがそういう地名はない。千住は千住
であって千住の北部地区ではない。現在日光街道はバイパスが本街道になり、旧道は「千住仲町商店
街→宿場町通り→サンロード1010」と呼ばれる脇道になってしまった。南千住は中村・小塚原村
といったところで、明治になって千住南組といったところから、南千住なのだが、千住が南千住に媚
びたり遠慮して「北千住」と名乗る必要はさらさらないのだ。だから駅の名前も「千住駅」とすべき
なのだ。それが歴史的にも正しいのだ。



■日光街道

 二荒山に祀った徳川家康の霊廟である東照宮への参拝道中をいう。幅5間というから9m。下山事
件当時の写真が残っている。4人の刑事が横に並んで歩いている場面だが、それで一杯々々だ。東京
オリンピックの昭和39年当時でもそんな状態で、東京郊外の大改変は、オリンピック後に急激に始
まった。宇都宮までは奥州街道と重複しており、宿場は21次(千住・草加・越ヶ谷・粕壁(春日部)
・杉戸・幸手・栗橋・中田・古河・野木・間々田・小山・新田・小金井・石橋・雀宮・宇都宮・徳次
郎・大沢・今市・鉢石)だ。「ふたらさん」は普陀落山(ふだらくさん)の訛ったものに「二荒山」
の漢字を充てたもので、二荒は「にこう」と読める。それで韻の似る「日光」の嘉字を以て東照宮の
名前としたことから町の名前も街道の名前も「日光」ということになった。将軍は幸手まではこの道
を通らず、日光御成街道(岩槻街道=例幣使街道)通った。往来が多いので気を使ったのだろう。勿
論大名は日光街道を通って東照宮に参拝した。



■高札場・一里塚 
 千住宿が開かれたころ千住仲町から南、大橋までは河川敷だった。それで街道は盛土した土手道だっ
た。河川敷と宿場の間、つまり千住と千住仲町の境に熊谷堤が横たわり、堤に沿って江川という小流
が走り、千住小橋と名づけられた橋を渡ると宿場の入口で、橋の南、右手に一里塚、左手に高札場が
あった。勝海舟の書いた高札が現在も残っているんだと。古い絵図に、一里塚には定法通り榎が一本
塚の上に植えられていて、「是より日本橋に二里八丁」と刻んだ道標が立ててあったってこったよ。
どちらも跡地近くに石柱の碑が建っている。そんな立派なもんじゃないよ。見落とすなよ。



■白幡山不動院薬師寺
 1丁目2番にある新義真言宗の寺。吉祥院末。千住の入口のところを西に行くと右手に長い参道(区
役所跡地広場→東京芸術センター西側の道路)がある。その参道を北上し、交差する慈眼寺の参道を
越えた奥にある。元弘二年(1332)秀天上人の開山と伝わる。アメリカ軍の空爆で本堂庫裏共に
罹災し、多くの古記録や仏具を燃やされてしまい、何の変哲もない寺にされてしまった。アメリカに
遺恨あり。この恨み晴らさでや。本尊は不動明王。
 真新しい十三重石塔、観音妙智力と名づけた観音銅像が建つ。

 
戊辰戦争の供養塔
 右手墓地に参道に面して正面に「南無阿弥陀仏」と刻した大石塔があり、右面に「藝州」と刻まれ
ている。これは明治維新の際、戊辰戦争に参加した芸州広島藩の軍属の内、千住から参加して戦没し
た者の永代供養をした者だ。

 
包丁塚
 全川魚割烹野田屋東包丁会の建立。根嶺末資菱洞の書。川魚料理人たちが調理した魚類の冥福を祈
るために立てたものだ。観音塔の奥にある。



千龍山妙智院慈眼寺
 1丁目2番にある新義真言宗の寺、正和三年(1314)二月行覚上人が関東巡化の折、吉祥院の
弁天堂跡に創建したものという。のち3代将軍家光が弘法大師作という聖観音を安置して本尊となし、
城北関門の江戸城鎮護の祈願所と定め、寺紋に「葵の御紋」の使用を許され、歴代日光社参の定宿ま
たは休憩所に宛てられた。区役所跡地広場(東京芸術センター)北側の路地(慈眼寺横丁)が参道で、
不動院の参道と直交する。交差の奥に寺門があり、この門は千住地区で、アメリカ軍の無差別空爆で
唯一燃えなかった建造物なのだ。ザマぁ見ろってんだ。アメ公め! 掃部宿の住人橋本盧山の手にな
る「千龍山」の扁額が残る。しかし残念なことにだ、アメリカ軍の馬鹿野郎のお蔭で、本堂も庫裏も、
貴重な仏像、仏具、古文書や書画がごっそり燃やされっちまったんだよ。にゃろメ! 
 鉄筋コンクリート造りの本堂大悲閣の前に興教大師と日蓮さんのようにいかつい顔の坊さんの石像
が、ほかに地蔵堂、毛彫り日限地蔵碑、豊川枳尼真天堂、弁天堂、鳥獣碑、宝暦三年(1753)銘
の宝篋印塔などがある。

 俗称「巣兆寺」
 問屋場の後ろに当るため、風流人の出入りが多く、中でも俳人で画匠建部巣兆が寺と親しんだので、
俗に「巣兆寺」と呼ばれた

 お薬師さまの縁日
 毎月8日の縁日は、千住仲町の源長寺のお地蔵様の縁日と並び称され、千住の風物詩として、大人
子どもを問わず喜ばれたものだ。今は共に廃れて行われることはなくなった。

 南北消防記念碑
 千住と南千住と別々にあった消防組が、団結して消化に当ろうと結束した際の記念碑で、大正12
年4月の建立だ。裏面には町火消として犠牲になった鳶職の名前が刻み慰霊している。千住消防の始
まりは、文政十三年(1829)戒防更番所を建て町民が管理したことにある。安政年間(1854
〜59)には南北千住消防組ができ、明治以降は警視庁の指揮下にあったが、明治28年以降は自治
体の千住町消防組として活躍した。千住消防署は元この境内にあった。
 碑の周りには、纏塚など消防関係費がずらりと並んでいる。



■問屋場・
貫目改所
 1丁目4番、東京芸術センターの前庭部分にあった。

 
問屋場(といやば)
 江戸の北の出口、江川を北へ渡った左手にあった。問屋場は人馬の継ぎ立てをするところで、宿場
の宿駅運営を一手に取り仕切る。問屋場には問屋・年寄・帳付(ちょうづけ=記録係)・人足指(に
んそくさし=人足手配係り)・馬指(うまさし=馬方手配係)・迎番(むかえばん=小使)・店頭(て
んとう=雑用係)など十数人の役人が詰めており、問屋役は名主が15日交代で2名づつ勤務し、旅
人や荷物の輸送・宿泊の世話をした。

 ●
貫目改所(
かんめあらためしょ)
 問屋場の北側にあった荷扱いの役所。大名や侍、また力の強い者が伝馬に法外な荷物を背負わせる
ので、道中の規則を定め、荷物の重量を計り、適正な荷分けをした。荷を運ぶといっても宿から宿ま
でで、荷主の目的地まで付いていく訳ではない。江戸もしくは草加宿までだ。ここには代官所から手
代が一人派遣されていた。また道路を挟んだ向こう側は千寿小学校(現東京芸大)の辺りまで伝馬の
馬継ぎ場(ターミナル)だった。そしてここには時代にもよるが馬50疋が繋がれていた。千住東2
丁目にある馬頭観音は、この馬たちの安全と死後の供養のために祀られたものだそうだ。また川魚料
理人組合の人たちによって包丁塚が建てられている。問屋場に近い関係で、宿役人や旅籠屋だった人
の墓などがある。



■あだち産業芸術プラザ
 「東京芸術センター」と「あだち産業センター」の総称。



東京芸術センター
 
 1丁目4番、旧区役所跡に平成18年に誕生した。新しい芸術を創造する拠点となる。最上階のホ
ール「天空劇場」と、9階の会議室および20階の和室は、足立区内在住・在勤者や、区内事業所の
経営者のが「区民利用料金」で利用できる。

 □
21・22階 ホール「天空劇場」
 地上90mの眺望、劇場形式で400名を収容できる。平床形式で展示会・パーティにも利用可能。

 □
20階 フランス料理レストラン「タビ・ルージュ」
 着席100名、立食200名。

 □
11〜19階 SOHO(small office home office)住宅兼事務所
 
47u、64u、81uの3タイプを基本に、計96室ある。

 □
11  千住一丁目創業支援館 
 足立区が貸与する創業者のためのオフィスが10室ある。

 □
9・10階 オフィス・会議室
 多様なコンテンツ企業が入居する。会議室は一般貸し出し。

 □
6〜8階 ハローワーク足立
 雇用や仕事に関する様々な情報を提供する機関。区民が気軽に利用できる職安。仕事探し、人材募
 集する事業主のための施設。また8階には、「あだち若者サポートステーション」「足立区就労相
 談室」も入る。

 □
4〜5階 フィトネスクラブ(ゴールドジム)
 施設利用者、来訪者、地域住民などの生活を豊かにする施設。

 □
2〜4階 黒澤明シネマシティー
 映画人養成のためのシネマカレッジの開校など、最先端技術の映像文化を提供する。
 □階 エントランス・店舗 便利な飲食・物販などの店舗が入る。



■あだち産業センター

 
1丁目5番に、平成18年にオープンした5階建ての施設。区の新たな産業拠点として区内の中小
企業経営者や、これから創業を志す区民をサポートする。融資の斡旋、創業・経営、知的財産権(特
許、実用新案、意匠、商標、著作権等)、その他の相談窓口が用意されているほか、東京商工会議所
足立支部でも税務や法律に関する相談に応じることが可能だ。
 また産業情報の収集、販路拡大、ビジネスマッチングのサポート、経営に役立つ実践的なパソコン
講座の開設等、ワンストップで幅広いサービスを行っている。

 □5階 T支援室 
 地域企業、事業者向けのパソコン教室だ。在庫管理、会計管理など経営のIT化に向けた実践的な
 プログラムが用意されているほか、IT活用をテーマとした講演会の開催やIT活用の相談日も設
 けている。利用時間 9:00〜21:00 年中無休。

 □4階 東京商工会議所足立支部
 中小企業の皆様や個人事業主の方々を対象に、経営をサポートする地域総合経済団体。無担保・無
 保証人のマル経融資や、税務・法律の無料相談、専門員を派遣する経営相談、講演会・説明会など
 企業経営に役立つ多彩なメニューを用意している。相談してみたら・・・
 03‐3881‐9200。利用時間 9:00〜21:00 月〜金曜日。

 □3階 産業交流室
 地域の経済関係団体や商店街組合など事業者の情報交換の場として、また異業種や起業家の出会い
 と交流のスペースとしてビジネスマッチングの機会を創出する。各種産業支援セミナーなども開催
 する。利用時間 9:00〜22:00 年中無休)

 □2階 中小企業支援課の各種相談窓口
 中小企業支援課の事務局が入る。起業・創業に役立つ様々なセミナーの開催、制度融資の斡旋など
 を通して中小企業の皆様をサポートしていく。また経営、融資、創業・開業、知的財産などに関し
 て、各専門員が無料で相談に応じる。要予約だ。03-3870-8404

 □1階 産業情報室・産業展示室
 産業情報室では、図書やインターネットのデータベースを活用して、マーケティングや特許情報な
 ど経営に役立つ情報を収集できる。また産業展示室では、足立区の地場産業製品をはじめ伝統工芸
 品、友好都市物産などが展示されている。利用時間 9:00〜22:00 月〜金曜日。土、日曜日
 および祝日は17:00まで



■千住葱
 さらに千住といえば江戸三大市場と謳われた青物市場だ。特に周辺の、特に金町の生産地で作られ
る砂村系統の根深ネギは、千住ネギ≠フ名で評判を取った。また近郊農作物の集散地でもあった千
住に集められた良品の葱は、ここで消費されほか、隅田川を下って江戸の市場へ卸されていった。
 千住葱の種類には「千住赤柄・千住黒柄・千住相柄」の3種があり、砂村葱に近い「千住赤柄」は
寒さに強く、冬でも生育する。寒期に葉が淡緑色になることからその名があり、白い部分は長い。分
げつしやすい性質のため2、3本になり、身の締まりがない欠点はあるが、収穫量は多い。「千住黒
柄」は根深一本の代表品種で、葉の緑が濃いのでその名があり、白い部分は太くよく締まり品質は極
めて良い。ただ30cm程度と短く、暑さに弱いので、秋から初冬の収穫に向いている。赤柄と黒柄の
中間種。性質も形も、程よく合いを取り、最も広く多量に栽培されている。

 
焼きネギ・ネギのてんぷら
 千住葱は焼くか、てんぷらで食べるのが最高! 甘いから調味料はつけないで食べるのが一等美味
いよ。




■葱茂
 千住1丁目7番に千住葱の専門店がある。日本で唯一長ねぎだけしか扱わない市場だ。この千住葱
市場に毎朝専門の農家がネギを運んでくる。といってもごく普通の葱という訳でなく各農家が自分の
畑で収穫された最も出来の良いもの、つまりは「おらが畑の一等賞」のネギだけを持ち寄って出来を
競い合う。このネギの事を「千住葱」もしくは普通の千住系と区別するために「千寿葱」と呼ぶ。こ
の千寿葱は約二百年前からあるが、明治時代に東京の鍋屋が「飛び切り甘くて煮崩れをおこさず、そ
れでいて口の中に入れるととろける葱がある」といって評判をとり、蕎麦屋からは「薬味にすれば一
本でほかの葱の倍以上取れる」といって瞬く間に東京中の鍋屋、蕎麦屋、焼き鳥屋、すき焼屋など、
葱を多く使う料理職人の間に広まった。現在でも、東京のこれらの店の約八割は千寿ブランドの葱を
使っている。なぜそれだけの葱が全国的に無名かというと理由は二つある。一つは、厳選しているネ
ギなので料理職人にしか回らないこと、一つは、葱商たちの閉鎖的な体質による。約二百余年間、市
場の売り子は世襲制で、それを扱う葱商(ねぎの鑑定人)たちも血縁者か十年以上葱商の下でよい葱
を見極める経験を積んだ者でないと千寿葱を扱う事は出来ないという規則を貫いてきた。これは各農
家や市場、葱商が責任をもって最高の葱を育て、保存し、料理職人たちのところへ届けるという、互
いの信念で成り立って来たからだ。それが一素材の葱にこだわって扱う料理職人たちへの礼儀である
と考えているからだ。日本で唯一の葱商として、本当に美味しい葱だけを卸すことを誓っている。
 03‐3881‐0160

 小売
 区内のイトーヨーカ堂 ・北区では地蔵屋 ・神奈川の富士マート・西東京は三浦屋というところで
扱ってるとのこと。とにかく葱茂に行くか、聞いてみてよ。



■鷹野鳥見屋敷跡(虎斑稲荷) 
 1丁目16番がそうで、稲荷もそこにある。佐藤家の石塀の角に標柱が立っている。この辺りは鶴
田耕地とも鶴寄場ともいわれたところであり、ここから隅田川沿岸一帯が、将軍家の「御鷹野」つま
り御狩場だった。
 鳥見役とは、この鷹野における野鳥の繁殖状況を常に監視し、御鷹狩りの時は付近の百姓(農民)
を勢子(せこ=鳥追い出し役)に狩り出すのが仕事だ。身分は御目見得(将軍に会える資格)以下の
御家人だが、在住の武家役人として権勢を振るい、町からは煙たがられた。ここに屋敷ができたのは
寛永寺代(1624〜44)だが寛文五年(1665)に、豊島郡中里村(北区)へ移転していった。
よほど聞こえが悪かったのだろう。千住が建て込んできて、鷹場の維持が難しくなって来たというこ
ともあり、幕府は腹を括った。稲荷は佐藤邸に囲まれてある。元々は千住村の人々の稲荷だったが、
鳥見役所に囲い込まれた。御神体の狐に虎斑のような斑紋があるところから名がある。社殿はアメリ
カ軍の無差別空爆で燃やされ、戦後に再建された。この社の献額に鳥見役所の規模が記されており、
東西40間×南北60間 2400坪とある。



■石鍋青果店
 1丁目24番にある八百屋。この店、青物が珍しいんじゃなくて、発泡スチロールの料理の模型が
飾ってある。変なの! 近所の物好きな小父さんが作って持ってくるらしいんだ。



■千寿小学校 廃校
 1丁目25番、東芸大千住キャンパスのところにあった。明治7年4月9日千住二丁目勝専寺を仮
校舎に借用し、学区は千住全域、浅草並木学校一等授業生田中立二を迎えて私学として開学したこと
から始まる。同年6月2日公立校に改まり「第五中学区八番公立小学千寿学校」となった。同11年
11月3日千住北組乙二番地(1丁目25番)に新校舎が落成して移転。同19年「小学校令」の公
布により「千住尋常高等小学校」(義務教育は尋常科4年まで、高等科へは自由進学)と改称した。
同22年隣接民有地を買収して校舎増築。同30年旧校舎を改造、さらに校舎と屋内体操場を増築し
た。同33年12月3丁目に千寿女子尋常高等小学校(後の千寿第一小学校)が新築され、女子を転
学させたので、高等科は男子のみとなった。同42年11月11日千寿第二尋常小学校の開校によっ
て、千寿女子尋常高等の高等科を廃し、千寿第一尋常小学校と改めるに及んで、高等科女子全部を本
校に収容し、正常な千寿尋常高等小学校となった。
 大正元年運動場を拡張。同6年南校舎を解体して舎人村に譲渡、新たに校舎と雨天体操場を新築し
た。同12年9月1日関東大震災により校舎と雨天体操場の一部に被害を受けたが、翌13年無事創
立50周年を迎えることができた。
 昭和7年南足立郡は東京市に併合されたため「東京市千寿尋常小学校」と改称。同9年4月高等科
入学者激増のため、町役場の階下を改造し分室を設け、同8月31日千寿高等小学校が新設を新設し
て、全ての高等科生徒を移し、同11月5日「千寿尋常小学校」と改称した。同11年2月建て替え
のため旧校舎を取り壊し、翌12年9月新校舎落成。同16年4月1日「国民学校令」により「東京
市千寿国民学校」と改称。同18年都制施行により「東京都千寿国民学校」と改称。同19年学童疎
開。同20年愚かなアメリカ軍の無差別空爆により校舎全焼。6月仮校舎3教室建設、3学級編成で
授業再開。8月日本は愚かなアメリカ合衆国の軍門に下り属国に成り下がる。11月疎開解除。
 同22年「区立千寿小学校」と改称。同23年新校舎完成。同24年2期校舎増築。同25年3期
校舎増築。27年4期校舎増築。同33一部鉄筋校舎に建て替え。同34年鉄筋校舎と給食調理室竣
工。同37年鉄筋4階建て校舎。同49年創立100周年。
 平成14年(創立128年目)3月31日を以て閉校、翌月1日から千寿第二小学校と統合して新
しい千寿小学校となり、千寿第二小学校の跡地に移った。新校名を千寿小学校とする代わりに千寿第
二小学校の面子を保ったのだ。

 校歌
正しく踏み行く」 作詞・土岐善麿  作曲・信時潔
   正しく踏み行く道のみなみ
   隅田の川の流れ豊かに
   北には深し放水路
   遥かに仰ぐ雲の彼方
   秩父あり 富士もそびゆ
   新たに学ぶ楽しさよ
   あヽ共に知る喜びよ


 応援歌「誇りも高き」
   誇りも高き我が校は
   明治の御世の七年の
   万朶の花の盛りなる
   卯月よき日の創立よ



■東京芸術大学
 1丁目25番の千寿小学校跡地に、平成18年9月同大学の音楽環境創造科が移転してきた。21
世紀の新たな音楽芸術と、それに相応しい音楽環境・文化環境の発展と創造に資する人材育成を目指
している。

 
千住アートプラットフォーム
 東京芸術大学千住キャンパスで同科が中心となって展開する公開プログラム。



■森鴎外旧居橘井堂跡
 1丁目30番の都税事務所のところだ。明治14年からドイツ留学の同17年まで、森林太郎(鴎
外)は、ここから三宅坂の陸軍病院へ人力車で通勤していた。橘井堂は鴎外の父静男が開業していた
医院だ。静男は石見津和野藩亀井家の典医だったが上京し、明治11年南足立郡の嘱託医として千住
に赴任、同14年に郡医を辞してここに開業した。医院は同25年本郷に移転するまで、足掛け14
年千住の名医として繁盛した。鴎外は陸軍軍医監にまで上り詰めたが、医師としてはそれほどではな
く、脚気衝心についても自説に固執して、兵士に脚気患者を出し続けた。その頃海軍では麦飯に切り
替えて患者は殆どなくなっており、日露戦争では陸軍の人的損失は戦死ではなく、脚気による戦病死
が半数以上に昇った。森鴎外がいなかったら、日露戦争はもっと楽勝だったということだ。晩年小説
家として名を成したお蔭で不名誉が隠れてしまったのは、悪運の強い奴だとしかいい様はない。



■千住警察署
 1丁目38番にある。明治4年10月に下谷坂本村13番地(台東区内)に置かれた「邏卒屯所」
は、同7年1月29日「第十大区東一・二小区巡査屯所」と改められ、同年8月18日「第十大区西
一・二小区巡査屯所」と合併して、「第十大区一・二小区巡査屯所」となった。同8年5月1日「警
視庁第五分庁第五署」と改称し、同6月下谷金杉上町45番地に移転し、同12月「警視庁第五方面
第五署」となり、同10年1月「警視庁第五方面第五分署」と改め、同13年1月北豊島郡千住南組
75番地に移転した。
 同9年1月17日足立郡千住北組所在の「第五方面第六署」を廃し、第五署に併合し、「第五分署」
を置いた。同10年1月「第五分署出張所」となったが、同13年1月北豊島郡千住南組75番地に
移転してきたため廃止となった。同14年第五方面第五分署は、同14年1月「千住警察署」と改称
し、南足立郡の全域、北豊島郡の一部、南葛飾郡の一部を管轄し、周囲約48年kmの非常に広範な
区域だった。同35年12月南足立郡千住町千住1丁目46番地に移転、名実ともに千住の警察署と
なった。大正6年「南千住警察署」が、同7年「寺島警察署」がそれぞれ分離独立した。昭和10年
1月千住1丁目83番地(現在地)に新庁舎が落成したので移転し同11月12月10日には西新井
警察署を分署した。



■潤徳学園女子中学校・高等学校
 2丁目11番にある私立校。関東大震災後の大正13年復興の槌音が響くなかで地元の先駆者堀内
亮一をはじめとする有志によって、中国の四書の一つ「大学」より「徳は身を潤す」の句を校名に選
び、「潤徳高等女学校」として開校。大審院長(現最高裁長官)の要職にあった地元出身の法学博士牧
野菊之助が初代学校長に就任兼務した。昭和22年学制改革により潤徳女子中学校を設立。同23年
学制改革により潤徳高等女学校を潤徳女子高等学校と改称。同29年高等学校に商業科を設置。同3
9年山梨県清里に学園清里寮を完成。同49年創立50周年記念式典を挙行、記念事業として体育館
竣工。同ニュージーランドのダイオセサン女子校と姉妹校提携。平成6年学園創立70周年。アメリ
カの3大学(西部イリノイ、ドーン、バインメナーの3校)と姉妹校提携。同13年福祉・教養コー
スを普通科に設置し、5コース制となる。同16年創立80周年記念式典。

 校歌
紫匂う武蔵野の」 作詞・村山四郎三郎  作曲・星野義政
  1.紫匂う武蔵野の
    隅田の川の行く所
    学びの園に萌え出でし
    春若草は伸び伸びて
    誠の道にいそしめり
  2.徳もて我が身潤せと
    訓の言葉 名に負える
    学びの庭に咲き出でし
    桜の花の色映えて
    高き理想に向かうなり




赤門寺 三宮神山大鷲院(常行院)勝専寺
 2丁目12番(暫定)にある浄土宗。寺門が朱塗りであるところから「赤門寺」と呼ばれる。門の
扁額は明治初期の書の大家巻菱潭が書いた。また「せんじゅ」の名の起こりの一つといわれる千手観
音像がある。縁起によると、鎌倉で源頼朝に仕えていた新井図書(ずしょ)政次が建仁元年(120
1)に所領を捨ててこの地に住むようになった。ある日荒川で投網を打ったところ千手観音が網に掛
かり、後にこれを子の新井兵部政勝が祀ってこの寺を建て、以来この土地を千手と呼び、それが千住
に変わったというものだが・・・どうだか
 「新編武蔵風土記稿」では、投網の時期を嘉暦二年(1327)としており、これだと残念なこと
に、政次の子の兵部政勝が開基、勝運社専阿上人開山の勝専寺の縁起では、寺の草創は文応元年(1
260)となっている。父親が網を打つ67年も前だ。
 幕府時代は将軍家の信仰篤く、しばしば休憩所となり、慈眼寺と共に千住の二大精舎だった。
 現在の本堂は昭和13年の建造で、往時の盛観には程遠いが、境内の閻魔堂は今も人々の信仰を集
め、毎月二と七の日にはボロ市が立つ。山門左右の塀は赤煉瓦造りの珍しいものだ。
 明治7年4月本堂を仮校舎として千寿小学校開校した。

 千住観音
 高さ約21cm。連座台座の高さ約7cm5mm。素朴な木造の仏像。後醍醐天皇の嘉暦二年(1
327)に新井図書政次が投網を打って川底から掬い上げたというあの仏像だ。


 
おえんま様
 観音より有名なのが閻魔だ。門を入って左手の閻魔堂のご開帳が1月と7月の15、16日に行わ
れる。この日は境内や参道に露店・出店が立ち並び閻魔詣での人々で賑わう。かつては2、7の日に
「ボロ市」が開かれて、幾10軒もの古着屋が出店し、日用雑貨・駄菓子・玩具を売る屋台もあって、
2、3丁目の旧道まで、文字通り門前雀羅、市をなしたが、昭和30年代から衰退し、現在は全く行
われていない。世田谷は隆盛してるんだから復活すればいい。江戸に入る旅人が長旅で着古した衣類
や装束をこの宿で脱ぎ捨てたことから、その古着を繕い直して近郊農民に売ったのが始まりという。

 
時の鐘
 昭和20年戦争のため供出し、現在のものは、戦後の同34年に再鋳されたものだ。江戸時代から
「時の鐘」として近郷近在2町15ヶ村の人々に親しまれてきた。。明治24年に鐘楼が再建された
際に基壇側面に記念碑がはめ込まれたが、この碑の題字は、明治の中ごろ日本に亡命していた朝鮮の
革命家金玉均の撰文、揮毫は、日本書道会創立の父で隷書の大家中根半嶺だ。
                      *
   藪の内のぞきて見れば蓬莱の鶴は千寿で亀は万年(白井堂)

 文化十四年(1817)に、今の千住2丁目勝専寺境内の御殿跡に鶴亀の形をした竹が生え、珍し
いというので、人々が群がり、噂を聞いて江戸からもやってきて見物したという。「のぞい
て見れば」いかにも物見高い江戸っ子気質が窺える。

 
永野彦右衛門政重の墓

 『千寿旧考録』の著者。嘉永七年十一月四日没。

 牧野菊之助の墓
 千住宮元町に生まれ、千寿小学校に学び、後に帝大法学部を卒業して司法官となり大審院の院長を
務めた。その傍ら大正13年千住に開かれた潤徳高等女学校の初代校長もやり、昭和4年に開校した
足立学園中学校の初代校長も兼任した。退官後は郷土の子弟教育に専念、昭和21年没。72歳だっ
た。


■鮒秋

 ふなしゅう 2丁目52番、本町センター通りにある「鮒忠」の隣の佃煮屋だが、鮒忠は飲み屋だ。
千住のもう一つの名物が「こむらさき」という千住鮒を開いて醤油味で整えた「雀焼き」だ。最近鮒
が獲れなくなって業者は減ったが、ここではまだ扱っているよ。昔ながらの一間間口の小店で、いか
にも老舗って感じ、千住に寄ったら一度はネ・・・

   朝あさの雪の赤みや千住鮒
   
大川の水味清し千住ぶな


 江戸時代から明治・大正にかけて、鮒は千住の名産で、その鮒を使った「雀焼き」は千住の名物だっ
た。千住大橋付近から綾瀬川の合流する辺りまでを千住川と呼び、当時はこの辺りで捕れる鮒を特に
「千住鮒」または「こむらさき」といっていた。それは鮒の色が薄紫を帯びていたからだとか。この
千住鮒の風味の良かったことは、『続江戸砂子』に、

   かたち平たくして小さし 二、三寸許、五寸を大とす 風味琵琶湖の鮒におとらず昔よ
   り名高きものと見ゆ


 雀焼きはこうした小鮒だけを開いて平にしたものを、二、三串に刺して焼き、醤油だれで味付けし
たものだ。その形が「ふくら雀」に似ていることから、雀焼きの名が起きたという。南北両千住の町
に10軒ほどあったそうだが、南千住は天王社前に「亀鉄」1軒だけなので、北千住の名物だったよ
うだ。現在はこの「鮒秋」くらいで、鮒自体が捕れなくなったこと、グルメ嗜好が変わったことが原
因だろう。でもこれを土産にすると珍しさも手伝って大層喜ばれるんだ。 



氷川山地蔵院金蔵寺 こんぞうじ
 2丁目63番地、西口駅前の一角にある。かつては千住氷川神社の別当寺だった。で、地蔵尊を本
尊としたことから氷川山地蔵院(閻魔院)と号す。ただし現在の本尊は閻魔大王だ。建武二年(13
35)の創建で、同年また応永八年(1401)の板碑が残っている古刹、吉祥院の末寺。中興開山
恵龍は文化六年(1809)十一月十四日に示寂している。
 現在の庫裏は大正9年の建築で、本堂は昭和8年の建造だ。本尊の閻魔は「そばえんま」の俗称が
あり、風邪に効験があるといわれている。また往時近辺の無縁の飯盛女(売春婦)は皆この寺に葬ら
れ、その供養塔が入口左にある。

 常陸一族の過去帳
 秋田藩佐竹家の流れを汲む初代常陸小太郎義弘(慶長十九年没)をはじめ、寛永十年(1633)、
寛文二年(1662)、天和二年(1682)、元禄十三年(1700)に至る常陸一族の過去帳が
ある。

 飯盛女供養塔
 門を入った左手に供養塔が並ぶ。その中の「南無阿弥陀仏」とある塔は、千住飯盛女(遊女のよう
なもの)の供養塔。台座にびっしり戒名が刻まれている。千住宿には飯盛旅籠(遊女屋)が36軒あ
り、江戸時代の終わり頃から遊里として賑わった。明和元年(1764)道中奉行から150人の飯
盛女を置くことが許可されている。飯盛女は、正式に遊女という売春婦を置くことができたのは幕府
が許可した遊郭だけなので、それ以外の場所では売春はできないことになっていた。しかしいくら人
斬り包丁が恐ろしい世の中でも、人類最古の職業だけは別物で、何だかんだといいながら潜りでやる
ものだ。現在でも法律上禁止されているが風俗はなくならない。オスとメスがいる以上、理屈で治ま
るもんじゃない。江戸時代、宿場では客の食事の世話をするという名目で娘を雇い売春をさせた。飯
盛女は茶碗にご飯を盛る接客婦じゃぁない。

 無縁塔
 肉太に刻まれている高さ2mばかりの塔は、天保八年(1837)の大飢饉の餓死者を供養したも
のだ。二丁目の名主永野長右衛門が世話人となり、翌年に建てた。死者828人とある。
 風雨に晒され消えつつある碑文には、以下のように書いてある。

   ひとの世にあるか誰か生の始めを知りて、又、その誰か死の終りを知るや、時あたかも
   天保八年のとし、それはいかなる年にやなりけむ。饑えて下民に食なし。かたじけなく
   も、上は救い屋をたてたすけさせ給うといえども、あるいは、疲れ、あるいは病で、こ
   の地に死せる者、八百二十八人、他に数うるにいとまあらず、三百二十一人を勝専寺に
   葬り、六十一人を慈眼寺に葬り、七十六人を不動院に葬り、三百七十人を金蔵寺に葬り、
   憐むべし四海皆兄弟ならなくぞ、人は恋しきものを加うれば、御代に残れる幸を知らむ。
   恵みの燈をかかげて、このなき人らが霊を弔う無縁の塔を記し侍れば、繋縁法界の心に
   もせめては、かないざるべきにや。
   消えていく露の宿りに仇し名の何忘草何忘草
 



■千住本氷川神社
 3丁目(22)番にある。徳治二年、千葉氏が千住三丁目牛田に、千葉山西光院と氷川神社を創建。
千住町が宿場町として栄え始めた江戸初期、現在地に地主の土地奉納によって分社を建立した。明治
43年荒川放水路構築の折、牛田氷川神社を合祀した。祭神は素盞嗚尊。境内に寛政五年(1793)
九月銘の石灯籠がある。

 ●山車
 この神社には明治5年建造の3層からなる山車(だし)が保管されている。下が囃子舞台、中は回
廊附き舞台で松に鶴の緞帳が下がる。上は静御前の舞姿人形が取り付けられる。高さ7.5m もある
んだってよ。明治の頃には千住各町内にあったが、今はこの1基だけしか残っていないんだってさ。
コンチクショウ アメリカ野郎め!
 ところで「関の山」って、「精々そこまで」ってことだよね。この山って、山車のことなんだよ。
つまり「関の山車」は豪勢な造りで日本一、どんな立派な山車を造っても、関の山車を越えることは
できない、精々関の山車までだというところから生まれた言葉なんだ。

 ●大幟
 あのね、宝暦二年(1752)のが残っているんだよ。長さが15mもあるんだそうだ。また文化
十四年(1817)のやや小振りののも1流残っているが、これは千住在の漢学者亀田鵬斎の筆。こ
の幟を立てる大柱も納屋にあるが、あまり大きいので、今となってはどうにもならないんだってよ。
どうにかなるだろうよ。どうにかしろよ。

 芭蕉句碑

   春も漸 けしきととのふ月と梅

 文久三年(1863)かって、この神社の境内に「白梅」がたくさんあったと伝わっているところ
から、この「句」が選定されたという。



■千寿第一小学校
 廃校
 3丁目(30)番にあった。明治33年「南足立郡千寿女子尋常高等小学校」として開校。同42
年男女共学して南足立郡千寿第一尋常小学校と改称。
昭和7年郡区統合により東京市千寿第一尋常小
学校と改称。同16年国民学校令により東京市千寿第一国民学校と改称。同18年都制施行により東
京都千寿第一国民学校と改称。同19年学童疎開。同20年8月日本は愚かなアメリカ合衆国に叩き
のめされて終にギブアップ、属国となる。同11月疎開解除。同22年区立千寿第一小学校と改称。
同34年創立50周年。同59年75周年。平成3年(創立87年目)3月31日を以て閉校、同4
月1日千寿旭小学校と統合して「千寿本町小学校」となった。

 校歌
平和奏でる荒川の」 作詞不詳  作曲・西川猪佐雄

   平和奏でる荒川の
   清き流れに抱かれて
   明日へ伸び行く我が母校
   通う我らに希望あり
   僕の私の 僕の私の
   千寿第一小学校




■千寿本町小学校

 3丁目(30)番にある。平成3年4月1日千寿第一小学校と千寿旭小学校と統合して開校した。
11月校歌制定。

 校歌
空は青空 作詞・佐藤恵子  作曲・団伊玖磨
  1.空は青空 千住の町に
    楽しい声をひびかせながら
    みんなで歩もう 未来へと
    われらが千寿本町小学校
  2.側に荒川 流れてる
    千住の宿の町並み越えて
    翼を広げはばたこう
    われらが千寿本町小学校
  3.人の心を大切に
    みんなで大きい輪を作り
    学んで行こう何時までも
    われらが千寿本町小学校


 同5年新校舎落成。同12年創立10周年記念式典。同17年創立15周年記念式典。



■本陣跡 
 跡地は3丁目(33)番が全部。120坪あった。石碑が旧街道と検番横丁の交わるところに建っ
ている。



■ドンレミー・アウトレット北千住店
 千住3丁目(40)番2号にある洋菓子屋。平成20年8月18日オープン。通常のドンレミー商
品がお得な値段で購入出来るのは他店舗と同様だが、特別なケーキケースを設置し、北千住でしか購
入できない商品も色取り取り用意している。切れ端や傷物、といっても品質や賞味期限に問題がある
訳ではなく、味一筋なら格安だよ。これこそ行列のできるスウィーツだ。



★バードコート
 千住3丁目(68)番鹿明ビル1階にある『ミシュランガイド東京2011』で、区内で初めて星
1つを取ったが、『2012』では選ばれなかった焼鳥屋。遠慮したのか? 落選したのか? 銀座
の人気店バードランドから唯一の暖簾分けを許された店ということで予約は必至の繁盛店。「焼鳥っ
てこんなにうまかったのか?」と思わせる店だとか。たかが焼鳥屋、されど焼鳥屋。
 日月・8月中旬・年末年始が定休日 17時半〜23時 03‐3881‐8818
 



■明治天皇行在所跡
 3丁目(76)番の浅川医院のところが、千住最大の旅籠中田屋の離れ座敷(別館=アネックス)
のあったところで、ここで明治9年明治帝の東北巡幸の際に歓送会が行われた。明治帝はこの後明治
14年の北海道巡幸際にも行き帰りの2度立ち寄られている。この時使用された飲用水は千住神社の
井戸水を取り寄せたものだ。なお中田屋本館はその西側の区画に街道に面してあった。「行在所(あ
んざいしょ)」とは天皇陛下が一時的に滞在されるところをいう。

  千住節
   一に中田屋二に竹吾妻三に相模でとどめさす
   千住女郎衆は錨か舫(もや)か上り下りの船止める


 千住節は座敷歌として歌われ、客だった船頭衆によって船歌として関東一円に広まり、やがて盆歌
となり田植歌にも変化して唄い続けられたという。



■シアター1010
 3丁目(93)番 北千住駅西口駅前、北千住マルイの10階・11階にある劇場と稽古場、練習
場、ギャラリーのことだ

 
劇場(11階)
 演劇を中心とした多彩な舞台を満喫できる。客席と舞台が互いに間近に感じられ、一体感が味わえ
る劇場。 客席701席(1階席553席・2階席148席)、

 
ギャラリー
 (11階)718uのオープンスペース。可動式パネルを使い、目的・規模により多様な利用形態
に対応できる。 各種イベント・企画展示会・書道や絵画の作品展示会・パーティー・レセプション
などに利用可能。稽古場(10階・稽古場1は164u・稽古場2は170u) 本番前のリハーサ
ルはもとより、小劇場や小規模な演奏会として使用できる。

 アトリエ
 (10階・222u)絵画や彫刻・書道・工芸などの創作活動やサークル活動、各種教室に利用で
きる。

 
講義室
 (10階・講義室1は96u・講義室2は69u)各種講義・会議・研修・集会・サークル活動な
どに利用できる。音楽練習室(10階・練習室1は51u・練習室2は24u)コーラス・ピアノ・
バンドの練習に利用できる。

 
視聴覚室
 (11階・166u)120インチのスクリーンとビデオプロジェクターによる常設AVを設置。
映画会や、映像・音響によるセミナーに利用できる。



■群雀堂
 4丁目に幕末まであった寺子屋。宝暦元年(1751)に正木昌房という人によって始められた。
大助→健順→兼輔と4代続き、明治の初めに至るまでの100余年の間千住地域の教育に貢献してき
た。その元を築いたのは、この地で8代亘って名主を務めてきた高梨家だ。同家は名主役のほか、近
隣の子弟を集めて、奉仕的に「読み・書き・算盤」の手ほどきをしていた。ところが高梨家4代の信
平の時に、姻戚関係にあった正木昌房が、信平を頼ってこの地に移ってきた。このころ信平は既に高
齢だったし、昌房にもこれといった職がなかったので、先祖伝来の菅原道真の神像と寺子屋を譲った。
昌房は高梨家の裏の畑に小屋を建てさせて貰い、専業の寺子屋を開いた。名主の余業だったものが、
この時から正規のものとなり、教え方にも熱が入って、評判は日に日に高まった。全盛を極めたのは
2、3代の時で、その数は100名余りにもなった。千住地区はいうに及ばず、他の地区からも師の
徳を慕ってやってきた。特に大助は同じ場所で60年もやってきたので、千住地区の教育力は大いに
上り、千住の風俗習慣は、以前にもまして良くなった。そうした評判を聞いた代官は、2度も訪れて、
具に教育のあり方を見ていった。こうして大助の長年に亘る教育的な功労に報いるために、死後5年
目に、大助の妻に扶持米1石8斗が給され、子の健順には銀5枚が与えられた。群雀堂の名は健順と
思われる。高梨→たかなし→鷹無し→鷹がいないと小鳥が安心して遊ぶ→小鳥遊(たかなし)→小鳥
は雀、つまり「高梨=群雀」に見立てたという。雀はもちろん寺子(生徒)たちだ。
 その後、4代は養子の兼輔が継いだが、明治に入ると学制が発布され、明治7年に廃業し、堂を閉
じることになった。その跡を田迎嘉典が継ぎ、教場を同じ町内に移し、同10年9月に田迎小学校と
なった。以来19年間千住地区に私立学校として教育の火を掲げてきたが、明治29年田迎の逝去に
よって廃校となった。



■千住絵馬屋(吉田家)

 4丁目15番にある。横山家の真向かいだ。下町に残るただ1軒の絵馬の製造販売屋。「千住絵馬」
は経木に胡粉を塗り、その上に泥絵具で図柄を描く「経木絵馬」で庶民的なものだった。図柄も願い
事や奉納先によって定まっており家伝的な作風だった。



月松山照光院長円寺

 4丁目27番にある新義真言宗寺。寛永四年(1627)湯殿山の行者雲海が庵を結ぶ。後に賢秀
が開山、9代将軍家重の頃に最も栄えた。本尊は薬師如来の小立像で、定朝風の名作。寺では定朝の
作としている。身長33cmほどの木製の立像で、史家の鑑定に寄れば平安時代の秀でた作品である
ことに間違いないとのこと。境内に寛永四年(1627)銘の当寺2世の墓碑があり、開山賢俊の墓
もある。本堂は木造瓦葺き破風造り。

 山門
 黒塗り栗板の切妻造り、掲額「月松山」は寺子屋郡雀堂3代目正木健の筆だ。

 乳泉石
 本堂に安置されてる奇石。乳の出ない女性に効験があるという。

 
四国八十八ヶ所石碣
 門を入ると右側に布袋尊を囲んでびっしりと建ち並んでいる。明治初年に建てたもので毛彫りの仏
像が描かれている。

 
心香尼石碣
 四国八十八ヶ所石碣の奥にある。心香尼は4丁目名主高梨家の妻女で、夫の死後仏門に入り修行5
0年に及び、寛政九年(1797)82歳で歿した。この碣は、婦徳の誉れ高かった尼を讃え、寺子
屋群雀堂2代目校主正木大助が800字にのぼる流麗な文章と格調の高い筆跡を残している。

 
弘法大師一千五拾年忌供養塔
 本堂右側に建つ。明治17年の建立で山岡鉄舟の揮毫だって。

 
魚籃観音
 門左脇の小祠に祀ってある。元は隣の氷川神社の本地仏だったが、明治政府の神分離の方針により、
寺に移されたものだ。50cmほどの石造物。

 歯神さま
 石碑。痛みなお・・・永久に・・・などと、詩?が書かれている。
 保険医療が一般に普及していなかった時代、家族の者が「歯痛」で困った時は、ユキノシタの葉を
塩で揉んで頬へ張ったりしたが、民間療法は対症療法だから完治はせず、後々まで傷む事が多かった。
そのため神仏に祈願することが盛んに行われた訳だ。歯痛の場合は、区内では白山神社へ楊枝を上げ
る保木間の「白山塚」が知られていた。今はなき花畑の白山塚は、現在の花畑団地のところにあった
もので、団地造成以前は、広い耕地の中に、古墳が小高くこんもりとした茂みを持っていた。頂部に
は40cmほどの石碑が建っていて、白山権現が祀られていた。歯痛に霊験があり、祈願して治った
時に「楊枝」を供えるという風習あった。荒川区南千住にも歯神清兵衛(日枝神社)がある。

 西川喜州の墓
 日本舞踊西川流正派家元。本名高橋はるの墓。



■めやみ地蔵

 長円寺の門外の左手に子育地蔵堂がある。旗に「めやみ地蔵」と書いてある。街道の参道口の前に
絵馬屋があるので「千住絵馬」が一杯掛けられている。堂前右手に「輪廻車」が据えられており、木
の柱を切り抜いて車を取り付けたもので「輪廻塔」ともいう。車を手で回すと経文を称えたことにな
るいう代物だ。回して六道に迷う者の冥福を祈ったり、己の願い事をしたり、百度参りの数取りに使
われたりする。



■氷川神社

 4丁目31番、長円寺に並んである。祭神は須佐之男命。創建は元禄四年(1691)と伝わり、
現存の社殿、幣殿(参詣人が幣帛を供進するための建物。本殿と拝殿の間に設けられる)、拝殿とも
に明治16年の造営。境内に寛政五年(1793)建立の鳥居、文化九年(1812)銘のある手水
鉢がある。例祭は9月15日。


 
高正天満宮
 氷川神社本殿の左側に建っている。元治元年(1864)の建碑。

 ●高正天満宮縁起碑
 境内左手に天満宮の縁起を示す高さ1.7 mの碑がある。千住4丁目の名主高梨氏の系譜、天満宮
の由来について詳しく述べてるよ。3代目の正木健の撰文。

 ●冢社改脩記念碑

 ●正木檪蔭(れきいん=大助)の事績碑
 要約すると、4丁目の名主高梨信平は、地域の子供たちに読み書きなどを教えていたが、寄る年波
には勝てず誰かに託そうと考えていたところ、縁故を頼って屋敷の内に住むことになった正木昌房の
識見に惚れ、代々信仰していた菅原道真像を譲ると子弟教育を託すことにした。それで正木氏はこの
像を家神として祀り子弟教育を家業とするようになったっちう訳や。昌房の孫の建はこの菅原道真像
を個人で祀るより、氏神神社の内で祀ることこそ大切と思い立ち、神社に諮って天満宮の社を建立し
た。名前は
梨と木の姓から一字づつ取って命名した。正木氏は昌房以来代々寺子屋「群省堂」
の経営に当り、2代目塾主大助の代には大いに発展し来塾するものが毎日100人もいたという
。事
績日が嘉永5年の建立だ。撰文は3代目の正木健による。



■地紙問屋(横山家)
 4丁目28番にある商家造りの細格子の家がそれ、絵馬屋の真向かいだ。説明しなくても自然に目
が行ってそれと判る。軽薄なビルディングにはけしてない趣がある。見たとたん笑顔になってる自分
がそこにいる。和風の建物は新築でも心が和む。まして風雨にさらされた日本建築は自然に風格が出
る。



■水戸海道分岐・道標
 4丁目29番の西北角、5丁目との境に起点があり、自然石の道標が据えてあった。現在の水戸街
道とは随分違う。道標は正面に「水戸街道」、左面に「松戸・成田」、裏面に「坂田七兵衛建之 

明元丑月
」と刻んである。江戸時代には「水戸道中」「陸前浜街道」など様々な名称があるが、内陸
部を走る道として「海道」となっているのは珍しい。「東海道」は正しくは「あづまのうみつみち」
と読む。交通量が激しくなり危険になったので、昭和40年代道路改修の際、当時の中央図書館港内
に移し、現在は郷土博物館の中庭で保存されている。



■槍掛け団子
 5丁目5番にあるかどやという小店。町外れの、何の飾りもない団子屋だ。綺麗なショーケースも
ないし、上品な入れ物もない。スーパーのお惣菜パックみたいな、パリパリと音のする安っぽいプラ
スチックケースに入った団子を、一色刷りの紙にくるくるっと包むだけの素っ気なさ。ただひたすら
黙々と団子を作る、愛想のなさそうな店主。少しだけ愛想はあるけれど、しわの目立つおばちゃん。
それがなんでこんなに列をなす盛況ぶりかというと、とにかくうまい! そして安い! で、なんで
「槍かけ団子」か?といえばぁ・・・江戸時代、日光街道を往来した大名が、千住本陣で休んだ時、
槍持ちの奴さんが、かどやの軒先きに槍を立てかけて、この団子を食べるのを楽しみにしていたから、
という俗説があるが、事実は、水戸公の行列が清亮寺寺で休息した時に、槍を立てかけた松ノ木が名
物となり「槍掛け松」と呼ばれていた。団子屋「かどや」は程ないところにあり、「槍掛けの松の側
の団子」から「槍かけ団子」と呼ばれるようになったという次第。軒先に槍を立て掛けたら、大目玉
を食らうだろう。 03‐3888‐0682



■千寿旭小学校 廃校
 5丁目13番にあった。昭和15年千寿旭尋常小学校として新設開校。同16年東京市千寿旭国民
学校と改称。同18年東京都千寿旭国民学校と改称。同19年学童疎開。同20年日本、愚かなアメ
リカ合衆国の軍門に下る。疎開解除。同22年区立千寿旭小学校と改称。同30年第十六中学校と校
地交換して最終地に移転。平成2年創立50周年。翌3年3月31日閉校。4月1日千寿第一小学校
と統合し、千寿本町小学校となる。跡地は中央図書館のある「学びピア21」になっている。



■学びピア21
 5丁目13番にある。千寿旭小学校の跡地利用。平成12年7月、21世紀における区の生涯学習
社会づくりの基幹施設「生涯学習総合施設」としてオープンした。生涯学習センターを中心に、中央
図書館、放送大学東京足立学習センター、荒川ビジターセンターが併設され、これらが相互に積極的
な連携を図ることにより区民の学習活動を幅広く支援し、研修室5、コンピューター研修室1、コン
ピューター学習室1、ビデオスタジオ1、ビデオ編集室3、講堂1、講義室3を有料で貸し出してい
る。



■光茶釜と茶釜橋
 5丁目13番の荒川河川敷となっている位置、そこは荒川放水路開鑿以前、千住宿の北の外れで、
用水堀が日光街道を横切るところに橋が架かっていた。その橋を「茶釜橋」といった。
 水戸街道の起点の辻から100mほど北に追分があり、直進する道は下妻道、日光街道は左に折れ
る。右手は有名な名倉医院だ。
本道を行くと今は荒川土手の堤防に突き当たりるが、明治以前は荒川
はなかったのでそのまま真っ直ぐ行き、今の荒川北岸の平和橋通り川田橋の信号の所に繋がっていた。
その本道の延長線と千住新橋と交わる辺りに橋はあったのだが、その橋の袂に「爺ヶ茶屋」という茶
屋があった。この辺りは千住宿の外れで、旅籠はもうなく、休憩施設が設定されたところで、多くの
茶屋があった。その中でも将軍や大名が休むような茶屋は「茶屋本陣」と呼ばれ、爺ヶ茶屋もその一
つだった。
 元文五年(1740)十二月8代将軍徳川吉宗鷹狩りの帰途、この茶屋に立ち寄り、湯を沸かして
いる茶釜の手入れが行き届き光り輝くのを目に留め、

   名を残す爺ヶ茶釜や照る鏡

 の句を詠み、翌年にも立ち寄って、その句を短冊に認めて爺ヶ茶屋に贈ったという。以来茶釜は茶
屋の家宝となり、光茶釜の茶屋として有名になったので、屋号は「茶釜」となり、茶屋の傍らの橋ま
で「茶釜橋」と呼ばれるようになった。茶釜は現存し区の文化財に指定されている。
 茶屋の石原家は、荒川放水路開鑿のため立ち退きを余儀なくされ、現在は千住5丁目の土手近くに
移転している。
 




■千住馬車鉄道 → 草加馬車鉄道
 明治22年6月、北足立郡草加町の高橋荘右衛門ら3名によって請願された。千住と北葛飾郡幸手
町(現在の埼玉県幸手市)を結ぶ鉄道として当初計画された。特に埼玉県北東部の陸羽街道(旧日光
道中)沿線の人々から鉄道敷設の要望が強かった。幸手までの延伸は日本鉄道久喜停車場(久喜駅)
を利用するため、馬車鉄道の延伸計画を破棄して普通馬車による営業となった。同26年2月7日茶
釜橋から越ヶ谷町(現在の越谷市大沢付近)までが開通して旅客営業を始め、6月1日に越ヶ谷町か
ら粕壁(現在の春日部市粕壁3丁目最勝院付近)までが開通した。同26日には貨物輸送の許可も得
た。浅草から茶釜橋までと粕壁から幸手までは通常の通常の馬車で連絡した。同29年には営業不振
により普通馬車鉄道営業を廃止し、翌年5月に粕壁から大沢間の馬車鉄道を営業停止、6月には全線
を廃業した。しかしこれを惜しんだ資産家らが草加馬車鉄道を設立し、全線の営業を引き継いだが、
東武鉄道伊勢崎線の開業によって明治33年廃業に追い込まれ、創業11年で消滅した。




