Home 江戸・東京・武蔵 足立区 荒川区 板橋区 江戸川区 大田区 葛飾区 北区 江東区 品川区 渋谷区
新宿区 杉並区 世田谷区 台東区 中央区 千代田区 豊島区 中野区 練馬区 文京区 港区 目黒区
 女性


Yahoo! JAPAN
 東京の地名の由来
 東京知ったかぶり!

 平成17年2月11日発信  リンクフリー
 地名の由来東京23区辞典 引用自由

 墨田区の地名の由来 
          現在進行形の調査なれば、逐次、誤謬訂正・新規追加あり。御用心御用心
 
                ご意見とご教示メール   

  東京スカイツリー 2月29日完成・5月22日開業
 世界一の高さを誇る電波塔(634メートル)を中心とした開発エリアは、「東京ス
カイツリータウン」と名付けられ、商業施設やオフィス施設、水族館などと共に構成さ
れる。延べ床面積は約23万㎡。平成24年2月29日に総ての施設が完成。5月22
日の開業まで、各店舗、入居者が仕込みが行われる。これに伴い、現在の最寄り駅とな
る東武伊勢崎線業平橋駅は3月17日「とうきょうスカイツリー駅」に改称された。
 展望台入場料は2000円、第二展望台は1000円加算となる。
 最初の1ヶ月半は完全予約制だ。慌てて行くことはないよ。

 内緒で教えるけどさ、色は? デザインイメージは?    答えは本文で


9.11(アメリカ同時多発テロ) 首謀者はチェイニー 港 区


 申し訳ございません。「江戸屋全国的名品案内は多くのユーザーの方の
 ご要望により、 ページを起こして移してあります。 
こちら
 
  【ころっころっの柴犬】
とっても元気な柴犬のワンちゃん
かわいいですよ。ここ掘れワンワン。
        WOOROMWEB  
   サントリー ウィスキー
 酒屋では手に入らない限定商品や
 レアもの秘蔵モルトがありますぞ 
 意外にスゴイんです。
          サントリー株式会社


 Home  【巻末特集】 江戸・東京名数一覧  江戸東京  東京は首都ではない  皇室典範・女系天皇 
 足 立 区  ビートたけし 関原不動 赤門寺 千住 都立舎人公園
 下山事件 西新井大師 大鷲神社 伊興寺町
 六阿弥陀 木余り阿弥陀 荒川バラバラ事件 炎天寺
 尾崎豊終焉の地 尾崎の部屋
 女子高生コンクリート詰め殺人事件
 荒 川 区  あらかわ遊園 北島康介 諏訪台寺町 三河島事故
 開成中学校・高等学校 尾久の原公園 大関横丁
 素盞雄神社 天王祭 大橋 谷中延命院一件
 
【巻末特集】 江戸しぐさ
 
【巻末特集】 小股の切れ上がったいい女
 板 橋 区  自殺願望女性救助駅前交番警察官殉職事故 松月院
 東京大仏 縁切榎 大東文化大学 帝京大学 板橋宿
 東京家政大学 中山道 板橋宿 国立極地研究所
 板橋事件 加賀藩前田家下屋敷
 江戸川区  葛西臨海公園 インド人 小松川女子高生殺人事件 
 都県境未定地 おくまんだし 妙見島 影向の松
 目黄不動 平井聖天 食用蛙供養塔 紅葉川高校
 江戸風鈴 立木観音 タワーホール船堀 雷不動
 大 田 区  池上本門寺 光明寺 大森海苔 磐井神社 松竹キネマ
 御菜八ヶ浦 羽田空港 大鳥居 八景坂 六郷神社
 大森ふるさとの海辺公園 馬込文士村 万福寺 梅屋敷
 洗足池
 北  区  静勝寺 小山酒造 新河岸川 飛鳥山公園 金剛寺
 装束稲荷 王子神社 王子稲荷 名主の滝 近藤勇墓
 医心方 亀の子束子 旧古河庭園 田端文士芸術村

 【巻末特集】 隅田川 (渡しと橋)
 江 東 区  外郎売  永代橋落橋事件 亀戸天神 カトレア
 ヒストリーガレージ キッザニア 戦災資料センター
 深川江戸資料館 富岡八幡 元八幡 砂町商店街
 東京海洋大学 東西線転倒事故 有明コロシアム 萩寺
 品 川 区  品川トランク詰め殺人事件 星薬科 船の科学館
 鈴ヶ森 立正大学 香蘭女子 杉野ドレメ 品川神社
 荏原神社 光福寺 大崎新都心 清泉女子大 品川寺
 品川宿 昭和大学 戸越銀座 第一京浜 ところてん
 渋 谷 区  明治神宮 慶応幼稚舎 尾崎豊の碑  忠犬ハチ公
 ライフル乱射事件 渋谷川  夫バラバラ殺人事件
 妹バラバラ殺人事件 モリブデン 文化女子大 NHK
 広尾病院事件 文化村 尾崎豊の碑 ワシントンハイツ
 聖心女子大 東京女学館 日本共産党 女子大生誘拐
 アメリカ橋 安藤組 国学院 金王神社 青山学院 
 新 宿 区  浄瑠璃坂の仇討 新宿胴体遺棄事件 新宿騒乱事件
 八幡様  陸軍士官学校 赤線地帯 防衛省・市谷駐屯地
 岡田有希子飛び降り自殺 オリンピック東京大会
 東海道四谷怪談 追分交番爆破事件 鉄腕アトム 
 
731部隊 学習院女子 早稲田大学 抜弁天 歌舞伎町
 歌声喫茶 名曲喫茶 どん底 新宿高野 中村屋 闇市
 杉 並 区  青梅・甲州・五日市街道 観泉寺 永福寺 高円寺
 不美人=ブスとは?  大宮八幡 ガンダム 妙法寺
 立教女学院 スチュワーデス殺人事件 東京女子大
 一家皆殺し放火 「疑惑の銃弾」 三浦和義 
 天保新水堀用水 
 墨 田 区  東京スカイツリー 相撲は国技ではない 大相撲事件 
 隅田川七福神 妊婦たらい回し死亡事件 回向院
 握りずし発祥 震災慰霊堂 鬼平・遠山の金さん
 王貞治生誕地 玉の井バラバラ事件 江戸東京博物館
 吾嬬神社 本所七不思議 もゝんじや 法恩寺 蓮華寺
 世田谷区  バンク・約束手形  花形敬  ウルトラマン 民家園 
 静嘉堂文庫 ボロ市 鷺草 西福寺 軍都池尻 東名
 羽根木公園 砧公園 駒沢公園 祖師谷一家殺人事件
 九品仏 多摩美 国学院 東農大 NHK技研 豪徳寺
 世田谷美術館 馬事公苑 烏山寺町 次大夫堀 仙川
 台 東 区  浅草寺 仲見世 浅草神社 三社祭 花やしき 上野公園
 鬼灯市 酉の市 待乳山聖天 佃煮元祖 旧岩崎邸
 八百善 今戸神社 アメ横 寛永寺 不忍池 花の吉原
 上野動物園 東京国立博物館 駒形どぜう 鬼子母神
 東京本願寺 東京芸大 谷中墓地 笹の雪 吉展ちゃん
 中 央 区  「銀ブラ」って、ブラブラ歩くことじゃないよ。 パウリスタ
 東京大空襲 アメリカの占領 蘭学事始 ティファニー 
 エルメス シャネル コーチ パリー セリーヌ プラダ
 カルティエ ディオール ルイ・ヴィトン 不二家不祥事
 三越・松屋・松坂屋・大丸・高島屋 築地本願寺 日本橋
 H&M 歌舞伎座 白木屋火事 日本銀行 金春芸者
 日本海軍発祥地 新橋演舞場 明治座 ハヤシライス
 千代田区  靖国問題・A級戦犯 女子学院 暁星 将門塚 消防庁
 警視庁 ていぱーく 桜田門外の変 ニコライ堂 武道館
 九段会館 楠公像 ホテルニュージャパン火災 近衛師団
 秋葉原無差別殺傷事件 神田明神 FM東京 丸ビル
 新丸ビル 丸の内物語 三菱重工ビル爆破事件 国会
 雙葉 専修大 日大 法大 明大、電機大 大妻 番町小
 東郷平八郎 日比谷公園 国際フォーラム 北辰一刀流
 豊 島 区  池袋の女 染井吉野 女子栄養学園 染井霊園 中山道
 おばあちゃんの原宿 とげぬき地蔵 庚申塚 本妙寺
 雑司が谷墓地 鬼子母神 土田邸爆破事件 山吹伝説
 目白不動 帝銀事件 立教 学習院 豊島岡女子学園

 【巻末特集】 東京の暴力団
 中 野 区  新井薬師 上高田寺町 童謡「たき火」 中野サンプラザ
 近隣騒音殺人事件 福蔵院 八幡神社(鷺ノ宮) 成願寺
 宝仙院 堀越学園 桃園川 丸井本店 中野ブロードウェイ
 東中野電車追突事故 光倶楽部事件 哲学堂公園 桃園
 
【巻末特集】 江戸城 城門と橋 
 練 馬 区  いろはかるた 練馬バラバラ殺人事件 としまえん 
 ちひろ美術館 三宝寺 石神井公園 長命寺 清戸道
 良弁塚 武蔵大学 金乗院 練馬寺町 武蔵音大 
 グランドハイツ 練馬少年鑑別所 首継ぎ地蔵 円明院
 妙福寺 春日神社 増島家薬医門 練馬大根 愛染院
 文 京 区  狛江 振袖火事 東京大学 拓殖大学 御茶ノ水女子大
 東京高等師範 教育大学 護国寺 弥生式土器 伝通院
 聖マリア大聖堂 高津教授殺人事件 東京ドーム 六義園
 小石川植物園 元町公園 桜蔭学園 順天堂大 かねやす
 日本女子大 湯島聖堂 湯島天神 東洋大 共同印刷争議
 港  区  増上寺 フリーメイスン 永坂更科 麻布学園 氷川神社
 乃木大将 ミッドタウン 六本木ヒルズ 善福寺 霊南坂
 東洋英和 ケネディ暗殺宇宙中継 愛宕山 小便小僧
 レインボウブリッジ 東京タワー 慶応義塾 自然教育園
 明治学院 虎ノ門事件 東宮御所 日本経緯度原点
 9・11(アメリカ同時多発テロ)自作自演疑惑
 目 黒 区  滝坂道 目黒不動 法華騒動 円融寺 五百羅漢 東工大
 目黒ショック 日比谷線脱線事故 駒場野一揆 旧制一高
 駒場東大 駒場学園 滝坂道 行人坂大火 雅叙園 騎兵
 目切坂 権之助坂 太鼓橋 茶屋坂 槍ヶ崎事件 祐天寺
 酸素魚雷 音羽ゆりかご会 八雲学園 目黒のさんま





 墨田区の地形
 墨田区は、全域が広大な東京低地に属し、海生の砂やシルトを主体に互層を成す厚い軟弱層に覆わ
れているのよ。地形的にゃあ海岸低地や自然堤防(砂の微高地)で成り立つんだがよ、市街化に伴う
盛土などにより、原地形は不明瞭なものになってらぁね。なお江戸期の埋め立て以前には、墨田区の
南縁にあたる地域が江戸湾に臨んでてね、隅田川や荒川の運搬土砂が形づくる三角州性の低地を形成
していた。隅田川はかつての利根川、荒川は付け替え後の隅田川。隅田川が正式名称になったのは、
昭和40年。

 東京低地
 東京西部域に広がる武蔵野台地と千葉県北部域の下総台地との間に分布する沖積低地をいう。その
基底は約20000年前の陸地が海中に没したもので、古東京川の河谷が深い埋没谷となって刻まれ
ている。

 
シルト
 砂と粘土との中間の粒径をもつ砕屑(さいせつ)物。地質学では16分の1~256分の1mmの
もの、土壌学では0.02~0.002mmのもの。また、その未固結堆積物。一般に泥といわれてい
るものはシルトと粘土を含んでいるんだぜ。ヘドロは日本語、横浜の方言で泥水地のことだよ。



■地形・地質と住宅地盤
 海岸低地
 東京湾沿岸に広く分布する標高の低い平坦面である。地下水位が高く、上部には緩い砂や軟弱なシ
ルトなどが分布しているため、標準的な基礎では、十分な耐力を確保することが困難であり、適切な
基礎補強策が必要となる。区の大部分。

 
自然堤防
 周囲の氾濫低地や海岸低地と比べ海抜高度がわずかに高く、一般に河川に沿って帯状に分布してい
る。河川によって運搬された砂や砂礫が浅い深度から分布しているために、住宅地盤としては、比較
的良好な場合も多い。しかし度重なる河川の氾濫と蛇行によって運ばれた軟弱な粘性土や緩い砂が、
自然堤防の上に新たに堆積している場合には、基礎補強対策が必要となる。墨田1、2丁目・東向島
6丁目・押上3丁目。





 墨田区の変遷
 
現在の墨田区の区域にはいる江戸時代の町村は、慶応四年(1868)7月10日区北半の向島地
18ヶ村は武蔵知県事に所属したのち(同年9月8日明治改元)、同11月東京府南葛飾郡に編入
されたが、区南半の本所地区は最初(慶応四年5月12日江戸府設置)から江戸府(7月17日→東
京府改称)に編入された。同7年3月8日大区小区制により第六大区・第十一大区に編入され自治権
被奪の憂き目に遭う。驕る
内務卿大久保利通は、国家主義的専制強圧政治を推し進め、反対者は悉く
弾圧を以て退けた(彼は幕末の暗躍時代に、各藩の佐幕派の歴々に殺人指令を発し、600人余を死
に追い込んでいる)。国民はこれに猛反発、全国的に不平武士の義挙、自由民権運動が展開され各地
に反乱が起きた。その最たるものが「西南戦争」で、大久保は独裁のために盟友西郷隆盛までも葬り
去った。
 しかし悪運もここまでだったのか、翌年の明治11年5月14日仮皇居に向かう途中の麹町は清水
谷の沢道で、正義の刃の下に斃され、この世から抹消されてしまった。親分を失って内務官僚は驚天
動地、自失呆然、右往左往してなすところを知らず、2ヶ月後の7月22日大慌てに「大区小区制」
を撤回すると「郡区町村編制法」ほか2法を制定し地方自治の方向を示した。11月2日郡制を復し
当区では南葛飾郡16ヶ村・本所区77町が成立した。
 同22年5月1日明治政府が初めて地方自治を認めた「市制町村制」により、南葛飾郡下の須崎・
押上・小梅・請地・中ノ郷・柳島の6ヶ村を本所区に編入し本所区亀戸町を郡下に移した。残りの1
0ヶ村は統合して隅田・寺島・吾嬬・大木の4村に改編、同24年3月18日本所区編入の6ヶ村を
9町に編成し本所区は82町となった。同44年5月1日市制町村制の改正により本所地区では町名
改称し南本所・本所の冠称を削除した。

 大正元年日9月5日吾嬬村が町制移行。同3年3月31日荒川放水路開鑿のため大木村は廃村とな
り残った村域を本田村と吾嬬町に編入。同12年3月24日寺島村が、同8月16日隅田村が町制に
移行。昭和4年11月1日町名改正により本所区は68町となった。同7年10月1日東京市周辺郡
部を市に組み込んで20区を新設することになり、南葛飾郡下の3町が合併して向島区29町が成立
した。同18年7月1日内務官僚は東京都の自治権の拡大が内務省の専制権を奪うことを恐れ、府県
制を改正し新たに「都制」を敷き東京府と東京市を廃して東京都を発足させ直轄管理を目論んだ。し
かし軍部が対米戦に敗れたために、日本がアメリカの植民地・属国となってしまい、同21年9月2
7日民主化をスローガンのアメリカは「都制・府県制・市制・町村制」を改正して、地方自治体首長
を任命制から公選制に切り替えてしまった。これに慌てた内務官僚は当然反発したが、情けないこと
にアメリカ人に人倫の道を説かれ、独裁と私利私欲がどれだけ悪行であるか諄々と諭され、漸くにし
て人の非を知り、涙ながらに感謝して引き下がった。同22年3月15日都は、戦禍による疲弊と人
口減少のため都心区の統合を図ることになり、向島区と本所区が合併させ墨田区97町を成立させた。

 
平成17年現在の町数は26、平成2年区役所は横網から吾妻橋(朝日麦酒吾妻工場跡地の北部)
に移った。区役所は新調なったが中央図書館はない。文化施設は両国国技館・江戸東京博物館・相撲
博物館・東京都慰霊堂・向島百花園・本所防災館・墨田区すみだ郷土文化資料館。ほかに区が進める
「小さな博物館運動」がある。軟式野球資料室・セイコー時計資料館・プジョーモトサイクル歴史博
物館・小林人形資料館・相撲写真資料館・羽子板資料館・古伊万里資料館・伝統木彫刻資料館・能面
博物館・屏風博物館・金庫と鍵の博物館・建築道具木組資料館・新藤ギャラリー(印刷)・折箱博物館
「木具輪」・藍染博物館・乾燥木材工芸資料館・ブレーキ博物館・NTTドコモ歴史展示スクェア・
べっ甲資料館・足袋資料館・桐の博物館・鈴木木工博物館・木造建築資料館・江戸小紋博物館・合金
鋳物博物館・袋物博物館・木彫資料館。



■教育施設
 小学校 26(
私立 0)
 緑・外手・二葉・錦糸・中和・言問・小梅・東吾嬬・堤・押上(第二吾嬬・文花・西吾嬬)・八広
 (第五吾嬬・木下川・更正)・隅田(隅田・隅田第二)・柳島・業平・両国・横川・菊川・立花吾
 嬬の森(第一吾嬬・立花)・第三吾嬬・第四吾嬬・第一寺島・第二寺島・第三寺島・曳舟・梅若・
 中川
 ※平成23年堤+梅若統合予定(校舎は梅若)
  平成26年中川+東吾嬬統合予定


 中学校 12私立 0)
 墨田・本所・両国・鐘淵・立花・文花(吾嬬第三・曳舟)・竪川・錦糸・吾嬬第一・吾嬬第二・寺
 島・向島
 ※平成25年向島+鐘淵統合予定、(校舎は堤小学校跡地)
  平成26年吾嬬第二+・寺島、吾嬬第一+立花統合予定
  平成29年竪川+錦糸


 中高一貫校 3(私立 2)

 両国(府立三中)

 日大一中・安田学園

 高校 5(私立 1)
 本所(本所高女)・墨田川(府立七中)・橘(向島工校・向島商高)・日本橋
 立志舎
 
 大学短大はない。



 区名の由来
 東京新聞が募集した区名案には墨田のほか隅田・隅田川・吾妻・江東などがあったが隅田と墨田に
絞られた末、当用漢字にない「隅」の字は「かど・すみっこ・はしっこ」の意味が含まれるので昔か
ら文人に嫌われており、隅田川が墨水・墨江・墨堤などに書き改められてきた経緯を踏まえて「墨」
に落ち着いた。「田」は隅田川の田だそうな。当用漢字以外は駄目だという割には隅田小学校だの、
隅田中学校だの・・・「あずま区」が最も適当かと思うが、これに適う漢字がなかったので墨田に落
ち着いた。墨の字の画数が多いためか 何となく暗い感じがする。 震災記念堂や回向院が売りでは
なぁ。明るい材料が「向島の桜」だけと言うのもチョー寂しい。
 といってたら、押上に第二東京タワーというべき放送電波塔の建設が始まった。平成22年に完成
するが、鉄塔の組み上げが始まるとそれだけで見物客が押し寄せる。もし完成しようものなら、もう
墨田区はしっちゃかめちゃかだ。毎日民族移動だ。上野→浅草→墨田のラインができる。そうすれば
六本木→東京タワー→増上寺は閑古鳥が鳴く。墨田時代の到来でい!



区の花 つつじ
 区制30周年を機会に、区民すべてに愛され、親しまれ、また緑化のシンボルとしてもふさわしい
ものという意味合いで、公募により昭和52年9月に選ばれた。
 日本では長い栽培の歴史を持ち、早くから育種も進んだ。元禄五年(1692)に伊藤伊兵衛により
刊行された「錦繍枕」は、世界最古のツツジ、サツキ専門書だ。
 ツツジは、便宜上落葉性のツツジ類と常緑のシャクナゲ類とに分類されるが、日本で「シャクナゲ
(石楠花)」と呼ばれるものはホンシャクナゲの仲間に限られ、常緑であっても、それ以外の殆どは
「シャクナゲ」とは呼ばない。西洋では、アジアからヨーロッパに常緑のものが持ち込まれて園芸化
されたものが、ロードデンドロン(Rhododendron) と呼ばれ、またアメリカなどで落葉性のものが園
芸化されてアザレア(Azalea) と呼ばれるようになった。
 ツツジを漢字で書くと〝足偏〟の漢字を二つ並べて「躑躅」となる。「てきちょく」と音読みし、
意味は「逡巡」や「躊躇」と同じで、「二、三歩行っては止まること。進まないこと。ためらうこと」
だ。ではなぜ「ツツジ」を「躑躅」と書いたのか・・・その意味を話す前に、気分を変えて、初夏の
高原牧場を思い浮かべてみない。碧空に白雲、のんびりと草を食む牛の群れに、白樺林と赤いレンゲ
ツツジ(蓮華躑躅)の彩り・・・
 ところで牧場の牛たちは、なぜレンゲツツジを食べないのか?

 有毒植物だから躑躅」の当て字
  実は、レンゲツツジは有毒植物なのだ。だから誤って食べた牛は脚を振るわせて苦悶するのだ。そ
の歩けなくなった状態を表す形容語が「躑躅」だ。しかしツツジの密を吸う蝶たちはとても元気だ。
花粉を媒介してくれる蝶たちには美味しい蜜を、枝葉を食べてしまう牛たちには恐ろしい毒を・・・
自然の営みはうまくできてるねぇ。そして総てのツツジが有毒であると誤解されたことから、ツツジ
に「躑躅」の文字が当てられたのだそうだ。
 さて牛が躑躅するなら、馬が酔う木がある。ツツジ科のアセビ(アシミ)も有毒植物だ。アセビを日
本では漢字で「馬酔木」と書く。馬などが葉を食べるとまるで酔ったように足が不自由になることから
「足癈(あしじひ)」と呼ばれ、次第に転訛して「あしび」になり、さらに「あせび・あしみ」とな
つたとさ。
 都会では、レンゲツツジ(蓮華躑躅)より、葉が小型のクルメツツジ(久留米躑躅)やキリシマツ
ツジ(霧島躑躅)、大型の葉を持つヒラドツツジ(平戸躑躅)を目にすることが多い。また道路緑化
ではヒラドツツジの1品種である「大紫」が多用されている。
 クルメ(久留米)やヒ
ラド(平戸)など、ツツジの仲間の多くには九州地方の名が冠せられている
が、何故か? 

 
霧島躑躅・久留米躑躅

 ツツジの人気が高まったのは江戸時代の中でも寛文年間(1661~73)からといわれている。
鹿児島県の霧島山中の野生種のヤマツツジ(山躑躅)から改良されたキリシマツツジの品種群は江戸
から広がり「江戸霧島」と呼ばれた。沢山の品種があったようだ。また天保年間(1830~43)
に九州の久留米藩士坂本元蔵がキリシマツツジを元に実生などで育成したのがクルメツツジの品種群
だ。


 
平戸躑躅

 一方、鎖国時代でも外国との交流のあった長崎の平戸では、寺院などにケラマツツジ(慶良間躑躅)
など南方のツツジが植えられた。やがてそれらの異国のツツジと在来種との自然交配が行われ、その
中から選抜や改良を進めたのがヒラドツツジの品種群だ。


 
皐月(皐月躑躅)

 山奥の岩肌などに自生する。盆栽などで親しまれている。サツキツツジ(皐月躑躅)などとも呼ば
れており、他のツツジに比べ一ヶ月程度遅い、旧暦の五月(皐月)の頃に一斉に咲き揃うところから
その名が付いた。ツツジ類としては葉が固くて小さく、茎には這う性質が強い。

 
無人野躑躅

 なお東京から1000km離れた小笠原諸島には、ケラマツツジに近縁とされているムニンノツツ
ジ(無人野躑躅)が分布しているが、現在残る野生種はたった1株になってしまったそうだ。そのた
め、環境省・東京都等により保護増殖事業が進められている。
 
 



区の木 さくら
 サクラの仲間は、バラ科に属する樹木。バラ科には、約100属、3000種の植物があり、全世
界に分布している。分類学的には、バラ科はサクラ亜科、ナシ亜科、バラ亜科、シモツケ亜科の4つ
の亜科に分けられ、日本にはいずれの亜科も分布している。
 日本には、サクラ亜科で主要なグループのサクラ属がある。サクラ属は落葉性で形状は高木、低木
など様だ。特徴としては、葉は互生で、鋸歯があり、托葉がある。また花は両性花で、がく片と花弁
は5枚(5数花)、多数の雄蕊があり、普通、雌蕊は、長い花柱となっている。
 果実は、核果で1個の種子がある。果実が食用とされるウメ、モモ、アンズなどは、桜の仲間で、
200種が主として北半球の温帯に分布している。ウメやモモ、スモモとサクラ属とは、①果実に縦
のくぼみがない、②内果皮に細かい毛がない、③頂芽があることなどで、分類されている。
 一般的に桜と呼ばれているのは、バラ科サクラ属の落葉性の樹木。サクラ属は主に北半球の温帯に
広く分布している。日本のサクラ亜属(ユスラウメなどを含まない))を細分して「群」として分類
すると、ヤマザクラ群・エドヒガン群・マメザクラ群・チョウジザクラ群・ミヤマザクラ群となる。
日本の山野に咲く主なサクラとしては、ヤマザクラ(山桜)、オオヤマザクラ(大山桜)、カスミザ
クラ(霞桜)、オオシマザクラ(大島桜)、エドヒガンザクラ(江戸彼岸桜)、マメザクラ(豆桜)、
タカネザクラ(高根桜)、ミヤマザクラ(深山桜)、チョウジザクラ(丁子桜)などがある。そして
これらの変種を合わせると、数10種以上が自生し、またこれらの種を基本に育種されている。栽培
品種は600種類以上にもなる。全世界にある花を楽しむサクラの殆どは、日本のものばかり。
 サクラの種は、葉の鋸歯の形や、鋸歯の先端の形、葉柄の毛の有無、蜜腺、鱗片、花序の形、萼片
の鋸歯の有無やその形、樹形、花期、花弁の色、形、枚数などで分類する

 因みにソメイヨシノ(染井吉野)は、大島と江戸彼岸の一代雑種。





さ~て墨田区の地名の由来についておっ始めっとすっか!


【吾妻橋】(あづまばし)1~3丁目             昭和41年10月1日
 中ノ郷村。明治元年東京府に所属。同11年南葛飾郡に編入。同22~23年「市制町村制」に
より村は、寺島村・亀戸村・本所区向島中ノ郷町・向島押上町・中ノ郷業平町・柳島梅森町・本所
大平町1丁目に分散。昭和5年中ノ郷瓦町・中ノ郷八軒町の全部・表町・中ノ郷原庭町・中ノ郷竹
町・中ノ郷元町・小梅業平町の各一部をあわせて成立。同41年新住居表示を実施して現行の「吾
妻橋」とした。平成2年横網から2丁目に区役所が移ってきた。

 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『墨田区史』『墨田の歴史』など。

 吾妻橋の由来
 隅田川に架かる橋の名による。竹町の渡しに代わるものとして安永3年(1774)に町人の共
同出資で架けられた銭取橋(有料橋)。架橋を申し出たとき、吾嬬神社の参道橋なので「宮戸橋」
で申請したが却下され「大川橋」と命名するように申し渡された。かくて大川橋として橋は架かっ
たが町民は「東橋(あづまはし)」と呼んだ。


   
橋一つ隔てば鴎都鳥(川柳)
   吾妻橋辺りで都鳥と読み(川柳)

 都鳥は「ゆりかもめ」の雅称がある。

 と書いたら、メールを頂戴しました。「ミヤコドリ」という水鳥もいると。で、「ユリカモメ」
と「ミヤコドリ」について説明する。在原業平が、

   名にしおわば いざ事問はむ 都鳥 わが想う人は 在りや亡しやと

 と詠んだということを踏まえて、上記の川柳がある。業平の東下りには諸説あり、「してない」
というものから、「天安二年(858)~貞観四年(862)の間」「貞観四年」「嘉祥二年(8
49)~貞観四年」「天安元年(857)~元慶元年(877)」「元慶四年(880)」などあ
り、定まっていない。「伊勢物語」自体、業平が書いたのだろうが、書き写されていく内に、別人
によって書き足されて、写本によって変化している。それで、「都鳥」も「ユリカモメ説」が圧倒
的に強いが、昭和49年以前には、ユリカモメは京都には居ない鳥なので、業平がユリカモメを見
て「都鳥」と認識できたかどうかは疑わしい。だから業平が見た「都鳥」は「ミヤコドリ」だった
という説がある。またユリカモメは冬の渡り鳥で、業平が上記の歌を詠んだのは夏なので、なおさ
らあり得ないというものだ。なお「ユリカモメ」と「ミヤコドリ」は似ても似つかないから、混同
することはない。

 ユリカモメ
 チドリ目カモメ科カモメ属の水鳥。全長約40cm。足と嘴は赤色。夏羽は頭部が黒褐色になる
(英名:Black-headed Gull)。冬羽は頭部が白く、目の後ろに黒い斑点があるのが特徴。ズグロ
カモメと似ている。しかしズグロカモメの嘴は黒色で本種よりずっと短い等の違いで識別できるが
注意が必要だ。
英語で「Oystercatcher」と呼ばれ、その名の通りカキ(Oyster)などの二枚貝に
長くて縦に薄い丈夫な嘴を差し込み、嘴の先で貝柱を切り裂いて中身を食べる。嘴は貝殻を叩いて
割ったり、岩場に貼りついた貝を削ぎ落とすために鏨(タガネ)のように使うこともあり、とても
丈夫だ。ヨーロッパでは二枚貝を食べる割合が多く、日本ではカニやエビ、ゴカイなどもよく食べ
る。

 ミヤコドリ
 チドリ目ミヤコドリ科ミヤコドリ属の水鳥。体長は45cmほどで、鳩より少し大きい。嘴と足
は長くて赤い。からだの上面は黒く、胸から腹、翼に白い部分がある。北欧、中央アジア、沿海州、
カムチャツカ半島などで繁殖し、西欧、アフリカ西岸、中東、中国南部、日本にかけての海岸で越
冬する。かつて日本では旅鳥または冬鳥として主に九州に渡来していたが、近年は東京湾でも定期
的に観察されるようになった。海岸でで小さな群れを作ってすごすことが多い。




■吾妻橋
 
 明治8年の改架の時「大川橋」を改めて正式に「吾嬬橋」と命名された。明治20年の架け替えの
とき原口要・原龍太・倉田吉嗣の日本人チームによる設計施工で、隅田川では初の長大鉄橋が架けら
れた。長さ148m80cm×幅11m90cmの錬鉄製直弦プラットトラス橋だったが床板が木製だっ
たため関東大震災のとき焼け落ちてしまった。その復興事業として昭和6年新たに東京府により長さ
150m30cm×幅20mの3径間上路式鋼
拱橋に架け替えられて今日に至っている。「吾妻橋」に
変えたのは何時か判らないが、現橋に変えた昭和6年だろう。駒形橋が架かり、通りが東側で合流し
たために主役の座は奪われ、今は浅草通りは駒形の方を通る。平成4年の改修で塗装が青白色から赤
色に変わり、夜もライトアップされてレッドブリッジを強調するが、これは浅草寺の紅柄(べんがら)
色に相和したものである。橋詰に水上バスの乗船場がある。


  
吾妻橋こがねのはしらつくるとも誓い変わらじ妹と我との(正岡子規)

 
開園時の「隅田公園入口」の石柱

 吾妻橋の東詰に今も残っており、裏には「昭和七年四月吉日復興完成記念」の文字が見てとれる。
3月10日の空襲では、言問橋をはじめ、隅田川にかかる橋の上やその一円でで多くの犠牲者が出た。
川の中で命を落とした人も多い。
 作家早乙女勝元は、空襲の数日後に隅田公園を訪れた時の光景を次のように回想した。

   ほんとうはまもなく花見の季節なのに、芽という芽を焼きつくされた枝には、どれもこれ
   も、色とりどろのおびただしい布片がまとわりついて、風になびいている。あの夜、逃げ
   ていく人たちの身から、荷物から、強風に引きはがされ吹き飛ばされて、枝にからまった
   ものにちがいなく、とうてい手の届かなぬ高さにまでぴらぴらと北風にはためいているの
   は、一種異様な花盛りとでもいうべきでしょうか。[炎のなかのリンゴの歌? 東京大空
   襲・隅田川レクイエム]


 
あづま地蔵
 吾妻橋1丁目23番の吾妻橋の東詰広場にある。吾妻橋一丁目町会有志によって、震火災水難殉難
者各霊供養、交通安全御守護のために建立された。また東京大空襲慰霊の卒塔婆も置かれている。



嶋田山遍照院 
 吾妻橋1丁目3番7号、浅草通りに面してある新義真言宗智山派の寺。寺といいながらビルディン
グだ。寺の格好はともかくとして、この寺の名が高いのはお灸だ。隅田川二十一ヶ所霊場6番札所。


 
弘法様のお灸
 
創建の文久二年(1862)以来やっているという灸治療で繁盛しており膏薬もあった。これは開
山の諦念和尚が高野山に篭っていたとき霊夢を得て始めたと伝わっている。しかし浅草、四つ木、目
黒、下北沢など、東京でも各地に「寺の灸」はあり、弘法大師の秘法の1つでもあるので、特に諦念
の専売特許という訳のものでもない。愛知県の知立にも遍照院という寺があって、やはり〝弘法様の
お灸〟として有名だ。



■こんぶの岩崎
 吾妻橋1丁目4番3号、清澄通りに面してある昆布の卸問屋。小売もやってるよ。明治27年おぼ
ろ昆布の削り職人だった初代が、本郷真砂町で昆布問屋として創業し、戦前に現在の場所に移転。昆
布原料の卸売と約200種ある昆布加工製品(菓子昆布、納豆昆布、とろろ昆布、高級だし昆布)の
小売りを手掛ける。一口に昆布といっても、出汁を取るのに適したものと、おでんの具や昆布巻きの
ように昆布そのものを食するものとでは産地により分かれる。日本で昆布が採れるのは8月だけ。し
かも三陸海岸より北の地方で、その殆どが北海道産、ロシア産。岩崎では1年分を一度に仕入れ、温
度や湿度など細心の注意を払いながら倉庫で保管。「経費はかかるが、いい品物を提供するには当た
り前」とさらり。天候により品薄の年もある。それでも各地から最高の品が手に入るのは、創業以来
120余年の歴史と専門店という信用があるからだ。本来、料亭や蕎麦屋、最盛期には350軒以上
もの乾物屋に卸している昆布問屋。昆布は古来、カルシウムなどのミネラルや食物繊維が豊富な上、
うま味成分を含みながら低カロリー。食卓には欠かせない健康食だ、 「東京の人にもっと食べて貰い
たい」と、先代が小売りも始めたとか。塩昆布、昆布茶、昆布飴など、二百種以上の品が店先まで溢
れている。


 おぼろの実
 お湯だけでできる即席のお吸い物。熱湯を注ぐと、ピンポン玉のように丸めたおぼろ昆布が椀(わ
ん)の中で踊るように広がり、中からまり麩(ふ)や乾燥ネギなどが浮かんでくるぞ。出汁が利き、
料理の苦手な人でも、ちょっとした料亭並みのお吸い物ができるって訳。



瑞松山栄隆院霊光寺
 吾妻橋1丁目9番11号にある浄土宗の寺。寛文七年(1667)の創建。本尊の阿弥陀如来は増
上寺中興の観智国師の時念佛でしたが、関東大震災で焼失しました。現本尊は和歌山県皆乗寺より遷
座した阿弥陀如来です。隅田川二十一ヶ所霊場17番札所。



■弘法寺
 吾妻橋1丁目15番7号にある真言宗智山派の寺。路地の奥のトタン板貼りの民家。寺号がなかっ
たら寺院とは誰も思わない。



■芋きんの「満願堂本店」
 吾妻橋1丁目19番16号、浅草通りに面してある芋菓子屋。吾妻橋を下った角地だ。江戸時代か
らの店で
〝土手のきんつば〟で名をなし、吉原の花魁や浅草の芸者衆に評判を取った。
 〝芋きん〟は〝土手のきんつば〟を改良したもので、控えめな甘さが人気の的だ。



■牛島太子堂 寶珠山理性院如意林寺
 吾妻橋1丁目22番14号にある天台宗の寺。創建は嘉祥二年(849)というが、それでは浅草
寺並みの古さになる。第一その頃は海のど真ん中で寺が建つ筈もない。何処かから移転してきたのだ
ろう。元はもう少し北にあり、現在地は清雄寺のあったところだ。リバーピア吾妻橋ライフタワーの
真ん前の狭小な三角地にあり、入口を固く閉じて入るを拒んでいる。とて墓地がある訳でもなく、拒
絶もやんぬるかなだ。
「牛島太子堂」と呼ばれていて、神仏分離の前には伝慈覚大師作の聖徳太子像
を祀った「中之郷太子堂」の別当寺だった。牛島聖徳太子の石額は、大震災まではその鳥居に掲げて
あったもので三戸家の臣雪斎の筆だ。

 
六面地蔵塔
 延宝六年(1676)四月十三日、信心深かった両親「慈父」某と「悲母妙意禅定尼」の菩提を弔
い、合わせて「法界平等利益」を願って、その子が造立、奉納した。六地蔵は六道能化の本願を表す
といわれ、多くは仏寺の門前に建立される。この六面の地蔵尊は経典にとらわれず、自在に彫られて
いる。今は失われている宝珠、蓮弁状に削ぎおとされた笠、各尊像を半肉彫にした塔身、線刻にした
蓮華座、荒たたきにして蓮池に見立てた基礎、の五石から成ったものだろう。震災による損傷がある
が、江戸初期の柔和で造形的にも優れた石仏として、区内随一といえる。



■リバーピア吾妻橋ライフタワー
 吾妻橋1丁目23番1号にある都市再生機構の住宅棟。



■アサヒビール吾妻橋ビル
 吾妻橋1丁目23番1号にある。元々23番は全域朝日麦酒の工場だった。吾妻橋ビル「アサヒビ
ール・タワー」は、その外観をビールの入ったビールジョッキをイメージしている。



■吾妻橋ホール
(アサヒビールアネックス)

 吾妻橋1丁目23番1号にある。元々23番は全域朝日麦酒の工場だった。吾妻橋ビル「アサヒビ
ール・タワー」は、その外観をビールの入ったビールジョッキをイメージしている。

 
ウンコのようなオブジェ、あれは何?

 屋上のオブジェは、決して「ウンコ」ではない、フランス人芸術家フィリップ・スタルクの作品な
のだ。しかし無芸大食の一般人は、ウンコにしか見えず、俗称「ウンコビル」は人口に膾炙する。
 本来は燃え盛る炎を形象した「フラムドール(flamme d'or、金の炎)」と呼ばれるもので、アサヒ
ビールの燃える心を象徴する「炎のオブジェ」なのだ。また当初、フラムドールは縦に3つ並べられ
る予定だったが、日照権の問題から横向きに変更され、その数を1つに減らしたとする説があるんだ
よ。



■すみだリバーサイドホール
 吾妻橋1丁目23番20号にある区営の文化施設。イベントホール(604㎡ 定員700人)・
収容50人のミニシアター(75㎡)・会議室(92㎡ 42人)・ギャラリー(278㎡)からな
る。墨田の魅力を広く伝えると共に、様々な催しに利用されている。



■墨田区役所
 吾妻橋1丁目23番20号にある区の組織が入る施設。。
 1階に新東京タワースカイツリーの完成模型があるぞ。



■勝海舟像

 吾妻橋1丁目23番20号、区役所裏の隅田川テラスにある。海舟は両国生まれ、赤坂育ちなので
平成15年7月
江戸開府400年民間事業の一環として
隅田川に面したこの広場に造立された。
地元
隅田川沿いに立つ勝海舟と榎本武揚の2つの銅像は、同じ幕臣でありながら、方や江戸無血開城に努
力し、その後戊辰戦争の発言が親薩摩派とも見られる海舟と、幕臣最後の戦いである函館戦争を指導
した武楊。共に幕末に生き、蘭学を学び共に海軍の基礎を作り、同じく海外に渡り、帰国後、幕府の
指導的地位に立ちながら全く異なる道を進み、相反する1つの時代を作ったのは、あまり知られてい
ない。

 この像は立像で、上野の西郷さんを意識してか、腕を伸ばして前方を指差している。その先は鹿児
島だ。西郷さんは南太平洋に向いているらしい。坂本龍馬の艦隊を求めて?・・・

   建立の記

   勝海舟(通称麟太郎、名は義邦、のち安房、安芳)は、文政六年(1823年)一月三十
   日、江戸本所亀沢町(両国4丁目)で、父小吉(左衛門太郎惟寅)の実家男谷邸に生まれ、
   明治三十二年(1899)一月十九日(発表は二十一日)、赤坂の氷川邸で逝去されまし
   た。
   勝海舟は幕末と明治の激動期に、世界の中の日本の進路を洞察し、卓越した見識と献身的
   行動で海国日本の基礎を築き、多くの人材を育成しました。
   西郷隆盛との会談によって江戸城の無血開城をとりきめた海舟は、江戸を戦禍から救い、
   今日の東京の発展と近代日本の平和的軌道を敷設した英雄であります。
   この海舟像は、「勝海舟の銅像を建てる会」から墨田区にに寄贈されたものであり、ここ
   にその活動にご協力を賜った多くの方々に感謝するとともに、海舟の功績を顕彰して、人
   びとの夢と勇気、活力と実践の発信源となれば、幸甚と存じます。
   海舟生誕180年
   平成15年(2003年)7月21日(海の日)           墨田区長 山崎昇



正栄山妙縁寺
 吾妻橋
2丁目2番10号にある日蓮正宗の寺。富士山大石寺末。日蓮正宗第3祖日目上人の弟子日
尊が浅草阿部川町の辺に妙因寺として創建したというが創建年は不明。中興は寛永六年(1629)
大石寺19世法主日舜上人。浅草阿部町から移ってきた年代は判らない。中興時に移転したものか。
当時の寺域からすると随分減らされたものだ。現在の建物はビルディングだが昭和61年の建築。公
家寺として知られ、朝廷との関係も深く、日野大納言などが大檀那となっており、その関係で京都所
司代板倉勝澄とも関係があった。


 
夜鶴井銘碑
 良質の水を出した井戸の跡。江戸時代、水源の少なく人口の多い江戸にとって、水は貴重品であっ
たが、境内の井戸は人々に水を供給して「やかくいの井戸」と呼ばれ、その碑は区の文化財となって
いる。水質の悪い墨東地区にあって天祥寺の水とともに村にとっては大変に貴重だったろう。宝暦二
年(1752)のことと記している。

 相馬大作の首塚
 文政四年(1821)江戸から帰国途中の弘前藩主9代藩主津軽寧親の狙撃未遂事件が発生。首謀
者は盛岡藩の下斗米秀之進だが、偽名「相馬大作」を名乗っていたことから「相馬大作事件」と呼ば
れる。秀之進は寛政元年(1789)盛岡藩二戸郡福岡村(二戸市)に生まれた。18歳で江戸に出、
剣名高き平山行蔵道場の門下生となり武道に精進、四傑の一人と呼ばれるほどに腕をあげて帰国し、
郷里・福岡に講武場兵聖閣を設けて武術の教授を始めた。そんな矢先の文政三年(1820)盛岡藩
主南部利敬が39歳の若さで世を去り、遺領を利用が継いだ。利敬の早すぎる死は、弘前藩に対する
積年の鬱憤が原因といわている。
 その積年の鬱憤とは、もともと弘前藩津軽家は、南部家の一族の家柄だったが、南部のお家騒動の
際自立を図り、太閤秀吉の小田原征伐陣中に参じて独立を成功させた事に起因するものとされた。跡
を継いだ利用はまだ14歳で無位無官、それに対して「本来家臣筋だ」と看做している津軽寧親は従
四位下侍従に叙任されていた。このことに不満を抱いた秀之進は寧親に果たし状を送って辞官隠居を
勧め、それが聞き入れられない時には「悔辱の怨を報じ申すべく候」と暗殺を伝えた。文政四年のこ
の年、秀之進は江戸から帰国途中の寧親を秋田藩白沢駅(大館市)付近で狙撃しようと計画したが、
仲間の密告によって失敗、藩を出奔して江戸に逃れ「相馬大作」と名を変えたが、同年幕吏に捕らえ
られ翌年首を刎ねられた。その秀之進の子息が、晒されていた首を盗んで来て、妙縁寺住職へ埋葬を
依頼、豪胆な当時の住職(日脱)がその首を葬ったのが「相馬大作の首塚」だ。その後秀之進の子息
は住職の勧めにより出家して、大石寺系の末寺「感恩寺」(盛岡)を寄進している。その名の由来は、
「妙縁寺住職に恩を感じて造った寺」の意だ。そして江戸市民は秀之進の行動を賞賛し、事件は講談
や小説の題材として流行した。幕末の水戸藩の尊皇攘夷論者で。藤田東湖もその義烈をたたえ、長州
藩の吉田松陰も長歌を詠じて秀之進を追慕している。


 
歌沢相模太夫の墓
 妙縁寺墓地にある。端唄から作った歌沢節の創案者笹丸の墓で、本名笹本彦太郎という旗本で、嘉
永の頃本所南割下水、今の亀沢に住んでいた。この寺は大震災のあと大正14年小松川への移転が認
められていたが、結局残ったものだ。

 日蓮正宗
 日蓮大聖人の入滅後、身延の地頭波木井実長(はぎりさねなが)が、仏法に違背する行為を重ねた
ため、日興上人は正応二年(1289)の春、本門戒壇の大御本尊をはじめ一切の重宝をお持ちして、
門弟とともに身延を離れ、翌正応三年南条時光の寄進により富士上野の地に大石寺(たいせきじ)を
建立した。以来700有余年、「日蓮大聖人の仏法は日蓮正宗総本山大石寺に正しく伝えられている」
とは、大石寺の弁。一時創価学会を信徒に組み込んでいたが、宗門と学会は対立して平成3年暮に決
別、宗門は、創価学会を破門にして縁を切り、信者は法華講に統一されている。

 創価学会
 昭和5年教育者牧口常三郎が『創価教育学体系』という教育学の著書を発刊。その後「教育改革に
よる社会の向上」を目指し、牧口が初代会長となって「創価教育学会」という教育者のグループを創
設した。ほどなく教育者だけでなく、社会の様々な分野にも会員を広げ、戦後第2代会長の戸田城聖
が「創価学会」と改名した。そして昭和50年第3会長池田大作が、創価学会の世界規模の団体とし
て「創価学会インタナショナル(SGI)」を発足し、現在に至っている。学会の教義は、日蓮聖人
の仏法で、その思想に基づき、人々の幸福や社会の発展のために活動しているとは、学会の弁。宗門
との悶着には言及してない。



■福寿稲荷大明神
 吾妻橋2丁目5番1号にある小祠。



向東山天祥寺
 吾妻橋2丁目6番5号にある臨済宗妙心寺派で、寛永元年(1624)に嶺松院として創建、元禄
六年(1693)肥前平戸藩主松浦鎮信が中興開基、盤珪国師を中興開山として、当地に中興した。
近隣に同宗の松嶺寺があり、紛らわしいということから、享保元年(1716)天祥寺と改号した。
 釈迦如来乾漆坐像は、近世初期の珍しいもので、もと京都山科の地蔵寺に大石内蔵助良雄が献納し
たものといわれる。松浦鎮信の墓、祭贈従三位静山公詩碑、水鉢、盤珪国師の墓がある。

 養老泉の碑
 境内にあった井戸。文政の『寺社書上』には、寛政十一年(1799)に開鑿したもので、この辺
りは海に堆積した州が成り立ちなので水が悪かったところ、この井戸では良い水が出たので村人は大
変に喜んだと記されている。近年現代的和風の門を新調しており、お金持ちの家のようだが、門を固
く閉ざしており、入るを拒絶している。まるで不受不施派だ。

 生月鯨多左衛門の墓
 いけづき or いきつきげいたざえもん 18歳で身長2m28cm、体重169Kgあった古今No
1の巨人力士。長崎の生月島の出身で玉垣部屋に属した。
天保15年10月場所から嘉永3年3月場
所までの12場所の間一人土俵入りを行い、人々を驚かせた。この間1場所だけ幕下格で取組に出場、
23歳の若さで死亡した。




覚英山清雄寺
 吾妻橋
2丁目14番6号にある本門仏立宗の関東根本道場。13、14、16番に跨る。源森橋の
南にあり、ここは元は出羽庄内藩酒井家の下屋敷だったところで、寛文二年(1662)同家の菩提
寺として創建されたと伝える。京都妙蓮寺末で、現在は下町の寺として永くした親しまれており、婦
人会やガールスカウトなど、社会活動に力を入れている寺本来の寺。墓地ばっかり作って坊主丸儲け
でないところが新しい。元の寺域は如意林寺を中心とした一帯で、今よりは数倍広かった。



■本所吾妻橋駅
 吾妻橋3丁目7番16号にある都営地下鉄浅草線の地下停車場。浅草線(当時は都営1号線)の最
初の区間である、浅草橋~押上間が開業した昭和35年12月4日にできた駅。ホームは相対式2面
2線構造で、地下1階にある。上下ホームは地下2階の通路で結ばれている。改札口は各ホームに1ヶ
所ずつ計2ヶ所ある。出口は4ヶ所だがエレベーターはない。



■添光稲荷
 吾妻橋3丁目1番7号にある小祠。平成22年5月15日江戸博特別展「龍馬伝」の序でに行った
スカイツリー見学の途次偶然発見した。





【石原】(いしはら)1~4丁目                  昭和41年10月1日
 南本所石原町。明治元年東京府所属。同11年本所区所属。同44年南本所の冠称を外し石原町。
昭和4→5年吉岡町・吉田町・北二葉町・亀沢町2丁目の全部と若宮町・長岡町・清水町・横川町
の各一部をあわせ、同時に一部を横網・厩橋1丁目に譲って石原1~4丁目とし、同41年新住居
表示を施して現行の「石原」とした。
 区の小さな博物館運動により、1丁目に木彫資料館(透かし彫り)がある。※現在改装のため休
館中とのこと  確認してから行きなはれ。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『墨田区史』『墨田の歴史』など。

 石原の由来
 かつての町域が隅田川岸にあって、この辺りが砂礫の地つまり石原だったことによる。最初の石
原町は横網2丁目の蔵前橋通りから北で、江戸時代は万治二年(1659)に開鑿された圦堀河岸
があった。幕末には埋められていたようで本所埋堀という地名になっている。



■木彫博物館

 石原1丁目13番3号の松本彫刻店にある。透かし彫りを中心とした木彫り彫刻や、全国の観光土
産として作られた彫刻品などさまざまな資料が展示されている。館長の松本一弘は、すみだマイスタ
ーとしても活躍する木彫りのスペシャリスト。「木彫りを知りたい人に情報を提供したい」という館
長の作品や実演を直接見ることができ、まさに「小さな博物館」といった館内だが、木彫りに関する
相談にも応じてくれるのがこの博物館の魅力だわいな。 03-3622-4920



■片男波部屋
 石原1丁目33番9号にある二所ヶ関一門の相撲部屋。昭和36年1月場所限りで引退した二所ノ
関部屋所属の元関脇玉乃海太三郎は、12代目年寄片男波を襲名して内弟子を連れての二所ノ関部屋
からの分家独立を考えていたが、幕内力士の玉響、玉嵐、有望若手として期待されていた、後に横綱
となる玉乃島などの移籍に関して8代目二所ノ関
(元大関佐賀ノ花)が許さず、業を煮やした片男波
は、
同37年5月場所前に、玉響改め新川、玉嵐、玉乃島などの移籍届けを協会に提出、内弟子を連
れて部屋を飛び出す実力行使まで行なった。するとその強引さに怒り心頭に発した二所ノ関は、成年
に達した養成員全員分の廃業届を提出して対抗した。これはどうにか取り消され、両者ともに減給処
分となった。結局、先代の二所ノ関でNHK相撲解説者の玉の海梅吉を呼んで話し合いの結果、漸く
二所ノ関が折れて独立が許され、分家して片男波部屋は創設された。しかしとばっちりを食ったのが
力士たちで、廃業届を出された者たちは番付を10枚落とされた挙句、不出場期間は休場扱いにされ
てしまい新川はまもなく廃業、玉嵐の移籍は翌38年に持ち越されてしまった。
 
その後玉乃島が横綱に昇進して玉の海と改め、玉輝山も十両に昇進して部屋の興隆が期待された矢
先の同46年10月に横綱玉の海が急死し、部屋は一気に寂しくなった。だがその後も、関脇玉の富
士・小結玉輝山、小結玉龍などの関取を育て、同62年9月に停年を直前にして死去した。
 跡を襲ったのは12代目片男波の直弟子で、同56年11月場所限りで引退した玉ノ冨士茂は、年
寄湊川を襲名して部屋付き親方として後進の指導にあたっていたが、12代目の死去に伴い13代目
片男波を襲名して片男波部屋を継承した。13代目は、関脇玉春日、関脇玉乃島などの関取を育て、
中堅部屋として存在感を出している。



■徳之山稲荷神社

 石原1丁目36番10号にある。元は徳山五兵衛重政の屋敷内稲荷だった。徳山と書いて「とくの
やま」と読むのだが、混乱を避ける意味で「之」の字を入れることにした。五兵衛は三河以来の譜代
の幕臣で、山崎四郎右衛門とともに元禄の頃本所奉行となって本所地区の開発に尽力した。その功で
当時の本所築地小屋に屋敷を賜ったのは寛文四年(1664)だった。境内掲示板に、

   当石原町は本所では最も古い存在である。
   鎌倉時代には墨田河原石原郷といふ村落をなして居たといはれる。明暦の大火には江戸市
   中を灰にしたが、その結果幕府は市街の区画整理を大規模に行った本所の地はおおむね低
   湿地の田園で芝野茅原芦葭生茂りここを埋立てて河川を整備して排水をはかり土地を一面
   に整へたうえ道路を設けそこに大旗本など武家屋敷を主にして移転が行われたのである。
   この事業の推進者は徳山五兵衛重政山崎四郎左衛門重政の両名の本所築地奉行であった。
   万冶三年三月 徳山五兵衛、山崎四郎左衛門
   右本庄屋敷割並御堀堀之奉行被仰付、
   右本庄之築地奉行被仰付
   右本所地区開拓を直接担当した人として本所区の祖先である徳山五兵衛重政治は慶長十九
   年駿河に生れた。寛永八年九月御書院番勤め駿河御城番を四度に亘って勤め城内外修理奉
   行を勤め正保二年慶安  四年明暦元年の三度上使として各地に趣いたのち万冶三年本所
   築地奉行に任ぜられ以後本所御用を勤める事十二年に及び寛文十念五月十六日五十六歳で
   勘定奉行となり十二年に亘り天和元年三月二十九日に老年の為職を辞して其後家督を長子
   權十郎重俊に譲って隠居浄雲と号し、元禄人縁七十五歳で病没した。
   法名は一心院殿徳岩浄雲居士である。
   右の事は墨田区史政治史的沿革に記載してあります。墨東叢誌には本所で最古の石原と題
   して記載してあります。本所開発の大恩人である本所奉行の徳山五兵衛を祀った徳之山稲
   荷には他の町内守護神と趣きを異にして徳山氏の功績を記念してそれた酬ゆる為の建立で
   あることが注目される。


 とある。

 徳山五兵衛屋敷
 神社のあるところは徳山五兵衛家の屋敷地の一部だった。境内に説明板がある。

   
徳山五兵衛屋敷跡
    江戸の初期に本所・深川の開発事業を推進した本所築地奉行徳山五兵衛重政の屋敷跡で
   す。開府当寺の江戸は、明暦三年(1857)の大火をはじめ、度々の火災で大きな被害
   を受けたので、幕府は街区の整備を大規模に行うことにしました。ことに隅田川以東の開
   拓に着手することになり、竪川や横川などを掘り、その泥土で湿地を埋め立て、道路の整
   備と市街地の造成をしました。この事業のため万冶三年(1660)に徳山五兵衛と山崎
   四郎左衛門の二人が初代の本所築地奉行として任命されました。
   徳山五兵衛は功により、幕府からこのあたりに邸地を与えられました。この稲荷社は屋敷
   神としてまつられていましたが、五兵衛の死後、その徳を称えた人々により御霊が合祀さ
   れ、徳之山稲荷神社として大切にされてきました。         墨田区教育委員会

   徳山五兵衛屋敷跡
   明暦の大火後、幕府は本格的な本所の開発に乗り出します。万冶三年(1660)本所築
   地奉行に任命された一人が徳山五兵衛(重政)です(もう一人が山崎四郎左衛門)。
   堀割の開拓や湿地の埋め立て、道路整備と市街地の造成などで、今の本所の基礎を作り上
   げました。その功績により、この地に屋敷を賜りました。五兵衛の死後、屋敷内に祀られ
   ていた稲荷と五兵衛の御霊が合祀され、徳山稲荷神社となっています。
   また孫の徳山五兵衛(秀榮)は、火付盗賊改方の在任中、歌舞伎の白波五人男の一人、日
   本駄衛門のモデルになった盗賊日本左衛門らを捕えたことで有名です。
                             ぶらり両国街かど展実行委員会


 日本左衛門首洗いの井
 
徳之山稲荷の境内にある。徳山五兵衛重政の孫、徳山五兵衛秀栄が火盗盗賊改方の在任中、歌舞伎
で有名な白波五人男の大盗賊日本駄衛門のモデルとなった日本左衛門を捕らえ、この地で処刑した。
侠骨剣豪の日本左衛門を徳山五兵衛が捕えた際、思い残したことを尋ねると、日光を見たことがない
というので、処刑する前に日光参拝を許したということで、徳山五兵衛の人柄が偲ばれる。碑は明治
時代に建てられたが、関東大震災で壊落したため、昭和40年に再建した。
 
   日本左衛門ハ本名ヲ浜島庄兵衛ト称シ侠骨剣豪ノ士トシテ時ノ悪代官ヲ斬リ遠州ヲ浪人シ
   江戸ニ出デ向島西方ニ居ヲ構ヘタ。幕府ハコノ罪ヲ以テ奉行ニ召捕リ方ヲ命ズ。彼ノ神出
   鬼没ニシテ剣豪ノタメ奉行ハ召捕方ヲ出来ズココニ幕府ハ本所築地奉行タル徳ノ山五兵衛
   ニ召捕方ヲ命ズ。ソノ前ニ日本左衛門ハ再三徳ノ山邸ニ現レタガ黙殺放逐ス。ソノ命ガ出
   テ向島ニテ捕ヘ、ココニオイテ処刑サル時ニ寛文七年(西暦1677年)捕ワレタ時五兵
   衛ハ日本左衛門ニコノ世ニ思ヒ残スコトハナイカト問ワレ彼ハ只一ツ日光ヲ見タコトガナ
   イト申シタノデ不憫ニ思ヒ又他の罪ノナイタメ地内ノ戸崎氏ニ連行ヲ命ジ内々デ日光見物
   ノ願ヒヲ叶エテヤッタ。無事ニ戻リソノ功ニヨリ戸崎氏ハ今ノ石原町一ノ一西側三百坪ヲ
   五兵衛ヨリ拝領シ現在戸崎家ノ子孫ハコノ地ノ地主トシテ今モ下北沢ニ住ム。コノ碑ハ約
   三百年前由縁ノココに建立サレ大正大震災戦災等ノ災禍デ見ル影モナク損傷シ徳ノ山講員
   ハコノ史蹟ヲ後世ニ残スベクコノ石碑ヲ再建ス。
   昭和四十年五月十九日                     徳ノ山講、町内有志



■二葉小学校
 
 石原2丁目1番5号にある区立校。
 [戦前]
 廃校
 明治38年11月27年亀沢2丁目21番のところに「東京市二葉尋常小学校」として開校。同4
0年生徒増により一学年は二部授業。
大正6年東側に木造2階建ての校舎を増築。校庭が砂利からア
スファルト舗装になる。


 校歌
「学びの園に」  作詞作曲・平田盛胤
  1.学びの園に入り立ちて
    君と親との御恵みを
    暫しが程も忘れずば
  2.人を親しみ慈しみ
    人の助けを待たずして
    吾身を立てて学び舎の
    誉れをあげよ世の中に
  3.勤めん時はよく勉め
    遊ばん時はよく遊び
    ものの決まりは守りなば
    教えを受けし甲斐あらん
  4.二葉萌え出し初めより
    忘れず守れ師の教え
    やがて春風吹き立たば
    花の色香ぞ現るる


 大正12年9月1日関東大震災により校舎全焼。青空教室。12月現在地に仮校舎。同13年亀沢
3丁目のところにも仮校舎。現在地にプール完成。
 昭和2年鉄筋の新校舎完成。プールも新調。府内でプールのある学校は5校だけだった。当時は生
活苦で昼間働かなければならない児童が多かったので、同8年夜学校を開設。同16年勅令第148
号国民学校令の公布により「東京府東京市二葉国民学校」と改称。同18年都制施行により「東京都
二葉国民学校」と改称。同19年週2回給食開始。同20年3月愚かなアメリカ軍の無差別空爆によ
り校舎全焼、廃校となる。

 [戦後] 復興
 同22年墨田区成立。アメリカの強制による学校教育法施行により「東京都墨田区立二葉小学校」
として復興、緑小学校の3階を借りて授業開始。同29年現在地に3階建ての新校舎が完成し、同3
0年創立50周年記念式典。同33年校内に科学センターができる。同40年校舎東側にあったプー
ルを解体し、南西側に新プール完成。創立60周年記念式典。同45年南側西塀を解体し「緑の塀」
ができる。同47年心障児の「ふたば学級」開設。同49年29年振りに昭和19年度卒業生の卒業
式を行う。同49~51年4階建て新校舎完成。全児童の新校舎移転後、旧校舎解体。創立60周年
記念式典。同57年北側校舎増築。同58年区より「ふたばの木」を受領。これはヒトツバタゴで、
通称「なんじゃもんじゃの木」だ。同60年校庭にジャングラミン(ジャングルジム)完成。創立8
0周年記念式典。同61年コンピュータルーム開設。
 平成元年「ふたば学級」閉鎖。機能は緑小学校に移る。同5年パソコン新調。同7年創立90周年
記念式典。同8年ランチルーム完成。同17年創立100周年に当たり記念式典、祝賀会、展覧会、
大運動会など挙行。

 新校歌「宮居の東」 作詞/作曲・松尾孝輔
  1.宮居の東 鴎飛ぶ
    隅田の流れ近くして
    苦難の跡も晴れ晴れと
    雄雄しく立てり 母校二葉
  2.新しき世に生まれ来て
    幼
(いと)けなき身を清らけく
    朗らに強く伸びよぞと
    勤しみ学ぶ 母校二葉
  3.ああ故郷の空高く
    聳ゆる甍 想い出の
    花美しく咲くところ
    いざ称えなん 母校二葉


 創立70周年記念歌
「のびるふたば」 作詞・野中夫三夫  作曲・渡辺茂
  1.芽が出た 二葉になった
    空に向かって手を広げ
    「おーい」と呼んでみよう
    ぐんぐん伸びるぞ
    二葉の子供は日本の子供
    さあみんなで肩組んで
    ランララン ラン ラン ラン
    ラン ラン ラン
    歩いて行こう みんなの二葉
    のびるふたば
  2.元気だ 若葉になった
    雨も嵐も何のその
    空に枝広げ
    ぐんぐん伸びるぞ
    二葉の子供は世界の子供
    ああ輝く 歴史は続く
    ンララン ラン ラン ラン
    ラン ラン ラン
    歩いて行こう みんなの二葉
    のびるふたば



■稲荷社
 石原2丁目16番5号の角地にある小祠。



■日本海軍駆逐艦「初霜」の主錨
 
 石原2丁目20番1号の新築された山田記念病院の玄関先に飾ってある。敗戦時、日本には33隻
の駆逐艦が残存していたが、殆ど連合国に接収されてしまった。しかし「初霜」は戦後、舞鶴で解体
され、昭和15年当時乗務経験のある元軍医少佐が主錨を引き取り、経営していた病院の玄関に据え
た。「伝統ある帝国海軍の遺産として長く後世に残しておきたい」と記されている。初霜は「初春型
駆逐艦」の4番艦で、昭和9年9月27日に竣工。対米戦では、北はアリューシャン、南は仏印・シ
ンガポール・比島など太平洋全域で勇戦、昭和20年4月菊水作戦で戦艦大和に同行した。7月月3
0日丹後宮津湾で対空戦闘中に触雷して擱坐、任務を終えた。
 なお「軍艦」とは巡洋艦・戦艦・巡洋戦艦・航空戦艦・航空母艦などの大型艦をいい、駆逐艦以下
の艦は「艦艇」と呼び、差別する。自衛隊の護衛艦は正式名称は「警備艦」で、海外では軍艦に分類
されるが、国内では表向き自衛隊は軍隊ではないため「軍艦・艦艇」の別はない。なお殆どの護衛艦
は駆逐艦の機能しか持ち合わせないが、イージス艦となると、重巡洋艦~戦艦の機能を有する。

 
菊水作戦
 
「大和特攻」で知られる作戦。 まさに最後の水上戦力として、戦艦「大和」、軽巡「矢矧」、駆
逐艦「冬月」「磯風」「浜風」「雪風」「朝霜」「初霜」「霞」「涼月」が沖縄決戦支援のため突撃
したが、途中には米空母群(13隻)が待ちかまえていた。坊ノ岬沖海戦と呼ばれるこの海戦は「大
和」爆沈により、米軍の攻撃が終息。結果は「大和」以下6隻の艦艇と3700名に上る戦死者を出
した。生き残った各艦も、「涼月」が被弾2発57名戦死。「冬月」は被弾2発12名戦死。強運の
駆逐艦「雪風」も被弾1発3名戦死と損害を出したが「初霜」は1発の命中弾も受けず、負傷者わず
かに2名を出したに過ぎなかった。6月には「雪風」と共に宮津湾に投錨して本土決戦に備えていた
が、7月敵艦載機が飛来、相手自由の空襲にさらされた。「初霜」は任意擱坐のため湾内を移動中、
触雷し、艦尾から沈み始め遂に擱坐、日本駆逐艦で最後の戦没艦となった。擱坐とは、浅瀬に沈没す
ることで、船体の一部が海面上に露出している状態をいう。



神光山龍聖院法照寺

 石原3丁目10番11号にある真言宗醍醐派成田山の布教所。



■餡無しどらやきの「みよし」 廃業しちゃった!
 石原4丁目24番5号にあった甘納豆屋。「みよしのどらやきの皮は美味しい」ということで始め
た「あんなしどらやき」が一番の人気商品だった。バター、ヨーグルト、マヨネーズなど好みのもの
を付けて食べるのが通なんでい。
 平成20年12月31日諸般の事情により廃業。跡地はマンションになってしまった。


■九重部屋
 石原4丁目22番5号にある高砂一門の相撲部屋。
 11代目
 
昭和34年1月場所限りで引退した出羽部屋(31人目横綱常の花寛市)所属の第41代横綱千代
の山は、一代年寄千代の山を経て11代目年寄九重を襲名して出羽海部屋の部屋付き親方として後進
の指導にあたっていたが、出羽海部屋の後継者として注目されていた。しかし同35年11月に7代
目出羽海(常ノ花)が急死して、13代目武蔵川(元前頭筆頭出羽ノ花)が8代目として部屋を継承
した際も、将来は千代の山の九重が、経験を積んだ後に出羽海部屋を継ぐと目され、九重自身もその
継承を待望していた。

 しかし8代目は後継者を50人目横綱佐田の山に指名したために、九重の9代目出羽の海継承の可
能性はなくなっってしまった。そこで同42年1月場所千秋楽の翌日、九重は大関北の富士ら13人
の内弟子を連れて出羽海部屋からの分家独立を申し出た。当時の出羽海一門は、分家独立を許さない
のが不律律だった。当時8代目が、襲名時点で独立を希望する者がいるならば許可すると部屋の親方
衆に問うたが、千代の山をはじめ、誰一人として申し出た者はいなかったという話もある。
 それはともかく同年1月31日13人の内10人の力士の移籍と九重部屋の分家独立が承認される
とともに、出羽海一門から破門され、出羽海とは無関係の高砂一門への移籍を言い渡された。この時
の寄合では暴力こそなかったものの、脅迫紛いの怒号と罵声が浴びせられたという。
 まあともかく高砂一門となった九重部屋は独立直後の同42年3月場所で、北の富士が幕内最高優
勝、松前山が十両優勝を果たした。
 12代目
 同49年7月場所限りで引退した52人目横綱北の富士勝昭は、年寄井筒を襲名して九重部屋から
分家独立して井筒部屋を創設していたが、同52年1月に11代目(千代の山)が死去したため、同
年11月に12代目九重を襲名して部屋を継承するとともに、井筒部屋の力士全員を九重部屋に移籍
させた。12代目は、先代弟子の千代の富士貢を58人目の横綱に育て、直弟子の北勝海信芳を61
人目の横綱に育て上げた。
 13代目
 平成3年5月場所限りで引退した九重部屋所属の横綱千代の富士は、17代目年寄陣幕を襲名して
九重部屋の部屋付き親方として後進の指導にあたっていたが、同4年4月に12代目九重と名跡交換
するとともに13代目として九重部屋を継承し、18代陣幕となった北の富士は九重部屋の部屋付き
親方になるとともに協会理事の職に専念した。しかし18代陣幕は13代目と仲違いしたため、同5
年10月に八角親方(北勝海)が九重部屋から分家独立して八角部屋を創設する時、九重部屋の部屋
付き親方全員(陣幕、君ヶ浜、谷川、錦戸)が八角部屋に移籍した。そんな騒動も今となっては語り
草となり、現在の九重部屋は、三段目に昇進すると四股名に「千代」の字が付けられ、完全に千代の
富士カラーの部屋となっている(千代の富士の部屋継承以前にも、所属力士の四股名に「千代」の字
が付けられる事が多かった)。13代目は、千代大海を大関にまで育てたが、それに続く関取の育成
が急務となっている。もう無理か?



■錦糸中学校
 (平成29年竪川中学校と統合予定)
 石原4丁目33番14号にある区立校。昭和28年7月1日設置が決定。同29年「東京都墨田区
立錦糸中学校」として開校。同45年創立15周年記念式典。同47年体育館完成。同49年校舎改
築第一期工事完了。同50年校舎改築第二期工事完了。落成式と創立20周年記念式典。同51年プ
ール完成。校庭舗装。

 校歌「清らな朝の」 作詞・  作曲・
  1.清かな朝の風に乗り
    清らに響く鐘の音に
    胸澄み渡り いざ歌え
    調べを合わせ いざ歌え
    輝く希望 高らかに
  2.隅田の河面緩やかに
    青海原に流れ入る
    きららな光 踊り立ち
    喜びここに踊りやち
    豊かな夢を運ぶ波
  3.翳ぬ若い瞳上げ
    仰ぐ大空 雲は行く
    遥かな理想 追い求め
    花さく行手 望む者
    栄えよ錦糸中学校
 



■屋敷稲荷

 石原4丁目35番15号の田中家にある。塀越しに鳥居と社の頭が見える。。



■墨田電話局の慰霊碑

 
石原4丁目36番1号にあるNTT石原ビルの建物の前に白い慰霊碑が立っている。昭和33年3
月10日に建立されたこの碑は、大空襲の夜に業火の中で最後まで電話交換の職務を遂行した殉職者
を慰霊している。時の電話交換手は主に10~20代の若い女性だったが、爆撃下でも重要な通信施
設を守り抜くよう軍から要請されていたため、周囲が火に包まれても職場を放棄せず、最後までブレ
ストと呼ばれる送受器を握り続けた。説明版にはこう書かれている。

   この慰霊碑は、昭和20年3月10日未明の大空襲により当地一帯が焼け野原と化した
   際、電話局も全焼し前夜から勤務していた15歳を最年少とする電話交換手28名及び
   男子職員3名が最後まで職場を守り殉職された。職員の霊と、関東大震災において殉職
   された男子職員2名の霊を慰めるとともに、二度とこのような悲劇の起こらないことを
   祈願して昭和33年3月10日に建立されました。慰霊碑右手前には吉川英治氏の自筆
   による碑文があります。
   昭和59年年3月10日                      墨田電話局


 吉川英治の碑文は次の通り。

   春秋の歩み文化の進展はその早さその恩恵に馴るゝ侭(まま)つい吾人(ごじん)をして
   過去の尊いものをも忘れしむる こゝ百尺の浄地ハ 大正十二年九月一日関東大震災殉
   職者二名と また過ぐる昭和二十年三月九日夜半における大戦の大空襲下に 国を愛す
   る清純と自らの使命の為 ブレストも身に離たず 劫火のうちに相擁して仆(たお)れ
   た主事以下の男職員三名 ならびに女子交換手二十八名が その崇高な殉職の死を 永
   遠となした跡である 当時の墨田分局 いま復興を一新して その竣工の慶を茲(ここ)
   に見るの日 想いをまた春草の下に垂れて かっての可憐なる女らや ほか諸霊にたい
   し 痛惜の悼みを新たにそゝがずにいられない 人々よ 日常機縁の間 ふとここに佇
   む折もあらば また何とぞ 一顧の歴史と 寸時の祈念とを惜しませ給うな
                                  吉川英治 謹撰


 その脇の石碑に元職員の富沢きみが84歳の時に書いた、


   平和の尊さを おろそかにしてはなりません 
   そして 世界の平和こそが 最大 最高の幸に つながる事を


 
との言葉が刻まれている。昭和20年3月9日夜の空襲で中央電話局墨田分局の殉職した交換手た
ち31人の慰霊のために、富沢が一人奔走して日本電電が建てたものだ。





【押上】(おしあげ)1~3丁目                 最終昭和40年7月1日
 押上村。明治11年「郡区町村編制法」により南葛飾郡所属。同22年「市制町村制」により本
所区編入。同24年向島須崎町・向島請地町・向島押上町・柳島元町・中ノ郷業平町・押上町に分
散。昭和39年7月1日向島中ノ郷町と向島押上町の全部、小梅1丁目・向島請地町・吾嬬町西1
~2丁目・寺島町4丁目の各一部をあわせて現行の「押上1~2丁目」とし、同40年寺島町4丁
目・吾嬬町西1丁目の各一部を二丁目に編入、吾嬬町西1・2丁目の各一部をあわせた町域を現行
の「押上3丁目」とした。飛地が亀戸村内にあったが現在は亀戸1~2丁目になっている。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『墨田区史』『墨田の歴史』など。

 
押上の由来 発見
 村域は北十間川の南北に位置するが村名の由来は判らない。何かが押し上がったか、何かを押し
上げたかだが、そこが問題だ。『江戸東京地名辞典』は「何らかの事由で土砂が押し上げられ堆積
した土地をいったものではなかろうか」と説明しているが、地形的には江東デルタの一部で褶曲に
よる盛り上がりは見られない。
                     *
 
と書いて、平成18年3月ブラリと自転車散策をしてたら、業平の押上天祖神社の裏手に
出た。通り過ぎようかと思ったが、それは「礼を欠くなぁ」と思い直してお参りしたら、そ
の曰く因縁が「洪水の時にご神体が押し上げられたので、村人がそれを祀って村の鎮守とし
た」という。押し上げられたのは神様なんだよ。大発見、大発見。犬も歩けば棒に当たるぜ。




■生コンクリート工場発祥の地
 1丁目1番にある。
未利用地がたくさんある中で、京成橋に向かい合う京成電鉄本社ビルの西側に
複数の生コンクリート工場がならんでいる。その一つが東京エスオーシー で、その工場の道路に面し
た側に発祥碑が建っている。

   生コンクリート工場発祥の地
   昭和24年11月、当社の前身である磐城コンクリート工業株式会社が、当地で我が国初
   めての生コンクリート工場の操業を開始しました。
   東京エスオーシー株式会社 業平橋工場 50周年記念
   平成11年11月
   強度150N/mm2のコンクリートで作成しました。


 生コンクリートは「レディーミクストコンクリート」のことで、「レミコン」とも呼ばれるが、通
常は「生コン」と略称される。
 かつてコンクリートは、建築現場でセメント・砂・水を混ぜて作っていたが、磐城セメント(株)〔現
在の住友大阪セメント(株)〕が、昭和24年に東京コンクリー工業(株)を設立し工場でセメントの製
造を行ない、専用の運搬車で建築現場に運搬する、いわゆる 生コンクリートの工場生産が始まった。
初期にはダンプカーで運搬していたが、運搬途中に生コンの分離が起こるため現場で練り直すなどの
手間をかけていた。 その後現在使われているミキサー車が開発されて、昭和27年ごろから使用され
るようになり、生コンが急速に普及した。

 東京エスオーシー
 関東スミセ生コンと関東大阪生コンクリートの営業を譲り受け、住友大阪セメント株式会社の直系
生コンメーカーとして平成9年4月1日に発足した。芝浦工場と業平橋工場の2工場を有しており、
芝浦工場は、関東スミセ生コン株式会社の主力工場である深川工場と関東大阪生コンクリート株式会
社の主力工場である芝浦工場を集約化し、6000㍑の最新設備を備えた都心部への供給拠点工場で、
業平橋工場は、日本初の生コン工場として昭和24年に操業し、50年以上もの歴史ある工場として
実績を積み重ねた、主として東京の東部地区の供給工場だ。東京エスオーシーは、首都圏における住
友大阪セメントの生コン事業の中核をなしている。
 で、この辺りに「第二東京タワー」が建つってえと、この工場も何れは移転を迫られるわなぁ。
 平成19年10月業平橋工場閉鎖。



 新東京タワー
第二東京タワー計画決定
 デジタル放送に完全移行する平成23年完成を目指してNHKと民放5局がプロジェクトを構築、
東京タワーでは対応不可能な電波障害を解消し、平成18年4月1日から開始の地上デジタル放送の
目玉となる携帯端末向け放送(1セグ)の直接受信環境を整える。予定地


   1丁目1番~10番(2~8番欠番)東武伊勢崎線業平橋駅南の東武鉄道所有地。

 東武も参画する。元々第一候補だったが、平成18年3月25日決定した。
 完成すれば高さ610m、カナダトロントのCNタワー553mを抜いてトップとなる。展望台は
350mと450mというから低いほうでも東京タワーの先端より高い。東京の大観望だ。完成した
ら六本木ヒルズどころじゃない。世界中からの観光客がどっと墨田区へ押し寄せる・・・向島は大都
会になっちまうぜ!
 ということは、今から考えとけよ。商機到来だ!。展望台から富士山だって見えるんだ。まず不動
産、土地の値上がりは必至だ。駐車場が足らなくなる。次は食い物関係だ。神社仏閣、観光施設、文
化財の周辺整備、それから泥棒空き巣狙いが急増する。向島のサクラ、両国の花火の季節には人と車
が大挙押し寄せて身動きならなくなる。静けさを堪能するなら、今のうちだぞ。周辺も見逃せない。
浅草周辺は爆発するだろう。荒川・葛飾・江東の3区、さらに将来は足立・江戸川へと広がる。恩恵
がないのが西半16区だ。


 1セグ(ワンセグ)
 地上デジタル放送のモバイル機器向け放送のこと。地上デジタル放送の番組が、携帯電話などを使っ
て、外出先・通勤途中で楽しめるサービスだ。1セグメント放送、1セグ放送ともいう。平成18年
4月1日から放送開始。地上デジタル放送では、一つのチャンネルが13セグメントに分かれた構造
になっている。その内ハイビジョン放送(HDTV)では12セグメント、標準画質の放送(SDT
V)では4セグメント割り当てられている。モバイル機器(主に携帯電話)向けは画面が小さく低画
質・低音質でよいため、1セグメントが割り当てられているところから、「1セグメント放送」と呼
ばれる。しかし同17年9月末「1セグメント放送」から、正式に「ワンセグ」というサービス名称
に決定、持ち運びできる新しいメディアとして期待される。


 
ワンセグモバイル
 通常のテレビとの違いは、移動しながらでもテレビ映像が乱れずに受信できることだ。また地上デ
ジタル放送と同じく、番組に関する情報を配信するデータ放送もある。番組はサイマル放送。通常画
質やハイビジョン放送の番組を携帯電話向けに流すように定められてる。ニュースや天気予報が主に
視聴されそうだ。将来サイマル放送がなくなり、ワンセグ専用のドラマの放映も可能性としてはある。
NHK朝の連続テレビ小説のような短時間ドラマなんぞいいかもしれない。受信する機器は主にケー
タイだ。ケータイでワンセグを受信できるよう各携帯電話会社・各メーカーが開発中です。iPod
などの音楽プレーヤー、ゲーム機などでも受信できるようになる。そしてこれら受信する機器を通称
「ワンセグモバイル」と呼ぶ。




新東京タワーデザイン決定!
 平成18年11月24日「新東京タワー」の事業主体である東武鉄道<9001>と同社が全額出資
する新東京タワー(東京都墨田区、宮杉欣也社長)が、新タワーのデザイン案を発表した。デザイン
監修は、元東京芸術大学学長で彫刻家の澄川喜一と、建築家で東京大学名誉教授の安藤忠雄が手がけ
た。東武鉄道は「地域とともに活力のある街づくりに貢献」をはじめとする、新タワーの3つの基本
理念に沿った人選だとしている。基本設計は日建設計に委託するそうだ。
 新タワーは首都圏の地上デジタル放送用電波塔。高さは従来の計画通り地上610mで、日本刀や
伝統的な日本建築にみられる緩やかな曲線「そり」と「むくり」を意識し、タワーの頂上から足元に
向かって連続的に変化するデザインとした。展望台も計画通り地上350mと450mの2ヶ所に設
ける。また足元部分を三角形で構成することで、周辺への圧迫感に配慮しつつタワーの安定が得られ
るように工夫した。
 デザインコンセプトは、時空を超えた都市景観の創造・まちの活性化への起爆剤・都市防災「安全
と安心」への貢献──の3点。日本の伝統美と近未来的デザインの融合や、新タワー周辺地域の活性
化、耐震性や耐風性に優れた構造などを目指している。
 同デザイン案は建築家の安藤忠雄と彫刻家の澄川喜一(元東京芸大学長)が監修した。東武と新東
京タワーでは、両社が7月に行ったアンケート結果も2人と設計を担当した日建設計(東京都千代田
区、中村光男社長)に伝えたという。
 アンケート結果(応募総数5079人)によると、「新タワーに求めるもの」は「景観との調和」
が3281人でトップ。「デザインのモチーフ」は「未来的」「日本的」といった項目に票が集まっ
た。「新タワー周辺に欲しい施設」では「ショッピングモール」、「美術館・博物館・水族館」を望
む声が多かった。東武と新東京タワーは今後、平成18年度中に基本設計を終え、同19年度に実施
設計、同20年度に着工し、地上波放送がデジタル放送へ完全移行する同23年度中の開業を目指す。
 5年後人は墨田区に動く。六本木ヒルズは過去の遺物となって閑古鳥がなく。商機を動かす者が勝
利者だ。六本木への未練を断ち切って、上野・浅草・新タワーだ!



■新東京タワーの名称6候補が決定
 平成20年3月19日東武鉄道と新東京タワーは、同年1月から建設を開始した「第二東京タワー
(新東京タワー)」の6つの名称候補を発表した。4月1日から5月30日まで、インターネットや
はがきで全国から投票を受け付け、6月に正式に決定する。名称案は昨年10~11月に募集。18
606件の中から、有識者らで作る検討委員会が以下の6候補に絞った。
   東京EDOタワー
   東京スカイツリー
   みらいタワー
   ゆめみやぐら
   ライジングイーストタワー
   ライジングタワー



東京スカイツリー

 新東京タワーの名称が「東京スカイツリー」に決定
 押上1丁目1番1号。平成20年6月10日東武鉄道は同24年に開業予定の地上デジタル放送用
タワーの名称が、投票の結果「東京スカイツリー」に決まったと発表した。得票数は、東京スカイツ
リー(32699票)次点は東京EDOタワー(31185票)。以下ライジングタワー(1553
9票)・ゆめみやぐら(9942票)・ライジングイーストタワー(6426票)。
 決定した名称について、東武タワースカイツリーの宮杉欣也社長は「空に向かって伸びる大きな木
をイメージした名前。ツリー(木)のそばに人々が集まり、心を寄せ合う豊かなコミニュティを形成し
たい。日立製作所のCМで〝この木なんの木、気になる木♪〟というものがあるが、あの木のような
存在をイメージして欲しい」と名前に込められた願いを語った。
 なお総投票数110419票(有効投票109706票)の男女比は、男性が53.4%、女性が4
4.9%、不明が1.7%。新タワー名称検討委員会の一員で、作詞家の阿木耀子は、

   こうした投票で、男性の比率が多いのは珍しいこと。決定したスカイツリーという名前
   をこうして改めて見ると、〝やっぱりこれだったんだ〟という思い


 と感想を述べたとか。



■29年前の予言?

 墨田区の小学生が29年前に描いた「未来の墨田」の絵に、区内で建設が進む「東京スカイツリー」
(高さ約610メートル)のようなタワーが描かれていたことが判った。複数の子どもの合作とみら
れ、同区は未来図をズバリ的中させた想像力の持ち主を探している。
 絵は昭和54年11月区が国際児童年を記念して開いた「子ども会大会」で、「未来の墨田―21
世紀の私たちの町をえがこう」というテーマで企画した作品展の応募作。翌55年に策定された「区
基本構想」の概要版パンフレットの表紙にも採用された。絵には、実際の建設地から約2.7km北の
東武伊勢崎線鐘ヶ淵駅近くの未来の姿が描かれている。飛行場や街を行き交うモノレール、建ち並ぶ
団地、プラスチックやゴム工場――。細部まで緻密に描かれた未来の街の真ん中に4本の長い脚で支
えられたロケット様のタワーが聳え立ち、大きく「墨田タワー」と書かれている。
 実は、この絵が再び脚光を浴びたのは平成17年11月、同区が25年ぶりに基本構想を改定した
際、職員が古いパンフレットを見つけたことがきっかけだった。区は当時、新タワーの誘致合戦を繰
り広げていたため、「誘致成功を予言した絵。縁起がいい」と話題になった。作者の手がかりは古い
資料にもなく、唯一得られたのは「複数の児童による合作だったと思う」という、かつての担当者の
おぼろげな記憶だけ。区長は「3年後のスカイツリー完成まで、諦めずに探したい。絵に見覚えのあ
る人はご一報を」と話している。

 判明
 29年前に東京スカイツリーのような長い4本足の「墨田タワー」を描いた元少年たちが名乗り出
た。〝予言〟を残した小学生の一人は既にこの世になく、両親は息子の残していた贈り物に感無量の
様子だったという。埼玉県秩父市の池田嚆八(こうはち 75歳)が約3年間に亘って管理人を務め
たマンションは、墨田5丁目の都営団地前に現在もある。絵の右上に、マンションの姿もしっかり描
かれている。区の広報誌で、子供の絵の募集記事を読んだ池田が、「未来の町を描いてみない?」と
仲良くなった子供たちにペンと模造紙を渡した。「テレビゲームが普及する前の子供たちは、面白い
変わったことがあると夢中になってやった」と笑う。29年の歳月を超えて、薄れゆく記憶をたぐり
寄せたのは、絵に刻まれた街の姿だった。「昨年暮れ、テレビであの絵を見て『あれ?』と思い、区
役所に(自分の絵ではないかと)電話した」。埼玉県越谷市の西田裕延(41歳)の脳裏には、鐘ヶ
淵駅と電車を描いた記憶がおぼろげに浮かんでいた。決め手は、駅のガード下に描かれた「あけぼの
書店」の看板。一緒に描いた親友岡田順二の両親が経営していた店だ。「あけぼの書店」は平成20
年までの55年間、同駅近くで営業していた。両親の岡田正男(75)と美江子(69)は、順二の
遺影と共に山崎昇区長を訪ねた。順二はネパールで教師になるのが夢だったといい、勉強しながら北
海道のスキー場で働いていた平成13年、バイク事故で命を落とした。「順二は絵が好きでした。生
きていれば自分で描いたかどうか分かるのですが、西田君が『一緒に描いた』と言うので」。そう語
ると、正男さんはいとおしそうにじっと絵を見つめていた。(読売新聞の記事より)


 全高

 平成23年の完成時点で、自立式鉄塔としては、キエフテレビタワーの385mを上回る世界第1
位。自立式建築物としては建設中の広州テレビ・観光塔の610mを上回り、ブルジュ・ドバイの8
18mに次ぐ世界第2位となる予定。都心部で立ち並ぶ200m級の超高層ビルの影響を受けない高
さとして、NHKと在京民放キー局5社が「600m」という数字を要請した。建設計画を策定する
中で当時世界一の高さであったカナダ国オンタリオ州トロントにあるCNタワーを上回る高さとして
アメリカのシカゴに建設予定で、現在凍結中の「シカゴ・スパイア」のアンテナを含めた高さが約2
000フィート(約609.6m)だったため、「610m」という数字になったという。
 構想段階では世界一高い建造物を目指していたが、完成時の高さを非公開にして建設していたブル
ジュ・ハリファ(建設中はブルジュ・ドバイ)が高さ828mで完成した。この高さを超えるように
計画は修正されていないため、世界一高い建造物にはならない予定。
 平成21年10月16日計画を修正し全高634mを目指すことを発表した。数字には「むさし」
「武蔵」の語呂合わせも考慮したとしている。裏には建設中の中国広州テレビ観光塔が同じ610m
であるため、高さ修正をせざるを得ない事情があったとか。検討段階では東京タワーの倍の666m
という数字も出たが、結局「武蔵」に拘って634mに落ち着いた。

 設計概要
 敷地面積 36900㎡(但し タワー+東西街区)。
 高さ 634m。
 構造、鉄骨造り・鉄骨鉄筋コンクリート造り・鉄筋コンクリート造り。
 基礎工法 場所打杭、地中連続壁杭。工期 平成20年7月~同24年2月
 建築主体 東武鉄道株式会社・東武タワースカイツリー株式会社
 設計監理 株式会社日建設計
 施工   株式会社大林組


 カラーデザイン
 周辺の景観との調和および名称やデザインコンセプト「時空を超えた都市景観の創造:日本の伝統
美と近未来的デザインの融合」を考慮したオリジナルカラー「スカイツリーホワイト」だ。但しホワ
イトといっても「純白」ではない。日本の伝統色、最も薄い藍染の色である「藍白(あいじろ)」を
ベースにしたオリジナルカラーだ。スカイツリーホワイトも、白を基調に藍染職人の技法に倣い、タ
ワーの白に青みを加えており、白磁のようにかすかに青みがかった白が、繊細な輝きを放つ。日本の
伝統工芸である藍染において職人の手により作りだされる色からは、タワーの立つ下町に受け継がれ
る職人文化がタワーと出会うことで創造する新たな文化の幕開けを感じさる。「スカイツリーホワイ
ト」を身に纏うタワーは、東京の下町の青い空に映え、時空を超えてより鮮やかに輝いていくことだ
ろう。

 デザインコンセプト
 空に向かって伸びる大きな木をイメージしている。シルエットは、伝統的日本建築などにみられる
「反り」や「起(むく)り」を意識し、大きな木の下に、人々が集い、心を寄せ合う様子を表してい
る。名前そのものから連想される澄んだ空と木々の豊かな緑も「人に地球にやさしい、豊かなコミュ
ニティ」を目指した、この街全体の開発コンセプトを表したもので、タワーの元に環境に優しい街が
生まれ、世界の人々が集い、新しい文化が創造されていく、という願いが込められている。タワーの
足元は三角形となっており、圧迫感の低減や日影等の影響にも配慮している。さらに、頂部に向けて
円形へと変化し、見る角度や眺める場所によって多様な表情を持っている。
 実は、「楚々とした日本女性の和服姿」が基本イメージだということだ。


 安全祈願祭
 東武鉄道などは、平成20年7月14日、地上デジタル放送の電波塔として建設する世界最大級の
「東京スカイツリー」の工事に着手、現地で安全祈願祭を行った。設費用は約600億円で12年春
に開業予定。安全祈願祭では、東武鉄道の根津嘉澄社長や放送事業関係者ら約100人が集まり鍬入
れや神事を実施、工事の無事を祈った。その後、区内のホテルで起工式典も開催された。

 建設工事
 決定前の平成17年2月には基礎整備工事は始まっていた。同18年4月に正式決定があると、建
設予定地はパネル枠で囲まれ中が覗けないようにされた。無味乾燥な白いパネルの壁。一般国民をバ
カにして跳ね除けるかのように感じさせたが、やがて気づいたのか予定通りだったのか、絵や案内が
描かれた。南側では江戸時代のこの辺りのことや新東京タワーのことが、絵・写真・文で説明された
(現在撤去)。基礎基盤工事が始まり、同21年3月基礎工事完了、直ちにタワー建設、下部構造組
み立て工事が始まった。周辺環境は日に日に変わっているので、見学者は注意が必要。
 同21年4月末で30mほどが建ち上がり、
   6月23日  50m。  7月22日  76m。  7月31日  93m。
   8月 7日 105m。  8月21日 118m。  8月28日 126m。
   9月18日 153m。  9月25日 161m。
  10月 2日 164m。 10月16日 174m。 10月23日 183m。
  10月30日 191m。 11月10日 205m。 11月20日 215m。
  11月27日 224m。 12月 4日 231m。 12月11日 235m。
  12月18日 245m。 12月25日 254m。 12月 7日 231m。
  年末には250mに達した。
 同22年1月20日274m(我が家から初めて確認。11月には見えていたものと思う)。上部
に行くほど鉄骨量は逓減するので、組み立てスピードはアップする。
   1月 8日 264m。  1月15日 274m。  1月22日 281m。
   2月 1日 284m。  2月 5日 289m。  2月10日 291m。
   2月13日 294m。  2月16日 303m。  2月27日 304m。
   3月06日 311m。  3月13日 318m。  3月20日 328m。
   3月29日 338m(東京タワー333m超え)。
   4月10日 349m。  4月24日 358m。  5月 1日 368m。
   5月15日 379m。  5月22日 389m。  5月29日 398m。
   7月30日 408m。  8月14日 418m。  8月21日 428m。
   8月28日 438m。
   9月 4日 448m(エンパイヤーステートビル443m・1454t超え)。
   9月11日 461m(対馬オメガ局電波鉄塔455m超え)。
   9月22日 470m  10月 2日 478m。 10月 9日 488m。
  10月23日 497m(鉄塔部分完了)。
  12月 1日 511m(ゲイン塔とアンテナ部がドッキング)
  12月11日 514m  12月18日 529m  12月25日 539m。
 同23年1月 8日549m。
   1月15日 559m(カナダタワー553m超え)。 1月29日 569m。
   2月 5日 574m   2月12日 584m   2月19日 594m。
   3月 1日 604m(13時29分に601mに達した)
   3月 5日 609m   3月12日 625m
   3月19日 634m(13時34分最高点に達した)
   5月23日 クライミングクレーン4基の解体開始~7月中旬。
 同24年1月29日タワー完成。2月29日付属施設完成。3月2日竣工式・引渡式。

 東武鉄道は2月9日、スカイツリー内の施設の名称や、東武伊勢崎線一部区間に新たに命名する愛
称などを同時に発表。東武関連施設にツリーのネーミングを鏤めることで、グループを挙げて世界一
高い自立式電波塔を東京のランドマークに定着させる考えだ。
 また3月17日からスカイツリー西側の最寄駅、伊勢崎線「業平橋駅」を「とうきょうスカイツリ
ー駅」と改称するほか、同線の浅草・押上-東武動物公園間の愛称を「東武スカイツリーライン」と
しスカイツリーに繋がる路線であることを前面にアピールする。
 ツリー東側の最寄駅の押上駅では、開業日までに副駅名に「スカイツリー前」と記すことにした。

 送信塔
 FM放送
 在京FM局のうちJ‐WAVEとNHK東京FMの2局が先行する形で東京タワーからの送信所移
転を申請、平成23年2月3日に変更許可が下り、同24年4月23日より本放送を開始した。同時
にNHK‐FM放送を使用したVICSの文字多重放送についても道路交通情報通信システムセンタ
ーが申請を行い、前2局と共に変更許可を得ている。
 東京タワーでの放送時の空中線電力は10Kwだったが、高所設置に伴うスピルオーバーを防ぐた
、東京スカイツリーでの空中線電力は7Kwに減力されている。
 InterFMならびに放送大学(JOUD‐FM)、TOKYO‐FMは従来どおり東京タワー
から送信され、東京スカイツリーからは送信されない。
 マルチメディア放送
 mmbi及びジャパン・モバイルキャスティングによる携帯端末向けマルチメディア放送(VHF
-HIGT帯)「モバキャス」はスカイツリーに4段16面のアンテナを設置、スカイツリーからの
送信で関東全域約1600万世帯をカバーできるとしている。平成23年9月14日に電波監理審議
会から予備免許を交付することが適当であると答申を受け、翌15日に予備免許の交付を行った。同
24年4月1日にmmbiが運営するNOTTVが放送を開始、東京スカイツリー初の本放送送信局
となった。

 タクシー無線集中基地局
 特別区・武三交通圏(23区・武蔵野市・三鷹市)を営業エリアに持つタクシー各社は、現在港区
赤坂の国際新赤坂ビルに集中基地局を設置しているが、都内各地で高層ビルが相次いで建設されてい
ることで不感地帯が増加してきている。そのため、東京スカイツリーへの移転が行われることとなり
同23年10月から1ヶ月間、地上300mの位置にアンテナを設置し、昼間の時間帯に試験電波を
発信、同24年3月より業務無線の運用を順次開始し5月から本運用に入った。
 地上デジタルテレビジョン放送
 NHK東京総合。NHK東京Eテレビ・NTV日本テレビ放送網・EXテレビ朝日・TBSテレビ
・TXテレビ東京・CXフジテレビジョン・TOKYMXが放送。1年ほどの試験放送を経て、本格
放送に入る。つまりどんな問題が生じるかのチェックだ。

 観光施設
 第1展望台(350m)は「天望デッキ」、江戸東京野菜などを提供するスカイレストランは「6
34(むさし)」と命名され、オリジナルドリンクを提供する「スカイツリーカフェ」などが入居。レ
ストランでの食事を予約すれば入場券はついてくる。
 さてさらに上を目指すには「天望シャトル」と名づけられたエレベーターに乗る。天井も四囲もシ
ースルーになっていて、景色が眺められる。で、到着したところがフロア445、第2展望台「天望
回廊」(最高地点451m20cm)だ。周囲110mの回廊を歩くことで空中から首都圏を見渡す
ことができる。

 ライトアップ
 パナソニック電工は、「東京スカイツリー」に関して、ライトアップ用の照明メーカーに決定した
と発表、タワー専用の照明器具を全て「LED」で開発を進めていく。使用される器具は約2000
台。同タワーでは、「永遠に続く江戸の心を光で表現する」ことを目的に、隅田川をモチーフとした
水色の「粋」と、気品のある江戸紫という色を使用した「雅」という2パターンのライトアップを1
日毎に行なうことになっている。また富士山のような冠雪をイメージし、頂上部を白く光らせる「光
の冠雪」や、展望台の周囲を一定の早さで光が回転する「時を刻む光」、タワーの上方と下方から光
を重ねることで、〝そり〟と〝むくり〟を強調するライトアップも展開される。色の変化は14種類
にも及ぶ。
 東京タワースカイツリーの藤井角也代表取締役専務は、照明をパナソニック電工に決定した理由に
ついて「技術面、金額面を総合的に判断した」と説明。パナソニック電工の長榮周作代表取締役専務
は、「照明事業を始めて58年目。その間に培ってきたハードとソフトの技術を使い、省エネ性、コ
ンパクトさ、耐久性を最大限に考慮した物作りをしていく。〝パナソニック電工にしてよかった〟と
思われるライトアップにしたい」と意気込みを語った。
    

 平成24年5月22日開業
 この日は生憎の雨。前の日も翌日も晴れ、皮肉なものだね。10時から開業記念式典が行われ、1
2時から一般の予約客に展望台が解放された。しかし天候は回復せず、午後5時展望デッキ(第一展
望台)と展望回廊(第二展望台)を結ぶ展望シャトル(エレベーター)が強風のため安全を考慮して
ストップ、展望回廊に約200人が取り残された。30分後、下りのみを稼動させ、取り残された客
を下ろし事なきを得た。午後7時半早々と展望台の営業を中止し安全に備えた。
 レストラン「634(むさし)」を予約してた客は困っちゃっただろうね。翌日ってことの利かない
人もいたんじゃない? 返金すりゃあいいってもんじゃないからね。初日はたった一日しかないんだ
しねぇ。レストランだって困っちゃったろうに、消費されなくて捨てなくちゃならない鮮度物もある
だろうし、ねぇ。 



■東京ソラマチ
 
押上1丁目1番2号にある広大な商業施設。平成24年5月22日開業。東京スカイツリー駅(旧
業平橋駅)と押上(東京スカイツリー前駅)を繋ぐ東西長さ400mに亘る「タワーのある町」のス
タート。

  敷地面積 約36900㎡ 建設面積 31600㎡
  延床面積 約230000㎡(タワー部分含む)
  SC面積 約52000㎡
  建物規模 東街区 地上31階、地下3階
       西街区 地上7階、地下2階
 駐車場台数 約1000
 駐輪場台数 約2000
  使用用途 電波塔、展示場(展望台)、商業施設(国内最大312店舗)、水族館、ドームシア
       ター、スクール、オフィス、地域冷暖房施設、駐車場

 1階 クリエイティブ、デイリー雑貨、ライフスタイル雑貨、カフェ
 2階 食品スイーツ、ファッションとライフスタイル雑貨
 3階 フードコート、ファッションとライフスタイル雑貨
 4階 レストラン、キャラクター雑貨、タワー出発ロビー、スーベニアとライフスタイル雑貨
 5階 水族館、タワー到着ロビー、観光、イベントスペース
 6階 水族館、レストラン
 7階 ドームシアター、レストラン
 8階~29階 オフィス、スクール他 イーストタワー
 31・32階 ダイニングレストラン
 イーストタワー

 312店舗もあるから多士済々。コンビニは当然として、魚屋、飲み屋、一膳飯と何でもある、

 すみだ水族館
 大成建設株式会社の人工海水製造システムにより、水槽内の水の完全人工海水化(淡水は除く)
を実現した。これは、オリックス不動産が運営する、平成24年3月14日に開業した京都水族館
(京都府京都市下京区観喜寺町35‐1)に次いで国内で2番目、関東では初の施設だ。内陸型水
族館の課題だった、大型車両による海水運搬時に発生するCO2の発生を抑え、さらに年間を通し
て一定の水質を維持できるため、水槽内の生物にとっても快適な環境を提供することが可能になっ
た。ウエストヤードの5・6階の2層からなる水族館。上下フロアの繋がりは、3つのルートから
成り、それぞれに楽しみ方が異なる。決められた順路は無く、何度も行き来し、心行くまで水族館
内を回遊し、様々な角度や視点で水槽を鑑賞することができる。客一人ひとりがそれぞれの楽しみ
方で鑑賞できる。国内最大級の屋内開放水槽では、間近でペンギンやオットセイを見ることができ
る。またバックヤードを見せるゾーンも設け、飼育現場を見ることもできる。スタッフとのコミュ
ニケーションは歓迎され、飼育スタッフと客との隔たりもなくし丁寧な説明がある。客、生物、ス
タッフが、空気を通して繋がっている感覚を体感させてくれる。

 コニカミノルタプラネタリウム「天空」
 日常を離れた幻想的な空間で、星空の感動を。
待ち合わせスペースに利用できるホワイエは、ブ
ルーとホワイトの光の幻想的な演出により、宇宙旅行への期待が高まる。ホワイエから繋がるトン
ネルを抜けるとプラネタリウムドームが広がり、いよいよ宇宙空間へ出発だ。作品をより楽しんで
もらうため、座席を階段状に設置。そのため死角が無く、作品に集中でき、より星空の世界を体感
できる。さらにリラックスして鑑賞するよう、座席は全天を見渡せるリクライニングシートになっ
ている。家族や恋人、友達と星空散歩を楽しんでみたら
   
 




■業平橋駅 → とうきょうスカイツリー駅
 押上1丁目1番4号にある東武伊勢崎線の停車場。業平橋駅は明治35年4月1日に開業した駅。
戦前の一時期営業していなかった期間もあったが、昭和6年に現在の浅草駅が開業するまでは東武の
起点を務めていた。明治43年から昭和6年までは「浅草駅」を名乗っていたこともある。平成24
年1月20日に東京スカイツリーが完成、5月22日に開業するのを受けて、3月17日「とうきょ
うスカイツリー駅」と改称。4月20日改装工事完了。リニューアル・オープン。
 ホームは高架島式1面2線構造。古くて全体的にくたびれた印象のある駅だが、ホームと改札階を
結ぶエレベーターは設置済みだ。改札口・出口は1ヶ所のみで地上1階にある。平成15年の半蔵門
線全通以前には地上にも頭端式2面3線のホームがあり、浅草駅に入れない10両編成の電車は業平
橋を始発・終着としていた。また都営・京成の押上駅との間に連絡地下通路も設けられていた。しか
し半蔵門線が開業して10両編成の電車がそちらに直通するようになると、業平橋駅の地上ホームと
連絡通路はいずれも廃止された。現在では浅草始発の普通・準急電車が細々と発着するのみとなって
いる。

 
安全地蔵尊
 押上1丁目1番の西北角、東武線業平橋駅の改札を出てすぐ北側、線路沿いの細い道に入る角に、
小さな地蔵尊がある。とてもひっそりとあるので、毎日この駅を利用する人でも、殆どの人は気づい
てないかもしれない。この駅は、かつては始発駅で明治35年「吾妻橋」といった。同43年「浅草
駅」に改称、昭和6年「浅草雷門駅」が開業して現行の「業平橋駅」となった。
 地蔵はその駅の横っちょにあるのだが、誰かが意思を持って建てたものではないのだ。実はこのお
地蔵さんはどこに建っていたのかも判らないし、どこかの子供の墓だったかも知れないのだ。昭和3
4年建設資材に混じって貨車に揺られてこの駅に辿り着いた。誰かが捨てたものか、遠い昔に埋もれ
たものが掘り返されたかしたものなのだ。しかし駅では、近年構内で出た子供の事故犠牲者や工事中
の殉難者、また大戦中駅で空襲に遭い死亡したことなども考え合わせて、駅で祭ることとし、同39
構内や道路での交通安全を願って当時の駅長がここに安置したものなのだ。それからは5月4日を
例祭としている。

   安全地蔵尊の由来
    この地蔵尊は、昭和34年9月、何処からともなく貨車によって運ばれてきた石や砂の
   中からお姿を現したものですが、もとの安置場所や建立年代が定かでなく、しばらく駅構
   内に仮安置されていました。かって業平橋駅構内およびその付近では空襲による犠牲者が
   少なからず、これに思い致された人々が平和への祈りと、道路や線路の安全への願いを込
   めて昭和39年4月24日に「安全地蔵尊」としてこの地に安置されました。
   永い風雪にさらされたためか、昭和60年12月地蔵尊のお姿が見えなくなってしまいま
   したが、人々の落胆ぶりを見て鈴木栄三郎氏がご尊体を寄進し入仏の儀を行い新たに、こ
   の地に安置され現在に至っております。ここに関係者のご好意に感謝し、永く皆様に親し
   まれますよう念願いたします。
   昭和61年5月吉日                          業平橋駅長




■押上駅
 押上1丁目1番65号にある東京メトロの地下停車場。

■押上駅
 押上1丁目8番21号にある都営地下鉄浅草線の地下停車場。

■押上駅 → 押上(スカイツリー前)駅
 押上1丁目10番2号にある京成押上線の地下停車場。京成電鉄は大正元年、押上~江戸川・柴又
間を開通させたのがその始まり。京成上野にターミナルの座を奪われたのは昭和8年なので、それまで
は押上が京成の起点駅だった。押上は都心から遠いため、本当は浅草にターミナルを置きたかったの
だが、東武に先を越されたために断念した。
 昭和35年12月4日都営浅草線浅草橋~押上間が開通し、相互乗り入れを開始してやっと悲願が
達成したことになる。これは、わが国初めての地下鉄相互乗り入れだ。
 それからだいぶ後年になり、平成15年3月19日半蔵門線が水天宮前~押上間を開通させて全通。
それと同時に東武が押上~曳舟間に連絡線を設け、直通運転を開始した。それに伴い、それまで押上
駅と業平橋駅を結んでいた地下連絡通路は閉鎖された。同24年1月29日に東京スカイツリーが完
成、5月22日に開業するのを受けて、3月17日「東京スカイツリー駅」と改称した。
 京成・都営と東京メトロ・東武がそれぞれ別のホームを持っており、前者は地下1階に島式2面4
線、後者は地下3階に島式2面4線のホームを持つ。ホームと改札階を結ぶエレベーターは、全ての
ホームに設置されている。
 京成・都営と東京メトロ・東武ともに、2ヶ所ずつ計4ヶ所の改札口を持つ。全ての改札は地下2
階にあり、地下1階にある京成・都営ホームからはいったん下に降りる形になる。
出口は6ヶ所。
 半蔵門線の列車はかつて押上止まりが多く、東武直通列車はデータイム1時間3本程度しかなかっ
た。そのため乗客は不便を強いられることが多かったが、平成18年3月18日のダイヤ改正から直
通列車がデータイム1時間6本に増発され、利便性が大いに高まった。なお都営浅草線の列車はほぼ
全てが京成線に直通する。



■わんぱく天国
 
押上1丁目47番6号にある。子どもたちが自然に触れながら、いきいきとした冒険を楽しむこと
ができる区営の遊び場だ。「わんぱく砦」「わんぱく広場」「やすらぎ広場」の3ゾーンに分かれて
いて、ロープスライダー、畑、野外ステージなどがある。またプレイリーダーが、子どもの遊びの手
伝いをしている。
 利用時間:4月から9月 午前9時から午後6時まで、10月から3月 午前9時から午後5時ま
で 定休日:12月31日から1月4日まで 03-3612-1456



海福山
医王院正円寺
 
押上2丁目37番4号にある天台宗の寺。高木神社の別当寺でもあった。
応仁二年(1468)に
常照法印により創建された。門は木柱で、境内は清浄に保たれた美しい寺だ。本堂左手に地蔵堂。庫
裏は裏にある。文化財として
正徳三年銘庚申像・享保十九年銘庚申塚・光明真言百万遍塔・寛文二年
銘地蔵像・
宝永二年銘地蔵像がある。



■高木神社

 押上2丁目37番9号にある。鎌倉幕府滅亡後、北条氏一門が逃れてこの地に転住、稲荷大明神を
建立したという。応仁二年(1468)の創祀と伝えられ、旧寺島新田の鎮守として尊崇されており
古くは「第六天社」と称えられ、正円寺が別当として管理してきた。明治初めに神仏分離の制度が定
められ、新政府の強制により、社名を「高木神社」と改め、昭和15年6月村社に列格した。
 祭神は高皇産霊神(高木神)と申し、古事記や日本書紀によれば、天孫降臨の際の国護り伝承や仲
武東征などに度々登場し、天照大御神に助言するなど政治的な手腕を振るってきた。以上の神話かつ
「万物生成」「人間関係を調整する」「交渉事を成就させる」などの尊い御神徳があると信じられて
今日に至っている。
 境内で目を引くのは、弘化二年(1845)銘の狛犬。乱石積みの上に安置され、左右同形で阿・
吽の区別が無い。
 樹齢が5、600年といわれるイチョウの神木がある。またかつては大きな「臥竜の松」があり、
曳舟川を上下する舟の目印になったと伝えている。「新編武蔵風土記稿寺嶋村附持添新田項」に、

   第六天社。一は真光寺持、一は正円寺持。

 よある。



■飛木稲荷神社
 押上2丁目39番6号にある神社。伝承によれば、昔の或る時、暴風雨の際、どこからか銀杏の枝
が飛んできて、この地に刺さったとのこと。それが何時しか根付き、大きくなったので、これはおか
しいと慌てて稲荷神社を祀ったのが初めであるといわれている。


 樹皮を戦火に焼かれた銀杏

 
神木として祀られている。戦災により黒焦げとなったが、再び繁茂して悠久の生命を伝えている。
この大銀杏は、神社の名前にも由来する神木で、樹齢は約500~600年といわれ、区の保護指定
を受けている。区保護樹木の内で一番大きいだろう。「新編武蔵風土記稿」に、

   稲荷社
   村の鎮守なり。本地十一面観音、円通寺の持。社前に銀杏の老樹あり。この木、元は隣村
   寺嶋の耕地にありしか、不測に爰に移れり。故に彼処を飛木耕地と称し、此社を飛木稲荷
   と号すといへり。末社山王。


 とあり、区の説明板は次の通り。

   飛木稲荷神社のいちょう 
   神社の名前に由来する御神木で、目通り約4.8メートルもあり、樹齢も五から六百年はく
   だらない区内随一の大木です。戦災で一部が焼失し、樹高も十五メートルと低いが、近年
   いきおいを盛り返し、樹形も整ってきています。江戸時代以前、このあたりは利根川(瀬
   替以前)の川口で、川の運ぶ堆積物により陸地化が進んできたところです。葛西地域の西
   の海岸線の一部となっており、平安、鎌倉時代のあたりから、後の本所、向島の境ともな
   る古川沿いに自然堤防となっていたと推定されます。江戸時代この辺りは寺島新田と呼ば
   れ、順次開拓されていく様子も窺えます。このいちょうの大木は、その自然堤防に育った
   歴史の証しといえます。



福聚山慈眼院正観寺
 押上3丁目32番4号にある天台宗の寺。本尊は阿弥陀如来。平安時代の初め天長年間(824~
833)慈覚大師によって草創され、江戸時代には天台宗江戸3ヶ寺(浅草寺、観理院、東光院)に
数えられた名刹浅草東光院の末寺。都営地下鉄押上駅を出ると、新東京タワーに出る。駅前の四つ目
通りから新あづま通りに入り、下町の雰囲気が漂う商店街を歩いて行くと左手に山門が見えてくる。
 文禄二年(1593)
浅草寺の中興忠尊和尚によって開基した。浅草東光院の末寺、南葛八十八ヶ
所霊場67番札所。「新編武蔵風土記稿」に、

   正観寺
   同宗(天台宗)浅草東光院の末、福聚山慈眼院と号す。本尊阿弥陀、傍に観音あり。開山
   重奮承応二年五月二十五日死す。客殿に聖天あり。
   地蔵堂。本尊の外、弥陀をも置り共に石像なり。


 とある。



飛木山普門院円通寺
 押上2丁目39番6号にある天台宗の寺。もと浅草寺末で、応仁元年(1467)に良秀法印を開
山として創建された。南葛八十八ヶ所霊場62番札所。隣接の飛木稲荷神社の別当寺だった。墓地は
道路向かいにある。「新編武蔵風土記稿」に、

   円通寺
   天台宗江戸浅草寺末。飛木山普門院と号す。開山良秀応仁元年正月3日寂す。本尊弥陀
   傍に不動を置。
   地蔵堂。弥陀堂、往来を隔て向の墓所にあれとここも当寺除地の内なりと云。地蔵を相座
   とす。

 とある。

 
地蔵菩薩立像

 錫杖の一部に欠損あるのは惜しまれるが、ほぼ原形を保ち、区内でも最古に属する石仏だ。顔は童
顔に満ちていて、江戸初期の佳作にふさわしい。舟形光背は細身で、尊像の丈に比べて不似合いなほ
ど大きくし、上端に反りを持たせた江戸期特有の形態を示している。銘を

   干時明暦二年丙甲(1656)奉造立地蔵大菩薩為寒念佛供養也 殊者当村血縁衆為菩提
   也 二月吉日


 としている。この地蔵菩薩は寺島村新田(旧称)の、地蔵講中による「寒念仏」を修したことを記
念していると同時に、結縁衆の「菩提」を弔うために造立・奉納されたものでもある。かつての、村
落共同体による地蔵講・観音講・庚申講などが、殆ど姿を消してしまったことは惜しまれる。



■第二吾嬬小学校 廃校
 押上3丁目46番17号にあった区立校。明治26年「吾嬬村村立第二吾嬬尋常小学校」として児
童20名で開校。
翌27年花火の不発弾により燃え広がった向島須崎の大火で校舎を全焼。そのため
仮校舎は飛木神社前、請地5番地に移り、茅葺屋根の1教室で1年生から4年生までが一緒に勉強し
た。同30年東京府南葛飾郡大字請地20番地(現在の押上3丁目交差点のところ)に落成した新校
舎は、瓦葺きの廊下のある1教室だった。当時の教師は紋付袴、一人で授業から事務一切を取り扱っ
た。当時学校は水田や蓮田に囲まれた長閑なもので、蛙の声を聞きながらの授業は田舎の学校そのも
のだった。指導科目は国語・算術・体操・修身・唱歌の5教科。国語は教師が「ハタ・タコ・コマ」
と読むと、生徒が声を合わせて追読したり、書き取りしたり、体操は校庭で飛んだり跳ねたり、唱歌
は、オルガンもないので先生の指揮棒に合わせて歌うだけという有様だ。これを1人で4学年を受け
持っていたんだから、今の教師は天国にいるのと同じだぜ。同30年請地793番地に校舎が新築さ
れ移転。その内生徒も増え、同40年校舎増築、教師も派遣されてきて、オルガンも入り、唱歌の時
間は楽しくなった。同45年尋常6年制となり、6学級となる。
 大正時代に入っても環境に大した変わりはなく、蓮の花や黄金色の稲穂が美しかった。同4年校舎
増築、10学級に。同6年津波のため床上浸水30cm。同10年高等科を併置して「吾嬬村立第二
吾嬬尋常高等小学校」と改称。同11年7教室増築。同12年9月1日関東大震災が発生、この日は
ちょうど二学期の始業式。式を終えて一息入れていると、地響きに続いて大きな立て揺れと横揺れが
長くあり、新築の2階建ての東校舎がぺしゃんこに倒潰、他は使用不能。附近の家屋もどんどん倒壊
していった。下町は総なめの災禍で地獄絵巻となった。そのため転居したり行方不明となった生徒は
400名に上った。10月8日から残った講堂で二部授業再開。同14年商業補習学校併置。校舎建
築完了。
 昭和2年第四吾嬬尋常小学校開校。校舎貸与(18学級‐911名)。同5年高等科併置廃止につ
き「吾嬬村立立第二吾嬬尋常小学校」に戻称。この頃になると、魚がよく取れた用水も市街地化とと
もに暗渠なり、ニ分された校地も一つなり、広い運動場は徐々に整えられていった。同年11月町制
施行により「吾嬬町立」になるとともに、所番地も吾嬬町西92番地に変更になった。同7年町が東
京市に編入され向島区となったため「東京市第二吾嬬尋常小学校」となった。同8年2階建て校舎6
教室増築落成。同14年校歌制定。作詞宮川宗八 作曲・福井直秋

