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 東京の地名の由来
 東京知ったかぶり!
 平成17年2月11日発信  リンクフリー
 地名の由来東京23区辞典
 引用自由
台東区の地名の由来 
現在進行形の調査であれば、逐次、誤謬訂正・新規追加あり。御用心御用心

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 洗足池
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 香取神社 東京拘置所 柴又女子大生殺人放火事件 
 男はつらいよ 柴又帝釈天 郷土と天文博物館 立石祠
 かつしかシンフォニーヒルズ 新宿の問屋場跡 葛西神社
 葛西囃子 美弥子ちゃん誘拐殺人事件 半田稲荷
 水元公園 しばられ地蔵 木下川薬師 堀切菖蒲園
 北  区  静勝寺 小山酒造 新河岸川 飛鳥山公園 金剛寺
 装束稲荷 王子神社 王子稲荷 名主の滝 近藤勇墓
 医心方 亀の子束子 旧古河庭園 田端文士芸術村
 【巻末特集】
 隅田川 (渡しと橋)
 江 東 区  外郎売  永代橋落橋事件 亀戸天神 カトレア
 ヒストリーガレージ キッザニア 戦災資料センター
 深川江戸資料館 富岡八幡 元八幡 砂町商店街
 東京海洋大学 東西線転倒事故 有明コロシアム 萩寺
 品 川 区  品川トランク詰め殺人事件 星薬科 船の科学館
 鈴ヶ森 立正大学 香蘭女子 杉野ドレメ 品川神社
 荏原神社 光福寺 大崎新都心 清泉女子大 品川寺
 品川宿 昭和大学 戸越銀座 第一京浜 ところてん
 渋 谷 区  明治神宮 慶応幼稚舎 尾崎豊の碑  忠犬ハチ公
 ライフル乱射事件 渋谷川  夫バラバラ殺人事件
 妹バラバラ殺人事件 モリブデン 文化女子大 NHK
 広尾病院事件 文化村 尾崎豊の碑 ワシントンハイツ
 聖心女子大 東京女学館 日本共産党 女子大生誘拐
 アメリカ橋 安藤組 国学院 金王神社 青山学院 
 新 宿 区  浄瑠璃坂の仇討 新宿胴体遺棄事件 新宿騒乱事件
 八幡様  陸軍士官学校 赤線地帯 防衛省・市谷駐屯地
 岡田有希子飛び降り自殺 オリンピック東京大会
 東海道四谷怪談 追分交番爆破事件 鉄腕アトム
 731部隊 学習院女子 早稲田大学 抜弁天 歌舞伎町
 歌声喫茶 名曲喫茶 どん底 新宿高野 中村屋 闇市
 杉 並 区  青梅・甲州・五日市街道 観泉寺 永福寺 高円寺
 不美人=ブスとは?  大宮八幡 ガンダム 妙法寺
 立教女学院 スチュワーデス殺人事件 東京女子大
 一家皆殺し放火 「疑惑の銃弾」 三浦和義 
 天保新水堀用水
 
 墨 田 区  東京スカイツリー 相撲は国技ではない 大相撲事件 
 隅田川七福神 妊婦たらい回し死亡事件 回向院
 握りずし発祥 震災慰霊堂 鬼平・遠山の金さん
 王貞治生誕地 玉の井バラバラ事件 江戸東京博物館
 吾嬬神社 本所七不思議 もゝんじや 法恩寺 蓮華寺 
 世田谷区  バンク・約束手形  花形敬  ウルトラマン 民家園
 静嘉堂文庫 ボロ市 鷺草 西福寺 軍都池尻 東名
 羽根木公園 砧公園 駒沢公園 祖師谷一家殺人事件
 九品仏 多摩美 国学院 東農大 NHK技研 豪徳寺
 世田谷美術館 馬事公苑 烏山寺町 次大夫堀 仙川
 台 東 区  浅草寺 仲見世 浅草神社 三社祭 花やしき 上野公園
 鬼灯市 酉の市 待乳山聖天 佃煮元祖 旧岩崎邸
 八百善 今戸神社 アメ横 寛永寺 不忍池 花の吉原
 上野動物園 東京国立博物館 駒形どぜう 鬼子母神
 東京本願寺 東京芸大 谷中墓地 笹の雪 吉展ちゃん
 中 央 区  「銀ブラ」って、ブラブラ歩くことじゃないよ。 パウリスタ
 東京大空襲 アメリカの占領 蘭学事始 ティファニー 
 エルメス シャネル コーチ パリー セリーヌ プラダ
 カルティエ ディオール ルイ・ヴィトン 不二家不祥事
 三越・松屋・松坂屋・大丸・高島屋 築地本願寺 日本橋
 H&M 歌舞伎座 白木屋火事 日本銀行 金春芸者
 日本海軍発祥地 新橋演舞場 明治座 ハヤシライス

 千代田区  靖国問題・A級戦犯 女子学院 暁星 将門塚 消防庁
 警視庁 ていぱーく 桜田門外の変 ニコライ堂 武道館
 九段会館 楠公像 ホテルニュージャパン火災 近衛師団
 秋葉原無差別殺傷事件 神田明神 FM東京 丸ビル
 新丸ビル 丸の内物語 三菱重工ビル爆破事件 国会
 雙葉 専修大 日大 法大 明大、電機大 大妻 番町小
 東郷平八郎 日比谷公園 国際フォーラム 北辰一刀流
 豊 島 区  池袋の女 染井吉野 女子栄養学園 染井霊園 中山道
 おばあちゃんの原宿 とげぬき地蔵 庚申塚 本妙寺
 雑司が谷墓地 鬼子母神 土田邸爆破事件 山吹伝説
 目白不動 帝銀事件 立教 学習院 豊島岡女子学園
  【巻末特集】東京の暴力団
 中 野 区  新井薬師 上高田寺町 童謡「たき火」 中野サンプラザ
 近隣騒音殺人事件 福蔵院 八幡神社(鷺ノ宮) 成願寺
 宝仙院 堀越学園 桃園川 丸井本店 中野ブロードウェイ
 東中野電車追突事故 光倶楽部事件 哲学堂公園 桃園
 【巻末特集】江戸城 城門と橋 
 練 馬 区  いろはかるた 練馬バラバラ殺人事件 としまえん 
 ちひろ美術館 三宝寺 石神井公園 長命寺 清戸道
 良弁塚 武蔵大学 金乗院 練馬寺町 武蔵音大 
 グランドハイツ 練馬少年鑑別所 首継ぎ地蔵 円明院
 妙福寺 春日神社 増島家薬医門 練馬大根 愛染院 
 文 京 区  狛江 振袖火事 東京大学 拓殖大学 御茶ノ水女子大
 東京高等師範 教育大学 護国寺 弥生式土器 伝通院
 聖マリア大聖堂 高津教授殺人事件 東京ドーム 六義園
 小石川植物園 元町公園 桜蔭学園 順天堂大 かねやす
 日本女子大 湯島聖堂 湯島天神 東洋大 共同印刷争議
 港  区  増上寺 フリーメイスン 永坂更科 麻布学園 氷川神社
 乃木大将 ミッドタウン 六本木ヒルズ 善福寺 霊南坂
 東洋英和 ケネディ暗殺宇宙中継 愛宕山 小便小僧
 レインボウブリッジ 東京タワー 慶応義塾 自然教育園
 明治学院 虎ノ門事件 東宮御所 日本経緯度原点
 9・11(アメリカ同時多発テロ) 首謀者はチェイニー
 目 黒 区  滝坂道 目黒不動 法華騒動 円融寺 五百羅漢 東工大
 目黒ショック 日比谷線脱線事故 駒場野一揆 旧制一高
 駒場東大 駒場学園 滝坂道 行人坂大火 雅叙園 騎兵
 目切坂 権之助坂 太鼓橋 茶屋坂 槍ヶ崎事件 祐天寺
 酸素魚雷 音羽ゆりかご会 八雲学園 目黒のさんま
   


台東区の地形
 台東区は武蔵野台地の東端に位置しており、京浜東北線を境界として西側に台地が広がっている。
区の西側境界部分は、東京メトロ千代田線(千駄木・根津・湯島)に沿って比較的大きな谷地(根津
渓谷・愛染川)となっている。また、京浜東北線の東側には荒川や隅田川などの氾濫と蛇行によって
生じた広大な氾濫低地(浅草平野)が分布しており、砂堆(自然堤防)と呼ばれる微高地が部分的に
形成されている。
 

地形・地質と住宅地盤
 

 
台地面
 比較的海抜高度が高く起伏の少ない平坦面で、関東ローム層と呼ばれる火山灰土で覆われているよ。
関東ローム層は、上部のローム土(赤土)と下部の凝灰質粘土に大別されるが、自然堆積したローム
土は、安定しており比較的大きな強度が期待できるため、表土部分に注意すれば住宅地盤として良好
な場合が多いってこった。上野公園から谷中墓地の一帯でい。
 

 
台地と低地の境
 もともとは台地の側面が低地側へ下っている斜面で、人為的に平坦面にしていることから、場所に
よって盛土の厚さが異なっていたり、切土ともり盛土が混在しているため、地盤のバランスが悪い。
また盛土の下には、台地側から運ばれて再堆積した軟弱土が分布していることがある。だから、不同
沈下を防止するような基礎補強策が必要となることが多いわいな。根岸一帯だよ。
 

 
谷底低地

 台地部が小さい河川などによって削られて形成された低地で、台地部の間に樹枝状に分布している。
台地を形成していた土砂が再堆積した土や有機質土(腐植土)などが分布しており、非常に軟弱な地
盤となってんのよ。でさ、長期的な沈下(圧密沈下)を防止するような基礎補強策が必要となること
が多いわな。谷中・根津・下谷・御徒町。
 

 
氾濫低地
 荒川や隅田川流域に広く分布する標高の低い平坦面である。地下水位が高く、軟弱な粘土やシルト
が厚く分布しているため、長期的な沈下(圧密沈下)が問題になっている場所が多く、適切な基礎補
強策が必要となる。台東区東半の大部分(浅草平野)。
 

 
砂堆
 周囲の低地と比べ海抜高度が僅かに高い海生(以前は東京湾がかなり内陸に位置していたことに由
来)の微高地で、本来は海岸線に平行に分布している。浅い深度から砂が堆積し、深度を増す毎に締っ
ていく傾向にあり、住宅地盤としては比較的良好と考えられる。しかし砂堆の上に新たな軟弱土が堆
積している場合も多く基礎補強対策が必要となることがある。橋場・山谷・駒形。
 

台東区の変遷

 
現在の台東区の区域に入る江戸時代の町村は、明治維新により慶応四年(1868)5月12日江
戸府。同15日上野戦争。同19日鎮台府市政裁判所(町奉行所を改称)に所属。7月17日江戸が
東京に改められ、市政裁判所が東京府となる。同4年4月4日戸籍法を公布して大区小区制(国民掌
握)開始。同6年地租改正公布により地籍調査開始。同7年「大区小区制」強化により第4大区・第
五大区・第九大区に編入され自治権喪失。一連の大久保利通の専制強圧政治に国民が猛反発、全国に
不平武士の義挙・自由民権運動が起こる。これに大久保は弾圧と暗殺で応じ、その最たるものが西南
戦争で盟友西郷隆盛までも屠り権力にしがみつく姿勢を示したため国民の怒りは頂点に達し、同11
年5月14日大久保が天誅から逃げるために仮皇居に向かう紀伊国坂の順路を変えた麹町は清水谷の
沢道で正義の刃の下に絶命した。俄かに親玉を失った内務官僚は驚天動地、右往左往して2ヶ月後の
7月22日大慌てに大区小区制を撤回し「郡区町村編制法」を施行して旧に復し、これにより当区で
は下谷区・浅草区が成立し旧江戸府内は15区となる。同22年5月1日明治政府として初めて地方
自治を認めた「市制町村制」により北豊島郡下の谷中・金杉・坂本・三ノ輪・竜泉寺・下谷竜泉寺を
下谷区へ、千束・今戸町地方・山谷町地方・橋場地方を浅草区へ編入、東京市が誕生した。同31年
東京市が東京府から独立し、自治権が拡大した。昭和7年東京市は周辺5郡を併合20区を増設して
35区制。同18年東京市の強大化を危惧した内務官僚は、戦争中のどさくさに紛れて府県制を改正、
新たに「都制」を定め東京府と東京市を廃して東京都を発足させ直轄管理を目論んだ。しかし対米戦
に挑んだ軍部が米軍に叩きのめされると、日本はアメリカの植民地・属国とされ未来永劫の米軍駐箚
を許すこととなった。同21年9月27日民主化を標榜するアメリカは「都制・府県制・市制・町村
制」を改正し地方自治体首長の任命制を公選制に改めた。これに驚いたのが国民を完全掌握して専制
復活を睨んでいた内務官僚で公選制撤回をGHQに愁訴嘆願した。しかし情けないことにアメリカ人
に人倫の道を説かれ、独裁と私利私欲の非を悟らされ、漸くにして人の非を知ると感謝し涙ながらに
引き下がった。都心区は米軍の空爆で焼野が原となり人口は激減、1区を維持できない状況だったの
で、都は区域整理委員会を立ち上げて35区の整理統合を図った。同22年3月15日その答申によ
り22区とすることになり、下谷区(71町)と浅草区(110町)が統合し台東区が成立した。

 平成24年現在の町数は34。区役所は上野駅の東側の東上野にある。新住居表示は昭和42年に
完了。

 姉妹・友好都市
   マンリー(オーストラリア)、ウィーン第1区(イレネシュタット区)、グラズサックセ
   (デンマーク)、墨田区・古川市・諏訪市・栃木県藤原町・福島県田島町・福島県会・津
   高田町。

 図書館は7館3室1コーナーで、地域資料は揃っている。
   国立国会図書館国際子ども図書館
   区立中央図書館・浅草橋分室・石浜図書館・根岸図書館東
   浅草なかよし図書館・蔵前オレンジ図書館・すこやか図書室
   谷中コミュニティセンター図書室・いきいきプラザ・はばたき21情報コーナー

 不忍池の「下町資料館」は結構面白い。

 教育施設
 小学校19(私立0)
   上野(清島+下谷+西町)・平成(竹町+二長町)・根岸・東泉・忍岡・谷中・台東育英
   (柳北+育英)金曽木(+台東)・黒門・大正(+坂本)・浅草・蔵前(小島+済美・精
   華)・東浅草(田中+待乳山)・富士・松葉・千束・石浜・田原・金竜
 中学校8(区立7・私立1)
   御徒町台東〔御徒町(黒門+東叡)+台東〕・柏葉(下谷+竜泉)・上野・浅草(蔵前+
   福井)忍岡(+根岸)・桜橋(今戸+竜泉)・駒形
   上野学園
 高校9(国立1・都立5・私立3)
   芸大附属音楽
   蔵前工業・台東商業・岩倉・白鷗・上野
   上野学園・岩倉・日本航空
 大学は東京芸大・上野学園大・同短大。

 この区も観光区だ。しかし隅田川と浅草寺、仲見世と花やしきだけじゃないよ。谷中は寺院群と墓
地、上野公園は、寛永寺・国立博物館・国立科学博物館・東京文化会館・国立西洋博物館・東京都美術
館・上野の森美術館・国際こども図書館・東照宮・恩賜上野動物園・不忍池・大名時計博物館・アメ
横などなど。一度御成りんなってみやしゃんせ。
 


 台東の由来
 東京新聞が募集した区名案には上野・下町・太平・隅田・浅谷などなどあったが、これといったも
のがなく、『康煕字典』にある「台東(たいとう)」という熟語に「日出る処、衆人が集まって栄える
場所」の語義があり、また「台」に〝悦ぶ〟の意があり、上野山つまり下谷区に当て、「東」には〝春〟
の義があって浅草区を指すと解釈。、これを区名に選定した。区名にこれ
ほど理屈を踏まえた名前はない。


 ウミネコ騒動
 平成23年頃から、マンションやビルの屋上にウミネコが住み着き、昼も夜も「ミャーミャー」と
五月蠅く泣き喚き、ポタポタ、ポタポタと糞公害に住民はホトホト困惑していたが、屋上対策など区
が対策をとったためか、平成26年頃から江東区の方に移って行ったようだ。安心はできないが。 


■区歌

 昭和39年10月1日制定  作詞・土岐善麿  作詞・渡辺浦人
   1 鐘は上野か 桜に蓮に
     文化の花も 咲き競う
     大慈大悲の 光を受けて
     月も清かれ 隅田の流れよ
     下谷・浅草 道広々と
     続く町並み 賑やかに
   2 人の行き来も 車の音も
     彼処と廻る 江戸名所
     名残懐かし 偲べば影に
     沿いて立つ市 呼び声高らか
     季節季節の 行事の数も
     尽きぬ命に 若やぎて
   3 ともに明るく 親しみ睦み
     笑顔に励む さわやかさ
     浴衣姿に 寛ぐ時も
     風の木の葉を 寄せ合う夕べも
     隣合わせの 裏表なく
     昔ながらの 心意気
      台東 台東 台東区
      歴史を継ぎて 今ここに
      進む力よ 新しく
 


■区の木 サクラ

 桜。台東区では、昔から上野、谷中、隅田川のサクラが有名だ。

   花の雲 鐘は上野か 浅草か(松尾芭蕉)

 俳人松尾芭蕉は、春の台東区を見事に詠いあげている。特に上野公園には現在、約1200本のサ
クラがあり、シーズンには沢山の花見客で賑わっている。
 サクラの仲間は、バラ科に属する樹木。バラ科には、約100属、3000種の植物があり、全世
界に分布している。分類学的には、バラ科はサクラ亜科、ナシ亜科、バラ亜科、シモツケ亜科の4つ
の亜科に分けられ、日本にはいずれの亜科も分布している。
 日本には、サクラ亜科で主要なグループのサクラ属がある。サクラ属は落葉性で形状は高木、低木
など様だ。特徴としては、葉は互生で、鋸歯があり、托葉がある。また花は両性花で、がく片と花弁
は5枚(5数花)、多数の雄蕊があり、普通、雌蕊は、長い花柱となっている。
 果実は、核果で1個の種子がある。果実が食用とされるウメ、モモ、アンズなどは、桜の仲間で、
200種が主として北半球の温帯に分布している。ウメやモモ、スモモとサクラ属とは、①果実に縦
のくぼみがない、②内果皮に細かい毛がない、③頂芽があることなどで、分類されている。
 一般的に桜と呼ばれているのは、バラ科サクラ属の落葉性の樹木。サクラ属は主に北半球の温帯に
広く分布している。日本のサクラ亜属(ユスラウメなどを含まない)を細分して「群」として分類す
ると、ヤマザクラ群・エドヒガン群・マメザクラ群・チョウジザクラ群・ミヤマザクラ群となる。日
本の山野に咲く主なサクラとしては、ヤマザクラ(山桜)、オオヤマザクラ(大山桜)、カスミザク
ラ(霞桜)、オオシマザクラ(大島桜)、エドヒガンザクラ(江戸彼岸桜)、マメザクラ(豆桜)、
タカネザクラ(高根桜)、ミヤマザクラ(深山桜)、チョウジザクラ(丁子桜)などがある。そして
これらの変種を合わせると、数10種以上が自生し、またこれらの種を基本に育種されている。栽培
品種は600種類以上にもなる。全世界にある花を楽しむサクラの殆どは、日本のものばかり。
 サクラの種は、葉の鋸歯の形や、鋸歯の先端の形、葉柄の毛の有無、蜜腺、鱗片、花序の形、萼片
の鋸歯の有無やその形、樹形、花期、花弁の色、形、枚数などで分類する。


■区の花 アサガオ
 朝顔。
ヒルガオ科・蔓性一年草。アサガオは庶民の花といわれ、江戸の昔から、御徒町、入谷辺で
多く栽培されてきた。育てやすく、学校でも理科用教材としてよく使われる。毎年7月6~8日の3
日間に亘って開かれる入谷鬼子母神の朝顔まつりは、下町の代表的なお祭りの一つとして、多くの人々
に親しまれてい。
 


 台東区の地名の由来を申し述べまっす

【秋葉原】(あきはばら)                      昭和39年10月1日
 江戸時代は旗本士宅。明治元年東京府。同5年松永町に編入。その西側は練塀町として起立。同
11年の「郡区町村編制法」により松永町は神田区、練塀町は下谷区所属となった。昭和18年松
永町の北部を下谷区に編入、練塀町の南部を神田区に編入。同22年台東区所属。同39年新住居
表示により松永町と練塀町をあわせた町域を現行の「秋葉原」とした。命名は「秋葉原の地名を残
して欲しい」との願望による。秋葉原駅からは相当離れており秋葉神社とは無縁の地だ。秋葉神社
は松が谷3丁目に移転して現存する。町域は小さく6番までしかない。4番だけで西半を占めJR
の占有地。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『台東区史』『台東の地名』など。

 秋葉原の由来
 明治2年の大火で佐久間町ほか十町が焼失、その結果秋葉原駅構内に当たるところ12000坪
を火除地として空地にした。何故ここを火除地にしたかというと、佐久間町から出火して江戸の大
火となるケースが多く「悪魔町だ!」と罵られていた。明治4年皇后陛下の思し召しにより、時の
東京府知事大木喬任は「鎮火社」として遠州秋葉神社の分霊である江戸城は紅葉山の火伏せの神を
移したので、神田っ子はてっきり秋葉大権現だと決め込んで、ここを行楽地として遊び、「秋葉神
社の原」乃ち「秋葉の原」「秋葉ヶ原」と呼んで親しんだ。つまり秋葉原は「あきばはら」だった
のだ。それから20年後山手線の開通で秋葉ヶ原に上野駅の貨物駅が設置され、昭和7年総武線を
延長して両国駅と御茶ノ水駅が結ばれた時、乗換駅として普通駅が誕生したのだが、地方出身の鉄
道省の役人はその間の事情を知らないから字面だけで「あきはばら」と訓じて命名した。神田っ子
は猛烈に抗議したが、権力を笠に着て威張り散らす役人は、自己の誤りを認めないばかりか頑とし
て譲らず、「我々が決めたことが正しく地元の都合など考慮しない」と突っぱねたというお粗末。
官僚というのはいつの世も国民のお荷物だ。毛沢東ですら「官僚主義を打破せねばならず、しかし
て官僚主義に徹せねばならぬ矛盾」と悩んで死んだ。
 しかし「あきはばら」は「あきばはら」と改められぬまま、戦後GHQ(占領軍司令部)が、東
京電気大学周辺の神田通りの歩道を占拠するラジオ部品販売の露店を撤去せしめて秋葉原のガード
下に収容した。「秋葉原電気街」の濫觴だ。現在はこの「アキハバラ電気街」の名で通ってしまっ
ている。平成の若者はこの電気街を「アキバ」と略称する。

 ただし秋葉原駅は千代田区花岡町、アキハバラ電気街 は千代田区外神田にある。従って秋葉原
通り魔無差別殺傷事件も外神田で起きたので、そっちに記載してある。また名前の由来となった秋
葉神社は台東区松が谷に移転している。
 



【浅草】(あさくさ)1~7丁目                最終昭和41年10月1日
 鎌倉~戦国期に見える豊島郡の地名。浅草寺を中心とした一円の俗称。

  
冬の色はまだ浅草の末(うら)枯れに秋の露をも残す庭かな(道興准后)

 浅草寺の境内は南谷・東谷・北谷・奥山を含み、明治元年東京府所属。同5年北谷・東谷の町屋
は上地され浅草吾妻町・浅草三社(みやしろ)町、のち浅草寺寺中上地町屋となり、南谷の町屋は寺
地改革により浅草宮戸町と、のち浅草寺寺中借地町屋なった。奥山は大道芸人が集住していたが上
地され、浅草寺・同火除地とともに浅草公園地第1区~6区となった。浅草っ子が〝エンコ生まれ〟
というのはこの「公園」をひっくり返した言葉だ。浅草ロックは、ロックンロールのロックじゃな
くて、映画館街のあったところを浅草公園地「第六区」としたことによる。戦前は東京一の大繁華
街だったんだぞー!
 明治11年「郡区町村編制法」により、ほとんど浅草を冠する浅草地区120町を浅草区とし、
同22年「市制町村制」により北豊島郡下の千束村・今戸地方(ぢかた)・山谷町地方・橋場町地
方を区に編入。同44年「市制町村制改正」により浅草区浅草○○町ではくどいので大部分が浅草
の冠称を外した。昭和22年下谷区と合併して台東区となったとき浅草区の諸町は再び浅草を冠称
した。同40年浅草公園地第1区~6区・浅草北田原町・浅草新畑町・浅草北仲町・浅草雷門2丁
目・浅草馬道1丁目の西半・浅草千束町2丁目の一部をあわせた町域を現行の「浅草1~2丁目」
とし、同41年・千束町3丁目・浅草象潟町・浅草象潟1~3丁目・浅草馬道2~3丁目・浅草聖
天町・浅草聖天横町・浅草猿若町1~3丁目・浅草田町1丁目・浅草地方今戸町の全部に、浅草日
本堤1~2丁目・浅草千束町1・2丁目・浅草隅田公園の各一部をあわせた町域を現行の「浅草3
~7丁目」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『台東区史』『台東の歴史』など。

   浅草を見に浅草川をわたるなり(成美)
   後の月浅草川に残しけり(泥足)
   康成忌むかし浅草紅団(富安風生)
   浅草に生まれて住まず草の市(大場白水郎)
   浅草は地の金泥に夜寒かな(飯田蛇笏)
   浅草に歌舞伎見て来し都鳥(能村登四郎)

 
浅草の由来
 浅草一帯は豊島の由来となる十島(としま)で、太古から水面下にない州(しま)だった。往古荒
川・北・葛飾・足立・江戸川・墨田・江東・千代田・中央・港の各区はそのほとんどが海、利根川
の運ぶ自然堆積で遠浅の州となり、砂州となり、陸地と化していった。その一つが武蔵野台地の外
にできた外島で、そこに人が住み着いて聖域を設けたとしても不思議はない。摂津国豊島郡(てし
まごおり=池田・箕面・豊中市)の豊島連(てしまのむらじ)が移住してきて切り開いたので豊島
と改め、訓(よみ)を「としま」とした。「てしま」でないことは、『風土記残編』にある「砥島」、
『記録御用所』にある「戸島」でも明らかだ。

   行く末は空も一つの武蔵野に草の原より出る月影(古今和歌集)

 当時外島(外島)は武蔵野の身の丈を覆う「深草」に対して、丈の高くない草で蔽われていたの
で「浅草のところ」と呼んだのだろう。しかし今となっては誰も見た者がいないから想像の範疇を
越えない。『江戸往古図説』に、

   武藏野の末にて草おのずから浅々しき故、浅草といいしなるべし

 とある。またアイヌ語だと「アチャ・クサ」に、「向こう岸へ越える」ところの意があり、橋場
・花川戸・今戸は全て渡し場に関係している。ないこともない。
 現在浅草を名乗るのは、浅草のほか東浅草・西浅草・元浅草・浅草橋だが、いずれも昭和39年
の新住居表示でできた行政地名で、元浅草は浅草の発祥とは全く無縁。
 だから浅草は浅草寺だァ!
 


■浅草七福神
 浅草寺
 本堂内に安置される「米櫃大黒」は財宝の神として信仰されている福寿や豊作の
大黒天だ。

 
浅草神社

 三社祭りで有名な神社、社殿は国重要文化財、大魚をもたらす
恵比寿神

 待乳山聖天
 1月7日大根祭りで有名。浅草寺の末寺。勝利から繁栄をもたらす
毘沙門天

 今戸神社
 招き猫由来の神社、今戸焼きの招き猫が売られる。幸福と良き縁結ぶ
福禄寿

 橋場不動尊
 鎌倉時代制作の前立ち不動明王が有名、大きな度量清く正しく
布袋尊

 石浜神社
 聖武天皇創建(724)の古社、鹿を連れ長寿授ける
寿老神

 吉原神社
 江戸時代は大門の前方に有ったが、明治5年今の地に移転、江戸文化忍ぶ地の女神
弁財天

 鷲神社
 毎年11月の酉の市は江戸時代から有名。お知恵を借りて学業成就
寿老人

 矢先神社
 倉稲魂命(うかのみたまのみこと)は弘法大師作と伝わる。福の鶴駿馬とともに
福禄寿


■神谷バー(1階)
 浅草1丁目1番1号にある明治13年開業の日本最初のバー。メニューは一般的で、価格はリーズ
ナブル。万札を握って行けば恥をかくことはない。因みにデンキブランは260円て程度。

 デンキブラン
 ブランデーのカクテル。電気が珍しかった明治の頃、目新しいものというと「電気○○○」などと
呼ばれ、舶来のハイカラ品と人々の関心を集めていた。更にデンキブランは大層強いお酒で、当時は
アルコール45度。それがまた電気とイメージがダブって、この名がぴったりだった。デンキブラン
のブランはカクテルのベースになっているブランデーのブラン。そのほかジン、ワイン、キュラソー
に薬草などがブレンドされていて、しかし乍らその分量は未だもって秘密になっている。温かみのあ
る琥珀色、ほんのりとした甘味が、当時から大変な人気だった。因みに現在のデンキブランはアルコール30度、電氣ブラン〈オールド〉は40度。冥途の土産に一度はお試しあれかし。


 
レストランカミヤ(2階)
 洋食部門。飲み物は神谷バーと同じものが飲める。

 
割烹神谷(3階)
 和食部門。飲み物は神谷バーと同じものが飲める。
 因みに4階は事務所になっている。


■浅草駅
 浅草1丁目1番3号にある東京メトロ(営団地下鉄)銀座線の地下停車場。昭和2年12月30日
東京地下鉄道の浅草駅が「東洋最初の地下鉄」として開業。同6年、近く(花川戸1丁目)に東武鉄
道の淺草雷門駅開業。乗換駅となる。同16年9月1日帝都高速度交通営団(営団地下鉄)に路線譲
渡。同20年10月1日東武鉄道か浅草駅に改称。同35年都営地下鉄1号線浅草駅開業。同53年
都営1号線を浅草線と改称。
 平成9年、「関東の駅百選」
に選定。選定理由は「浅草寺を考慮し、浅草の土地柄に馴染んでいる
仏閣デザインの地下鉄の長老駅」(営団地下鉄)、「昭和6年「浅草雷門駅」として開業、駅の上は
デパート」(東武鉄道)。なお、都営地下鉄は対象外。
 同16
年4月1日、営団地下鉄民営化により、銀座線の駅は東京メトロの駅となる。同18年3月
18日、東武鉄道のダイヤ改正において長らく伊勢崎線の主役として運用していた準急が、東京メト
ロ半蔵門線および東急田園都市線直通の種別に変更され、運行時間も朝夜の時間となり停車駅も改正
前の区間準急の停車駅になったため当駅発着の準急は廃止された。日中の無料列車は新設された区間
快速、区間準急、当駅と北千住間を結ぶ普通列車のみとなった。これまでとは大幅な種別変更や運用
変更のダイヤ改正となり、前述の半蔵門線と田園都市線直通は日中は急行となり改正前の通勤準急と
同じ停車駅となったため、伊勢崎線の主役を直通路線に明け渡すこととなり、この日から当駅は主役の座から降りることとなった。同19
3月18日、東武鉄道・東京メトロ・東京都交通局がICカード「PASMО」の利用が可能となる。
 同29年6月24日ホームドア供用開始。
 駅構造
 二面二線の相対式地下駅。松屋浅草店の目の前の地下、吾妻橋
の近くにある。改札内コンコースと
ホームを連絡するエスカレーターとエレベーターは設置されていないが、松屋・隅田公園方面改札口
とホームを連絡する階段および1・2番線ホームと浅草寺・吾妻橋方面改札口を連絡する階段には車
椅子利用者向けの昇降機が設置されている。また、改札外コンコースと雷門通り寄り出入口の間には
エスカレーターとエレベーターが設置されている。トイレは1番線ホーム上にあり、ユニバーサルデ
ザインとしての多機能トイレも設置されているが、乳幼児・オストメイト対応設備はない。
 同15年に発車標が設置された。それ以前は、改札口の正面に今度の電車がどこのホームから発車
するかを矢印で示す電光表示板が設置されていた。吾妻橋方面の4番出入口には、浅草観音に因んだ
格好の屋根が設置され、通称「赤門」と呼ばれている。また、東武鉄道との連絡通路横には地下商店
街があり、昭和時代の面影を残す店舗が並ぶ。
 駒形橋方面改札口は、平成9年頃にレトロチックな内装にリニューアルされた。自動改札機も投入
口付近がクリーム色に塗装された。同22年1月には、2番線ホーム中央から直接出られる浅草寺・雷門方面改札口が新設された。これにより、浅草寺エリアへ段差なしで行けるようになった。

 
壁画広場
 浅草駅2番線に直結した雷門口改札のすぐ側にある吉田左源二の陶板レリーフ。浅草の活気ある年
中行事が,沢山の人々と共に描かれている。
 左   側:正月(1月)、節分(2月)、雛祭り(3月)
 中央左寄り:羽子板市(12月)、白鷺の舞(11月)、浅草菊花市(10月)
 中央右寄り:例大祭(5月)、七夕祭り(7月)、ほおずき市(7月)
 右   側:隅田川花火大会((7月)、浅草流鏑馬(4月)、金龍の舞(3月)
 吉田左源二はアラビア・イスラム文様などの装飾文様の研究で知られる、東京芸大名誉教授。皇室
御用達の画家として、秋篠宮家御紋、紀子妃殿下御印の図案を手がけた。

   壁画広場
   この陶板レリーフは
   「浅草の祭り」をテーマに
   浅草の伝統・年中行事を群衆の流れで
   表しています。
    原   画  吉田左源二
    企画・制作  帝都高速度交通営団 (財)日本交通文化協会
   浅草おかみさん会  浅草観光連盟  浅草商店連合会
   壱番屋 
茶寮 一松 酒膳 一文 浅草今半 尾張屋
   
ファミリーホテル加茂川 小柳 すし初總本店 大黒家 タケミ
   
うなぎつるや べっこうツルヤ Toy'sテラオ 十和田 花やしき
   
濱清 瓢庵 むぎとろ やま吉 ㈱ティオーシー


■人形焼の「紀文堂総本店」

 浅草1丁目2番2号にある明治25年創業の人形焼屋てんぷらの三定の東隣にある。長い伝統に
育まれた、懐かしい味の人形焼だ。元々人形焼は恵比寿、大黒、福禄寿・・・の七福神を象(かたど)
って焼いたものが最初だ。福を食ったんだねえ。古い暖簾で馴染みの紀文堂は、絶えず原材料を吟味
精選し、独特の製法で調製しておりますとは店の弁。人形焼の他には「餡無しかすてら・うずら」が
ある。 03-3841-4401

 
旧町名由来案内板
 紀文堂前の歩道端にある。

   旧町名由来案内
   下町まちしるべ
   旧
淺草雷門
   昭和9年、淺草雷門はそれまであった浅草材木町、浅草並木町、浅草茶屋町など七カ町が
   合わさって一丁目ができ、浅草北仲町、浅草馬車町、浅草花川戸、浅草公園地など六カ町
   が二丁目となり誕生した。この付近は、浅草寺があったため早くから開け、すでに江戸時
   代初期には門前町として栄えていた。
   町名は、浅草寺の総門である「雷門」にちなんでつけられた。
   「雷門」の創建はたいへん古く、天慶五年(942)といわれている。門の右側には風神
   様が、左側には雷神様が力強く立っている。この二神像があることから「風雷神門」とい
   われていたが、いつしか「雷門」と呼ばれるようになった。
   「風の神 雷門に居候」
   と江戸の庶民は親しみをこめて川柳に歌った。                台東区

 地下鉄発祥の地
 浅草1丁目2番5号地下鉄銀座線の浅草駅構内。雷門の前、交番横から地下鉄駅に下りると、通路
壁面に「大正ロマン」と書かれたパネル掲示があり、

   大正ロマン
   
――レトロ調装飾に寄せて――
   1927年(昭和2年)12月30日、東洋初の地下鉄が浅草~上野間に開業しました。
   この地下鉄発祥の地浅草駅を開業当時のモダン精神や賑わい、先人の偉業を継承したレト
   ロ調で装飾し、21世紀のメッセージとしてここに残しました。
   1999年7月1日                    協賛法人 株式会社 三越


 その近くには地下鉄銀座線開業当日 (昭和2年12月30日) の新聞『中外商業新報』のコピーが
掲示されている。

   我が交通上最初の試み
   地下鉄道本日開通

   上野から浅草まで一哩半
   輝かしき帝都交通の誇り


 この日に開通したのは浅草~上野間。何が何でも地下に鉄道が走った最初の日なのだ。
 地下鉄銀座線は、浅草駅と渋谷駅間(14.3km) を結ぶ
東京メトロの路線。昭和2年「日本で
最初の地下鉄」として浅草~上野間で営業を開始した。建設・運営したのは「東京地下鉄道会社」で、
その後順次路線を延ばし、同9年に浅草~新橋間で全通し、渋谷~新橋間は「東京高速鉄道」会社に
より建設・運営され、同14年に全通した。その後 両社は 相互乗り入れ運転を開始し、同16年に
特殊法人「帝都高速度交通営団」に統合された。平成16年に「東京地下鉄(東京メトロ)」と改称し
ている。

 
浅草東町会神輿
 地下1階に展示されている。

   浅草東町会 大人神輿
   三社型 台輪寸法 二尺五寸五分

     浅草神社の例大祭「三社祭 」は毎年1月の中旬に行われ、宮神輿と共に約百基の神輿が浅
   草中を盛大に練り歩きます
   当浅草東町会の神輿は、その中でも有数の大きさ豪華さを誇り、三社型と呼ばれる屋根の
   下からカ強く伸びる蕨手が特徴で屋根には三社巴紋と三網紋が五個ずつ取付けられ、黒漆
   塗りのすっきりとした屋根を引き立てております、屋根裏の林組には金箔押が流され、鋳
   金具も「地彫り」と呼ばれる超金細工が施されております、彫刻類は浅草神社の社殿を模
   した家華な極彩色が施され艶やかなたたずまいとなっております、また飾り紐は宮神輿に
   倣い紫の三本然りを用いている点が特徴的です。     東京・浅草 宮元卯之助商店
                               御神輿師 宮本重義 謹製



■雷門
 浅草1丁目3番1号(浅草公園七区)にある。寛永12年(1635)家光によって建てられた総
門。風神像と雷神像を安置するので「風神雷神門(風雷神門)」というのが本名だが、何時しか「雷
門」と呼ばれるようになり、それが定着した。
 慶応元年(1865)に焼失して以来、再建されることなく〝幻の門〟で、戦前の人は見たことも
ないのだ。ところが昭和35年松下電器(パナソニック)の創業者松下幸之助が一念発起して造立寄
進した。松下が病気になり快癒祈祷をお願いしたところ忽ち全快したので、そのお礼としてポケット
マネーを喜捨したものだ。同53年の観音像御示現1350年記念事業として、風神像・雷神像の裏
側に、天竜像(平櫛田中作)、金竜像(菅原安男作)の像が安置された。平櫛田中は谷中の岡倉天心
記念公園内の六角堂の天心座像、東京藝術大学の天心坐像の作者でもある。

   門の名で見りゃ風神は居候(川柳)
   風の神 雷門に居候(川柳)
   よい思案雷門を二度通り(川柳)


 門の間口は六間半(11.8メートル)奥行き三間(5.4メートル)。

   雷門(風雷神門)

    天慶五年(942)平公雅によって創建されたのが始まり。門の正面向かって右に「風
   神」左に「雷神」を祀る。このことから「雷門(風雷神門)」と呼ばれる。ともに鬼面蓬
   髪、風袋を担いで天空を駆ける風神と、虎の皮の褌を締め連鼓を打つ雷神の姿は、お馴染
   みのものである。また、門の裏側には、向かって右に「金龍」、左に「天龍」の龍神像が
   祀られ、これら四神は、浅草寺の護法善神として、伽藍守護・天下泰平・五穀豊穣の守り
   神とされる。現在の門は、慶応元年(1865)の浅草田原町の大火で炎上した門に替わ
   り、昭和35年(1960)に松下幸之助氏のご寄進により修興された。
   浅草寺参詣の入口にあたる「総門」として、また、東京・浅草の顔として全国的に有名。
                                    金龍山 浅草寺
   
Kaminarimon Gate
   The Kaminarimon Gate ("thunder gate"),standing at the entrance to the process
   ion alroad leading to Senso-ji,is Asakusa's most famous landmark.Inside the ga
   te on eiter side are enormous wooden statues of the protective Buddhist deities
   Fujin (wind god) and Raijin(thunder god), from which the gate gets its name.
   The origina l gate was erected in 942 but burned down several timesover thrc
   enturies. The one standing today was built in 1960, donated by Japanese en
   trepreneur Konosuke Matsushita(1894~1989).


 大提灯
 門には「雷門(裏は風雷神門)」と書かれた大きな提灯が下がっているが、幕末頃に描かれた『名
所江戸百景』には「志ん橋」と書かれた提灯が描かれている。現在は、本堂の提灯に「志ん橋」、宝
蔵門の提灯に「小舟町」と書かれている。中央に吊り下がる。高さ3.9m、直径3.3m 重さ70
0kg。平成23年12月に改修され
た。本体は丹波産の竹の骨組みに福井県産の楮100%の和紙約
300枚を貼り合せたもので上下の張り輪には金属製の化粧輪が取り付けられている。昭和46年か
ら京都市下京区の高橋提燈が制作しており約10年毎に新調されている。なお、平成20年に松下電
器はパナソニックに社名変更したが、大提灯の銘板は松下電器のままだ。江戸開府400年を記念し
て改めて新調された際、提灯は従来の物より一回り大きくなり、直径3.3m、高さ3.9m、重さ7
00Kgとなった(従来の物は670Kg)。平成25年に新調された大提灯で5代目となる。
 提灯の下は「龍」が描かれている。
 


■浅草公園 
 明治6年1月15日公園設立に関する大政官布告が示達され、東京府はこれに基づき同年3月25
日、浅草寺、寛永寺、増上寺、富岡八幡、飛鳥山の5公園を指定し、公園としての整備を始めた。こ
れが今に伝わる恩賜公園だ。浅草公園地については、建造物、史跡、ひょうたん池と大池、六区映画
街、仲見世などを取り込んだ広い地区を想定しその公園地として指定された。公園指定当初は後記す
る1~5区に相当する地域をその範囲にしていたようだ。同9年11月新しく伝法院とその接続地及
び旧浅草寺火除地を加えた。後の3区、6区だ。またこの年の12月には浅草新畑町、浅草北田原町、
浅草象潟町、浅草花川戸町、浅草千束町二丁目、浅草聖天町、浅草田町一丁目、浅草馬道町一~八丁
目の16カ町を内務省に申請し十年間公園付属地とした。この16ヶ町から上る地代で、上野公園を
除く4公園の維持費管理費を賄うことにした。ついで同15年7月浅草寺の子院顕松院(現花川戸一
丁目)を合併。同17年1月に至り、浅草公園は一区から6区に分けられ、同年9月には七区も追加
された。普通の公園と違って、町、住宅地、商業地を含んでいた。浅草興行街の6区だけが有名にな
り、「ロック」が公園全体を表す場合もあった。また江戸っ子の気取りで地名を引っくり返して呼ぶ
ことがあり、「公園」を逆さにして「園公」、「えんこう」→「エンコ」が浅草を表す言葉として現
在でも用いられる。
 1区 浅草寺観音堂周囲。浅草神社、二天門、仁王門(旧)、五重塔(旧)、淡島堂(旧)
 2区 新仲見世通りから北の門前。
 3区 浅草寺本坊伝法院の敷地
 4区 公園中の林泉池、大池、瓢箪池のあった一帯。
 5区 俗に奥山といわれたところ 公園の西北部。
 6区 浅草興行街 見世物の中心地 公園の西南部田園の埋立造成地。
 7区 仲見世一帯


■旧町名由来案内板
 浅草1丁目7番4号の道路端にある。

   旧町名由来案内
   下町まちしるべ
   旧
浅草新畑町
   この付近は、昔から浅草寺境内の畑地として農作物を作っていた。ところが長い間作って
   いたことから土壌がやせ農作物の不作が続いた。このため、万延元年(1860)に町屋
   開設の許可を求めたところ許され、新たに浅草寺境内畑町が開かれた。その後、明治維新
   を経て政府は東京の市制改革を進めるため明治3年に、この地を浅草新畑町とした。
   本町内には、浅草六区に続く「すしや横町 」と「新仲見世 」がある。これらの通りを中
   心に飲食店街などを形成して賑わいを見せ、「仲見世」の持つ風情とはまた違った浅草を
   みることができる。                            台東区


■入山せんべい

 浅草1丁目13番4号、すし屋通りに面してある東京銘菓。創業大正3年以来の老舗で、職人が1
枚1枚焼き上げている。堅焼き醤油味煎餅1種類のみ。天日で3日間干し、自然乾燥で甘みを十分に
引き出した生地を紀州の備長炭で焼いている。その場で焼きたて熱々のを食べるのが一番おいしい。
口に入れ、バリッと噛んだ時にふわ~っと広がる米と香り、香ばしく、醤油の味もほどよい。1枚か

ら売っているんで、焼きたてを食べてみるのも江戸土産だ。 03-3844-1376
 


■無事富稲荷社 ◇
 浅草1丁目14番2号にある小祠。赤鳥居ではなく、鉄製の赤い塀と扉。
 


■御手洗稲荷神社 ◇ 
 浅草1丁目14番8号にある小社。
 


■浅草たぬき通り
 浅草1丁目16番8号にある小祠。六区ブロードウェー(公園通り)からオレンジ通りに抜ける横
町。この通りの両側の11本の街路灯それぞれには、銀ピカの狸像が祀られている。
 縁日は毎月第3日曜、オリジナルグッズ販売あり。
 ①人情たぬき 友情の絆を強くする       ②開運たぬき 必勝や発展の祈願
 ➂小町たぬき 身にも心にも美しさが恵まれる  ④地蔵たぬき 健康や子宝に恵まれる     ➄不動たぬき 家内安全火除け祈願       ➅夫婦たぬき 夫婦円満仲直りが叶う
 ➆招福たぬき 幸せや福を招く         ⑧愛情たぬき 縁結びが叶う
 ⑨大師たぬき 除け祈願交通安全        ⑩天神たぬき 学業向上、入学祈願
 ⑪大黒たぬき 金運と商売繁昌         ⑫・・・あるらしい。
 ⑫は、大だぬき様といって小祠だった。

   願掛けたぬきの由来
   明治の初め頃まで浅草一帯は、周辺は田圃に囲まれ、浅草寺のあたりもうっそうとした藪
   野原で榎やけやき、いちょうなどの大木が生い茂り、たぬきの棲み家には絶好の環境で、
   たくさんのたぬきたちが住んでいました。
   伝法院辺りやこのたぬき横町辺りにも、たぬきたちが横行していました。
   その頃、西の上野の間では、官軍と彰義隊の戊辰戦争が勃発し、寛永寺の大伽藍の大半が
   焼失したほどの壮烈な戦いが上野の山で繰り広げられました。
   上野の山に長年住み続けていたたぬきたちは、戦火を免れるため、やむなく住み慣れた上
   野の山を後にして四方八方へ逃げ惑い、浅草の方に向かうたぬきたちの姿がありました。
   その中には、浅草の町家が数件立ち並ぶたぬき横町で安堵をとる上野の山のたぬき達がお
   りましたが、疲れが癒された頃にはすっかり日も暮れかけていました。
   しかし、もともとそこを棲み家にしていた浅草の地たぬきたちがいて、その様子を皆でじっ
   と伺っておりました。
   上野の山のたぬきたちがしばらく落ち着きはじめると、浅草の地たぬきたちは、縄張りが
   荒さらされる思いから、やがてにらみ合いがはじまり、歯をむきだし、険しく光る目が行
   き交い、一触即発の合戦が繰り広げられるような雰囲気になっていきました。
   そこで、浅草の地たぬきの人情肌の長老辰五郎たぬきが、長い眉毛の下に隠れた遺愛の深
   い目で、西の上野の山の空が赤く染まっているのを見て話を聞き、浅草たぬきたちに逃げ
   延びてきた話を言い聞かせました。
   とかく、人々の争い事が人や自然の命や生活にその惨めさ空しさを残すだけのことを知っ
   ている辰五郎たぬきは、浅草の地たぬきたちに自分たちは日頃から観音様のお慈悲と御加
   護でみまんな安穏に暮らせていることを改めて語りかけました。
   たぬき同士の無用の争いを避け、平和を守ることや人の役に立つことも大事な生き方であ
   ると訴えたのでした。
   辰五郎たぬきの悟りが功を奏して、たぬきたちの荒れていた心に暖かい気持ちが通い合い
   それからはいたずらたぬきたちの愚行はなくなりました。
   中でも十二匹の浅草たぬきは、一念発起してそれぞれが使命感を強く持ち、自分たちがま
   ちやまちを訪れる人々の役に立てるようにと、願い事が叶えられる力が持てるように仙人
   たぬき修行に精進を積みました。
   やがて、それぞれの願い事が叶えられるようになった十二匹のたぬきたちは、願かけたぬ
   きとなってれぞれが願かけたぬきとなってまちの人々からも慕われ、今日もこのたぬき通
   りにお奉りされるようになりました。                浅草たぬき通り


 原文のママ記載した。誤字、文章上の間違い、文法上の誤りは、ご素人さんのお書きになったもの
なので、御愛嬌としてあげてくらはりませ。
 


■紅梅焼の「梅林堂」

 浅草1丁目18番1号にある和菓子屋。雷門をくぐってすぐ左側にある。「創業享保年間 元祖紅
梅焼」の看板の通りの老舗。享保年間(1716~1736)に、当時の店主山田権七が浅草寺境内
にあった名木の紅梅を見て、梅花の形をした小型の煎餅を焼いて紅梅焼とたのが始まりといわれてい
る。梅花や扇の形をした小さな煎餅で、江戸庶民の味を今に伝えている。紅梅焼のほかに浅草にふさ
わしく人形焼も人気。人形焼は鳩、五重塔、提灯の3種類があり、1個でも買い求めることができる
ので、その場でぱりっとした食感を味わえる。 03-3843-4311
 


■和菓子の「千茶」

 浅草1丁目18番9号、雷門柳小路にある浅草で超有名な和菓子舗。おはぎ、秋から春の栗蒸し羊
羹、夏の水羊羹が秀逸。浅草で「千茶」を知らぬ者は田舎者だし、東京人とはいえない。まずは千茶
の菓子を食ってから三社祭を語れ! 03-3844-2005


■すき焼き 今半本店

 浅草1丁目18番9号にある「今半」の大元。ここから、浅草今半、人形町今半、今半別館、代々
木今半が派生していった。資本的営業的繋がりはない。
 今半は、明治28年吾妻橋の牛鍋屋として高岡伴太郎が創業し、大正元年2代目耕治が相澤半太郎
と浅草雷門へ移った。関東大震災により店舗が焼失したが、その後新たに龍宮をイメージした豪華な
店舗を建て、人々をあっと驚かせた。新店舗は木造3階建てで、店内には客用の風呂も設けられてお
り、湯口はライオンを模ったものだった。和洋中の料理が取り揃えられ、金製のすき焼き鍋も用意さ
れていた。同店には「今半御殿」との異名が付き、店舗の絵葉書も作られた。永井荷風は同店をしば
しば訪れており、店内の様子などを『断腸亭日乗』に書き記している。この建物は戦災で焼失した。
現在、すき焼き専門店として営業している。

 
名前の由来
 開業当時、関東地方で唯一の政府公認食肉処理場が芝区白金今里町(白金台)にあり、ここから肉
を仕入れていた店は店名に「今」の字を付けることが多かった。今半の「今」の字は、ここから肉を
仕入れていたことと、「今様(現代的)」という語句に由来している。
 「半」の字については、

 ・創業者3人のうち1人の相澤半太郎から採り、創業者高岡伴太郎の「伴」も考慮した。
 とされている。
 浅草今半、人形中今半、今半別館、代々木今半とは、系譜は同じだが全く別会社だ。


■芋きんの「満願堂」本店
 浅草1丁目21番5号にある芋菓子屋。隅田川を渡った吾妻橋1丁目に本店を構え、古くは吉原の
花魁達から、浅草の芸者衆、踊りや小唄のお師匠さんたちが贔屓にしてきた〝土手のきんつば〟の名
店。浅草に支店が出来てお参り序でに気軽に立ち寄れると喜ばれている。実演販売の焼きたての〝芋
きん〟は土手のきんつばを改良したもの。甘過ぎず、男性にも人気があり、お土産に最適。界隈の食
べ歩きも幸せ気分でグー。浅草店オリジナルの焼きいもソフトクリーム(芋クレープ付き)は人気急
上昇。 03‐5828‐0548
 


■芋ようかんの「舟和本店」本店売店・喫茶室

 浅草1丁目22番10号、新仲見世とオレンジ通りの交差する角地にある全国区「舟和」の本店。
芋ようかんの主原料であるさつま芋は、成分表で見ると、糖質、ビタミン、ミネラル、食物繊維をバ
ランスよく含んでおり、またカロチン、ビタミンB1なども含まれ、加えて加熱するとのり状になる
澱粉のお陰で、ビタミンCが、蒸したり焼いたりしても比較的減りにくいという長所がある。
 03-3842-2781

 あんみつ
 さいの目にきざまれた半透明の寒天は、見た目にも涼味を誘い軽い塩味のエンドウ豆、そして大つ
ぶのアンズ、ミカン、パインがたっぷりのみつ豆は甘党だけでなく辛党にも人気の高い和製デザート
だ。

 
芋ようかん
 さつま芋を一本一本手で皮をむき、さつま芋と砂糖で造り、甘味をおさえ素朴な風味を生かした羊
羹だ。主原料であるさつま芋は、糖質、ビタミン、ミネラル、食物繊維をバランスよく含んだ健康食
品だ。

 あんこ玉
 4種ある。甘味を抑えた餡を寒天でくるんだ舌ざわりのよい和菓子。


 もう一つある「舟和本店」
 駒形1丁目9番5号にも舟和本店があって
全く同じものを売っている。明治35年創業、元祖あん
みつと謳い、ロゴは全く同じだが、雷門の舟和の店舗一覧には載っていない。喧嘩別れでもしたのか
な? 03‐3842‐2703 
 
 と書いたら、Kotouma さんからメールを頂戴しました。

   昨日偶然このページを見つけました。楽しく拝見させていただいております。
   台東区の舟和に関する記述ですが、
   台東区駒形1-9-5は 舟和本社
   台東区浅草1-22-10は 舟和本店のようです。
   昔は舟和本社で芋ようかんを作っていたと記憶しております。


 で、よーく調べて見ると、「舟和本店」というのが会社名で、舟和本店の本社が駒形、舟和本店の
本店が浅草ということが判った。昔駒形は工場だった。現在は浦和工場で作っている。駒形は本社機
能のみとなり、1階は車庫になった。

 元祖芋ようかん「舟定」
 これを謳っているのが栃木県足利市の「舟定」で、明治32年の創業。伝統的な製法を全く変えず、
江戸下町の庶民の味と香りを届けてくれる。TBSの「はなまるマーケット」のおめざで野際陽子が
紹介していたし、日テレ「ぶらり途中下車の旅」で舞の海が店を訪れてその味を堪能していた。関東
一円で評判なんだそうだよ。元祖というのは「舟定」の方が兄弟子に当たるとかで創業年が2年早い。


■奏神像
 浅草1丁目25番1号(浅草ブロードウェイ商店街)の常夜灯の柱に取り付けてある。向いには唄
神の像がある。顔出しパネルは撤去された。

   この神様は、いろいろな曲を知りつくし、どんな歌にも演奏を合わせられる神様です。弟
   の唄神と共に楽器演奏の舞台を見守っていますが、この神様が一緒に演奏してくれると、
   楽器の音色が引き立ち、心に響くものになるそうです。


■唄神像
 浅草1丁目26番4号(浅草ブロードウェイ商店街)の常夜灯の柱に取り付けてある。向いには奏
神の像がある。顔出しパネルは撤去された。

   この神様は、兄の奏神と共に舞台に現われ、唄の舞台を見守ってくれる神様です。歌手の
   歌声をより一層引き出す術を持った神様です。この神様が舞台に現われ一緒に唄ってくれ
   ると、その歌は、必ず流行るといわれています。


■揚げおかきの「杵屋」

 浅草1丁目30番1号にある煎餅屋。仲見世、その中でも古くから続く「江戸文化を継承する煎餅
屋」として人気を博している。「宮こがね餅」を厳選し、「紅花油入り最高級サラダ油」を使用して
カラッと揚げた「揚げおかき」、紀州備長炭でじんわりと焼き上げた、魚沼産コシヒカリを用いた「本
手焼き煎餅」。いずれも、米の味が生きている。これを割って醤油につけた「わざとこわし煎餅二度」
は、密かに大ブームの逸品だわいな! 03‐3844‐4500


■ブロマイドの「マルベル堂」

 浅草1丁目30番6号にある。大正10年創業の日本初のプロマイド専門店として有名。往年の大
スターから、いま人気のアイドルまで、約2000名ものプロマイドを揃えており、親子3代で楽し
める。現在マルベル堂は会社組織になり、畑違いのレストラン業・弁当産業・事業給食へと展開して
いる。 
03-3844-1445 事務センターは、葛飾区細田4-34-8にある。
 大正10年創業。同27年洋食喫茶「レストランBell」開店。同39年「レストラン・ベル」
給食事業に参入。同45年食材一括購入会社「株式会社金多丸食品」設立。同48年食堂運営に日本
で初めてカフェテラス方式導入。同60年社名を「株式会社マルベル」に変更。
 平成3年「マルベルビル」落成。同12年台東区社会福祉協議会より、「みすず亭」として在宅サ
ービスの弁当宅配業務受託。同21年金多丸食品併合。

 長谷川かずお写真館
 同ビルの4階にある。若い人には小首を傾げる向きもあるだろうが、天下の二枚目スターだった長
谷川一夫の展示室だ。マルベル堂の創業者が自ら後援会長を務め親交の深さから貸出された記念品が
並ぶ。長谷川一夫が「オマエら、マルベル堂で撮って来い!」という一声で俳優さんたちがどっと押
し寄せた、それからブロマイドのマルベル堂が定着し発展した。現在のタレントもマルベル堂のブロ
マイドは欠かせない。


■青砥左衛門藤綱の壁画と説明板
 浅草1丁目35番8号夢屋のビルの2階の北壁に描いてある。説明板はビル前の歩道端に建ててあ
る。

   青砥左衛門藤綱
   白浪五人男を捕らえようとする人物が藤綱であり、大岡越前と並び名奉行として広く世間
   に知られていました。その藤綱の逸話が物語に登場します。滑川に十文銭を落としてしま
   い、家来に命じて五十文で松明を買い探させました。それを知ると、ある者は『十文を探
   す為に五十文も使っては、大損ではないか』と笑いました。
   しかし藤綱は「十文はわずかだが、そのままにすれば天下の貨幣を永久に失ってしまう。
   五十文は私にとって損になるが、その五十文は他の誰かを益するであろう。合わせて六十
   文は一文も残さず天下の財となっている」と説きました。
   この物語では金銭に関わる多くの悪事が行われますが、自分の利益の為だけにお金を使う
   のではなく、世の中の為にお金を使うという教えは今の時代も大切な事ではないでしょう
   か。
   その藤綱がついに日本駄右衛門を追いつめます。日本駄右衛門は潔く縄に掛かろうとしま
   すが、藤綱は温情から再会を約束して逃してしまいます。白浪五人男とはそんな人情溢れ
   る物語です。


 ■河竹黙阿弥翁住居跡の碑
 浅草1丁目36番3号の仲見世会館の前右手にある石碑。黙阿弥は、幕末から明治にかけて活躍し
た狂言作者で、明治の文豪坪内逍遥は、河竹黙阿弥を「日本のシェークスピア」と讃えた。黙阿弥は文化十三年(1816)に日本橋の越前屋勘兵衛の長男として生まれ、若い時から遊蕩に耽り、14
歳で勘当されて、貸本屋の手代となったこともあったようだ。
 天保六年(1835)、20歳の時に5代目鶴屋南北の門に入り、狂言作者見習となった。天保十
四年には2代目河竹新七を名乗って江戸河原崎座の立作者となる。天保十四年(1843)天保の改
革で水野忠邦により江戸三座が浅草猿若町に移転させられると、黙阿弥も間もなく芝から浅草寺の子
院である正智院の地内に住まいを移した。嘉永七年(1854)に4代目市川小団次のために書いた
「都鳥廓白浪」が大当たりを取って小団次に認められ、以後、慶応二年(1866)に小団次が亡く
なるまで、彼のために多くの傑作を書き続ける。現在、雷門と宝蔵門の間は、仲見世となっているが
江戸時代は、浅草寺の子院が建ち並んでいた。正智院も、そうした子院の一つだ。正智院の地内に住
んでいるので「地内の師匠」と呼ばれ、明治20年に本所に引っ越しするまで住んでいた。
 浅草神社の境内には「河竹黙阿弥翁顕彰碑」が建てられている。

   
河竹黙阿弥翁住居跡之碑
     前正智院住職 守山良順書


 息子の河竹登志夫の説明板が建ててある。

   
黙阿弥と浅草                        早稲田大学名誉教授
                                  
文学博士河竹登志夫
   歌舞伎作者河竹黙阿弥(1816~1893)は文化十三年江戸日本橋の商家に生まれ、
   かぞえて20歳のとき、五世鶴屋南北に入門。70歳で没するまでに360篇にのぼる作
   品を残した。
    天保の改革による江戸三座の猿若町移転に伴って、この地に移り住んだのは、弘化年間
   30ごろから明治20年、本所南二葉町いまの墨田区亀沢に隠棲するまでの約40年間で
   ある。宇都谷峠・十六夜清心・三人吉三・弁天小僧・村井長庵・御所の五郎蔵・髪結新三
   ・河内山と直侍・島ちどり・魚屋宗五郎・土蜘・船弁慶・紅葉狩などの代表作をはじめ、
   ほとんど全作品がここで書かれたのであった。
    坪内逍遥は黙阿弥を「真に江戸演劇の大問屋なり・・・・一身にして数世紀なり」と評
   し、「日本の沙翁」とも讃えたが、馬道町2丁目12番地といったこの地が浅草寺子院正
   智院の境内だったので、江戸、東京の市民からは「地内の師匠」と親しまれたという。
   平成2年7月吉日                         
浅草観光連盟


