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 東京の地名の由来
 東京知ったかぶり!

 平成17年2月11日発信  リンクフリー
 地名の由来東京23区辞典 引用自由

 墨田区の地名の由来 
          現在進行形の調査なれば、逐次、誤謬訂正・新規追加あり。御用心御用心
 
                ご意見とご教示メール   

  東京スカイツリー 2月29日完成・5月22日開業
 世界一の高さを誇る電波塔(634メートル)を中心とした開発エリアは、「東京ス
カイツリータウン」と名付けられ、商業施設やオフィス施設、水族館などと共に構成さ
れる。延べ床面積は約23万㎡。平成24年2月29日に総ての施設が完成。5月22
日の開業まで、各店舗、入居者が仕込みが行われる。これに伴い、現在の最寄り駅とな
る東武伊勢崎線業平橋駅は3月17日「とうきょうスカイツリー駅」に改称された。
 展望台入場料は2000円、第二展望台は1000円加算となる。
 最初の1ヶ月半は完全予約制だ。慌てて行くことはないよ。

 内緒で教えるけどさ、色は? デザインイメージは?    答えは本文で

■展望台登頂記

 平成24年10月26日金曜日、空は上々の快晴。朝から狙いをつけていて、午前朝9時
頃に4階の入場券を買う行列の最後尾に立った。予約しなかったのは、天気を心配したから
だ。1時間待ちを予想していったがドンピシャだった。待ちといっても2列の行列は、チョ
ロチョロ、チョロチョロ前進しているので〝待っている感〟はない。行列は幾重にも折り重
ねた順路に従う。予定通りの時間で券売場に。8ヶ所あったかなぁ、まあ割とスムースだっ
た。ここでは展望デッキまでの入場券(成人2000円、中高生1500円、小学生900
円、幼児600円、乳児0円)しか売っていない。展望回廊へは展望デッキで購入せよとの
こと。
 次はエレベエター登乗の行列だ。こちらは10分くらいの待ちだった。エレベーターは4
基あり、春夏秋冬をテーマにしているようで、おいらの乗ったのは「夏」だった。江戸切子
で隅田川の花火をイメージしているデザインだ。350m地点に向かう。そこまで50秒と
のこと。矢鱈に速いが、そんなスピード感はない。さあ扉が開いて展望デッキフロア350
に降り立つ、夢に見た世界へ・・・ 順路は時計回り、早速「江戸一目屏風」がお出迎え。
江戸時代に描かれた江戸の鳥瞰図だ。眼下に広がる世界と重ね合わせて、歴史のロマンを体
感しろってことだ。大観望はテレビで紹介されたからどれほども感動はない。しかし快晴過
ぎて靄がかかり、富士山や房総半島は残念ながら霞んで判然としなかった。こうしてみると
東京は全体が高層ビル化していってるのが明瞭だ。都心部だけでなく周辺(旧郡部)にも広
がっている。100年もすると、埋め尽くされるのではなかろうか。流石に世界一の人口密
度を誇る、お膝下(墨田区京島)はポッカリ開いた大穴のようだ。一巡して、さて喉が渇い
たのでスタンディングスタイルのカフェでコーヒー(400円)を1杯啜る。
 続いて展望回廊への券売場へ。またまた行列に並ぶ。ここは10分くらいで通過。料金は
成人1000円、中高生800円、小学生500円、幼児300円、乳児0円。エレベータ
ーは3基、こちらは特にテーマの説明はなかった。展望シャトルは30秒だとか。展望回廊
フロア445に着くと、回廊の始まりだ。写真サービスがある。撮れば登頂した絶対証拠に
なる。110mあるという回廊を上って行く。おや! 一瞬立ち眩みのような感覚はおいら
だけか? 浮遊感というか、床が揺れているというか。この妙な感覚は何なのか。地面と見
比べて見たが揺れてはいない。景観は展望デッキとさほどには変わらない。さあーいよいよ
「ソラカラポイント」だ、451.2m の最高到達点、23区で1番高いところだ。その先
は下っている。下る先は下りのエレベータが待っている。この行列は5分ほどでクリア。
 フロア345に着く。展望デッキの2階だ。ここに「スカイツリーショップ」と展望レス
トラン「634(武蔵)」がある。エスカレーターでフロア340に、スカイツリーカフェ
でカレーライス(900円)を記念に食べる。まあまあだ。帰りにガラス床に乗って真下を
覗く。高すぎて恐怖感は湧かない。そして下りエレベーターへ。5階に到着して終了。
 かといって、多分もう一度上ることはないだろう。一回で十分だ。
  


9.11(アメリカ同時多発テロ) 首謀者はチェイニー 港 区


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【巻末特集】 江戸しぐさ
 
【巻末特集】 小股の切れ上がったいい女
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 御菜八ヶ浦 羽田空港 大鳥居 八景坂 六郷神社
 大森ふるさとの海辺公園 馬込文士村 万福寺 梅屋敷
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 北  区  静勝寺 小山酒造 新河岸川 飛鳥山公園 金剛寺
 装束稲荷 王子神社 王子稲荷 名主の滝 近藤勇墓
 医心方 亀の子束子 旧古河庭園 田端文士芸術村

 【巻末特集】 隅田川 (渡しと橋)
 江 東 区  外郎売  永代橋落橋事件 亀戸天神 カトレア
 ヒストリーガレージ キッザニア 戦災資料センター
 深川江戸資料館 富岡八幡 元八幡 砂町商店街
 東京海洋大学 東西線転倒事故 有明コロシアム 萩寺
 品 川 区  品川トランク詰め殺人事件 星薬科 船の科学館
 鈴ヶ森 立正大学 香蘭女子 杉野ドレメ 品川神社
 荏原神社 光福寺 大崎新都心 清泉女子大 品川寺
 品川宿 昭和大学 戸越銀座 第一京浜 ところてん
 渋 谷 区  明治神宮 慶応幼稚舎 尾崎豊の碑  忠犬ハチ公
 ライフル乱射事件 渋谷川  夫バラバラ殺人事件
 妹バラバラ殺人事件 モリブデン 文化女子大 NHK
 広尾病院事件 文化村 尾崎豊の碑 ワシントンハイツ
 聖心女子大 東京女学館 日本共産党 女子大生誘拐
 アメリカ橋 安藤組 国学院 金王神社 青山学院 
 新 宿 区  浄瑠璃坂の仇討 新宿胴体遺棄事件 新宿騒乱事件
 八幡様  陸軍士官学校 赤線地帯 防衛省・市谷駐屯地
 岡田有希子飛び降り自殺 オリンピック東京大会
 東海道四谷怪談 追分交番爆破事件 鉄腕アトム 
 
731部隊 学習院女子 早稲田大学 抜弁天 歌舞伎町
 歌声喫茶 名曲喫茶 どん底 新宿高野 中村屋 闇市
 杉 並 区  青梅・甲州・五日市街道 観泉寺 永福寺 高円寺
 不美人=ブスとは?  大宮八幡 ガンダム 妙法寺
 立教女学院 スチュワーデス殺人事件 東京女子大
 一家皆殺し放火 「疑惑の銃弾」 三浦和義 
 天保新水堀用水 
 墨 田 区  東京スカイツリー 相撲は国技ではない 大相撲事件 
 隅田川七福神 妊婦たらい回し死亡事件 回向院
 握りずし発祥 震災慰霊堂 鬼平・遠山の金さん
 王貞治生誕地 玉の井バラバラ事件 江戸東京博物館
 吾嬬神社 本所七不思議 もゝんじや 法恩寺 蓮華寺
 世田谷区  バンク・約束手形  花形敬  ウルトラマン 民家園 
 静嘉堂文庫 ボロ市 鷺草 西福寺 軍都池尻 東名
 羽根木公園 砧公園 駒沢公園 祖師谷一家殺人事件
 九品仏 多摩美 国学院 東農大 NHK技研 豪徳寺
 世田谷美術館 馬事公苑 烏山寺町 次大夫堀 仙川
 台 東 区  浅草寺 仲見世 浅草神社 三社祭 花やしき 上野公園
 鬼灯市 酉の市 待乳山聖天 佃煮元祖 旧岩崎邸
 八百善 今戸神社 アメ横 寛永寺 不忍池 花の吉原
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 東京本願寺 東京芸大 谷中墓地 笹の雪 吉展ちゃん
 中 央 区  「銀ブラ」って、ブラブラ歩くことじゃないよ。 パウリスタ
 東京大空襲 アメリカの占領 蘭学事始 ティファニー 
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 千代田区  靖国問題・A級戦犯 女子学院 暁星 将門塚 消防庁
 警視庁 ていぱーく 桜田門外の変 ニコライ堂 武道館
 九段会館 楠公像 ホテルニュージャパン火災 近衛師団
 秋葉原無差別殺傷事件 神田明神 FM東京 丸ビル
 新丸ビル 丸の内物語 三菱重工ビル爆破事件 国会
 雙葉 専修大 日大 法大 明大、電機大 大妻 番町小
 東郷平八郎 日比谷公園 国際フォーラム 北辰一刀流
 豊 島 区  池袋の女 染井吉野 女子栄養学園 染井霊園 中山道
 おばあちゃんの原宿 とげぬき地蔵 庚申塚 本妙寺
 雑司が谷墓地 鬼子母神 土田邸爆破事件 山吹伝説
 目白不動 帝銀事件 立教 学習院 豊島岡女子学園

 【巻末特集】 東京の暴力団
 中 野 区  新井薬師 上高田寺町 童謡「たき火」 中野サンプラザ
 近隣騒音殺人事件 福蔵院 八幡神社(鷺ノ宮) 成願寺
 宝仙院 堀越学園 桃園川 丸井本店 中野ブロードウェイ
 東中野電車追突事故 光倶楽部事件 哲学堂公園 桃園
 
【巻末特集】 江戸城 城門と橋 
 練 馬 区  いろはかるた 練馬バラバラ殺人事件 としまえん 
 ちひろ美術館 三宝寺 石神井公園 長命寺 清戸道
 良弁塚 武蔵大学 金乗院 練馬寺町 武蔵音大 
 グランドハイツ 練馬少年鑑別所 首継ぎ地蔵 円明院
 妙福寺 春日神社 増島家薬医門 練馬大根 愛染院
 文 京 区  狛江 振袖火事 東京大学 拓殖大学 御茶ノ水女子大
 東京高等師範 教育大学 護国寺 弥生式土器 伝通院
 聖マリア大聖堂 高津教授殺人事件 東京ドーム 六義園
 小石川植物園 元町公園 桜蔭学園 順天堂大 かねやす
 日本女子大 湯島聖堂 湯島天神 東洋大 共同印刷争議
 港  区  増上寺 フリーメイスン 永坂更科 麻布学園 氷川神社
 乃木大将 ミッドタウン 六本木ヒルズ 善福寺 霊南坂
 東洋英和 ケネディ暗殺宇宙中継 愛宕山 小便小僧
 レインボウブリッジ 東京タワー 慶応義塾 自然教育園
 明治学院 虎ノ門事件 東宮御所 日本経緯度原点
 9・11(アメリカ同時多発テロ)自作自演疑惑
 目 黒 区  滝坂道 目黒不動 法華騒動 円融寺 五百羅漢 東工大
 目黒ショック 日比谷線脱線事故 駒場野一揆 旧制一高
 駒場東大 駒場学園 滝坂道 行人坂大火 雅叙園 騎兵
 目切坂 権之助坂 太鼓橋 茶屋坂 槍ヶ崎事件 祐天寺
 酸素魚雷 音羽ゆりかご会 八雲学園 目黒のさんま





 墨田区の地形
 墨田区は、全域が広大な東京低地に属し、海生の砂やシルトを主体に互層を成す厚い軟弱層に覆わ
れているのよ。地形的にゃあ海岸低地や自然堤防(砂の微高地)で成り立つんだがよ、市街化に伴う
盛土などにより、原地形は不明瞭なものになってらぁね。なお江戸期の埋め立て以前には、墨田区の
南縁にあたる地域が江戸湾に臨んでてね、隅田川や荒川の運搬土砂が形づくる三角州性の低地を形成
していた。隅田川はかつての利根川、荒川は付け替え後の隅田川。隅田川が正式名称になったのは、
昭和40年。

 東京低地
 東京西部域に広がる武蔵野台地と千葉県北部域の下総台地との間に分布する沖積低地をいう。その
基底は約20000年前の陸地が海中に没したもので、古東京川の河谷が深い埋没谷となって刻まれ
ている。

 
シルト
 砂と粘土との中間の粒径をもつ砕屑(さいせつ)物。地質学では16分の1~256分の1mmの
もの、土壌学では0.02~0.002mmのもの。また、その未固結堆積物。一般に泥といわれてい
るものはシルトと粘土を含んでいるんだぜ。ヘドロは日本語、横浜の方言で泥水地のことだよ。



■地形・地質と住宅地盤
 海岸低地
 東京湾沿岸に広く分布する標高の低い平坦面である。地下水位が高く、上部には緩い砂や軟弱なシ
ルトなどが分布しているため、標準的な基礎では、十分な耐力を確保することが困難であり、適切な
基礎補強策が必要となる。区の大部分。

 
自然堤防
 周囲の氾濫低地や海岸低地と比べ海抜高度がわずかに高く、一般に河川に沿って帯状に分布してい
る。河川によって運搬された砂や砂礫が浅い深度から分布しているために、住宅地盤としては、比較
的良好な場合も多い。しかし度重なる河川の氾濫と蛇行によって運ばれた軟弱な粘性土や緩い砂が、
自然堤防の上に新たに堆積している場合には、基礎補強対策が必要となる。墨田1、2丁目・東向島
6丁目・押上3丁目。





 墨田区の変遷
 
現在の墨田区の区域にはいる江戸時代の町村は、慶応四年(1868)7月10日区北半の向島地
18ヶ村は武蔵知県事に所属したのち(同年9月8日明治改元)、同11月東京府南葛飾郡に編入
されたが、区南半の本所地区は最初(慶応四年5月12日江戸府設置)から江戸府(7月17日→東
京府改称)に編入された。同7年3月8日大区小区制により第六大区・第十一大区に編入され自治権
被奪の憂き目に遭う。驕る
内務卿大久保利通は、国家主義的専制強圧政治を推し進め、反対者は悉く
弾圧を以て退けた(彼は幕末の暗躍時代に、各藩の佐幕派の歴々に殺人指令を発し、600人余を死
に追い込んでいる)。国民はこれに猛反発、全国的に不平武士の義挙、自由民権運動が展開され各地
に反乱が起きた。その最たるものが「西南戦争」で、大久保は独裁のために盟友西郷隆盛までも葬り
去った。
 しかし悪運もここまでだったのか、翌年の明治11年5月14日仮皇居に向かう途中の麹町は清水
谷の沢道で、正義の刃の下に斃され、この世から抹消されてしまった。親分を失って内務官僚は驚天
動地、自失呆然、右往左往してなすところを知らず、2ヶ月後の7月22日大慌てに「大区小区制」
を撤回すると「郡区町村編制法」ほか2法を制定し地方自治の方向を示した。11月2日郡制を復し
当区では南葛飾郡16ヶ村・本所区77町が成立した。
 同22年5月1日明治政府が初めて地方自治を認めた「市制町村制」により、南葛飾郡下の須崎・
押上・小梅・請地・中ノ郷・柳島の6ヶ村を本所区に編入し本所区亀戸町を郡下に移した。残りの1
0ヶ村は統合して隅田・寺島・吾嬬・大木の4村に改編、同24年3月18日本所区編入の6ヶ村を
9町に編成し本所区は82町となった。同44年5月1日市制町村制の改正により本所地区では町名
改称し南本所・本所の冠称を削除した。

 大正元年日9月5日吾嬬村が町制移行。同3年3月31日荒川放水路開鑿のため大木村は廃村とな
り残った村域を本田村と吾嬬町に編入。同12年3月24日寺島村が、同8月16日隅田村が町制に
移行。昭和4年11月1日町名改正により本所区は68町となった。同7年10月1日東京市周辺郡
部を市に組み込んで20区を新設することになり、南葛飾郡下の3町が合併して向島区29町が成立
した。同18年7月1日内務官僚は東京都の自治権の拡大が内務省の専制権を奪うことを恐れ、府県
制を改正し新たに「都制」を敷き東京府と東京市を廃して東京都を発足させ直轄管理を目論んだ。し
かし軍部が対米戦に敗れたために、日本がアメリカの植民地・属国となってしまい、同21年9月2
7日民主化をスローガンのアメリカは「都制・府県制・市制・町村制」を改正して、地方自治体首長
を任命制から公選制に切り替えてしまった。これに慌てた内務官僚は当然反発したが、情けないこと
にアメリカ人に人倫の道を説かれ、独裁と私利私欲がどれだけ悪行であるか諄々と諭され、漸くにし
て人の非を知り、涙ながらに感謝して引き下がった。同22年3月15日都は、戦禍による疲弊と人
口減少のため都心区の統合を図ることになり、向島区と本所区が合併させ墨田区97町を成立させた。

 
平成17年現在の町数は26、平成2年区役所は横網から吾妻橋(朝日麦酒吾妻工場跡地の北部)
に移った。区役所は新調なったが中央図書館はない。文化施設は両国国技館・江戸東京博物館・相撲
博物館・東京都慰霊堂・向島百花園・本所防災館・墨田区すみだ郷土文化資料館。ほかに区が進める
「小さな博物館運動」がある。軟式野球資料室・セイコー時計資料館・プジョーモトサイクル歴史博
物館・小林人形資料館・相撲写真資料館・羽子板資料館・古伊万里資料館・伝統木彫刻資料館・能面
博物館・屏風博物館・金庫と鍵の博物館・建築道具木組資料館・新藤ギャラリー(印刷)・折箱博物館
「木具輪」・藍染博物館・乾燥木材工芸資料館・ブレーキ博物館・NTTドコモ歴史展示スクェア・
べっ甲資料館・足袋資料館・桐の博物館・鈴木木工博物館・木造建築資料館・江戸小紋博物館・合金
鋳物博物館・袋物博物館・木彫資料館。



■教育施設
 小学校 26(
私立 0)
 緑・外手・二葉・錦糸・中和・言問・小梅・東吾嬬・堤・押上(第二吾嬬・文花・西吾嬬)・八広
 (第五吾嬬・木下川・更正)・隅田(隅田・隅田第二)・柳島・業平・両国・横川・菊川・立花吾
 嬬の森(第一吾嬬・立花)・第三吾嬬・第四吾嬬・第一寺島・第二寺島・第三寺島・曳舟・梅若・
 中川
 ※平成23年堤+梅若統合予定(校舎は梅若)
  平成26年中川+東吾嬬統合予定


 中学校 12私立 0)
 墨田・本所・両国・鐘淵・立花・文花(吾嬬第三・曳舟)・竪川・錦糸・吾嬬第一・吾嬬第二・寺
 島・向島
 ※平成25年向島+鐘淵統合予定、(校舎は堤小学校跡地)
  平成26年吾嬬第二+・寺島、吾嬬第一+立花統合予定
  平成29年竪川+錦糸


 中高一貫校 3(私立 2)

 両国(府立三中)

 日大一中・安田学園

 高校 5(私立 1)
 本所(本所高女)・墨田川(府立七中)・橘(向島工校・向島商高)・日本橋
 立志舎
 
 大学短大はない。



 区名の由来
 東京新聞が募集した区名案には墨田のほか隅田・隅田川・吾妻・江東などがあったが隅田と墨田に
絞られた末、当用漢字にない「隅」の字は「かど・すみっこ・はしっこ」の意味が含まれるので昔か
ら文人に嫌われており、隅田川が墨水・墨江・墨堤などに書き改められてきた経緯を踏まえて「墨」
に落ち着いた。「田」は隅田川の田だそうな。当用漢字以外は駄目だという割には隅田小学校だの、
隅田中学校だの・・・「あずま区」が最も適当かと思うが、これに適う漢字がなかったので墨田に落
ち着いた。墨の字の画数が多いためか 何となく暗い感じがする。 震災記念堂や回向院が売りでは
なぁ。明るい材料が「向島の桜」だけと言うのもチョー寂しい。
 といってたら、押上に第二東京タワーというべき放送電波塔の建設が始まった。平成22年に完成
するが、鉄塔の組み上げが始まるとそれだけで見物客が押し寄せる。もし完成しようものなら、もう
墨田区はしっちゃかめちゃかだ。毎日民族移動だ。上野→浅草→墨田のラインができる。そうすれば
六本木→東京タワー→増上寺は閑古鳥が鳴く。墨田時代の到来でい!



区の花 つつじ
 区制30周年を機会に、区民すべてに愛され、親しまれ、また緑化のシンボルとしてもふさわしい
ものという意味合いで、公募により昭和52年9月に選ばれた。
 日本では長い栽培の歴史を持ち、早くから育種も進んだ。元禄五年(1692)に伊藤伊兵衛により
刊行された「錦繍枕」は、世界最古のツツジ、サツキ専門書だ。
 ツツジは、便宜上落葉性のツツジ類と常緑のシャクナゲ類とに分類されるが、日本で「シャクナゲ
(石楠花)」と呼ばれるものはホンシャクナゲの仲間に限られ、常緑であっても、それ以外の殆どは
「シャクナゲ」とは呼ばない。西洋では、アジアからヨーロッパに常緑のものが持ち込まれて園芸化
されたものが、ロードデンドロン(Rhododendron) と呼ばれ、またアメリカなどで落葉性のものが園
芸化されてアザレア(Azalea) と呼ばれるようになった。
 ツツジを漢字で書くと〝足偏〟の漢字を二つ並べて「躑躅」となる。「てきちょく」と音読みし、
意味は「逡巡」や「躊躇」と同じで、「二、三歩行っては止まること。進まないこと。ためらうこと」
だ。ではなぜ「ツツジ」を「躑躅」と書いたのか・・・その意味を話す前に、気分を変えて、初夏の
高原牧場を思い浮かべてみない。碧空に白雲、のんびりと草を食む牛の群れに、白樺林と赤いレンゲ
ツツジ(蓮華躑躅)の彩り・・・
 ところで牧場の牛たちは、なぜレンゲツツジを食べないのか?

 有毒植物だから躑躅」の当て字
  実は、レンゲツツジは有毒植物なのだ。だから誤って食べた牛は脚を振るわせて苦悶するのだ。そ
の歩けなくなった状態を表す形容語が「躑躅」だ。しかしツツジの密を吸う蝶たちはとても元気だ。
花粉を媒介してくれる蝶たちには美味しい蜜を、枝葉を食べてしまう牛たちには恐ろしい毒を・・・
自然の営みはうまくできてるねぇ。そして総てのツツジが有毒であると誤解されたことから、ツツジ
に「躑躅」の文字が当てられたのだそうだ。
 さて牛が躑躅するなら、馬が酔う木がある。ツツジ科のアセビ(アシミ)も有毒植物だ。アセビを日
本では漢字で「馬酔木」と書く。馬などが葉を食べるとまるで酔ったように足が不自由になることから
「足癈(あしじひ)」と呼ばれ、次第に転訛して「あしび」になり、さらに「あせび・あしみ」とな
つたとさ。
 都会では、レンゲツツジ(蓮華躑躅)より、葉が小型のクルメツツジ(久留米躑躅)やキリシマツ
ツジ(霧島躑躅)、大型の葉を持つヒラドツツジ(平戸躑躅)を目にすることが多い。また道路緑化
ではヒラドツツジの1品種である「大紫」が多用されている。
 クルメ(久留米)やヒ
ラド(平戸)など、ツツジの仲間の多くには九州地方の名が冠せられている
が、何故か? 

 
霧島躑躅・久留米躑躅

 ツツジの人気が高まったのは江戸時代の中でも寛文年間(1661~73)からといわれている。
鹿児島県の霧島山中の野生種のヤマツツジ(山躑躅)から改良されたキリシマツツジの品種群は江戸
から広がり「江戸霧島」と呼ばれた。沢山の品種があったようだ。また天保年間(1830~43)
に九州の久留米藩士坂本元蔵がキリシマツツジを元に実生などで育成したのがクルメツツジの品種群
だ。


 
平戸躑躅

 一方、鎖国時代でも外国との交流のあった長崎の平戸では、寺院などにケラマツツジ(慶良間躑躅)
など南方のツツジが植えられた。やがてそれらの異国のツツジと在来種との自然交配が行われ、その
中から選抜や改良を進めたのがヒラドツツジの品種群だ。


 
皐月(皐月躑躅)

 山奥の岩肌などに自生する。盆栽などで親しまれている。サツキツツジ(皐月躑躅)などとも呼ば
れており、他のツツジに比べ一ヶ月程度遅い、旧暦の五月(皐月)の頃に一斉に咲き揃うところから
その名が付いた。ツツジ類としては葉が固くて小さく、茎には這う性質が強い。

 
無人野躑躅

 なお東京から1000km離れた小笠原諸島には、ケラマツツジに近縁とされているムニンノツツ
ジ(無人野躑躅)が分布しているが、現在残る野生種はたった1株になってしまったそうだ。そのた
め、環境省・東京都等により保護増殖事業が進められている。
 
 



区の木 さくら
 サクラの仲間は、バラ科に属する樹木。バラ科には、約100属、3000種の植物があり、全世
界に分布している。分類学的には、バラ科はサクラ亜科、ナシ亜科、バラ亜科、シモツケ亜科の4つ
の亜科に分けられ、日本にはいずれの亜科も分布している。
 日本には、サクラ亜科で主要なグループのサクラ属がある。サクラ属は落葉性で形状は高木、低木
など様だ。特徴としては、葉は互生で、鋸歯があり、托葉がある。また花は両性花で、がく片と花弁
は5枚(5数花)、多数の雄蕊があり、普通、雌蕊は、長い花柱となっている。
 果実は、核果で1個の種子がある。果実が食用とされるウメ、モモ、アンズなどは、桜の仲間で、
200種が主として北半球の温帯に分布している。ウメやモモ、スモモとサクラ属とは、①果実に縦
のくぼみがない、②内果皮に細かい毛がない、③頂芽があることなどで、分類されている。
 一般的に桜と呼ばれているのは、バラ科サクラ属の落葉性の樹木。サクラ属は主に北半球の温帯に
広く分布している。日本のサクラ亜属(ユスラウメなどを含まない))を細分して「群」として分類
すると、ヤマザクラ群・エドヒガン群・マメザクラ群・チョウジザクラ群・ミヤマザクラ群となる。
日本の山野に咲く主なサクラとしては、ヤマザクラ(山桜)、オオヤマザクラ(大山桜)、カスミザ
クラ(霞桜)、オオシマザクラ(大島桜)、エドヒガンザクラ(江戸彼岸桜)、マメザクラ(豆桜)、
タカネザクラ(高根桜)、ミヤマザクラ(深山桜)、チョウジザクラ(丁子桜)などがある。そして
これらの変種を合わせると、数10種以上が自生し、またこれらの種を基本に育種されている。栽培
品種は600種類以上にもなる。全世界にある花を楽しむサクラの殆どは、日本のものばかり。
 サクラの種は、葉の鋸歯の形や、鋸歯の先端の形、葉柄の毛の有無、蜜腺、鱗片、花序の形、萼片
の鋸歯の有無やその形、樹形、花期、花弁の色、形、枚数などで分類する

 因みにソメイヨシノ(染井吉野)は、大島と江戸彼岸の一代雑種。





さ~て墨田区の地名の由来についておっ始めっとすっか!


【吾妻橋】(あづまばし)1~3丁目             昭和41年10月1日
 中ノ郷村。明治元年東京府に所属。同11年南葛飾郡に編入。同22~23年「市制町村制」に
より村は、寺島村・亀戸村・本所区向島中ノ郷町・向島押上町・中ノ郷業平町・柳島梅森町・本所
大平町1丁目に分散。昭和5年中ノ郷瓦町・中ノ郷八軒町の全部・表町・中ノ郷原庭町・中ノ郷竹
町・中ノ郷元町・小梅業平町の各一部をあわせて成立。同41年新住居表示を実施して現行の「吾
妻橋」とした。平成2年横網から2丁目に区役所が移ってきた。

 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『墨田区史』『墨田の歴史』など。

 吾妻橋の由来
 隅田川に架かる橋の名による。竹町の渡しに代わるものとして安永3年(1774)に町人の共
同出資で架けられた銭取橋(有料橋)。架橋を申し出たとき、吾嬬神社の参道橋なので「宮戸橋」
で申請したが却下され「大川橋」と命名するように申し渡された。かくて大川橋として橋は架かっ
たが町民は「東橋(あづまはし)」と呼んだ。


   
橋一つ隔てば鴎都鳥(川柳)
   吾妻橋辺りで都鳥と読み(川柳)

 都鳥は「ゆりかもめ」の雅称がある。

 と書いたら、メールを頂戴しました。「ミヤコドリ」という水鳥もいると。で、「ユリカモメ」
と「ミヤコドリ」について説明する。在原業平が、

   名にしおわば いざ事問はむ 都鳥 わが想う人は 在りや亡しやと

 と詠んだということを踏まえて、上記の川柳がある。業平の東下りには諸説あり、「してない」
というものから、「天安二年(858)~貞観四年(862)の間」「貞観四年」「嘉祥二年(8
49)~貞観四年」「天安元年(857)~元慶元年(877)」「元慶四年(880)」などあ
り、定まっていない。「伊勢物語」自体、業平が書いたのだろうが、書き写されていく内に、別人
によって書き足されて、写本によって変化している。それで、「都鳥」も「ユリカモメ説」が圧倒
的に強いが、昭和49年以前には、ユリカモメは京都には居ない鳥なので、業平がユリカモメを見
て「都鳥」と認識できたかどうかは疑わしい。だから業平が見た「都鳥」は「ミヤコドリ」だった
という説がある。またユリカモメは冬の渡り鳥で、業平が上記の歌を詠んだのは夏なので、なおさ
らあり得ないというものだ。なお「ユリカモメ」と「ミヤコドリ」は似ても似つかないから、混同
することはない。

 ユリカモメ
 チドリ目カモメ科カモメ属の水鳥。全長約40cm。足と嘴は赤色。夏羽は頭部が黒褐色になる
(英名:Black-headed Gull)。冬羽は頭部が白く、目の後ろに黒い斑点があるのが特徴。ズグロ
カモメと似ている。しかしズグロカモメの嘴は黒色で本種よりずっと短い等の違いで識別できるが
注意が必要だ。
英語で「Oystercatcher」と呼ばれ、その名の通りカキ(Oyster)などの二枚貝に
長くて縦に薄い丈夫な嘴を差し込み、嘴の先で貝柱を切り裂いて中身を食べる。嘴は貝殻を叩いて
割ったり、岩場に貼りついた貝を削ぎ落とすために鏨(タガネ)のように使うこともあり、とても
丈夫だ。ヨーロッパでは二枚貝を食べる割合が多く、日本ではカニやエビ、ゴカイなどもよく食べ
る。

 ミヤコドリ
 チドリ目ミヤコドリ科ミヤコドリ属の水鳥。体長は45cmほどで、鳩より少し大きい。嘴と足
は長くて赤い。からだの上面は黒く、胸から腹、翼に白い部分がある。北欧、中央アジア、沿海州、
カムチャツカ半島などで繁殖し、西欧、アフリカ西岸、中東、中国南部、日本にかけての海岸で越
冬する。かつて日本では旅鳥または冬鳥として主に九州に渡来していたが、近年は東京湾でも定期
的に観察されるようになった。海岸でで小さな群れを作ってすごすことが多い。




■吾妻橋
 
 明治8年の改架の時「大川橋」を改めて正式に「吾嬬橋」と命名された。明治20年の架け替えの
とき原口要・原龍太・倉田吉嗣の日本人チームによる設計施工で、隅田川では初の長大鉄橋が架けら
れた。長さ148m80cm×幅11m90cmの錬鉄製直弦プラットトラス橋だったが床板が木製だっ
たため関東大震災のとき焼け落ちてしまった。その復興事業として昭和6年新たに東京府により長さ
150m30cm×幅20mの3径間上路式鋼
拱橋に架け替えられて今日に至っている。「吾妻橋」に
変えたのは何時か判らないが、現橋に変えた昭和6年だろう。駒形橋が架かり、通りが東側で合流し
たために主役の座は奪われ、今は浅草通りは駒形の方を通る。平成4年の改修で塗装が青白色から赤
色に変わり、夜もライトアップされてレッドブリッジを強調するが、これは浅草寺の紅柄(べんがら)
色に相和したものである。橋詰に水上バスの乗船場がある。


  
吾妻橋こがねのはしらつくるとも誓い変わらじ妹と我との(正岡子規)

 
開園時の「隅田公園入口」の石柱

 吾妻橋の東詰に今も残っており、裏には「昭和七年四月吉日復興完成記念」の文字が見てとれる。
3月10日の空襲では、言問橋をはじめ、隅田川にかかる橋の上やその一円でで多くの犠牲者が出た。
川の中で命を落とした人も多い。
 作家早乙女勝元は、空襲の数日後に隅田公園を訪れた時の光景を次のように回想した。

   ほんとうはまもなく花見の季節なのに、芽という芽を焼きつくされた枝には、どれもこれ
   も、色とりどろのおびただしい布片がまとわりついて、風になびいている。あの夜、逃げ
   ていく人たちの身から、荷物から、強風に引きはがされ吹き飛ばされて、枝にからまった
   ものにちがいなく、とうてい手の届かなぬ高さにまでぴらぴらと北風にはためいているの
   は、一種異様な花盛りとでもいうべきでしょうか。[炎のなかのリンゴの歌? 東京大空
   襲・隅田川レクイエム]


 
あづま地蔵
 吾妻橋1丁目23番の吾妻橋の東詰広場にある。吾妻橋一丁目町会有志によって、震火災水難殉難
者各霊供養、交通安全御守護のために建立された。また東京大空襲慰霊の卒塔婆も置かれている。



嶋田山遍照院 
 吾妻橋1丁目3番7号、浅草通りに面してある新義真言宗智山派の寺。寺といいながらビルディン
グだ。寺の格好はともかくとして、この寺の名が高いのはお灸だ。隅田川二十一ヶ所霊場6番札所。


 
弘法様のお灸
 
創建の文久二年(1862)以来やっているという灸治療で繁盛しており膏薬もあった。これは開
山の諦念和尚が高野山に篭っていたとき霊夢を得て始めたと伝わっている。しかし浅草、四つ木、目
黒、下北沢など、東京でも各地に「寺の灸」はあり、弘法大師の秘法の1つでもあるので、特に諦念
の専売特許という訳のものでもない。愛知県の知立にも遍照院という寺があって、やはり〝弘法様の
お灸〟として有名だ。



■こんぶの岩崎
 吾妻橋1丁目4番3号、清澄通りに面してある昆布の卸問屋。小売もやってるよ。明治27年おぼ
ろ昆布の削り職人だった初代が、本郷真砂町で昆布問屋として創業し、戦前に現在の場所に移転。昆
布原料の卸売と約200種ある昆布加工製品(菓子昆布、納豆昆布、とろろ昆布、高級だし昆布)の
小売りを手掛ける。一口に昆布といっても、出汁を取るのに適したものと、おでんの具や昆布巻きの
ように昆布そのものを食するものとでは産地により分かれる。日本で昆布が採れるのは8月だけ。し
かも三陸海岸より北の地方で、その殆どが北海道産、ロシア産。岩崎では1年分を一度に仕入れ、温
度や湿度など細心の注意を払いながら倉庫で保管。「経費はかかるが、いい品物を提供するには当た
り前」とさらり。天候により品薄の年もある。それでも各地から最高の品が手に入るのは、創業以来
120余年の歴史と専門店という信用があるからだ。本来、料亭や蕎麦屋、最盛期には350軒以上
もの乾物屋に卸している昆布問屋。昆布は古来、カルシウムなどのミネラルや食物繊維が豊富な上、
うま味成分を含みながら低カロリー。食卓には欠かせない健康食だ、 「東京の人にもっと食べて貰い
たい」と、先代が小売りも始めたとか。塩昆布、昆布茶、昆布飴など、二百種以上の品が店先まで溢
れている。


 おぼろの実
 お湯だけでできる即席のお吸い物。熱湯を注ぐと、ピンポン玉のように丸めたおぼろ昆布が椀(わ
ん)の中で踊るように広がり、中からまり麩(ふ)や乾燥ネギなどが浮かんでくるぞ。出汁が利き、
料理の苦手な人でも、ちょっとした料亭並みのお吸い物ができるって訳。



瑞松山栄隆院霊光寺
 吾妻橋1丁目9番11号にある浄土宗の寺。寛文七年(1667)の創建。本尊の阿弥陀如来は増
上寺中興の観智国師の時念佛でしたが、関東大震災で焼失しました。現本尊は和歌山県皆乗寺より遷
座した阿弥陀如来です。隅田川二十一ヶ所霊場17番札所。



■弘法寺
 吾妻橋1丁目15番7号にある真言宗智山派の寺。路地の奥のトタン板貼りの民家。寺号がなかっ
たら寺院とは誰も思わない。



■芋きんの「満願堂本店」
 吾妻橋1丁目19番16号、浅草通りに面してある芋菓子屋。吾妻橋を下った角地だ。江戸時代か
らの店で
〝土手のきんつば〟で名をなし、吉原の花魁や浅草の芸者衆に評判を取った。
 〝芋きん〟は〝土手のきんつば〟を改良したもので、控えめな甘さが人気の的だ。



■牛島太子堂 寶珠山理性院如意林寺
 吾妻橋1丁目22番14号にある天台宗の寺。創建は嘉祥二年(849)というが、それでは浅草
寺並みの古さになる。第一その頃は海のど真ん中で寺が建つ筈もない。何処かから移転してきたのだ
ろう。元はもう少し北にあり、現在地は清雄寺のあったところだ。リバーピア吾妻橋ライフタワーの
真ん前の狭小な三角地にあり、入口を固く閉じて入るを拒んでいる。とて墓地がある訳でもなく、拒
絶もやんぬるかなだ。
「牛島太子堂」と呼ばれていて、神仏分離の前には伝慈覚大師作の聖徳太子像
を祀った「中之郷太子堂」の別当寺だった。牛島聖徳太子の石額は、大震災まではその鳥居に掲げて
あったもので三戸家の臣雪斎の筆だ。

 
六面地蔵塔
 延宝六年(1676)四月十三日、信心深かった両親「慈父」某と「悲母妙意禅定尼」の菩提を弔
い、合わせて「法界平等利益」を願って、その子が造立、奉納した。六地蔵は六道能化の本願を表す
といわれ、多くは仏寺の門前に建立される。この六面の地蔵尊は経典にとらわれず、自在に彫られて
いる。今は失われている宝珠、蓮弁状に削ぎおとされた笠、各尊像を半肉彫にした塔身、線刻にした
蓮華座、荒たたきにして蓮池に見立てた基礎、の五石から成ったものだろう。震災による損傷がある
が、江戸初期の柔和で造形的にも優れた石仏として、区内随一といえる。



■リバーピア吾妻橋ライフタワー
 吾妻橋1丁目23番1号にある都市再生機構の住宅棟。



■アサヒビール吾妻橋ビル
 吾妻橋1丁目23番1号にある。元々23番は全域朝日麦酒の工場だった。吾妻橋ビル「アサヒビ
ール・タワー」は、その外観をビールの入ったビールジョッキをイメージしている。



■吾妻橋ホール
(アサヒビールアネックス)

 吾妻橋1丁目23番1号にある。元々23番は全域朝日麦酒の工場だった。吾妻橋ビル「アサヒビ
ール・タワー」は、その外観をビールの入ったビールジョッキをイメージしている。

 
ウンコのようなオブジェ、あれは何?

 屋上のオブジェは、決して「ウンコ」ではない、フランス人芸術家フィリップ・スタルクの作品な
のだ。しかし無芸大食の一般人は、ウンコにしか見えず、俗称「ウンコビル」は人口に膾炙する。
 本来は燃え盛る炎を形象した「フラムドール(flamme d'or、金の炎)」と呼ばれるもので、アサヒ
ビールの燃える心を象徴する「炎のオブジェ」なのだ。また当初、フラムドールは縦に3つ並べられ
る予定だったが、日照権の問題から横向きに変更され、その数を1つに減らしたとする説があるんだ
よ。



■すみだリバーサイドホール
 吾妻橋1丁目23番20号にある区営の文化施設。イベントホール(604㎡ 定員700人)・
収容50人のミニシアター(75㎡)・会議室(92㎡ 42人)・ギャラリー(278㎡)からな
る。墨田の魅力を広く伝えると共に、様々な催しに利用されている。



■墨田区役所
 吾妻橋1丁目23番20号にある区の組織が入る施設。。
 1階に新東京タワースカイツリーの完成模型があるぞ。



■勝海舟像

 吾妻橋1丁目23番20号、区役所裏の隅田川テラスにある。海舟は両国生まれ、赤坂育ちなので
平成15年7月
江戸開府400年民間事業の一環として
隅田川に面したこの広場に造立された。
地元
隅田川沿いに立つ勝海舟と榎本武揚の2つの銅像は、同じ幕臣でありながら、方や江戸無血開城に努
力し、その後戊辰戦争の発言が親薩摩派とも見られる海舟と、幕臣最後の戦いである函館戦争を指導
した武楊。共に幕末に生き、蘭学を学び共に海軍の基礎を作り、同じく海外に渡り、帰国後、幕府の
指導的地位に立ちながら全く異なる道を進み、相反する1つの時代を作ったのは、あまり知られてい
ない。

 この像は立像で、上野の西郷さんを意識してか、腕を伸ばして前方を指差している。その先は鹿児
島だ。西郷さんは南太平洋に向いているらしい。坂本龍馬の艦隊を求めて?・・・

   建立の記

   勝海舟(通称麟太郎、名は義邦、のち安房、安芳)は、文政六年(1823年)一月三十
   日、江戸本所亀沢町(両国4丁目)で、父小吉(左衛門太郎惟寅)の実家男谷邸に生まれ、
   明治三十二年(1899)一月十九日(発表は二十一日)、赤坂の氷川邸で逝去されまし
   た。
   勝海舟は幕末と明治の激動期に、世界の中の日本の進路を洞察し、卓越した見識と献身的
   行動で海国日本の基礎を築き、多くの人材を育成しました。
   西郷隆盛との会談によって江戸城の無血開城をとりきめた海舟は、江戸を戦禍から救い、
   今日の東京の発展と近代日本の平和的軌道を敷設した英雄であります。
   この海舟像は、「勝海舟の銅像を建てる会」から墨田区にに寄贈されたものであり、ここ
   にその活動にご協力を賜った多くの方々に感謝するとともに、海舟の功績を顕彰して、人
   びとの夢と勇気、活力と実践の発信源となれば、幸甚と存じます。
   海舟生誕180年
   平成15年(2003年)7月21日(海の日)           墨田区長 山崎昇



正栄山妙縁寺
 吾妻橋
2丁目2番10号にある日蓮正宗の寺。富士山大石寺末。日蓮正宗第3祖日目上人の弟子日
尊が浅草阿部川町の辺に妙因寺として創建したというが創建年は不明。中興は寛永六年(1629)
大石寺19世法主日舜上人。浅草阿部町から移ってきた年代は判らない。中興時に移転したものか。
当時の寺域からすると随分減らされたものだ。現在の建物はビルディングだが昭和61年の建築。公
家寺として知られ、朝廷との関係も深く、日野大納言などが大檀那となっており、その関係で京都所
司代板倉勝澄とも関係があった。


 
夜鶴井銘碑
 良質の水を出した井戸の跡。江戸時代、水源の少なく人口の多い江戸にとって、水は貴重品であっ
たが、境内の井戸は人々に水を供給して「やかくいの井戸」と呼ばれ、その碑は区の文化財となって
いる。水質の悪い墨東地区にあって天祥寺の水とともに村にとっては大変に貴重だったろう。宝暦二
年(1752)のことと記している。

 相馬大作の首塚
 文政四年(1821)江戸から帰国途中の弘前藩主9代藩主津軽寧親の狙撃未遂事件が発生。首謀
者は盛岡藩の下斗米秀之進だが、偽名「相馬大作」を名乗っていたことから「相馬大作事件」と呼ば
れる。秀之進は寛政元年(1789)盛岡藩二戸郡福岡村(二戸市)に生まれた。18歳で江戸に出、
剣名高き平山行蔵道場の門下生となり武道に精進、四傑の一人と呼ばれるほどに腕をあげて帰国し、
郷里・福岡に講武場兵聖閣を設けて武術の教授を始めた。そんな矢先の文政三年(1820)盛岡藩
主南部利敬が39歳の若さで世を去り、遺領を利用が継いだ。利敬の早すぎる死は、弘前藩に対する
積年の鬱憤が原因といわている。
 その積年の鬱憤とは、もともと弘前藩津軽家は、南部家の一族の家柄だったが、南部のお家騒動の
際自立を図り、太閤秀吉の小田原征伐陣中に参じて独立を成功させた事に起因するものとされた。跡
を継いだ利用はまだ14歳で無位無官、それに対して「本来家臣筋だ」と看做している津軽寧親は従
四位下侍従に叙任されていた。このことに不満を抱いた秀之進は寧親に果たし状を送って辞官隠居を
勧め、それが聞き入れられない時には「悔辱の怨を報じ申すべく候」と暗殺を伝えた。文政四年のこ
の年、秀之進は江戸から帰国途中の寧親を秋田藩白沢駅(大館市)付近で狙撃しようと計画したが、
仲間の密告によって失敗、藩を出奔して江戸に逃れ「相馬大作」と名を変えたが、同年幕吏に捕らえ
られ翌年首を刎ねられた。その秀之進の子息が、晒されていた首を盗んで来て、妙縁寺住職へ埋葬を
依頼、豪胆な当時の住職(日脱)がその首を葬ったのが「相馬大作の首塚」だ。その後秀之進の子息
は住職の勧めにより出家して、大石寺系の末寺「感恩寺」(盛岡)を寄進している。その名の由来は、
「妙縁寺住職に恩を感じて造った寺」の意だ。そして江戸市民は秀之進の行動を賞賛し、事件は講談
や小説の題材として流行した。幕末の水戸藩の尊皇攘夷論者で。藤田東湖もその義烈をたたえ、長州
藩の吉田松陰も長歌を詠じて秀之進を追慕している。


 
歌沢相模太夫の墓
 妙縁寺墓地にある。端唄から作った歌沢節の創案者笹丸の墓で、本名笹本彦太郎という旗本で、嘉
永の頃本所南割下水、今の亀沢に住んでいた。この寺は大震災のあと大正14年小松川への移転が認
められていたが、結局残ったものだ。

 日蓮正宗
 日蓮大聖人の入滅後、身延の地頭波木井実長(はぎりさねなが)が、仏法に違背する行為を重ねた
ため、日興上人は正応二年(1289)の春、本門戒壇の大御本尊をはじめ一切の重宝をお持ちして、
門弟とともに身延を離れ、翌正応三年南条時光の寄進により富士上野の地に大石寺(たいせきじ)を
建立した。以来700有余年、「日蓮大聖人の仏法は日蓮正宗総本山大石寺に正しく伝えられている」
とは、大石寺の弁。一時創価学会を信徒に組み込んでいたが、宗門と学会は対立して平成3年暮に決
別、宗門は、創価学会を破門にして縁を切り、信者は法華講に統一されている。

 創価学会
 昭和5年教育者牧口常三郎が『創価教育学体系』という教育学の著書を発刊。その後「教育改革に
よる社会の向上」を目指し、牧口が初代会長となって「創価教育学会」という教育者のグループを創
設した。ほどなく教育者だけでなく、社会の様々な分野にも会員を広げ、戦後第2代会長の戸田城聖
が「創価学会」と改名した。そして昭和50年第3会長池田大作が、創価学会の世界規模の団体とし
て「創価学会インタナショナル(SGI)」を発足し、現在に至っている。学会の教義は、日蓮聖人
の仏法で、その思想に基づき、人々の幸福や社会の発展のために活動しているとは、学会の弁。宗門
との悶着には言及してない。



■福寿稲荷大明神
 吾妻橋2丁目5番1号にある小祠。



向東山天祥寺
 吾妻橋2丁目6番5号にある臨済宗妙心寺派で、寛永元年(1624)に嶺松院として創建、元禄
六年(1693)肥前平戸藩主松浦鎮信が中興開基、盤珪国師を中興開山として、当地に中興した。
近隣に同宗の松嶺寺があり、紛らわしいということから、享保元年(1716)天祥寺と改号した。
 釈迦如来乾漆坐像は、近世初期の珍しいもので、もと京都山科の地蔵寺に大石内蔵助良雄が献納し
たものといわれる。松浦鎮信の墓、祭贈従三位静山公詩碑、水鉢、盤珪国師の墓がある。

 養老泉の碑
 境内にあった井戸。文政の『寺社書上』には、寛政十一年(1799)に開鑿したもので、この辺
りは海に堆積した州が成り立ちなので水が悪かったところ、この井戸では良い水が出たので村人は大
変に喜んだと記されている。近年現代的和風の門を新調しており、お金持ちの家のようだが、門を固
く閉ざしており、入るを拒絶している。まるで不受不施派だ。

 生月鯨多左衛門の墓
 いけづき or いきつきげいたざえもん 18歳で身長2m28cm、体重169Kgあった古今No
1の巨人力士。長崎の生月島の出身で玉垣部屋に属した。
天保15年10月場所から嘉永3年3月場
所までの12場所の間一人土俵入りを行い、人々を驚かせた。この間1場所だけ幕下格で取組に出場、
23歳の若さで死亡した。




覚英山清雄寺
 吾妻橋
2丁目14番6号にある本門仏立宗の関東根本道場。13、14、16番に跨る。源森橋の
南にあり、ここは元は出羽庄内藩酒井家の下屋敷だったところで、寛文二年(1662)同家の菩提
寺として創建されたと伝える。京都妙蓮寺末で、現在は下町の寺として永くした親しまれており、婦
人会やガールスカウトなど、社会活動に力を入れている寺本来の寺。墓地ばっかり作って坊主丸儲け
でないところが新しい。元の寺域は如意林寺を中心とした一帯で、今よりは数倍広かった。



■本所吾妻橋駅
 吾妻橋3丁目7番16号にある都営地下鉄浅草線の地下停車場。浅草線(当時は都営1号線)の最
初の区間である、浅草橋~押上間が開業した昭和35年12月4日にできた駅。ホームは相対式2面
2線構造で、地下1階にある。上下ホームは地下2階の通路で結ばれている。改札口は各ホームに1ヶ
所ずつ計2ヶ所ある。出口は4ヶ所だがエレベーターはない。



■添光稲荷
 吾妻橋3丁目1番7号にある小祠。平成22年5月15日江戸博特別展「龍馬伝」の序でに行った
スカイツリー見学の途次偶然発見した。





【石原】(いしはら)1~4丁目                  昭和41年10月1日
 南本所石原町。明治元年東京府所属。同11年本所区所属。同44年南本所の冠称を外し石原町。
昭和4→5年吉岡町・吉田町・北二葉町・亀沢町2丁目の全部と若宮町・長岡町・清水町・横川町
の各一部をあわせ、同時に一部を横網・厩橋1丁目に譲って石原1~4丁目とし、同41年新住居
表示を施して現行の「石原」とした。
 区の小さな博物館運動により、1丁目に木彫資料館(透かし彫り)がある。※現在改装のため休
館中とのこと  確認してから行きなはれ。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『墨田区史』『墨田の歴史』など。

 石原の由来
 かつての町域が隅田川岸にあって、この辺りが砂礫の地つまり石原だったことによる。最初の石
原町は横網2丁目の蔵前橋通りから北で、江戸時代は万治二年(1659)に開鑿された圦堀河岸
があった。幕末には埋められていたようで本所埋堀という地名になっている。



■マイ プリティ モンスターズ(こどもの描いた絵がそのままぬいぐるみに)
 石原1丁目10番6号のキュリオシティ・ジャパンが展開する事業の一つだ。想像力豊かな幼児の
描くどんな絵でも、アメリカのクリエイターが、そのままぬいぐるみにしてしまうのだ。注文から1
~1ヶ月半で手元に届く。料金は12000円程度を目安に・・・
 



■木彫博物館

 石原1丁目13番3号の松本彫刻店にある。透かし彫りを中心とした木彫り彫刻や、全国の観光土
産として作られた彫刻品などさまざまな資料が展示されている。館長の松本一弘は、すみだマイスタ
ーとしても活躍する木彫りのスペシャリスト。「木彫りを知りたい人に情報を提供したい」という館
長の作品や実演を直接見ることができ、まさに「小さな博物館」といった館内だが、木彫りに関する
相談にも応じてくれるのがこの博物館の魅力だわいな。 03-3622-4920



■片男波部屋
 石原1丁目33番9号にある二所ヶ関一門の相撲部屋。昭和36年1月場所限りで引退した二所ノ
関部屋所属の元関脇玉乃海太三郎は、12代目年寄片男波を襲名して内弟子を連れての二所ノ関部屋
からの分家独立を考えていたが、幕内力士の玉響、玉嵐、有望若手として期待されていた、後に横綱
となる玉乃島などの移籍に関して8代目二所ノ関
(元大関佐賀ノ花)が許さず、業を煮やした片男波
は、
同37年5月場所前に、玉響改め新川、玉嵐、玉乃島などの移籍届けを協会に提出、内弟子を連
れて部屋を飛び出す実力行使まで行なった。するとその強引さに怒り心頭に発した二所ノ関は、成年
に達した養成員全員分の廃業届を提出して対抗した。これはどうにか取り消され、両者ともに減給処
分となった。結局、先代の二所ノ関でNHK相撲解説者の玉の海梅吉を呼んで話し合いの結果、漸く
二所ノ関が折れて独立が許され、分家して片男波部屋は創設された。しかしとばっちりを食ったのが
力士たちで、廃業届を出された者たちは番付を10枚落とされた挙句、不出場期間は休場扱いにされ
てしまい新川はまもなく廃業、玉嵐の移籍は翌38年に持ち越されてしまった。
 
その後玉乃島が横綱に昇進して玉の海と改め、玉輝山も十両に昇進して部屋の興隆が期待された矢
先の同46年10月に横綱玉の海が急死し、部屋は一気に寂しくなった。だがその後も、関脇玉の富
士・小結玉輝山、小結玉龍などの関取を育て、同62年9月に停年を直前にして死去した。
 跡を襲ったのは12代目片男波の直弟子で、同56年11月場所限りで引退した玉ノ冨士茂は、年
寄湊川を襲名して部屋付き親方として後進の指導にあたっていたが、12代目の死去に伴い13代目
片男波を襲名して片男波部屋を継承した。13代目は、関脇玉春日、関脇玉乃島などの関取を育て、
中堅部屋として存在感を出している。



■徳之山稲荷神社

 石原1丁目36番10号にある。元は徳山五兵衛重政の屋敷内稲荷だった。徳山と書いて「とくの
やま」と読むのだが、混乱を避ける意味で「之」の字を入れることにした。五兵衛は三河以来の譜代
の幕臣で、山崎四郎右衛門とともに元禄の頃本所奉行となって本所地区の開発に尽力した。その功で
当時の本所築地小屋に屋敷を賜ったのは寛文四年(1664)だった。境内掲示板に、

   当石原町は本所では最も古い存在である。
   鎌倉時代には墨田河原石原郷といふ村落をなして居たといはれる。明暦の大火には江戸市
   中を灰にしたが、その結果幕府は市街の区画整理を大規模に行った本所の地はおおむね低
   湿地の田園で芝野茅原芦葭生茂りここを埋立てて河川を整備して排水をはかり土地を一面
   に整へたうえ道路を設けそこに大旗本など武家屋敷を主にして移転が行われたのである。
   この事業の推進者は徳山五兵衛重政山崎四郎左衛門重政の両名の本所築地奉行であった。
   万冶三年三月 徳山五兵衛、山崎四郎左衛門
   右本庄屋敷割並御堀堀之奉行被仰付、
   右本庄之築地奉行被仰付
   右本所地区開拓を直接担当した人として本所区の祖先である徳山五兵衛重政治は慶長十九
   年駿河に生れた。寛永八年九月御書院番勤め駿河御城番を四度に亘って勤め城内外修理奉
   行を勤め正保二年慶安  四年明暦元年の三度上使として各地に趣いたのち万冶三年本所
   築地奉行に任ぜられ以後本所御用を勤める事十二年に及び寛文十念五月十六日五十六歳で
   勘定奉行となり十二年に亘り天和元年三月二十九日に老年の為職を辞して其後家督を長子
   權十郎重俊に譲って隠居浄雲と号し、元禄人縁七十五歳で病没した。
   法名は一心院殿徳岩浄雲居士である。
   右の事は墨田区史政治史的沿革に記載してあります。墨東叢誌には本所で最古の石原と題
   して記載してあります。本所開発の大恩人である本所奉行の徳山五兵衛を祀った徳之山稲
   荷には他の町内守護神と趣きを異にして徳山氏の功績を記念してそれた酬ゆる為の建立で
   あることが注目される。


 とある。

 徳山五兵衛屋敷
 神社のあるところは徳山五兵衛家の屋敷地の一部だった。境内に説明板がある。

   
徳山五兵衛屋敷跡
    江戸の初期に本所・深川の開発事業を推進した本所築地奉行徳山五兵衛重政の屋敷跡で
   す。開府当寺の江戸は、明暦三年(1857)の大火をはじめ、度々の火災で大きな被害
   を受けたので、幕府は街区の整備を大規模に行うことにしました。ことに隅田川以東の開
   拓に着手することになり、竪川や横川などを掘り、その泥土で湿地を埋め立て、道路の整
   備と市街地の造成をしました。この事業のため万冶三年(1660)に徳山五兵衛と山崎
   四郎左衛門の二人が初代の本所築地奉行として任命されました。
   徳山五兵衛は功により、幕府からこのあたりに邸地を与えられました。この稲荷社は屋敷
   神としてまつられていましたが、五兵衛の死後、その徳を称えた人々により御霊が合祀さ
   れ、徳之山稲荷神社として大切にされてきました。         墨田区教育委員会

   徳山五兵衛屋敷跡
   明暦の大火後、幕府は本格的な本所の開発に乗り出します。万冶三年(1660)本所築
   地奉行に任命された一人が徳山五兵衛(重政)です(もう一人が山崎四郎左衛門)。
   堀割の開拓や湿地の埋め立て、道路整備と市街地の造成などで、今の本所の基礎を作り上
   げました。その功績により、この地に屋敷を賜りました。五兵衛の死後、屋敷内に祀られ
   ていた稲荷と五兵衛の御霊が合祀され、徳山稲荷神社となっています。
   また孫の徳山五兵衛(秀榮)は、火付盗賊改方の在任中、歌舞伎の白波五人男の一人、日
   本駄衛門のモデルになった盗賊日本左衛門らを捕えたことで有名です。
                             ぶらり両国街かど展実行委員会


 日本左衛門首洗いの井
 
徳之山稲荷の境内にある。徳山五兵衛重政の孫、徳山五兵衛秀栄が火盗盗賊改方の在任中、歌舞伎
で有名な白波五人男の大盗賊日本駄衛門のモデルとなった日本左衛門を捕らえ、この地で処刑した。
侠骨剣豪の日本左衛門を徳山五兵衛が捕えた際、思い残したことを尋ねると、日光を見たことがない
というので、処刑する前に日光参拝を許したということで、徳山五兵衛の人柄が偲ばれる。碑は明治
時代に建てられたが、関東大震災で壊落したため、昭和40年に再建した。
 
   日本左衛門ハ本名ヲ浜島庄兵衛ト称シ侠骨剣豪ノ士トシテ時ノ悪代官ヲ斬リ遠州ヲ浪人シ
   江戸ニ出デ向島西方ニ居ヲ構ヘタ。幕府ハコノ罪ヲ以テ奉行ニ召捕リ方ヲ命ズ。彼ノ神出
   鬼没ニシテ剣豪ノタメ奉行ハ召捕方ヲ出来ズココニ幕府ハ本所築地奉行タル徳ノ山五兵衛
   ニ召捕方ヲ命ズ。ソノ前ニ日本左衛門ハ再三徳ノ山邸ニ現レタガ黙殺放逐ス。ソノ命ガ出
   テ向島ニテ捕ヘ、ココニオイテ処刑サル時ニ寛文七年(西暦1677年)捕ワレタ時五兵
   衛ハ日本左衛門ニコノ世ニ思ヒ残スコトハナイカト問ワレ彼ハ只一ツ日光ヲ見タコトガナ
   イト申シタノデ不憫ニ思ヒ又他の罪ノナイタメ地内ノ戸崎氏ニ連行ヲ命ジ内々デ日光見物
   ノ願ヒヲ叶エテヤッタ。無事ニ戻リソノ功ニヨリ戸崎氏ハ今ノ石原町一ノ一西側三百坪ヲ
   五兵衛ヨリ拝領シ現在戸崎家ノ子孫ハコノ地ノ地主トシテ今モ下北沢ニ住ム。コノ碑ハ約
   三百年前由縁ノココに建立サレ大正大震災戦災等ノ災禍デ見ル影モナク損傷シ徳ノ山講員
   ハコノ史蹟ヲ後世ニ残スベクコノ石碑ヲ再建ス。
   昭和四十年五月十九日                     徳ノ山講、町内有志



■二葉小学校
 
 石原2丁目1番5号にある区立校。
 [戦前]
 廃校
 明治38年11月27年亀沢2丁目21番のところに「東京市二葉尋常小学校」として開校。同4
0年生徒増により一学年は二部授業。
大正6年東側に木造2階建ての校舎を増築。校庭が砂利からア
スファルト舗装になる。


 校歌
「学びの園に」  作詞作曲・平田盛胤
  1.学びの園に入り立ちて
    君と親との御恵みを
    暫しが程も忘れずば
  2.人を親しみ慈しみ
    人の助けを待たずして
    吾身を立てて学び舎の
    誉れをあげよ世の中に
  3.勤めん時はよく勉め
    遊ばん時はよく遊び
    ものの決まりは守りなば
    教えを受けし甲斐あらん
  4.二葉萌え出し初めより
    忘れず守れ師の教え
    やがて春風吹き立たば
    花の色香ぞ現るる


 大正12年9月1日関東大震災により校舎全焼。青空教室。12月現在地に仮校舎。同13年亀沢
3丁目のところにも仮校舎。現在地にプール完成。
 昭和2年鉄筋の新校舎完成。プールも新調。府内でプールのある学校は5校だけだった。当時は生
活苦で昼間働かなければならない児童が多かったので、同8年夜学校を開設。同16年勅令第148
号国民学校令の公布により「東京府東京市二葉国民学校」と改称。同18年都制施行により「東京都
二葉国民学校」と改称。同19年週2回給食開始。同20年3月愚かなアメリカ軍の無差別空爆によ
り校舎全焼、廃校となる。

 [戦後] 復興
 同22年墨田区成立。アメリカの強制による学校教育法施行により「東京都墨田区立二葉小学校」
として復興、緑小学校の3階を借りて授業開始。同29年現在地に3階建ての新校舎が完成し、同3
0年創立50周年記念式典。同33年校内に科学センターができる。同40年校舎東側にあったプー
ルを解体し、南西側に新プール完成。創立60周年記念式典。同45年南側西塀を解体し「緑の塀」
ができる。同47年心障児の「ふたば学級」開設。同49年29年振りに昭和19年度卒業生の卒業
式を行う。同49~51年4階建て新校舎完成。全児童の新校舎移転後、旧校舎解体。創立60周年
記念式典。同57年北側校舎増築。同58年区より「ふたばの木」を受領。これはヒトツバタゴで、
通称「なんじゃもんじゃの木」だ。同60年校庭にジャングラミン(ジャングルジム)完成。創立8
0周年記念式典。同61年コンピュータルーム開設。
 平成元年「ふたば学級」閉鎖。機能は緑小学校に移る。同5年パソコン新調。同7年創立90周年
記念式典。同8年ランチルーム完成。同17年創立100周年に当たり記念式典、祝賀会、展覧会、
大運動会など挙行。

 新校歌「宮居の東」 作詞/作曲・松尾孝輔
  1.宮居の東 鴎飛ぶ
    隅田の流れ近くして
    苦難の跡も晴れ晴れと
    雄雄しく立てり 母校二葉
  2.新しき世に生まれ来て
    幼
(いと)けなき身を清らけく
    朗らに強く伸びよぞと
    勤しみ学ぶ 母校二葉
  3.ああ故郷の空高く
    聳ゆる甍 想い出の
    花美しく咲くところ
    いざ称えなん 母校二葉


 創立70周年記念歌
「のびるふたば」 作詞・野中夫三夫  作曲・渡辺茂
  1.芽が出た 二葉になった
    空に向かって手を広げ
    「おーい」と呼んでみよう
    ぐんぐん伸びるぞ
    二葉の子供は日本の子供
    さあみんなで肩組んで
    ランララン ラン ラン ラン
    ラン ラン ラン
    歩いて行こう みんなの二葉
    のびるふたば
  2.元気だ 若葉になった
    雨も嵐も何のその
    空に枝広げ
    ぐんぐん伸びるぞ
    二葉の子供は世界の子供
    ああ輝く 歴史は続く
    ンララン ラン ラン ラン
    ラン ラン ラン
    歩いて行こう みんなの二葉
    のびるふたば



■稲荷社
 石原2丁目16番5号の角地にある小祠。



■日本海軍駆逐艦「初霜」の主錨
 
 石原2丁目20番1号の新築された山田記念病院の玄関先に飾ってある。敗戦時、日本には33隻
の駆逐艦が残存していたが、殆ど連合国に接収されてしまった。しかし「初霜」は戦後、舞鶴で解体
され、昭和15年当時乗務経験のある元軍医少佐が主錨を引き取り、経営していた病院の玄関に据え
た。「伝統ある帝国海軍の遺産として長く後世に残しておきたい」と記されている。初霜は「初春型
駆逐艦」の4番艦で、昭和9年9月27日に竣工。対米戦では、北はアリューシャン、南は仏印・シ
ンガポール・比島など太平洋全域で勇戦、昭和20年4月菊水作戦で戦艦大和に同行した。7月月3
0日丹後宮津湾で対空戦闘中に触雷して擱坐、任務を終えた。
 なお「軍艦」とは巡洋艦・戦艦・巡洋戦艦・航空戦艦・航空母艦などの大型艦をいい、駆逐艦以下
の艦は「艦艇」と呼び、差別する。自衛隊の護衛艦は正式名称は「警備艦」で、海外では軍艦に分類
されるが、国内では表向き自衛隊は軍隊ではないため「軍艦・艦艇」の別はない。なお殆どの護衛艦
は駆逐艦の機能しか持ち合わせないが、イージス艦となると、重巡洋艦~戦艦の機能を有する。

 
菊水作戦
 
「大和特攻」で知られる作戦。 まさに最後の水上戦力として、戦艦「大和」、軽巡「矢矧」、駆
逐艦「冬月」「磯風」「浜風」「雪風」「朝霜」「初霜」「霞」「涼月」が沖縄決戦支援のため突撃
したが、途中には米空母群(13隻)が待ちかまえていた。坊ノ岬沖海戦と呼ばれるこの海戦は「大
和」爆沈により、米軍の攻撃が終息。結果は「大和」以下6隻の艦艇と3700名に上る戦死者を出
した。生き残った各艦も、「涼月」が被弾2発57名戦死。「冬月」は被弾2発12名戦死。強運の
駆逐艦「雪風」も被弾1発3名戦死と損害を出したが「初霜」は1発の命中弾も受けず、負傷者わず
かに2名を出したに過ぎなかった。6月には「雪風」と共に宮津湾に投錨して本土決戦に備えていた
が、7月敵艦載機が飛来、相手自由の空襲にさらされた。「初霜」は任意擱坐のため湾内を移動中、
触雷し、艦尾から沈み始め遂に擱坐、日本駆逐艦で最後の戦没艦となった。擱坐とは、浅瀬に沈没す
ることで、船体の一部が海面上に露出している状態をいう。



神光山龍聖院法照寺

 石原3丁目10番11号にある真言宗醍醐派成田山の布教所。



■餡無しどらやきの「みよし」 廃業しちゃった!
 石原4丁目24番5号にあった甘納豆屋。「みよしのどらやきの皮は美味しい」ということで始め
た「あんなしどらやき」が一番の人気商品だった。バター、ヨーグルト、マヨネーズなど好みのもの
を付けて食べるのが通なんでい。
 平成20年12月31日諸般の事情により廃業。跡地はマンションになってしまった。


■九重部屋
 石原4丁目22番5号にある高砂一門の相撲部屋。
 11代目
 
昭和34年1月場所限りで引退した出羽部屋(31人目横綱常の花寛市)所属の第41代横綱千代
の山は、一代年寄千代の山を経て11代目年寄九重を襲名して出羽海部屋の部屋付き親方として後進
の指導にあたっていたが、出羽海部屋の後継者として注目されていた。しかし同35年11月に7代
目出羽海(常ノ花)が急死して、13代目武蔵川(元前頭筆頭出羽ノ花)が8代目として部屋を継承
した際も、将来は千代の山の九重が、経験を積んだ後に出羽海部屋を継ぐと目され、九重自身もその
継承を待望していた。

 しかし8代目は後継者を50人目横綱佐田の山に指名したために、九重の9代目出羽の海継承の可
能性はなくなっってしまった。そこで同42年1月場所千秋楽の翌日、九重は大関北の富士ら13人
の内弟子を連れて出羽海部屋からの分家独立を申し出た。当時の出羽海一門は、分家独立を許さない
のが不律律だった。当時8代目が、襲名時点で独立を希望する者がいるならば許可すると部屋の親方
衆に問うたが、千代の山をはじめ、誰一人として申し出た者はいなかったという話もある。
 それはともかく同年1月31日13人の内10人の力士の移籍と九重部屋の分家独立が承認される
とともに、出羽海一門から破門され、出羽海とは無関係の高砂一門への移籍を言い渡された。この時
の寄合では暴力こそなかったものの、脅迫紛いの怒号と罵声が浴びせられたという。
 まあともかく高砂一門となった九重部屋は独立直後の同42年3月場所で、北の富士が幕内最高優
勝、松前山が十両優勝を果たした。
 12代目
 同49年7月場所限りで引退した52人目横綱北の富士勝昭は、年寄井筒を襲名して九重部屋から
分家独立して井筒部屋を創設していたが、同52年1月に11代目(千代の山)が死去したため、同
年11月に12代目九重を襲名して部屋を継承するとともに、井筒部屋の力士全員を九重部屋に移籍
させた。12代目は、先代弟子の千代の富士貢を58人目の横綱に育て、直弟子の北勝海信芳を61
人目の横綱に育て上げた。
 13代目
 平成3年5月場所限りで引退した九重部屋所属の横綱千代の富士は、17代目年寄陣幕を襲名して
九重部屋の部屋付き親方として後進の指導にあたっていたが、同4年4月に12代目九重と名跡交換
するとともに13代目として九重部屋を継承し、18代陣幕となった北の富士は九重部屋の部屋付き
親方になるとともに協会理事の職に専念した。しかし18代陣幕は13代目と仲違いしたため、同5
年10月に八角親方(北勝海)が九重部屋から分家独立して八角部屋を創設する時、九重部屋の部屋
付き親方全員(陣幕、君ヶ浜、谷川、錦戸)が八角部屋に移籍した。そんな騒動も今となっては語り
草となり、現在の九重部屋は、三段目に昇進すると四股名に「千代」の字が付けられ、完全に千代の
富士カラーの部屋となっている(千代の富士の部屋継承以前にも、所属力士の四股名に「千代」の字
が付けられる事が多かった)。13代目は、千代大海を大関にまで育てたが、それに続く関取の育成
が急務となっている。もう無理か?