 同16年勅令148号国民学校令により「東京府東京市第二吾嬬国民学校」と改称。同18年3月
市川市真間に学校農園開く。5月創立50周年記念式典。7月都制施行により「東京都第二吾嬬国民
学校」と改称。同19年夜学校が第三吾嬬小に吸収される。8月
茨城県石下町・下妻町に各3宿舎を
確保して学童疎開。3年生以上児童、508名、教員16名。
鬼怒川或いは小貝川から少し離れた小
さな町の古寺が疎開先だった。
同20年1月27日愚かなアメリカ軍の非人道的無差別空爆で焼夷弾
が校庭に落下炸裂、幸い校舎に被害はなかったが、
3月10日深夜の無差別別空爆により学校は全焼
した。残留生徒は第4吾嬬国民学校に移動。疎開児童の一部が秋田県大館町・扇田町に再疎開、児童
180名、教員18名。8月6日、9日の広島・長崎の原爆投下により、15日日本はアメリカの軍
門に降りポツダム宣言を受諾して敗戦、戦争は終結した。10月疎開解除引き揚げ。
 同21年四吾小から曳舟小学校に移って間借り授業(3教室6学級二部授業)。同22年アメリカ
軍の強制による学校教育法施行により「東京都墨田区立第二吾嬬小学校」と改称。
7~9月仮校舎5
教室が完成して学童が曳舟小から復帰。相変わらず二部授業だった。荒れ果てた校庭は全校生徒で毎
日整備した。また給食とは名ばかりの、100人中100人が、


 
  幾ら食べ物が無かった時代とはいえ、腹の足しにはなるにはなったが、あんな不味い飲物
   は無かった


 と答える給食が出された。ララ物資というアメリカが廃棄処分とした脱脂粉乳をお湯で溶かして、
アルマイトのコップに1杯ずつの代物だ。昭和25年にはパンとミルク(脱脂粉乳)に多少のおかず
のついた完全給食が始まった。最初は希望者だけだったけどね。しかしこれだって決して美味いとい
えたものじゃないよ。パンは3時間も放っておくとカチンカチンになるんだ。同25~27年にかけ
て校舎が増築された。同27年10月職員と生徒がモッコを担いで、1年以上、石や土を運んだ野外
ステージが完成した。これは全国的にも珍しく、学芸会や七夕まつりなどに使われた。同28年校旗
校歌制定。創立60周年記念式典。

 校歌
「隅田の流れ」 作詞作曲・野上彰  編曲・宅孝二

  1.隅田の流れ豊かに巡り
    春の雲の輝く時
    生命新たに
    望みに溢れて吾は集う
    母校ぞ 第ニ吾嬬小学校
  2 真理の道に 正義の道に
    世紀の旗 になうものと
    つねに思えよ
    つらぬきとうせよ われらの使命
    母校ぞ 第二吾嬬小学校
  3.清らにひびく 窓打つ風も
    秋の空を 渡り鳥の
    声のとおれば
    心をひそめて われらは学ぶ
    母校ぞ 第二吾嬬小学校
  4.知識を求め 六年をここに
    聖なる手に 選ばれたる
    幸を思えよ 
    歴史のいしずえ われらもきずく
    母校ぞ 第二吾嬬小学校


 同29~30年校舎増築。校舎増築・校庭舗装。同35年校舎増改築。同36年体育館完成。同3
7年野外ステージが解体されプールが造られた。同38年創立70周年記念式典。同45年第一期鉄
筋校舎8教室落成。同46年第二期鉄筋校舎8教室・資料室、新プール落成。同47年第三期鉄筋校
舎3教室・3特別教室・職員室・給食室・保健室・放送室など落成。校庭舗装、緑地・砂場・池など
完成。同48年創立80周年記念式典。同49年校庭西側緑化。同53年音楽室・図書室改修。校庭
舗装。同58年創立90周年記念式典。同59年屋根付き自転車置場完成。

 
平成7年体育館・プール完成。創立100周年記念式典。同11年創立105年を数えるさしもの
伝統校も、就学児童の減少という少子化の波には勝てず、西吾嬬・文花両校と統合され閉校、新たに
「押上小学校」として再出発した。

 
運動会の歌
  1.はためく旗を青空に
    あおげば意気がもえ上がる
    こ胸 この足 この腕(かいな)
    元気いっぱい 走れ飛べ
    今日は楽しい 運動会
  2.高なる合図 風切れば
    轟く拍手 応援歌
    綱引き 騎馬戦 徒競走
    元気一杯 歌おうよ
    今日は楽しい 運動会

 赤組応援歌

    青空のもと 元気よく
    力をあわせ がんばろう  
    赤勝て 赤勝て
    フレフレフレフレ  
    赤勝て 赤勝て
    フレフレフレフレ


 
白組応援歌

    みんなにこにこ 元気よく
    力いっぱい 一 二 三
    (手拍子)

    フレ白 フレ白
    フレフレフレフレ



■押上小学校
 押上3丁目46番17号にある区立校。平成11年吾嬬第二小学校、西吾嬬小学校、文化小学校
が統合してできた新設校。校地は西吾嬬小学校を仮校舎とし、吾嬬第二小学校跡地に新校舎を建て
て移転した。

 校歌「青い空」 作詞作曲・渡辺茂
  1.青い空 見上げて
    大きな夢をむねに
    みんな仲良く肩くんで
    楽しく勉強
    明るい友だち
    押上 押上 みんなの学校
    押上小学校
  2.白い雲 見つめて
    大きな夢をむねに
    みんな笑顔で手をつなぎ
    元気に運動
    明るい友だち
    押上 押上 みんなの学校
    押上小学校
  3.高い空 見上げて
    大きな夢をむねに
    みんなやさしく目をあげて
    にっこり笑う
    明るい友だち
    押上 押上 みんなの学校
    押上小学校



■専養寺東京子院
 押上3丁目52番11号にある浄土真宗大谷派の寺。




【亀沢】(かめざわ)1~4丁目                 昭和41年10月1日
 亀沢町。元禄七年(1694)に本所地割並馬場□□守の拝領地となり、宝永四年(1707)に
本所中下水埋樋請負人の拝領地となり町屋が許された。このときの町域は現在の両国3丁目35番・
36番・4丁目30番3ヶ所の内ごく僅かの地だった。明治11年「郡区町村編制令」により本所区
に所属。昭和4~5年一部を緑町と石原町に割き、同時に緑町1~5丁目・三笠町・長岡町・清水町
・永倉町・長崎町・南葉町の全部または一部をあわせて亀沢町1~4丁目、同22年本所区と向島区
が合併して墨田区亀沢町となる。同41年新住居表示を実施して現行の「亀沢」とした。昔の亀沢町
とは無縁の地だ。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『墨田区史』『墨田の歴史』など。

 亀沢の由来
 
荒川助九郎匡富(まさとみ)の預かり地内(現両国小学校)の池に大きな亀が棲んでいたとことか
ら、池を「亀沢ノ池」と呼んでいたことによる。幕末この地にあった男谷精一郎邸内であの勝海舟が
誕生した。また幕末の地図(3丁目19番辺り)に長谷川平蔵とある。『鬼平犯科帳』の〝鬼の平蔵〟
の子孫だろうか? 大名じゃないから小っちゃなものだ。



■笠門稲荷社
 亀沢1丁目3番17号にある小祠。



江戸蕎麦ほそ川
 亀沢1丁目6番5号にある『ミシュランガイド東京2009』から4年連続して星1つを取ってい
る蕎麦屋。初め埼玉で蕎麦屋を営んでいた細川貴志が、平成15年現在地に引越してきた。築地に近
いところを選んだのは、毎日新鮮な素材を仕入れるため。蕎麦の質は材料で決まるという細川は、茨
城に自家農園を持ち、自ら蕎麦栽培に取り組んでいる。足りない時は近所からも仕入れる。その日に
使う量だけを自家製粉し、蕎麦粉10割で打つ蕎麦は、細切りで喉越しも良く、濃いめのつゆとの相
性がいい。簡素な店内には4卓の相席テーブルと個室が1部屋のみで、珪藻土の壁に囲まれ、温かみ
のある明かりが落ち着いた雰囲気を醸し出している。土日祝祭日の予約は受付けないが、平日はOK
だ。大人の隠れ家として静かに蕎麦を味わって欲しいため小学生以下の同伴は断っている。
 11時45分~15時 17時半~21時 03‐3626‐1125



■八角部屋
 亀沢1丁目16番1号にある高砂一門の相撲部屋。平成4年5月場所限りで引退した九重部屋(5
2人目横綱北の富士勝昭)の61人目横綱北勝海(ほくとうみ)は、年寄八角を襲名して九重部屋の
部屋付き親方として後進の指導にあたっていたが、同5年10月に4人の内弟子を連れて九重部屋か
ら分家独立して八角部屋を創設した。現在その内弟子から、北勝力ら2人の幕内力士が育っている。
師匠の現役時代の四股名だった「保志」「北勝」の字がついた力士が多い。八角部屋は北の富士がか
つて利用していた「井筒部屋→九重部屋」を使用しており、九重部屋の部屋付き親方だった全員(陣
幕・君ヶ濱・谷川)も八角部屋に移籍している。このため、九重部屋からの分家独立というより、か
つての北の富士の井筒部屋が師匠・名称を変えて再興されたようなものだ。

 かつての八角部屋
 雷部屋(15人目横綱初代梅ヶ谷所属の元関脇大鳴戸が師匠死去後に二枚鑑札で八角を襲名し、八
角部屋を経営していた。そして昭和3年に雷部屋の力士たちを預かっていた白玉親方(関脇玉椿)が
亡くなると、雷部屋の力士たちは八角部屋に移籍した。しかし、幕内雷ノ峰伊助はすぐに立浪部屋に
移り、残った弟子たちの中から番神山政三郎が十両に昇進したに止まり、同8年に鏡山部屋に弟子を
譲って部屋を閉じた。



■錦戸部屋
 亀沢1丁目16番7号にある高砂一門の相撲部屋。平成12年9月場所限りで引退した高砂部屋(小
結富士錦)所属の元関脇水戸泉は、年寄錦戸を襲名して高砂部屋の部屋付き親方として後進の指導に
あたっていたが、同14年高砂部屋から分家独立して錦戸部屋を創設した。まだ関取はいないが数々
の個性派力士がおり、四股名に出身地を入れるのが特徴。



■双葉稲荷神社
 亀沢1丁目20番12号にある小祠。



■野見宿禰神社
 
亀沢2丁目8番10号にある中社。創建は明治17年、当時神社東側に高砂浦五郎の高砂部屋があ
り、津軽屋敷跡地に相撲の神様として野見宿禰を祀ったことに始まる。
 野見宿禰は天穂日命から出ており、力が強かったという。垂仁天皇に命じられて当麻蹴速という剛
の者と力を相撲に競って勝った。宿禰はまた垂仁天皇の皇后が崩御した時、それまで慣例だった殉死
の制を止めて、埴輪を作ってその人代わりとした功により、姓を土師臣と賜ったという伝説もある。
土師氏は代々天皇の葬儀を司り、後に姓を菅原に改めた。だから菅原道真は野見宿禰の子孫というこ
とになる。神社には歴代横綱の銘を刻んだ歴代横綱の碑が2基ある。近世以来相撲は回向院境内で、
明治になって両国国技館で行われた因縁による。横綱の碑は富岡八幡にもある。

 
歴代横綱の碑
 日本相撲協会が建立した。2基は昭和27年に建てたもので。初代明石志賀之助から46人目の朝
汐太郎まで、もう1基は47人目の柏戸剛から68人目の朝青龍明徳までが刻んである。5年に1人
横綱が誕生するとして、後130年は大丈夫だ。生存者の四股名には朱が入れられているが、墓じゃ
ないんだから余計なことは止めた方がいい。



■河竹黙阿弥住居跡
 亀沢2丁目11番12号の秀和両国レジデンスのところにあった。江戸末期から明治にかけて歌舞
伎戯作者として活躍した、河竹黙阿弥が死ぬまでの間暮らした住居は、茶室、書斎、土蔵がある20
0坪を越す立派な屋敷だった。河竹黙阿弥は本所、両国、深川等の近辺を歌舞伎の舞台として登場さ
せており、「孝女お竹」という作品では「錦糸堀」の地名を登場させて、この地の名を江戸文学にと
どめた唯一の人物で錦糸町の祖といえる。この「孝女お竹」という作品は十両の借金のために親の仇
討ちにまで至った話で、サラ金が軒を連ねて繁盛する今の錦糸町にはふさわしい。また黙阿弥も若い
頃には放蕩の限りを尽くしたというから、これも今の錦糸町には似合っている。まさに錦糸町の象徴
とするに足る歴史的人物だ。



■間垣部屋
 
 亀沢3丁目8番1号にある相撲部屋。昭和58年1月場所限りで引退した二子山部屋(第45人目
横綱初代若乃花幹二)所属の第56人目横綱2代若乃花幹二は、一代年寄若乃花(後に18代目間垣
に名跡変更)を襲名して二子山部屋所属の部屋付き親方として後進の指導に当たっていたが同年12
月27日に内弟子1名を連れて二子山部屋から分家独立して部屋を創設した。この部屋から幕内力士
「若闘将・五城楼・大和・若ノ城・若ノ鵬」などが出ている。

 親方が暴行事件
 平成20年5月14日夏場所の4日目の部屋での朝稽古中、間垣親方が序二段力士の弟子を竹刀で
叩き痣を作るという暴行事件を起こし、太ももなどに全治一週間の打撲と擦過傷を負わせた。この事
件について当人の間垣親方は事件が発覚した7日目の夜は「悪いことをしたらヤキを入れるのは当た
り前。弟子が可愛いからやった」などと話し、この叩かれた弟子の奈良に問題があったと主張した。
しかし8日目に一転して北の湖理事長に謝罪した。また弟子も反省し現在も両者の間に蟠りはないと
いう。この件で日本相撲協会の再発防止検討委員会から厳重注意を受けることが予定されている。時
津風事件があったばかりでの暴行再発と親方の暴言に世間が大反発、大問題となった。

 
幕内力士若ノ鵬大麻不法所持事件
 平成20年8月18大麻片を含むたばこを所持していたとして、警視庁組織犯罪対策5課と本所署
は、大麻取締法違反・所持の疑いで、ロシア出身で、大相撲若ノ鵬寿則容疑者(20)=本名ガグロ
エフ・ソスラン・アレキサンドロビッチ=を逮捕した。大筋で容疑を認めており、「六本木で外国人
からもらった」と供述している。
 同課は同日、間垣部屋などを家宅捜索し、自宅から大麻吸引に使う水パイプを押収。使用について
も追及する。
 調べによると、若ノ鵬容疑者は6月24日午後1時ごろ、自宅近くの路上などで大麻を含む乾燥植
物片などの混合物0.368グラムを所持した疑い。財布に入っていたロシア製たばこ「ベラモール」
に混入されており、通行人の女性が同日、財布を拾って交番に届けた。同容疑者も同日、別の交番に
紛失を届け出ていた。当時は19歳だった。同課は同容疑者が地方巡業から帰るのを待って逮捕した。
 大麻所持の疑いで若ノ鵬容疑者が逮捕されるという前代未聞の事件が発覚したこの日、角界内部か
らは厳しい声が相次ぎ、両国国技館にある日本相撲協会や、容疑者が所属する間垣部屋は対応に追わ
れた。協会在勤の友綱理事(元関脇魁輝)は、各師匠を通じてほかのロシア出身力士への事情聴取を
開始したことを明かした。昨年起きた力士死亡の再発防止検討委員会の副委員長でもある友綱理事は、

   一連の問題から立て直そうと、みんな一生懸命なのに、危機感がない人がいた。ショック
   だ


 と憤っていた。ある40代の部屋持ち親方は、

   事情聴取するのなら、ロシア出身だけではなく、欧州系の力士全員から話を聞かなければ
   いけない。若ノ鵬は当然、解雇すべきだ


 と主張。複数の幕内力士も「若ノ鵬は間違いなくクビでしょう」と口を揃えた。
 間垣部屋は報道陣でごった返したが、間垣親方(元横綱2代目若乃花)は所用で故郷の青森に滞在。
相撲協会によると19日に両国国技館を訪れる予定。北の湖理事長(元横綱)は法事で北海道に帰省
していた。当初は広報部を通じてコメントを発表したが、急遽帰京して午後10時すぎから国技館で
記者会見に応じた。
 19日、警視庁組織犯罪対策5課の調べに対し、若ノ鵬は、

   大麻を(自分で)吸ったパイプをディスコで貰った。なくした財布の中に大麻(成分を含
   んだ)たばこを所持していたのは間違いない


 と述べ、使用を示唆する供述を始めたことが判った。違法性の認識もあったという。
 経緯については、

   6月上旬にディスコでロシア人の男と意気投合し、店を出るときに財布の中にたばこ1本
   を入れてくれた。大麻を吸ったパイプなどは別の外国人からもらった。日本国内では大麻
   が規制されているのは知っていた


 と語ったという。
 同課は19日、参考人として間垣親方から事情聴取。親方は、

   大麻を吸っていたことは全く気付かなかった

 と説明したという。大麻で相撲人生はおろか、人生までも棒に振ってしまった。
 人生のモットーは「身辺ご清潔に!」だ。人間何時うだつが上がるか判らない。
 21日協会理事会は若ノ鵬の解雇を決定、間垣親方の理事辞任を受理した。9月8日警視庁は処分
保留で釈放。本人は「相撲に戻りたい」と語っているとか、そりゃあプロレスやK1じゃあ、相撲ほ
ど稼げねえもんなぁ。
                     *
 9日若の鵬は協会に出向いて解雇撤回を要求するも拒絶され、10日その派生的結果として解雇さ
れた露鵬・白露山のマンションを訪れて謝罪しようとしたがあって貰えず、切羽詰まった11日、

   過去の事例と比べて処分が厳し過ぎ、解雇は無効だ

 として力士の地位確認を求め東京地裁に提訴した。興行の在留資格で日本に滞在している若の鵬は、
解雇の3カ月後には強制退去となる可能性があり、仮処分も同時に申し立てた。弁護士に唆されて、

   過去に現役横綱が銃刀法違反で有罪になったが、けん責処分だった。私生活上の犯罪で解
   雇になった例もなく、厳し過ぎる


 と主張した。時代が違うだろうってんだ。盗人猛々しいとは開いた口が塞がらねぇよ。ロシア人と
はこの程度のもんよ。恥ってえことを知らないからねぇ。



初代三遊亭円朝旧居跡 
 亀沢3丁目20番14号(本所南二葉町23番地)にあった。円朝は、江戸末期から明治にかけて
活躍した落語家で、この場所には明治9年から11年間暮らし、名作の「怪談牡丹燈籠」「塩原多助
一代記」などの噺を書き上げた住居跡は、河竹黙阿弥の住居跡のすぐ向かいにあり、記念碑が建って
いる。当時すぐ近くにあったという割下水から水を引いて池にし、庵室のある500坪もの贅沢な邸
宅だったとか。円朝は芝居話が得意だったからか、歌舞伎にも関係したようで、黙阿弥の出ている歌
舞伎舞台の浮世絵に出ている。近所に住んでいた黙阿弥とはお友達だったのだろう。円朝は「怪談牡
丹燈籠」の中で柳島、横川という錦糸町のゾーン内の地名をなにげなく登場させており、さすがは錦
糸町の住民(本所南二葉町)だったことが伺える。葛飾区青戸の法問寺に母方の加藤家の墓所があり
そこと、台東区谷中5丁目の全生庵に墓がある。



■山岡鉄舟旧居跡

 亀沢4丁目11番15号の竪川中学校の正門辺りにあった。校門脇左手に区教委の説明板がある。

   江戸末期の幕臣で剣術家。維新後に無刀流の創始者ともなり、侍従も勤めました。山岡鉄
   舟の生家小野家がこの中学校の正門辺りにありました。
    鉄舟は天保七年(1836)御蔵奉行だった小野朝右衛門高福の五男としてうまれ、鉄
   太郎と名付けられました。
    安政四年(1857)槍術で知られる橋本静山の妹婿となり、山岡高歩、号は鉄舟を名
   乗りました。鉄舟の義兄に当たる槍の名手精一郎は、旗本高橋家に入婿し、後に泥舟と号
   するようになります。勝海舟も含めてこの三人は「幕末の三舟」として知られます。
    慶応四年(1868)江戸城総攻撃に先立ち、鉄舟は西郷隆盛と接触し、海舟と協力し
   て江戸城無血開城への道を開きました。
    明治維新後、静岡県や茨城県などで参事や県令となり、明治四年より明治天皇の侍従と
   して厚い信頼を受けましたが。同二十一年五十三歳で死去し、台東区の全勝庵に葬られま
   した。
    鉄舟は、書家一楽斎としても有名で、区内木母寺にある三遊隊の碑は、鉄舟(表)。泥
   舟(裏)の筆になります。
   平成20年2月                         墨田区教育委員会



■竪川中学校
 (平成29年錦糸中学校と統合予定)
 亀沢4丁目11番15号にある区立校。昭和22年4月1日設立、5月5日中和小学校に間借りし
て開校。同24年独立校舎(一期工事)完成。同33年本所小学校跡に移転。同42年創立20周年
記念式典。同44年完全給食実施。同52年創立30周年記念式典。同59年全館空調整備。同63
年創立40周年記念式典。
 平成2年ガイダンスルーム設置。同3年ランチルーム完成。同4年コンピュータルーム開設。同9
年1年前倒しで創立50周年記念式典挙行。同18年耐震補強・空調設備・トイレ等全面改修。同1
9年創立60周年記念式典。

 校歌「紫匂う」 作詞・槙島徳次  作曲・伊達龍雄
  1.紫匂う武蔵の東
    清き流れの隅田川
    聳ゆる学び舎 希望にもえて
    朝な夕なに勤しまん
  2.富士の白雪 筑波の緑
    ゆるき流れの竪川の
    学びの窓より仰ぎて常に
    清く明るく務めなん
  3.潮の満干に鴎が群れて
    涯しなき野に光さす
    誇る文化を妙なる綾と
    いざ諸共に織り出でん
 





【菊川】(きくかわ)1~3丁目                     昭和42年5月1日
 深川菊川町。元禄九年(1696)御小人大繩地の地に町屋が許された。今の立川(たてかわ)
4丁目3番・16番・菊川3丁目11番・14番の地に該当する。明治元年東京府に所属。同2年
飛地を深川東町に移譲。同5年弘前津軽家抱屋敷と深川西町の一部を併合して本所菊川町1~2丁
目となる。同11年「郡区町村編制令」により本所区に所属。昭和8年1丁目を立川に譲り(その
ため菊川小学校が立川3丁目にある)、2丁目に林町2~3丁目・徳右衛門町の各一部をあわせた
町域を菊川1~3丁目に改編、同22年墨田区所属。同42年新住居表示を実施して現行の「菊川」
とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『墨田区史』『墨田の歴史』など。

 
菊川の由来
 町名は大横川の西を流れていた小流の名前による。今は埋め立てて道路にしている小川に何故菊
川と名づけたのかは判らない。野菊の咲く風情だったのだろうか・・・



■墨田住宅センター建築道具・木組資料館(墨田区小さな博物館)
 菊川1丁目5番3号の森下工務店にある。明治時代のノコギリをはじめカンナや墨壷など各種建築
道具のほか木造建物に使われる様々な柱の組み方(木組)を実物で展示している。丸太を繋ぐ「掛鼻
車知継ぎ手」や数寄屋造りに使用する「十字蟻組」神社で使用される「金輪継ぎ」など、木組みの複
雑な技術の素晴らしさに木造建築の長い歴史を感じる。その他日光山の五重の塔の設計図や旧三井家
で使われていた、今では珍しい鬼瓦など貴重な資料も公開している。今では使われない技術を、同業
者も見に来るというのが森下良治館長の自慢だわさ。
 03-3633-0328 電話して行けよ。



■墨田工業高等学校発祥の地
 菊川1丁目16番11号のNTTビルの東南の角に灰色の石碑が建っている。現在の墨田工業高校
は約800m南東の 江東区森下5丁目にある。「墨田」の名前の学校が江東区にあるのは何か変! 
発祥の地名によるものだろうが、他にも幾つか見られる。
 板橋区にあって北豊島工業高校とはこりゃ如何に? これは北豊島郡だったことによる。本所工業
高校は何と葛飾区水元にあるが、昭和35年に移転したものだ。平成17年全日制はなくなって定時
制のみとなった。小石川工業高校は新宿区にあるが、昭和24年に文京区から現在地に移転した。四
谷商業高校は中野区上鷺宮にあるが、昭和38年に新宿区から移転した。中央区の紅葉川高校は江戸
川区葛西に、台東区の忍岡高校は墨田区堤通にと、東京都も学校の場所探しに苦労している。

   墨田工業高等学校発祥の地

   明治23年2月18日開校
   東京府による工業教育ここに始まる
               東京都立墨田工業高等学校
               第17代校長稲見辰夫謹書

   明治33年 東京府職工学校設置を公示
   大正 9年 東京府立実科工業学校と改称
   昭和 2年 (現)東京都江東区森下5丁目1番7号に移転
   昭和18年 東京都立墨田工業新制高等学校と改称
   昭和25年 東京都立墨田工業高等学校と改称
   平成12年7月吉日   創立百周年記念事業委員会



区内で最も古い小学校 中和小学校
 
 菊川1丁目18番10号にある区立校。明治7年2月1日開校。牛島小学校が廃校となった今、区
内で最も古い学校となった。詳細な沿革不明。
 図書館巡りをしたが、資料が乏しく、調査は困難を極めている。図書館自体、中央図書館であるあ
ずま図書館ですら地域資料はお粗末で、学校教育関係のの資料は殆どない。『墨田区教育史』も内容
が雑で、他区のそれとは比ぶベくもない。戦前の学校に関してはお手上げとしかいいようはない。

 校歌
「中和を名におう」 作詞・中村秋香  作曲・小山作之助
  1.中和を名に負う学び舎に
    立つ我が友は時の間も
    いかで忘れん中和の名
    中とは過不及なきところ
    和とは ほどよきこととかや
  2.中和はかわれることならず
    また難しき業ならず
    人の踏むべき常の道

    昼は働き 夜は休み
    勉めて遊ぶは これ中和



■菊川駅
 菊川3丁目16番2号にある都営新宿線の地下停車場。。新宿線の最初の区間である岩本町~東大
島間が開業した昭和53年12月21日に設けられた駅。ホームは島式1面2線構造で、地下2階に
ある。ホームと改札階を結ぶエレベーターは平成19年3月完成。改札口は1ヶ所のみで、地下1階
にある。出口は4ヶ所だが、地上へ上がれるエレベーターは、平成19年3月A3出口に設置された。
新宿線は、森下駅から東大島駅までをほぼ真っ直ぐ、江東区を東西に貫くように走っているが、この
菊川駅だけは墨田区に所在している。この辺りが、墨田区の南端部に当たっているためだ。なお菊川
という駅は東海道本線(静岡県)にもあるが、そちらの読みは「きくがわ」と濁る。



■鬼の平蔵・遠山金さん屋敷跡

 菊川3丁目16番の一帯は池波正太郎が〝鬼の平蔵〟の異名を被せた長谷川平蔵宣以の屋敷があり
数十年後に〝金さん〟でお馴染みの遠山金四郎景元が住んだところだ。これは意図的なものではなく
屋敷替えの偶然の結果だとか。碑が同所丸山歯科医院の横に建っている。また区教委の説明板が菊川
駅出口A3に建っている。

 
長谷川平蔵宣以(のぶため)
 
通り名の平蔵は長谷川家当主が代々受け継ぐ通称で、家督相続以前、宣以は銕三郎(てつさぶろう)
と名乗っていた。池波正太郎の小説『鬼平犯科帳』の主人公であることから、日本の時代劇ファンに
よく知られている人物だ。青年時代は放蕩無頼の風来坊だったようで、「本所の銕」などと呼ばれて
恐れられたと記録にある。池波正太郎は、この頃剣術を高杉銀平に学んだとしているが、作品上の設
定のようで、滝川政次郎によればそれを証明する記録は存在しないという。父の長谷川宣雄は、火付
盗賊改方を経て京都西町奉行の役に付いていたが、死去したため安永二年(1773)28歳の時家
督を継いだ。子は宣義。
 寛政の改革で人足寄場(犯罪者の更生施設)の建設を立案し、石川島人足寄場の設立などで功績を
挙げたが、上司の老中首座松平定信とは折り合いが悪かったらしく、定信は自伝の『宇下人言』にお
いて敢えて名を呼ばず「長谷川某」とまで記し、功績は認めたものの「山師などといわれ兎角の評判
のある人物だ」とけなしてる。天明七年(1787)から8年の間、火付盗賊改方の長官を務めた。
「鬼の平蔵」と呼んだのは池波の創作だが、「今大岡」と呼ばれ市民には人気があったという。寛政
三年(1791)5月3日江戸市中で強盗及び婦女暴行を繰り返していた凶悪盗賊団の首領葵小僧を
逮捕処刑した。被害者に配慮し、逮捕後僅か三日での処刑だった。三田村鳶魚は、宣以が機転を利か
せたためであり、幕府もこれを了承したとしている。このとき名刀井上真改を用いたともいわれてい
る。
 敷地は1200坪余だった。長谷川家の家禄は400石だが、職禄(役高)がつき1500石。寛
政七年(1795)50歳で致仕、その年に病没した。

 
いれずみ判官・遠山金四郎景元
 天保年間に北の江戸御町奉行、後に南の江戸御町奉行を勤めた人物。TVドラマ『遠山の金さん』
のモデルとして知られる。正式な名のりは遠山左衛門尉景元(とおやまさえもんのじょうかげもと)
だ。
通り名は金四郎。公職についてからは、従五位下に叙し、大隅守から左衛門少尉に遷任。明知遠
山氏の分家6代目に当たる。父親は長崎奉行を勤めた景普。青年期は複雑な家庭環境から家を出て、
町屋で放蕩生活を送るが後に帰宅、家督相続後、勘定奉行、町奉行の職に就く。天保の改革の実施に
当たっては、強行派の南町奉行の鳥居耀蔵や老中水野忠邦と対立しながらも様々な政策を実施する。
水野忠邦が鳥居の進言を受けて芝居小屋を廃止しようとした際、景元はこれに反対して、浅草猿若町
への小屋移転だけに止めた。即ちこの遠山の動きに感謝した芝居関係者が頻りに遠山を賞賛する意味
で『遠山の金さん』物を上演したため、鳥居や水野との対立が、遠山イコール正義、鳥居イコール悪
役を作り上げた。尤も鳥居はそれ以前より民衆の評判は悪かった。天保十四年(1843)鳥居の策
略によって北町奉行を罷免され、当時は閑職となっていた大目付に追われる。地位は上がったが実質
的に仕事はなかった。しかし2年後景元はリベンジに出る。鳥居を退けようとしていた水野に接近し、
鳥居の讒言を展開し鳥居を追い落とし、南町奉行として返り咲いた。同一人物が南北両方の町奉行を
務めたのは、極めて異例のことだ。その後は水野の後を受けて政権の地位に座った阿部正弘からも重
用された。嘉永五年(1852)に隠居すると、剃髪して帰雲と号し、61歳で死ぬと本郷の本妙寺
(現在は豊島区西巣鴨)に葬られた。

 ●金四郎が桜吹雪の刺青を入れていたかどうかは定かではない

 ただ夏でも現代のシャツのような手首まである長襦袢を着用して、決して他人に肌を見せることが
なかったので、若いころ放蕩の限りを尽くしていたことでもあり、刺青をしているのではないかと憶
測された。そこに目を付けた作家陣出達朗が小説「遠山の金さん」で、証拠のために悪党に刺青を見
せるという設定で創作したものが1人歩き、映画で、片岡千恵蔵が金四郎の役をやり、最後の場面で、
片肌脱いで啖呵を切ると、悪人どもが畏れ入って罪を認めるというのが当たって、金四郎の桜吹雪の
刺青は定着した。その後、数々のTV時代劇の金さんものは、すべてこれを踏襲、片岡千恵蔵を越え
る役者は出ていない。 





【京島】(きょうじま)1~3丁目                  昭和40年7月1日
 寺島村。明治22年「市制町村制」により須崎村・中ノ郷村・請地村・大畑村・若宮村・隅田村
と合併して寺島村となりその大字、大正12年寺島町大字寺島。昭和7年向島区寺島町。同22年
墨田区寺島町1~8丁目。同40年新住居表示により寺島町4丁目・吾嬬町西1丁目・同4丁目を
あわせた町域を現行の「京島」とした。区の小さな博物館運動により、1丁目に「藍染博物館」「千
社札博物館」がある。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『墨田区史』『墨田の歴史』など。

 京島の由来
 京島という島・村・字はない。 町名をつけるに当たり東の寺だから京島とし「京」の字に
「大きい」「盛ん」の字義があると説明、将来発展するようにとの願いを込めた。明治通りに面し
て1~3丁目があり、中心は・・・京成曳舟駅かなぁ! 寺島村の南端の辺り。この辺りはかつて
は寺島茄子の特産地だった。



■稲荷社
 
 京島1丁目8番2号、曳舟湯の向かいにある小祠。



■豊川稲荷社
 
 京島1丁目22番13号にある小祠。



■曳舟小学校
 
 京島1丁目28番2号にある区立校。昭和9年4月2日「東京市向島曳舟尋常小学校」として開校。
5月26日開校式、この日を開校記念日と定める。同16年勅令148号国民学校令により「東京市
向島曳舟国民学校」と改称。真珠湾攻撃により日米開戦。同18年都制施行により「東京都向島曳舟
国民学校」と改称。敗戦の混乱を経て、同22年東京都墨田区立曳舟小学校となる。昭和29年新校
歌制定。

 校歌
「光よそよげ」 作詞・作曲不詳
  1.光よそよげ明るい窓に
    小鳥よ歌え 鈴懸に
    いつも希望の溢れるところ
    元気で学ぶ吾等こそ
    墨田の誇り曳舟校
  2.桜と鷹に由緒も深く
    優しく強いこの気風
    町も溌剌 力に燃えて
    日本の明日の夢が湧く
    楽しい吾等の曳舟校
  3.この業尽くし この智慧尽くし
    学芸会よ 運動会
    いつも心を一つに繋ぎ
    仲良く励み 伸びて行く
    栄えある母校曳舟校


 同38年鼓笛隊結成。第1回鼓笛隊街頭パレードを実施。開校30周年記念式典。同47年大蔵大
臣、日本銀行総裁より子供郵便貯金優良校表彰。同49年開校40周年記念式典。同59年開校50
周年記念式典。
 平成2年校舎の南側外壁塗装と窓枠アルミサッシ取り替え完了。同3年校舎の北側外壁塗装とアル
ミサッシ取り替えを完了。同4年校舎西側内部改修完了。同5年校舎東側内部改修完了。同6年校庭
舗装。給食室改修。開校60周年記念式典。同8年防球ネット設置。同10年ランチルーム完成。同
13年パソコン教室完成。同16年普通教室にエアコン設置。開校70周年記念式典・祝賀鼓笛パレ
ード実施。同19年校庭芝生化。同20年プール改修。
  



■藍染博物館(墨田区小さな博物館)
 京島1丁目29番1号にある。すみだマイスターである藤澤謙二の卓越した技術や「長板藍染ゆか
た」「藍染のれん」「藍染半纏」といった作品、製作に使用される道具等を見学することができる。
また事前連絡があれば藤澤さんから直接説明を受けることもできる。
 開館は月曜日~金曜日。03-3611-6760



■墨田区曳舟文化センター
 京島1丁目38番11号にある区民会館。本格的な演劇や音楽会、軽運動や展示、各種集会など文
化的交流の場として幅広く利用できる施設だ。
 ホールは582席 楽屋3室。定員200人のリクリエーションホール、会議室2、和室・茶室各
1。申し込みは1年前から。



■曳舟川 廃川埋却
 江戸幕府が、明暦三年(1657)の大火(振袖火事)の後に開発に着手した本所・深川方面の新
市街地へ飲料水を供給する目的で開鑿された水路。成立は万治二年(1659)。「亀有上水」或い
は「本所上水」「小梅上水」とも呼ばれた。水源は埼玉県越谷市の瓦曾根溜井(かわらそねためい)
で、亀有に入ってからは、東側に中居堀を分水し、四つ木付近までは二条の水路が平行して流れてい
た。
 亀有上水の廃止は亨保7年(1722年)で、小梅より南の水路は埋め立てられたが、上流部はそ
のまま用水として残され、「古上水堀」と呼ばれた。廃止の理由は、洪水で堀が埋まってしまうこと
が頻発したこと、本所辺りは堆積地域であり地中に海水が混じっており飲水に不適当であったこと、
また井戸が容易に掘れたことなどである。とはいえ、多くの井戸からは海水が出てきたという。そりゃ
そうだろう。元は海だ。
 上水の廃水後、篠原村(四つ木)から亀有村間の28町(約3km)の水路を利用して、「サッパ
コ」という小舟に人を乗せ、土手の上から長い綱で肩に掛けて引くことが始まり、「曳舟川」と呼ば
れるようになった。帝釈天詣や水戸街道に出る旅人が利用した曳舟川は江戸東郊の風物として人気を
呼び、多くの紀行文や、初代の歌川(安藤)広重の「名所江戸百景」などに情景が描かれている。
 昭和28年キャサリン台風の大洪水で、翌29年から暗渠化。現在は川沿いにあった曳舟川通りを
拡張して曳舟通りとなっている。尚、葛飾区では暗渠部分は「曳舟川親水公園」として利用している。
整備の行き届いた美しい公園に仕上がっている。
 東京スカイツリー(新東京タワー)が完成すると大渋滞する道路になるぞ。



■京成曳舟駅
 京島1丁目45番にある京成押上線の停車場。京成曳舟駅は、京成電鉄初の開業区間押上~江戸川
・柴又間と同時に開業した駅。将来的に高架化する予定。ホームは地上相対式2面2線構造で、上下
ホームを結ぶ通路はない。ホームはやたら狭く、列車が通過する際はちょっと怖い。改札口・出口は
ホームごとに2ヶ所ずつ設けられており、計4ヶ所ある。



■古い川の跡 曲がりくねった道
 京成曳舟駅南の踏切から1丁目・3丁目を通って、愛国橋交番(京島3丁目交番)を経て明治通り
に至る道だ。とにかく短い区間を面白いほどカーブする。真っ直ぐに伸びた直線部が、曳舟川通りか
ら曳舟駅南口前までしかない。後は曲がりくねっている。右へ曲がったと思えば、すぐ左へ曲がると
いう具合で、最後まで右へ曲がり左へ曲がりして、まさに大蛇がのたくっている体(てい)だ。車で
走ると、まるで自動車教習所の練習コースそのまま、絶えず右に左にハンドル回しで忙しい。その分
スペードも出せないが、大きな事故も起きないかもしれないから、人に優しい道かも。それはともか
くとして、これは人が作った道ではない。・・・・というと可笑しないい方になるが、人間の発想で
作れる道ではない。人工的に作れるはずもない。人に設計を任せたらこんな面白い道は作れない。普
通にデザインすれば、最短距離で直線にならざるを得ない。よほど避けられない障害物でもない限り
普通というか、常識的には通常そうする。合理的、効率的だが、味も素っ気もない。この道は人の力
を超えたものが作ったに違いない。
 神のみぞ知るこの道は、人がやってくる以前からあった低湿地だろう。曲がり具合が太古のままか
どうかは判らないが、まあ似たようなものだったに違いない。古い地図には川として描かれている。
墨田区は元々海で、利根川が運ぶ土砂が堆積してできた下町低地だ。水に恵まれ、ために江戸近郊農
村として栄えてきた。



人口密度日本一 京島3丁目(旧吾嬬町西4丁目)
 細い路地に戦前から平屋の木造建築が超過密常態に建ち並び、東京23区でも防災上危険度、人口
密度ナンバーワンで、マスコミでも時々取り上げられる一帯だ。しかし意外や意外、この地域は火事
の発生率が低いのだ。特別な組織がある訳でもなく防火の意識が高いのか、自分の町から火は出さな
いという連帯感と体制が自然に生れているのだろう。密集地だけに確かに人の触れ合いが濃いのだ。
町内の橘銀座通り商店街もそうだ。お隣同士の助け合い精神が無意識に働いて、それが自然に原動力
になり大変活性化に満ちた町が生れている。
 京島地区は、今は六本木ヒルズに生まれ変わった六六(六本木6丁目)地区同様、東京都や墨田区
からその危険性を指摘され、早くから町作りの動きがあった。現在では「京島まちづくりセンター」
の中に住民参加の「まちづくり協議会」が組織されている。従来の町割を壊すことなく、昔の道も生
かして一部を拡幅整備すると同時に、そこに住んでいた人たちが、住みなれた地元に住みたければコ
ミュニティ住宅(仲間住宅)に住んで貰い、京島にふさわしい良好な居住環境を、まちづくりの第1
目標に掲げている。最近では、過密と活性化をマッチさせたまちづくりのモデルケースとして海外で
も知られており、東南アジア諸国やブラジルから都市計画関係者の団体見学があったり、ドイツから
も見学者がある。しかし新東京タワーの出現で、墨田区は再開発の嵐に見舞われ、もう30年もすれ
ば、味気ないビル、マンションの建ち並ぶ町へと変貌するだろう。



■原公園
 京島3丁目44番にある区立園。下町風情あふれるキラキラ橘商店街(橘館通り)の入口、曳舟たから
通り沿いのこの公園は、昭和20年3月10日の愚かなアメリカ軍の非人道的無差別空爆の犠牲者3
64名が仮埋葬されたところだ。
 なお平成元年3月、原公園の改修に際して、遺骨や毛髪が若干出土した。警察の鑑識により、戦後
改葬されたはずの戦没者のものと判明し、慰霊堂へ合祀された。

 
田丸稲荷神社

 公園の中にある小社。

 
地蔵尊と戦災殉難者之霊碑
 
戦後間もなく地元有志により、公園中央にある田丸稲荷神社の横に地蔵尊が建てられた。昭和47
年7月には「戦災殉難者之霊」の石碑が隣接町会と解脱会により建立された。毎年3月10日および
7月4日(お盆月の地蔵様縁日)に供養が行われる。

   一切之大供養(右側)
   完全令成佛(左側)


 新薬師道之碑

 大正6年5月の建碑とある。大きな立派な碑だよ。鷲山実同篆書 柳坡原忠三郎とあるので、原公
園の「原」は人名ということか? 土地の所有者だったのかも知れない。新薬師道というのは曳舟た
から通りのことだろうか、薬師が木下川薬師なら方向がちょっと違う気がするし、橘館通りなら薬師
道に合流するが、しかし新道という風情ではない。



■橘館通り(キラキラ橘銀座商店街)
 曳舟たから通り京島3丁目44番の原公園の西角の交差点から明治通りまでの商店街。橘館とは、
3丁目20番地のスーパーマーケットセイフー京島店のところにあった映画館。昭和6年に開場し、
同36年に火災に遭い全焼、再建されなかった。
駅前系ではない商店街ながら、かなりの隆盛を誇る
商店街だ。カラータイル舗装で、明るさと古さを兼ね備えている。食料品関係の店は特に強く、買い
食いしながら歩いている散歩師もいる。墨田区北部の数ある商店街の中で、要チェックの商店街だ。
「下町」を十二分に堪能できるので外部からの探訪者も多い、イチオシの商店街だ。



■第四吾嬬小学校
 
 京島3丁目64番9号にある区立校。大正15年設立、昭和2年東京府南葛飾郡第四吾嬬小学校と
して開校し、平成7年創立80年を迎え、卒業生は13207人、各界で活躍しているらしい。沿革
については図書館巡りをしたが、他区に比べて著しく資料が少なく、委細不明だ。図書館自体お粗末
で、中央図書館の機能を持つあずま図書館でさえ、他区のそれに比べようがないほど低レベルだ。休
日というのに少年少女の姿は見られず、閲覧机は何時行っても確保できる。もっと勉強しろ!

 校歌「くろがねの」 歌詞・第四吾嬬小学校PTA選定  作曲・渡辺浦人
  1.鉄
(くろがね)の甍に映えて
    東の空 朝日は昇る
    逞しくサイレン響き
    空遠く雲は流れる
    いざ友よ 肩ならべ
    みんなで歌おう
    第四吾嬬、吾嬬小学校
  2.若鷹は高くはばたき
    吾嬬の森 力みなぎる
    春秋を重ねてここに
    目も遥か 誇れこの町
    いざ友よ 手を繋ぎ
    みんなで作ろう
    みんなの町を 吾嬬の町を
  3.みな集うこの学び舎に
    教えの風 暖かく吹き
    花開く明日を望んで
    勤しむよ 日ごと日ごとを
    いざ友よ 眉あげて
    みんなで歌おう
    第四吾嬬 吾嬬小学校






【錦糸】(きんし)1~4丁目                    昭和42年5月1日
 播磨竜野藩脇坂家中屋敷・越前鞠山藩下屋敷・越前黒川藩柳沢家下屋敷・旗本武家地・亀戸村・
柳島村・八右衛門新田・小梅代地町。明治5年武家地を本所錦糸町としたが、明治期に町に商家は
なく大半を総武鉄道が所有していた。同22年本所区に所属。同24年亀戸村の飛地を併合。同2
7年総武線鉄道本所駅開業。同44年本所の冠称を外して錦糸町。大正4年駅名も錦糸町に改称。
昭和5年一部を江東区1・4丁目丁目に譲り、同7年大平町1~2丁目・柳島などの一部を加えて
錦糸町1~4丁目とした。同22年墨田区所属。同42年新住居表示により現行の「錦糸」となっ
た。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『墨田区史』『墨田の歴史』など。

 錦糸町の由来
 
江戸時代南割下水の大横川から以東を通称「錦糸堀」といったが、江戸末期には「小梅代地町、
南割下水錦糸堀」と呼ばれていた。 この用水堀こそが落語などでお馴染みの本所七不思議の一つ
「おいてけ堀」で、関東大震災まで錦糸町駅の北側に東西に長い長方形の溜池として存在した。震
災焦土の処理のため埋め立てられたが、駅北口が開かれたのは昭和56年になってからで、それま
では南口だけだった。町名はこの錦糸堀からついたが、錦糸の由来は判らない。「岸堀」が転訛し
たという説と、朝日夕日にきらめく水面の様が「錦糸」のようだからという説がある。江戸末期か
ら明治にかけて活躍した河竹黙阿弥の作になる歌舞伎の「孝女お竹」(初演慶応元年)の、

   「あれぇ、たれぞ来てくだされ」~~呼べど叫べど街中を、離れし在の錦糸堀、更け
   行く庭にこおろぎの、啼く音も細き秋の末、野寺の鐘や小夜砧、いとど哀を添えにけ
   る(黙阿弥全集より)


 この芝居は「錦糸堀」を舞台にしたもので、この「錦糸堀」は江戸時代の文献に登場する「錦糸
堀」の唯一のものなのだ。つまり河竹黙阿弥こそ「錦糸町の祖」ということになる。
だから錦糸は
錦糸堀だ!
 なお「おいてけ堀」は江東区亀戸1丁目の第三亀戸中学校のところにあった用水池だともいう。
また江東橋4丁目17番に錦糸堀公園があって、おいてけ堀だと説明し、カッパの像がある。一体
全体どうなってんでい! 



■錦糸町駅
 錦糸1丁目2番にあるJR総武本線・総武線、東京メトロ半蔵門線の停車場。明治27年12月、
同年7月に開業済みだった総武鉄道市川~佐倉間を延長する形で開業した。当時の駅名は「本所駅」
といい、同30年に現在名に代えた。同37年4月5日に両国橋駅(現在の両国駅)へ再延伸するま
では起点駅だった。
 昭和47年7月15日には東京~錦糸町間の地下線が開業し、錦糸町駅は東京からの快速線と御茶
ノ水からの緩行線の合流駅となった。これと同時に総武本線の起点は東京駅親ホームに移り、御茶ノ
水~錦糸町間は支線に格下げされた。その後、平成15年3月15日には半蔵門線が乗り入れて現在
に至っている。楽天地のところが汽車製造工場だった。
 JRのホームは高架島式2面4線。快速と各駅停車が別々のホームに発着しており、改札のある通
路のほかにも千葉寄りに乗換専用の連絡通路が設けられている。ホームと改札階を結ぶエレベーター
は、快速ホーム、各駅停車ホームともに設置済み。
 半蔵門線のホームは島式1面2線構造で、地下3階にある。ホームと改札階を結ぶエレベーターは
完備されている。
 JRの改札口・出口は、南口と北口の2ヶ所。東京メトロの改札は地下1階にある1ヶ所のみで、出
口は1~4の4ヶ所である。地上へ上がるエレベーターは、1番出口と4番出口に併設されている。
半蔵門線とJRの駅は完全につながっていないため、大雨のときなどには傘が必要となる。

 伊藤左千夫の歌碑
 碑錦糸町駅南側広場(江東橋3丁目14番)にある。

   牛飼いが歌よむ時に世の中の新しき歌大いに起こる

 左千夫は矢切の渡しを著名にした『野菊の墓』の作家だが、錦糸町駅周辺がまだ「鉄道ヶ原」と呼
ばれて人気のない寂しい場所だったころ、この辺りで「牛乳改舎・茅の舎」という牧場を開き、搾乳
業を営んでいた。

 彫刻「エコー」
 北口の交通広場にあるアメリカ人ローレン・マドソンの作品。この作品が日本での初めての作品で
あり、作成モチーフは音楽と美術の相互関係に着目して、「ヘ音記号」を2つ、片方を逆さにした組
み合わせで、相互に繋がりと連結性を持たせ、2つの柱に続く5本のケーブルは五線符を表す。また
タイトルは作品の構成する2つの記号が互いに反響しあっているイメージで「エコー」と名づけられ
た。



■すみだトリフォニーホール

 錦糸1丁目2番3号にある。「新日本フィルハーモニー交響楽団」(音楽監督クリスティアン・ア
ルシンク桂冠名誉指揮者:小澤征爾)が、墨田区とのフランチャイズ提携に基づき、すみだトリフォ
ニーホールを拠点として演奏活動を行っている。オーケストラの公演活動をこのホールで行うことは
勿論、総てのリハーサルも同じ舞台で行い、一貫した音作りを目指している。全国初の本格的なフラ
ンチャイズオーケストラは、すみだトリフォニーホールの顔となっている。ホールは、墨田区におけ
る中核的な文化施設としてまた東京東部地域における芸術文化活動の拠点として誕生した。
 03-5608-5400
 ホールは、オーケストラなどの音楽演奏を主目的にした「大ホール」と、区民自らの発表鑑賞等に
利用できる「小ホール」がある。さらに少人数からアンサンブルの練習にも応られる3室の練習室、
大・小ホール合わせて17室の楽屋など、個性的で先進的なホールだ。


 パイプオルガン
 すみだトリフォニーホールのオルガンは、18世紀のドイツ・バロック時代のオルガンの特徴を基
本にしたタイプ。製作したのは、ドイツのザクセン地方の古都ドレスデンに工場を持つイェームリッ
ヒ社。同社は、オルガン音楽の最大の巨匠とされる、あのヨハン・セバスチャン・バッハと関係が深
かったオルガン製作の伝統を受け継いでおり、その特色がここに生かされている。このオルガンの規
模は、4735本のパイプが、66個のストップに纏められている。ストップとは、音色の可能性を
引き出す装置のことで、様々な音を発するパイプ群を、同じ系列の音色毎に何十本かづつ集めたもの。
ストップの数が増えれば、それだけ音色の組み合わせの可能性が大きくなり、表現力が豊かになる。
演奏台には手で操作する手鍵盤が3段と、足で扱う足鍵盤(ペダル)が1段備えられている。またす
みだトリフォニーホールは、新日本フィルハーモニー交響楽団の本拠地になっているから、このオル
ガンは、オルガン独自の力を充分発揮すると共に、オーケストラの響きとも良く調和するように設計
されていることが、大事な特色の一つだ。



■津軽稲荷神社
 
 錦糸1丁目6番12号にある小社。津軽藩下屋敷内にあったことに由来する。この一帯はその昔、
津軽為信の時代に1万坪の下屋敷があったという。明治以降は管理ままならず、明治43年の大水害
後に地元町会に払い下げられた。関東大震災と愚かなアメリカ軍の空爆の2度焼失したものの、昭和
35年に拝殿・社務所・会館、同44年に鳥居が再建され復興した。
 初午祭は、毎年2月の初午の日、平日の場合は第2日曜に催されている。拝殿で修祓式が執り行わ
れ、神社を管理する錦糸1丁目町会長や総代代表らが玉ぐしを捧げ、近くにある牛島神社の宮司の音
頭で乾杯する。神社は錦糸町駅前に程近いビル街の一角にあり、献奏では「あどはだり」「鯵ケ沢甚
句」「十三の砂山」など津軽三味線の音が心地よく響く。

   津軽稲荷神社由来
   津軽稲荷神社は青森県弘前城主津軽四郎為信十万石の下屋敷にて一万坪は明治四十三年の
   大水害と共に拂下られ太平町一丁目町会の所有となる。
   昭和七年町名変更の際錦糸一丁目町会の守護神となり祭神は伏見稲荷神社の分神にて町民
   の信仰厚く大正十二年関東大震災及昭和二十年戦災の為焼失昭和三十五年拝殿及社務所会
   館再建落成致しました。又弁財天は江ノ島弁財天の分身で鳥居は明治百年を記念して昭和
   四十四年再建されました。町民一同之信仰の的とされて居ります。尚津軽華子様常陸宮様
   との御結婚之際当町より津軽家に御祝品贈り御礼として礼状及記念品を頂戴致しましたの
   で神社内に保存してあります。
   昭和五十八年                               明友会



★ とり喜

 錦糸1丁目8番13号にある『ミシュランガイド東京2010』から3年連続で星1つを取ってい
る焼鳥屋。店内は高級レストランの佇まい。欅の一枚板の12席のカウンターの他に8名まで座れる
堀炬燵式の小上がり。坂井康人が仕入れるのは鳥取の「大山地鶏」や「東京軍鶏」などの質の良い国
産鶏だ。丁寧に串を打ち、振り塩はやや控えめ、過度に炭の香りをつけず、火を通し過ぎない焼き加
減が特色。あっさりめのタレが素材の味を引き立てる。焼鳥8本と野菜4本のコースが人気。単品で
注文する方が出てくるのは早く、丸ハツ(心臓)や鶏刺身は予約が必要。一品料理も充実しており、
濃厚な味わいの自家製胡麻豆腐は定番。締めは鶏だしが魅力の茶漬け。予約は10時から16時まで。
 定休日は、日祝、ゴールデンウィーク、8月中旬、年末年始
 17時半~22時(土曜は17時から) 03‐3622‐6202 



■錦糸小学校

 錦糸1丁目9番12号にある区立校。大正7年4月20日太平町1丁目50番地(横川1丁目)に
「東京市太平尋常小学校」として開校。同12年関東大震災で校舎全焼。翌年仮校舎が建つ。
 昭和3年仮校舎を移す(太平1丁目)同4年現在地に鉄筋コンクリート造り3階建て新校舎落成。
同8年創立15周年記念式典。校歌・校旗制定。

 同16年勅令第148号国民学校令により「東京府東京市錦糸国民学校」と改称。12月真珠湾奇
襲により日米開戦。同18年都制施行により「東京都錦糸国民学校」と改称。同20年愚かなアメリ
カ軍の非人道的無差別空爆により本所は焼野ヶ原となり校舎も全焼。
 同21年旧茅場国民学校跡を仮校舎として授業再開。同22年国民学校が廃止となり、アメリカの
強制による学校教育法の施行により「東京都墨田区立錦糸小学校」と改称。同28年創立35周年記
念式典。同38年やっとプール完成。交通禍で子供の遊び場がなくなったため日曜日の校庭開放始ま
る。同39年集団登校開始。同43年水泳教育でNHKに出演。創立50周年記念式典。同46年旧
校舎解体。同48年建替え新校舎落成。創立55周年記念式典。同53年あわの自然学園開設。移動
教室始まる。創立60周年記念式典。同63年創立60周年記念式典。
 平成5年錦糸グラウンドにて創立75周年記念大運動会催行。同記念式典。9年食堂完成。同10
年創立80周年記念式典・学芸会。同13年コンピュータルーム開設。校庭全面改修。同14年野外
体験活動始まる。完全週5日制開始。同15年開校85周年を記念して錦糸グランドで大運動会・記
念式典・音楽会・展覧会。同20年創立90周年記念式典・記念学芸会。。



■乾燥木材工芸資料館
(墨田区小さな博物館)

 錦糸2丁目9番11号にある。指物(釘などを使わずに細かく板を指し合わせて組み立てた机、タ
ンス等の総称)技術を駆使して、木の根などの乾燥した木材で作られた様々な作品が並ぶ。館内には
「木の暖かみ、手づくりの良さを多くの人に知ってほしい」と民芸品やオブジェなどが展示されてい
る。お子さん向けには木の玩具やパズルもある。「木製品作りを体験させることで、木の素晴らしさ
物を大切にする心を子供たちに伝えたい」と鈴木康之館長の弁。開館は、月曜日から金曜日までの午
前9時から午後5時まで。 03-3625-2401



■ルーペハウス

 錦糸3丁目9番6号にあるルーペ専門店。ルーペとは拡大鏡のことだ。ルーペといっても馬鹿にな
らない種類がある。顕微鏡もルーペの1つだ。取り扱い品揃えは、ヘッドルーペ、スタンドルーペ、
置き型ルーペ、高倍率ルーペ、ハンドルーペ、携帯用ルーペ、ペンダントルーペ、遠近両用望遠鏡な
どなど。インターネットでも販売しているし、送料は一律500円。5000円以上のお買い上げで
送料は無料だとか。てもまぁルーペなんてあんまし買わねえわなぁ。
 TEL03‐3626‐1531



■稲荷社

 錦糸4丁目1番のJR錦糸町変電所内にある小祠。



■錦糸公園
 
錦糸4丁目15番、錦糸町駅北口から歩いて1分の、小さな子供から大人までが楽しめる多目的運
動公園で、児童公園・健康遊具広場・噴水広場・野球場・テニスコート・ラジオ体操広場などがある。
毎月一回フリーマーケットが催される他、毎年10月の第一土・日曜日に区民あげてのお祭り「すみ
だまつり」のメイン会場にもなっており、多くの区民が利用出来る楽しい公園でもある。昭和3年の
開園で、区内では安田公園に次いで古い。



■千種稲荷神社
 錦糸4丁目15番1号にある。錦糸公園の駅側入口の右側に鎮座している。この辺りが柳島村と呼
ばれていた4代将軍家綱の時代から守護神として祀られていた稲荷。現在の錦糸公園は、武家地や幕
府の材木蔵だったが、明治になってから陸軍の倉庫地となった。その時稲荷社取り払ったところ火災
が頻発した。そこで再建したら不思議と火災が起こらなくなり、関東大震災でも被害を受けることが
なかった。昭和3年錦糸公園が開園したが、稲荷は公園を造園中に行方不明になってしまったが、また
火災が多発するようになった。そこで何とか探し出して改めて祀ったところ火災はなくなり、昭和2
0年アメリカ軍の無差別東京大空襲でも戦火を免れた。なお千種を冠するのは昭和30年から管理が
千種講に委ねられたことによる。





【江東橋(こうとうばし)1~5丁目                 昭和42年5月1日
 亀戸村・武家地・深川北松代町・柳原町・茅場町など。昭和5年茅場町3丁目・松代町1~3丁
目の全部と柳原1~3丁目・錦糸町の各一部をあわせた町域を「江東橋」とし、同42年新住居表
示を実施して現行の「江東橋」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『墨田区史』『墨田の歴史』など。

 
江東橋の由来
 
町名は明治31年に架けられた大横川の橋名による。 当時江東区はなかったので「江戸の東」
「墨江の東」の意だ。橋は長さ16間×幅3間の木橋だった。現在の橋は、大正15年震災復興事
業として架け替えた長さ38m×幅27mの鋼鈑桁橋を、平成7年に長さ20m×幅35mのラー
メン橋台付き鋼鈑桁橋に改めた。



■伏見江一稲荷神社
 江東橋1丁目3番6号にある小社。



■ブレーキ博物館(墨田区小さな博物館)
 江東橋1丁目5番5号にある。ブレーキの歴史、構造、種類などをパネル展示で知ることができる
ほか、普段はあまり目にすることができない新幹線やF1カーなどに使われているブレーキまで見る
ことができる。また乗車の疑似体験ができるコーナーもあるなど、まさに楽しみながらブレーキの仕
組み、役割、大切さを学べる博物館になっている。事前に連絡をすれば、石橋秀郎館長から詳しい説
明を受けることもできる。開館は、祝祭日を除く月曜日から土曜日の午前10時から午後5時まで。
臨時に休館することあり。前もって電話をしておくのがベター。 03-3632-6931



■両国高等学校
 
 江東橋1丁目7番2号にある都立高。明治34年京橋区にあった府立一中から独立した府立第三中
学校、翌年現在地に移転。戦後都立第三高校。昭和25年創立50周年を機に都立両国高校と改称。
平成13年創立100周年。明治期には区内唯一の中学校だった。芥川竜之介は幼育社(両国小学校
の最前身)→ 府立三中 → ー高 → 東大と進んでおり、その後小梅町の堀辰雄も三中→一高のコース
を辿っている。

 校歌「明暮の御教えに」 作詞・吉丸一昌教諭  作曲・石原重雄教諭
    明暮の御教えに
    文の山分けて入り
    朝夕の勤しみに
    学びの海 漕ぎて行く
    匂い豊けき文花の栄え
    かかりて吾等が双肩に在り
    山は裂け 海原はあせなんも
    よしや我が志 動かめや
    節操やも変わるべき
    いざや いざや 
    道の為に 国の為に
    勉めよ 我が友 
    いざや学べ いざや励め 我が友


 
卒業式の歌  作詞・吉丸一昌  作曲・石原重雄
  1.祝へ 祝へ いざ諸共に
    謡いて 祝へや 今日の日を
    文の林に入りしより
    はや幾年を夢の間に
    行くか益荒夫 業を得て
    翳す桂の玉の枝
    折りて来ませ久方の
    雲井にしるき名をあげて
  2.情け嬉しき言の葉や
    行く手の望み火と燃ゆる
    光を仰ぎさして行く
    空の彼方
(あなた)に別るとも
    恵みを受けし師と君と
    親しの友を忘れめや
  3.実にやかたみに西の空
    東の空を隔つとも
    心一つの友垣は
    千歳をふとも変らじな
    祝へ 祝へ いざ諸共に
    謡いて祝へや今日の日を


 この歌は1~3番の歌ではなく、1の部分の歌詞を在校生が歌い、続いて2の部分の歌詞を卒業生
が歌う。3の部分の歌詞は一緒に歌うのだが。同じメロディを繰り返す訳ではなく。1~3で1つの
歌になっているのだ。卒業式の歌があるというのも摩訶不思議だわいな。

 
芥川龍之介文学碑

 両国育ちの芥川は府立三中(現両国高校)出身で正門を入った校内に文学碑がある。両国高校は錦
糸町にあり、大横川をはさんで鬼平の住居跡、勝海舟の寓居跡のすぐ向かい側にある。

   もし自分に「東京」のにおいを問う人があるならば、自分は大川の水のにおいと答えるの
   になんの躊躇もしないであろう。ひとりにおいのみではない。大川の水の色、大川の水の
   ひびきは、我が愛する「東京」の色であり、声でなければならない。自分は大川あるがゆ
   えに、「東京」を愛し、「東京」あるがゆえに、生活を愛するのである。
                                       大川の水

 国産燐寸(マッチ)発祥の地
 体育館の裏、フェンスの内側に「国産マッチ発祥の地」と刻んだ黒御影石の記念碑が建っている。
碑には当時の新燧社のマッチ箱ラベルも描かれているが、碑文も建立年月日も記されてない。
 石川県金沢出身の清水誠は、フランス留学から帰国後、明治9年にこの地本所柳原に「新燧社」を
設立、本格的にマッチの製造を始めた。2年後には早くも我が国始めての輸出が行われ、その後明治
から昭和初期にかけてマッチの輸出は黄金時代を迎え、太平洋戦争前まで続いた。戦後は、広告マッ
チが流行し生産量が拡大していったが、昭和50年代より使い捨てライターが急速に普及し、マッチ
の生産量も激減した。マッチを擦れない若者も多く、薪炭、練炭、炭団などとともに20世紀の遺物
になりつつある。第一火を熾(おこ)すということすら出来ないということは、サバイバルに生き残
れないということだ。
 なお「国産マッチの創始者清水誠の頌」という石碑が亀戸天神の境内にある。



■竪川親水公園

 江東橋2丁目1番にある区立公園。まだ未完成の公園だが、大横川合流点から横十間川まで890mが公
園になる。

 新辻橋~牡丹橋
 グランドゴルフ場やゲートボール場にテニスコートがある。利用はすべて無料で受付は当日公園内
の管理事務所で先着順になっている。申込時間:9:10~16:00 利用時間9:30~17:00 定休日:
年末年始  問い合わせ:道路公園課工務担当 電話:5608-6291

 四之橋~松本橋
 バスケットボードがあればストリートバスケットでも似合いそうなコンクリート広場とスカッシュ
ができる広場がある。近くには区の弓道場もある。



★よこやま

 江東橋2丁目7番10号にある『ミシュランガイド東京2009』から4年連続で星1つを取った
天ぷら屋。店主の横山忠志は京都の高級天ぷら店で5年間修業した後、その東京店でも長年に亘り経
験を積んだ。昭和62年に独立して錦糸町に開業した後、現在地に移転した。簡素な店内はカウンタ
ーの10席のみ。夫婦で営む家庭的な雰囲気の店。
 17時半~22時 水日祝・8月中旬・年末年始が定休日 03‐3631‐3927、



■鎮守稲荷大明神
 江東橋2丁目18番7号にある小祠。



■田螺稲荷神社
 江東橋3丁目3番9号にある小社。江戸時代の地図にも載っている由緒ある稲荷で、元の名は「田
中稲荷」。火事で付近が燃えた時、このお稲荷さんの壁に田螺がびっしり付いていて延焼を逃れたと
いうことから「防火」の神様として崇められている。首都高の近くで、付近は夜の繁華街。ビルのス
キマにひっそりとある。田螺が一杯だったというから、江戸時代はこの辺りは湿地帯だったんだね。
鬼平も幼年時に参拝したかもしれないぞ。



江東観世音 五徳山江東寺
 江東橋3丁目6番5号にある小寺。堂宇は鉄筋コンクリート造りで、庫裏は4階建てのビルディン
グ。昭和15年群馬県伊香保の板東十六番水沢観世音別院として建立。本尊は千手観音菩薩で、家内
安全、交通安全、厄除け、六三除け、虫封、方災除けなど。
 他に境内には清昌稲荷大神、出世弁財天、水洗い観音、お地蔵様、馬頭観音等が祀ってある。



■すみだ産業会館サンライズホール
 江東橋3丁目9番10号にある。昔は都電の錦糸町車庫だった。



■伊藤左千夫牧舎・住居跡
 歌碑
 江東橋3丁目14番、JR錦糸町駅南口広場の一帯にあった。明治から大正時代に活躍した歌人伊
藤左千夫は、正岡子規の実質的な後継者として優れた短歌と歌論を発表し、小説家としては「野菊の
墓」の作者としてその名を残している。左千夫は、明治22年、26歳のとき、現在の墨田区江東橋
に牧舎と住居を建てて搾乳業を営んだ。JR錦糸町駅南口の広場には、伊藤左千夫牧舎兼住居跡とし
て、

   よき日には庭にゆさぶり雨の日は家とよもして児等が遊ぶも

 の歌碑が建っている。搾乳業に専念する傍ら、歌に魅入られた左千夫は代表作となる

   牛飼が歌よむ時に世の中のあたらしき歌おほいに起る

 を詠み、以後牧場に関する多くの歌を詠んでいる。彼の主宰する歌誌「馬酔木」創刊時の発行所、
アララギ派の機関誌「アララギ」の発行所となったのもこの牧場だった。



■錦糸町ステーションビル・テルミナ
 江東橋3丁目14番5号、錦糸町駅南口にある地下1階から6階の商業施設の駅ビル。北口の駅ビ
ルは「テルミナⅡ」という。雑居ビルで、テナントビルといえば綺麗か。



■招福稲荷神社
 江東橋4丁目7番10号にある小社。



■本所七不思議の一つ「おいてけ堀」の河童の像
 江東橋4丁目17番1号の錦糸堀公園にある。
江戸時代は錦糸町辺りは湿地帯で、釣りをする人が
多かったので、この逸話が生まれた。おいてけ堀は「錦糸堀」のことらしく、下級武士や町人が釣り
を楽しんだとか。ここの公園の周辺は現在は韓国バー、フィリピンバー、ロシア・ルーマニアショー
パブに囲まれ、まさに「日本」はおいてけ掘。河童ちゃんが出てきても面くらうだろうさ。




■都立墨東病院
 江東橋4丁目23番15号にある。昭和36年本所病院と墨田病院を統合し、本所病院の跡地に診
療科13科・400病床の病院を設立。同47年100病床増床。同50年ICU・CCU病棟開設
(7床)。同53年2月CTスキャナー導入。11月精神科病棟(28床)を開設し、精神科救急事
業実施。同56年東京都総合実施計画で診療棟改築を発表。同57年1月伝染病棟一時休止。2月第
一期工事に伴う病棟移動(549→388床へ変更)。12月長期計画で改築計画発表。同58年診
療棟改築工事着工。同60年8月~10月診療棟改築工事竣工。11月診療棟オープン。救命救急セ
ンター(20床)開設。病棟再改修工事着工。同62年病棟再改修工事竣工。伝染病棟再開(42床)。
 平成5年墨東病院建設検討委員会により新病棟改築の基本構想が決まる。同7年墨東病院病棟建設
懇談会報告書で新病棟改築の具体的方向性が定まる。同8年病棟改築工事着工。同10年財団法人日
本医新病棟オープン(医療法定床764床)築地産院を統合して、総合周産期母子医療センター開設
(NICU12床、GCU33床、M‐FICU9床)。循環器科(20床)、リハビリテーション
科(20床)を新設。同11年病棟改築工事竣工。救命救急センター(20→24床)、手術室(7
→10室)の改修工事完了。救急診療科を新設し、「東京ER・墨東」を開設。同16年女性専用外
来開設。同17年電子カルテシステム稼動開始。同20年救急の妊婦の受け入れを拒絶したために妊
婦が死亡し世の批判に曝される。元々トラブルの多い病院で、

 東京ER・墨東
   ER=いつでも誰でも様々な症状に対応『東京ER・墨東』は、これまでにあった救命救
   急センターと、今回新設された救急診療科とによって構成されます。救急診療科は、各科
   の当直業務からは独立して機能し、いわゆる一次、二次救急患者の初療に対応する部門で
   あり、救命救急センターは、これまで通り、三次救急患者を中心とした重傷患者を対象と
   します。また、救命救急センターはこれまでと同様、一次、二次救急のバックアップを行
   い、墨東病院として、軽症から重症まで、全ての救急患者に対応できるような体制をとっ
   ています。


 ●
妊婦たらいまわし死亡事件
 平成20年10月4日脳内出血を起こした出産間近の妊婦(36)が8つの医療機関(東大病院・
墨東病院・東京慈恵会医大病院・東京慈恵会医大青戸病院・日赤医療センター・日大板橋病院、慶応
大病院、順天堂医院)に受け入れを断られ、その後に死亡した問題は、産科医不足にさらされる医療
現場の危うい実態も浮き彫りにした。地元医院からの最初の要請を断った墨田区の都立墨東病院は、

   複数の当直医をどうしても手当てできず、原則として救急搬送は断っていた。みんなギリ
   ギリのところでやっている


 と訴えた。都によると、墨東病院は妊産婦の救命救急に24時間対応する「総合周産期母子医療セ
ンター」として都の指定を受けており、周産期医療を支える中核病院の一つ。都の基準では「複数の
医師の確保が望ましい」とされるが、医師の退職で2人の当直体制が維持できず、7月から休日には
1人体制としていた。同病院の常勤産科医は現在4人。都が提示する定数の9人を大きく下回ってい
る。同病院周産期センターの林瑞成産科部長は、

   産科医を簡単に増やせる状況ではなく、産科救急を目指す人はもっと少ない。その中で、
   どうしたら安全が維持できるか、関係機関と話し合っている


 と話す。医師確保のため大学医局への働きかけや待遇改善、女性医師の短時間雇用など、

   打てる手は打っている

 と病院経営本部はいう。都内の産科医は平成8年の1573人から、同18年には1411人に減
少している。都の周産期医療協議会による同20年3月の報告では「予想以上の減少傾向」と指摘。

   女性医師自身の出産や育児のための離職、医療訴訟の多発などで新たな産科希望の医師
   の減少


 などの要因があると分析している。この問題で、最初に受け入れを断った都立墨東病院だけが、都内
9ヶ所ある総合周産期母子医療センターの内、最低2人とされている当直態勢を確保できていなかっ
。他の8ヶ所の産婦人科医の待機体制は、杏林大学病院(2~3人と呼出1人)・東京女子医大病
院(2~3人)・昭和大学病院(2人)・愛育病院(2人と呼出1人)・東邦大学大森病院(3~4
人)・日大板橋病院(4人と呼出1人)・帝京大学病院(2人と呼出1人)・日赤医療センター(3
人)と発表している。

 
桝添要一厚生労働大臣VS石原慎太郎東京都知事
 事件の発覚した10月24日舛添厚労相が「東京都に任せられない」といえば、石原都知事は「医
者が足りないのは国の責任」と反発。妊婦が8病院に受け入れを断られて死亡した問題で、大臣と知
事が責任のなすりつけ合いを演じた。舛添厚労相は閣議後の会見で、「週末に1人しか当直医がいな
くて総合周産期母子医療センターといえるのか」と批判。「事故の情報も都から上がってこない。と
てもじゃないけど任せられない」と声を張り上げた。
 これに対し、石原都知事は定例会見で、年金問題への舛添厚労相の対応を踏まえて「あの人は大見
えきったつもりでいつも空振りする」とし、「医師不足にしたのは誰だ。東京に任せられないじゃな
く、国に任せられない。厚労省の医療行政が間違って、こういう体たらくになった」といい返した。
どっちでもいいが2人とももっとしっかりしろい!




■LIVIN前の和時計

 江東橋4丁目27番14号にある。錦糸町が服部セイコーの「城下町」だった昭和36年に服部セ
イコーが和時計を寄贈して、この地に設置した。通行の邪魔にならないように台に乗せている。この
町がかつては「汗水たらして働く職人さん」の活気ある町だったことを印す記念碑だ。 LIVIN
とは西友の名前隠しで、西武色を薄めよう魂胆だ。堤一族は異常だったからねえ。またここはかつて
は錦糸町の中心地で、本所映画、江東劇場、名画座、リッツ、キンゲキ、めばえ座、江東東映などの
映画館が建ち並んでいた。



■日本福音ルーテルパウロ教会

 江東橋5丁目3番1号にある小祠。
 



■御嶽神社
 江東橋5丁目8番18号にある小祠。



■屋敷稲荷
 江東橋5丁目13番1号にある小祠。



  【ころっころっの柴犬】
とっても元気な柴犬のワンちゃん
かわいいですよ。ここ掘れワンワン。
        WOOROMWEB  
   サントリー ウィスキー
 酒屋では手に入らない限定商品や
 レアもの秘蔵モルトがありますぞ 
 意外にスゴイんです。
          サントリー株式会社





【墨田】(すみだ)1~5丁目                     昭和40年3月1日
 墨田村→須田村→隅田村。南北朝の頃に見える須田川(隅田川)の左岸の地名。貞和二年(13
46=正平元年)九月八日付「鎌倉府執事奉書」に「江戸次郎太郎重通申す。武蔵国石浜・墨田波
・鳥越三ヶ村の事」の記述が初出。江戸時代は須田村、天保の頃から隅田(すだ)に書き換え、明
治11年「郡区町村編制法」により南葛飾郡に所属。同22年「市制町村制」により隅田村・寺島
村・南綾瀬村に分かれてそれぞれの大字。大正3年隅田村の一部を本田村に編入。同12年隅田・
寺島両村が、昭和3年南綾瀬村が町制移行。同7年隅田町隅田は向島隅田町1~4丁目となり、本
田村隅田は若宮町の一部となる。また寺島町隅田は寺島7丁目、南綾瀬町隅田は葛飾区堀切の一部
となった。同22年墨田区所属、向島隅田町は新住居表示を実施し同39年堤通2~3丁目を割き、
同40年一部を東向島5丁目・八広6丁目に譲り、同時に隅田町の大部分に寺島町3・7丁目・吾
嬬町西9丁目の各一部をあわせた町域を現行の「墨田」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『墨田区史』『墨田の歴史』など。

 
墨田の由来
 
墨田区の墨田は一応造語だが、地名の墨田・隅田の由来は判らない。隅田は正しくは「すだ」で、
州田・砂田・須田から来ている。「すみだ」と発音するようになったのは、関西系の人々がやって
きてからで、雰囲気が和歌山の「角田川」に似ることで名づけられたとか。向島区隅田町は「すだ
ちょう」だった。とにかく遠い昔においてはマンモスを追って関東地方への人口流入はあったが、
その後は黒潮に乗って相模や安房に辿り着いた人々が北上したようだ。潮岬→館山→木更津→江戸
というのは自然の移動コースだ。江戸の古い地名には和歌山県と共通するものが幾つかある。八代
将軍吉宗が紀州人であったのも偶然ではないのかも知れない。おそらく東京は地殻的に浮き沈みが
激しく、人間が住みにくい土地柄だったのだろう。だから地名なども付いていないところが多かっ
たに違いない。そこへ中央政府から派遣されてきた役人・旅僧・渡り(移民)などが故郷を懐かし
んで、景色の似た場所に関西系の名前をつけたのではなかったか。

 「すみだ」をインドネシア・マオリ語で解すると「ツ・ミ・タ」、「襲ってくる(氾濫する)水
の帯(のような川)」。または「ツム・タ」で「湿地を襲う(川)」だという。なるほど理には適っ
ている。



■岐雲園跡
 墨田1丁目4番(寺島七丁目二百七番地)にあって、広さ約500坪(1650㎡)、隅田川の水
を引き入れた汐入の池のある別荘風の構えで、岩瀬忠震(鴎所)が自分の所有する画巻の筆者、明の
魯岐雲に因んで名づけたもの。
 彼は職を免ぜられた後、憂憤の退隠生活をここ岐雲園で送り、再び世に出ることもなく、風雅な生
活を送った。「鴎所」の号も、隅田川にとぶ都鳥に因んでつけたといいます。この地にあること2年
にして、44歳の若さで生涯を閉じました。忠震没後、同僚でもあった永井介堂(尚志)も晩年を岐
雲園で送り、ここで没している。また幸田露伴の父成延、長兄成常もここに住み、露伴自身も一時期
住んでいた。そして次兄の郡司成忠が北千島探検に出発の前夜、明治26年3月19日別離の宴を催
したのも、ここ岐雲園だった。



■宝守稲荷社
 墨田1丁目16番19号の駐車場の角にある小祠。



■下稲荷神社
 墨田2丁目3番8号にある小社。創建年代は不詳ですが、隅田村にあった稲荷社二社の内の一社。
新編武蔵風土記稿に

   稲荷社二宇。
   一は三才稲荷、一は下稲荷と称す。ともに同寺(多聞寺)の持


 と記載されている。三才稲荷は荒川放水路の開鑿で隅田川神社に遷したという。




月光山薬王院
正福寺
 墨田2丁目6番20号にある新義真言宗智山派の寺。こぶし児童遊園の前だ。創建は慶長七年(1
602)宥盛法印が開山で、本尊は薬師如来だ。寛文7年(1667)銘の手洗水盤、大師堂など文
化財・史跡が多く残されてる。上流から土砂とともに押し流されてきたものかも知れない。荒川辺八
十八ヶ所霊場66番札所。荒綾八十八ヶ所霊場66番札所。「新編武蔵風土記稿」に、

   正福寺
   寺嶋村蓮華寺末、月光山薬王院と号す。慶長七年起立し本尊薬師別に両大師を安す。


 とある。

 阿弥陀如来立像
 万治四年(1661)に建てられた総高176cmの舟形光背がある。像の左右に刻まれている7
0m近い人名の内、殆どが女性の名前という特徴のあるもので、女性中心の念仏講中が供養のために
正福寺の勧めで建立したもののようだ。嘗ては成林庵門前の路肩に建てられていたといわれ、一時は
成林庵の参道に安置されていたこともあった。区内には石造のの阿弥陀如来像の数が少ない上、女性
が中心の講中が建立していること、台座の水盤が扇形に彫られていることなどは、この像をより特徴
ずけているといえる。

 板碑
 本堂前の左に建つ。宝治二年(1248)と都内最古の銘を持つ。上の大きい文字は梵字でキリー
クといい阿弥陀如来を表わす。鎌倉初期の内乱の多い頃の戦死者を祀ったものだろう。この板碑はも
と梅若児童遊園付近の御前菜畑から出土したものと伝わってる。

   板碑は青石塔婆とも呼ばれる塔婆の一種です。材質は緑泥片岩(青石)で、頭部・碑身・
   脚部に区分されます。頭部は三角形状にそぎ、碑身との境に二条線を刻み、碑身の正面に
   は種字(仏や菩薩を表す梵字)年号・銘等を薬研彫りで刻みます。
   板碑の起源は碑伝や五輪塔とも言われていますが、はっきりしません。中世の武士達が供
   養のために建てたものが、のちに庶民にも広がっていったものです。正福寺には三基の板
   碑があります(登録は二基)
   宝治二年(1248)銘の板碑は高さ116cm、幅46cm、厚さ10cmで、区内で
   は随一の大きさを持っています。在銘の板碑としては都内最古です。阿弥陀一尊を種字で
   刻み「宝治二年戊辰三月三日」の銘があり、量感のある点でも貴重です。
   登録されているもう一基は、碑身のみが現存し、三尊種字が刻まれています。これらの板
   碑は江戸時代に付近の御前栽畑から発掘され、のち当時に移されたといわれます。なお区
   内には約30基の板碑があります
   平成14年3月                         墨田区教育委員会



■首塚地蔵
 墨田2丁目6番20号、正福寺の外にある。天保四年(1833)隅田川の洪水を防ぐための浚渫
工事で沢山の骨が出たので塚を築いて葬った。それを首塚といい、その塚上に建てられた。今は塚
はないく地蔵尊だけが祀られているが、「首から上の病」にご利益があるという信仰で人気がある。
流石に年寄りの参詣者が多く、指で地蔵尊を撫でるので黒くなってしまっている。自分の患部に当た
るところに触れると治るという寸法だ。



須陀山
成林庵
 墨田2丁目11番12号にある臨済宗妙心寺派の寺。湯島麟祥院末。創建は貞享二年(1685)
磐城平藩安藤家に仕えた老女千代が開基という。主君夫妻の菩提の為に建てたと伝える。「葛西志」
に尾張徳川家では2世常林尼に帰依していたとある。本尊は釈迦如来。境内は極小さくまとまってお
り、正面に新しい観世音菩薩が建っている。

   朝念観世音 暮念観世音 念念従心起 念念不離心

 と深い信仰を刻んでいる。「新編武蔵風土記稿」に、

   成林庵
   尼庵なり。禅宗臨済派。元は湯島麟祥院の住僧山堂が隠栖の庵にて、山道寂後常林と云尼、
   住せしより今の如く尼の庵となり。則麟祥院の配下に属す。其後安藤対馬守、縁渓宗因と
   称して爰に住し、寛永四年十二月晦日死す。此尼専ら祈願の檀縁など動化して功ありしゆ
   へ開基と称す。中興知貞は享和元年七月五日死す。本尊華厳釈迦。


 とある。



■梅若小学校 統合閉校
 墨田2丁目25番1号にあった区立校。昭和10年6月8日「東京市向島梅若尋常小学校」として
設立認可。同11年隅田尋常小学校と第二寺島尋常小学校の2校から児童が移籍し、1322名24
学級で開校した。校名は、昔から有名な「梅若塚」が近くにあることから選ばれた。校地は、根津嘉
一郎という東武鉄道社長の別荘があったところで、四方は竹とケヤキの木で囲まれた大きな池や築山
があり、四季とりどりの花が咲き、沢山の鳥が囀り、まるで公園のようだった。当時の様子を伝える
ものは、正門前の大きなケヤキの木で、樹齢150年以上といわれている。学校前の通りは今より狭
く、舗装もされておらず、たまに牛車や馬車が通る程度で頗る長閑だった。そして学校側には、道に
沿って細い用水が流れていた。その頃は、幼い弟や妹をおんぶして学校に来る子がいた。給食などは
なく毎日弁当を持参していた。俗にいう、日の丸弁当でおかずも粗末なもので、「たまご焼き」など
が入っていると「贅沢だ」と先生に叱られることもあった。
 平成17年創立70年。同23年3月末を以て堤小学校と統合のため閉校。

 校歌「文花の香り」 作詞・佐原正三郎  作曲・富田みさ
  1.文花の香り床しくも
    尽きせぬ名残梅若の
    誉れを負いし健児らが
    学びの園に光あれ
  2.若き世代ぞ 吾等こそ
    正しき心受け継ぎて
    自治と文花の咲き匂う 
    新しき園に打ち立てん
  3.実(まこと)の真理は一つなり
    世界平和の大道に
    愛もて結ぶ梅若の
    文花の園に栄あれ


 ※「文花」とあるのは「文化」の誤植もしくは変換ミスと思われる。



■梅若小学校(統合新設)
 墨田2丁目25番1号にある区立校。平成23年4月1日堤小学校と統合し、新しい「墨田区立梅
若小学校」として開校。

 校歌「梅咲き誇る」 作詩・校歌制作委員会 補作 作曲・菊池慶太
  1.梅咲き誇る学び舎に
    昔の伝え語り継ぎ
    明るく元気 大空へ
    あふれる笑顔 広げよう
    ああ 僕と私の
    梅若小学校
  2.若葉の萌える隅田川
    平和の光 降り注ぐ
    信じる心 輝かせ
    強い絆を 育てよう
     ああ 僕と私の
    梅若小学校
  3.薄紅薫る墨堤の
    未来に続く道標
    夢と希望の翼持ち
    友情の和を繋げよう
    ああ 僕と私の
    梅若小学校


  
 


■軟式野球資料室(墨田区小さな博物館)
 墨田2丁目36番10号にある。軟式野球、ソフトテニス、ソフトボールなどのボール製造で知ら
れるナガセケンコー(株)の博物館。軟式野球ボールの変遷やバット・グローブをはじめ、軟式野球ボ
ールができるまでの製造工程を展示している。また大変貴重な第1回軟式野球大会プログラムをはじ
め、軟式野球大会役員章・記念品など軟式野球に関する品々や、元全日本軟式野球連盟理事長・船津
氏が東京オリンピック副村長、札幌冬季オリンピック村長時代に収集した各国選手記念バッチなどオ
リンピック関係の展示品も多数ある。開館は、祝祭日を除く月曜日から金曜日まで、第1・第3・第
5土曜日の午前10時から午後4時まで。 03-3614-3501



■啓運閣教会
 墨田3丁目6番13号にある日蓮宗の布教所。関東大震災での死者をいち早く弔った。その縁で開
創した。入口はスーパーマーケットに占領されており、賑やかだ。



神向山東清寺
 墨田3丁目10番2号にある曹洞宗の寺。通称は「玉の井稲荷」「豊川稲荷尊天」「身代わり不動
尊」などという。創建は寛保元年(1741)で、本尊は十一面観世音菩薩。大正4年、白鬚橋のた
もとから四ツ木橋近くまで斜めに抜ける道路を、町の開発のために通し、大正道路と呼んでいたが、
その開発の時に山梨県塩山からここに移り、同時に「玉ノ井稲荷」を祀った。南葛弘法大師八十八ヶ
所霊場の72番札所になっている。

 
玉の井稲荷神社
 寺の建物に附属している。昔は京成バス通り(いろは通り)に面してあったようだ。貧乏稲荷の仇
名があった。鳥居が無かったのかも知れない。

 
大正道路開創記念碑
 大正4年大正天皇御大典記念で作られた新道開設を記念して建てられた。



■隅田第二小学校 閉校
 墨田4丁目6番5号にあった区立校。昭和2年11月隅田尋常小学校の分校創設。同6年校舎落成。
「東京府南葛飾郡隅田町隅田第二尋常小学校」として開校。普通教室21・特別教室1・児童数14
62名でスタート。同7年10月南葛飾郡が東京市に併呑され「東京府東京市隅田第二尋常小学校」
と改称同16年第148号国民学校令公布により「東京府東京市隅田第二国民学校」と改称。12月
真珠湾奇襲により日米開戦。同18年都制施行にり「東京都隅田第二国民学校」と改称。同19年戦
禍が予測されたため集団疎開開始。その後3度に亘って疎開。同20年日本は愚かなアメリカ軍の軍
門に降り敗戦。結果属国となり、唯々諾々としていいなりになる傀儡政権を保持せざるを得ない今日
的不幸を背負い込む。
 同22年アメリカの強制による学校教育法施行により「東京都墨田区立隅田第二小学校」と改称。
同26年開校20周年記念式典。児童数1440名・教職員36名・教室数30。同31年開校25
周年記念式典。同34年1月給食室完成。4月校歌制定。

 校歌「大東京の誇り」 作詞・西条八十  作曲・古関裕而
  1.大東京の誇りなる
    隅田の桜を心に咲かせ 
    清く正しく逞しく
    学びつ鍛うる楽しき吾等  
    隅田第二 隅田第二
    吾等は元気な小学生
  2.親しき流れ荒川に
    肩組む姿映して誓う
    永久に栄ゆる日本を
    この手に築かん燃えたつ理想  
    隅田第二 隅田第二
    吾等は元気な 小学生
  3.嵐も吼えよ 雨も降れ
    心は大きく 体は強く
    常に伸びゆく我が行手
    輝き照らすは真白き富士よ  
    隅田第二 隅田第二
    吾等は元気な小学生


 同35年校舎改築完了(普通教室24・特別教室5・管理室7)。同36年開校30周年記念式典。
児童数1191名 教職員32名。プール完成。同46年開校40周年記念式典。同51年開校45
周年記念式典。同56年鐘渕伸鉄跡地(都市災地)を区で買収、本校グランドとなる。開校50周年
記念式典。同61年開校55周年記念式典。同63年アスレチック忍者渡り設置。
 平成3年開校60周年記念式典。同5年体育館・新プール完成。同6年中国北京市石景山区友好代
表団来校。同7年北京市石景山区古城第二小学校と作品交流開始。同8年開校65周年記念式典。同
9年隅田第二小学校同窓会設立。同10年陶芸窯設置。同11年コンピュータルーム設置。同12年
インターネット。同13年ランチルーム完成。開校70周年記念式典。
 同
17年隅田小学校に統合されて閉校となった。なお跡地は統合後の隅田小学校となった



■隅田小学校 統廃合新設校
 墨田4丁目6番5号にある区立校。平成17年旧5丁目49番にあった隅田小学校と隅田第二小学
校が合併してできた新設校。初め校舎は旧隅田小学校の校舎を利用していたが、平成21年隅田第二
小学校跡地に新校舎が新築された新校舎に移転してきた。旧隅田小と旧隅二小の距離は京成電車の線
路を挟んで100mと離れていない。

 校歌「すみだの桜」 校歌原案・隅田小学校校歌制作委員会、歌詞補作と作曲・高橋誠
  1.墨田の桜 陽に映えて
    夢が溢れる学び舎に
    今日も集うよ 隅田の子
    みんな仲よく 力を合わせ
    明るく元気に 明日を語る姿
    みんなの誇り 手を繋ごう

  2.荒川堤清らかに
    歴史育む その流れ
    川面に光る友の顔
    智恵と勇気で希望の橋を
    優しく強く平和を作る心
    みんなの理想 隅田小



■隅田稲荷神社(八僧稲荷)
 墨田4丁目38番10号にある神社。「善左衛門稲荷」とも呼ばれ、荒川放水路開削で消えた善左衛
門村にあった社。善左衛門村を開拓した江川善左衛門が天文年間(1532~53)に創建したと考
えられている。5代目善左衛門が、伊勢参詣の折り、種々の厄災を8人の僧によって救われたことに
より当社を創建したことから、「八僧稲荷」とも呼ばれ、昭和7年には村社に列格していた。8僧の
縁起を万灯に仕立てた神輿「万燈神輿」が近年復活、外国のカーニバルにも参加するほどの人気を集
め、6月中旬の大祭には、町神輿も加わっての賑やかな行列となる。「新編武蔵風土記稿」に、

   稲荷社二宇。一は村の鎮守なり、須崎村弘福寺持。

 とある。二宇のもう1つは下稲荷神社。境内の石碑に

   当社の創祀は葛西誌及新編武蔵風土記稿等ニ依リ天文年間ト相定セラル。天文年間伊豆ノ
   堀越公方政知亡ビ其ノ臣江川善左衛門郎党ト此ノ地ニ逃レ信仰屡キ京都伏見稲荷大明神ヲ
   勧請シテ氏神トシテ祀リ尓来土地開ケ南葛飾郡善左衛門村ノ起源ヲナス。
   後慶長年間社殿ノ改築アリ又文政十三年庚寅正月社殿ヲ改築シ尚重ネテ関東総鎮守守護神
   田妻恋稲荷神社ノ神官斎部宿禰守儁ガ仲取持チテ京都伏見稲荷神社ノ神璽ヲ守護テ氏子ノ
   人等御田地ヲ奉納シ境内ヲ整備ス。此ノ神璽奉斎ノ路次美濃ノ国ニテ山賊ニ逢ヒシ時八僧
   現レ危難ヲ救ヒシ奇蹟アリシヨリ八僧稲荷神社ト称ヘタル事鳥居ノ額ニ依リテ知ルベシ。
   此ノ御神徳ヲ称ヘ災難除ノ信仰深シ、又郷人ハ隅田稲荷神社と称ヘ奉ル。当社ハ実ニ南葛
   飾郡善左衛門村三百六十六番地ニ鎮座セラレ大正二年大務省起業荒川改修ニ事業地ニ該当
   シ現地ニ移転シタルモノニシテ松楠等周囲丈余ノ巨木アリシ事新編武蔵風土記稿ニ見ユ。
   昭和七年十二月二十七日村社ニ昇格、昭和十年九月公爵一條実孝公、靖国神社宮司関矢司
   樹公ヨリ御神号ノ額ニ揮毫ヲ乞ヒ受ク。昭和十八年四月御社殿改築・・・


 とある。

 弘化四年銘水鉢
 手水舎に安置された、かなり大型のものだ。銘に「奉献 氏子中」「弘化四未年(1847)九月
吉日」「弘福二十七代 尭隣 納」とあり、弘福寺開山鉄牛和尚ゆかりの稲荷社であることを窺わせ
ている。

 津久井安太郎の歌碑
 村社昇格を記念しての社司津久井安太郎の和歌碑で、

   生みの子の代々つきつきにみやしろの まつりの手振り忘るなよゆめ

 昭和7年の建碑。



■香取社
 墨田5丁目6番にある小祠 ???



■鐘淵紡績発祥の地
 墨田
5丁目17番4号のカネボウ物流の敷地内にある。また区の説明板が、正門から100m程南
に進んだ所に墨堤通りに面して建っている。校内の
石碑は明治22年に据えたもので、裏面に、昭和
40年に工場の移転・操業停止したことを記念するプレートが嵌められている。まあ当然のことだが
敷地内の奥まった所にあるため、見学には守衛の許しが要るよ。
 むかしここは灰色の工場街だったよ。右も左も鐘紡で、そのうち軽工業が左前に、糸偏が駄目になっ
て、チューインガムなんか作って、化粧品に転換して、もう糸屋は止めちゃったよ。それで略称の「カ
ネボウ」が正式名称になって、今の人は「カネボウ」が「鐘紡」だなんて知る由もない。鐘紡が華や
かなりし頃は、この周辺の区から、娘という娘が女工として勤めに出たもんだ。女工ってえ言葉も死
語だわさ。おいらなんざ鐘紡(糸屋)が化粧品作ってることが、三菱が自動車を作ってる以上に「大
丈夫かいな?」と思っちまうんだなぁ。


   鐘淵紡績株式会社発祥の地
   明治22年5月6日


     (碑裏面)

   発祥碑由来記
   此の地は古くから沈鐘の伝説があり、江戸時代に入って将軍徳川吉宗公が之の引揚げを下
   命しましたが成功せず鐘は毎夕月の出と共に燦然として光を放ったといわれます。周辺の
   風光明媚を愛でて徳川氏はこゝを将軍家専用の野菜畑とし御前栽と称しました。明治20
   年近代工業の先覚としてこの地に東京綿商社が設立せられ、紡績機械29000錘を英国
   より輸入して東洋第一の紡績工場を建設。明治22年社名を鐘淵紡績株式会社と改称しま
   した。爾来近代日本の進展と共に工場は拡大し、その技術は全国津々浦々に結実し製品は
   カネボウの名声と共に遠く欧米各国を席巻しました。また過ぐる関東大震災、東京大空襲
   当時その職に殉じて斃れた者は50余柱に及びました。いまこゝに時代の進運と共に工場
   の移転を実施するに当って鐘紡稲荷神社並びに慰霊観音像を奉安し、80余年に亘ってう
   けたこの地域社会の御かげを感謝すると共に、老人と児童の憩いの場を設けて記念庭園と
   し永く先人の偉業を偲ぶよすがとなることを切願するものであります。
   昭和40年10月20日                 鐘淵紡績株式会社社中一同

   
説明板

   
鐘淵紡績発祥の地                所在 墨田区隅田5丁目19番ほか
   明治19年に綿問屋の三越、大丸、白木屋、荒尾、奥田の5軒が集り、三越得右衛門を頭
   取として東京綿商店が設立されました。  翌年資本金を10倍に増加 させ隅田川河畔鐘ヶ
   淵の宏大な土地に紡績工場を建設して、明治22年に操業を開始名称も有限責任鐘淵紡績
   会社と変更しました。これが。現在のカネボウ株式会社です。鐘淵紡績は、設立当初こそ
   経営難に見舞われたものの、他社を吸収合併する中に日清戦争を機に大発展を遂げ、世界
   有数の紡績会社となりました。
   平成13年3月                         墨田区教育委員会

 カネボウ → クラシエ
 平成19年6月28日の第90回株主総会において「カネボウ株式会社」の解散承認。カネボウ・
トリニティ・ホールディングスは、7月1日からクラシエ・ホールディングスと改名し、平成18年
から花王傘下に入っている「カネボウ化粧品」を除いて「カネボウ」の名は消滅した。なおカネボウ
の商標権は「カネボウ化粧品」が所有している。




■隅田川七福神 隅田山吉祥院多聞寺
 墨田5丁目31番13号にある新義真言宗智山派の寺。創建年代は不詳だが、天徳年間(957~
960)には今の隅田川神社付近にあり、「大鏡山明王院隅田寺」と称していたとか。天正年間(1
573~91)に鑁海上人が本尊を毘沙門天として「隅田山吉祥院多聞寺」と改称したと伝わる。本
尊は、隅田川七福神の一つにもなっている毘沙門天だ。山門、狸塚や、東京大空襲で被災した浅草国
際劇場の鉄骨など多くの文化財を有している。南葛八十八ヶ所霊場79番札所、荒川辺八十八ヶ所霊
場65番札所、荒綾八十八ヶ所霊場5番札所だ。毘沙門天像は弘法大師作というものの、文政時代の
「寺社書上」では、作者年代等不詳となっている。「新編武蔵風土記稿」に、

   多聞寺
   新義真言宗、寺嶋村蓮華寺末、隅田山吉祥院と号す。慶長十一年起立す。法流開山円実宝
   暦五年正月二日寂す。本尊毘沙門は弘法大師の作にて長一尺二寸、脇士十一面観音及不動
   を置。
   五智堂。
   鐘楼、延享三年造立の鐘を掛。
   香取社、稲荷社


 とある。

 毘沙門天(多聞天)
 
本尊の毘沙門天像は、弘法大師作と伝えられる鎌倉時代の特徴を示す高さ50cmの木造立像だ。多
聞天とも呼ばれ、ヒンドゥー教の財宝神クベーラの別名でもあり、持国天、増上天、広目天とともに
四天王の一体に数えられる。この勇ましい姿はほんとうのことを見抜く智慧とほんとうのことを守る
勇気を現す。

 
隅田川七福神の碑
 門前右に建つ自然石のこの碑は、元幕府の海軍奉行を勤め、戊辰の役には五稜郭で戦った榎本武揚
の書を自然石に刻したものだ。生粋の江戸っ子である榎本武揚は、隅田川辺りの散策をことのほか好
み、当寺を訪れた折、筆を執ったという。碑面には、

   隅田川七福神之内 毘沙門天 正二位子爵榎本武揚

 と記されている。明治41年の建立で、碑と案内碑がある。

 
山門
(墨田区登録文化財)
 茅葺が実にいい。周りに住宅がなかったらどれほどよかったろう。慶安二年(1649)良賢法印
建造したが、この門はその後焼却したらしい。過去帳には、

   享和三亥年二月酉ノ上刻出火、本堂、鐘楼、五智堂、庫裡、焼失四棟也、表門は不焼

 とあり、この火災で焼失を免れたことから、遅くとも享和三年(1803)には再建されていたこ
とになる。木造茅葺き切妻の四脚門で、全体的には簡素な和様の造りで、控柱などに禅宗様の手法も
見られる。虹梁・木鼻に刻まれた線の太さや深さ、素朴な文様は18世紀を下らない建造を感じさせ
る。区内では最古の建造物。鄙びた中に気品が漂う。
 墨田区は震災や戦災で多くの木造建築が失われてきた。こうした中で、多聞寺山門が現存すること
は貴重であり、周囲の意匠との関連や相違を検討するうえでも重要な建造物といえる。

 
狸塚
 山門内左に石碑がある。この寺は別名「狸寺」ともいわれ、伝説が残る。
 昔々、多聞寺がある辺りは、大きな池があり樹木や雑草が生い茂り、狸や狐たちの住処で、村人や
旅人たちに悪戯ばかりし続けていた。鑁海(ばんかい)和尚は、堂を建てて妖怪狸たちを追い払うこ
とにした。まず大きな松の木を切り倒し、穴を塞ぎそれから池を埋めてしまった。すると大地が轟き
空から土が降ってきたりといたずらは激しくなるばかり。和尚は本尊の毘沙門天に祈り続けた。
 ある夜のこと和尚の前に大入道が現れ「ここはわしのものじゃ。さっさと出ていけ!」と脅かす。
和尚は尚も一心に本尊を拝むと、毘沙門天に仕える童子が現れて大入道を打ちのめしちゃった。
 翌朝、和尚が庭に出ると大狸2匹が死んでいた。和尚は哀れに思い、切り倒した松の木の跡に狸を
葬り、塚を築いて霊を慰めたそうだ。これが多聞寺の狸塚の由来と伝わっている。

 
石仏群
 六地蔵や小堂に安置した地蔵尊があるが、延宝8年(1680)の造立で庚申供養のものだ。この
ころの庚申信仰は本尊も色々で、この期特有の優美な舟型の塔に地蔵が浮き彫りにされている。これ
が江戸中期に進むと、角柱や青面金剛の怖い顔に変って行くのだ。

 六地蔵(墨田区登録文化財)
 「坐姿六態地蔵」と呼ばれる都内でも珍しい形態の尊像だ。仏教における地獄・餓鬼・畜生・修羅
・人間・天上の六道の何処にいても救いの手を差し伸べてくれるという地蔵尊だ。この六地蔵像は総
高150cmで、いずれも安山岩の四石からなっており、地面から1、2段目の石は方形、3段目は
蓮台、その上に、それぞれ60cmの丸彫り地蔵坐像が乗っている。像容は向かって右から持ち物不
明の坐像が2体、両手で幡を持つ半跏像、両手で宝蓋を持つ坐像、持ち物不明の半跏像、合掌してい
る坐像の順に並んでいる。欠損や修復の跡が見られるが、僧覚誉理慶(利慶)が領主となり、7年間
に亘って隅田村内の地蔵講結衆の二世安楽を願って造立されたことが刻銘から読める。隅田村地蔵講
中の数年に亘る作業行為を知り得る貴重な資料だ。製作年代は、右から正徳三年(1713)二月吉
祥日、同四年八月吉祥日、同三年八月吉祥日、同二年八月吉祥日、享保元年(1716)九月吉祥日
同三年十月日と刻まれている。

 
村田銀蔵水兵碑
 茂みの中にある。村田は隅田村出身の海軍兵。明治32年に建立した。軍艦「筑波」の射手という。
何もない当時、村の誇りだったのだろう。小泉選挙でひょんなことから国会議員になっちゃった杉村
太蔵、翌日から先生に祭り上げられてしまっちゃった。海軍兵は数が少ないから村で一人出るか出な
いか。だから村の大変な名誉なのだ。私の知る小父さんは海軍の通信学校に入学しただけで、村人が
紋付袴でお出迎え、その夜は提灯行列、翌日は小学校の講堂で講演会だったとか。海軍兵学校に行こ
うものならイチロー・松井級の大歓迎会だ。防衛大学に入るのとはちょと訳が違った。


 
映画人の碑
 多門寺の境内にある。坂斎小一郎(共同映画株式会社創立者)の夫人ハツが墓地資金を提供し、日
本映画の民主的発展のために尽された映画の仲間の生涯を顕彰し、追悼する共同の墓碑建立に役立て
てほしいとの申し出がり、その意志を尊重し、映画を愛する人々と団体によって映画人の墓碑の会が
組織され、この墓碑が建立された。平成4年のことだ。揮毫は映画監督新藤兼人。

 
多聞寺コンサート

 釈尊が悟りを開いた日=世道会(じょうどうえ)を記念して、毎年暮(12月最初の日曜日)に法
要とコンサートが行われます。

 
香取神社

 境内の南端にある。

 
東京大空襲で被災した浅草国際劇場の鉄骨
 昭和20年3月10日未明、アメリカ軍B29爆撃機330機による無差別絨毯爆撃を受け、下町
一帯は〝火の海〟と化した。この東京大空襲による下町は壊滅状態に陥り、死者
10万人(30万人
とも)
、重傷者11万人、100万人が家を失った。犠牲者の氏名、正確な人数は現在も不明だ。
 と書いたら、安藤さんから怒りのメールを頂戴しました。

   違うぞ
   三月十日の大空襲のとき、私は隅田公園の墨田区側にゐた。あそこは元水戸家の下屋敷だっ
   た。現在、池の真ん中に石橋が架かり、いい場所だ。当時は本所區と言ってゐた。言問橋
   が炎上したのを目の前で見た。青光りのする龍がのたくる様に、兎に角すごかった。当時
   私は中学三年生だった。都立第七中学校、現墨田川高校(都立第七高校とも言う)
    あの当時の事を思いだすと水に浮かぶ死体の山が眼にちらつく。公園の芝生の空き地が
   死体の假り埋葬所になり、今も、やり場の無い怒りがこみ上げてくる。当時、被害が三十
   万と言われてゐた。間違いない。たしかに三十万だ。何時の間にか十万になってしまった。


 この元浅草国際劇場の鉄骨(大部分は江戸東京博物館に展示)は、東京大空襲を語り継ぐ数少ない
歴史的〝証人〟だ。風船爆弾の工場となっていた浅草国際劇場も直撃弾を受け、屋根を支えていた鉄
骨は曲がり、ちぎれ、天井の大部分が抜け落ち、多くの人が焼死した。眼前の痛ましくひきちぎられ
た鉄骨に向かって目を閉じると、炎の夜の恐怖が甦る。
 にもかかわらず安倍晋三は防衛省に昇格して戦争への道を開き、パンドラの箱の蓋を取ってしまっ
た。何だかだ屁理屈捏ねているが、憲法を変えて国防省に名前を以て、自衛隊は陸海空軍に・・・自
民党の1人勝ち。好戦国民日本人の面目躍如、さぁこれからアメリカの尖兵として世界中で大活躍、
アメリカの汚名を雪いでやり、悪名を一手に引き受ける。アメリカに逆らうものは、日本軍が叩き潰
す。自民党はアメリカの覚えめでたく、売国奴小泉は名誉のアメリカ殿堂入りだ。
 その横には、空襲によって焼けた木の一部も展示されている。

   戦災の証言者
   パールハーバーから半世紀、終戦から46年目の平成3年8月12日、この木は荒川区西
   日暮里1丁目2番7号(三河島4丁目3420~21番地)に新しくビルを建てるための
   堀削により発見されました。東京地域では昭和17年4月18日のどーリットルの空襲か
   ら同20年8月15日に至るまでに71回の空襲がありました。ここに展示されている木
   は、43回目の同20年4月13日の23時から14日の2時22分にかけての空襲で焼
   かれた木です。
    当日の投下爆弾は高性能弾81.9t、焼夷弾2037.7tで、罹災地域は、西日暮里
   を含め139ヶ所に及びました。戦火で焼け爛れたこの木は、生命の尊さを訴えるととも
   に、今、平和憲法のもと、再び戦火にまみれる事のない国を作ることを、私たちに求めて
   います
   平成4年10月18日                    戦災の木を保存する会


 
平和観音像
 本堂に向かって左手にある。これは、東京大空襲の犠牲者と「全人類が核戦争による破壊の危機に
直面しているが・・・殺し殺されもしないという釈尊や大師の願いを成就すべく・・・」と建立の趣
旨が説明されている。昭和59年建立。

■て゛
本土空襲の指揮を取っていたカーチス・E・ルメイ将軍の理屈

 「明かに非戦闘員を狙った」とする批判に対してルメイは、戦後の回想記の中で次の様に居直って
いる。

   俺は日本の民間人を殺したんじゃねえ。日本の軍需工場を破壊したんだよ。日本の都市の
   民家は全て軍需工場だっただろうが。ある家がボルトを作り、隣の家がナットを作り、向か
   いの家がワッシャーを作っていたんだ。木と紙でできた民家の一軒一軒が全て世界正義の
   アメリカを攻撃する武器工場になっていたんだよ。こんな野郎どもを皆殺しにして何が悪
   い?
 