■浅草公会堂

 浅草1丁目38番14号にある。収容人員1082名を誇る大ホール。このホールの大きな特徴は
歌舞伎や日本舞踊の臨場感溢れる舞台を演出する花道が設置できることだ。公共施設としては、他に
類を見ない本格的な舞台設備となっている。本歌舞伎が行われる。
 第1緞帳「たいとう」は、春霞の棚引く中に寛永寺が遠く望まれ、その手前に浅草寺と関係行事で
ある金竜の舞や、三社祭の情景が描かれている。
 第2緞帳「浅草」は、広重の「江戸百景」の中から、今も昔も変わらぬ賑わいを見せる浅草仲見世
の情景を描いたものだ。2種類の緞帳がホール内に独特の雰囲気を創り上げ、素晴らしい舞台の始ま
りを告げる。浅草歌舞伎の名で本歌舞伎も上演される。

 
スターの広場
 入口前に、左手で花を掲げる像がある。

   
スターの広場

 と刻んである。

 
スターの手型
 入口前にの床スペースに、歌舞伎・演劇・落語・漫才と大衆芸能の分野で多くの人々に愛され親し
まれ、浅草所縁のスターの手形とサインが並べられている。

   「スターの手型」
   Ster Plaza(Handprint)
   ━あなたもスターの手とくらべてみませんか!━
   Find your favorite performers handprints!
   「スターの手型」は、芸能界の振興に貢献した方々の功績をたたえるとともに、大衆芸能
   ゆかりの地〝浅草〟のシンボルとして末永く後世に伝えるために、設置しているものです。
   今回は新たに5名の方の手型がオレンジ通り花壇に設置され、301名となりました。
   これからも、新たなスターの方を顕彰してまいりますので、また浅草にお越しくださいま
   すようお願いいたします。
   "Ster Plaza" displays the handprints and signature of well-known Japanese per
   formers who contribute to the development in the field of entertainment. The pl
   aza is popular among fans as the "Mecca" of popular entertainment as well as a
   symbol of Asakusa.
   平成26年3月吉日                          台 東 区
   March
2104                             Taito city


■公福稲荷大明神 ◇
 浅草1丁目39番2号、建物と建物の隙間にある小祠。


■浅草演芸ホール・浅草フランス座演芸場東洋館
 浅草1丁目43番12番にある寄席とストリップ劇場。

 
話神像と顔出しパネル。
 演芸ホールの角、浅草ブロードウェイ商店街の常夜灯の柱にある。

   話神(はなしがみ)
   この神様は、古くから話芸にいそしみ、さまざまな話芸の間を心得ている神様です。この
   神様が舞台にあがり見守ってくれていると、落語や漫才などの舞台が明るく盛り上がり、
   芸人達の失敗さえも笑いに変えてくれるそうです。


■旧浅草公園二区
 浅草2丁目1番・2番・35番に相当する。伝法院前の仲見世、辨天山児童公園。かつて七区は二
区だったが、後に新仲見世通り以南の地は七区とされた。浅草寺は一区・三区。


■有限会社 今半別館
 浅草2丁目2番5号、浅草の伝法院通り近くにて、すき焼きを中心とした日本料理店「今半別館」
を運営する企業。同店の建物は登録有形文化財となっている。
 大正10年今井本店より暖簾分けで芝区三田に開業。太平洋戦争末期、建物素懐のため店舗が取り
壊される。昭和25年頃、現在地に再開。平成15年、同店建物(北棟、南棟、玄関棟)が文部科学
大臣により登録有形文化財として登録される。

 
名前の由来
 開業当時、関東地方で唯一の政府公認食肉処理場が芝区白金今里町(白金台)にあり、ここから肉
を仕入れていた店は店名に「今」の字を付けることが多かった。今半の「今」の字は、ここから肉を
仕入れていたことと、「今様(現代的)」という語句に由来している。
 「半」の字については、

 ・創業者3人のうち1人の相澤半太郎から採り、創業者高岡伴太郎の「伴」も考慮した。
 とされている。
 浅草今半、人形中今半、今半本店、代々木今半とは、系譜は同じだが全く別会社だ。

 
建物
 今半(今半本店)から暖簾分けを受けた当時の店主が、太平洋戦争後にかつての「今半御殿」をイ
メージして建てさせたものだ。昭和23年から10年近くに亘って増築が重ねられ、21世紀初頭に
は大規模な修繕工事がなされている。
 数寄屋造りの木造2階建て。天井や欄間などに施された彫刻は、富山県から呼び寄せた井波彫刻の
職人と、地元浅草の職人に腕を競わせたものだ。細い材の組子や花形の隅板を多用した建具は、造ら
れた当時「くどい」との批判もあったが、のちに目黒雅叙園など日本各地の料亭、旅館でも同様の建
具が使われるようになった。建築史家の稲葉和也は、ビルの多い浅草にこのような建物が残っていることを「奇跡に近い」と述べている。



■暮六つ 閉店
 浅草2丁目2番13号にあった飯屋兼居酒屋。古民家の材木を集めて古民家風な佇まいにして、大
そう繁盛していたが平成18年頃閉店してしまった。
 


■和えん亭 吉幸
 浅草2丁目2番13号の暮六つの跡を改修して平成19年に開店した。


■今半別館(建物が国の登録文化財)
 浅草2丁目2番5号にあるスキ焼を中心とした日本料理屋。
この店の建物は、今半(今半本店)か
ら暖簾分けを受けた当時の店主が、太平洋戦争後にかつての「今半御殿」をイメージして建てさせた
ものだ。昭和23年から10年近くに亘って増築が重ねられ、21世紀初頭には大規模な修繕工事が
なされている。数寄屋造りの木造2階建て。天井や欄間などに施された彫刻は、富山県から呼び寄せ
た井波彫刻の職人と、地元浅草の職人に腕を競わせたものだ。細い材の組子や花形の隅板を多用した
建具は、造られた当時「くどい」との批判もあったが、のちに目黒雅叙園など日本各地の料亭、旅館
でも同様の建具が使われるようになった。建築史家の稲葉和也は、ビルの多い浅草にこのような建物
が残っていることを「奇跡に近い」と述べている。
 大正10年 今半(今半本店)からの暖簾分けにより、芝区三田にて開業。太平洋戦争末期 - 店舗
が建物疎開のため取り壊される。昭和25年頃、 浅草伝法院通り近くにて開店。平成15年 同店建
物(北棟、南棟、玄関棟)が文部科学大臣により登録有形文化財として登録された。
 今半本店、浅草今半、人形町今半は別会社。
 


■浅草餅と揚げまんじゅうの「金龍山」

 浅草2丁目3番1号、仲見世の延長、伝法院前にある。初代桔梗屋安兵衛が延宝三年(1675)
に、伝法院前に店を出し、亨保年間(1716~35)に上野輪王寺宮より、「金龍山浅草餅」の親
筆を与えられた。以来江戸の人々に賞味され浅草名物・江戸名物として愛されきた。
 また昭和33年から「揚げまんぢゅう」を売り出し、これが評判いい。03‐3841‐9190


■旧浅草公園一区
 浅草2丁目3番の浅草寺境内の内観音堂の一帯を一区、本坊の伝法院の一帯を三区とした。大池、
ひょうたん池の一帯が四区、奥山・境内北側が五区、辨天山の一円が二区、寺西の田圃を造成したと
ころが六区、雷門・仲見世一帯が七区だ。


■金竜山伝法院 浅草寺
 浅草2丁目3番1号、浅草公園第一区にある聖観音宗の総本山。坂東三十三観音霊場の第十三番札
所で都内最古の寺院。
欽明天皇十三年(552)に仏教が伝来して、その76年後の推古天皇三十六
年(628)土師真中知(はじのまなかち)または土師真中知(はじのなかとも)が良馬を求め、檜
前浜成・武成(ひのくまのはまなり・たけなり)兄弟を引き連れてやってきて定住し、檜前兄弟が漁
労の最中に網にかかった1寸8分の観音像を、真中知が自宅に奉安し、大化元年(645)勝海上人
がこの地に留まって観音堂を建立、また夢告により本尊は秘仏と定められ、武蔵国の観音信仰の中心
地となった。現在の本堂再建工事にあ当たって出土した数々の遺物から、少なくとも平安期には大寺
の伽藍をここ武蔵野の一漁村に構えていたことが判っている。平安時代初め慈覚大師の巡拝により伽
藍の整備が行われ、その後一層信者の層も厚くなった。以来慈覚大師を中興開山と呼んでいる。鎌倉
時代に入ると将軍自ら帰依するに及び、名将たちの篤い信仰を集めていよいよ観音霊場として知られ
るようになった。江戸の初め、天海僧正(上野東叡山寛永寺の開創)の進言もあって徳川幕府の祈願
所と定められ、いわゆる江戸の信仰と文化の中心として庶民の間に親しまれ、隆盛をみるようになっ
た。

   小粒でも是見てくれの大伽藍(川柳)

 浅草寺の本坊は伝法心院(伝法院)で、線香の香り絶えない巨大なお堂はただの観音堂だ。北方の
待乳山聖天は真中知の塚(墓)だともいう。

   聖観音宗総本山
   金龍山
淺草寺(あさくさかんのん)
   御本尊 
聖観世音菩薩像(御秘仏)
   慈愛の仏さま 浅草寺ご本尊の観世音菩薩さま
   多くの仏さまの中でも最も慈愛深い仏さまであり、人々の悲しみを見てはその苦しみを除
   き、願いを聞いては楽しみを与えてくださいます。特に淺草寺御本尊の観音さまの御利益
   ・ご霊験は古今無双であり、ご示現より今日まで千四百年近くにわたり、計り知れぬ程の
   人々を救われご加護なさってきました。観音さまのご信仰とは、観音さまに「慈悲」のお
   心を願いて生きること、すなわちすべてに「あたたかい心」で接して日々を過ごすことと
   申せましょう。
   ※ご参詣の際には合掌して「南無観世音菩薩」とお唱えしましょう。
   
縁起(由来)
   時は飛鳥時代、推古天皇三十六年(628)三月十八日の早朝、檜前浜成・竹成の兄弟は
   江戸湾(隅田川)に漁猟中、はからずも一躰の観音さまの御尊像を獲得した。郷司土師中
   知(名前には諸説あり)はこれを排し、聖観世音菩薩さまであることを知り深く帰依し、
   その後出家し、自宅を改めて寺となし、礼拝供養に生涯をささげた。
   大化元年(645)勝海上人この場においでになり、観音堂を建立し、夢告によりご本尊
   をご秘仏と定められ、以来今日までこの伝法の院は鎮守されている。
   広漠の武蔵野の一画、東京湾の入江の一農村にすぎなかった浅草は、参拝の信徒が増すに
   つれて発展し、平安初期には慈覚大師円仁さま(794~864 浅草寺中興開山・比叡
   山天台座主三世)が来山され、お前立てのご本尊を謹刻された。
   鎌倉時代に将軍の篤い帰依をうけた浅草寺は、次第に外護者として歴史上有名な武将らの
   信仰も集め、伽藍の莊嚴はいよいよ増した。江戸時代の初め、徳川家康公によって幕府の
   祈願所とされてからは、堂塔の威容さらに整い、いわゆる江戸文化の中心として、大きく
   繁栄したのである。かくして都内最古の寺院である浅草寺は、浅草観音の名称で全国的に
   あらゆる階層の人たちに親しまれ、年間約二千万人もの参詣者がおとずれる、民衆信仰の
   中心地となっている。

 引き網伝説
 
網に仏像が引っかかって寺を開く話は各地にあるが、土人を感化するのに格好の演出だよ。仏教の
ありがたみと土地との因縁とを一遍に説明できるもんね。良馬を集めるには馬市を開き、馬市を盛ん
にするためには浅草に人を寄せなければならない。この命題を解決する手段が浅草寺の建立だった。
そして引き網観音の話を創作したのだ。浅茅ヶ原の鬼婆の伝説も、旅館組合が旅客確保のため、民宿
野宿をさせないキャンペーンだったという。伝説とは目的を以て作られるキャンペーンドラマなのだ。
ありそうな話だからみんな引っかかっちゃう。

   観音の甍(いらか)見やりつ花の雲(芭蕉)
   浅草寺扉閉めたる朧かな(増田龍雨)
   さみだれや足場の中の浅草寺(久保田万太郎)
   人日や羅宇屋の来て居る浅草寺(小島重子)

 菊供養会は明治31年から始められた。初めは重陽の節句(9月9日)に行なわれていたが、戦後
に10月18日に改めた。古来陰陽の陽の数9が重なる9月9日は、「重九→ちょうきゅう→長久」
に通ずる吉とされ、この日に菊の花を浮かべた酒を飲み、長寿を祈る習俗として定着した。当日は「金
龍の舞」が奉演される。、


   くらがりに供養の菊を賣りにけり(高野素十)
   菊咲くや金田にふるき下足番(伊志井寛)
   雨となり人出まばらな菊供養(片山吉哉)
 

  観音堂(本堂)
 旧本堂は慶安三年(1650)家光が再建した木造建築だった。戦災で焼けた。現在の本堂は昭和
33年鉄筋コンクリート入母屋入り。棟高11.3m、軒高11.3m間口34.5m 。内部天井の
絵は、川端竜子筆の竜、堂本印象の天人散華図だ。欄間には絵馬も掲げられている。

 
本尊聖観世音菩薩
 「絶対秘仏」とされている。いわゆる「浅草の観音様」だ。長い間,誰も見たことのない秘仏だっ
たことから,実は存在しないのでは,との噂が絶えなかった。併し明治維新で新政府によって仏像改
めにより確認された。20センチ足らずの火災にあって損傷している仏だったようだが、その後全く
公開されていない。寺の関係者すら未来永劫見られないという取扱いとなっている。実は仏像改めで
3人の人間が立ち会って見、スケッチもとったが・・・、3人とも1年以内に死亡したそうだ。であ
ればスケッチも絶対非公開となっている。

 天水桶
 本堂の前に天水桶があるが、戦時中本尊を疎開させる時、本尊をこれ納め参らせ、本堂下に、3m
の穴を掘っ戦災から守ったという。

 チタン製瓦
 築後約50年が経過し、外装の老朽化が進んだため、瓦の葺き替えならびに外装塗装の塗り替え工
事が行われ、平成22年12月に完成した。浅草寺は、年間3000万人もの参拝者が訪れる日本有
数の観光スポット。本堂は平成18年の耐震補強により現行の耐震基準を満たしてるが、多くの人が
訪れる場所だけに、災害に強いものをということで、チタン瓦を採用して屋根を大幅に軽量化し、耐
震性能をさらに向上させた。重さは土瓦の5分の1。チタン瓦の欠点だった変色は、最新の科学で或
る薬剤を塗布することで解決している。チタン瓦はいぶし調の表面処理を施した微妙に色の異なる3
色を用意し、これをランダムに配置することで、日本瓦の持つ重厚な風合いを表現している。また、
平面部、軒先など部位別に形状の異なる数種類の瓦が使われていたため、3D‐CADを駆使して形
や厚み、卍(まんじ)・唐草模様など、瓦のデザインを可能な限り忠実に再現している。

 大提灯(志ん橋)
 350×450cm。本堂(観音堂)に掛っており、この志ん橋大提灯も、新橋の方々からの奉納
提灯で、平成16年12月に制作し寄進された。

 
仏足石
 観音堂横にある。上面に仏足が陰刻され、側面に由来が刻まれている。明治10年造。

 
金竜の舞
 年中行事の中で、第一となるべきものは推古天皇三十六年三月十八日の本尊観世音菩薩縁起に関す
る祭だ。つまり古くからこの縁起を基にした神輿船渡御の船祭を中心に三月十八日の行事があったが、
5月の三社祭が盛大になったので、3月の名を留める「示現会」の行事は次第に
薄れていった。そこ
で昭和28年示現会復活が論じられ、新たに「観音十童子舞」を起こし、この時「金竜の舞」の創案
が萌えし、同33年本堂完成記念開帳を迎えるに当って、浅草観音慶賛会が後世に永く伝える記念行
事として、ここに「金竜の舞」を創始奉納することとなった。舞は久保田万太郎指導の下、演出は吉
川義雄、作曲は町田嘉章、舞の振付は藤間友章が担当し、浅草各町の青年有志70余名が斎戒精魂を
傾けて舞を奉演した。

 水屋内・沙竭羅龍王像(銅造)
 
原型は高村光雲仏師、鋳造は津田信夫。明治36年東京市が境内の噴水池に造献したものだ。


 慈雲の泉
 五重塔の東の植込みにある朝倉文夫作の群銅像。

   慈雲の泉
   東京随一の名刹として廣く世に知られる金龍山浅草寺は  幾多の興廃消長の中に法灯連
   綿として今日に及ぶ。特に住吉に優る當山の隆昌は、大谷米太郎氏を会長とする浅草観光
   連盟の献身的努力に負うところ誠に多大である。
   かねて上野、浅草の繁栄に意を注ぐ台東区長上條貢氏は、昨秋上野信用金庫理事長長野高
   一氏寄贈にかかる注誕噴水塔を上野公園入口に建設したが、さらに此の度同氏より多額の
   浄財の寄託を受くるに及び浅草寺、浅草観光連盟と相計り、庶民信仰の霊域たる此の地に
   噴水塔建設を発意す。上條区長の委嘱により地元関係者を以て建設委員会が結成され、熟
   議検討の結果聖地に相応しき噴水塔の実現を期す。幸い彫塑家朝倉響子氏の好意により父
   君朝倉文夫先生の遺作「雲」の像の寄贈を受け、これに近代的噴水を配して「慈雲の泉」
   と名づく。朝倉文夫先生は、日本芸術界の巨匠たると共に我が台東区の名誉区民にして、
   「雲」の像は、明治40年壮年に至らんとする先生が未来への欣求を籠めた一代の傑作で
   ある。「慈雲の泉」が蓋し、長野高一、朝倉響子両氏を始め多くの人々の美しき善意の結
   晶と云えよう。幸い此の聖地に融和し、とこしえに庶民の街浅草の象徴として愛護されん
   ことを祈念してここに讃を記す

   昭和40年9月吉日                      慈雲の泉建設委員会

   建設委員
   台東区長上條貢・台東区助役金津武夫・台東区収入役鈴木義尚・台東区議会議長永森久吉
   上野信用金庫理事長長野高一・浅草観光連盟会長大谷米太郎・金龍山浅草寺貫主清水谷恭
   順・常盤堂雷おこし本舗社長 穂刈恒一・雲の像寄付者朝倉響子・公園協会理事長井上清


 鳩ぽっぽの碑
 明治33年東くめ女史作詞 滝廉太郎作曲の歌碑 昭和37年建立。

   
鳩ポッポの歌碑
    作詞:東くめ  作曲:滝廉太郎


   鳩ぽっぽ 鳩ぽっぽ
   ポッポポッポととんでこい
   
御寺のやねから下りてこい
   えさをやるから皆たべよ
   食べてもすぐ帰らずに

   ポッポッポと鳴いて遊べ

 左側に譜面をを、下部に以下の銘文を刻む。

   この詩は日本中乃多くの
   人々に親しまれている日本の
   代表的な童謡の一つです。
   東くめ女史が明治34年
   に観音さまの境内に於て
   鳩とたわむれている子供らの
   愛らしい姿をそのまま歌に
   よまれたものであります。
   歌碑を建つるにあたりまして
   朝倉文夫先生から鳩並に
   題字を寄せられました事は、
   作曲者滝廉太郎先生と
   同郷旧知の深いゆかりに依る洵に
   うるわしい御協賛でありました
   鳩は平和の象徴です
   そのためにもこの碑は永久に
   偲存いたしたいものであります
   昭和37年11月3日 浅草寺 恭順識

 寺の説明板は以下の通り。

   
鳩ぽっぽ歌碑
   東くめ作詞、滝廉太郎作曲の唱歌「鳩ぽっぽ」の歌碑です。東くめは善光寺の鳩の姿を見
   せ歌詞を作ったといい、碑文は本人の自筆によるものです。絵は長野市出身の鈴木万平の
   作です。
   東くめと滝廉太郎による童謡は、明治34年発行の『幼稚園唱歌』に多数収められ、この
   歌も「お正月」「雪やこんこ」などと共に広く愛唱されました。    金龍山 淺草寺


 なぜこの碑がここにあるのかというと、くめはこの境内で鳩と戯れる子供たちを見て、詞が思い浮
かんだのだそうだ。だから「鳩ぽっぽ」の鳩は浅草寺の鳩なのだ。
 「幼稚園唱歌」は、幼い子供も理解できる口語体のやさしい言葉で書かれた日本最初の楽譜付き唱
歌集。それまでの唱歌は難解な文語体で、幼い子供向きではなかった。東くめは浅草の観音様の境内
で無心に鳩とたわむれる子供たちの姿を心に浮かべながら詩を作ったという。その詩に滝廉太郎が曲
をつけたもの。歌はたちまち全国に広まった。併し、その10年後の明治44年「尋常小学唱歌(一)」
に歌詞を少し変えた「鳩」が登場、現在まで歌い継がれているのはこちらの方になってしまった。

 「
鳩ぽっぽ」 東くめ作詞  滝廉太郎作曲
   鳩ぽっぽ 鳩ぽっぽ
   ポッポポッポととんでこい
   お寺のやねからおりてこい
   豆をやるから みなたべよ
   たべてもすぐに かえらずに
   ポッポ ポッポと ないてあそべ


 「
」 文部省唱歌(明治44から大正3年にかけ合議制で作られたため作者は特定されない)
  1.ぽっ ぽっ ぽっ、鳩ぽっぽ
   、豆がほしいか、そらやるぞ
    みんなで仲善く 食べに来い
  2.ぽっ ぽっ ぽっ、鳩ぽっぽ
    豆はうまいか、食べたなら
    一度にそろって 飛んで行け
 


 
正観世音菩薩碑
 五重塔の近くにある。

   正観世音菩薩碑
   「正観世音菩薩」と碑の正面に刻まれている。当寺には観音さまを表した金石が多く奉安
   されているが、その中でもひときわ大きい碑である。この石碑の銘文は長年の風雪により
   磨滅が進んでいるが、「文」や「窪世」とわかる所が残されていることから、江戸時代の
   有名な石工の大窪世祥が、文化・文政年間(1804~1829)に文字を彫ったと思わ
   れる。他にも世祥の金石は三基境内に残されており、当寺にも関わりの深い人であった。
   江戸町人の信仰を載せた金石が運ばれ、活気付く境内の様子が目に浮かぶようである。
   南無観世音菩薩                           金龍山浅草寺
 

 迷子知るべ石
 安政七年(1860)仁王門前に建てられた物が、第二次世界大戦の空襲で破壊され、昭和32年
復元建立した。江戸時代には至る所で目にした迷子しらせ石標も、現在では菊屋橋の永見寺と湯島天
神境内、一石橋そして浅草寺だけとなった。この石標は正面に「南無大慈悲観世音菩薩まよひこのし
るべ」と書いてある通り、迷子や尋ね人の掲示板の役割を果たしていた。石標の左側には「たずねる
方」と刻まれてる。迷子や尋ね人を探す方の人はここに貼り紙し、右側の「しらす方」には心当たり
の者が知らせるようになっていた。裏には「安政七年庚申歳三月建、施主新吉原松田屋嘉兵衛」とあ
るように。安政の大地震による廓の犠牲者の慰霊碑として立てたものだ。

   迷子のしるべ石
   昔、迷子が出た時には、この石碑でその旨を知らせた。石碑の正面に「南無大慈悲観世音
   菩薩」と刻み、一方に「志らする方」、一方に「たづぬる方」とし、それぞれに用件を記
   した貼紙で情報を交換した。情報未発達の時代には重宝され、「江戸」市内の繁華な地に
   建てられたものの一つ。
   安政七年(1860)三月、新吉原の松田屋嘉兵衛が、仁王門(宝蔵門)前にに造立した
   が、昭和20年の空襲で倒壊したため、昭和32年に再建された。    金龍山浅草寺
 

 
宝蔵門
 本名を「仁王門」という。最初は天慶五年(924)安房守から武蔵守になった平公雅によって建
てられた。阿形・吽形の仁王像(左輔金剛・右弼金剛)が安置されているため仁王門というのだが、
観音様の守護神として仏師運慶作といわれた。慶安二年(1649)家光によって豪壮華麗な二重層
入母屋造りの三解脱門に建て替えられ、昭和20年のアメリカ軍の空襲で燃やされるまで威容を誇っ
ていた。江戸時代は日を限って一般の登楼が許されていた。

   宝蔵門                    台東区浅草2丁目3番1号 淺草寺
   宝蔵門は、大谷栄太郎の寄進で、昭和39年に浅草寺宝物の収蔵庫を兼ねた山門として建て
   られた。鉄筋コンクリート造で重層の楼門である。外観は旧山門と同様に、江戸時代初期
   の様式を基準に設置されている。高さ21.7m、間口21.1m、奥行は8.2mとある。
   下層の正面左右には、錦戸新観、村岡久作の制作による、木造仁王像を安置している。
   浅草寺山門の創建は、「浅草寺縁起」によると、天慶五年(942)平公雅によると伝え
   る。仁王像を安置していることから仁王門と呼ばれる。その後、焼失と再建をくり返し、
   慶安二年(1649)に再建されて山門は、入母屋造、本瓦葺の楼門で、昭和20年の空
   襲で焼失するまでその威容を誇っていた。
   平成18年3月                         台東区教育委員会
   
Hozo-mon
   Hozo-mon Gate was built as a temple gate that also serves as storage of treasu
   res for Senso-ji Temple. It was constructed in 1964 with donated money by
   Ohtani Yonetaro. The external appearance was designed in the style of the ear
   ly Edo period. It is a ferroconcrete gate, 21.7m in height, 21.1m in wid
   th and 8.2m in depth. Two wooden Nio(Deva Kings) statues made by Nishiki
   do Shinkan and Muraoka Kyusaku are installed on the left and right sides of t
   he front on the lower level.


   中日に仁王の頭踏み鳴らし(川柳)

 現在の門は同39年ホテルニューオータニを創始した大谷米太郎の寄進になるもので、宝蔵門とい
うのは階上に浅草寺の宝物を収蔵していることによる。吽形像は彫刻家村岡久の作で、阿形像は同じ
く錦戸新観の作である。

 門を金網で覆っているのは、バカな参詣客がいてチューインガムを投げつけるからで、こんなのが
日本人なんだから、嫌んなっちゃう。昔紙を噛んで投げ、くっつくと運が開けるということが流行っ
たが、それをチューインガムでやると像そのものが傷んでしまうのだ。

   また紙を噛むと仁王睨みつけ(川柳)

 さて「小舟町」の提灯は、日本橋小舟町奉賛会の寄進によるもので、この仕来りは江戸時代から続
く。江戸開府400年を記念して昭和63年に吊るしたものを平成15年に掛け替えた。高さ3.75
m、直径2.70m重さ400kgもあるそうだ。費用は締めて500万円もするってよ。

 
仁王(阿形・吽形)

   仁王さま(吽形)
   昭和39年に、現在の宝蔵門の再建に際し、仏師の村岡久作氏によって制作された。総高
   5.45m、重さ1000kg、木曽檜造りである。
   仁王さまの縁日は8日、身体健全、災難厄除け守護神であり、所持している金剛杵は、す
   べての煩悩を破る菩提心の象徴である。
   この仁王さまは、宝蔵門にあって、日々参詣諸人をお迎えし、人々をお守りしている。
                                   金龍山 浅草寺
   
Ni-Ou(closeed mouth style)
   This "Ni-Ou(closeed mouth style)" was chiseled by sculptor Muraoka Kyusaku
   in 1964. The statue made of cypress is 5.45meters high and almost 100
   0kilograms in weight. Being guardian deities for Senso-ji, They are set in t
   he "Hozo-mon".

   仁王さま(阿形)
   昭和39年に、現在の宝蔵門の再建に際し、仏師の錦戸新観氏によって制作された。総高
   5.45m、重さ約1000kg、木曾檜造りである。
   仁王さまのご縁日は8日。身体健全、災難厄除けの守護神であり、所持している金剛杵は、
   すべての煩脳を破る菩提心の象徴である。
   この仁王さまは、宝蔵門にあって、日々参詣諸人をお迎えし、人々をお守りしている。
                                    金龍山 浅草寺
   Ni-Ou(closeed mouth style)
   This "Ni-Ou(closeed mouth style)" was chiseled by sculptor Nishikido Shink
   an in 1964.The statue made of cypress is 5.45meters high and almost 10
   00kilograms in weight. Being guardian deities for Senso-ji, They are set in
   the "Hozo-mon".

 大わらじ
 宝蔵門に掲げられている。門裏に掲げられている名物の「おおわらじ」は、村岡の故郷山形県村山
市の奉賛会による奉納だ。

   大わらじ
   この大わらじは、山形県村山市の奉讃会によって奉納された。延べ人員800人、1ヶ月
   をかけて制作されたものである。藁2500gを要し、大変な労力が必要で、まさに信心
   の結晶といえる。昭和16年の奉納を最初に、宝蔵門再建後は、約10年に1度作られて
   いる。全長は4.5m。
   わらじは、仁王さまのお力を表し、「この様な大きなわらじを履くものがこの寺を守って
   いるのか」と驚いて魔が去っていくといわれている。また、健脚を祈ってこのわらじに触
   れていく人もいる。                         金龍山浅草寺
   
O-Waraji
   This pair of huge traditional straw sandals called "O-Waraji"had been made by 8
   00 citizens of Murayama City in a month and devoted to Senso-ji.O-Waraji is mad
   e of straw and 2500 kilograms in weight,4.5 meters high. They are the charm aga
   inst evils because they are symbolic of the power of "Ni-Ou".Wishing for being g
   oodwalkers,many people will touch this "O-waraji".


 
1回目
 昭和16年1月、浅草寺を信仰していた松岡俊三代議士の雪害問題の解決記念と日支事変の戦勝祈
 願を込めて初めて大わらじを奉納した。
 
2回目
 昭和39年4月
 宝蔵門が再建され、村山市出身の彫刻家村岡久作と錦戸新観の両仏師の仁王尊像が宝蔵門に安置さ れたことを記念し大わらじを奉納した。寄進が定着したのはこの年からだ。
 
3回目
 昭和47年3月
 大わらじが古くなったので8年ぶりに奉納した。
 
4回目
 昭和53年10月
 浅草寺開創1350年祭記念「大開帳」に合わせて6年ぶりに奉納した。
 
5回目
 昭和63年10月30日
 地域の誇りと伝統を重んじて10年ぶりに大わらじを奉納した。
 この年、昭和天皇ご病気のため奉納が危ぶまれたが、地域の熱意と佐藤市長特段の計らいで奉納が
 実現した。5回目以降、村山市が支援している。

   浅草寺の大わらじの由来
   浅草寺の仁王尊に奉納する大わらじも、今回の製作で第5回を迎えることになったが、そ
   もそもの始まりは昭和4年の秋の事である。折柄楯岡町青年団主催で藁工品の展示品評会
   が開催されることになった。当時青年団は町内の中心となって活躍していた。荒町青年団
   でも当時の幹部元木喜太郎氏(故人)を始め団員一同が集まりいろいろ相談の上、大わら
   じに挑戦することになったのである。
   作業場は元木家の内庭になった。いろんな努力の結果、横6尺、縦18尺、重さ120貫
   の大わらじが完成したのである。
   工夫、創造、努力、忍耐、親切、奉仕、融和、それらの結晶がこの大わらじに編み込めら
   れ、見事な出来栄えで楯岡小学校の西校舎に陳列された。見物に来た人々は大わらじの大
   きさに先ず驚き、その格好良さに再び驚いたそうである。折柄丹精こめた大わらじ、大好
   評を博した大わらじを、このままにするのは惜しい。東京の浅草寺奉納したいものだとい
   う若者の夢は大きく膨らんだ。しかし納めるための志納金、輸送費、人件費等、約200
   0円円必要であったが、その金の捻出が出来ず東京行きは断念せざるを得なかった。
   そこで町内の古老達の勧めもあって小松沢観音の仁王門に奉納することになった。小雪の
   ちらつく11月末頃、荒町青年団員の外、町内の人々約100余名が橇に載せた大わらじ
   を引いて山道を昇り小松沢観音の仁王門に奉納したのである。町内は勿論、近郊の町村か
   らも元日参りや、わらじ見物の参詣人が多く小松沢観音は大賑わいとなった。
   写真を撮りに来たのは当時の幼年倶楽部(講談社発行)の記者が最初であった。「日本一
   の大わらじ」という見出しでグラビアに載ったのである。未だ一般にはカメラなど普及し
   ていなかった時代である。
   その後、時の衆議員議員松岡俊三先生(故人)が提唱し奔走された雪害問題が政治的に解
   決したので、その御礼と日支事変の戦捷祈願を兼ね、昭和16年1月23日松岡先生が深
   く信仰しておられた浅草寺に護国の大わらじとして納めることが出来て、一躍楯岡町の大
   わらじは有名になったのである。当時大政翼賛青壮年団長であった原田敏雄氏(故人)並
   びに楯岡荒町出身で東京在住の矢矧吉之助氏(故人)の物心両面での協力援助が多大だっ
   たことを聞いている。
   浅草寺は昭和20年3月10日の大空襲により灰燼に帰した。その後、復興再建された際
   に郷土出身の大彫刻家村岡久作氏が宝蔵門仁王尊を彫刻されたその記念に、新しいわらじ
   を寄進する運びとなり、昭和39年4月11日に奉納した。しかもその時の輸送は、当時
   第一貨物(株)の社長であった喜早謹吾氏(故人)が無料奉仕されたのである。その後、
   昭和47年3月、同53年10月と寄進を重ね、山形県の大わらじ、村山市の大わらじは
   浅草寺と共に日本中に有名になった。この度、第5回奉納(昭和63年10月30日)を
   むかえるにあたり、過去を振り返り、関係者一同一段の努力と決意を新たにするものであ
   る。この「大わらじ」の由来は、元小松沢観音堂宮林明道師の覚書と実行委員会において
   町内有志諸賢の見聞をもとに作成したものである。
   昭和63年1月               浅草寺奉納大わらじ荒町製作実行委員会


 
6回目
 平成10年10月31日
 2年前浅草寺の大森和潮庶務部執事、大森亮圭執事局録事、浅草仲見世商店街振興組合の松村吉紘
 副代表理事の3人が村山市長を訪問。その際に、浅草寺の大わらじが古くなってきたので平成10
 年にぜひ奉納願いたいとの依頼があった。荒町町内会長、荒町農事実行組合長と会見し、地域で検
 討の上奉納依頼を受けることとなり、同9年1月30日に荒町町内に「浅草寺奉納大わらじ製作実
 行委員会」設立、委員長に矢矧八郎が就任し、10年ぶりに奉納した。
 
7回目
 平成20年10月26日
 10年ぶりに大わらじを奉納した。(村山市のホームページより)

 大提灯(小舟町)
 270×380cm。雷門大提灯と志ん橋大提灯(本堂)との間の宝蔵門に掛っている。この小舟
町大提灯も、小舟町の方々からの奉納提灯で、平成15年10月に制作し寄進されたもの。


 平和の時計(平和の塔)
 五重塔の近く(西北方向)にある。石造り九重塔的デザイン。

 
旧石燈籠
 平和の塔の側にある石造物。嘗て観音堂前あった巨大燈籠の一部だ。

   旧石燈籠(一部)
   近年まで本堂前に高さ約5mもの堂々たる石燈籠が安置されている方も多いであろう。明
   治25年に石工の酒井龜泉が奉納した燈籠であり、これはその一部である。
   江戸時代後期、亀泉の祖父栄三は酒癖が悪く、それが元で失職してしまった。栄三の妻は
   信心していた浅草寺にお参りし、夫の酒癖の悪さの許しを願い、子孫代々酒を断つ旨を誓っ
   た。この家訓を守り、やがて一家は石工として大成、亀泉がその報恩にと浅草寺にこの燈
   籠2基を奉納したのである。
   平成16年経年劣化などによる倒壊の恐れがある為、惜しまれながらも撤去され、ここに
   その一部を記念として納めた。                   金龍山 浅草寺
  

 
五重塔
 最初は天慶五年(924)平公雅によって観音堂の東南側に建てられた。その後何度か建てては焼
失することを繰り返し、慶安元年(1648)家光が再建。大工は木原杢助義久、鈴木修理亮長恒な
ど。高さ111尺。各層とも三手先・初層中備は12支の彫刻の蟇股、2層以上は間斗束。軒は二重
繁垂木で5層のみ扇垂木を用いる。昭和20年3月10日アメリカ軍の空襲で焼失した。この塔の位
置は現在「塔」の字を彫った石がアスファルトに埋め込んである。現在の塔は同48年参道を挟んで
反対側、本堂の西南のところに再建された。建物の上に五重の搭が建っている搭院づくりなので、実
際は六重塔だ。地上からの高さ53.32m(搭の高さ48.32m、うち九輪部分15.07m)。
最上階の五層にはスリランカ伝来の仏舎利が納められている。この仏舎利は日本の関係者の尽力とス
リランカ政府及び仏教界の好意により、古都アヌダラプタのイスルムニヤ王立寺院から贈呈されたも
のだそうだ。

   五重塔
   そもそも仏塔とは、遠くインドで釈尊の遺骨(仏舎利)を起塔供養したのがはじまり。ア
   ジア東漸を経て、さまざまな形となった。五重塔もその一形態。
   浅草寺五重塔は、天慶五年(942)平公雅によって創建されたのをはじめとする。その
   後、数度倒壊に遭うも、その都度再建された。徳川家光によって再建された国宝五重塔も
   昭和20年3月の戦災によって惜しくも焼失した。(戦後までの五重塔は、今と反対側の
   本堂向かって右側にあった)
   以来、浅草寺は十方各位のご信助を得て、また新たにスリランカ国の王立寺院より「聖仏
   舎利」を勧請(五重塔最上層に奉安)し、昭和48年に現在の五重塔を再建するに至った。
   地上からの高さは約53mある。(塔内非公開)            金龍山浅草寺
   
The Five‐storied Pagoda
   This pagoda, founded in 942, was rebuilt by Tokugawa Iemitsu in 1648.
   It burned in 1945 during World War Ⅱ and was reconstructed in 1973.
   On that occasion, memorial tablets of devout believers who had passed away were
   placed in the pagoda's foundation, and a bone relic of the Buddha presented by
   Sri Lanka was placed in the topmost storey of the pagoda.


   鬼の中猿が一匹浅草寺(川柳)

 たくさんの鬼瓦の中に鬼門除けの「猿面の瓦」が一枚、五重搭3層目の稚児棟に取りつけられてい
るんだって、見(め)ぇねぇーよ!
 

 旧仁王門礎石
 境内右手、浅草警察署観音前警備派出所の手前にある。

   旧仁王門礎石
   慶安二年(1649)十二月二十三日旧本堂と共に三代将軍徳川家光公により再建落慶し
   た旧仁王門(国宝指定・現宝蔵門と同規模)は、三百年間浅草寺山門として江戸・明治・
   大正・昭和と時代の変遷を見つめ、文学、絵画、芸能など往時の文化にたびたび登場して
   まいりましたが、残念ながら昭和二十年三月十日の東京大空襲により本堂・五重塔(家光
   公建立・国宝)と共に炎上焼失いたしました。
   その後、現本堂に続き昭和三十九年(一九六四)四月一日仁王門を宝蔵門と改めて同跡地
   に再建されました。
   この三つの大石は宝蔵門再建に際して旧仁王門の跡地より昭和三十七年二月六日に掘り出
   された礎石です。旧仁王門には十八本の大木柱があり、それぞれに基礎石がありましたが、
   戦火に遭いひび割れ割れ破損し、原型をとどめる大礎石三個を選び保存しました。
   石材は「本小松石」で上端の仕上げ面は約1.2m角、柱受けのホゾ穴があり、最大幅は約
   1.4m角、高さ約1m。この礎石の下部と周囲は10~15cm径の玉石と粘土で突き固
   められていました。
   江戸の人びとの息吹を感じると共に、平和を祈る記念ひとして受け継ぎたいと思います。
                                        淺草寺


■浅草不動堂 大行院

 浅草寺の境内、仁王門の脇にある天台宗の寺。

 
三宝荒神堂

 宝蔵門の手前左手にある。
 


■ほうずき市
 東京下町の夏の訪れを彩る風物詩「ほうずき市」が、例年7月9日、10日の四万六千日に境内で
開かれる。都内や茨城県などの園芸農家から続々と植木鉢が運び込まれ、450店の「ほうずき屋」
と350店の売店(香具師)で埋まる。賑やかな売り声は夜を徹して夜空こだまする。この市の人気
者「千成ほうずき」は、たった2日間の四万六千日日を目指して、春先から江戸川の鹿骨で栽培され
るが、天候に左右されて、出来不出来の多い植物で、不作の年には値段の高騰を招く。 かつては薬
用で実の青い「千成ほうずき」が殆どだったが、今では観賞用で実の赤い「丹波ほうずき」が主流に
なっている。この市は、200年近く昔の明和年中(1764)に起こったといわれている。山東京
伝『蜘蛛の糸巻』によると、芝青松寺の門前から武家屋敷に奉公していた仲間(ちゅうげん)が、6
月23日の朝、庭を掃除中に一株の千成ほうずきを見つけ、前夜愛宕権現の霊夢に与ったことを思い
出し、「6月24日の功徳日に青ほうずきの実を、愛宕の神前で鵜呑みすれば、大人は癪の種(腹の
立つ原因)を切り、子供は虫の気を封ずる」というお告げがあったと吹聴したそうだ。これを早速翌
日に試みる物好きがおり、不思議と効能があったため、何時しか境内に「御夢想の虫薬」と称して、
青ほうずきの市が立つようになった。この6月24日は愛宕権現の本地仏地蔵尊の縁日で、しかも四
万六千日の縁日だった。しかしながら元来四万六千日は観世音菩薩の功徳日だったところから、何時
しか浅草寺にもほうずきの市が立つようになり、却って愛宕を凌ぎ盛大になった。因みに青ほうずき
は、漢方では、解熱剤や婦人の胎熱に特効があるとして、江戸時代に薬として用いられてきたので、
満更効能のないものでもないのだろう。西洋医学万能が誤りを抱え、東洋医学の方が価値の高い医学
だということが理解されるようになっている。「西洋薬は石、東洋薬は草」といわれる。西洋人が薬
草を用いなかった訳ではないが、錬金術(化学)に信頼を置きすぎることは否めない。
 仏にはいろいろな縁日があり、観世音菩薩の縁日は18日、地蔵菩薩の縁日は24日と、古くから
いわれているが、室町時代末期以降 。この他の功徳日が設けられ、この功徳日にお参りすると百日
に向かうとか、千日に向かうとか、同じ功徳に与るといわれ、いわば特別デーとして広められてきた。
仏のいったことじゃないから、坊主かお節介焼きがいい始めたんだろう。観音の功徳日で日数の7月
10日で、この日にお参りすると46000日分にそうとうするということで、江戸時代からこの日
のお参りが盛んになってきた。46000という数については、諸説があり、よく判らないが、単に
「多いこと」と理解して差し支えない。つまり仏縁を結ばせるために考え出された寺側の方便だろう
さ。それで白米1升が46000粒あるといい、この日に観音にお参りすると一生をを通じて無事息
災に過ごすことが出来るとか、四六時(1日)の1000日分が
46000日で、これが根拠になっ
たとか。源頼朝が石橋山の合戦に敗れ、源氏に縁の将兵を集めて、浅草寺境内に陣した時が7月10
日で、その軍勢が46000人だったとか、人間の最高寿命を指すと説はいろいろあるが、知恵者の
寝物語だろうよ。



■浅草寺西境内 


■影向堂
 ようこうどう 平成6年10月20日浅草寺中興開山慈覚大師生誕千二百年を記念して建立された
落慶。聖観世音菩薩を中心に生まれ年十二支守り本尊の8躰の仏を祀ってある。「影向」とは、影が
形に従い、響きが音に応ずるように
、本尊の聖観音の働きを多くの仏が色々な方法や方向から助け、
そうした仏を祀ってるのでこの名がある。仏の大きなお力が、それぞれの人の機縁に応じて現れ利益
を与えてくれることだ。十二支に応じて8体の影向尊がいる。

   影向堂
   影向堂(ようごどう)は、平成6年に浅草寺中興開山慈覚大師生誕1200年を記念して
   建立されました。聖観音菩薩像を中心に生れ年十二支生まれ年の守り本尊八体の像(影向
   衆)をお祀りしているお堂です。影向とは影が形に従い、響きが音に応ずるように仏さま
   の大きなお力が、それぞれの人の機縁に応じて現れ、利益を与えて下さる事であります。十
   二支に応じて八体の影向尊がおられるところから影向堂と名づけられました。

   お堂の上、棟飾りには、火伏せの咒いとされる金箔押しの鴟尾(しび)を置く。鴟尾を取
   り付ける際は不思議と雨を呼ぶといわれており、平成6年夏の建立時も記録的な日照りで
   あったが、鴟尾を取り付けると突如として雨が降り、人々を感動させた。

   
Yogodo Hall
   Yogodo Hall was built in 1994 to commemorate the 1200th anniversary of
    the birth of Ennin, the monk who established Senso-ji. Inside,statues of Bod
   hisattva Kannon, and of 12 protective Buddhas, each assigned to a particular
    year of the oriental zodiac cycle, are worshipped.

   子年の影向尊 千手観世音菩薩  縁日毎月17日
   丑年の影向尊 虚空蔵菩薩    縁日毎月13日
   寅年の影向尊 虚空蔵菩薩    縁日毎月13日
   卯年の影向尊 文殊菩薩     縁日毎月25日
   辰年の影向尊 普賢菩薩     縁日毎月14日
   巳年の影向尊 普賢菩薩     縁日毎月14日
   中尊の影向尊 聖観音菩薩    縁日毎月18日
   午年の影向尊 勢至菩薩     縁日毎月23日
   未年の影向尊 大日如来     縁日毎月28日
   申年の影向尊 大日如来     縁日毎月28日
   酉年の影向尊 不動明王     縁日毎月28日
   戌年の影向尊 阿弥陀如来    縁日毎月15日
   亥年の影向尊 阿弥陀如来
    縁日毎月15日

 影向尊は、平たくいうというと自分の守護神だから、まさか知らないってことは・・・ないだろう
なぁ? だから自分の影向尊が本尊の寺の前を通ったら、宗派なんか関係ないんだから、お参りとい
うご挨拶をするんだよ。守ってくれるんだから大事にしろよ。

 六地蔵燈籠(都指定旧跡 仮指定大正13年2月5日、旧跡指定昭和30年3月28日)
 影向堂の前に立つ石燈籠は、高さ180cm余りで、六角形の火袋の各面に地蔵像が彫ってある。
しかし、現在では地蔵像も文字もほとんど風化し、火災に遭っていることもあり、判読できない。
 造立年代は不明だが、一説によると久安年間(1145~51)に源義朝が浅草寺を参詣した際に
鎌田兵衛尉政清
が造立したとも言われています。一方で、応安年間(1368~75)に造立された
という説もあって確定していない。何れにしても、都内に現存している石燈籠の中でも最も古い時代
の制作に属するものの一つであると考えられている。
 元は雷門の東方の吾妻橋の袂にあった。そのため、辺りの隅田川縁は「六地蔵河岸」と呼ばれてい
た。明治23年道路拡幅などの区画整理に伴い現在地に移転するまで、棹石の下半分は土に埋まって
いた。現在では、屋根付きの建物内で保護されている。


石橋(石造階)
 しゃっきょう かつては浅草東照宮の神橋。元和四年(1618)に紀伊和歌山城主浅野但馬守長
晃が奉献。同年家康を日光東照宮に祀った際、浅草東照宮が造営され、日光東照宮の神橋を模して造っ
たもの。全長3.3m×幅2.2m。東京最古の石の橋だ。

   石橋
   現存する都内最古とされるこの石橋は、元和四年(1618)浅草寺に東照宮が造営され
   た際、参詣のための神橋として造られたものである。寄進者は、徳川家康の娘振姫婿、紀
   伊国和歌山藩主浅野長晟(広島浅野家藩祖)である。この石橋は、昭和23年文部省より
   重要美術品に認定されている。                    金龍山浅草寺


■西仏板碑(西仏が建立した板碑)
 影向堂前の池の畔にある。『江戸名所図会』には「右志者四殊由三昧沙弥西仏先妻男女二子爲一殊
四弥西仏現当二世諸願円満西仏敬日』と銘文を記載してあり、中年になって出家した沙門の西仏が、
妻子の後世安楽を祈って建立したものと伝えられている。西仏板碑は、中央上部に大きく釈迦如来を
表す種字を配し、その下に蓮台に立つ地蔵菩薩と蓮華を生けた花瓶、右側には童子像、下部には西仏
が家族の今世と来世における幸福を願う文章が刻んである。建立者の西仏については、『吾妻鏡』建
長五年(1253)八月廿九日条で下総国下河辺荘の築堤工事を命じられた奉行人「鎌田三郎入道西
仏」のことだと考えられていたが、他にも何人か候補がおり詳細不明。鎌倉末から室町初期の作かと
思われる。寛保二年(1742)八月には、暴風雨で倒壊。『江戸名所図会』によると3段に折れた
ようで、一番上の部分は伝法院の中にある稲荷社の傍らにあったとされているが、残念ながら現存し
ていない。その後、文化十一年(1814)に10名の有志が集い、2本の側柱を建てて補強した。
 現存の板碑は高さ 217.9cm、幅48.0cm、厚さ4.7cm。
 鎌倉期の建立。倒壊のため文化十一年補強再建。右の補助柱にも新たな亀裂が見受けられる。
 補助柱銘文。

   惟此釋尊石像者、古昔西佛之所立、六百有餘年、于茲而折成両也久矣、乃今同志者、合着
   之、用石柱以扶持之爾、文化十一年甲戌十一月、東鑑曰、鎌田三郎入道西佛云、盖仕于鎌
   倉将軍頼嗣者也


 区の説明板は以下の通り。

   東京都指定有形文化財(歴史資料)
   西仏板碑
   指定 昭和17年9月 旧跡
      昭和56年3月12日 種別変更 ⇒ 歴史資料
   建立者の西仏(さいぶつ)については明らかではないが、この板碑は彼が妻子の後世安楽
   を祈って建立したものと推測される。建立の年代も不詳であるが、鎌倉末から室町初期か
   と思われる。
   上部が破損しているが、製作時には3m近くあったものと思われる。寛保二年(1742)
   暴風雨によって倒れ破損、文化十一年(1814)に有志が側柱を立てて支えたという。
   材質は秩父粘板岩(青石)。
   現存の板碑の大きさは高さ217.9cm、幅48.0cm、厚さ4.7cm。
   中世の信仰を知るうえで貴重な遺品であり、かつ巨大板碑の典型例である。
   平成8年3月25日建設                     東京都教育委員会
 



■老挙の句碑
 西仏板碑の隣にある。

   此華の古那木の中の櫻乃木
           藤吉古老定治鐫




■六角堂(日限地蔵堂)
 東京都指定有形文化財。文化十年編の『浅草寺誌』に元和四年の建立とあり、江戸初期の建築と考
えられ、浅草寺境内では現存する最古の遺構である。木造造り瓦葺き形式で、建物中央の直径は1m
32cm、一面の柱間は芯々91㎝。建物の基礎は、六角形状に廻した土台を布石の基礎で支え、下部
に十一弾の石積みした1m50㎝余りの井戸状の穴が掘られている。六角堂という特異な形状であり、
都内においては違例の少ない建造物で重要な我々の文化財。
 元は東方21m80㎝の場所に建っていたが、平成6年の境内整備のため移動させられた。影向堂
の南基壇上に旧位置が示されている。
 なお六角堂や八角堂は、本来「円堂」を作ろうと試みたもので、総称して「円堂」という。日本建
築は木造のため、円形平面を造るのが困難だから、六角・八角で円形と思うことにした。主に故人の
冥福を祈るために建立されることが多いので、廟建築の影響を受けているとも考えられている。法隆
寺夢殿・西円堂や興福寺南円堂・北円堂、京都市の頂法寺六角堂などが有名であると『仏教辞典』に
書いてある。
 建物は、木造、桟瓦葺、朱塗りの六角円堂で、建物中央の直径は1.82m、一面の柱間は0.91
m、都内ではあまり見かけない特異な形式の建造物だ。屋根を支える垂木は、建物の中心から傘の骨
のように放射状に広がる「扇垂木」という形式で、桁の木組みも六角形に組むため、細工も難しく、
大工の腕の見せ所の一つ。

   東京都指定有形文化財(建造物)
   
浅草寺六角堂 一棟                 昭和27年11月3日指定
   六角堂は『浅草寺誌』(文化十年編)に元和四年(1618)の建立とあり、江戸時代初
   期の建立と考えられ、浅草寺内で最古の遺構である。木造で単層の六角造り瓦(かわら)
   葺き形式で、建物中央の直径は1.82mあり、一面の柱真々は91cmである。
   建物の基礎は、六角形状に廻した土台を布石の基礎で支え、その下部に11段の石積みを
   した1.5m余りの井戸上の穴が掘られている。
   六角堂という特異な形式であり、都内においては遺例の少ない建造物で、貴重な文化財で
   ある。もとは東方21.8mの場所{影向堂の南基壇上に元位置の表示あり}に建っていた
   が、平成6年10月境内整備のためにここに移された。

   ※東京都文化財保護条例(昭和51年3月31日改正)により文化財の指定種別を都重
   宝から東京都指定有形文化財に変更したので、石造標識については、このように読み替え
   てください。
   平成8年3月25日                       東京都教育委員会
   
Senso-ji-Rokkakudo
   Wooden structure, One-story, Hexagonal style, Litht weight tile roofing (a p
   antile that combines vroad concave tiles and semi-cylindrical convex yilrd), La
   cquered in red, 1.82m inner deameter, 0.91m seide length (destance betwe
   en pillar centres).
   According to Senso-ji-Shi (chronicle of 1813 edition), Senso-ji-Rokkend
   o was built in 1618 and is therefore the oldest architecture in Senso-ji.T
   his building is valuable since hexagonal architevtures are rare in Tokyo.It was
    originally located 21.8m further east (the original locatio is inscribed on
    the south podium of Yougou-go), but moved to its current position in October
   1994 due to rearrangement.

 
日限地蔵尊
 堂内には、日限を定めて祈願すれば、必ず霊験があるという「日限地蔵尊」が安置されている。こ
のため、日限地蔵堂ともいわれている。

   
日限地蔵尊
   六角堂のご本尊。
   地蔵菩薩さまは、慈悲のお心で、この娑婆世界だけでなく地獄や餓鬼道にもおもむき、衆
   生を救われる仏さま。
   特にこの日限地蔵尊は、何かのお願い事に対し、日数を定めて祈願すれば、古来より霊験
   があるとされる。造立年代は不明。木造。               金龍山浅草寺
 


■橋本薬師堂

   
橋本薬師堂
   当初は観音堂の北方にあって北薬師と呼ばれた。慶安三年(1649)3代将軍徳川家光
   が観音堂の北西に再建し、堀に架かる橋の傍らにあったので、家光自身が橋本薬師堂と名
   付けた。平成6年現在の場所に移転、建物は桁行3間(5.35m)×梁間3間(5.10
   m
)。屋根は入母屋造瓦葺。外部はかなり改変され、前面にあった向拝は取り除かれてい
   るが、浅草寺境内に遺存する堂宇の内、浅草神社の社殿と同時代で二天門や影向堂脇の六
   角堂に次ぐ古建築である。薬師如来座像を本尊とし他に前立ちの薬師如来と十二神将像が
   安置されている。
   平成8年3月                          台東区教育委員会
   
HASHIMOTO YAKUSHI‐DO TEMPLE
   This is a temple which houses a seating figure of Yakushi Nyorai (Physician
   of Souls). In
1649 it was reconstructed near a bridge, since then it has been
   called Hashimoto Yakusi-Do:a Yakushi Nyorai temple of worship at the foot
   of a bridge.
   This temple was built in the precincts of Sensoji temple following Niten mon
   gate (important national cultural asset), and Rokkoaku-Do temple (metropolitan
    tangible cultural asset), and of the same era as Asakusa Shrine (important na
   tional cultural asset).
 


