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 東京の地名の由来
 東京知ったかぶり!

 平成17年2月11日発信  リンクフリー
 地名の由来東京23区辞典 引用自由

  豊島区の地名の由来
        現在進行形の調査なれば、逐次、誤謬訂正・新規追加あり。御用心御用心

                ご意見とご教示メール      
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 足 立 区   ビートたけし 関原不動 赤門寺 千住 都立舎人公園
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 【巻末特集】 江戸しぐさ
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 都県境未定地 おくまんだし 妙見島 影向の松
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 大 田 区   池上本門寺 光明寺 大森海苔 磐井神社 松竹キネマ
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 葛 飾 区  式部薬師秘話 お花茶屋 金町浄水場 「こち亀」銅像群
 香取神社 東京拘置所 柴又女子大生殺人放火事件 
 男はつらいよ 柴又帝釈天 郷土と天文博物館 立石祠
 かつしかシンフォニーヒルズ 新宿の問屋場跡 葛西神社
 葛西囃子 美弥子ちゃん誘拐殺人事件 半田稲荷
 水元公園 しばられ地蔵 木下川薬師 堀切菖蒲園 
 北  区   静勝寺 小山酒造 新河岸川 飛鳥山公園 金剛寺
 装束稲荷 王子神社 王子稲荷 名主の滝 近藤勇墓
 医心方 亀の子束子 旧古河庭園 田端文士芸術村
 
【巻末特集】 隅田川(渡しと橋) 
 江 東 区  外郎売  永代橋落橋事件 亀戸天神 カトレア
 ヒストリーガレージ キッザニア 戦災資料センター
 深川江戸資料館 富岡八幡 元八幡 砂町商店街
 東京海洋大学 東西線転倒事故 有明コロシアム 萩寺
 品 川 区   品川トランク詰め殺人事件 星薬科 船の科学館
 鈴ヶ森 立正大学 香蘭女子 杉野ドレメ 品川神社
 荏原神社 光福寺 大崎新都心 清泉女子大 品川寺
 品川宿 昭和大学 戸越銀座 第一京浜 ところてん
 
 渋 谷 区  明治神宮 慶応幼稚舎 尾崎豊の碑  忠犬ハチ公
 ライフル乱射事件 渋谷川  夫バラバラ殺人事件
 妹バラバラ殺人事件 モリブデン 文化女子大 NHK
 広尾病院事件 文化村 尾崎豊の碑 ワシントンハイツ
 聖心女子大 東京女学館 日本共産党 女子大生誘拐
 アメリカ橋 安藤組 国学院 金王神社 青山学院
 
 新 宿 区   浄瑠璃坂の仇討 新宿胴体遺棄事件 新宿騒乱事件
 八幡様  陸軍士官学校 赤線地帯 防衛省・市谷駐屯地
 岡田有希子飛び降り自殺 オリンピック東京大会
 東海道四谷怪談 追分交番爆破事件 鉄腕アトム
 731部隊 学習院女子 早稲田大学 抜弁天 歌舞伎町
 歌声喫茶 名曲喫茶 どん底 新宿高野 中村屋 闇市
 
 杉 並 区   青梅・甲州・五日市街道 観泉寺 永福寺 高円寺
 不美人=ブスとは?  大宮八幡 ガンダム 妙法寺
 立教女学院 スチュワーデス殺人事件 東京女子大
 一家皆殺し放火 「疑惑の銃弾」 三浦和義 
 天保新水堀用水
 
 墨 田 区   東京スカイツリー 相撲は国技ではない 大相撲事件
 隅田川七福神 妊婦たらい回し死亡事件 回向院
 握りずし発祥 震災慰霊堂 鬼平・遠山の金さん
 王貞治生誕地 玉の井バラバラ事件 江戸東京博物館
 吾嬬神社 本所七不思議 もゝんじや 法恩寺 蓮華寺
  
 世田谷区   バンク・約束手形  花形敬  ウルトラマン 民家園 
 静嘉堂文庫 ボロ市 鷺草 西福寺 軍都池尻 東名
 羽根木公園 砧公園 駒沢公園 祖師谷一家殺人事件
 九品仏 多摩美 国学院 東農大 NHK技研 豪徳寺
 世田谷美術館 馬事公苑 烏山寺町 次大夫堀 仙川
 
 台 東 区   浅草寺 仲見世 浅草神社 三社祭 花やしき 上野公園
 鬼灯市 酉の市 待乳山聖天 佃煮元祖 旧岩崎邸
 八百善 今戸神社 アメ横 寛永寺 不忍池 花の吉原
 上野動物園 東京国立博物館 駒形どぜう 鬼子母神
 東京本願寺 東京芸大 谷中墓地 笹の雪 吉展ちゃん
 
 中 央 区   「銀ブラ」って、ブラブラ歩くことじゃないよ。 パウリスタ
 東京大空襲 アメリカの占領 蘭学事始 ティファニー 
 エルメス シャネル コーチ パリー セリーヌ プラダ
 カルティエ ディオール ルイ・ヴィトン 不二家不祥事
 三越・松屋・松坂屋・大丸・高島屋 築地本願寺 日本橋
 H&M 歌舞伎座 白木屋火事 日本銀行 金春芸者
 日本海軍発祥地 新橋演舞場 明治座 ハヤシライス
 千代田区   靖国問題・A級戦犯 女子学院 暁星 将門塚 消防庁
 警視庁 ていぱーく 桜田門外の変 ニコライ堂 武道館
 九段会館 楠公像 ホテルニュージャパン火災 近衛師団
 秋葉原無差別殺傷事件 神田明神 FM東京 丸ビル
 新丸ビル 丸の内物語 三菱重工ビル爆破事件 国会
 雙葉 専修大 日大 法大 明大、電機大 大妻 番町小
 東郷平八郎 日比谷公園 国際フォーラム 北辰一刀流
 豊 島 区   池袋の女 染井吉野 女子栄養学園 染井霊園 中山道
 おばあちゃんの原宿 とげぬき地蔵 庚申塚 本妙寺
 雑司が谷墓地 鬼子母神 土田邸爆破事件 山吹伝説
 目白不動 帝銀事件 立教 学習院 豊島岡女子学園
 【巻末特集】 東京の暴力団
 
 中 野 区  新井薬師 上高田寺町 童謡「たき火」 中野サンプラザ
 近隣騒音殺人事件 福蔵院 八幡神社(鷺ノ宮) 成願寺
 宝仙院 堀越学園 桃園川 丸井本店 中野ブロードウェイ
 東中野電車追突事故 光倶楽部事件 哲学堂公園 桃園
 
 練 馬 区   いろはかるた 練馬バラバラ殺人事件 としまえん 
 ちひろ美術館 三宝寺 石神井公園 長命寺 清戸道
 良弁塚 武蔵大学 金乗院 練馬寺町 武蔵音大 
 グランドハイツ 練馬少年鑑別所 首継ぎ地蔵 円明院
 妙福寺 春日神社 増島家薬医門 練馬大根 愛染院 
 
 文 京 区  狛江 振袖火事 東京大学 拓殖大学 御茶ノ水女子大
 東京高等師範 教育大学 護国寺 弥生式土器 伝通院
 聖マリア大聖堂 高津教授殺人事件 東京ドーム 六義園
 小石川植物園 元町公園 桜蔭学園 順天堂大 かねやす
 日本女子大 湯島聖堂 湯島天神 東洋大 共同印刷争議
 港  区  増上寺 フリーメイスン 永坂更科 麻布学園 氷川神社
 乃木大将 ミッドタウン 六本木ヒルズ 善福寺 霊南坂
 東洋英和 ケネディ暗殺宇宙中継 愛宕山 小便小僧
 レインボウブリッジ 東京タワー 慶応義塾 自然教育園
 明治学院 虎ノ門事件 東宮御所 日本経緯度原点
 9・11(アメリカ同時多発テロ) 首謀者はチェイニー
 目 黒 区   滝坂道 目黒不動 法華騒動 円融寺 五百羅漢 東工大
 目黒ショック 日比谷線脱線事故 駒場野一揆 旧制一高
 駒場東大 駒場学園 滝坂道 行人坂大火 雅叙園 騎兵
 目切坂 権之助坂 太鼓橋 茶屋坂 槍ヶ崎事件 祐天寺
 酸素魚雷 音羽ゆりかご会 八雲学園 目黒のさんま
   
 



○「東京の暴力団」は、暴力団・愚連隊・暴走族で、巻末だよ。

豊島区の地形
 豊島区は、区内のほぼ全域が武蔵野台地上に位置しており、台地面は小河川や他の水路などによっ
て削られ、大小の谷地が複雑に形成されている。
 大昔、豊島区は海に沈んでいた。数万年前のことだ。西多摩郡の山地を除いて都の大半は浅海だっ
た。第三紀鮮新世の地層「三浦層群」によってこのことが推定されている。地下100m以上掘り下
げるとその地層がある。その上に「東京層」がある。その後、関東山地から押し流された砂礫の堆積
がこの層となった。現在の高層建築物の基盤は。総て東京礫層になっている。浅海中に堆積した東京
層は、一端海を退けるが、再び浅海となり、吉祥寺付近を境に学者が「武蔵野湾」と名づけた入海と
なった。しかし東京礫層は堆積し続け、海退を促し、海辺を東進南下させて入海を縮小し、山の手方
面が陸化しつつ、広い海岸平野の一部として豊島区の地形が出来上がったのだ。後世〝豊島の入江〟
と呼ばれる美しい言葉は、この頃の豊島区のことだ。
 諸河川は西から東へと流れつつ堆積された砂礫は「山の手層」を作り、富士山をはじめとする武蔵
野を囲む火山群の激しい活動で、火山灰を降下させ、やがてそれが風化して赤土となり(関東ローム
層)、当時の豊島区は人もなく眠り続けていた。洪積世から沖積世へ移行し、海岸から離れていた山
の手台地は海に接し、海水は台地を刻み、入江を作り潟となり、潟はさらに沼沢や池、湿地帯となり、
気温が急に暖かくなる頃、日本列島は大陸と離れ島国となる。凡そ10000年前のことといわれて
いる。こうした環境は狩猟や漁撈に適した土地となり、やがて次第に人が住むようになっていく。こ
の頃、中央・荒川・足立・葛飾・墨田・江東・江戸川区、千代田・台東の東部はまだ海の中だ
 


■地形・地質と住宅地盤
 台地面
 比較的海抜高度が高く起伏の少ない平坦面で、関東ローム層と呼ばれる火山灰土で覆われている。
関東ローム層は、上部のローム土(赤土)と下部の凝灰質粘土に大別されるが、自然堆積したローム
土は、安定しており比較的大きな強度が期待できるため、表土部分に注意すれば住宅地盤として良好
な場合が多い。区の大部分。
 

 台地と低地の境
 台地の側面が低地側へと下る斜面で、台地面と同様に安定した地盤となっている場所もあるが、後背
地から浸透してくる雨水や地下水の影響で地盤が軟弱化したり、雨洗によって台地側から運ばれて再
堆積した軟弱土が分布する。また人為的に造成されているため、場所によって盛土の厚さが異なるよ
うに地盤のバランスが悪くなっていることがある。したがって不同沈下を防止するような基礎補強策
が必要となることも多い。
 

 谷底低地
 台地部が小さい河川などによって削られて形成された低地で、台地部の間に樹枝状に分布している。
台地を形成していた土砂が再堆積した土や有機質土(腐植土)などが分布しており、非常に軟弱な地
盤となっている。したがって、長期的な沈下(圧密沈下)を防止するような基礎補強策が必要となる
ことが多い。谷端川・弦巻川の流域、駒込の谷田川西岸・目白の神田川北岸。池袋というのは谷端川
の水溜り湿地をいう。巣鴨も、板橋区の金井も同じ水溜り湿地から起きた地名だ。
 



豊島区の変遷
 
東京府

 現在の豊島区の区域に入る江戸時代の町村は、高田豊川町・高田老松町・高田千登世町・高田若葉
町・雑司ヶ谷町・雑司ヶ谷旭出町・雑司ヶ谷村・高田村・大塚辻町・巣鴨村・新田堀之内村・池袋村
・小石川村(一部)・堀之内村・巣鴨町・駒込染井町・駒込妙義坂下町・駒込上富士前町・上駒込村・
滝野川村(一部)が、慶応四年(1868)6月19日武蔵知県事に属したのち11月に東京府に編入、
下落合村は明治2年2月9日武蔵知県事から品川県に属し、長崎村・中丸村(一部)・金井窪村(一部)
は同2年1月28日武蔵知県事から大宮県に編入。同7年3月8日大区小区制により第八・第九大区
に区分、同11年7月22日「郡区町村編制法」により高田豊川町・高田老松町・雑司ヶ谷町・巣鴨
1~4丁目・大塚辻町は小石川区に譲り、他は東京府北豊島郡に編入した。同22年4月1日「市制
町村制」により北豊島郡巣鴨町・巣鴨村・高田村・長崎村の1町3ヶ村に統合。大正7年7月20日
巣鴨村が町制に移行して西巣鴨町、同9年4月3日高田村が、同15年10月1日長崎村がそれぞれ
町制に移行して4町となった。
 震災後郊外の人口が著しく増加し、昭和5年には市部の人口207万人に対して、周辺郡部は29
1万人を数えた。翌年5郡内36ヶ町村会議長が日比谷市政会館に集まって、東京市と合併する決議
をした。最初は東京市の巣鴨町を除いた西巣鴨・高田・長崎の3町による「池袋区案」と、東京府の
巣鴨町を含めた4町による「巣鴨区案」があった。で府は、

   
荏原郡品川町外八十一ヶ町村ヲ廃シテ其ノ区域ヲ東京市ニ編入スル場合、之ニ伴フ市ノ
   区ノ設置左通定メムトス。仍テ其ノ会ノ意見ヲ諮フ

 として

   
目白区、北豊島郡西巣鴨町・高田町・長崎町ノ地域ヲ以テ目白区ヲ置ク

 とした。ところがこの案には滝野川区に編入されることになる巣鴨町が反対した。分村である西巣
鴨との一体化を望んだので、府参事会は、巣鴨・西巣鴨・高田・長崎の4町で一区とすることに議決
した。つぎに問題になったのが区の名称で、巣鴨・池袋・目白は採らないこととし、西巣鴨町会が議
決した「豊島区」を採用することにした。北豊島郡が消滅するので豊島の名を残すことにしたのだ。
けだし賢明な選択だったと思う。かくて昭和7年10月1日周辺5郡は東京市に編入され、4町は合
併して一区を成し豊島区57町となった。昭和30年の町名改正直前には79町に増えたが現在は2
0町に再編されている。

 
東京都
 
昭和18年7月1日東京市の自治権の拡充が己の権力の喪失と恐れた国家権力者たち内務官僚は、
自治権を剥奪すべく画策、東京市を廃して東京府に併合し、東京都として当時の35区を内務省の直
轄とした。しかし彼らは日米戦争に敗北し、国民を塗炭の苦しみの中に放擲した。同21年9月戦後
のアメリカの強制による一連の民主化政策により、地方制度全般に亘る改正が行われた。当然アメリ
カの都合のよいように都制も一部改正され、首長公選、議会権限の拡充などが実現、臍を噛んで悔し
がる国家主義者たちを尻目に自治権は恢復の兆しを見せ、都は国家権力の1機関から自治団体へと移
行した。
 都制改正により、区も初めて区民の権利義務や区の事務に関しての条例規則を制定。また区税の賦
課徴収・区債の発行・区長公選(実際は自治法施行まで官吏)など自治体としての基本的諸権能が付
与された。翌22年3月35区は統廃合され22区となり、8月になって練馬区が板橋区から分離し
て23区になった。練馬区は著しく開発が遅れていたためだ。それより先の5月、憲法の施行と同時
に「地方自治法」が施行され、大都市制度として特別区が設けられた。これにより都の区は特別区と
され、特別地方公共団体として位置づけられ、市に準じた自治体となった。
 同27年8月自治法改正により、区長公選の廃止をはじめ、特別区の自治権は大幅に制限された。
これは、都の大都市行政の統一的能率的な処置を確保することによって都民の福祉の増進を目的とす
るという名目だったが、国家権力者(内務官僚系自治官僚)たちの暗躍で区は再び都の内部団体化す
る要因を孕むものだった。
 昭和39年には、都の事務をできるだけ特別区に移管することを目的に、特別区の権能を拡大する
法改正が行われた。また都区間の連絡調整をはかるため、都区協議会が法定設置され、今日の都区財
政調整制度も設けられ、翌年4月施行された。その後区長の公選制復活を軸とする自治権拡充運動の
結果、同49年6月の特別区制度の大改正によって、同50年4月から区長公選が復活。同時に同2
2年の自治法制定時から設けられていた都配属職員制度も廃止され、区は再び独立した自治体として
の地位を回復し始めた。
 こうした自治権拡充の動きの中で、豊島区は副都心池袋を中心に大きく発展、都市基盤の整備を進
め、同56年「豊島区基本構想」を制定、翌57年「豊島区基本計画」を策定し、区民福祉の向上を
目指して計画的な区政運営を推進した。また区制50周年に当たる57年には、23区で初めて「非
核都市宣言」を行ったよ。
 バブル崩壊からの社会経済情勢の急激な変化は、区政運営の上にも大きな影響をもたらした。そう
した中、効率的な区政運営をめざして行財政改革を推進する一方、時代に対応した施策の方向性を明
らかにするため、平成7年に「豊島区基本構想」、同9年に「豊島区基本計画」を新たに策定した。
 同10年4月「地方自治法」が改正され、ついに都区制度改革が実現した。これにより、同12年
4月より、清掃事業等の事務が都から区に移管され、区は地方自治法上の『基礎的自治体』に生まれ
変わり、区立小・中学校も純粋に区立となり、校名から東京都の冠称を外すことなった。そして現在、
区民に最も身近な自治体としての責任とその役割を担い、また21世紀の「新生としま」の創造をめ
ざして、区は新たな一歩を踏み出した。

 友好・姉妹都市は京城(ソウル)市東大門区と秩父市。
 区役所は池袋駅の東北、東池袋1丁目にある。
 

   ■非核都市宣言
    世界の恒久平和は、人類共通の願いである。しかし、核軍拡競争は激化の一途を辿って
   いる。われわれは、人類唯一の被爆国民として平和憲法の精神に沿って核兵器の全面禁止
   と軍縮の推進について積極的な役割を果たすべきである。
    よって、豊島区及び豊島区民は、わが日本の国是である「非核三原則(造らず・持たず
   ・持ち込ませず)」が無視され、われわれの海や台地に核兵器が持ち込まれることを懸念
   し、わが豊島区の区域内にいかなる国の、いかなる核兵器も配備・貯蔵はもとより、飛来、
   通過することも拒否する。豊島区及び豊島区民は、さらに他の自治体とも協力し、核兵器完
   全禁止・軍縮・全世界の非核武装化にむけて努力する。
   右 宣言する。
   昭和57年7月2日                         東京都豊島区
 


 ■豊島の由来
 砥嶋(武蔵風土記残編)・戸島(記録御用所本・古文書集)・外島(練馬の地名)とも書いた。由来
は、

 ①.隅田川口(浅草一円)に沢山の州「十島(とおしま)」があったとする説。
 ②.白鬚橋の橋場から浅草・鳥越辺りまであった寄州を武蔵野台地の外側に出来た島とし
   て「外島(としま)」といったとする説。
 ③.この辺りを領した豊島清光の館があったことによる(地名辞書)。
 ④.古代の豊島駅の所在地だったという説(新編武蔵風土記稿)がある。

 しかし③は、秩父氏を名乗った平将常の次男武常が、治安三年(1023)に武蔵野介藤原真枝を
討った
功により、武蔵国豊島郡と下総国葛飾郡葛西の地を賜り、この頃に豊島氏または葛西氏を称し
たと考えられているし、さらに近年の研究では2代後の秩父康家が豊島氏の初代ではないかとも考え
られているのでありえない。
そして④説は変だ。豊島の名があったから駅名に選ばれたんじゃないの
かい? でないと「なら豊島は何処から持ってきたの?」ってことになる。
 当時の公定路線奥州道が浅草を通っていたことから考えると浅草の成り立ちや発展、「十島」「外
島」から鑑みると、「としま」は浅草辺りと考えるのが自然だ。
 さて「としま」に、なぜ「豊島」の字を当てるのかは、摂津国豊島郡(てしまごおり)の豊島連(て
しまのむらじ)の祖「彦八井耳命(ひこやいみみのみこと))」の子孫が移り住んだことによる。仁徳
紀十八年に「武蔵国豊島郡(むさしこくとしまごおり)」の記述があり、のちに豊島郡に栄えた豊島氏
は、秩父平氏で豊島郡を領してから豊島を名乗った。北区豊島7丁目にある清光寺は武蔵権守豊島清
光の館跡だと伝わっている。郡衙は北区西ヶ原2丁目農業技術研究所跡と確認されている。
 なお豊島郡は台東・荒川・北・板橋・練馬・豊島・渋谷・新宿・文京の各区と千代田・港の一部を
含む範囲で、江戸時代に江戸市中は府内となり豊島郡から離れた。明治11年「郡区町村編制令」に
より下谷・浅草・本郷・小石川の4区と千代田・港区
の各一部を除く豊島郡は南・北に分かれて東京府下となり、北豊島郡は練馬・板橋・豊島・北・荒川
5区の範囲で、郡役所は下板橋宿に置かれた。南豊島郡は新宿・渋谷の範囲で郡役所は内藤新宿町に
置かれたが、明治29年東多摩郡(杉並区・中野区)と合併して豊多摩郡となった。昭和7年東京市
のドーナツ化現象で賄いきれず、周辺郡部を東京市に編入し20区を増設して5郡を廃止した。この
時北豊島郡は消滅し、郡下の巣鴨町・高田村・巣鴨村・長崎村が豊島区を形成した。
 


 ■学校(教育機関)

 
小学校 区立23 私立2
  高仰・駒込・巣鴨・清和・西巣鴨・豊成・朝日・池袋第一~第三・文成・高南・目白・長崎・
 椎名町・富士見台・千早・高松・要(平和+要町)・南池袋(高田+雑司が谷+日出)・さくら
 (千川+大成)・朋有(時習+大塚台)・池袋(大明+池袋第五)
 川村・立教

 
中学校 区立8 私立9
  駒込・西巣鴨・池袋・千川・千登世橋(高田+雑司谷)・巣鴨北(朝日+大塚)・明豊(第十
 +千早+長崎)・西池袋(道和+真和)
 学習院中等科・立教池袋・本郷・巣鴨・川村・十文字・豊島岡女子学園・城西大学附属城西・淑
 徳巣鴨

 高等学校 都立3 私立12

 豊島・文京・千早
 学習院高等科・立教池袋・本郷・巣鴨・川村・十文字・豊島岡女子学園・城西大学附属城西・淑
 徳巣鴨・昭和鉄道・豊島学院・豊南


 
中等教育校 0

 
高等専門学校 0

 
短期大学 2
 東京交通・東京福祉
 ※ 女子栄養短大は女子栄養大学の短大部になった。
 ※ 川村学園女子短期大学は川村学園女子大学になった。

 
大学 7
 学習院・川村学園女子・大正・東京音楽・立教・女子栄養大学(短大部・栄養学部2部)・東京福


 
図書館 7
 中央図書館・駒込・巣鴨・上池袋・池袋・目白・千早
 中央・点字・雑司が谷の3館は統合して移転、新しい中央図書館になった。ほかに千登世橋教育文
化センターの1階の文化創造事務室の中に「雑司が谷図書貸出コーナー」があり、蔵書はないが、予
約・貸出・返却の業務だけを行なう部署がある。

 文化施設
 郷土資料館・東京芸術劇場が池袋駅西口にある。その他サンシャイン・シティ、切手の博物館・染
 井霊園・雑司ヶ谷霊園・高岳寺(とげ抜き地蔵)辺りだ。
 


■豊島区歌 作詞・岡本淳三  作曲・中田喜直
  1.大東京の新しき
    要は此処に築かれて
    日毎に伸びる豊島区よ
    見よ この歩みこの息吹
    光の朝が盛り上がる
    光の朝が盛り上がる
  2.商工映ゆる山の手に
    文化織り成す池袋
    生気溢るる豊島区よ
    見よ この若さこの力
    希望の旗が 風に鳴る
    希望の旗が 風に鳴る
  3.輝く明日を目指しつつ
    自治の真心 揺るぎなく
    永久に栄ゆる豊島区よ
    見よ この行手この誇り
    平和の鳩が輪を描く
    平和の鳩が輪を描く
 


■豊島音頭  作詞・池田誠一郎  作曲・大村能幸
  1.ハァ
    花の香りに豊島は明けて
    寄せる人波 笑顔と笑顔
    街にゃ繁昌の晴れ姿 
ソレ
     たたく太鼓は トントン豊島
     唄えよ囃せ 品(シナ)よく丸く
     ソレヤ ソレソレ
     豊島音頭で一踊り

    (以下囃子言葉は繰り返す)
  2.ハァ
    並ぶデパート シネマの空に
    揺れて微笑むあのアドバルン
    誰を呼ぶやら招くやら ソレ
  3.ハァ
    山手廻ろか メトロか バスか
    空のデイトはあのヘリポート
    駅は馴染みの池袋 ソレ
  4.ハァ
    歴史訪ねて東へ西へ
    散歩楽しや 子宝連れだ
    お礼参りは鬼子母神 ソレ
  5.ハァ
    指の棘から心の棘も
    抜いてくれます とげぬき地蔵
    今日は賑わうご縁日 ソレ
  6.ハァ
    結ぶ手と手にネオンは映えて
    におうさんごの 色のように
    豊島の明け暮れ 嬉しいね ソレ
 

■区民の歌「としま未来へ」
 区制施行70周年を記念して制作。全国32都道府県から258件(うち区内98件)の応募があ
り、年齢も12歳から85歳と多岐に亘った。最終審査並びに作曲を歌手さだまさしに依頼して完成
に漕ぎ着けた。作詞・今井英昭 佐藤有弘 詞補作/作曲さだまさし

  1.いつも囁く声がする
    夢は必ず叶うから
    染井吉野と躑躅
(つつじ)の花と
    風と光が出会う街
    この町に暮らす喜び
    愛と幸せ育てながら
    東京 故郷 豊島 未来へと花咲け
    東京 故郷 豊島 温かい明日
  2.いつも温もり忘れない
    過去と未来の交差点
    鬼子母神からとげ抜き地蔵
    心触れ合い出会う街
    この町に生きる喜び
    知恵と勇気を信じながら
    東京 故郷 豊島 未来へと花咲け
    東京 故郷 豊島 逞しい笑顔
  3.いつもくちずさむ口遊
(ずさ)む歌がある
    辛い時こそ空を見る
    窓の向こうにサンシャイン
    人と願いが出会う街
    この町に咲いた喜び
    生命と誇り 輝くように
    東京 故郷 豊島 未来へと花咲け
    東京 故郷 豊島 溢れくる希望
    東京 故郷 豊島 未来へと花咲け
    東京 故郷 豊島 溢れくる希望


■区の木 サクラ(ソメイヨシノ)
 学名 Prunus × yedoensis。 豊島区駒込はソメイヨシノ(染井吉野)発祥の地だ。区の木として
はうってつけの木だろう。この桜木は、エドヒガン系のコマツオトメとオオシマザクラの交配で生ま
れたサクラの園芸品種。現代の観賞用サクラの代表種であり、「吉野桜」と表記する場合もある。ま
たエドヒガンとオオシマザクラを交配したもの総てを「ソメイヨシノ」ということもあり、狭義のソ
メイヨシノを「ソメイヨシノ’ソメイヨシノ’」と書く場合もある。花言葉は「優れた美人」。
 江戸末期から明治初期に、染井村(駒込)に集落を作っていた造園師や植木職人達によって育成さ
れ「吉野桜」として売り出していた。しかし藤野寄命の調査によってヤマザクラとは異なる種の桜で
あることが分かり、混乱を招かぬように、明治33年「日本園芸雑誌」において「染井吉野」と命名
された。
 ソメイヨシノは江戸時代中期~末期に園芸品種として確立した。園芸家による人工的な品種改良作
出説と、自然交雑した物を、園芸家が挿し木によって増やしたという説とがある。過去には伊豆大島
原産とされていたが、現地調査で否定された。昭和14年に小泉源一が韓国済州島の王桜との類似を
指摘して、済州島が自生地であり起源とする説を唱えた。しかしソメイヨシノはオオシマザクラとエ
ドヒガンの交配的形態を持つが、オオシマザクラは伊豆諸島で進化したカスミザクラの島嶼型であっ
て朝鮮半島には存在しておらず、遺伝子調査によっても本説は完全に否定された。大正5年アメリカ
のウィルソンによりオオシマザクラとエドヒガンの雑種説が唱えられ、昭和40年国立遺伝学研究所
の竹中要の交配実験により、オオシマザクラとエドヒガンの交雑種の中からソメイヨシノおよびソメ
イヨシノに近似の亜種が得られること発表された。これを受けて伊豆半島発生説が唱えられた。これ
に対し、明治初年に樹齢百年に達するソメイヨシノが小石川植物園に植えられていたという記録や、
染井村の植木屋の記録にソメイヨシノを作り出したという記録が発見されたことから、岩崎文雄らは
染井村起源説を唱えている。別説として、アメリカの植物学者にはソメイヨシノはオオシマザクラと
エドヒガンの雑種ではなく独立した種であるとの説を唱える者もいる。
 平成19年3千葉大・静岡大などの研究グループは、遺伝子解析の結果、オオシマザクラとエドヒ
ガンの園芸品種のひとつであるコマツオトメの交配で生み出された可能性が高いと発表。因みに「ア
メリカ」と言うサクラの品種がある。この品種は、かつてはアメリカでソメイヨシノの実生から作ら
れたとされていたが、ソメイヨシノの結実率の低さとも相俟って事実は不明だ。

 
何故サクラだけ花見をするのか?
 サクラは花樹の中で唯一下を向いて咲く花だ。樹下で見上げてこれほど美しい花はない。それに根
が浮くので地面を踏み固める必要がある。だからサクラの樹の下で宴を催すのだ。土手にサクラ並木
を作るのもそれで、土手の上を歩けるようにしてあるのは、昔から土手を固める効果を見込んでのこ
とだ。
 


■区の花 ツツジ
 ツツジ科ツツジ属の植物。庭木の代表のような落葉低木だ。桜とならび日本の季節を彩る花だが、
桜より花が咲いてる期間が長い。日本中の庭先や公園、お寺などで頻繁に見かけるが、古くから日本
人に親しまれているせいか、2000種にもおよぶ品種があるといわれている。仲間は、アザレアや
シャクナゲ、サツキなど。日本人の季節感にマッチするからだろうか、日本各地で4月から5月にか
けて、『つつじ祭り』などのイベントが頻繁に催されている。
 平戸ツツジは、つつじの仲間でも比較的大型の、赤や白、ピンクの花を咲かせる。
 霧島ツツジは、九州に自生しているヤマツツジとミヤマキリシマの交配種といわれてる。
 久留米ツツジは、霧島つつじの品種改良したもの。
 クロフネツツジは、朝鮮半島から持ち込まれた種類といわれている。クロフネというからには、ペリ
ー来航の黒船で持ち込まれたようなイメージだが、関係ないとのこと。
 さすがに数千種におよぶ種類を誇る花の名前を調べるのは他に譲るとして、日本の庭木の代表格の
ツツジ、種類の多さでも代表格だ。しかもつつじの仲間は、国内のみならず世界中の温帯地域にある。
プロゴルフのメジャー大会マスターズが行われるオーガスタインターナショナルに、マスターズの季
節に咲き乱れているのもつつじの仲間だろうとのこと。
 豊島区とツツジの関係は判らない。ツツジの名所も聞かないが、庭木ゆえに駒込や染井の植木職人
たちが霧島ツツジを扱っていたことだろう。

 ツツジを何故「躑躅」と書くのか?
 躑躅は「テキチョク」と読んで、「躊躇」「逡巡」と同義。「行くに行けない」「行き渋る」とい
うことだ。ツツジは毒木で、羊や牛が食べて動けなくなるところから、「躑躅」の字を当てた。アセ
ビに「馬酔木」の字を当てるのと同じだ。
 


■名誉区民

 森田茂(洋画家 文化受賞者 日本芸術院会員 茨城県真壁郡下館町(筑西市)出身。豊島区在住。
日展顧問、東光会々長、茨城県名誉県民、豊島区名誉区民、筑西市名誉市民。
 原色を多用し、色を塗ったというより絵具を擦り付けたという様な、力強い筆致の重厚な画風が特
徴。初期の作品は、人形や人物の絵が多いが、昭和40年の東南アジア巡遊後は風景画も多く描くよ
うになる。同41年偶然目にした山形県羽黒山地方の郷土芸能「黒川能」に強く惹かれ、この黒川能を
描き続けることをライフワークにしており、このシリーズの中の一作で同45年)のを受賞している。
 その他、舞妓を描いたシリーズなどもある。
 


■豊島区生まれ 育ちの有名人

 世志凡太(コメディアン)。藤田まこと(俳優)・愛川欣也(俳優)・高木ブー(ドリフターズ)
・夏木マリ(歌手 女優)・山下達郎(歌手)・松村雄基(俳優)・柴咲コウ(女優)・横山めぐみ
(女優)・矢作兼(おぎやはぎ)・松本潤(俳優 嵐)・河辺千恵子(モデル タレント)・田淵幸一
(野球人)・山口香(柔道家)・内多勝康(NHKアナウンサー)・馬場典子(日テレアナウンサー)
不正を働いて埼玉県知事を辞めさせられた元参議院議長土屋義彦もそうだ。不名誉、不名誉。
 
 



○では豊島区の地名について始めま~す。カラン カラン 

【池袋】(いけぶくろ)1~4丁目                  平成元年8月14日
 池袋村の南半。明治11年「郡区町村編制法」により北豊島郡に所属。同22年「市制町村制」に
より巣鴨村大字池袋。飛地は板橋町に委譲。大正7年町制に移行して巣鴨町大字池袋。昭和7年東
京市に併合されて豊島区池袋1~8丁目。同29年豊島・北区の境界変更により7~8丁目に滝野
川の一部(字北谷端・南谷端)を併合し、同35年山手線から東部分を池袋東1~2丁目に、同4
1年新住居表示により池袋3丁目の西武線以南の三角地帯を目白に譲り、池袋3丁目の大部分と1
~2丁目の各一部をあわせて「西池袋1~5丁目」とした。同44年池袋5~6丁目の全部と7丁
目の大部分に1・4丁目の各一部をあわせて「池袋本町1~4丁目」とし、同45年池袋8丁目の
大部分に1・7丁目の各一部をまとめて上池袋2~4丁目に移し、平成元年再度の住居表示を実施、
残余の池袋に高松1丁目と要町1丁目の山手通り(都道環状6号線)以東をあわせた町域を現行の
「池袋」とした。池袋駅があるわけでもなく区役所がある訳でもなく、また池袋村の本村でもなく、
単に池袋駅の西口という町域に過ぎない。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『豊島区史』『豊島の歴史』など。

 池袋の由来
 古くからの地名で、『小田原衆所領役帳』には、太田新六郎康資の知行地として「池袋三貫五百
文」が見える。地名用語で「池袋」とは洪水時に谷戸の窪つまり行き詰ったところにできる自然の
遊水池で、洪水が引くと何れ乾燥するか湿地帯となるところをいう。『遊歴雑記』に、

   扨当村を池袋と名付けし事は、往古夥しき池ありしによって也。中古より段々埋ま
   りしかど、今もなお三百余坪もあらんや。


 とあり、中野区沼袋も同様の地形だ。袋と窪はほぼ同義で袋町は通り抜けられない行き止まりの
町を表す。しかしここの池袋の由来は、①、夥しい数の池があった(遊歴雑記)という説と、②、
亀が袋を背負ってきた(若葉の梢)という説の2つがある。駄洒落の類いとの悪口もあるが、その
池の一つが学習院構内にある池だ(読売新聞社刊『東京新地図』)という。血洗池のことか? 学
校の敷地となってから堀部安兵衛が返り血を洗ったという寝物語を作っておどろおどろしく命名し
たが、正式名称は「高田村用水池」という。早稲田田圃があるのに態々こんなとこまできて血刀を
洗うバカはしないだろう。また刀に付いた血はすぐに拭き取らないと、水洗いぐらいでは膏(あぶ
ら)が落ちない。騒動の後、その辺りの民家で風呂を貰っている。普通そこで洗うだろう。しかし
それにしても用水池が池袋由来の池の一つというのは、いかにも読売新聞らしくて面白い。せめて
立教大学の間違いにしといてくれ。立教は谷端川の沿岸にある。谷端川は水源の先で千川の養水を
受け長崎鼻を迂回して中丸村・金井窪村・池袋村・巣鴨村西端を通る。池袋は村が成り立つまで、
洪水が引いた後に凸凹の低地にできた夥しい池のある湿地帯だったとしても首肯できる環境だ。

   地高くして東北ばかり水田あり、其地窪にして地形袋の如くなれば村名起こりしな
   らん


 と『新編武蔵風土記稿』にある。全く其の通りの地形だ。大小の池や沼、水溜りが固まってある
遊水池の様を袋に入れたようにイメージしてそう呼んだに違いない。巣鴨も多くの池に関わる名前
らしいので同じ湿地帯をいったのかも知れない。金井窪・池袋・巣鴨は同じ谷端川の湿地に入り組
んでいる。村境などあって無きがごとき時代、太古から今日までここが巣鴨、ここが池袋と確定は
出来まい。『小田原衆所領役帳』には「江戸菅面之内中丸」があり、中丸が巣鴨の内なら、金井窪
も池袋も巣鴨の内ということになる。村境は流動的でも当
然だ。 だから池袋は池袋本町だ。今の
池袋という住所のところは当時は寒村僻地。

   麦ばたの垂り穂のうえにかげ見えて電車過ぎ行く池袋村(牧水)

 ●丸池(元池袋史跡公園)は池袋の名の発祥地ではない
 この公園に、区教委による「池袋の地名発祥の地」という説明板があるが、ここは雑司ヶ谷村で
あり、その余水は池袋村側に流れて行く訳でもなし、池袋の地名とは全く無関係だ。丸池と池袋村
に関わる伝承も伝説も存在しない。往時丸池一帯は寒村僻地、そんなところを村名にするか?
 さて池袋本町は、かつて池袋村本村(村の発祥地)で、丸池とは遥かに離れている。丸池は1つ
の沼沢で、夥しい池を袋に詰めたような状態にはない。一方、池袋本町の方は、谷端川の湿地帯で
この川の周辺に金井窪、巣鴨(州処面)と湿地帯を表す地名が連なっている。
 


 
池袋の女

   方量甚広し、故に一村の中にいろいろの小名あり。その小名をたずねて探さざれば
   一村のうちといいながら、その人にあい難し


 と『遊歴雑記』にある。池袋は明治の終わり頃まで僻遠の地で、村人は外部との接触を持ちたがら
ず、村内の集落も遠く散り散りにあり、没交渉で往来もなくそれぞれに風俗が違っていたという。人々
は閉鎖的で江戸では「池袋村の女を雇ったり娶ったりすると祟る」と信じられ、そのために川柳の格
好の餌食(えじき)だった。

   慰みになる化け物は池袋 
   池袋家鳴りをさせた罰で化け
   仁和寺の騒ぎのような池袋
   石投げをしてぼろの出る池袋
   瀬戸物や土瓶がみんな池袋
   口を閉じてもふくろびる池袋


 江戸では池袋村の女性は敬遠された。閉鎖的な環境のため他村から嫁の来手がなく、それ故に村の
女性が出て行くことを極端に恐れた男たちが雇い主に嫌がらせをして村に引き戻そうとした背に腹は
代えられない悲しい裏事情があったのだ。それだけにアメリカと一緒でレディーファースト。平たく
いやぁ嬶天下。

   女房の案事で決める池袋

 この閉鎖的頑固さが本領を発揮したのが新住居表示のときだ。初め区は「北池袋」を予定していた
が、住民は池袋の端っこのように扱われることを断固拒絶した。「我々が本村だ」と。駅は村外れに
作られるのが習いである。だから池袋本町こそ池袋だ!
 


■平和・トンボ資料館 閉館
 池袋1丁目3番7号にあった。開館日は月2回で不定期。電話(3971‐5576)して行った
ら。開館時間は10時~18時で無料(ただ)だ。
 平成22年9月館長白石浩次郎の死亡により閉館した。あの膨大な標本は東京大学総合研究博物館
に寄贈されたので、いずれ陽の目を見ることもあるだろう


■池袋の森
(島田錦蔵屋敷跡)

 池袋1丁目7番10号にある区立公園。平成9年4月の開園。池袋のビル街の中に突然現れるこの
森は、日本を代表する林政学者の島田錦蔵の屋敷だった。園内の樹木は殆ど当時のもの。特に園内中
央の大きなユリノキは、日本にこの樹木が定着する前に博士が研究用に外国から導入した。
 大きな樹木に囲まれた草地の広場や、井戸水を汲み上げた池があり、文字通り「都会のオアシス」
となっている。池には何種類ものトンボが飛来し、思いがけない珍種に出会えるかもしれないよ。ア
サザという黄色い花の咲く水草も観察できる。区は、ボランティアグループ「池袋の森を考える会」
の人たちと一緒に、池が生物にとってよりよい環境に保たれるように管理を行っている。


■池袋一丁目第二児童遊園 →
池袋一丁目第二公園
 池袋1丁目8番11号にある区立公園。


■池袋一丁目児童遊園

 池袋1丁目13番13号にある区立公園。


■東京都埋蔵文化センター
池袋分室

 池袋1丁目13番22号にある。本部は多摩市にある。


■美久仁小路(みくにこうじ)

 池袋1丁目23番12号にある飲み屋横町。新宿のゴールデン街やしょんべん横丁、渋谷の飲んべ
え横丁にも、負けず劣らず歴史が古い飲み屋街。戦後の焼け跡・闇市が、その始まりといわる。

 流行歌「
池袋の夜」 作詞・古川静夫 作曲・渡久地政信 歌唱・青江三奈
  1.貴方に逢えぬ恋しさに
    涙も涸れてしまうほど
    泣いて悩んで死にたくなるの
    責めないわ 責めないわ
    どうせ気まぐれ東京の 夜の池袋
  2.他人のままで別れたら
    良かったものを もう遅い
    美久仁小路の灯りのように
    待ちますわ 待ちますわ
    さよならなんていわれない 夜の池袋
  3.逃げてしまった幸せは
    所詮女の身につかぬ
    お酒で忘れる人生横丁
    いつまでも いつまでも
    どうせ気まぐれ東京の 夜の池袋
 


■池袋小劇場 閉場
 池袋2丁目3番5号の双葉ビル4階にあった。池袋小劇場は、劇団の名前でもあり、劇場の名前でも
ある。池袋駅西口を町に出て徒歩5分、地下道C5出口から30mという好アクセスなところに池袋
小劇場4Fホールがオープンしたのは昭和49年。同55年1月から常設興行場の認可をうけ、年間
を通じ演劇上演が行われ、コンサートやワークショップなどにも利用されているこれまで、演劇を中
心に、様々な上演がこの小空間から生まれました。親しみやすい空間として沢山の人に愛されてきた
劇場だったが、平成22年12月諸般の事情により閉鎖した。
 跡地は「ホテルララ33」というビジネスホテルになっている。
カラオケやボディソニックなどの
設備も充実!個性的な部屋がいろいろで、休憩3時間制が人気のラブホテルでもある。


■観光バスが燃えちゃった
 池袋2丁目23番6号の日研工業本社ビル前の要町通り車道の駐車スペースに停車していた観光バ
スが、突然出火して燃え、骨組を残してほぼ全焼した。平成27年12月28日8時45分頃、房総
エキスプレスの観光バスの運転手から119番連絡があり、消防車が駆け付け消火に当たり1時間1
5分後に消し止めた。伊香保温泉に向かう予定で待機していたところで、乗客はいず、従って怪我人はなかった。運転手は「後部の蛍光灯から火花が出るのを見た」と云っているが、動画では前から後ろに燃え移っており、最後部座席は焼けていない。運転手が火を点けたのか?


サクマ式ドロップス
 池袋2丁目51番13号佐久間製菓ビル1階にあるにある「佐久間製菓」のロングセラーのドロッ
プ。フルーツやミルク、ハッカ味など、懐かしい風味が一杯。もう何十年になるっけ?


■池袋ふれあい公園

 池袋2丁目74番1号にある区立公園。


■ミステリー文学資料館

 池袋3丁目1番2号の光文社ビル内にあり、①一般市民への教養・娯楽の提供、②作家・研究者な
どへの便宜供与を目的としているので、普通の善人なら誰でも利用できる。資料は主に国内の出版物、
日本作家を中心に蒐集している。HPによると、

   ミステリー文学資料館は、世界でも珍しいミステリーの専門図書館として1999年4月
   に開館しました。このような図書館は、フランスのパリ市がオープンしたBILIPO以外には
   ほとんど例がありません。本資料館は日本の有力出版社の光文社が作った財団法人光文文
   化財団の主要事業の一つとして創設したもので、民間のミステリー専門図書館としては世
   界でもおそらく初めての試みです。
    日本のミステリーは戦後、松本清張の登場によって、小説の分野で完全に市民権を確立
   しましたが、戦前は探偵小説といわれ、一部の熱烈な愛好者に支えられていましたが、そ
   の文学的な評価は低かったたのが実情です。このため、公共図書館では保存されず、単行
   本も雑誌資料もその多くが散逸してしまい、古書店で値段が高騰し、一般の人だけでなく、
   研究者も実物を手にすることが困難になっています。
    本資料館は、こういう現状を打破し、ミステリーに関心を持つ作家、研究者、一般読者
   のために、これらの資料を収集保存し、閲覧に供するために設立されたもので、入館者は、
   他の図書館ではなかなか手にすることのできない、戦前戦後の探偵・推理雑誌、研究書、
   書誌などの参考図書を自由に閲覧できます。また、数は限られていますが、有名作家の手
   書き原稿なども収集・保管しております。


 開館時間10時~5時 休館は日・月・祝 年末年始 5月1日。土曜日は祝日でも開館する。入
館料300円 コピーは著作権の範囲内で1部50円。館内閲覧のみ。
 スタックは館長以下4名で頑張ってる。 03-3986-302


瑞鳳山祥雲寺
 池袋3丁目1番6号にある曹洞宗の寺。初め遠山隼人正景久が江戸城は桔梗門のところにあった吉
祥寺(現在本駒込)の内に安充和尚を開基として開山し、山号寺号は景久の法号瑞鳳院と、妻の法号
浄光院から瑞鳳山浄光寺と名づけられた。江戸城の拡張により、吉祥寺に従って点々とするが小石川
戸崎町に落ち着いた。一時衰微するも、寛永六年(1629)松本藩戸田家が壇越(だんおつ)となっ
て回復。宝永六年(1709)五代将軍綱吉が死ぬと正室が落髪して浄光院となったので、寺号を憚っ
て、戸田康長の法号から祥雲寺に改めた。ここに移ってきたのは明治39年。本尊は薬師如来。

   祥雲寺
   祥雲寺は後北条氏の重臣江戸城主遠山隼人正景久によって、永禄七年(1564)に江戸
   城和田倉門内に駒込吉祥寺の末寺として創建されたのが始まりで、開山は吉祥寺安充和尚
   である。当初は景久の室(北条上総介綱成の娘)の菩提所として法号に因み浄光院と称し
   永禄七年に戦死した景久の法号から瑞鳳山浄光院と号した。
   天正十八年(1590)後北条氏滅亡に伴い遠山氏も退転したため、暫く吉祥寺の隠居所
   となり、神田台(駿河台)、小日向金杉、小石川戸崎台と移転した。
   寛永六年(1629)に信州松本藩主戸田氏が壇越となり、数度の火災の復興に際しても
   多大な尽力をした。宝永六年(1709)5代将軍徳川綱吉の死により御台所が落飾して
   浄光院殿と称したのち憚かり、戸田氏最初の壇越康長の法号により瑞鳳山祥雲寺と改号し
   た。当地への移転は明治39年であり、重宝類は昭和9年の火災で焼失した。現在の本尊
   の薬師如来は胎内銘によれば、天正十七年の造立になるという。墓地には戸田家代々の墓
   酒豪として知られた三浦樽明、首切り浅右衛門の7代山田浅右衛門などの墓がある。
   昭和56年3月                      東京都豊島区教育委員会

 
梟の碑
 門前に可愛らしい梟の碑というかモニュメントというか、石柱が建っている。これは「梟の樹を創
る会」によるふくろう像(第9号)で、平成16年11月3日に設置された。

   くびかしげ何を見ているどんぐり目 耳を澄まして町の風きく

 
入門禁制塔
 「酒気帯び臭いものを食って寺に来るな」という警告表示。「葷」は葱の一種で食べると、韮、大
蒜のように呼気が臭くなる。酒と同様、仏教の出家修行者には禁じられている。

   
不許葷酒入山門(くんしゅさんもんをいるをゆるさず)

 
松本藩戸田家墓所
 地方藩の江戸屋敷が置かれた当時、地方の大名は特定の寺と檀家契約を結び菩提寺とした。江戸期
の祥雲寺もそうした大名寺の一つであり、墓所には松本藩の霊廟が数多く遺されている。

 
山田吉豊(8代目首斬り浅右衛門)之碑
 山田浅右衛門の碑だ。山田家の本業は、徳川家刀剣類御試し御用だったが、罪人の首を斬る同心の
代役も勤めていたとか。

 
首切り浅右衛門顕彰碑
 
幕府処刑人山田浅右衛門(世襲)の代々(初代貞武・2代吉時・3代吉継・4代吉寛・5代吉睦→
6代吉昌・7代吉利・8代吉豊 但し4~6代は養子、また6・7代は朝右衛門)
を讃えた石碑。
 浅右衛門家は代々罪人の処刑と、その死体で新刀の試し切りを家業とした特殊な家柄だ。死体処理
も任され、臓器などから薬を作り販売する権利も持っていた。江戸時代のリサイクルは完璧で罪人の
死体まで無駄なく、というか・・・・・まあとにかく凄いわ。現在でも流産で出た胎児の死体は、薬
に変わって市販されてるからねぇ。おいらっちの知らねえとこで、恐ろしいことが起こってて、おい
らだけが知らないだけかもな。

 髻塚
 もとどりづか 6代目山田浅右衛門(吉昌)が、天保三年(1832)に建てた処刑者供養のため
の供養塔だ。「もっとい」とは髷を作るときに結ぶ和紙の紙縒(こより)のことで髷に結った部分を
「髻(もとどり)」という。〝ちょんまげ〟と俗称される丁髷だ。髻を解いた状態を乱髪という。戦
国の武将が兜を被るために髷を解いているあの状態だ。また武士が頭の天辺を剃ってるのは、兜を戴
くと頭が蒸れ、炎天下など熱気で卒倒するからだ。兜の天辺に八幡座という金具があり、穴が開いて
いる。頭熱を逃がすためだ。だから幕末になると、頭の剃った部分、月代(さかやき)というのだが、
剃っていない肖像画や写真を見る。本居宣長、賀茂真淵、佐久間象山、勝海舟、坂本竜馬、西郷隆盛、
桂小五郎などだが、もう兜を被ることはなかろうとの見込みでそうしたものだ。
 大きくひっくり返ることを「もんどりを打つ」というが、この「もんどり」も「髻」のことだ。

 
石ノ森章太郎の墓

 本堂裏奥にある。夫人の実家が檀家だった縁でここに墓を作り、数々のキャラクターに見守られて
眠っている。自然に深く傾倒した故人の遺志により、その戒名には「森羅万象」の意味が込められ、
墓石にも刻まれた。石ノ森は漫画家。昭和59年までは「石森」と表記。代表作は『サイボーグ00
9』『佐武と市捕物控』『マンガ日本経済入門』『HOTEL』など。『仮面ライダー』シリーズを
始め特撮作品の原作者としても活躍。SF漫画から学習漫画まで幅広い分野で作品を量産し「漫画の
王様」「漫画の帝王」と評された。平成元年「漫画には〝面白い・おかしい〟だけではない多数の表
現が可能になった」として、漫画の新しい呼び名「萬画(マンガ)」を提唱し「萬画宣言」を発表。
以降は自らの職業を「漫画家」ではなく「萬画家」と称した。没後の19年末には、500巻770
作品におよぶ個人全集『石ノ森章太郎萬画大全集(角川書店)』が、「一人の著者による最も多い漫
画出版の記録」としてギネスブックに認定されている。

 
大酒のみで有名な三浦新之丞樽明の墓
 石碑の正面に不動明王、その右にユニークな戒名「酒徳院殿酔翁樽枕居士」、左側には、

   南無三宝 あまたの酒を呑みほして 身はあき樽に帰るふるさと

 という樽明の辞世の句が刻まれている。


■祥雲寺坂
 池袋3丁目1番6号の祥雲寺前の東に上がる坂道。坂名を書いた標識はないが,途中の交差点の信
号に「祥雲寺坂」の名前が残る。祥雲寺は明治39年に現在地へ移転してきたので、それ以前は何と
読んでいたのだろうか。
 


■谷端川親水公園

 池袋3丁目2番5号にある区立公園。


■韓国人転倒死事件
 池袋3丁目3番11号音羽ビル東の谷端川遊歩道で、平成26年5月3日夜、韓国人姜春守(カン
チュンス 53歳)が倒れて井て、病院に運ばれたが3日後の6日死亡が確認された。姜は何者かに
暴行されたとみて傷害致死容疑で捜査をしているが、姜春守さんの鼻と後頭部は骨折をしている。目
撃情報も、争っている物音も聞いたものが無いので、捜査は難航している。何処かで殴られて、ここ
にきて倒れたのかもしれない。
 平成28年5月30日、警視庁目白警察署は近くに住む佐野恭平(23歳)を傷害致死容疑で逮捕
した。3日夜、自転車で通行中の姜を暴行し、頭の骨を折るなどの重傷を負わせて死亡させたとして
いる。これに対し佐野は「トラブルになったが、一切暴力を振るっていない。自分で転んで怪我をし
た」と否認している。当夜、自転車は姜の側にスタンドが立ててあった。転んだとすれば、鼻と後頭
部を打ってるのは少し不自然か。
 それにしても、韓国人は被害者の時だけ本名だなぁ。姜が加害者だったら通名だ。
 こんなことでは、何かが変ったら、大虐殺が起るぞ。小金井のタレント刺傷の犯人もそうだよ。


■洞雲寺
 池袋3丁目5番30号にある黄檗宗の寺。元は小石川関口台町(ホテル椿山荘のところ)にあり、
椿山八幡、水神社、関口八幡、竜隠庵(りゅうげあん)の別当だった。竜隠庵は、今は「芭蕉庵」と
呼ばれている。初め臨済宗妙心寺派だったが、寛文のころの住職平石道樹が、京都万福寺の4世独湛
性塋に兄事し、弟子となって改宗した。それで独湛が開山、平石が中興ということになった。ここ移
転して来たのは大正3年、小っちゃなお寺になっちゃった。
 寺宝に建武年間(1334~38)の板碑、墓地に名医森枳園(きえん)、廃寺となった泰雲寺の
開基道泰和尚の墓、また松尾芭蕉の位牌がある。表中央に「俳諧元祖芭蕉翁霊位」、右側に「本師梅
花仏」、左側に「能下玄武仏」、裏面には「寛政十茂牛実測不舎観連中建立」と書かれているそうだ。
寛政十年は芭蕉没後104年にあたる。梅花仏は芭蕉十哲の一人、美濃派の祖各務支考の諡号。玄武
仏はやはり美濃派で仙石蘆玄坊の門下玄武坊のことだから、俳系として芭蕉→支考→蘆玄坊→玄武坊
の繋がりが見て取れる。玄武坊は寛政十年に80歳で死亡してるから、玄武坊一門が、玄武坊を含む
美濃派俳祖の供養碑を寺内に建立し、そのとき納めた位牌だということが想像付く。その供養碑は今
はなく、従って昭和46年に芭蕉碑が建てられたのは再建ということになる。今は、昔と違ってちっ
ちゃな寺域だ。


鳩寺 
鳩峰山功雲院
 池袋3丁目5番9号にある。石川の永平寺、鶴見総持寺の系列で、高輪泉岳寺末。福知山藩朽木元網
の女(むすめ)で堀釆女正直広の室功雲院が、鳩供養の観音堂を泉岳寺境内に建てたのが始まり。そ
の後泉岳寺33世住職心光海印大和尚が開山となり、その塔中となった。明治42年現在地に移転。
鳩の由来は功雲院が18歳の時重い病気に罹ったとき、夢枕に鳩が現われて「薬を飲め」と告げたの
で、三枝九葉草を服用し続けたら病が癒えたという。観音堂を建てたのは42歳の時で、天寿を全う
して82歳で鬼籍に入った。


■日本福音ルーテル東京池袋教会

 池袋3丁目7番1号にあるプロテスタント教会で、日本フィンランドキリスト教文化センターでも
ある。「ルーテル」という呼び名はあまり聞きなれないかも知れまないが、ドイツの宗教改革者マル
チン・ルターのルターのドイツ語発音だ。だがルターを拝む教会ということではないよ。ルターの教
えを大切にする教会だな。その教えとは、聖書の教えを最も大切にするというもの。聖書には神の教
え、神の愛が書かれている。それはイエス・キリストの教え、その生涯によって最もはっきりと示さ
れているというものだ。しかしイエスは「救う者」、キリストは「聖人」の意で個人名ではない。聖
書は新約も旧約も、ローマ時代にソロが書いたもので、イエス・キリストの言行録でも、教えでもな
い。ヨーロッパにキリスト教が敷衍するのは16世紀以後のことだ。その布教の軋轢が、魔女狩りで
即ち旧来の宗教の撲滅だ。
 現在、日本国内のルーテル教会は全国に135あり、会員数は凡そ20000人ほど。世界中には
ドイツ、北欧、アメリカなどを中心に約6000万人が所属している。ドイツの宗教音楽の作曲家と
して有名なヨハン・セバスチャン・バッハは、この教会に属していた代表的人物。日本福音ルーテル
東京池袋教会は、明治40年年にフィンランドの宣教師によって始められた伝統的な教会だ。


■池袋三丁目児童遊園 → 池袋三丁目公園

 池袋3丁目22番13号にある区立公園。


■東京BAPTIST教会(TBC)
 移転
 池袋3丁目28番にあった日本キリスト教の教会。東京近郊の日本人と外国人コミュニティーの信
仰面でのニーズに対応、その出身国を挙げたら世界50ヶ国以上にもなるか。様々な国籍の人々から
なる国際的教会で、英語が共通語だが、英語が母国語でない人々も多くいる。メッセージは英語で行
われるものの、日本語の翻訳が字幕スクリーンに出るし、日本語原稿は週報と合わせて配布している
ので、英語が苦手な者でも安心だ。
 平成20年10月に通ったら語学学校に変わってた。渋谷区鉢山町9‐2に移転したようだ。


■池袋第二公園

 池袋3丁目29番4号にある区立公園。


■池袋第四小学校 → 大明小学校 
廃校
 池袋3丁目30番8号にあった区立校。昭和26年4月池袋第五小学校から分校して「東京都豊島
区立池袋第四小学校」として開校。9月「東京都豊島区立大明小学校」と改称。同40年校歌制定。

 校歌「
豊島の丘の池袋」 作詞作曲・校歌制定委員会
  1.豊島の丘の池袋
    緑の木々に包まれて
    色美しく花の咲く
    我が大明小学校
  2.力を協わせ 私たち
    体を鍛え健やかに
    心正しく学び行く
    おお大明小学校
  3.輝く太陽 仰ぎつつ
    大きな望み胸に抱き
    明るく共に進み行く
    ああ大明小学校


 平成17年3月商業地化による学童減少により、本校池袋第五小学校に吸収され「豊島区立池袋小
学校」となり廃校、跡地は建物そのままで「みらい館大明」となった。


■みらい館 大明

 池袋3丁目30番8号、廃校となった大明小学校の校舎校地を利用した生涯学習施設。有料で区民
に開放している。
 利用できる施設
  1階 オーディオルーム、レク・ルーム、会議室、和室、小和室、文化教室  
  2階 体育館、会議室、小会議室2、パソコンルーム、工作室


■利休揚

 池袋3丁目34番16号、池袋坂下通りにあるさつま揚げ専門店「駿河屋」の練り物。キンメダイ
やマグロなどの摺り身を使用。そのまま食べてもよし、軽く焙っても美味しいさつま揚げだ。
 03-3971-8214


■稲荷社

 池袋3丁目37番の荒木駐車場の端っこにある小祠。周辺は道路敷設のため空地となっているとこ
ろが多い。


■御嶽北公園

 池袋3丁目44番20号にある区立公園。


■三嶽神社 → 御嶽神社

 池袋3丁目51番2号にある小社。池袋西口一帯の地神。祭神は倭建命(やまとたけるのみこと)。
草創の年代は明確ではないが、第106代正親町天皇の天正年間(1573~1592)の頃といわ
れ、岸野六之助の調査によると、その百年後の貞享四年(1687)に社殿創建したという。また甲
州武田家が滅んだ時、家臣の一部が池袋の地に逃れて来、持参した神宝で神社を造営したという伝承
も残っている。以来池袋下上の丘に鎮座し、池袋駅西口一帯の鎮守として守られてきた。
 嘉永六年(1854)に社殿が造営され、幕末~明治期にはプロの絵師による大絵馬が数面、奉納
されている。昭和13年村社に昇格し、三嶽神社から御嶽神社に改称した。
 昭和34年社殿改築、同39年本殿増設。同45年社務所改築。同46年神楽殿移設、神輿庫を新
築。手水舎参道整備。同62年宮神輿・同庫が、平成5年鳥居が奉納され、同14年梟親子像が設置
された。草薙の剣の話により、古くから災難除・防火・厄除けの神徳があるとのこと。また池袋の袋
と梟に因み、苦労を除く(不苦労)福を呼ぶ神、知恵の神様ともいわれている。本殿右に稲荷大明神
の社がある。社前に大きい道路が敷設されるらしく、上げ地が進んでいる。そのためなのか、社殿を
建て替えるらしい。予定図を見ると、大変に豪壮なものになるようだ。
 境内に子育稲荷大明神がある。

 
御嶽神社境内(仮児童遊園)
 境内を公園として利用しているのだが、仮公園と表記したものもある。境内を区立公園にしている
ところは少なくないが境内公園と銘打っているのはここだけだ。

 梟像
 鳥居を潜った右手に、「梟の樹を創る会」によるふくろう像(第3号)が設置されている。


■三社神社

 池袋3丁目52番16号の路地の奥にある小祠。


■池袋台湾教会

 池袋3丁目62番9号にある日本基督教団の教会。


■池袋西教会

 池袋4丁目2番10号にある日本キリスト教団の教会。昭和23年9月12日市ヶ谷教会、浅草教
会、西池袋教会がそれぞれ総会を開き、3教会の合併を決議したことで誕生した。新しい教会の名は
池袋西教会に、教会堂は池袋2丁目の戦災で焼失した西池袋教会の跡地に建設することが決めた。
 初代牧師に市ヶ谷教会牧師であった金井為一郎が就任し、この頃はおおよそ30人の礼拝出席だっ
た。金井は日本聖書神学校の校長でもあり、学校自体も池袋の近くあったことから、多くの神学生が
金井を慕って教会に集まってきた。その神学生が中心となって日曜学校も盛んになり、多くの子ども
たちがイエスにふれ、幼い心に神のことを覚えていった。
 その後多くの受洗者を与えられ、教勢も増加の一途を辿ってきたが、豊島区の区画整理で移転を余
儀なくされたことから、郊外への移転も検討されたが池袋の地で地域伝道を続けることが神により示
され、区が指定する地に移ることを決心した。そして、前年からの建築が完成した同55年3月に現
在ちに移転し、新会堂での宣教が始まった。その後、教会創立50周年記念行事の主要な一つとして
平成9年パイプオルガンが導入され、高齢の教会員の増加に伴い念願であったエレベーターの設置を
含む改築が、同13年1月に完成し現在に至っている。


■池袋四丁目児童遊園

 池袋4丁目21番8号にある区立公園。


■池袋公園

 池袋4丁目22番9号にある区立公園。


■第五巣鴨尋常小学校 → 池袋第五小学校 → 池袋小学校

 池袋4丁目23番8号にある区立校。大正14年第二巣鴨尋常小学校から分校して「第五巣鴨尋常
小学校」として開校。昭和3年「西巣鴨第五尋常小学校」と改称。校歌制定。

 校歌「
薫り床しき」 作詞・井上宗助  作曲・山本正夫
  1.薫り床しき徳の花
    知識の草に咲き匂う
    学びの園に集まれる
    子らを潤す師の恵
    嬉しや我ら
    楽しや我ら
  2.若葉の如く健やかに
    力籠もれる我らには
    旭の如き望みあり
    いざ勤しまん諸共に
    嬉しや我ら
    楽しや我ら

  3.巣鴨の郷に第五てふ
    教の庭に萌え出づる
    大和撫子色秀で
    御国を飾る花となる
    嬉しや我ら
    楽しや我ら


 
  ※下線部の原詞は「知識の草に徳の花 茂りて薫る懐かしき」「集い来る」「若葉の
    如く健やけき 子等には伸びる力あり」だった。上記の文言は文部省によって改め
    られた。戦後は3番が削除され、2番の「旭」が「朝日」に改字された。


 同7年北豊島郡の東京市併合により「東京府東京市西巣鴨第五尋常小学校」と改称。同10年「東
京府東京市池袋第五尋常小学校」と改称。同16年勅令148号国民学校令により「東京府東京市池
袋第五国民学校」と改称。12月真珠湾攻撃により日米開戦。同18年都制施行により「東京都池袋
第五国民学校」と改称。同20年4月愚かなアメリカ軍の非人道的無差別の東京西部大空襲により校
舎全焼。8月日本はポツダム宣言を受諾、ならず者国家アメリカの軍門に降り敗戦。以後その属国と
なり、唯々諾々として言い成りになる保守傀儡政権を保持せざるを得ない今日的不幸を背負い込む。
売れない国債を買わされるやら、思いやり予算やらでもう200兆円以上がとこを持って行かれたよ。
日本娘がレイプされても地位協定で泣き寝入り、これからの若い者は、保守傀儡政権の謳う「国際協
力(昔は八紘一宇といった)」の名目の下、アメリカ軍の尖兵として、最前線の激戦地に送り込まれ
ることになるぜ。ったく酷えもんだ。
 
同22年アメリカの強制による学制改革(学校教育法施行)により「東京都豊島区立池袋第五小学
校」と改称。同26年池袋第四小学校(大明小学校)を分校。同28?年池袋第二小学校跡地(現在
地)に移転。
 平成12年同12年地方自治法改正に伴う学校教育法の改正により、校名から東京都の冠称を外し
「豊島区立池袋第五小学校」と改称。17年3月商業地化による学童減少により、分校大明小学校を
併合し「豊島区立池袋小学校」と改称。
 


【池袋本町】(いけぶくろほんちょう)1~4丁目            昭和44年4月1日
 池袋村の本村。昭和44年新住居表示により旧池袋5~6丁目の全部に1・4丁目の各一部、赤
羽線(埼京線)以西の堀之内町をあわせた町域を現行の「池袋本町」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『豊島区史』『豊島の歴史』など。

 
池袋本町の由来
 村が成立する頃の土地の状態が池袋だったことで村名とした。そして池袋村の内で最も早く開け
たところとして本村と呼ばれていた。以後も池袋村字本村、明治22年からは巣鴨村(後に西巣鴨
町)大字池袋字本村と歴史を伝え、昭和7年には豊島区池袋に組み込まれたが、同44年の新住居
表示に伴い、区側の提示した「北池袋」の町名案に地元町会が結束して働きかけ、再び「池袋本町」
として蘇った。東・西・南の池袋があって北がないのはこうした事情による。蓋しこの町会の判断
は賞賛に値する。
 


■池袋本町一丁目児童遊園

 池袋本町1丁目6番8号にある区立公園。


■同居人殺人事件

 池袋本町1丁目7番1号池袋本町ビルで起きた殺人事件。平成26年4月8日同居するDV男性菅
原義彰(48歳)を刺したとして同居する野口みゆき(49歳)を殺人容疑で逮捕した。事件後、野
口みゆき容疑者から「人を刺しました。早く来てください」などと119番通報があったことで事件
が発覚。通報を受けて池袋署の警察官や消防隊員らが現場に駆けつけたところ、菅原が胸から血を流
して倒れており、病院に搬送したものの間もなく死亡が確認された。警察での取り調べに対して野口
は「男性に暴力を振るわれたので刺した」などと供述し、容疑を認めている。凶器は自宅にあった刃
渡り約20cmのナイフ。


■豊島清掃事務所

 池袋本町1丁目7番3号にある、ごみの収集運搬・動物死体の処理(区道を除く)・有料ごみ処理
券の販売・一般廃棄物処理業の許可・指導等を行なう施設。03‐3984‐9681
 


■区内町御用達もなか
・いけぶくろ本町焼き
 池袋本町2丁目15番8号の和菓子司「亀屋菓子舗」の2品。「区内町御用達もなか」は、ふざけ
ているようなネーミングの最中だ。町内の人に喜んで貰いたいお菓子として誕生した。丹波の粒餡に
軟らかい牛皮(ギューヒ)を入れてみた。口に入った瞬間にホッと一息出てしまうこと請け合い。ほ
どよい甘さがお茶の時間をリラックスさせてくれるとか申してるよ。「いけぶくろ本町焼き」は、創
業80周年のを記念して考案したドラ焼き。あずきの風味と味を大切にふっくらと仕上げてある。
 


■本町庚申塔
 移転
 池袋本町1丁目25番7号の道路際にあったが、現在は池袋本町公園の西北角に移っている。


■池袋本町公園

 池袋本町1丁目26番4号・27番1号にある区立公園。昭和53年の開園。
正面入り口からレン
ガ敷きの園路を歩いて行くと、ゆるやかなカーブを描くツツジの築山がある。このツツジは、平成4
年に豊島区制60周年を祝した「アゼリアフェスティバル '92」の一環として、日本各地のツツジ
の名所より寄贈されたものだとか。このツツジの小山を取り巻くように園路が巡り散歩路になってい
る。築山の周りの濃い緑はユズリハやモッコクなどの植込み。また正面入口から左手は広々としたダ
スト敷きの運動広場になっている。周囲はサクラやケヤキなどが植えられ、こんもりとした鎮守の森
を思わせる。公園の外周にも園路がある。

   本町公園の沿革
   この公園は、昭和18年2月都市計画決定を受け、同19年4月東京都が用地を買収しま
   したが、戦後の昭和21年7月ここに54戸の応急簡易住宅が建設されました。
   同43年1月東京都はこの用地の3分の1(2000㎡)を住宅改良地区に指定し、簡易
   住宅の建替え工事を開始しました。
   この工事に対して地元末広町会を母体とした子供達の広場を守る会が結成され、子供達の
   子供達の広場、年寄りの憩いの場、そして防災広場の必要性から  公園化の運動が起こ
   り、このため工事は中断され、コンクリートパイルが置かれたままになっていました。
   以後コンクリートパイルが大きな鉛筆の形に似ているところから「えんぴつ広場」と呼ば
   れ、利用されてまいりました。
   昭和52年4月公園用地として東京都から本区に  され、地元の方々の御協力のもとに
   ここに完成を見たものです。
   昭和54年3月                           東京都豊島区

 本町庚申塔
 池袋本町1‐25‐7の道路際にあったが、公園の西北角に移っている。

 右面:                   雄鶏
            干時寛文第二壬寅暦  説種々性欲所宣聞法
 正面:日月 種子(マン) 供養庚申待三歳一座所 三猿
            春二月彼岸中日    随種々心行開観照門
 左面:                   雌鶏