■錦糸中学校
 (平成29年竪川中学校と統合予定)
 石原4丁目33番14号にある区立校。昭和28年7月1日設置が決定。同29年「東京都墨田区
立錦糸中学校」として開校。同45年創立15周年記念式典。同47年体育館完成。同49年校舎改
築第一期工事完了。同50年校舎改築第二期工事完了。落成式と創立20周年記念式典。同51年プ
ール完成。校庭舗装。

 校歌「清らな朝の」 作詞・  作曲・
  1.清かな朝の風に乗り
    清らに響く鐘の音に
    胸澄み渡り いざ歌え
    調べを合わせ いざ歌え
    輝く希望 高らかに
  2.隅田の河面緩やかに
    青海原に流れ入る
    きららな光 踊り立ち
    喜びここに踊りやち
    豊かな夢を運ぶ波
  3.翳ぬ若い瞳上げ
    仰ぐ大空 雲は行く
    遥かな理想 追い求め
    花さく行手 望む者
    栄えよ錦糸中学校
 



■屋敷稲荷

 石原4丁目35番15号の田中家にある。塀越しに鳥居と社の頭が見える。。



■墨田電話局の慰霊碑

 
石原4丁目36番1号にあるNTT石原ビルの建物の前に白い慰霊碑が立っている。昭和33年3
月10日に建立されたこの碑は、大空襲の夜に業火の中で最後まで電話交換の職務を遂行した殉職者
を慰霊している。時の電話交換手は主に10~20代の若い女性だったが、爆撃下でも重要な通信施
設を守り抜くよう軍から要請されていたため、周囲が火に包まれても職場を放棄せず、最後までブレ
ストと呼ばれる送受器を握り続けた。説明版にはこう書かれている。

   この慰霊碑は、昭和20年3月10日未明の大空襲により当地一帯が焼け野原と化した
   際、電話局も全焼し前夜から勤務していた15歳を最年少とする電話交換手28名及び
   男子職員3名が最後まで職場を守り殉職された。職員の霊と、関東大震災において殉職
   された男子職員2名の霊を慰めるとともに、二度とこのような悲劇の起こらないことを
   祈願して昭和33年3月10日に建立されました。慰霊碑右手前には吉川英治氏の自筆
   による碑文があります。
   昭和59年年3月10日                      墨田電話局


 吉川英治の碑文は次の通り。

   春秋の歩み文化の進展はその早さその恩恵に馴るゝ侭(まま)つい吾人(ごじん)をして
   過去の尊いものをも忘れしむる こゝ百尺の浄地ハ 大正十二年九月一日関東大震災殉
   職者二名と また過ぐる昭和二十年三月九日夜半における大戦の大空襲下に 国を愛す
   る清純と自らの使命の為 ブレストも身に離たず 劫火のうちに相擁して仆(たお)れ
   た主事以下の男職員三名 ならびに女子交換手二十八名が その崇高な殉職の死を 永
   遠となした跡である 当時の墨田分局 いま復興を一新して その竣工の慶を茲(ここ)
   に見るの日 想いをまた春草の下に垂れて かっての可憐なる女らや ほか諸霊にたい
   し 痛惜の悼みを新たにそゝがずにいられない 人々よ 日常機縁の間 ふとここに佇
   む折もあらば また何とぞ 一顧の歴史と 寸時の祈念とを惜しませ給うな
                                  吉川英治 謹撰


 その脇の石碑に元職員の富沢きみが84歳の時に書いた、


   平和の尊さを おろそかにしてはなりません 
   そして 世界の平和こそが 最大 最高の幸に つながる事を


 
との言葉が刻まれている。昭和20年3月9日夜の空襲で中央電話局墨田分局の殉職した交換手た
ち31人の慰霊のために、富沢が一人奔走して日本電電が建てたものだ。





【押上】(おしあげ)1~3丁目                 最終昭和40年7月1日
 押上村。明治11年「郡区町村編制法」により南葛飾郡所属。同22年「市制町村制」により本
所区編入。同24年向島須崎町・向島請地町・向島押上町・柳島元町・中ノ郷業平町・押上町に分
散。昭和39年7月1日向島中ノ郷町と向島押上町の全部、小梅1丁目・向島請地町・吾嬬町西1
~2丁目・寺島町4丁目の各一部をあわせて現行の「押上1~2丁目」とし、同40年寺島町4丁
目・吾嬬町西1丁目の各一部を二丁目に編入、吾嬬町西1・2丁目の各一部をあわせた町域を現行
の「押上3丁目」とした。飛地が亀戸村内にあったが現在は亀戸1~2丁目になっている。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『墨田区史』『墨田の歴史』など。

 
押上の由来 発見
 村域は北十間川の南北に位置するが村名の由来は判らない。何かが押し上がったか、何かを押し
上げたかだが、そこが問題だ。『江戸東京地名辞典』は「何らかの事由で土砂が押し上げられ堆積
した土地をいったものではなかろうか」と説明しているが、地形的には江東デルタの一部で褶曲に
よる盛り上がりは見られない。
                     *
 
と書いて、平成18年3月ブラリと自転車散策をしてたら、業平の押上天祖神社の裏手に
出た。通り過ぎようかと思ったが、それは「礼を欠くなぁ」と思い直してお参りしたら、そ
の曰く因縁が「洪水の時にご神体が押し上げられたので、村人がそれを祀って村の鎮守とし
た」という。押し上げられたのは神様なんだよ。大発見、大発見。犬も歩けば棒に当たるぜ。




■生コンクリート工場発祥の地
 押上1丁目1番にある。
未利用地がたくさんある中で、京成橋に向かい合う京成電鉄本社ビルの西
側に複数の生コンクリート工場がならんでいる。その一つが東京エスオーシー で、その工場の道路に
面した側に発祥碑が建っている。

   生コンクリート工場発祥の地
   昭和24年11月、当社の前身である磐城コンクリート工業株式会社が、当地で我が国初
   めての生コンクリート工場の操業を開始しました。
   東京エスオーシー株式会社 業平橋工場 50周年記念
   平成11年11月
   強度150N/mm2のコンクリートで作成しました。


 生コンクリートは「レディーミクストコンクリート」のことで、「レミコン」とも呼ばれるが、通
常は「生コン」と略称される。
 かつてコンクリートは、建築現場でセメント・砂・水を混ぜて作っていたが、磐城セメント(株)〔現
在の住友大阪セメント(株)〕が、昭和24年に東京コンクリー工業(株)を設立し工場でセメントの製
造を行ない、専用の運搬車で建築現場に運搬する、いわゆる 生コンクリートの工場生産が始まった。
初期にはダンプカーで運搬していたが、運搬途中に生コンの分離が起こるため現場で練り直すなどの
手間をかけていた。 その後現在使われているミキサー車が開発されて、昭和27年ごろから使用され
るようになり、生コンが急速に普及した。

 東京エスオーシー
 関東スミセ生コンと関東大阪生コンクリートの営業を譲り受け、住友大阪セメント株式会社の直系
生コンメーカーとして平成9年4月1日に発足した。芝浦工場と業平橋工場の2工場を有しており、
芝浦工場は、関東スミセ生コン株式会社の主力工場である深川工場と関東大阪生コンクリート株式会
社の主力工場である芝浦工場を集約化し、6000㍑の最新設備を備えた都心部への供給拠点工場で、
業平橋工場は、日本初の生コン工場として昭和24年に操業し、50年以上もの歴史ある工場として
実績を積み重ねた、主として東京の東部地区の供給工場だ。東京エスオーシーは、首都圏における住
友大阪セメントの生コン事業の中核をなしている。
 で、この辺りに「第二東京タワー」が建つってえと、この工場も何れは移転を迫られるわなぁ。

 平成19年10月業平橋工場閉鎖に伴い碑は
撤去保管された。

 再設置
 平成24年5月18日間もなく東京スカイツリー開業というこの日、撤去保管されていた発祥の地
碑が、再設置された。この碑は、住友大阪セメントが、昭和24年に東武鉄道業平橋駅構内に設立し
た日本初の生コンクリート工場を記念し、工場の操業50周年に当たる平成11年11月に建立した
ものだ。同工場は、東京スカイツリー建設のため、平成19年10月に閉鎖、記念碑も一時的に移設
保管していたが、東京スカイツリーの完成により、旧の位置に近い、ソラマチのある建物の南側に再
設置された。



 新東京タワー
第二東京タワー計画決定
 デジタル放送に完全移行する平成23年完成を目指してNHKと民放5局がプロジェクトを構築、
東京タワーでは対応不可能な電波障害を解消し、平成18年4月1日から開始の地上デジタル放送の
目玉となる携帯端末向け放送(1セグ)の直接受信環境を整える。予定地


   1丁目1番~10番(2~8番欠番)東武伊勢崎線業平橋駅南の東武鉄道所有地。

 東武も参画する。元々第一候補だったが、平成18年3月25日決定した。
 完成すれば高さ610m、カナダトロントのCNタワー553mを抜いてトップとなる。展望台は
350mと450mというから低いほうでも東京タワーの先端より高い。東京の大観望だ。完成した
ら六本木ヒルズどころじゃない。世界中からの観光客がどっと墨田区へ押し寄せる・・・向島は大都
会になっちまうぜ!
 ということは、今から考えとけよ。商機到来だ!。展望台から富士山だって見えるんだ。まず不動
産、土地の値上がりは必至だ。駐車場が足らなくなる。次は食い物関係だ。神社仏閣、観光施設、文
化財の周辺整備、それから泥棒空き巣狙いが急増する。向島のサクラ、両国の花火の季節には人と車
が大挙押し寄せて身動きならなくなる。静けさを堪能するなら、今のうちだぞ。周辺も見逃せない。
浅草周辺は爆発するだろう。荒川・葛飾・江東の3区、さらに将来は足立・江戸川へと広がる。恩恵
がないのが西半16区だ。


 1セグ(ワンセグ)
 地上デジタル放送のモバイル機器向け放送のこと。地上デジタル放送の番組が、携帯電話などを使っ
て、外出先・通勤途中で楽しめるサービスだ。1セグメント放送、1セグ放送ともいう。平成18年
4月1日から放送開始。地上デジタル放送では、一つのチャンネルが13セグメントに分かれた構造
になっている。その内ハイビジョン放送(HDTV)では12セグメント、標準画質の放送(SDT
V)では4セグメント割り当てられている。モバイル機器(主に携帯電話)向けは画面が小さく低画
質・低音質でよいため、1セグメントが割り当てられているところから、「1セグメント放送」と呼
ばれる。しかし同17年9月末「1セグメント放送」から、正式に「ワンセグ」というサービス名称
に決定、持ち運びできる新しいメディアとして期待される。


 
ワンセグモバイル
 通常のテレビとの違いは、移動しながらでもテレビ映像が乱れずに受信できることだ。また地上デ
ジタル放送と同じく、番組に関する情報を配信するデータ放送もある。番組はサイマル放送。通常画
質やハイビジョン放送の番組を携帯電話向けに流すように定められてる。ニュースや天気予報が主に
視聴されそうだ。将来サイマル放送がなくなり、ワンセグ専用のドラマの放映も可能性としてはある。
NHK朝の連続テレビ小説のような短時間ドラマなんぞいいかもしれない。受信する機器は主にケー
タイだ。ケータイでワンセグを受信できるよう各携帯電話会社・各メーカーが開発中です。iPod
などの音楽プレーヤー、ゲーム機などでも受信できるようになる。そしてこれら受信する機器を通称
「ワンセグモバイル」と呼ぶ。




新東京タワーデザイン決定!
 平成18年11月24日「新東京タワー」の事業主体である東武鉄道<9001>と同社が全額出資
する新東京タワー(東京都墨田区、宮杉欣也社長)が、新タワーのデザイン案を発表した。デザイン
監修は、元東京芸術大学学長で彫刻家の澄川喜一と、建築家で東京大学名誉教授の安藤忠雄が手がけ
た。東武鉄道は「地域とともに活力のある街づくりに貢献」をはじめとする、新タワーの3つの基本
理念に沿った人選だとしている。基本設計は日建設計に委託するそうだ。
 新タワーは首都圏の地上デジタル放送用電波塔。高さは従来の計画通り地上610mで、日本刀や
伝統的な日本建築にみられる緩やかな曲線「そり」と「むくり」を意識し、タワーの頂上から足元に
向かって連続的に変化するデザインとした。展望台も計画通り地上350mと450mの2ヶ所に設
ける。また足元部分を三角形で構成することで、周辺への圧迫感に配慮しつつタワーの安定が得られ
るように工夫した。
 デザインコンセプトは、時空を超えた都市景観の創造・まちの活性化への起爆剤・都市防災「安全
と安心」への貢献──の3点。日本の伝統美と近未来的デザインの融合や、新タワー周辺地域の活性
化、耐震性や耐風性に優れた構造などを目指している。
 同デザイン案は建築家の安藤忠雄と彫刻家の澄川喜一(元東京芸大学長)が監修した。東武と新東
京タワーでは、両社が7月に行ったアンケート結果も2人と設計を担当した日建設計(東京都千代田
区、中村光男社長)に伝えたという。
 アンケート結果(応募総数5079人)によると、「新タワーに求めるもの」は「景観との調和」
が3281人でトップ。「デザインのモチーフ」は「未来的」「日本的」といった項目に票が集まっ
た。「新タワー周辺に欲しい施設」では「ショッピングモール」、「美術館・博物館・水族館」を望
む声が多かった。東武と新東京タワーは今後、平成18年度中に基本設計を終え、同19年度に実施
設計、同20年度に着工し、地上波放送がデジタル放送へ完全移行する同23年度中の開業を目指す。
 5年後人は墨田区に動く。六本木ヒルズは過去の遺物となって閑古鳥がなく。商機を動かす者が勝
利者だ。六本木への未練を断ち切って、上野・浅草・新タワーだ!



■新東京タワーの名称6候補が決定
 平成20年3月19日東武鉄道と新東京タワーは、同年1月から建設を開始した「第二東京タワー
(新東京タワー)」の6つの名称候補を発表した。4月1日から5月30日まで、インターネットや
はがきで全国から投票を受け付け、6月に正式に決定する。名称案は昨年10~11月に募集。18
606件の中から、有識者らで作る検討委員会が以下の6候補に絞った。
   東京EDOタワー
   東京スカイツリー
   みらいタワー
   ゆめみやぐら
   ライジングイーストタワー
   ライジングタワー



東京スカイツリー

 新東京タワーの名称が「東京スカイツリー」に決定
 押上1丁目1番1号。平成20年6月10日東武鉄道は同24年に開業予定の地上デジタル放送用
タワーの名称が、投票の結果「東京スカイツリー」に決まったと発表した。得票数は、東京スカイツ
リー(32699票)次点は東京EDOタワー(31185票)。以下ライジングタワー(1553
9票)・ゆめみやぐら(9942票)・ライジングイーストタワー(6426票)。
 決定した名称について、東武タワースカイツリーの宮杉欣也社長は「空に向かって伸びる大きな木
をイメージした名前。ツリー(木)のそばに人々が集まり、心を寄せ合う豊かなコミニュティを形成し
たい。日立製作所のCМで〝この木なんの木、気になる木♪〟というものがあるが、あの木のような
存在をイメージして欲しい」と名前に込められた願いを語った。
 なお総投票数110419票(有効投票109706票)の男女比は、男性が53.4%、女性が4
4.9%、不明が1.7%。新タワー名称検討委員会の一員で、作詞家の阿木耀子は、

   こうした投票で、男性の比率が多いのは珍しいこと。決定したスカイツリーという名前
   をこうして改めて見ると、〝やっぱりこれだったんだ〟という思い


 と感想を述べたとか。



■29年前の予言?

 墨田区の小学生が29年前に描いた「未来の墨田」の絵に、区内で建設が進む「東京スカイツリー」
(高さ約610メートル)のようなタワーが描かれていたことが判った。複数の子どもの合作とみら
れ、同区は未来図をズバリ的中させた想像力の持ち主を探している。
 絵は昭和54年11月区が国際児童年を記念して開いた「子ども会大会」で、「未来の墨田―21
世紀の私たちの町をえがこう」というテーマで企画した作品展の応募作。翌55年に策定された「区
基本構想」の概要版パンフレットの表紙にも採用された。絵には、実際の建設地から約2.7km北の
東武伊勢崎線鐘ヶ淵駅近くの未来の姿が描かれている。飛行場や街を行き交うモノレール、建ち並ぶ
団地、プラスチックやゴム工場――。細部まで緻密に描かれた未来の街の真ん中に4本の長い脚で支
えられたロケット様のタワーが聳え立ち、大きく「墨田タワー」と書かれている。
 実は、この絵が再び脚光を浴びたのは平成17年11月、同区が25年ぶりに基本構想を改定した
際、職員が古いパンフレットを見つけたことがきっかけだった。区は当時、新タワーの誘致合戦を繰
り広げていたため、「誘致成功を予言した絵。縁起がいい」と話題になった。作者の手がかりは古い
資料にもなく、唯一得られたのは「複数の児童による合作だったと思う」という、かつての担当者の
おぼろげな記憶だけ。区長は「3年後のスカイツリー完成まで、諦めずに探したい。絵に見覚えのあ
る人はご一報を」と話している。

 判明
 29年前に東京スカイツリーのような長い4本足の「墨田タワー」を描いた元少年たちが名乗り出
た。〝予言〟を残した小学生の一人は既にこの世になく、両親は息子の残していた贈り物に感無量の
様子だったという。埼玉県秩父市の池田嚆八(こうはち 75歳)が約3年間に亘って管理人を務め
たマンションは、墨田5丁目の都営団地前に現在もある。絵の右上に、マンションの姿もしっかり描
かれている。区の広報誌で、子供の絵の募集記事を読んだ池田が、「未来の町を描いてみない?」と
仲良くなった子供たちにペンと模造紙を渡した。「テレビゲームが普及する前の子供たちは、面白い
変わったことがあると夢中になってやった」と笑う。29年の歳月を超えて、薄れゆく記憶をたぐり
寄せたのは、絵に刻まれた街の姿だった。「昨年暮れ、テレビであの絵を見て『あれ?』と思い、区
役所に(自分の絵ではないかと)電話した」。埼玉県越谷市の西田裕延(41歳)の脳裏には、鐘ヶ
淵駅と電車を描いた記憶がおぼろげに浮かんでいた。決め手は、駅のガード下に描かれた「あけぼの
書店」の看板。一緒に描いた親友岡田順二の両親が経営していた店だ。「あけぼの書店」は平成20
年までの55年間、同駅近くで営業していた。両親の岡田正男(75)と美江子(69)は、順二の
遺影と共に山崎昇区長を訪ねた。順二はネパールで教師になるのが夢だったといい、勉強しながら北
海道のスキー場で働いていた平成13年、バイク事故で命を落とした。「順二は絵が好きでした。生
きていれば自分で描いたかどうか分かるのですが、西田君が『一緒に描いた』と言うので」。そう語
ると、正男さんはいとおしそうにじっと絵を見つめていた。(読売新聞の記事より)


 全高

 平成23年の完成時点で、自立式鉄塔としては、キエフテレビタワーの385mを上回る世界第1
位。自立式建築物としては建設中の広州テレビ・観光塔の610mを上回り、ブルジュ・ドバイの8
18mに次ぐ世界第2位となる予定。都心部で立ち並ぶ200m級の超高層ビルの影響を受けない高
さとして、NHKと在京民放キー局5社が「600m」という数字を要請した。建設計画を策定する
中で当時世界一の高さであったカナダ国オンタリオ州トロントにあるCNタワーを上回る高さとして
アメリカのシカゴに建設予定で、現在凍結中の「シカゴ・スパイア」のアンテナを含めた高さが約2
000フィート(約609.6m)だったため、「610m」という数字になったという。
 構想段階では世界一高い建造物を目指していたが、完成時の高さを非公開にして建設していたブル
ジュ・ハリファ(建設中はブルジュ・ドバイ)が高さ828mで完成した。この高さを超えるように
計画は修正されていないため、世界一高い建造物にはならない予定。
 平成21年10月16日計画を修正し全高634mを目指すことを発表した。数字には「むさし」
「武蔵」の語呂合わせも考慮したとしている。裏には建設中の中国広州テレビ観光塔が同じ610m
であるため、高さ修正をせざるを得ない事情があったとか。検討段階では東京タワーの倍の666m
という数字も出たが、結局「武蔵」に拘って634mに落ち着いた。

 設計概要
 敷地面積 36900㎡(但し タワー+東西街区)。
 高さ 634m。
 構造、鉄骨造り・鉄骨鉄筋コンクリート造り・鉄筋コンクリート造り。
 基礎工法 場所打杭、地中連続壁杭。工期 平成20年7月~同24年2月
 建築主体 東武鉄道株式会社・東武タワースカイツリー株式会社
 設計監理 株式会社日建設計
 施工   株式会社大林組


 カラーデザイン
 周辺の景観との調和および名称やデザインコンセプト「時空を超えた都市景観の創造:日本の伝統
美と近未来的デザインの融合」を考慮したオリジナルカラー「スカイツリーホワイト」だ。但しホワ
イトといっても「純白」ではない。日本の伝統色、最も薄い藍染の色である「藍白(あいじろ)」を
ベースにしたオリジナルカラーだ。スカイツリーホワイトも、白を基調に藍染職人の技法に倣い、タ
ワーの白に青みを加えており、白磁のようにかすかに青みがかった白が、繊細な輝きを放つ。日本の
伝統工芸である藍染において職人の手により作りだされる色からは、タワーの立つ下町に受け継がれ
る職人文化がタワーと出会うことで創造する新たな文化の幕開けを感じさる。「スカイツリーホワイ
ト」を身に纏うタワーは、東京の下町の青い空に映え、時空を超えてより鮮やかに輝いていくことだ
ろう。

 デザインコンセプト
 空に向かって伸びる大きな木をイメージしている。シルエットは、伝統的日本建築などにみられる
「反り」や「起(むく)り」を意識し、大きな木の下に、人々が集い、心を寄せ合う様子を表してい
る。名前そのものから連想される澄んだ空と木々の豊かな緑も「人に地球にやさしい、豊かなコミュ
ニティ」を目指した、この街全体の開発コンセプトを表したもので、タワーの元に環境に優しい街が
生まれ、世界の人々が集い、新しい文化が創造されていく、という願いが込められている。タワーの
足元は三角形となっており、圧迫感の低減や日影等の影響にも配慮している。さらに、頂部に向けて
円形へと変化し、見る角度や眺める場所によって多様な表情を持っている。
 実は、「楚々とした日本女性の和服姿」が基本イメージだということだ。


 安全祈願祭
 東武鉄道などは、平成20年7月14日、地上デジタル放送の電波塔として建設する世界最大級の
「東京スカイツリー」の工事に着手、現地で安全祈願祭を行った。設費用は約600億円で12年春
に開業予定。安全祈願祭では、東武鉄道の根津嘉澄社長や放送事業関係者ら約100人が集まり鍬入
れや神事を実施、工事の無事を祈った。その後、区内のホテルで起工式典も開催された。

 建設工事
 決定前の平成17年2月には基礎整備工事は始まっていた。同18年4月に正式決定があると、建
設予定地はパネル枠で囲まれ中が覗けないようにされた。無味乾燥な白いパネルの壁。一般国民をバ
カにして跳ね除けるかのように感じさせたが、やがて気づいたのか予定通りだったのか、絵や案内が
描かれた。南側では江戸時代のこの辺りのことや新東京タワーのことが、絵・写真・文で説明された
(現在撤去)。基礎基盤工事が始まり、同21年3月基礎工事完了、直ちにタワー建設、下部構造組
み立て工事が始まった。周辺環境は日に日に変わっているので、見学者は注意が必要。
 同21年4月末で30mほどが建ち上がり、
   6月23日  50m。  7月22日  76m。  7月31日  93m。
   8月 7日 105m。  8月21日 118m。  8月28日 126m。
   9月18日 153m。  9月25日 161m。
  10月 2日 164m。 10月16日 174m。 10月23日 183m。
  10月30日 191m。 11月10日 205m。 11月20日 215m。
  11月27日 224m。 12月 4日 231m。 12月11日 235m。
  12月18日 245m。 12月25日 254m。 12月 7日 231m。
  年末には250mに達した。
 同22年1月20日274m(我が家から初めて確認。11月には見えていたものと思う)。上部
に行くほど鉄骨量は逓減するので、組み立てスピードはアップする。
   1月 8日 264m。  1月15日 274m。  1月22日 281m。
   2月 1日 284m。  2月 5日 289m。  2月10日 291m。
   2月13日 294m。  2月16日 303m。  2月27日 304m。
   3月06日 311m。  3月13日 318m。  3月20日 328m。
   3月29日 338m(東京タワー333m超え)。
   4月10日 349m。  4月24日 358m。  5月 1日 368m。
   5月15日 379m。  5月22日 389m。  5月29日 398m。
   7月30日 408m。  8月14日 418m。  8月21日 428m。
   8月28日 438m。
   9月 4日 448m(エンパイヤーステートビル443m・1454t超え)。
   9月11日 461m(対馬オメガ局電波鉄塔455m超え)。
   9月22日 470m  10月 2日 478m。 10月 9日 488m。
  10月23日 497m(鉄塔部分完了)。
  12月 1日 511m(ゲイン塔とアンテナ部がドッキング)
  12月11日 514m  12月18日 529m  12月25日 539m。
 同23年1月 8日549m。
   1月15日 559m(カナダタワー553m超え)。 1月29日 569m。
   2月 5日 574m   2月12日 584m   2月19日 594m。
   3月 1日 604m(13時29分に601mに達した)
   3月 5日 609m   3月12日 625m
   3月19日 634m(13時34分最高点に達した)
   5月23日 クライミングクレーン4基の解体開始~7月中旬。
 同24年1月29日タワー完成。2月29日付属施設完成。3月2日竣工式・引渡式。

 東武鉄道は2月9日、スカイツリー内の施設の名称や、東武伊勢崎線一部区間に新たに命名する愛
称などを同時に発表。東武関連施設にツリーのネーミングを鏤めることで、グループを挙げて世界一
高い自立式電波塔を東京のランドマークに定着させる考えだ。
 また3月17日からスカイツリー西側の最寄駅、伊勢崎線「業平橋駅」を「とうきょうスカイツリ
ー駅」と改称するほか、同線の浅草・押上-東武動物公園間の愛称を「東武スカイツリーライン」と
しスカイツリーに繋がる路線であることを前面にアピールする。
 ツリー東側の最寄駅の押上駅では、開業日までに副駅名に「スカイツリー前」と記すことにした。

 送信塔
 FM放送
 在京FM局のうちJ‐WAVEとNHK東京FMの2局が先行する形で東京タワーからの送信所移
転を申請、平成23年2月3日に変更許可が下り、同24年4月23日より本放送を開始した。同時
にNHK‐FM放送を使用したVICSの文字多重放送についても道路交通情報通信システムセンタ
ーが申請を行い、前2局と共に変更許可を得ている。
 東京タワーでの放送時の空中線電力は10Kwだったが、高所設置に伴うスピルオーバーを防ぐた
、東京スカイツリーでの空中線電力は7Kwに減力されている。
 InterFMならびに放送大学(JOUD‐FM)、TOKYO‐FMは従来どおり東京タワー
から送信され、東京スカイツリーからは送信されない。
 マルチメディア放送
 mmbi及びジャパン・モバイルキャスティングによる携帯端末向けマルチメディア放送(VHF
-HIGT帯)「モバキャス」はスカイツリーに4段16面のアンテナを設置、スカイツリーからの
送信で関東全域約1600万世帯をカバーできるとしている。平成23年9月14日に電波監理審議
会から予備免許を交付することが適当であると答申を受け、翌15日に予備免許の交付を行った。同
24年4月1日にmmbiが運営するNOTTVが放送を開始、東京スカイツリー初の本放送送信局
となった。

 タクシー無線集中基地局
 特別区・武三交通圏(23区・武蔵野市・三鷹市)を営業エリアに持つタクシー各社は、現在港区
赤坂の国際新赤坂ビルに集中基地局を設置しているが、都内各地で高層ビルが相次いで建設されてい
ることで不感地帯が増加してきている。そのため、東京スカイツリーへの移転が行われることとなり
同23年10月から1ヶ月間、地上300mの位置にアンテナを設置し、昼間の時間帯に試験電波を
発信、同24年3月より業務無線の運用を順次開始し5月から本運用に入った。
 地上デジタルテレビジョン放送
 NHK東京総合。NHK東京Eテレビ・NTV日本テレビ放送網・EXテレビ朝日・TBSテレビ
・TXテレビ東京・CXフジテレビジョン・TOKYMXが放送。1年ほどの試験放送を経て、本格
放送に入る。つまりどんな問題が生じるかのチェックだ。

 観光施設
 第1展望台(350m)は「天望デッキ」、江戸東京野菜などを提供するスカイレストランは「6
34(むさし)」と命名され、オリジナルドリンクを提供する「スカイツリーカフェ」などが入居。レ
ストランでの食事を予約すれば入場券はついてくる。
 さてさらに上を目指すには「天望シャトル」と名づけられたエレベーターに乗る。天井も四囲もシ
ースルーになっていて、景色が眺められる。で、到着したところがフロア445、第2展望台「天望
回廊」(最高地点451m20cm)だ。周囲110mの回廊を歩くことで空中から首都圏を見渡す
ことができる。

 ライトアップ
 パナソニック電工は、「東京スカイツリー」に関して、ライトアップ用の照明メーカーに決定した
と発表、タワー専用の照明器具を全て「LED」で開発を進めていく。使用される器具は約2000
台。同タワーでは、「永遠に続く江戸の心を光で表現する」ことを目的に、隅田川をモチーフとした
水色の「粋」と、気品のある江戸紫という色を使用した「雅」という2パターンのライトアップを1
日毎に行なうことになっている。また富士山のような冠雪をイメージし、頂上部を白く光らせる「光
の冠雪」や、展望台の周囲を一定の早さで光が回転する「時を刻む光」、タワーの上方と下方から光
を重ねることで、〝そり〟と〝むくり〟を強調するライトアップも展開される。色の変化は14種類
にも及ぶ。
 東京タワースカイツリーの藤井角也代表取締役専務は、照明をパナソニック電工に決定した理由に
ついて「技術面、金額面を総合的に判断した」と説明。パナソニック電工の長榮周作代表取締役専務
は、「照明事業を始めて58年目。その間に培ってきたハードとソフトの技術を使い、省エネ性、コ
ンパクトさ、耐久性を最大限に考慮した物作りをしていく。〝パナソニック電工にしてよかった〟と
思われるライトアップにしたい」と意気込みを語った。
    

 平成24年5月22日開業
 この日は生憎の雨。前の日も翌日も晴れ、皮肉なものだね。10時から開業記念式典が行われ、1
2時から一般の予約客に展望台が解放された。しかし天候は回復せず、午後5時展望デッキ(第一展
望台)と展望回廊(第二展望台)を結ぶ展望シャトル(エレベーター)が強風のため安全を考慮して
ストップ、展望回廊に約200人が取り残された。30分後、下りのみを稼動させ、取り残された客
を下ろし事なきを得た。午後7時半早々と展望台の営業を中止し安全に備えた。
 レストラン「634(むさし)」を予約してた客は困っちゃっただろうね。翌日ってことの利かない
人もいたんじゃない? 返金すりゃあいいってもんじゃないからね。初日はたった一日しかないんだ
しねぇ。レストランだって困っちゃったろうに、消費されなくて捨てなくちゃならない鮮度物もある
だろうし、ねぇ。 



■東京ソラマチ
 
押上1丁目1番2号にある広大な商業施設。平成24年5月22日開業。東京スカイツリー駅(旧
業平橋駅)と押上(東京スカイツリー前駅)を繋ぐ東西長さ400mに亘る「タワーのある町」のス
タート。

  敷地面積 約36900㎡ 建設面積 31600㎡
  延床面積 約230000㎡(タワー部分含む)
  SC面積 約52000㎡
  建物規模 東街区 地上31階、地下3階
       西街区 地上7階、地下2階
 駐車場台数 約1000
 駐輪場台数 約2000
  使用用途 電波塔、展示場(展望台)、商業施設(国内最大312店舗)、水族館、ドームシア
       ター、スクール、オフィス、地域冷暖房施設、駐車場

 1階 クリエイティブ、デイリー雑貨、ライフスタイル雑貨、カフェ
 2階 食品スイーツ、ファッションとライフスタイル雑貨
 3階 フードコート、ファッションとライフスタイル雑貨
 4階 レストラン、キャラクター雑貨、タワー出発ロビー、スーベニアとライフスタイル雑貨
 5階 水族館、タワー到着ロビー、観光、イベントスペース
 6階 水族館、レストラン
 7階 ドームシアター、レストラン
 8階~29階 オフィス、スクール他 イーストタワー
 31・32階 ダイニングレストラン
 イーストタワー

 312店舗もあるから多士済々。コンビニは当然として、魚屋、飲み屋、一膳飯と何でもある、

 すみだ水族館
 大成建設株式会社の人工海水製造システムにより、水槽内の水の完全人工海水化(淡水は除く)
を実現した。これは、オリックス不動産が運営する、平成24年3月14日に開業した京都水族館
(京都府京都市下京区観喜寺町35‐1)に次いで国内で2番目、関東では初の施設だ。内陸型水
族館の課題だった、大型車両による海水運搬時に発生するCO2の発生を抑え、さらに年間を通し
て一定の水質を維持できるため、水槽内の生物にとっても快適な環境を提供することが可能になっ
た。ウエストヤードの5・6階の2層からなる水族館。上下フロアの繋がりは、3つのルートから
成り、それぞれに楽しみ方が異なる。決められた順路は無く、何度も行き来し、心行くまで水族館
内を回遊し、様々な角度や視点で水槽を鑑賞することができる。客一人ひとりがそれぞれの楽しみ
方で鑑賞できる。国内最大級の屋内開放水槽では、間近でペンギンやオットセイを見ることができ
る。またバックヤードを見せるゾーンも設け、飼育現場を見ることもできる。スタッフとのコミュ
ニケーションは歓迎され、飼育スタッフと客との隔たりもなくし丁寧な説明がある。客、生物、ス
タッフが、空気を通して繋がっている感覚を体感させてくれる。

 コニカミノルタプラネタリウム「天空」
 日常を離れた幻想的な空間で、星空の感動を。
待ち合わせスペースに利用できるホワイエは、ブ
ルーとホワイトの光の幻想的な演出により、宇宙旅行への期待が高まる。ホワイエから繋がるトン
ネルを抜けるとプラネタリウムドームが広がり、いよいよ宇宙空間へ出発だ。作品をより楽しんで
もらうため、座席を階段状に設置。そのため死角が無く、作品に集中でき、より星空の世界を体感
できる。さらにリラックスして鑑賞するよう、座席は全天を見渡せるリクライニングシートになっ
ている。家族や恋人、友達と星空散歩を楽しんでみたら
   
 




■業平橋駅 → とうきょうスカイツリー駅
 押上1丁目1番4号にある東武伊勢崎線の停車場。業平橋駅は明治35年4月1日に開業した駅。
戦前の一時期営業していなかった期間もあったが、昭和6年に現在の浅草駅が開業するまでは東武の
起点を務めていた。明治43年から昭和6年までは「浅草駅」を名乗っていたこともある。平成24
年1月20日に東京スカイツリーが完成、5月22日に開業するのを受けて、3月17日「とうきょ
うスカイツリー駅」と改称。4月20日改装工事完了。リニューアル・オープン。
 ホームは高架島式1面2線構造。古くて全体的にくたびれた印象のある駅だが、ホームと改札階を
結ぶエレベーターは設置済みだ。改札口・出口は1ヶ所のみで地上1階にある。平成15年の半蔵門
線全通以前には地上にも頭端式2面3線のホームがあり、浅草駅に入れない10両編成の電車は業平
橋を始発・終着としていた。また都営・京成の押上駅との間に連絡地下通路も設けられていた。しか
し半蔵門線が開業して10両編成の電車がそちらに直通するようになると、業平橋駅の地上ホームと
連絡通路はいずれも廃止された。現在では浅草始発の普通・準急電車が細々と発着するのみとなって
いる。

 
安全地蔵尊
 押上1丁目1番の西北角、東武線業平橋駅の改札を出てすぐ北側、線路沿いの細い道に入る角に、
小さな地蔵尊がある。とてもひっそりとあるので、毎日この駅を利用する人でも、殆どの人は気づい
てないかもしれない。この駅は、かつては始発駅で明治35年「吾妻橋」といった。同43年「浅草
駅」に改称、昭和6年「浅草雷門駅」が開業して現行の「業平橋駅」となった。
 地蔵はその駅の横っちょにあるのだが、誰かが意思を持って建てたものではないのだ。実はこのお
地蔵さんはどこに建っていたのかも判らないし、どこかの子供の墓だったかも知れないのだ。昭和3
4年建設資材に混じって貨車に揺られてこの駅に辿り着いた。誰かが捨てたものか、遠い昔に埋もれ
たものが掘り返されたかしたものなのだ。しかし駅では、近年構内で出た子供の事故犠牲者や工事中
の殉難者、また大戦中駅で空襲に遭い死亡したことなども考え合わせて、駅で祭ることとし、同39
構内や道路での交通安全を願って当時の駅長がここに安置したものなのだ。それからは5月4日を
例祭としている。

   安全地蔵尊の由来
    この地蔵尊は、昭和34年9月、何処からともなく貨車によって運ばれてきた石や砂の
   中からお姿を現したものですが、もとの安置場所や建立年代が定かでなく、しばらく駅構
   内に仮安置されていました。かって業平橋駅構内およびその付近では空襲による犠牲者が
   少なからず、これに思い致された人々が平和への祈りと、道路や線路の安全への願いを込
   めて昭和39年4月24日に「安全地蔵尊」としてこの地に安置されました。
   永い風雪にさらされたためか、昭和60年12月地蔵尊のお姿が見えなくなってしまいま
   したが、人々の落胆ぶりを見て鈴木栄三郎氏がご尊体を寄進し入仏の儀を行い新たに、こ
   の地に安置され現在に至っております。ここに関係者のご好意に感謝し、永く皆様に親し
   まれますよう念願いたします。
   昭和61年5月吉日                          業平橋駅長




■押上駅
 押上1丁目1番65号にある東京メトロの地下停車場。

■押上駅
 押上1丁目8番21号にある都営地下鉄浅草線の地下停車場。

■押上駅 → 押上(スカイツリー前)駅
 押上1丁目10番2号にある京成押上線の地下停車場。京成電鉄は大正元年、押上~江戸川・柴又
間を開通させたのがその始まり。京成上野にターミナルの座を奪われたのは昭和8年なので、それまで
は押上が京成の起点駅だった。押上は都心から遠いため、本当は浅草にターミナルを置きたかったの
だが、東武に先を越されたために断念した。
 昭和35年12月4日都営浅草線浅草橋~押上間が開通し、相互乗り入れを開始してやっと悲願が
達成したことになる。これは、わが国初めての地下鉄相互乗り入れだ。
 それからだいぶ後年になり、平成15年3月19日半蔵門線が水天宮前~押上間を開通させて全通。
それと同時に東武が押上~曳舟間に連絡線を設け、直通運転を開始した。それに伴い、それまで押上
駅と業平橋駅を結んでいた地下連絡通路は閉鎖された。同24年1月29日に東京スカイツリーが完
成、5月22日に開業するのを受けて、3月17日「東京スカイツリー駅」と改称した。
 京成・都営と東京メトロ・東武がそれぞれ別のホームを持っており、前者は地下1階に島式2面4
線、後者は地下3階に島式2面4線のホームを持つ。ホームと改札階を結ぶエレベーターは、全ての
ホームに設置されている。
 京成・都営と東京メトロ・東武ともに、2ヶ所ずつ計4ヶ所の改札口を持つ。全ての改札は地下2
階にあり、地下1階にある京成・都営ホームからはいったん下に降りる形になる。
出口は6ヶ所。
 半蔵門線の列車はかつて押上止まりが多く、東武直通列車はデータイム1時間3本程度しかなかっ
た。そのため乗客は不便を強いられることが多かったが、平成18年3月18日のダイヤ改正から直
通列車がデータイム1時間6本に増発され、利便性が大いに高まった。なお都営浅草線の列車はほぼ
全てが京成線に直通する。



■わんぱく天国
 
押上1丁目47番6号にある。子どもたちが自然に触れながら、いきいきとした冒険を楽しむこと
ができる区営の遊び場だ。「わんぱく砦」「わんぱく広場」「やすらぎ広場」の3ゾーンに分かれて
いて、ロープスライダー、畑、野外ステージなどがある。またプレイリーダーが、子どもの遊びの手
伝いをしている。
 利用時間:4月から9月 午前9時から午後6時まで、10月から3月 午前9時から午後5時ま
で 定休日:12月31日から1月4日まで 03-3612-1456



海福山
医王院正円寺
 
押上2丁目37番4号にある天台宗の寺。高木神社の別当寺でもあった。
応仁二年(1468)に
常照法印により創建された。門は木柱で、境内は清浄に保たれた美しい寺だ。本堂左手に地蔵堂。庫
裏は裏にある。文化財として
正徳三年銘庚申像・享保十九年銘庚申塚・光明真言百万遍塔・寛文二年
銘地蔵像・
宝永二年銘地蔵像がある。



■高木神社

 押上2丁目37番9号にある。鎌倉幕府滅亡後、北条氏一門が逃れてこの地に転住、稲荷大明神を
建立したという。応仁二年(1468)の創祀と伝えられ、旧寺島新田の鎮守として尊崇されており
古くは「第六天社」と称えられ、正円寺が別当として管理してきた。明治初めに神仏分離の制度が定
められ、新政府の強制により、社名を「高木神社」と改め、昭和15年6月村社に列格した。
 祭神は高皇産霊神(高木神)と申し、古事記や日本書紀によれば、天孫降臨の際の国護り伝承や仲
武東征などに度々登場し、天照大御神に助言するなど政治的な手腕を振るってきた。以上の神話かつ
「万物生成」「人間関係を調整する」「交渉事を成就させる」などの尊い御神徳があると信じられて
今日に至っている。
 境内で目を引くのは、弘化二年(1845)銘の狛犬。乱石積みの上に安置され、左右同形で阿・
吽の区別が無い。
 樹齢が5、600年といわれるイチョウの神木がある。またかつては大きな「臥竜の松」があり、
曳舟川を上下する舟の目印になったと伝えている。「新編武蔵風土記稿寺嶋村附持添新田項」に、

   第六天社。一は真光寺持、一は正円寺持。

 よある。



■飛木稲荷神社
 押上2丁目39番6号にある神社。伝承によれば、昔の或る時、暴風雨の際、どこからか銀杏の枝
が飛んできて、この地に刺さったとのこと。それが何時しか根付き、大きくなったので、これはおか
しいと慌てて稲荷神社を祀ったのが初めであるといわれている。


 樹皮を戦火に焼かれた銀杏

 
神木として祀られている。戦災により黒焦げとなったが、再び繁茂して悠久の生命を伝えている。
この大銀杏は、神社の名前にも由来する神木で、樹齢は約500~600年といわれ、区の保護指定
を受けている。区保護樹木の内で一番大きいだろう。「新編武蔵風土記稿」に、

   稲荷社
   村の鎮守なり。本地十一面観音、円通寺の持。社前に銀杏の老樹あり。この木、元は隣村
   寺嶋の耕地にありしか、不測に爰に移れり。故に彼処を飛木耕地と称し、此社を飛木稲荷
   と号すといへり。末社山王。


 とあり、区の説明板は次の通り。

   飛木稲荷神社のいちょう 
   神社の名前に由来する御神木で、目通り約4.8メートルもあり、樹齢も五から六百年はく
   だらない区内随一の大木です。戦災で一部が焼失し、樹高も十五メートルと低いが、近年
   いきおいを盛り返し、樹形も整ってきています。江戸時代以前、このあたりは利根川(瀬
   替以前)の川口で、川の運ぶ堆積物により陸地化が進んできたところです。葛西地域の西
   の海岸線の一部となっており、平安、鎌倉時代のあたりから、後の本所、向島の境ともな
   る古川沿いに自然堤防となっていたと推定されます。江戸時代この辺りは寺島新田と呼ば
   れ、順次開拓されていく様子も窺えます。このいちょうの大木は、その自然堤防に育った
   歴史の証しといえます。



東京油田化計画
 押上3丁目32番3号にある染谷商店は、昭和24年に開業した廃油処理業者で、その染谷商店の
社長染谷武男の夢は「この東京で自然に優しい軽油(VDF)を大量生産すること」だ。
 我が日本国内で消費される食油は年間200万tで、廃食油は40万t。その内、飲食店や食品関
係企業から回収される廃食油は20万tで、回収された後、飼料・石鹸・塗料などに再生される一方
で、一般家庭などで出される残り20万tの廃食油は、固形化されて捨てられるか、生活排水に混ぜ
られて河川に流され環境破壊の原因ともなっている。

 廃食油は資源に生まれ変わる。

 昭和60年代、染谷商店は経営の危機に立たされていた。レストランなどの外食産業を中心に、廃
食油を回収し、塗料・肥料・飼料・石鹸などに再加工し販売することを業としている。同55年頃に
始まった円高は、円を一$=250円から150円へと急騰させ、輸入される新品の油が廃食油より
も安くなるという事態を招いた。染谷武男は「なんとかしなければ」と焦っていたが、工場近くの空
き地には、回収した廃食油の缶が山と積まれた。そして同67年の暮れ、武男は一つの新聞記事に巡
り合う、

 
アメリカのミズーリ州の空港では、大豆油から作られたディーゼルでバス二百台が走っている

 ウチでもできないものか! 武男は動き出した。
 武男は中学卒業と同時に、長男故に父権五郎を支えるため、家業である廃食油処理業に参入した。
戦前は食堂を営んでいた権五郎は、時折、武男に「これは俺の仮の商売だ」との寂しい思いを吐露し
ていた。人が捨てるものを頭を下げて集めて、加工工程では悪臭も出す。脱臭装置もなかった時代、
工場からの悪臭は鼻が曲がるくらいだったという。そして、武男もまた、家業に誇りをもてないでい
た。しかし1つの言葉が人生を変えた。

 
低く狭く小さく。自分の立場を低くし、物事に集中的に取組み、小さいものを大切にしなさい

 との言葉に、それまでは汚かっただけの廃食油が、天からの授かりものに変わったのだ。
 とはいっても、時代は既に若者の3K離れの時代に入っていた。染谷さんの周辺でも、家業の廃食
油回収に参入する2世はいなくなり、さらに円高で、廃食油を加工しても売り先がなくなった。相当
数の同業者が淘汰されていった。そんな時に出会ったのが、『大豆油バス』の記事だった。
 武男は、店の技術者の河本司郎と研究に取り掛かる。技術論としては難しいものではない。廃油か
らカスや水分を除去し、温度を上げて、触媒とメチルアルコールを入れてグリセリンなどを分離。た
だ前例がなかったのは、この技術を実践した人が世界で誰もいなかったことだ。ビーカー実験から始
まった研究は、廃品も利用してのプラント作りに発展し、透明の新軽油が完成したのは半年後の平成
5年6月。VDF(Vegetable Diesel Fuel=植物性ディーゼル燃料)と名づけられた新軽油は、
燃費やパワーも問題なし。さらに硫黄酸化物を含まず、黒煙が従来の3分の1という優れた低公害性
を持っている。
 VDFは1l80円。口コミで徐々に広がり、今では1日に1t前後を売り上げるまでになってい
る。だが染谷さんはここからさらに考えた。そして平成5年4月VDFの開発の真最中、農業を勉強
すべく、都立農産高校農産科の定時制に入学、奈良県の自然農法家川口由一の農場を訪ね、自然農業
も勉強した。時に56歳だ。
 「環境に優しいVDFといっても、まだ二酸化炭素は出すんです。大気汚染や温暖化の原因である
ことには変わりません。私は木を植えたいと思ったんです。二酸化炭素を吸収もするし、その土地で
菜種を栽培したら、その菜種油からVDFも作れますね。これはすべて循環するぞと」
 さてそんな武男にとって嬉しい誤算だったのは、4人の子供の内の3人が、VDF開発前の厳しい
時代に事業に参入してきたことだ。
 その1人、次女のゆみは、高校卒業後、アジア放浪をしたり、職を転々としていたが、請われるま
ま、何気なく工場の仕事を手伝った。回収されてきた廃食油の一斗缶をトラックから下ろしたり、計
りにかけたりする内に、たちまち「面白い!」との思いに囚われた。
「なぜかわくわくしたんです。工場が発している気がぴったりきたというか、これが求めていたもの
なんだって」 そして父に言った――「ウチの商売は絶対これからトレンドになるよ!」。権五郎の
言葉とは隔世の感がある。ゆみは即入社した。まず提案したのが、その時他社に任せていた廃食油の
回収を自分たちでやるべきということだった。「だったら、ゆみちゃん、自分でやりなさい」。
 ※ここからのゆみについては、八広の「TOKYO油田2017」へ

 会長となった武男は、VDF(ベジタブル・ディーゼル・ヒューエル)に関しては、宣伝らしい宣
伝を殆どしていない。だが前へ前へと進む運動は、いつの世も自然と周りを巻き込んでいくものだ。
 目黒区に、自然食品店やアウトドア用品など8店舗が入った「サンクスネイチャー」という商業施
設がある。ここが買物客のため、VDFを燃料にした無料送迎バスを走らせている。また有機作物の
宅配をする「大地を守る会」の配送車もVDFを使用。
 脱サラをし、自ら廃食油回収業を始めた青年もいる。彼は回収した廃食油を染谷商店に持ち込み、
VDFを買って持ち帰り、横浜でVDF給油所を経営している。家庭で使ったてんぷら油を集団回収
して、染谷商店に送るという市民運動も始まった。広島市と佐賀県鳥栖市にVDFプラントが1基づ
つ納入された。とはいえ、経営回復のために巨費を投じて始めたVDFも、採算ギリギリで売ってい
るから儲けはまずないという。だがやって良かったと武男はいう。
「環境問題に興味を持ち、農業を志して良かったと思います。この年になってからも、私には多くの
知り合いができました」
 VDF開発に乗り出したのが56歳。近い将来に創設予定の「染谷農場」の実現に向けて、東奔西
走の毎日だ。後には娘たちが続く。




福聚山慈眼院正観寺
 押上3丁目32番4号にある天台宗の寺。本尊は阿弥陀如来。平安時代の初め天長年間(824~
833)慈覚大師によって草創され、江戸時代には天台宗江戸3ヶ寺(浅草寺、観理院、東光院)に
数えられた名刹浅草東光院の末寺。都営地下鉄押上駅を出ると、新東京タワーに出る。駅前の四つ目
通りから新あづま通りに入り、下町の雰囲気が漂う商店街を歩いて行くと左手に山門が見えてくる。
 文禄二年(1593)
浅草寺の中興忠尊和尚によって開基した。浅草東光院の末寺、南葛八十八ヶ
所霊場67番札所。「新編武蔵風土記稿」に、

   正観寺
   同宗(天台宗)浅草東光院の末、福聚山慈眼院と号す。本尊阿弥陀、傍に観音あり。開山
   重奮承応二年五月二十五日死す。客殿に聖天あり。
   地蔵堂。本尊の外、弥陀をも置り共に石像なり。


 とある。



飛木山普門院円通寺
 押上2丁目39番6号にある天台宗の寺。もと浅草寺末で、応仁元年(1467)に良秀法印を開
山として創建された。南葛八十八ヶ所霊場62番札所。隣接の飛木稲荷神社の別当寺だった。墓地は
道路向かいにある。「新編武蔵風土記稿」に、

   円通寺
   天台宗江戸浅草寺末。飛木山普門院と号す。開山良秀応仁元年正月3日寂す。本尊弥陀
   傍に不動を置。
   地蔵堂。弥陀堂、往来を隔て向の墓所にあれとここも当寺除地の内なりと云。地蔵を相座
   とす。

 とある。

 
地蔵菩薩立像

 錫杖の一部に欠損あるのは惜しまれるが、ほぼ原形を保ち、区内でも最古に属する石仏だ。顔は童
顔に満ちていて、江戸初期の佳作にふさわしい。舟形光背は細身で、尊像の丈に比べて不似合いなほ
ど大きくし、上端に反りを持たせた江戸期特有の形態を示している。銘を

   干時明暦二年丙甲(1656)奉造立地蔵大菩薩為寒念佛供養也 殊者当村血縁衆為菩提
   也 二月吉日


 としている。この地蔵菩薩は寺島村新田(旧称)の、地蔵講中による「寒念仏」を修したことを記
念していると同時に、結縁衆の「菩提」を弔うために造立・奉納されたものでもある。かつての、村
落共同体による地蔵講・観音講・庚申講などが、殆ど姿を消してしまったことは惜しまれる。



■第二吾嬬小学校 廃校
 押上3丁目46番17号にあった区立校。明治26年「吾嬬村村立第二吾嬬尋常小学校」として児
童20名で開校。
翌27年花火の不発弾により燃え広がった向島須崎の大火で校舎を全焼。そのため
仮校舎は飛木神社前、請地5番地に移り、茅葺屋根の1教室で1年生から4年生までが一緒に勉強し
た。同30年東京府南葛飾郡大字請地20番地(現在の押上3丁目交差点のところ)に落成した新校
舎は、瓦葺きの廊下のある1教室だった。当時の教師は紋付袴、一人で授業から事務一切を取り扱っ
た。当時学校は水田や蓮田に囲まれた長閑なもので、蛙の声を聞きながらの授業は田舎の学校そのも
のだった。指導科目は国語・算術・体操・修身・唱歌の5教科。国語は教師が「ハタ・タコ・コマ」
と読むと、生徒が声を合わせて追読したり、書き取りしたり、体操は校庭で飛んだり跳ねたり、唱歌
は、オルガンもないので先生の指揮棒に合わせて歌うだけという有様だ。これを1人で4学年を受け
持っていたんだから、今の教師は天国にいるのと同じだぜ。同30年請地793番地に校舎が新築さ
れ移転。その内生徒も増え、同40年校舎増築、教師も派遣されてきて、オルガンも入り、唱歌の時
間は楽しくなった。同45年尋常6年制となり、6学級となる。
 大正時代に入っても環境に大した変わりはなく、蓮の花や黄金色の稲穂が美しかった。同4年校舎
増築、10学級に。同6年津波のため床上浸水30cm。同10年高等科を併置して「吾嬬村立第二
吾嬬尋常高等小学校」と改称。同11年7教室増築。同12年9月1日関東大震災が発生、この日は
ちょうど二学期の始業式。式を終えて一息入れていると、地響きに続いて大きな立て揺れと横揺れが
長くあり、新築の2階建ての東校舎がぺしゃんこに倒潰、他は使用不能。附近の家屋もどんどん倒壊
していった。下町は総なめの災禍で地獄絵巻となった。そのため転居したり行方不明となった生徒は
400名に上った。10月8日から残った講堂で二部授業再開。同14年商業補習学校併置。校舎建
築完了。
 昭和2年第四吾嬬尋常小学校開校。校舎貸与(18学級‐911名)。同5年高等科併置廃止につ
き「吾嬬村立立第二吾嬬尋常小学校」に戻称。この頃になると、魚がよく取れた用水も市街地化とと
もに暗渠なり、ニ分された校地も一つなり、広い運動場は徐々に整えられていった。同年11月町制
施行により「吾嬬町立」になるとともに、所番地も吾嬬町西92番地に変更になった。同7年町が東
京市に編入され向島区となったため「東京市第二吾嬬尋常小学校」となった。同8年2階建て校舎6
教室増築落成。同14年校歌制定。作詞宮川宗八 作曲・福井直秋

 同16年勅令148号国民学校令により「東京府東京市第二吾嬬国民学校」と改称。同18年3月
市川市真間に学校農園開く。5月創立50周年記念式典。7月都制施行により「東京都第二吾嬬国民
学校」と改称。同19年夜学校が第三吾嬬小に吸収される。8月
茨城県石下町・下妻町に各3宿舎を
確保して学童疎開。3年生以上児童、508名、教員16名。
鬼怒川或いは小貝川から少し離れた小
さな町の古寺が疎開先だった。
同20年1月27日愚かなアメリカ軍の非人道的無差別空爆で焼夷弾
が校庭に落下炸裂、幸い校舎に被害はなかったが、
3月10日深夜の無差別別空爆により学校は全焼
した。残留生徒は第4吾嬬国民学校に移動。疎開児童の一部が秋田県大館町・扇田町に再疎開、児童
180名、教員18名。8月6日、9日の広島・長崎の原爆投下により、15日日本はアメリカの軍
門に降りポツダム宣言を受諾して敗戦、戦争は終結した。10月疎開解除引き揚げ。
 同21年四吾小から曳舟小学校に移って間借り授業(3教室6学級二部授業)。同22年アメリカ
軍の強制による学校教育法施行により「東京都墨田区立第二吾嬬小学校」と改称。
7~9月仮校舎5
教室が完成して学童が曳舟小から復帰。相変わらず二部授業だった。荒れ果てた校庭は全校生徒で毎
日整備した。また給食とは名ばかりの、100人中100人が、


 
  幾ら食べ物が無かった時代とはいえ、腹の足しにはなるにはなったが、あんな不味い飲物
   は無かった


 と答える給食が出された。ララ物資というアメリカが廃棄処分とした脱脂粉乳をお湯で溶かして、
アルマイトのコップに1杯ずつの代物だ。昭和25年にはパンとミルク(脱脂粉乳)に多少のおかず
のついた完全給食が始まった。最初は希望者だけだったけどね。しかしこれだって決して美味いとい
えたものじゃないよ。パンは3時間も放っておくとカチンカチンになるんだ。同25~27年にかけ
て校舎が増築された。同27年10月職員と生徒がモッコを担いで、1年以上、石や土を運んだ野外
ステージが完成した。これは全国的にも珍しく、学芸会や七夕まつりなどに使われた。同28年校旗
校歌制定。創立60周年記念式典。

 校歌
「隅田の流れ」 作詞作曲・野上彰  編曲・宅孝二

  1.隅田の流れ豊かに巡り
    春の雲の輝く時
    生命新たに
    望みに溢れて吾は集う
    母校ぞ 第ニ吾嬬小学校
  2 真理の道に 正義の道に
    世紀の旗 になうものと
    つねに思えよ
    つらぬきとうせよ われらの使命
    母校ぞ 第二吾嬬小学校
  3.清らにひびく 窓打つ風も
    秋の空を 渡り鳥の
    声のとおれば
    心をひそめて われらは学ぶ
    母校ぞ 第二吾嬬小学校
  4.知識を求め 六年をここに
    聖なる手に 選ばれたる
    幸を思えよ 
    歴史のいしずえ われらもきずく
    母校ぞ 第二吾嬬小学校


 同29~30年校舎増築。校舎増築・校庭舗装。同35年校舎増改築。同36年体育館完成。同3
7年野外ステージが解体されプールが造られた。同38年創立70周年記念式典。同45年第一期鉄
筋校舎8教室落成。同46年第二期鉄筋校舎8教室・資料室、新プール落成。同47年第三期鉄筋校
舎3教室・3特別教室・職員室・給食室・保健室・放送室など落成。校庭舗装、緑地・砂場・池など
完成。同48年創立80周年記念式典。同49年校庭西側緑化。同53年音楽室・図書室改修。校庭
舗装。同58年創立90周年記念式典。同59年屋根付き自転車置場完成。

 
平成7年体育館・プール完成。創立100周年記念式典。同11年創立105年を数えるさしもの
伝統校も、就学児童の減少という少子化の波には勝てず、西吾嬬・文花両校と統合され閉校、新たに
「押上小学校」として再出発した。

 
運動会の歌
  1.はためく旗を青空に
    あおげば意気がもえ上がる
    こ胸 この足 この腕(かいな)
    元気いっぱい 走れ飛べ
    今日は楽しい 運動会
  2.高なる合図 風切れば
    轟く拍手 応援歌
    綱引き 騎馬戦 徒競走
    元気一杯 歌おうよ
    今日は楽しい 運動会

 赤組応援歌

    青空のもと 元気よく
    力をあわせ がんばろう  
    赤勝て 赤勝て
    フレフレフレフレ  
    赤勝て 赤勝て
    フレフレフレフレ


 
白組応援歌

    みんなにこにこ 元気よく
    力いっぱい 一 二 三
    (手拍子)

    フレ白 フレ白
    フレフレフレフレ



■押上小学校
 押上3丁目46番17号にある区立校。平成11年吾嬬第二小学校、西吾嬬小学校、文化小学校
が統合してできた新設校。校地は西吾嬬小学校を仮校舎とし、吾嬬第二小学校跡地に新校舎を建て
て移転した。

 校歌「青い空」 作詞作曲・渡辺茂
  1.青い空 見上げて
    大きな夢をむねに
    みんな仲良く肩くんで
    楽しく勉強
    明るい友だち
    押上 押上 みんなの学校
    押上小学校
  2.白い雲 見つめて
    大きな夢をむねに
    みんな笑顔で手をつなぎ
    元気に運動
    明るい友だち
    押上 押上 みんなの学校
    押上小学校
  3.高い空 見上げて
    大きな夢をむねに
    みんなやさしく目をあげて
    にっこり笑う
    明るい友だち
    押上 押上 みんなの学校
    押上小学校



■専養寺東京子院
 押上3丁目52番11号にある浄土真宗大谷派の寺。




【亀沢】(かめざわ)1~4丁目                 昭和41年10月1日
 亀沢町。元禄七年(1694)に本所地割並馬場□□守の拝領地となり、宝永四年(1707)に
本所中下水埋樋請負人の拝領地となり町屋が許された。このときの町域は現在の両国3丁目35番・
36番・4丁目30番3ヶ所の内ごく僅かの地だった。明治11年「郡区町村編制令」により本所区
に所属。昭和4~5年一部を緑町と石原町に割き、同時に緑町1~5丁目・三笠町・長岡町・清水町
・永倉町・長崎町・南葉町の全部または一部をあわせて亀沢町1~4丁目、同22年本所区と向島区
が合併して墨田区亀沢町となる。同41年新住居表示を実施して現行の「亀沢」とした。昔の亀沢町
とは無縁の地だ。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『墨田区史』『墨田の歴史』など。

 亀沢の由来
 
荒川助九郎匡富(まさとみ)の預かり地内(現両国小学校)の池に大きな亀が棲んでいたとことか
ら、池を「亀沢ノ池」と呼んでいたことによる。幕末この地にあった男谷精一郎邸内であの勝海舟が
誕生した。また幕末の地図(3丁目19番辺り)に長谷川平蔵とある。『鬼平犯科帳』の〝鬼の平蔵〟
の子孫だろうか? 大名じゃないから小っちゃなものだ。



■笠門稲荷社
 亀沢1丁目3番17号にある小祠。



江戸蕎麦ほそ川
 亀沢1丁目6番5号にある蕎麦屋。初め埼玉で蕎麦屋を営んでいた細川貴志が、平成15年現在地
に引越してきた。築地に近いところを選んだのは、毎日新鮮な素材を仕入れるため。蕎麦の質は材料
で決まるという細川は、茨城に自家農園を持ち、自ら蕎麦栽培に取り組んでいる。足りない時は近所
からも仕入れる。その日に使う量だけを自家製粉し、蕎麦粉10割で打つ蕎麦は、細切りで喉越しも
良く、濃いめのつゆとの相性がいい。簡素な店内には4卓の相席テーブルと個室が1部屋のみで、珪
藻土の壁に囲まれ、温かみのある明かりが落ち着いた雰囲気を醸し出している。土日祝祭日の予約は
受付けないが、平日はOKだ。大人の隠れ家として静かに蕎麦を味わって欲しいため小学生以下の同
伴は断っている。
 11時45分~15時 17時半~21時 03‐3626‐1125

 ミシュランガイド東京 
 『2009』から4年連続して星1つを取っている。



■八角部屋
 亀沢1丁目16番1号にある高砂一門の相撲部屋。平成4年5月場所限りで引退した九重部屋(5
2人目横綱北の富士勝昭)の61人目横綱北勝海(ほくとうみ)は、年寄八角を襲名して九重部屋の
部屋付き親方として後進の指導にあたっていたが、同5年10月に4人の内弟子を連れて九重部屋か
ら分家独立して八角部屋を創設した。現在その内弟子から、北勝力ら2人の幕内力士が育っている。
師匠の現役時代の四股名だった「保志」「北勝」の字がついた力士が多い。八角部屋は北の富士がか
つて利用していた「井筒部屋→九重部屋」を使用しており、九重部屋の部屋付き親方だった全員(陣
幕・君ヶ濱・谷川)も八角部屋に移籍している。このため、九重部屋からの分家独立というより、か
つての北の富士の井筒部屋が師匠・名称を変えて再興されたようなものだ。

 かつての八角部屋
 雷部屋(15人目横綱初代梅ヶ谷所属の元関脇大鳴戸が師匠死去後に二枚鑑札で八角を襲名し、八
角部屋を経営していた。そして昭和3年に雷部屋の力士たちを預かっていた白玉親方(関脇玉椿)が
亡くなると、雷部屋の力士たちは八角部屋に移籍した。しかし、幕内雷ノ峰伊助はすぐに立浪部屋に
移り、残った弟子たちの中から番神山政三郎が十両に昇進したに止まり、同8年に鏡山部屋に弟子を
譲って部屋を閉じた。



■錦戸部屋
 亀沢1丁目16番7号にある高砂一門の相撲部屋。平成12年9月場所限りで引退した高砂部屋(小
結富士錦)所属の元関脇水戸泉は、年寄錦戸を襲名して高砂部屋の部屋付き親方として後進の指導に
あたっていたが、同14年高砂部屋から分家独立して錦戸部屋を創設した。まだ関取はいないが数々
の個性派力士がおり、四股名に出身地を入れるのが特徴。



■双葉稲荷神社
 亀沢1丁目20番12号にある小祠。



■野見宿禰神社
 
亀沢2丁目8番10号にある中社。創建は明治17年、当時神社東側に高砂浦五郎の高砂部屋があ
り、津軽屋敷跡地に相撲の神様として野見宿禰を祀ったことに始まる。
 野見宿禰は天穂日命から出ており、力が強かったという。垂仁天皇に命じられて当麻蹴速という剛
の者と力を相撲に競って勝った。宿禰はまた垂仁天皇の皇后が崩御した時、それまで慣例だった殉死
の制を止めて、埴輪を作ってその人代わりとした功により、姓を土師臣と賜ったという伝説もある。
土師氏は代々天皇の葬儀を司り、後に姓を菅原に改めた。だから菅原道真は野見宿禰の子孫というこ
とになる。神社には歴代横綱の銘を刻んだ歴代横綱の碑が2基ある。近世以来相撲は回向院境内で、
明治になって両国国技館で行われた因縁による。横綱の碑は富岡八幡にもある。

 
歴代横綱の碑
 日本相撲協会が建立した。2基は昭和27年に建てたもので。初代明石志賀之助から46人目の朝
汐太郎まで、もう1基は47人目の柏戸剛から68人目の朝青龍明徳までが刻んである。5年に1人
横綱が誕生するとして、後130年は大丈夫だ。生存者の四股名には朱が入れられているが、墓じゃ
ないんだから余計なことは止めた方がいい。



■河竹黙阿弥住居跡
 亀沢2丁目11番12号の秀和両国レジデンスのところにあった。江戸末期から明治にかけて歌舞
伎戯作者として活躍した、河竹黙阿弥が死ぬまでの間暮らした住居は、茶室、書斎、土蔵がある20
0坪を越す立派な屋敷だった。河竹黙阿弥は本所、両国、深川等の近辺を歌舞伎の舞台として登場さ
せており、「孝女お竹」という作品では「錦糸堀」の地名を登場させて、この地の名を江戸文学にと
どめた唯一の人物で錦糸町の祖といえる。この「孝女お竹」という作品は十両の借金のために親の仇
討ちにまで至った話で、サラ金が軒を連ねて繁盛する今の錦糸町にはふさわしい。また黙阿弥も若い
頃には放蕩の限りを尽くしたというから、これも今の錦糸町には似合っている。まさに錦糸町の象徴
とするに足る歴史的人物だ。



■間垣部屋
 
 亀沢3丁目8番1号にある相撲部屋。昭和58年1月場所限りで引退した二子山部屋(第45人目
横綱初代若乃花幹二)所属の第56人目横綱2代若乃花幹二は、一代年寄若乃花(後に18代目間垣
に名跡変更)を襲名して二子山部屋所属の部屋付き親方として後進の指導に当たっていたが同年12
月27日に内弟子1名を連れて二子山部屋から分家独立して部屋を創設した。この部屋から幕内力士
「若闘将・五城楼・大和・若ノ城・若ノ鵬」などが出ている。

 親方が暴行事件
 平成20年5月14日夏場所の4日目の部屋での朝稽古中、間垣親方が序二段力士の弟子を竹刀で
叩き痣を作るという暴行事件を起こし、太ももなどに全治一週間の打撲と擦過傷を負わせた。この事
件について当人の間垣親方は事件が発覚した7日目の夜は「悪いことをしたらヤキを入れるのは当た
り前。弟子が可愛いからやった」などと話し、この叩かれた弟子の奈良に問題があったと主張した。
しかし8日目に一転して北の湖理事長に謝罪した。また弟子も反省し現在も両者の間に蟠りはないと
いう。この件で日本相撲協会の再発防止検討委員会から厳重注意を受けることが予定されている。時
津風事件があったばかりでの暴行再発と親方の暴言に世間が大反発、大問題となった。