 カーチス・E・ルメイは、グアム島在米爆撃隊司令として、広島・長崎に投下された原子爆弾にも
深く係っていた。ところがだ、

  昭和39年、日本政府は「日本の航空自衛隊の育成に協力した」との理由から、
  この悪魔のようなルメイに対して昭和天皇は
勲一等旭日大綬章を贈っている。

 
時の総理大臣は、後にノーベル平和賞を受賞した佐藤栄作だ。国家主義者安倍晋三の大叔父だ。
 平成20年12月、佐藤がアメリカに対して「中国が日本に攻めてきたら、原爆を中国に投下して
くれ」と依願していたことが判明、平和賞が聞いて呆れるぜ。政治家なんてこんなものよ。陰で何し
てるか判ったもんじゃない。日本は確実に軍国化してる。しかしアメリカは日本の右傾化、軍国化、
戦前回帰は危惧するところ、だから憲法改正を叫ぶ安倍は潰されたんだ。「在日米軍は第七艦隊だけ
でいい」と発言した小沢一郎を潰しにかかったのだ(西松問題)。アメリカにとって日本は属国尖兵
が一番良い状態なのだ。復讐はされたかないからネ。国民はそこが読めてない。小泉、麻生がアメリ
カに御追従いってるのを聞き取れよ。



醍醐山円徳寺
 墨田5丁目42番17号にある曹洞宗の寺。駒込吉祥寺の末。慶長十八年(1613)の創建。吉
祥寺13代離比良重和和尚の開山で「赤門寺」とも呼ばれている。現在地に移ってきたのは寛永の頃
だという。「葛西志」に正慶元年(1332)と、嘉吉四年(1444)銘の碑があったとされるも
のの、現存していない。その頃は寺もまだない頃だから、どうだかなぁ! 
本尊は瑠璃光薬師如来。
 三猿を彫り出した台座に舟形光背を持つ庚申阿弥陀立像は墨田区の指定文化財。
 また水戸徳川家出府の折には、ここで最後の身支度を整える屯所に充てられた。「新編武蔵風土記
稿」に、

   円徳寺
   禅宗曹洞派駒込吉祥寺末、醍醐山と号す。開山僧離北良重、慶長十八年起立し、天和三年
   七月二十日化す。本尊薬師、弘法大師の作と云。
   天神社。


 とある。



■隅田小学校 閉校
 墨田5丁目49番5号にあった区立校。明治6年多聞寺内に「墨陀学校」設置。同13年廃校。寺
島小学校に吸収された。同16年6月1日に中川音蔵所有地を借りて「東京府南葛飾郡隅田村立隅田
小学校」として開校。同21年小学校令により「南葛飾郡隅田村隅田尋常小学校」と改称。同22年
隅田村梅若耕地1548番地に新校舎落成。しかし9月の風台風のため全倒壊。直ぐに再築。同26
年校舎増築。同31年増築。同33年義務教育4年に統一。同36年現在地に校地移転。同40年義
務年限6年となる。
 大正6年木造2階2教室増築。同11年木造2階10教室。同12年働く児童のため夜学校設置。
関東大震災。同13年2階校舎。雨天体操場完成。同15年鉄筋コンクリート造り3階建て校舎が落
成。
 昭和6年隅田第二尋常小学校を分校。同7年南葛飾郡が東京市に併呑され「東京市隅田尋常高等小
学校」と改称。同8年校舎2棟16教室火災焼失。直ぐに復旧。同8年創立50周年記念式典。

 旧校歌
「都を分けて」
    都を分けて洋々と
    流れ行くなる隅田川
    その名を負うて五十年
    文化の波に打ち乗りて
    日々に栄え行く学び舎に
    励む吾等の楽しさよ


 同10年夜学校を隅田第二小学校に移す。同16年勅令第148号国民学校令「東京府東京市隅田
国民学校」と改称。12月真珠湾攻撃により日米開戦。同18年都制施行により「東京都隅田国民学
校」と改称。夜学校、商工補習学校併設、同19年茨城県稲敷郡龍ヶ崎町・沼里村に集団疎開。同2
0年愚かなアメリカ軍の非人道的無差別空爆により学校周辺壊滅。8月日本はアメリカの軍門に降っ
て敗戦。以後傀儡政権を保持せざるを得ない今日的不幸を背負い込む。
 昭和22年ララ物資(アメリカで廃棄処分となった粉ミルク)による学校給食開始。墨田区成立。
アメリカの強制による学校教育法により「東京都墨田区立隅田小学校」と改称。同28年創立70周
年記念式典。同32年給食室完成。同36年プール完成。同38年創立80周年記念式典。同42年
校庭舗装。同46年ローラースケート場設置。同48年給食調理室改修。同48年創立90周年記念
式典。同53年新校舎に建替え、新体育館完成。同54年新プール完成。同58年創立100周年記
念式典。
 図書館など巡ったが既に廃校となっているため資料を見つけることはなかった、従って以後の沿革
は不明だ。墨田区の図書館は絶対数が少なく、図書文花に対する意識の薄さが見て取れる。図書館自
体多区のそれに比べて汚いしお粗末だ。

 校歌
「朝に芙蓉を仰ぎつつ」 作詞・伊藤平八郎  作曲・小堤貞治
  1.朝(あした)に芙蓉を仰ぎつつ
    昇る朝日の影射せば
    隅田の堤 霧晴れて
    おとし影澄む
    ああこれ清き学び舎よ
    育む我らの姿なり
  2.文化の都大東京
    平和の使命 尚思き
    学び舎隅田の名の下に
    薫る心とこの体
    ああこれ清き学び舎よ
    育む我らの姿なり


 平成17年就学児童減少のため隅田第二小学校と統合し、新しい「墨田区立隅田小学校」となり、
同21年3月まで当校舎を使用し、その間第二小学校跡地に新しい校舎を新設して移転予定。 



■隅田小学校 統廃合新設校 移転
 墨田5丁目49番5号にある区立校。平成17年旧隅田小学校と隅田第二小学校が合併してできた
新設校。平成21年隅田第二小学校跡地に新築された校舎に移転



■鐘ヶ淵駅
 墨田5丁目50番2号にある東武伊勢崎線の停車場。明治35年4月1日の吾妻橋(業平橋)~北
千住間開業時にできた駅。ホームは地上相対式2面2線構造。ホームごとに改札を持ち、上下ホーム
を結ぶ連絡通路はない。ホームの内側に2本の通過線を持つが、駅自体が急カーブの途中にあるため
通過列車もかなりの減速を強いられる。改札口・出口はホームごとにあり、いずれも浅草寄りのホー
ム先端部に直結している。
 鐘ヶ淵は、明治中期に紡績業が盛んになった街。現在は化粧品メーカーになったカネボウもこの地
が発祥であり、元の社名は鐘淵紡績といった。それが略されて鐘紡となり、現社名のカネボウへと変
遷している。





【太平】(たいへい)1~4丁目                   昭和44年5月1日
 俗に法恩寺門前(平河山山内寺町)といったところ。明治2年太平の世を願って本所太平町1~
2丁目と命名された。柳島出村・南本所出村町・南本所出村御用屋敷・北本所出村町と中ノ郷代地
町・深川元町の全部または一部をあわせた町域を
1丁目とし、俗に南割下水錦糸堀という北本所代
地・四ノ橋小梅代地と中ノ郷代地町・深川元町代地の各一部をあわせた町域を
二丁目とした明治
44年本所の冠称を外し太平町しなり、昭和42年新住居表示により現行の「太平」とした。4丁
目にあった精工舎(セイコー)はいつの間にかなくなっちゃった。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『墨田区史』『墨田の歴史』など。

 太平の由来
 太平の世を願ってのものだが・・・町内の法恩寺は田道灌の菩提寺。山号は河山でちょっと
ひねりを加えてある。法恩寺は「局沢16ヶ寺」の一つ、元は皇居の中にあった。




■高杉銀平道場跡

 太平1丁目17番の法恩寺橋の橋詰、法恩寺橋児童遊園のところにあった、長谷川平蔵が剣術の練
習をした道場跡。平蔵は若い頃、無頼の徒であり、近辺の鼻つまみものだったが、剣術の練習は熱心
で、その道場は現在の法恩寺橋の袂にあった。記念の碑はない。法恩寺は太田道灌の菩提寺の立派な
寺。幕府の都合で場所はアチコチ転々として最後はここ。江戸名所図会という江戸時代の名所案内に
法恩寺は大きな伽藍でえがかれている。明治時代になって縮小された。



平河山千栄院
 太平1丁目24番2号にある日蓮宗の寺。明和七年(1770)法恩寺第3世日喜上人が創建。祖
師像及び大曼荼羅を本尊とし、また痰病守護道晴尊の木座像を安置して、「たんぼとけ霊場」の名に
よって知られている。庫裏は3階建てのビル。。



平河山善行院
 太平1丁目24番11号にある日蓮宗の寺。報恩寺の塔頭。鉄筋コンクリート4階建てのビル



平河山法泉院
 太平1丁目25番11号にある日蓮宗の寺。法恩寺の塔頭。
 



平河山陽運院

 太平1丁目25番12号にある日蓮宗の寺。法恩寺の塔頭。大永元年(1521)日新の開山。こ
こは日朝上人秘伝という眼病の護符を出す寺で「めぼし霊場」として知られている。表に「日朝上人
めぼし護符所」の札が出ている。
 墓地には哥沢芝派の祖哥沢芝金初代及び2代の墓、江戸中期の俳人水間沾徳の墓などがある。

 初代・2代の歌沢芝金の墓
 
初代は本名を柴田金吾という武士で、端唄を好み、文久二年(1862)に一派を立てた。哥沢土
佐大掾と名乗り、明治になって歌舞伎座にも出、明治7年鬼籍に名を連ねた。



■平河山法恩寺
 太平1丁目26番16号にある日蓮宗の寺。蔵前橋通りに山門があり、参道が100m続く。正面
が本堂、左の
ちょっと異様な三重塔は昭和7年に建てたコンクリート造りの鐘楼。さらに左は道路を
隔てて墓所。右の鉄筋コンクリート3階建ての建物は、催し場と寺務所。境内は整備されており、な
かなかのものだ。長禄二年(1456)開山日住上人、開基大田道灌、江戸城平河門のところに鬼門
除けの祈願所として建立し、当時は本住院といっていた。 大永四年(1524)道灌の孫の太田大
和守資高が亡父六郎左衛門資康の十三回忌に備えて造営を加えた。また武州三田郷の田畑50貫文を
寄進し、資康の法名「法恩斎道源日恵大居士」から寺号を取って法恩寺と改めた。山号は下平河村か
ら得ている。その後神田柳原、谷中清水町を経て、元禄元年(1688)現在地に移転。本堂・鐘楼
堂・北面堂・番神堂・経蔵・常題目堂などの伽藍が揃い、谷中宗林寺、浅草幸龍寺と共に京本国寺末
触頭を勤め、20の塔頭、11の末寺を擁していた。本堂はアメリカ軍の無差別の東京大空襲により
焼失してしまったが、住職と檀家の努力で、昭和29に再建したものだ。参道の左右にある寺はかつ
ての支院で、現在は4ヶ寺(陽運院・善行院・千栄院・法泉院)が残っている。境内にはサクラ、ボ
タン、クチナシなどの花木があるが、華やかに咲くソメイヨシノが花の本命だ。

 太田道灌記念碑
 
昭和31年開都500年記念で建てられた。「七重八重・・・・」の山吹の古歌と、道灌の像が彫
られている。

 平河清水稲荷社
 これも江戸城の平河門と清水門の間にあったもので、法恩寺の移転とともに付き合ってきたのだろ
う。

 法恩寺橋開橋祝賀記念碑
 橋は江戸時代から横川に架かっていたが大震災で焼け落ち、大正14年に長さ18間×幅12間の
ラーメン橋台コンクリート橋が完成したことを喜び記念する碑だ。隅田川以東では初の近代橋だから
喜びも一入だったろう。

 太田道灌供養塔
 境内左奥の墓地にある。五輪塔になっているが追善供養塔だろうといわれている。道灌の墓は、
豆玉沢の
妙法蓮寺、鎌倉の扇谷英勝寺裏の源氏山、日暮里の本行寺、埼玉県越生町の龍穏寺など数ヶ所
があるが、伊勢原には2ヶ所にある。その一つは下糟屋の
大慈寺の墓で「首塚」と呼ばれており、も
う一つは上粕屋の
洞昌院の墓で「道灌さんの墓」と呼ばれている。上杉館で謀殺された道灌の遺骸は、
上粕屋洞昌院裏山において
荼毘に付された

   この供養塔は、法恩寺墓地の中央奥に石組で囲まれた歴代住職の供養塔と並び、一段高く
   安置されています。五輪塔形式で各輪に妙法蓮華経の文字、地輪正面に道灌と父・資清の
   戒名、両側面に道灌以降五代の当主の戒名、裏面にはそれぞれの没年月日が刻まれていま
   すが、現在は肉眼で判読するのは困難です。総高は201cmです。空輪と風輪は後補と
   思われ、火輪の軒が厚く水輪、地輪とほぼ同じ幅であることから17世紀後半の製作と考
   えられます。法恩寺は、太田道灌が江戸平河に創建した寺院で、当時は本住院と号しまし
   たが、大永四年(1524)に平河山法恩寺と寺号を改めました。後、元禄元年(168
   8)に本所の現在地に寺地が定まりました。
   『新撰東京名所図絵』(明治40年刊)には、寺僧が記念のために、この供養塔を建てた
   ことが記されています。

 戦災殉難者供養之碑
 
昭和20年3月10日の真夜中の空襲によって殉死した人々を供養するために、太平町一丁目町会
の人々によって、昭和20年9月法恩寺橋際の児童遊園内に建てたが、同34年9月現在地に移設し
た。

 花塚
 花の供養塚

 はさみ塚
 花はさみの供養塚。

 水間沾徳の墓
 江戸初期の俳人。はじめ門田のち水間氏。名は友兼。別号に沾葉、合歓堂がある。江戸の人。はじ
め岸本調和門の福田調也(のちの露言)に師事し、随伴して内藤風虎の江戸藩邸に出入りしたらしく
延宝期には風虎の長男の露沾から1字を貰い沾葉と号した。以後露言と共に調和系の俳書に入集して
いく。その頃、同藩邸の常連だった山口素堂の手引きで林家に入門、かつ山本春正、清水宗川に歌学
を学び、原安適とも親交を結んだ。やがて内藤家の内紛を経て、貞享二年(1685)風虎他界に及
び、退いて法体になる。貞享四年(1687)頃、沾徳と改めて立机。以後調和から離れて、素堂を
介して蕉門に親しみ、榎本其角と末長く提携する。元禄五年(1692)には露沾の委嘱により、処
女選集『俳林一字幽蘭集』を刊行した。
 やがて宗匠として内藤家の禄を食み、諏訪闡幽、大村蘭台らの大名を顧客とした。芭蕉他界後、其
角・沾徳両門の交流繁く、江戸俳壇の主流を成した。
 両点者の俳風は洒落風と称されて時流をリードしたが、前句にはほとんど関与していない。ここが
他点者と一線を画した点だ。其角没後は、江戸俳壇の諸派を糾合して、大宗匠と仰がれるに至る。
 参考文献 潁原退蔵「享保の三中心」(『潁原退蔵著作』4巻)、白石悌三「水間沾徳問題」(『連
歌俳諧研究』19号)



■本明寺
 太平2丁目7番1号にある浄土真宗大谷派の寺。明治時代後期に説教所として開設、戦災で本堂、
庫裡を全焼したが、昭和28年に本明寺を設立。同36年には本堂再建落慶法要を行った。建物は和
風の拵えのビルディング。



学校法人立志舎(りっししゃ)

 太平2丁目9番6号にある私立校。高等学校と、IT、会計、法律、公務員を目指す専門学校の総
称だ。昭和54年設立。〝どこま~でも〟のフレーズでお馴染みのCМソングが有名。本部は墨田区
錦糸。全国に専門学校を23校、東京に高等学校を1校を運営する。専門学校には、日本スクール・
オブ・ビジネス、東京法律専門学校、日本動物専門学校、東京IT会計専門学校などがある。専門学校
の愛称は「ベストカレッジーズ」。専門学校は民間企業就職率や公務員試験合格率、各種資格の取得
率が高いことで有名。
 平成6年に最難関の国家試験である司法試験に、専門学校として初の現役合格者を輩出、同15年
には、過去最低合格率2.58%でありながら2人目の合格者を出した。
 高等学校は平成10年に創立した。
 尚名称は、土佐の板垣退助をはじめとする人たちが志を達することを期して設立した立志社に肖っ
て名づけられた。関連はない。学校であれば学びやの「舎」とした。
 関東本部は1丁目2番にある。

 立志社
 明治6年板垣退助、後藤象二郎、副島種臣、江藤新平らの参議は、国の力を高めるためには公議世
論制度の確立が急務であるとして、同志8名の名の下に翌7年1月17日政府に対し「民選議員設立
建白書」を提出し、これが「自由民権運動」の始まりとなった。建言を行った板垣らは、それぞれの地
方において政治結社を作り運動を進めるため帰郷。3月高知に帰った板垣は、片岡健吉、林有造らの
協力を得て、4月に「立志社」を創立し運動に乗り出した。立志社の「創立趣意書」では、「人民は
すべて平等」であり「天から与えられた誰にも奪うことができない権利」を持っていること、そして
この権利を伸ばし確かなものとしていくためには「民会が必要である」こと、更にこの民会が十分な
効果を発揮するためには「人民の自修、自治の努力」が必要であることなどが述べられている。

 立志舎高等学校
 平成8年「立志舎高等学校」として開校。



■TOKYOリ・デザインプロジェクト

 太平4丁目1番1~5号、精工舎跡地の再開発。45階建て超高層のレジデンシャルタワーと31
階建てのオフィスタワー、ショッピングモール(仮称:錦糸町エンターテイメントモール)、コアか
らなる。コアには屋上に森ができるかも。

 
オリナス
 都市再生の動きが活発化する中、東京の東の副都心錦糸町に、新しいスタイルを持つ複合都市が誕
生した。これは錦糸町駅の北口、日本の高度経済成長を支えた旧精工舎厚情土地を再生する敷地面積
27300㎡、延べ床面積265000㎡の大規模都市開発によるもので、オリナスタワー・オリナ
スモール・ブリリアタワー・オリナスコアの4つの建物群をいう。



■本所郵便局

 太平4丁目21番2号にある普通局。





【立花】(たちばな)1~6丁目                   昭和41年5月1日
 葛西川村+亀戸村。明治22年「市制町村制」により南葛飾郡請地村・小村井村・葛西川村・寺
島村・大畑村・亀戸村・須崎村が統合して吾嬬村成立。村名についてどの村の名を採る訳にも行か
ず、悩みに悩んだ末「東村」で申し出たところ、時の東京府知事高崎五六男爵から「折角吾嬬神社
があるんだから〝吾嬬〟を頂戴してはどうだ」と勧告されそうすることにした。吾嬬神社は北条泰
時が正治元年(1199)この地方の領主遠山丹波守(遠山の金さんの先祖)に命じて造営させた
とか。祭神は弟橘媛(おとたちばなひめと呼んで日本武尊の妻)。浮洲の森と呼ばれて繁盛した神
社で、隅田川の大川橋はその参詣の便のために架けられたといわれ「吾妻橋」に改められた。大正
元年町制移行。昭和7年向島区が成立して吾嬬町東1~8丁目・吾嬬町西1~9丁目。同22年墨
田区所属。同41年新住居表示により吾嬬町東1~6丁目の全部または一部をあわせた町域を現行
の「立花」とした。

 立花の由来
 吾嬬の「嬬」の字が当用漢字にないので「吾嬬」とすることができなかった。そこで町名の起こ
りとなった吾嬬神社の祭神弟橘媛から「橘」を頂戴しようと思ったが、これまた当用漢字にないの
で「たちばな」の韻だけを借り「立花」の字を当ててこじつけた。だから立花は吾嬬神社だ! 何
といっても昔ながらの中川がいい。



■吾嬬の森・浮洲の森
 吾嬬神社 
 立花1丁目1番15号にある。創建は古く景行天皇のころと伝え、弟橘媛命を主神とし、正治二年
(1200)に日本武尊大神を合祀した。伝説では『日本書紀』に見える日本武尊の東征において、
武尊が下総に渡ろうとしたとき海が荒れ、妻の弟橘媛が投身入水したところ海は静まり忽ち浮洲が現
われて無事渡ることができた。そこに媛の遺品が流れ着いたので、武尊は「吾嬬はや(マイワイフラ
ブ)」といって、遺品を集めて埋め塚(築山)を築いて祀り、樟の箸を2本立てた。「連理の樟」と
いい、アメリカ軍の無差別空爆で焼けたが、今は2代目が対をなしている。塚は社殿の真後ろに今も
ある。
 下って正治元年北条泰時が葛西領主らに社領300貫を寄進させて社殿を造営した。嘉元元年(1
303)別当寺として鎌倉から真言宗宝蓮寺を亀戸に移している。安永三年(1774)隅田川に架
けられた大川橋は、吾嬬神社参道に当るところから「吾妻橋」となったという。入口に吾嬬神社の石
柱があり、その裏に「産業報告塔」とある。左手に有栖川宮幟仁殿下歌碑、埋もれた神橋を渡ると、
社前に一戸兵衛大将揮毫の「吾嬬神社」の石塔。その隣「縁起」の石碑。社横に山県大弐の「吾嬬森
碑」、境内西隅に「山県大弐先生遺徳顕彰碑」がある。右脇は福寿稲荷で、境内は南北の通り抜けに
なっている。向背の吾嬬の森は既になく、境内は住宅に侵食され続けて僅かの面積だ。昔が嘘のよう
な寂れぶりだ。「新編武蔵風土記稿」に、

   吾妻権現社
   吾妻森と号す。村内寶蓮寺の持。社傳に云、当社は人皇十三代景行天皇の皇子日本武尊の
   妾橘姫命の旧蹟なり。此姫は物部連等祖大水口宿禰の孫、東夷謀叛しければ日本武尊を大
   将軍とし、吉備の武彦大伴武日連等を追て是を討しむ。同八月尊相模国より上総国へ行ま
   さんとするに、海中暴風起りて御船を漂蕩して渡すべからず。因て姫尊に啓て云、是必海
   神の祟りならん。我身を捨て御身にかはり奉らんとて浪間に飛入り逆まく水の泡と消たま
   ひぬ。既にして風浪静まりかれば御船恙なく着岸あり。故に其所の海上を走水と云。それ
   より尊夷を平げ武蔵上野を巡り、西の方碓日の坂を上り東南を望み、姫をしたひて嗚呼吾
   妻こひしと宣ひしより、東国の惣名とは成ぬ。姫入水の砌御身に添給ひしゆつり葉の鏡海
   中に沈み入しを、尊白狐神に命じて取得て、後穂積家に傳ふ。人皇八十三代後土御門院御
   宇穂積臣の末葉、鈴木・遠山・井出の三家、姫の御跡をしたひ奉り、正治二年庚申八月十
   五日彼ゆつり葉の鏡を以て神体とし、行基菩薩の十一面観音を本地とし、此吾妻森に旧蹟
   を写し、則吾妻権現と崇め祭れり。此森昔は浮洲森といへり。其後承久の頃北条泰時関東
   管領の時、鈴木隼人・遠山采女・井出大学など領主太田某へ請て社頭を造営云々と載たり。
   按に当所旧蹟のこと他の所見なき処なれば、もとより造ならされと、海植え守護の為とし
   て勧請せしは宣なり。又承久の頃鈴木遠山井出等が太田へ請て再造すと云も、未だ他に傳
   へざる説なり。殊に太田某に請しなと云は持実入道道灌などに混したる傳にや、又江戸砂
   子には、天文の頃遠山鈴木井出三氏社を造営すと見えたり。
   神体唐ノ頭一。北条泰時寄附せし獅子の頭骨なりと云。
   驛路ノ鈴一。古色の物なり図上に載す、長九寸。
   古書一幅。日本武尊東征の日船中にて薙風に逢たまひし時の図なり。頼朝筆といひ傳ふ。
   末社稲荷。真羅稲荷と号す。則本社縁起にのせる白狐神なり。金比羅を合祀す。
   神木楠。傍に藤原傳古か撰へる碑あり。


 とある。

 鹿歌都部真顔歌碑
 しかつべまがお  入口の石柱の左にある。

   高麗剣わざこそ歌の一風流を我たまひしと人強く磨けり

 文政十二年(1829)六月六日俳諧歌場、紀真顔とし、裏に「昭和40年9月破損に付き再建之」
としている。真顔は、江戸数寄屋橋外の大家(差配人)の子。江戸後期の狂歌師・黄表紙作者。本名
北川嘉兵衛。鹿杖山人・狂歌堂など号し、狂歌を蜀山人に学んで鹿津部真顔と称えて宗匠となった人
だが、俳諧歌とも称え一派を作ったりした。また戯文を恋川春町に師事して恋川好町と名乗った。作
品に『元利安売鋸商内(がんりやすりのこぎりあきない)』などがある。


 吾嬬森碑
 
明和三年(1766)夏の建碑。神話時代からの吾嬬の森の由来を記している。藤原博古(山県大
弐)の撰文になるもので、柱状の三面に「下総国葛飾郡吾嬬森碑」として日本武尊の東征と弟橘媛命
の入水のこと、碓日嶺(碓氷峠)に登って「吾嬬はや」と歎かれたこと、吾嬬の森が命の墓であるこ
となどを述べて、命の貞烈を顕彰している。
 なお、碑文中には敬意を示した五字分もの闕字の手法が見られます。山県大弐で知られる藤原博古
は、江戸中期の兵学者・勤皇家で柳荘と号し、『柳子新論』を著すなどして、幕政を批判して忌諱に
触れ、明和事件で捕らわれて処刑された。

   この碑は、明和三年(1766)に儒学者山県大弐により建立されたと伝わります。「吾
   嬬の森」とは、吾嬬神社の代表的な呼び名で、江戸を代表する神社の森の一つとして「葛
   西志」や「江戸名所図会」にも紹介されています。碑の内容は、地元に伝わる神社の来歴
   となっており、日本武尊の東征、尊の妃・弟橘媛の入水により海神の怒りを鎮めたこと、
   人々がこの神社の地を媛の墓所として伝承し、大切に残してきたことなどが刻まれていま
   す。「新編武蔵風土記稿」には、碑は神木の傍らに建てられていたと記されています。
   神木とは、墨田区登録文化財である「連理の樟」のことです。一つの根から二つの幹を見
   せる姿は、歌川広重の「江戸名所百景」にも描かれています。左の絵は広重の作品「江戸
   名所道化盡 吾嬬の森梅見」で、中央にひときわ高くそびえるのが「連理の樟」です。
   明治43年の大水や関東大震災、東京大空襲などにより森は失われましたが、長く地域に
   根ざした伝承は、この碑を通じても垣間見ることができます。    墨田区教育委員会


 
吾嬬神社縁起碑 
 天明三年(1783)のもので神木「連理の樟」ついて記してる。合わせて吾嬬神社の縁起、日本
武尊の東征の事跡などを述べている。樟は現在は枯れて、その根だけが境内に保存されてい。裏面に
は、「天下泰平国家安全」と大書きし、天明三年の年紀を掲げて、田所町(日本橋堀留町)の住吉屋
庄兵衛の母そゑの発願で建立されたとある。

 櫪而不隣の碑
 「ますれどもうすろがず」と読む。
 昭和9年の建碑。「吾嬬森碑」の撰文者藤原博古乃ち山県大
弐遺徳顕彰碑ともいえるもので、高さ4m50cmの大碑で、一部に欠けるところがあるものの、読
み下すのに不便はない。昭和7年徳富猪一郎(蘇峰)の撰文になる。吾嬬森碑と共に、国粋・国家主
義の高揚期を背景にした建碑であることが判る。なお篆額の「櫪而不隣」は『論語』からの出典で、
「本当に硬いものは削っても薄くならない」という意味で、「他の悪い感化を受けない」喩えにして
いる。大弐の忠節を形容したものだろう。

 大弐は、幕末の尊皇攘夷の口火を切った人。家柄は武田信玄24将の一人三郎兵衛尉昌景(やまが
たさぶろうひょうえのじょうまさかげ)の裔だという。八丁堀は与力・同心の屋敷拝領地で、敷地内
家屋を儒者や医者に貸していた。山県も長沢町(現八丁堀3丁目東)の外科医栗崎道有の家を借りた。
和漢洋学や兵学を教え、門人は2000人ともいわれる。兵法は各地の城の特徴を調べて論評した。
そうしたことからか、明和4年倒幕の疑いで捕まり、のんびりしていた幕府に刺激を与えた。維新後
の明治24年に正四位が贈られ、大正10年に山県神社(山梨県中巨摩郡竜王町)に祀られた。墓は
四谷全勝寺、故郷の篠原金剛寺にある。青木昆陽や加藤千蔭などとともに八丁堀では忘れられない人
物だ。
 なお彦根24万石井伊家が「赤備え」といって軍装を赤色で統一したのは、山縣昌景の軍を引き継
いだことによる。

 ●文化十四年銘水鉢

   奉納  文化十四年(1817)丑十月吉日  白木屋清兵衛


 大柄に属するものであり、正福寺・天祥寺、とくに香取神社のものと共通している。脚部の造り出
しと、その曲線は萎縮することなく、刻字も太く伸びやか。また現に使用されている点でも極めて数
少ない例といえる。

 源延平歌碑
 自然石に円を隈どりして、

   皇国はかみ代のままの道しあれことなる文のをしへ何せむ 源延平

 と刻むが、年紀は特に見当たらない。

 天保九年銘鳥居
 境内の福神稲荷社前に建つ鳥居で、銘を

  
 天保九戌戌歳(1838)2月初午  願主 信濃屋筆女

 と刻んでいる。女性によって奉納された点、区内でもこの一点かと思われ大変貴重。「初午」は2
月の初の午の日で、京都の伏見稲荷神社の神が降りた日とされ、全国的にはこの日蚕や牛馬の祭日と
する風習の中で、この信濃屋のお筆さんは何を願かけたものかねぇ。

 福神稲荷神社
 祭神は、宇賀之魂之命、大国主之命、金山彦之命。以前は亀戸4丁目の地蔵川岸の畔に鎮座してい
たが、大正11年吾嬬神社旧社務所の位置に有縁の地とし遷座した。その後第二次世界大戦の災禍を
受け、周囲家屋他草木に到る迄焼け尽きた中この社殿全く無被害の不思議な現象に奇跡なりと御神徳
に人々は驚異の目を見張った。昭和21年吾嬬神社復興事業執行の時、社殿を現在の場所へ再遷し、
ここに吾嬬神社と共に庶民の守護神とて奉祭している。



万年山明源寺
 立花1丁目13番3号にある曹洞宗の寺。創建は天文九年(1540)。開山は文京区本駒込吉祥
寺の第二世大州安元和尚で、開基は梅厳桂林だ。なお大州安元については大州安充と書いたものあり
どちらかが間違っている。
吉祥寺の末。本山は永平寺。本尊は延命地蔵菩薩。本堂は鉄筋コンクリー
ト造りのなかなか立派な純和風のお堂だ。左が墓地。右は駐車場と庫裏になっている。南葛八十八ヶ
所霊場71番札所。「新編武蔵風土記稿」に、

   明源寺
   禅宗曹洞派、江戸駒込吉祥寺末、萬年山と号す。本尊地蔵。天文9年の起立にて、開山大州
   安充は永禄十二年五月七日寂し、開基梅巌桂林、弘治三年八月十一日死す。
   白山社。


 とある。


 
小山孫左衛門の墓
 小村井村名主。文化十四年(1817)に没した。晩年の文化九年に貯金の30両を代官大貫次右
衛門に預け、凶作の時に備えてもらったという義挙が墓碑に刻まれている。
なお小山家の住宅は大正
民家園として公開されている。

 
戦災殉難者慰霊塔・戦災精霊五十回忌供養塔・戦災懐古の碑
 4つ並んで建っている
「戦災殉難者慰霊塔」には、

   3月10日未明の空襲における戦災殉難者及び地区内120余命の霊を慰めるものなり

 とあり、地元の有志が昭和40年3月に建立した。
 その右にある「戦災精霊五十回忌供養塔」は、平成6年3月10日50回忌法要とともに戦災供養
会一同によって建てられた。その側面には漢詩が刻まれている。


   爆音鳴響米機来 一意護都偶戦災
   君死我存今日到 叩頭僅獻慰霊杯 追憶献杯 二十五世 萬年
   爆音ごうごうとして米機来る一意町を守って戦災に遭う
   君は死し我いきて今日に至る。こうとう僅かに献ず慰霊の杯


 右端の「戦災懐古の碑」は、昭和42年の建立で、当時の凄惨な状況を詠んだ漢詩が刻ま
れている。

   暗雲低覆我家偕 満目荒涼累積骸
   来襲米機焚萬物 敗兵涙見墨東街 戦災懐古

   昭和四十二年三月 まん つくり かく
   暗雲低く覆うわが家の階(きざはし) 満目荒涼として累積の骸(かばね)
   来襲米機万物を焚く 敗兵涙して見る墨東の街


 
「?」
 日本陸軍の鉄兜を模った香炉と砲弾を模った花立が目をひく九重の石塔。日中戦争に関係する供養
塔と思われるが、特に説明はない。語ることの出来ない国粋主義礼賛のものなのだろうか。立派なも
のだし珍しいので説明が欲しいところ。



■橘国民学校 廃校 → 第一吾嬬小学校 → 立花吾嬬の森小学校
 立花1丁目18番6号にあった区立校。



■第一吾嬬小学校 統合閉校
 立花1丁目18番6号にある区立校。明治20年城所景定が吾妻村大字小村井に「吾嬬学館」とい
う塾を開いたのが本校の始まり。同24年4月8日「吾嬬学館」を「東京府南葛飾郡吾嬬村立尋常小
学校」として開設。4年生までの尋常科として発足。同26年「第二吾嬬尋常小学校」ができたため
「東京府南葛飾郡吾嬬村立第一吾嬬尋常小学校」と改称。同35年香取神社に校舎を増築。二年制の
高等科が併設され、尋常科2学級、高等科1学級となり「東京府南葛飾郡吾嬬村立第一吾嬬尋常高等
小学校」と改称。同36年尋常科は6年制となり、2学級となる。同37年亀戸線開通。高等科が修
業年4ヶ年程度に改められ、尋常科2学級、高等科2学級となる。同41年校舎745坪が建て増し
され、教室数は5となる。同42年尋常科の修業年限を6か年、高等科を2か年と改め、尋常科4学
級、高等科1学級とする。同45年第一吾嬬実業補習学校を付設。
 大正2年大字葛西川(現在の東吾嬬小学校の場所)に、3年計画で移転開始。教室数7となる。同
4年移転完了。同6年風雨により、西側平屋建て校舎が倒壊、2階建て校舎も傾く。同7年第一吾嬬
尋常夜学級を付設。校舎の復旧および増築工事落成、移転。同12年関東大地震のため、校舎東西の
棟が傾斜。3本の支柱で起こし修復。同14年児童数急増3倍に。19教室、体操場を増築。
 昭和2年吾嬬第四尋常小学校を分校。同5年高等科を第一吾嬬高等小学校として分離「東京府南葛
飾郡吾嬬町第一吾嬬尋常小学校」と改称。荒川放水路完成。同7年南葛飾郡が東京市に併呑され向島
区となり「東京市第一吾嬬尋常小学校」に改称。同8年在籍児童数が本校史上最大の2904名とな
る。同9年中川尋常小学校を分校。同10年1クラス66人体制。同11年北側校舎を改築、普通教
室5、理科室、裁縫室、教員室、応接室、使丁室各1、以後、本校舎を本館と呼ぶ。同14年橘尋常
小学校を分校。同15年開校50周年記念式典。同16年勅令148号国民学校令により「東京府東
京市第一吾嬬国民学校」に改称。校旗ならびに校歌(作詞・薄井晴雄 作曲・保田正)を制定。
 校歌、歌詞調査中。墨田区に資料が見つからないんで教えてくらはれ。
 同18年都制施行により「東京都第一吾嬬国民学校」に改称。同19年児童500名、派遣教員1
5名が、茨城県久慈郡大子町及び宮川村に集団疎開。大子町は7学寮、児童357名、宮川町は3学
寮、児童52名。同20年愚かなアメリカ軍の無差別空爆(大空襲)により、校舎全焼。残留児童2
12名は、第四吾嬬国民学校で授業を受ける。秋田県秋田郡五城目町に再疎開。3学寮に児童136
名、教職員10名。立花国民学校・請地国民学校・中川国民学校が廃校となったため学区が拡大。
 同22年現在地(橘小学校跡地)に平屋建て6教室ができ、第四吾嬬小学校より移転する。アメリ
カの強制による学校教育法施行により「東京都墨田区立第一吾嬬小学校」に改称。全学年に亘り二部
授業。同23年追って平屋建て2教室ができ、普通教室が8教室となる。5年生以下は二部授業。同
24年平屋建て3教室ができ、普通教室が10教室となる。学級数19。同25年平屋建て4教室が
できる。4年生以下二部授業。24学級。東京都が、アメリカの廃棄処分の粉ミルク(ララ物資)に
よるパン・ミルクなどの完全給食開始。同26年中川小学校が再設され、児童548名と職員6名が
移籍。1・2年生は二部授業。18学級。開校60周年記念式典。新しい校歌ができる。

 校歌「朝」 作詞・小川浩  作曲・細川一郎
  1.朝
(あした)真澄の 空遠く
    希望(のぞみ)あふれて 佳き教え
    花咲く庭よ 吾嬬森
    伝えゆかしき 森かげに
    まことの光 身にうけん

  2.
調査中(とにかく墨田区の図書館は資料がないのよ)

 昭和27年2階建て4教室ができる。本校後援会は解散、新たに第一吾嬬小学校父母と先生の会が
発足。学級数18。同28年1~3年生は二部授業を行う。学級数20。同29年木造校舎4教室を
取り壊し2階建て8教室竣工。同30年木造平屋建て校舎2教室を取り壊し、2階建て4教室ができ
る。1・2年生は二部授業を行う。初めての夏季林間学校開設(山梨県昇仙峡)。学級数28。同3
1年東吾嬬小学校と西吾嬬小学校を分校。322名が東吾嬬小学校へ、73名が西吾嬬小学校へ転校
する。二部授業が戦後初めて解消される。21学級。開校65周年記念式典。 同32年鉄筋3階建
(1期分6教室)の工事が始まる。学級数20。同33年東側旧校舎を鉄筋3階建てに改築(第2期
工事)するため、2・3年は二部授業。1期・2期工事完成。12教室の落成式。同36年給食室改
築、屋内運動場(体育館)の建設開始。同37年体育館完成。体育施設(すべり台・低鉄棒・ジャン
グルジム・雲梯・肋木・砂場)設置。開校70周年記念式典。学級数22。昭和33年全教室にテレ
ビ設置。同33年プール完成。同42年鉄筋新校舎ができる。普通教室6、特別教室5。開校75周
年記念式典。同44年鉄筋校舎3階建て11教室の改築工事が始まる。このため教室としてプレハブ
校舎が作られる。同45年鉄筋3階建て新校舎落成。同46年創立80周年記念式典。同49年南隣
に立花団地ができ、それに伴い立花小学校を分校。同51年拡張校地に花壇新設。開校85周年記念
式典。丸八通り開通。学級数14。同52年昭和20年3月は戦災で卒業式ができなかったため、3
月27日32年ぶりに53期生の卒業式が行われる。校庭岩石園が作られる。同53年校庭舗装(ア
スコン舗装)完了。あわの移動教室実施。学級数14。同56年開校90周年記念式典・記念運動会
・記念学芸会が行われる。学級数16。同61年開校95周年記念式典を行う。池の補修・理科室の
改修が行われる。学級数12。同63年戦災のためできなかった橘国民学校の昭和19・20年の卒
業式が43年ぶりに行われる。学級数11。
 平成3年創立100周年。体育館・プール解体。同5年体育館・プール新築。3年遅れの創立10
0周年記念式典・体育館落成式。同11年コンピュータルーム解説。同14年墨田区出身、巨人の高
橋尚成投手と水野雄仁元コーチによる「夢の課外授業」が行われる。同18年立花小学校との合併策
定。創立115周年記念式典。同19年閉校式。同20年立花小学校と統合。新校名「立花吾嬬の森
小学校」。校地は立花小学校を仮校舎として使用し、第一吾嬬小学校の校舎を建替えた後、本校舎と
した。



■立花吾嬬の森小学校
 立花1丁目18番6号にある区立校。平成20年立花小学校と第一吾嬬小学校を統合して新設され
た。校舎建設中、立花小学校の校舎を使用していたが、同21年4月新校舎落成して移転。

 校歌「墨田の東」 作詞原案・校歌製作委員会  作詞補作・作曲・中郡利彦
  1.墨田の東 吾嬬の森に
    元気な声が木霊する
    学びの庭に吹く風は
    優しい心 運びくる
  2.広がる空と隅田川
    綺麗な花に包まれて
    感謝の心 この胸に
    故郷想い 育ち行く
  3.輝く未来 夢を持ち
    平和を願い進む道
    心と心 一筋に
    求めて励む 私たち
        *
    創ろう みんなの
    立花吾嬬の森小学校
 



■帝釈堂

 墨田区のHPによると1丁目22番にあるというが未確認。『墨田区の歴史』には「東あずま駅か
ら南へ北十間川沿いの高層住宅、公団立花1丁目団地へ曲がる園芸店の左に、小屋がけした帝釈堂(立
花1‐22)がある。帝釈天王と書いてある。中はすっかり風化した石塔が3基と地蔵がある。石塔
の台座には3つのコブがあり、三猿の跡だろう。これは庚申塔で、この形は板碑型といい、文字は全
く摩滅しているが、各地の庚申塔の形式から推定すると寛文年間(1661~73)前後の年代とみ
てよい。この形の下限でいえば、元禄以後に例は少ないのである。区内に残る庚申塔では、おそらく
最も古い年代と私は考えている」とあるのだが、?
 立花には19~22番は欠番で存在しないのだ。また文花の当番地は文化中学校でそれらしきは見
当たらない。ただ立花の23番に鳥居マークがあるので、今一度現地調査して報告する。

 とぐずぐずしてたら、キムタクさん(匿名)から以下のメールをいただきました。

    中に紹介されていた墨田区立花1-22にあるという帝釈堂のことです。そこは30年
   前に再開発されて、今は大きなサンタウン立花という公団分譲のマンションになっていま
   す。帝釈堂と思われるのは、今はマンションのちょうどまん中に移築されています。同マ
   ンションは建物の中央に通路が作ってあり、通路の両側が商店街になっています。その通
   路のまん中当たりの右側に小さな社があります。提灯に「帝釈天」と書かれています。番
   地は「立花1-23」です。
帝釈堂は再開発の工事中、線路脇に仮安置していたのですが、
   工事関係者に事故が続き、きちんと祀っていないからだとて、マンションの中央へ丁寧に、
   割合立派なお堂を作って安置したのだそうです。


 それで平成18年3月チェックに行ってきた。マンションの一階に大きい通路があって、その両側
に店が並んでいる西側の真ん中に鉄筋コンクリート造りの小社があって、本に書いてある通りの状態
だった。キムタクさんのご案内の通り、丁寧にお祀りしてあった。2mばかりの、参道というか石畳
に打ち水してあったのには感動した。



■立花小学校 統合のため閉校
 立花1丁目25番27号にある区立校。昭和49年立花団地の造成により、7月1日立花小学校を
設置。9月1日開校。同50年体育館完成。校歌制定。

 校歌「さわやかな」 作詞・松井由利夫  作曲・渡辺茂
  1.爽やか緑の若木
    梢は伸びるどこまでも
    この明るい学びの庭で
    橘の花のように
    優しく そして逞しい
    心と体を育てよう
    ルルルルルルルル 立花小学校
  2.ふりそそぐ豊かな光
    吾嬬の森にいつまでも
    この楽しい学びの庭で
    澄み通る空のように
    大きな そしてしい
    明日の望みを育てよう
    ルルルルルルルル 立花小学校


 同54年創立5周年記念式典。同57年校舎増築。同59年創立10周年記念式典。
 平成6年校庭改修。創立20周年記念式典。同7年創立20周年記念タイムカプセル埋設。同8年
ほのぼのルーム開設。同11年創立25周年記念式典。同16年創立30周年。同20年本校吾嬬第
一小学校と統合。新校名「立花吾嬬の森小学校」。立花小学校を仮校舎として使用し、同21年第一
吾嬬小学校の校舎を取り壊し新校舎を建設し移転。



亀命寺慈光院

 立花1丁目29番3号にある曹洞宗の寺。板橋区に移った橋場総泉寺末寺。『江戸名所図会』に永
正十一年(1514)創建とあり、開基を葛西出雲守とする。これは葛西武胤と考える説もあり、そ
の妻慈光院孝顔知舜大姉と子の亀命丸との菩提のために建てられたと
伝え、山号は亀命山を用いてい
る。しかし武胤とすると年代的にあわないとされており、おそらくこの年代以降に葛西氏の末裔が建
てたのだろう。開山とされる嵐巌和尚も永正年代の人ではなく『新編武蔵風土記稿』では没年を万治
二年(1659)としているなど創建年に合わない点がある。
 弁天堂には「吾妻弁財天」があり、『江戸砂子』では智証大師作とし、貧しい人や家のない人のた
めに一刀ごとに三礼して彫刻したとしている。この弁財天も慈光院の守護神だったとされ、どっちに
しろ葛西氏との結びつきの深い史跡ではある。
 本堂は鉄筋コンクリート造りの現代風な堂宇だが、色が浅黄色というか薄い黄緑色で美しい。
 「新編武蔵風土記稿」に、

   (亀戸村)慈光院
   同宗同末(禅宗曹洞派豊島郡橋場村総泉寺末)、亀命山と号す。本尊観音を安す。当寺は
   葛西三郎清重四代之孫出雲守武常、其妻女及び一子亀命丸菩提のため、永正11年開基せり
   と云。されど諸家大系図等に拠れば、武常は秩父将常[一作常]の三男にして、清重より四
   代以前の祖なり。然れば其年代最古かるべきを、永正十一年の開基とするもの年暦符号せ
   ず。恐くは当寺後年葛西氏庶流の者の開基せるを、古寺なる事を證せんとて妄に付会し、
   年代をも失ひしにあらずや。位牌に慈光院考額知舜大姉永正十一年十月月五日、亀命院黄
   琳梅金童永正二乙丑二月十日とあり、是武常の妻及ひ一子亀命丸の法号とす。また当寺開
   基心翁傳公元和三丁巳年二月十五日としるせし位牌あり。是中興の開基なるにや。もし武
   常が法号とせんには年代たがえり。開山嶺巌は萬冶二年八月九日寂すと云。是も中興の僧
   なるべし。

 とある。

 戦災殉難者諸精霊供養塔
 地元の空襲犠牲者を追悼する。昭和48年有志によって建立された。毎年3月10日には法要と立
花南町会(旧吾嬬東二丁目)が中心になって集会所に集まり、すいとんを食べながら当時を偲び、慰
霊の行事をしているという。終戦後に中国から帰った住職によれば、「寺の前の北十間川から、建物
がすっかりなくなってしまった焼野原の向こうに、上野の松坂屋と富士山が間近に見えた」とのこと
だ。



■稲荷社
 立花2丁目11番にある小祠。未確認。



■大井戸稲荷神社
 立花3丁目20番10号、立花通りに面してある。俗称〝人助け稲荷〟 大正の頃一帯が田園だっ
た。その時分、清水の湧出地にあったものとされており、ここで弁当を使う人が多かったとか。市街
地化した中で新住民がよく残したものだわい。



■立花通り(平井街道)
 立花1・3丁目と2・4丁目を分ける道。旧中川に架かる平井橋西詰から東南に走り、立花団地の北を
通り、文化2丁目の五差路で、曳舟たから通りに繋がる古い道。



■東吾嬬小学校
 立花4丁目22番11号にある区立校。昭和31年4月6日第一吾嬬小学校から分離して開校。平
成18年創立50周年。

 校歌「この空のもと」 作詞・西沢実  作曲・富永三郎
  1.この空の下
(もと)
    先生と一緒に
    清らかな心を育み
    強いからだをきたえる
    ああ工場に囲まれた
    東京の朝日 東吾嬬
    ぼくのみんなの小学校
  2.この土の上
    友だちといっしょに
    進みゆく道を考え
    国の力をのばそう
    ああ 荒川の岸近い
    たちばなのかおり 東吾嬬
    わたしのみんなの小学校




■東あづま駅
 立花4丁目23番8号にある東武亀戸線の停車場。東武亀戸線は明治37年に全通しているが、中
間の3駅は総て、昭和3年4月15日に同時開業した。ホームは相対式2面2線構造。駅舎のある2
番線から1番線へは構内踏切で連絡しているため、エレベーターは不要。改札口・出口は1ヶ所のみ
で2番線側にある。



■向島工業高等学校 →橘高等学校
 立花4丁目29番7号にあった都立高。昭和12年暮吾嬬製鋼所社長清岡栄之助が当時の金額で5
0万を東京市(現在の東京都)に寄付。同13年3月29日当該寄付金を基金として本校設立の件を
東京市議会で議決。同5月1日東京市立向島工業学校として開校。東京市向島請地小学校にて第1本
科第1回入学式挙行(5年制工業高校、機械・電気・応用化学科設置)。同18年東京都制施行によ
り東京都立向島工業学校と改称。同20年愚かなアメリカ軍の無差別空爆により全校焼失。
 同22年新校舎建築竣工。学制改革により新制中学校併設し、東京都立向島工業高等学校に組織変
更。同24年3月31日を以て併設新制中学校廃校。平成10年創立50周年。
 60年の歴史と伝統に輝く工業高校だ。卒業生は、既に1万人を超え、産業界の様々な方面で活躍
している。この学校の生徒たちは、こうした先輩の功績を見習い、自分たちも日本の産業界を背負っ
て立つ人間になろうと、誇りを持って勉学にスポーツに励んでいる。
 しかし平成19年3月31日を以て全日制は閉課、向島商業高等学校と統廃合して都立橘高等学校
に生まれ変わった。



■橘高等学校
 立花4丁目29番7号にある都立高。平成19年4月向島商業高等学校と向島工業高等学校が統廃
合して開校。向島工業高校の跡地にてスタート。

 校歌「橘の若葉のように」 作詞・石原武  作曲・田村徹
  1.橘の若葉のように 友よ
    たくましく 起業をこころざし
    新しい時代の扉を開けよう
    隅田川の霧はれて
    いま自立のとき
  2.ものつくる匠のように 友よ
    誇らしく 技芸の道究め
    新しい文明の舵を握ろう
    東京の朝かがやき
    いま挑戦のとき
  3.つばめらの飛翔のように 友よ
    しなやかに 流通の知恵学び
    新しい賑わいを街に起こそう
    世界の朝が聞こえる
    いま貢献のとき




■立花中学校(平成26年吾嬬第一中学校と統合予定)
 立花4丁目30番18号にある区立校。昭和57年設立決定。同58~59年校舎建築。同59年
4月「東京都墨田区立立花中学校」として開校。9月グラウンド整備完了。10月校歌制定。

 校歌「若い緑が」 作詞・中村千栄子  作曲・平吉毅州
  1.若い緑が陽をうけて
    澄んだ瞳に映えるとき
    豊かな力ぐんぐんと
    創造の空へ伸びていく
  2.香る橘 遠い日の
    歴史の重みふつふつと
    誠の誓い語るとき
    愛郷心を掻き立てる
  3.光る川面に遥かなる
    人の世の海 思いつつ
    理想の船をたくましく
    世界の海へ漕ぎだそう
        *
    ああ立花 立花中学校
    友情の花 咲きかおる


 平成元年開校5周年記念式典。同2年給食民間委託。同4年コンピュータルーム開設。同5年図書
室開設。同6年多目的室開設。開校10周年記念式典。同9年ランチルーム開設。同11年創立15
周年記念式典。同16年開校20周年記念式典。同21年
経済産業省主催「省エネコンテスト・学校
資源エネルギー庁長官賞受賞。創立25周年記念式典。



■向島東部国民学校 廃校
 立花5丁目48番9号にあった区立校。昭和20年愚かなアメリカ軍の非人道的無差別空爆により
校舎が全焼して再開の目処が立たぬまま廃校。跡地は吾嬬第一中学校となった。



■吾嬬第一中学校(平成26立花中学校と統合予定)
 立花5丁目48番9号にある区立校。昭和22年4月1日開校。5月10日第四吾嬬小学校にて開
校式・入学式、以後授業を行う。同23年7月向島東部国民学校跡地(現在地)に新校舎成り生徒の
一部が移転。同27年校舎増築。全生徒揃う。同29年特殊学級設置。同32年創立10周年記念式
典。同35年体育館完成。鉄筋4階建校舎落成(16普通教室・3特別教室)。同37年4教室増築。
創立15同周年記念式典。同45年西側4階鉄筋校舎落成(教室6、特別教室4)。同46年プール
完成。
同47年心障学級校舎落成。創立25周年記念式典。同50年庭園造成「友愛の庭」完成。同
52年創立30周年記念式典。同58年新体育館・心障学級校舎完成。同59年校舎校庭改修。同6
2年創立40周年記念式典。
 平成元年ガイダンスルーム開設。同3年給食民間委託。ランチルーム完成。同5年コンピュータル
ーム開設。同8年校庭改修。同9年機械警備導入。1階部分耐震化。創立50周年記念式典。同10
年パソコン機種交換。同13年心障学級閉鎖。同14年今年から校舎ボランティア塗装始まる。墨田
区学校選抜制導入。同15年第二回校舎ボランティア塗装。今年から「友愛まつり」始める。同16
年墨田区2学期制導入。第三回校舎ボランティア塗装。同18年第四回校舎ボランティア塗装。

 校歌
「花薫る」 作詞・中部節二  作曲・細谷一郎
  1.花薫る墨田の畔
    天そそるゆかし学舎
    挙りたつ若き眉根に
    澄み映えん 真理の光
    ああ吾等
    かがやかに求めゆくなり
  2.香しき吾嬬の伝え
    尋ぬれば 嬉しきこの窓
    潮なす望み抱きて
    育まん平和の双葉
    ああ清
(さや)
    友愛の鐘も鳴るなり
  3.富士筑波かがようところ
    秀麗の気は漲りて
    興国の希
(ねが)いたゆけく
    勤しまん無窮の道に
    ああ遥か
    旗雲は冴え渡るなり
           



■中川小学校
 立花5丁目49番4号にある区立校。
 [戦前] 廃校
 昭和9年「東京市向島中川尋常小学校」開校。同16年勅令148号国民学校令により「東京府東
京市向島中川国民学校」に改称。12月真珠湾奇襲により日米開戦。同18年都制施行により「東京
都向島中川国民学校」と改称。同19年集団疎開。同20年3月愚かなアメリカ軍の非人道的無差別
空爆により校舎全焼。同21年3月31日校舎喪失のため廃校。

 [戦後] 復興
 同26年「東京都墨田区立中川小学校」として再開校・学級数15。同36年プール新設。同40
年校庭舗装。同45年鉄筋コンクリート造り校舎竣工。同46年開校20周年記念式典。同55年校
庭全面舗装。同57年図書室及び普通教室落成。同61年校庭側窓枠サッシュ化。校舎壁面塗装。同
62年校舎内壁改修。
 平成2年プール新設。同3年開校40周年記念式典。同12年コンピュータ室開設。同13年開校
50周年記念式典。

 校歌「都の東」 作詞作曲・松尾孝輔
  1.都の東 中川の
    古き流れの岸沿いに
    同じ名を負い新しき
    時代の華と咲く母校
  2.学びの道に勤しみつ
    清く正しき 歩みをぞ
    ただ真心に貫けと 
    母校の教え尊しや
  3.稚
(いと)けなき身を温かき 
    守りの中に包まれて
    送る六年の思い出よ
    心の糧と匂うらん
    



■立花図書館
 立花6丁目8番1号の高齢者福祉センター「立花ゆうゆう館」の中にある。



■立花大正民家園(小山家住宅)
 
 立花6丁目13番17号の中川沿いにある小村井村の名主の住宅跡。細い木割りをもつ格子戸やし
し窓(動物が入らぬように格子をつけた窓)と黒漆喰壁(くろしっくいかべ)から構成される正面、
別々に設けられた玄関と土間口、奥座敷上手の縁側-これらはこの地域の住宅の特徴を受け継ぐとと
もに、変わりゆく町並みに江戸時代からの農家と町屋の雰囲気を今に伝えている。当時の常識として
玄関を出入りするのは当主と正式客のみ、家族、女子供、使用人などは土間口を利用する。この民家
の貴重さは墨田区という場所柄、よくもまあ、震災も戦災も潜り抜けて生き延びたことである。名主
小山孫左衛門の墓は明源寺(立花2‐13‐3)にある。
 旧小山家住宅(指定有形文化財『建造物』立花6丁目13番17号、立花大正民家園内)は、大正
6年に建てられた住宅。桁行八間、梁間四間半で整形四間取寄棟造瓦葺の母屋の四面に下屋庇を廻し
ている。
 創建当初の素材・意匠が充実している上、保存状態は極めて良好といえる。昭和10年代に土間の
一部が座敷として改造され、新しい玄関が設けられて、萱葺きから瓦葺になった。同32年には水害
対策として建物全体を50cm程嵩上げした。町屋づくり部分と農家づくり部分を一軒の家の中に残
していることや、土間が狭いこと、接客空間が充実している点は近代以降の都市近郊住宅の特徴を現
すものとなってい。この住宅は、平井・吾嬬を中心に大正・昭和初期に住宅大工として活躍した田口
鉄五郎の手により建てられた。
 



金林山明了院東漸寺
 立花6丁目17番4号にある天台宗の寺。白鬚神社の南にあたる。浅草寺末寺。創建は室町時代の
文安元年(1444)秀尊法印によるもので、円覚が中興開山とされるが、明治中期まで無住の時期
があり、記録類は伝わらない。また、後年同じく浅草寺末の東昌寺を合併し、幾つかの石造物を移設
させてもいる。本尊は阿弥陀如来。また葛西三十三観音第8番札所としての十一面観
世音菩薩像がある。本堂はコンクリート造りだが、区内では早く姿を見せ、昭和39の竣工。反り屋
根の廂のラインが柔らかい。元文元年(1736)銘の六地蔵尊、宝暦十二年(1762)銘の庚申
塔がある。
(すみだの史跡文化財めぐりより「新編武蔵風土記稿」に、

   東漸寺
   天台宗 江戸浅草寺末。金林山明了院と号す。当寺は文安元年秀尊といふ僧開基すと云。
   本尊弥陀。中興円覚、寛永七年十一月十八日示寂す。
   観音堂。


 とあり、併合した東昌寺について

   東昌寺
   同宗同末(天台宗江戸浅草寺末)、医王山と号す。当寺は宝徳二年の起立と云。
   本尊薬師。


 と記している。

 松阪如春先生碑 
 明暦三年(1657)の建碑。誰だ?

 石造庚申道標
 正面に青面金剛像が彫られた典型的な庚申塔で、総高は91cm。青面金剛像の顔の部分に一部欠
損が見られるが、各部の彫りははっきりしており、保存状態は良好。さらに左右の側面には

   左 やくし道 右 市川道

 とあり、庚申塔でありながら道標を兼ねている区内では珍しい例だ。近世における庚申信仰と道祖
神、道標との関係、また同地域の交通路の存在形態を考える上では重要な資料だ。宝暦十三年(17
63)十一月に七左衛門、作左衛門をはじめとした21名により建立された。
 「やくし道」とは将軍の篤い信仰を受けた木下川薬師浄光寺へ抜ける道、「市川道」とは平井の渡
しから市川へ抜ける道のことで、庚申道標はこの分岐点にあったと考えられまるが、原位置は確定で
きないとのこと。
 



■白髭神社
 立花6丁目19番17号にある。区内にある3つの白髭神社・白鬚神社の内では、創建が最も新し
い。天和二年(1682)庄屋鹿倉吉兵衛らが幕府の許可を得て建立した。
 末社として三峰神社・水神社があり、境内左手に合祀されている。記録を欠いているが恐らく水神
社としての性格は古かったろう。水神社は石祠、三峰は木造で、秩父の狼を主神とし、家内鎮護の信
仰により、関東一円に広まった山岳信仰の1つの変形だ。合祀年代は新しい。というのは業平の天祖
神社の三峰は、昭和37年の建立だからである。
 境内の左奥に元禄四年(1691)将棋駒型庚申塔があるが、その台石の方は全く別物であって、
寛延四年(宝暦元年 1691)念仏講碑の残欠だ。右奥は社殿再建碑で昭和46年に建てた。区内
社寺の例に洩れず、社殿は鉄筋コンクリート(RC)造り。同52年区との緑化協定を5番目に締結
した。「新編武蔵風土記稿」に、

   白髭社
   村の鎮守とす。東漸寺持。


 とあり、「すみだの史跡文化財」に、

   旧葛西村の鎮守として、天和二年(1862)に創建したといわれていますが、文安元年
   (1444)創建という伝えもあってはっきりしません。
   祭神は猿田彦命で、俗に葛西川の白髭神社と呼ばれていました。


 とある。




 
【立川】(たてかわ)1~4丁目                   昭和42年7月1日
 本所林町・本所菊川町・本所徳右衛門町。明治11年東京府本所区所属。同44年本所の冠称を
外す。昭和8年林町・菊川町1丁目・徳右衛門町の各一部をあわせて竪川1~4丁目とし、同18
年東京都本所区に所属。同22年東京都墨田区に所属。同42年新住居表示実施の時「竪」の字が
当用漢字にないので平易な「立」の字に変えて現行の「立川」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『墨田区史』『墨田の歴史』など。

 
立川の由来
 町の北面を流れる、江戸城に対して縦方向に開鑿した子とによる堀川の名前から拝借した。区内
の竪川はまだ生きている。



万徳山徳上院
 立川1丁目1番にある新義真言宗の小寺。旧本寺弥勒寺の一子院として創建したが、昭和18年に
旧本寺弥勒寺を離れ、新義真言宗総本山根来寺の末寺となった。安置されている不動明王像は、根来
寺に安置されていた尊像だ。鉄筋コンクリート造りの・・・まっいいか。



満徳山龍光院
 立川1丁目2番にある新義真言宗の寺。門柱はコンクリート。旧本寺弥勒寺の一子院として創建し
たが、後年弥勒寺を離れ、大伝法院根来寺の末寺となった。



万徳山法樹院
 立川1丁目2番4号にある新義真言宗の寺。本堂も塀も鉄筋コンクリート造り。旧本寺弥勒寺の一
子院として創建したが、昭和18年に弥勒寺を離れ、本山長谷寺末となった。



■折箱博物館「木具輪」(墨田区小さな博物館)
 立川1丁目3番5号のスドウにある。エゾ松やシナの木を薄くスライスして作られた折箱、杉や桐
を使用した木箱など、100点あまりの天然素材を展示している。これらは、森林育成に必要な間伐
採や他に用途のない端材を有効活用して作られたもので、地球環境に優しい、食品の鮮度保持能力に優
れた品々だ。是非とも日本の伝統的な天然素材の美しさ、温もり、優しさに触れてみてみい! 
 開館は、祝祭日を除く月曜日から金曜日までの午前9時から午後5時まで。
 03-3631-7785



万徳山聖宝院弥勒寺

 立川1丁目4番13号にある新義真言宗の寺。京都醍醐寺三宝院の末寺で、慶長十五年(1610)
小石川鷹匠町に建てられてから、元禄二年(1689)本所に移ってきた。寺格は高く、新義真言宗
の常法談林所であると共に、幕府の命を伝える同宗の触頭で、関東四ヶ寺の1つだった。また「江戸
市内十二薬師」の第6番で、「江戸七薬師」でもある。また成田山新勝寺や西新井大師の本寺となっ
ている。安政大地震まで塔頭6ヶ寺、及び多数の末寺を擁し、御府内八十八ヶ所霊場の46番札所。
 「すみだの史跡文化財めぐり」に、

   万徳山聖宝院と号し、新義真言宗で京都醍醐寺三宝院末だった。慶長十五年(1610)
   宥鎫によって小石川鷹匠町に創建されました。幾度かの移転の後、元禄二年(1689)
   二月、新開地である本所の現在地に移ったもので、現在は根来寺の末寺となっています。
   江戸時代は新義真言宗の触頭で、寺領百石の朱印状を下付され、関東四ヶ寺中の一寺とし
   て格式がありました。また、江戸十二薬師のひとつとしても有名でした。かつて縁日も本
   所では、元徳稲荷・徳ノ山稲荷と並んで盛んでした。
   この薬師像は、川上薬師といわれ、「文政寺社書上」によれば、かつて水戸領常陸の寺院
   にあったころ、故あって寺地が水戸光圀によって没収され、像も那珂川に流された処、川
   上に流れたため、以後光圀の信仰も得て、川上薬師として祀られてきたと伝えています。
   また、塔頭として徳上院・法樹院・正福院・正福院・宝珠院・正覚院・龍光院がありまし
   たが、現在、徳上院・法樹院・龍光院は寺院として独立しています。
   現在もユニークな法話の聴ける寺院として知られ、書家相沢春洋をしのぶ筆塚も建ってい
   ます。

 とある。

 本尊 薬師如来
 弥勒菩薩から、
後に徳川光圀から寄進された薬師如来を本尊とした。この薬師如来は別名を「川上
薬師」ともいう。「文政寺社書上」には、この薬師像はもと常陸国にあった時に水戸黄門光圀が寺地
を没収した上、像も川に流させると、川上に向かって流れたので、以後黄門の信仰を得たという伝説
がある。、

 杉山和一の墓
 弥勒寺の墓地にある。江戸時代前期の盲目の鍼医。検校。慶長十五年(1610)伊勢津藩藤堂家
の家臣杉山重政の子として生まれ、幼児に失明し、江戸へ出て山瀬宅琢一に鍼術を学んだ。貞享二年
(1685)将軍綱吉の病を治療して、500石を賜り元禄元年(1692)初代の関東総検校とな
り、後300石を加増された。綱吉の命で本所一つ目に鍼治講習所を興した。同七年(1694)8
4歳で歿した。著書に、杉山流の三部書『療治之大概』『選鍼三要集』『医学節用集』がある。千歳
に江島杉山神社があるよ。



■木瀬部屋
 立川1丁目16番8号にある出羽海一門の相撲部屋。
昭和17年5月場所限りで引退した伊勢ヶ浜
部屋(関脇清瀬川)所属の元前頭筆頭桂川が年寄北陣を襲名、その後、9代目木瀬(木村瀬平)に名
跡変更して伊勢ヶ濱部屋の部屋付き親方として後進の指導に当たる傍ら、一般人に相撲を指導する相
撲練成道場を開いていた。その後相撲錬成道場の門人が大相撲入門を志願したため、昭和31年9月
に伊勢ヶ濱部屋から分家独立して木瀬部屋を創設した。伊勢ヶ濱部屋の後輩で娘婿の前頭9枚目清の
盛が、同42年5月場所限りで引退した時、年寄名跡を清の盛に譲渡するとともに部屋経営を任せて
本人は廃業して相撲練成道場の運営に戻りつつ、さらに居合道の道場を興した。
 10代目(清の盛)は、小結青葉山、十両天剛山を育てた。しかし平成12年4月停年退職を迎え
るため、同年2月に部屋を閉じるとともに、所属力士は桐山部屋(小結黒瀬川)へ移籍させた。
                     *
 現在の部屋は、平成14年11月場所限りで引退した三保ヶ関(大関増位山)所属の元前頭筆頭肥
後ノ海が11代目木村瀬平を襲名して三保ヶ関部屋の部屋付き親方として後進の指導にあたっていた
が、同15年7人の内弟子を連れて三保ヶ関部屋から分家独立して部屋を創設した。



■元徳稲荷神社
 立川3丁目18番2号にある小社。河村徳右衛門がまだ三河岡崎にあった頃、氏神として名匠に彫
刻させ、伏見稲荷から正一位稲荷大明神の神霊を遷したのが祀りの始まりといわれる。徳川家康の江
戸討ち入りの時に河村家も江戸出府を命じられ、神田川沿いに土地を与えられた。その際稲荷も江戸
邸内に遷され、屋敷の周辺の町人町は徳右衛門町と称えた。
 2代目の妻女が悪性の腫れ物を患った時、この稲荷に祈願して平癒した。それを聞いた町の人々が
腫れ物を患うと参拝するようになり、平癒すると土地の産物の里芋を供えてお礼参りした。
 明暦三年(1657)の大火(振袖火事)があって、幕府は火に強い町造りを進め、このニュータ
ウン計画に則って、河村家は本所(3丁目内)に移され、稲荷も遷した。しかしその後も参拝する人
は絶えず、河村家では人々の便を考えて、稲荷を三の橋詰に移祀した。この時に「元は徳右衛門町に
あった」ということで「元徳稲荷」と改称した。腫れ物に効くという評判で、明治時代に腫れ物で苦
しんだ9代目(市川団十郎)も平癒を祈願して、治癒したという。鰯の頭も信心から・・・

   元徳稲荷神社は、河村徳右衛門氏が未だ三河岡崎に在った時、河村家の氏神様として、名
   匠に依頼して彫刻させ、伏見稲荷社より神璽を遷してお祀りしたのが始まりである。徳川
   家康が江戸城を開いた折、河村氏も江戸に出府を命ぜられ、神田川沿岸に土地を賜り、町
   名を徳右衛門町と称した。その際、稲荷神社も江戸の邸内に移された。そして二代目徳右
   衛門の妻女が、難性の腫物を患い稲荷神社に祈願して平癒した。それを聞いた町の人々が
   三々五々お参りし、平癒すると土地の産物である里芋を供えてお礼をした。明暦三年(1
   657)江戸に大火(振り袖火事)があり、幕府は火災に強い町づくりを進め、このニュ
   ータウン計画により河村家は本所(立川3丁目付近)に移封され、この処を徳右衛門町と
   称して、稲荷神社も移祀した。しかしその後も参拝する人が絶えず、多くの参拝の便を考
   え、屋敷内から三ノ橋畔に移祀した。
   邸内にあった時は正一位稲荷大明神と称していたが、三ノ橋畔に移祀したのを機に元徳稲
   荷神社(元徳右衛門邸内にあった稲荷の意)と改称した。近在に飛火という腫物の病が大
   流行した折、里芋を供えて平癒祈願したと伝えられている。後に明治の中期に活躍した九
   代目市川団十郎も腫物に苦しめられた時、当神社に参拝したと記録されている。
                                  元徳稲荷神社総代会


 中央区日本橋浜町2‐3‐5に元徳稲荷神社・綱敷天満神社がある。 



■榎稲
荷神社
 立川4丁目12番24号、菊川小学校の南側の菊川公園南西角にある。昭和38年建立の「鎮座参
百年記念」碑がある通り、相当古い稲荷社だよ。大久保紀伊守家の屋敷神として創建、邸内に大榎が
あったので榎稲荷と呼ばれたという。碑の左側に見える枯木が名前の基になった榎の木だろう。
 境内には石黒善次氏寄贈の地蔵尊が祀られている。これは、昭和20年3月10日の愚かなアメリ
カ軍の東京無差別大空爆における、10万人に達するという犠牲者の冥福と恒久平和を念じて、同2
1年5月に建立された。菊川公園(当時菊川国民学校敷地)には4500人以上の遺体が埋められた
という。清め給え。

   大東亜戦争中昭和20年3月10日未明、敵空軍爆撃機の焼夷弾による大空襲を受け、下
   町一帯は崩壊状態となり尊い人命を数多く亡し其の数実に10万人といいます。攻撃に参
   加した敵爆撃機298機、投下焼夷弾1783トン、被災者数100万人、焼失家屋27
   万戸、負傷者数14万人、当菊川公園に埋めた人4515人に達し当町の住民の中からも
   多数の焼死者を出し、無人の町に等しくなるも終戦により町に復帰する人も日毎に多くな
   り、其の生存者の間から犠牲者の冥福と恒久平和を念じて地蔵尊建立の運動が起き、当時
   この町の住民で菊川小学校で奇跡的に難を免れ、船橋市に疎開中の石黒善次氏に話が伝わ
   り、同氏の浄財により昭和21年5月地蔵尊を菊川公園に建立し町に寄贈され、昭和40
   年菊川公園改修のため現在地に移転、今日に至り以来毎年3月10日の戦災記念日には盛
   大に犠牲者の霊を弔うと共に人が人を愛し世界の国々が平和で人類が何時迄も仲良く幸で
   あることを祈るものである。                    立川四丁目町会



■菊川小学校
 
 立川4丁目12番21号にある区立校。
 [戦前] 
廃校
 明治45年4月1日「東京府東京市菊川尋常小学校」として開校。大正12年関東大震災により校
舎全焼。昭和3年鉄筋コンクリート3階建て新校舎完成。校歌制定。

 校歌「千代に八千代に」 作詞・佐藤忠 校閲・佐々木信綱  作曲・田村虎蔵
  1.千代に八千代に栄え行く
    菊のしづくにうるほひて
    心に清く身はゆたかに
    よき民草と伸びゆかん
  2.日々に新たに淀みなき
    川の流れは一筋に
    勤しみ励み我れと我が
    道を求めて進まばや


 同16年勅令第148号国民学校令により「東京府東京市国民学校」と改称。同18年都制施行に
より「東京都国民学校」と改称。昭和19年戦局悪化により、東京都は国民学校第3学年以上の学童
疎開を本格化。これを受けて当校でも9月に、3年生以上の児童を千葉県大網町、土気町、東金町に
分散させて集団疎開。しかし翌20年3月初め、東金にいた100人以上の6年生が、受験のため東
京に帰り、3月10日の東京大空襲に遭遇し、約8割が死亡するという悲しい結果となった。同時下
町はB29による爆撃を受け、区の9割以上の地域に被害が及んだ。特に当校へは何百もの人々が避
難し、その内助かったのは極僅かで、講堂や校舎に重なり合った死体の山は目を覆うばかりだったと
いう。校舎喪失により同21年3月31日を以て廃校。跡地は戦災者住宅。同24年竪川中学校とし
て使用。

 [戦後] 復興
 昭和33年4月1日「東京都墨田区立菊川小学校」として新規開校。同35年現校歌制定。

 校歌「昔をしのぶ竪川の」 作詞・菊川小学校校歌制定委員会作詞  作曲・椿真太郎
  1.昔をしのぶ竪川の
    静かな水に影うつし
    雄々しく立てる 学舎は
    われらの母校 菊川よ
  2.茜に映える富士の山
    誇りも高く励み合う
    明日の日担う若草の
    楽しく集うこの国よ
  3.正しく強く大らかに
    睦みて共に行くところ
    文花の花は咲き香る

 同48年区立菊川幼稚園を併設。同59年新校舎落成。開校72周年記念式典。平成4年校庭遊具
施設設備。同12年パソコンルーム設置。同13年ランチルーム設置。同14年校庭改修、スプリン
クラー設置。開校90周年記念式典。同18年防犯カメラ設置。同19年校門に電子錠取付。特別教
室にエアコン設置。学校図書館システム導入。創立95周年記念式典。同20年校庭改修。






【千歳】(ちとせ)1~3丁目                    昭和42年7月1日
 本所弁天門前・本所八郎兵衛屋敷・本所中林屋敷。明治2年
これらを纏めて本所千歳町を起立。
同11年本所区所属。同24年深川安宅町の一部を編入。昭和8年松井町2~3丁目・安宅松井町
・御船蔵前町を編入した町域を千歳1~3丁目に改め、同42年新住居表示を実施して現行の「千
歳」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『墨田区史』『墨田の歴史』など。

 
千歳の由来
 
近隣の相生・松坂などの町名が謡曲『高砂』に繋がるので、この町も嘉語を選んで命名した。千
歳は千年、未来永劫の意。世田谷区に千歳台がある。




■江島杉山神社
 
千歳1丁目8番2号にある。杉山流鍼術(しんじゅつ はり)の始祖、杉山和一総検校が将軍綱吉
からの拝領地に江の島弁財天を祀った神社で、没後鍼術の神様として杉山総検校も併せ祀っている。
弁財天は、全ての願いを叶えてくれる神様だが、特に芸能上達に通じている。和一は、鍼の神様、視
覚障害者の先駆者、視覚障害者に鍼・按摩を職業として与えてくれた人として尊敬されている。  
 明治4年大久保の明治新政府は盲官廃止を理由に京都・江戸の惣録屋敷を没収、当道座解消。同1
8鍼術取締法公布。鍼治講習所に学んだ関澄伯理、榊原学道、藤岡宮戸、小泉荘三、河井貞昇、吉見
英受、吉田弘道は温知舎を起こし管鍼術の復興に専念。同23年杉山検校の霊牌所、即明庵を再興、
杉山神社建立。明石野検校の保管した杉山検校の木像を安置。同35年5月 杉山報恩講組織(吉田
弘道、馬場美静、千葉勝太郎、大貫伊太郎、千葉良泉,桜井幾太郎、森田蒿英、金塚元貞、阿波能夜
仙信、松本修顕、高田権太郎、石井宝作等)
 大正12年9月1日 関東大震災で焼失。同13年2月11日東宮殿下の御成婚により故検校に正
五位追贈、弥勒寺の墓碑が東京府史跡指定。同年5月8日杉山検校250年記念会、惣録屋敷跡記念
碑除幕式を行う。神社復興資金募集に着手、報恩講首脳追加(秦野貞斎、谷村玄教、芹沢八五郎、鈴
木金五郎、市森亀太郎、杉田良作)。同15年9月18日杉山神社再興。
 昭和5年9月26日財団法人杉山検校遺徳顕彰会設立。吉田弘道は三宅秀博士の斡旋により堀越久
三郎より3000円、自己資金1500円、報恩講以来の同志大貫伊太郎・金原直太郎・谷村玄教、
鍼術の理解者三宅秀・富士川遊より各100円の寄付を仰ぐ。同14年3月28日鍼術盲界の大先達
吉田弘道他界(享年75歳)。同15年9月26日管鍼術中興祖吉田弘道翁碑除幕式(弥勒寺)。
 昭和20年3月愚かなアメリカ軍の非人道的無差別空爆により焼失。8000円の財団基金が、戦
後の為替ルートのため
殆ど無価値となり、太田会長の下、戸田恵、姥山薫、伊藤福七、浜田誠一、柿
沼正雄、福岡政司、磯島慶司により寄付募集。同27年9月26日杉山神社再建(氏子北奥工務店主
奉仕建設による)同34年検校墓碑移築修復、頌徳碑復旧(弥勒寺)。同53三年鍼供養塔建立(弥
勒寺)

 
杉山和一
 三重県津市の出身で江戸時代初期の人。慶長十五年(1610)伊勢津藩藤堂家の家臣杉山重政の
子として生まれ
幼くして失明し、江戸に出て山瀬琢一に鍼術を学び、さらに江ノ島弁天の岩屋に籠も
り鍼術の一つである管鍼(くだはり・かんしん)術のヒントを授かった。その後和一は、京に行き入
江豊明にも鍼術を学び、再び江戸に戻り鍼の名人として名を轟かせた。貞享二年(1685)和一の
名声を聞いた将軍綱吉の病を治療したことから、「扶持検校(ふちけんぎょう)」として500石を
与えて
召し抱え
、日夜治療に当たらせた。しかし高齢だったため侍医・御典医という役職には就かな
かった。既に多くの弟子がいたので、代わりにその弟子たちが幕府や大名の鍼科の御典医となった。
元禄元年(1688)初代の関東総検校となり、後に300石を加増されている。和一は鍼治療に際
し管の中に鍼を入れるという方法を創案大成した。これは現在日本の鍼治療の主流をなし、世界中に
広まっているスキルだ。

 綱吉は、和一が江ノ島弁天に月参りをしているのを不憫に思い、元禄六年(1693)五月十六日
に当地本所一ツ目に1860坪余の屋敷地を賜い、同六月十八日には弁財天像と屋敷内西側989坪
余に弁財天の社地を下賜した。当地下賜の逸話に、綱吉が和一に「何か欲しいものはないか」と問わ
れ、「一つ目が欲しい」との返答に当地が撰ばれたという。
 
同七年(1694)84歳で歿し、立川(たてかわ)の弥勒寺に葬られた。著書に杉山流の三部書
『療治之大概』『選鍼三要集』『医学節用集』などがある。


 杉山流鍼治稽古所
 和一は、延宝八年(1680)綱吉の命により鍼治稽古所を開き、視覚障害者に鍼・按摩の教育を
施した。これは世界初の総合的障害者教育だ。江戸時代の後期からは二の鳥居の手前南側にその教育
施設「杉山流鍼治稽古所 四間余二十五間」はあった。

 
贈正五位杉山検校彰徳の碑
 
二の鳥居の手前南側、拝殿に向かって右手に、和一の業績が認められ、大正13年2月11日に正
五位が追贈されたのを記念にして作られた世界に一つしかない点字の石碑だ。

 即明庵跡碑

   管鍼術之祖杉山和一師深く江之島辨財天を信し将軍綱吉之侍醫に備り元禄六年当所に町屋
   敷二千七百坪を賜う乃ち社地九百八拾九坪に辨財天社を建つ検校の没後直に門弟恩師之霊
   牌所として即明庵を社側に建つ残余の千七百余坪即ち杉山屋敷なり後惣録役所鍼治稽古所
   を此處に移す明治以後千歳町と呼稱す明治維新の際盲官廃止辨財天社地以外没収され神佛
   分離の際之を江島神社と稱す明治七年七月村社に列す明治廿三年当流同門の徒温知舎を興
   し明治四年廃絶せる杉山検校の霊牌所即明庵を再興杉山神社と稱す明治卅五年五月杉山報
   恩講を興し祭典法要を営むも関東大震火に遭ひ烏有に帰す大正十五年九月十八日拝敞奥殿
   合計八坪五合の杉山神社再建す昭和五年九月廿六日許可財団法人杉山検校遺徳顕彰会を設
   立杉山報恩講の事業の継承をす昭和廿年戦禍の為盡く灰燼に帰するに依り関係者と謀り杉
   山神社奉祀の検校の霊牌を本社に合祀昭和廿七年九月江島杉山神社と改稱し再興なる昭和
   卅四年財団設立卅周年に当り彌勒寺所在墓碑の移築新修並に当所検校の頌徳碑の復旧完成
   す昭和卅九年十一月安永三年建設の岩屋破損に就き関係者と協力之が修復を終る此に於て
   一應復旧するも唯即明庵(杉山神社)跡後世に所在の不明を懼れ此處に石碑を建て明記し尚
   其の再建を期す者矣
    昭和四十年五月十八日建之              財団法人杉山検校遺徳顕彰会


 
墨田区保護樹木・空襲で焼けた銀杏
 かつては大木だったと思われるが、根本の方の太い幹は途中で折れるように黒こげになっており、
戦後新たに芽吹いたと思われるまだ細い幹がその上に伸びている。61年たった今も火傷痕も生々し
いこの銀杏は生きているのだ。焼けただれて炭化したその木肌は触るとひんやりしている。通りから
すぐのところにあるが、道行く人はこの戦跡の存在に気づいていてはいない。もう若い人は戦争を知
らない。
 国家権力は60年待った。国民が敗戦を知らなくなるのを。安倍晋三は、戦前の日本に戻すことを
こそ〝美しい日本再生〟と考える。陸・海軍のある国。教育基本法を改めて権力の愛国心を押し付け
ることに成功した。防衛庁を防衛省に昇格させて軍事国家への道を開いた。後は「第九条」のない憲
法の制定だ。再軍備→徴兵制・・・着々と復古路線は進捗している。その後は・・・米軍を日本の国
土から追っ払って・・・対米復讐だぁ。アメリカが滅びるまで、あと何日?
 民主党・共産党・社民党、これらはあってないようなものだから、自民党は余裕綽々でい。

 杉多稲荷神社
 社殿右奥にある。焼失前の昭和20年の写真には写っていないので、その後に移されたものだ。

 岩屋(洞窟)
 境内右にある。焼失前の昭和20年の写真にはないので、戦後に作られたのだろう。前に行った時
には気がつかなかったが、今回雰囲気が変ったというイメージはなかったので、以前にもあったのだ
ろう。中に杉山検校石像、人頭蛇尾の宇賀神石像が祀ってある。

 元禄釣燈篭
 社宝。詳細不明。

 平家琵琶
 社宝。杉山検校が使用したものらしい。

 徳川綱吉直筆「大弁才天」掛軸
 社宝。

 浄光院(綱吉正室)直筆「六歌仙」掛軸
 社宝。 



東光山要津寺
 千歳2丁目1番16号にある臨済宗妙心寺派の寺。慶安年間に(1648)本郷に東鉄が建てた東
山乾徳寺で、牧野越中守成儀(なりのり)が開基、西江和尚を開山とする。火災により廃寺になっ
たが、元禄四年(1691)成貞寺として再興された。牧野家の下屋敷があったところで、成儀の子
成貞が寺地として寄進したので、成貞は中興開基となる。戦災で現在の寺は 鉄門の閉じた奥に墓地
があり、中野撝謙、島男也、服部嵐雪の墓、芭蕉翁俤塚、芭蕉句碑(古池や・・・)、芭蕉翁百回忌
碑、汐時地蔵尊、平和三体地蔵尊などがある。


 中野撝謙の墓
 要津寺墓地にある。江戸時代中期、関宿藩牧野家の儒学者。寛文七年(1668)長崎に生まれ、
母の縁で、林道栄に養われ、書や経史を能くし、林氏の神童といわれた。のち江戸に出て学問を教え、
藩主牧野氏に仕え、享保五年(1720)歿。享年54歳

 島男也の墓
 
しまおとや 要津寺墓地の中野撝謙の墓の右隣にある。江戸時代末期の常陸笠間藩示現流の剣術師
範。本名石井庄吾。諱は竜雄、文化三年(1809)生まれ、21歳の時脱藩し、大坂で剣術を教え
名が高まった。万延元年(1860)倒幕を計画した高橋多一郎に関わって捕らえられ、翌文久元年
江戸で獄死した。

 芭蕉句碑
 芭蕉没後、深川芭蕉庵は武家屋敷となったため、雪中庵1世服部嵐雪たちが武家屋敷の北側の町地
に草庵を作り師を偲んだ。雪中庵が管理してきたこの草庵は、幕末までには消滅したが、池畔に建て
られていた句碑だけは、嵐雪の眠るこの寺に移され今もある。

   古池やかはず飛び込む水の音

 平和三体地蔵
 3月10日の空襲犠牲者を慰霊する地蔵尊と碑がある。2像だが、一体は子供を連れているので三
体と数える。傍らに平和地蔵之碑が建っていたが、地蔵を現在地に移設した時、どういう訳か一緒に
移されず失われてしまったとか。その碑には、

   平和地蔵之碑
   英霊の
   やすらかなるを祈りつゝ
   永遠の平和を
   只管に希ふ
   平和地蔵講中
   世話人山崎茂吉以下二六人


 とかかれてあったという。

 常陸笠間藩牧野家墓所
 牧野成貞に始まる。成貞は徳川綱吉に仕え、側用人となり、綱吉が度々成貞邸に訪れたというほど
に信頼された人物だった。3代後に常陸笠間に移封され、以後廃藩にいたるまで笠間藩主として存続
した。明治維新以後に跡を継いだ貞寧は、本所区緑町(現緑二丁目・亀沢一丁目)に住み、本所小学
校(昭和21年廃校)の学務委員を務め、地域の社会発展のためにも貢献した。要津寺は、慶安年中
に牧野成儀を開基として本郷に創建された。成貞が元禄四年(1691)に下屋敷の一部(現在地の
一部)を寄進して寺を移し、寺号を成貞寺としましたが、後に成儀の法名を採り、要津寺と改めた。
現在も代々の藩主が眠る牧野家の墓所は周囲よりも一段高い土台の上に石組をめぐらせ、正面に三つ
葉柏の家紋と「牧野家代々之墓」と刻まれた墓碑が、前面に4基の燈籠が置かれている。



東日山正明院西光寺
 千歳2丁目4番7号にある浄土宗の寺。慶長十一年(1606)本所の開発者小林治郎右衛門休西
の開基、増上寺の信誉英松の開山により創建した。現在の本堂は平成7年の建立。現代的デザインの
鉄筋コンクリート造りだが、整然としている。「御府内寺社備考」に、

   京都知恩院末 深川 東日山正明院西光寺、境内除地六百七十坪
   起立之儀者慶長十一年小林休西開基ニ而建立仕候。
   開山源蓮社信誉重故栄松和尚寛永廿己年十二月廿一日行年百八歳ニ而寂。
   開基然蓮社湛誉寂静休西長老、寛永五辰年七月朔日卒。
   本堂、六間ニ八間半、向拝二間ニ三間。
   本尊阿弥陀如来木座像、長二尺
   脇立観音、勢至木座像、長一尺二尺。
   善導大師、円光大師木座像、長各一尺二寸。
   今上皇帝尊牌一基。将軍御代々牌尊一基。
   地蔵菩薩木座像長三尺。観世音菩薩木立像長二尺八寸慈覚大師作、御府内廿七番札所。
   脇立不動尊、毘沙門天各立像、長八寸慈覚大師作。前立観世音菩薩木立像、長一尺恵心僧
   都作。
   鎮守社、三尺四方。右勧請之年月不詳正一位西光稲荷と唱、別に神体無御座候。
   宝篋印塔。寛延己巳年六月当寺七世曹誉代建立。壱基。以上戌子書上。

 とあり、境内の、ぶらり両国街かど展実行委員会の案内板に、

   旧両国橋が架けられる半年以上も前の慶長十一年(1606)当時は、下総郡葛飾郡海辺
   新地と呼ばれたこの地で、土地の開拓と海苔の製造を行っていた小林治郎右衛門が、増上
   寺の信誉英松和尚を迎え当寺を創建いたしました。
   浄土宗に所属し、江戸時代には寺子屋を開くなど、地域の教育にも貢献しましたが、震災
   戦災など度重なる災害に遭遇し、貴重な資料も全て焼失してしまいました。
   明治時代後半に第十六世住職となった渡辺海旭和尚は、「大正新脩大蔵経」(全百巻)を
   監修発行するとともに、深川に労働共済会館を設立し、日本の近代社会事業の先駆者とし
   て知られています。現在の本堂は平成8年に再建されました。


 とある。   



■初音森神社
 千歳2丁目4番8号にある大社。もとは浅草見附口にあった。創建は元弘年間(1331~34)
で、文明年間(1469~86)太田道灌により社殿が造営された。鎮座地は、中央区東日本橋2丁
目27番の初音森神社儀式殿の辺りで、この辺りが初音の里と呼ばれていたため「初音稲荷」と称し
ていた。また、この地にあった森は「初音の森」と呼ばれ、天文20年(1551)社前に馬場がで
きたが、初音稲荷に因んで「初音の馬場」と呼ばれ、初午祭などには馬追などが行われたという。こ
こで馬を商うために博労たちが集まったのが馬喰町の起こりだ。また慶長五年(1600)関ヶ原の
合戦へと出陣する徳川家康は、この馬場で馬揃えをしたという。
 明暦の大火後に浅草見附門造営のため現在地に移ったが、今も馬喰町の鎮護神で、氏子も対岸の馬
喰町の住民だ。境内に文化年間(1804~18)の狛犬1基と、安政六年(1859)馬喰町2丁
目連中建立の職立て、忠魂碑、初音森神社と彫った記念碑のような社号石板がある。

 中央区東日本橋2丁目27番のビルの2階にある初音森神社は当社の儀式殿。こっちは本殿。

 宝録稲荷神社
 初音森の社殿に合祀してあるのか、鳥居の前に「寶録稲荷神社」と彫った真新しい小さな石柱が建
てられている。ブログなどの写真説明では、同じと思われる画像にそれぞれの名前で説明してある。
ここはまだ行ってないので近い内に訪ねる予定だ。

 平成21年5月10日訪ねた。すると、宝録稲荷は横山町の鎮守で昭和5年に合祀したという石柱
があった。社殿の前の石柱は平成9年に建てたものだ。

 富福稲荷神社
 社殿右の塀際にある小祠。神社のことを書いてある標柱が並んで建っている。それによると日本橋
区通塩町の鎮守で、昭和9年に因縁のある初音森神社合に祀したとある。

 田部廼稲丸の歌碑
   ここに来て聞くは嬉しき葛飾の初音の森の鷺の声

 田部廼稲丸について調べたが良く判らない。石碑は頗る立派なもので、さぞかしの歌人なんだろう
が・・・本人が建てたのかな? 金持ちの風流人か。



■三保ヶ関部屋
 千歳3丁目2番12号にある出羽海一門で大坂相撲から続いている相撲部屋。
昭和21年の8代目
(滝の海調太郎)の逝去後、弟子等は出羽海部屋に預けられた。三保ヶ関部屋およびその分家が出羽
海一門なのはこのためだ。それ以前一門別総当りの時代では、出羽海部屋の力士との対戦もあった。
 同25年大関増位山大志郎が引退後、9代目三保ヶ関を襲名して部屋を再興した。暫くは小部屋状
態だったが、北の湖敏満が横綱になり、一躍有力部屋の仲間入りをした。この9代目は他に、長男の
増位山大志郎と北天佑勝彦を大関に育てた。
 同59年11月に9代目が定年となり、長男の年寄小野川が10代目三保ヶ関を襲名して部屋を継
承した。10代目は、名門日本大学相撲部で活躍した濱の嶋啓志、肥後ノ海直志、増健亘志、エスト
ニア出身の把瑠都凱斗(ばるとかいと)らをスカウトして関取に育てた。
 この部屋からは、北の湖・二十山(現在は北の湖部屋に吸収)、木村瀬平・尾上の4部屋を独立し
ている。




■金庫と鍵の博物館
(墨田区小さな博物館)
 
千歳3丁目4番1号の杉山金庫店内にある。館内には世界に1台しかなく幻の金庫といわれる旧日
本陸軍が暗号表を保管するために作った昭和12年頃の機密金庫が展示されている。この外大型金庫
(英国、米国、仏国製)や2000年前の古代エジプトの模造錠、鎌倉時代の海老錠、江戸時代の因
幡錠や土佐錠など、金庫や鍵が所狭しと並んでいる。金庫の問屋を営む一方、「金庫破りの会」の主
宰や、著書『私は鍵師』の出版などユニークな活動をしている杉山泰史館長の話を聞くのも楽しみの
ひとつだろうさ。  03-3633-9151
 開館は8月を除く第1・第3土曜日・日曜日 要電話予約 午前10時から午後5時まで。



■プジョーモトサイクル歴史博物館
(墨田区小さな博物館)

 千歳3丁目12番8号にある。詳細不明。開館は、祝祭日を除く月曜日から金曜日までの午後1時
から午後5時まで。
03-5638-5215 





【堤通】(つつみどおり)1~2丁目                 昭和53年3月1日
 寺島村+隅田村+木母寺+千住町三丁目(関屋の里)。江戸時代は隅田川の堤防沿いの川原。明
治22年寺島村・隅田村、昭和7年向島区寺島町3丁目・隅田町1~2丁目。同22年墨田区所属。
同39年7月1日新住居表示により寺島町3丁目・隅田町1~2丁目の各一部をあわせた町域を初
めて堤通1~3丁目としたが、同53年2~3丁目を併せて2丁目とし3丁目を廃して現行の「千
歳」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『墨田区史』『墨田の歴史』など。

 
堤通の由来
 
隅田川左岸堤防上の道を堤通りと俗称しその西側埋立造成地に開けた町域であることによる。
木母寺も水神の森も哀れな姿になってしまった。旧寺島3丁目地区は白鬚団地・東白鬚公園に・・
・ 鐘ヶ淵の鐘淵紡績もなくなって
・・・粉飾決算・・・、紡績は何処へ行ったやら、チューイン
ガム、化粧品・・・辛うじて「カネボウ」の名が・・・奮闘せよ!




■大倉喜八郎別邸跡
 堤通1丁目1番5号の共栄倉庫の敷地は、かつて権勢を縦にした中野硯翁の別邸の跡で、維新後明
治・大正期の実業界の雄である大倉喜八郎が購入し、「大蔵別邸」と名づけて、建物は「蔵春閣」と
いったが、その建物は千葉県船橋市のららぽーとの一角に喜翁閣として保存されている。
 喜翁は「喜八郎老人」の意だ。大倉喜八郎は、新潟県新発田の出身。
庶民からは〝死の商人〟と
忌み嫌われたが、公共事業や教育事業には惜しみなく私財を投じた。鹿鳴館、帝国ホテル、帝国劇場
などを渋沢栄一らと一緒に設立したことでも有名だ。東京経済大学の前身の「大倉商業学校」も創設
した。ホリエモンや楽天の三木谷などの比じゃない。やることは破天荒、もし今ホリエモンや村上が
大倉と同じようなことをやったら日本から抹殺されるだろう。大倉の冒険商人的な行動をよく表して
いる。質屋の倅として生まれ、18歳で江戸に上り、丁稚奉公からはじめて、一代で大倉財閥を築い
た。江戸時代からの豪商三井、住友、小野、島田などとは異なり、何の基盤もなく才覚と体だけが資
本の大倉が激動の時代に成功していくためには、いま風にいえば積極的にリスクを取っていく以外な
かった。
現在大倉財閥も大倉組も消滅しているが、大成建設、ホテルオークラ、帝国ホテル、あいお
い損保、サッポロビールなどに名残が残っている。
 ※予言じゃないがホリエモンは抹殺されちゃったよ。



■草餅の「志満ん草餅本店」
 堤通1丁目5番9号にあるよもぎ餅専門店。明治の初めから、伝統の味を守り、ひとつひとつが手
作りの草餅です。一年中、房総からとれる生のよもぎを使用し、こしあんは、十勝産の小豆を使用し
ている。餡無しは黄粉に白密だ。よもぎの香り、色とともに素朴な自然の味わいを楽しめる。素材の
風味を生かすために添加物等は、一切使用していない。商品が無くなり次第、閉店。しかしそこら中
に出店しているので、デパートに行けば手に入るよ。
 03-3611-6831



■墨田住宅センター木造建築資料館(墨田区小さな博物館)
 堤通1丁目7番16号の山孝工務店にある。カンナ、ノミ、ノコギリ、さしがねなど区内の大工が
使い続けてきた道具や木造住宅の各部材の名称パネルが展示されている。また「曲尺調法記」など明
治・大正時代の珍しい書物、「大匠雛形」と呼ばれる木組など、長い歴史をもつ木造建築技術に関す
る資料も120点あまり見ることができる。開館は、土曜日・第4日曜日の午前10時から午後4時
まで。 03-3612-7724



■堤通公園
 堤通1丁目8番にある。高架橋下を含む、植栽と花々の中にテニスコートや児童自転車遊習コーナ
ーや飛行機型カラフル複合遊具、木製遊具コーナーの飛地を持つ3点セット型公園。高架下はやや暗
い。



■都営東白鬚アパート団地
 堤通2丁目全体に展開している。この団地もいつの間にか古くなっちゃった。隅田川の左岸、白鬚
橋を渡ったところに板状で長さ1km以上に及ぶ長い団地がある。昭和50から54年にかけて建設
された都営白鬚東アパートで、12棟が延々と連結されている。そしてその連結団地と隅田川の間は
緑地公園となっている。なぜこのような板状連結団地が計画されたのか。隅田川の東側は戦災を免れ
た地域も多く、木造家屋が密集している。つまり火災が発生した場合隅田川東岸の緑地に避難し、火
災から守るためこの連結団地が防火帯になるのだという。震災復興計画で不燃建築の小学校と公園を
併設して計画されたが、それらは戦災の時にしっかり防火帯の役割を果たしている。その教訓が生か
されたというのか。発想はわかるが、1Km以上の壁はいかにも圧迫感が強い。住棟間は避難時のみ
かけられる扉で区画されていて横断できない。住棟は片側廊下の単純なもので、広島の基町アパート
のような工夫も何もない。折角ならもっと面白く計画できたと思うのだが、スケールだけが際立って
いるだけの連結団地だった。とはいうものの、建設当時に比べて周辺環境は激変している。現在も木
造家屋は多いが、比率は著しく低下している。



■「水神社・舟霊社」碑

 堤通2丁目6番1号の堤通りに面した白鬚団地の通路口(参道口)の大鳥居の左脇にある。明治3
2年に蜂葡萄酒醸造などが寄進したもので、筆者は不明だがなかなかのものだ。舟霊とは、船玉、船
魂とも書き、「ふなだま」と読む。船に宿ると信じられた霊を祀るもので、航海の安全を祈る。
 



■榎本武揚像

 堤通2丁目6番9号の区立梅若公園内にある。かつて木母寺の境内だったところだ。周りの樹木が
近く狭っ苦しいところに建っている。場所がない訳じゃなし。もっと広いところに建ててやればよい
のに。正面からは写真も撮れない。
 武揚は、天保七年(1836)下谷三味線堀(台東区)に生まれた。天性聡明で学問を好み昌平黌
で儒学を、さらに江川太郎左衛門の塾でオランダ語・英語を学ぶ。幕府が長崎海軍伝習所を開設する
や、選ばれて入所し、オランダ人教官により洋式海軍技術を習得、蒸気機関や機械製造に関しても研
究、当時未知の学問だった化学も学んだ。そして文久二年(1862)にオランダに留学、今まで学
んできたことを一層深めると共に国際法も修めた。帰国すると軍艦奉行から海軍副総裁へと進み、幕
府海軍の柱となる。やがて幕府が崩壊するや海軍を率いて函館の五稜郭に拠り官軍と戦うが、敗れて
捕えられる。しかし明治新政府の中にも彼の人物を惜む声が強く、明治5年許されて出獄。当時難問
とされた樺太帰属問題解決のため海軍中将に任ぜられ、特命全権公使として露都ペトログラードに派
遣され、みごと交渉に成功した。その後逓信・文部・外務・農商務の各大臣を歴任、枢密顧問官とな
り、功により子爵を授けられた。晩年は向島に住み、墨提を散歩するなど悠々自適の生活を楽しみ、
明治41年73歳の生涯を閉じた。東農大の創始者で、同校に胸像がある。



■鐘淵中学校 (平成25年向島中学校と統合予定)
 堤通2丁目11番1号にある区立校。昭和22年4月1日に設立された隅田第一中学校、隅田第二
中学校を統合して、同24年4月1日鐘淵中学校として開校。旧一中を本校とし1・3年生を収容、
旧二中を分校として2年生を収容した。第一期校舎落成。同26年第二期校舎落成。同27年創立5
0周年記念式典・校歌制定発表。

 校歌「桜花咲く鐘淵」 作詞・大木敦夫  作曲・長谷川良夫
  1.桜花咲く鐘淵
    幾春集い打ち連れて
    我が学び舎に光りあり
    清く明るく慎ましく
    労き町て弛みなく
    真理の扉開かばや 
    真理の扉開かばや
  2.鴎飛び交う隅田川
    流れの岸に跡留めて
    見よ名所の誇りあり
    清くさやけく逞しく
    責めをし負いて潔く
    正義の燈翳さばや
    正義の燈翳さばや
  3.雪にかがよう富士が峰
    星雲なびき空開けて
    我が同胞
(はらから)に望み在り
    清く楽しく芳しく
    自ら立ちて揺るぎなく
    平和の二字を慕わばや
    平和の二字を慕わばや


 同29年創立7周年記念式典。同32年創立10周年記念式典。同33年体育館完成。同37年創
立15周年記念式典。同42年創立42周年記念式典。同43年完全給食開始。同44年沖縄金武村
から訪問団来校。同46年沖縄親善訪問団訪沖。同
52年現在地に防災モデル校舎として建設された
新築校舎に移転。同53年創立30周年記念式典・落成式。同62年創立40周年記念式典。同63
年校歌記念碑除幕。新校門完成。
 
平成2年学校環境緑化コンクール入選。同9年スクールカウンセラー設置。創立50周年記念式典。
同14年創立55周年記念式典。同19年創立65周年記念式典。同25年向島中学校と統合予定。  



■東京都リハビリテーション病院
 堤通2丁目14番1号にある都立病院。平成元年の竣工。同2年5月一部開院。同3年5月全面開
院。同7年在宅リハビリ科開設。同13年在宅リハビリ科を地域リハビリテーション科に変更。同1
6年リウマチ科開設。

 この病院は、東京におけるリハビリテーション医療の中核的な病院として、また災害時には医療救
護活動の拠点になるという複合目的を持った病院として、東京都が設置し、東京都医師会が指定管理
者として運営をしている。



■忍岡高等学校 閉校
 堤通2丁目15番14号にある都立校。旧の墨田川高校堤通校舎の跡地だ。明治36年「私立女子
美術学校」として芝公園弥生館内に開校。同39年3月本郷区千駄木町173番地に移転。同9月下
谷区谷中初音町4丁目20番地の日本美術院跡に移転。同42年「私立日本女子技芸学校」と改称。
同44年東京市に移管。「東京市立第一女子技芸学校」として認可。同45年「東京市立第一実科高
等女学校と改称。大正5年下谷区池ノ端茅町2丁目38番地忍岡尋常小学校跡に移転。昭和3年校歌
(佐々木信綱作詞・信時潔作曲)制定。同4年「東京市立忍岡高等女学校」と改称。同15台東区
浅草向柳原町2丁目12番地 蓬莱園跡(浅草橋5丁目1番の前校地)に移転。同18年「東京都立
忍岡高等女学校」と改称。
 同22年専攻科を付設、新制中学校を併設。高等女学校の生徒募集停止。同23年「東京都立忍岡
新制高等学校」と改称。同24年男女共学を実施。同25年「東京都立忍岡高等学校」と改称。専攻
科廃止。同27年現校歌(土岐善麿作詞・石桁真礼生作曲)制定。平成9年同18年度に都立忍岡高
校と上野忍岡高校とが統合して台東地区単位制高校が開校されることが公示。同15年墨田区堤通2
丁目15番14号の墨田川高校堤校舎跡に移転。大規模改修工事開始。同16年台東地区単位制高校
開設準備室を上野忍岡高校内に設置。同18年2月大規模改修工事完成(体育館を南棟に改築、北棟
・西棟を改修)。同4月1日普通科4学級(募集人員160名)生活科学科2学級(募集人員70名)
の全日制単位制高校として開校。上野忍岡高等学校と統合して閉校。



■木母寺門前境外碑林

 堤通2丁目16番1号の木母寺入口前の境外に巨碑が並んでいる。

 日露戦役従軍記念碑
 東郷平八郎の揮毫。

 大正震火災横死者追悼之碑
 昭和51年の寺の移転に伴って移設。大正12年の関東大震災の被災死亡者を弔う碑。真泉光信の
書丹。真泉光隆著『梅若塚物語』によると、寺周辺の当時の様子が次のように述べられている。

 
  本堂は前方に大きく傾斜したが、辛うじて倒壊は免れた。時おり襲う激しい余震のさな
   か、墨堤には被災した人々の列がえんえんと続き、村人は初めての事の重大さを覚った。
   それらの人々の中には堤をおりて境内にとどまって仮小屋を立てるものも出て、梅若堂
   の前面には時ならぬテント村が出現、さらに戒厳令の布告と共に軍用天幕も張られ、軍
   隊による非常食の配給も開始される有様。思えば昨夜は台風模様の怪しい天候のもとな
   がら、この夏おわりの縁日が立ち、かなりの混雑だったというのに、一夜にして全く予
   期しなかったこの変わりよう

 守命供時碑
 石幡貞書


■梅若塚・梅柳山隅田院木母寺
 堤通2丁目16番1号の現在地より約150m北側にあったが、都市再開発法に基づく防災拠点建
設事業の実施により、昭和51年に現在の都立東白鬚(ひがししらひげ)公園の一角に移転した。江
戸時代でいうと、現在地は御前菜堀(内川)の川口部分で水の上だ。
 
貞元元年(976)僧の忠円によって梅若丸の墓所(梅若塚)が築かれ、翌年その側に念仏堂が建
立されたという。
文治五年(1189)源頼朝が奥州遠征の途中に参拝したらしい。長禄三年(14
59)
太田道灌が参拝し梅若塚を改修したといい、この頃梅若寺が建てられたともいう。文明十七年
(1485)
京都五山の僧で詩文のたくみな万里が、ここを訪れたことが彼の詩集「梅若無尽蔵」に
述べられている。これは梅若塚を記したものとして、現存する最古の文型だ。また翌十八年には准三
后の位にあった僧の道興も、ここを訪れたことが彼の紀行文「廻国雑記」に記してある。
天正十八年
(1590)徳川家康が参拝し、梅柳山という山号を贈った。慶長六年(16〇1)
徳川幕府より5
石の寺領を給せられる。ついで寛文十年(1670)更に20石を加増される。同十二(1607)
慶長十二年(1607)前関白近衛信尹が参拝。この時「木母寺」と改名される。
寛永年間(162
4)
当寺の境内に隅田川御殿が建てられ、将軍その他の貴人がしばしば来寺する。延宝7年(167
9)
上州高崎城主の安藤重治によって絵巻物「梅若権現御縁起」3巻が寄進される(現存)。宝永二
年(1705)
寺の伽藍の様子が石川流宣の「江戸案内巡見図鑑」に詳示される。元禄~享保(16
88)
梅若伝説に取材した一連の文学作品「隅田川物」の最盛期となる。当寺は、この頃、貴人の寺
から庶民の寺となり、広く世人に親しまれるようになる。
 
明治元年維新と共に幕府の保護を失い廃寺となり、寺の堂社は取り除かれて跡地には梅若神社が創
建された。同21
仏寺復帰の願いが僧の光円によって実現され、木母寺復興。同22年、梅若神社
が旧に復して梅若堂となる。神社を再び仏寺とすることは、当時としては非常に困難な事業であり、
当寺ではこれを明治中興と称している。
大正9年東京府によって梅若塚が史跡の指定を受ける。
 昭和20年4月13日米軍機の空襲を受けて本堂など焼失。また戦火を免れた唯一の仏堂である梅
若堂も15日の再度の空襲により再度の損傷を受ける。同25年
元の位置に仮本堂建立。同27年に
は梅若堂を改修し、梅若権現忌(梅若祭)が復活し今日に至る。なお梅若忌は明治中興後は新暦4月
15日に執行されるようになった。同51
都市再開発法に基づく防災拠点建設事業の実施により、
現境内へ移転する

 木母寺の名は、慶長十二年(1607)前関白近衛信伊が「梅」の字を分解して「木母寺」改めて
からだ。塚は古いとは伝えるものの、その最も古い記録は、文明十八年(1486)僧万里集九が、
隅田川で太田道灌の催した舟遊びなどを著した漢文詩集『梅花無尽蔵』の中に「梅若丸の墓所として
塚があった」としていることだ。梅若伝説については北区の「隅田川」に詳述してある。

 題隅田堤櫻花
 弁天堂裏の塀沿いにある。文政三年(1820)に亀田鵬斎が書した

   長堤十里白無痕
   訝似澄江共月渾
   飛蝶還迷三月雪
   香風吹度水晶村


 の詩を本に、同12年(1829)に窪世祥が鐫したと識文にある。亀田梓(綾瀬)識。9歳童清
水孝君書。綾瀬と孝のコンビは白鬚神社の碑の1年後のもの。

 身代わり地蔵
 この地蔵尊は、木母寺が旧地にあった頃、門前に安置されて多くの人々から深い尊信を寄せられ、
民衆守護の願いを聞き届けられた、縁の深い地蔵尊だ。そもそも地蔵菩薩は、常に六道(人間が転々
とする六つの境涯)を巡り、人々の悩み苦しみを察し、身代わりとなってくれるという「代受苦の菩
薩」としての信仰が古くからある。辛いこと、苦しいこと、悲しいことが起こった時には、この地蔵
尊に訴え、「身代わり」をお願いして、あなた自身は元気を取り戻してください。地蔵菩薩の御真言
(お祈りするときの言葉・合掌して三たび唱える)

   訶訶訶尾・娑魔曳・娑婆訶(オン・カカカビ・サマエイ・ソワカ)

 紀恩之碑
 明治4年の建碑。空襲の時の機銃の痕か、あばたに丸い穴が開いているのが痛々しい。長松幹撰文、
巌谷修書、谷鐵臣隷額とある。

 恆山先生武藝勒石記
 天保二年(1831)の建碑。綾瀬亀田梓撰文、杉山懿篆額并書丹、窪世祥鐫。恆山先生って誰?

 山井先生神遊之表の碑
 文化二年(1805)の建碑で、烏山勝忠成篆額、桂林縄惟直撰文并書丹、中慶雲刻、

 三遊塚
 
三遊亭円朝が明治22年3月21日、先師初代三遊亭円生翁を追福するため木母寺に建立したもの
だ。題字の揮毫は山岡鉄舟。碑陰は高橋泥舟が虞世南風の楷書を記している。明治22年の建碑で、
鐫は宮亀年が執っている。

 浄瑠璃塚
 文政四年(1821)建碑。

 華渓先生禿筆之蔵銘并序の碑
 文政三年(1820)の建碑で、碑主は三井龍湖(親和)門下の書家らしい。小田切図南の書。下
部が土中に埋没している。

 エイ研冢銘
 エイは転換できず説明できない漢字。文化十二年(1815)の建碑。西華山人長屋賢書并篆。

 天下の糸平 伯爵伊藤博文書
 木母寺の入口角の境内塀際に建っている巨碑。
19世紀最強の相場師といわれ、「天下の糸平」と
いわれた藤島(田中)平八を顕彰するもので、その活躍ぶりは明治時代の教科書になった程だ。何で
もかんでも糸平の前には「さすが」という枕詞がつく。「さすが糸平」というように、やることなす
ことがとにかく凄いのだ。碑は伊藤博文が書いた畳20枚といわれる巨大なもの。子供のころ糸平は、
伊那から名古屋に米を買いに行く途中、老人の首吊り自殺の現場に遭遇した。その遺書を見ると「八
十八歳になって身寄りもないので、この枝振りのいい松を選んで命を絶つ」と書いてあった。すると
まだ十数歳の天下の糸平は、「八十八歳の米寿。米がぶら下がっているから米は売りだ」といって、
主人には米を買って来いといわれたのに、名古屋に着いてから予定を変更して売り方にまわし、それ
が大当たりしてしまう。「天下の糸平伝」は、世の中に数多く出ているが、これは必ず出てくるエピ
ソードの1つだ。子供の頃から天才的なところがあったのだということを物語っている。横浜で生糸
とかドルを売買した後に、日本橋へ乗り込んできて、現在の東京証券取引所の設立に際しては、発起
人になっている。当時の取引所は株式会社だったので、株主でないと親分にはなれなかった。兜町と
蛎殻町と橋をまたいで二つの米の取引所があったのだが、両方の株を買い占めて一つにまとめて、現
在の蛎殻町の所に東京米商会所を作り、初代頭取を務めた。

 花笠文京翁碑
 明治22年の建碑。如電大槻修撰文、益田香遠書。篆額は堀越修で鐫は宮亀年が執った。碑は弟子
の仮名垣魯文が建てた。花笠は江戸時代後期の日本の狂言作者・戯作者。別名に花笠魯助(魯介)、
代作屋大作。兄は儒者東條琴台。

 賛奎運の碑
 明治28年頃の建碑。東京書籍出版組合有志が建てたもので、碑主長尾は活版印刷に功績があった
人のようだ。土方久元篆額。久米邦武撰文。櫻井能監書。



■水神社・隅田川神社
 堤通2丁目17番1号にある大社。祭神は、速秋津日子神・速秋津比賣神・鳥之石楠船神・大楫木
戸姫神、(配祀)水波之賣神・御井鳴雷神。境内末社:粟島神社、金神社、天神社、若宮八幡神社(旧
若宮村鎮守)、三財稲荷神社。隅田川の総鎮守であり、水上安全の守護神として崇敬を集め、古くは
「浮島社」、または「水神社」「水神宮」と称していたが、明治5年新政府の強制により「隅田川神
社」と改称させられた。
 かつてこの辺りは樹木が繁茂し、水神の森とも称された微高地だった。隅田川の増水でも沈む事が
無く「浮島」の名もあった。昔から河川交通の要衝であり、海運や運送業者の尊崇を集めていた。そ
のため狛犬の代りに亀が左右に鎮座している。現在は高速道路と防災拠点建設のため旧地より100
m程移転した。
 治承の頃(1177~80)源頼朝が関東に下った折、暴風雨に逢い、当社に祈願したと伝えられ
ている。現在の御社殿は嘉永元年造営のものが、安政2年の大地震で倒潰したため安政五年(185
8)に再建されたものだ。関東大震災及び太平洋戦争などで被害を受けたがその都度修理を加え、現
在地より約25m北に南に向いて鎮座していたが、高速道路が神域をかすめることとなったため社殿
に大修繕を加え、昭和50年6月現位置に遷座した。
 「新編武蔵風土記稿」に、

   御神体龍神にて長七寸

 とある。速秋津日子神や鳥之石楠船神は、伊弉諾尊・伊弉冉尊の子。創建の年代は不詳だが、水神
が亀に乗ってこの地に上陸したという伝承が残る。古代ではこの辺りが利根川の河口だったから、海
からやってきた人々がここに上陸した記憶なのだろう。長享元年(1487)の尭恵法師の「北国紀
行」に、

   利根、入間の二河落ちあえる所に、かの古き渡りあり、東のなぎさに幽村あり、
   西のなぎさに孤村あり


 とある。各地で戦国大名が旗揚げし、関東では北条早雲が伊豆を奪う頃の様子。西の孤村が石浜、
東の幽村が関屋(旧関屋、新荒川橋付近)だろう。

  けふよりも衣は染つ墨田川 流れわたりて世をわたらばや(木阿弥)

 水神社は「みずじんじゃ」ではなく「すいじんのやしろ」「すいじんしゃ」と読むが、水神を祀っ
たもので、昔は参道前に船着場があり、川から上がってお参りするものだった。今は殺風景な防潮壁
と真上の高速道路で刑務所の中にいるみたいだ。川は全く見えず、墨堤の風情が感じられないのが寂
しい限りだ。「すみだの史跡文化財めぐり」に、

   「水神社」と呼ばれかっては樹木が繁茂し、水神の森とも称された微高地でした。また隅
   田川の増水にあっても沈むことがなく「浮島」の名もありました。昔から、河川交通の要
   衝(往古の街道筋・近世の渡場)であり、海運・運送業者の尊崇を集めていました。現在
   は、首都高速道路と防災拠点建設事業のために、昔の面影はなく、社地も旧地の南100
   mの地に移転しています。
   祭神は速秋津比古のほか三神を主神としています。また社伝によると、源頼朝挙兵の折の、
   治承四年(1180)この地に到り、水神の霊験に感じて社殿を造営したともいいます。
   現在の社殿は幕末の安政五年(1858)と元治元年(1864)の二度の建設によるも
   のです。
   また、維新時には社掌矢掛弓雄が出て、大いに社運を盛り上げた模様で、彼の手になる歌
   碑、記念碑が多数残っています。
   なお、同社には「徳治(1306~08)」銘、「永正十四年(1517)」銘など、合
   わせて三基の板碑の所蔵が判明しておりますが、諸事情によって実見することはできませ
   ん。


 とあり、区の説明板に、

   水神の森跡
   荒川の下流、鐘ヶ淵を越え大きく曲がったこの地は、隅田川の落ち口(終点)で、かつて
   は鬱蒼とした森が広がっていました。人々からは水神の森とも浮洲の森とも呼ばれて親し
   まれていました。
   昔、ここから入江が始まり、海となっていたことから「江の口」、すなわち「江戸」の語
   源ともなったといわれています。
   水神の森は「江戸名所図会」にも描写されているとおり、川岸にあった水神社(隅田川神
   社)の鎮守の森でした。川を下ってきた人々は隅田川の入口の森として、川をさがのぼる
   人々にとっては鐘ヶ淵の難所が近いことを知らせる森として、格好の目印となっていまし
   た。その後、震災・戦災にも焼失を免れた森は戦後の開発で失われてしまい、隅田川神社
   自体も百メートルほど移されて現在地に鎮座しました。
   平成19年3月                         墨田区教育委員会

 とある。

 香吟岸田翁碑
 明治44年の建碑。日下部鳴鶴の代表碑の1つ。篆額は中書禮部顧問官揚守敬。撰文は東宮侍講三
島毅、書丹は日下部東作。錚々たる顔触れだ。岸田吟香は「麗子像」で有名な画家岸田劉生の父で、
新聞事業の先駆者として知られた。文末に「木旭晨■」とあるから、この者が刻者だろう。

 須田医学博士碑
 入口を入った正面、高速道路を背にして建つ2つの巨碑の1つ。左側の高さ5mもあろうかという
巨碑。巌谷一六書丹。明治30年の建碑。文部大臣蜂須賀茂韶題額、陸軍軍医総監石黒忠悳撰文、勅
選議員錦鶏祇侯巌谷修書丹。井亀泉刻字。

 佐々木荘助碑
 入口を入った正面、高速道路を背にして建つ2つの巨碑の右側の1つ。明治28年の建碑で篆額を
〝郵便の父〟前島密が篆額を揮毫、撰文は重野安釋、書丹は柳澤信太、彫刻は田鶴年。碑主の佐々木
は当時の飛脚問屋の総代で、前島が郵便制度を導入する際、佐々木を口説いて飛脚システムを取り込
むことに成功したことで、今日の郵便制度がある。郵便制度は民業圧迫であり、飛脚屋を苦しめるも
ので、佐々木は猛反対したが、結局前島に協力したという訳だ。そのことに感謝して碑は建てられ、
篆額の揮毫を前島が引き受けたということだ。

 隅田川八景歌碑
 隅田川八景は、木母寺秋月・今戸夕照・金龍山晩鐘・真崎夜雨・三囲暮雪・待乳山晴嵐・吾妻橋帰
帆・渡場落雁をいうが、この歌碑については承知していない。

 坂田源次郎翁頌徳碑
 大正12年に建てられたというが、境内には見当たらない。ネットサーフィンしても、名前がある
だけで、坂田がどのような人物か判らない。

 無琴道人墓銘
 文政二年(1819)の建碑。大窪詩佛の楷書碑で、白鬚神社の草書碑、三囲神社の隷書碑を合わ
せて詩佛の3書体を見ることが出来る。亀田興(鵬斎)の撰文を、大窪行(詩佛)画書し、篆額も詩
佛が揮毫している。鐫は廣羣鶴。

 水神宮道標
 山東京傳の弟の京山が書いて建てたというが、何処に建ててあったものか不明。文政二年(181
9)三月に
建てられた「建久年間垂跡」という道標が残されている。この道標は、頼朝が隅田川を渡
河したことにちなんで建てられたものだ。


 狂歌亭(鹿都部)真顔狂歌碑
 詳細不明。




■堤小学校 統合閉校
 堤通2丁目19番1号にある区立校。昭和57年「東京都墨田区立堤小学校」として開校。開校記
念式典・校歌校章制定。同59年東白髭公園植樹祭。中曽根総理大臣より書類「人生開拓」を贈呈さ
れる。「緑を育てる会」発足。同61年文部省帰国子女教育研究協力校として日本語教室開設。開校
5周年記念式典。
 平成4年「すみだセミナーハウス」設置。創立10周年記念式典。同9年創立15周年記念集会・
式典。同11年コンピュータールーム設置。同13年インターネットセットアップ。同14年創立2
0周年記念式典。同16年ランチルーム開設。
同18年世界児童画展・総理大臣賞受賞(個人)文部
科学大臣奨励賞受賞(団体)。同19年世界児童画展・総理大臣賞受賞(個人)文部科学大臣賞受賞
(団体)。創立25周年記念式典。同20年世界児童画展・文部科学大臣賞受賞(個人)文部科学大
臣奨励賞受賞(団体)。同23年梅若小学校と統合し、閉校した。
 なお跡地は鐘淵中と向島中が統合新設した中学校になる予定。。



■新中学校 予定
 堤通2丁目19番1号の堤小学校の跡地に、平成25年向島中と鐘淵中が統合して新設中学校がで
きる。

 
映画スタジオ発祥の地
 旧堤小学校のフェンスの中にある。この辺りは、その昔、別荘地だったが、これを大正2年に「日
本活動写真株式会社」(日活)が買収して映画のスタジオを建設した。 スタジオは、日本初の総ガラス
張り「グラス・ステージ」で、東洋一の規模だったといわれるが、関東大震災の後閉鎖された。

   近代映画スタジオ発祥の地  
   設立  日本映画建碑委員会
       1998年11月
   協賛  墨田区教育委員会 社団法人日本映画テレビ技術協会
       日本大学芸術学部 日活株式会社 株式会社 フジワラプロダクションズ


 堤小学校付近には、映画をまだ「活動写真」といっていた頃、隅田村の堤外(現在の堤通2丁目)
に日活の向島撮影所があった。明治29年に輸入された映画は、40年代に入ると、すっかり大衆娯
楽として定着してきたが、映画を作る撮影所のほうはまだまだ貧弱なものだった。そのころ、映画会
社のひとつ日活(日本活動写真)は、新しい構想のもとに撮影所の建設を目指し、適地の物色をはじ
めている。その結果、大正2年に当時田園地帯で空気が澄み撮影に適した隅田川べりの別荘地を買収
し、10月に日本最初の屋内ステージを持つ、敷地7500㎡の日活の撮影所が開設、完成された。
このステージは、400㎡で地上12mの高さに木造の床を作り、外部は採光を良くするための総ガ
ラス張りの画期的な建物で設備も近代的なものばかりで東洋一と評されていた。また光を反射して燦
然と輝くこの撮影所は、建物としても珍しく、名所雑誌に掲載されたほど有名であった。ここで幾多
の名作が生れた。それらは、撮影所の地名を取って「
向島作品」と称され、過渡期の日本映画に一躍
「向島時代
」を築き上げた。つまり活動写真新派劇の総本山は向島だった訳だ。
 中でも当時、人々に口ずさまれていた「カチューシャ
」の歌を挿入した『カチューシャ』『後のカ
チューシャ
』『復活』は一世を風びし、映画ファンの人気をさらった。なにしろ、この三部作で当時
のお金で16万円の興行収入をもたらしたという。
 俳優の方ではカチューシャを演じた「立花貞二郎
(女形)」、ネフリュ-ドを演じた「関根達発
がおり、また、大正・昭和期を通しての名映画監督「衣笠貞之助
」も、この向島撮影所の出身だ。
 向島時代の作品は、今日の映画と比べるとまだまだ幼稚なものといえるが、俳優ばかりでなく制作
スタッフも、新しい映画技術を目指して暗中模索の中で懸命にカメラを動かしていたのであるが、関
東大震災の影響で僅か10年しか使われなかった。
 また時を同じくして独立プロの草分け、高松豊次郎プロダクション
も吾嬬町西4丁目(現在の京島
3丁目原公園付近)にスタジオを持ち、忍術剣術
映画を作っていた。ここでは古いファンにお馴染み
の大河内伝次郎、バンツマで一世を風靡した坂東妻三郎、江川宇礼雄
などが活躍している。
 このように、当時の向島は、「映画の街
」としても知られていた。しかし日活向島撮影所は10年
後の震災で損傷し、修理をして撮影を続行したが、時代の波には勝てず、同年中に京都に移転した。
 一方、高松プロのスタジオは第2次大戦で焼失し、映画の町、向島はここに終わった。時代は変わ
り今日、テレビという新しい映像が出現して、大衆の趣向も映画から遠ざかった。映画館は続々廃業
し、スーパー・マーケットなどに姿を変えていった。昭和46年1月、北部地域最後の映画館≪向島
金美館
も駐車場となったが、最盛期には14館を数えた。





【業平】(なりひら)1~5丁目                   昭和42年5月1日
 小梅村・押上村・柳島村など。明治11年本所区所属。昭和5年小梅瓦町・中ノ郷業平町・押上
町・柳島元町の各一部をあわせた町域を業平橋1~5丁目とし、同42年の新住居表示で「橋」の
字を取って現行の「業平」とした。区の小さな博物館運動により、5丁目に能面博物館ができた。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『墨田区史』『墨田の歴史』など。

 
業平の由来
 町名は大横川に架かる橋の名前。橋は初め「小梅橋」。寛文二年(1662)関東郡代伊奈半左
衛門忠勝によって架けられたのが最初で小梅村に架かる橋なのでその名があり、業平橋に変わった
については長くなる。
 橋畔の業平山(ぎょうへいざん)南蔵院は俗に〝業平寺(ぎょうへいじ)〟と呼ばれ、境内に業平天
神があった。慶長八年(1603)西ノ丸下(皇居外苑)で角力(すもう)興行が催され西方が勝ち
こんでいた。昔の角力は東西対抗で個人戦はない。西の関貫の木梶之助の対抗馬は越前中納言松平
秀康(家康次男)の抱え力士成川運平(なりかわうんぺい)と見られたが、すでに七番を取ってい
たので立ち会わず、これで終りというとき大久保彦左衛門が「西方が勝ってる。東国が西国に負け
たと言われては疵がつくだろう」と猛将石川又四郎重正を唆すと、又四郎は快諾し「成川の弟子だ」
と触れ込んで貫の木と立ち会った。 又四郎は5尺2寸8分(160cm)の小兵だ。6尺2寸7分
(190cm)の貫の木は小男と侮って摘み出そうとしたが、又四郎は百戦錬磨の剛の者、難なく貫
の木を土俵の真ん中に叩きつけた。貫の木は打ち所が悪く悶絶して無様の体を晒し弟子たちに担ぎ
出される始末。何日経っても痛みが引かない。播州芥川に名医がいるというので遥々そこまで出か
けて行き、数ヶ月かけて完治することができたが、貫の木の怒りは治まらず見当違いにも成川を恨
みに恨んだ。翌九年七月秀忠が二代将軍となりその祝いの角力興行は江戸城造営のため西の丸下が
使えず本所小梅村で執り行われることとなった。西の関は貫の木、東の関は成川と決まったので貫
の木は大喜び、「去年は急場凌ぎの武芸者に見苦しく不覚を取らされたが恥を雪ぐのはこの時」と
勇んで勝ち続ける。一方の成川も勝ち進んで8日目に両雄相見えることとなったが、当日は生憎の
大雨で興行はそれで打ち切りということになった。つまり貫の木の意趣返しは不発に終わったのだ。
 慶長十年(1605)のある日、暇を持て余していた貫の木は弟子たちを引き連れて賭場に出か
けた。一方の成川は亀戸天神の信仰厚くその参詣の帰り道、二人は小梅橋の上でバッタリと出くわ
した。人口のも少ない当時、住家もなければ歩く人もさらさらない。そこで人が見当たらないのを
いいことにすれ違いざま成川の後ろを袈裟懸けに斬った。万夫不当といえども多勢に無勢、成川は
散々に斬られ突かれて殺されてしまった。そこで物取りに見せかけるため、成川が越前公から拝領
の来国光の太刀を奪い、懐のずっしりと重い包みは切り餅(一分銀百枚=25両)と思いきや銅の
天神像だったので、それは弟子の鬼石藤蔵が盗った。
 この事件は目撃者不在で下手人は判らず迷宮に入るかという頃、貫の木の勘気を蒙り破門された
鬼石が貫の木への竹箆返しにと、天神像を持って成川の妻と娘を訪ね、事の一部始終を打ち明けて
謝罪した。娘が17歳になった元和六年(1620)石川八左衛門正次が助太刀、大久保彦左衛門
が後見により仇討と相成ったが、当の貫の木は驚いて逐電遁走、二度と江戸へは戻れず、名乗りも
できぬことになった。その後の行方は杳として知れない。
 成川運平のニックネームは名前を縮めて「成平(なりへい)」と通称されており、成川が殺され
てからの小梅橋は「成平橋(なりへいばし)」と俗称されるようになり、成川が葬られたのが橋畔
の南蔵院だったので、その境内にある業平天神社の業平の字が当てられて「業平橋」、都鳥を和歌
に詠んだ在原業平(ありわらのなりひら)も混同して「なりひらばし」と呼ぶようになった(遊歴
雑記)
というのだが・・・実に良くできている。
 矢田挿雲の説では、押上て相撲が行われ、黒川業平と梅若九三郎が取り組んだ。水入りとなる長
相撲となったが、行司が水を入れなかったので両者ともショック死してしまった。それから二人の
幽霊が出るという騒ぎとなり、その霊を鎮めるため業平天神社と梅若山王社を建てた。その傍らの
橋なのでという説がある。この天神様は南蔵院が葛西水元に移転する際に廃されたが、その縁起も
種々あって確たるものはない。在原業平の墓という「業平塚」説もある。あるとき誰かが謂れもな
く名付けたのか冗談を史実と聞き違えたのか・・・今となってはそれをそうと聞くしか法はない。

   春の月 業平町の家並かな(花渓楼)



■業平橋
 為永春水が『春色恵の花』に書く。寛文二年(1662)関東郡代伊奈半十郎忠政によって架けら
れたといわれているが、彼は承応二年(1653)に没しているので、子の半左衛門忠勝ではないだ
ろうか? 『東京案内』に「長さ七間 幅三間 木橋」の記録がある。
 現在の橋は昭和5年に長さ 31m60cm×幅22m の3径間コンクリート床板橋に架け替えられ
たが、戦後幅を22mから33mに広げた。欄干はアルミ製、都道453号線(浅草通り)を通し、
東方へ行けば吾嬬神社に至る。橋の架かる大横川は暗渠となって上面は親水公園となり、汽船形の平
屋の建物(変電設備と公園管理事務所)となっている。屋上からのコロ式の滑り台があって子供は大
喜びだ。ここから竪川まで河道を歩く事ができるが、平川橋までは釣堀となっているので夜間の入園
ができない。だから業平は業平橋だ!