■北池出世稲荷

 池袋本町1丁目35番と36番の間の袋小路の突き当たり、北池袋駅の西側にある小祠。
 


■東武堀之内駅 
廃駅
 → 北池袋駅
 池袋本町1丁目36番にあった東武東上線の停車場。昭和9年5月1日追加開業した。同20年4
月13日愚かなアメリカ軍の非人道的無差別空爆により駅舎崩壊。使用不能となり5月20日休止、
同22年8月29日廃駅。
 堀之内という地名は全国に多い地名だが、中世豪族の屋敷地に因ことが多い。堀を廻らして防備を
固めたその内側の地だ。当地の堀之内は古くは梶原堀之内村と称えた中世以来の地名だ。北豊島郡巣
鴨村、西巣鴨町の大字を経、昭和7年に豊島区となってからも堀之内町を名乗り続けて来たが、同4
4年新住居表示の際「杉並区堀之内」と混同しやすいという旧内務省系自治官僚の愚かな発想で「上
池袋」と改名させられ、あたら600年の地名を、悪徳官僚の恣意で失ってしまった。内務官僚は中
央集権を以て国家国民を完全支配したいのだ。この古い土地と元々の住民とを切り離す作業を彼らだ
けの専門用語で「地切り」という。


■北池袋駅

 池袋本町1丁目36番6号にある東武東上線の停車場。昭和26年9月1日東武堀之内駅の跡に現
駅名で復活した。ホームは1面2線の地上駅。ホームの両端にラッシュ時には開かずとなる踏切があ
る。改札口はホーム北西側にあり、地下通路で結ばれているが、平成18年に設置されたエレベータ
ーは橋上通路で結ばれている。駅の所在地は「池袋本町」という地名だが、駅の周辺は下町風の閑静
な住宅街。地名だけ見るとまるで繁華街だ。

 北池袋開設記念碑
 駅の改札を出ると右手にある。駅再開と同時に建てられた。碑裏に、

   この駅はもと東武堀之内とよばれていた東武堀之内駅は東上線が池袋・志木間の複線工事
   を施工した際新設されたもので當時田中初太郎氏を會長とする東武堀之内驛設置期成同盟
   會が専ら奔走盡力せられ昭和九年五月一日に開業式が挙行せられているこの驛は昭和二十
   年四月十三日の大空襲によって灰塵に歸し附近一帯も亦焼野原となった。爾来同年八月十
   五日終戦を迎えてより五星霜この地の復興めざましく漸次大池袋の北門たるの様相を呈し
   て来たので地元の長老浦邊佐太郎氏は有志を謀って驛復活助成會を結成してこれが再興に
   尽瘁せられ遂に昭和二十六年九月一日北池袋驛の再開を見るに至った。ここに北池袋驛の
   由来と再開功労者の氏名を記して将来に告げんとするものである。
   昭和二十六年十一月

                       東武鉄道株式会社東上業務局長 井上隆根撰
                                      塩原文平書
                       東上線北池袋駅復活助成会 会長浦辺佐太郎
                                   副会長 外川太郎

 とある。 


■西念寺

 
池袋本町1丁目37番7号にある浄土真宗本願寺派の寺。鉄筋コンクリート造り2階建て本堂は2
階、外階段でお参り。1階は前が駐車場、後ろは庫裏。本堂の裏は墓地になっている。


■西巣鴨第六尋常小学校 
廃校

 昭和2年西巣鴨町大字池袋字本村246番地に、時習尋常高等小学校・西巣鴨第一・第二尋常小学
校から児童を移し「西巣鴨第六尋常小学校」として開校。

 校歌「
昔懐かし」 作詞・高木重之  作曲・山本雅之
  1.昔懐かし武蔵野の
    里は本村、雲雀谷
    雲雀の歌は聞かねども
    氷川の社神さびて
    遠き歴史を偲ぶ哉
  2.昭和2年に始まりて
    栄え弥(いや)ます学び舎に
    仰げば高き日の御旗
    至誠の心誓いつつ
    集う我等は二千人
  3.鉄路集まる池袋
    朝(あした)夕べの人の波
    文化の波を競ひつつ
    賑ふ街に誇りあり
    学ぶ我等に望あり


 同9年「
朝礼の歌」制定。作詞・遠藤中 作曲・内藤彰一
  1.朝の光を身に浴びて
    靴の音高く第六の
    学びの庭に集ひたる
    我等の望む空高し
  2.共に手を取り睦まじく
    教えを学びよく学び
    胸に輝く真心に
    我等の歩む地は広し


 同21年戦災による被害甚大と児童減少のため池袋第二小学校に吸収され廃校。
 


■池袋第二小学校

 池袋本町1丁目43番1号にある区立校。大正7年北豊島郡巣鴨村大字池袋500番地(池袋第五
小学校用地)に
時習尋常高等小学校から分校して「第二巣鴨尋常小学校」として開校。昭和2年第六
巣鴨尋常小学校新設のため学区を割愛して一部児童移籍。同3年「西巣鴨第二尋常小学校」と改称。
同6年高等科を併置して「西巣鴨第二尋常高等小学校」と改称。同7年周辺郡部の東京市併呑により
「東京府東京市西巣鴨第二尋常高等小学校」と改称。同9年豊島第一高等小学校の新設により高等科
を移し「東京府東京市西巣鴨第二尋常小学校」と改称。同10年高等科を併設して「東京府東京市池
袋第二尋常高等小学校」と改称。同13年校歌制定。

 池袋第二尋常小学校「
紫匂う」 作詞・宮崎力次郎  作曲・山本正夫
  1.紫匂ふ池袋
    清き姿の富士ヶ嶺を
    前に眺めて聳え立つ
    我が学び舎の尊しや
  2.日々に集いて諸共に
    勅
(みこと)畏み勤しみて
    人の務を尽くさんと
    励む吾等の楽しさよ
   ※ 尚、原詞では、「匂」→「匀」 「勅」→「詔」

 戦後歌詞の一部を改訂。
  1.紫匂
ふ池袋
    清き姿の富士
嶺を
    前に眺めて聳え立つ
    我が学び舎の尊しや
  2.日々に集いて諸共に
    
学びの庭に勤しみて
    人の務を尽くさんと
    励む吾等の楽しさよ


 同16年勅令148号国民学校令により「東京府東京市池袋第二国民学校」と改称。同12月真珠
湾攻撃により日米開戦。同18年都制施行により「東京都池袋第二国民学校」と改称。同20年4月
愚かなアメリカ軍の非人道的無差別の東京西部大空襲により校舎全焼。8月日本はポツダム宣言を受
諾、ならず者国家アメリカの軍門に降り敗戦。以後その属国となり、唯々諾々として言い成りになる
保守傀儡政権を保持せざるを得ない今日的不幸を背負い込む。売れない国債を買わされるやら、思い
やり予算とやらでもう200兆円以上がとこを持って行かれたよ。日本の娘がレイプされても地位協
定で泣き寝入り、これからの若い者は保守傀儡政権の謳う「国際協力(昔は八紘一宇といった)」の
名目の下、アメリカ軍の尖兵として、最前線の激戦地に送り込まれることになるぜ。ったく酷えもん
だ。
 同21年戦災焼失により廃校となった池袋第四国民学校・池袋第六国民学校を統合。同22年戦勝
国アメリカの強制による学制改革(学校教育法施行)により「東京都豊島区立池袋第二国民学校」と
改称。この頃校舎がないため長崎第二国民学校(要町小学校)や重林寺に間借りして授業。8月池袋
5丁目202番地(現在地)に移転。同28年文成小学校分校。
 平成10年創立80周年記念式典。同12年地方自治法改正に伴う学校教育法の改正により、校名
から東京都の冠称を外し「豊島区立池袋第二小学校」と改称。


■ドンドン橋(堀之内人道橋)

 
池袋本町1丁目33番1号から上池袋2・3丁目の境に渡る東武東上線とJR埼京線を跨ぐ歩行者
専用のオーバーブリッジ。歩くとドンドンと音がしたことから通称「ドンドン橋」とも呼ばれてる。
橋の上からは、運用中の電車の停泊場となる「池袋運転区」が一望できる。待機中の山手線車両や成
田エクスプレス、走行中の埼京線や東武東上線を眺めることができ、鉄道マニア必見のスポット。


■板橋道(鎌倉古道)

 
池袋本町1・4丁目と2丁目を分ける道(本町中央通り~平和通り)はかつての板橋道、雑司ヶ谷
と板橋宿とを結んだ旧街道鎌倉古道だ。北に上がると、板橋の四股に出、旧川越街道と交差し、その
北で旧中山道に合流した。南に下ると文京区の方の大塚に向う大塚道。1丁目24・46番と2丁目
13番が接する三叉路で、西に向かいカーブして南に向う道は雑司ヶ谷道。鬼子母神を経て、神田川
面影橋に至り戸山に抜けた。尾張藩が奥方の鬼子母神詣でのために戸山山荘から整備したそうだ


明王山不動院重林寺

 
池袋本町2丁目3番3号にある真言宗の寺。慶安三年(1650)の創建。戦災を逃れた本堂や七
面観音供養塔は七面に七種の観音像を刻んだ石塔歴史の古さを感じさせてくれる。天文二十四年の板
碑などの石仏・石塔もある。境内のイチョウの大木は豊島区保護樹木第1号に指定されたもの。ツツ
ジや牡丹なども咲く築山の庭園や参道の桜並木も綺麗だ。

 織部灯籠(キリシタン灯籠)
 形の良い灯籠がある。支柱の上部が膨らんでいて十字架のようになっている。キリシタンたち(ユ
ダヤ人の秘密結社イエズス会)が、日本を占領せんとの目論見を秘匿して布教を隠れ蓑に暗躍し始め
たため、キリスト教は禁教となった。鎖国は彼らユダヤ人の挫くための処置で、キリスト教を信仰す
ることは問題ではなかった、併しキリスト教徒となった者が、土地をキリシタンに寄進し、キリシタ
ンたちがその土地を受け取らなかったら、徳川幕府は鎖国をしなかったろう。そのためキリスト教を
信じる日本人は、いろんなものを十字架に見立てて信仰を継続した。織部灯籠は、十字架に見立てた
灯籠だ。この徳川幕府の賢明な処置にもかかわらず、270年後、ロシア革命を起こしてロマノフ王
朝の膨大な財産を奪いとる必要から、ユダヤ人たちは愚かな日本の下層民を唆し、莫大な資金を注ぎ
込んで、鎖国を押し開き、明治維新を断行、日本を属国にしてしまった。今、日本政府はユダヤの傀
儡であり、日本は間接統治されている。日本人はこの巧妙な策略が理解できない。

 
木造聖観音立像
 明治43年に15代住職真誠が、勢至観音立像とともに群馬県伊勢崎市境町辺の寺から購入したも
のといわれ、現在観音堂に安置されている。平成8年に豊島区登録文化財になっていたが、平成15
年の解体修理の結果、鎌倉時代後期、つまり13世紀後半の作であることが判明し、区指定文化財と
なった。栢の財を用いた一木割り剥ぎ造りで、裳の形がが膝下で括(くび)れているなど、非常に珍
しい姿をした仏像だ。

 
六面柱六地蔵
 六面の柱の一面一面に地蔵が浮彫されている供養塔。 
 


■豊昭学園東京交通短期大学・昭和鉄道高等学校附属交通資料館
 
池袋本町2丁目5番15号、重林寺の西にある。船舶・飛行機の模型などを展示している。ただし
開館は月曜日のみ。豊昭学園は東京交通短大・昭和鉄道高校・豊島学院高校の母体。
 


■東京交通短期大学
 池袋本町2丁目9番1号にある私立校。母体は豊昭学園。漸く戦後の混乱期を脱し始めた昭和27
年修業年限2年の短期大学として創設。日本の短期大学制度が発足して2年目のことだ。当時鉄道は
依然として陸上交通の主役であり、鉄道の現場には働きながらもっと学問や教養を身につけたいと願
う多くの青年たちがいた。本学が夜学としてスタートしたのは、まさにこうした若者たちの熱い思い
に応えたためだ。「働きながら学ぶ」というこの考えは、広く知識を身につけた職業人を必要とする
当時の交通界からも支援され、多くの専門の講師を招くことができ本学の基礎が固まった。現在は、
高校から現役で入学する学生が大半を占めるようになり、時間帯も夜間から昼夜開講制へと移行して
いる。しかし「働きながら学ぶ」という伝統は今も深く根付いており、多くの学生が在学中にアルバ
イトを通して鉄道の現場を経験している。創立から半世紀を超えた今でも、日本で唯一校名に「交通」を
掲げる短期大学として広く全国から向学心に燃える学生を迎え、鉄道・交通業界をはじめとするサー
ビス産業界への就職や、4年制大学などの編入学へと多くの卒業生を送り出している。生徒のための
運転シミュレータ館も備えている短大の道際には、1957年製丸の内線モハ500型客車が展示さ
れている。
 


■昭和鉄道高等学校・豊島学院高等学校
 池袋本町2丁目10番1号にある私立校。母体は豊昭学園。

 昭和鉄道高等学校
 昭和3年神田三崎町に夜間の「昭和鉄道学校」として普通部業務科で開校。同4年牛込区市ヶ谷に
移転。高等部業務科を増設し、全日制に移行。同6年土木科を新設。同7年「昭和高等鉄道学校」と
改称。同15年豊島区池袋に移転。同16年校舎新築。12月日米開戦。同18年創立15周年記念
式典。同20年8月日本はポツダム宣言を受諾、ならず者国家アメリカの軍門に降り敗戦。以後その
属国となり、唯々諾々として言い成りになる保守傀儡政権を保持せざるを得ない今日的不幸を背負い
込む。売れない国債を買わされるやら、思いやり予算とやらでもう200兆円以上がとこを持って行
かれたよ。日本の娘がレイプされても地位協定なんちゅう差別条項により泣き寝入り、これからの若
い者は、保守傀儡政権の謳う「国際協力(昔は八紘一宇といった)」の名目の下、アメリカ軍の尖兵
として、最前線の激戦地に送り込まれることになるぜ。ったく酷えもんだ。
 同23年戦勝国アメリカの強制による学制改革(学校教育法施行)により「昭和鉄道高等学校」と
改編。同25年私立学校法制定により母体が学校法人昭鉄学園となる。同26年豊島学園と合体して
学校法人豊鉄学園となり、東京交通短期大学開設。同33年現校舎落成。同42年東京交通資料館開
館。同53年創立50周年記念式典。同63年新体育館竣工。坂戸グランド完成。
 平成10年創立70周年記念式典。

 校歌「
朝陽に映える」 作詞作曲・村田茂 編曲・程塚繁樹
  1.
朝陽に映える この学び舎に
    若者集い 幾星霜
    一つの思い 抱きつつ
    明日の社会 築きあぐ
    レイルウェイ 輝け
    レイルウェイ 夢をかたれ
    おお 昭和鉄道高校

  2.
空に掲ぐる エンジの旗に
    光る動輪 永遠に
    
理想の教え かみしめて
    栄えある未来 いざ行かん
    
レイルウェイ 輝け
    レイルウェイ 夢をつかめ
    おお 昭和鉄道高校


 高校の前には、1891年英国製1B1型蒸気機関車(西武鉄道3号機関車)が展示。機関車は重
量25.14t、動輪直径が1219ミリメートルの小さな車体だが、日本の鉄道の歴史を物語る貴
重な蒸気機関車。

 豊島学院高等学校
 昭和7年神田駿河台に「神田商業学校」として設立。同15年現在地に移転し「豊島商業学校」と
改称。同19年「豊島工業学校」併設。同23年新学制により両校を合併し「豊島実業高等学校」と
改称。同24年普通科を設置し、総合高校としての第一歩。同63年体育館完成。
 平成3年制服が改定され1年生からブレザーに。坂戸総合グラウンド開設。同4年「豊島学院高等
学校」と改称。普通科拡充。同6年カナダ、オーストラリアの海外研修旅行が始まる。同11年普通
科共学実施。新校舎3号館竣工。同12年商業科共学実施。同14年新実習棟完成。同15年新校舎
4号館竣工。同16年新校舎2号館竣工。同18年普通科「選抜進学類型」新設。機械科・電気科共
学。同13年新シュミレーター館完成。同14年新実習棟が完成。同16年共学化。女子の入学によ
り新校舎完成。女の子は学校の内容より見てくれや制服の可愛らしさで学校を見るからねぇ。同18
年新制高等学校となって以来の運輸科・機関科を廃し「鉄道科」のみの単科高校となる。

 校歌「
遥かに聳ゆる」 作詞・浅沼栄吉 補作・藤田好英
               作曲・堀内敬三 編曲・程塚繁樹
  1.遥かに聳ゆる富士ヶ嶺清し
    明けゆく武蔵野 豊島ヶ丘に
    集う朋友
(とも)の希望 溢るる
    心一途に学び励まん
    明日を築くと使命に燃ゆる
    栄光輝く我らが母校
  2.春爛漫たり大地は緑

    秋玲瓏たり城北の空
    聳ゆる学び舎 伝統久し
    見よ我が掲ぐる桑の若葉を
    理想の徽章 文化の要
    永遠
(とわ)に輝く我らが母校 


■池袋本町二丁目児童遊園

 池袋本町2丁目39番7号にある区立公園。


■池袋本町三丁目チビッ子児童遊園

 池袋本町3丁目7番15号にある区立公園。


■池袋本町三丁目第二児童遊園

 池袋本町3丁目9番3号にある区立公園。


■修養団捧誠会本部

 池袋本町3丁目11番地1号にある宗教団体。栃木県出身の教祖出居清太郎は大正11年以来神理
研究会、親和会、東光会などの修養団体を結成して会員の指導育成に当たってきた。昭和16年6月
財団法人修養団捧誠会を結成し総裁に就任。同22年宗教法人令に基づき宗教法人となり、さらに同
25年現在地に本部会館を建設、同27年宗教法人法による認証を受け、宗教法人「修養団捧誠会」
となる。さらに同29年本部平和郷落成。同52年西伊豆達磨山に悠久世界平和郷竣工。同58年清
太郎逝去。妻菊のが継承し第2代総裁に就任。同59年教祖・会母のみの霊を祀る御霊所、物故会員
を合祀する敬霊塔建立。平成9年第2代総裁菊の死亡。第3代総裁に出居茂就任。

 
教義

 出居清太郎が天啓によって得た「いのりのことば」「神法」を教理の根本とし、「綱領」を実践の
根本とする。総ての人が真に虚心坦懐、現在の環境に捧誠感謝の自覚を得、天地自然の法則によって
生ずる大極を神として崇敬し、心身一切の生活をあげて、つねに神虜に合一するように修養実践し、
社会道義の確立高揚に努め、もって平和世界の顕現に貢献せんとする。


■池袋本町三丁目児童遊園

 池袋本町3丁目13番7号にある区立公園。


■氷川神社

 
池袋本町3丁目14番1号にある本村の鎮守。天正年間(1573)に建立されたと伝わる。境内
に明治42年に築山した富士塚がある。入口近くで煎餅屋を営んでいた篠太郎左衛門が中心となった
講中が建てたものという。神社北側には明治初期に発見された縄文時代の遺跡「池袋貝塚」もあり、
品川の大森貝塚と共にその歴史は古く、勾玉やみみずく土偶などが出土した。また境内には、都内で
も珍しい土俵があり、夏休みには豊島区内の子供たちによる相撲大会が行われている。

 池袋富士塚
 高さ5mで、明治45年6月に池袋月三十七夜元講によって築かれた。塚には頂上の奥宮のほか、
合目石・講碑・天狗像・猿像など52基にも及ぶ豊富な石造物がある。

   池袋富士塚
   富士塚は、さまざまな理由から富士登山ができない人たちも、これに登れば富士山に登っ
   たのと同じ霊験が得られるとして、江戸時代後期以降、現東京都域および近隣地域に各富
   士講集団を単位として築造されたものである。高さ約5m、東西幅約13m、南北幅約1
   8mを測り、全山がボク石で覆われている。登山道は正面部分に電光形に設けられており
   その道筋ははっきり確認できる。
   この池袋富士塚は、明治45年6月に池袋月三十七夜元講によって築かれたものである。
   塚内に造立された講碑から、歴代先達の名前や近隣の富士講集団とのつきあいの様子が知
   られる。一般に富士塚の石造物は、頂上に奥宮、中腹向かって右には小御嶽社をあらわす
   石祠、中腹向かって左には烏帽子岩を配置するのを基本としている。池袋富士塚の石造物
   は、こうした特徴を備えている外、経ヶ岳(日蓮ゆかりの霊地)を示す題目碑、合目石、
   講碑、教祖角行像、一対の天狗像、さらには胎内が配置されており、充実した石造物群を
   構成している。
   豊島区に残された数少ない富士塚のひとつとして、また池袋本町地区に展開した民間信仰
   を考えていく上でも貴重なことから、平成10年6月に東京都豊島区指定史跡となり、保
   存が図られている。
   平成11年3月                      東京都豊島区教育委員会


■谷端川北緑道

 池袋本町3丁目33番7号にある区立公園。


■池袋中学校

 池袋本町4丁目5番24号にある区立校。昭和22年戦勝国アメリカの強制による学制改革(学校
教育法施行)により新制中学校「東京都豊島区立池袋中学校」として開校。同25年道和中学校を分
校。同26年校歌制定。

 校歌「
秩父の山を」 作詞・窪田空穂  作曲・平井康三郎
  1.秩父の山を遠く見る
    都の北の雲雀ヶ谷
    新時代をば荷うべき
    希望に燃えて物学ぶ
    我が池袋中学校
  2.正しき理解 身に付くる
    楽しみ日々に味ひて
    実行が持つ喜びを
    繰り返しつつ進みなむ
    我が池袋中学校
  3.家庭は我を護るなり
    社会は我を待てるなり
    潔き身と生い立ちて
    日本の花と咲き出でむ
    我が池袋中学校

 平成12年地方自治法改正に伴う学校教育法改正により、校名から東京都の冠称を外し、「豊島区
立池袋中学校」と改称。


■池袋本町四丁目児童遊園

 池袋本町4丁目22番12号にある区立公園。


■文成小学校

 池袋本町4丁目36番1号にある区立校。昭和28年池袋第二小学校より分校し池袋7丁目199
3番地(現在地)に「東京都豊島区立文成小学校」として開校。 校名の由来は「文化大成」により
「五彩文を成す」を意味する。同
29年10月校歌制定。

 校歌「
一、二、三、四」 作詞・サトウハチロー  作曲・松田トシ
  1.一、二、三、四、五、六、七、八
    数えて嬉しい仲良しこよし
    明るく晴れてる朝空眺めて
    並んで通うよ 貴方の私の
    君の僕の母校 文成 文成
    おお文成
  2.一、二、三、四、五、六、七、八
    鍛えて励んで毎日伸びてく
    教えを守って鐘から鐘まで
    きちんと学ぶよ 貴方の私の
    君の僕の母校 文成 文成
    おお文成
  3.一、二、三、四、五、六、七、八
    忘れてならない良い子の姿よ
    春風 秋風 木の葉や小鳥に
    覚えて話すよ 貴方の私の
    君の僕の母校 文成 文成
    おお文成
  4.一、二、三、四、五、六、七、八
    続くよ 続くよ 元気な足音
    雨の日 雪の日 霰の朝でも
    楽しく響くよ 貴方の私の
    君の僕の母校 文成 文成
    おお文成
 


■公園で高濃度放射線検出

 池袋本町4丁目41番の池袋電車の見える公園の遊具の近くから、平成27年4月22日、区の除
染基準値(毎時0.23マイクロシーベルト)を超える放射線量(最大2.53マイクロシーベルト)
が検出された。これを受け、23日原子力規制委員会の助言を受けながら、遊具周辺の放射線量を再
度計測した。その結果、昨日最大値が検出された遊具部分の直近の地表(1ヶ所)で、480マイク
ロシーベルトと、さらに高い数値の放射線量が測定された。なお周辺の地表の放射線量はいずれも昨
日同様、基準値以下だったことから、計測地点の地中に何らかの放射性物質が存在することが考えら
る。
この日の計測結果を受け、昨日設けた遊具周辺の立ち入り禁止区域について、0.1マイクロシー
ベルトを基準に拡大すると共に、混乱防止のため、公園への立ち入りについても当面禁止とする。区
は、引き続き原子力規制委員会の助言を受けながら、安全性を確保しつつ、早急な除却作業に着手。
また池袋保健所に、この件に関する健康相談を受け付ける窓口を設置した。
 同4月24ひ区は日本アイソトープ協会の協力により、測定地点の土の塊を回収。土の塊の表面か
らは、最大500マイクロシーベルトの放射線量が検出された。原因物質はラジウムとみられており
回収後は同協会の保管庫へ運ばれた。これにより測定地点の放射線量は、基準値内の毎時0.06マイ
クロシーベルトまで下がった。区によると土地を購入した際に土の入れ替えは行なわれておらず、同
公園は福嶋第一原子力発電所後の開園であるため、これまで放射線量の測定も実施されてなかった。
 同4月28日区は日本アイソトープ協会による調査結果を発表した。区の発表や報道によると、回
収された土の塊からは直径3mm、高さ3mmの円筒形のステンレス製カプセルが発見され、原因物
質はラジウム226と同定されたという。中からは37メガベクレル相当の放射能が測定されたが、
完全に密閉された状態であり、外部には一切漏れ出していないのを再確認した。なお、現時点では、
用途や埋まっていた経緯は不明とされている。
 


■下板橋駅

 池袋本町4丁目43番11号にある東武東上線の停車場。大正3年5月1日東上本線の池袋~田面
沢(廃駅・川越市~霞ヶ関間にあった)間が開業して以来の駅。当初は現在の位置よりやや西寄りの
現在電留線がある辺りにあったが、昭和10年に複線化された際に現在地に移った。現在では完全に
豊島区内にあるこの駅も、以前は駅名通り板橋区内にあったのさ。
 ホームは地上相対式2面2線構造で、カーブの途中にある。各ホームは地下道で結ばれているが、
エレベーターはない。ホームには屋根のかかっていない部分が多いので、雨の日はできるだけ川越寄
りの車両から降りたほうがよい。
 改札口・出口は、通常使用される2番線側の北口のほか、平日の朝夕のみに開放される1番線側の
南口がある。いずれも、ホームの西端部に設けられている。
 地図で見ると埼京線の板橋駅がすぐ近くにあるが、実際に乗り換えようとするとぐるっと迂回しな
ければならないために意外と遠い。ここで乗り換えるメリットはないので、池袋駅を使うのが懸命だ。
 東武鉄道は平成20年5月下板橋駅を大山寄りの留置線付近へ移転させ、駅ビルに日本大学医学部
附属板橋病院を誘致する計画を発表した。駅上病院としては東急大井町線・目黒線の大岡山駅がある
が、大学病院レベルでは国内初となる。具体的な移転時期等は未定。

 
東上鉄道記念碑
 東武東上線の前身である東上鉄道は、大正3年5月に池袋・田面沢(現川越市)間が開通した。現
在、下板橋駅構内にある東上鉄道記念碑は、これを記念して大正8年5月に建てられた。表面には名
称の由来や、区内に在住し開業に尽力した内田三左衛門を顕彰する内容が、裏面には建碑発起人8人
と建設費寄付者132名がそれぞれ記されている。この碑は、東上線と区の歴史を理解する上で重要
な記念物であることから、平成17年度に区登録文化財となった。その時の調査で、この碑は当初上
板橋駅構内に建てられ、戦後池袋へ移動し、さらに池袋駅西口再開発に伴い、下板橋駅構内に移動し
たことが判明したが、移動の年月日までは判らなかった。

   東上鐡道記念碑         東京府知事正四位勲二等法学博士井上友一 題額
   東上鐡道ハ曩ニ南北縦貫毛武上越京越日本興業ノ各鐡道ニ於テ企畫シタルモ當事ノ状況ハ
   未タ其目的ヲ達スルニ至ラス沿道諸町村ハ多年ノ期待ニ反シ文明ノ恵澤ニ浴スルコト能ハ
   サルヲ嘆シテ已マサリキ爰ニ内田三左衛門氏外十名ノ有志ハ蹶起シテ東上鐡道株式會社ヲ
   設立シ本鐡道ノ敷設ハ一日モ閑却スヘカラサルヲ提唱シ東奔西走同志ヲ勤説スルコト年餘
   漸クニシテ發起人三十四名ヲ得遂ニ會社ノ確立ヲ見ルニ至レリ即チ東京澁川間七十四哩更
   ニ越後長岡マテヲ豫定線トシテ明治三十六年十二月申請同四十一年十月時ノ内閣總理大臣
   桂太郎閣下ノ許可指令ヲ得タリ是ニ依テ直ニ敷設ノ工ヲ起シ其ノ竣成ヲ急キタルトモ艱險
   ナル地形ニ阻格セラレ工事遅々トシテ進マザリキ然ルトモ辛萬苦百難ヲ排シ遂ニ大正三年
   五月全ノ其ノ工ヲ竣ヘタリ爾来廣ク交通運輸ノ便ニ資シ今日ノ盛況ヲ呈スルニ至レリ是固
   ヨリ發起人諸氏ノ慘澹タル苦心ニ俟ツト難モ就中内田氏ノ熾列ナル公共心ト高潔ナル犠牲
   的精神トニ職由スル所多シ氏ハ天文年間川中島ノ戦ノ時上杉謙信ノ麾下ニアリタル越後ノ
   勇士宇佐美駿河守定行ノ後裔幼時故アリテ内田姓ヲ冒シタルモノナリ父祖ノ血ヲ享ケタル
   ノ然ラシムル所カ氣節ニ富ミ其ノ行状大ニ常人ト異ナレリ殊ニ本鐡道ノ創設ニ當テハ家財
   ヲ■盡スルヲ顧ミス巨資ヲ投シテ専心一意其ノ完成ノ為メニ盡瘁セリ其ノ功勞ノ顯著ナル
   當ニ本鐡道ト共ニ沿道諸町村ノ永ク記念スヘキモノナリ茲ニ有志相謀リテ石ニ勒シ将来ニ
   告ケントスル亦故ナキニアラス         東京府豊島師範學校教諭 井上宗助撰
                          同       教諭 三宅喜代太書

   
東上鉄道記念碑
   この記念碑は、明治36年(1903)に創立申請された東上鉄道株式会社の由来と、建
   設に至る経緯が記された石碑であり、大正8年5月上板橋駅に建てられました。
   東上鉄道は、当時の小石川区下富坂町(文京区)を基点として、巣鴨町‐上板橋村‐川越町
   ‐児玉町‐高崎市を経由して渋川町(群馬県渋川市)に至る路線が計画されていました。
   発起人総代は千家尊賀ですが、その実現のために努力したのは板橋区蓮根で醤油醸造業を
   営んでいた内田三左衛門でした。碑文には内田が「東奔西走同志を勧説」し、「千辛万苦
   百難を排」し、開業に導いたという経過が刻まれており、その功績を顕彰する内容となっ
   ています。
   東上鉄道は、東武鉄道社長根津嘉一郎の参画により、大正3年に池袋‐田面沢間が開通し
   同9年には東武鉄道と合併して東武東上線となりました。
   その後、この石碑は、上板橋駅から「東上線池袋駅」に移されますが、駅周辺の開発によ
   り移転を重ね現在に至っています。
   平成17年度に板橋区登録記念物となりました。
   平成19年3月                         板橋区教育委員会
 
 


【要町】(かなめちょう)1~3丁目                 平成元年11月14日
 長崎村。明治11年「郡区町村編制法」により北豊島郡に所属。同22年「市制町村制」により
飛地を巣鴨村に譲り、同時に南豊島郡下落合村字三軒家を吸収して長崎村、大正15年町制移行し
て長崎町。昭和7年東京市に併合されて豊島区長崎南町1~3丁目・長崎仲町1~2丁目・長崎東
町1~4丁目・千川町1~3丁目に分かれた。昭和14年長崎東町2~3丁目・長崎仲町1丁目・
千川町1~2丁目をあわせた町域を要町1~3丁目とした。平成元年新住居表示により現行の「要
町」とした。3丁目に千川小学校がある。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『豊島区史』『豊島の歴史』など。

 
要町の由来
 長崎村の中心地で扇の要に等しいということから付けられた町名。村の鎮守は粟島神社。だから
要は粟島さまだ!
 


■要町駅

 要町1丁目1番にある東京メトロ有楽町線と副都心線の停車場。昭和58年6月24日有楽町線営
団成増(現地下鉄成増)~池袋間開業時に設けられた。ホームは、有楽町線と副都心線のホームが上
下に重なる二層構造になっている。それぞれが島式1面2線で、地下2階に有楽町線、地下3階に副
都心線が発着する。副都心線のホームは有楽町線新線が開通した平成6年12月7日には完成してい
たが、開業まで一度も使用されたことがない。各ホームと改札階を結ぶエレベーターは完備。改札口
は2ヶ所で、出口は1~6の6ヶ所だ。


■要町一丁目児童遊園

 要町1丁目25番3号にある区立公園。


■すずめヶ丘アトリエ村・モンパルナス

 要町1丁目25~38番の辺りに芸術家が集住したのでそう呼ばれた。この辺りがまだ北豊島郡長
崎町字北荒井だった昭和6年、奈良次雄の祖母が、次雄と同じように美術家を目指す芸術家の卵たち
のために建てたのが始まり。その後一帯にアトリエ住宅が建ち、この辺りは大正時代のガーデニング
ブーム目当てに竹林が造成され、すずめが飛び交っていたので、そう呼ばれるようになった。


■培風寮跡
 要町1丁目31番10号培風寮のところに「培風寮」というアパートがあった。フェンスに手書き
のような説明板が貼り付けてある。

   長崎アトリエ村みちしるべ
   
培風寮 跡地
   ここには大正時代のおわりころ「培風寮」というアパートがありました。花岡謙二という
   詩人が経営していました。靉光をはじめ多く絵描きや詩人たちがすみ、アトリエ村の切っ
   掛けを作りました。
 


■山手樹一郎旧居跡
 要町1丁目33番5号にある。『桃太郎侍』など明朗で人情味豊かな大衆小説を書き、時代小説の
第一人者となった山手樹一郎が住んだ家で、書斎などはそのまま残されている。
 


■富士元囃子
 要町1丁目38番9号の本橋家に伝承されている。明治45年頃長崎村の本橋重太郎が習い覚え、
浅間神社・長崎神社の祭礼時に奉納したことに始まる。本橋家が、浅間神社境内の長崎富士塚(高松
2‐9‐3)の富士講の講元(先達)を長年務めていたことから富士元囃子と改めたといわれる。大
太鼓1・締め太鼓2・篠笛1・鉦1の五人囃子の形態を採り、長閑な笛の音を聞かせる「神田流大間
囃子」に属す。9月第2土・日の秋の祭礼では、御輿を先導する囃子が1丁目界隈を練り歩き、祭り
を盛り上げる。
 東京の祭囃子の特徴である神田流大間囃子に属す。演目は屋台・昇殿 ・鎌倉・四丁目 ・屋台で構
成され、かつて長崎地域が農村であった頃の、のどかな笛の音を聞かせる曲調です。また芸(色物)
として正月などには寿獅子・大黒舞が上演される。約100年の歴史を持つ冨士元囃子は、長崎獅子
舞とともに長崎地域の特色を示す貴重な民俗文化財だ。用具一式は区の指定文化財となっている。


■櫻あんぱん

 要町1丁目39番4号にある「こんがりパンや」の菓子パン。
天然酵母と国産小麦にこだわったあ
んぱんだぞー。


■延命地蔵

 要町1丁目41番12号にある。


■要町一丁目広場

 要町1丁目42番7号にある区立公園。


■長崎第二尋常小学校
要町小学校 
廃校
 要町2丁目3番20号にあった区立校。 昭和3年長崎尋常高等小学校から分校して長崎町字北荒
井475番地(現在地)に「東京府北豊島郡長崎第二尋常小学校」として開校。同7年北豊島郡の東
京市編入により「東京府東京市長崎第二尋常小学校」と改称。同10年長崎尋常高等小学校と共に長
崎第四尋常小学校を分校。同14年校歌制定

 校歌「
土さえ薫る」 作詞・花岡謙二  作曲・橋本邦彦
  1.土さえ薫る武蔵野の
    日影(朝日)射し添う桜花
    潔きを己が心とし
    学びの道に勤しまん
  2.朝夕集ふ鈴懸の
    梢に仰ぐ富士の嶺
    高きを己が心とし
    日毎の勉め励みなむ
  3.大空(蒼穹)青く澄み渡り
    八十島巡る八重の潮
    深きを己が心とし
    久遠の力養わん


    [歌詞説明]第一節に於て日本魂の表徴たる桜花の如く高潔を己れの心事とし第二節に
    於て理想を霊峰富士の如く八重の潮の如く深遠なる思慮を持し、恒に聖旨を奉体して切
    磋琢磨することを目標とす。
     尚第二節にすゞかけをよみ入れたるは本校々庭にその大木ありて児童は日々それに親
    しみ居るなり。


 同16年勅令148号国民学校令により「東京府東京市長崎第二国民学校」と改称。12月日本海
軍の真珠湾攻撃により日米開戦。同18年都制施行により「東京都長崎第二国民学校」と改称。同2
0年4月愚かなアメリカ軍の非人道的無差別の東京西部大空襲のへなちょこ弾を躱し無事焼け残る。
8月日本はポツダム宣言を受諾、ならず者国家アメリカの軍門に降り敗戦。以後その属国となり、唯々
諾々として言い成りになる保守傀儡政権を保持せざるを得ない今日的不幸を背負い込む。売れない国
債を買わされるやら、思いやり予算やらでもう200兆円以上がとこを持って行かれたよ。日本娘が
レイプされても地位協定で泣き寝入り、これからの若い者は、保守傀儡政権の謳う「国際協力(昔は
八紘一宇といった)」の名目の下、アメリカ軍の尖兵として、最前線の激戦地に送り込まれることに
なるぜ。ったく酷えもんだ。何時までアメリカの子分でいるんだい?
 同22年アメリカの強制による学制改革(学校教育法施行)により「東京都豊島区立要町小学校」
と改称。同24年高松小学校を分校。同29年平和小学校を分校。同33年校歌制定。

 校歌「
高い梢が」 作詞・勝承夫  作曲・平井康三郎
  1.高い梢が青空の
    光を招く夢を呼ぶ
    風薫り鳥歌い
    元気良い要町
    自主の気風も溌剌と
    伸び行く我等日本の力
  2.希望溢れる校庭に
    若葉が萌える意気が湧く
    枝を張れプラタナス
    まだ伸びよ大銀杏
    何時も仲良く胸を張り
    果てなく進む楽しい我等
  3.花が彩る藤棚の
    空には小鳩友を呼ぶ
    よく学びよく遊ぶ
    健康な要町
    明日の世界をこの肩に
    担おう我等平和の力


 平成11年学区内児童の激減により分校平和小学校と統合して「要小学校」となった。


■要小学校
(統合新設)

 要町2丁目3番20号にある区立校。 平成11年平和小学校と要町小学校が統合して、要町小学
校の跡地に「東京都豊島区立要小学校」として開校。

 校歌「
桜花咲く」 作詞・池田類子  作曲・ダークダックス
  1.桜花咲く校庭に
    笑顔の友と夢を持ち
    体を鍛え逞しく
    希望に燃えて伸びて行く
    明るく強い要の子
    光集めて要小学校
  2.銀杏黄葉も美しく
    元気な友と健やかに
    明日に向って羽ばたいて
    平和な世界築こうと
    仲良く学ぶ要の子
    瞳合わせて要小学校


 同12年地方自治法改正に伴う学校教育法改正により、東京都の冠称が外され、「豊島区立要小学
校」と改称。
 


■粟島神社

 要町2丁目14番4号にある大社。淡島神を祀っている神社。社名は「淡島」以外に淡嶋、粟嶋、
粟島などの字が当てられる。全国の「アワシマ神社」の総本社は和歌山市加太の淡嶋神社だ。淡島神
を祀る神社は全国に約1000社余りある。神話において日本を創造したと伝えられる少彦名命(す
くなひこなのみこと)と大己貴命(おほなむちのみこと)の祠が、加太の沖合いの友ヶ島の内の神島
(淡島)に祀られたことが始まりとされる。社伝によれば、三韓征伐の帰途、瀬戸の海上での突然の
嵐に遭遇した神功皇后が、船中で祈りを捧げたところ、

   船の苫を海に投げ、その流れのままに船を進めるように

 とのお告げにより友ヶ島に無事入港できたことを感謝し、持ち帰った三韓渡来の宝物を先述の二神
に奉納した。その数年後、神功皇后の孫である仁徳天皇が友ヶ島に狩りに来た際、その事実を聞くに
及び、島では不自由であろうと考え、社を対岸の加太に移し、現在のような社殿を建築したことが淡
嶋神社の起こりとされる。また淡島神は住吉神(海神)の妃神で、婦人病に罹ったため淡島に流され、
そこで婦人病を治す誓いを立てたとする伝承もあるが、これは淡島が住吉大社の社領となっていたこ
とによる後世の附会と考えられている。このことにより淡嶋神社は、婦人病を始めとして安産・子授
けなど女性に関するあらゆることを祈願する神社となった。但し加太淡嶋神社では少彦名命が医薬の
神であるからと説明している。また加太の地は奈良時代から、役行者による葛城修験による影響を受
け、友ケ島はその修行場である関係から淡嶋神社も修験道の聖地としての役割も果たすこととなる。
江戸時代に「淡島願人」と呼ばれる人々が、淡島明神の人形を祀った厨子を背負い、淡島明神の神徳
を説いて廻ったため、淡島神信仰が全国に広がった訳だ。
 ここの粟島神社もその一環だろうが、湧水池があったため水に関わる神として勧請したと思われる。
池は弁財天を祀って弁天池といい谷端川の水源だった。

 
梟像
 愛らしいデザインは、フランスの芸術家ローレント・マイシン氏のデザインによるもの。区の「街
の中のふくろうたち」の一環。「梟の樹を創る会」による設置(第21号)

 
二宮金次郎像
 植込みの中にある。何処かの小学校のものかなぁ・・・ 外国人が好き勝手に日本文化を壊してい
るのだが、日本人名で喋られると日本人の意見だと思ってしまう。日本に住んているのは日本人だけ
じゃなく、なりすまし外国人がすっごく多いのよ。ご要慎、ご要慎。
 


■谷端川の水源

 要町2丁目14番の粟島神社の弁天池。千川は、千川通り(流路跡)を北上し、板橋区の大山を抜
け西巣鴨の堰(千川上水公園)まで続いていた。この千川から分水し 弁天池に養水したのだが、分
水点は要町3丁目交差点のところにあった。谷端川は弁天池を流れ出ると、要町2丁目と千早2丁目
の境を南下して椎名町サンロードを通り、西武線を越えて長崎鼻を大きく迂回、西武線以北は谷端川
緑道となって北上、金井窪、池袋、西巣鴨の南端を通り、大塚駅のところを通り、白山植物園の横を
南下して文京区を流れて神田川に落ちた。この川もしばしば大荒れした川で、猫股橋の辺りでは死人
も出るような氾濫が何度もあった。嘘みたい。
 


要町2丁目の庚申塔

 要町2丁目25番1号豊島どうぶつ病院角、同病院の壁に接して立つ笠付庚申塔。宝暦十二年(1
762)年長崎村境久保の講中12人より造立。大山道の旧道沿いにある。
 


■要町三丁目児童遊園

 要町3丁目7番9号にある区立公園。


■千川駅

 要町3丁目10番にある東京メトロ有楽町線の停車場。昭和58年6月24日有楽町線の営団成増
(現地下鉄成増)~池袋間開業時に設けられ。平成20年6月14日には副都心線も開通した。ホー
ムは、有楽町線と副都心線のホームが上下に重なる二層構造。それぞれが島式1面2線で、地下2階
に有楽町線、地下3階に副都心線が発着する。副都心線のホームは有楽町線新線が開通した平成6年
12月7日には完成していたが、開業までは使用されたことがなかった。各ホームと改札階を結ぶエ
レベーターは完備。改札口は1ヶ所のみで地下1階にある。出口は1~4の4ヶ所。


■千川親水公園

 要町3丁目17番5号にある区立公園。


■千川児童遊園

 要町3丁目19番2号にある区立公園。


雑司が谷体育館

 要町3丁目47番8号にある区の施設。競技場のみだが、トレーニングルームとスタジオがある。
 


■千川小学校 
廃校

 要町3丁目54番1号にあった区立校。昭和26年千早小学校から分校して、要町3丁目39番地
(この地)に「東京都豊島区立千川小学校」として開校。同32年校歌制定。

 校歌「
何時も明るく」 作詞・勝承夫  作曲・平井康三郎
  1.何時も明るく大らかな
    此の庭 此の窓 子供の世界
    楽しい学校千川に
    伸び行く我等は若鳥小鳥
    明日の日本に飛び立つ我等
  2.智恵と力が弛みなく
    湧き出る 溢れる希望の泉
    楽しい学校千川の
    行く手は大海 果て無く進む
    広い世界を夢見る我等
  3.花の並木は通う道
    春風戦(そよ)げば仲良く開く
    楽しい学校千川は
    心を揃えてやりぬく気風
    明日の平和を受け継ぐ我等


 平成12年地方自治法改正に伴う学校教育法改正により、東京都の冠称が外され、「豊島区立千川
小学校」と改称。同14年就学児童激減のため大成小学校と統合して「さくら小学校」となった。
 


【上池袋】(かみいけぶくろ)1~4丁目             昭和45年1月1日
 梶原堀之内村飛地→元禄の頃分離独立して堀之内新田→新田堀之内村。逆転した時期も理由も不
明。明治11年「郡区町村編制法」により北豊島郡に所属。同22年「市制町村制」により巣鴨村
大字新田堀之内、別に飛地のまま原新田が大字堀之内となった。大正7年町制に移行して西巣鴨町
大字堀之内。昭和7年東京市に併合されて豊島区堀之内町。同45年新住居表示により池袋7~8
丁目と堀之内町のほぼ全部に西巣鴨2~3丁目・池袋1丁目の各一部をあわせた町域を現行の「上
池袋」とし堀之内は消滅した。僅かにJRを渡る跨線橋にその名を残している。 埼京線と山手線
の分岐と首都高の高架に囲まれた三角地帯にうまいこと清掃工場を作ってる。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『豊島区史』『豊島の歴史』など。

 上池袋の由来
 池袋駅の北は地図においては上に当たるので「上」を冠した。江戸以前は政(まつりごと)は京都
を中心に考えたので首都京都の方向が上だった。それで関西地方を上方と江戸っ子がいったのだ。
堀之内としなかったのは、杉並区堀之内が既にあり、混同を避けるためで、町会としては残したかっ
た地名だが止むを得なかった。
 


■上池袋一丁目児童遊園

 上池袋1丁目14番9号にある区立公園。


■豊成小学校

 上池袋1丁目18番24号にある区立校。昭和30年西巣鴨2丁目2536番地(現在地)に西巣
鴨小学校から分校して「東京都豊島区立豊成小学校」として開校。「とよなり」じゃないよ「ほうせ
い」と読むんだよ。意味は「豊かに成る」「豊島の教育ここに成る」ということらしいぞ。児童75
6名でスタートした。しかし校舎完成が間に合わず一部児童は西巣鴨小学校に間借りして授業。翌年
増築も含めて新校舎6教室が完成し教室不足解消。同32年普通教室3・音楽室増築。校地拡張。同
33年も校地拡張。同35年給食室改修・図書室・理科室増築。同36年トイレ水洗化。同40年校
歌制定。創立10周年記念式典。

 校歌「
豊島が丘の」 作詞・中村佐伝治  作曲・中田一次
  1.豊島が丘の空遥か
    匂う桜を翳しつつ
    文化の日本築かんと
    力の限り励みなん
    日毎に伸びよう健やかに
  2.高い理想を目指しつつ
    栴檀の実の美しく
    世界の道に続かんと
    力の限り励みなん
    明るく強く根気よく
    日々新しく成し遂げん


 同42年プール・体育館完成。同49年鉄筋校舎(普通教室18・特別教室5・給食室・校長室・
職員室)落成。プール温水化。校庭ダスト舗装。同50年創立20周年記念式典。同53年校庭スプ
リンクラー設置。同60年体育館・プール改修。創立30周年記念式典。同63年校庭サーファム舗
装。平成4年校長室・職員室・事務室・主事室改修。同5年普通教室8・図書室・音楽室・放送室・
トイレ改修。同6年普通教室4改修。同7年校舎外壁改修・屋上塗装・保健室改修。創立40周年記
念式典。同10年給食室改修。同12年地方自治法改正に伴う学校教育法改正により、東京都の冠称
が外され、「豊島区立豊成小学校」と改称。同17年耐震化工事完了。創立50周年記念式典。


■巣鴨中学校・高等学校(商業高等学校は
廃校) 

 上池袋1丁目21番1号にある私立の男子校。明治43年遠藤隆吉(東京帝大卒・文学博士・社会
学者)が私塾「巣園学舎」を設立。大正11年北豊島郡巣鴨村宮仲(現在地)に巣鴨中学校開校。同
13年巣鴨商業学校併置。昭和3年巣鴨高等商業学校併置。同16年12月日本海軍の真珠湾攻撃に
より日米開戦。同20年4月愚かなアメリカ軍の非人道的無差別空爆により校舎全焼潰滅。直ちに復
旧に従事、授業継続。8月日本はポツダム宣言を受諾、ならず者国家アメリカの軍門に降り敗戦。以
後その属国となり、唯々諾々として言い成りになる保守傀儡政権を保持せざるを得ない今日的不幸を
背負い込む。売れない国債を買わされるやら、思いやり予算やらでもう200兆円以上がとこを持っ
て行かれたよ。日本の女の子が米兵にレイプされても地位協定で国は見て見ぬ振り。これからの若い
者は、保守傀儡政権の謳う「国際協力(昔は八紘一宇といった)」の名目の下、アメリカ軍の尖兵と
して、最前線の激戦地に送り込まれることになるぜ。ったく酷えもんだ。何時までアメリカの子分で
いるんだい?
 同21年遠藤隆吉逝去。
 同24年巣鴨中学校・巣鴨高等学校・巣鴨商業高等学校に改組し、母体を学校法人巣鴨学園となる。
同31年(東京文理科大学(筑波大学)卒業 一橋大学助教授)校長就任。
 平成9年制帽着用自由化。同12年巣鴨商業高等学校の募集停止。同14年創立80周年記念式典。
堀内政三学園長に就任。後任校長には堀内不二夫副校長が就任。

 校歌「
紅塵遙かに」 作詞・沼波瓊音  作曲・山田源一郎
  1.紅塵遙かに万木緑
    天そそり立つ三層楼
    ここにし学ぶ 丈夫我等
    日本の柱 大地の光
    偉いなるかな 母校の使命
    勇め 勇め 勇め 勇め
    勇め 勇め 勇め 勇め
  2.学問労働 人たる権威
    流俗の差等 幻のみ
    我が意志磐石 我が勇火焔
    険しき修行の峯ふみさくめ
    偉いなるかな 母校の使命
    励め 励め 励め 励め
    励め 励め 励め 励め


 学園歌「
見ずや豊かに」 作詞・佐藤春夫  作曲・坂本良隆
  1.見ずや豊かに昇る日を
    我等が巣鴨学園は
    時代の闇に光あり
    集う健児ら二千人
    母校よ母校 巣鴨学園
  2.澆季の学徒 気を負える
    附和雷同に我ら似ず
    超然として只管
(ひたすら)
    折るや学びの峯の花
    母校よ母校 巣鴨学園
  3.堅忍不抜 男の子らが
    護る学びの城ぞこれ
    富貴も威武も ものかはと
    仰ぐ理想の 北斗星
    母校よ母校 巣鴨学園
 

 
大菩薩峠越え競歩大会(徹夜行脚)
 毎年5月に行われる。深夜2時から、東京の奥多摩と山梨の塩山との間に位置する大菩薩峠徒歩で
越える。全校生徒が参加するが、中学1年生にとっては入学以来初めて経験する行事。日中に歩く場
合に比べて多くの危険が伴うため、先生や卒業生がコースのいたるところで生徒の安全を見守ってい
る。天候の良い年には富士山が一望でき、その雄大さを実感することができる。また大菩薩峠には、
同名小説を書き残した小説家中里介山にちなんだ「介山荘」がある。なお1年毎に出発地点が交換さ
れる。学年ごとに踏破する距離が異なり、平成17年に実施された大会では、中学1年生20.9km、
中学2・3年生26.0km、高校1年生27km、高校2年生33.9km、高校3年生34.5km
のコースだったとか。20世紀までは、小河内ダム駐車場~塩山北中学校の42.3kmが高校生のコ
ースだったが、小河内ダム駐車場が利用できなくなったことにより、高校生のコースが短縮されたそ
うだ。

 
巣園流館山水泳学校

 毎年夏休み中に行われる。現在は中学1年生のみ必修となっており、中学2年生以上は自由参加。
古くから日本に伝わる伝統的な日本泳法の内の水府流太田派泳法を学ぶ場として現在に受け継がれて
いる。
 一重伸し、二重伸し、両輪伸し等の基本泳法から始め、上級班では各種の抜き手も習い、合宿の最
後には遠泳が行われる。遠泳では「遠洋、泳洋」の掛け声をかけながら館山湾を横切る。遠泳では両
輪伸しで泳ぐことが推奨される。これは、両手は波面のすぐ下をなでるように水平に円を描いて浮力
を得、両足は大きくゆったりと前後に開いてから勢いをつけて閉じる「挟み足」から推進力を得る泳
法である。 両手両足をシンクロさせて一かきするが、一かきするごとに数秒間全身を一直線にして
「伸し」をとる。両輪伸しでは手は水を掻かないのでつかれにくく、また「伸し」をとるたびに体を
休めることになるので遠泳向きの泳法である。なお巣園流では他の日本泳法各派同様、ほとんどの泳
法で頭を水上に出して泳ぐ。
 学生は白のさらし木綿の六尺褌を締めるが、指導にあたるOBは黒の褌を締め、泳法指導のほか最終
日の朝に行われる宿舎対抗の歌合戦の指導にも熱が入る。歌合戦は、声量と迫力に重きが置かれるた
め、毎夜の歌の指導は荒々しい。

 
蓼科学校勉強合宿
勉強合宿は毎年夏休み中に行われる。長野県蓼科支那高原にある蓼科学校にて、団体生活を学びなが
ら、普段の授業では触れることのできない分野などを学習する。中学生と新高入生1年が勉強合宿を
行う。

 創立記念森林公園マラソン
創立記念日11月25日を記念して、毎年埼玉県の国営武蔵丘陵森林公園において10Km走を行う。
全校生必修となっているが、学年によって3分ずつの時間差スタート。制限時間は、中学1年生は9
0分だが、高校3年生は75分。

 
寒稽古

 3学期の授業開始後、ほどなく行われる。剣道・柔道・駆け足(高校生のみ)の3種目から成り、
早朝、始業前から稽古が始まる。全校生徒の参加が推奨され、中1から高2までの参加率は90%以
上、高3も2割の生徒が参加する。生徒の通学域の拡大や実質全校参加である事情を鑑み、実施期間
はかつてより負担が軽くなり、現在、期間は6日間。最終日には納会が行われ、豚汁が配られる。
 


■上池袋中央公園

 上池袋1丁目28番7号にある区立公園。


■上池袋一丁目ゆったり広場児童遊園

 上池袋1丁目29番11号にある区立公園。


■真宗大学跡

 上池袋1丁目32番10号、癌研病院の南のJR東日本大塚寮・大塚住宅のところ、現在は建て替
えてドルミエール大塚のところだ。これは浄土真宗大谷派の学寮を引き継ぐもので、真宗大学となっ
たのは明治29年京都だった。ここに移ってきたのは同34年、10年後の同44年には再び京都へ
引っ越していった。現在の大谷大学がそれだ。
 


■宮仲公園

 上池袋1丁目36番1号、大塚駅から北西に伸びる都道436号線の北大塚3丁目交差点前に「宮
仲公園」がある。公園とはいうものの石碑の他は目立った遊具もなく、木々が植わってなかったら単
なる空地の三角地。元は渋沢栄一の邸宅の一部。

   宮仲公園の由来
   昭和13年11月東京市豊島区西巣鴨2丁目1570番地居住の澁澤正雄氏は、この地2
   00余坪を東京市に寄付せらる。依て市は此の地に児童遊園地として宮仲公園を解説す。
   茲に由来を記し後世に伝ふ。
   昭和16年12月                             東京市

 皇后陛下御歌の碑
 公園内にある巨大な碑。戦時中に皇后陛下(香淳皇后)が近くまで防空訓練を視察に来て歌を詠ん
だとか。碑の字は万葉仮名というか漢字、達筆で読めない。傍らに説明板がある。


   「皇后宮御歌」の碑
   なぐさめむ ことのはもがなたたかひの にはをしのひてすぐすやからを

   (訳)慰める言葉もありません。戦場を偲んで過ごしている人々を
   昭和18年5月19日に豊島区2丁目2601番地豊島授産場付近で隣組の防空訓練が行
   われ、皇后が視察して歌を詠んだ。これを記念して町会長が宮仲公園に皇后の歌碑を建て
   たという。


 
大谷大學開學の碑
 公園の中に建っている。浄土真宗大谷派の教育機関は古くから京都にあったが、明治34年この地
に「真宗大学」が開設された。その後大正2年に「高倉大学寮」と合併して京都に移転、名称も「真
宗大谷大学」を経て「大谷大学」となった。

   大谷大學開學の碑
   (裏面)
   大谷大学 東京巣鴨開学の地
   明治34年10月13日大谷大学の前身である真宗大学が、清沢満之を初代学長として、
   当時巣鴨宮仲といわれていたこの地に開校された。大学はその後京都に移るが、大谷大学
   の近代の黎明はまさに この地に告げられたのである。
   平成12年10月13日                         大谷大学
 


■巣鴨家庭学校跡

 上池袋1丁目37番1号、癌研究会付属病院のところにあった。明治32年巣鴨監獄教誨師留岡幸
助によって創立された非行少年の教育施設。昭和10年杉並区に移転した。現在は大正13年に設立
に設立した分校の北海道家庭学校が奮闘している。杉並区に移転後の家庭学校のその後は判らない。
おそらく北海道家庭学校に吸収されたものと思う。


■帝国小学校跡

 上池袋1丁目37番1号、同じ癌研付属病院のところ、家庭学校の北側にあった。西山哲治によっ
て明治45年に西巣鴨町大字巣鴨字宮下に創立され、大正13年校地が三業地(花街)に指定された
ため、ここに移ってきた。そして昭和15年までここにあったが、西巣鴨1丁目11番の西松建設巣
鴨寮のところに再移転し、同20年3月廃校となった。


■堀之内橋

 上池袋2丁目1番、1・2丁目と東池袋3丁目の接点に架かる跨線橋だ。この辺りは新田堀之内村
という小さな農村だったが、明治に入ると鉄道建設が進行していった。同18年に山手線が品川~赤
羽間、同36年には池袋~田端間が開通。昭和には明治通りの整備も始まり、山手線を跨ぐために架
けられた陸橋は、地名にちなんで「堀之内橋」と命名された。

   堀之内橋
   江戸時代の頃、この橋のあたりは新田堀之内村という畑作中心の小さな農村でした。明治
   に入ると巣鴨村に編入され、文明開化の波が押し寄せるに連れ、新しい交通機関として鉄
   道の建設が進みました。明治18年に山手線が品川~赤羽間、明治36年に、池袋~田端
   間が開通し、村も大きく様変わりを始めました。
   大正7年に町制の施行により西巣鴨町となり、「大字新田堀之内」は「堀の内」と改称さ
   れました。大正12年の関東大震災以後、多くの人が移り住み、急速に市街化が進んだの
   もこの頃です。
   昭和を迎えるとすぐに明治通りの整備が始まり、山手線を跨ぐために架けられた橋が地名
   に因んで「堀之内橋」と命名されました。昭和7年10月1日東京市域拡張により豊島区
   が誕生し、この地域が「堀ノ内町」となりました。
   その後「堀之内町」の地名はなくなり、現在「堀之内」は、橋や踏切の名として、僅かに
   残っているだけとなっています。
   平成13年3月                              豊島区


■池袋マンモスプール 解体

 上池袋2丁目5番1号の清掃工場のところに、昭和35年から平成5年まであった娯楽施設。冬は
スケート場(池袋スケートセンター)に変わり、ボウリング場なども併設していた。
 


■豊島清掃工場

 上池袋2丁目5番1号にある。池袋マンモスプールの跡地に、平成7年9月に着工して、同11年
6月に竣工した。煙突は非常に高く、現在日本一の高さ約210mある。一日に約400tのゴミを
処理。

 爆発事故
 同19年9月20日焼却炉の炉内圧力が急上昇したために緊急停止装置が作動し、運転が停止した。
工場内の各種データから工場外部への影響はなかった。炉の焼却熱をボイラーに伝えるための「水管」
が何らかの理由で破損し、そこから噴出した水が一気に気化して水蒸気爆発を起こしたことのようだ。
怪我人などが出なかったのは不幸中の幸いだった。
 


■池袋大橋

 上池袋2丁目6番に架かる橋。池袋に川があるか?ってか。これは川の橋じゃなくて跨線橋、オー
バーブリッジだ。東池袋1丁目49番から池袋1丁目4番へ渡されている池袋駅北部の東西を結ぶ生
活橋だ。映画やテレビドラマで頻繁に撮影や収録が行われている。もう既に50作品を越えるらしい。
橋の上からは巨大ターミナル池袋が一望に見渡せ、見上げれば清掃工場の煙突が聳え立っている。

 
側道橋
 大橋に歩道はついているが、別に歩行者専用の跨線橋が架けられた。正式名称「池袋人道パークブ
リッヂ」という。
 


■鮎のてんぷら最中の「梅花亭」
 上池袋2丁目14番13にある和菓子司。昭和10年の創業以来「安心、安全、観て楽しく、食べて
おいしい」を心がけて和菓子作りに励んでいる。国産の安心して食べられる自然食材を、無添加にこ
だわり、心を込めた手仕事で季節感あふれる和菓子に仕上げている。一つ一つ手作りで大量生産はせ
ず、保存料なども使わないため日持ちはしない。しかしこれがおいしさの秘訣だと心得ているとか。

 
鮎のてんぷら最中
 
鮎の形の最中皮を国産の菜種油と米油でさっと軽く揚げ、鮎は別名「香魚」とも呼ばれ、最中を揚
げることでまさに香ばしい香を実現。北海道小豆を使用した自家製の黒餡と、手芒と大福豆の白餡の
二色がある。餡を詰めてから約10時間ほど寝かせてしっとりさせてから販売している。


 
浮き雲
 空にぽっかりと浮かぶ雲をあらわした焼菓子。卵白泡立てたメレンゲをオーブンで焼き上げ、中に
小倉餡をサンドしてある。「ふわっと、サクっと!」今までにない食感で美味しいと人気の商品だ。
間に小豆の小倉餡を挟んでである。


■上池袋二丁目児童遊園

 上池袋2丁目23番10号にある区立公園。


■西巣鴨第七尋常小学校 
廃校
 上池袋2丁目25番3号の区営上池袋二丁目アパート・上池袋公園のところにあった。昭和5年西
巣鴨町大字堀之内字南53番地(当時)に、時習尋常高等小学校、西巣鴨第一・第二・第六尋常小学
校から児童を移して「東京府北豊島郡西巣鴨第七尋常小学校」として開校。

 校歌「
大東京の」 作詞・伝田次郎(治郎)  作曲・福井直秋
  1.大東京の北部に栄ゆる
    我が西巣鴨の空高くも
    聳えて建てる学び舎に
    学ぶは嬉し友どちと
  2.尊く仰ぐ富士の高嶺の
    正しく清けき其の姿を
    心と成して明け暮れに
    学ぶは嬉し友どちと
  3.規律を守り礼儀正しく
    長上
(めうえ)を敬い親切尽くし
    互いに励み晴れやかに
    学ぶは嬉し友どちと


 同7年北豊島郡の東京市編入により「東京府東京市西巣鴨第七尋常小学校」と改称。 同21年戦
災による校舎焼失と児童激減により「池袋第一国民学校」に吸収され廃校。


■上池袋公園

 上池袋1丁目25番9号にある区立公園。

 
梟像 ✓
 宮沢賢治生誕の地である岩手県花巻市から寄贈された。像には宮沢賢治の詩が刻まれている。


■富士見橋

 上池袋2丁目28番から池袋1丁目13番、川越街道が山手線、JR埼京線、東武東上線がと交わ
るところに架かる跨線橋。六つ股の交差点から急に競り上がり、東上線を跨いだところで急に下がっ
ていく。橋が架かった頃は遮るものが何もなく富士山が楽々と見えたのでその名がある。「六つ股」は
サンシャインに向かう道路が新設された昭和30年以降の呼称で、それまでは長く「五つ又」または
「五差路」と呼んでいた。川越街道の起点が板橋平尾宿から池袋六つ又になったのは昭和35年から
だ。池袋と大山間は新道という訳だ。国道254線を川越街道と呼ぶが、正しくはその1部に過ぎな
い。「ニーゴーヨン」は文京区から長野県佐久市まで、その内、川越街道は豊島区から埼玉県川越市
までだ。


■子安稲荷神社

 上池袋2丁目38番10号、池袋六股交差点から明治通りの堀之内橋を渡って150mほど行った
上池袋1丁目バス停手前の路地を入った突き当たりにある。新田堀之内村の鎮守。開創は不明だが、
「由緒」によると天正以前にはあったという。この記録はアメリカ軍の空爆で燃やされてしまったが
宝永五年(1708)の創祀という『西巣鴨町史』の説は誤りのようだ。
 境内に猿田彦神社、社殿再興記念碑、参道開設記念碑がある。

 堀之内町旧町名継承碑
 境内にある黒御影石の角柱。

   昭和7年~昭和44年の町名 17世紀中頃王子の梶原堀之内より分郷したのでその名が
   ついたといわれます 主として現在の上池袋2、3丁目の区域です
   平成2年3月設置                          東京都豊島区


■上池袋さくら公園

 上池袋2丁目45番15号にある区立公園。区立上池袋図書館に隣接する公園で、ソメイヨシノを
はじめ多種の桜が植えられている。丸い円形広場や、アスレチック遊具やキャッチボールなどが楽し
める原っぱもある。大きなシマサルスベリの木の下には、木製テーブル&ベンチもあるので、散歩の
途中など木陰で一休みするのもいいぞ。

 
梟像
 宮沢賢治生誕の地である岩手県花巻市より寄贈された。像には宮沢賢治の詩が刻まれている。第2
2号。


■堀の内公園

 上池袋3丁目7番4号にある区立公園。


最上稲荷関東別院妙経寺

 上池袋3丁目8番5号にある日蓮宗の寺。岡山にある日本三大稲荷の1つ最上稲荷の関東別院で、
大正8年に創建された。境内には屋敷神の社が十数基並んでいる。「豊島の寺院」に、

   正元年創立、同8年現在地へ最上教会認可。昭和10年最上稲荷関東別院。同30年最上
   山妙経寺寺号公称。当山は岡山市高松の最上稲荷総本山の関東別院で、日蓮宗に属してい
   るが、主として最上稲荷を中心として布教活動をしている。最上稲荷は昔より伏見・豊川
   と並び日本の三大稲荷の一つとして崇められ家業繁昌、開運招福、諸願成就の守護神とし
   て宗旨宗派に関係なく信仰されている。


 とある。


■上池袋三丁目児童遊園

 上池袋3丁目39番11号にある区立公園。


■お茶あがれ地蔵
 上池袋3丁目47番6号の上池袋交番のところにある。由来は、この辺りの三軒しか農家がないの
で「三家」というところの百姓勘右衛門が、恋人の板橋の飯盛り女おせんの身請けの金の工面のため
に旅立って帰らず、おせんは待つ内に肺結核に罹り、楼で厄介者扱いされ、それで楼を抜け、勘右衛
門の家に向かう途中、行き倒れて死んでしまった。冬のこととて人も通らず遺骸は発見されぬまま朽
ちていった。春となり人が通うようになったある夜、そこを通った旅人がおせんの亡霊に「お茶あが
れー」と迫られて仰天、卒倒してしまった。翌朝村人に助けられた旅人が、女の幽霊に出会った話を
すると、その後も同じように女の幽霊に出会う旅人が何人も出るようになった。そこで村人がその幽
霊の出る場所を調べてみると、果たして髑髏があったので、板橋の飯盛り女が逃げて行き倒れたのだ
ろうということで、遺骨をそこに埋め、庚申供養塔を建て、重林寺の僧を呼んで法要をし、手厚く葬
ってやると、それ以来幽霊は現れれなくなった。奇しくもこの供養塔を守ることになったのは勘右衛
門家の者だが、勘右衛門は旅に出たきり二度と戻らなかった。彼もまたどこかで客死したのだろう。
 池袋の項に書いたが、池袋村というところは閉鎖性が強く、理由は判らないが外界との交渉を出来
るだけ持たないようにしていたのだそうだ。それで通婚圏が狭く、なかなか嫁の来手がなかったので、
村娘が外の人間と結婚することを極端に嫌うということがあった。そんな風習というか、仕来りとい
うか、それが生んだ悲劇だった。おせんが今の池袋の女子高生を見たらどんなにか悔しがるだろうか
ね。もう女子高生が乱交平気の時代だよ。ペニシリンを発見した奴は悪魔だね。

 別の話がある。
 昭和35年に北村正治が著した『悲恋の伝説池袋のお茶あがれ地蔵』によると、武蔵国豊島郡の池
袋は、長崎村から巣鴨新田へ通う途中にあり、かつては雑木林の小高い台地と沼沢地(池袋)で、谷
端川の両岸に僅かに水田が開かれていた。この谷端川も昔は所々に沼や池があり、実に「池の袋」の
様相を呈していた。この地の住民は、高田方面から移ったと思はれる荒井・恩田・深野・岸野氏など
がその主流をなして定着し、今もその子孫が現住している。鎌倉時代からこの辺は交通の要路となり
谷端川に鎌倉橋の名も生まれた。現在谷端川は暗渠となり、この橋は取り除かれたが、戦前までは鎌
倉橋交番が置かれその名が伝えられていた。
 江戸時代も中頃になると、益々交通も盛んになり、諸国の風が入る様になり、またこの地の人も、
物資交流の必要などから屡々他国へ旅することがあった。享保の頃、この里の若者弥左衛門も、時々
信州から越後路や上方へも旅したが、その内に定宿とする所も出来、或は懇ろにしてくれる者もある
ようになって、そこでは弥左衛門の来るのを待っていた。その内の一人が越後の宿の美女おこうだっ
た。弥左衛門は、越後に旅した時、帰りに、このおこうを伴ってきた。
 おこうは、弥左衛門に「どうか武蔵の国へお連れください。どんな苦労も厭いません、あなたのお
側で末永く働かせて頂きます」と懇願した。はじめは弥左衛門も、お愛想と思い本当にはしなかった
し、その頃の慣わしからすれば、総てが風習の違う他国の人を村に入れることは、家人や村の人々の
謗りもあり、これらを考えない訳ではないが、熱心なおこうの願いと情にほだされて、心を動かされ
てしままったのだ。
 こうして、おこうは、喜び勇んで故郷を立ち、

   途は程なく信濃路の、志賀や野尻を後にして、人は何とも飯綱山、右に拝むは善光寺、二
   世安楽を祈念して、川中島の古戦場、渦巻き返えす犀川や、千曲の川瀬波白く、蕎麦の花
   咲く更級に、月の名所は姥捨の、昔語りも今は唯、身の行く末も白雲の、浅間の獄に立つ
   煙、燃ゆる思いを抱きつつ、小諸追分過ぎゆけば、馬子の唄声おもしろく、駒の歩みも軽
   井沢、碓氷の嶺をはや越えて、裾を流れる谷川は、この世の塚の碓井川、岩に堰かるる白
   波の、割れても末に逢はんとぞ、かすむ妙義や赤城山、あなたとこなたを眺めつつ、旅を
   重ねて中仙道、親しい中も深谷宿、並木の松を見返りつ、しばし歩めば熊谷の、土手の桜
   の影見えて、旅の疲れも荒川を越せば嬉しい豊島郷、昨日を今日と飛鳥山、王子巣鴨のこ
   なたなる、さてしも池袋の里に来たりけれ。