 
幕内力士若ノ鵬大麻不法所持事件
 平成20年8月18大麻片を含むたばこを所持していたとして、警視庁組織犯罪対策5課と本所署
は、大麻取締法違反・所持の疑いで、ロシア出身で、大相撲若ノ鵬寿則容疑者(20)=本名ガグロ
エフ・ソスラン・アレキサンドロビッチ=を逮捕した。大筋で容疑を認めており、「六本木で外国人
からもらった」と供述している。
 同課は同日、間垣部屋などを家宅捜索し、自宅から大麻吸引に使う水パイプを押収。使用について
も追及する。
 調べによると、若ノ鵬容疑者は6月24日午後1時ごろ、自宅近くの路上などで大麻を含む乾燥植
物片などの混合物0.368グラムを所持した疑い。財布に入っていたロシア製たばこ「ベラモール」
に混入されており、通行人の女性が同日、財布を拾って交番に届けた。同容疑者も同日、別の交番に
紛失を届け出ていた。当時は19歳だった。同課は同容疑者が地方巡業から帰るのを待って逮捕した。
 大麻所持の疑いで若ノ鵬容疑者が逮捕されるという前代未聞の事件が発覚したこの日、角界内部か
らは厳しい声が相次ぎ、両国国技館にある日本相撲協会や、容疑者が所属する間垣部屋は対応に追わ
れた。協会在勤の友綱理事(元関脇魁輝)は、各師匠を通じてほかのロシア出身力士への事情聴取を
開始したことを明かした。昨年起きた力士死亡の再発防止検討委員会の副委員長でもある友綱理事は、

   一連の問題から立て直そうと、みんな一生懸命なのに、危機感がない人がいた。ショック
   だ


 と憤っていた。ある40代の部屋持ち親方は、

   事情聴取するのなら、ロシア出身だけではなく、欧州系の力士全員から話を聞かなければ
   いけない。若ノ鵬は当然、解雇すべきだ


 と主張。複数の幕内力士も「若ノ鵬は間違いなくクビでしょう」と口を揃えた。
 間垣部屋は報道陣でごった返したが、間垣親方(元横綱2代目若乃花)は所用で故郷の青森に滞在。
相撲協会によると19日に両国国技館を訪れる予定。北の湖理事長(元横綱)は法事で北海道に帰省
していた。当初は広報部を通じてコメントを発表したが、急遽帰京して午後10時すぎから国技館で
記者会見に応じた。
 19日、警視庁組織犯罪対策5課の調べに対し、若ノ鵬は、

   大麻を(自分で)吸ったパイプをディスコで貰った。なくした財布の中に大麻(成分を含
   んだ)たばこを所持していたのは間違いない


 と述べ、使用を示唆する供述を始めたことが判った。違法性の認識もあったという。
 経緯については、

   6月上旬にディスコでロシア人の男と意気投合し、店を出るときに財布の中にたばこ1本
   を入れてくれた。大麻を吸ったパイプなどは別の外国人からもらった。日本国内では大麻
   が規制されているのは知っていた


 と語ったという。
 同課は19日、参考人として間垣親方から事情聴取。親方は、

   大麻を吸っていたことは全く気付かなかった

 と説明したという。大麻で相撲人生はおろか、人生までも棒に振ってしまった。
 人生のモットーは「身辺ご清潔に!」だ。人間何時うだつが上がるか判らない。
 21日協会理事会は若ノ鵬の解雇を決定、間垣親方の理事辞任を受理した。9月8日警視庁は処分
保留で釈放。本人は「相撲に戻りたい」と語っているとか、そりゃあプロレスやK1じゃあ、相撲ほ
ど稼げねえもんなぁ。
                     *
 9日若の鵬は協会に出向いて解雇撤回を要求するも拒絶され、10日その派生的結果として解雇さ
れた露鵬・白露山のマンションを訪れて謝罪しようとしたがあって貰えず、切羽詰まった11日、

   過去の事例と比べて処分が厳し過ぎ、解雇は無効だ

 として力士の地位確認を求め東京地裁に提訴した。興行の在留資格で日本に滞在している若の鵬は、
解雇の3カ月後には強制退去となる可能性があり、仮処分も同時に申し立てた。弁護士に唆されて、

   過去に現役横綱が銃刀法違反で有罪になったが、けん責処分だった。私生活上の犯罪で解
   雇になった例もなく、厳し過ぎる


 と主張した。時代が違うだろうってんだ。盗人猛々しいとは開いた口が塞がらねぇよ。ロシア人と
はこの程度のもんよ。恥ってえことを知らないからねぇ。



初代三遊亭円朝旧居跡 
 亀沢3丁目20番14号(本所南二葉町23番地)にあった。円朝は、江戸末期から明治にかけて
活躍した落語家で、この場所には明治9年から11年間暮らし、名作の「怪談牡丹燈籠」「塩原多助
一代記」などの噺を書き上げた住居跡は、河竹黙阿弥の住居跡のすぐ向かいにあり、記念碑が建って
いる。当時すぐ近くにあったという割下水から水を引いて池にし、庵室のある500坪もの贅沢な邸
宅だったとか。円朝は芝居話が得意だったからか、歌舞伎にも関係したようで、黙阿弥の出ている歌
舞伎舞台の浮世絵に出ている。近所に住んでいた黙阿弥とはお友達だったのだろう。円朝は「怪談牡
丹燈籠」の中で柳島、横川という錦糸町のゾーン内の地名をなにげなく登場させており、さすがは錦
糸町の住民(本所南二葉町)だったことが伺える。葛飾区青戸の法問寺に母方の加藤家の墓所があり
そこと、台東区谷中5丁目の全生庵に墓がある。



■山岡鉄舟旧居跡

 亀沢4丁目11番15号の竪川中学校の正門辺りにあった。校門脇左手に区教委の説明板がある。

   江戸末期の幕臣で剣術家。維新後に無刀流の創始者ともなり、侍従も勤めました。山岡鉄
   舟の生家小野家がこの中学校の正門辺りにありました。
    鉄舟は天保七年(1836)御蔵奉行だった小野朝右衛門高福の五男としてうまれ、鉄
   太郎と名付けられました。
    安政四年(1857)槍術で知られる橋本静山の妹婿となり、山岡高歩、号は鉄舟を名
   乗りました。鉄舟の義兄に当たる槍の名手精一郎は、旗本高橋家に入婿し、後に泥舟と号
   するようになります。勝海舟も含めてこの三人は「幕末の三舟」として知られます。
    慶応四年(1868)江戸城総攻撃に先立ち、鉄舟は西郷隆盛と接触し、海舟と協力し
   て江戸城無血開城への道を開きました。
    明治維新後、静岡県や茨城県などで参事や県令となり、明治四年より明治天皇の侍従と
   して厚い信頼を受けましたが。同二十一年五十三歳で死去し、台東区の全勝庵に葬られま
   した。
    鉄舟は、書家一楽斎としても有名で、区内木母寺にある三遊隊の碑は、鉄舟(表)。泥
   舟(裏)の筆になります。
   平成20年2月                         墨田区教育委員会



■竪川中学校
 (平成29年錦糸中学校と統合予定)
 亀沢4丁目11番15号にある区立校。昭和22年4月1日設立、5月5日中和小学校に間借りし
て開校。同24年独立校舎(一期工事)完成。同33年本所小学校跡に移転。同42年創立20周年
記念式典。同44年完全給食実施。同52年創立30周年記念式典。同59年全館空調整備。同63
年創立40周年記念式典。
 平成2年ガイダンスルーム設置。同3年ランチルーム完成。同4年コンピュータルーム開設。同9
年1年前倒しで創立50周年記念式典挙行。同18年耐震補強・空調設備・トイレ等全面改修。同1
9年創立60周年記念式典。

 校歌「紫匂う」 作詞・槙島徳次  作曲・伊達龍雄
  1.紫匂う武蔵の東
    清き流れの隅田川
    聳ゆる学び舎 希望にもえて
    朝な夕なに勤しまん
  2.富士の白雪 筑波の緑
    ゆるき流れの竪川の
    学びの窓より仰ぎて常に
    清く明るく務めなん
  3.潮の満干に鴎が群れて
    涯しなき野に光さす
    誇る文化を妙なる綾と
    いざ諸共に織り出でん
 





【菊川】(きくかわ)1~3丁目                     昭和42年5月1日
 深川菊川町。元禄九年(1696)御小人大繩地の地に町屋が許された。今の立川(たてかわ)
4丁目3番・16番・菊川3丁目11番・14番の地に該当する。明治元年東京府に所属。同2年
飛地を深川東町に移譲。同5年弘前津軽家抱屋敷と深川西町の一部を併合して本所菊川町1~2丁
目となる。同11年「郡区町村編制令」により本所区に所属。昭和8年1丁目を立川に譲り(その
ため菊川小学校が立川3丁目にある)、2丁目に林町2~3丁目・徳右衛門町の各一部をあわせた
町域を菊川1~3丁目に改編、同22年墨田区所属。同42年新住居表示を実施して現行の「菊川」
とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『墨田区史』『墨田の歴史』など。

 
菊川の由来
 町名は大横川の西を流れていた小流の名前による。今は埋め立てて道路にしている小川に何故菊
川と名づけたのかは判らない。野菊の咲く風情だったのだろうか・・・



■墨田住宅センター建築道具・木組資料館(墨田区小さな博物館)
 菊川1丁目5番3号の森下工務店にある。明治時代のノコギリをはじめカンナや墨壷など各種建築
道具のほか木造建物に使われる様々な柱の組み方(木組)を実物で展示している。丸太を繋ぐ「掛鼻
車知継ぎ手」や数寄屋造りに使用する「十字蟻組」神社で使用される「金輪継ぎ」など、木組みの複
雑な技術の素晴らしさに木造建築の長い歴史を感じる。その他日光山の五重の塔の設計図や旧三井家
で使われていた、今では珍しい鬼瓦など貴重な資料も公開している。今では使われない技術を、同業
者も見に来るというのが森下良治館長の自慢だわさ。
 03-3633-0328 電話して行けよ。



■墨田工業高等学校発祥の地
 菊川1丁目16番11号のNTTビルの東南の角に灰色の石碑が建っている。現在の墨田工業高校
は約800m南東の 江東区森下5丁目にある。「墨田」の名前の学校が江東区にあるのは何か変! 
発祥の地名によるものだろうが、他にも幾つか見られる。
 板橋区にあって北豊島工業高校とはこりゃ如何に? これは北豊島郡だったことによる。本所工業
高校は何と葛飾区水元にあるが、昭和35年に移転したものだ。平成17年全日制はなくなって定時
制のみとなった。小石川工業高校は新宿区にあるが、昭和24年に文京区から現在地に移転した。四
谷商業高校は中野区上鷺宮にあるが、昭和38年に新宿区から移転した。中央区の紅葉川高校は江戸
川区葛西に、台東区の忍岡高校は墨田区堤通にと、東京都も学校の場所探しに苦労している。

   墨田工業高等学校発祥の地

   明治23年2月18日開校
   東京府による工業教育ここに始まる
               東京都立墨田工業高等学校
               第17代校長稲見辰夫謹書

   明治33年 東京府職工学校設置を公示
   大正 9年 東京府立実科工業学校と改称
   昭和 2年 (現)東京都江東区森下5丁目1番7号に移転
   昭和18年 東京都立墨田工業新制高等学校と改称
   昭和25年 東京都立墨田工業高等学校と改称
   平成12年7月吉日   創立百周年記念事業委員会



区内で最も古い小学校 中和小学校
 
 菊川1丁目18番10号にある区立校。明治7年2月1日開校。牛島小学校が廃校となった今、区
内で最も古い学校となった。詳細な沿革不明。
 図書館巡りをしたが、資料が乏しく、調査は困難を極めている。図書館自体、中央図書館であるあ
ずま図書館ですら地域資料はお粗末で、学校教育関係のの資料は殆どない。『墨田区教育史』も内容
が雑で、他区のそれとは比ぶベくもない。戦前の学校に関してはお手上げとしかいいようはない。

 校歌
「中和を名におう」 作詞・中村秋香  作曲・小山作之助
  1.中和を名に負う学び舎に
    立つ我が友は時の間も
    いかで忘れん中和の名
    中とは過不及なきところ
    和とは ほどよきこととかや
  2.中和はかわれることならず
    また難しき業ならず
    人の踏むべき常の道

    昼は働き 夜は休み
    勉めて遊ぶは これ中和



■夢違之地蔵尊
 菊川3丁目13番、区内を南北に流れる大横川が新大橋通りと交差するところが菊川橋。その
北西側の袂にある菊川児童遊園内にある。石川光陽の写真の中に、ここで遺体収容作業をしてい
る現場を撮影したものがある。

   夢違地蔵尊縁起
   大正12年関東大震災に於ける下町の惨禍は遭難死者縁起(由来碑)58
   000名に及びその遺骨を収納し、東京都慰霊堂が建立され、その加護と平安を願い毎年
   9月1日を記念日と定め、官民あげて法要が営まれているが、この地も焦土と化しその物
   故者も多いため、毎年その慰霊法要を行うに至った。昭和16年太平洋戦争勃発し、戦局
   利にあらず、殊に同20年3月9日より10日にかけての米戦略爆撃機B29による東京
   空襲は最も熾烈を極め僅か数時間で下町を中心に278000余戸を焼失し、無慮780
   00余の殉難者を出した広島長崎の原爆の戦史に比類する永遠に忘れ得ぬ悲惨な史実であ
   る。
   まだ春浅き3月9日夜半、雨あられの如く投下された焼夷弾は、暇なき出火となり、立ち
   向かう術もなく、劫火の中を、親は子を、子は親を呼び合いながら逃げまどい、或は壕に
   入り、水面に飛び込み、或は公園、校舎に走り、ついに力尽きてその声も消え果てやがて
   倒れ重なりまっ黒な焼身と化し、水に入りては沈泥に骸と果て、翌朝光の中の惨状は目を
   覆うばかりであった。生き残れる者僅かにしてそのさまは亡者のようであった。この地の
   殉難者数約三千余名といわれている。
   この地蔵尊の在わします菊川橋周辺の惨禍は、東京大空襲を語るとき後世まで残るもので
   霊地として守らねばならない。而して復興なり、同58年3月10日誠心集い、浄財を集
   め仏縁深き弥勤寺住職の教訓を得てこれが悪夢の消滅を願いこれを善夢に導き、再びこの
   悲史をくり返さないようにと、夢違之地蔵尊と命名され開眼法要、殉難者追悼供養を施行
   した。
   時移り、再び多大な協賛を得て夢違之地蔵尊縁起の史碑建立となり地蔵講が生まれた。願
   わくば子々孫々への加護と人類の平和を祈念して本日此処に慰霊法要を謹んで行うもので
   ある。
   昭和60年3月10日              弥勒寺第57代住職   岩堀真至
                           夢違之地蔵尊縁起碑建立協賛者一同



■菊川駅
 菊川3丁目16番2号にある都営新宿線の地下停車場。。新宿線の最初の区間である岩本町~東大
島間が開業した昭和53年12月21日に設けられた駅。ホームは島式1面2線構造で、地下2階に
ある。ホームと改札階を結ぶエレベーターは平成19年3月完成。改札口は1ヶ所のみで、地下1階
にある。出口は4ヶ所だが、地上へ上がれるエレベーターは、平成19年3月A3出口に設置された。
新宿線は、森下駅から東大島駅までをほぼ真っ直ぐ、江東区を東西に貫くように走っているが、この
菊川駅だけは墨田区に所在している。この辺りが、墨田区の南端部に当たっているためだ。なお菊川
という駅は東海道本線(静岡県)にもあるが、そちらの読みは「きくがわ」と濁る。



■鬼の平蔵・遠山金さん屋敷跡

 菊川3丁目16番の一帯は池波正太郎が〝鬼の平蔵〟の異名を被せた長谷川平蔵宣以の屋敷があり
数十年後に〝金さん〟でお馴染みの遠山金四郎景元が住んだところだ。これは意図的なものではなく
屋敷替えの偶然の結果だとか。碑が同所丸山歯科医院の横に建っている。また区教委の説明板が菊川
駅出口A3に建っている。

 
長谷川平蔵宣以(のぶため)
 
通り名の平蔵は長谷川家当主が代々受け継ぐ通称で、家督相続以前、宣以は銕三郎(てつさぶろう)
と名乗っていた。池波正太郎の小説『鬼平犯科帳』の主人公であることから、日本の時代劇ファンに
よく知られている人物だ。青年時代は放蕩無頼の風来坊だったようで、「本所の銕」などと呼ばれて
恐れられたと記録にある。池波正太郎は、この頃剣術を高杉銀平に学んだとしているが、作品上の設
定のようで、滝川政次郎によればそれを証明する記録は存在しないという。父の長谷川宣雄は、火付
盗賊改方を経て京都西町奉行の役に付いていたが、死去したため安永二年(1773)28歳の時家
督を継いだ。子は宣義。
 寛政の改革で人足寄場(犯罪者の更生施設)の建設を立案し、石川島人足寄場の設立などで功績を
挙げたが、上司の老中首座松平定信とは折り合いが悪かったらしく、定信は自伝の『宇下人言』にお
いて敢えて名を呼ばず「長谷川某」とまで記し、功績は認めたものの「山師などといわれ兎角の評判
のある人物だ」とけなしてる。天明七年(1787)から8年の間、火付盗賊改方の長官を務めた。
「鬼の平蔵」と呼んだのは池波の創作だが、「今大岡」と呼ばれ市民には人気があったという。寛政
三年(1791)5月3日江戸市中で強盗及び婦女暴行を繰り返していた凶悪盗賊団の首領葵小僧を
逮捕処刑した。被害者に配慮し、逮捕後僅か三日での処刑だった。三田村鳶魚は、宣以が機転を利か
せたためであり、幕府もこれを了承したとしている。このとき名刀井上真改を用いたともいわれてい
る。
 敷地は1200坪余だった。長谷川家の家禄は400石だが、職禄(役高)がつき1500石。寛
政七年(1795)50歳で致仕、その年に病没した。

 
いれずみ判官・遠山金四郎景元
 天保年間に北の江戸御町奉行、後に南の江戸御町奉行を勤めた人物。TVドラマ『遠山の金さん』
のモデルとして知られる。正式な名のりは遠山左衛門尉景元(とおやまさえもんのじょうかげもと)
だ。
通り名は金四郎。公職についてからは、従五位下に叙し、大隅守から左衛門少尉に遷任。明知遠
山氏の分家6代目に当たる。父親は長崎奉行を勤めた景普。青年期は複雑な家庭環境から家を出て、
町屋で放蕩生活を送るが後に帰宅、家督相続後、勘定奉行、町奉行の職に就く。天保の改革の実施に
当たっては、強行派の南町奉行の鳥居耀蔵や老中水野忠邦と対立しながらも様々な政策を実施する。
水野忠邦が鳥居の進言を受けて芝居小屋を廃止しようとした際、景元はこれに反対して、浅草猿若町
への小屋移転だけに止めた。即ちこの遠山の動きに感謝した芝居関係者が頻りに遠山を賞賛する意味
で『遠山の金さん』物を上演したため、鳥居や水野との対立が、遠山イコール正義、鳥居イコール悪
役を作り上げた。尤も鳥居はそれ以前より民衆の評判は悪かった。天保十四年(1843)鳥居の策
略によって北町奉行を罷免され、当時は閑職となっていた大目付に追われる。地位は上がったが実質
的に仕事はなかった。しかし2年後景元はリベンジに出る。鳥居を退けようとしていた水野に接近し、
鳥居の讒言を展開し鳥居を追い落とし、南町奉行として返り咲いた。同一人物が南北両方の町奉行を
務めたのは、極めて異例のことだ。その後は水野の後を受けて政権の地位に座った阿部正弘からも重
用された。嘉永五年(1852)に隠居すると、剃髪して帰雲と号し、61歳で死ぬと本郷の本妙寺
(現在は豊島区西巣鴨)に葬られた。

 ●金四郎が桜吹雪の刺青を入れていたかどうかは定かではない

 ただ夏でも現代のシャツのような手首まである長襦袢を着用して、決して他人に肌を見せることが
なかったので、若いころ放蕩の限りを尽くしていたことでもあり、刺青をしているのではないかと憶
測された。そこに目を付けた作家陣出達朗が小説「遠山の金さん」で、証拠のために悪党に刺青を見
せるという設定で創作したものが1人歩き、映画で、片岡千恵蔵が金四郎の役をやり、最後の場面で、
片肌脱いで啖呵を切ると、悪人どもが畏れ入って罪を認めるというのが当たって、金四郎の桜吹雪の
刺青は定着した。その後、数々のTV時代劇の金さんものは、すべてこれを踏襲、片岡千恵蔵を越え
る役者は出ていない。 





【京島】(きょうじま)1~3丁目                  昭和40年7月1日
 寺島村。明治22年「市制町村制」により須崎村・中ノ郷村・請地村・大畑村・若宮村・隅田村
と合併して寺島村となりその大字、大正12年寺島町大字寺島。昭和7年向島区寺島町。同22年
墨田区寺島町1~8丁目。同40年新住居表示により寺島町4丁目・吾嬬町西1丁目・同4丁目を
あわせた町域を現行の「京島」とした。区の小さな博物館運動により、1丁目に「藍染博物館」「千
社札博物館」がある。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『墨田区史』『墨田の歴史』など。

 京島の由来
 京島という島・村・字はない。 町名をつけるに当たり東の寺だから京島とし「京」の字に
「大きい」「盛ん」の字義があると説明、将来発展するようにとの願いを込めた。明治通りに面し
て1~3丁目があり、中心は・・・京成曳舟駅かなぁ! 寺島村の南端の辺り。この辺りはかつて
は寺島茄子の特産地だった。



■稲荷社
 
 京島1丁目8番2号、曳舟湯の向かいにある小祠。



■豊川稲荷社
 
 京島1丁目22番13号にある小祠。



■曳舟小学校
 
 京島1丁目28番2号にある区立校。昭和9年4月2日「東京市向島曳舟尋常小学校」として開校。
5月26日開校式、この日を開校記念日と定める。同16年勅令148号国民学校令により「東京市
向島曳舟国民学校」と改称。真珠湾攻撃により日米開戦。同18年都制施行により「東京都向島曳舟
国民学校」と改称。敗戦の混乱を経て、同22年東京都墨田区立曳舟小学校となる。昭和29年新校
歌制定。

 校歌
「光よそよげ」 作詞・作曲不詳
  1.光よそよげ明るい窓に
    小鳥よ歌え 鈴懸に
    いつも希望の溢れるところ
    元気で学ぶ吾等こそ
    墨田の誇り曳舟校
  2.桜と鷹に由緒も深く
    優しく強いこの気風
    町も溌剌 力に燃えて
    日本の明日の夢が湧く
    楽しい吾等の曳舟校
  3.この業尽くし この智慧尽くし
    学芸会よ 運動会
    いつも心を一つに繋ぎ
    仲良く励み 伸びて行く
    栄えある母校曳舟校


 同38年鼓笛隊結成。第1回鼓笛隊街頭パレードを実施。開校30周年記念式典。同47年大蔵大
臣、日本銀行総裁より子供郵便貯金優良校表彰。同49年開校40周年記念式典。同59年開校50
周年記念式典。
 平成2年校舎の南側外壁塗装と窓枠アルミサッシ取り替え完了。同3年校舎の北側外壁塗装とアル
ミサッシ取り替えを完了。同4年校舎西側内部改修完了。同5年校舎東側内部改修完了。同6年校庭
舗装。給食室改修。開校60周年記念式典。同8年防球ネット設置。同10年ランチルーム完成。同
13年パソコン教室完成。同16年普通教室にエアコン設置。開校70周年記念式典・祝賀鼓笛パレ
ード実施。同19年校庭芝生化。同20年プール改修。
  



■藍染博物館(墨田区小さな博物館)
 京島1丁目29番1号にある。すみだマイスターである藤澤謙二の卓越した技術や「長板藍染ゆか
た」「藍染のれん」「藍染半纏」といった作品、製作に使用される道具等を見学することができる。
また事前連絡があれば藤澤さんから直接説明を受けることもできる。
 開館は月曜日~金曜日。03-3611-6760



■墨田区曳舟文化センター
 京島1丁目38番11号にある区民会館。本格的な演劇や音楽会、軽運動や展示、各種集会など文
化的交流の場として幅広く利用できる施設だ。
 ホールは582席 楽屋3室。定員200人のリクリエーションホール、会議室2、和室・茶室各
1。申し込みは1年前から。



■曳舟川 廃川埋却
 江戸幕府が、明暦三年(1657)の大火(振袖火事)の後に開発に着手した本所・深川方面の新
市街地へ飲料水を供給する目的で開鑿された水路。成立は万治二年(1659)。「亀有上水」或い
は「本所上水」「小梅上水」とも呼ばれた。水源は埼玉県越谷市の瓦曾根溜井(かわらそねためい)
で、亀有に入ってからは、東側に中居堀を分水し、四つ木付近までは二条の水路が平行して流れてい
た。
 亀有上水の廃止は亨保7年(1722年)で、小梅より南の水路は埋め立てられたが、上流部はそ
のまま用水として残され、「古上水堀」と呼ばれた。廃止の理由は、洪水で堀が埋まってしまうこと
が頻発したこと、本所辺りは堆積地域であり地中に海水が混じっており飲水に不適当であったこと、
また井戸が容易に掘れたことなどである。とはいえ、多くの井戸からは海水が出てきたという。そりゃ
そうだろう。元は海だ。
 上水の廃水後、篠原村(四つ木)から亀有村間の28町(約3km)の水路を利用して、「サッパ
コ」という小舟に人を乗せ、土手の上から長い綱で肩に掛けて引くことが始まり、「曳舟川」と呼ば
れるようになった。帝釈天詣や水戸街道に出る旅人が利用した曳舟川は江戸東郊の風物として人気を
呼び、多くの紀行文や、初代の歌川(安藤)広重の「名所江戸百景」などに情景が描かれている。
 昭和28年キャサリン台風の大洪水で、翌29年から暗渠化。現在は川沿いにあった曳舟川通りを
拡張して曳舟通りとなっている。尚、葛飾区では暗渠部分は「曳舟川親水公園」として利用している。
整備の行き届いた美しい公園に仕上がっている。
 東京スカイツリー(新東京タワー)が完成すると大渋滞する道路になるぞ。



■京成曳舟駅
 京島1丁目45番にある京成押上線の停車場。京成曳舟駅は、京成電鉄初の開業区間押上~江戸川
・柴又間と同時に開業した駅。将来的に高架化する予定。ホームは地上相対式2面2線構造で、上下
ホームを結ぶ通路はない。ホームはやたら狭く、列車が通過する際はちょっと怖い。改札口・出口は
ホームごとに2ヶ所ずつ設けられており、計4ヶ所ある。



■古い川の跡 曲がりくねった道
 京成曳舟駅南の踏切から1丁目・3丁目を通って、愛国橋交番(京島3丁目交番)を経て明治通り
に至る道だ。とにかく短い区間を面白いほどカーブする。真っ直ぐに伸びた直線部が、曳舟川通りか
ら曳舟駅南口前までしかない。後は曲がりくねっている。右へ曲がったと思えば、すぐ左へ曲がると
いう具合で、最後まで右へ曲がり左へ曲がりして、まさに大蛇がのたくっている体(てい)だ。車で
走ると、まるで自動車教習所の練習コースそのまま、絶えず右に左にハンドル回しで忙しい。その分
スペードも出せないが、大きな事故も起きないかもしれないから、人に優しい道かも。それはともか
くとして、これは人が作った道ではない。・・・・というと可笑しないい方になるが、人間の発想で
作れる道ではない。人工的に作れるはずもない。人に設計を任せたらこんな面白い道は作れない。普
通にデザインすれば、最短距離で直線にならざるを得ない。よほど避けられない障害物でもない限り
普通というか、常識的には通常そうする。合理的、効率的だが、味も素っ気もない。この道は人の力
を超えたものが作ったに違いない。
 神のみぞ知るこの道は、人がやってくる以前からあった低湿地だろう。曲がり具合が太古のままか
どうかは判らないが、まあ似たようなものだったに違いない。古い地図には川として描かれている。
墨田区は元々海で、利根川が運ぶ土砂が堆積してできた下町低地だ。水に恵まれ、ために江戸近郊農
村として栄えてきた。



人口密度日本一 京島3丁目(旧吾嬬町西4丁目)
 細い路地に戦前から平屋の木造建築が超過密常態に建ち並び、東京23区でも防災上危険度、人口
密度ナンバーワンで、マスコミでも時々取り上げられる一帯だ。しかし意外や意外、この地域は火事
の発生率が低いのだ。特別な組織がある訳でもなく防火の意識が高いのか、自分の町から火は出さな
いという連帯感と体制が自然に生れているのだろう。密集地だけに確かに人の触れ合いが濃いのだ。
町内の橘銀座通り商店街もそうだ。お隣同士の助け合い精神が無意識に働いて、それが自然に原動力
になり大変活性化に満ちた町が生れている。
 京島地区は、今は六本木ヒルズに生まれ変わった六六(六本木6丁目)地区同様、東京都や墨田区
からその危険性を指摘され、早くから町作りの動きがあった。現在では「京島まちづくりセンター」
の中に住民参加の「まちづくり協議会」が組織されている。従来の町割を壊すことなく、昔の道も生
かして一部を拡幅整備すると同時に、そこに住んでいた人たちが、住みなれた地元に住みたければコ
ミュニティ住宅(仲間住宅)に住んで貰い、京島にふさわしい良好な居住環境を、まちづくりの第1
目標に掲げている。最近では、過密と活性化をマッチさせたまちづくりのモデルケースとして海外で
も知られており、東南アジア諸国やブラジルから都市計画関係者の団体見学があったり、ドイツから
も見学者がある。しかし新東京タワーの出現で、墨田区は再開発の嵐に見舞われ、もう30年もすれ
ば、味気ないビル、マンションの建ち並ぶ町へと変貌するだろう。



■原公園
 京島3丁目44番にある区立園。下町風情あふれるキラキラ橘商店街(橘館通り)の入口、曳舟たから
通り沿いのこの公園は、昭和20年3月10日の愚かなアメリカ軍の非人道的無差別空爆の犠牲者3
64名が仮埋葬されたところだ。
 なお平成元年3月、原公園の改修に際して、遺骨や毛髪が若干出土した。警察の鑑識により、戦後
改葬されたはずの戦没者のものと判明し、慰霊堂へ合祀された。

 
田丸稲荷神社

 公園の中にある小社。

 
地蔵尊と戦災殉難者之霊碑
 
戦後間もなく地元有志により、公園中央にある田丸稲荷神社の横に地蔵尊が建てられた。昭和47
年7月には「戦災殉難者之霊」の石碑が隣接町会と解脱会により建立された。毎年3月10日および
7月4日(お盆月の地蔵様縁日)に供養が行われる。

   一切之大供養(右側)
   完全令成佛(左側)


 新薬師道之碑

 大正6年5月の建碑とある。大きな立派な碑だよ。鷲山実同篆書 柳坡原忠三郎とあるので、原公
園の「原」は人名ということか? 土地の所有者だったのかも知れない。新薬師道というのは曳舟た
から通りのことだろうか、薬師が木下川薬師なら方向がちょっと違う気がするし、橘館通りなら薬師
道に合流するが、しかし新道という風情ではない。



■橘館通り(キラキラ橘銀座商店街)
 曳舟たから通り京島3丁目44番の原公園の西角の交差点から明治通りまでの商店街。橘館とは、
3丁目20番地のスーパーマーケットセイフー京島店のところにあった映画館。昭和6年に開場し、
同36年に火災に遭い全焼、再建されなかった。
駅前系ではない商店街ながら、かなりの隆盛を誇る
商店街だ。カラータイル舗装で、明るさと古さを兼ね備えている。食料品関係の店は特に強く、買い
食いしながら歩いている散歩師もいる。墨田区北部の数ある商店街の中で、要チェックの商店街だ。
「下町」を十二分に堪能できるので外部からの探訪者も多い、イチオシの商店街だ。



■第四吾嬬小学校
 
 京島3丁目64番9号にある区立校。大正15年設立、昭和2年東京府南葛飾郡第四吾嬬小学校と
して開校し、平成7年創立80年を迎え、卒業生は13207人、各界で活躍しているらしい。沿革
については図書館巡りをしたが、他区に比べて著しく資料が少なく、委細不明だ。図書館自体お粗末
で、中央図書館の機能を持つあずま図書館でさえ、他区のそれに比べようがないほど低レベルだ。休
日というのに少年少女の姿は見られず、閲覧机は何時行っても確保できる。もっと勉強しろ!

 校歌「くろがねの」 歌詞・第四吾嬬小学校PTA選定  作曲・渡辺浦人
  1.鉄
(くろがね)の甍に映えて
    東の空 朝日は昇る
    逞しくサイレン響き
    空遠く雲は流れる
    いざ友よ 肩ならべ
    みんなで歌おう
    第四吾嬬、吾嬬小学校
  2.若鷹は高くはばたき
    吾嬬の森 力みなぎる
    春秋を重ねてここに
    目も遥か 誇れこの町
    いざ友よ 手を繋ぎ
    みんなで作ろう
    みんなの町を 吾嬬の町を
  3.みな集うこの学び舎に
    教えの風 暖かく吹き
    花開く明日を望んで
    勤しむよ 日ごと日ごとを
    いざ友よ 眉あげて
    みんなで歌おう
    第四吾嬬 吾嬬小学校






【錦糸】(きんし)1~4丁目                    昭和42年5月1日
 播磨竜野藩脇坂家中屋敷・越前鞠山藩下屋敷・越前黒川藩柳沢家下屋敷・旗本武家地・亀戸村・
柳島村・八右衛門新田・小梅代地町。明治5年武家地を本所錦糸町としたが、明治期に町に商家は
なく大半を総武鉄道が所有していた。同22年本所区に所属。同24年亀戸村の飛地を併合。同2
7年総武線鉄道本所駅開業。同44年本所の冠称を外して錦糸町。大正4年駅名も錦糸町に改称。
昭和5年一部を江東区1・4丁目丁目に譲り、同7年大平町1~2丁目・柳島などの一部を加えて
錦糸町1~4丁目とした。同22年墨田区所属。同42年新住居表示により現行の「錦糸」となっ
た。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『墨田区史』『墨田の歴史』など。

 錦糸町の由来
 
江戸時代南割下水の大横川から以東を通称「錦糸堀」といったが、江戸末期には「小梅代地町、
南割下水錦糸堀」と呼ばれていた。 この用水堀こそが落語などでお馴染みの本所七不思議の一つ
「おいてけ堀」で、関東大震災まで錦糸町駅の北側に東西に長い長方形の溜池として存在した。震
災焦土の処理のため埋め立てられたが、駅北口が開かれたのは昭和56年になってからで、それま
では南口だけだった。町名はこの錦糸堀からついたが、錦糸の由来は判らない。「岸堀」が転訛し
たという説と、朝日夕日にきらめく水面の様が「錦糸」のようだからという説がある。江戸末期か
ら明治にかけて活躍した河竹黙阿弥の作になる歌舞伎の「孝女お竹」(初演慶応元年)の、

   「あれぇ、たれぞ来てくだされ」~~呼べど叫べど街中を、離れし在の錦糸堀、更け
   行く庭にこおろぎの、啼く音も細き秋の末、野寺の鐘や小夜砧、いとど哀を添えにけ
   る(黙阿弥全集より)


 この芝居は「錦糸堀」を舞台にしたもので、この「錦糸堀」は江戸時代の文献に登場する「錦糸
堀」の唯一のものなのだ。つまり河竹黙阿弥こそ「錦糸町の祖」ということになる。
だから錦糸は
錦糸堀だ!
 なお「おいてけ堀」は江東区亀戸1丁目の第三亀戸中学校のところにあった用水池だともいう。
また江東橋4丁目17番に錦糸堀公園があって、おいてけ堀だと説明し、カッパの像がある。一体
全体どうなってんでい! 



■錦糸町駅
 錦糸1丁目2番にあるJR総武本線・総武線、東京メトロ半蔵門線の停車場。明治27年12月、
同年7月に開業済みだった総武鉄道市川~佐倉間を延長する形で開業した。当時の駅名は「本所駅」
といい、同30年に現在名に代えた。同37年4月5日に両国橋駅(現在の両国駅)へ再延伸するま
では起点駅だった。
 昭和47年7月15日には東京~錦糸町間の地下線が開業し、錦糸町駅は東京からの快速線と御茶
ノ水からの緩行線の合流駅となった。これと同時に総武本線の起点は東京駅親ホームに移り、御茶ノ
水~錦糸町間は支線に格下げされた。その後、平成15年3月15日には半蔵門線が乗り入れて現在
に至っている。楽天地のところが汽車製造工場だった。
 JRのホームは高架島式2面4線。快速と各駅停車が別々のホームに発着しており、改札のある通
路のほかにも千葉寄りに乗換専用の連絡通路が設けられている。ホームと改札階を結ぶエレベーター
は、快速ホーム、各駅停車ホームともに設置済み。
 半蔵門線のホームは島式1面2線構造で、地下3階にある。ホームと改札階を結ぶエレベーターは
完備されている。
 JRの改札口・出口は、南口と北口の2ヶ所。東京メトロの改札は地下1階にある1ヶ所のみで、出
口は1~4の4ヶ所である。地上へ上がるエレベーターは、1番出口と4番出口に併設されている。
半蔵門線とJRの駅は完全につながっていないため、大雨のときなどには傘が必要となる。

 伊藤左千夫の歌碑
 碑錦糸町駅南側広場(江東橋3丁目14番)にある。

   牛飼いが歌よむ時に世の中の新しき歌大いに起こる

 左千夫は矢切の渡しを著名にした『野菊の墓』の作家だが、錦糸町駅周辺がまだ「鉄道ヶ原」と呼
ばれて人気のない寂しい場所だったころ、この辺りで「牛乳改舎・茅の舎」という牧場を開き、搾乳
業を営んでいた。

 彫刻「エコー」
 北口の交通広場にあるアメリカ人ローレン・マドソンの作品。この作品が日本での初めての作品で
あり、作成モチーフは音楽と美術の相互関係に着目して、「ヘ音記号」を2つ、片方を逆さにした組
み合わせで、相互に繋がりと連結性を持たせ、2つの柱に続く5本のケーブルは五線符を表す。また
タイトルは作品の構成する2つの記号が互いに反響しあっているイメージで「エコー」と名づけられ
た。



■すみだトリフォニーホール

 錦糸1丁目2番3号にある。「新日本フィルハーモニー交響楽団」(音楽監督クリスティアン・ア
ルシンク桂冠名誉指揮者:小澤征爾)が、墨田区とのフランチャイズ提携に基づき、すみだトリフォ
ニーホールを拠点として演奏活動を行っている。オーケストラの公演活動をこのホールで行うことは
勿論、総てのリハーサルも同じ舞台で行い、一貫した音作りを目指している。全国初の本格的なフラ
ンチャイズオーケストラは、すみだトリフォニーホールの顔となっている。ホールは、墨田区におけ
る中核的な文化施設としてまた東京東部地域における芸術文化活動の拠点として誕生した。
 03-5608-5400
 ホールは、オーケストラなどの音楽演奏を主目的にした「大ホール」と、区民自らの発表鑑賞等に
利用できる「小ホール」がある。さらに少人数からアンサンブルの練習にも応られる3室の練習室、
大・小ホール合わせて17室の楽屋など、個性的で先進的なホールだ。


 パイプオルガン
 すみだトリフォニーホールのオルガンは、18世紀のドイツ・バロック時代のオルガンの特徴を基
本にしたタイプ。製作したのは、ドイツのザクセン地方の古都ドレスデンに工場を持つイェームリッ
ヒ社。同社は、オルガン音楽の最大の巨匠とされる、あのヨハン・セバスチャン・バッハと関係が深
かったオルガン製作の伝統を受け継いでおり、その特色がここに生かされている。このオルガンの規
模は、4735本のパイプが、66個のストップに纏められている。ストップとは、音色の可能性を
引き出す装置のことで、様々な音を発するパイプ群を、同じ系列の音色毎に何十本かづつ集めたもの。
ストップの数が増えれば、それだけ音色の組み合わせの可能性が大きくなり、表現力が豊かになる。
演奏台には手で操作する手鍵盤が3段と、足で扱う足鍵盤(ペダル)が1段備えられている。またす
みだトリフォニーホールは、新日本フィルハーモニー交響楽団の本拠地になっているから、このオル
ガンは、オルガン独自の力を充分発揮すると共に、オーケストラの響きとも良く調和するように設計
されていることが、大事な特色の一つだ。



■津軽稲荷神社
 
 錦糸1丁目6番12号にある小社。津軽藩下屋敷内にあったことに由来する。この一帯はその昔、
津軽為信の時代に1万坪の下屋敷があったという。明治以降は管理ままならず、明治43年の大水害
後に地元町会に払い下げられた。関東大震災と愚かなアメリカ軍の空爆の2度焼失したものの、昭和
35年に拝殿・社務所・会館、同44年に鳥居が再建され復興した。
 初午祭は、毎年2月の初午の日、平日の場合は第2日曜に催されている。拝殿で修祓式が執り行わ
れ、神社を管理する錦糸1丁目町会長や総代代表らが玉ぐしを捧げ、近くにある牛島神社の宮司の音
頭で乾杯する。神社は錦糸町駅前に程近いビル街の一角にあり、献奏では「あどはだり」「鯵ケ沢甚
句」「十三の砂山」など津軽三味線の音が心地よく響く。

   津軽稲荷神社由来
   津軽稲荷神社は青森県弘前城主津軽四郎為信十万石の下屋敷にて一万坪は明治四十三年の
   大水害と共に拂下られ太平町一丁目町会の所有となる。
   昭和七年町名変更の際錦糸一丁目町会の守護神となり祭神は伏見稲荷神社の分神にて町民
   の信仰厚く大正十二年関東大震災及昭和二十年戦災の為焼失昭和三十五年拝殿及社務所会
   館再建落成致しました。又弁財天は江ノ島弁財天の分身で鳥居は明治百年を記念して昭和
   四十四年再建されました。町民一同之信仰の的とされて居ります。尚津軽華子様常陸宮様
   との御結婚之際当町より津軽家に御祝品贈り御礼として礼状及記念品を頂戴致しましたの
   で神社内に保存してあります。
   昭和五十八年                               明友会



■とり喜

 錦糸1丁目8番13号にある焼鳥屋。店内は高級レストランの佇まい。欅の一枚板の12席のカウ
ンターの他に8名まで座れる堀炬燵式の小上がり。坂井康人が仕入れるのは、鳥取の「大山地鶏」や
「東京軍鶏」などの質の良い国産鶏だ。丁寧に串を打ち、振り塩はやや控えめ、過度に炭の香りをつ
けず、火を通し過ぎない焼き加減が特色。あっさりめのタレが素材の味を引き立てる。焼鳥8本と野
菜4本のコースが人気。単品で注文する方が出てくるのは早く、丸ハツ(心臓)や鶏刺身は予約が必
要。一品料理も充実しており、濃厚な味わいの自家製胡麻豆腐は定番。締めは鶏だしが魅力の茶漬け
だ。予約は10時から16時まで。
 定休日は、日祝、ゴールデンウィーク、8月中旬、年末年始
 17時半~22時(土曜は17時から) 03‐3622‐6202

 ミシュランガイド東京 
 『2010』から『2013』まで4年連続で星1つを取っている。



■錦糸小学校

 錦糸1丁目9番12号にある区立校。大正7年4月20日太平町1丁目50番地(横川1丁目)に
「東京市太平尋常小学校」として開校。同12年関東大震災で校舎全焼。翌年仮校舎が建つ。
 昭和3年仮校舎を移す(太平1丁目)同4年現在地に鉄筋コンクリート造り3階建て新校舎落成。
同8年創立15周年記念式典。校歌・校旗制定。

 同16年勅令第148号国民学校令により「東京府東京市錦糸国民学校」と改称。12月真珠湾奇
襲により日米開戦。同18年都制施行により「東京都錦糸国民学校」と改称。同20年愚かなアメリ
カ軍の非人道的無差別空爆により本所は焼野ヶ原となり校舎も全焼。
 同21年旧茅場国民学校跡を仮校舎として授業再開。同22年国民学校が廃止となり、アメリカの
強制による学校教育法の施行により「東京都墨田区立錦糸小学校」と改称。同28年創立35周年記
念式典。同38年やっとプール完成。交通禍で子供の遊び場がなくなったため日曜日の校庭開放始ま
る。同39年集団登校開始。同43年水泳教育でNHKに出演。創立50周年記念式典。同46年旧
校舎解体。同48年建替え新校舎落成。創立55周年
記念式典。同53年あわの自然学園開設。移動
教室始まる。創立60周年記念式典。同63年創立60周年記念式典。
 平成5年錦糸グラウンドにて創立75周年記念大運動会催行。同記念式典。9年食堂完成。同10
年創立80周年記念式典・学芸会。同13年コンピュータルーム開設。校庭全面改修。同14年野外
体験活動始まる。完全週5日制開始。同15年開校85周年を記念して錦糸グランドで大運動会・記
念式典・音楽会・展覧会。同20年創立90周年記念式典・記念学芸会。。



■長崎橋の由来

 錦糸1丁目17番の橋跡にある。親柱の間にトラスを渡したモニュメント。

   ここにあった長崎橋は、元禄十年(1697)当時の本所奉行鈴木兵九郎、島屋久五郎両
   名によって、墨田区亀沢4丁目より錦糸1丁目に架けられました。最初は長さ十間(18
   m)、2間半(4.5m)の木橋でしたが、その後何回となく架け替えられ、昭和4年6月
   には鋼橋(トラス)になりました。この橋は、大横川親水河川整備事業によりその役目を
   終えて撤去しました。橋の名前は、当時西側に隣接した本所長崎町の地名に因んで長崎橋
   と名付られ、永い間親しまれた本橋の面影を慕い、橋名板を残してその歩みを記します。



■乾燥木材工芸資料館
(墨田区小さな博物館)

 錦糸2丁目9番11号にある。指物(釘などを使わずに細かく板を指し合わせて組み立てた机、タ
ンス等の総称)技術を駆使して、木の根などの乾燥した木材で作られた様々な作品が並ぶ。館内には
「木の暖かみ、手づくりの良さを多くの人に知ってほしい」と民芸品やオブジェなどが展示されてい
る。お子さん向けには木の玩具やパズルもある。「木製品作りを体験させることで、木の素晴らしさ
物を大切にする心を子供たちに伝えたい」と鈴木康之館長の弁。開館は、月曜日から金曜日までの午
前9時から午後5時まで。 03-3625-2401



■ルーペハウス

 錦糸3丁目9番6号にあるルーペ専門店。ルーペとは拡大鏡のことだ。ルーペといっても馬鹿にな
らない種類がある。顕微鏡もルーペの1つだ。取り扱い品揃えは、ヘッドルーペ、スタンドルーペ、
置き型ルーペ、高倍率ルーペ、ハンドルーペ、携帯用ルーペ、ペンダントルーペ、遠近両用望遠鏡な
どなど。インターネットでも販売しているし、送料は一律500円。5000円以上のお買い上げで
送料は無料だとか。てもまぁルーペなんてあんまし買わねえわなぁ。
 TEL03‐3626‐1531



■稲荷社

 錦糸4丁目1番のJR錦糸町変電所内にある小祠。



■錦糸公園
 
錦糸4丁目15番、錦糸町駅北口から歩いて1分の、小さな子供から大人までが楽しめる多目的運
動公園で、児童公園・健康遊具広場・噴水広場・野球場・テニスコート・ラジオ体操広場などがある。
毎月一回フリーマーケットが催される他、毎年10月の第一土・日曜日に区民あげてのお祭り「すみ
だまつり」のメイン会場にもなっており、多くの区民が利用出来る楽しい公園でもある。昭和3年の
開園で、区内では安田公園に次いで古い。



■千種稲荷神社
 錦糸4丁目15番1号にある。錦糸公園の駅側入口の右側に鎮座している。この辺りが柳島村と呼
ばれていた4代将軍家綱の時代から守護神として祀られていた稲荷。現在の錦糸公園は、武家地や幕
府の材木蔵だったが、明治になってから陸軍の倉庫地となった。その時稲荷社取り払ったところ火災
が頻発した。そこで再建したら不思議と火災が起こらなくなり、関東大震災でも被害を受けることが
なかった。昭和3年錦糸公園が開園したが、稲荷は公園を造園中に行方不明になってしまったが、また
火災が多発するようになった。そこで何とか探し出して改めて祀ったところ火災はなくなり、昭和2
0年アメリカ軍の無差別東京大空襲でも戦火を免れた。なお千種を冠するのは昭和30年から管理が
千種講に委ねられたことによる。





【江東橋(こうとうばし)1~5丁目                 昭和42年5月1日
 亀戸村・武家地・深川北松代町・柳原町・茅場町など。昭和5年茅場町3丁目・松代町1~3丁
目の全部と柳原1~3丁目・錦糸町の各一部をあわせた町域を「江東橋」とし、同42年新住居表
示を実施して現行の「江東橋」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『墨田区史』『墨田の歴史』など。

 
江東橋の由来
 
町名は明治31年に架けられた大横川の橋名による。 当時江東区はなかったので「江戸の東」
「墨江の東」の意だ。橋は長さ16間×幅3間の木橋だった。現在の橋は、大正15年震災復興事
業として架け替えた長さ38m×幅27mの鋼鈑桁橋を、平成7年に長さ20m×幅35mのラー
メン橋台付き鋼鈑桁橋に改めた。



■伏見江一稲荷神社
 江東橋1丁目3番6号にある小社。



■ブレーキ博物館(墨田区小さな博物館)
 江東橋1丁目5番5号にある。ブレーキの歴史、構造、種類などをパネル展示で知ることができる
ほか、普段はあまり目にすることができない新幹線やF1カーなどに使われているブレーキまで見る
ことができる。また乗車の疑似体験ができるコーナーもあるなど、まさに楽しみながらブレーキの仕
組み、役割、大切さを学べる博物館になっている。事前に連絡をすれば、石橋秀郎館長から詳しい説
明を受けることもできる。開館は、祝祭日を除く月曜日から土曜日の午前10時から午後5時まで。
臨時に休館することあり。前もって電話をしておくのがベター。 03-3632-6931



■両国高等学校
 
 江東橋1丁目7番2号にある都立高。明治34年京橋区にあった府立一中から独立した府立第三中
学校、翌年現在地に移転。戦後都立第三高校。昭和25年創立50周年を機に都立両国高校と改称。
平成13年創立100周年。明治期には区内唯一の中学校だった。芥川竜之介は幼育社(両国小学校
の最前身)→ 府立三中 → ー高 → 東大と進んでおり、その後小梅町の堀辰雄も三中→一高のコース
を辿っている。

 校歌「明暮の御教えに」 作詞・吉丸一昌教諭  作曲・石原重雄教諭
    明暮の御教えに
    文の山分けて入り
    朝夕の勤しみに
    学びの海 漕ぎて行く
    匂い豊けき文花の栄え
    かかりて吾等が双肩に在り
    山は裂け 海原はあせなんも
    よしや我が志 動かめや
    節操やも変わるべき
    いざや いざや 
    道の為に 国の為に
    勉めよ 我が友 
    いざや学べ いざや励め 我が友


 
卒業式の歌  作詞・吉丸一昌  作曲・石原重雄
  1.祝へ 祝へ いざ諸共に
    謡いて 祝へや 今日の日を
    文の林に入りしより
    はや幾年を夢の間に
    行くか益荒夫 業を得て
    翳す桂の玉の枝
    折りて来ませ久方の
    雲井にしるき名をあげて
  2.情け嬉しき言の葉や
    行く手の望み火と燃ゆる
    光を仰ぎさして行く
    空の彼方
(あなた)に別るとも
    恵みを受けし師と君と
    親しの友を忘れめや
  3.実にやかたみに西の空
    東の空を隔つとも
    心一つの友垣は
    千歳をふとも変らじな
    祝へ 祝へ いざ諸共に
    謡いて祝へや今日の日を


 この歌は1~3番の歌ではなく、1の部分の歌詞を在校生が歌い、続いて2の部分の歌詞を卒業生
が歌う。3の部分の歌詞は一緒に歌うのだが。同じメロディを繰り返す訳ではなく。1~3で1つの
歌になっているのだ。卒業式の歌があるというのも摩訶不思議だわいな。

 
芥川龍之介文学碑

 両国育ちの芥川は府立三中(現両国高校)出身で正門を入った校内に文学碑がある。両国高校は錦
糸町にあり、大横川をはさんで鬼平の住居跡、勝海舟の寓居跡のすぐ向かい側にある。

   もし自分に「東京」のにおいを問う人があるならば、自分は大川の水のにおいと答えるの
   になんの躊躇もしないであろう。ひとりにおいのみではない。大川の水の色、大川の水の
   ひびきは、我が愛する「東京」の色であり、声でなければならない。自分は大川あるがゆ
   えに、「東京」を愛し、「東京」あるがゆえに、生活を愛するのである。
                                       大川の水

 国産燐寸(マッチ)発祥の地
 体育館の裏、フェンスの内側に「国産マッチ発祥の地」と刻んだ黒御影石の記念碑が建っている。
碑には当時の新燧社のマッチ箱ラベルも描かれているが、碑文も建立年月日も記されてない。
 石川県金沢出身の清水誠は、フランス留学から帰国後、明治9年にこの地本所柳原に「新燧社」を
設立、本格的にマッチの製造を始めた。2年後には早くも我が国始めての輸出が行われ、その後明治
から昭和初期にかけてマッチの輸出は黄金時代を迎え、太平洋戦争前まで続いた。戦後は、広告マッ
チが流行し生産量が拡大していったが、昭和50年代より使い捨てライターが急速に普及し、マッチ
の生産量も激減した。マッチを擦れない若者も多く、薪炭、練炭、炭団などとともに20世紀の遺物
になりつつある。第一火を熾(おこ)すということすら出来ないということは、サバイバルに生き残
れないということだ。

   
国産マッチ発祥の地

 マッチ箱のラベルの図柄が刻まれているだけで碑文はない。
 なお「国産マッチの創始者清水誠の頌」という石碑が亀戸天神の境内にある。

   国産マッチの創始者 清水誠の頌             岸信人書
   人類は原始以来火を自由に使うことによって今日の文明を築いてきた。日本の近代文明も
   また西欧からマッチの製法を輸入し、これを改良工夫した先人の努力によって飛躍的に発
   展したのである。その創始の時が今から丁度百年前でありその創始者が清水誠氏である。
   清水氏は弘化二年(1845年)金沢で生まれ、明治三年幕命を受けてフランスに留学し
   パリ工芸大学に学んだ。専攻は造船学であったが、明治七年たまたま在仏中の宮内次官吉
   井友美氏の勧めによってマッチの製造を決意して帰朝した。翌八年(1875年)四月に
   は、本務の造船技師のかたわら、東京三田の仮工場で早くもマッチの製造に着手した。明
   治九年九月本所柳原町に工場を新設して新燧社を興し、同十二月には官職をやめて、その
   経営に没頭した。翌十年九月には初めて国産マッチを上海に輸出し好評を博した。明治十
   一年七月再びフランスに渡り、ドイツ スウェーデンのマッチ事業を視察して帰り 以来
   ますますその改良に苦心し増産につとめた。その後打ち続く不況に見舞われ、逐に二十一
   年には業界から引退して郷里金沢に帰った。しかしその後もなおマッチ製造機の改良に情
   熱を燃やし、二十九年新鋭機の特許をとり翌二十年大阪に出てその製造に従事した。明治
   三十二年(1899年)二月八日病をえて没した。時に年五十四才である。大正四年政府
   はその功績を賞して従五位を遺贈した。なお没後間もなく当亀戸天神社の境内に追慕顕彰
   の碑が建てられたが今次の戦災によって破損したままになっていた。今年恰も国産マッチ
   創始百年に当たり、業界の有志によって新しく再建されることになった。ここにその由来
   を誌し先人の功をたたえ 一文を草して頌辞とする
    昭和五十年五月十二日                   文学博士 内野吾郎撰



■竪川親水公園

 江東橋2丁目1番にある区立公園。まだ未完成の公園だが、大横川合流点から横十間川まで890mが公
園になる。

 新辻橋~牡丹橋
 グランドゴルフ場やゲートボール場にテニスコートがある。利用はすべて無料で受付は当日公園内
の管理事務所で先着順になっている。申込時間:9:10~16:00 利用時間9:30~17:00 定休日:
年末年始  問い合わせ:道路公園課工務担当 電話:5608-6291

 四之橋~松本橋
 バスケットボードがあればストリートバスケットでも似合いそうなコンクリート広場とスカッシュ
ができる広場がある。近くには区の弓道場もある。



■よこやま 閉店

 江東橋2丁目7番10号にあった天ぷら屋。店主の横山忠志は京都の高級天ぷら店で5年間修業し
た後、その東京店でも長年に亘り経験を積んだ。昭和62年に独立して錦糸町に開業した後、現在地
に移転した。簡素な店内はカウンターの10席のみ。夫婦で営む家庭的な雰囲気の店。
 平成24年5月31日を以て閉店。後は弟子が継いで「はせ川」となった。

 
ミシュランガイド東京 
 『2009』から『2012』まで4年連続で星
1つを取った。、
 


■はせ川

 江東橋2丁目7番10号にある天ぷら屋。平成24年、横山の弟子が「よこやま」を引き継いで、
「はせ川」と改めて開業した。
 17時半~23時半 定休日:日祝・8月中旬・年末年始 03‐3631‐3927

 
ミシュランガイド東京 
 『2013』に初めて星
1つを取った。



■鎮守稲荷大明神
 江東橋2丁目18番7号にある小祠。



■田螺稲荷神社
 江東橋3丁目3番9号にある小社。江戸時代の地図にも載っている由緒ある稲荷で、元の名は「田
中稲荷」。火事で付近が燃えた時、このお稲荷さんの壁に田螺がびっしり付いていて延焼を逃れたと
いうことから「防火」の神様として崇められている。首都高の近くで、付近は夜の繁華街。ビルのス
キマにひっそりとある。田螺が一杯だったというから、江戸時代はこの辺りは湿地帯だったんだね。
鬼平も幼年時に参拝したかもしれないぞ。



江東観世音 五徳山江東寺
 江東橋3丁目6番5号にある小寺。堂宇は鉄筋コンクリート造りで、庫裏は4階建てのビルディン
グ。昭和15年群馬県伊香保の板東十六番水沢観世音別院として建立。本尊は千手観音菩薩で、家内
安全、交通安全、厄除け、六三除け、虫封、方災除けなど。
 他に境内には清昌稲荷大神、出世弁財天、水洗い観音、お地蔵様、馬頭観音等が祀ってある。



■すみだ産業会館サンライズホール
 江東橋3丁目9番10号にある。昔は都電の錦糸町車庫だった。



■伊藤左千夫牧舎・住居跡
 歌碑
 江東橋3丁目14番、JR錦糸町駅南口広場の一帯にあった。明治から大正時代に活躍した歌人伊
藤左千夫は、正岡子規の実質的な後継者として優れた短歌と歌論を発表し、小説家としては「野菊の
墓」の作者としてその名を残している。左千夫は、明治22年、26歳のとき、現在の墨田区江東橋
に牧舎と住居を建てて搾乳業を営んだ。JR錦糸町駅南口の広場には、伊藤左千夫牧舎兼住居跡とし
て、

   よき日には庭にゆさぶり雨の日は家とよもして児等が遊ぶも

 の歌碑が建っている。搾乳業に専念する傍ら、歌に魅入られた左千夫は代表作となる

   牛飼が歌よむ時に世の中のあたらしき歌おほいに起る

 を詠み、以後牧場に関する多くの歌を詠んでいる。彼の主宰する歌誌「馬酔木」創刊時の発行所、
アララギ派の機関誌「アララギ」の発行所となったのもこの牧場だった。



■錦糸町ステーションビル・テルミナ
 江東橋3丁目14番5号、錦糸町駅南口にある地下1階から6階の商業施設の駅ビル。北口の駅ビ
ルは「テルミナⅡ」という。雑居ビルで、テナントビルといえば綺麗か。



■招福稲荷神社
 江東橋4丁目7番10号にある小社。



■本所七不思議の一つ「おいてけ堀」の河童の像
 江東橋4丁目17番1号の錦糸堀公園にある。
江戸時代は錦糸町辺りは湿地帯で、釣りをする人が
多かったので、この逸話が生まれた。おいてけ堀は「錦糸堀」のことらしく、下級武士や町人が釣り
を楽しんだとか。ここの公園の周辺は現在は韓国バー、フィリピンバー、ロシア・ルーマニアショー
パブに囲まれ、まさに「日本」はおいてけ掘。河童ちゃんが出てきても面くらうだろうさ。




■都立墨東病院
 江東橋4丁目23番15号にある。昭和36年本所病院と墨田病院を統合し、本所病院の跡地に診
療科13科・400病床の病院を設立。同47年100病床増床。同50年ICU・CCU病棟開設
(7床)。同53年2月CTスキャナー導入。11月精神科病棟(28床)を開設し、精神科救急事
業実施。同56年東京都総合実施計画で診療棟改築を発表。同57年1月伝染病棟一時休止。2月第
一期工事に伴う病棟移動(549→388床へ変更)。12月長期計画で改築計画発表。同58年診
療棟改築工事着工。同60年8月~10月診療棟改築工事竣工。11月診療棟オープン。救命救急セ
ンター(20床)開設。病棟再改修工事着工。同62年病棟再改修工事竣工。伝染病棟再開(42床)。
 平成5年墨東病院建設検討委員会により新病棟改築の基本構想が決まる。同7年墨東病院病棟建設
懇談会報告書で新病棟改築の具体的方向性が定まる。同8年病棟改築工事着工。同10年財団法人日
本医新病棟オープン(医療法定床764床)築地産院を統合して、総合周産期母子医療センター開設
(NICU12床、GCU33床、M‐FICU9床)。循環器科(20床)、リハビリテーション
科(20床)を新設。同11年病棟改築工事竣工。救命救急センター(20→24床)、手術室(7
→10室)の改修工事完了。救急診療科を新設し、「東京ER・墨東」を開設。同16年女性専用外
来開設。同17年電子カルテシステム稼動開始。同20年救急の妊婦の受け入れを拒絶したために妊
婦が死亡し世の批判に曝される。元々トラブルの多い病院で、

 東京ER・墨東
   ER=いつでも誰でも様々な症状に対応『東京ER・墨東』は、これまでにあった救命救
   急センターと、今回新設された救急診療科とによって構成されます。救急診療科は、各科
   の当直業務からは独立して機能し、いわゆる一次、二次救急患者の初療に対応する部門で
   あり、救命救急センターは、これまで通り、三次救急患者を中心とした重傷患者を対象と
   します。また、救命救急センターはこれまでと同様、一次、二次救急のバックアップを行
   い、墨東病院として、軽症から重症まで、全ての救急患者に対応できるような体制をとっ
   ています。


 ●
妊婦たらいまわし死亡事件
 平成20年10月4日脳内出血を起こした出産間近の妊婦(36)が8つの医療機関(東大病院・
墨東病院・東京慈恵会医大病院・東京慈恵会医大青戸病院・日赤医療センター・日大板橋病院、慶応
大病院、順天堂医院)に受け入れを断られ、その後に死亡した問題は、産科医不足にさらされる医療
現場の危うい実態も浮き彫りにした。地元医院からの最初の要請を断った墨田区の都立墨東病院は、

   複数の当直医をどうしても手当てできず、原則として救急搬送は断っていた。みんなギリ
   ギリのところでやっている


 と訴えた。都によると、墨東病院は妊産婦の救命救急に24時間対応する「総合周産期母子医療セ
ンター」として都の指定を受けており、周産期医療を支える中核病院の一つ。都の基準では「複数の
医師の確保が望ましい」とされるが、医師の退職で2人の当直体制が維持できず、7月から休日には
1人体制としていた。同病院の常勤産科医は現在4人。都が提示する定数の9人を大きく下回ってい
る。同病院周産期センターの林瑞成産科部長は、

   産科医を簡単に増やせる状況ではなく、産科救急を目指す人はもっと少ない。その中で、
   どうしたら安全が維持できるか、関係機関と話し合っている


 と話す。医師確保のため大学医局への働きかけや待遇改善、女性医師の短時間雇用など、

   打てる手は打っている

 と病院経営本部はいう。都内の産科医は平成8年の1573人から、同18年には1411人に減
少している。都の周産期医療協議会による同20年3月の報告では「予想以上の減少傾向」と指摘。

   女性医師自身の出産や育児のための離職、医療訴訟の多発などで新たな産科希望の医師
   の減少


 などの要因があると分析している。この問題で、最初に受け入れを断った都立墨東病院だけが、都内
9ヶ所ある総合周産期母子医療センターの内、最低2人とされている当直態勢を確保できていなかっ
。他の8ヶ所の産婦人科医の待機体制は、杏林大学病院(2~3人と呼出1人)・東京女子医大病
院(2~3人)・昭和大学病院(2人)・愛育病院(2人と呼出1人)・東邦大学大森病院(3~4
人)・日大板橋病院(4人と呼出1人)・帝京大学病院(2人と呼出1人)・日赤医療センター(3
人)と発表している。

 
桝添要一厚生労働大臣VS石原慎太郎東京都知事
 事件の発覚した10月24日舛添厚労相が「東京都に任せられない」といえば、石原都知事は「医
者が足りないのは国の責任」と反発。妊婦が8病院に受け入れを断られて死亡した問題で、大臣と知
事が責任のなすりつけ合いを演じた。舛添厚労相は閣議後の会見で、「週末に1人しか当直医がいな
くて総合周産期母子医療センターといえるのか」と批判。「事故の情報も都から上がってこない。と
てもじゃないけど任せられない」と声を張り上げた。
 これに対し、石原都知事は定例会見で、年金問題への舛添厚労相の対応を踏まえて「あの人は大見
えきったつもりでいつも空振りする」とし、「医師不足にしたのは誰だ。東京に任せられないじゃな
く、国に任せられない。厚労省の医療行政が間違って、こういう体たらくになった」といい返した。
どっちでもいいが2人とももっとしっかりしろい!




