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 東京の地名の由来
 東京知ったかぶり!

 平成17年2月11日発信  リンクフリー
 地名の由来東京23区辞典 引用自由
 墨田区の地名の由来 
          現在進行形の調査なれば、逐次、誤謬訂正・新規追加あり。御用心御用心
 
                ご意見とご教示メール   
 
■東京スカイツリー 平成24年2月29日完成・5月22日開業
 世界一の高さを誇る電波塔(634メートル)を中心とした開発エリアは、「東京スカイ
ツリータウン」と名付けられ、商業施設やオフィス施設、水族館などと共に構成される。延
べ床面積は約23万㎡。平成24年2月29日に総ての施設が完成。5月22日の開業まで
各店舗、入居者が仕込みが行われた。これに伴い、現在の最寄り駅となる東武伊勢崎線「業
平橋駅」は3月17日「とうきょうスカイツリー駅」に改称された。
 展望台入場料は2000円、第二展望台は1000円加算となる。

■展望台登頂記

 平成24年10月26日金曜日、空は上々の快晴。朝から狙いをつけていて、午前朝9時
頃に4階の入場券を買う行列の最後尾に立った。予約しなかったのは、天気を心配したから
だ。1時間待ちを予想していったがドンピシャだった。待ちといっても2列の行列は、チョ
ロチョロ、チョロチョロ前進しているので〝待っている感〟はない。行列は幾重にも折り重
ねた順路に従う。予定通りの時間で券売場に。8ヶ所あったかなぁ、まあ割とスムースだっ
た。ここでは展望デッキまでの入場券(成人2000円、中高生1500円、小学生900
円、幼児600円、乳児0円)しか売っていない。展望回廊へは展望デッキで購入せよとの
こと。
 次はエレベエター登乗の行列だ。こちらは10分くらいの待ちだった。エレベーターは4
基あり、春夏秋冬をテーマにしているようで、おいらの乗ったのは「夏」だった。江戸切子
で隅田川の花火をイメージしているデザインだ。350m地点に向かう。そこまで50秒と
のこと。矢鱈に速いが、そんなスピード感はない。さあ扉が開いて展望デッキフロア350
に降り立つ、夢に見た世界へ・・・ 順路は時計回り、早速「江戸一目屏風」がお出迎え。
江戸時代に描かれた江戸の鳥瞰図だ。眼下に広がる世界と重ね合わせて、歴史のロマンを体
感しろってことだ。大観望はテレビで紹介されたからどれほども感動はない。しかし快晴過
ぎて靄がかかり、富士山や房総半島は残念ながら霞んで判然としなかった。こうしてみると
東京は全体が高層ビル化していってるのが明瞭だ。都心部だけでなく周辺(旧郡部)にも広
がっている。100年もすると、埋め尽くされるのではなかろうか。流石に世界一の人口密
度を誇る、お膝下(墨田区京島)はポッカリ開いた大穴のようだ。一巡して、さて喉が渇い
たのでスタンディングスタイルのカフェでコーヒー(400円)を1杯啜る。
 続いて展望回廊への券売場へ。またまた行列に並ぶ。ここは10分くらいで通過。料金は
成人1000円、中高生800円、小学生500円、幼児300円、乳児0円。エレベータ
ーは3基、こちらは特にテーマの説明はなかった。展望シャトルは30秒だとか。展望回廊
フロア445に着くと、回廊の始まりだ。写真サービスがある。撮れば登頂した絶対証拠に
なる。110mあるという回廊を上って行く。おや! 一瞬立ち眩みのような感覚はおいら
だけか? 浮遊感というか、床が揺れているというか。この妙な感覚は何なのか。地面と見
比べて見たが揺れてはいない。景観は展望デッキとさほどには変わらない。さあーいよいよ
「ソラカラポイント」だ、451.2m の最高到達点、23区で1番高いところだ。その先
は下っている。下る先は下りのエレベータが待っている。この行列は5分ほどでクリア。
 フロア345に着く。展望デッキの2階だ。ここに「スカイツリーショップ」と展望レス
トラン「634(武蔵)」がある。エスカレーターでフロア340に、スカイツリーカフェ
でカレーライス(900円)を記念に食べる。まあまあだ。帰りにガラス床に乗って真下を
覗く。高すぎて恐怖感は湧かない。そして下りエレベーターへ。5階に到着して終了。
 かといって、多分もう一度上ることはないだろう。一回で十分だ。
  
 
 ★各区夫々の主な記事
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 都立舎人公園 下山事件 西新井大師
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 木余り阿弥陀 荒川バラバラ事件 炎天寺
 尾崎豊終焉の地 尾崎の部屋
 女子高生コンクリート詰め殺人事
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 尾久の原公園 大関横丁 素盞雄神社
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 「あしたのジョー」「巨人の星」
 【巻末特集】 江戸しぐさ
 【巻末特集】 小股の切れ上がったいい女
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 松月院 東京大仏 縁切榎 大東文化大学
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 板橋宿 国立極地研究所 板橋事件
 加賀藩前田家下屋敷
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 八景坂 六郷神社 大森ふるさとの海辺公園
 馬込文士村 万福寺 梅屋敷 洗足池
 
 葛 飾 区  式部薬師秘話 お花茶屋 金町浄水場
 「こち亀」銅像群 香取神社 東京拘置所
 柴又女子大生殺人放火事件 男はつらいよ
 柴又帝釈天 郷土と天文博物館 立石祠
 かつしかシンフォニーヒルズ 半田稲荷
 葛西神社 葛西囃子 新宿の問屋場跡
 美弥子ちゃん誘拐殺人事件 水元公園
 しばられ地蔵 木下川薬師 堀切菖蒲園
 北  区   静勝寺 小山酒造 新河岸川 飛鳥山公園
 金剛寺 装束稲荷 王子神社 王子稲荷
 名主の滝 近藤勇墓 医心方 亀の子束子
 旧古河庭園 田端文士芸術村
 【巻末特集】 
隅田川 (渡しと橋)
 江 東 区   外郎売  永代橋落橋事件 亀戸天神
 カトレア ヒストリーガレージ キッザニア
 戦災資料センター 深川江戸資料館
 富岡八幡 元八幡 砂町商店街
 東京海洋大学 東西線転倒事故
 有明コロシアム 萩寺
 品 川 区  品川トランク詰め殺人事件 星薬科
 船の科学館 鈴ヶ森 立正大学 香蘭女子
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 大崎新都心 清泉女子大 品川寺
 品川宿 昭和大学 戸越銀座 第一京浜
 ところてん
 
 渋 谷 区  明治神宮 慶応幼稚舎 尾崎豊の碑
 忠犬ハチ公 ライフル乱射事件 渋谷川
 夫バラバラ殺人事件 妹バラバラ殺人事件
 モリブデン 文化女子大 広尾病院事件
 NHK 文化村 ワシントンハイツ
 聖心女子大 東京女学館 日本共産党
 女子大生誘拐 アメリカ橋 安藤組 国学院
 金王神社 青山学院 
 新 宿 区   浄瑠璃坂の仇討 新宿胴体遺棄事件
 新宿騒乱事件 八幡様  陸軍士官学校
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 岡田有希子飛び降り自殺東海道四谷怪談 
 オリンピック東京大会 追分交番爆破事件
 抜弁天 731部隊 学習院女子 早稲田大学
 歌舞伎町 歌声喫茶 名曲喫茶 どん底
 新宿高野 中村屋 闇市

 杉 並 区  青梅・甲州・五日市街道 観泉寺 永福寺
 高円寺 不美人=ブスとは? 大宮八幡
 ガンダム 妙法寺 立教女学院
 スチュワーデス殺人事件 東京女子大
 一家皆殺し放火 「疑惑の銃弾」 三浦和義 
 天保新水堀用水
 
 墨 田 区   東京スカイツリー 相撲は国技ではない
 大相撲事件 隅田川七福神 回向院
 妊婦たらい回し死亡事件 握りずし発祥
 震災慰霊堂 鬼平・遠山の金さん 法恩寺
 王貞治生誕地 玉の井バラバラ事件
 江戸東京博物館 吾嬬神社 本所七不思議
 もゝんじや 蓮華寺 
 
 世田谷区  バンク・約束手形  花形敬 西福寺
 ウルトラマン 民家園 静嘉堂文庫
 ボロ市 鷺草 軍都池尻 羽根木公園
 砧公園 東名 駒沢公園 九品仏
 祖師谷一家殺人事件 多摩美 国学院
 東農大 NHK技研 豪徳寺
 世田谷美術館 馬事公苑 烏山寺町
 次大夫堀 仙川
 台 東 区   浅草寺 仲見世 浅草神社 三社祭 花やしき
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 佃煮元祖 旧岩崎邸 八百善 今戸神社
 アメ横 寛永寺 不忍池 花の吉原
 上野動物園 東京国立博物館 駒形どぜう
 鬼子母神 東京本願寺 東京芸大 谷中墓地
 笹の雪 吉展ちゃん
 
 中 央 区  「銀ブラ」って、ブラブラ歩くことじゃないよ。
 
パウリスタ 東京大空襲 アメリカの占領
 蘭学事始 ティファニー エルメス シャネル
 コーチ パリー セリーヌ プラダ カルティエ
 ディオール ルイ・ヴィトン 不二家不祥事
 三越・松屋・松坂屋・大丸・高島屋 日本橋
 築地本願寺 H&M 歌舞伎座 日本銀行
 白木屋火事 金春芸者 日本海軍発祥地
 新橋演舞場 明治座 ハヤシライス
 千代田区   靖国問題・A級戦犯 女子学院 暁星 将門塚
 消防庁 警視庁 ていぱーく 桜田門外の変
 ニコライ堂 武道館 九段会館 楠公像
 ホテルニュージャパン火災 近衛師団
 秋葉原無差別殺傷事件 神田明神 FM東京
 丸ビル 新丸ビル 丸の内物語 北辰一刀流
 三菱重工ビル爆破事件 国会 雙葉 専修大
 日大 法大 明大、電機大 大妻 番町小
 東郷平八郎 日比谷公園 国際フォーラム
 豊 島 区  池袋の女 染井吉野 女子栄養学園
 染井霊園 中山道 おばあちゃんの原宿
 とげぬき地蔵 庚申塚 本妙寺 鬼子母神
 雑司が谷墓地 土田邸爆破事件 山吹伝説
 目白不動 帝銀事件 立教 学習院
 豊島岡女子学園

 【巻末特集】 東京の暴力団
 
 中 野 区  新井薬師 上高田寺町 童謡「たき火」
 中野サンプラザ 近隣騒音殺人事件 福蔵院
 八幡神社(鷺ノ宮) 成願寺 宝仙院 堀越学園
 桃園 桃園川 丸井本店 中野ブロードウェイ
 東中野電車追突事故 光倶楽部事件
 哲学堂公園
 【巻末特集】 江戸城 城門と橋 
  
 練 馬 区   いろはかるた 練馬バラバラ殺人事件
 としまえん ちひろ美術館 三宝寺 長命寺
 石神井公園 清戸道 良弁塚 武蔵大学
 金乗院 練馬寺町 武蔵音大 グランドハイツ
 練馬少年鑑別所 首継ぎ地蔵 円明院
 妙福寺 春日神社 練馬大根 愛染院
 増島家薬医門 
 文 京 区  狛江 振袖火事 東京大学 拓殖大学
 御茶ノ水女子大 東京高等師範 教育大学
 護国寺 弥生式土器 伝通院 聖マリア大聖堂
 高津教授殺人事件 東京ドーム 六義園
 小石川植物園 元町公園 桜蔭学園
 順天堂大 かねやす 日本女子大 湯島聖堂
 湯島天神 東洋大 共同印刷争議
 
 港  区  増上寺 永坂更科 麻布学園 氷川神社
 乃木大将 ミッドタウン 善福寺 霊南坂
 六本木ヒルズ 東洋英和 フリーメイスン
 愛宕山 ケネディ暗殺宇宙中継 小便小僧
 明治学院 レインボウブリッジ 東京タワー
 慶応義塾 自然教育園 虎ノ門事件
 東宮御所 日本経緯度原点
 アメリカ同時多発テロ 首謀者はチェイニー
 目 黒 区  滝坂道 目黒不動 法華騒動 円融寺
 五百羅漢 東工大 目黒ショック 雅叙園
 日比谷線脱線事故 駒場野一揆 旧制一高
 駒場東大 駒場学園 滝坂道 行人坂大火
 騎兵 目切坂 権之助坂 太鼓橋 茶屋坂
 槍ヶ崎事件 祐天寺 酸素魚雷
 音羽ゆりかご会 八雲学園 目黒のさんま
   


墨田区の地形 

 墨田区は、全域が広大な東京低地に属し、海生の砂やシルトを主体に互層を成す厚い軟弱層に覆わ
れているのよ。地形的にゃあ海岸低地や自然堤防(砂の微高地)で成り立つんだがよ、市街化に伴う
盛土などにより、原地形は不明瞭なものになってらぁね。なお江戸期の埋め立て以前には、墨田区の
南縁にあたる地域が江戸湾に臨んでてね、隅田川や荒川の運搬土砂が形づくる三角州性の低地を形成
していた。隅田川はかつての利根川、荒川は付け替え後の隅田川。隅田川が正式名称になったのは、
昭和40年。

 東京低地
 東京西部域に広がる武蔵野台地と千葉県北部域の下総台地との間に分布する沖積低地をいう。その
基底は約20000年前の陸地が海中に没したもので、古東京川の河谷が深い埋没谷となって刻まれ
ている。

 シルト
 砂と粘土との中間の粒径をもつ砕屑(さいせつ)物。地質学では16分の1~256分の1mmの
もの、土壌学では0.02~0.002mmのもの。また、その未固結堆積物。一般に泥といわれてい
るものはシルトと粘土を含んでいるんだぜ。ヘドロは日本語、横浜の方言で泥水地のことだよ。
 


■地形・地質と住宅地盤
 
 海岸低地
 東京湾沿岸に広く分布する標高の低い平坦面である。地下水位が高く、上部には緩い砂や軟弱なシ
ルトなどが分布しているため、標準的な基礎では、十分な耐力を確保することが困難であり、適切な
基礎補強策が必要となる。区の大部分。
 自然堤防
 周囲の氾濫低地や海岸低地と比べ海抜高度がわずかに高く、一般に河川に沿って帯状に分布してい
る。河川によって運搬された砂や砂礫が浅い深度から分布しているために、住宅地盤としては、比較
的良好な場合も多い。しかし度重なる河川の氾濫と蛇行によって運ばれた軟弱な粘性土や緩い砂が、
自然堤防の上に新たに堆積している場合には、基礎補強対策が必要となる。墨田1、2丁目・東向島
6丁目・押上3丁目。
 



墨田区の変遷 
 現在の墨田区の区域にはいる江戸時代の町村は、慶応四年(1868)7月10日区北半の向島地
18ヶ村は武蔵知県事に所属したのち(同年9月8日明治改元)、同11月東京府南葛飾郡に編入
されたが、区南半の本所地区は最初(慶応四年5月12日江戸府設置)から江戸府(7月17日→東
京府改称)に編入された。同7年3月8日大区小区制により第六大区・第十一大区に編入され自治権
被奪の憂き目に遭う。驕る
内務卿大久保利通は、国家主義的専制強圧政治を推し進め、反対者は悉く
弾圧を以て退けた(彼は幕末の暗躍時代に、各藩の佐幕派の歴々に殺人指令を発し、600人余を死
に追い込んでいる)。国民はこれに猛反発、全国的に不平武士の義挙、自由民権運動が展開され各地
に反乱が起きた。その最たるものが「西南戦争」で、大久保は独裁のために盟友西郷隆盛までも葬り
去った。
 しかし悪運もここまでだったのか、翌年の明治11年5月14日仮皇居に向かう途中の麹町は清水
谷の沢道で、正義の刃の下に斃され、この世から抹消されてしまった。親分を失って内務官僚は驚天
動地、自失呆然、右往左往してなすところを知らず、2ヶ月後の7月22日大慌てに「大区小区制」
を撤回すると「郡区町村編制法」ほか2法を制定し地方自治の方向を示した。11月2日郡制を復し
当区では南葛飾郡16ヶ村・本所区77町が成立した。
 同22年5月1日明治政府が初めて地方自治を認めた「市制町村制」により、南葛飾郡下の須崎・
押上・小梅・請地・中ノ郷・柳島の6ヶ村を本所区に編入し本所区亀戸町を郡下に移した。残りの1
0ヶ村は統合して隅田・寺島・吾嬬・大木の4村に改編、同24年3月18日本所区編入の6ヶ村を
9町に編成し本所区は82町となった。同44年5月1日市制町村制の改正により本所地区では町名
改称し南本所・本所の冠称を削除した。

 大正元年日9月5日吾嬬村が町制移行。同3年3月31日荒川放水路開鑿のため大木村は廃村とな
り残った村域を本田村と吾嬬町に編入。同12年3月24日寺島村が、同8月16日隅田村が町制に
移行。昭和4年11月1日町名改正により本所区は68町となった。同7年10月1日東京市周辺郡
部を市に組み込んで20区を新設することになり、南葛飾郡下の3町が合併して向島区29町が成立
した。同18年7月1日内務官僚は東京都の自治権の拡大が内務省の専制権を奪うことを恐れ、府県
制を改正し新たに「都制」を敷き東京府と東京市を廃して東京都を発足させ直轄管理を目論んだ。し
かし軍部が対米戦に敗れたために、日本がアメリカの植民地・属国となってしまい、同21年9月2
7日民主化をスローガンのアメリカは「都制・府県制・市制・町村制」を改正して、地方自治体首長
を任命制から公選制に切り替えてしまった。これに慌てた内務官僚は当然反発したが、情けないこと
にアメリカ人に人倫の道を説かれ、独裁と私利私欲がどれだけ悪行であるか諄々と諭され、漸くにし
て人の非を知り、涙ながらに感謝して引き下がった。同22年3月15日都は、戦禍による疲弊と人
口減少のため都心区の統合を図ることになり、向島区と本所区が合併させ墨田区97町を成立させた。

 
平成17年現在の町数は26、平成2年区役所は横網から吾妻橋(朝日麦酒吾妻工場跡地の北部)
に移った。区役所は新調なったが中央図書館はない。文化施設は両国国技館・江戸東京博物館・相撲
博物館・東京都慰霊堂・向島百花園・本所防災館・墨田区すみだ郷土文化資料館。
 ほかに区が進める「小さな博物館運動」がある。軟式野球資料室・セイコー時計資料館・プジョー
モトサイクル歴史博物館・小林人形資料館・相撲写真資料館・羽子板資料館・古伊万里資料館・伝統
木彫刻資料館・能面博物館・屏風博物館・金庫と鍵の博物館・建築道具木組資料館・新藤ギャラリー
(印刷)・折箱博物館「木具輪」・藍染博物館・乾燥木材工芸資料館・ブレーキ博物館・NTTドコモ
歴史展示スクェア・べっ甲資料館・足袋資料館・桐の博物館・鈴木木工博物館・木造建築資料館・江
戸小紋博物館・合金鋳物博物館・袋物博物館・木彫資料館。
 なお千社札博物館・タキナミグラス博物館・NTTぶりきのおもちゃ博物館・はんこ資料館・ライ
ター博物館・石材資料館・硝子の本の博物館・伝統木彫刻資料館は閉館した。
 硝子の本の博物館は、小さな硝子の本の博物館として場所を吾妻橋に移して再始動した。
 


■教育施設
 小学校 25(
私立 0)
 緑・外手・二葉・錦糸・中和・言問・小梅・東吾嬬・押上(第二吾嬬・文花・西吾嬬)・八広(第
 五吾嬬・木下川・更正)・隅田(隅田・隅田第二)・柳島・業平・両国・横川・菊川・立花吾嬬の
 森(第一吾嬬・立花)・第三吾嬬・第四吾嬬・第一寺島・第二寺島・第三寺島・曳舟・中川・梅若
 (梅若+堤)


 中学校 10私立 0)
 墨田・本所・両国・文花(吾嬬第三・曳舟)・竪川・錦糸・吾嬬第二・寺島・桜堤(向島+鐘淵)
 ・吾嬬立花(立花+吾嬬第一)

  平成29年竪川+錦糸統合予定


 中高一貫校 3(私立 2)

 両国(府立三中)

 日大一中・安田学園

 高校 5(私立 1)
 本所(本所高女)・墨田川(府立七中)・橘(向島工高+向島商高)・日本橋
 立志舎

 大学短大はない。
 
 



 区名の由来
 東京新聞が募集した区名案には墨田のほか隅田・隅田川・吾妻・江東などがあったが隅田と墨田に
絞られた末、当用漢字にない「隅」の字は「かど・すみっこ・はしっこ」の意味が含まれるので昔か
ら文人に嫌われており、隅田川が墨水・墨江・墨堤などに書き改められてきた経緯を踏まえて「墨」
に落ち着いた。「田」は隅田川の田だそうな。当用漢字以外は駄目だという割には隅田小学校だの、
隅田中学校だの・・・「あずま区」が最も適当かと思うが、これに適う漢字がなかったので墨田に落
ち着いた。墨の字の画数が多いためか 何となく暗い感じがする。 震災記念堂や回向院が売りでは
なぁ。明るい材料が「向島の桜」だけと言うのもチョー寂しい。
 といってたら、押上に第二東京タワーというべき放送電波塔の建設が始まった。平成22年に完成
するが、鉄塔の組み上げが始まるとそれだけで見物客が押し寄せる。もし完成しようものなら、もう
墨田区はしっちゃかめちゃかだ。毎日民族移動だ。上野→浅草→墨田のラインができる。そうすれば
六本木→東京タワー→増上寺は閑古鳥が鳴く。墨田時代の到来でい!
 


区の花 つつじ
 区制30周年を機会に、区民すべてに愛され、親しまれ、また緑化のシンボルとしてもふさわしい
ものという意味合いで、公募により昭和52年9月に選ばれた。
 日本では長い栽培の歴史を持ち、早くから育種も進んだ。元禄五年(1692)に伊藤伊兵衛により
刊行された「錦繍枕」は、世界最古のツツジ、サツキ専門書だ。
 ツツジは、便宜上落葉性のツツジ類と常緑のシャクナゲ類とに分類されるが、日本で「シャクナゲ
(石楠花)」と呼ばれるものはホンシャクナゲの仲間に限られ、常緑であっても、それ以外の殆どは
「シャクナゲ」とは呼ばない。西洋では、アジアからヨーロッパに常緑のものが持ち込まれて園芸化
されたものが、ロードデンドロン(Rhododendron) と呼ばれ、またアメリカなどで落葉性のものが園
芸化されてアザレア(Azalea) と呼ばれるようになった。
 ツツジを漢字で書くと〝足偏〟の漢字を二つ並べて「躑躅」となる。「てきちょく」と音読みし、
意味は「逡巡」や「躊躇」と同じで、「二、三歩行っては止まること。進まないこと。ためらうこと」
だ。ではなぜ「ツツジ」を「躑躅」と書いたのか・・・その意味を話す前に、気分を変えて、初夏の
高原牧場を思い浮かべてみない。碧空に白雲、のんびりと草を食む牛の群れに、白樺林と赤いレンゲ
ツツジ(蓮華躑躅)の彩り・・・
 ところで牧場の牛たちは、なぜレンゲツツジを食べないのか?

 有毒植物だから躑躅」の当て字
  実は、レンゲツツジは有毒植物なのだ。だから誤って食べた牛は脚を振るわせて苦悶するのだ。そ
の歩けなくなった状態を表す形容語が「躑躅」だ。しかしツツジの密を吸う蝶たちはとても元気だ。
花粉を媒介してくれる蝶たちには美味しい蜜を、枝葉を食べてしまう牛たちには恐ろしい毒を・・・
自然の営みはうまくできてるねぇ。そして総てのツツジが有毒であると誤解されたことから、ツツジ
に「躑躅」の文字が当てられたのだそうだ。
 さて牛が躑躅するなら、馬が酔う木がある。ツツジ科のアセビ(アシミ)も有毒植物だ。アセビを日
本では漢字で「馬酔木」と書く。馬などが葉を食べるとまるで酔ったように足が不自由になることから
「足癈(あしじひ)」と呼ばれ、次第に転訛して「あしび」になり、さらに「あせび・あしみ」とな
つたとさ。
 都会では、レンゲツツジ(蓮華躑躅)より、葉が小型のクルメツツジ(久留米躑躅)やキリシマツ
ツジ(霧島躑躅)、大型の葉を持つヒラドツツジ(平戸躑躅)を目にすることが多い。また道路緑化
ではヒラドツツジの1品種である「大紫」が多用されている。
 クルメ(久留米)やヒ
ラド(平戸)など、ツツジの仲間の多くには九州地方の名が冠せられている
が、何故か? 

 
霧島躑躅・久留米躑躅

 ツツジの人気が高まったのは江戸時代の中でも寛文年間(1661~73)からといわれている。
鹿児島県の霧島山中の野生種のヤマツツジ(山躑躅)から改良されたキリシマツツジの品種群は江戸
から広がり「江戸霧島」と呼ばれた。沢山の品種があったようだ。また天保年間(1830~43)
に九州の久留米藩士坂本元蔵がキリシマツツジを元に実生などで育成したのがクルメツツジの品種群
だ。


 
平戸躑躅

 一方、鎖国時代でも外国との交流のあった長崎の平戸では、寺院などにケラマツツジ(慶良間躑躅)
など南方のツツジが植えられた。やがてそれらの異国のツツジと在来種との自然交配が行われ、その
中から選抜や改良を進めたのがヒラドツツジの品種群だ。


 
皐月(皐月躑躅)

 山奥の岩肌などに自生する。盆栽などで親しまれている。サツキツツジ(皐月躑躅)などとも呼ば
れており、他のツツジに比べ一ヶ月程度遅い、旧暦の五月(皐月)の頃に一斉に咲き揃うところから
その名が付いた。ツツジ類としては葉が固くて小さく、茎には這う性質が強い。

 
無人野躑躅

 なお東京から1000km離れた小笠原諸島には、ケラマツツジに近縁とされているムニンノツツ
ジ(無人野躑躅)が分布しているが、現在残る野生種はたった1株になってしまったそうだ。そのた
め、環境省・東京都等により保護増殖事業が進められている。
 


区の木 さくら
 サクラの仲間は、バラ科に属する樹木。バラ科には、約100属、3000種の植物があり、全世
界に分布している。分類学的には、バラ科はサクラ亜科、ナシ亜科、バラ亜科、シモツケ亜科の4つ
の亜科に分けられ、日本にはいずれの亜科も分布している。
 日本には、サクラ亜科で主要なグループのサクラ属がある。サクラ属は落葉性で形状は高木、低木
など様だ。特徴としては、葉は互生で、鋸歯があり、托葉がある。また花は両性花で、がく片と花弁
は5枚(5数花)、多数の雄蕊があり、普通、雌蕊は、長い花柱となっている。
 果実は、核果で1個の種子がある。果実が食用とされるウメ、モモ、アンズなどは、桜の仲間で、
200種が主として北半球の温帯に分布している。ウメやモモ、スモモとサクラ属とは、①果実に縦
のくぼみがない、②内果皮に細かい毛がない、③頂芽があることなどで、分類されている。
 一般的に桜と呼ばれているのは、バラ科サクラ属の落葉性の樹木。サクラ属は主に北半球の温帯に
広く分布している。日本のサクラ亜属(ユスラウメなどを含まない))を細分して「群」として分類
すると、ヤマザクラ群・エドヒガン群・マメザクラ群・チョウジザクラ群・ミヤマザクラ群となる。
日本の山野に咲く主なサクラとしては、ヤマザクラ(山桜)、オオヤマザクラ(大山桜)、カスミザ
クラ(霞桜)、オオシマザクラ(大島桜)、エドヒガンザクラ(江戸彼岸桜)、マメザクラ(豆桜)、
タカネザクラ(高根桜)、ミヤマザクラ(深山桜)、チョウジザクラ(丁子桜)などがある。そして
これらの変種を合わせると、数10種以上が自生し、またこれらの種を基本に育種されている。栽培
品種は600種類以上にもなる。全世界にある花を楽しむサクラの殆どは、日本のものばかり。
 サクラの種は、葉の鋸歯の形や、鋸歯の先端の形、葉柄の毛の有無、蜜腺、鱗片、花序の形、萼片
の鋸歯の有無やその形、樹形、花期、花弁の色、形、枚数などで分類する

 因みにソメイヨシノ(染井吉野)は、大島と江戸彼岸の一代雑種。
 
 



さ~て墨田区の地名の由来についておっ始めっとすっか! 

【吾妻橋】(あづまばし)1~3丁目             昭和41年10月1日
 中ノ郷村。明治元年東京府に所属。同11年南葛飾郡に編入。同22~23年「市制町村制」に
より村は、寺島村・亀戸村・本所区向島中ノ郷町・向島押上町・中ノ郷業平町・柳島梅森町・本所
大平町1丁目に分散。昭和5年中ノ郷瓦町・中ノ郷八軒町の全部・表町・中ノ郷原庭町・中ノ郷竹
町・中ノ郷元町・小梅業平町の各一部をあわせて成立。同41年新住居表示を実施して現行の「吾
妻橋」とした。平成2年横網から2丁目に区役所が移ってきた。

 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『墨田区史』『墨田の歴史』など。

 吾妻橋の由来
 隅田川に架かる橋の名による。竹町の渡しに代わるものとして安永3年(1774)に町人の共
同出資で架けられた銭取橋(有料橋)。架橋を申し出たとき、吾嬬神社の参道橋なので「宮戸橋」
で申請したが却下され「大川橋」と命名するように申し渡された。かくて大川橋として橋は架かっ
たが町民は「東橋(あづまはし)」と呼んだ。


   
橋一つ隔てば鴎都鳥(川柳)
   吾妻橋辺りで都鳥と読み(川柳)

 都鳥は「ゆりかもめ」の雅称がある。

 と書いたら、メールを頂戴しました。「ミヤコドリ」という水鳥もいると。で、「ユリカモメ」
と「ミヤコドリ」について説明する。在原業平が、

   名にし負わば いざ言問はむ都鳥 吾が想う人は在りや亡しやと

 と詠んだということを踏まえて、上記の川柳がある。業平の東下りには諸説あり、「してない」
というものから、「天安二年(858)~貞観四年(862)の間」「貞観四年」「嘉祥二年(8
49)~貞観四年」「天安元年(857)~元慶元年(877)」「元慶四年(880)」などあ
り、定まっていない。「伊勢物語」自体、業平が書いたことは書いたのだろうが、書き写されてい
く内に、別人によって書き足されて、写本によって変化している。それで、「都鳥」も「ユリカモ
メ説」が圧倒的に強いが、昭和49年以前には、ユリカモメは京都にはいない鳥なので、業平が、
ユリカモメを見て「都鳥」と認識できたかどうか疑わしい。だから業平の見た「都鳥」は「ミヤコ
ドリ」だったという説がある。またユリカモメは冬の渡り鳥で、業平が上記の歌を詠んだのは夏な
ので、なおさら「有り得ない」というものだ。なお「ユリカモメ」と「ミヤコドリ」は似ても似つ
かないから、混同するということはない。

 
ユリカモメ
 チドリ目カモメ科カモメ属の水鳥で、英名はBlack‐headed Gull。全長は40
cmばかり。足と嘴は赤色。夏羽は頭部が黒褐色になる。冬羽は頭部が白く目の後ろに黒い斑点があ
るのが特徴で、スグロカモメと似ている。しかしスグロカモメの嘴は黒色でユリカモメよりずっと
短い等の違いで識別できるが、十分注意すること。

 
ミヤコドリ
 チドリ目ミヤコドリ科ミヤコドリ属の水鳥。体長は45cmほどで、鳩より少し大きい。嘴と足
は長くて赤い。体の上面は黒く、胸から腹、翼に白い部分がある。北欧、中央アジア、沿海州、カ
ムチャツカ半島などで繁殖し、西欧、アフリカ西岸、中東、中国南部、日本にかけての海岸で越冬
する。かつて日本では旅鳥または冬鳥として九州に渡来していたが、近年は東京湾でも定期的に観
察されるようになった。海岸では小さな群れを作って過ごすことが多い。
 英語で「Oystercatcher」と呼ばれ、その名の通り牡蠣(Oyster)などの二
枚貝に長くて縦に薄い丈夫な嘴を差し込み、嘴の先で貝柱を切り裂いて中身を食べる。嘴は貝殻を
叩いて割ったり、岩場に貼り付いた貝を削ぎ落とすために鏨(タガネ)のように使うこともありと
ても丈夫だ。ヨーロッパでは二枚貝を食べる割合が多く、日本ではカニやエビ、ゴカイなどもよく
食べる。

 ※下線部は、平成29年4月19日、日本野鳥の会の山田様のご指摘により、ユリカモメの項に
記載していたものを、ミヤコドリの項に移して訂正したものです(担当)。


■吾妻橋

 明治8年の改架の時「大川橋」を改めて正式に「吾嬬橋」と命名された。明治20年の架け替えの
とき原口要・原龍太・倉田吉嗣の日本人チームによる設計施工で、隅田川では初の長大鉄橋が架けら
れた。長さ148m80cm×幅11m90cmの錬鉄製直弦プラットトラス橋だったが床板が木製だっ
たため関東大震災のとき焼け落ちてしまった。その復興事業として昭和6年新たに東京府により長さ
150m30cm×幅20mの3径間上路式鋼
拱橋に架け替えられて今日に至っている。「吾妻橋」に
変えたのは何時か判らないが、現橋に変えた昭和6年だろう。駒形橋が架かり、通りが東側で合流し
たために主役の座は奪われ、今は浅草通りは駒形の方を通る。平成4年の改修で塗装が青白色から赤
色に変わり、夜もライトアップされてレッドブリッジを強調するが、これは浅草寺の紅柄(べんがら)
色に相和したものである。橋詰に水上バスの乗船場がある。


  
吾妻橋こがねのはしらつくるとも誓い変わらじ妹と我との(正岡子規)

 
開園時の「隅田公園入口」の石柱

 吾妻橋の北側の東詰の歩道脇に今も残っており、

   
隅田公園入口

 裏には、

   昭和七年四月吉日
   復興完成記念
   吾妻橋親和會建之


 と刻む。
3月10日の空襲では、言問橋をはじめ、隅田川にかかる橋の上やその一円でで多くの犠牲
者が出た。川の中で命を落とした人も多い。
 作家早乙女勝元は、空襲の数日後に隅田公園を訪れた時の光景を次のように回想した。

   ほんとうはまもなく花見の季節なのに、芽という芽を焼きつくされた枝には、どれもこれ
   も、色とりどろのおびただしい布片がまとわりついて、風になびいている。あの夜、逃げ
   ていく人たちの身から、荷物から、強風に引きはがされ吹き飛ばされて、枝にからまった
   ものにちがいなく、とうてい手の届かなぬ高さにまでぴらぴらと北風にはためいているの
   は、一種異様な花盛りとでもいうべきでしょうか。[炎のなかのリンゴの歌? 東京大空
   襲・隅田川レクイエム]


 あづま地蔵尊
 吾妻橋1丁目23番の吾妻橋の東詰広場にある。吾妻橋一丁目町会有志によって、関東大震火災で
熱さから逃れるために川に飛び込んで溺死し難殉難者各霊を供養するためと、戦後の交通安全の守護
祈願のために建立された。また東京大空襲慰霊の卒塔婆も建てられている。

   震火災水難
   殉難者各霊 供養
   
(線刻地蔵尊画像)
   
交通安全御守護

 後の卒塔婆立の柱に、

   昭和六十二年九月吉日
         丸中米店
          中村泰雄


 と刻む。
 


■隅田川緑道公園
 吾妻橋1丁目に属する隅田川左岸沿いにある区立公園。公園全体は墨田区の西側、隅田川左岸沿い
にある。堤通1丁目・吾妻橋1丁目・東駒形1丁目・本所1丁目・横網1丁目・横網2丁目に亘る。

 
船着場案内標柱
 吾妻橋側の入口に立つ案内標柱。

   Azumabashi Water Bus Stop
   
吾妻橋船着場

 
隅田川公園入口石標
 吾妻橋側の入口に立つ石標。刻銘の下に発起人の名前が連ねてある。

   
昭和七年四月吉日
   
復興完成記念
   吾妻橋親和會建之

 
吾妻橋(説明板)

   鬼平情景 ➀
   
吾妻橋(大川橋)
   江戸時代、両国橋、新大橋、永代橋に次いで隅田川に架けられた四番目の橋です。安永三
   年(1774)、長谷川平蔵二十九才の時、町人からの幕府への願いが受け入れられ、架
   橋されました。民営のため武士を除く利用者から渡賃二文を徴収して維持費に充てました。

   長さ八十四間(約150m)、幅三間半(約6.5m)あり、正式名は大川橋です。吾嬬神
   社への参道にあたたるとして吾妻橋への改名願いが出されましたが、それが叶ったのは明
   治9年になってからです。
   鬼平犯科帳でも数々の作品に登場します。なかでも人気の、亡父遺愛の銀煙管が鍵となる
   「大川の隠居」では、平蔵を乗せた友五郎の櫓さばきも巧みな舟が、吾妻橋をくぐって大
   川を遡って行く名場面に出てきます。                    墨田区


嶋田山遍照院 
 吾妻橋1丁目3番7号、浅草通りに面してある新義真言宗智山派の寺。寺といいながらビルディン
グだ。寺の格好はともかくとして、この寺の名が高いのはお灸だ。隅田川二十一ヶ所霊場6番札所。


 
弘法様のお灸
 
創建の文久二年(1862)以来やっているという灸治療で繁盛しており膏薬もあった。これは開
山の諦念和尚が高野山に篭っていたとき霊夢を得て始めたと伝わっている。しかし浅草、四つ木、目
黒、下北沢など、東京でも各地に「寺の灸」はあり、弘法大師の秘法の1つでもあるので、特に諦念
の専売特許という訳のものでもない。愛知県の知立にも遍照院という寺があって、やはり〝弘法様の
お灸〟として有名だ。

 
伏見稲荷大明神 ◇
 境内にある小祠。
 


■こんぶの岩崎
 吾妻橋1丁目4番3号、清澄通りに面してある昆布の卸問屋。小売もやってるよ。明治27年おぼ
ろ昆布の削り職人だった初代が、本郷真砂町で昆布問屋として創業し、戦前に現在の場所に移転。昆
布原料の卸売と約200種ある昆布加工製品(菓子昆布、納豆昆布、とろろ昆布、高級だし昆布)の
小売りを手掛ける。一口に昆布といっても、出汁を取るのに適したものと、おでんの具や昆布巻きの
ように昆布そのものを食するものとでは産地により分かれる。日本で昆布が採れるのは8月だけ。し
かも三陸海岸より北の地方で、その殆どが北海道産、ロシア産。岩崎では1年分を一度に仕入れ、温
度や湿度など細心の注意を払いながら倉庫で保管。「経費はかかるが、いい品物を提供するには当た
り前」とさらり。天候により品薄の年もある。それでも各地から最高の品が手に入るのは、創業以来
120余年の歴史と専門店という信用があるからだ。本来、料亭や蕎麦屋、最盛期には350軒以上
もの乾物屋に卸している昆布問屋。昆布は古来、カルシウムなどのミネラルや食物繊維が豊富な上、
うま味成分を含みながら低カロリー。食卓には欠かせない健康食だ、 「東京の人にもっと食べて貰い
たい」と、先代が小売りも始めたとか。塩昆布、昆布茶、昆布飴など、二百種以上の品が店先まで溢
れている。


 おぼろの実
 お湯だけでできる即席のお吸い物。熱湯を注ぐと、ピンポン玉のように丸めたおぼろ昆布が椀(わ
ん)の中で踊るように広がり、中からまり麩(ふ)や乾燥ネギなどが浮かんでくるぞ。出汁が利き、
料理の苦手な人でも、ちょっとした料亭並みのお吸い物ができるって訳。
 


瑞松山栄隆院霊光寺
 吾妻橋1丁目9番11号にある浄土宗の寺。寛文七年(1667)の創建。本尊の阿弥陀如来は増
上寺中興の観智国師の時念佛でしたが、関東大震災で焼失しました。現本尊は和歌山県皆乗寺より遷
座した阿弥陀如来です。隅田川二十一ヶ所霊場17番札所。
 


■「休日の午後」
 吾妻橋1丁目11番2号先高速道路下広場(駒形橋橋詰)にある気だるそうに腰掛けた女性像。樋
口保喜の作品。、


■吾妻橋公園
 吾妻橋1丁目12番1号にある区立公園。


■弘法寺
 吾妻橋1丁目15番7号にある真言宗智山派の寺。路地の奥のトタン板貼りの民家。寺号がなかっ
たら寺院とは誰も思わない。
 


■小さな硝子の本の博物館 復館
 吾妻橋1丁目19番8号にある。
かつて松徳硝子ショールーム「玻璃蔵庄太郎」の2階で運営して
いた「硝子の本の博物館」。世界中のガラス関連専門書籍が数百冊あり、ガラスファンは勿論、多く
の人が訪れていた中で、諸般の事情により、惜しまれつつも閉館したが、あれから十数年。年々、手
作りガラス生産工場が減っていく中で、手作りガラスの普及、多くの方々にその魅力を知って貰うた
めに、何かしたい! という思いから、場所を本所吾妻橋に移し、松徳硝子グループでの運営施設と
して再始動した。ガラス関連書籍の閲覧スペースを中心に、一部、松徳硝子の廃番商品を中心にガラ
ス器の販売もしている。
 


■芋きんの「満願堂本店」
 吾妻橋1丁目19番16号、浅草通りに面してある芋菓子屋。吾妻橋を下った角地だ。江戸時代か
らの店で
〝土手のきんつば〟で名をなし、吉原の花魁や浅草の芸者衆に評判を取った。
 〝芋きん〟は〝土手のきんつば〟を改良したもので、控えめな甘さが人気の的だ。
 


■牛島太子堂 寶珠山理性院如意林寺
 吾妻橋1丁目22番14号にある天台宗の寺。創建は嘉祥二年(849)というが、それでは浅草
寺並みの古さになる。第一その頃は海のど真ん中で寺が建つ筈もない。何処かから移転してきたのだ
ろう。元はもう少し北にあり、現在地は清雄寺のあったところだ。リバーピア吾妻橋ライフタワーの
真ん前の狭小な三角地にある。
「牛島太子堂」と呼ばれていて、神仏分離の前には伝慈覚大師作の聖
徳太子像を祀った「中之郷太子堂」の別当寺だった。牛島聖徳太子の石額は、大震災まではその鳥居
に掲げてあったもので三戸家の臣雪斎の筆だ。

   鬼平情景 ➁
   
如意輪寺
   嘉祥二年(849)慈覚大師が聖徳太子自作の太子像を安置したことに始まると伝わる天
   台宗の古刹です。像を納めた太子堂は「牛島太子堂」「中之郷太子堂」と呼ばれ、広く知
   られていました。
   鬼平犯科帳では「敵」に南の門前にある花屋が何度か登場します。その最初の下りに「大
   滝の五郎蔵は、まっすぐに市中を突き切り、大川(隅田川)をわたって本所、中之郷元町
   にある如意輪寺門前の花屋に入った」とあります。後に捕縛され、密偵となる大滝の五郎
   蔵の盗人宿ですが、亭主の利兵衛が何者かに殺されてから話が大きく転換します。墨田区

 六面地蔵塔
 延宝六年(1676)四月十三日、信心深かった両親「慈父」某と「悲母妙意禅定尼」の菩提を弔
い、合わせて「法界平等利益」を願って、その子が造立、奉納した。六地蔵は六道能化の本願を表す
といわれ、多くは仏寺の門前に建立される。この六面の地蔵尊は経典にとらわれず、自在に彫られて
いる。今は失われている宝珠、蓮弁状に削ぎおとされた笠、各尊像を半肉彫にした塔身、線刻にした
蓮華座、荒たたきにして蓮池に見立てた基礎、の五石から成ったものだろう。震災による損傷がある
が、江戸初期の柔和で造形的にも優れた石仏として、区内随一といえる。
 


■浩養園跡
 吾妻橋1丁目23番一帯にあった。説明板は区役所敷地東北角植栽にある。

   浩養園跡
   この地は常陸谷田部藩細川氏・駿河沼津藩水野氏・越前福井藩松平氏・秋田藩佐竹氏の屋
   敷として移り変わり、とりわけその邸内の庭が名園として聞こえていました。
   文政五年(1822)水野忠成の別邸となって、池を中心に石をふんだんに用いた林泉式
   庭園を築造。丘を築き、浅草寺五重塔・隅田川吾妻橋を望むものでした。万延元年(18
   60)佐竹氏に移り、浩養園・佐竹の庭として一層有名となり、明治23年から一般公開
   もされ、多くの人々の憩いの場ともなっていました。
   その後、明治33年札幌麦酒東京工場がここに設置され、明治39年には大日本麦酒吾妻
   橋工場となり、煉瓦造りの建物が庭園のなかばを占めました。大正9年の工場拡張や続く
   大震災によって、その面影は失われました。
   平成に入って墨田区役所・アサヒビール本社・住宅都市整備公団ビル等も建ち、現状のよ
   うになりました。
   平成3年3月                               墨田区


■リバーピア吾妻橋ライフタワー
 吾妻橋1丁目23番1号にある都市再生機構の住宅棟。

 
受賞記念石標
 タワー前のオープンスペースの植栽にある庭飾りに見せた方形石4つに銘文が刻まれている。

   平成6年度
   都市景観大賞
   都市景観100選
   受賞

   リバーピア吾妻橋
   周辺地区

   墨田区
   アサヒビール株式会社
   住宅都市整備公団


■アサヒビール吾妻橋ビル
 吾妻橋1丁目23番1号にある。元々23番は全域朝日麦酒の工場だった。吾妻橋ビル「アサヒビ
ール・タワー」は、その外観をビールの入ったビールジョッキをイメージしている。


■吾妻橋ホール
(アサヒビールアネックス)

 吾妻橋1丁目23番1号にある。元々23番は全域朝日麦酒の工場だった。吾妻橋ビル「アサヒビ
ール・タワー」は、その外観をビールの入ったビールジョッキをイメージしている。

 
ウンコのようなオブジェ、あれは何?