 弥左衛門は、これ程に覚悟して慕ってくれるおこうと将来を暮せようとは、至上の喜びだった。家
人や村の人々の非難や謗りも、今はものかわ、おこうと共に熱心に家業に励み、これ迄以上に精出し
て働く様になった。おこうは体格がよく、その容姿は人並以上に優れ、栲綱の白きただむき(前腕)
淡雪の、若やる肌の美しく、沼河姫もかくばかり、気立て優しいめにしあれば、連れ添う弥左衛門に
真心から仕えるばかりでなく、家人や村の人々にも心優しく行き届き、野良の仕事もまめまめしく、
たえて弛まぬ働きぶりは、忽ち村中の評判となり、今は幸せに、弥左衛門と睦まじくその日を送るこ
とになったが、そんな幸せは長くは続かなかった。どうしたことか、おこうは体を壊し、つい野良の
仕事も休みがちとなり、さて思はずも永引けば、弥左衛門や家人の世話になることが、日増しに多く
なり、おこうもそれを辛く思うばかり、無論弥左衛門も心を痛め、名医や名薬と凡る手を尽くしたが
病は益々重くなるばかり、それ故さしも優れた容姿も、疾み疲れ、また美しい顔も病のためにすっか
り醜くなってしまった。ただ仮初と思いの外、さてそうなると弥左衛門も家の人々も、実におこうの
病気には何とも今は困惑し、その病気に対する困惑が、遂にはおこうに対する困惑となっていった。
弥左衛門としては、おこうの心情を想うと、少しも疎んずる気にはなれないのだが、家人や村人に何
かとすまない気持ちとなり、明け暮れおこうの枕辺に、悩み疲れたその末は、思案の胸も一杯になっ
て、分別を保つ勇気は挫け、とうとう気の弱い弥左衛門は、愛しいおこうをそのままに、一人その身
は旅の空、心の宛もなくなくに、雲を霞と逃げ水の、行方知れずなってしまった。
 この弥左衛門の家出に、家人は無論当惑し、おこうは更に悲しんだ。それでも、おこうは弥左衛門
を決して恨まなかった。恨まないばかりでなく、こんな病魔から逃れてくれて良かったとさえ、心の
裡に思うのだった。

   会者は定離は浮世の習い、かく聞くものを、ましてやこの身の患いに、多くの苦労をかけ
   てます。総て我が身の不幸、予想だにせぬ悲みは、何故この世に起るのか、病魔はせめて
   は、私だけでなくさねばならない、やがて我が身は死滅する、それだけでも病魔をこの世
   から退治することになる。


 健気にもおこうはこのように悟り、心強くも病苦を我身一つに忍び耐えたのだった。願わくば、世
の人々のこの様な苦難から救はれます様に、と、ここに諦観したおこうは、村の外れ、涯下の畦つぽ
(方言)に小屋を結び、一人寂しく病躯を横たえ、

   落ちて流るる谷端川の沢辺にすだく虫の声、道ゆく旅の人影にも、もしや想いは弥左衛門
   いづれいかにと白雪の、積もる思いは故郷や、辿る浮世の山坂の、過ぎこし方を夢見つつ
   散るや波間に紅葉葉の、沈む夕日の武蔵野に、たれ笧のたよりなく、哀れ虚しく消えて行
   く。


 いうまでもなく、おこうは、この台地の小屋のところに葬られた。それからというものは、この寂
しい塚の辺から、道ゆく村の人々に「お茶を賜へ」という声が聞こえる様になった。生前お茶を好ん
だおこうの霊だと噂が立ち、お茶を供養すると、おこうの霊はにっこりほほゑんで、地蔵尊の温顔に
見えたという。こんなことから、村の人々が寄り寄り相談して、おこうの家に、ささやかな地蔵尊を
立て、お茶を供えて祀り、誰いうとなく「お茶あがれ地蔵」と呼ぶようになった。

 このお茶あがれ地蔵の塚のあった所は、池袋5丁目42~45番の辺に当り、旧畑道を30間程入っ
た台地にかかるところで、旧家の内墓のあった傍だ。後にこの地蔵は行方不明となり、庚申供養塔だ
けが残っていた。世は変り時移って、昭和12年の区画整理、道路拡張工事のコースとなり、豊島区
が金30円の移転費を計上して撤去を求めたので、時の天野町会長はそれを受けた。しかし適当な移
転場所が見つからないので取っ払ってしまおうということになり、土木工事が進む中、愈々これを埋
めるばかりになったその時、古老の話を纏めると以下のようだ。
 崖を切り崩す時、5、6人の作業員が、段々塚に向って掘り進んでゆくと、塚の土が、ガサッと大
きく崩れ落ちた。「それ出たッ!」と、作業員たちはみな驚いて逃げ、やがて、恐る恐る振り返ると
横穴が・・・ 監督も人夫も、怖くなって、現場をそのままにして逃げ、翌日からは誰も出て来なく
なった。そうこうする内、工事監督の夢枕に、瞭かに地蔵の尊霊が現れて「吾は衆生の災難を除き病
苦を救はん。お茶を供えよ」といったという。そこで人々は、横穴を埋めることを止め、関係者が集
まって協議し、その結果隣家の荒井安久太郎の発意で、とにかく地蔵尊を鄭重に祀って工事を進め、
古い塔は、同氏の所有する町角の一画に移すこととし、地蔵尊に近隣の石工の保存していた温容を乞
い請け、塔と共に祀ったという。それ以来香華また絶ゆることなく、病苦災難消除の祈願所となった。
供養は、町会の奉仕により毎月、池袋四丁目の明王山重林寺の住職に依って勤修されている。
 この伝説について、塚のところの地主に聞いてこみると、

   あれは、みんな人々が騒ぎ過ぎるので、伝説や風説が益々大きく広がったのだが、以前は
   そんなに騒いではいなかった。細い笠付きの供養塔は、内墓の辺に元から在り、その傍に
   確か芋穴があった所で、後に草などで埋まっていたようにも思う。伝説や風説はどこまで
   が本当のことか私にはよく判らない


 といったとか。これによってみても、「以前はそんなに騒ぎませんでした」というからには、全く
話の種が無かったというのではないようだ。ただ同家では、なるべくなら肯定的ではないということ
なのだ。しかし、その他の古老や、附近の人達は、ほとんど肯定派であって、実にこの伝説に同情を
寄せている。そこに意味深いものを感ぜざるを得ない。笠付きの塔は、

 庚申供養塔(宝永の庚申塔)

   種子大日如来 奉供養庚申石塔息祈所 宝永元甲申五月吉祥日け(巾四寸五分・高サニ尺
   五寸程)


 ささやかなもので、これによりこの処は、瞭かに、祭の庭・供養の場であったことを示している。
恐らく、初めに先づ、地蔵の信仰が生れ、次に庚申供養塔が加えられ、祭祀の場所とされていたこと
が窺える。要するに、豊島区が、移転料まで計上しているのだから、古い塚や塔があったことは確か
であり、工事中に、それ出た といって人夫が逃げたいうことは、おそらく既に古くからここに同情
を禁じ得ない悲話の母体があって、それを前提として、その史実の全部をは肯定しないまでも、何程
かはみなこの地方の人々が、日常予知していたことの心理的な顕はれであったと推考できる。そうで
あればこそ、工事関係者の夢枕にも立ったのではなかろうか。この地方の人々や、旧家の間に於いて
は、誠に同情を以てこの話を肯定している。ただ弥左衛門の関係と思はれる家筋の人だけが、極めて
否定的であることは、却って然こそと思わせる。そこで、この史実の、どこまでが真実であるかは姑
く置くとして、今、お茶あがれ地蔵尊が、現に祀られている事実に対し、特に、この話を取り上げた
とりあげたのだ。俚俗巷間の口碑伝説もまた一概に捨てる訳にはゆかないのだ。ましてや風説をや。
地元の古老、荒井安久太郎氏は、この伝説の薄命孤独のおこうに同情し、その霊を慰めるため、古い
昔の悲恋を考慮し、更に石の地蔵一体を刻み、おこうの地蔵尊に添えた。それは、昭和12年秋のこ
と。南無大慈大悲の地蔵尊一唱一礼生功徳。この様にして、悲恋の伝説おこうを祀るお茶あがれ地蔵
尊は、放射能の塵界に香煙細く立ち昇るところ、この池袋の路辺に立ち、移り行く人の世の流れを、
またいつまでも、見守っている。吾は衆生の災難を除き病苦を救はんと。

   宝永の庚申塔とお茶あがれ地蔵             上池袋3‐47‐3
   庚申信仰は、60年に1度おとずれる庚申の日に講を開いて延命息災を祈るもので、江戸
   時代から庶民の間で行われるようになった。
   豊島区内の庚申塔は、現在47基確認されているが、そのうち36基がもとから豊島区内
   に祀られていたもので、この庚申塔もそのうちの1つである。
   宝永元年(1704)に建てられたこの庚申塔は、方形の石柱の頭部に笠を置く簡素な造
   りで、正面に「一字金輪」をあらわす梵字と、「奉供養庚申石塔息災祈所」という文字が
   刻まれている。平成元年に豊島区有形文化財に登録された。
   庚申塔と同じ堂内にある地蔵は、「お茶あがれ地蔵」と呼ばれ、江戸時代に結婚を阻まれ
   病死した女性の供養のために建立されたといわれている。現在も地域の人々により、大切
   に守られている。
   平成22年10月                        豊島区教育委員会


■上池袋四丁目児童遊園

 上池袋4丁目7番2号にある区立公園。


■池袋第一小学校

 上池袋4丁目28番1号にある区立校。昭和11年西巣鴨第一・第六・第七の3尋常小学校から分
校し、池袋8丁目2302番地の現在地に「東京府東京市池袋第一尋常小学校」として開校。
 同16年勅令148号国民学校令により「東京府東京市池袋第一国民学校」と改称。12月日本海
軍の真珠湾攻撃により日米開戦。同18年都制施行により「東京都池袋第一国民学校」と改称。同2
0年4月愚かなアメリカ軍の非人道的無差別の東京西部大空襲のへなちょこ弾を躱し無事焼け残る。
8月日本はポツダム宣言を受諾、ならず者国家アメリカの軍門に降り敗戦。以後その属国となり、唯々
諾々として言い成りになる保守傀儡政権を保持せざるを得ない今日的不幸を背負い込む。売れない国
債を買わされるやら、思いやり予算やらでもう200兆円以上がとこを持って行かれたよ。日本娘が
レイプされても地位協定で泣き寝入り、これからの若い者は、保守傀儡政権の謳う「国際協力(昔は
八紘一宇といった)」の名目の下、アメリカ軍の尖兵として、最前線の激戦地に送り込まれることに
なるぜ。ったく酷えもんだ。何時までアメリカの子分でいるんだい?
 同22年アメリカの強制による学制改革(学校教育法施行)により「東京都豊島区立池袋第一小学
校」と改称。同32年校歌制定。

 校歌「
豊島が丘の」 作詞・大木惇夫  作曲・山田耕作
  1.豊島が丘の曙に
    緑の芽生え慈しむ
    我が学び舎の楽しさよ
    光りあり 光りあり ああ我等
    互いに励み勤しみて
    働くことを喜ばん
    心豊かに身も健やかに
    明るく直く慎ましく
  2.柏の葉にもペン添えし
    徽章を日毎に戴いて
    我が行く道の嬉しさよ
    誇りあり 誇りあり ああ我等
    自ら進み貫きて
    正しきことを行わん
    心豊かに身も健やかに
    明るく直く逞しく
  3.桜の若木生い立ちて
    青空の下 花開く
    我が友どちの床しさよ
    望みあり 望みあり ああ我等
    互いに睦みて親しみて
    世の為になる人たらん
    心豊かに身も健やかに
    明るく直く麗しく

 平成12年地方自治法改正に伴う学校教育法改正により、東京都の冠称が外され、「豊島区立豊成
小学校」と改称。


■北池袋(仮児童遊園)

 上池袋4丁目29番7号にある区立公園。


■ひばりがや広場児童遊園

 上池袋4丁目31番29号にある区立公園。


■上池袋四丁目第二児童遊園

 上池袋4丁目29番7号にある区立公園。


【北大塚】(きたおおつか)1~3丁目                昭和44年4月1日
 巣鴨村。昭和44年巣鴨6丁目の全部・西巣鴨2~3丁目・巣鴨5・7丁目の各一部をあわせた
町域を現行の「北大塚」とした。
 最後まで残っている都電荒川線(旧王子電車)が南北に貫く。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『豊島区史』『豊島の歴史』など。

 
北大塚の由来
 文京区大塚とは関係がなくJR大塚駅の北側の地域の意。


■菅原神社

 北大塚1丁目7番3号にある子安天満宮。江戸時代の巣鴨町の名主で保坂徳右衛門の祖先が天文年
間(1532~55)谷端川のほとりに居を構え、巣鴨村の草分となった。その際東方の高台に屋敷
神として菅原道真を勧請した。この神社一帯を天神山といったのは、この神社があるためで、十文字
学園のところは、明治時代に入って天神山牧場のあったところなのだ。乳くせぇ!

   菅原神社
   御祭神 菅原道真公 平安朝宇多天皇時代の人 政治家、学者そして歌人
   鎮 座 室町時代 天文年間(1532~1555)
   大 祭 毎年5月25日
   由緒
   室町時代天文年間に巣鴨保坂氏の祖先、仁平三河守盛義(新編武蔵風土記稿巣鴨村の項参
   照)が三河の国から(一説には京都から)この巣鴨の地に来て、当神社の西方低地谷端川
   の畔に陣屋と称する家屋敷を構え、巣鴨村立始の住人となって(駒込圓勝寺の墓石参照)
   土地の開墾に勤め、同時に屋敷の東西南北の小高い所に神々を祭って屋敷神とした。北は
   氷川神社(北大塚1丁目38番地8号の辺り)、南は熊野神社(南大塚2丁目39番5号
   の辺り、現在は天祖神社内に移る)、西は稲荷神社(北大塚1丁目15番5号の辺り、又
   は同2丁目33番の辺り)、そして東に勧請したものが菅原道真公を祭るこの神社であり
   最も広く、明治時代は坂の下の道迄1120坪の境内地を擁した。盛義は元亀二年(15
   71)に没し、その子は武士をやめて姓を保坂と改め、代々徳右衛門と名乗るようになり
   やがて江戸に徳川幕府が開かれ、中山道の往来が繁くなるにつれ、陣屋を捨てて中仙道筋
   に移り、永く増上寺領巣鴨村の名主を勤めた。保坂氏の子孫は絶えることなく、当神社へ
   の奉仕を続けて今日に至っている。尚、この辺一帯の土地を天神山と唱えるのは、この御
   宮に由来するものであり、社号に子安の二字を冠するのは子育ての意味である。当神社は
   江戸時代の「江戸惣鹿子名所大全」「須原屋版分間大絵図」等にも登載され、「江戸名所
   図会」の巣鴨真性寺の遠景にも描かれている。
   平成16年5月                             菅原神社


■十文字中学校・高等学校
 北大塚1丁目10番33号にある私立校。大正11年「文華高等女学校」開校。昭和10年設立者
十文字こと校長に就任。同12年「十文字高等女学校」と改称。
 同22年戦勝国アメリカの強制による学制改革により低学年を「十文字中学校」に組織替え、同2
3年高学年を「十文字高等学校」に組織替えし、「十文字中学校・高等学校」とする。昭和48年高
校において三学年選択授業開始。同53年中学校において数英の少人数授業開始。同54年海外語学
研修プログラム(アメリカ)開始。同55年コンピュータシステム導入。同56年高校到達度別クラ
ス・特待生制度発足。同59年新校舎落成。
 平成2年中学校において国語の少人数授業開始。 同11年中学校においても語学研修プログラム
(アメリカ)開始。同15年学園創立80周年記念式典。生徒は東京・埼玉在住の生徒が殆んどで、
千葉・茨城・神奈川からの通学生もいる。
 中高一貫教育ではない。中学校の定員は1学年250名、高校は350名、実数はそれより10名
程度多い。上クラスの女子校。

 校歌
   身をきたへ 心きたえて 世の中に たちてかひある 人と生きなむ

 自彊術体操(じきょうじゅつたいそう)
 学園創立以来、朝礼と共に続けられている自彊術体操。「自彊」とは、「自らを強く鍛える」とい
う意味だ。「社会で役立つ人間になるためには心だけでなく身体も鍛えなければならない」という創
立者十文字ことの理念に基づいて始められた。本校には「自彊不息」(じきょうやまず。常に自分を
鍛え続けるという意味)というスローガンがあるが、この言葉の通り、毎朝継続的に行われる体操は、
十文字生の健全な心身を養ってくれる大切な伝統なのだそうだ。

 制服
 中高共、制服は同じ清楚で落ち着いたセーラー服で、中学生は左胸に「五三の桐」の校章の他、「中」
のバッチを付けて区別する。また別にセーター、カーディガン、コートの着用が定められている。


■傷兵院跡

 北大塚1丁目12番10号、旧府中藩松平播磨守(宍戸子爵邸)屋敷跡(巣鴨公園)にあった戦傷
病兵の治療施設。廃兵とは、これほど無礼な言い方だが、戦闘に従事して傷を受けたり疾病に罹り兵
役を免じられた軍人兵隊をいい、日露戦争後の多数の戦傷病兵に対し、明治38年山縣有朋が「廃兵
院設立に関する意見書」を提出。対応を迫られた明治政府は、翌39年4月7日「廃兵院法」を公布
し、傷病兵を国費で終生扶養することにした。初めは東京予備院渋谷分院の一部を廃兵院としたが、
同40年2月1日には東京府豊多摩郡渋谷村大字下渋谷第二御料地内に移転同41年に6月1日東
京府北豊島郡巣鴨町、現在の巣鴨公園に移転した。大正11年陸軍省から内務省に移管。昭和9年傷
兵院法により「傷兵院」と改称。同11年神奈川県足柄下郡大窪村大字風祭(小田原市風祭)に移転
していった。第二次大戦後ポツダム緊急勅令により廃止。巣鴨公園内に「傷兵院舊址の碑」が建って
いる。戦後は国立病院・療養所へ引き継がれ、現在は国立病院機構の施設となっている。

   廃兵院法
   抑も本法は、陸海軍人にして戦争又は公務の為めに傷痍を受け或は疾病に罹りて不具とな
   りたる者に対し、国家は恩給を支給する外に、然かも此功勲ある者を充分に待遇保護する
   結果として、廃兵院を設けて以上の軍人を茲に収容し、以て扶養ふの必要上起りたるもの
   なり。其組織及び入退院手続は、以下説得する所に依って了解すべし。
   第一條
   戦闘の為傷痍を受け軍人恩給法に依り増加恩給を受くる者にして救護を要するものは命令
   の定むる所にて依て廃兵院に収容す、廃兵院に収容したる者は国費を以て終身之を扶養す
   第二條
   公務の為傷痍を受け又は疾病に罹り軍人恩給法に依り増加恩給を受くる者にして救護を要
   するものは特に廃兵院に収容することを得
   第三條
   廃兵院に収容したる者には其の間恩給の支給を停止す
   第四條
   廃兵院に収容したる者左の事項の一に該当するときは退院を命ず
    一 軍人恩給法に依り恩給を剥奪せられ又は停止せられたるとき
    ニ 救護を要せざるに至りたるとき
    三 屡懲罰に処せられ改悛の見込なきとき
   第五條
   廃兵院に収容したる者にして退院を命ぜられ又は自己の便宜に依り退院したる者は退院の
   日より二箇年を経過するに非ざれば再び廃兵院に収容することを得ず、但し特別の事由あ
   るものは此の限に在らず
   第六條
   廃兵院に収容したる者は其の犯罪及審判に関しては服役を免ぜられたる、当時の官等級に
   応じ現役陸軍軍人と看做す
   第七條
   廃兵院に於て寄附を受けたる不動産、金銭及有価証券は廃兵院基金と為し其の利子其の他
   の果実と共に之を蓄積す
   第八條
   廃兵院基金の利子其の他の果実は廃兵院に収容したる者に係る費用にのみ、之を使用する
   ことを得
   第九條
   廃兵院基金及其の利子其の他の果実の収支に係る検査は会計検査院法第十六條に依る
 


■巣鴨公園

 北大塚1丁目12番10号の廃兵院跡にある区立公園。この公園は上下二段に分かれ、上段には、
かつてこの公園が元陸軍の傷病兵の療養施設「廃兵院」であることを偲ばせる石碑があり、緑の多い
落ち着いた場所になっている。一方下段は区画整理事業により増設されたところで、区画整理事務所
があった。広場や遊具があり、キャッチボール場もある。

 傷兵院舊址の碑
 公園の中に立つ大きな碑。

   傷兵院舊址
   
護れ傷兵 忘るな武勲
      陸軍大将男爵本庄繁書


■啓成社 → 啓成会高等技術専門学校

 北大塚1丁目13番8号にある一般財団法人。大正13年財団法人同潤会が政府により資金の交付
を受け、同潤啓成社を設置し、関東大震災罹災者に対し、洋裁・洋服その他の職業講習並びに義肢の
研究製作事業を開始。更に同15年同趣旨の下に、戦公傷者・産業及び交通の負傷者に対しても、前
述の教育並びに事業を行うこととなる。
 昭和3年内務大臣の許可を受け、財団法人啓成社として独立、同上事業を継承。同7年特に満州事
変、上海事変等に於ける戦傷者に対し、前述の事業を行うことになる。同13年軍事保護院に於ける
傷痍軍人職業再教育施設として、洋裁・洋服その他の教育、並びに義肢装具の製作支給事業を行う。
 同21年戦後、厚生省委託施設として、戦災者・生活困窮者に対する洋裁教育、並びに義肢装具の
研究製作事業を行う。同22年主管官庁変更により労働省委託施設となる。同23年4月職業安定法
一部改正により、東京都委託大塚公共職業補導所として、洋裁の補導並びに義肢装具の研究製作事業
を行う。12月労働大臣の認可を受け、寄附行為を改正すると共に財団法人啓成会と改称した。同3
1年4月啓成予備校開校。啓成会総合職業補導所の東京都委託は労働省委託に変更。同33年労働福
祉事業団の委託に変更され、7月職業訓練法の施行に伴い名称を「啓成会職業訓練所」に改称。同4
5年啓成予備校の新校舎完成。同47年日本自転車振興会の補助を受け、職業訓練施設の新築及び改
修並びに関係器械の整備。同58年啓成予備校閉校し啓成会職業訓練所を移転。
 平成2年啓成会職業訓練所を「啓成会高等技術専門学校」と改称。同11年雇用・能力開発機構の
発足により雇用促進事業団の委託はそのまま継承。同17年洋裁科、洋服科閉科。同21年雇用・能
力開発機構の廃止伴い、平成22年度より訓練事業は東京都が継承。経過措置として、訓練事業義肢
装具科は、啓成会高等職業技術専門校の自主開校とした。同23年啓成会ビル大規模改修。賃貸駐車
場・貸会議室の施設貸与事業を行う。同24年車椅子・シーティング製作技能養成コース開講。内閣
総理大臣認可を受け、一般財団法人啓成会となる。 


■巣鴨警察署

 北大塚1丁目15番15号にある。大正4年板橋警察署巣鴨警部補派出所設置。同7年巣鴨分署昇
格。同8年巣鴨警察署に昇格。大正9年北大塚2丁目31番地に移転。同20年愚かなアメリカ軍の
非人道的無差別空爆により庁舎焼失。巣鴨3丁目19番に移転。同45年現在地に新庁舎を建てて移
転。平成12年耐震改修。


■白木屋大塚分店

 北大塚1丁目16番6号、大塚駅北口を出てすぐ右手の大塚ビルがそれだ。昭和5年日本橋にあっ
た白木屋百貨店が分店を出店した。日本橋本店の仮店舗の廃材を用いて建築し開店した。同12年5
月31日鉄筋コンクリート造り6階建ての建物が新築された。設計は本店も手がけた石本喜久治、施
工は清水組(清水建設)。石本は現在も九段下にある石本設計事務所の創始者だ。こうしてスタート
はしたものの、次第に戦争が激しくなり、同19年6月国に接収され、西巣鴨に移転を余儀なくされ
た。同20年4月13日愚かなアメリカ軍による東京西部大空襲により被弾、大きな被害を蒙った。
ビルの地下は防空壕として使用されたため、相当数の人々が亡くなった。ビルの横の空地に戦災によ
る亡骸が埋葬されているという。破壊状態の建物は、廃墟まま取り壊されることもなく10年ほど放
置された。

 
松菱ストア
 これを見かねた静岡に本拠地を置く松菱グループが買い取り、大規模な補修増築が行われ、昭和3
1年10月松菱ストアとして再オープンしたが、法律上の規制から売り場は1~3階までで。4、5
階には大塚予備校(四谷大塚)が入っていた。しかし池袋の急速な発展や巣鴨地蔵通りの懸命な商法
に挟まれて伸び悩み、僅か3年で閉店に追い込まれた。


■一心病院

 北大塚1丁目18番にある、昭和48年に「日一クリニック」として開業してから20年以上に亘
り地域医療に尽くしてきた総合病院だ。複数の診療科目があるので「どの科で受診したらよかっぺ」
という時に便利。また医薬分業がなされていないので、いちいち薬局に行かなくてもOK。患者に高
齢者が多い所為か、看護士がみんな優しいとか。また阪神大震災の時には医師や看護婦を派遣、また
アフリカやアジアへ医療奉仕を行うなど、ボランティア活動にも熱心な医療機関なのだ。


■大塚北口診療所

 北大塚2丁目6番12号青木ビル1階、大塚駅北口の商店街を歩いて数分のところにある。東京女
子医大や都立大塚病院などの医療機関と提携してるので、専門外来の医師による診察が受けられる。
また平日なら午後9時まで診て貰えるので、仕事で遅くなっても安心だ。週末も診療している。また
ここの看護士は注射がとても上手と評判なので、小さな子供を持つ親には助かるかも。


■巣鴨平民社跡

 北大塚2丁目14番大塚駅北口駅前のブロックにあった。ここに幸徳秋水が住んでいた。幸徳事件
は大逆事件の一つだ。明治天皇(大室寅之祐)を爆裂弾で暗殺しようとした計画が発覚、この事件を
きっかけに多くの社会主義者、アナキストに対して取り調べや家宅捜索が行なわれ、社会主義者を根
絶する弾圧を政府が主導し、捏造したしたとされる事件。一般に「大逆事件」と言われる際は、この
幸徳事件を指す。幸徳秋水ともいう。ユダヤに唆されて明治維新を断行した長州閥が、追い落とされ
るのを恐れて、生き残りのためにやったパーフォーマンスだ。長州閥は現在も日本を支配している。
 


■瀧不動

 北大塚2丁目14番8号のビルの一角にある。かつて豊島区地域の東側、北西部から南東部に向け
て谷端川が流れていた頃、現在地付近の岸辺に石造りの不動明王立像があり、地元の人々の信仰を集
めており、川が小さな瀧になっているところの近くだったことから、瀧不動と呼んでいたという。と
ころが昭和10年頃、川の暗渠化により、北豊島郡巣鴨町2040番地の個人宅に移され、その敷地
内で維持管理された。昭和20年4月13日愚かなアメリカ軍の非人道的無差別空爆により台座を残
して壊滅してしまった。同30年頃、かつての所有者が石造不動明王坐像として再造し、敷地(南大
塚3丁目28番)内の、愚かなアメリカ軍の空爆の際に難を逃れた台座上に据え安置した。平成11
年所有者が元位置付近に自社ビルを建てるに辺りその一角に場所を取り移設した。この不動尊に関す
る資料や情報は少なく、記憶している人も大概は物故し、忘れられた存在ではあるが、本来地域住民
の共有財産が、形を変えたとはいえ、現在に伝えられ、再び元の位置近くに戻されたことは、身近な
文化遺産を後世に伝えていくことを考える上で重要だ。こうしたささやかな文化財の多くは寺や神社
に追いやってしまって平然としているのが現実だからだ。この前を通ったら手でも合わせてやんなっ
せ。きっとご利益があるでよ。

   滝不動
   かつて、豊島区地域の東側ほぼ北西部から南東部に向けて谷端川が流れていた頃、現豊島
   区北大塚1丁目14番付近の谷端川沿いに石造不動明王立像があり、地元の人々の信仰を
   集めていた。川の流れが小さな滝のようになっていた場所に位置していたため「滝不動」
   と呼ばれていたという。ところが、昭和10年頃に行なわれた谷端川の暗渠化工事に伴い
   「滝不動」は所在場所の近隣居住者(北豊島郡巣鴨町2040番地)の個人所有となり、
   敷地内で維持管理されるようになった。その後、アジア太平洋戦争中の昭和20年4月1
   3日に空襲の直撃を受け、台座部分を残して破損してしまった。
   昭和30年頃、かつての所有者が石造不動明王坐像として再造立し、空襲の際に破損を免
   れた台座に据え、所有者敷地内(南大塚3丁目28番)に安置した。その後、平成11年
   9月の所有者自社ビル建築に伴い、石造不動明王坐像も当地に移設されたのである。
   かつて谷端川沿いに所在した「滝不動」に関する情報は少なく、その姿を記憶している人
   も僅かである。しかしながら本来地域住民の共有財産であったはずの「滝不動」が、形態
   は変化しながらも現在に伝えられ、再び元の所在地近くに移設されたことは、身近に所在
   する文化財を後世に伝えていくことを考えるうえで重要である。
   平成11年10月                     東京都豊島区教育委員会


■角海老宝石ボクシングジム

 
北大塚2丁目15番4号角海老ビルにある。昭和52年角海老グループ経営者の鈴木正雄が、茨城
にあった小島工芸ジム(現在新小岩に移転)の一部選手・スタッフを受け入れて設立した。この後ま
もなく田中敏朗を指導者として招聘し、平成7年まで有望選手の指導を任せた。現在では東京帝拳、
協栄ジムと肩を並べ、年間興行数および練習生数は全国でもトップクラスとなっている。老舗のボク
シングジムが興行力ではほぼ寡占状態の中、ワタナベジムと同様に新興の大手ジムとなった数少ない
存在だ。現会長は鈴木眞吾、チーフマネージャーは鈴木厚正が務める。パキスタン初のオリンピック
メダリストであるフセイン・シャー、田中栄民らがトレーナーとして在籍している。派手さのないジ
ムだが、練習風景を通りから見られるので、平日の夕方には、近所の人や通りがかりの見物人で人だ
かりができる。排出した世界チャンピオンは、小林光二(WBCフライ級)・イーグル京和→イーグ
ル・ディーン・ジュンラバン(WBCミニマム級)・小堀佑介(WBAライト級)の3人


■大塚ジェルスホール 閉館
 北大塚2丁目16番9号、バリカーデ大塚工場跡に、昭和54年にできた北大塚ビルの地下1階に
あった小劇場。平成18年に閉館した。


■おにぎり ぼんご

 
北大塚2丁目26番3号金田ビル1階、大塚駅北口から徒歩3分のところにある有名おにぎり専門
店。25種類の具材を使う大きなおにぎりが大人気。注文すると握ってくれる。新潟産コシヒカリの
お茶漬けもおいしい。平日のサービスタイムには、おとうふのおつゆとおにぎり2個セットの割引が
あり、おとうふのつゆはおかわり自由のサービス付き。子供連れだとキャンディなどのちょっとした
お土産を貰えるよ。


■萬スタジオ

 
北大塚2丁目32番22号の萬ビル1階にある小劇場。演劇、ライブ、お笑い、講演会、展示会な
ど、凡る使い方ができる多目的ホールとして平成6年完成。翌年より本格的稼働。恵まれたタッパと
設備と贅沢な客席で、現在は年間約50~60本の演劇公演が行われている


■王子電車本社跡

 北大塚2丁目
33番17号の東京電力大塚支社のところにあった。王子電車は、明治43年最初大
塚~飛鳥山間が開通し、のち大正14年に雑司が谷鬼子母神前まで、昭和3年に面影橋まで延長され
た。大正12年今の王電の経営は順調だったが、昭和17年戦時統合令により東京市に買却させられ
消滅した。現在唯一残っている都電
荒川線が王電の生れの果てだ。


■北大塚二丁目児童遊園 → 北大塚二丁目公園

 北大塚2丁目34番2号にある区立公園。


■栄橋

 北大塚3丁目無番にある跨線橋。山手線に架かり北大塚3丁目と東池袋2丁目を結ぶ。150m東
に空蝉橋がある。


■出世稲荷

 北大塚3丁目5番の北角にある。
五穀豊穣・商売繁盛・開運出世の神。日本三大稲荷神社(京都伏
見他)と同じ神(宇迦之御魂命)が祀られている。明治36年大塚駅貨物線拡張のため、現在の場所
に移転。


■北大塚公園

 北大塚3丁目12番15号にある区立公園。


■北大塚三丁目児童遊園

 北大塚3丁目30番2号にある区立公園。


【駒込】(こまごめ)1~7丁目                  昭和43年12月1日
 上駒込村。明治11年「郡区町村編制法」により北豊島郡所属。同22年「市制町村制」により
巣鴨村大字上駒込。大正6年字南染井を巣鴨1~2丁目に譲り、同7年町制に移行して巣鴨町大字
上駒込。昭和7年東京市に併合されて豊島区となり、駒込染井町と駒込妙義坂下町をあわせて駒込
1~6丁目とし、同43年新住居表示を実施して再編した町域を現行の「駒込」とした。
 3丁目に駒込小学校、5丁目に谷田川源流の長池跡に染井霊園がある。4~5丁目のほぼ全域は
安濃津藩藤堂家の下屋敷・抱屋敷だった。その遺構(下屋敷裏門)が3丁目12番の丹羽家に移築
使用されている。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『豊島区史』『豊島の歴史』など。

 駒込の由来
 ①.日本武尊がこの辺り(妙義神社)に陣を張り「駒、込みたり(馬がいっぱいいる)」
   と叫んだことによるという説と、
 ②.馬の官牧があったので牛込に対してそう呼んだという説、
 ③.この辺りは原野で野生馬が群がっていたとする説(新編江戸志)、
 ④.高麗人(こまじん)が住み着いた〝高麗が籠もる〟高麗説とがある。

 ①については『日本地名辞典』では「日本武尊が『駒込たり(駒込だ)』といったので素盞烏山
(いるさやま)を「駒込林」と唱えるようになった(江戸砂子)。③については、放牧してるのを
見たのだろう。馬は輸入動物で貴重にして高価だから当時自然に群生することはありえないし、三
春駒でもトカラ馬でも元から日本に居た訳じゃない。なら②③は同説。④はあっても不思議ではな
い。関東地方には高麗人(北朝鮮人)の居留地は多い。だから駒込は駒込3丁目の妙義神社だ!
 
   駒込の不二に棚引く蚊やりかな(一茶)
   
駒込の空更けやすき門火かな(大場白水郎)
   
坂道の夜店すぐ尽く十三夜(岡本 眸)


■駒込茄子
 
駒込の特産品で、江戸では一級品だったが、もう誰も生産していない。丸いソフトボールのような
形をしていた。


   なるもよい色とみそめて駒込のおなすのあぢにあこがれぞする

   駒込は一富士ニ鷹三茄子(川柳)
   江戸の富士裾野は茄子の名所なり(川柳)


■寺町
 霊園北側には明治以後に移転してきた法成寺・泰宗寺・専修院・蓮華寺・勝林寺がある。泰宗寺に
天愚孔平の石碑がある。彼は室町時代に流行して衰えた「納札」、つまり千社札を寺社の門や堂宇に
貼付することを再びはやらせた男だ。勝林寺には成り上がり老中田沼意次の墓がある。隣接の豊島市
場は幕府の御薬園跡なんだよ。


従容山福寿院

 駒込1丁目6番8号にある曹洞宗の尼寺。火災に遭い、マンションの中に収まらざるえなかったの
は残念。大震災までは従容稲荷を祀っていたために「従容軒」ともいわれ、「お庵寺」ともいった。
盛時には修行尼を含め50人もの尼さんが常住していたそうだ。上駒込村一帯は高木一族の地所で、
先祖は豊臣の遺臣高木将監だという。代々上駒込村の名主を務めた旧家で、富士神社の東の方に、屋
敷があって都の旧跡に指定されている。この寺は高木一族と関係が深く、開基は高木家の娘の桂林院
殿宗春大禅定尼といい、彼女は加賀前田家の養女となり大奥へ上がっていたが、28歳で落飾し、堂
宇を建て、徳川家より十人扶持を給わった。彼女が帰依したのは富士神社の向かいにある江岸寺十世
超道大然大和尚で、代々の庵主の墓が江岸寺にある。桂林院から五世大林哲乗までは高木一族で、六
世から高木家を離れるが、特に八世黄山梅林尼は天下の3尼僧の1人に数えられ、関東の梅林として
全国にその名を轟かせた。大奥、前田家、溝口家などの帰依者も多く、数多くの定紋入りの道具など
が寄進されていたが、維新の廃仏毀釈、明治42年の火災、昭和20年の愚かなアメリカ軍の非人道
的無差別空爆で、総ては灰燼に帰してしまい、今は衰微して昔を偲ぶべくもない。現在は青いビルと
なり、お寺の様はない。


■明治天皇行幸所木戸舊邸(碑)

 駒込1丁目10番1号電通生協会館前角に石標が建っている。10番辺りは、旧は旗本5000石
本郷丹後守の屋敷跡で、維新3傑の1人桂小五郎が、維新後に別邸としたところで、晩年病になり養
生しているところへ、明治天皇が2度に亘って見舞ったというので、戦前までは聖跡に指定され、行
幸の碑が建てられていた。伝承では木戸邸の門は大きな黒門で、邸内には天然記念物に指定された程
の大きな椎の木があり、周りは茶畑だったそうな。この由緒ある染井の別宅も、昭和20年4月の愚
かなアメリカ軍の非人道的無差別空爆により焼失、今は木戸家も去り、僅かに庭園の一部が残ってい
るに過ぎない。


■鹿碑・瘞賜豬碑
 駒込1丁目10番15号駒込パークハウス前に並んで建っている。いずれも豊島区域内にかつて居
住していた武家の歴史を示す貴重な文化遺産として豊島区指定有形文化財になっている。10番の一
帯は5000石の旗本本郷丹後守の屋敷跡で、
 鹿碑(ろくひ)は、寛政七年(1759)三月五日11代将軍家斉が下総国小金原で鹿狩りを行っ
た際、同行した本郷泰行が当日の様子を後世に伝えるために造立したもの。
 瘞賜豬碑(しちょうをうずむるのひ えいしちょひ)は、嘉永二年(1849)三月十八日12代
将軍家慶が同じ小金原で鹿狩りを行った際、同行した本郷泰固(泰行の孫)が、家慶から猪・兎を下
賜された出来事を後世に伝えようと造立した。
 その後、この地域は急激に都市化が進行したが、2基の石碑は、土地所有者の文化財に対する理解の
下、現在まで大切に伝えられてきたものだ。

   鹿碑
   維寛政七年乙卯三月五日者小金之蒐也其
   二月四日山里御苑振卒之日扈従所獲麀麛
   拝賜之而 御牧之後復賜麌幷皮為行騰禦
   武之具 御賜之余不可徒弃也則収其形骸
   于別墅表之使子孫永知盛事且拝賜之辱所
   以是碑之作也因勒諸石係以銘
   吁夫不択音邪 幸云成収埋也 是原湿
   弩末之所嚮 亦武凞之寵栄也
              大和守源泰行立
              源和鼎代撰並書

   (読み下し)
   鹿の碑
   維れ寛政七年乙卯三月五日は、小金の蒐なり。其の二月四日、山里御苑にて卒を振るうの
   日、扈従して獲る所の麀麛(ゆうべい)を拝賜す。而して御牧の後、復た麌(ご)びに皮
   を賜わり、行騰禦武(こうとうぎょぶ)の具を為(つく)る。御賜の余、徒らに弃(す)つるべ
   からざるなり。則ち其の形骸を別墅(べっしょ)に収めて之を表し、子孫をして永く盛事を
   知らしめ、且つ賜の辱(かたじけな)きを拝ましむ。是の碑を之作る所以なり。因りて諸
   (これ)を石に勒(きざ)みて係るに銘を以てす。
   吁夫(ああ)、音を択えらばざるか、幸いに云ここに収埋を成すなり 是れ原湿(げんしゅ
   う)
にて弩末の嚮(か)う所 亦武凞(ぶき)の寵栄(ちょうえい)なり
                            大和守源泰行、立て
                            源和鼎、代わりて撰し並びに書す


   
瘞賜豬碑
   維嘉永二年己酉三月□八日 狩于
   小金原閲武備也臣泰固承 命参預
   其事是日従
   大駕以往 賜所獲猪一頭子近江守
   泰清亦扈従手獲兎一頭先是寛政七
   年乙卯三月五日
   文恭大君 狩于小金原祖大和守泰
   行扈従 賜麌一頭而泰固亦受是
   賜祖孫媲 栄感徹肺腑乃取其皮瘞
   骴於別墅立石紀 栄以諗後昆云
    嘉永二年己酉春三月下澣
     丹後守源泰固撰書并題額

   (読み下し)
   賜豬(しちょ)を瘞(うず)むる碑
   維嘉永二年己酉三月十八日、小金原に狩りし、武備を閲するなり。臣泰固、命を承けて其
   の事に参預す。是の日、大駕に従いて以て往き、獲る所の猪一頭を賜わる。子の近江守
   清も亦扈従して手ずから兎一頭を獲たり。是れに先だつ寛政七年乙卯三月五日、文恭大君
   小金原に狩りし、祖の大和守泰行、扈従して麌一頭を賜わる。而して泰固も亦是の賜を受
   く。祖孫媲(なら)びに栄ゆる
感、肺腑に徹す。乃ち其の皮を取り、骴を別墅に瘞めて石
   を立て、栄を紀(しる)して以て後昆(こうこん)に諗(つ)ぐと云う。
   嘉永二年己酉春三月下澣(げかん)       丹後守源泰固、撰し書し幷びに題額す

 区の説明板は以下の通り。

   
「鹿碑」と「瘞賜豬碑」(旗本本郷丹後守下屋敷跡)
   この地は、江戸時代後期以降旗本・御家人の屋敷地として使用されていた土地で、幕末に
   発刊された「江戸切絵図」には旗本本郷丹後守の下屋敷であったことが明記されている。
   ここに立つ2基の石碑は、寛政七年(1795)造立の「鹿碑」と、嘉永二年(1849)
   造立の「瘞賜豬碑」であり、ともに旗本本郷氏によるものである。
   石碑には、将軍が行なった鹿狩に本郷氏が側近として同行し、その際将軍から獲物を可賜
   されたことなどが刻まれている。いずれも豊島区域内にかつて居住していた武家の歴史を
   示す貴重な文化遺産として豊島区指定有形文化財になっている。
   明治時代になると、明治維新の三傑といわれた政治家木戸孝允(桂小五郎)がこの地を入
   手し別邸とした。その後、この地域は急激に都市化が進行したが、2基の石碑は、土地所
   有者のの文化財に対する理解のもと、現在まで大切に伝えられてきたのである。
   平成10年11月27日                  東京都豊島区教育委員会


■田中穂積邸跡

 駒込1丁目22番1号の駒込東公園のところだ。田中穂積は法学家と作曲家と2人いる。どっちだ
ろう。


■駒込東公園

 駒込1丁目22番1号にある区立公園。この公園は区画整理事業によって生まれた。台地の北斜面
に広がる日当たりのよい公園で、区内の公園には珍しく起伏に富んだ地形が特徴。園内の高低差は約
4~5m。公園の1番高い場所にある入口を入れば、公園の中央に導く園路をケヤキやサワラ、ソメ
イヨシノなどの枝葉が覆い、美しい緑のトンネルが続く。木漏れ陽を受けながら小道を下ると、そこ
は遊具が並ぶこどもの遊び場。一角には陶板で舗装された展望台があり、眼下に園内の緑や町並みが
望める。さらに石段を下りるとダスト敷きの広場がある。広場をとりまくソメイヨシノは、春には花
見客の目を楽しませる。北区と文京区との区境に近いため、区外からの利用者も多いことも特徴の一
つだ。


■木戸坂

 駒込1丁目21番と23番の間、駒込東公園から東に緩いS字に下っていく坂。近くに木戸孝允邸
があったことによる命名。坂下に駒込木戸坂クリニックという病院がある。


■昼火事

 駒込1丁目29番2号駒込駅前の金券ショップ古仙堂が燃えた火事。平成29年11月2日13時
50分頃、火災が発生、山手線、湘南新宿ラインが一時運転を見合わせ。14時半頃再開した。


■日枝神社

 駒込1丁目30番12号にある小社。

   日枝神社
   旧上駒込村字新屋敷の鎮守。東側が開けていたことから江戸時代は「朝日山王宮」と呼ば
   れていた。
   祭神は大山咋神を主神とし、素戔鳴尊・大己貴尊・少彦尊を合祀している。
   「新編武蔵風土記稿」は、慶長年間(1596~1614)以前から祀られていたとする
   説を紹介している。
   風土記稿編纂当時の神主は沢田近江といい、先祖の大江免毛が万治三年(1660)から
   その任にあったとしている。また、元文元年(1736)に大江大夫橘為稠によって再興
   されたとする説があるほか、延享元年(1744)に本社が造営されたという記事が「武
   江年表」「新編江戸志」などに見られる。
   江戸時代の小日向の僧津田敬順は、その著書『遊歴雑記』の中で、神主の沢田近江の居宅
   からの眺望が最もすばらしいと述べている。また「実に雅人の愛すべき土地」といい、歌
   人や俳人が来訪して宴を楽しみ、自らも沢田の居宅で茶を楽しんだことも記されている。
   境内には、明和二年(1765)の銘がある手水鉢があり、鳥居の脇には、正面に「右朝
   日山王宮」と刻まれた、文久元年(1861)のものと思われる道標がある。また「傳中
   親睦会」と刻まれた石柱があるが、これは古い鳥居の一部である。「傳中」は「殿中」と
   も書き、上駒込村の字の一つで、六義園が柳沢吉保の屋敷だった頃、将軍綱吉の御成を待
   つ供の様子が、あたかも殿中の様であったことから、その一帯をこう呼ぶようになったと
   いう。
   平成22年2月                         豊島区教育委員会

 日枝稲荷神社
 境内にある小祠。

 
道標
 境内にある

   右 朝日山王堂


■芥川製菓

 駒込1丁目44番2号、染井橋の袂にある業務用チョコレート製造卸会社。芥川ブランドでは小売
りはしていないのだが、年に1・2回、所謂感謝セールが行われる。これは整理券が出るほどの盛況
で大行列となる。


■駒込駅

 駒込2丁目1番にあるJR山手線・東京メトロ南北線の停車場。明治43年11月15日本鉄道豊
島線池袋~田端間の開通と共に開業した。同時に池袋・大塚・巣鴨の3駅も仲良く開業している。昭
和20年4月13日愚かなアメリカ軍の非人道的無差別空爆により駅舎全焼。同62年4月1日国鉄
分割民営化によりJR東日本の駅(山手線所属)となる。
 南北線は、JR駒込駅開業から90年ほど遅れて、平成3年11月29日駒込~赤羽岩淵間が開業
した。これは南北線の第一期開業区間だ。南側は同8年3月26日に四ツ谷まで延びている。
 平成18年12月23日北口の新駅舎が完成した。
 JRのホームは島式1面2線構造。周囲の地形が傾斜しているため、ホームの西側は掘割内、東側
は築堤上にある。ホームと改札階を結ぶエレベーターは設置済み。南北線のホームは島式1面2線構
造で地下3階にある。ホームと改札階を結ぶエレベーターは完備。
 JRの改札口は東西に2ヶ所で、西側の北口改札は橋上駅舎内、東側の東口改札は高架下にある。
出口は、北口改札から繋がる北口・南口と、東口改札からつながる東口の3ヶ所。
 東京メトロの改札口は2ヶ所で、いずれも地下1階にある。出口は1~5の5ヶ所。地上へ上がる
エレベーターは5番出口付近に設置されている。

 ツツジ
 JR駒込駅は、ホーム両側の斜面に植えられているツツジが見事で、そのために関東の駅百選に選
ばれている。見頃は4月下旬から5月上旬。しかし平成17年北口駅舎改築工事に伴って一部のツツ
ジが伐採されてしまった。その後の行く末が懸念されたが、現在では当初の約束通り、伐採した部分
に新たなツツジが植え直された。

 「さくらさくら」
 平成17年から春季限定でホームの発車メロディーが「さくら さくら」に変更されている。これ
は駒込がソメイヨシノの発祥の地であることに因む。

 不便だったエレベーター
 東京メトロ駒込駅の地上と改札階間のエレベーターは、かつて2ヶ所ある改札の内、北改札付近の
5番出口にしかなかった。しかし改札階とホームを結ぶエレベーターは南改札側にあり、しかも北改
札と南改札を結ぶ通路には途中にアップダウンがあったので非常に不便だった。その不便さを解消す
るため、平成21年6月3番出口に新しいエレベーターが設置された。なお5番出口のエレベーター
は元々駅のものではなかったため、現在では案内板からも消され利用することはできない。


■南口駅舎跡 → ホテルメッツ駒込
 駒込2丁目1番39号の南口駅舎跡地にJR東日本ホテルズが建設したホテル。地上9階、地下1
階。平成21年9月28日開業。運営は日本ホテル。2階にデニーズ、1階にニューデイズ(デニー
ズ・コンビニ)がある。


■駒込橋

 駒込2丁目1番にある、駒込駅前の本郷通りを渡す跨線橋。


■旧駒込橋欄干
 駒込2丁目2番1号染井吉野桜記念公園の端、本郷通りの歩道にある。

 
謎の蓋
 欄干のある植栽の欄干の反対側にある。マンホールの蓋なのだろうが四角い。しかも表面の絵のデ
ザインが摩訶不思議。4分割され対角の2つに絵が描かれている。卵が割れて芽が出ている図案と両
手で芽を包んでいる図案の2つ。判じ物だ。何を語る? 蓋の脇に「特455‐2」の札。というこ
とは少なくとももう一個あるということだ。
 聞くところによると、タイムカプセルだったとか。「1994年の私から2010年の私へ201
□ふれ愛BOX」とあり「16年後の2010年にこの箱をあけます。そのため私たちはこの箱をふ
れ愛BOXと呼んでいます。2010年ににまたあいましょう」と記されていたらしい。では今、平
成27年、つまり2015年、まだある。タイムカプセルは開けたのか? 
 地下鉄の何らかの出入口ではないのか、謎の蓋ではある。
 


■染井吉野桜記念公園

 駒込2丁目2番1号、駒込駅北口にある区立公園。平成9年に駒込駅北口駅前広場に開園。池や流
れる水などの演出もあり気持ちの安らぐ公園だ。
 一斉に咲きそろい散り際が見事なことから、日本中に植えられているソメイヨシノは、駒込のこの
地域で作り出された。駒込の駅前広場を地下駐輪場と共に公園として整備した時に、このことを記念
して園名がつけられ、「染井吉野桜発祥之里 駒込」の碑が建てられた。
 園内はソメイヨシノの原種といわれるエドヒガンザクラとオオシマザクラが植えられ、サクラ同士
比較ができる。都会的な舗装の広場と、細かい水しぶきをあげる涼しげな流れなどがあり、駅前にふ
さわしい魅力的な空間になっているかな。
 

 
染井吉野桜発祥之里 駒込

 名前の通り染井吉野はこの地で発祥したとのことで、その由来を説明する碑が建っている。
サクラ
といえばソメイヨシノといわれるほど、この品種は陸軍によって日本国中に広まっているが、幕末、
この地で〝エドヒガンザクラ〟と〝オオシマザクラ〟が自然交配してできた品種といわれる。ソメイ
ヨシノは一斉に咲き揃い、一斉に散る様が見事なことから、明治政府が目をつけ、国家命令に逆らう
ことなく潔く死ぬことを国民の頭に摺りこむために、それまでのヤマザクラに代えて、ソメイヨシノ
に植え替えた。日比谷公園のところは江戸時代にはヤマザクラの名所だったが、陸軍はこれを全部伐
り倒してソメイヨシノに植え替えたんだよ。陸軍の徽章は桜だろ? 日本が年度替りを4月とし、9
月切り替えのヨーロッパに倣わないのは、偏にソメイヨシノの開花時期にこだわるためだ。猛暑であ
る日本では、9月に新学期が始まる方が合理的なのだが、国家主義者は、憲法を改変して戦争のでき
る国家に戻した時のために、ソメイヨシノを見捨てることが出来ないのだ。武士の花を桜というように
なったのは明治以後で、武士が兜に挿していったのは「梅が枝」だ。

   染井吉野桜発祥之里 駒込
   駒込の一部は江戸時代染井と呼ばれ、 巣鴨と共に花卉・植木の一大生産地であった。この
   地で江戸時代以後数多くの優れた園芸品種が誕生したが、中でも染井吉野は、当地の地名
   から名付けられ、世界を代表する桜の品種となった。碑面の左の絵は、植木屋の第一人者
   染井の伊東伊兵衛の庭で、大勢の人が花を愛でている様子を描いている。
 


 
染井
 桜花「ソメイヨシノ」はこの町で生まれた。その染井は谷戸川(谷田川→藍染川→忍川→三味線堀
→鳥越川)の水源池で、泥水が湧き出ていた井戸のことで、村人はそれで布を染めたので染井の名が
起きた。泥染めは珍しいことではなく、現在でも黄八丈の黒糸は泥染めだよ。染井はかつては一村を
なし染井村として独立していたが、何時の頃からか上駒込村に組み込まれその字となった。その村域
は駒込3丁目(一部)・4~6丁目に及ぶ。
 明暦三年(1657)に伊勢津藩藤堂家の下屋敷が設けられた。その屋敷に出入していた植木職に
伊藤家があり、伊藤家当主は代々伊兵衛を名乗り、植木職人たちの中心的役割を果たすなど幕府御用
の職人として、江戸一の庭師だった。それで藤堂邸の北側に植木屋が集住し、大名たちの庭園造りが
流行したことから植木の需要が高まり、幕末には上駒込村染井は世界最大の花・植木センターとなっ
た。7丁目2番の染井専修院が伊藤家跡だ。

 
ソメイヨシノ
 学名 Prunus × yedoensis。 豊島区駒込はソメイヨシノ(染井吉野)発祥の地だ。区の木として
はうってつけの木だろう。この桜木は、エドヒガン系のコマツオトメとオオシマザクラの交配で生ま
れたサクラの園芸品種。現代の観賞用サクラの代表種であり、「吉野桜」と表記する場合もある。ま
たエドヒガンとオオシマザクラを交配したもの総てを「ソメイヨシノ」ということもあり、狭義のソ
メイヨシノを「ソメイヨシノ’ソメイヨシノ’」と書く場合もある。花言葉は「優れた美人」。
 江戸末期から明治初期に、染井村(駒込)に集落を作っていた造園師や植木職人達によって育成さ
れ「吉野桜」として売り出していた。しかし藤野寄命の調査によってヤマザクラとは異なる種の桜で
あることが分かり、混乱を招かぬように、明治33年「日本園芸雑誌」において「染井吉野」と命名
された。
 ソメイヨシノは江戸時代中期~末期に園芸品種として確立した。園芸家による人工的な品種改良作
出説と、自然交雑した物を、園芸家が挿し木によって増やしたという説とがある。過去には伊豆大島
原産とされていたが、現地調査で否定された。昭和14年に小泉源一が韓国済州島の王桜との類似を
指摘して、済州島が自生地であり起源とする説を唱えた。しかしソメイヨシノはオオシマザクラとエ
ドヒガンの交配的形態を持つが、オオシマザクラは伊豆諸島で進化したカスミザクラの島嶼型であっ
て朝鮮半島には存在しておらず、遺伝子調査によっても本説は完全に否定された。大正5年アメリカ
のウィルソンによりオオシマザクラとエドヒガンの雑種説が唱えられ、昭和40年国立遺伝学研究所
の竹中要の交配実験により、オオシマザクラとエドヒガンの交雑種の中からソメイヨシノおよびソメ
イヨシノに近似の亜種が得られること発表された。これを受けて伊豆半島発生説が唱えられた。これ
に対し、明治初年に樹齢百年に達するソメイヨシノが小石川植物園に植えられていたという記録や、
染井村の植木屋の記録にソメイヨシノを作り出したという記録が発見されたことから、岩崎文雄らは
染井村起源説を唱えている。別説として、アメリカの植物学者にはソメイヨシノはオオシマザクラと
エドヒガンの雑種ではなく独立した種であるとの説を唱える者もいる。
 平成19年3千葉大・静岡大などの研究グループは、遺伝子解析の結果、オオシマザクラとエドヒ
ガンの園芸品種の一つであるコマツオトメの交配で生み出された可能性が高いと発表。因みに「アメ
リカ」と言うサクラの品種がある。この品種は、かつてはアメリカでソメイヨシノの実生から作られ
たとされていたが、ソメイヨシノの結実率の低さとも相俟って事実は不明だ。

 
謀略の花
 ソメイヨシノがこれまでにも持て囃されるに至ったのには長州閥の謀略がある。長州藩の上屋敷は
今の日比谷公園のところにあり、桜の名所だった。それはソメイヨシノなく山桜他の桜だった。明治
維新となって、国軍を維持するために兵を徴することを義務とした。そして死を恐れぬ強兵を造るた
め、入営の時に「潔く散る」ことを入魂することを考えた。何でも西洋の物真似を信条とした長州閥
が、不思議と学校の始業を西洋に倣って9月とせず、敢えて4月に固執したのは、ソメイヨシノにあ
る。ソメイヨシノが美しいからではない。「パッと咲いて、パッと散る」花の性質が、死をも恐れぬ
強兵造りの思い込ませに打って付けだった。長州藩邸を練兵場に改造した時、藩邸にあった名物の桜
樹は伐り払われ、総てソメイヨシノに植え替えられた。これを皮切りに、日本全国津々浦々に至るま
でソメイヨシノが植えられたり、植え替えられたりしていった。今に至るも学校にソメイヨシノがあ
るのは偏にこのためなのだ。憲法九条がどうのこうのではない。権力者は常に臨戦態勢だ。国民を戦
場に赴かせないとここから思っている政治家や国防関係者はいない。憲法九条は、ユダヤが日本を経
済立国させるための方便に過ぎない。空母のような護衛艦(出雲)を作ってみたり、集団的自衛権だ
とほざいて自衛隊に戦闘に参加できる環境を拵えたり、自民党清話会は戦争国家に邁進してる。ユダ
ヤの手先、CIAのエージェント。さてさて皇室子女の英語学校への入学は国際結婚の道しるべ。ユ
ダヤの混血化政策はいよいよ第二段階に入った。ベッキー、ローラ、マギー、トリンドル、ダレノガ
レ、メイジェイ、メイサ、リエ、クリスティーン エリカetcetera。最近の日本の女の子の
名前を見て見ろ、朝鮮女性の名前のオンパレードだ。桜が日本を亡ぼしていく・・・ 日本人名だか
らといって日本人とは限らない。日本人の、日本人による、日本人のための日本はもうない。

 
種のない花
 ソメイヨシノは種子を作る能力がなく、自力繁殖はできないのだ。そのため世の中のソメイヨシノ
というソメイヨシノは、総て一本の木から接木などによって増やされたもので、遺伝子はどれも同じ
なのだ。クローン生物は「親の寿命を引き継ぐ」という。それに従えばソメイヨシノは、やがて老齢
化により絶滅する可能性がある。 現に各地のソメイヨシノが一斉に弱ってきており、向島でも、ポト
マック河畔でも、そろそろ寿命に近づいているのではないかと判断して、植え替えを始めている。新
たに エドヒガンと オオシマを交配して、若いソメイヨシノを作ればいいように思うだろうが、これ
が人工交配できないときている。ソメイヨシノの誕生は偶然の産物〝奇跡〟だったのだ。

 ガーデニング
 「庭付き一戸建て」は日本人の夢の生活空間で、銀座の一等地にビルを建てて住んでも豪華だと思
わないし、豪邸だともいわない。地方の1000万円程度の分譲住宅でも庭付き住宅に住んでいるほ
うが贅沢に思われる。つまり古の奈良の昔から、住宅に庭を付けるのは自然というか、当たり前で、
日本民族は総ての人がガーデナーなのだ。だから江戸のガーデニングは大変なものだった。長屋住ま
いのものですら、軒下の僅かのスペースに鉢物を置いたり、草花を植えたり、それはそれは涙ぐまし
い努力だった。そうでなかったら朝顔市や鬼灯市は繁盛しなかったろう。そういえば高校の頃、実家
の猫の額ほどの庭の掃除をしたら、母が泣いて怒鳴り込んできた。南天を抜いたというのだ。こっち
は南天に知識がない。隣のおばさんにくれてやったよ。貧乏人の婆ァですらこの有様だから、日本の
ガーデニングの凄さが判ろうってもんだ。
 


■送り狢(ムジナ)
 染井あたりは昔人家も少なく夜になると真っ暗だった。そんな夜道を歩いて帰るとき後ろから誰か
が付いてくるような、付いてこないような・・・ 染井ではムジナが送ってきた。送られると怖いの
で「どうもありがとう。ご苦労様」というと、スゥ~っと帰っていった。随分君が悪かったという。
ムジナとタヌキはよく混同されたが、今ではムジナはアナグマと決めている。狸穴のマミもアナグマ
で、アナグマはややこしい動物だ。
 


■駒込地域文化創造館

 駒込2丁目2番2号にある旧社会教育会館だ。平成18年4月1日から現在名になった。区民が互
いに交流を深めたり、生活を豊かにしたりするための生涯学習や、文化活動、つまり会議・学習会・
発表会などに利用出来る。区の外郭団体「としま未来文化財団」が運営する施設の一人。
 駒込図書館・東京北赤十字血液センターと併設、全体は都営アパートとなっている。
 


■駒込公園

 駒込2丁目3番23号にある区立公園。


■子育地蔵堂

 駒込2丁目6番15号にある。堂内に如意輪観音、セーラー服地蔵がある。

   駒込妙義坂子育地蔵尊
   この地蔵尊は、日光御成街道(本郷通り)の妙義坂の途中に祀られています。地蔵尊の由
   来は古文書に次のように記されています。
   『寛文八戌申年十月、旧邸ノ南丘陵ノ地ヘ間口二間、奥行三間ノ堂宇ヲ建設シ、地蔵尊像
   (石像丈二尺三寸)一体ヲ造立、同堂ニ安置シ子孫繁栄ヲ誓願ス 爾来有志ノ老若男女、
   毎月此堂ニ集シ念仏供養ヲ営ム 此地ハ今井家始祖ノ墳墓ノ旧跡地ト云傳 又堂宇ノ西拾
   間余地小丘アリテ三ッ塚ト称スル塚アリ是ハ南北朝ノ官兵戦死者及び新田、今井ノ両家ノ
   諸士戦死ヲ合祀セシ地ト云傳』
   これによれば、寛文八年(1668)に駒込の今井家が子孫繁栄を祈願して地蔵尊とお堂
   を建立し、以来地元有志によって毎月念仏供養が営まれたことがわかります。
   戦前は70坪ほどの境内に多くの供養石像が並列し、節分には豆まきが盛大に行われ、2
   4日の縁日には夜店が立ち並び、大変賑わいました。昭和20年4月に大空襲でお堂が焼
   失し、戦後ここに駒込診療所が開設し、その一角に祀られました。現在は城官寺(北区上
   中里の境外地蔵尊として祀られています。
   地蔵堂内に、おかっぱ頭のセーラー服姿の童女が片手に宝珠を持ち、もう一人は錫杖を持っ
   て手をつないでいる供養碑があります。これは昭和8年にこの近くで交通事故にあって亡
   くなった11歳の仲良しの少女を供養するために建てられたもので、以後子育地蔵尊とと
   もに地域の安全を見守り続けています。
   平成18年4、駒込駅前通り商店街振興組合創立50周年および駒込2丁目親和会戦後6
   0周年の記念事業として、新地蔵堂の建立と境内改修が行われました。
   平成18年4月                         豊島区教育委員会


■駒込二丁目児童遊園

 駒込2丁目10番8号にある区立公園。


■大国神社

 駒込3丁目2番11号、駒込駅前にある。大国主命を祀り、甲子の日信者に大黒天の木彫り像を参
拝するごとに小さいのから巡次大きいのへと7体まで授けられるので知られる。甲子の日は十干十二
支の組み合わせの最初で、陰陽道では最も吉日とされ、それが大国主命と結びついたのは父素戔嗚尊
にいじめられ苦境に立っていた大国主命を救ったのが鼠だったという神話から、大国主命の神使=鼠
が、陰陽道の「子の神」の化身=鼠だと説かれたから。さらに大国=大黒の語呂の共通から、大黒天
の福神信仰と習合していったんだと。
 11代将軍家斉が、鷹狩りの帰途に立ち寄ってから評判になったが、彼がまだ世継ぎとして西の丸
にいた当時から信心していて、間もなく将軍職を継いだので「出世大黒」「日出大黒」と呼ばれるよ
うになった。葵の紋のついた献茶々碗や、甲子の日毎に代参させる奥女中らの供える神饌用の器、新
門辰五郎のが奉納した厨子などがあったが、アメリカ軍の無差別空爆で焼かれてしまった。

   
ねがう事うち出の小槌うち出てば いなとはいはぬ津希の神(四方赤良)

 この狂歌を書き込んだ扁額も戦災で失われてしまった。

 妙義坂
 神社前の本郷通りは日光御成道で、北へ下り坂になっている。西側に妙義神社があることで「妙義
坂」という。道幅が広くなって坂という感じもしないけどね。2丁目6番の通り沿いに子育地蔵尊が
ある。この坂の辺りに駒込三軒屋町、妙義坂下町があった。

 
藤田氏報恩の碑
 境内にある石碑。詳細不明。
 


■私の庭・みんなの庭

 駒込3丁目8番2号にある区立公園。『花咲か 七軒町 植木の里』碑が建っている。自然が一杯
の、広さ5、60坪くらいの小さな公園。
 

■庚申塔

 駒込3丁目8番3号の篠原家玄関先にある。私の庭・みんなの庭の隣の家だ。角柱型、日月瑞雲、
三猿。向かって右「延宝八年 願主」、中央「湯嶋弐丁目」、向かって左「庚申八月吉日 敬白」。


■丹羽家屋敷跡広場・門と蔵のある広場

  駒込3丁目12番8号にある区立公園。植木屋丹羽家の蔵と藤堂屋敷から丹羽家に移築された門
を残し、区民の憩いの場とした。以前児童遊園。

 
旧丹羽家腕木門(区指定有形文化財)
 丹羽家は天明年間(1781~88)から明治末年まで染井を代表する植木屋として活躍した。そ
の後植木屋は止めたが、現在もこの地域の名家として知られている。
 旧丹羽家屋敷は、豊島区の防災広場の一つとして整備が進められており、主屋と庭などは取り壊さ
れたが、門と蔵は文化財として残されることになった。門の形式は腕木門で、腕木と呼ばれる梁で屋
根を支える形式で、簡素な構造だが格式の在る門だ。染井通りを挟んで向い側にあった津藩藤堂家下
屋敷の裏門を移築、都内の類例と比較して大名家の裏門として使われても不思議はない規模と構造と
いえる。

   旧丹羽家腕木門
   旧丹羽家の門は、腕木と呼ばれる梁で屋根を支える腕木門と呼ばれる形式で、簡素な構造
   ですが格式のある門です。
   この門の建築年代を明らかにする記録はありませんが、言い伝えによれば、染井通りを挟
   んで向かい側にあった津藩藤堂家下屋敷の裏門を移築したといわれています。当所の部材
   と考えられる親柱には和釘が使用され、風蝕もかなり進んで木目が深く浮き出ています。
   また都内の類例と比較して大名家の裏門として使われても不思議はない規模と構造といえ
   ます。解体工事の過程で墨書が発見され、弘化四年(1847)、嘉永六年(1853)
   安政六年(1859)の3回修理が行われていたことが判明しました。少なくとも建築年
   代は弘化4年以前ということになります。
   この門が丹羽家の所有になった年代ははっきりしていませんが、当時は、染井通りに面し
   て建っており、丹羽邸内に移築した時と、染井通り側にマンションを建てるため現在地に
   曳屋(建物を解体しないで、そのまま場所を移動させること)した時の少なくとも2回移
   動しています。また昭和10年の主屋の増改築とあわせて門の屋根を、柿葺き(こけらぶ
   き 薄い木片を重ねて敷きつめた屋根)から瓦葺きに葺き替えたといわれています。一方
   親柱、冠木、袖戸、両開き扉などは杉で当所からの部材と考えられ、板扉に見られる技法
   から、建築当時の姿を概ね残しているといえます。
   江戸時代の腕木門としては区内で唯一の事例であり、植木の里・駒込の歴史を物語るシン
   ボル的存在として長年地域の人々に親しまれています。
   このように、染井の植木屋として活躍した旧家の遺構である旧丹羽家腕木門は、豊島区に
   おける貴重な文化遺産であることから、平成19年8月3日豊島区指定有形文化財になり
   ました。

 旧丹羽家住宅蔵(国登録有形文化財建造物)
 地下1階地上2階。現在1階だけが公開されている。

   旧丹羽家住宅蔵
   この蔵は、丹羽家に残されていた記録から昭和11年の建築であることが判っています。
   元は主屋の北側に木造2階建ての蔵が建っていたが、8代目茂右衛門が9代目の結婚の際
   に主屋の増改築とあわせて、鉄筋コンクリート造りのこの蔵に建て直しました。
   蔵は出入口を東西に設け、増築した6畳間と廊下で主屋と繋がっていました。出入口の観
   音開きの鉄製扉の内側に家紋(五三桐)は付いている。また扉上部と両脇の柱に大理石が
   貼られるなど、装飾に気を使っている点が注目されます。
   外壁は、昭和初期の土蔵や店舗などに多く用いられた工法であるモルタル下地に大理石の
   砕石粒洗出し仕上げになってい増す。また外壁腰巻、水切り、雨押さえ、鉢巻などの細部
   や、窓の庇の銅板葺きなどに職人の丁寧な仕事振りが窺えます。
   蔵の内部は、地下に収納庫を設け、床板には檜板を用い、壁はモルタル下地に漆喰塗りで
   仕上げています。特に1階の天井や梁化粧面取りなどに当時の左官技術がよく表れており
   意匠的にも優れています。このように、旧丹羽家蔵は、当時としては珍しい鉄筋コンクリ
   ート造りでありながらも、細部には職人の技術や建築主のこだわりが見られます。建築後
   70年以上が経過しているが、昭和初期の建築当時の姿を残している。
   これらの点が評価され、平成20年3月7日に国の登録有形文化財建築物になった。


仰高東尋常小学校 →
仰高小学校 → 駒込小学校
 駒込3丁目13番1号にある区立校。大正2年巣鴨町大字上駒込東稲葉谷津265番地の駒込幼稚
園の一部を借用して仰高分教場設置。同6年巣鴨町大字上駒込字染井811番地に新校舎を建て独立
し、「東京府北豊島郡仰高東尋常小学校」として開校。

 校歌「
染井の里の」 作詞作曲・不明
  1.染井の里の基を浴びて
    育ち行く日々清々し
    体よ強まれ伸びて行け
    心よ潤えふくよかに
  2.我等が行く道 敬と愛
    足踏み締めて進み行く
    仰高東の良き子等に
    大日本の宝子に