西林山安養院長福寺
 5丁目17番にある真言宗豊山派の寺。日光街道は5丁目を真っ直ぐ突き抜けて、下妻道と袂を分
かつ。現在は荒川放水路の開鑿で付け替えられ、千住新橋の架橋に合わせて町の外れで西に折れる。
だから参道口は旧道にある。文永年間(1264〜74)西明寺入道北条時頼の創立といい、元は元
宿にあったものを慶長三年(1598)現地に移したとか。享保年中(1716〜35)しばしば将
軍の休憩所に当てられ、寺紋に葵御紋の使用を許された。本尊は黒光りの金銅仏で、等身大の阿弥陀
仏坐像。千住元町の土中から出土したと伝わり、その地を「金仏耕地」といった。ここの寺門は文政
十一年(1828)の建造物。本堂・庫裏は大正13年11月の建築で、境内と墓地の境には樹齢3
00年の老松があり、千住5丁目の旧家の名倉家、石原家の墓所がある。また足立区出身の明治最初
の国会議員浅香克孝、神武館道場主片野孫八の墓がある。

 ●観音堂
 平成19年5月27日落慶した。

 
かんかん地蔵・仲良し地蔵
 旧道口から入ったところに3体の地蔵があり、左側の顔形もなくなった石地蔵は、俗に「かんかん
地蔵」と呼ばれている。赤い旗がいっぱいに立っているから直ぐ判るよ。石で叩くとカンカンと心地
よい反響するのでその名がある。元禄十二年(1699)の供養仏だが、お参りしたとき、「長い歳
月叩きゃ上がって、お蔭で丸坊主になっちまったよ。ったく」と随分怒ってた。お地蔵さん、ごめん
なさい。
 右の2体を仲良し地蔵と呼ぶ。理由は分からない。左が寛文四年(1644)、右が寛文十年
(1670)の建造。

 
芭蕉句碑

   行く春や 鳥なき魚の目に泪


 説明に、昭和29年10月に岡本機柳還暦記念として建てられたとある。



東京都の最高齢者はミイラだった
 5丁目20番10号に住んでいるはずだった都の最高齢者加藤宋現は、30年前に既に即身成仏と
なって死亡していたということが、平成22年7月28日判明した。
 7月22日に111歳を迎え、都の最高齢者とされていた宗現が、今月28日自宅の一室で白骨遺
体で発見され、千住警察署が保護責任者遺棄致死容疑で捜索していたことが、捜査関係者への取材で
判ったのだ。遺体は死後数十年が経過しているとみられ、家族は同署に対し、

   30三十数年前、自分から「即身成仏したい」と1階の部屋に閉じ籠り、その儘になっ
   ていた

 と説明しているという。宗現は、死亡した妻の遺族共済年金も受給し続けており、同署は、同居し
ていた長女(81)や孫ら家族4人から詳しい事情を聞いている。警視庁幹部や同区などの説明によ
ると、今年2月頃、宗現を担当する民生委員から区に「本人に面会できない」と相談があり、区の最
高年齢者にも当たるため、担当者らが今年6〜7月、加藤宅を複数回訪ねた。しかし家族から「本人
は2階におり、誰にも会いたくないといっている」などとして面会を拒否された。これを怪しんだ担
当者から相談を受けた千住署が各方面を捜査したところ、家族の1人が知人に「実は、即身仏になっ
てて。家族みんな知っている」などと話していたことが判明。同署は今月28日自宅を捜索し、1階
で白骨化した宋現の遺体を発見、肌着姿で、ベッドに仰向けで横たわった状態だった。家族は「本人
は自分で部屋に閉じこもり、水も食事も取らなかった。厳しい人だったので、家族は誰も部屋に入れ
なかった」などと説明しているという。警察では宗現は昭和55年頃に死亡し、そのまま放置されて
いたとみている。
 宗現の妻(平成16年8月死亡)は元教師で、加藤宗現名義の銀行口座には、今年6月までにかけ
て妻の遺族共済年金計約945万円が振り込まれ、うち約640万円が引き出されていたことが確認
されたという。年金が申請された当時、宋現は既に死亡していたとみられ、同署は、年金を不正受給
していた疑いもあるとみて捜査している。この他、宗現名で区の老齢福祉年金900万円も受け取っ
ており、年金詐取の疑いはいよいよ濃厚だ。
 区は、定期的に都を通じて厚生労働省に最高齢者を報告しており、宗現は、同区で最高齢とされて
いた。しかし近年は、住民票で確認した名前と生年月日を伝えただけで、平成20と同21年には健
康高齢者の表彰のお祝いの商品券も書留で送っていたといい、「最後に生存が確認できたのがいつか
は分からない」としている。
 加藤宅は、JR北千住駅から北に約800m、旧下妻街道が荒川の土手にぶつかる角地にある。古
くからある住宅も多いが、近所の80歳代の女性は、

   加藤さんの姿は長いこと見なかった。家族は「元気にしている」といっていたが、あま
   りにも見かけないため、近所では不思議がられていた

 と話していた。









■名倉医院 
 5丁目22番にある。骨接ぎと言えば「名倉」、名倉と言えば「骨接ぎ」の代名詞になるくらい、
名倉医院は関東一円に有名だった。旧日光道中と、それから分岐する下妻道に面して、古風な長屋門
をかまえた旧名倉医院と、近代ビルの新名倉医院が並んで建っている。名倉家は、江戸時代から接骨
医として近郷近在に名が知られ、駕籠や大八車で運ばれて来る骨折患者で犇いていたという。この医
院の周辺には、患者が宿泊して加療できるように、金町屋・万屋・成田屋・大原屋・柳屋等の宿屋が
あり、柳屋を除いて、代々主人は、名倉の医師を兼ねていました。現在は名倉医院に入院施設がある
ので、これらの宿は廃業しているが、金町屋の建物は残っており、古風な外観、外灯に「金町屋平尾
医院」の名があって僅かにその名残りを留めている。
 千代田区神田駿河台にも一族の名倉病院がある。




【千住曙町】(せんじゅあけぼのちょう)             最終平成元年5月15日
 かつては荒川(隅田川)の河川敷で、のちに開発されて千住宿三丁目の牛田耕地・東耕地となっ
た。昭和6年千住町大字曙町。翌年足立区が成立して千住曙町とな。同43年3月31日新住居表
示を実施し、千住曙町の大部分に千住東町の一部を併せた町域を現行の「千住曙町」とし、平成元
年柳原町の一部を編入して住居表示を完了した。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『足立区史』など。

 曙町の由来
 千住町の東南端で曙を告げる先駆けの地であり,朝明けの清々しさに希望を込めて命名されたと
いう。京成関屋駅と東武牛田駅は並んでる。足立郵便局のところは「新星鉄板」という製鉄会社だっ
た。ここに徹夜のバイトに通ったものだ。ある程度冷えた出来あがったばかりの鉄板の上で玉子焼
きをやったのを思い出す。荒川と隅田川を繋ぐ運河は旧綾瀬川の川口部分である。



■京成関屋駅

 2番にある京成本線の停車場。昭和6年12月9日青砥〜日暮里間開業時に設けられた駅。ホー
ムは高架相対式2面2線構造。ホームと改札階を結ぶエレベーターは平成19年春完成。改札口は
1カ所のみで、地上1階にある。出口は南北に2カ所。
 北側の出口を出ると、細い道路を挟んですぐ目の前に東武伊勢崎線の牛田駅がある。京成電鉄と
東武伊勢崎線が乗り換えられるのはここしかないため、乗換客は多い。車内放送でもきちんと「東
武線はお乗り換えです」と案内される。



■東稲荷社
 3番、東部牛田駅の線路際にある小祠。昭和28年に再建したとある。



■十一面観音堂
 4番、京成本線の盛土線路土台を背に立っている小堂。



■牛田薬師 千葉山西光院薬師寺
 27番にある新義真言宗。徳治二年(1307)当国領主千葉常胤の孫が、祖父の守護仏薬師如来
を本尊として寺を開いた。像は身長48cm、弘法大師の作と伝えられ、開山は覚音法師。俗に牛
田薬師≠ニ呼ばれている。本堂は鉄筋コンクリート造り。本堂の左に墓地、右に庫裏。墓地は道路向
かいにもある。その脇には常護寺の墓地が続きこれが結構広い。境内から長禄元年(1457)四月
銘の板碑が出、また正保三年(1646)の供養塔がある。なお開基の末流石出帯刀吉深とその子師
深の墓もある。

 ●日念碑
 石出常軒の碑だ。塀際にある。常軒は石出帯刀吉深。彼は断極令(牢屋奉行)として明暦三年の振
袖火事の時、人道的配慮から囚人を解き放った小伝馬町の奉行。国学の造詣深く、和歌俳句に巧みだっ
たという。
 



■神社
 32番にある小社。



■神社
 33番、小さい住宅の建てこんだ路地の奥にある小祠。



■堀切駅
 34番にある。明治35年4月1日の吾妻橋(現・業平橋)〜北千住間開業時にできた駅。当時の
堀切駅は今よりやや東の、ちょうど荒川の真ん中付近にあった。当時はまだ現在の荒川がなかったた
めで、荒川放水路開鑿に伴って、堀切駅舎が現在の位置に移転してきたのは、大正12年7月1日の
ことだ。地名としての堀切が荒川東岸にあるのに、西岸のこの駅が堀切と名乗っているのはこの理由
による。ホームは地上相対式2面2線構造。急カーブの途中にあり、電車は傾いたまま停車する。ホ
ームごとに改札を持つため、上下ホームをつなぐ連絡通路はない。駅付近には踏切がなく歩道橋のみ
なので、反対側のホームへ行くのは厄介だ。改札口・出口はホームごとに設けられている。
 ドラマ『3年B組金八先生』の舞台である桜中学校のロケ地は、駅西側にある旧足立区立第二中学
校(東京未来大学)だったため、この駅もドラマには頻繁に登場した。



■第二中学校 廃校
 34番にあった。テレビドラマ「3年B組金八先生」の桜中学校のロケ地として全国的に有名だっ
たが、少子化・ドーナツ化現象・中学受験の過熱化などの理由により学区内の生徒数が急激に減少し、
全校生徒が127人と少なくなったため、平成17年3月末に廃校となった。廃校となった後の生徒
は、同時期に廃校になった第十六中学校と学区を統合して出来た新設校「千寿桜堤中学校」の生徒と
なった。
 昭和22年4月1日開校。当初は本校を旭小学校内、分校を柳原小学校内に設置していた。同25
年9月11日最終地に木造校舎完成移転。同34年1月1日校歌完成。作詞石田波郷、作曲渡辺浦人
だった。同38年5月6日学校給食開始。同10日体育館完成。同46年頃鉄筋校舎完成。屋上のプ
ールも使用可能になり、最後の姿へ。平成17年3月31日閉校。第十六中学校と共に、千寿桜堤中
学校への統合により58年間の歴史にピリオドを打つ。同月には閉校式・お別れ会も催され、生徒・
卒業生・地域住民共に別れを惜しんだ。
 跡地利用をめぐって一時ドラマ関係者と足立区のあいだで紛糾した。校舎を金八記念館にして有効
利用したいドラマ関係者側と、取り壊して土地を売却したい区側で議論がなされたが、最終的に足立
区は校舎を学校法人などに50年間の期限付きで貸し出すことを決め、一件落着となった。閉校後し
ばらくはそのままの状態だったが、平成18年一部解体。東京未来大学と「3年B組金八先生」の記
念館を設置することに決まった。

 
校歌碑
 石田波郷作詞の歌詞が3番まで刻まれている。未来大学に残されているかどうか不明。



■東京未来大学
 34番の第二中学校跡地に、平成19年4月創立。こども心理学部でスタート。

 
金八記念館
 計画段階で詳細不明。場所は校門に直近の1階になるらしい。平成19年夏休み前には開館したい
そうだ。




■千住大川端公園曙滝の広場
 41番にある区立公園。新しくできた千住汐入大橋の直ぐ側だよ。ところで大川端ってえのはさ、
両国橋の近辺の俗称でい。千住の辺りじゃあ千住川っていってたもんだ。とんだ認識違いだよ。



■尾崎豊の住居
 千住曙町41番5号のアコール北千住の2階に住んでいた。2LDKで、大スターの住むところと
しては地味だ。尾崎って結構普通の感覚だったんだね。



■足立郵便局
 42番にある。かつては製鋼会社だった。明治6年4月17日「千住南組郵便取扱所」として当時
豊島郡千住駅南組三十五番地(荒川区南千住)に開局し、取扱人は酒井宗太郎だった。同9年千住郵
便局(千住駅中組)から集配事務の全般を受け継ぎ「千住南組郵便局」と改称し、北豊島郡の一部、
南葛飾郡の一部、南葛飾郡の一部と南足立郡全域の集配事務を行っていた。こりゃ大変だでや。歩い
て集めて配ってだよ。千住大橋から舎人、花畑へ歩くんだぜ。尤も当時南足立郡全体で2300戸、
人口12000〜14000人の時代だ。同19年新制度の集配三等局となり、取扱役は郵便局長と
なった。その後同28年3月11日電信事務取扱開始とともに「千住郵便電信局」と改称したが、同
36年4月、旧名の「千住郵便局」に復し、同39年7月6日「特定三等局」となり、さらに同44
年11月1日千住2丁目23番地に局舎を移転した。大正8年3月21日二等局に昇格し、昭和5年
3月29日千住2丁目766番地に新築移転、同6年1月から町名改正により、千住仲居町63番地
となる。同7年10月1日市郡併合により足立区の成立とともに「足立郵便局」と改称、同11月2
6日「荒川郵便局」の開局に伴い、荒川区内の郵便所管を委譲した。同16年2月1日官制改正によ
り普通局となり、同21年10月「足立電話局」開局に伴い電話事務を分離し、同24年6月1日官
制改正により電信事務を電気通信省に移管した。翌25年10月1日指定局制度施行により指定局と
なり、受持特定局の会計、統計事務を行うことになった。同36年8月21日「保木間分室」を保木
間町2932番地に設置、同39年11月16日「興野分室」を興野町95番地に設置してそれぞれ
事務取扱を開始した。同年12月7日「保木間分室」を独立させ普通局に格上げし「足立北郵便局」
とした。同46年10月25日西新井本町4丁目4番に局舎を新築し、興野分室を独立させて移し「足
立西郵便局」とした。同50年製鋼会社の跡地である現在地に新築移転し、今日に至っている。




【千住旭町】(せんじゅあさひちょう)                昭和43年3月31日
 昭和6年弥五郎新田南端・千住宿2〜3丁目牛田耕地と東耕地を千住町大字旭町とした。昭和4
3年新住居表示を実施して現行の「千住旭町」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『足立区史』など。

 旭町の由来
 隣町の千住曙町・日の出町・千住東に合せて「旭の昇る朝日の勢い」を得べく命名された。翌年
足立区が成立して千住旭町。



■弥生ファッションデザイン専門学校
 3番にある専修学校。



■足立税務署・労働基準監督署
 4番の地方合同庁舎にある。



■千寿第四小学校
 廃校
 10番にあった。大正14年南足立郡千寿第四尋常小学校として現在の足立学園の地に新設開校。
昭和2年最終地に移転。同7年東京市千寿第四尋常小学校。同16年東京市千寿第四国民学校と改称。
同18年東京都千寿第四国民学校と改称。同19年学童疎開。同20年8月日本は愚かなアメリカ合
衆国にノックアウトされ、以来属国となる。同11月疎開解除。同22年区立千寿第四小学校と改称。
同50年創立50年。平成12年創立75周年。同14年3月31日を以て閉校、翌月1日柳原小学
校と統合して千寿常東小学校となる。



■千寿常東小学校

 10番にある区立の統合新設校。平成14年4月1日千寿第四小学校と柳原小学校が統合して開校
した。常東は常磐線の東側の意。

 校歌
翔けようわが友だち」 作詞・道高明子  作曲・小川類
  1.翔けよう我が友達 まばゆい未来の道
    太陽に向かって笑えばあたたかい
    あふれる笑顔から広がる勇気
    さあ出かけよう 翼を広げて
    素晴らしい友情に満ちている学び舎
    輝け 千寿常東小学校
  2.歌おう我が友達 声高く朗らかに
    この街に流れる優しい風になれ
    若葉萌ゆる想い 夢を抱いて
    さあ出かけよう 翼を広げて
    素晴らしい友情に満ちている学び舎
    輝け 千寿常東小学校
  3.歩もう我が友達 生命溢れる大地
    青空を仰げば心が澄んで行く
    瞳に映るのは希望の光
    さあ出かけよう 翼を広げて
    素晴らしい友情に満ちている学び舎
    輝け 千寿常東小学校


 
東都嘉慶樹・甲良屋敷跡の碑
 校庭にある。学校のあるところは、江戸幕府の大工の棟梁甲良宗賀が寛文十年(1670)以来別
業(別荘)として使用していた。碑の表面の嘉慶樹とは、屋敷内にあったスモモのことを意味し、碑
文はその由来を記したものだ。裏面に、屋敷図面、屋敷の由来、規模、屋敷内社、古木などについて
克明に刻んでいる。
宗賀は宗広の孫に当たり、甲良家は代々大工の棟梁であり、特に有名なのが宗広
なのだ。碑は、後に宗賀の外孫である本草学者坂上登(号玄臺、田村藍水)が別荘として用いた時、
その屋敷地に五つの社と縁
ある3本の古木があることを書き留め、「東都嘉慶樹」と銘打って記念碑
を建てたものだ。
幕府作事方・大棟梁の別荘地であり、後にも、本草学者が用いるほど千住が江戸の
郊外地として、風光明媚なところであったことが偲ばれる。
 なお宗広の銅像が、日光・輪王寺三仏堂の裏手にある馬場公園に建っている
。宗広は東照宮・寛永
の大造替を行った時の大工の棟梁で、江戸(東京)にも多くの建造物が残されている。




○不審者侵入事件
 平成17年2月16日午前8時50分ごろ、都内に住む男子大学生(20)が通用門から構内に侵
入。校庭に面した職員室の出入り口から職員室に入ってきたという。職員室で「人を捜してきた。北
千住という言葉が頭から離れない。北千住に降りたかどうかわからない」などと意味不明の言葉を話
していたため、校長が対応している間に教頭が千住署に通報した。同小の職員室にいた男の身柄を確
保した。けが人などは出ていない。同署が建造物侵入容疑で調べているが、刃物などは持っていなかっ
たという。



■三吉稲荷大明神
 29番にある。ツツジが綺麗だとのこと。三吉(さんきち)稲荷は各地にある。ここの三吉稲荷は
由来不明。小祠の割には境内はある程度あるが草茫々だ。境内というよりは空地?



■千住旭公園(太郎山公園)

 30番にある区立公園。公園名を示す構造物がコンクリートの半球で変わってる。太郎山と呼ばれ
るコンクリートで小山を作った滑り台。滑走部に貼られているタイルは、千寿第四小学校の生徒の作
品。ロッキンハッピーは大永ドリーム製の遊具。六角形のトイレの傍らには犬・猫のトイレもある。

 
じゃぶじゃぶ池
 小さい子たちが、安心して水に親しんで遊べるように整備された無料の施設だ。区内に21ヶ所あ
り、それぞれ特徴がある。ここは池を跨いだパイプの噴水だ。面白いぞ。オムツの取れた赤ちゃん以
上の幼児が、保護者同伴で夏の間だけ利用できる。事故が起きないよういろいろ制約があるのは当然
だ。



■第十六中学校
 廃校
 38番にあった。昭和25年千寿旭小学校内に開校。千寿平成17年3月31日を以て閉校。跡地
を新校舎建設のため私立足立学園中・高が仮校舎として使用した。

 校歌「源遠く」 作詞・吉田漱  作曲・山城てる
   源遠く紫に
   流れて広き新川の
   岸に輝く学び舎に
   若き希望は伸びて行く
   光あれ、足立(足立)十六中


 ●
足立十六中事件
 社会科担当の増田都子教諭(48)によって「紙上討論」なる授業が行われていた。その紙上討論
とは、「憲法、戦争責任、君が代・日の丸、従軍慰安婦、南京大虐殺」等のテーマについて生徒に意
見を書かせるものだった。問題となった授業は「沖縄の米軍基地」をテーマにした授業で、増田教諭
の偏見的な考えにより、


   沖縄の人達はもちろん、抵抗できる限りしましたが米軍は暴力(銃剣とブルドーザー)
   でむりやり土地を取り上げて基地を作ったのが歴史的事実


 などという、米軍を一方的な「悪」とみる偏向授業だった。その授業を受けた、日米両国籍を持つ
生徒(父親がアメリカ人で母親が日本人)の母親が増田教諭の授業内容に疑問を提起したところ、増
田教諭が2年生の各クラスで2日間に亘って、その母親を非難中傷するプリントを配った。

   先生から生徒達へ
   あなた達の親の一人が「増田先生は、けしからん教育をしている」というような内容の
   電話を教育委員会にしたそうです。誰なのかわかりませんでしたので、電話しました。
   その親はこの前のみんなの意見を載せた「ビデオ 沖縄の米軍基地…普天間第二小の場
   合」のプリントをファックスで教育委員会に送ったら、教育委員会の人が「『増田をク
   ビにしたいけど中々できない』と言っていた」と口惜しいそうでした。で、教育委員会
   の人に確認したら「そんなことは言ったことがない」・・・あれれ?

    では、その親にとって、どこが「けしからん」かというと、「先生から〇〇さんへ」
   というところが特に先生の思想が出過ぎていて「偏っている」ので悪いだそうです。教
   育委員会に密告(若者スラングでいう『チクリ』)電話や密告ファックスを送るという
   クラーイ情熱やエネルギーには敬意を覚えますが、私はこの親の要望に添うわけにはい
   きません。公務員の第一の義務は憲法尊重擁護であり、教育公務員の憲法である教育基
   本法は「この(憲法の)理想の実現は教育の力にまつ」と言っているように「学校の先
   生」は憲法の思想をしっかりと生徒達に伝えなければなりません。当然、私のコメント
   は徹底して憲法の思想と、それに反するものとを生徒達に知らせることになります。生
   徒達は「知る権利」がありますから。この親は「憲法の思想に反するものの事実」につ
   いてコメントするのを特にいやがって、やめさせたいようですが、「事実」をきちんと
   教えている私を「偏っている」と言うのは、この親が「偏っている」証拠です。日本国
   憲法主義者である私を「偏っている」と言うのは、日本国憲法を「偏っている」という
   人です。生徒達は先ず「事実」を知らねばなりません。私のコメントは、すべて事実で
   す。「事実」を知らなければ誰でも「正確な判断」はくだせません。
   
 この親は、「沖縄の人はかわいそうだが、米軍は沖縄の人以上に大切なので仕方がな
   い」という思想の持ち主のようですが、自分の偏狭な(若者スラングで言う『セコい』)
   「思想」は絶対正しい、『自分こそ絶対中立だ』と思い込むのは自由であっても、あま
   りにも非常識な教育内容への介入は許しません。親の自分の「思想」が教師の「憲法に
   忠実な思想」に合わないからと、教師の教育内容に介入しようなど笑止千万なあまりに
   も「アサハカな思い上がり」というべきです。この親は自分は多数派であると思い込ん
   でいるようです(実際にそうなのかもしれません)が真理や真実、人権問題は多数決で
   決まるものではありません。
    
私は長男が小学校のとき、担任の先生の言葉に疑問を持ったことがあって、その先生
   と話し合いをしました。教育委員会に密告して教育委員会の圧力でやめさせようとか、
   クラスの緊急連絡網をまわして圧力をかけよう(まともな判断力のある親なら驚いたで
   しょう)なんて夢にも思いませんでしたが長男には次のように言いました。「お母さん
   は先生とは違って、こういう意見だけど、お前は、どちらが正しいか、よく自分で考え
   てね」
   
 また、この前のプリントの最後で沖縄の反戦地主の島袋さんの意見を紹介したのです
   が、その親は「他の教師を批判するなんて」とお気に召さない様子でした。島袋さんは
   「先生はクビになるのを恐れず、しっかり憲法や真実について語るべきだ」と言ってい
   ましたね。私は自戒の意味も込めて「私はしっかり教えます」とみんなに言いました。
   こういう親に脅えて(若者スラングでいう『ビビって』)、そうできない先生もいるこ
   とを、この親は知っているから、こんな攻撃を仕掛けてくるわけでしょうが、私に脅し
   は通じません。
    こういう親の存在をここに明記するのは、「これがあなた達の生きる社会の現実であ
   る」という絶好の「教材」をこの人が提供してくれたからです。社会科の究極の目的は
   テストでいい点を取ることではなく(もちろん点数はいいほうがいいけれどネ)「今、
   自分がどんな矛盾を持つ社会に生きているか知り、より良い社会を作るために自分はど
   う参加していくか」を考えることにあると私は思います。ですから私はこれからもしっ
   かり、あなた達が生きる現代及び過去の日本社会の事実と、それが日本国憲法にとって、
   どういう意味を持つか、ということを教えていきます。「事実を教えたくない親」がい
   るという事実は、とっても大切なことですから、事実をしっかり知った上で、「なぜ、
   事実を教えたくない親がいるのか」しっかり考えてみてください。

 とまあこういうことだが、いってることに危うさはないのだが、こんなものをプリントして配るっ
てえ神経も異常だわなぁ。それよりもう50歳に手の届くってえベテラン教師にしては文章が拙劣だ
よ。左がかってっる傾向の人間は、人間力に磨きがかからないねえ。日本の左翼ってぇのは日本人は
少ないから、生まれた時から考えもせず左翼ってえのが普通だよね。初めに左翼在りきだから、反日
的行動に出やすいんだよ。勿論アメリカの属国である反日だがね。

 それで、いたたまれなくなった生徒は傷つき、その二学期から社会科の授業を受けなくなり、自殺
まで考え、その後登校拒否に陥った。そして、生徒は別の中学校に転校を余儀なくされた。母親は名
誉を傷つけられたとして慰謝料200万円を求める訴訟を東京地裁に起こした。口頭弁論で母親は、
自分を非難するプリントが事実に反し、わが子が蒙った精神的な被害も主張した。これに対し、増田
は朝日新聞の記事や専門家の指摘を引用し、授業内容の正当性を強調、プリントについても、母親が
足立区教委への電話で授業の疑問を指摘した行為が民主主義の批判のルールを逸脱し、これを生徒に
教える必要性があった等として全面的に争った。この問題を土屋敬之都議が都議会で取り上げたが、
増田は事件について、(1)授業は事実に基づき正当な内容、(2)教育への野蛮な介入は許されな
い、(3)事件の原因は母親がことさら騒ぎ立てたことにあるなどと主張した。
都教育委員会は、事
件発生から1年3ヶ月もの長き間、この教師を野放しにして教壇に立たせ、こともあろうかやっと下
した処分は給与の10分の1を1ヶ月間減給するだけの馬鹿馬鹿しい処分だった。

 しかも驚くべき事に、そのすぐ後に増田は、反省の色など微塵も見せないばかりか、教員の立場を
利用して、許可なく校内の印刷機を利用して、PTA役員などしか持っていないはずの名簿を使い、
同中の全家庭に関係者を中傷する印刷物を郵送。都教委は、再度増田教諭を処分したが、呆れたこと
に2回に亘っての処分に関わらず、免職にせず、以前と同じの10分の1を1ヶ月間減給と7ヶ月間
の研修を命令した。増田は、当然その辞令の受け取りを拒否した。その後、増田は、平成12年3月
に都教委から、「7ヶ月たっても全く反省が見られない」として、更に研修期間を1年間を延長され
た。増田は以上の事件に対して反省どころか、未だに被害者の母親にいっさいの謝罪が無く、東京ユ
ニオンなる組合を組織し、全労協へ加盟し、東京地裁の判決を不服と騒ぎ立てた。また増田の処分を
申し入れ都議会でこの問題を取り上げた土屋敬之都議を「名誉毀損」で告訴するという行動にでた。

 こんなアホ先公はそこら中にいるわいな。またモンスターペアレントってえ馬鹿親もいるもんだわ
いな。教師というのには、日本人は少ないからねぇ。名前は日本名でも、本名が違う手合いが多いの
よ。太平洋戦争に敗北した時、この日本は潰される宿命を背負った。気がつかないうちに病原菌が体
に蔓延するように、日本を潰そうという悪意は日本を蝕んでいるのさ。20人に1人は帰化人。



■足立学園中学校・高等学校
 40番にある。昭和4年南足立中学校、南足立商業学校として堀内亮一が創立。初代校長に大審院
(最高裁判所)院長牧野菊之助画就任。同22年新制中学校設置。同23年南足立中学校・南足立商
業学校を統合、足立高等学校普通科設置。同27年商業科設置。同32年中学校閉校。同34年新校
舎完成。同54年創立50周年。同62年文理科設置。平成2年商業科廃止。同3年中学校を再開校。
同5年足立学園中学校・高等学校に名称変更。平成11年創立70周年。
 略称は「ダッチュウ」。なら高校は「ダッコウ」っていうのかね? 脱肛って・・・



■北千住駅

 42番にある常磐線、つくばエキスプレス、東京メトロ日比谷線・千代田線の停車場。

 
日本鉄道→国有鉄道→JR
 明治29年12月25日に日本鉄道田端〜水戸間の開業とともに設けられた駅。ホームは1番線が
片面、2・3番線が島式の地上2面3線構造。

 
東武鉄道
 明治32年8月27日に北千住〜久喜間を開業させ、同35年吾妻橋駅(現業平橋駅)へ延びるま
では始発駅も務めた。地上ホームは、島式2面4線で、1・2番線ホームの小菅寄り先端部には特急
専用ホームがある。高架ホームは3階に位置し、島式2面3線構造。日比谷線とその直通列車が使用。

 営団日比谷線→東京メトロ
 昭和37年5月31日に北千住へ達し、同時に東武伊勢崎線との相互乗り入れが始まった。千代田
線は昭和44年に開業したが、常磐線との相互乗り入れは2年後の昭和46年から。ホームは地下2
階にあり、島式1面2線構造。東京メトロが管理しており、千代田線と常磐線各駅停車が使用してい
る。

 つくばエクスプレス
 平成17年8月24日待望のが開業。北千住駅は4社5路線が乗り入れる大ターミナルとなった。
ホームは4階にあり、島式1面2線構造。構造上は4階だが、東武3階にある日比谷線ホームと高さ
はほぼ同じだ。
 なお、全てのホームに改札とを結ぶエレベーターは設置済みだ。

 ●出入口・改札
 JR管理の改札口は、北改札口と南改札口、そして駅ビル改札口の3カ所。つくばエキスプレスの
改札口は北改札口と南改札口の2ヶ所で、JR・つくばエキスプレスともに3階にある。
 東武管理の改札口は中央改札のほか、北口(出口専用)と南口の3カ所。2階にあるが、3階にあ
るJR・つくばエキスプレスの改札と同じフロアにある。これはJRと東武の駅が実は別々の建物だ
からだ。
 東京メトロ管理の改札は全部で4カ所で、いずれも地下1階にある。
 出口は西口・東口のほか、つくばエキスプレス開業時に新設された仲町出口がある。仲町出口は各
社の南改札につながっており、これらの出口は全社共用だ。
 そのほかに東京メトロが管理する地下鉄の出入口が1〜5番の5ヶ所がある。
 北千住駅の改札内は、つくばエキスプレスを除いた3社が全て中間改札なしで繋がっている。しか
し改札機は全ての切符に対応しておらず、JR管理の改札はJRの切符のみ、東武管理の改札は東武
と東京メトロの切符しか受け付けない。東京メトロ管理の改札だけは、JR・東武・東京メトロ3社
の切符全てに対応している。




【千住東】(せんじゅあづま) 1〜2丁目昭和              43年3月31日
 かつては荒川(隅田川)の河川敷、のちに開発されて掃部宿堤外東耕地と千住3丁目牛田耕地。
昭和6年千住町大字東町となり、翌年足立区が成立して千住東町に改めた。
 町内にランドマークになるようなものは何もない。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『足立区史』など。

 東の由来
 東耕地により隣町の曙・旭・日ノ出を意識した。同43年新住居表示により千住東町の大部分に
千住曙町の一部をあわせた町域を現行の「千住東」とした。

■稲荷大明神
 1丁目2番、墨堤通りの側道に面してある小っちゃな祠。




【千住大川町】(せんじゅおおかわちょう)             昭和43年3月31日
 昭和6年千住宿1〜5丁目の川田耕地・金仏耕地を千住町大字大川町とした。昭和43年新住居
表示を実施して現行の「千住大川町」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『足立区史』など。

 大川町の由来
 俗称の大和町と川田町の合成だといわれるが、出来たばかりの
荒川放水路(現荒川)からイメー
ジしたというほうが有力(足立区史)だそうだ。金仏とは開墾中に銅製の仏像が発見されたことに
よる。千住5丁目の安養院の本尊がそれだ。



■千住新橋緑地
 荒川河川敷にサッカーグラウンド、野球場などがある。



■氷川神社
 12番にある。当地の開墾は宝治年間(1247〜8)に始まり、永仁二年(1294)土地鎮護
のため創建された。明治維新以前は安養院別当であったものが神仏分離で現在のような神社となった。
明治44年から荒川放水路の大改修計画の一環として本神社も各碑とともに大正4年現在地に移転再
建された。弘化四年(1847)5月造の狛犬がある。

 ●明治百年御遷宮記念碑
 社殿前に建っている。昭和44年の建碑。

 千住川田浅間神社
 氷川神社本殿の向かって左横にある富士塚だ。江戸後期に流行した富士講にともない、文政七年(1
824)富士山などの溶岩で標高3mの富士塚が構築された。明治44年荒川放水路の開鑿のため、
現在地より西に移築されたが、昭和43年6月水道管工事のため、現在地に再移築された。荒川放水
路の開鑿以前は、町の西北(元宿)川田耕地に氷川社・稲荷神社・浅間社の3社が同じ境内に鎮座し
ていた。

 
旧千住新橋の親柱と由来碑
 
明治44年から荒川放水路の大改修計画の一環として大正9年〜13年までの長い歳月と119万
円を用いて長さ452.7m×幅7.2m鋼板桁の鉄橋として完成。昭和32年に幅17mに拡張され
たが交通量の増大や老朽化にともない、現在の橋に架け替えられた。

 
紙漉歌碑
 歌碑は天保十四年(1843)6月晦日、幕府の命により地すき紙を献上した喜びの記念碑。碑文
には「永続連」の題字と前書きに続いて、歌が、

   水無月のつこもりの日公より岳のすき立御付られる時
   すきかえしせきするわさは田をつくるひなの賤らにあしかめにしかめやも
   天保十あまり四とせ葵卯角斉丸勇


 と刻んである。
紙漉きが稲作りにも劣らない仕事であるという自讃の歌だ。台座に21軒の問屋の
名が刻んである。荒川放水路開削のため大正6年現在地に移築された。



■厄除地蔵尊
 17番(千寿第三小学校跡地)の東南角にある千宝寺新橋霊場地蔵堂。3体あり大きい覆屋の中に
祠が二つあり、左の地蔵さんは真ん中の祠の屋根が伸びている下にある。真ん中の地蔵さんは着物が
着せられている。昔は田端の路傍に寂しく建っていたのだろう。



■千寿第三小学校
 廃校
 17番にあった。大正10年南足立郡千寿第三尋常小学校として新設開校。昭和4年火災により一
部校舎焼失。同7年東京市千寿第三尋常小学校。同16年東京市千寿第三国民学校と改称。同18年
東京都千寿第三国民学校と改称。同19年学童疎開。同20年8月日本は愚かなアメリカ合衆国の軍
門に下り属国となる。11月疎開解除。同22年区立千寿第三小学校と改称。同46年創立50周年。
平成8年創立75周年。同17年3月31日閉校。跡地には新校舎が建設され、完成次第、元宿小学
校との統合校千寿双葉小学校が元宿小学校跡地の仮校舎から移転。

 校歌「空は青空」
   空は青空 楽しい学校
   今日も揃って勉強すれば
   窓の外には荒川の
   水も歌うよ 元気な歌を
   こころも強く身も強い
   われらは千三小学生



■千寿双葉小学校
 17番1号の千寿第三小学校跡地にある新設された区立校。平成15年統合後の校名「千寿双葉」
と決定。同16年2月校歌歌詞募集。7月校章制定。11月校歌決定。

 校歌
川面を渡る」 作詞・渡辺信夫  作曲・鈴木邦彦
  1.川面を渡る優しい風に
    笑顔が素敵な君と僕
    芽吹きを育む学び舎は
    いつも明るく心も通う
    私の故郷 千寿双葉小学校
  2.熱き人の輪 緑の街に
    未来を開く貴方と私
    夢を育む学び舎は
    共に語りて心も通う
    僕の故郷 千寿双葉小学校
     信じる想いに双葉はいつか
     綺麗な 綺麗な
     花が咲くでしょう



 同17年4月1日「足立区立千寿双葉小学校(元宿小学校+千寿第三小学校)として開校。初め旧
元宿小学校を仮校舎としていたが、平成19年千寿第三小学校跡地に完成した新校舎で新しい羽ばた
きを始めた。



■千住公園

 35番にある区立公園。開設が昭和12年1月28日東京市時代に開設された区内で1番古い公園。
周りは昔ながらの住宅地に囲まれているか、付近の住民のオアシスを担っている。じゃぶじゃぶ池、
広場もあり、遊具も一応揃っている。高い木もあって、いい公園だ。

 じゃぶじゃぶ池
 小さい子たちが、安心して水に親しんで遊べるように整備された無料の施設だ。区内に21ヶ所あ
り、それぞれ特徴がある。ここは円柱パーゴラの円形プール。ちょっと変わった水遊び。オムツの取
れた赤ちゃん以上の幼児が、保護者同伴で夏の間だけ利用できる。事故が起きないよういろいろ制約
があるのは当然だ。



五明山源信寺
 40番にある浄土真宗大谷派の寺。本尊は阿弥陀如来。昭和17年常護寺から分かれて1寺を建立
した。普通の住宅のような寺。


■箭弓神社
 49番にある。祭神は倉稲魂命。




【千住河原町】(せんじゅかわらちょう)               昭和55年8月1日
 かつては荒川(隅田川)の河川敷、のち河原町・堤外東耕地・堤外西耕地・堤外橋戸耕地・千住
1丁目堤外西耕地。昭和6年千住町大字河原町となった。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『足立区史』など。

 河原の由来
 江戸初期の掃部宿の
河原繩手(直線の土手農道)に前菜渡世の店(八百屋)が並び河原町と俗称さ
れて、慶長八年(1603)掃部宿の小名になっていたことによる。同7年足立区が成立して千住
河原町となり、同55年に新住居表示を施して現行の「千住河原町」とした。位置は千住宿の南か
ら掃部堤までの間。



■第一中学校

 4番にある区立校。昭和22年千寿第八小学校内に新設。同24年千住河原町の独立校舎落成して
移転。同25年第1次校舎増築(6教室)。同29年第2次校舎増築(4教室)。同30年第3次校
舎増築(4教室)・雨天体操場落成。同31年第4次校舎増築(東側4教室)。同35年11教室を
鉄筋校舎に建替え。同36年鉄筋第1次増築(4教室)。同43年鉄筋第3次増築(7教室)。同4
7年木造校舎とりこわし完了。同50年雨天体操場を建替えて新体育館完成。平成9年創立50周年。
同13年日本善行賞受賞(一中生徒会ボランティア)。同15年全校舎建替えのため千寿小学校跡地
を仮校舎として移転。同17年新校舎完成して帰校。

 校歌
墨田川近く流れ」 作詞作曲不詳
  1.墨田川 近く流れ
    筑波山 遠く聳ゆ
    足立なる 千寿の里
    大橋のたもと近く
    そそり立つ わがまなびや
    一中 一中



■足立神力教会(伏見稲荷大明神・福徳子育地蔵・水子地蔵)
 6番にある日蓮宗の布教所



■稲荷神社

 10番、日光街道「これより西新井大師」の道標を西に折れると大師道、800mばかりのところ
にある。今は国道4号線に面している。市場の守護神として市場の旦那衆の信仰の対象。それゆえに
祭も半端じゃなかった。張り切りすぎて問屋が潰れるということもあったとか。それほど広くはない
境内に、青物市場創立三百三十年紀念碑が木々に囲まれて静かに建つ。

   
青物市場創立三百三十年紀念碑
   維時明治39年5月22日、広場に330台の盤台を積み上げ、神宮皇后と大蕉の山車
   (だし)を造り(※大蕉の意味は判らないが、中国語では大きいバナナのこと)、各々
   に太鼓を備え、これを打ち鳴らして町内を引き回し、ほかに千貫神輿(実際は450貫)
   と呼ばれる大神輿を二天で担ぎ(?意味不明)、少年は中神輿、子供は小神輿の三基が
   市場中を練り歩いたという。このとき問屋が2軒潰れた


 と記録にはある。碑を建てたのは「浅草北口睦」で、これは吉原から北側の青果商同業組合の謂い。
狛犬がまた素晴らしい。自然石を組み上げた台座の上に阿吽2対の狛犬は壮観だ。浅草寺の浅草神社
のものと同一人の彫刻では、というので確認に行ってきた。何とも決めかねるがそっくりだ! 境内
に句碑がある。

   誓いての後のたのみや夏木立

 この句の作者が判らない。風流なお方で知ってたらメールをくんなまし。



■河原町名物「千住」

 紙製刻み煙草入れ。江戸時代から昭和初めまで続いた特産品で、浜田屋(磯部源兵衛)、丸田屋(長
下部安兵衛)という店があって、江戸末期に最も繁盛した。その後大正・昭和続いたが、巻きタバコ
の普及で廃業してしまった。和紙に油をひき漆でかためたものだが、製法は種々あったが、工夫が凝
らされ、形もノーマルな角形(利休)、角型(織部)、円形(丸)、船底形、櫛形、巾着形といろい
ろな形があったが、道中客はもちろん江戸の通人仲間では「千住」の名で愛用され、殊に神仏参詣の
折には革製品が忌み嫌われたので、信心客の腰には欠かせない品物だった。



■千住宿プチテラス
 21番にある。千住4丁目の「横山家の蔵」が移築され、千住宿の文化の発信地として小さな催し
物が行われる。この蔵は天保元年(1830)に建てられたもので、関東大震災や戦災にも耐え抜い
てきた勇敢な蔵だ。その蔵窓には金網の網戸がつけられている。火災時にはその網戸部分に泥を塗っ
て防火対策とする工夫がなされる(現在は窓から網戸をはずしているが、はずした網戸は蔵の二階に
保存されている)。また床下の基礎部分には松の材を入れており、その松ヤニの油分が腐食を防いで
きたという。入口脇に芭蕉の句碑が立っている。

   鮎の子の しら魚送る 別哉

 平成15年5月14日の建立。建碑資金は、千住大賑わい会を中心に、千住にかかわりのある有志
によって集められた浄財。「芭蕉さんの時代のように、白魚が泳ぐ隅田川に、そして清らかな心の子
供達が育つ町に」との願いをこめて建てた。



尾崎豊終焉の地
 平成4年4月25日午前5時10分頃、千住河原町45番9号の小峰忠雄宅の庭先にて若い男性が
裸で座り込んでいるのを家人が見つけ、千住警察署に110番通報した。同署で調べたところ、持っ
ていたキャッシュカードなどから、人気ロック歌手の尾崎豊(千住曙町41番5号シテドヌーブ北千
住202号室)と判明した。すぐに救急車で白髭橋病院へ運ばれ診察を受けたが、意識があったため、
急報で駆けつけた夫人に伴われて自宅へ戻ったが、マネージャーをしていた兄の見守る中、暴れたり
眠ったりを繰り返しながら、突如危篤状態となり、再び救急車で日本医科大学の緊急病棟に収容され
たが、蘇生措置の甲斐もなく13時6分息を引き取った。26歳の若さでの、あまりにも早すぎる死
だった。その後公表された死因は司法解剖時に検死をした支倉逸人によれば、経時的な悪化による「薬
物中毒死」ではなく、 致死量の2.64倍以上の覚醒剤服用の「オーバードーズ」による「急性メタ
ンフェタミン中毒」が引き起こした「肺水腫」と結論づけられた。しかし尾崎の遺体には暴行を受け
たような傷や痣もあり、また亡くなった日の状況が極めて不自然であることから、他殺とする説もあ
るが真相は不明のまま、警察は「事件性なし」として捜査を終結した。
 それから約2年後に10万人近くのファンの署名を集めた「再捜査嘆願書」が警察に提出されたが
受理されることはなかった。平成11年には「フライデー」に蘇生措置を施している様子の写真が掲
載され、当時の捜査員の証言などもあり、その死因の不可解さは一層深まったものの、解明されない
まま今日に至っている。莫大な財産相続を巡り、妻と尾崎の実家との間で骨肉の争いもあったが、ど
うにか沈静した。
 その後ジャーナリストの永島雪夫が、尾崎の死について「夫人が謀殺を依頼していた」と公表した
ため、平成6年夫人が訴えて裁判となり、以来約8年に亘り裁判で争われた。結局永島は敗訴となる
が、高裁の裁判官は尾崎の死因について「原因は不明であり様々な疑問が残る」とするなど、なおも
多くの謎を残したままとなった。
 大楽光太郎著『誰が尾崎を殺したか』(夏目書房)がある。尾崎と幼い頃からの友人だったという
著者が、事故死や病死とされた尾崎の死≠ノ疑問を投げかけた有名な1冊だ。「限りなく他殺に近
い自殺」→ 著者の主張はこの一言に集約される。 では一体誰が尾崎を死に追いやったのか? 尾崎
が死ぬことで得したのは誰だったのか?
 大楽光太郎著『最後のひとかけら−誰が尾崎を殺したか 最終章』(サウンドシャワーパブリッシャ
ー)は、上記同様大楽の著書。彼が遺した次代への最後のひとかけらとは何か? 死因の疑惑を追及
し続けた著者からのメッセージだ。

 岡山県立大学(岡山県総社市窪木111番地)に、講義「尾崎豊と景観論」尾崎豊研究会がある。
電話は、0866‐94‐2111だ。
 尾崎の武器は「若さ」ただそれだけだった。無論年齢も若かったのだが、尾崎は、総てに「若さ」
をぶつけるやり方で勝負に出た。若者を相手に若者が歌うのだから、歌詞やイメージを「若さ」で固
めた尾崎の戦略は正しかっただろう。クレイジーなまでに若者的な衝動を、あの独特の唱い方でマイ
クにぶつける尾崎の姿を見て、少年は激越なる刺戟を受けた。そして少女らはピッタリとフィットし
たジーンズに白いTシャツという今では考えられないようなファッションセンスのカリスマ歌手を、
理想の男性と信じ込み、ストーカーじみた行為や、窓ガラスを叩き割るなどの無意味な暴力をスロー
ガンとして掲げ、次々に堕落していった。その中には奴隷として海外に売り飛ばされた者や、見世物
小屋で芸をさせられる者や、出家する者、万引きする者、通信カラテを始める者などがいたとかの噂
がある。
 「尾崎豊の碑」が渋谷区にある。渋谷区を参照されたい。

 
尾崎ハウス 閉鎖 → 解体
 「尾崎ハウス」とも呼ばれるが、45番9号の尾崎が倒れていた場所の小峰忠雄宅にある。最寄駅
は京成本線の千住大橋駅、下車して1分のところだが、日光街道を越さなければならない。足立青果
市場の東北角の直ぐそばだ。尾崎が見ず知らずの人の家の庭。庭というか敷地の建坪以外の空き地と
いったところ。本当に大きくはない庶民の民家の隙間だ。
 事故死後全国から訪れてくる尾崎ファンのために、同家が自宅の部屋の一間を開放し休息所の意味
で俗にいう「尾崎の部屋」を作った。
 切っ掛けは尾崎豊≠ェ倒れていた場所で涙を流していた女性ファンを、主人が自宅の6畳間に上
げ、話を聞いたことだ。親族からの性的虐待を打ち明けた少女が短大を出て就職するまでを見届けた
り、職場に溶け込めず退職した教師、宛てもなく東京に出てきた若者、離婚を思い止まらせた事は2
度、毎年12月31日にここで夜を明かす女性もいた。別に尾崎の遺品が置いてある訳ではない。全
国から送られてきたり、ファンが持ち寄ったポスターやはがきなどが所狭しと貼りつけられており、
ファンの思いを綴ったノートは100冊にもなるという。ファンと自認する人(ほとんどが高校生)
がやってきて尾崎を堪能しながら過ごした空間だ。家人と話すこともあるが、多くはこの部屋でじっ
としているか、ギターを抱えて歌っているか、ファン同士で語らいあっていく。男の子もいれば、女
の子もいる。夜遅くまでいるから、電気代も大変だろうとなと要らざる心配もしてみるが、尾崎夫人
から迷惑料が支払われる訳でもない。尾崎の死はこの家庭の人たちの人生さえも変えてしまったの。
小峰家は垣根とか塀がないので出入り自由だ。細長い庭(?)を奥に進むと多くの花が供えられてい
る。13回忌を区切りに閉鎖を検討したこともあったらしいが、どうしても踏み切れなかったという。
玄関の戸を叩く人がいる限り扉を開け続けるということだ。尾崎も生きていれば40歳を越え、尾崎
世代も最年少で30歳を越えた。
                      *
 平成19年一応の責任を果たしたということで閉鎖、今後は命日と誕生日は開放。同23年4月2
5日開放打ち切り、10月3日二世代住宅に建替えのためファンの見守る中現在の家を取り壊した。




【千住寿町】(せんじゅことぶきちょう)              昭和44年3月15日
 千住宿1〜4丁目の西耕地。千住の中心で元千寿町と称したが、昭和6年千住町大字寿町となる。
翌年足立区となって千住寿町。同44年千住寿町・千住中居町の各一部をあわせた町域を、現行の
「千住寿町」とした。下町の住宅地、ランドマークはない。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『足立区史』など。

 寿町の由来
 旧称の元千寿町から元と千の字を抜いてことぶき≠ニ読ませた。千寿は、
この地で生まれた足
利幕府8代将軍義政の愛妾「千寿の前」に因むという。だが、弘安二年(1279)の文書に既に
「千住」は地名として記されている。室町幕府は建武三年(1336)の開府だから、この説はあ
り得ぬ訳で、千住寿町の旧称は元千寿町だからこっちの方が古いのかも知れない。平安末期から鎌
倉時代の初めに源頼朝の12人官女に選ばれた才女に「千寿の前」という女性がいるが、出生地は
静岡県磐田市、また静岡市手越だという。




【千住桜木】(せんじゅさくらぎ)1〜2丁目           最終平成元年5月15日
 かつては荒川(隅田川)の河川敷。昭和6年千住宿1〜4丁目の堤外西耕地を千住町大字桜木町
とし、翌年の足立区成立で千住桜木町となる。昭和23年本木6丁目の一部を編入、同45年11
月1日新住居表示をして現行の「千住桜木」とし、平成元年千住元町・本木町1丁目
各一部を編入。参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『足立区史』など。

 桜木の由来
 隅田川の土手に桜木を植えて桜堤としたことによる。



■千寿第七小学校 廃校
 1丁目8番にあった。昭和10年東京市千寿第六小学校から独立、「東京市千寿第七尋常小学校」
として開校。同16年勅令148号国民学校令により「東京市千寿第七国民学校」と改称。同18年
都制施行により「東京都千寿第七国民学校」と改称。同19年学童疎開。同20年愚かなアメリカ軍
の無差別空爆により校舎全焼。8月日本は愚かなアメリカにノックアウトされ敗戦。疎開解除により
生徒帰校。
 同22年地方自治法と学校教育法により「東京都足立区立千寿第七小学校」と改称。同60年創立
50周年。平成4年3月31日閉校、翌4月1日から千寿第六小学校と統合して千住桜小学校になっ
た。

 校歌「昇る陽に」 作詞・坂本越郎  作曲・平井康三郎
   昇る陽に輝く富士を遠く見て
   希望の光がさすところ
   あヽ母校よ われら
   友と仲良く日々に学ぶ
   