■LIVIN前の和時計

 江東橋4丁目27番14号にある。錦糸町が服部セイコーの「城下町」だった昭和36年に服部セ
イコーが和時計を寄贈して、この地に設置した。通行の邪魔にならないように台に乗せている。この
町がかつては「汗水たらして働く職人さん」の活気ある町だったことを印す記念碑だ。 LIVIN
とは西友の名前隠しで、西武色を薄めよう魂胆だ。堤一族は異常だったからねえ。またここはかつて
は錦糸町の中心地で、本所映画、江東劇場、名画座、リッツ、キンゲキ、めばえ座、江東東映などの
映画館が建ち並んでいた。



■日本福音ルーテルパウロ教会

 江東橋5丁目3番1号にある小祠。
 



■御嶽神社
 江東橋5丁目8番18号にある小祠。



■屋敷稲荷
 江東橋5丁目13番1号にある小祠。



  【ころっころっの柴犬】
とっても元気な柴犬のワンちゃん
かわいいですよ。ここ掘れワンワン。
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 酒屋では手に入らない限定商品や
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【墨田】(すみだ)1~5丁目                     昭和40年3月1日
 墨田村→須田村→隅田村。南北朝の頃に見える須田川(隅田川)の左岸の地名。貞和二年(13
46=正平元年)九月八日付「鎌倉府執事奉書」に「江戸次郎太郎重通申す。武蔵国石浜・墨田波
・鳥越三ヶ村の事」の記述が初出。江戸時代は須田村、天保の頃から隅田(すだ)に書き換え、明
治11年「郡区町村編制法」により南葛飾郡に所属。同22年「市制町村制」により隅田村・寺島
村・南綾瀬村に分かれてそれぞれの大字。大正3年隅田村の一部を本田村に編入。同12年隅田・
寺島両村が、昭和3年南綾瀬村が町制移行。同7年隅田町隅田は向島隅田町1~4丁目となり、本
田村隅田は若宮町の一部となる。また寺島町隅田は寺島7丁目、南綾瀬町隅田は葛飾区堀切の一部
となった。同22年墨田区所属、向島隅田町は新住居表示を実施し同39年堤通2~3丁目を割き、
同40年一部を東向島5丁目・八広6丁目に譲り、同時に隅田町の大部分に寺島町3・7丁目・吾
嬬町西9丁目の各一部をあわせた町域を現行の「墨田」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『墨田区史』『墨田の歴史』など。

 
墨田の由来
 
墨田区の墨田は一応造語だが、地名の墨田・隅田の由来は判らない。隅田は正しくは「すだ」で、
州田・砂田・須田から来ている。「すみだ」と発音するようになったのは、関西系の人々がやって
きてからで、雰囲気が和歌山の「角田川」に似ることで名づけられたとか。向島区隅田町は「すだ
ちょう」だった。とにかく遠い昔においてはマンモスを追って関東地方への人口流入はあったが、
その後は黒潮に乗って相模や安房に辿り着いた人々が北上したようだ。潮岬→館山→木更津→江戸
というのは自然の移動コースだ。江戸の古い地名には和歌山県と共通するものが幾つかある。八代
将軍吉宗が紀州人であったのも偶然ではないのかも知れない。おそらく東京は地殻的に浮き沈みが
激しく、人間が住みにくい土地柄だったのだろう。だから地名なども付いていないところが多かっ
たに違いない。そこへ中央政府から派遣されてきた役人・旅僧・渡り(移民)などが故郷を懐かし
んで、景色の似た場所に関西系の名前をつけたのではなかったか。

 「すみだ」をインドネシア・マオリ語で解すると「ツ・ミ・タ」、「襲ってくる(氾濫する)水
の帯(のような川)」。または「ツム・タ」で「湿地を襲う(川)」だという。なるほど理には適っ
ている。



■岐雲園跡
 墨田1丁目4番(寺島七丁目二百七番地)にあって、広さ約500坪(1650㎡)、隅田川の水
を引き入れた汐入の池のある別荘風の構えで、岩瀬忠震(鴎所)が自分の所有する画巻の筆者、明の
魯岐雲に因んで名づけたもの。
 彼は職を免ぜられた後、憂憤の退隠生活をここ岐雲園で送り、再び世に出ることもなく、風雅な生
活を送った。「鴎所」の号も、隅田川にとぶ都鳥に因んでつけたといいます。この地にあること2年
にして、44歳の若さで生涯を閉じました。忠震没後、同僚でもあった永井介堂(尚志)も晩年を岐
雲園で送り、ここで没している。また幸田露伴の父成延、長兄成常もここに住み、露伴自身も一時期
住んでいた。そして次兄の郡司成忠が北千島探検に出発の前夜、明治26年3月19日別離の宴を催
したのも、ここ岐雲園だった。
 跡地はトミンハイム墨田一丁目となっている。



■下の道
 墨田1丁目4番1号のトミンハイム墨田一丁目1号棟の墨堤通りの歩道寄りの敷地の端にステンレ
ス製の説明板が建ててある。

   下の道
   承和二年(835)の太政官符に「武蔵国下総両国堺、住田河四艘・・・」の記載がみら
   れます。住田渡(隅田渡)は現在の白鬚橋辺と考えられ、大正3年の架橋頃まで、永々と
   続く隅田渡がありました。古代東海道の官道であり、鎌倉街道、奥羽、水戸街道などの道
   筋にもなったいました。
    この墨堤通りを下る道も古道で、古くから「下の道」と呼ばれ、鎌倉街道の「下の道」
   とも想定させます。源頼朝が敵対する常陸国佐竹氏討伐に、また奥州征伐にも使用された
   道とも考えられます(吾妻鏡)
    さらに時代が下がり、戦国時代には国府台合戦の小田原北條軍の使用路でもあり、郷土
   の歴史を知る上からも貴重な道筋です。 
                              平成12年3月
                               監修 墨田区教育委員会
                               施主 東京都住宅供給公社


 ※古代において東海道とは行政単位であり、ところどころ海の浅瀬を歩くか、舟で行く道の意だ。全
線道路としたのは徳川家康で、古代の主要官道は東山道で、東海道は「あずまのうみつみち」、東山道
は「あずまのやまつみち」と読む。鎌倉街道という言葉は明治以後の用語で、鎌倉幕府が開幕して鎌倉
に向かう道を総て「鎌倉道(かまくらみち かまくらどう)」といったが、その数ある鎌倉道の中で主
要幹線とされたものが「上の道」「中の道」「下の道」の3本で、上の道は秩父を通る山沿いの道、中
の道は世田谷・杉並を通る平原の道、下の道は海沿いに江戸を通り奥州へ向かった。
 



■宝守稲荷社
 墨田1丁目16番19号の駐車場の角にある小祠。



■下稲荷神社
 墨田2丁目3番8号にある小社。創建年代は不詳ですが、隅田村にあった稲荷社二社の内の一社。
新編武蔵風土記稿に

   稲荷社二宇。
   一は三才稲荷、一は下稲荷と称す。ともに同寺(多聞寺)の持


 と記載されている。三才稲荷は荒川放水路の開鑿で隅田川神社に遷したという。




月光山薬王院
正福寺
 墨田2丁目6番20号にある新義真言宗智山派の寺。こぶし児童遊園の前だ。創建は慶長七年(1
602)宥盛法印が開山で、本尊は薬師如来だ。寛文7年(1667)銘の手洗水盤、大師堂など文
化財・史跡が多く残されてる。上流から土砂とともに押し流されてきたものかも知れない。荒川辺八
十八ヶ所霊場66番札所。荒綾八十八ヶ所霊場66番札所。「新編武蔵風土記稿」に、

   正福寺
   寺嶋村蓮華寺末、月光山薬王院と号す。慶長七年起立し本尊薬師別に両大師を安す。


 とある。

 阿弥陀如来立像
 万治四年(1661)に建てられた総高176cmの舟形光背がある。像の左右に刻まれている7
0m近い人名の内、殆どが女性の名前という特徴のあるもので、女性中心の念仏講中が供養のために
正福寺の勧めで建立したもののようだ。嘗ては成林庵門前の路肩に建てられていたといわれ、一時は
成林庵の参道に安置されていたこともあった。区内には石造のの阿弥陀如来像の数が少ない上、女性
が中心の講中が建立していること、台座の水盤が扇形に彫られていることなどは、この像をより特徴
ずけているといえる。

 板碑
 本堂前の左に建つ。宝治二年(1248)と都内最古の銘を持つ。上の大きい文字は梵字でキリー
クといい阿弥陀如来を表わす。鎌倉初期の内乱の多い頃の戦死者を祀ったものだろう。この板碑はも
と梅若児童遊園付近の御前菜畑から出土したものと伝わってる。

   板碑は青石塔婆とも呼ばれる塔婆の一種です。材質は緑泥片岩(青石)で、頭部・碑身・
   脚部に区分されます。頭部は三角形状にそぎ、碑身との境に二条線を刻み、碑身の正面に
   は種字(仏や菩薩を表す梵字)年号・銘等を薬研彫りで刻みます。
   板碑の起源は碑伝や五輪塔とも言われていますが、はっきりしません。中世の武士達が供
   養のために建てたものが、のちに庶民にも広がっていったものです。正福寺には三基の板
   碑があります(登録は二基)
   宝治二年(1248)銘の板碑は高さ116cm、幅46cm、厚さ10cmで、区内で
   は随一の大きさを持っています。在銘の板碑としては都内最古です。阿弥陀一尊を種字で
   刻み「宝治二年戊辰三月三日」の銘があり、量感のある点でも貴重です。
   登録されているもう一基は、碑身のみが現存し、三尊種字が刻まれています。これらの板
   碑は江戸時代に付近の御前栽畑から発掘され、のち当時に移されたといわれます。なお区
   内には約30基の板碑があります
   平成14年3月                         墨田区教育委員会



■首塚地蔵
 墨田2丁目6番20号、正福寺の外にある。天保四年(1833)隅田川の洪水を防ぐための浚渫
工事で沢山の骨が出たので塚を築いて葬った。それを首塚といい、その塚上に建てられた。今は塚
はないく地蔵尊だけが祀られているが、「首から上の病」にご利益があるという信仰で人気がある。
流石に年寄りの参詣者が多く、指で地蔵尊を撫でるので黒くなってしまっている。自分の患部に当た
るところに触れると治るという寸法だ。



須陀山
成林庵
 墨田2丁目11番12号にある臨済宗妙心寺派の寺。湯島麟祥院末。創建は貞享二年(1685)
磐城平藩安藤家に仕えた老女千代が開基という。主君夫妻の菩提の為に建てたと伝える。「葛西志」
に尾張徳川家では2世常林尼に帰依していたとある。本尊は釈迦如来。境内は極小さくまとまってお
り、正面に新しい観世音菩薩が建っている。

   朝念観世音 暮念観世音 念念従心起 念念不離心

 と深い信仰を刻んでいる。「新編武蔵風土記稿」に、

   成林庵
   尼庵なり。禅宗臨済派。元は湯島麟祥院の住僧山堂が隠栖の庵にて、山道寂後常林と云尼、
   住せしより今の如く尼の庵となり。則麟祥院の配下に属す。其後安藤対馬守、縁渓宗因と
   称して爰に住し、寛永四年十二月晦日死す。此尼専ら祈願の檀縁など動化して功ありしゆ
   へ開基と称す。中興知貞は享和元年七月五日死す。本尊華厳釈迦。


 とある。



■梅若小学校 統合閉校
 墨田2丁目25番1号にあった区立校。昭和10年6月8日「東京市向島梅若尋常小学校」として
設立認可。同11年隅田尋常小学校と第二寺島尋常小学校の2校から児童が移籍し、1322名24
学級で開校した。校名は、昔から有名な「梅若塚」が近くにあることから選ばれた。校地は、根津嘉
一郎という東武鉄道社長の別荘があったところで、四方は竹とケヤキの木で囲まれた大きな池や築山
があり、四季とりどりの花が咲き、沢山の鳥が囀り、まるで公園のようだった。当時の様子を伝える
ものは、正門前の大きなケヤキの木で、樹齢150年以上といわれている。学校前の通りは今より狭
く、舗装もされておらず、たまに牛車や馬車が通る程度で頗る長閑だった。そして学校側には、道に
沿って細い用水が流れていた。その頃は、幼い弟や妹をおんぶして学校に来る子がいた。給食などは
なく毎日弁当を持参していた。俗にいう、日の丸弁当でおかずも粗末なもので、「たまご焼き」など
が入っていると「贅沢だ」と先生に叱られることもあった。
 平成17年創立70年。同23年3月末を以て堤小学校と統合のため閉校。

 校歌「文花の香り」 作詞・佐原正三郎  作曲・富田みさ
  1.文花の香り床しくも
    尽きせぬ名残梅若の
    誉れを負いし健児らが
    学びの園に光あれ
  2.若き世代ぞ 吾等こそ
    正しき心受け継ぎて
    自治と文花の咲き匂う 
    新しき園に打ち立てん
  3.実(まこと)の真理は一つなり
    世界平和の大道に
    愛もて結ぶ梅若の
    文花の園に栄あれ


 ※「文花」とあるのは「文化」の誤植もしくは変換ミスと思われる。



■梅若小学校(統合新設)
 墨田2丁目25番1号にある区立校。平成23年4月1日堤小学校と統合し、新しい「墨田区立梅
若小学校」として開校。

 校歌「梅咲き誇る」 作詩・校歌制作委員会 補作 作曲・菊池慶太
  1.梅咲き誇る学び舎に
    昔の伝え語り継ぎ
    明るく元気 大空へ
    あふれる笑顔 広げよう
    ああ 僕と私の
    梅若小学校
  2.若葉の萌える隅田川
    平和の光 降り注ぐ
    信じる心 輝かせ
    強い絆を 育てよう
     ああ 僕と私の
    梅若小学校
  3.薄紅薫る墨堤の
    未来に続く道標
    夢と希望の翼持ち
    友情の和を繋げよう
    ああ 僕と私の
    梅若小学校


  
 


■軟式野球資料室(墨田区小さな博物館)
 墨田2丁目36番10号にある。軟式野球、ソフトテニス、ソフトボールなどのボール製造で知ら
れるナガセケンコー(株)の博物館。軟式野球ボールの変遷やバット・グローブをはじめ、軟式野球ボ
ールができるまでの製造工程を展示している。また大変貴重な第1回軟式野球大会プログラムをはじ
め、軟式野球大会役員章・記念品など軟式野球に関する品々や、元全日本軟式野球連盟理事長・船津
氏が東京オリンピック副村長、札幌冬季オリンピック村長時代に収集した各国選手記念バッチなどオ
リンピック関係の展示品も多数ある。開館は、祝祭日を除く月曜日から金曜日まで、第1・第3・第
5土曜日の午前10時から午後4時まで。 03-3614-3501



■啓運閣教会
 墨田3丁目6番13号にある日蓮宗の布教所。関東大震災での死者をいち早く弔った。その縁で開
創した。入口はスーパーマーケットに占領されており、賑やかだ。



神向山東清寺
 墨田3丁目10番2号にある曹洞宗の寺。通称は「玉の井稲荷」「豊川稲荷尊天」「身代わり不動
尊」などという。創建は寛保元年(1741)で、本尊は十一面観世音菩薩。大正4年、白鬚橋のた
もとから四ツ木橋近くまで斜めに抜ける道路を、町の開発のために通し、大正道路と呼んでいたが、
その開発の時に山梨県塩山からここに移り、同時に「玉ノ井稲荷」を祀った。南葛弘法大師八十八ヶ
所霊場の72番札所になっている。

 
玉の井稲荷神社
 寺の建物に附属している。昔は京成バス通り(いろは通り)に面してあったようだ。貧乏稲荷の仇
名があった。鳥居が無かったのかも知れない。

 
大正道路開創記念碑
 大正4年大正天皇御大典記念で作られた新道開設を記念して建てられた。



■隅田第二小学校 閉校
 墨田4丁目6番5号にあった区立校。昭和2年11月隅田尋常小学校の分校創設。同6年校舎落成。
「東京府南葛飾郡隅田町隅田第二尋常小学校」として開校。普通教室21・特別教室1・児童数14
62名でスタート。同7年10月南葛飾郡が東京市に併呑され「東京府東京市隅田第二尋常小学校」
と改称同16年第148号国民学校令公布により「東京府東京市隅田第二国民学校」と改称。12月
真珠湾奇襲により日米開戦。同18年都制施行にり「東京都隅田第二国民学校」と改称。同19年戦
禍が予測されたため集団疎開開始。その後3度に亘って疎開。同20年日本は愚かなアメリカ軍の軍
門に降り敗戦。結果属国となり、唯々諾々としていいなりになる傀儡政権を保持せざるを得ない今日
的不幸を背負い込む。
 同22年アメリカの強制による学校教育法施行により「東京都墨田区立隅田第二小学校」と改称。
同26年開校20周年記念式典。児童数1440名・教職員36名・教室数30。同31年開校25
周年記念式典。同34年1月給食室完成。4月校歌制定。

 校歌「大東京の誇り」 作詞・西条八十  作曲・古関裕而
  1.大東京の誇りなる
    隅田の桜を心に咲かせ 
    清く正しく逞しく
    学びつ鍛うる楽しき吾等  
    隅田第二 隅田第二
    吾等は元気な小学生
  2.親しき流れ荒川に
    肩組む姿映して誓う
    永久に栄ゆる日本を
    この手に築かん燃えたつ理想  
    隅田第二 隅田第二
    吾等は元気な 小学生
  3.嵐も吼えよ 雨も降れ
    心は大きく 体は強く
    常に伸びゆく我が行手
    輝き照らすは真白き富士よ  
    隅田第二 隅田第二
    吾等は元気な小学生


 同35年校舎改築完了(普通教室24・特別教室5・管理室7)。同36年開校30周年記念式典。
児童数1191名 教職員32名。プール完成。同46年開校40周年記念式典。同51年開校45
周年記念式典。同56年鐘渕伸鉄跡地(都市災地)を区で買収、本校グランドとなる。開校50周年
記念式典。同61年開校55周年記念式典。同63年アスレチック忍者渡り設置。
 平成3年開校60周年記念式典。同5年体育館・新プール完成。同6年中国北京市石景山区友好代
表団来校。同7年北京市石景山区古城第二小学校と作品交流開始。同8年開校65周年記念式典。同
9年隅田第二小学校同窓会設立。同10年陶芸窯設置。同11年コンピュータルーム設置。同12年
インターネット。同13年ランチルーム完成。開校70周年記念式典。
 同
17年隅田小学校に統合されて閉校となった。なお跡地は統合後の隅田小学校となった



■隅田小学校 統廃合新設校
 墨田4丁目6番5号にある区立校。平成17年旧5丁目49番にあった隅田小学校と隅田第二小学
校が合併してできた新設校。初め校舎は旧隅田小学校の校舎を利用していたが、平成21年隅田第二
小学校跡地に新校舎が新築された新校舎に移転してきた。旧隅田小と旧隅二小の距離は京成電車の線
路を挟んで100mと離れていない。

 校歌「すみだの桜」 校歌原案・隅田小学校校歌制作委員会、歌詞補作と作曲・高橋誠
  1.墨田の桜 陽に映えて
    夢が溢れる学び舎に
    今日も集うよ 隅田の子
    みんな仲よく 力を合わせ
    明るく元気に 明日を語る姿
    みんなの誇り 手を繋ごう

  2.荒川堤清らかに
    歴史育む その流れ
    川面に光る友の顔
    智恵と勇気で希望の橋を
    優しく強く平和を作る心
    みんなの理想 隅田小



■隅田稲荷神社(八僧稲荷)
 墨田4丁目38番10号にある神社。「善左衛門稲荷」とも呼ばれ、荒川放水路開削で消えた善左衛
門村にあった社。善左衛門村を開拓した江川善左衛門が天文年間(1532~53)に創建したと考
えられている。5代目善左衛門が、伊勢参詣の折り、種々の厄災を8人の僧によって救われたことに
より当社を創建したことから、「八僧稲荷」とも呼ばれ、昭和7年には村社に列格していた。8僧の
縁起を万灯に仕立てた神輿「万燈神輿」が近年復活、外国のカーニバルにも参加するほどの人気を集
め、6月中旬の大祭には、町神輿も加わっての賑やかな行列となる。「新編武蔵風土記稿」に、

   稲荷社二宇。一は村の鎮守なり、須崎村弘福寺持。

 とある。二宇のもう1つは下稲荷神社。境内の石碑に

   当社の創祀は葛西誌及新編武蔵風土記稿等ニ依リ天文年間ト相定セラル。天文年間伊豆ノ
   堀越公方政知亡ビ其ノ臣江川善左衛門郎党ト此ノ地ニ逃レ信仰屡キ京都伏見稲荷大明神ヲ
   勧請シテ氏神トシテ祀リ尓来土地開ケ南葛飾郡善左衛門村ノ起源ヲナス。
   後慶長年間社殿ノ改築アリ又文政十三年庚寅正月社殿ヲ改築シ尚重ネテ関東総鎮守守護神
   田妻恋稲荷神社ノ神官斎部宿禰守儁ガ仲取持チテ京都伏見稲荷神社ノ神璽ヲ守護テ氏子ノ
   人等御田地ヲ奉納シ境内ヲ整備ス。此ノ神璽奉斎ノ路次美濃ノ国ニテ山賊ニ逢ヒシ時八僧
   現レ危難ヲ救ヒシ奇蹟アリシヨリ八僧稲荷神社ト称ヘタル事鳥居ノ額ニ依リテ知ルベシ。
   此ノ御神徳ヲ称ヘ災難除ノ信仰深シ、又郷人ハ隅田稲荷神社と称ヘ奉ル。当社ハ実ニ南葛
   飾郡善左衛門村三百六十六番地ニ鎮座セラレ大正二年大務省起業荒川改修ニ事業地ニ該当
   シ現地ニ移転シタルモノニシテ松楠等周囲丈余ノ巨木アリシ事新編武蔵風土記稿ニ見ユ。
   昭和七年十二月二十七日村社ニ昇格、昭和十年九月公爵一條実孝公、靖国神社宮司関矢司
   樹公ヨリ御神号ノ額ニ揮毫ヲ乞ヒ受ク。昭和十八年四月御社殿改築・・・


 とある。

 弘化四年銘水鉢
 手水舎に安置された、かなり大型のものだ。銘に「奉献 氏子中」「弘化四未年(1847)九月
吉日」「弘福二十七代 尭隣 納」とあり、弘福寺開山鉄牛和尚ゆかりの稲荷社であることを窺わせ
ている。

 津久井安太郎の歌碑
 村社昇格を記念しての社司津久井安太郎の和歌碑で、

   生みの子の代々つきつきにみやしろの まつりの手振り忘るなよゆめ

 昭和7年の建碑。

 万燈神輿発祥之地
 
境内コンクリート柵の内側に黒御影石製の石碑が建っている。
 「万燈神輿」とは、弓張提灯を四面に掲げた神輿のことをいう。提灯の数は数十から百個を超える
ものもあり、特に夜間、提灯に灯が入り闇夜に揺れ動く姿は幻影的ですばらしい。万灯神輿は隅田開
拓の祖といわれる江川善左衛門雅門の徳を称えて、万灯に善左衛門の開拓由来の錦絵を描き神輿とし
て担いだのが始まりとされる。元治年間(1864~65)に始まったという。大正時代から中止さ
れていたが、昭和50年に復活し、毎年の例大祭の宵宮を賑わしている。万燈神輿は、茅ヶ崎、木更
津、つくばなど関東各地でも見ることができる。

   万燈神輿発祥之地
   万燈神輿の起源は元治年間(1864)と伝えられ、隅田開拓の祖江川善左衛門雅門公の
   徳をたゝえた里人が、万燈に善左衛門の開拓由来の錦絵を描き神輿として担いだのが始ま
   りと云はれる。大正4年に中止となり、昭和50年に約60年振りに復活し、毎年の例大
   祭の宵宮を賑わす行事として知られる。1977年及び1979年2月フランスはニース
   のカーニバルに参加し国際親善に寄与す。
    拾周年記念
    昭和六十年□□□吉日                      万燈神輿保存会




■香取社
 墨田5丁目6番にある小祠 ???



■鐘淵紡績発祥の地
 墨田
5丁目17番4号のカネボウ物流の敷地内にある。また区の説明板が、正門から100m程南
に進んだ所に墨堤通りに面して建っている。校内の
石碑は明治22年に据えたもので、裏面に、昭和
40年に工場の移転・操業停止したことを記念するプレートが嵌められている。まあ当然のことだが
敷地内の奥まった所にあるため、見学には守衛の許しが要るよ。
 むかしここは灰色の工場街だったよ。右も左も鐘紡で、そのうち軽工業が左前に、糸偏が駄目になっ
て、チューインガムなんか作って、化粧品に転換して、もう糸屋は止めちゃったよ。それで略称の「カ
ネボウ」が正式名称になって、今の人は「カネボウ」が「鐘紡」だなんて知る由もない。鐘紡が華や
かなりし頃は、この周辺の区から、娘という娘が女工として勤めに出たもんだ。女工ってえ言葉も死
語だわさ。おいらなんざ鐘紡(糸屋)が化粧品作ってることが、三菱が自動車を作ってる以上に「大
丈夫かいな?」と思っちまうんだなぁ。


   鐘淵紡績株式会社発祥の地
   明治22年5月6日


     (碑裏面)

   発祥碑由来記
   此の地は古くから沈鐘の伝説があり、江戸時代に入って将軍徳川吉宗公が之の引揚げを下
   命しましたが成功せず鐘は毎夕月の出と共に燦然として光を放ったといわれます。周辺の
   風光明媚を愛でて徳川氏はこゝを将軍家専用の野菜畑とし御前栽と称しました。明治20
   年近代工業の先覚としてこの地に東京綿商社が設立せられ、紡績機械29000錘を英国
   より輸入して東洋第一の紡績工場を建設。明治22年社名を鐘淵紡績株式会社と改称しま
   した。爾来近代日本の進展と共に工場は拡大し、その技術は全国津々浦々に結実し製品は
   カネボウの名声と共に遠く欧米各国を席巻しました。また過ぐる関東大震災、東京大空襲
   当時その職に殉じて斃れた者は50余柱に及びました。いまこゝに時代の進運と共に工場
   の移転を実施するに当って鐘紡稲荷神社並びに慰霊観音像を奉安し、80余年に亘ってう
   けたこの地域社会の御かげを感謝すると共に、老人と児童の憩いの場を設けて記念庭園と
   し永く先人の偉業を偲ぶよすがとなることを切願するものであります。
   昭和40年10月20日                 鐘淵紡績株式会社社中一同

   
説明板

   
鐘淵紡績発祥の地                所在 墨田区隅田5丁目19番ほか
   明治19年に綿問屋の三越、大丸、白木屋、荒尾、奥田の5軒が集り、三越得右衛門を頭
   取として東京綿商店が設立されました。  翌年資本金を10倍に増加 させ隅田川河畔鐘ヶ
   淵の宏大な土地に紡績工場を建設して、明治22年に操業を開始名称も有限責任鐘淵紡績
   会社と変更しました。これが。現在のカネボウ株式会社です。鐘淵紡績は、設立当初こそ
   経営難に見舞われたものの、他社を吸収合併する中に日清戦争を機に大発展を遂げ、世界
   有数の紡績会社となりました。
   平成13年3月                         墨田区教育委員会

 カネボウ → クラシエ
 平成19年6月28日の第90回株主総会において「カネボウ株式会社」の解散承認。カネボウ・
トリニティ・ホールディングスは、7月1日からクラシエ・ホールディングスと改名し、平成18年
から花王傘下に入っている「カネボウ化粧品」を除いて「カネボウ」の名は消滅した。なおカネボウ
の商標権は「カネボウ化粧品」が所有している。




■隅田川七福神 隅田山吉祥院多聞寺
 墨田5丁目31番13号にある新義真言宗智山派の寺。創建年代は不詳だが、天徳年間(957~
960)には今の隅田川神社付近にあり、「大鏡山明王院隅田寺」と称していたとか。天正年間(1
573~91)に鑁海上人が本尊を毘沙門天として「隅田山吉祥院多聞寺」と改称したと伝わる。本
尊は、隅田川七福神の一つにもなっている毘沙門天だ。山門、狸塚や、東京大空襲で被災した浅草国
際劇場の鉄骨など多くの文化財を有している。南葛八十八ヶ所霊場79番札所、荒川辺八十八ヶ所霊
場65番札所、荒綾八十八ヶ所霊場5番札所だ。毘沙門天像は弘法大師作というものの、文政時代の
「寺社書上」では、作者年代等不詳となっている。「新編武蔵風土記稿」に、

   多聞寺
   新義真言宗、寺嶋村蓮華寺末、隅田山吉祥院と号す。慶長十一年起立す。法流開山円実宝
   暦五年正月二日寂す。本尊毘沙門は弘法大師の作にて長一尺二寸、脇士十一面観音及不動
   を置。
   五智堂。
   鐘楼、延享三年造立の鐘を掛。
   香取社、稲荷社


 とある。

 毘沙門天(多聞天)
 
本尊の毘沙門天像は、弘法大師作と伝えられる鎌倉時代の特徴を示す高さ50cmの木造立像だ。多
聞天とも呼ばれ、ヒンドゥー教の財宝神クベーラの別名でもあり、持国天、増上天、広目天とともに
四天王の一体に数えられる。この勇ましい姿はほんとうのことを見抜く智慧とほんとうのことを守る
勇気を現す。

 
隅田川七福神の碑
 門前右に建つ自然石のこの碑は、元幕府の海軍奉行を勤め、戊辰の役には五稜郭で戦った榎本武揚
の書を自然石に刻したものだ。生粋の江戸っ子である榎本武揚は、隅田川辺りの散策をことのほか好
み、当寺を訪れた折、筆を執ったという。碑面には、

   隅田川七福神之内 毘沙門天 正二位子爵榎本武揚

 と記されている。明治41年の建立で、碑と案内碑がある。

 
山門
(墨田区登録文化財)
 茅葺が実にいい。周りに住宅がなかったらどれほどよかったろう。慶安二年(1649)良賢法印
建造したが、この門はその後焼却したらしい。過去帳には、

   享和三亥年二月酉ノ上刻出火、本堂、鐘楼、五智堂、庫裡、焼失四棟也、表門は不焼

 とあり、この火災で焼失を免れたことから、遅くとも享和三年(1803)には再建されていたこ
とになる。木造茅葺き切妻の四脚門で、全体的には簡素な和様の造りで、控柱などに禅宗様の手法も
見られる。虹梁・木鼻に刻まれた線の太さや深さ、素朴な文様は18世紀を下らない建造を感じさせ
る。区内では最古の建造物。鄙びた中に気品が漂う。
 墨田区は震災や戦災で多くの木造建築が失われてきた。こうした中で、多聞寺山門が現存すること
は貴重であり、周囲の意匠との関連や相違を検討するうえでも重要な建造物といえる。

 
狸塚
 山門内左に石碑がある。この寺は別名「狸寺」ともいわれ、伝説が残る。
 昔々、多聞寺がある辺りは、大きな池があり樹木や雑草が生い茂り、狸や狐たちの住処で、村人や
旅人たちに悪戯ばかりし続けていた。鑁海(ばんかい)和尚は、堂を建てて妖怪狸たちを追い払うこ
とにした。まず大きな松の木を切り倒し、穴を塞ぎそれから池を埋めてしまった。すると大地が轟き
空から土が降ってきたりといたずらは激しくなるばかり。和尚は本尊の毘沙門天に祈り続けた。
 ある夜のこと和尚の前に大入道が現れ「ここはわしのものじゃ。さっさと出ていけ!」と脅かす。
和尚は尚も一心に本尊を拝むと、毘沙門天に仕える童子が現れて大入道を打ちのめしちゃった。
 翌朝、和尚が庭に出ると大狸2匹が死んでいた。和尚は哀れに思い、切り倒した松の木の跡に狸を
葬り、塚を築いて霊を慰めたそうだ。これが多聞寺の狸塚の由来と伝わっている。

 
石仏群
 六地蔵や小堂に安置した地蔵尊があるが、延宝8年(1680)の造立で庚申供養のものだ。この
ころの庚申信仰は本尊も色々で、この期特有の優美な舟型の塔に地蔵が浮き彫りにされている。これ
が江戸中期に進むと、角柱や青面金剛の怖い顔に変って行くのだ。

 六地蔵(墨田区登録文化財)
 「坐姿六態地蔵」と呼ばれる都内でも珍しい形態の尊像だ。仏教における地獄・餓鬼・畜生・修羅
・人間・天上の六道の何処にいても救いの手を差し伸べてくれるという地蔵尊だ。この六地蔵像は総
高150cmで、いずれも安山岩の四石からなっており、地面から1、2段目の石は方形、3段目は
蓮台、その上に、それぞれ60cmの丸彫り地蔵坐像が乗っている。像容は向かって右から持ち物不
明の坐像が2体、両手で幡を持つ半跏像、両手で宝蓋を持つ坐像、持ち物不明の半跏像、合掌してい
る坐像の順に並んでいる。欠損や修復の跡が見られるが、僧覚誉理慶(利慶)が領主となり、7年間
に亘って隅田村内の地蔵講結衆の二世安楽を願って造立されたことが刻銘から読める。隅田村地蔵講
中の数年に亘る作業行為を知り得る貴重な資料だ。製作年代は、右から正徳三年(1713)二月吉
祥日、同四年八月吉祥日、同三年八月吉祥日、同二年八月吉祥日、享保元年(1716)九月吉祥日
同三年十月日と刻まれている。

 
村田銀蔵水兵碑
 茂みの中にある。村田は隅田村出身の海軍兵。明治32年に建立した。軍艦「筑波」の射手という。
何もない当時、村の誇りだったのだろう。小泉選挙でひょんなことから国会議員になっちゃった杉村
太蔵、翌日から先生に祭り上げられてしまっちゃった。海軍兵は数が少ないから村で一人出るか出な
いか。だから村の大変な名誉なのだ。私の知る小父さんは海軍の通信学校に入学しただけで、村人が
紋付袴でお出迎え、その夜は提灯行列、翌日は小学校の講堂で講演会だったとか。海軍兵学校に行こ
うものならイチロー・松井級の大歓迎会だ。防衛大学に入るのとはちょと訳が違った。


 
映画人の碑
 多門寺の境内にある。坂斎小一郎(共同映画株式会社創立者)の夫人ハツが墓地資金を提供し、日
本映画の民主的発展のために尽された映画の仲間の生涯を顕彰し、追悼する共同の墓碑建立に役立て
てほしいとの申し出がり、その意志を尊重し、映画を愛する人々と団体によって映画人の墓碑の会が
組織され、この墓碑が建立された。平成4年のことだ。揮毫は映画監督新藤兼人。

 
多聞寺コンサート

 釈尊が悟りを開いた日=世道会(じょうどうえ)を記念して、毎年暮(12月最初の日曜日)に法
要とコンサートが行われます。

 
香取神社

 境内の南端にある。

 
東京大空襲で被災した浅草国際劇場の鉄骨
 昭和20年3月10日未明、アメリカ軍B29爆撃機330機による無差別絨毯爆撃を受け、下町
一帯は〝火の海〟と化した。この東京大空襲による下町は壊滅状態に陥り、死者
10万人(30万人
とも)
、重傷者11万人、100万人が家を失った。犠牲者の氏名、正確な人数は現在も不明だ。
 と書いたら、安藤さんから怒りのメールを頂戴しました。

   違うぞ
   三月十日の大空襲のとき、私は隅田公園の墨田区側にゐた。あそこは元水戸家の下屋敷だっ
   た。現在、池の真ん中に石橋が架かり、いい場所だ。当時は本所區と言ってゐた。言問橋
   が炎上したのを目の前で見た。青光りのする龍がのたくる様に、兎に角すごかった。当時
   私は中学三年生だった。都立第七中学校、現墨田川高校(都立第七高校とも言う)
    あの当時の事を思いだすと水に浮かぶ死体の山が眼にちらつく。公園の芝生の空き地が
   死体の假り埋葬所になり、今も、やり場の無い怒りがこみ上げてくる。当時、被害が三十
   万と言われてゐた。間違いない。たしかに三十万だ。何時の間にか十万になってしまった。


 この元浅草国際劇場の鉄骨(大部分は江戸東京博物館に展示)は、東京大空襲を語り継ぐ数少ない
歴史的〝証人〟だ。風船爆弾の工場となっていた浅草国際劇場も直撃弾を受け、屋根を支えていた鉄
骨は曲がり、ちぎれ、天井の大部分が抜け落ち、多くの人が焼死した。眼前の痛ましくひきちぎられ
た鉄骨に向かって目を閉じると、炎の夜の恐怖が甦る。
 にもかかわらず安倍晋三は防衛省に昇格して戦争への道を開き、パンドラの箱の蓋を取ってしまっ
た。何だかだ屁理屈捏ねているが、憲法を変えて国防省に名前を以て、自衛隊は陸海空軍に・・・自
民党の1人勝ち。好戦国民日本人の面目躍如、さぁこれからアメリカの尖兵として世界中で大活躍、
アメリカの汚名を雪いでやり、悪名を一手に引き受ける。アメリカに逆らうものは、日本軍が叩き潰
す。自民党はアメリカの覚えめでたく、売国奴小泉は名誉のアメリカ殿堂入りだ。
 その横には、空襲によって焼けた木の一部も展示されている。

   戦災の証言者
   パールハーバーから半世紀、終戦から46年目の平成3年8月12日、この木は荒川区西
   日暮里1丁目2番7号(三河島4丁目3420~21番地)に新しくビルを建てるための
   堀削により発見されました。東京地域では昭和17年4月18日のどーリットルの空襲か
   ら同20年8月15日に至るまでに71回の空襲がありました。ここに展示されている木
   は、43回目の同20年4月13日の23時から14日の2時22分にかけての空襲で焼
   かれた木です。
    当日の投下爆弾は高性能弾81.9t、焼夷弾2037.7tで、罹災地域は、西日暮里
   を含め139ヶ所に及びました。戦火で焼け爛れたこの木は、生命の尊さを訴えるととも
   に、今、平和憲法のもと、再び戦火にまみれる事のない国を作ることを、私たちに求めて
   います
   平成4年10月18日                    戦災の木を保存する会


 
平和観音像
 本堂に向かって左手にある。これは、東京大空襲の犠牲者と「全人類が核戦争による破壊の危機に
直面しているが・・・殺し殺されもしないという釈尊や大師の願いを成就すべく・・・」と建立の趣
旨が説明されている。昭和59年建立。

■て゛
本土空襲の指揮を取っていたカーチス・E・ルメイ将軍の理屈

 「明かに非戦闘員を狙った」とする批判に対してルメイは、戦後の回想記の中で次の様に居直って
いる。

   俺は日本の民間人を殺したんじゃねえ。日本の軍需工場を破壊したんだよ。日本の都市の
   民家は全て軍需工場だっただろうが。ある家がボルトを作り、隣の家がナットを作り、向か
   いの家がワッシャーを作っていたんだ。木と紙でできた民家の一軒一軒が全て世界正義の
   アメリカを攻撃する武器工場になっていたんだよ。こんな野郎どもを皆殺しにして何が悪
   い?
 

 カーチス・E・ルメイは、グアム島在米爆撃隊司令として、広島・長崎に投下された原子爆弾にも
深く係っていた。ところがだ、

  昭和39年、日本政府は「日本の航空自衛隊の育成に協力した」との理由から、
  この悪魔のようなルメイに対して昭和天皇は
勲一等旭日大綬章を贈っている。

 
時の総理大臣は、後にノーベル平和賞を受賞した佐藤栄作だ。国家主義者安倍晋三の大叔父だ。
 平成20年12月、佐藤がアメリカに対して「中国が日本に攻めてきたら、原爆を中国に投下して
くれ」と依願していたことが判明、平和賞が聞いて呆れるぜ。政治家なんてこんなものよ。陰で何し
てるか判ったもんじゃない。日本は確実に軍国化してる。しかしアメリカは日本の右傾化、軍国化、
戦前回帰は危惧するところ、だから憲法改正を叫ぶ安倍は潰されたんだ。「在日米軍は第七艦隊だけ
でいい」と発言した小沢一郎を潰しにかかったのだ(西松問題)。アメリカにとって日本は属国尖兵
が一番良い状態なのだ。復讐はされたかないからネ。国民はそこが読めてない。小泉、麻生がアメリ
カに御追従いってるのを聞き取れよ。



醍醐山円徳寺
 墨田5丁目42番17号にある曹洞宗の寺。駒込吉祥寺の末。慶長十八年(1613)の創建。吉
祥寺13代離比良重和和尚の開山で「赤門寺」とも呼ばれている。現在地に移ってきたのは寛永の頃
だという。「葛西志」に正慶元年(1332)と、嘉吉四年(1444)銘の碑があったとされるも
のの、現存していない。その頃は寺もまだない頃だから、どうだかなぁ! 
本尊は瑠璃光薬師如来。
 三猿を彫り出した台座に舟形光背を持つ庚申阿弥陀立像は墨田区の指定文化財。
 また水戸徳川家出府の折には、ここで最後の身支度を整える屯所に充てられた。「新編武蔵風土記
稿」に、

   円徳寺
   禅宗曹洞派駒込吉祥寺末、醍醐山と号す。開山僧離北良重、慶長十八年起立し、天和三年
   七月二十日化す。本尊薬師、弘法大師の作と云。
   天神社。


 とある。



■隅田小学校 閉校
 墨田5丁目49番5号にあった区立校。明治6年多聞寺内に「墨陀学校」設置。同13年廃校。寺
島小学校に吸収された。同16年6月1日に中川音蔵所有地を借りて「東京府南葛飾郡隅田村立隅田
小学校」として開校。同21年小学校令により「南葛飾郡隅田村隅田尋常小学校」と改称。同22年
隅田村梅若耕地1548番地に新校舎落成。しかし9月の風台風のため全倒壊。直ぐに再築。同26
年校舎増築。同31年増築。同33年義務教育4年に統一。同36年現在地に校地移転。同40年義
務年限6年となる。
 大正6年木造2階2教室増築。同11年木造2階10教室。同12年働く児童のため夜学校設置。
関東大震災。同13年2階校舎。雨天体操場完成。同15年鉄筋コンクリート造り3階建て校舎が落
成。
 昭和6年隅田第二尋常小学校を分校。同7年南葛飾郡が東京市に併呑され「東京市隅田尋常高等小
学校」と改称。同8年校舎2棟16教室火災焼失。直ぐに復旧。同8年創立50周年記念式典。

 旧校歌
「都を分けて」
    都を分けて洋々と
    流れ行くなる隅田川
    その名を負うて五十年
    文化の波に打ち乗りて
    日々に栄え行く学び舎に
    励む吾等の楽しさよ


 同10年夜学校を隅田第二小学校に移す。同16年勅令第148号国民学校令「東京府東京市隅田
国民学校」と改称。12月真珠湾攻撃により日米開戦。同18年都制施行により「東京都隅田国民学
校」と改称。夜学校、商工補習学校併設、同19年茨城県稲敷郡龍ヶ崎町・沼里村に集団疎開。同2
0年愚かなアメリカ軍の非人道的無差別空爆により学校周辺壊滅。8月日本はアメリカの軍門に降っ
て敗戦。以後傀儡政権を保持せざるを得ない今日的不幸を背負い込む。
 昭和22年ララ物資(アメリカで廃棄処分となった粉ミルク)による学校給食開始。墨田区成立。
アメリカの強制による学校教育法により「東京都墨田区立隅田小学校」と改称。同28年創立70周
年記念式典。同32年給食室完成。同36年プール完成。同38年創立80周年記念式典。同42年
校庭舗装。同46年ローラースケート場設置。同48年給食調理室改修。同48年創立90周年記念
式典。同53年新校舎に建替え、新体育館完成。同54年新プール完成。同58年創立100周年記
念式典。
 図書館など巡ったが既に廃校となっているため資料を見つけることはなかった、従って以後の沿革
は不明だ。墨田区の図書館は絶対数が少なく、図書文花に対する意識の薄さが見て取れる。図書館自
体多区のそれに比べて汚いしお粗末だ。

 校歌
「朝に芙蓉を仰ぎつつ」 作詞・伊藤平八郎  作曲・小堤貞治
  1.朝(あした)に芙蓉を仰ぎつつ
    昇る朝日の影射せば
    隅田の堤 霧晴れて
    おとし影澄む
    ああこれ清き学び舎よ
    育む我らの姿なり
  2.文化の都大東京
    平和の使命 尚思き
    学び舎隅田の名の下に
    薫る心とこの体
    ああこれ清き学び舎よ
    育む我らの姿なり


 平成17年就学児童減少のため隅田第二小学校と統合し、新しい「墨田区立隅田小学校」となり、
同21年3月まで当校舎を使用し、その間第二小学校跡地に新しい校舎を新設して移転予定。 



■隅田小学校 統廃合新設校 移転
 墨田5丁目49番5号にある区立校。平成17年旧隅田小学校と隅田第二小学校が合併してできた
新設校。平成21年隅田第二小学校跡地に新築された校舎に移転



■鐘ヶ淵駅
 墨田5丁目50番2号にある東武伊勢崎線の停車場。明治35年4月1日の吾妻橋(業平橋)~北
千住間開業時にできた駅。ホームは地上相対式2面2線構造。ホームごとに改札を持ち、上下ホーム
を結ぶ連絡通路はない。ホームの内側に2本の通過線を持つが、駅自体が急カーブの途中にあるため
通過列車もかなりの減速を強いられる。改札口・出口はホームごとにあり、いずれも浅草寄りのホー
ム先端部に直結している。
 鐘ヶ淵は、明治中期に紡績業が盛んになった街。現在は化粧品メーカーになったカネボウもこの地
が発祥であり、元の社名は鐘淵紡績といった。それが略されて鐘紡となり、現社名のカネボウへと変
遷している。





【太平】(たいへい)1~4丁目                   昭和44年5月1日
 俗に法恩寺門前(平河山山内寺町)といったところ。明治2年太平の世を願って本所太平町1~
2丁目と命名された。柳島出村・南本所出村町・南本所出村御用屋敷・北本所出村町と中ノ郷代地
町・深川元町の全部または一部をあわせた町域を
1丁目とし、俗に南割下水錦糸堀という北本所代
地・四ノ橋小梅代地と中ノ郷代地町・深川元町代地の各一部をあわせた町域を
二丁目とした明治
44年本所の冠称を外し太平町しなり、昭和42年新住居表示により現行の「太平」とした。4丁
目にあった精工舎(セイコー)はいつの間にかなくなっちゃった。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『墨田区史』『墨田の歴史』など。

 太平の由来
 太平の世を願ってのものだが・・・町内の法恩寺は田道灌の菩提寺。山号は河山でちょっと
ひねりを加えてある。法恩寺は「局沢16ヶ寺」の一つ、元は皇居の中にあった。




■高杉銀平道場跡

 太平1丁目17番の法恩寺橋の橋詰、法恩寺橋児童遊園のところにあった、長谷川平蔵が剣術の練
習をした道場跡。平蔵は若い頃、無頼の徒であり、近辺の鼻つまみものだったが、剣術の練習は熱心
で、その道場は現在の法恩寺橋の袂にあった。記念の碑はない。



■コズモラマ(メリヤス生地)
 太平1丁目20番7号太平町ビル6階に本社がある小野莫大小工業の世界中の一流ブランドに認め
られたメリヤス生地だ。糸を極細に開発した薄くて軽い生地は世界中の一流デザイナーが賞賛、今や
糸の生産が追いつかない状況だ。常設のショールームがあるので覘いてみるがいい、工場は松戸市紙
敷1577番地にある。



平河山千栄院
 太平1丁目24番2号にある日蓮宗の寺。明和七年(1770)法恩寺第3世日喜上人が創建。祖
師像及び大曼荼羅を本尊とし、また痰病守護道晴尊の木座像を安置して、「たんぼとけ霊場」の名に
よって知られている。庫裏は3階建てのビル。。



平河山善行院
 太平1丁目24番11号にある日蓮宗の寺。報恩寺の塔頭。鉄筋コンクリート4階建てのビル



平河山法泉院
 太平1丁目25番11号にある日蓮宗の寺。法恩寺の塔頭。
 



平河山陽運院

 太平1丁目25番12号にある日蓮宗の寺。法恩寺の塔頭。大永元年(1521)日新の開山。こ
こは日朝上人秘伝という眼病の護符を出す寺で「めぼし霊場」として知られている。表に「日朝上人
めぼし護符所」の札が出ている。
 墓地には哥沢芝派の祖哥沢芝金初代及び2代の墓、江戸中期の俳人水間沾徳の墓などがある。

 初代・2代の歌沢芝金の墓
 
初代は本名を柴田金吾という武士で、端唄を好み、文久二年(1862)に一派を立てた。哥沢土
佐大掾と名乗り、明治になって歌舞伎座にも出、明治7年鬼籍に名を連ねた。



■平河山法恩寺
 太平1丁目26番16号にある日蓮宗の寺。蔵前橋通りに山門があり、参道が100m続く。正面
が本堂、左の
ちょっと異様な三重塔は昭和7年に建てたコンクリート造りの鐘楼。さらに左は道路を
隔てて墓所。右の鉄筋コンクリート3階建ての建物は、催し場と寺務所。境内は整備されており、な
かなかのものだ。長禄二年(1456)開山日住上人、開基大田道灌、江戸城平河門のところに鬼門
除けの祈願所として建立し、当時は本住院といっていた。 大永四年(1524)道灌の孫の太田大
和守資高が亡父六郎左衛門資康の十三回忌に備えて造営を加えた。また武州三田郷の田畑50貫文を
寄進し、資康の法名「法恩斎道源日恵大居士」から寺号を取って法恩寺と改めた。山号は下平河村か
ら得ている。その後神田柳原、谷中清水町を経て、元禄元年(1688)現在地に移転。本堂・鐘楼
堂・北面堂・番神堂・経蔵・常題目堂などの伽藍が揃い、谷中宗林寺、浅草幸龍寺と共に京本国寺末
触頭を勤め、20の塔頭、11の末寺を擁していた。本堂はアメリカ軍の無差別の東京大空襲により
焼失してしまったが、住職と檀家の努力で、昭和29に再建したものだ。参道の左右にある寺はかつ
ての支院で、現在は4ヶ寺(陽運院・善行院・千栄院・法泉院)が残っている。境内にはサクラ、ボ
タン、クチナシなどの花木があるが、華やかに咲くソメイヨシノが花の本命だ。

 太田道灌記念碑
 
昭和31年開都500年記念で建てられた。「七重八重・・・・」の山吹の古歌と、道灌の像が彫
られている。

 平河清水稲荷社
 これも江戸城の平河門と清水門の間にあったもので、法恩寺の移転とともに付き合ってきたのだろ
う。

 法恩寺橋開橋祝賀記念碑
 橋は江戸時代から横川に架かっていたが大震災で焼け落ち、大正14年に長さ18間×幅12間の
ラーメン橋台コンクリート橋が完成したことを喜び記念する碑だ。隅田川以東では初の近代橋だから
喜びも一入だったろう。

 太田道灌供養塔
 境内左奥の墓地にある。五輪塔になっているが追善供養塔だろうといわれている。道灌の墓は、
豆玉沢の
妙法蓮寺、鎌倉の扇谷英勝寺裏の源氏山、日暮里の本行寺、埼玉県越生町の龍穏寺など数ヶ所
があるが、伊勢原には2ヶ所にある。その一つは下糟屋の
大慈寺の墓で「首塚」と呼ばれており、も
う一つは上粕屋の
洞昌院の墓で「道灌さんの墓」と呼ばれている。上杉館で謀殺された道灌の遺骸は、
上粕屋洞昌院裏山において
荼毘に付された

   この供養塔は、法恩寺墓地の中央奥に石組で囲まれた歴代住職の供養塔と並び、一段高く
   安置されています。五輪塔形式で各輪に妙法蓮華経の文字、地輪正面に道灌と父・資清の
   戒名、両側面に道灌以降五代の当主の戒名、裏面にはそれぞれの没年月日が刻まれていま
   すが、現在は肉眼で判読するのは困難です。総高は201cmです。空輪と風輪は後補と
   思われ、火輪の軒が厚く水輪、地輪とほぼ同じ幅であることから17世紀後半の製作と考
   えられます。法恩寺は、太田道灌が江戸平河に創建した寺院で、当時は本住院と号しまし
   たが、大永四年(1524)に平河山法恩寺と寺号を改めました。後、元禄元年(168
   8)に本所の現在地に寺地が定まりました。
   『新撰東京名所図絵』(明治40年刊)には、寺僧が記念のために、この供養塔を建てた
   ことが記されています。

 戦災殉難者供養之碑
 
昭和20年3月10日の真夜中の空襲によって殉死した人々を供養するために、太平町一丁目町会
の人々によって、昭和20年9月法恩寺橋際の児童遊園内に建てたが、同34年9月現在地に移設し
た。

 花塚
 花の供養塚

 はさみ塚
 花はさみの供養塚。

 水間沾徳の墓
 江戸初期の俳人。はじめ門田のち水間氏。名は友兼。別号に沾葉、合歓堂がある。江戸の人。はじ
め岸本調和門の福田調也(のちの露言)に師事し、随伴して内藤風虎の江戸藩邸に出入りしたらしく
延宝期には風虎の長男の露沾から1字を貰い沾葉と号した。以後露言と共に調和系の俳書に入集して
いく。その頃、同藩邸の常連だった山口素堂の手引きで林家に入門、かつ山本春正、清水宗川に歌学
を学び、原安適とも親交を結んだ。やがて内藤家の内紛を経て、貞享二年(1685)風虎他界に及
び、退いて法体になる。貞享四年(1687)頃、沾徳と改めて立机。以後調和から離れて、素堂を
介して蕉門に親しみ、榎本其角と末長く提携する。元禄五年(1692)には露沾の委嘱により、処
女選集『俳林一字幽蘭集』を刊行した。
 やがて宗匠として内藤家の禄を食み、諏訪闡幽、大村蘭台らの大名を顧客とした。芭蕉他界後、其
角・沾徳両門の交流繁く、江戸俳壇の主流を成した。
 両点者の俳風は洒落風と称されて時流をリードしたが、前句にはほとんど関与していない。ここが
他点者と一線を画した点だ。其角没後は、江戸俳壇の諸派を糾合して、大宗匠と仰がれるに至る。
 参考文献 潁原退蔵「享保の三中心」(『潁原退蔵著作』4巻)、白石悌三「水間沾徳問題」(『連
歌俳諧研究』19号)



■本明寺
 太平2丁目7番1号にある浄土真宗大谷派の寺。明治時代後期に説教所として開設、戦災で本堂、
庫裡を全焼したが、昭和28年に本明寺を設立。同36年には本堂再建落慶法要を行った。建物は和
風の拵えのビルディング。



学校法人立志舎(りっししゃ)

 太平2丁目9番6号にある私立校。高等学校と、IT、会計、法律、公務員を目指す専門学校の総
称だ。昭和54年設立。〝どこま~でも〟のフレーズでお馴染みのCМソングが有名。本部は墨田区
錦糸。全国に専門学校を23校、東京に高等学校を1校を運営する。専門学校には、日本スクール・
オブ・ビジネス、東京法律専門学校、日本動物専門学校、東京IT会計専門学校などがある。専門学校
の愛称は「ベストカレッジーズ」。専門学校は民間企業就職率や公務員試験合格率、各種資格の取得
率が高いことで有名。
 平成6年に最難関の国家試験である司法試験に、専門学校として初の現役合格者を輩出、同15年
には、過去最低合格率2.58%でありながら2人目の合格者を出した。
 高等学校は平成10年に創立した。
 尚名称は、土佐の板垣退助をはじめとする人たちが志を達することを期して設立した立志社に肖っ
て名づけられた。関連はない。学校であれば学びやの「舎」とした。
 関東本部は1丁目2番にある。

 立志社
 明治6年板垣退助、後藤象二郎、副島種臣、江藤新平らの参議は、国の力を高めるためには公議世
論制度の確立が急務であるとして、同志8名の名の下に翌7年1月17日政府に対し「民選議員設立
建白書」を提出し、これが「自由民権運動」の始まりとなった。建言を行った板垣らは、それぞれの地
方において政治結社を作り運動を進めるため帰郷。3月高知に帰った板垣は、片岡健吉、林有造らの
協力を得て、4月に「立志社」を創立し運動に乗り出した。立志社の「創立趣意書」では、「人民は
すべて平等」であり「天から与えられた誰にも奪うことができない権利」を持っていること、そして
この権利を伸ばし確かなものとしていくためには「民会が必要である」こと、更にこの民会が十分な
効果を発揮するためには「人民の自修、自治の努力」が必要であることなどが述べられている。

 立志舎高等学校
 平成8年「立志舎高等学校」として開校。



■TOKYOリ・デザインプロジェクト

 太平4丁目1番1~5号、精工舎跡地の再開発。45階建て超高層のレジデンシャルタワーと31
階建てのオフィスタワー、ショッピングモール(仮称:錦糸町エンターテイメントモール)、コアか
らなる。コアには屋上に森ができるかも。

 
オリナス
 都市再生の動きが活発化する中、東京の東の副都心錦糸町に、新しいスタイルを持つ複合都市が誕
生した。これは錦糸町駅の北口、日本の高度経済成長を支えた旧精工舎厚情土地を再生する敷地面積
27300㎡、延べ床面積265000㎡の大規模都市開発によるもので、オリナスタワー・オリナ
スモール・ブリリアタワー・オリナスコアの4つの建物群をいう。



■本所郵便局

 太平4丁目21番2号にある普通局。





【立花】(たちばな)1~6丁目                   昭和41年5月1日
 葛西川村+亀戸村。明治22年「市制町村制」により南葛飾郡請地村・小村井村・葛西川村・寺
島村・大畑村・亀戸村・須崎村が統合して吾嬬村成立。村名についてどの村の名を採る訳にも行か
ず、悩みに悩んだ末「東村」で申し出たところ、時の東京府知事高崎五六男爵から「折角吾嬬神社
があるんだから〝吾嬬〟を頂戴してはどうだ」と勧告されそうすることにした。吾嬬神社は北条泰
時が正治元年(1199)この地方の領主遠山丹波守(遠山の金さんの先祖)に命じて造営させた
とか。祭神は弟橘媛(おとたちばなひめと呼んで日本武尊の妻)。浮洲の森と呼ばれて繁盛した神
社で、隅田川の大川橋はその参詣の便のために架けられたといわれ「吾妻橋」に改められた。大正
元年町制移行。昭和7年向島区が成立して吾嬬町東1~8丁目・吾嬬町西1~9丁目。同22年墨
田区所属。同41年新住居表示により吾嬬町東1~6丁目の全部または一部をあわせた町域を現行
の「立花」とした。

 立花の由来
 吾嬬の「嬬」の字が当用漢字にないので「吾嬬」とすることができなかった。そこで町名の起こ
りとなった吾嬬神社の祭神弟橘媛から「橘」を頂戴しようと思ったが、これまた当用漢字にないの
で「たちばな」の韻だけを借り「立花」の字を当ててこじつけた。だから立花は吾嬬神社だ! 何
といっても昔ながらの中川がいい。



■吾嬬の森・浮洲の森
 吾嬬神社 
 立花1丁目1番15号にある。創建は古く景行天皇のころと伝え、弟橘媛命を主神とし、正治二年
(1200)に日本武尊大神を合祀した。伝説では『日本書紀』に見える日本武尊の東征において、
武尊が下総に渡ろうとしたとき海が荒れ、妻の弟橘媛が投身入水したところ海は静まり忽ち浮洲が現
われて無事渡ることができた。そこに媛の遺品が流れ着いたので、武尊は「吾嬬はや(マイワイフラ
ブ)」といって、遺品を集めて埋め塚(築山)を築いて祀り、樟の箸を2本立てた。「連理の樟」と
いい、アメリカ軍の無差別空爆で焼けたが、今は2代目が対をなしている。塚は社殿の真後ろに今も
ある。
 下って正治元年北条泰時が葛西領主らに社領300貫を寄進させて社殿を造営した。嘉元元年(1
303)別当寺として鎌倉から真言宗宝蓮寺を亀戸に移している。安永三年(1774)隅田川に架
けられた大川橋は、吾嬬神社参道に当るところから「吾妻橋」となったという。入口に吾嬬神社の石
柱があり、その裏に「産業報告塔」とある。左手に有栖川宮幟仁殿下歌碑、埋もれた神橋を渡ると、
社前に一戸兵衛大将揮毫の「吾嬬神社」の石塔。その隣「縁起」の石碑。社横に山県大弐の「吾嬬森
碑」、境内西隅に「山県大弐先生遺徳顕彰碑」がある。右脇は福寿稲荷で、境内は南北の通り抜けに
なっている。向背の吾嬬の森は既になく、境内は住宅に侵食され続けて僅かの面積だ。昔が嘘のよう
な寂れぶりだ。「新編武蔵風土記稿」に、

   吾妻権現社
   吾妻森と号す。村内寶蓮寺の持。社傳に云、当社は人皇十三代景行天皇の皇子日本武尊の
   妾橘姫命の旧蹟なり。此姫は物部連等祖大水口宿禰の孫、東夷謀叛しければ日本武尊を大
   将軍とし、吉備の武彦大伴武日連等を追て是を討しむ。同八月尊相模国より上総国へ行ま
   さんとするに、海中暴風起りて御船を漂蕩して渡すべからず。因て姫尊に啓て云、是必海
   神の祟りならん。我身を捨て御身にかはり奉らんとて浪間に飛入り逆まく水の泡と消たま
   ひぬ。既にして風浪静まりかれば御船恙なく着岸あり。故に其所の海上を走水と云。それ
   より尊夷を平げ武蔵上野を巡り、西の方碓日の坂を上り東南を望み、姫をしたひて嗚呼吾
   妻こひしと宣ひしより、東国の惣名とは成ぬ。姫入水の砌御身に添給ひしゆつり葉の鏡海
   中に沈み入しを、尊白狐神に命じて取得て、後穂積家に傳ふ。人皇八十三代後土御門院御
   宇穂積臣の末葉、鈴木・遠山・井出の三家、姫の御跡をしたひ奉り、正治二年庚申八月十
   五日彼ゆつり葉の鏡を以て神体とし、行基菩薩の十一面観音を本地とし、此吾妻森に旧蹟
   を写し、則吾妻権現と崇め祭れり。此森昔は浮洲森といへり。其後承久の頃北条泰時関東
   管領の時、鈴木隼人・遠山采女・井出大学など領主太田某へ請て社頭を造営云々と載たり。
   按に当所旧蹟のこと他の所見なき処なれば、もとより造ならされと、海植え守護の為とし
   て勧請せしは宣なり。又承久の頃鈴木遠山井出等が太田へ請て再造すと云も、未だ他に傳
   へざる説なり。殊に太田某に請しなと云は持実入道道灌などに混したる傳にや、又江戸砂
   子には、天文の頃遠山鈴木井出三氏社を造営すと見えたり。
   神体唐ノ頭一。北条泰時寄附せし獅子の頭骨なりと云。
   驛路ノ鈴一。古色の物なり図上に載す、長九寸。
   古書一幅。日本武尊東征の日船中にて薙風に逢たまひし時の図なり。頼朝筆といひ傳ふ。
   末社稲荷。真羅稲荷と号す。則本社縁起にのせる白狐神なり。金比羅を合祀す。
   神木楠。傍に藤原傳古か撰へる碑あり。


 とある。

 鹿歌都部真顔歌碑
 しかつべまがお  入口の石柱の左にある。

   高麗剣わざこそ歌の一風流を我たまひしと人強く磨けり

 文政十二年(1829)六月六日俳諧歌場、紀真顔とし、裏に「昭和40年9月破損に付き再建之」
としている。真顔は、江戸数寄屋橋外の大家(差配人)の子。江戸後期の狂歌師・黄表紙作者。本名
北川嘉兵衛。鹿杖山人・狂歌堂など号し、狂歌を蜀山人に学んで鹿津部真顔と称えて宗匠となった人
だが、俳諧歌とも称え一派を作ったりした。また戯文を恋川春町に師事して恋川好町と名乗った。作
品に『元利安売鋸商内(がんりやすりのこぎりあきない)』などがある。


 吾嬬森碑
 
明和三年(1766)夏の建碑。神話時代からの吾嬬の森の由来を記している。藤原博古(山県大
弐)の撰文になるもので、柱状の三面に「下総国葛飾郡吾嬬森碑」として日本武尊の東征と弟橘媛命
の入水のこと、碓日嶺(碓氷峠)に登って「吾嬬はや」と歎かれたこと、吾嬬の森が命の墓であるこ
となどを述べて、命の貞烈を顕彰している。
 なお、碑文中には敬意を示した五字分もの闕字の手法が見られます。山県大弐で知られる藤原博古
は、江戸中期の兵学者・勤皇家で柳荘と号し、『柳子新論』を著すなどして、幕政を批判して忌諱に
触れ、明和事件で捕らわれて処刑された。

   この碑は、明和三年(1766)に儒学者山県大弐により建立されたと伝わります。「吾
   嬬の森」とは、吾嬬神社の代表的な呼び名で、江戸を代表する神社の森の一つとして「葛
   西志」や「江戸名所図会」にも紹介されています。碑の内容は、地元に伝わる神社の来歴
   となっており、日本武尊の東征、尊の妃・弟橘媛の入水により海神の怒りを鎮めたこと、
   人々がこの神社の地を媛の墓所として伝承し、大切に残してきたことなどが刻まれていま
   す。「新編武蔵風土記稿」には、碑は神木の傍らに建てられていたと記されています。
   神木とは、墨田区登録文化財である「連理の樟」のことです。一つの根から二つの幹を見
   せる姿は、歌川広重の「江戸名所百景」にも描かれています。左の絵は広重の作品「江戸
   名所道化盡 吾嬬の森梅見」で、中央にひときわ高くそびえるのが「連理の樟」です。
   明治43年の大水や関東大震災、東京大空襲などにより森は失われましたが、長く地域に
   根ざした伝承は、この碑を通じても垣間見ることができます。    墨田区教育委員会


 
吾嬬神社縁起碑 
 天明三年(1783)のもので神木「連理の樟」ついて記してる。合わせて吾嬬神社の縁起、日本
武尊の東征の事跡などを述べている。樟は現在は枯れて、その根だけが境内に保存されてい。裏面に
は、「天下泰平国家安全」と大書きし、天明三年の年紀を掲げて、田所町(日本橋堀留町)の住吉屋
庄兵衛の母そゑの発願で建立されたとある。

 櫪而不隣の碑
 「ますれどもうすろがず」と読む。
 昭和9年の建碑。「吾嬬森碑」の撰文者藤原博古乃ち山県大
弐遺徳顕彰碑ともいえるもので、高さ4m50cmの大碑で、一部に欠けるところがあるものの、読
み下すのに不便はない。昭和7年徳富猪一郎(蘇峰)の撰文になる。吾嬬森碑と共に、国粋・国家主
義の高揚期を背景にした建碑であることが判る。なお篆額の「櫪而不隣」は『論語』からの出典で、
「本当に硬いものは削っても薄くならない」という意味で、「他の悪い感化を受けない」喩えにして
いる。大弐の忠節を形容したものだろう。

 大弐は、幕末の尊皇攘夷の口火を切った人。家柄は武田信玄24将の一人三郎兵衛尉昌景(やまが
たさぶろうひょうえのじょうまさかげ)の裔だという。八丁堀は与力・同心の屋敷拝領地で、敷地内
家屋を儒者や医者に貸していた。山県も長沢町(現八丁堀3丁目東)の外科医栗崎道有の家を借りた。
和漢洋学や兵学を教え、門人は2000人ともいわれる。兵法は各地の城の特徴を調べて論評した。
そうしたことからか、明和4年倒幕の疑いで捕まり、のんびりしていた幕府に刺激を与えた。維新後
の明治24年に正四位が贈られ、大正10年に山県神社(山梨県中巨摩郡竜王町)に祀られた。墓は
四谷全勝寺、故郷の篠原金剛寺にある。青木昆陽や加藤千蔭などとともに八丁堀では忘れられない人
物だ。
 なお彦根24万石井伊家が「赤備え」といって軍装を赤色で統一したのは、山縣昌景の軍を引き継
いだことによる。

 ●文化十四年銘水鉢

   奉納  文化十四年(1817)丑十月吉日  白木屋清兵衛


 大柄に属するものであり、正福寺・天祥寺、とくに香取神社のものと共通している。脚部の造り出
しと、その曲線は萎縮することなく、刻字も太く伸びやか。また現に使用されている点でも極めて数
少ない例といえる。

 源延平歌碑
 自然石に円を隈どりして、

   皇国はかみ代のままの道しあれことなる文のをしへ何せむ 源延平

 と刻むが、年紀は特に見当たらない。

 天保九年銘鳥居
 境内の福神稲荷社前に建つ鳥居で、銘を

  
 天保九戌戌歳(1838)2月初午  願主 信濃屋筆女

 と刻んでいる。女性によって奉納された点、区内でもこの一点かと思われ大変貴重。「初午」は2
月の初の午の日で、京都の伏見稲荷神社の神が降りた日とされ、全国的にはこの日蚕や牛馬の祭日と
する風習の中で、この信濃屋のお筆さんは何を願かけたものかねぇ。

 福神稲荷神社
 祭神は、宇賀之魂之命、大国主之命、金山彦之命。以前は亀戸4丁目の地蔵川岸の畔に鎮座してい
たが、大正11年吾嬬神社旧社務所の位置に有縁の地とし遷座した。その後第二次世界大戦の災禍を
受け、周囲家屋他草木に到る迄焼け尽きた中この社殿全く無被害の不思議な現象に奇跡なりと御神徳
に人々は驚異の目を見張った。昭和21年吾嬬神社復興事業執行の時、社殿を現在の場所へ再遷し、
ここに吾嬬神社と共に庶民の守護神とて奉祭している。



万年山明源寺
 立花1丁目13番3号にある曹洞宗の寺。創建は天文九年(1540)。開山は文京区本駒込吉祥
寺の第二世大州安元和尚で、開基は梅厳桂林だ。なお大州安元については大州安充と書いたものあり
どちらかが間違っている。
吉祥寺の末。本山は永平寺。本尊は延命地蔵菩薩。本堂は鉄筋コンクリー
ト造りのなかなか立派な純和風のお堂だ。左が墓地。右は駐車場と庫裏になっている。南葛八十八ヶ
所霊場71番札所。「新編武蔵風土記稿」に、

   明源寺
   禅宗曹洞派、江戸駒込吉祥寺末、萬年山と号す。本尊地蔵。天文9年の起立にて、開山大州
   安充は永禄十二年五月七日寂し、開基梅巌桂林、弘治三年八月十一日死す。
   白山社。


 とある。


 
小山孫左衛門の墓
 小村井村名主。文化十四年(1817)に没した。晩年の文化九年に貯金の30両を代官大貫次右
衛門に預け、凶作の時に備えてもらったという義挙が墓碑に刻まれている。
なお小山家の住宅は大正
民家園として公開されている。

 
戦災殉難者慰霊塔・戦災精霊五十回忌供養塔・戦災懐古の碑
 4つ並んで建っている
「戦災殉難者慰霊塔」には、

   3月10日未明の空襲における戦災殉難者及び地区内120余命の霊を慰めるものなり

 とあり、地元の有志が昭和40年3月に建立した。
 その右にある「戦災精霊五十回忌供養塔」は、平成6年3月10日50回忌法要とともに戦災供養
会一同によって建てられた。その側面には漢詩が刻まれている。


   爆音鳴響米機来 一意護都偶戦災
   君死我存今日到 叩頭僅獻慰霊杯 追憶献杯 二十五世 萬年
   爆音ごうごうとして米機来る一意町を守って戦災に遭う
   君は死し我いきて今日に至る。こうとう僅かに献ず慰霊の杯


 右端の「戦災懐古の碑」は、昭和42年の建立で、当時の凄惨な状況を詠んだ漢詩が刻ま
れている。

   暗雲低覆我家偕 満目荒涼累積骸
   来襲米機焚萬物 敗兵涙見墨東街 戦災懐古

   昭和四十二年三月 まん つくり かく
   暗雲低く覆うわが家の階(きざはし) 満目荒涼として累積の骸(かばね)
   来襲米機万物を焚く 敗兵涙して見る墨東の街


 
「?」
 日本陸軍の鉄兜を模った香炉と砲弾を模った花立が目をひく九重の石塔。日中戦争に関係する供養
塔と思われるが、特に説明はない。語ることの出来ない国粋主義礼賛のものなのだろうか。立派なも
のだし珍しいので説明が欲しいところ。



■橘国民学校 廃校 → 第一吾嬬小学校 → 立花吾嬬の森小学校
 立花1丁目18番6号にあった区立校。



■第一吾嬬小学校 統合閉校
 立花1丁目18番6号にある区立校。明治20年城所景定が吾妻村大字小村井に「吾嬬学館」とい
う塾を開いたのが本校の始まり。同24年4月8日「吾嬬学館」を「東京府南葛飾郡吾嬬村立尋常小
学校」として開設。4年生までの尋常科として発足。同26年「第二吾嬬尋常小学校」ができたため
「東京府南葛飾郡吾嬬村立第一吾嬬尋常小学校」と改称。同35年香取神社に校舎を増築。二年制の
高等科が併設され、尋常科2学級、高等科1学級となり「東京府南葛飾郡吾嬬村立第一吾嬬尋常高等
小学校」と改称。同36年尋常科は6年制となり、2学級となる。同37年亀戸線開通。高等科が修
業年4ヶ年程度に改められ、尋常科2学級、高等科2学級となる。同41年校舎745坪が建て増し
され、教室数は5となる。同42年尋常科の修業年限を6か年、高等科を2か年と改め、尋常科4学
級、高等科1学級とする。同45年第一吾嬬実業補習学校を付設。
 大正2年大字葛西川(現在の東吾嬬小学校の場所)に、3年計画で移転開始。教室数7となる。同
4年移転完了。同6年風雨により、西側平屋建て校舎が倒壊、2階建て校舎も傾く。同7年第一吾嬬
尋常夜学級を付設。校舎の復旧および増築工事落成、移転。同12年関東大地震のため、校舎東西の
棟が傾斜。3本の支柱で起こし修復。同14年児童数急増3倍に。19教室、体操場を増築。
 昭和2年吾嬬第四尋常小学校を分校。同5年高等科を第一吾嬬高等小学校として分離「東京府南葛
飾郡吾嬬町第一吾嬬尋常小学校」と改称。荒川放水路完成。同7年南葛飾郡が東京市に併呑され向島
区となり「東京市第一吾嬬尋常小学校」に改称。同8年在籍児童数が本校史上最大の2904名とな
る。同9年中川尋常小学校を分校。同10年1クラス66人体制。同11年北側校舎を改築、普通教
室5、理科室、裁縫室、教員室、応接室、使丁室各1、以後、本校舎を本館と呼ぶ。同14年橘尋常
小学校を分校。同15年開校50周年記念式典。同16年勅令148号国民学校令により「東京府東
京市第一吾嬬国民学校」に改称。校旗ならびに校歌(作詞・薄井晴雄 作曲・保田正)を制定。
 校歌、歌詞調査中。墨田区に資料が見つからないんで教えてくらはれ。
 同18年都制施行により「東京都第一吾嬬国民学校」に改称。同19年児童500名、派遣教員1
5名が、茨城県久慈郡大子町及び宮川村に集団疎開。大子町は7学寮、児童357名、宮川町は3学
寮、児童52名。同20年愚かなアメリカ軍の無差別空爆(大空襲)により、校舎全焼。残留児童2
12名は、第四吾嬬国民学校で授業を受ける。秋田県秋田郡五城目町に再疎開。3学寮に児童136
名、教職員10名。立花国民学校・請地国民学校・中川国民学校が廃校となったため学区が拡大。
 同22年現在地(橘小学校跡地)に平屋建て6教室ができ、第四吾嬬小学校より移転する。アメリ
カの強制による学校教育法施行により「東京都墨田区立第一吾嬬小学校」に改称。全学年に亘り二部
授業。同23年追って平屋建て2教室ができ、普通教室が8教室となる。5年生以下は二部授業。同
24年平屋建て3教室ができ、普通教室が10教室となる。学級数19。同25年平屋建て4教室が
できる。4年生以下二部授業。24学級。東京都が、アメリカの廃棄処分の粉ミルク(ララ物資)に
よるパン・ミルクなどの完全給食開始。同26年中川小学校が再設され、児童548名と職員6名が
移籍。1・2年生は二部授業。18学級。開校60周年記念式典。新しい校歌ができる。