 同7年北豊島郡の東京市併呑により「東京府東京市仰高東尋常小学校」と改称。同16年勅令14
8号国民学校令により「東京府東京市仰高東国民学校」と改称。12月日本海軍の真珠湾攻撃により
日米開戦。同18年都制施行により「東京都仰高東国民学校」と改称。同20年4月愚かなアメリカ
軍の非人道的無差別の東京西部大空襲により校舎全焼失。8月日本はポツダム宣言を受諾、ならず者
国家アメリカの軍門に降り敗戦。以後その属国となり、唯々諾々として言い成りになる保守傀儡政権
を保持せざるを得ない、今日的不幸を背負い込む。売れない国債を買わされるやら、思いやり予算や
らでもう200兆円以上がとこを持って行かれたよ。日本の娘がレイプされても地位協定で国は見て
見ぬ振りの泣き寝入り、これからの若い者は、保守傀儡政権の謳う「国際協力(昔は八紘一宇といっ
た)」の名目の下、アメリカ軍の尖兵として、最前線の激戦地に送り込まれることになるぜ、きっと。
ったく酷えもんさ。何時までアメリカの子分でいるんだい? さて教室が無くなって豊島第二国民学
校や仮校舎で分散授業。仰高国民学校と共に三菱思斉寮で授業。
 同21年仰高国民学校の廃校により同校を吸収。同22年仰高国民学校の跡地に新校舎を建て「東
京都豊島区立仰高小学校」と改称。
 同24年仰高小学校の学区から旧仰高東小学校の学区を分離、仰高東小学校跡地に「駒込小学校」
として移転。残った仰高小学校は旧仰高国民学校の復興と定義する。同30年校歌制定。

 校歌「
都の春に」 作詞作曲・不明
  1.都の春に名も高き
    染井の里の花よりも
    清く明るく誇らかに
    我らは咲かん駒込の
    愛と望みの学び舎に
    ああ駒込 われらの駒込小学校
  2.遥かな空に仰ぎ見る
    富士の高嶺の雪よりも
    強く正しく健やかに
    我らは伸びん駒込の
    愛と望みの学び舎に
    ああ駒込 我らの駒込小学校


 同42年創立50周年記念式典。
 平成4年12年地方自治法改正に伴う学校教育法により、校名から東京都の冠称が取れ、「豊島区
立仰高小学校」と改称。

 
二宮金次郎像
 正門右手方向の建物壁際にある。愚かな外国人文化人に唆されるままに日本文化が壊されていると
いうのに気が付かない日本民族。ああ哀れだねぇ。

 
庚申塔
 学校の角地に「染井吉野ゆかりの地散歩」の案内板があり、隅っこに祀られている。形から見ると
笠付の庚申塔であったと思われる。この道は、上中里前にある平塚神社から続く道であることから、
庚申塔は当初からここに造立され、道行く人の道標になっていたかと思われる。種子が主尊の庚申塔
で、瑞雲・日月・そして合掌する二猿がいる。「寛文十二年(1672)二月七日・・・」と刻んで
いる。合掌する猿はとても珍しい。側面には蓮花が浮き彫りされている。

   区立駒込小学校校内に60周年事業の一つとして、猿二体が刻み込まれた珍しい庚申塔が
   安置されております。風化して読みづらいのですが、七人の建立者名と寛文十二年の銘が
   かろうじて読めます。駒込には,この他に数基の庚申塔が周辺に点在しており、300年
   前頃にこの地域は庚申信仰が根づいていたことが分かります。(「駒込の歴史」より)


■染井坂

 駒込3丁目13番1号駒込小学校の西側の坂道。「染井坂 そめいざか」と刻まれた標識(石板)が
西福寺墓地のブロック塀に埋め込まれている。


■庚申塔

 駒込3丁目13番1号駒込小学校の西南の角地にある笠付角柱。日月・三猿。「寛文十二壬子」、
「三月七日」。左右両側面には蓮一花一葉。


■中央聖書教会

 駒込3丁目15番13号、日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の本部敷地内にあり、スッキ
リとしたフォルムが凛とした佇まいを見せるキリスト教の伝道所。神学校や図書館も併設しており、
当然ながら信徒のための教会だが、同時に外部に開かれた教会でもあり、訪れた人はキリスト教徒で
なくても歓迎している。キリスト教の真髄が伺えるイベントは、多くの人が楽しみにしてる。キャン
ドルサービスが行われるクリスマスをはじめ、イースターエッグ探しに夢中になってしまう復活祭、
縁日のような賑わいを見せる「アイスでポン」、子どもでなくとも心浮き立つものばかりだ。


■中央聖書神学校

 駒込3丁目15番20号、中央聖書教会の奥にある。
本校の母体となったのは、昭和4年弓山喜代
馬が開設した「聖霊神学院」。第二次大戦中に聖霊神学院は一時閉鎖を余儀なくされたが、同25年
日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の創立と相前後して聖霊神学院を吸収合併する形で中央聖
書学校(英語名はCentral Bible Institute)が開校した。
 同49年に現在の校舎が完成し、同52年には3、4年制の複式カリキュラムとなり、中央聖書神
学校(英語名は Central Bible College)と改称、時代に対応した伝道者の養成に励んできた。神学
士課程はアジア神学協議会(ATA)に認定され、さらに平成11~12年にかけて未来を担う伝道
者を育成するためにチャペル、寮、図書館などを新築。同18年にはカリキュラムが大幅に改定(3
年制・96単位)され、現在に至っている。
 


■妙義児童遊園

 駒込3丁目16番11号にある区立公園。


区内最古の妙義神社

 駒込3丁目16番16号にある。「日本武尊が東征の時、陣営を構えたところ」と伝えられ豊島区
最古の神社だ。また太田道灌が出陣に際し、文明三年(1471)、同九年(1477)、十一年(1
479)にも当社に戦勝を祈願し、その都度勝利を収めたことにより、勝負の神として「勝守り」を
授与している(神社庁の説明)。白鳥社、戦勝の宮とも。
 文明三年(1471)太田道灌が古河公方足利成氏との戦の時戦勝を祈願して、

   雲払う此神垣の風の音(道灌) 
   草をも木をも吹きしほりいく(兼信)


 の歌を詠んでるが、翌年にも宿敵豊島氏がこもる平塚城(北区の平塚城一帯)を攻めるに当たり、
戦勝祈願したことで知られる。「新編武蔵風土記稿」に、
 

   (上駒込村)妙義社
   祭神日本武尊、左は高産霊神、右は神攻皇后・応神天皇、凡四座皆白幣を神體とす
   社傳曰、日本武尊東征の時此所陣営となる、後社を建て白鳥社と号す、白鳳二年官人日奉
   部年雄下向して祀を奉せしと云、按に武蔵風土記豊島郡日頭白鳥神社、白雉二年辛亥五月
   所祭日本武尊也、神貢五十三束三毛田と載す、白鳳は白雉の誤にて、此風土記に掾て設し
   説ならん、殊に鳥越明神。妻戀稲荷も祭神日本武尊にて、白鳥神社の由傳ふれば、何れを
   是とも定かたし、又云文明三年五月足利成氏古河より葛西に出張して、上杉と対陣、然に
   上杉は鎌倉に退て長尾太田等同六月古河を攻落し、成氏千葉に奔走す、此出陣の前太田道
   灌当社に神馬寶劔を捧て祈念し、
   雲拂ふ此神垣の風の音 道灌
   草をも木をも吹しほり行 兼信
   兼信は道灌か近臣樋口與三郎なり、凱旋の後社領十五貫文を寄附す其時の詩云、
   秋風靡雲社前庭、一皇戎凶賊平、月光不倣暉神武、千歯赦乎奉威明 文明九年春道灌豊島
   勘解由左衛門と戦ひ、同十一年春千葉孝胤を攻の時も、当社にて牛込赤城の僧圓勧稲附普
   門院開山宥鎮等、怨敵降伏の法を修して合戦戦利あり、其後大永中江戸城代遠山丹波守修
   補す、永禄十二年武田信玄当国乱入の時守護富永神四郎財を棄て修補す、天正年中松田尾
   張守康秀か計として社領悉没収す、其後衰廃せしを寛永中代官野村彦太夫再建す、相殿神
   明宮昔の地頭今井弥平四郎茂義と云人の祀る所なり、茂義は上野の人なり、永享中に忠功
   ありて上杉憲実此地を與ふ、同十一年八月本国新田郷神明村の神明宮を当所新恩の地に移
   し祀ると云、神體天照太神荒御魂木の立像長一尺二寸八分、左に宝珠右に寶劔を持、又別
   に相殿一座天満宮太田道灌を祀る、神體は筑紫天拝山の青石也、長一尺余圍一尺六寸富永
   神四郎も崇信し、永禄中に社修造の時神明を左とし天満宮を右として祀ると云、又太田道
   灌の木像あり、長二寸八分束幣の姿なり元亀年中の棟札存す其図左の如し、(図省略)
   社寶
   刀一腰、菊一文字の作と云、錆て銘字読へからす、菖蒲作りなり長さ三尺二寸太田道灌寄
   附すと云。
   木印一顆。八角面径一寸五分松蔭印と云傳ふ、印文滅して読へからす、相傳ふ観應年中護
   国親王寄附せらると、護国は宗良親王の御事にて守邦親王にはあらすと云。
   尊意僧正像一体。運慶の作と云長二寸八分、右手に羽扇を持左手に念珠を掛け、脊に翼あ
   り、天満宮社傳曰法性坊尊意僧正は、延暦寺十三代の座主にて菅公祈の師なりと。
   千手観音像。木像なり、長二寸、文明年中太田道灌戦陣に臨まんとして、僧圓勧宥鎮二人
   に修法を命せし時の本尊なりと云作しらず。
   曲玉十六顆。鏡一面。圓鏡径三寸六分に和歌を刻す、増鏡掛てそ頼む神風の吹起すへき名
   をも家をも、三楽斎とある、させる古物ともみえず。
   板碑一枚。長八寸余の断碑なり、暦應□□□八月日白鳥宮と彫る、是恐らくは後人のもの
   せしなるへし。
   幣殿。
   拝殿。勝軍宮の三字を扁す。
   末社。
   稲荷庚申、寛永寛文の碑二あり是を神體とす。
   天王、点曲津日神を祀る、相殿に健日命健熊命を祀る、是を弓箭社劔刀社と号す、俗には
   二座を眷族社と呼て一神を二座に祀るとも云り。
   月社、太田氏家人十二名月待の碑を神體とす。
   神主若林熊王。神職昔は日奉氏小膝太郎とて西薫の族なり、管領家の頃は南薫と称し、又
   南一揆ともいへり、戦争の世姓名を変して稲葉左衛門と改む、然に熊王か先祖若林大膳相
   州川村より来て神職となる、寛永年間の事なり、夫より世々相続すと云、京都吉田家支配。

 とある。区の説明版は以下の通り。

   妙義神社(太田道灌公戦捷祈願之舊趾)
   当社の祭神は、高御産霊神・日本武尊・神功皇后・応神天皇である。文政十一年(182
   8)に成立した『新編武蔵風土記稿』の記述によれば、日本武尊が東征の時にこの地に陣
   営を敷き、のち白雉二年(651)五月に社を建てて白鳥社と号したという。これによれ
   ば、区内最古の神社ということになる。
   下って文明三年(1471)五月足利成氏との戦いを前にした太田道灌は当社に参詣し、
   神馬・宝剣を捧げて戦勝を祈願した。その際、「雲払ふ此神垣の風の音」と連歌を詠み、
   この戦いでは、成氏を敗走させたという。
   続いて道灌は、文明九年(1477)の豊島勘解由左衛門との戦いの際、さらに同十一年
   (1479)の千葉孝胤攻略の折にも戦勝祈願に当社に参詣したといわれている。こうし
   た故事から、「戦勝(かちいくさ)の宮」とも呼ばれて信仰を集めた。その一方で、大永
   年間(1521~1527)には江戸城代遠山丹波守が、また永禄十二年(1596)に
   は守護富永神四郎が当社を修理したものの、天正年間(1573~1591)に松田尾張
   守康秀が社領を没収したのち衰廃するなど、当社にとって戦国時代は波瀾の時期でもあっ
   た。
   境内には、寛永十九年(1642)十一月に駒込村の農民によって建立された庚申塔が遺
   されており、当該地域の信仰の拠点となっていたことが推察される。
   平成9年3月                       東京都豊島区教育委員会


 
庚申塔
 境内にある。

   豊島区文化財
   
庚申塔 
        寛永十九年(1642)建立。
   「新編武蔵風土記稿」妙義社の項に「末社稲荷庚申・寛永寛文庚申ノ碑ニアリ、是ヲ神体
   トス」とありて江戸時代には稲荷として祀られていた事が判る。昭和40年神社復興工事
   の際、境内土中より発掘され社殿左側奥に建立されたが今回の境内整備に伴い現位置に移
   された。尚、寛文二年(1662)の碑は戦災で失われたと思われる。
   平成10年9月建之

 道灌霊社
 拝殿の右横にある。黄色の神明鳥居が印象的。黄色の鳥居を見たのは初めてかも。

 
「稲荷明神、天満宮、弁財天」の碑
 庚申塔と反対側に立つ石碑。


女子栄養大学
 駒込3丁目24番3号にある私立大学。短期大学部と栄養学部(夜間)、別に香川栄養専門学校が
ある。大学本部は埼玉県坂戸市だ。
 大まじめに「日本が滅ぶ」と危惧されるほど、脚気が猛威をふるった明治時代のこと。香川昇三と
横巻綾の2人が勤める東京帝国大学島薗内科学教室では、当時発見されたばかりのビタミンB1を試
用し、目覚しい成果を上げていた。
 彼の文豪森鴎外が陸軍の軍医総監だったころ、脚気衝心を病原菌のせいだと主張して譲らず、何の
対策も立てず日露戦争に突入、死者4万人を出したが、大半はロシア軍の弾に当たって死んだのでは
なく、脚気による戦病死だった。一方海軍の高木兼寛は早くから米食に問題ありとして、所謂「ムシ
ヨ」、米と麦の混合比6:4の米麦飯にしたところ、忽ち脚気患者が皆無に近くなっていた。鴎外は
この事実を目の当たりにしても病原菌説にこだわって、天皇の赤子をむざむざ死に追いやった。この
ことが原因で森鴎外は、文学者としては名を成せたが、医学者であったことを国民が知らないという
汚点を残した。
 またかつては脚気は「江戸病」といわれ、地方出身の出稼ぎ者のかかる病気だったが、それは雇い
主から精米を食べさせられ続けたからだ。同じ精米を食べる江戸っ子の蕎麦好きは有名だが、脚気を
防ぐためのバランスのためであって、それは食物科学的に分析したものではなく、自然の知恵だった。
地方ではソバは粗食であり、地方出身の出稼ぎ者はソバを嫌って食さなかった。脚気や糖尿病は贅沢
病なのだ。
 さてだから綾は、島薗順次郎教授の、

   今の医者は人が病気になるのを待ってから治す。その本当の使命は人を病気にさせない
   ことなのに


 と嘆く一言に強く心を打たれ、

   日本ではまだ予防医学と栄養、そして食卓を結ぶシルクロードを歩いた者はいない。ど
   んな道かは判らないけれど、その終点には人間の〝健康な生命〟あるはず


 そう気づいた綾は、昇三と共に栄養学に生きる決意を次第に固くしていった。
 昭和5年結婚し、同8年「家庭食養研究会」を発足した2人は、栄養学を普及させるべく実践的な
活動を開始、講師はオリザニン(ビタミンB1)の発見者鈴木梅太郎教授を筆頭とする、東京帝国大
学の医学部や農学部の研究者たちが当たった。さらに一流の料理人が調理指導をした。

   ここでの講義の内容は東大と同じだ


 と講師たちが口を揃えていたことからも、その教育レベルは極めて高かった。
 同10年月刊誌『栄養と料理』創刊。同12年この研究会は入会希望者が次第に増えたこともあり、
「栄養と料理学園」に改称。同15年「女子栄養学園」と改称。全国から入学者を受け入れるように
なった。さらに同17年駒込に新校舎を新築。交通の不便な時代にも関わらず、遥々と九州から入学
者が訪れたり、台湾や朝鮮からも留学生が門を叩いた。
 昭和20年愚かなアメリカ軍の相次ぐ空爆によって誕生したばかりの駒込校舎はあっけなく灰燼に
帰す。しかし昇三と綾の意欲までは燃やし尽くせなかった。学園の存続を決意した2人は、100名
もの学生を連れて群馬県に疎開し、そこで細々と高レベルの授業を続けることにした。叩きつけるよ
うな雨の夜、空襲を警戒して提灯の明かりもないまま、這うように昇三の倒れた学生寮へと走る綾。
だがその願いも虚しく、生涯を栄養学の研究と普及にかけた昇三は静かに昇天した。一疎開者にすぎ
ない昇三のために、村人たちが立派な葬儀を出したという話から人柄が偲ばれる。以来昇三は現在も
この地に眠り続けている。


■女子栄養短期大学 → 女子栄養大学短期大学部

 終戦後、

   どちらか1人しか生き残れなくても、2人の意志として栄養学の仕事を続けよう


 戦時中に交わした昇三との約束に励まされながら、学園を復興させるために綾の苦闘が始まる。多
くの人の協力と理解の下、漸く学園再建の目処が付いた頃、駒込校舎の焼け跡に1人、一心に祈り続
けている綾の姿が見られたそうだ。そして同22年女子栄養学園は復活、同23年には財団法人香川
栄養学園設立した。また学園の再興と時を同じうして、綾は計量カップとスプーン作りに乗り出す。
昭和20年代はまだ尺貫法、メートル法、そのうえ宗主国である占領軍アメリカがやって来てヤード
ポンド法が加わり、単位の混乱状態にあった。調理のための計量器具もなく、食事用のスープスプー
ンやティースプーンがその代用として用いられていた。「茶掴み」「小指の先ほど」「一撮み」「大
匙一杯」などがそれだ。当然その計れる量も区々だ。栄養学に適った料理作りと指導には、正確な計
量器具が必須。
 調味パーセントの提唱に始まる綾の活動は、料理カードの作成、そしてこの計量カップ・スプーン
の開発により、30年を経て漸く一つの区切りをつけることになった。同25年の短期大学制度の公
布直後に学園は「女子栄養短期大学」へと生まれ変わり、食物栄養学科を設置、同26年母体は学校
法人香川栄養学園に改組した。同31年食物栄養学科第2部を設置。同36年「女子栄養大学」開学。
家政学部食物栄養学科を設置。同40年家政学部食物栄養学科を栄養学部栄養学科に改組。同42年
栄養学部2部を設置。同44年大学院(栄養学研究科修士課程)開設。同47年綾、勲二等瑞宝章受
賞。同55年栄養学部に保健栄養学科設置。平成元年大学院に博士後期課程を設置。同2年栄養科学
研究所を開設。同3年綾、文化功労者顕彰。同5年栄養学部に文化栄養学科を設置。同6年西オース
トラリアの3大学と交流提携。同7年大学院に保健学専攻修士課程を設置。同9年大学院保健栄養学
専攻に博士後期課程を設置。綾死去 位階「正四位」に叙され銀杯を賜与される。

 校歌
  1.新しき世紀の朝を
    若き我 此処に学びて
    身の糧と心の糧と
    真なる道を求めん
    いざ友よ 開けんかな
    遥かなる科学の窓を
  2.日は昇る駒込の丘
    建学の理想は高し
    曇りなき教えは続き
    善き思い胸にぞ溢る
    いざ友よ 行かんかな
    輝ける時の真中を
  3.桜匂う染井の辺り
    夕去れば星も光リぬ
    美しき母校の庭に
    学びしは明日の日の為
    いざ友よ 祈れかし
    限りなき人の世の幸


■染井能楽堂 解体(能舞台は横浜に移転)
 駒込4丁目2番23号カーサ駒込のところにあった。駒込橋交差点から染井通りに入り、鉄道陸橋
「染井橋」を渡って、三叉路を左折して50mばかりの右側だ。この細い道のソメイヨシノは見事で
あったが、昭和40年能楽堂の解体の取り壊しの際、伐採されてしまった。まあ私利私欲最優先、世
は、金、金、金。この能舞台は横浜に移築されるが、その元は明治8年上根岸82番地加賀は前田の
殿様前田斉泰が建てたものを、大正8年に譲り受けてこの地にあった松平頼壽邸に移したものだ。解
体後、水道橋の宝生能楽堂の倉庫に保管されていたが、横浜在住の観世流能楽師の田辺竹生が譲り受
けて、平成5年横浜の掃部山公園内に横浜能楽堂の舞台として復元された。    


■染井の杜広場(仮児童遊園)

 駒込4丁目3番20号プラウドA棟とB棟の間にある区立公園。


■駒込中学校 
 駒込4丁目5番1号にある区立校。昭和27年大塚中学校から分校して「東京都豊島区立駒込中
学校」として開校。同28年校歌制定。

 校歌「
緑も香る」 作詞・今関政徳  作曲・柏木俊夫
  1.緑も香る武蔵野に
    白銀の富士見晴るかす
    豊島の丘の松影に
    高き姿を慕いつつ
    励める我等 駒の如
    大和男子の雄々しさよ
    ああ 我等栄えある駒込中学生
  2.世の波風の荒ぶとも
    都の北に名も高き
    染井の桜 懐かしみ
    朝な夕なに勤しみて
    学べる我ら花の如
    大和女(やまとをみな)の優しさよ
    ああ 我等栄えある駒込中学生
  3.聖人
(ひじり)の教訓(おしえ)松の徳
    若駒踊る校章の
    閃く旗をを仰ぎつつ
    赤き誠心 視に染めて
    前途は遠し一路に
    共に進まん 我が友よ
    ああ 我等栄えある駒込中学
  


■駒込四丁目児童遊園 → 駒込四丁目公園

 駒込4丁目7番25号にある区立公園。


■大乗教団 
 駒込4丁目9番27号にある無宗派単立の寺。鉄筋コンクリート4階建て。向いに多宝塔会館、鉄
筋コンクリート2階建てがあり、外観からは規模の大きな宗教団体に見える。ただ道路側には全く掲
示板らしきものがないので、誰も宗教法人だとは気が付かない。階段を上がって玄関を見ると表札が
あってそれと判る。
 


■本郷中学校・高等学校 

 駒込4丁目11番1号にある私立校。旧高松藩第12代当主松平賴壽伯爵が創設。代々教育に大き
な情熱を注ぎ、多くの人材を輩出してきた旧高松藩松平家だが、国民の間に急速に中等教育が普及し
始め、誠之小学校を卒業した子弟の進学が困難な状況であったのと、当時の公立中学校の知育偏重・
画一的な教育を憂えた賴壽は、独自の知育・徳育・体育の均衡の取れた人間教育を行い、国家社会に
貢献できる有為な人物の育成をめざして、由緒ある染井の自邸を提供し、大正12年本郷中学校を開
校した。現在も松平家の頼武が理事長を務めており、中学校と高等学校を併設して中高一貫教育を推
進している。詳細な沿革は不明。
 授業は中高一貫教育の利点を生かして高校1年生の段階で高校2年生までの単元をすべて消化し、
その後それぞれの志望大学に向けて選択授業制となる。数学は高入生は数学を1年で1.8年分勉強す
る。独自の行事として、「本数検」という3回の学期始めに行われている階級が8級から弐段まであ
る数学検定がある。
 スキー教室は中学生の希望者を対象に、長野県湯の丸高原スキー場で実施。事前にスキー経験を調
査し、初級・中級・上級のレベル別に現地インストラクターが指導する。11月に中学生は7km、
高校生は12kmを走るマラソン大会がある。本郷祭(文化祭)は今も9月の終わりに開催されてい
るよ。
 高校では部活が盛んだった時代があり、ラグビー部やサッカー部は、全国を代表する名門だった。
ラグビー部は、昭和60年の第65回全国高等学校ラグビー・フットボール大会では準優勝をしてお
り、花園の常連校だった時代もあるが、難関国立大学を目指すコースの設定をはじめとする、大学進
学指導体制の強化など学力養成を重視した教育方針への転換を期に部への入部者も年々減少し、近年
は全国大会への出場も少なくなったが、平成19年度は4年ぶりに全国大会へ出場した。
 過去には、普通科の他に理数科・機械科・デザイン科の4学科を設置しており、個性豊かな生徒が
通う時期もあったが、前述の通り教育理念の改変による科の統廃合のため、現在は普通科のみの編成
となっており、特進コースの設置や付属中学にも特進予備クラスが設置されるなど、中高一貫の進学
教育へと転換している。但しデザイン科からは秋本治・原哲夫・藤原カムイらをはじめとして多く
の漫画家を輩出している。
 
水泳部はあるがプールは無く、東京スイミングセンターにて活動を行っている。このプールもない
学校から、オリンピックのゴールド・メダリスト北島康介が飛び出した。
 そのほか北原照久(おもちゃコレクター)・江原啓之(スピリチュアルカウンセラー)・亀井忠雄
(能楽 人間国宝)・佐々木忠次(東京バレエ創設者)が卒業した。

 校章
 一貫教育なのに校章は中学と高校では異なっている。中学校のは「本中」を縦に図案化したシンプ
ルなものだが、高校のは「本中」の図案文字を支えるように2輪の桔梗の花が添えられている。
 


■鉄拐堂(仙人堂)跡
 駒込4丁目12番の辺りにあった藤堂家下屋敷内の庭園。李鉄拐は中国の八仙の一人。この庭園に
あった、藩主高虎が朝鮮出兵の折に持ち帰ったといわれる鉄拐仙人像など怪異な石像11体が、昭和
の終わり頃まで、同家家老の家筋に残されていた。
 


■仰高尋常高等小学校 → 仰高国民学校 
廃校
 駒込5丁目1番19号、染井霊園の東側にある区立校。「ぎょうこう」と読む。明治9年駒込富士前
町70番地の長源寺において「第四中学区第十八番公立小学仰高学校」として開校。校名は『論語』
の「孔子の教えは仰ぎ見ればいよいよ高し」から採用した。同12年学制が廃され教育令に変わり、
学区番号がなくなり「迎高小学校」と改称。同13年町内に私立校があることと、前年の15区制施
行により地理的矛盾が生じたため経営難となり休校。同17年駒込村1300番地に、高等科を併置
して「駒込小学校」として再開。同20年小学校令により義務教育(4年)が確立して「駒込尋常高等
小学校」と改称。同22年本郷区の管理となる。同24年本郷区の管理を離れ巣鴨町1丁目に移転。
「東京府北豊島郡仰高尋常高等小学校」と改称。8月巣鴨町大字巣鴨1丁目13番地に新校舎を建て
移転。同39年巣鴨町大字巣鴨2丁目48番地に新校舎を建て移転。
 大正2年4月巣鴨町大字上駒込字東稲葉谷津265番地の駒込幼稚園に分教場を設置。9月巣鴨町
大字巣鴨字平松の天神山に分教場設置。同6年駒込の分教場が分校し「仰高東尋常小学校」として独
立。同8年天神山の分教場を分校し「仰高西尋常小学校」として独立。同15年校歌制定。

 校歌「
大いなるかな」 作曲・五十嵐力  作曲・山本正夫
  1.大いなるかな大東京
    清々しきや巣鴨なる
    み空仰ぐ学び舎
    我らが仰高小学校
    この学び舎に学ぶ吾等
    進め登れ遠く高く
  2.人各々の性により
    実践躬行怠らず
    各々個々の器なす
    個性よ体験創造よ
    三つの標語を守りつつ
    進め登れ遠く高く
  3.所は日本の帝都なり
    時は昭和の大御世ぞ
    名は高きをば仰ぐてふ
    
重畳る恩寵(めぐみ)(かしこ)みて
    進め登れ遠く高く

   ※昭和5年「重畳る恩寵(かさなるめぐみ)」を「かさなる恵」に改訂。作詞者は早稲
    田大学教授、作曲者は豊島師範学校教諭。

 昭和3年「仰高北尋常小学校」を分校。同7年北豊島郡の東京市併呑により「東京府東京市仰高尋
常高等小学校」と改称。同16年勅令148号国民学校令により「東京府東京市仰高国民学校」と改
称。12月日本海軍の真珠湾攻撃により日米開戦。同18年都制施行により「東京都仰高国民学校」
と改称。同20年4月愚かなアメリカ軍の非人道的無差別の東京西部大空襲により校舎全焼失。8月
日本はポツダム宣言を受諾、ならず者国家アメリカの軍門に降り敗戦。以後その属国となり、唯々諾々
として言い成りになる保守傀儡政権を保持せざるを得ない今日的不幸を背負い込む。売れない国債を
買わされるやら、思いやり予算やらでもう200兆円以上がとこを持って行かれたよ。日本娘がレイ
プされても地位協定で国は見て見ぬ振りをするので泣き寝入り、これからの若い者は、保守傀儡政権
の謳う「国際協力(昔は八紘一宇といった)」の名目の下、アメリカ軍の尖兵として、最前線の激戦
地に送り込まれることになるぜ。ったく酷えもんだ。何時までアメリカの子分でいるんだい? さて
教室が無くなって豊島第二国民学校や仮校舎で分散授業。仰高東国民学校と共に三菱思斉寮で授業。
同21年仰高東国民学校に吸収され廃校。



■仰高小学校 復興
 同22年戦勝国アメリカの強制による学制改革(学校教育法施行)で「仰高東国民学校」は仰高国
民学校の跡地に新校舎を建て「東京都豊島区立仰高小学校」と改称。同24年旧仰高東の学区を分離
し「駒込小学校」と改称して移転。残った仰高小学校を廃校となった仰高国民小学校の継承校として
復興。
 平成12年地方自治法改正に伴う学校教育法により、校名から東京都の冠称が取れ、「豊島区立仰
高小学校」と改称。 


■津藩藤堂家下屋敷・染井遺跡(三菱重工業染井アパート地区)
 駒込5丁目3番にあるこの地区は、4丁目にかけて江戸時代に藤堂家の下屋敷・抱屋敷があった場
所で、平成7年の発掘調査により、18世紀後半の紅化粧・鉄漿(おはぐろ)・眉化粧・髪化粧に関
する道具一式が良好な状態で出土した。これらの資料は、肥前産の上質な陶磁器が含まれ、鉄漿を入れ
る金属容器(潼水)の文様に藤堂家の家紋「藤堂蔦」が刻まれていることなどから、藤堂家または有
力家臣の家族が使用していたものと考えられる。
 


■東京スイミングセンター
 駒込5丁目4番21号にある。北島康介や中村礼子などのオリンピック代表選手を始め、数多くの
優秀な水泳選手を輩出している。昭和41年11月日本水泳連盟は奈良県で全国コーチ研修会を開催
した。当時日本水泳界は、東京オリンピックで競泳陣惨敗を受け、強化計画を検討している矢先だっ
た。日本水泳連盟名誉会長田畑政治と日本水泳連盟会長の奥野良ら関係者は、中山正善氏(東京スイ
ミングセンター設立者)と会い、水泳日本再建についての懇談が行なわれた。田畑氏は「水泳日本の
再建には、選手強化に使えるプールが東京に必要だ」と中山に訴えた。中山は田畑に水泳日本復活の
ために協力する事を約束した。このような経緯で、同43年6月に東京駒込の地に東京スイミングセ
ンターが誕生する事となった。ヘッドコーチには小柳清志氏(当時日本水泳連盟競泳委員)が当たる
ことになり目標は『オリンピックで旗をあげる選手を輩出する』ことだった。同55年オリンピック
モスクワ大会に久米直子、渡辺智恵子の2名の選手が東京スイミングセンターより最初の日本代表と
なった。同59年ロスアンゼルス大会には久米直子、関戸直美が日本代表として出場。久米は東京ス
イミングセンター初のファイナリストとなる。その後同63年のソウル大会には三浦広司(男子選手
では初代表)、平成4年バルセロナ大会には木村衣里(ファイナリスト)、同8年アトランタ大会に
は吉見譲、同12年シドニー大会には北島康介(ファイナリスト)が日本代表となった。設立より3
6年目同16年アテネ大会では北島康介、中村礼子、三木二郎が日本代表となった。この大会におい
て夢であった『オリンピックで旗をあげる選手を輩出する』を実現する。北京大会では北島康介、中
村礼子、上田春佳の3名が出場し北島康介の2冠2連覇、中村礼子の競泳女子では唯一のメダル獲得
並びに女子では72年振り2大会連続メダル獲得という偉業を成し遂げた。同24年ロンドン大会で
は平井伯昌ヘッドコーチの下、加藤ゆか、上田春佳、寺川綾、北島康介が日本代表となり、個人種目
で寺川綾が、男子400mメドレーリレーで北島康介がメダルを獲得。 そして加藤ゆか、上田春佳、
寺川綾の3人が出場した女子400mメドレーリレーでも見事メダルを獲得した。
 


■駒込西公園

 駒込5丁目4番33号にある区立公園。


染井霊園
 駒込5丁目5番1号にある都営霊園。かつては幕府の薬草園があった。明治5年に山田文応の努力
で創設された。播州林田藩建部家の屋敷跡で、長池という広大な池(谷戸川の水源の1つ)とその一
帯を埋め立てて開設された670000㎡、5500家が使用するの公営の共同墓地だ。
 ここには、小説家二葉亭四迷こと長谷川哲之助(インド洋で客死したのでシンガポールにも墓があ
る)
二葉亭とともに言文一致の主唱者である山田微妙、美術界の岡倉天心、彫刻家高村光雲、その
光太郎・千恵子夫妻、なお高村光太郎・智恵子夫妻の墓の前にある碑は「花をさすと人はいへども
わがつくる壷はもろ手にかき抱くべき 豊」の碑文は、光太郎の弟で鋳金家、人間国宝高村豊周の歌
だ。側のふくろうの置きものも豊周の作だ。元首相若槻礼次郎、同じく幣原喜重郎、女性解放運動の
先駆者福田英子、大逆事件の犠牲者奥宮健之、明治女学校の理想を掲げた巌本善治、早稲田大学の
総長をやった高田早苗、北海道の名付け親松浦武四郎、帝大総長浜尾新、五箇条の御誓文の起草者
岡孝弟
、海軍大将樺山資紀、俳人水原秋桜子、著述家宮武外骨、新劇俳優で演出家千田是也、日本画
梶田半古、実業家石川一郎、幕末の写真家下岡蓮杖、国家主義運動家安岡正篤、評論家笹川臨風
といった人々の奥津城が並ぶ。
 また藤堂家の墓所があるのは、霊園を含め4、5丁目にかけて60000坪を擁した同家の下屋敷
があったことによる。またこの霊園や雑司が谷霊園、大塚の養育園の建設費は、老中松平定信が、寛
永三年(1791)から始めた七分積金制度(町入用を節約して、倹約分の7割を窮民救済と低利金
融のために積み立てさせた政策)による町会所積立金を、明治に入って東京市が引き継いで運用し、
その一部支出したものだそうだ。明治政府も結構まじめにやってたんんだねぇ。私利私欲だけの今の
官僚とは雲泥の差だ。

 染井通り・七軒町
 霊園南の管理事務所から南東に、六義園北の駒込橋交差点まで伸びる800mばかりの直線道路を
いう。江戸時代この道の両側に植木屋があったそうだ。花咲か七軒町植木の里。江戸期~明治2年駒
込村の内、延享二年町奉行支配となる小石川伝通院領麟祥院領の2つの町屋があった昔、家作が7軒
あったので駒込七軒町の名が起きたという。染井七軒町とも呼ばれた化政期の家数は「町方書上」に
よると29軒。明治元年東京府に編入。同2年駒込染井町と改称した。駒込1丁目の内。

 
長池堤
 染井とは濁った湧水池の意だ。つまり染物ができる泥井、もしくは鉄分の多い金井だ。長池はこの
湿地を掘って溜池とし、その掻き揚げを堤としたものだろう。染井を池として水を湛えたら、沈殿し
て水が澄み、水源地としての機能を十分果たしたという訳だ。

   長池堤
   
長池は、かっての谷戸川の水源にて、古地図(安政三年〔1856〕の「駒込村町一円之
   図」)によれば巣鴨の御薬園と藤堂家抱え屋敷にまたがる広大なもので長さは八十間(約
   158m)幅は十八間(約32.4m)もあったという。この池は現存していないが、この
   案内板下の窪地一帯がその跡地(約半分で残り半分は道路部分)と思われる。かっては清
   らかな湧水が池を満たし、清流となって染井霊園沿いに流れていた。池から西ヶ原あたり
   までは「谷戸川」、駒込の境あたりで「境川」、北区に入り田端付近で「谷田川」、さら
   に下流の台東区根津付近からは、「藍染川」と呼ばれて不忍池に流れこんでいた。(全長
   約5.2m)。 明治末期には周辺の開発等もあり、湧水も減少して池も小さくんなり、大
   正に入って埋め立てられた。
   ここに、在りし日の湧水清らかな「長池」とその清流「谷戸川」をしのび記念の一文を残
   すものである。
   平成14年3月ソメイヨシノの咲き乱れる佳日に           東京都染井霊園

 松平定敬の墓・松平定教の墓
 並んである。定敬は、高須藩主松平義建の高須四兄弟の末弟。兄に尾張義勝、一橋茂栄、保科保容
がいる。桑名藩主松平定猷の婿養子となり藩主となる、定猷の子萬之助を養子とし、定敎として跡を
継がせる。幕末期の大名。


   公諱定敬幼稱鍥之助晩號晴山高須侯松平義建之第七男以弘化丙
   午生年甫十四出繼桑名藩主英哲公之後襲封任越中守元治甲子以
   持命補京都所司代與一橋公會津侯協心大盡力於國家既而事與志
   違戊戌難起蒙譴屏居壬申春被特赦公深感激報恩之念極切矣及西
   南亂起公乃文奉 朝■有所盡力以特■敍正五位賜恩賞品爾後累
   陞敍従三位二十七年補日光東照宮宮司無幾辭免三十四年敍正三
   位四十一年罹病七月二十日特■敍従二位其明日薨享壽六十三越
   二日以禮葬于染井瑩域公天資明毅善納人之諫自少脩文講武雖居
   剽職之際亦未嘗怠其講習日課之業晩年愛音樂特脩禅有所造詣配
   松平氏先逝側室松平氏擧男曰定晴襲子爵定教公之後

 
※■は「上」の下に「日」という字。
 松平定敎は、定猷の子。幼き頃父定猷が死んだため跡を継げず、跡を継いだ定敬の養子となり、長
じて養父定敬の跡を継いで桑名藩主となる幕末の大名。


   子爵幼名萬之助故桑名城主英哲公庶長子以安政四年四
   月二十三日生明治二年八月承先祀敍從五位任桑名藩知
   事四年七月藩癈十七年錫子爵任式部官二十四年辭免三
   十年陞敍正四位此歳爲貴族院議員三十二年五月二十一
   日病逝享壽四十三其二十五日以禮葬于染井瑩域    
 


大師道道標 
 駒込6丁目1番1号利休庵のブロックへいに嵌め込まれている。駒込6丁目11番4号の西福寺へ
の道標。


■そめいよしの児童遊園

 駒込6丁目1番6号にある区立公園。


実妙山法成 
 駒込6丁目8番11号にある顕本法華宗の寺。寛永元年(1624)藤堂和泉守の祈願所として両
国矢の倉に創立した。後浅草に移り、堂塔伽藍を備え、大本山対房総三ヶ国の巨刹間の連絡通信をと
る根拠として宗門における役割を担っていた。関東大震災により焼失し、昭和18年現在地へ移転。
同22年日蓮宗を離脱し、顕本法華宗となる。同25年再建に着手し、同29年完成し現在に至って
いる。「御府内寺社備考」に、

   京都二条妙満寺末 実妙山法成寺 境内拝領地五百九十四坪門前町家有之。慶長十五年、
   矢野倉寺町ニ番地。開基ハ日位、俗名不知。寛永四年三月十六日卒ス。在住十八年。干時
   寛永二十一年正月十五日類焼仕候。此節矢野倉寺町御蔵地御用地ニ被召上、為替地矢野倉
   寺町之以坪数、今之浅草新寺町之地坪拝領仕候。右外之儀者棟札等焼失ニ付不詳。


 とある。
 


大和郷幼稚園
 駒込6丁目9番7号にあるお受験難関幼稚園。江戸時代、この辺りには加賀百万石前田家の中屋敷
があった。明治維新後、隣接する六義園共々三菱財閥の岩崎弥太郎の所有地となった。大正時代にな
ると下町に木造家屋が密集した東京の劣悪な住環境が社会問題となり、華族が所有していた広大な土
地を市民に解放しようという運動が起こり、岩崎家もこれに影響されて長男久弥が、六義園西側の土
地を市民に提供することを決めた。大正11年から分譲を開始したこの新しい住宅地は、ゆとりのあ
る土地区画と整然とした道路の町並みで「大和郷(やまとむら)」と名付けられた。名前の由来は、
隣接する六義園が、もと大和郡山藩(奈良県)の藩邸だったことによるが、日本(大和)の住宅地の
範となる理想郷を造るという気概もこめられていたのだろう。そして実際に「大和郷会」という住民
の自治組織が作られ、初代名誉郷長は首相を務めた若槻礼次郎だった。現在も社団法人として存続し
ている。この大和郷会が設立したのが「大和郷幼稚園」で、美智子皇后がご幼少のころ1年間だけ通
園したことで有名になり、このことで箔が付き、現在では難関のお受験幼稚園になっているという。
タレントの山口もえも卒園している。
 


藤林山歓喜院西福寺
 駒込6丁目11番4号にある新義真言宗豊山派の寺。慶長元年の開創だが、それ以外のことは判ら
ない。駒込では福寿院とともに江戸時代からある古刹。明治以前は藤堂家の祈願所として裕福だった
が、廃藩置県後、藤堂家の人々が伊勢に戻ってから衰微し、30余年に亘って無住だったことがある
という。境内に明暦元年(1655)に建てられた区内最古の六地蔵がある。舟形石に6体の地蔵が
彫られている。

   真言宗豊山派
   
藤林山歓喜院西福寺               豊島八十八ヶ所霊場62番札所
   真言宗豊山派の寺院で、藤林山歓喜院と号し、西ヶ原無量寺の末寺である。
   本尊は、徳一大師の作といわれている木造阿弥陀如来立像である。創建の年代は明らかで
   ないが、「江戸切絵図」や「江戸名所図会」「新編武蔵風土記稿」などにも記事があり、
   駒込に江戸時代から続く寺院である。
   この寺が位置する染井地域は、江戸時代、大名屋敷が多くあり、近くに津藩藤堂家の下屋
   敷があったことから、その祈願寺となっていた。また、近隣には植木屋も集住しており、
   その菩提寺ともなっていた。
   かつての境内地は、非常に広大であったが、明治維新後に縮小されたといわれている。
   境内には、明暦元年(1655)に造られた六地蔵がある。これは「六道」すなわち地獄
   道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道について教えを説くための六体の地蔵が刻まれ
   たものであり、豊島区内では最古のものである。
   墓地には、徳川将軍家の御用を務めた植木屋として名高かった伊藤伊兵衛政武(4代目、
   宝暦七年(1757)没)の墓がある。政武は樹仙と号し、『増補地錦抄』などを著わし
   た、江戸時代の先駆的な植木屋である。この墓所は、東京都史跡に指定されている。
   平成23年3月                         豊島区教育委員会

 弘法大師行脚像
 境内にある銅製立像。弘法大師は空海。

 ソメイヨシノ
 一代種ソメイヨシノ発祥の地なので、境内にソメイヨシノが10本あり、春には見事な花景色を転
回する。

 
伊藤伊兵衛正武(樹仙)の墓
 正武は、上駒込村の植木屋四代目伊兵衛で、樹仙と号した。江戸中期の著名な庭師。8代将軍吉宗
の時、江戸城内の庭園・樹木の管理一切を託されていた。和種の深山楓に舶来の楓を接木したり、絵
画をよくし、草木に関する著書も多く、宝永から享保にかけて(1704~36)『増補地錦抄』『広
益地錦抄』などを著し、庭園技術の普及に努め、宝暦七年(1757)に没した。墓碑は都の史跡に
なっている。他に染井に住んだダダイスト辻潤の墓がある。

   伊藤政武墓
   江戸時代中期の園芸家。政武は江戸の北、染井村(現在の豊島区駒込6、7丁目付近)の
   伊藤三之丞の子として延宝四年(1676)に生まれた。号を樹仙という。伊藤家は代々
   伊兵衛を名乗り、近くの伊勢津藩藤堂家の下屋敷に出入りして、庭の世話をしているうち
   に植木屋となり、江戸第一の種苗商となった。その種苗目録を『地錦抄』という。4代目
   の政武は江戸城にも出入りして将軍吉宗の御用植木師となり、城内の植木を管理していた。
   日本の園芸が独自に発達したのは江戸時代であり、キク、ツバキ、カエデ、ツツジ類、ア
   サガオなどの園芸植物が改良され、また、朝鮮や中国をはじめ外国からも多くの植物が輸
   入されている。政武は特にカエデを好み、深山楓に舶来の楓を接き木することに成功した。
   写実的な絵画を得意とし、園芸植物に関する著書に『草花絵前集』『増補地錦抄』『広増
   地錦抄』『地錦抄附録』などがある。宝暦七年十月二日、81歳で死去した。
   平成5年3月31日建設                     東京都教育委員会


 伊藤伊兵衛
 
染井村を花の名所でガーデニングの里にした植木屋の代々名。将軍家御用で、植木のためなら江戸
城出入り自由。正保年間(1644)に日向国霧島山のつつじ(深山霧島)を薩摩経由で大坂に持ち
込み、さらに京に上らせて御所内に留め、明暦2年(1656)のころ面向・無三・唐松の3種を江
戸に下し、繁殖させて全国に株分けした伊兵衛は、4代目の正武だ。号樹仙。

   伊兵衛出ませいと大きな買人
   これ伊兵衛 梢で「はっ」と御答え
   名の知れぬ名前で伊兵衛は呼び出され
   林泉のためなり伊兵衛御ン出入り
   もし御鞭御鞭と伊兵衛持って駆け
   冥加さは伊兵衛が花壇人払い

 
伊達慶邦公墓址記念碑
 墓地の旧墓所にある。墓碑が仙台の伊達家墓所に移転したため、跡地に墓碑があったことを記念す
るために建てられた。まあ墓といってもいい。

   伊達慶邦公墓趾記念碑
   陸奥国仙台藩13代藩主伊達慶邦(だてよしくに)公は、明治7年逝去され、御遺体は当
   寺に納められた。明治23年に仙台大年寺伊達家墓所へと改葬された。その後、大正9年
   に、家臣であった佐藤素拙の意思を継ぎ、その子佐藤喜六により慕址記念碑が建立された。
   慶邦公報恩謝徳の為、仙台藩士として長く公に仕えてきた佐藤素拙検証の為、建立された。
   平成23年4月吉日                         藤林山西福寺

 辻潤の墓(秋覚義道信士)
 翻訳家、思想家。日本におけるダダイズム(虚無的芸術思想)の中心的人物の一人とされる。画家
で詩人の辻まことは伊藤野枝との長男だ。
 明治17年東京市浅草区向柳原町(台東区浅草橋)に市の下級官吏の長男として生まれる。はじめ
裕福だった家は、彼が東京府開成中学校に入学した12歳の頃には没落し始め、中学は自主退学。そ
れから給仕などをこなしつつ国民会医学会の夜学に通い、同41年に東京市の小学校代用教員となっ
た。この頃から幸徳秋水の「平民新聞」を購読し、やがて多くのアナキストとの親交を持つに至る。
 同42年には上野高等女学校(上野学園中学校・高等学校)の英語教師となるかたわらロンブロー
ゾの著作を『天才論』と題して訳し始めるなどしたが、大正元年、生徒だった伊藤野枝との恋愛問題
で同校を退職させられ、以後定職に就くことはなかった。同二年伊藤野枝との間に生まれた長男が辻
一(辻まこと)だ。同3年には『天才論』は出版され20数版を重ね、妻野枝は雑誌「青鞜」の主力
として活躍する。また同じ頃、アナキスト大杉栄が辻夫妻と出会っている。
 同5年「青鞜」廃刊、野枝は大杉を追って出奔。辻潤ははじめ浅草で「英語、尺八、ヴァイオリン
の教授」の看板を掲げ、後には放浪生活同然の境遇となる。この間、同11年頃ダダイズムの運動を
知り、自らをダダイストと名乗るようになった。また同12年には関東大震災で大杉栄、伊藤野枝ら
は憲兵大尉甘粕正彦らによって虐殺されるが、これに対して『ふれもすく』で、「まことに悲惨であ
る。惜しむべきである。悲しむべきである。更に恐ろしいことであり、お話にならぬ出来事である。
開いた口が塞がらぬ程に馬鹿気たことである」と書いている。同13年には、読売新聞に連載してい
たエッセイ「惰眠洞妄語」の中で、刊行されて間もない宮沢賢治の詩集『春と修羅』を取り上げて高
く評価した。これは、賢治が中央の文芸関係者に評された最初の事例だった。
 読売新聞社の第1回文芸特置員という名目でパリに約1年滞在するも、殆どの時間を、中里介山著
『大菩薩峠』を読み耽って過ごす。帰国後もマックス・スティルネル著『唯一者とその所有』など著
訳書の出版、詩文の雑誌掲載は相次いだものの、昭和7年頃から、2階から「俺は天狗だぞ」と叫び
ながら飛び降りたりパーティー会場で「クワッ、クワッ」と言いながらテーブルの上を駆け回るなど
精神異常の兆候が現れ、やがて精神病院への入院・虚無僧姿での放浪・警察による保護の繰り返しの
日々となる。
 同8年、「変な頭」という文章に、「自分も幾度か「歎異抄」という書を繰り返して読んで、親鸞
の説に傾倒しているのだが、いかんせん未だに親鸞のような絶大な信仰を獲得することが出来ないか
ら、自分では情無いことだと考えているばかりで、どうかしてそのような「安心立命」を得たいもの
だと秘かにに念じてはいるのである」などと書き、仏教に救いを求めていることが窺われる。
 同19年漸く放浪を終え東京都淀橋区上落合のアパートの一室に落着くが、11月24日室内で死
亡しているのを発見された。死因は餓死と見られる。
  


■染井稲荷神社
 駒込6丁目11番5号、西福寺の西隣にある。神体は十一面観世音(稲荷大明神本地)石像。

   1.ずっと昔からあった染井村
     いまのそめいよしの町会のあたりで350年前にその名を刻んだ石像がある。
   1.建てられたのは300年以上も前。関東大震災や戦災にも拝殿本殿は燃えなかった。
     火防の神。
   1.ご神体は2体。保食命と320年前に御霊入れされた十一面観音の石像が安置されて
     いる。
   1.珍しい大切な宝もの
     葵のご紋入り瓶子(お酒を飲む道具)一対や、奉納舞につかわれた古い締太鼓と胴長
     鼓が保存されている、「カンシンの股くぐり」の額も貴重なものです。

   午の日に返す染井の借りた傘
 


■駒込六丁目児童遊園

 駒込6丁目25番2号にある区立公園。


■有松坂

 駒込6丁目と7丁目の間坂道。かつて坂上に〝有松〟という人が住んでいたため,この坂名で呼ば
れるようになったといわれる。


■泰宗寺

 駒込7丁目1番1号にある曹洞宗の寺。霊園正面入口の手前右側の染井通りに面したところだ。創
建は慶長十年(1605)といわれ、京橋八丁堀から下谷の北稲荷町に移り、さらに明治40年に現
在地にやってきた。

 千社札の天愚孔平の碑と墓
 入口の左側にある。納札(千社札)を復活したことで知られる。千社札は室町時代に大流行したが、
その後衰え、孔平が再び起こして今日に至っているという。孔平は継竿を使い、その先に刷毛を付け
て高いところに貼る工夫をした。しかし実はそのために全国の神社仏閣は困っているのだ。そういっ
たところは木造建築が多く、千社札を貼られるとその箇所が傷み、剥がすには職人を頼んだり、高所
作業車を借りたり大変な費用が掛る。迷惑千万、そんなものを貼ったからといってご利益はない。
 


■天理教東京教務支庁

 駒込7丁目1番4号にある日本の新宗教の一つである。教祖中山みきにより伝えられた親神天理王
命(てんりおうのみこと)を崇拝対象とする。同じ江戸時代末期に開かれた黒住教、金光教と共に日
本3大新宗教の一つに数えられる。狭義には奈良県天理市に本拠地を置く包括宗教法人(宗教法人天
理教)及びその傘下の非包括宗教法人等(教会本部及び一般教会)からなる宗教集団を指し、広義に
は中山みきが伝えた教義そのものを指す場合がある。
 宗教法人天理教は天理市にあり、「天理教教会本部(略して教会本部)」と称する。教祖は中山み
き。教会本部では「教祖」と書いて「おやさま」と呼称。みきは90歳で死亡し、肉体としての身は
隠したが、その魂は今でも現世に生きており、人々の暮らしを見守っているという信仰がある。天理
教では、現在の教会本部神殿内の場所において人類が発祥したとしている。その場所を「ぢば(地場)」
としており、教祖の「ぢばさだめ」という啓示で場所を定めている。丁寧語の「お」をつけて「おぢ
ば」と呼称されることが多く、人間がこの地を訪れることを「人間の故郷に帰る」と説き、「おぢば
がえり」という。天理駅や天理市内の信者詰所等には「お帰りなさい」という看板が見られる。「ぢ
ば」の正確な位置に目標として「甘露台」が置かれている。教会本部には「甘露台」が据え置かれた
「神殿」があって、その周りに信者等が礼拝する「礼拝場」がある。「礼拝場」の他に、教祖を祀る
「教祖殿」、信者等を祀る「祖霊殿」があり、誰もが自由に出入りすることができる。「神殿」では、
毎日朝晩に「おつとめ」という定例の礼拝が行われ、毎月26日は「月次祭(つきなみさい)」とい
う礼拝が行われる。傘下にある一般教会等においても、その例に倣って、「親神」「教祖」「御霊」
の三者を祀る神殿を設置し、「おつとめ」や「月次祭」の礼拝が行われている。礼拝する際、信者は

   あしきをはろうてたすけたまえてんりおうのみこと

 と唱え、そこに定まった手振りを加え、親神天理王命に祈りを捧げる。第二次世界大戦後、教団
が「最早教派神道ではない」と宣言し、新宗教諸派として称しているが、現在でも葬儀式に見られ
るように神道色が濃い。このような経緯から「神道系新宗教」とみなされることがあるが、天理教
側では神道系とは称しておらず、宗教法人としての届けは「諸教」としてなされている。天理教は
「かなの教え」とも説かれる。中山みきが、民衆にも分かりやすく説きたいとの意思から、「おふ
でさき」「みかぐらうた」が仮名で書かれている。教義等に使われる言葉の多くが「かな表記」に
されている


■伊藤伊兵衛屋敷跡 → 染井
専修院正業山専修院迎接寺(こうしょうじ)
 駒込7丁目2番4号にある浄土宗の寺。明治43年に浅草から移転。植木屋・伊藤伊兵衛の屋敷跡
として知られている。中でも3代目の三之丞は、ツツジの栽培に力を注ぎ、染井のツツジは江戸の名
所として一躍有名に。この地を中心に染井村は園芸の里として賑わった。
 富本豊前掾代々の墓、板碑、宝篋印塔がある。「御府内寺社備考」に、

   西久保天徳寺末 浅草新寺町 正業山迎接寺専修院、境内拝領地七百五十坪。
   当寺起立之儀、数度類焼ニ而旧記無御座、相知不申候。
   開山得蓮社業誉上人迎阿弁教和尚、元和三年三月二十九日示寂。
   客殿、本尊阿弥陀如来、本座像長二尺四寸。脇立観音勢至、共長一尺四寸。 地蔵尊、善導
   大師。弘覚大師安置。右地蔵尊別ニ堂有之候処、類焼後再建不仕候。
   富士浅間社。稲荷社。以上甲乙書上


 とある。

   浄土宗
   正業山専修院迎接寺(伊藤伊兵衛屋敷跡) 
   専修院は、元和三年(1617)、一説に慶長二年〔1597〕)、開山である得蓮社業
   誉上人迎阿弁教和尚が江戸の浅草新寺町(台東区松が谷1丁目)に創立した浄土宗の寺院
   であり、正式には正業山専修院迎接寺という。本尊は阿弥陀如来である。
   その後、東京府による市区改正事業のため、明治41年に浅草区北松山町61番地から北
   豊島郡巣鴨町大字上駒込字染井888番地(現在地)に移転し、現在に至っている。
   この土地は、江戸時代に多数の植木屋が集住していた上駒込村染井を代表する伊藤伊兵衛
   の屋敷跡と考えられ、平成9年4月から6月にかけて実施された埋蔵文化財発掘調査では、
   おもに植木屋が繁栄した江戸時代後半の遺構が発見された。建物の礎石や地下室のほか、
   溝や生け垣を何度も作り直した跡などがあり、広い敷地の中を区切って利用していた様子
   がうかがえる。さらに縄文土器も出土しており、周辺に縄文時代の遺跡が広がっているこ
   とも確認された。境内には、伊兵衛に関係するとみられる寛永十八年(1641)造立の
   宝篋印塔をはじめ、乾元二年(1303)造立の板碑、富士講先達の元祖である藤原角行
   や浄瑠璃の富本節家元である富本豊前掾代々の墓など、多くの貴重な文化財が残されてい
   る。
   平成11年3月                      東京都豊島区教育委員会

 歯科医師フレッド・C・シャーマンの墓

   
フレッド・シー・シャーマン墓
   昭和50年4月29日歿 79歳 佛光印紫山平等沙満居士
   故F・C・シャーマン先生は、昭和24年12月来日されてより27年の長きにわたり、
   お茶の水の地にて無料歯科診療 英会話 料理教室など日本人のために尽されました。
   こよなく愛された日本の地に先生の魂のやすらかなることをお祈り致します。

 教派神道の祖 藤原角行の墓(藤原之書行藤佛 )
 角行(かくぎょう)
は、江戸時代に富士講を結成した人びとが信仰上の開祖として崇拝した人物。
長崎の武士の左近大輔原久光の子として生まれる本名:長谷川左近藤原邦武。当初修験道の行者で
あった角行は、常陸国(一説には水戸藤柄町)での修行を終えて陸奥国達谷窟(悪路王伝説で有名)
に至り、その岩窟で修行中に役行者よりお告げを受けて富士山麓の富士宮市の人穴に辿り着く。そし
て、この穴で4寸5分角の角材の上に爪立ちして一千日間の苦行を実践し、永禄三年(1560)に
「角行」という行名を名乗る。その後、角行は富士登拝や水垢離を繰り返しつつ廻国し、修行成果を
上げる度に仙元大日神より「フセギ」や「御身抜」(おみぬき)という独特の呪符や曼荼羅を授かっ
た。なお、「フセギ」は、特に病気平癒に効力を発揮する呪符であったらしく、江戸で疫病が万延し
た際にはこれを数万の人びとに配して救済したという。
 後継者は日行日玥(にちぎょうにちがん)、赤葉玥心(あかばがんしん)、前野月玥(げつがん)、
村上月心と続いた。村上月心の死後は、月心の二男、村上光清の光清派と、月行劊忡(そうじゅう)
から食行身禄(じきぎょうみろく)への身禄派がある。そこからさらに清康派、伊勢派、出雲派など
俗に「八百八講」と呼ばれる多数の派を生んだ。その中から、食行の女花子に連なるとする小谷三志
が神仏混合を拝して神道の一派として不二道を成し、明治維新の頃、そこからさらに分かれて、柴田
花守率いる實行派と穴野半率いる扶桑教が生まれた。角行を開祖とする富士講諸派の母体は、教派神
道の實行教と扶桑教へと繋がっていった。
 教派神道は、山口県の国家神道とは全く無関係。国家神道は鎮魂を主とするお詫び教であって、鎮
魂の儀式は朝鮮人の信仰なのだ。つまり靖国神社は山口県熊毛郡田布施の招魂場が起源だ。田布施は
毛利藩の下級武士(下忍)の集落で、つまり朝鮮人部落だ。といっても戦国時代以来の話で、朝鮮か
らの侵略者大内氏が、毛利氏に追い落とされて帰国した後に逃げそびれた者たちの裔だ。東京に靖国
神社と松陰神社があること自体、おかしいだろ? 山口県人だけ特別扱いだ。松陰神社では鎮魂式は
行わない。国家神道は、靖国神社・護国神社でもって殺した英霊たちにお詫びする、英霊に恨みを以
て山口県出身の権力者に復讐しないでくれと祈る信仰なのだ。太平洋戦争が茶番劇、パーフォーマン
スだとしたら、君は怒るか? 長州黒手組の親玉安倍晋三はまたぞろ日本国民を戦争に導いて殺そう
と策略を廻らせている。米軍基地は山口県に展開すればいいのだ。山口県熊毛郡に。
 
 


法林山蓮華寺
 駒込7丁目2番14号にある顕本法華宗の寺。

 
夏目成美の墓(成美居士之墓)
 なつめせいび、札差夏目八郎右衛門宗成の五男。寛延二年(1749)浅草生まれ。江戸後期の俳
人。幼名は泉太郎。諱は包嘉。初号は八郎治、別号に修行庵、随斎、不随斎、法林庵、贅亭、無辺法
界排士、卍齢坊、大必山人、四三山道人、風雲社など。父に俳諧を学び、独学で江戸四大家の一人と
称されるに至る。俳風は清雅。また文章にも通じた。著書に『一夜流行』『浅草』等がある。文化十
三年(1816)歿、68歳。


■十二地蔵塔

 駒込7丁目3番1番の追分の角にある。染井霊園の入口の手前、道が二股に分かれたところだ。享
保十五年(1730)の大火による犠牲者の冥福を祈るために建てられた。十二体の地蔵の由来は定
かではないが、高さ1.7mの舟形石に6体の地蔵が2段に刻まれている珍しいもので、江戸中期の作
と推定される。地蔵上部に描かれている絵は、火や煙のようである。
 


萬年山勝林寺
 駒込7丁目4番14号にある臨済宗妙心寺派の寺。旧は駒込蓬莱町にあった。元和二年(1616)
に幕府医師中川元亨が湯島に創建し、老中田沼意次が中興再建した。入口の右に七福神(染井七福神)。
山門を入って正面に本堂、右に庫裏、左は墓所。

 木造釈迦如来坐像(区指定有形文化財)
 
本像は高さ50.5cm の一木造りで、眼は彫眼、肉身は漆箔、着衣は漆塗り。小像だ、面、胸、
両脚などのボリューム感が豊かで、堂々とした大きさを感じさせる。また面相には威厳を備え、衣は
彫りが深く、かなり装飾的であることから、本像の制作年代は9世紀末と推定される。

 東京都における木像としては最も古く、また関東でも数少ない古像であり、平安時代初期(9世紀
末)の彫刻仏像として貴重な文化財といえる(非公開)。

 木造聖観音立像(区指定有形文化財)
 
本像は明治43年に第15代住職真誠が、勢至菩薩立像と共に、群馬県佐波郡境町周辺の寺より購
入したものといわれ、現在観音堂内に安置されている(非公開)。
 本像は、区内仏像調査により平成8年に区の登録文化財となっていたが、同15年に行った解体修
復の結果、鎌倉時代後期(13世紀後半)の作であることが判明。仏像彫刻としては木造釈迦如来坐
像に続く2番目の区指定となる。本像の特徴としては、カヤの材を用いた一木割剥ぎ造り(高さ12
6.5cm)で、裳の形が膝下でくびれている点が挙げられる。他に例を見ない非常に珍しい形姿の仏
像だ。


 
田沼意次・意知(おきつぐ・おきとも)の墓
 田沼意次が幕政を牛耳っていた時代を、世に「田沼時代」と呼び、明和・安永・天明にかけての約
20年間に及んでいた。江戸幕府3大改革の内、「享保」と「寛政」の改革に挟まれた一時期だ。5代
将軍綱吉の老中柳沢吉保と並んで成り上がり者の代表にされている人物だ。600石取りの側衆から
取り立てられて、遠州相良の城主として53000石を領するまでになり、10代将軍家治の時代に
は、御側御用人から老中となり、若年寄となった子の意知と共に権勢並ぶものなく、飛ぶ鳥が落ちる
勢いだった。意次は将軍の信任を得るため、莫大な賄賂を使って大奥を懐柔し、将軍を背後より動か
すことに成功した。その賄賂政治によって悪名を馳せ、江戸時代の悪人の1人に数えられる。しかし
近年その積極経済政策は高く評価する見方も出てきている。天明四年(1784)子の意知が殿中の
刃傷事件で殺されると勢いに翳りが見え、将軍家治の薨去と共に失脚し、同8年失意の内に没した。
 


■駒込七丁目第二児童遊園

 駒込7丁目7番4号にある区立公園。


■駒込七丁目児童遊園

 駒込7丁目14番3号にある区立公園。
 


【巣鴨】(すがも)1~5丁目                    昭和45年1月1日
 ①巣鴨村字下新田・平松・宮下。②巣鴨町。明治5年②巣鴨町は巣鴨1~4丁目となり、同11
年「郡区町村編制法」により小石川区巣鴨1~4丁目となる。同22年「市制町村制」により①と
②・上駒込村・駒込染井町・駒込妙義坂下町が合併して北豊島郡巣鴨町。昭和7②は東京市に併合
されて豊島区巣鴨町1~4丁目に、①は豊島区巣鴨5~7丁目になった。同45年新住居表示によ
り巣鴨1~4丁目と5丁目の大部分に駒込5丁目・西巣鴨4丁目をあわせた町域を現行の「巣鴨」
とした。同時に5丁目の一部と6~7丁目は北大塚1~2丁目に譲った。4丁目に庚申塚、5丁目
に本妙寺がある。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『豊島区史』『豊島の歴史』など。


  冬空やすがもは江戸の北外れ(嵐竹)

  
雪解けや巣鴨辺りのうす月夜(一茶)
  
巣鴨道小菊で巻いた鼻緒ずれ(川柳)
  
まだ起きぬ巣鴨を通る 桜草(川柳)

 巣鴨は花卉と植木が有名だった。水捌けの良い土地柄だからで、花卉では特に菊作りが名高く。
江戸も文化のころには、その菊を見るために人々が蝟集した。

  振り出しの日本橋より二里あまり 巣鴨の菊の五十三次(蜀山人)
  盛りなる噂をきくや祖父婆々も杖にすがもの花の見物(味噌こしまぶ)
  なんとかにさいなまるるぞ菊のはな(一茶)

 
巣鴨の由来
 南北朝の頃には見え、須賀茂・菅面・洲鴨・州処面などに書く。正確な由来は判らない。大塚と
滝野川の間にあって既に交通の要衝だったようだ。大きな池があって鴨が群れていた
説が有力だが
絶対ではない。州のある処に面して居る村説も捨てがたい。州処(すが)は川の砂洲をさす言葉だ
からだ。一面の砂の湿地だとしてもおかしくない環境にある。隣は池袋(洪水時に遊水池となる湿
地)であり、板橋区金井窪(鉄分の湧水がある湿地)だ。ただ『江戸情報地図』によれば大塚駅の
ところに池が集中しており、千川分水もここを通っているのでここが巣鴨だろうか? 『小田原衆
所領役帳』に菅面之内中丸と見えるのが板橋区中丸だという。巣鴨と中村の間に金井窪と池袋があ
る。谷端川の湿地帯で夥しい池が袋になったところにあった。巣鴨はこの辺りなのだろう。さて巣
鴨の繁華街は中山道の巣鴨町、うーん、だから巣鴨は、お婆ちゃんの原宿・とげぬき地蔵(高岩寺)
だ! 六地蔵の一真性寺もあるぞ。
 


■中山道
 「なかせんどう」と読み「中仙道」とも書く。『中山道いまむかし道中案内』(今井金吾)を参考に
要約すると、東海道とともに江戸時代の五街道の一つとなった中山道は、家康が拵えた街道という訳
ではなく、その前身を東山道(あづまのやまつみち)と呼んで、古代から中世にかけて西国と東国を
結ぶ重要な街道だった。この東山道というのは、文武天皇のころ(697~707)行政単位として
「近江・美濃・飛騨・信濃・武蔵・下野・上野・陸奥」の8国を指し、和銅五年(712)にはこれ
に出羽が加えられ、宝亀ニ年(771)には武蔵が外されて東海道に編入された。その東山道が街道
の名としても用いられるようになったのは、孝徳天皇の大化元年(645)に始まる大化の改新以降
のことだろうという。
 東山道は、ところどころ海を行かねばならない東海道(あづまのうみつみち)に対して全線陸路で
安全だったが、温暖な太平洋岸に面していたために次第に整備された東海道に対して、次第に二次的
な存在となっていった。群雄割拠の戦国時代には、小田原北条氏が倉賀野・高崎・板鼻・安中・松井
田・坂本の6宿を創設、また下諏訪・塩尻・洗馬・贄川・奈良井・薮原・福島の7宿は武田氏が伝馬
の継立を行っているなど、東山道から中山道への移行期にはすでに宿駅が設けられ始めていた。天正
十八年(1590)八月朔日に徳川家康の江戸討ち入りがあり、以来10年を経て慶長五年(160
0)の関ヶ原の戦い後、事実上天下の兵馬の権を掌握した家康がまず手をつけたのが道路整備だった。
そして同六年の彦坂元正などによる東海道の巡視を基にして「五十三次」が定められ、以後中仙道・
甲州道中・奥州道中などを幕府直轄下の街道と定め、万治ニ年(1659)には大目付高木伊勢守守
久を初代の道中奉行とし、その管轄下に日光道中を含めた五街道を設置した。
 さてこうして発展した中山道は「六十九次」、東海道とともに江戸と京を結ぶ重要幹線として生き
続けた。幕府の旗本などで大阪勤番の者は、往路は東海道、帰路は中山道を利用する者が多く、また
東海道のように川止めの多い大井川、あるいは浜名の渡し、桑名の渡しなど水による困難が全くない
ために女性の道中に好まれることも多く姫街道でもあった。幕末の和宮の降嫁がこの中山道を利用し
たのはその良い例といえる。「中仙道」と「中山道」両様の書き方があるが、正しくは正徳六年(1
716)四月十四日に「五街道文字のこと」として、

   ただ今までは仙の字書き候へども、向後山の字書くべく申す事

 という御達し(駅肝録)が出ているために、この日を境に前を「
中仙道」と書き、以後を「
中山
」と書き分けなければならないのだぞ。東海道の「海」に対して「山」の字を宛てて統一し、街道
の持つ性格を表現した。
 


■すがも中山道菊まつり
 平成4年から始まった地域興し祭。江戸六地蔵の眞性寺や、とげぬき地蔵尊の高岩寺境内で開催。
眞性寺境内では、菊の大輪咲き、美しい形の盆栽など色鮮やかな多種類の菊を豪華に展示。
中山道に
ちなんだ「菊花盆景」や、数千本の菊で作る華やかな菊人形「菊形造り」なども飾られる。
 


■江戸橋・宮下橋

 巣鴨1丁目無番地に架かる山手線を越える跨線橋。
 


■巣鴨一丁目児童遊園

 巣鴨1丁目2番8号にある区立公園。


■巣鴨駅

 巣鴨1丁目16番1号にあるJR山手線・都営地下鉄三田線の停車場。明治36年4月1日池袋~
田端間開通時に、池袋、大塚、駒込の3駅と同時に開業。都営三田線は昭和43年12月27日に開
業。この時の巣鴨~志村(高島平駅)間は最初の開業区間だった。南側は昭和47年に日比谷まで延
びている。
 現在のJR駅舎は昭和45年に供用開始された比較的新しいものだが、地上5階建ての駅ビルに建
て替えられることとなった。新しい駅ビルは平成21年10月末頃に完成予定。
 JRホームは地上島式1面2線構造で、駅舎よりも低い位置にある。年寄の利用が多い駅だけに、
ホームと改札階を結ぶエレベーターも設置済み。都営三田線のホームは島式1面2線構造で地下2階
にある。こちらもホームと改札階を結ぶエレベーターが設置済み。
 JRの改札口は1ヶ所のみで、出口は正面口・北口・南口の3ヶ所。出口ごとに駅舎があるわけで
はなく、1つの駅舎が3方向に出口を開けている構造になっている。三田線の改札口は2ヶ所で、い
ずれも地下1階にある。出口はA1~A4の4ヶ所。
 巣鴨は「おばあちゃんの原宿」として名高い街。駅から北西に延びる巣鴨地蔵通り商店街は、いつ
もおばさんとおばあちゃんで溢れてる。