銭塚弁天堂
 橋本薬師堂の南にある。福徳財運の弁天として信仰を集める。仏教を守る善神で七福神の一人。学
問や芸能の上達、財宝や福徳の神。

   
銭塚弁財天
   弁財天さまは、七福神のお一人で仏教をお守りする善神である。芸能や学問の上達、財宝
   や福徳の神とされる。この銭塚弁財天さまは、福徳財運の弁財天さまとして、特に信仰が
   篤い。
                               金龍山浅草寺
 


■六地蔵石幢(都旧跡)
 高さ2.3m、六角小松石造り。火袋に「六地蔵尊」を刻す。両側には幟が立ち、絵馬や玩具が付いて
おり、参拝者は現在でも跡を絶たない石灯籠。六面にはそれぞれ地蔵尊が刻まれている。「江戸名所
図会」によれば、以前は雷神門の外や、花川戸町の入口角にあったとされ、それは奥州街道筋にあた
り、馬駕籠の発着場であったとしている。現在の場所に移されたのは明治23年、小林兼吉の手によ
る。建立に関しては、源義朝の浅草寺参拝の際に重臣の鎌田兵衛政清が献進したとする久安二年(1
146)説や、鎌田兵衛の寄立であるかどうかは不確かではあるが相当古いものであるとする戸田茂
睡の説など諸説がある。

   六地蔵石幢
   石幢とは石塔の一つで、龕部(仏像を納める厨子のこと)の六面にお地蔵さまが刻まれて
   いる。造立年代は不明だが、一説に、源義朝参拝の折に鎌田正清らよって建立されたとい
   われる。しかしながら、石幢造立が流行した室町時代の可能性が高い。もとは雷門の東方
   にあったもので、後に花川戸、明治になってこの地へ移された。     金龍山浅草寺


重置六地蔵碑記の碑
 影向堂の前にある六地蔵石幢が、花川戸にあったものをここに移設したという記念碑。明治26年
の建立 長岡・・・(剥落)。富田鐵之助篆額

   
重置六地藏碑記  


■宝篋印塔(銅造)

 
寛延二年(1749)荻原三郎右衛門の建立。総高9.6m 基礎部五重目に、宝篋印陀羅尼経の要
文を記し、軸部に金剛界四仏の種字を配している。第二重の基礎四面には十六羅漢像を浮彫(陽刻)
してあるのは珍しいらしい。明治40年日露戦捷記念として修復再建して大供養会を営み、塔中に戦
没者および有縁諸霊の名簿を納め、毎年追悼法要を行っている。

   宝篋印塔(ほうきょういんとう)
   高さ 9.6m
   造り 銅造
   建立 寛延二年(1749)
   製作 荻原三郎右衛門作
   宝暦11年(1761)浅草寺信徒1000人によって建立され、明治40年に改修再建
   されたもの。唐銅製。宝篋印塔には、基礎部五重目に、宝篋印陀羅尼経の要文を記し、軸
   部に金剛界四仏の種字を配している。第二重の基礎四面に十六羅漢像を浮彫(陽刻)して
   いる。                               金龍山浅草寺
 



■銅造
阿弥陀如来坐像露座)

 
元禄六年(1693)の造立で、高さ4.5m浅草田原町理性院空海の発願。 鋳造は神田鍛冶町の
今井藤治郎。もともとは本堂裏にあったものを、平
成6年にこの場所に移した。

   阿弥陀如来像
   阿弥陀如来さまは、極楽浄土にあって法を説き無量の光明と寿命をもって永遠の生命を与
   えてくださる仏さま。この像は唐銅製で、阿弥陀三尊像として元禄六年(1693)に千
   人近い信徒によって建立された。もとは本堂裏にあったものを、平成6年にこの地に奉安
   した。総高7.5m。極楽往生の諸霊の頓証菩提を祈る。        金龍山 浅草寺
 


■恵日寿・大黒天堂
 阿弥陀如来坐像の西側にある小堂。掲額に、

   大黒天
   弘法大師
   恵日寿

 とある。

   恵日寿・大黒天堂
   堂内向かって右側の恵日寿(恵比寿)、左側の大黒天はともに七福神の神として広く信仰
   を集めている。江戸時代前期の延宝三年(1675)に浅草寺に奉納されたこれらの石像
   も、参詣の方々に穏やかな顔を見せてくれる(お堂は戦後の建立)。
   また天保十五年(1844)にお堂脇に建立された石碑などによると、これらの像は真言
   宗を開いた弘法大師空海(774~835)が造ったと伝えられている。当時天台宗であっ
   浅草寺においても、宗派を超えた弘法大師への信仰が見られる点は、非常に興味深い。
                                    金龍山 浅草寺
 


■めぐみ地蔵堂
 恵日寿・大黒天堂の向かって左横にある小祠。「めぐみ地蔵堂」の掲額のある小堂に白い着物を着
せられた石地蔵が立っている。
 


■出世地蔵・育徳地蔵・子育地蔵堂
 恵日寿・大黒天堂の向かいに小堂が3基並んである


九頭竜権現社・金龍権現社
 影向堂前の池の側に並んである。

   
九頭龍権現
   龍神さまは、仏教をお守りし、雨を操り、われわれに五穀豊穣や福徳を授けてくださる。
   この九頭龍権現は長野県戸隠山の地主神で、昭和33年の本堂再建にあたって、その成就
   を祈るべく勧請された。現在も浅草寺の伽藍安穏の守護神である。    金龍山浅草寺

   
金龍権現社
   寺伝の縁起によれば、浅草寺ご本尊観音さまのご示現にあたり、天より百尺ばかりの金龍
   が舞い降りて、その功徳を讃え観音さまをお守りしたとされることから、浅草寺の山号を
   「金龍山」という。これにより奉安されたのが、この「金龍権現」である。
   このことに因み、現在3月18日と10月18日の年2回、浅草寺境内にて寺舞「金龍の
   舞」が奉演されている。                       金龍山浅草寺
 


■銭塚地蔵堂
 享保年間(1716~36)に摂津国(兵庫県)の銭塚地蔵尊より勧請し創建。昭和39年再建。

   銭塚地蔵堂
   昭和39年再建されたこのお堂には、石造の六地蔵が安置されており、その下に「寛永通
   宝」が埋められているということから「銭塚」の名がある。
   江戸時代に摂州有馬郡に山口なる者がおり、その妻がある日、庭先で寛永通宝が沢山入っ
   た壺を掘りあてた。だがこれに頼って働かずにいては、家は滅びてしまうと考え、誰にも
   いわず再び土中に埋め戻した。この心掛けによって一家は繁栄したので、その坪の上に地
   蔵尊を祀ったという。
   お堂のご本尊は、その分身を勧請したもので、商売繁昌のご利益があるといわれる。
   毎月「四の日」と正・五・九の各月二十四日に法要が営まれ、参拝者は塩と線香とローソ
   クをお供えする。特に塩をお供えするので、「塩なめ地蔵」の名もある。 金龍山浅草寺

 カンカン地蔵
 銭塚地蔵堂前右側の石碑。以前は大日如来の姿であったと伝えるが、現在は、地震や火災に遭い、
頭・手・足などその形を存しない。俗にこれを「かんかん地蔵」と称し、塩を奉納して参拝する習慣
がある。その名は、参拝者が石を打って祈ると、「かんかん」と音が出ることに由来すると伝えられ
る。

   カンカン地蔵
   このお地蔵さまは、お姿の原型をほとんど残していない。古来よりお参りの方が、付随の
   「小石」で御身を軽く「たたき」お願いする。石で軽く打ち祈ると「カンカン」という音
   が鳴るので俗にこのように称されている。
   (刃物や他の石などで御身を削ることは硬く断りしている)       金龍山浅草寺


六地蔵石灯籠
 高さ2.3m
六角小松石造り。火袋に「六地蔵尊」を刻す。両側には幟が立ち絵馬や玩具が付い
ており、参拝者は現在でも跡を絶たない石灯籠。六面にはそれぞれ地蔵尊が刻まれている。『江戸名
所図会』によれば、以前は雷神門の外、花川戸町の入り口角にあったとされ、それは奥州街道筋に当た
り、馬駕籠の発着場であったとしている。現在の場所に移されたのは明治23年。小林兼吉の手によ
る。
建立に関しては、源義朝の浅草寺参拝の際に重臣の鎌田兵衛政清が献進したとする久安2年(1
146)説や、鎌田兵衛の寄立であるかどうかは不確かだが、相当古いものであるとする戸田茂睡の
説など諸説がある。都旧跡。
 


■三峰神社
 秩父の三峰神社より勧請した。三峰信仰は江戸時代より飛躍的に盛んになった山岳信仰で、災難除
け、火災や盗難除けの御利益がある。
 


■一言不動堂
 本尊は願い事を一つに限って祈ると霊験があるとされる不動明王。

   一言不動尊
   怒りのお姿をした不動明王さまは、そのお姿をして教化し難い者を導き、その力でわれわ
   れの迷いの心を打ち切ってくださる仏さま。この一言不動産は、何か願い事を一つに限っ
   て祈願すると、その願いがかなうとされ、古来より霊験が著しいといわれている。
   享保十年(1725)造立。                     金龍山浅草寺
 


■薬師堂
 一言不動堂の横にある。


聖観音菩薩像(千日参供養物)
 五重塔を背にした大慈大悲の心を以て苦を取り除き、安楽を与えてくれる仏。浅草寺本尊と同じ。
享保三年(1718)孝山義道ほか数十名で造立。「千日参供養仏」と台座に刻まれている。

   聖観音菩薩像
   観音さまは、我々の苦しみを取り除き、お願いをきいて「慈悲の心(あたたかい心)」を
   与えてくださる仏さま。
   この像は、尾張国の孝山義道の発願により、享保五年(1720)に建立された。
   台座に「千日参供養佛」と刻まれている。銅製。            金龍山浅草寺


■三尊名号の碑
 正面に南無阿弥陀仏、振り分けに観世音菩薩・大勢至菩薩の名号を刻す。文政六年(1823)建
立。上野屏風坂下の鹿島屋平兵衛の奉献。

     観世音菩薩
   
南無阿弥陀仏
     大勢至菩薩
 


仏頂尊勝陀羅尼の塔
 仏頂尊勝陀羅尼を梵字で刻す。元治元年(1864))の建立。梵字で刻まれている碑。

   
佛頂尊勝陀羅尼 

   以下梵字銘文。


■金翠翁の句碑
 天明六年(1786)吉村達安が自作の三句を刻んだ者を、文化六年(1809)の建立。文字は
読めない状態。
 


老挙の句碑

 
「此華の古那木の中の桜の木」とあり、銘に藤吉古老挙定治鐫とある。
 


■穴地灯籠
 



■浅草寺北境内 

■銭塚地蔵尊
 江戸時代の後期に摂津国(兵庫県)に山口貞樹という武士の妻が住んでいて、垣根の修理中に庭から
銭の一杯詰まった壺が出てきたが、山分けしようとした人夫たちを「銭は働いて得るもの」と諭し、
壺を再び埋めっちまった。二人の息子たちも母の教えを守り、真面目に働いたからめ山口家は栄え、
壺の上に塚を作り地蔵尊を建て「銭塚地蔵尊」と呼ばれた。正徳三年(1713)息子の一人が浅草
で成功し、郷里の銭塚地蔵尊から分祀したのが由来。塩を供えたことから塩舐地蔵とも称され、正直
・質素を旨として商売繁盛の祈願を集めている。
 


■9代目市川団十郎「暫」の像
 大正8年新海竹太郎制作のものを、昭和61年12代目団十郎襲名記念として復元した。台座銘:
堀越秀像銘并序 鴎外森林太郎撰 不折中村鈼太郎書。

                    
   大正8年江戸歌舞伎ゆかりの地 浅草の浅草寺境内に 劇聖と謳われた明治の名優九代目
   市川團十郎の歌舞伎十八番「暫」の銅像が作られました この銅像は 近代彫刻の先駆者
   新海竹太郎氏の傑作であり 歌舞伎の象徴として全國の人々から親しまれておりました。
   ところが第二次世界大戦中の昭和19年11月30日金属回収のため、この「暫」の銅像
   も供出の命を受け 40余年を経てまいりました
    この度 12代市川團十郎襲名を機に 復元の機運が高まり浅草寺の御理解のもと、多
   くの方々に御尽力を賜り ここに「暫」の銅像が再現されました。11代目並びに12代
   市川團十郎父子 地元浅草及び松竹株式会社三者の永年の願いが叶えられたことになりま
   す こののちも 歌舞伎の隆盛とともに この「暫」の銅像が歌舞伎の象徴として 日本
   國民はもとより世界の人々からも 幾久しく愛されますことを願ってやみません
   昭和61年11月3日                       宇野信夫 撰書
                    
九代目市川團十郎「暫」銅像   十二代市川團十郎
                         
復元建設委員会     浅草観光連盟
                                     松竹株式会社
 

 宝篋印塔
 
寛延2年(1749)萩原三郎右衛門の奉献。2層4面に十六羅漢像の陽刻。
 

 阿弥陀如来石像

 地蔵菩薩石像
 延享五年(1748)造立。

 
宮古路豊後椽の墓
  「還国院誉本自性居士」と塔身に刻む。延享三年(1746)造立。浄瑠璃を江戸に定着させた豊
後節の開祖。
 

 釘供養塔

   
針供養塔

 
宝篋印塔
 宝暦三年(1753)佐藤平治郎佳寛が有縁諸霊位菩薩のため造立。

 
十万人講供養塔
 享保六年(1721)観音堂修繕に際し別当公然僧正が組織した講中。その時の施主名簿が収納さ
れている。


 
如意輪観音石像
 享保二十年(1735)僧常念の造立。江戸浅草寺、京都清水寺四十八往復参拝記念。


 
地蔵菩薩石像
 堺町の山城屋万之助が先祖供養のため建立。

 地蔵菩薩石像
 延宝五年(1677)木食阿闍利安信和尚造立。奉納法典六十六部など。

 
法華経供養塔
 廻国供養のため享保十九年(1734)建立。


 消防殉職者表彰碑 
 浅草観音の本堂裏にあるこの碑は、宮内省から200円の下賜金を頂戴した警視庁消防職員が大正
元年に建立したものだ。碑の裏には幕末の町火消しや警視庁消防隊員など、計120人の殉職した消
防関係者の名が連なり、その功績が顕彰されている。
また毎年5月25日の「弥生祭」に、江戸消防
記念会が勢揃いし纏を振って殉職者の慰霊を行うわれる。

   消防殉難者表彰碑

 江戸消防記念碑
 表彰碑の傍らにある2本の石柱。昭和36年に建立された江戸消防記念会の碑だ。

   市 部 消 防 組
   
社團法人  江戸消防記念會

 
大谷米太郎夫妻銅像
 宝蔵門の寄進建立をはじめ、浅草寺の復興に尽くされた夫妻讃仰のため昭和42年造立。「功徳大
宝海」は清水谷恭順貫首の筆。

      大谷米太郎翁壽像記
   翁ハ明治十四季富山縣ニ生ル牡ニ
   シテ上京大谷製鋼所ヲ創立シ社運
   隆々今日ノ大ヲナス夙ニ大慈ニ歸
   依シ浅草寺信徒總代トナリさと子
   夫人ト共ニ宝藏門ノ寄進ノ外伽籃
   ノ復興ニ盡力シ衆庶ノ信仰ヲ莊嚴
   ス其ノ功徳永ク金龍ト倶ニ輝カン

      昭和四十二年十月一日


 
写経供養塔
 安永四年(1775)建立の宝篋印塔。銘文は風流人三井親和の筆。この仏塔の側面に彫られてい
る文字は経文で、案内板によると「写経して奉安し礼拝供養すれば、過去の悪行も消滅して成仏でき
る」と言う意味の事が記されているのだとか。

   宝篋印塔
   「宝篋印塔」とは「宝筐印陀羅尼」という経典を収めたこと由来する仏塔で、日本では主
   に石塔婆の一つの形式として盛んに造立された。
   この塔は江戸時代中頃安永四年(1775)に、境内に借ってった荒澤不動堂の實圓を導
   師として造立され、銘文は江戸深川に住む書家三井親和によって揮毫された。
   塔の四方には「宝篋印陀羅尼」の経文の一部が刻まれており、「お経を書写して奉安し、
   礼拝供養する者、過去のの罪障が消滅する」など、計り知れない功徳を得ることが説かれ
   ている。功徳を得ることを願う人々の祈りの声がきこえる。      金龍山 浅草寺

 百瀬耕元の碑
 耕元は百瀬流書道の祖。蜀山人詩。文化12年(1815)の建立。

   
澗水の藍よりいでて藍よりも青き百瀬の渕とこそなれ

 一葉観音像(唐銅造)
 寛政九年(1797)造立。秩父32番札所の本尊の模刻。頭上に笠を被って手に櫂を持ち、蓮の
花びらを舟に模して乗っている観音像。その一葉観音菩薩像は新吉原江戸町の質両替業万字屋の佐野
ひでによって寄進された。ひでの息子久次郎は当時14歳、ある日品川沖に遊漁に出かけた際、不幸
にも海苔船と衝突して海に投げ出され溺死してしまった。子の霊を慰めようと思ったひでは、浅草寺と
本所回向院と菩提寺の3ヶ所に数年を費やして一葉観音菩薩像を建立したという話が伝わっている。
今でも子の菩薩像は金網で囲われて安置されている。

   一葉観音
   埼玉県の秩父三十四観音札所の第三十二番法性寺の観音像を模して造られた。蓮の一枚の
   花びらの上に乗り、楫を持ち、笠をかぶったお姿。
   新吉原の「ひで」という女の12歳の息子久次郎が、水難事故によって亡くなったことを
   偲び、息子の菩提のため、また今後このようなことのないようにとの、「ひで」の願いに
   よって造立された。寛政九年(1797)に造立。唐銅製。       金龍山浅草寺



■浅草神社
 浅草2丁目3番1号、観音堂の東側にある。三代将軍徳川家光が、元は東照宮の祈願所跡地に、慶
安三年(1650)観音堂の再建と同時に神社を造営、土師真中知・浜成兄弟・檜前武成の霊を合祀
し、浅草寺の守護神、浅草一円の総鎮守とした。三人の御社なので三社様と俗称する。三社祭りは浅
草神社の祭礼なのだ。権現造りの社殿は、造営当時のもので国の重要文化財だ。三社様は浅草寺が天
台宗となり、「金龍山伝法心院浅草寺」を名乗った頃には、既に鬼門(東北)の押さえとして既に祭祀
はあったようだ。神社は明治政府の神仏分離令により「浅草寺」と分けられるまでは一体のものだっ
た。現在も法人格は違おうとも三社あっての浅草寺であり、観音様あっての神社だ。三社祭を浅草寺
の祭りとだ思っている人は多いんだよ。むかしは「観音祭」と呼ばれ、観音が網に掛かった三月一七
日、十八日の両日に行われていたが、分離後、観音祭は浅草寺法要としての示現会(じげんえ)」と、
浅草神社の例大祭としての「三社祭」とに分かれ、示現会は3月18日に、三社祭は5月17・18
日(現在はこの日に近い土・日)に執り行われるようになった。三社祭は初夏の大祭。神輿が100
基も出る。人出は100万人という。

   いい漁があって三人玉の輿(川柳)
   三人が掬い諸人が救われる(川柳)

 中知・浜成・武成のそれぞれの子孫 土師氏の子孫は専当坊、浜成の子孫は斎頭坊、竹成の子孫は
常音坊と称し、世に「浅草寺三譜代」と唱え明治維新にまで至ったが、折しも神仏分離の政策に当り、
専当坊長夷は復飾して土師内膳と改め純然たる三社の神職となった。現宮司の矢野泰良はこの土師氏
62代に当る。
 三社とは、土師真中知命・檜前浜成命・檜前竹成命の三柱をいう。
 狛犬は、千住河原町の稲荷神社の狛犬と、大きさも彫刻も台座もそっくりだ。稲荷の方には何も刻
してないが、こちらのは阿像が「田町 文三郎」、吽像が「山川町 虎五郎」と刻してあり、奉納者を
意味するのか、施主なのかよく判らない。田町は浅草田町、山川町は山谷川の南西、待乳山の北西の
町、両方合わせて山川町だ。

   浅草神社
   推古天皇36年(628)桧前の浜成・竹成兄弟は隅田川で浅草観音の像(浅草寺本尊)
   を網で拾い上げた人物、真中知はその像を安置して浅草寺を創建したと伝えられる。土師
   真中知命(はじのまつちのみこと)・桧前浜成命(ひのくまのはまなりのみこと)・桧前
   竹成命(ひのくまのたけなりのみこと)の三神を祀る神社であるから、「三社様」と呼ば
   れた。鎮座年代は不詳。鎌倉時代末期には祭礼が行われたという記録がある。東照宮は権
   現様すなわち徳川家康のことで、慶安二年(1649)に合祀された。以来、三社大権現
   といい、明治元年(1868)三社明神、明治6年浅草神社(あさくさじんじゃ)と改称
   した。慶安二年に完成した現在の社殿は、徳川家光が再建したもの。建築様式は、本殿と
   幣殿とは接続しているが、幣殿と拝殿とは分離し、その間に渡廊下「石の間」(弊殿・相
   の間ともいう)を設け、屋根の棟数の多いことを特徴とする権現造となっている。朱漆仕
   上げで、本殿と幣殿の内法長押以上は極彩色である。この社殿は江戸時代初期の代表的権
   現造として評価が高く、国の重要文化財の指定に指定されている。
   毎年5月17・18両日の大祭は、江戸時代から「三社祭」と呼ばれ、特に第三日曜には
   本社神輿の宮出し・宮入りがあり、氏子町内の百基余の町神輿も集り、拝殿では都指定無
   形民俗文化財「柏板(びんざさら)」の奏演という神事舞も行われ、人々が群集し、賑や
   かである。                           台東区教育委員会
 


■三社神輿

 戦前、神社には新旧7体の神輿があった。古いものの中には、寛永十四年(1637)に家光より
寄進されたものがあり、その後300年間を担ぎ抜かれた見事なものだった。昭和2年以来保存され、
新たに3体を新調したが、アメリカ軍の空襲で神輿庫が焼け、四之宮(明治初年田町で新調した東照
宮の神輿)とも新旧7体全部を焼失した。現在のものは、一之宮と二之宮が昭和25年、三之宮が昭
和27年に、氏子44ヶ町によって奉納されたもので、聖天町の宮本神輿店の手になる。しかし往時
のものより胴が細くわらび手が大きくなったので古風な味は失われた。祭神は浅草寺本尊観音像の示
現に関わった中知・浜成・竹成の三人を祀ったものであり、「三社明神」と称され、「一之宮」が中
知、「二之宮」が浜成、「三之宮」が竹成に配されている。このほか徳川家康、大国主命も祭神で、
家内安全・豊作豊漁を司る。神輿の台座幅は、3体とも1290mm(4尺2寸5分)。重量は一之
宮が1060Kg。二・三之宮が1000Kgである。千貫神輿とはいうが精々283貫でとても100
0貫はない。高さは、一之宮が2620mm。二・三之宮が2120mmだ。千貫神輿は富岡八幡の
一之宮だけだ。4トン半ある。
 神輿を担ぐ時のかけ声について、今や三社祭も「セイヤ」「ソイヤ」が主流になっているが、以前
は今も頑固にその伝統を守っている深川祭と同じ「ワッショイ」だった。これをイントネーションか
ら分析した人によると、ワッショイ→ワッショイ→ショイワッ→ショワ→ソヤ→セヤと変化したとい
う。「ワッショイ」とは、大勢で重いものを担ぐ時のかけ声であり、上に持ち上げる過程で、語韻が、
まるで円運動を描く様に変化していったという。そしてそこに地域外の言葉「セイヤ」が入って来た
ことになる。明治期の「東京風俗志」によれば、「ワッショイ」とは、「和を背負う」「和をもって
和を担ぐ」「和一処」「皆がひとつになって力を合わせる」「一つの目的を達成する」とある

   結綿に花櫛に三社祭かな(野村喜舟)
   大団扇三社祭を煽ぎたつ(長谷川かな女)
   神輿渡御待つどぜう汁すゝりけり(久保田万太郎)
   祭の灯浅草の濃き闇ゆきたし(野村莵絲子)
   
下町やをとこも刈って祭髪(鈴木栄子)

 ※また裏鬼門の押さえとして勧請されたのが日枝山王社で最初は平川門の辺りにあった。日輪寺柴
崎道場-神田明神に対抗したのかも知れない。また御茶ノ水から東の神田川は浅草川の川筋を利用し
たもので浅草と俗称された範囲は浅草区ほどの広さだったようだ。

 
神木「槐」
 境内にある。中国原産の豆科の落葉高木で、高さは10mにもなる。初夏黄白色の蝶形の花を付け
中国では記念樹として植えられるが、日本では街路樹などにも多く植えられている。浅草寺境内の槐
の木は、枯れては生えているので絶えることがないそうだ。


   神木「槐」の木の由来
   槐(えんじゅ)は中国原産のマメ科の落葉喬木で、葉は藤に似、夏、黄白色の花をつけ、
   高さ10mに及ぶ。古来中国では宮廷の庭に3本の槐を植え三公のつく位置を示したとい
   われる通り、高貴の木として珍重された樹木である。

   浅草寺のご本尊の聖観音菩薩は推古天皇三十六年(628)3月18日、隅田川で漁をし
   ていた檜前浜成(ひのくまはまなり)・竹成(たけなり)の2兄弟によって網得され川辺
   の槐の木の切株に安置されたが、その主、土師仲知(はじなかとも)の教導により、3人
   共々深く観世音に帰依し、草堂を結び自邸を寺にかえたのが浅草寺の始まりと伝えられて
   いる。その後この3人が浅草観音示現の功労者として、三社権現の尊称を奉られ、神とし
   て祭祀されたが、これが当浅草神社であるから、槐は浅草寺にとっても当社にとっても非
   常に因縁の深い木である。

   その故か、当境内には槐の木が自生し、枯れては生え、枯れては生え、連綿として絶える
   事がない。まことに不思議な縁を感じさせる木である。

   昭和62年9月                          浅草神社奉賛会
                                    浅草 観光連盟

 久保田万太郎の句碑
 鳥居を潜った右手にある。万太郎は明治22年浅草田原町生まれた生粋の浅草っ子。昭和40年建
立。久保田万太郎は明治22年11月7日此地に生まれ、市立浅草尋常小学校へ入学、府立三中に学
び大正3年慶應義塾大学文科を卒業し、10月移転する迄の26年間浅草に在住した。 昭和38年
5月6日永眠するまでの明治・大正・昭和の三代に亘り、常に下町の義理と人情を描写した小説、戯
曲の作品多く、其他文学、演劇界に多大の功績を残した作家であった。

   竹馬やいろはにほへとちりちりに 万

 台座銘文

    久保田万太郎ハ東京ノ人 明治二十二年
   十一月七日生レ 昭和四十八年五月六日二
   ワカニ逝ク 慶應義塾在學中年二十二ノト
   キ小説朝顔ノ一篇ニヨッテ文壇ニ知ラレテ
   以来五十年 小説戯曲及ビ俳句ニ名作多ク
   前ニ日本藝術院會員二選バレ 後ニ文化勲
   章ヲ授ケラレ 更ニ逝去ニ際シ従三位勲一
   等ニ叙セラレタノハソノ榮トスルトコロト
   察セラル 久保田ハ淺草ニ生レ淺草ニ人ト
   成ル 観世音周邊一帯ノ地ノ四時風物トソ
   ノ民俗人情ヲ描イタ大小ノ緒篇ハ日本文學
   ニ永ク淺草ヲ傳エルモノトイフベキデアロ
   ウ ココニ有志ノ者等相圖リ コノ地ヲト
   シ 句碑ヲ建テテ其人ヲ偲ブ
   時ニ昭和四十年十一月七日   古泉信三


 台座裏面

   昭和四十年十一月一日
     日本演劇協會
     浅草神社奉賛會
     浅草観光連盟
          建立
     設計者伊藤喜明


 川口松太郎句碑
 鳥居を潜った右手にある。川口松太郎は明治32年浅草今戸に生まれ、昭和11年第1回直木賞受
賞の「鶴八鶴次郎」を初めとして小説脚本に名作多く文壇劇壇に多大な足跡を印す。特に新派俳優花
柳章太郎、水谷八重子らによって演じられた情緒豊かな諸作品は観客を魅了した。このたびの功績に
より、同38年菊池寛賞受賞 同40年芸術院会員 更に同44年「しぐれ茶屋おりく」の一篇によ
り吉川英治文学賞受賞 同48年文化功労者に叙せられる。最晩年渾身の筆で連載小説「一休さんの
門」を脱稿後、同60年永眠、行年85才 同62年三回忌に因んで松竹・文芸春秋・劇団新派・講
談社・明治座・読売新聞の6社が、
終世の師久保田万太郎の傍らに句碑を建てた。


   生きるという
   ことむずかしき
   夜寒かな

 碑裏、

   松竹株式会社 文芸春秋社
   劇 団 新 派 講 談 社
   明  治  座 読売新聞社
   浅草観光連盟
   昭和六十二年六月九日
        設計 中嶋八郎


 説明板は以下の通り。


   
川口松太郎 句碑
    川口松太郎ハ明治三十二年十月一日浅草今戸ニ
   生レル昭和十年第一回直木賞受賞ノ「鶴八鶴郎」
   ヲ初メトシテ小説脚本ニ名作多ク文壇劇壇ニ多大
   ナ足跡ヲシルス 特ニ新派俳優花柳章太郎水谷八
   重子等ニヨッテ演ジラレタ情緒豊カナ諸作品ハ観
   客ヲ魅了ス 這般ノ功績ニヨリ三十八年菊池寛賞
   受賞 四十年芸術院会員 更ニ四十四年「しぐれ
   茶屋おりく」ノ一篇ニヨリ吉川英治文学賞受賞 
   四十八年文化功労者ニ叙せられる 最晩年渾身ノ
   筆デ連載小説「一休さんの門」ヲ脱稿後昭和六十年
   六月九日永眠ス 行年八十五才 三回忌ニ因ミ故
   人ノ終世ノ師久保田万太郎ノ傍ラニ同ジク句碑ヲ
   建テテ這者ヲ偲ブ
    
生きると いうこと
     
むずかしき 夜寒かな
   昭和六十二年六月九日 建之
         松竹株式会社 文芸春秋社
         劇 団 新 派 講 談 社
         明  治  座 読売新聞社
                   浅草観光連盟


 粧太夫の献碑
 蕋雲(ずいうん)女史書の柿本人麻呂歌碑。鳥居を潜った右手にある。粧太夫(よそおいだゆう)
は書に秀でた遊女で、書は中井薫堂に学んだ。柿本人麻呂の和歌を万葉仮名で刻む。

   保農々々登明石能浦廼
   旦霧爾 四摩伽久礼行
   不念遠之所思
       
蕋雲女史文鴦書

 区の説明板は以下の通り。

   粧太夫碑蕋雲女史書の柿本人麻呂歌碑
                            台東区浅草2丁目3番 浅草神社
   ほのぼのと明石の浦の朝霧に
        島かくれゆく船をしぞおもふ

   有名な万葉歌人柿本人麻呂の和歌を万葉仮名で刻んだもので、骨太な文字を認めたのは碑
   文にあるように蕋雲女子である。蕋雲は文化年間(1804~17)、遊里新吉原の半松
   楼に抱えられていた遊女で、源氏名を粧太夫といい、蕋雲はその号である。粧太夫として
   当時の錦絵にも描かれており、書を中井敬義に学び、和歌もたしなむ教養のある女性で、
   江戸時代の代表的な文人、亀田鵬斎から蕋雲の号を贈られたほどの人物であった。
   この歌碑は、人麻呂を慕う太夫が、文化十三年(1816)八月、人丸社に献納したもの
   である。人丸社は幕末の絵図によると、三社権現(現在の浅草神社)の裏手にあったが、
   明治維新後に廃され、碑のみが被官稲荷のかたわらに移され、昭和二十九年十一月、現在
   地に移された。
   平成8年3月                           台東教育委員会
     MОNUMENT TO YOSO-OITAYU
    (In memory of K.N.H Miss Zuiun, using calligraphy inscribed one of his
    Wa ka poems on this monument).
    Honobonoto Akasi no ura no asagiri ni sima kakureyuku hune wo sizo omou
   The famous Man-yo poet, Kakinomoto no Hitomaro inscribed this poem in ancien
   t Japanese phonetic characters(Man-yo-gana)using the calligraphy of Miss Zui
   un,an intellectual of that period.
   She was a courtesan and called Yoso-oi Tayu. Zuiun was her pen name. She wa
   s an excellent calligraphist, Waka poetess, and a caltured woman,sho was often
   depicted in coloured woodblock prints.
   This monument was offered to Hitomaro-sha( a shrine to worship Kakinomoto no
   Hitomaro) in August of 1816 by Yoso-oi Tayu who adored Hitomaro. The sh
   rine was destoroyed after the Meiji Restorarion, except for this monument whic
   h was moved have in November of 1954.


 初代市川猿翁の句碑
 鳥居を潜った左手にある。孫の団子に3代目猿之助(2代目猿翁)を譲り、自らは猿翁を襲名。昭
和38年4月浅草寺の襲名お練り、同5月歌舞伎座に於いて襲名興業。「猿翁」(東京書房刊)には
「翁の文字まだ身にそはず衣がへ 猿翁 昭和37年5月猿翁襲名のとき」とある。明治21年浅草
千束町2丁目に生れる。父喜熨斗亀次郎(初代市川猿之助‐段四郎)、母古登の長男。弟と妹は10
人、兵役を終えたのち、同43年2代目市川猿之助を襲名。昭和38年5月聖路加病院にて死去。享
年75才。

   翁の文字まだ身にそはず衣がえ 

   建碑 昭和42年5月17日
   撰文 市川猿翁
   孫団子に三代目猿之助を譲り、自らは猿翁を襲名。昭和38年5月、歌舞伎座に於て襲名
   興行。(浅草寺の襲名お練りは4月16日)

   『猿翁』(昭和39年6月 東京書房刊)には、「翁の文字まだ身にそはず 衣がへ 猿
   翁 昭和37年5月 猿翁襲名のとき」とある。

   明治21年5月10日、浅草千束町2丁目に生れる。父、喜熨斗亀次郎(初代市川猿之助
   ー段四郎)、母古登の長男。(弟妹は十人)兵役を終えたのち、明治43年10月(22
   歳才)で二代目市川猿之助を襲名。

   昭和38年6月聖路加病院(心不全)にて死去。享年75才。
   昭和36年3月28日浅草3丁目39番地に、生家に因みて「猿之助横丁碑」を建てる。
                                     浅草観光連盟


   ここに住みし役者あり春の町(初代猿之助)


 扇塚
 「舞扇」の供養塚。昭和39年花柳徳太郎が造立。しかし扇捨てには花柳佐貴太郎・泉徳右衛門の
名が・・・別物なのか?。
扇塚は使い終わった扇を供養する塚である。

   古扇  納め箱
   わたくし達日本舞踊を志すものにとりまして扇は欠くことの出来ない品でございます。使
   い古された扇はどうぞこの箱にお納め下さい。毎年四月八日にご祈祷の上、扇に感謝のご
   供養を致します。                          花柳流花柳会


 こち亀の碑(「友情はいつも宝物」碑)
 
平成17年8月6日、境内に〝こちカメ〟こと秋本治のギャグ漫画『
こちら葛飾区亀有公園前派出
』の記念碑が建った。亀有とは無縁だが、浅草は主人公両津勘吉巡査長の出身地と設定されており、
第1話に浅草が舞台のものがあり、佃煮屋「よろづや」の息子ということになっている、その縁によ
るらしい。なお平成18年2月常磐線亀有駅北口に、11月に同南口に、両津勘吉巡査長の銅像が立
てられた。行ってみたい銅像のランキング1位らしい。同駅南口にもある。
 平成28年9月を以て「こち亀」は終載した。

   友情はいつも宝物

    昭和51年に「週刊少年ジャンプ」で連載を開始して以来、多くの人々に愛されてきた
   「こちら葛飾区亀有公園前派出所」。物語の舞台となるここ浅草は主人公である両津勘吉
   を育み、また多くの感動を生み出してきました。この碑は、両津勘吉の少年時代の友情を
   描いた「浅草物語」にちなみ、人を思いやる気持ちの大切さ、そして子供たちが夢や遊び
   心を忘れず健全に成長してくれるよう願いを込めて建てられました。
   平成17年8月6日建立

   「浅草物語」概略
   ある日、浅草で一緒に遊んだ同級生が偶然再会。かつての悪ガキ両津勘吉は警察官に、か
   つての優等生は、逃亡犯になっていました。両津は、子供の頃にここ浅草神社(三社様)
   の神木、槐(えんじゅ)の木の下に一緒に埋めたベーゴマの話を持ち出して二人の友情を
   確かめ合いました。そして、逃亡犯は自首することになったのです。

      ジャンプ・コミックス「こちら葛飾区亀有公園前派出所」57巻「浅草物語の巻」より

   「こちら葛飾区亀有公園前派出所」
   作者 秋本治
   連載開始 昭和51年週刊少年ジャンプ(集英社)

   両津勘吉
   職 業 警察官(巡査長)
   誕生日 3月3日
   出身地 東京都台東区千束
   身 長 約162cm
   体 重 約71kg
   特 技 自転車乗り

 ※平成28年9月3日連載40周年記念絵巻奉納式に於いて「こち亀」終了発表。

   こち亀週間連載終了によせて
   びっくりさせて申し訳ないです。今日、こんなめでたい席で終わっちゃうのは寂しいかも
   しれないけど、本当はすごくおめでたいことで、少年誌で漫画が40年続くってことはまず
   ありえないですよね。やっぱり、少年誌は読んでくれる方がどんどん変わるし、ましてや
   週刊の方は色んな新しいのを入れながら動くってのが少年誌の王道なので。そんな場所で
   40年描かせてもらえたことは本当に嬉しいことなんです。ましてや200まで出してく
   れたっていう、集英社と週刊少年ジャンプ編集部に作家としては本当にどれだけ頭を下げ
   ても足りないぐらいです。200巻は作家にとって、勲章みたいなものですね。
   両さんはお祭りが大好きなんですね。で、200巻ということで、区切れの200で止め
   るのが一番こう、ぱっと身を引くのもいいし、40周年でみんなで祝ってもらったときに
   スッと消える感じがやっぱり両さんらしいし、そしたらこれしかないなということで。も
   ちろん編集長とかはできるだけ描いてくださいというのもありましたけど、やっぱり両さ
   んの引き際としては、200冊残して40周年で祝ってもらってスッと消えるのがやっぱり
   一番良い大団円の場かなと思いましてそれで決めました。これ本当に作家冥利に尽きる話
   で、もちろんいつまでもずっと描きたい気持ちはもちろんあるし、『こち亀』のネタはま
   だまだ沢山あります。でもやっぱり両さんはこれで一区切りつけて、機会があれば時々遊
   びにいくぐらいはいいかなと思ってます。                  秋本治


 花塚の碑
 中ほど左手にある。笠翁斉乱鳥一周忌の文化元年(1804)三月十七日に門人が建立。昭和31年観音堂裏より移転した。

   花塚
   花道の師、笠翁斉乱鳥の死を悲しんだ弟子たちによって建てられた。笠翁斉乱鳥は、享和
   三年(1803)年七月晦日死去。享年88歳。浅草本然寺(曹洞宗、現西浅草3‐25
   ‐3)に埋葬。悲しんだ弟子たちが、瓶に花を挿したが、衰える花を惜んで地中に埋め塚
   とした。戦後、昭和31観音堂裏手東北より移転。

     建碑 文化元年三月十七日

   かめに花を挿すこと古しへより聞こえ来られるを近き代には其花をさすにのり有事と成り
   其流くさくさに分かれね。笠翁斉乱鳥其わざを好てこの大城のもとに濁流としなえて弟子
   あまた有き。こその文月つごもり、歳八十餘八にてみまかり給。浅草本然寺に葬ぬ。こと
   し三月十七日、かの翁の親しき友垣に弟子の集まりて、かめに花をさして手向つ。其花の
   なごりを空しくなさむ事を惜み、はた翁の名の朽さらん事をおもひて、浅草寺の大ひさの
   み堂のうしろ清らなる所を撰て其花を埋めて花塚と名付て後の世に残しなんとす。彼弟子
   の中、平右氏乱雨翁え残されしはゝに笠翁斉の名を残したれば人々共にて計りて其事成ぬ
   其わきかいつけよとこ
   「文化元年七月 千蔭」
                                     浅草観光連盟


 花柳寿輔の句碑
 
中ほど左手にある。昭和44年花柳寿応が建てた。文化四年(1807)芝神明で生まれ、明治36
年83歳でその生涯を終えるまで花柳流の祖として、また振付の第一人者として活躍、偉業を成した。
6歳で四世西川団十郎の眼鏡に適い、市川鯉吉の芸名で舞台を踏む。そして19歳の時旧師西川扇蔵
の許に復帰し、西川芳次郎として振付師の第一歩を踏み出した。25歳、吉原の玉屋小三郎より俳号
の「花柳」の二文字を与えられ、以後花柳芳次郎と名乗る。そして29歳の時初めて花柳壽助を名乗
り、のち「助」を「輔」に改めた。「茨木」など不滅の傑作と絶賛される作品の残している。

   
雷は田町をよけて鳴りわたる

   初代 花柳壽輔 略傳
   <出生> 文化四年二月十九日、芝神明にて出生。
   <6才> 文政九年、四世西川扇藏の許に入門し舞踊修業の道に入る。
   <8才> 文政十一年、七世市川団十郎の鑑識に叶い市川鯉吉の芸名にて舞台を踏む。
   <19才> 天保十年(1839)、旧師西川扇藏の許に復帰し、西川芳次郎として振袖師
        の第一歩を踏み出す。
   <25才> 吉原の玉屋小三郎より俳号の「花柳」なるの二字を与えられ、以後花柳芳次郎
        と稱す。爾後、七世市川団十郎が嘉永二年(1849)、当時市川海老藏を名
        乗り、その俳名「寿海」に因みて「壽」の字を贈られ、29才にして初めて花柳
        壽助を名乗り、後に「助」を「輔」に改め、と共に、諸流に冠絶して振付の第一人
        者として謳はれる事、実に半世紀。その作品は一千五百種を超え、就中「土蜘」
         「茨木」「戻橋」「舟辯慶」の如きは不滅の傑作と讃られる。
   <83才> 明治36年月28日、花柳流の祖としての偉業を樹て、門弟、縁者に見守られ
        其の生涯を終わる。                    浅草観光連盟
 

 
 河竹黙阿弥顕彰碑

 中ほど左手にある。昭和43年東京百年を記念し区が建てた。

   河竹黙阿弥顕彰碑

   河竹黙阿弥(かわたけもくあみ)は江戸末期から明治中期まで活躍した歌舞伎の狂言作家
   である。文化十三年(1816)日本橋通二丁目越前屋勘兵衛の長男に生まれ、吉村芳三
   郎といった。若い頃は遊楽生活を送ったが 20歳で狂言作者五世鶴屋南北に師事し、は
   じめ2世河竹新七の名を継いだ。天保十四年(1843)江戸三座が浅草猿若町に移転し
   終ると間もなく黙阿弥も芝からこの浅草の正智院の地内に居を移し、
4世市川小団次に多
   くの新作世話物を書いた。維新後は9代目団十郎、5代目菊五郎、初代左団次のために、
   世話物、時代物のほか舞踏劇などを執筆した。明治14年古河黙阿弥と改名し、その後も
   劇作を続けた 作者生活50年 著作は350余編 江戸歌舞伎後半期の第一人者の地位
   にあり 特に世話物を得意とした その音楽的効果や味わいは黙阿弥調として知られる

   代表作には、「青砥草子花紅彩絵(あおとぞうしはなのにしきえ=白浪五人男)」「三人
   吉三郭初買(さんにんきちざくるわのはつかい=三人吉三)」「天衣紛上野初花(くもに
   まごううえののはつはな)」などがある。明治26年1月歿 78歳
   昭和43年10月
              東京百年記念に台東区が建立する

                                東京都台東区長 上條貢

 
榧樹碑
 仲ほど左手にある。八幡太郎源義家の奥州討伐の途中、浅草寺に詣でて戦勝を祈り、榧樹御手植え
の伝絵がある。天保七年建立。

 中村吉右衛門の句碑
 中ほど左手にある。昭和28年建立。初代中村吉右衛門は、明治19年浅草に生まれた。本名波野
辰次郎。幼少より舞台に立ち名声を得、その後大正から昭和期を代表する歌舞伎俳優となった。高浜
虚子に俳句を学び、「ホトトギス」の同人となり、3冊にも及ぶ句集も残されている。初めに秀山を
号し、のちに吉右衛門の名を用いた。

   女房も同じ氏子や除夜の鐘

   建碑 昭和28年4月21日
   初代中村吉右衛門 歌舞伎俳優 日本芸術院会員 文化勲章受賞
   明治19年3月24日 浅草象潟町に生まれ 幼少から舞台に立って名声を得 長じて大
   成し 大正・昭和期を代表する歌舞伎俳優となった
   高浜虚子に師事して「ホトトギス」の同人となり 句集も三冊に及ぶ 初め秀山と号したが
   後に吉右衛門の名前を用いた
   妻千代もまた浅草の生まれ この句の由緒である 昭和14年冬の作 この碑は自詠自筆
   である。実名 波野辰次郎。
   昭和29年9月5日没 享年68                   浅草観光連盟


 
竹本津賀太夫の碑
 社殿裏にある。

   
大江戸のつよきひいきの力にぞ かゝる千曳のいぶみはたつ

 台石には百数十名の名前が列記されている。文政十年(1850)の建立。

 菅沼定敬の歌碑
 
社殿裏にある。嘉永三年(1827)建立。

   
敷島のみちにはせきもあらなくになどてこころのとほらざる覧

 書案の碑(山東京伝机塚の碑)
 社殿裏にある。

   台東区有形文化財
   山東京伝机塚(さんとうきょうでんつくえづか)の碑
   山東京伝は、浅草や吉原を題材とする戯作を多く著わし、北尾誠演の画号で浮世絵もよく
   した人物。この碑は、京伝の弟京山が文化十四年(1817)に亡兄を偲んで建立。表面
   には晩年の京伝撰「書案之紀」を刻む。書案とは机のことで「九歳の時に寺子屋に入った
   際、親の買ってくれた机を生涯愛用し、この机で百部を越える戯作を書いた。しかし50
   年近くも使ったので、ゆがみ、老い込んださまは哀れである」という意味の文と、

   
耳もそこね あしもくしけてもろともに 世にふる机なれも老いたり

   の歌が記されている。また、裏面には、京伝と親交のあった戯作者太田南畝の撰による京
   伝の経歴を刻む。
   京伝の生涯や人間性を伝える貴重な資料で、平成2年に台東区有形文化財として搭載。
   平成6年3月                          台東区教育委員会

 並木五瓶の句碑
 寛政8年(1796)の建立

   月花のたわみころや雪の竹

 と刻まれ、篠田金二が狂言作者五瓶を讃えた言葉が彫られている。並木五瓶は、延享四年(174
5)に大阪で生まれた。初め五八、その後吾八・呉八・五兵衛と改め、さらに五瓶と改める。寛政六
年(1794)に江戸へ出て歌舞伎狂言作者として活躍した。初代桜用治助と共に江戸の2大作者と
謳われ、時代物・世話物に優れた作品が遺っている。文化五年に死ぬまで数多くの作品を書き、代表
作には、「金門五山桐」「隅田春奴七容性」「富岡恋山開」「幡随院長兵衛」などがあり、四代目市
川田蔵、四代目松本幸四郎らにより演じられた。碑面には正面から裏面にまで文字が刻まれている。

   並木五瓶の句碑
   碑面には、正面に「月花のたわみこころや雪の竹」、右手側面に「なにはづの五瓶、東武
   に狂言を出して、あまねく貴賤の眼目を驚かし、金竜の山中に雪月花の碑を築て、永く繁
   栄を仰ぐ、つづくらん百三十里雪の人晋子堂大虎」、左手側面に「寛政八年丙辰十二月十
   日建之 庭柏子書印」、裏面に「篠田金二迂造」と刻んである。
   「なにはづの五瓶」は初代並木五瓶のこと。五瓶は大坂に生まれ、歌舞伎狂言作者として
   活躍した。生存年代は延享四年(1747)から文化五年(1808)まで。はじめ五八
   のち吾八・呉八・五兵衛と改め、ついで五瓶という。寛政六年(1794)江戸へ出て、
   非凡な才能をみせ、初代桜田治助とともに、江戸の二大作者と謳われた。時代物・世話物
   に優れた作品を遺し、4代市川団蔵、4代松本幸四郎らによって演じられた。作品には、
   「金門五山桐」「隅田春奴七容性」「富岡恋山開」「幡随院長兵衛」などがある。
   平成6年3月                          台東区教育委員会
   丁HE POEM MONUMENT OF NAMIKI GOHEI
   "Tsuki hana no tawami kokoro ya yuki no take" the poem is inscribed on the fron
   t of the monument. On the right side of the monument is written the explanation
    of the origin of the poem. On the left side of the monument is the date of the
    monument's construction and the name of the monumen's calligraphic artist. On
   the back of the monument is the name of the person who built the monument.
   Namiki Gohei (
1747~1808) was a famous Kabuki writer. He was well known fo
   r his historical dramas and dramas of contemporary life and manners of that genr
   e.


■浄水盤(手水鉢)

 安永六年(1777)御開帳時の臨時消防班の奉納。「随身門前」と刻まれている。

   手水鉢
   「手水鉢」とは、社寺の参拝前に手を清めるために置かれる鉢のことである。鉢の側面に
   は「安政六年(1777)に観世音千百五十年法会供養の日に臨時連中によって寄付され
   た」とあり、推古天皇36年(628)のご本尊さまご示現から数えて1150年を祝う
   記念法会のために、明和六年(1769)に設置された浅草寺の消防組織である「臨時連
   中」によって献じられたと推定できる。
   「裏門の外」と記されていることから、場所を変えずに今に至ると判明する。現在は使わ
   れていないが、江戸時代の多くの人々がここで手を清め、観音さまや三社さまにお参りを
   されたことであろう。                        金龍山浅草寺


■二天門
 その昔浅草神社のところが「日光東照宮祈願所(浅草東照宮)」だった頃、二天門は、元和四年(1
618)に造立した随身門(将軍の御成門)で、随身はボディーガードの意だ。俗に「矢大神門」と
も呼ばれていた。門は八脚門の切妻造り、豊岩間戸命・櫛岩間戸命を安置していた。その時の神橋が
〝淡島の石橋〟として境内の影向堂の庭に保存されている。現存する東京都最古の橋だ。寛永三年(1
626)に東照宮本体を江戸城紅葉山に移し、同十九年(1642)の火災で観音堂とともに宮建物
も焼けたが、以後東照宮関連の建物は建てられず、神体は江戸城の紅葉山に移し浅草東照宮は再建さ
れなかった。その代わりに藤堂家の東照宮が拡張されて上野東照宮が建てられた。焼け残った随身門
は浅草寺の裏門・東門とされ、明治の神仏分離の際、鎌倉鶴岡八幡宮の「経蔵」にあった「四天王」のう
ち二天を奉安し「二天門」と称したが、戦時中修理先で焼失、昭和32年から門名に合わせて増長天
(左)・持国天(右)の二天像が安置されている。上野寛永寺の厳有院(4代将軍家綱)霊廟から拝
領したものだ。雷門や宝蔵門に比べると大きさには劣るものの、長年の間、火災や戦災から免れてき
た歴史的な重厚さが感じられる。平成22年4月に解体修理を終えた。

   銭箱を持ち随身を出る娘(川柳)
   前垂れが出ると〆る矢大臣(川柳)

 境内の茶屋の娘たちが店仕舞して境内から出て行くと、浅草寺の一日が終わった。

   二天門(にてんもん)(重要文化財)            台東区浅草二丁目三番
   この二天門は、慶安二年(1649)頃に浅草寺の東門として建立されたようであるが、
   江戸時代を通じて浅草寺観音堂の西側に建てられた東照宮の随身門と伝えられ、随身像が
   安置されていた。なお浅草寺の東照宮は元和四年(1618)に建立されたが、寛永八年
   (1631)と寛永十九年(1642)の火災によって、浅草寺の他の諸堂とともに焼失
   し、その後東照宮は江戸城内の紅葉山に移された。
   明治初年の神仏分離令によって門に安置された随身像は、仏教を守護する四天王のうち持
   国天・増長天の二天像に変わり、名称も二天門と改称した。現在安置されている二天像は
   京都七条の仏師、吉田兵部が江戸時代初期(17世紀後半)に制作したもので(東京都指
   定有形文化財)、昭和32年に寛永寺の厳有院殿(4代将軍徳川家綱)霊廟の勅使門から
   移されたものである。
   二天門は昭和25年国指定重要文化財に指定された。
   平成23年3月                         台東区教育委員会
   
itennmon Gate
   (Important Cultural Property)
   Nitenmon Gate was evidently built circa
1649 as the east gate of Senso-ji T
   emple, but throughout the Edo period it was considered the zuishinmon(guarded
   gate) of Tosho-gu Shrine, which was built to the west of Senso-ji's Kannondo
   Hall, hence guardian statues were housed on either side of the gate. Tosho-gu
   Shrine was built at Senso-ji in
1618, but was destroyed in fires along with o
   ther buildings at the Senso-ji Temple complex in
1631 and 1642, after which 
   Tosho-gu was relocated to Momijiyama inside Edo Castle.
   After the decree forbidding the gate were re-imagined as Jikoku-ten and Zojo-
   ten, which are two of the four main protective deities (called ten in Japanese,
   from Sanskrit dava), hence the name of the gate was changed to Nitenmon, or th
   e "Gate of the Two Deities".
   The two statues currently flanking the gate were made in the early Edo period
   (the latter half of the
17th century) by the Buddhist sculptor Yoshida hyoubu o
   f Kyoto's Shichijo district (they are now designated by Tokyo Prefectyre as
   Tangible Cultural Properties).They were moved in 1957 from Chokushimon Gate at
   Kan'ei-ji Temple's Genyuin Mausoleum (the mausoleum to Tokugawa Ietsuna, th
   e 4th Tokugawa shogun).
   In
1950 Nitenmon Gate was designated as a National Important Cultural Prop
   erty.
   March
2011 Taito-ku Board of Education

 大提灯(二天門)
 210×250cm。二天門は浅草寺鳥居横の東側に位置し、江戸時代は東照宮の随身門であった
が、明治維新の神仏分離令によりニ天門と呼ばれ、周辺の数回にわたる戦災をまぬが重要文化財に指
定されている。

 木造持国天立像・木造増長天立像
 持国天と増長天は、広目天・多聞天と共に四天王に数えられる。四天王は仏教の守護神で、甲冑で
武装した武将の姿に造られる。持国天は東方、増長天は南方、広目天は西方、多聞天は北方を守護す
るとされ、釈迦三尊などの周囲(四隅)に安置される例が多くみられる。
 二天門に安置されている二天像は、昭和20年3月10日の東京大空襲の際、修理のために搬出さ
れていた修復先にて焼失してしまい、門に像が無い状態が暫く続いた。
 一方、昭和31年から、上野寛永寺の厳有院霊廟勅額門の解体修理が実施された。その中で、門の
左右に付加された袖が明治期の後補と判明し撤去されることになった。このため、その袖の部分に安
置されていた持国天像と増長天像は、移設を余儀なくされる。折から本堂再建に向けて境内整備を進
めていた浅草寺は、像が無い二天門に安置するため、翌32年に本像を譲り受けた。
 平成19~21年に修理され、造像当時の姿に復元された。修理の際、増長天頭部の内側に「大仏
師 法橋 吉田兵部」の墨書銘が認められたことから、17世紀後半に活動していた京都七条の御用
仏師・法橋吉田兵部藤房の作と判明した。


■被官稲荷神社

 
浅草2丁目3番1号、浅草神社の後ろにある新門辰五郎が勧請した伏見稲荷。安政元年(1854)
辰五郎の女房が重病で床に伏した時、山城の伏見稲荷社に祈願した。その効果があって病気は全快、
翌年お礼の意味を込めて勧請し、小社を創建して被官稲荷社と名付けたという。被官は「出世」の意
味だとか。神社前に「安政二年九月立之 新門辰五郎」と刻む鳥居がある辰五郎は、下谷山崎町(の
ちの万年町、現北上野1~2丁目)に煙管屋中村金八の倅として生まれ、寛永寺住職輪王寺宮の家来
町田仁右衛門の養子となった。輪王寺宮舜仁親王が浅草寺伝法心院に隠居し、上野へ行くのに便のい
い新門を造った時、その門番を命じられたので〝新門〟と呼ばれた。辰五郎は町火消し十番組として
も多彩な活躍をし、十五代将軍慶喜を守ったことでも知られている。娘は慶喜の妾(側室)。しばし
ば芝神明「め組の喧嘩」の辰五郎と混同されるが、同名異人。彼は浜松町の辰五郎で、しかも喧嘩の
後逮捕され江戸所払いとなっている。新門は「と」組の頭で、慶喜の信任厚く、身辺警護をする一方
浅草寺の掃除方(風紀取締役)として境内の商人、香具師(やし)に対して絶対の権力を持っおり、
今でも浅草寺で行われる催事では、必ず「新門」の印半纏が取り仕切っている。
 現在浅草寺裏に事務所があって、松が谷の矢先神社の斜め向かいに「新門」という看板を掲げた鳶
の建築屋が住まいだそうだ。現在7代目新門辰五郎が跡を継いで三社を取り仕切っている。

   被官稲荷神社(ひかんいなりじんじゃ)
   安政元年(1854)新門辰五郎(しんもんたつごろう)の妻女が重病で床に伏した時、
   山城国(現京都府南部)の伏見稲荷社に祈願した。その効果があって病気全快、安政二年
   (1855)お礼の意味を込め、伏見から祭神を当地に勧請し、小社を創建して被官稲荷
   社と名付けた。名称の由来は不詳だが、被官は「出世」と解せば良いという。
   辰五郎は上野寛永寺住職輪王寺宮の家来、町田仁右衛門の養子。本姓は町田であった。輪
   王寺宮舜仁法親王が浅草寺伝法院に隠居し、上野へ行くのに便の良い新門を造った。その
   門の番を命じられたので、新門辰五郎と呼ばれた。辰五郎は町火消十番組の組頭としても
   多彩な活躍をした。
   社殿は一間社流造(いっけんしゃながれづくり)、杉皮葺、創建以来のもの。間口約1.5
   m×奥行約1.4mと小さいが、覆屋(おおいや)を構えて保護している。覆屋は大正期の
   建築であろう。社前には、「安政二年九月立之 新門辰五郎」と刻む鳥居ほかがある。
   平成4年11月                         台東区教育委員会


 辰五郎(中村→町田金太郎)の墓は、巣鴨の盛雲寺にあり、娘町田いちの墓は、巣鴨の善養寺にあ
る。

 新門辰五郎の系譜
 新門はややこしい。「新門本家」「新門連合会」「株式会社新門」がある。

 ◎新門本家
 町田辰五郎(初代辰五郎)→町田金太郎→町田新五郎→赤萩麻吉→古川兼次→朽木又五郎→朽木喜
一→大倉鉄仙→中村浩之→笠間直明と継承している。この系列は暴力団と見做されていて、新門連合
会に属している。新門一家ともいう。斎藤由貴が9代目という説もある。となると中村は何なんだと
いうことになる。親分は、新門の祭半纏を着て活動している。。最近できた新門弐友会を通じて三社
祭に関わっている。新門辰五郎の本筋だというが、よく判らない。

 ◎新門連合会
 横須賀新門5代目の小牧武司が、新門本家に佐野・宇都宮・大森・足立・足利・蒲田・高崎・板橋
・川崎の各新門を集結させ連合会を組織した。これは的屋・香具師の組合で、関東神農同志会に所属
している。暴力団と見做されている。小牧の跡、斎藤由貴(タレントではない)→笠間莞道→柿沼利
男→笠間直明と継承している。神輿会浅草新門祭友会を運営する。

 ◎株式会社新門
 これは浅草にある鳶職(高所作業者)の会社で、浅草寺と浅草神社の御用出入りとして諸事全般を
仕切る。暴力団ではない。初代の新門辰五郎(中村金太郎→町田某の娘婿)の跡は、妾の子仁右衛門
(姓不明)が継ぎ、子の金太郎が初代の町田姓を名乗って3代目となる。4代目は金太郎の子新五郎
が継いだようで、5代目は不明だが、6代目は杉林市郎、7代目は子の仁一となっており。町田姓の
継承はない。

 4代目の墓が世田谷区北烏山の幸龍寺にあるが。赤萩麻吉か?



■浅草寺東南境内 

■旧五重塔跡
「塔」の字
 宝蔵門の東側のアスファルト面にある。よーく見ないと探しきらんぞ。目を皿のようにして探すさ。

 
旧五重塔跡標柱
 最近(平成25年)のニュース。跡地に「旧五重塔跡」の六角石柱が立ったらしい。らしいという
よりは、写真があるんだから、立っている。
 浅草寺の五重塔は、天慶五年(942)平公雅(たいらのきんまさ)による創建以後、いく度か炎
上するもその都度再建されている。昭和20年3月10日の東京大空襲により惜しくも焼失した国宝
旧五重塔(高さ33m)は、江戸時代の慶安元年(1648)、3代将軍徳川家光により建立され、
かつては歌川広重・歌川国芳などの浮世絵の格好の画題としても全国に知られていた。

   旧五重塔跡
   五重塔とは、仏舎利(釈迦の遺骨)を奉安する仏塔の一つで、古くから寺院に建立されて
   きた。
   この場所は、江戸時代の慶安元年(1648)、徳川家光によって再建された旧国宝の五
   重塔(木造・高さ33m)が建立されていた場所で、現在の五重塔とは反対側に位置して
   いた。
   浅草の五重塔は、天慶五年(942)平公雅により創建され、その後いく度か炎上するも
   その都度再建されている。
   江戸時代、家光再建の五重塔は、上野の寛永寺・谷中の天王寺・芝の増上寺の塔とともに
   「江戸四塔」として親しまれていた。
   また、歌川広重・歌川国芳などの浮世絵の格好の画題としても全国にしられ、朱塗り・碧
   瓦(へきがわら)(未申にあたる裏鬼門の方角の第三層には、羊角猿面の鬼瓦が葺かれる)
   の美しい姿を見せていたが、昭和20年の戦災で惜しくも焼失した。   金龍寺 浅草寺
 


■弁天山児童公園
 浅草2丁目3番1号の浅草寺境内にある公園。区立公園ではないようだ。


■銭瓶弁天堂(老女弁天堂)
 宝蔵門の東の方に石段20段ばかりを上がった弁天山の丘上にある。堂中に慈覚大師作の白髪老女
の弁天像を祀る。
もとは大仏安置のために築かれた丘で、大仏山と呼ばれていたが、老女弁財天を祀っ
てから弁天山と呼ばれるようになった。江戸百弁天の第十五番札所で、現在の朱塗りの弁天堂は昭和
58年年春の落慶。縁日は「巳の日」で、この日は堂扉が開かれる。

   弁天堂
   弁天台と呼ばれる小丘の上に立つこのお堂は、昭和58年に再建されたもの。ご本尊は白
   髪のため「老女弁財天」といわれる。関東三弁天(神奈川県江ノ島・千葉県柏市布施と合
   わせ)の一つとされ、小田原北条氏の信仰が篤かった。
   弁財天さまのご縁日は、「巳の日」で、堂内にてお参りができる。    金龍山浅草寺
      Bentendo Hall
   Bentendo Hall was reconstructed in 1983 on the small hill called "Benteny
   ama".The principal image of this temple has white hair.Therefore we call it "R
   ounyo-Benzaiten".("Rounyo" means an old woman and "Benzaiten",the goddess of mu
   sic, art and wealth,is the name of the image.)This statue is one of the Three f
   amous Benzaiten around the Kanto district.In the medieval period Hojo, a gre
   at daimyo in Odawara,had faith in this statue.
   The bell in the belfry has been known as the hour bell casted in bronze by Tok
   ugawa shogunate in 1692, and also famous for a haiku by Matsuo Basyo(16
   44~1694. Nowadays,a priest of Senso-ji strikes at six oclock every morni
   ng.