■千寿桜小学校

 1丁目8番にある統合新設校。平成3年統合後の校名「千寿桜」と決定。校章制定。同4年4月1
日旧千寿第六小学校に「足立区立千寿桜小学校(千寿第六小学校+千寿第七小学校)」として開校。
校歌制定。
 同4年千寿第七小学校の校舎を解体し新校舎工事起工。同6年新校舎落成移転。同8年創立5周年
記念式典。同12年創立10周年記念式典。同16年ホームページ開設。同18年創立15周年記念
式典。同23年創立20周年記念式典。



■お化け煙突
 大正15年1丁目の東京電力千住火力発電所に四本の煙突が建てられ、見る方向によって1本から
4本に見えたことからお化け煙突≠ニ面白がられた。しかし老朽化のため燃費効率が悪く東京オリ
ンピックが開催された昭和39年に解体されてしまった。煙突の一部が元宿小学校に滑り台に姿を変
えて保存されている。元宿小学校からは2本に見えた。夏場渇水期だけの稼動だったが最盛期には1
日1000tもの石炭を燃やしたので膨大な石炭ガラが出た。足立区の沼や湿地はそのガラで埋めら
れたのだ。



■東京電力北千住発電所・東電グラウンド

 1丁目12番・13番にある。お化けエントツのあったところだ。



■元宿堰稲荷神社
 1丁目15番にある。元宿堰地域の総鎮守社として、また企業発展の守護神として建立され、旧名
を「千住四本煙突守護社」いったとか。恐らく旧千住火力発電所の鎮守として創建されたのではなか
ろうか? 祭神は倉稲魂命。例祭は4月11日。明治の末、この辺り堰を改修中に発掘した稲荷を祀っ
たという。境内に子狐が親狐の尾にじゃれてる珍しい姿の石像がある。



■元宿小学校 廃校

 2丁目2番にあった。千住の著しい発展に連れて、千寿第三小学校と千寿第七小学校の児童が増加
し、その収容が困難に成り、二部授業を行ようになったので、その解消のため、昭和28年4月1日
最終地に校舎を建設、開校時まで関係学区域内の児童を学校別に登校させていた。しかし児童が新し
い学校に馴染まぬこと、通学路が危険なこと、当時学校敷地隣に尾竹橋病院の隔離病棟があったこと、
学校に教育備品が不足していることなどを理由として、関係父母が新設校移籍に反対した。そこで両
校のPTA役員らが相寄り、父母にも呼びかけ、寄付金を募り、両校に劣らぬ設備をすること、通学
路や隔離病棟の件については、区教委が責任を善処することを条件として同29年新設開校した。創
立51周年目の平成17年度から千寿第三小学校と統合し、千寿双葉小学校となった。同18年千寿
第三小学校跡地に新校舎が完成して移転した。跡地は帝京科学大学千住キャンパスとなる。



帝京科学大学
 2丁目2番1号の旧足立区立元宿小学校跡地に、平成22年移転。都内の私立大学となる。隅田川
を望むウォーターフロントに聳え立つ千住キャンパスでは、アニマルケアセンターをはじめ最新機材
を揃えた施設を用意。動物、環境、生命、医療、幼児・児童教育の分野のスペシャリストを育てる。
 平成2年「西東京科学大学」として山梨県上野原市八ツ沢に、理工学部(電子・情報科学科、バイ
オサイエンス学科、物質工学科、経営工学科)のみの単科大学として開校。同6年大学院(理工学研
究科 修士課程 バイオサイエンス専攻、マテリアルズ専攻、経営情報システム専攻)設置。同8年
「帝京科学大学」に改称。大学院理工学研究科に博士後期課程開設。同9年
経営工学科からマネジメ
ントシステム学科に名称変更。同10年物質工学科から環境マテリアル学科に名称変更。同11年大
学院バイオテクノロジー研究センター設置。同12年大学院未来材料研究センター設置。電子・情報
科学科からメディアサイエンス学科に名称変更。同13年バイオサイエンス学科にアニマルサイエン
スコース設置。
同14年アニマルサイエンス学科設置、マネジメントシステム学科募集停止、博物館
学芸員課程設置
。同15年大学院マテリアルズ専攻から環境マテリアル専攻に名称変更。同16年メ
ディアサイエンス学科に教職課程(高校・情報)設置。同17年
メディアサイエンス学科をメディア
情報システム学科、環境マテリアル学科を環境科学科に、大学院経営情報システム専攻をメディア情
報システム専攻にそれぞれ名称変更。大学院にアニマルサイエンス専攻を設置。バイオサイエンス学
科、アニマルサイエンス学科、環境科学科に教職課程(高校・中学理科)設置。マネジメントシステ
ム学科廃止。同18年アニマルサイエンス学科にアニマルセラピーコースを、メディア情報システム
学科に臨床工学コースを設置。同19年理工学部を生命環境学部に改組し、医療科学部リハビリテー
ション学科理学療法学専攻を設置。同20年環境マネジメントシステムを構築し運用を開始。生命環
境学部に生命科学科を設置、メディア情報システム学科及びバイオサイエンス学科募集停止。生命科
学科に教職課程(高校・中学理科)設置。医療科学部に作業療法学科を設置、リハビリテーション学
科理学療法学専攻を理学療法学科に名称変更。こども学部こども学科を設置、教職課程(幼一種)及
び保育士資格を設置
。医療科学部作業療法学科設置。リハビリテーション学科理学療法学専攻を理学
療法学科に名称変更。同21年医療科学部柔道整復学科を設置。
 同22年千住キャンパスを開設。本部移転、新たに医療科学部東京理学療法学科、東京柔道整復学
科、こども学部児童教育学科を開設。


 特徴
 3つの医学部附属病院を擁する帝京大学グループの強みを生かし、理学療法士、作業療法士、柔道
整復師、臨床工学技士を養成する学科も設置し医療系を学べる環境が整備された。さらに3つの学部
を横断し地域の幼稚園・保育園・小学校と連携して、「動物介在教育活動」や「動物を使ったリハビ
リ」についてのワークショップの開設なども大きな特徴だ。

 
アニマルサイエンス学科
 獣医学でもなく畜産学でもない、開設当時の大学では日本初の「動物と人間の共生」という新しい
動物系の分野を開拓し一躍全国区になる。アニマルサイエンス学科では、家庭犬や大型犬のドッグト
レーナー、動物園や水族館の飼育員、動物看護師などを目指して全国から学生たちが集まっている。



■善隣キリスト教会
 2丁目8番にある日本キリスト教連合会に属する教会。



■尾竹橋公園
 2丁目16番にある。尾竹橋の横にある、球技場、テニスコートの完備した区立公園。大きな木が
生い茂った林もあり、休憩の人や、昼食をとる近所の会社員の姿も見られる。奇妙な物体がある砂場、
カラフルな遊具、コンクリート造りの小山の滑り台。面白いのはテニスラケットの形をしたガードレ
ールだ。

 
じゃぶじゃぶ池
 小さい子たちが、安心して水に親しんで遊べるように整備された無料の施設だ。区内に21ヶ所あ
り、それぞれ特徴がある。ここは正方形のプールでクジラが泳いでるよ。オムツの取れた赤ちゃん以
上の幼児が、保護者同伴で夏の間だけ利用できる。事故が起きないよういろいろ制約があるのは当然
だ。




【千住関屋町】(せんじゅせきやちょう)              昭和43年3月31日
 かつては荒川(隅田川)の河川敷。奥州道の宿があったという。昭和6年掃部宿堤外牛田耕地・
東耕地・橋戸耕地を千住町大字関屋町とし、翌年足立区の成立により千住関屋町となって戦後に至
る。同43年新住居表示を実施して現行の「千住関屋町」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『足立区史』など。

 関屋の由来
 『足立区史』では町名の由来を関屋天神社によったとしている。その天神はアメージングスケア
のところにあったが、今は千住仲町の氷川神社の境内に移されている。


  
 帰るさに関屋の里は宿もあれな隅田河原の飽かぬ眺めは(導晃法親王)
   帰るさの道に関屋の里もあれな隅田河原の飽かぬ眺めに(導晃法親王)

 大化二年(646)詔勅により隅田川の北に関所が置かれたことによるが、その場所は判ってい
ない。しかし鎌倉街道が走っていたころ源頼朝が江戸重長に命じて関所を設けたことで関屋の名は
起きたようだ。関屋の里は江戸の行楽地として有名で北斎や二代目広重が浮世絵に描いている。平
安時代からしばしば和歌に読まれている。

   今宵また誰宿借らん庵崎の 隅田河原の秋の月影(順徳院)
   都鳥 隅田河原に舟出しぬ さして問ふべき人しなければ(僧正行意)
   水茎の跡書き流す隅田河 言伝
(ことつて)やらむ人も問ひ来ず(藤原定家)
   誰此処に隅田河原の都鳥 京
(みやこ)恋しき音のみ鳴くらん(藤原家衡)
   昔誘ふ 月は雲居に隅田河 遥かに悲し思ふ都も(俊成卿女)
   都にて慣れし月さへ隅田河 言問ふ鳥の浮寝のみかは(兵衛内侍)
   月影の射すや庵崎隅田河 越えて待乳の山の峡
(かひ)より(藤原家隆)
   なかなかに吾に言問へ都鳥 棲むや河辺のほかに答へん(藤原忠定)
   隅田河 名に立つ鳥の都には 待つらむ月を惜しむ山の端(藤原知家)
   名にし負ふ鳥に言問ふ角田河 昔の波の跡を恋ひつつ(藤原範宗)
   忘れぬよ なれのみここに隅田河 我が思ふ方の鳥の名も憂し(藤原行能)
   渡し守 しばし休らへ角田河 濡れぬと云はば暮を待ち見ん(藤原康光)

   
庵崎(いおざき)の角田河原に日は暮れる 関屋の里に宿やからまし(藤原光俊朝臣)
   我がために結びもおかぬ庵崎の隅田河原に宿やからまし(尚長)
   今宵また誰か宿からむ庵崎の隅田河原に秋の月影(順徳院)


 「あかぬ眺めに」「宿やからまし」などと詠っていることからも、この辺りの景色の良かったこ
とを物語っている。和歌ばかりではない。俳句にも度々現れてくる。

   野分にも関屋の葦の片葉かな(建部巣兆)
   関屋の里の都鳥嵯峨の鮎(夏目成美)
   つまずとも爰ここに関屋の若葉かな(大島蓼太)



■特殊切手「関谷の里」
 足立区の郵便史上に光彩を添えるものとして、昭和40年1月14日付で当時の徳安郵政大臣宛に、
岡崎足立区長、清水区議会議長および地元郵趣家代表として村田足立郵便史談会々長の3者連名で、
毎年国際文通週間に発行される特殊郵便切手の図案に、足立区に因むものを採用されたい旨陳情し、
その後1年以上に亘る運動が実を結び、時の郡祐一郵政大臣によって第10回国際文通週間の特殊郵
便切手の図案に、葛飾北斎描く処の「富岳三十六景 隅田川関屋の里」が採用され、同41年10月
6日全国の郵便局から900万枚が発行された。額面は50円で、薄黄茶・鈍黄・青・橙・黒のグラ
ビア印刷5色刷で、1シートは縦2枚×横5枚の10面構成だ。



■千寿第八小学校
 16番にある区立校。昭和13年千寿第八尋常小学校として開校。同16年東京市千寿第八国民学
校と改称。同18年東京都千寿第八国民学校と改称。同19〜20年長野県湯田中温泉に学童集団疎
開。同20年8月日本、愚かなアメリカの軍門に下る。同22年区立千寿第八小学校と改称。同33
年校歌制定。同63年創立50周年。

 校歌
明るい光を」 作詞・岩佐東一郎  作曲・村上一徳
  1.明るい光を豊かに浴びて
    僕も私も友達よ
    今日も元気に学びましょう
    隅田川 緑の岸辺
    母校は千寿第八小学校
  2.夢にふくらむみんなの胸を
    風が吹く吹くそよ風が
    今日も歌声流れます
    隅田川 緑の岸辺
    母校は千寿第八小学校
  3.世界の友と平和をきずく
    高い理想の夢えがき
    今日もましろい雲が飛ぶ
    隅田川 緑の岸辺
    母校は千寿第八小学校



■アメージングエアエア

 19番にある遊園地だよ。遊園地といっても、豊島園じゃない。スポーティな大人の遊び場といっ
たほうが早いか。バンジージャンプも、バルーンタワーもなくなって寂しい限りだが、その代わりに
各種のインラインスケート場ができた。流行に敏感だ。




【千住龍田町】(せんじゅたつたちょう)            最終昭和44年3月15日
 昭和6年千住1〜5丁目の金仏耕地を千住町大字龍野町とし、翌年足立区の成立で千住龍田町に
なって戦後に至る。昭和43年新住居表示を実施し、翌年に千住元町の一部を編入して現行の「千
住龍田町」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『足立区史』など。

 龍田の由来
 町内を通る
龍田道(川田道)によるが、龍田の意味は判らない。龍田神社もないし龍田彦にかか
わる何もない。




■千寿第六小学校 廃校
 9番にあった区立校。昭和6年千寿第六尋常小学校として新設開校。同10千寿第七小学校を分校。
同16年東京市千寿第六国民学校と改称。同18年東京都千寿第六国民学校と改称。同19年学童疎
開。同20年愚かなアメリカ軍の無差別空爆により校舎全焼。8月日本は愚かなアメリカ合衆国にノッ
クアウトされ敗戦。11月疎開解除。同22年区立千寿第六小学校と改称。同56年創立50周年。
創立61年を迎える平成4年の3月31日で閉校。翌4月1日千寿第七小学校と統合して、千寿桜小
学校となった。




【千住中居町】(せんじゅなかいちょう)              昭和44年3月15日
 昭和6年千住宿1〜2丁目の西耕地を千住町大字中居町とし、翌年足立区の成立で千住中居町と
なって戦後に至る。同44年新住居表示を実施し、千住中居町・千住寿町の各一部をあわせた町域
を現行の「千住中居町」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『足立区史』など。

 中居の由来
 千住堀の分流
中居堀(現在暗渠で道路)が町内を流れたことによる。中居堀は普通中間にある用
水のとだが、掃部堀と掃部井堀の間にあることはある。



千邑山常護寺

 2番にある浄土真宗大谷派の寺。本尊は阿弥陀如来。嘉永三年(1850)千住に真宗(当時は一
向宗)の寺院がないのを憂え、同信同行相寄り相助けて、現在地に常護庵を設けたのが始まりだ。元
治元年(1865)東照公250年忌に本願寺法主厳如、現如両上人の巡教があり、由緒ある寺となっ
た。昭和20年3月愚かなアメリカ軍の空爆により焼失し、現在の堂宇は鉄筋コンクリート造りだ。
寺宝として親鸞上人の書面1通、恵心僧都筆の阿弥陀如来の影像1幅、蓮如上人真筆の六字名号(南
無阿弥陀仏)の尊号がある。




【千住仲町】(せんじゅなかちょう)                昭和55年8月1日
 昭和6年掃部宿(掃部堤以北)・東耕地・西耕地の一部を千住町大字仲町とし、翌年足立区が成
立して千住仲町となった。昭和55年新住居表示を実施。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『足立区史』など。

 仲町の由来
 千住中組の中心地だったことにより仲の字は仲良し(協和)の気持ちを籠めたものだ。



稲荷山勝林院源長寺
 4番、旧日光道中と墨堤通りの交点にある。墨堤通りは土手があったところで、寺は土手下にあっ
た。掃部宿の開拓者石出掃部介吉胤が慶長十五年(1610)に草創したといわれ、伊奈備前守忠次
を開基とする。忠次は千住大橋を架けた奉行、吉胤はそれを助けた功労者だ。吉胤は当寺河川敷だっ
たこの辺りを開発し、この地を賜り、その通り名から掃部宿と名づけた。本尊は慈覚大師作の阿弥陀
如来で、元は秩父三峰山にあったといわれている。火盗両難に効験がある。
 開山円誉不残は元和三年(1617)九月三日示寂。吉胤も元和四年(1618)六月二十二日7
7歳で没している。なお墓地に建部巣兆の弟子左可和鯉隠、浮世絵師井草国芳、三絃の名手鶴沢弥三
郎の墓がある。寺域は元は河原稲荷社の境内だったとか。
 平成19年三解脱門(山門)を新築、境内を改造、本堂の屋根瓦を葺き替えた。

 心静尼塚 →なくなった?
 山門を入って左側に「心静様」「お比丘さん」と呼ばれる心静法尼の塚がある。3坪に満たない石
囲いの中に、高さ1mほどの青井士の碑が台座の上に立っているものだ。

   寂誉心静法尼 明治三年八月十五日

 とある。碑文によると心静尼は、この源長寺の孝誉上人の弟子となっており、相州大山で並々なら
ぬ修行を積んだ。つまり大山の女行者として、その卜占、祈祷は霊験あらたかなものとして多くの人々
から崇信されていた。塚はその信者たちが、同尼の没した翌年に建てた。
 ※平成19年の境内改造でなくなってる。

 三遊亭円朝寄進の灯篭 なくなった?
 
囲いの内に、心静尼の碑と並んで建てられている。名人円朝が痛めて声の出ない咽喉を、大山阿夫
利女行者心静尼の法力によって、全快した縁により、塚の建立の際、献納したものだ。
 ※平成19年の境内改造でなくなっている?


 石出掃部亮(介)吉胤の墓
 掃部宿(千住仲町)の開拓者石出吉胤は、千葉氏の一族で、北条氏の家臣だったが、北条家の滅亡
後遠州(静岡県西部)に移り、さらに文禄元年(1592)に本木村吉祥院に身を寄せ、河川敷の開
発に従事すると共に、千住大橋の架橋にも貢献した。やがて慶長三年(1598)千住に移って新田
の開発に努め、19年後に掃部堤を築いた。千住緑町ロータリー跡から問屋町まで1150間(約2
km)、今の墨堤通りの位置に、高さ1丈3尺(約4m)の規模で築き上げたもので、元和二年(1
616)幕府の許可を得て熊谷堤の外側の水除堤とした。同四年(1618)六月二十二日享年77
歳で没している。この吉胤の開発によって生まれた地を後年掃部宿と呼ぶようになり、地名の変わっ
た近年になってもその名で親しまれた。

 矢野和泉守正倫の墓
 昭和40年代に発見された。大坂冬の陣で戦没した武将。正倫の子孫が当地の石出家を頼ってきて、
姓を牧野と変え、住みついた。

 石垣一啓斉路川の碑

   夏の野に火は消えながら月夜かな

 という辞世の句。裏面には、千住に住んで寺子屋を開業し貧しい生活の中で、慈父のように優しい
先生だったことが記されている。源長寺にはもう一基「多坂梅里翁の碑」があり、こちらも寺子屋師
匠だが、時には体罰をもって厳しく教育した怖い先生だった。


 多坂梅里翁の追悼碑(筆塚)
 寺子屋の発祥は享保年間と伝わるが、同時期の寺子屋教育の内容を伝える重要な教育資料だ。碑文
によれば、梅里は信濃上田藩松平家の世臣だったが、享保年中千住駅の辺りに住み、医業をしながら
寺子屋を開いた。以来50年、掃部宿・川原町・小塚原町の男女、少長を問わずに教育し、もっとも
盛んなときは塾生は数百人に及んだ。天明九年(1772)歿。
 梅里は、「読み、書き、算盤」ばかりではなく、行儀作法や掃除の仕方まで教えたという。ために
千住の町の悪いといわれた風俗習慣が一変し、教育を身に付けた人がそこここに見受けられるように
なった。お陰で、宿場町千住も変わり、大人子どもの区別なく、非行が一切なくなったとか。その指
導は「温にして厳」、粗暴な者には竹箆や縛めもし、いいつけに背く者には、入門時に持ってきた机
や筆硯の類を背負わせて親元に送り返したという。それほど厳しかったので、復学を許されると見違
えるように立派になったという。
 寺子たちはこの師の厳しさを憎み恨むことなく、師の己を思う愛情表現と受け止め、師に対する畏
敬親愛の情は益々細やかになり、その師弟関係はまさに、「師はなお針の如く、弟子はなお糸の如し」
といわれている。
 区内にあった寺子屋は、ほかに群雀堂、吉田順庵、正法庵などが知られている。



■子育延命地蔵

 4番、源長寺入口にある。昔は医学が進んでいなかったので、病気になると、神頼み、仏縋りにな
るしかなかった。それがあって神仏が繁盛した訳だ。おいらなんざ今でもそれが頼りさ。地蔵尊は特
に子どもを救ってくれるというので、両親またはどちらかの親が地蔵参りをして、平癒を祈願したも
のだ。迷信のようでこれが結構願いを聞き届けてくれるものなのだ。
 いつのころからか判らないが、毎月23、4日の地蔵尊の縁日に、地蔵尊に救われた者たちが市を
開くようになった。その日は寺の前の日光街道(旧)に夜店が並び、地蔵尊へのお礼参りの方々、楽
しい一時を過ごしたものだ。当時は夜遊びは禁じられていたので、この日ばかりは公然と夜の外出が
できた。計算されたガス抜き(憂さ晴らし)だろう。



■仲町氷川神社・関屋天満宮
 
48番にある。神社は石出掃部介吉胤が開発した元和二年(1616)に創建された。祭神は素盞
嗚尊。当社の玉垣は文化十年(1813)九月町内の川魚業者によって建立されたもので、境内にイ
チョウの老木がある。例祭は9月15日。

 関屋天満宮
 本殿の左横に社がある。この天神は元は関屋にあったもので、『新編武蔵風土記稿』によれば昔は
関屋にあった塚の上に祀られていたんだそうだ。関屋の里は隅田川に面し、江戸八景に数えられるほ
ど風光明媚なところだったらしいよ。『江戸名所図会』にもこの関屋天神の項があり、氷川神社の境
内に、梅林に囲まれた天神の小さな社が描かれている。現在梅林はないんだが、昔は茶屋も出た梅の
名所だったようだ。社前に関屋天満宮の石柱碑があり、文化四年(1807)千住の漢学者石垣路川
の書になる。



■妙乗寺

 43番にある日蓮宗の寺。建物は普通の民家。墓地は台東区今戸にあるとのこと。




【千住橋戸町】(せんじゅはしどちょう)               ━新住居表示未実施
 昭和6年橋戸町・堤外西耕地・橋戸耕地を千住町大字橋戸町とし、翌年足立区が成立したとき千
住橋戸町として今日に至る。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『足立区史』など。
                      *
 新住居表示は未実施。区の回答は以下の通り、、

   この地域については大規模な工場跡に、集合住宅等を建設する再開発が進められて
   います。開発工事が終わりましたら、住居表示を実施する予定です。

 橋戸の由来
 橋戸の戸は江戸の戸と同じで出入口のこと、橋戸は大橋(千住大橋)の橋際の意で掃部宿内橋戸
といった。戸時代は河川敷で橋口から千住宿までの間は土手道を築いていた。伊豆長八の鏝絵があ
る橋戸稲荷神社は大橋の架橋よりも古く、橋戸は橋が架けられて川越を始めとして上流からの荷が
揚がるようになって宿場・荷継場として発展した。だから橋戸は稲荷神社だ!
 




■千住大橋駅

 11番地にある京成本線の停車場。昭和6年12月29日の日暮里〜青砥間開業と同時に設けられ
た駅。ホームは高架島式2面4線構造で、通過列車の待避が行われることもある。ホームと改札階を
結ぶエレベーターは設置されている。改札口は1ヶ所のみで、地上1階にある。出口は駅の北側・南
側・東側の3ヶ所ある。日光街道(国道4号線)に面した東側の出口と改札の間には、「フードプラ
ザ大橋」という商店街がある。スーパーやコンビニ、ハンバーガー店、喫茶店などが入居しており賑
やかだ。



■橋戸稲荷神社

 25番地にある。祭神は宇迦能御魂命。社殿は元禄時代のものといわれ、特に屋根が珍しく八棟の
寄棟と呼ばれるものだ。例祭は9月10日。

 水神宮
 境内にある末社。文化五年(1808)三月の刻があり、安徳天皇・大物主命を祀る。この方の例
祭は10月10日だ。

 伊豆長八鏝絵
 この稲荷の本殿は土蔵造りで珍しい。普段は扉を閉めていて、9月15日の祭礼以外は見られない
が、この扉の内側に、伊豆松崎の左官で鏝絵の大家伊豆長八の彫刻がある。長八は左官が使う鏝で漆
喰のレリーフを拵えた。その作品出生地西伊豆の松崎町浄感寺内の長八記念館に保存されているが、
東京にあった寺社にあった作品のほとんどが戦災で焼失し、一時は幻の名作とまでいわれてていた。
この稲荷の扉に描かれた男狐と母子狐の2枚の作品は、区の文化財調査委員高橋直二の調査によって
世に出た。なお伊豆長八については「品川区」に詳述してある。



■大橋公園

 31番地にある区立の小公園。

 おくのほそ道矢立初の碑
 千住大橋の橋詰に小さな大橋公園があり、その中に大きな自然石の竜岩で作られている。碑の表に
『おくのほそ道』の千住のくだりの抜粋、裏に説明文がある。松尾芭蕉はここから曽良を連れて旅立っ
た。

 芭蕉句碑
 千住大橋北詰にある。昭和49年10月12日除幕。古来より「奥州路」の要衝である足立区に「史
跡の標識」をと考え「史跡顕彰事業計画」の一環として建立された。芭蕉「奥の細道」旅立ちの地「千
住」、千住大橋際の大橋公園は、碑を建てるに最適の場所だ。

   
行く春や 鳥なき魚の目は泪



■一銭蒸気・ポンポン船

 明治から昭和の初めまで、千住河岸つまり大橋公園の辺りから浅草の吾妻橋際まで、客を乗せて運
んだ渡船のことだ。明治の頃は船賃が文字通り1銭だったので、その名があるが、蒸気船でポンポン
と心地よいエンジン音とともに川を下っていった。昭和に入ると5銭になり、それでも市電(路面電
車)の7銭、乗合バスの8銭に比べるとかなり安かった。浅草までは50分〜1時間ほどで浅草に着
くが、船足がのんびりしているので、周りの景色を楽しむことができて、それは素晴らしいものだっ
た。安いので千住の人々は大いに利用したものだ。

   ほとほとと一銭蒸気くだりゆく見つつ思えば時過ぎにけり(釈迢空)



■川越夜船
 川越の新河岸から出る船は、並船・早船・急船・飛船の4種だったが、このうちの早船が夜船だっ
たという。新河岸を午後4時頃出発すると翌日の正午近くに浅草の花川戸に着き、夜を日に継いでの
長旅だったので川越夜船の名が付いたという、千住には朝8時頃に付いた。



大橋(千住大橋)
 文禄三年(1594)三月二十一日竣工。江戸幕府が伊奈備前守忠次を奉行に隅田川に最初に架け
た橋で「大橋」とだけいい、両国橋ができてから千住を冠して区別するようになった。現在の正式名
称は千住大橋だが、橋には「大橋」としか記していない。別には右岸が小塚原村であるところから「小
塚原橋」と呼ばれもしたさ。長さ66間(118m)×幅4間(7m20p)もの巨橋を架けるには
相当の困難があったものと見えて、忠次は橋際の熊野神社に断食祈願して無事架橋したので、以後改
架の都度、残材で社殿を改修するのが慣例となった。

   伽羅よりもまさる千住の橋の杭(川柳)

 普請にあたって伊達政宗が水腐れに強いイヌマキ(犬槙)の巨木を提供したと伝わるが川底から引
き抜かれた橋底材にイヌマキはなかったという。案外橋杭材と間違えているかもしれない。

   槇柱朽ちぬためしを大橋や心をこめて世を渡しなむ(三橋飛騨守)

 大橋は木橋だから、いざ出水があると、荒川の名の通り、水勢が激しく橋を流すこともあるので、
貞享元年(1684)改修の任に当たっていた奉行の必死の祈りが伝わってくる。しかし、明治まで
正保4年(1647)・寛文六年(1666)・天和四年(1684)・享保三年(1717)・宝
暦四年(1754)・明和和四年(1767)の6回、架け替えが行われたが橋杭が流されたことは
一度もなかったという。ただ最後の架け替えは前年の洪水で橋桁が流されたための架け替えで200
m下流の現在位置に新たに架橋したという。とすればその昔の大橋は、今の東京電力送電橋の辺りに
架っていたことになる。
 昭和2年11月鋼鉄の近代橋(橋長91.7m×幅員24.2m)に架け替えられ、翌3年市電が千
住4丁目まで開通し、この橋の上を通るようになってから、それまでの長閑な情緒は薄れて乾いた千
住になっていった。

   寒念仏千住の文をことずかる(川柳)
   問屋場で竹に雀は気をいため(川柳)


 竹に雀は(伊達家の家紋)、参覲交代の道中、千住宿でもいろいろ話題があったのだろう。

   冬木立千住の橋の見ゆるなり(正岡子規)
   若葦の茂り細やか川も狭に舟見えがての千住大橋(法月歌容)
   千住の大橋の下さびさびに筏を流すわが葦の水に(今井邦子)
   大川の流れの上に舟出し千住の橋を人の行く見る(窪田空穂)



千住青物市場
 50番地にある。町内の稲荷神社に、明治39年に建てた「青物市場創立三百三十年紀念碑」が建っ
ており、これに基づいて逆算すると、天正四年(1576)の開場ということになる。家康の江戸お
討ち入りより14年も前のことで、千住大橋もまだなく、河原町があったか、なかったかという頃だ。
奥州道の道端で野菜を並べて売ってた(前菜渡世の店という)のだろう。とにかく市場の様相を呈し
たのは江戸時代にはいってからで、文禄三年(1594)に大橋が架けられると荒川沿いの作物、川
魚がなど、次第に荷が増えて卸問屋が街道の両側に掃部堤まで並んでいた。盛んになるのは、江戸時
代も半ば過ぎ、幕府の御用市場になってからで、最盛期は明治時代。現在商店街の店々に、昔そこに
あった店名を書いた板を貼って昔を偲ぶ縁としている。河原町市場の特徴は、小売商に卸すだけでな
く、神田・駒込・本所・日本橋・京橋などの市場への転売が行なわれたこと。この転売をする競り人
を「投師」といったが、この投師のために早朝3時4時に競りが始まったという。名物の千住葱は小
売に卸すのではなく、「葱商」と呼ばれる専門業者に卸され、彼らはお得意である蕎麦屋や鍋料理屋
に売りさばいた。今市場は橋戸町に移って巨大な面積を擁している。

   鮎の子のしらうお送る別れ哉(芭蕉)
   永き日の古き歴史の市場かな(虚子)
   やっちゃばの主となりて昼寝かな(やっちゃ場の人 為成菖蒲園)


 やっちゃ場
 市場をそう呼ぶのは、市場の喧騒がやっちゃ、やっちゃ≠ニいってるように聞こえることに
よる。場内に干潮金比羅宮がある。



■干潮金刀比羅宮
 50番地、市場内にある。この社は洪水の時に浮き上がって見えたので、俗に浮琴平∞浮金比
羅≠ニいう。享保の頃(1716〜35)1人の旅人がこの地に来て病の床に着き、里人が看病した
が、その効もなく息を引き取った。その死に際に、幼少から毒疽で悩んだ苦しみを後世の人から取り
除くため、自分の遺骸を埋めて一社を建てるようにいい残したのだ。里人は遺言通り埋葬したところ
に碑を建て、一社を設け、塚田社とした。その後この社は毒疽、災禍除けに霊験新たかな神として名
が高まり、また神域を耕した者は3年を経ずして病に倒れたという。明治になってから水天宮を合祀
し、両社を合わせて琴平大権現というが、その因果関係は不明だ。 




【千住緑町】(せんじゅみどりちょう)      1丁目のみ未実施━平成元年11月12日
 昭和6年千住宿1〜5丁目の堤外西耕地を千住町大字緑町とし、翌年足立区の成立により千住緑
町となって戦後に至る。平成2年2〜3丁目のみ新住居表示を実施。1丁目は理由は分からないが
未実施。参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『足立区史』など。
 平成19年2月26日区の答えは以下の通り、

   千住緑町一丁目 この地域については大規模な工場跡に、集合住宅等を建設する再開
   発が進められています。開発工事が終わりましたら、住居表示を実施する予定です。

 緑の由来
 緑は江戸時代から「牧の野(まきのや)」と呼ばれる
緑一面の萱野だったことによる。牧は遊女の
名で千住遊郭No1の評判だった。そのお牧が川越夜船の船頭と恋に落ち、駆け落ちする約束で待
ち合わせをしたが船頭は来なかった。世を儚んだお牧は隅田川に飛び込んで自殺、その怨霊は大蛇
となって川越夜船を転覆させたという。そんな噂が実しやかに語り継がれるうちに萱野は「牧の野
の原」と呼ばれるようになった。千住節の一節。

   千住女郎衆は錨か舫(もや)か、上り下りの船止める。



■ニッピコラーゲン化粧品東京本社
 1丁目(1)番にある。ニッピは明治40年創業の日本皮革の略称から起きた社名。この辺りは、
製靴、製鞄が多く立地し、盛んに生産された。




【千住宮元町】(せんじゅみやもとちょう)             昭和43年3月31日
 昭和6年千住中組・千住宿2丁目の西耕地を千住町大字宮元町とし、翌年足立区の成立により千
住宮元町となった。同43年新住居表示を実施して現行の「千住宮元町」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『足立区史』など。

 宮元の由来
 町内に
千住神社と八幡神社が鎮座することによる。



■高は志
 2番にある昭和8年創業の地域密着型の和菓子屋。「たかはし」と読む。「本物の味は必ず残る」
をモットーに現在は2代目、3代目を中心に家族4人で和菓子販売と甘味喫茶を営んでいる。

 自家製あんみつ・みつまめ

 この店の寒天は、伊豆神津島産の天草100%を使用している。黒蜜は自家製。昔ながらの本物の
味を楽しんでみい。
 



■八幡神社(白旗八幡)

 3番(旧31番地)にある。承暦年中(1077〜80)八幡太郎源義家が渡裸川(隅田川)を渡
河するに辺り、熊野権現の御幣に祈ったところ、たちどころに神が現れ、浅瀬を教えてくれた。そこ
で義家は浅瀬のある彼岸に白旗、此岸に黒旗を立てさせ渡河の目安とし、全軍を無事渡河させること
に成功した。そこで黒旗を荒川区の若宮八幡に、白旗は千住の八幡神社に供え、御幣を以て南千住の
熊野神社を創建したと伝わっている。祭神は誉田別尊(応神天皇)。昭和20年愚かなアメリカ軍の
空爆により焼失し、現在の社殿、社務所は昭和34年に新築された。文化十年(1813)正月の漱
盥石(手水鉢)がある。祭日は9月14日だ。



■千寿第二小学校 廃校
 6番にあった。明治42年11月11日千寿尋常高等小学校と千寿第一尋常小学校の児童の一部を
収容して南足立郡千寿第二尋常小学校として新設開校した。昭和7年東京市千寿第二尋常小学校と改
称。同16年東京市千寿第二国民学校と改称。同18年高等科を併設して東京都千寿第二国民学校と
改称。同19年学童疎開。同20年愚かなアメリカ軍の無差別空爆により校舎は全焼だわ。8月日本
はアメリカに叩きのめされて軍門に下り、以来属国となる。11月疎開解除。同22年区立千寿第二
小学校と改称。同34年創立50周年。平成14年(創立98年目)3月31日閉校。翌4月1日千
寿小学校と合併して新しい千寿小学校となった。



■千寿小学校
 6番にある統合新設校。平成14年4月1日千寿小学校と千寿第二小学校が統合し、新しい千寿小
学校として開校した。

 校歌高く澄んだ青空に」 作詞・校歌選定委員会(生徒保護者合作) 作曲・椎名豊
  1.高く澄んだ青空に
    明日の姿を映し出す
    あふれる笑顔 友の声
    希望に満ちた千寿の子
    みんな仲良く伸び行こう
  2.歩みを記す街道に
    その名は懐かし桜堤
    千住に育つ誇りを胸に
    弛まず学ぶ千寿の子
    明るく元気に羽ばたこう
  3.水の流れも緩やかに
    遥かに望む富士の嶺
    大きな夢を抱きつつ
    心豊かな千寿の子
    輝く未来へ飛立とう
     



■千住神社

 
24番(旧44番地)にある。大師道(今はない熊谷堤に沿って西に行った道)を行くと左手にあ
る。凡そ1000年前、この地は千崎と呼ばれた丘陵で、西側は利根川(隅田川)に面した原始的な
森林地帯だったんだそうだ。千住2丁目の名主永野家文書『旧考録』に、この地は延喜の頃(10世
紀初頭)から開拓民が増加し、延長四年(926)稲荷を祀って「千崎稲荷」と称え、のち弘安二年
(1279)に氷川神を勧請、森の中に二つの社が鎮座したので「二ツ森」と俗称した。祭神は宇迦
能御魂命と須佐之男命の2柱。江戸時代に千住宿が開かれてからは、その西方にあることから「西宮」
「西の森」とも呼ばれた。明治に入って稲荷・氷川を合わせて「西森神社」となり、大正4年に「千
住神社」と改めた。戦前まで鬱蒼とした森に包まれていたが、アメリカ軍の無差別空爆で一面焼野ヶ
原、社殿も森も焼け尽くされてしまった。現在の社殿は昭和33年の造立だ。
 神社の由緒碑が鳥居脇に、少し奥の右手に、社殿再建記念碑(昭和42年)、芭蕉句碑、

   ものいえば唇さむし秋の風 はせを(芭蕉)

 の慶応二年(1866)に建てた句碑がある)。西森神社の碑が並び、左手奥に、乃木希典大正揮
毫の日露戦役記念碑、八紘一宇と銘打った旗台、改修記念碑(昭和32年)がある。昔日の面影はな
いが、一応鎮守の森を形成している。
 社殿右手に、稲荷神社、恵比寿像、恵比寿神社、八幡神社、天満宮、最上位経王稲荷大明神の小祠
が固まってある。

 
明治天皇御飲用水井戸の跡
 明治天皇が、明治9年の東北巡幸と同14年の北海道巡幸の際に、千住3丁目(76)番の浅川医
院のところにあった千住最大の旅籠中田屋の離れ座敷で歓送会が行われた。その時に御飲用に供され
た水は、ここの井戸から汲み上げて運んだものが使用された。

 山車(だし)
 明治5年製作の江戸型。 高さは7.5mで、最上層の静御前の人形は鼠屋五兵衛の作といわれてい
る。同22年の大日本帝国憲法発布の日には、特別にこの山車を牛に牽かせて町内を練り歩き大変な
賑わいだったそうだ。この山車は高さを調節できるからくりになっていることから江戸型と区別され
る。江戸時代日枝神社と神田明神の天下祭の時、江戸城内で将軍が山車を上覧するのが仕来りで、城
門を潜るためにこのような工夫を施した訳さ。震災と戦災で、足立の山車は失われ、千住の山車は今
に残る貴重なものだ。



■第十五中学校 廃校
 27番にあった。昭和23年千寿第一小学校内に開校。平成15年3月31日閉校、翌月1日第三
中学校と統合して、千寿青葉中学校となった。



■千寿青葉中学校
 27番にある区立の統合新設校。平成15年4月1日第三中学校と第十五中学校が合併して開校。

 校歌
想いは真白き雲に」 作詞作曲・安藤秀樹
  1.想いは真白き雲に
    希望と夢を乗せて
    青空を駆け巡る
    未来はこの手にある
    友の笑顔を守りたい
    いつまでも固い絆で
    輝く心の光 千寿青葉中学校
  2.豊かな流れ荒川
    清き富士を見上げて
    逞しく生きていける
    勇気と力になれ
    仲間に会えた喜びと
    明日への思いを胸に
    羽ばたけ 我らが母校 千寿青葉中学校
    羽ばたけ 我らが母校 千寿青葉中学校
      



■小祠
 28番の大成倉庫の敷地の西北角にある。塀の中なので詳細不明。



■大正記念道碑
 29番の西南角に建ててある。フランス留学前の4年を千住の実家で過ごした森鴎外が撰文を担当
した新設道路記念碑。大正記念道とは千住大川町の神社の西南角から南南西方向に真っ直ぐ伸びる、
現在の大正通りだ。碑の前に区の説明板がある。




【千住元町】(せんじゅもとまち)                最終平成元年5月15日
 昭和6年千住宿3〜5丁目の元宿耕地・金仏(かなぶつ)耕地・川田耕地を、千住町大字元町とし、
翌年足立区の成立により千住元町となって訓を(もとちょう)から(もとまち)に改めた。昭和4
4年新住居表示を実施、平成元年本木1丁目の一部を編入して現行の「千住元町」が確定した。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『足立区史』など。

 元町の由来
 元宿によるが、千住宿ができる以前、鎌倉街道が墨堤通り方向に走っていて、宿場が、宿場といっ
てもそんな大げさなものではなく、雨露を凌げる程度の建屋があって、旅人を宿泊させていた。千
住宿より以前からあった宿場の意で元宿と呼んだものだ。
 さて旅館が食事を出し、個室が当たり前になったのは、戦後も戦後、高度経済成長時代に入って
からで、高級旅館でもない限り、相部屋が当たり前で、食事は自分でするものだった。木賃宿の木
は、薪のことだ。温泉は湯治場といい、病気の治療場だった。温泉に遊びに行くようになるのは昭
和40年代に入ってからで、テレビで取り上げるようになって、若者までが関心を持つようになっ
たのだ。千住桜木に元宿小学校・元宿幼稚園がある。千住名物「お化け煙突」の一部が元宿小学校
の遊具「滑り台」として保存されている。



■第三中学校 廃校
 18番にあった。昭和9年千寿高等小学校として開校し、同16年東京市足立第一国民学校、同1
8年東京都足立第一国民学校と改称し、同22年3月31日に閉校した同校の跡地に、翌4月1日に
開校した。平成17年3月31日少子化のため閉校し、第十五中学校と統合して千寿青葉中学校となっ
た。



■元宿神社
 33番にあるちょっと住宅街の奥にあり目立たない神社。敷地は小さく、通りに面した石標が目印。
元宿は千住で最初に開拓された土地といわれ、その千住耕地の鬼門に当たる場所に鎮守社を奉ったの
が始まり。 この社を古くは「元宿八幡社」と称した。元宿神社前の通りには、桜並木がある。




【千住柳町】(せんじゅやなぎちょう)              昭和43年3月31日
 昭和6年千住宿1〜5丁目の金仏耕地を千住町大字柳町とした。翌年に足立区が成立して千住柳
町となり戦後に至る。同43年新住居表示を実施して現行の「千住柳町」となった。下町の住宅地
でランドマークは何もない。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『足立区史』など。

 柳町の由来
 町名はほぼ全域が遊郭だったことによる。この名の町は三業地や色街に多い。むかし中国で色里
への通路には必ず柳の木を植え、柳陌(柳の道)・柳巷といえば色里の代名詞だったことで遊郭に柳
町とつける場合が多い。江戸の初め銭瓶橋(大手町1丁目)のところに最初にできた風俗街も柳町
だった。ただし日本国中の柳町が全てこの理由によるとは限らない。


■法華堂教会
 17番にある日蓮宗の布教所。普通の2階建ての民家。




【竹の塚】(たけのつか)1〜7丁目                 昭和41年11月1日
 竹塚村。明治二十二年淵江村大字竹塚、昭和7年足立区竹塚町。同41年新住居表示により竹塚
町・伊興町大境・伊興町見通(みとおり)・伊興町前沼・伊興町白幡・栗原町・六月町・保木間町
の各一部をあわせた町域を現行の「竹の塚」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『足立区史』など。

 竹の塚の由来
 昔この辺りに幾つかの古墳(塚)があり、何時しか竹が自生していたの「竹の塚」の名が生まれ
「竹之塚」とも書いた。開発のため塚山は検証することもなく取り壊され今は求める縁もなく「こ
れが竹の塚だ!」という塚は現存しない。なお東武線の駅は明治33年開設当時のまま「竹ノ塚」
を踏襲している。『角川地名大辞典』では「たけのづか」と濁っているが足立区では濁らない。パ
ソコンにより、(たけのづか)と入力すると「竹ノ塚」と表示し、(たけのつか)で入力すると「竹
の塚」と表示するものがある。つまりむかしは(たけのづか)と発音し、新住居表示で「竹の塚」
と改めたときに濁りを取った。



慈照山大悲院万福寺
 1丁目1番にある真言宗の寺。

 
竹島小学校跡
 明治9年西光院の「正矯小学校」の前身として開かれた。竹島は「竹の塚」と「島根」2ヶ村の公
立学校の意。3年を経ずして教場を移しているが、幕末ごろから寺子屋を開いていた歴史がある。移
動した理由は判っていない。手狭になったのか、寺と村との間にトラブルがあったのか。



正入山西光院
 1丁目3番、六月の炎天寺の100mばかり北にある真言宗豊山派の寺。開基は寛永八年(163
1)に歿した河内与兵衛胤盛だ。河内氏は天正十八年(1590)小田原北条氏の没落後、竹の塚に
土着し、のち徳川家に仕え、その一家は代々当村の名主を勤めていた。
 寺門を入ると、本堂前に区内最大の金仏がある。台石の上の銅製金剛界大日如来坐像だ。像高1.8
m、膝張1.4mのこの像は、元禄12年(1699)の鋳造。知拳印を結び、宝冠を戴き顔立ちも美
しい。中央の蓮弁に元禄十二年(1699)河内喜右衛門・同久蔵・母かく・河内久左衛門などの名
が、左右蓮弁には、そのほか近郷近在・江戸市中にわたる数100名の記名があり、鋳工として「武
江神田 粉河市正宗次」と彫られてる。かつては旧本堂内陣に安置してあったものだ。門前には「新
四国八十八箇所」と「荒綾八十八箇所札所」の標石がある。

 河内先生追慕之碑
 
河内久蔵武胤(慶応四年没)の門人が明治17年に建てたもので、隷書の大家中根半嶺の書である。

 
正矯小学校跡

 明治11年「淵江小学校」の前身として開校。ここを仮校舎として開かれ、明治34年に「淵江尋
常小学校」の校舎が完成するまでの23年間、教学の場だった。



■竹の塚小学校
 1丁目8番にある区立校。昭和43年保木間小学校から独立して開校。同46〜51年校舎増改築。
平成20年創立40周年を迎える。

 校歌
朝の光に」 作詞・駒込連峯 補作・小林秀雄  作曲・小林秀雄
  1.朝の光に輝いた
    若い緑も生き生きと
    竹は大地に根を張って
    大空指して伸びて行く
    ああ逞しいその生命
    竹の塚 竹の塚 竹の塚小学校
  2.雪の重みを撥ね退けて
    節重ねつつ まっすぐに
    竹は正しさ 優しさの
    溢れる枝葉 広げ行く
    ああ汚れないその姿
    竹の塚 竹の塚 竹の塚小学校




観林山常楽寺
 1丁目10番にある真言宗豊山派の寺。寛永の頃(1624〜43)の創建(中興とも)で、開基
は当村の河内与兵衛胤盛。本尊は聖観世音自在菩薩坐像(江戸中期の作品)。寛文二年(1662)
の墓碑、天保十一年(1840)の庚申塔がある。

 竹塚東子の墓
 寺の墓地にある。東子(とうし)は足立に生まれ、足立に死んだ江戸中期の文人。洒落本『田舎談
義』などの戯作者で、俳諧・狂歌をよくしたばかりでなく、落語家としても一家をなしていた。姓は
谷古宇、名は四郎左衛門、喬雲齋・風水坊・素速齋・東紫・竹塚翁(竹翁)号した。戯作は山東京伝
門下、俳諧は越谷の会田吾山に学んでいる。墓石は横幅のある当時としては珍しいもので、中心に「喬
雲醍醐居士」と法名を刻し、両脇に、

   冬川や瀬ぶみもいらず南無阿弥陀仏

 を振り分けて辞世が彫られている。文化十二年に歿した。



■竹の塚第二団地
 1丁目にある巨大団地。



■竹の塚ホール
 2丁目25番にある竹の塚地域学習センターの中にある。306席。



■増田橋
 旧日光街道竹の塚3丁目交差点のところの竹の塚堀に架かっていた長さ9尺×幅2間ほどの石橋。
千住宿と草加宿の中間に当たり、赤山街道の起点でもあったので、水茶屋・居酒屋などが建ち並び、
「竹の塚の立場(休憩所)」と呼ばれ、旅人などが一休みし、ちょっとした宿場並の賑わいだったと
いう。



■保木間小学校

 3丁目8番にある区立校。昭和34年淵江小学校から分校して開校。平成21年創立50周年を迎
える。



■保木間公園

 3丁目8番2ある。



■足立北郵便局
 3丁目9番にある。昭和36年8月21日「足立郵便局保木間分室」として開局。同39年12月7
日普通局に昇格「足立北郵便局」として区内北半の集配業務を開始した。同46年「足立西郵便局」
の開局により、東北部一帯を受持区域としている。



■竹の塚第一団地
 3、4丁目にある巨大団地。



■竹の塚第三公園

 4丁目7番にある区立公園。

 
じゃぶじゃぶ池
 小さい子たちが、安心して水に親しんで遊べるように整備された無料の施設だ。区内に21ヶ所あ
り、それぞれ特徴がある。ここは水色の小さなプール。オムツの取れた赤ちゃん以上の幼児が、保護
者同伴で夏の間だけ利用できる。事故が起きないよういろいろ制約があるのは当然だ。



如意山普門院延命寺
 5丁目26番にある新義真言宗豊山派の寺。本尊は延命地蔵。天文二十年(1551)九月中興開
山宥慶上人によって再建されたという。便利利便の安直な区画整理で寺域が変ってしまい、石塀など
が新しくなり古めかしさはなくなってるが、寺の歴史は古いのだ。『新編武蔵風土記稿』に、

   総持寺の門徒なり。如意山普門院という。即ち延命地蔵を本尊とす。当寺も河内与兵衛
   が開基なりという。されど客殿に安置する聖徳太子の胎中の文によれば、古きてらには
   て与兵衛は中興の開基なるべし。その文に、『奉新造聖徳太子、延慶二己酉九月吉日、
   当寺開山法印宥慶、須賀苗字檀越、臼倉 檀越、本願主浄厳、再建天文廿九年九月』こ
   れ証とすべきか、されど近き比(ころ)彩色の時住僧の見しままにて、今現に見ること能
   わざれば何れとも断じがたし


 とあり、この古文書の存在を疑っているが、区教育委員会の文化財調査でこの胎内銘を確認してる
ので、この古文書にあるように、延慶二年(1309)の開山で、天文二十年(1551)の再建と
見ていいだろう。であれば竹の塚地区では最古の寺ということになり、この聖徳太子像もまた鎌倉時
代のものといえるだろう。元禄三年(1690)の墓碑、享保十二年(1727)の庚申塔がある。

 
山門

 この寺の圧巻は何といっても山門だ。元は佐渡の円通寺の山門として、宝暦四年(1754)に、
飛騨高山の名工梶浦某が5年の歳月を費やして建てたものと伝えられ。220余年の間、同寺の山頭
を飾っていたものだ。形式は薬医門。縁あって延命寺にに席を移すことになり、昭和51年にここに
復元されて「如意門」と命名された。多くの部材を組み上げた複雑な構架に特徴があり、総欅造りで
装飾彫刻が見事だ。桃山時代から江戸時代にかけて発達した建築装飾を集約して見ることができる。



■十三仏堂

 5丁目34番、旧日光街道に面して参道口がある。十三種の仏像が祀られている。三ノ輪厨子(部
落名)という土地の人たちによって守られてきた3間四方の小堂だ。いつの時代のものかは判ってな
いが、『新編武蔵風土記稿』に「庵、行基の作れる虚空蔵を安ず」とある。 正面の仏壇は3間に分
かれ、右側には6仏、左側に7仏が安置され、中央には厨子に入った飯綱権現像が祀ってある。この
像に明治六年高村東雲作の銘がある。この像の右が虚空蔵菩薩で、江戸時代の本尊だ。十三仏とは、
初七日から33回忌までの13回の追善供養仏事に配当した不動明王・釈迦如来・文殊菩薩・普賢菩
薩・地蔵菩薩・弥勒菩薩・薬師如来・観音菩薩・勢至菩薩・阿弥陀如来・阿しゅく如来・大日如来・
虚空蔵菩薩をいうが、ここのは弥勒が欠け、大日が金剛界と胎蔵界の2体ある。どっちにしても村内
の1部落(13戸)でこれだけの仏を。祀って守護してきたことは珍しく郷土民俗資料として大変に
貴重だよ。建物の周囲にも六地蔵や庚申塔があり、堂壁には古来からの信仰を伝えるように巡礼木札
の千住札がぎっしり釘付けされとるわい。