■巣鴨橋

 巣鴨1丁目16番、巣鴨駅の西側に架かる、国道17号線(白山通り 中仙道)を通す跨線橋。
 


■徳川慶喜梅屋敷跡地の碑

 巣鴨1丁目18番11号コンビーニャンスストア「ローソン」前の歩道際に建っている。徳川家最
後の将軍だった慶喜が、明治30年から4年間住んでいた。巣鴨屋敷は巣鴨1丁目17・18番、2
5~33番のいったいで、邸内に水戸を偲んで梅の木がたくさん植えていたため「梅屋敷」と呼ばれ
た。現在一般の住宅地で何も残っていないが、碑は平成10年7月に建てられた。なお慶喜はその後
同34年12月24日文京区小石川小日向第六天町に移転し、大正2年11月に死去した。

   巣鴨に住んでいた徳川慶喜
    徳川慶喜十五代将軍徳川慶喜(よしのぶ)[天保八年(1837)~大正2年(191
   3)]がこの巣鴨の地に移り住んだのは明治三十年(1897)十一月、慶喜六十一歳の
   ことであった。大政奉還(たいせいほうかん)後、静岡で長い謹慎生活を送った後のこと
   である。翌年三月には皇居に参内(さんだい)、明治三十五年には公爵を授けられるなど
   復権への道を歩んだ。
    巣鴨邸は、中山道(現白山通り)に面して門があり、庭の奥は故郷水戸に因んだ梅林に
   なっており、町の人からは、「ケイキさんの梅屋敷」と呼ばれ親しまれていたという。慶
   喜が巣鴨に居住していたのは明治三十四年十二月までの四年間で、その後小日向第六天町
   (こひなただいろくてんちょう)(現文京区小日向一・四丁目付近)に移った。その理由
   は、巣鴨邸のすぐ脇を鉄道(目白~田端間の豊島線、現在のJR山手線)が通ることが決
   まり、その騒音を嫌ってのこととされている。
   平成十年五月                             巣一商店会
                                   豊島区教育委員会

 と、傍らの説明板に書いてある。


■江戸橋公園

 巣鴨1丁目37番1号にある区立公園。


栗よせ

 巣鴨2丁目1番1号、巣鴨駅北口前にある菓子屋「福島家」の絶品。栗入り白餡の栗饅頭だ。
 


福々まんじゅう

 巣鴨2丁目1番6号、巣鴨駅北口駅前にある「駿河屋」の中華蒸し饅頭。香り立つ湯気、ジューシ
ー感が広がる。肉まんと餡まんがあるよ。
 


一房の葡萄

 巣鴨2丁目2番1号、巣鴨駅前バス停のところにあるパン屋「クライス・ツェン」の、一粒一粒中
味が違う葡萄の形をした菓子パン。8つの粒からジャムや餡など何が出てくるか楽しみだ。
 


祥雲寺瑞真院善光寺 
 巣鴨2丁目14番7号にある浄土宗の寺。宝暦八年(1758)小石川表町伝通院前に創立、明治
25年第10世住職以後小石川表町より巣鴨町大字巣鴨町2丁目51番へ移転。

 
庚申塔
 「庚申」と刻んでいる。手前に正確に円く明けた穴の石がある。何だ。

   庚申塔
   自然石 天保十三年
   「新編武蔵風土記稿」妙義社の項に「末社稲荷庚申・寛永寛永庚申ノ碑ニアリ、是ヲ神体
   トス」とありて江戸時代には稲荷として祀られていた事がわかる。
   昭和40年神社復興工事の際、境内土中より発掘され社殿左側奥に建立されたが今回の境
   内整備に伴い現位置に遷された。
   尚、寛文二年(1662)の碑は失われたと思われる。
   平成10年9月建之
 


■巣鴨体育館

 巣鴨3丁目8番7号にある区の施設。競技場(コート)・温水ブール・トレーニングルームがある。


■清和小学校

 巣鴨3丁目14番1号にある区立校。昭和25年巣鴨小学校から分校し「東京都豊島区立清和小学
校」として開校。詳細な沿革不明。 校名は、「清和」という言葉に、
 ①.たくさんの雲水が集合して厳しい中にも和やかに修業している姿(仏教の経典)
 ②.世の中がよく治まり穏やかなこと。晴れて暖かい春の季節のこと(大辞林)
 の意味があることから選ばれた。葛飾区にも同名の小学校がある。

 同36年校歌制定。

 校歌「
薊に匂う」 作詞・菊池信夫  作曲・渡辺浦人
  1.薊に匂う校章と
    共に明るく逞しく
    清い瞳を輝かし
    みんな若草萌え上がる
    栄えよ豊かに ああ我が清和
    清和小学校
  2.体を鍛え肩組んで
    胸も脹らむこの朝
(あした)
    日々に新たな夢湧いて
    花と咲きます私達
    高くぞ進むよ ああ我が清和
    清和小学校
  3.緑の木立美しく
    窓に漲る陽の光
    此処ら学んだ幸せを
    何時の日までも忘れずに
    心の故郷 ああ我が清和
    清和小学校
 


■手づくりあんぱん

 巣鴨3丁目17番16号、地蔵通り商店街にあるパン屋「喜福堂」の菓子パン。生地が柔らかく手
練りの餡がアツアツという焼きたてのあんぱんが老若男女に人気。
 


■金太郎飴

 巣鴨3丁目18番16号、地蔵通り商店街にある菓子屋。どこを切ってもかわいい金太郎絵柄の金
太郎飴。金太郎の髪の部分はチョコ味で、程よい甘さだよ。
 


■地蔵最中

 巣鴨3丁目18番17号NYビル、地蔵通り商店街にある和菓子屋「松月堂」の商品。とげぬき地蔵
の姿を象った縁起物最中。つぶ餡、ごま餡、抹茶餡の3種類。
 


■開運塩大福

 巣鴨3丁目20番17号、地蔵通り商店街にある和菓子屋「東京すがも園」の大福饅頭。自然海塩
と厳選された小豆を使用した自然素材100%の大福だ。
 


■助六

 巣鴨3丁目21番15号、地蔵通り商店街にある煎餅屋「ひろまさ」のおかき。最高の味を追求し
もち米、醤油、水にこだわる伝統の味。
 


■塩大福

 巣鴨3丁目21番17号、地蔵通り商店街にある和菓子屋「伊勢屋」の名品。塩加減にこだわり、
甘みを抑えたあっさりした餡が持ち味。
 


医王山東光院真性寺
江戸六地蔵尊の一)
 巣鴨3丁目21番21号、旧中山道(地蔵通り)と白山通り(国道17号線)の追分(とげぬき地
蔵入口交差点)の南側にある新義真言宗の寺。本尊は薬師如来。開基は不明だが、聖武天皇の勅願に
より行基菩薩が開いたものと伝わっている。文久九年(1826)の『地誌御調査上』によれば、元
和元年(1615)に祐遍法印により中興開基(再建)が行われたと記録されている。同書によれば
当寺は元禄の頃から田端東覚寺の末寺だったが、正徳元年(1711)にはそこを離れ、京都御室御
所仁和寺の末寺になったという。その後明治33年に至って仁和寺を離れ、真言宗豊山派総本山長谷
寺の末寺になって今に至ってる。
 毎年6月24日には、「百万遍大念珠供養」では全長16m・541個の桜材の大数珠を大勢で廻
し供養をする。
また巣鴨の各商店街が合同で行う「巣鴨商人(あきんど)まつり」や秋の「すがも中
山道菊まつり」では、メイン会場となる。

 境内にある「子育地蔵」は元は大塚3丁目にあり、区画整理で移ってきた。境内には他に「芭蕉句
碑」「日露戦役巣鴨町記念碑」「大震火災遭難者供養塔」「巣鴨町長石井君碑」などの碑があり、墓
地に頼山陽の絶筆といわれる墓碣文で三面を埋めた儒者「霞亭先生北條君墓」がある。

 
寺号塔2
 入口前にある。

   右面 
弘法大師
   正面 
真言宗豊山派 醫王山真性寺
   左面 
江戸六地蔵尊

   江戸六地蔵第三番
   御府内第三十三番 
真性寺

 寺の説明板は以下の通り。

   真性寺由緒沿革
   当寺は、医王山東光院真性寺と称し、真言宗豊山派に属し、奈良県桜井市初瀬にある総本
   山長谷寺の末寺であります。
   当寺の開基は、聖武天皇勅願行基菩薩開基と伝えられています。中興開基は元和元年(西
   暦1615年)祐遍法印であります。御本尊は薬師如来でありまして、古来より秘佛とし
   て一切開扉されて来ておりません。当寺は江戸時代より弘法大師御府内八十八ヶ所第三十
   三番札所・江戸六地蔵参り第四番となっています。
   巣鴨は中山道の江戸への入り口に当たり、八代将軍徳川吉宗公が度々狩りに来られ、当寺
   か御膳所 とされていました。

   
江戸六地蔵尊 第三番 縁起
   当寺境内に安置されております江戸六地蔵第四番の尊像は、地蔵坊正元が発願主となって
   宝永三年(西暦1705年)造立の願を発してから、享保五年(西暦1720年)に至る
   15年間に、江戸御府内の多くの人々より寄進を集め造立された六体の大地蔵尊の一体で
   正徳四年(西暦1714年)に完成されました。
   平成12年8月吉日                        醫王山 真性寺

 
弘法大師一千五拾年興教大師七百五拾回供養塔
 入った直ぐ左手にある石碑。

   弘法大師一千五拾年
   興教大師七百五拾回 供養塔


 
日露戦役巣鴨町紀念碑
 正面入口を入った左、供養碑の隣にある。
 
 
大震火災遭難者供養塔
 正面入口を入った左の碑林の1つ。題字は胡桃中村方載の謹書。発起人は征矢彦太郎。
 関東大震災当時、巣鴨町は東京市15区内ではなく、東京府北豊島郡巣鴨町でした。巣鴨町の被害
は全壊6戸で幸いに死傷者はありませんでした。巣鴨町周辺は東北方面・信越方面および常盤方面に
往還する要路にあたることから避難者や救援者でごった返し、豊島区での救護人員は9月2日が最高
で、7万8千人に達しました(豊島区史 通史編)
 このような状況下で巣鴨刑務所から囚人が集団脱走し、婦女強姦と略奪を繰り返している」という
流言が流布しました。
 確かに、巣鴨刑務所の外壁は九ヵ所倒壊し、囚人2285名に対して200余名の所員では脱走防
止困難な状態だった。9月1日夜には3、40名の軍人が出動し警戒に当たっている。そして2日夜兵が全員引揚げた後騒擾が起こった。震災と火災におびえた囚人は一斉に怒声をあげはじめ「競うよ
うに安普請の検身所の壁を突き破り、屋根をはがしはじめた。刑務所側では全員が脱獄の気配濃厚と
判断」、抜剣・発砲で騒ぎを収拾した(豊島区史 通史編)

   大正十二年九月一日
   
大震火災遭難者供養塔
        胡桃中村方載謹書

   大正十二年九月一日曠古未曾有の大震火災に因りて無残の死を遂げたる人々の菩提を弔は
   んが為、真性寺境内に該供養塔の建設を企畫せしに多數同志の方々賛助せられ茲に建塔す
   るものなり
   大正十三年三月


  由来書きの下には供養塔建立賛成者として181名、世話人として29名の名前がぎっしりと刻まれている。世話人の最後の名前は巣鴨町消防組だ。

 
巣鴨町長石井君碑
 横の門から入った左手にある石井小兵衛の顕彰碑。

 
弘法大師碑
 続いてある。

   
御府内三十三番 

 
芭蕉句碑
 この辺りは秋萩の名所だった。寛政五年(1793)に採荼庵二世梅人らが建てたもの。

   しら露もこぼれぬ萩のうねり哉(芭蕉)

 裏面に、芭蕉門下の俳人であり、芭蕉のパトロン的存在でもあった杉山杉風の俳句、


   萩植えてひとり見習ふ山路かな(杉風)
   寛政発丑歳仲夏
   採茶庵梅人社中
弘法大師

 が刻まれているが、現在は壁に接近して碑が建てられているので、その句を直接見ることは困難。

 
興教大師八百五拾年御遠忌供養塔・弘法大師壹千百五拾年御遠忌供養塔
 続いて並んである。

 
弘法大師一千秊御忌供養塔
 続いてある。秊は年の異体字。

 
寺号塔
 さらに西にある門前右にある。

   醫王山真性寺
    真言宗豊山派


 
御府内八十八ヶ所第三十三番札所 弘法大師
 門前左にある。

   御府内八十八ヶ所第三十三番札所
   
弘法大師

 
江戸六地蔵尊
 江戸六地蔵は主な街道口に地蔵尊6体を設けたもので、正徳四年(1712)深川の地蔵坊正元が
建立した。真性寺は3番目に数えられ、他は一番東海道中品川寺・二番甲州道中太宗寺・四番日光道
中東禅寺・五番水戸道中霊岸寺・六番千葉道中永代寺(現在は廃寺)に置かれた。
 正元が何故江戸六地蔵尊の建立を思い立ったのかは、胎内に納められていた「江戸六地蔵建立之略
縁起」に詳述されている。それによると正元が24歳の時、重い病に罹り、翌春には医術の甲斐もな
く、死を待つのみとなった。父母の悲しみはいかばかりか。ひたすら地蔵菩薩に祈願をするのみだっ
た。この姿を見て、自らも一心に請願した。もし父母の存命中に元気になれれば、この先死ぬまで地
蔵菩薩の功徳を人々に伝え、尊像を造立することを誓った。するとその夜、不思議な霊験を得て重病
は本復、この報恩に報いるため、御府内の入り口毎に江戸六地蔵尊の建立を発願した。そのため正元
は諸国を巡って修行し、地蔵菩薩の徳を説き、さらに先の誓約のために、七つの難苦行を修めた。
 乃ち第一は指燈、第二手燈、第三手香、第四六萬度の礼拝、第五水中礼拝、第六百万遍の拝名、第
七が六万巻の読経だ。こうした経緯を経て、正元は御府内を勧進し多くの人々から寄進を受け、江戸
の6街道の入口に一体づつ建立した。当寺の者だけでも12000人の名前が衣や蓮弁に刻まれてい
る。これは100文以上寄進した人々で、6ヶ寺を合わせると少なくとも72000人、100文以
下の奇特な人々となると何万何千いたかは計り知れない。衣には武家、町人の法名、戒名などが刻ま
れている。おさく、おえん、おらん、おきんなどの女性の名前も見える。江東区仏像調査団霊巌寺仏
像研究会の調査によると、深川霊巌寺の尊像には常憲院殿(徳川綱吉)、文照院殿(徳川家宣)、有
章院殿(徳川家継)、桂昌院殿(綱吉生母)をはじめ、その妻妾16名の法名が刻まれているとか。
 像前に「江戸六地蔵」「六地蔵三番目」「陰光地蔵尊」の石碑が建っている。

   銅造地蔵菩薩座像
   像の高さは2.68m。深川の地蔵坊正元が発願し、江戸市中から多くの賛同者を得て、江
   戸六地蔵第四番(巡拝の順番は3番目)として、正徳四年(1714)ごろ建立したもの
   です。製作者は神田鍋町の鋳物師太田駿河守正儀。大正12年の震災により破損したが修
   理されている。
   なお、江戸六地蔵は次のとおりである。
   品川寺 品川区南品川3丁目
   太宗寺 新宿区新宿2丁目
   東禅寺 台東区東浅草2丁目
   霊厳寺 江東区白河1丁目
   永代寺 江東区(消滅)
   東京都文化財保護条例(昭和51年3月31日改正)により、文化財の指定種別を都重宝
   から東京都指定有形文化財に変更しましたので、石造標識については、このように読み替
   えて下さい。
   平成6年3月31日建設                     東京都教育委員会


 [修復]
 当寺の地蔵は造立300年を迎えるに当たり尊像修復を発願し、平成20年9月京都へ旅立った。
江戸六地蔵は東京都の有形文化財なので、教育庁の指導後援の下、文化財修復専門の京都科学が、基
壇並びに基礎の修復は地元の石峰石材が担当した。
 同22年5月26日修復を終えた尊像は元の位置に安置。4体の胎内仏は桐の箱に納められて願文
と共に結跏趺坐した下に固定された。今回の修復で以前より44cm高くなったのだが、それは、昭
和35年寺の左側の江戸橋通りに抜ける道が敷設されることになり、現在の位置に移設したが、何故
か基壇の石を一段分埋めてしまっており、今回の工事で発見、そこには文字も彫ってあったので、教
育庁と相諮り、元に戻したという訳。つまり一段分高くなったのだ。
 1年8ヶ月間、身代わりを果たした地蔵尊は、現在総本山長谷寺の忠霊塔の前に鎮座してるよ。

 
江戸六地蔵尊修復完成記念碑
 像前に建つ。平成22年5月26日の建立。

 陰光地蔵尊碑
 六地蔵の前にある。碑文を要約すると「天保十年から大正10年までの80余年、父が約50年、
息子が約30年、一度も休むことなく百万遍念仏の音頭取りを続けて来られたのは、偏にお地蔵さん
のお蔭」と感謝の念が書いてあるとか。

 
百万遍大念珠供養
 百万遍とは、この念仏の回数をいったものたが、必ずしも百万回ではなく、大勢の人々の唱和が相
乗して、百万の功徳を受けることができるということだ。

 北条露亭の墓
 江戸後期の儒学者・漢詩人。名は譲、字は子譲、通称を譲四郎、霞亭・天放生と号した。志摩(三
重県)的矢の出身で、寛政九年(1797)に京都に遊学し、皆川淇園に朱子学、広岡文臺に医学を
学んだ。文化九年(1812)詩集「嵯峨樵歌(さがしょうか)」の序文を菅茶山から得て、翌年、
廉塾の都講となった。同十二年(1815)茶山の姪と結婚。文政二年(1819)から福山藩校弘
道館の教授を勤め、同四年(1821)以降、江戸詰めとなり、43歳で没した。
 
「露亭先生北条君墓」は、正面、左右、背面にも頼山陽が自ら撰んで自ら書いた墓碣文(墓誌銘)
が刻まれている。この名は山陽の絶筆ともいわれており、その意味でも貴重なものだ。露亭と山陽は
相前後して菅茶山の「廉塾」で塾頭となった間柄。露亭の没後9年、子息が山陽に頼んだという。こ
の辺りのことも墓碣文に詳しい。露亭の墓が何故真性寺にあるのかについて、寺では、「露亭が福山
藩主阿部正精に抜擢されて、その儒官となり、江戸藩邸(文京区)に呼び寄せられ、駒込に住んでい
た関係からではないか」と考えているようだ。
 森鴎外はこの墓碣文を追って、晩年に『北條霞亭』を著した。墓には現在プラスティックの覆いで
覆われているが、これは平成のはじめ頃、拓本取りが流行り、中には拓本の取り方を知らない者が、
墓石に直接炭を塗ってしまうので、区教委と相談して被せたものだ。

 
石仏塔
 観音様やお地蔵さん、石碑などが塔状に積まれている。由来等は書かれていなかった



■巣鴨地蔵通商店街(旧中山道)

 真性寺前に説明板がある。


   江戸・東京の農業 旧中山道はタネ屋街道
   旧中山道を通る旅人の中には弁当を食べるため、街道沿いの農家に立ち寄り、縁側を使わ
   れてもらう人などもいました。旅人は農家の庭先や土間で見慣れない野菜を見かけると、
   国元で栽培しようと、タネを欲しがる人も多く、やがては農家の副業としてタネを販売す
   るようになりました。その後、江戸・東京が生んだ滝野川ゴボウ、滝野川ニンジンなど優
   れた野菜が出現するとタネを扱う専門店ができ、明治の中期には巣鴨のとげぬき地蔵から
   板橋区清水町にいたる約6kmの間にタネ問屋が9戸、小売店が20戸も立ち並び、さな
   がらタネ問屋街道になっていました。寛永二十年(1643)の代官所に申告した書き付
   けに、長野県諏訪からきたタネの行商人が榎本種苗店(豊島区西巣鴨)に仕入れにきた模
   様が記されています。馬12、3頭をひいてタネを仕入れ、帰り道「萬種物」の旗を立て
   て街道のタネ問屋に卸していったり、農家に販売して歩くなど、さながら富山の薬売りと
   同じようにタネも行商により商われていました。
                          平成9年度JA東京グループ
                          農業協同組合法施行50周年記念事業
                          東京都種苗会


■福寿観音教会 
 巣鴨3丁目21番24号にある真言宗智山派の寺。
 


■おばあちゃんの原宿
 巣鴨駅を出て白山通りを北に向かうと追分になる。右が白山通りで国道17号、左が旧中仙道で今
は「地蔵通り商店街」という。そこを入ったところに万頂山高岩寺がある。寺は今から400年ほど
前の慶長元年(1596)湯島に開山し、その60年後下谷屏風坂(上車坂町)に移り、明治24年
現在地に移ってきた。「巣鴨の地蔵」といえば、昔は江戸六地蔵の一つ真性寺の地蔵だったが、今は
高岩寺の「とげぬき地蔵」のことだと思っている人が多い。その信心で参詣する老人が多く、近くの
商店街が、参詣者に合わせた商品を並べたので「老人に優しい街」との評判を取り、寺と門前の相乗
効果でいよいよ人気を集め、より多くの老人が相集うようになり、そのころ原宿の竹下通りが中・高
生に人気の街となっていたことに対比して、誰が名づけたか〝おばあちゃんの原宿〟と俗称されるよ
うになった。休日でなくとも地蔵通り商店街は遥かかつての娘たちで押すな押すなの盛況だ。女性と
いう種族は、古今東西を問わず、老若美醜を問わず、全く変わりないもんだ。

 
ガモカジ・ファッション
 スガモ・カジュアルの略語だ。巣鴨のとげぬき地蔵にお参りにくるお年寄りのスタイルのことをい
う。フジテレビ系ドラマ「拝啓、父上様」」で、夢子(八千草薫)の「ガモカジ」ファッションが話
題になったこともあって、注目度高いゾ。また巣鴨のお年寄りの女性をして「
ガモーナ」ともいうら
しいんだよ。知ってた!
 


■染井吉野の碑 
 巣鴨3丁目27番8号先線路沿い歩道、桜並木口にある。黒御影に「染井吉野」と刻み、白い石に
何の意味か「関八州全図」の銅プレートが貼られている。
 


■千鳥饅頭

 巣鴨3丁目27番8号、巣鴨駅前にある和菓子屋「千鳥屋」の饅頭。カステラ生地で白餡・黄身餡
を包んだ風味豊か。
 


■千成最中

 巣鴨3丁目28番8号、巣鴨駅前にある「千成もなか巣鴨店」の最中。
豊臣秀吉の馬標に由来する
千成ひょ
うたんを型どった5色5餡の最中。 


■すがもんのおしり 
 巣鴨3丁目32番、歩道橋の下、案内書の横にある、巣鴨のゆるキャラ「すがもん」の尻を模した触れることの出来るオブジェ。

   さわれるオプジェ
   
すがもんりのおしり
   「鴨の国」から来たすがもん
   秘密のトンネルからやってきた。
   のんびりやのすがもんが
   ゆったりとおもてなしの街 巣鴨にて
   ただ今人生修行中
     
すがもんのおしり、やさしくさわって、
     
やさしい気持ちをおみやげに  巣鴨地蔵通り商店街


■元祖塩大福

 巣鴨3丁目33番3号、地蔵通り商店街にある和菓子屋「みずの」の大福饅頭。さっぱりとした小
豆の風味と餅のもちもち感が特徴。甘さが程よく、後を引くよ。


■参拝茶
・黒糖入り生姜湯
 巣鴨3丁目34番1号、地蔵通り商店街にある茶舗「山年園」の名物。
参拝茶…巣鴨にしかない美
味しいお茶の味を追求した緑茶。200g入り1000円程度。黒糖入り生姜湯は、生姜の味を強め、
黒糖、麦芽、寒梅粉を効かせた逸品。
 


■八ツ目鰻

 巣鴨3丁目34番2号、地蔵通り商店街にある八つ目や「にしむら」のお品。80年熟成のたれと
備長炭が日本伝統の香ばしい味を生み出してるよ。
 


■地蔵そば

 巣鴨3丁目34番3号、地蔵通り商店街にある有限会社「大橋屋」の蕎麦。一級のそば粉で打った
そばと最高級のたれのコラボレーションは見事。そば通が唸った。


とげぬき地蔵
 ■萬頂山高岩寺
 巣鴨3丁目35番2号、旧中山道(巣鴨地蔵通商店街)に面してある曹洞宗の寺。慶長元年(15
96)湯島に開かれ、その60年後、下谷屏風坂に移った。現在地に越してきたのは明治24年。本
尊は秘仏で、とげぬき地蔵として霊験新たかな延命地蔵尊だ。病気だけでなく、心の棘(とが)まで
抜いてくれるとよ。亭主を殺してやろうと憎んでいる奥さん、抜いてもらいなよ。男って、本来碌な
者じゃねえんだから、亭主に神様になれと期待するのは、そりゃお門違いってえもんでい。年金半分
貰って別れてやるって息巻くなよ。半分なんて貰えやしねえし、65歳過ぎねえと手にはできねえん
だぞ。心の棘は命を縮めるだけだよ。御影(おみかげ)は縦4cm×横1.5cmの和紙の中央に、高
さ2.3cmの尊像が描かれている。喉に魚の骨が刺さった時、飲んだり、痛いところに貼ると、治る
といわれている。
 ついでにいうと、みんなが水をかけて洗っているのは「洗い観音」で「お地蔵さま」じゃあない。
とげぬき地蔵はご本尊さまだ。
 
そもそもの「とげぬき」の謂れ 
 『続江戸砂子』によると、正徳三年(1713)田付又四郎という者の妻が病み、「私の家系は女
が25歳までしか生きられない。姉も去年その歳で死んだ」と弱気になっていた。夫は驚いて日ごろ
から信心する地蔵にひたすら祈ると、夢枕に一人の僧が現われ、「この御像を一万体、紙に写して川
へ流せば病いはたちどころに平癒する」と告げた。目覚めると枕許に一寸三分の小さな地蔵があり、
お告げに従って、一万体を写して隅田川に浮かせた。するとその夜、妻の枕辺に立っている痩せ衰え
た男を、件の僧が手にしていた錫杖で追っ払っているのを見たのだ。すると妻は、あくる朝には胸の
痞えが下り、間もなく全快した。このことが世間に広まり、重病難病の者も、この印像をいただくと
病気が平癒するので「印像地蔵」として有名になった。享保十三年(1728)田付又四郎が延命地
蔵像を高岩寺に奉納したので寺宝となったといわれ、この地蔵の御影を患部に張って祈願すれば病気
の「とげ」を抜いてくれるとして知られており、御影は頒布されている。 写真やテレビなどで見か
ける有名な風景、ばあちゃんたちが水をかけて患部と同じところを摩ると治ると信じられている仏像
は「身代わり観音」で、地蔵尊ではない。本尊の延命地蔵は本当に三寸(10cm)ほどの小さな仏
像らしい。禅宗の寺なのにまるで銀座か新宿かというほどの賑わいだ。4の日の縁日は並大抵の人出
じゃあない。別に年寄にだけ霊験あらたかな訳ではなく、若者にも同じ施しなのだが、商店街のリー
ダーに気の利いたのが居て、年寄をターゲットにした商店街作りが図に当って、 今や笑いが止まらね
えってさ。「とげ」とは「病気」だよ。

 
小僧稲荷神社(上野小僧稲荷)

 江戸百稲荷の一。寺が下谷にあった当時、狸が「三つ目小僧」に化けて現れたという。この狸は、
修行熱心な和尚が寵愛したために寺に住みつくようになったものだが、それ以来、寺を汚したり荒ら
したりする者に対しては妖怪となって現れるようなり、体の大きさを変えたり、提灯を明滅させて人
を脅したり、人を溝に放り込んだりしたので、人はこれを「高岩寺小僧」と呼んで恐れ戦いた。困っ
た寺は、この狸を「小僧稲荷」として境内に祀って落ち着かせたとかという伝承が伝わっている。

 
地蔵群
 境内に、地蔵像が40体ほど固めて置いてある一角がある。なお、高岩寺の本尊である通称「とげ
ぬき地蔵尊」は秘仏で拝観することはできない。
 


■カレーうどん

 巣鴨3丁目37番1号、地蔵通り商店街にあるうどん屋「古奈屋」の絶品。22種類の具材を煮込
んだだしと牛乳がミックスされたまろやかな味。カレー通も「参った、参った」。
 


■巣鴨四丁目折戸児童遊園

 巣鴨4丁目12番10号にある区立公園。


■巣鴨地域文化創造館

 巣鴨4丁目15番10号にある区の施設。

 
恵比寿像
 館前にある。瓦の素材で焼いた像。

 
大名時計的時計台
 入口前にある。


■大塚聾学校

 巣鴨4丁目20番8号にある都立養護学校。大正14年日比谷尋常小学校・万年尋常小学校内に特
別学級創設。同15年「東京府東京市立聾学校」として開校。昭和3年府下豊島郡巣鴨町字宮下18
50番地、現在の都立大塚病院の辺りにあった東京市保険局所管仮校舎へ移転。同6年一期生の卒業
に伴い中等部設置。同7年高松宮殿下・同妃殿下ご来校。同9年創立10周年記念式典。同13年非
常時体制に入り、敗戦まで続く勤労奉仕始まる。同16年12月日米開戦。同18年都制施行により
「東京都立聾学校」と改称。決戦非常措置要領の趣旨に基づき、足立区花畑町5604番地(後の足
立聾学校)に集団疎開。同20年4月愚かなアメリカ軍の非人道的無差別空爆により巣鴨校舎全焼。
8月日本はポツダム宣言を受諾、ならず者国家アメリカの軍門に降り敗戦。以後その属国となり、唯々
諾々として言い成りになる保守傀儡政権を保持せざるを得ない今日的不幸を背負い込む。売れない国
債を買わされるやら、思いやり予算やらでもう200兆円以上がとこを持って行かれたよ。日本娘が
レイプされても地位協定で国は見て見ぬ振りをするので泣き寝入り、これからの若い者は、保守傀儡
政権の謳う「国際協力(昔は八紘一宇といった)」の名目の下、アメリカ軍の尖兵として、最前線の
激戦地に送り込まれることになるぜ。ったく酷えもんだ。ところで何時までアメリカの子分でいるん
だい? アメリカ軍は何時んなったら出て行くんだい? 12月疎開解除により台東区入谷町の大正
小学校を借りて授業開始。
 同24年豊島区巣鴨5丁目1030番地(現在地)の仰高北国民学校跡地に校舎を新築して移転。
「東京都立大塚聾学校
」と改称。同25年足立聾学校を分校。校地拡張。第2期校舎増築。同27年
校地拡張。第3期校舎増築。同29年江東分校設置。同32年体育館兼講堂完成。江東分校独立して
江東聾学校となる。創立30周年記念式典。校歌制定。

 校歌「棕櫚の葉揺れる」 作詞・佐藤昌一  作曲・岡本敏明
  1.棕櫚の葉揺れる学び舎に
    仲良く友と朗らかに
    話し言葉を身に付けて
    正義を愛す人目差し
    我らは学ぶ大塚校
  2.富士の嶺望み朝夕に
    希望に燃えて朗らかに
    職業の技 身に付けて
    社会に尽くす人目差し
    我らは学ぶ大塚校


 同37年石神井聾学校を分校。高等部専攻科は分離して同校に移す。同38年4歳児(幼稚部1年)
及び6歳入学の小学部一年生のために新小学級設置。同40年3歳児(幼稚部一年)学級設置。同4
2年中等部に難聴学級開設。
創立40周年記念式典。校名表記を「東京都立大塚ろう学校」とする。
同43年鉄筋コンクリート造り新校舎5教室落成。同44年第2期鉄筋コンクリート造り新校舎15
教室落成。同
45年第3期鉄筋コンクリート造り新校舎9教室・8特別教室落成。同46年鉄筋コン
クリート造り新校舎8教室・8特別教室・5管理室落成。同52年創立50周年記念式典。同59年
体育館完成。校庭整地。同62年第1期改築校舎落成。同63年第2期
改築校舎落成。
 平成8年創立70周年記念式典。同13年仮設校舎建設に先立ち、校庭内の埋蔵文化財発掘調査開
始。防空壕跡や当時の生活用品が多く出土。同14年建替えのため仮校舎に移転。
同17年建替え校
舎落成して移転。同18年東京都特別支援教育推進計画、都立ろう学校再編整備により、江東ろう学
校・品川ろう学校・杉並ろう学校を、江東分教室、品川分教室、杉並分教室に変更。
 


■巣鴨四丁目児童遊園

 巣鴨4丁目22番11号にある区立公園。


■巣鴨四丁目第三児童遊園

 巣鴨4丁目22番17号にある区立公園。


■ふるさと工房・庵

 巣鴨4丁目22番26号にある「ミニチュア農家模型」を売ってる店。思い出の家をミニチュア
に・・・注文制作だ。古い写真や想い出話などから、なつかしい家を造ってくれるよ。想い出を大切
にした作品作りをしてる、写真、設計図などの資料不足でも構わない。話を聞きながら図面を起こして
くれるよ。かやぶきの伝統的な家屋や、瓦屋根の昭和の家を家族の思い出とともに手元どうだい。贈
り物としても喜ばれてるさ。とげぬき地蔵のチョイ西北だから、序でに見てみりゃあ、出来栄えも知
れようってもんだ。 03-3951-2582
 


■地蔵いきなり万十

 巣鴨4丁目24番2号ヒロセビルにある和菓子屋「地蔵いきなり饅頭本舗」の一品。
さくさくとし
た香ばしさと口どけのよい餡がおいしい揚げ饅頭だ。


■すがもんポスト

 巣鴨4丁目26番1号巣鴨郵便局前にある郵便ポスト。巣鴨のゆるキャラ「すがもん」乗っており
「すがもん」と書いてある。


■薬膳にんにく

 巣鴨4丁目28番3号にある「奈田利帝」の扱い品。
無臭に近いにんにくを使用した、体に優しく
食べ易いにんにく漬け。りんご酢漬け、たまり醤油漬けのにんにく各種。
 


■金箔栗薯蕷饅頭・献上最中

 巣鴨4丁目32番1号にある和菓子舗「榮太楼」絶品2品。金箔栗薯蕷饅頭は、米粉を擂り山芋で
溶いた、しっとりとして上品な生地で、饅頭生地の最高級品。あっさりした甘味の餡と栗を包み込ん
でいる。巣鴨土産に最高。献上もなかは、パリッとした皮と口当たりがよい餡との組合せが自慢の一
品。
 


■巣鴨四丁目第二児童遊園

 巣鴨4丁目34番12号にある区立公園。


■庚申塚・猿田彦大神神社
 巣鴨4丁目35番2号、旧中仙道と栄和通り・折戸通りが交差するところに、都電荒川線の駅名に
もなっている庚申塚があった。文亀二年(1502)の建立といい、明暦の大火後に、復興用の竹木
を貯蔵しておいたところこれが崩れ、庚申塔を砕いてしまい、その塔の石を下に埋めて新しく建て直
した。塚はこの時に取り払ったのか、その後に取り払ったのかは不明。現在は庚申塔の小祠が立って
いるのみだ。ここは中山道の立場(休憩所)で往来の旅人が一服つけて一休みしたところ。この場所
はランドマークで、近郷近在の農民が鷹場御用などで狩り出された時の集合場所として利用された。
ここを起点に北の栄和通りは王子道、南へ折戸通りは大塚道といった。ここに団子などを売る2軒の
茶店があった。藤の花を綺麗に咲かせたりするようになって、文人墨客も足を伸ばしたとか。この辺
りは菜の花も名所だった。

   藤棚に寝て見てもまたお江戸かな(一茶)

 その様子は『江戸名所図会』にも描かれている。『江戸名所図会』の中の茶店の屋根の葭簀(よし
ず)の上に見える石塔は、庚申塚のいわれを裏付けるものとされている。現在この石塔は小さな社に
鎮座し、その銘文によれば、明暦3年(1657)に造立されたものということが判る。庚申の申は
猿のことなので、それが猿田彦と結びつき道案内の神ともなったといわれているが、明治初期に千葉
県銚子市の猿田神社から猿田彦大神を分祀したという暦史的事実もあるそうだ。区教委の石碑による
とだよ。入口前に「庚申塔造立五百年」と「猿田彦大神庚申塔」と刻んだ碑がある。

   縁起
   巣鴨の中仙道庚申塚所在 猿田彦大神庚申堂は、古く江戸時代から当地にあって今上天皇
   御大典記念に、近隣有志により代々奉賛してきましたが、その後立派に建設し、社務所兼
   庚申塚町会事務所、仝会場として時代に即応してきたが、昭和19年3月戦災により焼失
   し、仮堂におまつりして来たのである。昭和47年隣接4町会及び広く崇敬する信者の賛
   同を得て、現在のような立派な御堂を建直すことが出来、また続いて御水屋も完成、境内
   も一層荘厳さを増したので、茲に関係者の名を刻して後世に伝える。
   昭和51年3月吉日                    庚申堂猿田彦大神奉賛会
                                    代表 榎本留吉

   
巣鴨庚申塚
   江戸時代に書かれた紀行文の「遊歴雑記」に当庚申塚を次のように書いている。
   「武州豊島郡巣鴨庚申塚は江戸より板橋の駅に入る立場なり。葭簀囲いの茶店あり。団
    子茶屋と称す。石碑を見るに明暦三年(1657)と彫られ、又古老からの聞き書き
    として文亀二年(1502)に塔を建立。高さ八尺なり。然るに明暦三年正月、世に
    いう振袖火事の大火起こり江戸市中九分通りを焼き払う、復興資材を鬻ぐ者引き切ら
    ず、偶々当庚申塔に立懸けたる竹木倒れ石碑四つ五つに砕けたり、故に村中相議し丈
    を縮めて今の塔を再建し、文亀二年の碑を塚の下に埋めたりと言い伝えを物語る、さ
    れば巣鴨庚申塚というは、文化十二年(1815〔遊歴雑記発行年〕)に至りて31
    4年に及ぶ、故に庚申塚とてその名高し」
   と書かれている。又、長谷川雪且の描いた江戸とその近郊の絵入り地誌「江戸名所図会」
   にはこの庚申塚に中山道の浮世絵にも当地の描写があり、付近の賑いが見られる。
   庚申様を神として祭ったのがいつの頃か判然としないけれども、神社としては伊勢皇太神
   宮の一角に大きな区画を占めて猿田彦神社があり、神宮は猿田彦の先導により開かれたと
   称されている。この辺から道祖神との関連も結びつくようである。神道による庚申信仰も
   相当の歴史をもって受け継がれて来たのであり、当「巣鴨猿田彦大神庚申堂」もその好例
   であろう。
   前述のように文亀二年に建てた「庚申待供養板碑」は破損し明暦三年に作り直したものが
   現在御本殿に祭る「庚申塔」である。
   戦前は町会事務所なども合築された堂宇であったが戦災で焼失、その為この石碑の文字も
   判読しにくいが、江戸時代の庶民信仰と地域の歴史を知る上で大切なものとして豊島区の
   登録文化財にもなっている。
   ところで、庶民の間に庚申講が盛んになった頃、「庚申待ち」という集まりが行われ、庚
   申の日に夜を徹して来世の幸福を願って天帝に祈り、酒食を持ち寄って賑やかに過すとい
   う祭が流行した、今は廃れたけれども当更新堂にもその名残りが偲ばれる。
   昭和46年に御本堂を再建し、以後昭和49年には御水舎、平成3年には山門も形を整え
   荘厳さを増して、参拝の方々に喜ばれている。年に6~7回、庚申の日にはお祭りをして
   多くの信仰者を迎えている。御祭神は左の通りである。
   地津主 甲子大巳貴神  道祖神
       関       寿命神
   天津祖 庚申猿田彦大神 金神
       連              塩竃神
   人津霊 巳己少彦名神    幸神
               船玉神
   平成4年6月吉日                   巣鴨猿田彦大神庚申堂奉賛会

   庚申塚由来記
   全国的に有名な巣鴨の庚申塚にあった庚申塔は、高さ八尺で、文亀二年(1502)造立
   現存していれば区内最古の石碑。昔、巣鴨の庚申塚は中山道の本街道であり、板橋宿の一
   つ手前の立場として上り下りの旅人の往来が激しく、休息所として賑わい簡単な茶店も在
   り、人足や馬の世話もした。広重の絵にも描かれ江戸名所図絵で見ると茶屋に人が休み、
   人足の奪い合いをしている旅人もいて賑やかである。ここに団子などを売る茶店もできて
   藤の花を綺麗に咲かせていたのが評判で、花の頃は小林一茶も訪れて、
    ふじだなに ねて見てもまた お江戸かな
   の句もある。
   平成22年3月吉日

 江戸の名所碑
 境内にある。


   
江戸の名所
   巣鴨の中山道沿いにある庚申塚は、江戸時代から近郷近在に聞こえた名所でした。江戸と
   板橋宿との間にあり行き交う旅人たちで賑わっていたと伝えられ、その様子は「江戸名所
   図会」にも描かれています。現在では、特に庚申の日ともなると、近くの「とげぬき地蔵
   (高岩寺)」の縁日(毎月四の日)と同様に多くの参拝者があります。庚申塚では町内会
   の人たちが、参拝者に対し、季節ごとに趣向をこらした食事を作ってもてなしています。
   「江戸名所図会」の中の茶店の屋根の葭簀の上に見える石塔は、庚申塚のいわれを裏付け
   るものです。現在、この石塔は当地の小さな社に鎮座し、その銘文によれば明暦三年に造
   立されたものということが判ります。これより以前、文亀二年に造立されたといわれる石
   碑がありましたが今はなく、「遊歴雑記」では、この塚の下に埋められていると伝えてい
   ます。また、この庚申塚には、お猿さんが祀られているというようにいわれていますが、
   これは、この巣鴨近辺の有志が、明治初期、千葉県銚子市にある猿田神社から猿田彦大神
   を分祀したという歴史的事実によるものです。
   平成4年3月               豊島区教育委員会発行(石造文化財より)

   巣鴨猿田彦大神(庚申堂)奉賛会世話人
   庚申塚町会
   榎本泰吉 太田義高 三島喜久蔵 仲村喜一 成田弥広 小原精重郎 高森ひさ 鈴木敏
   一 浦野保男 大野勇 門叶粂吉 岡田健次郎 土屋志づ子 藤田りん子 千原和子 田
   中長太郎 
   栄和町会
   神谷正夫 竹本正義 福本吉太郎 大久保信 石山公一 小島良昌 大塚元之 御菩薩池
   花枝 大塚シヅ
   巣鴨四丁目協和町会
   名取賢一 久保田友永 加藤吉太郎 遠山宏 忍田雅之 上村徳之助 照内義雄 広瀬重
   達 杉山鈴谷 井上好尉 山内雅晴 池田尚弘 中村和子 君島つや子
   折戸協和町会 
   佐野隆光 山田和夫 前田隆司 尾見誠一 井澤清 鈴木健三郎 池田金之助 前田寿美
   子 寿川冨美子 
   奉賛会会長 榎本泰吉
   天祖神社宮司 高島俊彦
   大滝教会代表 飯島寿門

 榎本留吉翁顕彰碑
 境内隅にある。

   榎本
留吉翁顕彰碑
   榎本留吉翁は、明治32年庚申塚に生をうけ、戦前、戦後を通じ、町会長として庚申堂の
   奉斎に努め、戦災により焼失した堂宇を、昭和46年檜造りで再建、昭和49年手水舎を
   設ける等、境内整備に尽した。これらは60余年に亘る翁の郷土愛の賜物であり、茲にそ
   の功績を称賛え顕彰するものである。               猿田彦大神奉賛会
   昭和60年9月吉日                    天祖神社宮司高島俊彦書
                                      真島泰峨文
                                        石治刻


 八百比丘尼伝説
 昔々、子供のいない高橋権太夫という長者がいた。2人は庚申様に子供が授かるように祈ったとこ
ろ、霊験新たかにも女の子が生まれ、八重姫と名づけた。姫が7歳になったある日、白髪の老人が訪
ねてきて、権太夫を家に招き、庚申様を一緒に信心したいと申し出た。長者は老人の家で不老不死の
薬だといって人魚の肉(一説では貝の身)を勧められるるが、権太夫は肉食を絶っていたので、食べ
た振りをして袂に入れて屋敷に戻ってきた。八重姫が甘えて権太夫が縋り付くと、長者の袂から肉が
零れ落ち、姫はそれを父がくれたものと思って食べてしまった。やがて八重姫は18歳になり、美し
く成長した姫の噂を聞いた帝は都に召し出そうとしたが、それを知った姫は家を出てしまう。里を離
れた姫は、山道で遭った白髪の老人の家で暮らしていたが、両親が恋しくなり「家に帰りたい」と申
し出た。すると老人は、ここを出れば二度と戻れないこと、自分が庚申であることを告げ、家と共に
忽然と姿を消してしまった。それで里に帰り着いた姫が見たものは800年も経った光景だった。そ
こで山の麓の池に我が姿を映して見ると18歳のままなのに、里に父も母もなく、知らない人ばかり
だ。不老不死を悲しんだ八重姫は、出家して比丘尼となり妙栄と名を改めて、貧民の救済や土地の開
墾、長寿の教えなどを説いて全国を回り、最後に若狭の洞窟で入定したとされる。その場所は、オバ
マ大統領就任で有名になった福井県小浜市の空印寺の洞穴だそうだ。八百比丘尼は、全国を回った際
に椿を植えたといわれ、小浜の八百比丘尼ゆかりの場所には椿の木があります。小浜市内の観光名所
としてはそれなりに知られた所らしく、福井県の観光案内でも取り上げられている。この説話は各地
にあり、八百姫大明神、八百比丘尼様として崇められ、今に伝えられている。
 


■巣鴨地域文化創造館(中山道待夢)

 巣鴨4丁目15番11号にある旧社会教育会館だ。平成18年4月1日から現在名になった。地蔵
通り(旧中山道)に面して建つ。区民が互いに交流を深めたり、生活を豊かにしたりするための生涯
学習や、文化活動、つまり会議・学習会・発表会などに利用できる。
 


■種子屋街道

 巣鴨から滝野川経て板橋清水町にかけての中仙道沿線には種苗店が軒を並べていた。この地域は武
藏野台地の東端に位置し、水田に恵まれない反面、根菜類の栽培に適した耕土の深い畑地が多く、江
戸に新鮮な大根や人参を供給していた。篤農家たちは優秀な品種の野菜を選んで栽培し、改良これ努
めてよりよいものを育成していった。当然優秀な種子が取れる訳で、街道を往来する人々に、桝屋孫
八・越部半右衛門・榎本重左衛門の三人が大根の種子を売るようになりカネト・□政・○浅の屋号で
「三軒家」と呼ばれるようになった。それを機に大小の種苗商が街道沿いに店を構えるようになり、
問屋が9家、小売が20店も立ち並んで、さながら「種子屋街道」の様相を呈したという次第。榎本
家は現在も昔の店舗のままに「東京種苗」という社名で営業をしている。店前に区の案内板がある。
 信州から来る剛の者は、馬12、3頭を引き連れたやってきて大量に種子を仕入れると、帰る道々
売りさばいたという。3丁目の真性寺は「江戸六地蔵」の一つで、この正面脇にJAの説明板が立っ
ている。
 


■御薬園跡
(巣鴨薬草園跡 渋江長奄綿羊屋敷跡)
 巣鴨5丁目1番・4番、豊島市場の辺りにあった。伊勢津藩藤堂家の下屋敷の西端部が、宝暦四年
(1754)に上地されて御用地となり、伊奈半左衛門預かりの御林となり、寛政期に入って御薬園
となった。薬草を栽培して漢方薬を作るところだ。明治になって洋画家宮本三郎の祖父で、衆議院議
員だった宮本小一郎の所有となり杉林だったが、美術学校増設の時、杉林を伐採して寄贈したのだそ
うだ。それから周辺が宅地化して行った。駒込の市場が廃されて東京市中央卸売市場豊島分場となる
のは昭和12年のことだ。
 御薬園となって渋江長奄が管理責任者となったのだろう。古地図に「渋江長奄綿羊屋敷御預地」と
記載されている。綿羊屋敷とは、何と羊を飼っていたというのだ。驚き!
 豊島市場前の路上に豊島区教育委員会によって説明板が建てられている。

   
巣鴨薬草園跡
   このあたりは、もともと伊勢国津藩主藤堂和泉守家の抱屋敷の一部であったが、明和6年
   (1769)に伊奈半左衛門預りの幕府御用林となった後、寛政十年(1898)頃に幕
   府に仕えた渋江長伯が管理する巣鴨薬園となった場所である。薬園というのは、薬用植物
   を栽培し、疾病治療の用に供する施設のことであり、日本にはすでに8世紀前半期には存
   在していた。その後、江戸時代になると、幕府主導のもと薬園制度は急速に発展し整備さ
   れ、幕府直轄のものでは小石川薬園・駒場薬園などが、藩営のものでは尾張・会津・熊本
   ・長州・薩摩藩のものなどが知られている。 巣鴨薬園を管理していた渋江長伯は、幕府
   に仕える医師かつ本草学者であり、寛政十一年(1799)には幕命により蝦夷地での薬
   草調査に出かけている。約12000坪(約40000㎡)あったといわれる巣鴨薬園は
   別名綿羊屋敷とも呼ばれていた。これは渋江長伯が文化十四年(1817)に日本で初め
   て綿羊を飼育し、羅紗織の試作を行ったことからきたものとされている。 明治維新後、
   巣鴨御薬園は廃止されてしばらくの間私有地となっていたが、昭和12年3月東京市中央
   卸市場豊島分場が開設され、その後東京都中央卸売市場豊島市場となり現在にいたってい
   る。
   平成14年3月                      東京都豊島区教育委員会


松雪山安楽寺 
 巣鴨5丁目15番3号にある浄土真宗本願寺派の小寺


■朝日児童遊園 → 朝日公園

 巣鴨5丁目22番1号にある区立公園。


松龍山總禅寺

 巣鴨5丁目32番2号にある曹洞宗の寺。日山宗春が、寛永元年(1624)湯島に創建。天和三
年(1683)駒込千駄木に移転、5代将軍綱吉に赤門を許可されたという。明治30年現在地に移
転してきた。「東京名所図会」に、

   總禅寺は本郷千駄木町四番地に在り。曹洞宗にして松龍山と號す。能登山総持寺の末なり。
   開山は宗春大和尚にて。寛永元年の創立に係る。
   門前に槭樹及び大樒樹あり。門は有名なる赤門にして。徳川五代の将軍綱吉公の特許を得
   て建る所。俗に之を駒込の赤門と稱し来れり。門には一小扁額を掲げて。「秩父第四番金
   昌寺寫本尊十一面観世音」としるす
   本堂は瓦葺素木造にて。左右に鐡水盤(弘化二年八月とあり)を置き。左の詠歌を書した
   る額を打たり。
    あらたかにまいりてをかむかんせおん二世安楽とたれも祈らん
   墓地には開山真空塔あり。上に無影樹那半邊と題す。又聯芳之碑あり。當寺歴代の僧名を
   刻す。中央に勅特賜佛慧圓明禅師法福中興當山開祖日山宗春大和尚。寛永十七庚辰七月初
   十日於當寺化壽八十一三州之人と識せり。


 とある。

 手塚治虫の墓
 墓に行くためには、本堂のあるビルを通り、受付で断らなければならない。200円を請求さる。
払うと線香を渡されて案内される。写真撮影は駄目だと断られる。
 墓所には3基の墓碑が。
正面に「手塚家累代墓」、右に治虫の曽祖父「手塚良仙墓」、左に手塚漫画の主人公7人と本人の自
画像を刻んだ石碑がある。下部に本人のサインもある。
 手塚治虫は、昭和3年11月3日大阪府豊中市に3人兄弟の長男として生まれた。開放的な家庭に
育ち、漫画とアニメーションに親しみ、機智に富んだ想像力豊かな少年だった。昆虫をこよなく愛し
ファーブルを思わせる少年でもあった。自身のペンネームに「虫」という字を当てたことでも、その
興味の程が判る。戦争体験から生命の尊さを深く知り、医学の道を志して後年医学博士になるが、結
局彼自身が一番望んだ職業を選んだ。乃ち漫画家、アニメーション作家だ。
 手塚治虫が創作した漫画とアニメーションが、第2次世界大戦後の日本の青少年の精神形成の過程
で果たした役割は計り知れない。首都高速道路は「鉄腕アトム」から生まれたといっても過言ではな
い。手塚は、それまでの我が国の漫画の概念を変え、数々の新しい表現方法でストーリー漫画を確立
し、漫画を魅力的な芸術にした。また彼の作品は、文学や映画をはじめ、あらゆるジャンルに影響を
与えた。
 同時にTVアニメーションにおいても、漫画のりそれに勝るとも劣らない大きな足跡を残した。我
が国初の長編TVアニメーションシリーズ「鉄腕アトム」や、長編TVカラーアニメーションシリー
ズ「ジャングル大帝」、2時間TVアニメの「バンダーブック」など、これらの作品の愛すべきキャ
ラクター達は、TVを通じて日本中を席巻しアニメーションを大衆に深く浸透させることになった。
 また手塚の作品は、アメリカ、ヨーロッパ、アジアの各国にも輸出され、世界の子供達の夢を育ん
だ。加えて大人向け長編アニメの制作など、アニメのあらゆる可能性にチャレンジした。これらのT
Vアニメ、商業アニメにおける業績に加え、晩年は、実験アニメにおいても国際的に大きな評価を得
た。それらのすべての作品には、手塚の永遠のテーマである生命の尊さが貫かれている。偉大な文化
の創造者である手塚は、立ち止ることを知らず、常に大いなる開拓精神と飽くなき情熱と未来を見つ
める確かな眼差しを持って、その生涯を走り抜け、平成元年2月9日その60年の生涯を閉じた。


朝日山白泉寺
 
 巣鴨5丁目32番5号にある曹洞宗の寺。明治43年浅草から越してきた。現在の本堂は鉄筋コン
クリート造り2階建てのビル。ありがた味はない。江戸三十三番霊場の二番として九頭竜観音が祀ら
れていたが、今は判らないそうだ。朝日観音の分身が祀られている。朝日観音は福井県丹生郡朝日村
にあり、かつてこの地に悪魔がいて村人たちを困らせていたのを泰澄法師がその法力でこれを除こう
として楠で聖観世音菩薩を刻み、開眼しようとしたところ後光がさしたのでその名が起こったという。
のち天長年間(824~33)に幼児が悪魔に奪われるということがあり、時の住職道実和尚が21
日間祈祷したところ幼児が無事に戻ったという。九頭竜川は福井県の川だから、朝日観音を九頭竜観音
といったのではないのか? 寺宝として、豊臣秀吉の朝鮮出兵の時、小西行長が持ち帰ったという朝
鮮宮廷の生活を描いた六曲の屏風が残されている。

 
万倍稲荷社
 境内にある小社。

 
如意輪観音
 境内にある露仏。表札が建ててある。

   
奉安 朝日観世音 釈迦牟尼仏 みろく菩薩 ここにて 


■第四巣鴨尋常小学校 → 西巣鴨第四尋常小学校
→ 西巣鴨第四国民学校 廃校
 巣鴨5丁目33番1号にあった区立校。大正12年時習尋常高等小学校から分校、西巣鴨町大字巣
鴨字庚申塚143番地(朝日小学校のところ)に「東京府北豊島郡第四巣鴨尋常小学校」として開校。
木造2階建ての校舎、児童数942名18クラスでスタート。「至誠の鐘」を作る。始業、終業時間
に鳴らした。学校の周辺は大根畑や牧場だったってよ。
昭和3年「東京府北豊島郡西巣鴨第四尋常小
学校」と改称。同7年北豊島郡の東京市併呑により「東京府東京市西巣鴨第四尋常小学校」と改称。
同13年校庭にプール完成。使わない時は蓋をして運動にした。同16年勅令148号国民学校令によ
り「東京府東京市西巣鴨第四国民学校」と改称。12月日本海軍の真珠湾攻撃により日米開戦。同1
8年都制施行により「東京都西巣鴨第四国民学校」と改称。同19年長野県上山田温泉、埴生村満照
寺に学童集団疎開。
 同20年4月愚かなアメリカ軍の非人道的無差別の東京西部大空襲により校舎・至誠の鐘焼失。8
月日本はポツダム宣言を受諾、ならず者国家アメリカの軍門に降り敗戦。以後その属国となり、唯々
諾々として言い成りになる保守傀儡政権を保持せざるを得ない今日的不幸を背負い込む。売れない国
債を買わされるやら、思いやり予算やらでもう200兆円以上がとこ持って行かれたよ。日本の娘が
レイプされても地位協定で国は見て見ぬ振りして泣き寝入り、これからの若い者は、保守傀儡政権の
謳う「国際協力(昔は八紘一宇といった)」の名目の下アメリカ軍の尖兵として、最前線の激戦地に
送り込まれることになるぜ。ったく酷えもんだよ。何時までアメリカの子分でいるんだい? アメリ
カ軍は何時んなったら帰るんだい? 
 教室が無くなって豊島第二国民学校や仮校舎などで分散授業。同21年西巣鴨第一国民学校に吸収
され廃校。


■朝日小学校

 巣鴨5丁目33番1号にある区立校。昭和25年西巣鴨小学校から分校し、西巣鴨第四国民学校跡
地に木造2階建て校舎7教室を建て「東京都豊島区立朝日小学校」として復興。学童668名15学
級で再スタート。二部授業。至誠の鐘を再鋳。7月第1期増築。同26年第2期増築。校地拡張。同
27年第3期増築。同29年図書館完成。同30年第4期増築。この頃は団塊の世代の時代で全国的
に教室不足、隣の公園にも校舎が建てられた。同32年第5期増築。同34年校歌制定。

 校歌「
緑が囲む」 作詞・勝承夫  作曲・平井康三郎
  1.緑が囲む 光が包む
    明るい此の庭子供の世界
    飛んで来い小鳥達 集まる子皆元気
    仲良く伸び行く朝日の我等
  2.心に鳴るよ 至誠の鐘の
    自立の訓えの響きは消えず
    見ているよ柊も 励む子を強い子を
    力協せて進もう我等
  3.藤咲く陰に夢見る未来
    夏には楽しいプールの飛沫(しぶき)
    大らかに逞しく明日の日を担う者
    平和の若鳥 朝日の我等


 同35年復興10周年記念式典。児童数991名20学級。同40年第一次鉄筋コンクリート造り
校舎落成。同43年第2次鉄筋コンクリート造り校舎落成。同45年復興20周年記念式典。同48
年新プール完成。旧プール跡地に第3次鉄筋コンクリート造り校舎落成。同51年至誠の鐘新鋳。2
代目は保存。同56年復興30周年記念。同58年校庭全天候型舗装。同59年屋上全天候型舗装。
 平成6年プール改修工事。同9~11年校舎耐震化工事。同9年パソコンルーム開設。同12年地
方自治法改正に伴う学校教育法改正により、校名から東京都の冠称が取れ「豊島区立朝日小学校」と
改称。復興50周年記念式典。同17年冷房設置。
 


法福寺 
 巣鴨5丁目34番24号にある曹洞宗の寺。

 刈谷棭斎の墓
 江戸時代後期の考証学者。名は望之,字は郷雲。江戸神田,晩年は浅草に住み、通称を津軽屋三右
衛門という。棭斎は号。富裕で商用の傍ら学事に身を委ね,松崎慊堂を師として、日本古代の制度を
研究するためにその根源をたずねようとした。


■徳栄山
本妙寺
 巣鴨5丁目35番地6号にある法華宗の寺。明治43年に移転してきた。山号の徳栄山は、徳川家
が栄えるようにとの願いでつけられた。元亀二年(1571)駿河に創建と古く、徳川家康の関東転
封に伴って江戸城清水御門内清水寺跡に移転した。その後城域拡張のために飯田町に移り、さらに牛
込御門内、小石川へと移転させられ、寛永十三年(1636)本郷丸山に落ち着いた。
 卵塔場に、下総関宿藩68000石久世家、和泉伯方藩13500石渡辺家、播磨福本藩1050
0石池田家の墓域があり、「遠山の金さん」こと遠山左衛門尉景元、北辰一刀流開祖千葉周作、幕府
碁所家元本因坊家歴代、日本初の通訳森山多吉郎らの奥津城もある。
 本妙寺の周辺には、慈眼寺、江戸後期の考証学者日本の古典の考証・注解金石文の蒐集に努めた狩
谷エキ(木+夜)斎の墓がある法福寺、その他安楽寺、瑞真院がある。

 振袖火事の裏事情
 長らく明暦の大火、振袖火事の火元とされたが、同寺では「明暦の大火の火元ではない」理由とし
て、

   当時幕府は火元に対しては厳罰を以て対処していたが、寺に一切の「お咎め」がない。そ
   ればかりか数年後に元の場所に復興しているし、徳栄山の山号も奪われてはいない。さら
   に不思議なことに、風上にあった老中阿部忠秋家から、関東大震災に至るまでの260年
   余に亘って、大火の回向供養料が届けられている

 ことを挙げている。阿部家の菩提寺は本妙寺ではない。蔵前の西福寺だ。老中の屋敷が火元じゃあ
どうしようもないというので、幕府が住職に頼み込んで火元の汚名を被って貰ったのだ。だから日本
史上最大の火災の火元であるというのに些かも罰せられなかったのだ。例えば行人坂の大火の火元の
大円寺は、薩摩藩が取り持つまで76年間も再建が許されなかった。歴史はしばしば権力者の都合で
捻じ曲げられて記録される。だからこそ比較検証が必要なのだ。アメリカが北朝鮮を温存するのは日
本駐留の条件付けの為だからだ。

 
久世大和守家歴代墓所
 初代大和守広之・二代重之・三代暉之・四代広明・五代広挙・六代長門守広・七代大和守広周の奥
津城がある。初代、四代、七代は老中職を務めた。

 
明暦大火供養塔
 本堂の東横にある仏像と供養塔と卵塔だ。本妙寺は振袖火事の火元とされているが、実際は北側の
老中阿部家が出火元。老中の屋敷から火が出たのでは示しがつかないというので、幕府が本妙寺に頼
み込んで火元になって貰い、振袖火事のストーリーをでっちあげた。その証拠にあれだけの大火にも
かかわらず寺は潰されることなく、間もなく復興している。次に徳栄山の山号の改号を求められてい
ない。
十年後には当山が日蓮門下、勝劣派の触頭に任ぜられている。触頭とは、幕府からの通達を末
寺へ伝達したり、本山や末寺から訴願などの諸届を上申達する重要な役だ
火事後から関東大震災の
大正12年までの260年間毎年欠かさず、菩提寺でもない阿部家が供養料を納め続けた。明暦の大
火はあったが振袖火事はなかったということだ。穿った意見では、最初からの幕府(松平信綱)計画
で煩雑になり過ぎた江戸の町の区画整理の目論見があったのでは? というものもある。

 
玩具涅槃図
 境内にある。釈迦の涅槃の姿と共に、十二支や七福神など52種類の玩具が描かれている。

 遠山の金さんの墓
 遠山金四郎(遠山左衛門尉景元)は実在の人物。
公職についてからは、従五位下に叙し、大隅守か
ら左衛門少尉に遷任。明智遠山家の分家6代目に当たる。父親は長崎奉行を勤めた景晋。青年期は複
雑な家庭環境から家を出て、町屋で放蕩生活を送るが、家督権をえたため帰宅、相続後、勘定奉行、
町奉行に就く。天保の改革の実施に当たっては、南町奉行の矢部定謙とともに、老中水の忠邦や鳥居
耀蔵と対立しながらも様々な政策を実施するが、鳥居の策謀により矢部が罷免される。鳥居が南町奉
行となると、一人で水野、鳥居と対立し、水野忠邦が鳥居の進言を受けて芝居小屋を廃止しようとし
た際、景元はこれに反対して、浅草猿若町への小屋移転だけに留めた。乃ち、この遠山の動きに感謝
した関係者が頻りに遠山を賞賛する意味で『遠山の金さん』物を上演したのだ。鳥居や水野との対立
が遠山=正義、鳥居=悪役を作り上げた。尤も鳥居はそれ以前より民衆の評判は悪かった。天保十四
年(1843)、鳥居の策略によって北町奉行を罷免され、当時は閑職となっていた大目付になる。
地位は上がったが実質的には無力の役職だ。2年後、逆に遠山から水野への讒言によって鳥居が失脚、
但し水野自身も自分をかつて失脚させた鳥居を退けようとしていたため、共犯関係にあったものと推
測されるが、とにかく南町奉行として返り咲いた。同一人物が南北両方の町奉行を務めたのは、極め
て異例のことだ。その後水野の後を受けて政権の地位に座った阿部正弘からも重用された。嘉永五年
(1852)に隠居すると、剃髪して帰雲と号し、61歳で死去。
小説や映画、テレビドラマでは桜
吹雪の刺青判官として著名だが、彼が刺青をしていたという確証はないのだ。ではなぜ刺青と結び付
けられたかというと、金さんは跡継ぎではなく、手首を結んだ長襦袢、まあ長袖シャツのようなもの
を夏でも着ていたので、放蕩者てもあり刺青をしているのだろうということになり、それで諸説紛々
湧き上がり、「右腕のみ」や「桜の花びら1枚だけ」「背中に女の生首」と様々に伝えられた。また彫
り物自体を疑問視する説や通常「武家彫り」するところを「博徒彫り」にしていたという説もある。
誰も見た者はいない。金さんの体には人に見せられない傷、つまり火傷のケロイドとか、病気の残滓
の変色や痘痕があったのかも知れない。
 
また景元は長年痔を患っており、馬での登城が非常に困難となり、幕府に対して駕籠での登城を願
い出、受理された文書が残っている。景元の身分では駕籠での登城は許されていなかったため、疾病
を理由に申請したのだろう。遠山の死後、講談・歌舞伎で基本的な物語のパターンが完成し、陣出達
朗の時代小説『遠山の金さんシリーズ』などで普及した。現代ではドラマが製作された影響を受け、
名奉行として世間に広がり大岡忠相と人気を二分するがドラマのような名裁きをした記録はない。大
岡裁きも同様だ。「大岡越前」「遠山の金さん」「桂小五郎」「坂本龍馬」などはだ、「鞍馬天狗」
「銭形平次」「一心太助」と同レベルの明治の小説が作りだした人物像だ。

   遠山氏六代目左衛門尉景元
   歸雲院殿従五位下前金吾校尉松僊日享大居士
   安政二年乙卯二月廿九日卒
   遠山氏六代目景元室
   偕壽院殿奐晎妙蕙日煕大姉
   嘉永七年甲寅十一月七日卒
  

   遠山金四郎景元墓
   遠山景元は、江戸時代後期の幕臣で寛政五年(1793)遠山景普の子として生まれた。
   文化六年(1809)に金四郎と改名し、文政十二年(1829)家督を相続、天保七年
   (1836)左衛門尉を許され、作事奉行、勘定奉行を経て、天保十一年(1840)3
   月御町奉行(北)に任ぜられた。翌年から老中水野忠邦による天保改革が始まったが、そ
   の進行中の天保十四年(1843)に町奉行を罷免され、大目付に異動させられた。弘化
   二年(1845)御町奉行(南)に復帰し、嘉永五年(1852)3月まで7年間に亘り
   勤役した。下情に通じた江戸時代屈指の名奉行といわれ、遠山の金さんとして様々な伝説
   がある。江戸歌舞伎三座取り潰し策を、浅草の外れに移転させて存続させたのも遠山町奉
   行といわれている。隠居後は剃髪して帰雲と号し、市井に身をひそめて悠々自適の生活を
   送ったが、安政二年(1855)二月二十九日61歳で病死した。法名帰雲院殿従五位下
   前金吾校遷日享大居士。明暦の大火(1657)の火元となったことでも知られる、本郷
   丸山の徳栄山本妙寺に葬られたが本妙寺が、明治44年この地に移転した時に改葬された。
   平成7年3月31日建設                     東京都教育委員会

 遠山氏先塋之碑

 墓碑の直ぐ側に建ててある。「先塋(せんえい)」とは祖先の墓地という意味。天保十三年(18
42)遠山景元49歳の時に景元自身の書により刻まれた。


   天保十三年
   
遠山氏先塋之碑
   七月 遠山景元建


 
千葉周作成正の墓
 江戸後期の剣豪。北辰一刀流開祖。神田お玉ヶ池千葉道場(玄武館)を経営。安政二年十二月十日
没。高明院勇誉智底敬寅居士。真空切りの「赤胴鈴之助」の師匠。

 主題歌「
赤胴鈴之助の歌」 作詞:藤原信人  作曲:金子三雄
  1.剣を取っては日本一に
    夢は大きな少年剣士
    親はいないが元気な笑顔
    弱い人には味方する
    おう! がんばれ頼むぞ
    僕らの仲間 赤胴鈴之助
  2.父の形見の赤胴つけて
    掛ける気合も真空斬りよ
    何の負けるか 稲妻斬りに
    散らす火花の一騎打ち
    おう! がんばれ凄いぞ
    僕らの仲間 赤胴鈴之助
  3.山は夕焼け一番星は
    母によく似た綺麗な瞳
    辛い時にも勇気を出して
    正しい事をやり通す
    おう! がんばれ強いぞ
    僕らの仲間 赤胴鈴之助

 
本因坊家の墓
 本因坊家は3世の道悦までは没後京都の寂光寺に葬ったが、3世の道策から21世の秀哉までの歴
代本因坊はここに葬られている。本因坊秀哉の墓を中心にして、道策・道知・跡目道的・察元・元丈
・丈和・跡目秀策などなど。囲碁の本因坊家は、江戸時代初期に成立した囲碁四家元の一つ(他には
井上、安井、林の各家)。「本因坊」の名称は、京都・寂光寺の塔頭の一つ本因坊において、後の算
砂、日海が居住していたことに由来する。算砂は本因坊家の初代頭領として興隆への道を切り開き、
囲碁界最高の名誉である名人「本因坊」に叙せられ、また慶長8年(1603)江戸幕府から初代の
「碁所(ごどころ)」に任ぜられた。碁所とは、江戸城において将軍の御前で対局をする「御城碁」
の棋士の手合いを差配したり、棋士の段位を定めたり、免状の発行権をもつなど、囲碁界最高の地位
を保障された棋士。碁所を巡って四家は屡熾烈な争いを展開したが、その中で頂点に立ったのが本因
坊家であり、庶民への広まりも含めた碁界の隆盛に貢献した。その理由に実子相続を前提とする世襲
制ではなく、弟子の中で優れた者が相続する実力制だったことが挙げられる。明治43年本妙寺が現
在地に移転したが、その時に墓所の配置はほぼ現在の形となり、4世本因坊道策より21世秀哉に至
るまで、本因坊代々の棋士と縁の人々が祀られている。
 4世道策・4世跡目道的・5世道知・6世知伯・7世秀伯・8世伯元・9世察元・10世烈元・1
1世元丈・12世丈和・14世秀和・14世跡目秀策・15世秀悦・16世秀元・17世秀栄・18
世秀甫・19世秀栄・20世秀元・21世秀哉。(16と20、17と19は同一人物で最襲)

   「秀哉忌」について
   「最後の名人」二十一世本因坊秀哉は、昭和12年引退を決意し、本因坊の名跡を日本棋
   院に譲ります。そして木谷實七段との「名人引退碁」が最後の対局となり、昭和15年1
   月18日療養先の熱海で病没、享年66歳でした。翌年の一周忌までに碁碑が完成し法要
   が営まれました。それ以来、門人らの集まりである「秀哉会」により毎睦月18日に「秀
   哉忌」が執り行われてきました。現在は日本棋因果主宰し、その年の「本因坊」のタイト
   ルを持つ棋士が祭主を務め法要が行われております。


 蕉門四大家碑
 詳細不明。其角、嵐雪、桃隣、杉風の四人をいうか。成美・完來・道彦・巣兆をいうか。

 
棋聖天野宗歩の墓
 将棋の駒の形をした墓碑。江戸末期の将棋の名人で棋聖位に着く。安政六年五月十三日没。玉用院
名宗日歩居士。天野は「実力十三段」と呼ばれながら将棋家元の大橋、伊藤家出身でなかったため、
当時世襲制だった将棋の名人には推挙されず段位も七段止まりだった。後に「棋聖」と呼ばれ、現在
のタイトル戦「棋聖戦」の由来となった。ただ普段の素行は悪く、酒色に溺れ賭将棋をしていたとも
伝わっている。行年42。