■城の森八・森八本舗
 業平1丁目3番6号にある天守閣(御三階櫓)を模した建物の和菓子屋。創業は昭和8年。銘菓は
ともかく建物が珍しい。まあ大概の和菓子は揃えてらぁ。新宿に出店のある加賀金沢の「森八」とは
無縁のようだから間違わぬように。とにかく外観は必見。03-3622-0006



■本所税務署
 業平1丁目7番2号にある財務省の機関。



■墨田都税事務所
 業平1丁目7番4号にある都の施設。



王貞治の母校 業平小学校
 
 業平2丁目4番8号にある区立高。大正7年4月1日東京市業平尋常小学校として開校。柳島・牛
島・横川各校から児童を収容し入学式挙行。大正12年関東大震災により校舎全壊。青空教室→仮校
舎→新仮校舎。昭和2年鉄筋コンクリート3階建ての新校舎完成。同11年校歌制定

 校歌「煙 煙」  作詞・北原白秋  作詞・山田耕筰
  1.煙
(けぶり)煙 空になびく
    都の東 業平 我が校
    いきおえ我等 少年市民 少年市民
    学びて倦まじ
     輝くもの窓辺に来たり
     常に呼べり 正しく
     友よ いざ 勉めん
  2.桜 桜 水に映る
    隅田の春を 業平 我が校
    勇まし我等 日本児童 日本児童
    朝日に匂う
     輝くもの窓辺に来たり
     常に呼べり 正しく
     友よ いざ 勉めん
  3.響 響 雲にとどく 
    巷の誠 業平 我が校
    励めよ 我等 独学自修 独学自修
    進みて強し
     輝くもの窓辺に来たり
     常に呼べり 正しく
     友よ いざ 勉めん


 同16年東京市業平国民学校と改称。同18年4月柳元小学校廃校のため一部の児童を収容(学区
変更)。同7月東京都業平国民学校と改称。昭和19年8月千葉県市原郡に集団疎開(七ヶ町村十二
寺院)。昭和20年愚かなアメリカ軍の無差別空により校舎全焼。岩手県湯田村に再疎開、同山田町
に再々疎開。敗戦。同21年3月疎開解除。業平・本横・錦糸・柳島国民学校と合併授業。同22年
4月1日墨田区立業平小学校と改称。同25年新校舎一期工事分完成して生徒戻る。同26年第二期
工事完成、同27年第三期工事、運動場整備完了。同28年創立36周年記念式典。図書館(第四期
工事)完成。同29年第五期工事完成(4教室増築)。同30年講堂落成。同31年第六期工事完成
(4教室増築・図工室)。同32年第七期工事完成(4教室・理科室・図工室)。同51年~53年
校舎建替え。同43年創立50周年。平成20年創立90周年を迎える。

 王貞治監督の卒業した学校だ。
 
校庭の隅に球形のオブジェがある。王貞治に関するものだろうが、正体不明。



■押上天祖神社(押上の地名の由来の神社)
 業平2丁目13番13号にある。創建は670ほど前の延元年間(1336~39)に起きた洪水
の時、神体が汀(みぎわ)に
押し上げられていたのを村人が朝日神明社として祀ったことによる。
かつてこの辺りは押上村の内で、押し上げ(押上)が村の名になった。明治になって新政府の強制に
より天祖神社と改め、明治5年村社となった。はじめ業平4丁目5番の道路辺にあったが、関東大震
災に遭い全焼、区画整理のため現在地に移転した。すぐ南にあった徳正寺が別当寺だったが、現在は
牛島神社の末社となっている。昭和20年のアメリカ軍の無差別東京大空襲で壊滅したが、同27年
社殿を新築、同32年までに鳥居・水屋・玉垣などを再建整備した。鳥居の左に「鎮座600年記念
碑」が建つ。境内右奥の古い神輿蔵は大震災にも空爆にも耐えて生き残り、大神輿は現在も健在だ。
左手には溶岩で台座を拵えた三峰神社がある。村に秩父の三峰山に参る三峰講があって、押上講をつ
くり、同37年4丁目の成川善康らによって整備された。ン、成川? 運平の末裔か?境 内の掲示
板に、

   押上天祖神社は、明治5年10月元押上村の村社に列し祭日は9月16日と定められて今
   日に及んでいる。その起因するところによれば、古く延元年間より祭ってあった。延元は
   建武の次で、南朝の忠臣楠正成公が湊川の合戦で戦死し、後醍醐天皇が吉野に行かれた頃
   で今から六百余年の昔に当る。
   当時は押上と云ったかどうか分からないが、大昔は現在の東京の下町は海で、ところどこ
   ろに島や浮洲があった。この辺は柳島と云われ、早い時代に陸地となり人が住んだところ
   とも伝えられている。其の後、花園天皇時代に神明社と称した。祭神は天照大神と八幡、
   春日両大神を祭ってある。
   また一説には現在の京成橋附近で川が増水して堤防に押し上げられてあった御神体を、当
   時附近の農民等が安置して祭ったとも云われている。その頃は下総国葛飾郡押上村で、其
   の後に武蔵国に編入され、明治5年村社に列する事となり、明治11年の記録には、武蔵
   国葛飾郡押上村之内字居村向耕地、田8畝18歩、この代金16円80銭、同村天祖神社
   同所畑25歩、この代金2円50銭と云う文献が残っている。
   天祖神社は、呼名を朝日神明宮と云われた時代があったそうですが、其の時代は神仏の混
   交時代で、徳正寺と云う寺が管理していたのが、明治5年に行われた神仏分離により、神
   官のいない為か生島神社の区域であり、本社は生島神社で、押上天祖神社は其の末社と云
   う事になっている。
   又大正10年に大祭が行われ、同12年の関東大震災で社殿を焼失した。天祖神社はこの
   頃迄は平河橋4丁目地域にあったのが、後、昭和3年の区画整理で、現在地(業平2の1
   3の13)に替地になった。境内は272坪5合5勺、大空襲で焼失後社殿も再築された
   が、昭和20年3月の戦災で、またも焼失した。そして昭和27年度大祭の折、再び新築
   し、続いて昭和32年の大祭には鳥居が再建され、又玉垣、塀、水屋等も出来、神社とし
   ての形態がととのったのであります。尚、終戦後の宗教法人法による神社許可となってい
   る。昭和37年境内には社務所、会館を設立すると共に、従前の6ヶ町の外に新たに旧業
   平橋1丁目と、旧向島押上町が加わり、8ヶ町の神社となっている。
   現在の大神輿は、明治21年5月5日に新調されたもので、今までに関東大震災と戦災で
   二度に渡る災害にあったが、現在の神輿庫が奇蹟的に焼失をまぬかれたので大神輿も当時
   のままの荘厳華麗な姿を残して居ります。

 とある。、



長養山春慶寺
 業平2丁目14番5号にある日蓮宗の寺。元和元年(1615)浅草森田町の地に真如院日理上人
によって創建された。その後寛文七年(1667)に浅草から本所押上村に移転、現在まで約400
年の歴史を持つ由緒ある寺だ。江戸時代から「押上の普賢さま」と称され、特に辰年、巳年の人の守
り本尊として多くの参詣人で賑わった。当時の隆盛ぶりは「東都歳時記」や「武江年表」などで紹介
されている。また天明の頃(1781~89)に活躍した浮世絵師勝川春潮の「押上村行楽」という
浮世絵には、石の道標に「押上村」「普賢菩薩」という文字が見られ、押上村の春慶寺に参拝するこ
とが人々の大きな楽しみだったことが伺える。現在境内には「鶴屋南北の墓」や「関東俳優之碑」が
残っており、震災や大戦による災禍もあって一時寺運が衰えたこともあったが、昭和58年奇特な信
者の寄進と役員の努力により再興された。そして平成13年7月浅草通りに面した境内地に新しい堂
宇(7階建てのビルディング)を得、普賢菩薩鎮護の法華経道場としての道を歩み続けている。本尊
は唐の聖明王作の普賢大菩薩像で、推古天皇の十年(602)に伝来したとある9cmの立像だ。
くの芸人と縁がある。7階建てのビルの1階と2階を寺として使用しているそうだ。「新編武蔵風土
記稿」に、

   春慶寺
   同宗同末(法華宗、甲斐国身延久遠寺末)長養山と号す。本尊三寶を安す。開山真如院日
   理、元和元年起立し、同七年八月六日寂す。当寺は浅草森田町にありしを、寛文七年ここ
   へ移せり。。
   普賢堂。長二寸八分の像にして百済国聖明王霊夢を蒙り自ら模像せし所なりと。推古天皇
   十年に百済国観勒法師、此像を携て来朝し、其後聖徳太子に附属し、又大覚大僧正此像を
   感得し、三菩薩の郷を勅許を蒙りしかば、開運の普賢と号す。後水尾の皇女林丘寺身や光
   子内親王深く信じ給ひ自ら金粉を以て彩色し給ふ、中古下総国古河の城下に安置ありしが、
   寛保年間故有て当寺に移し安すと云。
   大黒堂。
   稲荷社。

 とある。

 岸井左馬之助寄宿之寺
 平成15年3月23日新たな名所が加わった。正面入口のすぐ脇に立つ高さ1m60cmほどの石
碑に彫られているのは、「『鬼平犯科帳』中 岸井左馬之介寄宿之寺」の文字。左馬之介は、池波正
太郎作の人気小説「鬼平犯科帳」で主人公の火付盗賊改方長谷川平蔵の親友として登場し、同寺に宿
泊する場面なども描かれていることから、全国の鬼平ファンの有志が建立した。建立の申し出があっ
た当初は、左馬之介が平蔵とは異なり実在の人物ではないことから、寺院にふさわしいかどうか悩ん
だという住職だが、檀家役員の賛成を得て受け入れを決めた。大の池波ファンで全作品を読破してい
るという住職は、内心は相当うれしかったようだ。一旦建立が決まると事はとんとん拍子に進み、池
波正太郎記念文庫指導員の鶴松房治を通じて池波正太郎遺族(夫人)の了解を得た。そして住職の知
人の演劇評論家藤田洋を通じ、左馬之介を演じたことのある俳優の江守徹に碑の揮毫を依頼、快諾を
得た。石碑は六方石製で、建立場所は最も目立つ〝特等席〟だ。
 碑の除幕は、池波の命日の5月3日に行う心算だったが、半蔵門線の延伸開通(3月19日)に伴
い、同寺近くに押上駅が開設されることから、3月23日に前倒しした。住職は、「この機会に近隣住
民の皆さんと手を携え、歴史や文化を生かした町興しで押上地区の魅力をアピールしていきたい」と
意欲を見せた。東京スカイツリーも開業だし、千客万来たせ。


 関東俳優の碑
 昭和51年に区の保護樹木とした4本のイチョウの木の下にある。

 宇野信夫の歌碑

   なつかしや本所押上春慶寺 鶴屋南北おきつくところ

 「おきつくところ」は「奥津城所」、つまり「墓所」の意だ。


 四世鶴屋南北の墓
 春慶寺墓地にある。古い壊れた角柱で、表に南無阿弥陀仏、裏に法名らしい判読不明の文字と「十
一月二十七日」が刻んである。この辺りは戦災で廃墟と化した所であるから、破壊された墓でも残っ
ているだけましなほうであろう。
その右の石碑は昭和42年の供養碑だ。この地は南北の屋敷跡とい
われ、南北の子の墓も出てきた。4世南北は近世中期の狂言作者で〝大南北〟と讃えられた人。宝暦
五年(1755)江戸に生まれ、幼名を勝次郎または伊之助といい、父と紺屋(藍染職人)をしてい
たが芝居好きで、安永五年(1776)初代桜田治助の門に入り桜田兵蔵と名乗る。文化元年(18
04)河原崎座の『天竺徳兵衛韓噺』で大当たりとなった。安永八年(1779)鶴屋南北を襲名、
『お染久松色読販』『東海道四谷怪談』などの傑作を作ったが、文政十二年(1829)75歳で歿
した。
 南北は江戸乗物町(中央区本町4丁目)の紺屋伊三郎の子として生まれ、安永五年(1776)初
代桜田治助に入門し、文化元年(1804)の「天竺徳兵衛韓噺」で当てたといわれる。同八年(1
811)4世鶴屋南北を襲名し、永く名声を恣にした。文政十二年(1829)11月27日に亡く
なった南北の葬儀は、翌年1月13日この春慶寺で盛大に営まれた。深川の黒船稲荷の自宅からこの
寺まで、裃をつけた役者衆の長い葬列が続き、参列した大勢の人々には、竹皮に包まれた団子が振舞
われ、生前予め書き上げた自らの葬いを目出度い萬歳に仕立てた「寂光門松後萬歳」(しでのかどま
つごまんざい)の台本が配られた。



■王仕福・押上の五十番
 業平2丁目14番1番、春慶寺の西隣(現在空地)が〝世界の王〟王貞治の父母仕福・登美夫妻が
やっていた3番目の「第二五十番」のあったところで、第一は荒川(八広)駅前の、貞治が生まれた
店だよ。敗戦後、登美の弟川口二郎・志津子夫妻に譲ったが、現在八広駅前に移って「洋食50BA
N」になっている。仕福は、この押上の五十番を、昭和37年に畳むと新宿歌舞伎町に移転し、同4
0年に店を閉めた。



■友綱部屋
 業平3丁目1番9号にある立浪一門の相撲部屋。
昭和15年5月場所限りで引退した高島部屋(前
4八甲山純司)所属の小結巴潟誠一は、年寄玉垣(後に安治川に名跡変更)を襲名して、すぐに玉垣
部屋を創設した。同26年5月に8代目高嶋が死去すると9代目高嶋を襲名して高嶋部屋を継承し、
先代の弟子の吉葉山を43人目の横綱に、三根山を大関に育てた。その後義父の7代目友綱(矢筈山
登)が同36年1月に停年退職したため、同年5月娘婿の9代目高嶋(巴潟)が8代目友綱に名跡変
更して友綱部屋に改称した。同51年3月に停年退職し、義弟(妻の妹の夫)
の年寄安治川(十両一
錦周之助)が9代目友綱となり部屋を継承し、現在は9代友綱の娘婿12代目高嶋(関脇魁輝薫秀)
が10代目友綱を襲名し部屋を継いで、大関皇博之を育てた。



■王仕福・業平の五十番
 業平4丁目8番6号にある。この店は従業員の関五一が引き継いで現役だ。もう50年を超える。
本人も84歳を越した。彼は27歳の時、新潟から上京。王貞治の父仕福が経営していた中華料理店
に見習いとして入った。昭和37年に現在の店を暖簾分けして貰い開業、今も包丁を握る。当時早実
野球部の練習の場は練馬区で、貞治の帰宅は毎日午後10時ごろだったという。疲れてお腹をすかせ
た貞治に好物の肉そばを出していたのは五一だった。「いつもうまそうに食べてました。食べ終わっ
たら、家の裏で素振りをしたり、宿題をしたり。忙しい高校生でした」と振り返る。



■榎戸稲荷神社
 業平5丁目4番23号にある神社。創建年代は不詳だが、榎戸稲荷神社の元別当寺だった常照寺が
榎戸山と号しており、奝覚(慶長十四年(1609)没)が開山していることから、江戸時代初期に
創建されたものと推定できる。境内石柱に、

   往古より柳島の地に、四民の崇敬篤き稲荷大明神をまつる霊験あらたかな神社有り、元禄
   十丁癸年、武蔵国葛飾郡柳島村検地水帳に「稲荷大明神、社地七畝二十八歩余り、榎戸山
   常照寺持」とある。明治維新の神仏分離令により、名を榎戸稲荷社と改め、今日に至る。
   平成改元を機に有志にて建立す。

 とあり、「新編武蔵風土記稿」に、

   柳島村
   福稲荷社
   常照寺持


 とある。



柳島妙見山玄和院法性寺

 業平5丁目7番7号、横十間川に架かる柳島橋の西詰めにある日蓮宗の寺。通称「柳島妙見堂」と
して名高く、江戸時代から庶民の信仰を集めていた。市川市真間の弘法寺の末寺で、明応元年(14
92)日遄上人によって創建された墨田区で最も古い寺だ。江戸時代に、全国から集めた萩を植え、
その見事さは江戸の名所の一つに挙げられたという。現在も100種類以上の萩が植えられている。
 北辰妙見大菩薩を奉安した妙見堂は、もと江戸城の鬼門よけとして建てられたもので、境内には松
の古木があり、初代歌川豊国の碑など、江戸時代の名残りがある。この寺も鉄筋コンクリート3階建
てのビルとなって、少しぱかりの墓や石碑のみが昔日の面影を宿すだけとなった。奥の鉄筋コンクリ
ート6階建ての建物(業平ハイツ)が共用で庫裏になっているようだ。芸術家、噺家などのゆかりの
寺で石碑などが多数ある。開創より吉運を開いた人物が多く、祈願と供養の寺として親しまれており
近松門左衛門碑・芭蕉句碑・
栄松庵一鶴の句碑・小蓮遺愛之碑・夢さめての句碑・瘞髪塚(火消し和
解の碑)・
桂家元故六世文治之碑・宝田寿助の辞世歌碑・涼しさやの句碑・桜田左交「花清し」の辞
世句碑・
葎堂午漣の辞世句碑・豊国先生瘞筆之碑・昔ばなし柳塚・風也坊秋香の句碑など現存する碑
が多数ある。「すみだの史跡文化財めぐり」に、

   柳島妙見と呼ばれて江戸時代から信仰する人の多かった寺です。天正元年(1573)日
   遄上人によって創建され、妙見山玄和院と号し、日蓮宗真間山弘法寺の末寺です。妙見大
   菩薩を奉安した妙見堂があります。妙見菩薩は北斗星を神化したもので、国土を護り貧窮
   を救うといわれている仏様で、像容は端麗な天女形です。
   江戸城の鬼門除けとしておかれたというこの妙見堂のそばに、周囲2m余にもなる影向松
   という古木がありました。この松は妙見が降臨したと伝えられています。なお、妙見堂は
   特に桂昌院の帰依が深かったそうです。北十間川沿い内には橋本家という料亭もあり、舟
   で来る人も多く、かなり賑わっていたようです。しかし今は、本堂をはじめ庫裡等すべて
   近代建築となって昔の面影はありません。
   寺の入口に「北辰妙見大菩薩」と刻まれた高さ1m70cmの石標が建っています。右側
   面に「妙見山法性寺」、左側面に「宝暦二壬申(1752)六月十五日坂本町講中 
   □□町講中」とあります。この石標は、以前は道標をかねて浅草通りに面して立てられて
   いたようです。


 とある。

 葛飾北斎辰政顕彰碑
 右手奥に、平成18年4月に建立された。隣に近松文左衛門碑がある。
 北斎は江戸後期の浮世絵師。江戸生まれ。幼名は時太郎、のち鉄蔵、春朗・宗理等30余の別号を
使った。勝川春章の門で浮世絵を学ぶ。また狩野派。土佐派・西洋画などからも画技を学び、司馬江
漢などの洋風銅版画にも関心を寄せるなど、破天荒な修業生活を送り、風景版画に新生面を開いた。
その画風は西洋印象派の発生に大きな影響を与えた。代表作『富嶽三十六景』『北斎漫画』など。

 近松門左衛門碑
 
昭和36
。境内に埋れていた江戸時代の旧い石碑が忽然と姿を現した。それは、江戸時代の文人
、門左衛門の曾孫を自認する近松繊月が 門左衛門の法要の席で配布した「近松略伝」が彫り込ま
れた近松門左衛門の供養碑だった。碑には、

   日本浄瑠璃歌舞伎稽戯作中祖、近松門左衛門藤原信盛文碑。曾祖近松門左衛門藤原信盛。
   長州萩之家臣杉森某の男。賜笏六位・・・・


 
とあり、これにより近松の越前生誕説は覆され、長州説が裏付けられることとなった。

 この供養碑は永らく寺内に保存されていたが、この度アクリル製よりも硬質で透明度も高く、風雨
に曝されても、傷まぬよう永久保存の科学的処置を施され、
土のついたままの発掘された現物が、
成17年4月24日
参拝客が直接拝覧できる場所に再建された。現在、
その隣に葛飾北斎辰政顕彰碑
が建てられている。
 門左衛門は、江戸時代前期の浄瑠璃・歌舞伎の戯作者(脚本家)本名杉森信盛。長州藩士杉森某の
子として生まれ、京都で育つ。20歳の頃から浄瑠璃を書き始め、当時の優れた浄瑠璃語り竹本義太
夫のために多くの傑作を書いた。歌舞伎役者坂田藤十郎のためにも優れた戯作を残した。作品は、歴
史や伝説を材料にした時代物と、町人生活を題材とした世話物とに分けられる。『曽根崎心中』『心
中天網島』『女殺油地獄』『国姓爺合戦』などが代表作だ。松尾芭蕉・井原西鶴と共に元禄時代の三
大作家に数えられる。


 
桂家元 故六世文治之碑
 
大正4年7月建立。世話人、三笑亭可楽、桂文楽、翁家さん馬の名前が裏の刻文にある。

   江戸落語の名家文治翁の碑の成り立ちを喜びて  
   名に残る芝居噺や涼ミ台
   三代目柳家小さん

 
 6代目は芝居噺を得意にしていた。
 

 
芭蕉碑
   濡れてゆく 人もおかしや 雨の萩、

 宝田寿助の辞世歌碑
 寛政九年江戸生まれ。はじめ戯作を書いたが、二代松井幸三に取り立てられて松川宝作の名で歌舞
伎作者となる。天保三年宝田寿来の跡をついで宝田寿助と改名し、市村座の立作者となった。同九年
没。42歳だった。通称は貞次郎。作品に『八犬伝評判楼閣(うわさのたかどの)』、常磐津「忍夜
恋曲者(しのびよるこいはくせもの)』など。

 桜田左交「花清し」の辞世句碑
 江戸時代中期~後期の歌舞伎作者。享保十九年生まれ。江戸の人。壕越二三治(にそうじ)に師事
し、一時京坂で上方狂言を学ぶ。明和六年市川団十郎一座の立作者となり『御摂勧進帳(ごひいきか
んじんちょう)』などの当たり狂言を書く。浄瑠璃の作詞者としても知られ、作品に常磐津『戻駕色
相肩(もどりかごいろにあいかた)』など。文化三年没。73歳。号は柳井隣、花川戸。屋号は成田
屋。俳号は左交。没後辞世の句、

   花清し散ても浮む水の上

 を刻んだ浄瑠璃塚が建立された。桜田風は、門弟の福森久助、2・3代目桜田治助らの所作事の中
に継承されていった。

 昔ばなし柳塚
 柳家一派が建てたもので、裏側の名文が剥落して内容が判らない。明治の頃のもので、謂れなどは
よく分かっていない。大きな立派な碑だ。

 
豊国先生瘞筆之碑(2代歌川豊国の碑
 境内にある。文政八年(1825)2代目豊国、山東京伝の弟京山らが建てた。写楽や北斎と同世
代のため、現代では影が薄くなってしまっているが、江戸時代では一等人気があった役者絵師。
本名
は倉橋熊吉。芝神明に住む人形師五郎兵衛の息子。歌川派の開祖歌川豊春に弟子入りして、豊国の号
を用いるようになった。処女作は天明八年(1778)黄表紙「苦者楽元〆」の挿絵。寛政六年(1
794)に描いた「役者舞台之姿絵」が和泉屋市兵衛から発行され、26歳で一躍人気絵師となる。
寛政年間より独自のスタイルの美人画も描き始めたが、時代の要求を見極める目があったのだろう。
常に大衆の望む作品を手がけ、人気を保ち続けた。豊国が挿絵を描くかどうかで、作者に関係なく本
の売り上げが変わるので、無理をしてでも豊国に挿絵を頼む版元が後を絶たなかった。門人を希望す
る者も多く、最盛時には40人を越す弟子がいた。あの広重も入門を希望したが断られてたという。
幕末の浮世絵師のほとんどが歌川派であったのは彼の功績である。歌麿や北斎などの他の人気絵師た
ちの弟子がほとんど無名であるのに対して豊国の系譜は明治まで続いていることから、人を教育する
面においても優秀な人だったのだ。



■墨田住宅センター能面博物館(墨田区小さな博物館)
 業平5丁目10番5号の金子荘にある。工務店の仕事の傍趣味で能面を作る館長さんが「多くの人
に能面の良さを知って貰いたい」と、「小面(こおもて)」や「般若」など50点あまりの能面を展示
している。能面ができるまでの複雑な製造工程も写真パネルで解り易く展示され、実際の作業も見る
ことができる。「能面の表情にはいろいろな意味があり、それを表現するのが難しい」と館長の金子
利七。とても根気の要る作業だが、真面目に能面を作りたいという方には教えてくれるらしいよ。弟
子入りしたら? 03-3623-3023。
 開館は、火曜日・土曜日・第4日曜日(午前9時から正午、午後2時から午後5時まで)





【東駒形】(ひがしこまがた)1~4丁目              昭和41年10月1日
 中ノ郷村・中ノ郷仲間新町など。明治11年「郡区町村編制法」により本所区所属。昭和5年
新町(明治2年中ノ郷仲間新町に本所新町の一部を編入)・小梅業平町(明治5年小梅町に大名屋
敷などの武家地を併合)・
荒井町(明治12年北本所荒井町と南本所荒井町が合体)・番場町(明
治12年北本所番場町・南本所馬場町が合併)・表町(明治11年北本所表町)・中ノ郷原庭町・
中ノ郷竹町・中ノ郷元町・中ノ郷横川町・松倉町1~2丁目の全部または一部をあわせた町域を東
駒形1~4丁目とし、同41年新住居表示を実施して現行の「東駒形」とした。

 区の小さな博物館運動により4丁目に伝統木彫刻資料館(透かし彫り・飾り彫刻)ができた。3
丁目にある本所中学校は王貞治監督の母校だ。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『墨田区史』『墨田の歴史』など。

 東駒形について
 町名は隅田川に架かる駒形橋の東に位置することによる。駒形は正しくは「こまかた」と
濁らな
いで発音するらしい。芥川龍之介が怒っている。駒形の由来は台東区駒形に記載したので、そっち
で逢いましょう。橋を渡ってすぐ右だよ。




■玉林稲荷神社
 東駒形1丁目7番10号にある小祠。
 岡本工事(株)のホームページに、以下の記事あった。

   平成19年5月24日(木)岡本グループの守護神、玉林稲荷大明神の例祭が行なわれ
   ました。午前11時より玉林稲荷社前にて、牛嶋神社宮司の春田知男氏の祝詞奏上のあと、
   岡本社長以下の参列者が玉串奏奠し、社業の発展と社員とその家族、作業現場の安全を
   祈願致しました。 午後5時からは恒例の直会(なおらい)が、玉林稲荷社前に於いて、
   岡本グループ役員・社員と岡建工事(株)協力会の岩本会長以下の役員が出席して行わ
   れました。



■船江神社
 
東駒形1丁目18番10号にある小社。元慶元年(877~885)に創建したと伝えられている
す。江戸時代には朝日神明社と称し北本所表町(東駒形2丁目)にあり、船手奉行向井将監などの人
々が船の安全を祈願したといわれる。関東大震災の区画整理により当地へ遷座した。境内掲示に、

   船江神社の草創は、今より千百二十余年の昔、平安期陽成天皇の御宇 元慶丁酉年(87
   7)御祭神は天照皇大神を奉祀す。
   その御由緒を記すれば、往古本所の郷人あまた夢にみるよう伊勢大神宮、虚空を駆りて飛
   来り給ひ、虚空のあひだには又、大光明輝き光り、そのうちに気高く微妙なる御声ありて、
   我此土安隠天人常充満という法華経寿量品の文を唱へ、われはこれ、伊勢の神明にておは
   します、と見て郷中の人互いに語り合わするにすこしも違わず、誠に奇特の御事也とて宮
   所をかまへ伊勢大神宮を勧請し奉りけり。神明なお佛法を尊み給ひ、本地和光の内證を示
   し給ふもの也。
   それより北のかた星霜うつり年月かさぬと雖も、古にし昔のあと絶えず、利生あらたかに
   在わしますこと掌をさすが如くなり。
   あまてらす神のめぐみのかはらねば ここも五十鈴の本所なりけり
   船江神社は、初め朝日神明社と称し本所表町(現東駒形二丁目)に在り、本所大神宮とて、
   お伊勢参りが一生の念願たりしその昔、このお社に参拝することにて同じ神徳を授けられ
   ると、厚い信仰を受け、後天祖神社と称え幕府船手奉行向井将監などの人々が船の安全を
   祈願したといわれる。
   明治維新後神名改め、里俗に船江神社と称するを以て今は之を神名とせり。
   関東大震災後の帝都復興計画の一環としての区画整理に伴い、昔は御大祭は五月二十一日
   なり。                              船江神社総代会
   平成十二年庚辰年五月吉日建立。


 とある。



是応山実相寺
 東駒形2丁目10番14号にある日蓮宗は平賀本土寺の末寺
昭和38年境内に建てた名号塔右横
の由来銘文に、慶長三
年(1598)の草創とある。熊谷稲荷があることから、俗に「熊谷さん」と
呼ばれる。
 昭和20年愚かなアメリカ軍の無差別空爆で堂宇悉く灰燼に帰し、戦後荒廃したが、日栄の代に全
て鉄筋コンクリート造りで復興した。熊谷文殊菩薩があり、本堂左にある「熊谷稲荷堂」も鉄筋コン
クリート造りだが重厚な造りだ。本尊は大曼荼羅を祀る。

 本堂
 山門のような建物。毎年「焙烙(ほうろく)加持」が土用丑の日に行なわれている。頭の上にお守
りを乗せ、その上に焙烙皿を被り、百草(もぐさ)を焚いて頭痛除けと暑中の息災を祈る日蓮宗独特
の祈祷である。古来より土用の丑の日に「焙烙加持」を行うと暑気封じ、頭痛封じに効くといわれて
いる。

 熊谷稲荷堂
 戦国時代、越前一乗谷の城主朝倉中納言義景に仕えていた熊谷安左衛門が熊谷家伝来の法華経の利
益により白狐を助け、その縁がもとで文殊菩薩を勧請した。これが熊谷稲荷の起源だ。稲荷を祀った
狐にも様々な種類があるが、なかでも福徳を授ける福狐として白狐だけが稲荷大明神に選ばれる資格
があるといわれている。熊谷稲荷は白狐を祀った稲荷で、極めて珍しい稲荷である。毎年5月22日
に熊谷稲荷の大祭が執り行われる。

 石塔
 境内右手は墓地となっており、墓地入口には実相寺銘入りの石塔が祀られている。 石塔側面には
「南無開運旅立日蓮大菩薩」「南無熊谷文殊大菩薩」と刻まれている。日蓮大聖人が佐渡島流罪を放
免された折の姿を謹刻した、開運旅立日蓮大菩薩像は戦災で焼失したが、同型の像が復元されている。



■最勝稲荷最勝寺跡
 東駒形2丁目11番1号にある。稲荷は最勝寺境内にあったもので、この辺りに明治になって目黄
不動で売り出した最勝寺があり、震災後の区画整理で江戸川区に移転していった。現在最勝寺にも最
勝稲荷があり、一体全体どうなっとるんだ! 



■呑龍教会
 
東駒形2丁目19番2号にある浄土宗の布教所。ピアノ教室や算盤教室が本業らしい。



法照山本久寺
 
東駒形2丁目21番12号にある日蓮宗の名刹。昔は牛島山を号していた。天正三年(1575)
の創立で、開山は清眼院日有上人。安置する宗祖像は日朗が頭部を、日法が体部を彫り、胎内に首題
札が納められており、日朗・日法の真蹟と伝えられている。創建以来、寺地を替えていない。
 区内に多いコンクリート寺だが、その殆どが昭和30年代以降のものであるのに対し、この寺は、
昭和2~4年にかけてできたもので、清雄寺と共に無差別のアメリカ軍のへなちょこ空爆をかわして
いる名誉の寺だ。周辺が爆撃で燃える中、内側から目地を扉に打って固めてから避難をしたんだと。
本堂の戸も焼けずに残ったが、窓から入った火で一部焦げ跡があるという。内装も美しく手入れが行
き届いている。墓地に、初代と2代目の古今亭志ん生の墓がある。5代目の光が眩しすぎて、初代~
4代目は霞んでしまっている。他に、春風亭柳橋の墓もある。


 霊山先生像
 本堂前にある。雲山は数代前の住職釈貫隆で、「昭和の三筆」に数えられた書道家。その能筆を謳
われた。この寺の屋根上に聳える特異な塔は、雲山がインドからもたらした造りなのだ。

 
明徳小学校発祥之地
 寺の入口脇に建ててある。明治5年学制が公布され、公立学校が設立されることになり、ここ本所
地区でも本久寺に寺子屋が開設された。 これが後の明徳小学校だ。その3年後、ここから南東に40
0m先(現在の本所中学校)に移転。大正12年の関東大震災で校舎が全焼し、7年後に鉄筋の新校
舎が完成したが、昭和20年のアメリカ軍の無差別東京大空襲で再び全焼し、翌年国民学校の廃止に
伴い廃校になった。この発祥碑は平成18年5月14日に開校130周年記念として卒業生有志によ
り建立されたものだ。



■旧本所消防署 → 本所消防署東駒形出張所
 東駒形3丁目5番にある消防分署。昭和39年~平成7年の31年間本所消防署の本署だった。



■明徳尋常小学校 → 明徳国民学校
 
 東駒形3丁目1番10号にあった都立校。明治5年学制が公布され、公立学校が設立されることに
なり、ここ本所地区でも本久寺に寺子屋が開設され、これが明徳小学校の基となった。同8年本所中
学校のところに校舎を新築して移転。大正12年の関東大震災で校舎が全焼し、7年後に鉄筋の新校
舎が完成したものの、昭和20年の愚かなアメリカ軍の無差別東京大空襲で再び全焼し、翌年国民学
校の廃止に伴い戦災による学童の減少のため区立小学校に転換することなく廃校になった。跡地は本
所中学校となっている。



■本所中学校
 
 東駒形3丁目1番10号にある区立校。昭和22年4月1日本所工業学校内に開校。同23年12
月明徳国民学校跡地(現在地)に新校舎完成して移転。同24年プール改修。同26年4教室補修、
校庭補修。同28年校歌制定。 

 校歌「川霞み」 作詞・今泉忠義  作曲・鏑木創
  1.川霞み明け行く街々
    四方にとよもす物音は
    この国の行く手を護る
    見よ ここに墨田の街は
    開けわたる 開けわたる
    輝け文花 わが街に
    栄えあれ本所中学
  2.学びやにいそしむ若人
    揚ぐる我等が諸声は
    空高く清かに響く
    見よ日々に知識は広く
    なり行かん なり行かん
    輝け文化 わが街に
    栄えあれ本所中学
  3.帰り来て憩える窓々
    静かに映る灯の下に
    師と親の教えを尋ね
    見よまさに 吾等は継がん
    この道を この道を
    輝け文化 わが街に
    栄えあれ 本所中学


 同29年特殊学級開設。講堂改修。同32年創立10周年記念式典。同35年特別教室2・特殊学
級室・放送室を改修。同37年創立15周年記念式典。同42年体育館完成。同43年給食室完成。
同48年第一期新校舎落成。同49年第二期新校舎完成。創立25周年記念式典。同50年校庭荒木
田舗装。同52年創立30周年記念式典。同60年メルボルン大学ボート部学生10来校研修。同6
2年創立40周年・王貞治監督来校。マレーシアの大学生25名来校研修。平成3年パプアニューギ
ニアの教育研修団来校視察。同6年バージンアイランドハイスクール来校。同7年アメリカ教育視察
団来校研修。同9年創立50周年記念式典・王貞治監督再来校。同14年アフガニスタンの生徒4名
来校交歓。平成8年から陸上部が猛烈に頑張っている。

 
「気力」の碑王貞治の人生を変えた1点
 卒業生王貞治監督の自筆の石碑が正門のところに据えられている。
 王貞治のプロ野球人生は偶然から生まれた。王が入学したころ本所中学には、野球部はなかった。仕
方なく卓球部や陸上部で活躍し、特に陸上部では砲丸投げの選手として都大会にも出場するほどだっ
た。さらに2年生の時、それまで休部だった野球部を再開させ、3年生の時には区大会で優勝、都大
会へも出場した。また野球部がなかった1年生の時、兄鉄城に紹介して貰い、近所にあった高校生主
体の野球チーム「厩四ケープハーツ」にも入り、エースで5番を務めた。このころ後に恩師となる荒
川博が目をつけ早稲田実業高等学校への入学を勧めるが、父仕福は「野球で飯が食えるか」と猛反対、
貞治もそう思って墨田川高校への進学を希望する。貞治の学力なら合格は間違いなかったからだ。と
ころが何としたことか、貞治はまさかの不合格、1点足りなかったというのだ。神様は初めからそう
決めていたのかも知れない。貞治は荒川に魅入られたように早実に進学、その後の人生は説明の要が
ないだろう。もし1点差で合格していたら、貞治は兄と同じ医者の道を歩んだかも。



芭蕉山桃青寺
 東駒形3丁目15番10号にある臨済宗妙心寺派の寺。寛永三年(1626)の創建。松尾芭蕉は
数年に亘り、当寺に寄宿していたようで、江戸時代には寺内にあった芭蕉堂で著名だった。松尾芭蕉
が数年間寄宿したことから、定林寺と号していたものを芭蕉の俳号桃青からとって寺号とした。
また
貞享四年(1687)に生まれ、俳壇の革新に尽力した俳人長谷川馬光の墓がある。

 
長谷川馬光の墓

 
江戸中期の俳人。葛飾蕉風の初世其日庵山口素堂に学び、師の其日庵を襲ぎ二世となったが、点者
となり門戸を張ることをせず、交友は各派に亘っていた。また亨保十年「五色墨」の運動を起こし、
俳壇の革正に尽くしたことは有名。著書には『湯山紀行』『薮鴬』『かさね笠』などがある。寛延四
年(1751)「振かへる谷の戸もなし郭公」の一句を最後に65歳でこの世を去りました。



牛嶋山福厳寺
 
東駒形3丁目21番3号にある曹洞宗の寺。駒込吉祥寺の末。延徳三年(1491)に開創した古
刹。山門が朱色だったので、俗に〝赤門寺〟と呼ばれた。3代将軍家光が亡父秀忠の追福を祈って赤
門を寄進したと伝わったが、その門は関東大震災で焼失した。次に旧紀伊徳川家中屋敷(東宮御所)
の門を移して朱塗りにしたところ、愚かなアメリカ軍の無差別空爆で焼かれてしまった。
 現在の門はそれを復元したものだ。極めて美しく鮮やかな朱色で、「おゝ!」と息を呑む。
 また、赤穂浪士大石内蔵助の縁者、大石三平や原田きぬの墓がある。

   曹洞宗、駒込吉祥寺末で、山号を牛島山といいます。天文十年(1541)吉祥寺の二世
   大洲安充の創建としていますが、「寺社書上」では延徳三年(1491)の起立としてい
   ます。いずれにしても江戸開府以前からある古刹で、草創から400年間寺地を替えてい
   ません。本尊釈迦如来木像、十一面観世音、無尽地蔵菩薩、大般若経600巻などが有名
   でした。当寺は、朱塗りの寺門があるので江戸時代から「赤門寺」と通称されていました。
   この赤門は三代将軍家光が、父秀忠の追福のため寄進したものでしたが、関東大震災で焼
   失した後は、紀尾井町にあった旧紀州家中屋敷の門を貰い受け、これを朱塗りにして寺門
   としていました。これも戦災で焼失し、現在はコンクリート製で復興されています。
                                   墨田区教育委員会


 十一面観世音
 文化十四年(1817)七月森本尹之助、俊蔵の兄弟が鉄砲州の浜へ釣りに行き、その時流れついた
像を引き上げて持ち帰り、後に当寺に安置したと伝えられる木像。

 無尽地蔵菩薩
 身の丈12cmの小像で、文政元年(1818)六月に浅草蔵前の隅田川で貝をとっていた者が発見
し、水中から引き上げ持ち帰って自宅に安置しておいたところ、無尽のくじに幾度となく当ったので、
無尽地蔵と称して信仰し、後に当寺に安置したものといわれている。

 
大石三平の墓
 福厳寺墓地にある。大石三平良穀(よしたか)は、赤穂浪士を率いた大石内蔵助の叔父、無人(ぶじ
ん)の子です。無人父子は浪人して本所に暮らし、土地勘があったため、大江戸の活況ぶりに戸惑う浪
士たちのために、福厳寺を集会場所として用意した。討ち入りが近づくと吉良上野介の在宅日確認のた
めに奔走、内蔵助に十二月十四日が確実であることを知らせた。討ち入り当夜、父無人と共に吉良家の
屋敷外で警護をするなど活躍した。討ち入りから3年後の宝永二年(1705)四国高松藩(香川県)
に迎えられ、若殿の用人や姫君の守役などを務め、寛延二年(1749)75歳で没した。



大道山松嶺寺

 東駒形3丁目21番8号にある臨済宗妙心寺派の寺。寛永二年(1625)に創建したという。緑色
に塗られた昭和初期の民家風建物だが、ちゃんと墓地もある



駒形山法華寺
 東駒形3丁目23番9号にある日蓮宗の寺。
江戸時代の大老、庄内藩酒井大学頭の下屋敷跡に、昭和
6年創立した。境内に祀っている子育ての鬼子母神から「駒形鬼子母神」として親しまれている。
 通りから奥まったところにあるが、「常護稲荷大菩薩」の幟が立っているので直ぐ判る。ここでは鍼
灸をしているが、本堂前の「浄行菩薩石像」が有名だ。傍に水と束子が置いてあり、浄水をかけて自分
の病んでいるところの場所をこすると治るという。この菩薩が、人間の六根を清める役目を持っている
ということによる。



■稲荷社
 東駒形4丁目2番3号にある小祠。



■東関部屋
 東駒形4丁目6番4号にある高砂一門の相撲部屋。昭和61年2月元関脇高見山が、高砂部屋より
独立を許され創立。64人目横綱曙太郎、小結高見盛らを育てる。また、毎年春場所で大阪市平野区
の大念仏寺で特設部屋を設けて稽古を行う事は有名。



■東駒形教会

 東駒形4丁目6番2号にある日本キリスト教団の教会。



■大横川親水公園

 東駒形4丁目15番14号にある区立公園。大横川の多く部分を埋め立てて造られた総延長は約1
800mの大規模な親水公園だ。この川の流れている一帯は、付近にあった工場などの地下水汲み上
げにより地盤沈下の激しい地域だあった。そのため低い土地では川から水が溢れると浸水する危険が
あったため、大横川の一部を埋め立てて親水公園として整備した。公園としては平成5年4月1日開
園。河川の多くは埋め立てられ、せせらぎや樹木などが新たに生まれ、親水公園として大きく変わっ
た。面積は約63343㎡になる。北は北十間川との合流点から始まり、南は竪川との合流点までと
なっている。竪川との合流点より南では、また大横川として河川になっている。
 ・撞木橋~江東橋

  広々とした人工池があり、途中、竪琴をイメージさせる橋が目を楽しませる。
 ・江東橋から総武線鉄橋

  水辺には銛をイメージしたような水鉄砲と的の遊具が設置してある広々とした広場がある。
 ・総武線鉄橋~長崎橋跡
  煉瓦風ブロックが敷きつめられた広場に、子供たちが子供らしくふざけ合いながら、音楽に合わ
  せて楽しそうにバレエを踊っている・・・などと楽しい想像を逞しくさせてくれる噴水がある。
 ・長崎橋跡~清平橋
  現在長崎橋には橋の遺構は残っておらず、その跡の歩道部分に長崎橋の面影を伝える案内板が残
  るだけとなっている。広々としたブロック敷きの広場では4・6・8・10月の年4回、第1土
  曜・日曜に「すみだガラス市」が開かれるよ。
 ・清平橋~報恩寺橋
  遠く奈良平安時代の貴族の館の庭を想像させる造りで、万華沼の四季折々の風景の変化が楽しめ
  る緑濃い空間。
 ・報恩寺橋~紅葉橋
  水の湧き出る滝があり、自然石が巧みに組み合わされた間を清流が流れる雰囲気はまるで山間の
  渓谷にでもきたような雰囲気。
 ・紅葉橋~横川橋
  ゲートボール場と人工芝を敷き詰めた2つの広場がメイン。広場の横を流れる小川の小道には、
  墨田の民話に因んだモザイクパネルの絵と本所七不思議をモチーフにしたレリーフがあり、散歩
  の目を楽しませてくれるよ。
 ・横川橋~平川橋
  水遊びのできる川原や、長いローラー滑り台があり、小さい子のお気に入りの場所だ。
 ・平川橋~業平橋
  釣堀と船の前方を形取った遊び場で、遊び場には螺旋階段から登る長い長い滑り台がある。

 魚つり場
 墨田区東駒形4丁目15番先 03-3624-3404 長さ130mの水辺で鯉が釣れるよ。 



■横川小学校
 
 東駒形4丁目18番4号にある区立校。明治35年12月20日本所区中ノ郷横川58番地(現在
地)に、本所区で9番目の学校として設立が認可され、翌36年6月4日児童数129名で開校。同
39年校歌制定。

 校歌
「かしこきみこと」
 作詞作曲・不詳
  1.かしこきみこと 師の教え
    唯一筋に守りつつ
    万の学び千々の枝
    共に励みつ勤しみつ
  2.正しき掟 直き道
    心一つに保ちつつ
    万の学び千々の枝
    共に励みつ勤しみつ
  3.流れ絶えせぬ横川の
    学びの庭に集い来て
    この教え草 摘む身こそ
    やがて目出度き花も咲け


 本校の学区は、江戸時代からの庶民気質を残し伝える街中にある。東京市横川尋常小学
校、東京市本所区横川尋常高等小学校、東京市本所区横川尋常小学校、東京市横川国民学校、東京都
横川国民学校
と、社会情勢による校名の変更はあったものの、「教育を受ける児童が、本来持ってい
る個性・能力を大切にし児童に知識を教えるよりも、むしろ児童が知識内容を意欲的に学び取る探求
の方法を学び取らせることが教育である」という『動的教育法』への取り組みで培ってきた。「為す
ことによって学ぶ」体験的な活動や問題解決型の活動に力を入れ、実践力のある子どもたちに育てる
べくと永年努力を積み重ねてきた。
 大正12年9月1日に起きた関東大震災は、校舎を全焼させ、天幕(テント)や露天、仮校舎での
授業を行わなければならなかった。待ちに待った鉄筋3階建ての新校舎が昭和4年12月20日に完
成するが、その校舎も昭和20年3月10日の愚かなアメリカ軍の無差別東京大空襲により被災し、
翌21年3月31日本校は廃校となってしまった。そのため子どもたちは、区内近接の業平、外手、
小梅小学校に別れて学ぶことになった。
 それから9年、横川の地域の子どもの数も増え、「是非、同じ横川で学ばせたい」という地域、保
護者、卒業生の熱い思い入れと行政の支援により昭和30年4月1日に東京都墨田区立横川小学校と
して復活再校された。その時の児童数は989名だった。平成14年創立100周年。

 校歌「いまに世界にとぶわれら」 作詞・巽聖歌  作曲・渡辺浦人
  1.朝だ 明るい横川の
    授業始めの あのチャイム
    らんらん らんらん
    らんらん らんらん
    西に気高い富士を見て
    学ぼう みんなで和やかに
  2.科学する目だ この町に
    みんなの誇り 横川校
    らんらん らんらん
    らんらん らんらん
    胸に帽子に梅の花
    築こう みんなで この郷土
  3.虹だ 郷土の横川に
    流れ豊かな隅田川
    らんらん らんらん
    らんらん らんらん
    今に世界に飛ぶ吾等
    歌おう みんなで輪になって






【東墨田】(ひがしすみだ)1~3丁目                昭和41年5月1日
 下木下川村(しもきげがわむら)。明治元年東京府所属。同11年南葛飾郡。同22年大畑村・
木ノ下村・上木下川村・下木下川村(大部分)と、須崎村・請地村・寺島村・善左衛門村・渋江村
・川端村の各飛地が合併して大木村を成立したが、大正3年村の大部分が荒川放水路となったため
廃村、残った区域はそれぞれ隣接の村に吸収された。下木下川地区は本田村と吾嬬町に分散、その
大字となり、昭和5年吾嬬町大字東6~8丁目となる。同7年寺島町・隅田町・吾嬬町が東京市に
編入され20区制により向島区が成立、同区吾嬬町東6~8丁目となる。同22年墨田区に所属。
同41年新住居表示により吾嬬町東6~8丁目をあわせた町域を現行の「東墨田」とした。

 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『墨田区史』『墨田の歴史』など。

 
東墨田について

 町名は墨田区の東部に位置することによる。この中川の風情はすっごくいい。土手も低いしコン
クリート護岸もないので川そのものを満喫できる。河岸も落ち着いた整備で現代の河川行政のある
べき姿と思ってしまう。しかし洪水になったら一溜まりもない。木下川(きげ
がわ)の名は小学校と排水機場に残る。



■すみだスポーツ健康センター
 東墨田1丁目6番1号にある。



■墨田清掃工場
 東墨田1丁目10番23号にある。元の明治製菓→東墨田運動場の一角に巨大な煙突が立っている
が、墨田区の清掃工場だ。門の左側に見学コースの案内があり植物公園の体である。受付事務所まで
の通路がそうなのだ。「愉快なオーケストラの仲間たち」をテーマにしたモニュメントが、ト音記号
・ロボット指揮者・ハープ・ラッパ・太鼓・トライアングル・バイオリン・ホチュロホーンと題して
配置されている。お役所仕事にしては洒落てる。極めて民間的発想だ。近年中川に「ゆりのき橋」が
架けられた。煤けた工場街が次第に住宅街に変わりつつある。中川に架かる新平井橋は中平井橋に名
前を変えた。
 と、記述したら、K. Tashiro さんからメールを戴きました。

   
恐れながら、ちょっと気づきましたところをひとつ。
   「墨田区」の東墨田のところですが、
   「もとの明治製菓→東墨田運動場の一角に巨大な煙突」とありますが、
   明治製菓ではなく、これは
明治製革ではないでしょうか。
   もっとも今は移転してありませんが。


 
申し訳ありません。おいらのミスでした。ついでに明治製革は、現在メルクスに社名を変更し、区
内緑2丁目24番に本社を移し、本社工場の業務は長野県飯田工場に集約した。



■木下川小学校 廃校
 東墨田2丁目15番13号にあった区立校。平成15年吾嬬第五小学校・更正小学校と統合して八
広小学校となった。八広小学校は更正小学校の跡地に建つ。葛飾・墨田で「木下川」は「きねがわ」
と読む。しかしこれは誤読で、元は「きげがわ」と読んでいた。まだ荒川が掘られてなかったころ、
ここに木下川村(きげがわむら)があり、主たる部分は川の中に没してしまったが、四つ木に移った
木下川薬師は踵を接して参詣者が押し寄せたところだ。荒川に木橋の「木根川橋」架かっていた。ボ
ロボロの橋でね。あちこち穴があいてて、おっかない橋だったよ。今は立派な造り(昭和44年12
月改架)になってるよ。

 校歌「墨田の東」  作詞作曲・校歌選定委員会
  1.墨田の東煙立ち
    栄ゆる町に映えて見ゆ
    ああ豊かなり木下川校
    若き希望は虹越えて
    遥けき空に広がりぬ

  2.武蔵野下る荒川と
    流れを競い雄々しくも
    ああ盛んなり木下川校
    心誠に身を鍛え
    豊かに実る日を待たん
  3 若木の風もさわやかに
    なびく校旗もへんぼんと
    ああ清新の木下川校
    幸と平和を守りぬき
    我が学び舎を花とせん




■産業・教育資料室 きねがわ
 東墨田2丁目15番13号にある区の施設。皮革と油脂のまち 木下川の貴重な産業資料と、人権
教育の灯を掲げ続けてきた木下川小学校66年の歩みを示した手作りの資料室だ。地域の産業資料と
木下川小学校の教育・子どもたちの営みを、収集・保存・整理・展示する。「皮革と油脂」を中心とする
木下川の産業資料は、昭和51年木下川小学校に開館した「産業資料館」の資料に新たな収集品を加
えた。皮革・油脂の仕事を担ってきた人々の想いと暮らしに触れ、町づくりや地域学習に活かしてい
きたい。地域の熱い思いで昭和11年に創立され、平成15年に閉校した木下川小学校の教育は、人
権教育の灯をかかげ続けてきた。長年に亘り教師と子供たちが積み上げてきた学習成果を、収集、整
理、展示、研究することで、この意味を明らかにし、教育のありかたを考える場にしたいと考えた。



■木下川教会
 東墨田2丁目21番1号にある浄土真宗大谷派の寺。普通の民家。寺なのか、布教所なのか、僧侶
の住宅なのか判らない。



光明山蓮池院万福寺
 東墨田3丁目12番19号にある真言宗豊山派の寺。大永七年(1527)に下木下川村に創建し
たと伝えられ、大正元年(1912)荒川放水路開鑿のため現在地に移ったが、当時岩田秀円住職、
大塚助次郎・石渡留吉両建築委員によって再建された。本尊は阿弥陀如来、開基は東福坊、天保年間
(1830~44)には山伏が
入っていたという。門を入ると6基の石塔群がある。南葛第69番と
あり、古くから参詣者が多い。南葛八十八ヶ所霊場69番札所。
 天和年間(1681~84)の将棋駒型庚申塔は青面金剛を本尊とする。この種では早い時期のも
のだ。また寛文十二年(1672)の念仏講碑がある。本堂前には文化十五年(1818)建立の子
安・子育観音菩薩碑があり花講中の銘がある。隣に子育地蔵尊がある。「新編武蔵風土記稿」に、

    (下木下川村)萬福寺
   義真言宗上小松村正福寺末、光明山蓮池院と号す。当寺は大永七年東福坊と云僧起立すと
   云。
   本尊弥陀坐像、長一尺五寸許行基の作。天神社、聖天堂。


 とある。文化財として寛文二年銘地蔵像・寛文十二年銘観音坐像・天和二年銘庚申像・元禄三年銘
阿弥陀像がある。



■白髭神社
 東墨田3丁目13番24号にある。「区民健康づくりラジオ体操広場」と銘打ってある。創建は貞
観二年(860)とあるが、由来は、延暦七年(788)伝教大師半躰作の薬師像を広智なる僧が背
負って来たところ、武州中川の辺りで唱翁(白鬚明神)に出会い、わが草庵に安置するようにと託宣
があったという。まあ大昔のことだから色々あらぁね。旧白鬚明神は、別当寺天台宗木下川薬師(浄
光寺)の守護神として信仰が深まっていたが、明治43年の荒川放水路掘削工事に伴い、川の中央に
社殿が位置したため移転させられる。そして葛飾側へは、木下川薬師、墨田側には、白鬚神社・天満
宮として別れて祭られることとなった。祭神は猿田彦命。


 木根川橋 作詩・作曲:さだまさし
    先生、俺達の木造校舎
    すっかりなくなっちまったんですねェ
    それに、あの暑い夏に重いローラー転がしてならした
    テニス・コートの上にプールなんか出来ちまって…
    先生、時の流れって、そんなもんですかねェ
  1.木根川橋から水道路抜けた白髭神社の縁日は
    アセチレン焚いて杏飴(あんずあめ)売ってますか
    相も変わらず賑やかなんでしょうね
    (M-)
    あの頃何やら覚えて居るのは
    あの娘の笑顔と冷たさと
    不思議な胸のどよめきと
    あっけらかんとあっけらかんと
    みんなみんな 許せた毎日
    先生、あの頃よくのりちゃんと銭湯行ってね
    あいつときたら、15番の下駄箱があくまでは
    どんな雪の中だって雨の中だって中へ入らなかった
    先生、覚えているかな、うちのクラスの15番、そう
    目のステキなのりの好きだったあの娘の
    出席番号だったんですよ

  2.僕らはこっそりノートの片隅に
    あの娘の名前に自分の苗字を
    被せて書いては慌てて塗り潰し
    辺りを見廻し赤くなったもんです
    (M-)
    使いの帰りは廻り道をして
    あの娘の家の前を通ったもの
    そのくせ会えば そっぽを向いた
    なんともはや すてきだった
    仲間達に カンパイ!!

  3.木根川薬師の植木市の日には
    今でも必ず雨が降りますか
    もんじゃ焼きのコツ 忘れちゃいませんよ
    カルメ焼き冷やすより易しかったもの
    (M-)
    あの頃チャリンコ転がして行った
    曵舟、押上、浅草の
    不思議な胸の高鳴りと
    荒川土手の忘れちゃいけない
    毎度毎度の 草野球
    先生、みんな変っちまいましたねェ
    先生、先生・・・なんだ寝ちまったんですか・・・






【東向島】(ひがしむこうじま)1~6丁目              昭和40年3月1日
 寺島村。明治22年「市制町村制」により寺島村大字寺島。大正12年寺島町大字寺島。昭和7
年向島区寺島町1~8丁目。同22年墨田区所属。同40年寺島町1~2丁目・5~7丁目の大部
分に隅田町4丁目の一部をあわせた町域を現行の「東向島」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『墨田区史』『墨田の歴史』など。

 
寺島の由来
 ①北条武蔵守経時が鎌倉に建立した蓮華寺を、弘長元年(1216)子の頼助法印がこの地(3
丁目23番)に移したことで起きたという説と、②葛西三郎清重が開いた法泉寺(3丁目8番)の
境内が村の大部分を占めていたとする説とがある。島は当時川中島状態だったことによる。寺島の
名を残せばよいものを、向島の名の勢いに押されたのか、情けないことに寺島住民は向島に擦り寄っ
た。第1~第3寺島小学校・中学校に名を残している。

 東向島について
 本来寺島とすべきところを向島の粋に肖って、向島より古い地名を棄てた。東向島とは向島の東
側の意だろうが、向島という地名は新住居表示の産物で、つい最近まで旧荒川(隅田川)東岸の漠
然たる俗称に過ぎなかった。東向島はださい。 



■寺島茄子
 寺島は元の名を隅田(すだ)といったように、隅田川原の低湿地だった。そのため稲作中心の農村
だったが、江戸に近く、水運の便もよいことから、次第に生産の中心は、収益の多換金作物に転換し
ていった。水田では蓮根、花菖蒲を栽培し、花菖蒲は切花として出荷した。稲も米を収穫するのでは
なく、正月の飾り用に使う「みとらず(実穫らず)という草丈の高い稲を作り、青刈りしていた。又
肥沃な土地は茄子栽培の好適地であり、茄子で利益が上がると判ると、少ない畑地に作付け希望者が
殺到し、畑の面積の三倍の水田の抱きこみでないと貸さないという条件でも望む者が多く、いかに野
菜作りが高収益であったかを知ることができる。ために水田は次第に埋められ、畑地化していった。
茄子の名が高いからといって茄子だけを栽培したのでしなく、明治から大正にかけて30種類にも及
んだ。主なものは漬菜・茄子・葱・大根・京菜・小松菜・白瓜だが、漬菜・茄子が多かった。



鳩の街
 東向島1丁目と向島5丁目の境をなす一方通行の商店街。戦災で玉ノ井が壊滅すると、玉ノ井から
娼家が移ってきて赤線地帯が形成された。
 
玉の井駅(東向島駅)から水戸街道方面へ10分ほど歩くと「鳩の街商店街」がある。ほとんど目
立たない商店街の入口、注意して歩かないと通り過ぎてしまいそうな商店街も、戦後は新興のカフェ
ー街として、山の手の男も通ったといわれる赤線地帯(戦後派の私娼街)だ。もともとは罹災した玉
の井の業者が玉の井と向島花街の中間に当たる、焼け残った住宅地に目を向け、カフェー風の町並み
が整うようになったことに始まる。「鳩の街特飲街」は、昭和33年の「売春防止法」成立とともに
なくなったが、現在でも所々に、壁や柱に模造タイルで彩られたかつての娼家が残っている。さらに
「鳩の街」は、洲崎が東陽3丁目、吉原が千束4丁目、玉の井が東向島5丁目と、売春の汚名払拭の
ため新地名に変えてしまった中で、今も「鳩の街」という名を残しているところの気風がいい。鳩の
街を舞台にした映画に「渡り鳥いつ帰る」
昭和30年、久慈あさみ主演、久松静児監督、原作永井
荷風『にぎりめし』『春情鳩の街』『渡り鳥いつ帰る』を久保田万太郎が脚色構成)がある。
 女優で歌手の
木の実ナナが、昭和21年にこの街で生まれている。

 と書いたら、ナカダさんからメールを頂戴しました。

   玉の井駅(東向島駅)から水戸街道は100m程度。そこから水戸街道を言問橋方面へ1
   5分ほど歩くと、東向島と向島の境界に鳩の街があります。
   また、最寄り駅は東武の曳舟で、この駅からならば、水戸街道方面へ10分ほど歩くと、
   の表現でも合ってます。


 赤線地帯・青線地帯

 赤線とは、売春を目的とする特殊飲食店の集まっていた公認地域をいう。警察署の地図に赤い線で
囲ってあった。青線とは、赤線地帯の周辺で、営業許可なしに売春行為を行なっていた飲食店街。警
察の地図に青い線で表示されていた。共に昭和32年の「売春防止法」施行で廃止された。黄線地帯
や黒線地帯は、映画の造語
だ。 売春は「男が強制するものだ」と当時の文化人の小母さん連中は大
騒ぎしていたが、しかし今もってなくならない。女性が自らの意思で積極的にやるからだ。中、高生
あたりでも積極的だ。東電のキャリアウーマン、年収1000万で借金無しでも売春してた。殺され
て判明した。「文化人の小母さんよぉ、これでも男が強制してるのかい?」 売春は悪意ある女の身
勝手。また淫売宿の経営者は男性だけではない。プロ野球のある超有名チームの正捕手の祖母ちゃん
はソープランドを経営してるぜ。

 
売春防止法
 この法律の施行は女性の権利を守るためと謳ってあるが、事実は高度経済成長の人手不足を補うた
めに、女性を事務職に転用する必要が生じたためだ。むかし事務員は男が当たり前だった。高度経済
成長の中で、男は肉体労働、営業活動に集中させたので、女性で賄える仕事として事務職は女性に割
り振られた。当時は社長が良家を訪問して娘の親にお願いして就職して貰ったものだ。建設業界に女
性事務員が入社するのは最も遅かった。かくてBG(ビジネスガール)の誕生である。しかしBGが
欧米ではブラックガール、即ち売春婦を表現する隠語だということが判り、東京オリンピックの開催
に際して不具合だということで、OL(オフィスレディ)に改称することにし、今日に至っている。
だから当時は売春行為は厳しく取り締まられたが、近年のOA(オフィス・オートメイション)化に
より、事務効率が上がり、一般事務職の要員過剰となると、買春行為は放任され、取り締まられるこ
とはなくなった。女性は売春街に戻りつつある。女性の人権は何処に行ったんだ~い!



■きびだんごの「吉備子屋」
 東向島1丁目2番14号にある黍団子専門店。
きびだんごの主成分「きび」は、穀物の中で一番栄
養価が高く、心臓を強化し小腸の働きを促す。高タンパク源、低カロリーのきな粉で食べれば、味は
格別だ。添加物は一切含まれていないヘルシーな食品だ。

 
文部省唱歌「桃太郎」 作詞・不詳  作曲・岡野貞一
  1.桃太郎さん 桃太郎さん
    お腰につけた 吉備団子
    一つ私に下さいな
  2.やりましょう やりましょう
    これから鬼の征伐に
    ついて行くなら あげましょう
  3.行きましょう 行きましょう
    貴方について何処までも
    家来になって 行きましょう
  4.そりゃ進め そりゃ進め
    一度に攻めて攻めやぶり
    潰してしまえ 鬼が島
  5.面白い 面白い
    残らず鬼を 攻め伏せて
    分捕物(ぶんどりもの)を えんやらや
  6.万々歳 万々歳
    お伴の犬や猿 雉子は
    勇んで車を えんやらや



■第一寺島小学校
 東向島1丁目16番2号にある区立校。人情味溢れる墨田区の下町東向島の中心に位置している。
近くには百花園や白鬚神社もあり、子どもたちはのびのびと学校生活を楽しんでいる。
 明治12年10月12日「寺島村立寺島小学校」として創立(発祥の地の碑が地蔵坂通りを挟んで
向かいの図書館の中にある)。その後小学校令改正により「南葛飾郡寺島尋常小学校」と改称。同1
9年10月高等科を併置し「南葛飾郡寺島尋常高等小学校」と改称。 大正13年4月1日第二寺島
尋常小学校の新設により「南葛飾郡第一寺島尋常高等小学校」と改称。
 昭和3年第三寺島尋常小学校を分校。同4年創立50周年。同7年「東京市第一寺島尋常小学校」
と改称。同16年勅令148号国民学校令公布により「東京府東京市第一寺島国民学校」と改称。1
2月日米開戦。同18年「東京都第一寺島国民学校」と改称。同19年8月茨城県境町、岩井町、宍
戸町の3町内の9ヶ寮に集団疎開(児童400名、派遣教員14名)。ひさご亭、福島屋、橘屋、岡
田屋、小林屋。同20年5月秋田県船越町・天王村・脇本村3ヶ町村4ヶ寮に再疎開(児童200名
派遣教員11名)自性院他3寺。同20年8月敗戦。同10月22日集団疎開復帰。
 同22年戦勝国アメリカの強制による学校教育法施行により「墨田区立第一寺島小学校」と改称。
同24年創立70周年記念式。同34年創立80周年記念式典。同39年プール完成。創立85周年
記念式典。同43年放送施設新設。第1期鉄筋コンクリート造り4階建て校舎(職員室・普通教室6
・水洗トイレ等)落成。同44年第2期鉄筋コンクリート造り4階建て校舎(特別教室4、普通教室
3、変電室、物置等)落成。同44年創立90周年記念式典。同45年体育館落完成。同46年第3
期鉄筋コンクリート造り4階建て校舎落成。同47年第4期鉄筋コンクリート造り4階建て校舎落成。
同54年創立100周年記念式典。同55年図書室・準備室・書庫改修新
設。同61年校舎内照明器具全面改修。同63年体育館バスケットボード取付。
 平成元年創立110周年記念式典。同2~3年普通教室を和室に改造。同4年FF暖房取付(図工
室、理科室、家庭科室)。同5年天水尊(雨水利用装置)設置。同7年東向島児童館学童保育クラブ
分室一時開設。同8年防災備蓄倉庫設置。同9年機械警備開始。東向島児童館学童保育クラブ分室撤
収。同10年コンピュータールーム設置。同12年ランチルーム設置。同14年転落防止用窓外手摺
取付。図書室空調エアコン設置。同15年東向島児童館学童保育クラブ分室設置。校内LAN設置。
転落防止窓外手摺(12教室以外)取付。同16年教室床・給食室改修。学校図書館データベース化
開始。同16年創立125周年記念式典。同17年学校図書館システム導入。同18年プールサイド
改修。同19年スクールカウンセラーを配置。普通教室・特別教室エアコン設置。同21年創立13
0周年記念事業「寺島なす」復活栽培。創立130周年記念式典。

 校歌「都の東昔より」 作詞・滝熊之助  作曲・山本正夫
  1.都の東昔より
    雪月花に名も高き
    隅田の堤見渡して
    古き歴史も輝かに
    我が学び舎は聳えたり
  2.紫雲棚引く紅葉山
    千代田の森の程近く
    学びの道に勤しめる
    吾等の祥を声高く
    いざや歌わん諸共に
  3.日に新たなる力持て
    煌き上る朝日子の
    諭
(さと)し忘れず励みなば
    吾等の誓いいや固く
    国の光となりぬべし
  4.隅田の流れ弛みなく
    業を磨きて桜花
    清き操を身にしめて
    よく学びつつよく遊び
    進み行かん諸共に




■江戸木箸

 東向島2丁目3番6号にある箸工房「大黒屋」。自分に合った箸を使ってほしいという願いから、
用途別に様々な種類の箸を創作している箸職人武田勝彦が、自前の店「江戸木箸 大黒屋」をオープ
ンした。店では、使う人の趣向に合わせて創作したお箸が約200膳以上並ぶ。五角箸・八角箸・納
豆箸・豆腐箸・サラダ箸・紫檀箸・青黒檀箸etcetc ・・・ 美しいデザインと機能性を兼ねた「ずん
ぐり箸」は、箸が苦手な方やつまむ力の弱い方にお勧めだ。休日は、第2・3土曜日、祝祭日で、あ
とは毎日午前10時から午後5時まで開いている。03-3611-0613
 [問合せ]墨田区産業経済課産業振興担当 03‐5608‐6186



■向島税務署
 東向島2丁目7番14号にある。



■豊川稲荷
 東向島2丁目11番12号の建物の角にある小祠。



■睦稲荷神社
 東向島2丁目22番44号にある小社。
 



■曳舟駅
 東向島2丁目26番6号にある東武伊勢崎線、亀戸線の停車場。明治35年4月1日の吾妻橋(業
平橋)~北千住間開業時にできた駅。その2年後の明治37年には、亀戸線も開通している。平成1
5年に半蔵門線が押上まで全通した際、曳舟から押上までの線路も開通し、直通運転が開始された。
ホームは高架複合式3面5線構造。伊勢崎線が発着する1~4番線(島式ホーム2面)と、亀戸線が
発着する5番線(片面ホーム1面)から成っている。ホームと改札階を結ぶエレベーターは、平成1
8年3月に全てのホームに設置された。改札口は1ヶ所のみで地上1階にある。出口は西口と東口の
2ヶ所。曳舟~北千住間の各駅は、準急は全列車が停車するものの、半蔵門線直通の区間準急・通勤
準急は停車しないので注意。曳舟駅からそれらの駅へ行く際は気を付けよう。



■向島郵便局

 東向島2丁目32番25号にある。



■子育て地蔵
 東向島3丁目2番にある。地蔵坂通りの名の元となったお地蔵さん。

   子育地蔵堂
   所在 墨田区東向島三丁目二番一号この小堂に祭られている子育地蔵は、文化年間(18
   04~1817)に隅田川の堤防修築工事の際、土中から発見されたと伝えられています。
   初は村の子供たちが、神輿がわりにこの地蔵をかついでいたそうです。ところがこの地に
   古くから住む植木屋平作方の雇人夫婦が、ある日、田地で殺害されましたが、この地蔵が
   村のこどもの口をかりて犯人をお告げになり、たちまち犯人を捕えることができました。
   この奇跡に驚いた平作は、当所に地蔵を安置して供養を怠りませんでした。その後、将軍
   家斉が当地に鷹狩に来て、平作方に小憩の際、地蔵の由来を聞いて感銘し、帰城の時にお
   参りしました。平作はこれを記念して小堂を建てて地蔵を安置したところ、多くの人々が
   参詣するようになりました。このお堂の前の坂は明治四十四年、堤防修築の時にできたも
   のですが、今も「地蔵坂」の名で知られています。
   昭和六十二年三月                            墨田区



白鬚神社
 東向島3丁目5番2号にある大社。白鬚の渡し・
白鬚橋の名の由来となった神社。祭神は猿田彦大
神、天照大神、高皇産霊神、神皇産霊神、大宮能売神、豊由気大神、建御名方神。境内に三峯社、水
神社、諏訪社を合わせる。

 天暦五年(951)慈恵大師が関東に下ったときに近江国比良山麓志賀郡打下の白鬚大明神の分霊
を祀ったことに始まる。慈恵大師ではなく元三大師良源だとするものもある。天正19年には将軍家
より神領2石を奉られている。寺島村の氏神としてばかりでなく、商売繁盛、方災除け、厄除けの神
として多くの人々の崇敬を受け、隅田川七福神の寿老神としても崇められている。区内では牛島神社
と並ぶ古社で、社殿は元治元年(1864)に造営された白木造りで、区内では震災・戦災を免れた
貴重な建造物だったが、平成2年放火によって焼失。現在の社殿は同4年に再建されたもの。
 白鬚とは百済のことで、朝鮮の帰化人の遺跡という説が強い。栃木の益子、埼玉の高麗、多摩の狛
江(井の頭池)など関東には古代朝鮮人の居留地は多い。
 境内に数々の碑がある。変ったものでは寛政十二年(1800)の力石がある。重さが50貫(1
87.5kg)、55貫(206.25㎏)などだ。
 入口の石の門柱に刻まれている篆書は右が「神徳」、左が「唯馨」。「新編武蔵風土記稿」に


   白鬚社。
   村の鎮守なり。相傳ふ当社は天暦五年元三大師関東下向の時、江州志賀軍打颪より勧請し、
   天正十九年社領二石を給ひし由。されと今は免除の地なく社地のみ僅の除地なり。神体は
   元三大師の作長一尺の立像也。左右に諏訪と稲荷を安す。本地不動は坐像長四寸許興教大
   師の作。今は別当寺の本山蓮花寺に在り。


 とある。

 石灯籠2基
 ①.立派な基壇の上に起立する宮前型の灯龍。損傷・磨滅の少ない保存の行き届いたものだ。銘は
「寛政十三年(1801)辛酉正月吉日 献燈両基 両替町田中氏」とある。田中氏は寺島村出身で
名主の中山氏の一族と思われる。
 ②形式は春日型。銘に「寛永二年(1849)次歳 法橋胡民斉 巳酉五月吉日」あるから、寺
島村の中山胡民(祐吉)の奉納であることが判る。

 狛犬1対(区登録文化財)
 文化三年(1806)に作られた阿吽形の一対。阿形の台座に損傷が見られるが、像そのものは磨
滅はない。白鬚神社の「御宝前」に「奉納」されたもの。作者は神田今川町の石工六兵衛明貴の手に
なるもので、白鬚神社が墨堤という場所柄にあることと、祭神猿田彦命が商売繁昌の神として信仰を
集めていたことにより、奉納(建立)者は、当時、通人として知られた人々、松葉屋半左衛門(吉原
の遊女屋)、八百屋善四郎(浅草山谷の料亭八百善)、駿河屋市兵衛が合力したものだ。

 
三十七八年役紀念献燈人名碑

 篆書で西川春洞が書丹したもの。西川はこの近くに住んでいて、参道入口の「神徳」「唯馨」の篆
書を書いている。


 白鬚神社縁起碑
 かって白鬚神社の東隣に、今は廃寺となって無い別当寺の西蔵院があった。享和二年(1802)
社殿修理を機に、その持住興元の求めに応じて、高名な橘(加藤)千陰(回向院)が筆を揮ったたも
のだ。碑面が摩滅していてかなり読み辛くなっている。

 鎮座一千年記念碑
 昭和28年の建碑。

 
空谷等周衣嘖之蔵
 下総(千葉県)出身の画家、川村等周(号空谷)の衣嘖(衣と頭巾)を埋め、その彼と親交のあっ
た清水武によって営まれた碑で、篆額は海若寺本永。書丹は清水の子8歳の孝(孝蔵)。碑陰の書は
12歳の美智(姉)が筆を執ったもので、幼少の者が揮毫したという大変に珍しい碑は、文政十一年
(1828)の建碑。撰文者の綾瀬亀田長梓は亀田鵬斎の義子(一説に長子)で亀田三蔵(綾瀬)の
ことだ。なおこの碑そのものに移動があったのか、碑陰が前面に出ており、碑面の下部は土に埋まっ
ている現況だ。

 亡友蒼山衣剱之蔵碑
 碑面の添え書きによれば、蒼山は本名を小野田大三郎といい、24歳で没し、市谷善慶寺に葬られ
た。彼の衣と剱(刀)を埋めて塚としたものだ。篆額は海若寺本永、撰文は金陵芳野愿、書丹は盤谷
鈴木毅。窪世祥鐫。碑陰の建碑者名の中に、亀田三蔵(綾瀬)・清水武の子、美智・孝蔵(孝)姉弟の
名がある。前の「空谷等周先生衣嘖之蔵」と何らかの関連があるのだろうか。天保四年(1833)
の建碑だ。

 
諏訪大明神碑
 天保八年(1837)の建碑。神社の南に大永元年(1521)創建の諏方神社の遺跡があった。
神社は明治40年に合祀した。

 
北島玄二歌碑(黒人碑)
 白鬚神社にあるものの内一番の古碑で、寛政十二年(1800)の建碑。裏に北島とあるが、三河
屋半兵衛のことで、通称を浜辺黒人といった。木阿弥と並ぶ江戸の2奇人で、狂歌で食っていた。高
さ1mに満たない四角柱の碑だが、彫りも深く風格もある碑だ。
 「黒人塚」と大書して、右面に、

   天やこの人を生み 天やこの人亡る この人阡人の玄 崑崙一人に選る倚る

 この句は、原漢文。左面に、

   うつせみのうつつにしばしすみた川 渡りそはつるゆめのうきはし

 と刻んでいる。
 北島玄二は本名を源二、色が黒(玄)いので玄ニと称したという。本業は医師で『くすしのみち』
を著したともいう。

 
天広丸の碑
 
酔亀堂狂歌碑ともいう。宝暦六年(1756)鎌倉生まれの狂歌作者。本名を磯崎広吉、号を酔亀
亭と名乗り、文政十一年(1828)に没している。
 青石の自然石上部に酒を表すとみられる標記(酒の印篆の1つか?)を置き、

   くむ酒は 是風流の眼なり 月を見るにも花を見るにも

 この狂歌は彼の出生地、鎌倉市今泉の白山神社参道入口にある、文化元年(1804)
銘のある
自筆の狂歌碑と全く同じ筆勢なので、これも自筆であり、建碑も文化初年を下らな
いものと思われる。彼は狂歌を唐衣橘洲に学び、生涯、酒好きで、その著「狂歌酒百首」の
巻頭(第一首)を飾るのが、この歌だ。

 加舎白雄の句碑
 かやしらお 
天明の放浪の俳人。号を春秋庵といった。

   人こひし 火ともしころを さくらちる

 
高さ140cmの四角柱の句碑だが、損傷が大きく碑陰は全く読め無い。白雄は信州(長野県)上
田の生まれで、多年各地を放浪して後、江戸に春秋庵を開き、句作に励んだ。隠逸潔癖、純真多感、
飾りのない作風を主張し、蕉風俳諧の作法を平易に説いた。碑の句も、その著『白雄句集』からの出
典。なお碑陰は、「于時文化歳在癸酉(1813)春三月 拙堂創建之 補助居行」と補うことがで
きる。

 中原耕張の句碑
 高さ123cmの四角柱正面に「筆塚 中原耕張」として次の句を添えている。

   つくつくし つめよ硯の すみ田川

 筆塚は退筆塚ともいわれて、使い古した筆を地に埋めて供養塚としたものだ。この句の面白さは、
言葉の言い懸けを多用しているところ。念入りにの意の「つくづく」と筆塚にちなんで「つくし(土
筆)」、「つめ」の積む(蓄える・ためる・励む)と摘む(集む)、硯のすみ(墨)」と「すみ(隅)
田川」が、それだ。
 中原耕張は、この筆塚を建碑した2年後にの冬に、近くの蓮花寺に「算子塚」をも建碑しているか
ら、恐らく書道(長雄流)と算盤(最上流)で生計をたてていた、山谷(台東区)鳥越の人物と思わ
れる。

 桑楊庵干則句碑

   久かたの天津をとめもうらやまむ 人間界の華のしら雲

 桑楊庵干則は浅草干則のことか? 初代桑楊庵(別号 頭光。江戸後期の狂歌師で狂歌四天王の一
人)は、享和二年(1802)に門人真砂庵干則に、号を譲ったとのこと。

 
墨多三絶之碑
 佐羽淡齋の隅田川遊船逍遥の漢詩、三連の七言絶句が刻まれている。篆額の揮毫は巻菱湖で、詩を
江戸4詩家の1人大窪詩佛が草書で書いたもの。享和二年(1802)の建碑で、参詣者の多かった
ことを知ることができる。火災時の熱のためか石が割れ、表面が剥落しそうである。区の資料では廣
羣鶴并男羣亀が鐫を取ったとある。羣鶴は代々名乗りなので、羣亀は、その跡継ぎの名前なら珍しい。

 三十六湾漁叟「隅田川観楓詩并序」碑
 隅田村から小梅村界の墨堤に楓を創植するのに、独力で成し遂げた女性の健気さに打たれて絶句五
連を得た三十六湾漁叟(越後人。館柳湾。雄次郎)の漢詩の碑。天保七年(1836)の建碑 女性
の名は川口娜保(直)といい、もと吉原の名妓で太田南畝(獨山人)作詩の「北洲」に節付けした三
味線の名手であったともいわれている。芸妓をやめ、日本橋薬研堀に「川口」という料亭を開き、の
ち橋場に移り、繁盛したとか・・・

 四世今日庵の句碑
 高さ190cmの自然石に「四世今日庵元風」として句を刻んでいる。

   こころほど こと葉のたらぬ さくらかな

 元風は本名を松本伊助といい、師一蛾につき、天保の頃に活躍した江戸の俳人。息子盛義(小衰)
による天保七年(1836)の建碑。また彼の手になる碑は区内に多くある。


 
岩瀬鴎所君之墓碑
 一の鳥居を潜った右手奥にある。高さ2mを越える大碑だが、碑林とは反対の壁際にあるので見落
とされやすい。岩瀬忠震(ただなり)の一代記で、若くして不遇の内に没したのを惜しみ、現役時代
の同僚永井介堂(尚志)の撰文・書丹・篆額による、没23年後の明治16年建立の顕彰碑。

 鴎所は隅田川近くに住んだことを意味する岩瀬忠震の雅号。忠震は現在の愛知県新城市富沢を知行
していた400石取り旗本設楽貞丈の3男として生まれ、23歳の時同じ三河の旗本書院番岩瀬市兵
衛忠正の婿養子となり、その後江戸の昌平坂学問所で学び、幕府の役人採用試験に合格し幕吏となっ
た。嘉永八年(1853)老中阿部正弘よって目付に登用され、安政元年(1854)ペリーが黒船
で来航すると大老井伊直弼の下、アメリカ領事ハリスと交渉し「日米修交通称条約」に調印、その後
も外国奉行としてオランダやフランスなどと安政の五ヶ国条約を締結に主体的役割を果たすなど大活
躍したが、その後大老井伊直弼と将軍継嗣問題で対立し、「安政の大獄」の時に譴責を受け、寺島の
岐雲園に蟄居、文久元年(1861)七月44歳で病没、文京区の蓮華寺に葬られた(現在は雑司が
谷霊園に改葬)。
 岩瀬忠震の屋敷(岐雲園)は、墨田1丁目4番のブロックで、幸田露伴も住み着いたことがある。

   江戸時代末期の外交家。文政元年江戸に生まれました。名は忠震で、鴎所の号は隅田川の
   辺に住んだことに由来します。幕府の徒頭設楽貞夫の第三子で、天保十一年(1840)、
   旗本岩瀬忠正の養子になりました。嘉永二年(1849)老中安部正弘から目付に抜擢さ
   れました。鴎所は昌平坂学問所で漢学を学ぶにとどまらず蘭学も学び、当時、外国に事情
   認識においては鴎所が一番といわれました。幕府の鎖国政策を非難したほか、砲台を築き
   軍艦を造り、講武所と蕃所調所を設け海軍伝習を始めるのにも参画しました。後に将軍徳
   川家の継嗣選定の問題で、新任の大老井伊直弼と対立したため、安政6年8月に官位を奪わ
   れ、蟄居を命ぜられました。
   その後向島に隠居し、もっぱら読書文芸にふける悠々自適の生活を送りましたが、文久元
   年(1861)7月16日、44歳で没しました
   平成16年3月                         墨田区教育委員会


 
鷲津毅堂之碑
 
「岩瀬鴎所君之碑」を上まわる、高さ256cmの大碑で、字数は区内一の多さだろう。篆額は明
治の元勲三条実美、撰文を友人三島毅(二松学舎の建学者)、書は巌谷修(小波の父)の手になるも
の。
 鷲津は、幕末・明治初期に活躍した漢学者・政治家で、20歳の頃昌平黌に学んで勤皇思想を広め、
明治維新で新政府に登用され、登米県(宮城県北部)権知事、権大法官五等判事・司法権大書記官と
なり、勲五等従五位に叙された。永井介堂(尚志)とは、混乱期の京都伏見の地において知遇を得、
また同姓の永井久一郎に長女を嫁し、外孫壮吉(荷風)を設けてい。明治15年58歳で歿した。



晴河山法泉寺

 東向島3丁目8番1号にある曹洞宗の古刹。葛西三郎清重が仮屋跡に両親の追善供養のため建てた
という。度々の兵火に焼かれ、荒廃したが、天文元年(1532)に僧安元が中興し、それまでの真
言宗から曹洞宗に改宗した。しかし『新編武蔵風土記稿』には、

   法泉寺
   禅宗曹洞派、江戸駒込吉祥寺末、晴河山と号す。寺領八石五斗は慶安元年御朱印を附らる。
   住僧の傳へに当所は往古葛西三郎清重が知る所にして、彼が二親菩提のために建立せり。
   其頃は伽藍も壮麗にして村内大抵寺領なりしゆへ村名ともなれり。其後しは久々兵火のた
   めに焼払はれ、寺領も多く掠め奪はれ堂社も久しく廃せしを、天文元年大州安元と云僧中
   興して再び旧に復せしにより今是を開山となせりと。安元は永禄十二年五月七日寂す。又
   過去帳に開基法泉寺大禅定門 文明十二年二月六日寂となり。此法泉は清重末葉の人なる
   にや。又同時当所の領主遠山新三郎某の亡妻覚憲良円大姉追福の為10畝の地を寄附ありし
   ゆへ、是をも中興の開基をなせり。本尊釈迦を安す。
   不動堂。髻不動と号す。立像長一寸余、元禄十五年村民傳左衛門か娘当寺へ参詣の折から
   道にて拾ひ得し像なり。後夢の告によりて当寺に納めり。新田義貞髻中に納置し守本尊な
   りしと云。
   地蔵堂。
   衆寮。
   鐘楼、貞享元年の鋳造なり。

 とある。本尊は釈迦如来を安置し、かつては新田義貞の守本尊という伝承を持つ「髻不動尊」があっ
て信仰を集めたとか。また法泉寺には区内でも多数(8基)の板碑が保存されている。原則非公開。
いずれも区登録文化財。髭不動明王は、『武江年表』によると、元禄十五年(1702)寺島村百姓
伝左衛門の娘が叢の中で見つけて奉納したとか。余談だが新田義貞の新田源氏の守護仏は新井薬師の
本尊だ。
 山門も落ち着いた佇まいで、正面に壁の白さの際立つ本堂がある。庭も手入れが行き届いて整然と
しており、お寺らしいお寺だ。

 板碑8基
 法泉寺には区内でも多数(8基)の板碑が保存されている。原則非公開・いずれも区登録文化財だ。
   ①貞和三年(1347)阿弥陀一尊  ②延文六年(1361)阿弥陀一尊
   ③
応永八年(1401)阿弥陀三尊  ④永享四年(1432)阿弥陀三尊
   ⑤延徳四年(1492)阿弥陀三尊  ⑥永禄十一年(1568)日蓮題目
   ⑦銘欠損       阿弥陀三尊  銘欠損       阿弥陀三尊

 短冊塚(千鳥庵鳥奏句碑)
 寛政九年(1797)九月の建碑。寺門を入ってすぐの右側、藤棚の下に「短冊塚」の篆
額のもとに、三世千鳥庵(川崎重亮・肥前唐津の人)の4句が刻まれている。

   散日から散るを盛りや花の山
   思ひきって飛姿なりほととぎす
   我を山に捨て名月入りに鳧
   夕煙 雪の野末に里ありや


 季語を配した春夏秋冬一連の句碑。

 尚左堂俊満歌碑
 本堂前の樹木の下に、表に彼の次の和歌、裏に友人石川雅望(宿屋飯盛)による彼の人となりを紀
したもの。

   故郷のおやの袖にもどるかと おもへば月はふたつなきもの

 尚左堂俊満は、幕末の浮世絵師で戯作者。本姓を窪田または窪といい、通り名は安兵衛。生来左利
きのために尚左堂、また左尚堂と号した。その色彩感覚は繊細であったとされる。また多芸だったと
みえ、狂歌では一筋千丈、川柳では塩辛房、戯作では黄山堂、あるいは南陀伽紫蘭と称した。窪俊満
・石川雅望ともに、台東区蔵前3丁目の正覚寺(榧寺)に、隣り合って葬られている。

 中山胡民の墓 
 中山家は寺島村の名主をつとめた家で、胡民は通称を祐吉という江戸末期の著名な蒔絵師だ。大変
緻密な蒔絵を作ったことで知られ、古い蒔絵もよく研究し、巧みに応用した作品もある。晩年、法橋
(僧侶の叙階)に叙せられ、泉々と号した。茶道・俳句にも優れていましたが、明治6年、齢63歳
で没した。胡民の墓は自然石(高さ78cm)に「泉々胡民墓」とあり、台石に「名花山」と刻まれ
ている。


 寛文二年銘地蔵尊像(区登録文化財)
 本堂横の、墓地入口近くに起立する。錫丈こそ失われているが、ゆったりした規格正しい舟型光背
を持った眉目秀麗な地蔵尊。流石に江戸初期は寛文二年(1662)の雰囲気を十分に醸し出してい
る。特に光背部に回向文を有する点では、この一点のみではないか。

   願以此功徳 普及於一切 我等与衆生 皆共成仏道

 は法華経化城喩品の一節で、自他共に及ぼす無我の功徳を以て彼岸に達しようとする信仰
心を表している。


 寛文六年銘庚申地蔵像
 
新墓城に安置されといる(他所からの移転?)もので、顔面に損傷はあるものの、高さ91cmの
愛苦しさの漂う地蔵尊だ。

   奉造立地蔵尊為ニ世安楽也 庚申講中  寛文六丙午天八月十二日

 として居る。

 延宝八年銘庚申阿弥陀坐像
 本堂の左側、墓城参道の左側にある笠塔婆型の庚申阿弥陀坐像。今では宝珠・笠石は失われている
が坐像の半肉彫は出来がよく保存状態も良好。銘を

   延宝八庚申天(1680) 奉供養庚申ニ世安楽十一月五日

 としている。

 延宝九年銘念仏供養龕
 「尚左堂利満歌碑」の近くにある96cmほどの、見落としがちな龕です。「龕」とは神仏を安置
する小さい箱の意ですから、石造りの厨子と考えていい。区内にあっては、龕の形式をとるのは極め
て稀。龕正面の銘に、

   延宝九辛酉歳(1681)六月二十八日

 右側に、

   念仏供養

 と見えるが、龕に祀られているのは神像で、宝冠に鳥居、上部に日月を戴いているところをみると、
神仏混交の姿を留めている。

 元禄六年銘地蔵坐像
 墓城中央のやや奥まった位置にあり、持ち物等は一切失われているが、頭部や右手の様子から見て
地蔵尊と判断される。元禄六年は1693年。


 享保二年銘金銅製地蔵像(区登録文化財)
 本堂に向う左手にあって、台座の上に立つ高さ160cm余の金銅製の地蔵像で、「延命地蔵」と
されるものだ。享保二年は1717年。台座の銘に、

   奉造納 東海道武蔵国葛西郡西葛西領寺島村仏頂山法泉禅寺

 とし、背後と袖の銘に、

   導師前永平吉祥15世大宣伝大和尚、願主念蓮社十誉、施主浅草御堂前俗名阿部
   主水


 としている。これだけの大作だから、多くの資材を必要としたろう。そのための喜捨に応じた人々
の名が、全身(法衣)に隈なく刻まれている。十方万霊供養と施主の先祖及び一家霊魂菩提のために
建立されたことが記されている。この像には、作者名(鋳物師宇田川善兵衛)を陰刻し、結衆者の名
前と職業(やかん屋、豆腐屋などと分かることは特筆される)が宇田川姓の鋳物師は中世末期から続
く名家で、代々小伝馬町(日本橋小伝馬町)に住み、数多くの作品を手がけた。

 保護樹木「椎の木」と「椨の木
 区内には嘗て多くの名木・大木があった。松浦上屋敷の椎の木、東江寺の「見あひの松」吾嬬神社
の「連理の樟」、高木神社の「臥龍松」、秋葉神社の「千葉の松」、常泉寺の「十返り松」などがあっ
たが、これらは都市化の波と度重なる変災とによって、全て失われてしまった。区では、数少なくなっ
た樹木を後世に遺すために昭和48年制定の「緑化の推進に関する要綱」に基づいて、その保護に乗
り出した。この法泉寺の「椎の木3本」「たぶのき1本」を含めて、現在69本が指定を受けている。
特にたぶのきは、区の第1号保存樹だ。
 区によると、「しいのき」は、目通り1m30cmが2本、1m35cmが1本だ。「たぶのき」
は、目通り2・85cmと公表されている。


 田中抱二の墓
 
幕末・明治の日本画家。江戸生まれ。通称は金兵衛、別号に軽挙。酒井抱一の門。幕府御用達。明
治18年歿、73歳。


 伝地頭多賀藤十郎墓
 向島百花園この地はかつて多賀屋敷といわれたところ、寺島・請地など4ヶ村を領した多賀藤十郎
屋敷の跡だ。多賀氏は710石の旗本、近江多賀の出で早く家康に仕えた。一時は繁栄して多賀4家
を数えたが、そのうち3家まで江戸中期に断絶している。中には同僚と役目のことで争い刃傷事件を
起こし、またなぜか当主が逐電したため断絶した家もあった。いわば不吉な一族だった。藤十郎も大
番組、書院番組を勤めた歴々の旗本だったが、法泉寺および蓮華寺の寺領を掠め、年貢を横領したた
め代官伊奈半左衛門に訴えられた。そのため寺社奉行本多弾正の吟味を受け、御朱印地を侵すとは不
届きとあって切腹を申し渡された。藤十郎にも言い分はあったに違いないが、取り上げられず恨みを
呑んで多賀屋敷内で自害して果てた。




■蝸牛庵跡の1
 墨田区における幸田露伴の旧宅跡は全部で3ヶ所。墨田1丁目4番にあった岩瀬忠震邸の内、東向
島1丁目9番雨宮商店駐車場、同7番区立露伴児童遊園だ。露伴自身の生前の談話によると、「蝸牛
庵というのはね、あれは家がないということさ。身一つでどこへでも行ってしまうということ。昔も
蝸牛庵、今も蝸牛庵だ(昭和13年8月9日)」(小林勇『蝸牛庵訪問記』昭和31年)や、露伴の
次女文(あや、随筆家・小説家、故人)の見解「父の住んだ家は、どこも蝸牛庵なのだ」に従えば、
岩瀬肥後守忠震(ただなり)の旧居(向島岐雲園)を、そこに一時期とはいえ露伴も居を構えたので
「蝸牛庵」と称しても間違いではないが、混乱を避けるために露伴の南葛飾郡寺島村での3ヶ所のう
ち、最初のものは忠震生前からの旧称「岐雲園」のままとしている。向島での露伴2番目の旧居は寺
島蝸牛庵だ。建物は明治村に移築して現存、跡地は雨宮商店駐車場となっている。寺島での3番目の
旧居について、これは新寺島蝸牛庵(露伴児童遊園)とでも名づけるか。元々新旧の寺島蝸牛庵と岩
瀬忠震とは全く無関係で、世間に蔓延する、岐雲園と蝸牛庵(寺島蝸牛庵と新寺島蝸牛庵)との混同
は看過できない状態にある。だから蝸牛庵は何ヶ所もあり、多くの人々が誤解しているようにカタツ
ムリの形はしていないことを認識すべきだ。犬山の明治村に移築されている蝸牛庵の建物は、2番目
の雨宮商店の駐車場に建っていたものだ。3番目の建物については持ち去られたが、その後の行方、
破棄されたのか、現存しているのかは不明。 児童遊園にカタツムリ型の滑り台と文学碑が建ってい
るが、遺族はあまり乗り気ではなく区が勝手に推し進めたのを積極的反対もせず黙認したというとこ
ろだ。文学碑に、

   世 おのずから數というもの有りや。
   有りといへば有るが如く、
   無しと爲せば無きにも似たり。
   洪水天に滔
(はびこ)るも、禹の功これを治め、
   大旱地を焦がせども、湯の徳これを濟
(すく)へば、
   數有るが如くにして、而
(しか)も數無きが如し 「運命」より



■セイコー時計資料館 → セイコーミュージアム
 東向島3丁目9番7号にある。国内および海外の時計に関する各種資料を収集、整理、保存ると共
に、時および時計に関する情報を蓄積し、研究を行う機関を目指して、セイコーの創業100年に当
たる昭和56年に開館。1階は「時の進化」をテーマに、日時計や和時計などの時を計る道具が紹介
されている。2階は置・掛・腕時計が時代区分ごとに展示されている。ウオッチ・クロック等の標本
資料は約13000点、その他にも時と時計に関する一般文献などを3階で閲覧できる。時計に関心
を持たれる方から、専門的に研究される方までが楽しめるよ。開館は、祝祭日、年末年始を除く、火
~土曜日の午前10時~12時、午後1時~4時。インストラクターの説明を旨としているので事前
(午前10時~12時、午後1時~4時)の予約が必要。 03-3610-6248

 
リニューアル・オープン
 平成24年4月1日創業130周年記念事業として、「セイコーミュージアム」への名称変更と合
わせて全館をリニューアルし、「セイコーブランドの情報発信基地」として、展示をより体系的に分
かりやすくするとともに、スポーツ計時の体験コーナーやミュージアムショップを新設した。

 一挺天符式の掛時計
 「一挺天符(いっちょうてんぷ)」は、棒天符が1本付いている。鐘の下の、分銅がつている櫛歯
状の横棒が棒天符で、往復運動をして、振り子のように時計の動く速さを制御する(=調速機)。毎
日、明け六つと暮れ六つに分銅の位置を移動して、時計の速さを調節する。「掛時計」は、柱や壁に
掛けて使う。下の紐の先には錘(おもり)がついていて、その重さで動く。

 二挺天符(にちょうてんぷ)式の櫓時計
 「二挺天符(にちょうてんぷ)」は、棒天符が2本付いている。明け六つと暮れ六つで自動的に切
り替わり、昼は上の棒天符、夜は下の棒天符が動く。そのため、分銅の移動は毎日する必要がなく、
季節の昼夜の長さに合わせて、24節毎(15日毎)に夫々の分銅の位置を移動する。「櫓時計」は
時計本体の下の紐と錘が板で覆われていて、櫓のような形をしている。掛時計と同様に、錘の重さで
動く。



雲寺

 東向島3丁目13番3号にある曹洞宗の寺。寺号表札がなければ一般住宅なので判らない。



多賀屋敷跡

 東向島3丁目18番3号の百花園の地は嘗て寺島・請地など四4ヶ村を領した多賀藤十郎屋敷の跡
だ。多賀氏は710石の旗本、近江多賀の出で早く家康に仕えた。一時は繁栄して多賀4家を数えた
が、その内3家まで江戸中期に故あって断絶している。中には同僚と役目のことで争い刃傷事件を起
こし、また何故か当主が逐電したため断絶した家もあった。いわば不吉な一族なのだ。
 当屋敷最後の主となった藤十郎も大番組、書院番組を勤めた歴々の旗本だったが、法泉寺および蓮
華寺の寺領を掠め、年貢を横取りしたため代官伊奈半左衛門に訴えられた。そのため正徳三年(17
13)寺社奉行本多弾正の吟味を受け、御朱印地を侵すとは不届きとあって切腹を言い渡された。藤
十郎にも言い分はあったに違いないが、取り上げられず恨みを呑んで屋敷で自裁して果てた。墓は法
泉寺にある。その3年後の享保元年(1716)
多賀家は絶家となり、多賀屋敷は明け屋敷となる。
敷地は略3000坪、武家屋敷らしく周囲に堀を廻らした立派な構えだったが、主の切腹と共に荒れ
るに任せ、軒傾き、庭上草深くして、実に狐狸窟をなす有様だった。
 江戸の喧騒を離れてこの辺りに住み着いた佐原鞠塢だが、郊外の閑居は優雅なものの、暫くすると
退屈で仕方がなくなった。初めは農業をする心算だったが、ふと多賀屋敷のことを耳にするとじっと
していられなかった。屋敷跡を訪れて見て、風雅と実利の両面から再開発を思い立つ。たんと金はあ
る鞠塢は、そっくりその屋敷地を買い取り、敷地内に半ば埋もれていた祠を掘り起こして天神様を祀っ
た。それが百花園の起こりだ。
 余談だが、藤十郎についてはもう1つ逸話がある。東向島の辺りを、かつて「抜けられます」で知
られた「玉の井」だが、この玉は、この辺りの代官だった藤十郎が妾の名前に因むそうだ。「井」は
涌水地、湿地、井戸、用水などを表す。



向島百花園
 東向島3丁目18番3号にある都立公園。文化元年(1804)古物商の佐原菊塢(きくう)が多
賀屋敷跡を開き、太田蜀山人・加藤千蔭・村田春海・谷文晁ら当時の文人が梅園を寄贈し、酒井抱一が
百花園と命名した。蜀山人は「花屋敷」と命名したが、屋敷は武家に限られることだったので、看板に
は「花屋ほにゃらら」と判読不明の文字を書いたという。
 菊塢は仙台の人平八→佐吉で、天明のころ江戸に上って、江戸三座の1つである中村座の芝居茶屋
和泉屋に10年以上勤めた後、日本橋住吉町に骨董屋を営んで北野屋平兵衛(通称北平)を名乗った。
北平はもともと世才があり、その上文事にも疎からず、加藤千蔭・村田春海・亀田鵬斎・大田南畝・
大窪詩仏・抱一上人などの愛顧を受け、殊に茶人川上不白・千柳菊旦の紹介で諸大名や旗本の屋敷へ
出入りし、骨董を売買して巨利を得た。風流人で文学趣味も豊かだった。さて一通り商売の旨味を知
り尽くすと、急に空漠感を覚えて近郊の閑静を慕うようになった。そこで骨董店は人に譲り、本所の
中之郷村に隠棲して菊屋宇兵衛と改
名した。それで菊宇と呼んだのだろうが、それでは商人臭が払拭
できぬため、気取って帰空→菊塢と改め、佐原菊塢に落ち着いたいう。「塢」は川っぷちの土手のこ
と、風流振って意味の通じないところが無邪気。その
菊塢が何に感化されて庭園作りを思い立ったか
判らないが、多賀氏の拠点だったという
多賀屋敷
跡というところで園芸趣味を生かし始めた。

 同時に千蔭・春海・南畝らに、1本づつの梅樹の寄付を要請すると、皆喜んで応じ、忽ち360本
も集まった。『風俗画報』隅田堤の部に、この梅を、「一株一日の料に当つ」とあるのは、一株分の
梅の実を一日のお菜にしたとの意。どうも鞠塢はちゃっかりしたところがあり、風流より根っからの
商人ではないかとの疑問も湧く。しかし表面は風流人の鷹揚さを見せ、梅を寄付した文人たちに庭の
造作を一任した。すると詩仏・蜀山人・千蔭などが毎日のように訪れ、株主顔をしてあれこれ姦しい
論議を展開。


   
庭苑らしく整っているより、百花しどろに咲き乱れているのがよい」

   
 「四つ目垣は物々しいから蕨縄か棕梠縄・・・」
   「いや、いっそ藁縄がかえって面白かろう」


 などと勝手なことを言い出し、道も泉水もまったくの型破りのものとした。それを以て風流とした
が、お蔭で野趣あふれる超自然の庭園となった。この作庭移植については文人墨客相集い、侃々諤々、
喧々囂々の大騒動だったようで、菊塢はへとへとになってしまった。
                     *
 
翌文化二年の正月、園中に小松を植えて一周年を祝ったが、江戸の名ある文人は残らず集
い、おまけに自称風流人もわんさと押しかけて脱俗ぶりを誇示した。この時の秀逸。

   松も引き若葉も摘みて今日よりは春のこころを覚え初めけ(千蔭)
   梅咲かばつぎてもとはん此宿の松にひかるる今日ばかりかは(春海)
   鶯の初音の小松引く袖に あるじ顔にも匂ふ梅が香(三島自寛)


 世は文化・文政(1804~30)という泰平の極運を迎え、風流めかす者が多かったので、百花
園の噂は忽ち人口に膾炙し、どっと見物人が押しかけた。
それで荒れ屋敷が梅の名所となり、亀戸の
清香庵臥竜梅に対して〝新梅屋敷〟の異名を取り人気を博した。
あれやこれや江戸中の話題となり、
ほどよい郊外の遊園地として客が集まったのだ。この頃が百花園の最盛時。文政十一年(1828)
には将軍家斉が来臨している。が、惜しいかな、その3年後の天保二年(1831)その名の通り秋
草の頃に補陀落山へ旅立った。その辞世、

   隅田川梅のもとにて我死なば春咲く花の肥やしともなれ


 行年70歳の高齢で病没した。

 その後も弘化二年(1845)には12代家慶が来臨、園内の離れ座敷に寛いで楽焼きを楽しんだ
りした。この上ない百花園の宣伝になった。
 明治の世になっても名声は衰えず、乃木将軍が時々来遊したし、伊藤博文も韓国統監という肩書き
で立ち寄った。明治41年10月12日後の大正天皇も萩の美しい百花園に行啓されている。向島の
名園としては、当時破格の栄誉ということができる。

 庭門に掲かる「春夏秋冬花不断」の看板の通り、早春の福寿草、水仙、梅に始まり、

   
福寿草見て静かなる命かな(清原枴童)
   黄は日射し集むる色や福寿草(藤松遊子)
   水仙を遠ざかるとき近づく香(稲畑汀子)

 
春、夏、秋の七草

  せり なずな ごぎょう はこべら ほとけのざ すずな すずしろ 春の七草
  よし いぐさ はちす おもだか ひつじぐさ かわほね さぎそう 夏の七草
  はぎ おばな ききょう なでしこ おみなえし くず ふじばかま 秋の七草


 
萩の隧道(トンネル)など、四季の花が咲き競う野趣豊かな園内に、

   春もゝやけしきとゝのふ月と梅(芭蕉)

 の句碑を初め29もの石碑がある。
 現在も
数多くの四季の花木草花が集められており、特には「萩」が著名である。昭和13年小倉の
ぶ未亡人により東京市に寄贈され、整備の後昭和14年から市営の制限公開庭園として開園されたも
のの戦禍で壊滅、戦後の同24年復旧された。8月は虫聞き、9月には月見など昔ながらの行事が行
われる(地名俳句歳時記・江戸東京地名を歩く)。

   
法師蝉ばかりの昼や百花園  (阿部みどり女)
   
見に行くや野分のあとの百花園  (正岡子規)
   かゆにする七草ひさぎ百花園   (野村喜州)
   茴香(ういきょう)の夕月青し百花園(川端茅舎)
   月待つや径(こみち)入り組む百花園(上村占魚)


 
「花屋敷」門額

 入口竹の門に掛かる木製刻字額。書は太田蜀山人(南畝)。「花屋敷」の「敷」の字が読み取れな
く、ほにゃららと書いてあるのは、当時「屋敷」という単語は、武家社会にのみ許される言葉だった
ので、態と書き崩して書いたのだという。

 門柱対聯
 大窪詩佛書の「春夏秋冬花不断」「東西南北客争来」。

 墨沱梅荘記碑
 竹の門を潜った左手にある亀田鵬斎の名碑。

   墨沱之瀬葛陂之傍荒圃鋤而新園成植之梅一百株


 の書き出しで
百花園の由緒を記したもので、文化十一年(1815)の建碑。鵬斎と亀田興による
撰并書。窪世祥鐫。鵬斎が63歳の時に楷書で書丹したものだとか。百花園の成り立ちを述べ、鵬斎
が自分と百花園や鞠塢との関わりの中で、梅荘(百花園)の美しさや鞠塢の風流瀟洒を称えた美文が
刻まれている。

 宮澤雲山先生観梅記
 長命寺の故紙碑の碑主と同じ。文政丁亥とあるから文政十年(1827)の建碑。鐫は廣羣鶴、皐
鶴同鐫とあるが書丹は不明。宮沢雲山のこの詩碑は、それぞれ「金盤銀燭酔って郷たり」「林下の僊
妹清浄の身」「清標高格百花の冠」で始まる三つの七言絶句が刻まれている。文政十年(1827)
の建碑。
 宮沢雲山、名は雉、字は神遊、雲山はその号。詩人で小説も書いていた。

 芭蕉句碑

   春もやや気色ととのふ月と梅  はせを

 と刻まれている。元禄六年(1693)の作で「梅月」と前書のある画賛の句だ。天保七年(18
36)の建碑。

 千寿庵益賀句碑
 文化十一年(1815)の建碑。

   鳥の名の都となりぬ梅やしき

 と刻まれ、碑陰に、抱一暉真書とある。文化十一年(1814)の建碑だ。抱一暉真は酒
井抱一のことで、江戸末期の画家・俳人。

 福禄寿尊碑
 明治41年の建碑。書は土方久元。

   隅田川七福之内福禄寿尊 正ニ位勲一等伯爵 土方久元

 と刻まれ、碑陰に建立者名が連記されている。

 茶筅塚(柘植黙翁句碑)
 御成座敷傍。

   茶筅塚
   おりたらん 草の錦や花やしき  黙翁


 木石庵柘植黙翁の一周忌に門人たちが師の遺志を継いで建てた碑で、漢学者大槻磐渓の長男大槻修
の書だ。碑陰に関東空也門中として大勢の門人の名前が記されている。関東空也門については詳らか
ではない。しかし空也上人門徒が茶筅を作りこれらを商ったという話しや門人の号などから、茶道の
一派ではないかと考えられる。