■竹の塚第五公園

 6丁目3番にある区立公園。竹の塚駅前商店街の中にある。小さいながら遊具も揃ってるし、パー
ゴラもある。

 
じゃぶじゃぶ池
 小さい子たちが、安心して水に親しんで遊べるように整備された無料の施設だ。区内に21ヶ所あ
り、それぞれ特徴がある。オムツの取れた赤ちゃん以上の幼児が、保護者同伴で夏の間だけ利用でき
る。事故が起きないよういろいろ制約があるのは当然だ。



■竹塚神社

 6丁目12番にある。祭神は天照大神。延慶二年(1309)の創建という。例祭は9月17日。

   人皇六十四代圓融天皇の御守、天元年間、伊勢皇
神宮を遷し茲に祭る。後、天喜4年
   源頼義公奥州東征の折、當社境内に宿陣相成り、明治年間に至るまで境域に環壕が存し、
   本営の舊跡と傅えられる。頼義公お手植の大樹松有り、凡そ八百年星霜隔てる嘉永二年
   六月六日雷火の為に枯れるに依りて、延慶2年以来の社殿造替の用材と為せり。明治以
   降氏子崇敬者よく神徳發揚、社地整備を図り面目一新す。
   昭和61年11月10日建之                  宮司 石倉利夫撰


 天元年間(978〜982)は平安時代中期、円融天皇の時代。1000年も前の話だ。その頃も
う陸地だったのか・・・ とにかく古くから人は住んでいた。



■妙心教会
 7丁目11番にある日蓮宗の布教所。



■竹の塚北小学校 廃校
 7丁目19番にあった。昭和51年淵江第二小学校から分離独立して開校。平成9年3月31日閉
校、翌月1日から淵江第二小学校と統合して西保木間小学校となった。両校の距離は100m、特に
問題はなかった。




【辰沼】(たつぬま)1〜2丁目                  昭和51年10月1日
 辰沼新田。寛永7年(1630)に足立郡笹目村(埼玉県)からやってきて土合村(神明)を開
墾した星野彦六(又太郎)らが引き続いて開発。 当時は「土合新田」といい、元禄八年(169
5)久左衛門新田を併せて立村した。明治22年花畑村大字辰沼、昭和7年足立区辰沼町、同51
年辰沼町と花畑町の各一部をあわせた町域を現行の「辰沼」とし、他は谷中・大谷田に譲った。1
丁目に辰沼団地がある。昔の田畑が住宅街だ。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『足立区史』など。

 辰沼の由来
 そこにあった
沼が南北に細長いくねった形をしていたので「龍」に見立ててその名で呼ばれたが
恐らく利根川(古隅田川)の涸れずに残った部分だろう。新田はそこを埋め立てて耕地とした。稲
荷神社がある。



一心専念山無量壽院龍岩寺
 2丁目11番(旧辰沼町408番地)にある浄土宗の寺。本尊は像高83cmの阿弥陀如来だが、
足立新六阿弥陀の一つになっている。明治5年の『浄土宗本末一派寺院明細帳』によれば、寛永十六
年(1639)八月誉伝秀により開山とあり、明治10年の『浄土宗明細簿』によると了門により開
山されたとある。また区史では寛政年間(1789〜1800)の創建で、開山を徳因上人という。
だからそこんところは定かではない。境内の子安観音には子育てを祈願するものが多い。正保二年(1
645)五月の墓碑がある。



■辰沼稲荷神社
 2丁目15番にある。祭神は倉稲魂命(くらいなたまのみこと)。既に江戸時代後期には辰沼新田
の鎮守だったと『新編武蔵風土記』にある。創建については次のような話が伝わっている。隣村の久
左衛門新田の鎮守神明社(天祖神社)にあった稲荷社が、ある時、洪水で押し流されてしまい、水が
引いてから村人が捜し歩くと辰沼に流れついたのを見つけた。稲荷神が選んだのがこの土地だろうと
いうことになり、社を創建したのが、今の辰沼稲荷神社だということだ。祭日は2月の二の午。境内
に文禄二年(1593)正月の庚申塔がある。

 
ボンデン祭
 ボンデンとは「梵天」と書き、仏教的な幣束の呼び名だ。昔は「天下泰平」「五穀豊穣」などと書
かれた板を藁で包んで薦(こも)を巻き、割った竹に挟んでボンデンを作り、各戸を回って祈祷した
後、旧綾瀬川に挿しておいた。現在は各戸は回らず、特別なボンデンは作らず、一般の幣束で、神社
で祈祷し、川に立てた後、お神酒を飲んで終わりだ。




【中央本町】(ちゅうおうほんちょう)1〜5丁目          昭和41年1月1日
 江戸時代は千住宿の丁張耕地・槐戸耕地・小右衛門新田。小右衛門新田は明治22年梅島村の大
字となり、昭和6年丁張耕地・槐戸耕地は千住町大字若松町・弥生町・栄町に分かれた。翌年足立
区千住若松町・千住弥生町・千住栄町・小右衛門町。同41年新住居表示により千住若松町・千住
弥生町・千住栄町・小右衛門町の各大部分に東島根町・東栗原町・梅田町の各一部をあわせて一町
を成し現行の「中央本町」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『足立区史』など。

 中央本町について
 4町の寄り合い所帯のため甲論乙駁して新しい町名についてハタと行き悩んだ。そこで
町域が区
の真ん中辺り
にあるので「中央にすんべえ」と意見が出て安直に決定したが、すでに大田区・江戸
川区にあり、目黒区に中央町があってもう都としては「中央」は食傷気味だった。法律では区が違っ
ても同じ名前は付けないのが原則だからだ。仕方なく区は歴史的意味とは無関係に「本町」をくっ
つけてつけてごまかすしかなかった。だから「中心地の根幹の町」となるという妙なな田舎っぽい
名前になってしまった。区役所を移転させたりして名前にふさわしくしようと試みたが、千住には
敵わない。



■足立高等学校
 1丁目3番にある都立校。明治44年「千住町実業補習學校」として設立。大正12年「千住町女
子実業補習學校」と改称。昭和10年「東京市足立区千住女子実業補習學校」と改称。程なく実科女
学校へ昇格し「東京市足立実科女學校」と改称。同17年高等女学校に昇格し「東京市足立高等家政
女學校」と改称。同18年「東京都立足立高等家政女學校」と改称。同21年「東京都立足立高等女
學校」と改称。同22年現在地へ移転。同25年男女共学開始。「東京都立足立高等学校」と改称。
同27年学区合同選抜制度導入。同42年学校群制度導入、江北高校と53群を組む。同57年グル
ープ合同選抜制度導入、江北・淵江・足立西・足立東・青井・足立新田の各校と52グループ。同6
2年校舎第1棟を改築。
 平成6年単独選抜制度導入。同17年重点支援校に指定される。同20年標準服から制服へ転換。

 校歌
清かに荒川の」 作詞・加藤道理  作曲・近衛秀麿
  1.清かに荒川の碧(みどり)も深き岸辺
    春花紫に咲き匂う弥生野
    我等の胸に若き喜び溢れ
    永遠
(とこしえ)の美(うる)はしき生命讃えて
    弛まず真理
(まこと)を求め共に学ばむ
  2.遥かに山遠く広く澄む野末
    希望
(のぞみ)の灯火を伝え行く学舎
    嵐荒
(すさ)ぶも 友よ手を取り固く
    幸満てる香しき朝
(あした)想いて
    雄々しく自由を守り共に歩まむ


 不祥
 平成22年3月21日サッカー部の顧問を担当する教諭が強盗傷害の疑いで現行犯逮捕された。同
日深夜、自転車とぶつかりそうになり腹を立てて相手の顔を殴ったうえ、前籠にあった現金2300
0円入りのバッグを奪った疑い。被害者は軽傷だったが、教諭は酒に酔っていた。



■足立区役所・足立文化会館

 1丁目17番にある。

 無戸籍女児に特例で住民票作成
 平成19年2月15日、離婚から300日以内に生まれた子は戸籍上、前夫の子とみなす民法77
2条の規定により、出生届が受理されていない女児について、足立区が特例で住民票を作成した。通
常、住民票は戸籍登録した上で作成されるが、区は「人道的観点からの措置」と説明している。戸籍
住民課などによると、女児の母親は、前夫と昨年4月に離婚。その後現在の夫との間に女児が生まれ
たが、離婚から282日目の出産だったため、同13日に提出した出生届は受理されなかった。しか
し区は住民票がなければ乳幼児検診や予防接種、児童手当受給などが受けられない点を考慮。母親が
将来的に現夫の戸籍に登録する意思があることや、母子手帳や出生証明書など関係書類を確認。「住
民基本台帳法の解釈で可能」と判断して住民票を作成した。総務省市町村課は「住民票作成は戸籍記
載の上で行うのが原則だが、緊急避難的に区が判断したのだろう。他の自治体の状況は把握していな
いが、珍しいケースではないか」としている。
 民法772条をめぐっては、再婚などで新たなカップルに子どもができた場合に、法的な親子関係
を整えられないケースが問題化している。特定非営利活動法人(NPO法人)「親子法改正研究会」
(大阪市)の井戸正枝代表理事は「区の判断は、子どもや親の事情を理解した英断」と評価。その上
で「民法の規定が問題となっている同様事例は、会が相談を受けているだけで20
件以上、全国的には3500件ともいわれている」と指摘した(中日新聞記事より抜粋)。



■神社
 1丁目20番にある小祠。



■弥生小学校

 2丁目5番1号にある。昭和28年千寿第五小学校から分離して「東京都足立区弥生小学校」とし
て開校。同29年4教室増築。同31年6教室増築。同33年2教室・校長室・用務主事室・放送室
完成。同34年給食室改修。職員室・1教室増築。平成15年創立50周年。同35年校歌制定。

 校歌「朝の空」 作詞・土岐善麿  作曲・平井康三郎
  1.朝の空 雲ゆるやかに
    放水路 波清く流れる処
    元気よく 仲よく共に
    励み合い 話し合い、弛まず行こう
    集まれ ふさふさと花も明るい
    紫に春を飾るよ
  2.富士を見よ 遥かに高く
    新しく学び知り 広がる世界
    誰も皆溢れる力
    喜びも楽しみも思い思いに
    希望は伸び伸びと 道も拓けて
    人 車 何時も賑やか
     此処足立区に吾等在り
     吾等の弥生小学校
    
 同41年6教室増築。同43年言語障害学級開設。プール完成。同46年鉄筋コンクリート造り3
階建て6教室増築。同48年鉄筋コンクリート造り校舎(8教室・校長室・職員室・保健室・事務室
・放送室・資料室・用務主事室)改築竣工。同49年鉄筋コンクリート造り校舎(3教室・音楽室・
図工室・家庭科室)改築竣工。同52年鉄筋コンクリート造り校舎(2教室・理科室・視聴覚室・言
語障害学級)改築竣工。同55年校旗制定・校舎壁面に校章設置・鳥小屋改築。同58年特色ある学
校づくり(染色教室の設置)。同59年難聴学級開設。染色で文部大臣賞受賞(〜63年度)。同6
2年保健室・教育相談室改築。同63年新体育館落成。給水設備改修。
 平成2年西側校舎耐震化・屋上フェンス張替。同3年校舎等の照明改修。同5年特別視聴覚教室開
設。同9年スロープ設置。給食室改修。同10年コンピュータルーム開設。同12年学校保健文部大
臣賞受賞。同13年サイエンスグランプリ2000学校賞受賞。学童保育室新設。ランチ・ルーム改
修。同17年壁面緑化完成。



■立正寺
 2丁目9番にある本門仏立宗の寺。入口には広照霊廟という立派な供養石碑が立っている。3階建
てのビルディングで学校みたいだ。看板がなかったら寺だとは思わないだろう。



■都水道局小右衛門給水所

 3丁目8番にある。



■足立区中央本町プール
 3丁目14番にある区の施設。25mプールと幼児用プールがある。利用できる期間は7月15日
〜8月31日。9時半から2時間毎の交替制。18時からは団体。有料だよ。
 幼児とは2歳以上でおしめの取れた者。小学3年生以下は保護者の同伴が必要。保護者1人につ
き子ども2人まで。水着着用のこと(保護者も)。03‐3853‐5383



■中央本町センター
 3丁目14番にある区の施設。地域学習センター・住区センター・老人館・児童館・体育館・図書
館などがある。



■神社
 5丁目1番にある小祠。



■庚申塔
 5丁目1番にある。青面金剛・一鬼・三猿を刻む。元文年間の造立。



■神社
 5丁目3番にある小祠。



■栗島中学校
 5丁目25番にある区立校。昭和56年開校。平成27年創立25周年。

 校歌
果てしなく」 作詞・江間章子  作曲・団伊玖磨
  1.果てしなく広がる大空の下
    鷹狩のざわめき聞こえた此処に
    新しい 新しい日本の息吹が
    力強く響くよ
    嗚呼 嗚呼輝く未来
    吾等 吾等大空に
    明るい未来を描こうよ
  2.逞しい栗の木 吾等の心
    育てよう優しく知性豊かに
    歌おうよ、歌おうよ学びと友情
    毛長川は流れる
    嗚呼 嗚呼吾等の町に
    吾等 吾等学び舎に
    希望の光を掲げよう
     栗島 栗島栗島中学校
     ああ栗島中学校





【椿】(つばき)1〜2丁目                      昭和43年8月1日
 沼田村と堀之内村の椿木耕地。 明治22年江北村大字沼田字椿木耕地・同堀之内字椿木耕地。
昭和7年足立区上沼田町・北堀之内町、同9年北堀内町、同43年北堀内町・上沼田町の各一部を
あわせた町域を現行の「椿」とした。何もない住宅地。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『足立区史』など。

 
椿の由来
 かつてこの辺りは椿木が自生していたことによる。江戸川区の春江も元は椿で、椿木の群生地だっ
た。春江は合成地名で春江の春は「椿」の木偏を省いたものである。



■神社
 2丁目1番にある小祠。



■椿日枝神社
 2丁目10番にある。創建は不詳なれど、椿を旧名称の「椿木」と刻印した山車があるなど、その
歴史を感じさせる。また境内には高僧の事績石碑があるなど、神仏習合時代の面影を色濃く残してい
る。祭神は大山咋命。祭日は9月15日。




【東和】(とうわ)1〜5丁目                     昭和40年5月1日
 蒲原村。明治22年東淵江村大字蒲原、昭和7年に足立区が成立して蒲原町。同40年蒲原町1
〜3丁目・大谷田町3丁目・北三谷町町1〜2丁目の各一部をあわせた町域を現行の「東和」とし
同60年に残った北三谷町を1丁目に編入して新住居表示を完了した。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『足立区史』など。

 東和について
 初め「蒲原(かばら)」となることが有力だったが他町の猛烈な反対があり、かつてこの辺りが
東淵江村だったことに鑑み、その東を採って「あづま」としようとしたが区から「すでに千住東が
ある」と指摘され、やむなく「
東淵江村の町々の和を祈念する」などと苦肉の策で「東和」をしぼ
り出した。まあ安直な命名だわな。



■西沼公園
 1丁目15番にある。綾瀬駅から八ケ村落し親水緑道を歩いて、途中、内戸越堀コミュニティー道
路に入ると辿り着くのがこの公園だ。親水緑道付近にある公園として水を使った造りになっている。
公園入口に自転車置き場が設置されている。「自転車で入るな」ということだな。
 公園の真ん中に池、小山もあり、「うさぎとかめ」の銅像がある。トイレは何故か八角形だ。人工
の滝もあり、遊具は一ヶ所にまとめてある。



■北三谷小学校
 1丁目17番にある区立校。昭和29年東淵江小学校の分校として開校。同30年独立して北三谷
小学校として開校。同36年校歌制定。同51年東綾瀬小学校が新設され学区の一部を移譲する。平
成16年創立50周年。

 校歌
朝日はかがやく」 作詞・阪本越郎  作曲・平井康三郎
  1.朝日は輝く都の空よ
    遥かに望む富士の高嶺を
    広い行く手は希望に満ちて
    いざ行け 吾等の小学校 北三谷
  2.大地は花咲き 大河廻
(めぐ)
    縁
(ゆかり)も深い豊かな実り
    僕も私も仲良く励む
    いざ行け 吾等の小学校 北三谷
  3.光は漲る平和の道よ
    力を合わせ 正しく進む
    今日も明るいあかるい 学びの窓に
    いざ行け われらの小学校 北三谷
 



医王山仙寿院円性寺
 1丁目29番にある新義真言宗豊山派の寺。本尊は薬師如来。元和元年(1615)の創建で存禿
和尚の開山。葛飾区青戸の宝持院の末。本堂は昭和9年に建てられたが、文化十四年(1817)の
棟札があった。現在の本堂は、同57年の改築。鉄筋コンクリート造りだ。入口を入ると右に「愛染
堂」。旗が沢山立っていて賑やかだ。新築で綺麗なお堂。その奥、右手一帯は墓地。万治三年(16
60)の墓碑、享保十三年(1728)の宝篋印塔があり、本堂の左手に寛文六年(1666)銘の
「青面金剛庚申塔」の笠付角柱型石碑がある。年代から庚申塔の初期のもので貴重なものとか。その
右に庫裏がある。



■庚申塔2基
 2丁目3番にある。@日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿を刻む。造立年不明。A文字と三猿を刻
むが、文字は溶けて読めない。



稲荷山金剛院宝蔵寺
 2丁目5番にある新義真言宗豊山派の寺。南葛飾郡亀青村奥戸(奥戸8丁目)宝蔵院の末寺。享保
三年(1718)十一月銘の宝篋印塔がある。なおHP「東京の寺」では、山号を籍悉地山としてい
る。



■田中稲荷神社
 2丁目5番にある。祭神は倉稲魂命。祭日は9月27日。天明九年(1789)二月銘の漱盥石の
石鳥居がある。



■北三谷公園

 2丁目13番にある。「八ヶ村」の一つ「北山谷村」の名を冠した区立公園。広々とした広場に各
種のバラエティ豊かな遊具がある。主にアスレチック系のものが多いよ。



■蒲原神社
 3丁目2番にある。



■アシジの聖フランシスコ宣教修道女会
 3丁目10番にあるカトリック教会。昭和35年に建てられた木造モルタル造り。同敷地内に聖母
のさゆり保育園、聖フランシスコ幼稚園を運営している。右手の建物は後に増築したもの。控目でか
わいらしい建物。

 
聖フランシスコ
 寿永二年年(1182)聖フランシスコはイタリアのアシジという町の裕福な織物商人の家に生ま
れた。若い項は放蕩の限りを尽くし、仲間と華やかな生活に溺れていた。そんなフランシスコの夢は、
騎士になり、武勲を建てることだった。ところが勇んで出かけた戦場でフランシスコは捕虜となり、
病いに倒れてしまう。戦いの虚しさを知らされたフランシスコは、むなしく故郷へ帰るが、そこでそ
れまでとは全く違う生活を始めることになる。ある日、町外れの壊れかけた聖堂で一人祈っていたフ
ランシスコは、神から「壊れかけようとする私の家を建て直しなさい」と呼びかけられた。この声を
耳にしたフランシスコは持ち物をすべて施し、家族に別れを告げて清貧と謙遜の内に、ただ天の御父
の御旨に従って生きる決意をした。そして貧しい人々やハンセン病患者など、社会から見捨てられた
人々の真の友となり、それらの人々に奉仕するようになったのだ。フランシスコが望んでいたのは、
徹底的にキリストの福音に従い、小さく、貧しく、単純に生きることだ。またフランシスコは、自然
界にある全ての物を、同じ神によって造られた兄弟姉妹と呼んで心から愛したそうだ。晩年、彼が作っ
たと伝えられる『太陽の讃歌』の中でフランシスコは、太陽を兄弟、月を姉妹と呼んでいる。小鳥に
説教したり、人食い狼を諭した話しは有名だ。フランシスコの福音的生き方は、彼が生きている時代
から多くの人々を引きつけた。そして、800年以上経った今日でも多くの人が、フランシスコをキ
リストに最も近い聖人として尊敬し、愛しているのだ。



■足立東和センター
 3丁目12番にある区の施設。住区センター・社会教育館・地域学習センター・東和体育館・東和
図書館・東和老人会・東和児童館などがある。



■蒲原中学校
 3丁目17番にある区立校。「かばら」と読むんだよ。昭和32年第十二中学校から分離して開校。
同54年中川中学校を分校。平成19年創立50周年。

 校歌
東海はるかに」 作詞・不詳  作曲・不詳 
  1.東海遥か 霊峰富士を
    窓辺に仰ぐ若鷹ゆかし

    目指す希望は青空高く
    今ぞ羽ばたけ漲る力
    真理の扉 開かん吾等
    蒲原中学 嗚呼我が母校
  2.淀みもあらぬ中なる流れ
    鏡と映す若葉ゆかし
    諭す教えの清しき光
    浴びて豊に いや増す緑
    英知の華を翳さん吾等
    蒲原中学 嗚呼我が母校
  3.伝統古く 輝く歴史
    文化の香り 栄えてゆかし
    響け明るき行進の歌
    鳴れよ清けき友情の鐘
    未来を荷い伸び行く吾等
    蒲原中学 嗚呼我が母校



■東渕江小学校
 3丁目20番にある区立校。明治15年私立三谷学校開校、同20年1月中谷尋常小学校開校し、
同11月三谷学校閉校、中谷尋常小学校の分校となる。同27年独立して三谷尋常小学校として開校。
同44年両校合併して東京府南足立郡東淵江尋常小学校として開校。昭和7年東京市東淵江尋常小学
校と改称。同16年東京市東淵江国民学校と改称、同18年東京都東淵江国民学校と改称。同22年
足立区立東渕江小学校と改称。同25年大谷田小学校を分校。同30年北三谷小学校を分校。同33
年大谷田に分教場→同37年中川小学校として分校。



■カトリック亀有教会・コンベンツァル聖フランシスコ亀有修道院
 4丁目3番にあるキリスト教会。昭和30年12月に、コンベンツアル聖フランシスコ修道会が当
地に修道院を設立し、同32年8月荒川区の三河島教会の巡回教会として発足した。翌33年3月聖
フランシスコ幼稚園が認可を受け、同46年には小教区として認可を受けた。平成3年に現聖堂と修
道院が落成し、足立区の東部に位置する国際色豊かで家庭的な教会として、現在に至っている。



■東和親水公園

 4丁目6番にある。東和病院の向かいにある親水公園で、公園の階段を下りると、池の周りをぐる
りと囲むように植えられた木々がなんとも涼しげ。

 
じゃぶじゃぶ池
 幼児らが、安心して水に親しんで遊べるように整備された無料の施設だ。区内に21ヶ所あり、そ
れぞれ特徴がある。ここは池の中のちょっと変わってる。ローマ風の壁泉が涼しさを醸す。オムツの
取れた赤ちゃん以上の幼児が、保護者同伴で夏の間だけ利用できる。事故が起きないよういろいろ制
約があるのはしかたがない。




【舎人】(とねり)1〜6丁目                   最終平成7年7月24日
 舎人町。町と呼んだのは、荒川の戸田の渡しが洪水で船止めの時は、中山道の往来ができなくな
り、大宮宿から鳩ヶ谷宿を経て舎人へ出て、千住宿へ人馬継立をしたので、何時とはなく町の名に
なったという。赤山街道唯一の宿場町で大いに繁盛した。
 明治8年11月埼玉県から東京府に移管。同22年「市制町村制」により舎人村大字舎人、昭和
7年足立区舎人町、同44年新住居表示により舎人町の大部分を舎人1〜5丁目としたものの、同
60年2月1日再度の新住居表示により入谷町の北部・舎人町西端の各一部をあわせた町域を現行
の「舎人6丁目」とし、平成5年8月1日舎人1丁目・入谷町・舎人町・古千谷4丁目の各一部を
あわせた町域を現行の「1丁目」、舎人4丁目をそのまま現行の「4丁目」舎人2・5丁目・入谷
町の各一部をあわせた町域を現行の「5丁目」、同7年舎人2丁目の残り全部を現行の「2丁目」、
舎人3丁目・舎人町の各一部をあわせた町域を現行の「3丁目」とし、舎人町の一部を四丁目に編
入して再住居表示を完了した。
 なお舎人村は一塊の村域をいったものではなく、飛地の集合体で、入谷村もその状態で、お互い
に入り組んだ状態にあった。

【舎人町】
 現在残り僅かの舎人町が今も舎人公園内にあるが、いずれ消滅する。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『足立区史』など。

 舎人の由来
 「とねり」とは宮中や貴人に仕える雑用係のことで、百済の二十二部という官制に準えて「舎人
部」に当てた。だから「舎人」を「とねり」と読むのであって、中国でこの官名を「とねり」読ん
でいた訳ではない。三省堂の国語辞典に、

 (1)皇族・貴族に仕えて雑務を行なった下級官人。律令制下には内舎人・大舎人・春宮舎人
  ・中宮舎人などがあり、主に貴族・官人の子弟から選任された。舎人男。舎人子。
 (2)平安時代、貴族の牛馬などを扱う従者。
 (3)旧宮内省式部職に属した名誉官。式典に関する雑務に従事した。

 だから「しゃじん」と読んでも間違いではない。例えば舎人監は「とねりのつかさ」と読むが、
「しゃじんかん」と読むのが普通だ。で当地が
どうして舎人なのか判らない。「・・・ではないか
?」というコジツケ(説)は以下の通り幾つかある。

 @、「トネ」は小石の多い痩せ地、「イリ」は入江や谷の奥で、神領堀の状態をいったもの
   で「トネイリ」が転訛して「トネリ」となり「舎人」の字を当てた。
 A、舎人親王にちなむ。
 B、この辺りを支配していた舎人土佐守の姓にちなむ。
 C、「トネ」は湖水、「リ」は高いところというアイヌ語による。
 D、国語辞典(2)による説。官牧が草加市遊馬(あそば)にあり、その管理者檜前(ひのく
   ま)一族に関係のある舎人が住んでいたことにちなむ。
 E、欽明天皇の大舎人日置直志毘(ひぎのあたえしび)が出雲から移住してきて故郷の舎人
   郷を懐かしんで村名とした。
 F、聖徳太子がお忍びで関東を巡行していたとき(ありえねー!)、聖徳太子と見破った舎
   人にちなんだ。

 さあてどれかな。@が妥当じゃないの。位置的には5、6丁目の境が神領堀跡。またこの辺りは古
くは利根川が流れていたろうから「
利根川の江」ということもあろう。Dもなくはない。
 「とねり」をインドネシア語で解すると「トネ・リ」、「丘が連らなった(土地)」ということに
なるらしいが、地形状なくはない。


■赤山街道舎人宿
 赤山街道は、現在の旧日光街道増田橋(竹の塚3丁目)交差点と埼玉県川口市赤山にあった赤山陣
屋を結んでいる道。竹の塚では中央通り、舎人では区画整理のため一部が消滅している。

 赤山陣屋
 関東郡代伊奈氏が、関東各地の幕府領支配の拠点とした陣屋の一つで、赤山道は、竹塚村増田橋と
赤山間の約5キロを結び、そのほぼ中間に舎人があった。増田橋は草加宿と千住宿の中間にあった日
光街道の休憩地点で、舎人は赤山〜増田橋間唯一の宿場だった。舎人宿では、人馬の継ぎ立て(中継)
が行なわれ、現在でも屋号に、当時の様子をあらわす「わらや」「ぬかや」などの馬の飼料を扱う家
の屋号が残っている。人馬継ぎ立ての宿場であり、ぬかや、わらやは宿場の馬を支えていた。



■ゴボウ市

 明治以降、舎人町では六斎市に変わってゴボウ市が開かれるようになった。ゴボウ市とは、その名
の通りゴボウを中心とした際物の取引として開催され、舎人の風物詩として広く知られていた。埼玉
県からゴボウを中心とした野菜、区内の商店から生活雑貨や食品を集め、近郊の人々を中心に販売を
行なったのさ。六斎市のように頻繁ではないけど、毎年12月20日と26日の歳末に開催し、赤山
街道沿いの旧宿場内の農家の庭先で開催されたんだ。舎人のゴボウ市は、戦後の中断を挟みつつ賑わ
いを見せた。しかし昭和43年には会場だった農家の庭先が、赤山街道の道路拡張に伴って切り取ら
れ、ゴボウ市は舎人地区の歴史の一つになってしまったってこと。



■舎人文化市
 ゴボウ市の伝統は町の人々の記憶に残った。平成3年から12月の第三日曜日に、舎人町会文化部
の人々によって開かれている。ゴボウ市の伝統を受け継いだ文化市では、伝統的品目のゴボウをはじ
め、家庭で消費する野菜類が数多く揃えられ、また近年ではフリーマーケットも開かれて、区の内外
からの多くの参加者を募っている。将来的には世田谷のボロ市に匹敵するものにしたいとのこと。



■舎人センター
 1丁目3番にある区の施設。住区センター・区民事務所・舎人図書館・舎人児童館・舎人老人会・
地域学習センターなどがある。



■神社
 1丁目8番にある小祠。



■舎人小学校
 1丁目25番にある。明治7年第五中学区4番公立小学新井学校八番分校を入谷に開設。同9年3
月第十六番公立小学舎人学校が西門寺に開校。同年11月八番分校が独立し、第十九番公立小学協和
学校として開校。同20年両校を併せて賦全小学校と改称。同26年舎人尋常小学校として開校。同
27年高等科を併設。昭和7年東京市舎人尋常高等小学校と改称。同16年東京市舎人国民学校と改
称。同18年創立50周年。東京都舎人国民学校と改称。平成5年創立100周年。

 校歌
緑に匂う」 作詞・永井鱗太郎  作曲・外山雄三
  1.緑に匂う野の都
    夢を拓いた見沼代
    恵みの流れを今に受け
    庭に希望の若木が伸びる
    吾等の舎人 吾等の舎人小学校
  2.学びの翼 それぞれに
    力合わせて磨きつつ
    真理
(まこと)の扉を押し開き
    空に理想の小鳥が巣立つ
    吾等の舎人 吾等の舎人小学校
  3.世界を結ぶ 歌高く
    翳す記章は桜花
    明日を築けと仲良しの
    胸に文化の朝日が昇る
    吾等の舎人 吾等の舎人小学校



菩提山龍宝院西門寺

 2丁目2番(旧舎人町1437番地)、舎人宿入口にある浄土宗の、舎人に現存する唯一の寺だ。
本尊は阿弥陀仏。永和三年(1377)の創建で、開山は宝誉と伝わっており、元は京都知恩院の末。
本堂は江戸初期の建築で、数次改修されたが各所に古建築の面影を残している。堂内には阿弥陀如来
・薬師如来などの古仏像が多数安置されており、また元応二年(1320)、延文二年(1357)、
応安元年(1368)、元亀二年(1571)銘の板碑4枚が保存されてる。元禄十三年(1700)
鋳造の古喚鐘は戦時中供出されたが、幸運にも戦後に戻された。平柳家や斉藤家などの旧家が檀家に
名を連ね、毎月開かれている「西門寺寄席」は名物。
 明治9年から1年ばかり公立小学舎人学校が置かれた。



■神社
 2丁目3番の田口宅にある小祠。



■舎人宿標柱
 2丁目7番、赤山街道に沿う歩道に建っている。



■神社
 2丁目8番4号、藤原宅の側、8番に3つある小祠の一つ。



■神社
 2丁目8番11号、小林工務店の側、8番に3つある小祠の一つ。



■神社

 2丁目8番15号、8番に3つある小祠の一つ。



■笠間稲荷神社
 2丁目8番22号にある。



■弘田家
 2丁目10番にある。明治24年高知の弘田真澄がこの地に来住して医院を開いた。当時医師は珍
しく、近郷近在から患者が押し寄せたという。



夜泣き稲荷 稲荷神社
 2丁目12番、舎人宅の脇にある小祠。以前は20軒、最近は10軒が稲荷講中として信仰してい
る。夜泣きする子を連れてお参りすると夜泣きが止む。初午には、昔は講中の当番の家を宿にして集
まったが、現在は飲食店に集まる。かつては社前で神楽や獅子舞を奉納し、芝居をやったことがある。
今は狭くて適わない。



諏訪神社

 2丁目15番地にある。土地の人は「お諏訪さま」と親しみを込めて呼んでいる。神域は舎人氏の
屋敷跡といわれている。昔この辺りは「図ノ島」といっていた。それは神社の南側に大きな沼があっ
て、この土地が、ちょうど島のような形をし、まるで絵に描いたような景勝地だったことによる。沼
には諏訪神社のお使いだといわれる大きな白蛇が棲んでいて、村人から大切に扱われていた。町会の
管理。祭神は建御名方命。むかし境内に夫婦杉という2本の大杉があったといわれている。文化七年
(1810)十二月の石灯籠がある。

 白蛇伝説
 吉宗が8代将軍だった享保のころ、淵江領内の新田開発が進んで、従来の見沼用水だけでは水に不
足を来たすようになり、見沼用水に代わる用水を作ることになった。さて代用水が出来上がると沼は
無用の長物となり、村人は埋め立てて有効に使おうと考え、埋め立てて水田にした。ところが白蛇は
棲むところがなくなってしまったので、悲しがったが今となってはどうすることもできない。ちょう
どこの頃この辺り一帯に悪疫が蔓延し、多くの人々が病苦に悩まされていた。ある晩のこと、名主の
夢枕に白蛇が現れて、

   私は諏訪神社の使いの白蛇だが、沼が埋め立てられて棲むところがなくなった。ついて
   は生まれ故郷の信州下諏訪に帰ることにする。ついては世話になった礼に、よいことを
   授ける。悪い病が流行って困っているようだが、図ノ島に繁茂している柊の葉を汁を刻
   み、煎じて飲んでみるがよい

 と告げて消えた。ふと目が覚めた名主は、このお告げを聞いて、内心「悪いことをした」と後悔し
たが喧嘩済んでのとちめん棒だ。早速柊の葉を摘み取り、煎じた汁を病人たちに飲ませてみた。する
と数日後には多くの人が快方に向かい、村には再び平和と幸福が戻ってきたということだ。それ以来
村人のお諏訪さま≠ノ寄せる信仰は、ますます盛んになった、ってことよ。



■見沼代親水公園駅
 2丁目20番と29番の境にある都営日暮里・舎人ライナーの始・終点停車場、平成20年3月3
0日日暮里〜見沼代親水公園間の開業と同時にできた駅。ホームは島式1面2線構造で3階にある。
ホームと改札階を結ぶエレベーターは設置。改札口は1ヶ所のみで2階にある。出口は東口と西口の
2ヶ所で、両方にエレベーターがある。
 駅から200mも北へ進めば、そこはもう埼玉県となる。当駅から、草加駅、川口市の江戸袋・安
行方面へのバスも設定されており、埼玉県内からの利用客も多く見込まれている。



■二ツ橋稲荷社
 2丁目29番、尾久橋通りに面して。橋はすぐ北の見沼代用水に架かっていたが、用水が暗渠とな
り、親水公園となったので上部構造物は失われた。



■見沼代親水公園
 2丁目と3丁目の境を通る見沼代用水(みぬまだいようすい)を暗渠化して、その上に造った親水
公園だ。元々疎水なので細長〜く、古千谷橋交差点まで続く。保木間堀親水水路に比べると木陰も大
分あり、何よりも幅も広い用水が、何とも涼やかである。水も澄み、夏の日に輝く。

 昭和59年4月に設置された。公園名に「見沼代」を付したのは「見沼代用水」に因むが、単語の
構成は「見沼」+「代用水」もしくは「見沼」+「代」+「用水」となる。もともと見沼とは、埼玉
県さいたま市見沼区の見沼という灌漑用溜池を指す地名であり、これを水源とした「見沼用水」だっ
た。水源の見沼は元禄年間(1688〜1704)から土砂体積が進み、享保十二(1727)に溜
池を廃止して新田(耕地)を造成した。見沼用水は、東京都足立区、埼玉県川口市、さいたま市、蕨
市などの灌漑用水源であったため、代わりの水源が必要となった。幕府は井沢為永に命じ利根川から
導水する用水路開削を行い、見沼代用水(見沼に代わる水源による用水の意)として整備した。


 
見沼
 寛永年間(1624〜44)に幕府の関東郡代伊奈忠治が芝川に八丁堤というダムを築いて造成し
た用水の溜池。この見沼一円の湿地帯は、太古の昔に人々が住み着き、この水を神と崇めて祀ったの
が「氷川神社」で、この神社は武蔵国、つまり埼玉・東京の神社で、千葉と神奈川に僅かにある以外、
その他の府県には見られないそうで、総数で100社ばかり。

 見沼代用水
 埼玉県行田市から草加市へ抜け、毛長川を横切った見沼代用水は、都内に入ると6筋の用水に枝分
かれし足立区の農地を潤した。蓋し保木間堀・竹の塚堀・千住堀・本木堀・西新井堀・神領堀の6水
路だ。このうち、見沼代用水は見沼代親水公園に、ほかの堀も、保木間堀親水水路・舎人緑道・神領
堀親水緑道などが公園として残り、あとは下水など暗渠の生活用水路になっている。




■境川部屋
 4丁目3番16号にある出羽海一門の相撲部屋(力士養成所)。
出羽海部屋所属の元小結両国は引
退後年寄中立を襲名して出羽海部屋の部屋付き親方として後進の指導に当たっていたが、平成10年
に2人の内弟子と同郷の先輩である大鳴戸親方(元幕内吉の谷)を連れて出羽海部屋から分家独立、
中立部屋を創設した。同15年師匠だった境川親方(元横綱佐田の山)が定年を迎えるに当たり年寄
名跡を交換して境川部屋に変更した。同18年頃には伸び盛りの若手力士が相次いで関取となり、俄
然注目を集めていた。しかし同20年に入り体調不良により寶智山が幕下に陥落、豊響は入幕2場所
目以降勝ち越しが無く、豪栄道も中位の壁に跳ね返されるなど勢いに陰りが見えたが、同21年は豪
栄道が歴代9位の早さで新関脇となり、師匠の最高位を越えた。
 なお中立の名跡が出羽海一門に入ったのは、友綱部屋の大関伊勢ノ浜の興した中立部屋が、昭和3
年に親方が死去した後、十両に昇進していた後の幕内灘ノ花が出羽海部屋に移籍し、引退後中立を襲
名したことによるもので、その後は横綱栃ノ海が襲名していた。

 吉ノ谷(故人)
 小兵(体重104s)で、「吉の谷といえば足取り」といわれるほど、足取りが得意技だった。あ
の闘志に溢れる相撲は、部屋の小兵力士に受け継がれている。
独立という厳しい道を選んだ親方の、
良き先輩・兄貴分であり右腕として苦楽を共にしながら、今の境川部屋の隆盛を見ることもなく、平
成12年1月14日50歳の若さでで本当に惜しまれながら亡くなった。
 部屋の敷地に記念碑があり、力士は、場所入りする前に(地方場所でも)遺影に手を合わせ、線香
を立て、それぞれ祈願し、部屋を出発している

 野球賭博関与
 平成22年日本相撲協会を揺るがした野球賭博事件に幕内力士豪栄道と豊響が関与し、名古屋場所
を謹慎休場するよう処分が下され、境川も監督不行き届きで謹慎処分となった。博奕ぐらい一般人の
おいらの知り合いだってやってるけどさ、公人(有名人)がおおっぴらになった事件に関係していた
んでは処罰は已むを得んやろ。




■天祖天神社
 5丁目12番、赤山街道と尾久橋通りが交差する舎人1丁目交差点の西北側、ガソリンスタンドの
裏に当たるところにある。町会の管理。

 石塔の祟り
 神社の東側の空地に、区画整理で締め出された石塔がかなりの数、集められていて安置されている。
この数ある石塔の中でも供養塔と並んだ高さ2mほどの庚申塔が目を引く。表面には青面金剛が刻ま
れた立派なものだが、裏側を見ると、左側にかなり長い溝のようなものがある。これは車の轍なのだ。
昔、平柳儀右衛門という人がいて、この人は俳諧を嗜んでいたり、屋敷内に剣術の道場を設けたりし
ていた、なかなかの文化人だった。屋敷は丸く構え、堀まで廻らした立派なものだったので、土地の
人は「丸屋屋敷」と呼んでいた。ある時儀右衛門は、側を流れる掘割に橋がなく難儀しているのを見
て、親切心から石橋を渡したのだが、その一つに邸内に祀ってあった庚申塔を利用した。土地の人々
は便利になったと大喜び多くの人が利用するようになった。
 暫らくすると、屋敷の者ばかりでなく、橋を利用する人たちまでもが、重い病気に罹ったり、怪我
をしたり、農作物が不出来だったりと悪いことがいきなり続いたので困ってしまった。
 あまりに悪いことばかりが続くので、付近の人は丸家屋敷に集って鳩首会談、しかしこれという意
見もなく、妙案も浮かばぬままに散会となった。それから半年ほど経っても病気・事故・不作は治ま
らず、依然悪い状況で続いていた。人々の不安は募るばかりで、手の打ちようがなかった。そうこう
している時、儀右衛門が村内の巡回をしての帰り、例の石橋を渡ろうとして、ふと石橋のへこみに気
が付いた。「これだ! これに違いない。庚申塔を毎日踏みつけにし、こんなにへこましてしまった。
裏側といえど申し訳ないことをした。直ぐにも取り外して供養しよう」
 そこで付近の人を呼び集めて事の次第を説明し、庚申塔を取り去って他に建てることにした。今度
は屋敷内ではなく、天満宮(天祖天神社)の隣の空地に、地元の守護仏として懇ろに祀ったところ、
時を経ずして、今まであった病気・怪我・不作は嘘のように消え、丸屋屋敷の近辺は元の穏やかさを
取り戻したという訳だ。平柳家は5丁目に数軒あり、区画整理で屋敷地の面影は跡形もないが、交差
点の西側辺りではなかろうか?



■西光寺墓地

 5丁目12番、天祖天神社の隣にある墓地。寺はなく墓地だけが残っている。平柳の大本家の墓が
ここにあるが、同家の檀那寺は西門寺だ。



■舎人駅

 5丁目14番と16番の境、尾久橋通りにある都営日暮里・舎人ライナーの停車場。平成20年3
月30日の日暮里〜見沼代親水公園間の開業と同時ににできた。ホームは島式1面2線構造で3階に
ある。ホームと改札階を結ぶエレベーター設置。改札口は1ヶ所のみで2階にある。出口は東口と西
口の2ヶ所で、双方にエレベーターがある。



■舎人氷川神社

 5丁目21番にある舎人・入谷・遊馬(草加市)3村の鎮守で、正治二年(1200)に武蔵一ノ
宮さいたま市大宮の氷川神社を勧請祭祀した由緒ある神社だ。長い参道の突き当たり拝殿を裏へ回る
と本殿が見える。土檀の上に建てられたこの社は、彫刻の美しさで知られている。
 現在の神殿は江戸後期の建築と推定されるが、総欅造り、彫刻で全体が装飾されている。向拝左右
の柱および長押状の横木には9つの登龍降龍が絡み合い、正面扉には牡丹に唐獅子の彫物、左右側面
と裏面にはそれぞれ八岐の大蛇・天孫降臨・天の岩戸開きなど神話をレリーフで描いている。また昭
和50年ころこの神殿から応和六年(966)の紀年名のある懸仏(仏像欠失)が発見された。神楽
殿は鳥居と共に関東大震災で倒壊してからは再建していない。

 
白蛇(弁天様)

 昔、この神社の境内に、神の使いの白蛇が棲んでいた。たまにその姿を、道路や田の畦に姿を現し
た後には、決まって大雨が降ったり、大風が吹いたり、ただならないことが起こった。初めのうちは
判らなかった村人たちも、度重なるうちにそれに気づき、そこで村の何処かで白蛇を見かけると「白
蛇様がお現れになったぞ」と互いに知らせあい、雨戸を打ちつけたり、倒れ易いものには養生をした
りと、天災に備えるようにした。そのお陰で、舎人村では天災による被害は、あったとしても最小限
に留まり、他村より少なかったそうだ。村人は白蛇に感謝し、大切に扱ったという。白蛇は弁天様の
使いだ。弁天祠の脇にあるひょうたん池は以前はもっと大きかった。



■延命寺 
廃寺

 5丁目21番、氷川神社の境内にあった。明治になって廃寺となった。舎人にはまだほかに二つぐ
らい小さな寺があったという。



■二ツ橋稲荷
 5丁目29番、尾久橋通りに面してある小祠。



■神領堀親水緑地
 5丁目と6丁目の間にある細長い区立公園。神領堀(じんりょうぼり)とは足立区の最西部を潤し
た農業用水で、神領は普通名詞で神社の領地。舎人の神領は、この辺りが浅草寺領だったことに因る
が、何故寺領が「神」なのかは判らない。神領堀の謂れを著したものにまだ出くわさねえんでござん
す。教えたってくんねえ!