 森山多吉郎の墓
 幕末の幕臣で有能な官僚。アメリカ人マクドナルドから直接英語を学んだ日本最初の通詞。ペリー
浦賀来航の時も通詞を務めた。ペリーは森山の語学力と共にその人柄も高く評価し、『日本遠征記』
にその人柄を称えている。文久元年(1861)の遺欧使節団には福沢諭吉や福地源一が随行したが
両人の語学力に不安を感じた当時の駐日イギリス総領事オールコックの強い要請により森山が加えら
れた。明治4年3月16日没 清心院茶山日勇居士。

   森山多吉郎 森山氏教子墓



■巣鴨五丁目児童遊園

 巣鴨5丁目35番18号にある区立公園。


■慈眼寺

 巣鴨5丁目35番33号、本妙寺の北裏、染井霊園の西側にある日蓮宗の寺。元和元年(1615)
の創建。この寺は大正元年に谷中の妙伝寺と合併して移ってきた。むかし本堂の天井に司馬江漢が描
いた龍図があったが、愚かなアメリカ軍の非人道的無差別空爆によって燃やされてしまった。

 
比翼塚
 墓地に墓石が二つくっつけて建てられている浦里・時次郎の比翼塚がある。新内「明烏夢の泡雪」
ほか人情本、歌舞伎、はては落語の人情噺にまで伝えられている悲恋物語の主人公だ。浦里は吉原の
遊女三芳野(心誠妙貞信女)、時次郎は蔵前の札差の若旦那伊之助(意實淨貞信士)のことだ。

  一人来て二人つれ立つ二世の道 一つうてなに受ける露の身(時次郎の墓石)
  川たけの流るる身をもせき止めて 二世の契りを結ぶうれしさ(浦里の墓石)

 
司馬江漢の墓(江漢司馬峻之墓)
 江戸時代後期の洋風画家で蘭学者。安藤氏の子として延享四年(1747)江戸四谷に生まれた。
名は吉次郎という。のち唐風に姓を司馬、名を峻に改めた。字は君嶽、江漢は号だ。はじめ狩野派に
学んだが飽きたらず、浮世絵師鈴木春信に師事して、春重の名で「夏月図」などを発表した。明和七
年(1770)春信没後春信の偽物を描くが長続きせず、2世鈴木春信を気取って鈴木春重と称して
美人画を多く描いた。同時に平賀源内の紹介で南蘋派(なんぴんは)の宋紫石に学んで漢画を習得し
た。安永年間秋田蘭画の指導者小野田直武から洋風画の教えを受け、天明三年(1783)腐触銅版
画(エッチング)の創製に成功した。晩年は老荘の思想に親しみ、文政元年(1818)十月二十一
日72歳で死去した。本所猿江町にあった慈眼寺に葬られたが、寺院の移転により改葬された。墓標
は生前に建てられた(文化七年)寿塔だ。

 
小林平八郎
 赤穂義士の吉良邸討入りの時の吉良方の付人。ここでの法名は「通玄院恵澄正脱玉円日融信士」で
あるが、吉良家墓所がある中野の万昌院とは法名が違っているらしい。墓標には、

   小林平八郎平央通霊廟

 と刻んである。

 斎藤鶴機の墓
 墓地にある。斉藤と書いたものがあるが、斎藤以外の「さいとう」の文字、斉藤、西東、西藤、斉
東などなどは、明治になって苗字登録が口頭で行われたため、担当係官が、適当に当て字したため起
きた結果なのだ。正しくは「齋藤」で「斎藤」は略字だ。また斉藤は「せいとう」と読むのが正しい
が、消耗(しょうこう)、漏洩(ろうせつ)を「しょうもう」「ろうえい」と読む世の中だから許さ
れているのさ。

   斎藤鶴磯墓
   江戸時代後期の儒学者。地誌研究家。宝暦二年(1752)水戸藩士の子として江戸に生
   まれた。通称宇八郎、諱は敬夫、字は之休、鶴磯は号である。寛政八、九年(1796、
   97)から文化十三年(1816)頃までの約20年間、江戸から離れて所沢に住み、鈴
   木牧之(秋月庵)の『北越雪譜』や赤松宗旦(義和)の『利根川図誌』と並ぶ江戸時代の
   地誌『武蔵野話初編』を文化十二年(1815)に完成させた。翌年筆禍事件により所沢
   を去って江戸に移った。続編は門人の校訂によって文政十年(1827)に刊行された。
   他の著作に『女孝経補注』『干支考』『琢玉斎漫筆』などがある。文政十一年(1826)
   二月七日77歳で死去し、深川猿江町にあった慈眼寺に葬られたが、寺院の移転により改
   葬された。
   平成5年3月13日建設                     東京都教育委員会

   江戸中期各地を歩いて、綿密な調査と考証を重ね、名著『武蔵野話』を刊行した。武蔵野
   を科学的にとらえている点では、この時代の第一人者である。    豊島区教育委員会

 
芥川龍之介の墓
 大正期の小説家・俳人。代表作『羅生門』『地獄変』『河童』『杜子春』『或る阿呆の一生』『蜘
蛛の糸』など多数。「僕の将来に対する唯ぼんやりした不安」という有名な言葉を残して睡眠薬によ
る服毒自殺で人生の幕を自ら閉じた。芥川命日7月24日は小説『河童』から取って河童忌と呼ばれ
るが、母親が芥川を出産後、精神に異常を来した生い立ちにより、自分もいつか精神に破綻をきたす
のではないか・・・という不安を常に抱え、怯え続けた人生ではなかったかといわれている。芥川の
名を冠した新人文学賞「芥川龍之介賞」は、友人の作家菊池寛の提唱によるもので、芥川賞は日本で
最も有名な文学賞として現在まで続いている。墓のデザインは、奇抜で、超寸詰まりのオベリスクの
ような立方体。芥川が愛用した座布団のサイズに合わせて石を切り出してもらったんだそうで、いわ
れてみると天辺には立派な家紋が入ってるし、座布団に見えなくもない。
 ここ芥川家墓所には息子の比呂志、也寸志も眠っている

 
谷崎潤一郎の墓
 明治末期~明治中期の小説家で純文学の巨匠。代表作は『痴人の愛』『春琴抄』『細雪』『陰翳礼
讃』など、情痴や時代風俗などの耽美なテーマを扱う通俗性と、芸術性を高い流麗な文体を融和させ
た純文学で一世を風靡し、〝文豪〟〝大谷崎〟と呼ばれた大作家だ。詩人佐藤春夫と谷崎、谷崎夫人
千代子(最初の妻)の三角関係は有名だが、3人連名で、

   我等三人はこの度合議をもって、千代は潤一郎と離別致し、春夫と結婚致す事と相成り・
   ・・素より双方交際の儀は従前の通りにつき、右御諒承の上、一層の御厚誼を賜り度く、
   いずれ相当仲人を立て、御披露に及ぶべく候えども、取あえず寸楮を以て、御通知申し上
   げ候云々


 という声明文を出したことでも知られている。


龍源山功徳院 すがも平和霊園
 巣鴨5丁目35番35号にある高野山真言宗の寺の東京別院。すがも平和霊園を管理する。

 平和祈念碑
 東京大空襲の際、この地に避難していた幼い3姉妹が亡くなった。東京別院建立に際し、恒久平和
を願い建立した。漫画家の富永一朗画伯より原画を奉納してもらった。

   平和祈念碑
   大東亜戦争末期の昭和20年3月4日午前9時30分東京都豊島区巣鴨5丁目46番地の
   防空壕に直撃弾が投下され、伊藤淑子ちゃん(9歳)登美子ちゃん(5歳)恵美子ちゃん
   (2歳)の3人の幼い生命が一瞬の間に奪われました。この平和祈念碑は、漫画家の富永
   一朗先生が、3人の幼い子供をモチーフに、世の中がいつまでも平和であり続けることを
   願って原画を奉納して下さったもので、すがも平和霊苑のシンボルになっています。
                                   岡崎 鳥山石材店
                                   彫刻 鳥山和久

 永代供養合葬墓「飛天塚」
 新しいタイプの合葬墓の元祖として、平成6年春に建立された。

 富永一朗の墓(寿陵=生前墓)
 漫画家。京都市生まれ、大分県佐伯市育ち。
佐伯の小学校で教師生活を送った後、上京して杉浦幸
雄に師事し漫画家となる。富永の才能を最初に見出したのは編集者時代の吉行淳之介だったという。

代表作は『ちんころ姐ちゃん』。テレビの『お笑い漫画道場』で人気を博した。昭和61年日本漫画
家協会漫画大賞受賞。平成4年紫綬褒章受賞。岡山県川上町(現在は高梁市)名誉町民。同6年吉備
川上ふれあい漫画美術館名誉館長。同10年勲四等旭日小綬章授章。同16年高梁市名誉市民。

 
磯村英一先生顕彰碑
 窓(?)が2つ付いた記念碑。

   磯村英一先生顕彰碑
   先生は、明治36年年東京で生まれ、東京帝国大学卒業後、東京市に奉職、民生局長等を
   経て東京都立大学教授、東洋大学教授・学長を歴任。都市問題、人権問題の専門家として
   幅広く活躍。地域改善対策協議会会長を、90歳まで務め、引き続き財団法人地域改善啓
   発センター理事長に就任。生涯、同和問題解決へ向けて尽力を続ける一方、核禁会議議長
   として平和運動にも大きな影響を与えた。勲章は断りつづけたが、平成4年名誉都民章な
   らびに東京都目黒区名誉区民章を授章。少子高齢型社会の到来に向け「もやい運動」を提
   唱。平成2年東京・巣鴨に「もやいの碑」を建立、「もやいの会」を創立、生涯会長を務
   めた。先生は整然『僕の亡骸よりも、と大切な名誉都民章・名誉区民章を「もやいの碑」
   に納めることで、永遠に会員の皆さんと仲間であり続けられる』と遺言されていた。その
   意を体し「もやいの会創立十周年」に当たり、先生の遺徳を顕彰しここに石碑を建立した。
   平成12年12月8日                  もやいの会 会長神作光一

 大黒天
 庄内福録大黒天の小堂。
 


もやいの碑

 巣鴨5丁目35番35号のすがも平和霊園の入口にある納骨所。これは「もやいの会」の建てたも
ので、その碑文に曰く。

   人生は縁に始まる。
   すべてに人間は縁のなかに生き、生活を送る。その関係が、現世だけでなく、未来永劫に
   つづく。地球上の文化はその現れであり、大都市の繁栄もその姿の一つである。この碑は、
   その縁を永遠に語り合う「もやいの場」のしるしであり、同時に、大都市・東京が、平和と自
   由と友情の場であることの証でもある。                  磯村英一


 会の事務局は千代田区九段北1丁目9番904にある。


■滝野川学園跡

 巣鴨5丁目28~31番、48~51番の辺りにあった。石井亮一によって明治24年に創立され
た精薄児の教育施設だ。明治39年から昭和3年に谷保村(国立)に移るまであった。国立では「滝
乃川学園」と改めている。この本館は保存されて障害教育の歴史博物館になるそうだ。
 
 
 


【千川】(せんかわ)1~2丁目                 平成元年11月27日
 長崎村。明治11年「郡区町村編制法」により北豊島郡に所属。同22年「市制町村制」により
飛地を巣鴨村に譲り、同時に南豊島郡下落合村字三軒家を吸収して長崎村、大正15年町制移行し
て長崎町。昭和7年東京市に併合されて豊島区長崎南町1~3丁目・長崎仲町1~2丁目・長崎東
町1~4丁目・千川町1~3丁目に分かれた。昭和14年町名改正により大部分を要町3丁目・千
早町4丁目・長崎6丁目・推名町8丁目に譲り、長崎東町と千川1丁目の各一部で千川とし、平成
元年新住居表示を実施し現行の「千川」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『豊島区史』『豊島の歴史』など。


 
千川の由来
 「千川上水」によるが、玉川上水の分水だった。千川上水は保谷市新町4丁目で取水して武蔵野
市との境を東流、練馬区を通って豊島区巣鴨3丁目庚申塚の溜池に流れ込んで終った人工の川。無
論現在では暗渠となって下水のお手伝いだ。幕府の依頼にて川村瑞賢がデザインし調布仙川村の徳
兵衛と太兵衛が請け負って元禄9年(1696)に完成した。初め二人の出身地の名から「仙川(せ
んがわ)用水」と命名したが、徳兵衛と太兵衛が〝仙〟の字を〝千〟の字に改めた「千川」の苗字
を賜ったことで上水の名も「千川」に変わった。小石川・本郷・浅草・上野方面に給水したが、湯
島聖堂・寛永寺・浅草寺御成殿・白山御殿など、将軍が御成りになるところへの配水が主たる目的
だったのは当然だ。しかし江戸の北部の人々も潤ったことは間違いない。この後は文京区の千川へ
続く。

 「せんがわ」と「せんかわ」
 仙川を「せんがわ」と濁って読むのは、仙川の水源地、三鷹の勝淵神社の丸池には、かつて無数
の湧水口があり、湧水口はその形から一般に「釜」とも呼ばれ、丸池は「千釜(せんがま)」と呼
ばれたことによる。この辺りに庵を結んだ僧侶でもいたものか、仙人が住むという話があって、千
釜が仙川と書かれるようになり「せんがわ」と読むようになった。しかし三鷹市内の仙川の案内表
示板には「SENKAWA」と誤記表示して平気の平左だ。世田谷区ではちゃんと「SENGAW
A」としている。
 千川は「仙川」と「仙川用水」では紛らわしいので、幕府が「仙川用水」を「千川用水」と改め
て、読みも「せんかわ」と濁らないこととした。要町で千川用水から分水し、粟島神社の弁天池に
養い水した用水を「千川分水」といい、谷端川に流れたが、ために谷端川→小石川→大下水を「千
川」とも俗称するようになった。文京区の白山植物園の西の通りを千川通りというのはそのためだ
  


■榛名神社
 千川1丁目23番22号にある小社。江戸時代、長崎村字境窪の地に、群馬県の榛名神社から勧請
して祀った。以後、土地の守り神として信仰されている。
 


■千川彫刻公園中野素昂宅
 千川1丁目24番2号にある区立公園。枯山水のある庭園風の空間が憩いを与えてくれる。彫刻家
中野素昂(なかのそこう)のアトリエ跡地に造られた公園で、中野素昂の「空をみあげる」「坐像」
と長男蒋の「少女と仔やぎ、峯孝の「PRIMAVERA 春」の4体のブロンズ像が鑑賞できる。


■榛名神社
 千川1丁目23番22号にある小社。

   當社の由来
   当社は江戸時代この地が境窪といわれた頃、群馬県榛名山麓にある延喜式内の古社榛名神
   社のご分霊を迎え「土地の守り神」として厚く信仰して今日に至ったのであります。
   祭神:火産霊神、   神徳:開運、除災招福
      埴山毘売神       、 請願成就                氏子会
   昭和57年9月3日建立
    


■千川二丁目第二児童遊園
 千川2丁目5番15号にある区立公園。


■千川二丁目中央児童遊園
 千川2丁目11番17号にある区立公園。


■千川二丁目児童遊園
 千川2丁目33番4号にある区立公園。
 


【雑司が谷】(ぞうしがや)1~3丁目               昭和41年11月1日
 雑司ヶ谷村。明治11年「郡区町村編制法」により北豊島郡に所属。同22年「市制町村制」に
より高田村大字雑司ヶ谷。大正9年町制に移行して高田町大字雑司ヶ谷。昭和7年東京市に併合さ
れて豊島区雑司ヶ谷町1~7丁目。同35年4~5丁目は池袋東1~3丁目に移し、同41年新住
居表示により雑司ヶ谷町6~7丁目を西池袋に渡し、1~3丁目の大部分に、高田本町1~2丁目
・池袋東2丁目・目白町2丁目の各一部をあわせた町域を現行の「雑司が谷」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『豊島区史』『豊島の歴史』など。

 
雑司ヶ谷の由来
 ①.法明寺または小日向金蔵寺の雑司料だったという説
 ②.元弘・建武のころ後醍醐天皇の雑色職を務めた雑士柳下若狭・長島内匠・戸張平次左衛門ら
   が南朝の衰えを嘆いて都を捨て、この辺りに土着したことで「雑色ヶ谷・雑士ヶ谷」の名が
   起きたとする説
 ③.曹司とは郡領などの子を指していうので、郡領の子等の始めた土地という意味で曹子ヶ谷と
   いったという説
 がある。ほかに蔵司ヶ谷・蔵主ヶ谷・僧司ヶ谷など色々に書かれていたのを、八代将軍吉宗が鷹
狩にやってきた際に「雑司ヶ谷と書くべし」と命じた(新編武蔵風土記稿)ために、現在の雑司ヶ
谷に落ち着いたという。雑司・雑仕は宮中の雑役に任ずる者つまり〝何でも屋〟だ。「司」は男、
「仕」は女と使い分ける。

  山里は人をあられの花見かな(其角)
  時ならぬ桜の盛り雑司ヶ谷(川柳)

 法明寺から鬼子母神にかけては山桜の名所だった。
 


■雑司ヶ谷茄子
 池袋の東武デパートの南辺りにあった丸池を水源とする弦巻川の流域は水田として開かれやや高い
ところは畑地や住居として用いられた。それで地形を利用した多種類の野菜が栽培された。茄子は江
戸の初めから栽培され、江戸の西の山に当たるので、西山茄子、山茄子と呼ばれもした。早生・中生
・晩生があって、品種の多さは歴史の長さを物語る、真黒茄子が出る前は卵形茄子の代表とされた。
煮物に最適の茄子だった。
 雑司が谷のもう一つの特産品は「南瓜」だったが今はない。
 


弦巻川 暗渠

 往時池袋駅の南西のところにあった丸池を水源に発した「布引川→弦巻川」は、東南に流れ、JR
山手線・西武池袋線を越えて、鬼子母神(法明寺)の北側を流れる。南池袋と雑司が谷の境大鳥神社
参道を行き、雑司が谷1・2丁目の境を流れ、護国寺前で南に流れを変え、文京区との境、西青柳町
(文京区音羽二丁目)から音羽通りの西側に沿って南下し、これも桜木町(音羽一丁目)で神田上水
を埋樋(木管)で潜り、江戸川橋上で江戸川(神田川)に注いでいた。この辺りの流れは西青柳下水
とか鼠ヶ谷下水とか呼ばれていた。雑司ヶ谷を通ったが、星ヶ谷という渓谷もあり深山幽谷だったこ
とを窺わせる。今は都市化のために大森林は伐り倒され、凹凸は削平整地されたので幽谷は失われて
しまった。川名は源義家か頼朝が汚れた弓を洗い弓弦を巻き直したことに因むとされているが、義家
や頼朝が弓が汚れるほどの戦を何処でやったというのだ?
 さも見てきたような説明をするが、弓は普段から弦を張っている訳ではなく、射る間際に張るもの
だ。だから弓弦(ゆんづる)は通常は解いて弓頭に巻いて束ねておくものなのだ。つまり武士なら弦
を巻くのはしょっちゅうのことで、ごくありふれた日常の動作だよ。特別の動作じゃぁない。
 では「つる・まき」とは何ぞやというと、「つる」は「水流」と書いて湧水のことだが、弦巻とい
う地名において「つる」を「弓弦」と説明しようとするこじつけが多い。「弦巻川・鶴巻川」は全国
各地にあり、由来は大概義家や頼朝など有名武将が弓弦を巻いたというものだ。これは祖父ちゃんが
孫に聞かせた寝物語に過ぎない。水源が湧水に発する川の意だ。
 昭和4年からの暗渠工事は、高田町の失業対策事業でもあった下水道整備の一環をなす治水工事で、
同7年に完成した。こを記念した碑が大鳥神社にある。
 かつてこの川沿いは、夏は蛍、秋は月と四季を通じての趣を楽しめたところで、江戸時代の雑司ヶ
谷周辺名所8ヵ所に古歌を付した絵巻物『武蔵国雑司谷八境』にも描かれている。また流れのつきる
ところは、大久保彦左衛門の下屋敷の池で、彦左はそこに茶室を設け、茶会を催したといわれている。
一心太助もご相伴に預かったんだろうか?
 しかし弦巻川も大雨が続くとしばしば氾濫したので、当時の高田町では、昭和4年に治水工事に着
手、昭和7年までに暗渠化が行われた。この記念碑が雑司が谷の大鳥神社にある。


■雑司ヶ谷七福神

 ①.大黒天   鬼子母神堂 大黒天堂    雑司が谷3‐15‐20
 ②.恵比寿   大鳥神社          雑司が谷3‐20‐14
 ③.毘沙門天  清立院           雑司が谷4‐25‐6
 ④.吉祥天(寿老人の代替)清土鬼子母神   目 白 台2‐14‐9
 ➄.弁財天   観静院           南 池 袋3‐ 5‐7
 ⑥.布袋尊   中野ビル          南 池 袋2‐12‐5
 ➆.福禄寿   仙行寺           南 池 袋2‐20‐4


■枯れ野
 雑司が谷は冬枯れの野の風情の良いところとして「枯れ野」の名所だった。その面影を思いっきり
残しているのが「鬼子母神」だ。土産品「薄の木莵」はその名残なのだ。


■雑司ヶ谷八景
(金子直徳『江戸砂子』鬼子母神参詣「満足」)

      子も足りて歩みに香あり藤の花(直徳)
 星跡清水 吹き送る星も岩ふる清水かな(柳塘)・・・・清土(文京区目白台)
 威光山花 眺望に寺領もつかんはなの山(桃翁)・・・・法明寺境内
 池箇谷月 ひとおもて今宵はれ飛ぶ池の玉(湖牛)・・・丸池(元池袋公園)
 鼠山木玉 綿棒のこだまからやむつたかつら(里東)・・鼠山(目白5丁目)
 弦巻川蛍 みずうまの牛の腹ゆくほたるかな(鈷梁)・・法明寺前
 姿見橋鷺 暮れ染めて鷺も田植へもはしの上(晴星)・・面影橋(神田川)
 三嶋神籬 あまごひに雲のみは哉大祓(溶々)・・・・・
 御嶽夜雪 ゆきの夜はおもふしもとや桧箸(椏径)・・・清立院のところ


■三角寛旧居跡
 雑司が谷1丁目2番11号にある。現在は「雑司が谷 寛」という料亭になっている。三角寛は日
本民族内の特殊な種族に陽を当てた作家。山窩文学といわれる。日本民族はややこしい。単純に日本
人ではないのだ。そもそも「日本人とは?」と問われてまともに答えられる人は、学者にもいない。
日本人は、中国人でも、朝鮮人でもない。モンゴロイドとはいわれるが、蒙古人でもない。北から南
からあっちこっちからやってきて混ざり合って、また孤塁を守る者がいて、複雑怪奇だ。明治維新を
行ったのは朝鮮系日本人といわれる。しかし太古の昔、南鮮に日本人が攻め込んで乗っ取っている。
では韓国人は日本人か? サンカは山の民、漂泊民。かといって小椋族でもない。


■日本女子大学寮
 雑司が谷1丁目3番にある。梅花寮、新泉山寮、潜心寮、明佳寮、紫峰・新泉・精華寮が広い敷地
に散在していて、緑の環境は素晴らしい。箱入娘になってしまいそうだわ。


■鉄板焼きせんべい
 雑司が谷1丁目5番3号の有限会社「小倉屋製菓」の一口煎餅。
種類が豊富。焼きたての香ばしさ
が自慢の味。
 


■南坂
 雑司が谷1丁目6番と7番の間を東北に上って行く坂道。坂名の由来は不明。


■菊池寛旧居跡①
 雑司が谷1丁目16番8号に大正12年から昭和12年まで住んでいた。昭和12年雑司が谷1丁
目32番5号に移転し、歿する同23年まで居住した。



異人館 → 雑司が谷宣教師館(都指定文化財)
 雑司が谷1丁目25番5号、雑司が谷霊園の南側にある。明治40年にアメリカ人宣教師のジョン
・ムーディ・マッケーレブが自らの居宅として建てた建坪113.03㎡ 木造2階建て和小屋組寄棟
屋根、西と南が切妻、カラーベストコロニアル葺き。外壁はペンキ塗装の下見板張り。19世紀後半
のアメリカ郊外住宅の特色がある。細部のデザインはカーペンターゴシック。1、2階とも3部屋T
型配置。全ての部屋に暖炉があり、壁の中で煙突に繋がっている。区内に現存する「最古の近代木造
洋風建築」だ。都の指定有形文化財として保存されている。マッケーレブは、帰国するまでの約35
年間、この地で布教活動と幼児や青年に対する教育活動を展開、その拠点が宣教師館をはじめ隣接し
て建てられた雑司が谷学院・教会・幼稚園だった。都内でも明治期の宣教師館はほとんど残っていな
いというから貴重なものだ。この建物は宣教師マッケーレブの離日後幾つかの手を経てスタックスの
社屋として使用されていた。
その後不動産業者に売却後マンション計画が持ち上がり、住民運動の結
果区が買い上げて保存されるようになった。館内にあるパンフレットによると意昭和57年に区が買
い上げており、直前の所有者スタックス社は、同56年ごろまで社屋として使用していた。つまりス
タックスの埼玉県三芳町移転の際に売却された。建立当時は周辺一帯が敷地であり布教、慈善活動と
して学校も併設されていたとか。敷地の売却などで曳き屋されて現在の位置に移されたようだが、ス
タックスが社屋として使用した頃は既に曳き屋された後のようだ。
 


菊池寛旧居跡②
 雑司が谷1丁目32番5号テラス雑司ケ谷の中にある。ここは清土の地、子孫も健在だそうだ。菊
池寛は大衆文学の作家であり、また社会民衆党に属した政治家でもあったが、大正12年1月文芸春
秋社を創立したが、その本社は彼の自宅にあり、その年の暮れから雑司が谷391番地(1丁目16
番8号)に引っ越してきた。昭和3年株式発行。本社を近所に移す。同5年初の臨時増刊『オール讀
物號』を発行
。翌年『オール讀物』月刊化。同10年芥川龍之介賞・直木三十五賞を制定。同11年
文圃堂より『文學界』を引き継ぐ。同14年菊池寛賞を制定発表。同20年戦局悪化のため全雑誌休
刊。敗戦後『文藝春秋』『オール讀物』復刊。同21年2月臨時増刊『別册文藝春秋』発行。3月菊
池は株式会社文藝春秋社を解散したが、6月社員有志の願望を受けて株式会社「文藝春秋新社」の設
立を承認。以後菊池の手を離れた文芸春秋社は独自に発展して今日に至っている。
 菊池はその後もこの地に住んだが、彼の住宅だったところはマンションになり、
マンションの前に
菊池寛の住居跡を示す案内板が建っている。ンションの地下に記念館のスペースはあるようなのだが
拠所ない事情で再開できなくなり、四国高松に移してしまったそうだ。だから此処は記念館ではなく
て単なる旧居跡ということに成り果てたという訳でごあんす。

   菊池寛旧居跡
   菊池寛は、明治21年12月26日に香川県高松市に生まれた。戯曲「父帰る」小説「無
   名作家の日記」「忠直卿行状記」などの作品で文壇の地位を確立した。その後、大正12
   年に雑誌「文藝春秋」を創刊、昭和10年芥川賞・直木賞を創設するなど、後進の育成の
   も尽力し、文壇の大御所と言われた。
   寛は大正12年以来、当地から程近い雑司ヶ谷金山に居住していたが、昭和12年に当地
   に転居、晩年までここで過ごした。昭和23年3月6日没。
   「不実心不成事 不虚心不知事」(実心ならざれば事成さず、虚心ならざれば事知らず)
   は、寛の座右の銘として知られている。
   平成11年11月                     東京都豊島区教育委員会



■雑司が谷一丁目児童遊園 → 雑司が谷一丁目公園
 雑司が谷1丁目36番3号にある区立公園。


■千石記念家の光研修所(千石興太郎旧居跡)
 雑司が谷1丁目37番11号にある千石興太郎記念館。彼は産業組合(全国農業協同組合)の中心
人物。貴族院議員。戦後初内閣東久邇内閣の農商大臣。家の光協会は、農業・農村文化の向上を目指
すJA(全農)グループの出版・文化団体で、
宗教団体やおまへん。
 記念碑は研修所内にある。

   千石興太郎記念碑
   千石興太郎氏は明治7年東京に生まれ 札幌農学校を卒えた後、島根県農会議師を経て産
   業組合中央に迎えられ 同会々頭全国購買組合聯合会々長を始めとして数多くの産業組合
   全国機関の要職を歴任し その間貴族院議員に勅選せられ東久邇内閣の農林大臣に就任す
   る等77年の生涯を農業農民の発展に捧げた 氏は資性剛毅、情に厚く時勢を洞察するに
   明敏、事に処するに果断、その清新明朗なる人格は、大衆運動の指導者としての天資に恵
   まれ、振興刷新期より拡充発展期の産業組合運動の中枢に在って、常にその推進の原動力
   となり、わが国共同組合運動発展の礎を固めた第一人者である。晩年この地に居を定め、
   昭和25年8月22日この地において逝去す。われら氏の遺徳を追慕するものたち相諮り
   この由縁の地を永く記念するためこの碑を建立するものなり
   昭和42年8月22日                 千石興太郎記念碑建設委員会


妙光山円常寺

 雑司が谷1丁目40番3号にある日蓮宗の小寺。


真要山本浄寺
 雑司が谷1丁目51番18号にある日蓮宗の寺。


■小篠坂
 雑司が谷1丁目48・49・51番にある。護国寺の西側を北へ上がっていく坂道。

   小篠坂 こざさざか (小笹坂)
   豊島区と境を接する坂である。この坂道は,江戸のころ,護国寺の北西に隣りあってあっ
   た〝幕府の御鷹部屋御用屋敷〟から,坂下の本浄寺(豊島区雑司が谷)に下る道として新
   しく開かれた。往時は 笹が生い繁っていたことから、この名がついたものであろう。
   坂下一帯は、文京の区域を含めて、住居表示改正まで、雑司が谷町とよばれていた。近く
   の目白台に長く住んだ「久保田空穂」は,次のようによんでいる。
   雑司が谷 繁き木立に降る雨の降りつのりきて音の重しも
                  東京都文京区教育委員会
                     平成元年3月


■雑司が谷二丁目四つ家児童遊園
 雑司が谷2丁目1番6号にある区立公園。


■子安稲荷
 雑司が谷2丁目5番22号、雑司ヶ谷道沿いにある小祠。


■雑司が谷駅
 雑司が谷2丁目6番1号、都電荒川線鬼子母神駅の下にある東京メトロ副都心線の地下停車場。平
成20年6月14日の池袋~渋谷間延伸時に開業した。ホームは島式1面2線構造で、地下4階にあ
る。ホームと改札階を結ぶエレベーターは完備。改札口は2ヶ所で、出口は1~3の3ヶ所。この駅
は都電荒川線との乗換駅で、駅を出て直ぐのところに鬼子母神前駅がある。1つ隣の雑司ヶ谷駅は、
500mばかり離れており、駅名が同じで紛らわしいためこの駅の開業と同時に「都電雑司ヶ谷」に
改称した。

 雑司が谷の詩‐Poem of Zoshigaya
 地下1階目白方面改札外にある木村光佑の壁画。ホーロー鋼板。昭和11年大阪生まれの版画家、画家、京都工芸繊維大学名誉教授(第9代学長)。日本画を学んだのちグラフィックデザインの制作に携わり作家に転向。多様な技法、素材による版表現で国際的な評価を集めた作家。

   雑司ヶ谷の詩 Zoshigaya no uta
   木村光佑 Kosuke Kimura
   
時の流れを描く
   歴史ある雑司が谷の街には
   様々な記憶が刻まれている。
   懐かしい風景と、豊かな自然がそこここに残る
   一方で、新しい時代の息吹も感じさせる。
   この街の、多彩な時の流れをテーマに
   制作した作品である。
   雑司が谷には、そこに住む人々と訪れる人々の
   心を揺さぶる詩がある。

   
時の流れを描く
   歴史ある雑司が谷の街には
   様々な記憶が刻まれている。
   懐かしい風景と、豊かな自然がそこここに残る。
   一方で、新しい時代の息吹も感じさせる。
   この街の、多彩な時の流れをテーマに
   制作した作品である。
   雑司が谷には、そこに住む人々と訪れる人々の
   心を揺さぶる詩がある

 
雑司が谷物語‐Zoshigaya Story
 地下1階池袋方面改札外にある木村光佑の壁画。8種の絵で構成されている。

   雑司が谷物語
   Kosuke Kimura
   木村光佑


■鬼子母神前駅
 雑司が谷2丁目8番にある都電荒川線の停留所。駅名の読みは「きしぼじんまえ」とあるが、鬼子
母神は、「きしもじん」と読むのが正しい。大正14年11月12日の開業。開業時は王子電気軌道。
ホームは相対式2面2線の無人駅。昭和17年交通統制により東京市電32系統となり、同18年都
制施行により都電32系統となった。同49年最後に残った都電として27系統と32系統を併せて
荒川線と命名された。副都心線との乗換駅になったので、乗り換え時の混雑は致し方ない。これまで
のように〝のんびり都電の旅〟とは行かなくなった。
 


■子育てもなか
 雑司が谷2丁目8番4号にある和菓子屋「ときわ木」の最中。大正8年の創業以来、都電の停留場
前で営業している。銘菓「子育てもなか」は、餡から皮まですべて手作りのため、毎日限られた数し
か作れないのが悩みの種。初詣のお土産にも最適。 03-3971-6451 
 因みに常盤木とは「松」のことだよ。


■雑司が谷公園
 雑司が谷2丁目11番8号にある区立公園。


■高田小学校 廃校
 雑司ヶ谷2丁目12番にある区立校。旧高田村地区で最も古い小学校で、明治11年「第四中学区
第二十五番公立小学高田学校」として高田村328番地に開校。同12年学制を廃し教育令施行によ
り「東京府北豊島郡高田村高田小学校」と改称。同19年小学校令発布により4年制の義務教育とな
り、高等科を併置して「東京府北豊島郡高田尋常高等小学校」と改称。同22年高等科を廃し「東京
府北豊島郡高田尋常小学校」と改称。同23年高田村大字高田字若葉町6番地に新校舎が落成して移
転。同25年再び高等科を併置して「東京府北豊島郡高田尋常高等小学校」と改称。明治30年代に
校歌制定。

 校歌「千代田の宮の」 作詞作曲・不詳
  1.千代田の宮の西北に
    建つや目白の丘の上
    徽章
(しるし)の稲の豊けくも
    開け栄ゆる学の園
  2.
類無き世の御光を
    受けて色添う撫子よ
    雨風雪を凌ぎつつ
    良き花開け 実を結べ
 
  ※昭和20年2番の1、2小節を「平和の光 世の恵」と改訂。

 同44年高田村大字雑司ヶ谷村字美名実456番地に新校舎落成して移転。大正5年第二高田尋常
小学校(雑司ヶ谷小学校)を分校。同11年第三高田尋常小学校(高南小学校)を分校。同12年3
月高田・第一高田・第二高田小学校は、高田第一・高田第二・高田第三小学校と改称。4月高田第四
尋常小学校(日出小学校)を分校。
 昭和4年高田第五尋常小学校を分校。同7年北豊島郡の東京市併呑により「東京府東京市高田第一
尋常高等小学校」と改称。同16年勅令148号国民学校令により「東京府東京市高田第一西国民学
校」と改称。12月日本海軍の真珠湾攻撃により日米開戦。同18年都制施行により「東京都高田第
一国民学校」と改称。同20年4月愚かなアメリカ軍の非人道的無差別の東京西部大空襲により校舎
半焼。8月日本はポツダム宣言を受諾して、ならず者国家アメリカの軍門に降り敗戦。以後その属国
となり、唯々諾々として言い成りになる保守傀儡政権を保持せざるを得ない今日的不幸を背負い込む。
売れない国債を買わされるやら、思いやり予算やらでもう200兆円以上がとこ持って行かれたよ。
日本の娘がレイプされても地位協定で国は見て見ぬ振りを決め込んで泣き寝入り、これからの若い者
は、保守傀儡政権の謳う「国際協力(昔は八紘一宇といった)」の名目の下、アメリカ軍の尖兵とし
て、最前線の激戦地に送り込まれることになるぜ。ったく酷えもんだよ。何時までアメリカの子分で
いるんだい? アメリカ軍は何時んなったら帰るんだい? 
 同22年戦勝国アメリカの強制による学制改革(学校教育法施行)により「東京都豊島区立高田小
学校」と改称。以後廃校までの沿革不明。
 平成12年地方自治法改正に伴う学校教育法改正により、校名より東京都の冠称が取れ、「豊島区
立高田小学校」と改称。同13年惜しまれつつ雑司谷・日出両小学校との統廃合で廃校となり「南池
袋小学校」となった。現在は旧校舎を改造して区民集会所となっている。


■雑司が谷 みみずくの里
 雑司が谷2丁目13番21号にある東京保健生協初のグループホーム。以前は雑司が谷診療所。平
成19年11月東京保健生協としては初めて開設したグループホームです。認知症対応型の共同生活
介護を行っている。本格的な木造建築として、内部空間の心地よさは勿論だが、新築なのに地域に溶
け込んだたたずまいとなっている。木の温もりに居心地の良さに、見学で訪れたみなさんに「ほっと
する」といわれているが、これからは運営面でも「ほっとする運営」を作り上げていく意気込みだ。


■雑司が谷音楽堂
 雑司が谷2丁目17番12号にある。〝歴史の街〟雑司が谷に生まれた、落ち着いた雰囲気の小さ
な音楽サロン。インティメートな音響空間をもち、室内楽、リサイタル、公開レッスン等が定期的に
開催されている。


千登世橋教育文化センター(旧社会教育会館)
 雑司が谷3丁目1番7号にある。

 教育センター

 
雑司が谷地域文化創造館
 
 平成18年4月1日から現在名になった。区民が互いに交流を深めたり、生活を豊かにしたりする
ための生涯学習や文化活動、つまり会議・学習会・発表会などに利用できる。区の外郭団体「としま
未来文化財団」の運営する1施設。

 雑司が谷体育館
 体育室と温水プールがある。03‐3590‐1252

 
雑司が谷図書館
 平成19年3月新しい中央図書館に吸収されるため閉館。蔵書は無くなったが事務は1階の創造館
事務所で行なっており、予約・貸出・返却ができる。


■鬼シュウマイ
 雑司が谷3丁目2番6号の中華そば屋「木莵ラーメン」の一品。
スープ自慢の店が作る、豚肉と具
のバランスにこだわったシュウマイだよ。元は中華料理「大観」といったが、道路拡張のため閉店。
ラーメン屋として復活した。


■東京主僕教会

 雑司が谷3丁目4番5号にある日本キリスト教会の小さな小さな伝道所。


■千登世橋教育文化センター

 雑司が谷3丁目7番1号にある区の施設。

 
時計塔とオブジェ
 外にある。

 

 ビルの角にある。柳原義達の作品。

 
オブジェ
 巻貝を立てたようなデザイン。


■梟像

 雑司が谷3丁目7番8号鬼子母神参道入口にある。「梟の樹を創る会」によるふくろう像(第19
号)。羽を広げた凛々しいふくろうだ。
 


■とんかつよしや火事

 雑司が谷3丁目10番6号のとんかつ屋など4棟を焼く火災。平成27年10月18日午後8時半
頃、とんかつよしや(看板はファミリーショップYOSHIYA)から出火し、消防車34台が出動
し、3時間後火はほぼ消し止められたが、とんかつ屋など4棟、210㎡を焼失した。
 出火時、とんかつ屋は営業中だったが、客はおらず、経営者(女性)が厨房で油鍋を加熱したまま
鬼子母神御会式万灯練供養の行列を見物に行っていた間の出来事だった。
 鬼子母神では、もともと宗祖日蓮上人の忌日の法会で、16~18日に御会式大祭を営む。今年は
「雑司谷鬼子母神御会式万灯練供養」が豊島区指定有形文化財に指定された。
 


■みみずく公園
 雑司が谷3丁目15番20号にある区立公園

 
梟像
 園内にある。「梟の樹を創る会」の第16号作品。


■武芳稲荷神社

 雑司が谷3丁目15番20号、鬼子母神堂と同じ境内にある。今から約400年ほど前の弘治年中
(1555~57)の勧請といわれ、
ここの地主神として祀られたもので、当時は「稲荷山」「
稲荷
の森」といって、全て武芳稲荷の境内だったが、後になって鬼子母神堂が建てられた。境内の大公孫
樹(おおいちょう)は樹齢約700年といわれ、今も樹勢は止まることを知らない。目通りが約8m
×樹高約30mという、都内で3番目に大きいイチョウだとのこと。例大祭は5月18日・9月18
日に行われる。鎮座伝記には「宇賀美多麻神、三狐(みけつ)の神と同座なり」とあり、現在の尊像
は貞享三年(1686)卯月吉日開眼の銘がある。武芳を称することになったのはいつの頃のことか
詳らかではない。開運出世の霊験新たかにして万人の尊崇するところだ。



■雑司が谷の鬼子母神堂
 雑司が谷3丁目15番20号にある。永禄四年(1561)一月十六日、雑司の役にあった柳下若
挟守の家臣山村丹右衛門が、文京区目白台2丁目14番9号の清土鬼子母神(お穴鬼子母神)のとこ
ろで掘り出し、側の星の井(境内にある三角井戸)で像を清め、法明寺塔頭東陽坊(のち大行院と改
称、その後法明寺に合併)に納めたのが雑司ヶ谷鬼子母神のそもそもだ。東陽坊の一人の僧侶が、そ
の霊験の顕著なことを知って、密かにご尊像を自身の故郷に持ち帰ったところ、意に反してたちまち
狂気になってしまったので、故郷の人々が大いに畏れ、再び東陽坊に戻したという。「持ち出すな」
という説教かも知れない。
 天正年間(1573~92)に当時〝稲荷の森〟と呼ばれていた武芳稲荷の境内に鬼子母神堂が建
てられ、軒を借りて母屋を乗っ取る結果となってしまった。安産の神としてまた一郷の総鎮守として
祀られ、東陽坊が別当となった。
 この別当職を巡って東陽坊と法明寺が争ったことがある。のち東陽坊は大行院となり、大行院は法
明寺に吸収された。それで今は鬼子母神堂は法明寺の境外堂となった。
 元禄以降娯楽的要素の濃い社寺巡拝が流行し、この辺りでも「雑司ヶ谷八景」とか「高田十二景」
とかいう名所が拵えられた。鬼子母神が賑わうのも元禄以降で、門前には物見遊山客を相手の水茶屋
がだんだんに増えていく。宝永七年(1710)には、門前に町屋を開くことが許され、延享二年(1
745)には町奉行支配となった。公認された門前以外にも、百姓茶屋町が広がっていき、これも江
戸時代後期に展開された農間余業の一つだった。門前茶屋で特に有名だったのは茗荷屋だ。明治維新
の時、上野で新政府軍と闘い敗れた彰義隊が結成される過程で、この茗荷屋を会合の場に利用したこ
とは有名だ。

   東京都指定有形文化財
   
法明寺鬼子母神堂 附厨子
                       所在地 豊島区雑司が谷3丁目15番20号
                       指 定 昭和35年2月15日
   『新編武蔵風土記稿』によると建立は天正六年(1578)五月三日であるが、そののち
   寛文四年(1664)松平安芸守光晟の室、法名自昌院美心日妙大姉が寄進して、今の本
   殿を造営した。
   拝殿と幣殿(相の間)は元禄十三年(1700)に建立されたことが、昭和51年に行わ
   れた昭和大修理において発見された墨書や銘文によって確認されている。
   本殿桁行6.04m、梁間5.77m、一重、流造、桧皮葺形鋼板葺、拝殿は桁行17.86
   m、梁間11.816m、一重、入母屋造。厨子は一間厨子。入母屋造、軒唐破風附本瓦形
   板葺。
   平成2年12月27日                      東京都舊幾委員会


 入谷の鬼子母神は朝顔で有名だが、こっちは五色の風車・栗の花の木兎だ。法明寺持ちで江戸時代
江戸から遥かに離れているにも拘わらず参詣者が絶えなかった。日蓮宗で十月のお会式は大群衆が押
し寄せたという。その賑わいも安永のころまでで、人気は堀の内のお祖師様に奪られてみるみる衰退
した。

   十月の風の中行く雑司ヶ谷(川柳)
   鬼子母尊現(あ)れしは青き谷戸のどこ(加倉井秋を)
   おくれゆく雑司ヶ谷墓地みどり射す(山田みずえ)
   雑司が谷雨の欅に鵙(もず)鳴けり(水原秋桜子)
   二の酉やいよいよ枯るる雑司ヶ谷(石田波郷)

 現在のお堂は、寛文四年(1664)徳川4代将軍家綱の代に加賀藩主前田利常の息女で安芸藩浅
野家に嫁した自証院の寄進により建立され、元禄十三年(1700)に現在の規模の堂が建造された。
棟札によって文久元年(1861)に屋根の葺き替えを行ったことが判明していたが、今回の解体修
復工事で、今まで寛文六年(1666)に建てられた区内最古の建築物だと思われていたものが、3
4年も後の元禄十三年の建造だということが判った。昭和35年前の条件で東京都有形文化財の指定
を受け、昭和51年から54年にかけ、江戸時代の姿に戻す解体復元の大修理が行われた。
 堂内の数多くの絵馬の内、喜多川歌麿の師鳥山石燕の描いた「大森彦七図」と、二代目鳥居清満の
「三人静白拍子図」の2点は都の有形文化財に、参道のケヤキ並木と境内のイチョウは天然記念物に
指定され、これらも含め境内や周辺の樹木全体が区の保存樹林となっている。といっても林というほ
ども数はない。しかし太さは並大抵じゃない。ケヤキ並木はかつて鎌倉道の本筋だったが、後に並木
の手前で左に逸れ、駅前に抜ける道に変わり、大塚へ抜ける旅人だけが入っていったそうだ。境内に
は前述の武芳稲荷神社の外、不動堂、大黒堂、社殿真裏にの北辰妙見堂が建っている。そのほか力石
や「一字一石妙経塔」、百度石、2体の仁王像、石灯籠、山岡鉄舟書の石碑、奪衣婆石像、日露戦役
戦勝記念碑、神木柘榴の碑などがある。

 鬼子母神とは
 
鬼子母神は安産・子育(こやす)の神様として広く信仰の対象となっているが、元々の来歴には深
い謂れがある。そのむかし鬼子母神はインドで訶梨帝母(カリテイモ)と呼ばれ、王舎城の夜叉神の
娘で、嫁して千人の子供を産んだ。

   洗濯に井戸をかいほす鬼子母神

 しかしその性質は暴虐この上なく、近隣の幼児をとって食べるので、人々から恐れ憎まれていた。
そのことを聞いた釈迦は、その過ちから帝母を救うことを考え、その弟子に末の子を密かに隠させた。
その時の帝母の嘆き悲しむ様は限りなく、釈迦に救いを求めた。すると釈迦は「千人のうちの一子を
失うもかくの如し。いわんや人の一子を食らうとき、その父母の嘆きやいかん」と戒めた。そこで帝
母は初めて今までの過ちを悟り、釈迦に帰依し、その後安産・子育の神となることを誓い、人々に尊
崇されるようになった。雑司ヶ谷の鬼子母神像は、鬼形ではなく、羽衣・櫻洛をつけ、吉祥果を持ち
幼児を抱いた菩薩形の美しい姿をしているので、特に角(つの)のつかない鬼の字を作って用い尊称
としている。

 
牛山の句碑
 本堂正面左側に京都賀茂神社の神官の句碑が建つ。

   面倒になればおつるか蝸牛
(カタツムリ) 


 
雑司谷鬼子母神御会式万灯練供養
 享保・文化文政の頃から日蓮上人の忌日を中心とした、毎年10月16日~18日に行われている
年中行事。白い和紙の花を一面に付けた、高さ3~4mの万灯を掲げて、団扇太鼓を叩きながら鬼子
母神まで練り歩く。万灯が幻想的な夜の練り供養をまだ見たことがない人は、一度は見ときなよ。見
とれるよ。平成27年「雑司谷鬼子母神御会式万灯練供養」が豊島区指定有形文化財に指定された。

 
公孫樹
 境内にある天然記念物。石柱が建っている。

   
天然記念物鬼子母神の公孫樹

 その説明板は以下の通り。


   東京都指定天然記念物
   
雑司ヶ谷鬼子母神のイチョウ   所在地 豊島区雑司が谷3丁目15番20号
                                  法明寺鬼子母神境内
                       指 定 昭和31年8月21日
   イチョウ(銀杏・公孫樹)は、一属一種のイチョウ科に属する、裸子植物の落葉高木であ
   る。耐寒耐暑性があり、社寺の境内樹・庭園樹・公園樹・街路樹などに広く植栽されてい
   る。中国原産といわれ日本へは、遣唐使の帰国によってもたらされたという説もある。雌
   雄異株で、四月に開花し一〇月に種子(銀杏)は成熟し黄葉する。樹高30m、幹周8m
   の雄株で、都内のイチョウでは、麻布善福寺のイチョウに次ぐ巨樹であり、樹勢は盛んで
   ある。応永年間(1394~1428)に僧日宥が植えたと伝えられている。古来『子授
   け銀杏』と言われ、戸張苗堅の『櫨楓(ろふう)』によると、婦人がこのイチョウを抱く
   光景がみられ、注連縄を張るようになったのは文政年間(1818~29)の頃という。
   平成2年12月27日 建設                   東京都教育委員会
 

 百度石
 
仁王像の傍らにある。円柱状の石塔で、他 では見かけない形をしている。百度石は鬼子母神が起
源で、他の寺社はみんな真似たものだ。百度とは十羅刹女をはじめ鬼子母神の千人の御子に詣でる心
組みで十と千との間の数を取ったもの。今は百度参りは顧みられもしないが、戦時中は夫や息子の武
運長久を願って百度往復して参る姿が見られたとか。石塔の前面に深く力強い「百度石」の文字が彫
り込まれ、側面に花友と記されており、寄進者と思われる。裏面に和歌一首。

   ただたのめちかひに立つる百度石 世にもうごかぬ志るしとぞなれ

 風車
 鬼子母神の境内で子連れの参詣人目当てに売っていた。

   風車子持ちの神が売り始め(川柳)
   鬼子母神五色の風の廻るとこ(川柳)
   風車廻らぬ舌でねだり出し(川柳)
   風車悪く廻ると泊りがけ(川柳)


 子持ちの神とは、1000人の子を持つ鬼子母神、風車は五色に塗り分けられていた。子供には欲
しくなる玩具だった。悪く廻るとは、ご婦人のいる遊び場に廻るの意で、風車はそんな男の口実のた
めにも良く売れた。護国寺前の音羽町は男には過ぎた場所だった。

   今宵見る月の外にもさかつきのみてもこぼるるけさもまたよき
   花のみか酒さへあるかおもしろしゆめのよし原夢の世の中

 月は信仁亭月和孝と、花は花信亭明鏡起の両人の早世を悼み、茗荷屋が発起人となり、社中に呼び
かけてこれを建立した。ほかに句碑が二つある。大須賀乙字の句碑は大正9年の没後に門下の吉田冬
葉と住職兜木洞岳によって建てられたもの。勝峰錦風のは昭和の初めに息子の晋風が建てたもの。

   木ゆれなき夜の一時や霜の声(乙字)

   夜は雪の明るさをもつ桜哉(錦風)

 ほかに慶長九年(1604)の宝篋印塔、墓地片隅に「従是北西社地」と彫られた道標、秋田雨雀
の墓などがある。

 大黒天堂
 境内にある一見倉庫のような建物。雑司ヶ谷七福神の一。

   大黒天堂
   東京別院の大黒天尊像は功徳院大分本院に祀られる『福録大黒天尊像』を分祀したもので
   ある。当山は弘仁七年(816)弘法大師空海上人が和歌山県高野山に開いた真言宗(本
   山金剛峰寺)の末寺で、延宝五年(1677)三月大分県に松平家の子孫を祀る祈願所と
   して建立。元は松栄神社の内官寺であったため、明治18年護国神社の大増築に伴い、現
   在の大分県庄内町の権現岳(通称城山)に移転。以降、地域の零場として、僧侶の修行道
   場として栄え、現在も無数の石仏が城山山中に奉納されている。
   『福録大黒天尊像』は功徳院の中興と、万民の幸せを祈念し、平成6年5月大分本院の城
   山山頂(標高216m)に2年がかりで奉納安置された。
   この尊像は中国山東省において赤御影石で彫刻されたもので、高さ3m、重さ18t。一
   石彫りとしては国内最大級の大きさである。
   大黒天は七福神の一で仏法僧(三宝)を好む福の神として産業振興、商売繁盛、家内安全
   除厄招福などの霊験あらたかである。
   東京別院の大黒堂は、大分本院『福録大黒天尊像』の霊験あらたかなるを、より多くの方
   にご享受いただき、その功徳とご利益のご縁を結んでいただく為に建立した。
   この大黒堂に無数に奉納されている小さな『お願い大黒天』は、庄内福録大黒天尊像の5
   0分の1の大きさに象ったもので、功徳院縁者の方々が種々の願いを託し奉納している。
   大黒天は二体奉納され、一体は大黒堂に、名前・祈願を刻み奉納安置され、大黒天の縁日
   ・甲子の日には大黒法を執り行う。もう一体はご自宅にお祀りするか、大分本院の大黒天
   の元に奉納するかを選択することが出来る。
   多くの皆様の「信仰」「願い」を大黒さまという「像(かたち)」に託し、天下泰平、万
   民快楽なることを祈念したい。                   龍源山 功徳院


 法不動堂(のりふどうどう)
 金剛不動尊を安置している。御堂が美しい形をしている。

 帝釈天王石像
 元禄十二年(1699)建立。仁王さんのような石造。

 
鬼子母神石像
 合掌する鬼子母神立像。

 
ふくろうのベンチ
 境内にある。「梟の樹を創る会」による第18号。参拝の帰りにひと休みしてはいかが。

   
鬼子母神鐘が鳴ったらみみずくがみんなの家庭に幸せ運ぶ

 
ぶんぷく茶釜
 境内にある、自然石に鉄の茶釜が据えてある。悪戯されないように中にはコンクリートが詰め込ま
れている。ぶんぷく茶釜は群馬県茂林寺の話で、茶釜はあちらにある。ここに何の関連であるのかの
説明板などはない。茶道の家元が寺に寄贈したものだとか。茶葉もしくは茶釜を供養したかったのか
もしれない。

 一字一石妙経塔
 寛政三年(1791)に茶・俳諧をよくした川上不白自筆の六万九千三百八十四の一字一石の法華
経を納めた。

   狐峰不白 一字一石妙経塔

 川上不白は享保四年(1719)紀州新宮に水野家の家臣川上家の次男として生まれた。水野家は
紀伊藩江戸詰家老職にあり、江戸に仕官した不白は、16歳の時に主君の命により、水野家茶頭職に
なるために表千家7代如心斎の元で修業を続けた。
 茶の湯は当時、社交接待、稽古事として大衆化の時代に入り始めていたが、不白は師如心斎から茶
の湯のあるべき姿を学んだ。延享二年(1745)如心斎より茶湯正脈が授与され、寛延三年(17
50)には真台子が伝授された。
 帰府した不白は、水野家茶頭職としての活動を始め、江戸の武家社会に千家流の茶を伝えた。現在
各地に江戸千家の茶が伝承されているのも、当時江戸に集る大名やその家臣により不白の茶が受け入
れられ、各々の国に持ち帰られたことによる。
 安永二年(1773)55歳になった不白は、嗣子自得斎へ水野家茶頭職の家督を譲る。京都修行
時代に師から授かった「宗雪」の安名も自得斎が名乗ることになり、この時以後、やはり京都修行時
代に玉林院大竜宗丈和尚より授かった「孤峰不白」を名乗る。
 不白は活躍の場をさらに広げ、江戸の町人文化の影響を受けながら、京都とはまた違った江戸前の
茶風を作り上げ、江戸の一般庶民の間にも広めていった。
 不白は当時としては90歳という稀にみる長命でありながら、文化四年(1807)に没するまで
活動し、長寿茶人としても幅広く人気を博した。今日、晩年に集中する数多くの遺墨ほか茶碗、茶杓
等の遺作からも不白の人物像が浮かび上がってくる。不白は生前に自ら菩提所とした日蓮宗安立寺に
葬られている。以後安立寺には不白の子孫、川上姓を名乗る高弟、親族の墓が立ち並び今日に至る。

 妙見堂
 鬼子母神の裏側にある。屏風折のような縁起碑が建ててある。

   北辰妙見大菩薩縁起
   妙見さまはまたの名を北辰菩薩・尊星王などといい、本来北斗七星を神格化したものであ
   ります。妙見さまの御利益は国土を守り、長寿延命をはじめとする除災招福とされ、また
   その名称の”妙見”から眼病平癒の菩薩として尊崇されています。
   そのお姿には童子像のものや国土擁護の威神力を示すための武神像のものもありますが、
   一般には美しい天女像で、雲まには亀に乗り、左店蓮華を持ち、その蓮華の上には北斗七
   星が形づくられ、右手では説法印(教えを説く姿を示すもの)を作るもの、また四臂でそ
   れぞれの手に日輪と月輪、筆と紙を持つお姿などがあります。
   この筆と紙は妙見さまが、空の星のように人びとの生活を見おろし、その善悪の生活を記
   録されているさまを示すものであります。妙見信仰は本来、真言宗から始まりましたが、
   日蓮宗でもとの信仰は盛んで、大阪能勢の妙見さまとその別院の東京墨田区本所の妙見さ
   ままたは墨田区柳島の妙見さまなどは有名です。
   当堂に安置する尊像は天女像で亀に乗っておられます。亀に乗った妙見さまは池上本門寺
   妙見堂にお祀りする尊像など数多くみられますが、この亀は北の空を守る玄武神の化身と
   されています。当堂の尊像が何時建立されたのかは不明ですが昭和51年から4年間にわ
   たって行われた鬼子母神堂の大改修の折に発見された棟札によって、この妙見堂が天明八
   年(1788 11代将軍家斉の時代で鬼子母神堂の本殿建立の122年後)であること
   が明らかになりました。


 豊竹肥前掾の墓(春慶院九蛙井居士)
 妙見社の直ぐ右手脇にある1基の立派な石塔。これが浄瑠璃の竹本肥前掾・竹本文字太夫の墓だっ
てことを知る人は少ない。しかも手入れされることもなく、ただそこに放置されている。解説板の類
いもない。囲いもされていない。まるで忘れ去られたように、なんとなくそこにある。
 江戸時代中期の浄瑠璃太夫。宝永二年生まれ。大坂の人。義太夫節の豊竹越前少掾の弟子。初名は
新太夫。元文三年肥前掾を受領し、江戸堺町に肥前座をおこす。劇場主,座元,太夫の三役をかね、義
太夫節を江戸に普及させた。宝暦八年一月五日死去。行年54歳。通称は新右衛門。俳号は蛙井(あ
せい)。
 


■大黒堂「おせん団子」

 鬼子母神境内にある根岸羽二重団子の販売所。「
おせん団子」の名前は、鬼子母神に千人の子供が
いたことに肖り、沢山の子宝に恵まれるよにという願いに由来している。江戸時代には参詣の人々が
境内で休む時、また鬼子母神詣での土産として親しまれた。此度、羽二重団子本舗澤野修一社長の尽
力によりおせん団子が復活した。毎週日曜日と縁日(8日、18日、28日)鬼子母神境内の大黒堂
でご用意している。

 
●すすきみみずく
 江戸時代から作られ、鬼子母神の境内で土産として売られてきた郷土玩具。むかし病気になった母
親のために、親孝行な娘が鬼子母神のお告げにより、ススキの穂でみみずくを作って売り、そのお金
で薬を買ったという言い伝えが残っている。健康のお守りとして現在も続いているが。業者は一軒だ
け、跡継ぎがいないとか、名物が消える?
 また美術工芸品のデザインに使われたり、これを手本にした民芸品が全国各地で作られている。す
すきみみずく発祥の地として、この玩具をいつまでも伝えたいものだ。ところでこの玩具のモデルと
なったみみずくとはどんな鳥だろう?
 近くの南池袋小学校に「区立豊島みみずく資料館」がある。今日が土・日曜日なら、ちょこっと足
を伸ばしてみたら! お前さんも「みみずく博士」になれるぜ。また豊島区のシンボルとなったため、
あちらこちらに銅像や石像がある。南池袋2‐2の南池袋公園の時計塔の上、鬼子母神境内のミミズ
クのベンチ、雑司が谷みみずく公園の銅像、南池袋3‐18の法明寺参道のレリーフ、西池袋1‐9
の元池袋公園の銅像・絵・レリーフなど、池袋西口ロータリーの首かしげ像、JR池袋駅の「いけふ
くろう」石像他、レリーフ、モニュメントなど、
西池袋1‐8の西池袋公園のオブジェ、池袋3‐1
5の御嶽神社の石像、立教大学横の旧江戸川乱歩邸に向かう通りの角の道標、自由学園明日館の石像
三つ、えびす通り商店街のネオンサイン、池袋3‐1の祥雲寺門前の石像、区役所区長室前の像、平
成14年2月9日に設置(3匹のフクロウは自由・愛・勇気を象徴している)などなどだ。また郷土
資料館では「すすきみみずくの風呂敷」を販売している。綺麗だよ。1300円もする

 清土鬼子母神
 鬼子母神出現所 鬼子母神が掘り出されたところは「清土」と呼ばれ、文京区目白台2丁目14番
9号に小社がある。護国寺と本浄寺の間を流れていた弦巻川に架けていた石橋を星谷橋(ほしやとは
し)といったが、由来は「星谷戸」だ。むかし本浄寺の裏の辺りに星祭を修する行者が住んでいて、
「星の台」という塚があったので、この谷地のことを「星が谷」と呼ぶようになり、薬水に用いられ
て近郷に知られていた護国寺御成門の手前にあった名泉を「星谷の井」→「星の井」と呼んだ。それ
で鬼子母神の尊像が発見されたというこの辺りの田んぼを星跡(清土)というが、雑司ヶ谷から下る
小笹(小篠)坂一帯はそんな水回りの土地で、岩村七郎兵衛と清土の車屋金子小平次の二人が寄進し
て、本浄寺門前の流れに石橋を渡し「星谷橋」と名づけた。坂上の西側は雑司ヶ谷墓地だが、その前
は畑地で名物の茄子南瓜を生産していた。本浄寺は元から現在地にあったのではなく、文京区の根津
神社のところに開山したが、根津権現造営のために、追っ払われて現在地にやってきた。


■鬼子母神大門欅並木

 雑司が谷3丁目16番東側のケヤキの並木道。

   鬼母神大門ケヤキ並木
   ケヤキ(欅)は、ニレ科の落葉大高木で、日本の代表的広葉樹の一つである。古名をツキ
   (槻)という。家具や建築用材、特に社寺の構造材や大黒柱によく使われている。『地誌
   御調書上』によると、天正年間(1573~91)の頃、雑司谷村の住人長島内匠が、鬼
   子母神へ奉納のため植え付けたものと言う。鬼子母神鳥居先の町屋を大門ともいっていた、
   江戸時代には並木の伐採をめぐって訴訟がしばしば起こった。弘化元年(1844)の訴
   訟は、江戸城本丸普請のため伐採しようとした村役人等に対して、寺川が御用木の名を借
   りた伐採は村役人の私欲によるものと訴えて伐採を中止させた争いである。昭和12年頃
   には18本あったが、現在は4本を残すのみである。目通り幹囲5、6m、樹齢約400
   年以上といわれる大樹である。秋田雨雀・兜木正亨らによって結成された「大門欅並木保
   存会」が、保存に尽力した結果、東京府の「天然記念物」となった。
   平成2年3月31日建設                     東京都教育委員会


■手塚治虫の
並木ハウス
 雑司が谷3丁目19番4号にあるアパート。鬼子母神参道ケヤキ並木から露地を入った突き当りに
ある。昭和29年トキワ荘を出た手塚治虫が新婚で2階の角部屋10号室に入居した。入居時、新築
だったというから築60年を越える古跡的アパートだが現役。その部屋にはうら若きグラフィックデ
ザイナーの女性が仕事に励んでいる。


妙永山本納寺

 雑司が谷3丁目19番14号、鬼子母神の東方にある日蓮宗の寺。寛永五年(1628)法明寺第
2代
実蔵院日相上人が現在地に三宝諸尊を祀ったことに始まる。日相が特にこの地を選んだ理由・動
機は明らかではないが、寛永年間にちょうど雑司が谷鬼子母神の参詣が流行したことと関わりがある
ようだ。慶安三年(1650)正式に寺となる。古地図には「九老僧」と見える。九老僧とは日蓮の
直弟子である日朗の弟子9人を指すが、ほかに中老僧、六老僧がいる。その九老僧を刻んだ木像がこ
こに安置してあることからそう呼ばれたようだ。その木像は元禄ころの寄進で、施主は中山備前守丹
治信敏。本堂の前、枝垂桜の下に茗荷屋仲右衛門が建立した「月花塚の碑」がある。

 秋田雨雀の墓
 墓地にある。珍しい自然の丸石だ。

   
雨雀の墓

   秋田雨雀墓
   明治・大正・昭和に亘る文壇で活躍し、その文士仲間からは「雑司谷の梟」と綽名され敬
   愛された秋田雨雀は、本納寺の斜め向かいに住んでいました。その家は当時「雑司谷の童
   話の家」と呼ばれていたといいます。
   秋田雨雀は、社会主義思想家として、童話作家・戯曲家・詩人など、様々な顔を持ってい
   ました。晩年には兜木正亨(当山33世住職)との交流から、仏教にも大変興味を抱いた
   ようです。
   また彼は雑司が谷という土地をこよなく愛し、地域活動にも力を注いでいました。今日、
   江戸の名残を伝える「大門のけやき並木」も雨雀と兜木が、昭和14年に保存会を設立し
   昭和30年に東京都の天然記念物の指定を受けています。
   昭和37年5月12日80歳をもって世を去りましたが、遺骨は、いく婦人の意によって
   郷里(青森県黒石市)には帰らず、雑司が谷に留まりました。


 乙字句碑
 作者の大須賀乙字は高浜虚子と共に正岡子規の双璧をなした河東碧悟桐の門下で「碧門の三羽鴉」
として活躍した俳人。いつの頃か本納寺で開かれる句会に乙字も参加しており、乙字7回忌に、ゆか
りの場所として当時の仲間達によって建てられた。
 

   木揺れなき夜の一ツ時や霜の聲(乙字)

 ●
錦風居士句碑
 勝峯晋風が亡父の句を自ら書いたもので、左下に晉風書と彫られている。晋風の本名は晋三。俳人
であり、俳文学者。新聞記者生活15年を経て、大正12年の関東大震災以降は俳諧の研究や著述に
専念するようになった。俳句は初め父錦風に学び、後に伊藤松宇の教えも受けた。松宇主宰の俳誌『に
ひはり』を引受けて刊行の後、みずから俳誌『黄燈』を創刊した。俳文学に関する編集・著述多く、
俳諧研究に大きな足跡を残した人だ。 

   
夜は雪の明るさをもつ櫻哉(錦風居士)

 
月花塚(句碑)
 境内にある。

   今宵見る月の外にもさかつきにみちてこほるるさけもまたよき 信仁亭月和孝
   花のみか酒さえあるかおもしろしゆめのよし原夢の世の中   花信亭明鐘起

   これは狂歌を好んだ雑司が谷在住の茗荷屋沖右衛門(雅号を鹽梅舎辛伎)が両人の早世を
   悼み、社中の仲間に呼びかけて建立したものです。これが完成した時には追悼の狂歌会が
   盛大に催されたそうです。またこの碑の筆を執って、芭蕉や西鶴、近松と共に江戸文学の
   担い手として名を馳せた太田蜀山人です。



■大鳥神社
 雑司が谷3丁目20番14号にある。鷺(おおとり)明神。正徳二年(1712)松江藩主松平出
羽守が、領国出雲国神戸郡鷺村鷺の浦の鷺明神(素戔嗚尊の妾女の十羅刹女第九皐諦)を勧請したも
の。嫡子が疱瘡に罹ったとき飛来して命を救ったという縁起を持ち、その後疱瘡除けの守護神として
信仰を集めた。江戸時代は鬼子母神と同じに武芳稲荷の境内にあったが、神仏分離令により、徳川憎
しの薩長政府は松平の息のかかった鷺明神だけを爪弾きにして蝶屋中沢家の庭先に移した。その非道
に見かねた矢島昌郁(まさよし)が耕向亭跡地(現在地)を社地に寄進、この地に中興した。その際
明治政府は祭神も鷲大明神から日本武尊(やまとたけるのみこと)に代えるように強制したため、そ
れ以来鬼子母神に代わって雑司ヶ谷の鎮守となった。で鷺明神の神体は結局鬼子母神に祀っている。
神仏分離は新政府の大久保利通らが自分に都合のよい権力環境とするための第一歩、神道の力を利用
して日本支配を目論んだものだ。その残滓が靖国神社で、構造改革だの、何だのと行ってみても、自
民党は靖国の自縛からは逃れられない。境内には南池袋から三杉稲荷神社も移ってきて本殿の横に納
まっている。また高田町が建てた弦巻川の暗渠工事を記念する碑がある。特に題名はない。また矢島
昌郁を顕彰した碑もある。

   大鳥神社御由緒
   一、祭神:日本武命
   一、配祀:食稲魂命
   一、沿革
     正徳年間、鬼子母神(正確には鬼の字に点はない)境内に鷺明神として創祀せらる。
     明治維新、神仏分離の令に依り大門欅並木の料亭 蝶屋地内に大鳥神社と改称 仮遷座
     す。此れを憂い、旧幕臣矢嶋昌郁氏、自己の宅地を社地として奉納。永久鎮座の地、
     漸く定まる。その後、境内地を漸次拡張し現状となる。
   一、境内社:昭和のなかば、首都高速道路五号線開通に伴い、元日の出町より移り、本社
     と相並び奉祀す。三杉稲荷神社と称す。
   一、神事:例大祭:9月上旬の土・日曜日
        酉の市:11月の酉の日
        大祓:6月・12月の晦日
        月並祭:毎月1日、15日
   一、神徳:開運・招福


 
酉の市
 商業の街、池袋にふさわしく、商売繁盛を願い、熊手を求める人などたくさんの人出で盛り上がり
晩秋の風物詩として親しまれている。なお酉の市の詳細は、足立区花畑、台東区千束に記述。

 
三杉稲荷神社
 首都高5号線敷設により、日ノ出町から移ってきた。

 
西宮神社(雑司ヶ谷七福神の恵比寿)
 江戸期には合祀されていた。恵比寿神をお祀りするに際し、えびす宮総本社である摂津西宮神社よ
り勧請した。祭神:蛭児命 創建:平成22年9月29日:例大祭:9月29日

 
高田町下水道築造記念碑 ✓

   高田町下水道築造記念碑
   我高田町ハ近年非常ニ発展シ人口既ニ五萬ニ達セリ是ニ於テ公衆衛生ノ根本的解決トシテ
   下水道築造ノ業ヲ遂行スルハ当然ノ要務ニして又實ニ本町百年ノ大計ナルヲ認ム昭和四年
   (1929)六月之■施設計畫ヲ立テ同五年(1930)一月以降實地調査ヲナシ十月ニ至リ
   總工費一百九十餘萬圓六箇年継続事業トシテ築造完成ス可キ成案ヲ得其十四日高田町会ニ
   於テ満物一致之ヲ可決セリ乃チ状ヲ具シテ官ニ申請セシニ同十二月二十九日高田町長ヲシ
   テ本事業ヲシッ呼応セシムル旨ノ内務省告示アリ且失業救済事業トシテ行フ可キ旨ヲ命ゼ
   ラレ翌年五月二十三日一切ノ認可許可ヲ完了セリ依テ同六月十七日起工ノ式ヲ挙げ爾来孜
   孜トシテ著著其工事ヲ進メツツアリ本事業ハ又實ニ本町道路網計晝ト相待チテ其一部ノ達
   成ヲ期シタリ即チ鶴巻道路日出道路根津道路等其主ナルモノトス以上ノ工事一切完成スル
   ニ至ラバ本町民衆ノ福利ヲ増進スルコト寔ニ多大ナル可シ茲ニ市郡併合ニ方■其梗概ヲ記
   シテ以テ永永ニ傳フト云フ
   昭和7年9月                      高田町長 海老澤了之■識