 屋上のオブジェは、決して「ウンコ」ではない、フランス人芸術家フィリップ・スタルクの作品な
のだ。しかし無芸大食の一般人は、ウンコにしか見えず、俗称「ウンコビル」は人口に膾炙する。
 本来は燃え盛る炎を形象した「フラムドール(flamme d'or、金の炎)」と呼ばれるもので、アサヒ
ビールの燃える心を象徴する「炎のオブジェ」なのだ。また当初、フラムドールは縦に3つ並べられ
る予定だったが、日照権の問題から横向きに変更され、その数を1つに減らしたとする説があるんだ
よ。
 


■すみだリバーサイドホール
 吾妻橋1丁目23番20号にある区営の文化施設。イベントホール(604㎡ 定員700人)・
収容50人のミニシアター(75㎡)・会議室(92㎡ 42人)・ギャラリー(278㎡)からな
る。墨田の魅力を広く伝えると共に、様々な催しに利用されている。
 


■墨田区役所
 吾妻橋1丁目23番20号にある区の組織が入る施設。1階に新東京タワースカイツリーの完成模
型があるぞ。

 GTS(L)「スカルプチャーツリー」
 前のふれあい広場にある東京芸術大学のプロジェクトの1作品。GTSとは、Geidai Taito
Sumida Sightseeing Art Project 東京藝術大学。台東区・墨田区観光芸術事業)のこと。
 深井隆(彫刻科教授) トム・ヘネガン(建築科教授) 増井岳人(彫刻科助教) 樫村芙実(建
築科教育研究助手) 山口桂志郎(彫刻科教育研究助手)
 海谷慶 鈴木友晴 東條明子 中村弘峰 稲田侑峰 木口敬子 長尾睦美(以上、彫刻科学生)
 高橋賢治 竹内吉彦 パク・ジンジュ 村田加奈子 萩原裕加 久保茂太 込山絵美(以上、建築
科学生)が制作に当った。

   スカルプチャーツリー
   Sculpture tree
   スカルプチャーツリーは、東京スカイツリーの足下の一部をトレースした、十二支が宿る
   木です。東京スカイツリーと同様に、足下は三角形、頂部へ向けて円形と変化し、芯柱に
   は、十二支がそれぞれの方角に合わせて取り付けられています。窓越しに東京スカイツリ
   ーを眺めているのは、東の動物の面です。内部に入ると格子によって周辺の建物が部分的
   に隠されて、見る角度によって様々な表情を楽しむことができます。


 GTSベンチ
 墨田区役所前ふれあい広場「スカルプチャーツリー」脇にあるベンチ。「GTS」のロゴをデザイ
ンモチーフに、本プロジェクトの初年度に4台制作された。藝大・台東・墨田の三者共催事業の願い
を形に込め、シンプルで力強いメッセージとして地域の人々に伝えている。台東区側にも二対ある。
 横から見ると、青いベンチが「GTS」、白いベンチが「Geidai TaitoSumida Sightseeing 
Art Project
の文字になっている。青が一人掛け、白が二人掛けとなっている。

 
オブジェ3基
 オープンスペースにある。月面探査機を彷彿とさせる金属聖のオブジェ。

 
「ヘリックス」
 表のオープンスペースににあるオブジェ。形の異なる二つの物体が自然光によって変化する、人と
人とのコミニュケーションを意味している
そうだ。

 
獅子像
 1階フロアにある巨大な黄金像。

 
「かたらい」
 1階フロアにある。月桂樹の輪の中に裸婦像。

 
「調和」
 1階フロアにある壁画(?)。月、鶴、桜、隅田川、競艇の様子が描かれている。アートだとは解
る。

 
「豊流」
 1階フロアにある豊かな肉体の裸婦像。

 
オブジェ
 ガラス屋根の下にぶら下がっている赤い三角形。意味が解らない。


■勝海舟銅像

 吾妻橋1丁目23番20号、区役所裏の隅田川テラスにある。海舟は両国生まれ、赤坂育ちなので
平成15年7月
江戸開府400年民間事業の一環として
隅田川に面したこの広場に造立された。
地元
隅田川沿いに立つ勝海舟と榎本武揚の2つの銅像は、同じ幕臣でありながら、方や江戸無血開城に努
力し、その後戊辰戦争の発言が親薩摩派とも見られる海舟と、幕臣最後の戦いである函館戦争を指導
した武楊。共に幕末に生き、蘭学を学び共に海軍の基礎を作り、同じく海外に渡り、帰国後、幕府の
指導的地位に立ちながら全く異なる道を進み、相反する1つの時代を作ったのは、あまり知られてい
ない。


   海舟
     
勝 安 芳

 この像は立像で、上野の西郷さんを意識してか、腕を伸ばして前方を指差している。その先は鹿児
島だ。西郷さんは南太平洋に向いているらしい。坂本龍馬の艦隊を求めて?・・・

   
建立の記
   勝海舟(通称麟太郎、名は義邦、のち安房、安芳)は、文政六年(1823年)一月三十
   日、江戸本所亀沢町(両国4丁目)で、父小吉(左衛門太郎惟寅)の実家男谷邸に生まれ、
   明治三十二年(1899)一月十九日(発表は二十一日)、赤坂の氷川邸で逝去されまし
   た。
   勝海舟は幕末と明治の激動期に、世界の中の日本の進路を洞察し、卓越した見識と献身的
   行動で海国日本の基礎を築き、多くの人材を育成しました。
   西郷隆盛との会談によって江戸城の無血開城をとりきめた海舟は、江戸を戦禍から救い、
   今日の東京の発展と近代日本の平和的軌道を敷設した英雄であります。
   この海舟像は、「勝海舟の銅像を建てる会」から墨田区にに寄贈されたものであり、ここ
   にその活動にご協力を賜った多くの方々に感謝するとともに、海舟の功績を顕彰して、人
   びとの夢と勇気、活力と実践の発信源となれば、幸甚と存じます。
   海舟生誕180年
   平成15年7月21日(海の日)                  墨田区長 山崎昇

 勝海舟略年表
 銅像の後ろの植栽にある。


   
勝海舟略年表
   年号  和暦   年齢 月日    海舟事項
   1823 文政六   一 正月晦日  江戸本所亀沢町の男谷邸(現両国4丁目)に生れる。
                    父は勝小吉、母は信子。通称麟太郎。名は義邦。
   1829 文政十二  七 このころ  十二代将軍家慶公の五男初之丞に召されたという
                    (9歳または12歳まで)。
   1837 天保九  一五 七月二七日 父小吉隠居し(号夢酔)、家督を相続。
              このころ  島田虎之助の道場(浅草新堀)に住み込み、剣術修
                    行を始める。夜は牛嶋神社(王子権現)で寒稽古。
   1841 天保十二 一九       牛島の弘福寺にて、座禅を修める。
   1845 弘化二  二三 九月    岡野孫一郎の養女民子(砥目氏の娘)と結婚、永井
                    青崖に蘭学を学ぶ。
   1846 弘化三  二四 春     本所から赤坂田町に転居。
   1848 嘉永元  二六 八月二日  日蘭辞書「ヅーフハルマ」の筆写(二部)終了。
   1850 嘉永三  二八 九月四日  父小吉死去(49歳)。赤坂田町に私塾を開き蘭学と
              この年   西洋兵学を教授。
   1852 嘉永五  三〇 この年   諸藩の依頼を受け鉄砲・大砲を鋳造。
   1853 嘉永六  三一 七月    「海防意見書」を提出。
   1855 安政二  三三 正月一九日 大久保一翁の推挙で、藩書翻訳勤務を命じられる。
              七月二九日 長崎海軍伝習を命じられる。
              八月七日  小普請組から小十人組となる。
              九月一日  長崎に向かう(十月二〇日長崎着)。
   1856 安政三  三四 三月一一日 講武所砲術師範役となる。海軍伝習の功により大番
                    に番替えとなる。
   1858 安政五  三六 二月より  咸臨丸で下関・五島・対馬・鹿児島などを巡航。鹿
                    児島で島津斉彬に謁する。
   1859 安政六  三七 正月一五日 長崎の伝習を終え、江戸帰府。
              七月    赤坂元氷川町に転居。
              十一月二四 アメリカ派遣を命じられる。
   1860 万延元  三八 正月一三日 咸臨丸で品川沖を就航、アメリカに向かう。
              二月二五日(和暦) サンフランシスコ到着。
              閏三月一八(和暦) サンフランシスコを出向、帰国の途につく。
              五月五日  浦賀に帰港。
              五月二七日 江戸に帰る。
              六月二四日 蕃書調所頭取助となる。
   1861 文久元  三九 九月五日  講武所砲術師範役となる。
   1862 文久二  四〇 七月四日  軍艦操練所頭取となる。
              閏八月一七 軍艦奉行並になる。
              このころ  坂本龍馬ほか9名海舟の門下生となる。
   1863 文久三  四一 四月二三日 将軍家茂の摂津湾巡覧を案内、家茂から直接神戸海
                    軍操練所設立の許可を得る。
              十二月二八 再上洛する将軍家茂を奉じて海路で大阪へ向かう
                    (元治元年正月八日大阪着)。
   1864 元治元  四二 二月五日  一橋慶喜より、長崎派遣を命じられる(四月一二日
                    大阪帰還)。
              五月一四日 軍艦奉行となり、従五位下安房守に叙せられる。
              五月二九日 神戸海軍操練所設置布達。
              十一月一〇 軍艦奉行罷免、寄合となる。(慶応元年〔1865〕
                    三月九日神戸海軍操練所廃止)。
   1866 慶応二  四四 五月二八日 軍艦奉行再勤を命じられる。
              八月一五日 一橋慶喜より長州藩との休戦を調停する密命を受け
                    る。
              九月二日  安芸宮島で長州藩広沢真臣らと会談、休戦を協定。
   1867 慶応三  四五 三月五日  海軍伝習掛を命じられる。
   1868 慶応四  四六 正月一七日 海軍奉行並となる。
              正月二三日 陸軍総裁となる。
              二月二日五 陸軍総裁を免じ、軍事取扱を命じられる。
              三月一三日 高輪の薩摩藩邸にて西郷隆盛と会見。
              三月一四日 田町にて再び西郷と会見、江戸無血開城を決める。
              四月十一日 江戸城引き渡し終了。
      (明治元)   九月八日  改元。
              十月十一日 蒸気船で東京を離れ駿府に向かう(十二日着)。
   1869 明治2  四七 七月一二日 安房守を安芳と改める。のちに安芳を本名とする。
              七月一八日 外務大丞に任じられる(八月十三日辞退免職)。
              十一月二三 兵部大丞に任じられる(翌年6月12日辞退免職)。
   1870 明治3  四八 三月二五日 母信子、静岡で没。
   1872 明治5  五〇 五月十日  海軍大輔となる。
              八月    静岡より帰京、赤坂氷川町四丁目に居す。
   1873 明治6  五一 二月二日  島津久光慰撫のため、鹿児島へ派遣の命を受ける。
              十月二五日 参議兼海軍卿となる。
   1875 明治8  五三 四月二五日 元老院議官に任命されるが、直ちに辞表提出(十一
                    月二十八日に承認)。
   1879 明治12  五七 七月三〇日 木下川浄光寺境内に西郷隆盛類等の碑を建立。
   1883 明治16  六一 この年   吉井友・税所篤らと西郷隆盛の名誉回復運動始める。
   1884 明治17  六二 四月二五日 遺児寅太郎の参内で西郷隆盛の名誉回復。
   1887 明治20  六五 五月九日  伯爵となり、華族に列す。
              この年   「吹塵録」35冊、「吹塵余録」9冊編纂成る。
   1888 明治21  六六 四月三〇日 枢密顧問官となる。
              この年   「海軍歴史」25巻編纂成る。
   1889 明治22  六七 この年   「陸軍歴史」30巻編纂成る。
   1890 明治23  六八 七月十日  貴族院の伯爵議員に互選されたが辞退。
   1891 明治24  六九 この年   「開国起源」成る。
   1892 明治25  七〇 二月七日  長男小鹿病死(41歳)。二月    徳川慶喜の
                    十男精を養子にすることを内定。
   1895 明治28  七三 五月二一日 朝鮮処分等につき意見書を起草。
   1898 明治31  七六 三月二日  徳川慶喜参内して天皇・皇后に拝謁し、名誉回復。
              三月二日  慶喜、海舟宅を訪れ名誉回復の謝意を表す。
   1899 明治32  七七 一月一九日 自邸で死去(発喪は21日)。
              一月二五日 青山墓地で葬儀。洗足池畔に葬る。
                   (江戸東京博物館『没後100年勝海舟展』を参照)
   平成15年7月21日                      墨田区教育委員会


 
勝海舟銅板レリーフ
 勝海舟像の左にある。木内禮智の作品。

 
マルチマイクロ発電機
 庁舎裏手うるおい広場に設置されている発電機。早稲田大学発ベンチャー企業が区内企業との密接
な関わりを通し、経営改善についての助言に止まらず、実践までを支援。平成16年度は4社、同1
7年度は8社、同18年度は6社に対して実施。この支援を受けたある企業は、受注から出荷までの
行程を見直すことによる機械稼働率の向上や、社内での情報の共有化など、それまでの社内の常識を
破る改革を実践。これにより、2%台だった売上高営業利益率が20%台まで上昇するなど、経営革
新を図ることができた。
 ※早稲田大学発ベンチャー企業とは、早稲田大学が研究・保有する高度な技術や知識、手法を事業
化した早稲田大学から生まれた企業のことだ。
 マルチマイクロ発電機とは、風力、太陽光、太陽熱の3種類の自然エネルギーを活用して発電する
エコ発電機のことで、すみだ産学官連携クラブ会員有志企業が中心となって開発。平成17年3月に
第1号機が完成。緑町公園、錦糸公園、区役所うるおい広場に、同18年度は東吾嬬小学校、両国中
学校に各1基設置。

 
勝海舟略年表
 銅像の裏手にある。記は省略。  
 


■墨田区役所分室
 吾妻橋1
丁目24番4号、墨田区役所の道路を挟んだ北向かいにある区の私設。

 
GTS(K)「ゆらぎツリー」
 分室の建物の東側にある籠のような、東京芸術大学のプロジェクトの1作品。GTSとは、eidai
Taito Sumida Sightseeing Art Project  東京藝術大学・台東区・墨田区観光芸術事業)のこ
と。この作品は、微風が起こした漣が、鏡面のように澄み切った水面に波紋を投げかけた時に、そこ
に映り込んで、少し揺らぎ始めた東京スカイツリーをイメージソースとし制作した。逆立ちしたよう
にも見える姿はユーモラスでもある。また、この先の枕橋からは、北十間川に映りこむ実際の逆さツ
リーを見ることもできる。このゆらぎツリーが、この場に定着し、区民んに愛されることを願う。


正栄山妙縁寺
 吾妻橋
2丁目2番10号にある日蓮正宗の寺。富士山大石寺末。日蓮正宗第3祖日目上人の弟子日
尊が浅草阿部川町の辺に妙因寺として創建したというが創建年は不明。中興は寛永六年(1629)
大石寺19世法主日舜上人。浅草阿部町から移ってきた年代は判らない。中興時に移転したものか。
当時の寺域からすると随分減らされたものだ。現在の建物はビルディングだが昭和61年の建築。公
家寺として知られ、朝廷との関係も深く、日野大納言などが大檀那となっており、その関係で京都所
司代板倉勝澄とも関係があった。
なお「寉」は「鶴」だ。

 
夜寉井銘碑
 良質の水を出した井戸の跡。江戸時代、水源の少なく人口の多い江戸にとって、水は貴重品であっ
たが、境内の井戸は人々に水を供給して「やかくいの井戸」と呼ばれ、その碑は区の文化財となって
いる。水質の悪い墨東地区にあって天祥寺の水とともに村にとっては大変に貴重だったろう。宝暦二
年(1752)のことと記している。

   「夜寉井銘」の碑 やかくいめいのひ
   『御府内寺社備考』や『葛西志』にも記されていたのが、ここ妙縁寺にあった「夜寉井」
   の井戸です。いつ掘られたのかはわかりませんが、人々から愛され、そのそばにこの石碑
   が建てられました。
   宝暦二年(1752)儒学者井上蘭台が中国の『詩経』から多分に引用しながら詩を作り
   書家滕包貫が宝暦十二年(1762)に建碑しました。
   銘井寉夜
    風雨如晦爰喪幼孫耿耿不寝
    念彼九原嗟茲胎禽馨聞干野
    薄言求之寒泉之下迨其今兮
    清冽且深自詒伊戚實労戒心
    寶暦二季六月蘭臺井通凞撰
   詩の意味を簡単に説明すれば、
   「風雨が闇のような中で、鶴は我が子を失い、気になって眠れずにあの世を思い浮かべて
   いる。と、この泉で囁くような声を聞いた。今もこの木は清らかで、鶴同様に自らの憂い
   を残すように、心を和ませてくれる」
   というものです。(他にもいくつかの解釈があります)
   井戸は安政大地震でふさがりましたが、安政六年(1859)に日蓮正宗第五十一世日英
   上人によって再興されました。しかし、関東大震災によって再びふさがりました。
   飲料水に乏しく、水に苦労してきた本所地域において、貴重な歴史資料といえるでしょう。
   平成14年3月                         墨田区教育委員会

   墨田区登録有形文化財(歴史資料)
   
「夜寉井銘」の碑
   『御府内寺社備考』や『葛西志』にも記されていたのが、ここ妙縁寺にあった「夜寉井」
   の井戸です。いつ掘られたのかはわかりませんが、人々から愛され、そのそばにこの石碑
   が建てられました。
   宝暦二年(1752)儒学者井上蘭台が中国の『詩経』から多分に引用しながら詩を作り
   書家滕包貫が宝暦十二年(1762)に建碑しました。
     風雨如晦爰喪幼孫耿耿不寝    風雨で闇のような暗さの中、鶴は我
   夜                 が子を失い、気になって眠れずにあ
     念彼九原嗟茲胎禽馨聞干野    の世を思い浮かべている。
   寉                 この泉で鶴は囁くような声を聞いた。
     薄言求之寒泉之下迨其今兮    我が子の声かとわずかな期待をして
   井                 冷たい泉のもとにいた。その泉は今
     清冽且深自詒伊戚實労戒心    に及び、清冽かつ深い寒泉のもとに
   銘                 私はたたずんでいる。鶴同様に私は
     寶暦二季六月蘭臺井通凞撰    憂いの気持ちをここに送り、確かに
                     自分の心をいたわった。
   井戸は安政大地震でふさがりましたが、第五十一世日英上人の時、安政六年(1859)
   に再度掘り抜きを行い、関東大震災まで使用されました。
   飲料水に乏しく、水に苦労してきた本所地域において、名水の痕跡を残す貴重な歴史資料
   といえるでしょう。
   平成26年3月                         墨田区教育委員会

   墨田区登録有形文化財(歴史資料)
   
「夜寉井銘」の碑       所在地 墨田区吾妻橋2丁目2番10号 妙縁寺内
   正栄山妙縁寺は、京都要法寺の開基日尊が創建したと伝えられています。寛永六年(16
   29)に総本山大石寺の第十九世日發上人が浅草に中興し、遅くとも寛文十一年(167
   1)頃までには本所中之郷村(現在地)に移転したことが分かっています。
   江戸時代の境内図を見ると、現在と同じく山門は三ツ目通りに面し、その山門を入った左
   手、すなわち南側に「夜寉井銘」の碑はあったようです。儒学者井上蘭台(1705~1
   761)が宝暦二年(1752)に作った詩を同十二年に朗川 包貫が書して建碑したこ
   とが知られています。
   この夜寉井は「葛西誌」にも紹介された有名な井戸です。本所地域は湿地帯を開発した経
   験から、良質な水の確保が困難で、名水と呼ばれる井戸が非常に大切にされました。夜寉
   井が掘られた年代や名称のいわれは不明ですが、井戸と名水人々に愛されたことから、そ
   れらを記念する碑が井戸のそばに建てられたものと考えられます。
   井戸は後年一度ふさがったものの安政六年(1859)中秋に第五十一世日英上人によっ
   て再興されたものです。その事実も碑の左右面に刻まれています。
   平成26年3月                         墨田区教育委員会

 相馬大作の首塚
 文政四年(1821)江戸から帰国途中の弘前藩主9代藩主津軽寧親の狙撃未遂事件が発生。首謀
者は盛岡藩の下斗米秀之進だが、偽名「相馬大作」を名乗っていたことから「相馬大作事件」と呼ば
れる。秀之進は寛政元年(1789)盛岡藩二戸郡福岡村(二戸市)に生まれた。18歳で江戸に出、
剣名高き平山行蔵道場の門下生となり武道に精進、四傑の一人と呼ばれるほどに腕をあげて帰国し、
郷里・福岡に講武場兵聖閣を設けて武術の教授を始めた。そんな矢先の文政三年(1820)盛岡藩
主南部利敬が39歳の若さで世を去り、遺領を利用が継いだ。利敬の早すぎる死は、弘前藩に対する
積年の鬱憤が原因といわている。
 その積年の鬱憤とは、もともと弘前藩津軽家は、南部家の一族の家柄だったが、南部のお家騒動の
際自立を図り、太閤秀吉の小田原征伐陣中に参じて独立を成功させた事に起因するものとされた。跡
を継いだ利用はまだ14歳で無位無官、それに対して「本来家臣筋だ」と看做している津軽寧親は従
四位下侍従に叙任されていた。このことに不満を抱いた秀之進は寧親に果たし状を送って辞官隠居を
勧め、それが聞き入れられない時には「悔辱の怨を報じ申すべく候」と暗殺を伝えた。文政四年のこ
の年、秀之進は江戸から帰国途中の寧親を秋田藩白沢駅(大館市)付近で狙撃しようと計画したが、
仲間の密告によって失敗、藩を出奔して江戸に逃れ「相馬大作」と名を変えたが、同年幕吏に捕らえ
られ翌年首を刎ねられた。その秀之進の子息が、晒されていた首を盗んで来て、妙縁寺住職へ埋葬を
依頼、豪胆な当時の住職(日脱)がその首を葬ったのが「相馬大作の首塚」だ。その後秀之進の子息
は住職の勧めにより出家して、大石寺系の末寺「感恩寺」(盛岡)を寄進している。その名の由来は、
「妙縁寺住職に恩を感じて造った寺」の意だ。そして江戸市民は秀之進の行動を賞賛し、事件は講談
や小説の題材として流行した。幕末の水戸藩の尊皇攘夷論者で。藤田東湖もその義烈をたたえ、長州
藩の吉田松陰も長歌を詠じて秀之進を追慕している。


 
歌沢相模太夫の墓
 妙縁寺墓地にある。端唄から作った歌沢節の創案者笹丸の墓で、本名笹本彦太郎という旗本で、嘉
永の頃本所南割下水、今の亀沢に住んでいた。この寺は大震災のあと大正14年小松川への移転が認
められていたが、結局残ったものだ。

 日蓮正宗
 日蓮大聖人の入滅後、身延の地頭波木井実長(はぎりさねなが)が、仏法に違背する行為を重ねた
ため、日興上人は正応二年(1289)の春、本門戒壇の大御本尊をはじめ一切の重宝をお持ちして、
門弟とともに身延を離れ、翌正応三年南条時光の寄進により富士上野の地に大石寺(たいせきじ)を
建立した。以来700有余年、「日蓮大聖人の仏法は日蓮正宗総本山大石寺に正しく伝えられている」
とは、大石寺の弁。一時創価学会を信徒に組み込んでいたが、宗門と学会は対立して平成3年暮に決
別、宗門は、創価学会を破門にして縁を切り、信者は法華講に統一されている。

 創価学会
 昭和5年教育者で大日本皇道立教会会員牧口常三郎が『創価教育学体系』という教育学の著書を発
刊。その後「教育改革による社会の向上」を目指し、牧口が初代会長となって「創価教育学会」とい
う教育者のグループを創設した。ほどなく教育者だけでなく、社会の様々な分野にも会員を広げ、戦
後第2代会長の戸田城聖が「創価学会」と改名した。そして昭和50年第3代会長池田大作(成太作
=ソンテチョク)が、創価学会の世界規模の団体として「創価学会インタナショナル(SGI)」を
発足し、現在に至っている。海外ではカルト教団の扱いだ。しかしバックにロックフェラーを頂いて
おり、虎の威を借るとはいいながら侮れない勢力となっている。学会の教義は、日蓮聖人の仏法で、
その思想に基づき、人々の幸福や社会の発展のために活動しているとは、学会の弁。宗門との悶着に
は言及してない。会員に朝鮮人、韓国人が多いのは、一神教の所為である。クリスチャンに朝鮮人・
韓国人が多いのも一神教の所為だ。
 


■福寿稲荷大明神 ◇
 吾妻橋2丁目5番13号にある小祠。 


向東山天祥寺
 吾妻橋2丁目6番5号にある臨済宗妙心寺派で、寛永元年(1624)に嶺松院として創建、元禄
六年(1693)肥前平戸藩主松浦鎮信が中興開基、盤珪国師を中興開山として、当地に中興した。
近隣に同宗の松嶺寺があり、紛らわしいということから、享保元年(1716)天祥寺と改号した。
 釈迦如来乾漆坐像は、近世初期の珍しいもので、もと京都山科の地蔵寺に大石内蔵助良雄が献納し
たものといわれる。松浦鎮信の墓、祭贈従三位静山公詩碑、水鉢、盤珪国師の墓がある。

 養老泉の碑
 境内にあった井戸。文政の『寺社書上』には、寛政十一年(1799)に開鑿したもので、この辺
りは海に堆積した州が成り立ちなので水が悪かったところ、この井戸では良い水が出たので村人は大
変に喜んだと記されている。近年現代的和風の門を新調しており、お金持ちの家のようだが、門を固
く閉ざしており、入るを拒絶している。まるで不受不施派だ。


 生月鯨多左衛門の墓
 いけづき or いきつきげいたざえもん 18歳で身長2m28cm、体重169Kgあった古今No
1の巨人力士。長崎の生月島の出身で玉垣部屋に属した。
天保15年10月場所から嘉永3年3月場
所までの12場所の間一人土俵入りを行い、人々を驚かせた。この間1場所だけ幕下格で取組に出場、
23歳の若さで死亡した。
 


覚英山清雄寺
 吾妻橋
2丁目14番6号にある本門仏立宗の関東根本道場。13、14、16番に跨る。源森橋の
南にあり、ここは元は出羽庄内藩酒井家の下屋敷だったところで、寛文二年(1662)同家の菩提
寺として創建されたと伝える。京都妙蓮寺末で、現在は下町の寺として永くした親しまれており、婦
人会やガールスカウトなど、社会活動に力を入れている寺本来の寺。墓地ばっかり作って坊主丸儲け
でないところが新しい。元の寺域は如意林寺を中心とした一帯で、今よりは数倍広かった。

 竹本土佐太夫の墓
 義太夫語り。初代から7代あり誰の墓か不明。
 


源森橋の碑
 吾妻橋
2丁目20番3号先源森橋の西南の橋詰にある白い大きな記念碑。題もなく、設置者名も記
されていない。

   源森橋の名前の由来は、現在の枕橋(本橋から200m隅田川寄りの橋)、古くは源森橋
   と呼ばれていたものが、明治初期に枕橋に正式決定されたことから、本橋を源森橋と呼ぶ
   ようになったものである。
   その昔、現在の枕橋(旧源森橋)が関東郡代であった伊奈半十郎により、中之郷瓦町(現
   在の吾妻橋地区)から新小梅町(現在の向島地区)に通ずる源森側(現在の北十間川)に
   架けせれた。また枕橋(旧源森橋)北側にあった水戸屋敷内に大川(隅田川)から引き入
   れた小さな堀があり、これに架かる小橋を新小梅橋と呼んでいた。この二つの橋(旧源森
   橋、新小梅橋)は並んで架けられていたため、いつの頃からか枕橋と総称されるようになっ
   た、その後、水戸屋敷内への堀は埋められ新小梅橋もいつしか消滅し、残った旧源森橋は
   明治初期に正式に枕橋と呼ばれることになり、旧源森橋の東にあった本橋を源森橋と公称
   するようになった。
   現在の源森橋は、昭和3年に架設した鋼橋(上路式アーチ橋)が約80年経過し、老朽化
   したため、平成19年3月に鋼橋(鋼床版鈑桁)に架け替えられたものである。
                                    平成19年3月

 ※文中「源森側」は「源森川」の誤記。立派な碑だが「源森橋の名前の由来」ではなく「源森橋と
呼ばれるようになった経緯」でしかない。由来なら「源森」とはどういう意味かを述べねばならない
のだが・・・そこが抜けている。誤記もあるししっかりしろ、墨田区!

 
「一輪車」のコンクリート像
 体操の一種で、腕立て伏せの状態の人の両足をもう一人が両手で持って前進するもの。そんな像が
コンクリートで歩道に作ってある。かつてこの場所にはツツジの植栽があったが、それをどけて、住
民に説明もなく設置された。子供が面白がって群がって遊ぶのだが、もとより遊具ではないので、危
険極まりない。転落して頭でも打ったら・・・ 昔、この側で交通事故があり、乗用車に跳ねられた
人が後続のトラックに頭を轢かれ脳が飛び散り道路に散乱し即死した。トラックはそのま逃げたが、
舞い戻ってきて警察に逮捕された。そんなことがあったので、住民はなおさらなのだ。区は町会長に
には連絡したと威張っている。役人め!
 
「ササエル」
 というアート作品らしい。人と人が支えあう。テーマの「ささえる」を素直に造形したアートベン
チ。その窪みに腰を下ろすと、三人の人間が絶妙なバランスで支えあう。思わず笑みがこぼれるユー
モアあふれる作品だそうだ。


■GTS(J)「Reflect scape(2011)」
 吾妻橋3丁目4番1号、業平1丁目16番接する大横川親水公園にあるオブジェ。東京芸術大学の
プロジェクトの1作品。GTSとは、eidai Taito Sumida Sightseeing Art Project  東京藝
術大学・台東区・墨田区観光芸術事業)のこと。
レフレクトスケープは反射鏡で、これは東京スカイ
ツリーと不思議な記念撮影ができる新しいビューポイント。周囲の街を映しこむピカピカに磨きぬか
れた大きなステンレスの凸面鏡と、奇妙な塔。これらは〝東京スカイツリーを見ること=東京スカイ
ツリーの方向を見上げるこ〟というお決まりのスタイルを変換する装置。
 東京スカイツリーを背にして大きな凸面鏡を覗き込めば、そこには東京スカイツリーを目指して空
へ続く道が映っている。それにより巨大に聳え立つ存在だった東京スカイツリーは、自ら道路を歩い
て登っていけそうな親近感が湧く存在に転換される。鏡に近づいたり離れたり、跳ねあがったり、段
に登ったりして遊べば、その不思議な風景は変化していく。子供が大きくなったり大人が小さくなっ
たりし、自分とみんなと東京スカイツリーは1つの絵になるということだ。そんなリアルとアンリア
ルが入り混じった新しい風景を、自由に写真や記憶に留めてみては如何かな?

 
業平橋(説明板)
 オブジェの横に架かる橋で、説明板がてある建ててある。

   鬼平情景 ➆
   
業平橋
   最初の橋は、本所開発で開削された横川に、寛文二年(1662)に架けられました。長
   さ七間、幅二間の板橋です。橋名は、すぐ西にあった南蔵院の境内に「伊勢物語」の悲運
   の主人公、在原業平の作とされる衣冠の木坐像をご神体とする業平天神社があったことに
   よります。
   「東下り」に因み舟形の業平の塚もあったとされています。南蔵院は大岡裁きの「しばら
   れ地蔵」で有名ですが、現在は葛飾区東水元に移転しています。
   鬼平犯科帳では、「敵」に登場します。五郎蔵が人気のない業平橋を渡った時、人につけ
   られていると感じ、すばやく西尾隠岐守下屋敷わきの木立へ飛び込んで提灯の明かりを消
   し、後ろを伺う場面があります。江戸の頃はこの辺りで採れた業平蜆が美味で特産品とさ
   れ、作品にもたびたび出てきます                      墨田区


 ※文中「伺う」とあるのは「窺う」の誤記。「伺う」は「訪れる」「尋ねる」だ。
 


■添光稲荷神社
 吾妻橋3丁目1番7号路地の奥にある小祠。通りに面して赤鳥居がある。平成22年5月15日江
戸博特別展「龍馬伝」の序でに行った。スカイツリー見学の途次偶然発見した。
 


■大横川親水公園

 吾妻橋3丁目4番から南に、業平・横川・大平・錦糸の各1丁目と、東駒形・本所・石原・亀沢各
4丁目の間にある区立公園。その南は江東区に属する。大横川運河の多く部分を埋め立てて造られた
総延長は約1800mの大規模な親水公園だ。この川の流れている一帯は、付近にあった工場などの
地下水汲み上げにより地盤沈下の激しい地域だあった。そのため低い土地では川から水が溢れると浸
水する危険があったため、大横川の一部を埋め立てて親水公園として整備した。公園としては平成5
年4月1日開園。河川の多くは埋め立てられ、せせらぎや樹木などが新たに生まれ、親水公園として
大きく変わった。面積は約63343㎡になる。北は北十間川との合流点から始まり、南は竪川との
合流点までとなっている。竪川との合流点より南では、また大横川として河川になっている。

 ・撞木橋~江東橋

  広々とした人工池があり、途中、竪琴をイメージさせる橋が目を楽しませる。
 ・江東橋から総武線鉄橋

  水辺には銛をイメージしたような水鉄砲と的の遊具が設置してある広々とした広場がある。
 ・総武線鉄橋~長崎橋跡
  煉瓦風ブロックが敷きつめられた広場に、子供たちが子供らしくふざけ合いながら、音楽に合わ
  せて楽しそうにバレエを踊っている・・・などと楽しい想像を逞しくさせてくれる噴水がある。
 ・長崎橋跡~清平橋
  現在長崎橋には橋の遺構は残っておらず、その跡の歩道部分に長崎橋の面影を伝える案内板が残
  るだけとなっている。広々としたブロック敷きの広場では4・6・8・10月の年4回、第1土
  曜・日曜に「すみだガラス市」が開かれるよ。
 ・清平橋~報恩寺橋
  遠く奈良平安時代の貴族の館の庭を想像させる造りで、万華沼の四季折々の風景の変化が楽しめ
  る緑濃い空間。
 ・報恩寺橋~紅葉橋
  水の湧き出る滝があり、自然石が巧みに組み合わされた間を清流が流れる雰囲気はまるで山間の
  渓谷にでもきたような雰囲気。
 ・紅葉橋~横川橋
  ゲートボール場と人工芝を敷き詰めた2つの広場がメイン。広場の横を流れる小川の小道には、
  墨田の民話に因んだモザイクパネルの絵と本所七不思議をモチーフにしたレリーフがあり、散歩
  の目を楽しませてくれるよ。
 ・横川橋~平川橋
  水遊びのできる川原や、長いローラー滑り台があり、小さい子のお気に入りの場所だ。
 ・平川橋~業平橋
  釣堀と船の前方を形取った遊び場で、遊び場には螺旋階段から登る長い長い滑り台がある。

   墨田区立 大横川親水公園
   施設の概要
   この公園は、大横川の一部を埋め立ててできた親水公園です。
   公園の大きさは、幅30~40m、長さ1.85km、面積約63000㎡で、墨田区の中
   心を流れる北十間川との合流地点から、墨田区の南側を流れる堅川との合流地点までの区
   間となっており、平成5年4月1日に開園しました。
   園内は北から5つのゾーンに区分され、それぞれ色彩豊かな花の広場と釣堀(釣川原ゾー
   ン)、子供たちがじゃぶじゃぶと遊べる水路(河童川原ゾーン)、緑豊かな渓谷と多様な
   生き物が生息するビオトープ(花紅葉ゾーン)、開放感のあるイベント広場(パレットプ
   ラザゾーン)、様々なスポーツが楽しめる広場(ブルーテラスゾーン)の特徴を持ってお
   り、公園利用者へ貴重な憩いの空間を提供しています。
   歴史と沿革
   大横川の歴史は、明暦三年(1657)の江戸最大の火災といわれる大火から始まりまし
   た。江戸幕府は、復興の際、火除地等の確保のため、家屋の転移を図り、河川を掘り開き
   橋を架け、土地の整備を行いました。このとき掘られた河川の一つが大横川で、本所地域
   を南北に貫通しており、近年まで舟運、材木の貯留など産業経済の発展に貢献してきまし
   た。しかし、道路・鉄道の整備や経済環境の変化によって、かつての機能は失われ、昭和
   56年から大横川の埋め立てが進められました。その後、緑と清流を復活させ、豊かな自
   然を楽しめる憩いの空間づくりを基本に公園整備を行い、平成5年に完成しました。
   横川という名前の由来は、江戸城に対して横の方向に流れていることからきています。そ
   の後、昭和40年施行の河川法により水系を一にしていた大島川とつなげて、大横川と呼
   ばれるようになりました。                         墨田区


 魚つり場
 墨田区東駒形4丁目15番先 03-3624-3404 長さ130mの水辺で鯉が釣れるよ。

 
大横川の橋

 ◇業平橋(なりひらばし)
 吾妻橋3丁目と業平1丁目を結ぶ橋で、現在の橋は昭和5年に架けられたものだ、創架は寛文二年
(1662)。橋の名の謂れは、この橋の西側に「しばられ地蔵」で有名な南蔵院という寺があり、
その境内に業平天神という在原業平を祀る社があったことから名づけられたことから付けられた。南
蔵院は関東大震災の後、葛飾区水元に移転したが、天神はその時に廃社している。
 この橋のすぐ北側の源森川(北十間川)と大横川は直角に繋がっていた。今は大横川が親水公園と
なっているので水面の面影はない。合流部には公園管理事務所があり、汽船型の建物で、周辺は子供
の遊び場になってる。全長31.7m×幅員33m。東京都の管理。
 なお業平橋の由来は【業平】の由来の項に記してある。

 ◇平川橋
 東駒形4丁目と業平1丁目を結ぶ橋で平成24年に架け替えられた。この橋の東側が業平という町
で、この町は昭和42年の住居表示変更まで、業平橋と平川橋という地名で横十間川まで並んで続い
ていたが、業平1~5丁目という町名に統一された。その無くなった平川橋という町名は、昭和5~
6年に付けられたが、昭和4年に架けられた橋の名に由来する。全長28.17m×幅員11m。墨田
区が管理している。
 平成の架け替えで旧橋は撤去され消滅したが。モニュメントとして、橋の一部が、東北の橋詰に残
されている。


 ◇横川橋
 本所4丁目と横川1丁目を繋ぐ橋で、昭和3年に架けられた。この橋は春日通りを通している。無
くなった北割下水のあった通りだ。全長32.65m・幅員22.7m。墨田区の管理。
 横川橋というのは、元は大横川に架かっていたのではなく、割下水に架かっていたもので、関東大
震災後の復興計画で割下水が取り払われた後 、大横川に架けられた橋を横川橋と命名した。
 古い地図を見ると大横川の西側に沿って、業平橋から報恩寺橋辺りまで、細長く中之郷横川町とい
う町屋が見える。この橋の名はそこから付いたと思われる。今の横川という町名は別でこの橋の東側
にあり、昭和6年の区画整理によって付けられた名前だ。
 この橋の東詰めには大震災遭難者追悼碑がある。横網の被服廠跡では約38000人が亡くなった
が、この辺りにも水辺をたよった3600人あまりの市民が焼死している。

 ◇紅葉橋
 石原4丁目と横川1丁目を結ぶ橋で、昭和5年に架けられた。この橋の西に能勢妙見堂がある。柳
島にも葛飾北斎が通ったという妙見があるが、こちらは勝海舟の父小吉が通った。この一風変ったお
父さんも息子の怪我の快癒や出世祈願のため水垢離をとっている。この寺では今でも2月の寒い日に
水行が行われる。
 紅葉橋という名は、この辺り楓川という細い流れがあったので、それに因んで付けられた。大横川
の左岸、横川橋から紅葉橋、報恩寺橋にかけてはお寺さんの巣窟だ。本法寺、霊山寺、報恩寺などが
町の一角を成している。全長35.11m・幅員11m。墨田区が管理している。

 ◇
法恩寺橋
 石原4丁目と太平1丁目を結ぶ蔵前通りに架かる橋で、現在の橋は昭和57年の架橋。創架は、横
川が掘られた時と同じ万治二年(1659)といわれ、名前は東に平河山法恩寺に由来する。しかし
江戸平河にあったこのお寺がこの太平町に移転してきたのは元禄元年(1688)なので、初めは違
う名の橋だったろう。この橋は、石造りで如何にもどっしりした佇まいをしている。昭和57年の架
設となっているが、中央部分のみを架け替えたので、残部は大正13年頃のままだ。全長15m94
cm×幅員22mで都が管理する。太平町という地名は、太田道灌の「太」と平河山法恩寺の「平」
をとって付けたという噂がある。

 ◇清平橋
 亀沢4丁目と太平1丁目を結ぶ橋で平成24年に架け替えられた。かつて亀沢4丁目に清水町とい
う町があったので、太平と清水のそれぞれ一字をとり清平橋と名づけられた。この橋は両脇にけばけ
ばしい青色の水道管に挟まれて、凄まじい状況になっている。全長38m97cm×幅11mで、墨
田区が管理している。

 ◇長崎橋跡
 亀沢4丁目と錦糸1丁目を結んでいた橋で、北斎通りに架かっていた。今は橋の下は封鎖され橋と
しての機能はない。元禄十年(1697)の創架だが、昭和46年に架けたトラス橋を最後に、同6
3年大横川親水河川整備の際に、役目を終えて上部構造物は撤去された。橋名は西側に長崎町があっ
たことによる。この橋の脇にある広場では、ガラス市やフリーマーケットなど各種イベントが開催さ
れる。
 錦糸町南口バスロータリーのところに伊藤左千夫牧舎兼住居跡の碑があります。あの涙なくしては
読めない「野菊の墓」を書いた伊藤左千夫の本業は牧場主であり、明治22年頃、乳搾りをしていた
んだね。現在の賑わいを見るにつけ、なんとも隔世の感があることか。
 この橋の東詰めには、都立両国高校がある。戦前は府立三中(東京府立第三中学校)といい、芥川
竜之介や「グレート・ジャーニー」でお馴染みの探検家の関野吉晴など多くの著名人を輩出する名門
校だ。

   長崎橋跡
   ここにあった長崎橋は、元禄十年(1697)当時の本所奉行鈴木兵九郎、鳥屋久五郎、
   両名によって、墨田区亀沢4丁目より同錦糸1丁目に架けられました。
   最初は長さ10間(18.0)、幅2間半(4.5m)の木橋でしたが、その後何回となく
   架け替えられ、昭和4年6月には、鋼橋(トラス)になりました。
   この橋は、大横川親水河川整備事業によりその役目を終えて撤去しました。
   なお橋の名前は、当時西側に隣接した本所長崎町の地名にちなんで長崎橋と名づけられ、
   永い間、親しまれた本橋の面影を慕い橋名板を残して、その歩みを記します。
   平成3年6月                               墨田区


 ◇江東橋
 緑4丁目と江東橋1丁目を結ぶ京葉道路に架かる橋。国道なので幅が広く、橋の長さに対し倍近く
ある。全長20m80cm×幅員35mで国が管理する。明治31年創架で、現在の橋は平成7年製
の比較的新しい橋だ。江東橋という地名は昭和42年の新住居表示によって付けられたもので、橋の
名が由来だ。江東とは隅田川の東という意味。隅田川を漢風には「墨江」といい、墨東も江東も同じ
意味だ。ニュアンス的には墨東が上流、江東が下流の違いがある。
 京葉道路は、千葉道、成田道といい、江戸時代は成田山への参詣路として賑わった。その京葉道路
の錦糸町南口バスロータリーのところに伊藤左千夫の牧舎兼住居跡の碑ある。あの涙なくしては読め
ない「野菊の墓」を書いた伊藤左千夫は本業が牧場主で、明治22年頃は乳搾りをしていたそうんだ
ね。現在の賑わいを見るにつけ、なんとも隔世の感がある。この橋の東詰めに都立両国高校がある。
戦前は府立三中(東京府立第三中学校)といい、芥川竜之介や「グレート・ジャーニー」でお馴染み
の探検家関野吉晴など多くの著名人を輩出する名門校だ。

 ◇撞木橋跡(しゅもくばし)
 かつて竪川と横川の合流地点には北辻橋、南辻橋、新辻橋の3の橋が架かっていて、これをまとめ
て撞木橋(しゅもくばし)とも呼んでいた。撞木橋跡とは北辻橋のことで、昭和63年6月に撤去し
今はもうない。この橋のすこし北で大横川の西岸に「時の鐘」の鐘撞堂があったのでそう呼ばれるよ
うになった。仙台藩伊達家が、幕府から日光霊廟の建築を命ぜられ、材木の貯蔵地であるこの辺りに
作業場を作った。そして多くの職人に時刻を知らせるため「時の鐘」を建てて時刻を知らせた。工事
終了後は民間に下げ渡した。撞木橋跡は馬車通りにあり、通りの北側の真ん中に「時の鐘」のレブリ
カがある。

 ◇南辻橋
 立川四丁目と江東橋五丁目を結ぶ橋で、創架は本所地割の万治二年で、現在の橋は昭和6年の架橋
だ。古くは「南横堀橋」と云ったそうだが、享保年間(1716~35)に南辻橋となった。辻とは
道が十文字に交差するところいうが、川もそういうのか? 川の辻の南にある橋の意だ。撞木橋で大
横川親水公園は終りだ。大横川は立川の所から水を得て、江東区に向かって南進する。全長34m6
2cm×11mで、墨田区の管理。

 ◇菊柳橋
 菊川3丁目と江東橋5丁目を結ぶ。昭和5年に関東大震災の復興計画によって架設された。江東橋
5丁目に柳原3丁目という町があり、菊川と繋げたので柳と菊で菊柳橋ということだ。この辺りでも
震災で多くの人が焼死している。全長37m×幅員11mで、墨田区の管理。

 ◇菊川橋
 菊川3丁目と江東橋5丁目を結ぶ橋。創架は元禄十五年(1720)で、はじめは間之橋(あいの
はし)と呼ばれていたが、享保五年(1720)に架け替えられた時、今の名となった。その昔この
橋の西側に菊川という小さい流れがあったので、町名にもなり橋の名前にもなった。この辺りが本所
と深川の境だ、現在の橋は昭和63年の架橋。本所は3度火の海となっている。安政の大地震、関東
大震災、そして東京大空襲。その都度不死鳥のように蘇るバイタリティのある町だ。
 この橋の西詰めに夢違え地蔵尊がある。大空襲による菊川周辺の殉難者3000余名を弔うと共に
悪夢の消滅を願い、これを善夢に導き再び惨禍を繰り返さないようにとの願いから作られた地蔵尊。
菊川橋は新大橋通りに架かっているが、この通りをもう少し西に行くと、火付盗賊改方長谷川平蔵の
屋敷跡(遠山金四郎の屋敷跡でもある)がある。


しばられ地蔵 南蔵院跡
 吾妻橋3丁目6番の辺りにあった。現在は葛飾区東水元2-28-25に移転している。

   南蔵院跡(しばられ地蔵と業平伝説)
   この一画には、しばられ地蔵でよく知られる南蔵院という寺院がありました。しばられ地
   蔵とは、大岡政談で一役買ったお地蔵様のことです。
   ある時、日本橋木綿問屋の手代が業平橋の近くで商品の反物を盗まれてしまいます。商い
   の疲れからお地蔵様のそばで居眠りをしていた間のことなので、手がかりがまるでありま
   せん。そこで町奉行大岡越前守は一計を安じ、このお地蔵様を犯人として縛り上げ奉行所
   に運びました。その上、お白州で地蔵の裁きをする旨のお触れまで出したのです。この噂
   はたちまち広まり、お裁き当日の奉行所は詰めかけた野次馬でごったがえし大混乱となり
   ました。越前守は騒ぎを起こした罰と称して、見物に集まった人々に一反ずつ反物を納め
   させました。すると、集まった反物の中には予想どおり盗品が混じっていました。越前守
   は納め主を割り出して真犯人を捕らえ、事件は無事解決したのでした。
   この話から、南蔵院のお地蔵様を縛ってお願いすると、失くしたものが戻ってくるとか、
   泥棒避けのご利益があると信じられるようになり、しばられ地蔵と呼ばれ、人々の信仰を
   集めるようになりました。
   一方、南蔵院の境内にはかつて業平天神社がありました。平安時代の歌人・在原業平をま
   つったものといわれます。業平は、隅田川を舟で渡った時に