■舎人第一小学校

 6丁目4番にある区立校。昭和59年順天学園運動場跡地を取得。同60年校舎建設。同61年校
舎落成し「東京都足立区立舎人第一小学校」として開校。
 平成2年併設の入谷南中学校校舎に移転。同3年校舎リニューアル開始。校庭整備。プール底上げ
工事。同6年浄化槽を撤去。同7年創立10周年記念植樹・記念式典。同12年創立15周年記念集
会。同17年創立20周年記念式典。同22年創立25周年記念式典。

 校歌
ぼくらの地球(ほし)」 作詞・作曲不詳
  1.僕等の地球に降り注ぐ
    光のようにまっすぐに
    伸びて行こうよ 肩くんで
    明るく素直な仲間たち
    舎人第一小学校
  2.深く大地に根を張って
    豊かな生命 実らせる
    草木のように逞しく
    伸びて行こうよ 胸張って
    笑顔でやり抜く仲間たち
    舎人第一小学校
  3.清い毛長のせせらぎの
    水面に揺れる花の影
    桜のように美しく
    伸びて行こうよ 何処までも
    学びを愛する仲間たち
    舎人第一小学校

 校章(ハレー彗星)
 開校の年に大接近したハレー彗星に、本校の未来に向けて限りなく前進する夢を重ね、舎一の文字
を図案化した。





【舎人公園】(とねりこうえん)                   平成9年7月24日
 舎人村・入谷村。明治22年舎人村大字舎人・入谷、昭和7年足立区となって舎人町・入谷町と
なり、平成9年当時残っていた加賀皿沼町と北鹿浜町の全部に入谷町・舎人町・古千谷1丁目の各
一部をあわせた町域を現行の「舎人公園」とした。現在も公園予定地などに残滓の入谷町・舎人町
・古千谷・西伊興町があるが、いずれ住所として舎人公園となる予定だ。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『足立区史』など。

 舎人公園の由来
 都立舎人公園地であることによる。



■舎人公園駅

 1番の、尾久橋通り上にある都営日暮里・舎人ライナーの停車場。平成20年3月30日の日暮
里〜見沼代親水公園間の開業と同時にできた。ホームは島式2面3線構造で3階にある。ホームと
改札階を結ぶエレベーター設置。改札口は1ヶ所のみで2階にある。出口は東口と西口の2ヶ所で、
双方にエレベーターがある。
 駅の東西に広がる舎人公園の地下には、日暮里・舎人ライナーの車両基地がある。そのため一部
には当駅始発・終着の列車が設定されている。地下車庫への軌道は、駅の北側で分岐している。



■都立舎人公園

 昭和2年の計画。同56年の開園から順次開放された、514000uの都立の緑地公園だ。最
終的に695000uになるが、水元公園の3分の2程度。人工の森から湖から何でもあり。足立
区西部の災害時の避難場所でもある。公園の設置は戦後の経済発展によるものではなく、戦前から
の計画を漸く実施しているのだ。幹線道路により4分され、西側はスポーツの施設、テニスコート
(14面)をはじめ、プレイグランド(少年サッカーなど)、陸上競技場、野球場などスポーツ施
設が充実している。東北部が公園のメインで、池・流れを中心にしたエリア。春秋の行楽シーズン
には、バーベキュー、キャンプ、フィッシングなどアウトドアライフを楽しめる。その他、5月中
旬の菖蒲田(キショウブ)、夏の浮球(うきゅう)の池、「じゃぶじゃぶ池」も人気スポットだ。
東南部はバードサンクチュアリとなっている。広大だが、水元公園のようには味わいはない。まだ
まだ造成中だし、味わいが出るのは50年を経ずばなるまい。

 じゃぶじゃぶ池
 小さい子たちが、安心して水に親しんで遊べるように整備された無料の施設だ。区内に21ヶ所
あり、それぞれ特徴がある。オムツの取れた赤ちゃん以上の幼児が、保護者同伴で夏の間だけ利用
できる。事故が起きないよういろいろ制約があるのは当然だ。



パート主婦バラバラ殺人事件
 平成2年2月12日都立舎人公園で頭、両足、胴体の4つに切断され、2ヶ所に分けて埋められ
ている全裸女性死体が発見された。頭と両足、胴体と手の一部は3m間隔で別々に埋められていた
が、頭の一部が土の中から出ていたため発見された。
 警視庁捜査1課の捜査で、この遺体は1月31日から行方不明になっていて、夫から捜索願いが
出されていた区内の縫製会社パート従業員稲熊政子(38歳)であることが判明。
 捜査1課は早速、彼女が行方不明になった31日の足取りを中心に捜査を開始。その結果11月
24日、縫製会社経営の河村清吉(仮名52歳)を殺人と死体遺棄の容疑で逮捕した。
 政子は、7年前から河村の縫製会社でパートとして勤めていたが、1月11日に退職して別の縫
製会社に転職した。行方不明となる同月31日の夜、退職時までの給料を受け取りに河村の自宅兼
作業場のマンションを訪ねた。河村は、以前から政子に好意を寄せており、自宅にやって来た政子
に乱暴しようとしたが、政子がこれを強く拒否したため、興奮した河村が首を締めて殺害した。警
察の捜索で河村のワゴン車から政子と同じA型の血痕が複数発見され犯行の裏付けが取れた。




【中川】(なかがわ)1〜5丁目                    昭和40年5月1日
 長右衛門新田。明治22年東淵江村大字長右衛門新田。昭和7年足立区長門町。同40年新住居
表示により大谷田1〜2丁目と長門町の大部分に八岐の大蛇北三谷町のごく一部を加えた
町域を現行の「中川」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『足立区史』など。

 中川の由来
 中川の桜堤の美しさを思って命名したという。東境を中川が流れる。町内に長門小学校と大谷田
小学校がある。大谷田に中川小学校と中川東小学校? 面白い取り合わせだ。5丁目は都の下水処
理場、昔は戦車工場だった。



■金塚様

 1丁目9番にある庚申塔。「奉造立庚申供養待意趣者為二世安楽」の文字板碑、蓮華台座、承応二
年(1653)。長右衛門新田の人たちで祀り、おさんごの時には、オミヤ(八幡神社)・お墓(西
光院)・金塚様の順に米を持ってお参りに行くものだった。『新編武蔵国風土記稿』の長右衛門新田
の講には金塚明神社の記載があり、八幡神社とともに西光院持ちと記されている。



■長門小学校

 1丁目19番にある区立校。昭和32年長門町165番地に大谷田小学校の分校として設置。同3
9年独立して開校、長門小学校となる。平成16年創立40周年。

 校歌
のぼる陽の」 作詞・阪本越郎  作曲・平井康三郎
  1.昇る陽の都の東
    学びの庭は輝いて
    光射し沿う
    ああ我が母校長門
    文化の扉を開こう 我ら
  2.中川の流れの辺
(ほとり)
    仲よく友と手を組んで
    力 溢れる
    ああわが母校長門
    世界と共に歩もう 我ら
  3.咲き誇る桜の花を

    心となして爽やかに
    夢も豊かな

    ああわが母校長門
    栄えある未来に進もう 我ら
 
  



宝積山正憶院善応寺
 3丁目3番にある浄土宗の寺。古くは一蓮院、無量院と号した。葛飾区新宿の西念寺末として天正
十一年(1583)の草創で、開山は心誉上人善応、宝暦年間(1751〜63)の中興開山は貞極
上人だ。昭和4年に淺草橋場の正憶院(草餅寺)と合併、関東大震災に遭って転がり込んできた。区
史では開基を甲斐武田氏の臣横山正次としており、「くさもち寺」として有名だった。「くさ」とは
腫れ物で、それに効験があるとされ、完治した時に草餅を納める仕来りがあった。また別の節では、
正憶院は吉原遊郭の創始者といわれる庄司甚右衛門が開基と伝えられ、浄閑寺と同じ、いわゆる遊女
の投込み寺だった。元和二年(1616)から明治25年までの276年間の霊簿4冊が残っており、
多くの遊女の名が記載されている。

 
遊女供養塔
 本堂前右手に約60cm 四方、高さ2.4mの大笠塔婆があり、1つの面に戒名が150余り刻字
されている。これは、吉原遊女供養のために建立されたものと伝えられているが、摩滅と震災の火を
被ったために判読不能。有名な高尾の法名も刻まれているという。



俊光山正法庵
 3丁目14番にある曹洞宗の区内では唯一の尼寺。元禄年間(1688〜1703)の創建で開山
は宝永五年(1708)九月十三日に示寂した黄山春鶯和尚。文化二年(1805)育仙智苗尼、恵
林智生尼が住んで中興開基となり、以来尼寺として今日に及んだ。
 門前に「私立小学中島学校跡」がある。嘉永六年(1853)3代目諦定尼が村民教育のために寺
子屋を開き、明治11年まで続けられた。学制発布後私立小学校となり、明治20年公立中谷尋常小
学校が誕生するまでの34年間、村民子弟の教育に貢献したのだ。この頃の尼僧自らの手書き教科書
や机が保存されている。なおHP「東京の寺」では、山号を「優光山」とある。

 
六角堂
 本堂左手の観音堂にある、直径約1.2m、高さ2.5mの丹塗りの堂。中に100体の極小観音と
1000体の超極小観音が納められている。芝の青松寺から贈られたもので「天保八年七月二日再建
修覆依発願」などの墨書きがある。その他百番の観音像群・阿弥陀如来・薬師如来・釈迦三尊・本尊
釈迦如来などの仏像が多くある。



■桜寺 紫雲山西光院安養寺
 3丁目21番にある新義真言宗の寺。本尊は阿弥陀如来。開山は教栄法印。現在の本堂は昭和28
年に改築された。境内に
桜の老木があるが、かつては20数本あり、春には爛漫と咲いて、俗に「桜
寺」と呼ばれた。門を入ってすぐの場所に天文二年(1533)の虚空蔵菩薩の大石像がある。像高
台座共に2m20cm、背面に天文十六年(1547)十一月の刻がある。戦前はこの仏の縁日で賑
わったという。隣に享保十三年(1728)の宝篋印塔・元禄期の六地蔵が並んでいる。寺仏に、そ
の年代は不詳だが、弘法大師真筆と伝わる不動明王図・地獄絵10幅・大般若経600巻が保存され
ている。墓地にこの辺り(長右衛門新田)の開発者浅田長右衛門とその妻の墓がある。

 
田光り観音
 宝物として自然木に判肉彫り(陽刻)した観世音菩薩像がある。今から百数十年前に田の中から出
土したのでその名がある。



■長門八幡神社
 
3丁目21番、西光院の西隣にある。この辺りは新開地で江戸時代は長右衛門新田といい、住居表
示以前は長門町といったところで、村の鎮守だった。寛政九年(1797)銘の石の鳥居、文久二年
(1862)十月銘の漱盥石がある。氏子の範囲は旧長右衛門新田で、現在は長門東・西・南・北の
町会に分かれている。祭神は品陀和気命(誉田別尊=応神天皇)、例祭は10月2日だ。



■大谷田小学校

 4丁目41番にある区立校。昭和25年東淵江小学校から分校して設立され、大谷田小学校となる。
同32年長門町に分教場→同39年長門小学校を分校。昭和60年から「花いっぱいコンクール」に
力を入れているらしく、しばしば最優秀賞、特別賞を獲得している。平成12年創立50周年。



■大谷田南公園
 4丁目42番にある区立の交通公園。JR亀有駅北口より徒歩10分。開園時間は午前9時から午
後5時まで。平成元年にオープンしたこの公園は、ミニ新幹線、ミニ列車に乗れる子どもたちに大人
気の公園だ。多目的広場、足踏み式ゴーカート、三輪車、補助輪付き自転車にも乗れるよ。コースに
は、ちゃんとした指導員がいるので信号の見方や左側通行の規則なども教えてくれるんだ。コース内
には、カラフルな遊具がある。

 じゃぶじゃぶ池
 幼児らが、安心して水に親しんで遊べるように整備された無料の施設だ。区内に21ヶ所あり、そ
れぞれ特徴がある。オムツの取れた赤ちゃん以上の幼児が、保護者同伴で夏の間だけ利用できる。事
故が起きないよういろいろ制約があるのは当然だ。 



■屋敷稲荷
 4丁目43番の鈴木家内にある。



■中川公園
 5丁目1番にある都立公園。A地区・B地区に分かれていてA地区は水再生センターの屋上に設け
られている。A地区は子供広場・修景広場・休憩広場・幼児広場・自由広場で構成されており、B地
区は広大な原っぱ公園だ。果樹の森・四季の森・多目的広場・自由運動・広場・ふれあい広場で構成
されている。

 
金子家の屋敷稲荷
 大谷田上組(町会)で一番古いといわれた金子家本家に祀られていた。この家は元、上組の中宿と
呼ばれる地域(公園内)にあったが、富士製紙の工場進出で環七通り大谷田陸橋の東北(大谷田1丁
目4番)に移転した。この時屋敷稲荷はそのままにしていったが、富士製紙ではそのまま祀っていた。
後に富士製紙は日立製作所に転売したが日立でもそれを受け継いだ。戦後になって日立は去り、その
後イセキ農機の工場となったが、イセキでもこの稲荷を大切に祀り、昭和40年頃移転した際に、移
転先へ遷座したという。現在も祀っているとのことだ。



■土づくりの里
 5丁目1番にある中川建設発生土改良プラントが、「土づくりの里」という愛称のもとに平成15
年1月に生まれ変わった。この「土づくりの里」は、下水道工事で発生した土を改良して、埋戻し用
の土に作りかえることを目的とした施設だ。粉塵や騒音対策として、プラント全体を半地下式とし、
緩衝緑地帯や防音壁を設置するなど、周辺環境にも配慮している。下水道事業では今後も多くの改良
土が必要になる。この施設を利用することにより、省資源、環境保全、経済効果が得られるのだ。
 問い合わせ先:下水道局建設部工務課建設副産物対策担当 03-5320-6669



■大谷田氷川神社
 5丁目7番にあり、中川右岸堤下に銀杏の大木が小さな森を作っている。かつて大谷田村の鎮守だっ
た。文禄二年(1593)の創建といい、『新編武蔵風土記稿』には「一は末社にに金毘羅を祀る。
一はいかなる故にや浪人氷川と号す」とある。おそらく戦国末期の浪人が当地にやってきて切り開い
て住み着いたのだろう。古いものでは、元文二年(1737)の石造の鳥居・天保期の盥漱石(かん
そうせき)・文久期の狛犬などがある。
 氏子組織は大谷田上・大谷田東・隅田・大谷田2丁目・大谷田西部・東渕江の都合6町会で、戦後
人口が増加するまでは上・中・下という町会に区分されていた。上は大谷田上・東渕江・大谷田西部
に、下は隅田・大谷田2丁目に分かれ、中は大谷田東となった。大鷲神社の管理。
 戦前には、例祭に芝居や神楽などを呼んだり、上・中・下からお囃子を出したが、戦前に止めてし
まった。現在は下のお囃子が復興されているという。また中では神輿を持っているが、昭和30年代
で担ぎ手がいなくなって町を練り歩くことはなくなり、子供神輿に変わってしまった。
 神社には、上と下の氷川神社と水神、三峯が合祀されている。



■飯塚の渡し跡碑
 江戸時代から昭和30年まであった中川の渡船。同年9月に飯塚橋が架橋されて廃止となり姿を消
した。橋の開通を喜ぶと同時に、永年親しんだ渡しがなくなるのを惜しんで地元の有志が碑を建てた。
碑文は元東淵江村々長金子錦治が書いた。この碑はもう撤去されてるかもしれない。今度確認しとく
わ。



■屋敷稲荷
 5丁目17番の小久保家内にある。




【西綾瀬】(にしあやせ)1〜4丁目                  昭和41年5月1日
 伊藤谷村・弥五郎新田・五兵衛新田。伊藤谷村は、正保(1644〜)以前伊藤四郎平が開墾し
た土地で、初め伊東谷新田と呼んだが、のちに「新田」を外し、伊藤谷村と名乗った。弥五郎新田
は、同じく正保以前の開発で、京極弥五郎が開発した。五兵衛新田も正保以前の開発で、金子五兵
衛が開発した。明治22年綾瀬村となり大字伊藤谷・弥五郎新田・五兵衛新田、昭和7年足立区の
成立で、伊藤谷本町・伊藤谷西町・五反野南町・五兵衛町、同41年これらの町をあわせた町域を
現行の「西綾瀬」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『足立区史』など。

 西綾瀬の由来
 
綾瀬川を境にその西側。綾瀬は流路が幾筋も乱れて流れる状態をいう。



下山事件
 
五反野南町は昭和24年国鉄総裁下山定則が行方不明ののちに轢死体で発見されたところだ。消え
た町名とともに記憶している人も少ないだろう。事件は迷宮のまま今日に至っている。
 事件概要
 昭和2424年7月6日午前0時24分頃、常磐線北千住駅と綾瀬駅の中間地点、東武線交差ガード
下あたりで通過中の貨物列車の運転士が線路際にある轢断死体らしき物を発見した。運転士の報告に
より国鉄職員が小雨の中を現場に駆けつけると四部五裂になった男の轢死体を発見した。この轢死体
は直前に通過した貨物列車が轢断したものと認定した。遺留品に「下山定則」名のパスその他があり
前日から行方不明になっている国鉄総裁下山定則の轢断死体と判断された。
 解剖の結果、下山総裁は貨物列車に引かれる前に死亡していたとの所見を出し、捜査二課は他殺で
捜査を開始した。しかしどういう訳か 捜査一課は他法医学者の列車による死亡説を支持し自殺説を
採った。そして捜査一課は「自殺断定」の正式発表をする予定だったが何故か中止になり、捜査二課
も捜査の責任者が配置転換に遭うなどして、事実上捜査続行が不可能になった。結局警察は現在に至
るも自殺、他殺のどちらとも正式に発表していない。
 アメリカの謀殺の疑いは今も拭えない。当時の国民は反米的で、小泉純一郎のようにアメリカにペ
コペコするのは嫌われ、アメリカが指導した民主化は行き過ぎて共産化寸前だった。マッカーサーは
下山総裁に労働運動の中心的存在である赤化した国鉄職員10万人の解雇を迫った。アメリカの目的
は民主化にブレーキをかけることだ。そして下山総裁殺害を共産党分子の仕業に見せかけることで、
国民の目をアメリカに向けさせて共産化を防止することだった。
 マッカーサーは祈った。「日本国民よ、どうかアメリカの方にだけ向いててくれないか。どうせア
メリカの植民地なのだから」 沖縄基地問題が解決する筈はないのだ。権力者が帰化人の属国日本で
はアメリカのいいなりになるしか方法はない。尤も国民が真実に目覚めれば別の話だが・・・
 この悪魔のような国鉄労組を潰したのは中曽根康弘だ。軍事的に必要の無くなった国鉄は見捨てら
れ、今では分断されて民間会社となっている。鉄道が重要だった時代は終わったのだ。

 近年常盤線のガード下に「
下山国鉄総裁追憶碑」が建てられた。大田区上池台2−21の下山総裁
邸跡地にも「下山国鉄総裁追憶碑」が建てられているらしい。



■五反野コミュニティ公園・五反野親水公園

 2丁目1番にある区立公園。カラフルな遊具の多い公園だ。公園と親水公園の間にじゃぶじゃぶ池
がある。

 じゃぶじゃぶ池
 幼児らが、安心して水に親しんで遊べるように整備された無料の施設だ。区内に21ヶ所あり、そ
れぞれ特徴がある。ここは池の中の3種類のおもしろい噴水パイプがとっても楽しいよ。オムツの取
れた赤ちゃん以上の幼児が、保護者同伴で夏の間だけ利用できる。事故が起きないよういろいろ制約
があるのは当然だ。



■五反野コミュニティセンター

 2丁目1番にある区の高齢者福祉施設。



■真光山荘厳院長性寺

 3丁目19番にある新義真言宗の寺。本尊は不動明王。寛永元年(1624)の創建で、開基は岡
村紀宿禰元春だ。文化五年(1808)第十二頼専が、紀州根来山から宗祖興教大師を奉遷し、法流
いよいよ栄えた。現在の本堂は大正13年の建立で木造の瓦葺き。入口を入ると左手に地蔵堂と板安
置堂がある。古風な本堂の前の石造りの十三塔は真新しい。明暦二年(1656)の五月十五日銘の
石碑がある。



■弘道小学校

 4丁目1番にある弘道の地名の由来となった区立校。文久元年(1861)宮城倭三郎が寺子屋を
開く。明治7年綾瀬の南の地(五兵衛新田10番地)に「梅花塾」「東洋学校」と開塾。当時綾瀬地
区は、足立郡の中でも進んだ地で、教育も盛んだった。梅花塾という名は、塾長が水戸の出身で、水
戸徳川家より3本の梅ノ木を寄贈されたことから塾名とした。同11年5月28日、この「梅花塾」
が足立区で2番目に古い公立学校「第五中学区第二十三番公立小学弘道学校」として児童70名で開
校した。当時の住所は東京府南安立郡綾瀬村大字五兵衛新田南端1番地で、今の大室総家の西南、千
代田線高架北側の辺り(綾瀬4−1)にあった。同17年校舎設備完成。成績が良いので文部省から
理科の機器や標本を交付されたほどだ。同18年東京府知事渡辺洪基来校。同32年校舎東側に2教
室増築。高等科を併設して「弘道尋常高等小学校」となる。
 大正3年綾瀬実業補習学校併設。同12年関東大震災で2教室が倒壊したため、同15年現在地に
木造2階建て新校舎(10教室・理科室1)落成して移転。
 昭和5年荒川法水路(荒川)完成。児童数尋常科488名(2学級二部授業)・高等科52名。同7
年南足立郡が東京市に併合され「東京市弘道尋常高等小学校」と改称。同11年高等科を廃し「東京
市弘道尋常小学校」と改称。同13年火災により校舎全焼。同14年復興校舎落成。同16年勅令1
48号国民学校令により「東京市弘道国民学校」と改称。12月日米開戦。同18年都制施行により
「東京都弘道国民学校」と改称。同19〜20年長野県下高井郡中野町に学童集団疎開。同20年敗
戦。
 同22年学校教育法施行により「東京都足立区立弘道小学校」と改称。同27年防火用水跡にプー
ル完成。同33年開校80執念記念式典・校旗・校歌制定。

 校歌さわやかな」  作詞・小林純一  作曲・中田喜直
  1.さわやかな
    みどりをうつす白雲に
    希望のひとみ輝かし
    学ぼう日々に新しく
    われら足立弘道小学生
  2.名も清い
    綾瀬の水の豊かさに
    未来を望む若草と
    伸びようみんな逞しく
    われら足立弘道小学生
  3.香しい
    所縁の梅の校章を
    理想と誇り今日もまた
    歌おうみんな高らかに
    われら足立弘道小学生
    

 同34年綾瀬分校設置。同36年体育館完成。同37年綾瀬分校を分離し綾瀬小学校とする。同3
9年「こども音楽コンクール」東京地区大会で優秀賞。同40年弘道第一小学校を分校。同41年1
篤志家の寄贈により、藤棚・二本地図園・ニコニコ山完成。同43年第一校舎(鉄筋コンクリート造
りの9教室)落成。開校90周年記念式典。校歌碑・石像・記念庭園完成。同44年読売教育賞受賞。
同53年創立100周年記念式典。

 創立100年記念歌
「元気いっぱい歌おうよ」52年度6年1組・作詞  平山寮・作曲
    緑あふれる校庭に
    ほほえみかける風の音
    小鳥さえずり楽しげに
    明るい光があふれてる
    元気いっぱい歌おうよ
    僕らの弘道小学校


 平成9年パソコン教室完成。同14年水戸弘道館訪問。同15年前期後期2期制・4年生以上教科
別担任制。同20年創立130年を迎える。



■「おかしらが通るぞぉー」―鳥之海家(綾瀬の名家)
 綾瀬川の水は生活においてとても大切で、田植え時期の「綾瀬川の水争い」は昭和30年代に入っ
てもあり、都市化により農業がなくなるまで続いた。そしてその綾瀬川を使った舟運の利便性は、大
量の貨物を低価格で尚且つ早くに運搬出来、上りも下りも往来はそれはそれは盛んだった。便利であ
るために川沿いには大きな河岸も整っていて、荷駄を扱う問屋も川筋の各所にあった訳だが。綾瀬で
も豪農の吉田惣本家(屋号四郎平)や金子左内家を始め、多くの名主の物資流通手段の主力も川舟で
あり、その手間扱いは、船運業も手がけていた西綾瀬4丁目10番の鳥之海家(屋号おかしら)がそ
の大半を扱っていた。
 会津藩下屋敷(港区三田辺り)の御用(鑑札や御用陣羽織は散逸して今は無いそうだ)も勤めてい
たこともあり、その名は川の流域では知れ渡っており、どんなに川が混み合っても、五兵衛の「おか
しら」所有の高瀬舟が通りかかれば、「おかしら」と書かれた高張提灯を舳先に出すと何処からとも
なく「おかしらが通るぞー」の声が掛かり、川路が空けられたという。
 鳥之海丈之助の父伊三郎が子供の頃の話として、その帆掛け船の舳先に立ったことがあったという。
何処からともなく「おかしらが通るぞー。」の声がすると、他の舟が、どんどん退いて水路を空けて
くれたので、子供ながらに気持ちがよかったという思い出話を、家族がよく聞かされたとの由。そん
な優先された御用船がこの綾瀬の地にはあったという昔噺さ。



■庚申塔

 4丁目2番にある。文化二年(1805)日月・青面金剛・一鬼・三猿を刻む駒型
。 



■江北高等学校

 4丁目14番30号にある都立校。昭和13年赤坂区青山北町5丁目の青山師範学校附属小学校の
旧校舎を仮校舎に「東京府立第十一中学校」として開校。同15年足立区五兵衛町940番地(現在
地)に移転。同16年「東京府立江北中学校」と改称。同18年「東京都立江北中学校」と改称。校
歌制定。同19年全校舎完成(木造)。同20年敗戦。同23年「東京都立第十一新制高等学校」に
組織を変更し、新制中学を併設。定時制課程。同25年「都立江北高等学校」と改称。男女共学。校
歌制定。

 校歌
綾瀬の流れは」 作詞・土岐善麿  作曲・信時潔
  1.綾瀬の流れは豊かに
    照りそふや 緑の小草
    希望の光の溢るる処
    嗚呼 この道真理を追いて
    静かに行くべし 友よ楽しく


 同27年学区合同選抜制度開始。同28年長野蓼科に江北山荘設置。同30年校地拡張買収、埋立
工事。同31年埋立地にグラウンド完成。同36年江北山荘廃止。同42年学校群制度開始。足立高
校と53群を組む。同57年グループ合同選抜導入。足立・淵江・足立西・足立東・青井・足立新田
と52グループを組む。
 平成元年創立50周年。同6年単独選抜制度に戻す。同15年1年2学期制導入。





【西新井】(にしあらい)1〜7丁目                 昭和42年3月15日
 西新井村。明治22年西新井村大字西新井、昭和3年西新井町大字西新井、同7年足立区西新井
町。同42年新住居表示により西新井町の大部分(環七以北)に栗原町・伊興町槐戸・伊興町諏訪
木・伊興町1丁目・上沼田町・谷在家町の各一部をあわせた町域を現行の「西新井」とし、同62
年西伊興町の一部を4丁目に編入し新住居表示を完了した。小学校名は西新井の名を本町に取られ
西新井第一小学校と負け惜しみの第一を付けざるを得なかった。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『足立区史』など。

 西新井の由来
 天長三年(826)空海(弘法大師)が悪病の蔓延に苦しむ村人たちを救おうと十一面観世音像
を彫って地中に埋め21日間祈願したところたちまち悪疫が退散したという。後に大師の徳を慕う
村人はこのことを忘れぬため大師堂を立てて観音像をお祀りしようと掘り出したところ(寺宝は蔵
王権現・弘法大師像・天台大師像だが十一面観世音像はないらしい)。その穴から清水が噴き出し
たので井戸に造り「お加持の井」と呼んだ。別には観音像は地中に埋めたのではなく古井戸に投入
したのだと説くものもある。また地中に埋めたり、古井戸に投じたのではなくお堂にお祀りして祈
願をしたところ清水が湧き出したなど微妙なニュアンスの違いがある。弘法大師は鉱山師だから湧
き水を掘り当てることなぞ朝飯前だ。当時井戸の位置が大師堂(観音堂)の西側に当たったので、
この地が「西新井」と通称され、大師堂は「
西新井のお大師様」として広く知れ渡った。やがて地
名となり村名となった。だから西新井は、今は涸れたが構えが今も残っている五智山遍照院総持寺
のお加持水の井戸だ! 
 なお大師線は西新井大師の参詣のために敷かれた鉄道ではない。東上線の板橋と結ぶ西板線計画
の頓挫した名残りの供用部だ。その操車場予定地が常盤台住宅で、計画が崩壊したとき分譲地とし
て処分した。



■大師前駅

 1丁目3番にある東武大師線の停車場。大師線は元来東武伊勢崎線と東武東上線を結ぶ目的の「西
板線」として計画された路線だ。しかし昭和6年12月20日に西新井〜大師前間のたった1キロが
開通しただけで工事は止まってしまい、その後再開されることはなかった。終戦間際の同20年5月
20日には不要不急路線として営業休止になったが、同22年5月21日に営業を再開した際、路線
名が大師線と改められた。駅の高架化は平成3年、駅ビルは同5年に完成している。
 ホームは高架片面1面1線で、3階にある。都区内で1面1線の配線を持つ駅は、ここの他には北
綾瀬駅と京成金町しかない。しかし1面1線といえども、とても幅の広いホームになっている。3階
ホームと2階テナント階、1階出口を結ぶエレベーターも設置されている。
 この駅の改札口は西新井駅にあるため、大師前駅には改札口も切符売り場もないが、西新井大師へ
参拝客が殺到する正月三ヶ日には駅員が派遣され、出札・改札業務が行われる。出口は、駅南側と西
側に2ヶ所ある。
 都区内の普通鉄道では唯一の無人駅だが、駅自体は恐ろしく立派。3階建ての高架駅で、1階にはケ
ンタッキーフライドチキンとくすりの福太郎、2階には東武大師前耳鼻科と東武大師前クリニック、
3階のホームにはブックステーションこいずみという書店が入居している。なにぶん改札がない駅な
ので、ホーム上にある書店にも自由に出入りが可能だ。



■西新井大師

 1丁目15番にある真言宗豊山派五智山遍照院総持寺という別格本山、関東七ヶ寺の一つ。天長三
年(826)弘法大師の創建と伝えられてきた。川崎大師と共に開運厄除の霊場として名高い。本尊
は十一面観世音像。副仏は大師の自作像だ。慶安元年(1648)寺領20石の朱印を賜り、元文二
年(1737)8代将軍吉宗が立ち寄り鷹狩の際の御膳所となった。寺域4900u、西新井の名の
起こりの閼伽井(あかのい)を始め、いろいろな建造物がある。

 伽藍
 大本堂・大本坊・松鶴殿・大書院・宝照殿・光明殿・八角大師堂・東門・水洗い地蔵・鐘楼堂・山
門・塩地蔵・六角観音堂・対日如来像・三匝堂・加持水・水子地蔵・不動堂・稚児大師像・弁天堂・
十三重宝塔・権現堂・如意輪堂(女人堂)・奥の院・裏門・八十八ヶ所大師像・出世稲荷明神・弘法
大師立像・第2〜4ぼたん園

 山門
 総檜2層銅板葺き入母屋造りの仁王門。江戸時代初期のものという。

 旧本堂
 江戸中期建造の総欅造りの本堂は、昭和41年5月25日夜半の11時、中学生の火遊びによる失
火から焼失、不幸中の幸いは他の建物には延焼せず、本堂内の本尊は住職によって持ち出され無事、
また貴重な掲額、美術品も類焼を免れた。これはアメリカ軍の仕業ではない。
 間口13間×奥行11間、廻縁を付した江戸時代中期の木造平屋建て、瓦葺き入母屋造り総檜の大
伽藍で、木造では区内最大の建築物だった。ために現在は関原の大聖寺本堂にその地位譲っている。
焼け落ちた屋根をトタン板で覆い、焼け残った柱を補強して仮本堂とし、同年7月21日に遷座法要
を行った。
 中世期には歴史上数度に亘り兵火に巻き込まれて、度々建物を火災で焼失するも、その都度のお大
師様の御加護によって御本尊は常に火厄の難を免れて無事であり、旧に倍する伽藍の復興をみた。こ
れを世人は畏敬して「火伏せの大師」、或いは「厄除けの火防お大師さま」と称して尊崇した。こう
して西新井大師は厄除け大師信仰の一大霊場として著名になり、さらには「人生三十三歳の女性の大
厄は西新井大師」として名を馳せ、川崎大師と並び賞されて人々が郡参してきている。

 大本堂
 仁王門を潜ると正面にある本堂は、昭和46年の再建で、建面積858u、間口30.9m、奥行2
7.3m、棟の高さ30mという鉄筋コンクリート造りの大伽藍がある。

 
本尊十一面観世音像・弘法大師像

 ともに空海作の秘仏と伝えられている(足立区の歴史)。

 その他の寺宝
 面積が十畳余もある大曼荼羅、谷文晁の松の襖絵、葛飾北斎の大師成道図、酒井抱一の洋犬図の扁
額、月岡芳年の消防出初式図などがある。

   合羽着て妻の出て行く西新井(川柳)
   初夢を大師の連れに判じさせ(川柳)

 アメリカ帰りの鐘
 総門を潜って参道を右に曲がると、菩提樹の側に、元禄期に建立され、文政三年に再建された鐘楼
がある。ここに吊るされている梵鐘がアメリカ帰りなのだ。
 太平洋戦争も末期になると、天然資源の乏しいわが国は「家庭鉱山開発」のスローガンの下に蚊帳
の吊金具まで供出させられ、それでも足りなくなると、寺の釣鐘もその例を免れず、昭和19年に供
出させられた。しかし終戦を迎えた時、この釣鐘は鋳戻されることなく無事だったが、愚かなアメリ
カ軍はいろんなものを戦利品と称してあれもこれも盗んでいったが、この釣鐘も戦勝記念品として持
ち去った。この鐘を運んだ米巡洋艦パサディナの名に因んだパサディナ市の市庁舎の前庭に飾られる
ことになった。それから10年の歳月が流れ、アメリカ人には珍しい善人当時市長だったウォーレン
・ドンがアメリカ軍の浅ましさを恥じ、返還する事を決意した。昭和30年7月25日の返還の折に
は、日比谷公園で帰国釣鐘の大歓迎会が催されたそうだ。

 区内唯一の国宝・鋳銅刻画蔵王王権現像
 下部を欠失しているため、全形を知ることができないが、光背形銅板表面に、三目忿怒相をし左手
を腰に当て、右手を高く上げて三鈷杵(さんこしょ)をとる蔵王権現を中央に表わし、その廻りに眷
属31人を配した毛彫りの鏡像で、裏面には種子・真言並びに「長保三年(1001)辛丑四月一日
辛亥内匠寮史壬生□」の刻銘が、何れも双鈎体(そうこうたい 文字の輪郭を線で描いたもの)で刻
まれている。 大きさは縦60cm×横78.5cm。
 明治年間に、信者(日本橋の古金商)から総持寺(西新井大師)に寄進されたもので、区内唯一の
国宝だ。現在上野の国立博物館が保管展示している。

 大楠
 境内にある名木。巨樹

 三匝堂(三重宝塔)
 さんそうどう、みめぐりどう 栄螺堂(さざえどう)とも。 天保五年(1834)弘法大師一千
年忌の年に、江戸の伊勢屋彦兵衛という商人が、四国八十八ヶ所の霊場から土砂を持ち帰って、ここ
に埋納して建てたってことだ。のち明治17年に修築。安置されているのは、八十八祖像・五智如来
・二十五菩薩というが、もうオンボロで内部非公開、一階の梯子も取り外してる。堂内3層で栄螺(サ
ザエ)の壺状に登りながら巡拝できる造りになっているまいまい堂≠ェ栄螺堂だが、ここの三匝堂
は外に階段のある形式の三重宝塔だ。とてもさざえ堂とはいい難い。それを求めてきた人はがっかり
するだろう。なーんだ、違うじゃん! ・・・人騒がせなこった。

 塩地蔵
 大師山門を入って直ぐ左側に小さなお堂があり、お地蔵さんの足元には山と塩が盛られてる。説明
版によると、江戸時代より「疣取り」その他に霊験があり、堂内の塩を戴いて、その功徳があった時
は倍の塩を返するところから「塩地蔵」といわれ、信仰が盛んだった、と書かれている。「疣取り」
の地蔵はあちこちにあるが、区内ではここが一等盛んに信仰されているようだ。

 加持水堂
 大師が加持といって病気や災難を除くために用いた井戸という。これこそが、「西新井」だ。その
ほか賽の河原・不動堂・稚児大師・鐘楼・奥の院・弁天堂・権現堂・出世稲荷などの建物のほかに、
日露戦役戦没者供養のために建てた四国八十八ヶ所大師の石像・歌碑・句碑塚碑・縁起碑・供養塔な
ど数知れず建てられている。別名牡丹の寺=B樹齢500余年という藤棚、二月に咲く寒桜、五色
桜、あやめ園、水鳥、孔雀、猿など動・植物園も運営しており、参詣者の心を和ませる。靖国神社と
違って子供たちに優しい。やはり昨日今日神社になった駆け出しと、千年の貫禄の差だろう。縁日は
1日・21日。特に正月・5月・9月の縁日と初大師、節分、納めの大師は参詣人でごった返すぞ。
心して行けなよ!

 奥の院 
 文化2年弘法大師様高野山奥の院をこの地に招いた、関東の高野と称され高野山の代拝所として江
戸時代より現在まで参拝者が多い。

 出世稲荷
 本堂東奥手の丘にある小祠で、明治になって建てられた。倉稲魂命を祀る。


 達磨供養
 2月の節分の日、境内で行われる法事。1年間家内安全・商売繁昌に精を出しただるまに感謝し、
浄火で昇天させる儀式だ。当日午前中、山伏を先頭に、貫主・僧侶が積み上げられた達磨の前で読経
する中に点火、山伏が真刀で邪気を切り、燃え尽きて終了。昭和29年以来の行事で、足立に春を呼
ぶ催しとなってきた。

 芭蕉句碑

   ちちははのしきりに恋し雉子の声

 知らぬ人は芭蕉が訪れたときに詠んだ句かと思うかも知れないが、この句は『笈の小文』に見える
句で、題に「高野にて」とある。高野山は弘法大師縁の地であり、西新井大師もまた、関東の高野山
といわれていたところから、天保十二年(1841)芭蕉の弟子たちが句会を開いたとき、この句碑
を建てたそうだ。

 ●ぼたん
 
牡丹 またの名を「ボタン大師」ともいい、古くからボタンの名所として人々に親しまれている。
牡丹寺の横綱として、「西の長谷寺、東の西新井大師」といわれるほどで、毎年区外からも多くの人々
がボタン目当てにここを訪れる。
 境内に分散した6つのボタン園には、「舞姫」「芳紀」「島錦」など約100種、約4500株の
ボタンが植えられている。中でも花が見頃となる時期にだけ公開される第2ボタン園は株数や種類も
多く、西新井大師を訪れる人々の楽しみの一つとなっている。ボタンの草丈は1mと低いが、ここの
花壇は50cmほど盛土をした上に設けられており、花の高さがちょうど顔の位置付近となり鑑賞し
やすくなっている。入園無料。



■お大師団子

 1丁目の5番、仁王門すぐ前の中田屋の名物。創業は江戸中期で当主は9代目ばかりになるらしい。
悪い病気が流行していた時、弘法大師がヨモギを摺り、病人に飲ませたところ忽ち全快したという故
事から上新粉にヨモギの葉を入れて団子にした。



■庚申塔

 1丁目25番にある。元文五年(1740)日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿を刻む。 



■中郷公園

 1丁目29番にある区立公園。昔、10円で利用できるプールがあり、「10円プール」と呼ばれ
ていたという、他にもへんてこりんな仇名があったとか・・・ このプールは撤去され、可愛らしい
じゃぶじゃぶ池に変わった。広場に遊具、子どもの公園だ。

 
じゃぶじゃぶ池
 幼児らが、安心して水に親しんで遊べるように整備された無料の施設だ。区内に21ヶ所あり、そ
れぞれ特徴がある。ここは水色の小さなプール。オムツの取れた赤ちゃん以上の幼児が、保護者同伴
で夏の間だけ利用できる。事故が起きないよういろいろ制約があるのは当然だ。



西新井事件(未解決)
 北朝鮮拉致事件の一つ 昭和54年朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の工作員「朴」と名乗る人
物が15年間に亘り、北海道出身の小住健蔵さんら日本人2人に成り済ましてスパイ活動を行ってい
たとされる。「朴」は西新井に居住し小住さん名義の運転免許証や旅券を取得、頻繁に海外に渡航し
ていた。「朴」は同58年に出国したきり、その後の所在は分かっておらず、「インドかタイに出国
して、北朝鮮に帰国したのではないか」と公安当局では判断しており、旅券法違反などの疑いで国際
手配されている。また在日韓国人らが中心の組織が、「朴」のスパイ活動を資金面で援助、国の軍事
情報の記載のある出版物を提供するなどした。彼らは拉致したことを認めている。この事件は未解決
のままだ。終戦後のどさくさで日本国民に成りすました朝鮮人の数は100万人を越えると推定され
ている。戦後法律によって帰化した朝鮮人は70〜100万人で、在日が同じ数いるから、日本に半
島系の人々は250万人くらいいると想像される。その大半が統一教会と創価学会であり、社会主義
者は日本名を名乗る彼らによって組織される。朝鮮人が日本人を拉致した事件も、北朝鮮のスパイだ
けで実行されたものではなく、在日や帰化人の支援によって成功しているのだ。政治家にも100人
近い帰化人が侵入しており、総理大臣にも帰化人が何人もいる。それはアメリカ(ユダヤ)が日本を
間接統治するために仕組んだことで、統一教会や創価学会の後にはユダヤ資本がある。日本人が幸せ
に暮らせることはまず未来永劫ないことだ。



■雷神社
 2丁目27番にある。祭神は大雷神。昔、この地に落雷の被害があり、村人が祀った。「桑原、桑
原」なら、天神さんだけどなぁ。現在の社殿は昭和5年の建築。



■玉ノ井部屋
 4丁目1番にある大相撲の力士養成所。出羽海一門。春日野部屋の元関脇初代栃東は引退後長く部
屋付親方として指導していたが、平成2年にに独立した。交通事情の好転により区内に初めて創設さ
れた相撲部屋だ。同3年には日系人を含む5人のブラジル出身の力士を入門させ話題になった。玉ノ
井親方の長男が2代目栃東を襲名して大関を張ったが、病気のため引退した。



■足立工業高校
 4丁目30番にある都立校。昭和37年工業高校(機械科4学級・電気科2学級・電子科2学級)
開設決定。同38年伊興町諏訪木2244番地(現在地)に第一期校舎落成。「東京都立足立工業高
等学校」として開校。同41年体育館完成。同45年プール完成。同46年校庭整備。同47年創立
10周年記念式典。同62年格闘技棟完成。
 平成5〜9年全面改築。同8年総合技術科に改編。同9年創立35周年記念式典。同14年創立4
0周年記念式典。同15年開校以来の卒業生9999名。

 校歌
光あふれる」 作詞・勝承夫  作曲・平井康三郎
  1.光溢れる大空仰ぐ
    胸に奇望がもり上がる満ち渡る
    広野は遥か 筑波も晴れて
    今 新しい力湧く
    産業の町 伸び行く町に
    足立工高 高く輝く
  2.明日を見つめる明るい瞳
    
揃う憧れ清らかに美しい
    心理を学び 技術を磨き
    文化を築く 夢実る
    純情の庭 自立の気風
    足立工高 行く手果無し
  3.藤の花影 牡丹の苑に
    語る未来よ限りない この理想
    草の堤に楽しく憩う
    夕べも誓う友情に
    青春の日の感激尽きず
    足立工高 永遠に輝く




■西新井第二小学校

 4丁目34番にある区立校。昭和39年4月西新井第一小学校を2分して分校として創立。9月現
在地に移転して「東京都足立区立西新井第二小学校」として開校。校章校旗制定。同43年体育館完
成。同44年プール完成。同50年創立10周年記念式典。同59年創立20記念式典。
 平成6年夜間照明、防球ネット設置。創立30周年記念式典。同8年校舎耐震化完了。同10年コ
ンピュータルーム開設。同15年子どもワクワクセンター開始。インターネット接続。創立40周年
記念式典。同21年体育館耐震化完了。同21年創立45周年記念式典。

 校歌
なかよく五つの」 作詞・サトウハチロー  作曲・渡辺浦人
  1.仲良く五つの輪を組み合わせ
    梅の香りを静かに添えた
    気高く楽しき 母校の徽章
(しるし)
    輝く徽章に励まされ
    明るく毎日 毎日学ぶ
    唄えよ唄えよ 高らかに
  2.大空目指して唯すくすくと
    伸びる若竹 その黄緑は
    何より嬉しきスクールカラー
    体と心を逞しく
    鍛えて明日へと 明日へと進む
    讃えよ讃えよ 声合わせ



■諏訪神社
 4丁目34番(伊興町諏訪木2281番地)にある。淵之宮氷川神社の境外末社で、祭神は建御名
方命。祭日は8月27日。天保十四年(1843)銘の漱盥石がある。



■諏訪木西公園

 4丁目35番、西新井第二小学校の北側にある区立公園。サッカーができるほど広い広場がある一
方で、森林浴ができるほどの樹木もある。アスレチック広場と犬のトイレが特徴。

 
じゃぶじゃぶ池
 幼子らが、安心して水に親しんで遊べるように整備された無料の施設だ。区内に21ヶ所あり、そ
れぞれ特徴がある。オムツの取れた赤ちゃん以上の幼児が、保護者同伴で夏の間だけ利用できる。事
故が起きないよういろいろ制約があるのは当然だ。



■新西新井公園

 5丁目17番にある。遊具がいっぱいあるがタコの滑り台が一番人気だ。

 
じゃぶじゃぶ池
 幼児らが、安心して水に親しんで遊べるように整備された無料の施設だ。区内に21ヶ所あり、そ
れぞれ特徴がある。ここはカラフルなプールだ。オムツの取れた赤ちゃん以上の幼児が、保護者同伴
で夏の間だけ利用できる。事故が起きないよういろいろ制約があるのは当然だ。



■西新井天満宮
 5丁目26番にある北野神社。祭神は菅原道真。例祭は9月25日。



■浅間神社
 6丁目4番にある。祭神は木花開耶姫命。寛永元年(1624)九月の創建という。西新井町唯一
の高地で、古くから六富士詣でという講中があった。境内に富士浅間の先達権之助の建てた天保十四
年(1843)銘の碑、入口に寛永十五年(1638)九月吉日銘の庚申塔がある。



■西新井第一小学校

 6丁目21番にある区立校。昭和25年近松小学校跡地付近で学校設立の声起こる。同26年6月
分校校舎として木造2階建て6教室落成。7月新井小学校の分校設立。同27年2月8教室増築。3
月5・6年生を収容し授業開始。1年生に給食支給(独立の条件が整う)。4月独立して「東京都足立
区立西新井第一小学校」として開校。同31年校舎増築。同32年4教室増築(図書室・音楽室・理
科室設置)。同33年4教室増築。同34年給食調理室改築。正門(南門)・東門東側塀完成。同3
9年新井第二小学校を分校。同41〜51年新改築。同41年創立15周年記念式典・校歌制定。

 校歌鐘の響きに」 作詞・永井鱗太郎  作曲・渡辺浦人
  1.鐘の響きに 栄える町に
    縁も深い 知恵の井戸水
    日毎新たに汲み出して
    明日の文花を築くんだ
    そうだ勉強第一に
    その名も西新井第一小学校
  2.風の香りに光の庭に
    仲良く揃う愛の足並み
    強く明るく踏み締めて
    真理
(まこと)の平和を唄うんだ
    そうだ健康第一に
    その名も西新井第一小学校
  3.若い校舎に 輝く窓に
    尽きなく廻る意志の歯車
    軋み厳しく引き締めて
    本当の正義を生きるんだ
    そうだ根性第一に
    その名も西新井第一小学校


 同44年体育館完成。同45年プール完成。同47年創立20周年記念式典。同54年全教室カラ
ーテレビ設置。同56年花いっぱいコンクール優良校受賞。同57年創立30周年記念式典。
 平成4年創立40周年記念式典。同9年コンピュータルーム開設。同10年防砂ネット取付。同1
1年同外部照明設置。同14年創立50周年記念式典。同17年西校舎耐震化。同20年東校舎耐震
化。同21年体育館耐震化。同22年教科担任制(5・6年)、副担任制(1年)開始。


 安全ボランティアに感謝する歌
 平成18年11月本校の児童が地域安全ボランティアに感謝する言葉を出し合い、これをまとめて
音楽専科横田眞佐子が作曲したオリジナル曲だ。この歌の通り、ポランティアと児童、保護者が心を
通わせ合い、「皆で明るく楽しい町を作ろう」という願いが込められている。大きな声で挨拶するこ
とにより、相手の方も自分も気持ちが朗らかになり、また声をかけることにより、町が明るく賑やか
になり、悪い人や不審者のいない安全安心な町になるだろうとの希望が籠る。

  1.おはよう おはよう こんにちわ
    元気な声がこだまする
    青空澄んで 気持ちがいいな
    笑顔の挨拶 ありがとう
    今日も元気で 行ってきます
  2.雨の日 風の日 雪の日も
    毎日毎日守ってくれる
    緑の風が優しく吹いて
    小父さん小母さん ありがとう
    行きも帰りも安心です
    
(間奏)
  3.危ない 危ない 車だよ
    教えてくれてありがとう
    オレンジ色の光の中で
    緑の腕章 ニコニコ笑顔
    さようなら さようなら また明日
  4.ありがとう ありがとう 心から
    感謝の気持ち伝えたい
    真っ赤な夕日綺麗な心
    大きくなったら僕の番
    優しい大人になりますね!
 



■西新井中学校
 7丁目22番にある区立校。昭和50年第五中学校から分離し、「東京都足立区立西新井中学校」
として開校。5月1日この日を開校記念日とし、「ハナミズキ」を校樹と定める。生徒会成立。植樹
開始。校章・校歌・校旗制定。

 校歌
今日も広がる」 作詞・江間章子  作曲・団伊玖磨
  1.今日も広がる大空の下
    ハナミズキの木が話しかけるよ
    崇高な精神
    美しい心を持てと話しかけるよ
    磨こうよ吾等
    磨こうよ知性
  2.羽ばたく夢 吾等の理想
    
踏むこの大地が話しかけるよ
    縁の土
    豊かな土地の歴史を話しかけるよ
    高めよう吾等
    高めよう徳を
  3.明日へ続く輝かな道
    風も光 今 話しかけるよ
    身も心も
    健やかであれと何時も話しかけるよ
    学ぶよ吾等
    学ぶよ元気で
     栄えあれ 西新井中学校


 同51年体育館完成。プレハブ2教室増築。同52年プレハブ5教室増築。同59年創立10周年
記念式典。
 平成6年創立20周年記念式典。同16年創立30周年。

 
校樹 ハナミズキ
 春には紅、白の美しい花を咲かせ、秋には紅葉し、結実する。そして、長い年月をかけて巨木とな
る様は、人の一生にも例えることができる。当校では、この精神を尊重し校樹と定めた。

 
スクールカラー 濃い紫
 古来、むらさきは、染色に高度の技術と長い時間を要する高貴の色とされてきた。この色相には豊
かさと落ち着きがある。本校に学ぶ生徒の知・徳・体の調和した成長を願って、学校の色と定めた。
 




【西新井栄町】(にしあらいさかえちょう)1〜3丁目         昭和48年5月1日
 栗原村。昭和48年栗原町・興野町・本木町2丁目・梅田町の各一部をあわせた町域を、現行の
「西新井栄町」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『足立区史』など。

 栄町について
 町名は西新井三栄商店街の栄をヒントに「西新井駅前が栄えるように」祈念して命名された。だ
から西新井栄町は西新井駅西口商店街だ!