■鐘楼・時の鐘
 芭蕉が「花のくも鐘は上野か浅草か」と詠んだ鐘楼だ。鐘は、元禄五年(1692)5代将軍徳川
家綱の命により深川住の太田近江掾藤原正光が改鋳し、その費用黄金200両を下総関宿藩主牧野備
前守成貞が寄進した。歌川広重「絵本江戸土産」に記しているように、江戸時代「時の鐘」の役目を
した。現在は毎朝6時に役僧が撞き鳴らし、大晦日には「除夜の鐘」が点打される。
午前零時を期し
て最初に寺僧が捨て鐘を3つ突き、続いて「百八会」のメンバーが1人づつ交替で突いていく。鐘の
大きさは龍頭・鐘身合わせて総高2.12m、口径1.16m、直径1.52m。 昭和20年のアメリ
カ軍の無差別の空爆で戦火を浴びるものの無事に残り、鐘楼は焼け落ちたため、同25年に再建され
た。上野と浅草の「時の鐘」は芭蕉の句にもある通り、あまりにも有名だ。

   浅草寺の時鐘
   この鐘は、芭蕉翁の「花の雲鐘は上野か浅草か」の句にうたわれたといわれる上野寛永寺
   の時鐘と双璧をなす浅草寺の時鐘で妙なる梵音を韻々とつげた梵鐘である。元禄五年(1
   692)八月改鋳され、五代將軍綱吉公の寵臣牧野備後守成貞が黄金二百枚を喜捨し、地
   金中に鋳込ませたという曰くのある名鐘である。
   深川太田近江大掾藤原正次の鋳物浅草寺別当当権僧正宣存の撰文が刻まれている。
  
、昭和47年3月                         台東区教育委員会

 ※文中の「韻々」は「殷々」の誤記。この説明板は現在は撤去している。

   時の鐘
   江戸時代、人々に時刻を知らせる役割を果たしていたのが時の鐘である。当初、江戸城内
   にあったが、江戸市街地の拡大にともない日本橋石町にも設置され、さらには浅草寺や寛
   永寺(上野山内)など、九個所でも時を知らせた。
   鐘の大きさは、高さ2.12m、直径1.52m
   鐘銘によれば、撰文は浅草寺別当権僧正宣存で、元禄五年(1692)8月、5代将軍徳
   川綱吉の命により、深川住の太田近江大掾藤原正次が改鋳し、その費用として下総関宿藩
   主牧野備後守成貞が黄金200両を寄進した。
   この鐘は、時の鐘として、あるいは浅草寺の梵鐘として、さまざまな文学作品にも登場し
   ているが、中でも松雄芭蕉の句

   花の雲 鐘は上野か 浅草か

   は、あまりにも著名である。
   昭和20年3月の東京大空襲で火を浴びたが無事に残り、今なお昔のままの姿を見せてい
   る。なお、鐘楼は同空襲で焼け落ち、昭和25年(1950)5月再建されたものである。
   平成11年3月                         台東区教育委員会



添田唖蝉坊の碑・添田知道筆塚
 ラッパ節、東雲節により社会を痛烈に批判吟遊した演歌師添田唖蝉坊の、

   つきいだす鐘は上野か浅草か
   往き来し絶えて月にふけゆく吾妻橋

   誰を待つやら恨むやら 
   身をば欄干に投げ島田、チョイトネ


 が刻まれている。今1つは角柱碑で、

   
文士 添田知道筆塚

 と刻む。傍らに立つ説明板は以下の通り。


   建碑
   唖蝉坊碑 昭和三十年十一月二十八日
   筆  塚 昭和五十七年三月七日

   添田唖蝉坊
   本名・平吉 筆名は唖蝉坊のほか不知山人、のむき山人、凡人など。神奈川県大磯に生ま
   れる。昭和19年2月8日歿。享年73歳。明治20年代の壮士節の世界に入り、のち演
   歌の作詞、作曲、演奏に従事。作品は、「四季の歌」「ストライキ節」「ラッパ節」「あ
   あ金の世」「金色夜叉の歌」「むらさき節」「奈良丸くづし」「マックロ節」「青島節」
   「ノンキ節」「生活戦線異状あり」など。著書に「浅草底流記」「唖蝉坊流生記」「流行
   歌明治大正正史」ほか。
   
添田知道
   唖蝉坊の長男。東京出身。昭和55年(1980)3月18日歿。享年77歳。父唖蝉坊と
   ともに演歌の作詞、作曲に従事したあと作家活動に入る。筆名は知道のほか、さっき、吐
   蒙。演歌作品に「東京節」「復興節」「ストトン節」など。著書に新潮文芸賞受賞の長編
   小説「教育者」「利根川随歩」「演歌の明治大正史」などがある。      浅草の会



都々逸塚の碑
 明治百年を記念して造立。表面左下に亀屋忠兵衛とある。

   
都々逸塚


聖観音真言梵字の碑
 上部に聖観音の種字「サの字」。中部にオン・アロリ・キヤ・ソワカ・ボロン。下部に弥陀の種字
キリーク。何か自分を許せない悪いことをしたんだな。裏面に、

   書写観音 経一四句 偈以希(願) ニ世悉地
   天保八年七月
   吉原仲の町 山口巴屋とえ建立


 とある。山口巴屋は吉原大門を入って直ぐ右手にあった引手茶屋。



普閑の歌碑
 「かかるとは思ひさだめし・・」の歌を刻む。あとは剥落。嘉永五年(1852)建立。


鳩塚
 境内の鳩豆屋が死んだ鳩の慰霊のため、昭和35年に建立した。現在は鳩への豆やりが禁止されて
いるので鳩豆やは廃業している。

   
鳩塚


扇塚
(初代花柳徳太郎顕彰碑)
 浅草神社境内にも扇塚はあるが、向うは扇そのものの供養碑。

   扇塚

   君諱徳太郎田代氏明治十一年七月十一日浅草に生る六歳叔父初代寿輔の養子となり其薫陶
   を受く同二十四年十三歳西郷邸に於て英照皇太后御前舞踊鶴亀を演ず 同三十六年初代寿
   輔歿後大正十二年迄花柳家元を継承同三十八年柳櫻会創立公演九十八回に及ぶ大正七年初
   代寿輔嗣子芳三郎に家元を譲り大正十二年自ら分家家元となり昭和三十四年十一月三日多
   年舞踊界に盡瘁せる功に依り紫綬褒賞を授与せらる同三十八年一月十二日歿す 享年八十
   六歳安隆院達道寿徳居士と諡して深川増林寺に葬る二代徳太郎故人の遺志に依り茲に此碑
   を建つ
   昭和三十九年四月                         二代花柳徳太郎
                                    蘭垌 野田朗書


芭蕉句碑
 句を上部に、下部に座像を刻む。泰松堂書・佐脇嵩雪の画。「奥の細道」で有名な松尾芭蕉は、寛
永21年に伊賀上野(三重県上野市)に生まれた。俳号の由来は、深川の小名木川のほとりの俳詣の
道場、「「泊船堂」に門人が芭蕉1枚を植えたことからと伝わる。俳聖芭蕉の名を縱にした芭蕉は、元
禄七年十月十二日に旅舎で51歳の生涯を閉じた。この句碑は寛政八年(1796)の103回忌に
浅草寺本堂の北西銭塚地蔵の近くに建てられたが、戦後この地に移建された。残念ながら碑面は欠損
してしまい刻句の判読も難しい。「寛政八年丙辰十月十二日 依楼堤□□笠翁之図 左嵩雪写 『諸
國翁墳記』所載」と書かれてあったらしい。

   くわんをんの甍を見やりつ花の雲 はせを

 区の説明板は以下の通り。

   松尾芭蕉の句碑
   くわんをんの甍を見やりつ花の雲 はせを
   俳諧紀行文『奥の細道』などを著した松尾芭蕉は、寛永二十一年(1644)伊賀上野
   (三重県上野市)に生まれた。
   芭蕉という俳号は、深川の小名木川ほとりの俳諧の道場「泊船堂」に、門人が芭蕉一枚を
   植えたことに由来します。独自の蕉風を開き『俳聖芭蕉』の異名をとった松尾芭蕉は、元
   禄七年(1694)十月十二日大坂の旅舎で51年の生涯を閉じました。
   この句碑は寛永八年(1796)十月十二日芭蕉の103回忌に建立され、元は浅草寺本
   堂の北西、銭塚不動の近くにありましたが、戦後この地に移建されました。
   83歳翁泰松堂の書に加えて、芭蕉のスケッチを得意とした、佐脇嵩雪が描いた芭蕉の坐
   像が線刻してありますが、200年の風雪を経て碑石も欠損し、碑面の判読も困難となっ
   ております。
   奥山庭園にある『三匠句碑』(花の雲 鐘は上野か浅草か)と共に、奇しくも『花の雲』
   という季語が詠み込まれています。
   平成2年4月吉日                          浅草観光連盟



■二尊仏
 貞享四年(1687)群馬県館林の高瀬善兵衛が寄進。向って右の観世音菩薩像は主人への謝意と
菩提のため、左の勢至菩薩像は主人の子次郎介への感謝の気持から奉納。善兵衛は日本橋伊勢町の米
問屋成井善三郎の番頭として奉公していた。のちに郷里館林で成功した善兵衛が、二代に亘る遊興の
ため没落した主家を嘆き悲しんで建立したと蓮台の銘に刻してある。
 高さ2.363m、蓮台ともに4.545m、基壇の組石は長さ12m、幅6m21cmの露座仏。


   
二尊仏
   「濡れ仏」の名で世に知られるこの二尊仏は、観世音菩薩(右)、勢至菩薩(左)二菩薩
   の金銅坐像で、像の高さは共に2.36m、蓮台を含めれば4.54mにおよぶ。基壇の組
   み石は、長さ約12m、幅6.21m、高さ1.5mとなっている。
   蓮弁台座銘によれば、願主は上野国(群馬県)館林在大久保村の高瀬善兵衛、かって奉公
   した日本橋伊勢町の米問屋成井家より受けた恩を謝し、観音像は、旧主善三郎の菩提を弔
   うため、勢至像はその子次郎助の繁栄を祈るため、貞享四年(1687)8月に造立した。
   江戸時代初期の優秀な鋳造仏の一つで神田鍋町東横町(千代田区鍛冶町2丁目)の太田久
   衛門正儀(藤原正儀)鋳造の作。
   安永六年(1777)二月高瀬仙右衛門が施主、千住の高瀬奥右衛門が願主となり、修理
   したことが観音像銘に追刻されている。
   高瀬仙右衛門は上野国館林大久保村の人、江戸伊勢町(中央区日本橋本町1丁目)の成井
   善三郎の店の番頭となり、後、主家への報恩菩提のためにこの像を寄進した。観音像はも
   と左手に蓮華を持っていたのであろう。
   なおこの像と同形で、寄進者・鋳造者も同じ元禄三年(1690)在銘の像が群馬県館林
   市茂林寺にある。
   平成10年3月                         台東区教育委員会
   
TWO BUDDHAS
   丁he two statues are:Bodhisattva Avalokiteshvara on the right and Bodhisattv
   a
Seshi on the left. They are both 2.36m in height. In 1687, 丁akase
   Zenbee from Tatebayashi,(present day Gunma prefecture)made these statues to
   repay the dept of gratitude to the rice wholesaler fsmily who helped him, the A
   valekiteshivsra for the father and the Seishi for the son.


■地蔵菩薩像

 延宝五年(1677)松村一洞軒宗智居士。


■地蔵菩薩像
 廊誉見我大和尚ほか菩薩のため、日本橋石町の寺田長左衛門ほか5名で造立。
 


■阿弥陀如来石像
 浮誉法霊信女ほか菩薩のため、相模屋五兵衛、寺田長左衛門ほか5名で、寛文十一(16
71)造立。


■阿弥陀如来石像

 数十人の霊名が刻まれている。承応三年(1654)造立
 


■平和地蔵尊石像

 太平洋戦争の殉難死者菩薩のため、昭和24年に龍郷定雄の造献。

   平和地蔵由来記
   第二次世界大戦はその規模においても、その被害についてもまことに甚大であった。殊に
   昭和20年3月10日の大空襲には、この付近一帯は爆死者の屍が累として山をなし、そ
   の血潮は川となって流れた。その惨状はこの世の姿ではない。これ等の戦争犠牲者の霊を
   慰めることこそ、世界平和建設の基となるものである。ここに平和地蔵尊を祭り、その悲
   願を祈りるため、昭和24年月ここに安置された次第である。

 
龍郷定雄胸像
 敷地の中にある。平和地蔵を建立した人。
 


■母子地蔵尊
 宝蔵門前右手にある。満州地蔵建立委員会が建てた。第二次世界大戦末期、ソ連参戦で混乱状態と
なった中国東北部(満州)で逃避行の末、命を落とした日本人の数は20万人を超えるといわれてい
る。酷寒の野を逃げ惑ううち、生別れとなったり、飢えや疫病に苦しみながら亡くなるなど、その悲劇は語りきれない。犠牲となった母子の霊をなぐめ・・・二度と戦争という過ちを繰り返さないことを祈念しつつ、ここに母子地蔵尊が建立された。
尊像発案者は漫画家ちばてつや。

   母子地蔵尊
   第二次世界大戦末期ソ連参戦混乱状態
   
となった中国東北部(旧満州)避難行
   命
とした日本人二十万人える
   
われています。

   酷寒曠野うの母子生別れと
   
なったりえや疫病しみながらくなる
   
などその悲劇数知れません

   犠牲となられた母子め、また、いまだ
   再会
かなわないのよりどころとして
   二度
戦争というちをさない祈念
   
しつつここに、母子地蔵建立いたしました。

   平成9年4月12日    願主    千野誠治
             
デザイン ちばてつや
             
文字    森田拳次

         まんしゅう地蔵建立委員会
         まんしゅう地蔵建立応援団
           中国残留孤児援護基金
 


■久米平内堂

 久米平内石像で世に知られた平内堂は、昭和20年3月の戦災で焼失。現在のお堂は同53年10
月浅草寺開創1350年記念に浅草観光連盟が建立・寄進したものだ。『増訂武江年表』に平内は天
和三年(1683)に没したとあるが、その生涯については諸説があって明らかではない。平内堂に
は次のような伝承がある。平内は剣の道に優れ、多くの人を殺めた。その供養のため、仁王坐禅の法
を修行し、後年浅草寺内の金剛院に住んで禅に打ちこみ、自らの坐禅の像を刻ませ堂に祀った。臨終
に至り、犯した罪を償うため、この像を人通りの多い浅草寺境内に埋め多くの人に踏んで貰い、その
後堂に納めたという。「踏つけ」が「文付け」に通じるところから願文を堂に納めると願い事が叶う
とされ、江戸中期以降特に縁結びの神として庶民の信仰を集めた。なお平内の墓は、海蔵寺(文京区
向丘2-25-10)にある。

   
久米平内堂(くめのへいないどう)
   久米平内は江戸時代前期の武士。『武江年表』によると、天和三年(1683)に没した
   とされるが、その生涯については諸説あり明らかではない。
   平内堂には次のような伝承がある。平内は剣術に秀でており、多くの人をあやめてきた。
   後年、その供養のために、仁王坐禅の法を修業し、浅草寺内の金剛院に住んで禅に打ちこ
   んだという。臨終にのぞみ自らの姿を石に刻ませ、多くの人に踏んで貰うことによって、
   犯した罪を償うために、この像を人通りの多い仁王門付近に埋めたと伝える。
   その後、石像はお堂に納められたという。「踏付け」が「文付け」に転じ、願文をお堂に
   納めると願い事が叶うとされ、江戸時代中期以降、とくに縁結びの神として庶民の信仰を
   集めた。
   平内堂は、昭和20年3月の戦災で焼失した。現在のお堂は昭和53年10月に浅草寺開
   創1350年記念として再建されたものである。
   平成18年3月                         台東区教育委員会
      
Kume-no-Hinai-do
   Kume no Heinai was a samurai in the early Edo period (17th century) ;he is
   said to have passed away in 1683, but there are many stories about his life
   and not many facts are known for certain.
   According to oral tradition, Heinai excelled in Kenjutsu, the martial art of
   sword fightinf, and he killed many people over the years. Later in his life,he
   is said to have lived in the Kongo-in Temple in Senso-ji Temple, wherehe dev
   oted himself to Zen- Buddhism and held religious services in honor of the soul
   s of the people he killed.
   It is said that,just before his death, he ordered his followeres to carve his fi
   ture on a stone and bury it near Nio-mon (Deva gate), one of the busy distreic
   ts of the city. He wanted his statue be stepped on by as many people as possibl
   e in order to expiate the crimes he had committed in life.Afterward, the stone s
   tatue was eventually stored in this temple.
   From the middle of the Edo period, this temple was worshipped by the general p
   ublic as a deity of marriage.
   Kume-no-Heinai-do was burned down during the ravages of World War Ⅱ in Mar
   ch 1945. The current temple was rebuilt in October 1978.
 


■浅草寺南公衆トイレ

 境内の東南角にあるトイレだが、防犯上の理由で6時~10時の利用時間制限がある。

 
夜間専用トイレ
 裏手に回ると男子の夜間専用トイレがある。立小便ができる立派な水洗トイレだ。


■二十軒茶屋

 伝法心院表門の向側(参道東側)にあった腰掛茶屋群、20軒は語呂で実際は増減があったらしい。
「歌仙茶屋」ともいった。どの店も看板娘を揃えて売上を競い評判の美人は錦絵にも描かれて人気が
高かった。宝暦の頃の「湊屋のお六」、明和三美人の1人「蔦屋およし」「堺屋のお袖」はみんなこ
この看板娘。明和三美人の後の二人は、笠森稲荷の水茶屋「鍵屋お仙」と浅草奥山の楊枝屋「柳屋お
藤」だ。櫛巻ってえ女の髪形を知っていなさるかい? 巻貝のような髪形で、むかしでいうと淡路惠
子がするってえと似合うんだが・・・ 今だと山田優か・・・か、真鍋かをり?、菊川玲?・・・。
ま、いいや、その櫛巻ってえ髪形はここの茶屋娘が編み出したのよ。

   十九軒ほどは浅黄でおっぷさぎ(川柳)

 とは、これらの水茶屋に浅黄(田舎侍)が群がっている様子を江戸っ子が皮肉を浮かべて川柳にし
たものだ。現在茶屋の跡は仲見世の一部になってるよ。おっと茶屋娘は春はひさがないよ。あばずれ
女子高生じゃねえんだから・・・転ぶのは奥山の方でい。
 



■旧浅草公園三区(浅草本坊一帯) 

■伝法院

 正しくは「伝法心院」。伝法院は浅草寺の院号だがいつの間にか住職の居住する寺務所というか庫
裏というか・・・
本坊の称号に用いられてしまった。元々は徳川幕府が浅草寺の繁盛を見て、この収
益は見逃せぬと、浅草寺を寛永寺の下に置き、経理事務所としておいたものだ。まあいわば寛永寺の
出張所のようなものだった。昭和20年に解消され、聖観音宗となるとともに、浅草寺の庫裏となっ
た。諸建物の内、客殿・玄関・使者の間・大台所の一部は安永六年(1777)の建築だ。大名屋敷
を思わせる立派な門構えで、玄関上の瓦には菊の御紋が・・・上野の宮様が浅草御殿とされて、約3
年間宿坊とされたので、一般には使用禁止の紋章が使われてるって訳だ。建物の背後には、大泉池を
中心とする廻遊式庭園があり江戸時代初期の築造で、小堀遠州作と伝わる(一般非公開)。表門前に
明治41年高橋為三郎なる人が献納の「銅製観音立像」「普門品の碑」が建ってる。裏門を入った植
込みに、河東節の作者「岩本乾什の碑」
「楼川の碑」がある。碑の横の門を入り、左に曲がって渡り
廊下の下を潜ると庭園に出る。造園は江戸初期小堀遠州と伝わるが、北側部分は、鎌倉~室町時代に
作られたのではないかという。心字池の中島は経ヶ島、島内に中興第一世「中豪上人の墓」、浅草寺
境内から発掘された板碑をはめ込んだ壁がある。庭に「至徳の古鐘」が置いてある。この他浅草文庫
の棟瓦が使われている「浅草寺文庫」「三社権現船祭再興者功績の碑」、寛文十二年(1672)建
立の「石造五重塔」、寛永三年(1626)銘の石造多宝塔、八角型古灯籠、大板碑の断片などがあ
る。

   伝法院
   伝法院は浅草寺の院号で、住職の居住する本坊の称号に用いられている。諸建物のうち、
   客殿・玄関・使者の間・大台所の一部は、安永六年(1777)の建造である。そのうち
   客殿には本尊阿弥陀如来像を安置し、6月の山家会(伝教大師の忌日法要)、11月の霜
   月会(天台大師の忌日法要)をはじめ、故人の追善供養、寺内僧侶の修行などが行われる。
   建物の背後には、大泉池を中心とする廻遊式庭園があり、江戸時代初期の築造といわれ、
   池畔には、至徳四年(1387)在銘の梵鐘や京都表千家の不審庵を模した茶室天祐庵が
   ある(非公開)。
   平成8年3月                          台東区教育委員会
   DENBO‐IN
   Abbots serving to Sensoji temple dwell here in Denbo-In.
   The main building was built in
1777 and here is held Sange-e in June and Sh
   imotsuki-e in November annually. The former is for a Japanese Tendai-Sect an
   niversary, the latter for a Chinese one.
   Behind this building is a garden with a fountain created in the early part of t
   he
17th century.
   By the fountain, there is a temple bell which was cast in
1387 and also a tea-
   house called Tenyu-an which dates from the
18th century.


 天祐庵(非公開)
 
伝法院の茶室。尾張名古屋の茶人牧野作兵衛が、天明年間に京都表千家の茶室「不審庵」を模した
もので、大正5年向島小梅町の徳川圀順邸(現隅田公園)に移築されて「喜森庵」名づけられた。同
12年上目黒の津村重舎邸に転築したため、直後に起きた大震災による焼失を免れた。「天祐庵」の
名はこのことにちなんで付けられたもので、その後、昭和33年に現在地に移されたのだ。利休好み
茶室「不審庵」の模造中最も古いものに属し、明治に「不審庵」が焼けた今、都内に残る古席として
学術的価値は高いぞ。ただし一般未開放。残念。

   天祐庵
   天明年間(1781~89)に、名古屋の茶人牧野作兵衛によって、表千家宗左邸内の不
   識庵(安土桃山時代に千利久によって造られた)を模して建てられたもので、その実体を
   伝えている点では最古といえる。
   戦後に五島慶太翁と浅草寺婦人会の尽力によって奉納移築された。都の重宝に指定されて
   いる。                              金龍山 浅草寺

 石燈籠
 庭園にある。

   石燈籠
   伝法院庭園には、数基の石燈籠が安置されている。
   この石燈籠は、江戸時代前期の延宝三年(1675)に小堀正延(1649~1694)
   によって奉納された。当初本堂前に、その後本堂裏の念仏堂(現存せず)前に安置され、
   やがて現在の地に移された。
   奉納者の小堀正延は、近江小室藩第3代藩主。正延の祖父は、この庭園を手掛けたとされ
   る小堀遠州(1579~1647)である。
   祖父の造園と伝わる庭に、孫の奉納にかかわる燈籠が置かれ、小堀家との縁の深さを改め
   て感じさせられる。                        金龍山 浅草寺

 石造多宝塔
 庭園にある。

   
石造多宝塔
   この多宝塔は、室町時代の応永三十二年(1425)に造立された。しかしながら制作者
   などは不明。
   塔身には梵字で光明真言と随求菩薩真言が刻まれている。
   下部の裳階が宝篋印塔の笠を想起させるが、上部には饅頭型を造り出していることから、
   極めて特異な形態の多宝塔と考えられる。
   軸部の日月型の窓は、多宝塔造立当初から穿たれていたものではなく、近世に供養塔とし
   ての機能が消失し、石燈籠として改変されたと思われる。
   平成23年3月16日、台東区有形文化財(建造物)として登載された。金龍山 浅草寺

 石棺(非公開)
 関東大震災を受けて焼け野原となった東京で、これを逆手に取って古墳の調査を行った鳥居龍蔵が
浅草寺とその周辺に古墳群が所在したらしきことを江戸時代の地誌類の記述や遺物を通じて紹介した
ことは大きな業績の一つだ。浅草寺周辺に古墳が所在したことを最も直接的に証明する遺物として、
浅草寺本堂裏手にかつて所在した熊谷稲荷の塚から出土したとされる石棺がある。明治初年に塚を崩
した際に見つかり、今は伝法院の庭先に移設保存されているのだが、
伝法院は基本的に非公開。年に
一度の投扇会を見学するか、伝法院で行われる写経会等の行事に参加する等、石棺を見る方法は限ら
れている。

   石棺
   明治初年、神仏分離令の出た折、本堂裏にあった熊谷稲荷社が廃社され、その塚を崩した
   む際に出土したのが、この石棺である。
   浅草の地が、ご本尊の示現以前の古墳時代において、すでに豪族が住み、早くから開かれ
   た土地であったことが知られる。
   凝灰岩 長さ2.5m、幅1.2m、高さ75cm。          金龍山 浅草寺

 至徳の古鐘(非公開)
 この梵鐘は、「至徳二年丁卯五月初三日」と刻字されているので、至徳四年(1387)の鋳造で
あろう。至徳は南北朝時代、北朝の後小松天皇の年号。この時代の鋳造の鐘は東京都では珍しく、都
内有数の古鐘として、特に「至徳の古鐘」と呼ばれている。当初は浅草寺の鐘として彫像されたもの
ではなく、武蔵国多西郡または騎西君、あるいは相模国西郡のいずれかの寺にあったものを、のち浅
草寺に移したと推察されている。本銅鐘を制作した和泉守経宏いずみのかみつねひろは、相模国
毛利荘(神奈川県厚木市付近)で活躍した毛利・森姓の鋳物師いもじの一人で、当初に奉納され
た寺院は厚木、伊勢原市付近にあったと思われる。この地域は、浅草寺中興第一世忠豪の父親、江戸
城代遠山丹波守綱景の所領内であったことから、浅草寺の銅鐘として戦国時代末期にもたらされた可
能性が考えられ、少なくとも17世紀初頭には浅草寺で使用されていたと思われる。
 区内における唯一の中世鐘であるとともに、中世の鋳物師の活動や、鋳造技術を知る上でも貴重な遺品の1つだ。
 江戸時代、この鐘は、随身門(二天門)北側、浅草神社東南隅の鐘楼上に掛けられていたが、明治
初年の神仏分離令により、現在地の伝法院庭内に移された。昭和24年5月28日、重要美術品の認
定を受けている。総高は129.4cm。

   至徳の古鐘                        台東区浅草二丁目二番
   「至徳二年丁卯五月初三日」と鐘に刻字されているので、この梵鐘は至徳四年(1387)
   の鋳造であることが知れる。至徳は南北朝時代、北朝後小松天皇の年号。南北朝時代の鋳
   造の鐘は都内では珍しい。都内有数の古鐘といえる。それで〝至徳の古鐘〟と呼び、昭和
   24年5月28日、文部省より重要美術品に指定された。
   江戸時代、この鐘は随身門(現在の二天門)北側、浅草神社東南隅の鐘楼上にかけられて
   いたが、明治初年、神仏混淆禁止により、現在地の伝法院庭内移されたという。当初浅草
   寺の鐘として鋳造されたものでなく、武蔵国多西郡または騎西郡、あるいは相模国西郡の
   いずれかの地の寺にあったのを、浅草寺に移したと推察されている。したがって銘文冒頭
   の「日本国武蔵豊島郡千束郷金龍山浅草寺」の刻字は改ざんである。小久慈をよく見ると
   改ざんした痕跡が歴然としている。銘文によると、鋳工は和泉守経宏という。


 三社権現船祭再興者の碑
 昔の隅田川は水清く澄み、浅草海苔を採る業者や漁師が多く生活していた。その後川が汚濁したり
また殺生禁断の地域になったりしたことから、これらの人々が大森はじめ他の地域に移って行った。
併しその神恩を忘れず、丑卯巳未酉亥の年の3月18日行われる浅草神社本祭には、遠く安房上総の
浦々からも漕ぎ来たって大森の浦に舟を繋ぎ、祭礼の前日には、大森。佃の舟と共に、浅草川(隅田
川)へ漕ぎ寄せ祭に参加したといわれる。つまり本祭の日に神社を出た神輿は、浅草の大通りを浅草
見附(浅草橋)まで担がれ、浅草御門の外、神田川で神輿を船に移し、浅草川を漕ぎ上がって、駒形
で陸に上がって、神社に担ぎ帰った。この時には1舟に1基づつ神輿を載せ、故実に倣い、専当・斎
頭・常音の3坊も夫々1基に1人づづ付き従い、浅草神社の別当顕松院も供奉した。これらの舟の奉
仕をしたのが漁師たちで、夫々に舟印を立て、浄衣を着て威勢よく漕ぎ上がり、府内随一の大祭とし
て江戸市中の人気を集めたが、宝暦十一年(1761)に断絶して久しく、100年を経る。
 それを悲しんだ浅草寺達頭の飯山・斎藤の両人が再興しようとしたが、生前は果さず、没後、その
子飯山褒廣、斎藤秀正が父の志を継ぎ、大森の漁師に話を持ちかけて、出船の奉仕方を契約した。
 この船祭再興の模様を語り、2人の功績を称え、後世に伝えようとしたのがこの碑で、法眼伊蒿が
撰文し、明和八年(1771)浅草神社の境内に建てたが、明治になって伝法院の築山の下に移され
現在に至っている。

 岩本乾什の句碑(非公開)

 
谷口楼川の句碑(非公開)

   十三夜月もかつ散る木のまかな

■鎮護堂
 伝法院内にあり、通称「おたぬきさま」で親しまれている。彰義隊と官軍が上野の山で戦った時に
逃げ出した狸が、浅草寺奥山に住み着き、何かといたずらするので困っていた。住職唯我韶舜僧正の
夢枕狸が立って、「自分たちを保護して下されば、伝法院を火災から守りましょう」というので、明
治16年鎮護大使者として祀った。火防ぐ・盗難および商売繁盛を祈る人が多く、特に落語家や歌舞
伎俳優など芸能関係者の信仰が厚いことで知られている。現在の堂宇は大正2年に再建されたもので
毎年3月17、18日に行われる祭礼では「鎮護大使者御祭典」の幟が奉納され、神楽囃子が流れる
中で「地口行灯(じぐちあんどん)」が並ぶ。

   浅草寺本坊伝法院守護
   
鎮護大使者(おたぬきさま)
   ご利益 商売繁盛・火防・盗難除・学芸成就
   大祭日 春 三月十七日 秋 十一月四日
   ご縁日 毎月一日・十五日
   ・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・
    余禄 幇間塚(全国幇間協会奉納)
       手水鉢(市川一門奉納)
       ~人気の泉~


   鎮護堂
   鎮護堂は「おたぬきさま」の名で親しまれ、防火、盗難除、商売繁昌の守護神として知ら
   れている。明治5年浅草寺境内に住み着いた狸の乱行を鎮めるため、浅草寺の用人であっ
   た大橋亘が浅草寺貫主唯我韶舜と相談の上、自身の邸内に祀ったことが始まりと伝える。
   数度の移転を経て、明治16年伝法院内の当地に再建した。現在の入母屋造の本殿は、大
   正2年に再建されたものである。
   祭礼は、毎年3月17・18日に行われている。
   また境内には昭和38年に建てられた幇間塚がある。幇間のことを「たぬき」と呼んだこ
   とから、この地に建てられたもので、碑には幇間の由来と久保田万太郎の「またの名のた
   ぬきづか春ふかきかな」の句が刻まれ、裏面には幇間一同の名前が刻まれている。
   平成18年3月                         台東区教育委員会
   
Chingo-do
   Chingo-do is also known as "Otanuki-sama(Sir Raccoon-dog)" and is famous fo
   r being the deity of protection against fire and theft as well as flouriching bu
   sinesses.
   In
1872, a steward of Senso-ji Temple consulted with the chief priest of the
   temple and enshrined the deity in his own garden in order to prevent mischief by
    raccoon dogs that had taken up residence in Senso-ji Temple. This is said to
    mark the start of the history of the shrine as well as the origin of the name       "Otanuki-sama." In
1883, the shrine was moved to the current location and the
   shrine building was constructed.
   The current main shrine was rebuilt in
1913 and festival rites are conducted o
   n March
17 and 18 every year.

 手水鉢
 自然石の中に窪みをつけ龍の口から水が出る仕組み。

   この手水鉢は、明治13年市川一門により奉納される。制作者は不明で発起人は5代目市
   川新蔵。市川新蔵は歌舞伎役者。8歳で4代目中村芝翫に入門、明治7年9代目市川団十
   郎門下に就き、5代目市川新蔵を襲名、立役の花形として団門四天王の一人と称された。
   おたぬきさまは「他を抜く」といわれ、学芸成就のご利益があると、役者や芸能人にも信
   仰され、この手水鉢も人気の泉と呼ばれ親しまれている。        金龍山浅草寺


 幇間塚
 昭和38年建立。表面に幇間(たいこもち)の由来と、久保田万太郎の、

   またの名のたぬきづか春ふかきかな

 の句、裏面に幇間一同の名を刻んでいる。幇間を「たぬき」と呼んだことから、この地に建てられ
た。幇間の由来について塚には「幇間とは幇助のことで、豊臣秀吉の寵臣曽呂利新左衛門を祖とする。
その働きは、弁舌縦横に使い、宴席に侍り、客の間を取りもち、遊興を助け、結果として愁いを慰撫
し、滑稽の内に風刺を挟み、怒りを和らげるものである」と記している。毎年4月中旬に院内で投扇
興が催される。

   幇間塚
   「幇」は、たすける意。幇間とは、客の宴席に侍し、座を取り持つなどして遊興を助ける
   者。たいこもち、男芸者のこと。幇間勇士によって、幇間物故供養のため、昭和38年に
   建立された。碑には、浅草生まれで、大正・昭和の小説家・劇作家・俳人久保田万太郎の
   俳句がある。
   またの名の タヌキづか春 ふかきかな                金龍山浅草寺


 
鎮護堂の神木・公孫樹
 境内右手の広いところに立つ。

   鎮護堂の神木・公孫樹
   推定樹齢4、500年、この公孫樹の木は、昭和20年3月10日の東京大空襲の時、焼
   夷弾を浴びながらも、その猛火から鎮護堂を守ったという神木である。今でも木には当時
   の焼け跡が残っている。戦争がこの世からなくなることを願いたい。   金龍山浅草寺

   
浅草寺の神木・いちょう
   浅草寺本堂東南に位置するこのいちょうは、源頼朝公が浅草寺参拝の折、挿した枝から発
   芽したと伝えられる。
   昭和5年に当時の文部省より天然記念物に指定されたが、昭和20年3月10日の戦災で
   大半を焼失した。今は天然記念物の指定は取り消されたが、あの戦災をくぐり抜けた神木
   として、今も多くの人々に慕われている。              金龍山 浅草寺


 8代目市川団十郎奉納木製提灯
 高さ69cm 嘉永五年(1852)観音堂に奉納されたもの。木製提灯といっても、提灯ではな
く彫刻だ。


 
水子地蔵菩薩像
 鎮護堂の境内にある。

   昭和53年9月25日建立。(浅草寺ご本尊示現1350年)
   お地蔵さまは、地獄界から天上界に至る六道の苦の中に、生死を繰り返す私たち衆生の苦
   しみを救済する仏さまで、修行僧のお姿をして、右手に鍚枝、左手に宝珠を持つ、慈悲深
   い菩薩さまである。
   地蔵とは、万物を平等に育成する偉大な力の源である大地を現し、また母親の胎蔵を意味
   することから、地蔵尊が子どもたちを守るという信仰が生まれた。
   江戸時代には、六道(善悪の行為の結果として赴く六つの世界)救済のために、六地蔵尊
   が盛んに造像奉祀され、空無上人が自ら六地蔵尊の一つを、浅草寺の支院、正智院に安置
   したと伝える。
   生後間もない嬰児の健やかな成長を願い、また、受け難き人の命を宿しながら、育成し得
   なかった、多くの尊い命の、後生安穏の悲願を込め、ここに水子地蔵尊が建立された。
   毎月24日にお地蔵さまのご縁日には、水子供養法要が行われる。
   お地蔵さまのご真言・・・「おんかかか びさんまえいそわか」     金龍山浅草寺



■旧浅草公園四区
 浅草2丁目6~8番の区域に相当する。往時ひょうたん池などがあった一帯だ。花やしきの南。


■まるごとにっぽん

 浅草2丁目6番4号東京楽天地浅草ビル1~4階に展開する日本全国東京発出店グルメ50店。平
成27年12月17日オープン。浅草の再開発と共に、地方の村おこし、町おこしを援護する役割を
目指す。フロア構成は、1階食品、2階日用品、3階情報発信、実演・体験、4階飲食で、合計売場
面積は約3732㎡。全4フロアに、飲食店8店、物販37店、その他5店の合計50店舗を集積し
た。年間集客想定は372万人以上、年間売上想定は30億円と見込む。
 3階は、イベントスペース「おすすめふるさと」に出展する市町村を中心とした「旅の窓口」がテ
ーマのフロアで、「たいけん広場 浅草にっぽん区 NIPPON Experience」を展開す
る。JTB、マイナビ、さとふるの3社が共同で店舗を展開。JTBが「ふるさと観光プランカウン
ター」を設置し、地方の観光プランを提案。マイナビは、地方への移住希望者に向けて、地方へ移住
するための仕事と暮らしについての移住・定住相談窓口を運営する。さとふるは、ふるさと納税のポ
ータルサイトを運営しているが、今回、はじめて実店舗として「ふるさと納税コンシェルジュ」を設
置。さとふると契約する約60の自治体のふるさと納税制度の利用をサポートする。ふるさと納税を
サポートする実店舗を構えることで、インターネットと馴染みのない50~60代の顧客に対し、ふるさと納税を利用するきっかけ作りたいという意向。

 東京楽天地浅草ビル
 長らく浅草の娯楽の中心地として、多くの人を楽しませてきた、浅草六区の浅草東宝会館と浅草
天地ボウル。六区ブロードウェイとも呼ばれた地区にあった2つのビルは、現在、浅草六区の往時の
賑わいを復活させる「浅草六区再生プロジェクト」の一端を担うべく再開発が進められた。地上13
階、地下2階から成る施設で、高層階にはアールエヌティーホテルズにより「リッチモンドホテル・
プレミア浅草インターナショナル」が、また地下1階には正栄プロジェクトが運営するパチンコホー
ルがオープンする。


■浅草賑わいミュージアム浅草風俗歴史館
 浅草2丁目7番3号の奥山苑2、3階にある。江戸から昭和に至るまでの浅草界隈の賑わいぶりを
今に伝えるための資料館。03‐3844‐5656
 10時~18時(平日は17時) 休館日 祝日を除く第2・第4火曜日 有料。


■木馬館大衆劇場

 浅草2丁目7番5号にある芝居小屋。毎月大衆演劇、浅草寺のすぐ横手に位置する浅草木馬館は、
昭和52年から大衆演劇の芝居小屋として開館。伝統工芸の職人の店が多数軒を並べている江戸下町
の情緒が香る浅草だからこそ、大衆演劇がよく似合う。雷門から仲見世につながる参道を散策し、浅
草寺でお参りをしてから観劇すると、お芝居が一層楽しくなるはず。古きよき時代の町並みに溶け込
んだそのたたずまいには、どこか懐かしい温かさが満ちあふれています。その抜群の好立地もあり、
全国の大衆演劇ファンの注目の劇場だ。

 木馬亭
 浅草2丁目7番5号にある。毎月1~10日に浪曲の定席が開かれる大衆演芸場。17~21時と
11日以降は貸席となる。お笑いのライブ、芝居、コンサート、レコードキャンペーンと内容は様々。
なお毎月中頃の日曜から日曜の8日間は「お笑い浅草21世紀」が常打ちする。

   
元木馬館通り(五重塔通り)
   この地は元「木馬館通り」として親しまれていたが、昭和48年11月浅草寺昭和五重塔
   の再建により、五重塔通りに改称された。浅草を懐古するとき、12階と瓢箪池と木馬館
   の廻転木馬は、あの楽しいジンタの音楽とともに語り草となっている。明治30年代、木
   場館にあった昆虫館(昆虫研究家、名和清氏)や水族館は、当時東京における貴重な文化
   施設であった。とりわけ、ジンタの伴奏で子供達の夢をのせた廻転木馬は有名である。そ
   の「木馬」の行方はどうなっていることか、消息を知りたいものである。また、浅草名物
   となった木馬館の「安来節」は、昭和52年6月の公演をもって終幕になったが、唄い続
   けて40年、木馬館の安来節は、浅草の大衆芸能史上に不朽の名をとどめている。昭和4
   年7月に水族館2階に日本最初のレヴュー劇場の「カジノフォリー」が旗挙げした。新進
   作家の川端康成が朝日新聞紙上にカジノフォリーの舞台を小説「浅草紅団」と題して連載
   したことから社会に知られ、学生やインテリが押しかけ有名となった。このカジノフォリ
   ーの舞台から喜劇の天才エノケンこと榎本健一が誕生している。
   昭和52年10月                        浅草公園町会建札


■浅草観音温泉
 
浅草2丁目7番26号にある薬用温泉。銭湯じゃない。神経痛、胃腸病、皮膚病などに効能があっ
て、体の芯から温まる。有料だがタオル・石鹸も貸し出しているので、浅草散歩の途中でふらっと立
ち寄ることが出来る。水曜日が定休日。営業は6:30~18:00
 


■淡島堂
 浅草2丁目7番にある浅草寺の堂宇。元禄年間(1688~1703)に紀伊国の加太神社を勘請
したもの。加太神社は淡島と呼ぶ小島に鎮座し、「淡島明神」の俗称があるためこの堂もそう呼ばれ
ている。祭神は少彦名命、堂内には両手で宝珠を持つ坐形の神像を安置する。淡島明神は、江戸時代
より婦人病、性病の守護神として女性の信仰を集めている。現在も毎年2月8日、ここで針供養が行
われ、女性の参詣人が多く集まる。針供養は、日頃使い慣れた針に感謝し、柔らかな豆腐に差し供養
する行事。かつてはこの日に限り女性は針仕事をしない風習があった。

   
淡島堂
   御祭神  少彦名命(すくなひこなのみこと)

   淡島堂は、元禄年間(1688~1703)紀伊国(現在の和歌山県)の加太神社を勘請
   したものである。加太神社は、淡島と呼ぶ小島に鎮座し、淡島明神の俗称があるため、こ
   の堂も淡島堂と呼ばれている。祭神は少彦名命、堂内には両手で宝珠を持つ坐形の神像を
   安置する。
   淡島明神は、江戸時代より女性の守り神として、信仰を集めた。現在も毎年2月8日、ここ
   で針供養が行なわれ、女性の参詣人が群集する。針供養は、日頃使いなれた針に感謝し、
   柔らかな豆腐にさし、供養する行事。かつては、この日に限り女性は針仕事をしない風
   習があった。

   平成8年3月                          台東区教育委員会

   和歌山加太之淡島明神勧請 淡島大明神
   本地佛 虚空蔵菩薩 毎月13日 御縁日
   2月8日 針供養 御昇堂 11時


   白木聖観世音菩薩
   正徳二年(1712) 御出現
   平成11年 御遷座
   毎歳7月8日 大供養
   御昇堂 11時


 加太神社
 加太淡島神社ともいう。神功皇后は、三韓征伐からの帰り、瀬戸内海で激しい嵐に遭った。神に祈
りを捧げると「船の苫を海に投げ、その流れのままに船を進めるように」とのお告げがあった。お告
げの通りに船を進めると、加太の対岸の友ヶ島に着いた。神功皇后は、その島に祀られていた神に宝
物を供えた。その後神功皇后の孫である仁徳天皇がこの地を訪れた際に社を対岸の加太に社を移し社
殿を造営した。これが今日の加太神社(加太淡島神社)だ。
 またこの神社の本質は女性の信仰と漂泊神信仰である。淡島神は天照大神の第6番目の姫であり、
16歳で住吉明神に嫁いだが、婦人病(性病)に罹かったため、巻物・楽器とともにウツロ船で流さ
れ、翌年3月3日に淡島に流れ着いた。そこで婦人病を治す誓いを立てたとする。しかしこれは、淡
島が住吉大社の社領となっていたことによる後世の附会だろうという説もある。このことにより、淡
島神社は、婦人病を始めとして安産・子授けなど女性に関する凡ることを祈願する神社となった。但
し加太神社では少彦名命が医薬の神であるからと説明している。江戸時代には、「淡島願人」と呼ば
れる人々が、淡島明神の人形を祀った厨子を背負い、淡島明神の神徳を説いて廻ったため、淡島信仰
が全国に広がった。

 魂針供養之搭
 淡島堂の境内にある。

   
魂針供養之塔

 説明文にこう書いてある。

   建立の記
   この針供養之搭は、大東京和服裁縫教師会が50周年記念事業として発願し、全国和裁団
   体連合会の御協賛と裁縫をたしなまれる多くの方々の御助勢とにより、昭和57年10月
   17日に建立されました。

   省みますれば、昭和10年2月8日「折れ針」への感謝と裁縫関係者にお呼びかけし、古
   来の伝承に従い、浅草寺淡島様の御宝前で、供養の法会を営ませて頂いてより、次第に同
   じ志の方々が増え都内をはじめ近県からも「折れ針」を持って参詣され、懇ろに御供養な
   さる方々が、年々多くなりつつありますことは報恩の美風を善く世に伝へるためにも誠に
   有難く喜びに堪えません。       大東京和服裁縫教師会・針供養之搭保存会会長  鈴木昇造

                              針供養之搭担当責任者  山崎章司

 針供養は折れた縫い針を供養し近くの淡島神社に収める行事だ。田畑に関する作業をこの日から始
めるという「事納め」か、この日で終わるという「事納め」の日に行う風習があった。関東では、田
畑に関する作業をこの日から始めるという2月8日に行うが、関西では「事納め」の12月8日にや
るところが多いという。
 2月8日は針供養の日だ。浅草の女たちは、この日連れ立って、観音さまの境内にある「淡島明神」
へお参りする。その頃の下町娘にとって、裁縫はなにより大切な稽古ごとだった。「針が持てない女
は、亭主や子供にボロをひきずらせることになるんだよ。そんなことしたら、それこそ女の恥だから
ね」それが母親の口癖で、娘は幼い頃から、雑巾に始まって、着物、羽織、袴の縫い方まで、とにか
く一通り仕込まれた。針の運び方から指貫(ゆびぬき)のはめ方まで厳しいものだだった。おいらの
母親も一通り当たり前にやってたね。布団だって綿を買ってきて作ってたよ。いろいろやり方を説明
してたが、サッパリ覚えちゃねえや。


   裁ちものをする時は、まずおまじないをし、反物の尺を計って、それをつもって、裁ち鋏
   (たちばさみ)を取り上げたら、まずその鋏を胸に当てて、「淡島さま、淡島さま。お願
   いでございます。どうぞ、裁ちそこないをしませんように」これを三遍唱えれば心が落ち
   つく。その上で、もう一ぺん、つもり違いがないかどうかを確かめて鋏を入れれば、眉山
   をザックと切って、青くなるようなことは決してない。淡島さまは優しい神さまで、お針
   子たちの願いはいつもちゃんと叶えて下さるけど、針を粗末にすると。お怒りになる。仕
   事にかかるときはまず針差しの針の数を確かめ、終わったとき、もう一度数え直す。一本
   でも足りなければ、どんなことをしても探し出す。そうすれば、うっかり畳に落とした針
   で歩く人を傷つけることもないし、着物の衿に残した針で、着る人に怪我をさせることも
   ない。「針を粗末にする娘は罰が当たって、一生裁縫がうまくならないよ」娘は母に貰っ
   た小さい空き缶に、折れたり、曲がったりした針を丁寧にしまっておき、それを年一度の
   針供養の日に、淡島さまへ納めに行った。(女優沢
村貞子)

 
胎内くぐりの石灯籠
 淡島堂の左前にある。「胎内くぐりの灯籠」と称して、子供の虫封じにくぐらせる。享保年代に造立されたとの噂がある。

   胎内くぐりの灯籠
   この石燈籠は「胎内くぐりの灯籠」として江戸時代から有名であったもので、この灯篭を
   くぐることで、子どもの虫封じや疱瘡のおまじないとなるといわれている。
   お子様をお連れでご参拝の折には、お子様にくぐらせてみてはいかがでしょうか。
   造立年代は不明                          金龍山 浅草寺


 
天水鉢
 明和七年(1770)造立。太平洋戦争が激しくなった頃、浅草寺ご本尊をこの天水鉢に奉安し、
本堂の地下深く埋めた。本堂は焼け落ちてしまったが、この天水鉢のお蔭げで観音像は安泰を得た。

 戦災供養地蔵尊像
 石造 浅草三業地の戦死者慰霊のため造立。浅草花柳界に身を置き、戦災で亡くなった人たちの霊
を慰めるために、旧浅草藝妓組合などが淡島堂に、昭和32年に建立した。

 写経供養塔
 昭和33年観音本堂再建を記念して、観音経百万巻写経運動が発願し、毎年4月から10月の間伝法
院で行われる写経と各家庭で写経された「般若心経」「観音経」を10月28日写経供養会を行い、
この塔に納めるのだ。


   写経供養塔
   浅草寺では、昭和33年の本堂落慶を記念して、「観音写経経運動」を発願しご信徒各位
   にお写経をお勧めしており、ご奉納いただいたお写経は、毎年10月の写経供養会にてご
   本尊観音さまの御宝前に奉安され、供養されている。
   平成6年に造立されたこの宝塔型の写経供養塔には、その年にご奉納されたお写経の経題
   と巻数とを記した「目録」をご法安し、ご信徒各位のお写経の功徳を後世に伝え賛嘆して
   いる。                               金龍山浅草寺


 浅草大平和塔
 淡島堂の境内にある。

   
みたまよ とこしえに 安らかに われら守らん 世界の和  湯川秀樹

 建設趣意書に次のように綴っている。

   建設趣意書
   思い出づる調べも哀し、昭和20年3月9日の夜、B29、150機の大空襲により浅草
   一帯は火の海となる、地をなめるようにして這う火焔と秒速30mをこす烈風にあふられ、
   親は子を呼び、子は親を求むれど、なす術もなし。おののき叫び逃げまどい、悪夢の如き
   夜が去れば・・・・・眼にうつるものは一面の焦土にて、一木一草の生づるもなく、
   あわれ身を焼かれ路傍に臥す無辜の犠牲者は一万余柱を数う。当時その凄惨な状況は1片
   の新聞だに報道されることなく、敗戦後に生れた子供たちは戦争の惨禍を知る由もない。
   いたましく悲しい夜もいつしか歴史の一齣として消えて行くであろう。よって我々はここ
   に当時を偲び、不幸散華された御霊の安らけく鎮まりまさんことを祈り、二度とあやまち
   を繰返すことなく永遠に世界の平和を守らんことを誓い、浅草観音の浄域この碑を建立す
   る。以て瞑せられよ。
   昭和38年8月15日                     淺草大平和塔維持会

 なお湯川秀樹は原爆を作る研究所で働き、その情報をアメリカに垂れ流していた。その功績でノー
ベルにありついた訳だが、彼が悪意を以て国家国民を裏切り、私利私欲に走ったということではなく
どうも昭和天皇のスパイとしてそうしていたことのようだ。原爆は満州の研究所で完成ししたが、昭
和天皇がアメリカに投下することを拒み、ソ連経由でアメリカに渡り、リトルボーイとして広島に投
下されたというのが本筋らしい。昭和天皇は広島に原爆が投下されることを知っており、ユダヤと手
を結んでいた節がある。昭和天皇は広島の原爆について一切コメントしていないし、被爆者に見舞い
の一言すら発さぬまま死んでいった。湯川も手玉に取られた一人かもな。

 淡島堂に住んだ淡島椿岳
 江戸下谷生まれの評論家、翻訳家の内田魯庵の『思い出される人々』には、二葉亭四迷、坪内逍遙、
山田美妙、尾崎紅葉、斎藤緑雨、島田沼南、森鴎外、幸田露伴、夏目漱石、大杉栄らがいるが、これ
らの人に混じって江戸末期の画家淡島椿岳がいる。内田は、

    椿岳の書の豪放酒脱にして伝統の書法を無視した偶像破壊は、明治の初期の沈滞萎痲し
   た書界の珍とする処だが、更に此奇才を産んだ時代に遡つて椿岳の一家及び環境を考える
   のは明治の文化史上頗る興味がある。加ふるに椿岳の生涯は江戸の末季より明治の初期に
   渡って新旧文化の渦動に触れている故、其一代記は最もアイロニカルな時代の文化史的及
   び社会的側面を語っておる。夫故に椿岳の生涯は普通の画人伝や奇人伝よりはヨリ以上の
   興味に富んで、過渡期の奇形的文化の特徴が椿岳に由て極端に人格化された如き感がある。
   言い換えれば椿岳は実に此の不思議な時代を象徴する不思議なハイブリッドの一人であっ
   て、其一生は恰も江戸末期より明治の初めに到る文明急転の絵巻を展開する如き興味に充
   たされている。椿岳小伝は亦明治の文化史の最も興味の深い一断片である。


 と書いている。明治7、8年ころ、浅草の寺域が公園となって整備され、椿岳の住んでいた伝法院
隣の土地が取り上げられた。伝法院の住職から「淡島椿岳だから、いっそ淡島堂に住んではどうか」
とからかい半分にいわれると、洒落っけのある椿岳は、その気になり、頭を丸めて淡島堂の堂守をし
た。この堂守時代に、朝夕椿岳を訪れたのは、大河内子爵、仮名垣魯文などであった。椿岳の泥絵は
彼の死後、俄に価格が上がっていった。
 



■戯神像と顔出しパネル

 浅草2丁目8番10号先浅草ブロードウェイ商店街の北入口のところにある。パネルは撤去されて
いるかも・・・ 像は、説明板の上、街路灯に取り付けてある。演神は道路向かいにある。あっちは
六区だ。

   戯神(おどけがみ)
   この神様は、古くから道化や曲芸などの大道芸を見守ってきた神様です。演じる者の後ろ
   に立ち、見物人を集めるといいます。この神様は、よく旅に出て各地の大道芸を見て回る
   そうです。この神様に会えた人は、人を引き付ける魅力をさづけられるといわれます。


 ※文中の「さづけ」は「さずけ」の誤記。
 



■新奥山
 かつての奥山、浅草公園の五区の西半部。

   奥山(新奥山)
   江戸の昔、今の浅草寺本堂の西北一帯は、俗に「奥山」と呼ばれ、江戸の盛り場として大
   道芸人や見世物小屋で大いに賑わう、著名な場所であった。
   奥山の名の由来は記録にないが、おそらくその位置が本堂の奥にあることから名付けられ
   たと思われる。
   明治以降、その賑わいは浅草寺西側の浅草公園六区へと移り、六区は日本一の興業街・映
   画のメッカとして栄えたが、その前身が奥山だったといわれる。
   現在は、この地を「新奥山」として整備し、諸碑が建立されている。この中には、往時の
   浅草の賑わいを伝える記念碑も建てられている。           金龍山 浅草寺
   
Shin Okuyama
   In the Edo period this areas eas the most famous amusement quarter of Edo cit
   y and called "Okuyama". Many peaple came to see street performances and specta
   cles here.
   After the Meiji period the prosperity district movfe to the west area of Sens
   o-ji called "Asakusa Rokku" and it flourished as the most thriving entertainme
   nt downtown in Japan Nowadays this place was named "Shin-Okuyama" and many m
   onuments which remind us of the past are built.


   
浅草公園史跡めぐり 第4番札所
   奥山の地名には諸説があり、定かではない。享保18年(1733)浅草寺境内のこの地
   に千本桜が植え継がれた頃より盛場となって栄えはじめ、江戸時代から明治初期にかけ庶
   民の遊楽で賑わいを呈した。奥山には参詣人の憩の掛茶屋などと並び、既に貞享元年(1
   684)には宮地芝居が興行されていたという、宝歴元年(1751)では深井志道軒の
   講談が名高く、下って曲独楽の松井源水と居合抜の長井兵助が人気を集め、異国の珍島奇
   獣が渡来すれば、いち早く奥山の見世物になったと、安本亀八が生人形と書き技を競い、
   猿芝居、犬芸、軽業、手妻(奇術)をはじめ、時にはヨーロッパのサーカスがかかったこ
   ともある。矢場女(揚弓場)の嬌声、水茶屋や揚子見世の看板娘は春信、歌麿などの浮世
   絵になって評判となった。奥山の取締は江戸町火消の頭で有名な新門辰五郎だった。明治
   17年浅草公園埋立造成地の第六区に奥山第五区の諸出店、諸興行小屋が移転されること
   になって、東京一の大衆娯楽の集団地「六区興行街」が誕生するに及んだ。奥山の名は消
   えても盛場浅草の歴史、いな日本の民俗風物史の変遷を知る上に極めて貴重だ。
   昭和52年                           浅草公園町会建札
  

 瓜生岩子像
 新奥山の碑群の中にある正座像。台座に下田歌子の撰文を刻むが、達筆過ぎてチンプンカンプン。
ネットで探してみたが、誰もそうなのか言及したものはなかった。悔しい!

   瓜生岩子刀自顕彰式記念
   昭和五十三年十一月浅草寺開創千参百五拾年祭に当り記念事業の一つとして台東区福島県
   人会では福島県の誇る偉大なる女性であり現代福祉事業の先駆者として生涯を人類愛の爲
   に捧げ尽くし不朽の名を残された瓜生岩子刀自の銅像の顕彰式を挙行いたしました。之を
   記念して御協力事業団並びに御協力者氏名を左記に刻し後世に伝えます。
   昭和53年11月11日                  主催 台東区福島県人会
                                協賛 浅   草   寺
                                協賛 浅 草 観 光 連盟
                                協賛 東京 福島県人会
   協力者氏名
   一、五萬円 瓜生家一同  一、一萬円 
和田静子他三名  一、五千円 入山よしの
   一、五萬円 太田 耕造  一、一萬円 元岡 ウラ  一、五千円 櫻井二三孝
   一、五萬円 佐藤 市蔵  一、一萬円 斎藤  勝  一、五千円 熊田 政四
   一、参萬円 三森 一郎  一、一萬円 厚海 春次  一、五千円 加藤 義雄
   一、貮萬円 
菊地千代松  一、一萬円 森  靖雄  一、五千円 後藤小次郎
   一、貮萬円 和田 長敬  一、一萬円 神植 康充
  一、五千円 渡辺美智子

   一、貮萬円 佐藤 清淑  一、一萬円 中田 博堯  一、五千円 沢田 要蔵
   一、貮萬円 高羽 芳男  一、一萬円 高橋 徳子  一、五千円 近藤 章子
   一、貮萬円 渡辺 一二  一、一萬円 菊地 憲正        檜野  直
   一、貮萬円 阿部  徳  一、一萬円 鈴木 利雄  一、五千円 阿部 傳功
   一、貮萬円 片山 隆司
  一、一萬円 佐藤 一二  一、五千円 北村  昇

   一、貮萬円 高原 広美  一、一萬円 増子 孝昭  一、参千円 門馬 里仁
   一、貮萬円 海老原末水  一、一萬円 遠藤 治雄  一、参千円 白岩 義晴
   一、貮萬円 鈴木 政一  一、一萬円 櫛田 改造  一、参千円 山田 隆雄
   一、貮萬円 遠藤 顕治  一、一萬円 須藤 キヨ  一、弐千円 吉川 長政
   一、貮萬円 渡辺 二郎  一、五千円 岡田 光蔵  一、弐千円 斎藤  栄
   一、貮萬円 中野 郁郎  一、五千円 鈴木登喜寿  一、弐千円 合原 光二
   一、貮萬円 鈴木 三郎  一、五千円 吉田 忠一          外多数
   一、貮萬円 松平 勇雄  一、五千円 宗像久三郎

   瓜生岩子女史の銅像                  台東区浅草二丁目七番
   岩子は通称、正しくは〝岩〟という。文政十二年(1829)岩代耶麻郡(いわしろやま
   ぐん)熱塩村の渡辺家に生れたが、9才の時父を失い、母は岩を連れて生家へ帰った。そ
   のため岩は母方の姓瓜生を称えた。14才の時会津若松の叔母に預けられ、その夫で会津
   藩侍医を勤める山内春瓏の薫陶を受け、堕胎間引きの防止に関心を持つに至る。17歳で
   佐瀬茂助を婿に迎え、若松で呉服屋を営み一男三女を生んだが、早くに夫を亡くした。明
   治元年会津戦争で孤児となった幼童の教育に尽力したほか、堕胎等、当時のさまざまな悪
   習を正し、同22年貧民孤児救済のため福島救済所を設立するなど、社会事業の推進に努め
   東京でも深川と根岸で孤児たちの救護所の設置、助産婦養成や失業救済のため水飴の製法
   伝習所を開設し無料で講習した。その製品の売上金は慈善事業に役立てるなどして「仏の
   岩子」と呼ばれた。さらに明治26年には「済生病院」を開設するなど社会福祉事業に尽
   くした功績が認められ、同29年女性では最初の「藍綬褒賞」を受賞したが、翌30年福
   島で没した。享年69歳。生涯を慈善事業に捧げた岩の善行を賞揚し、同34年4月篤志
   家によって、浅草寺境内にこの銅像が造立された。台石正面には、下田歌子女史の撰文を
   刻む。日本のナイチンゲールと称えられる。
 、 
平成8年7月                          台東区教育委員会
   
BRONZE STATUE OF URYU IWAKO
   Uryu Iwako was born in Kitakata, Fukushima Prefecture on February 15, 1
   829. Iwako was her popular name, and her real name was Iwa.At the age of nin
   e, she lost her father, and her mother went back to her parents' home together w
   ith Iwa. When she was 14, she was entrusted to her aunt, and was educated by
   her uncle-in-law,who was a doctor in the Aizu clan.
   After the Meiji Restoration, she exerted dfforts for the eduction of young gi
   rls in the Aizu clan and also established the Fukushima Relief Facility for
   the assistance to the poor and orphans. She also founded the midwifery research
   institute and the Saisei Hospital in Kitakata, thereby promoting social work.
   She died in Fukushima on April 19, 1897. To praise the good conduct of
    Iwa, who devoted her shole life to charitable work,this bronze statue of her wa
   s erected here in April 1901.
  