    名にし負はば いざ言問はむ都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと

   と詠みました(『伊勢物語』)。現在も地名や橋の名前などに業平の名前を残しているの
   は、このことに由来しています。
   南蔵院は、昭和元年に葛飾区水元に移転しましたが。現在でもしばられ地蔵の信仰と風習
   で知られています。
   平成21年3月                         墨田区教育委員会
  


■本所吾妻橋駅
 吾妻橋3丁目7番16号にある都営地下鉄浅草線の地下停車場。浅草線(当時は都営1号線)の最
初の区間である、浅草橋~押上間が開業した昭和35年12月4日にできた駅。ホームは相対式2面
2線構造で、地下1階にある。上下ホームは地下2階の通路で結ばれている。改札口は各ホームに1ヶ
所ずつ計2ヶ所ある。出口は4ヶ所だがエレベーターはない。


しいのき児童遊園
 吾妻橋3丁目9番4号にある区立公園。
 



【石原】(いしはら)1~4丁目                  昭和41年10月1日
 南本所石原町。明治元年東京府所属。同11年本所区所属。同44年南本所の冠称を外し石原町。
昭和4→5年吉岡町・吉田町・北二葉町・亀沢町2丁目の全部と若宮町・長岡町・清水町・横川町
の各一部をあわせ、同時に一部を横網・厩橋1丁目に譲って石原1~4丁目とし、同41年新住居
表示を施して現行の「石原」とした。
 区の小さな博物館運動により、1丁目に木彫資料館(透かし彫り)がある。※現在改装のため休
館中とのこと  確認してから行きなはれ。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『墨田区史』『墨田の歴史』など。

 石原の由来
 かつての町域が隅田川岸にあって、この辺りが砂礫の地つまり石原だったことによる。最初の石
原町は横網2丁目の蔵前橋通りから北で、江戸時代は万治二年(1659)に開鑿された圦堀河岸
があった。幕末には埋められていたようで本所埋堀という地名になっている。
 


■マイ プリティ モンスターズ(こどもの描いた絵がそのままぬいぐるみに)
 石原1丁目10番6号のキュリオシティ・ジャパンが展開する事業の一つだ。想像力豊かな幼児の
描くどんな絵でも、アメリカのクリエイターが、そのままぬいぐるみにしてしまうのだ。注文から1
~1ヶ月半で手元に届く。料金は12000円程度を目安に・・・
 


■木彫博物館

 石原1丁目13番3号の松本彫刻店にある。透かし彫りを中心とした木彫り彫刻や、全国の観光土
産として作られた彫刻品などさまざまな資料が展示されている。館長の松本一弘は、すみだマイスタ
ーとしても活躍する木彫りのスペシャリスト。「木彫りを知りたい人に情報を提供したい」という館
長の作品や実演を直接見ることができ、まさに「小さな博物館」といった館内だが、木彫りに関する
相談にも応じてくれるのがこの博物館の魅力だわいな。 03-3622-4920
 


■片男波部屋
 石原1丁目33番9号にある二所ヶ関一門の相撲部屋。昭和36年1月場所限りで引退した二所ノ
関部屋所属の元関脇玉乃海太三郎は、12代目年寄片男波を襲名して内弟子を連れての二所ノ関部屋
からの分家独立を考えていたが、幕内力士の玉響、玉嵐、有望若手として期待されていた、後に横綱
となる玉乃島などの移籍に関して8代目二所ノ関
(元大関佐賀ノ花)が許さず、業を煮やした片男波
は、
同37年5月場所前に、玉響改め新川、玉嵐、玉乃島などの移籍届けを協会に提出、内弟子を連
れて部屋を飛び出す実力行使まで行なった。するとその強引さに怒り心頭に発した二所ノ関は、成年
に達した養成員全員分の廃業届を提出して対抗した。これはどうにか取り消され、両者ともに減給処
分となった。結局、先代の二所ノ関でNHK相撲解説者の玉の海梅吉を呼んで話し合いの結果、漸く
二所ノ関が折れて独立が許され、分家して片男波部屋は創設された。しかしとばっちりを食ったのが
力士たちで、廃業届を出された者たちは番付を10枚落とされた挙句、不出場期間は休場扱いにされ
てしまい新川はまもなく廃業、玉嵐の移籍は翌38年に持ち越されてしまった。
 
その後玉乃島が横綱に昇進して玉の海と改め、玉輝山も十両に昇進して部屋の興隆が期待された矢
先の同46年10月に横綱玉の海が急死し、部屋は一気に寂しくなった。だがその後も、関脇玉の富
士・小結玉輝山、小結玉龍などの関取を育て、同62年9月に停年を直前にして死去した。
 跡を襲ったのは12代目片男波の直弟子で、同56年11月場所限りで引退した玉ノ冨士茂は、年
寄湊川を襲名して部屋付き親方として後進の指導にあたっていたが、12代目の死去に伴い13代目
片男波を襲名して片男波部屋を継承した。13代目は、関脇玉春日、関脇玉乃島などの関取を育て、
中堅部屋として存在感を出している。
 


■徳之山稲荷神社 ◇

 石原1丁目36番10号にある。元は徳山五兵衛重政(とくのやまごのひょうえしげまさ)の屋敷
内稲荷だった。徳山と書いて「とくのやま」と読むのだが、混乱を避ける意味で神社名には「之」の
字を入れることにした。五兵衛は三河以来の譜代の幕臣で、山崎四郎右衛門とともに元禄の頃本所奉
行となって本所地区の開発に尽力した。その功で当時の本所築地小屋に屋敷を賜ったのは、寛文四年
(1664)だった。境内掲示板に、

   当石原町は本所では最も古い存在である。
   鎌倉時代には墨田河原石原郷といふ村落をなして居たといはれる。明暦の大火には江戸市
   中を灰にしたが、その結果幕府は市街の区画整理を大規模に行った本所の地はおおむね低
   湿地の田園で芝野茅原芦葭生茂りここを埋立てて河川を整備して排水をはかり土地を一面
   に整へたうえ道路を設けそこに大旗本など武家屋敷を主にして移転が行われたのである。
   この事業の推進者は徳山五兵衛重政山崎四郎左衛門重政の両名の本所築地奉行であった。
   万冶三年三月 徳山五兵衛、山崎四郎左衛門
   右本庄屋敷割並御堀堀之奉行被仰付、
   右本庄之築地奉行被仰付
   右本所地区開拓を直接担当した人として本所区の祖先である徳山五兵衛重政治は慶長十九
   年駿河に生れた。寛永八年九月御書院番勤め駿河御城番を四度に亘って勤め城内外修理奉
   行を勤め正保二年慶安  四年明暦元年の三度上使として各地に趣いたのち万冶三年本所
   築地奉行に任ぜられ以後本所御用を勤める事十二年に及び寛文十念五月十六日五十六歳で
   勘定奉行となり十二年に亘り天和元年三月二十九日に老年の為職を辞して其後家督を長子
   權十郎重俊に譲って隠居浄雲と号し、元禄人縁七十五歳で病没した。
   法名は一心院殿徳岩浄雲居士である。
   右の事は墨田区史政治史的沿革に記載してあります。墨東叢誌には本所で最古の石原と題
   して記載してあります。本所開発の大恩人である本所奉行の徳山五兵衛を祀った徳之山稲
   荷には他の町内守護神と趣きを異にして徳山氏の功績を記念してそれた酬ゆる為の建立で
   あることが注目される。


 とある。

 徳山五兵衛屋敷
 神社のあるところは徳山五兵衛家の屋敷地の一部だった。境内に説明板がある。

   
徳山五兵衛屋敷跡
    江戸の初期に本所・深川の開発事業を推進した本所築地奉行徳山五兵衛重政の屋敷跡で
   す。開府当寺の江戸は、明暦三年(1857)の大火をはじめ、度々の火災で大きな被害
   を受けたので、幕府は街区の整備を大規模に行うことにしました。ことに隅田川以東の開
   拓に着手することになり、竪川や横川などを掘り、その泥土で湿地を埋め立て、道路の整
   備と市街地の造成をしました。この事業のため万冶三年(1660)に徳山五兵衛と山崎
   四郎左衛門の二人が初代の本所築地奉行として任命されました。
   徳山五兵衛は功により、幕府からこのあたりに邸地を与えられました。この稲荷社は屋敷
   神としてまつられていましたが、五兵衛の死後、その徳を称えた人々により御霊が合祀さ
   れ、徳之山稲荷神社として大切にされてきました。         墨田区教育委員会

   江戸の町
   Site of former residence of Tokuyama Gohei
   徳山五兵衛屋敷跡  1
   明暦の大火後、幕府は本格的な本所の開発に乗り出します。万冶三年(1660)本所築
   地奉行に任命された一人が徳山五兵衛(重政)です(もう一人が山崎四郎左衛門)。
   堀割の開拓や湿地の埋め立て、道路整備と市街地の造成などで、今の本所の基礎を作り上
   げました。その功績により、この地に屋敷を賜りました。五兵衛の死後、屋敷内に祀られ
   ていた稲荷と五兵衛の御霊が合祀され、徳山稲荷神社となっています。
   また孫の徳山五兵衛(秀榮)は、火付盗賊改方の在任中、歌舞伎の白波五人男の一人、日
   本駄衛門のモデルになった盗賊日本左衛門らを捕えたことで有名です。
                             ぶらり両国街かど展実行委員会


 日本左衛門首洗いの井戸跡・同碑
 
徳之山稲荷の境内にある。徳山五兵衛重政の孫、徳山五兵衛秀栄が火盗盗賊改方の在任中、歌舞伎
で有名な白波五人男の大盗賊日本駄衛門のモデルとなった日本左衛門を捕らえ、この地で処刑した。
侠骨剣豪の日本左衛門を徳山五兵衛が捕えた際、思い残したことを尋ねると、日光を見たことがない
というので、処刑する前に日光参拝を許したということで、徳山五兵衛の人柄が偲ばれる。碑は明治
時代に建てられたが、関東大震災で壊落したため、昭和40年に再建した。

   日本左衛門首洗いの井戸跡之碑
   日本左衛門ハ本名ヲ浜島庄兵衛ト称シ侠骨剣豪ノ士トシテ時ノ悪代官ヲ斬リ遠州ヲ浪人シ
   江戸ニ出デ向島西方ニ居ヲ構ヘタ。幕府ハコノ罪ヲ以テ奉行ニ召捕リ方ヲ命ズ。彼ノ神出
   鬼没ニシテ剣豪ノタメ奉行ハ召捕方ヲ出来ズココニ幕府ハ本所築地奉行タル徳ノ山五兵衛
   ニ召捕方ヲ命ズ。ソノ前ニ日本左衛門ハ再三徳ノ山邸ニ現レタガ黙殺放逐ス。ソノ命ガ出
   テ向島ニテ捕ヘ、ココニオイテ処刑サル時ニ寛文七年(西暦1677年)捕ワレタ時五兵
   衛ハ日本左衛門ニコノ世ニ思ヒ残スコトハナイカト問ワレ彼ハ只一ツ日光ヲ見タコトガナ
   イト申シタノデ不憫ニ思ヒ又他の罪ノナイタメ地内ノ戸崎氏ニ連行ヲ命ジ内々デ日光見物
   ノ願ヒヲ叶エテヤッタ。無事ニ戻リソノ功ニヨリ戸崎氏ハ今ノ石原町一ノ一西側三百坪ヲ
   五兵衛ヨリ拝領シ現在戸崎家ノ子孫ハコノ地ノ地主トシテ今モ下北沢ニ住ム。コノ碑ハ約
   三百年前由縁ノココに建立サレ大正大震災戦災等ノ災禍デ見ル影モナク損傷シ徳ノ山講員
   ハコノ史蹟ヲ後世ニ残スベクコノ石碑ヲ再建ス。
   昭和四十年五月十九日                          徳ノ山講
                                      、町内有志
 


■二葉小学校
 
 石原2丁目1番5号にある区立校。
 [戦前]
 廃校
 明治38年11月27年亀沢2丁目21番のところに「東京市二葉尋常小学校」として開校。同4
0年生徒増により一学年は二部授業。
大正6年東側に木造2階建ての校舎を増築。校庭が砂利からア
スファルト舗装になる。


 校歌
学びの園に」  作詞作曲・平田盛胤
  1.学びの園に入り立ちて
    君と親との御恵みを
    暫しが程も忘れずば
  2.人を親しみ慈しみ
    人の助けを待たずして
    吾身を立てて学び舎の
    誉れをあげよ世の中に
  3.勤めん時はよく勉め
    遊ばん時はよく遊び
    ものの決まりは守りなば
    教えを受けし甲斐あらん
  4.二葉萌え出し初めより
    忘れず守れ師の教え
    やがて春風吹き立たば
    花の色香ぞ現るる


 大正12年9月1日関東大震災により校舎全焼。青空教室。12月現在地に仮校舎。同13年亀沢
3丁目のところにも仮校舎。現在地にプール完成。
 昭和2年鉄筋の新校舎完成。プールも新調。府内でプールのある学校は5校だけだった。当時は生
活苦で昼間働かなければならない児童が多かったので、同8年夜学校を開設。同16年勅令第148
号国民学校令の公布により「東京府東京市二葉国民学校」と改称。同18年都制施行により「東京都
二葉国民学校」と改称。同19年週2回給食開始。同20年3月愚かなアメリカ軍の無差別空爆によ
り校舎全焼、廃校となる。

 [戦後] 復興
 同22年墨田区成立。アメリカの強制による学校教育法施行により「東京都墨田区立二葉小学校」
として復興、緑小学校の3階を借りて授業開始。同29年現在地に3階建ての新校舎が完成し、同3
0年創立50周年記念式典。同33年校内に科学センターができる。同40年校舎東側にあったプー
ルを解体し、南西側に新プール完成。創立60周年記念式典。同45年南側西塀を解体し「緑の塀」
ができる。同47年心障児の「ふたば学級」開設。同49年29年振りに昭和19年度卒業生の卒業
式を行う。同49~51年4階建て新校舎完成。全児童の新校舎移転後、旧校舎解体。創立60周年
記念式典。同57年北側校舎増築。同58年区より「ふたばの木」を受領。これはヒトツバタゴで、
通称「なんじゃもんじゃの木」だ。同60年校庭にジャングラミン(ジャングルジム)完成。創立8
0周年記念式典。同61年コンピュータルーム開設。
 平成元年「ふたば学級」閉鎖。機能は緑小学校に移る。同5年パソコン新調。同7年創立90周年
記念式典。同8年ランチルーム完成。同17年創立100周年に当たり記念式典、祝賀会、展覧会、
大運動会など挙行。

 新校歌「宮居の東」 作詞/作曲・松尾孝輔
  1.宮居の東 鴎飛ぶ
    隅田の流れ近くして
    苦難の跡も晴れ晴れと
    雄雄しく立てり 母校二葉
  2.新しき世に生まれ来て
    幼
(いと)けなき身を清らけく
    朗らに強く伸びよぞと
    勤しみ学ぶ 母校二葉
  3.ああ故郷の空高く
    聳ゆる甍 想い出の
    花美しく咲くところ
    いざ称えなん 母校二葉


 創立70周年記念歌
「のびるふたば」 作詞・野中夫三夫  作曲・渡辺茂
  1.芽が出た 二葉になった
    空に向かって手を広げ
    「おーい」と呼んでみよう
    ぐんぐん伸びるぞ
    二葉の子供は日本の子供
    さあみんなで肩組んで
    ランララン ラン ラン ラン
    ラン ラン ラン
    歩いて行こう みんなの二葉
    のびるふたば
  2.元気だ 若葉になった
    雨も嵐も何のその
    空に枝広げ
    ぐんぐん伸びるぞ
    二葉の子供は世界の子供
    ああ輝く 歴史は続く
    ンララン ラン ラン ラン
    ラン ラン ラン
    歩いて行こう みんなの二葉
    のびるふたば
 


■栗本鋤雲旧居跡・終焉の地
 石原2丁目13番3号にあった。偕紅園があったところだ。


■稲荷社 ◇
 石原2丁目16番5号の角地にある小祠。
 


■日本海軍駆逐艦「初霜」の主錨
 
 石原2丁目20番1号の新築された山田記念病院の玄関先に飾ってある。敗戦時、日本には33隻
の駆逐艦が残存していたが、殆ど連合国に接収されてしまった。しかし「初霜」は戦後、舞鶴で解体
され、昭和15年当時乗務経験のある元軍医少佐が主錨を引き取り、経営していた病院の玄関に据え
た。「伝統ある帝国海軍の遺産として長く後世に残しておきたい」と記されている。初霜は「初春型
駆逐艦」の4番艦で、昭和9年9月27日に竣工。対米戦では、北はアリューシャン、南は仏印・シ
ンガポール・比島など太平洋全域で勇戦、昭和20年4月菊水作戦で戦艦大和に同行した。7月月3
0日丹後宮津湾で対空戦闘中に触雷して擱坐、任務を終えた。
 なお「軍艦」とは巡洋艦・戦艦・巡洋戦艦・航空戦艦・航空母艦などの大型艦をいい、駆逐艦以下
の艦は「艦艇」と呼び、差別する。自衛隊の護衛艦は正式名称は「警備艦」で、海外では軍艦に分類
されるが、国内では表向き自衛隊は軍隊ではないため「軍艦・艦艇」の別はない。なお殆どの護衛艦
は駆逐艦の機能しか持ち合わせないが、イージス艦となると、重巡洋艦~戦艦の機能を有する。

 
菊水作戦
 
「大和特攻」で知られる作戦。 まさに最後の水上戦力として、戦艦「大和」、軽巡「矢矧」、駆
逐艦「冬月」「磯風」「浜風」「雪風」「朝霜」「初霜」「霞」「涼月」が沖縄決戦支援のため突撃
したが、途中には米空母群(13隻)が待ちかまえていた。坊ノ岬沖海戦と呼ばれるこの海戦は「大
和」爆沈により、米軍の攻撃が終息。結果は「大和」以下6隻の艦艇と3700名に上る戦死者を出
した。生き残った各艦も、「涼月」が被弾2発57名戦死。「冬月」は被弾2発12名戦死。強運の
駆逐艦「雪風」も被弾1発3名戦死と損害を出したが「初霜」は1発の命中弾も受けず、負傷者わず
かに2名を出したに過ぎなかった。6月には「雪風」と共に宮津湾に投錨して本土決戦に備えていた
が、7月敵艦載機が飛来、相手自由の空襲にさらされた。「初霜」は任意擱坐のため湾内を移動中、
触雷し、艦尾から沈み始め遂に擱坐、日本駆逐艦で最後の戦没艦となった。擱坐とは、浅瀬に沈没す
ることで、船体の一部が海面上に露出している状態をいう。
 


神光山龍聖院法照寺

 石原
3丁目10番11号にある真言宗醍醐派成田山の布教所。 


■栗本鋤雲住居跡

 石原
3丁目18番1号協和自動車サービスステーションのところだ。標柱が建っている。栗本鋤雲
は元幕府奥医師で、文久二年(1852)士籍に転じ、横須賀製鉄所の建設に尽力。維新後は政府に
出仕せずに東京日日新聞、報知新聞においてジャーナリストとして文筆を振るい、明治30年この地
で亡くなった。75歳

   栗本鋤雲住居跡

   文政五年(1822)神田に生まれ、奥医師となる。その後、フランス人との交流で国際
   感覚を身につけ、軍艦奉行、外国奉行を歴任し、フランス式軍隊の伝習などフランスの諸
   知識を日本に導入した。維新後は新政府に仕えず、この北二葉町四一番の借紅園に移り新
   聞界で活躍し、初代本所区議会議長もつとめた。明治30年この地で没す。
   昭和61年3月                              墨田区
 


■新徴組屯所跡
 石原4丁目22番1号の野口ビルの一帯がそうだそうだ。説明板などはない。新徴組(しんちょう
ぐみ)は、江戸時代後期の文久二年(1862)に結成された、江戸幕府による警備組織だ。同年二
月に江戸で浪士組結成募集が行われ、京都へ上洛した後に清河八郎に率いられて江戸に戻るが、4月
に清河が暗殺されると幕府により新徴組として再組織され、主に江戸市中の警戒、海防警備に従事し
た。
 


■松倉米吉住居跡
 石原4丁目22番1号の野口ビルがそうだ。歩道に説明板が建ててある。

   
松倉米吉旧居跡
   ここはアララギ派の代表的歌人、松倉米吉が亡くなるまで、3年間暮した理髪店があった
   場所(本所区長岡町43番地)でした。

   米吉は明治28年新潟県の糸魚川で生まれました。12歳の時に母の再婚先(日毛家)に
   入るために上京しました。日毛家は現在の二葉小学校の周辺にあったようです。
   米吉は近くのメッキ工場で働き始めますが、16歳の時に作った回覧誌「青年文壇」で短
   歌に出会います。大正2年工場近くに住む歌人の小泉千樫を訪ねて正式に会員として活躍
   を始めます。
   米吉は結核等の病いや貧しさと戦いながら、異色ではありましたが鋭く研ぎ澄まされた労
   働歌を次々と紡ぎだしていきました。
   大正6年に母の死により松倉姓に復し、ここで暮らし始めましたが、大正8年24歳を目
   前にして没しました。
   平成13年3月                         墨田区教育委員会
 


■九重部屋
 石原4丁目22番5号にある高砂一門の相撲部屋。
 11代目
 
昭和34年1月場所限りで引退した出羽海部屋(31人目横綱常の花寛市)所属の第41代横綱千
代の山は、一代年寄千代の山を経て11代目年寄九重を襲名して出羽海部屋の部屋付き親方として後
進の指導にあたり、出羽海部屋の後継者として注目されていた。しかし同35年11月に7代目出羽
海(常ノ花)が急死して、13代目武蔵川(元前頭筆頭出羽ノ花)が8代目出羽海として部屋を継承
した際も、将来は千代の山の九重が、経験を積んだ後に部屋を継ぐと目され、九重自身もその継承を
待望していた。

 しかし8代目出羽海は後継者を50人目横綱佐田の山に指名したために、九重の9代目出羽海継承
の可能性はなくなっってしまった。そこで同42年1月場所千秋楽の翌日、九重は大関北の富士ら1
3人の内弟子を連れて出羽海部屋からの分家独立を申し出た。当時の出羽海一門は、分家独立を許さ
ないのが不律律だった。当時8代目出羽海が、襲名時点で独立を希望する者がいるならば許可すると
部屋の親方衆に問うも、千代の山をはじめ、誰一人として申し出た者はいなかったという話もある。
 それはともかく同年1月31日13人の内10人の力士の移籍と九重部屋の分家独立が承認される
と共に、出羽海一門を破門され、出羽海とは無関係の高砂一門への移籍を言い渡された。この時の寄
合では暴力こそなかったものの、脅迫紛いの怒号と罵声が浴びせられたという。
 まあともかく高砂一門となった九重部屋は独立直後の同42年3月場所で、北の富士が幕内最高優
勝、松前山が十両優勝を果たした。同52年肺癌のため歿。51歳だった。
 12代目
 同49年7月場所限りで引退した52人目横綱北の富士勝昭は、年寄井筒を襲名して九重部屋から
分家独立して井筒部屋を創設していたが、同52年1月に11代目(千代の山)が死去したため、同
年11月に12代目九重を襲名して部屋を継承するとともに、井筒部屋の力士全員を九重部屋に移籍
させた。12代目は、先代弟子の千代の富士貢を58人目の横綱に育て、直弟子の北勝海信芳を61
人目の横綱に育て上げた。平成10年退職。千代の富士に跡目を譲った。
 13代目
 平成3年5月場所限りで引退した九重部屋所属の横綱千代の富士は、17代目年寄陣幕を襲名して
九重部屋の部屋付き親方として後進の指導にあたっていたが、同4年4月に12代目九重と名跡交換
すると共に13代目として九重部屋を継承し、18代陣幕となった北の富士は九重部屋の部屋付き親
方になると共に協会理事の職に専念した。しかし18代陣幕は13代目と仲違いしたため、同5年1
0月に八角親方(北勝海)が九重部屋から分家独立して八角部屋を創設する時、九重部屋の部屋付き
親方全員(陣幕、君ヶ浜、谷川、錦戸)が八角部屋に移籍した。そんな騒動も今となっては語り草と
なり、現在の九重部屋は、三段目に昇進すると四股名に「千代」の字が付けられ、完全に千代の富士
カラーの部屋となった(千代の富士の部屋継承以前にも、所属力士の四股名に「千代」の字が付けら
れる事が多かった)。13代目は、千代大海を大関にまで育てたが、それに続く関取の育成はできな
かった。平成28年7月31日ガンのため歿。61歳。14代目は年寄佐ノ山が継承した。

 
「出番前」像
 玄関前にある。本場所、肩に浴衣をかけ腕組みしている千代の富士の銅の胸像。小張隆雄の作品。
千代の富像は、他に北海道福島町の記念館、玉林寺にある。

   
出を待つ

 14代目
 13代目逝去に伴い、部屋付の佐ノ山親方(元大関千代大海)が継承。 
  


■餡無しどらやきの「みよし」 廃業しちゃった!
 石原4丁目24番5号にあった甘納豆屋。「みよしのどらやきの皮は美味しい」ということで始め
た「あんなしどらやき」が一番の人気商品だった。バター、ヨーグルト、マヨネーズなど好みのもの
を付けて食べるのが通なんでい。
 平成20年12月31日諸般の事情により廃業。跡地はマンションになってしまった。
 


報恩寺橋児童遊園
 石原4丁目28番2号にある区立公園。


■錦糸中学校
 (平成29年竪川中学校と統合予定 見送り
 石原4丁目33番14号にある区立校。昭和28年7月1日設置が決定。同29年「東京都墨田区
立錦糸中学校」として開校。同45年創立15周年記念式典。同47年体育館完成。同49年校舎改
築第一期工事完了。同50年校舎改築第二期工事完了。落成式と創立20周年記念式典。同51年プ
ール完成。校庭舗装。

 校歌「清らな朝の」 作詞・  作曲・
  1.清かな朝の風に乗り
    清らに響く鐘の音に
    胸澄み渡り いざ歌え
    調べを合わせ いざ歌え
    輝く希望 高らかに
  2.隅田の河面緩やかに
    青海原に流れ入る
    きららな光 踊り立ち
    喜びここに踊りやち
    豊かな夢を運ぶ波
  3.翳ぬ若い瞳上げ
    仰ぐ大空 雲は行く
    遥かな理想 追い求め
    花さく行手 望む者
    栄えよ錦糸中学校
  


■屋敷稲荷

 石原4丁目35番15号の田中家にある。塀越しに鳥居と社の頭が見える。 


■墨田電話局の慰霊碑

 
石原4丁目36番1号にあるNTT石原ビルの建物の前に白い慰霊碑が立っている。昭和33年3
月10日に建立されたこの碑は、大空襲の夜に業火の中で最後まで電話交換の職務を遂行した殉職者
を慰霊している。時の電話交換手は主に10~20代の若い女性だったが、爆撃下でも重要な通信施
設を守り抜くよう軍から要請されていたため、周囲が火に包まれても職場を放棄せず、最後までブレ
ストと呼ばれる送受器を握り続けた。

   
慰 霊

 説明版にはこう書かれている。

   この慰霊碑は、昭和20年3月10日未明の大空襲により当地一帯が焼け野原と化した際、
   電話局も全焼し前夜から勤務していた15歳を最年少とする電話交換手28名及び男子職
   員3名が最後まで職場を守り殉職された。職員の霊と、関東大震災において殉職された男
   子職員2名の霊を慰めるとともに、二度とこのような悲劇の起こらないことを祈願して、
   昭和33年3月10日に建立されました。慰霊碑右手前には吉川英治氏の自筆による碑文
   があります。
   昭和59年年3月10日                        墨田電話局


 吉川英治の碑文は次の通り。

   春秋の歩み文化の進展はその早さその恩恵に馴るゝ侭(まま)つい吾人(ごじん)をして過
   去の尊いものをも忘れしむる こゝ百尺の浄地ハ 大正十二年九月一日関東大震災殉職者
   二名と また過ぐる昭和二十年三月九日夜半における大戦の大空襲下に 国を愛する清純
   と自らの使命の為 ブレストも身に離たず 劫火のうちに相擁して仆(たお)れた主事以
   下の男職員三名 ならびに女子交換手二十八名が その崇高な殉職の死を 永遠となした
   跡である 当時の墨田分局 いま復興を一新して その竣工の慶を茲(ここ)に見るの日
    想いをまた春草の下に垂れて かっての可憐なる女らや ほか諸霊にたいし 痛惜の悼
   みを新たにそゝがずにいられない 人々よ 日常機縁の間 ふとここに佇む折もあらば 
   また何とぞ 一顧の歴史と 寸時の祈念とを惜しませ給うな
                                    吉川英治 謹撰


 その脇の石碑に、生き残った元職員の富沢きみが84歳の時に書いた、


   平和の尊さを おろそかにしてはなりません 
   そして 世界の平和こそが 最大 最高の幸につながる事を


 
との言葉が刻まれている。昭和20年3月9日夜の空襲で中央電話局墨田分局の殉職した交換手た
ち31人の慰霊のために、富沢が一人奔走して日本電電が建てたものだ。

   
殉職者御芳名
   小浜三郎 徳田義雄 石井善治 岩下久子 岩上冨美 長谷川愛子 大滝シメ 渡辺綾子
   川島とし子 金子千枝子 横川トシ 竹野下礼子 高石トミ 高士和子 中山ちよ 成田
   美恵子 内山孝子 上田清子 野崎銀子 山ノ井笑子 鞠子初江 町田春江 松本三郎 
   増田正子 江口節子 真田あさの 佐藤トメ 坂部和江 春藤来太郎 城山文子 森尻ふ
   み子 鈴木房子 須藤マサ江
 


■カトリック本所教会

 
石原4丁目37番2号にある。

   カトリック本所教会
   本所教会は、明治12年4月、東京では築地、神田、浅草に続き4番目に建てられたカト
   リック教会です。
   パリ外国宣教会のフランス人司祭によって、旗本屋敷跡(現在地)に、日本二十六聖人へ
   捧げる教会として建てられ、創設時からパリ外国宣教会の司祭が着任していたが、明治3
   8)日露戦争講和条約に反対する暴徒による焼き討ちによって聖堂を失いました。
   明治39年から日本人司祭が着任・宣教することになったが、大正12年9月1日の関東
   大震災と、昭和20年3月10日の太平洋戦争・東京大空襲をうけ3度に亘り聖堂などを
   焼失しました。
   戦後、昭和26年6月24日に、現在の聖堂が完成し献堂式が行なわれました。
   そして、成22年2月7日には新司祭館・信徒会館が竣工し今日に至っています。

   カトリック本所教会 保護の聖人 日本二十六聖人
   天文十八年七月二十二日(1549年8月15日)聖フランシスコ・ザビエルは日本にカ
   トリックの教えを伝えるため、鹿児島に上陸した。
   慶長元年十二月十九日(1597年2月5日)キリシタン禁止令により長崎西坂において
   26人の信者が殉教した。江戸に初めてカトリックの聖堂が建てられたのは慶長四年(1
   599)関ヶ原の戦いの1年前だった、慶長十八年(1613)慶長の禁止令によって取
   り壊された。元和九年十月十三日(1623年十二月四日)には、芝札の辻で江戸の大殉
   教があり、以後240年間、徳川幕府によってキリスト教は禁止され、迫害が続けられた。
   文久二年(1862)26人の殉教者は、ローマ教皇により、日本二十六聖人として聖人
   に列せられた。カトリック本所教会は、日本二十六聖人を保護の聖人として捧げられた教
   会である。


 ※ザビエルがキリスト教の布教に来たというのは、表向きのことで、真実の目的は日本占領、つま
り植民地化が目的だった。しかしそれを果たすことはできなかった。「日本人のレベルが高すぎるの
で、占領は難しい」とイエズス会に報告書を送っている。イエズス会は表向きはキリスト教の一組織
だが、悪事を働く秘密結社でもある。
 鎖国政策を悪くいうのは明治以後のことで、徳川家康に鎖国を決意させたのは、実はイエズス会の
悪心だ。「島原の乱」は、イエズス会が「領土的野心はない」と言明していながら土地所有を行った
ために起こったもので、国の将来を危惧した結果だ。当時、悪意ある南蛮人を追っ払うことは必要不
可欠のことだった。しかし彼らは再びやってきた。それが明治維新だ。
 「鉄砲伝来」と、何か正しい文明の到来のように学校では習うが、実は武器売買だった。つまり彼
らキリシタンバテレンは「死の商人」だったって訳さ。鉄砲がもたらされて戦国時代はドンパチ戦争
となった。戦国大名は先を争うて鉄砲を買い漁った。鉄砲を有効に利用するためには弾が要る。その
元は硝石だ。初め、その代価は銅だったが、それが枯渇すると、その代価は若い娘になっていった。
天正の少年使節がヨーロッパを巡って帰国し、その報告書に、日本人の娘が道に溢れ、売春をさせら
れていると報告している。その数50万人になんなんとすると。ザビエルが聖人なのは日本において
だけである。インドでも、その悪行の数々は枚挙に暇がない。
 26人が処刑された裏にはそんな事情があるのだ。
 因みにザビエルは、ご他聞に漏れずユダヤ人で、ユダヤ教徒だ。さらにいうなら、キリスト教とユ
ダヤ教は同根で、2、3世紀にローマで作られたもので、新約聖書も、旧約聖書も書いたのは同一人
物というか、同一家族で、イエス・キリスト(ジーザス・クライスト)は、ナザレのイエスをモデル
にしたのだが、創作人物だ。因みにナザレのイエスはヒンズー教徒だ。だから聖書というのは小説の
ようなものだ。キリスト教の後ろにユダヤ教があり、ユダヤ教の後ろにイルミナティ(悪魔教)があ
る。イルミナティを構成するのがアシュケナージ・ユダヤで、かくて世界を支配するのが国際金融資
本という訳だ。ロスチャイルド、ロックフェラー、デュポン、モルガン、ハリマンなどといったメン
バーだ。人類が本当の幸せを掴むためには、アシュケナージを殲滅しなければならないが、手っ取り
早いのは、ロスチャイルド一族を比叡山に入れて千日行を踏ませれば、革命や戦争はなくなってしま
う。つまりロスチャイルドを、最も日本人的な日本人にしてしまうことが、世界平和への最もの近道
だよ。
 ロスチャイルドの願望は、千年王国だ。ところが日本は既に二千年王国だ。ロスチャイルドがどれ
だけちっちぇえか判るだろ。日本の中枢に朝鮮人が多いのは、奴等の差し金さ。

 では「明治維新」が何故起きたか教えよう。幕末に突然外国船がやってきたのは何故だと思う? 
ロスチャイルドは、ユダヤ人を以てフランス革命を起こしてブルボン朝の莫大な財産を奪い取ると、
イギリスは名誉革命を以てイギリス王家そのものをユダヤ人のものとした。現在、「ザ・シティ」と
いう特別地区を有して、イギリス政府にも手を出させない。現在のイギリス王家はオレンジ公ウィリ
アムの系統でダン族(ユダヤ人)だ。マーガレット女王の肖像画、手にしているのは蛇だ。蛇はダン
族のシンボルマークという訳だ。西欧の王家は概ねオレンジ公の血筋で、ユダヤ人でない王家は総て
滅ぼされてしまっている。そしてロスチャイルドが欲して止まないのが、ロシア帝国ロマノフ王朝の
財産だ。結論からいうと1兆ドルともいわれるロマノフ家の財産はロスチャイルトが管理(所有)し
ているが、不思議なことに、ソ連政府も、現在のロシア政府も返還要求はしていない。
 ロスチャイルドと明治維新の間に何の関係があるのか? と思うかい。
 ロスチャイルドにとってロマノフ朝を倒すのに厄介なものは強大なロシア軍とバルチック艦隊だ。
これを何とか排除するために思いついたのが、日本の軍事大国化だ。つまり日本をロシアの脅威に仕
立てあげることだ。そのためには日本の鎖国政策を転換させなければならない。かくて外国船は派遣
されたのだ。しかし日本はおいそれと開国しはしない。そこで登場するのがジャーディン・マセソン
商会だ。これはジャーディンとマセソン2人の拵えた会社だが、東インド会社の分社だ。東インド会
社ロスチャイルドの会社で、当然ジャーディン・マセソン商会もロスチャイルどの息のかかった会社
だ。ではこの会社は何をやったのか? 『アヘン戦争』というのをご存知だと思うが、清国に麻薬を
持ち込んで清国をガタガタにした会社だ。この会社のエージェントにトーマス・グラバーというした
たか者がいた。彼はスコットランドのユダヤ人で、フリーメイソン。ロスチャイルドの指令を受けて
日本を開国するために7800挺のゲベール銃を持ってやってきた。彼は長崎に居を置くと、坂本龍
馬を手先として、反幕的不平分子を唆していく。しかし開国の癌となったのが〝最後の天皇〟孝明天
皇で、グラバーは長州藩に孝明天皇弑逆を唆嗾する。実行犯き朝鮮人林利助だ。彼はその功績で伊藤
俊助博文と名乗り、長州藩では下忍(下級武士)の分際でありながら、頭角を現していく。
 孝明天皇に代わる新天皇に、長州熊毛郡田布施の朝鮮人地家寅吉を、南朝の末裔という大室寅助に
摩り替えて大室寅之祐とし、これを明治天皇に仕立て上げる。
 かくてグラバーは龍馬を以て反幕勢力を作り上げると、ロスチャイルドお得意の「革命」を起すこ
とになる。ところが能天気な龍馬は突然、土佐藩のために「大政奉還」を考えた。怒ったグラバーは
龍馬暗殺指令を大久保利通に発する。かくて龍馬は暗殺される。
 徳川慶喜は大政を奉還し、この中途半端な革命は、明治革命と命名されることなく、明治維新と命
名された。維新は「これあらたなり」と読んで「ここに新しくなった」「今新しくなった」の意だ。
 新政府が樹立されると、ロスチャイルドは矢継ぎ早に人を送り込んで、性急に日本を軍事大国化し
ロシアの脅威を作り上げていく。朝鮮併合もロスチャイルドの唆しだ。日本の北進策を強調するため
だ。日清戦争で日本が大国清国に勝ったのはロスチャイルドの演出だし、ロシアへのこれ見よがしの
脅威策だ。かくてロシアは南下策を画策する。ロスチャイルドの思う壺だ。日英同盟、これこそロス
チャイルドと明治政府の合体の証しだ。日露戦争はロシア軍をロマノフ家から遠ざける茶番劇。日本
はロシア革命の当て馬にされたのだ。日本の勝利はロスチャイルドの絶大なる支援の賜物たのだ。バ
ルチック艦隊がスエズ運河を通して貰えなかったのも、ロスチャイルドの差し金だ。
 ロスチャイルドは、それまでに150万人のユダヤ人を移住させて、不平不満を掻き立てる。フラ
ンス革命の時のスローガンは「自由主義」だ。ロシア革命のスローガンは「共産主義」だ。フランス
革命の立役者たち、乃ちマーラー、ダントン、ロベスビエールらは総てユダヤ人で、イルミナティつ
まり光明教の信者だ。共産主義とはイルミナティの教義であり、いうならばシュメール文明に原点が
ある。マルクス、レーニン、スターリン、ロシア革命の立役者たちもまたユダヤ人たちなのだ。ソ連
政府の幹部150人の内、純粋なロシア人はたった3人だったという。多くのロシア人、4000万
人もが虐殺されたという。まさにホロコーストだ。多くのロシア人は国外に逃れ「白系ロシア人」と
なった。ロシア革命に金を注ぎ込んだのはロスチャイルドもさりながら、ハリマンやロックフェラー
などのユダヤ資本家たちだ。かくてロマノフ家は末端の親族に至るまで鏖殺され、言葉通り根絶やし
された。何故か、それは後々血の繋がりのある者から返還訴訟を起こされないためだ。アナスタシア
という生き残りを主張する女性が裁判を起こしたが死ぬ前に判決は出されず、ロスチャイルドの息の
下の裁判官は「アナスタシアにはロマノフ家の血の繋がりはない」と結論した。またイギリス国立銀
行は「ロマノフ家の預金は総て最後の皇帝ニコライによって引き出され、全額戦費に費やされ、資産
というものは、限りなく0に近かった」と発表した。英国国立銀行もまたロスチャイルドの息の下に
ある。

 太平洋戦争というのは、強大化し過ぎて手に余るようになった日本軍を弱体化させるためのユダヤ
資本の策略だ。太平洋戦争は敗戦だったのではなく、負けるべく仕組まれた路線で、多くの日本人が
アメリカに情報を垂れ流していた。原爆の資料をせっせとアメリカに送った功績で、ノーベル賞を与
えられたのは彼の湯川秀樹だ。ジャーディン・マセソン商会の日本支社長に任じたのが吉田健三で彼
は吉田茂の養父だ。吉田茂が麻生多賀吉と共に天皇のスバイとなって中国で麻薬を扱っていたのも首
肯できるだろう。日本共産党を作ったのは明治天皇で、野坂参三は天皇のスバイだった。野坂も明治
天皇と同じ田布施の出身だ。虎ノ門事件で昭和天皇を狙撃した難波大輔も、安倍晋三の祖父、阿部源
基も、岸信介、佐藤栄作、共産党の宮本顕治も、菅直人も、みんな田布施の出身で、こういった環境
を「田布施システム」といい、その中心となる秘密結社を「長州黒手組」という。その親玉が安倍晋
三で、莫大な資金をスイスの銀行に預けている。スイスの銀行もまたユダヤの銀行だ。
 日本の戦後復興を奇跡というなかれ、第2次世界大戦は打ち合わせの戦争で、日本は負けることを
予め承知していたし、天皇は広島と長崎に原爆が落とされることも承知していた。そのい意を受けて
山本五十六は勝てる戦争を勝とうとしなかったし、撃墜死したことにして逃げ延び、最期はドイツで
死んだという。しかし日本はあれだけ空爆を受けたかに見えたが、実は肝心要の施設は破壊しておら
ず、多くの国が賠償を求めたが、ユダヤはそれを放棄させた。マッカーサーが天皇の戦争責任を問う
ことがなかったのは、イギリス国王からの指示があったためだ。

 ヨーロッパ戦線の不思議を教えよう。
 連合軍指令官アイゼンハワーは、その前職はマッカーサー軍の事務職で大佐だった。大佐がいきな
り連合軍指令官だぜ。戦歴もない事務軍人。おかしいだろう。そして連合軍はまか不思議な行動に出
る。北アフリカ戦線でたった10000人のロンメル軍と対峙して日々を安穏に過ごすのだ。戦闘は
する。何故だ? 武器を消耗するためだ。武器商人たちは大儲けだ。オナシスに至っては、彼もユダ
ヤ人だが、ギリシャ船籍の船は当時480隻、内350隻は撃沈された。しかしオナシスの船は一隻
たりとも沈められることはなかった。ナチスドイツに武器弾薬、ガソリンを売り渡しているのにだ。
戦争と革命は、ロスチャイルドをはじめとするユダヤ資本家の金儲けのために行われる。独ソ戦線、
ナチスドイツ軍とソ連軍は、ハリマン、ロックフェラーから売り込まれた武器、つまり双方同じ武器
を使って戦闘を繰り返していたのだ。そしてやっと3年半経って、ドイツ攻撃を開始する。ノルマン
ディー作戦、これで本腰を入れて戦わねばならない時になって、反逆者のレッテル貼ってロンメルを
最前線から下げてしまう。ヒットラーはあえて負ける戦争をするのだ。ヒットラーも、スターリンも
ロスチャイルドの庶子だ。総てが茶番劇なのだ。ヒットラーは生きながらえてアルゼンチンで死ぬ。
その子孫はアメリカに60家族あるという。

 慰安婦問題、もし日本軍が関与していたとするなら、何故、満州や中国では起きなかったのか? 
朝鮮人の売春婦は確かにいた。しかしそれは自由意志だ。今、世界各国で韓国女性の売春が大問題と
なっている。平成19年売春禁止法が施行されるまで、韓国では売春は自由だった。「韓国人の売春
は国技」と揶揄される始末だ。彼女たちが自由でした証拠は、彼女たちの仕送りで実家は潤い、家を
建てる者さえ何人もいた。とにかく彼女たちが稼ぎを貯めた預金通帳が残っている。当時の日本の一
般家庭の貯金からすれば、信じられない巨額だ。
 両班(リャンパン)と白丁(パクチョン)、それにWHO認める国民病「火病(ファビョン)」、
もし歴史認識を新たにするとするならば、韓国国民は大恥をかくことになる。中国の属国だった80
0年の歴史を白日の下に曝したら、韓国はどうなるのか、解って大口を叩いているのだろうか。彼ら
がどう抗おうと韓国を近代化したのは日本であり、日本の税金と投資を以て行われたことだけは事実
だ。恩を着せようとは思わない。なら歴史認識を新たにするのはどっちだ。日本は在日コリアンを差
別することなく、総理大臣にもしてるし、国会議員は7分の1になんなんとする。公務員も在日を多
く雇っているし、芸能人に至っては99%を占めている。統一教会、創価学会はその殆どが在日で、
それを許している寛大さがある。犯罪者の多くが在日コリアン、朝鮮人、韓国人だが、本名で報道せ
ず、通名にしてやってるではないか。もし日本が実名報道に徹したら、在日コリアンに対して、亀戸
事件のような暴動が起きるだろう。日本が侵略したようにみえることは、総てロスチャイルドのシナ
リオで、日本の責任ではない。南北に朝鮮が分かれているのもユダヤにとって必要なことで、日本に
米軍が居直り続けるための措置なのだ。

 戦後、日本に100万近い朝鮮人・韓国人が移住して来た。その殆どが王道楽土の日本に憧れて来
た善良な人々だ。だがしかしこの人々の中に、工作員と称するロスチャイルドの手の者が、イルミナ
ティ、フリーメイソン、オプスデイ、イエズス会、スカルアンドボーンズ、黒い貴族、KKKなどの
秘密結社の指令を受けて暗躍しているという。北朝鮮の拉致問題もCIAが関与しているという説も
ある。北朝鮮は好き勝手なことをやってるやに見えるが、実はイスラエルに操られている。もし北朝
鮮が単独であんなことをしていたら、今頃国家として存在してはいない。金正恩はフセインのように
殺されてるよ。彼はユダヤの指示通りに動いているだけだ。
 やがて日本は原発が次々に爆発し、全土が汚染されて人が住めなくなり、日本国家は消滅する。そ
れから100年後、半減期を過ぎた日本の跡地に、ユダヤ人だけが移住してき、ユダヤの千年王国が
建国される。その頃、日本民族は世界の流浪の民となっている。千年王国はロスチャイルドの夢だ。
 