■亀田小学校
 1丁目1番にある区立校。同30年梅島小学校分校設置。同31年独立して亀田小学校開校。同3
3年校歌制定。

 校歌
富士も筑波も」 作詞・佐藤春夫  作曲・平井康三郎
  1.富士も筑波も見るとおり
    ぼくらはみんな希望の子
    互いに努め励まして
    希望の明日に進むのだ
    梅に亀田のこの記章
    わが足立区に光あり
  2.庭の桜も知るように
    ぼくらはみんな助け合い
    互いに友の手をとって
    希望の道を拓くのだ
    梅に亀田のこの記章
    わが足立区に光あり


 同36年プール竣工。同40年体育館竣工。同50年校庭整地完了。同56年陶芸小屋設置。アス
レチック設置。同59年砂場改修・雲梯新設。
 平成元年校庭改修・散水栓設置・防水フェンス設置。パソコン教室設置。同7年ベルモント市学生
使節団来校。創立40周年記念式典。同13年校庭芝生化開始。同16年校庭北側に水田完成。同1
7年学童保育室完。同18年創立50周年大運動会。同記念展覧会。



■西新井駅
 2丁目1番にある東武伊勢崎線の停車場。明治32年8月27日北千住〜久喜間を開通させたのと
同時に開業した駅。昭和6年12月20日には西板線として大師前までの路線が開業した。大師線が
西板線と名乗っていた理由は、当初の計画では東上線の上板橋まで建設されるはずだったからだ。板
橋区常盤台はその挫折のためにできた住宅地なのだ。
 ホームは地上島式3面6線構造。一番西が1番線、一番東が6番線である。緩行線と準急線の乗換
は同方向同一ホームで行えるので非常に便利だ。ホームと改札階を結ぶエレベーターは、平成17年
3月31日に全ホームに設置された。改札口は1ヶ所のみで、橋上駅舎内にある。出口は西口と東口
の2ヶ所で、いずれの出口にも併設する商業施設内に地上へ下りるエレベーターも備えている。また
大師線ホームへ下りる手前には大師前駅の改札がある

 
大師線
 2両編成対応の短い島式ホームだが、このホームへ降りる手前に大師前駅の改札と切符売り場があ
るのだ。大師前駅は無人駅で切符の販売も行っていないため、乗客は切符を買わずに電車に乗り、西
新井駅に来てから切符を買うことになる。それとは逆に、西新井から大師線に乗る場合は、ここの改
札予め切符が回収されてしまう。よって大師線は、定期券乗車客以外はみんな切符を持たずに乗ると
いう、極めて珍しい路線なのだ。



■西新井警察署
 2丁目8番にある。昭和11年12月10日千住警察署から分離、栗原町1053番地に庁舎を新
築して開設された。同20年4月13日愚かなアメリカ軍の無差別空爆により庁舎が焼失したため、
梅島第一小学校の校舎を借用して移転、仮庁舎とした。同12月20日庁舎再建移転。同27年4月
26日〜8月25日庁舎建て替え。同36年4月1日綾瀬警察署を分離した。
 区南西部を管轄し、管内面積は約19.78Kuと、台東・荒川の両区を合わせた面積に近く、東京
23区内の警察署で4番目の広さだ。管内人口は約223000人(平成18年1月現在、足立区役
所調査)で、足立区人口の約34.6%に当たる。
 近年は農地や工場跡地等の住宅地化が進み、人口は増加し続けている。管内の東方寄りには東武伊
勢崎線が走り、梅島駅、西新井駅、大師前駅の三つの駅がある。平成19年度には新交通システム日
暮里〜舎人線が開通する予定で、沿線地域の交通の便が飛躍的に向上することが期待されている。ま
た初詣で賑わう西新井大師や一茶祭りで知られる炎天寺などの史跡をはじめ、毎年花火大会が荒川河
川敷で行われているので、その防犯警戒は大変だ。



■栗原小学校
 2丁目10番にある区立校。昭和17年梅島第一国民学校から分離独立し「東京市栗原国民学校」
として開校。同18年都制施行により「東京都栗原国民学校」に改称。同20年愚かなアメリカ軍の
無差別爆撃により校舎全焼。西新井小学校の校舎借用して授業。
 同21年校舎新築。同22年学校教育法施行により「東京都足立区立栗原小学校」と改称。同33
年校歌制定。

 校歌
花咲きにおう」 作詞・関内久仁子  作曲・丸島千代造
  1.花咲き匂う武蔵野に
    先駆け立ちて輝かに
    我が学び舎は希望に満つ
    ああ建設の血は躍
(おど)
  2.若草萌ゆる栗原の
    土に文化に親しみて
    我が学び舎に幸あふる
    ああ溌溂の気は滾
(たぎ)

 同37年創立20周年記念式典。同47年創立30周年記念式典。同47〜50年鉄筋校舎に改築。
同52年栗原北小学校を分校。同56年遊具施設ミニアスレチック完成。同57年創立4
0周年記念式典。同63年校内最塗装。全日本健康優良学校東京代表校。
 平成4年創立50周年記念式典。同5年校庭照明設置。同8年交通安全警視総監賞受賞。同14年
交通安全警視総監賞受賞。



■神社
 3丁目10番にある。



■「森の家」=牛込宅
 3丁目12番にある。もともと海だった足立区に森はないはずだが、遠い昔から人が丹精を込めて
植え継いできたのだろう。区の保存樹林に指定され、中でも庭の北東隅にある椎ノ木は樹齢200年
を超える。




【西新井本町】(にしあらいほんちょう)1〜5丁目         昭和44年12月1日
 西新井村(南部)。昭和44年残った環七以南の西新井町の全部と興野町の大部分に栗原町・本
木町2・5丁目・高野町の各一部をあわせた町域を現行の「西新井本町」とした。
 西新井小学校もあるし西新井の主体はこっちにある。どんなもんだい!
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『足立区史』など。

 本町について
 本当は西新井町としたかったのだが先を越されたので苦し紛れの苦肉策。西新井側が猛烈に抗議
したのはいうまでもないが区は受理した。西新井大師門前の心意気を示す。



■西新井看護専門学校

 1丁目12番にある専修学校。



■氷川神社
 1丁目17番、環七通り沿いにある。祭神は素盞嗚尊。例祭は9月9日。拝殿は嘉永元年(184
8)十一月二十日の上棟。文化四年(1807)九月銘の漱盥石、嘉永元年(1848)十一月棟札
がある。



■日本基督教団西新井教会
 1丁目22番にある区内最古のキリスト教会だ。昭和8年アメリカ・メソジスト監督教会の婦人宣
教師ペインによって始められた「愛恵学園」の中に、「日本メソヂスト西新井教会」として設立され
た。同16年プロテスタントの諸教派が合同して日本基督教団を成立し、日本メソヂスト教会もこれ
に合同したので、以後「日本基督教団西新井教会」となり、現在に至っている。
 西新井教会は、伝道、教育、奉仕を使命としているが、付属の「西新井教会保育園」は、その具体
化の一つとして同44年より運営しており、今後ともこの地域に住む人々に「地の塩、世の光」とし
ての使命を果たし続ける覚悟でいるそうだ。

 
日本キリスト教団
 北海道から沖縄に至るまで、1700余の教会を擁する日本最大のプロテスタント教会だ。青山学
院、関西学院、聖学院、明治学院、同志社など、多くのミッション・スクールと深い関係にあり、と
もに福音宣教を担っている。なお「基督」は「キリスト」の日本漢字表記だよ。



■第五中学校
 2丁目3番にある区立校。昭和22年西新井小学校内に開校。同38年江北中学校を、同50年西
新井中学校を分校独立させる。平成9年創立50周年。



■胡禄神社
 2丁目32番にある。創建は約300年前といわれており、江戸時代、武蔵国足立郡高野村の鬼門
(現在地)に阿修羅大六天を祀り、村民の安寧と幸福を祈願した。蓋し古くは「第六天社」といった。
明治の初め新政府の神仏分離令により、天神7代の第6代面足尊(於母院流命)を奉斉して胡録神社
と改めさせられた。大きなお世話だ。
 大正3年社殿が再築され、旧高野町の守護神として町民挙げて守り続けて80余年、風雪による老
朽は甚だしく、平成6年神徳高揚のため、待望の社殿改築と神域の諸整備が完了した。これらは敬神
の念が篤い氏子をはじめ、多くの崇敬者が神明に奉仕、浄財の寄進を以て落慶をみた。
 境内鳥居には、大きな龍の頭を持った注連縄が取り付けられ、例年、祭礼前になると、氏子一同に
よって一日仕事で作成される。また古くからお囃子が奉納され、現在でも連綿として受け継がれてい
る。祭神は淤母陀流命。祭日は9月15日。天保十二年(1841)の漱盥石がある。



■足立児童相談所

 3丁目8番、あみだ橋公園に隣接してある。 



■豊川稲荷
 4丁目3番にある小祠。



■足立西郵便局

 4丁目4番にある。昭和39年11月16日興野町95番地に「足立郵便局興野分室」として開局。
同46年10月25日現在地に局舎を移し、区西北部一帯を受持区域として普通局に昇格し「足立西
郵便局」と改称、現在にむ至っている。



西新井小学校

 4丁目9番にある。明治6年12月「第一大区・第五中学区四番公立小学・新井学校」として開校。
足立区の最初の公立小学校として、如法寺本堂を校舎に誕生、生徒数は50名だった。同7年各地(興
野村・本木村2・宮城村・沼田村・鹿浜村・谷在家村・入谷村・伊興村・島根村・堀之内村)に新井
学校の分校を設置したものの、生徒数は少なく、就学思想も余り普及しなかったので、学校の維持運
営(当時は公立とは名のみで、経費は村持ちだった)はなかなかうまくいかず困難だった。そのころ
七番分校が独立して、谷在家村45番地に十一番公立淵江学校が設立されていたが、この学校との合
併の議が起こり、新井学校は淵江学校に吸収され、同10年7月閉校。谷在家村46番地に移転した。
同11年4月卒業生らの請願により旧位置に再興、生徒数120名。同12年如法寺焼失、校舎罹災、
村社をかりて授業。
 同13年近松松次郎が白己所有の土地家屋の一部寄付、これを基に学校再建。彼の名を冠して「近
松小学校」と改名し、淵江学校と統合。同20年興野学校を併合。校舎増築、教室2教室、内1教室
は酒蔵を改造したものだった。この近松小学校の位置は南足立郡西新井村851番地、現在の西新井
第一小学校の北側に当たる。なお如法寺は焼失後廃寺となった。
 同22年本木・興野・西新井3村が合併し西新井村となる。それに伴い、近松小学校は本木小学校
西新井分校となる。後に分教場と称す。大正12年現在地に校舎移転。2階建て8教室を新築。費用
は近松小字校敷地校舎を売却して充当。工事費は村民の寄付。
 昭和4年本木尋常小学校より独立開校、「東京府南足立郡西新井尋常小学校」となる。同7年南安
立郡の東京市に編入により「東京府東京市西新井尋常小学校」となる。同16年勅令第148号国民
学校令により「東京府東京市西新井国民学校」と改称。12月日米開戦。同18年都制施行により「東
京都西新井国民学校」と改称。同19年長野県上高井郡川田村に学童疎開。同20年8月敗戦。同年
10月疎開解除、学童帰校。
 同21年二部授業。同22年学校教育法施行により「東京都足立区立西新井小学校」と改称。同2
3年芸能祭行われる。学芸会、展覧会、バザー、模擬店他幅広い活動。同27年西新井第一小学校を
分校。昭和30年創立25周年記念式典。校歌制定。

 校歌
流れゆたかな」 作詞・小林純一  作曲・中田喜直
  1.流れ豊かな荒川の
    堤を越えて吹いてくる
    風よ あかるい朝風よ
    今日も歌声響かせて
    通う僕たち私たち
    西新井  西新井小学生
  2.光あふれる  大空の
    遥かに浮かび高く飛ぶ
    富士の高嶺よ  白雲よ
    今日も 仰いで健やかに
    伸びる僕たち私たち
    西新井  西新井小学生
  3.古い歴史に名も響く
    大師の寺の高屋根を
    誇る興野よ  わが町よ
    今日も希望をこの胸に
    学ぶ僕たち私たち
    西新井  西新井小学生
 

 同33〜50年逐次鉄筋校舎に改築。同37年興本小学校を分校。同45年体育館・図工室・家庭
科室・普通教室増改築。同47年普通教室11・保健室増改築。同49年プール完成。同50年普通
教室4・図書室増改築。同52年校庭全面改修。同54年創立50周年記念式典。同62年「子ども
の部屋」新設。
 平成2年全館給水施設改修。同3年家庭科室流し台改修・職員室冷房化・校内放送設備改修。同4
年新校舎渡り廊下改修。同6年北側校舎水飲場設置。同7年プール改修・塗装。同8年パソコン室新
設。同9年普通教室・保健室・音楽室改修、多目的室照明改修。同11年校舎外壁・塗装。給食民間
委託。同15年プール改修。同16年創立75周年。




【西伊興】(にしいこう)1〜4丁目                昭和62年10月10日
 伊興村の内。明治22年淵江村大字伊興、同24年独立して伊興村、昭和7年足立区伊興町1丁
目・伊興町大境・伊興町京伝・伊興町五庵・伊興町五反田・伊興町槐戸・伊興町白幡・伊興町諏訪
木・伊興町聖堂・伊興町谷下・伊興町狭間・伊興町番田・伊興町本町・伊興町前沼・伊興町見通・
伊興町吉浜となる。同43年伊興町1丁目と伊興町京伝・伊興町五反田・伊興町槐戸・伊興町諏訪
木・伊興町番田・伊興町吉浜の大部分をあわせた町域を西伊興町とし、同62年その西伊興町の大
部分に上沼田町・谷在家町・加賀皿沼町・古千谷1〜2・4丁目の各一部をあわせた町域を現行の
「西伊興」とした。同63年西伊興町の一部を2丁目に編入している。新開地で特に目立つものは
何もない。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『足立区史』など。

【西伊興町】                          ━新住居表示未実施
 現在残る町域は舎人公園の中の僅かの面積だ。いずれ舎人公園に編入される。
   西伊興町は、いずれも「都立舎人公園」建設地の中にあり、工事の完成を待って住居
   表示を実施します。確定ではありませんが、公園の一部に「舎人公園」という町名が
   ありますので、同町名になるかと思われます。なお舎人町・入谷町はまだ消滅してお
   りません。平成19年2月26日            戸籍住民課住居表示担当

 西伊興について
 
伊興地区の西南部に当たることによる。





【西加平】(にしかへい)1〜2丁目               昭和50年11月1日
 嘉兵衛新田小名西新川・奥・二ツ家・新川の各耕地。明治22年花畑村大字嘉兵衛新田。昭和7
年足立区西加平町。同50年新住居表示により西加平町の大部分に六町・東栗原町の各一部をあわ
せた町域を現行の「西加平」とした。

 西加平の由来
 町域が
綾瀬川以西の嘉兵衛新田であることによる。綾瀬川は正しくは新綾瀬川で、家光のころに
開鑿された運河で東西の嘉兵衛新田を繋いだ橋が嘉兵衛橋で、嘉兵衛の伊藤家は加平小学校の脇に
健在だが、環七通りを渡す新嘉兵衛橋が架けられると、昔ながらの嘉兵衛橋は撤去されてしまった。



■西加平神社(稲荷神社)

 1丁目1番にある嘉兵衛神社新田に祀られていた稲荷神社。祭神は倉稲魂命。例祭は10月16日。
天照大神も合祀している。大鷲神社の管理。境内に天明八年(1788)銘と、天保八年(1837)
銘の庚申塔、寛政十年(1798)九月銘の漱盥石がある。



■庚申塔3基

 1丁目1番の路傍にある。@光背型阿弥陀像。寛文十年(1670)来迎弥陀「為奉供養庚申現當
二世也」の文字と合掌2猿を刻む。A天明八年(1788)日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿「奉
供養庚申講中」を刻む駒型。B天保八年(1837)日月「庚申塔」文字のみの駒型。



■伊藤嘉兵衛家
 1丁目2番にある草分農家。



■環七通り東行き首都高加平ランプ
 1丁目4番にある。西行きランプと合わせて「目玉ランプ」と俗称する。航空写真で見ると、ルー
プ式ダブルデッキの構造が二つ、丸く見えるので、そう呼んだのだろう。

■加平小学校

 1丁目8番にある区立校。昭和40年栗島小学校から分離して開校。平成17年創立40周年。

 校歌
川風受ける学び舎に」 作詞・学校職員一同  作曲・笹倉敬子教諭
  1.川風受ける学び舎に
    明るく胸張り体を鍛え
    加平の子供は伸びて行く
    雄々しく伸びて行く
    希望に燃える我が母校
  2.菊の縁の学び舎に
    楽しく手を取り力を合わせ
    加平の子供は伸びて行く
    優しく伸びて行く
    希望に燃える我が母校
  3.富士の嶺臨む学び舎に
    正しく道踏み心を磨き
    加平の子供は伸びて行く
    賢く伸びて行く
    希望に燃える我が母校


 
学校農園「加平農園」
 平成10年4月から東京都第二区画整理事務所より200坪の土地を借用して、加平農園とする。
その農園で、生徒、教職員、PTAの人たちが、さつまいも、ミニトマト、なす、スイカ、いんげん、
ジャガイモ、大根、人参、花とうもろこしなどを育てる体験活動を行っている。
 地域の農家の協力者に、春と秋の2回、農園を耕して貰う。耕された畑に、子どもたちは種を蒔い
たり、苗を植えたりして、収穫するまでの苦労と喜びを味わっている。
 草取りなどの作業に汗を流して収穫した野菜は、学年ごとに調理したり、給食の食材にしたりして
いる。また生活科・理科・総合的な学習の時間などで、生長の様子を継続観察をし、自然の不思議を
感じたりしている。さらに図工の時間に育てた作物を使って絵を描いたり、ブローチを作ったりして、
豊かな温もりのある学習へと発展させている。
 種を蒔いたり、苗を植えたりした後の計画的な取り組みで、作物はすくすくと生長し喜びと感動を
味わい、夏休みには教職員が雑草取りに精を出し、豊かな実りにつながった。
 収穫した作物は、「収穫祭」を行い、作物を育てた努力や工夫を発表し合ったり、自然の恵みに感
謝したりして全校児童が農園との関わりを深めている。



■東京電力花畑総合制御所・花畑変電所

 2丁目2番にある。現在は足立制御所といっている。




【西竹の塚】(にしたけのつか)1〜2丁目             最終平成9年3月1日
 伊興村。昭和62年10月10日新住居表示により伊興町大境・伊興町見通・竹塚町の各一部を
あわせた町域を新たに「西竹の塚1丁目」とし、平成9年伊興町見通の全部に伊興町前沼をあわせ
た町域を現行の「西竹の塚2丁目」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『足立区史』など。

 西竹の塚について
 東武鉄道を挟んで
竹の塚駅の西側に位置することによる。元々竹ノ塚駅は、伊興町見通(みとお
り)に開設された。だから西竹の塚は竹ノ塚駅西口地区といえなくもない。



■操車場

 1丁目1番に東武鉄道の電車区、東京メトロの広大な検車区がある。



■第十四中学校
 1丁目8番にある。昭和22年淵江小学校内に開校。同35年淵江中を、同51年入谷中をそれぞ
れ分校した。平成9年創立50周年。



■竹ノ塚駅
 2丁目1番にある東武伊勢崎線の停車場。明治33年3月21日の追加開業。東武鉄道が北千住〜
久喜間を開業させた約半年後のことだった。ホームは、複々線の内側の緩行線のみに、地上島式1面
2線のホームがある。ホームと改札階を結ぶエレベーターは未設置。改札口は1ヶ所のみで、橋上駅
舎内にある。出口は東口と西口の2ヶ所で、いずれの出口にもエレベーターが設置されている。東口
は駅ビル「T BOX」を併設。駅南側には東京メトロ日比谷線の竹ノ塚検車区があるため、一部に竹ノ
塚を始発・終着とする電車もある。



竹ノ塚駅踏切事故
 竹ノ塚の駅は駅の両側を有人踏切に挟まれた、今時極めて珍しい駅だった。平成17年3月15日
夕方4時50分ごろ南側の第37号踏切において、踏切保安員小松完治(52)が準急列車の接近中
にもかかわらず誤って遮断機を上げてしまう事故が発生。つられて踏切内に入った4人が太田発浅草
行きの上り準急電車(六両編成)にはねられ、主婦2人は病院に運ばれたが死亡、踏切周辺にいた女
性2人が負傷するという大惨事となった。警視庁捜査一課と竹の塚署は小松が誤って遮断機を上げた
と認めたため、業務上過失致死傷容疑で捜査。現場は「開かずの踏切」と
して有名だった。
 調べでは、死亡したのは同区内に住む保険外交員で主婦の宮崎季萍(きへい 38)と専業主婦高
橋俊枝(75)。怪我をしたのは、近くに立っていた女性(55)と自転車に乗っていた女性(44)
で、足や頭に軽傷。自転車の女性は後部に女児(5)を乗せていたが、女児に怪我はなかった。
 この事故を機に、同年9月24日に北側の踏切が、同29日には事故のあった南側の踏切が順次自
動化された。これで人為ミスは防げることとなったが、開かずの踏切であることは依然として解消さ
れない。また自動化によって、閉まっている間もずっと警報音が鳴り続けるようになるという副作用
が発生した。手動時代は閉まっているときは切ってた。
 東武鉄道は、これまでエレベーターのなかった竹ノ塚駅西口にエレベーターを設置し、竹ノ塚駅の
自由通路としての機能を強化、また踏切付近には自転車も通行可能なエレベーター付き跨線が完成し、
線路の横断は事故前に比べて幾分か楽になった。しかし根本的解決にはほど遠く、鉄道の高架化か、
地下化をしなければ事故の根絶はあるまい。

 その後
 小松は懲戒解雇され、同年12月19日検察により2年6月を求刑された。同18年2月3日判決
があり、懲役1年6月の実刑が言い渡され、2月18日刑が確定して直ちに収監された。3月15日
1年経って踏切付近で追悼式が執り行われた。3月27日元駅長と元本社運転課課長補佐の2人は不
起訴となった。しかし遺族が東京第一検察審査会に不起訴不当を申し立て、同19年1月19日審査
会は不起訴不当と議決した。しかし東京地検は平成19年5月3日までに、再び嫌疑不十分で不起訴
とした。



■伸光堂
 2丁目4番にある和菓子司。この店は自家製菓子にこだわり、大量生産店にはできない保存料や添
加物などを使わない一つ一つ手作りの和菓子をモットーとしている。大福は勿論もち米100%、お
団子も上新粉100%で自然のおいしさを届けている。また若い者にも和菓子の美味さを楽しめるよ
うに、甘さ控えめの新作和菓子にも力を入れている。

 山家の里(やまやのさと)
 さつま芋を練り込んだあんを、卵タップリの生地で包み、オーブンで焼き上げた菓子。控えめで自
然なさつま芋の甘さが、老若男女問わずに人気がある。




【西保木間】(にしほきま)1〜4丁目                昭和41年11月1日
 伊興町谷下。明治22年淵江村大字保木間、昭和7年足立区保木間町。同41年伊興町谷下の大
部分に竹塚町と保木間町の各一部をあわせた町域を現行の「西保木間」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『足立区史』など。

 西保木間の由来
 日光街道(国道4号線)を境として
保木間の西半に当たることによる。町の西縁を旧日光街道が
通り、淵江小学校がある。その小学校の南の道は流山道だ。



■渕江小学校
 1丁目10番にある区立校。明治9年十七番公立小学竹島学校開校。同11年朴堂尋常小学校開校。
同34年両校が合併して淵江尋常高等小学校として創立。大正15年村長坂田新之介ほか村民有志の
熱意により、近郷唯一の鉄筋コンクリート校舎増築。昭和16年東京市淵江国民学校と校名変更。同
18年東京都淵江国民学校と改称。同22年区立淵江小学校と改称。同26年創立50周年。同34
年保木間小学校を分校。同42年淵江第一小学校を分校。同43年竹の塚小学校を分校。同44年淵
江第二小学校を分校。平成13年創立100周年。 二宮尊徳像が今もあるという、流行に流されな
い立派な学校だ。

 校歌
広い青空」 作詞・勝承夫  作曲・平井康三郎
  1.広い青空 淵江の空は
    希望溢れる光の空だ
    我らは楽しい淵江の子供
    雲雀のように元気よく
    文化の国に飛び立とう

  2.




■氷川神社
 1丁目の11番、小学校の東にある。この地は古来千葉氏の陣屋跡と伝わっている。『新編武蔵風
土記稿』には千葉氏はその関係地に信仰する妙見社を祀る。ここにも妙見社があり、最近まで神社南
の用水堀の橋名が「天神前橋」だったから、江戸時代氷川神社は天満宮だったろう。またその頃は伊
興・保木間・竹の塚の3村の鎮守は伊興の氷川神社だった。明治の初めそれらの3村の小社祠は伊興
氷川社に合祀されたが、暫くするとまた分祀した。明治4年神仏分離の際、宝積院は境内の大部分を
天満宮に与えたというから、そのころの出来事だろう。伊興氷川社から分離後は氷川神社を称え、天
照大神・素戔嗚尊・菅原道真の3神を祭神として今日に至っている。
 この神社は、鉱毒事件で有名な「田中正造」が、農民の押し出しを説得し、暴動となるのを防いだ
ところでもある。神社の奥に谷古宇氏の屋敷が、境内にある神明鳥居は宝暦十二年(1762)の刻
がある。

 夜泣き地蔵
 地蔵が夜泣きをするのではなく、赤ん坊の「疳の虫」を抑えてくれる地蔵尊だ。夜になると泣き出
して朝まで泣き続ける子にほとほと疲れ果てた母親が、この寺の地蔵に縋って虫切りをしてくれと祈
願したところ、その日からぴたりと夜泣きが止んだことから、この地蔵は夜泣きを止めてくれると評
判となり、夜泣きに悩む母親たちが踵を接して押し寄せるようになった。



北当山宝積院神宮寺

 1丁目の11番にある新義真言宗豊山派の寺。本尊は如意輪観音。隣の氷川神社(妙見社・天満宮)
の別当寺だったので号を「北斗山神宮寺」とした。妙見さんは北斗信仰で、江戸時代における寺域は
1000余坪、その一隅に天満宮を造立した。山寺号はこれによった。現在は「北当山」。明治4年
の神仏分離の際、大部分を天満宮に譲り、現在の規模になった。大正4年9月火災に罹り、本堂本尊
悉く焼失したが、翌5年5月に再建された。境内に天保十四年(1843)「南無遍照金剛」の碑が
ある。



■谷古宇家
 1丁目12番、神社の奥にある古い家柄。



古谷野山大乗院寶持寺
 2丁目14番、氷川社東の長い大門(1丁目13番と16番の間の道)を北に進むと突き当たると
ころにある単立寺。かつて新義真言宗だった。創建の時期は詳らかではないが、鎌倉時代を下ること
はなく、文永九年(1272)の草創だろうという。中興は賢勝阿闍梨。往時は七堂伽藍の完備した
関東屈指の名刹だったという。文明・文化と二度の火災で諸堂宇を焼いたが、本尊聖観世音と薬師如
来立像は災いを免れた。現在の本堂は文化四年(1807)の建築で、薬師如来は平安時代の作だと
いう。『新編武蔵風土記稿』には行基作の地蔵と千手観音があるように記されているが、現存するの
は本尊の聖観音像と薬師如来だけだ。

 板碑出土
 昭和24年(「足立区の歴史」では昭和14年)本堂裏の畑地から正応や応永・文明の銘の板碑が
続々と出土した。正応二年(1289)の釈迦一尊種子板碑は、区内では古い方に属し、文明元年(1
469)の阿弥陀三尊種子板碑は、中興賢勝阿闇梨の板碑で、共に中世の好資料なのだ。同53年に
も北側の西保木間公園造成の折、地表下約1mから応永八年(1401)の板碑が出土しているので。
鎌倉期に造立され室町期に隆盛を極めたという伝承も実証されるかな。その他に薬師如来像もあり、
何れも鎌倉期のものと考えられるが造像年は記録がない。

 
じんがんなわ祭
 この寺で、保木間村大門厨子の人々によって、毎年正月7日に行われ、400年以上も続いている
奇祭だ。厨子(部落)の人々が藁を持ち寄り、薬師のお使いである白蛇を作り、境内の大樹に渡らせ、
一同で大根の干葉入り塩抜き粥をすすりあって厄除息災を祈る変った風習だ。今も古式通り行われて
おり、子どもたちが参加して、じんがんなわ大門保存会とともに無病息災を祈っている。



神寿山法華寺
 3丁目19番にある日蓮宗の寺で、本尊は日蓮上人奠定の大曼荼羅だ。天保六年(1835)開山
日城上人よって小塚原刑場の地に小塚原法華庵が創立されたが、大正12年の大震災で焼けたため、
北区岩淵に移り、さらに昭和3年寺域を陸軍に取り上げられたことにより現在地に移転してきた。嘉
永六年(1853)十月建立の無縁塚がある。



■淵江第二小学校 廃校
 4丁目2番にあった。昭和43年淵江小学校分校として設立。同44年独立して淵江第二小学校開
校。同51年竹の塚北小学校を分校。平成9年3月31日閉校し、翌月1日から竹の塚北小学校と統
合して西保木間小学校となった。



■西保木間小学校
 4丁目2番にある。平成9年4月1日淵江第二小学校と竹の塚北小学校を統合して開校した。平成
18年創立10周年。



■足立区スイムスポーツセンターうきうき館
 4丁目10番にある水泳場。



■水神宮
 4丁目14番にある。毛長川が日光街道旧道を渡す橋を小宮橋といった。現在は水神橋と命名され
ている。昔この地に吉野(南朝)の忠臣だった小宮某という者が世を憚って住んでいた。ある日退屈
凌ぎに沼で釣りをしていると、後ろの森から大蛇が出てきて小宮を飲み込もうとした。小宮は豪勇の
士だったので、これに怯まず立ち向かい、直ちに刀を抜いて斬り殺したが、哀れにも蛇の毒気に当て
られて間もなく死んでしまった。人々は亡骸をここに葬り、エノキを植えて目印とし、また一方の蛇
の祟りを恐れてその霊を水神として祭った。昔は「水神の池」という沼と「小宮榎」という三抱え余
りの老榎があった。川の北方にあったものを現在地に移したという。。




【花畑】(はなはた)1〜8丁目                    昭和53年2月8日
 江戸袋庄。花又村。明治22年「市制町村制」により花又村・嘉兵衛新田・久左衛門新田・長左
衛門新田・内匠新田・久右衛門新田・辰沼新田・六ツ木村が合併して足立郡「花畑村」が成立花又
はその大字となった。昭和7年足立区が成立して花又は「花畑町」に改め、同37年に成立した「新
住居表示法」では施行除外地区とされたものの、その後の発展で同53年に新住居表示を実施、花
畑町・保木間町の各一部をあわせた町域を現行の「花畑」とした。
 番地はまだ完全に整理されてはおらず、1丁目32〜35番が調整中で、2丁目に飛地がある。
2丁目1、3〜9番は欠番で2、10〜18番が表示されているが、1丁目に飛地がある。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『足立区史』など。

 花畑の由来
 春になると時々マスコミなどから区役所に問い合わせがある。「いま花畑ではどんな花が咲いて
ますか?」。花畑にお花畑≠ネんかないよ! 
 花又の花は「鼻」で「岬・とがった所」、又は「俣」で、花又は鼻俣。綾瀬川と毛長川が出合い
三角地帯をなすところから起きた地名だ。ここにも源家伝説はある。兄八幡太郎義家を助けて奥州
征伐に向かう途中、新羅三郎義光は、この地の正覚院に立ち寄り、住職に自分の守り本尊を預け、
戦いの勝利と源家安泰を祈願を頼んだ。戦いに勝利した義光が、再び正覚院を訪れると、住職が

   「(凱旋は)枯れ木に花又が咲く如くなり」

 と祝いの言葉を述べた。義光はこの言葉を非常に喜び、「花又」をこの土地の名とするようにいっ
たので、花又が村の名になったというものだ。ならその以前は何という村名だったのか?
 新しい町名はこの辺り一円が畑地だったことから「畑」の字を取り、それに一番大きな村だった
花又の「花」の字を被せた合成地名だ。切花栽培は大幅に減少はしたが足立区・葛飾区・江戸川区
では盛んに行われている。その意味での足立区のお花畑は江北地区だ。大正から昭和にかけて都内
随一を誇った。特に西新井の夏菊は、大久保の躑躅(つつじ)、堀切の花菖蒲とともに江戸三大名
花に数えられた。



■ニワトリ鶏の鳴き真似に水

 花畑には鶏肉と鶏卵を食べない禁忌と、宵から夜中子の刻までに、子供が寝ぼけたり、または故意
に「コケコッコー」と鶏の鳴き真似をすると、例え寒い冬であろうと、頭から水を浴びせたそうだ。
普通鶏は習性として夜明けになると「コケコッコー」と朝を告げるものだ。ところが、そんな習性の
ため、火事で周りが明るくなっても、コケコッコーとやってしまうのだ。鶏が鳴くべきとき以外に鳴
くのは、火事の場合のほかないのだ。宵から子の刻にかけて、それが例え鳴き真似であっても、火事
を意味して、けして縁起のよいものではない。火事は水をかけることにより食い止められる。縁起を
担ぐ上から、鳴き真似をした火元の本人に水をかけ、気休めの手立てを講じたようだ。しかし鶏の朝
鳴きは、闇を払う魔除けの役割を果たすと信じられていた。



■神社
 1丁目1番の駐車場の中にある小祠。



提根山薬師院林松寺

 1丁目4番(旧花畑町2123番地)堤根厨子にある浄土宗鎮西派の寺。本尊は阿弥陀如来。



■太陽歯科衛生士専門学校

 1丁目17番にある専修学校。



■花畑第一小学校

 1丁目29にある区立校。昭和38年花畑小学校分校として発足。同40年花畑第一小学校として
独立開校。同46年花畑西小学校を分校。同47年花畑東小学校を分校。同49年桑袋小学校を分校。
平成17年創立40周年。

 校歌
緑に晴れた大空に」 作詞・岡田純夫  作曲・阿部康子
  1.緑に晴れた大空に
    広がる夢よ 憧れよ
    希望に燃えて溌剌と
    学ぶ花畑第一の
    僕は 私は 知恵の子だ
  2.遥かな富士の峰が呼ぶ
    明るい窓よ 学び舎よ
    豊かな心 育てつつ
    励む花畑第一の
    僕は 私は 意気の子だ

  3.
友情堅く 手を組めば
    溢れる歌よ 喜びよ
    理想を目指し 健やかに
    伸びる花畑第一の
    僕は 私は 明日の子だ




■花畑中学校
 1丁目31番にある。昭和41年第十三中学校から分離して開校。同53年花畑北中学校を分校し
た。平成17年創立40周年。



■樫の木公園

 2丁目番地未整理地区にある区立公園。

 
碑?

 公園の中にある。地図で発見。公園の門柱というか、銘板というか、公園の名を記したものが石碑
のように立派なのでそれか? 花畑土地区画整理組合とあり、区議会議員黒田清の名があるので記念
碑を兼ねているのだろう。



暁月山林松院実性寺
 3丁目17番(旧花畑町1821番地)、中組厨子にある浄土宗の寺。本尊は阿弥陀仏。もと下総
国東葛飾郡小金の東漸寺末。延徳四年(1492)に増上寺第五世天誉上人光蓮院了聞が隠居寺とし
て建てたのが始まりで、了聞は享禄七年(天文三年=1534)五月八日に示寂している。開基は斉
田左衛門尉頼康だが、彼は小田原北条氏の一族で、岩槻城主太田氏の子だったと伝えられていると『新
編武蔵風土記稿』にある。
 墓地に横浜ではじめてクリーニング業を始めたという西洋洗濯の業祖遠山由蔵の墓や、儒者で画家
の牧野隆章の墓、神楽師匠藤野栄三郎の墓、寛文六年(1666)銘の「百万遍の塔」などがある。

 
遠山由蔵の墓
 区の資料では、西洋洗濯の業祖としているが、横浜市中区山手町、みなとみらい線「元町・中華街
駅」の元町側出口のすぐ東、谷戸坂からフランス山公園へ入る入口に、自然石の大きな石碑が建って
いる。「クリーニング業発祥の地」碑だ。 その碑文には遠山の名はない。

   安政六年神奈川宿の人青木屋忠七氏 西洋洗濯業を横浜本町1丁目 現在の5丁目にて始
   め、ついで岡澤直次郎氏横浜元町に清水屋を開業。慶応3年脇澤金次郎氏これを継承し、
   近代企業化の基礎を成した。この間フランス人ドンバル氏斯業の技術指導および普及発
   展に貢献されたこれら業祖偉業を顕彰し、こゝにクリーニング業発祥の地記念碑を建立
   する
   昭和48年10月吉日           神奈川県クリーニング環境衛生同業組合
                           全国クリーニング同業者有志一同


 
百万遍
 年番が大数珠と鉦を持って各戸を廻った。家に着くとカンカンカンと鉦を叩き、その家の人と共に
数珠を回して厄除けの祈願をした。各家からは5銭を納めて貰い、その集まった金で飴菓子などを購
入し子どもたちに配った。百万遍の札は神社から出て、それを村境に立てて悪病が入ら
ないように願った。



■神社

 3丁目18番にある小祠。



花亦山西光院東善寺
 3丁目20番(旧花畑町811番地 中組厨子)にある3つとない時宗の寺。本尊は伝恵心僧都作
の阿弥陀如来。もと伊興の応現寺の末。後村上天皇時代(1339〜47)の創建で、開山は康安元
年(1361)応現寺3世の三阿弥陀仏という。寺前にその板碑がある。



鷲王山正覚院宝蔵寺

 3丁目24番(旧花畑町2691番地)、会組厨子にある真言宗豊山派の寺。寛治年中(1087
〜93)新羅三郎義光の創建という。鷲王山の山号の通り大鷲神社の別当。『新編武蔵風土記稿』に
鷲明神の縁起が漢文体で書かれているが、初めこれを書いたのは同院の僧光海で、応徳二年(108
5)のことだそうだ。かなり古いんだよ。
 本堂は昭和50年ごろの新築で、鉄筋コンクリート造り。この建物の鬼瓦、軒瓦に佐竹氏家紋の「扇
に月丸」が描かれているのは、大鷲神社と同じ理由で、出羽秋田藩佐竹家が庇護した縁故によるもの
だ。佐竹氏は源氏だ。
 墓地に「元和壬戌年(1622)十月十二日」と刻す一石五輪塔がある。また嘉暦二年(1327)
八月の板碑も出た。

 
乳垂れ銀杏
 境内の真ん中にある巨樹。目通り周囲3.4m 。枝下に下がる気根が夥しく、大きな物は80cm
にも及ぶ。

 
釈迦殿
 本堂の左手にある古い堂で、新羅三郎義光の護身の本尊、鷲に乗った釈迦如来を本地仏としている。
普通川崎・佐野・西新井の3大師の何れかにお参りして厄除けを祈願したが、そっちへ行けなかった
人は、4月8日の花祭りにこの釈迦殿で厄除け祈願をしたものだ。

 区内最古の庚申塔
 表参道にある。小松石に弥陀三尊をレリーフしたもので、

   奉行待庚申供養塔 現世安穏後世善処 元和玖癸亥年二月十二日 武蔵花又村室泉坊
   其他八人



■矢納弁天

 3丁目25番にある小祠。



■花畑町土地区画整理組合記念公園
 3丁目28番にある砂地の広場公園だ。

 
記念碑
 「花畑町土地区画整理組合 記念公園 理事長本多孝一」とあるので、公園の銘板というより記念
碑として建てたものだろう。よほど土地に思いがあると思われる。開発されて発展する喜びと古き良
きものが失われていく悲しさが綯い交ぜになって、複雑な心境なんだろうね。



■神社

 4丁目8番にある小祠。



■花畑センター

 4丁目16番にある区の施設。区民事務所・住区センター・体育館・学童保育室・高齢者作業場・
地域学習センター・花畑図書館がある。



■三吉野
 4丁目25番にある「足立60景」に選ばれた花畑公園の側、バス通りに面してある和菓子屋だ。
製造直売の店ならではの本物の味わいを届けて30余年、串団子やお饅頭など、お馴染みの和菓子に
加え、春は桜餅や柏餅、夏は水ようかんに葛桜、秋は栗蒸しようかん、冬は大福やつきたての餅と、
四季折々の美味しさを数々ご用意して待ち構えている。

 串団子
 一口噛むと軟らかく、それでいてコシのある団子にあんが絡んで、香ばしさが口中に広がる。高級
上新粉使用の串団子(みたらし・こし餡)は1本、ん十円。



花畑西小学校
 
 4丁目21番にある区立校。昭和46年花畑第一小学校から分校独立。平成18年創立35周
年。

 校歌
高く広がる青い空」 作詞・邨生順久 補作・福田靖子  作曲・福田靖子
  1.高く広がる青い空
    明日の希望に胸を張り
    肩を組みつつ元気よく
    技を磨いて頑張る子
    白い校舎が聳えてる
    ああ僕らの花西
    僕らの花西小学校
  2.渡る緑の微風に
    明るい歌声響かせて
    腕を取り合い元気よく
    体を鍛える丈夫な子
    光る校舎が呼んでいる
    ああ私の花西
    私の花西小学校
  3.その名懐かし花畑の
    古き歴史を映す雲
    未来を誓い元気よく
    心豊かな優しい子
    高い校舎が聳えてる
    ああみんなの花西
    みんなの花西小学校
 



■サクラの名所花畑公園

 4丁目40番にある。周囲を桜木に囲まれた広場公園。

 じゃぶじゃぶ池
 小さい子たちが、安心して水に親しんで遊べるように整備された無料の施設だ。区内に21ヶ所あ
り、それぞれ特徴がある。オムツの取れた赤ちゃん以上の幼児が、保護者同伴で夏の間だけ利用でき
る。事故が起きないよういろいろ制約があるのは当然だ。



■花畑記念庭園

 4丁目40番にある区の施設。区制50周年を記念して花畑公園の西側に建設された9400uの
敷地を有する記念庭園で、区が日本文化に親しむ場を身近に実現させたもの。園の周囲は、石垣と築
地塀に囲まれ、南側と西側を流れる堀とあわせた姿は、日本の古い城郭を思わせる。庭園は、滝、池、
小川、築山などのある「池泉廻遊式」の日本庭園だ。庭のところどころには、雪見灯篭、四阿(あづ
まや)、春日灯篭などが配置され趣を添え、四季折々の花たちが訪れる人の目を楽しませてくれる。
駐車場完備。

 
桜花亭
 園内の集会施設。日本庭園を一望できる日本間、茶室、洋室を備えており、会議、宴会、披露宴、
茶道、華道、琴など多目的に利用されている。有料。



■富士神社(浅間神社)

 5丁目10番、花畑団地にある。初め浅間社と称し富士・浅間の2座だったが、明治4年富士神社
に改めた。祭神は木花開耶姫命。昭和37年団地建設が始まる以前は、毛長川の南の水田地帯の只中
にあり、この神社だけが円墳状の塚をなしていた。それで「野良浅間」とか「野浅間」といわれたも
んさ。花又の富士講中の造った火山岩の築山があり、樹木も多く。この辺りだけがスポットで昔を忍
ばせている。祭日は7月1日。享保二年(1735)九月銘の漱盥石がある。

 
雨乞い
 昔、花又村では田植えが終わり、7月の初旬頃、「照られちゃってしょうがない時」に行われた。
村の四つのズシの人が集まり、神社の池を掻掘(かいぼり)して太い泥鰌(ドジョウ)を捕まえると
桶に入れ、神前に置き、富士講の先達たちが雨乞いの儀式を執行した。祈願が終わると泥鰌は池に戻
してやった。戦後20年代に行われたのが最後になった。町場になった今は、雨の降らないことを祈
るばかりだ。



■花畑団地
 5丁目の90%を占める広大な団地だ。



■白山塚の白山様

 今はなき白山塚は、今は花畑団地となり無くなってしまったが、団地造成以前は、大鷲神社と浅間
神社の中間辺りの広い耕地の中に、古墳が小高くこんもりとした竹薮の茂みを持っていた。頂部には
40cmほどの石碑が建っていて白山権現「白山様」が祀られていた。歯痛に霊験があり、祈願して
治った時に「楊枝」を供えるという風習あった。白山様は大鷲神社に移された。

 
一本松のお焚き上げ
 この「白山様」の近くに目立つ一本の松の木があった。その松の前でお焚き上げを行ったので「一
本松のお焚き上げ」と呼ばれ、稲藁や麦藁を燃やしていた。「一本松の虫除け」ともいったので、冬
場、木の幹に巻いていた藁に虫が籠もるので、それを燃やしたのだろう。その日は菓子などを配るの
で、子どもたちには嬉しい年中行事だった。



■花畑東小学校 廃校
 6丁目4番にあった。昭和47年花畑第一小学校から独立し開校。平成9年3月31日閉校して、
翌月1日から桑袋小学校と統合し「桜花小学校」となった。



■桜花小学校
 6丁目4番にある区立校。平成9年4月1日桑袋小学校と花畑東小学校を統合して新設した。



■浅間第一公園

 6丁目12番にある草ッ原の区立公園。広々としている。子どもが走り回るのにいいし、ピクニッ
クなんか最高だよ。弁当持って集合!



■花畑北中学校

 6丁目12番にある。昭和53年花畑中学校から分離して開校した。



■諏訪神社

 6丁目12番6号にある。祭神は建御名方命。旧花又村の外河原厨子で祀っている。厨子とは講中、
町会、共同体のようなもの。地域の互助組織だ。



東海山福寿院
 6丁目15番(旧花畑町280番地)鷲宿厨子にある新義真言宗豊山派の寺。もと西新井大師総持
寺の末だった。中興開山は寛文十一年(1671)正月十五日に寂した長加大僧都で、墓地に五輪塔
がある。本堂は文化五年(1808)八月の建築で、『新編武蔵風土記稿』には「福寿坊」と出てい
て、現在は廃寺となった法泉寺門徒だと書いてある。寺宝として天保六年(1835)の十王の仏画
10幅を管理しており、また大鷲神社祈祷獅子の獅子頭装束・道具一式を保管するとともに、獅子舞
はここから出発する。墓地に正徳三年(1713)九月の庚申塔、宝暦六年(1756)十月、安永
九年(1780)二月の宝篋印塔がある。



大鷲神社
 7丁目15番にある。おおとりじんじゃ 祭神は日本武尊。開運出世・商売繁盛の神様。創建は不
詳。古来は「鷲明神」、明治には「鷲神社」と呼ばれ、 昭和43年に現在の「大鷲神社」となる。
都市化した区内にあって古来からの神社形態を色濃く残した神社といっていいだろう。一の鳥居・二
の鳥居・三の鳥居と続く長い参道両側には鬱蒼と古木が繁り、昼なお暗い様相だ。日本武尊を主神と
して祀り、創建は宝治の頃(13世紀中頃)というものの、祭祀を行ったのは遥かにもっと古いだろ
う。
 拝殿は寛永元年(1624)に再建されたもので、本殿は嘉永七年(安政元年=1854)から2
2年を要して明治8年に再建された豪壮なものだ。建てたのは旧文殊院吉田左近則之という宮大工で、
本殿向拝の柱に見る上り竜・下り竜の彫刻は美術的にも優れており、名工だったようだ。形式は四方
入母屋流れ造りで、拝殿とも平成の初めに補修した。軒瓦に秋田藩佐竹家の家紋の「扇に月丸」があ
るのは、正覚院釈迦堂と同じで、幕命により佐竹家が建立し、その庇護の篤かったことを物語ってい
る。

 
オトリサマ・酉の市発祥の地
 ここの氏子は、日本武尊が鶏卵鶏肉を好んだことから、自分たちが食べては勿体ないということで
禁忌ととし、これが「お酉さま」の由来といわれている。
 奥州へ新羅三郎義光が綾瀬川で体を清めて戦いの勝利を祈ると、義光を守るかのように、一羽の鷲
が上空を旋回した。すると綾瀬川の水が、白旗の靡くように白く輝き、兵士たちの鎧が光を放ち始め
た。この様子を見た義光は、戦に勝つことが出来ると喜び、奥州へと向かい、合戦に勝利することが
できた。それ以来この村では、11月の酉の日の夜には、鷲が飛び、綾瀬川が白く輝くということに
なった。そこで鷲を祀り、鷲明神として社を建立した。
 応永年間(1394〜1428)以来、11月酉の日に例大祭を行い、それを「とりのまち」と称
したことから「酉の市」発祥の地として知られ、境内で売られているところの熊手は「かっこめ」と
呼ばれ「かっこむ」「とりこむ」など縁起を集めるものとしてお守りとなり、それが淺草に伝わり、
やがて全国的に広がったといわれている。一般には「オトリサマ」と呼ばれているが、昔は「トノマ
チ」とも呼ばれた。三の酉のある年は三の酉まで賑わうが、11月に3回ある年は火事が多いといわ
れ、特に火元の注意がはらわれていた。
 オトリサマでは、境内に数軒の店が出て熊手市が開かれるほかに、焼きそば、お好み焼き、たこ焼
き、きりたんぽ、とうがらし、綿飴、射的、お面、干物、りんご飴、クレープ、コーヒーなど様々な
露店が立ち並び、多くの参詣者で賑わう。特に夕方から宵のうちにかけては社前に進むのに暫く並ば
ねばならぬほど賑わう。商売をしている家や事業所では熊手を求め、その都度手打ちの音が響く。神
社でも熊手を用意しているよ。
 参詣者は都内ばかりでなく、埼玉県方面からもくる。川口、鳩ヶ谷、草加、春日部、越谷、三郷、
八潮、吉川などで、千葉県の松戸、流山、野田、柏方面からも多く訪れている。特に七五三祝いとし
てオトリサマ参りをすることが古くから行われている。
 またオトリサマに合わせて境内で献菊会による菊花祭が開かれ展覧会が行われる。

 
大祭(おおまつり)
 12年に一度の酉年に行われている。昔は33年に一度行われていたが、間隔が長すぎるので12
年になったといわれているが、大正末期には既に12年になっていた。大祭はオトリサマと重ならな
いよう十月の酉の日か日曜日に行われ、それが並ぶか、重なるのが一番良いとされる。祭は2日間に
亘って行われる。祭典を厳粛に挙行し神輿を出す。担ぐのは氏子の若い衆(ワカイシ)で、千貫神輿
といわれるように大変に重いので、ワカイシはどんどん交替しながら担いだ。担ぎ手には40歳ぐら
いまでの人が加わるが、ワカイシはまだ肩が出来ていないから、それを補うためだ。掛け声は「ワッ
ショイ」だったが、最近は「セイヤ」に変わってしまった。


 祈祷獅子舞

 7月15日(現在は7月の第3日曜日11時〜16時)に3頭の獅子が舞う「花畑獅子舞」が奉納
される。獅子は一人立ちで雄2匹と雌1匹の3匹で舞うものだ。伝説では、この獅子頭三つは大洪水
の時、六月村から流れついたという。判ってたら返せよ。徳川中期以降次第に大鷲神社の酉の日参詣
する人が多くなり、祭事にこれを指導し、舞う人養成されたので、雨乞いや疫病祓いの行事として盛
んに行われるようになった。悪魔払いの時につける大獅子の角に「天下一江戸の角兵衛」と作者の名
前が刻まれている。そうか・・・「角兵衛獅子」というのは獅子頭の名前なんだ。なるほど・・・こ
の日は初詣や酉の市に勝るとも劣らない参詣者で賑わう賑わう。凄いよ! 



■神社
 7丁目16番、大鷲神社の北、裏手にある小祠。



■都立足立養護学校
 7丁目23番にある。



■桑袋小学校 廃校
 8丁目2番の桑袋ビオトープ公園のところにあった。昭和49年花畑第一小学校から分校。平成9
年3月31日廃校。翌月1日花畑東小学校と統合して桜花小学校となった。



■桑袋ビオトープ公園
 8丁目2番、桑袋小学校の跡地にある区立公園。



■花畑団地
 8丁目の90%を占める。広大な都営花畑第4アパートという巨大団地だ。




【東綾瀬】(ひがしあやせ)1〜3丁目                昭和40年5月1日
 普賢寺村・北三谷村。明治22年東淵江村大字普賢寺・北三谷、昭和7年足立区普賢寺町・北三
谷町。同40年両町の大部分をあわせた町域を現行の「東綾瀬」とした。北三谷村は慶長十九年(1
614)河合平内らによって開発された。普賢寺村については一切が詳細不明。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『足立区史』など。

 東綾瀬の由来
 普賢寺でもなく北三谷でもない。妙案が浮かばず、挙句の果てに
綾瀬地区の東外側に位置するこ
とから安直な選択をした。これを称して「東西南北上中下」という。



■児童交通公園

 1丁目5番にある。足踏み式ゴーカート、三輪車が無料で借りられる。対象は幼児が中心。他にコ
ース内外には、遊具もある。



■下河原公園

 1丁目11番にある。

 
じゃぶじゃぶ池
 小さい子たちが、安心して水に親しんで遊べるように整備された無料の施設だ。区内に21ヶ所あ
り、それぞれ特徴がある。ここは池の中の怪獣くんと水遊び。オムツの取れた赤ちゃん以上の幼児が、
保護者同伴で夏の間だけ利用できる。事故が起きないよういろいろ制約があるのは当然だ。



■庚申塔

 1丁目19番にある。日月・青面金剛「奉造立庚申供養…」一鬼・二鶏・三猿を刻む。



■東綾瀬小学校

 2丁目15番地にある区立校。昭和51年綾瀬小学校から分校、一部北三谷小学校の学区を譲り受
ける。平成18年創立30周年。

 校歌
」 作詞・勝承夫  作曲・平井康三郎
  1.光 希望 溢れる力
    吾等の日々は 楽しく進む
    愉快な事も 苦しい事も
    みんな分け合う 良い気風
    何でも頑張る 東綾瀬
  2.心 体 いよいよ元気
    豊かな明日を夢見るように
    青空映す屋上プール
    花壇の緑も清らかに
    伸び行く誇り 東綾瀬
  3.雲よ 風よ 輝く大地
    若木の楠も 仲良く強く
    大きく根を張れ
    
いつでも丈夫に溌溂と
    歌おう 吾等 東綾瀬
 



■八ケ村落し親水緑道

 都市の中に残された貴重な自然を大切に保存し、区民の憩いの場所になることを願って、かつての
「八ヶ村落堀」(はっかそんおとしぼり)を整備改修したのもだ。八ケ村落し堀は、江戸時代にこの
辺りが開発新田だった頃、悪水(冷水)の排除のため、現在の足立区東部を北の六木から大谷田、東
和を通り、綾瀬に入る長い水路を拵えた。この名前の由来となった「八ヶ村」とは、明治22年の町
村制実施まで続いていた六木・佐野新田・大谷田・蒲原(かばら)北三谷・普賢寺、五兵衛新田、伊
藤谷の八つの村を指していて、水路がこの地域を経由していた事から「八ヶ村落し堀」と呼ばれてい
た。「落し」とは「排水」の意だ。
 なお、その後の町の発展と土地区画整理のより一部流路が変ったりしたが、町並みの整備が進み、
下水道の普及に伴い、「八ケ村落し堀」はその役割を終えることになった。この「八ヶ村落し堀」を
整備し「葛西用水親水水路」までの道程に緑道が設けられた。

 
じゃぶじゃぶ池
 2丁目17番にある。八ヶ村落し親水緑道の途中、都立東綾瀬公園に隣接してある幼児用プール。
2歳以上のおしめのとれた幼児なら可。



■東綾瀬公園

 3丁目4番を中心にある都立公園。地下鉄千代田線と常磐線の乗入駅、綾瀬駅前から点在する広場
を遊歩道で繋ぎ、逆Uの字の形にした公園だ。 ここは、かつて水田でしたが、区画整理事業から生
み出された余地を苦肉の策で公園にしたもの。公園の全長は約2Kmで、園内には、サクラ、ラクウ
ショウ、モミジバフウ、ツツジなど季節感を味わえる樹々が植えられている。公園西側の遊歩道沿い
には、花畑川を水源とするかつての農業用水を生かしたせせらぎが流れ、健康遊具やゲートボール場
などが設置されている。また公園北側周辺には緑に囲まれた各種の運動施設がある。現在スポーツが
できる公園として野球場、テニスコート、武道館、温水プールなどを備えており、年齢を問わず楽し
める公園としても脚光を浴びている。



■東綾瀬団地

 3丁目の大半を占める巨大団地。




【東伊興】(ひがしいこう)1〜4丁目             最終平成13年11月17日
 伊興村の内。明治22年淵江村大字伊興、同24年独立して伊興村、昭和7年足立区伊興町一丁
目・伊興町大境・伊興町京伝・伊興町五庵・伊興町五反田・伊興町槐戸・伊興町白幡・伊興町諏訪
木・伊興町聖堂・伊興町谷下・伊興町狭間・伊興町番田・伊興町本町・伊興町前沼・伊興町見通・
伊興町吉浜となる。同43年5月15日新住居表示により伊興町聖堂と伊興町白幡の大部分に伊興
町狭間・伊興町五庵・伊興町谷下と竹塚町の各一部各一部をあわせた町域を東伊興町とし、同63
年再度住居表示を実施して東伊興町・西伊興町・伊興町谷下・古千谷町・古千谷五丁目の各一部を
あわせた町域を現行の「東伊興1〜2丁目」とし、平成11年7月3日伊興町谷下の残り全部に伊
興町前沼・伊興町白幡・伊興町狭間・東伊興町・竹塚町の各一部をあわせた町域を現行の「東伊興
3丁目」とした。同13年さらに伊興町白幡・伊興町狭間と東伊興町の残りすべてをあわせた町域
を現行の「東伊興4丁目」として新住居表示を完了した。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『足立区史』など。

 東伊興について
 「東」の意向は判らない。位置は伊興の北部地区で東としたのは、北を縁起が悪い文字だとの迷
信を担いだのかも知れない。偉い坊さんに耳元で囁かれると区の職員はビビっちゃうからねぇ。世
の中には細木数子なんて怖い小母ちゃんも居るから。伊興の由来は伊興を参照。



功徳山天龍寺

 1丁目2番にある曹洞宗の寺。寺らしからぬ集合住宅のような建物。詳細不明。寺院一覧には乗っ
ているが、区史に記載がないので、近年越してきたものか?