 
 線刻一葉観音碑

 文政久年(1826)花隠道人司直が上屋田寉子女の貞節を賞して建碑。

 高橋石斎の碑

 名は豊珪、字は子玉、通称は幸次郎で、石斎と号した。別号は松谷・煙岳など。
 尾張名古屋藩に剣術で仕えた父曽平に二刀流を学び、尾張名古屋藩の撃剣師範になる。また儒学を
鈴木朖に学んだ。石齋、一日想うに「区々たる武技を以て功として伝えるに足らず」と、勤めを辞し
て江戸に遊び、文学に専心した。最も書法の習練に努め、力を顔柳に得て一家を成した。
 明治維新の際、戸田大和守忠至に招かれ、またその推薦により史官をもって奉仕した。
明治5年に
没し、遺族の願いにより
熊谷武五郎が撰文・篆額して建立した。

 龍沢世古先生之碑

 伊予国出身で、書家として名高く、天保五年(1834)に没す。弘化二年(1845)に門人が
建てた。碑には「龍澤世古先生之碑」とあり、「瀧澤」と「氵」はついていないのだが、「滝沢」と
書いたものがある。

   
龍澤世古先生之碑

 
桜痴居士福地君紀功碑
 福地源一郎(幼名は八十吉)。桜痴は雅号。長崎生まれ、父は頼山陽に認められた医師福地苟庵。
文久二年(1862)幕府の使節に従い英仏2国に赴き、明治なって再度渡欧、東京日々新聞社長、
小説や演劇の功績顕著。明治39年に没す。揮毫は山県有朋。

 浅草地区の街の整備、特に六区地区の開発にも尽力し、明治から大正・昭和に繋がる演劇・映画の
街として繁栄することが出来たのは彼の力に負うところが大きいとされている。明治39年死去、享
年66歳。

   
櫻癡居士福地君紀功碑


 
浅草観光纉緒の碑
 浅草繁栄に尽くした人を讃え、観光連盟発足20周年を記念して昭和43年建立。

   浅草は伝統と歴史の町である 庶民信仰の大本山金龍山浅草寺と共にこの町は幾百千年の
   世を逞しく生きてきた あるときは源平争乱の戦火に耐え あるときは江戸文化濫觴の地
   として栄えるなど幾多の興廃消長を繰り返して現在に及んでいる
   今日浅草は 都内屈指の観光地として隆盛を極めているが その蔭に浅草を守ろうとする
   多くの人々の血の滲む努力があることを忘れてはならない
   浅草観光連盟は 発足二十周年の佳日をトして浅草の繁栄に多大な貢献をした人々の業績
   を讃え 過去 現在 未来を通じここに芳名を列記して後世に永く伝えんとするものであ
   る。庶民の町浅草は この町を愛し慈しみその興隆に一身を捧げる地元の人々によって 
   滔々たる大河の流れのように淀みなく発展を重ねていくことであろう
   昭和43年10月吉日             東京都台東区長上條貢 撰文並に謹書

 浅草観光事業功労者之碑
 纉緒の碑の隣にある。

   
浅草観光事業功労者
   大谷米太郎 岡田四郎 上條貢 清水谷恭順 山田兵三 小林総介 高坂公一 賴母木眞
   六 穂刈恒一 橋本秋利 村田藤治郎 澤田要蔵 和田長敬 松村繁一郎 森田新太郎 
   荒井哲郎 豊田正利 藤谷吉之輔 川喜多忠之助 原戸賴吉 葛谷輝明 市村一雄 堀安
   孝 阿部高之丞 内山榮一 飯村茂 永野章一郎 守山良順 壬生台舜 清水谷孝尚 穂
   刈幸雄 野口日出男 中塚泰蔵 小林晴男 矢野隆夫 飯村恵一 吉住弘 西村太刀夫 
   春木實 松村吉紘 鈴木秋雄 田中久五郎 松澤欣一 荒井修 岩瀬桂助 橋本秋彦


 
石井漠「山を登る」記念碑
 わが国創作バレエの第一人者を記念して昭和38年に建立。碑面の「山を登る」は代表作の名前。
揮毫は谷崎潤一郎。


   
石井漠「山を登る」記念碑
   日本の創作舞踏の創始者石井漠
   明治19年秋田に生まれ、昭和37年1月7日に昇天するまで、近代バレエの創造、浅草
   オペラの旗揚げ、300数曲の創作舞踊など、芸術活動は誠に偉大でありました。舞踊生
   活50年の山坂道を失明にあえぎながら登りつめた不滅の魂を記念するために、実妹栄子
   と共に踊った「山を登る」の姿を碑に刻み石井漠を愛した多くの人々や八重子未亡人の哀
   悼の念を永久に伝えようとするものです。
     題字 谷崎潤一郎   設計 谷口吉郎
     彫刻 舟越 保武   施工 清水建設
   昭和38年(1963)4月8日


 映画弁士塚
 奥山庭園の中にある。明治の中ごろから大正のころまで、活動大写真といわれていた動く写真が公
園六区を風靡していた。フィルムに録音がなされない頃は無声映画で映画館には映画の内容を説明す
る弁士が銀幕の脇で抑揚をつけて説明していた。昭和34年題の揮毫は鳩山一郎、建設の弁は大蔵貢
だ。っても知らないか?

   明治の中葉わが国に初めて映画が渡来するやこれを説明する弁士誕生 幾多の名人天才相
   次いで現れその人気は映画スターを凌ぎわが国文化の発展に光彩を添えたが 昭和初頭ト
   ーキー出現のため姿を消すに至った 茲に往年の名弁士の名を連ねこれを記念する。

                                    建設省 大蔵貢

   徳川夢声 樋口旭琅 熊岡天堂 原紫翠 国井紫香 谷天朗 泉天嶺 犬養一郎 大和春
   城 斎木嶺水 千代田鶯谷 加藤柳美 石田夢人 森鴎光 高村秀嶺 金子晴洋 染井三
   郎 静田錦波 松田春翠 生駒雷遊 津田秀水 加藤如洋 西村小楽天 木下紫楼 竹本
   嘯虎 高橋林風 細山夢眼 渋谷白涙 紫野柳晃 三木緑光 五十嵐狂虎 大友保 大原
   霜渓 大蔵正一 松井翠声 鈴木涛晃 石野馬城 西村楽天 玉井旭洋 高岡黒眼 林天
   風 大蔵忠孝 黒沢松声 加川栄一 松浦翠波 大辻司郎 清水雲山 石井春波 花井秀
   雄 伊原旭涛 東滔水 土屋松涛 山野一郎 内藤紫健 中川慶ニ
                                    建設省 大蔵貢
                                   賛助 大谷竹次郎

   遠山霞洞 中村緑陰 余川天露 牧野周一 雲井天明 松平鶴声 武井秀輔 西澤紅美 
   河合華水 松本瓢遊 鈴木光太郎 高橋鶴童 茂木二郎 藤浪無鳴 守谷梅香 井口静波
   渡辺遊声 福地悟朗 島田嶺月 中山生堂 島村春洋 松田快堂 神田楓晃 美津木春堂
   梅村紫声 長田猛虎 岩田晃波 芳本涛華 浜野静波 月島光波 駒田好洋 高麗田桃緩
   藤原狂夢 杉浦市郎 佐々木雀友 石原登美郎 細野暁風 島津天涛 須田貞朗 仙石雷
   渓 細川天流 花岡三八 細川春葉 桂一郎 奈美乃一郎 桜井狂葉 徳永天露 藤村緑
   郎 林旭風
                          賛助 松竹株式会社 社長 城戸四郎
                             東宝株式会社 社長 清水 雅
                             大映株式会社 社長 永田雅一
                             東映株式会社 社長 大川 博
                             日活株式会社 社長 堀 久作
                            新東宝株式会社 社長 大蔵 貢


 喜劇人の碑
 「喜劇に始まり喜劇に終わる」と森繁久弥の書。浅草はかつて、日本のブロードウェイと呼ばれ華
やかな街だった。「喜劇人の碑」は人々に笑いと喜びを与えてくれた喜劇人たちに感謝の意を表し昭
和57年に建立された。碑裏面には喜劇人の名前が刻まれている。
 本碑右側の碑は、協力喜劇人の芳名碑

   建立記念碑
   協力芸能人(順不同)
   曾 我 廼 家 明 蝶     小  野  田  貝
   コロンビア・トップ     玉  川  昭  二
   菅  原  文  太     岡  崎  二  朗
   黒  沢  年  男     ふ じ や ま 竜
   玉   置   宏     関    敬  六
   川 津 清 三 郎     十  勝  花  子
   志 摩 夕 起 夫     サ ト ウ サブロウ
   小  桜  京  子     冠般流川田琉球舞踊団
   木 田 三 千 雄     二代目引田天功朝風まり
   原    一  平     松 旭 斉 八 重 子
   由   利   徹     松 旭 斉 美 江 子
   宮 城 千 賀 子     小 宮 ス ポ ー ツ
   北 上 弥 太 朗     長  沢    純
   柳  澤  真  一     日  高  一  也
   コロンビア・ライト     川  中  美  幸
   赤  木  春  恵     加  山  麗  子
   三 崎 千 恵 子     東  映  剣  会
   清  川  虹  子     敏いとうとハッピー&ブルー
   南    利  明     大  塚  文  雄
   た こ は ち ろ う     
平林健二と東京パンチョス
   ハ  ナ  太  郎     
東京ニュースカイオーケストラ
   大  屋    満     花 笠 音 頭 協議会
   大  泉    滉     小   野   満
   宮  島  一  茶     千 葉 か ほ る
   宮  田  章  司     榎 本 ち え 子
   南    道  郎
   徳  武  忠  吉

 真ん中の正碑

   喜劇人の碑
       笹川良一書

 碑裏

   川田 晴久 昭和32年6月21日(51歳)   
当初刻まれた喜劇人
   古川ロッパ 昭和36年1月月16日(57歳)
   八波むと志 昭和59年1月9日(38歳)
   清水 金一 昭和41年10月10日(54歳 通称 シミキン)
   堺  駿二 昭和43年8月10日(54歳)
   榎本 健一 昭和45年1月7日(65歳 通称 エノケン)
   山茶花 究 昭和46年3月4日(56歳)
   森川  信 昭和47年3月26日(60歳)
   柳家金語楼 昭和47年10月22日(71歳)
   木戸新太郎 昭和49年8月19日(59歳)
   大宮デン助 昭和51年12月13日(63歳)
   
勲四等
   伴 淳三郎 昭和56年10月26日(73歳)
   三波 伸介 昭和57年12月8日(52歳)
   佐山 俊二 昭和59年1月30日(65歳)
   武智 豊子 昭和60年7月18日(76歳)   
後に刻まれた喜劇人
   トニー 谷 昭和62年7月16日(69歳)
   有島 一郎 昭和62年7月20日(71歳)
   東  八郎 昭和63年7月6日(52歳)
   南  利明 平成7年1月13日(70歳)
   益田 喜頓 平成5年12月1日(84歳)    
平成13年以後の刻名
   
国民栄誉賞
   渥美  清 平成8年8月4日(68歳)
   
勲四等
   三木のり平 平成11年1月25日(74歳)
   
勲四等
   曾我廼家明蝶平成11年4月13日(90歳)
   
勲四等
   由利  徹 平成11年5月20日(78歳)
   
勲四等
   ミヤコ蝶々 平成12年10月12日(80歳)
   
勲四等
   清川 虹子 平和14年5月24日(89歳)
   関  敬六 平成18年8月23日(78歳)
   谷  幹一 平成19年6月25日(74歳)
   
国民栄誉賞
   森繁 久彌 平成21年11月10日(96歳)
   橋  達也 平成24年1月16日(74歳)

         石碑寄附 秩父市 大野豊

   建立世話人代表
   佐野一郎 野田洋典 山本紫明

 左側の碑。

   
喜劇に始まり
    
喜劇に終わる
      森繁久彌

 曾我廼家五九郎顕彰碑(のんきな父さんの碑)
 円形の上部には曽我廼家五九郎(そがのやごくろう)の好きだった

   
群盲撫象

 の文字と「のんきな父さん」の像を描く。昭和38年建立。題字は大野伴睦筆。
 
五九郎は徳島県吉野川市鴨島出身「喜劇王」として浅草で活躍していた。映画「ノンキナトウサン(ノンキナトウサン役)」、「山賊(喜多八役)」、「八公(八百八役)」に主役で出演した。
 顕彰碑の後ろのコの字に囲む塀は 昭和40年建立の「永生の壁」 昭和39年日本の芸能団が招
かれて訪中、日中友好の端緒を作りました。さらなる友好と世界の平和を祈って文人・芸能人の約3
00人が思い思いのことを書き連ねている。例えば、フランキー堺は「私は貝になりたい」と、碑名
「永生之碧」は当時の中国政府指導者の一人郭抹若氏から寄せられたたもの。


 
永生の壁
 曾我廼家五九郎の顕彰碑の後を覆うように建っている。昭和40年世界平和を祈願して建立。碑名
は郭沫若氏から寄せられた文字。郭沫若は日中国交回復に活躍した親日家。

   
永生之碧
     郭沫若

 半七塚
 戸田茂睡の墓域の入口近くに、力石のような丸い石に「半七塚」とのみ刻んである。何の案内板も
なく、予備知識がなかったら見過ごしてしまいそうなさりげない石碑だ。
 捕り物小説の生みの親岡本綺堂を記念して、捕り物作家クラブ同人が、昭和24年に建立した。半七
は「半七捕り物帳」の主人公神田三河町の目明し(岡っ引き)
半七の塚。江戸川乱歩ら捕り物作家ク
ラブ同人が綺堂の業績を記念して昭和24年11月に建立した。綺堂は捕り物小説の生みの親とされ
ている。

   
半七塚

 裏側の文字は、

   半七は生きている 江戸風物詩の中に われ等後輩の心のうちに 胡堂題 捕り物小説の
   生みの親なる岡本綺堂先生を記念して
 その作中の主人公半七の 名をここに留む 
   昭和二十四年十一月六日                   捕り物作家クラブ同人


 と記し、ほかに同人数十人の名がが彫られている。
塚の左側から綺堂が愛玩していた大きなガマが
見守っているぜよ。

 戸田茂睡の寿碑

 墓石は、牛込萬昌院より発見され大正2年に浅草公園に移されたもの。自然石の土台、宝篋印塔の
基壇、五輪塔の順に乗せられている。五輪塔は茂睡自身が生前に自らの後世を供養した逆修塔だ。
 茂睡は、江戸時代の俳人。はじめ戸田茂睡と称え、のち渡辺氏に改姓した。名は恭光、通称は八兵
衛、梨本庵または寒露軒と号していた。徳川氏の家臣渡辺忠の第六子として寛永六年(1629)伯
父戸田藤右衛門に養われ、のち木戸忠国に仕えて三百石を給されていた。延宝年間の末辞任し浅草寺
の近くに居をかまえ、「梨本集」を編纂し和歌の制の乱れを正し世に詠歌の派を立てた。宝永三年(1
706)78歳で没した。「紫の一本」「若紫」「隠家百首」「梨本集」などの著書がある。なお、

   塵の世と思う心の積りては身の隠れ家の山となりける

 と詠み、「隠れ家の茂睡」と時の人々に呼ばれていた

   東京都指定旧跡
   
戸田茂睡墓               所在地 台東区浅草2‐3‐1 浅草寺内
                        標 識 大正8年10月1日
                        指 定 昭和30年3月28日
   戸田茂睡(1629~1706)は元禄期の歌人です。渡辺忠の六男として駿府城内で生
   まれ、父の死後伯父戸田政次の養子になります。名は馮(たのむ)、後に恭光(ゆきみつ)
   通称は茂右衛門、茂睡のほか露寒軒などと号しました。一時岡崎藩本多家に仕えましたが
   出家し、浅草寺近くに居を構えました。「梨本集」「紫の一本(ひともと)」「若葉」など
   を著し、形骸化した伝統歌学の積極的批判者としての文学的意義が認められています。
   自然石の土台、宝篋印塔の基壇、五輪塔の順に配されており、茂睡自身が生前に自らの後
   世を供養した逆修塔です。
   平成24年3月 建設                      東京都教育委員会


 力石「熊遊」の碑 

 熊治郎がさした百貫ほどの力石。明治7年に新門辰五郎が建てた。

   力石
   力石、または「さし石」ともいう。江戸後期、酒屋・米屋の人足たちの間で、酒樽や米俵
   を曲芸のように持ち上げて、その力を競うことが流行した。この力石は、境内で行われた
   「力くらべ大会」で競い持ち上げられたものである。
   正面の「力石・熊遊の碑」は、明治7年熊治郎という男が持ち上げた百貫(約375kg)
   ほどの力石であり、新門辰五郎らがその記念として建てたもの。     金龍山浅草寺

 ●會田先生算学塚銘
 算学者会田算左衛門安明の碑だ。日常使用していた「そろばん」が門下生よって埋められている。

戸時代の和算学者安明の功績を讃えた「算子塚」の碑は、文政二年に儒学者の亀田鵬斎や門人によっ
て立てられた。安明は、少年時代から和算に興味を持つようになり、土地の学者である岡崎安之につ
いて学んでいた。日本古来の和算は、江戸時代になると研究が盛んになり、23歳で江戸に上った安
明も、幕府の役人をしながら算学の研究に励んだ。多くの学者達が、独自の円周率の計算方法などを
編み出していく中、安明は算法に手を加えるなどして難解だった算出法の簡易化を図った。「天元演
段」などの名著を残している。文化14年(1817)に71歳で鬼籍に入った。

   
會田先生算學塚銘

 三十六歌人の碑
 
桜の花を詠んだ三十六首を刻む。大亀の背に据えられた碑。文化十四年(1817)の建立。

 五瀬植松先生明数碑

 植松是勝。算学者関孝和に師事し、算数家として高名。上総国出身。はじめ五瀬を姓とし、のち植
松の氏を継ぐ。安政五年(1858)の建立。
 

 正岡子規碑

   
観音で雨に逢いけり花盛

 の句が彫まれている。平成11年5月28日正岡子規没後100年事業の一環として台東区俳句人
連盟により建立された。

 三匠句碑
 
道の側の巨木の蔭にある自然石の大きな青石に、
それぞれの時代を代表する俳人の佳吟が刻んであ
る。文化六年(1809)人麻呂堂の傍らに建てられたが、明治27年現在地に移した。
西山宗因は
慶長十年(1605)肥後に生まれ、八代藩士だったが、藩が潰れてから京都に出たのちに大坂に移
り、自由で滑稽みの溢れた談林風と呼ばれる新しい俳諧を打ち立てた。
松尾芭蕉は、天保元年に伊賀
に生まれ、藤堂良忠に仕えてつかえていた。良忠の死後京都に上り諧俳を学び、のちに江戸に出て深
川に芭蕉庵を建てて住み、芭蕉風を打ち立てた。榎本其角は、寛文元年江戸に生まれ、
本名は竹下侃
憲(ただのり)。別号は螺舎、狂雷堂、晋子、宝普斎など。初め母方の榎本姓を名乗っていたが、の
ち自ら宝井と改める。
芭蕉の弟子の内でも十哲と呼ばれるほど優れていた。

       宗因
    奈かむとて
    花にもいたし
    頸農骨
   花能雲  芭蕉
    鐘ハ上野可淺草か
     ゆく   其角
     水や 何耳
     登ゝま類
     乃里の味


 区の説明板は以下の通りだが、最初のものは、同文で昭和62年3月に設置された。

   三匠句碑                     台東区浅草二丁目三番 浅草寺
   ながむとて花にもいたし頸農骨(西山宗因)
   花の雲鐘は上野か浅草か   (松尾芭蕉)
   ゆく水や何にとどまる乃里の味(榎本其角)
   西山宗因(にしやまそういん)
   慶長十年(1605)肥後(熊本県)の生まれ。後、大坂に住み談林の俳風を開く。この
   句は「新古今集」にある西行法師の歌「ながむとて花にもいたく・・・」からとった句。

   天和二年(1682)に没。
   松尾芭蕉(まつおばしょう)
   正保元年(1644)伊賀(三重県)の生まれ。数次の漂泊の旅に出て作品集や紀行文を
   残し、「おくのほそ道」は世に知られている。蕉風俳諧を樹立。元禄七年(1694)大
   坂(大阪)で歿した。
   榎本其角(えのもときかく)
   寛文元年(1661)江戸に生まれる。蕉門十哲の一人。のち蕉風を脱し、その一派の傾
   向は、洒脱風などともいわれた。宝永四年(1770)の歿。
   碑は文化六年(1809)の建立。台石には明治27年春の移築の由来が記されている。
   平成8年3月                          台東区教育委員会
   
MОNUMENT IN MEMORY OF
   
SANSHO(three haiku master poets)
   In the late 17th century, three Haiku master : NISHIYAMASOIN,
   MATSUO BASHO, and ENOMО丁O KIKAKU inscribed haiku poems o
   n this monument. It was erected in 1809 and moved here in 1894, the rea
   son of why they moved it is inscrived on the base stone.
    The inscriptuon has to be read from right to left as follows:
    Nagamu tote hana nimo itashi kubi no hone SOIN
    Hana no kumo kane ha Ueno ka Asakusa ka BASHO
    Yukumizu ya nani ni todomaru nori no aji KIKAKU


■浅草興行街(旧浅草公園六区) 
 浅草1丁目25~27番、40~43番、同2丁目9~12番に相当する。所謂「浅草ロック」の
ことだ。浅草公園地は、6区(後に7区を追加)第一区は観音堂の一帯、第二区は弁天山から仲見世
の一帯、第三区は伝法院、第四区は花屋敷南の二つある池の周辺、第五区は奥山・花屋敷、第六区は
西南の水田地帯を埋め立てて出来た造成地。第七区は二区から仲見世・馬道を分けた。これは後から
追加されたが、解除も早かった。六区に映画・演芸の娯楽施設が立ち並び、昭和30年頃まで東京一
の繁栄街だった。最盛期66万人の人出だったという。

   私らは安来節の大和3姉妹で売った訳。姉は春子、妹は清子、まん中の私が八千代だわ。
   私が三味線を弾いて唄うと、姉は太鼓を打つ、妹は鼓を打つ。ほいで今度妹が唄う時は、
   私が三味線弾いて、姉が太鼓打つ。交代交代にやって、それぞれが自分の持ち味出しおっ
   た。着物も柔らかいもので色とりどり、今みたいに揃いのものは着てなかった。その頃の
   六区は人と人で本当に歩けなかった。小屋の外ではリンが鳴るのを待ちかねてて、それぞ
   れ好きなところへワアーっと早く入って見たいという連中ばかり。そこを通り抜けるんだ
   から、一時間はゆうにかかったんですよ。どっち回っても人だらけで、だから毎日、朝は
   いた足袋を晩には捨てて、二軒掛け持ちするから洗っている間はないわけね。二軒歩くだ
   けで、人混み抜けるだけでくたびれてしもうて。その時分の興行は、初日より二日、三日
   と尻上がりに大入りになったんですよ。大正7、8年頃、鴨緑江節などの後を受けて、安
   来節は全盛になるんだけど、その人気たるやもの凄かったわ。歌ものでは別の意味で、藤
   原義江さん達も浅草劇場の三角のところでやっていた時代だがね。あの頃、私はもう玉木
   座を持っていた。浅草はほとんで出たわけで、常磐座を最初に、一二階劇場、玉木座、帝
   京座、日本館、三友館、有楽館、松竹座、大東京、木馬館と、大きいところはみんな出ま
   したわ。(『古老が語る台東区の明治・大正・昭和』酒井八千代)


 六区の名前が人口に膾炙したのは明治の末、日本初の活動写真が電気館で始まり、映画館が林立す
るようになった。徳川夢声が名弁士としてならしたのもこのだ。大正時代に入ると、浅草オペラが人
気を博し、田谷力三や藤原義江がスターだった。昭和に入ると榎本健一(エノケン)や古川緑波(ロッ
パ)の喜劇スターが台頭し、木馬館の安来節もブームを呼んだ。昭和12年国際劇場が宝塚に対抗し
て松竹少女歌劇団(SKD)を結成し「東京おどり」で興行を開始、いわゆる「浅草レビュー」が花
開いた。映画も昭和にはいると、それまでの無声映画からトーキーに変わり、同13年帝国館で上映
された上原謙・田中絹代主演の『愛染かつら』が空前の映画ブームを引き起こした。上原謙はご存知
加山雄三のお父つぁんだ。

 その主題歌「旅の夜風」 作詞・西條八十 作曲・万城目正 唄・霧島昇、ミス・コロンビア
  1.花も嵐も踏み越えて
    行くが男の生きる道
    泣いてくれるな ほろほろ鳥よ
    月の比叡を独り行く
  2.優しかの君 ただ独り
    発
(た)たせまつりし旅の空
    可愛い子供は女の生命
    なぜに淋しい子守唄
  3.加茂の河原に秋長
(た)けて
    肌に夜風が沁
(し)みわたる
    男柳が なに泣くものか
    風に揺れるは影ばかり
  4.愛の山河 雲幾重
    心ごころは隔てても
    待てば来る来る愛染かつら
    やがて芽をふく 春が来る

 「六区」といえば、やはり東映映画「唐獅子牡丹」は外せない。高倉健主演で大当たりした。
  1.エンコ生まれで浅草育ち
    ヤクザ風情と言われていても
    ドスが怖くて渡世はできぬ
    意地で支えて切る仁義
    背なで吼えてる唐獅子牡丹
  2.
親に貰った大事な肌を
    墨で汚して白刃の下で
    積もり重ねた不孝の数を
    何と詫びよか母親
(おふくろ)
    背中で泣いてる 唐獅子牡丹
  3.白を黒だと言わせることも
    どうせ畳じゃ 死ねないことも
    百も承知で やくざな稼業
    何で今更 悔いがあろ
    ろくでなしよと 夜風が笑う
  4.流れ流れの 旅寝の空で
    義理に絡んだ 白刃の喧嘩
(でいり)
    馬鹿な奴だと 嘲ってみても
    胸に刻んだ面影を
    忘れられよか唐獅子牡丹
  5.3番に同じ


 これは発売禁止になる前の「唐獅子牡丹」の1番の歌詞(水城一狼・矢野亮作詞)。エンコは「公
園」の逆さ言葉で〝浅草中の浅草〟の意、〝浅草っ子〟を強調していう言葉だ。江戸っ子が「本町の
水を産湯に使い」というのと同じ発想、セクト主義。発禁後の代替歌詞は、


  1.義理と人情を秤にかけりゃ
    義理が重たい男の世界
    幼馴染みの観音様にゃ
    俺の心はお見通し
    背中で吠えてる唐獅子牡丹
  2.親の意見を承知ですねて
    曲りくねった六区の風よ
    積もり重ねた不幸の数を
    何と詫びよか おふくろに
    背中で泣いてる 唐獅子牡丹
  3.朧月でも 隅田の水に
    昔乍の濁らぬ光り
    やがて夜明けの来るそれまでは
    意地で支える夢一つ
    背中で呼んでる唐獅子牡丹


 ★太平洋戦争でアメリカにボコボコにされ無条件降伏。
 昭和20年敗戦。戦争の窮乏と貧困の中、浅草は娯楽に飢えた人々で溢れかえった。10月に封切ら
れた「そよ風」の中で主演の並木路子が歌う「りんごの唄」(サトーハチロー作詞・万城目正作曲)
が国民的な大ヒットとなり、

  1.赤いリンゴに唇寄せて
    黙って見ている青い空
    リンゴは何にも言わないけれど
    リンゴの気持はよく判る
    リンゴ可愛いや可愛いやリンゴ
  2.あの娘よい子だ 気立のよい娘
    リンゴに良く似た可愛いい娘
    どなたがいったか 嬉しい噂
    軽いクシャミも飛んで出る
    リンゴ可愛いや 可愛いやリンゴ
  3.朝の挨拶 夕べの別れ
    愛しいリンゴに囁けば
    言葉は出さずに小首を曲げて
    明日も又ねと夢見顔
    リンゴ可愛いや 可愛いやリンゴ
  4.歌いましょうか リンゴの歌を
    二人で歌えば 尚楽し
    皆なで歌えば 尚々嬉し
    リンゴの気持を伝えよか
    リンゴ可愛いや 可愛いやリンゴ


 外国映画も、今まで禁じられていた飢えを一挙に満たさんとばかり、押し押すなの盛況を繰りひろ
げた。映画のメッカ浅草は再び活気がよみがえった。

 ストリップ・ショー

 検閲制度の廃止とともに、戦後の開放感から隆盛する。浅草座・セントラル座・常磐座・ロック座
・大都座などが開業。小説家永井荷風も常磐座に足繁く通い、お目当てのストリッパー桜むつ子をし
ばしば楽屋に訪問していたことは有名だった。ストリップ小屋の幕間の寸劇コントから、佐山俊二・
由利徹・南利明・長門勇・南伸介・八波むと志などが育ち、その後も屋フランス座から寅さんの渥美
清やコント55号の萩本欽一・ツービートのビートたけし(北野たけし)などの喜劇スターが続出し
た。しかしストリップの隆盛は長くは続かなかった。 ストリップという英語は、女性の裸体とは無
縁の言葉だ。「連続して」「次々と」という形容詞で、「連続して服を脱ぐ」ところからその名が生
まれた。正しくは「ウーマン・ヌード・ショー」だ。ヌードは男女の別なく「裸体」「裸体画」。現
在は「性器露出ショー」に堕している。

 覚醒剤で逮捕の小向美奈子出演で大騒動
 平成20年9月精神不安定や行方不明などで、芸能活動は不可能と判断され事務所を解雇された小
向美奈子(23)が、同21年1月22日覚醒剤使用で逮捕された。昨年11月アイドル売春につい
て赤裸々に告白、それが元で警視庁の内偵捜査が始まっていた。所在不明となったのは愛人が覚醒剤
で捕まったので逃げ隠れしたためだ。貧すれば鈍するで、逃亡生活で金に困った小向が雑誌のインタ
ヴューに応じたことから、所在が知れ、尾行されていたという訳だ。小向の容疑は共同所持だ。
 2月26日判決。懲役1年6月だったが執行猶予3年の温情だった。
 その小向が浅草ロック座に出演、ヌードを披露することとなったが、小向は前所属事務所と、芸能
活動の自粛や、AV、ヌード作品への出演を禁止とする同意書を交わしていたため、善事務所が東京
地裁に、出演差し止めを求める仮処分を申請し、地裁はこれを受理。3日に仮処分決定が下されてい
た。6月5日の初日報道陣が殺到、急遽中止が発表されたが、劇場側は客の激怒に出演を強行、小向
は、売春疑惑のあばずれアイドルからストリッパーとなった。
 アイドルや女優募集の裏には、初めからAV女優や売春婦にすることが目的なプロダクションが多
い。「1人の成功に1000人の女の子が泣かされる」世界。タレントになったと同時にエロ女にさ
せられているのだ。女優やタレントとして成功するのは本の一握り、セックスをいじくられないタレ
ントは皆無に近い。坂本龍馬がいったよ。

   政治を志すものは、己の死骸を野良犬が食ってることも覚悟の上でやれ

 と。


   女優やタレントを目指す女の子は、自分の肉体が食い物にされることも覚悟でやれ。

 
女剣戟
 常磐座では昭和33年から女剣劇を中心とする大衆演芸と歌舞伎に転換、大江美智子、浅香光代ら
が人気を博した。

 
衰退
 昭和30年代後半頃から、テレビの普及で映画産業が斜陽になり、浅草に足を運ばなくても映画、
演芸などが、日比谷、銀座、新宿をはじめ、戦後発展した渋谷、池袋などの新しい設備の劇場で見ら
れるようになり、客足が急速に遠のき閉館が相次いだ。大勝館は同46年、電気館が同51年に閉館、
松竹演芸場は同61年ROXに変身。富士館も同62年に取り壊された。昭和3~4年に建てられた
3館続きの常磐座、東京クラブ、浅草松竹も残っているのは浅草松竹のみとなった。同57年には、
水の江滝子や倍賞千恵子の活躍したSKDの国際劇場も姿を消し、浅草ビューホテルに生まれ変わっ
た。
 今浅草を上げて復興に力を入れている。そのためには〝怖い〟〝薄汚い〟というイメージをまず払
拭すること、小父さん臭さを一掃することだろう。
 


■鬼灯市

 ほおずきいち 毎年7月9~10日の浅草観音の結縁日に立つ市。欲日ともいわれ、十日にお参り
すると四万六千日のご利益があるとされる。米一升は米46000粒とされ、人の一生を一升とかけ
た言い伝え。境内には雷除の守札、虫封じになる青鬼灯の鉢植えと風鈴を売る露店が立ち並び、江戸
情緒を今に伝えている。

   
籠かばふ鬼灯市の宵の雨(水原秋桜子)
   青弾鬼灯市の抽んでて(石田波郷)

   鬼灯市風に鳴るもの靡くもの(五所平之助)
   鬼灯市夕風のたつところかな(岸田稚魚)

   風鈴の四萬六千日の音(久保田万太郎)
   鬼灯市風に鳴るもの靡くもの(五所平之助)

   枝道もまたあをあをと鬼灯市(鷹羽狩行)


■浅草サンバカーニバル
 昭和56年地域の観光開発・活性化を念頭にが開催されてから、平成17年に25回を迎えた。今
ではすっかり夏のフィナーレを飾るイベントとして定着した。大体8月の最終か一つ前の土曜日に開
催している。パレードコンテストはもとより、浅草公会堂での本場ブラジル人ダンサーを招聘した本
格的なサンバショーなど、より多くの観光客にサンバの素晴らしさを堪能してもらおうと凄い意気込
みだ。
 浅草といえば「江戸下町情緒」というイメージだが、実際は大の新しもの好き、それが浅草ッ子気
質。明治時代には日本最初の映画館や、日本で初めてエレベーターを取り付けた12階建ての赤レン
ガビル「凌雲閣」、水族館、サーカスなど、浅草には他の町にはない新しい文化がどんどん取り入れ
られてきた。さらに大正時代になると「大正オペラ」「安来節」で賑わい、幅広いジャンルの音楽劇
を生み出してきた。歌って踊って楽しむサンバカーニバルと浅草の結びつきは既にこの頃からあった。
そうした背景の中、昭和30年代後半から40年にかけて、盛り場の中心は他の地区に移っていった。
このような状況の中で、当時の内山台東区長と今は故人となった浅草喜劇俳優の伴淳三郎が話し合っ
て、浅草の新しいイメージを作るものとして、ブラジルのサンバカーニバルを浅草の祭りとして取り
入れることを提案した。これをきっかけに浅草の商店連合会が主体となるサンバカーニバルが誕生し
た。さらに浅草観光連盟もカーニバル推進協議会に加わり、浅草サンバカーニバルは東京下町の夏を
代表するお祭りの一つにまで成長。現在では出場するチームも全国区のものとなり、またサンバの本
場、ブラジルの人たちからも非常に高い評価を得ているらしい。
 


■羽子板市

 毎年12月17~18に歳の市と共にたつ市。ここのこの市は規模と華やかさで特に名高い。遠く
地方からもやって来る。境内には人気役者の似顔などを写した大小の押絵羽子板がずらりと並び、灯
の入る刻限から賑わいを増す。江戸最古、江戸第一の市。

   羽子板や蝶に目覚まし獅子の精(水原秋桜子
   羽子板の道節印を結びけり(水原秋桜子)
 


■モボモガの店 東京蛍堂

 浅草1丁目41番8号にあるアンティークの店。モボはモダンボーイ、モガはモダンガールで、大
正末期から昭和初期頃、西洋文化の影響を受けて新しい風俗や流行現象に現れた、当時は先端的な若
い男女のことを、主に外見的な特徴を指してこう呼んだ。その若者たちが愛したであろう昭和レトロ
の品々が取り揃えてある。そこは異次元の世界、店の奥には細やか乍らダンスホールまである。
 平成も終わり、遠くなりつつある昭和だが、紛れもない昭和が其処にある。
 定休日は月・火曜日。祝日は営業。11時~20時。


■六区通り

 浅草2丁目4番1号~6号の通り。新仲見世通りの西の延長上にある。通りの両端に、江戸時代風
の街路灯が据えてある。

   浅草
   
六区通り

 直ぐ側に高札風説明板が建ててある。

   浅草六区通り
   このわずか100mの商店街を「浅草六区通り」と称し、浅草を育て、浅草を愛した文人
   ・芸人の名称をここに残す。
   平成17年3月吉日                浅草六区通り初代会長 梶 瀬進
                                 初代副会長 飯田祐広
                                副会長世話人 鈴木真一
                                浅草六区通り 一  同
                                 会長発起人 河野通夫
                                   副会長 緒方益人
               
     笑芸作家 畠山健二  お笑い評論家 西条昇
                    東京都 台東区 岩本建材工業
                     (有)三成社 富士見工業(株)  (株)坂本石材


■KURUKI

 浅草2丁目5番5号JAPANKURU前にあるマンガチックな柴犬像。

   KURUK
   JAPANKURUのマスコット、白い柴犬の「KURUKI」は、日本の魅力を発見す
   ると青く変貌する神秘の動物。この舌をなでれば、日本での旅に「福」が訪れるとさ。


■浅草観音温泉 
廃業

 浅草2丁目7番26号にあった蔦の絡まる温泉銭湯。浅草寺の西隣、花やしきの前にあり、早朝か
ら入浴できたが、平成28年6月ボイラーの故障を機に廃業した。浴槽は半円形で、通常の温度のも
のと高温のものとに区切られていた。また、男性・女性用の仕切には人魚を描いたタイル絵が掲げら
れていた。なお、サウナや露天風呂などの付帯設備はなったが、2階にはマッサージ室、3階には大
広間演芸場(有料休憩室)があった。


■演神像と顔出しパネル

 浅草2丁目9番12号先浅草ブロードウェイ商店街の北入口のところにある六芸神の一。像は、説
明板の上、街路灯に取り付けてある。戯神は道路向かいにある。あっちは四区だ。

   演神(えんじがみ)
   この神様は、劇や映画などで、主役・脇役を問わずに役を演じる役者達を見守ってきた神
   様です。特に、若手の役者達が育つのを楽しみにし、いろいろな劇や映画を見ては、役者
   達に演技の知恵を授けて下さるそうです。


■踊神像

 浅草2丁目10番1号大勝館(ドン・キホーテ)角の街路灯に取り付けてある六芸神の一。

   踊神(おどりがみ)
   この神様は、古くからいろいろな踊りを伝え聞き、踊り子達に伝えつづけてきた神様です。
   日本舞踊から洋風ダンスまで、さまざまな舞を演じられるそうで、この神様が舞台に現わ
   れると、その舞台が成功するといわれています。


■エンコ外(浅草公園外)
 エンコとは「公園=コウエン」を「園公=エンコウ」と読み替えるヤクザ言葉、銀座をザギン、池
袋をブクロ、新宿をジュク、上野をノガミ、渋谷をブヤ、五反田をタンダというが如し。つまり浅草
公園の周辺をいう。
 


■瓢箪池跡 → ウィンズ浅草
 浅草2丁目8番6号にあるJRA(日本中央競馬会)の場外勝馬投票券発売所。嘗ての瓢箪池の埋
立地。その西北に十二階凌雲閣があった。東にある初音小路商店街に残る藤棚は、当時、橋の一帯に
あったものの名残だ。


■浅草凌雲閣があったとされる場所

 
浅草2丁目13番10号の焼き肉幸楽の辺りにあった。当時は十字の道路は走っていなかった。
 凌雲閣は、明治から大正にかけて日本で一番高かった登高遊覧場で、今のスカイツリーのようなも
のだった。江戸時代という封建社会においては、庶民が支配階級よりも高い建物を建てることは厳し
く禁止されていた。高場所から見下ろすという行為が強大な権力を象徴する特別なものとされていた
からだ。現在でも皇居を望み見る高層建造物は遠慮するように強いられ、皇居の上空は飛行禁止にな
っている。明治に入ってこの禁制が解かれると、こうした眺望を売りにした登高遊覧施設が相次いで
登場してくるようになる。それらはまさに庶民の高みへの憧れを強く刺激するものだった。こうした
登高遊覧場ブームのピークを飾って登場してきたのが「凌雲閣」で、発起人は新潟長岡の生糸貿易商
福原庄七という人物で、明治22年に完成したパリのエッフェル塔を実見したといわれている。

   浅草公園史蹟めぐり
   第三番札所
   
瓢箪池と十二階
   瓢箪池、この池は浅草場外発売所や東宝映画などの建ち並んでいるところにあった。明治
   十七年に浅草寺境内にあった奥山の見世物小屋などを現在の六区に移動させる計画のもと
   に、浅草田圃(この辺一帯)の一部を掘って池をつくり、その土で六区を造成した。大池
   が正式名称であるが瓢箪池の愛称で呼ばれ親しまれていた。池の広さは千八百二十坪あり
   池の中央に中の島があって藤棚や茶店が憩いの場となり東西を橋でつないであった。夜と
   もなれば池面に興業街を彩るイルミネーション浅草の灯をうつして美観を呈した。
   当寺の浅草公園にはあらゆる階級の人間が集り、人間の生の息吹が渦巻いていた。瓢箪池
   は青春の思い出であり、人生哀感のオアシスであり、夢の泉であった。
   凌雲閣、通称十二階の名で知られ、明治二十三年に浅草の空に聳え立った日本最高の凌雲
   閣は、東京市民驚嘆の的であった。凌雲閣は今の淺草東映から西北約五十メートルの地点
   にあった。(浅草公園五区 千束二丁目三十八番地) 設計者はイギリス人WK・バート
   ン氏。高さ約六十メートル、一階から十階までが煉瓦積みで、十一階と十二階それに屋根
   は木造であった。八角形の搭状で八階まで日本最初の昇降装置があり、明治二十三年十一
   月十日に開業した。
   浅草の文明開化の金字塔であった東京名物凌雲閣も、大正十二年九月一日の関東大震災で
   二つに折れ取りこわされてしまった。
   昭和52年10月                        淺草公園町会建札


■浅草凌雲閣記念碑

  浅草2丁目14番5号サンシャイン浅草店前にある。浅草六区映画街を北に向かって行った突き当
たりにあるパチンコ店(かつて浅草東映という映画館があった所)、その店先に目立たないが、小さ
な銅製の銘板が据えられいる。

   浅草凌雲閣記念碑
   明治23年11月27日。この地、台東区浅草2丁目14番5号辺りに浅草凌雲閣(通称
   :十二階)が完成。設計は東京の上水道設計者でもある英国人ウィリアム・K・バルトン
   が担当。当時としては超高層の八角形12階の建物で、1階から10階までが煉瓦積。1
   1・12階が木造で、屋根には風見鶏の付いた避雷針が乗り、8階までは日本で最初の電
   動エレベーターを設置、各階には凡そ50の店が軒を連ねた。最上階の12階には30倍
   の望遠鏡が設置され、隅田の流れからお台場を映し品川沖の海、遠くは筑波、秩父の山々
   を望めたとされる。観覧料は大人8銭(現在の約700円)子供4銭であったが、高所か
   ら東京を一望しようという人が押し寄せ、東京随一の観光名所となった。開業から33年
   の大正12年9月1日の関東大震災で破壊され、その幕を閉じた。明治・大正の33年間
   多くの人達にときめきと感動を与え、一世を風靡し浅草の振興に貢献した浅草凌雲閣、そ
   の跡地に記念碑を設立し後世に記録として残します。       凌雲閣史跡保存の


 通称十二階の名で知られ、明治23年に浅草の空に聳え立った日本最高の凌雲閣は、東京市民驚嘆
の的だった。凌雲閣は今のパチンコ屋サンシャイン浅草店から西北50mの地点(浅草2丁目13番
10号焼肉「幸楽」の辺り)にあった。
 高さ60メートル、日本初の昇降装置を装備した文明開化のシンボル的な存在であったこの高層建
築物も、大正12年の関東大震災であっけなく倒壊してしまった。戦後の昭和34年には瓢箪池が埋
めたてられ、東京オリンピック以降は、新宿、渋谷、六本木などに客を奪われるようになり、浅草の
斜陽の時代が始まった。今はレトロな雰囲気が売り物になってしまったが、かつてはここ浅草が時代
の先端を行くエリアであったという記憶が、この銘版には刻み込まれいる。
 


■六芸神

 浅草2丁目14番5号エンジョイスペースサンシャイン浅草店前にあるフィギュアよりは大きい銅
像六体。元は平成8年道路舗装の時に公園六区交番の横に設置されたが、再開発で移ってきた。毎月
6の日には「六芸神まつり」というイベントが行われている。

   江戸時代中期、浅草寺境内の奥山と呼ばれた場所は浅草寺の繁栄と共に江戸の娯楽の場と
   して大道芸人たちが芸を披露する場所として栄えました。
   明治時代に入ると、浅草寺境内は、東京五公園として指定され、明治16年には、浅草寺
   境内の田園を掘って大池とひょうたん池をつくり公園六区がつくられ、奥山から見世物小
   屋や芸人たちが移動してきました。
   のちに、新しい興行(映画や演劇)も始まり六区興行街として全国にその名が知られるよ
   うになり。現在の六区ブロードウェイとなりました。
   興行街として賑わう六区には、いつの頃からか六人の芸達者な神様が住みつき、六区周辺
   で行なわれるいろいろな見世物に出る様々な芸人たちを見守り、芸の知恵を授けてくれる
   といわれています。六区から六芸神に見守られた多くの芸人達が映画や演劇、音楽等で活
   躍しています。このため、六区ブロードウェイでは、六芸神を通りの繁栄の守り神として
   祀っています。

 この説明板は現在撤去されている。この6体の小さな銅像は、それぞれ浅草にゆかりのある実在の
人物をモデルにしている。しかし、制作に当たった東京藝術大学の話だと、「六芸神」は神様である
から、実在の人物を模してはいるものの特定の人物ではないということである

 
唄神(うたいがみ)
 直立不動の歌唱姿から東海林太郎(しょうじたろう)を模したものであろうが、東海林は昭和27
年、東京浅草国際劇場でで「東海林太郎歌謡生活25周年記念公演」を開催したぐらいで、浅とは縁
がない。
 ところで「東海林」だが、正しくは「とうかいりん」と読むのが正しいのだが、山形の方に赴任し
た東海林さんが、庄司(荘司)の役に就いたので、東海林さんを「しょうじさん」と読んだので、東
海林を「しょうじ」と読むようになったという訳。当然「とうかいりん」と名乗る人々も多数いる。

 
奏神(かなでがみ)
 田谷力三をモチーフにしたというが、田谷は声楽家であり、アコーディオンを弾きながら歌うこと
はなかった。アコーディオンを弾きながら歌ったのは藤山一郎だ。

 
話神(はなしがみ)
 噺家五代目古今亭志ん生をモチーフにしているというが、三代目三遊亭金馬、五代目柳家小さんも
イメージの中にある。3人とも光頭だった。併し志ん生は凄いお笑い芸だった。出番が来ただけで受
ける。出囃子が鳴ると笑う、現れるとまた受ける、座って見渡すとくすくす、「えー、なぁ」という
とドッと受ける。こんなお笑い芸人は吉本興業には一人もいない。芸のレベルが違う。

 
戯神(おどけがみ)
 玉乗りの大道芸人をモチーフにしたというが、玉乗りの江川マストンのイメージだろう。但し江川マストンは大道芸人ではない。

 
演神(えんじがみ)
 これはエノケン(榎本健一)がモチーフだ。

 
踊神(おどりがみ)
 紅一点、踊り子の衣裳をつけている。水の江滝子をモチーフにしているというが、水の江は〝男装
の麗人〟と謳われた男役だ。SKD(松竹少女歌劇団)のフレンチカンカンの踊り子をイメージした
ものだろう。


■浅草初音小路飲食街
 浅草2丁目16番7号の一帯にある飲食街。花やしきと浅草西参道商店街の間で、ホッピー通り北
東側・場外馬券売り場「ウィンズ淺草」の東側にある駐車場に面する小路で、小路全体が藤棚で覆わ
れ、その下が飲屋街となっていて、競馬の開催日には、店の外にまで椅子とテーブルを出して小路全
体が屋台村の様相を呈し、競馬ファンが店先の椅子に座ってもつ煮とホッピーで一杯やりながらレー
スの予想をする光景が見られる。この辺りは瓢箪池の東側で、通りが藤棚になっているのは、瓢箪池
の橋にあった名残だ。池本体はウィンズ浅草のところにあった。


■台東区伝統工芸展示館 
閉鎖

 浅草2丁目22番12号、ひさご通りの中にあった。昭和62年11月12日オーブン。詳細は不
明だが、江戸下町伝統工芸館に転換したものと思われる。とすれば平成9年に閉鎖した? 


■区立江戸下町伝統工芸館

 
浅草2丁目22番13号、ひさご通りの中にある区の施設。平成9年オープン。台東区は江戸の昔
からの庶民の町、江戸文化爛熟の町であり、商業の一方の中心地として栄えてきた。今なお江戸時代
からの神社仏閣や、粋でいなせな町人気質、職人が培った伝統産業など、江戸の面影を残す都内随一
の史跡、文化を擁している。このような下町の歴史と風土の中で育まれ受け継がれてきた伝統技能を
伝える職人が区内には多く、鍛えられた技と選び抜かれた材料とで作る伝統工芸品には、量産製品か
らは感じとることのできない暖かな温もりと味わいがあり、私たちに豊かさと潤いを与えてくれる。
このようなこだわりの伝統工芸品を紹介するため江戸下町伝統工芸館は、平成9年にオープンした。
伝統工芸品に対する関心を深め、その素晴らしさを実感して貰うとともに、これを愛用し、身近で親
しみのあるものにして貰うことを目指している。また工芸館では、様々なイベントも行っている。職
人の鍛えぬかれた本物の手練の技、こだわりの伝統工芸品は一見の価値がある。ただ三社祭やサンバ
カーニバルなど、浅草が燃え上がる時は止したがいい。大変な人出でゆっくり見学できないから。来
て損しちゃったって思うこと間違いなし。それはそれはモーレツな人出だから。
 03‐3842‐1990 工芸館の直通電話だが、工芸館や区内の伝統工芸に関する問い合わせ
は、区の産業部経営支援課(03-5246-1131) のほうが手っ取り早い。

   
台東区は、江戸の昔からの庶民の町、江戸文化発祥の町であり、商業・文化の中心地とし
   て栄えてきました。今なお、江戸時代からの神社仏閣や、粋でいなせな町人気質、職人が
   培った伝統産業など、江戸の面影を残す都内随一の史跡、文化を擁しています。
   このような下町の歴史と風土の中で育まれ、受け継がれてきた伝統技能を伝える職人さん
   が台東区には多く、鍛えられた技と選び抜かれた材料とで作る伝統工芸品には、量産製品
   からは感じとることのできない暖かな温もりと味わいがあり、私たちに豊かさと潤いを与
   えてくれます。江戸下町工芸館では、このような伝統工芸品を広く紹介するとともに、よ
   り多くの皆さんに親しんでいただけるよう、職人による実演や手づくり教室などを開催し
   ています(ホームページから抜粋)。
 
 


■花藤

 浅草2丁目25番6号(旧浅草六区)にある江戸提灯の店。明治26年今の西浅草3丁目に「花藤
商店」を開業
初代櫻井藤太郎が、花輪屋を営む傍ら、看板としての提灯の販売も始めた。花藤(は
なとう)の名は「花輪屋の藤太郎」に由来する。
 戦後2代目幾男が、現在地に店舗を構え、商売を花輪屋から提灯専門に移行して営業を開始。現在
3代目征郎(まさお)が、昭和62年12月有限会社花藤を設立。提灯屋として現在に至る。


 
大相撲優勝額の文字
 両国国技館に飾られている力士の優勝額の文字、上下に「優勝」「毎日新聞社」、左右に「場所名」
「力士名」は、国技館が両国に移転した昭和60年からずっと書き続けている。
 


■旧浅草公園五区(花やしき~浅草寺北側)
 浅草2丁目28~34番の区域に相当する。奥山は本堂西北の地域の里称。江戸時代は境内で最も
賑わう盛り場。享保の頃念仏堂の善応上人が新吉原の遊女たちに桜一株づつを寄進させて植え、それ
に源氏名をつけたのが評判になり、その後各所からの寄進が相次いで〝奥山千本桜〟と謳われたが、
長い歳月の内に
枯死し、葭簀張りの
水茶屋や矢場が軒を連ねて、婀娜な美人が妍を競って客を誘い、
また小屋掛けや露天の見世物が数々あり、講釈(講談)、綾取り、独楽回し、居合、手妻(手品)、
軽業、仕掛け物が参詣客を愉しませた。明治6年政府は西欧の国々には公園があると聞かされて、慌
てて公園を作ることにしたが、どんなものか判らないので、取り敢えず広大な面積を持つ社寺地を公
園とした。その一つが浅草寺で、浅草公園として第一区~第六区(後に七区を追加)に分けられた。
奥山は第五区となり、明治16年浅草田圃を埋め立てて出来た第六区が娯楽街となると、奥山の娯楽
芸能は六区に強制的に移された。現在「新奥山」って呼ばれているところに一杯石碑なんぞ並んでるよ。


日本最古の遊園地 浅草花やしき

 浅草2丁目28番1号にある有料の遊園地。江戸時代末期の嘉永六年(1853)千駄木の造園師
森田六三郎により、牡丹と菊細工を主とした花園「花屋敷」として誕生した。明治に入り浅草寺一帯
を浅草公園地とした際、花屋敷は奥山一帯と共に第五区に指定された。しかし敷地は縮小し、明治1
8年に初めて所有者が変わった。翌年、勝海舟の書「花鳥得時」を入口看板として掲示、この頃でも
利用者は主に上流階級者であり、園内は和洋折衷の自然庭園という感じだったが、徐々に一般にも親
しまれるようトラ、クマなど動物の展示などを開始したり、五階建てのランドマーク「奥山閣」を建
設し、建物内に種々の展示物を展示したりした。浅草が流行の地となるにつれて、この傾向は強まり、
動物、見世物(活人形、マリオネットなど)の展示、遊戯機器の設置を行うようになった。つまり植
物園から遊園地に転換していった。西洋あやつり大写真や山雀(やまがら)の芸などは大評判となり、
大正天皇もお忍びで来園されるほど人気を博した。大正から昭和初期には全国有数の動物園としても
知られ、トラの五つ子誕生や日本初のライオンの赤ちゃん誕生などのニュースを生んだ。関東大震災
の際は罹災民が集ったため多くの動物を薬殺した。戦時下において徐々に規模を縮小し、まず昭10
年動物たちを仙台市立動物園に売却し、同17年には強制疎開により総て取り壊された。戦時中松竹
の関連会社となるが、戦後の22年東洋娯楽機との共同経営で再び開園し、遊園地「浅草花屋敷」と
改名、2年後には東洋娯楽機に経営が委ねられ「浅草花やしき」と改名した。当初はビックリハウス、
豆汽車、鬼退治、射的などで規模は小さかったものの入園無料の憩いの場として広く大勢の人間が利
用した。同28年には国産初の『ローラーコースター』、また同35年には高さ45mの『人工衛生
塔(現在のBeeタワー)』を設置、どちらも大評判となり、浅草の発展に大きく寄与した。同60年
2月には開園以来36年間続けてきた入園無料の形態を、風営法第8条の規制により変更せざるを得
なくなり、有料遊園地として再スタートした。それからは同年3月、昭和62年12月、平成元年1
0月、平成5年3月と大規模なリニューアルを重ね、平成8年3月には、日本初上陸のアトラクショ
ン『スペースショット』を導入した。現在も園内は、アトラクションだけではなく四季折々に咲く花
で華やぎ、ホスピタリティー(良い接待)の向上に常に心がけ、快適な浅草観光の一つとして楽しま
れている。平成16年トーゴ(旧東洋娯楽機)が会社更生手続きの開始を申し立てたことによりバン
プレストの子会社「株式会社花やしき」が8月31日にその事業を承継した。

   花やしきの歴史
   花やしきは嘉永六年(1853)に開園され
   160余年の歳月を経ております。
   花屋敷は上野輪王寺宮の御出入りの造園師
   森田六三郎がこの地を下賜されて
   造園いたしました。
   「花屋敷」の名称については封建的な当時の
   ことなので庶民が用いることは潜上至極で
   あるとの非難がありましたが、
   宮様のお声がかりで許されたものであります。
   森田六三郎という人は宮家の造園などを
   手がけた作庭の名人であり、牡丹や菊加工
   などでも知られており、また漢書の名筆家で
   もありました。
   花屋敷は四季を通じて百花百草を栽培し、
   すこぶる雅趣にら富み文人墨客は申すに
   およばず諸侯方も鑑賞に訪れました。
   明治時代、浅草公園地改正の際に浅草寺
   境内の盛り場、奥山の見世物小屋などの
   すべてが公園六区に移転することになり
   ましたが、特に花屋敷だけは現在地に残され、
   たものであります。
   後に珍鳥、猛獣を観覧に供し、あやつり人形
   や山雀(やまがら)の签条で評判を呼びまし
   たが第二次大戦争は止むを得ず開戦する
   ことになりました。
   戦後は浅草ならではの家族づれで楽しめる
   遊園地として今日に及んでいます。


 ※文中「潜上」は「僭上」の誤記。


■浅草三峯神社

 浅草2丁目29番1号浅草寺境内にある小社。

   三峯社
   三峯神社とは、秩父の森厳な聖地に社殿を構える古社である。天台修験の関東総本山とさ
   れ、殊に江戸時代には、「三峯講」が各地に設けられ、盛んに参詣された。
   文化十年(1813)に編纂された「浅草寺志」をひもとくと、境内各所に様々な神社が
   勧請され、三峯社も弁天山に建立されていたことがわかる(戦災に焼失も再建)。本社は
   三峯に寄せる敬虔な信心とともに、明治初年の神仏分離令以前の信仰の様子を現在に伝え
   ているのである。                         金龍山 浅草寺


■銭塚地藏堂

 浅草2丁目29番19号にある浅草寺の附属仏堂。住居を併置している。

   銭塚地蔵堂
   昭和39年に再建されたこのお堂には、石造の「六地蔵尊」が安置されており、その下に
   「寛永通宝」が埋められているといわれることから「銭塚」の名がある。江戸時代摂州有
   馬郡に山口なる者がおり、その妻がある日、庭先で寛永通宝が沢山入った壺を掘り当てた。
   だがこれに頼って働かずにいては、家は滅びてしまうと考え、誰にもいわず再び土中に埋
   め戻した。この心掛けによって一家は繁栄したので、この壺の上に地蔵尊を祀ったという。
   お堂のご本尊は、そのご分身を勧請したもので、商売繁昌のご利益があるといわれる。
   毎月「四の日」と正・五・九の各月二十四日に法要が営まれ、参拝者は塩と線香とローソ
   クをお供えする。特に塩をお供えするので「塩なめ地蔵」の名もある。  金龍山浅草寺
     
Zeniduka Jizoudou Hall
   Stone sculptures of "Roku-Jizou" are enshrined in this temple reconstructed i
   n 1964. The coins of the Edo period called "Kanei-Tsuhou" are buried in
   the ground of this temple. We call this temple "Zeniduka-Jizou" after the coi
   ns.
   In those days, there was a man who named Yamaguchi. One day, his wife dug up a
    crock filled with coins "Kanei-Tsuhou" in the yard of their house. She thoug
   ht that if they had relied on the money and had not worked,their family would ha
   ve declined. So she reburied it. As a result, the family became prosperous and
    they enshrined "Jizou" above the underground coins. Therefore we call this ar
   ea "Zeniduka", that is "Coin Mound" and people say this "Jizou" gives fortun
   e to believers.