 



【押上】(おしあげ)1~3丁目                 最終昭和40年7月1日
 押上村。明治11年「郡区町村編制法」により南葛飾郡所属。同22年「市制町村制」により本
所区編入。同24年向島須崎町・向島請地町・向島押上町・柳島元町・中ノ郷業平町・押上町に分
散。昭和39年7月1日向島中ノ郷町と向島押上町の全部、小梅1丁目・向島請地町・吾嬬町西1
~2丁目・寺島町4丁目の各一部をあわせて現行の「押上1~2丁目」とし、同40年寺島町4丁
目・吾嬬町西1丁目の各一部を二丁目に編入、吾嬬町西1・2丁目の各一部をあわせた町域を現行
の「押上3丁目」とした。飛地が亀戸村内にあったが現在は亀戸1~2丁目になっている。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『墨田区史』『墨田の歴史』など。

 
押上の由来 発見
 村域は北十間川の南北に位置するが村名の由来は判らない。何かが押し上がったか、何かを押し
上げたかだが、そこが問題だ。『江戸東京地名辞典』は「何らかの事由で土砂が押し上げられ堆積
した土地をいったものではなかろうか」と説明しているが、地形的には江東デルタの一部で褶曲に
よる盛り上がりは見られない。
                     *
 
と書いて、平成18年3月ブラリと自転車散策をしてたら、業平の押上天祖神社の裏手に
出た。通り過ぎようかと思ったが、それは「礼を欠くなぁ」と思い直してお参りしたら、そ
の曰く因縁が「洪水の時にご神体が押し上げられたので、村人がそれを祀って村の鎮守とし
た」という。押し上げられたのは神様なんだよ。大発見、大発見。犬も歩けば棒に当たるぜ。
 


■生コンクリート工場発祥の地 1度撤去
 押上1丁目1番にある。
未利用地がたくさんある中で、京成橋に向かい合う京成電鉄本社ビルの西
側に複数の生コンクリート工場がならんでいる。その一つが東京エスオーシー で、その工場の道路に
面した側に発祥碑が建っている。

   生コンクリート工場発祥の地
   昭和24年11月、当社の前身である磐城コンクリート工業株式会社が、当地で我が国初
   めての生コンクリート工場の操業を開始しました。
   東京エスオーシー株式会社 業平橋工場 50周年記念
   平成11年11月
   強度150N/mm2のコンクリートで作成しました。


 生コンクリートは「レディーミクストコンクリート」のことで、「レミコン」とも呼ばれるが、通
常は「生コン」と略称される。
 かつてコンクリートは、建築現場でセメント・砂・水を混ぜて作っていたが、磐城セメント(株)〔現
在の住友大阪セメント(株)〕が、昭和24年に東京コンクリー工業(株)を設立し工場でセメントの製
造を行ない、専用の運搬車で建築現場に運搬する、いわゆる 生コンクリートの工場生産が始まった。
初期にはダンプカーで運搬していたが、運搬途中に生コンの分離が起こるため現場で練り直すなどの
手間をかけていた。 その後現在使われているミキサー車が開発されて、昭和27年ごろから使用され
るようになり、生コンが急速に普及した。

 東京エスオーシー
 関東スミセ生コンと関東大阪生コンクリートの営業を譲り受け、住友大阪セメント株式会社の直系
生コンメーカーとして平成9年4月1日に発足した。芝浦工場と業平橋工場の2工場を有しており、
芝浦工場は、関東スミセ生コン株式会社の主力工場である深川工場と関東大阪生コンクリート株式会
社の主力工場である芝浦工場を集約化し、6000㍑の最新設備を備えた都心部への供給拠点工場で、
業平橋工場は、日本初の生コン工場として昭和24年に操業し、50年以上もの歴史ある工場として
実績を積み重ねた、主として東京の東部地区の供給工場だ。東京エスオーシーは、首都圏における住
友大阪セメントの生コン事業の中核をなしている。
 で、この辺りに「第二東京タワー」が建つってえと、この工場も何れは移転を迫られるわなぁ。

 平成19年10月業平橋工場閉鎖に伴い碑は
撤去保管された。

 再設置 銘文変更
 平成24年5月18日間もなく東京スカイツリー開業というこの日、撤去保管されていた発祥の地
碑が、再設置された。この碑は、住友大阪セメントが、昭和24年に東武鉄道業平橋駅構内に設立し
た日本初の生コンクリート工場を記念し、工場の操業50周年に当たる平成11年11月に建立した
ものだ。同工場は、東京スカイツリー建設のため、平成19年10月に閉鎖、記念碑も一時的に移設
保管していたが、東京スカイツリーの完成により、旧の位置に近い、ソラマチのある建物の南側に再
設置された。再設置はしたが、銘文が替わった。如何に記載する。

   この碑は東京エスオーシー株式会社が50周年記念として平成11年11月に業平橋工場
   にて、強度150N/m㎡ のコンクリートで作成・設置していたものを、東京スカイツリ
   ー建設にあたり、再設置したものである。

   生コンクリート工場発祥の地
   戦後、わが国のセメントが統制下にあった時代、昭和24年11月この地に日本で初めて
   の生コンクリート製造会社が創業されました。
   それまでの施工方法に比べ、簡便で工事費が安価であることから、生コンクリートは道路
   ・軌道工事を中心に急遽広まり、わが国の高度成長期を支えてきました。ここに生コンク
   リートの発祥の地を記念するとともに、今後も社会基盤を支えていくことを願い、記念碑
   を建立いたします。                   住友大阪セメント株式会社
                               東京エスオーシー株式会社
                                    平成24年5月
 


 新東京タワー
第二東京タワー計画決定
 デジタル放送に完全移行する平成23年完成を目指してNHKと民放5局がプロジェクトを構築、
東京タワーでは対応不可能な電波障害を解消し、平成18年4月1日から開始の地上デジタル放送の
目玉となる携帯端末向け放送(1セグ)の直接受信環境を整える。予定地


   1丁目1番~10番(2~8番欠番)東武伊勢崎線業平橋駅南の東武鉄道所有地。

 東武も参画する。元々第一候補だったが、平成18年3月25日決定した。
 完成すれば高さ610m、カナダトロントのCNタワー553mを抜いてトップとなる。展望台は
350mと450mというから低いほうでも東京タワーの先端より高い。東京の大観望だ。完成した
ら六本木ヒルズどころじゃない。世界中からの観光客がどっと墨田区へ押し寄せる・・・向島は大都
会になっちまうぜ!
 ということは、今から考えとけよ。商機到来だ!。展望台から富士山だって見えるんだ。まず不動
産、土地の値上がりは必至だ。駐車場が足らなくなる。次は食い物関係だ。神社仏閣、観光施設、文
化財の周辺整備、それから泥棒空き巣狙いが急増する。向島のサクラ、両国の花火の季節には人と車
が大挙押し寄せて身動きならなくなる。静けさを堪能するなら、今のうちだぞ。周辺も見逃せない。
浅草周辺は爆発するだろう。荒川・葛飾・江東の3区、さらに将来は足立・江戸川へと広がる。恩恵
がないのが西半16区だ。


 1セグ(ワンセグ)
 地上デジタル放送のモバイル機器向け放送のこと。地上デジタル放送の番組が、携帯電話などを使っ
て、外出先・通勤途中で楽しめるサービスだ。1セグメント放送、1セグ放送ともいう。平成18年
4月1日から放送開始。地上デジタル放送では、一つのチャンネルが13セグメントに分かれた構造
になっている。その内ハイビジョン放送(HDTV)では12セグメント、標準画質の放送(SDT
V)では4セグメント割り当てられている。モバイル機器(主に携帯電話)向けは画面が小さく低画
質・低音質でよいため、1セグメントが割り当てられているところから、「1セグメント放送」と呼
ばれる。しかし同17年9月末「1セグメント放送」から、正式に「ワンセグ」というサービス名称
に決定、持ち運びできる新しいメディアとして期待される。

 
ワンセグモバイル
 通常のテレビとの違いは、移動しながらでもテレビ映像が乱れずに受信できることだ。また地上デ
ジタル放送と同じく、番組に関する情報を配信するデータ放送もある。番組はサイマル放送。通常画
質やハイビジョン放送の番組を携帯電話向けに流すように定められてる。ニュースや天気予報が主に
視聴されそうだ。将来サイマル放送がなくなり、ワンセグ専用のドラマの放映も可能性としてはある。
NHK朝の連続テレビ小説のような短時間ドラマなんぞいいかもしれない。受信する機器は主にケー
タイだ。ケータイでワンセグを受信できるよう各携帯電話会社・各メーカーが開発中です。iPod
などの音楽プレーヤー、ゲーム機などでも受信できるようになる。そしてこれら受信する機器を通称
「ワンセグモバイル」と呼ぶ。
 


新東京タワーデザイン決定!
 平成18年11月24日「新東京タワー」の事業主体である東武鉄道<9001>と同社が全額出資
する新東京タワー(東京都墨田区、宮杉欣也社長)が、新タワーのデザイン案を発表した。デザイン
監修は、元東京芸術大学学長で彫刻家の澄川喜一と、建築家で東京大学名誉教授の安藤忠雄が手がけ
た。東武鉄道は「地域とともに活力のある街づくりに貢献」をはじめとする、新タワーの3つの基本
理念に沿った人選だとしている。基本設計は日建設計に委託するそうだ。
 新タワーは首都圏の地上デジタル放送用電波塔。高さは従来の計画通り地上610mで、日本刀や
伝統的な日本建築にみられる緩やかな曲線「そり」と「むくり」を意識し、タワーの頂上から足元に
向かって連続的に変化するデザインとした。展望台も計画通り地上350mと450mの2ヶ所に設
ける。また足元部分を三角形で構成することで、周辺への圧迫感に配慮しつつタワーの安定が得られ
るように工夫した。
 デザインコンセプトは、時空を超えた都市景観の創造・まちの活性化への起爆剤・都市防災「安全
と安心」への貢献──の3点。日本の伝統美と近未来的デザインの融合や、新タワー周辺地域の活性
化、耐震性や耐風性に優れた構造などを目指している。
 同デザイン案は建築家の安藤忠雄と彫刻家の澄川喜一(元東京芸大学長)が監修した。東武と新東
京タワーでは、両社が7月に行ったアンケート結果も2人と設計を担当した日建設計(東京都千代田
区、中村光男社長)に伝えたという。
 アンケート結果(応募総数5079人)によると、「新タワーに求めるもの」は「景観との調和」
が3281人でトップ。「デザインのモチーフ」は「未来的」「日本的」といった項目に票が集まっ
た。「新タワー周辺に欲しい施設」では「ショッピングモール」、「美術館・博物館・水族館」を望
む声が多かった。東武と新東京タワーは今後、平成18年度中に基本設計を終え、同19年度に実施
設計、同20年度に着工し、地上波放送がデジタル放送へ完全移行する同23年度中の開業を目指す。
 5年後人は墨田区に動く。六本木ヒルズは過去の遺物となって閑古鳥がなく。商機を動かす者が勝
利者だ。六本木への未練を断ち切って、上野・浅草・新タワーだ!
 


■新東京タワーの名称6候補が決定
 平成20年3月19日東武鉄道と新東京タワーは、同年1月から建設を開始した「第二東京タワー
(新東京タワー)」の6つの名称候補を発表した。4月1日から5月30日まで、インターネットや
はがきで全国から投票を受け付け、6月に正式に決定する。名称案は昨年10~11月に募集。18
606件の中から、有識者らで作る検討委員会が以下の6候補に絞った。
   東京EDOタワー
   東京スカイツリー
   みらいタワー
   ゆめみやぐら
   ライジングイーストタワー
   ライジングタワー
 


東京スカイツリー

 新東京タワーの名称が「東京スカイツリー」に決定
 押上1丁目1番1号。平成20年6月10日東武鉄道は同24年に開業予定の地上デジタル放送用
タワーの名称が、投票の結果「東京スカイツリー」に決まったと発表した。得票数は、東京スカイツ
リー(32699票)次点は東京EDOタワー(31185票)。以下ライジングタワー(1553
9票)・ゆめみやぐら(9942票)・ライジングイーストタワー(6426票)。
 決定した名称について、東武タワースカイツリーの宮杉欣也社長は「空に向かって伸びる大きな木
をイメージした名前。ツリー(木)のそばに人々が集まり、心を寄せ合う豊かなコミニュティを形成し
たい。日立製作所のCМで〝この木なんの木、気になる木♪〟というものがあるが、あの木のような
存在をイメージして欲しい」と名前に込められた願いを語った。
 なお総投票数110419票(有効投票109706票)の男女比は、男性が53.4%、女性が4
4.9%、不明が1.7%。新タワー名称検討委員会の一員で、作詞家の阿木耀子は、

   こうした投票で、男性の比率が多いのは珍しいこと。決定したスカイツリーという名前
   をこうして改めて見ると、〝やっぱりこれだったんだ〟という思い


 と感想を述べたとか。


■29年前の予言?

 墨田区の小学生が29年前に描いた「未来の墨田」の絵に、区内で建設が進む「東京スカイツリー」
(高さ約610メートル)のようなタワーが描かれていたことが判った。複数の子どもの合作とみら
れ、同区は未来図をズバリ的中させた想像力の持ち主を探している。
 絵は昭和54年11月区が国際児童年を記念して開いた「子ども会大会」で、「未来の墨田―21
世紀の私たちの町をえがこう」というテーマで企画した作品展の応募作。翌55年に策定された「区
基本構想」の概要版パンフレットの表紙にも採用された。絵には、実際の建設地から約2.7km北の
東武伊勢崎線鐘ヶ淵駅近くの未来の姿が描かれている。飛行場や街を行き交うモノレール、建ち並ぶ
団地、プラスチックやゴム工場――。細部まで緻密に描かれた未来の街の真ん中に4本の長い脚で支
えられたロケット様のタワーが聳え立ち、大きく「墨田タワー」と書かれている。
 実は、この絵が再び脚光を浴びたのは平成17年11月、同区が25年ぶりに基本構想を改定した
際、職員が古いパンフレットを見つけたことがきっかけだった。区は当時、新タワーの誘致合戦を繰
り広げていたため、「誘致成功を予言した絵。縁起がいい」と話題になった。作者の手がかりは古い
資料にもなく、唯一得られたのは「複数の児童による合作だったと思う」という、かつての担当者の
おぼろげな記憶だけ。区長は「3年後のスカイツリー完成まで、諦めずに探したい。絵に見覚えのあ
る人はご一報を」と話している。

 判明
 29年前に東京スカイツリーのような長い4本足の「墨田タワー」を描いた元少年たちが名乗り出
た。〝予言〟を残した小学生の一人は既にこの世になく、両親は息子の残していた贈り物に感無量の
様子だったという。埼玉県秩父市の池田嚆八(こうはち 75歳)が約3年間に亘って管理人を務め
たマンションは、墨田5丁目の都営団地前に現在もある。絵の右上に、マンションの姿もしっかり描
かれている。区の広報誌で、子供の絵の募集記事を読んだ池田が、「未来の町を描いてみない?」と
仲良くなった子供たちにペンと模造紙を渡した。「テレビゲームが普及する前の子供たちは、面白い
変わったことがあると夢中になってやった」と笑う。29年の歳月を超えて、薄れゆく記憶をたぐり
寄せたのは、絵に刻まれた街の姿だった。「昨年暮れ、テレビであの絵を見て『あれ?』と思い、区
役所に(自分の絵ではないかと)電話した」。埼玉県越谷市の西田裕延(41歳)の脳裏には、鐘ヶ
淵駅と電車を描いた記憶がおぼろげに浮かんでいた。決め手は、駅のガード下に描かれた「あけぼの
書店」の看板。一緒に描いた親友岡田順二の両親が経営していた店だ。「あけぼの書店」は平成20
年までの55年間、同駅近くで営業していた。両親の岡田正男(75)と美江子(69)は、順二の
遺影と共に山崎昇区長を訪ねた。順二はネパールで教師になるのが夢だったといい、勉強しながら北
海道のスキー場で働いていた平成13年、バイク事故で命を落とした。「順二は絵が好きでした。生
きていれば自分で描いたかどうか分かるのですが、西田君が『一緒に描いた』と言うので」。そう語
ると、正男さんはいとおしそうにじっと絵を見つめていた。(読売新聞の記事より)
 

 全高
 平成23年の完成時点で、自立式鉄塔としては、キエフテレビタワーの385mを上回る世界第1
位。自立式建築物としては建設中の広州テレビ・観光塔の610mを上回り、ブルジュ・ドバイの8
18mに次ぐ世界第2位となる予定。都心部で立ち並ぶ200m級の超高層ビルの影響を受けない高
さとして、NHKと在京民放キー局5社が「600m」という数字を要請した。建設計画を策定する
中で当時世界一の高さであったカナダ国オンタリオ州トロントにあるCNタワーを上回る高さとして
アメリカのシカゴに建設予定で、現在凍結中の「シカゴ・スパイア」のアンテナを含めた高さが約2
000フィート(約609.6m)だったため、「610m」という数字になったという。
 構想段階では世界一高い建造物を目指していたが、完成時の高さを非公開にして建設していたブル
ジュ・ハリファ(建設中はブルジュ・ドバイ)が高さ828mで完成した。この高さを超えるように
計画は修正されていないため、世界一高い建造物にはならない予定。
 平成21年10月16日計画を修正し全高634mを目指すことを発表した。数字には「むさし」
「武蔵」の語呂合わせも考慮したとしている。裏には建設中の中国広州テレビ観光塔が同じ610m
であるため、高さ修正をせざるを得ない事情があったとか。検討段階では東京タワーの倍の666m
という数字も出たが、結局「武蔵」に拘って634mに落ち着いた。

 設計概要
 敷地面積 36900㎡(但し タワー+東西街区)。
 高さ 634m。
 構造、鉄骨造り・鉄骨鉄筋コンクリート造り・鉄筋コンクリート造り。
 基礎工法 場所打杭、地中連続壁杭。工期 平成20年7月~同24年2月
 建築主体 東武鉄道株式会社・東武タワースカイツリー株式会社
 設計監理 株式会社日建設計
 施工   株式会社大林組

 カラーデザイン
 周辺の景観との調和および名称やデザインコンセプト「時空を超えた都市景観の創造:日本の伝統
美と近未来的デザインの融合」を考慮したオリジナルカラー「スカイツリーホワイト」だ。但しホワ
イトといっても「純白」ではない。日本の伝統色、最も薄い藍染の色である「藍白(あいじろ)」を
ベースにしたオリジナルカラーだ。スカイツリーホワイトも、白を基調に藍染職人の技法に倣い、タ
ワーの白に青みを加えており、白磁のようにかすかに青みがかった白が、繊細な輝きを放つ。日本の
伝統工芸である藍染において職人の手により作りだされる色からは、タワーの立つ下町に受け継がれ
る職人文化がタワーと出会うことで創造する新たな文化の幕開けを感じさる。「スカイツリーホワイ
ト」を身に纏うタワーは、東京の下町の青い空に映え、時空を超えてより鮮やかに輝いていくことだ
ろう。

 デザインコンセプト
 空に向かって伸びる大きな木をイメージしている。シルエットは、伝統的日本建築などにみられる
「反り」や「起(むく)り」を意識し、大きな木の下に、人々が集い、心を寄せ合う様子を表してい
る。名前そのものから連想される澄んだ空と木々の豊かな緑も「人に地球にやさしい、豊かなコミュ
ニティ」を目指した、この街全体の開発コンセプトを表したもので、タワーの元に環境に優しい街が
生まれ、世界の人々が集い、新しい文化が創造されていく、という願いが込められている。タワーの
足元は三角形となっており、圧迫感の低減や日影等の影響にも配慮している。さらに、頂部に向けて
円形へと変化し、見る角度や眺める場所によって多様な表情を持っている。
 実は、「楚々とした日本女性の和服姿」が基本イメージだということだ。
 

 安全祈願祭
 東武鉄道などは、平成20年7月14日、地上デジタル放送の電波塔として建設する世界最大級の
「東京スカイツリー」の工事に着手、現地で安全祈願祭を行った。設費用は約600億円で12年春
に開業予定。安全祈願祭では、東武鉄道の根津嘉澄社長や放送事業関係者ら約100人が集まり鍬入
れや神事を実施、工事の無事を祈った。その後、区内のホテルで起工式典も開催された。
 

 建設工事
 決定前の平成17年2月には基礎整備工事は始まっていた。同18年4月に正式決定があると、建
設予定地はパネル枠で囲まれ中が覗けないようにされた。無味乾燥な白いパネルの壁。一般国民をバ
カにして跳ね除けるかのように感じさせたが、やがて気づいたのか予定通りだったのか、絵や案内が
描かれた。南側では江戸時代のこの辺りのことや新東京タワーのことが、絵・写真・文で説明された
(現在撤去)。基礎基盤工事が始まり、同21年3月基礎工事完了、直ちにタワー建設、下部構造組
み立て工事が始まった。周辺環境は日に日に変わっているので、見学者は注意が必要。
 同21年4月末で30mほどが建ち上がり、
   6月23日  50m。  7月22日  76m。  7月31日  93m。
   8月 7日 105m。  8月21日 118m。  8月28日 126m。
   9月18日 153m。  9月25日 161m。
  10月 2日 164m。 10月16日 174m。 10月23日 183m。
  10月30日 191m。 11月10日 205m。 11月20日 215m。
  11月27日 224m。 12月 4日 231m。 12月11日 235m。
  12月18日 245m。 12月25日 254m。 12月 7日 231m。
  年末には250mに達した。
 同22年1月20日274m(我が家から初めて確認。11月には見えていたものと思う)。上部
に行くほど鉄骨量は逓減するので、組み立てスピードはアップする。
   1月 8日 264m。  1月15日 274m。  1月22日 281m。
   2月 1日 284m。  2月 5日 289m。  2月10日 291m。
   2月13日 294m。  2月16日 303m。  2月27日 304m。
   3月06日 311m。  3月13日 318m。  3月20日 328m。
   3月29日 338m(東京タワー333m超え)。
   4月10日 349m。  4月24日 358m。  5月 1日 368m。
   5月15日 379m。  5月22日 389m。  5月29日 398m。
   7月30日 408m。  8月14日 418m。  8月21日 428m。
   8月28日 438m。
   9月 4日 448m(エンパイヤーステートビル443m・1454t超え)。
   9月11日 461m(対馬オメガ局電波鉄塔455m超え)。
   9月22日 470m  10月 2日 478m。 10月 9日 488m。
  10月23日 497m(鉄塔部分完了)。
  12月 1日 511m(ゲイン塔とアンテナ部がドッキング)
  12月11日 514m  12月18日 529m  12月25日 539m。
 同23年1月 8日549m。
   1月15日 559m(カナダタワー553m超え)。 1月29日 569m。
   2月 5日 574m   2月12日 584m   2月19日 594m。
   3月 1日 604m(13時29分に601mに達した)
   3月 5日 609m   3月12日 625m
   3月19日 634m(13時34分最高点に達した)
   5月23日 クライミングクレーン4基の解体開始~7月中旬。
 同24年1月29日タワー完成。2月29日付属施設完成。3月2日竣工式・引渡式。

 東武鉄道は2月9日、スカイツリー内の施設の名称や、東武伊勢崎線一部区間に新たに命名する愛
称などを同時に発表。東武関連施設にツリーのネーミングを鏤めることで、グループを挙げて世界一
高い自立式電波塔を東京のランドマークに定着させる考えだ。
 また3月17日からスカイツリー西側の最寄駅、伊勢崎線「業平橋駅」を「とうきょうスカイツリ
ー駅」と改称するほか、同線の浅草・押上-東武動物公園間の愛称を「東武スカイツリーライン」と
しスカイツリーに繋がる路線であることを前面にアピールする。
 ツリー東側の最寄駅の押上駅では、開業日までに副駅名に「スカイツリー前」と記すことにした。

 送信塔
 FM放送
 在京FM局のうちJ‐WAVEとNHK東京FMの2局が先行する形で東京タワーからの送信所移
転を申請、平成23年2月3日に変更許可が下り、同24年4月23日より本放送を開始した。同時
にNHK‐FM放送を使用したVICSの文字多重放送についても道路交通情報通信システムセンタ
ーが申請を行い、前2局と共に変更許可を得ている。
 東京タワーでの放送時の空中線電力は10Kwだったが、高所設置に伴うスピルオーバーを防ぐた
、東京スカイツリーでの空中線電力は7Kwに減力されている。
 InterFMならびに放送大学(JOUD‐FM)、TOKYO‐FMは従来どおり東京タワー
から送信され、東京スカイツリーからは送信されない。
 マルチメディア放送
 mmbi及びジャパン・モバイルキャスティングによる携帯端末向けマルチメディア放送(VHF
-HIGT帯)「モバキャス」はスカイツリーに4段16面のアンテナを設置、スカイツリーからの
送信で関東全域約1600万世帯をカバーできるとしている。平成23年9月14日に電波監理審議
会から予備免許を交付することが適当であると答申を受け、翌15日に予備免許の交付を行った。同
24年4月1日にmmbiが運営するNOTTVが放送を開始、東京スカイツリー初の本放送送信局
となった。

 タクシー無線集中基地局
 特別区・武三交通圏(23区・武蔵野市・三鷹市)を営業エリアに持つタクシー各社は、現在港区
赤坂の国際新赤坂ビルに集中基地局を設置しているが、都内各地で高層ビルが相次いで建設されてい
ることで不感地帯が増加してきている。そのため、東京スカイツリーへの移転が行われることとなり
同23年10月から1ヶ月間、地上300mの位置にアンテナを設置し、昼間の時間帯に試験電波を
発信、同24年3月より業務無線の運用を順次開始し5月から本運用に入った。
 地上デジタルテレビジョン放送
 NHK東京総合。NHK東京Eテレビ・NTV日本テレビ放送網・EXテレビ朝日・TBSテレビ
・TXテレビ東京・CXフジテレビジョン・TOKYMXが放送。1年ほどの試験放送を経て、本格
放送に入る。つまりどんな問題が生じるかのチェックだ。

 観光施設
 第1展望台(350m)は「天望デッキ」、江戸東京野菜などを提供するスカイレストランは「6
34(むさし)」と命名され、オリジナルドリンクを提供する「スカイツリーカフェ」などが入居。レ
ストランでの食事を予約すれば入場券はついてくる。
 さてさらに上を目指すには「天望シャトル」と名づけられたエレベーターに乗る。天井も四囲もシ
ースルーになっていて、景色が眺められる。で、到着したところがフロア445、第2展望台「天望
回廊」(最高地点451m20cm)だ。周囲110mの回廊を歩くことで空中から首都圏を見渡す
ことができる。

 ライトアップ
 パナソニック電工は、「東京スカイツリー」に関して、ライトアップ用の照明メーカーに決定した
と発表、タワー専用の照明器具を全て「LED」で開発を進めていく。使用される器具は約2000
台。同タワーでは、「永遠に続く江戸の心を光で表現する」ことを目的に、隅田川をモチーフとした
水色の「粋」と、気品のある江戸紫という色を使用した「雅」という2パターンのライトアップを1
日毎に行なうことになっている。また富士山のような冠雪をイメージし、頂上部を白く光らせる「光
の冠雪」や、展望台の周囲を一定の早さで光が回転する「時を刻む光」、タワーの上方と下方から光
を重ねることで、〝そり〟と〝むくり〟を強調するライトアップも展開される。色の変化は14種類
にも及ぶ。
 東京タワースカイツリーの藤井角也代表取締役専務は、照明をパナソニック電工に決定した理由に
ついて「技術面、金額面を総合的に判断した」と説明。パナソニック電工の長榮周作代表取締役専務
は、「照明事業を始めて58年目。その間に培ってきたハードとソフトの技術を使い、省エネ性、コ
ンパクトさ、耐久性を最大限に考慮した物作りをしていく。〝パナソニック電工にしてよかった〟と
思われるライトアップにしたい」と意気込みを語った。
 

 地中熱利用システム
 東武エネルギーマネジメントによる東京スカイツリー地区地域冷暖房(DHC)では、国内の地域
冷暖房(大規模複合開発)で初となる地中熱利用システムを採用している。ここでは、建物の基礎に
なる杭に複数のチューブを付けて地中熱を得る基礎杭方式と、ボーリングの孔から熱を取るボアホー
ル方式の2方式を採用している。基礎杭に10組のチューブを取付け、鉄筋の籠とともに地中に下ろ
す。また、120mのボアホールを4m間隔で21本掘削した。夫々の特徴を活かし、地中熱を効率
的に採放熱している。チューブの中に水を循環させ、地中と熱交換を行うことで、効率的な冷暖房が
可能になる、基礎杭方式では、杭の数は6本、杭の直径は1.9~2.2m、杭の長さは18.6mだ。
これによる採放熱量は、基礎杭1本当り、最大で冷熱300W/m、温熱235W/mです。一方の
ボアホール方式は、掘削の径は179mm、深さは120m、この中に2組のUチューブが入り、ボ
アホール1本当たり最大で冷熱48W/m、温熱40W/mです。地中熱利用の省エネ効果については、
同規模の従来システムと比べ、エネルギー消費量を年間48%削減出来る。これは、凡そそ47tの
CO2削減に相当する。地中熱ヒートポンプには、冷却能力50R丁(632MJ/h)、加熱能力
800MJ/hのものが使われており、COPは冷水で5.1、温水で4.4となっている。

   地中熱利用システム
   Geo-Thermal Heating and Cooling System
   当広場には、「東京スカイツリー地区」熱供給で用いる、地中熱利用システムの熱交換用
   チューブ(中に水をとおし、地中から熱を得たり逃したりする)を、深さ約120mの縦
   穴を21本掘り、埋め込んでいます(ボアホール方式)。
   この他、建物の基礎杭と一緒にチューブを埋め込んでいます(基礎杭利用方式)。
   これらチューブの総延長は約12kmになります。
   地中熱を利用することにより、冷暖房用冷・温水製造時のエネルギー消費量・排出量を大
   幅に削減することができ、ヒートアイランド抑制にも大きな効果を発揮します。

 平成24年5月22日開業
 この日は生憎の雨。前の日も翌日も晴れ、皮肉なものだね。10時から開業記念式典が行われ、1
2時から一般の予約客に展望台が解放された。しかし天候は回復せず、午後5時展望デッキ(第一展
望台)と展望回廊(第二展望台)を結ぶ展望シャトル(エレベーター)が強風のため安全を考慮して
ストップ、展望回廊に約200人が取り残された。30分後、下りのみを稼動させ、取り残された客
を下ろし事なきを得た。午後7時半早々と展望台の営業を中止し安全に備えた。
 レストラン「634(むさし)」を予約してた客は困っちゃっただろうね。翌日ってことの利かない
人もいたんじゃない? 返金すりゃあいいってもんじゃないからね。初日はたった一日しかないんだ
しねぇ。レストランだって困っちゃったろうに、消費されなくて捨てなくちゃならない鮮度物もある
だろうし、ねぇ。
 


■東京ソラマチ
 
押上1丁目1番2号にある広大な商業施設。平成24年5月22日開業。とうきょうスカイツリー
駅(旧業平橋駅)と押上駅(東京スカイツリー前駅)を繋ぐ東西長さ400mに亘る「タワーのある
町」のスタート。

  敷地面積 約36900㎡ 建設面積 31600㎡
  延床面積 約230000㎡(タワー部分含む)
  SC面積 約52000㎡
  建物規模 東街区 地上31階、地下3階
       西街区 地上7階、地下2階
 駐車場台数 約1000
 駐輪場台数 約2000
  使用用途 電波塔、展示場(展望台)、商業施設(国内最大312店舗)、水族館、ドームシア
       ター、スクール、オフィス、地域冷暖房施設、駐車場

 1階 クリエイティブ、デイリー雑貨、ライフスタイル雑貨、カフェ
 2階 食品スイーツ、ファッションとライフスタイル雑貨
 3階 フードコート、ファッションとライフスタイル雑貨
 4階 レストラン、キャラクター雑貨、タワー出発ロビー、スーベニアとライフスタイル雑貨
 5階 水族館、タワー到着ロビー、観光、イベントスペース
 6階 水族館、レストラン
 7階 ドームシアター、レストラン
 8階~29階 オフィス、スクール他 イーストタワー
 31・32階 ダイニングレストラン
 イーストタワー

 312店舗もあるから多士済々。コンビニは当然として、魚屋、飲み屋、一膳飯と何でもある、

 
●隅田川デジタル絵巻
 1階団体フロアに設置された壁画。平成24年5月22日、シャープは東京スカイツリータウンに
122台のデジタルサイネージを納入したと発表した。60V型の液晶ディスプレイを用いたマルチ
ディスプレイなどが使用されている。納入されたのは、60V型の液晶ディスプレイ「PN‐V60
1」25台と60V型の高輝度液晶ディスプレイ「PN‐V602」2台、52~32V型液晶ディ
スプレイ「PN‐E521/E471/E421/T321」95台。
 1階の団体フロアに設置されている全長45mの「隅田川デジタル絵巻」の中央部には、60V型
液晶ディスプレイ13台を横一列に並べたマルチディスプレイシステムが展示されている。
 隅田川デジタル絵巻は、壁に埋まっている13枚のディスプレイも、絵の一部となっており、ディ
スプレイ部分は、アニメーションになっている。伝統、日本美術、全てに焦点を当てているが、実在
と架空とが混在した東京を手描きのプロセスをデジタル化することで、人間の限界を超えた圧倒的な
オブジェクト数を表現している。


   隅田川デジタル絵巻
   Sumidagawa Digital Picture Scroll

   江戸から東京そして現代から未来へと続いていく時間の経過のになかで、いつも人々の生
   活と文化の中心にあり、悠久の時のなかで存在してきた隅田川と東京の姿を、日本の伝統
   的な絵画表現と江戸時代に盛んであった浮世絵の手法により、大きな絵巻に仕上げました。
   テクノロジーの進化は人間そのものを進化させる。そうした信念に基づき、「東京スカイ
   ツリーのあるまち」をテーマに、未来に残していきたいメッセージを、圧倒的な情報量と
   地域への愛着を込めて描きだしています。
   

 すみだ水族館
 大成建設株式会社の人工海水製造システムにより、水槽内の水の完全人工海水化(淡水は除く)を
実現した。これは、オリックス不動産が運営する、平成24年3月14日に開業した京都水族館(京
都府京都市下京区観喜寺町35‐1)に次いで国内で2番目、関東では初の施設だ。内陸型水族館の
課題だった、大型車両による海水運搬時に発生するCO2の発生を抑え、さらに年間を通して一定の
水質を維持できるため、水槽内の生物にとっても快適な環境を提供することが可能になった。ウエス
トヤードの5・6階の2層からなる水族館。上下フロアの繋がりは3つのルートから成り、それぞれ
に楽しみ方が異なる。決められた順路は無く、何度も行き来し、心行くまで水族館内を回遊し、様々
な角度や視点で水槽を鑑賞することができる。客一人ひとりがそれぞれの楽しみ方で鑑賞できる。国
内最大級の屋内開放水槽では、間近でペンギンやオットセイを見ることができる。またバックヤード
を見せるゾーンも設け、飼育現場を見ることもできる。スタッフとのコミュニケーションは歓迎され
飼育スタッフと客との隔たりもなくし丁寧な説明がある。客、生物、スタッフが、空気を通して繋がっ
ている感覚を体感させてくれる。

 コニカミノルタプラネタリウム「天空」
 日常を離れた幻想的な空間で、星空の感動を。
待ち合わせスペースに利用できるホワイエは、ブル
ーとホワイトの光の幻想的な演出により、宇宙旅行への期待が高まる。ホワイエから繋がるトンネル
を抜けるとプラネタリウムドームが広がり、いよいよ宇宙空間へ出発だ。作品をより楽しんで貰うた
め、座席を階段状に設置。そのため死角が無く、作品に集中でき、より星空の世界を体感できる。さ
らにリラックスして鑑賞するよう、座席は全天を見渡せるリクライニングシートになっている。家族
や恋人、友達と星空散歩を楽しんでみたら。

 
TO THE SKY(三本石柱)
 ソラマチ広場にある調刻家の澄川喜一の作品。石材は徳山みかげという御影石。3本の寄り添う彫
刻は天・地・人を表し未来の安寧を祈る彫刻だとか。この3本聳え立つ御影石の彫刻は高さ10m、
合計2tもあり、この石になぜか行列が出来る。この3本の彫刻の間には、人が一人だけ入れる隙間
がある。その隙間は結構大きいので、多少太った方や大柄な人でも十分入ることができる。
 さて、とうきょうスカイツリー駅に、澄川作の同じ題名の壁画もあるよ。

 
東武鉄道船渠跡
 三本石柱のチョイ西側、ソラマチ君のいるアーチの前の床面に説明板が嵌め込んである。

   東武鉄道船渠(ドック)跡
   この地域での東武の歴史は、明治35年4月1日に、東武伊勢崎線を北千住から延伸し、
   「吾妻橋駅(現とうきょうスカイツリー駅)」を開業したことに始まります。
   明治37年には亀戸線(曳舟~亀戸間)の開通により一時廃止されましたが、その後、明
   治41年貨物駅として復活し、明治43年には「浅草駅」と改称して再開業しました。
   当時、鉄道で駅に運び込まれた貨物は、ここで舟運に積みかえられ、北十間川から、隅田
   川、中川を通って、広く各地に運び出されました。
   平成21年、東京スカイツリータウン建設にともない、この広場から旧ドックの護岸石が
   出土しました。この土地の貴重な歴史を未来に受け継ぐため、敷石として再利用していま
   す。


 
郵政博物館
 9階にある。平成26年3月1日開館。平成25年8月31日に閉館した逓信総合博物館の替わり
の、郵便及び通信に関する収蔵品を展示・紹介する博物館。館内は郵便にまつわる歴史や物語を7つ
の世界に分けて展示や映像で紹介する常設展示ゾーン、企画展示ゾーン、手紙ラウンジ、イベントス
ペース、ミュージアムショップ、ミュージアムゆうびんきょくで構成している。日本最大となる約8
3万種の切手展示のほか、国内外の郵政に関する資料約400点を展示している。さらに「心ヲツナ
グ 世界ヲツナグ」をコンセプトに、デジタル技術を駆使し、郵便や通信がもたらす人と人との心の
繋がりを感じる体験・体感型のコンテンツを数多く用意してある。
 「始」の世界、「郵便」の世界、「手紙」の世界、「切手」の世界、「郵便貯金」の世界。「簡易
保険」の世界、メッセージシアター、企画展示ゾーン、手紙ラウンジ、イベントスペース、ミュージ
アムショップ、ミュージアム郵便局で構成されている。


 
前島密胸像
 入口を入った位置に飾ってある。逓信総合博物館にあったものを博物館の移転と共に引っ越してき
た。前島密は明治から大正時代の政治家で、日本の郵便制度の創始者の一人とされている。郵便、葉
書、切手などの語を定めた。日本の郵政史を語る時には必ず登場する人物だ。「人のために良かれと
願う心を常に持て」が信条だったそう。政治家ども私利私欲に目を晦ましてないで心せよ。

 千葉工業大学東京スカイツリータウンキャンパス
 8階にある千葉工大の研究活動を通じて生まれた先端技術を応用した体感型アトラクション展示ゾ
ーン。ロボット技術から惑星探査プロジェクトまで、千葉工業大学が誇る科学技術が楽しめる。

 
○エリアⅠ
  
長巨大ロボティックスクリーン
  (超巨大画面でロボットの解剖・設計図の操作を体験)
  ロボットアームとプロジェクタが合体。360度投影システム4台がコンピュータで連動する大
  迫力を体験できる。巨大画面に映し出されるのは未来ロボット技術研究センター(fuRo)の
  ロボットたち。iPadを使って、本物のロボット設計図を操作しよう。スクリーンに映し出さ
  れているロボットは、全て実際に未来ロボット技術研究センターが作ったロボットの図面を元に
  作られている。普段見ることができないロボットの裏側や細かい機構部を見ることができる。
  
ハナノナ
  (人工知能が約30万枚の写真を学習した結果を可視化)

  幼児は目にするものの名前を周囲の人から教わりながらモノの名前を憶えていく。コンピュータ
  にも同じように沢山の例を見せることでモノの名前を解かるようにさせることが最新の人工知能
  研究で可能になった。キーとなるのは大量の訓練データと深層学習。この最新の成果を応用して
  約30万枚の花の写真を使って花の種類を判定する人工知能を開発した。この花分類システムは
  406種類の花を分類することができる。
  中央のテーブルに置かれた写真、絵画、絵本など抽象度の異なる花を描いた本を撮影すると、人
  工知能が花の種類を判定し、どの花と近いと判断したのか、視覚的に表示する。
  花分類システム‐webバージョン‐は、スマートフォンなどからも利用できるよ。
  
災害対応ロボット
  (福島第一原子力発電所で調査活動中)

  福島第一原子力発電所に投入した国産ロボット第1号は千葉工業大学のレスキューロボットだ。
  事故が起こった直後から、福島原発の現地作業員とやりとりをしながらロボットの改造を重ねて
  きた。耐放射線性能、対熱・耐衝撃性能、60度以上の登坂能力などの数々の機能から、現地作
  業員のロボット操縦訓練場の構築、教習マニュアル作成からオペレーターの養成、そして操縦シ
  ミュレーターまで、必要な凡ゆる技術を開発してきた。現在も、人の入ることのできない原発建
  屋内で稼働し調査、データ収集さらには廃炉に向けた作業の一部を行っている。
  
災害対応ロボット操縦シミュレーター
  (ロボットパイロット養成ソフト)
  災害対応ロボットは、人が立ち入ることの出来ない危険な環境で働くことを目的としたロボット
  だ。そのため、操縦者は被災地から離れた安全な場所で、ロボットから送られてくる映像をモニ
  ターで見ながら操縦す。東日本大震災の対応で起きた問題の一つに、ロボットのパイロット不足
  があった。ロボットが数台しかないために、訓練をする人数が限られていたの。もし、操縦練習
  中にロボットを壊してしまうと、現地で稼働するロボットは減ってしまう。そのような危険性を
  回避するために、一度に多くの人が訓練でき、実際のロボットを動かすコツを身につけられる「災
  害対応ロボット操縦シミュレーター」を開発した。これはゲームではなく本物の訓練ソフト。
  是非ロボットパイロットに挑戦してみてはどうかな?
  実は、これからの戦争は、ドローンとロボットによってなされる。人的損害を減らすことができ
  るし、弾が当たっても戦闘能力が失われることはないし、自爆装置を取り付けて置けば、却って
  迎撃した側に被害が出るので攻撃的には効果的だ。事実、ロシア軍がウクライナの弾薬庫2ヶ所
  を爆破している。核兵器だって搭載可能だ。
  
ロボット解剖学
  周囲の状況を把握するカメラやセンサー、複雑な脚の動きを実現する沢山のモーター、それらを
  統合して制御する頭脳。ロボットは実に多くの精密部品が組み合わされて出来ている。Robo
  t Anatomy[ロボット解剖学]は、実際に展示されているロボット HallucⅡをカメラで
  色々な角度から捉え、リアルタイム映像に重ね合わされたCGのHalluc Ⅱを輪切りにしながら
  ロボットの複雑な内部の構造をじっくり見ることが出来る展示だ。
  
Halluc Ⅱ, Halluc Ⅱχ
  (3つのモードに変形し、凡ゆる方向に脚や車輪で移動する未来の乗り物)
  HallucⅡ(ハルク ツー)は、未来の乗り物を1/5スケールで作ったコンセプトモデルだ。8
  本の脚・車輪(56個のモーター)を駆使し、状況に応じて、ビークルモード(車両)、インセ
  クトモード(昆虫)、アニマルモード(動物)の3つの形態に変形する。これにより、車輪によ
  る効率的な速い移動や、凸凹道でも歩いて進む柔軟な移動ができる。また真横や斜めなど凡ゆる
  る方向に進むこともできる。 HallucⅡχ(ハルク ツーカイ)は、Hallucigenia(ハルキゲニ
  ア)プロジェクトの最新モデルだ。駆動力や移動速度、周囲の障害物や人間を検知する能力など
  の基本性能のほか、操作性やメンテナンス性が格段に上がり、ジェスチャー認識による操作もで
  きるようになっ。
  
ON THE FLY PAPER
  (ただの紙のカードがあたかもタブレットコンピューターに早変わり)
  何の変哲もない紙のカード。でも、机の上に置くと文字や映像が浮かび上がってくる。ここでは
  魔法のカード「ON THE FLY PAPER」で、動画などを用いて未来ロボット技術研究セ
  ンター、惑星探査研究センター、千葉工業大学の研究活動を紹介してくれる。カードの種類は十
  種類以上。テーブルの上にロボットのカードを置くとそのロボットの情報が、惑星のカードを置
  くとその研究情報が動画と共に楽しめる。先端のセンシングとコンピューター技術を体感して見
  ようではないか。
  
ロボティック シャドウ
  人々と共存して生活を豊かにするロボットを作るためには、人間の意思や振舞いを「感じる」た
  めのセンサー技術が必要だ。この展示は、人の動きや振舞いを「感じる」センサー技術を体験す
  る展示だ。3Dセンサー技術を利用して、巨大スクリーンの中で、自分の分身が、まるで磁石に
  なったように沢山のキューブがくっついてきたり、丸い球が飛んできてぶつかり合ったり、現実
  と違った不思議な世界が広がっている。人の振舞いを「感じる」ことができると、時にはこんな
  空想の世界のような、不思議で楽しい体験を味わうこともできる。

  
人型ロボット「morph」
  高い機能性をもつ人型ロボット
  morph(モルフ)プロジェクトは、ヒューマノイドの要素技術及びそれらの統合技術、さら
  には全身運動を行う自律制御システムの研究開発を目的に、平成13年4月に開始した。mor
  ph
3はメタルアスリート、乃ち陸上選手が贅肉を削ぎ落としたかのように、「極限まで機能性
  を追求したボディ」の実現を目指した。そして、機構部とボディデザインの融合設計手法を採用
  することで、機能性(高度な知覚機能と機動性能)とメンテナンス性、さらに外観の親和性を合
  わせ持つシステムの実現に成功しました。
  
Hallucigenia 01
  (8つのホイールをもつ次世代の多目的乗用車)
  Hallucigenia01(ハルキゲニア01)は、1/5スケールの実験試作車です。全32個のモー
  タを搭載した多関節ロボットで、その場回転や、8輪全てのホイールを真横に向けることによる
  横移動走行ができる。また、全関節をリアルタイム制御することで、車体を水平に保ったままの
  登坂や段差の乗り越えなど高度な機動性能の実現に成功した。ハルキゲニアという名称は、古生
  代カンブリア紀の海に生息していた動物に由来している。
  
core
  (世界最大級可搬重量性能をもった二足歩行ロボット)
  core(コア)は、世界最大級である100kgの可搬重量性能を有した大型二足歩行ロボッ
  トだ。平坦な床面や段差・階段などがある場所において、人や荷物など、大きな重量の移動や搬
  送を行うことを目指して作られた。左右の脚を構成する6つの関節にはモータや電磁ブレーキ、
  絶対角度センサからなる大型モータシステムが、また足裏部には床からの衝撃を大幅に軽減する
  ことのできる衝撃吸収機構が、新規に開発され搭載されている。全長1.9m、体重230kgの
  大型かつ超重量級でありながら、これらの大型モータシステムと衝撃吸収機構により、安全且つ
  省エネルギーに大きな重量を搬送できる二足歩行を実現した。
  ロボットの目
  ロボットの目の重要な機能の1つに、三次元距離情報の取得がある。三次元距離情報を用いるこ
  とで、ロボットは周りの地形や障害物を把握できるようになる。未来ロボット技術研究センター
  では、日本信号株式会社とこの三次元距離情報を取得するためのセンサとして3Dレーザーレン
  ジファインダを共同開発している。実際にこのセンサを搭載して、より安全に操縦できる電動車
  椅子型のパーソナルモビリティの研究開発も進められている。ここでは、この3Dレーザーレン
  ジファインダを用いて、入館者数カウントシステムを構築した。ロボットの目を使うと、こんな
  こともできるのだ。

 ○エリアⅡ
  アストロゲート
  
(さあ、宇宙への扉は開いた!いざ出発!!)
  通行者に反応してメッセージとビジュアルでお出迎え。宇宙ツアーへの出発地点「インタラクテ
  ィブゲート。エントランスを抜けて中へ一歩踏み出すと、左右に大きなゲートが立っている。そ
  れぞれ積み上がった5個のキューブ上に映し出される鮮やかな惑星の映像と「WELCOM」の
  文字がゲストを迎える。さあ宇宙への旅にいってらっしゃい。
  ステップタップ
  (踏んで蹴飛ばし惑星と戯れよう)

  AR(拡張現実)技術を利用したビジュアルゲーム、体感型アトラクション。近づくと太陽、惑
  星、彗星、小惑星などが現れる。床面の惑星や小惑星などを踏むと、壁面に向かって動き出し、
  太陽や惑星にぶつかって破裂したり消滅したり・・・ そのコミカルな動きを楽しんで。
  
太陽系グランドツアー
  (インチ惑星ガイドで太陽系への旅にでかけよう)
  大迫力の120インチタッチパネルで、太陽系のグランドツアーに出かけよう。8つの惑星をは
  じめとする太陽系の主要構成天体や惑星探査ミッションを巡る。これらは、NASA等からのデ
  ータ提供によりはじめて実現した。これまでの研究や探査で得られた太陽系の数々の美しい画像
  や最新情報に自分の手でアクセスできる。さあ、太陽系ツアーを体験してみよう!