■東伊興小学校

 1丁目4番にある区立校。昭和46年伊興小学校から独立して開校。同7月東伊興町17番地(現
在地)の新校舎が落成して移転。平成17年創立35周年。

 校歌
お日様を」 作詞・薩摩忠  作曲・奥村一
  1.お日様を胸に飾った
    僕達 私達 みんな兄弟
    健康で考え深い子供達
    おお東伊興小学校
    香しい知恵の花園
  2.紫の校旗
(はた)を翳した
    僕達 私達 みんな兄弟
    勤勉で思いやりある子供達
    おお東伊興小学校
    健やかな夢の泉よ



■淵の宮/氷川神社

 2丁目12番4号にある。かつての伊興谷下(いこうやじった)の内で、伊興遺跡の中心部に当た
り、5世紀頃の祭祀遺物や住居跡が出土したところだ。区内最古の氷川社で、従って歴史が古く、か
つては淵江領42ヶ村の総鎮守「淵の宮」といわれ、足立区文化の発祥の地なのだ。江戸時代に村々
の開発が進むと各地にれぞれそ鎮守が祀られ、この社は伊興・竹塚・保木間3ヶ村の鎮守となり、明
治5年明治政府の強制によって村社とされ、以後伊興村のみの鎮守になった。
 淵江の由来は、谷下一帯が毛長川の湿地帯で川っ淵だったことによる。西方に船山というところが
あり舟を繋いだところという。
 祭神は、須佐之男命(すさのおのみこと)・大己貴命(おおなむちのみこと)・櫛稲田姫命(くし
いなだひめのみこと)。末社は、浅間社・稲荷社・熱田社・白旗社・三峰社の5社。境内は鬱蒼と杉
欅の古木に覆われて森を成し、社殿はやや高い台地(前方後円墳)にあって素朴な古めかしさを醸し
てる。まさに村の鎮守の風情だ。例大祭は9月29日。
 昭和33年ころの調査では、

   慶長十四年三月十八日伊興氷川大明神大檀主御代官河内与兵衛知親

 と記された古い棟札があったそうだ。社殿造営の年代は明らかではないが、元文二年(1737)
再建と記した棟札がある。幾たびかの災変や改修築を経て、現在の社殿は明治12年の造営だ。ほか
に享保十二年(1727)の幟台などがある。
 奥東京湾の海中にあった足立区が、陸地化していく過程でこの付近が最も早く陸地化となり、大宮
台地辺からの移住者が、武蔵国一の宮がある大宮の氷川社の分室を勧請したものと考えられている。
付近一帯は、古代遺跡で、弥生式土器、土師器、須恵器、また鏡、曲玉、管玉、臼玉などの祭祀遺物
や漁具として土錘、さらに住居趾、井戸跡など生活遺構がたくさん出土しており、伊興遺跡といわれ
る埋蔵文化財包蔵地を形成している。昭和57年足立区登録記念物(史跡)とした。
 境内は、幹周り120cmを超えるケヤキなど鬱蒼とした木立に包まれ、神聖な雰囲気。その中に
立つ「日露戦役記念碑」は、日露戦争に勝利した後、村人が募金を集め、乃木希典大将に題字を依頼
して碑を建立した。第二次世界大戦後、GHQから破壊命令が下されたが、人々が守り通したという
逸話も残っている。



一家4人死亡火災

 2丁目12番17号、氷川神社の裏手、高松和建設の事務所兼住宅で起きた。平成22年4月29
日午前2時40分ごろ、建築業高松貞次(63)方から出火、木造2階建て住宅約100u全焼。2
階から子供2人を含む男女4人が消防隊員に救助されたが、全身に火傷を負っており、搬送先の病院
で死亡が確認された。
 警視庁竹の塚署によると、死亡したのは高松の長男で建築業の和一(わいち 36)とその妻真弓
(39)、長女で区立東伊興小5年の千穂(11)、長男で同小3年の大和(8)の4人。1階にい
た高松と妻和子(63)は玄関から自力で避難したが、煙を吸うなどして軽症。高松方は3世代6人
家族。出火当時、高松夫婦は1階で、和一ら4人は2階の居間でそれぞれ就寝中だった。和子は竹の
塚署の調べに「1階居間から火と煙が出ているのを見た」と話しており、1階居間が火元とみて出火
原因を調べた結果、高松の煙草の不始末だったことが判った。



■白旗塚

 3丁目10番にある円墳。現在は「白旗塚史跡公園」として整備保存されている。この古墳は源頼
義・義家父子が、奥州征伐のためこの地を通過したとき、源氏の旗印である白旗を靡かせたところと
伝わる。白幡を靡かせた理由は、
 @、この辺りで野武士に襲われたとき白旗を靡かせて勝利を得たことによるというのと、
 A、奥州からの帰途に勝利を祝って立てたという話が伝わっている。地元では塚を「六本杉」
 とも呼び、義家一行が野武士に襲われたとき、長引いた戦いの中で、義家の家来三人が腹ごしらえ
した折に使った箸を塚の上に刺して勝利を祈願したのが、数十年もすると大きな六本の杉ノ木に成長
したということによるんだそうだ。広さ約60uの上段円墳型の塚で、周辺地平面より2m余りの高
さに築かれており、上部に8本の松が植えられている。かつて伊興の一円には多くの塚があったが、
保存しようという意思はなく、開発に気圧されてあれよあれよという間にブルドーザーの歯牙に掛け
られてしまったが、今はこの塚だけが残る。



 
伊興寺町
 ほぼ4丁目全体。伊興の狭間地区に行くと寺院が並んである。関東大震災後の区画整理で転入して
きた寺院群だ。区の歴史とは結びつかないが、江戸の歴史を知る上で人気がある。
 東陽寺・易行院・法受院・長安寺・善久寺・蓮念寺・本行寺・常福寺・浄光寺・正安寺・栄寿院・
専念寺。



延命山栄寿院
 4丁目1番(旧伊興町狭間930番地)にある曹洞宗の寺。本尊は延命地蔵菩薩。身長約5cm5
mm、恵心僧都の作という。元は鶴見総持寺の末寺で、開基は太田道灌といわれる。以前は本所にあ
り、篠崎延命地蔵として有名だった。昭和20年の愚かなアメリカ軍の無差別空爆により焼失し、戦
後現在地に移ってきた。現在の建物は、寺らしからぬ、民家のような、どっちかというとキリスト教
会のような建物だ。



■正楽寺足立浄苑
 4丁目2番にある、川崎市幸区南幸町2丁目49番地の正楽寺の境外墓地。最近は悲しいことだが、
お寺との付き合いを嫌がる人間が増えた。それが現在の霊園ブームに繋がっている。墓を遺骨の捨て
場所と考えているのだろうか? お前さんをこの世に誕生させてくれた親や、命を繋いでくれた先祖
を、最近は何故か邪険に扱う傾向がある。「善因善果・悪因悪果」、やがてお前さんが命終えた時に
同じように邪険にされてしまうぞ。




信楽山涅槃院正安寺
 4丁目3番(旧伊興町狭間899番地)にある浄土宗の寺。本尊は阿弥陀三尊。元和元年(161
5)の創建で、開山は緑誉満雪大和尚、元は芝増上寺の末寺で、大正12年の大震災で壊滅したため、昭
和4年6月浅草から現在地に移転した。入口に与楽堂(起き上がり観音という)。参道の右手に「ぱっ
くり閻魔」・七福神堂・庫裏、左手に水子地蔵・六地蔵、その先は右にくの字に折れて本堂。その左
は墓地。庭の手入れが行き届いていて綺麗だよ。



万年山東陽寺
 4丁目4番、寺町の中ほどにある元は曹洞宗の単立寺院。大正12年大震災で壊滅したため、昭和
3年5月13日浅草手向野寺町から移ってきた
。開山は勅特賜大峰仏雄禅師、本尊は釈迦牟尼仏。こ
の寺に江戸の豪商の墓が2つある。河村瑞軒と塩原太助だ。また歌人戸田茂睡の「手向野の碑」も移
されている。

 河村瑞軒の墓
 
瑞軒は伊勢の人。江戸へ出て車引きから身を起こし明暦の大火で巨利を得、土建業を営む富豪となっ
た。後に海運や治水事業で多くの成功を収め、これらの利益で幾多の学者を援助し文化の向上にも尽
くした。子の義篤の墓もある。近年「河村瑞賢追憶碑」なる屏風様の大きな石碑を建てた。墓碑は鎌
倉の建長寺の境内奥にもある。

 塩原太助の墓
 太助は江戸に出て身を立て家を興そうと父に願いでたが許されず、逃げるようにして江戸へ出たも
のの奉公口を探すことはできなかった。帰るに帰れず遂に思い余って死のうと決心し、神田昌平橋から
身を投げようとしたところを「早まるな」と後ろから抱き止めてくれた人が炭商山口屋善右衛門だっ
た。太助は右衛門の下で奉公を続け、朝は星を戴いて起き、夜は人声の鎮まるのをまって寝た。他の奉
行人の休む暇には穿き古しの、はき物の鼻緒などをすげ替えておいて俄の場合の役に立たせ、落ち散っ
てある縄屑などは拾い溜めておいて炭俵の繕いに使うなどアイデアマンだった。この様にして日々の
精進により奉公人の鑑とまで感心される様になった太助が山口屋に奉公した期間は23年だ。その間
まめまめしく働き、ついに暖簾分けで本所相生町に店を構え、やがて巨万の富を築き公儀の御用を勤
める身分となり、

   本所には過ぎたるものが二つあり津軽大名、炭屋塩原

 と謳われた。この人は働くだけではない。山口屋に奉公して5年目に、毎日炭荷を積んだ車を引い
て通る湯島無縁坂の改修を行った。また晩年は中山村の反峠に渋茶の接待所、伊香保より榛名神社に
通ずる天神峠に常夜燈を建て往来者の便を計った社会事業家だった。子孫に美田を残さず。太助はこ
の様にして公益事業に稼いだ巨費を投じたのだ。文化十三年(1816)74歳で没した。

 戸田茂睡「手向野」の歌碑

   風の音家のしずくも天地の絶えぬ御法(みのり)の手向けにはして   



日照山易行院不退寺
 4丁目5番(旧伊興町狭間870番地)にある浄土宗の寺。「いぎょういん」と読む。山号は『足
立区史』では「自照院」となっている。関東大震災で被災し、
昭和3年に浅草清川町から移転してき
たもので、文亀二年(1502)易道和尚の開山、念基上人により開基された。江戸時代は大名屋敷
を模した本堂や庫裏、山門から本堂までの参道の長さ2町(200m)という規模構造の大きさと共
に「山谷の助六寺」として名高く、庶民の信仰も篤かったので、参詣人は後を絶たなかった。

 
花川戸助六・揚巻の墓
 
入口正面に歌舞伎十八番の「助六縁江戸桜」で有名な侠客花川戸助六の墓が、7.5坪の囲いの中に
助六地蔵、遊女の揚巻の墓と一緒に祀られてる。江戸時代はその墓石の一部を持って帰ると夫婦円満
・家運隆昌・厄難排除の功徳があるといわれたため、墓石をおっ欠いて持ち帰る者が多く、墓石が壊
されて困るので、御札を出したこともあった。しかし元禄年間になって何代目かの住職がその墓石を
持つという信仰は、易行(自分の修めた功徳を他に巡らして、自他ともに仏果を成就しようと期する
思想)の宗旨に反するものとして禁じたため、以後墓石が壊されることもなくなり、現在残っている
墓石は、その当時のものといわれている。助六のモデルはいるが、時代と共に脚色され、現在の助六
像が作り上げられた。文化年間(1804〜17)の過去帳に、

   西入浄心信士 俗称戸沢助六 承応二歳巳二年十一月死す 志厚之有施主 7代目市川
   団十郎無縁ヲ弔 墓所造立シ永追福経営施主


 とある。「助六縁江戸桜」は市川家が主として代々勤めてきた当り狂言で、舞台での初演は正徳三
年(1713)だ。墓は易行院の入口正面にあり、今も歌舞伎の上演の折には、役者が参詣するのが
慣例のようになっている。文化九年(1812)には7代目団十郎によって660年忌の法要が行わ
れたといい、また明治になってから9代目が大法要を行ったこともある。



玉川院常福寺

 4丁目6番(旧伊興町狭間854番地)にある浄土真宗大谷派の寺。本尊は阿弥陀仏。境内から古
墳時代の祭祀関係の遺物が出土した。

 ●シダレザクラ
 見事だよ。

 林家三平の墓
 落語家。台東区根岸生まれ、大正14年〜昭和55年。本名海老名奏一郎。七代目林家正蔵の長男。
妻はエッセイスト海老名香葉子。子に長女美どり(タレント峰竜太の妻)、長男林家こぶ平(平成1
7年から9代目正蔵)、次女泰葉(春風亭小朝の妻 平成20年離婚)、次男いっ平(平成21年 
2代目三平を襲名)。弟子にコン平など多数。 



松賢山本行寺
 4丁目7番(旧伊興町狭間840番地)にある浄土真宗本願寺派の寺。開山は親鸞上人、本尊は阿
弥陀仏。昭和6年10月29日遥々福井県から移転してきた。門の右は駐車場、参道の周りは墓地で、
墓地の道を通り抜けると本堂に辿り着く。南側の表通りに面しており、新道が出来てから、そちらを
正面にしたのだろう。



伊興山蓮念寺
 4丁目7番(旧伊興町狭間835番地)にある浄土真宗大谷派の寺。本尊は阿弥陀如来。貞享二年
(1685)渡辺嘉右衛門が信州(長野県)に創建したもので、昭和7年現在地に移転してきた。入
口を入ると参道で右に本堂、その並びは庫裏、その先は墓地。宝物に親鸞聖人、聖徳太子の画像など
がある。



■遺跡公園
 4丁目9番にある区立公園。伊興遺跡は神を祀り、豊かな暮らしを祈った時の様子の判る出土品が
多く発見された遺跡として有名。太古の伊興一帯は、毛長川流域の湿地帯(淵江)で水辺に村があっ
た。村人は、水田での稲作、川での漁と半農半漁の生活をしていたことが、各種の出土品で判った。
その後の発掘調査で縄文時代終わりごろ(約4000年前)の土器や古墳時代(約1600年前)の
出土品が見つかり、特に多く出土したのは古墳時代のもので、水辺で神に祈る時に使われたと思われ
る飾りや土器だった。公園内にある展示館はこれまでの出土品のいくつかを集めて展示している。小、
中学生をはじめ区民の歴史学習に活用されている。



龍塙山長安寺

 4丁目10番(旧旧伊興町狭間844番地)にある浄土真宗本願寺派の寺。『足立区史』では山号
は「龍華山」としている。開山は親鸞上人、開基は宗保、本尊は阿弥陀如来。参道が右に折れて本堂
とその左の庫裏はともに鉄筋コンクリート造り。
 帝室技芸員で彫刻家の森鳳声の碑がある。
 



馬頭山善久寺
 4丁目11番(旧伊興町狭間847番地)にある浄土真宗本願寺派の寺。開山は親鸞上人、開基は
了信上人という。大正12年の大震災で壊滅したため、昭和4年築地から移転してきた。山門を入る
と右に曲がる先に本堂。その右は駐車場。本堂の左は庫裏だ。本尊の阿弥陀如来には、延享元年(1
744)子八月十日法如上人御判、がある。宝物として親鸞・了信・聖徳太子の御影、当寺の縁起一
巻などがある。また文政年間(1818〜29)における江戸の蘭学医で、淀藩の南小柿甫裕の墓が
ある。



赤坂山浄光寺 
 4丁目12番(旧伊興町狭間783番地)にある浄土真宗本願寺派の寺。近代的は山門、右は伝道
会館。本堂は鉄筋コンクリート2階建て。本堂の左は墓地だ。『足立区史』には「真宗であるが、今
は単立寺、本願山と号する。開山は親鸞上人、本尊は阿弥陀如来である」とある。
 



新幡随院法受寺

 4丁目14番(旧伊興町狭間935番地)にある浄土宗の寺。本尊は阿弥陀如来。武蔵国豊島郡尾
久の地に恵心僧都によって創建され、当時は天台宗で、「普賢山恵心院」と号した。その後尾久から
谷中(台東区)に移り、新幡随院と改称、明治以後幸運富に衰え、昭和10年下谷三崎町の淺草の安
養寺を合わせて現在地に移転してきた。正応二年(1289)鎌倉幕府8代将軍となった久明親王が、
そのころに納めたという後深草院素実法皇の位牌、七宝五具足があり、また嘉元二年(1304)の
奉納と伝わる後深草法皇の木像が、寛政二年(1790)に造られた厨子に納められている。

 
桂昌院の墓・本荘家累代の墓所 
 法受寺は本来檀家を持たない寺で、5代将軍の生母で、のちに大奥にあって勢力を振るった桂昌院
の墓を始めその義父・実母の墓、弟で笠間城主となった本荘宗資の墓がある。本荘家(丹後宮津藩)
の人々の墓は併合した安養寺にあったものを移したものだ。

 関口弥太郎の墓
 関口流柔術家。

 
怪談牡丹灯篭の碑
 門前に平成7年建立の石碑がある。名人円朝が創作したこの怪談は法受寺が谷中三崎町あった頃、
そこはとても淋しく、寺が怪談の創作の舞台になったといわれている。




【東保木間】(ひがしほきま)1〜2丁目               昭和53年2月1日
 保木間村。明治22年淵江村大字保木間、昭和7年足立区保木間町。同53年保木間町の一部を
現行の「東保木間」とした。しかし同44年発行の区分地図帳に現在の保木間3〜5丁目のところ
に東保木間を描いている。西保木間は同41年に新住居表示を完了しているし・・・『角川日本地
名大辞典』にはそこのところの記載がない。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『足立区史』など。

 東保木間について
 保木間の東部地区地区の意。



■吉右衛門堀公園

 1丁目11番にある区立公園。球戯場、アルミ製の総合遊具、砂場、パーゴラ、英国風の庭園と、
狭いところに盛り沢山。



■保木間団地

 1丁目の大半は都営第4アパート群の巨大団地だ。



■淵江高等学校

 2丁目10番にある。昭和46年開校。



■足立区総合スポーツセンター

 2丁目11番にある区の総合スポーツ施設。大体育館、小体育館、柔道場、剣道場、エアライフル
場、アーチェリー場、アスレチックルーム、テニスコート、多目的広場は有料。ほかにローラースケ
ート場、スリーオンスリーコート(バスケット)、ぼうけん広場、おまつり広場などがある。

 
屋外プール
 50mプールと幼児用プールがある。利用期間は7月15日〜8月31日。9時半から2時間交替
で17時まで。18時〜20時は団体利用。何れも有料。
 幼児とは2歳以上でオムツの取れた者。小学3年生以下は保護者の同伴が必要。保護者は子ども2
人に1名。保護者も水着着用のこと。 




【東六月町】(ひがしろくがつちょう)                昭和53年2月1日
 六月村。明治22年淵江村大字六月、昭和7年足立区六月町。同42年と46年に国道4号線(日
光街道)以西の六月町に新住居表示を実施して六月となったため、同53年日光街道以東の六月町
の全部を現行の「東六月町」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『足立区史』など。

 東六月について
 国道4号線を境に六月地区の東部の意。



■ニッポン放送の送信所・野球場

 7番にある。




【一ツ家】(ひとつや)1〜4丁目                 昭和50年11月1日
 竹塚村・島根村・栗原村・六月村・小右衛門新田。昭和50年竹塚町・東島根町・東栗原町・六
月町・小右衛門・六町(昭和11年6町の飛地を集めた)の各一部をあわせた町域を、現行の「一
ツ家」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『足立区史』など。

 一ツ家の由来
 この辺りの俗称。初案「東栗原」に難色を示した住民のたっての希望で命名された。下妻街道に
たった一軒だけ茶店があったことでその名が起きたというが、二ツ家・三ツ家堀・四ツ家町があっ
たことを考えると何らかの繋がりがあるのかもしれない。



小野悦男事件
 昭和49年7月から8月にかけて、千葉、東京、埼玉で女性が強姦されたうえ殺害される事件が相
次いだ。「首都圏女性連続殺人事件」と報じられたこの事件では、足立区の清掃職員小野悦男(当時
38歳)が別件逮捕されたが、やがて犯行を自白。しかし小野の供述にはおかしな点もあり、冤罪が
疑われる事件でもあった。
 平成3年4月東京高裁は小野の殺人罪については「無罪」とした。小野は16年ぶりに釈放され、
一躍「冤罪のヒーロー」として人々の涙を誘った。そんな小野だったが・・・

 高裁判決から5年、平成8年1月9日午前9時45分頃、「足立区六月町の駐車場にマネキンのよ
うな黒い物がある」という通報があった。警察が調べると、その黒い物は布団にくるまれた女性の首
なし焼死体で、遺体の陰部は切り取られており、パジャマを着ていた。近所の人によると、この駐車
場では6日夜から7日未明の間に何かが燃えているのが目撃されていた。まもなく「小野と同居して
いた女性の姿が最近見えない」、出所して平穏に暮らしているはずの小野の近くに住む人がそう証言
した。しかし警察はなかなか手が出せない。下手に接触すれば、支援者を中心に再びバッシングを浴
びる恐れがあったからだった。このため布団に付着していた体液との照合のために、捜査員は廃品回
収業者や日雇い労働者に扮して、小野の吐いた唾液を採取しようとマークし続けた。「国から大金を
せしめたんだ。何年だって飲んでいられる」飲み屋でそう話す小野の姿がそこにあった。さらに4月
21日都内の公園で遊んでいた女児(当時5歳)が男に首を絞められ失神するという事件があった。
男は「もっといい公園に連れていってあげるから自転車に乗りなさい」と、別の公園に連れて行った
後、いたずらしたという。26日目撃証言から、少女殺人未遂の容疑で小野が逮捕される。小野は犯
行を否定していたが、同じ頃、小野の首なし焼死体に付着していた体液と小野のDNAが一致した。
5月1日足立区一ツ家の都営東栗原住宅の小野の部屋の裏庭から腐敗した頭部と、切断に使ったと見
られるノコギリが発見された。切り取られていた陰部は冷蔵庫の冷凍室に入れられていた。もはや小
野に言い訳はできなかった。支援者たちは裏切られた結果に波が引くように彼の元を離れていった。
焼死体は茨城県出身の女性(41歳)で、家出をしてきて区内の公園で偶然小野と知り合い、同居す
るようになったという。ところが1月5日小野は家事をしない女性と口論となり、頭を殴ったところ
死亡したため、リヤカーでゴミ類と一緒に駐車場へ運び、火をつけて頭部を切り取ったという。小野
は遺体を焼いた理由について「骨を実家に返したいと考え、焼いたが骨にまでならず、頭蓋骨だけで
も実家に返したいと思い持ち帰った」と供述。松戸の事件に関しては「無罪になった事件は、絶対に
やっていない」と話しているという。平成10年3月27日東京地裁で無期懲役の判決。翌年2月9
日東京高裁で控訴棄却となり、無期懲役が確定し収監された。



■称讃寺 築地本願寺足立布教所
 3丁目5番にある浄土真宗本願寺派の寺。白い2階建てのビルで、とても寺とも宗教施設とも思え
ない建物。布教所だもんなぁ。



■東栗原小学校
 3丁目20番にある区立校。昭和45年開校。同52年平野小学校を分校。平成17年創立3
5周年。

 校歌
朝の光を」 作詞・小野良清  作曲・伊地知美奈子 補作・住谷智
  1.朝の光を浴びながら
    夏菊香る学び舎に
    明るい声が木霊する
    強く 正しく 健やかに
    東栗原 育ちゆく
  2.広野の風は爽やかに
    遥かな富士を望みつつ
    明日への希望が湧き上がる
    広く 大きく 伸びやかに
    東栗原 開けゆく 
 




【日の出町】(ひのでちょう)                  最終平成元年5月15日
 弥五郎新田大原耕地・嚢耕地・糀屋耕地。明治22年綾瀬村大字弥五郎新田。昭和7年足立区日
ノ出町1〜3丁目起立。同9年2丁目の大部分を葛飾区に移管。同35年1丁目と2丁目の残りで
日ノ出町とし、3丁目は荒川向こう日吉町に組み込まれた。別に河川敷部分に1・3丁目が残った。
同43年新住居表示実施して現行の「日の出町」とし、平成元年旧日ノ出町1〜3丁目の残存部分
(河川敷)を編入して新住居表示を完了した。
 ランドマークは特にないが、強いていえば日ノ出町団地か?
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『足立区史』など。

 
日の出の由来
 将来の発展を願い日の出の勢いに希望を込めて命名された。



■日ノ出神社
 37番の東北角にある稲荷神社。元は弥五郎新田の稲荷社で荒川放水路の開鑿で水没することにな
り、五反野の稲荷(足立3丁目)に合祀したが、後に分社、昭和28年独立して日ノ出神社とした。



成田山千住不動堂

 38番にある真言宗智山派の寺。寺といえども民家風の建物だ。



久栄山清亮寺
 42番にある日蓮宗の寺。旧日光街道から旧水戸街道(4、5丁目の境道)を東に行って地下鉄と
JRのガードを潜ると左手にある。かつての綾瀬村弥五郎新田の内だが、荒川放水路で切り離されて
千住区域に組み入れられてしまった。元和五年(1619)身延山久遠寺末として日表上人により創
建。本尊は「一塔両尊四士合掌印(十界曼荼羅)」。徳川家光に好かれた寺だという。本堂は天保四
年(1833)の再建、山門は昭和7年夏の再建。扁額「久栄山」の揮毫は中村不折。本堂の裏は墓
地で広い。本堂の右は庫裏。入口の左側は幼稚園と賑やかなこと。寺域は荒川土手際の常磐線と東武
線の間の空間を占めていて広い。たちばな幼稚園のところに槍掛け松があった。

 
槍かけ松
 かつて名物だったが、昭和20年に枯死してしまって今はない。樹齢350年くらいだったという。
水戸街道を通る黄門様の行列が槍を立て掛けて休息したことが名の由来だ。写真で見ると地上2mく
らいのところからほぼ直角に曲がった松が街道に張り出している。槍を立てては通れない。黄門様(徳
川光圀)の行列が初めてここに差し掛かった時、槍を倒さずには通れないので家来たちは松の木を伐
り倒そうとしたところ、黄門様が「こんな見事な松を伐ることはない。この寺で休息するので、槍は
その松に立てかけておけ。出立の時、体をかわして槍を取れば、倒したことにはなるまい」といって
休息したという。以来これは水戸家の慣例となったので、この道を通る大名はみんなそれに倣った。

 
解剖人の墓
 墓地に新旧2基がある。明治3〜5年死罪となった囚人11名(金蔵・憲隆・豊吉・清兵衛・文次
・次郎吉・七五郎・粂七・久吉・枩・嘉吉)が、西洋医学研究のために進んで身を挺して解剖(腑
分け)に同意し、それがこの寺で行われたので、その霊を弔った墓だ。古い墓が傷み、昭和42年新
調された。囚人の戒名に皆「刃」の字がついている。赤穂浪士の戒名にもついている。切腹や斬首で
刑死したものを識別するためにつけられるという。戒名はその人の人生を総括した最後の名前で、諡
(おくりな)また法名もいう。

 
内田銀蔵の墓
 千住が生んだ経済史学者で、今なお不朽の名作といわれる『日本経済史の研究』を著した文学博士
の墓があるんだよ。千住仲町11番の川魚問屋「鮒与」が実家だ。




【平野】(ひらの)1〜3丁目                     昭和43年10月1日
 平野耕地。昭和43年小右衛門町・東島根町・六月町・東栗原町・竹塚町の各一部をあわせた町
域を現行の「平野」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『足立区史』など。

 平野の由来
 
平坦地を開墾した新田の意。



■平野神社

 1丁目6番の西北角にある小祠。



■光現寺会館
 1丁目14番にある斎場。2丁目の光現寺の運営。式場は3会場(何れも50名椅子席)、お清め
兼控室、和室100名(3分割可能)。宿泊もできるよ。



■東島根中学校

 1丁目27番にある区立校。昭和35年第十中学校から独立し開校。平成17年創立45周年。

 校歌
明けわたる空」 作詞・神保光太郎  作曲・貴島清彦
  1.明け渡る空 輝く校舎
    溌溂の生命はは 此処に燃える
    さあ友よ この三年 鍛えに鍛え
    幸せの明日を創る
    吾等 吾等 吾等 日本の希望
    東京東島根中学 誉れの母校
  2.遥かに望む父なる富士よ
    白菊の思い出 此処に刻む
    さあ友よ この三年 学びに学び
    永遠の真理を求む
    吾等 吾等 吾等 日本の希望
    東京東島根中学 愛する母校
  3.
新しい星 彼方を走る
    逞しの力は 此処に集う
    さあ友よ この三年 競いに競い
    素晴らしい未来を拓く
    吾等 吾等 吾等 日本の希望
    東京東島根中学 光の母校

 
 



■光現寺
 2丁目9番にある浄土真宗の寺。



■平野運動場

 2丁目12番にある。野球場2面、テニスコート3面、ゲートボール場2面。



■平野小学校
 3丁目6番にある区立校。昭和52年東栗原小学校内に独立して「東京都足立区立平野小学校」と
して生徒数700名で開校。同年9月現在地に新校舎落成して移転。校旗・校章・校歌制定

 校歌雨や風にも負けないで」 作詞・藤間哲郎・作詞  八州秀章・作曲
  1.雨や風にも負けないで
    緑は育つ夢の色
    友と仲よく励みあい
    ああ楠の木のように
    心と体 鍛えよう平野
    平野小学校 平野小学校
  2.一つ一つを大切に
    学んで行こう春秋を
    知恵を磨いて何時の日か
    ああ若鳥のように
    希望の空に飛ぶ為に平野
    平野小学校 平野小学校


 同53年東六月町の学区を編入生徒数1000名弱となる。同54年プレハブ教室建設。同ご5年
プレハブ教室増築。同56年鉄筋コンクリート造り校舎増築。創立5周年記念式典。同57年足立区
花いっぱいコンクール優良校賞受賞。同61年創立10周年記念式典。
 平成元年ソニー教育振興財団優良校受賞。足立区花いっぱいコンクール優良校賞受賞。東京都統計
グラフコンクール学校賞受賞(元年〜3年)。同2年足立区花いっぱいコンクール優良校賞受賞。視
聴覚教室開設。同8年コンピュータルーム開設。ブラスバンド部、マンドリン・アンサンブル・ヤン
グフェスティバルに於いて特別賞受賞。創立20周年記念式典。同10年足立区花いっぱいコンクー
ル優良秀賞受賞。同11年足立区花いっぱいコンクール優良秀賞受賞。同13年足立区花いっぱいコ
ンクール優良秀賞受賞。同14年足立区花いっぱいコンクール優良秀賞受賞。同18年創立30周年
記念式典。同19年エアコン設置。校舎耐震化。同20年女子サッカー部中央大会優勝。同22年女
子サッカー部中央大会準優勝。足立区花いっぱいコンクール優良秀賞受賞。




【保木間】(ほきま)1〜5丁目                    昭和53年2月1日
 保木間村。昭和22年淵江村大字保木間、昭和7年足立区保木間町。同43年新住居表示により
保木間町の一部を保木間1〜2丁目とし、同53年残りの一部を1〜2丁目に編入し保木間町・花
畑町の各一部をあわせて3〜4丁目とし現行の「保木間」とした。同時に残りの保木間町は東保木
間となった。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『足立区史』など。

 保木間の由来
 平安時代に村は起立した。戦国期は千葉氏の所領として『小田原衆所領役帳』に見える。大同年間
(806〜809)に山城国(京都府)から八人の者がやってきて湿地を開拓し部落を形成した。
その時、材木で柵を作って堤や土地の土留めをしたが、そのことを「保木間」といい村名にしたと
いう。地名用語では、「ホキ」は「地滑り、地崩れ・崖崩れしたところ」を表し、「マ」は「場所
・中央」を表すから地崩れしたしたところを補強して土地を造成した開墾地の意だろう。
 「ほきま」はインドネシア語で解すると「ホキ・マ」、「中窪みの清らかなところ」の意となる
らしい。これは地形状理に適っている。徳島県井川町に字「吹(ほき)」があり地滑り地だ。愛媛
県西条氏大保木(おおほき)もまた地滑り地だ。地名はその土地の状態を表すために命名される。
鬼や蛇、地獄がつく地名はより危険度が高いことを示してきた。希望ヶ丘では何のことやらさっぱ
り判らない。



■竹の塚警察署
 1丁目16番にある。平成10年8月1日綾瀬警察署の一部と西新井警察署の一部が分割統合され
竹の塚署の管轄となった。



■元渕江公園
 2丁目17番にある区立公園。

 足立区生物園
 公園内にある。都市化によって失われて行く自然の生物とのふれあい≠フ場として開設された。



■渕江中学校
 3丁目6番にある区立校。昭和35年第十四中学校から分校し「東京都足立区立渕江中学校」とし
て開校。校章・校旗制定。「渕江中学校の歌」制定。同37年体育館完成。校舎増築。同38年校門
竣工。給食室設置。同39年コンクリート歩道・渡り廊下完成。東京オリンピック記念植樹。同40
年万年塀・同41年校歌制定。

 校歌羽ばたく空に」 作詞・門倉訣  作曲・外山雄三
  1.羽ばたく空に この胸に
    明るい風を吸い込んで
    溢れる希望 光る夢
    みんな肩組み どこまでも
    進むこの道 この夜明け
    淵江中学 ああ我が母校
  2.伸び行く平野 この内に
    青い木の芽がすくすくと
    空を目指して行くように
    両手を広げ何処までも
    進むこの道 この夜明け
    淵江中学 ああ我が母校
  3.拓ける明日にこの道に
    胸膨らませ手を繋ぎ
    強く正しく堂々と
    足音高く何処までも
    進むこの道 この夜明け
    淵江中学 ああ我が母校


 同43年建て替えのため一部校舎解体。同44年新校舎落成。完全給食開始。同45年竹の塚中学
校を分校。お別れ会。2年生4学級移籍。同50年残りの校舎建て替え落成。同52年第4期新校舎
落成。プレハブ校舎増築。木造校舎解体。同53年プレハブ校舎増築。同54年花保中学校を分校。
体育館全面改修。同55年プレハブ校舎増築。創立20周年記念式典。同56年鉄筋コンクリート造
り新校舎落成。プレハブ校舎解体撤去。同57年演劇教室「古典落語」同58年演劇教室「ビルマの
竪琴」。プール付き体育館に改修完成。同59年演劇教室「岩窟王」。同60年演劇教室「森のロル
フ」。同61年演劇教室「にんじん」。同62年演劇教室「狂言」。
 平成2年創立20周年記念日時計除幕・記念式典。同4年校庭照明改修。週休2日開始。ベルモン
ト市交歓派遣生徒来校。コンピュータルーム開設。同5年生徒の登下校用カバン改訂。同6年学校情
報を地域に配付する「しらさぎ便」開始。同7年運動会の日曜日開催開始。同8年体操着改訂。同9
年第1期校舎耐震化。同10年創立40周年記念式典。オペラコンサート。同11年知識に学ぶ講演
会「ふちえの移り変わり」・知識に学ぶ演奏会「のこぎり演奏。同12年第2期校舎耐震化。同13
・14年男子バレーボール部全国大会出場。同20年創立50周年記念式典。



■渕江第一小学校
 3丁目27番1号にある区立校。昭和42年渕江小学校から分校して開校。昭和51年竹の塚北小
学校を分校。平成19年創立40周年。

 校歌
燃えて輝く」 作詞・サトウハチロー  作曲・渡辺浦人
  1.燃えて輝く若葉のように
    空を眺めて誓いを立てる
    強い体と豊かな心
    鍛え育てて毎日学ぶ
    渕江第一 我が母校
    おお我が渕江第一小学校
  2.花に囁き小鳥に語り
    雲の流れに呼びかけ唄う
    礼儀正しく規律を胸に
    友と互いに励まし学ぶ
    渕江第一 我が母校
    おお我が渕江第一小学校
  3.雨の降る日も風吹く朝も
    いつもいつでも教えを守り
    笑顔忘れず楽しく学ぶ
    おお渕江第一 我が母校
    おお我が渕江第一小学校



足立清掃工場
 4丁目7番1号にある足立区の塵芥焼却場。平成11年着工。同17年稼働。余熱をスイムスポー
ツセンターうきうき館・老人会館・東伊興生活館・足立西清掃事務所に配給して利用している。
 03‐3859‐4475

 水銀焼却による2号炉停止
 問題が発覚したのは平成22年6月11日だ。23区の清掃一部事務組合は、足立清掃工場2号炉
の排ガスに含まれる水銀の濃度が、自主的に定めた基準値を超えたため、焼却炉を停止した。その後
23区内の塵芥を処理する4つの清掃工場(板橋・光が丘2・千歳)に水銀を多く含んだ塵芥が持ち
込まれ、焼却炉内部が汚染されたため稼働停止となった。健康への影響はないが工場の被害は2億8
000万円にも上り、清掃組合は刑事告訴の検討に入る。
 7月末現在板橋は復旧したものの4つの焼却炉が停止されたままとなっている。最も被害が大きい
足立清掃工場2号炉のごみピットは、普段よりも10m以上高く塵芥が積み上がっていて、現在75
00tの塵芥がたまっているという。処理できていないごみは23区合計で、少なくとも10000
tに及ぶとか。東京都23区清掃一部事務組合の大塚好夫技術課長は、

   4つの工場が停止をするということは経験したことがありません。排出者か運搬者か分
   からないが、特定作業を進めていきたい


 と話している。記録を辿ると搬入車が特定され、その日のコースを遡れば、テロでもない限り犯人
の目星は判るらしい。検出された水銀の濃度は、医療用の血圧計4本分≠ノ当たり、こうした廃棄
物が不法投棄された可能性がある。どえらいこっちゃ。



青蓮山阿弥陀院安養寺
 4丁目17番にある新義真言宗の寺。本尊は阿弥陀如来。寛永年間(1624〜43)の創建で、
開基は村の須賀外記という。境内に子育て地蔵堂があり、墓地に目通り280cmばかりの杉の古木
がある。また寛永二年(1625)と刻した墓碑、寛永七年八月十二日銘の五輪塔がある。



■神社
 4丁目24番にある小祠。



■山王神社
 4丁目にある水神社。祭神は大山咋命・宇迦能御魂命の2柱。祭日は10月15日。弘化三年(1
846)正月銘の漱盥石がある。



宝珠山玉蔵院
 4丁目29番(旧保木間町653番地)にある新義真言宗の寺。寺は文明十八年(1486)の創
建で、開山は教存禅門という。元西新井大師総持寺の末だったが、昭和14年奈良長谷寺の直末とな
る。宝物に良寛の書、権田大僧正の額などがある。また延徳二年(1490)の板碑、寛文二年(1
662)三月二日の墓碑、寛政九年(1797)十一月銘の庚申塔がある。の墓碑、が残る。


 
双体道祖神

 境内にある。道祖神は昭和40年の建立のものだが、区内に人体を彫刻した道祖神は見かけられな
いので、区では唯一のもの。何でも新婚カップルをモチーフにしたんだとか、一心同体ならぬ一身同
体の男女のまことに・ありがたや・・・トホホ



廓鴻山彩雲院西光寺

 4丁目38番(旧保木間町945番地)にある浄土宗の寺。本尊は伝運慶作という阿弥陀仏。元は
武蔵国加倉村浄国寺末(埼玉県)。永享六年(1434)の創建で、開山は文安三年(1446)三
月十三日に寂滅した長誉宗善上人。元禄九年(1696)十一月銘の庚申塔、寛永三年(1626)
五月の墓碑がある。

 道標
 
門前にある。正面上部に不動明王像を彫り、下に、

   成田山え是より十六里榎戸迄二十一丁

 とある。門前の道が昔は成田道といったことが判る。榎戸は花畑の内匠橋近くをいう。また、

   大鳥え二十丁

 とも彫ってあるが、大鳥とは花畑の大鷲神社のことだ。万延元年(1860)の建立だ。



■東京足立病院

 5丁目23番にある総合病院。




【保塚町】(ほつかちょう)                       昭和53年2月1日
 保木間村・竹塚村。明治22年淵江村大字保木間・竹塚。昭和7年足立区保木間町・竹塚町。同3
8年保木間町と竹塚町の飛地の各一部をあわせた町域を新たに「保塚町」とした。同53年新住居表
示を実施して現在に至っている。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『足立区史』など。

 保塚の由来
 
保木間の「保」と竹の塚の「塚」を取って合成した。



■足立区保塚センター
 7番にある区の施設。区民事務所・住区センター・保塚図書館・シルバー人材センター東部支所な
どがある。




【堀之内】(ほりのうち)1〜2丁目               最終平成元年5月15日
 堀之内。明治22年江北村大字堀之内、昭和7年足立区南堀之内町・北堀之内町、同9年南堀之
内町・北堀内町。同43年北堀内町・北鹿浜町・上沼田町・上鹿浜町をあわせた町域を堀之内とし、
翌44年上沼田町の一部を、平成元年北堀内町の残り全部と南堀内町と南鹿浜町の河川敷を編入し
て現行の「堀之内」となる。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『足立区史』など。

 堀の内の由来
 堀の内の地名は豪族や領主の館跡を農地や寺地などに転換したところに付けられる。ここも岩槻
太田氏の武将宮城四郎兵衛尉為業の館があったことによる。堀といっても江戸城のような規模では
なく用水程度のもの。南堀内町は新田に組み込まれた。



覚王山不動院二宮寺
 1丁目7番にある単立寺院。元は新義真言宗豊山派恵明寺の末寺で、その隠居寺だった。荒川88
ヶ所霊場の61番札所。本尊は不動明王。境内に山楠、山槙、八重椿などの老樹がある。
 正徳三年(1713)に没した朝比奈三郎義周の墓、元弘の銘ある板碑がある。



■氷川神社
 1丁目7番にある。祭神は須佐之男命。例祭は9月15日。当社は、明和年間(1764〜71)、
約200年前の創建といわれ、現在まで荒川放水路の建設や首都高速建設などで境内地の形状など多
くの変遷を辿ってきた。古くは「両社権現」(氷川・山王権現)といわれたものだ。境内末社は諏訪
神社と鳥居稲荷神社。天明七年(1787)十二月の漱盥石がある。 



■大日精化工業東京工場

 1丁目10・11番を占める。



堀之内北公園

 1丁目21番にある区立公園。3種の恐竜がある。球技用の広場もあり面白い公園だ。





【南花畑】(みなみはなはた)1〜5丁目                昭和53年2月1日
 花又村の南部。明治22年花畑村大字花又、昭和7年足立区花畑町。同53年新住居表示により
花畑町・六町・内匠本町・保木間町の各一部をあわせた町域を現行の「南花畑」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『足立区史』など。

 南花畑の由来
 町域の大部分が旧花畑町の南半であったことによる。花畑の由来は花畑に既述した。

 
内匠本町
 昭和53年2月に実施された住居表示により、南花畑の一部となった地域だが、町内会名や児童
遊園名、内匠橋のなどにその名残りを留めている。まわりを花畑地区に囲まれた孤島のような存在
で、住居表示によって地名が変えられる際には住民によって反対運動が起こされた事で知られてい
る。口伝によると、甲斐武田氏没落後にその遺臣である芦川内匠なるものが土着し開墾した地であ
るという。花畑小学校の場所が館址であり、かつては土塁等の遺構も存在したとか。住民のほとん
どが芦川姓で、七面神社を氏神とし、法華宗(日蓮宗)を信仰しているなど、他地区に見られない
団結性が特徴。ただしこの開拓伝承は、文献や物的証拠に乏しく、幕府作成の地誌『新編武蔵風土
記稿』にも一切見えないことから、一部には史実性を疑うものもある。この様な伝承からこの地域
は内匠新田と呼ばれていた。明治22年の市町村制の施行により内匠新田は花畑村の一部とされた
後、昭和7年に南足立郡が足立区となった際に、内匠新田のより西側が内匠本町に、東側が内匠町
になった。



■堺田子供の広場

 1丁目13番にある区立公園。だだっ広い草の広場だ。



■花保小学校
 2丁目19番にある区立校。昭和48年花畑小学校から独立して開校。校歌制定。平成14年創立
30周年。



■花保中学校
 2丁目41番にある区立校。昭和54年第十三中学校、渕江中学校、花畑中学校3校の過密解消の
ため新設開校。平成15年創立25周年。

 校歌
緑萌え」 作詞・江間章子  作曲・団伊玖磨
  1.緑萌えて澄み渡る空は
    伝統を映し今日も輝く
    ああ あの雲の あの雲のように
    吾等の理想は羽ばたく
    あの雲のように あの雲のように
    友情の花は今開く
  2.四季は巡り拓け行くく町を
    美しく染めて今日も広がる
    ああ あの風の あの風のように
    吾等らの願いは膨らむ
    あの風のように あの風のように
    創造の心 今育つ

      おお 花保 おお 花保
      おお 花保中学校



■七面神社
 3丁目22番にある内匠新田の鎮守。住宅街にひっそりと佇んでい。社殿には祭神として中央に七
面大明神、右側に七面大明神と随身、左側に稲荷神・宇賀御魂命が祀られている。武田の旧臣芦川内
匠が移住してきて開発、身延山の七面神社を勧請した。



■花畑小学校
 3丁目22番1号にある区立校。明治7年4月私立中淵小学開校、同年11月十三番公立小学綾淵
学校開校。同33年両校を合併し、「東京府南足立郡花畑尋常小学校」開設。

 「開校記念日の歌」 作詞・長島ムラ教諭(初代校長長島弥三郎妻)  作曲・大和田建樹
    綾瀬川辺の花畑に
    学びの家を築き建て
    今日しもめぐる祝いとて
    親兄弟
(はらから)も集うなり

 応援歌「我が花畑の」
    我が花畑の健男児
    正々堂々戦いて
    日頃鍛えしその腕を
    見するは今ぞいざ奮え

 大正12年関東大震災により3教室倒壊。昭和7年「東京市足立花畑尋常小学校」となる。16年国民
学校令により「東京市花畑国民学校」と改称。同18年都制施行により「東京都花畑国民学校」と改
称。同22年「区立花畑小学校」と改称。同25年創立50周年。校歌制定。

 校歌
都の北を一筋に」 松野チカ教諭・作詞  大和田愛羅・作曲
  1.都の北を一筋に
    綾瀬の流れ沿う処
    名も麗しき花畑に
    教えの庭の開かれし
    時ぞ 明治の三十三
  2.幼き吾等 手を取りて
    日毎に集うこの庭に
    導き給
(たも)う 師の君の
    恵みにめばえ 実もむすぶ
    ああ懐かしき我が母校
  3.歴史は古き 花畑の
    尊き伝統 受け継ぎて
    強く正しく美しく
    我が日の本の 弥栄に
    共に役立つ人たらん

 同38年分教場設置→同40年花畑第一小学校として分校。同48年花保小学校を分校。同50年
創立75周年。同54年六木小学校を分校。平成12年創立100周年。


江亀山不動院薬王寺

 3丁目25番(旧花畑町3653番地)にある新義真言宗豊山派の寺。本尊は薬師如来。天喜二年
(1054)の創建で、開山を源範僧都といい、中興秀賀僧都は元禄四年(1691)に示寂してい
る。境内に弘化三年(1846)十一月の庚申塔、矢納弁天がある。

 矢納弁天
 
やおさめべんてん 境内入口にある。祭神は弁財天。弘法大師の作という。これは元新羅三郎義光
の守護神だったが、叛徒征伐のため奥州へ下向の際、当地に武運長久を祈願し、その効験著しかった
ので、帰途この守護神と中差の矢を一手納めたという。現在宝物として鏃(やじり)が残ってる。境
内には樹齢800年以上の古イチョウがあり、また嘉永二年(1849)九月銘の石灯籠一対がある。
 弁財天信仰、音楽、芸能の上達に霊験ありといわれ、江戸時代には「花柳界」の芸子たちに特に篤
く信仰され、江戸市中の「綺麗どころ」が綾瀬川を舟で下り、街道は千住から下妻道を利用して、多
く人々が参詣に訪れたもんだとさ。



■花畑第三団地

 
4丁目11番にある巨大団地。




隆光山正受院長建寺

 4丁目19番(旧花畑町3537番地)にある浄土宗の寺。本尊は阿弥陀如来。移転寺ともいうが
詳細は判らない。墓地に寛永四年(1627)のぼひがある。綺麗に整えられた寺だ。



■稲荷神社

 4丁目28番にある。火の神秋葉神社を合祀。花又村下沼(しぼぬま)ズシで祀っている。ズシと
は講中、町会、共同体のようなもの。



■足立自動車車検場
 5丁目12番にある。 



■都立城北養護学校

 5丁目13番にある。



■庚申塔2基

 5丁目18番にある。@元禄五年(1692)奉待庚申供養成就処と刻んである駒型板碑。A日月
・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿を刻む。造立年不明。



■都立足立養護学校

 5丁目24番にある。




【宮城】(みやぎ)1〜2丁目                   最終平成元年5月15日
 宮城村。明治22年江北村大字宮城、昭和7年足立区北宮城町・南宮城町(合の谷耕地)。同36
年南宮城町を宮城町とする。北宮城町は江北・西新井本町・西新井・扇などに分散して組み込まれ
消滅した。同41年新住居表示により宮城町の一部を宮城1〜2丁目とし、平成元年残りの宮城町
・小台大門町を編入して現行の「宮城」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『足立区史』など。

 宮城の由来
 この辺りを領有した岩槻太田氏の武将
宮城四郎兵衛尉為業にちなむ。宮城中務政業は、太田美濃
守入道三楽斎に仕え、天正十七年(1589)六月二十三日に没した。



■江南中学校
 1丁目8番2ある区立校。昭和28年第八中学校から独立して開校。同42〜51年4期に分けて
鉄筋校舎に改築。平成15年創立50周年。

 校歌
五色の桜」 作詞・栗林潤吉  作曲・堀内秀治
  1.五色の桜 荒川の
    流れに霞む春の朝
    明るく妙
(たえ)に潔く
    花と競いて麗しく
    美し校風 吾等若人
    打ち建てん



■宮城小学校

 1丁目27番にある区立校。大正14年江北尋常高等小学校押部分教場が移転、同15年現在地に
「江北尋常高等小学校宮城分教場」と改称。昭和22年独立して「東京都足立区立宮城小学校」と改
称。同47年屋上プール増改築。同52年校庭改修ウォーク・トップ舗装。同61年同窓会発足。創
立40周年記念式典。同62年ミニ東京駅完成(煉瓦発祥の地)。同63年視聴覚教室開設。
 平成元年煉瓦造り花壇完成。同3年丸型郵便ポスト設置。同8年多目的ホール・郷土資料室完成。
創立50周年記念式典。同9年コンピュータルーム設置。同10年群馬県宮城村立宮城小学校と姉妹
校交流提携。同11年姉妹校交流会(どんぐり受け渡し式)。同13年姉妹校交流会(どんぐり植樹
祭)。同14年ランチルーム設置・堆肥小屋・田んぼ設置。同16年プール全面改修。同18年校庭
改修。同18年創立60周年記念式典。

 校歌
真白に匂う」 作詞・小林節蔵  作曲・有賀正助
  1.真白に匂う富士の嶺の
    気高い姿 身につけて
    文化の花の開く道
    共に学ぼう 宮城校
 



■南宮城公園

 1丁目27番、商店街の中にある区立公園。宮城小学校の並びにあり、利用する人が多い。

 
じゃぶじゃぶ池
 小さい子たちが、安心して水に親しんで遊べるように整備された無料の施設だ。区内に21ヶ所あ
り、それぞれ特徴がある。ここは水色の小さなプール。オムツの取れた赤ちゃん以上の幼児が、保護
者同伴で夏の間だけ利用できる。事故が起きないよういろいろ制約があるのは当然だ。



■福寿山地蔵院

 1丁目34番にある真言宗の寺。



■宮城氷川神社

 1丁目38番にある。
創建は不詳なれど、古くは豪族の館跡に創建されたと伝う。しかしながら、
大正2年の荒川放水路建設工事に伴い社殿を移築しなければならなくなり、現在の地に遷座した。境
内には足立姫を祀った伝えられる富士浅間神社・稲荷神社・三峰神社がある。境内に嘉永二年(18
49)の狛犬があり、末社に富士浅間神社がある。足立荘司宮城宰相の家方は、社前の一帯にあった
という。



■東京都下水道局みやぎ水再生センター
 2丁目1番にある都の施設。旧称は「下水道局小台処理場」といった。




【六木】(むつき)1〜4丁目                     昭和53年4月1日
 六ツ木村。明治22年花畑村大字六ツ木、昭和7年足立区六木町。同51年10月1日六木町・
佐野町の各一部をあわせた町域を現行の「六木1〜2丁目」とし、同53年六木町・神明町の各一
部をあわせた町域を現行の「六木3〜4丁目」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『足立区史』など。

 六木の由来
 天正のころこの辺りを開発したのが
小田信雄の家臣だった天野周防守国忠ら六騎の武者だったこ
とによる。六騎(むつき)が六木に転じたかぁ・・・・うーん。天野さんのご子孫は今も健在だ!