 カンカン地蔵
 地蔵堂にそのお姿が殆ど原型を留ていない石像が安置されている。もとは大日如来像と伝わるが、
現在は「カンカン地蔵」と呼ばれている。お参りの人が石で打って祈ると「カンカン」という石の音
がすることが由来といい、塩を奉納して祈願すると財福のご利益があるといわれる。

   カンカン地蔵
   このお地蔵さまは、お姿の原型を殆ど残していない。古来よりお参りの方が、付随の「小
   石」で御身ごく軽く「たたき」お願いごとをする。
   石で軽く打ち祈ると、「カンカン」という音が鳴るので俗にこのように称されている。
   (刃物や他の石などで御身を削ることは固くお断りしている」      金龍山淺草寺


■寺町

 浅草2丁目31番の区画。浅草神社の直ぐ北に位置する浅草寺の子院21寺。

 智光院
 浅草2丁目31番2号にある。旧十二支院の1

 延命院
 浅草2丁目31番2号にある。

 日音院
 浅草2丁目31番2号にある。旧十二支院の1

 妙徳院
 浅草2丁目31番2号にある。

 寿命院
 浅草2丁目31番2号にある。旧十二支院の1

 誠心院
 浅草2丁目31番2号にある。

 無動院
 浅草2丁目31番2号にある。

 実相院
 浅草2丁目31番2号にある。旧十二支院の1

 
正智院 

 浅草2丁目31番3号にある。旧十二支院の1。東都六地蔵の六番目。現在地蔵はない。
 他の東都六地蔵は、第1番瑞泰寺(文京区向丘2‐36‐1)昭和61年再建。第2番専念寺(文
京区千駄木1‐22‐22)廃寺。地蔵のみあり。第3番浄光寺(荒川区西日暮里3‐4‐3)地蔵
有り。第4番の心行寺は府中市紅葉丘2‐32‐4に移転。地蔵はないとのことだが未確認。第5番
福聚院(台東区上野公園16‐13)地蔵なし。

 妙音院
 浅草2丁目31番3号にある。

 吉祥院
 浅草2丁目31番3号にある。

 自性院
 浅草2丁目31番3号にある。

 梅園院
 浅草2丁目31番3号にある。旧十二支院の1

 善龍院
 浅草2丁目31番3号にある。

 
法善院
 浅草2丁目31番6号にある。

 
・鬼太郎 目立の親父 子泣きじじい
 門前にある。水木しげるの漫画「ゲゲゲの鬼太郎」の登場人物。
 ・ウルトラマン
 門前にある。

 金蔵院
 浅草2丁目31番7号にある。旧十二支院の1

 観智院
 浅草2丁目31番7号にある。弘法大師坐像。不動堂と大師堂が一体。む

 
長寿院
 浅草2丁目31番13号にある。旧十二支院の1

 医王院
 浅草2丁目31番14号にある。

 泉蔵院
 浅草2丁目31番15号にある。

 
金剛院
 浅草2丁目31番16号にある。


■手焼きの甘い南部煎餅「憧泉堂」

 浅草2丁目35番14号、馬道通りに面してある煎餅屋。ピーナッツ・アーモンド・クルミ・ココ
ナッツ・黒ゴマ・白ゴマ・ビーンズの7種類の「憧れせんべい」。ちょっと甘い南部煎餅だ。
 余談だが、浅草2丁目35番は「浅草公園二区」の内だ。
 



浅草公園七区 
 浅草1丁目1番の極一部、2~4番、17~21番、29~32番、33・34番の一部、35~
3区番に相当する。新仲見世通り、オレンジ通り、雷門通り、馬道に囲まれた仲見世の一円。
 一~三区は浅草寺境内、四・五区は奥山、六区は寺西の田園地帯の埋立造成地。

■十二支院

 風神雷神門から新仲見世通りまでの参道の両側にあった。智光院・正福院・円乗院・寿命院・長寿
院・正智院(以上参道東)、日音院・観智院・金蔵院・松寿院・実相院・梅園院(以上参道西)の1
2院をいう。 智光院・寿命院・長寿院・日音院・正智院金蔵院・実相院・梅園院・観智院の9院
浅草神社北の寺町に移転している。正福院・円乗院・、松寿院の詳細は不明。
 


■仲見世
 
江戸時代の貞亨年間(1684~7)参道の両側には12の支院が並んでいた。参道の掃除をして
いた近所の住民にその代償として、支院の前に出店を許可したのが始まりだそうだ。店の形は、床店、
箱店、葦簀張りなど簡易なもので、時間になると店を畳み、商品と一緒に持って帰っていた。当時の
商品は線香や楊枝などで、楊枝といっても爪楊枝ではなくて歯ブラシの役目を果たすものだった。材
料は柳が最高とされ、桃・杉・クロモジ・竹なども使われていたという。
 「武士は食わねど高楊枝」とは、笹沢佐保の『木枯らし紋次郎』よろしく、この楊枝の長さが10
cm以上の長いものだったことから余計に目立ったようだ。時代の経過と共に店の形は変化し、支院
の境内に賃料を払って茶店が出来たり、扱う商品にも変化があって餅菓子、和装品、玩具、海苔、絵
草紙などが浅草名物として、次第に土産物が喜ばれるようになっていった。浅草餅の「金龍山』はじ
め和装品の「松ヶ枝屋』、人形焼の「木村屋」、江戸玩具の「助六」、紅梅焼きの「梅林堂」など、
江戸時代に創業した店も多く並んでいるが、時間をおいてみると結構看板が変わっていたり商い商品
に変化が見られる。明治時代になって、仲見世の建物は浅草寺の支配から東京府の管轄となり、明治
18年当時としては最も新しい煉瓦づくりの洋風の2階建に生まれ変わった。しかしながらこの建物
は大正12年関東大震災で崩壊、翌年に現在の鉄筋コンクリートで再建された。この建物も昭和20
年の戦災で内部が焼けたが、改修されて現在も使用されている。江戸時代の道路事情は「雨なら泥ん
こ、晴れたら砂塵」と最悪で、参道の敷石は文政年間(1820ころ)信者からの寄進によって敷か
れたものだ。最初に敷かれたものは全部で5543枚、91㎝×31.5㎝の石板の脇面には寄進者の
名前が彫られているとか。
 よく判らないが、仲見世は「中見世」で、「門前ではない境内の中の見世」の意だろう。
 現在浅草寺門前。宝蔵門から雷門までの参道の両側に並ぶ土産物を売る小店街。直角に交わる商店
街を「新仲見世」という。江戸時代からの老舗が多く、雷おこし・千代紙・和装小物・櫛・和傘・人
形焼などが名物。毎日がお祭騒ぎ、世界中のお上りさんが一度は必ず訪れる観光地。
 


■早朝の仲見世(シャッターアート)

 開店前の仲見世を歩くとシャッター画を見ることが出来るよ。平成元年両側合わせて88軒の店の
シャッターに浅草の四季の風物詩「浅草絵巻」を描いている(HP浅草の歴史と観光)。

   仲見世へまはる買物春の星(花柳章太郎)
   仲見世も新仲見世も梅雨の中(山口素人閑

   
仲見世や櫛簪に春近し(長谷川かな女)
   仲見世や初観音の雪の傘(増田龍雨)
 


■檜前の馬牧

 大宝元年(701)大宝律令で厩牧令が出され、全国に官牧が設置された。浅草の観音様を網にか
けた檜前兄弟は猟師ではなく、牧官の1人だった。浅草の辺りに牧場を開き経営していた。対岸にも
浮島の牛牧があり、牛島の名の起こりとなった。

   江戸・東京の農業 檜前の馬牧(ひのくまのうままき)
   大宝元年(701)大宝律令で厩牧令が出され、全国に国営の牛馬を育てる牧場(官牧)
   が39ヶ所と、皇室に馬を供給するため、天皇の命により32ヶ所の牧場(勅旨牧)が設
   置されました。
   東京には「檜前の馬牧」「浮嶋の牛牧」「神崎の牛牧」が置かれたと記録にあって「檜前
   の馬牧」は、ここ浅草に置かれたのではないかと考えられています。
   浅草神社の祭神で、浅草寺本尊の発見者である、檜前浜成、竹成兄弟の説話から、檜前牧
   は浅草付近であったと「東京市史稿」では推定していて、「浮嶋の牛牧」は本所に、「神
   崎の牛牧」は牛込に置かれたとされています。
   時代は変わり江戸時代、徳川綱吉の逝去で「生類憐みの令」が解かれたり、ペーリー来航
   で「鎖国令」が解けた事などから、江戸に欧米の文化が流れ込み、牛乳の需要が増え、明
   治19年の東京府牛乳搾取販売業組合の資料によると、浅草区の永住町、小島町、森下町
   馬道と、浅草でもたくさんの乳牛が飼われるようになりました。
   平成9年度JA東京グループ 農業協同組合法執行五十周年記念事業



■馬道
 浅草寺北谷(随身門を出て北に上がる道)。『江戸志』では寛文・延宝のころ吉原に遊びに行く者
が軽尻馬に乗って通い、それで蹄の音の絶えることがなかったので馬道と呼ばれるようになったとす
るが、人類学者鳥居龍蔵は、

   浅草寺の本尊の観音像を土師真中知檜前兄弟を引き連れてやってきたのは、馬牧場を開い
   て良質の馬を育成し都に送るためだ。馬道の地名は家康の江戸御討ち入り以前の文書にあ
   り、吉原通いの軽尻馬にちなむとするのは歴史を無視した巷間の江戸文芸に根拠を措いて
   おり、非科学的だ


 と怒ってる。

   馬道が駕籠道になる繁盛さ(川柳)

 浅草寺に「僧正の馬場」があり僧侶も馬術の習得をした(新撰東京名所図会)。馬場の跡は猿若町
に曲がるところに広くなったところがあり「藪」といった。現在の言問橋西詰の交差点だ。寺の入口
にあった駒形堂は馬頭観音を本尊とし浅草寺掲額の絵馬に描いた馬が夜な夜な抜け出して近隣の田畑
を荒らすので、左甚五郎に頼んで曳綱を描いて貰ったところ嘘のように治まったという伝説や、毎年1
2月半ばに馬市が開かれていたことを按ずると鳥居説は首肯できる。とにかく浅草は馬の町なのだ。
川向こうには牛牧場もあった。

   あさあらし馬の目でいく頭巾かな(其角)
   土手馬の食わんを無碍に菜摘かな(其角)
   馬道の秋ふかき火をおとしけり(萩原麦草)
 


                 ● ● ◆ ◆ ● ●
 ここからは、新住居表示で浅草となった浅草3~7丁目。浅草だが、浅草ではない地域。象潟町、
千束町、田町、馬道町、猿若町など浅草の北側の一帯。


■道引長太郎地蔵
 浅草3丁目6番のゴロゴロ会館脇、言問通りに面してある。

 町内会の説
 江戸末期文政嘉永の頃、浅草寺に資性純朴な長太郎という者がおり、よく寺に仕え、信者や町の人
から信望を集め、生涯を寺と町のために尽くし長寿を全うした。このことを聞いた浅草寺住職、上野
輪王寺門跡慈性法親王が浅草寺別当大僧正に命じ、1体の延命地蔵を建立させ、これを長太郎地蔵と
命名し、長太郎の忠誠を末永く記念した。昭和以降俗に「道引」を冠し、引導を意味し、この地蔵を
信仰すれば、将来浄土に導いて貰えるという機縁に恵まれるということになった。

   道引長太郎地蔵尊縁起
   江戸末期文政嘉永の頃、金龍山浅草寺に資性純朴な長太郎と云う者がおり、良く寺に仕え
   信者及び街の人々より信望を受け、生涯を浅草寺と街の爲に尽し、長寿を全うしました。
   この事を聞いた当時の浅草寺住職であった上野輪王寺門跡の宮様である慈性法親王が浅草
   寺別当大僧正に命じ一体の延命地蔵尊を建立させ、之を長太郎地蔵尊と命名し長太郎の忠
   誠を長く記念しました。
   そして、昭和以降この地蔵尊は俗に「道引長太郎地蔵尊」と呼ばれ、道引とは引導に通じ
   この地蔵尊を信仰すれば将来浄土に導いて頂けるという機縁に恵まれるという意味であり
   又、俗説には浅草寺馬屋番の世話役男衆の弔い地蔵という説も有ります。
   地蔵尊祭礼は当町会により毎年7月24日浅草寺の僧侶により回向が執り行われます。
                                  浅草三丁目象一町会


 みちびき花の辻商店街の説
 道引長太郎地蔵尊とは、戦後につけられたもので、道引とは引導に通じ、地蔵尊を信仰すれば機縁
に恵まれ、長太郎地蔵尊は元禄時代から存在し、浅草旧日並記の記述に「馬場尻地蔵」と記されてい
ることから、馬場の世話役男衆の死を弔うために立てられたのでは。・・・・または江戸初期5代将
軍綱吉の「生類憐れみの令」で野良犬が増えため、見かねた浅草寺住職忠運僧正が寺男の長太郎に命
じ狂犬を集めて隅田川に流したが、ことが露見すると忠運は逃亡した。住職が死んだと思い込んだ長
太郎は自殺してしまったので、後に長太郎を供養するため立てられたという。
 


■第二松倉荘跡
 浅草3丁目9番9号にあった4階建てアパート。1階は駐車場への出入口で、2階の3畳間に、下
積み時代のビートたけし(北野武)が住んでいた。昭和48年たけし26歳の時のことだ。現在、第
二松倉荘は取り壊され、ランドール浅草に替わっている。その場所は裏のターンテーブル(自動車回
転盤)のところだ。このアパートは浅草フランス座を経営していた東洋興業が建てたもので、社員や
フランス座の従業員・踊り子たちの社員寮として使用していたのだが、たけしの入居した頃は興業街
とは無関係の一般人がほとんどだった。
  


■江森
 浅草3丁目9番10号にある京料理屋。店主の江森弘之は長年銀座の会員制京料理屋で修行し、同
じ銀座に開店したが、現在地に移転した。メニューは「賀茂茄子の丸焼き」「時不知漬け焼き」「鱧
と旬菜の素麺」など代表的な京料理が並ぶ。
 休みは毎週月曜・第一火曜・8月中旬・年末年始。18時~24時  03‐3875‐5785

 ミシュラン落ち  
 『2010』で初めて選ばれて以来3年連続で星1つを取っていたが、『2013』で消えた。
 


大学いもの「千葉屋」

 浅草3丁目9番10号にある昭和25年創業の大学イモ専門店。すべて手作りする大学イモは、サ
ツマイモにとことんこだわり、季節に応じて産地や品種を変えている。その時期の一番おいしいサツ
マイモを厳選して使うので、季節ごとの味が楽しめる。水飴と砂糖を中心に作る秘伝の蜜は昔懐かし
い素朴な甘みで、揚げたてのイモと相性は抜群。行列してるから直ぐ判るさ。
 03‐3872‐2302
 


■箭弓稲荷神社 ◇
 浅草3丁目19番4号にある小社。 


■宮戸座跡之碑
 浅草3丁目22番5号料亭婦志多の入口脇にある石碑。明治20年吾妻座と称して初開場。同29
年隅田川の古称宮戸川に因んだ「宮戸座」と改称、山川金太郎が座主になってから経営が順調になり
小芝居を代表する劇場となった。全盛は明治末期から大正にかけてで,4世沢村源之助,3世尾上多
賀之丞ら名優が活躍した。大正12年関東大震災で焼失、同年12月31日仮小屋で開場,翌年には
本建築が落成復興したが、昭和12年2月映画、軽演劇,レビューなどの隆盛という時代の流れにつ
いてゆけず廃座した。

   
宮戸座跡之碑

 左面の銘文は以下の通り。

   宮戸座は、明治29年9月開場、座名は隅田川の呼稱“宮戸川”にちなんだ。関東大震災
   で焼失後、昭和3年11月この地に再建。昭和12年2月廃座。ここの舞台で修業しのち
   名優になった人は多い。東京の代表的芝居小屋だった。大歌舞伎に対し規模の小さな芝居
   を小芝居と呼んだ。
   昭和53年6月24日                      台東区教育委員会
 


■松尾芭蕉象潟の句碑
 浅草3丁目22番5号宮戸座跡之碑の2、3m北にある。

   松尾芭蕉
      
象潟や
   雨に西施が
      
ねぶの花
       はせを


 脇に副碑がある。

                              江戸開府四百年記念
                              台東区
                              馬道地区町会連合
                              秋田県象潟町
                              鳥越地区町会連合会婦人部
                              浅草三丁目象一町会
                              淺草象潟町会
                              浅草三丁目象一町会婦人部
                              秋田県象潟親善大使
                              地元有志


 区等の説明板は以下の通り。


   「松尾芭蕉象潟の句碑」建立由来
   江戸時代に現秋田県本荘藩主であった六郷公が、この浅草に下屋敷を構えた時、その下屋
   敷付近にの町に六郷公地元の景勝地「象潟九十九島」にちなみ、「象潟町」と名付けまし
   た。このことにより、平成5年7月22日に秋田県象潟町と台東区馬道地区町会連合会と
   の間で「姉妹地」の盟約が締結されました。そして今年が締結10年目に当り、江戸開府
   400年目でもあります。
   江戸文化の偉大なる俳聖「松尾芭蕉」が旅した「おくのほそ道」で秋田県象潟を訪れ、雨
   に煙る九十九島、八十八潟の絶景を中国の美女「西施」 の憂いに満ちた姿と重ね合わせ
   た素晴らしい句を残しております。

      象潟や
        雨に西施が
            ねぶの花

   当浅草象潟地域と秋田県象潟町との強い「姉妹地」の関係は永久のものであり、末永い交
   流により相互発展に寄与するとともに、江戸文化の復興とその継承を図るため、この句を
   石碑として浅草の地に建立したものです。
   平成15年7月20日                     台東区
                                  馬道地区町会連合会
                                  秋 田 県 象 潟 町


浅草寺・三社・聖天の御用達菓子舗
「塩埜」

 浅草3丁目28番9号にある。明治末から浅草の地で、金龍山浅草寺をはじめ三社浅草神社・待乳
山本龍院などの御用達として営んできた。何事にも手作りを信念とし伝統の技法を守ってきた。餡は
厳選した小豆を煮て丹念に煉りあげている。季節毎の材料を吟味し「旬」にこだわりながら和菓子作
りに励んでおり、添加物・保存料は一切使用しないそうだ。 03‐3874‐2186
 


浅草見番の稲荷社 ◇
 浅草3丁目33番5号浅草三業会館の敷地西北角にある小祠。


■浜口京子アテネオリンピック銅メダル獲得記念樹
 浅草3丁目33番5号の浅草三業会館の前にある月桂樹(オリーブ)。

   記念樹 平成16年9月9日
   2004年アテネオリンピック女子レスリング72kg級メダリスト浜口京子選手の功績
   を讃え、オリーブの木を記念樹として植樹いたします。
   オリーブの木(平和の象徴)

   浜口京子プロフィール
   生年月日  1978年1月11日
   出身地   東京都

   身長    170cm
   1997年(フランス)   世界選手権75kg 優勝
   1998年(ポーランド)  世界選手権75kg 優勝
   1999年(スウェーデン) 世界選手権75kg 優勝
   2002年(ギリシャ)   世界選手権72kg 優勝
   2003年(アメリカ)   世界選手権72kg 優勝
   2004年(ギリシャ)   アテネ五輪75kg 銅メダル
                        浅草3丁目象一町会  浅草おかみさん会

■浜口京子北京オリンピック銅メダル獲得記念樹
 浅草3丁目33番5号の浅草三業会館の前にある月桂樹(オリーブ)。

   2008北京オリンピックレスリング女子フリースタイル72kg級
   浜口選手銅メダル獲得記念樹 オリーブ
   平成20年10月29日                          台東区
 


きんつばの「徳太楼」

 浅草3丁目36番2号にある和菓子屋。明治36年の創業以来、浅草は観音様の裏手、三業地(花
柳街)で、自家製の餡を使用するのを信念として、それを頑なに守り、営業を続けてきた。特にうす
い皮が特徴の「きんつば」、特製「赤飯」、期間限定(10~5月)の豆大は、非常に評判がいい。
季折々の菓子も提供するし、慶弔用薯蕷饅頭、お供餅など特製菓子も承るとのこと。
 03-3874-4073
 


■猿之助横町碑

 浅草3丁目39番10号(田沢不動産)の角地に建っている。横町は16番と39番の間の西に進
む路地。歌舞伎役者の二代市川猿之助の猿翁が生まれ育ったところで、この辺りは猿之助のいる横町
と呼ばれていた。
その当時、宮戸座が近くにあり、猿翁の父(二代目段四郎)をはじめ、猿翁自身も良
くここに出演していた。歌舞伎芝居を上演していた常設の芝居小屋、宮戸座は、明治29年9月に開業
し、昭和12年2月に廃業している。横町と言うと町の名のようであるが大通りから入った細い道の
ことを指し、横丁は特定の目的地にのみ向かう一本道。例えば法善寺横丁は法善寺のみに向かう道。

   
猿之助横町

 くっきりと彫られた立派な碑だ。
 


■オマージュ

 浅草4丁目10番5号にあるフレンチレストラン。「尊敬」や「称賛」を意味する店名通り、総て
に敬意を払い謙虚な姿勢で厨房に立つオーナーシェフ。フランス料理の技法を基本に、世界の食材を
用い、その特性を見極めて調理する。フォワグラに合わせる田楽味噌のフレンチトースト、付け合わ
せのもやしの葛寄せなど、日本の食材にも目を向けるのは、地元浅草から日本文化を発信したいがた
め。時には遊び心も見られ、朝草名物「雷おこし」のミルクは懐かしい味。和装のマダムは評価が高
い。  11時半~13時半・18時~21時 定休:月曜(祝日の場合は火曜)、年末年始
 03‐3874‐1552

 ミシュランガイド東京 
 『2012』から『2014』まで3年連続で星1つを取った。
 


■鮨一新
浅草
 浅草4丁目11番3号にある寿司屋。平成4年浅草寺北方の現在地に橋本孝志が開業。カウンター
10席の簡素な店で、橋本1人で切り盛りし、江戸技法の寿司を提供する。
 18時~22時 休みは日曜祝日・8月中旬・年末年始 03‐5603‐1108

 
ミシュランガイド東京 
 『2009』で、区内唯一最初に星1つを取った寿司屋。以来6年連続して星1つを取っている。


かりんとうの「小桜」浅草本店

 浅草4丁目14番10号にある。観音裏の料亭「福し満」が経営するかりんとうの名店。花街を散
策しながら、覗いてみてみい、買いたくなるから不思議だ。細口の「ゆめじ」、新しい「かえで」は
メイプルシロップ&メイプルシュガーの自信作。甘さ控えめで食べ始めるともう止まらない。
 03-5603-5390


■半助地蔵
 浅草4丁目22番2号浅草中町会会館の角にある。由来は、
今を去ること、200余年前、享保~
宝暦の頃、江戸中期より末期にかけて、江戸傳馬町の牢に在った囚人の内、疾病に罹かった者を、時
の奉行が、当時囚人溜として有名だった浅草溜(武蔵國豊島群千束郷にあり、即ちここの近傍)に護
送した。古老が語り継いだところによると、傳馬町より疾囚人を畚(もっこ)に乗せ、浅草施無畏橋
(ひさご通り)へ搬送した。そこから浅草溜に至る迄は、どんな病人であっても必ず歩かせた。
 この近くに半助と称する名主がいた。資性は温情淳朴で、身を尽くしてこれら囚人を保護看病した
ため、多くの囚人は慈父のように慕い、恰も暗夜に光明を得たるが如く感泣した。後年、半助老人が
死没するや、囚人たちの慟哭その極に達し、慈悲の深かったことに報いんと、心を合わせて一体の地
蔵尊を彫み、これを祀って朝夕香煙を捧げ掌を合わせて敬慕したという。このように有様だったので
以来、常に香華の絶えることはなかった。後世、これを半助地蔵尊と名付けて参詣者極めて多く、特
に疫病除災に効顕新たかだと伝えられている。按ずるに今日の免囚保護事業の魁けともいうべく、ま
た以てこの町の誇りとするところだ。
 先年、戦災のため尊堂破損したので、有縁の人々が相談して再建完成を見たり。これで開眼供養を
修し、併せて戦災殉難者各霊の冥福を祈念した。
 2体あるのは、元からあったあったものが戦災で炎を浴びて焼けたので、新しく彫った。それで新
旧2体が祀ってある。覆屋は昭和55年頃の写真にあるものの方が重々しく立派だ。


■千束公園

 浅草4丁目24番7号にある区立公園。 


■千束小学校

 浅草4丁目24番11号にある区立校。詳細不明。明治45年7月明治天皇が亡くなり、元号が大
正と改められた。その年、東京市浅草区新谷町2番地にあった旧東京電車株式会社跡に、尋常小学校
を作ることにした。今の生涯学習センターがあるところだ。2月に工事が始められ7月にはめでたく
完成した。「金龍山浅草寺の傍にある学校なのだから、金龍と名付けよう」ということで名前が決ま
り「東京府東京市金龍尋常小学校」として開校した。9月2日区内の千束、松葉、芝崎の3校から児
童1617名を集め、25学級の学校として授業を開始した。そして同じ年の11月25日に開校式
を行い、以降この日が開校記念日となっている。
 大正12年関東大地震により校舎全焼。
 昭和3年鉄筋コンクリート造り3階建ての復興校舎落成。バラック校舎や仮校舎での不自由な勉強
が6年間も続いていたのだから、この校舎の完成を、子どもたちはどんなに待ち望んでいたことか、
当時としては台東区で一番の、東京でも珍しい立派な校舎だっ。この頃、子どもに良い童話を聞かせ
たいという教師等の願いから『金龍童話会』が誕生。この童話会は昭和18年には130回ほどにも
なり、教師の努力で学童集団疎開の前ぐらいまで続けられた。また同じ頃、子どもたちの剣道部が作
られ、猛練習を重ねた結果、昭和の初めから、戦争が激しくなる昭和17年ころまで全国に『金龍剣
道部』の名声を轟かせた。当時金竜小学校は、1クラス5、60人くらいの編成で、中には70人近
くいたクラスもあった。また給食はなく、弁当持参でした。世界恐慌のまっただ中で、弁当のおかず
は粗末なものだった。「日の丸弁当」というのは、ご飯に梅干1つだ。ご飯っても麦飯だけどね。
 同16年勅令148号国民学校令公布により「東京府東京市金竜国民学校」と改称。12月日米開
戦。同18年都制施行により「東京都金竜国民学校」と改称。同19年宮城県に学童集団疎開。同2
0年3月愚かなアメリカ軍の非人道的無差別空爆により、浅草地区は焼野ヶ原となり、9343名も
の尊い命が失われ、家を失い、家族と死に別れた人も沢山いた。金竜国民学校は、多くの人たちの必
死の消火活動により、焼失を免れ、11月12日には53名の児童が集まり、学校が再開された。同
21年3月14日宮城県に集団疎開していた児童も全員無事に帰校。4月123名、10月には24
2名と増え続け、教室、机、椅子が足りなくなり、二部式授業とした。日本国憲法が公布されると、
戦後の教育はアメリカの強制によりアメリカ式民主主義の方式を取り入れさせられ、戦前の神話や伝
説による国の成り立ちや戦争に関わる文章を取り上げられ、考古学や庶民の歴史なども多く取り入れ
た教科書を押し付けられた。台東区の成立と、アメリカの強制による学校教育法の施行により「東京
都台東区立金竜小学校」と改称。同30年創立45周年記念式典・校歌制定。

 校歌「
吾等の町に 作詞・窪田章一郎  作曲・小松耕輔
  1.吾等の町に高々と
    聳える屋根は浅草寺
    鳩の翼は輝いて
    みんな仲よく飛んでいる
    素直に元気に共々に
    学ぶ金竜小学校
  2.水広々と流れ行く
    我が浅草の隅田川
    強い力を胸深く
    希望目指して努力する
    素直に元気に共々に
    学ぶ金竜小学校

  3.空青々と桜咲く
    年月久し上野山
    明るい明日の日本を
    吾等は作る務めあり
    素直に元気に共々に
    学ぶ金竜小学校


 同36年金竜公園に新しいプール完成。それまでのプールは校庭の隅に防火用水として造られたプ
ールだった。普段は蓋をして校庭として使っていたものだが、新しいプールは自然排水の設備の整っ
たプールだ。


■富士公園

 浅草4丁目47番2号ある区立公園。浅草警察署に隣接する。敷地の端には、富士山を模ったトイ
レが設置されている。


■富士小学校

 浅草4丁目48番9号にある区立校。明治6年学制発布と共に浅草区内には浅草・育英・精華・柳
北・待乳山の5校の公立学校があった。同33年浅草小学校と私立校より収容し2学級を編成し「東
京府東京市富士尋常小学校」として開校。浅間神社前、吉祥院跡地で平屋建て10教室、教員8名、
児童70名でスターとした。同35年高等科を併置し「東京府東京市富士尋常高等小学校」と改称。
同39年2階建て7教室を増築(床なしでジャリ敷き、屋根はトタン)。同41年高等科を廃し「東
京府東京市富士尋常小学校」に戻称。同43年8月豪雨のため、隅田川が増水し区の大半は大洪水に
見舞われる。校舎は羅災者の公設避難所となり、10日間延1878人を収容。遠足に初めての市電
利用で小石川植物園に行く。同44年4月新吉原江戸町の大火で区内18町内の5400戸が焼失。
校舎は避難所となり、5日間で延べ1626人を収容した。この年教室17、学級数23。
 大正5年木造校舎の新築に着工、生徒は浅草・金竜・精華に分散当校。同6年総2階建木造校舎落
成(普通教室24・特別教室2)。同10年田町2丁目髪洗橋付近から出火、午前10時頃には校舎
は猛火のため焼け落ちる(浅草大火)。東京市長後藤新平が大火の状況を視察、新校舎は鉄筋不燃構
造とすることが決まり、7月に建設着工となる。この間児童は、千束・山谷堀・待乳山・金竜各校に
分散収容。同12年鉄筋コンクリート3階建て新校舎落成(普通教室32・特別教室4・屋内体操場・
その他の施設完備し、「東洋一の最新式校舎」と宣伝される。9月1日4校に分散した児童を一堂に
会して始業式を始めたが、関東大震災が勃発し、一切の校舎設備が灰塵に帰す。
 昭和元年(大正15年)復興工事完了。同15年創立40周年記念式典。同4年7月第一回臨海学
校を千葉県北条海岸(館山市)で開催し、以降毎年実施。同6年東京市のドッジボール大会で男子優
勝。同7年5日間にわたって学習研究夏季講習会を開催。作曲家の中山晋平も参加。同14年東京中
央放送局(NHK)による総合授業実況中継。江戸川農園の開墾作業開始。同15年創立40周年記
念式典。中山晋平作曲の校歌制定。児童数2036名、学級数32。

 校歌
「赤々昇る」 作詞・不明  作曲・中山晋平
  1.赤々昇る朝日影
    三社の森の初太鼓
    宮城間近伏し拝み
    誓いは固し富士学校
  2.御民の道を踏み締めて
    明るく清く健やかに
    鍛えん この身 この心
    望みは燃ゆる富士学校
  3.輝く御稜威
(みいつ)身にうけて
    勤しむ吾等 弥栄
(いやさか)
    伸びゆく日本 負うて立つ
    覚悟は固し富士学校


 同16年勅令148号国民学校令公布により「東京府東京市富士国民学校」と改称。12月日米開
戦。同18年都制施行により「東京都富士国民学校」と改称。プール完成。同19年4月学校給食を
開始。2000人分の調理は大変だった。8月宮城県刈田郡福岡村鎌先温泉一条旅館および木村屋旅
館に学童集団疎開。児童約590名。同20年3月愚かなアメリカ軍の非人道的無差別空爆により校
舎全焼。8月日本敗戦。11月疎開解除により学童帰京。浅草小学校の3階で授業開始。同21年保
護者会結成。
 同22年戦勝国アメリカの強制による学校教育法の施行により「東京都台東区立富士小学校」と改
称。学校後援会創立総会を開催。同23年後援会は富士小学校PTAとして発足。同24年復興校舎
(1階8教室、2階5教室、衛生室、宿直室完成)落成し全生徒帰校。同25年創立50周年記念式
典。現校歌制定。

 校歌
「新たに起こる日本の」 作詞・富士小学校  作詞・中山晋平
  1.新たに起こる日本の
    明け行く空に聳え立つ
    雄々しく清き富士ヶ根の
    その名を負える富士学校
  2.学びの道を踏み締めて
    明るく正しく健やかに
    鍛えん この身 この心
    望みは燃える富士学校
  3.文化の光 身に受けて
    世界の友と手を繋ぎ
    伸びゆく日本 負うて立つ
    誓いは固し富士学校


 同27年第1次校舎改修。第一回七夕まつり音楽会が開催され、以降現在まで毎年開催。東京都学
校保健衛生会から記念樹を贈られ表彰される。富士小学校保健委員会が文部大臣表彰。同33年3月
鼓笛バンドが編成され、第3回アジア競技大会開会式エキジビションに出場。同35年第2次校舎改
修。創立60周年記念式典。同36年第3次校舎改修。同44年校舎改築決定。赤レンガ校舎とのお
別れ式が開かれる。改築は北側校舎解体・新築、同45年西側校舎解体・新築、同46年講堂完成。
東側校舎解体と3年間に及んだ。同46年鉄筋コンクリート造り4階建て新校舎(普通教室27・特
別教室7・体育館・プール完備)落成。創立70周年記念式典。同47年8昭和20年度卒業生が2
7年振りに学童疎開地を訪問。同52年学校給食優良校文部大臣賞受賞。同55年創立80周年記念
式典。同60年創立85周年記念式典。第1次校舎改修。同62年韓国教育視察団来校。第2次校舎
改修。同63年第3次校舎改修。
 平成元年第4次校舎改修(体育館)。同2年創立90周年記念式典。同5年校庭全面改修。同7年
創立95周年記念式典。同9年校舎耐震化。同12年校舎外装改修。創立100周年記念式典。同1
7年創立105周年記念式典。交通安全・警視総監賞受賞。同18年英国サウスタインサイド地方教
育視察団来校。パソコンルーム改修。第11回中国教育関係者代表団来校。同19年別教室(図工室
・家庭科室・理科室・図書室・第二音楽室)にエアコン設置。同21年4階に1教室増築。富士こど
もクラブ開設


 
富士山のモニュメント
 校地の西北隅の植栽にある富士山の形に作ってある。

   いのち
    
輝かす

   祝 創立百周年  台東区立富士小学校
     創立五十周年 台東区立富士幼稚園
     


■富士幼稚園

 浅草4丁目48番18号にある区立園。


■浅草富士浅間神社(お富士さん) ◇

 浅草5丁目3番2号の小松橋通りに面してある。「お富士さんの植木市」で知られるこの神社は、
創建年代は不詳だが、「浅草寺志」に記載されており、寛文十一年(1671)以前に当地に勧請さ
れた。
元禄年間(1688~1703)に、静岡県富士市の浅間神社から分社した。江戸の昔、富士
山信仰が流行したことがあった。各地に富士講の組織が出来たり、富士浅間神社が各地に分社され、
本家の富士山へお参りできない人達が各地元の浅間神社に参詣した。下谷の小野照崎神社には、富士
山を模倣した富士塚が残っていて、6月30日と7月1日には、山開きが行われるよ。
 浅間神社の祭日には、植木市が浅草4、5丁目一帯で行われる。昔からの祭日である5月31日、
6月1日と、明治以降富士山の山開きが7月1日に変更になったことで加わった6月30日と7月1
日の合計4日間の珍しい祭日となっている。もともと浅間神社は秋田の象潟の殿様がここに邸を持っ
ていたころ、邸神として祀ったのが始まりで、昔は信仰も盛んだったそうだ。ここは観音様の直轄な
のだ。だから三社さまの祭りには各宮の御輿で太鼓を叩く人を何十人も頼むのだが、夜はその人たち
を神社に泊まらせた。何しろ二日間交代で叩きっぱなしだから。

 江戸時代には別当寺浅草寺子院修善院により管理されていたが、現在は浅草神社の兼務社となって
いる。

   
富士浅間神社(浅草のお富士さん・台東区有形民俗文化財)
   浅間神社は、富士山への信仰に基き勧請された神社で、神体として「木造木花咲耶姫命坐
   像」を安置する。創建年代は不明だが、「浅草寺志」所収「寛文十一年年江戸絵図」に表
   記があり、江戸時代初期の寛文十一年(1671)までには鎮座していたようである。現
   在の鎮座地は、約2mほどの高みを成しているが、中世から江戸初期にかけて、関東地方
   では人工の塚、あるいは自然の高みに浅間神社を勧請する習俗があったとされており、当
   神社の立地もそうした習俗に基くものと思われる。江戸時代には浅草寺子院修善院の管理
   の下、修験道による祭祀が行われ、江戸を代表する富士信仰の聖地として、各地の富士講
   講院たちの尊崇を集めた。明治維新後は浅草寺の管理を離れ、明治6年には浅草神社が社
   務を兼ねることとなり、現在に至っている。
   本殿は、平成9・10年の改修工事によって外観のみ新たに漆喰塗がほどこされたが、内
   部には明治11年建築の土蔵造り本殿が遺されている。さらに、この改修工事に伴う所蔵
   品調査により、江戸時代以来の神像・祭祀用具・古文書などが大量に確認された。これら
   本殿・諸資料・境内地は、江戸時代以後の江戸・東京における富士信仰のありさまを知る
   上で貴重であり、平成11年3月台東区有形民俗文化財に指定された。
   祭礼は、毎年7月1日の「富士山開き」が著名で、また、5・6月の最終土・日曜日には
   植木市が開催されている。                    台東区教育委員会
   
engen hrine
   Sengen shrine is a shrine based on the faith for Mt.Fuji and built in numerou
   s places in the Kanto and Tokai Regions.
   This particular Sengen shrine was built by the year
1671, and worships the go
   d Konohanasakuyahime(goddess). From the 18th to the 19th centuries, a Mt.
   Fuji faith group(Fuji-ko)was organized in all parts of Edo. However, many
   Fuji-ko followers gathered at this shrine, and it vecame famous as the Sengen
   shrine representing Edo.
   During the Plant Festival held on the last Saturdays of May and June, and
   during the "Mt.Fuji Opening "on July 1, even now many followers go on pilgri
   mages to this shrine.
   The current main shrine building was reconstructed in
1998, but the inner shri
   ne, which was constructed in
1878 in a storage house, style was left intact.
   Also,in the shrine are many items, including such things as figures of gods, ar
   ticles of worship, and antique documents. At any rate, the Mt.Fuji faith afte
   r the 18th century has been recognized as being very valuable and was designat
   ed a Taito City Folklore Cultural Asset in
1999.


 社殿
 明治11年に建てられた社殿は、先の東京大空襲で土蔵造りの本殿を残し全焼。その本殿の観音扉
の内側には明治維新前後の作と思われる下り龍の漆喰彫刻が残っている。現在の社殿は、平成10年
に神社奉賛会その他篤信の方々の努力により再建されたもので、さらに平成14年4月には、石造り
の玉垣が奉納され完成した。正面の階段の位置が大幅に変更されたので、昔の面影は全くない。

 
浅草富士富士塚
 平成28年6月地元有志により造営。元々、この地は富士形の小丘だった。
 


■袖摺稲荷神社 ◇
 浅草5丁目48番9号にある江戸百稲荷の一。『続御府内備考』所収の縁起によると、往時源頼朝
が伊豆に蟄居の時のこと、兵糧でもある米穀に乏しくならぬよう稲荷の神体を彫刻し、豆州北条に一
社を建立したのが当社の起こりという。
 後に伊勢新九郎(後の北条早雲)が小田原城に移った際に、その神体を城内へ遷座したところ多く
の奇瑞が顕れた。このことから「開運稲荷」と尊称された。小田原城落城に至り、この稲荷に信心あ
つかった小西半右衛門という者の夢に稲荷神が現われ「我を供奉して隅田の辺に下るべし」とお告げ
があり、これが3度に及び、天正18年(1590)小西は神体と鈴とをもって当所に仮殿を設ける
ことにした。さて仮殿を建てんとしたところ泥中より一仏が出現した。洗い清め見ると十一面観音で
あり、実に稲荷の本地仏なりと喜び、これを本社へ移し奉った。
 後に奇瑞新たかなことから町屋御免を蒙り、当社地へ遷座した。この社地が衣類の衽(おくび)に
似ていたことから、「衽稲荷」と号したが、霊験あらたかにして諸穀の豊穣を司り、願望を成就せし
め、一切の災を除く故に、参拝の輩は群集をなし、神籬にそですり通うことから「袖寿里稲荷」が神
号となった。
 岡本綺堂の「半七捕物帳・広重と川獺」の中に、

    これは安政五年の正月十七日の出来事である。浅草田町の袖摺稲荷のそばにある黒沼孫
   八という旗本屋敷の大屋根のうえに、当年三、四歳ぐらいの女の子の死骸がうつ伏せに横
   たわっていたが、屋根のうえであるから屋敷の者もすぐには発見しなかった。かえって隣
   り屋敷の者に早く見つけられて、黒沼家でも初めてそれを知って騒ぎ出したのは朝の五ツ
   (午前八時)を過ぎた頃であった。


 
とあり、昔から有名な稲荷神社だったようだ。
 


■千草公園
 浅草5丁目58番7号にある区立公園
 

■化粧坂
(けわいざか)
 浅草5丁目72・73番の地方橋(じかたばし)交差点から東に下る坂道。日本堤があった頃は、
鉤の手の急坂だったが、堤が削平された今日では傾斜は殆ど残っていない。そのために山谷堀や千束
通りから土手に上る鉤型の坂道が,痕跡すらなくなるように変貌した。山谷堀の船からあがった遊客
は,今の地方橋付近から日本堤の土手に上がって吉原の大門に向かった。今の都水道局ポンプ場に対
する町筋には、25軒程の遊客たちに貸す編笠屋があった。一種の風俗習慣であろうが,客は笠を被
り扇子で顔を隠して大門を潜った。つまり化粧をする坂の意だ。(「東京の坂風情」より)
 かつては3m以上も高い堤があったと言われる土手通りは,現在は全く平坦な道路となり,衣紋坂
や化粧坂は名前だけとなっている。


■芝居町猿若町

 浅草6丁目の東南の一角にあった。
天保十二年(1841)十月七日明け方、堺町の中村座から出
た火事は、同座のほか隣町の葺屋町の市村座など現在の日本橋人形町3丁目一帯の興行街を焼き払っ
た。当時芝居小屋の火事は珍しくはなく、関係者は前例に従って幕府に再築願いを出した。ところが
願いは預かり状態になった。折りから老中筆頭水野越前守忠邦は、後に「天保の改革」と区分される
構造改革を断行中で、風紀を乱す芝居などは取り潰そうと考えたのだ。その一方で水野は北町奉行の
遠山左衛門尉景元に、芝居の取り潰しについて意見を求めている。遠山とは、今も時代劇でお馴染みの
「遠山の金さん」だ。彼は桜吹雪の刺青はともかく、若いころは道楽者で庶民の事情に通じていた。
流石の水野も独断で大衆娯楽の芝居を撤廃するのは不安だったらしい。金さんこと遠山景元は庶民の
味方だった。芝居の「破却は不当の由」と敢然と反対意見を具申した。水野もこの意見を無視できず
取り潰しは断念して、芝居を遊郭同様江戸の中心から遠ざけることにした。移転先は、浅草聖天町近
くの丹波国園部藩小出家屋敷地とし、直ちに小出家を立ち退かせたので、翌年四月江戸歌舞伎の元祖
といわれる初代中村勘三郎が、初め道化役の猿若を得意とし猿若勘三郎と名乗っていたことから「猿
若町」と命名、同年九月中村座を一丁目、市村座を二丁目として早くも興行を始めた。さらに翌年木
挽町(中央区銀座)の河原崎座も移ってきて三丁目となった。河原崎座は中村・市村と並ぶ江戸三座
の一つ森田座の控櫓(ひかえやぐら)だ。控櫓は、三座のどれかが借金などで興行できない時に限っ
て代わりに興行ができた。猿若町は芝居町として明治初年まで大繁栄を続けた。

 6丁目18番13号に「江戸猿若町市村座跡」の碑が、6丁目19番4号に「浅草猿若町碑」が、
6丁目26番11号に「江戸猿若町守田座跡碑」が、3丁目22番7号に「宮戸座跡之碑」がある。

   旧町名由来案内
   下町まちしるべ
   旧
淺草猿若町
   この地はその昔、丹波国(現在の京都府)園部藩主小出氏の下屋敷であった。天保十二年
   (1841)、徳川幕府は天保の改革の一環として、この屋敷を公収し、その跡地に境町
   ・葺屋町・木挽町(いずれも現中央区)にあった芝居小屋の移転を命じた。芝居小屋は、
   天保十三年から翌四年にかけて当地に移り、猿若町はできた。芝居小屋の移転とともに猿
   若町は、一丁目から三丁目にわけられ、一丁目には中村座および薩摩座、二丁目には市村
   座および結城座が移った。そして、三丁目には河原崎座が移転してきた。このうち中村座、
   市村座、河原崎座が世にいう「猿若三座」である。
   町名は、江戸芝居の始祖といわれた猿若勘三郎の名をとってつけたという。   台東区
 


■旧 浅草猿若町(中村座跡)

 浅草6丁目4番12号に常夜灯様の碑というか、看板というか、がある。浅草6丁目19番4号に
「猿若町碑」もある。中村座の定式幕は、左から「白」「柿色」「黒」三色の引幕。「白」は、幕府
から特に許されて中村座だけが使用していた。

   
浅草猿若町 


■中村家家宝
家光下賜采配
 寛永九年(1632)幕府軍船「安宅丸」が伊豆から江戸に回航される時のこと、艪の数が100
に上るという大船だけに、水夫(かこ)の艪拍子が乱れがちで船は思うように進まない。船手頭向井将
監はふと思いつき、木遣りの名手として評判の初代中村勘三郎を呼び出し、水夫たちに木遣りを教え
るよう頼んだ。その稽古がすんだ後、勘三郎が安宅丸の舳先に立ち、朗々と木遣りを歌うと、それに
合わせて艪拍子は見事に揃い、船は無事に江戸に着いた。これを仄聞した3代将軍家光は、安宅丸の
雄姿を一目確かめたいと隅田川で〝観艦式〟を催した。この日勘三郎は赤の袖無し羽織に同色の鉢巻
きを締め、五色の采配を手にした一世一代の晴れ姿で舳先に立った。悠々と航行する安宅丸の姿に感
動した家光は、勘三郎の美声を「天下一」と褒め自ら金の采配を与えた。采配は中村座の座主勘三郎
家代々の家宝として伝えられた。今もあるのかなぁ!

 幕末から明治初めにかけて歌舞伎の名脇役として鳴らした3代目中村仲蔵の自伝『手前味噌』にあ
る初代勘三郎のエピソードだ。さらに仲蔵は、将軍下賜の采配の存在が天保の改革時の芝居存続に物
をいったと記している。


   全体水越さま(水野越前守)は、芝居をまるで取り潰す御了簡なりしが、例の金の麾(ざい)の
   一件を思はれ、さう手をつけるわけに行き兼ねるゆゑ替地を下さる事になりし哉(や)に聞
   けり。実に一本の金の麾で数百人の生活がたつといふはいと有難き事にこそ

 水野が、興行街を浅草北部の猿若町に移転させることで妥協したのは、北町奉行遠山左衛門尉の意
見具申が原因というのが定説のようになっているが、江戸時代のことだけに、金さんの意見に加えて
仲蔵が記した一件も芝居取り潰しの回避に役立ったろうと思われる。

 18世中村勘三郎 死去
 平成24年12月5日午前2時33分食道癌を治療中の都内の病院で急性呼吸窮迫症候群のため5
7歳の若さで死亡した。本名波野哲明(のりあき)。5代目勘九郎。父の眠る西徳寺に葬られた。
 


■江戸猿若町市村座跡

 浅草6丁目5番1号先の歩道の植込みに常夜燈が建ててある。

   旧淺草猿若町

 柱部分に説明文が張り付けてある。

   旧浅草猿若町(さるわかまち〈ちょう〉)
          現在は浅草6丁目の一部
   江戸時代に歌舞伎は大衆に支持される一大娯楽となったが、幕府は風紀の乱れを恐れ様々
   な規制をもうけて、統制を強めてきた。老中・水野忠邦の「天保の改革」の際に芝居小屋
   廃止を打ち出すことになったが、遠山左衛門尉景元(遠山の金さん)の「庶民の娯楽を奪
   うことは、却って人心の安定に役立たない」との献策を受け、日本橋周辺にあった幕府公
   認の芝居小屋を江戸城郊外に当たる当地へ強制移転させることにした。
   天保十三年(1842)当地に新しく芝居町が造られ、江戸歌舞伎の始祖である猿若勘三
   郎(初代中村勘三郎)の名から「猿若町」と命名された。ここには芝居小屋、芝居茶屋、
   役者や芝居関係者の住まいなどが造られ、大勢の江戸の人々が「猿若三座」の歌舞伎や人
   形浄瑠璃を見物するため繰り出したといわれる。
   のち住居表示の実施により、昭和41年浅草6丁目の一部となった。


■江戸猿若町市村座跡

 浅草6丁目18番13号に碑がある。市村座の定式幕は、「黒」「萌葱(緑)」「柿色」三色の引
幕で、現在国立劇場が同じ定式幕を使用している。猿若町では天保末期から明治にかけて1丁目に中
村座、2丁目に市村座、3丁目に河原崎座(後の守田座)があり、芝居町を形成していた。江戸歌舞
伎興隆の場となったこの地に、昭和39年に跡碑(標柱)が建てられた。

   
江戸猿若町市村座跡

   猿若三座由来記
   天保期、一丁目に中村座、二丁目に市村座、三丁目に河原崎座(のちに守田座となる)が
   あってわが國始めての芝居町を形成していた。これがいわゆる猿若三座である。猿若は江
   戸役者の始祖猿若勘三郎に因んだ甼名で江戸歌舞伎の王國としてこの地は華美を誇り、殷
   賑を極めた。
   昭和39年11月之を建つ
 


■浅草猿若町碑

 浅草6丁目19番4号ギルドアームスの建物の右前角にある。
 旧浅草猿若町は、現在の浅草6丁目の一部にあたり、江戸時代に江戸中の芝居小屋をここ1ヶ所に
集めるために新しく作られた町だった。江戸時代の終わり頃、風紀の乱れを恐れた江戸幕府は、老中
・水野忠邦の打ち出した「天保の改革」により、芝居小屋を廃止する命令を出したが、当時の北町奉
行遠山左衛門尉景元(遠山の金さん』が「庶民の娯楽を奪うことは却って人心の安定に役立たない」
の献言により1つ所に集めて取り締まりを強化する方針に変更したといわれている。ここに天保十三
年新しく芝居小屋が造られ、江戸歌舞伎の始祖である猿若勘三郎(初代中村勘三郎)の名から「猿若
町」と名付けられたといわれている。そして、大きな3つの芝居小屋(江戸三座:中村座、市村座、
河原崎座)の他にも小さな芝居小屋、芝居茶屋や役者、芝居関係者の住居も作られ、江戸の娯楽の中
心地になった。江戸時代、屡々芝居が風紀を乱すというのは、売春が行われるためである。娘浄瑠璃
が中止となるのも同様のことだ。現在でも「枕営業」といって、タレントが買春に供されるのも人間
時代を問わずあり得ることなんだねぇ。歌舞伎を男だけでやるのも生き残るためなのさ。

   
浅草猿若町碑 


■江戸猿若町守田座跡碑

 浅草6丁目26番11号の(株)櫛原の前にあった。猿若町は江戸役者の始祖猿若勘三郎の名に因
んだ町名であり、天保十三年(1842)以来、昭和41年10月住居表示制度の実施に到るまで続
いた町名だ。1丁目に中村座、2丁目に市村座、3丁目に河原崎座(のち守田座となる)があって、
明治初期までは江戸歌舞伎を中心に華美殷賑を極めたわが、国芸能文化の歴史に一頁を刻んだ場所。
 この碑は、昭和52年5月、大正13年以来の住人櫛原周一郎が建てたものだ。
 平成25年倒産のため櫛原ビルは解体されて更地となり、碑は撤去されてない。

   
江戸猿若町守田座跡

   猿若三座の一「守田座跡」  現在は浅草6丁目の一部
   守田座の定式幕は、左から「黒」「柿色」「萌黄(緑)」3色の引幕だった。
   現在、歌舞伎座他ほとんどの劇場が同じ定式幕を使用している。

 森田座 → 守田座
 
戸にあった歌舞伎の芝居小屋で、江戸三座の一つ。座元は森田(守田)勘彌代々。控櫓は河原崎
座。万治3
年(1660)森田太郎兵衛(初代勘彌)が木挽町五丁目(銀座6丁目昭和通り西側)に
森田座を開場。
併し森田座の経営は不安定で、資金繰りに行き詰まっては破綻休座して控櫓の河原崎
座に代興行権を委ねることが多く、時には20年近くに亘って河原崎座が興行していたこともある。
天保十四年(1843)天保の改革で木挽町から猿若町へ移転させられた時も3度目の休座中で、実
際に引っ越し一切を行ったのは河原崎座だった。安政3年
(1856)5月に河原崎座が失火で全焼
すると11代目勘彌によって森田座が再興され、その2年後には「森の下に田んぼ」では陽当たりが
悪く実りが悪いのも当然で、これを「田を守る」に改めればきっと勝手口も改善するに違いない」と
の験(ゲン)担いで座名を森田座から守田座に改め、これに伴い姓の森田も守田に改めた。明治5年
にはやはり「新しい富を求める」という験担ぎで、新富町(中央区新富2丁目)へ移転し、3年後の
同8年には座名も新富座と改めている。
守田座の定式幕は左から「黒・柿色・萌葱色」の三色の引幕
だった。これが現在東京歌舞伎座や京都南座をはじめとする多くの劇場で歌舞伎上演の際に使用され
る定式幕の組合せとなっている。
  


■立て籠もり事件

 浅草6丁目36番5号メゾン・ヴァンドームの3階の一室に元交際相手の母親(55歳)を人質に
立て籠もり逮捕された。平成29年5月25日17時40分過ぎ、鹿児島県出身の堤慎吾(21歳)
が、元交際相手の実家に押し寄せた。

   女性が『助けて!』といって出てきた後、包丁を持った男が出てきて、またマンションに
   入っていった


 と目撃者の女性から110番通報があり、事件が発覚した。警視庁捜査1課特殊班(SIT)の捜
査員が21時頃、室内に強行突入して堤を逮捕監禁致傷容疑で現行犯逮捕した。母親は、特殊班が突
入する2分前に堤容疑者に刺され、胸や背中などに切り傷があるが命に別条はない。堤は、捜査員が
突入する直前、刃物で自分の胸を刺し自殺を図ったとみられ、意識がなく病院で治療を受けている。
 堤は、中野区に住む娘と昨年12月から今年4月ごろまで交際していたが、復縁を求めトラブルに
なっていた。前日24日、堤が、中野区の女性方を訪れたため、女性が110番し、野方署が堤容疑
者に近づかないようストーカー規制法に基づき警告し、娘は実家の台東区のマンションに避難してい
た。堤は25日、女性方に荷物を取りに来た母親と偶然会い、台東区のマンションまで後を付けた。
娘が実家に帰宅したところ、堤容疑者と鉢合わせたため、マンションから逃げ出して浅草署に保護さ
れた。堤は人質の女性を通じて浅草署に電話をかけ「娘を連れてこい」などと要求していた。
 女如きで人生を棒に振る馬鹿な奴、どうして女如きに現を抜かすのかねえ。たかが女じゃねえか。
男の人生を賭けるほどの代物じゃねえよ。下らねぇ生き物さ。


■遍照院

 浅草6丁目37番12号にある聖観音宗の寺。本堂は現代風、どっちかというとキリスト教風。詳
細不明。


■合力稲荷神社 ◇

 浅草6丁目42番8号、山谷堀正法寺橋傍にある。当社は永禄年中山谷村百姓一同にて郷中鎮守と
奉斎す有り。御祭神は生活の基をなす食を司どる神として御神威を発揚され約四百数十年郷民の尊崇
を集めている。

   合力稲荷神社
   御祭神 保食命
   
御社殿 神明造
   
御創建 永禄年間
   
縁起
   
当社は永禄年中山谷村百姓一同にて郷中鎮守と奉斉す有り御祭神は生活の基をなす食を司
   どる
神として御神威を発揚され約四百数十年郷民の尊崇を集めている



■正法寺橋跡

 浅草4丁目45番8号に親柱が残っている。山谷堀に架かる橋だった。正法寺は橋の東にある。 


■山谷堀公園

 浅草6丁目45番12号、1丁目の今戸橋から地方橋までの山谷堀暗渠上に作られた区立公園。公
園は橋と橋の間の部分で、地方橋と地方新橋、地方新橋と紙洗橋、紙洗橋と山谷堀橋、山谷堀橋と正
法寺橋、正法寺橋と吉野橋、吉野橋と聖天橋、聖天橋と今戸橋のそれぞれの間が公園になっている。
 住所的には、浅草7丁目9・10・11番、浅草6丁目45・46番、東浅草1丁目4・13・1
4番だ。この公園から眺めるスカイツリーはいいもんだよ。桜の頃が最高かな。公園の案内板に、

   山谷堀公園
   山谷堀がいつ掘られたのかははっきりしないが、江戸の遊里吉原との関係から見ても、
   おそらく江戸初期にできたものであろう。
   都下水道局のポンプ場のところから隅田川へと注ぐ約700mに及ぶ山谷堀は、北区の
   音無川を源とし、飛鳥山の北側、王子権現の下を経て通じていた。
   当時、この堀は吉原への通路の一つであった。山谷堀を通るので、吉原通いを別名、山
   谷通いともいった。緒牙船などを仕立て、このコースを使う遊興は贅沢とされ、まさに
   お大尽遊びだった。
   堀の上流の方から日本堤橋、地方橋、地方新橋、紙洗橋、山谷堀橋、正法寺橋、吉野橋、
   聖天橋、今戸橋と9つの橋が架けられていたが、埋め立てに伴い、総て取り除かれてお
   り、橋台のみが昔の面影を残している。現在は水と緑の憩いの公園として整備されてい
   る。

 とある。

 山谷堀
 江戸以前にはこの水路はなかったものと思われる。あったとしても極細流だろう。開削は、江戸を
荒川(隅田川)の洪水から守るために日本堤を築堤したのと同時期と思われ、堀として拡張整備する
際に浚渫し、上土は、築堤材として土手の一部に使われたと考えられる。
 山谷堀は石神井川の分流である音無川の下流に当たる。音無川の本下流は思川(明治通り)。堀は
新吉原大門に通じていて、神田川河口の柳橋から舟で新吉原に通うのが粋。貧乏野郎は道を歩いて吉
原へ向かった。

 「あこがれ」
 浅草7丁目9番9号先山谷堀公園にある朝倉文夫制作の裸婦像。吉野通り(吉野橋)と聖天橋の間
だ。この銅像は、浅草高等学校(旧台東商業高等学校)の南にあり、平成5年10月1日に宣言され
た「台東区健康都市宣言」を記念して、台東区の健康施策の象徴として建てられた。戦後の新しい日
本の女性像で、健康的で清潔な美を象徴している。女性裸像を堂々と町中に設置する国は、日本だけ
だ。併し日本人は、町中に、子どもの目に曝すところであっても、誰も不思議にも思わないし、そこ
に存在することすら意識下にない。これまた不思議な国民性ではある。もしこれが外国なら、大問題
となり、市町村長はその地位から引き摺り下ろされることだろう。
 


■山谷堀橋跡

 浅草4丁目46番5号に親柱が残っている。山谷堀に架かる橋だった。

   山谷堀橋来歴
   本橋ハ帝都復興事業トシテ
   新設シタルモノナリ
   一、起工 昭和四年五月
   一、竣工 昭和四年九月
   一、工費 壱萬九千四百圓
            東京市
 


■吉野橋跡跡

 浅草6丁目(45番)と7丁目(9番)の間に親柱の残骸が残っている。山谷堀に架かる割と大き
な橋だった。
 


■GTS(E)「スカイネスト」
 浅草7丁目1番、隅田公園の土手、言問橋と接するところにある。併し、桟と桟の間が狭く、覗き
込まなければ中が見えないことと、まるで構造物であって
オブジェというようには見えないので大概
の人は気づかない。また見るのであれば言問橋の歩道からの方が見易い。鳥籠の中に鷹、雀、鳩、尾
長鳥、インコなど大小様々な鳥が入っているよ。これは東京芸術大学のプロジェクトの1作品。
 GTSとは、Geidai Taito Sumida Sightseeing Art Project 東京藝術大学。台東区・墨田
区観光芸術事業)のこと。GTS観光アートラインは、平成22~24年度に実施された「GTS」
によって誕生した、浅草と東京スカイツリーをアートで繋ぐ観光ルートだ。東京スカイツリーのビュ
ーポイントに設置された環境アート作品12作品とアートベンチ5作品からなり、アートを楽しみな
がら、浅草観光や東京スカイツリー観光を楽める。


■戦災により亡くなられた方々の碑(東京大空襲戦災犠牲者追悼碑)

 浅草7丁目1番、隅田公園、言問橋寄りのところにある供養記念碑。

   あゝ
   東京大空襲
   朋よやすらかに


 区の説明板


   戦災により亡くなられた方々の碑            台東区浅草7丁目1番
   隅田公園のこの一帯は、昭和20年3月10日の東京大空襲等により亡くなられた数多く
   の方々を仮埋葬した場所である。
   第二次世界大戦(太平洋戦争)中の空襲により被災した台東区民(当時下谷区民、浅草区
   民)は多数に及んだ。亡くなられた多くの方々の遺体は、区内の公園等に仮埋葬され、戦
   後荼毘に付され、東京都慰霊堂 戦災により亡くなられた方々の碑(墨田区)に納骨され
   た。戦後四十年、この不幸な出来事や忌まわしい記憶も、年ごとに薄れ、平和な繁栄の下
   に忘れ去られようとしている。
   いま、本区は、数少ない資料をたどり、区民からの貴重な情報に基づく戦災死者姪御を調
   製するとともに、この地に碑を建立した。
   昭和61年3月                              台東区

 標柱が建ててある。

   
東京大空襲戦災犠牲者追悼碑
   Memorial monument for the victims of the Great Tokyo Air Raid

 言問橋の縁石
 戦災により亡くなられた方々の碑の後ろにある。

   
言問橋の縁石
   ここに置かれているコンクリート塊は、1992年言問橋の欄干(らんかん)を改修した
   際に、その基部の縁石を切り取ったものです。1945年3月10日、東京大空襲の時、
   言問橋は猛火に見舞われ、大勢の人が犠牲となりました。
   この縁石は、当時の痛ましい出来事の記念石としてここに保存するものです。

 竹屋の渡し跡碑
 今戸橋跡近くの隅田公園内にある石碑。

   
竹屋の
    渡し跡


 区の説明板は以下の通り。

   竹屋の渡し
   隅田川にあった渡し舟の一つ。山谷堀口から向島三囲神社(墨田区向島2丁目)の前あた
   りを結んでいた。「待乳の渡し」ともいい、また「竹屋の渡し」ともいう。明治40年刊
   『東京案内』には「竹屋の渡」とあり、同年発行『東京市浅草全図』では、山谷堀入口南
   側から対岸へ船路を描き、「待乳ノ渡、竹家ノ渡トモ云」と記している。
   「渡し」が待乳山聖天の下にあったこと、あるいは山谷堀に竹屋(家)という船宿があっ
   たことがその名の由来とされている。
   「渡し」の創設年代は不明だが、文政年間(1818~1830)の地図には、山谷堀に
   架かる「今戸はし」のそばに「竹屋のわたし」の名が見える。
   隅田川にのぞんだ今戸や橋場は風光明媚な地であったという。文人墨客たちの題材となっ
   た今戸橋や山谷堀は寛文十一(1671)の地図に, 今戸橋の名があることから,江戸時
   代初期には造られていたらしい。 「渡し」は、昭和の初期, 言問橋が架橋される頃まであっ
   た。
   昭和62年3月                         台東区教育委員会


 これと同文ものが、平成6年3月に建て替えられ、現在のものは以下の通りだ。

   
竹屋の渡し跡
   隅田川にあった渡し舟のひとつ。山谷堀口から向島三囲神社(墨田区向島2丁目)の前あ
   たりを結んでいた。明治40年刊『東京案内』には「竹屋の渡」とあり、同年発行『東京
   市浅草全図』では山谷堀入口南側から対岸へ船路を描き「待乳ノ渡、竹家ノ渡トモ云」と
   記しており、「竹屋の渡」とも、あるいは「待乳の渡」とも呼ばれたようである。「竹屋」
   とは、この付近に竹屋という船宿があったためといわれ、「待乳」とは待乳の麓にあたる
   ことに由来する。
   「渡し」の創設年代は不明だが、文政年間(1818~1830)の地図には、山谷堀に
   架かる「今戸はし」のかたわらに「竹屋のわたし」の名が見える。
   江戸時代、隅田川をのぞむ今戸や橋場は風光明媚な地として知られ、さまざまな文学や絵
   画の題材となり、その中には「竹屋の渡し」を描写したものも少なくない。
   昭和3年言問橋の架設にともない、渡し舟は廃止された。
   平成14年3月                         台東区教育委員会
   The Ferry of Takeya
   The Ferry of Takeya, also called the Ferry of Matsuchi, was one of the many
    ferries operating on the Sumida River. It connected Sanyabori and Mukojima
   Mimeguri Shirine. The name Takeya is said to have been derived from the name
    of an inn in Sanyabori. The name "Matsuchi" came from the location of the fe
   rry, which was below Matsuchi-yama Shoden. It is unkown when the ferry service
    actually began, but the business continued until the Kototoi-bashi Bridge was
    constructed in the early Showa Era.
 