  天鉄刀
  (隕石から生まれた日本刀)
  約4億5000万年前に宇宙から飛来した鉄隕石を、現代の日本刀の名刀匠吉原義人が鍛え上げ
  日本刀を完成させた。それが天鉄刀。人類が最初に出会った鉄は鉄隕石だともいわれており、こ
  の天鉄刀はまさに人類の生み出す技術と宇宙との関わりの象徴だ。天鉄刀を常設展示にて公開す
  るのは世界初。使用した隕石(鉄隕石)「ギベオン(Gibeon)」と共に展示する。隕石から生ま
  れた至高の一品を鑑賞しようではないか。

  ムーンウォーカー
  (「かぐや」の高解像度映像で月面旅行)
  日本の月探査機「かぐや」の撮影した高解像度の月面映像が壁と床面に投影され、恰も月面上を
  飛行しているかのような感覚に囚われる。月面上のクレーター、山、谷など、厳選された数々の
  月面地形の臨場感あふれる鮮明な姿が迫ってくる。
  300インチ3D宇宙シアター
  (宇宙138億年の旅 地球そして生命)
  「ゴジラ」の映画監督川北紘一の全面協力により実現、300インチ3D&5.1chサラウンド
  映像で時空の旅へ行ってらっしゃい。我々はどこから来たのか? 我々は何者か? 我々はどこ
  へ行くのか? 宇宙の始まりビッグバンから、太陽系と地球の形成、生命の誕生と進化、人類文
  明の発展までの138億年を、ダイナミックな3D映像と大迫力の5.1chサラウンドで駆け巡
  るよ。
  
衝突クレーター生成実験
  惑星のクレーターはどのようにできたのか? 千葉工業大学惑星探査研究センター(PERC)
  に新設された高速衝突実験装置で調べることができる。プラスチックの球(直径4.6mm)を秒
  速7.3km(時速26000km)でアルミ円板に衝突させると、爆発したように強い光が観測
  され、衝突点を中心に金属が水面のようにめくれ上がり「クレーター」が形成される。このよう
  にクレーターは惑星に高速で天体が衝突してできたことが判る。PERCではこのような超高速
  衝突実験を通じて、惑星表面に残された「クレーター」から過去の太陽系の姿を調べて行く。
  国際宇宙ステーション流星観測システム「メテオ」
  (世界初!「宇宙から流星を長期観測」)
  
千葉工業大学惑星探査研究センター(PERC)が進める「メテオ」プロジェクトでは、国際宇
  宙ステーション(ISS)から超高感度ハイビジョンカメラにより流星の長期観測を行ってる。
  平成28年3月に打ち上げられ、同年7月より観測を開始した。
  流星とは彗星や小惑星から放出された塵が地球の大気に突入する際に発光する現象。「メテオ」
  では、流星の光の明るさから塵の大きさを求めたり、光を色(波長)毎に分けて塵の組成を調べ
  る。また、毎年決まった時期に現れる流星群は、塵の元となる彗星や小惑星が判っているので、
  流星群の観測結果からそれらの天体の特性を知ることができる。高度約400kmを飛行するI
  SSでは、天候や大気の影響を受けず、定常的な流星観測が可能なのだ。観測した映像は、PE
  RC
の運用管制室で、その日の内に見ることができるんだ。
  実物大マイクロスF「バルキリーVF25F」
  「マクロスFの主役メカ『バルキリーVF‐25』が実物大でソラマチに登場
  (初の常設展示)」
  天神英貴をアートディレクターに迎えかつてないディテールにこだわった展示に!

  「バルキリー」とは、アニメ「マクロス」シリーズに登場する変形ロボットの総称。「バルキリ
  ー」の中でも特に、型番:「VF‐25F」の機体はテレビアニメ版「マクロスF」で最新鋭機
  種として登場し、主人公:早乙女アルトの愛機として劇中で活躍する主役メカだ。
  「バルキリー」最大の特徴は、状況に応じて航空機「ファイター」、人型「バトロイド」そして
  その中間形態である「ガウォーク」の3形態に変形すること。本展示は、その『バルキリーVF
  ‐25F』の「ガウォーク」形態の実物大造形物だ。
  本展示の公開と共共に、「マクロス feat.CITプロジェクト」も発動。このプロジェクト
  では、「マクロスF」の総監督・メカデザイナーの河森正治と、千葉工業大学(Chiba Institu
  te of Technology: CIT)未来ロボット技術研究センター (Future Robotics Technology
  Center: fuRo)とが、ガッチリとタッグを組み、今までにないロボットを開発する。
  
壁面グラフィック
  (宇宙からヒトへ)
  人間や地球の全てのモノは、輝く星の中で生まれ、まき散らされ、再集合した元素により構成さ
  れている。AreaⅡの外側を取り囲むグラフィックは、我々人類も宇宙の一部の構成要素であるこ
  とを表現している。


 
となりのトトロ・稲荷前バス停
 2階イーストヤード12番地ファッションゾーンの東端にある「どんぐり共和国」にある。



■業平橋駅 → とうきょうスカイツリー駅
 押上1丁目1番4号にある東武伊勢崎線の停車場。業平橋駅は明治35年4月1日に開業した駅。
戦前の一時期営業していなかった期間もあったが、昭和6年に現在の浅草駅が開業するまでは東武の
起点を務めていた。明治43年から昭和6年までは「浅草駅」を名乗っていたこともある。平成24
年1月20日に東京スカイツリーが完成、5月22日に開業するのを受けて、3月17日「とうきょ
うスカイツリー駅」と改称。4月20日改装工事完了。リニューアル・オープン。
 ホームは高架島式1面2線構造。古くて全体的にくたびれた印象のある駅だが、ホームと改札階を
結ぶエレベーターは設置済みだ。改札口・出口は1ヶ所のみで地上1階にある。平成15年の半蔵門
線全通以前には地上にも頭端式2面3線のホームがあり、浅草駅に入れない10両編成の電車は業平
橋を始発・終着としていた。また都営・京成の押上駅との間に連絡地下通路も設けられていた。しか
し半蔵門線が開業して10両編成の電車がそちらに直通するようになると、業平橋駅の地上ホームと
連絡通路はいずれも廃止された。現在では浅草始発の普通・準急電車が細々と発着するのみとなって
いる。


 
安全地蔵尊 移転
 押上1丁目1番の西北角、東武線業平橋駅の改札を出てすぐ北側、線路沿いの細い道に入る角に、
小さな地蔵尊があったが、現在は、そこから150m程東のガード下に安置してある。とてもひっそ
りとあるので、毎日この駅を利用する人でも、殆どの人は気づいてないだろう。この駅は、かつては
始発駅で、明治35年「吾妻橋駅」といった。同43年「浅草駅」に改称、昭和6年「浅草雷門駅」
が開業して現行の「業平橋駅」となった。
 地蔵はその駅の横っちょにあるのだが、誰かが意思を持って建てたものではないのだ。実はこのお
地蔵さんはどこに建っていたのかも判らないし、どこかの子供の墓だったかも知れないのだ。昭和3
4年建設資材に混じって貨車に揺られてこの駅に辿り着いた。誰かが捨てたものか、遠い昔に埋もれ
たものが掘り返されたかしたものなのだ。しかし駅では、近年構内で出た子供の事故犠牲者や工事中
の殉難者、また大戦中駅で空襲に遭い死亡したことなども考え合わせて、駅で祭ることとし、同39
構内や道路での交通安全を願って当時の駅長がここに安置したものなのだ。それからは5月4日を
例祭としている。


   安全地蔵尊の由来
    この地蔵尊は、昭和34年9月、何処からともなく貨車によって運ばれてきた石や砂の
   中からお姿を現したものですが、もとの安置場所や建立年代が定かでなく、しばらく駅構
   内に仮安置されていました。かって業平橋駅構内およびその付近では空襲による犠牲者が
   少なからず、これに思い致された人々が平和への祈りと、道路や線路の安全への願いを込
   めて昭和39年4月24日に「安全地蔵尊」としてこの地に安置されました。
   永い風雪にさらされたためか、昭和60年12月地蔵尊のお姿が見えなくなってしまいま
   したが、人々の落胆ぶりを見て鈴木栄三郎氏がご尊体を寄進し入仏の儀を行い新たに、こ
   の地に安置され現在に至っております。ここに関係者のご好意に感謝し、永く皆様に親し
   まれますよう念願いたします。
   昭和61年5月吉日                          業平橋駅長

 現在、説明板はステンレスに換えられているが、銘文は全く同じだ。  


■押上駅
 押上1丁目1番65号にある東京メトロの地下停車場。平成15年3月19日東武伊勢崎線と営団
地下鉄半蔵門線との相互直通運転開始に伴い、東武鉄道・営団地下鉄の押上駅が開業。業平橋駅(現
とうきょうスカイツリー駅)との改札外連絡通路閉鎖。島式ホーム2面4線を有する地下駅。京成・
都営の駅より南側に位置している。元々東京メトロの駅であり、案内標識などは東京メトロに準じて
いるがホーム中央に東京メトロと東武の財産境界標識が設置されており、両社の折半所有となってい
る。東武の駅としてはとうきょうスカイツリー駅(旧業平橋駅)と同一駅扱いとなっている。
 半蔵門線の列車はかつて押上止まりが多く、東武直通列車はデータイム1時間3本程度しかなかっ
た。そのため乗客は不便を強いられることが多かったが、平成18年3月18日のダイヤ改正から直
通列車がデータイム1時間6本に増発され、利便性が大いに高まった。なお都営浅草線の列車はほぼ
全てが京成線に直通する。

 
「江戸のまつり」
 改札口にある巨大なパブリックアート(壁画)。

■押上駅
 押上1丁目8番21号にある都営地下鉄浅草線の地下停車場。昭和35年12月4日都営地下鉄1
号線の開業に伴い開設。


■押上駅 → 押上(スカイツリー前)駅
 押上1丁目10番2号にある京成押上線の地下停車場。京成電鉄は大正元年、押上~江戸川・柴又
間を開通させたのがその始まり。京成上野にターミナルの座を奪われたのは昭和8年なので、それまで
は押上が京成の起点駅だった。押上は都心から遠いため、本当は浅草にターミナルを置きたかったの
だが、東武に先を越されたために断念した。
 昭和35年12月4日都営浅草線浅草橋~押上間が開通し、相互乗り入れを開始してやっと悲願が
達成したことになる。これは、わが国初めての地下鉄相互乗り入れだ。
 それからだいぶ後年になり、平成15年3月19日半蔵門線が水天宮前~押上間を開通させて全通。
それと同時に東武が押上~曳舟間に連絡線を設け、直通運転を開始した。それに伴い、それまで押上
駅と業平橋駅を結んでいた地下連絡通路は閉鎖された。同24年1月29日に東京スカイツリーが完
成、5月22日に開業するのを受けて、3月17日「とうきょうスカイツリー駅」と改称した。
 京成・都営と東京メトロ・東武がそれぞれ別のホームを持っており、前者は地下1階に島式2面4
線、後者は地下3階に島式2面4線のホームを持つ。ホームと改札階を結ぶエレベーターは、全ての
ホームに設置されている。
 京成・都営と東京メトロ・東武ともに、2ヶ所ずつ計4ヶ所の改札口を持つ。全ての改札は地下2
階にあり、地下1階にある京成・都営ホームからはいったん下に降りる形になる。
出口は6ヶ所。

 
「TO THE SKY」
 改札内コンコース、エスカレーター横壁面を飾る澄川喜一の陶板壁画。この壁画には世界一高さを
誇る電波塔として空へ伸びる「東京スカイツリー」のイメージとこの地に残る日本伝統的なイメージ
がひとつに重ねあわされている。澄川が長年のテーマとされている〈反り〉〈TO THE SKY〉
の造形を日本の古来からの伝統素材<陶>を用いて表している。江戸の伝統ある業平の地に、赤・青
・金の陶板を組み合わせ一条の空をイメージした。陶板レリーフ・漆喰作品。
 高さ3000mm×幅4109mm、高さ3000mm×4092mm(2枚1組)

   TO THE SKY
   2012・4・20
   澄川喜一
   Kiichi Sumikawa
   制作:クレゾーレ工房


 不思議なことに、「クレゾーレ工房」ネットで検索しても全くヒットしない。東武鉄道の案内では
制作は「公益財団法人日本交通文化協会」となっている。
 


■わんぱく天国
 
押上1丁目47番6号にある。子どもたちが自然に触れながら、いきいきとした冒険を楽しむこと
ができる区営の遊び場だ。「わんぱく砦」「わんぱく広場」「やすらぎ広場」の3ゾーンに分かれて
いて、ロープスライダー、畑、野外ステージなどがある。またプレイリーダーが、子どもの遊びの手
伝いをしている。
 利用時間:4月から9月 午前9時から午後6時まで、10月から3月 午前9時から午後5時ま
で 定休日:12月31日から1月4日まで 03-3612-1456
 


押上公園
 押上1丁目47番8号にある区立公園。


■曳舟川由来碑
 押上2丁目1番5号先、押上二丁目交差点側歩道にある舟形の石碑。

   
曳舟川の由来
   曳舟川は、徳川幕府が本所開拓に伴う上水として、万治二年(1659)に開削したもの
   です。当時は、本所上水、亀有上水などと呼ばれ、瓦曾根(越谷市)の溜井から分水して、
   亀有から四ツ木をへて本所と深川の各地に配水されたようです。その後、享保七年(17
   22)には上水としては利用されなくなりましたが、川筋の脇を四ツ木街道が通り水戸街
   道に接続しているため、次第に重要な交通路として利用されるようになりました。この川
   が「曳舟川」と呼ばれるようになったのは、「ザッパコ」と呼ばれる田舟のような舟に旅
   人を乗せ、岸から引かせたことによるものです。また、曳舟川には古くから多くの橋が架
   けられており、薬師橋、鶴土手橋、地蔵橋、庚申橋などの名前が文献に見られますが、こ
   の付近(小梅児童遊園)にも八反目橋が架けられていました。この辺りの小梅という地名
   は、元は梅香原(うめがはら)と呼ばれる梅の木が多い地域だったことによるもので、八
   反目の名も八反梅(80アールの梅林)から来ているとの説もあります。昭和29年6月
   東京都告示によって川としての役割は廃止され、昭和30年代を中心に埋め立てられ、道
   路として整備されました。
   平成5年3月                               墨田区


■中之郷児童遊園
 押上2丁目12番1号にある区立公園。


■乾徳稲荷神社 ◇
 
押上2丁目17番にあるが、周辺の再開発で、金網フェンスの奥に新たに整備されて鎮座ましまし
ている。詳細は不明。
 


海福山
医王院正円寺
 押上2丁目37番4号にある天台宗の寺。高木神社の別当寺でもあった。応仁二年(1468)に
常照法印により創建された。門は木柱で、境内は清浄に保たれた美しい寺だ。本堂左手に地蔵堂。庫
裏は裏にある。
 文化財として正徳三年銘庚申像・享保十九年銘庚申塚・光明真言百万遍塔・寛文二年銘地蔵像・宝
永二年銘地蔵像がある。

 本堂扁額
 本堂正面に掲げてある。

   海 福 山
    黙嘯老衲
     印・印

 石燈籠
 参道左にある。長直は赤穂藩祖。忠臣蔵の浅野内匠頭長矩の祖父。大猷院とは徳川家光だ。この燈
籠は元々寛永寺の大猷院廟所にあったものだが、享保五年(1720)に焼失した。廟統は、家綱の
厳有院廟に合祀され、その後再建されなかった。この燈籠は、その際か、明治の公園化の時に移され
たものだろう。

   奉獻石燈籠壹基
   武州東叡山
   
大猷院 尊前
   慶安四辛卯年十二月二十日 
   従五位下内匠頭源姓浅野氏長直


 
地蔵尊銅製立像
 石燈籠の後ろ、墓石や石造物を積み重ねた上にある。

 
地蔵堂
 3体の地蔵尊が祀られている。

 
石仏群
 地蔵堂の続きにある。庚申塔2基と廻国供養塔。   
 


■高木神社 ◇
 押上2丁目37番9号にある中社。応仁二年(1468)第六天社として創建、旧寺島村大字新田
の鎮守だったという。明治15年村社に列格していた。第六天社の多くが祭神を面足命・惶根命とす
るが、この社では造化三神である高皇産霊神を祭神としている。
 「新編武蔵風土記稿」寺嶋村附持添新田の項に、

   
第六天社。一は真光寺持、一は正圓寺持。

 とあり、「東京都神社名鑑」

   創立年代は詳らかでないが、応仁二年(1468)と伝えられる。旧寺島村大字新田の鎮
   守と崇敬されていた。昔は第六天社といい、文化二年(1805)の書上帳には「拝殿無
   之候、社高一丈一尺」とあり、天台宗正圓寺が別当だった。神仏分離後は社名を高木神社
   と改めた。明治三十五年十月に拝殿を新築し、爾後、神楽殴・神輿庫・社務所等が新築さ
   れた。


 とある。高木神社HPの由緒。

   御由緒
   応仁二年(1468)室町時代の創祀と伝えられており、旧寺島新田の鎮守として崇敬さ
   れ、古くは「第六天社」と呼ばれていました。
   明治時代初期の「神仏分離の制度で『高木神社』と改めました。その社名は御祭神である
   高皇産霊神(たかむすびのかみ)の別名が『高木の神』であるからといわれています。
   かつて境内に大きな臥龍の松があり、曳舟川を上下する舟をはじめ、地域の人々の往来の
   目印となっていました。
   昭和42年1月
   鉄筋コンクリート造りの社殿改築が成り、
   昭和43年11月
   鎮座五百年の式年大祭が行われました。
   平成30年6月
   鎮座五百五十年記念式年大祭を行います。

   
御神徳
   『古事記』において、即位前の神武天皇(初代天皇)の「神武東征」で、熊野から大和に
   侵攻する際、夢の中に現れ助言を行ったとされています。また「天孫降臨」の際には、指
   揮官や策士として天照皇大神(伊勢神宮御祭神)へ助言するなど、政治的な手腕を振るっ
   てきたことから、高皇産霊神が本来の皇祖神とする説もあり、高天原の最高神が天照皇大
   神、その天照皇大神を導く最高司令神が、高皇産霊神といわれています。
   御祭神である高皇産霊神は、「万物生成」「心願成就」「交渉事・相談がまとまる」等の
   尊い御神徳があります。


 
鳥居・社号塔
 社号塔は「御大典記念 氏子中建之」と刻む。

 大灯籠
 鳥居の後ろ、参道左に1基ある。

   紀念献燈
   大正七年拾月建立


 
記念水盤
 紀宮の結婚を記念して奉納された。

   奉納
   紀宮清子内親王殿下
   御結婚記念
    (株)金子製作所
    (有)明正
       丸山硝子店
   平成十七年十一月吉日


 
石燈籠①
 参道右手にある。

 
奉納記念樹の碑
 右手にある。

 
山玉向島講社碑
 自然石に山玉のマーク、「廿三夜」、講印を刻む。区の説明板は以下の通り。

   墨田区登録文化財
   
山玉向島講社の碑
   山玉向島講社は、かつて向島地域にあった富士講(富士山を信仰する人々の団体)の一つ
   です。講印から、江戸時代後期に成立した山玉深川元講から分かれた講だと考えられます。
   講の参会には講印を配した祭祀具が用いられ、富士山登拝の際には、富士吉田の御師「大
   番城」の屋敷に宿泊していました。沿革は不明ですが、明治7年と記された祭祀具が伝え
   られており、大正期には講員が100名以上であったと推定されています。本碑は、その
   山玉向島講社の人々が明治31年9月に建立したものです。
   本碑には、正面に山玉向島講の講印が彫刻され、その中に「廿三夜」と刻まれています。
   これは、山玉向島講社の人々が参会する日を示すと考えられます。また裏面には建立にか
   かわった世話人16名の名が居住地別に刻まれ、建立当時の講社に先達、講元などの役割
   があり、当時の中心メンバーが須崎・中之郷寺島の住人で構成されていたことを示して
   います。16名のうち、碑銘彫刻師として知られる三代目宮亀年(元宮亀吉)が名を連ね
   ており、碑刻者と推定されます。
   世話人の経歴を調べてみると、須崎の人々は墨堤常夜燈(墨田区登録有形文化財)の奉納、
   寺島の人々は寺島小学校の創立というように地域をあげての事業に関わる有力者層でした。
   碑に刻まれた須崎、中之郷、寺島の三区域の範囲は、向島地域にあって大きい部分を占め
   山玉向島講社がそれまでの社会生活上のつながりを超えた広がりをもっていたことが分り
   ます。
   山王向島講社は第二次大戦中に活動をを停止したと考えられ、その具体的な活動を知るこ
   とは難しくなっています。この山玉向島講社の碑は、近代の墨田区における信仰と、地域
   の結びつきの広がりを理解するために欠くことのできない文化財といえます。
   平成23年3月                         墨田区教育委員会


 唐獅子一対
 社前にある。

   奉獻
   海福山
   正圓寺
    現住順靜代


 拝殿扁額
 西川春洞の書。

   高木神社
   春洞居士讓拜題
       印 印


 
高皇産霊大神碑
 社前右にある。

   應仁二年
   鎮  祭 
高皇産靈大神

 
石燈籠②
 社前右手にある。明治35年の建立。

   奉 納
   寺島村
     箱植 萩原幸右衛門


 
常夜燈
 社殿右横にある。火袋は欠損し石柱のみ。大正12年12月の建立。

   
常夜燈

 
石燈籠➂
 社殿左横に一対ある。 


飛木山普門院円通寺
 押上2丁目39番6号にある天台宗の寺。旧浅草寺末で、応仁元年(1467)に良秀法印を開山
として創建したという。南葛八十八ヶ所霊場62番札所だ。
隣接の飛木稲荷神社の別当寺だった。墓
地は道路向かいにある。「新編武蔵風土記稿」に、


   円通寺
   天台宗江戸浅草寺の末。飛木山普門院と号す。開山良秀応仁元年正月三日寂す。本尊弥陀
   傍に不動を置。
   地蔵堂。弥陀堂、往来を隔て向の墓所にあれとここも当寺除地の内なりと云。地蔵を相座
   とす。

 とあり、『すみだの史跡文化財めぐり』に、

   飛木山普門院といい、かつて浅草寺末の天台宗の寺院で、本尊は阿弥陀如来です。良秀法
   印を開山として、応仁元年(1467)に創建されたと伝えられています。
   なお、庫裡裏の合祀墓域には、高さ60cmの石柱に笠を戴いた享保十四年(1729)
   銘の庚申尊石燈籠があります。


 とある。

 
山門
 寺号表札が掛けてある。振り返れば山門越しにスカイツリーが聳え立つ。

 
北向地蔵
 門内参道右手にある。請地町念佛講の花活けがある。脚気地蔵とも鬼灯地蔵とも呼ばれる。明治時
代に土地の人が発見、地中から掘り起こしたものだそうだ。
足元を囲む水盤の水で手を清めたのち、
束子で地蔵を洗えば脚気をはじめ足の諸病が治るとの言い伝えがある。名前の由来はお地蔵様を洗っ
たら、ほうずきを二つお寺から頂き、一つは二勺(36ml)の水で実を煎じて飲み、袋は天井から
吊るす。もう一つは光明真言を唱えながら患部を擦る。擦った方は川に流し、袋は病が治ったら新し
いほうずき二つを添えて地蔵に供える。


 明暦二年銘地蔵菩薩立像
 門内参道右手、北向地蔵の続きにある舟形浮彫2基。。
 
   〈墨田区登録文化財〉
   明暦二年銘地蔵菩薩立像(明暦二年二月吉日銘)
   
所在 墨田区押上二丁目三十九番六号 円通寺内
   錫杖の一部に欠損あるのは惜しまれますが、ほぼ原形を保ち、区内でも最古に属する石仏
   です。尊像の顔貌は童顔に満ちていて、江戸初期の佳作にふさわしいもおです。
   舟形光背は細身で、尊像の丈に比べて不似合いなほど大きくし、上端に反りを持たせた江
   戸期特有の形態を示しています。
   銘を

    干時明暦二年丙甲
    奉造立地蔵大菩薩為寒念佛供養也
    殊者当村血縁衆為菩提也
    二 月 吉 日

   としています。この地蔵菩薩は寺島村新田(旧称)の、地蔵講中による「寒念仏」を修し
   たことを記念していると同時に、結縁衆の「菩提」を弔うために造立・奉納されたもので
   もあります。かつての村落共同体による地蔵講・観音講・庚申講などが、ほとんど姿を消
   してしまったことは惜しまれます。
   平成7年3月                               墨田区


 大東亜戦争殉難者の碑
 明暦地蔵の先の植込みにある。

   
大東亜戦争殉難者之碑

 十二支像
 参道左にある。近年の設置で真新しい。ちょっと違和感がある。

 
お地蔵さん
 小坊主のようなマンガチックな愛らしい地蔵尊。近年の建立。

 
六地蔵
 参道左に並んでいる。マンガチックなお地蔵さん6体。

 
番傘型の石燈籠
 参道左、六地蔵の先にある。これもマンガチック。

 
ワンちゃん水盤
 参道左にある。2匹のワンちゃん、3人の小僧のマンガチックな像5体。

 
小坊主雪舟など3体とふっくら狸
 参道左にある。マンガチックな石像の羅列。

 
九重塔
 参道左にある。大きなものではない。

 
得度式記念泰平型石燈籠と碑
 本堂前左に並んである。

   泰平型灯篭一基
   
得度式記念
   昭和五十六年七月二十日


 
銅燈籠
 本堂前左にある。

   
伊藤家先祖代々 諸精霊供養也
           
施主 伊東親介
          地平天成
   内平外成   副住職 良


 銅燈籠
 本堂前右にある。

   天下泰平   国土安穏
   寺内安全   息災延命
   平成三年   七月吉日
   圓通寺住職  教正世代


 
無縁石仏群
 墓碑や庚申塔、地蔵尊、如意輪観音など様々な石仏が2ヶ所に纏められている。墓地にあったもの
もあるだろうが、村のあちこちに祀られていたものが、邪魔にされ、捨て所もなく持ち込まれたもの
だろう。使い捨てか。 
 


■飛木稲荷神社 ◇
 押上2丁目39番6号にある大社。入口は円通寺と共有だ。伝承によれば、昔の或る時、暴風雨の
際にどこからか銀杏の枝が飛んできて、この地に刺さったとのこと。それが何時しか根付き、大きく
なったので、これはおかしいと慌てて稲荷神社を祀ったのが初めであるといわれている。

   言い伝えによると鎌倉幕府の滅亡後、北条氏の一門が逃れてこの地に転住し、稲荷大明神
   を奉祀したのに始まるとされています。別の言い伝えでは、ある時、暴風雨の際にイチョ
   ウの枝が飛んできてこの地に刺さり、いつの間にか亭々とそびえたので、時の人が瑞兆で
   あるとして稲荷神社を祀ったともいわれています。また当社は古来「請地の七竈」といわ
   れ、明治2年の「神社明細帳」には、応仁二年(1468)の創建とされています。


 『新編武蔵風土記稿』に、

   稲荷社
   村の鎮守なり。本地十一面観音、円通寺の持。社前に銀杏の老樹あり。この木、元は隣村
   寺嶋の耕地にありしか、不測に爰に移れり。故に彼処を飛木耕地と称し、此社を飛木稲荷
   と号すといへり。末社山王。


 とあり、『東京都神社名鑑』には、

   草創の資料はないが、明治二年(一四六八)の神社明細帳によれば応仁二年と記されてい
   る。境内の大いちょうはその由来の古いことを物語っている。飛木稲荷の名もこの御神木
   によるといわれる。鎌倉覆滅した北條氏の一門がこの地に転住して、稲荷大神を祀ったも
   のといわれる。旧請地村の鎮守である。

 社号塔
 入口左にある。

 正面  
飛木稲荷神社
      正二位伯爵清浦奎吾拜

 右面  
昭和十年一月一日建之

 裏面  
奉 當所
        瀧澤磯右衛門
     納  瀧澤 つぎ子
             石喜刻

 神狐一対
 鳥居の前にある。2基とも台座に「請地町 高畠健治  吾嬬町 齋藤喜藤次  昭和廿九年九月
吉日」と刻む。昭和10年と思えないほど真新しい。

 
幟台
 神狐の横にある。昭和8年の設置。

   
国威発揚

 樹皮を戦火に焼かれた銀杏

 
神木として祀られている。戦災により黒焦げとなったが、再び繁茂して悠久の生命を伝えている。
この大銀杏は、神社の名前にも由来する神木で、樹齢は約500~600年といわれ、区の保護指定
を受けている。区保護樹木の内で一番大きいだろう。区の説明板は次の通り。

   飛木稲荷神社のいちょう 
                   所在 墨田区押上2丁目39番6号 飛木稲荷神社内
   神社の名前に由来する御神木で、目通り約4.8メートルもあり、樹齢も五から六百年はく
   だらない区内随一の大木です。戦災で一部が焼失し、樹高も十五メートルと低いが、近年
   いきおいを盛り返し、樹形も整ってきています。江戸時代以前、このあたりは利根川(瀬
   替以前)の川口で、川の運ぶ堆積物により陸地化が進んできたところです。葛西地域の西
   の海岸線の一部となっており、平安、鎌倉時代のあたりから、後の本所、向島の境ともな
   る古川沿いに自然堤防となっていたと推定されます。江戸時代この辺りは寺島新田と呼ば
   れ、順次開拓されていく様子も窺えます。このいちょうの大木は、その自然堤防に育った
   歴史の証しといえます。
   平成3年3月                               墨田区

   
飛木稲荷神社の縁起と由来について
   ○鎮座地 東京都墨田区押上2丁目
   ○祭 神 宇迦之御霊神
    一般に「おいなりさん」と言われ親しまれている神様で農工・殖産・生活の加護にお働
    きのある神様であります。
   ○神木 いちょう
    樹令千年をこえると言われ、戦火(昭和20年3月9日)により、損傷を受けましたが
    ご覧のように元気に繁茂しております。
    古老の言い伝えによれば、大昔のある時、暴風雨の際、どこからかいちょうの枝が飛ん
    で来て、刺さったとのことです。そしていつの間にか亭亭とそびえたので、時の人が、
    これは異状のことであるとして、稲荷神社をお祀りしたのが始めであると言われており
    ます。飛木稲荷の名もこれから起ったものです。
    お祀りした時代については、当地は再三の水害・火災等により旧家や円通寺等では、古
    い書物が失われて詳しいことはわかりませんが、旧幕社寺奉行書によれば応仁二年(西
    暦1468年)とありますが、おそらくそれ以前であると思われます。
   ○お稲荷さんときつね
    稲荷神社には石ぎつねがあり、またせともののきつねがたくさんあるので、きつねがお
    稲荷さんと思われがちです。そのことは、稲荷神社が最初に祀られた京都伏見稲荷神社
    境内のお山にきつねがたくさん住んでいたことから、きつねは、お稲荷さんのお使いで
    あるとという信仰が生まれました。この信仰から神社の前に置かれるようになったもの
    です。
   ○境内社
    日 枝 神 社 祭神・大山祇神
    奥社稲荷神社 祭神・本社と同じ
   寄進・昭和52年7月吉日                   押上三丁目 伸成睦

 石鳥居銅製掲額
 内鳥居。昭和62年6月建立。

   飛木稲荷神社
   元公爵一條實孝謹書


 
水盤
 何の創立か不明。町会の創立なのか?

   昭和九年六月吉日
   創立十年記念
   宮本町會

 
力石
 水盤の続きにある。

   
奉納 四拾五貫目

 
神狐一対
 社前にある。

   押上一丁目
    多賀和弘
    高畠長三郎
   昭和六十三年十一月吉日


 
社殿掲額
 社殿正面に掲げられている。

   飛木稲荷神社
   元公爵一條實孝謹書


 
奉納額
 社殿左面壁上部に掲げられている。連名の中央に、

   飛木稲荷神社
   元公爵一條實孝謹書


 
横の鳥居・銅額
 横入口にある。鳥居の柱には、

   奉  昭和十年初午建之
   納  吾嬬町 深井豊吉

 とあり、銅額は、

   飛木稲荷神社
   正二位伯爵清浦奎吾拜

 とある。

 
自然石水盤
 境内日枝社。

 
日枝社
 境内にある小祠。覆屋も立派。社前の石燈籠一対は「天保七年十一月吉日」に「氏子中」の建立。

 
奥社
 裏手奥にある。神狐一対、海月のような石燈籠、献灯石柱、奥の横手に狐像多数。

 
狐穴石祠
 奥社裏手にある。

 
石祠
 奥社の横手奥にある小祠。神狐一対、石燈籠一対、その他石造物がある。
 


■変身写真館 Metalily
 押上3丁目1番8大宮ビル2階にある伝統衣装と変わり種コスチューム、背景幕、パッケージ・プ
ランが用意されている女性向けの写真スタジオ。


東京油田化計画
 押上3丁目32番3号にある染谷商店は、昭和24年に開業した廃油処理業者で、その染谷商店の
社長染谷武男の夢は「この東京で自然に優しい軽油(VDF)を大量生産すること」だ。
 我が日本国内で消費される食油は年間200万tで、廃食油は40万t。その内、飲食店や食品関
係企業から回収される廃食油は20万tで、回収された後、飼料・石鹸・塗料などに再生される一方
で、一般家庭などで出される残り20万tの廃食油は、固形化されて捨てられるか、生活排水に混ぜ
られて河川に流され環境破壊の原因ともなっている。

 廃食油は資源に生まれ変わる。

 昭和60年代、染谷商店は経営の危機に立たされていた。レストランなどの外食産業を中心に、廃
食油を回収し、塗料・肥料・飼料・石鹸などに再加工し販売することを業としている。同55年頃に
始まった円高は、円を一$=250円から150円へと急騰させ、輸入される新品の油が廃食油より
も安くなるという事態を招いた。染谷武男は「なんとかしなければ」と焦っていたが、工場近くの空
き地には、回収した廃食油の缶が山と積まれた。そして同67年の暮れ、武男は一つの新聞記事に巡
り合う、

 
アメリカのミズーリ州の空港では、大豆油から作られたディーゼルでバス二百台が走っている

 ウチでもできないものか! 武男は動き出した。
 武男は中学卒業と同時に、長男故に父権五郎を支えるため、家業である廃食油処理業に参入した。
戦前は食堂を営んでいた権五郎は、時折、武男に「これは俺の仮の商売だ」との寂しい思いを吐露し
ていた。人が捨てるものを頭を下げて集めて、加工工程では悪臭も出す。脱臭装置もなかった時代、
工場からの悪臭は鼻が曲がるくらいだったという。そして、武男もまた、家業に誇りをもてないでい
た。しかし1つの言葉が人生を変えた。

 
低く狭く小さく。自分の立場を低くし、物事に集中的に取組み、小さいものを大切にしなさい

 との言葉に、それまでは汚かっただけの廃食油が、天からの授かりものに変わったのだ。
 とはいっても、時代は既に若者の3K離れの時代に入っていた。染谷さんの周辺でも、家業の廃食
油回収に参入する2世はいなくなり、さらに円高で、廃食油を加工しても売り先がなくなった。相当
数の同業者が淘汰されていった。そんな時に出会ったのが、『大豆油バス』の記事だった。
 武男は、店の技術者の河本司郎と研究に取り掛かる。技術論としては難しいものではない。廃油か
らカスや水分を除去し、温度を上げて、触媒とメチルアルコールを入れてグリセリンなどを分離。た
だ前例がなかったのは、この技術を実践した人が世界で誰もいなかったことだ。ビーカー実験から始
まった研究は、廃品も利用してのプラント作りに発展し、透明の新軽油が完成したのは半年後の平成
5年6月。VDF(Vegetable Diesel Fuel=植物性ディーゼル燃料)と名づけられた新軽油は、
燃費やパワーも問題なし。さらに硫黄酸化物を含まず、黒煙が従来の3分の1という優れた低公害性
を持っている。
 VDFは1l80円。口コミで徐々に広がり、今では1日に1t前後を売り上げるまでになってい
る。だが染谷さんはここからさらに考えた。そして平成5年4月VDFの開発の真最中、農業を勉強
すべく、都立農産高校農産科の定時制に入学、奈良県の自然農法家川口由一の農場を訪ね、自然農業
も勉強した。時に56歳だ。
 「環境に優しいVDFといっても、まだ二酸化炭素は出すんです。大気汚染や温暖化の原因である
ことには変わりません。私は木を植えたいと思ったんです。二酸化炭素を吸収もするし、その土地で
菜種を栽培したら、その菜種油からVDFも作れますね。これはすべて循環するぞと」
 さてそんな武男にとって嬉しい誤算だったのは、4人の子供の内の3人が、VDF開発前の厳しい
時代に事業に参入してきたことだ。
 その1人、次女のゆみは、高校卒業後、アジア放浪をしたり、職を転々としていたが、請われるま
ま、何気なく工場の仕事を手伝った。回収されてきた廃食油の一斗缶をトラックから下ろしたり、計
りにかけたりする内に、たちまち「面白い!」との思いに囚われた。
「なぜかわくわくしたんです。工場が発している気がぴったりきたというか、これが求めていたもの
なんだって」 そして父に言った――「ウチの商売は絶対これからトレンドになるよ!」。権五郎の
言葉とは隔世の感がある。ゆみは即入社した。まず提案したのが、その時他社に任せていた廃食油の
回収を自分たちでやるべきということだった。「だったら、ゆみちゃん、自分でやりなさい」。
 ※ここからのゆみについては、八広の「TOKYO油田2017」へ

 会長となった武男は、VDF(ベジタブル・ディーゼル・ヒューエル)に関しては、宣伝らしい宣
伝を殆どしていない。だが前へ前へと進む運動は、いつの世も自然と周りを巻き込んでいくものだ。
 目黒区に、自然食品店やアウトドア用品など8店舗が入った「サンクスネイチャー」という商業施
設がある。ここが買物客のため、VDFを燃料にした無料送迎バスを走らせている。また有機作物の
宅配をする「大地を守る会」の配送車もVDFを使用。
 脱サラをし、自ら廃食油回収業を始めた青年もいる。彼は回収した廃食油を染谷商店に持ち込み、
VDFを買って持ち帰り、横浜でVDF給油所を経営している。家庭で使ったてんぷら油を集団回収
して、染谷商店に送るという市民運動も始まった。広島市と佐賀県鳥栖市にVDFプラントが1基づ
つ納入された。とはいえ、経営回復のために巨費を投じて始めたVDFも、採算ギリギリで売ってい
るから儲けはまずないという。だがやって良かったと武男はいう。
「環境問題に興味を持ち、農業を志して良かったと思います。この年になってからも、私には多くの
知り合いができました」
 VDF開発に乗り出したのが56歳。近い将来に創設予定の「染谷農場」の実現に向けて、東奔西
走の毎日だ。後には娘たちが続く。
 


福聚山慈眼院正観寺
 押上3丁目32番4号にある天台宗の寺。本尊は阿弥陀如来。平安時代の初め天長年間(824~
833)慈覚大師によって草創され、江戸時代には天台宗江戸3ヶ寺(浅草寺、観理院、東光院)に
数えられた名刹浅草東光院の末寺。都営地下鉄押上駅を出ると、新東京タワーに出る。駅前の四つ目
通りから新あづま通りに入り、下町の雰囲気が漂う商店街を歩いて行くと左手に山門が見えてくる。
 文禄二年(1593)
浅草寺の中興忠尊和尚によって開基した。浅草東光院の末寺、南葛八十八ヶ
所霊場67番札所。「新編武蔵風土記稿」に、

   正観寺
   同宗(天台宗)浅草東光院の末、福聚山慈眼院と号す。本尊阿弥陀、傍に観音あり。開山
   重奮承応二年五月二十五日死す。客殿に聖天あり。
   地蔵堂。本尊の外、弥陀をも置り共に石像なり。


 とある。
 


■第二吾嬬小学校 廃校
 押上3丁目46番17号にあった区立校。明治26年「吾嬬村村立第二吾嬬尋常小学校」として児
童20名で開校。
翌27年花火の不発弾により燃え広がった向島須崎の大火で校舎を全焼。そのため
仮校舎は飛木神社前、請地5番地に移り、茅葺屋根の1教室で1年生から4年生までが一緒に勉強し
た。同30年東京府南葛飾郡大字請地20番地(現在の押上3丁目交差点のところ)に落成した新校
舎は、瓦葺きの廊下のある1教室だった。当時の教師は紋付袴、一人で授業から事務一切を取り扱っ
た。当時学校は水田や蓮田に囲まれた長閑なもので、蛙の声を聞きながらの授業は田舎の学校そのも
のだった。指導科目は国語・算術・体操・修身・唱歌の5教科。国語は教師が「ハタ・タコ・コマ」
と読むと、生徒が声を合わせて追読したり、書き取りしたり、体操は校庭で飛んだり跳ねたり、唱歌
は、オルガンもないので先生の指揮棒に合わせて歌うだけという有様だ。これを1人で4学年を受け
持っていたんだから、今の教師は天国にいるのと同じだぜ。同30年請地793番地に校舎が新築さ
れ移転。その内生徒も増え、同40年校舎増築、教師も派遣されてきて、オルガンも入り、唱歌の時
間は楽しくなった。同45年尋常6年制となり、6学級となる。
 大正時代に入っても環境に大した変わりはなく、蓮の花や黄金色の稲穂が美しかった。同4年校舎
増築、10学級に。同6年津波のため床上浸水30cm。同10年高等科を併置して「吾嬬村立第二
吾嬬尋常高等小学校」と改称。同11年7教室増築。同12年9月1日関東大震災が発生、この日は
ちょうど二学期の始業式。式を終えて一息入れていると、地響きに続いて大きな立て揺れと横揺れが
長くあり、新築の2階建ての東校舎がぺしゃんこに倒潰、他は使用不能。附近の家屋もどんどん倒壊
していった。下町は総なめの災禍で地獄絵巻となった。そのため転居したり行方不明となった生徒は
400名に上った。10月8日から残った講堂で二部授業再開。同14年商業補習学校併置。校舎建
築完了。
 昭和2年第四吾嬬尋常小学校開校。校舎貸与(18学級‐911名)。同5年高等科併置廃止につ
き「吾嬬村立立第二吾嬬尋常小学校」に戻称。この頃になると、魚がよく取れた用水も市街地化とと
もに暗渠なり、ニ分された校地も一つなり、広い運動場は徐々に整えられていった。同年11月町制
施行により「吾嬬町立」になるとともに、所番地も吾嬬町西92番地に変更になった。同7年町が東
京市に編入され向島区となったため「東京市第二吾嬬尋常小学校」となった。同8年2階建て校舎6
教室増築落成。同14年校歌制定。作詞宮川宗八 作曲・福井直秋

 同16年勅令148号国民学校令により「東京府東京市第二吾嬬国民学校」と改称。同18年3月
市川市真間に学校農園開く。5月創立50周年記念式典。7月都制施行により「東京都第二吾嬬国民
学校」と改称。同19年夜学校が第三吾嬬小に吸収される。8月
茨城県石下町・下妻町に各3宿舎を
確保して学童疎開。3年生以上児童、508名、教員16名。
鬼怒川或いは小貝川から少し離れた小
さな町の古寺が疎開先だった。
同20年1月27日愚かなアメリカ軍の非人道的無差別空爆で焼夷弾
が校庭に落下炸裂、幸い校舎に被害はなかったが、
3月10日深夜の無差別別空爆により学校は全焼
した。残留生徒は第4吾嬬国民学校に移動。疎開児童の一部が秋田県大館町・扇田町に再疎開、児童
180名、教員18名。8月6日、9日の広島・長崎の原爆投下により、15日日本はアメリカの軍
門に降りポツダム宣言を受諾して敗戦、戦争は終結した。10月疎開解除引き揚げ。
 同21年四吾小から曳舟小学校に移って間借り授業(3教室6学級二部授業)。同22年アメリカ
軍の強制による学校教育法施行により「東京都墨田区立第二吾嬬小学校」と改称。
7~9月仮校舎5
教室が完成して学童が曳舟小から復帰。相変わらず二部授業だった。荒れ果てた校庭は全校生徒で毎
日整備した。また給食とは名ばかりの、100人中100人が、