 
雑司ヶ谷の茄子
 農協の説明板。

   江戸・東京の農業 雑司ヶ谷ナス
   江戸時代、清戸坂の北側一帯は雑司ヶ谷村の畑(現在の雑司ヶ谷墓地は一部)で、坂の道
   ぞいには雑司ヶ谷清戸村百姓町があり、江戸への野菜供給基地としてナスのほか、ダイコ
   ンや青菜などを生産していました。
   とくに、味がいいと評判になった雑司ヶ谷ナスは、江戸時代後半から大正時代の中頃まで
   もてはやさ れていました。
   ナスの栽培には、下肥(人糞尿)や馬糞が多く使われていました。ナスはその用途が広い
   ため需要も多くて、キュウリと並んで夏野菜のなかで重要な地位を占めていました。大正
   時代の中頃まで、伝統的栽培技術は引き継がれ、その後、年毎に早く収穫できる技術が開
   発されたことから、昭和の初めには種蒔きの最盛期 は、2月15日前後となりました。
   文献によると当時の北豊島郡(現在の荒川・板橋・北・豊島・練馬の各区)のナスの作付
   け面積は、約200haと記 されています。
   平成9年度JA東京グループ
   農業協同組合法施行五十周年記念事業            東京あおば農業協同組合


■秋田雨雀宅跡
 雑司が谷3丁目22番辺りに明治38年~昭和19年まで住んでいた。児童文学や新劇を通してプ
ロレタリア文化運動に加わり、平和友好運動の中心人物でもあった。共産主義思想から反共産主義思
想に転向後、雑司ヶ谷で町内会の役員をやっており、文化人の町会役員として知られていた。転向し
たとはいえ、元共産主義者であったものを町会役員にしておくのは可笑しいと攻撃されたことがあっ
た。まあ料簡の狭い町会だなぁ。転向組で総理大臣になったのが3人いるし、自民党の国会議員には
転向組が多かったんだよ。また財界人にも転向組は、うじゃうじゃいたよ。転向右翼なんてえのもい
たしな。さて雨雀は 戦後疎開していた郷里から区内に戻り、舞台芸術学院を創設するなど、新劇や
民主運動の長老として活躍し、同37年に逝去した。道和中学校の校歌の作詞者でもある。


■警視庁警務部長土田國保宅爆破事件
 昭和44年12月18日午前11時24分、当時警視庁警務部長土田国保(49歳)方で小包郵便
物が爆発し、民子夫人(47歳)が死亡、学習院中等科1年の4男(13歳)が顔や手にヤケド、足
に金属片が刺さるなどの重傷を負った。さらに2階から駆け降りてきた早大生の2男(22歳)も右
手にかすり傷を受けた。
 4男によると、民子と居間で小包を開けていたところ、突然爆発したという。その爆発の威力は凄
まじく、民子は肩から半分がもぎ取られ、室内のガラスも粉々に砕け散り、床には直径60cmの大
穴が開いていた。この小包は当日朝10時半ごろに郵便局員が届けてきた。これは前日に神田の南神
保町郵便局に女が持ち込んで来て、ここから発送されたものとされている。差出人は知人の名前だっ
たので、民子は何の疑いも持たず、この小包を開けていた。
 この18日は京浜安保共闘3人による「志村署上赤塚派出所襲撃事件」の1周年に当たりこの事件
ではメンバー柴野春彦(24歳)が警官に射殺されていることから、警視庁は過激派によるテロ事件
と見て捜査を開始した。土田がこの派出所襲撃事件に対して、「警察官の拳銃使用は正当防衛であり、
何の問題もなかった」旨の発言をしたことの報復のためと見られる。
 土田邸から約500m離れた雑司ヶ谷墓地の中で、3人連れのヘルメットを被った学生風の男が、
紙袋を持って屯ろしているという目撃証言もあった。同日夕方目白署で記者会見に応じた土田警務部
長は次のように話した。

   治安維持の一旦を担う者として、かねて覚悟していたというと大げさかもしれないが、
   あるいはこんなことがあるかもしれない、とは思っていた。だが、一人の人間としてこ
   のような事件はこれで終わりにして貰いたい。2度と繰り返してくれるな。私は犯人に
   向かって叫びたい。君は卑怯だ。自ら責任を負うことはできないだろう。一片の良心が
   あるなら世の人の嘆きや悲しみに思いやりがあるなら凶行は今回限りでやめて欲しい。

 一方板橋区民会館では、100人ほどの学生、労務者が集まって「12・18記念集会」が開かれ
ており、

   上赤塚に続いて、さらに遊撃戦を展開しよう

 と宣言した。さらに上赤塚事件で射殺された柴野春彦の報復を誓い、射殺したA巡査長の名前を挙
げ、

   人殺しを捜し出せ。どこかの警察にいるはずだ

 と気勢を上げていた。
 12月20日土田夫人の葬儀。首相夫人、最高裁長官、竹下官房長官、中曾根康弘氏など参列者7
000人。

 その後
 土田邸事件が起こって6日後のクリスマス・イヴ、伊勢丹の前、新宿3丁目交差点の追分派出所横
に買い物袋に入れられた高さ50cmほどのクリスマスツリーに偽装された爆弾が置かれ、この爆発
で警官、通行人7人が重軽傷を負った。この爆破事件に関しては黒ヘルグループのリーダーが出頭し、
事件の全容は明らかにされている。
 同47年9月10日赤軍派系の活動家で、「東薬大事件」で指名手配されていたМ(当時27歳)
が、凶器準備集合、毒劇物取締法違反容疑で逮捕された。Мはその後、法政大学で図書を盗んだ容疑
で再逮捕され、翌年1月までに他3人が同容疑で逮捕された。
 同48年1月、すでに逮捕した4人を「アメリカ文化センター事件」に関与したとして再逮捕。2
月には機動隊舎爆破事件に関しても逮捕された。
 この後「日石」「土田」両事件に関与したとして、あらたに女性を含む10数人を逮捕、Мらも再
逮捕され、都合18人がこの一連の爆破事件に関与したとして逮捕されたのだ。彼らは法政大学の「レ
ーニン主義研究会」(社学同ブント系)で、校舎に近い河田町のアパートを借り、被告人の内11人
がピース缶爆弾10数個を製造したものとされた。機動隊舎事件では6人が投擲し、アメリカ文化セ
ンター事件では4人、日石では前述したように女性2人の他、運搬役に男3人が関わり、土田邸事件
では製造から発送まで9人が関与したものと見做された。一連の事件と18人を結びつける物証は全
くなかった。河田町のアパートの塵を一つ残らず集めても、爆弾材料の破片一つ出てこなかった。
 一審ではMに死刑が言い渡された他、それぞれに無期、懲役3~15年の有罪判決が下された。し
かし昭和54年4月、元赤軍派メンバー若宮正則が弁護人側証人として出廷し、

   機動隊宿舎にピース缶爆弾を投げたのは私だ

 と証言した。さらに同57年5月、牧田吉明が、

 
  われわれのグループがピース缶爆弾を製造し、赤軍派などに配った

 と名乗り出たのだ。この証言によると、大学生だった牧田ら5人は昭和44年9月頃に奥多摩へ行
き、日原川沿いの林道工事現場から、ダイナマイト1箱(100g×225本)、導火線用の輪1巻、
工業用雷管100個、電気雷管20個を盗み出した。その後、9月から10月にかけて、爆弾教本『栄
養分析表』を参考にしてピース缶爆弾100個を製造し、その大半を関西系の武闘派、赤軍派中央、
共産同革派の活動家に配った。残った分やダイナマイトは多摩川に投げ捨てたのだという。
 同60年、牧田証言の信憑性の高さから、相次いで被告人などの無罪が確定。
 同61年3月25日、3414日間の拘置を強いられたМを始めとする統一公判組6人は国と都に
対して刑事補償と費用補償17200万円を求める請求を東京地裁に提訴した。また全国紙への謝罪
文掲載を同時に要求した。
 平成13年、東京高裁は一人に限ってのみ、都に100万円を支払うよう賠償命令を下した。他の
5人の欲求はけんもほろろに切り捨てた。土田宅爆破事件の犯人は捕まることなく時効を迎えた。

 
土田國保履歴
 
東京に生まれ。父は成蹊高等学校々長土田誠一。旧制東京高校を経て、昭和18年東京帝大法学部
を卒業し、内務省に入省。第二次世界大戦中は海軍予備学生となり、戦艦武蔵にも乗り組み、主計大
尉で終戦を迎えた。警視庁警務部長時代の同46年12月18日お歳暮に擬装された爆弾が自宅に郵
送され、爆発により妻が即死、13歳だった四男は重傷を負った(土田・日石・ピース缶爆弾事件)。
事件当日に記者会見に応じた土田は、

   治安維持の一旦を担う者として、予てからこんなことがあるかもしれないと思っていた。
   私は犯人に言う。君等は卑怯だ。家内に何の罪もない。家内の死が一線で働いている警察
   官の身代わりと思えば、二度とこんなことは起こしてほしくない。君等に一片の良心があ
   るならば・・・


 と述べた。妻が犠牲となったこの事件以降、公安は新左翼過激派に対して強硬な姿勢で臨むように
なった。警視総監時代に連続企業爆破事件で主要メンバー7人を検挙した。同53年2月、北沢警察
署巡査による世田谷区内での制服警官女子大生殺人事件で国家公安委員会から戒告。引責辞任。辞
任後は防衛大学校長(第4代)に就任し、同62年まで務めた。剣道の達人としても有名で、警視総
監時代に警視庁管内の全警察署、警察学校、機動隊の朝稽古に参加。全日本剣道連盟顧問も務め、生
涯に亘って指導し続けた。平成11年7月4日膵臓癌のため死去。享年77歳。
 
弟の直鎮は歴史学者・東京大学名誉教授・国立歴史民俗博物館長館長、同じく弟の正顕は東京証券
取引所社長。長男の龍太郎はインド文学研究者・東京大学名誉教授。次男の健次郎は儒教研究者・早
稲田大学教授。三男の英三郎は音楽学者・東京藝術大学教授。前述のテロ事件の際に負傷した四男は
その後回復し、大手企業に勤めてい
る。

 ●土田とメーソンのピアノ
 明治12年新政府は「音楽取調掛」を創設し伊沢修二がその長に任命した。翌13年ルーサー・
ホワイティング・メーソン(Luther Whiting Mason 61歳)が米国より招かれ、伊沢と共に日本の
西洋音楽の基盤を築くことになり、大いに活躍し成果をあげた。同15年に帰国するまでの2年間、
唱歌や器楽の指導、和声学の講義、ピアノの調律、オルガンの組み立てなどなど寸暇を惜しんで活動
した。「音楽取調掛」は、後に東京芸術大学音楽学部となり、次々に優れた音楽家、教育家を輩出す
る。
 さてメーソンが来日の時に持参したクナーベ社製アップライトピアノは、音域7オクターヴ85鍵。
CC~C5で、製造番号19750から推定すると、来日に当たって新調したことも考えられる。当
時としてはかなりモダンな構造仕様をしており、明治13年3月音楽取調掛に搬入された時、私物で
あるところから運賃、関税も含めて40円余りをメーソンが負担したという。同15年休暇ながら離
日に当たって、メーソンは愛弟子であり。また最も信頼していた通訳であり、助教授でもあった中村
専に、このピアノを贈った。専は、後に東京師範学校長から東京音楽学校長を歴任した高嶺英夫夫人
となり、その娘敬子が土田家に嫁いだ時に、このピアノを持参した。その敬子の生んだ子が警視総監
土田国保で、ピアノは彼に引き継がれ、一時戦後の混乱から手放されるが、劇的な再会後、その子芸
大助教授栄三郎へと引き継がれて今日に至っている。歴史的なピアノが優良な状態で保存されてきた
所以だ。
 しかしこのピアノは構造の特徴から、低音側の張力に耐えられず、前に傾斜し左親板に亀裂が入っ
ていて、徹底した解体大修復が必要だった。さらに燭台は完全に欠落しており、欠落前の一葉の写真
から推測して製作するしかない。社団法人日本ピアノ調律師協会は、平成11年3月以来、東京藝術
大学資料館(当時)にもう1台の明治政府買入と思われるスクエアピアノともども奉仕修復を申し出
た結果、この度許可を得て日本ピアノ調律師協会関東支部技術者有志の手によって修復され、同13
年「楽器フェア」会場に展示された。再現された燭台は、一葉の写真と燭台の取り付け跡からの推測、
そして楽器博物館その他でのピアノ燭台の調査の末、東京芸術大学美術学部の原正樹教授が創作した
美術品だ。


■題目塔

 雑司が谷3丁目23番11号の突先、鬼子母神の北側に建ててある。

   
南無妙法蓮華経
 


【高田】(たかだ)1~3丁目                   昭和41年11月1日
 下高田村。明治2年新政府によって高田村とされ、同11年「郡区町村編制法」により北豊島郡
に所属。同22年「市制町村制」により高田村・雑司ヶ谷村・高田若葉町・高田千登世町・雑司ヶ
谷旭出町・巣鴨村飛地・小石川村飛地・高田老松町飛地・高田豊川町飛地が合併して高田村を構成
しその大字高田、大正9年町制に移行して高田町大字高田。昭和7年東京市に併合されて豊島区高
田本町1~2丁目・高田南町1~3丁目となった。同41年新住居表示により高田本町の一部を雑
司ヶ谷・目白に譲り、高田本町の大部分と高田南町1~3丁目をあわせた町域を現行の「高田」と
した。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『豊島区史』『豊島の歴史』など。

   早稲刈りて高田くぼ田の落し水もらさぬ月の影ぞ宿れる

 高田の由来
 中野区の上高田は「高畑つまり高いところにある陸田」に由来するというが、当区の高田は宿坂
や富士見坂に見られるように「急斜面地」によると考えられる。地名用語に「タカ」または「タケ」
は崖や急な傾斜面をいうとある。ここは神田川に向かって急斜面だ。そこに段々畑で耕地を開発し
たことによると考えられる。高田は「地滑りしやすいぞ」と警告する地名でもある。『小田原衆所
領役帳』に見える「江戸高田内赤沢分」「江戸高田内添田分」はどっちの高田だろうか・・・しか
しそれはともかく江戸時代には同時に二つの高田村が存在したので、京都に近い方を上高田村、遠
い方を下高田村とした。1丁目は神田川の北で新宿区と境界が複雑に入り乱れているのは、旧流路
の名残、古い名前を消すだけの権力があるのであれば境界線の整理ぐらいすればいいのに・・・と
ころで新宿区にも高田馬場から名が起こった高田町があったが、現在は西早稲田1丁目に吸収され
ている。こっちの高田は越後高田(上越市)に由来する。

 ●地名紛争
 しかし高田の町名が決まるまでには少々の問題があった。三不動の一つ目白不動は、文京区関口
の東豊山浄滝院新長谷寺にあったが戦災で焼け、当町宿坂下の神霊山金乗院に移された。そこで新
住民は新しい町名を「東目白」にするようを要求した。しかしお役人答えて曰く「西隣は目白、東
隣が目白台、その間に東目白を挟んだのではメジロメジロで尋ねる人が困る」と。よく言うよ。北
大塚・南大塚は大塚の北側にあるぞ。そこで新住民は恥も外聞もなく懼れながらと訴え出た。結果
は敗訴。我が儘に灸が据えらた訳だ。まあそんなこんなで高田の地名は辛うじて残されたという次
第。


■高田第二公園
 高田1丁目2番10号にある区立公園。


■山吹の里公園
 高田1丁目10番5号にある区立公園。


■豊川稲荷

 高田1丁目13番7号にある小祠。


■面影橋

 高田1丁目18番1号先神田川に架かる橋

   面影橋の由来
   目白台から続く鎌倉街道と推定される古い街道沿いにあり、姿見の橋ともいわれていまし
   た。橋名の由来には諸説あり、高名な歌人である在原業平が鏡のような水面に水を映した
   ためという説、鷹狩の鷹をこの辺りで見つけた将軍家光が名付けたという説、近くにいた
   和田靱負(ゆきえ)の娘であった於戸姫(おとひめ)が、数々の起こった悲劇を嘆き、水
   面に身を投げた時に詠った和歌から名付けられたという説などが知られています。
   なお、姿見の橋は面影橋(俤橋)の北側にあるもので、別の橋だという説もあります。
                            お問合せ 新宿区 道とみどりの課
                            電 話 03‐3209‐1111


 俤の橋・姿見の橋の図が添えられている。
 


■山吹之里の碑
 高田1丁目18番1号、面影橋を北へ渡ったすぐ右手にオリジン電気の門の脇に申し訳なさそうに
据えられている。何かの供養塔を転用したものらしく、何となく変だ。読み取れないが何か彫ってあ
る。下方には如意輪観音像が陽刻してある。

   「山吹の里」の碑                  所在地 高田1丁目18番1号
   新宿区山吹町から西方の甘泉園、面影橋の一帯は、通称「山吹の里」といわれています。
   これは、太田道灌が鷹狩りに出かけて雨に遭い、農家の若い娘に簑を借りようとした時、
   山吹を一枝差し出された故事に因んでいます。後日「七飯八重花は咲けども山吹の みの
   (簑)一つだに無きぞ悲しき」(後拾遺集)の古歌に掛けたものだと教えられた道灌が、
   無学を恥じ、それ以来和歌の勉強に励んだという伝承で、「和漢三才図会」(正徳二年・
   1712)などの文献から、江戸時代中期の18世紀前半には成立していたようです。
   「山吹の里」の場所については、この地以外にも荒川区町屋、横浜市金沢区六浦、埼玉県
   越生町などとする説があって定かではありません。ただ神田川対岸の新宿区一帯は、昭和
   63年(1988)年の発掘調査で確認された中世遺跡(下戸塚遺跡)や、鎌倉街道の伝
   承地などが集中しており、中世の交通の要衝地であったことは注目されます。
   この碑は、神田川の改修工事が行われる以前は、面影橋のたもとにありましたが、碑面を
   よくみると「山吹之里」の文字の周辺に細かく文字が刻まれているのを確認でき、この碑
   が貞享三年(1686)に建立された供養塔を転用したものであることがわかります。
   平成16年3月                         豊島区教育委員会


 
■山吹伝説
    
七重八重花は咲けども山吹の実の一つだになきぞ悲しき
 太田道灌がにわかの雨に「蓑を貸せ」と立ち寄った農家で、娘(婆とも)が断わるために差し出し
た「山吹の謎の答え」となった醍醐天皇の皇子兼明親王(かねあきらしんのう)の和歌だ。ここがそ
のゆかりの〝山吹の里〟の候補地の一つという訳だ。太田道灌のヤマブキ伝説は湯浅常山が『常山紀
談』に書いたことで有名になったが、伝説を聞き伝えたのか常山の創作なのかは判らない。「蓑を貸
せ」といってヤマブキの小枝なんか出されたら普通の侍なら愚弄されたと怒って斬りつけるだろう。
正体の判らない侍相手にそんな無謀な断り方をする百姓女はいないよ。道灌だって馬鹿じゃない。六
歳から教養を叩き込まれている。『常山紀談』が初出なので、暇人間が考えた寝物語だろう。我々の
学ぶ「日本史」だって大変に沢山の嘘が鏤(ちりば)められている。国家権力の意図もあるし、無知
もある。近頃源頼朝・足利尊氏・武田信玄だと言われ続けて来た肖像画が足利直義・高師直・穴山梅
雪だろうということになった。室町以前の庶民の服装は全くの想像だ。明治維新は過ち、失敗だった
ということが判り始めている。皇太子殿下が、江戸時代のリサイクルシステムを賞賛してスペインで
発表し、如実に明治維新、並びにその後の近代政治を批判された。大久保利通を始めとする倒幕派の
悪党に担がれて東京に軟禁された天皇家の発言としては革命的なことだ。

 
常山紀談
 文化文政期の刊行。著者は岡山藩士で漢詩人の湯浅常山(1708~81)。戦国武士の節義を顕
彰しようと戦国時代から近世初頭にいたる時期の武士の逸話を700あまり収めた書。名将の面目躍
如たるこの歴史物語は,平明な文章も相俟って、幕末から明治にかけて広く読みつがれた。戦国武将
の逸話の出典は大概がこの本だ。常山の創作も多分に入っていると思われる。
 


大鏡山南蔵院薬師寺
 高田1丁目19番16号、神田川の面影橋からは北にすぐのとこにある。開山は、元和二年(16
16)円成比丘。本尊は藤原秀衡の持仏だったという薬師如来だ。この寺は相撲取りの墓が多いとい
う。境内には、彰義隊の首塚や江戸時代の宝篋印塔、六地蔵、阿弥陀如来立像、日露戦争後の明治3
9年に建てられた忠魂碑、また元禄九年(1696)に建てられた「山吹の里弁才天」と彫られた碑
がある。防犯意識が強い生臭住職で、本堂は囲いがしてあって「外から拝め」とある。これじゃあ仏
教じゃあねえだろ。悪党を教化(きょうげ)するのが坊主だろうに、逃げててどうすんだい。墓地も
有料だ。厄介な寺だ。行かない方がいいよ。

   南蔵院
   真言宗豊山派に属し、古くは大鏡山薬師寺南蔵院といった。
   寺伝によれば、開山は室町期の円成比丘。本尊は薬師如来。木造の立像で、奥州平泉藤原
   秀衡の持仏といわれ、円成比丘が諸国遷化のとき、彼の地の農家で入手し、奉持して当地
   に草庵を建て、安置したのが開創である。
   境内には彰義隊の首塚、山吹の里弁財天の碑があり、基地内には、片男波 粂川、雷、音
   羽山、二子山、花籠などの力士の墓がある。また三遊亭圓朝作の「怪談乳房榎」に描かれ
   た寺でもある。
   昭和52年3月                   
東京都豊島区教育委員会

   
南蔵院案内
   山 号 大鏡山 薬師寺
   本 尊 薬師如来
   開 基 円成比丘 室町時代永和二年(1376)寂
   宗 派 真言宗豊山派
   総本山 長谷寺 奈良県桜井市初瀬
   祖 師 宗祖弘法大師(空海
   中興祖 興教大師(覚鑁)
   派 祖 専誉僧正
   札 所 御府内八十八ヶ所 第二十九番
       豊島八十八ヶ所 第四十一番
   開宗と三祖
   即身成仏の教えを説く密教は七世紀頃インドに起こり、八世紀には中国に伝わり、平安初
   期に弘法大師によって我が国にもたらされ、真言宗として開宗されました。
   興教大師は、平安時代末期、弘法大師の教えを深く研究し、時代に合った新しい真言密教
   の教えを興しました。
   その教えを受け継ぐ専誉僧正が、戦国時代大和長谷寺に入り、豊山派の基礎を築かれまし
   た。
   豊山とは総本山長谷寺の山号です。
   ご宝号 南無大師遍照金剛・南無興教大師・南無専誉僧正


   
南蔵院                    所在地 豊島区高田1-19-16
   真言宗豊山派に属し、大鏡山薬師寺南蔵院という。寺伝では、開山は室町時代の円成比丘
   〔永和二年(1376)年寂〕とされる。本尊の薬師如来は、木造の立像で、奥州藤原氏
   の持仏といわれ、円成比丘が諸国遊化の時、彼の地の農家で入手し、奉持して当地に草庵
   を建て安置したのが開創であると伝えられる。
   正徳六年(1716)の「高田村絵図」(東京都公文書館蔵)には、境内部分に「薬師堂」
   ・「南蔵院」の文字の他、山門、薬師堂と思われる建物及び樹木三本が描かれている。ま
   た、江戸時代の地誌にも紹介されており、『江戸名所図会』や『新編武蔵風土記稿』では
   徳川三代将軍家光がしばしば訪れたと記している。
   現在の境内には、元禄九年(1696)に神保長賢により寄進された山吹の里弁財天の石
   碑と手水鉢や、庚申塔、六地蔵、彰義隊九士の首塚などの石造物があるほか、墓地内には
   相撲年寄である片男波、粂川、雷、音羽山、二子山、花籠などの墓がある。また三遊亭圓
   朝作の「怪談乳房榎」にゆかりの寺でもある。
   平成21年3月                         豊島区教育委員会

 龍天井 → 「怪談乳房榎」
 三遊亭円朝が南蔵院旧本堂天井の龍の絵を見て創作した講談「怪談乳房榎」の縁の地として有名。
「死んだ絵師が、幽霊となって龍の絵の目を入れ完成させた」といういい伝えがあるが、残念ながら
現在、龍の絵は残っていない。

 山吹の里弁財天
 境内にある立像。子供を抱き抱え、足元にも二人の子どもを連れる。

 上野彰義隊の碑(彰義隊士之霊位)
 境内にある。

 
忠魂碑
 戦没者供養塔。

 
佛塔供養碑
 境内にある。

 
江戸時代の高田村
 境内に説明板がある。

   江戸時代の高田村
   天保五(1834)年に刊行された『江戸名所図会』では、高田村付近の様子が、長谷川
   雪旦による三枚の挿絵付きで紹介されている。
   「高田」と題された挿絵の中央に南蔵院が配され、境内に薬師(堂)と鶯宿梅が描かれて
   いる。鶯宿梅は、江戸幕府三代将軍徳川家光が自ら植えたといわれ、このとき既に枯れて
   いたとされるが、『新編武蔵風土記稿』では、鶯宿梅の実から育った木が院内にあると記
   している。
   南蔵院の前には右橋(みぎはし)、付近には高札場や茶店、道には籠・馬などが描かれて
   いる。道を隔てたところには氷川神社がある。これらの位置関係や道の曲がり方などは、
   現在もほとんど変わっておらず、江戸時代の名残をとどめている。
   平成21年3月                         豊島区教育委員会



■高田一丁目児童遊園
 高田1丁目23番23号にある区立公園。


■日無坂

 高田1丁目23番と文京区目白台1丁目15番の間の雁木坂。日無しというからには鬱蒼と樹木の
生い茂った暗闇坂だったのだろう。

   日無坂
   江戸時代からの歴史ある坂で、豊島区と文京区の境にあり、階段道もあります。別名は東
   坂。豊島区高田1‐23辺り。


■富士見坂

 高田1丁目23番と33番の間の坂道。東南西に下るので富士山がよく見えた。

   富士見坂
   目白通りに面した酒屋さんと、写真館の間から高田方面に下る坂で、石碑があります。豊
   島区1‐33、40辺り。

 尚、坂の下がり口、高田1丁目40番16号の民家の壁に碑が貼ってある。



■高田公園
 高田1丁目28番3号にある区立公園。


■稲荷坂

 高田1丁目33番と34番の間の坂道。坂上の民家(1‐40‐9)に稲荷の小祠がある。高田稲
荷大明神というそうで、戦前までは繁盛していたとか。今はひっそりとしている。


金剛宝山根生院延寿寺

 高田1丁目34番6号、金乗院の東方にある小さな寺。この辺りは江戸時代田安徳川家の下屋敷が
あったところだ。寺は「こんしょういん」といい、3代将軍家光の尊信によって、大和長谷寺の栄誉
が江戸に上って神田白壁町に建立、貞享四年(1687)真言宗関東30ヶ寺の触頭となり仁和寺御
堂光明院の院室を兼務して院家となり、歴代の住職は幕府の命によって選ばれるほどの寺格だった。
このように将軍家の祈願所になった院は、第二世栄専の時、下谷長者町に御徒士組屋敷割当残余の地
に移転、元禄元年(1688)本郷切通坂知足院跡に1980余坪を与えられて移転、同十六年(1
703)火災類焼。享保五年(1720)再建したものの市区改正により下谷池之端七軒町に移転。
明治35年再び市区改正により現在地に移転してきた。境内に元は金乗院の前にあったという道標、
庚申供養塔、寛文六年(1666)建立の大日如来像などがある。朱塗りの門は江戸時代のものだろ
う。

   根生院案内
   山 号 金剛賓山 根生院(延寿寺)
   本 尊 薬師如来(仏師春日作)
   開 基 栄誉法師(1674没)
   宗 派 真言宗豊山派
   総本山 長谷寺 奈良県桜井市初瀬
   祖 師 宗 祖 弘法大師(空海)
       中興祖 興教大師(覚鑁)
       派 祖 専誉僧正

   札 所 御府内八十八ヶ所 第35番
   沿 革 寛永十二年(1636)徳川幕府西の丸祈願所として神田白壁町に建立。寺領2
       00石を賜る。
       正保二年(1645)下谷長者町へ移転。
       貞享四年(1687)新義真言宗の触頭「江戸四ヶ寺」となる。
       元禄元年(1688)本郷切通坂知足院跡へ移転。
       元禄三年(1690)第二世栄専 観音経を講じ、将軍綱吉より寺領100石を
       加増される。
       明治22年、上野池之端七軒町へ移転。
       明治36年、豊島郡高田、田安侯旧邸へ移転


 
庚申塔
 門前左に2基ある。青面金剛像はほぼ剥落している。

 石造大日如来像
 境内にある。

   石造大日如来像
   (真言)おんあびらうんきゃん
   大日如来(胎蔵界)
   寛文六年(1666)丙午八月四日
   豊島区最大級の石仏


 奉供養庚申天塔
 境内にある。豊島区有形文化財。元禄三庚午年四月十五日。

 
南無遍照金剛塔
 門前にある。

 
勝稲荷大明神塔
 上部が欠けているので勝の上の字は欠落している。

 石標

   四圀八十八ヶ處 第三十五番 願主諦信
   南無大師遍照金剛
   宝暦七丁丒五月吉日
   江戸府内八十八箇所札所の石標(標石)
   初期(1757)の石標で府内に現存する石標は4基。



稲荷社

 高田1丁目40番9号にある小祠。戦前は繁昌したようで、社前の南に下る坂は稲荷坂。


■富士見坂碑

 高田1丁目40番16号の民家の壁に貼ってある。

   明治百年記念
   
富士見坂
   高田富士見会


■氷川神社

 高田2丁目2番18号、別当寺だった南蔵院の真向かいにある。下高田村の鎮守。鳥居・狛犬・燈
籠は鳥羽藩稲垣対馬守が寛政二年(1790)に寄進したものといわれる。社殿は昭和29年に建て
替えたもの。屋根は21世紀に入って葺き替えたばかりでピカピカだ。祭神は素戔嗚尊・大己貴命・
櫛稲田姫。在原業平も参詣したことがあるらしい。素戔嗚尊を祀るところから「男体の宮」ともいい
落谷村の氷川神社を「女体の宮」というので、あわせて「夫婦の宮」という。

   氷川神社
   氷川神社の創建は、武蔵国一宮の氷川神社を当地に分霊したことに始まるといわれる。祭
   神は、素盞嗚命・奇稲田姫命・大巳貴命(大国主命)の三柱で、平安時代の歌人、在原業
   平(六歌仙の一人)も参拝したと伝えられる。
   「江戸名所図会」(天保五年:1834刊)などの地誌によれば、当神社は、江戸時代に
   は氷川大明神と呼ばれ、下高田村(豊島区高田・雑司ヶ谷・目白・文京区目白台)の総鎮
   守として信仰を集めていた。
   また、当神社の主神が素盞嗚命であることから、俗に「男体の宮」といわれ、奇稲田姫命
   を主神とする落合村(新宿区下落合)の下落合氷川神社の「女体の宮」と合わせて、「夫
   婦の宮」と呼ばれていたという。
   明治時代には氷川神社と改称し、第二次世界大戦中には、昭和20年4月13日の空襲に
   より、境内の建物と宝物の大半が焼失した。現在の社殿は昭和29年に再建されたもので
   境内には神明神社・高田姫稲荷神社・道祖神社も祀られている。
   毎年正月には、弓矢で的を射って災難除けを祈願する「御奉射祭(おびしゃさい)」が江
   戸時代より行われ、現在は成人の日に執行している。
   なお、寛政二年(1790)に鳥羽藩主稲垣対馬守が寄進した鳥居・狛犬(文化四年:1
   807奉納)、石燈籠(明治11年奉納)、玉垣が、平成3年に豊島区登録文化財となっ
   た。
   平成15年3月                         豊島区教育委員会


 
高田姫稲荷神社
 境内奥に趣のある小社がある。高田姫は、2代将軍秀忠の娘勝子。松平忠直に嫁いで越後高田に赴
き「高田様」「高田姫」と呼ばれた。この高田姫がこの辺りを遊覧地としたことから、新宿区の「高
田村」の名が起ったといわれる。

   主祭神は食物や豊作を司る伊勢神宮外宮の豊受大神。御祭神は女神様であり、詳細は不明
   であるが、この地域が広く高田と呼ばれた頃から御鎮座され高田姫稲荷と称されている。
   また、
   岩本神社(在原業平朝臣)、
   六所神社(伊弉諾尊、伊弉冉尊、天照大神、月夜見尊、蝦児尊、素戔嗚尊)、
   山神神社(大山祇尊)、
   藤森神社(舎人親王)
   十柱の神様が合祀されている。
   心願成就・商売繁昌・家内安全・学力向上・趣味上達・金運等

 神明神社
 境内にある石祠。伊勢神宮の皇大神宮(内宮)天照大御神が奉斎されている。

 
山吹乃里の句碑
 不明。和歌が刻まれているが達筆すぎて読めない。


■高田二丁目中央児童遊園
 高田2丁目6番2号にある区立公園。


■学習院下駅

 高田2丁目7番・16番にある都電荒川線の停留所。昭和3年12月25日王子電気軌道大塚線の
鬼子母神前~面影橋間延伸開業に伴い設けられた。ホームは相対式2面2線の無人駅。同17年交通
統制により東京市電32系統となり、同18年都制施行により都電32系統となった。同49年最後に
残った都電として27系統と32系統を併せて「荒川線」と命名された。
 


消費者庁審議官神宮司史彦自殺

 高田2丁目8番9号のマンション「目白ガーデニア」の自宅から飛び降りて自殺した。平成25年
1月27日午前3時5分頃、管理人が敷地内の別々の場所で倒れている男女を発見、110番通報を
した。2人は、消費者庁審議官神宮司史彦(52歳)とその妻久美子(53歳)で、運ばれた病院で
死亡が確認された。7階の自宅から妻が娘に宛てた遺書が見つかり、警視庁目白警察署は自殺と判断
している。同署によると、2人は約15m離れて倒れていた。史彦はマンションの外廊下から中庭へ
久美子は自宅の窓から飛び降りたとみられる。 遺書には家族間のトラブルが理由として書かれ てい
たという。。前日、自宅に警察官数人が刺又(さすまた)を持って押しかけるという騒ぎがあり、夫
婦の仲は最悪の状態にあった。久美子は遺書を残したことから覚悟の自殺と見られ、史彦は久美子の
飛び降りに動転し、咄嗟に役所における将来を悲観し、慌てて廊下に出て飛び降りたものと見られて
いる。


■高田第三尋常小学校 → 高南小学校

 高田2丁目12番7号にある区立校。大正11年高田尋常高等小学校・第一高田尋常小学校から分
校し「東京府北豊島郡第三高田尋常小学校」として開校。同12年「東京府北豊島郡高田第三尋常小
学校」と改称。昭和4年高田第五小学校の新設のため学区割譲。同6年校歌制定。

 校歌「
都の北に」 作詞・井上宗助  作曲・岩田一九郎
  1.都の北に名も著(しる)き
    目白の台の懐に
    並び立ちたる学び舎の
    教えの風の温かさ
  2.日毎に此処に集いつつ
    心の双葉培いて
    伸びに伸び行く学び児の
    力と意気の健やかさ

 同7年北豊島郡の東京市編入により「東京府東京市高田第三尋常小学校」と改称。同11年失火に

より校舎の3分の2を焼失。同16年勅令148号国民学校令により「東京府東京市高田第三国民学
校」と改称。12月日本海軍の真珠湾攻撃により日米開戦。同18年都制施行により「東京都高田第
三国民学校」と改称。同20年4月愚かなアメリカ軍の非人道的
無差別の東京西部大空襲により校舎全焼。以後高田南町1・3丁目町会事務所や高田第一・第五国民
学校に間借りしながら授業継続。「東京都高南国民学校」と改称。校名は高田南町による。8月日本
はポツダム宣言を受諾して、ならず者国家アメリカの軍門に降り敗戦。以後その属国となり、唯々諾々
として言い成りになる保守傀儡政権を保持せざるを得ない今日的不幸を背負い込む。売れない国債を
買わされるやら、思いやり予算やらでもう200兆円以上がとこ持って行かれたよ。日本の娘がレイ
プされても地位協定で国は見て見ぬ振りを決め込んで泣き寝入り、これからの若い者は、保守傀儡政
権の謳う「国際協力(昔は八紘一宇といった)」の名目の下、アメリカ軍の尖兵として、最前線の激
戦地に送り込まれることになるぜ。ったく酷えもんだよ。何時までアメリカの子分でいるんだい? 
アメリカ軍は何時んなったら帰るんだい? 
 同22年戦勝国アメリカの強制による学制改革(学校教育法施行)により「東京都豊島区立高南小
学校」と改称。新校舎落成。同23年第一次増築。アメリカの強制により父兄会を廃し、PTA発足。
同24年第2次増築。同25年全教室にストーブ設置。同28年第3次増築。29~34年モルタル
校舎改築。同34年校庭舗装。同40年木造校舎撤去完了。同41年体育館・特別教室(音楽・図工
・家庭・視聴覚)完成。同46年創立50周年記念式典。同49年鉄筋コンクリート造り校舎落成。
屋上プール完成。同50年「おもいでの池」完成。同61年校庭全面改修。同51年第4次増築。同
62年西校舎改修。
 平成中央校舎・東校舎・体育館・飼育小屋改修。同3年創立70周年記念式典。同17年冷房装置
設置。


■宿坂
 金乗院東の鎌倉道を北へ上がる坂。雑司が谷・板橋に通じる。高低差が大きく、東の富士見坂と共
に途轍もない胸突坂となっている。一度行ってみな。

   宿坂道(しゅくさかどう)
   中世の頃、「宿坂の関」と呼ばれる場所がこの辺りにありました。天保七年(1836)
   出版の『江戸名所図会』には、金乗院と共に「宿坂関旧址」が描かれています。金乗院の
   裏門の辺りにわずかな平地があり、立丁場(たつちょうば)と呼ばれ、昔、関所があった
   跡であるとの伝承が記されています。この坂の名が「宿坂」といわれているのは、おそら
   くこれにちなむものと思われます。
   また金子直徳著『若葉の梢』(寛政十年・1798)によれば、宿坂の関は関東お留の関
   で、鎌倉街道の道筋にあったといわれています。鎌倉街道は、高田馬場から雑司ヶ谷鬼子
   母神方面へ抜ける街道で、現在の宿坂道よりやや東寄りに位置していたようです。江戸時
   代には竹木が生い茂り、昼なお暗く、暗闇坂と呼ばれ、狐や狸が出て通行人を化かしたと
   いう話が今に伝わっています。
 


■神霊山金乗院慈眼寺
 高田2丁目12番39号、宿坂口にある。天正年間(1573~92)に開山永順が本尊の聖観世
音菩薩を勧請して観音堂を築いたのが創建とされ、第二次世界大戦で焼失した目白不動堂(東豊山浄
滝院新長谷寺)を合寺した。御府内八十八ヶ所霊場38番札所、江戸三十三観音霊場14番札所、関
東三十六不動霊場14番札所、関東三十三観音霊場23番札所で、江戸五色不動の目白不動が祀られ
ている。門前に「はせ寺」と読める寺号塔が建ててある。

 
●目白不動
 昭和20年目白関口台にあった新長谷寺の廃寺にともない 目白不動尊を引き継いだ。江戸時代は
三不動、明治13年からは目黄と目青を増やした五色不動の一つだ。「江戸五色不動」というけれも
江戸時代に五色不動があった訳じゃない。五色を不動明王の目の色と勘違いして説明しているのだが
三不動は地名だが、目黄と目青はこじつけだ。不動明王の五色幕をヒントに明治の粋人が七福神にえ
て拵えたものだ。

   目白不動金乗院                 所在地 豊島区高田2-12-39
   金乗院は真言宗豊山派の寺院で、開山永順が本尊の聖観世音菩薩を勧請して観音堂を築い
   たのが草創とされています。永順の没年は文禄三年(1594)六月であることから、そ
   れより以前、天正年間(1573~92)の創建と考えられます。当初は蓮花山金乗院と
   称し、中野宝仙寺の末寺でしたが、のちに神霊山金乗院慈眼寺と改め、護国寺の末寺とな
   りました。
   江戸時代には近辺の此花咲耶姫社などの別当でしたが、昭和20年4月の戦災で本堂等の
   建物や、水戸光圀の手になるという此花咲耶姫社の額などの宝物も焼失しました。現在の
   本堂は昭和46年に再建され、平成15年に全面改修されました。
   目白不動堂(東豊山浄滝院新長谷寺)は、元和四年(1618)大和長谷寺第四世小池坊
   秀算が中興し、関口駒井町(文京区)にありましたが、昭和20年5月の戦災により焼失
   したため、金乗院に合併し、本尊の目白不動明王像を移しました。
   目白不動明王は、江戸守護の五色不動(青・黄・赤・白・黒)の随一として名高く、目白
   の号は寛永年間(1624~44)に三代将軍徳川家光の命によるといわています。
   墓地には、槍術の達人丸橋忠弥、青柳文庫を創設した青柳文蔵などの墓があり、境内には
   寛文六年(1666)造立の倶利伽羅不動庚申塔をはじめ、寛政十二年(1800)造立
   の鍔塚など多くの石造物があります。
   平成19年3月                         豊島区教育委員会

   江戸時代の高田村
   天保五年(1834)に刊行された「江戸名所図会」では、高田村付近の様子が、長谷川
   雪旦による三枚の挿絵付で紹介されている。
   「高田」と題された挿絵の中央に、南蔵院が配され、境内に薬師(堂)と鶯宿梅が描かれ
   ている。鶯宿梅は、江戸幕府3代将軍徳川家光が自ら植えたといわれ、この時既に枯れて
   いたとされるが、「新編武蔵風土記稿」では、鶯宿梅の実から育った木が院内にあると記
   している。
   南蔵院の前には右橋(みぎはし)、付近には高札場や茶店、道には籠・馬などが描かれて
   いる。道を隔てたところにには氷川神社がある。これらの位置関係や道の曲がり方などは
   現在でも殆ど河ってらず、江戸時代の名残りを留めている。
   平成21年3月                         豊島区教育委員会


   正月の末の寒さや初不動(久保田万太郎)

 
青柳文蔵の墓
 墓地にある。青柳は〝日本初の公開図書館〟を作った人。青柳文庫で知られる仙台藩の医師。

   青柳文蔵墓
   配新倉氏科


 墓の側に、その辞世を蜀山人の書で彫った追悼碑がある。

   
残るべき身は逆さ井のわたし船 さし潮もあり引く潮もあり

 
丸橋忠弥の墓
 宝蔵院流槍術の大家で、お茶の水に道場を設けて指南していた。慶安四年(1661)由井正雪と
謀って幕府転覆を企てたが、七月二十六日捕われ、八月十日鈴ヶ森で礫刑された。37歳だったが、
処刑後、一族が秘かに遺骸を貰い受けて、紀州に埋葬し、のち一族の縁者長曾我部武郷が金乗院に移
して建てた。安永九年(1780)七月十四日墓碑を建てたそうです。本名:長曾我部秦氏。

   史蹟
   
丸橋忠弥の墓 金乗院
   出羽山形の人。本姓は長曾我部泰子氏。乳母の家丸橋氏を襲う。宝蔵院流槍術の大家で、
   お茶の水に道場を設けて指南す。
   慶安四年由井正雪と計って幕府転覆を企て事成らず捕われて同年八月十日鈴ヶ森で磔刑せ
   らる。行年37歳。一世の奇傑として、講談歌舞伎で名高い。
   昭和27年4月建之                          豊島区役所

    

 
鍔塚
 刀の鍔(つば)の供養塔。鍔の形をした石碑。寛政十二年(1800)の建立。

   
武運長久

 
倶利伽羅庚申塔
 立てた剣に龍が巻き付いており、庚申塚でおなじみの三猿が彫られて寛文六年と読める。

 
青面金剛の供養塔(庚申塔)
 全部で6基ある。


■のぞき坂

 高田2丁目17番・18番の間にある坂道。覗き込むような急坂。下からは息を呑むような胸突坂
だ。東京一の勾配という。世田谷区にもあるけどね。坂下の半分は緩やか。坂上側は非常に急で、高
低差9mあまり。坂上から坂の途中・坂下にかけて急に角度を変えているので,坂上からの見通しが
きない。まさかとは思うが崖になっているように見える。途中まで行かないと坂下が見通せないので
「のぞき坂」となった。別名、胸突坂、急坂、眼鏡坂。
 


■諏訪神社・稲荷神社

 高田3丁目7番19号
 


■自由国民社

 高田3丁目10番11号にある出版社。年刊事典・用語辞典「現代用語の基礎知識」の発行、「新
語・流行語大賞」の選定で知られる。またこれ以外にも法律書、実用書などの発行を行っている。戦
時中に花だ清輝が入社している。嘗ては音楽雑誌「シンプジャーナル(旧名「新譜ジャーナル」)」
も発行していた。
 昭和3年「サラリーマン社」として発足。同18年商号を「時局月報社」に変更。 同23年雑誌
「自由国民」の別冊として「現代用語の基礎知識」を発刊。同24年12月商号を「株式会社自由国
民社」に変更。同59年12月第1回「新語・流行語大賞」を開催。
 平成15年出版事業で東京人形学院(ユーキャン)と提携。同16年「ユーキャン新語・流行語大
賞」に改称。同20年1月21日東京都豊島区高田3丁目10番11号に本社を移転。

 ●新語・流行語大賞
 自由国民社がその年1年間に発生した「ことば」の中から、世相を軽妙に映し、多くの人々の話題
に上った新語や流行語を選び、その「ことば」に関わった人物、団体を顕彰する。
 昭和59年に創始され、毎年12月1日(土・日の場合は次の平日)に発表される。
 候補となる言葉は『現代用語の基礎知識』の読者アンケートによってノミネートされ、その中から
新語・流行語大賞選考委員会(選考委員7名)によってトップテンと年間大賞が選定される。
 創始当初は、新語部門と流行語部門に分けていて、それぞれ金賞を筆頭として各賞が選ばれていた
が、8回目の平成3年からは年間大賞が設けられ、11回目の同6年からは両部門を合わせて選定さ
れるようになった。同15年には株式会社東京人形学院(ユーキャンと提携し、同16年より現代用
語の基礎知識選『ユーキャン新語・流行語大賞』に改称した。受賞式典の司会には元TBSアナウン
サーの生島ヒロシが担当する。
 日本漢字能力検定協会『今年の漢字』、第一生『サラリーマン川柳』、住友生命『創作四字熟語』
東洋大学の『現代学生百人一首』と並んで、現代の世相を反映する一つの指標として取り上げられて
いる。

 昭和59年 新 語 オシンドローム(ジェーン・コンドン記者)
       流行語 まるきん まるび(渡辺和博:イラストレーター)
   60年 新 語 文衆(近藤道生:博報堂生活総合研究所社長)
       流行語 イッキ! イッキ!(慶応義塾大学体育会)
   61年 新 語 究極(雁屋哲:エッセイスト 漫画原作者)
       流行語 新人類(清原和博・工藤公康・渡辺久信:西武ライオンズ)
   62年 新 語 マルサ(伊丹十三、宮本信子)
       流行語 懲りない○○(阿部譲二:作家)
   63年 新 語 ペレストロイカ(ソロビエフ・ニコラエビッチソ連駐日大使)
       流行語 今宵はここまでに(若尾文子:女優)
 平成 1年 新 語 セクシャルハラスメント(河本和子:弁護士)
       流行語 オバタリアン(堀田かつひこ・土井たか子)
    2年 新 語 ファジイ(三上遼太郎:松下電器三業電化研究所々長)
       流行語 チビまる子ちゃん現象(トーマス・リード記者)

 年鑑大賞制定以後

 平成 3年 ~じゃあありませんか(チャーリー浜:コメディアン)
    4年 うれしいような悲しいような、はだかのおつきあい(きんさんぎんさん)
    5年 Jリーグ(川淵三郎チェアマン)
    6年 すったもんだがありました(宮沢りえ:女優)
       イチロー効果(イチロー)
       同情するなら金をくれ(安達祐実:女優)
    7年 無党派(青島幸男:東京都知事)
       NOMO(野茂英雄:メジャーリーガー)
       がんばろうKOBE(仰木彬:ブルーウェーブ)
    8年 自分で自分を褒めたい(有森裕子:マラソン選手)
       友愛/排除の倫理(鳩山由紀夫)
       メークドラマ(長嶋茂雄:巨人監督)
    9年 失楽園(渡辺淳一・黒木瞳)
   10年 ハマの大魔神(佐々木主浩:横浜ベイスターズ投手)
       凡人・軍人・変人(田中真紀子:衆議院議員)
       だっちゅーの(パイレーツの浅田好未・西本はるか)
   11年 ブッチホン(小渕恵三:内閣総理大臣)
       リベンジ(松坂大輔:西武ライオンズ投手)
       雑草魂(上原浩治:巨人投手)
   12年 おっはー(慎吾ママ:スマップの香取慎吾)
       IT革命(木下斉:早稲田高等学院3年生・商店街ネットワーク社長)
   13年 小泉語録(小泉純一郎:内閣総理大臣)
 ※米百俵・聖域なき構造改革・恐れず怯まず捉われず・骨太方針・ワイドショー内閣・改革の
   14年 タマちゃん(佐々木裕司:川崎市民 黒住祐子レポーター)
       W杯(中津江村:カメルーン合宿地 坂本休む村長)
   15年 毒まんじゅう(野中広務元衆議院議員)
       なんでだろ~(テツandトモ)
       マニフェスト(北川正恭:元三重県知事・早大教授)
   16年 チョー気持ちいー(北島康介:水泳選手、ゴールドメダリスト)
   17年 小泉劇場(武部勤:自民党幹事長)
       想定内・想定外(堀江貴文:ライブドア社長)
   18年 イナヴァウアー(荒川静香:フィギュアスケート ゴールドメダリスト)
       品格(藤原正彦:数学者)
   19年 どげんかせんといかん(東国原英夫:宮崎県知事)
       ハニカミ王子(石川遼:ゴルファー)
   20年 グ~(エドはるみ:お笑いタレント)
       アラフォー(天海祐希)
   21年 政権交代(鳩山由紀夫:内閣総理大臣)
   22年 ゲゲゲの~(武良布江:『ゲゲゲの女房』作者)
   23年 なでしこジャパン(小倉純二:日本サッカー協会々長)
   24年 ワイルドだろう~(スギちゃん:お笑い一発芸人)
   25年 今でしょ(林修:東進ハイスクール講師)
       お・も・て・な・し(滝川クリステル)
       じぇじぇじぇ(宮藤勘九郎:シナリオライター 能年玲奈:女優)
       倍返し(堺雅人とTBS『半沢直樹』チーム)
   26年 ダメよ~ダメダメ(日本エレキテル連合の中野聡子、橋本小雪)
       集団的自衛権(
受賞者辞退 安倍晋三と思われる)
   27年 爆買い(羅怡文:ラオックス社長)
       トリプルスリー(柳多悠岐:福岡ホークス、山田哲人:ヤクルトスワローズ)


■高田第三公園
 高田3丁目18番2号にある区立公園。


■馬頭観音

 高田3丁目32番10号の個人宅にある。
 


■高田三丁目児童遊園 → 高田中央三丁目公園
 高田3丁目38番6号にある区立公園。
 


【高松】(たかまつ)1~3丁目                  昭和元年11月27日
 長崎村字高松・前高松。明治11年「郡区町村編制法」により北豊島郡に所属。昭和7年東京市
に併合されて豊島区長崎東町の内。同14年長崎東町3~4丁目・板橋区板橋3丁目の各一部をあ
わせた町域を高松1~3丁目とし、平成元年新住居表示により現行の「高松」とした。台地の純住
宅街。1丁目に千川中学校、2丁目に高松小学校がある。練馬区にも高松という地名があるよ。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『豊島区史』『豊島の歴史』など。

 
高松の由来
 字名によるが、梢の高い松の木があったことによるという。さらに按ずるなら高台に位置するの
で、「タカ」が傾斜地を表し「マツ」が真土(粘土)を表し、陶器用の「粘土の採れる場所」の意
でつけられた地名かも知れない。
 


■高松一丁目児童遊園
 高松1丁目6番5号にある区立公園。


■千川中学校

 高松1丁目9番21号にある区立校。昭和22年4月千早小学校内に「東京都豊島区立千川中学校」
として開校。26年校歌制定。

 校歌「
武蔵野を」 作詞・花岡謙二  作曲・下総皖一
  1.武蔵野を流れる小川
    その青い岸辺に
    理想を高く掲げて
    建つよ 学校
    ああ我が千川中学校
  2.青空に囀
(さえず)る小鳥
    あの強い翼に
    希望の夢を乗せて
    行こうよ 学校
    ああ我が千川中学校
  3.新しい文化の息吹
    この綺麗な国土に
    平和の若芽育てて
    誇ろうよ 学校
    ああ我が千川中学校
 


■タクシー轢き逃げ事件

 高松1丁目11番11号の山手通り路上で起きた事件。平成28年2月10日4時40分頃、「板
橋区南町で 女性が怪我をして路上で倒れている 」と通りかかった男性から通報があった。通報を受
けた警察官や救急車が現場に駆けつけると、40歳くらいの女性が横断歩道の近くで倒れており、病
院に搬送されたが全身を強打しており、間もなく死亡が確認された。現場の道路には数mほど車にひ
きずられたような痕跡があり、自転車が倒れていたといい、警視庁は、横断歩道を自転車で渡ってい
た女性が車に轢き逃げされたとみて捜査を開始した。
 警視庁が轢き逃げ事件として捜査したところ、近くにいた人が現場付近から走り去るタクシーのナ
ンバーの一部を覚えていたことなどから、熊谷市在住のタクシー運転手大森春見(71歳)の車を割
り出し、11日早朝逮捕した。
 調べでは、大森は事件から1時間余りたった6時頃、北区にあるタクシー会社の営業所に戻ってき
ているが、車のフロント部分の一部が壊れていたという。
 調べに対し大森は「何かにぶつかった気はするが、人を撥ねた覚えはない」と供述し、容疑を否認
している。警視庁は、死亡したのは近くに住む中武千枝子(40歳)。当時の状況をさらに詳しく調
べている。


■アトリエ村最中

 高松1丁目15番5号にある和菓子屋「鳳月堂」の一品。アトリエ村の地に因み、パレットをデザ
インした最中。


■富士浅間神社境内児童遊園
 高松2丁目9番3号にある区立公園。


■富士浅間神社
 高松2丁目9番14号にある。創建年代は不詳だが、富士塚が文久二年(1862)に築造された
ことから江戸末期には創建されていた。要町1丁目38番9号の本橋家に伝承されている。

 
富士元囃子
 区指定民俗文化財。明治40年頃富士講元の本橋家が、祭礼で囃子を奉納したことに始まる。この
富士塚の講元本橋家(要町1‐38‐9)を中心とする囃子は、神田流大間囃子から生まれ、のどか
な笛の音を聞かせる大間、締め太鼓の小気味よいテンポの早間、その合間をゆく中間(ちゅうま)は
農村時代の名残りを留める「のどかな大間の曲調」が特徴。平成14年9月27日に区無形民俗文化
財に指定されている。

 長崎富士塚
 境内にある富士塚(国指定有形文化財)は、近郷近在の人々から親しみを込めて「高松のお富士さ
ん」と呼ばれ、山岳信仰をここに残している。ここにひょろひょろっと高ーい松の木があったのだろ
うか?

   富士塚は、富士山を神の宿る地として信仰する人々の集まりである富士講によって、江戸
   時代後期以降、主として富士登山が困難な人々のために、江戸とその周辺地域に築かれた
   ものです。この富士講は、角行を開祖とし、江戸時代中期には身禄によって広められ、最
   盛期には、八百八講と称されるほどの講が結成されて代表的な庶民信仰の一つとなりまし
   た。豊島長崎の富士塚は、文久二年(1862)に富士講の一つである豊島郡長崎村の月
   三講(講祖は三平忠兵衛)の椎名町元講の人々によって築造されました。高さ約8m、直
   径20m、表面は富士山の黒ボク石(溶岩)でおおわれています。
    塚内には、頂上に大日如来坐像、小御岳石尊大権現碑、烏帽子岩奉献碑があるほか、合
   目石、講碑、石仏、天狗像、御胎内などが配置され、約50基の充実した石造物群で構成
   されています。浅間神社では、かつてお焚き上げが行われており、奉献された数多くの講
   碑からは長崎村の人々の富士信仰の強さと、近隣地域の人々との交流をうかがい知ること
   ができます。この富士塚は、東京都内にある江戸時代に築造された富士塚の中でもよく原
   型をとどめていることから、昭和54年5月21日に国の重要有形民俗文化財に指定され
   ました。その美観と偉容を永く後世に伝えるため、昭和62年には昭和大修復が行われ、
   以後浅間神社豊島長崎富士塚保存会によって山掃除や保存修復事業が定期的に実施されて
   います。                            豊島区教育委員会
 


■庚申堂
(高松2丁目庚申塔)

 高松2丁目22番1号にある。民家の玄関脇にスペースを取って小堂が建ててある。享保六年(1
721)造立の笠付角柱型庚申塔。庚申塔前の「えびす通り」は長坂道という旧道。
 


■高松柳稲荷神社

 高松2丁目30番1号にある小祠。元は個人の屋敷稲荷だったが、その後、共同の所有となり高松
の鎮守となったとか。境内に大正9年の稲荷神社建築寄付連名碑、子育地蔵がある。もと高松2-3
8-2にあった。

 
子育地蔵
 境内にある。延享四年(1747)に長崎村字高松の講中13人が建てたという。もと高松2-3
8-2にあった。


■高松二丁目児童遊園
 高松2丁目33番11号にある区立公園。


■黒豆大福

 高松2丁目56番5号にある和菓子屋「喜津禰」の一品。
自家製餡にこだわり、黒豆が贅沢に入っ
た小振りで食べやすい大福餅だ。
 


■高松小学校

 高松2丁目57番22号にある区立校。昭和24年要町小学校から分校して、高松2丁目35番地
(現在地)に「東京都豊島区立高松小学校」として開校。同30年校歌制定。

 校歌秀麗に」 作詞・巽聖歌  作曲・平井康三郎
  1.秀麗に富士を仰ぐ
    豊島区の高松 高松
    我等は此処に育ち 此処に学ぶ
    高松 高松 我等の小学校
  2.健康は一に此の土地
    若やけき高松 高松
    我等は此処に学び 此処に鍛う
    高松 高松 我等の小学校
  3.東京の光 集めて
    輝かし高松 高松
    我等は此処に鍛え 此処に築く
    高松 高松 我等の小学校
 
   
 


■高松三丁目児童遊園
 高松3丁目5番6号にある区立公園。


■豊南高等学校 

 高松3丁目6番7号にある私立校。昭和17年財団法人豊南学園を創立し、旧実業学校令による豊
南商業学校を設置。同16年12月日米開戦。同19年豊南工業学校を併置。同20年日本はアメリ
カに完膚なきまで叩きのめされ、サンドバック状態でポツダム宣言を飲まされて敗戦。結果その属国
となり、唯々諾々としてアメリカのいいなりになる保守傀儡政権を保持せざるを得ない今日的不幸を
背負い込む。
 同23年戦勝国アメリカの強制による学制改革により、豊南商業学校と豊南工業学校を廃し、普通
科のみの「豊南高等学校」に改組。同29年女子部新設。同30年幼稚園併置。同52年志木綜合グ
ラウンド完成。同54年第4校舎(図書館・練成場・ホールなど)落成。同55年第5校舎(柔道場)
完成。同58年信州豊南女子短期大学開学。
 平成2年創立50周年記念式典・冷暖房設備導入。同11年新校舎落成。同14年第二パソコンル
ーム設置。同15年第一パソコンルーム改修。同16年男子部女子部の枠を外し、共学化開始。
 
 


【千早】(ちはや)1~4丁目                   平成元年11月27日
 長崎村。明治11年「郡区町村編制法」により北豊島郡に所属。昭和7年東京市に併合されて豊
島区長崎東町の内。同14年長崎東町1~2丁目・長崎仲町1~2丁目・千川2~3丁目の各一部
をあわせた町域を千早町1~4丁目とし、平成元年新住居表示を実施して現行の「千早」とした。
2丁目に熊谷守一の自宅を改装した「熊谷守一美術館」がある。1丁目23番に子育地蔵尊がある。
長崎不動尊のところにある地蔵に対応するものと思われる。寛政十三年(1801)に建てた道標
が見える。「右いたばし」「左ほりのうち」「東ぞうしがや」と刻まれている。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『豊島区史』『豊島の歴史』など。

 千早の由来
 千川の速い流れと楠木正成の千早城から名を起こしたという。千早城とはあまりに唐突だが軍国
主義華やかなりし時代の残滓。 


■宝光寺

 千早1丁目2番3号にある浄土真宗本願寺派の寺。墓地は練馬区光が丘にあるらしい。


■御嶽神社

 千早1丁目5番2号にある小社。社が2座あり、小さい方の社の方に、近年建てた石造りの鳥居が
ある。立派な社の方には鳥居はない。


■千早フラワー公園
 千早1丁目8番1号にある区立公園。


 
報恩感謝
 
■城西大学附属城西中学校・高等学校

 千早1丁目10番26号にある私立校。大正7年中嶋九万吉により「城西実務学校」設立。同14
年「城西学園」に改称。初代学園長野口援太郎。昭和2年「城西学園中学校」と改称。同23年戦勝
国アメリカの強制による学制改革により、新制の城西中学校・城西高等学校に組織替え。同26年母
体を学校法人城西学園とする。同40年城西大学開学。同45年城西歯科大学開学。同48年「城西
大学附属城西中学校・高等学校」と改称。平成3年中学校再開(閉鎖年不明)。同4年城西国際大学
開学。
 城西大学の附属校ではあるが同大学とは別法人で、進学枠はあるものの殆んどの生徒は他大学や専
門学校に進学する。校訓は「報恩感謝」。個人を尊重することが基本のため自然学級編成で、学力の
身を突出させたクラス編成を行なわない。そのため大学に進学しようとする生徒は学習塾に通ってい
る。


■城西医療技術専門学校・城西放射線技術専門学校

 千早1丁目10番26号にある私立専門学校。
 


■子育地蔵尊
(出世子育地蔵大菩薩御堂)
 千早1丁目23番3号にある。正徳四年(1714)の創建といわれ、子育地蔵として親しまれ、
この辺りの地名にもなっていた。堂前の通りを「地蔵堂通り」といい、東に行って山手通りを越える
と「立教通り」と名が変わり、立教大学→池袋西口に通じている。別には千川通りともいうらしい。
狭い境内に「子育地ぞう」の標柱石、馬頭観音塔、築石建立塔、由緒碑がある。


■千早第二公園
 千早1丁目23番18号にある区立公園。


■千早けやき公園
 千早2丁目16番8号にある区立公園。


■おたふく豆

 千早2丁目24番8号にあるお多福豆専門店「長府屋」の絶品。先々代から受け継いだ独自の製法
で心を込めて作られた深い味わいの豆菓子。
大正時代、祖父が試行錯誤の末、考案した独自の製法を
80年余り3代に渡り受け継ぎ守り(4代目は修行中)、お多福豆一品を専門に製造・販売している
店。これまで卸専門だったが、口コミ、雑誌掲載などにより全国からの問い合わせも多くなったため
一般にネット販売を行うようになった。


■熊谷守一美術館

 千早2丁目27番6号にある区の文化施設。画家熊谷守一が97歳まで創作活動を続けていた住居
跡に、昭和60年に娘榧(かや)が建て、個人美術館でとして開館して以来、熊谷の独特な画風の絵
画や書などの作品が展示されてきた。しかし個人経営では限界があり、平成19年11月榧は153
点の守一作品を含む美術館を丸ごと豊島区に寄贈、区立美術館に昇格した。区は文化資源であるこの
美術館の特長を生かしつつ、「アトリエ村」や「池袋モンパルナス」などの歴史を受け継ぎ、地域の
美術文化の拠点としていく方針だ。また区内外の様々な美術文化事業と連携し、区民文化の向上と豊
かな地域社会の形成に寄与することを目的として運営される。取敢えずの運営は指定管理者として株
式会社榧(代表熊谷榧)が行う。
 カフェもあるので、絵を見たりお茶を飲んだりゆっくりと過せるよ。3階のオープンスペースは、
ギャラリーとなっており、誰でも利用できる。
 開館午前10時半~午後5時半。金曜のみ~午後8時まで。月曜休館。
 一般500円、学生300円、小学生100円。(03)3957-3779

   豊島区立2007年
   熊谷守一美術館
   Cafe Kaya
   ギャラリー 榧
   I.C.D 設計・岡秀世
   1985 創立・熊谷榧
 

 
熊谷守一のレリーフ
 
昭和54年数少ない親友の松村外次郎が制作し寄贈した。

 
いねむるモリ
 眠る老人の彫刻。


■つつじが丘アトリエ村

 千早2丁目30番昭和14~16)年頃にアトリエ付借家が建てられた。道路沿いにつつじが植え
られていたので、つつじが丘と呼ばれた。アトリエ跡をそのまま公開し、美術館として利用している
峰孝美術館がある。


■峯孝作品展示館(峯孝美術館)

 千早2丁目30番17号にある。平成16年4月11日にオープンした彫刻家峯孝の作品展示館。
制作に使われていた峯孝のアトリエが公開され、ブロンズ、石膏、テラコッタなど約700点の彫刻
が展示されている。東京国立近代美術館や箱根・彫刻の森美術館を始め、北海道や熊本の美術館など
各地で峯孝の作品は展示されているが、試作、原型を含む貴重な作品群が、一挙に見られるのはここ
だけだ。開館は、日曜の午前11時~午後4時。03‐3957-4951(日曜のみだぞー!)
 