 芭蕉句碑

   こにやくのさしみも些しうめの花  はせを

 「こにやく」は「こんにゃく」だ。元禄六年(1693)の作で、芭蕉と去来との共通の知人の死
を悼んで去来へ送った句。梅の咲くころ、せめて心ばかりでもと、梅を折り蒟蒻の刺身を供えて故人
を祀ったとの意。金令舎鈴木道彦の書で、文化十一年(1814)の建碑だ。碑陰の「イ文ヒ」とい
う字は、「化」の字の中に「文」の字を入れたもので「文化」と読む。この手法は割書きといい昔の
公文書などで、位勲、役職名、氏名などを一行に書かなくてはならない場合など、短く詰めるために
よく使われた。

 山上憶良秋の七草歌碑
 文政四年(1821)の建碑。中井菫堂書丹。万葉歌二首の碑。憶良の和歌の碑というよりは、董
堂敬義の絶筆となった「秋の七草の書」を残すために、門人たちによって遺言通り百花園に建てられ
たもの。
 董堂敬義は、本名中井敬義で、通り名を嘉右衛門と称した。商家の番頭ながら書に巧みで江戸の三
右衛門の1人と謳われた。狂歌でも活躍し、腹唐秋人と戯号した。董堂が亡くなった文政四年(いち
はちにいち)の建碑。

   秋の野に咲きたる花を指(および)折り かき数うれば 七草の花
   萩の花 乎花葛花 なでしこの花 姫部志 又藤袴 朝貌の花


 乎花は「尾花」でススキ、姫部志はオミナエシ、朝貌は桔梗のことだ。

 大窪詩佛画竹碑
 大窪詩仏の竹の画に、詩人佐羽淡斎が詩を題し、碑陰には、詩仏老人碑竹記として、碩学朝川善庵
(常泉寺に墓碑あり)の撰、巻菱湖の書という文人四大家の合作。文政五年(1822)の建碑。大
窪(行)は徳川中期の漢詩人。草書と詩で名高く、また好んで墨竹を画き気韻に富んでいたという。

 金令舎道彦句碑

   けふの月さてもをしまぬ光かな   美知彦

 碑陰に、

   世中の梅のさきけりすみた川  文政十三年九月 一桑庵野月建之

 とある。道彦の13回忌に、野月が道彦門の有志を語らって建てたものだ。道彦は鈴木氏春秋庵白
雄(白鬚神社の項参照)門の俳人であり医者だった。

 其角堂永機句碑

   朧夜や たれをあるしの墨沱川  永機


 と表に刻まれ、碑陰には永機の略歴が記されている。永機は、穂積氏、名は美之、老鼠肝の子で其
角堂七世だ。28歳で受戒して無諍と名づけた。明治32年77歳の時、友人等がこの碑を建てた。
建碑者は魚河岸の人が多いのだが、歌舞伎俳優の5代目尾上菊五郎や書家の永井素岳の名も見える。
書丹は半古無恭。

 しのふつか(忍ぶ塚)
 2世河竹新七が、初代河竹新七の作った歌舞伎狂言「荵売(しのぶうり)」の正本をここに埋めて、
その功績を遺すために建てたもの。明治13年の建碑。高林ニ峯の書丹。

 きやうけん塚(狂言塚)
 2世河竹新七(古河黙阿弥)顕彰の碑。娘と門弟達が明治27年に建てたもので、高林ニ峯の書丹。
古川黙阿弥は、幕末、明治の脚本作者で、「三人吉三」「鼠小僧」など350作余りの作品がある。
本所南二葉町で没している。なお現今では「河竹黙阿弥」が一般的な作者名となってい。

 飯島光峨翁之碑銘
 江戸末期の画家飯島翁の顕彰碑。光峨は沖一峨の弟子で、東海、近畿、関東各地を巡って自然や風
俗を師ちし精進した。門人たちが翁の徳に報いるため、翁の知人の五峯高林寛(ニ峯の長男)に碑文
を依頼し、沖守固の篆額、田鶴年が鐫を取って明治33年に建てたもの。

 井上和紫句

   紫のゆかりやすみれ江戸生まれ  和紫

 碑陰には建碑者名と和紫の人となりが記されている。彼は永機の門弟で、魚河岸の鷲屋という魚問
屋の主人。明治32年の建碑。書丹は柳田泰六。

 哥沢芝金之碑
 哥沢芝金顕彰の碑で、榎本武揚が篆額を書いている。書は柳田泰六。芝金の本名は柴田金吉といい
幕臣の子として江戸に生まれた。同好の士と共に、古くからの小唄節が野卑に流れているのを改めて
一流を興し、盛んに行われるようになった。後に故あって「歌沢」を「哥沢」に改め、哥沢節が歌舞
伎の舞台に登るようになったのも、芝金の功績だ。碑面の終わりに、次のような芝金作譜の名曲が記
されている。

   ほととぎす いま一声のきかまほし 月はさゆれど姿は見えず
   エエぢれったい  何としよう  しんきくさいじゃないかいな


 明治32年、3世芝金らの建碑。

 矢田蕙哉翁之碑
 鷲流狂言師 矢田蕙哉翁之碑で、脇に、辞世の句、

   花暮れぬ 我も帰りを急うずる

 が記されている。鷲流は能狂言の一流(大蔵流・和泉流に対し)だが、今は絶えている。蕙哉は、
鷲流の最後を飾る名手だった。蕙哉が没した明治26年の7月に、蕙哉と縁のあった人々によって建
てられた。表面の辞世の句以外の字は普永機の筆になる。

 鶴久子歌碑

   空蝉の世のうきことはきこえこぬ いはほの中も秋風ふく  久子

 とあり、左側には、渋沢兼子ら久子の教え子たちが、明治35年久子の3回忌に建碑した経緯と、
久子を偲ぶ歌とを、御歌所歌人藤原粲が記している。久子は明治初中期の歌人で、和歌を以て宮内省
に仕え、また本所松井町(千歳1・2丁目)の家宅で歌学を教えていた。

 「く々のちの神 かやのひめの神」ニ神石碑
 この二柱の神は、古事記にあるイザナギ・イザナミの両神から生まれた神で、「古事記」では、「く
くのちの神は木の神、鹿野のひめの神は野の神」としているが、本居宣長は「かや」を「茅」として、
野の神のほか草の祖神という解釈をしている。百花園の成り立ちから見ても、やはり、木の神、草の
神ちしてここに並べて祀ったのだろ。

 最中堂秋耳句碑

   限りなきそらの要や望の月  最中堂秋耳

 最中堂秋耳の履歴についてはほとんど分かっていない。「もなか屋」だったという説もあるが、真
偽のほどは不明。明治33年の建碑。

 月岡芳年翁之碑
 二条基弘の題字、小杉榲邨の撰文并書丹で、浮世絵師月岡芳年の伝記が刻まれている。
 芳年は浮世絵を歌川国芳に学んだが、画風は北斎の影響を多分に受けている。好んで奇嬌な姿態を
写したが、その筆は写実的で明治時代の浮世絵に芳年風という一種の様式をもたらした。明治中期の
版画家として版画界の最後を飾った人。門弟も頗る多く、建碑者の中に岡倉天心の外、孫弟子の鏑木
清方などの門弟多数の名が見られる。明治31年の建碑。

 杉谷雪樵「芦雁図」の碑
 碑陽に雪樵の遺墨「芦雁図」が田鶴年の鐫で見事に刻まれている。高さ190cm×幅104cm
の大きな碑。門弟の根本樵谷が明治31年に建てたもの。碑陰に芳州齋藤恒の撰并書の碑文を刻んで
いる。雪樵は雪谷流の画家で旧熊本藩士。明治20年上京し大いに名声を博し、しばしば宮内省の依
頼で絵を描き、いつも褒賞に与った。雪谷流掉尾の作家だ。

 螺舎秀民句碑

   芦の芽や田へ来水も角田川
 の秀民の句と共に、3世螺舎孝節によって秀民の履歴が記されている。句は晋永機の、略歴は市川
三兼の書。碑陰には、

   田へ引たあとの流れや芦の花

 と孝節の句が刻まれています。3世螺舎孝節が欽慕の意を表すため、明治18年に建てたもの。螺
舎秀民は本性片岡氏、江戸吉原の人で、其角の別号の一つである螺舎を継いで二世となった。

 七十二峰庵十湖句碑

   何事もかかる浮世か月の雲  七十二峰十湖


 「古今俳諧明治五百題」(明治12年刊)に「十湖は、遠州豊田郡中善地 松島幸平」とあり、入
集の句に、「沫雪や 隣はこぶ 膳のうへ」「茶畑に 裾はひらけて 春の山」などがある。碑の句
の説教臭いのに比べて平明自然な諷詠。明治34年の建碑。

 雪中庵梅年句碑

   黄昏や 又ひとり行く雪の人  雪中庵梅年

 雪中庵梅年は原田氏、通称を幸次郎といい、江戸四谷の人。雪中庵5世対山の門に入り、後7世の
鳳洲から譲られて8世雪中庵を継いだ。明治21年雪中庵を門弟雀志に譲り、不白軒と号した。この
碑は、雀志が同18年に建てたものだ。

 北居居士句碑

   水や空 あかり持あふ夜の月  北元居志

 北元は完来と、また午心の門下生で、江戸の人。初め都喜丸(月丸)、別号を橿の木・葎雪庵2世
という。午心を追慕してその遺稿『玉田集』を上梓している(完来は雪中庵4世、午心は雪中庵蓼太
門で同門)。天保九年(1838)旭惣連の建碑。

 寶屋月彦句碑

   うつくしきものは月日ぞ年の花

 松本蔦斎書、明治24年宝組の建碑。宝屋月彦については詳らかではない。蔦斎は明治大正の俳人
で『古根草』『白がね草』その他数種の著書がある。



清滝山観音院蓮華寺(蓮花寺)
 東向島3丁目23番17号にある真言宗智山派の寺。京都三宝院の末で、創建は弘安三年(128
0)だという。北条時頼の兄武蔵守経時の菩提のために、子の頼助が僧となって所領地に建てたもの
という『武蔵通志』の説が有力。『江戸名所図会』は、時頼が鎌倉佐介谷に死んだ兄のため建てた蓮
華寺を頼助が移したとの説を出しているが、『新編武蔵風土記稿』はこれを否定。併し寺は移転説を
採って寺名碑に記している。本尊は弘法大師自画像と伝えられ、縦90cm×横55の絹張りの軸物
で、平安期の作とも見られている。門前には「女人済度厄除弘法大師」の石柱があり、右柱は文政五
年(1822)建立、左柱は文化十五年(1832)建立で、女性のやくよけのお守りを昭和18年
ごろまで出していたという。戦災という災難を除けれなかったためか、戦後は効き目がないというの
で流行らなくなった。「新編武蔵風土記稿」に、

   蓮華寺
   新義真言宗山城国醍醐三宝院末、清瀧山観音院と号せり。本尊弘法大師自書の像を安す。
   寺領七石は慶安元年八月二十四日後朱印を附らる。縁起云、当寺は最明寺平時頼の舎兄武
   蔵守経時朝臣の菩提寺なり。初めは相州鎌倉軍佐介谷に創立ありて、其経時寛元四年逝去
   の後時頼一寺を建立して、蓮花寺殿前武州安楽大禅定門と謚す。時の開山は弁法印審範な
   り。審範は則頼朝卿の外伯父、深井法眼範智の孫なり。其後経時の子佐々目大僧正頼助此
   寺嶋を知行ありし時、鎌倉の蓮花寺を此所に移し、弘安三年八月建立して頼助自ら中興の
   開山となれり云々。按に、此寺傳甚疑ふへし。いかにと云に、鎌倉大日記に建長三年経時
   が為に佐介に於て蓮花寺建立住持は良忠と記し、鎌倉志に佐介谷の蓮花寺は寛元元年五月
   三日平経時の建立にて、時の薬師は記主禅師とあり、此の二書に載る処年代等は異同あれ
   ど、薬師は共に記主なれば宗門元より浄家にして審範にあらざること明けし。しかのみな
   らず鎌倉志には蓮花寺創立の後経時霊夢ありて光明寺と改む名の寺を起立ありしを、たま
   たま佐介谷の蓮花寺改号せる故、後人妄に彼寺を引き来りしなと云こせしにあらずや。
   鐘楼、宝暦八年の鐘なり。
   愛染堂、興教大師の書ける像を安す。
   権現堂、清流権現と号す。


 とある。

 
算子塚
 そろばんづか。文政三年(1820)浅草鳥越の中原耕張の建碑で、

   世の中は何れの道もそろばんのかけはしわたる士農工商

 と刻んである。

 ●群盲評古図碑
 
天保五年(1834)の建碑。

 文化十五年銘道標(区登録文化財)
 正面に「女人済度 御自筆 弘法大師」、左右両側面には、ともに「大しみち」とあり、裏面に、
文化十五年(1818)の銘がある。これは元、地蔵坂を上がった墨堤に建てられていた。

 文政五年銘道標
 文政五年
(1822)銘のこの碑は、厄年の参詣人のために道標として門前に建てられたもの。と
にかく霊験あらたかなお大師さまとして賑わった。なお左側面には建立年月日が、右側には「西 白
ひけ(白鬚) はしはみち(橋場道)」と刻まれている。

 天保三年銘燈籠
 参道両側の赤御影石造りの大きな燈籠一対は、田中金六の寄進で、天保三年(1832)に建てら
れたもの。金六は江戸幕府の蝦夷地御用達をつとめ、その功により浅草新寺町(台東区菊屋橋付近)
に屋敷を拝領して三人扶持を与えられ、天保三年88歳で没した。なお金六の父金左衛門は名主中山
家の一族で寺島村に住んでいた。

 最上算子塚(もがみそろばんづか
 
最上流算術は会田安明が始めた。安明は出羽最上(山形県)の人で、はじめは鈴木安旦といった。
字は子貫、自在亭と号し、俗称は算左衛門。この塚は弟子と思われる中原耕張 文政三年(182
0)に
建てたもので、上部に丸い穴があり、碑文は、

   最上 算子塚 山谷新鳥こへ 中原耕張
   世の中は何れの道もそろばんのかけはしわたる士農工商

 とある。

 聖徳太子像
 『江戸名所図会』によると、太子堂の縁起は、

   太子堂本堂の右にあり。本尊聖徳太子の像は十六歳の新影にして、太子自ら彫造ありしと
   いう。北条経時の念持仏にて、往古相洲鎌倉、佐々目谷にありしを、弘安三年(1280)
   秋、北条頼助、寺院並びに本尊と共にこの地へ引き移し、同年八月2日入仏供養を営みし
   故、今日に至るまで、この日をもって縁日とす


 なお現在の太子堂及び太子像は戦後復興されたものだ。

 四国88ヶ所写しの石碑
 境内に四国88ヶ所写しの石碑が11基建てられている。年紀が慶応二年(1866)から明治3
年までのものが10基、明治9年のものが1基。最後の一基以外は22世住職宥盛法印の時に建てら
れた。これらを建てた人は、殆どが寺島村の住人ではなく浅草、下谷、上野、神田辺りの富裕な人々
が「大師の寺」である当時に写し碑を建て、先祖の菩提を祈ったものと考えらる。

   イ.四国拾番写 阿波国 切播寺 天下泰平国土安全 五穀成就万民豊楽 子孫繁栄 為
     二世安楽  慶応二年建
   ロ.第五番 阿波国板野郡矢竹村地蔵寺写 本尊地蔵菩薩 六道の 能化の地蔵大菩薩 
     みち引たまへ此世後の世  慶応三年造立
   ハ.四国七十五番 善通寺之写 本尊薬師如来 我すまば よもきへはてじぜんつうじ 
     ふかきちかひの法のともし火  慶応三年建之
   ニ.四国七十三番 本尊釈迦如来 まよひぬる 六道衆生すくはんと たつとき山にいづ
     るしやかでら  讃岐国出釈迦寺写  慶応四年建
   ホ.四国七十六番 まことにも 神仏僧をしらくれば 真言加持のふしぎなりけり。明治
     三年 讃岐国金倉寺写
 
     ※「しらくれば」は原詠歌では「開くれば」となっている。
   ヘ.本尊大日如来 わづかにも まんだらおがむ人はたた ふたたびみたびかゑらざらま
     し 七十二番 四国八十八個所之内 讃岐国曼茶羅寺之写 明治三年
   ト.七十四番 本尊薬師如来 十二神 みかたにもてるいくさにも おのれと心かぶと山
     かな  讃岐国甲山寺之写   明治三年建之
   チ.観音の 大悲のちからつよければ おもき罪をも引あげてたべ 六十九番 讃岐国観
     音寺写  明治三年
   リ.拾九番阿波国立江寺之写 本尊地蔵菩薩いつくくて 西の住居のわがたちへ弘誓のふ
     ねにのりていたらん  明治三年建
   ヌ、四国八十八個所 第一番阿波国霊山寺写 本尊釈迦如来 霊山の 釈迦の御前に巡来
     て よろづの罪もきえうせにけり  明治三年
   ル.第十七号 阿波国名東郡井戸邑 明照寺之写 本尊薬師如来 おもかげを しばしも
     うつせ井戸の寺 心のあかをそそぐところぞ  紀元二千五百三十六歳(明治9年)
     建之

     ※原詠歌は「面影を写して見れば井戸の水 むすべば胸の垢やおちなん」だ。

 
亀田則恒碑

 文政八年(18255)の建碑。


   老の身の枯木にもまた死に花のさきだつ妻の碑に向島 91歳翁亀田則恒
   浦嶋の亀田則恒齢さへつくことあらじ呉竹の杖 呉竹亭真直 俗称金子勝
   五郎治喜


 この歌に、妻の七回忌に歌を手向けたこと、娘婿の金子勝五郎が歌を添えて彫らせたこと等が、歌
同様懸詞をふんだんに使った技巧的な文で綴られている。

 題郡盲評古之図碑
 昔、鏡面王が郡盲者に象を撫でさせ、それぞれ自分の思った象の形を述べさせた所、皆的外れの答
えをしたという話があるが、郡盲者とは肉眼の盲者のことでなく、見性の無い衆生即ち衆愚のことで
あるなど、心眼の大切さについて述べている。環中斎高独歩の撰文并書丹で、その門人山中抜山が、
天保五年(1834)に建てた。

 宮内源之輔「先嬉し」の辞世句碑

   先嬉し雪に明るき西の空

 明治3年の建碑だが、詠者・施主については不詳。素人が建てたものだろう。

 雪月雅望詩碑

   雪月雅望 山幽囗離 春花秋葉 雲囗鳥飛

 石工の娘で13歳の繁(号、春山)の筆になるもので、文政十一年(1828)の建碑。世話人の
下谷御成道白鼠屋は寺島村出身で、この碑の外、写し碑2基の世話人にもなっている。

 永谷秀葉句碑

   新派芸術家月野喜代美の為  常磐木の月かけ清し秋の暮

 と刻してある。亡くなった月野喜代美のために、浅草公園の常盤座関係の人達が建てた。
 「秋の暮」は「晩秋」のことだよ。

 六地蔵
 六地蔵とは、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六つの迷界で苦しんでいる人々を救うという
六種の地蔵菩薩を表したものだ。当寺の六地蔵は、小林惣吉氏によって明治34年に安置された。こ
の六地蔵の傍らに、地蔵真言を刻んだ木製の輪がありますが、これは転輪蔵を模したもので、これを
回転させると真言を唱えた功徳があるといわれている。

 植村盧洲の墓
 墓碑の「山東野老埋骨之処」は大沼沈山の揮毫で、「野老」は田舎老人の意。碑陰は沈山の撰文。
盧洲の生家は代々幕府の与力だったが、若い時から文学に親しみ、僅か19歳で大沼沈山の弟子となっ
て漢詩を学んだ。やがて家を弟に譲り文学に専念し、40年間も沈山に師事して一家を成した。盧洲
は、師に深く愛され信頼されていたが、明治18年8月56歳で師に先立った。『盧洲詩鈔』『古詩
註釈』などの著書がある。なお大山沈山は江戸下谷の生まれで、儒者・詩人。明治24年に没してい
る。

 東条琴台の墓
 琴台は寛政七年(1795)六月江戸の芝宇田川町(港区浜松町)に生まれた。名は耕、字は子蔵
といい、琴台は号だ。若い時から学問好きで博覧強記で知られ『儒林小史』(10巻)『経籍通史』
(20巻)等多くの著述がある。幕末に越後高田藩榊原氏に招かれて学問の師となったが、明治5年
8月亀戸天神社の神官になった。晩年に眼病で失明、同11年9月84歳で没した。
 墓碑は大正10年に移されて来た。「琴台東条先生之墓」となっていたものを、昭和51年「東条
氏累世之墓」とし、側に墓誌を建ててある。

 大矢市次郎の墓
 隣のの北条秀司撰文の墓誌に次のように記されている。

   明治27年2月11日東京浅草に生まれ、昭和47年5月28日78歳にて歿す。全生涯
   を新派演劇に捧げ芸格高厳、気骨稜々、明治、大正、昭和を通じて最も偉秀なる大名優で 
   あった。その示した演技のすべては後進にとって永遠の経典である。


 大矢は新派(歌舞伎新派)の名優。

 
佐原鞠塢の墓

 百花園の佐原氏代々の墓で「浄」の一字が記されているのみ。昭和52年歓明寺(台東区元浅草3
丁目)からこの寺に遷された。向島百花園を拵えた人。



■府立七中 → 墨田川高等学校
 
東向島3丁目34番にある都立高校。旧制七中だ。大正10年「東京府立第七中学校」として寺島町13
59番地に設立認可。同11年府立第一高等女学校(白鴎高等学校)にて入学試験。同校講堂にて入
学式。寺島小学校の旧校舎に間借りして授業開始。同12年1月新校舎落成。7月軽井沢町沓掛に校
友会の山寮「七生寮」建設。9月関東大震災発生。生徒12名死亡。10月授業再開。11月12名
の追悼法要。同14年校歌制定。

 
校歌「墨田の川は」が凄い。作詞・幸田露伴 作曲・弘田龍太郎だ。
  1.隅田の川は吾が師なり
    日夜を急かず怠らず
    流れて止まぬ何十里
    汪々として海に入る
  2.弥生の堤 朝行けば
    紅滲
(にじ)む花の露
    こぼれて清く潔
(いさぎよ)
    桜に染まる我が心
  3.夕風冷ゆる水潤く
    秋天万里雲絶えて
    巍然と聳え立つ富士に
    我が意気もまた天そそる


 前庭に大きな立派な歌碑があり、幸田露伴直筆の彫刻で4番の歌詞が刻まれている。

  4.情けを花と麗しく
    心を富士と高くして
    春秋過ごしゆく川の
    不断の努力学ばなん


 同15年全校舎落成により記念式典。
 昭和3年校旗制定。同7年創立10周年記念式典。同8年静岡県静浦村に校友会の水泳寮建設。同
10年近衛歩兵第三聯隊見学。同13年慰問袋1312個を陸軍省に献納。同14年園芸実習地(現
在の第2運動場)を購入。校訓制定(質実剛健・親和協力・至誠力行)。同15年府立第十七中学校
(日本橋高等学校・葛飾野高等学校の前身)を併置。併設の夜学校を進思中学校と改称。同16年1
2月真珠湾奇襲により日米開戦。同17年第十七中学校を府立葛飾中学校と改称。創立20周年記念
式典。同18年都制施行により「都立第七中学校」と改称。プール設置。同19年都立葛飾中学校が
日本橋箱崎町に移る。同20年5月海軍記念日を汚す目的の愚かなアメリカ軍による非人道的無差別
空爆により校舎全焼。翌日学校本部を小梅国民学校に移動。直ぐに第一寺島国民学校に移す。8月日
本はアメリカの軍門に降り、ポツダム宣言を受諾して敗戦。以後属国となり、唯々諾々としてアメリ
カの指示に従う傀儡政権を保持せざるを得ない今日的不幸を背負い込む。
 9月言問国民学校に移動。同23年校友会の水泳寮を維持出来なくなり沼津市へ譲渡。高等学校設
置基準法により「都立第七新制高等学校」と改称。新校舎建設工事完了。言問小学校(旧言問国民学
校)より移転復帰。同25年男女共学の「都立墨田川高等学校」と改称。父兄会を廃し、PTA設立
「美汀会」と称す。民主主義を名目に生徒会発足。同27年創立30周年記念式典。同30年体育館
完成。同32年三学期制実施。同35年第一期鉄筋コンクリート造り校舎落成。同36年第二期鉄筋
コンクリート造り校舎落成。同37年落成式・創立40周年記念式典。同38年第三期鉄筋コンクリ
ート造り校舎落成。同39年校歌記念碑建立。同41年第四期鉄筋コンクリート造り校舎落成。42
年第五期鉄筋コンクリート造り校舎落成。学校群制度が発足し、両国高校・小松川高校とともに61
群を編成。同43年校庭に夜間照明設置。同45年校友会の七生寮宿舎改築工事完了。同46年第六
期鉄筋コンクリート造り校舎落成。同47年創立50周年記念式典。同49年プール改築。同55年
学校群制度の不具合によりのグループ合同選抜制度に変り、61グループとなる。同57年創立60
周年記念式典。同60年新体育館完成。
 同62年新築鉄筋コンクリート造り第一期校舎竣工。平成2年新築鉄筋コンクリート造り第二一期
校舎竣工。同3年学校全体の整備工事総て完了。同4年視聴覚室にLL教室、社会科室にパソコン教
室開設。創立70周年記念式典。平成12年進学重視型単位制高校開設・二学期制に移行。同14年
創立80周年記念式典。同15年文科省よりスーパーイングリッシュランゲージハイスクール研究指
定校に指定される。
 向島の向島たる堤校舎は三年生用だったが、平成15年閉鎖して都立忍岡高等学校に譲った。同1
6年には月島分校も閉鎖した。

 卒業生
 卒業生が凄い。漫画家滝田ゆう・名優加東大介・名司会者小川宏・歴史家半藤一利・作家枝川公一
・ジャーナリスト佐野眞一・声楽家春日了・アルフィーの坂崎幸之助・推理作家宮部みゆきなど。



■寺島図書館
 東向島3丁目34番4号、隅田川高校のとなりにある区立図書館。まあ・・・ありきたりの図書館
で、墨田区の図書館は押しなべてレベルが低い。休日でも閲覧机は開いている。同時に3館回ったこ
とがあるが他区の図書館に比べて子供が少ない。墨田区の子供には勉強好きがいないのか?

  公立寺島学校発祥之地
 図書館の敷地内に発祥の地碑が建っている。この碑は昭和35年向かいの墨田区立第一寺島小学校
の創立80周年記念に建てられた。 碑文などはない。



■京成電鉄白鬚線 白鬚駅跡
 東向島4丁目2番の白鬚橋病院の本館裏辺りにあった。京成電鉄は、大正元年11月に押上~江戸
川(柴又)間がまず開通し、以後柴又~金町、江戸川~中山、と順次延長して、大正10年7月押上
~千葉間が開通、更に大正15年12月津田沼~成田間が完成し全線開通した。
 しかし京成電鉄ではこれに満足せず、都心乗り入れを図って押上~上野間など種々路線計画を立て
たが、いずれも認可が得られず実現しなかった。
 この計画の1つに、向島から白鬚を経て千住に至る路線があった。この線は、白鬚~千住間が認可
が得られないまま、昭和3年7月向島~白鬚間を開通させたが、延長の見込みが立たず、同11年2
月末には早くも廃線となった。
 なお京成電車都心部乗り入れは、昭和5年10月筑波高速度電気鉄道を合併し、青戸から上野への
乗り入れを達成し、また昭和35年12月には押上で都営地下鉄線との相互乗り入れが実現、利用者
に大きな利便を与えている。



■長寿庭園
 東向島4丁目8番20号にある区立公園。昭和49年4月18日開園。



■七面堂大明神

 東向島4丁目12番15号にある小祠。



■向島中学校 (平成25年鐘淵中学校と統合予定)
 東向島4丁目18番9号にある区立校。昭和24年4月6日第二寺島小学校内に開校。同25年3
月第一校舎起工、7月落成。同27年第二校舎4教室増築。同29年第三校舎4教室増築。同30年
第四校舎4教室増築。同37年鉄筋校舎に改築第1期工事完了。同38年鉄筋校舎に改築第2期工事
完了。同39年校庭舗装完了。創立15周年記念式典。同43年完全給食実施。同44年難聴学級開
設。創立20周年記念式典。同47年プール完成。同48年特別教室校舎改築。創立25周年記念式
典。同54年創立30周年記念式典。同58年国立競技場で開催される区連合陸上競技大会において
13年連続総合優勝。同59年創立35周年記念式典。文部省から学校給食優良校表彰。同62年区
連合陸上競技大会総合優勝。同63年校舎3・4階改修。
 平成元年正門記念碑「独立自尊」完成。創立40周年記念式典。校舎1・2階改修。同3年多目的
室(ランチルーム)完成。同9年区連合陸上競技大会女子優勝。同10年創立50周年記念式典。同
11年区連合陸上競技大会総合優勝、女子優勝。平成15年創立55周年記念式典。
 同25年鐘淵中学校と統合して新しい中学校となる予定。

 校歌「隅田の堤名園の」 作詞・山本義雄  作曲・小栗照代
  1.隅田の堤名園の
    文花のゆかり深きとこ
    我が校舎に新しく
    日々の知性を磨くなり
  2.ペンと桜の校章に
    集う千余の若人よ
    しかと大地を踏みしめて
    自由を叫べ溌剌と
  3.平和日本を打ち立てる
    重き使命を担いつつ
    強き身体を練り鍛え
    明日の歴史を作らなん
 



■出世不動堂

 東向島4丁目20番8号にある。民家なので人が住んでいるが、掲額が仰々しいので判る。


 
.出世稲荷社

 出世不動堂の敷地にある小祠。



■稲荷社
 東向島4丁目27番6号にある小祠。



■稲荷社
 東向島4丁目28番8号のくすのき児童遊園の角地にある小祠。



■白鬚駅 → 玉ノ井駅 → 東向島駅
 東向島4丁目29番7号にある東武伊勢崎線の停車場。明治35年4月1日の吾妻橋(業平橋)~
北千住間開業時にできた駅。当初の駅名は「白鬚」といい、同38年7月16日休止、同41年4月
4日廃止。大正13年10月1日「玉ノ井駅」として再開。昭和20年5月20日愚かなアメリカ軍
の非人道的無差別空爆により駅舎が壊滅したため業務休止。同24年10月1日復活再開。同62年
12月21日に現在名になった。玉の井から東向島への改称は、東武博物館を建てるにあたり、売春
窟玉の井の淫靡なイメージを払拭するために、住民の猛烈なる大反対を押し切って、会社側の功利的
な判断だけで、無味乾燥な東向島を採用したのだ。だから現在でも駅名表や駅入口の看板には「旧玉
ノ井」と記さざるを得ない。旧駅名をこのようにアピールしている駅は全国的にも珍しいよ。
 ホームは高架相対式2面2線構造。ホームと改札階を結ぶエレベーターは平成19年3月設置。改
札口・出口は1ヶ所のみで地上1階にある。



■東武博物館
 東向島4丁目28番16号、駅の高架下に併設されている。東武鉄道の過去の車両などが展示して
あり大人200円、子供100円という大変リーズナブルな価格で見学ができる。しかし展示内容は
料金に見合わないほど見応えたっぷりだ。



■第二寺島小学校
 東向島4丁目30番2号にある区立校。大正13年4月1日「東京府南葛飾郡寺島町立第二寺島尋
常小学校」として開校。昭和7年「東京市向島区第二寺島尋常小学校」と改称。同16年「東京市第
二寺島国民学校」と改称。同18年「東京都第二寺島国民学校」と改称。同19年学童疎開。同20
年敗戦。疎開解除。同22年「墨田区立第二寺島小学校」と改称。同49年創立50周年記念式典。
 平成16年創立80周年記念式典。

 校歌
「大正十三卯月の二十日」  作詞・国語部  作曲・福井直秋
  1.大正十三卯月の二十日
    清く流れる隅田の東
    我らを育む教えの庭は
    礎固く築かれぬ
  2.緑色こき楠の木陰に
    朝夕集いて共々励み
    互に手を取り語ろう時は  
    嬉しさ胸にあふるなり
  3.我らの目指す至誠の道に
    日に日に近寄る心の姿
    現し出すは我らが努め
    永久にたゆまず励まなむ
 



東床山安楽

 東向島4丁目36番3号にある浄土真宗大谷派の寺。昭和2年現在地で真宗説教所を開設した。3
階建てのビル。屋根は和風、壁面は現代風と変わっている。
 



■京成電鉄白鬚線 玉ノ井駅跡
 東向島5丁目11番の南半辺りにあった。京成電鉄は、大正元年11月に押上~江戸川(柴又)間
がまず開通し、以後、柴又~金町、江戸川~中山と順次延長して、大正10年7月押上~千葉間が開
通、更に大正15年12月津田沼~成田間が完成し全線開通した。
 しかし京成電鉄では、これに満足せず、都心乗り入れを図って押上~上野間など種々路線計画を立
てたが、いずれも認可が得られず実現しなかった。
 この計画の1つに、向島から白鬚を経て千住に至る路線があった。この線は、白鬚~千住間が認可
が得られないまま、昭和3年7月向島~白鬚間を開通させたが、延長の見込みが立たず、同11年2
月末には早くも廃線となった。
 この京成電鉄玉の井停車場付近の模様を、永井荷風は「おもかげ」(昭和13年)の中で次のよう
に記している。

   線路に沿う売貸地の札を立てた広い草原が鉄橋の架った土手際に達してゐる。去年頃まで
   京成電車の往復してゐた線路の跡で、崩れかかった石段の上には取払はれた玉の井停車場
   の跡が雑草に蔽われて、此方から見ると城址のやうな趣をなしている。
    わたくしは夏草を分けて土手に登って見た。眼の上には遮るものもなく、今歩いてきた
   道と空地と新聞の街とが低く見渡せるが、土手の向側は、トタン葺の陋屋が秩序もなく、
   端(はて)しもなく、ごたごたに建て込んだ間から湯屋の烟突(えんとつ)が屹立して、
   その頂きに7、8日頃の夕月が懸ってゐる。
 
 なお、京成電車の都心部乗り入れは、昭和5年10月筑波高速度電気鉄道を合併し、青戸から上野
への乗り入れを達成し、また昭和35年12月には押上で都営地下鉄線との相互乗り入れが実現、利
用者に大きな利便を与えている。



■玉ノ井
 東向島5丁目。「抜けられます」だ? 関東大震災で吉原遊郭が壊滅、業者はすぐさま玉ノ井と亀戸で商
売を再開した。玉ノ井は大正7年ころにぽつぽつと始まった無認可の私娼窟だ。それが大正13年6
月で玉ノ井260軒(亀戸268軒)の売春宿があり、昭和20年3月の東京大空襲で壊滅する際に
は玉ノ井は487軒、1200人という国内最大規模の私娼街になっていた。すなわち政府非公認の
売春街で、浅草からの急な避難で、駅東側の農地に無秩序に建てられたために、ごみごみとして迷路
(ラビラント)のような路地の入り組んだ街を出現させたのだ。
 これを好んだ永井荷風が「墨東綺譚」(墨の字は実際にはサンズイが付く)に書き上げた。「抜け
られます」は、路地の入り組みで袋小路になるのか、通り抜けられるのか迷う客が多いので、入口に
「抜けられます」「ぬけみち」など標示してあった。それが玉ノ井の特徴だったので、「抜けられま
す」といえば「玉ノ井」を表した。
 玉の井の売春街は昭和33年「売春防止法」によって消滅する。
 で、玉の井の由来だが、明暦の頃この辺りの代官だった多賀藤十郎の妾(めかけ 愛人)の名前に
因むそうだ。詳しいことは判らないが、お玉さんの在所なのか、入水自殺でもしたのだろう? 
 「井」は、湧水池、井戸、水路、用水、湿地を表す。その藤十郎の屋敷跡が再開発されて「向島百
花園」となったという関連。



玉の井バラバラ事件(死体損壊をバラバラと表現した最初の事件)
 さらに玉ノ井を有名にしたのが、昭和7年3月7日に発生した「八つ裂き屍体殺人事件」で、この
日本中を震撼させた大事件は10月20日に犯人が捕まって落着したが、この事件で、東京朝日新聞
が初めて「バラバラ」という表現を使い、以後死体損壊事件は、「バラバラ死体」「バラバラ殺人」
と表現することとなった。
 玉の井の近くに、通称「鉄漿ドブ」と呼ぶ下水溝があり、水面はまるで鉄漿(おはぐろ)を流した
ように黒く濁っていた。メタンガスがブツブツと発生する排水路で、犬や猫の死骸の外、玉の井の女
が出産し、処置に困って遺棄した嬰児の死体がよく発見されたという。
 事件が発覚した7日の朝9時ごろ、子どもが下駄を落としてしまい、呉服屋の親父が親切心で、棒
でドブを掻き回して探してやった。すると水面に血が広がり、白地の浴衣で包み、麻の細紐でぐるぐ
る巻きに縛ったものが浮いてきた。これは徒事(たたごと)ではないと思った主人が、寺島警察署長
浦交番に届け出た。安藤巡査が駆けつけ、引き上げられたものの包装を解いて見ると男の胴体のみが
ハトロン紙から現れた。
 安藤巡査は、後から駆けつけた千葉巡査と共に、同じドブの少し離れたところから二つの包みを発
見した。ドブから引き上げた三つの包みの中身は、推定30歳くらいの男の首、乳部から上の胸部、
臍から下の腰部で、付け根から切断された両腕、両脚はなく、また乳部から臍までの胴体は発見され
なかった。
 最初この事件は、「寺島八裂き屍体事件」「向島の惨殺死体事件」などと呼ばれていたが解決が長
引くに連れて、東京朝日新聞が名づけた「玉の井バラバラ事件」に統一されていった。以後、死体解
体事件は「バラバラ事件」と呼ばれることが定着した。警視庁から土屋捜査一課長、吉川鑑識課長ら
が寺島警察署に詰めかけ捜査本部が設置された。
 遺体は、翌日正午から帝大(東京大学)で司法解剖された。年齢は30歳前後、顔は日焼けして、
骨格と右肩の筋肉が発達していることから、肉体労働者と推定され、顔の特徴は角張った方で、富士
額、門歯の裏には二重の犬歯があり、臀部には皮膚病の痕があった。
 死後1週間ぐらい、致命傷は前額部から左にかけて鈍器状のものによる乱打、脳震盪脳挫傷。猛烈
な打撃によって顎は粉砕され、下前歯3本が折れている。軽い肋膜炎の治療痕がある。鼻腔、口など
には布団綿が詰め込まれていた。胴体を結わえた紐には女性の髪6本がついていた。また猫の毛も付
着していて、鰯の鱗も発見された。死体をくるんでいたハトロン紙は近くの石鹸工場などで使用して
いる包装用のものと同じ種類で、それにかけた紐は、麻紐、カーテン紐、帯芯の端切れなどを丹念に
繋ぎ合わせたものだった。
 泥水の浸潤状態からして、死体を現場に遺棄したのは、発見前日の6日と推定された。
 鉄漿ドブは幅2m、深さ1m。黒い水の底にヘドロがたっぷり溜まっている。捜査本部は地元町内
会、青年団130人を動員し、消防車2台、発動機2台が出動し、必死になってドブ浚いを行ったが
徒労に終わった。また付近一帯の家出人、行方不明者を虱潰しに聞き込み調査したが、これといった
収穫はなかった。
 この事件で打撃を受けたのは、玉の井500軒の銘酒屋と2000人の娼婦だった。1日の客10
000人といわれていたが、事件後は3分の1に激減、その周辺の飲食店まで被害を蒙った。しかし
現場は野次馬でごった返し、屋台が出る始末だ。
 捜査本部には連日非難の当初が舞い込んだ。そのため苦肉の策として懸賞金を出すことにした。犯
人を教えた者には200円(400万円くらい)、被害者の身元を教えた者と、有力な手がかりをも
たらした者には100円(200万円くらい)。
 捜査が行き詰ると、マスコミは売れっ子の探偵小説作家に推理を求めた。江戸川乱歩、大下宇陀児、
甲賀三郎、浜尾四郎子爵、森下雨村などなど。
 3月21日の彼岸の中日、迷宮入りが濃厚となって、客が遠退いて困り果てていた玉の井の業者は、
鉄漿ドブの近くに祭壇を設けて供養した。呼ばれた僧侶は卒塔婆に「三月七日発見居士」という冗談
のような戒名まで書いた。

 
解決
 かくて誰もがもう解決しない思い始めていた矢先、思いもかけぬところに糸口が見つかって一気に
解決に向かう。9月27日になって・・・
 水上警察署の署長は署員数名を連れて現場視察に出かけた。これに同行した同署枕橋派出所の石賀
道夫巡査が、3年前の8月に、富士額で八重歯の男を職務尋問したことを思い出した。その男は千葉
龍太郎という当時28歳のルンペンで、きく子という当時8歳の子どもを連れていた。石賀は、被害
者はこの男ではないかと閃いた。ルンペンとは、当時「乞食」「浮浪者」「物乞い」を意味し、ドイ
ツ語で「ボロ切れ」「古着」のことだ。
 千葉は、「妻に死なれた上にとうとうルンペンにまで落ちぶれた」といった。石賀巡査は同情し、
子供を引き取って、千葉を運送屋に紹介してやった。しかし三日と持たずに辞めて戻ってくる。その
内横浜に行くからといって娘を連れ出すものの、十日ほどでまた舞い戻ってくる始末。石賀巡査は、
「そんなことではどうしようもないから、故郷の秋田に帰れ」と金を持たせて、上野駅で汽車に乗せ
て見送ったという。
 すわと捜査してみると、果たして千葉は長谷川市太郎(当時39歳)宅に居候していることが判っ
た。10月16日捜査員が長谷川に会って、千葉の消息を尋ねると、「一年ほど前から家にいるが、
今年2月に出かけたきり戻ってない」との答え。そこで周辺で聞き込みをしてみると、年中ゴタゴタ
揉めていたという。さらに調べると長谷川は建具職人で、このころは仕事を持たず、春画を描いては
千葉に売らせていた。ゴタゴタは千葉が売上金を使い込んでしまうことが原因だった。
 4日後の20日、警察は、長谷川を有力容疑者として水上署にしょっ引いて追及したところ、果た
して長谷川は犯行を認めた。「千葉を救ったのに、恩を仇で返すような千葉の態度に腹が立ち、自分
1人で殺しました」と単独犯であることを主張した。長谷川の自供から犯
行の経緯を知った世間は長谷川に同情的だった。
 しかし8日後の28日自供内容が変わった。「千葉を引き取ったのは、秋田にあるという財産目当
てだった。犯行は予め計画したもので、妹と弟が手伝った」
 こうなると世間の見方は一変した。

 
経緯
 当時30歳の妹とみは、銀座松坂屋裏にあるバー「銀すず」の女給(ホステス)で、当時23歳の
弟長太郎は、帝大工学部土木課で印刷工として働いていた。この3兄弟は病気がちの母親と一つ屋根
の下で一緒に暮らしていた。とみの日給は40銭、長谷川の日給が1円30銭、春画を描いては浅草
に売りにいっていたが、大した収入になる訳ではなかった。一家は電気代も払えず、蝋燭の明かりで
夜を過ごしていた。
 昭和6年長谷川が浅草花屋敷に遊びに行った帰り、木馬館の裏で、蹲っている千葉父子を見つけた。
この時口達者な千葉は法螺を吹いた。高等農林学校で学び、故郷秋田には財産もあると。ただ義母と
不仲で飛び出し、一時はサラリーマンにもなったが、妻に先立たれ、自身も病気になって、今ルンペ
ンになってしまったら、こんな自分を助けてくれる人がいたら近い将来何倍にもしてお礼をしたいと
・・・長谷川が千葉父子を湯島の家に連れて行ったのは、この話をまるで信じたからだ。
 そのころとみバーの客内山達雄(30歳)と肉体関係を持っていたが、とみが妊娠すると内山は行
方を晦ました。5月にとみは出産したが、難産で輸血を必要としたが、長太郎の血液だけでは足りず、
それを知った千葉は自ら進んで血液を提供し、とみは全快した。母親のふみはとみをけしかけて千葉
と肉体関係を持たせた。
 2人が関係を持つと、長谷川は、早速千葉に秋田の財産を処分して来いと迫った。一家は着物など
を質に入れて千葉の旅費を工面し渡したが、十日ばかりして戻ってきた千葉は、手土産一つ持ったき
りで無一文で戻ってきた。「田舎では小作争議が起こっていて、田畑を処分するどころではなかった
よ。騒ぎが収まるまでまたなくっちゃあ・・・」
 一方とみを孕ませて逃げた内山の父重次(78歳)と長谷川は奇妙な関係にあった。長谷川が描く
春画の原本を提供していたのだ。重次は長谷川から千葉のことで相談を受けると、すぐに秋田に問い
合わせ、千葉が無一文であることを知らせた。
 長谷川は千葉の正体を知ると追い出しにかかったが、千葉は居座り、粗暴な振る舞いをするように
なった。長谷川はあまり強い態度には出られなかった。春画を描いて売っているということを警察に
ばらされる恐れがあった。あるとき千葉はとみの赤ん坊の足を持って振り回したことがあった。それ
が原因かどうかは判らないが赤ん坊は死んでしまった。
 いよいよ金に窮した長谷川と長太郎は、一文の金も生み出さないどころが、苦しい一家のお荷物に
なっている千葉は殺すしかないと考え始めていた。
 昭和7年2月11日(13日?)長谷川は自宅近くの湯島小学校で開かれた青年団の演説会に千葉
を連れ出した。午後3時頃、2人が演説会から戻るととみが死んだ我が子のために仏壇の前で手を合
わせていた。千葉はその後姿を見ると「そんなことは止めろ」と不快そうにいった。「何をいってる
の! 私の可愛い赤ちゃんはしんじゃったのよ」
 とみの言い草にカッとなった千葉は、とみに掴みかかろうとしたその刹那、長谷川は既に用意して
いたスパナで千葉の後頭部を強かにぶん殴った。千葉が猛然と怒って長谷川に抵抗すると、長太郎が
バットで千葉の足をひっぱたいた。横転した千葉を2人で滅多打ちに。その時とみは見張り役になっ
て、出かけているふみときく子が帰ってくるのを警戒していた。
 死体は台所の床下に放置、20~21日にかけて解体し、長谷川ととみが円タクに乗って玉の井に
行き鉄漿ドブに捨てた。未発見部分は長太郎が帝大工学部の廃館2階の廊下の床下
に隠した。

 
判決
 昭和9年8月6日、東京地裁は、長谷川に懲役18年、長太郎に懲役8年、とみに懲役6月(執行
猶予3年)の判決を言い渡した。長谷川はこれを不服として控訴。
 同10年12月17日東京控訴院(東京高裁)は、長谷川を懲役16年、長太郎を懲役6年としそ
れぞれ2年を減刑した。とみの判決は変わらなかった。




法栄山聖徳寺

 東向島5丁目41番5号にある浄土真宗東本願寺派の寺。昭和11年に玉の井説教所を開設、後に
寺院に改め開基した。



■第三寺島小学校
 
 東向島6丁目8番にある区立校。大正15年5月28日「東京府南葛飾郡寺島村立第三寺島尋常小学校」
として設立認可。昭和3年12月校舎落成して第一寺島尋常小学校から分校して開校。移籍した生徒
は1420名。同6年校歌制定。

  1.たがあゆかしや 隅田のほとり
    皇居仰ぎて 築きしところ
    吾等学び舎 聳えたり
    いざや いざ いざ 
    君に御国に盡さばや
  2.花は移ろひ 香りは消ゆも
    力朽ざる流れの叫び
    吾等誠の道を踏む
    いざや いざ いざ
    勉め励みて極めばや
  3.学び弛まず心を修め
    母校の誉をいやいや高く
    吾等健兒ぞ 掲げよや
    いざや いざ いざ
    授け警しめ進まばや


 同7年「東京市第三寺島尋常小学校」と改称。同9年第一寺島小学校から高等科女子転入。同16
年「東京市第三寺島国民学校」と改称。高等科女子を向島西部国民学校へ転出。同19年学童集団疎
開で茨城県行方群潮来町および香澄町へ、3年以上有志児童349名疎開。同20年秋田県平鹿郡浅
舞町沼館大森町へ再疎開、新たに1・2年生参加。同8月敗戦。同22年「墨田区立第三寺島小学校」
と改称。同23年校歌制定。

 校歌「日は照り染めて学舎に」 作詞作曲・菅野準
  1.日は照り染めて学舎に
    玉露きらら光る時
    希望は今も新しく
    溢るる如く湧き出でて
    我らの胸は大いなる
    世紀の朝に高くなる

  2.優しく招く蔦の葉に
    陽の燦々と注ぐ時
    微笑む我ら若鳩は
    理想の花を胸にして
    やがて平和に輝ける
    世紀の空に羽ばたかん
  3 墨田の彼方夕映えの
    気高き富士を仰ぐ時
    ああ感激に咽
(むせ)
びつつ
    心に誓う花蕾
    やがて大地に咲き香る
    世紀を飾る 花たらん


 昭和53年創立50周年。平成15年創立75周年。



■寺島妙清教会

 東向島6丁目10番10号にある法華宗の布教所。



■向島消防署
 東向島6丁目22番3号にある。



■長浦神社
 東向島6丁目27番7号にある神社。今からおよそ三百余年以前に、当時は武蔵野国葛飾郡寺島村
長浦といわれていた現在地に、長浦氏が創建したと伝えられている。昔は境内に松、欅などが多く繁
り、「白鬚の森」と呼ばれて、向島八景、隅田川二十四景に数えられるほど、緑の美しいところだっ
た。江戸末期に建てられた社殿は、関東大震災やアメリカ軍の空爆でも被災しなかったが、平成2年
愚かな左翼暴力集団の放火によって燃やされてしまった。国家神道と町や村の神社は全く無関係なの
だ。鎮守は氏の神に過ぎないのだ。
 平成4年再建。大祭は3年毎で、次は平成22年かな。祭神は神皇産霊神(カンムスビノカミ)と
豊宇氣神(トヨウケノカミ)。境内に稲荷社がある。      



■白龍出世大明神
 東向島6丁目36番1号の駐車場の奥にある



■鈴木木工博物館
 休館中
 東向島6丁目38番15号にある。開館は、事前連絡によりその都度対応。1メートルもあるケン
玉や木製のミニチュアが大人気。 03-3616-5008



向島教会

 東向島6丁目48番7号にある日蓮宗の布教所。アパートのような建物で、身延山年参講本部とあ
る。



■京成電鉄白鬚線 長浦駅跡
 東向島6丁目48番16号辺りにあった。京成電鉄は、大正元年11月に押上~江戸川(柴又)間
がまず開通し、以後柴又~金町、江戸川~中山と順次延長して、大正10年7月押上~千葉間が開通
し、更に大正15年12月津田沼~成田間が完成し全線開通した。
 しかし京成電鉄では、これに満足せず、都心乗り入れを図って押上~上野間など種々路線計画を立
てたが、いずれも認可が得られず実現しなかった。
 この計画の1つに、向島から白鬚を経て千住に至る路線があった。この線は、白鬚~千住間が認可
が得られないまま、昭和3年7月向島~白鬚間を開通させたが、延長の見込みが立たず、同11年2
月末には早くも廃線となった。
 なお京成電車都心部乗り入れは、昭和5年10月筑波高速度電気鉄道を合併し、青戸から上野への
乗り入れを達成し、また昭和35年12月には押上で都営地下鉄線との相互乗り入れが実現、利用者
に大きな利便を与えている。






【文花】(ぶんか)1~3丁目                    昭和40年7月1日
 江戸時代は請地村の西半、小村井(おむらい)村の南半、梅屋敷、香取神社。明治元年東京府、同
11年「郡区町村編制法」により南葛飾郡所属。同22年「市制町村制」により吾嬬村の大字、大
正元年吾嬬町大字西2~4丁目・東1・3・5丁目。昭和7年向島区の成立で吾嬬町西2~4丁目
・東1・3・5丁目。同22年墨田区所属。同40年新住居表示により吾嬬町西3丁目の全部に、
同2・4丁目・東1・3・5丁目の各一部をあわせた町域を現行の「文化」とした。区の小さな博
物館運動により、2丁目に合金鋳物博物館(ドアノブ・手摺金物など)ができた。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『墨田区史』『墨田の歴史』など。

 文花の由来
 町名は請地とも小村井とも付けられず、さりとて妙案もなく・・・・「思えばこの辺りは文教施
設の集中地区だ」という者があり、なら「文化」から「文」の字を採り、「化」は、吾嬬神社の祭
神弟橘媛(おとたちばなひめ)の「橘」を「立花」と見て「花」に改めて「文花」を創作した。漢
和辞典に文華という熟語はあるが、さすがに文花まではない。で、当時の文教施設だがあずま図書
館・あづま百樹園・西吾嬬小学校・文花中学校・・フッフフフフ




■請地国民学校 閉校
 文花1丁目18番6号にあった区立校。跡地に曳舟中学校が建った。



■曳舟中学校 統合閉校
 文花1丁目18番6号にあった区立校。昭和22年3月18日、旧請地小学校跡に設立認可を受
け、5月10日曳舟小学校において、1・2年生403名・10学級・教員10名をもって開校し
た。同28年長欠児救済の目的を以て夜間部を併設、同37年に至り生徒数は最大規模となり、そ
れ以降は減少した。また同そして海外からの引き上げ家族の子弟のために、同46年日本語学級を
設置。
 校舎は同23年7月木造2階建て7教室の新築以来、32年まで6次に亘り22教室が、また同
35年6月に至り鉄筋コンクリート4階建(18教室)に改築されて以後、3次に亘り15教室が
増加(一部3階建)された。校舎完成を記念して、校庭の一部に「語らいの杜」が造成された。同
52年開校30周年記念式典。敷地面積は区内中学校随一の広さだった。
 
平成11年吾嬬第三中学校と統合し文化中学校となり、吾嬬第三中学校の跡地に新校舎ができる
まで文花中学校があった。平成15年に移転した後、跡地利用はないまま放置され、一部が地域の
人々のために開放されている。

 校歌「水は来て」 作詞・作曲
  1.水は来て 水は流れる
    隅田の畔
(ほとり)
    吾等学燈の団居
(まどい)を重ね
    生い立たん 明日をぞ持てり
    歌え 歌え 歌え 門出の朝を
    曳舟中学 光れ 輝け 光れ 輝け
  
2.風は来て 風は流れる
    墨田の空を
    吾等若鳥の翼を張りて
    飛び立たん 時こそ至る
    歌え 歌え 歌え 巣立ちの朝を
    曳舟中学 飛べよ 羽搏け 飛べよ 羽搏け




■あずま図書館
 文花1丁目19番1号の中小企業センターの中にある。以前は区営グラウンドがあったところだ。



■あずま百樹園
 文花1丁目19番4号にある区立公園。以前あった区営グラウンドの7分の3ほどの面積を占める
区民の憩いの場だ。桜34本の外、花木が植えられている。百樹園と銘打つほどの森林公園ではない
が、まぁ普通の緑の公園だ。



■文花テニスコート
 文花1丁目19番12号にある区の施設。以前は区営グラウンドがあったところだ。



■西吾嬬小学校 統合閉校
 文花1丁目20番7号にあった区立校。文花小学校・第二吾嬬小学校と統合して押上小学校となっ
た。押上小学校は第二吾嬬小学校の跡地に建つ。なお旧校舎は区の施設として利用されている

 校歌「旗雲靡く大空に」 作詞・中郡節二  作曲・細谷一郎
  1.旗雲靡く大空に
    太陽の歌 木霊して
    望み豊かに仰ぎ見る
    教えの道の輝く窓よ
    ああ 西吾嬬
    光あれ 我が母校
  2.世界を結ぶ産業の
    サイレン響く隅田川
    波に真理の影映えて
    学は楽し 友よぶ庭よ
    ああ西吾嬬
    栄えあれ 我が母校

 
 3.祖国の願い尋ね行く
    学園の町 向島
    清い文化の花咲いて
    銀河の彼方 夢見る処
    ああ 西吾嬬
    永久にあれ 我が母校




■すみだ産学官連携プラザ・早稲田大学すみだサテライトラボラトリー
 文花1丁目20番7号の西吾嬬小学校の旧校舎1階にある。区は産学官連携に積極的。特に早稲田
大学とは、平成14年12月に包括的な事業連携協定を締結し、産業の分野だけでなく、文化、まち
づくり、人材育成など幅広い連携を進めている。そして同15年10月より一層産学官連携を推進し
ていくため産学官連携の拠点となる「すみだ産学官連携プラザ」を旧西吾嬬小学校校舎に開設した。
この産学官連携プラザでは、特許など大学の持つ知的財産と区内企業を結び付け、新たな製品開発を
支援するイノベーション事業を実施するほか、各種会議・講座などを開催するための講習室、商談な
どを行うための交流サロンなどが整備されています。また同施設には早稲田大学との連携協定に基づ
き「早稲田大学すみだサテライトラボラトリー」が併設され、早稲田大学の研究室及び早稲田大学が
支援するベンチャー企業などが入居しており、これらの企業等との連携による地域密着型の事業展開
を図っているぞ。東京スカイツリーも建つことでもあり、これからの30年、墨田区は大変なことに
なるぞ。だから区立図書館を何とかしてくれぇー!



■文花子育て相談ひろば(センター)
 文花1丁目20番の7号西吾嬬小学校校庭跡に建つ区の施設。子育てに悩む母親の相談に乗り、疑
問や問題を解決する努力を図る。子育ては千差万別だからねぇ。絶対的なセオリーはない。悪かれと
思ってしても良く育つ子もいればさ、良かれと思ってしても悪く育つ子は悪くなるからねぇ。馬鹿と
思った子が大成功したり、天才と将来を嘱望された子が、「二十歳過ぎたら只の凡人」ってこともあ
るよ。東大出たって、末は天下り官僚じゃねえか。おいらなんざ「天才」「神童」といわれたもんだ
が、なんてない人生さ。唯他人と変ってることは、長い人生風邪一つひいたことはないし、虫歯の一
本もない。やっぱ天才かねぇ。



■吾嬬第三中学校 統合廃校
 文花1丁目22番にあった区立校。昭和28年吾嬬第一中学校から分校して開校。吾嬬第一中学校、第
四吾嬬小学校に間借りして授業。7月東洋モリスン跡地に新校舎大部落成して移転。同34年全校舎
落成。同36年体育館完成。同37年プール完成。同39年1階物置より出火して校舎の一部焼失。
同41年第一期鉄筋コンクリート造り校舎6教室落成。同45年第二期鉄筋コンクリート造り校舎1
0教室・給食室落成。同46年第三期鉄筋コンクリート造り校舎落成して全工事完了。同49年創立
20周年記念式典。同52年校舎増築8校舎。最後の木造校舎解体。
 平成11年曳舟中学校と統合し「墨田区立文花中学校」となる。

 校歌「朝日は呼ぶ」 制定年・作詞者・作曲者不明。
  1.朝は呼ぶ 朝は呼ぶ
    轟くサイレン 父母の町
    今明け染めて湧き上がる
    力の歌よ 吾嬬 吾嬬 吾嬬三中
    若き生命の相打つ処
    大いなる未来は輝く
  2.雲は呼ぶ 雲は呼ぶ
    清らの姿 遥か彼方
    世界は招く いざ行こう
    固き決意を 吾嬬 吾嬬 吾嬬三中
    若き魂 相寄る処
    大いなる真理は輝く
    



■文花中学校
 文花1丁目22番7号にある区立校。平成11年吾嬬第三中学校と曳舟中学校が統合してできた新
設校で、現在地に新校舎ができるまで曳舟中学校の校舎を使用した。現在地は吾嬬第三中学校の跡地
だ。平成15年移転して来た。



■文花小学校 閉校
 文花1丁目32番9号にあった。現在は「すみだ環境ふれあい館」となっている。学校は西吾嬬小
学校・西吾嬬小学校と統合して押上小学校となった。文花団地の造成でできた学校だが。団地の住民
は年と共に老化する。子どもたちは大人になると新しい団地へ移ってしまう。古い団地には子どもが
いなくなり、学校が不要になる。この問題は常に起こることだ。今、港区の港南地区、江東区・江戸
川区の南部に高層マンションが建って、子どもが急増、校舎不足で区が悲鳴を上げている。しかし3
0年も経てばトレンドな高層マンションも高齢化マンションとなり、学校が余っちゃう。世田谷区の
ように再開発地が少ないところでは、老若が平均化されて混住するため、こういう問題は極端には起
こらない。ウサギ小屋では人間は育たない。



■すみだ環境ふれあい館
 文花1丁目32番9号の文花小学校跡地ににある。21世紀の人と環境を考える環境学習の拠点。
ここには「環境学習室」「雨水資料室」「関野吉晴探検資料室」がある。 03-3611-6355
 開館は、月曜日、水曜日、祝日、年末年始を除く毎日、午前10時~午後4時まで。

 環境学習室
 地球の環境や資源に関する問題を紹介した「時間の部屋」「起源の部屋」「循環の部屋」、リサイ
クル体験学習などができる「環境工作室」及び環境関係の資料を閲覧できる「交流ルーム」がある。

 雨水資料室
 世界でもユニークな雨水や雨水利用のことに関する資料室。これは、墨田区に活動拠点を置く「雨
水市民の会」の手によって企画制作された。ここでは、雨水が世界の人々の暮らしと文化をどのよう
に支えてきたかを学ぶことができる。

 関野吉晴探検資料室
 地元出身の探検家である関野吉晴が南米の最南端からアラスカ、シベリア、アジアそしてアフリカ
までを踏破した「グレートジャーニー・5万キロ」の足跡が展示されている。世界の様々な気候と風
土が育む多様な暮らしと文化の展示は、地球人として生きるということはどういうことか、真の豊か
さとは何かを私たちに問いかけてくれる。



■大沢梅次郎銅像築道碑
 文花2丁目1番、明治通りと浅草通りの交差する福神橋橋畔に銅像と一碑がある。本荘一雄作。昭
和38年11月の建立。
戦前民政党東京市会議員で地方政治に一生を尽くした議員。

 大沢梅次郎
大沢は明治22年、この地の旧家小山家に生まれ、大正6年28歳で町会議員となり、ついで同13
年から昭和2年まで吾嬬町長に推され、同3年東京府会議員となり、以来市会・都議会議員として同
34年9月に没するまで、地方政治に徹した人物だ。


 築道碑

 明治中期から、かつての吾嬬町にも都市化の波が打ち寄せ、純農村地帯の道路の拡幅・新設が問題
となり、町長大沢梅次郎はじめ地主・町民の協力によって成った道路整備事業を記念して大正14年
に建碑した。「人類相愛の情理と人類群居の態様と物質生産の現状と文化進展の帰趨とは・・・」で
始まる、高さ2mのこの碑は、初め旧吾嬬町役場(現向島警察署)前の宮田橋橋畔にあったものを、
のち昭和37年に移設した。なおこの碑と軌を一つにするものに、京島3丁目の原公園に、大正6年
建碑の「新薬師道之碑」がある。




■花王石鹸
吾嬬町工場 → 花王東京工場
 文花2丁目1番にある。現在は「花王(株)すみだ事業場」という。化粧品を作ってる。

 花王神社
 花王・企業文化情報部によると、最古(大正11年)に建立した吾嬬町工場(東京工場)祭神は、
  ①.豊川稲荷(愛知県豊川市/商売繁盛・家内安全・福徳開運の神)
  ②.長瀬富郎(創業者)
  ③.花王勤務の第二次世界大戦戦没者
  ④.花王職員の殉職者
 の四つが祀られているという。
 また、各地の工場に於いてはそれぞれの地で違う祭神が祀られている。例えば和歌山工場では伏見
稲荷を勧請している。正門より入場して直ぐ右手に、花王神社があり、創業者長瀬富郎の直筆による
遺訓『天祐ハ常ニ道ヲ正シテ待ツベシ』と記された石碑がある。明治20年の創業時に、

   人ハ幸運ナラザレバ非常ノ立身ハ至難ト知ルベシ、運ハ即チ天祐ナリ、天祐ハ常ニ道ヲ正
   シテ待ツベシ


 という理念を定めている。常に正道を歩むべき、今で言えばコンプライアンス遵守と企業の社会的
使命を大事にせよということだとか。これを守らず雪印乳業なんてくたばっちゃったからね。




■合金鋳物博物館

 文花2丁目4番14号のモロハイツにある。ドアの取手、階段の手摺などに使われる合金の鋳物。
合金とは二つ以上の金属を互いに融和混合したもので、鋳物とはその合金を鋳型に溶かして注入し作
るものをいう。歴史は古く合金製造はエジプト、メソポタミヤが発祥といわれ、鋳物は東洋で発展し
た(銅剣、銅鐸など)。館内には合金鋳物の製造工程や鋳物の歴史、奈良の大仏の鋳造方法がパネル
を使って紹介され、小型鞴(ふいご)や手鏡、海老鍵、鰐口など珍しいものも展示されている。また
合金製造技術を応用したアクセサリーなどの新製品も見ることができるよ。開館は、毎月第1から第
3金・土曜日(午前9時から午後5時まで)。 03-3612-2773



梅と桜の香取神社
 文花2丁目5番8号にある大社。社伝によると6軒の農家が造ったという碑文があるという。応永
五年(1398)の「葛西御厨注文」によると、葛西38郷の1つとして「小村江十五町」と見え、
この土地の開拓の古さが判る。神社はこの開拓者の氏神として永万元年(1165)に創建され、以
来村の鎮守として崇められてきた。祭神は経津主の神で、武神であると同時に産業開発、開拓の神で
あることから、この地の開拓者に祀られたものだろう。勿論香取神宮(千葉県)の分社だから、下総
の方から移住してきたのかも。
 別当寺は吾嬬神社と同じで、祭神は経津主命。境内には八百年祭・御神木・日露戦役の大きな碑が
建っており、社殿の左横に諏訪神社がある。「新編武蔵風土記稿」に、

   香取社
   村の鎮守にて亀戸村寶蓮寺持 下同じ。
   末社天神、稲荷。


 
とある。

 文政十一年銘水「鉢禊」(区登録文化財)
 境内の摂社諏訪神社前にあるこの水鉢は、文政十一年(1828)の銘があり、かなり大型だ。こ
の水鉢は、元は本殿に据えられていたものだ。銘を拾うと、

   禊盥 文政十一年戌六月吉祥日 氏子中 星塢泰鐘書

 とある。
 水鉢には一般に「奉納」「奉献」と刻まれるが、特に「禊盥」としたところに、この石造物の役目
を端的に物語っている。造作も丁寧で刻印も闊達で優品といってよい。石造水鉢は水盤・手水石など
とも呼ばれ、神仏の前に安置され参拝者が手や口を洗い清めるものだ。これは古代から行われていた
斎戒沐浴の名残で、穢れを祓うために川の水で体を洗い清める行為が簡略化され、神仏の前で水鉢な
どが常備されるされるようになった。篤信者たちが神仏前に奉納する風習が江戸時代の後半には全国
に広がった。
 区内の水盤は、①.庚申信仰に関するもの、②.墓前・霊前に奉納されたもの、③.神社・仏閣に
奉納されたもの、④.その他に大別することができまる。この水鉢は安山岩製で、寸法は幅121c
m×奥行6060cm×高さ50cm。

 玉垣「獅子」
 本殿玉垣の石組に嵌め込まれて左右に安置されているが、本来は玉垣の一諸に奉納されたものと思
われる。左が阿形、右が吽形だが、両者とも頭部を左に、尾部を右にした非対称的なデザインになっ
ている。慶応四辰年正月の銘があり、旧小村井村の氏子中が奉納したものと考えられる。

 文政十三年銘石燈籠
 摂社三峯神社前にあり、「文政十三年(1830)寅八(以下欠)」の銘を持ち、当社の石燈籠で
は最も古いものだが、風化による剥落が激しく、銘文も十分読み取れないのが惜しまれる。春日型の
石燈籠で、火袋は雄大であり、竿の部分と等しいことは、ある種の落ち着きを見せる。なお近年隣地
にあった「小村井梅園」に因み、境内に「香梅園」を開いてる。




■豊栄稲荷社

 文花2丁目8番にある小祠。「とよさか」と読む。「バンザイ」と同義。




■緑と花の学習園公園
 文花2丁目12番17号にある区立公園。区民に緑について、見て、学び、相談してもらえるよう
に、昭和56年4月1日に開園。面積1457.85㎡ の園内には、約280種類、約5100本の
植物がほぼ自然のままに植栽され、四季折々の花が咲いている。東郷菊、御衣黄、なぎいかだ、丸仏
手柑などの珍しい植物もある。特に枝垂れ桜は、緑と花の学習園のシンボルツリーで、御衣黄など3
月下旬頃から4月中旬頃が見頃。また園では、緑と花のサポーター(ボランティア)が、職員ととも
に協働で花の手入れなどをしている。ぜひ一度おでかけくださいとのこと。



■稲荷社

 文花2丁目15番9号の不二硝子内にある小社。



■小村井駅
 文花2丁目20番1号にある東武亀戸線の停車場。東武亀戸線は明治37年に全通しているが、中
間の3駅はすべて昭和3年4月15日の開業だ。ホームは地上相対式2面2線構造。改札のある1番
線から2番線へは地下道で連絡するがエレベーターはない。改札口・出口は1ヶ所のみで1番線側に
ある。駅は明治通りに面している



■向島警察署
 文花3丁目18番9号にある。



■平井街道(宮田通り)
 十間橋通り文花3丁目バス停から向島警察署前交差点を通って旧中川に架かる平井橋を渡って江戸
川区の平井駅に達する道路。大正10年の第2回修正図には記載されている。これは大正7年に地元
地主有志が自分の土地を無償で提供して急遽作った吾嬬町最初の幅員3間(5.4 m)の道路だ。し
かし何故か平井橋の袂までは達していなかった。大正5年修正図をみると、その辺り葛西川地区は既
に家屋が結構建ち並んでいたし、古い村なので土地提供に難しさがあったのかもしれない。その後平
井橋まで達する道が出来たのは戦後、地図上では昭和33年修正図が初出だ。かなり遅れたことにな
る。その理由として考えられるのは、平井橋が昭和27年12月に鋼橋に架け替えれている。その関
連から平井橋へ直通する平井街道を貫通させたのだろう。





【本所】(ほんじょ)1~4丁目                  昭和41年10月1日
 牛島本所村。正保のころ(1644~47)から徐々に町場化し、明暦二年(1656)の大火
あと「本所築地奉行」が設けられ大々的に墨東地区の開拓が行われた。元禄の頃(1688~17
03)に南・北の本所町に分かれた。この時から広く用いられるようになり、この地内の町屋が順
次南本所・北本所を冠して細分化していき、北本所・南本所は町名というよりは地域名としての総
称となった。本所の範囲は隅田川・竪川・横川・源森川の内で、明治11年本所区となり、昭和5
年石原町・荒井町・番場町・若宮町・北新町・表町・松倉町・中ノ郷横川町・外手町の9町の各一
部をあわせた町域を厩橋1~4丁目とし、同22年墨田区所属、同41年新住居表示を実施した。
その際「厩」の字が当用漢字になく、やむを得ず消滅していた「本所」をこれ幸いと命名した。だ
からここが本所の本村、中心地だったという訳ではない。隅田川の「御厩の渡し」が浅草三好町と
本所石原町とを結んでいた。厩橋は木橋架設が明治7年と22年、鉄橋は昭和4年それぞれ開通し、
中央を春日通りが横川へ抜けている。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『墨田区史』『墨田の歴史』など。

 本所の由来
 中世中央で荘園を支配する公家や寺社を荘園領主という。この荘園領主のうち摂関家や大寺院を
「本所」と呼び、それ以外を「領家」と呼んだ。領家は力が弱いので大概は本所の保護下に入って
いた。それで本所→領家→荘官→農民の支配関係があり、鎌倉幕府の登場により、この支配関係に
地頭(鎌倉幕府の役職で荘園に割り込んで管理権・警察権などを持った者)が絡んでその関係は複
雑極まりないものとなった。荘園領主の力が衰えてくると、地頭は荘園の半分を強引に領有するよ
うになり、このことを「下地中分」といった。それで荘園領主たちは残った領地に対して「本来の
所領」の意味で「本所」や「領家」を地名として命名した。当区の本所もこの本所と思われるが荘
園領主が誰なのかは判らない。平安時代に、この辺りが生産力のある陸地だったのだろうか?
 



■浮島の牛牧

 大宝元年(701)大宝律令の厩牧令により官牧が設置された。牛は乳牛で、朝廷では牛乳と蘇が
貴重な滋薬として飲料されるようになったため、近畿地方から牛牧を設けて全国に広げ、蘇を製造さ
せて貢がせることになった。蘇は牛乳を似て作るチーズのようなもので、醍醐味の醍醐も酪農品であ
る。牛牧は平安時代末の武士の台頭とともに衰退し、蘇も醍醐も忘れられていった。



■厩橋東詰の地蔵尊
 本所1丁目35番の橋詰広場にある小祠。建立は江戸時代との説もあるが、覆堂は昭和53年に建
てられたものだ。近所の本久寺によれば、3月10日の東京大空襲を慰霊して近隣のお寺から法要に
くるとのこと



■外手小学校
 
 本所2丁目1番16号にある区立校。「そとで」と読む。明治21年に伊藤八郎が外手町90番地
に設立した「本所区私立開発尋常高等小学校」が前身で、大正4年11月1日に「東京市立外手尋常
小学校」として開校。同16年「東京市外手国民学校」と改称。同18年「東京都外手国民学校」。
 同22年4月1日「墨田区立外手小学校」と改称。同40年創立50周年記念式典。
 平成17年創立90周年記念式典。

 校歌
「世界の大都」 作詞・金子彦次郎  作曲・小出浩平
  1.世界の大都 東京の
    貫き流るゝ隅田川
    行き交う舟のいと繁き
    畔(ほとり)に高く聳え立つ
    明るき吾等の外手小学校
  2.筑波と富士を明け暮れに
    遥かに望みて良き友と
    良き師の下に身を鍛え
    心を磨き もの学ぶ
    楽しき吾等の外手小学校
  3.晴れたる空も翳る程
    生業
(なりわい)賑わう煙(けむ)浴びて
    勤しむ親と競いつつ
    文化の花と育ち行く
    其の子ぞ吾等の外手小学校



■若宮公園
 
 本所2丁目2番19号にある。昭和6年完成。

 
牛島神社摂社若宮(本所若宮稲荷)

 若宮公園の東北隅にあるお旅所。本所石原新町、3代将軍家光の寄進になるという。何故この場所
かは判らない。家光の頃この辺りはまだ開けていず、漸く旗本の屋敷が建ち始めていた。そんな武家
地に文化を匂いをもたらしたかったのだろう。戦略的意図という意見もあるが、本所から江東区にか
けてはまだまだ湿地帯で、戦略的立地にはない。牛島神社は東北隅にある。社殿の前に安政二年(1
855)近藤富蔵が建てた「牛島の碑」が、その隣の傷んだ碑は、倒幕の「官軍戦死者顕彰碑」で、
明治12年銘。また尖頭の碑は、区内では珍しい「満州事変忠魂碑」だ。



大方山広仏院華厳寺
 本所2丁目12番3号にある浄土宗の寺。
古くは堅固寺と称し、薬師如来を本尊とする古刹。元禄
5年(1692)に小石川伝通院末となり、華厳寺と改称した。



中郷山源光寺
 本所2丁目13番14号にある浄土真宗大谷派の寺。東本願寺の末の名刹。権大僧正光円法印(源
頼光8代の子孫浅野四郎光俊)が慶長八年(1598)に本所中之郷原庭町、俗にいう蛇山の地に創
建し、延享四年(1774)本所荒井町(現在地)へ移転した。今は埋められた北割下水は、この寺
の辺りから東進して横十間川に至っていた。

 川尻清潭の墓
 川尻は、明治9年下谷ニ長町(台東区)に生まれたが、武野家より川尻宝岑(明治の劇通・劇作家)
の養子となり、若くして劇界に入り、後に松竹の嘱託となり、長年に亘り歌舞伎の演出に従事し、昭和
29年12月14日に79歳で亡くなった。



■高砂部屋
 本所3丁目5番4号にある高砂一門総帥の相撲部屋。
番付で用いるいわゆる相撲文字では「はしご高」
(髙)を用いるが、部屋の看板を含めその他の活字媒体では「はしご高」を用いていない。明治初期
に角界の改革を求めて活躍した初代高砂浦五郎が、一代で角界を代表する大部屋に育て上げた。以来
横綱・大関各6人を輩出した角界屈指の名門。昭和61年5月部屋経営を断念した元前頭大飛の大山
部屋を吸収。同63年10月に5代目が急逝したため、元小結富士錦の尾上親方が6代目を襲名し部
屋を継承した。その6代目が定年を控えた平成14年2月、元大関朝潮の若松部屋と合併。その結果
前年には明治から続いた幕内力士が不在になるという事態にも陥った高砂部屋は、横綱朝青龍を筆頭
に個性的な関取力士を抱える大部屋となった。しかし近年は闘牙、泉州山、皇牙と関取経験者が相次
いで引退、若手も伸び悩んでおり勢力は衰退しつつある。部屋の公式サイトは、同19年11月場所
まで昭和以降の最高齢力士であった、マネージャーの一ノ矢充が管理している。

   初 代=高砂浦五郎(前頭 千葉)
   2代目=高見山宗五郎(関脇 千葉)
   3代目=2代目朝潮太郎(大関 愛媛)
   4代目=前田山英五郎(横綱 愛媛)
   5代目=3代目朝潮(朝汐)太郎(横綱 鹿児島)
   6代目=富士錦章(小結 山梨)
   7代目=4代目朝潮太郎(大関 高知)

 横綱
 西ノ海嘉次郎(16人目 鹿児島)・小錦八十吉(17人目 千葉)・前田山英五郎(39人目 
愛媛)・東富士欽壱(40人目 東京 入門は富士ヶ根部屋)・3代目朝潮太郎(46人目 鹿児島)
・朝青龍明徳(68人目 モンゴル)
 大関
 一ノ矢藤太郎(青森)・初代朝潮太郎(愛媛)・2代目朝潮太郎(愛媛)・前の山太郎(大阪)・
4代目朝潮太郎(高知)・小錦八十吉(アメリカ)

 朝青龍「キムチ野郎」発言事件
 平成15年4月8日日刊スポーツが朝青龍の第一子誕生を伝えた。モンゴルでは子供が生まれると
暫くは秘匿する風習がある。朝青龍は第一子が誕生した時「しばらくは報道しないで」とマスコミに
頼んでいたので、各社しばらく報道しなかったが、この韓国人金記者が無視して報道したから朝青龍
は、金記者に怒りを覚えた。
 同19年この金記者が朝青龍に質問した。
 金「横綱はちゃんこ鍋が好きですか? キムチは食べないのですか?」
 朝青龍「好きだ。キムチは食わんな」
 金「キムチは優秀な食べ物で体によく、食べれば食べるほど壮健になります」
 朝青龍 「食べないと言っているだろうが!!」
 金「キムチはSARSも予防するし、たとえモンゴル人であろうとも食べなければならない」
 朝青龍 「うるさい! キムチ野郎!」
 金「日本での差別はひどかったでしょう?」
 朝青龍「いや、別になかったっす」
 金「隠さなくてもいいですよ。どんな差別にあいましたか?」
 朝青龍「いや、だから特になかったっす」
 金「〝特に〟ってことは、やっぱりあったんじゃないですか?! どんな差別でした?」
 朝青龍「だから、ねえって言ってんだろ! このキムチ野郎!!」
 金記者の無理やり差別されたことにしようとする誘導尋問と韓国ネタばかりでとうとうブチ切れ、
「キムチ野郎発言」となった次第。
 相撲協会には韓国マスコミと民団が猛抗議したが、で、同じように右翼も怒った・・・何で?
 というのは、右翼には右翼の振りした在日街宣右翼というものがいる。在日韓国朝鮮人が何故右翼
活動するのか解らない。暴力団には在日が多いのだ。その活動を隠蔽するための政治結社化と考えら
れる。朝青龍も不思議に思った事だろう。「いつ俺が日本人の悪口を言ったんだ?」と、根性の座り
きった猛者であり蒼き狼・朝青龍はそんな奴ら一切相手にもせず発言も撤回しなかったが、この在日
右翼は相撲協会とは全く関係のない九重部屋から文部科学省、首相官邸、日韓議員連盟会長森前首相
にまで抗議しまくった。中には「天覧相撲で弁当に糞入れてやるぞ!」と下劣な脅しまであったとい
う。天皇陛下を敬愛しているはずの右翼が天皇陛下が来場する天覧相撲で弁当に糞入れてやると脅す
訳がない。彼らの正体は在日であり、右翼の名を語る反日工作員だ。イルミナティの手先?

 ●
朝青龍無断帰国事件
 平成15年12月、朝青龍は高砂親方や相撲協会に無断でモンゴルに帰国した上、先代高砂親方の
通夜と告別式を勝手に欠席した。

 朝青龍サッカー事件
 平成19年7月名古屋場所(7月8日~7月22日)の千秋楽において新横綱白鵬を破り、14勝
1敗の成績で、初場所以来3場所目21回目の優勝を果たした。・・・そして浮かれるままに夏巡業
をボイコットしてモンゴルに帰っちゃった。7月25日に高砂親方を通じて「腰の疲労骨折及び左肘
靭帯損傷で全治6週間」の診断書を相撲協会に添付して、夏巡業(8月3日~20日)の欠席届けを
提出した。ところがその日のTV放送で、モンゴルに帰国中の横綱朝青龍と元サッカー選手中田英寿
がモンゴルでのサッカーイベントに参加し、サッカーに興じる姿が放映され、得手勝手なズル休みが
ばれてしまった。このTV放送を見た巡業部長大島親方(旭国)や巡業の勧進元が「腰の骨を折って
いるのにサーカーが出来るのはおかしい」と不快感を表明。7月29日巡業部は、朝青龍の仮病問題
を協議し、帰国後に巡業に参加するといったとしても参加拒否を決定。
 7月30日朝青龍が緊急帰国し成田空港に現れると、報道陣の皮肉とも取れる質問「サッカーは楽
しかったですか?」などに対して仏頂面で何も答えなかった。自宅で着替えて、国技館で高砂親方と
待ち合わせてから、北の海理事長を訪問して「モンゴル政府に頼まれて(サッカーの試合に)出てし
まった。反省しています」と謝罪した。しかしながら理事長は一言も発せず、「解った」とは答えな
かった。というのは、朝青龍が来る2時間前に、大島部長、高田川など巡業部首脳が理事長に、既に
巡業部は朝青龍が欠席で夏巡業を行なうと決定しており、理事長に朝青龍の謝罪を認めないよう迫っ
ていたものと思える。これより先夏場所前に大島部屋の旭天鵬が追突事故で「夏場所出場停止・減俸
30%3ヶ月」の処分が下されている。これを考えれば、朝青龍の処分は重くなる。
 7月31日モンゴル大使館が相撲協会と朝青龍に謝罪。
 8月1日緊急理事会で処分決定。

   (1)9月の秋場所並びに11月の九州場所の2場所出場停止、
   (2 30%減俸を4ヶ月、
   (3)九州場所千秋楽までの謹慎処分(病院と部屋以外への外出禁止)

 8月28日相撲協会は、外出禁止で精神に支障を来たしていると認め、モンゴルへの帰国を許可。


 朝青龍一般人暴行事件

 平成22年初場所中の1月16日未明、泥酔した朝青龍が六本木で通行人に絡み、それを注意した
知人男性に、西麻布に移動中の車内で顔面殴打の暴行を働き、鼻骨を折るという全治1ヶ月の重傷を
負わせた。
 この暴行騒動が後日写真誌で報じられため、高砂親方と朝青龍は協会に出向き、蔵川理事長に「内
輪揉めで、殴ったのは朝青龍の個人マネジャー」と報告して謝罪したが、『週刊新潮』で朝青龍が知
人男性を殴り、顔面パンチで鼻骨をへし折るなど全治1ヶ月の大怪我を負わせていたことが発覚。被
害者は麻布警察署に相談済みで、被害届を出せば刑事事件に発展するが、どうやら1000万円単位
の示談金で解決に向かっている。しかし近々朝青龍へは何らかの厳重処分が下されることになる。

 結果→引退
 平成22年2月4日協会は両国国技館で午前11時から理事会を開き、横綱朝青龍明徳(29歳 
本名・ドルゴルスレン・ダグワドルジ)の緊急召喚を決定。午後1時10分過ぎに両国国技館に到着
した朝青龍は、師匠の高砂親方(元大関朝潮)とともに事情聴取を受けた。朝青龍は前記事件で、当
初は、個人マネジャーが「殴られたのは自分」と説明。武蔵川理事長(元横綱三重ノ海)は仲間内の
こととして、場所後の25日に朝青龍と高砂親方を呼んで厳重注意した。
 しかしその後になって殴られたのが別の男性であったと判明。警視庁麻布署がマネジャーらに事情
聴取を行う事態となった。相手方の男性とは示談が成立したが、協会は1日の理事会で調査委員会を
設置、事実関係の調査に乗り出していた。寄付行為施行細則に定められた罰則は、軽い順に「譴責」
「給与減額」「出場停止」「番付降下」「解雇」の5種類。解雇の場合は退職金も支払われない。



■誓招寺
 本所3丁目17番10号にある浄土真宗本願寺派の布教所。昭和24年に創建、同27年に宗教法
人として登記した。洋館のような建物。



無漏山眞如寺能勢妙見山別院

 本所4丁目6番14日にある日蓮宗の寺。勝海舟の父親の小吉が参拝していた能勢妙見山別院で、
現存している立派な寺。境内に勝海舟の銅製胸像があり、彼の父親の妙見山の信心ぶりとそのご利益
を示した由緒書がある。

    當山は大阪能勢妙見山の全国唯一の別院であり、能勢家の子孫が代々守護に任じており
   ます。百九十五年前安永三年五月十一日の創建です。この地は當時下総ノ國葛飾郡本所横
   川町と称し、能勢筑前守頼直の江戸下屋敷であり、妙見堂を建立して、知行所たる攝津ノ
   國妙見山より妙見尊像を分祀したものです。江戸末期幕臣勝小吉が愛息麟太郎、後の海舟
   の海運勝利を水垢離を取って祈願したことは、子母沢寛氏が『父子鷹』に詳しく記して居
   ります。震災戦災と二度の火災の為、宝物尽く烏有に帰しましたが、妙見尊像は巨難を免
   れ、御内陣に奉安されて居ります。境内に鴎大善神の祠あり、その黒札は魔よけのお守り
   として江戸時代より能勢の黒札として有名なり。
   昭和四十四年己酉五月                 能勢家三十六代能勢月妙誌す


 能勢妙見山には鳥居があり「妙見宮」とも呼ばれるが、『日蓮宗霊場能勢妙見山』とあるように、
日蓮宗の寺だ。能勢妙見山は、能勢町地黄の眞如寺の飛び地境内となっており、正式には「無漏山眞
如寺境外仏堂能勢妙見山」という。昔は、神仏習合といい同じ場所で神と仏を祀っていたので、妙見
大菩薩を仏教と同時に神道式に崇めよういうことで鳥居が残されている。明治になって神仏分離が行
なわれ、能勢妙見山はその沿革から、寺院として再認識されることになった。ここは現在もよく手入
れされており、息子の栄達を願う父親なら参拝してもいいんじゃないか。

 妙見大菩薩
 鎮宅霊符神と妙見大菩薩は同体で、元は北辰=北斗星・北極星の信仰に始まる。太古の昔から太陽
・月・星の運行を神秘的なものとして崇め、中国の道教では鎮宅霊符神、仏教では妙見大菩薩と呼ば
れ、国土安穏・五穀豊穣・除災招福、開運隆昌の守護神として信仰されてきた。妙見大菩薩は日蓮宗
以外でも、真言宗・天台宗などに取り入れられている。妙見大菩薩の神格化する北極星は、常に北を
指している。昔から旅人の指針として仰ぎ見られてきたことから、人生の道を導き開いてくれる開運
の守護神として深く信仰されてきた。開運ということから、妙見は何でも聞き届けてくれる守護神と
して、勝負も守ってくれるということで有名な将棋の坂田三吉が関根八段との対局の前夜、屋根の物
干し場で太鼓をたたいて「能勢の妙見さん頼んまっせ」と拝んでいたシーンは舞台でも映画でも印象
に残る。また指針ということで、学問の守護神としても祀られてきた。

 勝海舟胸像
 勝海舟については説明の要はあるまい。洋式の軍服を着た姿の胸像だ。





本所七不思議
 江戸に七不思議はなく、18世紀ころからいわれ始め「越後の七不思議」が最も古いとされる。そ
の後、甲府、諏訪、鹿島といった江戸から離れたところのものが紹介されるようになった。それを受
けて江戸でも語られるようになり、本所のものが最も有名になった。しかし七つは特定されず、元治
二年(=慶応元年 1865)二世柳亭種彦(笠亭仙果)が著した『七不思議葛飾譚(ものがたり)』
には、①片葉の葦・②おいてけ堀・③埋蔵の溝・④足洗ひ屋敷・⑤送り提灯・⑥赤豆婆・⑦あかりな
しの蕎麦屋・⑧馬鹿囃子・⑨三ツ目橋の火・⑩姥の足跡・⑪姥ヶ蔵・⑫なかぬ茅蜩と、十二話も取り
上げている。もともと無い話だから幾らあってもいいが、次の9つが妥当なとこだろうと「すみだ郷
土文化資料館」ハいっている。

 
片葉の葦

 「留蔵という男が、お駒という娘に懸想したが、相手にされなかったため、遂には両国駒止橋近
 くで斬り殺し、堀へ捨ててしまった。その後この付近に生える葦は、みな片側にしか葉が生えな
 い」という話。葦は流れや風向きなどによって、自然に片側を向く性質がある。不思議でもなん
 でもない。回向院へ水を引く堀を片葉堀といい、箱庭に渡すような小さな石橋が渡してあり、駒
 止橋といった。

 
落葉なき椎

 「本所御蔵橋北にある松浦家上屋敷にある大きな椎の木は、落葉するのを誰も見たことがない」
 という話。松浦邸は両国公会堂の辺りにあり、「椎の木屋敷」とも「嬉しの森」ともいわれた。

  しいの木は殿様よりも名がたかし(川柳)

 元々椎は常緑樹なので落葉しない。屋敷にある他の木に落葉樹があり、秋には落葉するのだが、
 掃除がいき届いてて、落葉を見たことがないことをいったのを、語り間違えたのだろう。

 津軽家の太鼓
 「火事を知らせる際に町方では半鐘を叩き、大名屋敷では板木を打っていたが、津軽屋敷だけは
 何故か太鼓を打つことが許されていた。

  本所には過ぎたるものが二つある 津軽大名炭屋塩原

 元禄元年(1688)に火事の際は板木を打つように触れが出されたにもかかわらず、津軽家で
 は太鼓を打ったので、神田小川町のにあった屋敷を召し上げられ、本所に移転させられたという。
 理由は判らない。

 
送り提灯
 
「夜更けに本所出村町辺りを歩いていると、前方に提灯の明かりが見え、近づくと消えてしまう。
 あたかも道案内をしてくれるようだ」という話。現れた送り提灯を返すには、履物の片方と握り
 飯を投げてお礼をするという。礼をしなかったら、提灯は怒り、尾けてきた人を食べてしまうと
 されている。これは送り犬、送り鼬などからの引用だろう。
  宮田登の解説「光りがちらちらして、誰が持っているか判らない。消える行灯とか送り提灯、
 空間的に本所は武家屋敷があって、屋敷と屋敷の間が離れていて、目の錯覚であたかも霊魂が移
 動するように受け止められた」と。

 ⑤燈りなし蕎麦屋

 「本所南割下水近くに行灯の点いていない無人の蕎麦屋があった。客が蕎麦を食べようと待つの
 だが、幾ら待っても主人は現れない。気を利かせて行灯に火を入れても直ぐに消えてしまう。結
 局客は諦めて帰るのだが、その後決まって凶事が起こる」という話。この逆の「消えずの行灯」
 というのもある。原因は判らない。

 
足洗い屋敷

 本所にある旗本屋敷では、夜更けになると地に染まった大きな男の足が天井破って現れ、足を洗
 え、足を洗えと騒ぐ。恐悸しながらも腰元たちが綺麗に洗ってやると足は引っ込み天井は元通り
 になる。手を抜くと大足が暴れだす」という話。明治19年岡田国輝の『本所七不思議』という
 7枚組の錦絵には、本所三笠町の旗本味野岌之助の屋敷で、毎夜の怪事にたまりかねた味野が、
 知人の設楽という旗本と屋敷替えを行ったところ、足は出なくなったと説明している(『歴史と
 民俗のあいだ』)。矢田挿雲は、おいてけ堀と足洗屋敷をモチーフとする話を、『江戸から東京
 へ』に載せ、そこでは妾の愛人によって殺された小宮山左膳という。旗本の恨みが足洗いとなっ
 て現れるが、いずれにしたところで原因は不明。南方熊楠はポルターガイストと説明し、柳田邦
 男は都市の異常心理の発現ではないかと示唆した(『歴史と民俗のあいだ』)。この怪異現象は、
 番町にもあり、千住では女の足になっている(『足立百の語り伝え』)。行灯(あんどん)とい
 う昔の照明では、部屋の中は薄暗く、天井の隅などは漆黒だったので、いろいろの想像を巡らし
 たのだろう。

 送り拍子木
 「入江町の時の鐘近くで夜回りしていると、何処からともなく拍子木を打つ音が聞こえてくる」
 という話。入江町の時の鐘は、大横川沿い北辻橋近く(緑4丁目)にあった。元禄元年(168
 8)仙台藩が日光東照宮の普請奉行を命じられた時、貯木場で働く者へ時を知らせるために設置
 した。江戸時代この辺りは場末も場末、かなり寂しいところだったんだそうだ。快音現象は現在
 でもマスコミで話題になるが、音っちゅうもんは、その時の気象や立地、環境で聞こえたり聞こ
 えなかったりし、あるいはよほど遠くへ飛んでいって反射して帰ってくることがある。夜道を歩
 いていると自分の足音が、人に尾けられいるように聞こえたってことないかい? いつも聞いて
 るのに意識しないと聞こえない音があるだろ? 冷蔵庫の音なんかそうだ。ある病院で「患者が
 死んだ夜にお坊さんの読経の声がする」と看護婦が騒ぐので、よくよく調べたら空調のモーター
 音だったとか、死んだ患者のラジオが勝手に鳴り出すというのも、医療機器の電波か電磁波が、
 電気製品のスイッチを入れていたとか、こんなのは間々あることだ。自分の影に驚いたり、

   幽霊の正体見たり枯れ尾花
   幽霊の正体見たり立て箒木


 とか言うわな。おいらはネ、夜間車を運転しててカーブを切った時、幽霊を見た。霧の碓氷峠で
 も見た。車のライトは当然車の動きに合わせて動くよ。それが白いものに当たるとその白いもの
 が動いたように錯覚するのさ。前者の場合は壁であり、後者の場合は霧だった。東名高速大和バ
 ス停の「飛ぶ棺桶」も、南武線電車のライトと霧と緊急電話のボックスの呼吸がピッタリ合った
 時にのみ起こるんだ。

 置いてけ堀
 「本所のとある堀で釣った魚を持ち帰ろうとすると、置いてけ置いてけという怪しい声がする」
 という話。この堀が何処なのかは諸説ある。池や沼、水溜りはそこら中にあった。だから錦糸堀
 という説。御竹蔵の周囲に取り廻した堀説(矢田挿雲)、法恩寺橋から押上の方に切れた圦堀説
 (岡本綺堂)などだが、今となっては確かめようがない。声の主もスッポン、大鯰、ギバチとい
 う魚、狸といろいろ。人間は不確かなものについては、自分の知っているものに照合して理解し
 ようとする脳の働きがある。不思議な音を聞くとその音に似通った言葉として理解しようとする
 のだ。或る病院で死亡者が出ると必ず読経の声が聞こえてくるというのでテレビ局が待ち構えて
 いたが、音源はモーター音だった。それが抑揚のある読経の声に聞こえるから不思議だよ。

 馬鹿囃子
 「夜になると、何処もなくからとお囃子が聞こえてきて、遠くに聞こえたり近くに聞こえたりす
 るという。また浮かれて音を求めていくと野原の真ん中で寝込んでた」という話。狸の悪戯とす
 るが、全く騒音のない時代、金町の葛西囃子の稽古の音が聞こえたのだろうという。おいらは田
 圃の中の中学校の生徒たちの歌う声を2㌔離れたところで間近に聞いたことがある。遠くに届く
 のは男声だ。また雷の音かと思ってたら、富士の演習場で自衛隊が大砲を撃つ音だと聞かされた
 こともある。現在調布の花火の音は聞こえないのに、川崎の花火の音は聞こえるんだ。ほぼ等距
 離なのに不思議だよ。

 以上、本所七不思議について紹介したが、千住・霊岸島・番町・八丁堀・馬喰町・麻布など限られ
た範囲でもそれぞれの七不思議が語られていた。いずれも江戸が発展していく過程で開発された場所
だ。このような場所は日常と異界の境界とされており、我々でも急に日常と違う場所に行くと、未知
故に異常(不思議)を体験することはママある。山中で花火を打ち上げるような音に遭遇し、土地の
人に聞いたら鹿の鳴き声だという。そんなものだ。南無妙法蓮華経・・・





【緑】(みどり)1~4丁目                       昭和42年5月1日
 本所緑町とも。元禄元年(1688)浅草天王町・浅草御蔵前片町・浅草旅籠町二丁目・三好町
の東側が浅草御蔵の火除地となったときに与えられた代地。商家の一つが移ってきて緑町1~3丁
目と命名し、寛文元年(1661)御用地として収公された神田村松町1~2丁目の代地として与
えられていたところの一部に浅草旅籠町2丁目のもう一つの代地が与えられ4丁目となった。同十
年(1678)には呉服町の代地が追加されて5丁目となり残余は武家地となった。明治5年陸奥
弘前藩津軽家下屋敷・津藩藤堂家下屋敷などの武家地を併合、同11年本所区所属。昭和4~5年
の町域改編で、亀沢町・相生町・花町・長崎町・入江町・永倉町などと合併して二分し緑町1~4
丁目・亀沢町1~4丁目となった。同22年墨田区所属。同42年新住居表示ではそれぞれの町が
取れて現行の「緑」と亀沢になった。
 区の小さな博物館運動により、1丁目に足袋博物館ができた。

 緑の由来
 松の緑の永遠に肖ろうとした。昔は松の緑も見られたが今は全くといっていいほど緑がない住宅
密集地。



■軍鶏料理・かど家
 緑1丁目6番13号にある。『鬼平犯科帳』に出てくるしゃも鍋屋「五鉄」のモデルと噂されてい
る店。文久二年(1862)の創業。噂の根拠は、池田弥三郎と一緒に池波正太郎が何度かこの店を
訪れていること、小説の中では長谷川平蔵の住まいがこの店から近い二之橋辺りになっているからだ
ろうとのこと。格子戸のある2階家は玄関に盛り塩が置かれ、引き戸。靴を脱いで上がるので、初め
ての客にはちょっと入り辛いぞ。しかし聞こえ入れればすぐに店の人が出てきて案内してくれるよ。
 鳥一筋の専門店で、板長は15歳からこの店に来て50数年、伝統の味を守っている。だが時代に
より客の好みも変わり、噛むほどに味の出る軍鶏も、今の客には硬いと敬遠され、最近は軍鶏と地鳥
を掛け合わせたものを使用しているとのこと。とはいえ一口食べれば、ブロイラーに慣らされた舌に
も「これぞ鳥の味」とうま味が分かる。
 おすすめは、八丁味噌を丹念に練り上げた秘伝のたれが自慢の「しゃも鍋」だ。八丁味噌を使った
のは初代が愛知県岡崎市の出身だったため。他に鳥スープに鳥のたたきを入れ、土佐醤油に大根おろ
しで食べる「スープ煮」、ポン酢で食べる「水たき」、鳥を使った一品料理もあるよ。「鍋定食」は
鳥の刺身や和え物、酒蒸しの小鉢がついてくる。ランチは「きじ焼き弁当」かな。親子丼もいけるよ。



■足袋資料館
 緑1丁目9番3号の、東京に3店しか残っていない足袋の製造販売店の一つ「喜久や足袋本舗」の
ショーウィンドーにある。約24の工程からなる足袋仕立てに使う木型、木槌、縫縮消し(いせけし)
などの道具や、寸法の由来、歴史などが展示されている。足袋に関する資料が少ないため、どの展示
品も館長の宮内が長年かかって収集したものを手作りでまとめたもの。また店内には若・貴兄弟、曙
を始め、有名力士の足型が沢山。人それぞれの足に合った足袋仕立てを続けている宮内梅治は、すみ
だマイスターでもあり、「足を見れば、その人の健康状態や性格までわかる」そうでござんす。開館
は、祝祭日を除く月曜日から土曜日の午前9時から午後6時まで。 03-3631-0092



■岡田屋履物店

 緑1丁目17番10号にある下駄・草履の専門店。明治初期の創業。力士用のサイズはもとより、
デパートにはない外国人女性用の細長い形のものや、女性用の大きいサイズのものまで、下駄と草履
のことなら何でも揃う店。芝居用の下駄だって揃うぜよ。



■忍ヶ岡稲荷社
 緑2丁目3番3号にある小祠。



■緑稲荷社
 緑2丁目6番7号にある小祠。



■緑小学校
 緑2丁目12番にある区立校。明治44年緑町2丁目24・25番地の旧越後長岡藩主牧野忠惠邸跡
に校舎起工。同45年1月校舎落成。4月「東京市江東尋常小学校」として開校。22学級1300
名でスタート。8月「東京市緑尋常小学校」と改称。
 大正2年校歌制定。

 校歌「千代の栄え」 作詞・阪政臣  作曲・島崎赤太郎
  1.千代の栄えの本所(もとどころ)
    松と名に負う町々の
    有るが中にも目に立つは
    深き緑の学園
(まなびその)
    園の掟を守りてむ
  2.誠実
(まこと)一つを心とし
    悪しき習慣
(ならわし)皆捨てて
    君と国とにかき尽くす
    道を辿らむ撓
(たゆ)みなく
   
 これぞ掟の要なる

 ※2番の歌詞の「撓み」を「たゆみ」と読ませているが、これは「たわみ」で、「弛み」の誤記
  と思われる。校歌の歌詞においてこの誤記は他校でも見られる。教育機関において、こんな初
  歩的なミスを校長も国語教師も気がつかないものか? お粗末な限りだ。


 同11年教育奨励会事業として手工科動力室が特設される。当時東京市内では珍しい充実した設備
だった。同12年関東大震災により校舎全焼。総てを失う。児童294名・職員2名死亡。10月か
ら青空教室(HPでは露店学校となっている。露店?)。同13年3月仮校舎4棟完成。内中央棟は
9月まで本所尋常小学校が使用。
 昭和2年南二葉町の本所尋常小学校分教場を譲り受け6年生が移る。亀沢町の本所幼稚園跡地を第
二分教場とし3、4年生が移る。同4年鉄筋コンクリート造り校舎落成。丸窓・シャンデリア・防音
設備の音楽室・スチーム暖房など近代設備の整った本格校舎。分教場を廃し全生徒揃う。同9年本所
第三青年訓練所併設。同10年本所第三青年学校と改称。同16年勅令148号国民学校令により、
「東京府東京市緑国民学校」と改称。12月真珠湾奇襲を皮切りに日米開戦。同18年都制施行によ
り「東京都緑国民学校」と改称。同19年縁故疎開始まる。縁故の無い生徒は千葉県に集団疎開。同
20年3月愚かなアメリカ軍の非人道的無差別空爆により講堂焼失。町の人々の防火応援により校舎
類焼を免れる。校舎は陸軍が接収。生徒は岩手県に再疎開。8月日本はアメリカの軍門に降り敗戦、
以後傀儡政権を保持せざるを得ない今日的不幸を背負い込む。10月学校再開。校舎を焼失した本所
高等国民学校、江東・二葉・外手・日進・本所・茅場各国民学校の残留児童を受け入れ合同授業。
 同21年疎開解除生徒帰校。江東・二葉・日進・本所の4校を廃校とし学区編入。同22年1月給
食再開。4月アメリカの強制による学校教育法の施行により「東京都墨田区立緑小学校」と改称。同
23年外手小学校自校に戻る。同25年江東小学校復興し学区分離。町の人々の努力により講堂が復
旧。同26年江東小学校が両国小学校と改称して自校に戻ったため、漸くにして単独校となる。当直
制度を廃し警備員を置く。同27年寄贈による鳥小屋・観察池設置。PTAの努力により創立40周
年記念事業の一つとして図書室設置。同28年特殊学級設置。同29年寺島図書館分館設置。PTA
の寄贈により放送室・放送設備設置。同32年講堂第二次修複完了。同32年寺島図書館分館が移転
し緑図書館として独立。同33年緑公園内に専用20mプール完成。同34年放送設備大改修。チャ
イム新設。同36年校庭照明具2基設置。創立50周年記念式典。同37年特殊学級1クラス増設。
同38年全教室にテレビ設置。給食室改修。同39年町の人々の寄贈になる日本庭園完成し校歌碑建
立。同41年町の人々の寄贈による石庭・飼育小屋完成。同43・44年日本水泳連盟より「水泳優
秀校」の表彰を受ける。同44年区立幼稚園併設。同46年創立60周年記念式典。全国学童水泳中
央大会に30名の生徒が参加。同47年ガス暖房に切り替え。同48年昭和21年度卒業の108名
の卒業式。同49年校名から「東京都」を削除し「墨田区立緑小学校」と改称。同56年創立70周
年記念式典。同60年建て替えのため校舎感謝祭。同61年4月プレハブ校舎で新学期。工事着工。
同62年8月新校舎落成。同63年新校舎落成式・創立75周年記念式典。
 平成3年創立80周年記念式典。同10年備蓄倉庫設置。同11年コンピュータルーム設置。同1
2年屋上庭園開設。同13年創立90周年記念式典。同14年ランチルーム新設。同16年全教室に
エアコン設置。同18屋上緑化完成。各門に防犯カメラ設置。同19年校門に電子錠設置。同20年
2教室増築。パソコン室を移す。



■緑図書館
 緑2丁目24番5号にある。



■花籠部屋
 3丁目21番10号にある二所ヶ関一門の相撲部屋。
平成3年5月場所を以て引退した、二子山
(45人目横綱初代若乃花)所属の元関脇太寿山が、年寄花籠の名跡を取得して14代目となり、二
子山部屋の部屋付き親方として後進の指導にあたっていたが、同4年4名の内弟子を連れて二子山部
屋から分家独立して花籠部屋を再興した。バブル崩壊直後で都内の地価は高騰し過ぎて資金面がネッ
クとなり用地が確保できなかったため、山梨県初の相撲部屋として北都留郡上野原町(上野原市)に
創設した。しかし他部屋への出稽古や新規入門者の相撲教習所通学に支障をきたしたため、同8年現
在地に移転した。しかし上野原町での創設をサポートした10代目(大ノ海)の次男は、移転に猛反
対すると共に名跡の返還を求める訴訟を東京地裁に起こしたが、現親方側が勝訴して決着した。また
同20年9月場所を以て荒磯部屋が師匠の停年のため閉鎖され、所属力士を花籠が引き取った。
 同24年4月部屋の経営上の理由から、同年5月場所終了後に部屋を閉鎖し、所属力士は二所ノ関
一門の峰崎部屋へ移籍することが決まった。
 旧花籠部屋については杉並区に記載。



■本所消防署緑出張所
 緑4丁目1番8号にある消防分署。



■五柱稲荷神社
 緑4丁目11番6号にある小社。享保十三年三月三日中御門天皇、紀元2376年徳川八代将軍吉
宗公の世代に大坂定番だった植村土佐守正朝が伏見より奉祀し、その後、朝廷より華蔵院の称号を賜
り、神徳は広大無辺という。明治13年公認神社(内務省の管轄)となり、昭和21年6月宗教法人
神社と認証された。



■宮城野部屋
 4丁目16番3号にある立浪一門の相撲部屋。江戸時代から7代続いた部屋で、

 7代目
 美男横綱として知られた鳳谷五郎が相続し、幕内古賀ノ浦などを育てたが、昭和31年11月に死
去し、当時の幕内力士福ノ里牛之助は高島部屋(小結巴潟)に身を寄せたが、吉葉山が独立した時、
吉葉山に着いていっ。

 8代目
 
昭和33年1月場所限りで引退した高島部屋所属の43人目横綱吉葉山は、一代年寄吉葉山を襲名
して吉葉山道場を創設し、同35年に8代目宮城野
に名跡変更して部屋の名も宮城野部屋に改めた。
福ノ里は、吉葉山の独立の際に同行。8代目宮城野は、関脇明武谷、関脇陸奥嵐、小結広川をはじめ、
幕内嵐山、宇多川勝太郎など一代で10数名の関取を育て上げた。

 9代目
 同44年1月場所限りで引退した8代目の弟子の広川は、年寄押尾川(後に東関に名跡変更)を襲
名して宮城野部屋の部屋付き親方として後進の指導に当っていたが、同52年11月に8代目が死去
したため、翌月に9代目宮城野を襲名して宮城野部屋を継承した。9代目は、先代弟子から幕内竹葉
山、港龍などを育てたが、平成元年6月に急逝した。

 10代目
 平成元年1月場所限りで引退した9代目の弟子の竹葉山は、年寄中川を襲名して宮城野部屋の部屋
付き親方として後進の指導にあたっていたが、9代目が急逝したため、10代目宮城野に名跡変更し
て宮城野部屋を継承した。10代目宮城野は、先代弟子から幕内光法、十両若隼人を育て、直弟子か
ら幕内白鵬(後の第69代横綱)などを育てたが、

 11代目
 平成16年出羽海一門の北の湖部屋(北の湖)所属の元十両金親が、9代目の未亡人と養子縁組を
した後にその次女と結婚、同時に11代宮城野を襲名して宮城野部屋を継承した。一門を跨いだ相撲
部屋の継承は五大一門制になった昭和中期以降初めてのことであり、継承に際しては様々な議論を巻
き起こした。なお10代目は年寄熊ヶ谷に名跡変更して、再び宮城野部屋の部屋付き親方となった。

 12代目
 平成23年初場所直前に11代目が週刊誌での知人への八百長告白を報じられ、3代目と年寄株を
交換させられた。



■勝海舟幼時住居跡
 緑4丁目21番の辺りにあった。幕末に活躍した勝海舟の父親勝小吉と燐太郎親子が旗本邸に居候
して住んだという住居跡。道路向かいに記念碑があり「勝海舟揺籃の地」とある。住居跡は鬼平(長
谷川平蔵)の住居跡のすぐ近くで、同じ通りにある。ただ記念碑の場所は江戸時代の地図とややズレ
がある。碑の道路隔てた向かい側が勝海舟の住居跡の可能性が高いのだ。親子で大望を持ってはいた
が、貧しい暮らしだった



■永倉稲荷神社
 緑4丁目38番5号にある小社。永倉会館の2階に祀られている。中から三味線の音が聞こえるか
ら、町内で頻繁に活用されているのだろう。神社の由来碑が鳥居の右手にある。

    當町内ハ、明治大正ニカケテ火災ガ甚ダ多カッタノデ、町ノ有志ガ種々ト調査ノ結果、
   南ハ電車通リ、北ハ永倉公園際マデガ、當時ノ永倉町一番地デ松平筑後守ノ下屋敷跡デア
   リ、邸内ニ伏見稲荷ガ祀ラレテオリマシタ処、時代の変遷に伴ナヒ遺憾ナガラ、只放置サ
   レテアッタ事ガワカリ、町内の篤志家ニヨリ、火伏ノ神永倉稲荷神社トシテ 御祭至シマ
   シテカラ殆ド火災ガ起コラナクナリマシタ。其ノ後戦災デ神社モ一時焼失サレマシタガ、
   町ノ有志ガ相諮リ伏見稲荷大社ヨリ御神霊ヲ奉戴シ来リ再建致シマシタノデアリマス。更
   ニ昭和二十八年三月十五日宗教法人法ニヨリ登記第一一八号ヲ以テ神社トシテ正式ニ公認
   セラレマシタ。尚世話人一同協議ノ結果、本年ヨリ此ノ日ヲ記念トシテ、年年三月十五日
   祭禮日ト定メタノデアリマス。
    昭和三十一年三月吉日建之。
   (下部)
   永倉稲荷神社 緑四牛島講世話人
   林廣 高橋裕治 小岩勇 岩楯留次郎 秋林正一 土居喜三郎 中村清七 大竹金四郎
   中村進 米山林作 横田義男 高橋勇 古見達司朗 有林善蔵 田村正八 加藤政義
   福田正一 長澤吉男 大森勝朗                 発起人石井覚之助


 鳥居左手の標柱は昭和53年3月15日の建立。
 





【向島】(むこうじま)1~5丁目                  昭和39年7月1日
 小梅村+須崎村+小梅瓦町。江戸時代に「向島」という所番地はない。明治元年東京府、同5年
水戸徳川家下屋敷と周辺武家地をあわせて新小梅町。同11年南葛飾郡所属。同24年小梅村と須
崎村の各一部をあわせて向島小梅町。同年須崎村・請地村の各一部と北本所出村・南本所出村・押
上村飛地をあわせて向島須崎町。同年中ノ郷村・須崎村・押上村の各一部と小梅村の飛地をあわせ
て向島中ノ郷町。昭和6年小梅瓦町・新小梅町・向島小梅町・向島須崎町・向島中ノ郷町の各一部
をあわせた町域を向島1~3丁目とした。同39年小梅町1~3丁目の全部をあわせた町域を現行
の「向島」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『墨田区史』『墨田の歴史』など。

 向島の由来
 由来について一般に大いなる誤解がある今は墨田区でさえ「大川向こうの島」つまり「浅草
の対岸の意」としている。それなら本所も深川も向島だ! 向島は浅草の植民地だったのか? で
は須崎村の辺りだけをなぜ「向島」と俗称したかというと、その元は3代将軍家光のころ、幕府の
野菜畑が、現在の忍岡高校(前の墨田川高校堤校舎)の一帯にあって、「御前栽畑」といった。や
がて木母寺西、都営住宅と東白鬚公園が接する辺りに建てられた「隅田川(関屋)御殿」のお庭(御
前栽畑)を、幕府が正式名称として「向島」と呼んだことに始まり、江戸市民がこの御殿周辺の地
を「向島」と呼び習わすようになった(隅田川叢誌・墨田区史)。その後御殿は取り払われ木母寺
の境内となったが、景色が良いので風流の地となり、当時一流の文人墨客だった亀田鵬斎、大窪詩
仏、酒井抱一、巻菱湖、太田南畝、村田春海、石川雅望、加藤千蔭などにこよなく愛された。そし
てこの一帯に桜樹が植えらて〝向島の桜〟と評判を取り、墨堤を踏み固めさせる目的で桜が並木と
して植えられて、それが段々南下してくると長命寺や三囲神社の辺りまで〝向島の桜〟というよう
になって、江戸に近いせいか隅田村より須崎村・小梅村の方にこそ「向島」の俗称が定着した。た
だし行政地名となったのは明治24年が最初で、江戸時代には行政地名としては向島の名はない。
それで文人墨客の愛した「向島」はというと、鐘淵・木母寺・水神の森の一帯で、「向島御庭」の
あった場所は内川を挟んで対岸の御前栽畑、現在の旧忍岡高校の一円だ。

   すゞしさや蔵の間より向嶋(加舎白雄)
   夕雪や 人をたづねて向島(石原舟月)




■作られた向島七福神(隅田川七福神)
 激動と貧困の時代ならなおのこと、豊かな太平の世であってさえ、福の神を崇め、いっそう豊かに
心楽しく暮らせるよう願うのは、古今東西人間が抱き続ける心情である。古来日本人はいろいろな福
の神を信仰してきたが、恵比寿、大黒、布袋、弁天、福禄寿、寿老人、毘沙門天と七体の神仏聖人が
組み合わされ「七福神」として瑞祥の象徴となったのは、室町時代以降のこと。正月に一年の幸福を
願って七福神を巡拝する信仰行事の形ができあがったのは、町人文化が深く社会に根を降ろした江戸
時代の終わり頃、舞台も江
戸だった。
 文化元年(1804)に百花園を開いた佐原鞠塢(きくう)は福禄寿の陶像を愛蔵していたが、あ
る正月のある日、園で風流に浸っていた文人たちが誰いうともなく、「その福禄寿にちなむ正月の楽
しみごとはないものか・・・」
 という話になり、隅田村
多聞寺の本尊は毘沙門天、須崎村の
長命寺に弁財天が祀られていることが
わかると、何とか七福神を揃えたいものといたたまれなくなり、あれよこれよと頭を捻って詮索を重
ねていくうちに、小梅村の
三囲稲荷には恵比寿・大國の小祠があり、また須崎村の
弘福寺には黄檗禅
に関係の深い布袋和尚の木像を蔵することが判明。残るは寿老人だが、それがなかなか見つからない。
思案のあげく、百花園のある寺島村の鎮守
白鬚明神
は白鬚と名乗る限り、白い鬚の老体であろうから、
寿老人には打ってつけだというので、いかにも江戸人らしい機知を働かせ、ここにめでたくというか、
無理やり七福神がお揃いな
ったという次第。
江戸中期からの七福神巡りはここに始まった。十二年
(1815)には
、 『遊歴雑記』の著者の津田太浄が、牛込の善国寺(毘沙門天)・伝通院内福泉寺
(大黒天)・田端西行庵(福禄寿)・日暮里妙了院(布袋)・谷中長安寺(寿老人)・忍岡弁財天・
浅草西宮(恵比寿)を七福神として紹介している。


 七福神信仰
 室町時代に始まった信仰。『仁王般若経』という仏典に「七難即滅、七福即生、万姓安楽、帝王歓
喜」なる言葉がある。ここから「七福」の考えが起きたと考えられる。「竹林の七賢人」がヒントに
もなったろう。ちょうどこの頃同類を集めて名数的に数えることが流行していたのだ。「三管四職」
「五山十刹」などである。併し当時の七福神は必ずしも現在の恵比寿、大黒天、布袋、弁財天、福禄
寿、寿老人、毘沙門の七神と決まっていた訳でなく、吉祥天や多聞天など他の神が入れ代わることも
あった。
現在の七福神を固定したのは「谷中七福神」を始めたといわれている天海僧正だ。彼は家康
が長寿・富財・人望・正直・愛敬・威光・大量の七福を具えたからこそ天下を統一しえたと考え、
寿は寿老人・富財は大黒天・人望は福禄寿・正直は恵比寿・愛敬は弁才天・威光は毘沙門天・大量は
布袋だと唱えた。そこで家康は狩野探幽に七福神の絵を描かせてそれを崇拝した。このことは瞬く間
に全国に広まって評判となり、士庶上下の別なく広く信仰されるようになった。『享和雑記』という
本に