 校歌「朝」 作詞・小川浩  作曲・細川一郎
  1.朝
(あした)真澄の 空遠く
    希望(のぞみ)あふれて 佳き教え
    花咲く庭よ 吾嬬森
    伝えゆかしき 森かげに
    まことの光 身にうけん

  2.
調査中(とにかく墨田区の図書館は資料がないのよ)

 昭和27年2階建て4教室ができる。本校後援会は解散、新たに第一吾嬬小学校父母と先生の会が
発足。学級数18。同28年1~3年生は二部授業を行う。学級数20。同29年木造校舎4教室を
取り壊し2階建て8教室竣工。同30年木造平屋建て校舎2教室を取り壊し、2階建て4教室ができ
る。1・2年生は二部授業を行う。初めての夏季林間学校開設(山梨県昇仙峡)。学級数28。同3
1年東吾嬬小学校と西吾嬬小学校を分校。322名が東吾嬬小学校へ、73名が西吾嬬小学校へ転校
する。二部授業が戦後初めて解消される。21学級。開校65周年記念式典。 同32年鉄筋3階建
(1期分6教室)の工事が始まる。学級数20。同33年東側旧校舎を鉄筋3階建てに改築(第2期
工事)するため、2・3年は二部授業。1期・2期工事完成。12教室の落成式。同36年給食室改
築、屋内運動場(体育館)の建設開始。同37年体育館完成。体育施設(すべり台・低鉄棒・ジャン
グルジム・雲梯・肋木・砂場)設置。開校70周年記念式典。学級数22。昭和33年全教室にテレ
ビ設置。同33年プール完成。同42年鉄筋新校舎ができる。普通教室6、特別教室5。開校75周
年記念式典。同44年鉄筋校舎3階建て11教室の改築工事が始まる。このため教室としてプレハブ
校舎が作られる。同45年鉄筋3階建て新校舎落成。同46年創立80周年記念式典。同49年南隣
に立花団地ができ、それに伴い立花小学校を分校。同51年拡張校地に花壇新設。開校85周年記念
式典。丸八通り開通。学級数14。同52年昭和20年3月は戦災で卒業式ができなかったため、3
月27日32年ぶりに53期生の卒業式が行われる。校庭岩石園が作られる。同53年校庭舗装(ア
スコン舗装)完了。あわの移動教室実施。学級数14。同56年開校90周年記念式典・記念運動会
・記念学芸会が行われる。学級数16。同61年開校95周年記念式典を行う。池の補修・理科室の
改修が行われる。学級数12。同63年戦災のためできなかった橘国民学校の昭和19・20年の卒
業式が43年ぶりに行われる。学級数11。
 平成3年創立100周年。体育館・プール解体。同5年体育館・プール新築。3年遅れの創立10
0周年記念式典・体育館落成式。同11年コンピュータルーム解説。同14年墨田区出身、巨人の高
橋尚成投手と水野雄仁元コーチによる「夢の課外授業」が行われる。同18年立花小学校との合併策
定。創立115周年記念式典。同19年閉校式。同20年立花小学校と統合。新校名「立花吾嬬の森
小学校」。校地は立花小学校を仮校舎として使用し、第一吾嬬小学校の校舎を建替えた後、本校舎と
した。



■立花吾嬬の森小学校
 立花1丁目18番6号にある区立校。平成20年立花小学校と第一吾嬬小学校を統合して新設され
た。校舎建設中、立花小学校の校舎を使用していたが、同21年4月新校舎落成して移転。

 校歌「墨田の東」 作詞原案・校歌製作委員会  作詞補作・作曲・中郡利彦
  1.墨田の東 吾嬬の森に
    元気な声が木霊する
    学びの庭に吹く風は
    優しい心 運びくる
  2.広がる空と隅田川
    綺麗な花に包まれて
    感謝の心 この胸に
    故郷想い 育ち行く
  3.輝く未来 夢を持ち
    平和を願い進む道
    心と心 一筋に
    求めて励む 私たち
        *
    創ろう みんなの
    立花吾嬬の森小学校
 



■帝釈堂

 墨田区のHPによると1丁目22番にあるというが未確認。『墨田区の歴史』には「東あずま駅か
ら南へ北十間川沿いの高層住宅、公団立花1丁目団地へ曲がる園芸店の左に、小屋がけした帝釈堂(立
花1‐22)がある。帝釈天王と書いてある。中はすっかり風化した石塔が3基と地蔵がある。石塔
の台座には3つのコブがあり、三猿の跡だろう。これは庚申塔で、この形は板碑型といい、文字は全
く摩滅しているが、各地の庚申塔の形式から推定すると寛文年間(1661~73)前後の年代とみ
てよい。この形の下限でいえば、元禄以後に例は少ないのである。区内に残る庚申塔では、おそらく
最も古い年代と私は考えている」とあるのだが、?
 立花には19~22番は欠番で存在しないのだ。また文花の当番地は文化中学校でそれらしきは見
当たらない。ただ立花の23番に鳥居マークがあるので、今一度現地調査して報告する。

 とぐずぐずしてたら、キムタクさん(匿名)から以下のメールをいただきました。

    中に紹介されていた墨田区立花1-22にあるという帝釈堂のことです。そこは30年
   前に再開発されて、今は大きなサンタウン立花という公団分譲のマンションになっていま
   す。帝釈堂と思われるのは、今はマンションのちょうどまん中に移築されています。同マ
   ンションは建物の中央に通路が作ってあり、通路の両側が商店街になっています。その通
   路のまん中当たりの右側に小さな社があります。提灯に「帝釈天」と書かれています。番
   地は「立花1-23」です。
帝釈堂は再開発の工事中、線路脇に仮安置していたのですが、
   工事関係者に事故が続き、きちんと祀っていないからだとて、マンションの中央へ丁寧に、
   割合立派なお堂を作って安置したのだそうです。


 それで平成18年3月チェックに行ってきた。マンションの一階に大きい通路があって、その両側
に店が並んでいる西側の真ん中に鉄筋コンクリート造りの小社があって、本に書いてある通りの状態
だった。キムタクさんのご案内の通り、丁寧にお祀りしてあった。2mばかりの、参道というか石畳
に打ち水してあったのには感動した。



■立花小学校 統合のため閉校
 立花1丁目25番27号にある区立校。昭和49年立花団地の造成により、7月1日立花小学校を
設置。9月1日開校。同50年体育館完成。校歌制定。

 校歌「さわやかな」 作詞・松井由利夫  作曲・渡辺茂
  1.爽やか緑の若木
    梢は伸びるどこまでも
    この明るい学びの庭で
    橘の花のように
    優しく そして逞しい
    心と体を育てよう
    ルルルルルルルル 立花小学校
  2.ふりそそぐ豊かな光
    吾嬬の森にいつまでも
    この楽しい学びの庭で
    澄み通る空のように
    大きな そしてしい
    明日の望みを育てよう
    ルルルルルルルル 立花小学校


 同54年創立5周年記念式典。同57年校舎増築。同59年創立10周年記念式典。
 平成6年校庭改修。創立20周年記念式典。同7年創立20周年記念タイムカプセル埋設。同8年
ほのぼのルーム開設。同11年創立25周年記念式典。同16年創立30周年。同20年本校吾嬬第
一小学校と統合。新校名「立花吾嬬の森小学校」。立花小学校を仮校舎として使用し、同21年第一
吾嬬小学校の校舎を取り壊し新校舎を建設し移転。



亀命寺慈光院

 立花1丁目29番3号にある曹洞宗の寺。板橋区に移った橋場総泉寺末寺。『江戸名所図会』に永
正十一年(1514)創建とあり、開基を葛西出雲守とする。これは葛西武胤と考える説もあり、そ
の妻慈光院孝顔知舜大姉と子の亀命丸との菩提のために建てられたと
伝え、山号は亀命山を用いてい
る。しかし武胤とすると年代的にあわないとされており、おそらくこの年代以降に葛西氏の末裔が建
てたのだろう。開山とされる嵐巌和尚も永正年代の人ではなく『新編武蔵風土記稿』では没年を万治
二年(1659)としているなど創建年に合わない点がある。
 弁天堂には「吾妻弁財天」があり、『江戸砂子』では智証大師作とし、貧しい人や家のない人のた
めに一刀ごとに三礼して彫刻したとしている。この弁財天も慈光院の守護神だったとされ、どっちに
しろ葛西氏との結びつきの深い史跡ではある。
 本堂は鉄筋コンクリート造りの現代風な堂宇だが、色が浅黄色というか薄い黄緑色で美しい。
 「新編武蔵風土記稿」に、

   (亀戸村)慈光院
   同宗同末(禅宗曹洞派豊島郡橋場村総泉寺末)、亀命山と号す。本尊観音を安す。当寺は
   葛西三郎清重四代之孫出雲守武常、其妻女及び一子亀命丸菩提のため、永正11年開基せり
   と云。されど諸家大系図等に拠れば、武常は秩父将常[一作常]の三男にして、清重より四
   代以前の祖なり。然れば其年代最古かるべきを、永正十一年の開基とするもの年暦符号せ
   ず。恐くは当寺後年葛西氏庶流の者の開基せるを、古寺なる事を證せんとて妄に付会し、
   年代をも失ひしにあらずや。位牌に慈光院考額知舜大姉永正十一年十月月五日、亀命院黄
   琳梅金童永正二乙丑二月十日とあり、是武常の妻及ひ一子亀命丸の法号とす。また当寺開
   基心翁傳公元和三丁巳年二月十五日としるせし位牌あり。是中興の開基なるにや。もし武
   常が法号とせんには年代たがえり。開山嶺巌は萬冶二年八月九日寂すと云。是も中興の僧
   なるべし。

 とある。

 戦災殉難者諸精霊供養塔
 地元の空襲犠牲者を追悼する。昭和48年有志によって建立された。毎年3月10日には法要と立
花南町会(旧吾嬬東二丁目)が中心になって集会所に集まり、すいとんを食べながら当時を偲び、慰
霊の行事をしているという。終戦後に中国から帰った住職によれば、「寺の前の北十間川から、建物
がすっかりなくなってしまった焼野原の向こうに、上野の松坂屋と富士山が間近に見えた」とのこと
だ。



■稲荷社
 立花2丁目11番にある小祠。未確認。



■大井戸稲荷神社
 立花3丁目20番10号、立花通りに面してある。俗称〝人助け稲荷〟 大正の頃一帯が田園だっ
た。その時分、清水の湧出地にあったものとされており、ここで弁当を使う人が多かったとか。市街
地化した中で新住民がよく残したものだわい。



■立花通り(平井街道)
 立花1・3丁目と2・4丁目を分ける道。旧中川に架かる平井橋西詰から東南に走り、立花団地の北を
通り、文化2丁目の五差路で、曳舟たから通りに繋がる古い道。



■東吾嬬小学校
 立花4丁目22番11号にある区立校。昭和31年4月6日第一吾嬬小学校から分離して開校。平
成18年創立50周年。

 校歌「この空のもと」 作詞・西沢実  作曲・富永三郎
  1.この空の下
(もと)
    先生と一緒に
    清らかな心を育み
    強いからだをきたえる
    ああ工場に囲まれた
    東京の朝日 東吾嬬
    ぼくのみんなの小学校
  2.この土の上
    友だちといっしょに
    進みゆく道を考え
    国の力をのばそう
    ああ 荒川の岸近い
    たちばなのかおり 東吾嬬
    わたしのみんなの小学校




■東あづま駅
 立花4丁目23番8号にある東武亀戸線の停車場。東武亀戸線は明治37年に全通しているが、中
間の3駅は総て、昭和3年4月15日に同時開業した。ホームは相対式2面2線構造。駅舎のある2
番線から1番線へは構内踏切で連絡しているため、エレベーターは不要。改札口・出口は1ヶ所のみ
で2番線側にある。



■向島工業高等学校 →橘高等学校
 立花4丁目29番7号にあった都立高。昭和12年暮吾嬬製鋼所社長清岡栄之助が当時の金額で5
0万を東京市(現在の東京都)に寄付。同13年3月29日当該寄付金を基金として本校設立の件を
東京市議会で議決。同5月1日東京市立向島工業学校として開校。東京市向島請地小学校にて第1本
科第1回入学式挙行(5年制工業高校、機械・電気・応用化学科設置)。同18年東京都制施行によ
り東京都立向島工業学校と改称。同20年愚かなアメリカ軍の無差別空爆により全校焼失。
 同22年新校舎建築竣工。学制改革により新制中学校併設し、東京都立向島工業高等学校に組織変
更。同24年3月31日を以て併設新制中学校廃校。平成10年創立50周年。
 60年の歴史と伝統に輝く工業高校だ。卒業生は、既に1万人を超え、産業界の様々な方面で活躍
している。この学校の生徒たちは、こうした先輩の功績を見習い、自分たちも日本の産業界を背負っ
て立つ人間になろうと、誇りを持って勉学にスポーツに励んでいる。
 しかし平成19年3月31日を以て全日制は閉課、向島商業高等学校と統廃合して都立橘高等学校
に生まれ変わった。



■橘高等学校
 立花4丁目29番7号にある都立高。平成19年4月向島商業高等学校と向島工業高等学校が統廃
合して開校。向島工業高校の跡地にてスタート。

 校歌「橘の若葉のように」 作詞・石原武  作曲・田村徹
  1.橘の若葉のように 友よ
    たくましく 起業をこころざし
    新しい時代の扉を開けよう
    隅田川の霧はれて
    いま自立のとき
  2.ものつくる匠のように 友よ
    誇らしく 技芸の道究め
    新しい文明の舵を握ろう
    東京の朝かがやき
    いま挑戦のとき
  3.つばめらの飛翔のように 友よ
    しなやかに 流通の知恵学び
    新しい賑わいを街に起こそう
    世界の朝が聞こえる
    いま貢献のとき




■立花中学校(平成26年吾嬬第一中学校と統合予定)
 立花4丁目30番18号にある区立校。昭和57年設立決定。同58~59年校舎建築。同59年
4月「東京都墨田区立立花中学校」として開校。9月グラウンド整備完了。10月校歌制定。

 校歌「若い緑が」 作詞・中村千栄子  作曲・平吉毅州
  1.若い緑が陽をうけて
    澄んだ瞳に映えるとき
    豊かな力ぐんぐんと
    創造の空へ伸びていく
  2.香る橘 遠い日の
    歴史の重みふつふつと
    誠の誓い語るとき
    愛郷心を掻き立てる
  3.光る川面に遥かなる
    人の世の海 思いつつ
    理想の船をたくましく
    世界の海へ漕ぎだそう
        *
    ああ立花 立花中学校
    友情の花 咲きかおる


 平成元年開校5周年記念式典。同2年給食民間委託。同4年コンピュータルーム開設。同5年図書
室開設。同6年多目的室開設。開校10周年記念式典。同9年ランチルーム開設。同11年創立15
周年記念式典。同16年開校20周年記念式典。同21年
経済産業省主催「省エネコンテスト・学校
資源エネルギー庁長官賞受賞。創立25周年記念式典。



■向島東部国民学校 廃校
 立花5丁目48番9号にあった区立校。昭和20年愚かなアメリカ軍の非人道的無差別空爆により
校舎が全焼して再開の目処が立たぬまま廃校。跡地は吾嬬第一中学校となった。



■吾嬬第一中学校(平成26立花中学校と統合予定)
 立花5丁目48番9号にある区立校。昭和22年4月1日開校。5月10日第四吾嬬小学校にて開
校式・入学式、以後授業を行う。同23年7月向島東部国民学校跡地(現在地)に新校舎成り生徒の
一部が移転。同27年校舎増築。全生徒揃う。同29年特殊学級設置。同32年創立10周年記念式
典。同35年体育館完成。鉄筋4階建校舎落成(16普通教室・3特別教室)。同37年4教室増築。
創立15同周年記念式典。同45年西側4階鉄筋校舎落成(教室6、特別教室4)。同46年プール
完成。
同47年心障学級校舎落成。創立25周年記念式典。同50年庭園造成「友愛の庭」完成。同
52年創立30周年記念式典。同58年新体育館・心障学級校舎完成。同59年校舎校庭改修。同6
2年創立40周年記念式典。
 平成元年ガイダンスルーム開設。同3年給食民間委託。ランチルーム完成。同5年コンピュータル
ーム開設。同8年校庭改修。同9年機械警備導入。1階部分耐震化。創立50周年記念式典。同10
年パソコン機種交換。同13年心障学級閉鎖。同14年今年から校舎ボランティア塗装始まる。墨田
区学校選抜制導入。同15年第二回校舎ボランティア塗装。今年から「友愛まつり」始める。同16
年墨田区2学期制導入。第三回校舎ボランティア塗装。同18年第四回校舎ボランティア塗装。

 校歌
「花薫る」 作詞・中部節二  作曲・細谷一郎
  1.花薫る墨田の畔
    天そそるゆかし学舎
    挙りたつ若き眉根に
    澄み映えん 真理の光
    ああ吾等
    かがやかに求めゆくなり
  2.香しき吾嬬の伝え
    尋ぬれば 嬉しきこの窓
    潮なす望み抱きて
    育まん平和の双葉
    ああ清
(さや)
    友愛の鐘も鳴るなり
  3.富士筑波かがようところ
    秀麗の気は漲りて
    興国の希
(ねが)いたゆけく
    勤しまん無窮の道に
    ああ遥か
    旗雲は冴え渡るなり
           



■中川小学校
 立花5丁目49番4号にある区立校。
 [戦前] 廃校
 昭和9年「東京市向島中川尋常小学校」開校。同16年勅令148号国民学校令により「東京府東
京市向島中川国民学校」に改称。12月真珠湾奇襲により日米開戦。同18年都制施行により「東京
都向島中川国民学校」と改称。同19年集団疎開。同20年3月愚かなアメリカ軍の非人道的無差別
空爆により校舎全焼。同21年3月31日校舎喪失のため廃校。

 [戦後] 復興
 同26年「東京都墨田区立中川小学校」として再開校・学級数15。同36年プール新設。同40
年校庭舗装。同45年鉄筋コンクリート造り校舎竣工。同46年開校20周年記念式典。同55年校
庭全面舗装。同57年図書室及び普通教室落成。同61年校庭側窓枠サッシュ化。校舎壁面塗装。同
62年校舎内壁改修。
 平成2年プール新設。同3年開校40周年記念式典。同12年コンピュータ室開設。同13年開校
50周年記念式典。

 校歌「都の東」 作詞作曲・松尾孝輔
  1.都の東 中川の
    古き流れの岸沿いに
    同じ名を負い新しき
    時代の華と咲く母校
  2.学びの道に勤しみつ
    清く正しき 歩みをぞ
    ただ真心に貫けと 
    母校の教え尊しや
  3.稚
(いと)けなき身を温かき 
    守りの中に包まれて
    送る六年の思い出よ
    心の糧と匂うらん
    



立花図書館
 立花6丁目8番1号の高齢者福祉センター「立花ゆうゆう館」の中にある。



■北向地蔵堂
 立花6丁目10番1号、旧平井街道から東漸寺あるいは、立花白髭神社に向かう途中にある。新道
である宮田通り沿い、アルフィーの坂崎幸之助の実家からは、徒歩3分ぐらいだ。堂内には地蔵立
像のほか塩地蔵も安置されている。中川から引き上げられた多くの水死者が葬られた場所といわれて
いる。小さな祠が2つ。祠の1つには、石造立像が2体。祠の右手には、承応三年(1654)建立
の板碑の念仏供養塔がある。古くは平井街道から平井聖天に向かうか、木下川薬師に向かうかの追分
があり、その追分から木下川薬師に向かう道の途中に当たり、平井聖天の開基の時期とも一致するの
で、その参拝に向かう途中であったものと思われる。石造立像の横には、墓碑が置かれている。どれ
も明暦、寛文、延宝など江戸時代の銘が刻まれている。

 大師堂
 堂横にある東向きの堂。四国八十八ヶ所霊場に倣って作られた「新四国南葛八十八ヶ所霊場」の8
5番札所と明記してある。
 



■立花大正民家園(小山家住宅)
 
 立花6丁目13番17号の中川沿いにある小村井村の名主の住宅跡。細い木割りをもつ格子戸やし
し窓(動物が入らぬように格子をつけた窓)と黒漆喰壁(くろしっくいかべ)から構成される正面、
別々に設けられた玄関と土間口、奥座敷上手の縁側-これらはこの地域の住宅の特徴を受け継ぐとと
もに、変わりゆく町並みに江戸時代からの農家と町屋の雰囲気を今に伝えている。当時の常識として
玄関を出入りするのは当主と正式客のみ、家族、女子供、使用人などは土間口を利用する。この民家
の貴重さは墨田区という場所柄、よくもまあ、震災も戦災も潜り抜けて生き延びたことである。名主
小山孫左衛門の墓は明源寺(立花2‐13‐3)にある。
 旧小山家住宅(指定有形文化財『建造物』立花6丁目13番17号、立花大正民家園内)は、大正
6年に建てられた住宅。桁行八間、梁間四間半で整形四間取寄棟造瓦葺の母屋の四面に下屋庇を廻し
ている。
 創建当初の素材・意匠が充実している上、保存状態は極めて良好といえる。昭和10年代に土間の
一部が座敷として改造され、新しい玄関が設けられて、萱葺きから瓦葺になった。同32年には水害
対策として建物全体を50cm程嵩上げした。町屋づくり部分と農家づくり部分を一軒の家の中に残
していることや、土間が狭いこと、接客空間が充実している点は近代以降の都市近郊住宅の特徴を現
すものとなってい。この住宅は、平井・吾嬬を中心に大正・昭和初期に住宅大工として活躍した田口
鉄五郎の手により建てられた。
 



金林山明了院東漸寺
 立花6丁目17番4号にある天台宗の寺。白鬚神社の南にあたる。浅草寺末寺。創建は室町時代の
文安元年(1444)秀尊法印によるもので、円覚が中興開山とされるが、明治中期まで無住の時期
があり、記録類は伝わらない。また、後年同じく浅草寺末の東昌寺を合併し、幾つかの石造物を移設
させてもいる。本尊は阿弥陀如来。また葛西三十三観音第8番札所としての十一面観
世音菩薩像がある。本堂はコンクリート造りだが、区内では早く姿を見せ、昭和39の竣工。反り屋
根の廂のラインが柔らかい。元文元年(1736)銘の六地蔵尊、宝暦十二年(1762)銘の庚申
塔がある。
(すみだの史跡文化財めぐりより「新編武蔵風土記稿」に、

   東漸寺
   天台宗 江戸浅草寺末。金林山明了院と号す。当寺は文安元年秀尊といふ僧開基すと云。
   本尊弥陀。中興円覚、寛永七年十一月十八日示寂す。
   観音堂。


 とあり、併合した東昌寺について

   東昌寺
   同宗同末(天台宗江戸浅草寺末)、医王山と号す。当寺は宝徳二年の起立と云。
   本尊薬師。


 と記している。

 松阪如春先生碑 
 明暦三年(1657)の建碑。誰だ?

 石造庚申道標
 正面に青面金剛像が彫られた典型的な庚申塔で、総高は91cm。青面金剛像の顔の部分に一部欠
損が見られるが、各部の彫りははっきりしており、保存状態は良好。さらに左右の側面には

   左 やくし道 右 市川道

 とあり、庚申塔でありながら道標を兼ねている区内では珍しい例だ。近世における庚申信仰と道祖
神、道標との関係、また同地域の交通路の存在形態を考える上では重要な資料だ。宝暦十三年(17
63)十一月に七左衛門、作左衛門をはじめとした21名により建立された。
 「やくし道」とは将軍の篤い信仰を受けた木下川薬師浄光寺へ抜ける道、「市川道」とは平井の渡
しから市川へ抜ける道のことで、庚申道標はこの分岐点にあったと考えられまるが、原位置は確定で
きないとのこと。
 



■白髭神社
 立花6丁目19番17号にある。区内にある3つの白髭神社・白鬚神社の内では、創建が最も新し
い。天和二年(1682)庄屋鹿倉吉兵衛らが幕府の許可を得て建立した。
 末社として三峰神社・水神社があり、境内左手に合祀されている。記録を欠いているが恐らく水神
社としての性格は古かったろう。水神社は石祠、三峰は木造で、秩父の狼を主神とし、家内鎮護の信
仰により、関東一円に広まった山岳信仰の1つの変形だ。合祀年代は新しい。というのは業平の天祖
神社の三峰は、昭和37年の建立だからである。
 境内の左奥に元禄四年(1691)将棋駒型庚申塔があるが、その台石の方は全く別物であって、
寛延四年(宝暦元年 1691)念仏講碑の残欠だ。右奥は社殿再建碑で昭和46年に建てた。区内
社寺の例に洩れず、社殿は鉄筋コンクリート(RC)造り。同52年区との緑化協定を5番目に締結
した。「新編武蔵風土記稿」に、

   白髭社
   村の鎮守とす。東漸寺持。


 とあり、「すみだの史跡文化財」に、

   旧葛西村の鎮守として、天和二年(1862)に創建したといわれていますが、文安元年
   (1444)創建という伝えもあってはっきりしません。
   祭神は猿田彦命で、俗に葛西川の白髭神社と呼ばれていました。


 とある。




 
【立川】(たてかわ)1~4丁目                   昭和42年7月1日
 本所林町・本所菊川町・本所徳右衛門町。明治11年東京府本所区所属。同44年本所の冠称を
外す。昭和8年林町・菊川町1丁目・徳右衛門町の各一部をあわせて竪川1~4丁目とし、同18
年東京都本所区に所属。同22年東京都墨田区に所属。同42年新住居表示実施の時「竪」の字が
当用漢字にないので平易な「立」の字に変えて現行の「立川」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『墨田区史』『墨田の歴史』など。

 
立川の由来
 町の北面を流れる、江戸城に対して縦方向に開鑿した子とによる堀川の名前から拝借した。区内
の竪川はまだ生きている。



万徳山徳上院
 立川1丁目1番にある新義真言宗の小寺。旧本寺弥勒寺の一子院として創建したが、昭和18年に
旧本寺弥勒寺を離れ、新義真言宗総本山根来寺の末寺となった。安置されている不動明王像は、根来
寺に安置されていた尊像だ。鉄筋コンクリート造りの・・・まっいいか。



満徳山龍光院
 立川1丁目2番にある新義真言宗の寺。門柱はコンクリート。旧本寺弥勒寺の一子院として創建し
たが、後年弥勒寺を離れ、大伝法院根来寺の末寺となった。



万徳山法樹院
 立川1丁目2番4号にある新義真言宗の寺。本堂も塀も鉄筋コンクリート造り。旧本寺弥勒寺の一
子院として創建したが、昭和18年に弥勒寺を離れ、本山長谷寺末となった。



■折箱博物館「木具輪」(墨田区小さな博物館)
 立川1丁目3番5号のスドウにある。エゾ松やシナの木を薄くスライスして作られた折箱、杉や桐
を使用した木箱など、100点あまりの天然素材を展示している。これらは、森林育成に必要な間伐
採や他に用途のない端材を有効活用して作られたもので、地球環境に優しい、食品の鮮度保持能力に優
れた品々だ。是非とも日本の伝統的な天然素材の美しさ、温もり、優しさに触れてみてみい! 
 開館は、祝祭日を除く月曜日から金曜日までの午前9時から午後5時まで。
 03-3631-7785



万徳山聖宝院弥勒寺

 立川1丁目4番13号にある新義真言宗の寺。京都醍醐寺三宝院の末寺で、慶長十五年(1610)
小石川鷹匠町に建てられてから、元禄二年(1689)本所に移ってきた。寺格は高く、新義真言宗
の常法談林所であると共に、幕府の命を伝える同宗の触頭で、関東四ヶ寺の1つだった。また「江戸
市内十二薬師」の第6番で、「江戸七薬師」でもある。また成田山新勝寺や西新井大師の本寺となっ
ている。安政大地震まで塔頭6ヶ寺、及び多数の末寺を擁し、御府内八十八ヶ所霊場の46番札所。
 「すみだの史跡文化財めぐり」に、

   万徳山聖宝院と号し、新義真言宗で京都醍醐寺三宝院末だった。慶長十五年(1610)
   宥鎫によって小石川鷹匠町に創建されました。幾度かの移転の後、元禄二年(1689)
   二月、新開地である本所の現在地に移ったもので、現在は根来寺の末寺となっています。
   江戸時代は新義真言宗の触頭で、寺領百石の朱印状を下付され、関東四ヶ寺中の一寺とし
   て格式がありました。また、江戸十二薬師のひとつとしても有名でした。かつて縁日も本
   所では、元徳稲荷・徳ノ山稲荷と並んで盛んでした。
   この薬師像は、川上薬師といわれ、「文政寺社書上」によれば、かつて水戸領常陸の寺院
   にあったころ、故あって寺地が水戸光圀によって没収され、像も那珂川に流された処、川
   上に流れたため、以後光圀の信仰も得て、川上薬師として祀られてきたと伝えています。
   また、塔頭として徳上院・法樹院・正福院・正福院・宝珠院・正覚院・龍光院がありまし
   たが、現在、徳上院・法樹院・龍光院は寺院として独立しています。
   現在もユニークな法話の聴ける寺院として知られ、書家相沢春洋をしのぶ筆塚も建ってい
   ます。

 とある。

 本尊 薬師如来
 弥勒菩薩から、
後に徳川光圀から寄進された薬師如来を本尊とした。この薬師如来は別名を「川上
薬師」ともいう。「文政寺社書上」には、この薬師像はもと常陸国にあった時に水戸黄門光圀が寺地
を没収した上、像も川に流させると、川上に向かって流れたので、以後黄門の信仰を得たという伝説
がある。、

 杉山和一の墓
 弥勒寺の墓地にある。江戸時代前期の盲目の鍼医。検校。慶長十五年(1610)伊勢津藩藤堂家
の家臣杉山重政の子として生まれ、幼児に失明し、江戸へ出て山瀬宅琢一に鍼術を学んだ。貞享二年
(1685)将軍綱吉の病を治療して、500石を賜り元禄元年(1692)初代の関東総検校とな
り、後300石を加増された。綱吉の命で本所一つ目に鍼治講習所を興した。同七年(1694)8
4歳で歿した。著書に、杉山流の三部書『療治之大概』『選鍼三要集』『医学節用集』がある。千歳
に江島杉山神社があるよ。



■木瀬部屋
 立川1丁目16番8号にある出羽海一門の相撲部屋。
昭和17年5月場所限りで引退した伊勢ヶ浜
部屋(関脇清瀬川)所属の元前頭筆頭桂川が年寄北陣を襲名、その後、9代目木瀬(木村瀬平)に名
跡変更して伊勢ヶ濱部屋の部屋付き親方として後進の指導に当たる傍ら、一般人に相撲を指導する相
撲練成道場を開いていた。その後相撲錬成道場の門人が大相撲入門を志願したため、昭和31年9月
に伊勢ヶ濱部屋から分家独立して木瀬部屋を創設した。伊勢ヶ濱部屋の後輩で娘婿の前頭9枚目清の
盛が、同42年5月場所限りで引退した時、年寄名跡を清の盛に譲渡するとともに部屋経営を任せて
本人は廃業して相撲練成道場の運営に戻りつつ、さらに居合道の道場を興した。
 10代目(清の盛)は、小結青葉山、十両天剛山を育てた。しかし平成12年4月停年退職を迎え
るため、同年2月に部屋を閉じるとともに、所属力士は桐山部屋(小結黒瀬川)へ移籍させた。
                     *
 現在の部屋は、平成14年11月場所限りで引退した三保ヶ関(大関増位山)所属の元前頭筆頭肥
後ノ海が11代目木村瀬平を襲名して三保ヶ関部屋の部屋付き親方として後進の指導にあたっていた
が、同15年7人の内弟子を連れて三保ヶ関部屋から分家独立して部屋を創設した。



■元徳稲荷神社
 立川3丁目18番2号にある小社。河村徳右衛門がまだ三河岡崎にあった頃、氏神として名匠に彫
刻させ、伏見稲荷から正一位稲荷大明神の神霊を遷したのが祀りの始まりといわれる。徳川家康の江
戸討ち入りの時に河村家も江戸出府を命じられ、神田川沿いに土地を与えられた。その際稲荷も江戸
邸内に遷され、屋敷の周辺の町人町は徳右衛門町と称えた。
 2代目の妻女が悪性の腫れ物を患った時、この稲荷に祈願して平癒した。それを聞いた町の人々が
腫れ物を患うと参拝するようになり、平癒すると土地の産物の里芋を供えてお礼参りした。
 明暦三年(1657)の大火(振袖火事)があって、幕府は火に強い町造りを進め、このニュータ
ウン計画に則って、河村家は本所(3丁目内)に移され、稲荷も遷した。しかしその後も参拝する人
は絶えず、河村家では人々の便を考えて、稲荷を三の橋詰に移祀した。この時に「元は徳右衛門町に
あった」ということで「元徳稲荷」と改称した。腫れ物に効くという評判で、明治時代に腫れ物で苦
しんだ9代目(市川団十郎)も平癒を祈願して、治癒したという。鰯の頭も信心から・・・

   元徳稲荷神社は、河村徳右衛門氏が未だ三河岡崎に在った時、河村家の氏神様として、名
   匠に依頼して彫刻させ、伏見稲荷社より神璽を遷してお祀りしたのが始まりである。徳川
   家康が江戸城を開いた折、河村氏も江戸に出府を命ぜられ、神田川沿岸に土地を賜り、町
   名を徳右衛門町と称した。その際、稲荷神社も江戸の邸内に移された。そして二代目徳右
   衛門の妻女が、難性の腫物を患い稲荷神社に祈願して平癒した。それを聞いた町の人々が
   三々五々お参りし、平癒すると土地の産物である里芋を供えてお礼をした。明暦三年(1
   657)江戸に大火(振り袖火事)があり、幕府は火災に強い町づくりを進め、このニュ
   ータウン計画により河村家は本所(立川3丁目付近)に移封され、この処を徳右衛門町と
   称して、稲荷神社も移祀した。しかしその後も参拝する人が絶えず、多くの参拝の便を考
   え、屋敷内から三ノ橋畔に移祀した。
   邸内にあった時は正一位稲荷大明神と称していたが、三ノ橋畔に移祀したのを機に元徳稲
   荷神社(元徳右衛門邸内にあった稲荷の意)と改称した。近在に飛火という腫物の病が大
   流行した折、里芋を供えて平癒祈願したと伝えられている。後に明治の中期に活躍した九
   代目市川団十郎も腫物に苦しめられた時、当神社に参拝したと記録されている。
                                  元徳稲荷神社総代会


 中央区日本橋浜町2‐3‐5に元徳稲荷神社・綱敷天満神社がある。 



■榎稲
荷神社
 立川4丁目12番24号、菊川小学校の南側の菊川公園南西角にある。昭和38年建立の「鎮座参
百年記念」碑がある通り、相当古い稲荷社だよ。大久保紀伊守家の屋敷神として創建、邸内に大榎が
あったので榎稲荷と呼ばれたという。碑の左側に見える枯木が名前の基になった榎の木だろう。
 境内には石黒善次氏寄贈の地蔵尊が祀られている。これは、昭和20年3月10日の愚かなアメリ
カ軍の東京無差別大空爆における、10万人に達するという犠牲者の冥福と恒久平和を念じて、同2
1年5月に建立された。菊川公園(当時菊川国民学校敷地)には4500人以上の遺体が埋められた
という。清め給え。

   大東亜戦争中昭和20年3月10日未明、敵空軍爆撃機の焼夷弾による大空襲を受け、下
   町一帯は崩壊状態となり尊い人命を数多く亡し其の数実に10万人といいます。攻撃に参
   加した敵爆撃機298機、投下焼夷弾1783トン、被災者数100万人、焼失家屋27
   万戸、負傷者数14万人、当菊川公園に埋めた人4515人に達し当町の住民の中からも
   多数の焼死者を出し、無人の町に等しくなるも終戦により町に復帰する人も日毎に多くな
   り、其の生存者の間から犠牲者の冥福と恒久平和を念じて地蔵尊建立の運動が起き、当時
   この町の住民で菊川小学校で奇跡的に難を免れ、船橋市に疎開中の石黒善次氏に話が伝わ
   り、同氏の浄財により昭和21年5月地蔵尊を菊川公園に建立し町に寄贈され、昭和40
   年菊川公園改修のため現在地に移転、今日に至り以来毎年3月10日の戦災記念日には盛
   大に犠牲者の霊を弔うと共に人が人を愛し世界の国々が平和で人類が何時迄も仲良く幸で
   あることを祈るものである。                    立川四丁目町会



■菊川小学校
 
 立川4丁目12番21号にある区立校。
 [戦前] 
廃校
 明治45年4月1日「東京府東京市菊川尋常小学校」として開校。大正12年関東大震災により校
舎全焼。昭和3年鉄筋コンクリート3階建て新校舎完成。校歌制定。

 校歌「千代に八千代に」 作詞・佐藤忠 校閲・佐々木信綱  作曲・田村虎蔵
  1.千代に八千代に栄え行く
    菊のしづくにうるほひて
    心に清く身はゆたかに
    よき民草と伸びゆかん
  2.日々に新たに淀みなき
    川の流れは一筋に
    勤しみ励み我れと我が
    道を求めて進まばや


 同16年勅令第148号国民学校令により「東京府東京市国民学校」と改称。同18年都制施行に
より「東京都国民学校」と改称。昭和19年戦局悪化により、東京都は国民学校第3学年以上の学童
疎開を本格化。これを受けて当校でも9月に、3年生以上の児童を千葉県大網町、土気町、東金町に
分散させて集団疎開。しかし翌20年3月初め、東金にいた100人以上の6年生が、受験のため東
京に帰り、3月10日の東京大空襲に遭遇し、約8割が死亡するという悲しい結果となった。同時下
町はB29による爆撃を受け、区の9割以上の地域に被害が及んだ。特に当校へは何百もの人々が避
難し、その内助かったのは極僅かで、講堂や校舎に重なり合った死体の山は目を覆うばかりだったと
いう。校舎喪失により同21年3月31日を以て廃校。跡地は戦災者住宅。同24年竪川中学校とし
て使用。

 [戦後] 復興
 昭和33年4月1日「東京都墨田区立菊川小学校」として新規開校。同35年現校歌制定。

 校歌「昔をしのぶ竪川の」 作詞・菊川小学校校歌制定委員会作詞  作曲・椿真太郎
  1.昔をしのぶ竪川の
    静かな水に影うつし
    雄々しく立てる 学舎は
    われらの母校 菊川よ
  2.茜に映える富士の山
    誇りも高く励み合う
    明日の日担う若草の
    楽しく集うこの国よ
  3.正しく強く大らかに
    睦みて共に行くところ
    文花の花は咲き香る

 同48年区立菊川幼稚園を併設。同59年新校舎落成。開校72周年記念式典。平成4年校庭遊具
施設設備。同12年パソコンルーム設置。同13年ランチルーム設置。同14年校庭改修、スプリン
クラー設置。開校90周年記念式典。同18年防犯カメラ設置。同19年校門に電子錠取付。特別教
室にエアコン設置。学校図書館システム導入。創立95周年記念式典。同20年校庭改修。






【千歳】(ちとせ)1~3丁目                    昭和42年7月1日
 本所弁天門前・本所八郎兵衛屋敷・本所中林屋敷。明治2年
これらを纏めて本所千歳町を起立。
同11年本所区所属。同24年深川安宅町の一部を編入。昭和8年松井町2~3丁目・安宅松井町
・御船蔵前町を編入した町域を千歳1~3丁目に改め、同42年新住居表示を実施して現行の「千
歳」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『墨田区史』『墨田の歴史』など。

 
千歳の由来
 
近隣の相生・松坂などの町名が謡曲『高砂』に繋がるので、この町も嘉語を選んで命名した。千
歳は千年、未来永劫の意。世田谷区に千歳台がある。




■江島杉山神社
 
千歳1丁目8番2号にある。杉山流鍼術(しんじゅつ はり)の始祖、杉山和一総検校が将軍綱吉
からの拝領地に江の島弁財天を祀った神社で、没後鍼術の神様として杉山総検校も併せ祀っている。
弁財天は、全ての願いを叶えてくれる神様だが、特に芸能上達に通じている。和一は、鍼の神様、視
覚障害者の先駆者、視覚障害者に鍼・按摩を職業として与えてくれた人として尊敬されている。  
 明治4年大久保の明治新政府は盲官廃止を理由に京都・江戸の惣録屋敷を没収、当道座解消。同1
8鍼術取締法公布。鍼治講習所に学んだ関澄伯理、榊原学道、藤岡宮戸、小泉荘三、河井貞昇、吉見
英受、吉田弘道は温知舎を起こし管鍼術の復興に専念。同23年杉山検校の霊牌所、即明庵を再興、
杉山神社建立。明石野検校の保管した杉山検校の木像を安置。同35年5月 杉山報恩講組織(吉田
弘道、馬場美静、千葉勝太郎、大貫伊太郎、千葉良泉,桜井幾太郎、森田蒿英、金塚元貞、阿波能夜
仙信、松本修顕、高田権太郎、石井宝作等)
 大正12年9月1日 関東大震災で焼失。同13年2月11日東宮殿下の御成婚により故検校に正
五位追贈、弥勒寺の墓碑が東京府史跡指定。同年5月8日杉山検校250年記念会、惣録屋敷跡記念
碑除幕式を行う。神社復興資金募集に着手、報恩講首脳追加(秦野貞斎、谷村玄教、芹沢八五郎、鈴
木金五郎、市森亀太郎、杉田良作)。同15年9月18日杉山神社再興。
 昭和5年9月26日財団法人杉山検校遺徳顕彰会設立。吉田弘道は三宅秀博士の斡旋により堀越久
三郎より3000円、自己資金1500円、報恩講以来の同志大貫伊太郎・金原直太郎・谷村玄教、
鍼術の理解者三宅秀・富士川遊より各100円の寄付を仰ぐ。同14年3月28日鍼術盲界の大先達
吉田弘道他界(享年75歳)。同15年9月26日管鍼術中興祖吉田弘道翁碑除幕式(弥勒寺)。
 昭和20年3月愚かなアメリカ軍の非人道的無差別空爆により焼失。8000円の財団基金が、戦
後の為替ルートのため
殆ど無価値となり、太田会長の下、戸田恵、姥山薫、伊藤福七、浜田誠一、柿
沼正雄、福岡政司、磯島慶司により寄付募集。同27年9月26日杉山神社再建(氏子北奥工務店主
奉仕建設による)同34年検校墓碑移築修復、頌徳碑復旧(弥勒寺)。同53三年鍼供養塔建立(弥
勒寺)

 
杉山和一
 三重県津市の出身で江戸時代初期の人。慶長十五年(1610)伊勢津藩藤堂家の家臣杉山重政の
子として生まれ
幼くして失明し、江戸に出て山瀬琢一に鍼術を学び、さらに江ノ島弁天の岩屋に籠も
り鍼術の一つである管鍼(くだはり・かんしん)術のヒントを授かった。その後和一は、京に行き入
江豊明にも鍼術を学び、再び江戸に戻り鍼の名人として名を轟かせた。貞享二年(1685)和一の
名声を聞いた将軍綱吉の病を治療したことから、「扶持検校(ふちけんぎょう)」として500石を
与えて
召し抱え
、日夜治療に当たらせた。しかし高齢だったため侍医・御典医という役職には就かな
かった。既に多くの弟子がいたので、代わりにその弟子たちが幕府や大名の鍼科の御典医となった。
元禄元年(1688)初代の関東総検校となり、後に300石を加増されている。和一は鍼治療に際
し管の中に鍼を入れるという方法を創案大成した。これは現在日本の鍼治療の主流をなし、世界中に
広まっているスキルだ。

 綱吉は、和一が江ノ島弁天に月参りをしているのを不憫に思い、元禄六年(1693)五月十六日
に当地本所一ツ目に1860坪余の屋敷地を賜い、同六月十八日には弁財天像と屋敷内西側989坪
余に弁財天の社地を下賜した。当地下賜の逸話に、綱吉が和一に「何か欲しいものはないか」と問わ
れ、「一つ目が欲しい」との返答に当地が撰ばれたという。
 
同七年(1694)84歳で歿し、立川(たてかわ)の弥勒寺に葬られた。著書に杉山流の三部書
『療治之大概』『選鍼三要集』『医学節用集』などがある。


 杉山流鍼治稽古所
 和一は、延宝八年(1680)綱吉の命により鍼治稽古所を開き、視覚障害者に鍼・按摩の教育を
施した。これは世界初の総合的障害者教育だ。江戸時代の後期からは二の鳥居の手前南側にその教育
施設「杉山流鍼治稽古所 四間余二十五間」はあった。

 
贈正五位杉山検校彰徳の碑
 
二の鳥居の手前南側、拝殿に向かって右手に、和一の業績が認められ、大正13年2月11日に正
五位が追贈されたのを記念にして作られた世界に一つしかない点字の石碑だ。

 即明庵跡碑

   管鍼術之祖杉山和一師深く江之島辨財天を信し将軍綱吉之侍醫に備り元禄六年当所に町屋
   敷二千七百坪を賜う乃ち社地九百八拾九坪に辨財天社を建つ検校の没後直に門弟恩師之霊
   牌所として即明庵を社側に建つ残余の千七百余坪即ち杉山屋敷なり後惣録役所鍼治稽古所
   を此處に移す明治以後千歳町と呼稱す明治維新の際盲官廃止辨財天社地以外没収され神佛
   分離の際之を江島神社と稱す明治七年七月村社に列す明治廿三年当流同門の徒温知舎を興
   し明治四年廃絶せる杉山検校の霊牌所即明庵を再興杉山神社と稱す明治卅五年五月杉山報
   恩講を興し祭典法要を営むも関東大震火に遭ひ烏有に帰す大正十五年九月十八日拝敞奥殿
   合計八坪五合の杉山神社再建す昭和五年九月廿六日許可財団法人杉山検校遺徳顕彰会を設
   立杉山報恩講の事業の継承をす昭和廿年戦禍の為盡く灰燼に帰するに依り関係者と謀り杉
   山神社奉祀の検校の霊牌を本社に合祀昭和廿七年九月江島杉山神社と改稱し再興なる昭和
   卅四年財団設立卅周年に当り彌勒寺所在墓碑の移築新修並に当所検校の頌徳碑の復旧完成
   す昭和卅九年十一月安永三年建設の岩屋破損に就き関係者と協力之が修復を終る此に於て
   一應復旧するも唯即明庵(杉山神社)跡後世に所在の不明を懼れ此處に石碑を建て明記し尚
   其の再建を期す者矣
    昭和四十年五月十八日建之              財団法人杉山検校遺徳顕彰会


 
墨田区保護樹木・空襲で焼けた銀杏
 かつては大木だったと思われるが、根本の方の太い幹は途中で折れるように黒こげになっており、
戦後新たに芽吹いたと思われるまだ細い幹がその上に伸びている。61年たった今も火傷痕も生々し
いこの銀杏は生きているのだ。焼けただれて炭化したその木肌は触るとひんやりしている。通りから
すぐのところにあるが、道行く人はこの戦跡の存在に気づいていてはいない。もう若い人は戦争を知
らない。
 国家権力は60年待った。国民が敗戦を知らなくなるのを。安倍晋三は、戦前の日本に戻すことを
こそ〝美しい日本再生〟と考える。陸・海軍のある国。教育基本法を改めて権力の愛国心を押し付け
ることに成功した。防衛庁を防衛省に昇格させて軍事国家への道を開いた。後は「第九条」のない憲
法の制定だ。再軍備→徴兵制・・・着々と復古路線は進捗している。その後は・・・米軍を日本の国
土から追っ払って・・・対米復讐だぁ。アメリカが滅びるまで、あと何日?
 民主党・共産党・社民党、これらはあってないようなものだから、自民党は余裕綽々でい。

 杉多稲荷神社
 社殿右奥にある。焼失前の昭和20年の写真には写っていないので、その後に移されたものだ。

 岩屋(洞窟)
 境内右にある。焼失前の昭和20年の写真にはないので、戦後に作られたのだろう。前に行った時
には気がつかなかったが、今回雰囲気が変ったというイメージはなかったので、以前にもあったのだ
ろう。中に杉山検校石像、人頭蛇尾の宇賀神石像が祀ってある。

 元禄釣燈篭
 社宝。詳細不明。

 平家琵琶
 社宝。杉山検校が使用したものらしい。

 徳川綱吉直筆「大弁才天」掛軸
 社宝。

 浄光院(綱吉正室)直筆「六歌仙」掛軸
 社宝。 



東光山要津寺
 千歳2丁目1番16号にある臨済宗妙心寺派の寺。慶安年間に(1648)本郷に東鉄が建てた東
山乾徳寺で、牧野越中守成儀(なりのり)が開基、西江和尚を開山とする。火災により廃寺になっ
たが、元禄四年(1691)成貞寺として再興された。牧野家の下屋敷があったところで、成儀の子
成貞が寺地として寄進したので、成貞は中興開基となる。戦災で現在の寺は 鉄門の閉じた奥に墓地
があり、中野撝謙、島男也、服部嵐雪の墓、芭蕉翁俤塚、芭蕉句碑(古池や・・・)、芭蕉翁百回忌
碑、汐時地蔵尊、平和三体地蔵尊などがある。


 中野撝謙の墓
 要津寺墓地にある。江戸時代中期、関宿藩牧野家の儒学者。寛文七年(1668)長崎に生まれ、
母の縁で、林道栄に養われ、書や経史を能くし、林氏の神童といわれた。のち江戸に出て学問を教え、
藩主牧野氏に仕え、享保五年(1720)歿。享年54歳

 島男也の墓
 
しまおとや 要津寺墓地の中野撝謙の墓の右隣にある。江戸時代末期の常陸笠間藩示現流の剣術師
範。本名石井庄吾。諱は竜雄、文化三年(1809)生まれ、21歳の時脱藩し、大坂で剣術を教え
名が高まった。万延元年(1860)倒幕を計画した高橋多一郎に関わって捕らえられ、翌文久元年
江戸で獄死した。

 芭蕉句碑
 芭蕉没後、深川芭蕉庵は武家屋敷となったため、雪中庵1世服部嵐雪たちが武家屋敷の北側の町地
に草庵を作り師を偲んだ。雪中庵が管理してきたこの草庵は、幕末までには消滅したが、池畔に建て
られていた句碑だけは、嵐雪の眠るこの寺に移され今もある。

   古池やかはず飛び込む水の音

 平和三体地蔵
 3月10日の空襲犠牲者を慰霊する地蔵尊と碑がある。2像だが、一体は子供を連れているので三
体と数える。傍らに平和地蔵之碑が建っていたが、地蔵を現在地に移設した時、どういう訳か一緒に
移されず失われてしまったとか。その碑には、

   平和地蔵之碑
   英霊の
   やすらかなるを祈りつゝ
   永遠の平和を
   只管に希ふ
   平和地蔵講中
   世話人山崎茂吉以下二六人


 とかかれてあったという。

 常陸笠間藩牧野家墓所
 牧野成貞に始まる。成貞は徳川綱吉に仕え、側用人となり、綱吉が度々成貞邸に訪れたというほど
に信頼された人物だった。3代後に常陸笠間に移封され、以後廃藩にいたるまで笠間藩主として存続
した。明治維新以後に跡を継いだ貞寧は、本所区緑町(現緑二丁目・亀沢一丁目)に住み、本所小学
校(昭和21年廃校)の学務委員を務め、地域の社会発展のためにも貢献した。要津寺は、慶安年中
に牧野成儀を開基として本郷に創建された。成貞が元禄四年(1691)に下屋敷の一部(現在地の
一部)を寄進して寺を移し、寺号を成貞寺としましたが、後に成儀の法名を採り、要津寺と改めた。
現在も代々の藩主が眠る牧野家の墓所は周囲よりも一段高い土台の上に石組をめぐらせ、正面に三つ
葉柏の家紋と「牧野家代々之墓」と刻まれた墓碑が、前面に4基の燈籠が置かれている。



東日山正明院西光寺
 千歳2丁目4番7号にある浄土宗の寺。慶長十一年(1606)本所の開発者小林治郎右衛門休西
の開基、増上寺の信誉英松の開山により創建した。現在の本堂は平成7年の建立。現代的デザインの
鉄筋コンクリート造りだが、整然としている。「御府内寺社備考」に、

   京都知恩院末 深川 東日山正明院西光寺、境内除地六百七十坪
   起立之儀者慶長十一年小林休西開基ニ而建立仕候。
   開山源蓮社信誉重故栄松和尚寛永廿己年十二月廿一日行年百八歳ニ而寂。
   開基然蓮社湛誉寂静休西長老、寛永五辰年七月朔日卒。
   本堂、六間ニ八間半、向拝二間ニ三間。
   本尊阿弥陀如来木座像、長二尺
   脇立観音、勢至木座像、長一尺二尺。
   善導大師、円光大師木座像、長各一尺二寸。
   今上皇帝尊牌一基。将軍御代々牌尊一基。
   地蔵菩薩木座像長三尺。観世音菩薩木立像長二尺八寸慈覚大師作、御府内廿七番札所。
   脇立不動尊、毘沙門天各立像、長八寸慈覚大師作。前立観世音菩薩木立像、長一尺恵心僧
   都作。
   鎮守社、三尺四方。右勧請之年月不詳正一位西光稲荷と唱、別に神体無御座候。
   宝篋印塔。寛延己巳年六月当寺七世曹誉代建立。壱基。以上戌子書上。

 とあり、境内の、ぶらり両国街かど展実行委員会の案内板に、

   旧両国橋が架けられる半年以上も前の慶長十一年(1606)当時は、下総郡葛飾郡海辺
   新地と呼ばれたこの地で、土地の開拓と海苔の製造を行っていた小林治郎右衛門が、増上
   寺の信誉英松和尚を迎え当寺を創建いたしました。
   浄土宗に所属し、江戸時代には寺子屋を開くなど、地域の教育にも貢献しましたが、震災
   戦災など度重なる災害に遭遇し、貴重な資料も全て焼失してしまいました。
   明治時代後半に第十六世住職となった渡辺海旭和尚は、「大正新脩大蔵経」(全百巻)を
   監修発行するとともに、深川に労働共済会館を設立し、日本の近代社会事業の先駆者とし
   て知られています。現在の本堂は平成8年に再建されました。


 とある。   



■初音森神社
 千歳2丁目4番8号にある大社。もとは浅草見附口にあった。創建は元弘年間(1331~34)
で、文明年間(1469~86)太田道灌により社殿が造営された。鎮座地は、中央区東日本橋2丁
目27番の初音森神社儀式殿の辺りで、この辺りが初音の里と呼ばれていたため「初音稲荷」と称し
ていた。また、この地にあった森は「初音の森」と呼ばれ、天文20年(1551)社前に馬場がで
きたが、初音稲荷に因んで「初音の馬場」と呼ばれ、初午祭などには馬追などが行われたという。こ
こで馬を商うために博労たちが集まったのが馬喰町の起こりだ。また慶長五年(1600)関ヶ原の
合戦へと出陣する徳川家康は、この馬場で馬揃えをしたという。
 明暦の大火後に浅草見附門造営のため現在地に移ったが、今も馬喰町の鎮護神で、氏子も対岸の馬
喰町の住民だ。境内に文化年間(1804~18)の狛犬1基と、安政六年(1859)馬喰町2丁
目連中建立の職立て、忠魂碑、初音森神社と彫った記念碑のような社号石板がある。

 中央区東日本橋2丁目27番のビルの2階にある初音森神社は当社の儀式殿。こっちは本殿。

 宝録稲荷神社
 初音森の社殿に合祀してあるのか、鳥居の前に「寶録稲荷神社」と彫った真新しい小さな石柱が建
てられている。ブログなどの写真説明では、同じと思われる画像にそれぞれの名前で説明してある。
ここはまだ行ってないので近い内に訪ねる予定だ。

 平成21年5月10日訪ねた。すると、宝録稲荷は横山町の鎮守で昭和5年に合祀したという石柱
があった。社殿の前の石柱は平成9年に建てたものだ。

 富福稲荷神社
 社殿右の塀際にある小祠。神社のことを書いてある標柱が並んで建っている。それによると日本橋
区通塩町の鎮守で、昭和9年に因縁のある初音森神社合に祀したとある。

 田部廼稲丸の歌碑
   ここに来て聞くは嬉しき葛飾の初音の森の鷺の声

 田部廼稲丸について調べたが良く判らない。石碑は頗る立派なもので、さぞかしの歌人なんだろう
が・・・本人が建てたのかな? 金持ちの風流人か。



■三保ヶ関部屋
 千歳3丁目2番12号にある出羽海一門で大坂相撲から続いている相撲部屋。
昭和21年の8代目
(滝の海調太郎)の逝去後、弟子等は出羽海部屋に預けられた。三保ヶ関部屋およびその分家が出羽
海一門なのはこのためだ。それ以前一門別総当りの時代では、出羽海部屋の力士との対戦もあった。
 同25年大関増位山大志郎が引退後、9代目三保ヶ関を襲名して部屋を再興した。暫くは小部屋状
態だったが、北の湖敏満が横綱になり、一躍有力部屋の仲間入りをした。この9代目は他に、長男の
増位山大志郎と北天佑勝彦を大関に育てた。
 同59年11月に9代目が定年となり、長男の年寄小野川が10代目三保ヶ関を襲名して部屋を継
承した。10代目は、名門日本大学相撲部で活躍した濱の嶋啓志、肥後ノ海直志、増健亘志、エスト
ニア出身の把瑠都凱斗(ばるとかいと)らをスカウトして関取に育てた。
 この部屋からは、北の湖・二十山(現在は北の湖部屋に吸収)、木村瀬平・尾上の4部屋を独立し
ている。




■金庫と鍵の博物館
(墨田区小さな博物館)
 
千歳3丁目4番1号の杉山金庫店内にある。館内には世界に1台しかなく幻の金庫といわれる旧日
本陸軍が暗号表を保管するために作った昭和12年頃の機密金庫が展示されている。この外大型金庫
(英国、米国、仏国製)や2000年前の古代エジプトの模造錠、鎌倉時代の海老錠、江戸時代の因
幡錠や土佐錠など、金庫や鍵が所狭しと並んでいる。金庫の問屋を営む一方、「金庫破りの会」の主
宰や、著書『私は鍵師』の出版などユニークな活動をしている杉山泰史館長の話を聞くのも楽しみの
ひとつだろうさ。  03-3633-9151
 開館は8月を除く第1・第3土曜日・日曜日 要電話予約 午前10時から午後5時まで。



■プジョーモトサイクル歴史博物館
(墨田区小さな博物館)

 千歳3丁目12番8号にある。詳細不明。開館は、祝祭日を除く月曜日から金曜日までの午後1時
から午後5時まで。
03-5638-5215 





【堤通】(つつみどおり)1~2丁目                 昭和53年3月1日
 寺島村+隅田村+木母寺+千住町三丁目(関屋の里)。江戸時代は隅田川の堤防沿いの川原。明
治22年寺島村・隅田村、昭和7年向島区寺島町3丁目・隅田町1~2丁目。同22年墨田区所属。
同39年7月1日新住居表示により寺島町3丁目・隅田町1~2丁目の各一部をあわせた町域を初
めて堤通1~3丁目としたが、同53年2~3丁目を併せて2丁目とし3丁目を廃して現行の「千
歳」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『墨田区史』『墨田の歴史』など。

 
堤通の由来
 
隅田川左岸堤防上の道を堤通りと俗称しその西側埋立造成地に開けた町域であることによる。
木母寺も水神の森も哀れな姿になってしまった。旧寺島3丁目地区は白鬚団地・東白鬚公園に・・
・ 鐘ヶ淵の鐘淵紡績もなくなって
・・・粉飾決算・・・、紡績は何処へ行ったやら、チューイン
ガム、化粧品・・・辛うじて「カネボウ」の名が・・・奮闘せよ!




■大倉喜八郎別邸跡
 堤通1丁目1番5号の共栄倉庫の敷地は、かつて権勢を縦にした中野硯翁の別邸の跡で、維新後明
治・大正期の実業界の雄である大倉喜八郎が購入し、「大蔵別邸」と名づけて、建物は「蔵春閣」と
いったが、その建物は千葉県船橋市のららぽーとの一角に喜翁閣として保存されている。
 喜翁は「喜八郎老人」の意だ。大倉喜八郎は、新潟県新発田の出身。
庶民からは〝死の商人〟と
忌み嫌われたが、公共事業や教育事業には惜しみなく私財を投じた。鹿鳴館、帝国ホテル、帝国劇場
などを渋沢栄一らと一緒に設立したことでも有名だ。東京経済大学の前身の「大倉商業学校」も創設
した。ホリエモンや楽天の三木谷などの比じゃない。やることは破天荒、もし今ホリエモンや村上が
大倉と同じようなことをやったら日本から抹殺されるだろう。大倉の冒険商人的な行動をよく表して
いる。質屋の倅として生まれ、18歳で江戸に上り、丁稚奉公からはじめて、一代で大倉財閥を築い
た。江戸時代からの豪商三井、住友、小野、島田などとは異なり、何の基盤もなく才覚と体だけが資
本の大倉が激動の時代に成功していくためには、いま風にいえば積極的にリスクを取っていく以外な
かった。
現在大倉財閥も大倉組も消滅しているが、大成建設、ホテルオークラ、帝国ホテル、あいお
い損保、サッポロビールなどに名残が残っている。
 ※予言じゃないがホリエモンは抹殺されちゃったよ。



■草餅の「志満ん草餅本店」
 堤通1丁目5番9号にあるよもぎ餅専門店。明治の初めから、伝統の味を守り、ひとつひとつが手
作りの草餅です。一年中、房総からとれる生のよもぎを使用し、こしあんは、十勝産の小豆を使用し
ている。餡無しは黄粉に白密だ。よもぎの香り、色とともに素朴な自然の味わいを楽しめる。素材の
風味を生かすために添加物等は、一切使用していない。商品が無くなり次第、閉店。しかしそこら中
に出店しているので、デパートに行けば手に入るよ。
 03-3611-6831



■墨田住宅センター木造建築資料館(墨田区小さな博物館)
 堤通1丁目7番16号の山孝工務店にある。カンナ、ノミ、ノコギリ、さしがねなど区内の大工が
使い続けてきた道具や木造住宅の各部材の名称パネルが展示されている。また「曲尺調法記」など明
治・大正時代の珍しい書物、「大匠雛形」と呼ばれる木組など、長い歴史をもつ木造建築技術に関す
る資料も120点あまり見ることができる。開館は、土曜日・第4日曜日の午前10時から午後4時
まで。 03-3612-7724



■堤通公園
 堤通1丁目8番にある。高架橋下を含む、植栽と花々の中にテニスコートや児童自転車遊習コーナ
ーや飛行機型カラフル複合遊具、木製遊具コーナーの飛地を持つ3点セット型公園。高架下はやや暗
い。



■都営東白鬚アパート団地
 堤通2丁目全体に展開している。この団地もいつの間にか古くなっちゃった。隅田川の左岸、白鬚
橋を渡ったところに板状で長さ1km以上に及ぶ長い団地がある。昭和50から54年にかけて建設
された都営白鬚東アパートで、12棟が延々と連結されている。そしてその連結団地と隅田川の間は
緑地公園となっている。なぜこのような板状連結団地が計画されたのか。隅田川の東側は戦災を免れ
た地域も多く、木造家屋が密集している。つまり火災が発生した場合隅田川東岸の緑地に避難し、火
災から守るためこの連結団地が防火帯になるのだという。震災復興計画で不燃建築の小学校と公園を
併設して計画されたが、それらは戦災の時にしっかり防火帯の役割を果たしている。その教訓が生か
されたというのか。発想はわかるが、1Km以上の壁はいかにも圧迫感が強い。住棟間は避難時のみ
かけられる扉で区画されていて横断できない。住棟は片側廊下の単純なもので、広島の基町アパート
のような工夫も何もない。折角ならもっと面白く計画できたと思うのだが、スケールだけが際立って
いるだけの連結団地だった。とはいうものの、建設当時に比べて周辺環境は激変している。現在も木
造家屋は多いが、比率は著しく低下している。



■「水神社・舟霊社」碑

 堤通2丁目6番1号の堤通りに面した白鬚団地の通路口(参道口)の大鳥居の左脇にある。明治3
2年に蜂葡萄酒醸造などが寄進したもので、筆者は不明だがなかなかのものだ。舟霊とは、船玉、船
魂とも書き、「ふなだま」と読む。船に宿ると信じられた霊を祀るもので、航海の安全を祈る。
 



■榎本武揚像

 堤通2丁目6番9号の区立梅若公園内にある。かつて木母寺の境内だったところだ。周りの樹木が
近く狭っ苦しいところに建っている。場所がない訳じゃなし。もっと広いところに建ててやればよい
のに。正面からは写真も撮れない。
 武揚は、天保七年(1836)下谷三味線堀(台東区)に生まれた。天性聡明で学問を好み昌平黌
で儒学を、さらに江川太郎左衛門の塾でオランダ語・英語を学ぶ。幕府が長崎海軍伝習所を開設する
や、選ばれて入所し、オランダ人教官により洋式海軍技術を習得、蒸気機関や機械製造に関しても研
究、当時未知の学問だった化学も学んだ。そして文久二年(1862)にオランダに留学、今まで学
んできたことを一層深めると共に国際法も修めた。帰国すると軍艦奉行から海軍副総裁へと進み、幕
府海軍の柱となる。やがて幕府が崩壊するや海軍を率いて函館の五稜郭に拠り官軍と戦うが、敗れて
捕えられる。しかし明治新政府の中にも彼の人物を惜む声が強く、明治5年許されて出獄。当時難問
とされた樺太帰属問題解決のため海軍中将に任ぜられ、特命全権公使として露都ペトログラードに派
遣され、みごと交渉に成功した。その後逓信・文部・外務・農商務の各大臣を歴任、枢密顧問官とな
り、功により子爵を授けられた。晩年は向島に住み、墨提を散歩するなど悠々自適の生活を楽しみ、
明治41年73歳の生涯を閉じた。東農大の創始者で、同校に胸像がある。



■鐘淵中学校 (平成25年向島中学校と統合予定)
 堤通2丁目11番1号にある区立校。昭和22年4月1日に設立された隅田第一中学校、隅田第二
中学校を統合して、同24年4月1日鐘淵中学校として開校。旧一中を本校とし1・3年生を収容、
旧二中を分校として2年生を収容した。第一期校舎落成。同26年第二期校舎落成。同27年創立5
0周年記念式典・校歌制定発表。

 校歌「桜花咲く鐘淵」 作詞・大木敦夫  作曲・長谷川良夫
  1.桜花咲く鐘淵
    幾春集い打ち連れて
    我が学び舎に光りあり
    清く明るく慎ましく
    労き町て弛みなく
    真理の扉開かばや 
    真理の扉開かばや
  2.鴎飛び交う隅田川
    流れの岸に跡留めて
    見よ名所の誇りあり
    清くさやけく逞しく
    責めをし負いて潔く
    正義の燈翳さばや
    正義の燈翳さばや
  3.雪にかがよう富士が峰
    星雲なびき空開けて
    我が同胞
(はらから)に望み在り
    清く楽しく芳しく
    自ら立ちて揺るぎなく
    平和の二字を慕わばや
    平和の二字を慕わばや


 同29年創立7周年記念式典。同32年創立10周年記念式典。同33年体育館完成。同37年創
立15周年記念式典。同42年創立42周年記念式典。同43年完全給食開始。同44年沖縄金武村
から訪問団来校。同46年沖縄親善訪問団訪沖。同
52年現在地に防災モデル校舎として建設された
新築校舎に移転。同53年創立30周年記念式典・落成式。同62年創立40周年記念式典。同63
年校歌記念碑除幕。新校門完成。
 
平成2年学校環境緑化コンクール入選。同9年スクールカウンセラー設置。創立50周年記念式典。
同14年創立55周年記念式典。同19年創立65周年記念式典。同25年向島中学校と統合予定。  



■東京都リハビリテーション病院
 堤通2丁目14番1号にある都立病院。平成元年の竣工。同2年5月一部開院。同3年5月全面開
院。同7年在宅リハビリ科開設。同13年在宅リハビリ科を地域リハビリテーション科に変更。同1
6年リウマチ科開設。

 この病院は、東京におけるリハビリテーション医療の中核的な病院として、また災害時には医療救
護活動の拠点になるという複合目的を持った病院として、東京都が設置し、東京都医師会が指定管理
者として運営をしている。



■忍岡高等学校 閉校
 堤通2丁目15番14号にある都立校。旧の墨田川高校堤通校舎の跡地だ。明治36年「私立女子
美術学校」として芝公園弥生館内に開校。同39年3月本郷区千駄木町173番地に移転。同9月下
谷区谷中初音町4丁目20番地の日本美術院跡に移転。同42年「私立日本女子技芸学校」と改称。
同44年東京市に移管。「東京市立第一女子技芸学校」として認可。同45年「東京市立第一実科高
等女学校と改称。大正5年下谷区池ノ端茅町2丁目38番地忍岡尋常小学校跡に移転。昭和3年校歌
(佐々木信綱作詞・信時潔作曲)制定。同4年「東京市立忍岡高等女学校」と改称。同15台東区
浅草向柳原町2丁目12番地 蓬莱園跡(浅草橋5丁目1番の前校地)に移転。同18年「東京都立
忍岡高等女学校」と改称。
 同22年専攻科を付設、新制中学校を併設。高等女学校の生徒募集停止。同23年「東京都立忍岡
新制高等学校」と改称。同24年男女共学を実施。同25年「東京都立忍岡高等学校」と改称。専攻
科廃止。同27年現校歌(土岐善麿作詞・石桁真礼生作曲)制定。平成9年同18年度に都立忍岡高
校と上野忍岡高校とが統合して台東地区単位制高校が開校されることが公示。同15年墨田区堤通2
丁目15番14号の墨田川高校堤校舎跡に移転。大規模改修工事開始。同16年台東地区単位制高校
開設準備室を上野忍岡高校内に設置。同18年2月大規模改修工事完成(体育館を南棟に改築、北棟
・西棟を改修)。同4月1日普通科4学級(募集人員160名)生活科学科2学級(募集人員70名)
の全日制単位制高校として開校。上野忍岡高等学校と統合して閉校。



■木母寺門前境外碑林

 堤通2丁目16番1号の木母寺入口前の境外に巨碑が並んでいる。

 日露戦役従軍記念碑
 東郷平八郎の揮毫。

 大正震火災横死者追悼之碑
 昭和51年の寺の移転に伴って移設。大正12年の関東大震災の被災死亡者を弔う碑。真泉光信の
書丹。真泉光隆著『梅若塚物語』によると、寺周辺の当時の様子が次のように述べられている。

 
  本堂は前方に大きく傾斜したが、辛うじて倒壊は免れた。時おり襲う激しい余震のさな
   か、墨堤には被災した人々の列がえんえんと続き、村人は初めての事の重大さを覚った。
   それらの人々の中には堤をおりて境内にとどまって仮小屋を立てるものも出て、梅若堂
   の前面には時ならぬテント村が出現、さらに戒厳令の布告と共に軍用天幕も張られ、軍
   隊による非常食の配給も開始される有様。思えば昨夜は台風模様の怪しい天候のもとな
   がら、この夏おわりの縁日が立ち、かなりの混雑だったというのに、一夜にして全く予
   期しなかったこの変わりよう

 守命供時碑
 石幡貞書


■梅若塚・梅柳山隅田院木母寺
 堤通2丁目16番1号の現在地より約150m北側にあったが、都市再開発法に基づく防災拠点建
設事業の実施により、昭和51年に現在の都立東白鬚(ひがししらひげ)公園の一角に移転した。江
戸時代でいうと、現在地は御前菜堀(内川)の川口部分で水の上だ。
 
貞元元年(976)僧の忠円によって梅若丸の墓所(梅若塚)が築かれ、翌年その側に念仏堂が建
立されたという。
文治五年(1189)源頼朝が奥州遠征の途中に参拝したらしい。長禄三年(14
59)
太田道灌が参拝し梅若塚を改修したといい、この頃梅若寺が建てられたともいう。文明十七年
(1485)
京都五山の僧で詩文のたくみな万里が、ここを訪れたことが彼の詩集「梅若無尽蔵」に
述べられている。これは梅若塚を記したものとして、現存する最古の文型だ。また翌十八年には准三
后の位にあった僧の道興も、ここを訪れたことが彼の紀行文「廻国雑記」に記してある。
天正十八年
(1590)徳川家康が参拝し、梅柳山という山号を贈った。慶長六年(16〇1)
徳川幕府より5
石の寺領を給せられる。ついで寛文十年(1670)更に20石を加増される。同十二(1607)
慶長十二年(1607)前関白近衛信尹が参拝。この時「木母寺」と改名される。
寛永年間(162
4)
当寺の境内に隅田川御殿が建てられ、将軍その他の貴人がしばしば来寺する。延宝7年(167
9)
上州高崎城主の安藤重治によって絵巻物「梅若権現御縁起」3巻が寄進される(現存)。宝永二
年(1705)
寺の伽藍の様子が石川流宣の「江戸案内巡見図鑑」に詳示される。元禄~享保(16
88)
梅若伝説に取材した一連の文学作品「隅田川物」の最盛期となる。当寺は、この頃、貴人の寺
から庶民の寺となり、広く世人に親しまれるようになる。
 
明治元年維新と共に幕府の保護を失い廃寺となり、寺の堂社は取り除かれて跡地には梅若神社が創
建された。同21
仏寺復帰の願いが僧の光円によって実現され、木母寺復興。同22年、梅若神社
が旧に復して梅若堂となる。神社を再び仏寺とすることは、当時としては非常に困難な事業であり、
当寺ではこれを明治中興と称している。
大正9年東京府によって梅若塚が史跡の指定を受ける。
 昭和20年4月13日米軍機の空襲を受けて本堂など焼失。また戦火を免れた唯一の仏堂である梅
若堂も15日の再度の空襲により再度の損傷を受ける。同25年
元の位置に仮本堂建立。同27年に
は梅若堂を改修し、梅若権現忌(梅若祭)が復活し今日に至る。なお梅若忌は明治中興後は新暦4月
15日に執行されるようになった。同51
都市再開発法に基づく防災拠点建設事業の実施により、
現境内へ移転する

 木母寺の名は、慶長十二年(1607)前関白近衛信伊が「梅」の字を分解して「木母寺」改めて
からだ。塚は古いとは伝えるものの、その最も古い記録は、文明十八年(1486)僧万里集九が、
隅田川で太田道灌の催した舟遊びなどを著した漢文詩集『梅花無尽蔵』の中に「梅若丸の墓所として
塚があった」としていることだ。梅若伝説については北区の「隅田川」に詳述してある。

 題隅田堤櫻花
 弁天堂裏の塀沿いにある。文政三年(1820)に亀田鵬斎が書した

   長堤十里白無痕
   訝似澄江共月渾
   飛蝶還迷三月雪
   香風吹度水晶村


 の詩を本に、同12年(1829)に窪世祥が鐫したと識文にある。亀田梓(綾瀬)識。9歳童清
水孝君書。綾瀬と孝のコンビは白鬚神社の碑の1年後のもの。

 身代わり地蔵
 この地蔵尊は、木母寺が旧地にあった頃、門前に安置されて多くの人々から深い尊信を寄せられ、
民衆守護の願いを聞き届けられた、縁の深い地蔵尊だ。そもそも地蔵菩薩は、常に六道(人間が転々
とする六つの境涯)を巡り、人々の悩み苦しみを察し、身代わりとなってくれるという「代受苦の菩
薩」としての信仰が古くからある。辛いこと、苦しいこと、悲しいことが起こった時には、この地蔵
尊に訴え、「身代わり」をお願いして、あなた自身は元気を取り戻してください。地蔵菩薩の御真言
(お祈りするときの言葉・合掌して三たび唱える)

   訶訶訶尾・娑魔曳・娑婆訶(オン・カカカビ・サマエイ・ソワカ)

 紀恩之碑
 明治4年の建碑。空襲の時の機銃の痕か、あばたに丸い穴が開いているのが痛々しい。長松幹撰文、
巌谷修書、谷鐵臣隷額とある。

 恆山先生武藝勒石記
 天保二年(1831)の建碑。綾瀬亀田梓撰文、杉山懿篆額并書丹、窪世祥鐫。恆山先生って誰?