■水原秋櫻子の句碑
 浅草7丁目1番、隅田公園内にある秋櫻子の、全国で103番目の句碑。

   羽子板や
      子はまぼろ
           

           

       すみだ川
      
   秋桜子

   水原秋桜子 本名 豊   1892年 東京市神田に生まる
   東京帝国大学医学部卒   宮内省侍医寮御用掛
   馬酔木主宰 日本芸術院会員 俳人協会会長 1981年没
   1988年10月5日
 


待乳山聖天まつちやましょうでん) 
■待乳山本龍院

 浅草7丁目4番1号にある聖観音宗浅草寺末。霊験の新たかなことは、昔より広く知られており、
縁起によると、推古天皇の三年(595)九月二十日、突然この地が小高く盛り上がり、そこへ金龍
が舞い降りた。この不思議な降起は、十一面観音菩薩の化身「大聖歓喜天」が出現するめでたい先触
れで、それから6年後村人は天候不順に悩まされ、永い旱魃(ひでり)のために飢えと焦熱の地獄に
陥っていた。その時大聖歓喜天が出現し、雨を降らせて村人を苦しみから救ったという。それ以来民
衆の篤い尊信が集まり、天安元年(857)慈覚大師円仁が東国巡拝の折、この山に籠もって21日
(37日とも)の間浴油修法して国家安泰、庶民の生活安定を祈願し、自ら十一面観世音菩薩像を彫ん
で奉安したと伝えられている。

   待乳山聖天
   待乳山聖天(まつちやましょうでん)は、金龍山浅草寺の支院で正しくは、待乳山本龍院
   という。その創建は縁起によれば、推古天皇9年(601)夏、早魃のため人々が苦しみ喘い
   でいたとき、十二面観音が大聖尊歓喜天に化身してこの地に姿を現し、人々を救ったため
   「聖天さま」として祀ったといわれる。ここは隅田川に臨み、かつての竹屋の渡しにほど
   誓い小丘で、江戸時代には東都随一の眺望の名所と称され、多くの浮世絵や詩歌などの題
   材ともなっている。とくに、江戸初期の歌人戸田茂睡の作、「あはれとは夕越えて行く人
   も見よまつちの山に残すことの葉」
の歌は著名で、境内にはその歌碑(昭和30年再建)
   のほか、石造出世観世音立像、トーキー渡来の碑、浪曲双輪塔などが現存する。また境内
   各所にほどこされた大根・巾着の意匠は、当寺の御利益を示すもので、大根は健康で一家
   和合、巾着は商売繁盛を表すという。1月7日大般若講大根祭には多くの信者で賑わう。
   なお震災・戦災により、本堂などの建築物は焼失、現在の本堂は昭和36年に再建された
   ものである。
   平成11年3月                         台東区教育委員会
   
MATSUCHIYAMA SHODEN
   Matsuchiyama Shoden is one of the subordinate temples of Kinryusan SSensoji
   Temple. Its proper name is Matsuchiyama Honryuin.
   Located alongside the Sumida River and near the Takeya Ferry. It was called
    a noted place featuring a good view in the Edo Era. Here there are many Nis
   hikie prints of the Edo Era and poems by famous men of letters and painters li
   ke Toda Mosui dealing with the scenary of this place. Its main building was de
   stroyed in the Great Earthquake of 1923 and the Second World War, but i
   t was rebuilt in 1961.
   Radishes seen in its compounds are known as the symbol of health and family har
   mony while purses represent commercial success.

   まつち山夕越え行き庵崎のすみだ河原に独りかもねむ(万葉集/弁基法師)
   今宵また誰か宿らん宿からむ庵崎の隅田河原の秋の月影(順徳天皇)
   月影のさすや庵崎隅田河 越えてまつちや山のかひより(藤原家隆)
   誰もかもやどりはとはんまつち山 夕越え行けばあふ人もなし(新千載集)
   まつち山夕越え行けば風寒み すみだ河原に千鳥鳴くなり(秋風抄)


 そして聖天信仰の基礎が確立し、その後ますます民衆の尊信を集めるに至った。殊に元禄華やかな
りし頃には境内に諸堂が整備されて今日の土台が完成した。その後関東大震災、東京大空襲などにも
遭遇したが、今日もなお篤い尊信は続いている。十一面観音菩薩を本地仏とする第聖歓喜天(聖天)
は仏法を守護し、仏道を行ずる人々を守護する天部の神様だが、衆生の迷いを救い願いを成就叶させ
てくれる大きな力を持っているのだ。境内各所に印されてる巾着や大根は、信祈願することによって
得られるその御利益を端的に表したもの。大根は身体を丈夫にし、良縁を成就し、夫婦仲良く末永く
一家の和合を御加護頂ける功徳を表している。巾着は財宝で商売繁盛を表し、聖天信仰のご利益の大
きいことを示している。

   聖天を片手拝みに梅雨の傘(山口素人閑)

 なお待乳山は海抜九mほどの丘だが、日本堤が作られるまでは九十九折の石段を上がらねば境内に
辿り着かなかった。愛宕山ほどもあったろうか、しかし江戸を洪水から守るために山谷川の西側に堤
防を作ることになり、待乳山は見る影もなく切り崩され、今のような小っちゃなものにされっちまっ
たという訳さ。今次大戦で狂気のアメリカ軍の無差別爆撃で堂宇悉く焼失したが、敗戦後権現造りの
本堂、唐破風屋根の信徒会館、南門など旧に復した。

   小唄 夕暮れに眺め見渡す隅田川
      月に風情を待乳山 帆あげた舟が見ゆるぞえ
      あれ鳥が泣く 鳥の名も都に名所があるわいなむ
   小唄 さんやの小舟 ついたついた おゝついた
      待乳山風 手拭でしのぐ 雨か、みぞれか まゝよ、まゝよ
      今夜もあしたの晩も居つづけしよう しょうが酒 


 
天狗坂
 “待乳山聖天”の境内。本堂右手の鉄扉のついた石段で,東側の隅田川沿いの道路に下りる。石段
は 改修されて新しいが,通常 入口の扉は閉鎖されていて通行止めとなっている。坂名は天狗が出て
来そうな坂道の意。追剥に気をつけろという意味かもしれない。

   天狗坂 てんぐざか
  
 昔時は大木がうっそうと
   生い茂り, 坂を降りたとこ
   ろに竹屋の渡しがあった。
      
天狗坂 夕木枯の
              おもいでに
               久保田万太郎


 戸田茂睡歌碑
 境内にある。戸田茂睡は、松尾芭蕉、近松門左衛門、井原西鶴とな並び称された文人で。歌道の革
新を唱えた、この碑は、江戸最古の歌碑と称されたが、戦災で失った。それを惜しんだ佐々木信綱博
士の尽力で、拓本を参考にして茂睡250年忌の昭和30年に再建された。


        
あ王れとハ夕越て行く人も見よ
   
待乳山      戸田茂睡入■恭光 
        ま川ち能山尓残す古登の葉

   
横面         昭和三十年四月十四日

 
※読みは「あはれとは夕越えて行く人も見よ まつちの山に殘す言の葉」 副碑に、

   紫の一もとをも
してゆかり深き江戸の名勝をたゝへ、梨本集を著して近世歌学の魁とな
   しゝ元禄の歌人戸田茂睡翁は、浅草に住みこの待乳山の風光をめでゝ御堂の傍に歌碑を建
   てたりき。その石後にそこなはれしも寛政九年姪孫櫛分規貞石室をつくりて三面を覆ひた
   りしが、昭和二十年三月戦災にあひて殆ど湮滅に及びぬ。ここより本龍院住職平田真徳師
   光住乃息横田真精師等発起して再興をはかり、今年翁の二百五十年忌に刻石再び新たに成
   れり。かくれづの翁かくり世にして喜びほゝえみてあらむ
    とこしへ尓かれじくちせじ霊ごもる まつちの山乃やまと言の葉
   昭和30年4月14日                日本藝術院会員 佐佐木信綱撰
                                       芳翠英書

 とある。文中の「の」は「能」の変体仮名。寺の説明板は以下の通り。

   田茂睡歌碑
   茂睡は元禄のころ活躍した歌人で、歌道の革新を唱えた。江戸最古の歌碑と称されたが、
   戦災に遭い、昭和30年拓本をもとに再建された。


 出世観世音菩薩
 昭和11年(1963)境内整地のおり御頭のみが出土され足利末期(慶長五年頃)の作と鑑定さ
れた。学業芸道に志す者の尊信を集めている。

 
浪曲相輪塔
 昭和18年浪曲協会が建てたもので浪曲は明治の末に大阪から浪花亭駒吉が関東節として広め、更
に桃中軒雲右エ門によって隆盛をもたらし、今日も庶民に広く親しまれている。

 
銅造宝篋印塔
 境内にある。

   銅造宝篋印塔(台東区有形文化財)
   宝篋印塔は「宝篋印陀羅尼経」という経典に基づいて造立された塔である。本塔は江戸時
   代中期以降に流行した、屋根型の笠をもつ宝篋印塔で、時代性をよく表している。基礎に
   刻まれた銘文から、天明元年(1781)に鋳物師西村和泉守が製作し、蔵前の札差等1
   6名が奉納したものであることが分かる。西村和泉守は、江戸時代から大正時代にかけて
   十一代に亘り鋳物師を務めた家で、本塔の作者は五代西村政平にあたると考えられる。
   銅造の宝篋印塔は全国的にも類例が少なく、特に区内では造立当初からほぼ完全な形で遺
   された唯一の事例である。各部の装飾は優れており、鋳物師の高い技能を知ることができ
   る。また、蔵前の札差の奉納物としても貴重な歴史資料である。平成14年に台東区有形
   文化財として台東区区民文化財台帳に登載された。
   平成19年3月                         台東区教育委員会
   
Bronze Hokyointo(Cultural Asset of Taito City)
   Hokyoin-to refer to Buddhist pagodas constructed based on a sutra called Hoky
   oindarani-kyo. This particular pagoda has a roof style cover, popular after the
   latter half of the 18th century, making it very representative of the age it w
   as built in. According to the inscription carved into the foundation, it was bu
   ilt by the caster Nishimura Izuminokami in 1781, and was a donation by 16
   fudasashi(rice brokers/users)in Kuramae. The Nishimura Izumino-kami was a
   family of casters that lasted for 11 generations. This pagoda is thought to h
   ave been built by Nishimura V, Nishimura Masahira.
   Hokyoin-to made of btonze are a rarity in Japan. This pagoda is the only one
   in Taito city that has been preserved almost in its original condetion.It is ma
   rked by fine decorations on its various parts, and is an excellent example of th
   e high level of skill of the caster.

   
銅造宝篋印塔
   高さ 9.6m
   造り  銅造
 
  建立  寛延二年(1749)
   製作  荻原三郎右衛門作
   宝暦十一年(1761)、浅草寺信徒1000人によって建立され、明治40年(190
   7)に改修再建されたもの。唐銅製。宝篋印塔には、基礎部五重目に、宝篋印陀羅尼経の
   要文を記し、軸部に金剛界四仏の種字を配している。第二重の基礎四面に十六羅漢像を浮
   彫(陽刻)している。                       金龍山 浅草寺


 
金龍山大聖歓喜廟碑
 境内にある。

   金龍山在武蔵国都島郡推古天皇時漁夫■■■三兄弟網于宮戸所得観
   音大士金像廟紀■浅草寺至今香人庸三千載不絶二人傳言是之歳九月
   廿日一普間此山地■湧出焉金色■龍神龍自虚空降住鳥山長留興龍呼■地
   鎮護大士廟像枡蓋山名取於斬一名日真土山又待乳山■沖謂待乳左下総
   者誤矣然紀伊近江駿河皆有待乳山僧弁辮基藤■光俊稔取歌云者椅在紀之
   山也戌日揚在江之少也後鳥羽帝錫区釋頓阿各著■謂待乳在駿矣皆不言及
   此在武者按江駿皆有菴埼関屋里隅田川在■待乳近地此山近地亦有菴
   埼関屋里隅田川此国之川特入在五中将和歌為国以東一勝地以名墨偶與
   在三邦者相同好事者■取彼名跡附此地之山田北不可知也然北山之所
   以可貴者豈在予斬哉抑其所以可貴而伝者以有庚聖歓喜天自在天在焉也
   縁起四大士出現後九年大旱災熱如爆赤池北里應改芸咨于時大士應作
   歓喜天始■跡■此山■拔苦與楽大神力起慈雲洒涼爾蘇有情無情一切衆
   生矣後 文徳帝天安元年自覺大師留錫於此山月昆郡夜■一字呪氾浄油
   面観自在像廟中今所有本池佛是也柳歓喜天之為徳也陰陽和合之根元諸
   神諸佛之父母一切恒河沙国二人大鬼畜一草一木之微莫非其應作■将領
   九千八百諸大鬼三遊三千世界上奉衛三實下■益衆生故受持其法者諸
   天加護之解脱災害■若如求官求福求縁求宮求貴求■求壽求色皆令随其
   所願而得満■■有侵■信其法者則諸神震怒壁破之頭脳為七分■使呪
   經■之詳矣千柄秋艇深帰依■山大聖天募四方信天善易女欲立碑■■徳
   與快山河貴而伝以余郡人債余作記編観閻浮堤諸信者余作記以訊證其信
           心三昧時文化元年臘■日記

 
別の転記。

   金龍山大聖歓喜廟碑
   金龍山在武蔵国豊島郡 推古天皇時漁人霊師○三兄弟網●宮●雨得観
   音大士金像廟紀寛于浅草寺至今香人●至千載不絶二人傳言先是之●九月
   廿日一昔聞●上自地●湧出焉金色神龍自虚空降住鳥山奥龍長留興龍于●地
   鎮護大士廟像●山名取於斬一名曰真土山又曰待乳山発●沖謂待乳在下総
   者謂実然紀伊近江駿河皆有待乳山僧辨基藤●光俊●歌●云者●在紀之
   山也戌曰●在江之山塊 後鳥羽帝釋頓阿各著●謂待乳在駿矣皆不言及
   奥在武者按紀江駿皆有菴埼棺關屋里隅田川在●待乳進地興山近地亦有菴
   埼閥屋里隅田川此國之川特入在五中将和歌為関●東一大勝地以名偶與
   在三邦者相同好事者牽取彼名跡附會此地之山里●●可知也然北山之所
   以可貴者豈在于斯哉抑其所以可貴而傳者以有庚聖歓喜天自在天在焉也
   縁起日大士出現後九年天大旱炎熱如爆赤池●里●●芸咨于時大士應作
   歡喜天始乘跡於其山出拔苦與楽大神力起慈雲洒涼雨●濟有情無情一切衆
   生矣後  文徳帝天安元年慈覺大師留錫於此山月昆郡夜釈●一字呪氾浄油
   面歡自在像廟中今所有本池佛是也柳歡喜天之為徳也陰陽和合之根元諸
   神諸佛之父母一切恒河沙國土人天鬼畜一草一木之微莫非其應作飴将領
   九千八百諸大鬼三遊三千世界上奉衛三寶下利益衆生故受持其法者諸
   天加護之解聡災害寝苦如求官求福求禄求宮求貴求●求壽求色皆令随其
   所願而得満足成有侵?信其法者則諸神震怒壁破之頭脳為七分八●使呪
   經説之詳●千柄秋艇深換える歸依此山大聖天募四方信天善男女欲立碑勅神徳
   與快山河貴而傳以余郡人債余作記編歡閻浮堤諸信者託余作記以證其信
   心三昧時文化元年臘○日記

 これを重ねて比べてみると、

   金龍山在武蔵国都島郡推古天皇時漁夫■■■三兄弟網于宮戸所得観
   金龍山在武蔵国豊島郡推古天皇時漁人霊師○三兄弟網●宮●雨得観
   音大士金像廟紀■ 浅草寺至今香人庸三千載不絶二人傳言 是之歳九月
   音大士金像廟紀寛于浅草寺至今香人●至千載不絶二人傳言先是之●九月
   廿日一普間此山地■ 湧出焉金色■龍神龍自虚空降住鳥山  長留興龍呼■地
   
廿日一昔聞●上自地●湧出焉金色神龍  自虚空降住鳥山奥龍長留興龍于●地
   鎮護大士廟像枡蓋山名取於斬一名日真土山又 待乳山 ■沖謂待乳左下総
   
鎮護大士廟像● 山名取於斬一名曰真土山又曰待乳山発●沖謂待乳在下総
   者誤矣然紀伊近江駿河皆有待乳山僧弁辮基藤■光俊稔取歌 云者椅在紀之
   者謂実然紀伊近江駿河皆有待乳山僧 辨基藤●光俊● 歌●云者●在紀之
   山也戌日揚在江之少也後鳥羽帝錫区釋頓阿各著■謂待乳在駿矣皆不言及
   山也戌曰●在江之山塊後鳥羽帝釋  頓阿各著●謂待乳在駿矣皆不言及
   此在武者按江 駿皆有菴埼 関屋里隅田川在■待乳近地此山近地亦有菴
   奥在武者按紀江駿皆有菴埼棺關屋里隅田川在●待乳進地興山近地亦有菴
   埼関屋里隅田川此国之川特入在五中将和歌為国以東一 勝地以名墨偶與
   埼閥屋里隅田川此國之川特入在五中将和歌為関●東一大勝地以名 偶與
   在三邦者相同好事者■取彼名跡附 此地之山田北不可知也然北山之所
   
在三邦者相同好事者牽取彼名跡附會此地之山里●●可知也然北山之所
   以可貴者豈在予斬哉抑其所以可貴而伝者以有庚聖歓喜天自在天在焉也
   以可貴者豈在于斯哉抑其所以可貴而傳者以有庚聖歓喜天自在天在焉也
   縁起四大士出現後九年 大旱災熱如爆赤池北里應改芸咨于時大士應作
   縁起日大士出現後九年天大旱炎熱如爆赤池●里●●芸咨于時大士應作
   歓喜天始■跡■此山■拔苦與楽大神力起慈雲洒涼爾蘇 有情無情一切衆
   
歡喜天始乘跡於其山出拔苦與楽大神力起慈雲洒涼雨●濟有情無情一切衆
   生矣後 文徳帝天安元年自覺大師留錫於此山月昆郡夜 ■一字呪氾浄油
   生矣後 文徳帝天安元年慈覺大師留錫於此山月昆郡夜釈●一字呪氾浄油
   面観自在像廟中今所有本池佛是也柳歓喜天之為徳也陰陽和合之根元諸
   
面歡自在像廟中今所有本池佛是也柳歡喜天之為徳也陰陽和合之根元諸
   神諸佛之父母一切恒河沙国二人大鬼畜一草一木之微莫非其應作■将領
   神諸佛之父母一切恒河沙國土人天鬼畜一草一木之微莫非其應作飴将領
   九千八百諸大鬼三遊三千世界上奉衛三實下■益衆生故受持其法者諸
   
九千八百諸大鬼三遊三千世界上奉衛三寶下利益衆生故受持其法者諸
   天加護之解脱災害■若如求官求福求縁求宮求貴求■求壽求色皆令随其
   天加護之解聡災害寝苦如求官求福求禄求宮求貴求●求壽求色皆令随其
   所願而得満■■有侵■信其法者則諸神震怒壁破之頭脳為七分 ■使呪
   所願而得満足成有侵●信其法者則諸神震怒壁破之頭脳為七分八●使呪
   經■之詳矣千柄秋艇深帰依■山大聖天募四方信天善易女欲立碑■■徳
   
經説之詳●千柄秋艇深歸依此山大聖天募四方信天善男女欲立碑勅神徳
   與快山河貴而伝以余郡人債余作記編観閻浮堤諸信者 余作記以訊證其信
   與快山河貴而傳以余郡人債余作記編歡閻浮堤諸信者託余作記以 證其信
           心三昧時文化元年臘■日記
           
心三昧時文化元年臘○日記

 となる。


 
歓喜地蔵尊
 数度の火災に遭いその尊容とどめていないが古来より子育地蔵として伝承され、霊顕あらたかな尊
として信仰されている。

   
歓喜地蔵尊
   数度の火災に遭いその尊容とどめていないが古来より子育地蔵として伝承され、霊顕あら
   たかな尊として信仰されている。

 
築地塀(ついじべい)
 江戸時代の名残をとどめる唯一のもので貴重な文化財る、全長二十五間(45.5m)広重の錦絵に
も描かれている。筑地塀とは泥土を「版築」という方法で突き固めて作った塀で、単に「築地」(つ
いじ)ともいう。石垣の基礎に柱を立てて貫(つらぬき)を通した骨組みを木枠で挟み、そこに練り
土を入れて棒でつき固める「版築」という方法で作られる物が多く、塀の上に簡便な小屋組を設け、
瓦や板などで葺いたものも多くある。古来より貴族の邸宅や寺院、官舎などに特に見られ、今でも御
所や寺院などで見られる。規模の大きい物は「大垣」と呼ばれ、平城京の南面の築地塀は高さ12m
に達したといわれている。寺では定規筋という白い横線を入れた筋塀を築き、5本(五条)を最高位
にして寺格を表すようになった。都内の築地塀は増上寺にもある。
 また「築地(つきじ)」は、湿地や泥地、海を埋め立てて乾燥陸地を作ることで、「ついじ」「つ
きじ」と使い分ける。中央区築地は埋立地の意、中央区月島は「築島」でこれも埋立地の意だ。

   
築地塀
   
江戸時代の名残りをとどめる唯一のもので貴重な文化財である。全長25間(45.5m)
   広重の錦絵にも描かれている

 大根祭り
 元日以来聖天さまに奉納された大根を、正月7日に〝風呂吹き大根〟に調理してお神酒とともに参
詣者に振舞う祭。

 トーキー渡来碑(リー・デ・フォーレスト博士の碑)
 境内にある石碑。トーキーとは画像に合わせて音の出る映画のことだ。映画は最初画像だけで、無
声映画といった。弁士という語り手が台詞をいったり、状況を説明無するのだ。それが、俳優自身が
台詞をいい、効果音やBGMが流れることとなったから、さぁ大変。ワンサカワンサカ観客が押し寄
せたのはいうまでもない。つまり今の映画は総てトーキーという訳だ。

   トーキー渡来碑
   リー・デ・フォーレスト博士
は、明治6年米国アイオワ州に生れ、無線電信電話の開拓者
   として三百有余の特許権を得、「ラジオの父」と仰がる。大正12年さらにトーキーを発
   明。紐育(ニューヨーク)市に於て上映、世人を驚かせ在り。大正13年故高峰譲吉博士
   の令息エヴエン氏来朝の際、余、親しくその詳細を聴きて将来に着目す。翌年渡来、博士
   の行為により東洋におけるトーキーの製作及び配給権を獲得したり。依て米人技師を帯同
   帰国。大正14年7月9日宮中に於て天皇皇后両陛下の天覧に供し、各宮電化の御覧を仰
   ぎたる後、一般に公開せり。トーキーの我が国に招来されたる、之を以て初めとす。
   以来余、我国におけるトーキーの製作を企図し、日本人技師をフォーレスト博士の許に派
   して技術を習得せしめ、余の渡米もまた前後九回に及べり。大正15年大森撮影所におい
   て撮影を開始し、ミナトーキーの名を冠して「黎明」「素襖落」「大尉の娘」等の劇映画
   を完成す。これ我国におけるトーキー製作の濫鬺なり。雨来トーキーは日進月歩、昭和3
   年の衆議院議員普通選挙には時の田中首相及び三土、山本、小川の各閣僚が自ら画中の人
   となりて政見を発表する等の普及発達をみたる外、ミナトーキーは上海を始め東洋各地に
   も大いに進出するに至れり。今やトーキー我国に渡来してより三十年を閲するも、フォー
   レスト博士の発明形式は依然として世界各国に踏襲さる。博士の業蹟、偉大なりというべ
   し。加うるに我国テレビジョンの発足もまた実に博士の力に依れり。昭和23年フォーレ
   スト博士は、極東軍総司令官マッカーサー元帥を介して日本におけるテレビジョンの創設
   を慫慂したり。余、正力松太郎氏にその意を伝う。正力氏夙にテレビジョンの創設に意あ
   り。フォーレスト博士の勧奨を機とし、氏独自の構想の下にテレビジョンの実現に努力し
   遂に昭和27年テレビジョン電波許可第一号を受け、日本テレビ放送網株式会社を創立し
   余もまた役員に加わる。翌昭和28年8月30日、日本における最初の電波を出せり。こ
   れ偏に正力氏の業蹟に依ると雖もまたフォーレスト博士の日本への友情に基くものという
   べく吾人の感謝措く能わざるところなり。
   今日トーキーの普及発達は実に目覚しく、テレビジョンの普及もまた瞠目に値す。フォー
   レスト博士の文化に貢献する処絶大なりというべし、茲に余の旧縁の地待乳山の名蹟をト
   して碑を建て、トーキー渡来の由来とテレビジョン創生の縁由を刻して博士の功績を讃え
   併せて報恩の微意を表す。
   昭和31年5月吉日                       建碑者 皆川芳造

 糸塚
 境内にある自然石の碑だ。寺の説明板は以下の通り。


   
糸塚
   十一世杵屋六左衛門(後に三世杵屋勘五郎)建立
   この糸塚は、元治元年(1864)十一世杵屋六左衛門が、父十世杵屋六左衛門の遺志に
   依り供養の為建立せるものにして十世六左衛門三世勘五郎共に長唄三絃の名人と云われた
   人である
   昭和63年4月                         六世杵屋勘五郎記

 待乳山稲荷
 本堂裏手左側にある。特に名前は付いてないのだが、道漢(道灌?)稲荷と呼んだこともあったと
いう。待乳山にあるお稲荷さんだ。社は重厚な石祠だ。

 聖天町の名所・史跡(案内板)
 境内にある。


   
聖天町の名所・史跡
   ㋑
待乳山聖天
   待乳山は推古三年(595)九月二十日頃、一夜にして出現した霊山で、その時に金龍が
   舞い降り、この山を守護したとされ、このことから金龍山と号した。推古九年(601)
   夏、この地方が大早魃に見舞われた際には、十一面観世音菩薩が大聖歓喜天とともにこの
   山に降り、民の苦悩を救ったとされている。
   ㋺
山谷堀公園
   もともとは音無川を水源に、飛鳥山の北側、王子権現の下を通じて墨田川に注ぐ水路だっ
   た。江戸の頃は、舟でこの水路を通って吉原に遊びに行くことが贅沢とされ、吉原に行く
   ことは別名〝山谷通い〟ともいった。昭和50年から埋め立てが始まり、昭和52年4月
   日に山谷堀公園として開園された。水路そのものは暗渠となっている。
   ㋩
池波正太郎生誕地碑
   大正12年1月25日~平成2年5月3日(満67歳没)。『鬼平犯科帳』『剣客商売』
   『仕掛人・藤枝梅安』『真田太平記』など戦後を代表する時代小説作家。旧東京市浅草区
   聖天町61番地(現在の台東区浅草7丁目3番地付近)に生まれ、待乳山や近くの今戸、
   橋場などを作品の舞台として描いている。平成19年11月、待乳山公園に生誕地碑が建
   立された。
   ㋥
葛飾北斎終焉地
   宝暦十年九月23日?(1760年10月31日?)~嘉永2年4月18日(1849年
   5月10日)。『富嶽三十六景』や『北斎漫画』などの代表作を持つ江戸後期を代表する
   浮世絵師。浅草聖天町遍照院境内(現在の浅草六丁目)の仮宅で、娘や門人、友人達に看
   取られながら息を引き取ったとされている。持世の句は「人魂で行く気散じゃ夏野原」。
   ㋭
金竜山下瓦町
   山谷堀を挟んで、南に浅草寺金龍山下瓦町、北に浅草今戸町があり、かつては今戸焼きの
   産地として瓦をはじめ焙烙、七厘、土鍋などの日用雑器が焼かれた。江戸名所図会には、
   「この辺、瓦師、陶器師ありて、これを生業とする家多し。世に今戸焼と称す。元禄二年
   (1689)七月三日、『墨田河紀行』土をこね瓦つくり並べてほしければ、やかぬまは
   露やいとはむ下瓦 杉風」とある。
   ㋬
猿若三座跡地
   天保の改革の際、風俗取締りのため、江戸市中に分散していた芝居類の興行物が浅草聖天
   町一郭に集合させて猿若町と名づけられた。今では芝居小屋の跡地に中村座・市村座・守
   田座(猿若三座)の跡の碑が残されている。


■池波正太郎生誕の地の碑

 待乳山聖天の裏口階段左手の植栽に建ててある。池波正太郎は、大正12年1月25碑旧東京市浅
草区聖天町61番地で誕生した。現在の東京都台東区浅草7丁目3番の辺りで、「待乳山聖天」の南
側に当たる。同年9月1日の関東大震災によりこの辺りは焼失し、生家は残されていないが、エッセ
イに「大川(隅田川)の水と待乳山聖天宮は、私の心のふるさとのようなものだ」と記し、作品には
待乳山や近くの今戸、橋場などをたびたび舞台として描いている。この碑は、平成19年11月に建
てられた。

   池波正太郎生誕の地

   作家・池波正太郎(1923~1990)は、大正12年旧東京市浅草区聖天町61番地
   に生まれました。
   この年の9月に関東大震災が起こり、生家は焼失してしまいましたが、その後も少年期・
   青年期を台東区で暮らしました。
   昭和35年「錯乱」で直木賞を受賞し、「鬼平犯科帳」「剣客商売」「仕掛人藤枝梅安」
   などの人気シリーズをはじめ、時代小説の傑作を次々と生み出し、この辺りも度々舞台と
   して描いています。
   「大川と待乳山聖天宮」というエッセイでは、「生家は跡形もないが、大川(隅田川)の水
   と待乳山聖天宮は私の心のふるさとのようなものだ」と記しています。
   生家は、待乳山聖天公園の南側(現台東区浅草7丁目3番付近)にありました。
   平成19年11月                             台東区

 旧町名由来案内板
 待乳山聖天の裏口階段左手の植栽に建ててある。

   旧町名由来案内
   下町まちしるべ
   旧
浅草聖天町・
浅草聖天横町
   本町の起立年代は不詳である。寛文図に「聖天丁」と記載があるので、かなり古く開かれ
   た町である。町名は町内に待乳山聖天宮があるのにちなんだ。聖天宮の正式な名称は本龍
   院といい、聖天宮は聖天を安置していることによる。金龍山あるいは待乳山と号し、浅草
   の子院である。
   待乳山は隅田川西側の小丘で、江戸時代から文人墨客に愛された景勝の地であった。聖天
   宮はこの待乳山の上にある。
   「浅草聖天町」昭和二十三年(一九四八)に浅草山川町、同金龍山下瓦町、同山ノ宿町の
   北隅を合して誕生した。
   「浅草聖天横町」は浅草聖天町の西側続地であり、まあ地の地形から横町とつけられた。
   起立年代は分からないが浅草聖天町よりやや遅れて出てきたのであろう。明治5年、浅草
   寺子院の遍照院を合併して町域を広げた。



■待乳山聖天公園

 浅草7丁目4番9号にある区立公園。


■聖天橋跡

 浅草7丁目9番と7番の間に親柱が残っている。山谷堀に架かる橋だった。 


■今戸橋跡

 浅草7丁目11番12号山谷堀公園角に親柱が残っている。かつては山谷堀に架かり奥州街道を通
していた。

 
方角オブジェ?
 橋跡から公園に入ったところに、サークルのベンチの中にコンクリート造りの四角い塔が建ててあ
る。十二支の漢字が四面と、サークルの各所に書いてある。方角を示すものなのか? 併しこんなと
ころで方角を示す必要はないだろうに。周りは緑に覆われているし・・・
 
 



【浅草橋】(あさくさばし)1~5丁目                昭和39年1月1日
 奥州道の西側。飯田藩堀家・平戸藩松浦家・与板藩井伊家・備中鴨方藩池田家の各上屋敷、羽後
久保田藩・羽前鶴岡酒井家の各下屋敷・測量所(天文台)などの幕府用地・五番組御徒大繩地など
旗本士宅・浅草元鳥越町・猿屋町・福富町・浅草御蔵前片町・浅草大王町・浅草瓦町一~二丁目・
浅草茅町一~二丁目・浅草福井町一~三丁目・浅草上平右衛門町外。明治5年大名屋敷・旗本士宅
等をあわせて一町とし俗称としてあった向柳原を正式に町名とした。同11年「郡区町村編制令に
より浅草区 昭和9年の茅町・上平右衛門町・下平右衛門町・福井町1~2丁目・榊町・須賀町・
新須賀町・新福井町・瓦町・向柳原町2丁目・猿屋町をあわせた町域を浅草橋13丁目とした。同
22年台東区に所属。同39年新住居表示により江戸通りから東側部分の浅草橋1~3丁目を柳橋
に譲り、浅草左衛門町、福井町三丁目・浅草餌取町・浅草向柳原町1~2丁目・浅草上平右衛門町
(残り)・浅草新福井町(残り)の全部、浅草蔵前1丁目・浅草鳥越1~2丁目の各一部をあわせた町
域を現行の「浅草橋」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『台東区史』『台東の歴史』など。

 浅草橋の由来
地理的には浅草とは直接関係ないように見えるが、橋の架る神田川は元は浅草川であり、川から北
は浅草と呼ばれていた地域だった。町名は浅草口に架けられた橋の意で、初めは現在の常盤橋(千
代田区)が浅草口の橋だった。浅草川が拡張され神田川となると浅草口から浅草・千住に向かう奥
州街道に「江戸城三十六見附」の一つとなる門と橋が設けられ、この橋が「浅草口の橋」となり、
その門は「浅草橋御門」と命名された。 「浅草橋は両国橋を拵えた橋だよ」と聞くとビックリす
る? 江戸最大の「明暦の大火」のときまだ新シ橋(美倉橋)も左衛門橋も架っていなかった。火
事が迫った小伝馬町の牢屋では囚人の生命の安全を慮って「解き放ち」を行ったのだが、その連絡
が門を守衛する役人には届かなかった。そこへどっと囚人たちがやってきたので門衛たちは囚人た
ちが混乱に乗じて逃亡してきたものと専断して門を閉じてしまった。この役人たちの律儀さが仇と
なって江戸市民は逃げ場を失い十万人もが焼死した。この役人たちが責任を取ったか取らされたか
は定かではない。この苦い経験に懲りた幕府は大川端には橋を架けない禁を解き、門のない「大橋」
を架けて避難路を確保した。その大橋は下総・武蔵両国に架るというので俗称で「両国橋」と呼ば
れ、新大橋が架けられるとそれが正式名称となった。
 


■マロニエの並木道

 浅草橋1・2・3丁目と4・5丁目の境を南北に走る左衛門橋通りにある。左衛門橋通りは、清洲
橋通りの東側に平行しており、並木道があるのは、蔵前橋通りと交わる鳥越2丁目交差点から総武線
ガード下(浅草橋西口)までの約300mの間で、マロニエの木が通りの両側に67本植えられてお
り、5月のゴールデンウィークに明るい淡紅色の花が見頃になる。
 マロニエの木が植えられたきっかけは、左衛門橋通りに面した旧柳北小学校校舎に、平成15年9
月にリセ・コレージュ・フランコ・ジャポネ(在日フランス人学校 中等科・高等科)が移転してく
ることになり、歓迎と友好の気持ちを表したいという浅草橋地区町会連合会など地元住民の要望によ
るものだ。区ではこの要望を受け、「特色ある街路樹、個性ある景観が創出できる樹種」「選定が年
一回で足りる樹種」「病害虫に強い樹種」にプラタナスやシダレヤナギなどの既存街路樹を植えかえ
る公園緑地課の樹種変更事業により、マロニエの木を植えた。
 「マロニエの花の下をリセの生徒さんたちがフランス語を話しながら通っていると、パリの街角の
ような感じでワクワクします。」と地元の人たちもマロニエの並木を楽しんでいる。
 


■浅草見附跡・浅草橋公園

 浅草橋1丁目1番15号の浅草橋西北の橋詰浅草橋公園内に石碑が立っている。

   浅草見附跡 

 神田川にかかる浅草橋は、江戸三十六見附の一つ浅草御門で見附門といわれ、寛永十三年(163
6)に開設された。江戸幕府は、主要交通路の重要な拠点に櫓、橋、門などを築き江戸城の警護をし
た。奥州.日光街道(現在の江戸通り)が通るこの地は、浅草観音への道筋にあたることから門は浅
草御門と呼ばれ、また警護の人を配置したことから浅草見附といわれた。神田川は江戸城の外堀を形
成しており、江戸城の警護をした。
 明暦の大火後、浅草の奥に新吉原が出来てからは、観音参りに加え吉原通いの遊冶郎達でこの往還
はさらに賑わった。吉原が盛んになると、この辺りから柳橋にかけては船宿ができ、吉原通いの基地
となり、猪牙(ちょき)舟などというイキな郭通いの舟が行き来した。
 明暦三年(1657)の振袖火事の際、囚人の逃走を防ぐため、浅草門警備の役人が門を閉ざした
ために一般市民の避難路が断たれ、ここで多くの溺死、焼死者を出した。それで両国橋が架けられる
ことになった。

 
旧町名由来案内
 園内トイレ前に川を背にして建ててある。

   旧町名由来案内
   下町まちしるべ
   旧
浅草橋
   浅草橋という町は昭和9年に茅町、上平右衛門町、下平右衛門町、福井町、榊町、新須賀
   町、新福井町、瓦町、須賀町、猿屋町、向柳原町がひとつになってできた。町名は神田川
   に架けられた橋の名にちなんでいる。
   江戸幕府は、主要交通の重要な地点に櫓・門・橋などを築き江戸城の警護をした。奥州街
   道が通るこの地は、浅草観音への道筋にあたることから気づかれた門は浅草御門と呼ばれ
   た。また警護の人を配置したことから浅草見附といわれた。
   ここ神田川にはじめて橋が架けられたのは寛永十三年(1636)のことである。浅草御
   門前であったことから浅草御門橋と呼ばれていたがいつしか「浅草橋」になった。
                                        台東区


■左衛門町児童遊園

 浅草橋1丁目3番8号にある区立公園。
 


■浅草橋駅

 浅草橋1丁目17番12号にあるJR総武線と都営浅草線の停車場。両線の接続駅であり、台東区
最南端の駅。JR東日本の総武本線支線(運転系統は中央・総武線各駅停車)の相対式2面2線の高
架駅。東西に出口があり都営地下鉄浅草線とは東口での乗り換えとなる。この駅より千葉方面は千葉
支社の管轄である。ゆるキャラ「駅長犬」がいる。
 開業以来エスカレーターとエレベーターは設置されておらず、車椅子利用者のために係員の付き添
いの下で利用できる階段昇降機が、東口側階段に設置されているだけだったが、平成28年3月26
日には西口改札とホームを結ぶエレベーターの使用が開始され、深夜及び早朝に閉鎖されていた西口
も終日営業となった。トイレは東口・西口とも改札内にある。自動改札機が設置されているが、東口
では隅田川花火大会が開催される日に、臨時で簡易Suica 改札機が設置される。

 都営浅草線は1面2線を有する地下駅である。ホーム階(地下2階)と改札階(地下1階)の間に
はエスカレーターとエレベーターが設置されている。コンコースにはだれでもトイレが設置されてい
る。また、A1出入口にはエレベーターも併設されている
 「雷門・浅草への最寄り駅は浅草駅です」という案内板がある。駅名標の下に「人形の久月総本店
前」の副名称板が設置された。エアポート特快は通常当駅を通過するが、隅田川花火大会が開催され
る日は臨時に停車する。


■福井尋常小学校 → 福井国民学校
 廃校

 浅草橋1丁目22番15号にあった区立校。明治36年「東京府東京市福井尋常小学校」として開
校。大正12年関東大震災により焼失。昭和4年復興校舎落成。同16年勅令148号国民学校令公
布により「東京府東京市福井国民学校」と改称。同18年都制施行により「東京都福井国民学校」と
改称。同20年3月愚かなアメリカ軍の非人道的無差別空爆により校舎焼失。同22年再興ならず、
跡地は福井中学校の校地に切り替えられ、廃校となる。
  


■福井中学校
 廃校

 浅草橋1丁目22番15号にあった区立校。昭和22年戦勝国アメリカの強制による学校教育法施
行(63制)により「東京都台東区立福井中学校」として開校。
 平成3年少子化による生徒減少のため廃校となり、蔵前中学校と統合して浅草中学校となった。跡
地は日本橋女学館の仮校舎となったり、進学塾に貸し出された後、平成23年6月までに解体、区は
旧福井中学校跡地活用事業者であるヒューリック株式会社と、旧福井中学校跡地を約50年に亘って
貸し出す、定期借地権設定契約を締結した。これによって、ヒューリック株式会社は、地域活性化施
設の新築工事に着工。施設のオープンは、平成25年2月予定。変換は平成76年(2064)。


■ヒーリック浅草橋ビル
 浅草橋1丁目22番15号福井中学校跡地にある民間会社。
 


■銀杏岡八幡神社

 浅草橋1丁目29番11号にある。社伝によれば、中世この辺は小高い丘で隅田川が一望できる絶
景の地だったため、康平五年(1062)源頼義・義家が安部貞任・宗任を平定するために奥州下向
の折、小休止の陣を張った。その時銀杏の枝が流れてきたので丘の上に挿して、

   難敵退治の暁には枝葉栄ふべし

 と勝利を祈念して旅立った。平定後の帰途、康平5年(1062)再びこの地を訪ねると果たして
銀杏の枝葉は大きく栄えていた。感激した義家は神恵に感謝し太刀一振を捧げ八幡神を勧請したとい
う古社なのだ。後にこの銀杏は大木となり、隅田川を上下する舟や街道を行き交う人々のよい目印と
なっていた。しかし延享二年(1745)台風のため中程のところで折れてしまったが、6mばかり
を残して繁茂していた。しかしそれも文化三年(1806)の江戸大火で焼失してしまった。
 現在境内に、往時には程遠いだろうが結構大きく育った銀杏の木が聳え、秋の落ち葉の時の鮮やか
な光景を示す。社殿はコンクリート造りの比較的新しい建物だ。
 この神社は、元和四年(1618)越前北庄藩68万石、菊池寛『忠直卿行状記』の松平忠直の時
代に拝領した屋敷地にあったので邸内社として祭祀した。同九年に(1623)忠直が不品行を理由
に隠居させられ北庄藩は終焉する。代わって越後高田より弟の忠昌が52万石で入り福井藩を創設し
たが、次の光通は自殺したので、弟の昌親が跡を継ぎ、嫡嗣は長兄昌勝の子綱昌と決められた。2年
で昌親は綱昌に譲るも綱昌は病弱で廃され、昌親が再知されるも25万石に減封され、並みの大名に
格下げになってしまった。享保十年(1725)その屋敷地が収公されて町屋となり、同十五年(1
730)、町奉行大岡越前守により福井町と命名され、願いによりこの神社は産土神として崇敬され
いるため残され、今日も篤く信仰されている。享保十五年(1730)、時の町奉行大岡越前守によ
りこの辺りは福井町と命名され、願いによりこの神社は産土神として崇敬された。

   銀杏岡八幡神社畧由緒
                             御祭神 誉田別命(応神天皇)
                                 武内宿祢命
                             御神徳 商売繁昌・学業成就
                                 健康長寿・家内安全
   御由緒 後冷泉天皇の御代。
   源頼義公、八幡太郎義家公は、朝廷の命に依り奥州の安部貞任、宗任を平定する為に奥州
   街道を下向の砌当地に至りました。当時このところは小高い丘で隅田川の流れを一望でき
   る絶景の場所であった。一休止のため陣をとりました時、川上より流れくるものを拾い上
   げてみますと銀杏の枝でありました。その枝をこの丘の上に差し立て都の氏神を遥かに拝
   み「朝敵退治のあかつきには枝葉栄ふべし」と祈願し旅立ち安部一族を平定の後、再びこ
   の地に帰り至りました時丘の上に差した銀杏の枝は大きく繁茂しておりましたので、義家
   公は御神恩に感謝し、この処に大刀一振を捧げ八幡宮を勧請いたしましたのが、康平五年
   (1062)当社の始と伝へられています。そしてこの銀杏は大樹となりまして、隅田川
   を上り下りする舟や街道を行き交う人々のよい目標となりましたが、時代は下り徳川家江
   戸入府後、元和四年(1618)この地は福井藩松平家の屋敷となり、邸内社として尊崇
   されてまいりましたが、享保十年(1725)この地が公収され屋敷の跡地は町屋となり
   同十五年、時の町奉行大岡越前守様に依り福井町と命名され、願いにより当社は地域の産
   土神として崇敬されてまいりました。大銀杏は延享二年(1745)九月十四日台風のた
   め中程より折れましたが、高さ6m位を残して繁茂しておりましたが、文化三年(180
   6)江戸大火の折焼失しました。
   御祭礼は、江戸時代八月十五日に執り行われていましたが、明治の中頃より六月十五日に
   かわり、現在は原則として六月第一土曜、日曜日に執り行っています。

 此葉稲荷神社・和合稲荷神社
 境内にある。

   此葉稲荷神社
   御祭神
   宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)
   この此葉稲荷神社の創建につきましては、詳らかではありませんが、古くから此の八幡様
   の境内にお祀りされておりました。稲荷の大神様は古来から衣食住をつかさどる神様とし
   て信仰を受けて参りました。現在では商売繁昌のご加護は元より、私共の普段の生活をお
   守り下さる神様として多くの方々より篤いご信仰を戴いており霊験灼たかなるお稲荷様で
   もあります。

 
御神木の碑
 参道左、社殿前にある。

   
御神木 明治神宮下附公孫樹移植記 昭和32年

 後は、名前が列記してある。 


■ビリケン ◇
 浅草橋1丁目31番4号大原第三ビル入口にある。雑居ビルで、台の部分に「テンテコマイ」とあ
り、看板に「大阪串かつ」とある。


■圓福殿弁財天 ◇
 浅草橋1丁目33番6号浅草橋シティハイツの弁天湯前にある小祠。戦前、町には小さな池とお不
動尊があった。弁天堂はその不動尊の脇にあり、弁天の縁日が行われていた。ところが、弁天堂は空
襲で燃えてなくなってしまった。戦後、老人が何処からか弁財天を持ち込んだ。テントで簡易的に弁
財天を祀り、縁日も復活した。しかし、今度は道路交通法により行き場がなくなってしまった。
 弁財天が先にあり、そのことが由来となって弁天湯になったのか、弁天湯が既にあり、水に関係の
ある弁財天を引き取ったかは定かではないが、弁天湯2代目店主は銭湯の入口に設置場を設け、行き
場のない弁天様を祀った。この頃、縁日は月に3回行われていた。
 昭和後期には、縁日がれてきたため、町の人々で弁天講を作り、当番で弁天様の面倒をみること
となった。お盆の7月15日には年に一度のお祭りも開かれた。祭では、婦人警官による交通安全指
導、花火の取り扱いについての紙芝居や手品などが行われた。土産には金魚、モナカアイス、お菓子
などが子供たちに配られた。現在は弁天講もれ、7月15日にお坊さんがお経を上げるだけとなっ
ている。
  


■福徳殿弁天
 浅草橋1丁目33番6号にある


佃煮の元祖 
 
■鮒佐本舗

 浅草橋2丁目1番9号にある佃煮屋。創業は下総国船橋の出身で、北辰一刀流の使い手大野佐吉
が、文久二年(1862)浅草瓦町、現在の浅草橋に店を構え、初代鮒屋佐吉を名乗った。当時は千
住の名物の『鮒のすずめ焼』を商いとしていたが、ある日佐吉が、隅田川河口に釣りに出かけた時に
暴風雨に遭い佃島に避難した。その時に漁師にご馳走になった「雑魚の塩煮」がとても美味だったの
で、それに
ヒントを得て独自な工夫の下に佃煮を考案し商いに加えた当時の「佃島の塩煮」という
ものは、漁師の保存食として、売り残った魚貝類を塩で煮るというものだったが、佐吉は、魚は魚・
貝は貝という様に品別に分けて、当時まだ高級であった醤油を初めて使用して煮るという斬新方法で
現在の佃煮の形を作った。
以来江戸の食通の間で、佃の佃煮とは一味違った佃煮として評判になり。
素材を厳選し旬を生かした佃煮を販売したって訳。

 文献によると、安政五年(1858)年に棒手振り(ぼてふり)の青柳才助によって、 佃島の塩煮
を「佃煮」と称して日本橋呉服町稲荷新道(いなりじんみち)において販売したのが初めといわれ、
鮒佐の佃煮販売はその4年後となる。佃の佃煮が、醤油味に代わるのはその後のことで、


   佃煮の名前の発祥は佃島佃煮の味の発祥は鮒佐

 ということになるんだって、知ってた? 
 だから安政以前の江戸時代には「佃煮はなかった」ってことよ。現在も初代佐吉のモットーである
『 家業に誠実たれ 』を守り、 製造方法も昔と変わらず燃料に薪を使用し、職人に頼ることなく主人
自らが釜前に立っている。そして鮒佐では、初代「佐吉」の名を代々戸籍上襲名をし、現在五代目(未
襲名)が頑張ってるよ。日本橋鮒佐は戦後の分家だそうだ。
 味については、浅草橋が一子相伝の醤油味に対して、「日本橋鮒佐」は砂糖をいれるので甘辛い、
好き嫌いは一概にいえないが、江戸の古い人は浅草橋を好み、地方から来た人は日本橋を好む傾向に
あるようだ。何様浅草橋の味は浅草橋でしか購えないが、日本橋の味はデパートで買える手軽さがあ
る。ある人は「浅草橋は茶漬け、日本橋はおにぎり」に合うという。
 種類は、穴子・昆布・しらす・あさり・海老・牛蒡・小はぜの7品。詰め合わせは穴子を除く6品、
小はぜは季節があるので季節限定となる。まあ本物嗜好人向きの味だ。

 〔参考〕
 佃煮創業の碑(茨城県行方市粗毛 なめがたしほぼけ)
 JR鹿島線の潮来駅から北西に6km。国道355号に面して上羽神社があり,入口の鳥居と社殿
の中間、社殿に向って左側に「佃煮創業記」と刻まれた背の高い石碑が建っている。ここ粗毛の奥村
吉郎兵衛は、明治初期に東京佃島に出て佃煮の製法を学び、郷里に戻って霞ヶ浦で獲れる〝ハゼ〟な
どで佃煮製造を試みた。江戸の佃煮が海の小魚で作られたのに対して、吉郎兵衛は、それま肥料にし
かならなかった霞ヶ浦の淡水魚を使って新しい食品として加工することに成功した。明治10年に西
南の役が起ると、軍用の食料が腐敗する中で吉郎兵衛の佃煮だけは味が変ることがないため脚光を浴
び、その後も佃煮製造は周辺地域に広まり産業として定着し発展した。上羽神社に建つこの碑は,霞
ヶ浦・北浦沿岸における佃煮の創業者である奥村吉郎兵衛を讃える顕彰碑で、明治34年に建立され
た。碑文は長ったらしい漢文。旧麻生町の説明板が語る。

   
羽神社と佃煮創業の碑
   大巳貴生命と倉稲魂生命のニ柱を御祭神とする上羽神社と稲荷神社の両社が、拝殿の奥に
   全く同一の神殿様式で並び祀られている。創祀は明らかでないが、大正元年、村社になっ
   た。二月初午の日に「おかけ講」が行われ、十一月三日には例祭が行われている。
   境内には、明治三十四年建立の、霞ヶ浦、北浦沿岸における佃煮創業者である奥村吉郎兵
   衛をたたえる碑などがある。吉郎兵衛はここ粗毛(ほぼけ)の人で明治初期,東京にでて
   佃煮製法を学び、郷里に帰り、奥村謙蔵の協力を得て「ハゼ」の佃煮製造を試み、これに
   成功した。明治十年、西南の役が起こると将兵の食糧として脚光を浴び、その後,佃煮製
   造は周辺に広まり産業として定着し発展した。                麻生町


 行方市は平成17年9月2日麻生町・大浦町・玉造町が合併して成立した。市名は郡名による。   


■扇稲荷神社 ◇
 浅草橋2丁目7番6号にある小祠。

   當社正一位扇稲荷神社は桑名藩松平家の江戸屋敷(上屋敷、中屋敷、下屋敷)の邸内に鎮
   座してありたりところ、明治戊辰の事変により皆天朝に収められた其の後更に今の新福井
   町の邸を下賜わせられし時旧邸にありし稲荷社を新邸に移されたものなり。新福井町松平
   家新邸は元久保田藩佐竹の旧邸地なり。大正12年9月1日関東大震災で社殿及び御神体
   までも焼失せり。たとえ御神体は焼失すとも御神霊は消滅するものにあらずと、昭和6年
   奉齋並びに敬神の念篤き睦会により再建し現在に至る。
   御加護 火防、家内安全、商売繁昌                      以上
   昭和56年9月13日                      扇稲荷神社奉賛会
 


ntinite tone ✔
 浅草橋2丁目8番3号メゾンドやなきにある「無限の石」。

   Intinite Stone
   無限の石
   井上 獎



中央図書館浅草橋分室
 浅草橋2丁目8番7号の浅草橋区民館の2・3階にある区立図書館。
  


■向柳原児童遊園

 浅草橋2丁目23番4号にある区立公園。


■23区最古の育英小学校 閉校 →台東育英小学校

 浅草橋2丁目26番8号にあった区立校。明治2年3月明治新政府は、幕府、藩による政治体制に
代わる新しい日本の構築に当たって、国民全体の教育の推進を図るため、小学校の設置を定め東京に
六つの小学校を設立することを発布。その一つが翌年西福寺境内に設立された「仮小学第四校」で、
現在の台東育英小学校の前身だ。旧大名、旗本の師弟たちが入学した。同5年8月の学制発布に先立
つ3ヶ月前で、東京で最も早い公立小学校の一つだ。同6年「新堀学校」と呼ばれ、のちに「松前学
校」と改められ、明治11年8月「育英小学校」と改称し、現在地に移った。

   明治三年六月八日付府達
   兼テ御布告之通(明治二年三月布告)小学開業相成候間、左之日割之通相心得幼年生徒有
   志輩 朝五ツヨリ出席可致候事
   六小学校中第五校トシテ六月二十三日  浅草南元町二二番地 新堀、西福寺


 この太政官布告により幼年生徒有志輩は入学するのが建前となり、今までの寺子屋教育は廃止され
て秩序ある初等教育が始められた。当時の校長は幕府の目付役佐々木支陰、生徒数約800名といわ
れる。日本で小学校が初めて出来たのが京都での明治2年、東京では、翌3年の六校が最も古いもの
で、現在特別区内では育英小学校が最古だ。
 同6年5月第五中学一番小学と改称。児童数約20名。授業料は月5銭から最高50銭(米1升が
7銭の時代)だった。この頃の学区の様子は、

   蔵前辺に多くの華士族が居住され、柳橋二丁目から蔵前三丁目にかけての河岸から電車通
   りに浅草御蔵があり、その南には本多中務大輔、松平伊賀守、現在の電車通りを入る西に
   入ると池田内匠頭・・・、その他旗本屋敷もあった関係で、子弟教育の為西福寺に学校が
   開設されたのが、育英に起こりと聞いており、(中略)学校裏を流れる小川は、不忍池か
   ら三味線堀甚内橋から稲荷橋、天王橋下を流れて大川に注いでおる


 とある。明治7年第五中学区一番小学校松前校と改称され、第五六区柳原一丁目四番地に校舎落成
移転。同11年公立育英小学校と改称。「すぐれた人を育てる」という意味から校名が付けられた。
明治12年浅草猿屋町12番地に移転し、1月15日に開校式が挙行され以後この日が昭和45年6
月まで、開校記念日となった。同18年現在地(当時の浅草猿屋町17番地)に移転、煉瓦造りで屋
上に木造2階建てが作られた和洋折衷の建物だった。同21年煉瓦建4教室が増築される。児童数5
00名。同23年「東京市育英尋常小学校」と改称。10月「教育勅語」が発布され、日本の公立学
校の全ての教育を規制することになった。同36年「小学校の教科書は文部省に於いて著作権を有す
るものたるべし」と規定され、以後太平洋戦争後まで、教科書の国定化が続く。大正3年木造3階建
て校舎落成する。同12年9月関東大震災で校舎焼失。昭和3年7月現校舎落成。同9年創立65周
年記念式典挙行。児童数1042名。同16年勅令148号国民学校令により「東京府東京市育英国
民学校」と改称、同18年都制施行により「東京都育英国民学校」と改称。同19年8月児童350
名が宮城県刈田郡宮村字遠刈田温泉に学童疎開。同20年3月疎開先から帰京したその夜、東京大空
襲に遭う。そして敗戦。
 同21年戦勝国アメリカの強制による地方自治法・学校教育法施行のため「東京都台東区立育英小
学校」と改称。翌年東京都「国語教育研究指定校」を受ける。同23年これまでの「父兄会」を改め
て「育英小学校PTA(parent-teacher association)」がアメリカの指令により発足する。同24
年1月15日校歌制定。

 校歌
「春はうららかに」 作詞・土岐善麿  作曲・堀内敬三
   春はうららかに 秋は清く
   さくらも咲くよ 菊もかおるよ
   ああ花が 都会の庭に
   開くよう世界の内に
   育英 育英 力をあわせ
   文化の国を作ろうよ


 同25年文部省の「国語教育実験校」に指定され「国語の育英」として全国的に有名になる。同3
4年創立90周年記念事業として、講堂、給食室の改修が行われ、10月には台東区小学校科学教育
センターが設置された。同39年視聴覚教育充実のため全教室にテレビを設置。同45年長い間開校
記念日としてきた1月15日を史実に基づき6月23日と改正。同53年校舎改築が決定。同55年
に解体工事が始まるが新校舎落成までの間は精華公園にプレハブの仮校舎を建て授業。同56年3月
新校舎落成移転。敷地面積3828㎡、延床面積5111㎡。鉄筋5階建て(5階はプール)。平成
12年創立130周年。同13年4月柳北小学校と統合して台東育英小学校となった。
  


■台東育英小学校

 浅草橋2丁目26番8号にある区立校。平成13年柳北小学校と育英小学校が統合して開校。初め
校地を柳北小学校跡地とし、同14年校歌・校旗制定。

 校歌
江戸の香りが 作詞・きたひろし  作曲・服部公一
  1.江戸の香りが満ちている
    この町に学ぶ喜ぶ
    嬉しい時には肩を組み
    悲しい時にも胸を張る
    隅田川の流れのように
    豊かに育つ僕たち私たち
  2.夜空を照らす大花火
    宇宙目指して上ってく
    夢を大きく膨らませ
    明日を見つめて伸びる命
    隅田川の流れのように
    豊かに育つ僕たち私たち


 同15年育英小学校跡地に新校舎が完成して移転。同17年金管バンドがマーチングフェスティバ
ル2005(有明コロシアム)で銀賞受賞。同18年金管バンドがマーチングフェスティバル200
6(有明コロシアム)にて金賞受賞。創立50周年記念式典。同19年金管バンドがマーチングフェ
スティバル2007(有明コロシアム)にて金賞受賞、全国大会(大阪城ホール)に出場。
  


■蔵前閻魔堂跡の碑

 浅草橋2丁目28番14号玩具会館の入口脇の植え込みにある。昭和44年地元のおもちゃ研究家
山田徳兵衛が中心になって建立した。かつてあった堂に安置されていたのは運慶作の1丈6尺の閻魔
像で、寛文11年(1671)版の絵図に記載があるので、それ以前に遡る。しかし大正12年の関
東大震災で焼けてしまった。

   
閻魔堂跡  


■須賀神社

 浅草橋2丁目29番16号にある大社。推古天皇期(紀元600年頃)の創建という。須賀神社は
江戸時代には牛頭天王社、蔵前天皇社、祇園社とも呼ばれ、笹団子天王社とも呼ばれていた。

 縁起書によると、昔この辺りの農家の娘が12歳になった夏、大変暑く、疫病が大流行して、その
娘も病に罹ってしまった。両親は何とかして病を治そうと、この天王様に願をかけ、21日を経て、
病が全快した。両親は大変喜び、早速笹に娘の年の数と、1年の月の数を合わせた数だけ、団子を刺
して、御礼のしるしにと6月8日例大祭の日に天王様のご神前にお供えしました。それ以来、心願成
就とくに病気平癒のお参りが大変多くなったとか。

   須賀神社
   須賀神社は江戸時代には牛頭天王社、蔵前天皇社、祇園社とも呼ばれておりましたが、笹
   団子天王社とも呼ばれておりました。
   御縁起書によりますと、昔この辺りの農家の娘が12歳になった夏、大変暑く、疫病が大流
   行して、その娘も病にかかってしまいました。両親は何とかして病を治そうと、この天王
   様に願をかけ、21日を経て、病が全快しました。
   両親は大変喜び、早速笹に娘の年の数と、1年の月の数を合わせた数だけ、団子を刺して
   御礼のしるしにと6月8日例大祭の日に天王様のご神前にお供えしました。
   それ以来、心願成就とくに病気平癒のお参りが大変多くなりました。
  


■甚内神社

 浅草橋3丁目11番5号にある小社。大悪党向坂甚内は、オコリ(瘧 マラリヤ病)のために幕吏
に捕らえられ、最後は鳥越刑場の露と消えた。その時「オコリに苦しむ者は、我を念ぜよ」といった
ということから、この橋の辺りにあった小出兵庫という人の屋敷に甚内稲荷として祀られた。オコリ
など、病気を治す神様として信仰を集めた。向坂は、高坂、匂坂、向崎

   甚内神社                        浅草橋3丁目11番5号
    当社は「甚内霊神」の名で、江戸時代初期に創建された。
   伝承によれば、甚内は武田家の家臣高坂弾正の子で、主家滅亡後、祖父に伴われ諸国を行
   脚するうち宮本武蔵に見出されて剣を学び奥義を極めた。武田家の再興を図り、開府早々
   の江戸市中幕を乱したため、瘧(マラリヤ)に苦しんでいたところを幕府に捕らえられた。
   鳥越の刑場で処刑されるとき、「我瘧病にあらずば、何を召し捕れん。我ながく魂魄を留
   め、瘧に悩む人もし我を念ぜば平癒なさしめん」といったことから、病の治癒を祈る人々
   の信仰を集めたという。8月12日の命日は、多くの人で賑わっている。
    かつて鳥越川に架かる橋の一つ「甚内橋」の名も付近に甚内神社があったからだといわ
   れる。鳥越川は、今は暗渠となり橋もなくなったが、その名は「甚内橋遺跡」(浅草橋3
   丁目13番4号)の小碑に残されている。関東大震災まで浅草消防署の付近にあったが焼
   失。その後、昭和5年現在地に移された。
   平成7年3月                          台東区教育委員会
   
JINNAI SHRINE
   Jinnai Shrine was built at the beginning of the 17th century. Legend has it
    that a person called Jinnai, who learned sword-fighting from Miyamoto Musash
   i, was accused of breaching public order and sentenced to death.
   He contracted malaria, and later while in prison awaiting execution, he proclai
   med that he would cure people with malaria if they prayed to him. Many people 
   believed him-even years later.
 