   近頃正月初出に七福神巡りといふこと始まりて、遊人多く参詣することとなれり、その七
   福神とは、不忍の弁才天、谷中感応寺の毘沙門天、同所長安寺の寿老人、日暮の里青雲寺
   の恵比寿・大黒・布袋、田畑西行庵の福禄寿なり、近ごろ年々にて福神詣でする人多くな
   れり

 とある。現在23区には隅田川・谷中七福神の外、浅草名所、深川、亀戸、柴又、千寿、江戸川、
日本橋、港区、新宿山の手、東海、池上、元祖山手、下谷、板橋、小石川、荏原、伊興などがある。


 向島(隅田川)七福神めぐり
 言問橋上流の土手下、小梅小学校の北にある三囲神社(恵比寿・大國)から、社前の通称向島見番
通りを北に500メートル弱進むと、左手に大きな山門の弘福寺(布袋尊)が、すぐ隣に長命寺(弁
財天)がある。ここから墨堤通りを800mほど行って子育て地蔵のところで東に折れ、地蔵坂を下っ
て左に折れてしばらく行くと百花園(福禄寿)、また墨堤通りに出て白鬚神社(寿老神)、さらに北
へ、白鬚橋の交差点を過ぎて、左に白鬚防災団地、水神社、梅若塚、榎本武揚像を眺めつつ、鐘淵中
学校前で路地を右に曲がると多聞寺(毘沙門天)があり御巡りは終わる。
 三囲神社  向島2丁目5番17号    弘福寺  向島5丁目3番2号
 長命寺   向島5丁目4番4号    百花園 東向島3丁目18番
 白鬚神社 東向島3丁目5番2号    多聞寺  墨田5丁目31番13号

 長命寺・弘福寺の詳細は「北区」の「隅田川」にも詳述してある。



サクラの名所 向島の桜堤
 向島といえば江戸庶民には最も身近な桜の名所で、上野のように音曲禁止でもなかったから一等の
賑わいを見せ「上野は高尚・向島は粋・飛鳥山は野暮・御殿山は野卑」とランキングされた。その桜
木は四代将軍家綱が隅田川御殿跡(木母寺の辺り俗称向島)に植えたことから始まり、享保二年(1
717)八代将軍吉宗が墨堤を踏み固めさせる目的で桜並木100本の植樹を命じ、さらに同十一年
(1726)桃・柳・桜を各150本植え、隅田村の阪田家に世話を命じ、さらに同十七年(173
2)に寺島村から木母寺までの桜並木が完成した。その後文化年間(1804~17)に佐原鞠塢、
朝川黙翁、中山卜
鄰らが150本、天保二年(1831)阪田七三郎が200本を増植したので、同
三年(1832)までに三囲神社まで延長した。しかし弘化三年(1846)の大洪水で堤が決壊、
須崎村の宇田川総兵衛が私費で修築した。その義に感じた村人が総兵衛の行為を顕彰して150本、
安政元年(1854)阪田七三郎が200本を植え旧観を復した。
 明治になって其角堂永機、旧水戸藩知事、寺島村の人々が植え継ぎ、大倉喜八郎、成島柳北が名勝
を守るため白鴎社を設立、村人もこれに応じ、南葛飾郡長伊方友方はこの運動を府知事に伝え助成し
た。しかし志半ばで成島が死ぬと、その遺志を大倉、安田善次郎、川崎八右衛門が出資し、村人の協
力を得て「墨堤の桜」は完成した。明治20年榎本武揚の篆額、浜村大□(さんずいに解)の撰文、
宮亀年の彫刻で「墨堤植桜の碑」が建てられた。同29年の洪水で堤が壊れ、碑が傾いたので現在地
に移したという。現在地とは長命寺の北側の小公園、桜餅の「山本や」の側だ。墨堤通りを挟んで対
面に「言問団子」がある。同じ小公園に野口雨情の歌碑もある。

   
都鳥さえ夜長のころは水に歌書く夢も見る

 昭和42年その桜木たち260本は首都高速道路向島線の敷設のために移転を余儀なくされ、谷中
・染井の両墓地に移植された。そして平成の今「墨堤の桜の保全・創出事業」が展開されようとして
いる。堤の桜が詰んできたので弱木を間引いて、強木を生かそうという思想である。すべからくソメ
イヨシノになってしまった日本の桜、ところがそのソメイヨシノは一代木、実がならないのだ、そし
て寿命は60年。ポトマック河畔がそうであるように、墨堤
の桜も立ち枯れる時期を迎える。そのた
めの梃入れだ。後四十年ほど持ち堪える可能性があるんだとか。創出とは、隅田公園(水戸徳川家下
屋敷)にソメイヨシノ以外の桜木を植えて保存しようという計画だ。


ソメイヨシノ
 
幕末に染井(北区)の植木屋が「大島桜」と「江戸彼岸桜」を交配して作った雑種で
初め「吉野
桜」の名で売り出した。

   最新の学説では「大島桜」と「小松乙女」の自然交配による雑種ということが判ってき
   たという。しかし「江戸彼岸桜」が間違っていたというのではなく。小松乙女が江戸彼岸
   桜の一種なので、「画期的な新見解」というよりは、従来の説をより多数のデータで補強
   し、ピンポイントに可能性を絞ったというところだ。
    また「植木屋が人工交配した」ということも定かではないそうなのだ。つまり桜は異種
   自然交配して雑種ができる植物で、自然雑種は日本全国にあり、桜の品種は大きく彼岸桜
   ・大島桜・山桜に分類されるが、細かく分析すると200種にも及ぶらしい。
   
 寿命は短く60年程度。交配種であるため結実はしない。というか雌蕊が老化若しくは退化してい
るため実生種にならないようだ。たまに結実するがそれは大島桜か江戸彼岸桜の先祖返りで、つまり
種子では繁殖しないのだ。世界中にあるソメイヨシノは最初の交配種のクローンであり、挿木・接木
で増やすしか方法はない。だからソメイヨシノには幹がなく、幹と思っているものは、つまり枝なの
だ。ポトマック河畔の桜は日米親善の証しだが、定期的に接木しながら維持しているということなの
だ。
 さて「染井吉野」と命名したのは東京府博物局の藤野寄名で、商品名「吉野桜」では奈良の吉野の
山桜との混同が甚だしいので混乱を避ける意味で生誕地の染井を冠したという訳。
 パッと咲いてパッと散るソメイヨシノにべた惚れしたのが薩長の権力者たちで、日本国民に「国民
皆兵」「滅私奉公」させようという軍国主義にマッチするため、いつまでも美しく咲き続ける山桜は
「潔く死ぬ」イメージにそぐわないので伐り倒され、全国的にソメイヨシノに植え替えたいう次第。
軍国主義者たちは、日本全土を若葉の出る前に散ってしまうソメイヨシノ一色に埋め尽くすことで、
国民に「潔く死ぬことこそ誉れ」の観念を植え付けようと目論んだ。ために何でもかんでも西洋化・
アメリカ化してやまない政治家・軍人がだ、「9月入学・入隊」だったものを「4月入学・入隊」に
改めて固執し、西洋式の9月入学に戻さないのは、ソメイヨシノの開花時期にこそ理由はある。日本
では夏休みを学年度替わりとするほうが気候的には適っているが、保守的権力者たちは軍国主義華や
かなり時代が忘れられず、夢よもう一度と思うあまり、4月の年度替わりを譲らない。はらはらと散
るソメイヨシノの満開期に入学式・入隊式を合わせることで、国民に強く「潔く死ぬ」ことを心象付
けし納得させなければならない必然があるからだ。
 ソメイヨシノの普及は、現代の保守権力者たちが再軍備・国民皆兵を腹の底では忘れていない証拠
である。その内憲法は改められるだろうし、あと数十年すれば、自衛隊は国軍に、防衛庁は国防省に
変わる(平成17年省に昇格させた)。さて「花は桜木、人は武士」などというスローガンは江戸時
代以前にはない。薩長の軍国主義者が考案したものだ。武士が潔いと感じた花は、馥郁と香る「梅の
花」だったからだ。もし桜の花枝を兜に挿して戦場に臨もうものなら幾千代の物笑いとなったろう。
加賀百万石の前田家は菅原道真の裔なので「梅鉢」を家紋とする。しかし桜の家紋はポピュラーでは
ない。青山墓地に戦後の宰相吉田茂の墓があるが、桜の家紋である。ただし桜の紋は西洋の某シンジ
ケートの日本組織の共通紋章であるから、ご使用には十二分の御用心を・・・



■隅田公園
 向島1丁目3番にある区立公園。区内で最も大きな公園で、墨堤の歴史を残しており、もとは水戸
藩徳川家下屋敷の庭園だった。水戸黄門が寛いだかもしれない。それが生かされて区民の憩いの場所と
なっている。幕末にはあの藤田東湖が幽閉されていた。
 隅田公園という名は台東区側にもあるが、もとは1つの都立公園だったが、それぞれの区に移管さ
れて、別々の公園になったという次第だ。大正12年の関東大震災で受けた被害は大きく、今横網町
公園となっている陸軍被服廠跡で焼死した人は38000人といわれる。その教訓で火除地を作るこ
ととなった。帝都復興院総裁後藤新平より隅田公園建設が提案され、総工費680万円で大正14年
6月に着工。開園したのは昭和6年3月24日で、同50年に区に移管された。昭和20年アメリカ
軍の無差別爆撃犠牲者の仮埋葬地として大規模に利用された。同年3月15日現在で警視庁が纏めた
「仮埋葬地ならびに仮埋葬数調査報告書」によれば、向島側だけで6300体以上が仮埋葬されたと
いう。

 正気歌の碑
 堤通り沿いの植込みに藤田東湖自筆の「正気歌」を基にした詩碑。敗戦間近の昭和19年に東湖會
が建てたもので、碑陰には「神州の正気を宣揚す」とある。刻者は荒井銀城。常陸太田産の寒水石の
性で碑文は読み取り辛い。
 藤田東湖は、水戸藩士。幕末に活躍した政治家。水戸学藤田派の学者。戸田忠太夫と両壁をなし藩
主徳川斉昭の腹心として〝水戸の両田〟と謳われた。武田耕雲斎を加えて〝水戸の三田〟という場合
もある。特に水戸学の大家として全国的に著名で勤皇の志士に与えた影響は大きい。「東湖」は号で、
生家の東に千波湖があったことに因むという。現在千波湖は東側を中心に埋め立てが進み、元の3分
の1程の面積になったため、東湖の生家跡から東に湖は見えない。名は彪(たけき)、字を斌卿(ひ
んけい)といい、虎之助、虎之介、誠之進の通り名として名乗っていた。
父は水戸学者藤田幽谷、母
は町与力沢氏の娘。藤田家は、遠祖が平安時代前期の政治家である小野高篁(おののたかむら)に遡
るといわれ、中世に常陸に移り、江戸初期には那珂郡飯田村中島で農業を営んでいる。言徳の代に水
戸城下へ移転し古着商を営んたとか。

 東湖は水戸城下の藤田家屋敷に生まれ、文政十年(1827)に家督を相続し、進物番200石と
なった後は、水戸学藤田派の後継として才を発揮し、彰考館編集、彰考館総裁代役などを歴任。当時
藤田派と対立していた立原派との和解に尽力するなど水戸学の大成者としての地位を確立する。文政
十二年(1829)の水戸藩主継嗣問題に当たっては斉昭派に加わり、この年斉昭が襲封すると郡奉
行、江戸通事御用役、御用調役と順調に昇進し、天保十一年(1840)には側用人として藩政改革
に当たるなど、藩主斉昭の絶大な信用を得るに至った。しかし弘化元年(1844)5月斉昭が隠居
謹慎処分を受けると共に失脚し、同年9月には禄を剥奪される。さらに同3年(1846)斉昭が謹
慎解除されると、それまでの責めを受け江戸屋敷に幽閉、翌年謹慎処分となる。嘉永三年(1850)
にようやく水戸に戻ることを許され、同五年(1852)に処分を解かれた。藩政復帰の機会は早く、
翌嘉永六年(1853)ペリーが浦賀に来航し、徳川斉昭が海防参与として幕政に参画すると、東湖
も江戸藩邸に召し出され、幕府海岸防御御用掛として再び斉昭を補佐し、安政元年(1854)には
側用人に復帰した。安政二年十月二日(1855年11月11日)に発生した安政の大地震の際、一
度は脱出するも火鉢の火を心配した母親が再び邸内に戻ると東湖も後を追い、落下してきた鴨居から
母親を守るために自らの肩で受け止め、何とか母親を脱出させることに成功するが、自身は力尽き下
敷きとなって圧死した。享年50歳。墓所は市内松本町の常磐共有墓地にある。
 なお江戸藩邸跡である後楽には「藤田東湖護母致命の処」と記された案内板があり、藩邸跡に建て
られていた記念碑は道路拡張の際に小石川後楽園へと移されている。


 明治天皇御製碑
 公園の中程にある歌碑。昭和5年の建立。徳川圀順の書丹。

   花ぐはし桜もあれど この宿の 代々のこころを我れは問ひけり

 二峯先生之碑
 塀沿いにある。高さ4m50cmの大きな碑で、幕末から明治にかけて活躍した高林二峯の人とな
りを子息の高林五峯が撰文して隷書で書している。篆額は勝安房とあり勝海舟の揮毫。



牛島神社(牛の御前)
 向島1丁目4番5号、墨田公園の東北角にある本所の総鎮守。祭神は須佐之男(すさのお)・天之
穂日命(あめのほひのみこと)・貞辰親王(さだときしんのう)。昔は「牛の御前」と呼ばれてい
た。古くは本所区向島須崎町78番地(長命寺の近く
にあったが関東大震災後隅田公園の設
計の都合上廃社となり、昭和の初めに現位置に再建された。明治維新前は本所表町(東駒形)の
最勝寺(江戸川区移転)がその別当として管理していたが、明治初年の神仏分離後、新政府の強
圧により『牛の御前』の社名を『牛嶋神社』と改めさせられ、本所の総鎮守として郷社と定めら
れた。
 縁起書によると、貞観二年(860)慈覚大師が御神託により、須佐之男命を郷土守護神とし
て勧請して創祀し、のち天之穂日命を併祀し、次いで清和天皇の第七皇子貞辰親王がこの地でな
くなられたのを、大師の弟子良本阿闇梨がその神霊を併せてお祀りし『王子権現』と称した。例
祭日9月15日は、貞観の昔、初めて祭祀を行った日といわれている。
 

   本所総鎮守牛御前王子権現略縁起
   抑武蔵国葛飾郡本所牛嶋惣鎮守牛御前ハ、人王五十六代清和天皇御宇貞観二年庚辰九月中
   旬、慈覚大師勧請の神霊也。然に大師当国弘法之砌、此所におゐて日既に暮たり。森の内
   に当て一ツの草屋あり。立寄給ふに、位官の老翁優然として座せり。大師扉にたたすミ宿
   を乞ヘハ翁悦請す。大師翁に問給ふハ、如何成高貴の御方にてましますや、かかる辺鄙の
   御住所不審と尋給ヘハ、翁答曰、我是素戔烏尊也。東国に跡を垂国家ヲ守護せんとおもへ
   とも、未だ人を得ず。幸い今師に逢り。我形を写して師に与へん。我為に一宇の神社を建
   立せよ。我影像に心を留めて国土に悩乱あらハ首に牛頭を戴、悪魔降伏の形相を現して天
   下安全の守護たらんと。位官の影像を自画して大師にあたへ老翁ハ忽然と化去給ふ。今牛
   御前垂跡之神躰ハ此尊像を崇なり。大師感肝に銘じ、則神の告にまかせて国人を勧一宇を
   造立し、牛頭を戴て守護給ハん誓にまかせて牛御前と神号を奉る。依て嶋の惣名を牛嶋と
   申伝へぬ。大師随身之御弟子良本阿闍梨を留めて汝尊像を守り奉れとて一宇を護給ひ、猶
   又牛御前本地仏大日如来を造立して本尊となし給ふ。今の本地仏是也。
 

 「新編武蔵風土記稿」に、


   牛御前社
   本所及牛嶋の鎮守なり。北本所表町最勝寺持。祭神素盞嗚尊は束帯坐像の画幅なり。王子
   権現を相殿とす。本地大日は慈覚大師の作縁起あり信しかたきこと多し。其略に、貞観二
   年慈覚大師当国弘通の時行暮て傍の草庵に入しに、衣冠せし老翁あり云。国土悩乱あらは
   れ首に牛頭を戴き悪魔降伏の形相を現し国家を守護せんとす。故に我形を写して汝に与へ
   ん我ために一宇を造立せよとて去れり。これ当社の神体にて老翁は神素盞嗚尊の権化なり。
   牛頭を戴て守護し賜はんとの誓にまかせて牛御前と号し、弟子良本を留めてこの像を守ら
   しめ、本地大日の像を作り釈迦の石佛を彫刻してこれを留め、大師は登山せり。良本これ
   より明王院と号し、牛御前を渇仰し、法華千部を読誦して大師の残せる石佛の釈迦を供養
   佛とす。其後人皇五十七代陽成院の御宇聖和天皇第七の皇子故有て当国に遷され、元慶元
   年九月十五日当所に於て斃せられしを、良本祟ひ社傍に葬し参らせ其霊を相殿に祀れり。
   今の王子権現是なり。治承四年源頼朝諸軍を引率し下総国に至る時に、隅田川洪水陸地に
   漲り渡るへき便なかりしに、千葉介常胤当社に祈誓し船筏を設け大軍恙なく渡りしかば、
   頼朝感して明る養和元年再ひ社領を寄附せしより、代々国主領主よりも神領を附せらる。
   天文七年六月廿八日後奈良院牛御前と勅号を賜ひ次第に氏子繁栄せり。北条家よりも神領
   免除の文書及神寶を寄す其目後に出す。又建長年中浅草川より牛鬼の如き異形のもの飛出
   し、嶼中を走せめくり当社に飛入忽然として行方を知らず。時に社壇に一つの玉を落せり。
   今社寶牛玉是なりと記したれど、旧きことなれば造ならさること多し。
   神寶并神領免状古碑一基
   長さ三尺三寸幅一尺五寸青石なり。前面に釈迦の立像背面に奉造立釈迦像一体貞観十七未
   天三月日、法華千部明王院の廿七字を刻す縁起載る所の供養佛也しと云。
   牛玉一顆由来は本社の條に見ゆ。
   太刀一振
   一尺八寸許箱に納む。蓋の面に千葉常胤神息と記し、裏に宝暦二壬申年十二月吉日中田五
   郎左衛門冶興と記し名の下花押在。
   指物一
   長三尺八分余幅一尺一寸六分箱に入れ蓋の裏書に
   此指物自先祖持来候、然而牛御前宮者、先祖千葉家被致再興候依為御宮、則指物奉献納候、
   末代迄御傳置可被下候、仍寄進之状如件、
   慶長十八丑歳九月十五日、国分宗兵衛正勝敬白
   牛御前宮御別当最勝寺
   右指物は本所表町名主中田五郎左衛門の所持なせしを、己か支配に国分氏宗兵衛といへる
   ものあり。彼は千葉家の支族なりとて譲り与しを、後宗兵衛当社に納めしと云。
   古文書二通
   須崎堤外畠之事、合百八十よ所、自前々茂神領のよし聞届申候。為其一札進候仍如件。
   永禄十一年戊辰霜月十五日、景秀花押
   最勝寺御同宿中
   石橋山合戦に付分捕之面々書翰之通備見山畢、景末花押
   此文書の伝来をしらず。景末は何人なりや。石橋山合戦といへは梶原景季なるへけれど文
   字も違へり。


 とある。

 治承四年(1180)九月源頼朝が大軍を率いて下総国から武蔵国に渡ろうとした時豪雨に
よる洪水のために渡ることが出未なかった。その時武将千葉介平常胤が牛の御前に祈願し、神
明の加護によって全軍無事に渡ることができたために、頼朝はその神徳を尊信して翌養和元年
(1181)に社殿を経営し、千葉介平常胤に命じて多くの神領を寄進させた。天文七年(1
538)六月二十八日に後奈良院より『牛御前杜』との勅号を賜り、永禄十一年(1568)
十一月北条氏直が関東管領だった時にも、大道寺駿河守景秀が神領を寄進している。また江戸
時代においては鬼門守護の杜として将軍家の崇敬厚く、特に3代将軍家光は本所石原新町の土
地を寄進して祭礼神輿渡御の旅所としたという。元の若宮町(本所2丁目内)の攝杜若宮がこ
れだ。
 総桧権現造り東都屈指の大社殿を誇る牛嶋神社は、昭和32年鎮座千百年祭を行い、氏子5
0余町牛島講の守護神として崇敬尊信を集めている。本殿前には全国的に珍しい三輪鳥居
(三
つ鳥居)と「狛牛」がある。



 牛御前伝説
 室町時代頃に盛んに語られたそうだ。平安時代の武士、源頼光の兄弟にまる牛鬼のような姿をした
子が生まれ、牛御前と呼ばれた。牛御前は山で育てられ、凄まじい腕力をもつ若者に育ったが、父は
この子を嫌い、頼光にこれを討つように命じてしまう。父の裏切りを知った牛御前は、恨みの果てに
本物の鬼となり、関東に下って鬼の国を作ろうとした。たが源頼光の家来でその名も高い「四天王」
(渡辺綱ほか)はこの牛御前を滅ぼしてしまった。牛御前は隅田川に身を投じ、巨大な化け物となっ
て辺り一面をを水びたしにしたということだ。ちょっと待てよ。迷惑な話だなぁ。京都の喧嘩を関東
に持ってきて、やられた腹いせにこの辺りを水浸しにされちゃあ、堪んねえよ。京都の方でやってく
んな、京都で・・・
 実際は、隅田川が氾濫した大洪水があったんだろうな。現在でも埼玉県栗橋の堤防が切れたら、東
東京つまり下町低地は水浸しだ。

 
社号石標

 昭和5年の建立で、揮毫は元帥東郷平八郎海軍大将。台石に松倉町とある。

 三輪鳥居
 鳥居の左右に袖鳥居の付いたもの。

 文化八年の奉納碑
 氏子の建てた小さなもので、手水舎近くにある。側面に「文化辛未秋南畝書」とあり、大田蜀山人
(南畝)の揮毫によるものだ。

 撫牛
 境内に石造の牛像がある。撫牛と呼ばれて親しまれているもので、自分の身体の痛いところと同じ
ところをさすれば治るといわれている。さらには涎掛けを奉納し、それを生まれた子供に掛けると健
康に育つともいわれている。撫牛自体には年号はないが、隣に建てられている「撫牛奉納碑」には文
政八年(1825)の記載があり、江戸時代から信仰されていたのだ。明治の文人淡島寒月は、

  なで牛の石は涼しき青葉かな

 と詠み、昭和の作家で近所に住んでいた堀辰雄も自伝的作品『幼年時代』の中で「私はそのどこか
メランコリックな目ざしをした牛が大へん好きだった。」と記しています。なおなお入ったところに
ある牛像は「包丁塚」で撫牛ではないから御用心御用心。

 慰霊碑
 戦没者を慰霊する大きな石碑。朝日新聞による慰霊碑建立当時の模様。

   昭和30年8月15日、終戦記念日に本所地区関係の慰霊碑除幕式が行われた。元本所
   区在郷軍人会会長の鈴木文雄氏が中心になり、各町会に呼びかけて建立された。まつら
   れるのは日清以来の戦没者1414名、10年前の戦災による死者4635名(いま本
   所地区に遺族のいる人だけ)

 碑文

   元本所区出身過去戦役事変戦災ニ依リ祖国防衛ノ為メ名誉アル戦病死ヲ遂ゲラレタル諸
   英霊ニ対シ聊カ御霊ヲ慰メンタメ旧本所区在郷軍人の有志並ニ本趣旨ニ賛同セラレタル
   同士ト共ニ祖国再建発足十周年ノ記念ノ日ヲ選ビ茲ニ慰霊ノ碑ヲ建ツルモノナリ
                             靖国神社宮司 筑波藤麿 書


 烏亭焉馬の狂歌碑
 1丁目4番の牛島神社境内にある焉馬自身が建てたもの。区の登録文化財。

  いそがずば濡れましものと夕立のあとより晴るゝ堪忍の虹

 烏亭焉馬(うていえんば)は、江戸落語の中興の祖といわれた人物だ。本名中村利貞。本所相生町
(緑1丁目)の竪川沿いに住んでいたため立川焉馬とも名乗った。本業は大工の棟梁で、和泉屋和助
の名で足袋や木綿の商いもしていた。いつの頃からか、狂歌や戯文に長じて洒落本や黄表紙を書くよ
うになった。五世市川団十郎と親交があったことから談州楼とも号した。立川談志などはこの流れを
汲む訳。大工の棟梁だったことから鑿釿言墨曲尺(のみちょうなごんすみかね)のもじり名もある。
碑は総高88cmで、文化七年(1810)に建立された。天明四年(1784)に向島の料亭武藏
屋に文人仲間が集まり、落噺(おとしばなし)を披露した「噺の会」が徐々に江戸市中に浸透して、
寛政のころに現在の落噺の形が完成した。「落語」というようになったのは明治以後のことだ。なお
焉馬の墓は牛島神社の別当最勝寺に葬られたが、寺が江戸川区に移転したのでそっちにある。

 包丁塚と村田周魚の句碑
 
組物 牛島神社境内にある。明治以降は食事もだんだんに洋風化して、牛肉を食することが一般化
し、やがて食肉業者が供養のために、牛に関わりのあるこの神社に奉納した。
 寝そべった牛像の基壇の前面の黒い石板には「慰霊 庖丁塚」と大きく描かれ、牛の後ろには次の
ような句が刻まれている。

   人の世の奉仕に生きる牛黙す 

 碑陰に「昭和37年6月27日建之」とあり、顧問大野伴睦ほか建立に尽力した面々の名前がずら
り。周魚は、本名泰助。明治22年下谷車坂町に生れ、川柳に志して50有余年、その間川柳きやり
吟社を興し、遠く海外にまでその道の発展に尽くした。
 碑の横に石灯籠が建っている。昭和37年6月27日の建立。4面にすべて記載がある。どうやら
三竹会が呼びかけて建てたものらしい。次の彫り込みがある。
 前面/牛慰霊庖丁塚建碑趣意・三竹會創立満八十周年記念・初代會長故御子柴竹次郎氏 
    五十年祭・三竹會長御子柴晧資翁米寿祝賀。
 右面/東京食肉卸協同組合・芝浦枝肉取引員組合・芝浦臓器協同組合
 左面/東京料理飲食業協同組合連合會・日本全調理師連盟・全國調理師紹介所連盟・  
    大鉄庖潤協會
 裏面/大泉食肉庖交會・三竹牛鳥料理研究會・三光牛鳥調理師會

 荻園加藤先生之碑
 国学者で歌人でもあった加藤千浪の碑で、篆額は平山省齋、服部謙の撰文、宮亀年刻。漢文碑と和
文碑があり、和文のほうはかなり剥落している。漢文碑に明治10年建立とある。

 殲蒙古仇碑記
 明治18年に仮名垣魯文、肝付兼武などが建てたもので、北條時宗の功績を記している。篆額は毛
利元徳。肝付の撰文を内閣大書記官だった金井之恭(金洞)が書し、廣羣鶴が鐫をとっている。

 鎮座壹千壹百年祭記念
 本殿に上がる石段脇にある。書道界で最初に文化勲章を受章した西川寧の書で、彼は向島の生まれ
で、碑には氏子の町名が羅列してあるだけ。

 小梅稲荷
 詳細不明、小梅村の何処かにあったものだろう。水戸徳川家の小梅屋敷内に祀られていたのかもし
れない。社殿は東京随一の総檜の権現造り。 



■埼玉屋小梅

 向島1丁目5番5号にある和菓子屋。初代が明治30年に創業し江戸以来の伝統を継承して和菓子
一筋に頑張ってきた老舗だ。最高級の原料を吟味し、心を込めた手作りならではの和菓子を丁寧に仕
上てる。和菓子店甘味処の思いを守ってゆきたいとは店主の弁。

 
桜橋まんじゅう
 つくね芋を使った本格的上用饅頭。中のあんこはこし餡で甘さ控えめの上品な味だ。おつかいもの
にも大変喜ばれている。

 
小梅だんご
 昔この辺を小梅村といった。北海道産の小豆を使用してこし餡、梅餡をそれぞれ求肥で包みゴマ、
キナコ、のりのユニークで可愛らしくお子様から女性に人気!  03-3622-1214



■本行寺
 向島1丁目20番4号にある日蓮正宗の寺。寛永十五年(1638)
常泉寺第5代住職本行坊日優
により、常泉寺境内に塔頭「本行坊」として開創。
大石寺第17代法主日清上人の折伏により、本行
坊日優が改宗。常泉寺とともに大石寺末となる。明治44年
同じ常泉寺の塔頭坊だった本種院(日有
堂)を吸収合併。昭和17年
寺号を公称し「立正山本行寺」となる。同20年3月戦争状態にあった
愚かなアメリカ軍による非人道的無差別空爆により堂宇悉く焼失。同22年~同38年にかけて、

に総本山大石寺第67代法主となる日顕上人が住職となり、復興に尽力する。同39年以降
~現在の
住職は常法院日海(高野姓)。同47年
本堂を鉄筋コンクリート3階建てのビルに改築。



■屏風博物館(墨田区小さな博物館)
 向島1丁目31番6号の片岡屏風店和集屋にある。奈良時代から江戸時代末期までのおもな屏風を
当時の世相と共に年表風に紹介したパネルや、製作に使う「はけ」「鋲」「裁ち包丁」などの道具や
金具が展示されている。完成までに6枚もの異なる和紙を貼り重ねていく屏風の製造工程が、現物を
まじえて解りやすく紹介されている。展示品の中でも、18世紀後半に作られた「江戸風俗祭礼図屏
風」や、一枚で二つの絵が楽しめる「からくり屏風」は必見だ。
 日曜日・祝祭日を除く毎日(5月~10月の第2・4土曜日休館)午前9時~午後5時

 03-3622-4470



東京スカイツリー インフォプラザ
 向島1丁目33番12号東武伊勢崎線業平橋駅前(第2東武館1階)にある。東京スカイツリーを
中心とした大規模複合開発プロジェクトの情報発信と当プロジェクトに対する理解を深めて貰うため
に開設した。

   
1.東京スカイツリーを中心とした大規模複合開発プロジェクト事業概要解説
   2.東京スカイツリー事業計画概要解説
   3.建設状況等進捗情報紹介
   4.1/500 模型展示
   5.記念撮影コーナー
   6.展望ビュー
   7.東京スカイツリーQ&A
   8.墨田区観光PR
   9.グッズ販売コーナー
   10. 東京スカイツリー関連映像紹介
   11.その他周辺情報、パンフレット など

   期  間 平成21年4月~24年3月(よてい)
   休 館 日 年末年始
   入 館 料 個人見学無料
   開館時間 10時~17時
   問い合せ TEL 03‐6658‐8012  FAX 03‐6658‐8013

 10名以上の団体には、別途有料メニュー(事前予約制)が用意それている。団体での来館希望は
施設受入れの運営上、こちらを利用させられる。
 来館の際に、運営上の都合や団体のご利用等により一部施設が貸切となり、見学出来ない場合があ
る。
 



■すみだ郷土文化資料館
 向島2丁目3番5号、小梅小学校の南にある墨田区と隅田川がよく判る資料館だ。記録から見ると
平成10年に開館したようだ。それ以前は別の場所にあったのかもしれない。



■小梅小学校
 向島2丁目4番10号にある区立校。大正8年9月11日設立認可。同9年4月1日「南葛飾郡小
梅尋常小学校」として開校。同5月校歌制定。

 校歌「百船千船」 作詞・高野辰之 校正・島崎赤太郎  作曲・佐藤豊吾
  1.百船千船行き通う
    隅田の川を西にして
    我が学校の立てる地は
    名も美しき小梅町
  2.富士と筑波の二山を
    雄々しく清き範として
    花をみめぐり鳥に問う
    やさしき心兼ねもたん

  3.教えを守り身を修め
    正しき道を進みつつ
    額の汗に食を得て
    国につくさん諸共に


 同12年関東大震災により校舎焼失。昭和2年鉄筋コンクリート3階建て校舎完成。同7年東京市
周辺郡部の東京市併呑により「東京市小梅尋常小学校」と改称。同12年高等科を併置して「東京市
小梅尋常高等小学校」と改称。同16年勅令148号国民学校令により「東京市小梅国民学校」と改
称。12月真珠湾攻撃により日米開戦。同18年都制施行により「東京都小梅国民学校」と改称。同
19年4月給食開始。8月学童集団疎開。同20年日本は愚かなアメリカ軍の軍門に降り敗戦。傀儡
政権を受容せざるを得ない今日的不幸を背負い込む。
 同22年アメリカの強制による学校教育法により「東京都墨田区立小梅小学校」と改称。同23年
PTA発足。同45年創立50周年記念式典。同49年校舎建て替え新校舎落成。同53年体育館竣
工。同55年創立60周年記念式典。同55年創立60周年記念式典。同56年2月タイムカプセル
埋設。同61年~平成2年区科学教育センター開室。
 平成2年創立70周年記念式典。同10年ランチルーム設置。同11年コンピュータルーム設置。
同12年創立80周年記念式典。同15年スクールカウンセラー設置。同16年校庭改修。同17年
創立85周年記念式典。



三囲神社(小梅三囲稲荷)
 向島2丁目5番17号にある江戸百稲荷の一。みめぐりじんじゃ。向島七福神の恵比寿と大黒天に
当たるが、それは別殿の祭神で、三囲の主神はあくまでお稲荷さん(宇迦能魂命)だ。
 諸説を総合すると、650年ほど昔の文和年間(1352~56)、東国巡礼をしていた近江国三
井寺の僧源慶が、ここ牛島の辺りを通りかかり、荒れ果てた小祠(田中稲荷)を見つけ、村人にその
由緒を尋ねると、


   弘法さんがな、一輪の梅の花に思いのたけを込めて『有縁の地あらば育たれよ』と空に投
   げなさったと思いねえ。折からの突風に舞い上がった梅の花は何処かに飛んでいっちまっ
   たが、この地に落ちて根付いたっちゅうことよ。後年ここを訪れんさった弘法さんが、里
   の者に梅の木の縁起を聞かされて、その奇縁なるを大いに喜びなされ、お堂をお建てんなっ
   たのが、これや


 と創建の由緒。源慶はにもかかわらずその様の哀れさに深く悲しみ、


   春はなお色勝りけん梅ヶ原 宮戸に開く花の玉垣


 とまあ、詠じて、自ら再建に着手しようとして地面を掘ったところ、白狐にまたがった神像が納め
られた一つの壷が出てきた。その時どこからともなく白狐が現れ、お堂の周りを三度廻(めぐ)って消
えてった。この故事から「みめぐり」の名が起こったという。「囲」を何故「めぐり」と読むのかは
判らないのだが、京都三井家が同家にあったものを奉納したという「三柱鳥居」が三面で鳥居となっ
ているから、その状態を「三囲」とし「みめぐり」の故事と合わせたものだろう。

 稲荷

 稲を荷ったのは狐で、稲が実る頃に野狐が餌となる野鼠などの小動物を求めて稲田に出没するのを、
昔の人々は、狐が山の神の使いで稲を採りにきたと考えた。稲穂が野狐の背中にくっついていたこと
もあったのだろう。それを稲を荷って山に帰るのだと見て取って、宇迦能魂命(倉稲魂命 うかのみ
たまのみこと)を稲作の神としたものだ。「うか」は「食(うけ)」の転じたもので、「うかのみた
まのみこと」は食を司る神様で、この神は、古事記では、須佐之男命(スサノオノミコト)の系譜に
おいて登場し、須佐之男と大山祇神(オオヤマツミノカミ)の娘神大市比売命(カミオオイチヒメノ
ミコト)との間に生まれ、歳神(大年神(オオトシノカミ 正月に各家庭にやってくる神様)を兄と
している。日本書紀では本文には登場せず、神産みの第六の一書において、伊弉諾・伊弉冊(イザナ
ギ・イザナミ)2神が風神〔竜田〕を生んで飢えんとした時生れた神という。宇迦能魂命(宇迦之御
魂命)は古事記の表記、倉稲魂命は日本書紀の表記だ。


 日比翁助石垣の歌碑
 表入口右の石垣の積石の1つに

   いしがきの小石大石持合ひて御代もゆるがぬ松ケ枝の色(
日比翁助)


 とある。日比は久留米藩士の次男、慶応大学卒、三井銀行本店副支配人の時、請われて三井呉服店
に入り、アンシャンレジーム(旧体制)を打破してデパートメント宣言、大正3年に鉄筋コンクリー
ト造り5階建ての三越百貨店を創設した。


 三柱鳥居
 本殿向って右手前の隅にある。柵がしてあって立ち入らないように指示がしてある。全国的にも珍
しく、京都太秦の木島神社にあるものが有名だ。その名の通り六角柱が3本あり、三方向から見てちゃ
んとした鳥居形に見える鳥居のこと。ここのものは大人の背丈ほどの高さ。中央に井戸がある。京都
の三井邸にあったものを移設したという。その由緒書に「三井総元方、三井銀行、三井物産、三井鉱
山、三越」の名があり、各会社持ち回りで祭祀を執行しているそうな。

   京都三井家が江戸に進出してから三囲大神の信仰篤く、当家の守護神と仰ぎ、享保元年
   (1716)三井高治・三井高久・三井高房が相議り神祇の司職吉田家に神位を乞請け
   捧げ奉り・・・

 とあり、京都三井家との密接な繋がりが見て取れる。「三囲」が「みつい」と読めぬこともないか
ら、御執心なんだろう。何処の馬の骨か判らないおいらなんざぁ氏神すら判んねえよ。三柱鳥居は水
場、池中に建てられており、湧水点を示すものだから、人間にとって大切な水源を崇めることから発
したもので、柱の位置はそれぞれの所で意味を持たせてある。もしかすると「三井」の由来は、「三
柱鳥居に囲まれた井戸」によるのかも知れない。

 京都市右京区太秦の木嶋神社(蚕の社)、長崎県対馬り和多都美神社、奈良県桜井市の大神教会の
他、岐阜県関市洞戸奥洞戸の栗原底津丸山山頂、岐阜県郡上郡大和町、徳島県名西郡神山町に三柱鳥
居がある。

 さて隅田川七福神の「恵比寿・大黒」だが、祭神ではない。境内に別に社がある。社前の石碑には
やはり三越とある。

 雨乞いの句碑
 本殿向かって右手前にある。これは安永六年(1777)秋、其角の子孫六蔵庵宝其によりて建て
られ、明治6年三越の人々が再建した。

   此御神に雨乞する人にかわりて
   遊ふ田地(
夕立)や田を三囲の神ならば  晋其角


 と刻されている。元禄六年(1693)の大旱魃(だいかんばつ)の時、この神社で村人たちが雨
乞いの儀式をやっているところに、またまた舟遊びをしていた宝井其角が、友人の白雲(豪商利倉屋
三郎兵衛)と参詣にやってきた。白雲が儀式の様子を見て

   その昔、能因法師が三島神社に雨乞いをして、
   天の川苗代水を堰き止めよ 天降ります神ならば神
   と詠むとたちどころに大雨が降ったという故事に倣って雨乞いの一句を作り給え


 といったところ、其角が神前に納めたのが先の句だ。翌日偶然だろうが一天俄かに掻き曇り、沛然
たる大雨となり村人は大喜び、其角は一躍時の人となった。この句は洒落てて五七五の頭の字を取る
と「ゆたか」を織り込んであるから、さすが名人芸だ。もしかすると気象学に通じていて、翌日の天
候を予測できた?
 とにかく句碑や顕彰碑は50を超える。達筆すぎて読めないもの、剥落で碑面がなくなってしまっ
たもの、色々あるよ。


 手水舎
 三柱鳥居を模した3本柱で、屋根は平ったい円錐型をしている。手水鉢も丸みのある円柱型だ。

 狛犬
 本殿前に据えられている。垂れ眼で犬のように表情が柔らかだ。とても珍しい。

 池袋三越のライオン像

 境内の狛犬の傍に置かれている。三越百貨店の入口に置かれているものと同じ像で、平成21年に
三越から奉納された。かつては池袋三越店頭に設置されていたもので、同店の閉店に伴い、神社から
の申し出により、三越と強い縁を持っている事から実現した。

 三つ穴燈籠
 狛犬の傍らに建ててある。藤堂高睦(伊賀上野城主)によって宝永三年(1707)に奉納された
もの。この神社で最も古い石造物。

 
本殿

 流造りで、幕末安政年間の建立。墨田区登録文化財。

 別殿(向島七福神)
 恵比寿・大黒天を祀る。三囲神社の主神という訳ではない。稲荷の境内に何故この別殿があるのか
というと、元々は三井越後屋にあったものを移設したという訳。6月6日の木遣音頭奉納の行事の際
に特別拝観が許される。社殿は、明治初期の開化式三大建築といわれる築地ホテル館・三井組ハウス
・為替バンク三井組を設計施工した二代清水喜助の都内に現存する唯一の作品である。

 表功碑
 近代日本の警察制度に尽力をしたドイツプロイセン王立警察大尉であるヴィルヘルム・ヘーンの顕
彰碑だ。明治17年建碑。篆額山縣有朋、撰文清浦圭吾露、書丹岡田起作、木村旭辰刻。碑には、当
時の司法次官の清浦がヘーンの事績を讃え、長文を認(したた)めている。これによると、ヘーンとい
う人物は、明治18年から23年の5年間、政府の招聘によって来日し、北海道から沖縄に至る全国
を視察し、その問題点と改正点に関する報告書を作成している。こうして警察制度に対するアドバイ
ス、警察官に対する訓練・教育を行い、規律を整え勤勉に尽くすことを力説して回ったという。ヘー
ン自身、自分に厳しい人で、

   授業に臨むや一秒だも時間を過たず、音吐厳粛容貌端正その服は粗野を極めたれども一
   点の汚れをつけず。その靴は古色を帯びたれども常に沢々として光あり


 とし、言行一致した模範の人であったと書いてある。碑は、ヘーンの死の2年後の明治27年11
月に建てられた。何故、三囲神社境内に碑が建てられたのかふめいだが、ヘーンが向島を愛していた
ともいわれるが、向島の地が、皇居から見て北東、つまり鬼門の方角に当たっていたということにあ
るのでは・・・ 徳川幕府は、江戸城の鎮護として鬼門の位置として上野に寛永寺を建てた。新首都
防護のモニュメントとして、鬼門に当たる向島の地にヘーンの碑を建てたというのは考え過ぎか。
 その後ヘーンのことは忘れ去られてしまう。再び脚光を浴びたのは、昭和15年。戦局が悪化し日
独伊三国の条約が成立。ドイツと友好を結んだ記念に、この碑の整備を思い立ったのは、当時の言問
警察署の野崎昌壽署長である。野崎は、当時既に汚れていた碑面を磨き、周囲の草を刈るなどして整
備した。ヘーン表功碑の隣には、野崎に賛同した管内の有志17名の小碑が建てられている。昭和1
6年12月には太平洋戦争が勃発し、戦後の処理に負われて、やがてヘーンのこともこの碑のことも
忘れ去られてしまった。 
 ヘーンの碑の全文については、墨田区資料や「東京市史稿 遊園篇第7」に記録されている。ヘー
ンの事績については、ヨーゼフ・クライナーによって「江戸・東京の中のドイツ」(講談社学術文庫
・平成15年12月)が刊行され、この中の一編に取り上げられている。

 雨乞いの碑
 元禄六年(1693)の夏、「夕立や田をみめぐりの神ならば」の句を詠むとあくる日雨が降った
という逸話によ
建てられた 。

   墨田区登録文化財
   宝井其角「ゆふたちや」の句碑(雨乞の碑)
                     所在 墨田区向島2丁目5番17号 三囲神社内
   元禄六年(1693)は大変な干ばつで、秋の収穫を心配して困りきった小梅村の人々は
   る三囲神社に集まり、鉦や太鼓を打ち雨乞いをしていました。ちょうどる三囲神社に詣で
   た俳人其角が、このありさまをみて、能因法師などの雨乞いの故事にならい「遊ふた地や
   田を見めぐりの神ならば」と詠んだのです。この話は其角自選句集の『五元集』にも「う
   たえば翌日雨降る」と記されているように、早速効果があったと伝えられています。
   其角は寛文元年(1661)江戸に生まれ、姓を榎本、のちに宝井と称し、芭蕉門下第一
   の高弟として知られ、特に洒落風の句を得意としました。この碑は安永六年(1777)
   に建立されたものが磨滅したので、明治6年に再建されたものです。
   平成18年12月                        墨田区教育委員会

 緋山碑
 詳細不明。

 蒙恬将軍之象
 水舎前を右折した奥に、隅田川を背にして建っている石碑。篆額は駐日清国公使黎庶昌。撰并書は、
黎庶昌の随員として明治13年に来日し、日本書道界に多大な影響を与えた楊守敬。 清国の年号で
「光緒八年(明治15年)十月」と紀年があり、下部に円山応挙筆の蒙恬像が刻されている。碑文は
4言34句からなり、廣羣鶴が刻している。楊守敬に師事した日下部鳴鶴は、後年「この碑の隷楷は
楊の傑作の1つ」と賞賛し、実は「篆額も楊が書いた」と明かした。蒙恬は秦の将軍で、木軸に鹿毛
と羊毛で初めて筆を作ったといわれ、古来より筆祖と仰がれてきた。しかし最近の研究では筆の発明
は蒙恬の時代より前だということが判明している。江戸の筆商高木壽頴は、蒙恬の画像を長年に亘り
探し、これを碑に刻もうとしたという。この碑は生前それを果たせなかった壽頴の遺志を継いで彼の
友人たちが立てたものだ。明治16年4月16日蒙将軍の命日の除幕式には、巌谷一六、日下部鳴鶴、
長三州、高田竹山、玉川堂、文魁堂など360人もの人が集まったという

 菱湖先生之碑
 手水舎の左手にある。幕末三筆の1人巻菱湖の顕彰碑。篆額は日野資愛。朝川鼎(善庵)の撰文を、
菱湖四天王の1人大竹培(将塘)が書丹し、窪世升が鐫を採っている。菱湖は市河米庵と勢力を二分
し、一世を風靡した江戸の書家。越後に生まれ、江戸に出て亀田鵬齋に師事した人で漢詩にも秀でて
いた。千字文など書道手本も多く残し、明治初期の習字教育にも影響を与えている。菱門の系譜は、
当時四天王といわれた中澤雪城の下に西川春洞・日下部鳴鶴・巌谷一六らが、同じく萩原秋厳からは
村田海石らが連なる。この碑は何度も拓本に採られ、かなり磨耗しているが、しっかりとした楷書が
刻まれている。

 起倒流中興の滝野専右衛門
 起倒流は、江戸時代初期に開かれた柔術の流派。天神真楊流とともに講道館柔道の基盤となった流
派として知られる。現、在起倒流竹中派の形が講道館柔道において古式の形として残っており、起倒
流備中派(野田派)も岡山県で伝承されている。
 
流派成立時の歴史については諸説があり、定かではないが、福野正勝(七郎右衛門、諱は友善とも)
と茨木俊房(専斎)が共同で興した武芸が端緒となる。2人とも柳生新陰流および柳生氏と関わりが
ある。福野は江戸の国昌寺にて、明国人の陳元贇より中国拳法を教わったと伝えられるが、現在は拳
法の話を聞いただけという説が有力だ。その石碑が東京の愛宕神社の境内にある。
 福野と茨木は良移心当流を興し、茨木は組討を独自に工夫して自らの技を「乱」と称したところ沢
庵和尚がその技を見て起倒流と名づけ、起倒流乱と称した。その後、福野門下の吉村兵助扶寿が起倒
流2代目を継承。他方、福野の門下の寺田八左衛門頼重が「福野流」を起こし、その甥の寺田勘右衛
門満英(正重)は、この叔父から福野流を学び「起倒流組討」を称えた。満英は父の寺田平左衛門安
定から貞心流を伝えられ、直信流の流祖になっている。2代目の吉村扶寿は寺田満英の門下でも学ん
でいる。3代目は堀田佐五右衛門頼保は「起倒流柔術雌雄妙術けと名乗った。4代目が滝野専右衛門
貞高(遊軒)で、滝野の代に起倒流の全盛期を迎えた。それで碑が建てられたのだろう。

 料理の生心流榎本小太郎碑

 名板前らしいが詳細不明。

 錦村青木先生碑
 明治9年建碑。幕末から明治初めの漢詩人。碑の題額は松平温齋題額、松本万年誌、中根義用銘、
荒井直務書、井溢泉鐫。碑陽の3分の1が剥落している。

 永田甚七君記念碑
 明治15年建碑。明治のエコノミスト。篆額は渋澤榮一、撰文并書丹は大澤正道、宮亀年の鐫。

 一菴小林先生之碑
 明治29年建碑。篆額榎本武揚、撰文田中従吾軒、書丹一亭渡邊智道、田鶴年鐫。小林の詳細は不
明。 

 
大島尭田壽蔵碑
 明治19年建碑。篆額九條道孝、自撰、書丹高村愛軒、田鶴年刻。書家のようだ。

 歌沢二世虎右衛門句碑

   露の笹まろめて月の光なり


 本名は平田虎右衛門。あだ名を「平虎」。江戸橘町に住む畳職人で端唄を親しんでいた。歌沢笹丸
と共に行動するようになり安政四年(1857)に歌沢相模と改名。文久二年(1862)に家元の
笹丸の顕彰碑を向島木母寺に建て、笹丸の後継者という意味合いを込めて「二世歌沢虎右衛門」と碑
面に無断で刻んだ事で一門の結束力が薄れるようになり、哥沢芝金らと袂を分かち一門を離れた。晩
年病に倒れ虎右衛門の名を譲った。

 大日本少年俳優長助高屋小傳次之碑
  明治33年建碑。梅庵居士書、鐫は井亀泉。詳細不明。

 
大日本俳優 澤村訥子之碑
 澤村訥子(とっし)は歌舞伎俳優澤村宗十郎の代々の俳号。芸名として名乗ったのは6代目の養子
となった伊藤千之助からと思われ、俳号7代目、芸名初代となったようだ。
 碑の訥子は8代目で、明治
から昭和にかけて活躍した。俳名は訥子。屋号は紀伊国屋。本名は鈴木
大吉。浅草の魚屋の子に生まれる。長じて7代目の門下となり、明治27年1月浅草座で澤村大助と
して初舞台。同30年1月に同座にて澤村傳次郎と改名。主に中芝居や小芝居などの小さな小屋での
荒っぽさはあったものの師匠の7代目の芸を忠実に受け継ぎ活躍した。同44年帝国劇場の開場と同
時に専属役者となり、名題(看板役者)に昇進。昭和2年7月7代目の女婿として迎え入れられ8代
目訥子を襲名。この頃は荒っぽさもなくなり脇役に徹した。その後は戦後までいろんな一座に在籍し
戦後は関西歌舞伎に移り老け役として活躍。昭和30年代に入り関西歌舞伎が崩壊の一歩を辿る中活
躍の場所がなくなり鎌倉で没した。
  
 恵比寿大黒二神碑
 明治41年建碑、千家尊福題額。坪川礫菴書丹、田鶴年鐫。

 櫻窓三拙碑
 碑陽に元治元年(1864)建碑。碑陰に「明治十年此の碑を移す 魚河岸に住む 服部・・・」
とある。服部は山蝶か?

 富田木歩の句碑

   夢に見れば死もなつかしや冬木風 

 「病境涯の俳人」全くその生涯ほどにいたましくも胸塞ぐものはない。明治30年東京は本所向島
に鰻屋の4男に生まれる。2歳の時発熱が原因で生涯歩行の叶わぬ身となる。学齢に達しても通学の
できぬ木歩は「いろはがるた」や「軍人めんこ」で文字を覚える。同40年、またその3年後と、再
度の大洪水に遭い、一家はどん底の生活を余儀なくされる。二人の姉が芸妓に売られ、木歩は口べら
しに近所のカタ屋(友禅型紙彫刻師)へ徒弟奉公に出されている。その間僅かに少年雑誌の愛読と句
作で慰めを得る。木歩の号は次の一句に因む。

   哀れ我が歩みたさの一心にて作りし木の足も、今は半ばあきらめて、其の残り木も兄の家
   の裏垣の枸杞茂る中に淋しく立てかけてありぬ。

   枸杞茂る中よ木歩の残り居る

 大正六年、新井声風を知り、生涯にわたる親密な交友を結ぶ。だが木歩に不幸は相次ぐ。この年、
女工をしていた上の妹まき子までが苦界に身を沈める。患はさらなる苦患につながる。唖者の弟利助
が肺結核で病臥し、自身も健康を損ねる。18歳の年、隣家の娘子鈴に淡い想いを寄せ、また22歳
の年には俳句の女弟子、女工石川伽羅女を秘かに恋する。だが子鈴は芸妓になり、伽羅女は2年後に
胸を病み死ぬ。そんな哀しい彼を実は最も愛したのが他でもない。まき子だった。まき子はことのほ
か兄想いの愛苦しい娘で、家にあっては兄の手足になって何かと面倒を見た。また木歩も利助とまき
子を格別に大切にした。
 大正7年2月に利助が逝き、翌3月まき子も同じに肺を病んで家に戻った。5月まき子の病状が悪
化。木歩は不自由な体でまき子を看病する。今しも死に近い妹の咽頭が微かに息を通わせる。「鳳仙
花」は別名に「つまくれなゐ」「つまべに」とあるように、その紅色を絞り女の児らが爪を染めたり
して遊ぶ花だ。或いは時に兄は妹の幼時を眼の裏にしていたのだろう。七月まき子死去。
 同12年9月1日関東大震災。駆け付けた声風に背負われて猛火の中を逃げたが、隅田川の堤で一
命を落とす。享年26歳。 

 奇才子中山善吉氏之傳碑
 明治27年建碑。8歳で囲碁を覚え天才の名を恣にした。14歳の若さで鬼籍に入った後、その才
能を称え、特別昇段を与えられた。題額黒田長知、撰文福羽美静、書丹一亭渡邊智道、田鶴年鐫。

 越後追分宗家伊藤東水師之

 揮毫は総理大臣を務めた鳩山一郎だ。

 毛将軍碑

 狂歌碑

 朱楽管江(あけらかんこう)の辞世の句碑。

   
執着の心や娑婆に残るらん吉野の桜更科の月

 何度も繰り返し読み続けると・・・あっけらかん

 宗因白露の句碑
 西山宗因の句碑。文化九年(1812)の建碑。岡野寛之書。石工中慶雲。

   白露や無分別なる置きどころ


 其角惜春の句碑

   山吹も柳の糸のはらミかな
  

 数拳の名手野崎車応追討碑
 文化九年建碑。太田南畝の漢詩を冒頭に置いて、以下に続く。

   ひらく手の五ウ(打つ)は勝なり梅の花

 五ゥの"ゥ"は五の読みを示す振り仮名で、打つの意味

 萩廼屋裏住の辞世狂歌碑
 辞世の句碑。裏に太田蜀山人の詩が刻まれている。

 川柳中興阪井久良伎翁句碑

   広重の雪に山谷は暮かゝり(川柳久良伎

 背面に、「広重の雪に山谷は暮かゝり
 五十二年十月 建立伊藤長甫 神社々主」とあり、続いて
「賛助永峰光一、坂井寿、山路星文洞、冨士野鞍馬」と連ね、「施工 七代目小坂石材」と刻む。


 
三匝山祠碑

 詳細不明。
  

 本松齋一得翁之碑
 天保三年(1832)の建立。一得は、下谷常林寺の住職を務めた日寛和尚で、古流華道の浅草遠
州流の祖。碑はその一得の顕彰碑。篆額は関克明、碑文は江戸の4詩人と称された大窪詩佛撰并書で、
細身の隷書。鐫は廣羣鶴。 


 遠州流花道二世本松齋一得君之碑
 安政七年(1816)の建碑で、2代目一得の顕彰碑。服部好禮題額、大橋訥菴撰文、永井屯書丹、
下田喜成鐫。

 一勇齋歌川先生之墓
 明治6年に建てられた歌川国芳の碑。撰文は東條信耕(琴臺)、書丹は萩原秋厳。宮亀年が鐫を採っ
た。信耕は
歌人下田歌子の祖父。碑陰には一勇齋国芳の門人の名が刻まれ、月岡芳年などの名が見え、
末尾に梅素玄魚書とある。浅草の版下作家宮城玄魚のことで、明治初期に作られたかな活字の原型は
この人のものだという。

 山彦秀翁碑
河東節 大正10年の建碑。笹川臨風撰文、三浦東甫書丹、田鶴年鐫。秀翁は、十寸見可慶(ます
みかけい)の子。

 古弦之碑
 詳細不明。

 五世、六世、九世の川柳の碑
 社務所の奥に3つ並んでいる。九世のものは書家の高林五峰が書いている。六世は五世の子、九世
は六世の弟子。五世の句碑は、佃島住吉神社にもある。

   やわらかくかたくもちたし人心(五世)
   出来秋もこころゆるむな鳴子曳(九世)


 老翁老嫗像
 本殿裏手白狐祠の前にある。元禄の頃この三囲神社の白狐祠を守る老夫婦がいて、祈願しようとす
る人が老婆に頼み、田圃に向かって狐を呼んで貰うと、どこからともなく狐が現れて願い事を聞き、
またいずれかへ姿を消してしまうが、他の人が呼んでも決して現れることがなかったという。
 俳人其角は、その有様を

   早稲酒や狐呼び出す姥が許(其角)


 と詠んだ。参詣人がお供えをすると老婆が手を叩く。すると何処からともなく狐が現れてお供え物
を食べたという。その老婆が亡くなると、狐の姿も見えなくなった。そんな伝説を踏まえて詠んだも
のだ。烏帽子を被った老翁老嫗像はその伝説の老婆夫婦を象ったもの。

   元禄の頃、この三囲稲荷にある白狐祠(びゃっこし)を守る老夫婦がいました。願う事の
   ある人は老婆に頼み、老婆は田んぼに向かって狐を呼びます。すると、どっからともなく
   狐が現れて願い事を聞き、またいずれかへ姿を消してしまうのです。不思議なことに、他
   の人が呼んでも決して現れることがなかったそうです。
   俳人其角は、その有様を「早稲酒や狐呼び出す姥が許」と詠んでいます。老婆の没後、里
   人や信仰者がその徳を慕って建てたのが、この老夫婦の石像であると伝えられています。
   老嫗像には「大徳芳感」、唐翁像には「元禄十四年年辛巳五月十八日、四野宮大和時永、
   生国上州安中、居住武州小梅町」と刻まれています。
   平成18年12月                        墨田区教育委員会

 白狐祠
 本殿裏にある。伝説の白狐を祀ったもの。

 顕名霊社

 境内の隅にあり、鉄柵に囲まれて立入禁止になっている。あきなれいしゃと読み、この社は京都三
井家あったもので、同家祖霊を祀るものだそうだ。

 木遣音頭碑
 
毎年6月6日江戸木遣保存会によって木遣音頭の奉納が盛大に行われる。この日は恵比寿・大黒天
が特別拝観できる。

 堤下の石造鳥居
 墨田区登録文化財



■江戸木目込人形博物館(墨田区小さな博物館)  
 向島2丁目11番7号の塚田工房にある通商産業大臣指定の伝統工芸品である「江戸木目込人形」
に関する博物館だ。木目込人形が流行する基礎を作ったと言われる4代目名川春山氏の作品を始め、
明治時代から現在に至るまでの雛人形や人形の原型、製作道具や材料、製作工程の解説パネル(英語
訳付き)など、約50点を展示している。館内では、塚田進館長が詳細な解説を加えてくれるほか、
作業風景を見ることもできる。開館は月曜日から土曜日の午前10時から午後5時まで。
 03-3622-4579



■麩まんじゅうの「麩澤」
 向島2丁目12番4号にある麩と湯葉の専門店。麩まんじゅうは、冷やして食べる夏のお菓子。こ
しあんとごまあんがある。笹を開けると・・・思ったより小っちゃい。笹の香りと、麩に含まれるヨ
モギの香りがほど良い。ツルリンとした舌触りで、モチモチッとした食感。サッパリとして、舌の上
でサラリと溶けるなめらかさ。絶品だぁ! 03-5608-3891



■栗羊かんの「青柳正家」
 向島2丁目15番9号にある菓匠 あおやぎせいけ 老舗和菓子屋が点在する向島で名を馳せる。
栗の香り際立つほどよい甘さの羊かんは、艶、重量感ともに貫禄充分。大粒の高級和栗、銀と換える
価値があるという謂れを持つ「熊本産銀よせ」13粒ゴロゴロと入るから、旬の贅沢を満喫できる。
餡は混ぜ物無しの寒天と砂糖、十勝産小豆を職人の腕を頼りに絶妙な固さに煮詰めた。栗と餡の「歯
ごたえの一致」を追求した羊羹は、菓子楊枝が見事に下まですっと通る。高級料亭街のお土産ものと
しても重宝されているから味はお墨付き。改まった席へのおもたせなら赴きある杉箱入りが選り所。
 03-3622-0028

 
菊最中
 十六菊花の紋章を模(かたど)ることを許された最中。紫がかった透明感のあるその餡の美しさ、
甘い餡の滑らかさと後味の良さに驚くぞ。「正家」の名付け親は、公爵一條実孝。明治神宮に羊羹を
献上した際、大変満足されたことが縁だという。まあそれだけ由緒ある羊羹屋ということだ。



■伏見理心福徳稲荷
 向島2丁目15番、青柳正家のある須永ビルの脇に、壁にへばりつくようにある。



■豆凧 唐変木庵
 向島2丁目22番1号「向島パークハイツ第三」の1階にある。「揚がらなければ凧じゃない」
と語る神野哲也が作る豆凧は、実際に空に揚がる精密なものだ。材料は竹と糸と和紙。遠い昔と同
じ方法で、骨組みから全て手作業で仕上げていく。角凧、奴凧など形も様々な江戸凧のミニチュア。
額に入れてコレクションするのも楽しいよ。地方への土産には最高だよ!



普門山円通寺
 向島3丁目11番6号、常泉寺の裏手にある小さな曹洞宗の寺。
弘福寺を開山した鉄牛和尚が元禄
年間(1688~1704)に円通庵を開創した。平成2年に建立した新本堂は地下に墓地、地上2
階に本堂のある現代的インド風3階建てビルだ。本尊は聖観世音菩薩。 「新編武蔵風土記稿」に、

   円通院
   本尊正観音を安す小庵なり。元禄年中須崎村弘福寺開山鐵牛隠棲の旧跡なり。後年廃した
   るを安永の頃同寺(弘福寺)16世僧某再ひここに隠栖して古に復せり。
   稲荷社、妙見社。


 とある。

 
大東亜戦争受難者之碑
 境内にある。



久遠山常泉寺
 向島3丁目12番15号にある日蓮正宗の寺。富士大石寺の末寺。創建は慶長元年(1596)、
開山は仙樹院日是上人、開基は兄の高橋新右衛門だ。近世には境内も広かったらしく、今の隅田公園
の辺りは水戸藩の下屋敷で、その東隣は広くこの寺の敷地となっている。日蓮正宗の古刹寺であり、
大石寺に次ぐ名刹であることから末寺頭(まつじがしら)、大石寺末寺筆頭などとも呼ばれ、江戸幕
府から寺料30石を賜る御朱印寺だった。
幕府でも大事にした寺で、宝永元年(1704)七月二十
二日に死亡した、将軍家宣の養女政姫は近衛家煕の娘だが、ここに葬られている。また宝永七年(1
710)に死亡の家宣側室斎宮局もこの寺に葬られてるのだ。そうしたことから『柳営日次記』には
宝永七年、新たに寺領30石と境内拡張が加えられたと記している。そして寺中の塔頭も3坊あった
が、今に残るのは本行坊(→本行寺)だけ。山門は冠木門をイメージした鉄筋コンクリート造り。堂
宇も鉄筋コンクリート造りの2階建てビルで、デザインが面白い。昭和3年の区画整理で、境内が縮
小され、当時の本堂は千葉清涼寺へ移築された。道路向かいに本行寺がある。文化財は、朝川善庵墓
(東京都指定旧跡)
医聖漢張仲景先生之碑・従三位勲二等薬学博士下山君碑・加藤たきの句碑があ
る。
「新編武蔵風土記稿」に、

   常泉寺
   法華宗駿河国富士郡上條村大石寺末、久遠山と号す。本尊は本山25世日宥の筆せし三宝の
   板本尊を安す。開山は六老僧日興上人にて、開基は仙樹院日是と称す。慶長元年当寺を創
   し元和七年六月二十八日死す。此人は高橋氏にて下総国千葉氏家人の末流なり。今も近郷
   高橋氏を称するもの数家あれど、皆日是の庶流の者にして嫡流の家は絶しといへり。然る
   を村長九兵衛が傳へに彼が十四世の祖高橋新右衛門は当時の開基にて、慶長十一年六月十
   一日死し啓遠院浄印と号す。寺域はもと己が宅跡なりしに、初は浄土真宗を尊信して当所
   へ聖徳太子の堂を営み、其後慶長の頃改宗して太子堂を中之郷へ移し(吾妻橋如意輪寺)
   新に当寺を創立す。寺中啓遠坊は則啓遠印浄印隠棲の旧地なりと云。此寺には傳へさる処
   なりと理あるに似たれば姑く傳への儘を録す。其後当寺第七世日頸は京都の産にて後水尾
   院第一の皇女無品内親王の御取立てにあつかり、屡御所祈祷など命ぜられ延宝七年内親王
   の御女天英院殿文昭院殿へ御入輿の時、供奉して関東へ下り当寺に住しけるか、御由緒を
   もて若君姫君及び御部屋斎宮御方等寺内へ送葬し奉りしかば、寛永七年3400坪余りの
   寺地を賜はり、同年西葛西領小谷野村にて本乗院殿御佛供料30石の御朱印を附せらる。正
   徳元年六月御本末御客御殿を賜て書院とし、同四年天英院殿思召を以本堂御造営及び客殿
   経佛具等一色寄附したまひ、同年又本堂建立のためとて金1500両を下し賜はり。宮殿
   経机四十部天蓋一色御造立ありしと云。
   (中略)
   寺中。
   法種坊。本行坊(本行寺)。本住坊。壽法坊。啓遠坊。


 とある。

 公卿門跡
 京都上行院(要法寺とは別)僧侶の日衆の母親は、藤原北家公季流三条家分家の滋野井家の出であ
り、近衛煕子(6代将軍家宣正室→天英院)の乳母を務めたため、日衆は近衛家の家人として煕子の
弟分として育ち、京都上行院で出家して朝廷護持僧となった。煕子(天英院)と共に江戸に下って日
顕と改め、常泉寺第7代住職に晋山したことにより、常泉寺は公卿門跡(公家門跡)となった。
 また後水尾天皇など数代の天皇が紺紙金泥写経「御宸翰」を常泉寺に納めている。なお公卿門跡と
しての寺宝については寺誌である『常泉寺略誌』の中で現住職の藤本日潤が詳細に記している。
 後に総本山大石寺第25世に晋山する日宥は天英院の猶子であり、常泉寺第7代住職の直弟子であ
るが、出生は公家といわれており、大石寺の大書院の様式は日宥によるものだ。大石寺法主のお目通
りでは法主は大書院の簾(す)の奥の御帳台から謁見するようになり、大石寺法主は公家から「御簾
の上人」と呼ばれるようになるが、この経緯には常泉寺の寺格が深く関わっている。但し大書院の簾
そのものは少なくとも大石寺第9世日有の代から始まったものであり、日宥によって確立されて近衛
家寄進の御帳台(戦時中の失火で焼失)が設置された。また大石寺の不開門(あかずもん)が享保二
年(1717)に再建されて「御勅使門」として機能したのは日宥の代であり、常泉寺の属する総本
山としての意義を持つ。
 常泉寺の寺格は天皇家の帰依は受けたが宮門跡ではなく、永代の公卿門跡とされ摂家門跡に次ぐ。
常泉寺が徳川家東都三大菩提寺(芝増上寺、上野寛永寺、小梅常泉寺)の1つとして数えられたため、
徳川将軍家に遠慮して天皇が敢えて常泉寺を宮門跡扱いとせず、公卿門跡として近衛家の所縁として
摂家門跡扱いにしたという。
 大正12年関東大震災で焼失するまでは近衛家什宝の御霊具などが所蔵され、天英院殿会(てんね
いいんでんえ)などの近衛家に関わる法要で使用された。なお現在天英院殿会で使用される近衛家の
御霊具は焼失後に近衛文麿が寄進したものだ。
 「門跡」の常泉寺住職に対して、常泉寺塔中頭本行坊(本行寺)の住職は「院家」とされて常泉寺
執事を兼務するしきたりだったが、昭和39年に本行寺が能化寺に昇格したため兼務制は廃止された。
なお後に総本山大石寺第67世法主に晋山する日顕は、このしきたりにより本行寺住職時代に常泉寺
執事を兼務していた。
 豪壮な大玄関が再建されたのは、公卿門跡(公家門跡)の格式によるものであり、貴人と大石寺法
主および門跡である常泉寺住職以外は使用できない。但し常泉寺住職は実際には大玄関を常用しない
ため普段は閉ざされている。関東大震災で焼失するまでは、皇族と公家専用の「使者の間」があった。
また現在でも公家の子孫の檀家が複数存在している


 朝川善庵の墓
 常泉寺の墓地にある。江戸時代後期の儒学者。天明元年(1781)に片山兼山の子として生まれ、
医師朝川黙翁に養育され、山本北山に学んだ。30歳の時、養父の臨終に立会い「兼山の子だ」と聞
かされたが、朝川の姓を捨てることはなかった。松浦侯に儒官として使え、嘉永二年(1849)6
9歳で歿した。著書は『周易愚説』二巻、『易説家伝旧聞』四巻などがある。墓所は関東大震災によ
り、墓地改葬が行われ、昭和3年現在のところにおかれたという。

 医聖漢張仲景先生の碑
 
この辺りは森鴎外
が子供の頃住んだところなのだ。大正5年55歳のときに著した『渋江抽斎』の
中で、


   
わたくしは幼い時向島小梅村(いまの押上2丁目東武業平橋駅の付近)に住んでいた。
   初の家は今須崎町にあり、後の家は今小梅町になっている。その家の後から土手(隅田
   川堤)へ往くには、いつも常泉寺の裏から水戸邸の北の外れに出た。


 森家は津和野藩亀井家の侍医で、明治5年鴎外11歳のとき父静男と上京して小梅に住んだ。亀井
家の下屋敷があった関連から家作を求めたのだろう。のち家族も上京し曳舟通りに移った。同14年
父が千住に橘井堂を開業したのでそっちに移った。



■本所消防署小梅出張所
 向島3丁目36番12号にある消防分署。



■牛島尋常小学校 → 牛島国民学校 廃校
 向島3丁目37番25号の本所高校のところにあった。



■本所高等学校
 向島3丁目37番25号にある都立校。昭和6年「東京府東京市本所区第一実業女学校(普通科2
年・本科1年)」として日進尋常高等小学校内に開校。同10年10月4年制甲種実業学校になり、
商業科、家政科を設置。同11年「東京府東京市本所高等実践女学校」に改称。同12年家政科二部
を本所小学校内に分校として設置(4学級)。同14年本所区小梅3丁目9番地に校地を購入し、独
立新校舎建設開始。同17年糟谷磯平氏等により財団法人東京市本所高等実践女学校後援会結成。新
校舎落成、移転。同18年都制施行により「東京都立本所高等実践女学校」と改称。同19年学徒動
員隊を6班結成。同20年愚かなアメリカ軍の無差別空爆により校舎を焼失。小梅国民小学校を借用
して授業開始。
 同21年牛島国民学校廃校により跡地に移転。「東京都立本所高等女学校」と改称(5年生)。同
23学制改革により「東京都都立本所新制高等学校」と改称。同24年定時制夜間課程開設。父母と
先生の会(PTA)を結成。同25年「東京都立本所高等学校」と改称。男女共学 (男100名、女
200名)。同26年校歌制定 作詞・五味保義  作曲・長谷川良夫。第1回生徒総会。創立20
周年記念式典。同27年記念図書館落成。同30年校旗樹立。同31年創立25周年記念講堂体育館
増改築。12月創立25周年記念式典。同36年創立30周年記念運動場拡張整備・視聴覚ホール建
設。同37年創立30周年記念式典。同38年第1学年臨時募集増(男50名)。東京都第六青少年
視聴覚ライブラリー設置。第1回全校マラソン大会実施(多摩湖畔)。同39年運動場夜間照明施設
設置。第1学年募集定員変更(男女共150名)。現在の住居表示に変更。同41年創立35周年記
念式典。同42年入学者選抜制度改正により第62群所属(男女共135名)。同44年東京都高等
学校第六視聴覚ライブラリーに改称。同47年体育館完成。創立40周年記念式典。同48年生徒部
室完成。同53年新校舎建設開始。同54年新校舎落成。同55格技室増設。創立50周年・定時制
30周年・新校舎落成記念式典。同56年制服制定。同57年入学者選抜制度改正により第61グルー
プ所属(男女共135名)。同58年校務分掌変更(図書部を教務部に吸収し庶務部新設)。遅刻・
早退についての規定を決定、翌年実施。同59年服装規定一部追加。年間皆勤賞新設。
 平成3年創立60周年・定時制40周年記念式典。体育館ステージ増築。分掌内規変更(図書部を
教務部から分離)。同4年パソコンルーム設置。同6年入学者選抜制度改正により単独選抜(男12
7名・女111名)。同7年入学者選抜に推薦制導入。同8年全天候型校庭改修。定時制閉校。同1
0年校舎棟防水塗装。普通教室改修。東京都立本所高等学校管理運営規程を決定。同11年プールサ
イド改修。駐輪場改修。第1期中規模改修。同12年第2期中規模改修。創立70周年記念式典。同
15年新入生より総合的学習時間にキャリア教育(SFプログラム)導入。同17年新入生より特進
クラス設置。同18年新入生より制服改定。文部科学大臣表彰受賞(キャリア教育の充実発展)。同
19年東京都教育委員会表彰受賞(キャリア教育と生活指導の推進)。同20年度新入生より教育課
程一部変更。同21年耐震化(体育館棟・部室棟)。同22年兵庫県教育庁から感謝状(兵庫県教育
委員会主催高校生地域貢献発表会に東京都代表で生徒が21年度本校取組を発表)。墨田区より感謝
状(墨田区の環境改善功労者・功労団体に美術部のシャッターアートの活動が選出)。安全教育フォ
ーラム(シンポジストとして生徒が発表)。奉仕体験フォーラム(パネリストとして生徒が発表)。
同23年ICT重点活用校(23年度)、OJT推進指定モデル校。



■森鴎外旧居跡
 向島3丁目38番2号、本所高等学校の東の区画にあった。ここで『渋江抽斎』を書いた。



■秋葉神社
 向島4丁目9番13号にある大社。遠く正応二年(1289)この地「五百崎(いおさき)の千代
世(ちよせ)の森」に稲荷大明神を奉ったことが始まりとされている。江戸時代の初め善財という霊
僧がこの森に庵を結び精修数年の後、秋葉大神の神影を彫みこれを社殿に納めて消え去った。元禄の
初め、修験者千葉葉栄が神感得てこの社に参り祈願の利益を享け、当時請地村の長百姓岩田与右衛門
を通じて寺社奉行に願い出て、上州沼田城主本多正永の報賛にて、元禄十五年(1702)秋葉稲荷
両社と称して社殿を造営し又千葉山満願寺を興して別当
となり、「秋葉千代世稲荷合社」として社殿
を造営、爾来鎮火の霊験・産業縁結びの神徳により諸大名はじめ士庶人の信仰を受け、享保二年(1
717)に神祇管領より正一位の宗源宣旨を受けるに至った。明治元年神佛分離令の施行により、秋
葉神社と称し別当満願寺を廃した。大正12年の震災に社殿倒壊し、昭和5年復興したが、同20年
戦災に罹り、昭和41年氏子崇敬者の奉賛により現社殿を再建した。
 「葛西誌」によると、社地6952坪、年貢地6805坪となっている。また「江戸名所図会」に
は、

   境内林泉幽邃にして四時遊覧の地なり。門前酒肆多く各生洲を構へて鯉魚をかふ

 と書かれています。さらに安藤広重の「江戸名所百景」にも紅葉の名所として描かれている。
 時代が降り関東大震災・太平洋戦争による災害によって、昔の面影はすっかり消えてしまった。現
在では火伏せの神として親しまれ、多くの人が11月17日、18日の鎮火祭に訪れる。この日は火
伏せの御幣が配られ、境内では秋葉劇団なる素人芝居が奉納される。江戸時代には大名が立ち寄った
由緒ある神社だ。また境内の巨大な桜の木が春には見事な花を咲かせ、人々に憩いを与えている

 江戸城奥向きの信仰を得て世継ぎなど子孫繁栄のため、奥女中の参詣で、火伏せの神として諸大名
の深甚を仰ぎ、江戸時代の賑わいは想像もできなかったほどだったという。そうなれば男目当ての女
商売が繁盛する。神社周辺は一大色町と化した。参詣を口実に売春に通う不心得者が押し寄せたこと
はいうまでも無い。その頃玉の井は田んぼの中だ。
 また秋葉神社の紅葉は江戸中に鳴り響いていた。現在でも紅葉の時期の夕日は最高だよ。また境内
に諸々の病に効く神泉が湧き出るとして多くの人が神泉を貰いに来ていた。
 「新編武蔵風土記稿」に、

   秋葉千代世稲荷合社
   秋葉の神体は天狗の形にて右に剣左に縛の縄を持、火焔を背負ひ白狐の上に立り長一尺余、
   本地佛は正観音にて、長五寸余、元は村民与右衛門といへるもの持傳へし像なり。在家に
   置へきに非ずとて、元禄十五年中興開山葉榮に譲与へりと云。祭礼11月28日、千代世
   稲荷は右に剣左に宝珠を持、白狐の上に立り長九寸、本地佛十一面観音長六寸余縁起あれ
   ど考証すべき事なければもらせり。
   本社、拝殿幣殿ありて頗る荘厳の宮社なり。
   供所
   神楽堂、不動を安し結界堂の三字を扁す。
   鳥居三基、一は銅にて造り一は石一は木にて造る。
   別当満願寺
   当山派修験山城国醍醐三宝院の配下千葉山と号す。開基は本多伯耆守正永なり。開山詳な
   らず、中興葉榮寛永元年二月二十五日寂す。
   開山堂。


 とある。



■墨田中学校
 向島4丁目25番22号、桜橋通りを水戸街道から東に入ったところにある区立校。昭和22年4
月1日に開校。平成9年に創立50周年を迎えたこと以外の沿革不明
。墨田区の図書館を巡ったが、
資料に乏しく行き当たらなかった。HPにも記載はない。

 校歌「隅田川」
  1.隅田川 その川面(かわづら)
    都鳥 掠め飛び交い
    光満つ墨東の地に
    聳え立つ我が学び舎ぞ
    ああ墨田 吾等が母校 墨田
  2.瑞雲は天に棚引き
    桜花 鳩の羽搏き
    真と善 美を求めて
    高鳴るや若き胸ぬち
    ああ墨田 吾等が母校 墨田
  3.夜昼を流れて休まぬ
    川の如 努め励まん
    大きな夢 常に懐きて
    眉上げよ 吾等が朋輩
(ともがら)
  
  ああ墨田 吾等が母校 墨田



■隅田公園(一部)
 向島5丁目1・5・6番にある区立公園。桜の堤と少年野球場、屋内プールがあり、名所として長
命寺・弘福寺・言問団子・長命寺桜餅がある。



■墨堤植櫻之碑(堤の字は小里偏)
 向島5丁目1番1号、桜もちの山本やの左側にある。明治20年に建てられ、4代将軍家綱に始ま
るさくらの植栽の由来を記し、碑陰には水害のため、明治29年に移設された経緯が刻まれている。
篆額を榎本武揚が揮毫し、碑文を濱村大澥が撰文并書丹。整斉とした楷書刻字だ。

   墨堤植桜の碑                所在 墨田区向島5丁目1番 隅田公園
   
この石碑は墨堤の桜の由来を記したもので、榎本武揚の篆額、濱邨大澥の撰文、宮亀年の
   彫刻です。

    墨堤の桜は、初め四代将軍家綱の命で、皆と共にに楽しむためにと植えさせ、享保二年
   (1717)に八代将軍吉宗が100本の桜を、同十一年には桜、桃、柳各150本植え
   させ、その世話は代々隅田村の名主阪田氏が担当しました。その後文化年間に佐原鞠塢、
   朝川黙翁、中山ト鄰が150本、天保二年(1831)に阪田三七郎が200余株の桜を
   植えました。弘化三年(1846)洪水で堤が決壊し、それを須崎村の宇田川総兵衛が独
   力で修築、そのことを顕彰して村人が150本、安政元年(1854)に阪田三七郎が2
   00株、明治に至り其角堂氷機、旧水戸藩知事、寺島村の人々が各々桜を植えました。

   さらに大倉喜八郎、成島柳北が名勝を守るため白鴎社を設立、村人もこれに応じ、南葛飾
   郡長伊志田友方は、このことを府知事に告げ植樹を助成しました。志半ばで死去した成島
   柳北の遺志を継いで、安田善次郎、大倉喜八郎、川崎八右衛門が出資し、村人の協力を得
   て墨堤の植桜が完成しました。

   このような功績を永世に伝えるため、明治20年に建碑されましたが、後に堤が壊れ碑が
   傾いたので、明治29年に本所区長飯島保篤が大倉、安田、川崎三氏と共に起工し、榎本
   武揚、小野義真も出資して移設しました。

   平成2年3月                               墨田区

 隅田公園 散策解説板8

   墨堤植桜之碑と桜勧進

   住民が育てた墨堤の桜
   “Shokuou-no-Hi”in Bokutei and “Sakura-Kanjin”– Cherry trees grown by local
   people
   
江戸時代、花見の名所として地位を確立していった墨堤も、当初の墨堤の桜は水神社(現
   在の隅田川神社)付近を中心に植えられていました。しかし1800年代から、地元の村
   の有志らによって桜が植えられ、墨堤の桜が南へと延伸して行きました。

   墨堤の桜が長命寺、三囲神社と徐々に延びて、枕橋まで達したのは1880年ごろといわ
   れています。この間は地元有志の植桜だけではなく、有志が発起人となった「桜勧進」と
   呼ばれる寄付が行われています。

   墨堤の桜が地元の人々に愛されていた桜であることが、この植桜之碑に刻まれています。

   Bokutei established a reputation as a good place of cherry blossom viewing in Ed
   o era. Those cherry trees had planted only around Suijin shrine ( current Sumida
   gawa shrine ). From 1800s, volunteers in local village planted many cherry trees
    along the river to the South.
A row of cherry trees in Bokutei was gradually ext
   ended to “Chomei-ji temple”, “Mimeguri shrine”, and it reached “Makura Brid
   ge”in about 1880. During the time, there was also a donation for planting cherr
   y trees called “Sakura-Kanjin” promoted by those volunteers.
   
It is curved on “Shokuou-no-Hi (monument)” that cherry trees in Bokutei were l
   oved by local people.
 




■常夜燈
 植櫻之碑の向かいにある。石造りの立派なもので、多数の奉納者の名が刻んである。かつて牛島神
社があった当時の参道にあったものを移設したもの。明治4年頃に設置されたという。
 



■山本や 桜もち(長命寺桜餅)
 向島5丁目1番4号の堤上にある和菓子屋。享保二年(1717)名跡長命寺の寺男山本新六が
桜の葉を樽の中に塩漬けにして試みに桜餅というものを考案し、門前で売り始めた。その頃はまだ土
手の桜は無く、花見時には川越しの浅草寺の桜を見るため多くの人々が門前を通ったので、桜餅は大
いに喜ばれた。これが江戸の桜餅(長命寺)の始まりだ。小麦粉に寒梅粉という糯米を砕いたものを
混ぜて焼き皮を作り、二度濾しした餡を包み、それを塩漬けした桜の葉で巻いたもの。本家長命寺の
桜餅だけは桜の葉を3枚も使っているので他と区別できる。現在子孫が寺裏の墨堤上に「山本や」の
屋号で店を構えて、桜餅だけで商いをやっている。花見と称してなぜか不粋な男ばかりが集まり、一
応花見の宴会などもするのだが、酔いが回っての目的は、結局吉原にくり出すこと。その際、花見に
行ったんだというアリバイ目的の土産とされたのが、ここの桜餅だったりもしたようで、


   やきながら女房の食う桜餅(川柳)

 桜餅に使われる
桜葉どんな桜の葉でも良い訳じゃなく、塩漬けにした時の変色の具合や味など
から広く研究されて、現在はクマリンという桜独特の匂いの成分が一番強い「オオシマザクラ」の葉
が良いとされている。伊豆半島の松崎町からの出荷が全国の7割を占め、同町の生産は40年前に始
まり、現在約200軒の農家が生産している。長さ15センチほどに育った葉を、傷つけないように
手で摘み取っていく為、背の高い木では作業効率が悪いため、樹高を50センチほどにしてある。摘
み取った葉は、樽の中で半年間塩漬けにする。
 なお関西系に「
道明寺桜餅」があるがこちらは糯米のみ拵えた道明寺糯で餡を包んだもの。この
糯米は、正確には「道明寺または道明寺粉」といい、糯米を一度蒸して乾燥させたものを粗く砕いた
もの。道明寺粉の由来は大阪の道明寺からきているが、道明寺は戦国時代から武士の携帯食としての
糒(ほしい)を作ることで名があり、寺の名をとり糒のことを道明寺と呼ぶようになった。道明寺粉
はお湯や水に浸せばすぐに食べられるので、昔は備蓄用の食糧として重宝されたが、現在はお菓子の
材料として使われるのがほとんど。

   桜餅 食うて抜けけり 長命寺(高浜虚子)



弘福寺(弘福禅寺)
 向島5丁目3番2号にある黄檗宗の寺。宇治黄檗山万福寺2世木庵禅師の弟子鉄牛道機禅師が、須
田村香森島にあった香積山弘福寺を、延宝二年(1674)葛西一族の牛島城址(現在地)に移し、牛
頭山(ごずさん)として開いた。開基は時の老中小田原藩主稲葉美濃守正則、本尊は江戸時代の名仏
師祥雲作の釈迦如来像。品川区の洛陽の万福寺を模倣して建てられた。
 江戸時代には、井伊(越後与板藩)・稲葉(山城淀藩)・本多(陸奥泉藩)・松平(上野小幡藩)
の大名家墓所だったが、いずれも関東大震災で被害を受け、改葬・整理された。布袋尊は隅田川七福
神に数えられている。
 一時期無住になったことがあり、この寺にあったという釈迦三尊像(明の范印官・范宗仁が長崎で
作ったと背銘にある)が、品川区西大井の養玉如来寺にある。一見して黄檗宗風の仏さんではある。
 本堂(大雄宝殿)は黄檗宗寺院独特の構え。鐘楼は、貞享五年(1688)彦根藩井伊家の寄進

 「新編武蔵風土記稿」に、

   弘福寺
   黄檗宗山城国宇治萬福寺の末、牛頭山と号す。当寺元善左衛門村内香積山といへる小庵な
   りしが、黄檗二代木庵の弟子鉄牛延宝二年爰に移して山号寺号をも今の如く改め、堂舎寮
   坊善美を盡して落成しければ、大家の帰依日々に増加し繁栄せり。開基は稲葉美濃守正則
   なり。元禄九年歿し湖信院泰應元如と法贈す。本尊釈迦恵心の作長三尺坐像なり。脇士迦
   葉阿難も同作にて立像長三尺五寸、延宝五年十一月二十一日厳有院殿御遊狩の時当寺に渡
   御ありて、堂舎の落成を上蘭まし々々白銀許多を賜ひ、夫より後たひ々々御膳所となれり。
   総門。今は廃せり。
   天王閣。弘福寺の三字を扁す。木庵の筆なり。左右に道泰玉麟現瑞林威金鳳来儀の聯あり。
   又正面に布袋後面の中央に韋駄天文殊、四隅に四天王を置り。共に運慶の作。楼上天王閣
   の三字を掲ぐ。是も鉄牛の筆也。
   佛殿。大雄殿の扁額あり。隠元筆。又本尊の上に大威徳の三字を扁す。両柱の聯に見相傾
   身敢保未忘法相、揮金布地自然偏界黄金の数字あり。又堂中左右に武陵界上重開弘福禅林
   人々慶喜、牛首山中新建大雄寶殿水水騰依、支那沙門激高泉敬題の聯あり。本尊の左右聯
   に漢天日月久晦祖燈重煜□、旱地雲雷普霑林木盡華栄、黄檗木庵書とあり。
   禅堂。選佛場の扁額を掛く。内に観音地蔵を安す。藤村忠円といへるか作、外に開山鉄牛
   の木像二世鉄関の画像を板に彫れるあり。聯あり正字桑域初日真見檗峯嫡孫当山第三代嗣
   法門人程瑞鳳拝額とあり。慈観堂の三字を扁す鉄牛の書なり。
   斎堂。今は蹟のみなり。
   開山堂。これも今は廃せり。
   鐘楼。鉄牛の筆鐘楼と扁せり。貞享五年鐘銘あり左にのす。
   経蔵。聖相の二字を扁す。思蘆舎那教蔵円満功徳薩婆若海疑礼了
悟佛心の聯あり。
   大神宮八幡春日合社。
   八僧稲荷社。
   箱根権現浅間熊野合社。
   建凌岱墓碑。境内墓所にあり。建部綾足字孟喬寒葉斎と称す。俳諧歌の古事記に片歌とみ
   えたるを考へ唱へ、其道に於ては珠に賞せられしなり。後上京して花山宮に従ひ遊へる頃
   片歌道主の号を与へられ、安永甲午の年三月十八日五十余にて死せり。此碑は翌乙未の年
   門人建由明なと称せるもの建し由、加藤千蔭仮名にて記したり。此余境内に荻生茂卿の門
   弟林義寛井上喬卿等の碑石あり。

 向島七福神(隅田川七福神)の布袋尊を祀る


 布袋尊
 黄檗宗弘福寺は、三百余年の昔、名僧鉄牛禅師によって創建された。黄檗宗は禅宗の中でも中国色
の強い宗派として知られ、当寺に布袋尊の御像が安置されたのも、実はその黄檗宗の性格にかかわる
のだ。布袋尊は唐時代の実在の禅僧である。常に大きな布の袋を持ち歩き、困窮の人に会えば袋から
財物を取り出しては施し、しかも袋の中身は尽きるころがなかった。その無欲恬淡として心の広い人
柄は、真の幸福とは欲望を満たすことだけではないことを、身をもって諭した有徳として、世人の尊
崇を受け、隅田川七福神としても敬われたのだ。


 布袋碑
 風外碑の隣にある。明治41年に建てられたもので、題字は渡邊國武、渡邊は伊藤博文内閣の大蔵
大臣。刻字は田鶴年。碑陰には、奉納者の名前が連ねられており、書は坪川礫庵。


 
風外和尚頂相記
 門を潜ると左手に碑が建っている。風外は江戸初期の清僧。寺を捨てて一人小田原や真鶴の洞窟で
求道生活を送っていたが、その噂を聞いた小田原藩主稲葉正則が大いに尊信し帰依した坊さんだ。篆
額「風外古佛」は子爵渡邊千冬。下谷大瀧彫刻とある。昭和9年建碑。

 因幡支封左右衛門佐松平公墓碑
 門を潜った右手大銀杏の根元にある。元治元年(1864)の建碑。篆額は秋月種樹。撰文塩谷世
弘(宕陰)で廣羣鶴が刻している。


 ●咳の爺婆
 右手に小祠があり、その中にはユニークな姿の男女一対の父母石像が安置されている。これは風外
自らが刻み朝晩礼拝していたが、没後に正則が小田原城に移し、貞享二年(1685)次の正往のと
き越後高田に転封になり、その時この築地の中屋敷に移し、維新で寺に預けたという。
 これについては、柳田国男が『日本の伝説』(昭和4年)の中でこう書いている。

   築地二丁目の稲葉対馬守という大名の中屋敷にも有名な咳の婆さんがあって、百日咳など
   で難儀する児童の親は、そっと門番に頼んで、このお屋敷の内へその石を拝みに這入りま
   した。もとは老女の形によく似た二尺余りの天然の石だったともいいますが、いつのころ
   よりか、ちゃんと彫刻した石の像になって、しかも爺さんの像と二つ揃っていました。婆
   さんの方は幾分か柔和で小さく、爺さんは大きくて恐  ろしい顔をしていたそうですが、
   おかしいことには、両人はなはだ仲が悪く、一つ所におくと、きっと爺さんの方がたおさ
   れていたといって、少し引きはなして別々にしてありました。この仲のよくない爺婆の石
   像は、明治時代になって、しばらくどこへ行ったか行くえ不明になっていましたが、のちに
   隅田川東の牛島の弘福寺へ引越ししていることがわかりました。もうその時には喧嘩なぞ
   しないようになって二人仲よくならんでいました。
   (「咳のおば様」)


 これは「風外」の字面から「風邪除け」になるという妙な信仰が起こり、爺は、口中の病に、婆は、
咳止めにご利益があるととして「咳の爺婆尊」と呼び、これを祈り、治れば煎豆と番茶を添えて供養
する風習がある。


 
亀砆碑
 本堂前に亀の形をした台石の碑。碑は「牛頭山弘福寺重建之碑」とあり、「昭和9年 三十三代住
職義角謹建」とある。関東大震災後の再建を記念するものだ。書丹は竹内一男、刻字は大瀧龍喜


 大雄寶殿

 本堂2階の軒下に掲げられている木額。現在のものは大正7、8年頃の製作。黄檗宗2世木庵禅師
の筆。木庵は隠元禅師の弟子で渡来僧。趙子昮に学んだとされるが、趙瑞図とも親交があったようだ。

 祝國
 本堂1階の軒下に掲げられている木額。開山の鉄牛禅師の筆。左右の聯額は万福寺5世高泉禅師の
筆になる。


 池田冠山の墓
 亀の台座。天保四年(1833)の建碑で、市川三亥(米庵)が書し、碑陰の撰文は佐藤坦(一齋)、
松崎復(慊堂)銘とある。烏取池田分家因幡若桜5代目藩主。儒学・地球物理学・仏典の造詣が深く、
佐伯の毛利高標、仁和寺の小橋長昭と並び3僧3文侯と称された学者殿様で、著書は主なものだけで
も33種180巻に及んだ。大学頭林述斎(じゅつさい)ら学者と親交のあった。


 
建部綾足の墓
 本堂右手の鐘楼の下にある。昭和14年の建碑。近世の歌人で、陸奥の人。賀茂真淵について国学
を修め、歌人としては五七七の片歌を唱道したといわれ、俳人、画家でもあった。読本作家としても
知られ、多才な人。京都の東福寺で僧となり、子供のように自由な言動する人だったという。安永三
年(1774)熊谷で56歳で歿した。碑面に句一首を刻む。

   波とのみ三船の山の山桜


 森鴎外
 生前この地を愛し、自らここに墓を営んだが、震災後三鷹の禅林寺に引っ越した。



■牛島神社旧地の碑
 弘福寺と長命寺の側の土手の脇に建っている。牛島神社は嘗てこの碑の東側辺りにあったのだが、
関東大震災後の隅田公園の整備で遷座させられた。



宝樹山遍照院長命寺
 向島5丁目4番4号にある天台宗の寺。隅田川七福神の弁財天。
開創は元和元年(1615)と
いわれるが遠い昔のこととてよく判らない。宝寿山常泉寺と号していたという。寛永年間に三代将軍
家光が三代将軍家光が放鷹の途次、腹を悪くして当寺で休み、境内の般若水を加持し服薬したところ
忽ち本復したので「長命の水」の名を与えられ、これにより宝寿山遍照院長命寺に改めたという。芭
蕉、十返舎一九、蜀山人などの句碑・歌碑が並ぶ名碑の宝庫で、文人墨客の訪れた風流な寺として有
名。ただし江戸時代は門も本堂も川の方を向いていたんだよ。「新編武蔵風土記稿」に、

   長命寺
   天台宗東叡山末、寶寿山扁照院と号す。本尊阿弥陀脇士に観音勢至を置。過去帳に住僧宗
   泉慶安二年十一月七日示寂とあり。境内弁天の縁起に、寛永の末大猶院殿御放高の時俄に
   御異例にて当寺に入御ありけるに、住僧専海弁才天に祈願をこめ則御手洗の般若水を汲み
   て御供の士中根壱岐守を以て捧げ奉りしに、御心地さはやかにならせたまひければ御快気
   の程を祝せられ、寶樹山常泉寺の旧号を改て今の寺山号を賜ひしと云。是によれば専海は
   寛永の頃の住僧にして宗泉より先代なるべし。
   精大明神社。神体金幣にて光成卿の霊を祭る。蹴鞠の神なりとのみ云傳ふ。光成卿とはい
   かなる人にや、蹴鞠の宗匠難波飛鳥井両家には聞えさる人なり。按に諸神記に中御門西洞
   院東頗滋野井小社三座是蹴鞠神也。此地大納言成通卿旧跡とあり。成通卿は蹴鞠の名人に
   て凡人のしわさにあらさる由「著聞集」等にも記したれば、もしくは是を誤て光成卿なと
   云傳へしにや。又近江国志賀郡松本と云地に精大明神社あり。祭礼猿田彦命にて蹴鞠の神
   なりと云。当社は恐くは是をうつせしものにて光成卿を配祀せるならん。
   稲荷社。
   般若堂。文殊普賢の外十六善神を置。又不動及二童子あり。不動は智證大師の作又傳教大
   師のつくれる弁天元三大師降魔の像あり。
   地蔵堂。
   長命水趾。此井の水を般若水と呼ふ則前に云る雄手洗の跡也。
   奈岐木。菓子所大久保主水が植しものなり。高二丈程周四尺もあるへし。樹根に此木を植
   る顛末を鋳せる碑を立。


 とある。

 長命水
 境内にある。家光が飲んで腹痛が治ったことから、家光が命名した井戸。自然災害で涸れたが、平
成18年水道水を引いて復元された。

 長命水石文
 寺の由来を記した碑。天保三年(1832)の建碑

 洗心養神の碑
 長命水に関わる碑。詳細不明。

 長命寺弁財天
 寺号の由来について、有名な故事がある。その昔、三代将軍家光が墨水沿岸で鷹狩を行った際、急
に病を催し、止むを得ずこの寺で休息することになった。そして境内の井戸水で薬を服用したところ
忽ち快癒したので、家光は霊験に感じ、長命水の名を捧げた。以後、長命寺と改めたのである。
 弁財天は河(水)の神ということから、蛇がお使いとして選ばれ、巳の日に参拝する風習が生まれ
た。長命寺に弁財天を祀るのは、その長命水に関係がある。弁財天は元々天竺の水の神であったから
だ。仏教と共に渡来してきてからは、次第に芸能の上達や財宝をもたらす信仰が加わり、七福神唯一
の女性神になったのだ。

 
向島七福神弁財天の石碑
 本堂前にある。何時のものか不明だが、弁財天はもと庵崎の巌屋に祀られていたものだという。庵
崎は何処か判らない。木母寺のある辺りだというもあれば、秋葉神社の五百崎の千代世の森だともい
う。


 
芭蕉の句碑
 本堂前にある。


   いざさらば雪見てころぶところまで(芭蕉)

 芭蕉がここで雪見をした訳ではない。芭蕉を慕う人(祇徳)が安政五年(1859)に建てたのだ
そうだ。向島は雪見の名所として知られていたので、それに見あう芭蕉の句が選ばれたのだろうとい
う。なお寺宝の芭蕉像は、宝暦の頃に俳人祇徳が建てた自在庵に納められていて芭蕉堂と呼ばれた。
たびたびの火災から免れて現在は寺が所蔵している。

 退鋒郎毛君エイ髪塚銘并序
 エイは転換できない難しい漢字で、埋めるという意味。酒井抱一が筆神佩阿の像を描き、墨江老漁
(亀田鵬齋)が撰文書丹した文人の合作。筆の歴史から説き興し、毛が落ちて禿筆になるまでの筆の
一生を擬人化した文章が面白い。文化十年(1813)の建碑。稲垣子幹という人の筆塚で、碑陰に
母親だろうか、静一尼の和歌が刻され、源真澄書とあった。

 荷塘道人圭公傳碑
 天保三年(1832)の建碑。

 帰□伊東氏筆塚
 天保十年(1839)年の建碑。

 エイ雲山居士故紙碑
 エイは転換できない難しい漢字で、埋めるという意味。

 重修大久保忠郷植竹栢之碑
 文政六年(1823)の建碑。

 ●鏑木渓菴之碑
 明治9年の建碑。

 藤田呉江先生之碑
 明治22年の建碑。

 山村一蔵先生碑
 明治13年の建碑。

 奥田昌屏紀年碑
 明治21年の建碑。

 守川周重辞世句碑
 明治33年の建碑。


 
十返舎一九狂歌碑
 一九は江戸時代の滑稽本の作家で、本名重田貞一。代表作『東海道中膝栗毛』は享和二年(180
2)に発表した。碑は、天保三年(1832)の建碑。


   内損か腎虚と我は願ふなりそは百年も生き延しうへ(一九

 「内損」とは酒などで内臓を悪くすること、「腎虚」とは性行為のしすぎで体が衰弱することだ。
いかにもぜいたくな病ではあーりませんか・・・
 もう1つ、

   此世をはど里やお暇にせん古うの煙りと供に者ひ左様南ら(一九)

 この世をばどりゃおいとまに線香の煙とともにはいさようなら、と読む。この句碑は割とあちこち
にある。


 太田蜀山人(南畝)の狂歌碑
   どのやふ那なん題目をかけ累ともよむは妙法連歌狂哥師

 どのような難題もくをかけるとも読むは妙法蓮華経かし、と読む
。         

 成島柳北の碑
 裏手に廻るとここにも碑が所狭しと立ち並んでおり、その中にある。成島は、幕臣で騎兵奉行・外
国奉行・会計総裁副を務め、維新後に朝野新聞社長を経て
、外遊時代に得た生命保険制度の知識を活
かし、
生命保険会社「共済五百人社」の創設に協力日本の保険業の草分けといわれる。長命寺の石
碑は、成島の実業家としての功績を記念したもので、没年の翌年明治18年に建立された。随筆家で
色男でもあったが、明治11年に歿した。碑は2.4m もある自然石で、明治18年の建碑。レリー
フ付きだが、残念ながら東京大空襲で鼻先が欠けてしまった。

 横浜市港北区綱島台の飯田家は、江戸時代に代々名主を勤め、明治時代には地域の発展に尽力した
名望家だ。その屋敷の植え込みのなかにも成島柳北の碑がある。どういう繋がりがあるのか判らない
が、成島も横浜の文化の発展に貢献したひとりでもある。


 橘守部の墓
 門を入った左手にある。橘守部は、江戸時代後期の代表的な国学者で、天明元年(1781)に伊
勢国(現三重県)に生まれ、晩年を区内で過ごした。17歳で江戸に出て独学で国学を修め、一時武
州幸手(現埼玉県幸手市)に住み、桐生・足利方面の機業家や豪農を門人として抱え、地方庶民文化
の発展と国学の普及に大いに貢献した。
 その後、浅草弁天山に居を定め、生涯に50種以上の著作を残した。同郷の先学本居宣長が『古事
記』重視の立場を取ったのに対し、守部は『日本書紀』を重視して神典解釈に新境地を開き、平田篤
胤、伴信友、香川景樹らとともに「天保の四大家(うし)」と称された。
 嘉永元年(1848)に肺を患ってから本所法恩寺橋筋に転居し、翌年五月に同地で没して長命寺
に葬られた。現在、守部の墓とともに長子冬照の墓が隣り合わせで並んでいる。守部の墓は花崗岩製
冬照の墓は玄武岩で、いずれも一石の自然石による素朴なもの。


 
六助塚
 鼠取養犬。犬の像はほとんど埋められており首から上だけ出している。

 梅陰先生大黒君碑

 大黒屋光太夫の子の顕彰碑。寛政九年(1798)生まれ。本名亀次郎。勉学を好み、後年大黒梅
陰と号する儒学者となった。碑は安井息軒撰文。

 春秋庵梅笠墓 

 
今日庵宗和墓
 今日庵は裏千家。宗和は金森宗和か?