 山井先生神遊之表の碑
 文化二年(1805)の建碑で、烏山勝忠成篆額、桂林縄惟直撰文并書丹、中慶雲刻、

 三遊塚
 
三遊亭円朝が明治22年3月21日、先師初代三遊亭円生翁を追福するため木母寺に建立したもの
だ。題字の揮毫は山岡鉄舟。碑陰は高橋泥舟が虞世南風の楷書を記している。明治22年の建碑で、
鐫は宮亀年が執っている。

 浄瑠璃塚
 文政四年(1821)建碑。

 華渓先生禿筆之蔵銘并序の碑
 文政三年(1820)の建碑で、碑主は三井龍湖(親和)門下の書家らしい。小田切図南の書。下
部が土中に埋没している。

 エイ研冢銘
 エイは転換できず説明できない漢字。文化十二年(1815)の建碑。西華山人長屋賢書并篆。

 天下の糸平 伯爵伊藤博文書
 木母寺の入口角の境内塀際に建っている巨碑。
19世紀最強の相場師といわれ、「天下の糸平」と
いわれた藤島(田中)平八を顕彰するもので、その活躍ぶりは明治時代の教科書になった程だ。何で
もかんでも糸平の前には「さすが」という枕詞がつく。「さすが糸平」というように、やることなす
ことがとにかく凄いのだ。碑は伊藤博文が書いた畳20枚といわれる巨大なもの。子供のころ糸平は、
伊那から名古屋に米を買いに行く途中、老人の首吊り自殺の現場に遭遇した。その遺書を見ると「八
十八歳になって身寄りもないので、この枝振りのいい松を選んで命を絶つ」と書いてあった。すると
まだ十数歳の天下の糸平は、「八十八歳の米寿。米がぶら下がっているから米は売りだ」といって、
主人には米を買って来いといわれたのに、名古屋に着いてから予定を変更して売り方にまわし、それ
が大当たりしてしまう。「天下の糸平伝」は、世の中に数多く出ているが、これは必ず出てくるエピ
ソードの1つだ。子供の頃から天才的なところがあったのだということを物語っている。横浜で生糸
とかドルを売買した後に、日本橋へ乗り込んできて、現在の東京証券取引所の設立に際しては、発起
人になっている。当時の取引所は株式会社だったので、株主でないと親分にはなれなかった。兜町と
蛎殻町と橋をまたいで二つの米の取引所があったのだが、両方の株を買い占めて一つにまとめて、現
在の蛎殻町の所に東京米商会所を作り、初代頭取を務めた。

 花笠文京翁碑
 明治22年の建碑。如電大槻修撰文、益田香遠書。篆額は堀越修で鐫は宮亀年が執った。碑は弟子
の仮名垣魯文が建てた。花笠は江戸時代後期の日本の狂言作者・戯作者。別名に花笠魯助(魯介)、
代作屋大作。兄は儒者東條琴台。

 賛奎運の碑
 明治28年頃の建碑。東京書籍出版組合有志が建てたもので、碑主長尾は活版印刷に功績があった
人のようだ。土方久元篆額。久米邦武撰文。櫻井能監書。



■水神社・隅田川神社
 堤通2丁目17番1号にある大社。祭神は、速秋津日子神・速秋津比賣神・鳥之石楠船神・大楫木
戸姫神、(配祀)水波之賣神・御井鳴雷神。境内末社:粟島神社、金神社、天神社、若宮八幡神社(旧
若宮村鎮守)、三財稲荷神社。隅田川の総鎮守であり、水上安全の守護神として崇敬を集め、古くは
「浮島社」、または「水神社」「水神宮」と称していたが、明治5年新政府の強制により「隅田川神
社」と改称させられた。
 かつてこの辺りは樹木が繁茂し、水神の森とも称された微高地だった。隅田川の増水でも沈む事が
無く「浮島」の名もあった。昔から河川交通の要衝であり、海運や運送業者の尊崇を集めていた。そ
のため狛犬の代りに亀が左右に鎮座している。現在は高速道路と防災拠点建設のため旧地より100
m程移転した。
 治承の頃(1177~80)源頼朝が関東に下った折、暴風雨に逢い、当社に祈願したと伝えられ
ている。現在の御社殿は嘉永元年造営のものが、安政2年の大地震で倒潰したため安政五年(185
8)に再建されたものだ。関東大震災及び太平洋戦争などで被害を受けたがその都度修理を加え、現
在地より約25m北に南に向いて鎮座していたが、高速道路が神域をかすめることとなったため社殿
に大修繕を加え、昭和50年6月現位置に遷座した。
 「新編武蔵風土記稿」に、

   御神体龍神にて長七寸

 とある。速秋津日子神や鳥之石楠船神は、伊弉諾尊・伊弉冉尊の子。創建の年代は不詳だが、水神
が亀に乗ってこの地に上陸したという伝承が残る。古代ではこの辺りが利根川の河口だったから、海
からやってきた人々がここに上陸した記憶なのだろう。長享元年(1487)の尭恵法師の「北国紀
行」に、

   利根、入間の二河落ちあえる所に、かの古き渡りあり、東のなぎさに幽村あり、
   西のなぎさに孤村あり


 とある。各地で戦国大名が旗揚げし、関東では北条早雲が伊豆を奪う頃の様子。西の孤村が石浜、
東の幽村が関屋(旧関屋、新荒川橋付近)だろう。

  けふよりも衣は染つ墨田川 流れわたりて世をわたらばや(木阿弥)

 水神社は「みずじんじゃ」ではなく「すいじんのやしろ」「すいじんしゃ」と読むが、水神を祀っ
たもので、昔は参道前に船着場があり、川から上がってお参りするものだった。今は殺風景な防潮壁
と真上の高速道路で刑務所の中にいるみたいだ。川は全く見えず、墨堤の風情が感じられないのが寂
しい限りだ。「すみだの史跡文化財めぐり」に、

   「水神社」と呼ばれかっては樹木が繁茂し、水神の森とも称された微高地でした。また隅
   田川の増水にあっても沈むことがなく「浮島」の名もありました。昔から、河川交通の要
   衝(往古の街道筋・近世の渡場)であり、海運・運送業者の尊崇を集めていました。現在
   は、首都高速道路と防災拠点建設事業のために、昔の面影はなく、社地も旧地の南100
   mの地に移転しています。
   祭神は速秋津比古のほか三神を主神としています。また社伝によると、源頼朝挙兵の折の、
   治承四年(1180)この地に到り、水神の霊験に感じて社殿を造営したともいいます。
   現在の社殿は幕末の安政五年(1858)と元治元年(1864)の二度の建設によるも
   のです。
   また、維新時には社掌矢掛弓雄が出て、大いに社運を盛り上げた模様で、彼の手になる歌
   碑、記念碑が多数残っています。
   なお、同社には「徳治(1306~08)」銘、「永正十四年(1517)」銘など、合
   わせて三基の板碑の所蔵が判明しておりますが、諸事情によって実見することはできませ
   ん。


 とあり、区の説明板に、

   水神の森跡
   荒川の下流、鐘ヶ淵を越え大きく曲がったこの地は、隅田川の落ち口(終点)で、かつて
   は鬱蒼とした森が広がっていました。人々からは水神の森とも浮洲の森とも呼ばれて親し
   まれていました。
   昔、ここから入江が始まり、海となっていたことから「江の口」、すなわち「江戸」の語
   源ともなったといわれています。
   水神の森は「江戸名所図会」にも描写されているとおり、川岸にあった水神社(隅田川神
   社)の鎮守の森でした。川を下ってきた人々は隅田川の入口の森として、川をさがのぼる
   人々にとっては鐘ヶ淵の難所が近いことを知らせる森として、格好の目印となっていまし
   た。その後、震災・戦災にも焼失を免れた森は戦後の開発で失われてしまい、隅田川神社
   自体も百メートルほど移されて現在地に鎮座しました。
   平成19年3月                         墨田区教育委員会

 とある。

 香吟岸田翁碑
 明治44年の建碑。日下部鳴鶴の代表碑の1つ。篆額は中書禮部顧問官揚守敬。撰文は東宮侍講三
島毅、書丹は日下部東作。錚々たる顔触れだ。岸田吟香は「麗子像」で有名な画家岸田劉生の父で、
新聞事業の先駆者として知られた。文末に「木旭晨■」とあるから、この者が刻者だろう。

 須田医学博士碑
 入口を入った正面、高速道路を背にして建つ2つの巨碑の1つ。左側の高さ5mもあろうかという
巨碑。巌谷一六書丹。明治30年の建碑。文部大臣蜂須賀茂韶題額、陸軍軍医総監石黒忠悳撰文、勅
選議員錦鶏祇侯巌谷修書丹。井亀泉刻字。

 佐々木荘助碑
 入口を入った正面、高速道路を背にして建つ2つの巨碑の右側の1つ。明治28年の建碑で篆額を
〝郵便の父〟前島密が篆額を揮毫、撰文は重野安釋、書丹は柳澤信太、彫刻は田鶴年。碑主の佐々木
は当時の飛脚問屋の総代で、前島が郵便制度を導入する際、佐々木を口説いて飛脚システムを取り込
むことに成功したことで、今日の郵便制度がある。郵便制度は民業圧迫であり、飛脚屋を苦しめるも
ので、佐々木は猛反対したが、結局前島に協力したという訳だ。そのことに感謝して碑は建てられ、
篆額の揮毫を前島が引き受けたということだ。

 隅田川八景歌碑
 隅田川八景は、木母寺秋月・今戸夕照・金龍山晩鐘・真崎夜雨・三囲暮雪・待乳山晴嵐・吾妻橋帰
帆・渡場落雁をいうが、この歌碑については承知していない。

 坂田源次郎翁頌徳碑
 大正12年に建てられたというが、境内には見当たらない。ネットサーフィンしても、名前がある
だけで、坂田がどのような人物か判らない。

 無琴道人墓銘
 文政二年(1819)の建碑。大窪詩佛の楷書碑で、白鬚神社の草書碑、三囲神社の隷書碑を合わ
せて詩佛の3書体を見ることが出来る。亀田興(鵬斎)の撰文を、大窪行(詩佛)画書し、篆額も詩
佛が揮毫している。鐫は廣羣鶴。

 水神宮道標
 山東京傳の弟の京山が書いて建てたというが、何処に建ててあったものか不明。文政二年(181
9)三月に
建てられた「建久年間垂跡」という道標が残されている。この道標は、頼朝が隅田川を渡
河したことにちなんで建てられたものだ。


 狂歌亭(鹿都部)真顔狂歌碑
 詳細不明。




■堤小学校 統合閉校
 堤通2丁目19番1号にある区立校。昭和57年「東京都墨田区立堤小学校」として開校。開校記
念式典・校歌校章制定。同59年東白髭公園植樹祭。中曽根総理大臣より書類「人生開拓」を贈呈さ
れる。「緑を育てる会」発足。同61年文部省帰国子女教育研究協力校として日本語教室開設。開校
5周年記念式典。
 平成4年「すみだセミナーハウス」設置。創立10周年記念式典。同9年創立15周年記念集会・
式典。同11年コンピュータールーム設置。同13年インターネットセットアップ。同14年創立2
0周年記念式典。同16年ランチルーム開設。
同18年世界児童画展・総理大臣賞受賞(個人)文部
科学大臣奨励賞受賞(団体)。同19年世界児童画展・総理大臣賞受賞(個人)文部科学大臣賞受賞
(団体)。創立25周年記念式典。同20年世界児童画展・文部科学大臣賞受賞(個人)文部科学大
臣奨励賞受賞(団体)。同23年梅若小学校と統合し、閉校した。
 なお跡地は鐘淵中と向島中が統合新設した中学校になる予定。。



■新中学校 予定
 堤通2丁目19番1号の堤小学校の跡地に、平成25年向島中と鐘淵中が統合して新設中学校がで
きる。

 
映画スタジオ発祥の地
 旧堤小学校のフェンスの中にある。この辺りは、その昔、別荘地だったが、これを大正2年に「日
本活動写真株式会社」(日活)が買収して映画のスタジオを建設した。 スタジオは、日本初の総ガラス
張り「グラス・ステージ」で、東洋一の規模だったといわれるが、関東大震災の後閉鎖された。

   近代映画スタジオ発祥の地  
   設立  日本映画建碑委員会
       1998年11月
   協賛  墨田区教育委員会 社団法人日本映画テレビ技術協会
       日本大学芸術学部 日活株式会社 株式会社 フジワラプロダクションズ


 堤小学校付近には、映画をまだ「活動写真」といっていた頃、隅田村の堤外(現在の堤通2丁目)
に日活の向島撮影所があった。明治29年に輸入された映画は、40年代に入ると、すっかり大衆娯
楽として定着してきたが、映画を作る撮影所のほうはまだまだ貧弱なものだった。そのころ、映画会
社のひとつ日活(日本活動写真)は、新しい構想のもとに撮影所の建設を目指し、適地の物色をはじ
めている。その結果、大正2年に当時田園地帯で空気が澄み撮影に適した隅田川べりの別荘地を買収
し、10月に日本最初の屋内ステージを持つ、敷地7500㎡の日活の撮影所が開設、完成された。
このステージは、400㎡で地上12mの高さに木造の床を作り、外部は採光を良くするための総ガ
ラス張りの画期的な建物で設備も近代的なものばかりで東洋一と評されていた。また光を反射して燦
然と輝くこの撮影所は、建物としても珍しく、名所雑誌に掲載されたほど有名であった。ここで幾多
の名作が生れた。それらは、撮影所の地名を取って「
向島作品」と称され、過渡期の日本映画に一躍
「向島時代
」を築き上げた。つまり活動写真新派劇の総本山は向島だった訳だ。
 中でも当時、人々に口ずさまれていた「カチューシャ
」の歌を挿入した『カチューシャ』『後のカ
チューシャ
』『復活』は一世を風びし、映画ファンの人気をさらった。なにしろ、この三部作で当時
のお金で16万円の興行収入をもたらしたという。
 俳優の方ではカチューシャを演じた「立花貞二郎
(女形)」、ネフリュ-ドを演じた「関根達発
がおり、また、大正・昭和期を通しての名映画監督「衣笠貞之助
」も、この向島撮影所の出身だ。
 向島時代の作品は、今日の映画と比べるとまだまだ幼稚なものといえるが、俳優ばかりでなく制作
スタッフも、新しい映画技術を目指して暗中模索の中で懸命にカメラを動かしていたのであるが、関
東大震災の影響で僅か10年しか使われなかった。
 また時を同じくして独立プロの草分け、高松豊次郎プロダクション
も吾嬬町西4丁目(現在の京島
3丁目原公園付近)にスタジオを持ち、忍術剣術
映画を作っていた。ここでは古いファンにお馴染み
の大河内伝次郎、バンツマで一世を風靡した坂東妻三郎、江川宇礼雄
などが活躍している。
 このように、当時の向島は、「映画の街
」としても知られていた。しかし日活向島撮影所は10年
後の震災で損傷し、修理をして撮影を続行したが、時代の波には勝てず、同年中に京都に移転した。
 一方、高松プロのスタジオは第2次大戦で焼失し、映画の町、向島はここに終わった。時代は変わ
り今日、テレビという新しい映像が出現して、大衆の趣向も映画から遠ざかった。映画館は続々廃業
し、スーパー・マーケットなどに姿を変えていった。昭和46年1月、北部地域最後の映画館≪向島
金美館
も駐車場となったが、最盛期には14館を数えた。





【業平】(なりひら)1~5丁目                   昭和42年5月1日
 小梅村・押上村・柳島村など。明治11年本所区所属。昭和5年小梅瓦町・中ノ郷業平町・押上
町・柳島元町の各一部をあわせた町域を業平橋1~5丁目とし、同42年の新住居表示で「橋」の
字を取って現行の「業平」とした。区の小さな博物館運動により、5丁目に能面博物館ができた。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『墨田区史』『墨田の歴史』など。

 
業平の由来
 町名は大横川に架かる橋の名前。橋は初め「小梅橋」。寛文二年(1662)関東郡代伊奈半左
衛門忠勝によって架けられたのが最初で小梅村に架かる橋なのでその名があり、業平橋に変わった
については長くなる。
 橋畔の業平山(ぎょうへいざん)南蔵院は俗に〝業平寺(ぎょうへいじ)〟と呼ばれ、境内に業平天
神があった。慶長八年(1603)西ノ丸下(皇居外苑)で角力(すもう)興行が催され西方が勝ち
こんでいた。昔の角力は東西対抗で個人戦はない。西の関貫の木梶之助の対抗馬は越前中納言松平
秀康(家康次男)の抱え力士成川運平(なりかわうんぺい)と見られたが、すでに七番を取ってい
たので立ち会わず、これで終りというとき大久保彦左衛門が「西方が勝ってる。東国が西国に負け
たと言われては疵がつくだろう」と猛将石川又四郎重正を唆すと、又四郎は快諾し「成川の弟子だ」
と触れ込んで貫の木と立ち会った。 又四郎は5尺2寸8分(160cm)の小兵だ。6尺2寸7分
(190cm)の貫の木は小男と侮って摘み出そうとしたが、又四郎は百戦錬磨の剛の者、難なく貫
の木を土俵の真ん中に叩きつけた。貫の木は打ち所が悪く悶絶して無様の体を晒し弟子たちに担ぎ
出される始末。何日経っても痛みが引かない。播州芥川に名医がいるというので遥々そこまで出か
けて行き、数ヶ月かけて完治することができたが、貫の木の怒りは治まらず見当違いにも成川を恨
みに恨んだ。翌九年七月秀忠が二代将軍となりその祝いの角力興行は江戸城造営のため西の丸下が
使えず本所小梅村で執り行われることとなった。西の関は貫の木、東の関は成川と決まったので貫
の木は大喜び、「去年は急場凌ぎの武芸者に見苦しく不覚を取らされたが恥を雪ぐのはこの時」と
勇んで勝ち続ける。一方の成川も勝ち進んで8日目に両雄相見えることとなったが、当日は生憎の
大雨で興行はそれで打ち切りということになった。つまり貫の木の意趣返しは不発に終わったのだ。
 慶長十年(1605)のある日、暇を持て余していた貫の木は弟子たちを引き連れて賭場に出か
けた。一方の成川は亀戸天神の信仰厚くその参詣の帰り道、二人は小梅橋の上でバッタリと出くわ
した。人口のも少ない当時、住家もなければ歩く人もさらさらない。そこで人が見当たらないのを
いいことにすれ違いざま成川の後ろを袈裟懸けに斬った。万夫不当といえども多勢に無勢、成川は
散々に斬られ突かれて殺されてしまった。そこで物取りに見せかけるため、成川が越前公から拝領
の来国光の太刀を奪い、懐のずっしりと重い包みは切り餅(一分銀百枚=25両)と思いきや銅の
天神像だったので、それは弟子の鬼石藤蔵が盗った。
 この事件は目撃者不在で下手人は判らず迷宮に入るかという頃、貫の木の勘気を蒙り破門された
鬼石が貫の木への竹箆返しにと、天神像を持って成川の妻と娘を訪ね、事の一部始終を打ち明けて
謝罪した。娘が17歳になった元和六年(1620)石川八左衛門正次が助太刀、大久保彦左衛門
が後見により仇討と相成ったが、当の貫の木は驚いて逐電遁走、二度と江戸へは戻れず、名乗りも
できぬことになった。その後の行方は杳として知れない。
 成川運平のニックネームは名前を縮めて「成平(なりへい)」と通称されており、成川が殺され
てからの小梅橋は「成平橋(なりへいばし)」と俗称されるようになり、成川が葬られたのが橋畔
の南蔵院だったので、その境内にある業平天神社の業平の字が当てられて「業平橋」、都鳥を和歌
に詠んだ在原業平(ありわらのなりひら)も混同して「なりひらばし」と呼ぶようになった(遊歴
雑記)
というのだが・・・実に良くできている。
 矢田挿雲の説では、押上て相撲が行われ、黒川業平と梅若九三郎が取り組んだ。水入りとなる長
相撲となったが、行司が水を入れなかったので両者ともショック死してしまった。それから二人の
幽霊が出るという騒ぎとなり、その霊を鎮めるため業平天神社と梅若山王社を建てた。その傍らの
橋なのでという説がある。この天神様は南蔵院が葛西水元に移転する際に廃されたが、その縁起も
種々あって確たるものはない。在原業平の墓という「業平塚」説もある。あるとき誰かが謂れもな
く名付けたのか冗談を史実と聞き違えたのか・・・今となってはそれをそうと聞くしか法はない。

   春の月 業平町の家並かな(花渓楼)



■業平橋
 為永春水が『春色恵の花』に書く。寛文二年(1662)関東郡代伊奈半十郎忠政によって架けら
れたといわれているが、彼は承応二年(1653)に没しているので、子の半左衛門忠勝ではないだ
ろうか? 『東京案内』に「長さ七間 幅三間 木橋」の記録がある。
 現在の橋は昭和5年に長さ 31m60cm×幅22m の3径間コンクリート床板橋に架け替えられ
たが、戦後幅を22mから33mに広げた。欄干はアルミ製、都道453号線(浅草通り)を通し、
東方へ行けば吾嬬神社に至る。橋の架かる大横川は暗渠となって上面は親水公園となり、汽船形の平
屋の建物(変電設備と公園管理事務所)となっている。屋上からのコロ式の滑り台があって子供は大
喜びだ。ここから竪川まで河道を歩く事ができるが、平川橋までは釣堀となっているので夜間の入園
ができない。だから業平は業平橋だ!



■城の森八・森八本舗
 業平1丁目3番6号にある天守閣(御三階櫓)を模した建物の和菓子屋。創業は昭和8年。銘菓は
ともかく建物が珍しい。まあ大概の和菓子は揃えてらぁ。新宿に出店のある加賀金沢の「森八」とは
無縁のようだから間違わぬように。とにかく外観は必見。03-3622-0006



■本所税務署
 業平1丁目7番2号にある財務省の機関。



水陸両用バス「スカイダック」
 業平1丁目17番6号のとうきょうスカイツリー駅前営業所から出発し帰着する観光バス。日の丸
自動車興業(東京都文京区)が、平成25年3月17日から定期運行(東京初)を開始する水陸両用
バス「スカイダック」。ボディはアメリカ・サウスカロライナのCAMI社製で、日本の法律に適合
した陸用・水上用のエンジンが別々に搭載されている。陸上(車両)用のエンジンは日野自動車製J
O7E(6403cc)、水上(船舶)用はいすゞマリン製造製UM4BG1TCX(4329cc)
だ。JO7Eは、直列5気筒ターボインタークーラーで路線バスなどへの採用実績もあるエンジン。
定員41名(乗務員含む)、総トン数12tで、最大速力は陸上が100km/h、水上が7kt(1
3km/h)となる。全長・全幅・全高は11.99m・2.49m・3.71m。これは、いすゞ『エ
ルガ』や日野『ブルーリボン』などの大型路線バスと同等のサイズ。登坂能力は、平均6度、最大1
2度。今後、同車は、江東区大島の旧中川・川の駅に新設された入出水スロープを伝って水陸の境界
を行き来する。
 東京スカイツリーコースと亀戸コースの2路線があるが、途中下車はない。東京スカイツリーコー
スは、とうきょうスカイツリー駅前営業所→旧中川スプラッシュポイント→同営業所)は、1日4便
所要時間100分、料金大人2800円(子ども1400円)。18日からの亀戸コース(亀戸梅屋
敷→旧中川スプラッシュポイント→亀戸梅屋敷)は、1日5便、所要時間70分、料金大人2500
円(子ども1200円)。



王貞治の母校 業平小学校
 
 業平2丁目4番8号にある区立高。大正7年4月1日東京市業平尋常小学校として開校。柳島・牛
島・横川各校から児童を収容し入学式挙行。大正12年関東大震災により校舎全壊。青空教室→仮校
舎→新仮校舎。昭和2年鉄筋コンクリート3階建ての新校舎完成。同11年校歌制定

 校歌「煙 煙」  作詞・北原白秋  作詞・山田耕筰
  1.煙
(けぶり)煙 空になびく
    都の東 業平 我が校
    いきおえ我等 少年市民 少年市民
    学びて倦まじ
     輝くもの窓辺に来たり
     常に呼べり 正しく
     友よ いざ 勉めん
  2.桜 桜 水に映る
    隅田の春を 業平 我が校
    勇まし我等 日本児童 日本児童
    朝日に匂う
     輝くもの窓辺に来たり
     常に呼べり 正しく
     友よ いざ 勉めん
  3.響 響 雲にとどく 
    巷の誠 業平 我が校
    励めよ 我等 独学自修 独学自修
    進みて強し
     輝くもの窓辺に来たり
     常に呼べり 正しく
     友よ いざ 勉めん


 同16年東京市業平国民学校と改称。同18年4月柳元小学校廃校のため一部の児童を収容(学区
変更)。同7月東京都業平国民学校と改称。昭和19年8月千葉県市原郡に集団疎開(七ヶ町村十二
寺院)。昭和20年愚かなアメリカ軍の無差別空により校舎全焼。岩手県湯田村に再疎開、同山田町
に再々疎開。敗戦。同21年3月疎開解除。業平・本横・錦糸・柳島国民学校と合併授業。同22年
4月1日墨田区立業平小学校と改称。同25年新校舎一期工事分完成して生徒戻る。同26年第二期
工事完成、同27年第三期工事、運動場整備完了。同28年創立36周年記念式典。図書館(第四期
工事)完成。同29年第五期工事完成(4教室増築)。同30年講堂落成。同31年第六期工事完成
(4教室増築・図工室)。同32年第七期工事完成(4教室・理科室・図工室)。同51年~53年
校舎建替え。同43年創立50周年。平成20年創立90周年を迎える。

 王貞治監督の卒業した学校だ。
 
校庭の隅に球形のオブジェがある。王貞治に関するものだろうが、正体不明。



■押上天祖神社(押上の地名の由来の神社)
 業平2丁目13番13号にある。創建は670ほど前の延元年間(1336~39)に起きた洪水
の時、神体が汀(みぎわ)に
押し上げられていたのを村人が朝日神明社として祀ったことによる。
かつてこの辺りは押上村の内で、押し上げ(押上)が村の名になった。明治になって新政府の強制に
より天祖神社と改め、明治5年村社となった。はじめ業平4丁目5番の道路辺にあったが、関東大震
災に遭い全焼、区画整理のため現在地に移転した。すぐ南にあった徳正寺が別当寺だったが、現在は
牛島神社の末社となっている。昭和20年のアメリカ軍の無差別東京大空襲で壊滅したが、同27年
社殿を新築、同32年までに鳥居・水屋・玉垣などを再建整備した。鳥居の左に「鎮座600年記念
碑」が建つ。境内右奥の古い神輿蔵は大震災にも空爆にも耐えて生き残り、大神輿は現在も健在だ。
左手には溶岩で台座を拵えた三峰神社がある。村に秩父の三峰山に参る三峰講があって、押上講をつ
くり、同37年4丁目の成川善康らによって整備された。ン、成川? 運平の末裔か?境 内の掲示
板に、

   押上天祖神社は、明治5年10月元押上村の村社に列し祭日は9月16日と定められて今
   日に及んでいる。その起因するところによれば、古く延元年間より祭ってあった。延元は
   建武の次で、南朝の忠臣楠正成公が湊川の合戦で戦死し、後醍醐天皇が吉野に行かれた頃
   で今から六百余年の昔に当る。
   当時は押上と云ったかどうか分からないが、大昔は現在の東京の下町は海で、ところどこ
   ろに島や浮洲があった。この辺は柳島と云われ、早い時代に陸地となり人が住んだところ
   とも伝えられている。其の後、花園天皇時代に神明社と称した。祭神は天照大神と八幡、
   春日両大神を祭ってある。
   また一説には現在の京成橋附近で川が増水して堤防に押し上げられてあった御神体を、当
   時附近の農民等が安置して祭ったとも云われている。その頃は下総国葛飾郡押上村で、其
   の後に武蔵国に編入され、明治5年村社に列する事となり、明治11年の記録には、武蔵
   国葛飾郡押上村之内字居村向耕地、田8畝18歩、この代金16円80銭、同村天祖神社
   同所畑25歩、この代金2円50銭と云う文献が残っている。
   天祖神社は、呼名を朝日神明宮と云われた時代があったそうですが、其の時代は神仏の混
   交時代で、徳正寺と云う寺が管理していたのが、明治5年に行われた神仏分離により、神
   官のいない為か生島神社の区域であり、本社は生島神社で、押上天祖神社は其の末社と云
   う事になっている。
   又大正10年に大祭が行われ、同12年の関東大震災で社殿を焼失した。天祖神社はこの
   頃迄は平河橋4丁目地域にあったのが、後、昭和3年の区画整理で、現在地(業平2の1
   3の13)に替地になった。境内は272坪5合5勺、大空襲で焼失後社殿も再築された
   が、昭和20年3月の戦災で、またも焼失した。そして昭和27年度大祭の折、再び新築
   し、続いて昭和32年の大祭には鳥居が再建され、又玉垣、塀、水屋等も出来、神社とし
   ての形態がととのったのであります。尚、終戦後の宗教法人法による神社許可となってい
   る。昭和37年境内には社務所、会館を設立すると共に、従前の6ヶ町の外に新たに旧業
   平橋1丁目と、旧向島押上町が加わり、8ヶ町の神社となっている。
   現在の大神輿は、明治21年5月5日に新調されたもので、今までに関東大震災と戦災で
   二度に渡る災害にあったが、現在の神輿庫が奇蹟的に焼失をまぬかれたので大神輿も当時
   のままの荘厳華麗な姿を残して居ります。

 とある。、



長養山春慶寺
 業平2丁目14番5号にある日蓮宗の寺。元和元年(1615)浅草森田町の地に真如院日理上人
によって創建された。その後寛文七年(1667)に浅草から本所押上村に移転、現在まで約400
年の歴史を持つ由緒ある寺だ。江戸時代から「押上の普賢さま」と称され、特に辰年、巳年の人の守
り本尊として多くの参詣人で賑わった。当時の隆盛ぶりは「東都歳時記」や「武江年表」などで紹介
されている。また天明の頃(1781~89)に活躍した浮世絵師勝川春潮の「押上村行楽」という
浮世絵には、石の道標に「押上村」「普賢菩薩」という文字が見られ、押上村の春慶寺に参拝するこ
とが人々の大きな楽しみだったことが伺える。現在境内には「鶴屋南北の墓」や「関東俳優之碑」が
残っており、震災や大戦による災禍もあって一時寺運が衰えたこともあったが、昭和58年奇特な信
者の寄進と役員の努力により再興された。そして平成13年7月浅草通りに面した境内地に新しい堂
宇(7階建てのビルディング)を得、普賢菩薩鎮護の法華経道場としての道を歩み続けている。本尊
は唐の聖明王作の普賢大菩薩像で、推古天皇の十年(602)に伝来したとある9cmの立像だ。
くの芸人と縁がある。7階建てのビルの1階と2階を寺として使用しているそうだ。「新編武蔵風土
記稿」に、

   春慶寺
   同宗同末(法華宗、甲斐国身延久遠寺末)長養山と号す。本尊三寶を安す。開山真如院日
   理、元和元年起立し、同七年八月六日寂す。当寺は浅草森田町にありしを、寛文七年ここ
   へ移せり。。
   普賢堂。長二寸八分の像にして百済国聖明王霊夢を蒙り自ら模像せし所なりと。推古天皇
   十年に百済国観勒法師、此像を携て来朝し、其後聖徳太子に附属し、又大覚大僧正此像を
   感得し、三菩薩の郷を勅許を蒙りしかば、開運の普賢と号す。後水尾の皇女林丘寺身や光
   子内親王深く信じ給ひ自ら金粉を以て彩色し給ふ、中古下総国古河の城下に安置ありしが、
   寛保年間故有て当寺に移し安すと云。
   大黒堂。
   稲荷社。

 とある。

 岸井左馬之助寄宿之寺
 平成15年3月23日新たな名所が加わった。正面入口のすぐ脇に立つ高さ1m60cmほどの石
碑に彫られているのは、「『鬼平犯科帳』中 岸井左馬之介寄宿之寺」の文字。左馬之介は、池波正
太郎作の人気小説「鬼平犯科帳」で主人公の火付盗賊改方長谷川平蔵の親友として登場し、同寺に宿
泊する場面なども描かれていることから、全国の鬼平ファンの有志が建立した。建立の申し出があっ
た当初は、左馬之介が平蔵とは異なり実在の人物ではないことから、寺院にふさわしいかどうか悩ん
だという住職だが、檀家役員の賛成を得て受け入れを決めた。大の池波ファンで全作品を読破してい
るという住職は、内心は相当うれしかったようだ。一旦建立が決まると事はとんとん拍子に進み、池
波正太郎記念文庫指導員の鶴松房治を通じて池波正太郎遺族(夫人)の了解を得た。そして住職の知
人の演劇評論家藤田洋を通じ、左馬之介を演じたことのある俳優の江守徹に碑の揮毫を依頼、快諾を
得た。石碑は六方石製で、建立場所は最も目立つ〝特等席〟だ。
 碑の除幕は、池波の命日の5月3日に行う心算だったが、半蔵門線の延伸開通(3月19日)に伴
い、同寺近くに押上駅が開設されることから、3月23日に前倒しした。住職は、「この機会に近隣住
民の皆さんと手を携え、歴史や文化を生かした町興しで押上地区の魅力をアピールしていきたい」と
意欲を見せた。東京スカイツリーも開業だし、千客万来たせ。


 関東俳優の碑
 昭和51年に区の保護樹木とした4本のイチョウの木の下にある。

 宇野信夫の歌碑

   なつかしや本所押上春慶寺 鶴屋南北おきつくところ

 「おきつくところ」は「奥津城所」、つまり「墓所」の意だ。


 四世鶴屋南北の墓
 春慶寺墓地にある。古い壊れた角柱で、表に南無阿弥陀仏、裏に法名らしい判読不明の文字と「十
一月二十七日」が刻んである。この辺りは戦災で廃墟と化した所であるから、破壊された墓でも残っ
ているだけましなほうであろう。
その右の石碑は昭和42年の供養碑だ。この地は南北の屋敷跡とい
われ、南北の子の墓も出てきた。4世南北は近世中期の狂言作者で〝大南北〟と讃えられた人。宝暦
五年(1755)江戸に生まれ、幼名を勝次郎または伊之助といい、父と紺屋(藍染職人)をしてい
たが芝居好きで、安永五年(1776)初代桜田治助の門に入り桜田兵蔵と名乗る。文化元年(18
04)河原崎座の『天竺徳兵衛韓噺』で大当たりとなった。安永八年(1779)鶴屋南北を襲名、
『お染久松色読販』『東海道四谷怪談』などの傑作を作ったが、文政十二年(1829)75歳で歿
した。
 南北は江戸乗物町(中央区本町4丁目)の紺屋伊三郎の子として生まれ、安永五年(1776)初
代桜田治助に入門し、文化元年(1804)の「天竺徳兵衛韓噺」で当てたといわれる。同八年(1
811)4世鶴屋南北を襲名し、永く名声を恣にした。文政十二年(1829)11月27日に亡く
なった南北の葬儀は、翌年1月13日この春慶寺で盛大に営まれた。深川の黒船稲荷の自宅からこの
寺まで、裃をつけた役者衆の長い葬列が続き、参列した大勢の人々には、竹皮に包まれた団子が振舞
われ、生前予め書き上げた自らの葬いを目出度い萬歳に仕立てた「寂光門松後萬歳」(しでのかどま
つごまんざい)の台本が配られた。



■王仕福・押上の五十番
 業平2丁目14番1番、春慶寺の西隣(現在空地)が〝世界の王〟王貞治の父母仕福・登美夫妻が
やっていた3番目の「第二五十番」のあったところで、第一は荒川(八広)駅前の、貞治が生まれた
店だよ。敗戦後、登美の弟川口二郎・志津子夫妻に譲ったが、現在八広駅前に移って「洋食50BA
N」になっている。仕福は、この押上の五十番を、昭和37年に畳むと新宿歌舞伎町に移転し、同4
0年に店を閉めた。



■友綱部屋
 業平3丁目1番9号にある立浪一門の相撲部屋。
昭和15年5月場所限りで引退した高島部屋(前
4八甲山純司)所属の小結巴潟誠一は、年寄玉垣(後に安治川に名跡変更)を襲名して、すぐに玉垣
部屋を創設した。同26年5月に8代目高嶋が死去すると9代目高嶋を襲名して高嶋部屋を継承し、
先代の弟子の吉葉山を43人目の横綱に、三根山を大関に育てた。その後義父の7代目友綱(矢筈山
登)が同36年1月に停年退職したため、同年5月娘婿の9代目高嶋(巴潟)が8代目友綱に名跡変
更して友綱部屋に改称した。同51年3月に停年退職し、義弟(妻の妹の夫)
の年寄安治川(十両一
錦周之助)が9代目友綱となり部屋を継承し、現在は9代友綱の娘婿12代目高嶋(関脇魁輝薫秀)
が10代目友綱を襲名し部屋を継いで、大関皇博之を育てた。



■王仕福・業平の五十番
 業平4丁目8番6号にある。この店は従業員の関五一が引き継いで現役だ。もう50年を超える。
本人も84歳を越した。彼は27歳の時、新潟から上京。王貞治の父仕福が経営していた中華料理店
に見習いとして入った。昭和37年に現在の店を暖簾分けして貰い開業、今も包丁を握る。当時早実
野球部の練習の場は練馬区で、貞治の帰宅は毎日午後10時ごろだったという。疲れてお腹をすかせ
た貞治に好物の肉そばを出していたのは五一だった。「いつもうまそうに食べてました。食べ終わっ
たら、家の裏で素振りをしたり、宿題をしたり。忙しい高校生でした」と振り返る。



■榎戸稲荷神社
 業平5丁目4番23号にある神社。創建年代は不詳だが、榎戸稲荷神社の元別当寺だった常照寺が
榎戸山と号しており、奝覚(慶長十四年(1609)没)が開山していることから、江戸時代初期に
創建されたものと推定できる。鳥居横にある古くない石柱に、

   往古より柳島の地に、四民の崇敬篤き稲荷大明神をまつる霊験あらたかな神社有り、元禄
   十丁癸年、武蔵国葛飾郡柳島村検地水帳に「稲荷大明神、社地七畝二十八歩余り、榎戸山
   常照寺持」とある。明治維新の神仏分離令により、名を榎戸稲荷社と改め、今日に至る。
   平成改元を機に有志にて建立す。

 とあり、「新編武蔵風土記稿」に、

   柳島村
   福稲荷社
   常照寺持


 とある。

 榎戸不動尊
 社殿前左手にある。 



柳島妙見山玄和院法性寺

 業平5丁目7番7号、横十間川に架かる柳島橋の西詰めにある日蓮宗の寺。通称「柳島妙見堂」と
して名高く、江戸時代から庶民の信仰を集めていた。市川市真間の弘法寺の末寺で、明応元年(14
92)日遄上人によって創建された墨田区で最も古い寺だ。江戸時代に、全国から集めた萩を植え、
その見事さは江戸の名所の一つに挙げられたという。現在も100種類以上の萩が植えられている。
 北辰妙見大菩薩を奉安した妙見堂は、もと江戸城の鬼門よけとして建てられたもので、境内には松
の古木があり、初代歌川豊国の碑など、江戸時代の名残りがある。この寺も鉄筋コンクリート3階建
てのビルとなって、少しぱかりの墓や石碑のみが昔日の面影を宿すだけとなった。奥の鉄筋コンクリ
ート6階建ての建物(業平ハイツ)が共用で庫裏になっているようだ。芸術家、噺家などのゆかりの
寺で石碑などが多数ある。開創より吉運を開いた人物が多く、祈願と供養の寺として親しまれており
近松門左衛門碑・芭蕉句碑・
栄松庵一鶴の句碑・小蓮遺愛之碑・夢さめての句碑・瘞髪塚(火消し和
解の碑)・
桂家元故六世文治之碑・宝田寿助の辞世歌碑・涼しさやの句碑・桜田左交「花清し」の辞
世句碑・
葎堂午漣の辞世句碑・豊国先生瘞筆之碑・昔ばなし柳塚・風也坊秋香の句碑など現存する碑
が多数ある。「すみだの史跡文化財めぐり」に、

   柳島妙見と呼ばれて江戸時代から信仰する人の多かった寺です。天正元年(1573)日
   遄上人によって創建され、妙見山玄和院と号し、日蓮宗真間山弘法寺の末寺です。妙見大
   菩薩を奉安した妙見堂があります。妙見菩薩は北斗星を神化したもので、国土を護り貧窮
   を救うといわれている仏様で、像容は端麗な天女形です。
   江戸城の鬼門除けとしておかれたというこの妙見堂のそばに、周囲2m余にもなる影向松
   という古木がありました。この松は妙見が降臨したと伝えられています。なお、妙見堂は
   特に桂昌院の帰依が深かったそうです。北十間川沿い内には橋本家という料亭もあり、舟
   で来る人も多く、かなり賑わっていたようです。しかし今は、本堂をはじめ庫裡等すべて
   近代建築となって昔の面影はありません。
   寺の入口に「北辰妙見大菩薩」と刻まれた高さ1m70cmの石標が建っています。右側
   面に「妙見山法性寺」、左側面に「宝暦二壬申(1752)六月十五日坂本町講中 
   □□町講中」とあります。この石標は、以前は道標をかねて浅草通りに面して立てられて
   いたようです。


 とある。

 葛飾北斎辰政顕彰碑
 右手奥に、平成18年4月に建立された。隣に近松文左衛門碑がある。
 北斎は江戸後期の浮世絵師。江戸生まれ。幼名は時太郎、のち鉄蔵、春朗・宗理等30余の別号を
使った。勝川春章の門で浮世絵を学ぶ。また狩野派。土佐派・西洋画などからも画技を学び、司馬江
漢などの洋風銅版画にも関心を寄せるなど、破天荒な修業生活を送り、風景版画に新生面を開いた。
その画風は西洋印象派の発生に大きな影響を与えた。代表作『富嶽三十六景』『北斎漫画』など。

 近松門左衛門碑
 
昭和36
。境内に埋れていた江戸時代の旧い石碑が忽然と姿を現した。それは、江戸時代の文人
、門左衛門の曾孫を自認する近松繊月が 門左衛門の法要の席で配布した「近松略伝」が彫り込ま
れた近松門左衛門の供養碑だった。碑には、

   日本浄瑠璃歌舞伎稽戯作中祖、近松門左衛門藤原信盛文碑。曾祖近松門左衛門藤原信盛。
   長州萩之家臣杉森某の男。賜笏六位・・・・


 
とあり、これにより近松の越前生誕説は覆され、長州説が裏付けられることとなった。

 この供養碑は永らく寺内に保存されていたが、この度アクリル製よりも硬質で透明度も高く、風雨
に曝されても、傷まぬよう永久保存の科学的処置を施され、
土のついたままの発掘された現物が、
成17年4月24日
参拝客が直接拝覧できる場所に再建された。現在、
その隣に葛飾北斎辰政顕彰碑
が建てられている。
 門左衛門は、江戸時代前期の浄瑠璃・歌舞伎の戯作者(脚本家)本名杉森信盛。長州藩士杉森某の
子として生まれ、京都で育つ。20歳の頃から浄瑠璃を書き始め、当時の優れた浄瑠璃語り竹本義太
夫のために多くの傑作を書いた。歌舞伎役者坂田藤十郎のためにも優れた戯作を残した。作品は、歴
史や伝説を材料にした時代物と、町人生活を題材とした世話物とに分けられる。『曽根崎心中』『心
中天網島』『女殺油地獄』『国姓爺合戦』などが代表作だ。松尾芭蕉・井原西鶴と共に元禄時代の三
大作家に数えられる。


 
桂家元 故六世文治之碑
 
大正4年7月建立。世話人、三笑亭可楽、桂文楽、翁家さん馬の名前が裏の刻文にある。

   江戸落語の名家文治翁の碑の成り立ちを喜びて  
   名に残る芝居噺や涼ミ台
   三代目柳家小さん

 
 6代目は芝居噺を得意にしていた。
 

 
芭蕉碑

   濡れてゆく 人もおかしや 雨の萩、

 宝田寿助の辞世歌碑
 寛政九年江戸生まれ。はじめ戯作を書いたが、二代松井幸三に取り立てられて松川宝作の名で歌舞
伎作者となる。天保三年宝田寿来の跡をついで宝田寿助と改名し、市村座の立作者となった。同九年
没。42歳だった。通称は貞次郎。作品に『八犬伝評判楼閣(うわさのたかどの)』、常磐津「忍夜
恋曲者(しのびよるこいはくせもの)』など。

 桜田左交「花清し」の辞世句碑
 江戸時代中期~後期の歌舞伎作者。享保十九年生まれ。江戸の人。壕越二三治(にそうじ)に師事
し、一時京坂で上方狂言を学ぶ。明和六年市川団十郎一座の立作者となり『御摂勧進帳(ごひいきか
んじんちょう)』などの当たり狂言を書く。浄瑠璃の作詞者としても知られ、作品に常磐津『戻駕色
相肩(もどりかごいろにあいかた)』など。文化三年没。73歳。号は柳井隣、花川戸。屋号は成田
屋。俳号は左交。没後辞世の句、

   花清し散ても浮む水の上

 を刻んだ浄瑠璃塚が建立された。桜田風は、門弟の福森久助、2・3代目桜田治助らの所作事の中
に継承されていった。

 昔ばなし柳塚
 柳家一派が建てたもので、裏側の名文が剥落して内容が判らない。明治の頃のもので、謂れなどは
よく分かっていない。大きな立派な碑だ。

 
豊国先生瘞筆之碑(2代歌川豊国の碑
 境内にある。文政八年(1825)2代目豊国、山東京伝の弟京山らが建てた。写楽や北斎と同世
代のため、現代では影が薄くなってしまっているが、江戸時代では一等人気があった役者絵師。
本名
は倉橋熊吉。芝神明に住む人形師五郎兵衛の息子。歌川派の開祖歌川豊春に弟子入りして、豊国の号
を用いるようになった。処女作は天明八年(1778)黄表紙「苦者楽元〆」の挿絵。寛政六年(1
794)に描いた「役者舞台之姿絵」が和泉屋市兵衛から発行され、26歳で一躍人気絵師となる。
寛政年間より独自のスタイルの美人画も描き始めたが、時代の要求を見極める目があったのだろう。
常に大衆の望む作品を手がけ、人気を保ち続けた。豊国が挿絵を描くかどうかで、作者に関係なく本
の売り上げが変わるので、無理をしてでも豊国に挿絵を頼む版元が後を絶たなかった。門人を希望す
る者も多く、最盛時には40人を越す弟子がいた。あの広重も入門を希望したが断られてたという。
幕末の浮世絵師のほとんどが歌川派であったのは彼の功績である。歌麿や北斎などの他の人気絵師た
ちの弟子がほとんど無名であるのに対して豊国の系譜は明治まで続いていることから、人を教育する
面においても優秀な人だったのだ。



■墨田住宅センター能面博物館(墨田区小さな博物館)
 業平5丁目10番5号の金子荘にある。工務店の仕事の傍趣味で能面を作る館長さんが「多くの人
に能面の良さを知って貰いたい」と、「小面(こおもて)」や「般若」など50点あまりの能面を展示
している。能面ができるまでの複雑な製造工程も写真パネルで解り易く展示され、実際の作業も見る
ことができる。「能面の表情にはいろいろな意味があり、それを表現するのが難しい」と館長の金子
利七。とても根気の要る作業だが、真面目に能面を作りたいという方には教えてくれるらしいよ。弟
子入りしたら? 03-3623-3023。
 開館は、火曜日・土曜日・第4日曜日(午前9時から正午、午後2時から午後5時まで)





【東駒形】(ひがしこまがた)1~4丁目              昭和41年10月1日
 中ノ郷村・中ノ郷仲間新町など。明治11年「郡区町村編制法」により本所区所属。昭和5年
新町(明治2年中ノ郷仲間新町に本所新町の一部を編入)・小梅業平町(明治5年小梅町に大名屋
敷などの武家地を併合)・
荒井町(明治12年北本所荒井町と南本所荒井町が合体)・番場町(明
治12年北本所番場町・南本所馬場町が合併)・表町(明治11年北本所表町)・中ノ郷原庭町・
中ノ郷竹町・中ノ郷元町・中ノ郷横川町・松倉町1~2丁目の全部または一部をあわせた町域を東
駒形1~4丁目とし、同41年新住居表示を実施して現行の「東駒形」とした。

 区の小さな博物館運動により4丁目に伝統木彫刻資料館(透かし彫り・飾り彫刻)ができた。3
丁目にある本所中学校は王貞治監督の母校だ。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『墨田区史』『墨田の歴史』など。

 東駒形について
 町名は隅田川に架かる駒形橋の東に位置することによる。駒形は正しくは「こまかた」と
濁らな
いで発音するらしい。芥川龍之介が怒っている。駒形の由来は台東区駒形に記載したので、そっち
で逢いましょう。橋を渡ってすぐ右だよ。




■玉林稲荷神社
 東駒形1丁目7番10号にある小祠。
 岡本工事(株)のホームページに、以下の記事あった。

   平成19年5月24日(木)岡本グループの守護神、玉林稲荷大明神の例祭が行なわれ
   ました。午前11時より玉林稲荷社前にて、牛嶋神社宮司の春田知男氏の祝詞奏上のあと、
   岡本社長以下の参列者が玉串奏奠し、社業の発展と社員とその家族、作業現場の安全を
   祈願致しました。 午後5時からは恒例の直会(なおらい)が、玉林稲荷社前に於いて、
   岡本グループ役員・社員と岡建工事(株)協力会の岩本会長以下の役員が出席して行わ
   れました。



■船江神社
 
東駒形1丁目18番10号にある小社。元慶元年(877~885)に創建したと伝えられている
す。江戸時代には朝日神明社と称し北本所表町(東駒形2丁目)にあり、船手奉行向井将監などの人
々が船の安全を祈願したといわれる。関東大震災の区画整理により当地へ遷座した。境内掲示に、

   船江神社の草創は、今より千百二十余年の昔、平安期陽成天皇の御宇 元慶丁酉年(87
   7)御祭神は天照皇大神を奉祀す。
   その御由緒を記すれば、往古本所の郷人あまた夢にみるよう伊勢大神宮、虚空を駆りて飛
   来り給ひ、虚空のあひだには又、大光明輝き光り、そのうちに気高く微妙なる御声ありて、
   我此土安隠天人常充満という法華経寿量品の文を唱へ、われはこれ、伊勢の神明にておは
   します、と見て郷中の人互いに語り合わするにすこしも違わず、誠に奇特の御事也とて宮
   所をかまへ伊勢大神宮を勧請し奉りけり。神明なお佛法を尊み給ひ、本地和光の内證を示
   し給ふもの也。
   それより北のかた星霜うつり年月かさぬと雖も、古にし昔のあと絶えず、利生あらたかに
   在わしますこと掌をさすが如くなり。
   あまてらす神のめぐみのかはらねば ここも五十鈴の本所なりけり
   船江神社は、初め朝日神明社と称し本所表町(現東駒形二丁目)に在り、本所大神宮とて、
   お伊勢参りが一生の念願たりしその昔、このお社に参拝することにて同じ神徳を授けられ
   ると、厚い信仰を受け、後天祖神社と称え幕府船手奉行向井将監などの人々が船の安全を
   祈願したといわれる。
   明治維新後神名改め、里俗に船江神社と称するを以て今は之を神名とせり。
   関東大震災後の帝都復興計画の一環としての区画整理に伴い、昔は御大祭は五月二十一日
   なり。                              船江神社総代会
   平成十二年庚辰年五月吉日建立。


 とある。



是応山実相寺
 東駒形2丁目10番14号にある日蓮宗は平賀本土寺の末寺
昭和38年境内に建てた名号塔右横
の由来銘文に、慶長三
年(1598)の草創とある。熊谷稲荷があることから、俗に「熊谷さん」と
呼ばれる。
 昭和20年愚かなアメリカ軍の無差別空爆で堂宇悉く灰燼に帰し、戦後荒廃したが、日栄の代に全
て鉄筋コンクリート造りで復興した。熊谷文殊菩薩があり、本堂左にある「熊谷稲荷堂」も鉄筋コン
クリート造りだが重厚な造りだ。本尊は大曼荼羅を祀る。

 本堂
 山門のような建物。毎年「焙烙(ほうろく)加持」が土用丑の日に行なわれている。頭の上にお守
りを乗せ、その上に焙烙皿を被り、百草(もぐさ)を焚いて頭痛除けと暑中の息災を祈る日蓮宗独特
の祈祷である。古来より土用の丑の日に「焙烙加持」を行うと暑気封じ、頭痛封じに効くといわれて
いる。

 熊谷稲荷堂
 戦国時代、越前一乗谷の城主朝倉中納言義景に仕えていた熊谷安左衛門が熊谷家伝来の法華経の利
益により白狐を助け、その縁がもとで文殊菩薩を勧請した。これが熊谷稲荷の起源だ。稲荷を祀った
狐にも様々な種類があるが、なかでも福徳を授ける福狐として白狐だけが稲荷大明神に選ばれる資格
があるといわれている。熊谷稲荷は白狐を祀った稲荷で、極めて珍しい稲荷である。毎年5月22日
に熊谷稲荷の大祭が執り行われる。

 石塔
 境内右手は墓地となっており、墓地入口には実相寺銘入りの石塔が祀られている。 石塔側面には
「南無開運旅立日蓮大菩薩」「南無熊谷文殊大菩薩」と刻まれている。日蓮大聖人が佐渡島流罪を放
免された折の姿を謹刻した、開運旅立日蓮大菩薩像は戦災で焼失したが、同型の像が復元されている。



■最勝稲荷最勝寺跡
 東駒形2丁目11番1号にある。稲荷は最勝寺境内にあったもので、この辺りに明治になって目黄
不動で売り出した最勝寺があり、震災後の区画整理で江戸川区に移転していった。現在最勝寺にも最
勝稲荷があり、一体全体どうなっとるんだ! 