 
  幾ら食べ物が無かった時代とはいえ、腹の足しにはなるにはなったが、あんな不味い飲物
   は無かった


 と答える給食が出された。ララ物資というアメリカが廃棄処分とした脱脂粉乳をお湯で溶かして、
アルマイトのコップに1杯ずつの代物だ。昭和25年にはパンとミルク(脱脂粉乳)に多少のおかず
のついた完全給食が始まった。最初は希望者だけだったけどね。しかしこれだって決して美味いとい
えたものじゃないよ。パンは3時間も放っておくとカチンカチンになるんだ。同25~27年にかけ
て校舎が増築された。同27年10月職員と生徒がモッコを担いで、1年以上、石や土を運んだ野外
ステージが完成した。これは全国的にも珍しく、学芸会や七夕まつりなどに使われた。同28年校旗
校歌制定。創立60周年記念式典。

 校歌
「隅田の流れ」 作詞作曲・野上彰  編曲・宅孝二

  1.隅田の流れ豊かに巡り
    春の雲の輝く時
    生命新たに
    望みに溢れて吾は集う
    母校ぞ 第ニ吾嬬小学校
  2 真理の道に 正義の道に
    世紀の旗 になうものと
    つねに思えよ
    つらぬきとうせよ われらの使命
    母校ぞ 第二吾嬬小学校
  3.清らにひびく 窓打つ風も
    秋の空を 渡り鳥の
    声のとおれば
    心をひそめて われらは学ぶ
    母校ぞ 第二吾嬬小学校
  4.知識を求め 六年をここに
    聖なる手に 選ばれたる
    幸を思えよ 
    歴史のいしずえ われらもきずく
    母校ぞ 第二吾嬬小学校


 同29~30年校舎増築。校舎増築・校庭舗装。同35年校舎増改築。同36年体育館完成。同3
7年野外ステージが解体されプールが造られた。同38年創立70周年記念式典。同45年第一期鉄
筋校舎8教室落成。同46年第二期鉄筋校舎8教室・資料室、新プール落成。同47年第三期鉄筋校
舎3教室・3特別教室・職員室・給食室・保健室・放送室など落成。校庭舗装、緑地・砂場・池など
完成。同48年創立80周年記念式典。同49年校庭西側緑化。同53年音楽室・図書室改修。校庭
舗装。同58年創立90周年記念式典。同59年屋根付き自転車置場完成。

 
平成7年体育館・プール完成。創立100周年記念式典。同11年創立105年を数えるさしもの
伝統校も、就学児童の減少という少子化の波には勝てず、西吾嬬・文花両校と統合され閉校、新たに
「押上小学校」として再出発した。

 
運動会の歌
  1.はためく旗を青空に
    あおげば意気がもえ上がる
    こ胸 この足 この腕(かいな)
    元気いっぱい 走れ飛べ
    今日は楽しい 運動会
  2.高なる合図 風切れば
    轟く拍手 応援歌
    綱引き 騎馬戦 徒競走
    元気一杯 歌おうよ
    今日は楽しい 運動会

 赤組応援歌

    青空のもと 元気よく
    力をあわせ がんばろう  
    赤勝て 赤勝て
    フレフレフレフレ  
    赤勝て 赤勝て
    フレフレフレフレ


 
白組応援歌

    みんなにこにこ 元気よく
    力いっぱい 一 二 三
    (手拍子)

    フレ白 フレ白
    フレフレフレフレ
 


■押上小学校
 押上3丁目46番17号にある区立校。平成11年吾嬬第二小学校、西吾嬬小学校、文化小学校
が統合してできた新設校。校地は西吾嬬小学校を仮校舎とし、吾嬬第二小学校跡地に新校舎を建て
て移転した。

 校歌「青い空」 作詞作曲・渡辺茂
  1.青い空 見上げて
    大きな夢をむねに
    みんな仲良く肩くんで
    楽しく勉強
    明るい友だち
    押上 押上 みんなの学校
    押上小学校
  2.白い雲 見つめて
    大きな夢をむねに
    みんな笑顔で手をつなぎ
    元気に運動
    明るい友だち
    押上 押上 みんなの学校
    押上小学校
  3.高い空 見上げて
    大きな夢をむねに
    みんなやさしく目をあげて
    にっこり笑う
    明るい友だち
    押上 押上 みんなの学校
    押上小学校
 


富士塚
 押上3丁目49番7号清水宅にあると噂される。外観ありそうだ。。


押上第一児童遊園
 押上3丁目48番1号にある


■専養寺東京子院
 押上3丁目52番11号にある浄土真宗大谷派の寺。 


押上第二児童遊園
 押上3丁目57番3号にある区立公園。
 



【亀沢】(かめざわ)1~4丁目                 昭和41年10月1日
 亀沢町。元禄七年(1694)に本所地割並馬場□□守の拝領地となり、宝永四年(1707)
に本所中下水埋樋請負人の拝領地となり町屋が許された。このときの町域は現在の両国3丁目35
番・36番・4丁目30番3ヶ所の内ごく僅かの地だった。明治11年「郡区町村編制令」により
本所区に所属。昭和4~5年一部を緑町と石原町に割き、同時に緑町1~5丁目・三笠町・長岡町
・清水町・永倉町・長崎町・南葉町の全部または一部をあわせて亀沢町1~4丁目、同22年本所
区と向島区が合併して墨田区亀沢町となる。同41年新住居表示を実施して現行の「亀沢」とした。
昔の亀沢町とは無縁の地だ。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『墨田区史』『墨田の歴史』など。

 亀沢の由来
 
荒川助九郎匡富(まさとみ)の預かり地内(現両国小学校)の池に大きな亀が棲んでいたとこと
から、池を「亀沢ノ池」と呼んでいたことによる。幕末この地にあった男谷精一郎邸内であの勝海
舟が誕生した。また幕末の地図(3丁目19番辺り)に長谷川平蔵とある。『鬼平犯科帳』の〝鬼の
平蔵〟の子孫だろうか? 大名じゃないから小っちゃなものだ。
 


■南割下水跡(北斎通り)
 亀沢1丁目の江戸東京博物館前交差点から東へ大横川まで道路の道路の中央にあった掘割。溝より
も大きく用水路のようだった。湿地帯を築地して造成された本所は、水捌けが悪いので水捌けのため
に掘られた排水路。両国橋(仮橋)が架かった翌年の万治三年(1660)に完成した。湿地の水を
抜こうとする時、穴を掘ると不思議と湿地全体の水が穴に集まってきて、陸地となった部分が乾燥す
る。こういう知恵を古代人は知っていて、そういった水抜き穴を「蒲池(かまち)」といった。松田
聖子(蒲池法子)や酒井泉水(蒲池幸子)の先祖はそういったところに起こったのだろう。九州に多
い姓だ。因みに両国橋は万治二年(1659)に仮橋、翌三年両国橋と命名、それまでは大橋。寛文
元年(1661)三月に本橋が竣工した。
 割下水は下水路ではあるが、汚くはなかった。昔の人は、生活用水を無闇に流さず米の砥ぎ汁も拭
き掃除に用いたり、草花に与えたりした。主に雨水の排水路で川魚・沢蟹・蛙など沢山の生物が棲ん
でいた。

   井出よりも蛙の多い割下水
 
 江戸時代の川柳だが、京都の井出の玉川より蛙が多いと皮肉った。本所には、北割下水(現在の春
日通り)と南割下水とがあったが、単に割下水と云う場合は南割下水を指した。亦、その一帯の地名
でもあり、最近(北斎通りと云い出す前)まで割下水で通用した。
で、御竹蔵の東から横川までの長さ約1km、水幅約9尺(約1.6m)。 横川から東の割下水は錦
糸町の語源となった錦糸堀だ。割下水の傍には近藤弥之助のほか勝小吉(海舟の父)縁の天野左京や
山口鉄五郎、岡野孫一郎、青木甚平も住んでいたし、葛飾北斎(生誕地不詳)や山岡鉄舟もこの近辺
で生れたとされ 明治初期には三遊亭円朝や河竹黙阿弥も居住した。

   江戸の町
   
南割下水  7
   明暦の大火後に、幕府は本所深川の本格的な開発に乗り出します。まず着手したのは、竪
   川、大横川、北十間川、横十間川などの運河と掘割の開削、さらには両国橋の架橋です。
   掘割の一つが南割下水て、雨水を集めて川へ導くために開削されたものです。現在の春日
   通りにあたる北には北割下水も振られました。
   割下水の幅は一間ないし二間(約3.6m)足らずで、水も読み、暗く寂しい場所でしたの
   で、本所七不思議の「津軽屋敷の太鼓」「消えずの行灯」「足洗い屋敷」の舞台にもなり
   ました。
   南割下水は昭和初期に埋め立てられましたが、この付近で葛飾北斎が生まれたところから
   今では「北斎通り」と名を変えています。この辺りには、三遊亭円朝や歌舞伎作者の河竹
   黙阿弥も住んでいました。
 


■江川太郎左衛門屋敷跡・終焉の地
 亀沢1丁目3番12号の植田ハイツ前の歩道端に標柱が建っている。
太郎左衛門は代々引き継く通
り名で、正式には江川太郎左衛門英龍という。元々は、静岡県伊豆韮山代官で、伊豆韮山に記念館な
どがある。英龍は、海防を重要性を訴え、反射炉を築き、お台場を造成し、日本に西洋砲術を普及さ
せた幕末の幕臣で、「世直し江川大明神」と呼ばれた。ペリー来航の後処理として、勘定吟味役に任
ぜられ、嘉永年間に江戸に招聘され、品川砲台やお台場建設に当たり、亡くなるまでの数年間の安政
六年まで、この地に住んだ。その際、佐久間象山なども弟子入りしている。緒形洪庵による種痘の接
種にも幕臣として非常に協力したともいわれている。またジョン万次郎も英龍の通訳として、ここに
居候して英語塾を開いていた。そこに坂本龍馬や桂小五郎なども頻繁に立ち寄ったという。
 また、
パン祖といわれ、日本で初めてパンを焼いた人だともいわれている。

   江川太郎左衛門屋敷跡        所在地 墨田区亀沢1丁目3番
    

   平成28年2月                         墨田区教育委員会


    


■笠門稲荷社 ◇
 亀沢1丁目3番2号にある小祠。道路に面しておらず、路地を入った駐車場の奥に鎮座する。普通
なら気が付かない場所にある。祠の周りは自転車やバイク置き場になってしまっており、残念ではあ
る。創建時期は不明。「笠間」でもないらしい。
 


江戸蕎麦ほそ川
 亀沢1丁目6番5号にある蕎麦屋。初め埼玉で蕎麦屋を営んでいた細川貴志が、平成15年現在地
に引越してきた。築地に近いところを選んだのは、毎日新鮮な素材を仕入れるため。蕎麦の質は材料
で決まるという細川は、茨城に自家農園を持ち、自ら蕎麦栽培に取り組んでいる。足りない時は近所
からも仕入れる。その日に使う量だけを自家製粉し、蕎麦粉10割で打つ蕎麦は、細切りで喉越しも
良く、濃いめのつゆとの相性がいい。簡素な店内には4卓の相席テーブルと個室が1部屋のみで、珪
藻土の壁に囲まれ、温かみのある明かりが落ち着いた雰囲気を醸し出している。土日祝祭日の予約は
受付けないが、平日はOKだ。大人の隠れ家として静かに蕎麦を味わって欲しいため小学生以下の同
伴は断っている。
 11時45分~15時 17時半~21時 03‐3626‐1125

 ミシュランガイド東京 
 『2009』~『2014』6年連続して星1つを取っている。
 


■八角部屋
 亀沢1丁目16番1号にある高砂一門の相撲部屋。平成4年5月場所限りで引退した九重部屋(5
2人目横綱北の富士勝昭)の61人目横綱北勝海(ほくとうみ)は、年寄八角を襲名して九重部屋の
部屋付き親方として後進の指導にあたっていたが、同5年10月に4人の内弟子を連れて九重部屋か
ら分家独立して八角部屋を創設した。現在その内弟子から、北勝力ら2人の幕内力士が育っている。
師匠の現役時代の四股名だった「保志」「北勝」の字がついた力士が多い。八角部屋は北の富士がか
つて利用していた「井筒部屋→九重部屋」を使用しており、九重部屋の部屋付き親方だった全員(陣
幕・君ヶ濱・谷川)も八角部屋に移籍している。このため、九重部屋からの分家独立というより、か
つての北の富士の井筒部屋が師匠・名称を変えて再興されたようなものだ。

 かつての八角部屋
 雷部屋(15人目横綱初代梅ヶ谷所属の元関脇大鳴戸が師匠死去後に二枚鑑札で八角を襲名し、八
角部屋を経営していた。そして昭和3年に雷部屋の力士たちを預かっていた白玉親方(関脇玉椿)が
亡くなると、雷部屋の力士たちは八角部屋に移籍した。しかし、幕内雷ノ峰伊助はすぐに立浪部屋に
移り、残った弟子たちの中から番神山政三郎が十両に昇進したに止まり、同8年に鏡山部屋に弟子を
譲って部屋を閉じた。
 


■錦戸部屋
 亀沢1丁目16番7号にある高砂一門の相撲部屋。平成12年9月場所限りで引退した高砂部屋(小
結富士錦)所属の元関脇水戸泉は、年寄錦戸を襲名して高砂部屋の部屋付き親方として後進の指導に
あたっていたが、同14年高砂部屋から分家独立して錦戸部屋を創設した。まだ関取はいないが数々
の個性派力士がおり、四股名に出身地を入れるのが特徴。
 


■双葉稲荷神社 ◇
 亀沢1丁目20番12号にある小社。
 


すみだ北斎美術館 
 亀沢2丁目7番2号、緑町公園の南に平成28年11月22日に開館。世界的な画家として評価の
高い葛飾北斎。生まれは、現在の墨田区北斎通り付近にあたる本所割下水で、およそ90年にも及ぶ
長い生涯の内、その殆どを区内で過ごしたといわれる。この場所には、かつて、弘前藩津軽家の大名
屋敷があった。藩主からの依頼で、北斎が屏風に馬の絵を描いたというエピソードが残されているこ
となどから、北斎とも所縁の深い土地であるといえる。
 敷地面積 12547㎡  建築面積 7000㎡  延床面積 33268㎡
 建物の高さ22m、鉄筋コンクリート(一部鉄骨)造り、地上4階・地下1階
 すみだ北斎美術館では、葛飾北斎が残した多くの名作を展示。館内は4階に常設展示室、3~4階
に企画展示室を配置。様々な企画を通して、北斎とすみだとの関わりについて伝えていく。
 「常設展示室」は7つのエリアで構成。各時代の代表作をエピソードと交えて紹介するコーナーや
浮世絵の製作工程を映像で紹介するエリアを展開。また作品だけではなく、リアルに再現した北斎の
アトリエも見どころだ。北斎の90年にも及ぶ生涯に沿って、各時代の代表作(実物大高精細レプリ
カ)などを展示するコーナー。勝川派や江戸琳派での活躍に加え、墨色中心の読本挿絵、そして浮世
絵に風景画という新しいジャンルを生み出した「冨嶽三十六景」などが紹介される。
 注目の1つは、100年以上行方が判らず「幻の傑作」といわれた肉筆画「隅田川両岸景色図巻」
だ。隅田川沿いの景色を西洋画の技法も用いて描かれた長さが凡そ7mに及ぶ作品で、平成26年区
が約15000万円で取得した。

 
アトリエ再現
 門人の露木為一が残した絵を元に再現された北斎のアトリエ。彼は炬燵に半分入りながら熱心に絵
を描き、一緒に暮らす娘の阿栄が傍らで見守っている。北斎を訪ねた人の話しでは、ゴミが散らかっ
ていても意に介さず、平然と絵を書いていたといわれている。


緑町公園
 亀沢2丁目7番7号にある区立公園。

 
国旗掲揚塔残骸
 公園内に残っている。ポールは無い。

   緑町国旗掲揚塔

   昭和五年四月二十九日建之

 
葛飾北斎生誕地
 園内西北角に建ててある説明板。

   絵画と文学
   Birthplace of Ukiyo-e artist, HHokusai
   
葛飾北斎生誕地  51
   宝暦十年(1760)九月二十三日、本所南割下水(墨田区亀沢)に生まれた北斎は、浮
   世絵の役者絵を出発点として、狩野派、光琳派、大和絵など、さまざまな流派の技法を学
   び、新しい画風をどんどん確立させて、多くの名作を遺しました。
   代表作『富嶽三十六景』は、天保二年(1831)から天保四年(1833)にかけて制
   作。とても70歳を過ぎてからの作品とは思えません。80歳を過ぎても創作意欲は衰え
   ず、死の床に就いた嘉永二年(1848)、「あと十年、いや五年でよいから生きさせて
   くれ、そうすれば真の画工になれる」といって息を引き取ったといわれています。常に新
   しい画法に取り組んできた北斎らしい臨終の言葉でした。           基田区

 オブジェ
 水飲みかと思ったら作品だった。


■野見宿禰神社
 
亀沢2丁目8番10号にある中社。創建は明治17年、当時神社東側に高砂浦五郎の高砂部屋があ
り、津軽屋敷跡地に相撲の神様として野見宿禰を祀ったことに始まる。
 野見宿禰は天穂日命から出ており、力が強かったという。垂仁天皇に命じられて当麻蹴速という剛
の者と力を相撲に競って勝った。宿禰はまた垂仁天皇の皇后が崩御した時、それまで慣例だった殉死
の制を止めて、埴輪を作ってその人代わりとした功により、姓を土師臣と賜ったという伝説もある。
土師氏は代々天皇の葬儀を司り、後に姓を菅原に改めた。だから菅原道真は野見宿禰の子孫というこ
とになる。神社には歴代横綱の銘を刻んだ歴代横綱の碑が2基ある。近世以来相撲は回向院境内で、
明治になって両国国技館で行われた因縁による。横綱の碑は富岡八幡にもある。

   大相撲
   Nominosukune Shrine
   
能見宿禰神社  10
   かつてこの東側に相撲の高砂部屋がありました。明治18年に親方の高砂浦五郎が、津軽
   家上屋敷の跡地であったこの地に、相撲の神様として知られる野見宿神を祀ったのが、こ
   の神社の始まりです。
   石垣の石柱には、カ士や相撲関係者の名前が刻まれており、本場所前には必ず、相撲協会
   の神事が行われます。
   境内には、昭和27年に「相撲協会によって建てられた歴代横綱石碑があり、その一基に
   は、初代の明石志賀之助から四十六代朝潮太郎までの名前が、もう一基には四十七代柏戸
   剛以降の名前が刻まれています。           ぶらり両国街かど展実行委員会

 ※現在のものは、2行目の英字がなく、ぶらり・・・が「墨田区」になっている。

 
歴代横綱の碑
 日本相撲協会が建立した。2基は昭和27年に建てたもので。初代明石志賀之助から46人目の朝
汐太郎まで、もう1基は47人目の柏戸剛から72人目の稀勢の里寛が刻んである。5年に1人横綱
が誕生するとして、後130年は大丈夫だ。生存者の四股名には朱が入れられているが、お墓じゃな
いんだから余計なことは止めた方がいい。

   歴代横綱の石碑       所在 墨田区亀沢2丁目8番10号 能見宿禰神社内
   昭和27年2月日本相撲協会によって歴代横綱の碑が2基建てられました。1基は初代明
   石志賀之助から46代朝汐太郎まで、もう一基は47代柏戸剛から68代朝青龍明徳まで
   のに名が刻まれ、追刻できるようになっています。
   この能見宿禰神社は、明治17年に創建され、もと同神社の東側に高砂浦五郎(初代高砂
   親方)の部屋があったとき、浦五郎の尽力で元津軽家の屋敷あとに相撲の神様として能見
   宿禰を祀りました。
   玉垣の石柱には、力士や相撲関係者の名前が刻まれているほか、今でも本場所前には関係
   者らが祈願行事に訪れるなど、角界が厚く信仰する神社であることがわかります。
   平成18年3月                         墨田区教育委員会


■河竹黙阿弥住居跡
 亀沢2丁目11番12号の秀和両国レジデンスのところにあった。江戸末期から明治にかけて歌舞
伎戯作者として活躍した、河竹黙阿弥が死ぬまでの間暮らした住居は、茶室、書斎、土蔵がある20
0坪を越す立派な屋敷だった。河竹黙阿弥は本所、両国、深川等の近辺を歌舞伎の舞台として登場さ
せており、「孝女お竹」という作品では「錦糸堀」の地名を登場させて、この地の名を江戸文学にと
どめた唯一の人物で錦糸町の祖といえる。この「孝女お竹」という作品は十両の借金のために親の仇
討ちにまで至った話で、サラ金が軒を連ねて繁盛する今の錦糸町にはふさわしい。また黙阿弥も若い
頃には放蕩の限りを尽くしたというから、これも今の錦糸町には似合っている。まさに錦糸町の象徴
とするに足る歴史的人物だ。

   河竹黙阿弥終焉の地                 所在地 亀沢2丁目11番
   河竹黙阿弥は坪内逍遥に「江戸演劇の大問屋」と呼ばれた狂言作者です。黙阿弥の本名は
   吉村芳三郎、江戸日本橋の商家に生れるも遊興にふけって勘当され遊蕩三昧の生活を送る
   中で細木香以らと交流を深めました。歌舞伎をはじめ狂歌や茶番などにも興じ、20歳で
   5代目鶴屋南北に入門、勝諺藏を名乗りました。後に2代目河竹新七を襲名し、嘉永七年
   (1854)には河原崎座で初演された「都鳥廓白浪(忍ぶの惣太)」が市川小団次との
   提携で大当たりを取り、「小袖曽我薊色縫(十六夜清心)」「三人吉三廓初買」など現在
   も上演される作品を次々と世に送り出してゆきました。七五調の美しい台詞を巧みに活か
   して幕末の人々生き生きと描き出し、360編に及ぶ作品を残しました。明治の新時代に
   も活躍、明治14年に引退を表明し、黙阿弥と号しましたが、その後も劇作の筆を置くこ
   とはありませんでした。
   明治20年3月、黙阿弥は浅草の自宅を三代目新七に譲り、自身は葦原だった本所南二葉
   町三十一番地(現亀沢2丁目11番)に自宅を新築し移転しました。周囲に堀を巡らせた
   広い新宅は南割下水(現北斎通り)のほど近くにあり、庭には汐入の池や二階建ての土蔵、
   書斎とした四畳半の離れが造られていました。黙阿弥は「本所の師匠」と呼ばれてこの地
   で6年間を過ごし、九代目市川團十郎のために「紅葉狩」三代目尾上菊五郎のために「戻
   橋」などを書き上げました。
   黙阿弥の人柄は彼の作品とは対照的で穏やかで物静かであったとされています。自らの死
   も予期していたのか、黙阿弥は財産分与や蔵書などの整理友人への挨拶まわりなどなすべ
   きことを終えて、明治26年1月22日に77歳の生涯を閉じました。
   平成27年1月                         墨田区教育委員会
  


亀沢第一児童遊園
 亀沢2丁目13番7号にある区立公園。

 
初代三遊亭圓朝住居跡
 園の南端に説明板が建っている。亀沢3丁目20番14号(本所南二葉町23番地)にも住居跡が
ある。

   三遊亭圓朝住居跡               所在地 墨田区亀沢2丁目13番
   三遊亭圓朝(1839~1900)は、江戸時代後期から明治時代にかけて活躍した落語
   家です。本名出沢次郎吉。父は2代目三遊亭圓生の門人橘家圓太郎で、後に圓朝も圓生に
   弟子入りしました。
   初舞台は弘化二年(1845)3月で、小圓太と名乗りますが、異父兄で僧侶の玄昌の勧
   めにより一時高座から離れました。池之端の紙屋葛西屋で奉公したり、玄昌の住まう谷中
   の長安寺に母と同居したのもこの頃で、新作怪談の創作に影響を与えたと考えられていま
   す。
   その後、再び圓生門に戻り17歳で圓朝を称します。人情噺、怪談噺、落し噺などで江戸
   落語を集大成し、とりわけ人情噺では落語の話芸をより高度な次元に押し上げました。
   圓朝は明治9年10月に浜町から本所南二葉町23番地(この公園の南側、現在の亀沢2
   丁目)に移り、同28年に牛込に転居するまでの19年間をこの地で過ごしました。この
   間、本所に住んだ薪炭商塩原太助をモデルにした名作『塩原太助一代記』を生み、明治2
   2年4月には三遊派の隆盛を記念して木母寺境内に三遊塚を建立しました。
   代表作に「真景累ヶ淵」「怪談牡丹燈籠」「怪談乳房榎」「塩原太助一代記」「文七元結」
   など多数あります。
   平成25年3月                         墨田区教育委員会


■葛飾北斎住居跡

 亀沢2丁目15番10号の東あられ本舗のところに住んでいた。
 


つくし児童遊園
 亀沢3丁目4番8号にある区立公園。


■間垣部屋
 
 亀沢3丁目8番1号にある相撲部屋。昭和58年1月場所限りで引退した二子山部屋(第45人目
横綱初代若乃花幹二)所属の第56人目横綱2代若乃花幹二は、一代年寄若乃花(後に18代目間垣
に名跡変更)を襲名して二子山部屋所属の部屋付き親方として後進の指導に当たっていたが同年12
月27日に内弟子1名を連れて二子山部屋から分家独立して部屋を創設した。この部屋から幕内力士
「若闘将・五城楼・大和・若ノ城・若ノ鵬」などが出ている。

 親方が暴行事件
 平成20年5月14日夏場所の4日目の部屋での朝稽古中、間垣親方が序二段力士の弟子を竹刀で
叩き痣を作るという暴行事件を起こし、太ももなどに全治一週間の打撲と擦過傷を負わせた。この事
件について当人の間垣親方は事件が発覚した7日目の夜は「悪いことをしたらヤキを入れるのは当た
り前。弟子が可愛いからやった」などと話し、この叩かれた弟子の奈良に問題があったと主張した。
しかし8日目に一転して北の湖理事長に謝罪した。また弟子も反省し現在も両者の間に蟠りはないと
いう。この件で日本相撲協会の再発防止検討委員会から厳重注意を受けることが予定されている。時
津風事件があったばかりでの暴行再発と親方の暴言に世間が大反発、大問題となった。

 
幕内力士若ノ鵬大麻不法所持事件
 平成20年8月18大麻片を含むたばこを所持していたとして、警視庁組織犯罪対策5課と本所署
は、大麻取締法違反・所持の疑いで、ロシア出身で、大相撲若ノ鵬寿則容疑者(20)=本名ガグロ
エフ・ソスラン・アレキサンドロビッチ=を逮捕した。大筋で容疑を認めており、「六本木で外国人
からもらった」と供述している。
 同課は同日、間垣部屋などを家宅捜索し、自宅から大麻吸引に使う水パイプを押収。使用について
も追及する。
 調べによると、若ノ鵬容疑者は6月24日午後1時ごろ、自宅近くの路上などで大麻を含む乾燥植
物片などの混合物0.368グラムを所持した疑い。財布に入っていたロシア製たばこ「ベラモール」
に混入されており、通行人の女性が同日、財布を拾って交番に届けた。同容疑者も同日、別の交番に
紛失を届け出ていた。当時は19歳だった。同課は同容疑者が地方巡業から帰るのを待って逮捕した。
 大麻所持の疑いで若ノ鵬容疑者が逮捕されるという前代未聞の事件が発覚したこの日、角界内部か
らは厳しい声が相次ぎ、両国国技館にある日本相撲協会や、容疑者が所属する間垣部屋は対応に追わ
れた。協会在勤の友綱理事(元関脇魁輝)は、各師匠を通じてほかのロシア出身力士への事情聴取を
開始したことを明かした。昨年起きた力士死亡の再発防止検討委員会の副委員長でもある友綱理事は、

   一連の問題から立て直そうと、みんな一生懸命なのに、危機感がない人がいた。ショック
   だ


 と憤っていた。ある40代の部屋持ち親方は、

   事情聴取するのなら、ロシア出身だけではなく、欧州系の力士全員から話を聞かなければ
   いけない。若ノ鵬は当然、解雇すべきだ


 と主張。複数の幕内力士も「若ノ鵬は間違いなくクビでしょう」と口を揃えた。
 間垣部屋は報道陣でごった返したが、間垣親方(元横綱2代目若乃花)は所用で故郷の青森に滞在。
相撲協会によると19日に両国国技館を訪れる予定。北の湖理事長(元横綱)は法事で北海道に帰省
していた。当初は広報部を通じてコメントを発表したが、急遽帰京して午後10時すぎから国技館で
記者会見に応じた。
 19日、警視庁組織犯罪対策5課の調べに対し、若ノ鵬は、

   大麻を(自分で)吸ったパイプをディスコで貰った。なくした財布の中に大麻(成分を含
   んだ)たばこを所持していたのは間違いない


 と述べ、使用を示唆する供述を始めたことが判った。違法性の認識もあったという。
 経緯については、

   6月上旬にディスコでロシア人の男と意気投合し、店を出るときに財布の中にたばこ1本
   を入れてくれた。大麻を吸ったパイプなどは別の外国人からもらった。日本国内では大麻
   が規制されているのは知っていた


 と語ったという。
 同課は19日、参考人として間垣親方から事情聴取。親方は、

   大麻を吸っていたことは全く気付かなかった

 と説明したという。大麻で相撲人生はおろか、人生までも棒に振ってしまった。
 人生のモットーは「身辺ご清潔に!」だ。人間何時うだつが上がるか判らない。
 21日協会理事会は若ノ鵬の解雇を決定、間垣親方の理事辞任を受理した。9月8日警視庁は処分
保留で釈放。本人は「相撲に戻りたい」と語っているとか、そりゃあプロレスやK1じゃあ、相撲ほ
ど稼げねえもんなぁ。
                     *
 9日若の鵬は協会に出向いて解雇撤回を要求するも拒絶され、10日その派生的結果として解雇さ
れた露鵬・白露山のマンションを訪れて謝罪しようとしたがあって貰えず、切羽詰まった11日、

   過去の事例と比べて処分が厳し過ぎ、解雇は無効だ

 として力士の地位確認を求め東京地裁に提訴した。興行の在留資格で日本に滞在している若の鵬は、
解雇の3カ月後には強制退去となる可能性があり、仮処分も同時に申し立てた。弁護士に唆されて、

   過去に現役横綱が銃刀法違反で有罪になったが、けん責処分だった。私生活上の犯罪で解
   雇になった例もなく、厳し過ぎる


 と主張した。時代が違うだろうってんだ。盗人猛々しいとは開いた口が塞がらねぇよ。ロシア人と
はこの程度のもんよ。恥ってえことを知らないからねぇ。
 


初代三遊亭円朝旧居跡 
 亀沢3丁目20番14号(本所南二葉町23番地)にあった。円朝は、江戸末期から明治にかけて
活躍した落語家で、この場所には明治9年から11年間暮らし、名作の「怪談牡丹燈籠」「塩原多助
一代記」などの噺を書き上げた住居跡は、河竹黙阿弥の住居跡のすぐ向かいにあり、記念標柱が建っ
ている。当時すぐ近くにあったという割下水から水を引いて池にし、庵室のある500坪もの贅沢な
邸宅だったとか。円朝は芝居話が得意だったからか、歌舞伎にも関係したようで、黙阿弥の出ている
歌舞伎舞台の浮世絵に出ている。近所に住んでいた黙阿弥とはお友達だったのだろう。円朝は「怪談
牡丹燈籠」の中で柳島、横川という錦糸町のゾーン内の地名をなにげなく登場させており、さすがは
錦糸町の住民(本所南二葉町)だったことが伺える。葛飾区青戸の法問寺に母方の加藤家の墓所があ
りそこと、台東区谷中5丁目の全生庵に墓がある。亀沢2‐13‐7にも住居跡がある。

   落語・人情噺の名人とうたわれた三遊亭円朝は、明治9年浜町から、ここ南二葉町に移り
   住んだ。屋敷は広く、南割下水と連なる池もあり、明治20年新宿に移るまでの11年間
   をここで過ごした。本名を出淵(いずぶち)次郎吉といい、天保十年(1839)


   
初代三遊亭円朝                       亀沢3丁目20番

   落語・人情噺の名人とうたわれた三遊亭円朝は、明治九年浜町から、ここ南二葉町に移り
   住んだ。屋敷は広く、南割下水と連なる池もあり、明治20年新宿に移るまでの11年間
   をここで過ごした。
   本名を出淵次郎吉(いずぶちじろきち)といい、天保十年(1839)湯島に生まれ、元
   治元年(1864)には、両国垢離場(こりば)の寄席の真打を務めている。「塩原太助
   一代記」「怪談牡丹燈篭」など沢山の名作を残し、明治33年61歳で歿した。なお墨提
   木母寺に「三遊塚」を建立している。
   昭和63年3三月                             墨田区
 


日進公園
 亀沢3丁目24番3号にある区立公園。

 
母子像
 四角い石で表現した抽象的彫刻。ちらっと見ただけじゃあ母と子とは誰も思わない。ただの四角い
石だ。

   母子像
   この石の彫刻は、母子の愛情の原型を表現したもので「愛情」「平和」を訴えています。
   「円満な家庭づくり」「世代間の交流」の促進を目的としている家庭センターの象徴とし
   て最もふさわしい母子像です。
   この像は東京両国ライオンズクラブ発足十周年記念事業として昭和四十六年に寄贈された
   ものです。                          墨田区家庭センター
 


■ライオン像

 亀沢4丁目6番7号のライオンズマンション錦糸町の入口にある。


■山岡鉄舟旧居跡

 亀沢4丁目11番15号の竪川中学校の正門一帯にあった。校門脇左手に区教委の説明板がある。

   山岡鉄舟旧居跡         所在地 亀沢4丁目11番15号 堅川中学校内
   江戸末期の幕臣で剣術家。維新後に無刀流の創始者ともなり、侍従も勤めました。山岡鉄
   舟の生家小野家がこの中学校の正門辺りにありました。
    鉄舟は天保七年(1836)御蔵奉行だった小野朝右衛門高福の五男としてうまれ、鉄
   太郎と名付けられました。
    安政四年(1857)槍術で知られる橋本静山の妹婿となり、山岡高歩、号は鉄舟を名
   乗りました。鉄舟の義兄に当たる槍の名手精一郎は、旗本高橋家に入婿し、後に泥舟と号
   するようになります。勝海舟も含めてこの三人は「幕末の三舟」として知られます。
    慶応四年(1868)江戸城総攻撃に先立ち、鉄舟は西郷隆盛と接触し、海舟と協力し
   て江戸城無血開城への道を開きました。
    明治維新後、静岡県や茨城県などで参事や県令となり、明治四年より明治天皇の侍従と
   して厚い信頼を受けましたが。同二十一年五十三歳で死去し、台東区の全勝庵に葬られま
   した。
    鉄舟は、書家一楽斎としても有名で、区内木母寺にある三遊隊の碑は、鉄舟(表)。泥
   舟(裏)の筆になります。
   平成20年2月                         墨田区教育委員会
 


■竪川中学校
 (平成29年錦糸中学校と統合予定 見送り
 亀沢4丁目11番15号にある区立校。昭和22年4月1日設立、5月5日中和小学校に間借りし
て開校。同24年独立校舎(一期工事)完成。同33年本所小学校跡に移転。同42年創立20周年
記念式典。同44年完全給食実施。同52年創立30周年記念式典。同59年全館空調整備。同63
年創立40周年記念式典。
 平成2年ガイダンスルーム設置。同3年ランチルーム完成。同4年コンピュータルーム開設。同9
年1年前倒しで創立50周年記念式典挙行。同18年耐震補強・空調設備・トイレ等全面改修。同1
9年創立60周年記念式典。

 校歌「紫匂う」 作詞・槙島徳次  作曲・伊達龍雄
  1.紫匂う武蔵の東
    清き流れの隅田川
    聳ゆる学び舎 希望にもえて
    朝な夕なに勤しまん
  2.富士の白雪 筑波の緑
    ゆるき流れの竪川の
    学びの窓より仰ぎて常に
    清く明るく務めなん
  3.潮の満干に鴎が群れて
    涯しなき野に光さす
    誇る文化を妙なる綾と
    いざ諸共に織り出でん
 


■亀沢四丁目こども広場
 亀沢4丁目14番6号にある区立公園。

 
鬼平情景 相模の彦十の家
 南側フェンス前に建ててある区の立札説明板。

   鬼平情景 ⑬
   
相模の彦十の家
   密偵となる前から住んでいた家で、一時、大滝の五郎蔵も同居していました。後に引き払
   い、本所。二つ目橋の軍鶏なべ屋(五鉄)の二階へ寄宿します。「本所・桜屋敷」で平蔵
   が二十余年ぶりに南割下水で偶然出会うシーンが出てきます。平蔵が若かりし頃、本所は
   松井町の岡場所に巣食う香具師上りの無頼者で、取り巻きの一人でした。「小川や梅吉」
   の探索を頼まれ、密偵に転じます。その後の働きは枚挙に暇ないほどです。
   昔馴染みだけに、長官の平蔵を「銕っつぁん」「親分」などと気安く呼び、周りを唖然と
   させますが、平蔵も「長い友だちを持ったものよ」とあまり意に介さず、ちょいと頭が上
   がらないところがあります。                        墨田区



■ささのは児童遊園
 亀沢4丁目18番8号にある区立公園。
 



【菊川】(きくかわ)1~3丁目                     昭和42年5月1日
 深川菊川町。元禄九年(1696)御小人大繩地の地に町屋が許された。今の立川(たてかわ)
4丁目3番・16番・菊川3丁目11番・14番の地に該当する。明治元年東京府に所属。同2年
飛地を深川東町に移譲。同5年弘前津軽家抱屋敷と深川西町の一部を併合して本所菊川町1~2丁
目となる。同11年「郡区町村編制令」により本所区に所属。昭和8年1丁目を立川に譲り(その
ため菊川小学校が立川3丁目にある)、2丁目に林町2~3丁目・徳右衛門町の各一部をあわせた
町域を菊川1~3丁目に改編、同22年墨田区所属。同42年新住居表示を実施して現行の「菊川」
とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『墨田区史』『墨田の歴史』など。

 
菊川の由来
 町名は大横川の西を流れていた小流の名前による。今は埋め立てて道路にしている小川に何故菊
川と名づけたのかは判らない。野菊の咲く風情だったのだろうか・・・
 


■菊一児童遊園
 菊川1丁目1番17号にある区立公園。

 
「少年と子犬」
 愛らしい銅像。笛の音に聞き入る小犬とのほほえましい光景。 


■墨田住宅センター建築道具・木組資料館(墨田区小さな博物館)
 菊川1丁目5番3号の森下工務店にある。明治時代のノコギリをはじめカンナや墨壷など各種建築
道具のほか木造建物に使われる様々な柱の組み方(木組)を実物で展示している。丸太を繋ぐ「掛鼻
車知継ぎ手」や数寄屋造りに使用する「十字蟻組」神社で使用される「金輪継ぎ」など、木組みの複
雑な技術の素晴らしさに木造建築の長い歴史を感じる。その他日光山の五重の塔の設計図や旧三井家
で使われていた、今では珍しい鬼瓦など貴重な資料も公開している。今では使われない技術を、同業
者も見に来るというのが森下良治館長の自慢だわさ。
 03-3633-0328 電話して行けよ。
 


■戦災慰霊碑 撤去
 菊川1丁目16番11号のNTTビルが本所電話局だった当時にあったが、現在のビルに建て替え
る際に撤去した。慰霊の心はなくなったのか?


■墨田工業高等学校発祥の地
 菊川1丁目16番11号のNTTビルの東南の角に灰色の石碑が建っている。現在の墨田工業高校
は約800m南東の 江東区森下5丁目にある。「墨田」の名前の学校が江東区にあるのは何か変! 
発祥の地名によるものだろうが、他にも幾つか見られる。
 板橋区にあって北豊島工業高校とはこりゃ如何に? これは北豊島郡だったことによる。本所工業
高校は何と葛飾区水元にあるが、昭和35年に移転したものだ。平成17年全日制はなくなって定時
制のみとなった。小石川工業高校は新宿区にあるが、昭和24年に文京区から現在地に移転した。四
谷商業高校は中野区上鷺宮にあるが、昭和38年に新宿区から移転した。中央区の紅葉川高校は江戸
川区葛西に、台東区の忍岡高校は墨田区堤通にと、東京都も学校の場所探しに苦労している。

   
墨田工業高等学校発祥の地
   明治二十三年二月十八日開校
   東京府による工業教育ここに始まる
               東京都立墨田工業高等学校
               第十七代校長稲見辰夫謹書

 碑裏の記文は以下の通り。

   明治33年 東京府職工学校設置を公示
   大正 9年 東京府立実科工業学校と改称
   昭和 2年 (現)東京都江東区森下5丁目1番7号に移転
   昭和18年 東京都立墨田工業新制高等学校と改称
   昭和25年 東京都立墨田工業高等学校と改称
   平成12年7月吉日   創立百周年記念事業委員会
 


区内で最も古い小学校 中和小学校
 
 菊川1丁目18番10号にある区立校。明治7年2月1日開校。牛島小学校が廃校となった今、区
内で最も古い学校となった。詳細な沿革不明。
 図書館巡りをしたが、資料が乏しく、調査は困難を極めている。図書館自体、中央図書館であるあ
ずま図書館ですら地域資料はお粗末で、学校教育関係のの資料は殆どない。『墨田区教育史』も内容
が雑で、他区のそれとは比ぶベくもない。戦前の学校に関してはお手上げとしかいいようはない。

 校歌
「中和を名におう」 作詞・中村秋香  作曲・小山作之助
  1.中和を名に負う学び舎に
    立つ我が友は時の間も
    いかで忘れん中和の名
    中とは過不及なきところ
    和とは ほどよきこととかや
  2.中和はかわれることならず
    また難しき業ならず
    人の踏むべき常の道

    昼は働き 夜は休み
    勉めて遊ぶは これ中和
 


■中和公園
 菊川1丁目18番25号にある区立公園。


■菊川三丁目こども広場
 菊川3丁目6番10号にある区立公園。


■菊川橋児童遊園
 菊川3丁目13番2号、区内を南北に流れる大横川が新大橋通りと交差するところが菊川橋。その
北西側の袂にある

 
夢違之地蔵尊
 遊園内にある小祠。菊川橋は、本所区で最も大勢の人が集中して亡くなった場所のひとつ。この小
さな橋の上で約3000人が亡くなった。このような悪夢の消滅を願い、善夢が導かれるように建立
した。石川光陽の写真の中に、ここで遺体収容作業をしている現場を撮影したものがある。

   夢違地蔵尊縁起
   大正12年関東大震災に於ける下町の惨禍は遭難死者縁起(由来碑)58
   000名に及びその遺骨を収納し、東京都慰霊堂が建立され、その加護と平安を願い毎年
   9月1日を記念日と定め、官民あげて法要が営まれているが、この地も焦土と化しその物
   故者も多いため、毎年その慰霊法要を行うに至った。昭和16年太平洋戦争勃発し、戦局
   利にあらず、殊に同20年3月9日より10日にかけての米戦略爆撃機B29による東京
   空襲は最も熾烈を極め僅か数時間で下町を中心に278000余戸を焼失し、無慮780
   00余の殉難者を出した広島長崎の原爆の戦史に比類する永遠に忘れ得ぬ悲惨な史実であ
   る。
   まだ春浅き3月9日夜半、雨あられの如く投下された焼夷弾は、暇なき出火となり、立ち
   向かう術もなく、劫火の中を、親は子を、子は親を呼び合いながら逃げまどい、或は壕に
   入り、水面に飛び込み、或は公園、校舎に走り、ついに力尽きてその声も消え果てやがて
   倒れ重なりまっ黒な焼身と化し、水に入りては沈泥に骸と果て、翌朝光の中の惨状は目を
   覆うばかりであった。生き残れる者僅かにしてそのさまは亡者のようであった。この地の
   殉難者数約三千余名といわれている。
   この地蔵尊の在わします菊川橋周辺の惨禍は、東京大空襲を語るとき後世まで残るもので
   霊地として守らねばならない。而して復興なり、同58年3月10日誠心集い、浄財を集
   め仏縁深き弥勤寺住職の教訓を得てこれが悪夢の消滅を願いこれを善夢に導き、再びこの
   悲史をくり返さないようにと、夢違之地蔵尊と命名され開眼法要、殉難者追悼供養を施行
   した。
   時移り、再び多大な協賛を得て夢違之地蔵尊縁起の史碑建立となり地蔵講が生まれた。願
   わくば子々孫々への加護と人類の平和を祈念して本日此処に慰霊法要を謹んで行うもので
   ある。
   昭和60年3月10日              弥勒寺第57代住職   岩堀真至
                           夢違之地蔵尊縁起碑建立協賛者一同
 


■菊川駅
 菊川3丁目16番2号にある都営新宿線の地下停車場。。新宿線の最初の区間である岩本町~東大
島間が開業した昭和53年12月21日に設けられた駅。ホームは島式1面2線構造で、地下2階に
ある。ホームと改札階を結ぶエレベーターは平成19年3月完成。改札口は1ヶ所のみで、地下1階
にある。出口は4ヶ所だが、地上へ上がれるエレベーターは、平成19年3月A3出口に設置された。
新宿線は、森下駅から東大島駅までをほぼ真っ直ぐ、江東区を東西に貫くように走っているが、この
菊川駅だけは墨田区に所在している。この辺りが、墨田区の南端部に当たっているためだ。なお菊川
という駅は東海道本線(静岡県)にもあるが、そちらの読みは「きくがわ」と濁る。
 


■鬼の平蔵・遠山金さん屋敷跡

 菊川3丁目16番の一帯は池波正太郎が〝鬼の平蔵〟の異名を被せた長谷川平蔵宣以の屋敷があり
数十年後に〝金さん〟でお馴染みの遠山金四郎景元が住んだところだ。これは意図的なものではなく
屋敷替えの偶然の結果だとか。

 
長谷川平蔵・遠山金四郎 屋敷跡碑
 菊川3丁目16番13号の丸山歯科医院の入口脇のオブジェとして建ててある。説明文などは・・
・見当たらない。また区教委の説明板が菊川駅出口A3(菊川3~16~2)に建っている。

   長谷川平蔵・遠山金四郎住居跡        住所 墨田区菊川3~16~2
   長谷川平蔵宣以(のぶため)は、延享三年(1746)赤坂に生まれました。平蔵19歳
   の明和元年(1764)父平蔵宣雄の屋敷替えによって築地からこの本所三之橋通りの1
   238坪の邸に移りました。ここは屋敷地の北西端にあたります。
   長谷川家は家禄400石の旗本でしたが、天明六年(1786)かつて父もその職にあっ
   た役高1500石の御先手弓頭(おさきてゆみがしら)に昇進し、火付盗賊改役(ひつけ
   とうぞくあらためやく)も兼務しました。火付盗賊改役のことは、池波正太郎の「鬼平犯
   科帳」等でも知られ、通例2、3年のところを、没するまでの8年間もその職にありまし
   た。
   また、特記されるべきことは、時の老中松平定信に提案し実現した石川島の 「人足寄場
   (にんそくよせば)」です。当時の応報の惨刑を、近代的な博愛・人道主義による職場訓
   練を以て、社会復帰を目的とする日本刑法史上独自の制度を創始したといえることです。
   寛政七年(1795)病を得てこの地に没し、孫の代で屋敷替えとなり、替わって入居し
   たのは遠山左衛門尉景元(さえもんのじょうかげもと)です。通称は金四郎。時代劇でお
   馴染みの江戸町奉行です。遠山家も家禄6530石の旗本で、勘定奉行などを歴任し、天
   保十一年(1840)北町奉行に就任しました。この屋敷は下屋敷として使用されました。
   屋敷地の南東端にあたる所(菊川3丁目16番13号)にも住居跡碑が建っています。 
   平成19年3月                           墨田区教育委員会