 
現在庵露心墓

 
五狂歌師世連碑
 蜀山人や一九など五人の辞世を並べた珍しいものだ。

 
勝川春英翁略伝碑
 文政二年(1819)没の絵師の碑で、墓は浅草善照寺にある。




古と問団子(言問団子)
 向島5丁目5番22号、土手を下りたところの北側にある。幕末、風流人だった外山佐吉はこの辺
りに土地を買い「言問ヶ岡」と名付けた。これは京を離れ遥々と隅田川の畔までやってきた在原業平
が、都鳥の名に託して都の恋人を偲んだ伊勢物語の故事に敬意を表す心だった。佐吉が団子屋を始め
ると「言問ヶ岡の団子」「言問の団子」と呼ばれて評判をとり、噂は江戸中に広まった。それで「言
問団子」の名がを正式名称とした訳だ。
 隅田川に架かる「言問橋」の名は、言問団子で有名になった「言問ヶ岡」から拝借して命名された。
「小梅大橋」のほうが綺麗だったかも。

 外山佐吉句碑
 初代店主の俳句碑。右手の壁際に流鎧會之碑とともにある。



 流鎧會之碑
 言問団子の店の右手外壁に寄り添うように建てられている。明治12年の建碑。宮亀年の鐫とある
が、他は剥落して読めない。区の「文化財調査報告書X」では、加賀百万石の最後の殿様前田齋泰が
題字を書き、柳北成島弘の撰文を桂州藤信平が書丹している。



■言問小学校
 向島5丁目40番14号にある区立校。昭和11年鐘紡の重役だった和田豊治邸跡に校舎落成。同
12年2月1日牛島小学校(戦後廃校)と小梅小学校から一部の児童を収容し「東京府東京市言問尋
常小学校」として開校。同14年高等科を併置し「東京府東京市言問尋常高等小学校」と改称。同1
6年勅令148号国民学校令公布により「東京府東京市言問国民学校」と改称。12月日米開戦。同
18年都制施行により「東京都言問国民学校」と改称。同19年千葉県君津郡へ学童集団疎開。同2
0年3月9日愚かなアメリカ軍の非人道的無差別空爆により本所区焼野ヶ原となる。岩手県江刺郡へ
再疎開。8月日本敗戦。同21年疎開解除により学童帰校。都立第七中学校が間借り。
 同22年給食開始。4月戦勝国アメリカ軍の強制による学校教育法の施行により「東京都墨田区立
言問小学校」と改称。キャスリン台風のため800人の人が校内で避難生活。同23年都立第七新制
高等学校(都立第七中学校)転出。区立墨田中学校が間借り。同25年墨田中学校転出。二部授業解
消。同27年創立15周年記念式典・校歌制定。

 校歌
「春は桜の」 作詞・勝承夫  作曲・平井保善
  1.春は桜の花影に
    秋は柳の微風に
    膨らむ胸よ大川の
    流れを友に育ちゆく
    吾等若鳥 文化の子
  2.一人一人が励みあい
    明日を夢見る友情の
    花咲く窓よ言問は
    自立の気風美しく
    希望豊かに満ち渡る
  3.町の昔を歌に聞き
    栄え伸びゆく商工の
    巣立ちの庭よ新しい
    大東京を背負い立つ
    吾等 言問小学校


 同32年創立20周年記念式典。図書室・理科室改修。同34年プール改修。学童擁護員設置。同
昭和37年創立25周年記念式典。校章と校帽制定。千代谷奨学金設置。プール新設。給食室改修。
昭和38年「きこえの教室」開設。校庭開放が始まる。同42年開校30周年記念式典。同47年創
立35周年記念式典。正門の左右の塀が生け垣になる。同49年校庭舗装。同52年講堂内改装。創
立40周年記念式典。同53年NHK合唱コンクールに出場。昭和57年創立45周年記念式典。同
58年教室と廊下の床張替。校庭ソフトアスファルト化になる。同62年創立50周年記念式典。こ
の年から翌年までに各教室にFF暖房設置。
 平元年校庭に防球ネット取付。同4年創立55周年記念式典。特別教室にもFF暖房。同6年各教
室にテレビハンガーが取付。同7年60年振りに水道管が全部取替。同8年創立60周年記念式典。
同13年コンピュータールーム開設。創立60周年記念式典。理科室改修。同14年給食調理民間委
託。ランチルーム開設。校庭改修、ソフトラバー貼付。同16年教室冷房化。同17年中屋にビオト
ープ完成。同18年創立70周年記念式典。太平洋戦争の時にも奇跡的に戦災に会わず当時の校舎が
そのまま残っている。関東大震災級の地震にも耐えられるように作られた鉄筋の校舎の中に、木の温
もりのある階段や廊下がある。平成21年学童クラブ言問分室設置。同23年校舎耐震化。創立75
周年記念式典。




■羽子板資料館
 向島5丁目43番25号の鴻月にある。明治初期から昭和初期に作られた羽子板や、昔から各地に
伝えられてきた素朴な郷土羽子板の複製品など20点余りが展示されている。「伝統の技法に工夫を
加え、現代の羽子板を作りたい」という館長の西山幸一郎は、すみだマイスターにも認定され、子息
と一緒にオリジナルの羽子板を制作している。尋ねれば製造工程を解りやすく説明してくれる。
 03-3623-1305





【八広】(やひろ)1~6丁目                昭和40年12月1日
 大畑村。明治元年東京府所属。同11年「郡区町村編制法」により南葛飾郡所属。同22年「市
制町村制」により大木村・寺島村・吾嬬村に分かれてそれぞれの大字。大正元年吾嬬村が町制移行。
同3年大木村廃村に付き大字大畑を吾嬬町大字大畑に合併。大正12年寺島村が町制移行。昭和5
年吾嬬町大字西5~9丁目・東6~7丁目。同7年東京市に編入されて向島区吾嬬町西5~9丁目
・寺島町8丁目。同22年墨田区に所属。同40年新住居表示により吾嬬町西5~9丁目・寺島町8
丁目の全部に寺島町6丁目・隅田町4丁目の各ごく一部をあわせた町域を現行の「八広」とした。

 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『墨田区史』『墨田の歴史』など。

 八広の由来
 新町構成が八つの町であることから「八」の字を導き出し、八が「末広がり」のめでたい文字で
あるところから「広」の字を添えて「八広」と決めた。密かに戦前日本のスローガン「八紘一宇」
を意識している。八紘一宇は「八条の光の届くところあまねく一家」という意で「世界平和」のこ
とだが、軍国主義者がこれを用いると「世界制覇」ということになる。またぞろ軍国主義者たちが
再軍備・戦争国家のための憲法に作り変えようと必死だ。まず今回はおとなしい字句改正に留め、
作り変えやすい憲法にするのが眼目だ。それが定着すると数十年後に本格的に戦争発動のできる憲
法を打ち出し、国民皆兵の道が開かれる。軍国主義者たちには太平洋戦争の遺恨というものがある。
今はアメリカにぺこぺはしているが、「腹は一物背に荷物」、腹の底で復讐を括っている。靖国神
社がなくなることはない。




■本所用水 → 曳舟川(曳舟川通り)
 [本所用水]
 曳舟川は、江戸時代の初め、深川の市街地に飲料水を供給していた本所上水で、小梅上水・亀有上
水・白堀上水の別名でも呼ばれた上水跡だ。上水が廃止されてからは曳舟堀とも古上水ともいわれて
いた。この上水の創設年代は明確ではないのだが、明歴三年(1657)の、所謂振袖火事後幕府の
隅田川東岸の開発と武家屋敷の移転計画によって、本所地域が市街化されてからのことで、『御府内
上水在絶略記』には万治二年(1659)とある。しかし第1次開発は十分な成果を上げることが出
来ないまま、天和二年(1682)の大水で中絶し、武家屋敷や町屋なども一時撤退したので、この
上水もまたその必要性を失って廃止されてしまった。
 その後、復活の機運が高まり、元禄元年(1688)に再び開発に着手すると共に上水も修理を加
え再開した。以後本所上水は広く住民の利用に供せられ、「樋」や「橋」の修理はしばしば行われた。
『御府内上水在絶略記』に

   元禄年中本所開発の砌また始まり、亀有より本所法恩寺橋まで白堀にて懸かる、南北本
   所一円に懸渡す。樋筋2邁間(約36キロメートル)余という

 とある。本所上水の水源は、埼玉郡の瓦曽根溜井(越谷市)で文政十一年(1828)の『町方書
上』にも、

   古上水川、幅5間、右古上水は、邁治寛文之頃、埼玉郡八条領瓦曽根溜井より分水に相
   成


 と記され、給水地域は『武蔵通志』に

   小梅村ヨリ大横川ノ東ニ沿ヒ法恩寺前ニ至リ、陰樋ヲ通シ、北本所南本所高橋万年橋辺
   リ、飲用水トナス


 と記されている。しかし本所上水は、本所奉行が廃され、町奉行の所管となった3年後の享保七年
(1722)九月五日、他の千川・青山・三田上水と同様に廃止されてしまった。給水が偏っていた
からとも、8代将軍吉宗が室鳩巣(むろきゅうそう=儒学者)の迷信的献言を取り上げたからともい
われている。
 大岡越前守の書付によると、水量が少なくなると塩気が出てくるのでこれを避け、堀り井戸や池水
を開いて使用したなどと書いてある。いずれにしてもその頃から水舟や水伝馬といわれる船を使い、
水を売買していた業者があったことからして、水質の悪かったことや、給水が思うようにいかなかっ
たことによるのだろう。

 [曳舟川]
 
廃止後の本所上水は、業平橋以南が埋め立てられ、小梅村から亀有村(葛飾区)に至るおよそ7・
4km(68町)は奥州方面へ通じる通船運河として改修され、篠原村2艘、四つ木村3艘、亀有村
7艘、都合12艘の「サッパコ」と称する田舟同様の小型舟が用意された。これは往来の旅人を乗せ、
肩に綱を付けて岸から引いた客船であって「曳舟」の名称もこれから出たものだ。

 曳舟川の沿岸の道路は古くは右岸(西側)だけで、これが左岸にも設けられたのは後のことだ。サッ
パコの料金は、時代によって区々だったが、文化十四年(1817)当時は1人24文で、陸上交通
の不便な江戸時代には、簡便な交通機間として我々の想像以上に利用されていたノのだ。


    明治となって四つ木の素法家吉野某なるもの花菖蒲を栽培して堀切の小高園とその絢を
   競ったが、東京の風流人士がこの曳舟に乗って鑑賞に行く花時は6月初旬から引きもきら
   ず舟中には筵(むしろ)をっ敷き煙草盆を置いて四方の景色を眺めながら曳かれ行く様は
   この時代の呑気な世相がうかがわれた。         鈴木君太郎「曳舟川の今昔」


 明治も中頃なると人力車も横行し、曳舟の姿も何時しか消えてしまった。明治末期相次ぐ風水害は
荒川放水路の開削となり、曳舟は四つ木で分断された。さらに震災を契機としてその下流一帯は工場
が立ち並び、人家も密集して、曳舟川も悪臭と蚊・ハエの発生源となり果てた。

   円通寺といふ、その古い寺のある請地町は、向島の私たちのうちからさう離れてもいない
   し、それにそこいらの場末の町々は、私の小さいときからいろいろと馴染みのあるところ
   なので、一度ぐらゐはさういふところも妻に見せておかうと思って、寺まで曳舟通りを歩
   いて行って見ることにした。私たちのうちを出て、源森川に添ってしばらく往くと、やが
   て曳舟通りに出る。それからその堀割に添ひながら北に向ふと、庚申塚橋とか、小梅橋とか
   七本松橋とか、さういふなつかしい名まヘをもった木の橋がいくつも私たちの目のまへに
   現れては消える。ここいらも震災後、まるっきり変わってしまったけれども、またいつのま
   にか以前のやうに、右岸には大きな工場が建ち並び、左岸には低い汚い小家がぎっしりと
   詰まって、相対しながら掘割を挟んでゐるのだった。くさい濁った水のいろも、昔のまま
   といへば昔のままだった。
                        堀辰雄「花を持ってる女」昭和17年8月


 戦後、暗渠化が計画され、川幅5.5m、両岸の道路各6mも、昭和29年以来地下排水工事が行わ
れ、いまは両側にプラタナスが植えこまれた幅員18mの立派な舗装道路となっている。
 また水戸街道の交通渋滞を和らげるため、昭和43年から四つ木橋に並行した新四つ木橋の建設が
進められ、同48年完成。「曳舟川通り」は荒川を横切って再び葛飾区と結びついた重要な交通路と
して生まれ変わった。

 「片恋」  北原白秋
   あかしやの金と赤とがちるぞえな 
   かはたれの秋の光にちるぞえな
   片恋の薄着のねるのわがうれひ
   曳舟の水のほとりをゆくころを
   やわらかな君が吐息のちるぞえな
   あかしやの金と赤とがちるぞえな
 



■寺島中学校 (平成26吾嬬第二中学校と統合予定)
 八広1丁目17番15号にある区立校。昭和25年3月に墨田区立寺島第一中学校及び寺島第三中
学校を廃校統合して「東京都墨田区立寺島中学校」として開校、第一寺島・第三寺島・言問の3小学
校に分散して授業。同26年現在地に校舎の大部完成して2、3年生が移転。同27年全工事完了し
て全生徒揃う。同30年特殊学級設置。同34年体育館完成。同35年10周年記念式典。同43年
給食調理室完成。同45年創立20周年記念式典。同46年建て替え新校舎落成。同55年創立30
周年記念式典。
 平成2年創立40周年記念式典。同4年5月に心障者理解協力校指定。同12年創立50周年記念
式典。

 校歌
「墨田の春に」 作詞・五味保義  作曲・池田友太郎
  1.墨田の春に咲き盛る
    桜の徽章
(しるし)胸にして
    希望溢るる吾等が心
    明朗自主の精神ここに
    満つる学び舎 清き学び舎
  2.都の秋の空澄みて
    遥かに晴るる富士の嶺の
    高き白雪 吾等が理想
    学びに進む若人ここに
    集う朝夕 励む朝夕
  3.東に西に地開け
    轟く巷 限りなく
    光明るき吾等が母校
    敬愛籠もる学園ここに
    常に栄ゆる 永久に栄ゆる
   
  



■向島商業高等学校 → 橘高等学校
 [全日制]
 八広1丁目28番にあった都立校。昭和10年3月31日向島区議会で設立決定。同4月18日寺島町
6丁目14番地の第三寺島尋常小学校内に設置。同4月20日「東京市向島女子商業学校」(区立三
年制)として開校。同13年向島吾嬬町西5丁目(東京市第三吾嬬尋常高等小学校内)に仮移転。吾
嬬町西6丁目2番地に移転(東京市向大畑尋常小学校に併設)。同17年「東京市立向島女子商業学
校」と改称。同18年4月四年制となり、同7月「東京都立向島女子商業学校」と改称。同20年3
月10日愚かなアメリカ軍の無差別空爆により校舎焼失。翌日から向島区寺島町1丁目151番地都
立第七中学校に間借り。同4月1日第三寺島国民学校に移転。8月日本敗戦
 同21年都立吾嬬女子商業学校、都立本所女子商業学校、都立荒川女子商業学校の3校が統合し第
2本科(夜間部=定時制)となる。
 [定時制]
 大正7年神田に「東京市立第五工業補修夜学校」として創立。同10年「東京市第三実業学校」と
改称して本郷に移転。同10年向島区の東京市第三吾嬬尋常高等小学校内に移転し「東京市向島商業
学校」と改称。同18年都制施行により「都立向島商業学校」と改称。同19年廃校となり、「都立
吾嬬女子商業学校」に転換。同20年3月愚かなアメリカ軍の非人道的無差別空爆により校舎全焼。
都立第七中学校内に移転。5月東京都第三寺島国民学校内に移転。
 同21年東京都立吾嬬女子商業学校・都立本所女子商業学校・都立荒川女子商業学校の3校が統合
して「都立向島女子商業学校・第2本科」となる。
 [全日制・定時制]
 同22年アメリカ軍の強制による学校教育法施行により中学校併置。同23年学制改革により「都
立向島女子商業新制高等学校(全日課程・夜間課程)」と改称。最終地に新校舎落成して移転。同2
5年1月「都立向島高等学校(全日制・定時制)」と改称。同27年「都立向島商業高等学校(全日
制・定時制)」と改称。同30年講堂落成。全日制創立20周年記念式典。同34年給食室完成。同
41年第一期鉄筋コンクリート造り4階建て校舎4教室落成。同43年第二期鉄筋コンクリート造り
4階建て校舎校長室・事務室などと16教室落成。同45年第三期鉄筋コンクリート造り4階建て校
舎職員室・特別教室を含む9教室落成。同46年クラブ部活動部室・文書事務室・商業実践室増築。
同50年全日制創立40周年記念式典。同55年挌技室完成。同57年体育館ステージ完成。同57
年北側新校舎西側部分落成。同58年北側新校舎東側部分・プール・テニスコート落成。同60年全
日制創立50周年記念式典。
 平成7年創立70周年記念式典。同17年創立80周年記念式典。同19年3月31日を以て全日
制閉課、向島工業高等学校と統合して、都立橘高等学校に生まれ変わった。
 「定時制」
 同19年4月定時制のみとなる。同21年都立日本橋高等学校が転入してきて共用。定時制は同2
2年3月を以て
閉課



■日本橋高等学校(旧都立十七中学校)
 八広1丁目28番21号にある。平成21年中央区から向島商業高等学校・全日制跡地に移転。同
校定時制と共用。同22年に定時制が閉課し以後は校舎を占有した。
 昭和15年東京市向島区寺島町1丁目151番地の第七中学校内に「府立第十七中学校」として開
校。校長は七中校長の兼務。9月校地亀有1丁目1765番地外58筆に決定。同17年「府立葛飾
中学校」と改称。東京市向島区寺島町3丁目106番地の府立第二化学工業学校跡地に移転。同18
年都制施行により「都立葛飾中学校」と改称。同19年東京都日本橋区箱崎町3丁目番地の日本橋区
立箱崎小学校跡地(旧校舎)に移転。同20年3月の大空襲での類焼を免れる。同22年2月日本橋
中学校設立決定。3月設立認可。4月葛飾中学校閉校→都立日本橋中学校開校。
 同23年
学制改革により「都立日本橋新制高等学校」と改称。夜間定時制課程を併置。同24年併
設中学校廃止。同25年「都立日本橋高等学校」と改称。校歌制定。


 校歌
「街の響き」 作詞・不詳  作曲・不詳
  1.街
(ちまた)の響きは常に絶えず
    車往き交い人連なる
    仰げば治
(あまね)き空の光よ
    吾等が辿る真理の道は
    遥かなれども一筋広し
  2.隅田の流れは豊かに満ちて
    鴎舞い連れ浪輝く
    望めば甍に富士の気高さ
    吾等が上ぐる正義の声は
    大地揺るがし挙りて高し
  3.時代を担いて手に手組めば
    この師 この友 皆健やか
    親しき心は直に通へり
    吾等が誓う使命の前に
    若き力を合わせて強し
     栄ゆる都 日本橋
     高校ここに吾等あり


 同26年校旗制定。同33年屋上に図書室完成。同42年校舎改築第一期工事着手。学校群制度導
入。都立京橋高等学校、都立紅葉川高等学校とともに51群編成。同44年第一期工事完了。
新館落
成。同45年ランチルーム完成。同57年グループ選抜制実施。第51グループ(日本橋、紅葉川、
京橋、上野、白鴎、竹台、忍岡)編成。同59年定時制閉課。
 平成2~3年大規模改修。創立50周年記念式典。同12年創立60周年記念式典。同21年現在
地に移転。  



■江戸小紋博物館
(墨田区小さな博物館)

 八広2丁目26番9号の大松染工場にある。400年の歴史をもつ東京染小紋。工場の2階にある
博物館では、作業工程をパネルで紹介するほか、江戸時代から伝わる貴重な見本帳や、数々の伊勢型
紙、染色道具などを見ることができる。小紋の型は、代表的なものだけで数千あり、その微細な彫り
とデザインの技巧は一見に値する。館長の中條隆一は、すみだマイスターにも認定されており、染色
技法についての話を聞くことができるぞ。
 開館は、祝日を除く月曜日から金曜日まで。但し土曜日は要事前連絡があれば、午前11時から午
後5時まで。03-3611-5019



■第三吾嬬小学校
 八広2丁目36番3号にある区立校
。明治8年4月13日江幡信楯により南葛飾郡大畑村字大畑2
87番地森田幸助宅に「私立江幡小学校」設立。同11年正覚寺に移転。同16年大畑村・上木下川
村・下木下川村・大木村の4村連合公立小学校となる。同21年前記4村が合併して大木村となり、
「南葛飾郡大木村大木尋常小学校」と改称。明治26年木下分教場開設。
 大正3年荒川放水路(荒川)の開鑿により村の大半を失ったため吾嬬町に併合され、「南葛飾郡吾
嬬町第三吾嬬尋常小学校」と改称。大畑221番地に新校舎落成して正覚寺・大木分教場から移転。
同10年高等科を併置して「南葛飾郡吾嬬町第三吾嬬尋常高等小学校」と改称。同15年商業補習学
校併置。
 昭和2年商業補習学校を廃し青年学校を置く。5年夜学校併置。同7年南葛飾郡が東京市に併呑さ
れ向島区となったので「東京市向島区第三吾嬬尋常高等小学校」と改称。同16年勅令148号国民
学校令により「東京府東京市第三吾嬬国民学校」と改称。12月真珠湾奇襲により日米開戦。同18
年都制施行により「東京都第三吾嬬国民学校」と改称。同19年茨城県結城郡結城町に集団疎開。同
20年3月愚かなアメリカ軍の非人道的無差別空爆により校舎全焼。
 同21年疎開解除により生徒帰校。同22年本所区と向島区が統合され墨田区成立。アメリカ軍の
強制による「学校教育法」施行により、「東京都墨田区立第三吾嬬小学校」と改称。同22~33年
にかけて校舎の新築・増改築。同43~46年4期に亘って鉄筋コンクリート造り校舎に建替え。
 以後の沿革不明。HPに記載が無く、図書館を巡ったが資料そのものがなく、図書行政に問題があ
るようだ。他区に比べて著しく見劣りする。休日に3館訪れたが、中高生がいず、閲覧机は何時も空
いてる状態だった。勉強嫌いなのかねぇ?
 平成17度で創立130周年をむかえた古い歴史と伝統校だ。校歌はあるが不明。

 式典歌
「長い歴史」 作詞・生徒代表委員会  作曲・渡辺茂
  1.長い歴史に包まれた
    立派な校舎広い庭
    楽しく元気に勉強し
    みんなみんな明日に
    向かって伸びていく
    輝く我らの第三吾嬬
    輝く我らの第三吾嬬

  2.希望に燃えた思い出と
    明るく育った足跡が
    一杯に詰って百二十九年
    みんなみんな明日に
    向かって伸びていく
    輝く我らの第三吾嬬
    輝く我らの第三吾嬬
 



狐竹山明王院正覚寺
 八広3丁目5番2号にある新義真言宗豊山派の鉄筋コンクリート造りの寺。慶長のころ長養法印の
開基で創建された。本尊は薬師如来。本堂前のお地蔵さんも周辺の信仰を集めている。荒川辺八十八ヶ
所。明治11年~大正3年までの36年間、第三吾嬬小学校の前身の「大木尋常小学校」があった。
 「新編武蔵風土記稿」に、

   正覚寺
   新義真言宗、寺嶋村蓮花寺末、狐竹山明王院と号す。中興僧快巌宝暦5年6月17日寂。本尊
   薬師。

 とある。



■三輪里稲荷神社

 八広
3丁目6番13号にある通称〝コンニャク稲荷〟。慶長十四年(1609)に出羽湯殿山の大
日房長が倉稲魂命(うかのみちまのみこと)を奉じたと伝えるが、当時鎌倉より移住する者があり、
社殿を建て大畑村の鎮守とした。湯殿山の秘宝として伝えられたコンニャクの護符を、初午の日に授
けてくれるが、疫病を避ける信仰によるものだ。石狐は大型ながら良い出来で、本所石勝の刻銘があ
る。「新編武蔵風土記稿」に、

   稲荷社
   村の鎮守なり本地十一面観音、正覚寺持。


 とある。



王貞治の生まれたところ 王仕福・吾嬬町の五十番
 八広3丁目38番7号の八広はなみずき通りに面したところ 旧所番地は吾嬬町西6丁目までしか
判らない。この店は貞治の父仕福が、昭和13年に構えた2番目の店で、自前の「五十番」の1号店
だ。貞治はこの店で双子の姉広子と生まれたが、広子は夭逝する。敗戦後仕福は押上に移り、この店
は妻登美の弟川口二郎・志津子夫婦に譲った。川口夫妻は昭和44年、この店を畳み、荒川駅(八広
駅)前、4丁目25番5号に移り、「洋食50BAN」と名前を変えて営業を続けている。メニュー
で中華の名残はチャーハンだけだ。



■野菜菓子・砂糖漬けの「梅鉢屋
 八広3丁目37番8号にある和菓子屋。江戸時代人形町に「伊勢一」という砂糖漬を製造する菓子
屋があった。伊勢一に非常に腕のいい二人の職人がおり、一人は田中豊作、そしてもう一人は内田安太
郎といった。江戸砂糖漬舗としての梅鉢屋の始まりは、この内田安太郎だ。安太郎は、伊勢一で江戸
時代から伝わる砂糖漬の技法を伝授され、やがて神田三崎町にて「内田商店」を構えた。内田商店で
は、野菜の砂糖漬を製造し、関東一円はもとより、東北地方にまで手広く販売していた。相前後して田
中も「田中商店」を興した。
 さて幕末に神田旅籠町(外神田1丁目)に食品用着色料の「食紅問屋」を営む丸山喜兵衛という者
がいた。息子の辰五郎の代からは、コンペイ糖の製造も手がけるようになった。この辰五郎の長男林
之助は、明治36年12歳の時、神田三崎町の「内田商店」に奉公に上った。安太郎と林之助は、親
子ほども年が離れていたが「従兄弟」だった。林之助は砂糖漬の技術習得に研鑽を積み、大正4年荒
井ヤスとの結婚を機に、下谷竹町にて独立「丸山商店」を構えた。幾度かの移転を繰り返し、大正1
2年には現在の墨田区太平、天神橋の畔に店を開いていた。関東大震災で被災した林之助は、寺島を
経て現在地へと移り、次男健二郎、孫に当たる現店主壮伊知へと江戸砂糖漬の技は受け継がれ、今日
に至っている。
 林之助が修行をした三崎町の内田商店、職人仲間の田中商店、そして江戸から続いていた人形町の
伊勢一は総て後継者がおらず廃業し、江戸砂糖漬を伝承する菓舗は「梅鉢屋」だけとなってしまった。
「丸山商店」と名乗っていたが、店名は、大正12年関東大震災に遭い、東へと逃げる途中、亀戸天
神に寄り「家族全員の無事」を祈願したところ、願いが叶ったことから、再建する時に亀戸天神の紋
「梅鉢」に因み屋号にしたという。


 
野菜菓子
 新鮮な果物・野菜をそのままに菓子に仕立てたものです。梅鉢屋では季節により13~15種類ほ
どの野菜を原形のまま砂糖漬けにした菓子を取り揃えている。このほかに甘納豆「櫂の雫」、夏場の
こんにゃくの水羊羹「夕立ち」、毎月15日大根の砂糖漬けの梅肉「梅若」がある。



■省了寺

 八広4丁目3番18号にある浄土真宗本願寺派の寺。ホテルのような建物。



■吾嬬第二中学校(平成26年寺島中学校と統合予定)
 八広4丁目4番4号にある区立校。昭和22年更正小学校にて開校。同24年7月新校舎7教室完
成して移る。同12月校歌制定。

 校歌「堤の緑 朝光に」 作詞・宮崎二郎  作曲・林祐次
  1.堤の緑 朝光に
    萌え立ち匂う荒川の
    水面を渡る微風を
    今学舎の窓に受け
    熱き血潮の学友が
    澄みし心に学ぶ時
    鶏鳴 高く 高く
    嗚呼 時を告ぐ
  3.史読む窓に星遷り
    校庭に団欒の花乱れ
    三度弥生の巡る間に
    熱き教えの実を摘みて
    深き友情に涙せし
    幸多きこの園を
    讃えて 共に 共に
    嗚呼 歌わなむ


 なお2番はあるが、校歌斉唱の時は歌わないのが慣例となっている。その理由は不明。
 同25年第一次校舎5教室を増築。校庭1000坪整地。同26年第二次校舎4教室増築。校庭5
00坪整地。同22年創立5周年記念式典。第3次校舎増築。同28年第4次校舎増築。同29年第
5次校舎増築。同30年東京都柔道大会優勝(初)。同31年第6次校舎増築。同34年南飛地にプ
ール完成。同35年第7次校舎増築。同36年体育館完成。同39年校庭舗装完了。同41年鉄筋コ
ンクリート造りの新校舎落成・開校20年記念式典。同42年完全給食開始。同46年東京都柔道大
会優勝(2回目)。同48年音楽室・被服室増築。同49年西側校舎改修。同52年開校30周年記
念式典。同58年創立35周年記念プール完成。同63年新体育館完成・創立40周年記念式典。
 平成5年多目的室・ランチルーム完成。同9年校庭照明設置。創立50周年記念式典。同10年男
子バレー全国大会(長崎)出場。同14年区民駅伝マラソン大会女子優勝・男子準優勝。同15年区
民駅伝マラソン大会女子優勝・男子準優勝。同18年区民駅伝マラソン大会男女共優勝。同19年創
立60周年記念式典。 
  



■薬師道道標
 八広4丁目12番3号の「4丁目交番」の横の植込みにある。ツツジの中で見落としやすいが、表
に「右やくしみち」とある。現在東墨田にある白鬚神社は荒川放水路開鑿で移転してきたものだが、
古くは木下川村、木下川薬師の守護神だったと伝える。享保の頃8代将軍吉宗の薬師参詣に当たり、
大畠村の村人に建てさせたとか。「すみだの史跡文化財めぐり」に

   木下川薬師への道標で、高さ1m余のものです。墨120号線道路の植込の中にあるもの
   ですから、全体像は容易にはわかりません。
   (右面)左ゑとみち
   (正面)右や久しみち
   (左面)大畠村講中
   と刻んであり、伝承では、享保年間(1716~35)に将軍吉宗の薬師参詣に当って、
   大畑村の人々に建てさせたものとされています。また、この道標もまた、しかるべき位置
   にあったものが移され、現在地に起立するものです。
    木下川薬師浄光寺は、荒川開削のため、現在は葛飾区四つ木1丁目5番に移転しており
   ます、正式には、青竜山薬王院浄光寺という天台宗の寺院です。寺伝によれば、嘉祥二年
   (849)僧広智の草庵に始まり、貞観二年(860)その弟子慶寛によって一寺となし
  、浄光寺と名づけたとされています。


 てある。



■洋食50BAN
 八広4丁目25番5号にある。この店は王貞治の父仕福が2番目に構えた吾嬬町の五十番を引き継いだ
店で、妻登美の弟川口二郎・志津子夫婦が譲り受けた3丁目の「吾嬬町の五十番」を、昭和44年に
畳んで、荒川駅(八広駅)前の現在地に移した。そのため、この地を王貞治の誕生地と誤記した書物
が多い。地図にもそう図示するものが多々ある。 



■第五吾嬬小学校 廃校
 八広4丁目35番17号がそうだ。戦後の校舎は、昭和22年3月22日に木造平屋建てバラック
の職員室を含めた6教室が完成し、国民学校が廃止されて、この年4月1日に校名が「東京都墨田区
立第五吾嬬小学校」となった。校舎も昭和23、25年とバラック建ての平屋建てが増築され、28、
32年と2階建ての木造モルタル造りに改築され、鮨詰め教室も段々と解消に向い始めた。体育館兼
講堂、プールも完成し、鉄筋コンクリートの4階建ても第1期(昭和46年5月1日)、第2期(昭
和47年5月1日)も完成し、戦後2代目のプール、体育館が昭和51年6月30日、
 平成6年3月31日に改築され最終に至った。平成15年更正小学校・木下川小学校と統合して、
八広小学校となった。 八広小学校は更正小学校の跡地に建っている。

 校歌「朝日映ゆる」
  1.朝日に映ゆる富士が嶺
    紫匂う筑波嶺を
    学びの窓に仰ぎつつ
    正しく強く生い立たん
  2.歴史は長き我が町に
    四海の息吹 漂いて
    幸い生む響き高鳴るを
    大き望みに学び行く
  3.荒き川波 騒ぐとも
    心は澄みて吾嬬の子
    校訓を永久に身に染めて
    明日の文化を培わん
    あゝ吾等 第五吾嬬
 



■京成電鉄白鬚線 向島駅跡
 八広5丁目5番、八広駅と京成曳舟駅の中間辺りにあった。京成電鉄は、大正元年11月に押上~
江戸川(柴又)間がまず開通し、以後柴又~金町、江戸川~中山と順次延長して、大正10年7月押
上~千葉間が開通、更に大正15年12月津田沼~成田間が完成し全線開通した。
 しかし京成電鉄では、これに満足せず、都心乗り入れを図って押上~上野間など種々路線計画を立
てたが、いずれも認可が得られず実現しなかった。
 この計画の1つに、向島から白鬚を経て千住に至る路線があった。この線は、白鬚~千住間が認可
が得られないまま、昭和3年7月向島~白鬚間を開通させたが、延長の見込みが立たず、同11年2
月末には早くも廃線となり、向島・長浦・玉ノ井・白鬚の4駅が廃駅となった。
 なお京成電車都心部乗り入れは、昭和5年10月筑波高速度電気鉄道を合併し、青戸から上野への
乗り入れを達成し、また昭和35年12月には押上で都営地下鉄線との相互乗り入れが実現、利用者
に大きな利便を与えている。




■八広図書館
 八広5丁目10番1号にある。墨田区の図書館は総じてお粗末だ。



■墨田養護学校 → 墨田特別支援学校
 八広5丁目10番にある都立高。
昭和52年10月都立墨田養護学校開設事務所を東京都立水元養護学
校内に置く。同53年現在地に開校。同54年新校舎に移転。6月7日校舎竣工落成記念式典。この
日を開校記念日とする。同56年校歌制定

 校歌
「小さな掌に」 作詞・平野慶子  作曲・小林加代子
  1.小さな掌
(てのひら)に太陽つかもう
    空一杯に漲る力
    丈夫な体 育てよう
    伸びやかに明るく
    希望に燃える私の墨田
  2.小さな手を繋ぎ 虹をかけよう
    空一杯に広がる光
    素直な心 育てよう
    伸びやかに明るく
    希望に燃える私の墨田
  3.小さな手を広げ 明日に向かおう
    空一杯に羽ばたく翼
    やりぬく力 育てよう
    伸びやかに明るく
    希望に燃える私の墨田


 同56年12月おもいやり道路完成感謝式。同58年11月中国北京市教育考察団来校。同60年
6月大韓民国ソウル特別市教育委員会来校。同63年1月開校10周年記念式典。平成3年6月台湾
特殊教育視察団来校。同4年6月大韓精神薄弱者愛護協会視察団来校。同7年2月韓国精進学校との
交流協定書調印。同7年5月ヨルダンのサルワット皇太子妃殿下公式実務訪問。同10年開校20周
年記念式典。同19年校舎増築・改修工事着工。5月創立30周年記念大運動会開催。11月創立3
0周年記念すみだ文化祭。12月マンゼリ・オマーン国家評議会議員来校。同20年1月創立30周
年記念式典。3月太平洋島嶼国12ヶ国教育関係者来校。



■更正小学校
 八広5丁目12番15号にあった区立校。現在の八広小学校。校歌沿革など調べたが墨田区の図書
館は資料に乏しく詳細は不明だ。後日に期待する。



■八広小学校
 八広5丁目12番15号にある区立校。平成15年吾嬬第五小学校・更正小学校・木下川小学校が
統合してできた新設校。現在地は更正小学校跡地。

 校歌「風に香れよ」 校歌原案・校歌制作委員会、廣田弘子補作 作曲・島筒英夫
  1.風に香れよ はなみずき
    流れとうとう荒川の
    歴史のいぶき鮮やかに
    ぼくと私をはぐくんで
    さあ歩きだそう 八広小学校
  2.知恵も体もしなやかに
    交わす友情 温かに
    響け歌声 高らかに
    青い地球に木霊して
    さあ手を繋ごう 八広小学校
  3.夢と憧れ 胸に秘め
    平和を願う眼差しに
    耳を澄ませば聞こえて来るよ
    遥か未来のメッセージ
    さあ飛び立とう 八広小学校




■古伊万里資料館(墨田区小さな博物館)
 八広5丁目23番9号のエース自動車の自動車整備工場の2階にある。應後館長が「ゆめ唐草」と
呼ぶ「古伊万里」の大皿、湯呑、小鉢などの外、年代物の長火鉢や茶箪笥なども並べられ、まるでタイ
ムスリップしたような気分になる。館長が20年近くかけて集めたものを、整備工場の坂本社長の好
意によりギャラリーとして開設しました壁には、昔の墨堤や百花園の風景を描いた絵も飾られ、館内
全体が、江戸期の下町文化・生活様式を彷彿させる雰囲気に溢れている。 03-3619-3867



■庚申堂
 八広5丁目32番7号にある。



常在山宝蔵寺
 八広6丁目9番17号にある真言宗智山派の寺。石造りの門を入ると広々としているのは樹木が無
い所為か! 本堂は鉄筋コンクリート造りの立派なものだ。宝形作りというのか、四阿の屋根が美し
い。墓地は右手にある。南葛八十八ヶ所霊場75番札所。荒川辺八十八ヶ所霊場68番札所。 



■荒川駅→八広駅
 八広6丁目25番20号にある京成押上線の停車場。大正12年7年11日に追加開業した駅。当
時は荒川駅と名乗っており、現在の駅名に改称されたのは平成6年4月1日のことだ。駅の高架化が
完成したのは同11年。ホームは3階にあり、1番線が片面、2・3番線が島式の2面3線構造。朝
ラッシュ時には1番線が通過列車専用となり、2番線が上り、3番線が下りホームとなる。高架化さ
れたのが最近にも係わらず、ホームと改札階を結ぶエレベーターは設置されなかった。改札口は1ヶ
所のみで、2階にある。出口も1ヶ所のみだが、地上へ下りるエレベーターはない。付近は住宅街で
駅東側は荒川が流れる。休日になると、荒川の河川敷はスポーツを楽しむ多くの人で大変賑わう。



■小林人形資料館
(墨田区小さな博物館)

 八広6丁目31番2号の小林人形工房にある。江戸時代末期からの人形作りを受け継いで、現在も
続けている小林繁がその製造工程を紹介している。また昭和2年アメリカから送られた「青い目の人
形」やその答礼のために贈った日本人形(複製)、特攻隊員が抱いて出撃していった「ほまれ人形」、
戦後GHQ総司令官マッカーサー元帥に贈られた人形など珍しい人形が展示されている。そのほか日
本人形に用いられる各種の江戸髷の雛形も見ることができる。小林は「すみだマイスター」だ。

 区最古の木造建築小林家母屋
 人形工房でもある母屋は安政元年建築のもので、墨田区で最も古い木造家屋とされている。



■日枝神社

 八広6丁目32番6号にある神社。「新編武蔵風土記稿」木下村の項に、

   山王社。
   慶長十九年の鎮座なり。寶蔵寺持。下同じ
   稲荷社


 とある。



■稲荷神社
 八広6丁目34番8号、日枝神社の奥にある小社。神社マニアも気がつかない。



■平和地蔵尊・慰霊碑(地蔵尊墓誌) 戦災殉難者之精霊供養塔
 八広6丁目53番16号、はなみずき通りに面した吾嬬西公園にある。太平洋戦争当時ここは空地
だったため、3月10日の犠牲者240~250名が仮埋葬された。昭和23年頃から改葬のために
遺体は火葬されて東京都慰霊堂に合祀されたが、これらの犠牲者の冥福を祈り慰霊するために、同3
9年10月に地元町会と有志によって、ここに平和地蔵尊と墓誌(慰霊碑)が建立された。
 戦災殉難者之精霊供養塔は、平成6年3月になって建てられたものだ。





【横網】(よこあみ)1~2丁目                  昭和41年10月1日
 南本所横網町。初めは無許可の町屋だったが、宝永元年(1704)に認められて町奉行支配と
なった。明治5年陸軍用地(竹蔵跡)・伊勢津藩藤堂家・陸奥津軽藩津軽・蝦夷松前藩松前家など
の屋敷地をあわせて南本所横網町1丁目、平戸新田藩・上総一宮藩・上総久留里藩の藩邸などで2
丁目とした。同11年本所区に所属。昭和4年石原町・藤代町に加えて新たな横網とし、一部を東
両国(両国)に移譲した。同41年新住居表示を実施して現行の「横網」となる。
 この一帯は今も昔も両国名所の山だよ。百本杭・富士見の渡し・駒止石・椎木松浦・被服廠跡震
災慰霊堂・震災復興記念館・横網町公園・両国公会堂・両国国技館・両国駅・江戸東京博物館 etc
・・・がある。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『墨田区史』『墨田の歴史』

 横網の由来
 字形から「よこづな」に間違えられる。両国国技館があるせいだろう。で何故横網なのかは区の
調査でも判っていない。私も方々歩き回り、諸書を読み漁ったが未だに出会えない。漁労用語なの
か、網干場などの横っちょなのかまるで判らないのだ。知ってる人がいたら教えて頂戴。
 「よこあみ」をインドネシア・マオリ語で解すると「イホ・カウ・アミ」、「上流から押し流さ
れた土砂が横に方向を変えて堆積した(土地)」だという。横網の辺りはそういう地形で、なるほ
ど理には適っている。「千本杭」は土留めのために打った杭だ。

   
定斎の軋みせわしく橋渡る江戸の横網うぐいすの鳴く(白秋)
   
横網に一銭蒸気近づくと廻るうねりも君思はする(白秋) 



■両国橋駅 → 両国駅
 横網1丁目3番20号にあるJR総武線の停車場。明治37年4月5日それまで私鉄総武鉄道の起
点だった本所駅(錦糸町)から一駅だけ延長する形で「両国橋駅」として開業した。国有化される明
治40年まで東武鉄道が亀戸経由で乗り入れていた。昭和6年駅名から「橋」の字が取れ、現在名と
なった。同7年高架線が秋葉原経由で中央線お茶の水駅まで延伸し、総武線電車が運転されるように
なったが、同47年に総武本線が東京駅地下へ乗り入れるまで、この駅が房総方面への中長距離電車
の始発終点駅を務めていた。
 ホームは高架島式1面2線構造。ホームと改札階を結ぶエレベーターは西口側に設置されている。
かつて急行列車が発着していた島式ホームが北側高架下に2面あるが、現在は保線用機械などを留置
する資材置き場になっている。そのうちの1線だけは3番線と番号がふられているが、定期旅客列車
の発着はなく、夕刊を房総方面へ運ぶ新聞輸送列車が1本発車するのみ(日曜祝日除く)だ。昭和4
年建築の駅舎はしばらく機能を失ったまま放置されていたが、その後ビアホールとして改装された。
平成12年に大江戸線の駅が開業し、現在の形になった。




日本相撲協会
 横網1丁目3番28号の両国国技館内にある。大相撲の興行、相撲競技の指導・普及、相撲に関す
る伝統文化の保持などの目的によって設立された財団法人だ。母体は明治22年東京に本拠を置いた
「東京大角力協会」であり、その起源は江戸時代の相撲会所に遡る。
 大正14年12月9日時事通信社が「東京大相撲協会(東京大角力協会のこと)が、財団法人大日
本相撲協会に組織替え」と報道。12月28日財団法人設立認可。当時摂政皇太子だった昭和天皇の
台覧のおり下賜された奨励金から「摂政宮賜杯」(天皇賜杯)を作ったところ、一営利団体が天皇家
の菊花紋章の入った優勝杯を使用する訳にはいかず、それで財団法人認可を受けたとか。この認可も、
どうやら難しそうだと見て、あえて年末に申請して強引に認可を受けたという裏話が残っている。
 昭和2年1月5日大阪協会が解散し大日本相撲協会に合流し東西大相撲が合併。1月7日大正14
年~15年にかけて行われた東西連盟大相撲の成績を元に新しい番付を発表。1月8日役員改選し、
会長には福田雅太郎陸軍大将が就任。
 と「ウィキペディア」にあるが、同じページに初代理事長広瀬正徳海軍主計中将(大正9年~昭和
13年)とあり、会長と理事長が同居してたかのような記事がある。また昭和3年に「大日本相撲協
会」に改称とあるが、「日本相撲協会」の誤植か? 「日本相撲協会」のHPに沿革が記されていな
いので不明。2代目の理事長藤島(出羽海)は昭和19年に就任している。「日本相撲協会」への名
称変更は、敗戦後と思われる?

 ○2代目 昭和19年~昭和32年 出羽海寛市(横綱常の花寛市)

  同29年蔵前国技館開館。同32年自殺未遂で辞任

 ○3代目 昭和32年~昭和43年 時津風定市(横綱双葉山定市)
  相撲協会構成員(年寄、行司・呼出など)の65歳停年制、部屋別総当り制の実施、相撲茶屋
  制度の廃止(国技館サービスが代替)などの改革に尽力した。

 ○4代目 昭和43年~昭和49年 武蔵川喜偉(前頭出羽ノ花國市)
   昭和44年5月場所から勝負判定の参考としてビデオ映像を取り入れることを決断。同46年
  には蔵前国技館改装。また文部省(当時)より中学生力士の学校欠席問題が指摘されたのを機
  に、中学卒業見込前に相撲部屋に入門させることを禁止した。同48年には前年の国交回復を
  受けて中国巡業(北京と上海公演)を実現させ、大相撲の国際化を推進。


 ○5代目 昭和43年~昭和63年 春日野清隆(横綱栃錦清隆)
  新両国国技館建設。名横綱・名理事長で生涯を終えた。小岩の人。

 ○6代目 昭和63年~平成04年 二子山勝治(横綱若乃花幹士)
  土俵の美を追求して立合いの正常化に尽力し、「待った」の制裁金導入(後に廃止)や行司に
  「手をついて」と掛け声させたことが特筆される。しかし現役時代の動画を見ると、本人は両
  手を付かずに立ち会っている。

 ○7代目 平成04年~平成10年 出羽海智敬(横綱佐田の山晋松)
  巡業の勧進元興行から協会自主興行への変更、外国人力士の入門規制、新規入門の年齢制限、
  幕下付出の基準設定、年寄株の複数所有・貸借禁止、大関経験者の時限付年寄襲名許可と準年
  寄制度の創設。

 ○8代目 平成10年~平成14年 時津風勝男(大関豊山勝男)
  年寄名跡改革問題等で混乱した角界を収拾した。

 ○9代目 平成14年~平成20年 北の湖敏満(横綱北の湖敏満
  武蔵川理事長が実施した「年寄株貸借の禁止」という改革を取りやめ、「協会自主興行旧の勧
  進元制に復し、その一方で総合企画部の設置や広報部の強化によるファンサービスの充実を実
  施。さらに土俵の充実を目指し、幕内・十両の定員をそれぞれ東西1枚(各2人)増員させた
  代わりに公傷制度を廃止した。
  「朝青龍問題」に端を発し、「時津風部屋殺人事件」「若の鵬大麻事件」、「大嶽部屋露鵬・
  北の湖部屋白露山大麻疑惑」と不祥事続出で、その能力を疑われ、責任が問われたが、平成2
  0年9月終に辞任した。

 ※ 時津風事件については、両国3丁目の「時津風部屋」に記載してある。
 ※ 若ノ鵬事件については、亀沢3丁目の「間垣部屋」に記載してある。
 


 ○10代目 平成20年~平成22年 武蔵川晃偉(横綱三重ノ海剛司)

  不祥事で辞任を余儀なくされた北の湖に代わって就任したが、大相撲の存亡に関わる野球賭博
  事件が発覚して、他の理事と共に謹慎処分となり、代行を置いた。名古屋場所の開催が危ぶま
  れる事態となったが、場所後に復帰、謹慎中に胃癌の手術したことを告白、平成22年8月1
  2日終に辞任、部屋も藤島(大関武双山)に譲渡した。

 △同代行 平成22年 村山弘義(元東京高等検察庁検事長)
  7月4日~8月5日の間、謹慎・病気療養中の武蔵川理事長に代わり名古屋場所を開催した。
  就任時、複数の理事の反発を受けゴタゴタしたものの、文科省の指導で就任した。武蔵川の復
  帰により辞任、そのまま外部理事に留まった。

 ○11代目 平成22年~平成24年 放駒輝門(大関魁傑)
  武蔵川理事長の辞任を受けて就任。大問題解決の手腕を問われる。文科省は外部理事長を指導
  したが、力士組の理事たちが猛反発、力士組から選出した。
大相撲の存亡は、偏にこの人の双
  肩にかかることになった。来年定年のため立候補しなかった。

 ○12代目 平成24年~      北の湖敏満(横綱北の湖敏満
  理事改選選挙で理事に選任され、理事会の互選により理事長に選任された。しかしこの人を理
  事長に選ぶ辺りが、因循姑息というか、相撲社会の頭の程度が低いことを露呈している。また
  引き受ける本人も本人だ。



露鵬・白露山大麻検査陽性事件
 新聞の記事などによると、日本相撲協会は平成20年9月2日関取(十両以上の力士)に抜き打ち
で行った尿検査の結果、ロシア出身の幕内力士露鵬(28歳 ボラーゾフ・ソスラン・フェーリクソ
ビッ)と弟で十両力士白露山(26歳 ボラーゾフ・バトラズ・フェーリクソビッチ)からマリファ
ナ(大麻)に対する陽性反応が出たと発表した。相撲協会から連絡を受けた警視庁は大麻取締法違反
の疑いもあるとみて2人から任意で事情聴取を始めた。
 この日の検査は簡易的なもので、力士会に出席した69人の関取を対象に行われた。2人と同じロ
シア出身で元幕内若ノ鵬(ガグロエフ・ソスラン)容疑者が8月に大麻取締法違反(所持)の疑いで
警視庁に逮捕され、その後相撲協会から解雇されたのを受け、力士死亡事件をきっかけに設置された
同協会の再発防止検討委員会が尿検査の実施を検討していた。
 露鵬と白露山は、元若ノ鵬と親交が深かった。白露山は北の海理事長の部屋に、露鵬は元関脇貴闘
大嶽部屋にそれぞれ所属している

                                *
 9月8日簡易検査に続いて精密検査の一部でも大麻の陽性反応が出た露鵬、白露山の2力士を巡り、
緊急の理事会を開き、処分を含めた対応を協議することになった。役員を除く親方衆79人が、6日
東京・両国の国技館で臨時の年寄総会を開催した。協会執行部に早期の理事会開催を要求、これを受
け入れる形で8日に再発防止検討委員会と理事会、評議員会を開くことが決まった。鳴戸親方(元横
綱隆の里)は、

   私は検査の公平性は保たれていると思う

 と話した。ある中堅親方は、

   北の湖理事長の解任を求める声も一部にあったが、相撲協会自体が危機にさらされている

 などと厳しい表情で語った。協会トップで、白露山の師匠である北の湖理事長(元横綱)はこの日
協会に姿を見せないままだった
。理事会では、白露山の師匠でもある北の湖理事長(元横綱)の責任
問題や両力士、露鵬の師匠である大嶽親方(元関脇貴闘力)への処分も検討される見込み。北の湖理
事長は検査方法などを不服として検査のやり直しを望んでいるが、進退について各理事からの追及を
受けることは必至だ。
 A検体で陽性だった露鵬が予備のB検体の検査の権利を放棄することで、正規のドーピング検査の
流れではこれで「陽性」が確定。しかし露鵬側の塩谷安男弁護士は7日、

   手続きに問題がある中で、精密検査を繰り返しても意味がない

 と話した。しかしジタバタしている感も否めない。ロシア人は、日本国内では大麻に手を出さなく
ても、帰国して喫煙する。それ自体は日本では無罪だが、陽性反応は出る。解雇された若の鵬は帰国
喫煙を自供している。協会自体が日本人の相撲離れ、外国人の即戦力で、安直な運営をして金儲けし
ようとする腐った性根が問題だ。横綱の品格? そんなことより大相撲全体の品格を考えてみたらど
うだ? 相撲は国技じゃねえんだよ。


いっとくが、相撲は「国技」「神事」じゃないよ
 「相撲=国技」であるとした人は判らないが、「国技館」の名称を命名委員会に提案して「両国国
技館」の名称に落ち着いたことを踏まえて、NHKのアナウンサーが、大相撲の雰囲気を盛り立てる
ために、「相撲=国技」「相撲=国技」と連呼したことが、長い年月を経て国民の脳裏に染み付いて
「相撲は国技なんだ」と思い込んでるだけのことなのだ。聖徳太子が「十七条の憲法」で以て謳った
訳でも、律令制度でそう決めたものでもない。また明治以後にも「相撲を国技とする」いう法律は発
布されていない。
 相撲の始まりが、出雲の野見宿禰と大和の当麻蹴速の勝負だというが、二人は相撲を取ったのでは
なく、殴り合い蹴飛ばしあいの喧嘩をしたのだ。決まり手は「蹴殺し」もしくは「腰踏み折り」だ。
こんな決まり手は現在の相撲の手にはない。
 角力・相撲が国技なら、剣術や柔術、合気道などの和の武芸十八般は国技ではないのか? 国技を
格闘技のみに限るのも可笑しなことで、伝統工芸に見られる手練の技も「国の技」ではないのか? 
人間国宝といわれる人々の手練技や芸もまた「国技」に値しよう。「相撲は国技」という主張は、単
にNHKのアナウンサーによってもてはやされた流行語に過ぎないんだよ。
 無論相撲は国技といってもよいが、相撲だけが国技だという訳ではない。言い換えるならば「国技」
という言葉が相撲にだけ用いられるのは、まあ相撲という言葉の修飾語だろう。そうはいうものの、
おいらは相撲大好き人間で、千代の山・千代の富士が贔屓だった。相撲人気が低迷して、おいらもこ
れといった好みの力士もなく・・・その内凄いのが出てくるだろう、と期待している。白鵬は嫌い。
琴欧州が好きだがこれ以上は望めない。日本人の横綱は当分出ないだろう。根性がないもの!
 といっていたら、平成20年5月場所で琴欧州が欧州人・白人として初めて優勝した。
 また「相撲=神事」という馬鹿がいるが、神道に「相撲が神事だ」という因習はない。相撲が武器
を持たない格技で、仕切りという両手を地面につける不恰好で不安定な姿勢からスタートすることが
体の大きな者も、小さな者も平等条件であるところが、何かすっきりしているので、神事と結びつけ
たのだ。當麻蹶速も、野見宿禰も死んで神になったが、相撲を取った時に神ではない。また誰でも死
んだら神と崇められるのは神道の鉄則だ。

 八百長相撲
 相撲が神事なら、だからこそ八百長相撲で良い訳で、例えば大山祇神社で行われる「一人角力」は
「稲の精霊」と「一力山」による3本勝負で行われ、必ず稲の精霊が2勝1敗で勝つ。つまり初めか
ら勝負は決まっている。つまり八百長だ。奉納相撲というものは本来八百長で、八百長相撲を取った
からといって神を冒涜したことにはならない。元々力士とは殿様のボディーガードのことで、その訓
練の一環として組み打ちは行われた。その頃は地面に正方形の線を引いて力比べをしたので、相撲の
のことを一昔前には「角力」と書いたものだ。また「相撲」は「相僕つ」で、殴り合いのことだ。当
節流行のサッカーも、元はといえばローマ時代に兵士の訓練のために行われたのが始まりで、当時は
殴り合いの格闘技だった。ゴールポスト内にボールを蹴り込むようになったのは、イスラムとの戦い
が始まってからで、あれはイスラムの武将の首を城門内に蹴り込んだことに由来がある。相撲興行は
元和偃武以後、天下泰平になってしまって、武士の枠が減って生活困難になった力士たちが、生活の
ために見世物としての角力を始めたのが相撲興行の始まりで、被差別部落民の限定職業の1つである
「舞々」だ。見世物として巡業して歩いたから、「初っ切り」と同じで演出された相撲を見せた。仲
間内でやる勝負だから芝居だ。「舞々」は芸能で「芝居」もその内だ。芝居は、芝居だから嘘事だ。
しかし観客は嘘と解った上で演技や物語を楽しんでいる。
 相撲が大相撲として確立するのは幕末で、京都角力、大坂角力など各地に興行形態はあった。女が
上半身丸出して相撲を取る「女角力」でさえあった。だから大相撲は健全なスポーツとして始まった
ものではなく、見世物、パーフォーマンスとしての相撲だったから、勝敗は二の次、面白おかしく見
せる興行だったとしても可笑しくない。歌舞伎が役を演じて見せるのと本質は同じだ。歌舞伎を見て
真実ではないと怒る馬鹿はいないだろう。しかし角力が年に2回本場所を行うようになって人気を博
すると、大名が抱え力士として領国の大男を力士に仕立て上げるようになる。国の名誉を担うことに
なったから、自然に角力は真剣勝負に変化してきた。この頃の角力は東西対抗で勝ち星の多い優勝力
士を表彰する制度はなく、勝負にこだわるようになったのは明治42年の優勝制度が確立されてから
で、それがため東西対抗から、一門別総当り制になっていった。一門対抗だから真剣勝負になる訳で
八百長相撲の入り込む余地はなかった。今のような八百長相撲が罷り通る様になったのは、大相撲の
近代化、民主化の賜物で、茶屋制度はなくなるは、部屋別総当りになるは、巡業は協会が仕切るは、
新弟子は相撲教習所でイロハを教えるは、では志操堅固な力士は育つまい。況して国を挙げて金が敵
の世の中、現代っ子の力士たちが金、金、金に走って功利主義に陥ったとて何の不思議があろうか。
八百長相撲、結構じゃないの。




大麻汚染 露鵬・白魯山解雇 北の湖理事長辞任劇
 大相撲への信頼は地に堕ちた。新体制の下、抜本的な改革を速やかに進める以外、再生の道はない。
平成20年9月8日粘っていた北の湖理事長が辞任した。ロシア人兄弟力士の露鵬と白露山から大麻
吸引の陽性反応が確認された問題の責任を取らされた。しかし理事は辞めていないところを見ると責
任感は持ち合わせていないようだ。
 白露山の師匠でもある北の湖に対しては、角界内からも責任を問う声が上がっていた。理事長とし
ての求心力も失っていたから、辞任する以外選択肢はなかった。理事会は、露鵬と白露山を解雇処分
も決定した。表向き2人は、大麻の吸引を否定し続けていたが、関係者にロスアンゼルス巡業のころ
から吸引していることを告白していたとか。
 今回の処分は、世界反ドーピング機関公認の検査機関が、科学的に陽性反応を確認したことを考え
れば、どう抗弁しようと当然の処分だ。先月解雇された同じロシア人力士の若ノ鵬は、大麻所持容疑
で逮捕され、本人も吸引を認めた。一方、露鵬と白露山は逮捕されておらず、警視庁による捜索でも、
大麻所持などを裏付ける証拠は見つからなかった。このため、最も重い解雇ではなく、出場停止など
の処分になるとの見方もあった。
 しかし協会としては、2人に厳罰を科すことで、薬物追放の姿勢を公表したということだろう。北
の湖については、平成14年の就任以来、危機管理能力の不足が指摘されてきた。横綱朝青龍の2場
所出場停止問題や、時津風部屋の力士暴行死事件などでは後手の対応が目立った。問題が起きた際に、
53もある部屋を束ね、再発防止に取り組むリーダーシップが理事長には求められる。不祥事の連鎖
を断ち切れなかった北の湖は、指導力も欠いていた。
 後任の理事長には、理事の武蔵川晃偉(元横綱三重ノ海剛司)が選ばれた。ファンの厳しい目を意
識し、大胆に改革を進める必要がある。まずは、理事に外部の有識者を迎え入れ、閉鎖的といわれて
きた協会運営に新たな発想を取り入れなくっちゃ。基本的には各部屋に任せている力士教育の見直し
も必至だ。協会が定期的に研修・監視を実施する体制を整えるべきだ。問題の目立つ外国人力士に対
しては、力士としての自覚や立ち居振る舞いを身に着けさせる特別なカリキュラムも必要。14日か
らは秋場所が始まる。新体制で臨む再出発の場所としてファンが納得する熱戦が求められる。八百長
なんぞやってる場合じゃねえぞ。

                        *
 9月21日大相撲の大麻問題で、武蔵川理事長らは両国国技館で記者会見し、元幕内露鵬・元十両
白露山が陽性反応を示した検査や解雇処分の正当性を改めて主張。会見は2人の代理人が質問状を提
出したことや一部の報道を受けて開催。再発防止検討委員会の報告書に基づき、2日の検査は専門家
の協力を得て公正に実施したことを説明し、その際に2人が6月に米国で大麻を吸ったと話したとす
るやりとりも公表した。
 同席した弁護士は力士の大麻吸引が反社会的で、社会に及ぼす影響が大きいことを指摘。解雇は「適
正な処分。重過ぎると思っていない」と述べ、これらの内容を質問状に対する回答として2人に対し
て郵送したという。
 ただ相撲協会は当日、関取69人全員を検査したと発表したのは誤りで、1人は体調不良で欠席し
たことも明らかにし、今後、他の力士も含めて検査したい考えを明かした。
 また簡易検査で別の力士1人が陽性を示したと一部で報じられた点について、この力士は1度目の
検査で判断がつきにくかったが、2度の追加検査でともに陰性だったと説明、理事長は「薬物乱用を
防ぐため全力を挙げる」との決意も改めて強調した。

 
若麒麟大麻所持逮捕

 力士1人が陽性を示したと一部で報じられた、この力士こそが若麒麟で、1度目の検査で判断がつ
きにくかったが、2度の追加検査でともに陰性だったと説明されていた。しかしその舌のねも乾かな
い平成21年1月30日、乾燥大麻16gを所持していたとして大麻取締法違反(所持)の現行犯で
神奈川県警察に逮捕された。
神奈川県警察は別の大麻譲渡事件の捜査中、容疑者の勤務先である六本
木のCD販売店の事務所内を家宅捜索し、この際に居合わせた若麒麟も所持しているところを発見さ
れ、現行犯逮捕に至った。日本人力士が同法で逮捕されたのは初めてのことだ。
若麒麟は露鵬、白露
山が解雇される要因となった平成20年9月2日の簡易キットによる抜き打ち尿検査では陰性だった
ものの1回目の検査結果では不鮮明だったために2度再検査を受けていた。
逮捕翌日に師匠の尾車が
若麒麟の弁護士を通じて、引退の意思を確認し、同日付で引退届を提出した。この引退届の扱いにつ
いて、日本相撲協会は一応受け取ったものの、扱いを保留とした。そして、最終的には2月2日の理
事会において若麒麟の解雇、及び師匠の尾車親方の二階級降格(委員→年寄)が決定された。

 貴乃花親方 理事に当選
 平成22年2月1日の理事選において当選ラインの10票を獲得して当選した。
 相撲協会理事選挙は10人の改選で5つある一門ごとに理事候補を調整して無投票で決定すること
が慣例となっており、二所ノ関一門には既に現職理事の放駒と二所ノ関のほか、新人の鳴戸が立候補
を予定していたが、これに貴乃花が加わって投票になるところだった。昨年末から一門で候補者選定
会議が行われたものの候補者が調整できず、結局貴乃花は1月8日に一門を離脱し単独で理事選に出
馬することを正式に表明した。マスコミでは「貴の乱」と称した。1月17日初場所8日目、6年半
振りに大相撲中継で正面解説を務め、テレビの前で所信を表明した。19日には一門の緊急会合が開
かれ、貴乃花を支持する間垣、阿武松、大嶽、二子山、音羽山、常盤山の親方6人が事実上破門させ
られた。同時に二所ノ関一門からは現職の放駒と二所ノ関のみが立候補することになり、鳴戸は立候
補を断念した。4期(8年)振りに評議員の投票で11人が10の理事席を争う形になった。武蔵川
理事長はこの騒動に対し厳しく批判するなど話題となったが、理事選の投開票で上記7親方の票以外
にも3票の上積みがあり、結果10票を得て当選した。落選したのは立浪一門の大島親方。新理事会
の結果、理事長は武蔵川親方の続投となった。
 選挙結果。
 出羽一門29票+無所属2票の31票で、武蔵川11票・北の湖10票・出羽海10票。二所一門
23票で、放駒11票・二所ノ関11票。1票が貴乃花に流れた。時津風・高砂一門30票で、陸奥
10票・鏡山10票・九重10票。立浪一門20票で、友綱10票・大島8票。2票が貴乃花に流れ
て大島親方が落選した。貴乃花グループ7票、3票が流れてきて当選。なお陸奥・鏡山も初当選。
 武蔵川=横綱三重の海・北の湖=横綱北の湖・出羽海=関脇鷲羽山・放駒=大関魁傑・二所ノ関=
関脇金剛・陸奥=大関霧島・鏡山=関脇多賀竜・九重=千代の富士・友綱=関脇魁輝・貴乃花=横綱
貴乃花。

 安治川親方協会退職騒動
 貴乃花理事当選に際して造反者2名を出したとされる立浪一門は反省会を開き、造反者を裏切り者
として締め上げた。その結果、2日夜11時安治川親方(元前頭光法)が大嶽部屋で緊急記者会見を
き、貴乃花親方に投票したことを明かし、一門に迷惑をかけたとして協会から退職する意向を表明
した。まあ詰め腹を切らせたのだろう。
 しかしそのことが国民の反発を買い、相撲協会と立浪一門に非難抗議が殺到、文部科学省からも物
言いがつき、事の重大さに慌てた立浪一門は腰砕けになり、一門の総帥友綱親方がが安治川親方に話
を持ちかけ、昨日の元気は何処へやら、自己保身に走って退職撤回を求めた。まあ半分脅かしたのだ
ろう。安治川親方は友綱親方と共に記者会見に臨み退職を撤回した。一件落着、目出たし目出たしだ
が、安治川親方は針の筵を踏むことになる。しかし貴乃花親方による改革の狼煙に呼応したものが3
人いたということは、もっといるということだ。この次の選挙ではロートル親方連中が定年退職する
ので貴乃花に共鳴する者は続出するだろう。その時に安治川親方に春が来る。
 



維持員席暴力団観戦事件
 大相撲への信頼は地に堕ちた。またぞろ暴力団との関わりだ。平成19年名古屋場所、テレビで映
る特上の観戦席で山口組系暴力団弘道会の親分クラスの組員延べ55人が観戦したことが判明。しか
もその入場整理券を現役の親方である木瀬(木村瀬平 肥後ノ海)、清見潟(大竜川)の2人が手配
していたというからさあ大変、暴力団を排除しつつある最中のことだけに相撲協会も困った困ったと
いうことだ。ただ親方2人が直接暴力団に頼まれて券を手渡したということではないらしい。本人ら
が薄々感づいていたかも知れないが、頼んだ者も、手渡した先も暴力団員ではない。暴力団が何故そ
んな席にこだわったのかというと、テレビに映るということが大眼目だったらしい。刑務所ではテレ
ビ番組を厳選してプログラミング、自動的に付いたり消えたりする、相撲は食事時間中ではあるが場
所中はリアルタイムで見ることができるそうだ。大相撲は正面固定カメラだから、正面席の観客は2
時間ほどは映りっぱなしという訳で、いわば力士よりも映り出される時間は長い。弘道会はそこに目
をつけた訳だが、銃砲刀剣類所持等取締法違反容疑で府中刑務所にいる山口組六代目組長司忍(篠田
建市)に元気な姿を見せて孝行の意思を表明したのだとか。因みに弘道会は司忍の出身母体で司が創
設した組織だ。相撲協会は2人処分するとか・・・
 平成22年5月27日木瀬親方は2階級降格で、委員から年寄に、さらに部屋の力士は一門預かり
となり、事実上の部屋閉鎖。給与的には20万円の減給となる。清見潟親方は関与が薄いとして譴責
処分に終わった。またこの事件に関わり、維持員席の券を暴力団に融通した維持員6人は資格が剥奪
された。

 溜席(維持員席)
 維持員とは大相撲に協力した人、有り体にいえば130万円以上の寄附をした人をいう。130万
円は6年分の席を購入したことに匹敵する。維持員は優遇され、土俵周りに設定された300席、俗
に〝砂かぶり〟といわれる特等席で相撲観戦ができる。その内正面39席が一般に販売され、これを
溜席という。つまり300席も溜席だし、一般に販売される溜席も溜席という。そこで一般に販売さ
れる以外の溜席を維持員席と呼んで区別している。しかし実際は観戦上の特等席という訳ではではな
いのだ。低すぎて意外に見にくいからだ。最上等席は桟敷(枡席)の最前列だ。



 日本相撲協会存亡の危機(Ⅰ)

■野球賭博事件

 五月場所が開催されている最中の平成22年5月19日翌日発売の週刊新潮(5月27日号)が、
大関琴光喜啓司(佐渡ヶ嶽部屋 田宮啓司)が暴力団を胴元とするプロ野球を対象とした野球賭博に
手を染め、関与していたと報じられる。記事では阿武松部屋所属の床山床池の誘いを受け賭博に参加
したとされ、また阿武松部屋に所属していた元幕下力士若隆盛の古市満朝(38)に1億円の口止め
料を払うよう恐喝されているとも掲載されることが判明した。
 またこの記事では琴光喜とは別の阿武松部屋の力士の関与も取りざたされている。
 琴光喜自身は夏場所11日目の取組後に「知らない」と否定。そこで協会は琴光喜の師匠である佐
渡ヶ嶽親方、仲介役床池の師匠である阿武松親方などからも事情を聴取したが、2人とも関与を否定
した。さらに夏場所14日目の5月22日に警視庁が琴光喜から任意で事情聴取をするが、約2時間
に亘って事実関係を確認したが、ここでも琴光喜は疑惑を否定した。
 場所後の5月24日に開かれた横綱審議委員会においても協会はいずれの賭博への関与を否定して
いるが、「警察が捜査しているので静観するしかない」とも述べている。同27日協会は理事会で琴
光喜を事情聴取したが、処分の話は出なかった。また野球賭博疑惑に関与していると報じられた床池
と力士からも事情聴取を行った。
 6月4日同日発売の写真週刊誌フライデーにおいて、阿武松部屋の元幕内力士片山伸次が野球賭博
への関与を告白、阿武松親方も暴力団と交際があることを告発したことが記事になり、相撲協会は同
日同親方から事情を聴くも親方は全面否定した。
 これを受け協会は事態の再調査を指示。9日協会は生活指導部特別委員会を開き、琴光喜を理事会
で事情聴取したことを報告、親方や十両以上の力士による講習会を11日に開くとした。この時点ま
で力士の賭博関与について協会は一切認めていなかったが、11日協会は一転して複数の現役力士や
親方が野球賭博に関与していたと発表。これはそれまで報道されてきた力士とは別の力士で、師匠を
通じて自己申告してきたものだ。これを受け、相撲協会は14日までに過去5年間に遡って野球を含
む違法賭博への関与を自己申告すれば、情状酌量を汲んで厳重注意のみ、それ以降に発覚した場合は
厳罰処分とするとしたが、後にこの方針は撤回される。

 大関琴光喜は賭博への関与を申告した他の64人と同じく厳重注意処分を受けたが、師匠の佐渡ヶ
嶽親方と琴光喜は、13日夜荒川区の武蔵川部屋に、武蔵川理事長を訪ね野球賭博に関与した事実を
告白。実態調査でも賭博行為を認める上申書を提出した。武蔵川理事長は、

   (琴光喜は)脅されていたし、自分だけでなく家族も含めて危険ではないかと判断した
   のだろう。本人も大変反省し後悔もしていた


 と説明。琴光喜には警察の捜査に協力するよう要請したという。
 これを受け、協会は「6月14日までに過去5年間に遡って野球を含む違法賭博への関与を自己申
告すれば、情状酌量を汲んで厳重注意のみ、それ以降に発覚した場合厳罰処分とする」と発表したも
のの、後にこの方針は撤回される。
 申告期限の6月14日それまで一貫して否定してきた琴光喜が野球賭博への関与を明らかにし、こ
の日までに野球賭博に29人、賭け麻雀、ゴルフ、花札等の賭博に36人の計65人が関わったと申
告してきたことを発表した。翌15日琴光喜は翌月に開催される名古屋場所の出場辞退と謹慎を申し
出、協会はそれを受理。また賭博関与を申告した65人を厳重注意とすると発表した。同日、協会は
管轄の文部科学省に報告、謝罪したが、これに対して文部科学省は名古屋場所開催までに一定の解決
を図るように求めた。また外部有識者による第三者機関の設置と、関与した力士の実名公表も求めら
れたが、実名公表については警察の強い要請があり、この時点では相撲協会は公表できないとしてい
た。

 ●文科省激怒 財団法人外しか? 名古屋場所中止か?
 日本相撲協会を監督する文部科学省が、ついに〝強権〟を発動した。相撲協会の陸奥生活指導部長
(元大関霧島)は16日、文科省に出向き、実態調査で賭博行為を申告した65人に対し、15日の
理事会で厳重注意処分としたことなどを報告した。これを受け文科省は外部有識者による調査機関の
設置や一部の実名公表を要請。実名が公表できない場合は名古屋場所(7月11日初日、愛知県体育
館)の開催中止もやむなしとの強い姿勢を示した。また同日、野球賭博に関与した29人の中に複数
の親方や関取が含まれていることも判明した。

 16日大相撲の力士や親方が野球賭博にかかわっていた問題で、元関脇貴闘力忠茂の大嶽親方(4
2歳)と時津風部屋の幕内力士豊ノ島大樹(梶原大樹 29歳)が、警視庁の事情聴取を受けていた
こと判明、2人は事実を認めた。
 18日時津風親方(時津海正博 坂本正博 36歳)と、出羽海一門の境川部屋の豊響隆太(門元
隆太 24歳)・豪栄道豪太郎(澤井豪太郎 25歳)も関わっていたことが判明した。境川豪章は
元小結両国梶之助。さらに武蔵川理事長の部屋から雅山哲士(竹内雅人 33歳)が、20日には横
綱千代の富士の九重部屋から千代白鵬大樹(垣内大樹 27歳)が、そして仲介役の床山床池(池田
太=29歳)が所属する阿武松部屋では10人が関与、野球賭博ではないが、賭けゴルフをしていた
のが理事で力士の生活の面倒を見る陸奥親方。こりゃいよいよ大変だわい。民主主義の世の中になっ
て、相撲取りがスポーツ選手に格上げになった。昔ならヤクザ同然の相撲社会、賭博ぐらいでは問題
にならなかった。それがそのまま変わることもなく今日まで来てしまった。昔はプロ野球だって、競
輪・競馬だってヤクザ同然、やくざ者もいた。それが時の流れで、ヤクザ性を何とか払拭してヤクザ
と縁を切って見せた。大相撲も世界のスポーツに変容し、ヤクザ性を切り捨てねばならぬ時に来たっ
て訳さ。しかし文科省が激怒するなら、

   暴力団員は、直接間接を問わず、スポーツ選手とその関係者、芸能人とその関係者、政
   治家とその関係者と接触してはならない。この禁を犯したものは死刑とする。


 という法律を作ってやるこった。そうすりゃあヤクザ者は慌てて逃げていくさ。こういう法律が作
れないのは、政治家自身が選挙のためにその筋との縁を切れないからなのだ。いっとくがヤクザの3
割は朝鮮人だが、後の7割は出自がどうあれ一応日本人だからね。

 古市逮捕
 6月24日琴光喜を恐喝したとして古市満朝を逮捕した。古市は野球賭博の勝ち金を要求した琴光
喜に対して、野球賭博をしていることを世間にばらすぞと脅し、この口止め料として一億円の支払い
を要求したという。本人は胴元との口利き料を受け取り仲介の労を取ったが、相手が「琴光喜は未払
い金が一億円あるとがいっている」と伝えただけだという。
 古市は、大阪の交野市の出身で、父親は相撲の「古市道場」を運営し、幕内力士豪栄道も育ててい
る。古市は兄弟で相撲界に入り、若貴兄弟と共に将来を嘱望されたが、怪我で挫折、幕下30枚目を
最高位に廃業した。

 特別調査
 特別調査委員会の伊藤滋座長(78)は工学博士で都市計画や都市防災の専門家。作家伊藤整の息
子だ。早稲田大学特命教授、慶応大学大学院客員教授、東京大学名誉教授。伊藤滋都市計画事務所主
宰。都市計画家協会会長。国土審議会、都市計画中央審議会委員を歴任。内閣官房・都市再生戦略チ
ーム座長。専門は、都市防災論、国土及び都市計画。大麻問題を受けて日本相撲協会が武蔵川理事長
体制に刷新された平成20年9月から協会の外部理事も務めている。
 その他のメンバーは、村山弘義(元東京高検検事長)・吉野準(元警視総監)・奥島孝康(前早大
総長)・野呂田芳成(元農相)・山口弘典(日本プロスポーツ協会副会長)・山本浩(法大教授)・
長尾敏成(弁護士)・村上泰(同)・望月浩一郎(同)の10人だ。

 平成22年6月28日協会は特別委員会の勧告を受けて以下の決定をし、名古屋場所を開催するこ
ととした。

   ①.大嶽親方と琴光喜を除名または解雇、時津風親方を降格以上の処分とし、懲戒手続
    きを経て7月4日に決定する。大嶽親方は常習性が強く、20~50万円を賭け、そ
    の借金が2500万円に上っている。琴光喜は常習性が強く1~5万円を賭け、最初
    の聞き取りで「全くやっていない」と虚偽報告をしたことが重視された。大嶽は即日
    辞表を提出したが受理されなかった。なお大嶽部屋は部屋付き親方(元十両大竜)が
    継承した。しかし琴光喜の虚偽報告は大嶽を庇うためだったことが判明した。
   ②.幕内の豊ノ島、雅山、豊響、豪栄道、隠岐の海、若荒雄、十両の千代白鵬、大道、
    春日錦、清瀬海、普天王、幕下の古市、光法は名古屋場所出場停止。嘉風については
    賭博の内容を再検討する。
   ③.武蔵川理事長と出羽海、九重、陸奥、八角、阿武松、佐渡ケ嶽、境川、春日野、宮
    城野、木瀬の各親方を東京謹慎とし名古屋入りさせない。7月4日に理事長代行を決
    定する。嘉風の師匠、尾車親方の謹慎は保留。
   ④.床山の床池を謹慎させる。
   ⑤.阿武松部屋で賭博に関与していない力士の出場については再検討する。部屋全員の
    謹慎は保留。
   ⑥.謹慎期間は7月4日から名古屋場所千秋楽の25日までとする。

 21日相撲協会は外部の第三者による特別調査委員会(委員長は伊藤滋東大名誉教授(日本相撲協
会外部理事)を設置。委員に元警視総監の吉野準(日本相撲協会外部理事)、元東京高検検事長村山
弘義(日本相撲協会監事)が就任。更に元農林水産大臣野呂田芳成前衆議院議員ほか外部有識者を委
員に招聘し、一連の処分内容を判断する権限を与えることを発表した。これを受け武蔵川理事長が会
見に臨み、名古屋場所の開催中止の可能性を示唆した。なお開催については特別調査委員会の報告が
7月4日に行われる理事会で諮られるとされた。なお自己申告すれば厳重注意で済ませるとした方針
を変更したことも述べており、理由として、「これほど大勢の人間が賭博に関わっていたのは想定外
だった」としている。なお理事長の進退問題についてはこの時点では取らないとした。
 27日に開かれた特別調査委員会で相撲協会に対して名古屋場所開催するための条件を盛り込んだ
案がまとまり協会に対して勧告、翌日の臨時理事会と評議員会でほぼそれらを受け入れ、名古屋場所
の開催を決めている(個々の勧告、処分は後述)、最終的な処分決定は7月4日の理事会で決めると
している。また同日、大嶽親方が協会に退職願を提出しているが、協会は同親方の処分を検討するた
め保留した。29日監督官庁の文部科学省に理事が訪れ、一連の処分勧告受け入れを報告、名古屋場
所の開催を了承されている。


 [処分決定]
 7月4日理事会は、勧告通り、大嶽親方と大関琴光喜を解雇(但し退職金は支払う)」。時津風親
方は主任から平年寄(5年間昇格なし)へ、阿武松親方は委員から平年寄(10年間昇格なし)へ降
格とした。また理事長代行には協会側から放駒親方を推す声があったものの、結局村山弘義外部理事
に決まった。期間は千秋楽の25日まで。謹慎親方の名古屋入り禁止は、弟子の監督指導ができなく
なる部屋も出てくるため解除した。また事件の発端となった阿武松部屋の床池が退職願、幕下力士古
市が廃業届を提出したが、解雇とするため保留となった。貴乃花理事が、琴光喜の処分について十両
尻からの再出発など軽減策を嘆願したが退けられ退職届を提出したが却下された。翌日貴乃花理事は
退職の意思を撤回した。

   処分された力士(謹慎休場)
   雅山哲士(武蔵川)・豊ノ島大樹(時津風)・豪栄道豪太郎(境川)・豊響隆太(境川)
   ・若荒雄匡也(阿武松)・隠岐の海歩(八角)・普天王水(いずみ 出羽海)・千代白
   鵬大樹(九重)・清瀬海孝行(木瀬→北の湖)・春日錦孝嘉(春日野)・大道健二(阿
   武松)・古市貞秀(阿武松)・光法賢二(宮城野)・大和富士充(阿武松)・松緑哲也
   (阿武松)・能登櫻和也(阿武松)・大瀬海善嗣(阿武松)・松乃海航貴(阿武松)

   関わりが軽微で処分されなかった力士
   嘉風雅継(尾車)・薩摩響剛(境川)・城ノ龍康充(境川)・豊光敏也(時津風)・北
   勝国英明(八角)


   弟子の関与により処分された親方(謹慎)
   武蔵川理事長・出羽海事業部長・九重審判部長・陸奥生活指導部長・八角生活指導副部
   長・佐渡ヶ嶽・境川・春日野・木瀬・宮城野

   弟子の関与が軽微で処分されなかった親方
   尾車

   仲間内で、花札・麻雀・賭けゴルフなどの賭け事を数千円程度していた者
   [力士]白鵬翔・琴奨菊和弘・稀勢の里寛・鶴竜力三郎・垣添徹・朝赤龍太郎・栃乃洋
   泰一・春日王克昌・琴春日桂吾・霧の若太郎・将司昴親・旭南海丈一郎
   [親方]佐渡ヶ嶽・白玉・粂川・陸奥・東関・八角・松ヶ根・若富士


 ●ヤメ検 大沢孝征弁護士の異論
 大沢弁護士によると、賭博行為は違法だが、内々の賭博行為は罰さないのが原則で、警察官だって
麻雀ぐらいはやる。また賭博罪は軽く罰金刑のみだ。委員会は「今回の賭博事件で暴力団との関係は
ない」と発表した。暴力団との関係がないのなら、今回の賭博行為は「内々の行為」ということにな
る。だから大嶽親方は特別としても、琴光喜を解雇したり、野球賭博をやったと申告した力士たちを
謹慎休場させるのはやりすぎだ、という。また暴力団と関係があるというのなら、処分は軽すぎる。
つまり今回の決定は法律的にバランスが取れない、と異論を唱えた。
 元来、相撲は国技でもなければ神事でもない。土俵入りは勝利の踊り端を発し、神憑りのものでは
ない。2、30歳台の若者に「横綱の品格」とか、「力士の心構え」といったって、土台無理な話だ
ろう。賭博が悪事なら、競輪・競馬・ボートレースはどうするんでい。宝くじだって射幸心を煽って
るじゃあねえか。暴力団と繋がることが不可なら、「暴力団員とその準構成員は、直接間接を問わず
相撲及び相撲関係者と接触してはならない。これに違反したものは死刑に処する」ってえ法律を作っ
てやればいい。神事だ、国技だというなら、国を挙げて相撲取りに徹底した人間教育を施すことだ。
「相撲取り崩れ」「取的崩れ」といって、廃業した力士が暴力団員になったり、そのシンパになる例
は多い。先の法律を作れば、相撲界と暴力団の繋がりは100%切れるわいな。しかし相撲がB地区
に端を発し、B地区との関わりで今日があるってことを忘れんなよ。暴力団員の7割がB地区出身者
であり、2割が在日とその帰化人だってこととも合わせて忘れねえこった。

 悩ましいNHK結局中止
 名古屋場所を放送するかどうかで悩んでいる。視聴者からの要求は6~7割が「放送するな」とい
うもので、放送したくない方向だが、放送しなければ、民放に放送権を奪われかねない。NHKには
箱根駅伝を日本テレビに奪われた苦いトラウマがある。
 7月6日協会とNHKの話し合いがもたれる。
 結果、村山理事長代行は中継を希望したが、NHK福地茂雄会長は名古屋場所の生中継を中止する
ことを伝えた。理由は「相撲の改革の道筋が見えない」ことと、コールセンターがパンクするほどの
視聴者からの異常な中継反対の声に抗し得なかったことによる。マスコミも異常なら、国民も異常だ
わいな。なお放送は6時台にダイジェスト版で行った。

 永谷園
 本場所で懸賞金を出してきが、名古屋場所の懸賞金掲出および、呼出着物広告を中止することを決
定。なお同社は懸賞金本数トップの企業でもあった。これ以降も、懸賞金掲出や呼出着物広告を中止
する企業が続出し、名古屋場所は見た目も寂しい限りとなった。

 青森巡業中止
 また8月12日に予定されていた青森市の巡業の中止が決定したと、6月29日主催の青森朝日放
送発表。巡業の中止は平成7年の阪神淡路大震災に伴う神戸巡業の中止(4月)以来15年振り)と
なる。この青森巡業は同局の20周年記念イベントの一つとして企画されていたものだった。

 平成22年名古屋場所
 相撲協会は天皇杯をはじめ総ての表彰を辞退して開催した。これで優勝力士は約1000万円の損
になる。客席はマス席までガラガラ、懸賞金はつかず、大相撲は地獄を見た。全勝優勝し、大鵬の持
つ連勝記録45を抜き歴代3位になった白鵬は、天皇賜杯を胸に抱けず涙した。
 しかし8月3日天皇陛下から直接白鵬に書簡が下げ渡され奮闘を労われた。これは異例のことで、
史上初めてのことだ。白鵬は大感激しニッコリ。協会は宮内庁に白鵬を御礼訪問させることとした。

 家宅捜査
 7月8日、野球賭博に関し警視庁は、琴光喜や大嶽の自宅、阿武松部屋、名古屋場所の宿所など3
0ヶ所を家宅捜査、携帯電話やメモ、名刺などを押収した。容疑者の中には、携帯電話を売り飛ばし
たり、記録を削除したりしていたという。中井国家公安委員長は記者会見で、「名刺には暴力団のも
のもあったと聞いている」と発表、事態によっては秋場所の開催さえ危ぶまれることとなった。

 新たな問題
 平成22年7月14日名古屋場所の4日目、佐ノ山(元大関千代大海)が野球賭博に関わっていた
と翌日発売の週刊新潮が報じることが明らかになり、特別委員会は追加調査することになった。佐ノ
山は完全否定。裁判も辞さないという。この件により、収束に向かったと思われた問題が蒸し返され
て、名古屋場所を開催したことさえ問題になることになった。
 特別委員会(座長=伊藤滋・早大特命教授)は16日、佐ノ山が野球賭博に関わっていたとの週刊
誌報道について、「記事は明らかに信用性を欠くと判断した」と発表した。調査委によると、この週
刊誌報道を受けて佐ノ山ら4人の関係者から事情を聴取。週刊誌の記事で触れている、賭博のやりと
りを記したメモについて「賭博を仲介する人物が証拠になってしまうメモを残すことはありえず、全
体として佐ノ山親方は誠実に回答しており、供述は信頼できる」とした。週刊新潮側は「記事には絶
対の自信がある」と反論したため、佐ノ山は訴訟も辞さぬ構え

 さらに新たな問題
 平成22年7月16日貴乃花親方が大相撲野球賭博問題渦中の6月、新弟子の勧誘で愛媛県を訪れ
て児童生徒の保護者らと会食したり、相撲の稽古を見学したりした際、地元の暴力団会長が同席して
いたことが、県警関係者らへの取材で判った。貴乃花親方は朝日新聞の取材に「暴力団会長との面識
はない。保護者らに確認したが、席にそうした方はいなかったと聞いた」と話している。
 暴力団関係者との交際疑惑が浮上している貴乃花親方(37=元横綱)が17日、日本相撲協会の
村山理事長代行と特別調査委員会に事情説明を行った。村山理事長代行とは愛知県体育館内で約50
分間、1対1で話した。同親方は「一貫して否定しています。2件とも? 勿論」と話した。
 17日は一部報道で、約2年前の神戸市でのイベントでも暴力団関係者と同席したと伝えられた。
電話などで事情聴取した特別調査委員会は、18日の定例理事会で中間報告を行い、20日ごろには
結論を出す見込みだ。村山理事長代行は「貴乃花親方は『思い当たる人はまったくございません』と
いう説明だった。神戸の件も家族旅行の際に偶然知った震災慰霊のイベントで、1000人ほど参加
した中に30分ぐらい立ち寄ったということ」と理解を示していた。
 この件は、貴乃花親方に「暴力団関係者との関係は無い」という結論で収束した。

 
さらに新たな問題

 平成22年7月21日松ヶ根親方(元大関若島津)が、20年前から、警察当局に「暴力団山口組と
関係が深い」と指摘されている不動産会社社長(61)側から借りた大阪市内のビルを、春場所(大
阪)の宿舎にしていることが判った。松ヶ根親方は記者会見を開き「知らなかった」と抗弁したが、
知らない訳がない。相撲社会というものがヤクザ社会と同根なのだから、今の親方や力士を責めると
いうのもどうかと思う。民主主義の世の中、公には語れないことは多い。語れば人種差別になっちゃ
うよ。日本は太古の昔から多民族国家だからねぇ・・・
 平成22年7月23日暴力団と交流があった男が取締役を務める建築会社から、愛知県の寄宿舎用
に土地を購入していたことが判った境川親方(元小結両国)は、厳しい表情で何度も頭を下げた。野
球賭博問題で所属力士の豪栄道らが謹慎、自身も謹慎中の親方は「取締役が暴力団と交流があるとは
知らなかった」と話し、唇をかみしめた。この件は特別調査委で引き続き調査が行われる。

 
武蔵川理事長復帰
 平成22年8月5日辞任が噂されていた武蔵川理事長が理事会に出席し、辞任はせず理事長職に留
まって問題解決に邁進すると発表した。同時に謹慎中に胃癌の摘出手術をしたことを告白した。これ
により村山理事長代行は外部理事の職に戻った。

 望月浩一郎委員契約解除ドタバタ劇
 平成22年8月10日協会の全般的改革を目指す第三者機関「ガバナンス(統治)の整備に関する
独立委員会(奥島孝康座長=日本高野連会長)」のアドバイザーで、賭博問題を調べる特別調査委員
会(伊藤滋座長)委員も務める望月浩一郎弁護士に、契約解除を通知したことを明らかにした。しか
し、望月弁護士によると、その後に相撲協会幹部から電話が入り、続投を要請されたという。
 協会広報部は幹部の電話連絡の事実を把握しておらず、望月委員は事態が混乱していることから、
相撲協会に事情説明を求めた。協会は同日午前中に、事務方トップの京極善和主事が望月弁護士に電
子メールで「8月5日に武蔵川理事長が復帰し、一区切りついたとのことで、理事長からの指示によ
るもの」として一方的に契約解除を通知したという。望月弁護士は文科省とのパイプ役を勤めており
今回の問題では文部省の圧力が強く、理事長らは、望月弁護士が文科省の手先と誤解し、排除しよう
としたものと思われる。しかし本質的な理解に乏しく、枝葉末節にこだわる力士出身の理事たちは、
何か自分たちのものが盗まれるような感覚に陥っているようだ。
 8月11日協会は、望月弁護士の解任を撤回し、今後も契約を継続すると発表した。解任理由につ
いて当初、「武蔵川理事長の復帰で一区切りついたため」と説明していたが、「業務内容を精査した
結果、完了していない業務があった」と取り下げた。望月弁護士は独立委のほか、野球賭博問題など
を検証する「特別調査委員会」の委員や、協会の抱えている訴訟の代理人も務めている。協会を所管
する文部科学省に太いパイプを持つことから、協会執行部では改革が文科省主導で進められることを
懸念し、解任を決めたとみられる。しかし文科省や望月弁護士の携わる協会の各委員会のトップから
痛烈な批判を浴びてしまった。文科省から状況説明を求められた事業部長の出羽海親方(元関脇鷲羽
山)は「協会としては、改革をストップするような考えは一切ない。現在、理事長が体調を崩してい
ることで言葉の行き違いがあった」と言い訳した。相撲一筋の人間と学問一筋の人間では、どうして
も関門一筋の人間の方に軍配が上がる。相撲取りにも大学級の学問をさせなければなるまい。


 
さらに新たな問題③

 平成22年8月12日賭博問題特別調査委員会(座長・伊藤滋早稲田大特命教授)は、新たに松ヶ
根部屋の十両松谷裕也(松谷裕也)と三段目の若力堂聖也(浜田聖也)が野球賭博に関与していたこ
とを明らかにした。松谷が、野球賭博で多くの謹慎者を出した阿武松部屋に2年前に出げいこに行っ
た際に、部屋の力士から誘われて野球賭博を始め、2人で合わせて15万円を賭けたという。野球賭
博問題を巡っては、総ての協会員を対象に、本人が申告する形での実態調査が2回行われたが、これ
までに2人から申し出はなかった。松ヶ根親方と2人の力士は記者会見し、「申し訳なかった」と謝
罪、2人の力士は共に「怖くて言い出せなかった」と述べた。協会では、今後2人に対する処分を行
うことにしている。名古屋場所までの調査では力士、親方ら27人が野球賭博に関与していたことが
判り、内22人が解雇、降格、謹慎とされ、5人は程度が軽いと判断されていた。
 また両国国技館で会合を開き、松ケ根部屋と境川部屋が暴力団と関係があるとされる会社などの世
話で地方場所宿舎を構えていた問題と、佐ノ山親方(元大関千代大海)が違法性の高い賭博に関与し
ていたと週刊新潮で報じられた問題で、境川部屋の宿舎については問題がないと判断したが、松ケ根
部屋宿舎と佐ノ山親方の問題は継続調査とした。

 急転直下 武蔵川理事長辞任
 平成22年8月12日日本相撲協会は武蔵川理事長が理事長職を辞し、部屋も藤島親方に譲って平
年寄となったと発表した。後任は、選挙により放駒親方(元大関魁傑)が選ばれ即日就任した。選挙
は貴乃花親方が推薦した出羽海親方と争われたが、投票の結果は8:4だったという。

 松ヶ根部屋元力士松緑逮捕
 平成23年1月26日午前8時半から約1時間、石川県能登町宇出津新にある松緑こと藪下哲也の
実家には、警視庁の捜査員6、7人が家宅捜索に入った。実家にいた藪下は家宅捜索が終わった後、
捜査員に連行された。平成9年に初土俵を踏んだ藪下は「松緑」の四股名で現役生活を送り、幕下で
は有望株の1人とされた。野球賭博を巡って謹慎処分を受け、昨年9月に引退。実家に戻って普通自
動車や小型船舶の免許を取り、父栄(60)の底引き網漁を手伝っていた。父は「自分のしたことは
悪いことだと認めており、素直に反省して生きていってほしい」と話した。持木一茂能登町長は「残
念としか言いようがない。引退して挨拶に来た時は、とても反省していて、一町民として頑張りたい
と話していた」と振り返った。 藪下を旧能都町の宇出津少年相撲教室で指導していた能都北辰高の
志茂長一郎教諭(59)は「当時は気の優しい子だった。角界に入ってからも応援してきたが、こん
なことになるとは思っていなかったし、非常に残念だ」と話した。


 
暴力団山口組と関係
 平成23年1月27日、賭博開帳図利ほう助容疑で逮捕された阿武松部屋の元幕下梓弓こと山本俊
作(35)が、賭博のノウハウを授けたとされる愛知県の指定暴力団山口組弘道会系組長=死亡=と
の間で約2年間に亘り数千万円の現金をやりとりしていた。組長側が山本に、賭博の勝敗を決めるの
に必要な試合の「ハンデ表」を提供していたことも判明。警視庁組織犯罪対策3課は、組長側が胴元
としての活動資金や「道具」を山本容疑者に渡して開帳を手助けする一方、山本容疑者は自分自身や
客の賭け金のほか、賭博の収益を支払っていたとみて調べている。組長側は弱いチームにあらかじめ
得点を加算する「ハンデ」の一覧表を、携帯電話のメールを使って山本に送信。山本は試合開始前、
メールを客に転送、点差も考慮した予想と賭け金を受け付けていた。


 古市の母洋子逮捕
 平成23年1月28日、大相撲の野球賭博事件で、阿武松部屋の元力士古市貞秀(34)が賭博の
胴元として得た利益について、大阪府にある母米子容疑者(63)の自宅の固定資産税支払いに充て
ていたことが判明した。
 米子が賭け金を集めた口座の管理をしていたといい、警視庁組織犯罪対策3課は古市母子が利益目
的で、阿武松部屋の力士らを対象に賭博を始めたとみている。古市は同17年頃から、元力士梓弓こ
と山本俊作(35)の客として賭博に参加。その際、米子容疑者からやめるよう注意されたが、金欲
しさに賭博を続け、負け金が膨らんだ。
 同20年3月頃からは、胴元として力士らから賭け金を募り始め、米子容疑者に「金の管理をして
くれ。もうけは生活費に使っていい」と頼み、口座の管理を任せるようになった。
 勝敗予想に必要な各試合の「ハンデ」は、インターネットの会員制サイトを参考にしたという。
 賭博の利益は僅かとみられるが、米子は大阪府交野市にある自宅の固定資産税の支払いなどに充て
ていた。古市は「母なら安心して口座の管理を任せられると思った」との趣旨の供述をしているとい
う。古市、米子両名は昨年5月のプロ野球公式戦で、客の力士ら3人から賭け金計23万円を集めた
として逮捕された。




■久々の明るい話題 
白鵬連勝記録
 横綱白鵬が歴史上偉大な大横綱になろうとしている。平成22年9月18日秋場所7日目小結若の
里を下して、終に大横綱千代の富士貢の53連勝を抜き54連勝、更に9月21日10日目栃煌山に
勝ち太刀山峰右衛門の56連勝を越え、9月26日千秋楽大関日馬富士(はるまふじ)を破って62
連勝を達成。残るところは、角聖谷風梶之助(江戸時代)の63連勝(九州場所2日目まで勝つと6
4連勝)と、名横綱双葉山定次の69連勝(九州場所8日目まで勝つと70連勝)を残すのみだ。
 がしかし、九州場所2日目稀勢の里に破れ、記録は2位の63連勝でストップした。
 これまでの連勝記録は、
 69
連勝 双葉山定次 昭和11年1月7日目~昭和14年1月3日目(安芸の海)
 63連勝 谷風梶之助①
 63連勝 白鵬翔③
 
 58連勝 梅ヶ谷藤太郎(初代)①
 56連勝 太刀山峰右衛門①

 53連勝 千代の富士貢
 45連勝 大鵬幸喜
 44連勝 雷電為右衛門①
 43連勝 谷風梶之助②・雷電為右衛門②
 43連勝 太刀山峰右衛門②
 43連勝 雷電震右衛門
 39連勝 小錦八十吉(横綱)
 38連勝 雷電為右衛門③
 36連勝 双葉山定次④・雷電為右衛門④

 35
連勝 谷風梶之助③・梅ヶ谷藤太郎(初代)②・朝青龍明徳①
 34連勝 大鵬幸喜③・大鵬幸喜⑥
 33連勝 稲妻雷五郎・白鵬翔煎

 32連勝 常陸山谷右衛門・小野川喜三郎・羽黒山政司①・
北の湖敏満④
 31連勝 玉垣額之助(千田川)

 30連勝 秀ノ山雷五郎・大鵬幸喜② ・貴乃花光司①・白鵬翔③
 29連勝 双葉山定次②・栃木山守也・剣山谷右衛門
 28連勝 大錦卯一郎・鳴滝音右衛門
 27連勝 常陸山谷右衛門②・玉錦三右衛門①・
輪島大士②・朝青龍明徳②
 26連勝 大鵬幸喜⑤・若乃花幹士(2代)①
 25連勝 大鵬幸喜①・大鵬幸喜⑦・佐田の山晋松①・白鵬 翔①
 24連勝 栃錦清隆①・若乃花幹士(初代)①・北の湖敏満③・北の湖敏満⑤・三重ノ海剛志①
      千代の富士貢①・旭富士正也①・朝青龍明徳③
 23連勝 白鵬翔④
 22連勝 羽黒山政司②・北の湖敏満②・千代の富士貢③・武蔵丸光洋①
 21連勝 双葉山定次③・北の富士勝昭①・輪島大士①・北の湖敏満①・千代の富士貢⑤
      隆の里俊英①・琴風豪規①
 20連勝 安芸ノ海節男①・大鵬幸喜④・大鵬幸喜⑨・輪島大士③・北の湖敏満⑥・北の湖敏光⑦
      千代の富士貢②・千代の富士貢④・千代の富士 貢⑦・若嶋津六夫①・北勝海信芳①



 日本相撲協会存亡の危機(Ⅱ)

八百長メール事件
 大相撲への信頼はさらにさらに地に堕ちた。平成23年2月2日大相撲の現役十両力士数人が勝ち
星を数十万円で売買する八百長を頻繁に行っていたとみられる。警視庁が、野球賭博事件に関連して
押収した力士らの携帯電話に、八百長と思われるメールの記録が残っていたことから、それを一覧表
にして文部科学省に「こんなんありましたよ」と送付したことから表沙汰になった。八百長相撲自体
は犯罪ではない。警視庁が文科省に連絡する義務も必要もない。その意図が解らない。
 ただ日本相撲協会はこれまで裁判などで八百長の存在を一貫して否定していた。八百長相撲を騒ぎ
立てた週刊誌などを告訴した裁判でも勝って大枚な損害賠償をせしめもした。千代の富士、朝青龍な
ど天下の大横綱でさえ疑われるようなことをしてきた。しかし今回ばかりは明瞭な証拠であるから事
は穏やかに収まらない。野球賭博事件に続き、角界が再度深刻な打撃を受けることは避けられない情
勢となった。興行停止は必至だ。公益法人の取消さえあり得ないことではなくなった。
 警視庁は今後、警察庁を通じて日本相撲協会を所管する文部科学省に、メールの内容や力士名など
捜査で得た情報を総て伝える方針で、協会側は厳正な調査や処分を迫られそうだ。
 警視庁が阿武松部屋の元幕下力士梓弓こと山本俊作(35)=06年5月引退=4人を逮捕した野
球賭博事件の捜査の過程で八百長疑惑が偶然浮き上がってきた。警視庁は昨年7月、賭博開張図利容
疑で同部屋など30数ヶ所を家宅捜索し、力士らの携帯電話などを押収していた。
 八百長をしていた形跡が残されていたのは14人の十両・幕下力士の携帯電話。勝ち星を金で売買
していることを示す文面がメールに残っていた。これまでの捜査では、暴力団関係者の関与は浮かん
でおらず、八百長の取組自体は外部の賭けの対象にはなっていなかった模様で、刑事事件として立件
される可能性は低いとみられる。

 その14力士
 ①.幕 内 翔天狼大士(蒙古 藤 島)「翔天狼とはガチ(真剣勝負)」との記述。
 ②.幕 内 霜鳳 則雄(新潟 時津風)「霜は厳しいみたい」と、八百長を断った? 記述。
 ③.幕 内 光龍 忠晴(蒙古 花 籠) 八百長関与を窺わせる記述。
 ④.幕 内 豊桜 俊昭(広島 陸 奥) 八百長関与を窺わせる記述
 ⑤.十 両 旭南海廣光(鹿児島 大島) 八百長関与を窺わせる記述
 ⑥.十 両 若天狼啓介(北海道 間垣) 恵那司から春日錦へのメール通り、春日錦に敗れる
 ⑦.十 両 清瀬海孝行(愛知 北の湖) 春日錦らと頻繁に八百長の相談らしきメール
 ⑧.十 両 千代白鵬大樹(熊本 九重) 押収された携帯に八百長関与を窺わせる記述
 ⑨.幕 下 霧の若太郎(熊本 陸 奥) 八百長関与を窺わせる記述
 ⑩.幕 下 白乃波寿洋(熊本 尾 上) 八百長関与を窺わせる記述
 ⑪.幕 下 山本山龍太(埼玉 尾 上) 八百長関与を窺わせる記述
 ⑫.三段目 恵那司千浩(岐阜 入間川) 千代白鵬、春日錦とメール多数。仲介役か
 ⑬.親 方 竹縄 孝嘉(千葉 春日野) 元幕内春日錦孝嘉。
                     押収された携帯に八百長関与を窺わせる記述
 ⑭.親 方 谷川 涼至(青森 八 角) 元小結海鵬涼至。八百長関与を窺わせる記述

 春日錦が恵那司に仲介役をやらせたようで、八百長相撲の事実は、恵那司、春日錦、千代白鵬の3
人が認めた。他の力士は覚悟ができないのか曖昧な返答に終始しているという。14人ということは
対戦相手もいることだし、最低でも30人近くいることになる。
 昭和7年天龍ら西方力士が引き起こした待遇改善争議で、力士が脱退、問題解決しないまま収束し
多くの脱退力士は帰参した。しかし翌場所の番付は惨憺たるものだった。親方にも、幕内力士にも八
百長相撲を取った者はいるだろうし、それまで追及しなければ治まらないだろう。春場所は中止。果
たして夏場所は・・・

 除名(永久追放)
 2月6日、日本相撲協会は臨時理事会を開き、八百長関与を認めた竹縄親方(元幕内春日錦孝嘉)
・十両千代白鵬・三段目恵那司の3人に対し、賞罰規定で最も重く、現行制度では過去に適用された
ことがない「除名処分」を下す意向であることが分かった。この日、特別調査委員会の伊藤滋座長も
会議後の会見で、3人が特別調査委の面接調査に対しても八百長関与を認めたことを明言。協会関係
者によると、既に協会は臨時理事会終了後に評議員会の招集も予定しており、3人に対し評議員会で
の4分の3以上の特別決議で決まる除名処分を言い渡すとみられる。除名処分は角界からの追放を意
味し、退職金も一切支給されない。
 相撲協会の寄付行為にある「故意による無気力相撲懲罰規定」では理事会の決議だけで力士に対し
除名処分を下すことができると定められている。だがこれは相撲競技監察委員会の提出した無気力相
撲に関する結論に基づいて懲罰を決定する場合で、今回のケースは該当しない。相撲協会によれば、
明治時代初期に別団体を結成した関脇・小柳、前頭・高砂らが除名された例があるという。
 また八百長を否定しながらも関与が決定的とみられる十両・清瀬海ら数人の力士には、解雇処分で
はなく引退勧告が検討されている。ただ特別調査委による調査が進んでいないことから、3人以外の
処分については流動的な部分もある。何れにしても、現行制度では初めてとなる最も重い処分が下さ
れることになった今回の八百長問題が、長い歴史を誇る大相撲界の最大の汚点となることだけは確か
だ。

 特別調査委員会メンバー
 伊藤滋(日本相撲協会外部理事)、吉野準(同外部監事)、村上泰、長尾敏成、深沢直之、望月浩
一郎(以上弁護士)、山本浩(法政大教授)の8名

 NHK放送中止
 平成23年2月3日選ばれたばかりの松本正之会長は、定例会見において大相撲の八百長問題に絡
み、11日に開催予定だった「第44回NHK福祉大相撲」を中止することを明らかにした。八百長
問題について松本会長は「日本相撲協会が、特別調査委員会を立ち上げて調査を進めている段階なの
で、現時点ではコメントを差し控えたい」と慎重な姿勢をみせつつ、「重大な事態として受け止めて
いる。自分もスポーツをやっている人間として、極めて遺憾だ」と述べた NHKによると、八百長
問題を巡って視聴者から約430件の反響が寄せられており、その半数が春場所の生中継についての
賛否で、残り半分は大相撲のあり方についての意見だったという。

 フジテレビ放送中止
 同日、フジテレビは、6日に開催予定だった「日本大相撲トーナメント第35回大会」(両国国技
館)の中止を急遽発表。またしても発覚した大相撲の不祥事に放送局が振り回された。僅か3日後に
迫っていた伝統の大会が中止に追い込まれた。主催のフジテレビは、マスコミ各社にFAXで、ドタ
バタの末の決定を発表。6日の午後4時5分から5時20分まで、系列局で全国放送を予定していた
「大相撲トーナメント」の代替番組は調整中とした。〝被害者〟となったフジテレビは中止の理由に
ついて、「昨日判明した日本相撲協会の諸問題を考慮し、協会と協議した結果」と説明。チケットは
完売していなかったというものの、同大会は溜席の1万4000円から普及席の1000円(子供は
200円)まで9種類のチケットを発売しており、損害は1億円以上に上るとみられる。この日フジ
テレビは、代替番組の選定や、報道各社からの問い合わせにてんてこ舞い。チケットの払い戻しに関
しても、終日プレイガイドなどとの調整を続けた。「大相撲トーナメント」は昭和52年に大相撲の
普及と発展を目的としてスタート。同部屋対決を含めた十両、幕内力士のトーナメント戦のほか、ち
びっこ相撲や初っ切りなど本場所では見られないコーナーもあり、人気のイベントだった。

 巡業中止
 八百長問題の影響が夏巡業にまで波及した。8月に秋田市で開催予定だった「大相撲秋田場所」を
主催する秋田魁新報社が5日までに中止を決定した。正式日程さえも協会から発表されていない段階
で巡業の中止を決めるのは、極めて異例の事態。4月に全国5ヶ所で予定されている春巡業でも、1
0日に茨城県鉾田市で開催予定の「福祉大相撲鉾田場所」などが既に中止を視野に入れている。

 春場所興行中止
 4日、前売券の販売を延期。6日開かれた臨時の理事会で、相撲史上初の不祥事による「本場所中
止」を決定、春場所は開催されないことになった。過去の中止は、戦争で被災した国技館修復の遅れ
を理由とした昭和21年夏場所。実に65年振り2度目のことだ。なお特別委の徹底調査は1~2ヶ
月かかると、伊藤座長が表明しており、雲行き次第では夏場所の開催も危ういこととなった。

 公益法人取消(?)
 取り消されると、財産は総て国庫返納となる。

 国技館没収(?)
 国庫返納となると、国技館は国立のスポーツセンターとなる。

 ●一応の処分決定
 平成23年4月1日関与したと確認出来た者に対する処分が決定、発表された。当初は除名や解雇
等の厳罰処分も検討されたが、これまで協会が対策を講じてこなかったことを理由に引退勧告などと
している。発覚後に八百長を認めた力士については情状酌量をくみ出場停止2年となるが、引退勧告
を受けた力士の中にはこの時点でも関与を認めておらず、関与を認めた他の力士の証言などで決めら
れたことなどに対し、不服としている者もいる。

 引退勧告を受けた力士
 前 頭 徳瀬川正直(朝日山) 白馬毅(陸奥)前頭  春日王克昌(春日山)
     光龍忠晴(花籠)   猛虎浪栄(立浪)   琴春日桂吾(佐渡ヶ嶽)
     蒼国来栄吉(荒汐)
 十 両 将司昴親(入間川)  豊桜俊昭(陸奥)   境澤賢一(尾上)
     霜鳳典雄(時津風)  旭南海廣光(大島)  安荘富士清也(伊勢ヶ浜)
     若天浪啓介(間垣)  清瀬海孝行(北の湖) 星風芳宏(尾車)
 幕 下 保志光信一(八角)  十文字友和(陸奥)  霧の若太郎(陸奥)
     白乃波寿洋(尾上)
 三段目 山本山龍太(尾上)
 年 寄 谷川涼至(八角 海鵬)

 出場停止2年(発覚後に八百長を認めたため情状酌量)
 竹縄親方(春日野)  八百長問題発覚直前の平成23年1月場所で現役引退。
 千代白鵬大樹(九重) 平成22年「大相撲野球賭博問題」で野球賭博関与を認め、同年7月場所
            は謹慎休場。発覚直後の2月5日に提出していた引退届は保留されていた
            が、4月2日に改めて受理された。同23年3月に賭博問題で起訴されて
            いる。
 恵那司千浩(尾上)  幕下力士。八百長の連絡係として大活躍。引退表明。

 決定不服
 勧告を拒否し懲戒解雇され、それを不服として谷川・蒼国来・星風の3名が訴訟。
 今まで協会は、八百長問題が浮上する都度、建前上「八百長は絶対にない」と言い張ってきたのだ
が、裁判となると、今度は一転「八百長はあった」のだと、事細かく証明しなければならなくなる。
証明して勝ってしまうと、今後も形を変えて「ありうる」ということになる。どうするのかね? 敵
は笑わぬ弁護士で一世を風靡している北村晴男だ。

 平成23年五月(名古屋)場所
 本場初は中止、技量審査場所として開催。入場無料。NHK放送中止。成績は本場所の成績と同様
に扱われ、番付に反映される。



相撲部屋(平成22年現在 52部屋)

 
出羽海一門
(11部屋)

 大相撲の保守本流的存在で、明治末期から大正時代に活躍した横綱常陸山谷右衛門の出羽海が一門
の開祖。極めて規律・統制が厳しい一門で、出羽海部屋には「分家独立ご法度」の掟があり、横綱栃
木山守也が春日野部屋として独立したのが唯一の例外だった。これに大阪相撲の流れを組む三保ヶ関
部屋(元大関増位山大志郎)を合わせて、3家(出羽海部屋・春日野部屋・三保ヶ関部屋)の体制が
長く続いた。この不文律で破門されたのが41人目の横綱千代の山雅信の九重だ。部屋継承問題のい
ざこざで独立し、高砂一門に移籍した。このことがあって、このご法度が解け、出羽海本家から武蔵
川部屋(横綱三重ノ海剛司)の分家が認められて以降、独立が相次いだ。現在までに、
  出羽海(鷲羽山)・武蔵川(三重ノ海)・田子ノ浦(久島海)・境川(両国)
  春日野(栃乃和歌)・玉ノ井(栃東)・入間川(栃司)・千賀ノ浦(枡田山靖仁)
  三保ヶ関(増位山大志郎)・北の湖(北の湖)・木瀬(肥後ノ海)・尾上(濱ノ嶋)

 が、この一門から輩出された、日本相撲協会の理事長は歴代10人の内、出羽海秀光・武蔵川喜偉
・春日野清隆・出羽海智敬・北の湖敏満・武蔵川晃偉、の6人であり、このことから同一門は、相撲
界随一の名門とされる。
 なお平成22年維持員席暴力団観戦事件で木瀬部屋の力士は一門預かりとなり、部屋は消滅した。
 と思ったのも束の間、野球賭博に関連して境川部屋の幕内力士豊響と豪栄道が関与していたことが
判明、さらに理事長の部屋の雅山までが関与していたことが判り、武蔵川部屋の存亡さえ危ぶまれる
こととなった。8月12日武蔵川は理事長職を降り、部屋も藤島(元大関武双山)に譲って平年寄と
なった。名籍の交換はせず、武蔵川部屋は藤島部屋に名称変更した。


 二所ヶ関一門(15部屋)
 長い大相撲の歴史の中でも新興勢力で、戦後の昭和35年頃から急激に勢力拡大していった一門だ。
開祖横綱玉錦三右衛門が35歳の若さで現役中に死去したが、跡を継いだ関脇玉ノ海梅吉が積極的に
分家独立を推奨したこともあり、他の一門と比べて結束力は弱い。昭和27年最初に分家したのが大
の海久光(芝田山→花籠)で、阿佐ヶ谷に部屋を持ったため、この系統を阿佐ヶ谷系、花籠系という。
 二所ノ関本家である両国系は、二所ノ関部屋・佐渡ヶ嶽部屋・片男波部屋に分かれ、二所ノ関部屋
は、本家(金剛正裕)・一代年寄の大鵬部屋(横綱大鵬幸喜)・跡目相続で分裂した押尾川部屋(大
関大麒麟将能)に分かれ、押尾川部屋から阿武松部屋(関脇益荒雄広生)が、佐渡ヶ嶽部屋からは尾
車部屋(大関琴風豪規)が独立していった。
 両国系は大鵬を中心としていたが、大鵬が脳梗塞で倒れてから、阿佐ヶ谷系を離れた間垣(横綱2
代目若乃花幹士)を担ぐ二所ノ関部屋・大鵬部屋(大嶽部屋)・阿武松部屋などの新両国系、佐渡ヶ
嶽部屋を中心に尾車部屋・押尾川部屋(尾車に合併)などが属する旧両国系の2系統になった。
 阿佐ヶ谷系は、花籠部屋がここに部屋を構えたことに由来する系統で、二子山部屋(横綱初代若乃
花幹士)が独立したのをはじめとして積極的に分家独立を推し進め、放駒部屋(大関魁傑)が独立し、
さらに二子山部屋からは藤島部屋(大関貴ノ花健士)・間垣部屋・鳴戸部屋(横綱隆の里俊英)・松ヶ
根部屋(大関若嶋津六夫)・荒磯部屋(小結二子岳武)・花籠部屋(関脇太寿山忠明)がそれぞれ独
立したほか、二子山・藤島部屋を継承した一代年寄の貴乃花部屋(横綱貴乃花光司)がある。放駒部
屋からは峰崎部屋(前頭三杉磯拓也)・芝田山部屋(横綱大乃国康)が独立している。
 現在協会の理事3人を選出しているが、旧両国系は二所ノ関、新両国系は間垣(若の鵬事件で引責
辞任)、阿佐谷系は放駒だ。なお、監事に旧両国系の尾車部屋付きの不知火(関脇青葉城幸雄)を選
出している。
  二所ノ関(金剛)・
大嶽(貴闘力)阿武松(益荒雄)
  佐渡ヶ嶽(琴の若)・尾車(琴風)
  片男波(玉の富士)
  放駒(魁傑)・峰崎(三杉磯)・芝田山(大乃国
  
間垣(2代目若乃花)・鳴戸(隆の里)・松ヶ根(若嶋津)・荒磯(二子岳)・花籠(大寿山)
  ・
貴乃花(2代目貴乃花)

 ★貴乃花グループ
 平成22年の貴乃花理事選立候補で、貴乃花・間垣・阿武松・大嶽・二子山・音羽山・常盤山の7
人が破門され貴乃花グループを形成した。理事選で3票が加算されたので、貴乃花に同調する年寄が
少なくとも3人
はいるということだ。


 高砂一門
 明治の風雲児だった初代高砂浦五郎を開祖とする最も歴史の古い一門であり、高砂本家系統と、相
続問題で出羽一門を破門された九重部屋系統から成り立っている。かつては主流派であったが、出羽
海系に主流を奪われて以来、反主流派の急先鋒だった。高砂部屋系統からは、東関部屋(関脇高見山
大五郎)・中村部屋(関脇富士櫻栄守)・高田川部屋(大関前の山太郎、現在は破門され無所属)・
錦戸部屋(関脇水戸泉政人)が独立。現在、分家した若松(大関4代目朝潮太郎)が本家を継承して
いる。
 九重部屋(横綱千代の富士貢)系統からは、八角部屋(横綱北勝海信芳)が独立した。
 高砂一門からの選出理事は1人で、平成20年2月から高砂に代わって九重が就任している。
  高砂(東関・中村・錦戸)
  九重(八角)


 時津風一門
 史上最高の名力士である大横綱双葉山定次を開祖とする。昭和16年に直弟子10人を率いて立浪
部屋から独立、双葉山道場(現時津風部屋)を開いた。角界では時津風部屋のことを今でも「道場」
と呼ぶことがある。この時津風部屋に、江戸時代以来250年の伝統を持つ名門伊勢ノ海部屋、それ
に元々は高砂一門だったが同19年から同22年まで双葉山道場に吸収合併させられていた井筒部屋
が合流して時津風一門を形成した。
 時津風部屋からは、立田川部屋(横綱鏡里喜代治、現在閉鎖)・湊部屋(小結豊山広光)・式秀部
屋(小結大潮憲司)・荒汐(小結大豊昌央)が独立し、伊勢ノ海部屋(関脇藤ノ川武雄)からは、鏡
山部屋(関脇多賀竜昇司)が独立している。また名門井筒部屋(関脇逆鉾伸重)系統からは、陸奥部
屋(大関霧島一博)・錣山(関脇寺尾常史)が独立している。時津風一門の選出理事は1人で伊勢ノ
海。監事は高砂一門と連衡して、湊を選出してる。
 時津風部屋は、平成19年に時津風力士暴行死事件を発生させてしまい、角界を揺るがし当時の時
津風(双津竜)は追放された。同22年5月大関琴光喜の野球賭博事件に関連して、幕内力士豊ノ島
の関与が取りざたされたと思ったら、親方の時津風までがやっていた。
  時津風(湊・式秀・荒汐)・伊勢ノ海(鏡山)・井筒(陸奥・錣山)・

 ○立浪一門
  立浪・大島・追手風・伊勢ヶ濱・高島・宮城野・友綱・春日山・桐山・朝日山


 無所属
  高田川
 高砂一門に属していたが、平成10年1月理事選挙立候補を理由に一門を破門された。それでも理
事に2期連続当選し、当選を背景にどこの一門にも属さず無所属となった。時津風理事長が勇退する
と理事の立候補を止め、北の湖理事長実現に向け影響力を持った。さらに安芸乃島勝巳の千田川親方
が、貴乃花と反りが合わず二子山部屋を事実上破門されると千田川を受け入れ、部屋付き年寄とした。 



■両国国技館

■国技館について
 現在は1丁目3番にある大相撲のための常設雨天相撲場(両国国技館)。大相撲の使用は年間3場
所45日なので、前後の準備期間を入れても大半は開いているので、だから穴埋めにボクシング、プ
ロレスなどの格闘技も行われる。
番付には旧字体で「國技館」と表記している。
 最初の国技館は、甲子園球場の「大銀傘(だいぎんさん)」に対して「大鉄傘(だいてっさん)」
の通称があった。この国技館は、現在の国技館とは異なり、京葉道路沿いの本所の境内にあっ
た。明治39年6月に着工して3年後の同42年5月に竣工した。6月2日に開館式が行われ、6月
場所より使用された。設計は日本銀行本店や東京駅、浜寺公園駅の設計者として知られる辰野金吾と
葛西万司で、大鉄傘の愛称は、当時のデザインに由来する。工事費用は27万円。国技館の命名は、
命名委員会(会長板垣退助)によるが、作家の江見水蔭が執筆した開館式の披露文(相撲節により相
撲は国技であるという内容)にヒントを得て、当時年寄であった尾車(元大関の大戸平)が提案した
ものだ。

 その後
 大正時代に火災で1回、関東大震災でもう1度焼失し、その度に再建された。その間、靖国神社境
内や、名古屋で本場所が行われたことがある。太平洋戦争中の昭和19年2月から軍部に接収され風
船爆弾の工場として使用された。敗戦で接収解除になったと思ったら、同20年10月26日にはG
HQにより再度接収され、「メモリアルホール」に改称してダンスホールに改装され、よく21年9
月24日完成した。11月には柿(こけら)落としとして大相撲秋場所が開催されたが、その後は接
収解除まで、大相撲でのメモリアルホールの使用は許可されなかった。同27年4月の接収解除後は
ローラースケート場やボクシング、プロレスなどの会場として利用され、同33年6月には日本大学
に譲渡され、講堂として利用された。しかし老朽化により昭和57年解体。博物館明治村への移築も
検討されたが、あまりにも大きい建物で、「運ぶのが無理」という結論で廃棄去れてしまった。解体
後の跡地には、オフィス、住宅、劇場、レストランなどからなる複合ビル施設の両国シティコアが建
設されており、中庭には土俵の位置がタイルの色で示されている。
 なお敗戦後の大相撲の興行場所としては、しばらくの変遷の後、昭和29年から59年の間は蔵前
国技館を使用した。現在の都下水道局蔵前ポンプ所だ。
 昭和60年より使用されている2代目両国国技館は、新日本プロレスのG1クライマックス決勝戦
に使用されるほか、平成3年から毎年12月に高専ロボコンの全国大会、同4年からは毎年全日本ロ
ボット相撲大会が開催されるほか、毎年2月には、国技館5000人第九コンサートが行われている。
 大相撲は最近人気が低迷しているといわれているが、国技として一度はあの迫力は味わっておきた
いね。両国国技館で行われる大相撲は1月・5月・9月の東京場所。チケットは各場所初日の1ヶ月
前から発売。桝席は「チケットぴあ」で、イス席は「チケットぴあ」、相撲協会の電話予約センター
(03-5237-9310)、日本相撲協会国技館切符売り場(03-3622-1100)など
や近畿日本ツーリスト、JTB、日本旅行など旅行代理店で受け付けている。相撲の取り組みは9時
から始まるんだよ。



相撲博物館

 国技館の付属施設。酒井忠正初代相撲博物館館長が長年に亘って収集した資料を基礎に、国技とし
ての相撲資料の散逸を防ぐため、昭和29年9月蔵前国技館の完成と同時に開館した。昭和60年1
月両国国技館の開館に伴い移転し、現在に至っている。
 錦絵や番付、化粧廻しなど相撲に関する資料を収集、保存し、年6回の展示替えにより公開してい
る。また相撲を日本固有の文化ととらえ、歴史などの調査・研究を行っている。
 10時~4時半 休館日は、土曜・日曜・祝日、年末年始。東京場所開催中の45日間は国技館入
場者のみで一般公開はしない。03-3622-0366。



江戸東京博物館
 横網1丁目4番1号にある都立博物館。主展示スペースは5・6階。入口になる3階とすぐ上の4
階まで随分距離がある。広い面積を贅沢に使って大型の展示物が多いのも特徴だ。広いので見て回る
のは結構大変だぞ。案内のパンフレットがある。早廻り60分コース、建物こだわり90分コース、
火事・地震・空襲6分コースと、いいとこ取りの見学コースが設定してある。動く展示物も多く、決
まった時間になると動作解説が始まる。企画展も展示換え期間を除くとやりっぱなし状態でいろいろ
と面白いのが開催されている。6階の入口を入ると、いきなり江戸時代の日本橋だ。広くてでっかい
から、建物が幾つも建っている。江戸の町、東京の町、ジオラマ、模型セット、じっくり見てたら1日
2日じゃ回りきれない。このほかに企画展が別にある。開館は、月曜日(祝日の場合は翌日)・年末
年始の休館日を除く毎日の10:00~18:00(木・金曜日は20:00まで)。入場料必要。
 03-3626-9974 

 徳川家康公銅像
 館の裏手というか、横というか、植え込みの中に建てられている巨大なものだ。江戸消防記念会に
よって、平成6年に建てられた。作者は東京芸術大学名誉教授山下恒雄だ。リアルな亀の上の台座の
上に丸々と太ってマンガチックな仕上がりだ。大概の人は吹き出してしまう。家康を愚弄していると
しか思えない。山下は長州の廻し者か?
 またその場所だが、江戸東京博物館だから当処にあるのだろうが、何故江戸城にないのだろう? 
自民党政府は明治新政府の亜流だから、明治維新を否定することにでもなると恐れてのことか? だ
としたら軽薄狭量にも程がある。寛容さを以て本丸跡に建てるべきだ。楠木正成も、和気清麻呂も、
江戸とも東京とも全くの無縁だ。頭が固い守銭奴たちだのう。
 さて何故「亀」なのか? テレビ東京の「出没!アド街ック天国」によると、亀は、信長や秀吉は
動物に例えるとウサギで、家康は歩みは遅くとも我が道を着実に行く亀のようだと思った作者のイメ
ージだとか、江戸東京博物館のブログでは、亀は水の都としての江戸を表現しているということだ。
どっちにしろ見たら笑っちゃうよ。徳川家でよく許したねぇ。

 ※平成20年頃再訪したら、銅像の周りを遮蔽してた。平成22年5月に「龍馬伝展」があって見
に行った時に立ち寄ったところ、どうも顔が変わっているような気がする。丸々としてないし、怖い
顔をしている。あまりに評判が悪いので作り直したのかな? 説明板が貼りつけてある。

   徳川家康公銅像建立由来
     鷹狩の勇姿で江戸城を望んでいる。徳川家康公が初めて草深い江戸の地に天正十八年
   (1590)に豊臣秀吉の命により国替えとなった。
    そして関ヶ原の戦いの後、慶長八年(1603)征夷大将軍となり、江戸に幕府を開き、
   天下普請を大名に命じ、本格的な都市づくりの大事業を行い、政治の中心地として明治に
   至るまでの永きに亘って、現在の東京の基礎となったことは周知の事実である。
    社団法人江戸消防記念会では、このような江戸開府の大事業を成し遂げた徳川家康公の
   偉業を称え、顕彰すべく銅像建立の計画を練っていたところ、平成五年三月江戸東京博物
   館が両国のの地に落成の運びとなるや、徳川家康公銅像建立の気運が一気に盛り上がり、
   記念会創立以来の名誉ある事業であることから、これを積極的に推進し、東京都をはじめ
   関係諸機関に格別のご協力をいただきまして、江戸消防記念会が主体となって、平成六年
   四月銅像を建之、東京都に寄贈したものである。


 とあるが、この文章は悲しいぐらい拙劣だ。ま、それは置くとして、銅像の方向は江戸城ではなく
もっと東の品川方面を望んでいる。「草深い」というのは武蔵野で、江戸は浅草の名があるように低
草地帯だった。それより江戸は交易地として既に随分栄えており、都市化していた。博物館ができた
ので家康像を建てるのではなくて、本所など家康とは全く無縁だ。家康像は江戸城(皇居)の何処か
に建てるべきなのだ。少なくとも皇居外苑だろう。征夷大将軍は天皇の子分だから、皇居に建てたか
らといって何の不都合もない。おいらは今からでも遅くないから東御苑内にこそ家康像は建てられる
べきだと信じている。家康像の建立拒否は狭量な薩長田布施系の愚かな抵抗だろう。 
 



■大江戸線・両国駅
 横網1丁目4番29号にある都営地下鉄大江戸線の地下停車場。平成12年12月12日開通の都
営大江戸線のホームは島式1面2線構造で、清澄通りの地下2階にある。大江戸線両国駅はJR両国
駅東口から東へ約200mも離れており、乗換は非常に不便なのだ。「江戸東京博物館前」という副
名を持っている。



■日本大学第一中学・高等学校
 横網1丁目5番2号にある私立校。高校は日大一高の略称で有名。大正2年日本大学最初の付属校と
して「日本大学中学校」の名称で神田三崎町(日本大学構内)に開校。同13年10月現在地に新校
舎完成して移転。昭和16年「日本大学第一中学校」と改称。同25年「日本大学第一中学校・第一高
等学校」と改称。平成4年創立80周年。同9年男女共学。

 校歌「天は明けたり」 作詞・日本大学中学校  作曲・石橋蔵五
  1.天は明けたり東(ひんがし)
    嫩
(わか)き誇りに輝ける
    真紅の色を君みずや
    強き光を君みずや
    紅きは燃ゆる我が誠
    強きは弛まぬ我が力
  2.春は東台爛漫の
    花にたましいひたすべし
    秋は多摩川清澄の
    月に心をみがくべし
    もしそれ茫々武蔵野は
    わが鍛錬の場たらずや
  3.来たれよき友 諸共に
    理想の星をのぞみつつ
    慈愛の玉を胸にしめ
    正義の剣かざし持ち
    努力の駒に鞭打ちて
    かち得よ勝利の栄冠を
  4.あゝ隅田川混濁の
    流れは永遠
(とわ)に澄まずとも
    都大路は黄塵の
    たち狂えるに任すとも
    いかで濁らんこの心
    いかで汚れ
んこの操