■呑龍教会
 
東駒形2丁目19番2号にある浄土宗の布教所。ピアノ教室や算盤教室が本業らしい。



法照山本久寺
 
東駒形2丁目21番12号にある日蓮宗の名刹。昔は牛島山を号していた。天正三年(1575)
の創立で、開山は清眼院日有上人。安置する宗祖像は日朗が頭部を、日法が体部を彫り、胎内に首題
札が納められており、日朗・日法の真蹟と伝えられている。創建以来、寺地を替えていない。
 区内に多いコンクリート寺だが、その殆どが昭和30年代以降のものであるのに対し、この寺は、
昭和2~4年にかけてできたもので、清雄寺と共に無差別のアメリカ軍のへなちょこ空爆をかわして
いる名誉の寺だ。周辺が爆撃で燃える中、内側から目地を扉に打って固めてから避難をしたんだと。
本堂の戸も焼けずに残ったが、窓から入った火で一部焦げ跡があるという。内装も美しく手入れが行
き届いている。墓地に、初代と2代目の古今亭志ん生の墓がある。5代目の光が眩しすぎて、初代~
4代目は霞んでしまっている。他に、春風亭柳橋の墓もある。


 霊山先生像
 本堂前にある。雲山は数代前の住職釈貫隆で、「昭和の三筆」に数えられた書道家。その能筆を謳
われた。この寺の屋根上に聳える特異な塔は、雲山がインドからもたらした造りなのだ。

 
明徳小学校発祥之地
 寺の入口脇に建ててある。明治5年学制が公布され、公立学校が設立されることになり、ここ本所
地区でも本久寺に寺子屋が開設された。 これが後の明徳小学校だ。その3年後、ここから南東に40
0m先(現在の本所中学校)に移転。大正12年の関東大震災で校舎が全焼し、7年後に鉄筋の新校
舎が完成したが、昭和20年のアメリカ軍の無差別東京大空襲で再び全焼し、翌年国民学校の廃止に
伴い廃校になった。この発祥碑は平成18年5月14日に開校130周年記念として卒業生有志によ
り建立されたものだ。

   明徳小学校発祥之地
   明徳校友会  会長五木田 直
   開校百三十周年記念事業実行委員会 委員長名児耶 清
   平成十八年五月十四日  本久寺三十二世 持田日勇代
                       金井晴雲書



■旧本所消防署 → 本所消防署東駒形出張所
 東駒形3丁目5番にある消防分署。昭和39年~平成7年の31年間本所消防署の本署だった。



■明徳尋常小学校 → 明徳国民学校
 
 東駒形3丁目1番10号にあった都立校。明治5年学制が公布され、公立学校が設立されることに
なり、ここ本所地区でも本久寺に寺子屋が開設され、これが明徳小学校の基となった。同8年本所中
学校のところに校舎を新築して移転。大正12年の関東大震災で校舎が全焼し、7年後に鉄筋の新校
舎が完成したものの、昭和20年の愚かなアメリカ軍の無差別東京大空襲で再び全焼し、翌年国民学
校の廃止に伴い戦災による学童の減少のため区立小学校に転換することなく廃校になった。跡地は本
所中学校となっている。



■本所中学校
 
 東駒形3丁目1番10号にある区立校。昭和22年4月1日本所工業学校内に開校。同23年12
月明徳国民学校跡地(現在地)に新校舎完成して移転。同24年プール改修。同26年4教室補修、
校庭補修。同28年校歌制定。 

 校歌「川霞み」 作詞・今泉忠義  作曲・鏑木創
  1.川霞み明け行く街々
    四方にとよもす物音は
    この国の行く手を護る
    見よ ここに墨田の街は
    開けわたる 開けわたる
    輝け文花 わが街に
    栄えあれ本所中学
  2.学びやにいそしむ若人
    揚ぐる我等が諸声は
    空高く清かに響く
    見よ日々に知識は広く
    なり行かん なり行かん
    輝け文化 わが街に
    栄えあれ本所中学
  3.帰り来て憩える窓々
    静かに映る灯の下に
    師と親の教えを尋ね
    見よまさに 吾等は継がん
    この道を この道を
    輝け文化 わが街に
    栄えあれ 本所中学


 同29年特殊学級開設。講堂改修。同32年創立10周年記念式典。同35年特別教室2・特殊学
級室・放送室を改修。同37年創立15周年記念式典。同42年体育館完成。同43年給食室完成。
同48年第一期新校舎落成。同49年第二期新校舎完成。創立25周年記念式典。同50年校庭荒木
田舗装。同52年創立30周年記念式典。同60年メルボルン大学ボート部学生10来校研修。同6
2年創立40周年・王貞治監督来校。マレーシアの大学生25名来校研修。平成3年パプアニューギ
ニアの教育研修団来校視察。同6年バージンアイランドハイスクール来校。同7年アメリカ教育視察
団来校研修。同9年創立50周年記念式典・王貞治監督再来校。同14年アフガニスタンの生徒4名
来校交歓。平成8年から陸上部が猛烈に頑張っている。

 
「気力」の碑王貞治の人生を変えた1点
 卒業生王貞治監督の自筆の石碑が正門のところに据えられている。
 王貞治のプロ野球人生は偶然から生まれた。王が入学したころ本所中学には、野球部はなかった。仕
方なく卓球部や陸上部で活躍し、特に陸上部では砲丸投げの選手として都大会にも出場するほどだっ
た。さらに2年生の時、それまで休部だった野球部を再開させ、3年生の時には区大会で優勝、都大
会へも出場した。また野球部がなかった1年生の時、兄鉄城に紹介して貰い、近所にあった高校生主
体の野球チーム「厩四ケープハーツ」にも入り、エースで5番を務めた。このころ後に恩師となる荒
川博が目をつけ早稲田実業高等学校への入学を勧めるが、父仕福は「野球で飯が食えるか」と猛反対、
貞治もそう思って墨田川高校への進学を希望する。貞治の学力なら合格は間違いなかったからだ。と
ころが何としたことか、貞治はまさかの不合格、1点足りなかったというのだ。神様は初めからそう
決めていたのかも知れない。貞治は荒川に魅入られたように早実に進学、その後の人生は説明の要が
ないだろう。もし1点差で合格していたら、貞治は兄と同じ医者の道を歩んだかも。



交差点事故 ゴミ収集車 民家に突っ込む

 東駒形3丁目8番先の交差点で、平成25年6月3日午前6時頃、乗用車とゴミ収集車が衝突事故
を起こし、その衝撃で8番
4号の角地にある井上宅(個人タクシー)突っ込んだ。突っ込んだ場所は
事務所として使用している部屋で、幸い人はいず、50歳代のゴミ収集車の運転手も軽い怪我ですん
だ。ゴミ収集車の進行方向の信号は黄色の点滅(注意進行)、乗用車は赤の点滅(一旦停止)で、乗
用車の運転手が義務を怠ったらしい。
 



芭蕉山桃青寺
 東駒形3丁目15番10号にある臨済宗妙心寺派の寺。寛永三年(1626)の創建。松尾芭蕉は
数年に亘り、当寺に寄宿していたようで、江戸時代には寺内にあった芭蕉堂で著名だった。松尾芭蕉
が数年間寄宿したことから、定林寺と号していたものを芭蕉の俳号桃青からとって寺号とした。
また
貞享四年(1687)に生まれ、俳壇の革新に尽力した俳人長谷川馬光の墓がある。

 
長谷川馬光の墓

 
江戸中期の俳人。葛飾蕉風の初世其日庵山口素堂に学び、師の其日庵を襲ぎ二世となったが、点者
となり門戸を張ることをせず、交友は各派に亘っていた。また亨保十年「五色墨」の運動を起こし、
俳壇の革正に尽くしたことは有名。著書には『湯山紀行』『薮鴬』『かさね笠』などがある。寛延四
年(1751)「振かへる谷の戸もなし郭公」の一句を最後に65歳でこの世を去りました。



牛嶋山福厳寺
 
東駒形3丁目21番3号にある曹洞宗の寺。駒込吉祥寺の末。延徳三年(1491)に開創した古
刹。山門が朱色だったので、俗に〝赤門寺〟と呼ばれた。3代将軍家光が亡父秀忠の追福を祈って赤
門を寄進したと伝わったが、その門は関東大震災で焼失した。次に旧紀伊徳川家中屋敷(東宮御所)
の門を移して朱塗りにしたところ、愚かなアメリカ軍の無差別空爆で焼かれてしまった。
 現在の門はそれを復元したものだ。極めて美しく鮮やかな朱色で、「おゝ!」と息を呑む。
 また、赤穂浪士大石内蔵助の縁者、大石三平や原田きぬの墓がある。

   曹洞宗、駒込吉祥寺末で、山号を牛島山といいます。天文十年(1541)吉祥寺の二世
   大洲安充の創建としていますが、「寺社書上」では延徳三年(1491)の起立としてい
   ます。いずれにしても江戸開府以前からある古刹で、草創から400年間寺地を替えてい
   ません。本尊釈迦如来木像、十一面観世音、無尽地蔵菩薩、大般若経600巻などが有名
   でした。当寺は、朱塗りの寺門があるので江戸時代から「赤門寺」と通称されていました。
   この赤門は三代将軍家光が、父秀忠の追福のため寄進したものでしたが、関東大震災で焼
   失した後は、紀尾井町にあった旧紀州家中屋敷の門を貰い受け、これを朱塗りにして寺門
   としていました。これも戦災で焼失し、現在はコンクリート製で復興されています。
                                   墨田区教育委員会


 十一面観世音
 文化十四年(1817)七月森本尹之助、俊蔵の兄弟が鉄砲州の浜へ釣りに行き、その時流れついた
像を引き上げて持ち帰り、後に当寺に安置したと伝えられる木像。

 無尽地蔵菩薩
 身の丈12cmの小像で、文政元年(1818)六月に浅草蔵前の隅田川で貝をとっていた者が発見
し、水中から引き上げ持ち帰って自宅に安置しておいたところ、無尽のくじに幾度となく当ったので、
無尽地蔵と称して信仰し、後に当寺に安置したものといわれている。

 
大石三平の墓
 福厳寺墓地にある。大石三平良穀(よしたか)は、赤穂浪士を率いた大石内蔵助の叔父、無人(ぶじ
ん)の子です。無人父子は浪人して本所に暮らし、土地勘があったため、大江戸の活況ぶりに戸惑う浪
士たちのために、福厳寺を集会場所として用意した。討ち入りが近づくと吉良上野介の在宅日確認のた
めに奔走、内蔵助に十二月十四日が確実であることを知らせた。討ち入り当夜、父無人と共に吉良家の
屋敷外で警護をするなど活躍した。討ち入りから3年後の宝永二年(1705)四国高松藩(香川県)
に迎えられ、若殿の用人や姫君の守役などを務め、寛延二年(1749)75歳で没した。



大道山松嶺寺

 東駒形3丁目21番8号にある臨済宗妙心寺派の寺。寛永二年(1625)に創建したという。緑色
に塗られた昭和初期の民家風建物だが、ちゃんと墓地もある



駒形山法華寺
 東駒形3丁目23番9号にある日蓮宗の寺。
江戸時代の大老、庄内藩酒井大学頭の下屋敷跡に、昭和
6年創立した。境内に祀っている子育ての鬼子母神から「駒形鬼子母神」として親しまれている。
 通りから奥まったところにあるが、「常護稲荷大菩薩」の幟が立っているので直ぐ判る。ここでは鍼
灸をしているが、本堂前の「浄行菩薩石像」が有名だ。傍に水と束子が置いてあり、浄水をかけて自分
の病んでいるところの場所をこすると治るという。この菩薩が、人間の六根を清める役目を持っている
ということによる。



■稲荷社
 東駒形4丁目2番3号にある小祠。



■東関部屋
 東駒形4丁目6番4号にある高砂一門の相撲部屋。昭和61年2月元関脇高見山が、高砂部屋より
独立を許され創立。64人目横綱曙太郎、小結高見盛らを育てる。また、毎年春場所で大阪市平野区
の大念仏寺で特設部屋を設けて稽古を行う事は有名。



■東駒形教会

 東駒形4丁目6番2号にある日本キリスト教団の教会。



■大横川親水公園

 東駒形4丁目15番14号にある区立公園。大横川の多く部分を埋め立てて造られた総延長は約1
800mの大規模な親水公園だ。この川の流れている一帯は、付近にあった工場などの地下水汲み上
げにより地盤沈下の激しい地域だあった。そのため低い土地では川から水が溢れると浸水する危険が
あったため、大横川の一部を埋め立てて親水公園として整備した。公園としては平成5年4月1日開
園。河川の多くは埋め立てられ、せせらぎや樹木などが新たに生まれ、親水公園として大きく変わっ
た。面積は約63343㎡になる。北は北十間川との合流点から始まり、南は竪川との合流点までと
なっている。竪川との合流点より南では、また大横川として河川になっている。
 ・撞木橋~江東橋

  広々とした人工池があり、途中、竪琴をイメージさせる橋が目を楽しませる。
 ・江東橋から総武線鉄橋

  水辺には銛をイメージしたような水鉄砲と的の遊具が設置してある広々とした広場がある。
 ・総武線鉄橋~長崎橋跡
  煉瓦風ブロックが敷きつめられた広場に、子供たちが子供らしくふざけ合いながら、音楽に合わ
  せて楽しそうにバレエを踊っている・・・などと楽しい想像を逞しくさせてくれる噴水がある。
 ・長崎橋跡~清平橋
  現在長崎橋には橋の遺構は残っておらず、その跡の歩道部分に長崎橋の面影を伝える案内板が残
  るだけとなっている。広々としたブロック敷きの広場では4・6・8・10月の年4回、第1土
  曜・日曜に「すみだガラス市」が開かれるよ。
 ・清平橋~報恩寺橋
  遠く奈良平安時代の貴族の館の庭を想像させる造りで、万華沼の四季折々の風景の変化が楽しめ
  る緑濃い空間。
 ・報恩寺橋~紅葉橋
  水の湧き出る滝があり、自然石が巧みに組み合わされた間を清流が流れる雰囲気はまるで山間の
  渓谷にでもきたような雰囲気。
 ・紅葉橋~横川橋
  ゲートボール場と人工芝を敷き詰めた2つの広場がメイン。広場の横を流れる小川の小道には、
  墨田の民話に因んだモザイクパネルの絵と本所七不思議をモチーフにしたレリーフがあり、散歩
  の目を楽しませてくれるよ。
 ・横川橋~平川橋
  水遊びのできる川原や、長いローラー滑り台があり、小さい子のお気に入りの場所だ。
 ・平川橋~業平橋
  釣堀と船の前方を形取った遊び場で、遊び場には螺旋階段から登る長い長い滑り台がある。

 魚つり場
 墨田区東駒形4丁目15番先 03-3624-3404 長さ130mの水辺で鯉が釣れるよ。 

 
大横川の橋

 業平橋(なりひらばし)
 吾妻橋3丁目と業平1丁目を結ぶ橋で、現在の橋は昭和5年に架けられたものだ。創架は寛文二年
(1662)。橋の名の謂れは、この橋の西側に「しばられ地蔵」で有名な南蔵院という寺があり、
その境内に業平天神という在原業平を祀る社があったことから名づけられたことから付けられた。南
蔵院は関東大震災の後、葛飾区水元に移転したが、天神はその時に廃社している。
 この橋のすぐ北側の源森川(北十間川)と大横川は直角に繋がっていた。今は大横川が親水公園と
なっているので水面の面影はない。合流部には公園管理事務所があり、汽船型の建物で、周辺は子供
の遊び場になってる。全長31.7m×幅員33m。東京都の管理。
 なお業平橋の由来は【業平】の由来の項に記してある。
 ◇平川橋
 東駒形4丁目と業平1丁目を結ぶ橋で平成24年に架け替えられた。この橋の東側が業平という町
で、この町は昭和42年の住居表示変更まで、業平橋と平川橋という地名で横十間川まで並んで続い
ていたが、業平1~5丁目という町名に統一された。その無くなった平川橋という町名は、昭和5~
6年に付けられたが、昭和4年に架けられた橋の名に由来する。全長28.17m×幅員11m。墨田
区が管理している。

 ◇横川橋
 本所4丁目と横川1丁目を繋ぐ橋で、昭和3年に架けられた。この橋は春日通りを通している。無
くなった北割下水のあった通りだ。全長32.65m・幅員22.7m。墨田区の管理。
 横川橋というのは、元は大横川に架かっていたのではなく、割下水に架かっていたもので、関東大
震災後の復興計画で割下水が取り払われた後 、大横川に架けられた橋を横川橋と命名した。
 古い地図を見ると大横川の西側に沿って、業平橋から報恩寺橋辺りまで、細長く中之郷横川町とい
う町屋が見える。この橋の名はそこから付いたと思われる。今の横川という町名は別でこの橋の東側
にあり、昭和6年の区画整理によって付けられた名前だ。
 この橋の東詰めには大震災遭難者追悼碑がある。横網の被服廠跡では約38000人が亡くなった
が、この辺りにも水辺をたよった3600人あまりの市民が焼死している。
 ◇紅葉橋
 石原4丁目と横川1丁目を結ぶ橋で、昭和5年に架けられた。この橋の西に能勢妙見堂がある。柳
島にも葛飾北斎が通ったという妙見があるが、こちらは勝海舟の父小吉が通った。この一風変ったお
父さんも息子の怪我の快癒や出世祈願のため水垢離をとっている。この寺では今でも2月の寒い日に
水行が行われる。
 紅葉橋という名は、この辺り楓川という細い流れがあったので、それに因んで付けられた。大横川
の左岸、横川橋から紅葉橋、報恩寺橋にかけてはお寺さんの巣窟だ。本法寺、霊山寺、報恩寺などが
町の一角を成している。全長35.11m・幅員11m。墨田区が管理している。
 ◇
法恩寺橋
 石原4丁目と太平1丁目を結ぶ蔵前通りに架かる橋で、現在の橋は昭和57年の架橋。創架は、横
川が掘られた時と同じ万治二年(1659)といわれ、名前は東に平河山法恩寺に由来する。しかし
江戸平河にあったこのお寺がこの太平町に移転してきたのは元禄元年(1688)なので、初めは違
う名の橋だったろう。この橋は、石造りで如何にもどっしりした佇まいをしている。昭和57年の架
設となっているが、中央部分のみを架け替えたので、残部は大正13年頃のままだ。全長15m94
cm×幅員22mで都が管理する。太平町という地名は、太田道灌の「太」と平河山法恩寺の「平」
をとって付けたという噂がある。
 ◇清平橋
 亀沢4丁目と太平1丁目を結ぶ橋で平成24年に架け替えられた。かつて亀沢4丁目に清水町とい
う町があったので、太平と清水のそれぞれ一字をとり清平橋と名づけられた。この橋は両脇にけばけ
ばしい青色の水道管に挟まれて、凄まじい状況になっている。全長38m97cm×幅11mで、墨
田区が管理している。
 ◇長崎橋跡
 亀沢4丁目と錦糸1丁目を結んでいた橋で、北斎通りに架かっていた。今は橋の下は封鎖され橋と
しての機能はない。元禄十年(1697)の創架だが、昭和46年に架けたトラス橋を最後に、同6
3年大横川親水河川整備の際に、役目を終えて上部構造物は撤去された。橋名は西側に長崎町があっ
たことによる。この橋の脇にある広場では、ガラス市やフリーマーケットなど各種イベントが開催さ
れる。
 錦糸町南口バスロータリーのところに伊藤左千夫牧舎兼住居跡の碑があります。あの涙なくしては
読めない「野菊の墓」を書いた伊藤左千夫の本業は牧場主であり、明治22年頃、乳搾りをしていた
んだね。現在の賑わいを見るにつけ、なんとも隔世の感があることか。
 この橋の東詰めには、都立両国高校がある。戦前は府立三中(東京府立第三中学校)といい、芥川
竜之介や「グレート・ジャーニー」でお馴染みの探検家の関野吉晴など多くの著名人を輩出する名門
校だ。
 ◇江東橋
 緑4丁目と江東橋1丁目を結ぶ京葉道路に架かる橋。国道なので幅が広く、橋の長さに対し倍近く
ある。全長20m80cm×幅員35mで国が管理する。明治31年創架で、現在の橋は平成7年製
の比較的新しい橋だ。江東橋という地名は昭和42年の新住居表示によって付けられたもので、橋の
名が由来だ。江東とは隅田川の東という意味。隅田川を漢風には「墨江」といい、墨東も江東も同じ
意味だ。ニュアンス的には墨東が上流、江東が下流の違いがある。
 京葉道路は、千葉道、成田道といい、江戸時代は成田山への参詣路として賑わった。その京葉道路
の錦糸町南口バスロータリーのところに伊藤左千夫の牧舎兼住居跡の碑ある。あの涙なくしては読め
ない「野菊の墓」を書いた伊藤左千夫は本業が牧場主で、明治22年頃は乳搾りをしていたそうんだ
ね。現在の賑わいを見るにつけ、なんとも隔世の感がある。この橋の東詰めに都立両国高校がある。
戦前は府立三中(東京府立第三中学校)といい、芥川竜之介や「グレート・ジャーニー」でお馴染み
の探検家関野吉晴など多くの著名人を輩出する名門校だ。
 ◇撞木橋跡(しゅもくばし)
 かつて竪川と横川の合流地点には北辻橋、南辻橋、新辻橋の3の橋が架かっていて、これをまとめ
て撞木橋(しゅもくばし)とも呼んでいた。撞木橋跡とは北辻橋のことで、昭和63年6月に撤去し
今はもうない。この橋のすこし北で大横川の西岸に「時の鐘」の鐘撞堂があったのでそう呼ばれるよ
うになった。仙台藩伊達家が、幕府から日光霊廟の建築を命ぜられ、材木の貯蔵地であるこの辺りに
作業場を作った。そして多くの職人に時刻を知らせるため「時の鐘」を建てて時刻を知らせた。工事
終了後は民間に下げ渡した。撞木橋跡は馬車通りにあり、通りの北側の真ん中に「時の鐘」のレブリ
カがある。
 ◇南辻橋
 立川四丁目と江東橋五丁目を結ぶ橋で、創架は本所地割の万治二年で、現在の橋は昭和6年の架橋
だ。古くは「南横堀橋」と云ったそうだが、享保年間(1716~35)に南辻橋となった。辻とは
道が十文字に交差するところいうが、川もそういうのか? 川の辻の南にある橋の意だ。撞木橋で大
横川親水公園は終りだ。大横川は立川の所から水を得て、江東区に向かって南進する。全長34m6
2cm×11mで、墨田区の管理。
 ◇菊柳橋
 菊川3丁目と江東橋5丁目を結ぶ。昭和5年に関東大震災の復興計画によって架設された。江東橋
5丁目に柳原3丁目という町があり、菊川と繋げたので柳と菊で菊柳橋ということだ。この辺りでも
震災で多くの人が焼死している。全長37m×幅員11mで、墨田区の管理。
 ◇菊川橋
 菊川3丁目と江東橋5丁目を結ぶ橋。創架は元禄十五年(1720)で、はじめは間之橋(あいの
はし)と呼ばれていたが、享保五年(1720)に架け替えられた時、今の名となった。その昔この
橋の西側に菊川という小さい流れがあったので、町名にもなり橋の名前にもなった。この辺りが本所
と深川の境だ、現在の橋は昭和63年の架橋。本所は3度火の海となっている。安政の大地震、関東
大震災、そして東京大空襲。その都度不死鳥のように蘇るバイタリティのある町だ。
 この橋の西詰めに夢違え地蔵尊がある。大空襲による菊川周辺の殉難者3000余名を弔うと共に
悪夢の消滅を願い、これを善夢に導き再び惨禍を繰り返さないようにとの願いから作られた地蔵尊。
菊川橋は新大橋通りに架かっているが、この通りをもう少し西に行くと、火付盗賊改方長谷川平蔵の
屋敷跡(遠山金四郎の屋敷跡でもある)がある。   
 



■横川小学校
 
 東駒形4丁目18番4号にある区立校。明治35年12月20日本所区中ノ郷横川58番地(現在
地)に、本所区で9番目の学校として設立が認可され、翌36年6月4日児童数129名で開校。同
39年校歌制定。

 校歌
「かしこきみこと」
 作詞作曲・不詳
  1.かしこきみこと 師の教え
    唯一筋に守りつつ
    万の学び千々の枝
    共に励みつ勤しみつ
  2.正しき掟 直き道
    心一つに保ちつつ
    万の学び千々の枝
    共に励みつ勤しみつ
  3.流れ絶えせぬ横川の
    学びの庭に集い来て
    この教え草 摘む身こそ
    やがて目出度き花も咲け


 本校の学区は、江戸時代からの庶民気質を残し伝える街中にある。東京市横川尋常小学
校、東京市本所区横川尋常高等小学校、東京市本所区横川尋常小学校、東京市横川国民学校、東京都
横川国民学校
と、社会情勢による校名の変更はあったものの、「教育を受ける児童が、本来持ってい
る個性・能力を大切にし児童に知識を教えるよりも、むしろ児童が知識内容を意欲的に学び取る探求
の方法を学び取らせることが教育である」という『動的教育法』への取り組みで培ってきた。「為す
ことによって学ぶ」体験的な活動や問題解決型の活動に力を入れ、実践力のある子どもたちに育てる
べくと永年努力を積み重ねてきた。
 大正12年9月1日に起きた関東大震災は、校舎を全焼させ、天幕(テント)や露天、仮校舎での
授業を行わなければならなかった。待ちに待った鉄筋3階建ての新校舎が昭和4年12月20日に完
成するが、その校舎も昭和20年3月10日の愚かなアメリカ軍の無差別東京大空襲により被災し、
翌21年3月31日本校は廃校となってしまった。そのため子どもたちは、区内近接の業平、外手、
小梅小学校に別れて学ぶことになった。
 それから9年、横川の地域の子どもの数も増え、「是非、同じ横川で学ばせたい」という地域、保
護者、卒業生の熱い思い入れと行政の支援により昭和30年4月1日に東京都墨田区立横川小学校と
して復活再校された。その時の児童数は989名だった。平成14年創立100周年。

 校歌「いまに世界にとぶわれら」 作詞・巽聖歌  作曲・渡辺浦人
  1.朝だ 明るい横川の
    授業始めの あのチャイム
    らんらん らんらん
    らんらん らんらん
    西に気高い富士を見て
    学ぼう みんなで和やかに
  2.科学する目だ この町に
    みんなの誇り 横川校
    らんらん らんらん
    らんらん らんらん
    胸に帽子に梅の花
    築こう みんなで この郷土
  3.虹だ 郷土の横川に
    流れ豊かな隅田川
    らんらん らんらん
    らんらん らんらん
    今に世界に飛ぶ吾等
    歌おう みんなで輪になって






【東墨田】(ひがしすみだ)1~3丁目                昭和41年5月1日
 下木下川村(しもきげがわむら)。明治元年東京府所属。同11年南葛飾郡。同22年大畑村・
木ノ下村・上木下川村・下木下川村(大部分)と、須崎村・請地村・寺島村・善左衛門村・渋江村
・川端村の各飛地が合併して大木村を成立したが、大正3年村の大部分が荒川放水路となったため
廃村、残った区域はそれぞれ隣接の村に吸収された。下木下川地区は本田村と吾嬬町に分散、その
大字となり、昭和5年吾嬬町大字東6~8丁目となる。同7年寺島町・隅田町・吾嬬町が東京市に
編入され20区制により向島区が成立、同区吾嬬町東6~8丁目となる。同22年墨田区に所属。
同41年新住居表示により吾嬬町東6~8丁目をあわせた町域を現行の「東墨田」とした。

 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『墨田区史』『墨田の歴史』など。

 
東墨田について

 町名は墨田区の東部に位置することによる。この中川の風情はすっごくいい。土手も低いしコン
クリート護岸もないので川そのものを満喫できる。河岸も落ち着いた整備で現代の河川行政のある
べき姿と思ってしまう。しかし洪水になったら一溜まりもない。木下川(きげ
がわ)の名は小学校と排水機場に残る。



■すみだスポーツ健康センター
 東墨田1丁目6番1号にある。



■墨田清掃工場
 東墨田1丁目10番23号にある。元の明治製菓→東墨田運動場の一角に巨大な煙突が立っている
が、墨田区の清掃工場だ。門の左側に見学コースの案内があり植物公園の体である。受付事務所まで
の通路がそうなのだ。「愉快なオーケストラの仲間たち」をテーマにしたモニュメントが、ト音記号
・ロボット指揮者・ハープ・ラッパ・太鼓・トライアングル・バイオリン・ホチュロホーンと題して
配置されている。お役所仕事にしては洒落てる。極めて民間的発想だ。近年中川に「ゆりのき橋」が
架けられた。煤けた工場街が次第に住宅街に変わりつつある。中川に架かる新平井橋は中平井橋に名
前を変えた。
 と、記述したら、K. Tashiro さんからメールを戴きました。

   
恐れながら、ちょっと気づきましたところをひとつ。
   「墨田区」の東墨田のところですが、
   「もとの明治製菓→東墨田運動場の一角に巨大な煙突」とありますが、
   明治製菓ではなく、これは
明治製革ではないでしょうか。
   もっとも今は移転してありませんが。


 
申し訳ありません。おいらのミスでした。ついでに明治製革は、現在メルクスに社名を変更し、区
内緑2丁目24番に本社を移し、本社工場の業務は長野県飯田工場に集約した。



■木下川小学校 廃校
 東墨田2丁目15番13号にあった区立校。平成15年吾嬬第五小学校・更正小学校と統合して八
広小学校となった。八広小学校は更正小学校の跡地に建つ。葛飾・墨田で「木下川」は「きねがわ」
と読む。しかしこれは誤読で、元は「きげがわ」と読んでいた。まだ荒川が掘られてなかったころ、
ここに木下川村(きげがわむら)があり、主たる部分は川の中に没してしまったが、四つ木に移った
木下川薬師は踵を接して参詣者が押し寄せたところだ。荒川に木橋の「木根川橋」架かっていた。ボ
ロボロの橋でね。あちこち穴があいてて、おっかない橋だったよ。今は立派な造り(昭和44年12
月改架)になってるよ。

 校歌「墨田の東」  作詞作曲・校歌選定委員会
  1.墨田の東煙立ち
    栄ゆる町に映えて見ゆ
    ああ豊かなり木下川校
    若き希望は虹越えて
    遥けき空に広がりぬ

  2.武蔵野下る荒川と
    流れを競い雄々しくも
    ああ盛んなり木下川校
    心誠に身を鍛え
    豊かに実る日を待たん
  3 若木の風もさわやかに
    なびく校旗もへんぼんと
    ああ清新の木下川校
    幸と平和を守りぬき
    我が学び舎を花とせん




■産業・教育資料室 きねがわ
 東墨田2丁目15番13号にある区の施設。皮革と油脂のまち 木下川の貴重な産業資料と、人権
教育の灯を掲げ続けてきた木下川小学校66年の歩みを示した手作りの資料室だ。地域の産業資料と
木下川小学校の教育・子どもたちの営みを、収集・保存・整理・展示する。「皮革と油脂」を中心とする
木下川の産業資料は、昭和51年木下川小学校に開館した「産業資料館」の資料に新たな収集品を加
えた。皮革・油脂の仕事を担ってきた人々の想いと暮らしに触れ、町づくりや地域学習に活かしてい
きたい。地域の熱い思いで昭和11年に創立され、平成15年に閉校した木下川小学校の教育は、人
権教育の灯をかかげ続けてきた。長年に亘り教師と子供たちが積み上げてきた学習成果を、収集、整
理、展示、研究することで、この意味を明らかにし、教育のありかたを考える場にしたいと考えた。



■木下川教会
 東墨田2丁目21番1号にある浄土真宗大谷派の寺。普通の民家。寺なのか、布教所なのか、僧侶
の住宅なのか判らない。



光明山蓮池院万福寺
 東墨田3丁目12番19号にある真言宗豊山派の寺。大永七年(1527)に下木下川村に創建し
たと伝えられ、大正元年(1912)荒川放水路開鑿のため現在地に移ったが、当時岩田秀円住職、
大塚助次郎・石渡留吉両建築委員によって再建された。本尊は阿弥陀如来、開基は東福坊、天保年間
(1830~44)には山伏が
入っていたという。門を入ると6基の石塔群がある。南葛第69番と
あり、古くから参詣者が多い。南葛八十八ヶ所霊場69番札所。
 天和年間(1681~84)の将棋駒型庚申塔は青面金剛を本尊とする。この種では早い時期のも
のだ。また寛文十二年(1672)の念仏講碑がある。本堂前には文化十五年(1818)建立の子
安・子育観音菩薩碑があり花講中の銘がある。隣に子育地蔵尊がある。「新編武蔵風土記稿」に、

    (下木下川村)萬福寺
   義真言宗上小松村正福寺末、光明山蓮池院と号す。当寺は大永七年東福坊と云僧起立すと
   云。
   本尊弥陀坐像、長一尺五寸許行基の作。天神社、聖天堂。


 とある。文化財として寛文二年銘地蔵像・寛文十二年銘観音坐像・天和二年銘庚申像・元禄三年銘
阿弥陀像がある。庚申像は浮彫りで青面金剛を彫ったものとしては区内最古で区の登録文化財。



■白髭神社
 東墨田3丁目13番24号にある。「区民健康づくりラジオ体操広場」と銘打ってある。創建は貞
観二年(860)とあるが、由来は、延暦七年(788)伝教大師半躰作の薬師像を広智なる僧が背
負って来たところ、武州中川の辺りで唱翁(白鬚明神)に出会い、わが草庵に安置するようにと託宣
があったという。まあ大昔のことだから色々あらぁね。旧白鬚明神は、別当寺天台宗木下川薬師(浄
光寺)の守護神として信仰が深まっていたが、明治43年の荒川放水路掘削工事に伴い、川の中央に
社殿が位置したため移転させられる。そして葛飾側へは、木下川薬師、墨田側には、白鬚神社・天満
宮として別れて祭られることとなった。祭神は猿田彦命。


 木根川橋 作詩・作曲:さだまさし
    先生、俺達の木造校舎
    すっかりなくなっちまったんですねェ
    それに、あの暑い夏に重いローラー転がしてならした
    テニス・コートの上にプールなんか出来ちまって…
    先生、時の流れって、そんなもんですかねェ
  1.木根川橋から水道路抜けた白髭神社の縁日は
    アセチレン焚いて杏飴(あんずあめ)売ってますか
    相も変わらず賑やかなんでしょうね
    (M-)
    あの頃何やら覚えて居るのは
    あの娘の笑顔と冷たさと
    不思議な胸のどよめきと
    あっけらかんとあっけらかんと
    みんなみんな 許せた毎日
    先生、あの頃よくのりちゃんと銭湯行ってね
    あいつときたら、15番の下駄箱があくまでは
    どんな雪の中だって雨の中だって中へ入らなかった
    先生、覚えているかな、うちのクラスの15番、そう
    目のステキなのりの好きだったあの娘の
    出席番号だったんですよ

  2.僕らはこっそりノートの片隅に
    あの娘の名前に自分の苗字を
    被せて書いては慌てて塗り潰し
    辺りを見廻し赤くなったもんです
    (M-)
    使いの帰りは廻り道をして
    あの娘の家の前を通ったもの
    そのくせ会えば そっぽを向いた
    なんともはや すてきだった
    仲間達に カンパイ!!

  3.木根川薬師の植木市の日には
    今でも必ず雨が降りますか
    もんじゃ焼きのコツ 忘れちゃいませんよ
    カルメ焼き冷やすより易しかったもの
    (M-)
    あの頃チャリンコ転がして行った
    曵舟、押上、浅草の
    不思議な胸の高鳴りと
    荒川土手の忘れちゃいけない
    毎度毎度の 草野球
    先生、みんな変っちまいましたねェ
    先生、先生・・・なんだ寝ちまったんですか・・・






【東向島】(ひがしむこうじま)1~6丁目              昭和40年3月1日
 寺島村。明治22年「市制町村制」により寺島村大字寺島。大正12年寺島町大字寺島。昭和7
年向島区寺島町1~8丁目。同22年墨田区所属。同40年寺島町1~2丁目・5~7丁目の大部
分に隅田町4丁目の一部をあわせた町域を現行の「東向島」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『墨田区史』『墨田の歴史』など。

 
寺島の由来
 ①北条武蔵守経時が鎌倉に建立した蓮華寺を、弘長元年(1216)子の頼助法印がこの地(3
丁目23番)に移したことで起きたという説と、②葛西三郎清重が開いた法泉寺(3丁目8番)の
境内が村の大部分を占めていたとする説とがある。島は当時川中島状態だったことによる。寺島の
名を残せばよいものを、向島の名の勢いに押されたのか、情けないことに寺島住民は向島に擦り寄っ
た。第1~第3寺島小学校・中学校に名を残している。

 東向島について
 本来寺島とすべきところを向島の粋に肖って、向島より古い地名を棄てた。東向島とは向島の東
側の意だろうが、向島という地名は新住居表示の産物で、つい最近まで旧荒川(隅田川)東岸の漠
然たる俗称に過ぎなかった。東向島はださい。 



■寺島茄子
 寺島は元の名を隅田(すだ)といったように、隅田川原の低湿地だった。そのため稲作中心の農村
だったが、江戸に近く、水運の便もよいことから、次第に生産の中心は、収益の多換金作物に転換し
ていった。水田では蓮根、花菖蒲を栽培し、花菖蒲は切花として出荷した。稲も米を収穫するのでは
なく、正月の飾り用に使う「みとらず(実穫らず)という草丈の高い稲を作り、青刈りしていた。又
肥沃な土地は茄子栽培の好適地であり、茄子で利益が上がると判ると、少ない畑地に作付け希望者が
殺到し、畑の面積の三倍の水田の抱きこみでないと貸さないという条件でも望む者が多く、いかに野
菜作りが高収益であったかを知ることができる。ために水田は次第に埋められ、畑地化していった。
茄子の名が高いからといって茄子だけを栽培したのでしなく、明治から大正にかけて30種類にも及
んだ。主なものは漬菜・茄子・葱・大根・京菜・小松菜・白瓜だが、漬菜・茄子が多かった。



鳩の街
 東向島1丁目と向島5丁目の境をなす一方通行の商店街。戦災で玉ノ井が壊滅すると、玉ノ井から
娼家が移ってきて赤線地帯が形成された。
 
玉の井駅(東向島駅)から水戸街道方面へ10分ほど歩くと「鳩の街商店街」がある。ほとんど目
立たない商店街の入口、注意して歩かないと通り過ぎてしまいそうな商店街も、戦後は新興のカフェ
ー街として、山の手の男も通ったといわれる赤線地帯(戦後派の私娼街)だ。もともとは罹災した玉
の井の業者が玉の井と向島花街の中間に当たる、焼け残った住宅地に目を向け、カフェー風の町並み
が整うようになったことに始まる。「鳩の街特飲街」は、昭和33年の「売春防止法」成立とともに
なくなったが、現在でも所々に、壁や柱に模造タイルで彩られたかつての娼家が残っている。さらに
「鳩の街」は、洲崎が東陽3丁目、吉原が千束4丁目、玉の井が東向島5丁目と、売春の汚名払拭の
ため新地名に変えてしまった中で、今も「鳩の街」という名を残しているところの気風がいい。鳩の
街を舞台にした映画に「渡り鳥いつ帰る」
昭和30年、久慈あさみ主演、久松静児監督、原作永井
荷風『にぎりめし』『春情鳩の街』『渡り鳥いつ帰る』を久保田万太郎が脚色構成)がある。
 女優で歌手の
木の実ナナが、昭和21年にこの街で生まれている。

 と書いたら、ナカダさんからメールを頂戴しました。

   玉の井駅(東向島駅)から水戸街道は100m程度。そこから水戸街道を言問橋方面へ1
   5分ほど歩くと、東向島と向島の境界に鳩の街があります。
   また、最寄り駅は東武の曳舟で、この駅からならば、水戸街道方面へ10分ほど歩くと、
   の表現でも合ってます。


 赤線地帯・青線地帯

 赤線とは、売春を目的とする特殊飲食店の集まっていた公認地域をいう。警察署の地図に赤い線で
囲ってあった。青線とは、赤線地帯の周辺で、営業許可なしに売春行為を行なっていた飲食店街。警
察の地図に青い線で表示されていた。共に昭和32年の「売春防止法」施行で廃止された。黄線地帯
や黒線地帯は、映画の造語
だ。 売春は「男が強制するものだ」と当時の文化人の小母さん連中は大
騒ぎしていたが、しかし今もってなくならない。女性が自らの意思で積極的にやるからだ。中、高生
あたりでも積極的だ。東電のキャリアウーマン、年収1000万で借金無しでも売春してた。殺され
て判明した。「文化人の小母さんよぉ、これでも男が強制してるのかい?」 売春は悪意ある女の身
勝手。また淫売宿の経営者は男性だけではない。プロ野球のある超有名チームの正捕手の祖母ちゃん
はソープランドを経営してるぜ。

 
売春防止法
 この法律の施行は女性の権利を守るためと謳ってあるが、事実は高度経済成長の人手不足を補うた
めに、女性を事務職に転用する必要が生じたためだ。むかし事務員は男が当たり前だった。高度経済
成長の中で、男は肉体労働、営業活動に集中させたので、女性で賄える仕事として事務職は女性に割
り振られた。当時は社長が良家を訪問して娘の親にお願いして就職して貰ったものだ。建設業界に女
性事務員が入社するのは最も遅かった。かくてBG(ビジネスガール)の誕生である。しかしBGが
欧米ではブラックガール、即ち売春婦を表現する隠語だということが判り、東京オリンピックの開催
に際して不具合だということで、OL(オフィスレディ)に改称することにし、今日に至っている。
だから当時は売春行為は厳しく取り締まられたが、近年のOA(オフィス・オートメイション)化に
より、事務効率が上がり、一般事務職の要員過剰となると、買春行為は放任され、取り締まられるこ
とはなくなった。女性は売春街に戻りつつある。女性の人権は何処に行ったんだ~い!



■きびだんごの「吉備子屋」
 東向島1丁目2番14号にある黍団子専門店。
きびだんごの主成分「きび」は、穀物の中で一番栄
養価が高く、心臓を強化し小腸の働きを促す。高タンパク源、低カロリーのきな粉で食べれば、味は
格別だ。添加物は一切含まれていないヘルシーな食品だ。

 
文部省唱歌「桃太郎」 作詞・不詳  作曲・岡野貞一
  1.桃太郎さん 桃太郎さん
    お腰につけた 吉備団子
    一つ私に下さいな
  2.やりましょう やりましょう
    これから鬼の征伐に
    ついて行くなら あげましょう
  3.行きましょう 行きましょう
    貴方について何処までも
    家来になって 行きましょう
  4.そりゃ進め そりゃ進め
    一度に攻めて攻めやぶり
    潰してしまえ 鬼が島
  5.面白い 面白い
    残らず鬼を 攻め伏せて
    分捕物(ぶんどりもの)を えんやらや
  6.万々歳 万々歳
    お伴の犬や猿 雉子は
    勇んで車を えんやらや



■第一寺島小学校
 東向島1丁目16番2号にある区立校。人情味溢れる墨田区の下町東向島の中心に位置している。
近くには百花園や白鬚神社もあり、子どもたちはのびのびと学校生活を楽しんでいる。
 明治12年10月12日「寺島村立寺島小学校」として創立(発祥の地の碑が地蔵坂通りを挟んで
向かいの図書館の中にある)。その後小学校令改正により「南葛飾郡寺島尋常小学校」と改称。同1
9年10月高等科を併置し「南葛飾郡寺島尋常高等小学校」と改称。 大正13年4月1日第二寺島
尋常小学校の新設により「南葛飾郡第一寺島尋常高等小学校」と改称。
 昭和3年第三寺島尋常小学校を分校。同4年創立50周年。同7年「東京市第一寺島尋常小学校」
と改称。同16年勅令148号国民学校令公布により「東京府東京市第一寺島国民学校」と改称。1
2月日米開戦。同18年「東京都第一寺島国民学校」と改称。同19年8月茨城県境町、岩井町、宍
戸町の3町内の9ヶ寮に集団疎開(児童400名、派遣教員14名)。ひさご亭、福島屋、橘屋、岡
田屋、小林屋。同20年5月秋田県船越町・天王村・脇本村3ヶ町村4ヶ寮に再疎開(児童200名
派遣教員11名)自性院他3寺。同20年8月敗戦。同10月22日集団疎開復帰。
 同22年戦勝国アメリカの強制による学校教育法施行により「墨田区立第一寺島小学校」と改称。
同24年創立70周年記念式。同34年創立80周年記念式典。同39年プール完成。創立85周年
記念式典。同43年放送施設新設。第1期鉄筋コンクリート造り4階建て校舎(職員室・普通教室6
・水洗トイレ等)落成。同44年第2期鉄筋コンクリート造り4階建て校舎(特別教室4、普通教室
3、変電室、物置等)落成。同44年創立90周年記念式典。同45年体育館落完成。同46年第3
期鉄筋コンクリート造り4階建て校舎落成。同47年第4期鉄筋コンクリート造り4階建て校舎落成。
同54年創立100周年記念式典。同55年図書室・準備室・書庫改修新
設。同61年校舎内照明器具全面改修。同63年体育館バスケットボード取付。
 平成元年創立110周年記念式典。同2~3年普通教室を和室に改造。同4年FF暖房取付(図工
室、理科室、家庭科室)。同5年天水尊(雨水利用装置)設置。同7年東向島児童館学童保育クラブ
分室一時開設。同8年防災備蓄倉庫設置。同9年機械警備開始。東向島児童館学童保育クラブ分室撤
収。同10年コンピュータールーム設置。同12年ランチルーム設置。同14年転落防止用窓外手摺
取付。図書室空調エアコン設置。同15年東向島児童館学童保育クラブ分室設置。校内LAN設置。
転落防止窓外手摺(12教室以外)取付。同16年教室床・給食室改修。学校図書館データベース化
開始。同16年創立125周年記念式典。同17年学校図書館システム導入。同18年プールサイド
改修。同19年スクールカウンセラーを配置。普通教室・特別教室エアコン設置。同21年創立13
0周年記念事業「寺島なす」復活栽培。創立130周年記念式典。

 校歌「都の東昔より」 作詞・滝熊之助  作曲・山本正夫
  1.都の東昔より
    雪月花に名も高き
    隅田の堤見渡して
    古き歴史も輝かに
    我が学び舎は聳えたり
  2.紫雲棚引く紅葉山
    千代田の森の程近く
    学びの道に勤しめる
    吾等の祥を声高く
    いざや歌わん諸共に
  3.日に新たなる力持て
    煌き上る朝日子の
    諭
(さと)し忘れず励みなば
    吾等の誓いいや固く
    国の光となりぬべし
  4.隅田の流れ弛みなく
    業を磨きて桜花
    清き操を身にしめて
    よく学びつつよく遊び
    進み行かん諸共に




■東向島一丁目殺人事件

 東向島1丁目33番4号の2階建て住宅(借家)で起きた殺人。平成24年12月2日午後1時3
0分頃、この家に住む無職大久保敏明(58歳)が、首や顔、頭などを刃物で刺され死亡しているの
を、大家から連絡を受けた親族の男性(75歳)が発見した。発見された時、被害者はジャンパーに
ズボン姿で、1階洋間のベッド脇にうつ伏せに倒れて死亡していたが、その洋間にあった机の引き出
しには現金30000円が入った財布が手付かずで残されていたという。発見時、玄関の鍵は掛かっ
ておらず、室内の電気は消えていた。遺体には、20ヶ所以上の刺し傷や切り傷があり、その他、固
い物で殴られたような痕も含めると、40ヶ所に上る傷があったとか。それらの殆どが首から上に集
中し、右手には犯人と争った際にできたとみられる防御創もあったという。殺害するのが目的なら、
普通は腹をを刺すが、執拗に首から上を狙っているので、犯人は相当の恨みを持っていたのか? 死
因は首を刺された出血死とのこと。他の部屋に入った痕跡はなく、顔見知りの犯行と思われる。



■江戸木箸

 東向島2丁目3番6号にある箸工房「大黒屋」。自分に合った箸を使ってほしいという願いから、
用途別に様々な種類の箸を創作している箸職人武田勝彦が、自前の店「江戸木箸 大黒屋」をオープ
ンした。店では、使う人の趣向に合わせて創作したお箸が約200膳以上並ぶ。五角箸・八角箸・納
豆箸・豆腐箸・サラダ箸・紫檀箸・青黒檀箸etcetc ・・・ 美しいデザインと機能性を兼ねた「ずん
ぐり箸」は、箸が苦手な方やつまむ力の弱い方にお勧めだ。休日は、第2・3土曜日、祝祭日で、あ
とは毎日午前10時から午後5時まで開いている。03-3611-0613
 [問合せ]墨田区産業経済課産業振興担当 03‐5608‐6186



■向島税務署
 東向島2丁目7番14号にある。



■豊川稲荷
 東向島2丁目11番12号の建物の角にある小祠。



■睦稲荷神社
 東向島2丁目22番44号にある小社。



■曳舟駅
 東向島2丁目26番6号にある東武伊勢崎線、亀戸線の停車場。明治35年4月1日の吾妻橋(業
平橋)~北千住間開業時にできた駅。その2年後の明治37年には、亀戸線も開通している。平成1
5年に半蔵門線が押上まで全通した際、曳舟から押上までの線路も開通し、直通運転が開始された。
ホームは高架複合式3面5線構造。伊勢崎線が発着する1~4番線(島式ホーム2面)と、亀戸線が
発着する5番線(片面ホーム1面)から成っている。ホームと改札階を結ぶエレベーターは、平成1
8年3月に全てのホームに設置された。改札口は1ヶ所のみで地上1階にある。出口は西口と東口の
2ヶ所。曳舟~北千住間の各駅は、準急は全列車が停車するものの、半蔵門線直通の区間準急・通勤
準急は停車しないので注意。曳舟駅からそれらの駅へ行く際は気を付けよう。



■向島郵便局

 東向島2丁目32番25号にある。



■子育て地蔵
 東向島3丁目2番にある。地蔵坂通りの名の元となったお地蔵さん。

   子育地蔵堂
   所在 墨田区東向島三丁目二番一号この小堂に祭られている子育地蔵は、文化年間(18
   04~1817)に隅田川の堤防修築工事の際、土中から発見されたと伝えられています。
   初は村の子供たちが、神輿がわりにこの地蔵をかついでいたそうです。ところがこの地に
   古くから住む植木屋平作方の雇人夫婦が、ある日、田地で殺害されましたが、この地蔵が
   村のこどもの口をかりて犯人をお告げになり、たちまち犯人を捕えることができました。
   この奇跡に驚いた平作は、当所に地蔵を安置して供養を怠りませんでした。その後、将軍
   家斉が当地に鷹狩に来て、平作方に小憩の際、地蔵の由来を聞いて感銘し、帰城の時にお
   参りしました。平作はこれを記念して小堂を建てて地蔵を安置したところ、多くの人々が
   参詣するようになりました。このお堂の前の坂は明治四十四年、堤防修築の時にできたも
   のですが、今も「地蔵坂」の名で知られています。
   昭和六十二年三月                            墨田区



白鬚神社
 東向島3丁目5番2号にある大社。白鬚の渡し・
白鬚橋の名の由来となった神社。祭神は猿田彦大
神、天照大神、高皇産霊神、神皇産霊神、大宮能売神、豊由気大神、建御名方神。境内に三峯社、水
神社、諏訪社を合わせる。

 天暦五年(951)慈恵大師が関東に下ったときに近江国比良山麓志賀郡打下の白鬚大明神の分霊
を祀ったことに始まる。慈恵大師ではなく元三大師良源だとするものもある。天正19年には将軍家
より神領2石を奉られている。寺島村の氏神としてばかりでなく、商売繁盛、方災除け、厄除けの神
として多くの人々の崇敬を受け、隅田川七福神の寿老神としても崇められている。区内では牛島神社
と並ぶ古社で、社殿は元治元年(1864)に造営された白木造りで、区内では震災・戦災を免れた
貴重な建造物だったが、平成2年放火によって焼失。現在の社殿は同4年に再建されたもの。
 白鬚とは百済のことで、朝鮮の帰化人の遺跡という説が強い。栃木の益子、埼玉の高麗、多摩の狛
江(井の頭池)など関東には古代朝鮮人の居留地は多い。
 境内に数々の碑がある。変ったものでは寛政十二年(1800)の力石がある。重さが50貫(1
87.5kg)、55貫(206.25㎏)などだ。
 入口の石の門柱に刻まれている篆書は右が「神徳」、左が「唯馨」。「新編武蔵風土記稿」に


   白鬚社。
   村の鎮守なり。相傳ふ当社は天暦五年元三大師関東下向の時、江州志賀軍打颪より勧請し、
   天正十九年社領二石を給ひし由。されと今は免除の地なく社地のみ僅の除地なり。神体は
   元三大師の作長一尺の立像也。左右に諏訪と稲荷を安す。本地不動は坐像長四寸許興教大
   師の作。今は別当寺の本山蓮花寺に在り。


 とある。

 石灯籠2基
 ①.立派な基壇の上に起立する宮前型の灯龍。損傷・磨滅の少ない保存の行き届いたものだ。銘は
「寛政十三年(1801)辛酉正月吉日 献燈両基 両替町田中氏」とある。田中氏は寺島村出身で
名主の中山氏の一族と思われる。
 ②形式は春日型。銘に「寛永二年(1849)次歳 法橋胡民斉 巳酉五月吉日」あるから、寺
島村の中山胡民(祐吉)の奉納であることが判る。

 狛犬1対(区登録文化財)
 文化三年(1806)に作られた阿吽形の一対。阿形の台座に損傷が見られるが、像そのものは磨
滅はない。白鬚神社の「御宝前」に「奉納」されたもの。作者は神田今川町の石工六兵衛明貴の手に
なるもので、白鬚神社が墨堤という場所柄にあることと、祭神猿田彦命が商売繁昌の神として信仰を
集めていたことにより、奉納(建立)者は、当時、通人として知られた人々、松葉屋半左衛門(吉原
の遊女屋)、八百屋善四郎(浅草山谷の料亭八百善)、駿河屋市兵衛が合力したものだ。

 
三十七八年役紀念献燈人名碑

 篆書で西川春洞が書丹したもの。西川はこの近くに住んでいて、参道入口の「神徳」「唯馨」の篆
書を書いている。


 白鬚神社縁起碑
 かって白鬚神社の東隣に、今は廃寺となって無い別当寺の西蔵院があった。享和二年(1802)
社殿修理を機に、その持住興元の求めに応じて、高名な橘(加藤)千陰(回向院)が筆を揮ったたも
のだ。碑面が摩滅していてかなり読み辛くなっている。

 鎮座一千年記念碑
 昭和28年の建碑。

 
空谷等周衣嘖之蔵
 下総(千葉県)出身の画家、川村等周(号空谷)の衣嘖(衣と頭巾)を埋め、その彼と親交のあっ
た清水武によって営まれた碑で、篆額は海若寺本永。書丹は清水の子8歳の孝(孝蔵)。碑陰の書は
12歳の美智(姉)が筆を執ったもので、幼少の者が揮毫したという大変に珍しい碑は、文政十一年
(1828)の建碑。撰文者の綾瀬亀田長梓は亀田鵬斎の義子(一説に長子)で亀田三蔵(綾瀬)の
ことだ。なおこの碑そのものに移動があったのか、碑陰が前面に出ており、碑面の下部は土に埋まっ
ている現況だ。

 亡友蒼山衣剱之蔵碑
 碑面の添え書きによれば、蒼山は本名を小野田大三郎といい、24歳で没し、市谷善慶寺に葬られ
た。彼の衣と剱(刀)を埋めて塚としたものだ。篆額は海若寺本永、撰文は金陵芳野愿、書丹は盤谷
鈴木毅。窪世祥鐫。碑陰の建碑者名の中に、亀田三蔵(綾瀬)・清水武の子、美智・孝蔵(孝)姉弟の
名がある。前の「空谷等周先生衣嘖之蔵」と何らかの関連があるのだろうか。天保四年(1833)
の建碑だ。

 
諏訪大明神碑
 天保八年(1837)の建碑。神社の南に大永元年(1521)創建の諏方神社の遺跡があった。
神社は明治40年に合祀した。

 
北島玄二歌碑(黒人碑)
 白鬚神社にあるものの内一番の古碑で、寛政十二年(1800)の建碑。裏に北島とあるが、三河
屋半兵衛のことで、通称を浜辺黒人といった。木阿弥と並ぶ江戸の2奇人で、狂歌で食っていた。高
さ1mに満たない四角柱の碑だが、彫りも深く風格もある碑だ。
 「黒人塚」と大書して、右面に、

   天やこの人を生み 天やこの人亡る この人阡人の玄 崑崙一人に選る倚る

 この句は、原漢文。左面に、

   うつせみのうつつにしばしすみた川 渡りそはつるゆめのうきはし

 と刻んでいる。
 北島玄二は本名を源二、色が黒(玄)いので玄ニと称したという。本業は医師で『くすしのみち』
を著したともいう。

 
天広丸の碑
 
酔亀堂狂歌碑ともいう。宝暦六年(1756)鎌倉生まれの狂歌作者。本名を磯崎広吉、号を酔亀
亭と名乗り、文政十一年(1828)に没している。
 青石の自然石上部に酒を表すとみられる標記(酒の印篆の1つか?)を置き、

   くむ酒は 是風流の眼なり 月を見るにも花を見るにも

 この狂歌は彼の出生地、鎌倉市今泉の白山神社参道入口にある、文化元年(1804)
銘のある
自筆の狂歌碑と全く同じ筆勢なので、これも自筆であり、建碑も文化初年を下らな
いものと思われる。彼は狂歌を唐衣橘洲に学び、生涯、酒好きで、その著「狂歌酒百首」の
巻頭(第一首)を飾るのが、この歌だ。

 加舎白雄の句碑
 かやしらお 
天明の放浪の俳人。号を春秋庵といった。

   人こひし 火ともしころを さくらちる

 
高さ140cmの四角柱の句碑だが、損傷が大きく碑陰は全く読め無い。白雄は信州(長野県)上
田の生まれで、多年各地を放浪して後、江戸に春秋庵を開き、句作に励んだ。隠逸潔癖、純真多感、
飾りのない作風を主張し、蕉風俳諧の作法を平易に説いた。碑の句も、その著『白雄句集』からの出
典。なお碑陰は、「于時文化歳在癸酉(1813)春三月 拙堂創建之 補助居行」と補うことがで
きる。

 中原耕張の句碑
 高さ123cmの四角柱正面に「筆塚 中原耕張」として次の句を添えている。

   つくつくし つめよ硯の すみ田川

 筆塚は退筆塚ともいわれて、使い古した筆を地に埋めて供養塚としたものだ。この句の面白さは、
言葉の言い懸けを多用しているところ。念入りにの意の「つくづく」と筆塚にちなんで「つくし(土
筆)」、「つめ」の積む(蓄える・ためる・励む)と摘む(集む)、硯のすみ(墨)」と「すみ(隅)
田川」が、それだ。
 中原耕張は、この筆塚を建碑した2年後にの冬に、近くの蓮花寺に「算子塚」をも建碑しているか
ら、恐らく書道(長雄流)と算盤(最上流)で生計をたてていた、山谷(台東区)鳥越の人物と思わ
れる。

 桑楊庵干則句碑

   久かたの天津をとめもうらやまむ 人間界の華のしら雲

 桑楊庵干則は浅草干則のことか? 初代桑楊庵(別号 頭光。江戸後期の狂歌師で狂歌四天王の一
人)は、享和二年(1802)に門人真砂庵干則に、号を譲ったとのこと。

 
墨多三絶之碑
 佐羽淡齋の隅田川遊船逍遥の漢詩、三連の七言絶句が刻まれている。篆額の揮毫は巻菱湖で、詩を
江戸4詩家の1人大窪詩佛が草書で書いたもの。享和二年(1802)の建碑で、参詣者の多かった
ことを知ることができる。火災時の熱のためか石が割れ、表面が剥落しそうである。区の資料では廣
羣鶴并男羣亀が鐫を取ったとある。羣鶴は代々名乗りなので、羣亀は、その跡継ぎの名前なら珍しい。

 三十六湾漁叟「隅田川観楓詩并序」碑
 隅田村から小梅村界の墨堤に楓を創植するのに、独力で成し遂げた女性の健気さに打たれて絶句五
連を得た三十六湾漁叟(越後人。館柳湾。雄次郎)の漢詩の碑。天保七年(1836)の建碑 女性
の名は川口娜保(直)といい、もと吉原の名妓で太田南畝(獨山人)作詩の「北洲」に節付けした三
味線の名手であったともいわれている。芸妓をやめ、日本橋薬研堀に「川口」という料亭を開き、の
ち橋場に移り、繁盛したとか・・・

 四世今日庵の句碑
 高さ190cmの自然石に「四世今日庵元風」として句を刻んでいる。

   こころほど こと葉のたらぬ さくらかな

 元風は本名を松本伊助といい、師一蛾につき、天保の頃に活躍した江戸の俳人。息子盛義(小衰)
による天保七年(1836)の建碑。また彼の手になる碑は区内に多くある。


 
岩瀬鴎所君之墓碑
 一の鳥居を潜った右手奥にある。高さ2mを越える大碑だが、碑林とは反対の壁際にあるので見落
とされやすい。岩瀬忠震(ただなり)の一代記で、若くして不遇の内に没したのを惜しみ、現役時代
の同僚永井介堂(尚志)の撰文・書丹・篆額による、没23年後の明治16年建立の顕彰碑。

 鴎所は隅田川近くに住んだことを意味する岩瀬忠震の雅号。忠震は現在の愛知県新城市富沢を知行
していた400石取り旗本設楽貞丈の3男として生まれ、23歳の時同じ三河の旗本書院番岩瀬市兵
衛忠正の婿養子となり、その後江戸の昌平坂学問所で学び、幕府の役人採用試験に合格し幕吏となっ
た。嘉永八年(1853)老中阿部正弘よって目付に登用され、安政元年(1854)ペリーが黒船
で来航すると大老井伊直弼の下、アメリカ領事ハリスと交渉し「日米修交通称条約」に調印、その後
も外国奉行としてオランダやフランスなどと安政の五ヶ国条約を締結に主体的役割を果たすなど大活
躍したが、その後大老井伊直弼と将軍継嗣問題で対立し、「安政の大獄」の時に譴責を受け、寺島の
岐雲園に蟄居、文久元年(1861)七月44歳で病没、文京区の蓮華寺に葬られた(現在は雑司が
谷霊園に改葬)。
 岩瀬忠震の屋敷(岐雲園)は、墨田1丁目4番のブロックで、幸田露伴も住み着いたことがある。

   江戸時代末期の外交家。文政元年江戸に生まれました。名は忠震で、鴎所の号は隅田川の
   辺に住んだことに由来します。幕府の徒頭設楽貞夫の第三子で、天保十一年(1840)、
   旗本岩瀬忠正の養子になりました。嘉永二年(1849)老中安部正弘から目付に抜擢さ
   れました。鴎所は昌平坂学問所で漢学を学ぶにとどまらず蘭学も学び、当時、外国に事情
   認識においては鴎所が一番といわれました。幕府の鎖国政策を非難したほか、砲台を築き
   軍艦を造り、講武所と蕃所調所を設け海軍伝習を始めるのにも参画しました。後に将軍徳
   川家の継嗣選定の問題で、新任の大老井伊直弼と対立したため、安政6年8月に官位を奪わ
   れ、蟄居を命ぜられました。
   その後向島に隠居し、もっぱら読書文芸にふける悠々自適の生活を送りましたが、文久元
   年(1861)7月16日、44歳で没しました
   平成16年3月                         墨田区教育委員会


 
鷲津毅堂之碑
 
「岩瀬鴎所君之碑」を上まわる、高さ256cmの大碑で、字数は区内一の多さだろう。篆額は明
治の元勲三条実美、撰文を友人三島毅(二松学舎の建学者)、書は巌谷修(小波の父)の手になるも
の。
 鷲津は、幕末・明治初期に活躍した漢学者・政治家で、20歳の頃昌平黌に学んで勤皇思想を広め、
明治維新で新政府に登用され、登米県(宮城県北部)権知事、権大法官五等判事・司法権大書記官と
なり、勲五等従五位に叙された。永井介堂(尚志)とは、混乱期の京都伏見の地において知遇を得、
また同姓の永井久一郎に長女を嫁し、外孫壮吉(荷風)を設けてい。明治15年58歳で歿した。



晴河山法泉寺

 東向島3丁目8番1号にある曹洞宗の古刹。葛西三郎清重が仮屋跡に両親の追善供養のため建てた
という。度々の兵火に焼かれ、荒廃したが、天文元年(1532)に僧安元が中興し、それまでの真
言宗から曹洞宗に改宗した。しかし『新編武蔵風土記稿』には、

   法泉寺
   禅宗曹洞派、江戸駒込吉祥寺末、晴河山と号す。寺領八石五斗は慶安元年御朱印を附らる。
   住僧の傳へに当所は往古葛西三郎清重が知る所にして、彼が二親菩提のために建立せり。
   其頃は伽藍も壮麗にして村内大抵寺領なりしゆへ村名ともなれり。其後しは久々兵火のた
   めに焼払はれ、寺領も多く掠め奪はれ堂社も久しく廃せしを、天文元年大州安元と云僧中
   興して再び旧に復せしにより今是を開山となせりと。安元は永禄十二年五月七日寂す。又
   過去帳に開基法泉寺大禅定門 文明十二年二月六日寂となり。此法泉は清重末葉の人なる
   にや。又同時当所の領主遠山新三郎某の亡妻覚憲良円大姉追福の為10畝の地を寄附ありし
   ゆへ、是をも中興の開基をなせり。本尊釈迦を安す。
   不動堂。髻不動と号す。立像長一寸余、元禄十五年村民傳左衛門か娘当寺へ参詣の折から
   道にて拾ひ得し像なり。後夢の告によりて当寺に納めり。新田義貞髻中に納置し守本尊な
   りしと云。
   地蔵堂。
   衆寮。
   鐘楼、貞享元年の鋳造なり。

 とある。本尊は釈迦如来を安置し、かつては新田義貞の守本尊という伝承を持つ「髻不動尊」があっ
て信仰を集めたとか。また法泉寺には区内でも多数(8基)の板碑が保存されている。原則非公開。
いずれも区登録文化財。髭不動明王は、『武江年表』によると、元禄十五年(1702)寺島村百姓
伝左衛門の娘が叢の中で見つけて奉納したとか。余談だが新田義貞の新田源氏の守護仏は新井薬師の
本尊だ。
 山門も落ち着いた佇まいで、正面に壁の白さの際立つ本堂がある。庭も手入れが行き届いて整然と
しており、お寺らしいお寺だ。

 板碑8基
 法泉寺には区内でも多数(8基)の板碑が保存されている。原則非公開・いずれも区登録文化財だ。
   ①貞和三年(1347)阿弥陀一尊  ②延文六年(1361)阿弥陀一尊
   ③
応永八年(1401)阿弥陀三尊  ④永享四年(1432)阿弥陀三尊
   ⑤延徳四年(1492)阿弥陀三尊  ⑥永禄十一年(1568)日蓮題目
   ⑦銘欠損       阿弥陀三尊  銘欠損       阿弥陀三尊

 短冊塚(千鳥庵鳥奏句碑)
 寛政九年(1797)九月の建碑。寺門を入ってすぐの右側、藤棚の下に「短冊塚」の篆
額のもとに、三世千鳥庵(川崎重亮・肥前唐津の人)の4句が刻まれている。

   散日から散るを盛りや花の山
   思ひきって飛姿なりほととぎす
   我を山に捨て名月入りに鳧
   夕煙 雪の野末に里ありや


 季語を配した春夏秋冬一連の句碑。

 尚左堂俊満歌碑
 本堂前の樹木の下に、表に彼の次の和歌、裏に友人石川雅望(宿屋飯盛)による彼の人となりを紀
したもの。

   故郷のおやの袖にもどるかと おもへば月はふたつなきもの

 尚左堂俊満は、幕末の浮世絵師で戯作者。本姓を窪田または窪といい、通り名は安兵衛。生来左利
きのために尚左堂、また左尚堂と号した。その色彩感覚は繊細であったとされる。また多芸だったと
みえ、狂歌では一筋千丈、川柳では塩辛房、戯作では黄山堂、あるいは南陀伽紫蘭と称した。窪俊満
・石川雅望ともに、台東区蔵前3丁目の正覚寺(榧寺)に、隣り合って葬られている。

 中山胡民の墓 
 中山家は寺島村の名主をつとめた家で、胡民は通称を祐吉という江戸末期の著名な蒔絵師だ。大変
緻密な蒔絵を作ったことで知られ、古い蒔絵もよく研究し、巧みに応用した作品もある。晩年、法橋
(僧侶の叙階)に叙せられ、泉々と号した。茶道・俳句にも優れていましたが、明治6年、齢63歳
で没した。胡民の墓は自然石(高さ78cm)に「泉々胡民墓」とあり、台石に「名花山」と刻まれ
ている。


 寛文二年銘地蔵尊像(区登録文化財)
 本堂横の、墓地入口近くに起立する。錫丈こそ失われているが、ゆったりした規格正しい舟型光背
を持った眉目秀麗な地蔵尊。流石に江戸初期は寛文二年(1662)の雰囲気を十分に醸し出してい
る。特に光背部に回向文を有する点では、この一点のみではないか。

   願以此功徳 普及於一切 我等与衆生 皆共成仏道

 は法華経化城喩品の一節で、自他共に及ぼす無我の功徳を以て彼岸に達しようとする信仰
心を表している。


 寛文六年銘庚申地蔵像
 
新墓城に安置されといる(他所からの移転?)もので、顔面に損傷はあるものの、高さ91cmの
愛苦しさの漂う地蔵尊だ。

   奉造立地蔵尊為ニ世安楽也 庚申講中  寛文六丙午天八月十二日

 として居る。

 延宝八年銘庚申阿弥陀坐像
 本堂の左側、墓城参道の左側にある笠塔婆型の庚申阿弥陀坐像。今では宝珠・笠石は失われている
が坐像の半肉彫は出来がよく保存状態も良好。銘を

   延宝八庚申天(1680) 奉供養庚申ニ世安楽十一月五日

 としている。

 延宝九年銘念仏供養龕
 「尚左堂利満歌碑」の近くにある96cmほどの、見落としがちな龕です。「龕」とは神仏を安置
する小さい箱の意ですから、石造りの厨子と考えていい。区内にあっては、龕の形式をとるのは極め
て稀。龕正面の銘に、

   延宝九辛酉歳(1681)六月二十八日

 右側に、

   念仏供養

 と見えるが、龕に祀られているのは神像で、宝冠に鳥居、上部に日月を戴いているところをみると、
神仏混交の姿を留めている。

 元禄六年銘地蔵坐像
 墓城中央のやや奥まった位置にあり、持ち物等は一切失われているが、頭部や右手の様子から見て
地蔵尊と判断される。元禄六年は1693年。


 享保二年銘金銅製地蔵像(区登録文化財)
 本堂に向う左手にあって、台座の上に立つ高さ160cm余の金銅製の地蔵像で、「延命地蔵」と
されるものだ。享保二年は1717年。台座の銘に、

   奉造納 東海道武蔵国葛西郡西葛西領寺島村仏頂山法泉禅寺

 とし、背後と袖の銘に、

   導師前永平吉祥15世大宣伝大和尚、願主念蓮社十誉、施主浅草御堂前俗名阿部
   主水


 としている。これだけの大作だから、多くの資材を必要としたろう。そのための喜捨に応じた人々
の名が、全身(法衣)に隈なく刻まれている。十方万霊供養と施主の先祖及び一家霊魂菩提のために
建立されたことが記されている。この像には、作者名(鋳物師宇田川善兵衛)を陰刻し、結衆者の名
前と職業(やかん屋、豆腐屋などと分かることは特筆される)が宇田川姓の鋳物師は中世末期から続
く名家で、代々小伝馬町(日本橋小伝馬町)に住み、数多くの作品を手がけた。

 保護樹木「椎の木」と「椨の木
 区内には嘗て多くの名木・大木があった。松浦上屋敷の椎の木、東江寺の「見あひの松」吾嬬神社
の「連理の樟」、高木神社の「臥龍松」、秋葉神社の「千葉の松」、常泉寺の「十返り松」などがあっ
たが、これらは都市化の波と度重なる変災とによって、全て失われてしまった。区では、数少なくなっ
た樹木を後世に遺すために昭和48年制定の「緑化の推進に関する要綱」に基づいて、その保護に乗
り出した。この法泉寺の「椎の木3本」「たぶのき1本」を含めて、現在69本が指定を受けている。
特にたぶのきは、区の第1号保存樹だ。
 区によると、「しいのき」は、目通り1m30cmが2本、1m35cmが1本だ。「たぶのき」
は、目通り2・85cmと公表されている。


 田中抱二の墓
 
幕末・明治の日本画家。江戸生まれ。通称は金兵衛、別号に軽挙。酒井抱一の門。幕府御用達。明
治18年歿、73歳。


 伝地頭多賀藤十郎墓
 向島百花園この地はかつて多賀屋敷といわれたところ、寺島・請地など4ヶ村を領した多賀藤十郎
屋敷の跡だ。多賀氏は710石の旗本、近江多賀の出で早く家康に仕えた。一時は繁栄して多賀4家
を数えたが、そのうち3家まで江戸中期に断絶している。中には同僚と役目のことで争い刃傷事件を
起こし、またなぜか当主が逐電したため断絶した家もあった。いわば不吉な一族だった。藤十郎も大
番組、書院番組を勤めた歴々の旗本だったが、法泉寺および蓮華寺の寺領を掠め、年貢を横領したた
め代官伊奈半左衛門に訴えられた。そのため寺社奉行本多弾正の吟味を受け、御朱印地を侵すとは不
届きとあって切腹を申し渡された。藤十郎にも言い分はあったに違いないが、取り上げられず恨みを
呑んで多賀屋敷内で自害して果てた。




■蝸牛庵跡の1
 墨田区における幸田露伴の旧宅跡は全部で3ヶ所。墨田1丁目4番にあった岩瀬忠震邸の内、東向
島1丁目9番雨宮商店駐車場、同7番区立露伴児童遊園だ。露伴自身の生前の談話によると、「蝸牛
庵というのはね、あれは家がないということさ。身一つでどこへでも行ってしまうということ。昔も
蝸牛庵、今も蝸牛庵だ(昭和13年8月9日)」(小林勇『蝸牛庵訪問記』昭和31年)や、露伴の
次女文(あや、随筆家・小説家、故人)の見解「父の住んだ家は、どこも蝸牛庵なのだ」に従えば、
岩瀬肥後守忠震(ただなり)の旧居(向島岐雲園)を、そこに一時期とはいえ露伴も居を構えたので
「蝸牛庵」と称しても間違いではないが、混乱を避けるために露伴の南葛飾郡寺島村での3ヶ所のう
ち、最初のものは忠震生前からの旧称「岐雲園」のままとしている。向島での露伴2番目の旧居は寺
島蝸牛庵だ。建物は明治村に移築して現存、跡地は雨宮商店駐車場となっている。寺島での3番目の
旧居について、これは新寺島蝸牛庵(露伴児童遊園)とでも名づけるか。元々新旧の寺島蝸牛庵と岩
瀬忠震とは全く無関係で、世間に蔓延する、岐雲園と蝸牛庵(寺島蝸牛庵と新寺島蝸牛庵)との混同
は看過できない状態にある。だから蝸牛庵は何ヶ所もあり、多くの人々が誤解しているようにカタツ
ムリの形はしていないことを認識すべきだ。犬山の明治村に移築されている蝸牛庵の建物は、2番目
の雨宮商店の駐車場に建っていたものだ。3番目の建物については持ち去られたが、その後の行方、
破棄されたのか、現存しているのかは不明。 児童遊園にカタツムリ型の滑り台と文学碑が建ってい
るが、遺族はあまり乗り気ではなく区が勝手に推し進めたのを積極的反対もせず黙認したというとこ
ろだ。文学碑に、

   世 おのずから數というもの有りや。
   有りといへば有るが如く、
   無しと爲せば無きにも似たり。
   洪水天に滔
(はびこ)るも、禹の功これを治め、
   大旱地を焦がせども、湯の徳これを濟
(すく)へば、
   數有るが如くにして、而
(しか)も數無きが如し 「運命」より



■セイコー時計資料館 → セイコーミュージアム
 東向島3丁目9番7号にある。国内および海外の時計に関する各種資料を収集、整理、保存ると共
に、時および時計に関する情報を蓄積し、研究を行う機関を目指して、セイコーの創業100年に当
たる昭和56年に開館。1階は「時の進化」をテーマに、日時計や和時計などの時を計る道具が紹介
されている。2階は置・掛・腕時計が時代区分ごとに展示されている。ウオッチ・クロック等の標本
資料は約13000点、その他にも時と時計に関する一般文献などを3階で閲覧できる。時計に関心
を持たれる方から、専門的に研究される方までが楽しめるよ。開館は、祝祭日、年末年始を除く、火
~土曜日の午前10時~12時、午後1時~4時。インストラクターの説明を旨としているので事前
(午前10時~12時、午後1時~4時)の予約が必要。 03-3610-6248

 
リニューアル・オープン
 平成24年4月1日創業130周年記念事業として、「セイコーミュージアム」への名称変更と合
わせて全館をリニューアルし、「セイコーブランドの情報発信基地」として、展示をより体系的に分
かりやすくするとともに、スポーツ計時の体験コーナーやミュージアムショップを新設した。

 一挺天符式の掛時計
 「一挺天符(いっちょうてんぷ)」は、棒天符が1本付いている。鐘の下の、分銅がつている櫛歯
状の横棒が棒天符で、往復運動をして、振り子のように時計の動く速さを制御する(=調速機)。毎
日、明け六つと暮れ六つに分銅の位置を移動して、時計の速さを調節する。「掛時計」は、柱や壁に
掛けて使う。下の紐の先には錘(おもり)がついていて、その重さで動く。

 二挺天符(にちょうてんぷ)式の櫓時計
 「二挺天符(にちょうてんぷ)」は、棒天符が2本付いている。明け六つと暮れ六つで自動的に切
り替わり、昼は上の棒天符、夜は下の棒天符が動く。そのため、分銅の移動は毎日する必要がなく、
季節の昼夜の長さに合わせて、24節毎(15日毎)に夫々の分銅の位置を移動する。「櫓時計」は
時計本体の下の紐と錘が板で覆われていて、櫓のような形をしている。掛時計と同様に、錘の重さで
動く。