■千早公園

 千早2丁目31番10号にある区立公園。東側のこんもりとした台地と西側の広々とした多目的広
場という、2つの表情を持つ。バラをからませた白いフェンス、入り口付近の白とグレーのインター
ロッキング舗装など、近辺の閑静な住宅街によくマッチした明るい作り。人気はなんといっても「わ
んぱく広場」だ。小高い台地の斜面を利用した流れはごつごつと自然石が並べられ、渓流を思わせる
趣。まさにアウトドア感覚。丸太渡りやローリングボードなどアスレチック風の木製遊具と共に子供
たちには堪えられない面白さ。広々とした芝生の大地など様々に趣向を凝らした公園だ。
 またウメやジンチョウゲ、ライラックやクチナシなどが植えられた園路は、花期を迎えると花の甘
い香りが漂う「香りの道」。公園内の名所の1つだ。
 


■千早緑地公園

 千早2丁目34番2号にある区立公園。白いアーチが迎えてくれるこの公園は、庭造りや接道部緑
化の参考になるよう工夫されている。庭石、石燈篭、手水鉢などをレイアウトした日本庭園や洋風庭
園が設置され、いろいろな庭の雰囲気が楽しめる。キンモクセイなどの花木もあり、季節には芳香を
漂わせる。また園内には17種類の生け垣見本が展示されているので庭造りの参考にもなるよ。ベン
チに腰掛けてガーデンプランを練れば・・・ 


■千早地域文化創造館

 千早2丁目35番12号にある旧社会教育会館だ。千早図書館の向かいだ。平成18年4月1日か
ら現在名になった。区の外郭団体「としま未来文化財団」の1施設。区民が互いに交流を深めたり、
生活を豊かにしたりするための生涯学習や、文化活動、つまり会議・学習会・発表会などに利用でき
る。
 


■千早二丁目児童遊園 → 千早二丁目公園
 千早2丁目35番15号にある区立公園。


■アトリエ村資料室

 千早2丁目39番3号、平和小学校跡地の西部区民事務所の3階にある。平成17年開設。長崎ア
トリエ村に関する資料を展示している。土・日曜日の11~17時のみ開館(ただし回遊展開催中は
無休で10~17時) 無料 03‐3954‐0719


■小鳥さえずる公園

 千早3丁目14番19号にある区立公園。屋敷林を伐採してマンションを建てる計画が持ち上がっ
た時に、近隣の緑を愛する人々の願いを受けて区が土地を買い上げ、平成7年に公園とした。かつて
屋敷林のあった頃のように「小鳥がさえずる豊かな自然環境」を再現するよう、公園の大部分は小鳥
等の生き物の生育場所として、保護された空間(サンクチュアリ)となっている。
 道路沿いの観察広場からは雑木林や小川、池のある小鳥たちの空間が見られ、ハクセキレイ、カワ
セミ、メジロ、オナガ、ウグイス、シジュウカラなど小鳥や生物の生育場所として守られたスペース
があり、カルガモの子育てや鳥の水浴びなどがじっくり観察できるようになっている。
 


■小祠

 千早3丁目22番2号、秋葉宅の角にある。
 


■千早三丁目児童遊園公園
 千早3丁目26番10号にある区立公園。


■千早小学校

 千早3丁目33番5号にある区立校。昭和12年長崎・長崎第二尋常小学校から分校し、長崎仲町
2丁目3575番地に「東京府東京市長崎第五尋常小学校」として開校。同16年勅令148号国民
学校令により「東京府東京市長崎第五国民学校」と改称。12月日本海軍の真珠湾攻撃により日米開
戦。同18年都制施行により「東京都長崎第五国民学校」と改称。同20年4月愚かなアメリカ軍の
非人道的無差別の東京西部大空爆に襲われるも、へなちょこ弾を食らわず焼け残る。8月日本はポツ
ダム宣言を受諾し、ならず者国家アメリカの軍門に降り敗戦。以後その属国となり、唯々諾々として
言い成りになる保守傀儡政権を保持せざるを得ない今日的不幸を背負い込む。売れない国債を買わさ
れるやら、思いやり予算やらでもう200兆円以上がとこ持って行かれたよ。日本の娘がレイプされ
ても地位協定で国は見て見ぬ振りを決め込んで泣き寝入り、これからの若い者は、保守傀儡政権の謳
う「国際協力(昔は八紘一宇といった)」の名目の下、アメリカ軍の尖兵として、最前線の激戦地に
送り込まれることになるぜ。ったく酷えもんだよ。何時までアメリカの子分でいるんだい? アメリ
カ軍は何時んなったら帰るんだい? 
 同22年戦勝国アメリカの強制による学制改革(学校教育法施行)により「東京都豊島区立千早小
学校」と改称。同23年校歌制定

 校歌「目も遥かなる」 作詞・吉田積  作曲・小川清茂
  1.目も遥かなる武蔵野の
    千早の丘の男子等は
    平和日本の象徴を
    仰ぐ芙蓉の峰に見て
    励め凛々しく諸共に
  2.名も麗しき千川の
    千早の曽野の乙女等は
    文化日本の興隆を
    翳す桜の花に見て
    磨け豊けく諸共に
  3.気も澄み渡る大空の
    千早の庭の同胞(はらから)は
    民主日本の将来を
    昇る朝日の影に見て
    伸びよ雄々しく諸共に

 同43年新校歌制定。

 新校歌「仰ぐ大空」 作詞・勝承夫  作曲・平井康三郎
  1.仰ぐ大空大東京の
    空に輝く雲が湧く 雲が湧く
    希望に燃えて胸を張り
    弛まず進む千早の子供
    明日の日本に伸び行く力
  2.庭の公孫樹(いちょう)にチャイムが響く
    揃う朝礼 歌声も和やかに
    仲良く何時も考えて
    決まりを守る千早の子供
    自主の校風 楽しい我等
     讃えよ 歌えよ
     伸び行く力 楽し
い我等

 同26年千川小学校を分校。同27年大成小学校を分校。
 平成12年地方自治法改正に伴う学校教育法の改正により、校名から東京都の冠称を外し「豊島区
立千早小学校」と改称。同19年創立90周年記念式典。
 


■平和小学校 
廃校
 千早3丁目39番3号の西部区民事務所のところにあった区立校。昭和29年要町小学校から分校
し、2丁目12番地(現在地)に「東京都豊島区立平和小学校」として開校。同31年校歌制定。

 校歌平和の白鳩」 作詞・磯部忠雄  作曲・生松よし子
  1.平和の白鳩 育む処
    柳の緑に春風戦
(そよ)
    我等此処に豊かに伸びる
    平和 平和 平和小学校
  2.平和の白鳩 群がる処
    朝風涼しき 学舎の窓
    我等此処に真理を求む
    平和 平和 平和小学校
  3.平和の白鳩 羽ばたくところ
    富士も微笑む秋晴れの空
    我等此処に楽しく鍛う
    平和 平和 平和小学校
  4.平和の白鳩 飛び立つ処
    霜にもめげず若草燃ゆる
    我等此処に新たに生きん
    平和 平和 平和小学校


 平成11年児童の減少により廃校、要町小学校と統合して「要小学校」となった。跡地は区の西部
区民事務所になった。


■牛込商業高等学校 
閉校

 千早3丁目46番21号にあった都立高。平成15年閉校し、同16年、同年に閉校した池袋商高
と統合して新しいタイプの進学型専門校「千早高等学校」になった。

 商業学校校歌「あしたの空に高光る
  1.あしたの空に高光る
    大内山を打ち仰ぎ
    夕べの窓に輝へる
    芙蓉の峯を望みつつ
    誠の道に進むなり
    努めむ共に いざいざ我等
  2.不滅のさくら芳しく
    津久戸ヶ丘に燦として
    理想の風に翻る
    校旗の下の団欒は
    永久の誉れを讃ふなり
    奮はむ共に いざいざ我等


 旧校歌「
大空高く」 作詞・青木東一、上木永生共作  作曲・伊藤辰雄
  1.大空高く津久戸の丘に
    しるく気高き富士の嶺仰ぐ
    輝よいたてるわれらの学舎
    慕い集える心の同胞
(はらから)
  2.真白き雪は我等のしるし
    闇夜を照らす蛍に競え
    松の緑の操守も固く
    蛍雪辛苦白玉を磨け
  3.朝日に匂う希望の光
    誠を湛えて世をしも照らせ
    理想は我等の久遠のいのち
    かたみに励み、進みに進む


 校歌「
風さやに流れるあした」 作詞・池田文雄  作曲・石桁真礼生
  1.風さやに流れる朝
(あした)
    あおぎみる清い学び舎
    ここに出会う
    すこやかに まなこ涼しく
    師よ 友よ 深い縁
(えにし)よ。
  2.日の光 かがよう窓辺
    我が道は遥かなる道
    深く学ぶ
    尊しや まことの技は
    人の世の強い力ぞ
  3.紫に匂う夕べ
    明星は久遠の望み
    高く思う
    一筋の命に目覚め
    新しい未来に生きる
     豊かなる七つの海に
     潮騒は若い心に
     若い心に


■庚申堂

 千早3丁目46番21号、千早高校の北側の千川児童遊園の中の立派な覆屋の中にある。しっかり
とした台座の上に4基ある石造物の内、左側の大きな三基が庚申塔。掲げられた由緒によると、この
庚申塔はかつて千川上水にかかる橋(庚申橋)の脇に祀られていた。併し昭和40年から50年代前
半にかけて、千川通り周辺で道路の拡張や建物の建て替えなどの工事が行われているうちに、いつの
まにか行方不明になってしまった。その後、豊島区外(練馬区北大泉)の山林に放棄されていたのが
発見され、現在地に戻されましたが、元々あった5基の内の1基(庚申塔)はみつからなかった。
 左から、
   ①.奉造立庚申宝塔現當求願如意所 貞享三丙寅年十月大吉日
   ②.奉納庚申 正徳元辛卯天十月廿九
   ③.奉造立庚申講中爲二世安樂 延寳八庚□天九月四日
   ④.奉納大乗妙典諸願成就


■千早高等学校 

 千早3丁目46番21号にある総合学科の都立校。平成16年都立高校改革の一環として牛込商高
と池袋商高校を発展的な統合し、牛込商高の校舎を大規模改修し、新しいタイプの進学型専門の高校
として開校した。ビジネスコミュニケーション科という新しい学科を設置し、英語とビジネス教育を
重視した文系大学への進学型専門高校で、2学期制を執る。英語は3年間で23単位を履修する必要
があり、これは都立では最多だ。科目の選択により3年間で33単位の英語科目の履修が可能だ。さ
らに学校行事では、1年生の2月に英語のみで生活をするイングリッシュキャンプを実施している。
ビジネス科目についてもキャリア教育を重視し大学へ向けての専門性を意識した教育を行っている。
クラス編成は専門高校のため1クラス35名定員、1、2年次は6クラス、3学年は少人数のゼミ形
式になっている。上記のような特色化したカリキュラムを導入し、また様々な特色ある授業を展開し
てる事もあり、年々学校の方向性が中学生に浸透し、人気度は上昇している。施設にはパソコン室7
部屋(英語用パソコン室(CALL室)2部屋)、自習室、格技場、トレーニングルーム、和室、1
学年収容可能な視聴覚室(AV室)、50mプール、広い校庭等があり都立高校の中ではかなり充実
している。

 校歌「日々に生まれ変わるように」 作詞・売野雅勇  作曲・千住明
    日々に生まれ変わるように生きてゆこう
    新しい意識を求めて 変わり続けて行くことを恐れないで
    道のない道を選びながら
    RESPECT 全ての命を 人の見る夢を
    RESPECT 熱き魂が放つ言葉を
    自由であれ 誇り高くあれ 千早高校
    優しいまなざしを人に向けていきよう
    この星を愛おしみ続けて 同じ青い船が運ぶ
    かけがえない友たちの痛み分かち合って
    RESPECT 美しいすべて 憧れのすべて
    RESPECT 日々の革命を遂げる想いを
    RESPECT 全ての命を 人の見る夢を
    RESPECT 熱き魂が放つ言葉を
    自由であれ 誇り高くあれ 千早高校 千早高校
 


■第十中学校 
廃校

 千早4丁目8番19号にあった区立校。昭和22年戦勝国アメリカの強制による学制改革(学校教
育法施行)により、第十高等女学校(豊島高校)内に「東京都豊島区立第十中学校」として開校。校
名は第十高等女学校に因むもので「区立の十番目の中学校」の意ではない。同25年校歌制定。

 校歌「広く正しく」 作詞・土岐善麿  作曲・信時潔
  1.広く正しく 我が行くと定めし路は
    迷うことなし明るし
    林あり 丘あり 雲遠く
    見よ 富士は聳ゆ
    武蔵野の空の彼方
  2.常に違わず 春秋は去り又来たり
    休むことなし豊けし
    桜咲き 鳥鳴き 稲実り
    皆生命若し
    学び舎の窓に寄れば
  3.強く等しく 友よいざ誓いて立たん
    力尽くして進まん
    健やかに勤しみ肩並べ
    今総て楽し
    誇るべし豊島十中


 平成16年商業地化による生徒減少のため千早中学校と統合し「明豊中学校」となり、廃校、跡地
は「明豊中学校」が引き継いだ。
 


■豊島高等学校 

 千早4丁目9番21号にある都立校。昭和11年青山師範学校跡地に「東京府立第十中学校」とし
て開校。同15年府立第十五高等女学校併置。同16年第十五高等女学校は府立神代高等女学校と改
称。同窓会による研究科開設。同17年府立清明高等女学校(夜間)開設。神代高等女学校調布に新
校舎落成して転出。同18年第二十二高等女学校併置。第二部(夜間部)開設。都制施行により「東
京都立第十高等女学校」と改称。同19年保育所開設。同窓会研究科廃止。修業年限4年に短縮。定
員第十1000名・第二十二400名。
 同20年保育所・清明高等女学校廃止。同21年第二十二を併合し5年制に復帰。同23年修業年
限3年になり、戦勝国アメリカの強制による学制改革(学校教育法施行)により新制の高等学校とな
り「東京都立第十女子新制高等学校」を新設。中学校併置。同24年3月第十高等女学校を廃校。中
学校を廃止。4月男女共学。同25年「東京都立豊島高等学校」と改称。創立15周年記念式典・校
歌制定。(※現在地に移転した時期は判らないが、昭和25年と思われる)

 校歌「
流れは清し」 作詞・佐々木信綱  作曲・山田耕筰
  1.流れは清し千川 岸の桜かがよふ
    相睦ぶ 心麗しく
    至誠に生き 至誠を胸に
    いざ我ら共に豊島高校の
    光を添えむ
  2.丘の辺緑 色濃く 空は遠く澄み澄む
    相競ふ 若さ健やかに
    正義に生き 正義を胸に
    いざ我ら共に豊島高校の
    誉れを挙げむ
  3.雲井に仰ぐ富士の峰 理想高く掲げつ
    勤しみて 学びた弛みなく
    希望に生き 希望を胸に
    いざ我ら共に豊島高校の
    栄を増さむ


 同29年創立20周年記念図書館完成。同31年創立20周年記念式典。同36年創立25周年記
念式典・ブール完成。同40年創立30周年記念生徒ホール完成。同41年創立30周年記念式典。
同46年鉄筋コンクリート造り新校舎第一期工事峻工(普通教室6、特別教室及準備室4、保健室、
更衣室各1)。新体育館峻工。同47年食堂並給食室峻工(普通教室18、その他9)。新校舎第二
期工事峻工(普通教室18、校長室、職員室、事務室、用務員室、会議室)。同51年40周年記念
行事「歩こう会」実施。同57年南校舎増築、体育館ステージ、正面玄関、化学薬品庫、生徒ホール
改築工事完成。同61年創立50周年記念庭園峻工。創立50周年記念式典。
 平成8年創立60周年記念式典。同18年創立70周年記念式典。


■千早四丁目なかよし広場児童遊園 → 千早四丁目なかよし公園
 千早4丁目10番14号にある区立公園。


■千早四丁目児童遊園 → 千早四丁目公園
 千早4丁目31番13号にある区立公園。
 


【長崎】(ながさき)1~6丁目                 最終昭和43年8月1日
 長崎村。明治11年「郡区町村編制法」により北豊島郡に所属。同22年「市制町村制」により
飛地を巣鴨村に譲り、南豊島郡下落合村飛地字三軒家を編入して単独で長崎村。大正15年町制に
移行して長崎町。昭和7年東京市に併合されて豊島区長崎東町1~4丁目・長崎仲町1~2丁目・
長崎南町1~3丁目となる。同14年長崎東町1丁目・長崎南町2~3丁目・長崎仲町1~2丁目
・千川3丁目をあわせた町域を長崎1~6丁目とした。同39年11月1日新住居表示により長崎
2~3丁目の全部に長崎1・4~5丁目・千早町の各一部をあわせた町域を現行の「長崎1~5丁
目」とし、同43年長崎6丁目に新住居表示を実施して現行の「長崎6丁目」とした。南長崎との
境界は西武線で駅は東長崎と推名町だ。長崎小学校は旧長崎村地区で最も古い学校。村役場はその
隣にあった。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『豊島区史』『豊島の歴史』など。

 長崎の由来
 平清盛の曾孫資盛の子三郎左衛門清綱が、鎌倉執権北条氏の家臣として幕府執事職にあったとき
伊豆韮山近くの長崎に住んで長崎を名乗り、その末裔の次郎高重がこの辺りを領地として住んだの
で村名とした(長崎町史)という。しかし史家や豊島区はこの説を否定する。按ずるに長崎神社の
ある舌状台地は長い天狗のような岬になっている。谷端川はその長崎を大きく迂回して池袋本町へ
向かう。長崎の地名はこの天然の地形によると考えるのが自然だ。


■椎名町駅

 長崎1丁目1番にある西武池袋線の停車場。大正13年6月11日中村橋・田無町(ひばりヶ丘)
・清瀬と同時に追加開業した。ホームは地上相対式2面2線構造で、上下ホームは跨線橋で結ばれて
いる。跨線橋にエレベーターはないが、改札がホームごとに設けられているので問題はない。改札口
・出口は、1番線側の北口と2番線側の南口(7~23時)の2ヶ所。
 「帝銀事件」で有名になった。

 
椎名町駅ギャラリー
 平成23年の椎名町駅舎の改修工事に伴い、地域の文化や伝統工芸の紹介スペースとして整備された。豊島区ゆかりのマンガにまつわるエピソードなどの紹介をしている。

 
トキワ荘の壁画
 駅の南北自由通路の南側に設置された。横約4m、縦約3mと大きなもので、トキワ荘の元入居者
で、現在、杉並アニメーションミュージアム館長の鈴木伸一が描いたトキワ荘に、トキワ荘に入居した
マンガ家のキャラクターや自画像が一緒に描かれている。トキワ荘のあった街への玄関口としてキャ
ラクターたちが迎えてくれる絵柄となっている。

 
トキワ荘ゆかりの地散策マップ
 「トキワ荘の壁画」の階段を降りて行くと斜め前に見える大きな散策案内図。「漫画界の偉人」た
ちの絵が一枚におさまっている、見る人が見れば垂涎ものの1枚。椎名町陸橋、あけぼの湯、目白映
画、エデン、鈴木園、二又交番、子育地蔵地蔵、落合電話局、紫雲荘、トキワ荘、跡地モニュメント
松葉、記念碑「トキワ荘のヒーローたち」、トキワ荘通り、鶴の湯、第一マーケットが示されている

   トキワ荘ゆかりの地 散策マップ
   マンガ家たちが愛した店や映画館、銭湯などの跡地を巡って、往時に想いをはせてみませんか。
   各ゆかりの地には、解説版などもあります。

   トキワ荘とは
   昭和27年12月6日に上棟された木造2階建てアパート。共同の炊事場とトイレがあり、
   部屋は四畳半の押入れ付きで家賃は3000円、ここに昭和28年~36年までの9年間、
   手塚治虫をはじめ10数名の新人漫画家たちが住み、出入りしたことから、漫画家の梁山
   泊ともいわれた。昭和57年12月老朽化のため取り壊された。


   
   


■帝国銀行椎名町支店跡

 長崎1丁目7番1号(長崎町1丁目33番地)のグランフォース西池袋が跡地だ。長崎神社の西側
の三叉路の角地で、帝銀事件発生時の建物は質屋を改造したものだ。帝銀椎名町支店は帝銀分割後、
新しい帝銀(現在の三井住友銀行)が継承したが、昭和25年3月に閉鎖され現存しない。業務は千
川支店に引き継がれている。


帝銀事件
 長崎といえば今はもう知る人もなく遠い歴史の一事実となってしまったが、集団毒殺による銀行強
盗事件だろう。昭和23年1月26日椎名町駅前長崎町1丁目33番地(1丁目7番1号、長崎神社
西側三叉路角地)の帝国銀行(三井+第一の合同銀行)椎名町支店の行員16名に服毒させ12名を
毒殺して18万円ほかを強奪した犯罪史上未曾有の戦慄事件だ。
 当初捜査当局は、薬学・理科学系の知識がある者と目星を付け、旧軍関係、特殊学校、防疫給水隊、
特務機関に勤めた者を中心に捜査を進めていた。しかしながら、これらに関係なく突然テンペラ画家
平沢貞通が犯人として逮捕される。逮捕理由は、厚生技官医学博士松井蔚から名刺を貰っていた(松
井博士は名刺の交換先を記録していた)、小切手の筆跡、所持していた大量の現金等で、当時の法律
は戦前のままで、自白が重要視されており、殆んどが暴力を揮っての自白により有罪の判決が出され
てた。だから冤罪のまま死刑にされた者も多いのだ。
 しかし遅効性の青酸カリに近い劇物は、当時としては旧陸軍研究所で開発されたアセトンシアンヒ
ドリン(通称ニトリール)しかなく、この関連が有力、しかし当時は占領下で、この点を追求するの
は、米軍の妨害がありまず不可能だった。そして不思議なことは、関連が全て山手通り沿いで起こっ
ている事だ。安田銀行荏原支店も山手通りからは直ぐ、安田銀行板橋支店も山手通り、車を駆って移
動した?
 平沢にはアリバイがある。事件当日、東京駅丸の内にある旧船舶運営会に勤務している娘婿と面会
している(このことは、会社の数名が目撃しておりアリバイは成立している)。その面会時間が午後
2時から30分程度との証言がある。これを事実とすれば、帝銀椎名町支店には到底犯行時間の3時
10~20分には到着しないのだ。また平沢の証言では犯行時間とされる3時頃は自宅に戻ったとこ
ろで、ちょうど娘の友人でGHQの軍曹が遊びに来ており挨拶までしたという。当然平沢はアリバイ
を主張するが、家族証言は採用されない。そこで、娘の友人である米人軍曹に事情を聞こうとしたら、
この軍曹は突如米国へ帰国させられてしまった。米軍は何故急遽帰国させてしまったのか?
 平沢貞通は、誘導された生存者の目撃証言と、それ以前の不可解な行動などにより真犯人とされ長
期裁判の結果死刑の判決を受けたが、歴代法務大臣は承認の捺印を忌避したため、終に死刑は執行さ
れず平沢は八王子医療刑務所の獄中で老衰死した。95歳だった。
 初めから謎の多い事件で、最初は関東軍石井部隊(対中国人虐殺謀略機関)関係者の犯罪だろうと
目されたが急転して平沢犯行説となったもので、冤罪の可能性が高く、現在も争われている。当時の
アメリカの横暴は今のイラクに対するのと同じで、日本を今日の属国植民地状態にするために、松川
事件・下山事件・八王子事件などなど不可思議な犯罪を数十件惹起していている。だから本当のとこ
ろは判らない。もしかすると真実を解き明かす資料がアメリカの何処かにあるかも知れない。将来日
本がアメリカというならず者国家を叩き潰して地上から抹消する時までは、闇の中だ。
 そんなこんなで、どの法務大臣も「触らぬ神に祟りなし」を決め込んで執行印を押すことはできな
かったのさ。そんなことが村から町へ転換しつつあったこの長崎で起きたのだ。
 椎名町支店(質屋の建物)のあったところの様子はすっかり変わってしまい、事件そのものが風化
している。悪魔の石井部隊は、ならず者国家アメリカへ資料を引き渡す司法取引で極東裁判を免責さ
れたし、戦後日本の医学界は中国で非道な犯罪を行なった医師たちによって支配され、今日の日本医
学界がある。
 余談だがエイズ(AIDS=後天性免疫不全症候群)という病原菌は、石井部隊の資料から米軍が
拵えた細菌兵器の副産物が漏れたものだとか・・・人体実験かな!
 

 
諸悪の根源
 ま、地球上にある悪行にアメリカが首を突っ込んでないことはない。「諸悪の根源はアメリカ合衆
国の存在にあり」と言っても、決して過言ではない。日本の軍国主義者が戦前を夢見て、常に自衛隊
を強力にしようと努力して、その口実に「北朝鮮が攻めてくる」というのがある。そんなことは金正
日が発狂でもしない限り、万に一つもない。日本はアメリカの息の下にある属国だ。現在もアメリカ
の意のままだ。米国債・郵政民営化・イラク出兵などなど、横須賀にやくざ者の孫として生まれ、ひ
たすらアメリカにかぶれて育った小泉君なんかバカ・ブッシュの膝の上に座ってるもんだから総理大
臣の席は安泰も安泰、なればこそふんぞり返っていられるのだ。かつてアメリカが千代田区の将門塚
の保存を容認したが、その時「日本は心から降伏はしていないな」とアメリカの権力は腹を括ったと
いう。小泉君のささやかな抵抗は靖国参拝だ。神社側はA級戦犯を物理的に分祀できないと意地を張
るが、単に外したくない、外そうという気持ちがないだけのことだ。神道はそんなに堅苦しいもので
はないよ。「昭和館」「九段坂」「靖国神社」「遊就館(戦争・軍事博物館)」は、戦前郷愁礼賛主義
者の橋頭堡なのだ。日本の権力者の性根から「対米復讐」の四文字が消えた訳じゃあるまい。平成1
7年日本民族の心のふるさと「戦艦大和」が広島県呉市に縮小復元するや、平和主義者が連日どっと
押し寄せて踵を接し拝んでいくという。帰途に就くその顔はそれはそれは満足この上ない表情だ。復
讐民族の面目躍如。毛利家が、島津家が三百年灯し続けた関が原の恨みのように、日本の権力者は太
平洋戦争の雪辱・広島の遺恨を末代まで伝え続けていく。エジプト王国も、マケドニアも、ローマ帝
国も、ペルシャ帝国も、サラセン帝国もモンゴル帝国(元)も、インカ帝国も、トルコ大国も、スペ
インも、ポルトガルも、大英帝国も、およそ覇を遂げて強大を誇った国々は、歴史書の記憶に留めら
れるだけで未だ復活したことはない。アメリカがいつまで暴力国家として強大でい続けられるかは保
証の限りではない。だから何時かアメリカに夕陽が落ちかかるとき、日本の権力者が豹変しないとい
う保証も、実はまたないのだ。日本政府が国連安保理の常任理事国になろう心得も遠き慮り、つまり
逆を言えば、アメリカが、世界中に国家は200ヶ国もあるか、その中で最も恐れるのが日本なのだ。
もしサテライトとインターネットを使ってパールハーバーのように「ブリッツ・アタック(奇襲)」
を仕掛けたとしたら、自衛隊の一兵を動かさずともアメリカを殲滅させることは可能だ。アメリカに
すれば日本は何を仕掛けてくるか先が全く読めない国だ。今の平和主義をまともには信じちゃァいま
い。その証拠に国連の常任理事国に決してしようとはしない。「衣の下の鎧装束」は見え透いている
からだ。だから安保体制というのは日本監視体制なのだ。その美味しい属国日本に、北朝鮮ごとき汚
濁国家が指一本触れられよう道理がないだろう。あるとすればアメリカが日本に脅しをかける意味で
北朝鮮に指示を出した場合だけだ。アメリカは、日・韓・台に米軍が展開する理由を「東アジアの安
定のため」と宣うておる。もし北朝鮮がなくなってしまえば、日・中・韓は友好的であるのだから東
アジアに平和が訪れ、駐留米軍の存在する意義は全くなくなってしまう。つまり東アジアに平和が到
来してしまえば、アメリカは日本の監視体制を解かねばならなくなる。米軍は嘉手納から、岩国から、
横田から、三沢から、横須賀から100%撤退しなければならなくなる。
 アメリカが日本を監視し続ける要件は、偏に東アジアが不安定であることに尽きる。北朝鮮が摩訶
不思議な国で、近隣に迷惑をかけ続けてくれることこそアメリカの望むところだ。金正日がよしんば
悪魔であったとしても、アメリカが北朝鮮を更地にすることはない。もっと言おうなら、アメリカと
北朝鮮は裏で必ず繋がっている。北朝鮮は元々火田民で焼き畑農業の移動民族だ。ソ聯華やかなりし
時代には戦略上の援助を受けて定着したかに見えたが、ソ聯が衰退してしまうと援助がなくなり、共
産主義国家は砂上の楼閣となってしまった。しかしそれは高々50年間ぐらいのこととて、高麗民族
は痛痒を感じない。北朝鮮において権力者と被圧市民の懸隔は自然のことで、金正日が自分たちだけの
安泰を願ったからといって国民はそれを悪事だとは考えないだろう。日本人の感覚や尺度で推し量っ
て詩の語のいってみても詮無いことだ。韓国は南北統一はなしうると考えているかもしれないが、ア
メリカ合衆国という国家が存在する限りはありえないことだ。中国にとっても北朝鮮は至らぬ弟分で
はあれ、米国・日本とのショックアブソーバーである。そんなこんなで北朝鮮という厄介国は現在、
日・中・米にとって、とっても美味しい存在なのだ。自民党に拉致問題なんぞ解決する気はさらさら
ない。そうそう小泉純一郎の祖父さんは鳶で、代議士になって逓信大臣となり「いれずみ大臣」とい
われたものだ。若い頃には小泉組を張り、今は広域暴力団に属している会津小鉄一家と大抗争事件を
惹起し新聞沙汰にもなったもので、小泉が非情粗暴なのは祖父譲りなのだ。大船街道だったか、車で
走ってるとでっかい石碑で「侠客小泉又次郎」ってえのを見るよ。軍国主義は父親純也からの相伝だ。
 

 
帝国銀行
 昭和18年同じ三井組をルーツに持つ三井銀行と第一銀行が合併して成立。当時日本最大の都市銀
行となったが、人事面での不均衡や事務要領など行風の相違が明確化した上、戦時下といった特殊事
情もあってなかなか合併効果が出ず、むしろマイナスに働き、戦後行内は旧三井・旧第一の2派に割
れ対立するところとなった。このため合併時大手行第1位だった業績は大幅に低下した。この事態を
収拾すべく昭和23年、世界でも例を見ない大銀行の分割が実施され、帝銀は解散。新たに旧第一銀
行系の第一銀行と旧三井・第十五銀行(昭和19年併合)系の帝国銀行が設立され、それぞれ営業を
開始した。両行は新設分割ではあるものの三井・十五系が「帝銀」の行名を承継したため、一般にこ
の一件は第一銀行の分離独立と捉えられた。分割については、第一側が積極的で、三井・十五側は消
極的であった。第一側の新行名については、全くの新行名にする案があったが、『第一』は財閥名と
は無関係であるとし第一銀行となった。三井・十五側は、財閥解体の煽りから、当時財閥系企業の財
閥名使用禁止もあり、そちらも新銀行名を全くの新行名にする案もあったが、結局帝国銀行となった。
新発新発足した帝銀は、本店を日本橋室町の三井本館(旧三井銀行本店で、帝銀東京支店となってい
た。現在の三井住友銀行日本橋支店)に置いたが、金融当局の出店規制もあって中位行のまま推移し、
戦後、再結集した三井グループの中核銀行となり、同29年に三井銀行と改称した。現在の三井住友
銀行だ。


■ギャラリーいがらし

 長崎1丁目8番13号第三並木マンション1階、椎名町駅北口近くにある画廊。平成8年9月のオ
ープン以来、池袋モンパルナスに所縁のある画家の作品を中心に展覧会を実施。代表の五十嵐健市は
40年近く絵具店を営みながら長崎アトリエ村を見詰めてきた。その歴史やそこから巣立っていった
画家たちについて少しでも多くの人に知ってもらいたいとの発心で、本業を続けながらもギャラリー
を始めたとのこと。アトリエ村散策の序でに立寄るがいい。午前11時~午後6時。
 


■椎名橋

 長崎1丁目9番にある山手通りを通す西武新宿線を跨ぐ陸橋。山手通り(環状6号線)は昭和初期
に計画され、昭和10年代に着工、殆ど完成するが、西武池袋線と谷端川を越える椎名橋の完成は、
戦後になってから。「昭和22年米軍撮影の空中写真」によると、椎名橋の前後の山手通りは完成し
ているが、橋は未完成のようで、クロスする谷端川が写っている。
 現在の椎名橋は、首都高中央環状新宿線の開通に合わせた山手通りの拡張工事で、長さ156m×
幅員40mと、一回り大きくなった。橋の中腹に新設された山手トンネル西池袋出入口。但し外回り
は出口のみで、この先の高松に入口がある。


蓮華山金剛院仏性寺
 長崎1丁目9番2号、長崎神社の東隣にある真言宗豊山派の寺。元長崎神社の別当。大永二年(1
522)聖弁和尚によって長崎3丁目28番1号に開創されたが、宝永八年(1709)聖誉和尚の
時、祝融の禍により、現在地に移転した。
 当寺には武蔵野鉄道の工事で出土した2枚の板碑や庚申塔がある。なお旧地は境外仏堂として観音
堂があり、豊島寺と呼ばれている。

   金剛院案内
   山 号 蓮華山(寺号は仏性寺)
   本 尊 阿弥陀三尊(阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩)
   開 基 聖弁和尚 大永二年(1522)
   宗 派 真言宗豊山派
   総本山 長谷寺(奈良県桜井市初瀬)
   祖 師 宗 祖 弘法大師・空海(南無大師遍照金剛)
    (宝号)中興祖 興敎大師・覚鑁(南無興敎大師)
       派 祖 専誉僧正   (南無専誉僧正)
   開 宗 真言宗は、その源流をインドに発し、平安時代末期に
       弘法大師が唐(現在の中国)に、おもむいて日本に
       その教えを伝えて改修しました。
   教 え すべての存在を温かく肯定する大日如来を中心とする
       曼荼羅思想と、私たちの心に内在する仏性を深く見
       つめて、それを呼びおこす即身成仏思想などをもと
       に、平和な密厳仏国土をめざします。
   お 経 般若理趣経・真言陀羅尼・般若心経などのほか
       独自の節のついたお経(声明)をお唱えするのが
       特徴です。
   文化財 山門(豊島区指定)・板碑(豊島区登録)
   霊 場 豊島および御府内八十八箇所第七十六番札所


 山門前にある区の説明板は以下の通り。

   金剛院
   金剛院は、聖弁和尚によって大永二年(1522)に開創された真言宗豊山派の寺院で、
   正式には蓮華山金剛院仏性寺という。本尊は、観世音菩薩と勢至菩薩を脇侍として配した
   阿弥陀三尊である。開創当時は現境内地から北西方向に800mほど離れた、長崎3丁目
   の観音堂(現在は当時の境外仏堂)の位置にあったといわれており、宝永八年(1709)
   ころに当地に移転した。
   宝暦八年(1758)には、「百字真言梵鐘」と呼ばれる釣鐘が鋳造されている。その後
   の安政年間(1854~60)には、尼僧の智観が寺子屋を開設し、長崎地区の庶民教育
   の拠点となっていた他、明治元年の神仏分離令までは長崎神社を管理する別当寺でもあっ
   た。さらに明治34年には寺内に、長崎村役場が置かれていた。
   薬医門様式の山門は、安永九年(1780)に建立されたものである。その装飾は彫りが
   深く、意匠的に優れているため。平成6年8月に豊島区指定有形文化財になった。その後
   平成8年には山門の保存修復および左右袖塀の復元工事が実施されている。また、この山
   門が朱塗りであったことから、「赤門寺」と呼ばれていたこともあったという。
   境内にある2基板碑のうち、1基には阿弥陀如来の画像がもう1基には永享十二年(14
   40)の年号が刻まれている。また、宝永四年(1707)長崎村の村人が造立した庚申
   塔も1基残されており、何れも地域の歴史と文化を伝える貴重なものとして、豊島区登録
   有形文化財になっている。
   平成8年8月                          豊島区教育委員会

 赤門
 朱塗りの山門だが、明和九年二月二十九日の大火の時、江戸市中の罹災者を多く助けた善行により
10代将軍徳川家治から許され、8年後の安永九年(1780)に建立された。その装飾は彫りが深
く、意匠的・技術的に勝れており、根生院や重林寺の薬医門よりも古い、区内では最古の薬医門と考
えられる。さて老朽化により傷みも激しく、平成8年に保存修理と両袖塀の復元工事が施され、往時
の美しい姿に蘇った。
 明和の大火は、行人坂の大火とも通称され、目黒行人坂の大円寺から出火し、南西風に煽られて延
焼。焼失した町数904棟、
死者14700名、行方不明者4060名。

 
大師堂
 宗祖弘法大師(空海)・中興祖興敎大師・豊山派祖専誉僧正の三尊を祀っている。

 
弘法大師行脚像
 四国八十八ヶ所お砂踏参拝所。像の後の塔は仏舎利塔。周囲には四国の地名が記された(阿波発心
の道場・土佐修行の道場・伊予菩提の道場・讃岐涅槃の道場)4本の塔、その下には夫々の霊場の砂
が収められ、阿波から時計回りに一回りすると八十八ヶ所参りの利益が得られる。
 もう少し規模を広げると、江戸時代に開創された御府内八十八ヶ所参りというのもあって、東京周
辺の寺で八十八ヶ所参りができ、金剛院自体、第76番礼所となっている。

 
金剛院中興塔
 石碑。

   中興歴代第十五世聖誉和尚
   
金剛院開山聖弁和尚
   中興歴代第三十二世利行和尚

 
仏舎利塔
 大師像の後ろにある。仏舎利は釈迦の骨だが、そんなに骨がある訳もなく、あることにして石塔を
建てる。この仏舎利塔は、火災後、金剛院を再建した時を記念して建てたものだ。

 
観音萬霊塔
 村の各所にあった観音像20基を集めて作り上げたもの。

 
地蔵萬霊塔
 村の各所にあった地蔵尊20基を集めて作りあげたもの。

 
木石
 1億5000万年前の木の株の化石。

 
智観比丘尼顕彰碑
 今から150年ほど昔、本山宝仙寺(中野区)から金剛院にやってきた智観尼は村の子供たちを集
め、寺子屋を始めた。長崎地区における庶民教育の創始者だ。

   智観比丘尼顕彰碑

   安政年中(1854~60)に中野の宝仙寺から金剛院に入寺してきた智観(ちかん)は
   当寺で寺子屋を開いて、子供たちに礼儀作法や読み書きを教えていました。
   比丘尼とは女性のお坊さんのことです。
   智観は、安政六年(1859)に亡くなるまで、金剛院で熱心に教育を続け、長崎地域に
   おける教育の創始者としてここに顕彰するものです。


 
マンガ地蔵
 ペン軸の差すところに、お地蔵様が・・・ 手に普通のサイズの付けペンを、杖のように持ってい
る。袈裟が擬音。カリカリ、シャシャ。

 
馬頭観音碑・三界萬霊塔
 境内に石碑が2基ある。観音は救いを求める声を聞くと、その姿をいろいろと変えて助けるといわ
れている。ここにある石碑には「馬頭観世音」と刻まれている。以前の農業には耕作に運搬に牛馬は
必要欠くべからざるものだ。だから牛馬が死ねば心から供養した。こんなことは日本人だけしかしな
い。ユダヤ人たちはホロコーストをでっち上げたせいか、アウシュビッツなど7ヶ所の収容所後に、
「ここに収容所ありき」の記念碑は建てても被害者を供養するものは一切建ててない。もとより大量
虐殺などないのだから建てようはあるまいが。

 
一蓮托生の六地蔵
 墓地入口脇に六地蔵と3体の地蔵が祀られている。六地蔵は六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間
・天上)のどこにでもいて救済の手を差し伸べてくれる。人は死ぬと六道の何れかに行くといわれ、
そこで地蔵に導かれる。衆生済度は煩悩の人々を救うことをいう。

 
六地蔵碑
 墓地奥にある。舟形の石に六地蔵を刻んだ碑。

 
密厳霊塔
 須弥山を表現した石造物の中央に観音像が建つ。

   密厳霊塔
   密厳というのは、真言宗でいうところの極楽という意味であり、霊塔は亡くなられた方を
   場所のことです。この密厳霊塔は、永代供養を希望される方のために建立したものです。
   三角形の石は、須弥山を表現しています。須弥山は仏様の居所であり、仏教の広大無辺な
   宇宙観を示す大きな山のことです。
   また仏教は私たちの住む世界のことを、こちらの岸すなわち「此岸」というのに対して、
   仏様の世界を彼方の岸という意味で「彼岸」といいます。
   ですから、正面の縦線模様は川の流れを表しており、その川の向こう側(岸)が仏様のお
   られる場所であることを示しています。このように仏様の仏界を表現したところの地下に
   ご遺骨を埋葬できるようになっています。
   そして霊塔中央には、亡くなられた方々をお守りし、私たちにも慈悲のまなざしをいただ
   けるようにと観音像を建立し、お祈りしております。
   


■長崎不動尊と子育地蔵・観音像
 長崎1丁目9番2号の金剛院の前にある。子育地蔵のほかに身洗地蔵、鋪石建立塔、馬頭観世音が
ある。

   地蔵尊の由来
   この舟型浮彫地蔵尊は、寛政八年(1796)八月二十四日道標をかねて造立された道標
   地蔵尊です。地蔵尊の石中には「念仏供養」、その左右には「北 下板橋道、南 ほりの
   内道」という文字が刻まれています。ほりの内というのは杉並区堀ノ内ということです。
   江戸時代には、宿場町として栄えた中山道の板橋区仲宿方面、また厄除祖師の堀の内・妙
   法寺へ、お参りする人々の道しるべになっていて、南北に通じる道があったことを教えて
   くれています。またこの地蔵尊の御仏体は江戸城築城の際に使われた石の一部であると云
   い伝えられています。
     
地蔵菩薩真言 おんかかかびさんまえいそわか
     
地蔵菩薩宝号 南無地蔵菩薩 


■長崎神社

 長崎1丁目9番4号、椎名町駅北口駅前にある大社。江戸時代まで十羅刹女を神体としていた。十
羅刹女は「法華経(陀羅尼品)」に説く10人の鬼女で、のちに仏法に接し、鬼子母神らと共に「法
華経」を持する者の守護を誓った。東側の金剛院が別当寺。明治維新の神仏分離令後、さいたま市大
宮の氷川神を分祠し「氷川神社」と改称したが、明治7年に「長崎神社」に改め、素戔嗚命と稲田姫
命を祀るようになった。
 毎年5月の第2日曜日に「獅子舞」が行われるので有名だ。本殿右側に招魂社があり、太平洋戦争
までの犠牲者を合わせている。本殿は嘉永二年(1849)の建立で、扁額は山岡鉄舟の筆になる。
境内に小柳稲荷神社、椎名町町開設記念碑などがある。社前の道を北へ行くと八幡神社がある。
 以下の説明板は2つとも存在する。

   長崎神社
   元来、櫛名田比売命を祀り、武州豊島郡長崎村の鎮守であるが、江戸時代中期には十羅刹
   女社とも称されていた。神仏分離後、明治5年に村社と定められ、同7年須佐之男命と合
   祀して長崎神社と改称し、今日に至っている。
   精緻な彫刻物を有する本殿は、嘉永二年(西暦1849年)に建造されたもので、ほかに
   山岡鉄舟揮毫の神社額、祭礼幟がある。
   なお、元禄年間に由来すると伝えられる獅子舞は区内唯一のもので、毎年5月第二日曜日
   の祭は盛大である。
   昭和51年3月                         豊島区教育委員会

   
長崎神社                     所在地 豊島区長崎1‐9‐4
   長崎神社の創建年代は不詳ですが、元来、櫛名田比売命を祀り、武州豊島郡長崎村(現在
   の豊島区長崎・南長崎・千早・要町・高松・千川と、目白4・5丁目・西池袋4・5丁目
   池袋3丁目の一部)の鎮守として信仰を集めました。江戸時代の中期には十羅刹女社とも
   称せられ、境内には、享保十八年(1733)に奉納された「十羅刹女」と刻まれた手水
   鉢が残されています。隣接する金剛院は明治元年の神仏分離まで長崎神社の別当寺でした。
   その後、明治5年には村社と定められ、同7年須佐之男命と合祀して長崎神社と改称し、
   今日に至っています。
   精緻な彫刻物を有する本殿は、嘉永二年(1849)に、拝殿は明治32年に建造された
   もので、旧社殿は絵馬を納める額堂として使われています。ほかに山岡鉄舟揮毫の神社額
   と祭礼幟があります。
   なお、元禄年間(1688~1704)に始まると伝えられる獅子舞は、五穀豊穣と悪病
   退散を願って江戸時代から長崎村の人々により伝承されてきた区内唯一の民俗芸能として
   平成4年に豊島区民俗文化財に指定されました。毎年5月第二日曜日の祭礼では、氏子会
   や獅子連を中心とする地元住民により盛大に奉納され、9月の例大祭とともに多くの人々
   で賑わいます。
   平成17年11月                        豊島区教育委員会


 
長崎獅子舞
 区内に伝わる唯一の民俗芸能として、毎年5月の第2日曜日に長崎神社で奉納される。江戸初期の
元禄時代(1688~1704)村の伊佐角兵衛が、病気平癒の御礼に獅子頭を奉納したのに始まる
といわれている。独り立ち3匹獅子舞で、腹に太鼓をつけた太夫獅子、仲獅子、女獅子の3匹の獅子
が、ササラを持つ4人の花笠と共に篠笛の音に協わせて勇壮に舞い踊る。獅子が舞うのは悪疫退散、
五穀豊饒を祈るもので、現在は地域の人々によって伝統行事として守り伝えられている。
 獅子頭をかぶり、腹に太鼓をつけた3匹の獅子が、ササラをもつ4人の花笠と共に舞う形は、関東
地方によく見られるが、演目の組み方にその特徴がある。なお昭和初期からは4匹の獅子が演じるよ
うになっている。また明治~昭和時代の銘がある道具と衣装は保存状態が良く、一括で保存されてい
る点で貴重で、その用具一式は区の指定文化財になっている。

 
日露戦役紀念碑
 日露戦争に出征したことを記念して長崎村有志一同が建てたもの。碑陰に「長崎町出生軍人」と題
して村内から出征した村人の名が列記されている。明治41年11月の建立。

   日露戦役紀念碑
   元帥公爵山県有朋書

 
御大典記念碑
 昭和天皇の即位の大典を記念して昭和3年長崎町が建てた。近衛文麿の書。

   
御大典記念

 長崎神社前停車場開設記念碑
 最初の鳥居を潜ると、すぐ左手に日露戦争の記念碑が聳えている。揮毫は山県有朋。堂々たるもの
だが、碑文らしい碑文はない。その裏手の木立の陰にひっそりとたたずむのが、この石碑。大正時代
椎名町駅が設置されるに至った経過を記した小さな石碑。碑文は本文219字という短いもので、表
現も平坦で、特に見るべきところがある訳ではない。用地として寄付された土地の面積を細かく正確
に記している当たりに、駅設置へのこだわりが現れている。石碑の裏面には、「敷地寄付者」の氏名
と寄付金額が、びっしりと書き込まれている。
 ただ椎名町駅付近といえば、戦前には芸術家の卵が集うアトリエ村が、戦後には彼の有名な漫画家
たちのゆりかご、トキワ荘があったところ。末尾の「文化の開発、期して待つべき者有りと謂うべき
なり」という一節は、そんな未来を予見していたかのようだ。
 文章を起草した新井博次は、茨城県の生まれの教育者。長崎神社の北側にある城西学園の初代校長
だ。清書した人の名前も題額を書いた人の名前もないが、所謂「地元の名士」に依願しているところ
に、この石碑の性格がよくあらわれている。

   椎名町駅
   長崎神社前停車場開設記念碑
   長崎村者武蔵野鉄道沿線之勝地也大正三年四月際鉄道開通有志相議卜地於神境前欲設停車
   場時機尚早不得実現而止矣後数年会社有電車併用之企並木健治良並木惣吉機之謀会社為其
   所容設置之議始決矣於是乎田島辰五郎説地主関係者請敷地之寄附村長鴨下六郎鴨下三之丞
   並木源吾右衛門与前記三氏為発起人依記名諸氏之協力得敷地四百拾参坪四合参勺以大正十
   二年十二月一日停車場竣工至得日夕交通之利便矣地方産業之振興文化之開発可謂有可期而
   待者也于茲記其来由銘碑以為記念云爾
   大正十四年五月吉日                       城西 新井博次誌

   (読み下し)
   椎名町駅
   長崎神社前停車場開設記念碑
   長崎村は武蔵野鉄道沿線の勝地なり。大正三年四月、鉄道の開通に際し、有志、相議して
   地を神境前に卜し、停車場を設けんと欲するも、時機尚早にして実現するを得ずして止み
   ぬ。後数年、会社、電車併用の企て有り。並木健治良・並木惣吉、之これを機として会社
   に謀り、其の容るる所と為る。設置の議、始めて決せり。
   是(ここ)に於いてか、田島辰五郎、地主関係者に説き、敷地の寄附を請う。村長鴨下六
   郎・鴨下三之丞・並木源吾右衛門と前記三氏と、発起人と為る。記名諸氏の協力に依り、
   敷地四百拾参坪四合参勺を得。大正十二年十二月一日を以て停車場竣工し、日夕(にっ
   せき)
の交通の利便を得るに至りぬ。地方産業の振興、文化の開発、期して待つべき者有
   りと謂うべきなり。茲に其の来由を記し、碑に銘じて以て記念と為すと爾(しか)云う。
   大正十四年五月吉日                  城西 新井博次誌(しる)

 長崎招魂社
 本殿右にある。日清戦役から第二次大戦までの郷土の英霊781柱を祀る。招魂社は神道の祭祀で
はない。長州の下級藩士は朝鮮系の人々が多く、明治維新を起した連中が長州藩だったため、長州に
あった招魂場を東京に持ってきたものが東京招魂社で、これが靖國神社だ。だから神道(かんながら
のみち)ではないので、当然のこととして神社庁には所属していない。故にこそ「国家神道」な訳で
長州閥の宗教といえる。厳密にいうなら朝鮮教だわさ。

   長崎招魂社の由来
   当社は大正13年6月 当時の在郷軍人会長崎分会足立銀次郎氏の提案により 同分会が
   長崎地区の耕地整理事業を行って得た利益金をもって当初日清日露両戦役の戦没者11柱
   を御祭神として長崎神社境内の第2鳥居前左側に建立されたものである 降って昭和45
   年春 参拝者の便宜をはかるため 長崎神社本殿東側の現在地に遷宮するの議が有志の間
   におこり これに賛同された旧長崎町28町会長及び氏子会 長友会 郷友会 遺族会の
   旧長崎地区が発起人となって遷宮 奉賛会を結成して同工事に着手し同年秋竣工するとと
   もに10月15日の当社例大祭において急長崎地区内の支那事変及び大東亜戦争の戦没者
   742柱を祀り 次いで昭和45年10月15日にさらに28柱を合祀し あわせて78
   1柱の英霊を御祭神とされたのである。
   当社例大祭の10月15日には毎年遺族参列のもとに 長崎招魂社護持会によって祭儀が
   厳修され今日に至っている
   昭和48年10月15日
 


■八幡神社

 長崎1丁目25番9号にある小社。江戸時代からあり、鎌倉の鶴岡八幡宮より分霊した宮だ。八幡
神社・御嶽神社・羽黒神社の三社の社殿落慶記念碑が建つ。
 


■豊島教会

 長崎1丁目28番22号にあるカトリックの伝道所。聖パトリック幼稚園を併設。
 


■踏切事故

 長崎2丁目1番15号サミットストア椎名町店西南先の踏切で起きた事故。平成28年9月4日1
7時半頃、自転車に乗った近所の男性(60歳)が踏切内で転倒、電車が近づいてきたので自転車を
放置したまま線路外に避難したが、走ってきた電車が自転車を跳ね飛ばし、跳ね飛ばした自転車が、
避難していた男性を直撃、男性の胸を強か打った。男性は病院に運ばれたが死亡した。1時間前に目
撃した人は男性は酔っぱらっていたという。運のない人間は運がないんだねぇ。


■長崎小学校

 長崎2丁目6番3号にある区立校。明治18年長崎村1442番地の民家(旧三橋小学校)を仮校
舎に、「長崎村立長崎小学校」として開校。同19年小学校令により「東京府北豊島郡長崎尋常小学
校」と改称し、同20年長崎村字西向2889番地に新校舎落成して移転。同35年高等科を併置し
「東京府北豊島郡長崎尋常高等小学校」と改称。

 校歌「武蔵野の原」 作詞作曲・不詳
  1.武蔵野の原 広ごりて
    果て無き窮み天地に
    亘る月日も影並ぶ
    恵みは深し我がうから
  2.桜咲きそう春の野辺
    紅葉葉
(もみじば)萌ゆる秋の空
    愛しき里の学び舎に
    いざや励まん諸共に


 同3年長崎第二尋常小学校を分校。同4年長崎第三尋常小学校を分校。同7年北豊島郡の東京市編
入により「東京府東京市長崎尋常高等小学校」と改称。同8年長崎第四尋常小学校を分校。同10年
創立50周年。同12年長崎第五尋常小学校を分校。同16年勅令148号国民学校令により「東京
府東京市長崎国民学校」と改称。12月日本海軍の真珠湾攻撃により日米開戦。同18年都制施行に
より「東京都長崎国民学校」と改称。同20年4月愚かなアメリカ軍の非人道的無差別の東京西部大
空爆により校舎半焼。8月日本はポツダム宣言を受諾、ならず者国家アメリカの軍門に降り敗戦。以
後その属国となり、唯々諾々として言い成りになる保守傀儡政権を保持せざるを得ない今日的不幸を
背負い込む。売れない国債を買わされるやら、思いやり予算やらでもう200兆円以上がとこ持って
行かれたよ。日本の娘がレイプされても地位協定で国は見て見ぬ振りを決め込んで泣き寝入り、これ
からの若い者は、保守傀儡政権の謳う「国際協力(昔は八紘一宇といった)」の名目の下、アメリカ
軍の尖兵として、最前線の激戦地に送り込まれることになるぜ。ったく酷えもんだよ。何時ま
でアメリカの子分でいるんだい? アメリカ軍は何時んなったら日本から出て行くんだい? 
 同22年戦勝国アメリカの強制による学制改革(学校教育法施行)により「東京都豊島区立長崎小
学校」と改称。同25年富士見台小学校を分校。同33年校歌制定。

 校歌「春の陽の」 作詞・設楽文平  作曲・服部良一
  1.春の陽の緑映して
    武蔵野の風薫る
    学舎長崎 希望は高し
    弛みなく真の道を
    心協せて勤しまん
  2.秋空に聳ゆる富士を
    望み見て気も冴ゆる
    学舎長崎 姿気高し
    緩みなく強き身体を
    心結びて鍛えなむ

 同35年創立75周年。同60年創立100年記念式典。平成12年創立115周年記念式典。同
17年創立120周年記念式典。
 


■長崎二丁目第二児童遊園
 長崎2丁目8番1号にある区立公園。


■長崎二丁目中央児童遊園

 長崎2丁目25番11号にある区立公園。

 
長崎アトリエ村(説明板)
 児童遊園の北側の通りに面して説明板が建ててある。長崎アトリエ村は、すずめが丘・さくらが丘
・つつじが丘・光が丘・緑が丘などという名前がついているが、すずめが丘を除き、すべて谷端川(や
ばたがわ)沿いにあった。また光が丘・緑が丘は板橋区南町にある。アトリエ村のうち池袋に近いも
のの殆どは、戦争で焼けてしまった。千早2丁目23・24番、3丁目1番にあったものは戦後の建
築だ。


   長崎アトリエ村
   第一次世界大戦後の大正年間(1912~25)都市部を中心に自由主義の風潮が広がり
   また洋風文化が浸透していった。それを背景として、昭和初年には池袋にほど近い豊島区
   の長崎地区にアトリエ村借家群である長崎アトリエ村が形成された。長崎アトリエ村は、
   長崎2丁目25、26、30番にかけての「さくらが丘パルテノン」、要町1丁目28、
   32、37番にかけての「すずめか丘アトリエ村」、千早2丁目30番の「つつじが丘ア
   トリエ村」の3箇所が主要なもの、この説明板が立つ場所一帯はさくらが丘パルテノンが
   あった部分に該当する。
   さくらが丘パルテノンは、昭和11年から15年かけて、アメリカ帰りの資産家初見六蔵
   が建てたもので、かつては60軒以上の借家があったという。各家の道路沿いに一本づつ
   桜の木が植えられたため、この名称で親しまれた。
   アトリエ村の借家は、赤いセメント瓦の屋根に板張りの壁の平屋だった。北側が15畳ほ
   どのアトリエで大きな窓や天窓があり、石炭ストーブやシャンデリアも付いていた。一方
   居室部分は3畳か4畳半と続く。その他玄関を兼ねた土間に流しが置かれ、便所がつくだ
   けであった。絵画や彫刻を勉強する学生向けの、モダンではあるが簡素な住宅であったと
   いえる。彼らは集団で住み、制作活動に励み、議論をたたかわせ、ともに遊びもした。こ
   こでの活動を足かがかりにして、のちに多くの芸術家が巣立っていったのである。
   なお豊島区郷土資料館(豊島区西池袋2‐37‐4 国立勤労福祉会館7階)に長崎アト
   リエ村の復元模型が展示されている。
   平成13年3月                      東京都豊島区教育委員会



■さくらが丘パルテノン跡
 長崎2丁目25、26、30番の辺り。長崎アトリエ村のうち最大のもの。昭和11~15年アメ
リカ帰りの資産家初見六蔵により約60軒のアトリエ付住宅が建てられ、道路沿いに桜の木を植えた
のでその名がある。


■長崎二丁目児童遊園
 長崎2丁目27番18号にある区立公園。


■西向不動尊
 長崎2丁目30番9号にある小堂。旧長崎村字西向の人により、大正15年に建てられた。


■小城稲荷神社
 長崎3丁目6番17号に江戸時代からあり、稲荷名はこの付近がかって小城山呼ばれていたことに
よる。もとは個人所有だったが、現在は長崎3・4丁目の奉賛会員によって祀られている。社は奥の
方にあるのだが、細い参道に赤い鳥居が連なっているので直ぐに判る。
 


■長崎三丁目児童遊園
 長崎3丁目24番6号にある区立公園。


■長崎公園
 長崎3丁目25番15号にある区立公園。学習院大学の職員住宅跡地に「原っぱ」をイメージして
作られた。ひょうたん型の築山の隣には雑木林風の空間と水遊びのできる小川があり、芝生の広場や
バラ園も楽しめる。公園の外周りにはレンガの小道があり、ウォーキングを楽しむ人に人気があるら
しい。
 


豊島区銘菓草餅
 長崎3丁目27番13号にある和菓子屋「みゆき」の天下一品。自然の風味を大切に、着色料・添
加物など一切使っていないという草餅だ。
 


■観音堂(豊島寺)
 長崎3丁目28番1号にある墓地。ここは長崎1-9-2の金剛院の旧地で大永二年(1522)
~宝永六年(1709)の間、ここに金剛院があった。火災のため聖誉和尚が長崎1‐9‐3の現在
地に金剛院を移したため、
観音堂は金剛院の境外仏堂となり、豊島寺と呼ばれている。
建物は2階建
ての一般民家だから、表札を見なければ判らない。

 
庚申塔
 墓地の奥にある。向かって右「元禄十五壬午年(1702)」、向かって左「九月十二日 敬白」
中央「奉供養庚申講中二世安楽所」とある。


長崎3丁目の庚申塔
 長崎3丁目29番22号の墓地の角に、寛文二年(1662)と宝永八年(1680)の2基があ
る。墓地の一角に、寛文二年(1662)の舟型庚申塔と延宝八年(1680)の笠付角柱型庚申が
建つ。


■長崎四丁目うめの木児童遊園
 長崎4丁目3番8号にある区立公園。


■小城山観音堂

 長崎4丁目23番6号にある小堂。明和八年(1771)造立の馬頭観音。この付近は昔小城山と
呼ばれていた。元は100m程東の畦道(長崎3‐4‐11)に建ててあった。死んだ馬の供養のた
めに建立されたといわれ、皮膚病治癒の信仰も集めていた。
 ①.舟形光背型 三猿。向かって右「寛文ニ壬寅暦」「嶋田欽」悉地。中央「奉供養庚申待二世」
   「興楽所」、向かって左「■月廿日 一應■処 敬白」
 ②.笠付角柱型 日月 青面金剛像 三猿 二鶏。「奉供養青面金剛二世安楽攸」「寄進」「延宝
   八庚申歳正月廿九日」
 


■20代女性監禁事件
 長崎4丁目24番3号のアパートクレセンテ1階で起きた事件。平成27年6月8日午前8時ごろ
「助けてください!」とキャーキャー叫ぶ女性の声を聞いた人が警察に通報、目白署員が駆けつける
とドアの鍵はかかっており、ベランダに回って中に入ったところ、女性(22歳)が全裸のまま手足
を結束バンド縛られ、クローゼットの手摺にワイヤーで括り付けられていた。
 女性の話によると、部屋の主とは知り合いで、6月1日の夜埼玉県川口市の東川口駅に呼び出され
て車に乗ったところ、2日未明に両手足を粘着テープで拘束されたうえ布袋のようなものを被せられ
て連れてこられたという。
 警察は部屋の住人を追跡していたところ、午後になって目白駅前交番に、住人だと名乗る男が出頭
して来た。男は渡辺淳一(43歳)といい監禁を認めているという。


■魔女の指
 長崎4丁目30番2号にある洋菓子屋「パティスリーオディール」の銘菓。シロップで煮たオレン
ジの皮とチョコのバランスが絶妙だよ。
 


■長崎四丁目児童遊園
 長崎4丁目44番3号にある区立公園。


■東長崎駅
 長崎5丁目1番にある西武新宿線の停車場。大正4年4月15日武蔵野鉄道(西武鉄道池袋線の前
身)池袋~飯能間開業時に出来た。ホームは地上島式2面4線構造。ホームと改札階を結ぶエレベー
ターは設置済。改札口は1ヶ所のみで、橋上駅舎内にある。出口は南口と北口の2ヶ所で、どちらの
出口にもエレベーターが設置されている。
 平成19年3月16日に新駅舎の供用が開始され、出口~改札階、改札階~ホームの間にエレベー
ター・エスカレーターも設置され、念願のバリアフリー化が達成されたよ。

 
マンガの聖地としま「レオ&ライヤ」
 平成28年4月16日駅改札前に『ジャングル大帝』のレオとライヤのプラスティック製の像を設
置。「東長崎駅にジャングル大帝レオ現る!」「マンガカルチャーのすべてが池袋で楽しめる」と、
池袋周辺がどんどんマンガ・アニメの聖地になっていくことに喜びの声が上っている。

 
 


■長崎五丁目児童遊園 → 長五さくら公園
 長崎5丁目28番5号にある区立公園。


■千早中学校 
廃校

 長崎5丁目31番29号にあった区立校。昭和30年千早町3丁目38番地に第十中学校の分教場
開設。同32年独立して「東京都豊島区立千早中学校」として開校。同34年校歌制定。

 校歌「
朝空に」 作詞・鈴木政輝  作曲・横田昌久
  1.朝空に富士を望みて
    湧きあがる若き生命
    この希望 ああ
    向学の意気も朗らに
    眉上げて共に励まん
    千早 千早 我等が千早中学校
  2.桜花 映ゆる学び舎
    夢翔ける若き翼
    この歓喜 ああ
    友愛の歌も楽しく
    身と心 磨き鍛えん
    千早 千早 我等が千早中学校
  3.明日を呼ぶ虹の彼方に
    炬と翳す若き理想
    この前途 ああ
    世に尽くす誓い一筋
    栄光の校旗
(はた)を進めん
    千早 千早 我等が千早中学校


 平成16年商業地化による生徒減少のため、第十中学校と統合して「明豊中学校」と
なり廃校。     


■明豊中学校 統合新設

 長崎5丁目31番29号にある区立校。同16年千早中学校と母校第十中学校が統合し、第十中学
校の校舎を仮校舎に「豊島区立明豊中学校」として開校。同18年千早中学校跡地に建てられた新校
舎に移転。
同時に長崎中学校を吸収、3校統合校となる。
 


■長崎六丁目さつき児童遊園
 長6丁目4番8号にある区立公園。


■庚申塔

 長崎6丁目9番15号の角地に1基建っている。長崎村講中16人によって安永三年(1774)
造立され、板橋道と中野道の道標を兼ねていた。もと千川上水(千川通り)沿いにあった。
 駒型 日月 青面金剛像 邪鬼 三猿 二鶏。「甲 安永三年午十二月五日」「右 いたはし道」
「武刕豊嶋郡長崎村」「左 なかの道」「願主 高木作右衛門 講中十六人」


■大成小学校 
廃校
 長崎6丁目16番にあった区立校。昭和27年長崎6丁目42番地に椎名町・千早両小学校から分
校して「東京都豊島区立大成小学校」として開校。同34年校歌制定。

 校歌「桜並木に」 作詞・校歌選定委員会  作曲・中田喜直
  1.桜並木に富士映えて
    気高い姿 明るい心
    目指す僕たちの学校大成
    目指す僕たちの学校大成
  2.手に手を取って輪になって
    豊島の栄え 都の文化
    担う私たちの学校大成
    担う私たちの学校大成


 平成14年児童激減により千川小学校と統合して「さくら小学校」となり廃校した。
 


■さくら小学校 統合新設

 長崎6丁目16番1号にある区立校。平成14年4月千川小学校と大成小学校が統合して出来た新
設校。


長崎6丁目庚申塔

 長崎6丁目9番15号の角地にある。安永三年(1774)の建立で、邪気を踏みつけた青面金剛
像、下部に3猿付き。古い写真では小さな覆屋の中にあるが、新しい写真では、後ろの住宅が建て替
えられた際に整備されたものか、覆屋は取り払われ、向きも三叉路の中心に、つまり南向きに変えら
れて、地面はコンクリートで固められてすっきりした。然し何だか風情は無くなったなぁ。
 


■長六丁目児童遊園
 長崎6丁目39番1号にある区立公園。
 


【西池袋】(にしいけぶくろ)1~5丁目              昭和41年1月1日
 池袋村・雑司ヶ谷村。明治11年「郡区町村編制法」により北豊島郡所属。同22年「市制町村
制」により巣鴨村大字池袋。大正7町制に移行して巣鴨町大字池袋。昭和7年東京市に併合されて
豊島区池袋1~3丁目・雑司ヶ谷6~7丁目。同41年新住居表示により池袋3丁目・雑司ヶ谷6
~7丁目の全部に、池袋1~2丁目・目白3~4丁目の各一部・長崎1丁目・千早町1丁目の山手
通り以東・要町1丁目のごく一部をあわせた町域を現行の「西池袋」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『豊島区史』『豊島の歴史』など。

 西池袋の由来
 町名は池袋駅の西側に位置することによる。池袋村全体では南端に当たる。
 


 
■ふくろ祭り
 昭和43年から続く池袋西口地域のお祭。御嶽神社例大祭と同時並行して行われ、「東京よさこい」
「宵御輿(勇壮な神輿パレード)」や、「やっさ踊り」が見どころとなっている。その他「梅后流江
戸芸かっぽれ」「沖縄エイサー」「佐渡おけさ」「太鼓ショー」「獅子舞」「お囃子」「歌謡ショー」
「フォトコンテスト」など盛り沢山。約20万人もの観客が集い、地域を越えた、豊島区を代表する
お祭としてすっかり定着している。毎年9月末~。
 


東武東上線池袋駅
 西池袋1丁目1番にある東武東上線の停車場。大正3年5月1日東武東上線の前身の東上鉄道が池
袋~六軒町(現・川越市)間を開業させた時に開業。ホームは地上頭端式3面3線構造。1番線を除
いて線路の両側にホームがある。地下改札階とホームを結ぶエレベーターはないが、頭端式ホームの
ため各ホーム間の移動は平面のみで行える。改札は北・中央1・中央2・南の4ヶ所。出入口は各社
共通で56ヶ所もある。
 


■メトロポリタン・ホテル

 西池袋1丁目6番1号にある。

 
オブジェ
 ホテル前にある巨大な作品。通路の屋根の役割もあるのかも。斜向かいのメトロポリタンプラザビ
ルにも似たようなオブジェがある。作者不明。

 
壁画
 1階にある悪戯描きのような作品。


■東京都豊島合同庁舎

 西池袋1丁目7番1号にある。

 
「椅子の振舞
 南面1階外にあるオブジェ。金子健一の作品。金属製の三様の椅子が展示してある。


■池袋警察署

 西池袋1丁目7番5号にある。大正15年4月1日北豊島郡西巣鴨町大字池袋498番地(池袋本
町1丁目16番1号)に巣鴨警察署池袋分署として発足。7月1日巣鴨警察署から独立し、警視庁7
7番目の警察署として設立。昭和5年北豊島郡西巣鴨町大字池袋510番地(池袋1丁目13番22
号)に庁舎を竣工。昭和20年4月13日愚かなアメリカ軍の非人道的無差別空爆により庁舎焼失。
池袋本町2丁目の重林寺を仮庁舎とする。11月庁舎改修完了し移転。昭和42年3月20日現在地
に庁舎竣工。平成4年庁舎を建替え現在に至る。
 池袋副都心一帯及び周辺の住宅街、商業街、ビジネス街を主要管轄地としている。都内でも有数の
繁華街も管轄することから警備面では非常に強化されており、路上検問・職務質問なども盛ん。建物
は警視庁池袋通告センターも兼ねており新しい。基本的に副都心を管轄しているので署の格付けでは
警視庁「大規模警察署」の分類に入る。このため警察署長には警視ではなく警視正が就く。署員数は
1000名以上おり組織としても大規模分類に入る。

 交番・KOBAN
 池袋駅西口交番・池袋二又交番・平和通交番・川越通交番・池袋本町交番・上池袋交番・
 東池袋交番・六つ又交番・池袋駅東口交番

 ●ドジお巡りの巻
 東口パルコ横の池袋駅東口交番(フクロウ交番)は、かつて管轄内で、日中の書店で現金その他の
置き引きの被害にあった男性が、その被害を同交番駐在警察官に必死に訴えたにもかかわらず、警官
が面倒臭さがって笑いながら全く取り合わず、犯罪を放置したことがあったことで地元ではかなり問
題視された。警察官全員が善人で職務に忠実な訳はない。悪党もいれば、ドジなのもいるさ。神様み
たいなのばっかしじゃあ息苦しいよ。
 


■東京芸術劇場 
リニューアルオープン

 西池袋1丁目8番1号にある。都が都民のための音楽・演劇・歌劇・舞踊等の芸術文化の振興とそ
の国際交流を図るため、昭和36年開館の東京文化会館に続く芸術文化の施設として、同44年に取
得していた学芸大学付属豊島小学校跡地に、平成2年10月に開館した。
 大ホールにはパイプオルガンが備え付けられ、毎月第3木曜日(月によっては変更あり)は、「ラ
ンチタイムパイプオルガンコンサート」(12時15分から30分程)も行われている。こちらは入
場無料。お昼休みに、厳かな演奏を聴いてリラックスしてはいかがかなとのこと。
 詳細は(03)5391-2111まで。

 平成23年春ら閉館し、松田平田設計や永田音響設計他による改修工事を行い、同24年9月リニュ
ーアルオープン。

 
大ホール
 オーケストラの演奏を中心にしたコンサート専用のホール。ステージは、120人編成のオーケス
トラと200人編成の合唱団が同時に演奏できる広さがある。またステージ中央の上部には世界最大
級のフランス/マルク・ガルニエ社製作のパイプオルガンが設置されている。180度回転式のこの
オルガンは、126のストップによって制御される約9000本のパイプからなり、ルネッサンス、
バロック、モダンの各時代の音楽をその時代の調律法で演奏できる特色がある。

 
中ホール
 約60人規模のオーケストラ・ピットが設けてあるほか、主舞台は28分割された迫りをもち、主
舞台の左右には側舞台があり、廻り舞台が組み込まれた上手の側舞台は、中央に向かってスライドす
る。さらに、この側舞台は、日本初の試みとして、客席に向かってスライドする仕組みとなっており、
様々な芸術表現が可能だ。

 
小ホール
 あらかじめ固定されたステージはなく、床に組み込まれた上下可動式の床パネルを組み合わせるこ
とで、ステージの大きさ、高さ、形が自在にできる。伝統的な舞台様式にとらわれない演劇、パフォ
ーマンス・ミニコンサートなどに適する。

 
「マーメイド」
 2階にある普通の裸婦像。佐藤忠良、平成2年の作品。

 
天井画3点
 5階コンサートホール入口フロアの天井にある絹谷幸二の作品。

 
「海の幸」
 5階にある大久保婦久子の壁画。。

 
「リトル・プリンセス」
 5階にあるマルトン・マースローの少女像。


 
「シャツ・ブラウス」
 5階にある笹戸千津子の作品。ブラウスを羽織った裸婦像。笹戸は、佐藤忠良のモデルとして30
年ほど仕えた後、弟子になった。

 
「犬も歩けば足の上」
 5階にある平成2年掛井五郎の作品。

 
「マリとシェリー」
 劇場の西北角オープンスペースにある朝倉響子の女性像2体。この作家は似たような細身の外国人
女性像を作るのが好きなようだ。劣等感があるのかな。あっちこっちで見かける。朝倉文夫の娘。
 


■豊島師範学校跡
廃校

 西池袋1丁目8番の池袋西口公園のところにあった。明治42年の創立で、昭和17年東京第二師
範学校と改称。戦後の大学統合により青山師範(東京第一師範)・大泉師範(東京第三師範)・青年
師範と一緒になり「東京学芸大学」になった。戦後この地はヤミ市となって暗い空気の一画になって
いたが, これを整備して昭和45年に池袋西口公園となった。その後池袋駅西口一帯の再開発に伴い
公園も再整備され、平成2年には附属豊島小学校跡地に 東京芸術劇場もオープン。 これに合わせて
公園も劇場の前庭公園として再々整備された。
 公園の中央付近の竹垣に囲まれた一画に、「東京府豊島師範学校 同附属小学校 発祥之地」の 文
字と 両校の校章が刻まれた、白と黒の石材を組みあわせた石碑が建つ。碑の裏面には 両校の沿革概
要が刻まれているが碑に近付けないので読み取れない。それを補うためか、石碑の背後に説明板が建
てられ、石碑裏面の碑文と同じものが書かれている。

   東京府豊島師範学校 同附属小学校発祥之地
    沿革の概要
   一. 明治四十一年十一月 東京府豊島師範学校
               設置告示
   一.明治四十二年四月  此の地に校舎新築・開校
   一.明治四十四年四月  附属小学校開設
   一.昭和十八年四月   東京第二師範学校と改称
   一.昭和二十年四月   空襲により附属校舎を残
               して全焼
   一.昭和二十二年一月  本校小金井の地に移転
   一.昭和二十四年五月  東京学芸大学に発展し
               附属小学校は附属豊島
               小学校と改称
   一.昭和三十九年三月  豊島小学校小金井に移転
   昭和四十八年三月建之  豊島師範学校同窓会 撫子会
               同附属豊島小学校 同窓会
   


■池袋西口公園

 西池袋1丁目8番26号の豊島師範学校跡地にできた区立公園。平成2年に隣接する芸術劇場と一
体的に再整備され、かつてのイメージを一掃し、駅前らしい明るさと高級感を備えた公園として生ま
れ変わった。公園は開放的で広々としたもの。園内の平和の像に代表される作品が芸術劇場との一体
的な雰囲気をかもし出し、芸術の香りを漂わせている。
 駅からの入り口付近には美しい噴水があり、清涼感を演出している。公園の周囲に巡らされた背の
高いオブジェは、品のいいアートを感じさせ、訪れる人々の目を楽しませる。夜にはいずれもライト
アップされ、特に噴水はゴールドの光に彩られ、何とも神秘的な表情をみせている。この公園は景観
的な美しさのため、ドラマやCMロケのメッカとなっている。
 偶々通ったら古本市をやってた。神田かと思ったら、東武東上線や西武池袋線の沿線の古書店の催
物だとか。そうこうしていると小母ちゃんに「立教大学は何処か?」と尋ねられた。西口一帯はすっ
かり様変わりして立教の森が見えない。少々狼狽したが、住宅地図を持っていたので正確に教えるこ
とができた。池袋にこんなにビルはなかったよ。

 
平和の像
 竹内不忘の作品。平成2年設置。台座2m、像も2mの左手に鳩を持って立つ女性裸像。隣に碑が
ある。

   非核都市宣言
   世界の恒久平和は 人類共通の願いである しかし核軍拡競争は激化の一途をたどってい
   る。われわれは人類唯一の被爆国民として 平和憲法の精神に沿って核兵器の全面禁止と
   軍縮の推進について積極的な役割を果すべきである
   よって豊島区及び豊島区民は わが日本の国是である「非核三原則(造らず 持たず 持
   ちこませず)」が無視され われわれの海や大地に核兵器が持ちこまれることを懸念し 
   わが豊島区の区域内にいかなる国の いかなる核兵器も配備貯蔵はもとより 飛来通過す
   ることをも拒否する
   豊島区及び豊島区民は さらに他の自治体とも協力し 核兵器完全禁止 軍縮 全世界の
   非核武装にむけて努力する右 宣言する
   昭和57年7月2日                         東京都豊島区