■慈光院

 横網1丁目7番2号にある浄土真宗本願寺派の寺。右は鐘楼と寺務所。左は併設の江東幼稚園。関
東震災後に築地別院の分院として建立された。静かで寺らしい佇まいなのだが周辺のビルが邪魔だ。
 本堂で葬儀は一般利用可能らしい。



■本所高等小学校 廃校
 横網1丁目8番1号あった公立校。



■両国中学校
 横網1丁目8番1号、江戸東京博物館の北側にある区立校。昭和22年都立両国中学校内に「東京
都墨田区立両国中学校」として開校。同23年旧本所高等小学校校舎に移転。同25年校歌制定。同
窓会創立。

 校歌「都鳥啼く」  作詞・佐藤義美  作曲・芥川也寸志
  1.都鳥啼く隅田川
    流れの水は世界に通じて
    博き心は母校のシンボル
    讃えよう若き希望を
    栄えある母校 両国中学
  2.睦まじく良き師と友と
    処と時を一つに学んで
    強き自立は母校のシンボル
    讃えよう固き平和を
    栄えある母校 両国中学
  3.永遠に立つ富士の山
    高嶺の雪は窓辺に光って
    清き歴史は母校のシンボル
    讃えよう若き理想を
    栄えある母校 両国中学


 同32年校地拡張。同43年「良い歯の日」発祥記念碑建立。同44年同窓会により校歌の石碑建
立。同47年鉄筋コンクリート造り新校舎第一期工事。体育館完成。同49年水泳プール完成。同5
0年校庭改修。同58年「風雪に耐えよ」の塔建立。同60年文部省より全国保健体育優良校表彰。
同62年文部省より学校給食優良校表彰。同63年「静思の庭」除幕。ガイダンスルーム、ランチル
ーム完成。
 平成4年文部省初等中等局長来校視察。同9年創立50周年記念式典。同12年体育棟完成。同1
7新校舎工事起工。同19年新校舎落成。



■NTTドコモ歴史展示スクエア(墨田区小さな博物館) 
 横網1丁目9番2号のNTTドコモ墨田ビル1階にある。「移動通信」進化の過程を各年代ごとに
映像と文字で紹介、自動車・携帯電話など167点を展示している。さらに「2010年ビジョンコ
ーナー」など、未来に関する展示も充実している。開館は祝祭日を除く月曜日から金曜日までの午前
10時から午後5時まで。ただし要予約。 03-6658-3535



■新藤ギャラリー(墨田区小さな博物館)
 横網1丁目10番5号の新藤本社ビル内にある。世界最古の印刷物として知られる「百万塔陀羅尼
 木製三重小塔」とその経文を始め、印刷機・版画絵など、〝印刷〟にまつわる貴重な品々約30点
を展示している。開館は月曜日から金曜日までの午前10時から午後5時まで
 03-3626-1001



■船橋聖一生誕地跡
 横網1丁目11番1号、北越製紙ビルの、国技館北交差点側の角にある。この地にあった生家で7
歳までを過ごした。。



安田庭園
 横網1丁目12番1号にある区立公園。元禄のころに笠間藩主本庄因幡守宗資が造築したもので、
規模はさほどではないが江戸大名庭園の中でも典型的な池泉回遊式庭園だ明治になって旧岡山藩主の
邸宅になり、その後安田財閥(安田銀行→富士銀行→みずほ銀行)の安田善次郎が購入したものの維
持が出来ず東京市に寄贈。隅田川の水を引く趣のある潮入庭園だったが、敗戦による放置と隅田川の
汚濁で荒廃してしまった。昭和51年から墨田区に移管され全面改修。潮入の池を復活させるため地
下に貯水槽を設け、水を浄化するシステムを取った。その池の池畔に鮮やかな花色を水面に映す百日
紅(さるすべり)の木が数本植えられている。夏から秋に花は咲くぞ。

   こぼれ日に誘われ見るや百日紅(水原秋桜子)
   百日紅ごくごく水を呑むばかり(石田波郷)



■本所公会堂 → 両国公会堂

 横網1丁目12番10号、安田庭園内にある。大正15年安田財閥の寄付金を元に、東京市政調査
会によって建設された。震災の記憶も生々しい時期だ。隣接する被服廠では、震災時の火事により数
万人もの人が焼死し、本所一帯は焦土と化したのだから、この建物は復興の象徴のように映ったに違
いない。しかし、やがて戦時下を迎えると、公会堂は食料配給所に当てられ、敗戦後占領軍に接収さ
れると社交クラブとして使用された。数奇な運命に翻弄された建築物といえる。
 公会堂の玄関は隅田川沿いの通りに面し、この玄関部の背後に円形のホールがある。800席足ら
ずの小さな劇場だが、江東地区の基幹劇場として 様々な出来事に彩られている。
 平成13年老朽化により使用停止となったが、取り壊さないでくれぇ。

 
伏見駒止稲荷社

 安田庭園内にある小祠。



■新藤暦展示館(墨田区小さな博物館)
 横網1丁目12番21号の新藤販売にあるカレンダーの展示館。有名女優をモデルにした昭和20
年代から40年代のレトロなカレンダーや、仮名文字で印刷された暦としては最も古いといわれる三
嶋暦を始めとした古典的カレンダー、現在世界各国で使われている珍しいカレンダーなど、約13点
が展示されている。火曜~金曜日(祝祭日、盆、年末年始を除く)の午前10時~午後4時。
 03-3626-1029



■安田学園中学校・高等学校
 横網2丁目2番25号にある私立校。大正5年安田財閥の安田善次郎が、神田に「東京植民貿易語
学校」を開校。同12年安田財閥の持株会社である安田保善社に経営が移され、東京植民貿易語学校
内に「東京保善商業学校本科夜間部」として創立。「植貿付属商業夜間部」を吸収。かつては厳格な
校則で有名だった。同12年関東大震災で被災。同13年本所区横網20番地(現在地)に移転。同
14年「保善工業学校」設立。11月9日を3校の開校記念日とする。昭和5年「三校連合歌(現在
の安田学園校歌)」制定。

 校歌「見上げれば」 作詞作曲・東京音楽学校
  1.見上げれば富士が嶺高く
    高く はた清きは望
    横網に学ぶも少壮
    二千の心は一つ
  2.潮の八百重も五百重の山も
    我ら丈夫 何憚らん
    日出の九にり頭を上げて
    希望の光 輝く方へ
  3.分け登る道 異なれど
    頂は一つ一つなけり
    諸共に迷うことなく
    諸共に努め励みて
    頂に一日も早く


 同9年「東京殖民貿易語学校」が大久保に移転。同11年「安田商業学校」「安田工業学校」とな
る。どういう訳か、「昭和13年に東京保善商業学校が大久保に移転」と保善高等学校の沿革に書い
てある。安田学園の沿革では、「同11年東京保善商業学校第二本科を東京殖民貿易語学校に移転分
離。在校生を考慮して横網でも商業教育」とあり、この時に何らかのトラブルがあったのかもしれな
いな。関連についてお互いに触れようとしていないのが変?
 同23年安田学園高等学校、中学校を一本化して「安田学園中学校」とする。同29年「安田中学
校・安田商業高等学校・安田工業高等学校」とする。同40年高等学校を一本化し、普通科を設けて
再び「安田学園高等学校」とする。同49年創立50周年。平成2年中高一貫教育スタート。同15
年創立80周年。



横網町公園 震災記念堂・復興記念館
 横網2丁目3番2号にあるあの有名な陸軍被服廠跡だ。大正11年に東京市が陸軍省より43万円
で買い取り、公園化工事を始めた矢先に、関東大震災が起こり、ここに避難した人々38000人余
が焼死した。翌10月に仮納骨堂を造り、58000体余を安置。公園は昭和5年に開園し、中央に
震災記念堂」が建てられたが、その後昭和20年のアメリカ軍による無差別の空爆などによる殉難
者の身元不明の遺骨も合わせて安置することになり、同26年に名称を「震災記念東京都慰霊堂」と
改称した。同19~20年の空襲などでの犠牲者はこの公園を初め130ヶ所に仮埋葬され、納骨堂
を拡張して遺骨が奉安された。

   文春文庫『関東大震災』吉村昭
   東京市で最も悲惨な光景を呈したのは。本所区横網町にあった被服廠跡であった。陸軍省
   被服廠の建物があった場所で、被服廠移転に伴って大正十一年三月逓信省と東京市に払い
   下げられ、一周三百メートルのトラックのある近代式運動公園や小学校等が建設される予
   定になっていた。二万四百三十坪の広大な敷地は三角状で、附近の人々は絶好の避難地と
   考え、地元の相生署署員も同時に避難民を誘導した。そのために被服廠跡には多くの人々
   が家財とともにあふれたが、火が四方から襲いかかり、家財に引火し、さらに思いがけぬ
   大旋風も巻き起こって、推定三万八千名という死者を生んだ。この数字は、関東大震災に
   よる全東京市の死者の五十五パーセント強に達する。被服廠跡で起こった悲劇は、関東大
   震災の被害を象徴するもので、敷地の一坪当たりに一・九名弱の遺体が散乱したことにな
   り、死体が山積みしたのである。

 
震災記念堂
 
震災の惨禍の記録を後世に伝え、また焦土を復興させた当時の大事業を記念するために、昭和6年
に開設された。関東大震災の惨事とその復興計画事業を写真やパネルで展示。また地震・火災に関す
る資料や太平洋戦争の際の都内の戦災写真や遺留品なども展示している。


   震災記念堂 東京都慰霊堂 由来記
    顧れば大正十二年九月一日突如として関東に起こった震災は東京市の大半を焦土と化し、
   五万八千の市民が業火のぎせいとなった。このうち最も惨禍をきわめたのは陸軍被服廠跡
   で、当時横網町公園として工事中であった。与論は再びかかる惨禍なきことを祈念し慰霊
   記念堂を建立することとなり官民協力広く浄財を募り伊東忠太氏等の設計監督のもとに、
   昭和五年九月この堂を竣成し東京震災記念事業協会より東京市に一切を寄付された。
    堂は新時代の構想を加味した純日本風建築の慰霊納骨堂であると共に、広く非常時に対
   応する警告記念として、亦公共慰霊の道場として設計された三重塔は百三十五尺基部は納
   骨堂として五万八千の霊を奉祀し約二百坪の講堂は祭式場に充て正面の祭壇には霊碑霊名
   簿等が祀られてある。
    爾来年々祭典法要を重ね永遠の平和を祈願し「備えよつねに」と相戒めたのであったが、
   はからずも昭和十九、二十年等にいたって東京は空前の空襲により連日爆撃焼夷の禍を受
   け数百万の家屋財宝は焼失し無慮十万をこえる人々はその難に殉じ大正震災に幾倍する惨
   状を再び見るに至った。戦禍の最も激甚をきわめたのは二十年三月十日であった。江東方
   面はもとより全都各地にわたって惨害をこうむり約七万七千人を失った。当時殉難者は公
   園その他百三十ヶ所に仮埋葬されたが同二十三年より逐次改葬火葬しこの堂の納骨堂を拡
   張して遺骨を奉安し、同二十六年春戦災者整葬事業を完了したので東京都慰霊堂と改め永
   く諸霊を奉安することになった。
    横網公園敷地は約六、〇〇〇坪、慰霊堂の建坪は三七七坪余、境内には東京復興記念館
   中華民国仏教団寄贈の弔霊鐘等があり、又災害時多くの人々を救った日本風林泉を記念し
   た庭園及び大火の焔にも耐え甦生した公孫樹を称えた大並木が特に植えられてある。
   昭和二十六年九月                             東京都


 
納骨堂
 慰霊堂の後ろ側にある三重の塔がそれだ。関東大震災の遭難死者に加え東京大空襲(昭和20年3
月10日)などによる殉難者の身元不明の遺骨も併せて、163400体の遺骨が安置されている。

 復興記念館
 この建物は、大正12年9月1日午前11時58分に発生した関東大震災からの復興事業を記念す
るために、震災記念堂(震災記念東京都慰霊堂)の付帯施設として建設されたもので、昭和5年9月
に起工し、同6年4月竣工、同8年に東京市に寄贈された。館内には、復興事業に関する諸資料を保
存展示するとともに、 戦災関係の資料なども陳列されている。

 ・震災記念屋外ギャラリー(YOKOAMI OPEN GALLERY)
 関東大震災の被害は、死者および行方不明者106000人余、負傷者52000人余、家屋の損
害694000戸余にも達した。殊に家屋の密集した東京の下町では、地震後発生した大火災による
猛火と熱風により、ありとあらゆる建築物は勿論、多くの市民が焼死し、その光景はさながら地獄絵
の如く惨澹たるものだった。「震災記念屋外ギャラリー」は、その震災による被災品を展示すること
により、過去に起きたその惨劇を後世に伝え、二度と同じような不幸が起こらないことを深く願って
建造された。展示されているものは、
 ・鉄柱の熔塊
大日本麦酒株式会社吾妻工場内の鉄柱が、猛火により熔解し、かたまりとなって
  しまったものだ。
 ・釘の熔塊 大日本麦酒株式会社吾妻工場内で、樽に入った釘が震災の猛火による高熱のため、
  大熔塊となったものだ。
 ・魚形水雷 東京高等商船学校(旧東京商船大学)内で焼損した魚雷の残骸だ。
 ・破裂した大鉄管 当時、淀橋浄水場の敷地内に山積みされていた水道の幹線が、激震により無
  残にも損壊してしまったものだ。
 ・自動車の焼骸 自動車が焼失し、シャシーだけが残ったもの。この自動車は車両番号第一号と
  いう古い歴史を持ち、銀座の明治屋商店で震災直前まで使用されていた。


 
青嵐(永田秀次郎)句碑
   焼けてすぐ芽ぐむちからや棕梠の露

 青嵐は永田の俳号で東京市の名市長。昭和27年永田を讃えるために建てられた。

 関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑
 大正12年9月1日地震発生の翌2日ごろから「朝鮮人が暴動を起こし放火している」という流言
蜚語が非常な勢いで拡大した。町々には自警団が組織され、朝鮮人や朝鮮人に見誤られた日本人60
00余人が殺された。昭和48年震災50周年を機に、その人々の追悼するために建てられた。

   
この歴史
   永遠に忘れず
   在日朝鮮人と固く
   手を握り、
   日朝親善
   アジア平和を打ち立てん


 と銘記されている。この寛容と建設の心遣いが次代の明るい社会を作る基となろう。大臣や国会議
員、上級官僚の中にも、狭量な精神から朝鮮人・韓国人・中国人・東南アジア諸国民を蔑視するレベ
ルの低いのはごしゃまんといる。総理大臣、次期の総理大臣候補クラスにだって実質の精神・思想が
低いのはいるよ。2世3世議員だもの、小泉、安倍程度だぜ。
 国会議員の99%は為政者には向いていない。碑文を記録しておく。

   一九二三年九月発生した関東大震災の混乱のなかで、あやまった策動と流言蜚語のため、
   六千余名にのぼる朝鮮人が尊い生命を奪われました。私たちは、震災五十周年をむかえ、
   朝鮮人犠牲者を心から追悼します。この事件の真実を識ることは不幸な歴史をくりかえさ
   ず、民族差別を無くし、人権を尊重し、善隣友好と平和の大道を拓く礎となると信じます。
   思想、信条の相違を越えて、この碑の建設に寄せられた日本人の誠意と献身が、日本と朝
   鮮両民族の永遠の親善の力となることを期待します。
   一九七三年九月             関東大震災朝鮮人犠牲者追悼行事実行委員会

 
震災遭難児童弔魂像

 この記念像は、大震災により不幸にして犠牲となった東京市小学生5000人の死を悼んで、この
不遇の霊を慰め、弔わしむることと、永く当時を追憶し、その冥福を祈るため、当時の学校長などが
中心となり、弔魂碑建立を企画し、第五回弔辰に際しこれを発表した。それに共鳴する者が1820
27人に及び、その醵金は14066円47銭にも達した。平成の今日で言えば2000万円にもな
ろうか? その基金で彫刻家小倉右一郎に制作を依頼し完成後当時の財団法人東京震災記念事業協会
に寄付し、その後東京都に引き継がれた。なお〝悲しみの群像〟は、昭和19年大東亜戦争酣(たけ
なわ)の頃、戦力増強の一助として金属回収の災いを受け撤去され、台座だけが虚しく残されていた
が、同36年昭和36年小倉の高弟津上昇平・山畑阿利一により往時の群像を模して再建された。

 
弔霊鐘

 震災慰霊として中国仏教徒より贈られた者で、口径4尺、重さ416貫(111kg)もある。当
時の被災救済運動が世界的なものであったことの一端を物語る。大震災の悲惨な凶報が伝わった中国
では、杭州西湖の招賢寺及び上海麦根路の玉仏寺でそれぞれの念仏法要が営まれ、中国在留の同胞に
対しても参拝を促した。なた各方面の回向が終わった後は、

   幽冥鐘一隻を鋳造してこれを日本の災区に送って長年に亘って撃撞し、その鐘声の功徳に
   よって永らく幽都の苦を免れしめむ


 と宣言した。その災情が日を経るに甚大あることが明らかになったので、仏教普済日災会の代表2
名が来日し、京浜両地区の慰問を行い、これと同時にわが国の外務大臣並びに仏教連合会に梵鐘の寄
贈を申し出た。震災記念堂の計画確定により、この鐘を横網町公園に安置することとなった。このこ
とに関して上海の王一亭が特段の尽力があった。

 東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑
 昭和17年4月18日のドーリットル初空襲から同20年8月15日の敗戦まで、空襲で亡くなっ
た方々の名前を記録した「東京空襲犠牲者名簿」がこの碑の中に納められ、〝記憶の場所〟と作品名
がつけられた。この碑の斜面を覆う花は〝生命〟を象徴しているという。作者:彫刻家・土屋公雄。
平成13年3月建立東京都に寄贈された。

 緑町三丁目供養塔・緑町三丁目墓碑・石原三丁目戦災死追悼之碑
 
復興記念館の横に小さな日本庭園がある。その中に
、付近の地域で亡くなった空襲犠牲者を慰霊す
る碑がひっそりと並んで建っている。緑町三丁目供養塔(五輪塔)と墓碑(戦災死没者墓誌)は、昭
和21年3月10日に建立されている。またその隣にある石原三丁目戦災死追悼之碑は、同22年に
建立された。3月10日は陸軍記念日だ。アメリカ軍は日本人の神経を逆なでするように日を選んで
いる。5月27日の海軍記念日には呉軍港を空襲した。


 
都知事の植樹

 この庭園内には他にも、平成7年に当時の都知事鈴木俊一による譲葉(ゆずりは)の植樹がある。




■べっ甲博物館(墨田区小さな博物館)
 横網2丁目5番5号の磯貝べっ甲専門店の玄関の脇にあるショーウィンドーがミニ博物館だ。べっ
甲工芸は奈良時代から行われてきた伝統工芸技術で、江戸時代には儀式用の装身具として、現代では
アクセサリーからインテリアまで多くの製品が作られ人々に愛されてきた。材料は玳瑁(タイマイ)
という亀の甲羅を用いるが、良いものが減少しており、その意味でもべっ甲は貴重なものとなってい
る。この博物館には、製作に使う道具のほか、櫛、笄(こうがい)の、江戸から昭和までのデザインの
移り変わりが、解りやすく展示されている。開館は、毎日午前10時から午後5時30分まで。
 03-3625-5875





【横川】(よこかわ)1~5丁目                   昭和42年5月1日
 小梅村・柳島村、福山藩・龍野藩・亀山藩の各抱屋敷、霊山寺・本法寺・大法寺・真盛寺の境内
など。昭和6年太平町1丁目・中ノ郷業平町と押上町と柳島元町の南・柳島梅森町の北の各一部を
あわせた町域を横川橋1~5丁目とし、同42年新住居表示を実施して平川橋の一部をあわせて現
行の「横川」とした。4丁目に「本所防災館」がある。

 
横川の由来
 町名は旧称から橋の字を外した。横川橋は横川(大横川)に架る。江戸の地図は京都の方向を上
に描く。天子様のおわします京の都が西にあるからた。だから南北が横方向になり、横川は江戸城
に対して横になる。それで柳島から深川に掘った堀川を横川または大横川と呼んだ。それに直交す
る竪川は、縦川の意だ。川と名があるも物資搬送のための運河で、横川は特に、木場と北十間川に
連絡して材木を運ぶために掘られた運河だったが、近年は用済みで区内部分は埋め立てられて親水
公園になってしまった。
1丁目に日本たばこ産業関東支社東京工場(西尾隠岐守屋敷跡)がある。



■大震災遭難者追悼碑
 
横川橋は
春日通りを渡す主要な橋だが、橋畔にひっそりと碑が建っている。昭和9年の祥月命日の
建碑だ。
関東大震災では、この横川橋下の船に避難した人々を含めて3600人以上が此処で命を失
い、「第二の被服廠」といわれた。

   
顧レハ大正十二年九月一日午前十一時五十八分突如トシテ關東一體ニ亙ル未曾有ノ激震ハ
   我カ帝都五百年ノ文化ヲ一朝ニシテ烏有ニ歸セシメ三拾六萬六千戸ノ家屋ヲ焼失シ五萬八
   千餘人ノ市民ヲ犠牲トシ損害實ニ三拾七億圓ヲ算セリ以テ其ノ惨害ノ激甚ナルニ知ルヘシ
   當横川橋畔ハ本區ニ於ケル第二被服廠トシテ橋脚ノ隧道ニ橋下ノ船中ニ老幼相扶ケ父子相
   擁シテ殃死セルモノ實ニ三千六百有餘人ニ及ヒ其ノ惨状言語ニ絶ス爾来星霜ヲ閲スルコト
   拾餘年官民一致復興ニ努力ヲ傾ケ今ヤ帝都ハ全世界第二ノ都市トシテ中外ニ誇稱スルニ至
   ル是レ全ク災害犠牲者ノ賜ト謂フ可キナル奚ニ於テ當地附近有志相謀リ特ニ總理大臣齋藤
   閣下題字ヲ乞ニ
ノ事蹟ヲ記念シ永ク殃死者ノ追憶ハ市民ノ警醒ニ資センコトヲ希ヒ石ニ
   刻シ以テ後昆ニ傳フ矣
   昭和九年九月一日                        法恩精舎 日肇識

 □は剥落、「此」か? 「其」か?  



■龍興院
 横川1丁目3番18号にある浄土宗の寺。もと霊山寺の支院の1つ。霊山寺参道に面してある。元
禄四年(1691)に霊山寺末の学寮として、現在地に創建された。関東大震災に際して伽藍は炎上
し、戦災で再度焼失したが、昭和46年に本堂、書院、庫裡、山門などを復興し、教化活動の道場と
なり現在に至っている。本堂には、宇治平等院鳳凰堂の雲仲供養菩薩の模彫の諸菩薩が奉安されてい
る。



■霊性院
 横川1丁目3番20号にある浄土宗の寺。鉄筋コンクリート4階建て。慶応十五年(1610)湯
島の霊山寺内に支院の1つとして起立したが、明暦の大火で類焼し、浅草へ移転、その後、元禄元年
(1688)に現在地に遷った。。墓所は道路向いにある。

 地蔵堂
 入口を入ると角地に開運地蔵尊(子育延命地蔵)を安置、この地蔵尊は、祈願すればたちまち病気
が快復するといわれ江戸時代に栄えた地蔵尊だそうだ。今も地域の信仰を集めている。正徳年間(1
711~20)に、井戸を掘った時に出土したと伝える。この地区で良い水を探すのは大変だったこ
とを示す伝説だ



常在山霊山寺
 横川1丁目3番22号にある浄土宗の寺。りょうざんじ 慶長六年(1601)大超が神田駿河台
に2万坪を拝領して開山創建。京都知恩院末で、湯島、浅草と移転し、ここへきたのは元禄元年(1
688)だ。湯島時代の寛永十三年(1336)には寺領50石を受けている。参道左右の竜興院・
徳寿院・霊性院は元の支院。「関東十八壇林」の1つで、学寮を30坊も持っていた。
 入口から参道がつづき20mで山門、右は竜興寺の墓所。正面が本堂で鉄筋コンクリート。右は庫
裏で鉄筋コンクリート2階建て。



■徳寿院
 横川1丁目3番23号にある浄土宗の寺。元禄三年(1633)に本郷妻恋坂に草創したが、明暦
三年(1657)の大火(振袖火事)で浅草松葉町に移転、元禄二年(1689)現在地に移った。
霊山寺の隣りにある。霊山寺の元支院の1つ。法恩寺の北側、道路に面して石の門があり、入るとす
ぐ本堂と庫裏が並んでいる。墓地は裏。



妙栄山本法寺

 横川1丁目12番12号にある日蓮宗の寺。文禄四年(1595)寿明院日慶上人が神田に土地を
拝領して創建、慶安二年(1649)上野谷中へ、元禄二年(1689)現在地へ移転した。境内に
は狩野元信をはじめとして狩野家関係の墓碑が多数ある。
 かつては境内も広かったが、区画整理で削り取られて僅かの面積だ。日蓮宗祈祷所とある。左に墓
所、右は庫裏で鉄筋コンクリート2階建て。本堂も鉄筋コンクリート2階建てで外階段でお参り。創
建は文禄四年(1595)で、神田から谷中、そしてこの地に移ってきたのは元禄二年(1689)。
京都本圀寺の末。墓地は通りを挟んで向かいにある。
 近世の将棋家伊藤宗看や大橋宗桂の墓は失われ、行方不明となっている。ただ宗桂の墓は太田道灌
の墓所として知られる伊勢原の洞昌院にある。また成島柳北の墓は現存しないが、碑の方は向島長命
寺にある。

 狩野元信の墓
 本法寺墓地にある。元信は室町時代の画家で狩野家の2代目だ。文明八年(1476)京都に生ま
れ、子供の頃から絵を志し、10歳で8代将軍義政に仕え、11代将軍義澄を経て13代将軍義晴の
時、命により剃髪して法眼となり、永仙あるいは玉川と号した。絵はこれまでの諸流派の長所をまと
めて山水・人物・花鳥を描いたが、のちに大和絵の技法を加えて大成し、永禄二年(1559)84
歳で歿した。ここにある墓碑は、昭和30年子孫の狩野文の再建による。墓地の1番奥で「善巧院殿
元信法眼日到大居士」とあるものがそうだ。



■本所消防署
 
横川4丁目6番6号にある。明治43年「警視庁第六消防署本所出張所として設置。大正14年第
六消防署から分離独立し「本所消防署」に昇格。本所区一円を管轄。人員66名 消防自動車5台。
昭和19年戦時消防体制(1本署 3出張所 3派出所 人員182名 消防自動車25台)。同2
0年愚かなアメリカ軍の非人道的無差別空爆により全庁舎焼失。職に殉じた職員19名。
本所消防署
各消防庁舎の全部を焼失。
 同23年警察機構より分離独立。東京消防庁の設置により、それに属し「本所消防署」として業務
を開始。
9月機構改革により本所消防署廃署。向島消防署・城東消防署に統合。同26年再度の機構
改革により本所消防署の
復活。人員104名 消防自動車7台。同33年初めて救急車を配置。同39年
東駒形三丁目に本署庁舎(現東駒形出張所)が新築落成。同48年組織替えにより1本署・3出張所
(緑・小梅・太平)となる。同50年初めて女性署員配置。平成4年本所および太平救急隊に初めて
救急救命士を配置。
 平成7年現在地に新庁舎落成して移転。旧本署は「東駒形出張所」と名称変更し、同時に太平出張
所は廃止。同15年緊急消防援助隊派遣。栃木県黒磯市の工場火災に、緑屈折放水塔車出場。同17
8月本所消防署に消火活動に関する専門的知識・技能と先進的な資器材を有する「特別消火中隊」
が発足。黒い防火衣と金色のヘルメットが目印。同18年本所消防署が開署80周年を迎え、各種記
念行事(趣味展・署内一般公開等)を開催。

 最後の半鐘
 明治22年当時の警視庁消防第六分署(管轄は、本所・深川の二つの区)の管内27箇所に、火事
を知らせるための「引打半鐘」が設置された。しかし大震災や戦災によりその殆どが紛失してしまい、
現存するものは、明治43年本所消防署の前身である警視庁松倉出張所の望楼に設置された、この半
鐘一つだけになってしまった。




■深川商業高等学校 閉校
 横川4丁目8番8号にあった都立校。昭和23年5月1日~同34年3月31日都立第三商業高等
学校毛利分校として設置され、同34年4月1日都立深川商業高等学校として独立開校。同35年校
歌制定。

  校歌「友あり集いて」 作詞・服部嘉香  作曲・伊藤康円
  1.友あり集いて 学びに勤しむ
    深川商高 吾等は学徒  
    ここに学びて 心を磨き
    美しき心の声は
    竪琴の音と響き交わして
    あーあ今日も嬉しき今日ぞ
  2.時あり来たりて学びに勤しむ
    吾等が青春 花咲き薫る
    学ぶ実学 誇りは高く
    健やかに励みて踏むは
    新しき世を開き行く道
    あーあ今日も楽しき道ぞ
  3.隅田の流れは世界を巡りて
    日本の文化の誉れを運ぶ
    若き生命の輝く明日を
    民族の栄えを見よと
    讃えばや いざ弾む心に
    あーあ今日も世界は招く
     茜射す暁の空よ光は飾る
     夜の空よ 希望は高く又広く
     誠は明るく 又和やかに
     吾等在り 吾等忘れじ
     深川商業高等学校 その名永遠に


 平成16年創立45周年を以て閉校。都立東高等学校と統合して「都立大江戸高等学校」となり。
江東区千石の科学工業高等学校跡に移った。



■正龍教会
 横川4丁目8番18号にある日蓮宗の布教所。2階建ての現代風民家。



■柳島小学校
 横川5丁目20番30号にある区立校。明治30年9月17日本所小学校柳島分校の一部を本所区
柳島横川町に移す。同31年3月31日「東京都本所区柳島尋常小学校」として開校。9月29日開
校式。同41年4月1日「東京市柳島尋常小学校」と改称。大正12年関東大震災により校舎焼失。
12月木造仮校舎建設。昭和11年木造本格校舎落成。同16年勅令148号国民学校令により「東
京市柳島国民学校」と改称。12月日米開戦。同18年都制施行により「東京都柳島国民学校」と改
称。同19年千葉県市原市に学童集団疎開。同20年愚かなアメリカ軍の非人道的無差別空襲により
校舎1階1教室半が焼ける。同5月20日岩手県和賀郡笹間村へさらに疎開。8月日本は、ならず者
国家アメリカの軍門に降り敗戦、属国となり以降唯々諾々として言い成りになる保守傀儡政権を保持
せざるを得ない不幸を背負い込む。同21年3月疎開解除により岩手県から帰校。同22年4月1日
宗主国アメリカの強制による学校教育法施行により「東京都墨田区立柳島小学校」と改称。同32年
新校歌制定。

 校歌「すみだの流れ」 作詞・篠塚博  作曲・福井文彦
  1.隅田の流れ 永遠(とこしえ)
    歴史は香る学び舎の
    窓に柳の若緑
    良い子は此処に学び行く
    楽しい吾等の柳島
  2.晴れて輝く青空に
    富士が根遠く澄む処
    希望の瞳 輝かし
    良い子は此処に育ち行く
    楽しい吾等の柳島
  3.文
(ふみ)の御社(みやしろ)天神の
    白梅
(しらうめ)の如 清らかに
    心を磨き 身を鍛え
    良い子は此処に伸びて行く
    楽しい吾等
の柳島

 同9月29日開校60周年記念式典。同42年開校70周年記念式典。同46年柳島幼稚園開園。
同52年開校80周年記念式典。同55年新校舎建設工事始まる。同57年2月新校舎・体育館・プ
ール落成。3月新校舎に移転。旧校舎解体。11月落成式・開校85周年記念式典。
 平成9年開校100周年記念式典。同12年地方自治法改正に伴う学校教育法改正により東京都の
冠称が取れ、「墨田区立柳島小学校」と改称。





【両国】(りょうごく)1~4丁目               昭和42年5月1日
 両国橋の橋詰一帯の俗称。中央区側は火除地になっているので「両国広小路」、墨田区側は「東
両国」と俗称した。本所相生町1~5丁目・南本所元町(明治5年本所元町)・本所小泉町・本所
松坂町。明治元年東京府に編入。同11年「郡区町村編制令」により本所区に所属、同44年本所
・南本所の冠称を外し、昭和4年相生町1~4丁目(5丁目は緑町へ)・元町・小泉町・松坂町の
全部と、亀沢町1丁目・横網1丁目・藤代町の各一部をあわせた町域を東両国1~4丁目とした。
昭和42年東両国1~4丁目をそのまま東の冠称を外して現行の「両国1~4丁目」した。

 
両国の由来
 町名は両国橋の東の俗称を正式に町名とした。両国が地名になったのはこれが最初で、中央区は
2年遅れて命名した。同42年新住居表示を実施して東の字を取り現行の「両国」とした。

  両国という駅さびし白魚鍋(大牧 広)



■袋物博物館(墨田区小さな博物館)
 両国1丁目1番7号、
大正3年創業の袋物メーカー有限会社「東屋」が、そのコレクションの数々
を公開している。江戸時代から現代に至るまでの小銭入れや札入れ、煙草入れなどの袋物。手動ミシ
ンなどの製作道具、写真パネルなど約50点が展示されている。また「東屋と木戸家の歴史コーナー」
も隣接されており、館長木戸好子とその娘、孫が親子3代で〝手古舞〟に扮した際のパネル写真や東
屋創業当時の手ぬぐいなど、袋物以外の展示品を楽しむことができる。
開館は、祝祭日を除く月曜日
から金曜日と、第2・第4土曜日の午後1時から午後4時まで。 03-3631-6353



■小林稲荷神社
 両国1丁目6番10号にある小社。小さいながら立派なものだ。



■春日野部屋
 両国1丁目7番11号にある出羽海一門の相撲部屋。8階建てマンションの1~3階。大正14年
5月8代目春日野(27人目横綱栃木山)が、「分家を許さず」の不文律があった当時の出羽ノ海部
屋から例外的に独立を許され創立し、44人目横綱栃錦らを育てた。
 昭和34年10月8代目の死去により、横綱栃錦が二枚鑑札で9代目春日野を襲名し、部屋を継承
した。同35年5月現役引退し、49人目横綱栃ノ海、大関栃光、関脇栃東・栃赤城・栃乃和歌など
を育て、同49~63年協会理事長を務め、最高の名理事長と謳われた。悲願だった両国国技館の建
設が〝男の花道〟となった。
 平成2年1月9代目の死去により、部屋付きの中立親方(横綱栃ノ海)が10代目春日野と部屋を
継承したが、親方としては。 同15年1月10代目の停年退職により、竹縄親方(関脇栃乃和歌)
が11代目と部屋を継承。
 四股名(力士名)には、部屋開祖の栃木山に因んで「栃」の字がつく力士が多い。昭和13年5月
場所以来、昭和42年9月場所の1場所を除き幕内力士を絶やしていない。



■猪肉料理の「もゝんじや」
 両国1丁目10番2号にある東京唯一の獣料理専門店。両国橋の東の橋詰に和風切妻の2階家の店
だったが、近年ではビルに直し、上界をマンションにしたので意外に気が付かない。外に猪の丸太(死
体)をぶら下げたりしてるので歩けば判る。創業は享保三年(1718)のというから老舗中の老舗
だ。日本人は元来肉食民族で、宗教上の禁忌から肉を食べなかったようにいわれるが、極端な仏教徒
は別として、しっかり肉を食べていた。家康が朝鮮使節をすき焼きでもてなしたという記録さえある。
遺跡からは動物の骨が大量に発掘されているのは当たり前のことだ。馬・熊・鹿・猪・鳥・牛と何で
もござれだ。
熊の胆なんぞは漢方で、子供の頃に良く飲まされた。下痢止めだ。猪肉は「山鯨」の隠
語で、「もゝんじ」とは肉の普通名詞。江戸時代、獣肉を扱う料理屋は、屋号の前に必ず「もゝんじ
や」という言葉をつけていたという。この店は今でも獣肉を扱い、三重・滋賀・兵庫などから野生の
肉を取り寄せている。猪・鹿・狸などなど。この店の客の顔ぶれは、河野一郎、池田隼人、佐藤栄作
などの総理大臣クラスから、岩崎弥太郎を初めとする財界の重鎮、団十郎・菊五郎など歌舞伎の大物
役者の面々だという。小泉とか安倍とかは来ないのかねぇ? 僕も、私も、と思う勿れ、もゝんじを
食らったから出世したのではなく、その地位に至ったから食べられるのだ。しかしおいらも一度だけ
行ったことがあるが、今では若いカップルでも食べられる肉食の珍味になってっから、安心して行っ
てやんない。



花屋与兵衛ずし跡(握りずし発祥の地)
 両国1丁目10番10号のサウスビルのところに最後の店があった。今は、チェーンレストランに
「華屋与兵衛」というのがあるが、それはこのすし屋の名声に肖らんとするものだが、花屋与兵衛は
それほどに人口に膾炙したすし屋なのだ。
 本来「すし」というものは、魚に塩をして重石を置いて保存して発酵させた「なれずし」で、現在
鮨屋で食べる「握りずし」は「早ずし」とも呼んで、江戸時代に考案されたものだ。保存する手間を
省き、発酵していない魚に酢を絡ませるという手っ取り早い方法が考え出された。その経緯は、かつ
て江戸で「すし」といえば、上方風の「押しずし」だったが、文政の初め、小泉与兵衛という者が、
前述の江戸前の「にぎり鮨」を考案した。最初は岡持にいれて行商、次いで屋台での営業をした。新
鮮なネタをその場で握る鮨が江戸っ子の好みにマッチし、また屋台に不似合いな、当時高級品だった
山本のお茶を出したりして大ヒットとなり、まもなく両国尾上町回向院前に「花屋」という店を構え
るようになった。文政七年(1824)のことだ。これが江戸前鮨を代表する「与兵衛鮨」だ。すし
に雑菌処理のため山葵を使ったのは与兵衛が最初だったから、一般的には「小泉与兵衛が握り寿司を
考案した」とされるのだ。
 これに対抗したのが、安宅(新大橋)の「松がすし」で、互いに贅沢さを競い合った。現在の銀座
の最高級寿司店の比ではない無謀ともいえる豪華さだったそうだ。それが行き過ぎて、幕府から営業
を差し止められたこともあったそうだ。その内これを真似て商売する者が出て、町内に1、2軒は鮨
屋があったとか。すしは内店と屋台に分極したそうで、今の高級店と回転寿司の関係と似て共存した
そうだ。何時の世もおいらのような貧乏人とIT成金のような金持ちはいるからねぇ。
 当時の主流は鯛、平目、小鰭、玉子、穴子で、鮪は赤身、トロはおいらのような下司貧民の食べ物
だった。タネにはそれぞれ味がつけてあったようで、食べる時に醤油をつけるようになったのも、「江
戸前ずし」の名で全国には広まったのも、明治以後のことだ。しかし花屋の流れを汲む両国の与兵衛
寿司は、関東大震災の影響もあって昭和5年に閉店しその後再起することはなかった。
 1丁目8番のべべというビルの前に区の説明板が建っている。最初の店がこの辺りにあったのだろ
う。この発祥の地の説明板は「与兵衛鮨」という店の発祥を表していると同時に、「にぎり鮨」の発
祥をも表している。



■岡田商事(建物)
 両国1丁目11番5号にある建築史上貴重な建物。戦前に建てられたものでアールデコ調の美しい
建築だ。建物に続く南側の駐車場も同社の敷地で、ここは江戸時代に架かっていた木橋の両国橋の東
側の広小路だったところだ。この岡田商事の前身岡田菊次郎商会が両国小学校の駆逐艦「不知火」の
錨を寄贈したのだ。



■米山・栄稲荷社
 両国1丁目15番9号にある小祠。祠は一つだが二つの掲額があるので、同格で合祀してあるのだ
ろう。由来は判らない。



■9代陸奥部屋
 両国1丁目18番7号にある相撲部屋。
平成8年3月場所限りで引退した井筒部屋(関脇鶴ヶ峰昭
男)所属の元大関霧島一博(吉永一美)は、年寄錣山(後に勝ノ浦に名跡変更)を襲名して井筒部屋
の部屋付き親方として後進の指導に当たっていたが、8代陸奥(星岩涛祐二)から全弟子を継承して
両国駅前に陸奥部屋を移転した。平成12年9月には立田川親方(関脇青ノ里盛)の停年退職に伴い
立田川部屋を吸収合併した。

 暴行事件
 時津風事件の熱りも冷めぬ平成20年1月下旬に、陸奥部屋の十両豊桜(34)=本名向俊昭、広
島県出身=が、部屋の仕事を怠ったとして中華料理用のお玉で同部屋の序ノ口力士(18)の頭部を
10回ほど殴り、8針縫う怪我を負わせていたことが判明した。同委員会は豊桜と師匠の陸奥親方(4
9)を厳重注意処分とした。その後二人は部屋の前で記者会見を開き、大相撲ファンならびに国民に
陳謝した。まで暴行が躾と称して罷り通っていた。「無理偏に拳骨と書いて兄弟子という」というよ
うな世界だったから、すんなりと暴力はなくならないだろうよ。男社会だからホモの問題もあらぁね。



■本所警察署
 両国1丁目29番5号にある。明治7年1月警視庁創設時、「第六大区六小区巡査屯所」として、
両国橋東際に設置される。同14年1月「本所元町警察署」と改称。同22年本所藤代町の出火によ
り類焼。同23年1月相生町三丁目(両国4丁目)に移転し、「本所相生警察署」となる。同26年
4月「本所警察署」と改称。同41年原庭(後の厩橋警察署)、向島(後の言問警察署)、太平町(後
の太平警察署)の3分署と2支社が設置される。大正2年「本所相生警察署」に戻称。昭和4年「本所
両国警察署」と改称。同20年愚かなアメリカ軍の非人道的無差別空爆により本所区は焼野原となっ
たため、両国・厩橋・言問・太平警察署を統合し、「本所警察署」となる。同47年現庁舎落成。

 
慰霊碑
 署建物の前に2つの慰霊碑とそれぞれの由来碑がある。大正12年の関東大震災や犯人逮
捕時に殉職した警察官、そして東京大空襲の殉職者を合祀している。

   
大震火災相生警察署員殉職之碑
同由来碑
   この碑は大正12年9月1日の関東大震災においてここ本所一帯をなめつくした猛火の中
   で避難する人々を、身を挺して救出せんとして多くの人々と共に尊い殉職をされた警視庁
   相生警察署山内署長以下34名の崇高にして警察精神の権化ともいうべき活動を後世に伝
   えるため、昭和8年9月1日当本所警察署東南角に建立され、現在に至るまで幾多署員に
   その行動の尊きを教え示してきたものであるが、これら殉職者の尊い教訓は、ただ単に署
   員の鑑のみとするものでなく、広く墨田区民の方々に地震風水害等自然災害の猛威とこれ
   ら災害から身を護るには、いつにかかって平素の心構えと不断の準備が、いかに大切な事
   柄であるかということを伝えもって防災意識高揚の一助とすることに役立つならば、殉職
   者の霊にいささかなりとも報ゆることが出来るものとこの位置に移設したものである。さ
   らに殉職碑を移設するに当って当本所警察署の前身である両国(旧相生)、言問(旧向島)、
   厩橋(旧原庭)、太平4警察の署員にして 昭和20年3月10日この地における空襲に
   おいて幼い子供を猛火からかばいつつ尊い殉職をされた両国警察署川原巡査ほか13名の
   戦災による殉職者も合祀するとともに これら警察署管内に居住され戦災によって亡くな
   られた方々の霊を慰め これら殉職殉難された多くの御霊の永く安らかならんことを心か
   ら祈るため 管内有志の方々および署員の浄財によって、ここに大震火災相生警察署員殉
   職之碑を移設しその由来碑を建立したものである。

   昭和51年9月1日                本所警察署・由来碑建立有志一同
 
   
本所原庭警察署殉職警察官碑同由来碑
   この碑は、大正12年の関東大震災の業火の中で積極果敢多くの人々の救出誘導に当り、
   遂に尊い殉職をされた当時の本所原庭警察署和多警部補以下15名の勲功をたたえ、翌年
   同署員によって現在の墨田区東駒形2丁目1番に所在した同署庁舎前に建立され、以来制
   度改正により厩橋警察署となりさらに4署統合により本所警察署となった。今日に至るま
   で連綿として警察精神の在るべき姿を教え諭してきた。このたび旧庁舎が取り壊しの運び
   となったことからこの碑をこの地に移し、あわせて明治13年凶悪犯人逮捕にあたって殉
   職された当時の第六方面第三分署永山巡査をはじめ、昭和20年3月の東京大空襲の際の
   殉職者など29柱の御霊を合祀し、その偉勲を後世に伝えようとの気運が盛りあがり、管
   内有志の方々および署員の浄財によって、ここに本所原庭警察署殉職警察官碑を移設し、
   その由来碑を建立したものである。
   殉職者氏名 永山三月(以下28名略す)
   昭和59年11月20日                本所警察署 同管内有志一同



■井筒部屋

 両国2丁目2番7号にある時津風一門の相撲部屋。


 井筒系統時代
 第16人目横綱初代西ノ海嘉治郎が7代目として明治時代に創設した井筒部屋は、鹿児島出身力士
を多く抱え、横綱2代西ノ海、大関駒ヶ嶽、大関大江山、関脇逆鉾与治郎を育てた。8代目は2代西
ノ海が継ぎ、9代目は前頭二枚目星甲実義が襲った。

 昭和19年9月9代目が亡くなった時に、力士は一時期双葉山道場に全員預けられたが、同22年
6月に元幕内力士鶴ヶ嶺道芳が引退して10代目井筒を襲名して井筒部屋を再興した。10代目は、
関脇鶴ヶ峰をはじめ、幕内逆鉾與治郎、幕内太刀風義経などの関取を士育て、中堅部屋としての地位
を確かなものにした。
 同47年3月に10代目が死亡すると、その後継を巡って一致点が見出せず、井筒部屋の部屋付き親
方だった陸奥親方(前頭4枚目星甲)が11代目井筒を継承し、同じく井筒部屋の部屋付き親方だっ
た君ヶ浜親(関脇鶴ヶ峰、後の13代目井筒)は、分家独立して君ヶ浜部屋を創設した。当時2人い
た幕内力士のうち、大雄辰実は井筒部屋に残ったが、錦洋幸治(後に改名して大峩悟)は君ヶ浜部屋
に移籍した。その直後の同47年5月場所に、二人の割が組まれてしまった。それで11代目は、同
49年4月に井筒の年寄名跡を返上して陸奥に戻り、部屋名称も陸奥部屋に改称してここに井筒部屋
は消滅した。

 
高砂系統時代
 それで宙に浮いた井筒の名跡は、高砂一門の九重部屋(横綱千代の山)第52代横綱北ノ富士の手
に渡り、同49年7月限りで引退して12代目井筒を襲名して同部屋から分家独立して井筒部屋を創
設した。しかし同52年10月に11代目九重(千代の山)が死去したため、同年11月に12代目
九重を襲名して九重部屋を継承するとともに、井筒部屋の力士全員は九重部屋に移籍して井筒部屋は
再び消滅した。

 
時津風系統時代
 昭和52年12月君ヶ浜親方(関脇鶴ヶ嶺)は12代九重(北の富士)が所有しているた空名跡井
筒と年寄名跡を交換し、13代目井筒となり部屋の名称も君ヶ浜部屋から井筒部屋へ改称した。因み
に13代目の妻は8代目(2代西ノ海)の孫にあたる。
 こうして明治来の系統に戻った井筒部屋は、大関霧島や井筒3兄弟(十両鶴嶺山、関脇逆鉾、関脇
寺尾)ら多くの関取を輩出した、しかし寺尾が引退すると一時関取不在の時期などもあり、一時より
勢力が落ちた。平成4年9月場所限りで引退した逆鉾は、年寄春日山を襲名して井筒部屋所属の部屋
付き親方として後進の指導にあたっていたが、13代目が定年退職を迎えたため、平成6年4月に1
4代目井筒を襲名して井筒部屋を再興した。なお井筒3兄弟の三男関脇寺尾は、同14年1月に井筒
部屋から分家独立して綴山部屋を創設している。



■力士もなか「とし田」
 
両国4丁目32番にある和菓子舗
田川に最初に掛けられた両国橋の辺りは、相撲茶屋や相撲部
屋が数多く軒を連ねる力士の街。この歴史に溢れた街で永年に亘り古風正統和菓子の「のれん」を掲
げ、多くの人々に親しまれてきた。

 
力士もなか
 両国新国技館の完成を記念し、満を持して発売した。厳選された北海道産小豆を用いた潰し餡と焼
皮の香ばしさが自慢の最中だ。

 両国焼き
 バターの風味が生きる皮と北海道産あずき餡のハーモニーが美味しいと評判の焼菓子。まあ相撲を
見に来るようなことがあれば寄って見てみい。



■出羽海部屋
 両国2丁目3番15号にある出羽海一門総帥の相撲部屋。現存する部屋の中では最多の9人の横綱
を育てたほか、3人が協会理事長を務めるなど相撲界随一の名門とされている。12の相撲部屋から
なる出羽海一門の本家。
 
寛政期の前頭力士出羽ノ海運右エ門が、部屋を開き大関市野上浅右衛門らを育てた。文化五年(1
808)鹿間津滝右エ門が2代目を継承したが部屋は閉じられた。桂川立吉が3代目出羽ノ海となっ
たのは文久二年(1862)のこと。現在の出羽海部屋はこの桂川を部屋の創設者としている。4代
目出羽ノ海の常陸山虎吉は、横綱常陸山谷右衛門らを育て、その常陸山谷右エ門が5代目を継ぐと部
屋は栄華を極めた。

 常陸山は、大錦、栃木山、常の花の3横綱に対馬洋、九州山、大ノ里、常陸岩の4大関を育てるな
ど、多くの力士を幕内力士に仕立て上げた。大正6年1月場所から同10年5月場所までは、出羽ノ
海部屋所属の力士で10場所連続優勝を占め(栃木山5回、大錦4回、常ノ花1回)、これは現在で
も大相撲記録である。他には九重部屋が昭和60年9月場所から同62年3月場所までの記録がある
が、大正時代は年2場所制で)。
 
常陸山が大正11年)に死去すると弟子の両国が継いだ。両国は年寄名跡の「ノ」を取り出羽海と
改称した。これは先代に畏敬を込めてのことらしい。両国の代でも部屋の勢いが消えることはなく、
昭和6年1月場所・3月場所では番付の西方片側の20名を全て出羽海部屋の幕内力士で占めるほど
だった。
 その後7代目(常ノ花)、8代目(出羽ノ花)と継承される間にも多くの横綱・大関らを輩出した。
常陸山が明治33年1月場所に関脇に昇進してから横綱千代の山が引退する昭和34年1月場所まで
の60年間138場所に亘り、常に三役力士を輩出してきたことも大きな伝統の1つといえる。同4
3年横綱佐田の山は30歳の若さで引退すると、出羽ノ花は部屋を譲り、佐田の山は9代目を継承、
9代目は部屋経営の傍ら協会の仕事にも従事していたが、協会の運営に専念するため、平成8年に鷲
羽山に10代目を継承させた。
 平成11年7月場所には101年ぶりに幕内力士がいなくなるなど、往時ほどの勢いは影を潜めて
いるものの、一門の中心としてどのように存在感を示して行くかが注目される。
 長年「分家独立を許さず」という不文律があり、唯一不世出の大横綱栃木山守也の春日野部屋が独
立した以外、独立はなく、大阪から参加した三保ヶ関部屋を合わせて3部屋時代が永く続いた。昭和
42年に九重(千代の山)が継承問題で敗北して強引に分家独立したため、一門を破門され、高砂一
門に鞍替えした。しかしその不文律は時代の趨勢には抗し得ず、同56年元横綱三重ノ海が武蔵川部
屋を創設を許してして以降は中立部屋(境川部屋)・田子ノ浦部屋が独立している。一門としては春
日野部屋系の玉ノ井・入間川・千賀ノ浦、三保ヶ関部屋系の北の湖・尾上・木瀬の12部屋が一門を
構成していたが、平成22年木瀬親方が砂かぶりの維持員席を暴力団に融通していた事件で降格とな
り、部屋は解散、所属力士は没収され北の湖部屋転籍となったため、11部屋となった。


 出羽ノ海 初代 出羽海運右エ門(前頭 山形)
      2代 鹿間津滝右エ門(幕下 山形)
      3代 桂川立吉(幕下 茨城)

      4代 常陸山虎吉(前頭・茨城)
      5代 常陸山谷右衛門(横綱・茨城)
      6代 両国梶之助(小結 長崎)
 出羽海  7代 出羽海秀光(横綱常の花寛市 岡山 第2代理事長)
      8代 出羽海喜偉(前頭筆頭 出羽ノ花国市 石川 第4代理事長)
      9代 出羽海智敬(横綱佐田の山晋松 第7代理事長)
      10代 出羽海義和(関脇鷲羽山佳和 岡山)


 行司不祥事
 平成22年2月27日部屋所属の幕下行司木村林之助(小林亮太 33歳)が、千葉県印西市の自
宅で、長男の背中を右膝で蹴り、6月8日千葉地裁(西川篤志裁判官)で初公判が、開かれ、小林被
告は罪状認否で「間違いありません」と起訴内容を認めた。7月13日に結審する見込み。



■大徳院

 両国2丁目7番2号にある高野山真言宗、高野聖(こうやひじり)の寺。今から凡そ400年前の
文禄三年(1594)三月徳川家康によって和歌山県高野山に徳川家菩提(文武両道)の祈願寺とし
て蓮華院を改めて開かれた。大徳院の寺号は、高野山を開いた弘法大師の「大」と徳川家の「徳」を
合わせて命名され、高野山金剛峰寺直末一等格院金剛格大徳院として徳川家の位牌所・祈願所だった。
 以来徳川家の菩提寺として寺基を固め、徳川家の勢威を背景に全国聖方諸末寺を統括する「聖方總
触頭(ひじりかたそうふれがしら)」となり、隆盛時には聖派100余ヶ寺を統括していた。高野山
では古くから高野三方(こうやさんかた)といって僧分を行人方(ぎょうにんかた)、学呂方(がく
りょかた)、聖方(ひじりかた)に三分する制度があった。大徳院はこの三方のうち聖方に属してい
た。
 実は徳川家康は時宗聖の系累にあった訳なのだが、家康7代前の松平泰親は幼名を独阿彌松寿丸と
いい、時宗聖の名刹藤沢の遊行寺第12世尊観について回国遊行の途次、三河で松平氏の目に留まり、
養子に入った。また泰親の先代松平親氏(家康の8代前)は相模の藤沢寺で高野山蓮華院(大徳院の
前身・現存)と師檀関係を結んでいたという。親氏→泰親→7代後に家康が出る。家康の祖父松平清
康が天文十三年(1544)に没し、大永五年(1525)遺骨は高野山蓮華院に納められ、光徳院
となった。そして文禄三年(1594)三月吉野から高野山に参詣した家康は蓮華院に宿泊、時の住
職宥雅法印の下、先代方の尊牌供養を厳修し、これを契機に「大徳院」に改号した次第だ。それで同
年7月家康は直ちに二人の御普請奉行広川土佐守と小出大和守を高野山発向させ、徳川家の霊屋と大
徳院本坊を建立した。慶長十二年(1607)家康は朱印200石を与え、またその後寛永十年(1
633)には大徳院境内に徳川家の御霊屋と東照宮を造営、寛永二十年(1643)に所謂「大徳院
東照宮」が竣工し、同年4月17日にはその落慶法要が営まれている。これらは重要文化財として現
存している。因みに江戸の東照宮は69社あったとされているが、その中に「大徳院東照宮 墨田区
南本所元町」があった。また明治御維新の神仏分離令でこの東照宮は薬師堂に改変しました、現在に
至っている。
 こうして高野山の大徳院は、徳川家の庇護のもと近世高野聖の頂点に立った。しかし行人方からの
反発もあり、大徳院は蓮華院に復し、大徳院の跡地には行人方の南院が移り来て、現在に至っている。
つまり和歌山の大徳院は無くなった訳だ。
 その一方で高野山の大徳院草創期の住職宥雅法印は、貞享二年(1687)幕府より現在地を拝領、
高野山御仏殿別当・高野山諸末寺触頭として江戸での大徳院の寺基を固めた。またこの宥雅法印は、
かって家康に従って陣中での戦略の吉凶などを占い、その進言は家康から厚い信任を得ていたといわ
れている。『新編江戸誌』や『砂子集』には、

   高野山御仏殿別当本所一つ目 本尊薬師如来 南都大仏殿勧進所あり

 と記してある。明治4年9月「大徳院」の寺号は現在地に移され、「紀伊高野山金剛峰寺宗務伝達
所」として明治18年まで存続しました。そして明治15年5月5日には明治天皇が行幸、大徳院は聖
跡に指定されている。かくてそれ以降は高野山真言宗の一地方寺院として現在に至っている。本尊は
薬師如来で、俗に「本所一ツ目の寅薬師」といわれ、眼病治癒に効き目があったことで信仰されてい
た。御府内八十八ヶ所霊場50番札所だ。

 高野山真言宗
 平安時代の初め、弘仁七年(816)弘法大師空海によって開かれた。その教えは「真言密教」と
呼ばれ、日本人が初めて味わうインド宗教だった。真言(マントラ)という不思議な言葉を唱え、身
体で印契を結び、心底で仏や仏国土を観想を行うという自分の全身全霊で感動できる全く新しい仏教
だ。そのため多くの人々がこの真言密教の教えに接することで、仏教を身近な自分のものとして受け
とめるようになった。
 高邁にして複雑な教理や言葉を使う「学問仏教」は「南都仏教(奈良仏教)」だが、凡そその日暮
しの庶民には縁遠いもので、それは専門の官吏としての「年分度者」僧のみが学ぶものだった。年分
度者とは、中国や日本のように、僧尼の出家得度が国家の統制を受けた社会において、各年の得度者
の定員が、律令(僧尼令)などの国家の規律によって規定されていたため、それに合格した者をいう。
これに対して定数以外の度僧制として、皇帝や天皇の恩恵として「特恩度僧」の制度や、国家財政の
面から行われた「売度(売牒、出売度牒)」の制度などがあった。そういう極々限られた人のための
仏教が受容されている中で、自身の肉体で感動できる真言密教は総ての人々に解放された。律令制下、
定められた官許を受けることなく出家した私度僧の空海が招来した真言密教は、仏教のバリアフリー
化を促した。それは当時の人々にとっては新鮮な驚きだった訳。しかして私度僧でなければできぬ業
(わざ)ではあった。
 密教は、仏教はもとよりインドの日常的宗教儀礼の多くを取り込んで、仏教の中観哲学や喩伽唯識
行派の哲学を基礎に据えて、7世紀のインドで生まれ、中国に入り、そして空海によって我が国へも
たらされた。弘法大師によって開かれた真言密教(東密)は「大日経」と「金剛頂経」を所依の経典
としている。
 密教とは、〝密かに〟とか〝隠れた〟という意味ではなく、大日如来が自らの悟りの中で自らの悟
りを楽しみながら説く、奥深い絶対の真理をいう。特に祈祷を重視し、そのための呪文や儀式を整備
しているため、何か秘密めいた教義のように思われ勝ちだが、富士山に登る時、木々を間を行く時が
「密」で、それを抜けると四天は開け、頂上に至れば゜「悟り」という訳だ。人は「密」のところで
迷い苦しみ、抜けられぬ者は悟りに達することなく人生を終える。そのため悟りに導く先達が密教と
いうことなのだ。日本の密教には2流あり、弘法大師空海の真言密に対して、伝教大師最澄のもたら
した天台密がある。



諸宗山(国豊山)回向院無縁寺
 両国2丁目8番10号にある浄土宗本派の寺。明暦の大火により亡くなっ人々の多くは、身元や身
寄りの判らない人々だった。家光の弟、保科正之が家康供養のため増上寺に行く途上、路上に多くの死
体が転がったままになっているのを見ていたたまれず4代将軍家綱に提言。家綱はこのような無縁の
人々の亡骸を手厚く葬るようにと隅田川の東岸、現在地に土地を与えて、「万人塚」という墳墓を設
け、増上寺の遵誉上人に命じて無縁仏の冥福に祈りをささげる大法要を執行、このとき念仏を行じる
堂宇が建てられたのが回向院の始まりだ。
 回向院は浄土宗の寺だが、江戸時代の正式の山号は「諸宗山」という。葬られた人々の宗旨が様々
なのを配慮し、1宗1派にとらわれない供養を行う意味が込められている。
 同院は無縁回向の一方で、境内堂宇に安置された観世音菩薩や弁財天などが江戸庶民に尊崇される
こととなり、様々な巡拝の札所となった。また江戸中期からは、この地の利が尊ばれて全国の有名寺
社の秘仏秘像の開帳される寺院として、境内は毎年のように参詣する人々で殷賑をきわめた。そして
江戸後期になると勧進相撲の定場所が当院に定められ、明治末期までの七十六年間、いわゆる〝回向
院相撲〟の時代を日本大相撲史に記録した。
 かつて回向院境内には、観音堂や鎮守堂、太師堂などが建立され、数多くの尊像が安置されていた
が、関東大震災をはじめとした震災等により木彫の諸尊像は悉く焼失し、石仏、銅仏等の諸尊像のみ
が残されている。平成22年5月に訪れたら、石仏・石像・墓石などの位置が随分変わっていた。

 力塚
 参道左側の玉垣の内にある。日本の国技である相撲は、江戸時代は主として公共社会事業の資金集
めのための勧進(チャリティ)相撲興行の形態をとっていた。その勧進相撲が回向院境内で初めて行
われたのは明和五年(1768)のことで、寛政年間を経て文政年間に至るまで勧進相撲興行の中心
は回向院とされてきた。やがて天保四年(1833)より当院は春秋2回興行の定場所となり、明治
42年の旧両国国技館が完成するまでの76年間、「回向院相撲の時代」が続いた。
 力塚の碑は昭和11年に相撲協会が歴代相撲年寄の慰霊のために建立したものだが、その後も新弟
子たちが力を授かるよう祈願する碑として、現在も相撲界との繋がりを示す象徴になっている。大正
15年建立の「角力記」「法界萬霊塔」は力塚建立の時に玉垣の内に移設した。その他昭和38年9
月24日建立の「回向院相撲記」「東京相撲記者碑」、平成20年建立の「東京相撲記者碑」が建っ
ている。角力記も東京角力記者碑も物故した角力記者・アナウンサーの名前が連ねてある。平成20
年の記者碑には、昭和38年の記者碑にまだ余白があるため何も記されていない。

 本尊阿弥陀如来像
 嘗ては本堂を背にして露天に安置されていた、所謂「濡れ仏」だった訳で。通称「釜六」(釜屋六
右衛門)の作で、宝永二年(1705)に安置され、身の1丈6尺5寸5分、蓮座3尺4寸5分もあ
る大きな銅作りの坐像でその慈悲に満ちたふくよかな顔に特徴があり、都有形文化財にも指定されて
いる。

 千体地蔵尊
 本尊の背面にある。先祖の供養や家運や社運の隆昌・繁栄を祈願する人々によって奉安されたもの
で、後光さながらに本尊を守護する様は、まさに荘厳そのものといっても過言ではない。関東大震災
により焼失してしまった尊像で、増上寺の黒本尊と同木といわれ、恵心僧都の作と伝えられた「備中
千体阿弥陀如来像」をその由縁としている。


 水子塚(水子供養の発祥)
 陽の目をみずに葬られた水子の霊を供養するため、寛政五年(1793)時の老中松平定信の命に
よって造立されたもので、〝水子供養の発祥〟とされている。江戸市民に知られていたこの矩形の板
石の塔は、正面に小作りながら端正なお顔の地蔵菩薩坐像が浮彫りされ、その下に「水子塚」という
大字が刻まれている。


 明暦三年大火横死者供養塔
 延宝三年建立


 天明三年浅間山噴火死者石塔
 天明八年建立、

   時維天明三年癸卯七月八日 信州上州 地變横死之諸靈魂等

 と刻まれており、天明三年(1783)の浅間山の噴火による犠牲者の慰霊碑だ。この噴火では火
山灰降下、火砕流流出、溶岩流出があり、典型的な火山災害が発生した。火砕流が鎌原村の集落(群
馬県吾妻郡嬬恋村鎌原)を襲い、高所の観音堂に避難した93人を除いて477人が犠牲になるとと
もに吾妻川を堰き止めた。天然の貯水池が出現し、さらに決壊して大洪水をもたらし、その後の洪水
対策、気温低下による農作物の減収と飢饉など噴火の影響は広範囲に及んだ。

   利根川沿岸のこの洪水による被害は二三カ村に及び、流失家屋一〇六一戸、死者
   一〇五一人、死んだ馬五〇〇頭であった。その当時、利根川は東京湾に流れてい
   た。この時河口近くまで流れていた死体もあり、東京都葛飾区の柴又帝釈天には
   この時流れ着いた人々の墓がある』大矢雅彦ほか著『自然災害を知る・防ぐ』

 安政二年大震災火災石塔

 安政二年建立


 
安政二年大震災火災石塔
 安政三年建立


 海上溺死者石塔
 安政三年再建

 大震災横死者之墓
 題字の右側には「大正十二年九月一日 九十有餘名」、左側には「施主相主理髪業組合」そして香
台には「両國署管内 大震災死者 石碑保存會」と刻まれている。

 
海難供養碑群(6基)
 寛政元年(1789)の「勢州白子三洲高濱船溺死一切精霊」、文化十一年(1814)「南無阿
彌陀佛・勢州白子参州平坂溺死者供養塔」、文政八年(1825)の「勢州白子戎屋専吉船溺死者等
供養塔」、文政十年(1827)の「南無阿彌陀佛・海上溺死群上追福之塔」、安政四年(1857)

紀州本宮福徳丸富蔵船溺死人之墓」、明治2年「溺死四十七人墓」。ねずみ小僧の墓など一緒に一角
に纏められたので・・・


 鼠小僧治郎吉の墓
 明治九年再建 鼠小僧は実在したかどうかも疑わしいが俗名中村治郎吉とある。また犯罪者は墓が
建てられないので墓があること自体あり得ない。墓が建てられたとすれば明治以後のことだ。
 次郎吉は、堺町中村座の木戸番定七の長男で寛政七年(1795)に生まれた。幼少から松平讃岐
守殿お抱えの建具屋星十兵衛の家へ丁稚奉公に行き、16歳の時に実家に戻った。一人前の職人だっ
たらしいが、元来博打が何よりの好物で、朝から晩まで働くのが嫌なため、町火消し一番ろ組の頭取
丑右衛門の世話で町方の鳶人足になったが、25歳の時に親に勘当された。文政八年(1825)忍
び込んだところを一度捕まり入れ墨され中追放となった。次郎吉が召し捕られたのは天保三年(18
32)で、浜町の松平宮内少輔の屋敷へ忍び込んで近習の侍衆に何の造作もなく捕らえられてしまっ
た。予審における次郎吉の白状によれば窃取した金高は凡そ12000両前後、侵入した屋敷は大名
旗本の屋敷150ヶ所だった。彼が忍び込む時には、いつも屋根からはいり、天井裏から降りて来る
ので、鼠のようだということから、鼠小僧といい初められた。ところが、鼠が物も引くという、この
引くというのが、無尽のまじないについての迷信を生じた。そこを縁起にかついで、鼠小僧の墓石を
欠いて、その一片を懐中して行けば無尽があたるといいだして、本所回向院の彼の墓所が繁盛した
 
時代劇で義賊として活躍する「ねずみ小僧」は、黒装束にほっかむり姿で闇夜に参上し、大名屋敷
から千両箱を盗み、町民の長屋に小判をそっと置いて立ち去ったといわれ、その信仰は江戸時代より
盛んだった。長い間捕まらなかった運に肖ろうと、墓石を削りお守りに持つ風習が当時より盛んで、
賭博を打つ者が、墓石の欠片を持っていると必ず勝つという縁起を担ぎ、墓石の一部を持って帰った
ために、墓石がボロボロになり、近年作り直したとか。現在は削り専門の前立石をおいてそれを削ら
せているが、何年も持つまい。墓石屋は儲かるぜ。
 立派な鉄製の屋根がついた。テレビか何かマスコミのせいで博運を掴もうと削石に必死の人々の蜿
蜒長蛇行列が・・・・これもスカイツリーのとばっちりか? 以前はこんなことはなかったがねえ。
それに女の子や若者が多いので驚いたが、近頃では「博打の雲が上がるように」ではなくて「受験に
合格しますように」って願いを込めて削りに来るんだそうだ。道理で博打とは無縁そうな小母さんま
でが並んでる訳だよ。ナットク!

 
動物供養碑群
 文化十三年(1816)建立の「猫塚」」、慶応二年(1866)建立の「唐犬八之塚」、大正1
5年建立の「膃肭臍(オットセイ)供養塔」、昭和3年陸軍獣医総監岡田勝男の建てた「動物慰霊之
碑」、さらに義太夫協会の「犬猫供養塔」、飼鳥獣商協同組合による「小鳥供養塔」、邦楽器商組合
の「犬猫供養塔」など、様々な動物の慰霊碑や供養碑がある。


 三界万霊供養塚
 寛文五年の造立。回向院で最も古い石塔。登緑有形民俗文化財。

 
亀学井田長秀の墓

 亀像の上に円柱の墓石。亀の研究家? 亀學は号なのかも。備中松山藩士だとか。


 二世中村勘三郎の墓
 江戸歌舞伎の創始者初代中村勘三郎の子。「
二世心誉宗月信士」と刻してある

 
初代竹本義太夫の墓 大正7年再建。大阪にも墓があリ分骨。隣の『釈道喜・竹本筑後大掾、
正徳4年」とあるのが最初の墓石だ。


 山東京伝・京山の墓
  京伝は、本名を岩瀬伝蔵といい、京橋の伝蔵をもじった号だ。江戸時代後期の戯作者・浮世絵師。
洒落本、滑稽本を多く著わし、著書は『江戸生艶気樺焼』『御存商売物』など多数ある。文化十三年
(1816)57歳で歿した。京山も、江戸後期の戯作者。本名、岩瀬百樹(ももき)京伝の弟。篆
刻(てんこく)を業とした。合巻を数多く書き、狂歌や絵もよくした。著『教草女房気質(おしえぐ
さにょうぼうかたぎ)がある。安政五年(1858)まで生き97歳の長寿を全うした。墓は自分で
撰文し、墓碑銘も53歳の時、自撰自書した。


 加藤千蔭の墓
 
江戸時代中期の国学者・歌人。通称は又左衛門、芳宜園(はぎぞの)と号し、幕府与力。父枝直の
とき江戸に出たが、本来は松坂の人。枝直は賀茂真淵の有力な庇護者。その関係で千蔭も真淵に入門
し研鑽する。職を退いてからは和歌や狂歌で活躍した。謎の浮世絵師写楽が千蔭であるという説もあ
るほどに、絵も優れていたことは『桜画賛』からも窺える。特に『万葉集略解』は後世に大きな影響
を及ぼした。同書執筆に際し、寛政四年(1792)本居宣長に協力を要請。以後宣長と親密な手紙
のやり取りが行われた。現在確認されている両者の書簡は、宣長へ宛てた8通、宣長よりのもの12
通だ。『万葉集略解』全巻が完成したのは、宣長没後3年の文化元年。同年九月に将軍に献進され、
下賜された銀十枚の一部を宣長の霊前に供えた。同五年72歳で歿す。

 半跏地蔵

 馬頭観世音尊像
 回向院が開創間もない頃、将軍家綱の愛馬が死に、上意によってその骸を当院に葬ることになった。
その供養のため、回向院二世信誉貞存上人は、馬頭堂を建て自らが鑿をとって刻し安置した馬頭観世
音菩薩像は、享保年中(1716~35)の頃から「江戸三十三観音」に数えられており、「江戸砂
子拾遺」によると、回向院はその26番札所と記されている。当院の馬頭観世音菩薩に祈願を籠める
と、当時最も恐れられた瘧疾(熱病)や疱瘡(天然痘)にかからぬといわれ、時代が下るにつれて諸病平
癒の霊験顕かな観音様として、人々の厚い信仰を集めている。幾多の災難にあい当時のものは焼失し
てしまったが、現在も昭和新撰「江戸三十三所観音参り」での第四番札所として今も多くの巡拝者で
賑わっている。

 一言観音像
 そもそも南都(奈良)唐招提寺の像と同木で彫られたもので、恵心僧都源信作と伝えられている。
回向院二世信誉上人の時に楼上に安置されたものだが、その後元禄十六年(1703)10月に四世
観誉上人の夢枕にこの観音が立って「他所へ遷すべし」と告げたため、観誉上人はこの聖観音像を墓
地へ遷すことにした。丁度その年11月に大地震と火災により当院は倒壊・類焼してしまうのだが、
この移転により聖観音像は倒壊を免れた訳だ。そのことが知れ渡り、信仰を集めるようになると共に、
その御前で一言願をかけると願い事が成就するという霊験が慕われ、何時しか「一言観音」と呼ばれ
るようになったってえことよ。また「近世江戸三十三観音参り」の27番札所(「江戸砂子」)に挙
げられ馬頭観音と共に庶民の信仰を集めた。




■両国花火資料館(墨田区小さな博物館)
 両国2丁目10番8号の不動産両国ビル1階にある。両国川開き花火にはじまる江戸の花火の歴史
をはじめとした両国花火の総合資料館。日本の花火の技術と歴史を、模型や資料で解説する花火の殿
堂。浮世絵などの歴史資料ばかりでなく、新旧の花火ポスター・写真・ビデオ・書籍などでも判りや
すく展示。花火絵はがきなどの販売もやってる。



旧両国国技館→メモリアルホール→日大講堂
 両国2丁目10番14号、千葉街道沿いの本所回向院の境内にあった雨天相撲場。それまでの興行
は観客席を杉丸太で囲い、タダ見をさせないために目隠しの筵掛けした小屋掛けで行なった。だから
雨が降ると順延となり、常設の雨天相撲場は大相撲関係者の永年の悲願だった。

 初代
 明治39年6月着工、3年後の同42年5月に竣工し、6月2日に開館式が行われ、6月場所より
使用された。しかし6月場所の番付上は「常設館」とだけあって、まだ国技館の名は無い。設計は日
本銀行本店や東京駅、浜寺公園駅の設計者として知られる辰野金吾とその教え子葛西万司で、「大鉄
傘(だいてっさん)」の通称で知られるドーム型屋根の建物だった。工事費用は27万円。桝席10
00席を含む13000人の収容可能で、小屋掛け時代の3倍以上の収容能力となった。建物の内径
は62m、中央の高さは25mあった。「國技舘」の名称は命名委員会(会長板垣退助)の命名によ
るが、作家の江見水蔭が執筆した開館式の披露文(相撲節により相撲は国技であるという内容)にヒ
ントを得て、当時の年寄尾車(元大関大戸平)が提案したものでだ。
 大正6年11月29日午前1時30分、1階売店福井軒にあった火消壷からの出火による火災が発
生、放駒などの消火により2時40分に鎮火するも回向院花売場、本堂も含め全焼した。損害額12
0万円、火災保険は約13万円だった。使用不能の間は靖国神社境内に仮小屋を建てて興行を行なっ
た。

 2代目
 新国技館は笠井博士により屋根は亜鉛製で設計され、同7年7月に地鎮祭・起工式、同8年4月3
日に鉄柱崩壊事故があるも、同9年1月15日に完成・開館式を行なった。9月1日に初めての再建
興業を催行したが、同12年9月1日の関東大震災で屋根・柱など外観を残して再度焼失。再建の結
果、翌年の夏場所から興行を再開した。再建中、同13年1月に名古屋で本場所が行われたこともあ
る。
 太平洋戦争中の昭和19年1月の春場所を最後として、2月陸軍に接収され、風船爆弾の製造工場
として使用された。このため5月の夏場所は後楽園球場(番付には小石川後楽園球場と表記)で開催
されることになり、球場の中央に協会員の手で土俵作りが行われた。野外での晴天10日間の興行は
前述の大正13年1月場所以来のことだった。この場所7日目には日曜日で晴天とあって、大観衆8
万人以上という空前絶後の記録でスタンドまでギッシリ埋まった。なお同年11月にも同球場で十両
以上秋場所が開催された。幕下以下は神宮外苑相撲場(現神宮第二球場)で開催。翌年1月が厳寒期
に当たり、野外興行が困難なため2ヶ月繰り上げて11月5日より晴天10日間開催された。因みに
東京で11月に本場所が行われるのは明治5年以来72年振りだった。
 昭和20年3月10日、愚かなアメリカ軍の非人道的無差別の東京大空爆によりまたも焼失。その
ため同年5月23日からの本場所は神宮外苑で晴天7日間の開催予定だったが宮中喪や空襲で延期さ
れ6月に国技館で傷痍将兵の招待以外は非公開で行われた。日本相撲協会の興行史上唯一の本場所非
公開開催だ。大鉄傘が空襲で破損したため、晴天7日間の興行となった。

 メモリアルホール
 敗戦直後の10月26日にはアメリカ軍によって再び接収され、「メモリアルホール」として改称
・改装された。改装前の11月中旬には焼け爛れたままの国技館で戦後初の本場所(秋場所)が行な
われた。晴天10日間と露天並みの興行だった。占領軍から本場所開催許可の一つの条件として「土
俵を広げよ」という要請で、1場所限り土俵の直径を15尺(4.55m)から16尺(4.80m)
に広げさせられた。同21年9月24日改装完了後の11月には柿落としとして大相撲秋場所が開催
されたが、その後は接収解除まで大相撲でのメモリアルホールの使用は許可されることはなく、11
月場所と、同場所終了後の第35代横綱双葉山引退披露が旧国技館での最後の興行となった。同27
年の接収解除後は国際スタジアムが買収、ローラースケートリンクとして生まれ変わり、プロボクシ
ングやプロレスリングなどの会場としても利用された。
 同33年6月日本大学に譲渡され「日大講堂」となる。この日大講堂は、日本大学のイベントなど
よりはプロボクシングやプロレスリング、コンサートなど多くの興行に使用され、プロレスでは主に
全日本プロレスが使用していたほか、帝拳ジム会長本田明彦は、大場政夫が出場したWBA世界フラ
イ級タイトルマッチの全てを日大講堂で開催)。同43~44年にかけて全国で起こった全共闘運動
の中で、日大における闘争の舞台(対大学当局全学大衆交渉)としても使用された。
 老朽化のため同57年を以て使用中止となり、翌58年解体された。幾度かの再建や改修を経つつ
も解体されるまで「大鉄傘」の姿を堅持したままであり、相撲協会理事長を務めた武蔵川は博物館明
治村への移築も考えたようだが、あまりにも大きい建物であり、運ぶのは無理であったという。解体
後の跡地にはオフィス・住宅・劇場・レストランなどからなる複合ビル施設の「両国シティコア」が
建設され、その中庭には先代の国技館があった当時の土俵の位置がタイルの色で示されている。
 なお、敗戦後の大相撲の興行場所は、神宮外苑相撲場などでの野外興行を経て、同24年1月に日
本橋浜町の仮設国技館で行なわれた後、翌25年1月に蔵前仮設国技館へ移り、その後同29年の完
成以後同59年の秋場所まで蔵前国技館を使用した。



■両国シティコア

 両国2丁目10番14号にある複合施設。相撲の発祥地であるここ両国に生まれたこの施設は、東
京都の土地信託事業として、住友信託銀行・みずほ信託銀行・三菱UFJ信託銀行の共同受託により
事業化されたテナントビルプロジェクトだ。地域の核産業を始めハイテク企業、物品販売企業などが入
居する「ワークビット」。 快適で新しい下町生活の拠点となる「ライフビット」。広大なスペース
を確保したイベントスクエア「プレイビット」、ヘルシーな日々の「スポーツビット」、シアターや
ギャラリーなどのコミュニティスペースまでも擁する。株式会社両国シティコアは、この施設を管理
する管理会社。



■ちゃんこ料理をメニューにした「川崎」
 両国2丁目13番1号、国技館通りの1本西の通りに面してある。日本で最初にちゃんこ料理をメ
ニューにした店。創業当時から鍋は鶏ソップのみのシンプルな味、鶏肉が高級品だった創業当時は、
栄養をつけるために力士の客が多くおとずれたが、今は美容にいいと女性にも人気が高い。
 なお「ちゃんこ」とは、「ちゃん(親)・こ(子)」つまり親方と弟子が一緒に突っつく鍋の意。
また「ちゃんこ料理」に一定の型はなく、相撲部屋毎に、また季節毎に違うもので、栄養のつくもの
を何でも入れて煮込んだ鍋料理だ。肉も鶏、豚、魚と何でもいいのだ、味も、味噌・醤油・塩、何で
もござれだ。

 と書いたら、静岡県磐田市の杉浦さんからメールを頂戴しました。

   墨田区 
この中で、国技とチャンコのことが出ていました。相撲が国技という風潮が明治
   の頃あったようで、開館につき舘名を付ける際に
年寄尾車が国技舘と命名したということ
   です。チャンコですが、これも当時、相撲部屋の炊事などは引退した元力士が面倒をみて

   いて、その部屋の若い力士が親しみをこめて、ちゃん(爺)こう(公)と呼んでいたもの
   が、ちゃんこうが作る食事をチャンコとなった
ものです。



■大島部屋
 両国3丁目5番3号にある立浪一門の相撲部屋。昭和54年9月場所限りで引退した立浪部屋(関
脇羽黒山)所属の元大関旭国は、年寄大島を襲名して部屋付き親方として後進の指導に当っていたが、
同55年1月に分家独立して部屋を創設した。第63代横綱旭富士をはじめ一代で多くの関取力士を
育て、立浪一門の中核的な存在となっている。モンゴル出身の関脇旭天鵬が日本国籍を取得し師匠大
島親方と養子縁組すると共に、平成24年4月の親方の定年退職を控えて部屋の後継者としての準備
に入っている。同58年3月場所の旭富士新入幕以来、幕内力士を絶やしたことがなかったが、平成
19年5月場所前に、旭天鵬が協会で禁じられている力士の自動車運転によって人身事故を起こした
ことにより同場所を出場停止、翌7月場所に十両陥落となり部屋の幕内力士連続在位が途絶えた。平
成8年現役平幕力士旭道山が第41回衆議院議員総選挙(新進党・近畿比例代表)に出馬当選し国会
議員となったため廃業した。育った力士は、旭富士・旭道山・旭豊・旭鷲山・旭天鵬・旭豪山・旭里
・旭南海。



■飯澄稲荷社

 両国3丁目7番4号、吉良邸跡の向かいにある小祠。



■相撲写真資料館(墨田区小さな博物館)
 両国3丁目13番2号の工藤写真館にある。昭和4年に先代が旧両国国技館脇に開業して以来、6
0年以上に亘り相撲協会の専属写真を務めた写真館。相撲協会の公式行事や歴代の横綱、優勝力士、
幕内全力士の他、旧両国国技館→蔵前→新両国国技館という国技館の変遷、また七五三、お宮参り、
相撲教習所の卒業写真や力士の手形など、相撲に関する写真や展示品が沢山所蔵されている。その内
展示用に厳選した写真500枚ほどの中から、各場所ごとに70程度を展示している。展示写真が替
わるから、何度訪れても楽しめる。開館は、火曜日の午前10時から午後5時まで。大相撲初場所、
夏場所、秋場所の期間中は毎日。 03-3631-2150



赤穂義士遺跡 吉良邸跡(本所松坂公園)
 両国3丁目13番9号にある「赤穂義士元禄義挙の跡」というのが本名らしいが、「吉良邸跡」の
方が通りがいい。吉良上野介義央が元禄十四年(1701)九月三日に移転命令を受けて、同十五年
十二月十四日に討ち入られるまで住み、その罪により同十六年二月四日に没収されるまでの間上屋敷
だった。ここは当時府内ではなかったので、幕府が暗に赤穂側に討ち入らせようとしたのではなかっ
たか? 吉良は見捨てられたのだ。だったら最初から武家諸法度にあるように「喧嘩両成敗」にすれ
ばよかったのだ。卑怯なのは5代将軍綱吉で、浮薄に責任逃れをした結果だ。さて「本所松坂町」と
いうのは、町地になってからの町名で、吉良邸のあった頃には存在しない。白壁に囲まれた狭い園内
には、今は涸れているが、上野介の首を洗ったという〝首洗いの井戸〟、吉良家家臣二十士の碑。追
慕吉良上野介義央公碑、松坂稲荷大明神がある。

 吉良邸の範囲
 両国3丁目6~11番の全部と11番の並びの13~14番の部分に相当する、平面長方形。

 
浅野内匠頭家来口上

 元禄十五年十二月十四日大石内蔵助は吉良邸討入を前に1通の声明文を用意した。「われわれの行
動は偏に主君の仇、吉良上野介を討つことにあり、他にご迷惑を及ぼすつもりはない」と宣言してい
る。幕府をはじめ近隣に対する配慮だった。簡潔だが誠忠の情のこもった文面だ。内蔵助は山鹿素行、
伊藤仁斎など当時の一流学者に学んだ文化人でもあった。その文面に堀部安兵衛が疑問を挟んだ。「趣
意に異論は全くない。しかし君父の讐は共に天を戴かずとある。これは中国の『礼記』に「父の讐」
と出ている。勝手な書き換えだと世間の物笑いになりかねない」と。安兵衛といえば赤穂浪士の中の
行動隊長だ。しかしやはり文武両道に秀でていた。元禄時代に江戸で随一の剣客といわれた堀内源太
左衛門に学び、同門の親友に細井広沢がいた。広沢は名筆家として名高いが、古今の学にも明るい。
内蔵助の命で、安兵衛はさっそく広沢に相談した。広沢の返事は明快だった。理義が一貫していれば、
一語一語にこだわることはない。討入の声明文を外部に検討してもらう大石の度胸、それを承知
の広沢の義侠には敬服するほかない。安兵衛は広沢を信じ、大石との往復書簡など関係の文書を預け
たので、今も『堀部武庸筆記』が残り、貴重な記録になっている。武庸は安兵衛の本名、安兵衛は通
り名(呼び名)だ。

 松坂公園の由来
 吉良邸は3丁目6~11番と13~14番の一部の約8400㎡を占める広大な屋敷だったが、年
を経て一般民家が建ち並び、今ではその面影もない。昭和9年3月地元町会の有志が、遺跡を後世に
伝えようと、旧邸跡の一画(70分の1)を購入し史跡公園として東京市に寄付したもので、同25
年9月墨田区に移管された。周囲の石壁は、江戸時代における高家の格式をあらわす海鼠(なまこ)
壁長屋門を模した造りで、園内には元吉良邸にあった著名な井戸や稲荷社などの遺蹟があり当時を偲
ばせている。

 吉良家家臣二十士の碑

   小林平八郎 清水一学 新貝弥七郎 斎藤清左衛門 牧野春斎 森半右衛門 森権十郎 
   森曽右衛門 大須賀次部右衛門 左右田源八郎 小堺源次郎 大河内六郎右衛門 鳥井利
   右衛門 須藤与一右衛門 鈴木元右衛門 笠原長太郎 榊原平右衛門 鈴木松竹 杉山三
   左衛門 清水団右衛門


 吉良家と上杉家の家臣の名前が記載されている。

 松坂稲荷社
 吉良邸跡の中にある。兼春稲荷は徳川氏入国後、現在の社地たる松坂町方面に御竹蔵を置いた当時、
其の水門内に鎮座していたもので、元禄十五年の赤穂浪士討ち入り後、吉良邸跡へ地所清めのために
遷官され、昭和10年に既存の上野稲荷と合祀され、当本所松坂町公園開園とともに現在地に遷座さ
れた。




■時津風部屋

 両国3丁目15番3号にある相撲部屋。時津風は、大坂相撲の名跡だった。東西合併の時には小九
紋龍が親方で部屋を経営していた。昭和10年に部屋を閉じ、弟子を粂川に譲渡。この時の弟子に十
両の九紋龍政五郎、谷ノ音谷五郎がいた。同13年に再び部屋を興したが、同16年限りで部屋を閉
じ、立浪部屋に弟子を譲った。この中に、平幕で全勝優勝し、後に関脇まで昇進した時津山仁一がい
た。
 
昭和17年当時まだ現役の横綱双葉山定次(立浪部屋)により「双葉山相撲道場」として設立され
る。この際に元大関鏡岩善四郎の粂川親方が部屋をそっくり譲り、他の部屋も多くが傘下に入った。
双葉山の引退後年寄時津風の襲名とともに「時津風部屋」と改名し、粂川部屋から譲り受けた鏡里喜
代治が横綱に、現役時代からの弟子大内山平吉が大関になった。後に北葉山英俊、豊山勝男といった
大関も育てた。同43年双葉山の死後、立田川親方(鏡里)が襲名するが、後継者に豊山を指名して
いたとの遺言の存在が明らかになり、鏡里は立田川に戻り、立田山(大内山)などの親方だけを連れ、
弟子は1人も連れず独立し、同46年に立田川部屋を興した。豊山勝男の継承後、関脇蔵間竜也、小
結豊山広光・大潮憲司・双津竜順一・大豊昌央・霜鳥典雄、平幕時津洋宏典・蒼樹山秀樹・時津海正
博などの幕内力士を輩出している。豊山の時津風定年後は、元小結の双津竜が部屋を継承。弟子に「時
津」や「時」「豊」「双」を含む四股名をつけることが多い。先代の母校である東京農業大学相撲部
は時津風部屋で稽古を行うことがあるため、卒業後角界入りする者は殆どといっても良い程、この部
屋に入門している。実際に豊ノ島以外の現役3関取(霜鳥・時津海・時天空)は東京農大の出身。現
在でも右横書きで書かれた「双葉山相撲道場」の看板がかかげられている。平成19年6月序ノ口力
士時太山集団暴行致死事件を発生させ、時津風親方(双津竜)立件へと前代未聞の事態となった。
 

時津風事件(新弟子殺し)
 平成19年6月26日「この年春に入門したばかり序ノ口力士時太山俊(ときたいざんたかし 斉
藤俊 17歳)が稽古中に心不全で倒れ、同28日に死亡した」と公表された時太山に付いた通常あ
り得ない傷や、「死亡した力士にはマリファナの使用歴があった」など死亡した力士に責任転嫁する
時津風親方の発言などから、死亡した力士の両親が死因を不審に思い、愛知県警(巡業先管轄)に行
政解剖を求め、警察が実施したことから事実が発覚。時太山が稽古の厳しさに脱走をしたことに憤慨
し、6月25日時津風親方がビール瓶で額を叩き割り出血させ、さらに数人の力士に「かわいがって
やれ」と集団暴行を示唆、翌26日も通常は5分程度のぶつかり稽古を30分に亘り強い、力尽きて
倒れた後も蹴りを入れたり金属バットで殴打するなど集団暴行を加えた。
 警察の任意取調べに対し時津風親方や数人の兄弟子力士が容疑を認めたため、愛知県警は死因特定
の遺体の組織検査や、体のところどころにある根性焼きと思われるタバコの火を押し付けるヤケドの
跡など、暴行と死亡との因果関係の結果を待ち、傷害および傷害致死容疑で立件する方針を固めた。
また遺族に無断で遺体を火葬しようとしたことも発覚しており、暴行の事実を隠蔽しようとした疑い
がもたれている。なおこの暴行の際十両以上の力士は不在だったとされている。親方もみっともない
と思ったのだろう。
 この事件は難しい。肉体と肉体がぶつかり合う格闘技では、生半可な根性では幕内を張れない。相
撲は、死と隣り合わせの世界一の格闘技なのだ。相撲の始まりは当麻蹴速(たいまのけはや)と野見
宿禰(のみのすくね)の組打で、この時野見が当麻を投げ殺している。小泉純一郎や安倍晋三、福田
康夫のようなお坊ちゃん教育でやっていける世界じゃない。彼等のように僅かの苦労もせずでは総理
大臣にはなれても、とてもとても横綱には・・・なれっこない。精々チャンコ番が関の山。15日間
相撲を取って勝ち越すには鬼のような根性がないととてもじゃないが務まらない。しかし人の子で、
しかものんびりボンボンで育つ日本男児は女の子に苛められる優男はかりだ。それが鬼にも勝る根性
の持ち主に仕立て上げるには民主主義では育たない。理不尽でなきゃならんのよ。相撲社会は理不尽
なればこそ成立もするのだ。相手を殺す勢いは、民主主義では間尺に合わない。〝土俵の鬼〟と謳わ
れた名横綱若乃花勝治でさえ、猛稽古で鳴る二所の関部屋の稽古に付いていけず、何度も逃げ出して
いる。捕まっては連れ戻され、苛められ、扱(しご)かれ、遂には力道山の太股に噛り付いて歯形を
残した。こうして死線をさ迷いながら、次第に強くなっていった。出羽錦と仲がよく新宿で豪遊して
は、暴力団と大喧嘩、最強だった。そりゃそうだわ。
 銕炮柱は、何もてっぽうだけをするためのものではない。額と額でぶつかり合う突進では頭への衝
撃は訓練するしかない。後手に縛って銕炮柱の前に立たせ、後から衝く、額をぶつけて支えるしかな
い。足を踏み出せば暴行が待っている。これを繰り返して次第に額を鍛えていく。ビール瓶で殴られ
ても割れない額を作るのだ。そんな狂気の世界なればこそ、プロの格闘技なのだ。そりゃあ過去に何
人も死んでる、殺されているだろう。「兄弟子とは無理偏に拳骨と書く」といわれ、「番付一枚違え
ば虫けら同然」といわれる世界だ。苛められた弟弟子は、番付で抜いて兄弟子を苛める、痛めつけこ
とは許される。恨みを買った弟弟子に可愛がられて死んでいった兄弟子も少なくはなかろ。相撲とい
う隔離社会ではこれが常識でも、世間では非常識だ。通用しない。情報過剰社会、「隠すことをば天
知る地知る吾知る人知る皆が知る」。もうそういう時代なのだ。相撲はもう神事じゃない。スポーツ
と化してしまっている。科学的な、そして万人の納得する訓練方法で育てる時代が来たのだ。朝青龍
が横綱らしくない。「横綱らしさ」とは誰が決めたのか?
 蓋し、国技を最初に冠した相撲は死んだ。
 因みに「力士」とは、殿様の警護をする「ボディーガード」の謂いだ。

 
解雇

 序ノ口力士急死問題で10月5日、時津風親方が日本相撲協会から「永久追放」された。協会とし
て非常に重い処分だが、角界の閉鎖的な体質や、人材発掘・育成の制度疲労も浮かび上がった。解雇
を通告された親方は、何も説明しないまま自宅に閉じこもった。
 時津風部屋では玄関前で5日午後8時半、部屋付きの錦島親方が時津風親方のコメントを読み上げ
た。「協会の決定を真摯に受け止める」。時津風親方が解雇処分に対する法的措置をとるかについて
は「しません。予定なし」と否定した。恥の上塗りと考えたのだろう。
 錦島親方によると、部屋に戻った時津風親方は体をふらつかせ、そのまま部屋のビルにある自宅で
伏せっているという。親方自身の会見は「もう親方じゃないので難しいと思う」と述べた。自殺する
かもしれない。
 北の湖理事長は理事会終了後、約25分にわたって会見に臨んだ。冒頭で深々と頭を下げ「亡くなっ
た力士の遺族におわび申し上げます。誠に申し訳ございません」と謝罪した。顧問弁護士を交えて4
人で会見したが、質問に応じたのは、ほぼ理事長1人。報道陣からは自身の責任を問う声も上がった
が、「時津風が責任を取るべきだ」と以前からの主張を繰り返した。
 伊勢ノ海生活指導部長は5日午後4時30分すぎ、監督官庁の文部科学省を訪れ、7日前に北の湖
理事長が指導を受けた場で、時津風親方の解雇を報告した。渡海文科大臣は伊勢ノ海部長に「処分は
協会内部のけじめと受け止める。それよりも再発防止、相撲という国技の権威の回復をぜひお願いし
たい」と語りかけた。同部長は「検討委員会を立ち上げ、こういうことがないように前向きに検討し
ます」と答えた。

 名跡継承
 師匠が解雇された時津風部屋は、時津海が急遽引退して継承することとなった。時津海は10月6
日両国国技館で行われた社会福祉大相撲には現れず、午後7時40分ごろに部屋から出てきた。報道
陣の質問に「これから。ハッキリ決まったら・・・」とだけ話して車へ乗り込んだが、関係者による
と、この日になって継承のため現役引退を決意したという。
 名跡取得の手続きを行っており、7日から横浜市で始まる秋巡業も休場。協会が設定した名跡変更
期限の9日午後4時までに現役引退と「時津風」襲名を届け出る。現在は年寄名跡「錦島」を所有し、
部屋付き親方の元幕内蔵王錦に貸している。襲名に当たっては、まず解雇された山本順一の「時津風」
と名跡を交換。解雇された者の名跡保有は認められないため山本は「錦島」を第三者に譲渡し、蔵王
錦は引き続き譲渡された人物からこれを借り、年寄錦島として協会に残るとみられる。

 逮捕
 平成20年2月7日時太山こと斉藤俊(たかし)を制裁目的で暴行死させたとして、愛知県警捜査
一課と犬山署は、傷害致死容疑で元時津風(元小結双津竜こと山本順一 57)と部屋の兄弟子明義
豊(あきゆたか)こと木村正和(24)・怒涛こと伊塚雄一郎(25)・時王丸こと藤居正憲(21)
の3人を逮捕した。一時は病死と判断された事件だったが、真相解明を求める両親の粘り強い訴えが
県警を動かし、名門相撲部屋の行き過ぎた〝しごき〟の立件に漕ぎ着けた。また他の4人の兄弟子に
ついては関与が薄いとして書類送検に留めるとも発表した。

 判決
 暴行に関わった兄弟子3人は平成20年12月18日名古屋地方裁判所にて執行猶予付きの有罪判
決(内2人は懲役3年、執行猶予5年、1人は懲役2年6月、執行猶予5年)が確定し、これを理由
として相撲協会を解雇されている。
 山本の刑事裁判は、同21年5月29日名古屋地方裁判所が懲役6年の実刑判決を言い渡した。被
告人は即日控訴し保釈を申請。この申請が認められ、同日名古屋拘置所を出所。保釈保証金は100
0万円。同22年4月5日名古屋高等裁判所にて控訴審の判決が言い渡され、名古屋高裁は一審終了
後に被告人が退職金を被害弁済に充当したことなどを情状として酌量し、一審判決を破棄し新たに懲
役5年の実刑判決を下した。被告人は即日上告したが、同23年8月29日付で最高裁判所は上告を
棄却、二審の懲役5年の実刑判決が確定した。 


■芥川龍之介生育の地

 両国3丁目22番11号の両国ウェルストンハイツのところ、1階がサンクス両国店(現在はほっと
もっと両国3丁目店らしい)だ。龍之介は明治25年3月1日京橋区入船町8丁目、現在の中央区明
石町)に生まれた。生後7ヶ月で母が病気となり、当時は本所小泉町15番地(当該地)に住む伯父
芥川道章に引き取られ、やがて養嗣子として育てられた。芥川家は代々江戸城の御数寄屋敷衆を勤め
た旧家、道章は俳句や盆栽に親しむとともに、南画を嗜みまた一家をあげて一中節を習い、歌舞伎を
観るなど江戸趣味の濃い家庭だったそうだ。道路沿いに標柱が立っている。

   龍之介は明治25年3月1日、京橋区入舟町8丁目1番地(中央区明石町に説明板有り)
   に生まれました。生後7ヶ月で母が病気となり、この地本所区小泉町15番地に住む伯父
   の芥川道章に引き取られ、やがて養嗣子として育てられました。芥川家は代々江戸城の御
   数寄屋衆を勤めた旧家でした。道章は俳句や盆栽に親しむとともに、南画をたしなみ、ま
   た一家をあげて一中節を習い、歌舞伎を観る等、江戸趣味の濃い家庭でした。
   龍之介は当時回向院に隣接していた江東(えひがし)小学校(現両国小学校)を卒業し、
   府立第三中学校(現両国高校)に進学しました。幼い頃から文章を書くことが得意であり
   、また本を読むことも好きで、図書館によく通いました。


 しかし新しい区の立て看板というか説明板が、隣の3丁目21番4号グレイスビル両国の前に立っ
て、芥川家はそこだといい、写真まで載せている。22番11号も区の表示であり、どっちがどっち
やら・・・新しい立て看板でそうしたため、殆どのブログは22番11号説を採っている。
 丁度横綱通りを挟んで西東だ。一度行ってみなはれ。



■桐の博物館(墨田区小さな博物館)
 両国4丁目1番8号、国内有数の総桐たんす製造メーカー「タナカ」の1階にある。400年以上
前の一弦琴や江戸文化年間製造のタンスなど、普段見ることのできない桐製品のほか、タンス製造に
必要なカンナやノコギリなどの道具が展示されている。また古典や家紋にも多く登場する桐と日本人
との深いかかわりや、耐久性や防湿性に優れた桐の特性、桐タンスの変遷や種類などがパネルで解り
やすく紹介されている。同社で桐タンスの仕上げをする田中英二はすみだマイスターに認定されてい
る。開館は、水曜日・年末年始・夏季・ゴールデンウィークを除く毎日の午前10時から午後5時ま
で。 03-3632-0341



■二所ノ関部屋
 両国4丁目17番1号にある二所ヶ関一門総帥の相撲部屋。

 5代目 軍右衛門
(2代目海山太郎)
 明治40年1月に二枚鑑札で5代目二所ノ関を襲名した関脇2代目海山太郎は、同41年1月場所
限りで引退し、友綱部屋(前頭筆頭初代海山太郎)に預けてあった内弟子を連れて二所ノ関部屋を創
設した。なかなか良い弟子に恵まれなかったが、苦労して玉錦を大関に育てあげた。しかし玉錦が昭
和7年10月に32人目の横綱に昇進する直前の、前年6月に胃癌で死亡し、弟子は粂川部屋(前頭
筆頭鬼柳山)に預けられた。

 6代目 三右衛門(玉錦三右衛門)
 同10年1月に横綱玉錦の二枚鑑札が許可され、6代二所ノ関を襲名して現在の二所ノ関部屋の中
興ともいうべき基礎を築いた。当時の二所ノ関部屋は弱小で稽古場さえなかったが猛稽古により一代
で部屋を大きくし、先代弟子から関脇玉の海、幕内海光山などの関取を育てた。しかし勧進元を務め、
これからという同13年12月に虫垂炎を悪化させ腹膜炎となり34歳の若さで死亡した。

 7代目 梅吉(玉の海梅吉)
 昭和14年1月6代目が現役死亡すると、関脇玉ノ海が26歳の若さで二枚鑑札で、7代目二所ノ
関を襲名して部屋を継承、戦争中は食糧確保のために部屋単独で勤労奉仕を行ったが、このことによ
り愚かなアメリカ軍に戦犯容疑で逮捕された。その時の日本相撲協会の冷遇に嫌気をさして、玉ノ海
は弟弟子の大関佐賀ノ花に二所ノ関部屋を譲って、同26年5月に38歳の若さで廃業した。7代目
は、先代弟子から関脇神風、幕内大ノ海、直弟子から関脇力道山(プロレスに転身)、幕内十勝岩な
どの関取を育てた。

 8代目 勝巳(佐賀の花勝巳)
 昭和26年9月に二枚鑑札で8代目二所ノ関を襲名した大関佐賀ノ花は、翌27年1月に年寄専務
となり二所ノ関部屋の経営に専念した。7代二所ノ関の「分家独立を推奨する」という方針の下、大
ノ海(花籠部屋を創設)、琴錦(佐渡ヶ嶽部屋を創設)、玉乃海(片男波部屋を創設)らは分家独立
を目指して二所ノ関部屋に自分たちの内弟子を抱えていたが、実際の分家独立に当たってはは様々な
トラブルが相次いだ。8代目は、横綱大鵬、大関大麒麟などを育て、二所ノ関一門の総帥となるまで
に部屋を大きくしたが、同50年3月に急性白血病で死去した。

 9代目 豊
(十勝岩豊)
 9代目二所ノ関は、8代目のお通夜の晩に後継の名乗りを上げた大鵬親方が一代年寄りを返上して
継承するか、部屋付き親方の押尾川親方(大麒麟)が後継と見られていた。しかしそうはすんなり行
かなかった。そこで正式に後継者が決まるまで、6代目の弟子で二所ノ関一門の最長老だった湊川親
方(十勝岩)が暫定的ということで9代目を引き継いだが、その期間は実に1年4ヶ月にも及んだ。
相続争いに嫌気がさした大鵬は後継レースから降り、大女将(8代目夫人)が大麒麟の後継を拒否し
て混乱は長期間に及んだ。

 10代目 正裕(金剛正裕)
 結局元関脇金剛が8代目の次女と婚約して娘婿になることで10代目二所ノ関に決まり、昭和51
年9月場所限りで引退、27歳の若さで部屋を継承し、現在も部屋の運営に当たっている。しかし小
結大善以外に関取を出せておらず、平成時代に入って以降は急速に部屋の勢力が衰えている。女性に
は失礼だが、男のことに女が口出しして失敗する最たるものだ。
金剛も力士として力をつけてから部
屋を継承していれば、もっと違った形になったろう。浅はかな女が家を滅ぼす典型だ。

 片男波部屋の分家独立騒動
 昭和36年1月場所限りで引退して年寄片男波を襲名した関脇玉乃海は、内弟子たちを連れて分家
独立を8代目二所ノ関(佐賀ノ花)に申し入れた。しかし8代目は内弟子たちの移籍に関しては1年
待って欲しいと主張し、取り敢えず内弟子の移籍を保留したまま、5月に片男波部屋を創設した。し
かし1年経っても内弟子たちの移籍が実現しなかったため、片男波は同37年5月場所前に内弟子の
幕内玉響、十両玉嵐、幕下玉乃島(後の51人目横綱3代目玉の海)たちの移籍届けを協会に提出し
た。これに対して8代目は、未成年以外の力士全員の廃業届を提出したため、廃業届を出された力士
たちは5月場所に出場することができなかった。そこで7代目二所ノ関(初代玉ノ海)の調停により、
廃業届の取り下げと7月場所からの移籍を認めることで両者は手を打った。8代目の女将が口出しし
て8代目が優柔不断となった結果だ。

 押尾川の乱(押尾川部屋の分家独立騒動)
 10代二所ノ関の相続争いに敗れた押尾川(大麒麟)は、昭和51年9月3日自分を慕う小結青葉
城、幕内天龍など16名の力士を連れて台東区谷中の瑞輪寺に立てこもり、弟子たちを連れての二所
ノ関部屋から分家独立を申し入れた。これに対し8代目二所ノ関未亡人側は、押尾川の要望を一切認
めなかった。そこで二所ノ関一門の実力者である花籠親方(大ノ海)の調停により、9月場所後に押
尾川部屋の分家独立を認めること、16名中6名(青葉城ほか幕下力士)だけの移籍を認めることで
両者は手を打った。この時に移籍が認められなかった天龍は、嫌気がさして同年9月場所を最後に2
6歳という勿体無い年齢で廃業してプロレスに転向した。とにかく8代目の嫁さんはどうしようもな
い馬鹿女だった。

 貴乃花の乱(貴乃花親方の理事立候補騒ぎ)
 平成22年初場所後に実施される日本相撲協会の理事選挙に向け、元横綱貴乃花親方が立候補とと
もに一門からの離脱を表明、この貴乃花親方間垣・阿武松・大嶽・二子山・音羽山・常盤山6人が
支持したため、二所ノ関一門会では貴乃花と6人の親方衆を破門した。貴乃花親方は一門を形成しな
いといっているが、二所ノ関一門で受け入れないのだから、事実上の一門だ。




■両国公園
 両国4丁目25番3号にある旧男谷邸跡地。公園は昭和4年に開園した古いもので、「勝海舟生誕
の碑」がある。平成15年には区役所裏の隅田川畔に銅像が建ったよ。

 
勝海舟生誕の碑
 海舟の父小吉は男谷家の3男だったため勝家へ養子に出たが、麟太郎(海舟)は小吉の実家である
ここ男谷家で生まれたということだ。碑の右横に由来碑が建てられている。

 由来碑
   勝海舟は幼名を麟太郎といい、文政六年(1823)一月十三日、この地男谷精一郎邸
   内で生れた。剣は島田虎之助に師事し、蘭学海洋術を学び、万延元年(1860)咸臨
   丸艦長として太平洋を横断渡米した。慶応四年(1868)三月十三日高輪薩摩邸にお
   いて、大総督府参謀西郷隆盛と会談し、江戸城の開城を決定して官軍の江戸進撃を中止
   させ、江戸百万の庶民を戦禍から救ったことはあまりにも有名な話である。
    明治三十二年(1899)一月二十一日赤坂氷川町(港区内)の自邸で死去、行年七
   十五歳であった。墓は洗足池畔に建立されている。
    平成元年十月                             墨田区
                          (幕府講武所剣術師範役 男谷邸跡)




■江東尋常小学校・相生尋常小学校 → 相生尋常小学校 → 江東国民学校 廃校
 両国4丁目26番6号にあった都立校。明治5年回向院の民屋を借り受け、戸枝一が「幼育社」を
起こす。同8年本校創立の学舎誕生。同38年「相生尋常小学校」として再発足。同41年隣接の江
東尋常小学校を併合。大正12年関東大震災により校舎全壊。青空授業。同12月~翌年4月仮校舎
建設。同13年4月仮校舎で授業。10月~昭和2年11月本校舎建設。落成により移転。

 なお「江東尋常小学校」について本所相生町(両国4丁目)大正11年創業漢方「亀命堂」の稲葉
一郎様からメールを頂戴しました。

   江東尋常小学校は「えひがし」と発音していた時代があります。江東と高等がまぎらわし
   いということだそうで、芥川龍之介が在学していた明治時代は「こうとう」。大正3年3
   月31日から江東(えひがし)尋常小学校 創立時は公立小学江東(こうとう)学校だっ
   たということが、墨田区教育史(墨田区教育委員会)にでているそうです。両小の隣の両
   国公園も江東(えひがし)公園だったはずです。

 ※これについて不思議なことは、明治41年に相生小学校に併合されて、大正時代にはないはずだ。
後述する「不知火の碇」でも昭和初年に江東尋常小学校に寄贈されている。併合のことは学校のHP
に、碇については区教委の説明板に書いてある。変?
 昭和3年3月落成式。児童1691名。11月プール完成。同16年勅令第148号により「東京
府東京市江東国民学校」と改称。12月日米戦争始まる。同18年都制施行により「東京都江東国民
学校」と改称。同19年8月千葉県に学童集団疎開。同20年3月愚かなアメリカ軍の非人道的無差
別空爆により校舎内部焼け廃校となる。同5月岩手県に学童集団疎開。8月日本はアメリカの軍門に
降り敗戦。以降その属国となり、唯々諾々といいなりになる保守傀儡の政権を保持せざるをえない今
日的不幸を背負い込む。売れない国債を買わされたり思いやり予算とやらで200兆円以上がとこ以
て行かれっちまったよ。女の子が米兵にレイプされても地位協定で泣き寝入り、イラク戦争からは戦
場にまで駆り出される始末でその内、日本の若え者はならず者国家アメリカが引き起こす侵略戦争の
お先棒を担がされて最前線の激戦地に持っていかれるぜ。ったく酷えもんだぜ。武運長久にな!
 敗戦後、残留児童は緑国民学校で勉強再開。同21年集団疎開児童帰京し、緑・中和両国民学校に
分かれて学習。

■江東小学校 復興 → 両国小学校
 昭和25年「東京都墨田区立江東小学校」として復興、緑小学校より全児童を引きとる。同26年
「東京都墨田区立両国小学校」と校名変更。同27年中和小学校より残り全児童を引きとる。同30
年創立80周年記念式典。同49年新校舎落成。同50年開校100周年記念式典・新校舎落成式典。
同51年プール完成。同61年吹奏楽団結成。同62年校庭アスモル舗装。平成8年吹奏楽団創立1
0年記念定期演奏会。同12年開校125周年記念式典。同17年創立130周年記念式典。

 校歌「学びの道の一筋に」 作詞・千家尊福  作曲・島崎赤太郎
  1.学びの道の一筋に
    なすべきことは多けれど
    身を立て国をいやとまし
    ともに尽くさん忠と孝
  2.
隅田の川水 行く見ては
    夜昼捨てず 勤しまん
    富士と筑波を仰ぎては
    高き誉れをあらわさん


 
日本海軍駆逐艦 初代「不知火」の主錨

 小学校の西北角の道路側に据えてある。日露戦争で活躍した東雲型駆逐艦「不知火」のもの。この
艦は英国ソーニ・クロフト社製造、起工明治31年、進水32年、326t。40口径7.6cm 単
装砲2門、40口径5.7cm 単装砲4門、魚雷発射管2基、煙突2本を持ち、東雲型(しののめが
た)と呼ばれる。日露戦争では旅順攻略戦、黄海海戦、日本海海戦、樺太攻略戦などに参加。大正1
1年掃海艇となり、同12年に除籍、同14年に廃艦となった。錨の裏側にあるアルファベットと1
898の刻印は鎖の製造年と推定される。
 なお、この錨は両国1丁目3番の鉄鋼業「岡田商事(旧岡田菊治郎商会)」が軍艦の解体作業で得
たのを昭和初年に江東尋常小学校に寄贈したものだ。
 序でながら両国橋東南詰の直ぐ南にある岡田商事の建物は、建築史上貴重なものとかで、アールデ
コ調の美しいビルで、その筋では有名。散歩コース、被写体としての人気は高い。塗装されたばかし
なので新築と思われがちだが、戦前の建物だ。

 芥川龍之介文学碑
 小学校の西北角に建てられている。龍之介の小説『杜子春』の最後の会話部分が彫られている。碑
の後ろの塀のところに小さな不動明王立像があるのは何の意味か? で平成21年の春に行った時に
は碑の前に移されていた。特に供物もなく信仰的なものではなさそうだ。



■両国高はし
 両国4丁目31番15号にある江戸相撲小物。元々は大正元年創業の誂え布団の販売店だったが、
相撲グッズを置くようになって、今のスタイルになったそうだ。両国一の品揃えを誇るこの店は、今
でも布団は売っているよ。



■榛の木稲荷神社(榛馬場跡)
 両国4丁目34番11号にある小社。いつ頃造られたかははっきりしないが、明治の初めまで、3
3~36番の辺りに馬場があった。東西約185m×南北約22mの広さで、馬場を囲む土手に大き
な榛の木があったので「榛馬場(はりのきばば)」と呼ばれていた。本所に住む武士たちは、この馬
場で弓馬の技を磨いた。神社はその馬場の傍らに祀られていた。
 天保八年(1837)に亀沢町の若者が奉納した木造朱漆の瓶子(へいし、徳利)一対が今も保存
されている。境内石碑に、

   古く此の地一帯を榛馬場と称し此神祠を榛稲荷社と称し奉れり。関東大震災の折り社殿並
   に其の榛樹炎上焼失す。神殿復興起工際旧蹟地より古碑を発掘す。
   碑文 和銅二年下総国当亀澤村 亀澤稲荷神社
   とあり、往昔斯く奉称せしも後成は榛稲荷神社と称し奉□□□□。
   大東亜戦争必勝を祈願し奉り東京の実現を紀念すると共に其の事由を後世に傳へむと敬神
   講員一同相議之れを建つ。


 とある。

 榛馬場跡
 この辺りには、榛馬場と呼ばれた馬場があった。本所に住む武士の弓馬の稽古のために設けられ、
周りを囲む土手に、大きな榛(ハンノキ カバノキ科の落葉高木)があったところから、そう呼ばれ
たようだ。勝海舟の父小吉の著書「夢酔独言」の中にも、子どもの頃の回想として、榛馬場のことが
出ている。馬場の傍らに祀られていたのが、この榛稲荷社だ。

 近くに葛飾北斎が住んでいた
 本所に生まれた絵師北斎は、この稲荷神社のすぐ近くに住んでいたことがあった。北斎は90歳で
亡くなるまで常に新しい技法を試み、「富嶽三十六景」に代表される錦絵だけではなく、肉筆画も手
がけ、数多くの作品を生み出しました。榛馬場の辺りに住んでいた当時の様子を伝えるのが、「北斎
仮宅写生」(露木為一筆)だ。絵を描く老いた北斎と娘の阿栄が描かれている。阿栄も優れた絵師で
その暮らしぶりを飯島虚心は、「葛飾北斎伝」で、

   蜜柑箱を少しく高く釘づけになして、中には、日蓮の像を安置せり。火鉢の傍には、佐倉
   炭の俵、土産物の桜餅の龍、鮓の竹の皮など、散ちらし、物置と掃溜と、一様なるが如し


 と記している。北斎がこの地に暮らしたのは天保末年頃(1840年頃)で、80歳を越えていた
と思われるが、絵を描くこと以外は気にも留めないような暮らしぶりが見てとれる。北斎は生涯で9
0回以上も転居を繰り返したとされているが、居所の総てが正確に判ってる訳ではない。榛馬場の北
斎住居跡は、ある程度場所の特定ができ、絵画資料も伴うものとして貴重な例だ。また幕末明治期に
活躍した政治家勝海舟もこの近くで生まれ育った。海舟の父、勝小吉の自伝「夢酔独言」の中にも、
榛稲荷神社についての思い出が記されている。




       ご高覧ありがとうございました。ご意見とご教示は→こちら






  Home 江戸・東京 足立区 荒川区 板橋区 江戸川区 大田区 葛飾区 北区

  江東区 品川区 渋谷区 新宿区 杉並区 世田谷区 台東区 中央区 千代田区

  豊島区 中野区 練馬区 文京区 港区 目黒区





 このページのトッフに戻る