雲寺

 東向島3丁目13番3号にある曹洞宗の寺。寺号表札がなければ一般住宅なので判らない。



多賀屋敷跡

 東向島3丁目18番3号の百花園の地は嘗て寺島・請地など四4ヶ村を領した多賀藤十郎屋敷の跡
だ。多賀氏は710石の旗本、近江多賀の出で早く家康に仕えた。一時は繁栄して多賀4家を数えた
が、その内3家まで江戸中期に故あって断絶している。中には同僚と役目のことで争い刃傷事件を起
こし、また何故か当主が逐電したため断絶した家もあった。いわば不吉な一族なのだ。
 当屋敷最後の主となった藤十郎も大番組、書院番組を勤めた歴々の旗本だったが、法泉寺および蓮
華寺の寺領を掠め、年貢を横取りしたため代官伊奈半左衛門に訴えられた。そのため正徳三年(17
13)寺社奉行本多弾正の吟味を受け、御朱印地を侵すとは不届きとあって切腹を言い渡された。藤
十郎にも言い分はあったに違いないが、取り上げられず恨みを呑んで屋敷で自裁して果てた。墓は法
泉寺にある。その3年後の享保元年(1716)
多賀家は絶家となり、多賀屋敷は明け屋敷となる。
敷地は略3000坪、武家屋敷らしく周囲に堀を廻らした立派な構えだったが、主の切腹と共に荒れ
るに任せ、軒傾き、庭上草深くして、実に狐狸窟をなす有様だった。
 江戸の喧騒を離れてこの辺りに住み着いた佐原鞠塢だが、郊外の閑居は優雅なものの、暫くすると
退屈で仕方がなくなった。初めは農業をする心算だったが、ふと多賀屋敷のことを耳にするとじっと
していられなかった。屋敷跡を訪れて見て、風雅と実利の両面から再開発を思い立つ。たんと金はあ
る鞠塢は、そっくりその屋敷地を買い取り、敷地内に半ば埋もれていた祠を掘り起こして天神様を祀っ
た。それが百花園の起こりだ。
 余談だが、藤十郎についてはもう1つ逸話がある。東向島の辺りを、かつて「抜けられます」で知
られた「玉の井」だが、この玉は、この辺りの代官だった藤十郎が妾の名前に因むそうだ。「井」は
涌水地、湿地、井戸、用水などを表す。



向島百花園
 東向島3丁目18番3号にある都立公園。文化元年(1804)古物商の佐原菊塢(きくう)が多
賀屋敷跡を開き、太田蜀山人・加藤千蔭・村田春海・谷文晁ら当時の文人が梅園を寄贈し、酒井抱一が
百花園と命名した。蜀山人は「花屋敷」と命名したが、屋敷は武家に限られることだったので、看板に
は「花屋ほにゃらら」と判読不明の文字を書いたという。
 菊塢は仙台の人平八→佐吉で、天明のころ江戸に上って、江戸三座の1つである中村座の芝居茶屋
和泉屋に10年以上勤めた後、日本橋住吉町に骨董屋を営んで北野屋平兵衛(通称北平)を名乗った。
北平はもともと世才があり、その上文事にも疎からず、加藤千蔭・村田春海・亀田鵬斎・大田南畝・
大窪詩仏・抱一上人などの愛顧を受け、殊に茶人川上不白・千柳菊旦の紹介で諸大名や旗本の屋敷へ
出入りし、骨董を売買して巨利を得た。風流人で文学趣味も豊かだった。さて一通り商売の旨味を知
り尽くすと、急に空漠感を覚えて近郊の閑静を慕うようになった。そこで骨董店は人に譲り、本所の
中之郷村に隠棲して菊屋宇兵衛と改
名した。それで菊宇と呼んだのだろうが、それでは商人臭が払拭
できぬため、気取って帰空→菊塢と改め、佐原菊塢に落ち着いたいう。「塢」は川っぷちの土手のこ
と、風流振って意味の通じないところが無邪気。その
菊塢が何に感化されて庭園作りを思い立ったか
判らないが、多賀氏の拠点だったという
多賀屋敷
跡というところで園芸趣味を生かし始めた。

 同時に千蔭・春海・南畝らに、1本づつの梅樹の寄付を要請すると、皆喜んで応じ、忽ち360本
も集まった。『風俗画報』隅田堤の部に、この梅を、「一株一日の料に当つ」とあるのは、一株分の
梅の実を一日のお菜にしたとの意。どうも鞠塢はちゃっかりしたところがあり、風流より根っからの
商人ではないかとの疑問も湧く。しかし表面は風流人の鷹揚さを見せ、梅を寄付した文人たちに庭の
造作を一任した。すると詩仏・蜀山人・千蔭などが毎日のように訪れ、株主顔をしてあれこれ姦しい
論議を展開。


   
庭苑らしく整っているより、百花しどろに咲き乱れているのがよい」

   
 「四つ目垣は物々しいから蕨縄か棕梠縄・・・」
   「いや、いっそ藁縄がかえって面白かろう」


 などと勝手なことを言い出し、道も泉水もまったくの型破りのものとした。それを以て風流とした
が、お蔭で野趣あふれる超自然の庭園となった。この作庭移植については文人墨客相集い、侃々諤々、
喧々囂々の大騒動だったようで、菊塢はへとへとになってしまった。
                     *
 
翌文化二年の正月、園中に小松を植えて一周年を祝ったが、江戸の名ある文人は残らず集
い、おまけに自称風流人もわんさと押しかけて脱俗ぶりを誇示した。この時の秀逸。

   松も引き若葉も摘みて今日よりは春のこころを覚え初めけ(千蔭)
   梅咲かばつぎてもとはん此宿の松にひかるる今日ばかりかは(春海)
   鶯の初音の小松引く袖に あるじ顔にも匂ふ梅が香(三島自寛)


 世は文化・文政(1804~30)という泰平の極運を迎え、風流めかす者が多かったので、百花
園の噂は忽ち人口に膾炙し、どっと見物人が押しかけた。
それで荒れ屋敷が梅の名所となり、亀戸の
清香庵臥竜梅に対して〝新梅屋敷〟の異名を取り人気を博した。
あれやこれや江戸中の話題となり、
ほどよい郊外の遊園地として客が集まったのだ。この頃が百花園の最盛時。文政十一年(1828)
には将軍家斉が来臨している。が、惜しいかな、その3年後の天保二年(1831)その名の通り秋
草の頃に補陀落山へ旅立った。その辞世、

   隅田川梅のもとにて我死なば春咲く花の肥やしともなれ


 行年70歳の高齢で病没した。

 その後も弘化二年(1845)には12代家慶が来臨、園内の離れ座敷に寛いで楽焼きを楽しんだ
りした。この上ない百花園の宣伝になった。
 明治の世になっても名声は衰えず、乃木将軍が時々来遊したし、伊藤博文も韓国統監という肩書き
で立ち寄った。明治41年10月12日後の大正天皇も萩の美しい百花園に行啓されている。向島の
名園としては、当時破格の栄誉ということができる。

 庭門に掲かる「春夏秋冬花不断」の看板の通り、早春の福寿草、水仙、梅に始まり、

   
福寿草見て静かなる命かな(清原枴童)
   黄は日射し集むる色や福寿草(藤松遊子)
   水仙を遠ざかるとき近づく香(稲畑汀子)

 
春、夏、秋の七草

  せり なずな ごぎょう はこべら ほとけのざ すずな すずしろ 春の七草
  よし いぐさ はちす おもだか ひつじぐさ かわほね さぎそう 夏の七草
  はぎ おばな ききょう なでしこ おみなえし くず ふじばかま 秋の七草


 
萩の隧道(トンネル)など、四季の花が咲き競う野趣豊かな園内に、

   春もゝやけしきとゝのふ月と梅(芭蕉)

 の句碑を初め29もの石碑がある。
 現在も
数多くの四季の花木草花が集められており、特には「萩」が著名である。昭和13年小倉の
ぶ未亡人により東京市に寄贈され、整備の後昭和14年から市営の制限公開庭園として開園されたも
のの戦禍で壊滅、戦後の同24年復旧された。8月は虫聞き、9月には月見など昔ながらの行事が行
われる(地名俳句歳時記・江戸東京地名を歩く)。

   
法師蝉ばかりの昼や百花園  (阿部みどり女)
   
見に行くや野分のあとの百花園  (正岡子規)
   かゆにする七草ひさぎ百花園   (野村喜州)
   茴香(ういきょう)の夕月青し百花園(川端茅舎)
   月待つや径(こみち)入り組む百花園(上村占魚)


 
「花屋敷」門額

 入口竹の門に掛かる木製刻字額。書は太田蜀山人(南畝)。「花屋敷」の「敷」の字が読み取れな
く、ほにゃららと書いてあるのは、当時「屋敷」という単語は、武家社会にのみ許される言葉だった
ので、態と書き崩して書いたのだという。

 門柱対聯
 大窪詩佛書の「春夏秋冬花不断」「東西南北客争来」。

 墨沱梅荘記碑
 竹の門を潜った左手にある亀田鵬斎の名碑。

   墨沱之瀬葛陂之傍荒圃鋤而新園成植之梅一百株


 の書き出しで
百花園の由緒を記したもので、文化十一年(1815)の建碑。鵬斎と亀田興による
撰并書。窪世祥鐫。鵬斎が63歳の時に楷書で書丹したものだとか。百花園の成り立ちを述べ、鵬斎
が自分と百花園や鞠塢との関わりの中で、梅荘(百花園)の美しさや鞠塢の風流瀟洒を称えた美文が
刻まれている。

 宮澤雲山先生観梅記
 長命寺の故紙碑の碑主と同じ。文政丁亥とあるから文政十年(1827)の建碑。鐫は廣羣鶴、皐
鶴同鐫とあるが書丹は不明。宮沢雲山のこの詩碑は、それぞれ「金盤銀燭酔って郷たり」「林下の僊
妹清浄の身」「清標高格百花の冠」で始まる三つの七言絶句が刻まれている。文政十年(1827)
の建碑。
 宮沢雲山、名は雉、字は神遊、雲山はその号。詩人で小説も書いていた。

 芭蕉句碑

   春もやや気色ととのふ月と梅  はせを

 と刻まれている。元禄六年(1693)の作で「梅月」と前書のある画賛の句だ。天保七年(18
36)の建碑。

 千寿庵益賀句碑
 文化十一年(1815)の建碑。

   鳥の名の都となりぬ梅やしき

 と刻まれ、碑陰に、抱一暉真書とある。文化十一年(1814)の建碑だ。抱一暉真は酒
井抱一のことで、江戸末期の画家・俳人。

 福禄寿尊碑
 明治41年の建碑。書は土方久元。

   隅田川七福之内福禄寿尊 正ニ位勲一等伯爵 土方久元

 と刻まれ、碑陰に建立者名が連記されている。

 茶筅塚(柘植黙翁句碑)
 御成座敷傍。

   茶筅塚
   おりたらん 草の錦や花やしき  黙翁


 木石庵柘植黙翁の一周忌に門人たちが師の遺志を継いで建てた碑で、漢学者大槻磐渓の長男大槻修
の書だ。碑陰に関東空也門中として大勢の門人の名前が記されている。関東空也門については詳らか
ではない。しかし空也上人門徒が茶筅を作りこれらを商ったという話しや門人の号などから、茶道の
一派ではないかと考えられる。

 芭蕉句碑

   こにやくのさしみも些しうめの花  はせを

 「こにやく」は「こんにゃく」だ。元禄六年(1693)の作で、芭蕉と去来との共通の知人の死
を悼んで去来へ送った句。梅の咲くころ、せめて心ばかりでもと、梅を折り蒟蒻の刺身を供えて故人
を祀ったとの意。金令舎鈴木道彦の書で、文化十一年(1814)の建碑だ。碑陰の「イ文ヒ」とい
う字は、「化」の字の中に「文」の字を入れたもので「文化」と読む。この手法は割書きといい昔の
公文書などで、位勲、役職名、氏名などを一行に書かなくてはならない場合など、短く詰めるために
よく使われた。

 山上憶良秋の七草歌碑
 文政四年(1821)の建碑。中井菫堂書丹。万葉歌二首の碑。憶良の和歌の碑というよりは、董
堂敬義の絶筆となった「秋の七草の書」を残すために、門人たちによって遺言通り百花園に建てられ
たもの。
 董堂敬義は、本名中井敬義で、通り名を嘉右衛門と称した。商家の番頭ながら書に巧みで江戸の三
右衛門の1人と謳われた。狂歌でも活躍し、腹唐秋人と戯号した。董堂が亡くなった文政四年(いち
はちにいち)の建碑。

   秋の野に咲きたる花を指(および)折り かき数うれば 七草の花
   萩の花 乎花葛花 なでしこの花 姫部志 又藤袴 朝貌の花


 乎花は「尾花」でススキ、姫部志はオミナエシ、朝貌は桔梗のことだ。

 大窪詩佛画竹碑
 大窪詩仏の竹の画に、詩人佐羽淡斎が詩を題し、碑陰には、詩仏老人碑竹記として、碩学朝川善庵
(常泉寺に墓碑あり)の撰、巻菱湖の書という文人四大家の合作。文政五年(1822)の建碑。大
窪(行)は徳川中期の漢詩人。草書と詩で名高く、また好んで墨竹を画き気韻に富んでいたという。

 金令舎道彦句碑

   けふの月さてもをしまぬ光かな   美知彦

 碑陰に、

   世中の梅のさきけりすみた川  文政十三年九月 一桑庵野月建之

 とある。道彦の13回忌に、野月が道彦門の有志を語らって建てたものだ。道彦は鈴木氏春秋庵白
雄(白鬚神社の項参照)門の俳人であり医者だった。

 其角堂永機句碑

   朧夜や たれをあるしの墨沱川  永機


 と表に刻まれ、碑陰には永機の略歴が記されている。永機は、穂積氏、名は美之、老鼠肝の子で其
角堂七世だ。28歳で受戒して無諍と名づけた。明治32年77歳の時、友人等がこの碑を建てた。
建碑者は魚河岸の人が多いのだが、歌舞伎俳優の5代目尾上菊五郎や書家の永井素岳の名も見える。
書丹は半古無恭。

 しのふつか(忍ぶ塚)
 2世河竹新七が、初代河竹新七の作った歌舞伎狂言「荵売(しのぶうり)」の正本をここに埋めて、
その功績を遺すために建てたもの。明治13年の建碑。高林ニ峯の書丹。

 きやうけん塚(狂言塚)
 2世河竹新七(古河黙阿弥)顕彰の碑。娘と門弟達が明治27年に建てたもので、高林ニ峯の書丹。
古川黙阿弥は、幕末、明治の脚本作者で、「三人吉三」「鼠小僧」など350作余りの作品がある。
本所南二葉町で没している。なお現今では「河竹黙阿弥」が一般的な作者名となってい。

 飯島光峨翁之碑銘
 江戸末期の画家飯島翁の顕彰碑。光峨は沖一峨の弟子で、東海、近畿、関東各地を巡って自然や風
俗を師ちし精進した。門人たちが翁の徳に報いるため、翁の知人の五峯高林寛(ニ峯の長男)に碑文
を依頼し、沖守固の篆額、田鶴年が鐫を取って明治33年に建てたもの。

 井上和紫句

   紫のゆかりやすみれ江戸生まれ  和紫

 碑陰には建碑者名と和紫の人となりが記されている。彼は永機の門弟で、魚河岸の鷲屋という魚問
屋の主人。明治32年の建碑。書丹は柳田泰六。

 哥沢芝金之碑
 哥沢芝金顕彰の碑で、榎本武揚が篆額を書いている。書は柳田泰六。芝金の本名は柴田金吉といい
幕臣の子として江戸に生まれた。同好の士と共に、古くからの小唄節が野卑に流れているのを改めて
一流を興し、盛んに行われるようになった。後に故あって「歌沢」を「哥沢」に改め、哥沢節が歌舞
伎の舞台に登るようになったのも、芝金の功績だ。碑面の終わりに、次のような芝金作譜の名曲が記
されている。

   ほととぎす いま一声のきかまほし 月はさゆれど姿は見えず
   エエぢれったい  何としよう  しんきくさいじゃないかいな


 明治32年、3世芝金らの建碑。

 矢田蕙哉翁之碑
 鷲流狂言師 矢田蕙哉翁之碑で、脇に、辞世の句、

   花暮れぬ 我も帰りを急うずる

 が記されている。鷲流は能狂言の一流(大蔵流・和泉流に対し)だが、今は絶えている。蕙哉は、
鷲流の最後を飾る名手だった。蕙哉が没した明治26年の7月に、蕙哉と縁のあった人々によって建
てられた。表面の辞世の句以外の字は普永機の筆になる。

 鶴久子歌碑

   空蝉の世のうきことはきこえこぬ いはほの中も秋風ふく  久子

 とあり、左側には、渋沢兼子ら久子の教え子たちが、明治35年久子の3回忌に建碑した経緯と、
久子を偲ぶ歌とを、御歌所歌人藤原粲が記している。久子は明治初中期の歌人で、和歌を以て宮内省
に仕え、また本所松井町(千歳1・2丁目)の家宅で歌学を教えていた。

 「く々のちの神 かやのひめの神」ニ神石碑
 この二柱の神は、古事記にあるイザナギ・イザナミの両神から生まれた神で、「古事記」では、「く
くのちの神は木の神、鹿野のひめの神は野の神」としているが、本居宣長は「かや」を「茅」として、
野の神のほか草の祖神という解釈をしている。百花園の成り立ちから見ても、やはり、木の神、草の
神ちしてここに並べて祀ったのだろ。

 最中堂秋耳句碑

   限りなきそらの要や望の月  最中堂秋耳

 最中堂秋耳の履歴についてはほとんど分かっていない。「もなか屋」だったという説もあるが、真
偽のほどは不明。明治33年の建碑。

 月岡芳年翁之碑
 二条基弘の題字、小杉榲邨の撰文并書丹で、浮世絵師月岡芳年の伝記が刻まれている。
 芳年は浮世絵を歌川国芳に学んだが、画風は北斎の影響を多分に受けている。好んで奇嬌な姿態を
写したが、その筆は写実的で明治時代の浮世絵に芳年風という一種の様式をもたらした。明治中期の
版画家として版画界の最後を飾った人。門弟も頗る多く、建碑者の中に岡倉天心の外、孫弟子の鏑木
清方などの門弟多数の名が見られる。明治31年の建碑。

 杉谷雪樵「芦雁図」の碑
 碑陽に雪樵の遺墨「芦雁図」が田鶴年の鐫で見事に刻まれている。高さ190cm×幅104cm
の大きな碑。門弟の根本樵谷が明治31年に建てたもの。碑陰に芳州齋藤恒の撰并書の碑文を刻んで
いる。雪樵は雪谷流の画家で旧熊本藩士。明治20年上京し大いに名声を博し、しばしば宮内省の依
頼で絵を描き、いつも褒賞に与った。雪谷流掉尾の作家だ。

 螺舎秀民句碑

   芦の芽や田へ来水も角田川
 の秀民の句と共に、3世螺舎孝節によって秀民の履歴が記されている。句は晋永機の、略歴は市川
三兼の書。碑陰には、

   田へ引たあとの流れや芦の花

 と孝節の句が刻まれています。3世螺舎孝節が欽慕の意を表すため、明治18年に建てたもの。螺
舎秀民は本性片岡氏、江戸吉原の人で、其角の別号の一つである螺舎を継いで二世となった。

 七十二峰庵十湖句碑

   何事もかかる浮世か月の雲  七十二峰十湖


 「古今俳諧明治五百題」(明治12年刊)に「十湖は、遠州豊田郡中善地 松島幸平」とあり、入
集の句に、「沫雪や 隣はこぶ 膳のうへ」「茶畑に 裾はひらけて 春の山」などがある。碑の句
の説教臭いのに比べて平明自然な諷詠。明治34年の建碑。

 雪中庵梅年句碑

   黄昏や 又ひとり行く雪の人  雪中庵梅年

 雪中庵梅年は原田氏、通称を幸次郎といい、江戸四谷の人。雪中庵5世対山の門に入り、後7世の
鳳洲から譲られて8世雪中庵を継いだ。明治21年雪中庵を門弟雀志に譲り、不白軒と号した。この
碑は、雀志が同18年に建てたものだ。

 北居居士句碑

   水や空 あかり持あふ夜の月  北元居志

 北元は完来と、また午心の門下生で、江戸の人。初め都喜丸(月丸)、別号を橿の木・葎雪庵2世
という。午心を追慕してその遺稿『玉田集』を上梓している(完来は雪中庵4世、午心は雪中庵蓼太
門で同門)。天保九年(1838)旭惣連の建碑。

 寶屋月彦句碑

   うつくしきものは月日ぞ年の花

 松本蔦斎書、明治24年宝組の建碑。宝屋月彦については詳らかではない。蔦斎は明治大正の俳人
で『古根草』『白がね草』その他数種の著書がある。



清滝山観音院蓮華寺(蓮花寺)
 東向島3丁目23番17号にある真言宗智山派の寺。京都三宝院の末で、創建は弘安三年(128
0)だという。北条時頼の兄武蔵守経時の菩提のために、子の頼助が僧となって所領地に建てたもの
という『武蔵通志』の説が有力。『江戸名所図会』は、時頼が鎌倉佐介谷に死んだ兄のため建てた蓮
華寺を頼助が移したとの説を出しているが、『新編武蔵風土記稿』はこれを否定。併し寺は移転説を
採って寺名碑に記している。本尊は弘法大師自画像と伝えられ、縦90cm×横55の絹張りの軸物
で、平安期の作とも見られている。門前には「女人済度厄除弘法大師」の石柱があり、右柱は文政五
年(1822)建立、左柱は文化十五年(1832)建立で、女性のやくよけのお守りを昭和18年
ごろまで出していたという。戦災という災難を除けれなかったためか、戦後は効き目がないというの
で流行らなくなった。「新編武蔵風土記稿」に、

   蓮華寺
   新義真言宗山城国醍醐三宝院末、清瀧山観音院と号せり。本尊弘法大師自書の像を安す。
   寺領七石は慶安元年八月二十四日後朱印を附らる。縁起云、当寺は最明寺平時頼の舎兄武
   蔵守経時朝臣の菩提寺なり。初めは相州鎌倉軍佐介谷に創立ありて、其経時寛元四年逝去
   の後時頼一寺を建立して、蓮花寺殿前武州安楽大禅定門と謚す。時の開山は弁法印審範な
   り。審範は則頼朝卿の外伯父、深井法眼範智の孫なり。其後経時の子佐々目大僧正頼助此
   寺嶋を知行ありし時、鎌倉の蓮花寺を此所に移し、弘安三年八月建立して頼助自ら中興の
   開山となれり云々。按に、此寺傳甚疑ふへし。いかにと云に、鎌倉大日記に建長三年経時
   が為に佐介に於て蓮花寺建立住持は良忠と記し、鎌倉志に佐介谷の蓮花寺は寛元元年五月
   三日平経時の建立にて、時の薬師は記主禅師とあり、此の二書に載る処年代等は異同あれ
   ど、薬師は共に記主なれば宗門元より浄家にして審範にあらざること明けし。しかのみな
   らず鎌倉志には蓮花寺創立の後経時霊夢ありて光明寺と改む名の寺を起立ありしを、たま
   たま佐介谷の蓮花寺改号せる故、後人妄に彼寺を引き来りしなと云こせしにあらずや。
   鐘楼、宝暦八年の鐘なり。
   愛染堂、興教大師の書ける像を安す。
   権現堂、清流権現と号す。


 とある。

 
算子塚
 そろばんづか。文政三年(1820)浅草鳥越の中原耕張の建碑で、

   世の中は何れの道もそろばんのかけはしわたる士農工商

 と刻んである。

 ●群盲評古図碑
 
天保五年(1834)の建碑。

 文化十五年銘道標(区登録文化財)
 正面に「女人済度 御自筆 弘法大師」、左右両側面には、ともに「大しみち」とあり、裏面に、
文化十五年(1818)の銘がある。これは元、地蔵坂を上がった墨堤に建てられていた。

 文政五年銘道標
 文政五年
(1822)銘のこの碑は、厄年の参詣人のために道標として門前に建てられたもの。と
にかく霊験あらたかなお大師さまとして賑わった。なお左側面には建立年月日が、右側には「西 白
ひけ(白鬚) はしはみち(橋場道)」と刻まれている。

 天保三年銘燈籠
 参道両側の赤御影石造りの大きな燈籠一対は、田中金六の寄進で、天保三年(1832)に建てら
れたもの。金六は江戸幕府の蝦夷地御用達をつとめ、その功により浅草新寺町(台東区菊屋橋付近)
に屋敷を拝領して三人扶持を与えられ、天保三年88歳で没した。なお金六の父金左衛門は名主中山
家の一族で寺島村に住んでいた。

 最上算子塚(もがみそろばんづか
 
最上流算術は会田安明が始めた。安明は出羽最上(山形県)の人で、はじめは鈴木安旦といった。
字は子貫、自在亭と号し、俗称は算左衛門。この塚は弟子と思われる中原耕張 文政三年(182
0)に
建てたもので、上部に丸い穴があり、碑文は、

   最上 算子塚 山谷新鳥こへ 中原耕張
   世の中は何れの道もそろばんのかけはしわたる士農工商

 とある。

 聖徳太子像
 『江戸名所図会』によると、太子堂の縁起は、

   太子堂本堂の右にあり。本尊聖徳太子の像は十六歳の新影にして、太子自ら彫造ありしと
   いう。北条経時の念持仏にて、往古相洲鎌倉、佐々目谷にありしを、弘安三年(1280)
   秋、北条頼助、寺院並びに本尊と共にこの地へ引き移し、同年八月2日入仏供養を営みし
   故、今日に至るまで、この日をもって縁日とす


 なお現在の太子堂及び太子像は戦後復興されたものだ。

 四国88ヶ所写しの石碑
 境内に四国88ヶ所写しの石碑が11基建てられている。年紀が慶応二年(1866)から明治3
年までのものが10基、明治9年のものが1基。最後の一基以外は22世住職宥盛法印の時に建てら
れた。これらを建てた人は、殆どが寺島村の住人ではなく浅草、下谷、上野、神田辺りの富裕な人々
が「大師の寺」である当時に写し碑を建て、先祖の菩提を祈ったものと考えらる。

   イ.四国拾番写 阿波国 切播寺 天下泰平国土安全 五穀成就万民豊楽 子孫繁栄 為
     二世安楽  慶応二年建
   ロ.第五番 阿波国板野郡矢竹村地蔵寺写 本尊地蔵菩薩 六道の 能化の地蔵大菩薩 
     みち引たまへ此世後の世  慶応三年造立
   ハ.四国七十五番 善通寺之写 本尊薬師如来 我すまば よもきへはてじぜんつうじ 
     ふかきちかひの法のともし火  慶応三年建之
   ニ.四国七十三番 本尊釈迦如来 まよひぬる 六道衆生すくはんと たつとき山にいづ
     るしやかでら  讃岐国出釈迦寺写  慶応四年建
   ホ.四国七十六番 まことにも 神仏僧をしらくれば 真言加持のふしぎなりけり。明治
     三年 讃岐国金倉寺写
 
     ※「しらくれば」は原詠歌では「開くれば」となっている。
   ヘ.本尊大日如来 わづかにも まんだらおがむ人はたた ふたたびみたびかゑらざらま
     し 七十二番 四国八十八個所之内 讃岐国曼茶羅寺之写 明治三年
   ト.七十四番 本尊薬師如来 十二神 みかたにもてるいくさにも おのれと心かぶと山
     かな  讃岐国甲山寺之写   明治三年建之
   チ.観音の 大悲のちからつよければ おもき罪をも引あげてたべ 六十九番 讃岐国観
     音寺写  明治三年
   リ.拾九番阿波国立江寺之写 本尊地蔵菩薩いつくくて 西の住居のわがたちへ弘誓のふ
     ねにのりていたらん  明治三年建
   ヌ、四国八十八個所 第一番阿波国霊山寺写 本尊釈迦如来 霊山の 釈迦の御前に巡来
     て よろづの罪もきえうせにけり  明治三年
   ル.第十七号 阿波国名東郡井戸邑 明照寺之写 本尊薬師如来 おもかげを しばしも
     うつせ井戸の寺 心のあかをそそぐところぞ  紀元二千五百三十六歳(明治9年)
     建之

     ※原詠歌は「面影を写して見れば井戸の水 むすべば胸の垢やおちなん」だ。

 
亀田則恒碑

 文政八年(18255)の建碑。


   老の身の枯木にもまた死に花のさきだつ妻の碑に向島 91歳翁亀田則恒
   浦嶋の亀田則恒齢さへつくことあらじ呉竹の杖 呉竹亭真直 俗称金子勝
   五郎治喜


 この歌に、妻の七回忌に歌を手向けたこと、娘婿の金子勝五郎が歌を添えて彫らせたこと等が、歌
同様懸詞をふんだんに使った技巧的な文で綴られている。

 題郡盲評古之図碑
 昔、鏡面王が郡盲者に象を撫でさせ、それぞれ自分の思った象の形を述べさせた所、皆的外れの答
えをしたという話があるが、郡盲者とは肉眼の盲者のことでなく、見性の無い衆生即ち衆愚のことで
あるなど、心眼の大切さについて述べている。環中斎高独歩の撰文并書丹で、その門人山中抜山が、
天保五年(1834)に建てた。

 宮内源之輔「先嬉し」の辞世句碑

   先嬉し雪に明るき西の空

 明治3年の建碑だが、詠者・施主については不詳。素人が建てたものだろう。

 雪月雅望詩碑

   雪月雅望 山幽囗離 春花秋葉 雲囗鳥飛

 石工の娘で13歳の繁(号、春山)の筆になるもので、文政十一年(1828)の建碑。世話人の
下谷御成道白鼠屋は寺島村出身で、この碑の外、写し碑2基の世話人にもなっている。

 永谷秀葉句碑

   新派芸術家月野喜代美の為  常磐木の月かけ清し秋の暮

 と刻してある。亡くなった月野喜代美のために、浅草公園の常盤座関係の人達が建てた。
 「秋の暮」は「晩秋」のことだよ。

 六地蔵
 六地蔵とは、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六つの迷界で苦しんでいる人々を救うという
六種の地蔵菩薩を表したものだ。当寺の六地蔵は、小林惣吉氏によって明治34年に安置された。こ
の六地蔵の傍らに、地蔵真言を刻んだ木製の輪がありますが、これは転輪蔵を模したもので、これを
回転させると真言を唱えた功徳があるといわれている。

 植村盧洲の墓
 墓碑の「山東野老埋骨之処」は大沼沈山の揮毫で、「野老」は田舎老人の意。碑陰は沈山の撰文。
盧洲の生家は代々幕府の与力だったが、若い時から文学に親しみ、僅か19歳で大沼沈山の弟子となっ
て漢詩を学んだ。やがて家を弟に譲り文学に専念し、40年間も沈山に師事して一家を成した。盧洲
は、師に深く愛され信頼されていたが、明治18年8月56歳で師に先立った。『盧洲詩鈔』『古詩
註釈』などの著書がある。なお大山沈山は江戸下谷の生まれで、儒者・詩人。明治24年に没してい
る。

 東条琴台の墓
 琴台は寛政七年(1795)六月江戸の芝宇田川町(港区浜松町)に生まれた。名は耕、字は子蔵
といい、琴台は号だ。若い時から学問好きで博覧強記で知られ『儒林小史』(10巻)『経籍通史』
(20巻)等多くの著述がある。幕末に越後高田藩榊原氏に招かれて学問の師となったが、明治5年
8月亀戸天神社の神官になった。晩年に眼病で失明、同11年9月84歳で没した。
 墓碑は大正10年に移されて来た。「琴台東条先生之墓」となっていたものを、昭和51年「東条
氏累世之墓」とし、側に墓誌を建ててある。

 大矢市次郎の墓
 隣のの北条秀司撰文の墓誌に次のように記されている。

   明治27年2月11日東京浅草に生まれ、昭和47年5月28日78歳にて歿す。全生涯
   を新派演劇に捧げ芸格高厳、気骨稜々、明治、大正、昭和を通じて最も偉秀なる大名優で 
   あった。その示した演技のすべては後進にとって永遠の経典である。


 大矢は新派(歌舞伎新派)の名優。

 
佐原鞠塢の墓

 百花園の佐原氏代々の墓で「浄」の一字が記されているのみ。昭和52年歓明寺(台東区元浅草3
丁目)からこの寺に遷された。向島百花園を拵えた人。



■府立七中 → 墨田川高等学校
 
東向島3丁目34番にある都立高校。旧制七中だ。大正10年「東京府立第七中学校」として寺島町13
59番地に設立認可。同11年府立第一高等女学校(白鴎高等学校)にて入学試験。同校講堂にて入
学式。寺島小学校の旧校舎に間借りして授業開始。同12年1月新校舎落成。7月軽井沢町沓掛に校
友会の山寮「七生寮」建設。9月関東大震災発生。生徒12名死亡。10月授業再開。11月12名
の追悼法要。同14年校歌制定。

 
校歌「墨田の川は」が凄い。作詞・幸田露伴 作曲・弘田龍太郎だ。
  1.隅田の川は吾が師なり
    日夜を急かず怠らず
    流れて止まぬ何十里
    汪々として海に入る
  2.弥生の堤 朝行けば
    紅滲
(にじ)む花の露
    こぼれて清く潔
(いさぎよ)
    桜に染まる我が心
  3.夕風冷ゆる水潤く
    秋天万里雲絶えて
    巍然と聳え立つ富士に
    我が意気もまた天そそる


 前庭に大きな立派な歌碑があり、幸田露伴直筆の彫刻で4番の歌詞が刻まれている。

  4.情けを花と麗しく
    心を富士と高くして
    春秋過ごしゆく川の
    不断の努力学ばなん


 同15年全校舎落成により記念式典。
 昭和3年校旗制定。同7年創立10周年記念式典。同8年静岡県静浦村に校友会の水泳寮建設。同
10年近衛歩兵第三聯隊見学。同13年慰問袋1312個を陸軍省に献納。同14年園芸実習地(現
在の第2運動場)を購入。校訓制定(質実剛健・親和協力・至誠力行)。同15年府立第十七中学校
(日本橋高等学校・葛飾野高等学校の前身)を併置。併設の夜学校を進思中学校と改称。同16年1
2月真珠湾奇襲により日米開戦。同17年第十七中学校を府立葛飾中学校と改称。創立20周年記念
式典。同18年都制施行により「都立第七中学校」と改称。プール設置。同19年都立葛飾中学校が
日本橋箱崎町に移る。同20年5月海軍記念日を汚す目的の愚かなアメリカ軍による非人道的無差別
空爆により校舎全焼。翌日学校本部を小梅国民学校に移動。直ぐに第一寺島国民学校に移す。8月日
本はアメリカの軍門に降り、ポツダム宣言を受諾して敗戦。以後属国となり、唯々諾々としてアメリ
カの指示に従う傀儡政権を保持せざるを得ない今日的不幸を背負い込む。
 9月言問国民学校に移動。同23年校友会の水泳寮を維持出来なくなり沼津市へ譲渡。高等学校設
置基準法により「都立第七新制高等学校」と改称。新校舎建設工事完了。言問小学校(旧言問国民学
校)より移転復帰。同25年男女共学の「都立墨田川高等学校」と改称。父兄会を廃し、PTA設立
「美汀会」と称す。民主主義を名目に生徒会発足。同27年創立30周年記念式典。同30年体育館
完成。同32年三学期制実施。同35年第一期鉄筋コンクリート造り校舎落成。同36年第二期鉄筋
コンクリート造り校舎落成。同37年落成式・創立40周年記念式典。同38年第三期鉄筋コンクリ
ート造り校舎落成。同39年校歌記念碑建立。同41年第四期鉄筋コンクリート造り校舎落成。42
年第五期鉄筋コンクリート造り校舎落成。学校群制度が発足し、両国高校・小松川高校とともに61
群を編成。同43年校庭に夜間照明設置。同45年校友会の七生寮宿舎改築工事完了。同46年第六
期鉄筋コンクリート造り校舎落成。同47年創立50周年記念式典。同49年プール改築。同55年
学校群制度の不具合によりのグループ合同選抜制度に変り、61グループとなる。同57年創立60
周年記念式典。同60年新体育館完成。
 同62年新築鉄筋コンクリート造り第一期校舎竣工。平成2年新築鉄筋コンクリート造り第二一期
校舎竣工。同3年学校全体の整備工事総て完了。同4年視聴覚室にLL教室、社会科室にパソコン教
室開設。創立70周年記念式典。平成12年進学重視型単位制高校開設・二学期制に移行。同14年
創立80周年記念式典。同15年文科省よりスーパーイングリッシュランゲージハイスクール研究指
定校に指定される。
 向島の向島たる堤校舎は三年生用だったが、平成15年閉鎖して都立忍岡高等学校に譲った。同1
6年には月島分校も閉鎖した。

 卒業生
 卒業生が凄い。漫画家滝田ゆう・名優加東大介・名司会者小川宏・歴史家半藤一利・作家枝川公一
・ジャーナリスト佐野眞一・声楽家春日了・アルフィーの坂崎幸之助・推理作家宮部みゆきなど。



■寺島図書館
 東向島3丁目34番4号、隅田川高校のとなりにある区立図書館。まあ・・・ありきたりの図書館
で、墨田区の図書館は押しなべてレベルが低い。休日でも閲覧机は開いている。同時に3館回ったこ
とがあるが他区の図書館に比べて子供が少ない。墨田区の子供には勉強好きがいないのか?

  公立寺島学校発祥之地
 図書館の敷地内に発祥の地碑が建っている。この碑は昭和35年向かいの墨田区立第一寺島小学校
の創立80周年記念に建てられた。 碑文などはない。



■京成電鉄白鬚線 白鬚駅跡
 東向島4丁目2番の白鬚橋病院の本館裏辺りにあった。京成電鉄は、大正元年11月に押上~江戸
川(柴又)間がまず開通し、以後柴又~金町、江戸川~中山、と順次延長して、大正10年7月押上
~千葉間が開通、更に大正15年12月津田沼~成田間が完成し全線開通した。
 しかし京成電鉄ではこれに満足せず、都心乗り入れを図って押上~上野間など種々路線計画を立て
たが、いずれも認可が得られず実現しなかった。
 この計画の1つに、向島から白鬚を経て千住に至る路線があった。この線は、白鬚~千住間が認可
が得られないまま、昭和3年7月向島~白鬚間を開通させたが、延長の見込みが立たず、同11年2
月末には早くも廃線となった。
 なお京成電車都心部乗り入れは、昭和5年10月筑波高速度電気鉄道を合併し、青戸から上野への
乗り入れを達成し、また昭和35年12月には押上で都営地下鉄線との相互乗り入れが実現、利用者
に大きな利便を与えている。



■長寿庭園
 東向島4丁目8番20号にある区立公園。昭和49年4月18日開園。



■七面堂大明神

 東向島4丁目12番15号にある小祠。



■向島中学校 (平成25年鐘淵中学校と統合予定)
 東向島4丁目18番9号にある区立校。昭和24年4月6日第二寺島小学校内に開校。同25年3
月第一校舎起工、7月落成。同27年第二校舎4教室増築。同29年第三校舎4教室増築。同30年
第四校舎4教室増築。同37年鉄筋校舎に改築第1期工事完了。同38年鉄筋校舎に改築第2期工事
完了。同39年校庭舗装完了。創立15周年記念式典。同43年完全給食実施。同44年難聴学級開
設。創立20周年記念式典。同47年プール完成。同48年特別教室校舎改築。創立25周年記念式
典。同54年創立30周年記念式典。同58年国立競技場で開催される区連合陸上競技大会において
13年連続総合優勝。同59年創立35周年記念式典。文部省から学校給食優良校表彰。同62年区
連合陸上競技大会総合優勝。同63年校舎3・4階改修。
 平成元年正門記念碑「独立自尊」完成。創立40周年記念式典。校舎1・2階改修。同3年多目的
室(ランチルーム)完成。同9年区連合陸上競技大会女子優勝。同10年創立50周年記念式典。同
11年区連合陸上競技大会総合優勝、女子優勝。平成15年創立55周年記念式典。
 同25年鐘淵中学校と統合して新しい中学校となる予定。

 校歌「隅田の堤名園の」 作詞・山本義雄  作曲・小栗照代
  1.隅田の堤名園の
    文花のゆかり深きとこ
    我が校舎に新しく
    日々の知性を磨くなり
  2.ペンと桜の校章に
    集う千余の若人よ
    しかと大地を踏みしめて
    自由を叫べ溌剌と
  3.平和日本を打ち立てる
    重き使命を担いつつ
    強き身体を練り鍛え
    明日の歴史を作らなん
 



■出世不動堂

 東向島4丁目20番8号にある。民家なので人が住んでいるが、掲額が仰々しいので判る。


 
.出世稲荷社

 出世不動堂の敷地にある小祠。



■稲荷社
 東向島4丁目27番6号にある小祠。



■稲荷社
 東向島4丁目28番8号のくすのき児童遊園の角地にある小祠。



■白鬚駅 → 玉ノ井駅 → 東向島駅
 東向島4丁目29番7号にある東武伊勢崎線の停車場。明治35年4月1日の吾妻橋(業平橋)~
北千住間開業時にできた駅。当初の駅名は「白鬚」といい、同38年7月16日休止、同41年4月
4日廃止。大正13年10月1日「玉ノ井駅」として再開。昭和20年5月20日愚かなアメリカ軍
の非人道的無差別空爆により駅舎が壊滅したため業務休止。同24年10月1日復活再開。同62年
12月21日に現在名になった。玉の井から東向島への改称は、東武博物館を建てるにあたり、売春
窟玉の井の淫靡なイメージを払拭するために、住民の猛烈なる大反対を押し切って、会社側の功利的
な判断だけで、無味乾燥な東向島を採用したのだ。だから現在でも駅名表や駅入口の看板には「旧玉
ノ井」と記さざるを得ない。旧駅名をこのようにアピールしている駅は全国的にも珍しいよ。
 ホームは高架相対式2面2線構造。ホームと改札階を結ぶエレベーターは平成19年3月設置。改
札口・出口は1ヶ所のみで地上1階にある。



■東武博物館
 東向島4丁目28番16号、駅の高架下に併設されている。東武鉄道の過去の車両などが展示して
あり大人200円、子供100円という大変リーズナブルな価格で見学ができる。しかし展示内容は
料金に見合わないほど見応えたっぷりだ。



■第二寺島小学校
 東向島4丁目30番2号にある区立校。大正13年4月1日「東京府南葛飾郡寺島町立第二寺島尋
常小学校」として開校。昭和7年「東京市向島区第二寺島尋常小学校」と改称。同16年「東京市第
二寺島国民学校」と改称。同18年「東京都第二寺島国民学校」と改称。同19年学童疎開。同20
年敗戦。疎開解除。同22年「墨田区立第二寺島小学校」と改称。同49年創立50周年記念式典。
 平成16年創立80周年記念式典。

 校歌
「大正十三卯月の二十日」  作詞・国語部  作曲・福井直秋
  1.大正十三卯月の二十日
    清く流れる隅田の東
    我らを育む教えの庭は
    礎固く築かれぬ
  2.緑色こき楠の木陰に
    朝夕集いて共々励み
    互に手を取り語ろう時は  
    嬉しさ胸にあふるなり
  3.我らの目指す至誠の道に
    日に日に近寄る心の姿
    現し出すは我らが努め
    永久にたゆまず励まなむ
 



東床山安楽

 東向島4丁目36番3号にある浄土真宗大谷派の寺。昭和2年現在地で真宗説教所を開設した。3
階建てのビル。屋根は和風、壁面は現代風と変わっている。
 



■京成電鉄白鬚線 玉ノ井駅跡
 東向島5丁目11番の南半辺りにあった。京成電鉄は、大正元年11月に押上~江戸川(柴又)間
がまず開通し、以後、柴又~金町、江戸川~中山と順次延長して、大正10年7月押上~千葉間が開
通、更に大正15年12月津田沼~成田間が完成し全線開通した。
 しかし京成電鉄では、これに満足せず、都心乗り入れを図って押上~上野間など種々路線計画を立
てたが、いずれも認可が得られず実現しなかった。
 この計画の1つに、向島から白鬚を経て千住に至る路線があった。この線は、白鬚~千住間が認可
が得られないまま、昭和3年7月向島~白鬚間を開通させたが、延長の見込みが立たず、同11年2
月末には早くも廃線となった。
 この京成電鉄玉の井停車場付近の模様を、永井荷風は「おもかげ」(昭和13年)の中で次のよう
に記している。

   線路に沿う売貸地の札を立てた広い草原が鉄橋の架った土手際に達してゐる。去年頃まで
   京成電車の往復してゐた線路の跡で、崩れかかった石段の上には取払はれた玉の井停車場
   の跡が雑草に蔽われて、此方から見ると城址のやうな趣をなしている。
    わたくしは夏草を分けて土手に登って見た。眼の上には遮るものもなく、今歩いてきた
   道と空地と新聞の街とが低く見渡せるが、土手の向側は、トタン葺の陋屋が秩序もなく、
   端(はて)しもなく、ごたごたに建て込んだ間から湯屋の烟突(えんとつ)が屹立して、
   その頂きに7、8日頃の夕月が懸ってゐる。
 
 なお、京成電車の都心部乗り入れは、昭和5年10月筑波高速度電気鉄道を合併し、青戸から上野
への乗り入れを達成し、また昭和35年12月には押上で都営地下鉄線との相互乗り入れが実現、利
用者に大きな利便を与えている。



■玉ノ井
 東向島5丁目。「抜けられます」だ? 関東大震災で吉原遊郭が壊滅、業者はすぐさま玉ノ井と亀戸で商
売を再開した。玉ノ井は大正7年ころにぽつぽつと始まった無認可の私娼窟だ。それが大正13年6
月で玉ノ井260軒(亀戸268軒)の売春宿があり、昭和20年3月の東京大空襲で壊滅する際に
は玉ノ井は487軒、1200人という国内最大規模の私娼街になっていた。すなわち政府非公認の
売春街で、浅草からの急な避難で、駅東側の農地に無秩序に建てられたために、ごみごみとして迷路
(ラビラント)のような路地の入り組んだ街を出現させたのだ。
 これを好んだ永井荷風が「墨東綺譚」(墨の字は実際にはサンズイが付く)に書き上げた。「抜け
られます」は、路地の入り組みで袋小路になるのか、通り抜けられるのか迷う客が多いので、入口に
「抜けられます」「ぬけみち」など標示してあった。それが玉ノ井の特徴だったので、「抜けられま
す」といえば「玉ノ井」を表した。
 玉の井の売春街は昭和33年「売春防止法」によって消滅する。
 で、玉の井の由来だが、明暦の頃この辺りの代官だった多賀藤十郎の妾(めかけ 愛人)の名前に
因むそうだ。詳しいことは判らないが、お玉さんの在所なのか、入水自殺でもしたのだろう? 
 「井」は、湧水池、井戸、水路、用水、湿地を表す。その藤十郎の屋敷跡が再開発されて「向島百
花園」となったという関連。



玉の井バラバラ事件(死体損壊をバラバラと表現した最初の事件)
 さらに玉ノ井を有名にしたのが、昭和7年3月7日に発生した「八つ裂き屍体殺人事件」で、この
日本中を震撼させた大事件は10月20日に犯人が捕まって落着したが、この事件で、東京朝日新聞
が初めて「バラバラ」という表現を使い、以後死体損壊事件は、「バラバラ死体」「バラバラ殺人」
と表現することとなった。
 玉の井の近くに、通称「鉄漿ドブ」と呼ぶ下水溝があり、水面はまるで鉄漿(おはぐろ)を流した
ように黒く濁っていた。メタンガスがブツブツと発生する排水路で、犬や猫の死骸の外、玉の井の女
が出産し、処置に困って遺棄した嬰児の死体がよく発見されたという。
 事件が発覚した7日の朝9時ごろ、子どもが下駄を落としてしまい、呉服屋の親父が親切心で、棒
でドブを掻き回して探してやった。すると水面に血が広がり、白地の浴衣で包み、麻の細紐でぐるぐ
る巻きに縛ったものが浮いてきた。これは徒事(たたごと)ではないと思った主人が、寺島警察署長
浦交番に届け出た。安藤巡査が駆けつけ、引き上げられたものの包装を解いて見ると男の胴体のみが
ハトロン紙から現れた。
 安藤巡査は、後から駆けつけた千葉巡査と共に、同じドブの少し離れたところから二つの包みを発
見した。ドブから引き上げた三つの包みの中身は、推定30歳くらいの男の首、乳部から上の胸部、
臍から下の腰部で、付け根から切断された両腕、両脚はなく、また乳部から臍までの胴体は発見され
なかった。
 最初この事件は、「寺島八裂き屍体事件」「向島の惨殺死体事件」などと呼ばれていたが解決が長
引くに連れて、東京朝日新聞が名づけた「玉の井バラバラ事件」に統一されていった。以後、死体解
体事件は「バラバラ事件」と呼ばれることが定着した。警視庁から土屋捜査一課長、吉川鑑識課長ら
が寺島警察署に詰めかけ捜査本部が設置された。
 遺体は、翌日正午から帝大(東京大学)で司法解剖された。年齢は30歳前後、顔は日焼けして、
骨格と右肩の筋肉が発達していることから、肉体労働者と推定され、顔の特徴は角張った方で、富士
額、門歯の裏には二重の犬歯があり、臀部には皮膚病の痕があった。
 死後1週間ぐらい、致命傷は前額部から左にかけて鈍器状のものによる乱打、脳震盪脳挫傷。猛烈
な打撃によって顎は粉砕され、下前歯3本が折れている。軽い肋膜炎の治療痕がある。鼻腔、口など
には布団綿が詰め込まれていた。胴体を結わえた紐には女性の髪6本がついていた。また猫の毛も付
着していて、鰯の鱗も発見された。死体をくるんでいたハトロン紙は近くの石鹸工場などで使用して
いる包装用のものと同じ種類で、それにかけた紐は、麻紐、カーテン紐、帯芯の端切れなどを丹念に
繋ぎ合わせたものだった。
 泥水の浸潤状態からして、死体を現場に遺棄したのは、発見前日の6日と推定された。
 鉄漿ドブは幅2m、深さ1m。黒い水の底にヘドロがたっぷり溜まっている。捜査本部は地元町内
会、青年団130人を動員し、消防車2台、発動機2台が出動し、必死になってドブ浚いを行ったが
徒労に終わった。また付近一帯の家出人、行方不明者を虱潰しに聞き込み調査したが、これといった
収穫はなかった。
 この事件で打撃を受けたのは、玉の井500軒の銘酒屋と2000人の娼婦だった。1日の客10
000人といわれていたが、事件後は3分の1に激減、その周辺の飲食店まで被害を蒙った。しかし
現場は野次馬でごった返し、屋台が出る始末だ。
 捜査本部には連日非難の当初が舞い込んだ。そのため苦肉の策として懸賞金を出すことにした。犯
人を教えた者には200円(400万円くらい)、被害者の身元を教えた者と、有力な手がかりをも
たらした者には100円(200万円くらい)。
 捜査が行き詰ると、マスコミは売れっ子の探偵小説作家に推理を求めた。江戸川乱歩、大下宇陀児、
甲賀三郎、浜尾四郎子爵、森下雨村などなど。
 3月21日の彼岸の中日、迷宮入りが濃厚となって、客が遠退いて困り果てていた玉の井の業者は、
鉄漿ドブの近くに祭壇を設けて供養した。呼ばれた僧侶は卒塔婆に「三月七日発見居士」という冗談
のような戒名まで書いた。

 
解決
 かくて誰もがもう解決しない思い始めていた矢先、思いもかけぬところに糸口が見つかって一気に
解決に向かう。9月27日になって・・・
 水上警察署の署長は署員数名を連れて現場視察に出かけた。これに同行した同署枕橋派出所の石賀
道夫巡査が、3年前の8月に、富士額で八重歯の男を職務尋問したことを思い出した。その男は千葉
龍太郎という当時28歳のルンペンで、きく子という当時8歳の子どもを連れていた。石賀は、被害
者はこの男ではないかと閃いた。ルンペンとは、当時「乞食」「浮浪者」「物乞い」を意味し、ドイ
ツ語で「ボロ切れ」「古着」のことだ。
 千葉は、「妻に死なれた上にとうとうルンペンにまで落ちぶれた」といった。石賀巡査は同情し、
子供を引き取って、千葉を運送屋に紹介してやった。しかし三日と持たずに辞めて戻ってくる。その
内横浜に行くからといって娘を連れ出すものの、十日ほどでまた舞い戻ってくる始末。石賀巡査は、
「そんなことではどうしようもないから、故郷の秋田に帰れ」と金を持たせて、上野駅で汽車に乗せ
て見送ったという。
 すわと捜査してみると、果たして千葉は長谷川市太郎(当時39歳)宅に居候していることが判っ
た。10月16日捜査員が長谷川に会って、千葉の消息を尋ねると、「一年ほど前から家にいるが、
今年2月に出かけたきり戻ってない」との答え。そこで周辺で聞き込みをしてみると、年中ゴタゴタ
揉めていたという。さらに調べると長谷川は建具職人で、このころは仕事を持たず、春画を描いては
千葉に売らせていた。ゴタゴタは千葉が売上金を使い込んでしまうことが原因だった。
 4日後の20日、警察は、長谷川を有力容疑者として水上署にしょっ引いて追及したところ、果た
して長谷川は犯行を認めた。「千葉を救ったのに、恩を仇で返すような千葉の態度に腹が立ち、自分
1人で殺しました」と単独犯であることを主張した。長谷川の自供から犯
行の経緯を知った世間は長谷川に同情的だった。
 しかし8日後の28日自供内容が変わった。「千葉を引き取ったのは、秋田にあるという財産目当
てだった。犯行は予め計画したもので、妹と弟が手伝った」
 こうなると世間の見方は一変した。

 
経緯
 当時30歳の妹とみは、銀座松坂屋裏にあるバー「銀すず」の女給(ホステス)で、当時23歳の
弟長太郎は、帝大工学部土木課で印刷工として働いていた。この3兄弟は病気がちの母親と一つ屋根
の下で一緒に暮らしていた。とみの日給は40銭、長谷川の日給が1円30銭、春画を描いては浅草
に売りにいっていたが、大した収入になる訳ではなかった。一家は電気代も払えず、蝋燭の明かりで
夜を過ごしていた。
 昭和6年長谷川が浅草花屋敷に遊びに行った帰り、木馬館の裏で、蹲っている千葉父子を見つけた。
この時口達者な千葉は法螺を吹いた。高等農林学校で学び、故郷秋田には財産もあると。ただ義母と
不仲で飛び出し、一時はサラリーマンにもなったが、妻に先立たれ、自身も病気になって、今ルンペ
ンになってしまったら、こんな自分を助けてくれる人がいたら近い将来何倍にもしてお礼をしたいと
・・・長谷川が千葉父子を湯島の家に連れて行ったのは、この話をまるで信じたからだ。
 そのころとみバーの客内山達雄(30歳)と肉体関係を持っていたが、とみが妊娠すると内山は行
方を晦ました。5月にとみは出産したが、難産で輸血を必要としたが、長太郎の血液だけでは足りず、
それを知った千葉は自ら進んで血液を提供し、とみは全快した。母親のふみはとみをけしかけて千葉
と肉体関係を持たせた。
 2人が関係を持つと、長谷川は、早速千葉に秋田の財産を処分して来いと迫った。一家は着物など
を質に入れて千葉の旅費を工面し渡したが、十日ばかりして戻ってきた千葉は、手土産一つ持ったき
りで無一文で戻ってきた。「田舎では小作争議が起こっていて、田畑を処分するどころではなかった
よ。騒ぎが収まるまでまたなくっちゃあ・・・」
 一方とみを孕ませて逃げた内山の父重次(78歳)と長谷川は奇妙な関係にあった。長谷川が描く
春画の原本を提供していたのだ。重次は長谷川から千葉のことで相談を受けると、すぐに秋田に問い
合わせ、千葉が無一文であることを知らせた。
 長谷川は千葉の正体を知ると追い出しにかかったが、千葉は居座り、粗暴な振る舞いをするように
なった。長谷川はあまり強い態度には出られなかった。春画を描いて売っているということを警察に
ばらされる恐れがあった。あるとき千葉はとみの赤ん坊の足を持って振り回したことがあった。それ
が原因かどうかは判らないが赤ん坊は死んでしまった。
 いよいよ金に窮した長谷川と長太郎は、一文の金も生み出さないどころが、苦しい一家のお荷物に
なっている千葉は殺すしかないと考え始めていた。
 昭和7年2月11日(13日?)長谷川は自宅近くの湯島小学校で開かれた青年団の演説会に千葉
を連れ出した。午後3時頃、2人が演説会から戻るととみが死んだ我が子のために仏壇の前で手を合
わせていた。千葉はその後姿を見ると「そんなことは止めろ」と不快そうにいった。「何をいってる
の! 私の可愛い赤ちゃんはしんじゃったのよ」
 とみの言い草にカッとなった千葉は、とみに掴みかかろうとしたその刹那、長谷川は既に用意して
いたスパナで千葉の後頭部を強かにぶん殴った。千葉が猛然と怒って長谷川に抵抗すると、長太郎が
バットで千葉の足をひっぱたいた。横転した千葉を2人で滅多打ちに。その時とみは見張り役になっ
て、出かけているふみときく子が帰ってくるのを警戒していた。
 死体は台所の床下に放置、20~21日にかけて解体し、長谷川ととみが円タクに乗って玉の井に
行き鉄漿ドブに捨てた。未発見部分は長太郎が帝大工学部の廃館2階の廊下の床下
に隠した。

 
判決
 昭和9年8月6日、東京地裁は、長谷川に懲役18年、長太郎に懲役8年、とみに懲役6月(執行
猶予3年)の判決を言い渡した。長谷川はこれを不服として控訴。
 同10年12月17日東京控訴院(東京高裁)は、長谷川を懲役16年、長太郎を懲役6年としそ
れぞれ2年を減刑した。とみの判決は変わらなかった。




法栄山聖徳寺

 東向島5丁目41番5号にある浄土真宗東本願寺派の寺。昭和11年に玉の井説教所を開設、後に
寺院に改め開基した。



■第三寺島小学校
 
 東向島6丁目8番にある区立校。大正15年5月28日「東京府南葛飾郡寺島村立第三寺島尋常小学校」
として設立認可。昭和3年12月校舎落成して第一寺島尋常小学校から分校して開校。移籍した生徒
は1420名。同6年校歌制定。

  1.たがあゆかしや 隅田のほとり
    皇居仰ぎて 築きしところ
    吾等学び舎 聳えたり
    いざや いざ いざ 
    君に御国に盡さばや
  2.花は移ろひ 香りは消ゆも
    力朽ざる流れの叫び
    吾等誠の道を踏む
    いざや いざ いざ
    勉め励みて極めばや
  3.学び弛まず心を修め
    母校の誉をいやいや高く
    吾等健兒ぞ 掲げよや
    いざや いざ いざ
    授け警しめ進まばや


 同7年「東京市第三寺島尋常小学校」と改称。同9年第一寺島小学校から高等科女子転入。同16
年「東京市第三寺島国民学校」と改称。高等科女子を向島西部国民学校へ転出。同19年学童集団疎
開で茨城県行方群潮来町および香澄町へ、3年以上有志児童349名疎開。同20年秋田県平鹿郡浅
舞町沼館大森町へ再疎開、新たに1・2年生参加。同8月敗戦。同22年「墨田区立第三寺島小学校」
と改称。同23年校歌制定。

 校歌「日は照り染めて学舎に」 作詞作曲・菅野準
  1.日は照り染めて学舎に
    玉露きらら光る時
    希望は今も新しく
    溢るる如く湧き出でて
    我らの胸は大いなる
    世紀の朝に高くなる

  2.優しく招く蔦の葉に
    陽の燦々と注ぐ時
    微笑む我ら若鳩は
    理想の花を胸にして
    やがて平和に輝ける
    世紀の空に羽ばたかん
  3 墨田の彼方夕映えの
    気高き富士を仰ぐ時
    ああ感激に咽
(むせ)
びつつ
    心に誓う花蕾
    やがて大地に咲き香る
    世紀を飾る 花たらん


 昭和53年創立50周年。平成15年創立75周年。



■寺島妙清教会

 東向島6丁目10番10号にある法華宗の布教所。



■向島消防署
 東向島6丁目22番3号にある。



■長浦神社
 東向島6丁目27番7号にある神社。今からおよそ三百余年以前に、当時は武蔵野国葛飾郡寺島村
長浦といわれていた現在地に、長浦氏が創建したと伝えられている。昔は境内に松、欅などが多く繁
り、「白鬚の森」と呼ばれて、向島八景、隅田川二十四景に数えられるほど、緑の美しいところだっ
た。江戸末期に建てられた社殿は、関東大震災やアメリカ軍の空爆でも被災しなかったが、平成2年
愚かな左翼暴力集団の放火によって燃やされてしまった。国家神道と町や村の神社は全く無関係なの
だ。鎮守は氏の神に過ぎないのだ。
 平成4年再建。大祭は3年毎で、次は平成22年かな。祭神は神皇産霊神(カンムスビノカミ)と
豊宇氣神(トヨウケノカミ)。境内に稲荷社がある。      



■白龍出世大明神
 東向島6丁目36番1号の駐車場の奥にある



■鈴木木工博物館
 休館中
 東向島6丁目38番15号にある。開館は、事前連絡によりその都度対応。1メートルもあるケン
玉や木製のミニチュアが大人気。 03-3616-5008



向島教会

 東向島6丁目48番7号にある日蓮宗の布教所。アパートのような建物で、身延山年参講本部とあ
る。



■京成電鉄白鬚線 長浦駅跡
 東向島6丁目48番16号辺りにあった。京成電鉄は、大正元年11月に押上~江戸川(柴又)間
がまず開通し、以後柴又~金町、江戸川~中山と順次延長して、大正10年7月押上~千葉間が開通
し、更に大正15年12月津田沼~成田間が完成し全線開通した。
 しかし京成電鉄では、これに満足せず、都心乗り入れを図って押上~上野間など種々路線計画を立
てたが、いずれも認可が得られず実現しなかった。
 この計画の1つに、向島から白鬚を経て千住に至る路線があった。この線は、白鬚~千住間が認可
が得られないまま、昭和3年7月向島~白鬚間を開通させたが、延長の見込みが立たず、同11年2
月末には早くも廃線となった。
 なお京成電車都心部乗り入れは、昭和5年10月筑波高速度電気鉄道を合併し、青戸から上野への
乗り入れを達成し、また昭和35年12月には押上で都営地下鉄線との相互乗り入れが実現、利用者
に大きな利便を与えている。






【文花】(ぶんか)1~3丁目                    昭和40年7月1日
 江戸時代は請地村の西半、小村井(おむらい)村の南半、梅屋敷、香取神社。明治元年東京府、同
11年「郡区町村編制法」により南葛飾郡所属。同22年「市制町村制」により吾嬬村の大字、大
正元年吾嬬町大字西2~4丁目・東1・3・5丁目。昭和7年向島区の成立で吾嬬町西2~4丁目
・東1・3・5丁目。同22年墨田区所属。同40年新住居表示により吾嬬町西3丁目の全部に、
同2・4丁目・東1・3・5丁目の各一部をあわせた町域を現行の「文化」とした。区の小さな博
物館運動により、2丁目に合金鋳物博物館(ドアノブ・手摺金物など)ができた。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『墨田区史』『墨田の歴史』など。

 文花の由来
 町名は請地とも小村井とも付けられず、さりとて妙案もなく・・・・「思えばこの辺りは文教施
設の集中地区だ」という者があり、なら「文化」から「文」の字を採り、「化」は、吾嬬神社の祭
神弟橘媛(おとたちばなひめ)の「橘」を「立花」と見て「花」に改めて「文花」を創作した。漢
和辞典に文華という熟語はあるが、さすがに文花まではない。で、当時の文教施設だがあずま図書
館・あづま百樹園・西吾嬬小学校・文花中学校・・フッフフフフ




■請地国民学校 閉校
 文花1丁目18番6号にあった区立校。跡地に曳舟中学校が建った。



■曳舟中学校 統合閉校
 文花1丁目18番6号にあった区立校。昭和22年3月18日、旧請地小学校跡に設立認可を受
け、5月10日曳舟小学校において、1・2年生403名・10学級・教員10名をもって開校し
た。同28年長欠児救済の目的を以て夜間部を併設、同37年に至り生徒数は最大規模となり、そ
れ以降は減少した。また同そして海外からの引き上げ家族の子弟のために、同46年日本語学級を
設置。
 校舎は同23年7月木造2階建て7教室の新築以来、32年まで6次に亘り22教室が、また同
35年6月に至り鉄筋コンクリート4階建(18教室)に改築されて以後、3次に亘り15教室が
増加(一部3階建)された。校舎完成を記念して、校庭の一部に「語らいの杜」が造成された。同
52年開校30周年記念式典。敷地面積は区内中学校随一の広さだった。
 
平成11年吾嬬第三中学校と統合し文化中学校となり、吾嬬第三中学校の跡地に新校舎ができる
まで文花中学校があった。平成15年に移転した後、跡地利用はないまま放置され、一部が地域の
人々のために開放されている。

 校歌「水は来て」 作詞・作曲
  1.水は来て 水は流れる
    隅田の畔
(ほとり)
    吾等学燈の団居
(まどい)を重ね
    生い立たん 明日をぞ持てり
    歌え 歌え 歌え 門出の朝を
    曳舟中学 光れ 輝け 光れ 輝け
  
2.風は来て 風は流れる
    墨田の空を
    吾等若鳥の翼を張りて
    飛び立たん 時こそ至る
    歌え 歌え 歌え 巣立ちの朝を
    曳舟中学 飛べよ 羽搏け 飛べよ 羽搏け




■あずま図書館
 文花1丁目19番1号の中小企業センターの中にある。以前は区営グラウンドがあったところだ。



■あずま百樹園
 文花1丁目19番4号にある区立公園。以前あった区営グラウンドの7分の3ほどの面積を占める
区民の憩いの場だ。桜34本の外、花木が植えられている。百樹園と銘打つほどの森林公園ではない
が、まぁ普通の緑の公園だ。



■文花テニスコート
 文花1丁目19番12号にある区の施設。以前は区営グラウンドがあったところだ。



■西吾嬬小学校 統合閉校
 文花1丁目20番7号にあった区立校。文花小学校・第二吾嬬小学校と統合して押上小学校となっ
た。押上小学校は第二吾嬬小学校の跡地に建つ。なお旧校舎は区の施設として利用されている

 校歌「旗雲靡く大空に」 作詞・中郡節二  作曲・細谷一郎
  1.旗雲靡く大空に
    太陽の歌 木霊して
    望み豊かに仰ぎ見る
    教えの道の輝く窓よ
    ああ 西吾嬬
    光あれ 我が母校
  2.世界を結ぶ産業の
    サイレン響く隅田川
    波に真理の影映えて
    学は楽し 友よぶ庭よ
    ああ西吾嬬
    栄えあれ 我が母校

 
 3.祖国の願い尋ね行く
    学園の町 向島
    清い文化の花咲いて
    銀河の彼方 夢見る処
    ああ 西吾嬬
    永久にあれ 我が母校




■すみだ産学官連携プラザ・早稲田大学すみだサテライトラボラトリー
 文花1丁目20番7号の西吾嬬小学校の旧校舎1階にある。区は産学官連携に積極的。特に早稲田
大学とは、平成14年12月に包括的な事業連携協定を締結し、産業の分野だけでなく、文化、まち
づくり、人材育成など幅広い連携を進めている。そして同15年10月より一層産学官連携を推進し
ていくため産学官連携の拠点となる「すみだ産学官連携プラザ」を旧西吾嬬小学校校舎に開設した。
この産学官連携プラザでは、特許など大学の持つ知的財産と区内企業を結び付け、新たな製品開発を
支援するイノベーション事業を実施するほか、各種会議・講座などを開催するための講習室、商談な
どを行うための交流サロンなどが整備されています。また同施設には早稲田大学との連携協定に基づ
き「早稲田大学すみだサテライトラボラトリー」が併設され、早稲田大学の研究室及び早稲田大学が
支援するベンチャー企業などが入居しており、これらの企業等との連携による地域密着型の事業展開
を図っているぞ。東京スカイツリーも建つことでもあり、これからの30年、墨田区は大変なことに
なるぞ。だから区立図書館を何とかしてくれぇー!



■文花子育て相談ひろば(センター)
 文花1丁目20番の7号西吾嬬小学校校庭跡に建つ区の施設。子育てに悩む母親の相談に乗り、疑
問や問題を解決する努力を図る。子育ては千差万別だからねぇ。絶対的なセオリーはない。悪かれと
思ってしても良く育つ子もいればさ、良かれと思ってしても悪く育つ子は悪くなるからねぇ。馬鹿と
思った子が大成功したり、天才と将来を嘱望された子が、「二十歳過ぎたら只の凡人」ってこともあ
るよ。東大出たって、末は天下り官僚じゃねえか。おいらなんざ「天才」「神童」といわれたもんだ
が、なんてない人生さ。唯他人と変ってることは、長い人生風邪一つひいたことはないし、虫歯の一
本もない。やっぱ天才かねぇ。



■吾嬬第三中学校 統合廃校
 文花1丁目22番にあった区立校。昭和28年吾嬬第一中学校から分校して開校。吾嬬第一中学校、第
四吾嬬小学校に間借りして授業。7月東洋モリスン跡地に新校舎大部落成して移転。同34年全校舎
落成。同36年体育館完成。同37年プール完成。同39年1階物置より出火して校舎の一部焼失。
同41年第一期鉄筋コンクリート造り校舎6教室落成。同45年第二期鉄筋コンクリート造り校舎1
0教室・給食室落成。同46年第三期鉄筋コンクリート造り校舎落成して全工事完了。同49年創立
20周年記念式典。同52年校舎増築8校舎。最後の木造校舎解体。
 平成11年曳舟中学校と統合し「墨田区立文花中学校」となる。

 校歌「朝日は呼ぶ」 制定年・作詞者・作曲者不明。
  1.朝は呼ぶ 朝は呼ぶ
    轟くサイレン 父母の町
    今明け染めて湧き上がる
    力の歌よ 吾嬬 吾嬬 吾嬬三中
    若き生命の相打つ処
    大いなる未来は輝く
  2.雲は呼ぶ 雲は呼ぶ
    清らの姿 遥か彼方
    世界は招く いざ行こう
    固き決意を 吾嬬 吾嬬 吾嬬三中
    若き魂 相寄る処
    大いなる真理は輝く
    



■文花中学校
 文花1丁目22番7号にある区立校。平成11年吾嬬第三中学校と曳舟中学校が統合してできた新
設校で、現在地に新校舎ができるまで曳舟中学校の校舎を使用した。現在地は吾嬬第三中学校の跡地