■六木団地

 1丁目5番にある。



■中川北小学校

 1丁目6番にある区立校。昭和47年中川小学校から独立開校。同53年辰沼小学校を分校。平成
19年創立35周年。



■佐野公園

 1丁目7番にある。



龍慶山正願院大光寺
 3丁目10番にある新義真言宗の寺。「寺院明細」によると慶長元年(1596)西新井大師総持
寺の良誉上人による開山という。そして六木村を開発した織田信雄の旧臣という天野周防守国忠ら6
騎が当地に土着し、不毛の地を開いて農業を営んだ。当時一寺を建立し、戦没者供養のために開基と
なったと伝わっている。本尊は仏師春日作といわれる阿弥陀三尊立像。平常は厨子に納められていて、
開帳されるのは正月三ヶ日だけ。宝物に上田源七筆の大涅槃像がある。境内に元禄十二年(1699)
十一月の庚申塔、寛文七年(1667)の五輪塔がある。



■六木小学校
 
 3丁目21番にある。昭和54年花畑小学校から独立し「東京都足立区六木小学校」として開校。
同58年創立5周年記念式典。同63年創立10周年記念式典。
 平成元年学校給食民間委託。同5年創立15周年記念航空写真撮影。同10年創立20周年記航空
写真撮影。同20年創立30周年記念式典。

 校歌
流れる川に」 作詞・堀山欽哉  作曲・廣瀬鐵雄
  1.流れる川に聞いてごらん
    豊かな水を求め来て
    この地を拓いた祖たちの
    努力と知恵の足跡を
    きっと話してくれるから
  2.緑の木々に聞いてごらん
    六木に育つ若い木々
    大空目指して逞しく
    明るく強く伸び行けと
    きっと話してくれるから
  3.澄みの空に聞いてごらん
    心と体 磨きあい
    大きな望みを胸に秘め
    果てない空に羽ばたけと
    きっと話してくれるから
     この歴史を継ぎ 未来を拓く
     私たちの心の故郷
     光あれ 六木小学校  



■六木諏訪神社

 3丁目26番にある。かつての六木村の鎮守だ。祭神は建御名方命。江戸時代後期に幕府が編纂し
た地誌『新編武蔵風土記』によれば、当時2丁(約218m)ばかり北方に、諏訪塚という小さい塚
があって、元々諏訪神社はそこにあったと伝えられていたことが記されている。大鷲神社の管理。例
祭は9月27日。境内に安永三年(1774)十一月の庚申塔、寛政八年(1796)八月銘の石灯
籠がある。




【本木】(もとき)1〜2丁目                      昭和45年8月1日
 淵江領本郷。本木村。明治22年西新井村大字本木、昭和7年足立区本木町1〜6丁目。同23
年6丁目(荒川南岸)を千住桜木町・小台町に移し、同36年3丁目が本木東町・本木西町・本木
南町・本木北町として独立したので、1〜2丁目と4〜5丁目が残ったが、同45年新住居表示に
より本木町1丁目の一部を現行の「本木1丁目」とし、本木町2丁目と興野町の各一部をあわせた
町域を現行の「本木2丁目」とした。平成元年本木町1丁目の残りを編入して新住居表示は完了し
た。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『足立区史』など。

 本木の由来
 本木は、樹木の根元直上の幹をいう。本木の由来は聞くも涙、語るも泪の物語。
 @足立荘司(この辺りの荘園の管理人)が熊野権現に願掛けして生まれてきた足立姫を対岸の豊
島左衛門清光に嫁がせたが、姑の苛めに遭い里帰りの途中、行く末をはかなんで侍女5人と入水自
殺してしまった。荘司は哀れな娘の追悼のために諸国の霊場を巡礼し、熊野へやってきた時、霊夢
を見「霊木を授けるから仏像を刻み安置せよ」とのお告げを受けた。翌日早速山中に分け入ると間
もなく霊木を得、「この木が霊木で娘が成仏しようなら早う故郷に流れ着け!」と念じて紀伊の海
に投げ込んだという。やがて荘司が巡礼を無事終えて足立に戻ってくると、果たして霊木は流れ着
いていた(のちにそこが熊ノ木と呼ばれた)。荘司が霊木を館に安置するとたまたま諸国行脚の行
基が立ち寄り、事の次第を聞いて霊木に向かい六体の阿弥陀如来像を彫り、近隣の六ヶ寺に納め、
根本に近い本木の余り木でも一体を彫り館の内に安置した。この「木余り如来」を「
本木の阿弥陀
といい、近隣に知れ渡ったので村名にしたという伝説が残っている。事実かどうか検証はない。足
立姫の墓碑は性翁寺にあるが、対岸の西福寺では豊島左衛門の娘が足立荘司に嫁いで苛められ自害
したというまるで逆の話になっている。こっちの方が正しく、足立区側で話をすり替えたようだ。



六阿弥陀
 阿弥陀像が納められた六ヶ寺は、
本木の善覚寺・小台の延命寺・西原の無量寺・新堀の与楽寺・下
谷の常樂院・亀戸の常光寺で、本木の阿弥陀は性翁寺・木残り阿弥陀は西原の昌林寺にあるという。
 なお本木3丁目2708番地にあった一番札所善覚寺は明治初期に、二番札所延命寺は明治9年廃
寺となり、それぞれ豊島の西福寺、恵明寺に移され、下谷の常樂院は調布西つつじが丘に移転した。
また六番札所の常光寺(亀戸)だが、

   
二百年奴隷のようと阿弥陀泣き(川柳)

 なる句があるのを見ると、初めは常光寺にあったものではないようだ。この阿弥陀寺六ヶ寺を巡礼
するのを「六阿弥陀」といい、全行程6里以上ある。江戸三不動、七福神巡りと、江戸市民は信仰に
かこつけてストレスを解消してた。男はさらに余計なことを愉しんでいた。

   六つに出て六つに帰るを六阿弥陀(川柳)

 というように日の出から日没まで歩き通す難行なので、女性や老人にはきついので全部を廻らない
ものだが、

   六阿弥陀翌日亭主飯を炊き(川柳)

 無理して廻った女房が筋肉痛で寝込み、翌日の食事は亭主が作ることになる。

   六阿弥陀みんな廻るは鬼ババァ(川柳)
 けろりとしているのは鬼ババァだという洒落。健脚家もいたもんだ。



■バタヤ部落
 西新井橋の北方(本木1丁目、関原1丁目)は住宅過密地域で、貧困層が多く。昭和30〜40年代
において「バタヤ部落」と呼ばれたところの一つだ。東京にはそんな貧民の住処があちこちにあった。
たとえば有楽町のガード下や、御茶ノ水沿線、浅草の蟻の町など。バタヤとは一次廃品回収業者で、当
時は「屑拾い」と呼ばれ、背中に籠を背負って町を徘徊し金目になりそうなものを拾い集めて、二次業
者のところに持っていって売り、日々の収入とした。その彼らが公有地などを不法に占拠してバラック
小屋などを建てて住み着いたところを「バタヤ部落」と呼び、金を蓄えたものは独立したが、類は類を
呼んで部落は膨張した。昭和40年代に入り高度経済成長期を迎えると、大量生産・大量消費の時代が
訪れ、製紙業界では包装資材としてこれまで使用していた木箱が段ボールに切り替えられ。その原料と
なる下者古紙を中心に需要が増えた。またこのような需要構造の変化は、パルプ技術の革新を伴って、
広葉樹のパルプ化を急速に進展させた。で、建場(一次回収業)にも大量生産・大量消費に見合った合
理化が求められ、集荷機構の簡素化などが急務とされた。そのような時代背景のため、「屑〜イ、お払
い〜」式の、背中に背負った屑篭やリヤカーでの収集量ではとても追っつくものではなかったし、バタ
ヤの収入も知れたものになっていった。高度経済成長では、土木建築事業を始めとして日雇い労働者の
産業需要を押し上げたため、低い収入のバタヤの担い手は次第に減少する傾向にあった。そこへ、屑を
回収する際にトラックを用いた「ちり紙交換」が普及するようになる。それらの要因が重なり、街中で
屑を集めて歩いたバタヤの終焉を招くことになった。つまり屑の回収手段が、籠やリヤカーからトラッ
クに代わるというモータリゼーションによって、屑の扱い量が急増し、回収に回る区域が拡大したこと
で、裸一貫で始められるということが最大のメリットだったバタヤは、屑回収を続けられなくなり、こ
の時代にほぼ消滅し、バタヤ部落も代替地を与えられて移転していったり、職業の転換で一般に溶け込
んだので自然消滅した。蟻の町は江東区の埋立地に代替地を与えられ、追い立てられたように映ったが、
今は土地も高騰し子孫は潤っている。
 バブル崩壊後、バタヤは復活し、ポイ捨て空き缶などを集めるなどして収入を得るようになった。新
しいバタヤ部落は、上野公園、代々木公園、隅田川・荒川の堤防内などに部落を形成して
いる。



■本木東小学校
 1丁目14番15号にある区立校。昭和28年本木小学校の分校設置。同32年独立し「東京都足立
区立本木東小学校」として開校。
 平成15年創立50周年。
 本木小学校に吸収案あり。



吹塚山光輪寺
 1丁目26番にある新義真言宗豊山派吉祥院の末寺。貞享三年(1364)の創建。本尊は観世音菩
薩で、吉祥院住職の隠居寺だった。寛永年間(1624〜43)の墓碑、寛文九年(1669)銘の庚
申塔がある。
 



■中曽根城址 中曽根神社
 2丁目5番にある元の妙見社。新編武蔵風土記稿に、

   千葉某の城跡という所あり、六町四方ばかり外溝の堀および土居の跡のみ残れどその内
   は今畑となれり


 とある。そして千葉某とは石浜城(荒川区南千住3丁目)の千葉次郎勝胤で、この城はその抱え城
(支城)だったといい、さらにここの妙見社は「城の鎮守なりしと云」とある。神社境内は大正末ま
で一段と高地で、囲堀もあったが(平成8年の調査で確認)今はない。江戸時代には、ここに50石
の郷倉(災害用備蓄倉庫)があった。
 祭神は国常立命と大雷神の2柱。天文三年(1534)の創建。室町時代の豪族千葉勝胤が、この
地に城を構え、妙見堂(北斗七星)を勧請した。廃城後も里人の尊信により維持されてきたが、興野
の雷神を併せ中曽根神社を名乗ったのは昭和7年のことだ。本殿は昭和11年の造営、拝殿は明治初
期のものだ。例祭は9月19日、元亨年中(1321〜23)の板碑が妙見堂から出た。末社は御嶽
社、城跡碑が境内にある。



●荒川バラバラ死体事件
 昭和27年5月10日本木町4丁目4433番地先荒川放水路の岸辺、ちょうど江北橋と西新井橋
の中間辺り、通称日の丸プール≠ニ呼ばれる入江に何か浮かんでいるのを、大貫房江(7歳)が発
見、「お化けがいる」と近所の佐久間少年に報告した。佐久間少年が開いてみると胴体だけの男の死
体だったので慌てて西新井署に届け出た。その5日後の15日には対岸の千住桜木町の川岸で首が、
荒川区三河島9丁目1877番地の新井忠五郎(57歳)により発見され、翌日には両腕が見つかり
身元が判明した。被害者は仙台出身で志村署警邏課の巡査板橋区志村蓮根町1476番地木村久兵衛
方の伊藤忠夫(28歳)と判明、彼は10日ほど前から行方不明だった。捜査の結果志村第三小学校
教官である内縁の妻宇野富美子(26歳)と巡査の間で、巡査の借金問題などでトラブルが生じてい
たことが判明、逮捕状のないまま妻を緊急逮捕したところ、翌日犯行を自供した。富美子は夫を絞め
殺したあと、母親のしづ(51歳)と共謀して死体をバラバラに切断したという。同月7日富美子は
夫の酒癖の悪さと暴力に耐えかね、「殺すのは惜しい。売れば金になる」という寝言に戦慄したこと
が、殺意へ繋がったとか。しかし殺したものの死体の始末に困り、そこでバラバラに切断して棄てる
こととし、母親と2人で関節ごとに一つ切っては新聞紙に包むというやり方で2時間で終え、「案外
簡単でしたよ」と冷ややかに笑ったとも笑わなかったともいわれる。遺棄は、登美子が胴体を学校で
借りた自転車に積んで運び、新荒川大橋から投棄し、両腕は母しずがタクシーで運び、富美子と落ち
合って、新荒川大橋から投げた。二人は取って返すと、残りの頭や足を自転車に積んで、今度は江北
橋から遺棄したという。途中パトロールの警官に遭遇した時は心臓が縮みあがったらしい。 同年1
0月東京地裁は、富美子に懲役12年、しづに懲役1年半の判決を下した。しかししづは翌年獄中で
病死した。富美子は満期でも昭和39年東京オリンピックの時には出獄している。生きていれば平成
18年で80歳、もう死んだか?



■庚申塔

 2丁目21番にある。安永二年(1773)日月・青面金剛・一鬼・三猿を刻む。




【本木北町】(もとききたまち)                 最終昭和43年8月1日
 淵江領本郷。本木村。明治22年西新井村大字本木、昭和7年足立区本木町3丁目。昭和36年
本木町3丁目の西北部分が独立。同43年8月1日新住居表示を実施。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『足立区史』など。



■本木小学校

 7番1号にある。ここは冬木屋敷の一部だったという。邸内の池畔にあった冬木弁天の社は、明治
34年校地を造成する時に、14番の田中稲荷神社の北側に移された。
 明治7年1月第五中学区四番公立小学新井学校開校。同6月一番分校(興野)・二番分校(本木)
・七番分校(谷在家)を開設。同9月一番分校は分離して九番公立小学興野学校、同11月には七番
分校が分離して十一番公立小学淵江学校となり、同10年3月二番分校も独立して二十番公立小学本
木学校となる(本木小学校の創立)。同7月新井学校閉校→同11年再開校。同13年淵江学校と合
体して近松学校と改称。同20年興野学校を吸収合併。同22年本木学校と近松学校は合併して本木
尋常小学校となり、近松学校はその分校となる。

 校歌「宮居に近き」
   宮居に近き我が里は
   東に筑波 西に富士
   花に名を得し荒川の
   堤をめぐらす理想郷
   幸ある里に生い立ちて
   劣らじ富士にも桜にも
(現在第一校歌)

 同26年高等科を併置。昭和2年創立50周年。同4年近松分校を分離して西新井尋常小学校とし、
同4年関原分校を設置→同7年関原尋常小学校として分校。同年南足立郡が東京市に編入され「東京
市本木尋常高等小学校」と改称。同8年火災焼失。同9年寺地分校を設置。同11年再び火災焼失。
同15年寺地分校を分離し寺地尋常小学校とする。同16年国民学校令により東京市本木国民学校と
改称。同18年都制施行により東京都本木国民学校と改称。
 同22年区立本木小学校と改称。同28年本木町3丁目に分校設置→同32年分離し本木東小学校
とする。同39年3度目の火災で校舎焼失。同52年創立100周年。平成19年創立130周年。



■冬木屋敷遺構
 7番にある。江東区冬木の町名として残っている深川木場の豪商冬木屋の別邸が、本木小学校の一
円にあった。明暦の大火(1657)で巨富を得て、その財力で寺院を復興し、茶道具類を蒐集し、
尾形光琳・乾山兄弟のパトロンだった。冬木家がここに別邸を構えたのは、初代直次の妻志那が、こ
の地の三宅大膳の娘だったことに拠るのだろう。小学校西裏の田中稲荷神社、北側にある冬木弁天の
小祠は、いずれも邸内の屋敷神だった。冬木弁天は元禄三年(1690)の勧請と伝わる。明治34
年学校建設のため現在地に移したとか。弁天というからは庭池の畔に祀ってたものだろう。



■田中稲荷神社
 14番にある。祭神は宇迦之御魂命。創建は慶安四年(1561)という。深川木場の材木商冬木
屋が、本邸から当地の下屋敷へ遷座したのに始まる屋敷神だった。例祭は9月19日。明治維新前は
深川木場の講中が冬木屋下屋敷に集まり、盛大な初午祭を行った。冬木屋が去った後も里人の信仰に
よって現在まで維持されている。


  


【本木西町】(もときにしまち)                最終昭和43年8月1日
 淵江領本郷。本木村。明治22年西新井村大字本木、昭和7年足立区本木町3丁目。昭和36年
本木町3丁目の西北部分が独立。同43年8月1日新住居表示を実施。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『足立区史』など。



■氷川神社
 
15番にある。祭神は素盞嗚尊。例祭は9月19日。むかし荒川岸の草叢から毎夜瑞光を発するも
のがあるので、里人が不思議に思い行ってみると、果たして古鏡一面を発見した。そこでその地に一
社を建てたのが草創であって、実に享保三年(1454)のことだ。のち宝永六年(1709)六月
九日下総国佐倉城主城主だった千葉助胤の末孫三谷野兵衛包胤の寄進により、水害を避けるため、享
保の頃(1716〜35)現在地に本殿が建立された。元は西新井村(本木・興野・西新井3村連合)
の総鎮守で、現在も本木の鎮守として町内10社の末社を統括してる。境内に享保三年(1718)
九月の石鳥居がある。



■第六中学校

 16番にある区立校。昭和22年本木小学校内に「東京都足立区立第六中学校」として開校。同2
4年本木1丁目640番地に独立校舎竣工。

 校歌緑に映ゆる」 作詞・今関政徳校長  作曲・柏木俊夫
  1.緑に映ゆる学び舎に
    集う若人 眉上げて
    高く尊き富士の嶺の
    聳ゆる姿 仰ぎ見る
    ああ 理想は高し
    我ら第六中学生
  2.秩父の山の谷深く
    岩根穿ちて流れ出で
    唯一筋に荒川の
    止まぬ真理
(まこと)ぞ慕わしき
    ああ 諭しは深し
    我ら第六中学生
  3.立ち立つ煙 四方に満ち
    力溢るる我が町は
    学べる智慧と望み持て
    やがて担わん次の世を
    ああ 前途
(ゆくて)は愉し
    我ら第六中学生 
 

 同32年現在地に移転。同33年体育館兼講堂完成。同40年完全給食場火入れ。同52年新体育
館完成。創立30周年記念式典。同55年第5期工事完了して鉄筋コンクリート造り校舎完成。同6
2年創立40周年記念式典。
 平成3年校庭夜間照明設置。同5年コンピュータルーム開設。同7年ギャラクシティ・ホールにて
合唱コンクール開催。同9年創立50周年記念式典。同17年校舎耐震化。同19年創立60周年記
念式典。
 
19 11 17 創立六十周年記念式典挙行
22 31 櫻井 愼一郎校長勇退。
22 石塚 弘、校長に着任。(十八代)



淵江山吉祥院星谷寺
 17番にある真言宗豊山派大和長谷寺の末。江戸四ヶ寺(他は根生院・弥勒寺・真福寺)の一つで、
真言宗関東の役寺として、江戸時代の盛時には32000uの寺域を持ち、33ヶ寺の末寺を有して
いた。家康以降歴代将軍の朱印状を持つ大寺院だった。今なお、役寺当時一月四日に江戸城白書院に
登城して賀詞奏上の際に使用した立派な駕籠が2挺保存されているとか・・・・
じゃきに、今は小んまいどもが、舐めたらあかんぜよ! 
 第二次大戦で愚かな権力によって供出させられて今はないのだが、天明三年(1783)十月近江
大掾藤原正邑作の鐘銘写しによれば、家康が鷹狩の時、目を止め、朱印を与え、諸寺の司としたとい
う。
 寺門は寛保二年(1742)の建築、本堂は文政十一年(1828)の再建で、大正11年に改修
した。この本堂に掲げてある扁額は寛保元年(1741)十二月宝鏡院宮御染筆のもの。境内に並ん
だ3基の庚申塔は元禄期のもので舟形阿弥陀像、塔身中段に陽刻三猿を持つ板碑型、駒型六臂青面金
剛など、江戸時代の庚申塔の流行を様々に伝えている。墓地から正応元年(1288)、嘉元三年(1
305)、正中二年(1325)の板碑が出た。




【本木東町】(もときひがしまち)               最終昭和43年8月1日
 淵江領本郷。本木村。明治22年西新井村大字本木、昭和7年足立区本木町3丁目。昭和36年
本木町3丁目の西北部分が独立。同43年8月1日新住居表示を実施。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『足立区史』など。



恵日山宝寿院妙尊寺
 27番にある新義真言宗豊山派吉祥院の末寺。昭和14年10月18日総本山大和長谷寺の直末に
なった。この辺り一帯は、江戸時代の前は、千葉氏の中曽根城の城内に当り、小名「小屋の内手」と
いったところだ。「小屋の内手」とは、城の西部で、城攻めの時に小屋を設けたところの意だとか。
山城や陣屋の一般居住区域を「根小屋」というが、ここもその類だろうと「新編武蔵風土記稿」では
想像している。この寺は千葉一族の祈願所だったといわれ、応永元年(1394)の創建。開山は賢
長、本尊は不動明王坐像だ。寺門は寛永年間(1624〜43)の建築といわれ、鮮やかな朱門。薬
王門の形式だ。本堂は大正7年に再建した。元和二年(1616)の五輪塔、寛永四年の墓碑がある。
 この町にあった十王堂はここに合祀されている。現在のところ区内で一等古い文永九年(1272)
の板碑がある。境内は駐車場を兼ねており、整備されている。現在の本堂は鉄筋コンクリート造り。
左は墓地、右は庫裏。

 板碑
 薄い石の板の卒塔婆の称で、多くは秩父緑泥片岩を用いて造るので「青石卒塔婆」とも呼ばれる。
特徴は上部が三角形、つまり将棋の駒型をし、その下に2本の線刻があり、さらにその下に種子と呼
ばれる仏陀を表わした梵字が、1尊ないし3尊刻まれている。中央から下にかけては供養する仏の戒
名や没年がある。この形式は宗派によっても差があり、時宗のものは種子がなかったり、六字名号(南
無阿弥陀仏)だけ彫ったものもあり、当時の区内では天台・真言・浄土・日蓮・時宗の多かったこと
が判っている。



■御嶽神社
 12番、宝寿院の南にある小社。祭神は国常立命。創建は永禄四年(1561)といい、中曽根城
域にあって、千葉氏の家臣が、日ごろ信仰した武州御嶽山の分霊を奉祀したのが始まりだってこった。
嘉永七年(1854)九月銘の漱盥石がある。



■菅原山善覚寺跡
 かつての元木町2708番地にあった真言宗西新井大師総持寺の末寺。善学寺とも。江戸六阿弥陀
の一番札所で、所謂元木の阿弥陀仏を安置していたので、本木の地名が起こったという。この寺は廃
寺となり、豊島の西福寺に法灯を移したので一番札所も西福寺に移った。




【本木南町】(もときみなみまち)               最終昭和43年8月1日
 淵江領本郷。本木村。明治22年西新井村大字本木、昭和7年足立区本木町3丁目。昭和36年
本木町3丁目の西北部分が独立。同43年8月1日新住居表示を実施。



■胡禄神社

 4番にある。「やなぐい」と読む。祭神は淤母陀流命。例祭は9月19日。



■豊川稲荷

 7番にある。



■北野神社
 17番にある。祭神は菅原道真。例祭は9月19日。むかし当地の豪族豊島清光が北野天満宮から
分祀したもので、熊野権現とともに奉斎した。現在の本殿は明治35年の建築だ。天保十三年(18
42)正月銘の漱盥石がある。



■熊野神社

 18番にある小社。祭神は伊邪那美命。例祭は9月19日。土地の豪族豊島清光が、息女の足立姫
の死後、熊野権現から霊木を授けられ、この土地で6体の阿弥陀仏を彫刻したので、熊野の神を勧請
したという。土地の人は「おくまんさま」「おくまのさま」と呼ぶ。
 



■出戸八幡神社
 25番にある小社。祭神は品陀和気命(誉田別尊=応神天皇)。例祭は9月19日。俗に出戸八
幡≠ニ呼ぶ。出戸とは出塁・砦の意だ。ここは中曽根城主千葉氏の弓矢の守護神(武運長久の神)だっ
たことによる。廃城後も里人の信仰により現在に至っている。境内に文久元年(1861)八月建立
の正八幡大神の碑がある。




【谷在家】(やざいけ)1〜3丁目                   昭和50年7月1日
 高野村小名谷在家。明治11年「郡区町村編制法」により南足立郡谷在家村として独立。同22
年江北村大字谷在家。昭和7年足立区谷在家町。同46年5月1谷在家町・上沼田町・西新井町・
高野町の各一部をあわせた町域を現行の「谷在家1〜2丁目」とし、同50年新住居表示により谷
在家町・上沼田町・北鹿浜町・加賀皿沼町の各一部をあわせた町域を現行の「3丁目」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『足立区史』など。

 谷在家の由来
 
沼田川の谷もしくは沢に農地を開いたことを表す。練馬区に谷原在家が、世田谷区に経堂在家・
満中在家・つるさし在家があった。在家は色々の意味を持つがこの際は出家に対する在家ではなく
集落の意で用いている。「湿地の部落」の意。美しくいうと「水田のある村」だ。



■谷在家駅

 1丁目20番、尾久橋通り上にある都営日暮里・舎人ライナーの停車場。平成20年3月30日の
日暮里〜見沼代親水公園間の開業と同時ににできた。ホームは島式1面2線構造で3階にある。ホー
ムと改札階を結ぶエレベーター設置。改札口は1ヶ所のみで2階にある。出口は東口と西口の2ヶ所
で、双方にエレベーターがある。



■みだまえ公園

 1丁目17番、尾久橋通りの東側にある区立公園。広い園内に大きな樹木が多く植えられており、
広場も広く取られている。ただゴミが散乱している。弁当や清涼飲料缶のゴミが多いということは、
この辺で休憩したサラリーマンやドライバーの心得が悪いのだ。



■谷在家公園
 2丁目13番にある区立公園。広場が広い。夏は涼しいそうな樹木が鬱蒼と茂っている。



■谷在家赤城神社

 2丁目16番にある。創建は言い伝えによると、約200数十年前といわれている。古くより年番
の制度があり、当番に当たると祭礼前に社殿に泊まり込むなど多くの慣習がある。また戦後数年まで
は、毎年1月25日の御毘沙祭に、この地に嫁いできた嫁さんにその時の着物で集まって貰い、山盛
りのご飯を食させるという慣例があった。



長命山本応寺
 2丁目19番にある日蓮宗の寺。正応元年(1289)天目上人の開山、浅香藤九郎の開基といい、
谷在家開拓の歴史を留めている。天目上人はこの村の出で、藤九郎叔姪の俗縁があった。彼は日蓮の
弟子中著名であり、延文元年(1356)四月二十六日に示寂した。この寺は草創以来独立した寺だっ
たが、第九世日領のころ不受不施派の異流を唱え、弾圧に遭って廃絶した。五年後第十世日福が、中
山法華寺に再興を懇願し、法華寺末として復活した。現在の本堂は天正八年(1580)頃の建築。
また梵鐘は元文元年(1736)十一月の鋳造で、その音韻は優れて美しかったが、戦時中の愚かな
権力者によって供出させられ、鋳潰されて今はない。本尊は聖観音像で、江戸時代初期のものという。
仏像の多いことでは区内随一で、66体もある。中でも鬼子母神、十羅刹女立像12体、三十三番神
像30体、四天王4体が美しい。明治五年の学生発布前は、寺子屋が置かれていた。康暦二年(13
80)・長禄二年(1458)の板碑もある。
 木造の本堂は倒壊の恐れがあるのか、自身対策か、四方八方から鉄パイプをつっかえ棒にして支え
ている。みっともいいものじゃない。

 
おびしゃ祭り

 おびしゃとは、騎射(流鏑馬)に対して歩射(ぶしゃ→びしゃ)で、弓矢で的を射て農作物の豊凶
を占う神事だ。全国各地にあるが、東京ではもう珍しくなった。


 獅子舞い
 1月26日に露払い・太鼓・横笛・獅子・大黒様の五人編成で家々を回り、まずお囃子に合わせて
獅子舞いがあり、次いで大黒様が悪疫退散・家内安全の数え唄を唄って終わる。地域の発展でいつ消
えてしまうか心配な芸能なのだ。

  数え唄 大八州造り造り固めし大黒天
      われら信ずるともがらには
      いでや宝をさずくべし
      一に俵をふみわけて
      二でにこにこ笑い顔
      三に盃のみかわし
      四つ世の中よきように
      五つ出雲の大黒天
      六つ無病息災で
      七つ何事なきように
      八つ屋敷を取り広げ
      九つ小倉を建て並べ
      十で当家家内安全無病息災
      これより当家の神棚にとどまり
      今年一杯守護なさん そうじゃ そうじゃ



■鹿浜第一小学校

 2丁目24番にある区立校。昭和41年鹿浜小学校から独立し「東京都足立区立鹿浜第一小学校」
として開校。12学級383名でスタート。同51年上沼田小学校を分
校。同57年皿沼小学校を分校。同42年校歌制定。

 校歌
遥かに富士を」 作詞・平岡孝一  作曲・大中寅二
  1.遥かに富士を望みつつ
    足立の空に聳え立つ
    我が学び舎は鹿一小
    強く正しく逞しく
    若き力 此処にあり
    鹿浜第一小学校
  2.豊かな流れ荒川の
    堤の東 程近く
    我が学び舎は鹿一小
    直く明るく美しく
    伸びる力 此処にあり
    鹿浜第一小学校
  3.共に歌わん この校歌
(うた)
    高く掲げん この校旗
(はた)
    我が学び舎は鹿一小
    夢と理想を胸に秘め
    明日の力 此処にあり
    鹿浜第一小学校


 同44年第3期工事竣工(普通教室4、図書室・家庭科室)。同47年体育館完成。学童クラブ保
育舎完成。第4期増築工事竣工(普通教室2、放送・事務室)。北側校地追加買収。北門・東門およ
び北側校庭整備完了。同49年プール完成。同50年西門完成。小鹿園完成。同51年第5期工事竣
工(普通教室6)
。同54年給食室改修。物資搬入門設置。校内都市ガス化、教室内のガス暖房化、
家庭科教室改修。同55年3教室を増築(心障教室、視聴覚室、第二音楽室)。同56年陶芸小屋新
設。同57年体育館、便所新設。皿沼小学校を分校。同60年校舎内外装改修。創立20周年記念式
典。同61年花いっぱいコンクール最優秀賞受賞(以後、毎年のように受賞続く)。
 平成元年散水栓工事完了。同3年屋上校名板取付。同4年空教室等リニューアル工事(ランチルー
ム・多目的ルーム・和室等)完成。放送室の移動更新。同6年屋上改修。同7年創立30周年記念式
典。同10年校舎耐震化。花いっぱいコンクール優秀賞受賞。同14年図書室を3階に移動整備。同
17年創立40周年記念式典。



■赤城神社

 2丁目16番にある。祭神は磐筒男命・赤城姫命の2柱。祭日は9月25日。創建は安永年間とい
い、もとは喜平次というものの氏神だったのを村の鎮守としたと伝わる。嘉永五年(1852)三月
の漱盥石がある。



■神社

 3丁目8番にある小祠。矢島宅の屋敷稲荷か?



■神社

 3丁目18番にある小祠。高橋宅の屋敷稲荷か?



■清徳寺

 3丁目28番にある浄土宗の寺。本尊は阿弥陀如来。慶長十六年(1611)矢の倉(中央区東日
本橋2丁目)に創建され、開山は善覚。正保元年(1644)浅草に移され、昭和8年4月11日現
在地に移転した。山門を入って左は庫裏、本堂、墓地、右も墓地で広い。現在の本堂は昭和15年1
0月2日の落慶だ。本堂前に真新しい石の観音像が建っている。



■谷在家団地

 3丁目にある。




【谷中】(やなか)1〜5丁目                     昭和53年4月1日
 
谷中新田。浅野久右衛門が開墾した「久右衛門新田」と吉野長左衛門が開発した長左衛門新田の
通称。一般的には久右衛門新田を「上谷中新田」、長左衛門新田を「下谷中新田」と呼んだ。新田
とは「新村」のことで、江戸時代以後に開発された村落のことだ。
 明治22年花畑村大字久右衛門新田・長左衛門新田。昭和7年足立区上谷中町・下谷中町。同3
5年長門町・蒲原町・北三谷町・上谷中町・下谷中町の各一部をあわせて東谷中町とし、同46年
5月1日上谷中町・下谷中町・東谷中町・北三谷町・普賢寺町・東加平町・大谷田町の各一部をあ
わせた町域を1〜2丁目に分けて現行の「谷中1、2丁目」とし、同48年1月1日大谷田町・上
谷中町・辰沼町・東加平町・内匠町・神明町・花畑町の各一部をあわせた町域を現行の「谷中3〜
4丁目」とし、さらに同51年10月1日上谷中町の残り全部に大谷田町・神明町・佐野町・辰沼
町の各一部をあわせた町域を現行の「谷中5丁目」した。同53年北加平町の一部を4丁目に編入
して新住居表示を完了した。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『足立区史』など。

 谷中の由来
 開墾地の位置が谷または沢の真ん中だったことによる。谷は深いV字谷やU字谷でなくても低湿
地なら谷・谷地・谷戸・谷津という。杉並区阿佐ヶ谷がそうだ。綾瀬川と中川の間はかつては利根
川や隅田川が流れていたこともあり低地になっており、花又・六木・佐野・辰沼・谷中・大谷田・
東淵江と湿地帯の開墾地が南北に連なっている。



■稲荷神社
 1丁目12番にある長左衛門新田の鎮守。足立3丁目の西宮稲荷神社の管理。



しょうぶ沼公園

 2丁目4番にある区立公園。



■北綾瀬駅
 2丁目6番にある東京メトロ千代田線北綾瀬支線の停車場。昭和54年12年20日の千代田線北
綾瀬支線綾瀬〜北綾瀬間開業時にできた。ホームは高架片面1面1線構造で、2階にある。ホーム有
効長は3両分で、ワンマン運転を行っているためにホームドアが設置されている。ホームと改札階を
結ぶエレベーターは設置してある。改札口・出口は1ヶ所のみで1階にある。
 北綾瀬支線は、駅の北にある綾瀬検車区への回送線を旅客化して開業した区間。しかし営業列車は
回送列車を使用するわけではなく、同区間用に組成された3両編成の専用編成が使用されている。1
面1線構造のホームを持つ駅は、都区内ではここの他に大師前駅と京成金町駅だけだ。



常住山法立寺
 2丁目11番(旧上谷中町140番地)にある日蓮宗の寺。本尊は日蓮上人奠定の大曼荼羅略式木
像。寛永年間(1624〜43)の創建で、開山は寛永七年(1630)に示寂した法寿院日立上人、
開基は上総の住人平賀平内左衛門という旗本だ。境内に樹齢約300年の榎、百日紅がある。また寛
永十六年(1639)銘の五輪塔がある。



■谷中公園
 2丁目27番にある。野球場がある。環七通りに面してある野球場付属の公園。大部分が野球場で
東側は林。遊具類は小さい子向きの砂場、ブランコ、滑り台。
 



■谷中中学校

 3丁目14番にある区立校。昭和54年4月1日蒲原中・第十二中・第十三中の生徒過多問題を解
決するため新設校として開校した。かつてこの地域は、春はれんげ草の花が咲き、秋には黄金の波が
続き、空には純白な白鷺の群が舞う雄大な姿が見られた。鳥は古くから人の親愛の対象となり好伴侶
として長く親しまれてきた。本校教育の目指すところも、この自然の雄大さを心とし、自他の尊重に
基づく信頼の絆を大切に、谷中中の伝統の創造に努力するものだ。校章には、この様な創立の理想と
地域の象徴とが盛り込まれ、常に生徒の心を支え、未来社会へ大きく飛躍する願いが込められている。
平成16年創立25周年。


 校歌
広がる大空」 作詞・小林純一  作曲・中田喜直
  1.広がる大空 漲る光
    風さえ輝く谷中よ此処に
    見よ空高く聳える校舎
    明日の時代の日本を担う
    若い英知を養う処
    中学谷中 谷中中学校
  2.思えば中川 綾瀬の水も
    行く手に広がる大海目指し
    ああ只管(ひたすら)に流れて止まず
    明日に備えて日毎を日々を
    思い新たに鍛えて学ぶ
    中学谷中 谷中中学校
  3.舞い飛ぶ白鷺 三つ輪の結び
    所縁の徽章ぞ理想の印
    さあ清らかに また誇らしく
    明日に羽ばたけ希望の空に
    若い命を讃えて共に
    中学谷中 谷中中学校



■綾瀬警察署

 4丁目1番にある。昭和36年4月1日西新井署から分離独立。東加平町164番地に庁舎を建設
して設置された。平成10年8月1日竹の塚警察署(保木間1丁目16番)新設に伴い、綾瀬警察署
の一部と西新井警察署の一部が分割統合され竹の塚署の管轄となった。
 足立区の中部、東部を管轄し、面積は14.22u、人口は197000人余、世帯数は9万世帯ば
かり。(平成19年1月 警視庁文書課集計)
 幹線道路は、国道4号線(日光街道)0.8キロメートル、環状7号線4.4km、109号線(言
問・大谷田線)が縦横に走り、また高速6号線の加平インターが町の中心にあって環状7号線に接続
し、交通の要衝として重要な地域となっている。



■地下鉄千代田線の車両基地 俗称「清水村」

 4丁目4番にある東京メトロの広大な検車区・綾瀬工場。東京メトロは正式名称を「東京地下鉄株
式会社」という。
 広い田んぼの中で始まった工事で、不便極まりなく、蔑む意味合いを込めて「清水村」と呼んだ。
工事の建設主体である「清水建設」に因む。



■上谷中稲荷神社
 4丁目12番にある久右衛門新田の鎮守。足立3丁目の西宮稲荷神社の管理。



■辰沼小学校

 5丁目12番にある区立校。昭和53年新校舎落成。中川北小学校から分校し「東京都足立区立辰
沼小学校」として開校。

 校歌
都の東」 作詞・村山俊幸校長  作曲・芥川也寸志
  1.都の東 中川の
    清き流れに抱かれて
    強く正しく健やかに
    理想を目指す我が母校
    我ら辰沼小学校
  2.辰巳の芦原切り開く
    古人の意志 身に受けて
    勇気と知恵と希望持ち
    未来を目指す我が母校
    
我ら辰沼小学校
  3.心床しい桜花
    学びの験
(しるし)高らかに
    共に明るく逞しく
    平和を目指す我が母校
    我ら辰沼小学校

 同57年西校舎落成。創立5周年記念式典。同59年辰沼の森・岩石園・観察池完成。同62年
創立10周年記念式典。
 平成元年第二音楽室完成。同2年夜間照明設備設置。同9年創立20周年記念式典。同15年創
立記念日を11月11日より4月1日に変更。同19年創立30周年。




【柳原】(やなぎはら)1〜2丁目                 最終平成元年5月15日
 古くは小谷野柳原村といい、元禄十年(1697)に分村して柳原村。明治22年南綾瀬村大字
柳原。昭和3年南綾瀬町の大字。同7年葛飾区柳原町。同9年荒川放水路に遮られて飛地状態なの
で足立区に移管された。同37年柳原町・千住曙町の各一部をあわせた町域を柳原1〜2丁目とし、
河川敷は柳原町として残した。 同43年新住居表示を実施し、 平成元年柳原町の一部(河川敷)
を1丁目に、柳原町・日ノ出町の各一部(ともに河川敷)を2丁目に編入して新住居表示を完了、
現行の「柳原」となった。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『足立区史』など。

 柳原の由来
 
柳の木が多く自生した原野だったことによる。



■柳原千種園

 1丁目21番にある区立公園。



瑠璃山理性院楊原寺

 2丁目5番ある新義真言宗の寺。慶長七年(1602)の創建で、元は青戸村の宝持院の末寺だっ
た。開山は権大僧都快円和尚で、正保四年(1647)六月四日に示寂した。今の本堂は荒川の中央
部にあったものを河川工事のため、大正2年現在地に移転した。門を入るとすぐマンガチックな石造
りのかわいい「ほうき地蔵」が出迎えてくれる。平成14年9月建立とあり、檀徒の寄進だ。朱塗り
の本堂は修復したので綺麗だ。その右に小さいお堂があり「大師堂」とある。左は催場で鉄筋コンク
リートの2階建て。その奥は墓地だ。狭い境内に十三重石塔、無縁塔、大塚道太郎像が犇いている。
元禄八年(1695)の庚申塔がある。



豊栄山香月院

 2丁目29番にある日蓮宗の寺。普通の住宅を改造した寺? 寺だよな。庭もなく、木戸即玄関に
なっていて、表札に「香月院 七面大天女御法座祈願祈祷道場」とある。



■神社
 2丁目37番、柳原神社の前の角地にある小祠。



■柳原稲荷神社
 2丁目38番にある。『葛西誌』には慶長の創建とあるが、柳原村自体元禄の頃に小谷野柳原村か
ら分村しているので、区ではそれ以降の創建だろうと想像している。祭神は倉稲魂命。寛政八年(1
796)二月造の石鳥居がある。境内末社は右奥にある高木神社。高木は明治以後の呼称で本来は第
六天社だ。明治44年境内にあった日枝神社を合祀した。神木は大イチョウ、もう1本大イチョウが
ある。社殿の左に富士塚があり、昭和8年の築造。

 
碑など
 鳥居を潜った左手に碑群域がある。大きなのは慰霊碑で、昭和27年の建立。太平洋戦争の犠牲者
を慰霊する。句碑は孝之とある。誰だ?

   今日もまた筑波よく見え芦枯るる(孝之)

 箕輪囃子之碑は自讃の碑。

 
箕輪囃子
 柳原に伝承されている祭礼囃子。葛西囃子の一流。葛西囃子の起源は、現在の葛飾区金町に鎮座す
る江戸時代は「香取明神」と呼ばれていた葛西神社の神主能勢環が、享保の頃(1716〜35)村
内の若者を集めて、神社に伝わる神楽を崩した「和歌囃子」と呼ぶ一種の囃子を習得させて、同明神
の祭礼などに演奏していた。その後次第に技術も向上してきたので、近郷の鎮守の祭礼や、江戸の2
大祭である日枝・神田両社の祭礼の屋台にも頼まれて出演することになったと伝えられている。また
当時の葛西領の代官伊奈半左衛門は、葛西囃子を利用し、天下泰平・五穀豊穣の「奉納囃子」とし、
且つは青少年不良化防止の一策として奨励、毎年葛飾囃子代表者推薦会を催し、その選ばれた者を神
田明神の将軍家上覧祭に参加させたというと伝えられている。
 この葛西囃子が基となって「神田・目黒・大井・等々力・阿佐ヶ谷・奥沢・三ツ目・切り」など多
くの組ができ、里神楽の人たちも神楽とともにこの祭礼囃子を演奏している。
 このようにして箕輪囃子もその一派だが、いつごろ柳原に伝わったのかは、その伝承経路、文献、
口承など何もないので判らないが、明治天皇が京都から行幸の折、品川宿まで歓迎の囃子を奏しにいっ
たということが伝わっているので、江戸江戸中期頃からだろう。この囃子は習得が非常に難しいので、
現在は、ここと墨田区隅田にしか残っていない。演奏は5人囃子。



■小産稲荷
 2丁目37番にある。



■柳原小学校 廃校

 2丁目49番にあった。大正9年南葛飾郡綾瀬尋常高等小学校分校として設立。同4年独立して南
綾瀬第二尋常小学校となる。同7年葛飾区に所属。同9年足立区に編入され柳原小学校と改称。同1
6年東京市柳原国民学校と改称。同18年東京都柳原国民学校。同22年区立柳原小学校と改称。昭
和54年創立50周年。平成14年創立75周年を迎える年の3月31日に閉校、千住第四小学校と
統合し、千住第四小学校跡地に、千寿常東小学校を開校した。跡地には千寿桜堤中学校がやってきた。



■千寿桜堤中学校
 2丁目49番にある統合新設校。平成17年4月1日第二中学校と第十六中学校を統合し、柳原小
学校跡地に開校した。




【六月】(ろくがつ)1〜3丁目                    昭和46年8月1日
 六月村。明治22年淵江村大字六月。昭和7年足立区六月町。昭和42年5月1日六月町・島根
町・竹塚町・栗原町の各一部をあわせた町域を現行の「六月」とした。同46年大谷田町・佐野町
の各一部を2丁目に編入して新住居表示を完了した。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『足立区史』など。

 六月の由来
 関東平野内陸部の暑さは格別だ。東京でも足立区の辺りは、特に暑く、不快指数の中で時に眩暈
を覚えるほどである。その最たるところが六月村。「名主が夏右衛門で、寺の名前が炎天寺、住職
が土用坊、そのかみさんがお夏つぁん、ついでに弟子が温気坊で、寺男が薮蚊蚤平」と来ると暑い
もの尽くしということになる。これは江戸時代の小噺だが・・・
 時は天喜四年(1056)八幡太郎源義家が奥州干渉(後三年の役)への向途、暑さにうだりな
がらこの地にやってきた時、やにわにその弱みを急襲したのが野臥(野武士)で、さすがの源氏の
精鋭部隊も苦戦を強いられた。そこで義家が石清水の八幡神に撃退を祈念したところたちまち形成
逆転して大勝利、そこで義家は岩清水八幡を勧請して祀り、さらに討死者を弔うための一寺を建立
し、源氏の白幡のお陰で勝ったので山号を「幡勝山」、願いが叶ったので院号は「成就院」、時あ
たかも盛夏六月のこととて寺号は「炎天寺」と名づけた。村人には六月村の村名を与えた。旧暦六
月は真夏なのだ。



■六月中学校
 1丁目30番1号にある区立校。昭和62年開校。学校給食は民間委託により多目的ホールで一斉
会食。同63年「三気の像」除幕。平成4、5年学校給食優良校として文部大臣賞受賞。同6年ハワ
イ州研究視察団(国際理解教育等)来校。同7年全国女子中学校バレーボール選手権大会出場。同8
年西新井ライオンズクラブ引率により韓国中学生一行視察。ポーランド教育テレビ番組製作グループ
来校。創立10周年記念式典。同10年陸上競技全国大会出場。同14年矢作健児、陸上競技「男子
三種競技A」で全国大会出場。18年創立20周年記念式典。

 校歌
三気 六月中学の歌」 作詞・栗原一登  作曲・団伊玖磨
  1.若葉萌え立つ六月の
    名も美しく我が母校
    歴史の郷は今東都
    明るき街に胸を張り
    鍛えてここに
元気あり
  2.甍の海に船の
    進む白亜の学び舎に
    君を語らい腕を組み
    学ばん日日を
根気よく
    豊かに伸びる六月よ
  3.清けき窓に風戦ぎ
    筑波は遠く吾等呼ぶ
    雄大此処に六月よ
    翼広げて創造の
    希望に生きん
勇気あれ


 ※「三気」とは、元気・根気・勇気をいう。



■光徳寺
 2丁目2番にある浄土真宗の寺。



■庚申塔
 2丁目3番にある。「弥陀三尊種子 奉造立庚申待二世安楽祈処」の文字を刻んである。延宝三年
(1675)に建てたもの。



■庚申塔
 2丁目4番にある。天保九年(1838)日月・青面金剛・一鬼・三猿を刻む。



幡正山成就院
炎天寺
 3丁目13番にある新義真言宗豊山派の寺。本尊は阿弥陀如来、脇侍に薬師如来と不動明王が侍る。
不動明王は鎌倉時代のものらしく結構なお像でござんすよ。境内に五輪塔の墓石があり、その南無阿
弥陀仏の名号は、祐天上人の真筆を刻したものという。また境内に樹齢約600年の榎がある。
 しかし寺の名を高くしているのは、その由緒でも仏像でもなく、俳句なのだ。一茶の七番日記に記
されていることから、近年一茶縁の寺≠ニいうことが、名刹でも大寺でもない小さな村の寺を全国
区に押し上げた。一茶は松戸からこの辺りを足に任せてしばしば散策徘徊したそうだ。

   蝉鳴くや六月村の炎天寺(文化十三年)
   村雨や
六月村の炎天寺(文化十四年)

 そして年は判らないが、一茶発句集に、

   
むさしの国竹の塚といふに、蛙たゝかひありけるに見にまかる四月廿日也けり

   
痩せ蛙 負けるな一茶此処にあり


 が詠まれている。戦いとは繁殖期の交尾行動のことだ。喧嘩じゃない。
 炎天寺と八幡神社は同じ敷地に並んで立っている。いまや住宅街のど真ん中だが・・・

 
一茶まつり
 「蝉なくや」の句碑が建てられた昭和37年から始まった。全国小・中学生俳句大会が毎年開かれ
人気を呼んでいる。

 おこり神 
 山門を入った直ぐ右側の塀沿いのところに、「おこり神」と刻まれた50cmほどの石碑がひっそ
りと建っている。側面に天保十三年寅年二月二日願主茂左衛門・彦兵衛とある。
 奥州の安倍一族の叛乱(前九年の役)を鎮めるために、下向の途にあった義家の軍隊は、この地で
野武士に急襲されたが苦戦の末、撃退した。戦が終ってみると双方にかなりの戦死者が出たので遺体
を葬り、塚の上に石碑を建てて、二度と戦がおこらないようにと祈願したという。それが後世になっ
て、語呂合わせから病気の瘧(おこり)≠ニ結びついておこり神≠ノなったと伝わっている。

 瘧とは、日本に広く分布していたマラリアの一種で、一日おきとか二日おきに熱が上下し、頭痛を
伴ったものらしい。何様昔のこととて、これが瘧だと同定することは難しいらしいが、浅野内匠頭長
矩(ながのり)が江戸城は松の廊下で吉良上野介義央(よしなか)を斬りつけた時、この瘧を発症し
ていたといい、癇癪を起こすとスッとするらしく、梶川与惣兵衛頼照に羽交い絞めにされると落ち着
き我に返っている。だからこそ吉良は「乱心(発作)だ」と助け舟を出したのに、「病気だ」だとい
われたことに逆意地張って「遺恨あり」と申し立てたために、確信犯と見做され、「御家断絶身は切
腹」という大ごとことになってしまった。内匠頭が頭良く「乱心」を認めていたら、本人は蟄居閉門
で、弟大学長広に家督が譲られるから、浅野家は安泰だった訳だ。それで討ち入りが一年以上も後に
行われたのは、大石内蔵助義雄(よしたか)が御家再興の運動をしていたためだ。しかし幕府が肯ん
じなかったため、大石としては「『遺恨あり』とは幕府が公式に認めたのであり、なら殿様の遺恨を
晴らすのは家来の務め」と覚悟して討ち入りを実行するしか道はなかった。吉良としては助け舟を出
したのであり、恨みを買う謂れはないことだと心をそこに置いていなかったので、寒中の襲撃には抗
し得ず惨々にやられてしまった訳だ。浅野内匠頭といい将軍綱吉といい2人のバカ殿様がいなかった
ら赤穂事件は起きなかった。それほど瘧病は一般的だった。「えやみ・わらわやみ・ぎゃく・ぎゃく
しつ」などともいった。



■八幡神社
 3丁目13番、確たる境目もなく炎天寺と並んである。祭神は誉田別尊(応神天皇)。六月村の鎮
守で、例祭は9月15日。八幡太郎義家が勧請したものを村で引き継いだ。文化二年(1805)の
庚申塔、慶安五年(1652)の棟札がある。
 

 応神祠之碑
 八幡神社と炎天寺の縁起を探るものとして、亀田鵬斎とその長子綾瀬(りょうらい)が建てたもの。
かなり摩滅しているが、専門家によると格調の高い漢文体で刻まれているそうだ。読めねえよ。




【六町】(ろくちょう)1〜4丁目                    昭和53年2月1日
 江戸時代には、保木間村・竹塚村・六月村・花畑村の4ヶ村の飛地が入り組んでいた。昭和11年
六つの飛地をあわせた町域を1町とし、六月村の字を以て町名とした。同38年西町が西六町となる。
同50年11月1日新住居表示により六町・西加平町・西六町の各一部をあわせた町域を現行の「六
町1〜2丁目」とし、同53年残りの西六町・六町の全部、花畑町と内匠本町の各一部をあわせた町
域を現行の「3〜4丁目」とした。
 田畑が住宅地となり、特に目立つものは何もない。六町駅の開設により、その内大変貌を遂げるだ
ろうさ。 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」ほか『足立区史』など。

 
六町の由来
 由来は定かではない。六つの飛地に由来するか、六月村の飛地の面積が6町歩だったのかな?



■六町駅
 4丁目1番にできた常磐新線の地下停車場。平成17年8月24日つくばエクスプレス開業と同時
に設けられた。この付近は鉄道駅から遠くて不便な地区だったが、つくばエクスプレスの開業によっ
て利便性が飛躍的に向上した。ホームは島式1面2線構造で、地下3階にある。ホームと改札を結ぶ
エレベーター・エスカレーターも完備。
 改札口は1ヶ所のみで地下1階にある。出口はA1〜A3の3ヶ所。
 各駅停車しか停まらないので、日中は1時間あたり4本のみの運転となる。都区内の駅では最低水
準の運転本数だが、それでも北綾瀬駅まで行かないと電車に乗れなかった頃に比べれば格段に便利に
なった。10年もすれば増えるさ。



         
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