 
長谷川平蔵宣以(のぶため)
 
通り名の平蔵は長谷川家当主が代々受け継ぐ通称で、家督相続以前、宣以は銕三郎(てつさぶろう)
と名乗っていた。池波正太郎の小説『鬼平犯科帳』の主人公であることから、日本の時代劇ファンに
よく知られている人物だ。青年時代は放蕩無頼の風来坊だったようで、「本所の銕」などと呼ばれて
恐れられたと記録にある。池波正太郎は、この頃剣術を高杉銀平に学んだとしているが、作品上の設
定のようで、滝川政次郎によればそれを証明する記録は存在しないという。父の長谷川宣雄は、火付
盗賊改方を経て京都西町奉行の役に付いていたが、死去したため安永二年(1773)28歳の時家
督を継いだ。子は宣義。
 寛政の改革で人足寄場(犯罪者の更生施設)の建設を立案し、石川島人足寄場の設立などで功績を
挙げたが、上司の老中首座松平定信とは折り合いが悪かったらしく、定信は自伝の『宇下人言』にお
いて敢えて名を呼ばず「長谷川某」とまで記し、功績は認めたものの「山師などといわれ兎角の評判
のある人物だ」とけなしてる。天明七年(1787)から8年の間、火付盗賊改方の長官を務めた。
「鬼の平蔵」と呼んだのは池波の創作だが、「今大岡」と呼ばれ市民には人気があったという。寛政
三年(1791)5月3日江戸市中で強盗及び婦女暴行を繰り返していた凶悪盗賊団の首領葵小僧を
逮捕処刑した。被害者に配慮し、逮捕後僅か三日での処刑だった。三田村鳶魚は、宣以が機転を利か
せたためであり、幕府もこれを了承したとしている。このとき名刀井上真改を用いたともいわれてい
る。
 敷地は1200坪余だった。長谷川家の家禄は400石だが、職禄(役高)がつき1500石。寛
政七年(1795)50歳で致仕、その年に病没した。

 
いれずみ判官・遠山金四郎景元
 天保年間に北の江戸御町奉行、後に南の江戸御町奉行を勤めた人物。TVドラマ『遠山の金さん』
のモデルとして知られる。正式な名のりは遠山左衛門尉景元(とおやまさえもんのじょうかげもと)
だ。
通り名は金四郎。公職についてからは、従五位下に叙し、大隅守から左衛門少尉に遷任。明知遠
山氏の分家6代目に当たる。父親は長崎奉行を勤めた景普。青年期は複雑な家庭環境から家を出て、
町屋で放蕩生活を送るが後に帰宅、家督相続後、勘定奉行、町奉行の職に就く。天保の改革の実施に
当たっては、強行派の南町奉行の鳥居耀蔵や老中水野忠邦と対立しながらも様々な政策を実施する。
水野忠邦が鳥居の進言を受けて芝居小屋を廃止しようとした際、景元はこれに反対して、浅草猿若町
への小屋移転だけに止めた。即ちこの遠山の動きに感謝した芝居関係者が頻りに遠山を賞賛する意味
で『遠山の金さん』物を上演したため、鳥居や水野との対立が、遠山イコール正義、鳥居イコール悪
役を作り上げた。尤も鳥居はそれ以前より民衆の評判は悪かった。天保十四年(1843)鳥居の策
略によって北町奉行を罷免され、当時は閑職となっていた大目付に追われる。地位は上がったが実質
的に仕事はなかった。しかし2年後景元はリベンジに出る。鳥居を退けようとしていた水野に接近し、
鳥居の讒言を展開し鳥居を追い落とし、南町奉行として返り咲いた。同一人物が南北両方の町奉行を
務めたのは、極めて異例のことだ。その後は水野の後を受けて政権の地位に座った阿部正弘からも重
用された。嘉永五年(1852)に隠居すると、剃髪して帰雲と号し、61歳で死ぬと本郷の本妙寺
(現在は豊島区西巣鴨)に葬られた。

 ●金四郎が桜吹雪の刺青を入れていたかどうかは定かではない

 ただ夏でも現代のシャツのような手首まである長襦袢を着用して、決して他人に肌を見せることが
なかったので、若いころ放蕩の限りを尽くしていたことでもあり、刺青をしているのではないかと憶
測された。そこに目を付けた作家陣出達朗が小説「遠山の金さん」で、証拠のために悪党に刺青を見
せるという設定で創作したものが1人歩き、映画で、片岡千恵蔵が金四郎の役をやり、最後の場面で、
片肌脱いで啖呵を切ると、悪人どもが畏れ入って罪を認めるというのが当たって、金四郎の桜吹雪の
刺青は定着した。その後、数々のTV時代劇の金さんものは、すべてこれを踏襲、片岡千恵蔵を越え
る役者は出ていない。
 
 



【京島】(きょうじま)1~3丁目                  昭和40年7月1日
 寺島村。明治22年「市制町村制」により須崎村・中ノ郷村・請地村・大畑村・若宮村・隅田村
と合併して寺島村となりその大字、大正12年寺島町大字寺島。昭和7年向島区寺島町。同22年
墨田区寺島町1~8丁目。同40年新住居表示により寺島町4丁目・吾嬬町西1丁目・同4丁目を
あわせた町域を現行の「京島」とした。区の小さな博物館運動により、1丁目に「藍染博物館」「千
社札博物館」がある。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『墨田区史』『墨田の歴史』など。

 京島の由来
 京島という島・村・字はない。 町名をつけるに当たり東の寺だから京島とし「京」の字に
「大きい」「盛ん」の字義があると説明、将来発展するようにとの願いを込めた。明治通りに面し
て1~3丁目があり、中心は・・・京成曳舟駅かなぁ! 寺島村の南端の辺り。この辺りはかつて
は寺島茄子の特産地だった。
 


■稲荷社
 
 京島1丁目8番2号、曳舟湯の向かいにある小祠。


■とらばし児童遊園
 京島1丁目21番9号にある区立公園。


■京橋西公園
 京島1丁目22番3号にある区立公園。


■豊川稲荷社
 
 京島1丁目22番13号にある小祠。


■曳舟小学校
 
 京島1丁目28番2号にある区立校。昭和9年4月2日「東京市向島曳舟尋常小学校」として開校。
5月26日開校式、この日を開校記念日と定める。同16年勅令148号国民学校令により「東京市
向島曳舟国民学校」と改称。真珠湾攻撃により日米開戦。同18年都制施行により「東京都向島曳舟
国民学校」と改称。敗戦の混乱を経て、同22年東京都墨田区立曳舟小学校となる。昭和29年新校
歌制定。

 校歌
「光よそよげ」 作詞・作曲不詳
  1.光よそよげ明るい窓に
    小鳥よ歌え 鈴懸に
    いつも希望の溢れるところ
    元気で学ぶ吾等こそ
    墨田の誇り曳舟校
  2.桜と鷹に由緒も深く
    優しく強いこの気風
    町も溌剌 力に燃えて
    日本の明日の夢が湧く
    楽しい吾等の曳舟校
  3.この業尽くし この智慧尽くし
    学芸会よ 運動会
    いつも心を一つに繋ぎ
    仲良く励み 伸びて行く
    栄えある母校曳舟校


 同38年鼓笛隊結成。第1回鼓笛隊街頭パレードを実施。開校30周年記念式典。同47年大蔵大
臣、日本銀行総裁より子供郵便貯金優良校表彰。同49年開校40周年記念式典。同59年開校50
周年記念式典。
 平成2年校舎の南側外壁塗装と窓枠アルミサッシ取り替え完了。同3年校舎の北側外壁塗装とアル
ミサッシ取り替えを完了。同4年校舎西側内部改修完了。同5年校舎東側内部改修完了。同6年校庭
舗装。給食室改修。開校60周年記念式典。同8年防球ネット設置。同10年ランチルーム完成。同
13年パソコン教室完成。同16年普通教室にエアコン設置。開校70周年記念式典・祝賀鼓笛パレ
ード実施。同19年校庭芝生化。同20年プール改修。
 


■藍染博物館(墨田区小さな博物館)

 京島1丁目29番1号にある。すみだマイスターである藤澤謙二の卓越した技術や「長板藍染ゆか
た」「藍染のれん」「藍染半纏」といった作品、製作に使用される道具等を見学することができる。
また事前連絡があれば藤澤さんから直接説明を受けることもできる。
 開館は月曜日~金曜日。03-3611-6760
 


■墨田区曳舟文化センター

 京島1丁目38番11号にある区民会館。本格的な演劇や音楽会、軽運動や展示、各種集会など文
化的交流の場として幅広く利用できる施設だ。
 ホールは582席 楽屋3室。定員200人のリクリエーションホール、会議室2、和室・茶室各
1。申し込みは1年前から。

 
「風の中で」
 玄関前にあるオブジェ。エスター・ワルトハイマーの作品。
 
 

■曳舟川 廃川埋却
 江戸幕府が、明暦三年(1657)の大火(振袖火事)の後に開発に着手した本所・深川方面の新
市街地へ飲料水を供給する目的で開鑿された水路。成立は万治二年(1659)。「亀有上水」或い
は「本所上水」「小梅上水」とも呼ばれた。水源は埼玉県越谷市の瓦曾根溜井(かわらそねためい)
で、亀有に入ってからは、東側に中居堀を分水し、四つ木付近までは二条の水路が平行して流れてい
た。
 亀有上水の廃止は亨保7年(1722年)で、小梅より南の水路は埋め立てられたが、上流部はそ
のまま用水として残され、「古上水堀」と呼ばれた。廃止の理由は、洪水で堀が埋まってしまうこと
が頻発したこと、本所辺りは堆積地域であり地中に海水が混じっており飲水に不適当であったこと、
また井戸が容易に掘れたことなどである。とはいえ、多くの井戸からは海水が出てきたという。そりゃ
そうだろう。元は海だ。
 上水の廃水後、篠原村(四つ木)から亀有村間の28町(約3km)の水路を利用して、「サッパ
コ」という小舟に人を乗せ、土手の上から長い綱で肩に掛けて引くことが始まり、「曳舟川」と呼ば
れるようになった。帝釈天詣や水戸街道に出る旅人が利用した曳舟川は江戸東郊の風物として人気を
呼び、多くの紀行文や、初代の歌川(安藤)広重の「名所江戸百景」などに情景が描かれている。
 昭和28年キャサリン台風の大洪水で、翌29年から暗渠化。現在は川沿いにあった曳舟川通りを
拡張して曳舟通りとなっている。尚、葛飾区では暗渠部分は「曳舟川親水公園」として利用している。
整備の行き届いた美しい公園に仕上がっている。
 東京スカイツリー(新東京タワー)が完成すると大渋滞する道路になるぞ。


■曳舟さくら公園
 京島1丁目40番1号にある区立公園。


■NTTぶりきのおもちゃ博物館(墨田区小さな博物館) 閉館
 京島1丁目44番3号のNTT向島ビルにあった。  


■京成曳舟駅
 京島1丁目45番にある京成押上線の停車場。京成曳舟駅は、京成電鉄初の開業区間押上~江戸川
・柴又間と同時に開業した駅。将来的に高架化する予定。ホームは地上相対式2面2線構造で、上下
ホームを結ぶ通路はない。ホームはやたら狭く、列車が通過する際はちょっと怖い。改札口・出口は
ホームごとに2ヶ所ずつ設けられており、計4ヶ所ある。
 


7‐路地尊型雨水利用防火装置
 京島2丁目11番5号京島2丁目第4コミュニティ住宅にある地下埋設型手押しポンプ。平成6年
5月設置。


■千社札博物館(墨田区小さな博物館) 閉館
 京島2丁目10番9号にあった。 


■ポケットパーク一休
 京島2丁目11番5号にある区立公園。 


6‐路地尊型雨水利用防火装置
 京島2丁目11番6号京島2丁目第3コミュニティ住宅にある地下埋設型手押しポンプ。平成5年
12月設置。


■12‐路地尊型雨水利用防火装置
 京島2丁目16番6号京島2丁目第5コミュニティ住宅にある地下埋設型手押しポンプ。平成9年
4月設置。


■京島南公園
 京島2丁目20番17号にある区立公園。

 
ロング滑り台
 3階の高さからのスロープ。子供たちは大満足だ。


■古い川の跡 曲がりくねった道
 京成曳舟駅南の踏切から1丁目・3丁目を通って、愛国橋交番(京島3丁目交番)を経て明治通り
に至る道だ。とにかく短い区間を面白いほどカーブする。真っ直ぐに伸びた直線部が、曳舟川通りか
ら曳舟駅南口前までしかない。後は曲がりくねっている。右へ曲がったと思えば、すぐ左へ曲がると
いう具合で、最後まで右へ曲がり左へ曲がりして、まさに大蛇がのたくっている体(てい)だ。車で
走ると、まるで自動車教習所の練習コースそのまま、絶えず右に左にハンドル回しで忙しい。その分
スペードも出せないが、大きな事故も起きないかもしれないから、人に優しい道かも。それはともか
くとして、これは人が作った道ではない。・・・・というと可笑しないい方になるが、人間の発想で
作れる道ではない。人工的に作れるはずもない。人に設計を任せたらこんな面白い道は作れない。普
通にデザインすれば、最短距離で直線にならざるを得ない。よほど避けられない障害物でもない限り
普通というか、常識的には通常そうする。合理的、効率的だが、味も素っ気もない。この道は人の力
を超えたものが作ったに違いない。
 神のみぞ知るこの道は、人がやってくる以前からあった低湿地だろう。曲がり具合が太古のままか
どうかは判らないが、まあ似たようなものだったに違いない。古い地図には川として描かれている。
墨田区は元々海で、利根川が運ぶ土砂が堆積してできた下町低地だ。水に恵まれ、ために江戸近郊農
村として栄えてきた。
 


人口密度日本一 京島3丁目(旧吾嬬町西4丁目)
 細い路地に戦前から平屋の木造建築が超過密常態に建ち並び、東京23区でも防災上危険度、人口
密度ナンバーワンで、マスコミでも時々取り上げられる一帯だ。しかし意外や意外、この地域は火事
の発生率が低いのだ。特別な組織がある訳でもなく防火の意識が高いのか、自分の町から火は出さな
いという連帯感と体制が自然に生れているのだろう。密集地だけに確かに人の触れ合いが濃いのだ。
町内の橘銀座通り商店街もそうだ。お隣同士の助け合い精神が無意識に働いて、それが自然に原動力
になり大変活性化に満ちた町が生れている。
 京島地区は、今は六本木ヒルズに生まれ変わった六六(六本木6丁目)地区同様、東京都や墨田区
からその危険性を指摘され、早くから町作りの動きがあった。現在では「京島まちづくりセンター」
の中に住民参加の「まちづくり協議会」が組織されている。従来の町割を壊すことなく、昔の道も生
かして一部を拡幅整備すると同時に、そこに住んでいた人たちが、住みなれた地元に住みたければコ
ミュニティ住宅(仲間住宅)に住んで貰い、京島にふさわしい良好な居住環境を、まちづくりの第1
目標に掲げている。最近では、過密と活性化をマッチさせたまちづくりのモデルケースとして海外で
も知られており、東南アジア諸国やブラジルから都市計画関係者の団体見学があったり、ドイツから
も見学者がある。しかし新東京タワーの出現で、墨田区は再開発の嵐に見舞われ、もう30年もすれ
ば、味気ないビル、マンションの建ち並ぶ町へと変貌するだろう。

 
コミュニティ住宅
 人口密集を解消するため防災の観点から街路を拡げる取り組みが行われ、それによって住宅を失う
人たちのために「コミュニティ住宅」という集合住宅が建てられていった。
 


■20‐手押しポンプ
 京島3丁目3番6号京島3丁目第7コミュニティ住宅にある雨水利用貯水装置。平成12年1月に
設置された。


■10‐路地尊型雨水利用防火装置
 京島3丁目6番4号京島3丁目第6コミュニティ住宅にある手押しポンプ。


■15‐路地尊型雨水利用防火装置
 京島3丁目6番1号京島3丁目第5コミュニティ住宅にある手押しポンプ。


■からたち児童遊園
 京島3丁目10番19号にある区立公園。


■ポケットパークこぞう一休
 京島3丁目15番11号にある区立公園。平成10年3月31日完成。同25年3月25日拡張。
こぞうは「小僧」ではなく「子象」だ。

 
13‐路地尊型雨水利用防火装置
 地下埋設型手押しポンプ。


■やさい広場
 京島3丁目23番にある区立公園。平成15年3月26日完成。

   やさい広場
   この広場は、京島地区まちづくり事業により、防災広場として整備したものです。
   地区の皆さんに親しまれ、愛される広場とするため、次のような危険な遊びや、近所に迷
   惑をかけることを禁止します。
    サッカー          夜間集って
    野球            携帯電話で話すなど
    その他危険な遊び      近所迷惑となることなど
   迷惑行為については、警察に通報します。  墨田区・京島三丁目中央町会・向島警察署
  


■ポケットパークさくら一休
 京島3丁目28番にある区立公園。平成8年3月29日完成。

 11‐路地尊型雨水利用防火装置
 地下埋設型手押しポンプ設置。


■京島三丁目防災広場
 京島3丁目31番にある区立公園。


■ポケットパークたから一休
 京島3丁目41番7号にある区立公園。猫の額程の極小公園。桜の木が一本立っている。平成7年
3月31日完成。

 8‐路地尊型雨水利用防火装置
 地下埋設型手押しポンプ。


■原公園
 京島3丁目44番14号にある区立公園。下町風情溢れるキラキラ橘商店街(橘館通り)の入口、
曳舟たから通り沿いのこの公園は、昭和20年3月10日の愚かなアメリカ軍の非人道的無差別空爆
の犠牲者364名が仮埋葬されたところだ。
 なお平成元年3月、原公園の改修に際して、遺骨や毛髪が若干出土した。警察の鑑識により、戦後
改葬されたはずの戦没者のものと判明し、慰霊堂へ合祀された。

 
田丸稲荷神社

 公園の中にある小社。

   田丸神社由来
   明治三十八年冬他界した妻の言葉で「父が以前行った事のある所に宝財として土地を求め
   よ」に従いそこを訪れたところ昔はその栄を物語るも手入れもされず、樹木でおい茂り、
   中央に池がある荒れ果てた土地があった。
   あまりにもひどくあきらめんとしたが、去るには地相が如何にも捨て難く、購入し地盛り
   古い池の埋立をしたところ、年を越したころには緑が茂るようになった。この土地の北隅
   の樹木の小陰に所があり、塵埃をはらい四辺を清め、心からのお祀りをし、永世の奉りを
   誓った。その夜枕辺に稲荷の主神咲栃の神がおたちになり、静かな声で「忠よ汝は善く我
   安居を清めてくれました、その厚き志に感謝し貯財の道を教えましょう。北半里を出ない
   中に水田があり土地を求めなさい。そこの地を開けば多くの人がここに居を求め人の為、
   又家運の為にもなり、無上の幸福があなたに訪れるでしょう」の言葉を言い残し幻の如く
   闇に消えました。
   その声、裳の姿、畳障子の音までも私の目、耳底にのこり、夢と思うも夢でなく、その夜
   は眠ることもできずに夜を明かした。翌年三十九年にそのお告げの通り今の地に咲栃の神
   をお漏りしたところ多くの方が今日居をかまえられた。
   その土地こそが、現在のこの地である。
   それ以来、大正十二年九月一日の大震災又戦災も逃れ、咲栃の神の言に従って開かれた土
   地は栄え、家々は日に日に盛運に進みその神徳に感謝してもしきれないものである。
                                   原忠三郎謹書より
   以後、今にいたるまで「財のたまる」「幸のたまる」「難を逃げる」田丸神社としてあが
   められている。


 
地蔵尊と戦災殉難者之霊碑
 
戦後間もなく地元有志により、公園中央にある田丸稲荷神社の横に地蔵尊が建てられた。昭和47
年7月には「戦災殉難者之霊」の石碑が隣接町会と解脱会により建立された。毎年3月10日および
7月4日(お盆月の地蔵様縁日)に供養が行われる。

   一切之大供養(右側)
   
戦災殉難者之霊
   完全令成佛(左側)


 新薬師道之碑

 大正6年5月の建碑とある。大きな立派な碑だよ。鷲山実同篆書 柳坡原忠三郎とあるので、原公
園の「原」は人名ということか? 土地の所有者だったのかも知れない。新薬師道というのは曳舟た
から通りのことだろうか、薬師が木下川薬師なら方向がちょっと違う気がするし、橘館通りなら薬師
道に合流するが、しかし新道という風情ではない。
 


■橘館通り(キラキラ橘銀座商店街)
 曳舟たから通り京島3丁目44番の原公園の西角の交差点から明治通りまでの商店街。橘館とは、
3丁目20番地のスーパーマーケットセイフー京島店のところにあった映画館。昭和6年に開場し、
同36年に火災に遭い全焼、再建されなかった。
駅前系ではない商店街ながら、かなりの隆盛を誇る
商店街だ。カラータイル舗装で、明るさと古さを兼ね備えている。食料品関係の店は特に強く、買い
食いしながら歩いている散歩師もいる。墨田区北部の数ある商店街の中で、要チェックの商店街だ。
「下町」を十二分に堪能できるので外部からの探訪者も多い、イチオシの商店街だ


■京橋三丁目ぐるぐる広場
 京島3丁目45番にある区立公園。併し住所は道路向かいの61番4号となっている。平成10年
3月25日完成。


■21‐手押しポンプ ◇
 京島3丁目52番8号京島3丁目第8コミュニティ住宅東南角にある雨水利用貯水装置。平成12
年2月に設置された。


■9‐路地尊型雨水利用防火装置 ✔
 京島3丁目55番7号京島3丁目第4コミュニティにある地下埋設型手押しポンプ。平成7年4月
開設。消防水も兼ねる。。


■高松プロダクション吾嬬撮影所跡
 京島3丁目62番19号先歩道に建ててある説明板。

   高松プロダクション吾嬬撮影所跡        所在 墨田区京島3丁目62番
   日本映画の製作は、日活、私竹など四つの大手会社が占めていましたが、大正10年前後
   になると、短期間の内に幾つも独立プロダクションが生まれては消えていく混沌とした時
   期を迎えました。
   高松プロダクションの創略者・高松豊次郎は、始め、映画興行を通じて労働演説等の活動
   をしていましたが、大正6年6月に活動写真資料研究会を結成し、社会教育映画を製作す
   るようになりました。この過程において、プロダクション創立後に協力しあうことになる
   牧野省三らと親交を結びました。また「大東京」などの映画館を経営し、浅草六区の興行
   組合長にもなりました。映画資料の収集にもあたりましたが、関東大震災で焼失しました。
   吾嬬撮影所のグラスステージは、高払プロダクションの活動拠点として、大正14年10
   月に建られました。敷地は1000坪余り、現像室も100坪あったといといわれていま
   す。主なスタッフとして所長兼監督山根幹人、文芸部今東光、俳優近藤伊与吉・革間実・
   西山普烈(江川宇礼雄)等がいました。この撮影所で、「輝ける扉」(山本嘉次郎監督)
   「愛染手綱」(高松琴監督)など、42本の時代劇等を製作配給し、俳優では西山普烈・近
   藤伊与吉・滝田静江・高島愛子を輩出しました。
   しかし、高松プロダクションは、提携していたマキノ映画社の撤退、監督の他プロへの移
   籍などにより、わずか一年数ヶ月の経営で休業状態に陥り、貸スタジオに転向せざるを得
   ませんでした。
   隅田川河畔にあった日活向島撮影所(現在の堤小学校敷地内)とともに、墨田区内に存在
   した映画撮影所として、日本映画史の一端を刻んています。
   平成11年3月                         墨田区教育委員会


■第四吾嬬小学校
 
 京島3丁目64番9号にある区立校。大正15年設立、昭和2年東京府南葛飾郡第四吾嬬小学校と
して開校し、平成7年創立80年を迎え、卒業生は13207人、各界で活躍しているらしい。沿革
については図書館巡りをしたが、他区に比べて著しく資料が少なく、委細不明だ。図書館自体お粗末
で、中央図書館の機能を持つあずま図書館でさえ、他区のそれに比べようがないほど低レベルだ。休
日というのに少年少女の姿は見られず、閲覧机は何時行っても確保できる。もっと勉強しろ!

 校歌「くろがねの」 歌詞・第四吾嬬小学校PTA選定  作曲・渡辺浦人
  1.鉄
(くろがね)の甍に映えて
    東の空 朝日は昇る
    逞しくサイレン響き
    空遠く雲は流れる
    いざ友よ 肩ならべ
    みんなで歌おう
    第四吾嬬、吾嬬小学校
  2.若鷹は高くはばたき
    吾嬬の森 力みなぎる
    春秋を重ねてここに
    目も遥か 誇れこの町
    いざ友よ 手を繋ぎ
    みんなで作ろう
    みんなの町を 吾嬬の町を
  3.みな集うこの学び舎に
    教えの風 暖かく吹き
    花開く明日を望んで
    勤しむよ 日ごと日ごとを
    いざ友よ 眉あげて
    みんなで歌おう
    第四吾嬬 吾嬬小学校

 
 



【錦糸】(きんし)1~4丁目                    昭和42年5月1日
 播磨竜野藩脇坂家中屋敷・越前鞠山藩下屋敷・越前黒川藩柳沢家下屋敷・旗本武家地・亀戸村・
柳島村・八右衛門新田・小梅代地町。明治5年武家地を本所錦糸町としたが、明治期に町に商家は
なく大半を総武鉄道が所有していた。同22年本所区に所属。同24年亀戸村の飛地を併合。同2
7年総武線鉄道本所駅開業。同44年本所の冠称を外して錦糸町。大正4年駅名も錦糸町に改称。
昭和5年一部を江東区1・4丁目丁目に譲り、同7年大平町1~2丁目・柳島などの一部を加えて
錦糸町1~4丁目とした。同22年墨田区所属。同42年新住居表示により現行の「錦糸」となっ
た。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『墨田区史』『墨田の歴史』など。

 錦糸町の由来
 
江戸時代南割下水の大横川から以東を通称「錦糸堀」といったが、江戸末期には「小梅代地町、
南割下水錦糸堀」と呼ばれていた。 この用水堀こそが落語などでお馴染みの本所七不思議の一つ
「おいてけ堀」で、関東大震災まで錦糸町駅の北側に東西に長い長方形の溜池として存在した。震
災焦土の処理のため埋め立てられたが、駅北口が開かれたのは昭和56年になってからで、それま
では南口だけだった。町名はこの錦糸堀からついたが、錦糸の由来は判らない。「岸堀」が転訛し
たという説と、朝日夕日にきらめく水面の様が「錦糸」のようだからという説がある。江戸末期か
ら明治にかけて活躍した河竹黙阿弥の作になる歌舞伎の「孝女お竹」(初演慶応元年)の、

   「あれぇ、たれぞ来てくだされ」~~呼べど叫べど街中を、離れし在の錦糸堀、更け
   行く庭にこおろぎの、啼く音も細き秋の末、野寺の鐘や小夜砧、いとど哀を添えにけ
   る(黙阿弥全集より)


 この芝居は「錦糸堀」を舞台にしたもので、この「錦糸堀」は江戸時代の文献に登場する「錦糸
堀」の唯一のものなのだ。つまり河竹黙阿弥こそ「錦糸町の祖」ということになる。
だから錦糸は
錦糸堀だ!
 なお「おいてけ堀」は江東区亀戸1丁目の第三亀戸中学校のところにあった用水池だともいう。
また江東橋4丁目17番に錦糸堀公園があって、おいてけ堀だと説明し、カッパの像がある。一体
全体どうなってんでい! 
 


■錦糸町駅
 錦糸1丁目2番にあるJR総武本線・総武線、東京メトロ半蔵門線の停車場。明治27年12月、
同年7月に開業済みだった総武鉄道市川~佐倉間を延長する形で開業した。当時の駅名は「本所駅」
といい、同30年に現在名に代えた。同37年4月5日に両国橋駅(現在の両国駅)へ再延伸するま
では起点駅だった。
 昭和47年7月15日には東京~錦糸町間の地下線が開業し、錦糸町駅は東京からの快速線と御茶
ノ水からの緩行線の合流駅となった。これと同時に総武本線の起点は東京駅親ホームに移り、御茶ノ
水~錦糸町間は支線に格下げされた。その後、平成15年3月15日には半蔵門線が乗り入れて現在
に至っている。楽天地のところが汽車製造工場だった。
 JRのホームは高架島式2面4線。快速と各駅停車が別々のホームに発着しており、改札のある通
路のほかにも千葉寄りに乗換専用の連絡通路が設けられている。ホームと改札階を結ぶエレベーター
は、快速ホーム、各駅停車ホームともに設置済み。
 半蔵門線のホームは島式1面2線構造で、地下3階にある。ホームと改札階を結ぶエレベーターは
完備されている。
 JRの改札口・出口は、南口と北口の2ヶ所。東京メトロの改札は地下1階にある1ヶ所のみで、出
口は1~4の4ヶ所である。地上へ上がるエレベーターは、1番出口と4番出口に併設されている。
半蔵門線とJRの駅は完全につながっていないため、大雨のときなどには傘が必要となる。

 
「神奈川沖浪裏」
 江東橋3丁目14番5号南口駅ビルテルミナの駅前広場に面した外壁面に、平成29年10月20
日、葛飾北斎の代表作富嶽三十六景の内の「神奈川沖浪裏」をモチーフにしたアートレリーフが展示
された。これは、株式会社錦糸町ステーションビル代表取締役社長山際貞史が駅前の商業施設テルミ
ナの改装に際し、街の象徴となるようなスポットとするために設置した。
 制作には、区内在住の彫刻家西村潤、区内で硝子工房を営む井上剛(硝子企画舎新工房/プリズム
プラス 石原4-16-7)が協力した。材料には、石、アルミ、ガラス、などを使用し、現代技術
と江戸文化を融合するようなイメージにしている。また、アートレリーフのモチーフにもなっている
「神奈川沖浪裏」の荒々しい波飛沫には、未来を感じるアルミ材、波濤の部分は北斎が最もこだわっ
たといわれる透明感のある「ベロ藍」と呼ばれるプルシアンブルーを何度も試行錯誤しながら透明感
のある青をガラスや樹脂で表現している。

 伊藤左千夫住居跡・歌碑
 錦糸町駅南側広場にある。明治から大正時代に活躍した歌人伊藤左千夫は、正岡子規の実質的な後
継者として優れた短歌と歌論を発表し、小説家としては「野菊の墓」の作者としてその名を残してい
る。左千夫は、明治22年、26歳のとき、現在の墨田区江東橋に牧舎と住居を建てて搾乳業を営ん
だ。江東橋3丁目にあるのと同じ歌碑と説明板がある。

   
よき日には
   庭にゆさぶり
   雨の日は
   家とよもして
   児等が遊ぶも
      左千夫

 搾乳業に専念する傍ら、歌に魅入られた左千夫は代表作となる

   牛飼が歌よむ時に世の中の新しき歌 大いに起る

 を詠み、以後牧場に関する多くの歌を詠んでいる。彼の主宰する歌誌「馬酔木」創刊時の発行所、
アララギ派の機関誌「アララギ」の発行所となったのもこの牧場だった。区の説明版は以下の通り、

   伊藤左千夫牧舎兼住居跡             所在地 墨田区江東橋三丁目
   左千夫、本名幸次郎は、元治元年8月18日に上総国武射郡殿台村(現在の千葉県山武市)
   の農家の四男として生まれました。
   18歳の時上京して明治法律学校(明治大学)に入学しましたが、眼病のため中退、農業
   に従事しました。
   22歳の時再び上京、神田の牛乳店豊功舎に勤めました。その後、いくつかの店をかわり、
   26歳の4月には、この地に牧舎つき住居を購入して独立、牛乳搾取業を始めました。毎
   日18時間も働いたと自ら記しています。
   30歳、同業の伊藤並根に茶の湯、短歌を学びました。当時春園と号し、桐の舎桂子の月
   例会に出席、『牛飼が歌よむ時に世の中の新しき歌大いに起こる』を発表して好評を得ま
   す。
   やがて短歌革新運動を進める正岡子規に共鳴して、明治33年その門に入り、作歌に励み
   ます。子規も、その才能を高く評価し、根岸派の有力な一員となります。
   子規歿後は、根岸派の機関誌『馬酔木(あしび)』『アララギ』により活発に作歌を続け、
   多くの著名な歌人を育てました。なお左千夫には『野菊の墓』等の小説、写生文、歌論、
   新体詩等の優れた作品が沢山あります。
   大正2年7月30
日転居先の江東区大島で脳溢血のため急逝し、亀戸の普門院に葬られま
   した。享年50歳。

   昭和59年3月                              墨田区

 現在のもの。最初の行以外は同文。

   
伊藤左千夫牧舎兼住居跡           所在地 墨田区江東橋3丁目14番
   この地には、明治時代の歌人で小説家としても活躍した伊藤左千夫の牧舎と住居がありま
   した。左千夫(本名幸次郎)は、元治元年(1864)八月十八日、上総国武射郡殿台村
   (現在の千葉県山武市)に生まれました。明治18年から、東京や神奈川の7ヶ所の牧場
   に勤めて酪農の知識を深めました。明治22年25歳のとき、本所区茅場町三丁目十八番
   地(現在地)の牧舎と乳牛3頭を購入し、四畳半一間と土間のついた仮小屋を建て、乳牛
   改良社(茅の舎、デポン舎とも称した)を開業しました。随想『家庭小言』には開業当時
   の様子について、毎日18時間の労働をしたことや、同業者の中で第一の勤勉家という評
   を得たことなどが書かれています。
   左千夫が歌の世界に入ったのは、明治26年ごろ同業の伊藤並根から茶道や和歌を学んだ
   ことがきっかけでした。明治33年37歳の頃には正岡子規の門下生となり、根岸派の有
   力な歌人として多くの作品を発表しました。 また、子規没後の明治36年には、機関誌
   『馬酔木』を創刊。明治41年には後継誌『阿羅々木』(のちに『アララギ』と改題)を
   創刊して根岸派、アララギ派の中心となり、島木赤彦、斎藤茂吉など多くの歌人を輩出し
   ました。小説では処女作でもある『野菊の墓』が知られています。この作品は政夫と民子
   の青春、悲恋を描き、近代文学の名作として読み継がれています。
   この地は低地で湿地が多く、水害がたびたび発生しました。写生文『水害雑録』には、明
   治43年8月12日の水害時における家族や乳牛の避難といった当時の苦労が記されてい
   ます。経営の問題から、明治45年に南葛飾郡大島町(現在の江東区大島)に牧舎を移し
   程なくして茶室「唯真閣(現在は千葉県山武市に移築)を残して家族とともに転居しまし
   た。大正2年7月30日50歳で没しました。
   隣に立つ「よき日には」の碑は、昭和58年年に「伊藤左千夫記念会」が建てたものです。
   刻まれている歌は、明治41年10月『阿羅々木第一巻第一號』の「心の動きニ」に掲載
   した一首で、家で遊ぶ子供たちの様子を詠んだ作品です。親として子供に寄せる左千夫の
   思いがうかがわれます。
   平成24年3月                         墨田区教育委員会


 左千夫は矢切の渡しを著名にした『野菊の墓』の作家だが、錦糸町駅周辺がまだ「鉄道ヶ原」と呼
ばれて人気のない寂しい場所だったころ、この辺りで「牛乳改舎・茅の舎」という牧場を開き、搾乳
業を営んでいた。


 彫刻「エコー」
 北口に出ると、目の前にある大きな輪っかの巨大オブジェに目を奪われる。交通広場にあるアメリ
カ人ローレン・マドソンの作品。この作品が日本での初めての作品であり、作成モチーフは音楽と美
術の相互関係に着目して、「ヘ音記号」を2つ、片方を逆さにした組み合わせで、相互に繋がりと連
結性を持たせ、2つの柱に続く5本のケーブルは五線符を表す。またタイトルは作品の構成する2つ
の記号が互いに反響しあっているイメージで「エコー」と名づけられた。
 「錦糸町と音楽」とは似つかわしくない印象だが、実は墨田区が「音楽都市」だったのだ。北口に
ある「すみだトリフォニール」は1800席の大ホールや250席の小ホールなどのあるクラシック
ホールで、平成19年に開館10周年を迎えた。さらに世界的に著名な指揮者、小澤征爾氏が桂冠名
誉指揮者を務める「新日本フィルハーモニー交響楽団」がフランチャイズとして使用している。さら
に墨田区では「5000人の第九」など、様々な音楽に関するイベントや活動が行われている。

   エコー ヘ音記号
   この作品は「音楽都市墨田区にふさわしいアート作品」という狙いと「駅の循環の場であ
   るロータリー」とを密接に関連させて、様々な音楽的モチーフを用いて構成されています。
   従来楽譜には曲線が頻繁に使われています。
   この曲線は大変エレガントであり、私はしばしば超異国にこの曲線を用います。
   この作品の曲線を構成するヘ音記号の「対」の組み合わせは、協和音と不協和音、クレッ
   シェンドとデクレッシェンド、といった音楽における「対」の考え方と通じるものです。
   協和音は耳に心地よいハーモニーであり、この作人の緊張感とバランスを保った対の形が、
   駅前広場に「調和」と「一致」をもたらします。
   タイトルは、この二つのピースが塔に連なる5本の五線譜(ケーブル)の上で互いに反響
   しあっているイメージと、低音と高音との共鳴が、音色を生み出す源となるという意味を
   込め、〝ECHO〟(エコー)と名付けました。
   2つの塔のタイル模様は、偉大な作曲家達の主なる音楽史をたどっています。
   駅側から見て西の塔は、1500年から1750年まで上から下に向けて示されており、東の
   塔は、1750年から2000年までを表わします。西の塔は、各作曲家のたどる線が、
   一番南の角から時計と逆方向に巻き付くように描かれています。明るい色の水平線は、1
   00年間を表わします。      1997年 ローレン・マドソン Loren Madsen


 照明灯 ◇
 駅前のフリースペースにある変わったデザインの照明塔。

 
壁画 ◇
 錦糸町ガード(架道橋)から駅に向かう線路敷北側擁壁に大きく描かれている。
  


■「Rond」 ◇

 錦糸1丁目2番1号アルカセントラル2階にあるオブジェ。チャールス・O・ペリーの作品。
 もう1基似たようなオブジェ「VILLA HUMADA」がある。


■「涼風」 ✔
 象りのような塊の上に安らぐ女性と犬の銅像。


■「琵琶を抱えた猫」 ✓

 錦糸1丁目2番2号にある関孝行石の彫刻。太い柱の側にある。未確認。


■すみだトリフォニーホール

 錦糸1丁目2番3号にある。「新日本フィルハーモニー交響楽団」(音楽監督クリスティアン・ア
ルシンク桂冠名誉指揮者:小澤征爾)が、墨田区とのフランチャイズ提携に基づき、すみだトリフォ
ニーホールを拠点として演奏活動を行っている。オーケストラの公演活動をこのホールで行うことは
勿論、総てのリハーサルも同じ舞台で行い、一貫した音作りを目指している。全国初の本格的なフラ
ンチャイズオーケストラは、すみだトリフォニーホールの顔となっている。ホールは、墨田区におけ
る中核的な文化施設としてまた東京東部地域における芸術文化活動の拠点として誕生した。
 03-5608-5400
 ホールは、オーケストラなどの音楽演奏を主目的にした「大ホール」と、区民自らの発表鑑賞等に
利用できる「小ホール」がある。さらに少人数からアンサンブルの練習にも応られる3室の練習室、
大・小ホール合わせて17室の楽屋など、個性的で先進的なホールだ。


 パイプオルガン
 すみだトリフォニーホールのオルガンは、18世紀のドイツ・バロック時代のオルガンの特徴を基
本にしたタイプ。製作したのは、ドイツのザクセン地方の古都ドレスデンに工場を持つイェームリッ
ヒ社。同社は、オルガン音楽の最大の巨匠とされる、あのヨハン・セバスチャン・バッハと関係が深
かったオルガン製作の伝統を受け継いでおり、その特色がここに生かされている。このオルガンの規
模は、4735本のパイプが、66個のストップに纏められている。ストップとは、音色の可能性を
引き出す装置のことで、様々な音を発するパイプ群を、同じ系列の音色毎に何十本かづつ集めたもの。
ストップの数が増えれば、それだけ音色の組み合わせの可能性が大きくなり、表現力が豊かになる。
演奏台には手で操作する手鍵盤が3段と、足で扱う足鍵盤(ペダル)が1段備えられている。またす
みだトリフォニーホールは、新日本フィルハーモニー交響楽団の本拠地になっているから、このオル
ガンは、オルガン独自の力を充分発揮すると共に、オーケストラの響きとも良く調和するように設計
されていることが、大事な特色の一つだ。

 
「招き猫」
 トリフォニー小ホール入口前にある。

 
オブジェ 8点
 2階の柱に取り付けてある細いパイプで描いた作品。ギターと鳥と五線譜を丸めたもの、コントラ
バス、トロンボーン、ピアノの鍵盤、ハープ、チューバ、ホルン、ティンパニー。

 
ピアノを弾く人
 大ホールにある銅造。ピアノはない。 
 


■小諸藩牧野家下屋敷跡

 錦糸1丁目2番4号、錦糸町駅西の総武線線路のある辺りにあった。


■アルカウェストAIGタワー

 錦糸1丁目2番4号にある高層ビル。

 
VILLA HUMADA
 1階西北の角にあるセバスチャンの作品。

 
「丸い球体」
 錦糸1丁目2番4号アルカウェストAIGタワーにあるオブジェ。球形の中は四方形で空洞になっ
ている不思議な物体。


■石材資料館 
閉館
 錦糸1丁目4番10号の須藤石材墓石会館にあった。現在建物はそのままだが、須藤石材が転出し
ている。
 


■津軽稲荷神社

 錦糸1丁目6番12号、錦糸町駅前通りに面してある中社。津軽藩下屋敷内にあったことに由来す
る。この一帯はその昔、津軽為信の時代に1万坪の下屋敷があったという。明治以降は管理ままなら
ず、明治43年の大水害後に地元町会に払い下げられた。関東大震災と愚かなアメリカ軍の空爆の2
度焼失したものの、昭和35年に拝殿・社務所・会館、同44年に鳥居が再建され復興した。
 初午祭は、毎年2月の初午の日、平日の場合は第2日曜に催されている。拝殿で修祓式が執り行わ
れ、神社を管理する錦糸1丁目町会長や総代代表らが玉ぐしを捧げ、近くにある牛島神社の宮司の音
頭で乾杯する。神社は錦糸町駅前に程近いビル街の一角にあり、献奏では「あどはだり」「鯵ケ沢甚
句」「十三の砂山」など津軽三味線の音が心地よく響く。

   津軽稲荷神社由来
   津軽稲荷神社は青森県弘前城主津軽四郎為信十万石の下屋敷にて一万坪は明治四十三年の
   大水害と共に拂下られ太平町一丁目町会の所有となる。
   昭和七年町名変更の際錦糸一丁目町会の守護神となり祭神は伏見稲荷神社の分神にて町民
   の信仰厚く大正十二年関東大震災及昭和二十年戦災の為焼失昭和三十五年拝殿及社務所会
   館再建落成致しました。又弁財天は江ノ島弁財天の分身で鳥居は明治百年を記念して昭和
   四十四年再建されました。町民一同之信仰の的とされて居ります。尚津軽華子様常陸宮様
   との御結婚之際当町より津軽家に御祝品贈り御礼として礼状及記念品を頂戴致しましたの
   で神社内に保存してあります。
   昭和五十八年                               明友会
 

■とり喜

 錦糸1丁目8番13号にある焼鳥屋。店内は高級レストランの佇まい。欅の一枚板の12席のカウ
ンターの他に8名まで座れる堀炬燵式の小上がり。坂井康人が仕入れるのは、鳥取の「大山地鶏」や
「東京軍鶏」などの質の良い国産鶏だ。丁寧に串を打ち、振り塩はやや控えめ、過度に炭の香りをつ
けず、火を通し過ぎない焼き加減が特色。あっさりめのタレが素材の味を引き立てる。焼鳥8本と野
菜4本のコースが人気。単品で注文する方が出てくるのは早く、丸ハツ(心臓)や鶏刺身は予約が必
要。一品料理も充実しており、濃厚な味わいの自家製胡麻豆腐は定番。締めは鶏だしが魅力の茶漬け
だ。予約は10時から16時まで。
 定休日は、日祝、ゴールデンウィーク、8月中旬、年末年始
 17時半~22時(土曜は17時から) 03‐3622‐6202

 ミシュランガイド東京 
 『2010』から『2014』まで5年連続で星1つを取っている。


■錦糸小学校

 錦糸1丁目9番12号にある区立校。大正7年4月20日太平町1丁目50番地(横川1丁目)に
「東京市太平尋常小学校」として開校。同12年関東大震災で校舎全焼。翌年仮校舎が建つ。
 昭和3年仮校舎を移す(太平1丁目)同4年現在地に鉄筋コンクリート造り3階建て新校舎落成。
同8年創立15周年記念式典。校歌・校旗制定。

 同16年勅令第148号国民学校令により「東京府東京市錦糸国民学校」と改称。12月真珠湾奇
襲により日米開戦。同18年都制施行により「東京都錦糸国民学校」と改称。同20年愚かなアメリ
カ軍の非人道的無差別空爆により本所は焼野ヶ原となり校舎も全焼。
 同21年旧茅場国民学校跡を仮校舎として授業再開。同22年国民学校が廃止となり、アメリカの
強制による学校教育法の施行により「東京都墨田区立錦糸小学校」と改称。同28年創立35周年記
念式典。同38年やっとプール完成。交通禍で子供の遊び場がなくなったため日曜日の校庭開放始ま
る。同39年集団登校開始。同43年水泳教育でNHKに出演。創立50周年記念式典。同46年旧
校舎解体。同48年建替え新校舎落成。創立55周年記念式典。同53年あわの自然学園開設。移動
教室始まる。創立60周年記念式典。同63年創立60周年記念式典。
 平成5年錦糸グラウンドにて創立75周年記念大運動会催行。同記念式典。9年食堂完成。同10
年創立80周年記念式典・学芸会。同13年コンピュータルーム開設。校庭全面改修。同14年野外
体験活動始まる。完全週5日制開始。同15年開校85周年を記念して錦糸グランドで大運動会・記
念式典・音楽会・展覧会。同20年創立90周年記念式典・記念学芸会。
 


■清平橋の

 錦糸1丁目17番2号西の大横川親水公園内にある。橋の一部を遺したモニュメント。

   
平橋跡
   大横川親水公園をまたぐ清平橋は、関東大震災の復興事業により昭和4年に架けられまし
   た。かつては川の西側が清水町、東側が太平町と呼ばれていたことから、両町名から一文
   字ずつ取って清平橋と名づけられました。
   架橋時は長さ38.97mの鋼橋(3径間ゲルバー橋)でしたが、老朽化が進行したため、
   架橋から82年が経過した平成23年に、長さ10mのコンクリート橋(プレテンション
   方式PC単純床版橋)に架け替えました。
   架け替えを記念して、旧橋の橋名板と鋼材の一部を遺してその歩みを記します。
   平成24年3月                              墨田区