■甚内橋遺跡

 浅草橋3丁目13番4号、ふとんのタケノウチの角にある小さな石碑。はじめ道路脇に建っていた
が、最近黒御影に新調されて建物角に建っている。前のはどこへ行った?

 
甚内橋

 碑のある十字路のところを東西に流れていた鳥越川に南北にかかっていた橋。鳥越川は、不忍池か
ら東に流れ三味線堀に落ちた忍川の末流で、三味線堀から隅田川に注ぐ川をいった。今の蔵前通りと
並行して流れていたのだ。橋の名の起こりは、この橋の近くにある向坂甚内を祀る甚内神社に因む。

 向坂甚内
 吉原開基に功のあった庄内甚内(後に甚右衛門)、大泥棒の飛沢甚内(捕らえられた後、大久保彦
左衛門の命乞いで死罪を免れ、身持ちを改め富沢と改名。日本橋富沢町の名の由来となった)ととも
に日本三甚内の一人。いずれも悪名高き者達であるが、中でも向坂は大悪人だった。彼は、寛文年間
(1661~72)に宮本武蔵の高弟であったが、ある夜生き胴を試みて飛脚を斬り、たまたま50
両の大金を手に入れた。それからは辻斬りを重ねたため武蔵から破門になり、盗賊の首領となった。
 


■加賀美久米森稲荷神社 ◇

 浅草橋3丁目16番8号にある小社。


■天文台跡

 浅草橋3丁目20番11号先の、蔵前橋一丁目交差点に面した歩道上に説明板が建ててある。

   天文台跡                          台東区浅草橋3丁目
   この地点から西側、通りを一本隔てた区画(浅草橋3丁目21・22・23・24番の全
   域及び19・25・26番の一部)には、江戸時代後期に、幕府の天文・暦術・測量・地
   誌編纂・洋書翻訳などを行う施設として、天文台がおかれていた。
   天文台は、司天台(してんだい)、浅草天文台などと呼ばれ、天明二年(1782)牛込
   藁店(わらだな 新宿区袋町)から移転、新築された。正式の名を「頒暦所御用屋敷」と
   いう。その名の通り、本来は暦を作る役所「天文方」の施設であり、正確な暦を作るため
   には観測を行う天文台が必要であった。
   その規模は、「司天台の記」という史料によると、周囲約93.6m、高さ約9.3mの築
   山の上に、約5.5m四方の天文台が築かれ、43段の石段があった。また、別の史料「寛
   政暦書」では、石段は2ヶ所に設けられ、各50段あり、築山の高さは9mだったという。
   幕末に活躍した浮世絵師、葛飾北斎の「富獄百景」の内、「鳥越の不二」には、背景に富
   士山を、手前に天体の位置を測定する器具「渾天儀(こんてんぎ)」を据えた浅草天文台
   が描かれている。
    ここ浅草の天文台は、天文方高橋至時(よしとき)らが寛政の改歴に際して、観測した
   場所であり、至時の弟子には、伊能忠敬がいる。忠敬は、全国の測量を開始する以前に、
   深川の自宅からこの天文台までの方位と距離を測り、井戸一分の長さを求めようとした。
   また、至時の死後、父の跡を継いだ景保の進言により、文化八年(1811)天文方内に
   「蕃書和解御用」という外国語の翻訳局が設置された。これは後に、洋学所、蕃書調所、
   開成所、開成学校、大学南校と変遷を経て、現在の東京大学へ移っていった機関である。
   天文台は、天保十三年(1842)九段坂上(千代田区九段北)にも建てられたが、両方
   とも、明治2年に新政府によって廃止された。
   平成11年3月                         台東区教育委員会
 


■メタセコイヤ

 浅草橋3丁目20番18号第八菊星タワービル前にある「生きている化石」樹木。和名を「あけぼ
の杉」という「メタセコイヤ」は、百万年前からこの地球に存在し、現在では「生きた化石」ともい
われている。寿命が尽きるその瞬間まで成長し続けるといわれ、両手を広げるように天高く真っすぐ
に成長する様は、力強い生命力、永遠の向上心、素直な心などを教えてくれる。菊星の社屋落成時に
永遠の発展の願いを込めて植樹されたというメタセコイヤの現在の高さは25m。ビル8階の高さに
相当し、都内でも最大級の大きさを誇る。


■旧町名由来案内板

 浅草橋3丁目31番5号先の歩道橋に建ててある。

   旧町名由来案内板
   下町まちしるべ
   旧
淺草鳥越二丁目
   本町名は、鳥越神社にちなんで付けられた。この付近は平安時代後期の頃(1185)ま
   で白鳥村とよばれていた。日本武尊が東国平定のため東征するおり、この地にしばらくと
   どまったことから村の人々はそのご威徳を慕い尊び、白雉二年(651)白鳥山の山上に
   白鳥大明神を祀った。その後、永承(1046~1053)の頃、源義家親子の率いる軍
   勢が奥州征伐のため大川を越えようとするとき、白い鳥に浅瀬を教えてもらい無事渡るこ
   とができた。頼家公はこれ白鳥大明神のご加護を讃え、鳥越大明神の社号を奉った。
   「鳥越夜祭り」
   六月九日に近い日曜日に鳥越神社の「千貫御神輿」が氏子によって町内を練り歩く。なか
   でも見ものは宵の宮入である。火入れ式のあと氏子集によってかかげられた百十の高張提
   灯と担ぎ手の熱気によって祭りは最高潮に達する。


■交通事故 力士負傷

 浅草橋3丁目33番7号の浅草橋三丁目交差点中村不動産前で起きた事故。平成28年6月5日1
3時過ぎ、乗用車とワンボックスカーが接触、弾みでワンボックスカーは常夜灯信号機の柱に激突大
破して停まった。乗っていた大相撲・千賀ノ浦部屋の19歳から39歳の力士3人と行司の合わせて
4人、また、乗用車に乗っていた54歳の女性が怪我をした。運転していた行事と助手席に乗ってい
た20代の力士が重傷。これまでの調べで、2台は並行して走っていたとみられ、警視庁は、接触し
た原因など当時の状況を調べている。千賀ノ浦部屋は台東区橋場にある相撲部屋で、元幕内の舛ノ山
など12人の力士が所属している。


■幕府医学館跡
(旧躋寿館跡)

 浅草橋4丁目16番8号に区の説明板がある。医学館は、浅草橋4丁目14~17番にあった。明
和二年(1765)幕府の許可を得て、奥医師多紀元孝が神田佐久間町に医学館を建設し「躋寿館」
(せいじゅかん)と称えた。医学館は医師の子弟は勿論、広く一般の子弟にも門戸を開いた。同九年
(1772)の火災で焼失、天明六年(1786)再建、寛政三年(1791)正式に幕府の官学校
として認可、館長を多紀氏の世襲にした。しかし文化三年(1806)三月再度焼失。同年4月向柳
原の当地にへ移転再建決定。かくして医学館は、進出著しい蘭方に対する漢方巻き返しの拠点として
期待されたが、考証派の学問は科学性に欠けるために、明治元年新政府に接収され種痘館と改称し、
医学校に吸収され廃絶した。医学校は、安政五年(1858)に伊東玄朴らが作ったお玉が池種痘所
に始まり、万延元年(1860)幕府の西洋医学校となり西洋医学所と称え、文久二年(1862)
医学所、明治元年医学校となって、翌年東京大学の前身の大学校に併合された。医学館は東京大学医
学部の前身ともいうべき由緒を持つが、碑はなく区の説明板があるのみだ。明治9年から大正2年ま
で柳北小学校の校地だった。

   医学館(旧躋寿館跡)いがくかんあと・きゅうせいじゅかんあと)   都指定旧跡
                               台東区浅草橋4丁目16番
   江戸幕府唯一の医学専門学校、医学館が清洲橋通りのこの地にあった。明和二年(176
   5)幕府医師多紀元孝が医師(漢方医)の教育のため、神田佐久間町に建てた私塾躋寿館
   から出発、寛政三年(1791)に幕府が医師養成の重要性を認めて官立とし、医学館と
   改称、規模を拡大した。文化三年(1806)三月大火に遭い焼失、同年四月に、前方の
   旧向柳原一丁目に移転、再建された。敷地7000㎡、代々多紀家がその監督にあたり、
   天保十四年(1843)には寄宿舎をを設け、全寮制とし広く一般からも入学を許可し、
   子弟養成を図るなど、江戸時代後期から明治維新に至る日本の医学振興に貢献した。
   平成7年3月                          台東区教育委員会
   
RUINS OF IGAKUKAN AND SEIJUKAN
   (Metropolitan Historical Site)
   This was the site of "
IGAKUKAN",the only medical school of the Shogunate G
   overnment installed at Edo. It was formerly a private medical school called
SE
   IJUKAN
   SEIJUKAN was founded by Taki Genko a Kanda Sakuma-cho to train physicians
    in the art of Chinese Government. The schoolburned down in March
1806.In
   the same year it was moved to this site of
7000㎡ and reconstructed. The scho
   ol was supervised by the Taki family and greatly contributed to Japanese medic
   al development during the latter Edo period until Meiji Restorarion. 
 


■蓬莱園跡

 浅草橋5丁目1番の忍岡高校の校庭辺りにあった肥前平戸藩松浦家上屋敷の庭園。寛永九年(16
32)幕府から屋敷地を与えられた際、藩主隆信が、僧江月、小堀遠州政一らに設計させた回遊式庭
園だ。はじめ「向東庵」と称し、天保五年(1834)藩主煕(ひろし)の命で、歌人橘守部が撰し
て「蓬莱園」と名づけ、園中三十六景を定めたという。大部分が池で鳥越川から水を引いて潮水池と
し、池中に蓬莱島を築いた。回遊すると正に中国の仙境をさ迷うが如くであったという。関東大震災
で壊滅し、池は埋め立てられた。往時の面影は校庭に僅かに残され、天然記念物の大銀杏は、高さ17.
7m、幹囲4.8mを越える。他の樹木を圧する高さとその姿の秀麗さで「東京都の木」に指定されて
いる。「蓬莱園跡」の碑が学校西の黒門脇に建てられている。

   蓬莱園跡                     台東区浅草橋5丁目1番20号
   現在、都立忍岡高等学校・柳北公園・柳北小学校のある一帯に、江戸時代肥前国(佐賀県
   ・長崎県)平戸藩主松浦氏の屋敷があった。寛永九年(1632)松浦氏は、幕府からこ
   の地を与えられ、別邸を造営し、庭園を造営し、庭園を築造した。庭園はのち蓬莱園と命
   名された。
    明治40年(1907)刊行の『東京案内』には、「文化文政の頃の築造に係り、東京
   の名園中、現存するものの一也」と記されている。園内の模様は大正3年(1914)刊
   行の『浅草区誌』に詳しい。同書によると、大池を中心に、岡を築き、樹木を植え、東屋
   を建て、13基余の燈籠を配し、園内各所に雅趣ある名称を付した。面積は二千六百坪に
   及び池水は鳥越川から取り入れていた。
    この名園も、関東大震災のため荒廃し、消滅した。現在は忍岡高等学校グランド東北隅
   に、池の一部と都天然記念物指定の大イチョウを残すのみである。
   平成7年3月                
           台東区教育委員会
   
REMAIS OF HORAIEN
   Here stood the residence of the Matsura family and a huge garden called Horai
   en. The Matsuras were feudal lords of the Hirodo Clan(part of Saga and Na
   gasaki prefectures). Horaien was a beautiful Japanese garden, the area of whic
   h was about
8580㎡. It had a big pond in the centre and the pond was surrounded
    with hillocks, an arbour, and about thirteen stone lanterns. This beautiful ga
   rden was destroyed in the Great Kanto Earthquake of
1923.A part of the pond
    and a tall gingko tree (a cosmopolitan natural monument)still exist in the nor
   theastern corner of the playground of the Shinobugaoka High School. 
 


■忍岡高等学校

 浅草橋5丁目1番24号にある都立高。明治36年「私立日本美術学校」として、芝公園の旧弥生
館に創設。同39年3月本郷区千駄木町173番地に移転。
同11月下谷区初音町4丁目20番地日
本美術院跡に移転。同42年「私立日本女子技芸学校」と改称。同44年東京市に移管。「東京市立
第一女子技芸学校」として開校(本校設立)。同45年「東京市立第一実科高等女学校」と改称。修
業年限4年。生徒定員200名。
 大正5年下谷区池ノ端茅町2丁目38番地忍岡尋常小学校跡に移転。同6年定員400名、募集人
員毎年100名とする。同10年補習科(定員50名)付設。同14年本科生徒定員600名、毎年
募集100名とする。
 昭和3年校歌制定(作詞・佐々木信綱 作曲・信時潔)。同4年「東京市立忍岡高等女学校」と改
称。同10年修業年限5年。生徒定員1000名。募集定員毎年200名。同15年浅草区浅草向柳
原町2丁目12番地(現在地)蓬莱園跡に移転。同18年修業年限4年とする。都制施行により「東
京都立忍岡高等女学校」と改称。
 同21年修業年限5年とする。同22年専攻科(定員50名)・新制中学校を併設、高等女学校の
募集停止。同23年「東京都立忍岡新制高等学校」と改称。同24年男女共学化。同25年「東京都
立忍岡高等学校」と改称。専攻科廃止。同26年創立40周年記念式典。同27年校歌制定

 校歌「
桜咲く春は」 作詞・土岐善麿  作曲・石桁真礼生
  1.桜咲く春は上野の山風霞み
    月澄む秋は隅田の川浪清し

    天地の間に人正しく
    文化の道広く開けて
    都会に学ぶ吾等の上に
    見ずや希望の空高し
  2.蓬莱の鶴よ何処ぞ池水湛え
    渦巻く緑 眩し公孫樹の若葉
    新たに平和と自由のため

    友情この梅と薫れば
    時代を担う吾等の誇り
    斯くて世界の前に立つ
    歴史に栄ゆる忍岡
    高校の名に挙るべし

 同31年創立45周年記念式典。同36年第1期鉄筋コンクリート
造り校舎落成。創立50周年記念式典。同37年第2期~同40年第5期鉄筋コンクリート造り校舎
落成。各学年(男・女各175名 21学級達成)。同41年第6期鉄筋コンクリート造り校舎落成
同43年体育館完成。同45年講堂内装改修。同46年創立60周年記念式典。同51年創立65周
年記念式典。同56年創立70周年記念式典。同58年増築。同61年増築。格闘技棟完成。創立7
5周年記念式典。
 平成3年創立80周年記念式典。同5年18学級に減少。同10年15学級に減少。同13年14
学級に減少。創立90周年記念式典。同14年13学級に減少。同15年校舎大改修のため、墨田区
堤通2丁目15番14号墨田川高校堤校舎跡に移転。12学級に減少。同16年8学級に減少。同1
7年4学級に減少。同18年大改修完了し帰校。普通科4学級(募集160名)、生活科学科2学級
(募集70名)の全日制単位制高校として再開校。上野にある上野忍岡高校と混同されるが、同19
年同校も閉校し、新しい忍岡高校に吸収した。
  


■柳北公園

 浅草橋5丁目1番35号、忍岡高校とフレンチスクールの間にある区立公園。訪れると、モミジと
カキの木があることに気づくだろう。

 
モミジ

 平成16年公園の南側に引っ越してきたフレンチスクール「東京リセ・コレージュ・フランコ柳北
校」の生徒らが、日本と仲良しになれるようにと苗木を植樹したものだ。大きくなったモミジの新緑
は心を洗われるような「黄緑色」だよ。

 柿の木
 モミジの隣には「被爆した柿の木2世」がある。この木は長崎の爆心地からわずか900mの地点
で被爆し、奇跡的に生き延びた1本の柿の木の種から育てたものなのだ。この柿の木の苗木は、平成
8年に柳北小学校に植樹されたが、その後小学校の統廃合のため、隣接する柳北公園に移植された。

 チャンチンの木
 広場の中央に高さ6m位の大木が聳えているが、新緑の頃に赤い葉をつける。青空に映える柔らか
そうな赤い若葉は、植物の命を感じるが、この季節に「なんで紅葉?」と不思議に思われている。
の木は、センダン科のチャンチンという珍しい樹だ。「香椿」と書き、この漢字の中国読みが樹名に
なった。幹や花に独特の香りがあるので〝香る椿〟と名づけられたという。中国原産で日本には江戸
時代に渡来した。中国では日本でいう「椿」を「山茶」と書き、「椿」という字はチャンチンを意味す
る。因みに日本ではサザンカを「山茶花」と書くが、中国ではサザンカも「山茶」と書くそうだ。チャ
ンチンの園芸品種に「フラミンゴ」という品種があるが、まさにいい得て妙、芽生えの紅色を表現し
た素晴らしい命名だ。
 ところで、なぜ赤い新芽が出るのか? それは、若葉が赤いのはまだ弱い葉の組織を紫外線から守
るためだとされている。葉は5月初旬まで赤い色だが、やがて緑色に美しく変化する。そして6月か
ら7月頃に沢山の小さな白い花をつける。秋にはまた美しく紅葉するよ。
  


■柳北小学校 
閉校

 浅草橋5丁目1番35号にあった区立校。リセ・コレージュ・フランコ柳北校と柳北スポーツプラ
ザのところにあった。平成13年育英小学校と統合して台東育英小学校となった。
 明治9年柳北女子小学校といい、松前学校から分かれた女子だけの第5中学区第14番公立小学校
柳北女子として開校した。当時は男と女は別にという考え方だったため、男女共学の小学校でも男組、
女組と分けるのが普通だった。校地も今の柳北小学校のところではなく、美倉橋通りと福井町通りの
交叉する角地(浅草区第5区第2小区向柳原1丁目甲4番地→浅草橋4丁目16番)にあった。元の
松前学校の隣で、医学館の跡だ。同20年「柳北女子尋常高等小学校」と改称。同41年「柳北尋常
小学校」と改称。同43年4年制から6年制に移行した時、共学になった。大正2年全校舎の改築落
成。震災後、松浦屋敷の一部を買って鉄筋コンクリート3階建てで新築移転(最終地)。この一画は
以前は松浦邸の馬場だったところで、乗馬の稽古をしたり、流鏑馬(やぶさめ)をやったりしていた。
通学服はみんな和服に袴で、ズックの鞄を肩からさげて下駄履きだった。学校へ着くと上履きと履き
替える。始業になると小使いさんがチリンチリンと鈴を振って合図をしていた。昭和16年国民学校
令により「東京府東京市柳北国民学校」と改称。同18年都制の施行により「東京都柳北国民学校」
と改称。同22年「台東区立柳北小学校」と改称。同26年10月21日創立75周年記念式典 校
歌制定。

 校歌
「水豊かなる」 作詞・窪田空穂  作曲・信時潔
   水豊かなる隅田川
   上野の森の風うけて
   誇りも高き学び舎に
   心を正し身を鍛え
   たゆまず学ぶ我らなり

 同51年創立100周年。平成13年創立125周年を以て閉校。件の次第だ。

 
東京リセ・コレージュ・フランコ柳北校
 小学校の建物を20年間の期限で借りて平成15年9月に開校したフランス人学校。生徒数は30
0人程度。

 
柳北スポーツプラザ
 小学校の体育館・プール・校庭の再利用として区民に開放している。

 柳北小学校の碑

   
柳北小学校百二十四年の歩み
   明治9年(1876) 第五中学区第十四番公立小学柳北女学校として設立
   明治20年(1887) 柳北女子尋常高等小学校と改称
   明治41年(1908) 柳北尋常小学校と改称
   大正15年(1926) 現在地に鉄筋コンクリート三階建校舎が竣工
   昭和16年(1941) 東京府東京市柳北国民学校と改称
   昭和18年(1943) 東京都柳北国民学校と改称
   昭和22年(1947) 東京都台東区立柳北小学校と改称
   昭和51年(1976) 創立百周年記念式典挙行、常陸宮殿下、同妃殿下御臨席
   平成13年(2001) 統合新校設立のため閉校
   東京都台東区浅草橋5-1-35 ここに「柳北小学校の碑」を設置する
                             台東区教育委員会
 


■コンゴ民主共和国大使館

 浅草橋5丁目8番5号にある。アフリカ大陸中央部のコンゴ川流域に広がり、一部は大西洋に面す
るアフリカ大陸で第3位の面積を持つ広大な国だ。平成9年に現在名に改められたが、それまでの国
名「ザイール」としてよく知られる。熱帯性性気候。コンゴ共和国、アンゴラ、ザンビア、タンザニ
ア、ブルンジ、ルワンダ、ウガンダ、スーダン、中央アフリカと国境を接する。(※コンゴ共和国大
使館は日本にはなく、名誉領事館が千代田区にある))
 
日本語表記は、明治18年~同41年「コンゴ自由国」(ベルギー国王の私有地)、同41年~昭和
35年「ベルギー領コンゴ」、同35年~同42年「コンゴ共和国」、同42年~同46年「コンゴ
民主共和国」、同46年~平成9年「ザイール共和国」、同9年~「コンゴ民主共和国」

 歴史
 13~17世紀にかけてコンゴ王国が栄えたほか、南部にはクバ王国があった。明治18年ベルギ
ー国王レオポルド2世の私有地「コンゴ自由国(Etat independant du Congo)」となり、同41年に
ベルギー政府に所有権が移され植民地とされた。昭和30年代からジョセフ・カサブブのコンゴ人同
盟、バトリス・ルムンバのコンゴ国民運動が独立闘争を開始。同35年6月30日に「コンゴ共和国」
としてベルギーから独立。カサブブは大統領、ルムンバは首相に就任。同36年ルムンバ首相殺害か
ら「コンゴ動乱」が始まった。

 コンゴ動乱
 昭和40年11月モブツ商務・雇用・貿易相がクーデタで実権を掌握。これから平成7年までの3
0年間モブツ大統領の独裁が続いた。昭和461年に国名をザイール共和国(Zaire)に。「革命人民運
動(MPR)」の一党独裁制を敷いた。平成2年4月民主化要求の高まりを受け議会は11月に複数政
党制の道を開く憲法修正案を可決。12月任期2期を満了したモブツ大統領が、3選を禁止した憲法
条項を無視して辞任を拒否。議会は同8年4月東部のツチ族系ムレンゲ人の追放を決議し政府軍が攻
撃を開始した。バニィヤムレンゲなどの武装組織「コンゴ・ザイール解放民主勢力連合(AFDL)」
がルワンダ、ウガンダ、ブルンジなどの支援で反撃し、同9年5月にキンシャサを制圧。モブツ政権
は崩壊し、AFDLのローラン・カビラ議長が大統領に就任、国名をコンゴ民主共和国に戻した。新
大統領は司法権を除く全権を自身に付与することを発表するなど、強権支配体制を敷いた。
 カビラ大統領は、ツチ族系が政権を握るとルワンダなどの影響力が強まることを恐れ、政権や軍部
のツチ族系の排除を始めたために、同10年8月東部を中心として内戦に発展。国内のダイヤモンド
やコバルトなどの豊富な鉱産資源に関する利権も絡み、反政府勢力「コンゴ連合」を主にウガンダと
ルワンダが、政府軍を主にジンバブエ、ナンビア、アンゴラが支援。戦闘などで住民20万人以上が
死亡し、紛争に伴う食糧・医薬品不足などでさらに150万人が死亡したとされる。政府と介入5ヶ
国は同11年7月、ザンビアのルサカで停戦協定に調印(ルサカ合意)。しかしカビラ大統領は国連
部隊の自由な展開を拒否し、停戦は事実上無効化した。同13年1月16日ローラン・カビラ大統領
が警備員に撃たれ死亡。長男のジョセフ・カビラが26日に後任大統領に就任。内戦の和平協定に向
け、同年10月15日からエチオピアのアディスアベバで対話が実現。ルワンダが支持するコンゴ民
主連合、ウガンダが支持するコンゴ解放運動、そしてコンゴ連合から分離したコンゴ民主連合解放運
動の主要反政府勢力3組織などが、協議継続などを謳った共同声明に調印した。同14年2月25日
内戦終結を目指す国内各派の対話がボツワナのマシーレ前大統領を調停役として、南アフリカのサン
シティで再開されたが決裂。対話は南アフリカのプレトリアで、セネガルのニアセ前首相の仲介で再
開され、反政府勢力はコンゴ連合とコンゴ解放運動が参加した。12月に「プレトリア包括和平合意」
が成立し、同15年7月合意に基づき暫定政権が成立。しかし政権は国内全てを掌握しておらず、依
然として内戦状態は続いている。民族対立とも相俟って東部は虐殺・略奪・強姦の頻発する無法地帯
となっている。
 同15年北部地方にエボラ出血熱が流行。死亡者は100名以上に及んだ。また同国を生息地とす
るゴリラへも感染が飛び火し、全個体数の3分の2が死んだと発表されている。和平合意により同1
7年に大統領選挙と国民議会選挙を行い民主的政権に移管する予定だったが、同年7月に選挙準備の
遅れを理由に延期。同18年6月までに実施を予定していたが、実施されたのは同年7月30日だっ
た。同17年12月には、この選挙の前提としての憲法草案に対する国民投票が行われ、賛成多数で
可決した。この結果を受けて同18年2月18日に新憲法が発効された。平和は程遠い。
 平成6年自衛隊ルワンダ難民救援派遣。自衛隊がルワンダ難民救援のために当時のザイールに派遣
された。自衛隊の海外派遣第二弾だった。国民は徐々に騙せ! 憲法を改正して戦争に行くぞ、「原
爆は仕方がない」久間発言は権力者の本音なんだよ。

 経済
 銅、コバルト、ダイアモンドなどを産する世界トップクラスの鉱産資源国。輸出の約9割を鉱産資
源が占める。コバルトの埋蔵量は世界の約65%。かつてはウランの採掘も行われており、昭和20
年に広島市にに投下された原子爆弾の原料はコンゴ民主共和国産だった。地下資源に恵まれるものの、
20世紀末の内戦などでインフラは破壊され、経済は壊滅状態となっており、世界最貧国の1つに陥っ
ている。
  


■カトリック浅草教会

 浅草橋5丁目20番5号にある。明治10年12月25日創立。教会堂名聖パウロ。明治10年1
2月25日創立。

   カトリック浅草教会
   浅草教会は明治19年頃、メソヂスト監督派教会の宣教により浅草美以教会として浅草三
   間町2番地(駒形橋西側のあたり)に設立されました。
   その後、三筋町、芝崎町、聖天横町を経て、明治36年に現在の地に移りました。
   当時の会堂は築地外国人居留地にあった築地美以教会の街道を移築したもので、尖塔に鐘
   の付いたモダンな建物であったようです。
   現在地での会堂は、第1次会堂が明治38年日露戦争の講和条約締結に反対する暴徒によ
   り焼き討ちを受け全焼、第2次会堂が関東大震災により焼失、第3次会堂が東京大空襲に
   より灰爐に帰しました。戦後はコンセットハットで礼拝を守り続けていましたが、昭和2
   6年第4次の会堂が献堂されました。この会堂は大正期より運営されていた小百合幼稚園
   の園舎としても使用され、多くの卒園生を送り出しました。
   現在の会堂は平成16年1月に献堂されたもので、礼拝堂とともに納骨堂を備えたものに
   なっています。また、教会創立期から関東大震災に至るまで、台東区生涯学習センターの
   南側にあたる場所で、美以美尋常高等小学校を併設していました。小百合幼稚園は少子化
   の影響から平成8年にその70余年に亘る歴史を閉じました。
   現在は昭和16年にプロテスタント・キリスト教各派が合同して成立した日本基督教団に
   所属する教会となっています。
   教会創立120周年を記念して平成18年8月15日設置

 浅草・鳥越きりしたん殉教記念碑
 教会裏手のオープンスペースにある。

   浅草・鳥越
   
きりしたん
   
殉教記念碑

   
「浅草・鳥越きりしたん殉教記念碑」の説明
   この地に鳥越川が流れ、隅田川にそそいでいた。この今は暗渠となっている鳥越川のほと
   りで、江戸時代の初期慶長十八年(1613)八月十六日、小伝馬町の牢獄に捕らえられ
   ていた者とともに八名のキリシタンが、幕府の禁教令にめげず信仰を守り通して斬首され
   た。同じく翌十七日には十四名、九月十九日にはさらに五名が、この鳥越川のほとり、甚
   内橋より東の地にて処刑された。
   これらの、幕府の迫害にも屈せず、神への純正なこころを貫き通した人々の殉教をいつま
   でも忘れぬよう、この地にこの記念碑を建立した。
                          平成14年1月 カトリック浅草教会
   (鳥越で殉教した28人)
   ミカエル笹田   ヨアキム破竹庵   アントニオ世兵衛
   ヨハネ門前    トマス神田喜兵衛  レオ大工
   ルカ神田     ビンセンシオ田辺(以上8月16日)
   マルコ喜左衛門  トマス喜右衛門   ヨアキム源内
   シモン彦左衛門  アントニオ半三郎  ヤコブ栄蔵
   レオ作内     ヨハネ保四郎    マルコ権助
   ミカエル弥蔵   マティア新五郎   ダミアン茂助
   ヤコブ弥四郎   ヨアキム源左衛門(以上8月17日)
   伝道士ヨハネ末木 伝道士グレゴリオ  大名の小姓パウロ
   同じくグレゴリオ 牢内洗礼の某  (以上9月19日)
   ほかに小伝馬町牢で獄死したアポリナールがいる。  以上


 
●殉教の誤解
 切支丹殉教というと、何か徳川幕府が無茶苦茶をやったように錯覚する向きがあるが、事実はそう
ではない。マルコ・ポーロが「東方見聞録」で、ウワサ話から、黄金の国ジパングと紹介したものだ
から、ヨーロッパの我利我利亡者のユダヤ人たちは、日本の黄金を
掠め取ろうと大いに胸を膨らませ
た。これが、そもそもの発端だ。ユダヤ人たちが大挙日本に押し寄せようとしたことは否めない。秘
密結社イエズス会のザビエルが悪意逞しく日本に向ったとしても不思議ではない。コロンブスが船出
したのもまずは日本を目指したのだ。
 ユダヤ人たちは内乱を想定して持ち込んだのが「火縄銃」だ。明治維新の前にユダヤ人グラバーが
ゲベール銃7800挺を持ち込んだのと同調する。ところがユダヤ人よりは日本人の方が頭が良く、
度量が大きかった。徳川幕府はキリシタンの目論見を見破った。島原の乱が起きる。何故か? キリ
シタンが日本領土内に土地を所有したからだ。乗っ取りの一歩だ。ザビエルは逃亡する。この悪意に
対して幕府は断罪に及んだのだ。キリシタンが布教だけしていたのなら殉教することはなかった。自
業自得というか、墓穴を掘ったというか、それが鎖国だ。
 では豊臣秀吉の祐筆(文書係)大村由己の書簡の一部を紹介しておこう。

   ・・・今度、伴天連(日本占領目的のユダヤ人)、能時分と思い候て、種々様々の宝物を
   積み、いよいよ一宗(キリスト教)繁昌の計賂をめぐらし、すでに後戸(五島)、平戸、
   長崎などにて南蛮航付きごとに完備して、その国の国主を傾け、諸宗をわが邪法に引き入
   れ、それのみならず日本仁(人)を数百、男女によらず黒船へ買い取り、手足に鉄の鎖を
   つけ、舟底へ追い入れ、地獄の呵責にもすぐれ、そのうえ牛馬を買い取り、生きながら皮
   を剥ぎ、坊主(宣教師)も弟子も手ずから食し、親子兄弟も礼儀なく、たた今世より畜生
   道のありさま、目前のように相聞こえ候。見るを見真似にその近所の日本仁(人)いずれ
   もその姿を学び、子を売り、親を売り、妻女げどうを売り候由、つくづく聞こしめされ、
   この一宗(キリスト教)を御許容あらば、たちまち日本、外道の法になるべきこと案の中
   に候。然れば仏法も王法も捨て去るべきことを嘆きおぼしめされ、忝くも大慈大悲の御思
   慮をめぐらされ候て、すでに伴天連の坊主、本朝追払いの由、仰せ出され候。


 その鎖国を打ち破ったのもユダヤだ。ユダヤ人バウアー(ロスチャイルド)は、スイス、ドイツを
席巻してオランダを占拠、イギリス、フランスを革命で陥れると、次はロシアのロマノフ朝の七百兆
ドルの財産強奪に目論見を設定した。このプロジェクトの障害はロシア軍だ。ロシア軍をやっつけさ
せるには日本が最適国だと見込んだ、ユダヤ人たちは平和国家日本を軍事大国に仕立て上げようとし
た。それが明治維新で、実行したのはユダヤ人とその手先の朝鮮系日本人(西郷、大久保ら薩摩人、
高杉、松陰、伊藤らの長州人、それに坂本龍馬ら脱藩浪士)らによって執り行われた。だから今を以てしても、安倍晋三ら朝鮮系日本人がのさばっている。
 で、キリスト教では、日本で布教が進まないことに悩んでいる。自由の国ジパングでは信仰は自由
だが、キリスト教徒は100万人ほど。しかしそれは悩む方がおかしいだろう。日本は多神教国家な
んだから、たった一つの信仰じゃ物足りないんだ。仏教が瞬く間に日本中に広まったのは多神教だか
らだ。だから、キリスト教も、マリアだの、コリアだの神様一杯作って攻め込んで来れば良かったん
だよ。キリスト1人に責任を負わしちゃうからこの様だ。それでも、日本人がキリスト教全く信用し
てない訳じゃないんだよ。ハロウィンだって、クリスマスだって大騒ぎさ。多神の内の1つなのさ。
 



【池之端】(いけのはた)1~4丁目                 昭和42年1月1日
 茅町・池之端七軒町・池之端仲町など。明治11年に「郡区町村編制令」により下谷区に編入。
昭和22年台東区所属。同42年新住居表示により茅町1~2丁目・池之端仲町の一部・池之端七
軒町・上野花園町の大部分・上野公園の一部を併せた町域を現行の「池之端」
とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『台東区史』『台東の歴史』など。

 池之端の由来
 不忍池の西の池の端による。東大の裏の崖の下。1丁目にある三菱の総帥岩崎家の庭園が都の管
理で公開されており、同じ1丁目に横山大観記念館がある。
 


■福成寺

 池之端1丁目2番2号にある真宗大谷派の寺。慶長年中に江戸神田に起立した。建物は小型3階建
て、マンションのような外観。屋根だけ和風だ。「御府内寺社備考」に、

   東本願寺末 池之端仲町 福成寺 境内古跡拝領地百十二余坪持漆地四十五坪余合百五十
   七坪。慶長年中武州豊島郡江戸神田ニ住居相定申候。然ル処二代目了円之代ニ寛永二年下
   谷仲町ヘ転地起立仕候。
   開山了意。三州加茂郡西尾権守と申武門ニ而御座候。然所本山十三代目宣如上人関東御経
   過廻之砌帰依仕、御弟子ニ相成、法名を了意と賜る。承応元年三月二十六日卒去。
   中興了円法師。


 とある。


高承山教証寺

 池之端1丁目2番5号にある真宗大谷派の寺。慶長元年伊勢桑名で本統寺建立したのを起源とし、
寛永九年当地に隠室を建立、寛文7年池之端で寺号を教証寺に改めた。「御府内寺社備考」に、

   東本願寺末 高承山教証寺 境内拝領地百五十七坪。当寺由緒者慶長元年勢州桑名ニ於て
   本統寺建立。教証院殿幼名長姫御方九歳之時桑名ニ下向。女儀ニ候得共寺務代致候。暫ク
   在住ニ而慶長四年十二才ニ而し帰京。同八年十六才之時、花山院左少将忠長卿ヘ御入嫁。
   同十二年十二月十二日久遠寿院殿御誕生。同十四年忠長卿七月四日故在而、後陽成院帝蒙
   勅勘、十一月八日松前ヘ流罪被仰付候。依而長姫御方、久遠寿院殿三才之時御伴ひ、里方
   本願寺ニ後帰住。其後元和六年南光坊天海大僧正本願寺ニ入来有之。久遠寿殿十四才之時
   御乞被成、同九年駿府惣持院ニ而御得度有之。寛永元年東叡山を開山、常に被為住候。長
   姫君御実子東叡山ニ被為在候故、寛永九年十二御弟宣如御門跡御同道御下向。然ル処御女
   儀之御事故上野に難被為住思召、不忍池の辺御隠室を造らせ御居住有之候。然るに長姫君
   十二年御在府被遊候処、慶長之比桑名に御在住、本統寺を被為続候。寿量院宣恵連枝、七
   月之始御病気之儀申来候故、無拠桑名ヘ被為登候処に、初冬の頃より御発病にて寛永二年
   十二月十七日五十六才にて卒去。本統寺御墓御座候。江戸下谷池之端御隠室の地へ為御菩
   提、慈眼大師之養甥敬念寺了円と申者ヘ被仰付、中陰法事専行仕候。其後寛文七年十二月
   十七日教証院殿二十五回忌被為当候ニ付、山科より久遠寿院殿本願寺へ御入来。啄如御門
   跡ヘ被遊御頼候て、敬念寺了円来御法会相勤候ニ付、教証院殿之号を寺号に相改、二代目
   寺務被仰付候。本願寺の御一家余間席ヘ被召加候。元禄八年久遠寿殿三宮殿八十九才ニ而
   山科毘沙門堂にて十月十六日御遷化。同十年准三宮殿御三回忌に付、大明院様より本山一
   如御門跡ヘ御頼被仰入、院家御取立、教証寺三代目了覚蒙仰候。


 とある。

 こもりく先生柳瀬美仲の墓
 墓地にある。元文五年(1740)没。矯宇滕安世誌 癡堂荒文篤書。癡堂は別号猶水ともいう書
家。「こもりくの」は泊瀬(はつせ)にかかる枕詞。「く」は所、大和の泊瀬は山に囲まれた所であ
ることから「泊瀬」にかかる。

   
隱口先生美仲甫之墓

   
はつせ路や初聞かまく尋ねてもまだこもりくの山ほととぎす

 美仲墓案内石標
 入口を入った右手にある。

   史蹟 柳瀬隱口翁墓

   昭和六年十月指定 東京府

 区の説明板は入口門の右壁に貼り付けてある。説明文は以下の通り。


   都旧跡 柳瀬美仲の墓                    昭和6年12月2日
   柳瀬美仲(1685~1740)は徳川時代中期の歌人。彼は宝永二年(1705)遠江
   国浜松に生まれ、名を方熟、字は美仲、号を隠江翁と称していた。京都に居住して詠歌を
   武者小路実陰の門に学び、のち、江戸に出て和歌を教授した。
   はつせ路や初聞かまく尋ねてもまだこもりくの山ほととぎす。
   この一首によって、世人は美仲を「こもりくの美仲先生」と呼んでいた。著書には「秋夜
   随筆」その他がある。元文五年(1740)五月十七日、年56歳で歿した。墓石には、
   「隠口先生美仲甫之墓」とあり、巷間に「こもりく先生」の名がもてはやされたことが知
   られる。
   昭和43年10月1日                      東京都教育委員会

 漆喰彫刻
 本堂の虹梁欄間に龍図と天女図が施してある。
 


■池之端文化センター 
解体

 池之端1丁目3番45号にある財団法人中央労働福祉センターの施設。同財団が所有・運営してい
る「ホテルラングウッド」と「池之端文化センター」の事業を、株式会社ジェイ・ウィル・パートナ
ーズ社に譲渡した。後はジェイ・ウィル・パートナーズ社が運営管理する事業再生ファンドで資産を
所有し、株式会社グリーン・ホテル・マネジメント社が両事業を引き継ぐ。両事業所に勤める従業員
約180人の雇用も基本的に継続されるが、同センターは解散の手続きに入る。
 中央労働福祉センターは、労働者福祉を目的に旧労働4団体(総評、全労、新産別、中立労連)に
より、昭和37年に設立。同44年に収益事業「池之端文化センター(結婚式場・ホテル)」を開業。
さらに同63年には荒川区の日暮里地域開発のコンペに参加し、新規事業としてホテル「ラングウッ
ド」を開業した。当時はバブル期でホテル建設に膨大な建設資金を要したことから、池之端文化セン
ターの不動産を担保に金融機関から95億円を借り入れたが、バブル景気の崩壊に伴う担保評価の下落
などで経営が逼迫。多額の債務返済を余儀なくされ続けてきた。平成22年4月30日閉鎖。
 

 ●足場倒壊事故
 平成19年4月25日午後3時50分ごろ、解体現場で、敷地内に組まれていた工事の足場が歩道
上に崩れた。警視庁本富士署と東京消防庁によると、自転車で通り掛かった近くの男性会社員(71)
が、倒れてきた足場を避けようとして転倒、肩などを打ち軽傷を負った。調べでは、同センター二階
東側で、解体作業中の外壁が足場と接触し、道路側に足場が崩れたらしい。同署は業務上過失致傷の
疑いもあるとみて、解体業者から事情を聴いた。


■無縁坂

 池之端1丁目3番の都立岩崎邸庭園家住宅の北側と、文京区湯島4丁目12番の間の坂道。森鴎外
の小説『雁』の舞台となった坂として広く知られる。『御府内備考』に、

   
称仰院(しょうこういん)門前通りより本郷筋へ往来の坂にて、往古の坂上に無縁寺これ
   あり候につき右様相唱候旨申伝、もっとも無縁寺跡相分不申候


 とある。現在も称仰院があるが、初め講安寺の開山の隠居地で「無縁寺」と称したという。また土
蔵造りの講安寺は初め「無縁山法界寺」といった。またこの周辺は武家屋敷が多く、武家に縁の坂で
「武縁坂」とも。文京区の説明板が建ててある。

   無縁坂
   団子坂(汐見坂とも)に住んだ、森鴎外の作品『雁』の主人公岡田青年の散歩道というこ
   とで、多くの人びとに親しまれる坂となった。その『雁』に次のような一節がある。
    岡田の日々の散歩は大抵道筋が極まっていた。寂しい無縁坂を降りて、藍染川のお歯
    黒のような水の流れこむ不忍の池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。・・・」
   坂の南側は、江戸時代四天王の一人康政を祖とする榊原式部大輔の中屋敷であった。
坂を
   下ると不忍の池である。
岡麓の歌もありました。
    不忍の池の面にふる春雨に 湯島の台は今日も見えぬかも
   岡麓は(本名三郎・旧本郷金助町生まれ、墓は向丘2丁目高林寺)にある。
   昭和55年1月                         文京区教育委員会


 
さだまさしの作詞・作曲でグレープが歌った歌がある。


   母がまだ若い頃
   僕の手をひいて
   この坂を登るたび
   いつもため息をついた
   ため息つけばそれで済む 
   後ろだけは見ちゃだめと
   笑ってた白い手は
   とてもやわらかだった
   運がいいとか悪いとか
   人は時々口にするけど
   そういうことって確かにあると
   あなたを見ててそう思う
   忍ぶ 不忍 無縁坂
   かみしめるような ささやかな
   僕の母の人生


■高田藩榊原家池之端中屋敷 → 桐野利秋邸 → 舞鶴藩牧野邸

 池之端1丁目3番45号の岩崎庭園のところにあった。明治11年岩崎弥太郎が購入。


■旧岩崎邸 → 都立旧岩崎庭園

 池之端1丁目3番45号にある三菱の総帥岩崎久弥の邸宅跡。洋館・和館・撞球場・石造袖壁が残
。文京区と台東区に跨るこの地は、三菱財閥を興した岩崎弥太郎の長男久弥(三菱3代目)が明治
29年英国人建築家のジョサイア・コンドルに設計を依頼して建てた洋館と和室、撞球室(ビリヤー
ドルーム)とからなる、本格的な西洋建築と和風建築の融合された典型的な明治期の大邸宅だ。当時
洋館が煉瓦造りや石造りが多い中で、岩崎邸は木造で、西洋館に見られるような厳つい風格というよ
りは、繊細で優しい感じがする。木造2階建て地下室付き建築面積160余坪の洋館とそれに続く和
館、スイス山小屋風の撞球場とは地下道で繋がっている。洋館の装飾には17世紀のジャコビアン様
式が取り入れられ、全体的にはイギリス・ルネサンス風となっている。南側は列柱のならぶベランダ
で、その列柱も1階はトスカナ式、2階はイオニア式の装飾が施されている。明治期の豪邸の集大成
と言っても過言ではない。
 別棟として建つコンドル設計の撞球室(ビリヤード場)は当時の日本では非常に珍しいスイスの山
小屋風の木造建築で、洋館から地下道でつながっている。洋館と結合された書院造りの和館は、当時
の名棟梁大河喜十郎の手によるものといわれている。床の間や襖には、明治を代表する日本画家橋本
雅邦が下絵を描いたと伝えられる障壁画などが残っている。現存する大広間を中心に巧緻を極めた当
時の純和風建築を垣間見ることができる。
 大名庭園を一部踏襲する広大な庭は、建築様式と同時に和洋併置式とされ、「芝庭」をもつ近代庭
園の初期の形を残している。
 昭和27年税金として物納され国有財産となった。戦後愚かなアメリカ軍に接収され、返還後、最
高裁判所司法研修所などとして同45年まで使用された。
 昭和36年に洋館と撞球室が重要文化財に指定され、同44年には和館大広間が洋館東脇にある袖
塀とともに、さらに平成11年には煉瓦塀を含めた敷地全体と実測図がそれぞれ重要文化財に指定さ
れた。
 平成13年から「都立旧岩崎邸庭園」として洋館の外観及び和館と庭園のみのが一般に公開され、
洋館と撞球室は、修復工事終了後の同15年4月から公開され、全面公開となった。完成当時の岩崎
庭園には、15000坪の敷地に20棟以上の建物があったが、現存するのは前述の3棟のみで、敷
地面積も約3分の1に狭められている。切り売りされたかつての敷地に民間のどでかいビルが建てら
れたため、庭園の景観を著しく損なっている。それでもまだ残っただけ幸いと思わにゃたるめえ。岩
崎家はコンドルに都合6軒の家を設計させたが、現存するのはこの洋館を入れて2軒のみ。この岩崎
邸(茅町本邸)は、第2次大戦後三菱が税金として物納したから残ったのだ。
 大岩が各所に配され、大石燈籠、宝篋印塔(上部)もある。
 第二次世界大戦後、アメリカ軍に接収され、納税されたので岩崎の手を離れる。接収解除後、最高
裁判所書記官研修所、同司法研修所となり、平成8年3月まで大蔵省財務局が管理していた。

   旧岩崎邸庭園
   旧岩崎邸庭園内の建物は、三菱の創始者岩崎家本邸の旧宅です。庭園内の建物のうち洋館
   と撞球室は、近代日本の建築界に大きな足跡を残したJ.コンドルの設計で、明治29年に
   建築されました。洋館は木造2階建て、地下室付で、イギリス17世紀初頭のジャコビア
   ン様式を基調とし、明治洋風建築を代表する建物です。洋館に併置された和館は書院造り
   を基調とし、棟梁は財政界の大立者たちの屋敷を数多くてがけた大河喜十郎と伝えられて
   います。和館内には橋本雅邦が下絵を描いたと伝えられる障壁画がのこっています。昭和
   36年に洋館と撞球室が重要文化財に指定されました。昭和44年には和館大広間と洋館
   東脇にある袖塀が、平成11年には宅地、煉瓦塀、実測図が国の重要文化財に指定されて
   います。
   
Kyu Iwasaki-tei Gardens
   The buildings in the Tokyo Metropolitan Kyu Iwasaki-tei Gardens are the for
   merkprincipal residence of the Iwasaki famiy, the founder of the Mitsubishi fun
   ancial group. The Western-style building and the billiard room were designed b
   y J.Conder who left his great foorprints over the modern Japan architectural w
   orld, and were builded in the 29th year of Meiji(
1896). The Western-style
    building is a wooden, two-storied one with a basement and one of the representa
   tive Western-style buildings in the Meiji era, having the taste of Jakobean ar
   chitecture developed in the 17th century England. The Japanese-style buildi
   ng was integrated with the Western-style building and the designed was based on
    the classic Shoin-style. The head Hapanese carpenter for the progect was Oo
   kawa Kikujiro, a famous craftsman who created many residences for notables in t
   he government and the financial world. Japanese artwork was painted on the alco
   ve(Tokonoma)and sliding doors(Fusuma)in the Japanese-style building. Mos
   t of the paintings are the work of Gaho Hashimoto, founder of modern Japanese
    art. The Western-style building and the billiard room were designated as nati
   onally important cultural properties in the 36th year of Showa(
1961). The
   Japanese hall(O-hiroma)and the sode-dei wall on the side of the W  estern-
   style buileing were added to the list in the 44th year of Showa (
1969),and f
   inally the resedential area,brick wall and measured map in the 11th year of H
   eisei(
1999).

 
香月亭舊蹟碑記
 庭園にある。文化四年(1807)高田藩榊原家池之端(中)屋敷内に第11代藩主榊原兵部大輔
政令(まさのり)が建立した。
内容は高田藩榊原家池之端屋敷が太田道灌の「香月亭」跡と断定し、
眺望できたであろう景観を記したもの。「香月亭」は、西湖の名士林和靖(逋)の詠んだ梅の詩、

   山園小梅
   衆芳揺落独嬋妍  衆芳(百花)揺落して り嬋妍(鮮やか)たり
   占尽風情向小園  小園にて 風情(風景)を占め尽くす
   疎影横斜水清浅  疎影 横斜して 水 清浅
   暗香浮動月黄昏  暗香 浮動して 月 黄昏
   霜禽欲下先偸眼  霜禽(白い鳥)下らんと欲して 先ず眼を偸
(ぬす)
   粉蝶如知合断魂  粉蝶(白い蝶)
()し知らば (まさ)に魂を断つべし
   幸有微吟可相狎  幸に微吟の相
(たが)()るべき有り
   不須檀板共金樽  
(もち)いず 檀板(音楽)と金樽(酒宴)とを

 を引用し「皓月邸」ではないと主張、政令は、不忍池が西湖だったから、太田道灌はこの地に「香
月亭」を構え、称名寺の西湖梅を態々取り寄せと、考えていたのだろう。月、鴬、雲、雪、丘の連な
り、雁・鴨、雨、暮雪、夕、帆、八景と、西湖十景に含まれるキーワードを見つけた。鐘、風荷、魚
は記されていないが、忍ヶ岡と不忍池には、寛永寺の時の鐘、風荷(蓮)、放生池(中国や日本の仏
教において、捕獲した魚介を購い、生かし放つ池。慈悲行の表れを意味する)もある。政令は、八景
・十景の景を碑文に盛り込み、この地の場所性を説明している。「香月亭遺蹟辞」碑は文化四年二月
銘、駒込邸の「向岡記碑」は文政十一年(1828)三月十日銘。江戸時代後期、不忍池を眺望でき
る向ヶ岡の目と鼻の先の高田藩邸と駒込邸で、建立した碑に太田道灌の業績を評価、向ヶ岡と忍ケ岡
の景観、場所性について言及。そして、政令、德川齊昭共に不忍池を「西湖」に見立てている。政令
は碑文の最後に「私は道灌の、その人となりや見識を心から慕っている。そして私の屋敷が、敬慕し
てやまない道灌所縁の地にあることは、言葉では到底言い尽くせない喜びであるが、時が経てば、い
ずれ人々の記憶にさえ留まらなくなるだろう。私が碑を建てて、香月亭について記さんとしたのは、
こうした理由によるものである」と記している。
 齊昭が「向岡記碑」に記した碑建立構想を、榊原政令は11年前に藩邸内で実践している。加藤元
信は、榊原家中屋敷は「香月亭」ではないとしている。そこは何ともいえないが、政令が「香月亭」
と断言してしまう気持ちは理解できる。
「香月亭遺蹟辞」の訳は、平成11年加藤元信「榊原家池之
端屋敷跡と旧岩崎家茅町邸」日本造園学会誌7、11~25頁にある。

   香月亭舊蹟碑辞
   香月亭者太田道灌觀游處也 史曰文明十年戊戌秋夜道灌夢見菅公 其時爽會有人贈公自画
   眞像感其興夢相應建公嗣於江戸城北置田数十頃共祭祀 祠邊栽梅樹数百本令湯島菅神廟是
   也又卜傍邱造一小亭掲扁曰香月案集九 集金澤稱名寺移西湖梅栽爲江戸香月齋亦分栽金澤
   云 香月坊間俗書或作皓月者誤矣盖香月字取西湖處士林和靖詠梅詩暗香浮動月黄昏之句而
   爲亭名也
   吾邸隣湯島地勢邱脉亦連邦邱園爽塏處即亭迹也世人舊傳稱之小説地志往ニ載之今無一株梅
   然想昔日光景 春韶梅將錠小鶯尋花啼既而風暖雨潤満開爛漫月色朦朧夜煙横枝清妍潔白如
   雲如雪邱連于邱月光亦爲之香乃所以名亭宣興眞景相合爲
   至眺望猶尚存爲時亦不匱晴日游于此邱靄煙淡抹東眺ニ總一房東南望品川洲崎海水渺茫目千
   里帆興水共連天西遥望富士雪帽子峯頭雲帯山腰枕青深白四時変化無極
   良夜游于此邱皓月斜照煙霧横布乃大觀都下萬戸箇ニ可數爲浅草忍①之林樹鬱茂乎其中月將
   到天心土岐東北顧不忍池静潭沈壁漣漪蕩金巍然天女宮彩甍照映汀荷汎露作珠躍魚揺波成紋
   鴻雁翔鷺梟葦朝雨暮雪暁風晩霞一々相宣是亭迹之佳景也
   曽考之古記録質之考古士此地爲亭②素不可疑也 餘欽慕道灌有文事又有武備然其所遊憩亭
   迹幸在餘邸園 恐経千百年➂則湮滅不聞故立石作之石         文科丁卯春二月
                              従五位下守兵部大輔源政令撰
                                    大窪行書并篆額
                                       
中慶雲刻


 ※①は「口」の下に「山」、②は、「辶」に「一」という字。➂は、「女」の「一」無し。

 西湖十景
  三潭印月・蘇堤春暁・平湖秋月・双峰挿雲・柳浪聞鶯・花港観魚・曲院風荷・断橋残雪
  南屛晩鐘・雷峰夕照
 近江八景
  石山秋月・瀬田夕照・粟津晴嵐・矢橋帰帆・三井晩鐘・唐崎夜雨・堅田落雁・比良暮雪

 碑裏に、以下を刻む。

   太田道灌香月亭遺迹在高田侯邸中 往室町氏時海内絲棼闘撃爲武非暴則逆文事名敎爲無名
   物 獨道灌文武両全民服敵慴 高田世子亦好文修武美道灌異乎當時諸將故於其亭迹有甘棠
   之愛乃作之記亭事盡矣遂鐫石傳于後
   世子之④道灌豈不千歳知己乎               山本信明謹題碑陰大窪行書


 ※④は「木」扁に「乞」という字。大窪は大窪

 
歌碑
 榊原家10代政敦は政令の父であるが、その父を偲び建碑の経緯と政敦の歌を記した物と思われる
が、変体仮名を多用しており、よく解らない。また文中にある千歳関が何処にあるのか、関と池之端
屋敷との関係も不明。碑裏の紀念銘は以下の通り。

   父君のいませし頃 此の椎の木の小枝を立てる乎。
   御覧ありしに 折ふし木を植えるものの居けるをもしてつかわしの年 をのへしならむと
   尋ねさせ給へりければ いかにも千とせ近き木に侍るつきと申しければ、其木のもとにし
   めゆひて くぬきたつものして その名を千と勢関となつけさせ給へる いささかのそこ
   なべると言てきたるを こたひつくろひものすとて

   いく春もかはらで枝や茂るらん 千と勢関と椎の下蔭


■六阿弥陀
常楽院の阿弥陀堂
 
移転
 池之端1丁目4番11号、東天紅の裏にある。常樂院は関東大震災までは上野4丁目8番のアブア
ブ赤札堂のところにあったが、ここに移り、さらに昭和8年に調布市の廃寺となった福僧山延命院蓮
蔵寺跡に移転、その時に六阿弥陀の阿弥陀堂は別院として残していったという訳だ。但し阿弥陀像は
盗まれたり、いたずらされないようにレプリカだ。納経帳(集印帳)などへの押捺は、調布市西つつ
じヶ丘4丁目9番の常楽院まで歩いてお参りしてやんない。功徳ありまっせ。

   すわっては拝みてのない六阿弥陀
   誰がため練れるか後家の六阿弥陀
   足る事を知らず蛸だに六阿弥陀
   粒の無いように練れるは六阿弥陀
   亡き人のためかや今日の六あみだ
   ねれて来て七番になる六阿弥陀
   六ッに出て六ッに帰るを六阿弥陀
   湯にやってみればつまらぬ六阿弥陀
   六阿弥陀あんまり練れてたわいなし
   六あみだあんまりねれてねつがさし
   六阿弥陀女房羽二重餅のよう
   六阿弥陀練れは練れたが死んだよう
   六阿弥陀みんな廻るは鬼婆ァ
   六阿弥陀婆ァ無駄に練れて来る

   江戸六阿弥陀縁起
   聖武天皇の頃(724~749)武蔵国足立郡(今の東京都足立区)に沼田の長者と呼ば
   れる庄司(荘園を管理する人)従二位藤原正成という人がいて、多年子宝に恵まれずにい
   たが、ある時、熊野権現(和歌山県)に詣でて祈願したところご利益を得てようよう一女
   を授かった。この息女は足立姫と呼ばれた程にみめ美しく、仏を崇い、天質聡明であった
   が、隣りの郡に住む領主豊島左ヱ門尉清光に嫁がせると、領主の姑が事々に辛くあたり悲
   歎の日々を送ることになった。そしてある時、里帰りの折りに思い余って沼田川(隅田川
   ?)に身を投げ、5人の侍女もまた姫の後を追って川に身を投じたのであった。
   後日、息女らの供養に諸国巡礼の旅に出た長者が再び熊野権現に詣でたところ、夢に権現
   (衆生を救うために日本の神の姿をとって現れる仏)が立ち、「一女を授けたのはそなた
   を仏道に導く方便であった、これより熊野山中にある霊木により六体の阿弥陀仏を彫み広
   く衆生を済度せよ」と申されたのであった。長者が熊野山中を探し歩くと果たして光り輝
   く霊木をみつけ、長者は念を込めてその霊木を海に流したのである。長者が帰国してみる
   と霊木は沼田の入江に流れ着いており、間もなくこれも先の夢のお告げの通りに、諸国巡
   礼の途に沼田の地に立ち寄られた行基菩薩に乞うて六体の阿弥陀仏を彫り、六女ゆかりの
   地にそれぞれお堂を建ててこれを祀ったのである。
   江戸時代に入り、この六阿弥陀を巡拝し極楽往生を願う信仰が行楽を伴って盛んになり、
   特に第5番常楽院は上野広小路の繁華街(ABABABAB赤札堂のところ)にあったので両
   彼岸などは特に大いに賑わい、江戸名所図絵にも描かれている。広小路のお堂は、関東大
   震災と第二次大戦の焼失を経て、ご本尊阿弥陀さまは調布市に移ったが、参詣の便を図っ
   て縁のある上野池之端、此東天紅の敷地を拝借して別院を設け、模刻の阿弥陀さまをお祀
   りしている。        六阿弥陀第5番 常楽院 調布市西つつじヶ丘4‐9‐1
 


■横山大観記念館(旧横山邸)
 池之端1丁目4番24号にある。日本画家横山大観の住居跡。大観がこの地に住み始めたのは、明
治42年だ。最初は狭かった敷地も、大観が画家として名をなすに従い拡張され、大正8年に現在の広
さとなった。昭和20年3月10日の空襲で住居が焼失したため、大観はしばらく熱海伊豆山の別荘
に移り住んだ。同29年8月焼失した住居の土台をそのまま利用して、新居が再建され、大観は再び
池之端で生活を始める。同33年2月に90歳で没するまで、ここで数多くの作品を制作した。
 静子夫人没後の昭和51年9月遺族から大観の作品や習作、遺品、画稿、スケッチ帳などの寄贈を
受けて、財団法人横山大観記念館が設立され、同年11月に一般公開された。当館は、心の安らぎを
感じられる美術館をモットーとし、できる限り建物の雰囲気をいかし、軸装の作品はそのまま床の間
にかけて展示している。また靴を脱いで入る日本建築の良さ、大観がこだわった細部のデザインも存
分に楽しむことができるよ。


 横山大観顕彰碑
 門脇に建っている。

   
横山大観顕彰碑

   横山大観先生は、近代日本画壇の代表的巨匠である。明治元年水戸藩士酒井捨彦の長男と
   して水戸に生まれ、本名を秀麿。母方の横山の姓を継ぐ。明治26年東京美術学校卒業、
   校長岡倉天心に愛されて終生大きな感化を受けた。明治30年東京美術学校助教授となっ
   たが一年で職を辞し岡倉天心が創設した日本美術院に下山観山、菱田春草とともに日本画
   の革新運動を起した。その後美術研究のためインド、ヨーロッパ各地及び中国などを視察
   し、師天心の思想である東洋の理想をうけつぎ、新しい日本画を創造した。明治45年か
   らこの地に居し画筆をとる。昭和10年帝国美術院会員、同12年第1回文化勲章受賞。
   代表作に「無我」「生々流転」「瀟湘八景」の帆か多くの水墨山水、富士山などがある。
   同32年5月台東区名誉区民に推戴された。同33年2月没。90歳。
   昭和43年10月東京百年を記念し建立する。         東京都台東区長上條貢