■長崎橋の由来

 錦糸1丁目17番10号西南の橋跡にある。親柱の間にトラスを渡したモニュメント。

   長崎橋の由来
   ここにあった長崎橋は、元禄十年(1697)当時の本所奉行鈴木兵九郎、島屋久五郎両
   名によって、墨田区亀沢4丁目より錦糸1丁目に架けられました。最初は長さ十間(18
   m)、2間半(4.5m)の木橋でしたが、その後何回となく架け替えられ、昭和4年6月
   には鋼橋(トラス)になりました。この橋は、大横川親水河川整備事業によりその役目を
   終えて撤去しました。橋の名前は、当時西側に隣接した本所長崎町の地名に因んで長崎橋
   と名付られ、永い間親しまれた本橋の面影を慕い、橋名板を残してその歩みを記します。
                                     平成3年6月
 


■エコー

 錦糸2丁目2番錦糸町駅北口広場にある巨大なオブジェ。巨大な2本の柱からワイヤーで引っ張っ
て吊ってある。2本の角笛を合わせたような恰好だ。


■CosmosⅡ

 錦糸3丁目2番1号アルカイースト東北角オープンスペースにある鈴木丘作のオブジェ。


■乾燥木材工芸資料館
(墨田区小さな博物館)

 錦糸2丁目9番11号にある。指物(釘などを使わずに細かく板を指し合わせて組み立てた机、タ
ンス等の総称)技術を駆使して、木の根などの乾燥した木材で作られた様々な作品が並ぶ。館内には
「木の暖かみ、手づくりの良さを多くの人に知ってほしい」と民芸品やオブジェなどが展示されてい
る。お子さん向けには木の玩具やパズルもある。「木製品作りを体験させることで、木の素晴らしさ
物を大切にする心を子供たちに伝えたい」と鈴木康之館長の弁。開館は、月曜日から金曜日までの午
前9時から午後5時まで。 03-3625-2401


■ルーペハウス

 錦糸3丁目9番6号にあるルーペ専門店。ルーペとは拡大鏡のことだ。ルーペといっても馬鹿にな
らない種類がある。顕微鏡もルーペの1つだ。取り扱い品揃えは、ヘッドルーペ、スタンドルーペ、
置き型ルーペ、高倍率ルーペ、ハンドルーペ、携帯用ルーペ、ペンダントルーペ、遠近両用望遠鏡な
どなど。インターネットでも販売しているし、送料は一律500円。5000円以上のお買い上げで
送料は無料だとか。てもまぁルーペなんてあんまし買わねえわなぁ。
 TEL03‐3626‐1531
 


■稲荷社 ◇

 錦糸4丁目1番のJR錦糸町変電所内の土手にある小祠。
 


■硝子の本の博物館 閉館 → 移転再開

 錦糸4丁目10番4号の松徳硝子本社工場2階ショールーム「玻璃蔵庄太郎」にあった。

 現在吾妻橋1丁目19番8号に移して「小さな硝子の本の博物館」として再開している。
 


■馬像
 
錦糸4丁目14番9号蝦夷ラーメン前にある立ち上がる白馬像。


■錦糸公園
 
錦糸4丁目15番1号にある区立公園。錦糸町駅北口から歩いて1分の、小さな子供から大人まで
が楽しめる多目的運動公園で、児童公園・健康遊具広場・噴水広場・野球場・テニスコート・ラジオ
体操広場などがある。毎月一回フリーマーケットが催される他、毎年10月の第一土・日曜日に区民
あげてのお祭り「すみだまつり」のメイン会場にもなっており、多くの区民が利用出来る楽しい公園
でもある。昭和3年の開園で、区内では安田公園に次いで古い。

 
「躍進」像
 北側植栽にある。スタートした瞬間の男子ランナー像。石黒功の作品。

 
ボールとバット(王さんのモニュメント)
 グランドの前に野球の「王さん」のバットとボールをリリーフした像がある。

   毎日暗くなるまで白球を追いかけていた少年時代、当時こあたりは、数箇所の球場のある
   野球のメッカであり、厩四ケープハーツで大人たちに混じってプレーをしていた私の野球
   の原点です。この錦糸公園野球場で、野球の楽しさ、すばらしさを体験し、そして私を追
   い越していく選手が育ってくれることを願っています。
   平成23年4月3日                        王貞治(自筆)
 


■墨田総合体育館
 
錦糸4丁目15番1号の禁止公園内にある区のスポーツ施設。


■千種稲荷神社
 錦糸4丁目15番1号にある。錦糸公園の駅側入口の右側に鎮座している。この辺りが柳島村と呼
ばれていた4代将軍家綱の時代から守護神として祀られていた稲荷。現在の錦糸公園は、武家地や幕
府の材木蔵だったが、明治になってから陸軍の倉庫地となった。その時稲荷社取り払ったところ火災
が頻発した。そこで再建したら不思議と火災が起こらなくなり、関東大震災でも被害を受けることが
なかった。昭和3年錦糸公園が開園したが、稲荷は公園を造園中に行方不明になってしまったが、また
火災が多発するようになった。そこで何とか探し出して改めて祀ったところ火災はなくなり、昭和2
0年アメリカ軍の無差別東京大空襲でも戦火を免れた。
 なお千種を冠するのは昭和30年から管理が千種講に委ねられたことによる。

   
千種稲荷神社(趣文 真宗末一「千種稲荷由来記」より)
   千種稲荷神社は江戸時代此の地が湿地帯であり荒廃のままになっていたが寛文から延宝の
   20年間(徳川4代将軍家綱の時代)の長きに亘り治水を目的として土木工事が行われ、
   更に其の後この地を武家の下屋敷の敷地として整地を行い、なお商家の営業も地域内に許
   可され加えて横十間川が当時船運の盛んな処であった関係で、武家屋敷が横十間川を挟ん
   で両側に軒を連ねていたと云う頃より、此の柳島村の守護神として祭られていたものと伝
   えられて居ります。その後徳川幕府は明治政府に替り、明治2年大政官の布達により従来
   の武家制度は廃止され、大名家下屋敷も解体されて農耕地に変わり、其の下屋敷解体の際
   にも此の稲荷社は保護されて郷土の守護神として残されました。
   其の後政府は陸軍糧秣廠本所倉庫を此の地に建設し、其の敷地内に此の稲荷社があり、陸
   軍省は、敷地整地に際しこの稲荷社を取払いし処、其の後倉庫並びに周囲に再三火災発生
   し、陸軍省も面目問題として苦慮を重ね、後になり敷地内より取り払ったままになってい
   た稲荷社に気付き旧位置に再建して祀りし処、不思議にも其の後火災等全くなくなりまし
   た。大正12年の震災には此の地一帯は灰燼に化したが稲荷社には少しの被害も受けませ
   んでした。昭和3年7月18日復興局の手により創設された錦糸公園も開園とあり、同じ
   頃、神田より製菓業者が公園の周辺に集団移住し営業を開始せし処、早々より町内に火災
   多発して町民は不安に苦しんでいた処、或る時静岡県より来られた行者さんが、昔より此
   の地に祀られて有った守護神が公園建設の際、園内の何れかに放置されたままに成ってい
   るとの言葉に町内有志により探し出し、公園課の了解を得て稲荷社を旧位置に祀りし処、
   其の後火災も無くなり又、商売繁盛、災厄消除当諸々の願いも成就するとて、多くの信者
   が参拝致す様になりました。昭和20年3月10日の空襲にも此の稲荷社は少しの被害も
   なく、多くの人が境内に避難し戦火を免れました。昭和29年千種講世話人相計り、戦後
   荒廃した稲荷社の整備計画が建てられ、其の年より、玉垣、鳥居、参道、水屋、石燈籠、
   本殿の増改築等遂年に渡り工事を重ね境内の整備を完了した次第であります。昭和30年
   5月18日付を以て右建物一切を、東京都の申し出により都に寄贈致し、保存と管理を千
   種講が委任されました。その後、昭和40年4月から墨田区の公園となりました。
   昭和50年千種講より春秋2回に亘り、吉野桜を区の公園課に寄贈し、よりよい桜の公園
   として其の景観の向上を願っている次第であります。

 歌碑
 境内にある。

     千早振る
   奉 神の御前に
      ぬかづきて
   納 さやけき我を
       見出しにけり
 
  
 



【江東橋(こうとうばし)1~5丁目                 昭和42年5月1日
 亀戸村・武家地・深川北松代町・柳原町・茅場町など。昭和5年茅場町3丁目・松代町1~3丁
目の全部と柳原1~3丁目・錦糸町の各一部をあわせた町域を「江東橋」とし、同42年新住居表
示を実施して現行の「江東橋」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『墨田区史』『墨田の歴史』など。

 
江東橋の由来
 
町名は明治31年に架けられた大横川の橋名による。 当時江東区はなかったので「江戸の東」
「墨江の東」の意だ。橋は長さ16間×幅3間の木橋だった。現在の橋は、大正15年震災復興事
業として架け替えた長さ38m×幅27mの鋼鈑桁橋を、平成7年に長さ20m×幅35mのラー
メン橋台付き鋼鈑桁橋に改めた。

 
竪川親水公園
 江東橋1・2・4・5丁目にかかる区立公園。


■さざんか児童遊園

 江東橋1丁目1番4号にある区立公園。


■伏見江一稲荷神社 ◇

 江東橋1丁目3番6号吉田製作所の角にある小社。企業稲荷なんだろう。
 


■ブレーキ博物館(墨田区小さな博物館)
 江東橋1丁目5番5号にある。ブレーキの歴史、構造、種類などをパネル展示で知ることができる
ほか、普段はあまり目にすることができない新幹線やF1カーなどに使われているブレーキまで見る
ことができる。また乗車の疑似体験ができるコーナーもあるなど、まさに楽しみながらブレーキの仕
組み、役割、大切さを学べる博物館になっている。事前に連絡をすれば、石橋秀郎館長から詳しい説
明を受けることもできる。開館は、祝祭日を除く月曜日から土曜日の午前10時から午後5時まで。
臨時に休館することあり。前もって電話をしておくのがベター。 03-3632-6931
 
 

■新燧社
国産燐寸(マッチ)発祥の地→ 両国高等学校
 江東橋1丁目7番2号の両国高等学校のところにあった。その体育館の裏、国道14号線に面した
フェンスの内側に「国産マッチ発祥の地」と刻んだ黒御影石の記念碑が建っている。碑には当時の新
燧社のマッチ箱ラベルが描かれているが、表には碑文も建立年月日も記されてない。
 石川県金沢出身の清水誠は、フランス留学から帰国後、明治9年にこの地本所柳原に「新燧社」を
設立、本格的にマッチの製造を始めた。2年後には早くも我が国始めての輸出が行われ、その後明治
から昭和初期にかけてマッチの輸出は黄金時代を迎え、太平洋戦争前まで続いた。戦後は、広告マッ
チが流行し生産量が拡大していったが、昭和50年代より使い捨てライターが急速に普及し、マッチ
の生産量も激減した。マッチを擦れない若者も多く、薪炭、練炭、炭団などとともに20世紀の遺物
になりつつある。第一火を熾(おこ)すということすら出来ないということは、サバイバルに生き残
れないということだ。

   
国産マッチ発祥の地 当時のマッチ箱のラベル図案

 碑裏の碑文。

   金沢市出身の清水誠(1845~1899)は明治9年当時本所区柳原町のこの地に我国
   最初のマッチ工場(新燧社)を建設した。表の絵はいまはなくなっているが当時のマッチ
   箱の図案である。亀戸天神社の境内には同氏の履歴を記した石碑が清水誠顕彰会によって
   建てられている。
   1986年8月                              東京都


 1986年は昭和61年。亀戸天神の境内にある清水誠の石碑の碑文。

   国産マッチの創始者 清水誠の頌                岸信人書
   人類は原始以来火を自由に使うことによって今日の文明を築いてきた。日本の近代文明も
   また西欧からマッチの製法を輸入し、これを改良工夫した先人の努力によって飛躍的に発
   展したのである。その創始の時が今から丁度百年前でありその創始者が清水誠氏である。
   清水氏は弘化二年(1845年)金沢で生まれ、明治三年幕命を受けてフランスに留学し
   パリ工芸大学に学んだ。専攻は造船学であったが、明治七年たまたま在仏中の宮内次官吉
   井友美氏の勧めによってマッチの製造を決意して帰朝した。翌八年(1875年)四月に
   は、本務の造船技師のかたわら、東京三田の仮工場で早くもマッチの製造に着手した。明
   治九年九月本所柳原町に工場を新設して新燧社を興し、同十二月には官職をやめて、その
   経営に没頭した。翌十年九月には初めて国産マッチを上海に輸出し好評を博した。明治十
   一年七月再びフランスに渡り、ドイツ スウェーデンのマッチ事業を視察して帰り 以来
   ますますその改良に苦心し増産につとめた。その後打ち続く不況に見舞われ、逐に二十一
   年には業界から引退して郷里金沢に帰った。しかしその後もなおマッチ製造機の改良に情
   熱を燃やし、二十九年新鋭機の特許をとり翌二十年大阪に出てその製造に従事した。明治
   三十二年(1899年)二月八日病をえて没した。時に年五十四才である。大正四年政府
   はその功績を賞して従五位を遺贈した。なお没後間もなく当亀戸天神社の境内に追慕顕彰
   の碑が建てられたが今次の戦災によって破損したままになっていた。今年恰も国産マッチ
   創始百年に当たり、業界の有志によって新しく再建されることになった。ここにその由来
   を誌し先人の功をたたえ 一文を草して頌辞とする
    昭和五十年五月十二日                   文学博士 内野吾郎撰
 


■両国高等学校
 
 江東橋1丁目7番2号にある都立高。明治34年京橋区にあった府立一中から独立した東京府立第
三中学校、翌年本所柳原一丁目(現在地)に移転。同35年開校式。同38年同窓会「淡交会」発足。
同44年創立10周年記念式典。大正10年創立20周年記念式典。同12年関東大震災に遭い、校
舎全焼。被害生徒70%。死者32名。1・2年は府立五中で、3~5年生は府立四中にて授業。同
14年父兄会発足。同15年25学級・1200名編成。
 昭和2年鉄筋コンクリート造り校舎落成。創立25周年記念式典。同3年父兄会建設のプール完成。
校旗制定。同8年私立第三夜間中学校を廃し、府立第三夜間中学校新設。同11年4階む増築。同1
2年武道場完成。同15年校内に府立第十六中学校設立。創立40周年記念式典・記念歌「ああ黎明
の歌」制定。同18年江戸川区西小松川2丁目281番地にに東京府立江戸川中学校新校舎竣工によ
り府立十六中転出。都制施行により「東京都立第三中学校」と改称。同20年3月9日愚かなアメリ
カ軍の非人道的無差別空爆により校舎全焼。校舎復興のため下級生の一部茅場小学校校舎にて二部授
業。
 同21年第一期復興校舎(普通教室20・特別教室4・体育館)落成。下級生茅場小学校より本校
へ復帰。同22年新教科課程(選択制)による授業を実施。同23年アメリカの強制による学制改革
により「東京都立第三高校」と改称。第二期復興校舎4教室落成。同24年校歌歌詞変更。男女共学
制実施(女子入学者2名)。PTA発足。昭和25年創立50周年を期とし「東京都都立両国高校」
と改称。創立50周年記念事業として4階増築。創立50周年記念式典。第3期復興校舎3階建て6
教室落成。同26年24学級編成完了。第4期復興校舎(2階2教室・調理教室・その他2教室)。
同27年最後の卒業を以て都立第三高等学校消滅。同28年父兄会所属のプールを都教育委員会に移
管。父兄会、三高PTAを解消し新たに両国高等学校後援会を組織。第5期復興校舎(物理講義兼実
験室、化学講義室並びに2階便所及び化学実験室)落成。同30年第6期復興工事(屋内体育館、床
張り替え、窓、防球網の取り替え及びペンキ塗り替え)完了。同35年創立60周年記念
式典。同3
8年下田臨海寮「淡交荘」落成。同40年校舎防音化。27学級編成完了。同41年学校群制度実施
(当校は第61群)同45年校庭スプリンクラー設置。校舎エアコン設置。創立70周年を記念して
厚生年金会館ホールにおいて淡交フィルハーモニー管弦楽団による演奏会開催。同46年木造校舎解
体。暖房装置運転開始。同48年校地買収。同56
校庭6価クロム鉄滓撤去。新校舎本館落成。旧
校舎解体撤去。創立80周年記念式典(虎ノ門ホール)。学校群制度廃止。グループ制入学選抜施行
(61グループ)。同57年体育館・図書館・プール棟完成。武道館解体。同58年卒業生芥川龍之
介文学碑建立。
 
平成元年パプアニューギニア国教育視察団来校。同2年創立90周年記念式典。同7年単独選抜と
推薦制度実施。同11年第一次中規模改修。同12年第2次中規模改修。韓国高等学校日本語教員訪
日研修団来校。同
13年創立100周年記念式典。同18年両国高校附属中学校開校。同23年創立
110周年記念式典。
 
明治期には区内唯一の中学校(中等教育機関)だった。芥川竜之介は幼育社(両国小学校の前身)
→ 府立三中 → ー高 → 東大と進んでおり、その後小梅町の堀辰雄も三中 → 一高のコースを辿って
いる。

 校歌「明暮の御教えに」 作詞・吉丸一昌教諭  作曲・石原重雄教諭
    明暮の御教えに
    文の山分けて入り
    朝夕の勤しみに
    学びの海 漕ぎて行く
    匂い豊けき文花の栄え
    かかりて吾等が双肩に在り
    山は裂け 海原はあせなんも
    よしや我が志 動かめや
    節操やも変わるべき
    いざや いざや 
    道の為に 国の為に
    勉めよ 我が友 
    いざや学べ いざや励め 我が友


 
卒業式の歌「祝へ」  作詞・吉丸一昌  作曲・石原重雄
  1.祝へ 祝へ いざ諸共に
    謡いて 祝へや 今日の日を
    文の林に入りしより
    はや幾年を夢の間に
    行くか益荒夫 業を得て
    翳す桂の玉の枝
    折りて来ませ久方の
    雲井にしるき名をあげて
  2.情け嬉しき言の葉や
    行く手の望み火と燃ゆる
    光を仰ぎさして行く
    空の彼方
(あなた)に別るとも
    恵みを受けし師と君と
    親しの友を忘れめや
  3.実にやかたみに西の空
    東の空を隔つとも
    心一つの友垣は
    千歳をふとも変らじな
    祝へ 祝へ いざ諸共に
    謡いて祝へや今日の日を


 この歌は1~3番の歌ではなく、1の部分の歌詞を在校生が歌い、続いて2の部分の歌詞を卒業生
が歌う。3の部分の歌詞は一緒に歌うのだが。同じメロディを繰り返す訳ではなく。1~3で1つの
歌になっているのだ。卒業式の歌があるというのも摩訶不思議だわいな。

 
芥川龍之介文学碑 ◇

 両国育ちの芥川は府立三中(現両国高校)出身で正門を入った校内に文学碑がある。両国高校は江
東橋にあり、大横川をはさんで鬼平の住居跡、勝海舟の寓居跡のすぐ向かい側にある。

   もし自分に「東京」のにおいを問う人があるならば、自分は大川の水のにおいと答えるの
   になんの躊躇もしないであろう。ひとりにおいのみではない。大川の水の色、大川の水の
   ひびきは、我が愛する「東京」の色であり、声でなければならない。自分は大川あるがゆ
   えに、「東京」を愛し、「東京」あるがゆえに、生活を愛するのである。
                                       大川の水
 


■竪川親水公園

 江東橋2丁目1番にある区立公園。まだ未完成の公園だが、大横川合流点から横十間川まで890
mが公園になる。

 新辻橋~牡丹橋
 グランドゴルフ場やゲートボール場にテニスコートがある。利用はすべて無料で受付は当日公園内
の管理事務所で先着順になっている。申込時間:9:10~16:00 利用時間9:30~17:00 定休日:
年末年始  問い合わせ:道路公園課工務担当 電話:5608-6291

 四之橋~松本橋
 バスケットボードがあればストリートバスケットでも似合いそうなコンクリート広場とスカッシュ
ができる広場がある。近くには区の弓道場もある。


■江東橋公園

 江東橋2丁目4番11号にある区立公園。「区民健康づくり ラジオ体操広場」の木彫的標柱がで
んと建ててある。


 


■よこやま 閉店

 江東橋2丁目7番10号にあった天ぷら屋。店主の横山忠志は京都の高級天ぷら店で5年間修業し
た後、その東京店でも長年に亘り経験を積んだ。昭和62年に独立して錦糸町に開業した後、現在地
に移転した。簡素な店内はカウンターの10席のみ。夫婦で営む家庭的な雰囲気の店。
 平成24年5月31日を以て閉店。後は弟子が継いで「はせ川」となった。

 
ミシュランガイド東京 
 『2009』から『2012』まで4年連続で星
1つを取った。


■はせ川

 江東橋2丁目7番10号にある天ぷら屋。平成24年、横山の弟子が「よこやま」を引き継いで、
「はせ川」と改めて開業した。
 17時半~23時半 定休日:日祝・8月中旬・年末年始 03‐3631‐3927

 
ミシュランガイド東京 
 『2013』から2年連続で星
1つを取った。
 


■鎮守稲荷大明神 撤去?
 江東橋2丁目18番7号にある小祠。 


■「HAGETAKA & HAIENA」 ✔
 江東橋2丁目19番7号富士ソフト株式会社錦糸町オフィスにある。


■墨田公共職業安定所(ハローワーク墨田錦糸町庁舎)
 江東橋2丁目19番12号にある。

 
オブジェ
 東南角のオープンスペースにある。反り曲がった四方形の鉄板を二つ台座が支えている、不思議な
空間だ。


■田螺稲荷神社 ◇

 江東橋3丁目3番9号にある小社。江戸時代の地図にも載っている由緒ある稲荷で、元の名は「田
中稲荷」。火事で付近が燃えた時、このお稲荷さんの壁に田螺がびっしり付いていて延焼を逃れたと
いうことから「防火」の神様として崇められている。首都高の近くで、付近は夜の繁華街。ビルのス
キマにひっそりとある。田螺が一杯だったというから、江戸時代はこの辺りは湿地帯だったんだね。
鬼平も幼年時に参拝したかもしれないぞ。
 


■馬の首のオブジェ①
 江東橋3丁目5番5号先交差点の歩道側に建つ車止めの小柱8本のヘッドにあるローマ彫刻的デザ
インの馬の首の装飾品。場外馬券売場があるのでそうなのだろう。北向かいの歩道にもある。


江東観音 五徳山江東寺
 江東橋3丁目6番5号にある小寺。堂宇は鉄筋コンクリート造りで、庫裏は4階建てのビルディン
グ。昭和15年群馬県伊香保の板東十六番水沢観世音別院として建立。本尊は千手観音菩薩で、家内
安全、交通安全、厄除け、六三除け、虫封、方災除けなど。昭和20年3月10日愚かなアメリカ軍
の無差別空爆に被災し本堂庫裡共に焼失。幸いにも本尊の千手観世音菩薩・脇侍不動明王は既に水沢
寺に奉還してあり、難を免れることができた。
 同21年、戦後すぐの混乱の最中いち早く再建され、戦後の大区画整理の施行により、同24年に
現在地に移建され、今日に至っている。現在の本堂は、同55年に鉄筋コンクリート造りにより再々
建。庫裡は平成6年に鉄骨造りで新築された。

 慰霊碑
 大きな戦災殉難者の慰霊碑だ。副碑がある。

   慰霊碑

   
戦災殉難者
   
慰霊碑建設趣旨

   この碑は昭和二十年三月九日夜半より十日の暁にかけて米機の大空襲に伴う戦禍により愛
   国純真の人々が劫火のうちに仆れた誠に哀悼に堪えぬものがあり、よってここに慰霊碑を
   再建したものである。この碑を建立した企画は当時の太平警防団長長谷川秀吉氏外団員と
   町会有志各位により当所に木塔碑を建立して其の霊を慰めた。その後塔の老朽甚だしく、
   爲に再建の議が起り、たまたま元管内の有志諸氏相より其の実現に当り、関係各町発起人
   及び委員各位に相計った結果、十七回忌を迎ふる日を記念し建立の運びになった。その後
   更に各町より百五十名よりなる建設委員によって建碑会を結成し元副団長田尻京太氏を会
   長に福島市蔵氏及び二十ヶ町町会長を副会長とし五百三十数氏の賛助協力によって建碑奉
   献の実現を見るに至ったものである。
   昭和三十六年三月建碑に当りて              元衆議院議長 滝澤七郎書


 清昌稲荷大神
 境内に祀ってある。
京都伏見稲荷の眷属にして稲荷山三ノ峰に塚が祀られている。江東寺創建当初
より縁深い稲荷で、毎月4日に祭礼が執り行われている。


 
出世弁財天
 境内に祀ってある。
鎌倉時代の出現と伝えられ、昔は洞窟弁天といわれ、安政の大地震により地中
深く埋没されていた。
この弁財天が祀られていた江東区毛利2丁目一帯は、江戸幕府御用材の貯木場
で、ここを管理していた金原藤太郎という人に夢のお告げがあり、再出現し、名前も出世弁財天と改
称された。
そして昭和19年、縁あって江東寺に移建奉安されたということだ。

 
水洗い観音
 境内に祀ってある。

 
お地蔵様
 境内に祀ってある。

 
馬頭観音
 境内に祀ってある。

   
馬頭観世音  


■陸上自衛隊第一空挺団陸士長強盗未遂事件
 江東橋3丁目7番11号桂昇錦糸町ビルに侵入して強盗を図ろうとしているところを通行人に通報
され駆け付けた警察官に逮捕されたお粗末な事件。平成27年8月11日午前9時40分頃、強盗目
的で雑居ビルに侵入したとして、警視庁本所署は建造物侵入の現行犯で、千葉県船橋市薬円台陸上自
衛隊習志野駐屯地第1空挺団陸士長井芹正博(20歳)と、知人で住所不定無職宮宗一郎(20歳)
を逮捕した。調べに対し2人は「飲食店へ売上金を持ってきた人を襲おうと、友人と入った」などと
容疑を認めている。逮捕容疑は雑居ビルに1階正面出入り口から侵入したとしている。同署によると
通行人の男性が「スタンガンみたいな物を持ったマスクの男2人がビル内に入っていった」と110
番通報。駆けつけた同署員が取り押さえた。
 第1空挺団は陸自の精鋭部隊として知られている。何しろ、太平洋開戦当時、蘭印攻略においてパ
レンバン、パリクパパンに空挺作戦を展開、世界最初の実戦落下傘降下を断行して成功、連合軍を打
ち破った世界最強の空挺団の流れを汲む名誉ある部隊だ。児玉恭幸第1空挺団長は赤面して「大変申
し訳ない。再発防止を徹底すると共に、警察の捜査に全面協力する」とコメントした。集団的自衛権
を行使して再び戦争をおっ始めようって時に、中身がこれじゃあなぁ・・・。
 


■すみだ産業会館サンライズホール
 江東橋3丁目9番10号にある。昔は都電の錦糸町車庫だった。 


■馬の首のオブジェ②
 江東橋3丁目9番26号先交差点コーナーの歩道側に建つ車止めの小柱8本のヘッドにあるローマ
彫刻的デザインの馬の首の装飾品。元は9本あったのだろう。端っこの一本は盗まれた痕がある。場
外馬券売場があるので飾られたのだろう。南向いの歩道にも同じものがある。


■錦糸町駅前老人ブレーキ踏み間違い事故
 江東橋3丁目12番8号OTKビル1階わたみん家に突っ込んだ交通事故。平成28年5月15日
19時頃、京葉道路を挟んだ向かいの江東橋3‐9‐10のクロックス松井錦糸町店の駐車場出口を
出た乗用車がブレーキとアクセルを踏み間違えて突進、制止する警備員をボンネットに乗っけたまま
中央分離帯を乗り越え、反対車線の通行の間隙を縫って真向いにあるビルの入口スペースに突っ込ん
で停まった。建物に被害はなかったが、警備員(45歳)は右脚の骨を折る重傷。練馬区在住の運転
者、自称ダンス教師(83歳)も首を痛める軽い怪我をした。
 このところ老人の踏み間違い事故、高速道路の逆走が増えている。どうしたものかね。老人から運
転免許を取り上げろといっても、殆どの老人は問題なく運転してるしなぁ。しかし老人の事故が多い
ことも事実だし・・・



■錦糸町駅前バスターミナル 都営バス事故

 江東橋3丁目14番、JR錦糸町駅南口広場のバスターミナルで起きた。平成27年1月11日午
前9時40分頃、止まっていた都営バスが発進したところ、バスの前でしゃがんでいた高齢の女性を
撥ねた。運転手は気づかず、周りの人の知らされてバスを止め、確認したところバスの下に、江東区
北砂6丁目に住む長谷川久江(82歳)が居た。同女は全身を強く打ち、搬送先の病院で死亡が確認
された。
 本所署は、バスを運転していた千葉市美浜区高浜4丁目に住む都職員横田朗(57歳)を過失運転
障害の容疑で現行犯逮捕した。ドライブレコーダーには、女性が何かを拾おうとする様子が映ってお
り、それに気づかなかった横田運転手がバスを発進させて撥ねたもので、前方不注意が原因。、、
 


■伊藤左千夫牧舎兼住居跡・
歌碑
 江東橋3丁目14番、JR錦糸町駅南口広場の一帯にあった。明治から大正時代に活躍した歌人伊
藤左千夫は、正岡子規の実質的な後継者として優れた短歌と歌論を発表し、小説家としては「野菊の
墓」の作者としてその名を残している。左千夫は、明治22年、26歳のとき、現在の墨田区江東橋
に牧舎と住居を建てて搾乳業を営んだ。JR錦糸町駅南口の広場には、伊藤左千夫牧舎兼住居跡とし
て、

   
よき日には
   庭にゆさぶり
   雨の日は
   家とよもして
   児等が遊ぶも
      左千夫

 の歌碑が建っている。搾乳業に専念する傍ら、歌に魅入られた左千夫は代表作となる

   牛飼が歌よむ時に世の中の新しき歌 大いに起る

 を詠み、以後牧場に関する多くの歌を詠んでいる。彼の主宰する歌誌「馬酔木」創刊時の発行所、
アララギ派の機関誌「アララギ」の発行所となったのもこの牧場だった。区の説明版は以下の通り、

   伊藤左千夫牧舎兼住居跡             所在地 墨田区江東橋三丁目
   左千夫、本名幸次郎は、元治元年8月18日に上総国武射郡殿台村(現在の千葉県山武市)
   の農家の四男として生まれました。
   18歳の時上京して明治法律学校(明治大学)に入学しましたが、眼病のため中退、農業
   に従事しました。
   22歳の時再び上京、神田の牛乳店豊功舎に勤めました。その後、いくつかの店をかわり、
   26歳の4月には、この地に牧舎つき住居を購入して独立、牛乳搾取業を始めました。毎
   日18時間も働いたと自ら記しています。
   30歳、同業の伊藤並根に茶の湯、短歌を学びました。当時春園と号し、桐の舎桂子の月
   例会に出席、『牛飼が歌よむ時に世の中の新しき歌大いに起こる』を発表して好評を得ま
   す。
   やがて短歌革新運動を進める正岡子規に共鳴して、明治33年その門に入り、作歌に励み
   ます。子規も、その才能を高く評価し、根岸派の有力な一員となります。
   子規歿後は、根岸派の機関誌『馬酔木(あしび)』『アララギ』により活発に作歌を続け、
   多くの著名な歌人を育てました。なお左千夫には『野菊の墓』等の小説、写生文、歌論、
   新体詩等の優れた作品が沢山あります。
   大正2年7月30
日転居先の江東区大島で脳溢血のため急逝し、亀戸の普門院に葬られま
   した。享年50歳。

   昭和59年3月                              墨田区

 現在のもの。最初の行以外は同文。

   
伊藤左千夫牧舎兼住居跡          所在地 墨田区江東橋3丁目14番
   この地には、明治時代の歌人で小説家としても活躍した伊藤左千夫の牧舎と住居がありま
   した。左千夫(本名幸次郎)は、元治元年(1864)八月十八日、上総国武射郡殿台村
   (現在の千葉県山武市)に生まれました。明治18年から、東京や神奈川の7ヶ所の牧場
   に勤めて酪農の知識を深めました。明治22年25歳のとき、本所区茅場町三丁目十八番
   地(現在地)の牧舎と乳牛3頭を購入し、四畳半一間と土間のついた仮小屋を建て、乳牛
   改良社(茅の舎、デポン舎とも称した)を開業しました。随想『家庭小言』には開業当時
   の様子について、毎日18時間の労働をしたことや、同業者の中で第一の勤勉家という評
   を得たことなどが書かれています。
   左千夫が歌の世界に入ったのは、明治26年ごろ同業の伊藤並根から茶道や和歌を学んだ
   ことがきっかけでした。明治33年37歳の頃には正岡子規の門下生となり、根岸派の有
   力な歌人として多くの作品を発表しました。 また、子規没後の明治36年には、機関誌
   『馬酔木』を創刊。明治41年には後継誌『阿羅々木』(のちに『アララギ』と改題)を
   創刊して根岸派、アララギ派の中心となり、島木赤彦、斎藤茂吉など多くの歌人を輩出し
   ました。小説では処女作でもある『野菊の墓』が知られています。この作品は政夫と民子
   の青春、悲恋を描き、近代文学の名作として読み継がれています。
   この地は低地で湿地が多く、水害がたびたび発生しました。写生文『水害雑録』には、明
   治43年8月12日の水害時における家族や乳牛の避難といった当時の苦労が記されてい
   ます。経営の問題から、明治45年に南葛飾郡大島町(現在の江東区大島)に牧舎を移し
   程なくして茶室「唯真閣(現在は千葉県山武市に移築)を残して家族とともに転居しまし
   た。大正2年7月30日50歳で没しました。
   隣に立つ「よき日には」の碑は、昭和58年年に「伊藤左千夫記念会」が建てたものです。
   刻まれている歌は、明治41年10月『阿羅々木第一巻第一號』の「心の動きニ」に掲載
   した一首で、家で遊ぶ子供たちの様子を詠んだ作品です。親として子供に寄せる左千夫の
   思いがうかがわれます。
   平成24年3月                         墨田区教育委員会


■錦糸町ステーションビル・テルミナ
 江東橋3丁目14番5号、錦糸町駅南口にある地下1階から6階の商業施設の駅ビル。北口の駅ビ
ルは「テルミナⅡ」という。雑居ビルで、テナントビルといえば綺麗か。
 


■錦糸町駅
 江東橋3丁目14番6号にある東京メトロ半蔵門線の停留場。平成15年3月19日開業。JR東
日本と東京メトロの駅は少し離れた別構内であり、両駅の出入口はやや離れている。両駅は直結して
おらず、一旦屋外を少し歩く必要がある。半蔵門線の駅は、南北方向に走る道路(四ツ目通り)の地
下に立地する。東西に伸びるJR総武線に対して、通路が南北方向に伸びている。
 島式ホーム1面2線。押上側には非常用の両渡り線がある(ホームからはやや遠い位置だ)。改札
口は1ヶ所。押上止まりの列車の内、終着駅には2番線へ到着し、1本後の列車が東武線直通の場合
は、階段移動を伴うために当駅で乗り換えを促すアナウンスが行なわれることもある。

 
歌川広重「名所江戸百景」3点
 改札口にある。「両国花火」「亀戸梅屋鋪」「大はしあたけの夕立」の3点。

   両国花火
   広重晩年の作。名所江戸名所百景の内の一作品。両国橋とは、隅田川を挟んで武蔵と下総
   の二国に架けられた橋ということでその名がつけられ、この界隈を両国と呼んでいた。江
   戸随一の繁華街として、見世物、芝居、辻講釈などの遊興で賑わっていた。
   広重の描く「両国花火」は上から見下ろす視点で、大輪の花火の華々しさを的確に印象的
   に表現し、楼上には花火見物する人々、川面には屋形船、屋形舟、猪牙舟などの納涼船の
   のほか酒や 、果物をうるウロウロ舟が浮かんでいる。

   
亀戸梅屋敷
   広重晩年の作。名所江戸名所百景の内の一作品。亀戸三丁目の一群に梅の花で有名な梅屋
   鋪「清香庵」があった。
   広重はここにあった臥龍梅といわれていた奇木を近景に描き、屈曲を繰り返す梅の枝や幹
   はこの近景越しに、遠くへ広がらせてその景況の壮観さを窺わせている。背景は淡紅色の
   潰し塗りで、春光と暖かさを象徴させ、すべて無駄のない構図がこの絵の拡張を高めてい
   る。
   後期印象派のヴァン・ゴッホが、この図を油絵で模写していることは有名である。
   名勝であったが、明治43年の洪水で大部分の梅が枯死、その後も工場の煤煙のために枯
   れ、廃園となった。

   
大はしあたけの夕立
   広重晩年の作。名所江戸名所百景の内の一作品。大はしは、現在の新大橋より百メートル
   程下流、日本橋あやめ河岸から深川六間堀町の辺りに架かっていた橋であり、この辺りを
   安宅と呼んでいた。
   広重は安宅方面を見通した大橋上の夕立の光景を描いた。竪長の画面は、激しく降る夕立
   ち画 に加速度感を与え、対岸の御船蔵をはじめとする家々が霞んで見える情景も、雨の
   層の厚さを思わせる。この霞んでいる対岸の斜線と大はしの斜線とが、画面中央に隅田川
   の広い水面を三角的に表現して、見事な水の量感を示している。
   後期印象派のヴァン・ゴッホはこの絵に注目し、油彩で模写していることは有名である。


■四ツ目通り

 江東橋3丁目と4丁目の間の四之橋を通り、墨田区押上3丁目交差点から江東区東陽町駅前交差点
までの通り。明暦の大火後、本所の開発が求められ碁盤目状に街作りがなされた。その碁盤目状に
区画された道路に合わせて、竪川に橋が架けられ
順次一之橋、二之橋、三之橋、四之橋、五之橋と
命名され、それぞれの通りを「一之橋の通り」「二之橋の通り」「三之橋の通り」「四之橋の通り」
五之橋の通り」と呼んだ。
 昔、堅川の北岸、現在の両国2~4丁目辺りに本所相生町という町があった。この地に本因坊とい
う人の屋敷があり、その本因坊家は囲碁の名家元だ。特に初代本因坊の「算砂」、4世の「道策」、
14世「秀策」は棋力が高く、「秀策」は最近では漫画「ヒカルの碁」の題材にもなってるので知っ
てる向きも多いかと思うが、現在でも囲碁のタイトル名にもなってるぐらいだから、囲碁界では知ら
ない人はいないという名家だ。その本因坊家が相生町に住んだのはほんの10年程だが、実はこの町
名も本因坊家に因んでついたものなのだ。相生は相老でもあり、一緒に生き、育ち、老いるというこ
とだ。囲碁の真髄は相手と共に上達しなければならないところから一緒に育っていこうということが
由来という。さてその相生町の一、二丁目のブロックは碁盤の目に因んで一ツ目、三、四、五丁目は
二ツ目と呼ばれた。そして、その一ツ目の入口にかかる竪川の橋を一之橋と呼び、二ツ目の入口にか
かる橋を二ノ橋と呼び、その後三之橋、四之橋、五之橋が架けられ、通りもできていった。

 
それが
「一つ目の橋の通り」「二つ目のの通りつ目のの通り」「つ目のの通り」
つ目のの通り」と変わりさらに短縮されて 「一つ目通り」「二つ目通り」「つ目通り」
通り」「つ目通り」となった。但し三つ目四つ目は語呂が良いが一つ目、二つ目、三
つ目は一文字多く
「一之橋通り」「二之橋通り」「五之橋通り」に戻り、戦後、アメリカのストリ
ート、アベニューに倣い、二之橋通りは「清澄通り」、五の橋通りは「明治通り」となった。しかし
「二ツ目通り」と墨書された街路灯があり、「五之橋通り商店街」がある。
 


■堅川第一公園

 江東橋4丁目1番3号にある区立公園。


■招福稲荷神社 ◇

 江東橋4丁目7番10号にある小社。
 


■リス像
 江東橋4丁目11番5号の東亜ビル入口前にある。


■錦糸堀公園
 江東橋4丁目17番1号にある区立公園。「区民健康づくり ラジオ体操広場」の木彫的標柱がで
んと建ててある。

 
本所七不思議の一つ「おいてけ堀」の河童の像
 河童が魚2匹(鯉と鯰)を紐に吊るして背負っている石像。江戸時代、錦糸町辺りは湿地帯で、釣
りをする人が多かったので、この逸話が生まれた。置行堀(おいてけぼり)は「錦糸堀」のことらし
く、下級武士や町人が釣りを楽しんだとか。釣った魚を持って帰ろうとすると「置いて行け」「置い
て行け」と声がかかる。釣り人は怖くなって逃げてったというのが、「おいてけ」の由来だ。声の主
は、淡水魚のギバチが体表のトゲで大きな音を出し、実際にその音を化物と思って驚いた人がいたこ
とから、置行堀の怪異があった時代にはそうした堀にもギバチがいたものと推測し、魚が盗まれるの
は野良猫の仕業の可能性が強いと考えられる。人間は理解できない物や音に接すると、知っているこ
とに結び付けて理解しようとする。「幽霊の正体見たり枯れ尾花」また「立帚」といわれる。おいら
も碓氷峠で幽霊を見た。雨の夜曲がりくねった峠道を下っていると、白い魔性が現れた。しかしそれ
は天霧の塊で、自分車のライトがハンドルを切る度に照らして、勝手に幽霊に結びつけたのだ。
 ここの公園の周辺は、現在は韓国バー、フィリピンバー、ロシア・ルーマニアショーパブに囲まれ
ており、まさに「日本」はおいてけ掘。河童ちゃんが出てきても面くらうだろうさ。

   おいてけ堀「河童」の由来(本所七不思議の一つ)
   その昔、本所周辺には寂しい堀が沢山ありました。そこでは沢山の魚が釣れました。ある
   日の夕方釣人が、魚を釣って帰ろうとすると、身体中が、ゾクゾクと、寒気がしました。
   すると、堀の中から『おいてけ!!』『おいてけ!!』の声がしたので、釣人はびっくり行天
   魚を置いて、一目散に逃げ出しました。何人もが、このような経験をしたために、何時と
   は無く、この堀を、おいてけ堀(錦糸堀)と呼ぶようになりました。その声の主こそ(河
   童)だと伝えられています。                平成7年10月7日建立
                                江東橋四丁目町会
                            おいてけ堀「河童祭」実行委員会
 


■「小鳥と遊ぶ女児」 ◇
 江東橋4丁目20番8号先の歩道にある。詳細不明。 


■都立墨東病院
 江東橋4丁目23番15号にある。昭和36年本所病院と墨田病院を統合し、本所病院の跡地に診
療科13科・400病床の病院を設立。同47年100病床増床。同50年ICU・CCU病棟開設
(7床)。同53年2月CTスキャナー導入。11月精神科病棟(28床)を開設し、精神科救急事
業実施。同56年東京都総合実施計画で診療棟改築を発表。同57年1月伝染病棟一時休止。2月第
一期工事に伴う病棟移動(549→388床へ変更)。12月長期計画で改築計画発表。同58年診
療棟改築工事着工。同60年8月~10月診療棟改築工事竣工。11月診療棟オープン。救命救急セ
ンター(20床)開設。病棟再改修工事着工。同62年病棟再改修工事竣工。伝染病棟再開(42床)。
 平成5年墨東病院建設検討委員会により新病棟改築の基本構想が決まる。同7年墨東病院病棟建設
懇談会報告書で新病棟改築の具体的方向性が定まる。同8年病棟改築工事着工。同10年財団法人日
本医新病棟オープン(医療法定床764床)築地産院を統合して、総合周産期母子医療センター開設
(NICU12床、GCU33床、M‐FICU9床)。循環器科(20床)、リハビリテーション
科(20床)を新設。同11年病棟改築工事竣工。救命救急センター(20→24床)、手術室(7
→10室)の改修工事完了。救急診療科を新設し、「東京ER・墨東」を開設。同16年女性専用外
来開設。同17年電子カルテシステム稼動開始。同20年救急の妊婦の受け入れを拒絶したために妊
婦が死亡し世の批判に曝される。元々トラブルの多い病院で、

 東京ER・墨東
   ER=いつでも誰でも様々な症状に対応『東京ER・墨東』は、これまでにあった救命救
   急センターと、今回新設された救急診療科とによって構成されます。救急診療科は、各科
   の当直業務からは独立して機能し、いわゆる一次、二次救急患者の初療に対応する部門で
   あり、救命救急センターは、これまで通り、三次救急患者を中心とした重傷患者を対象と
   します。また、救命救急センターはこれまでと同様、一次、二次救急のバックアップを行
   い、墨東病院として、軽症から重症まで、全ての救急患者に対応できるような体制をとっ
   ています。


 ●
妊婦たらいまわし死亡事件
 平成20年10月4日脳内出血を起こした出産間近の妊婦(36)が8つの医療機関(東大病院・
墨東病院・東京慈恵会医大病院・東京慈恵会医大青戸病院・日赤医療センター・日大板橋病院、慶応
大病院、順天堂医院)に受け入れを断られ、その後に死亡した問題は、産科医不足にさらされる医療
現場の危うい実態も浮き彫りにした。地元医院からの最初の要請を断った墨田区の都立墨東病院は、

   複数の当直医をどうしても手当てできず、原則として救急搬送は断っていた。みんなギリ
   ギリのところでやっている


 と訴えた。都によると、墨東病院は妊産婦の救命救急に24時間対応する「総合周産期母子医療セ
ンター」として都の指定を受けており、周産期医療を支える中核病院の一つ。都の基準では「複数の
医師の確保が望ましい」とされるが、医師の退職で2人の当直体制が維持できず、7月から休日には
1人体制としていた。同病院の常勤産科医は現在4人。都が提示する定数の9人を大きく下回ってい
る。同病院周産期センターの林瑞成産科部長は、

   産科医を簡単に増やせる状況ではなく、産科救急を目指す人はもっと少ない。その中で、
   どうしたら安全が維持できるか、関係機関と話し合っている


 と話す。医師確保のため大学医局への働きかけや待遇改善、女性医師の短時間雇用など、

   打てる手は打っている

 と病院経営本部はいう。都内の産科医は平成8年の1573人から、同18年には1411人に減
少している。都の周産期医療協議会による同20年3月の報告では「予想以上の減少傾向」と指摘。

   女性医師自身の出産や育児のための離職、医療訴訟の多発などで新たな産科希望の医師
   の減少


 などの要因があると分析している。この問題で、最初に受け入れを断った都立墨東病院だけが、都内
9ヶ所ある総合周産期母子医療センターの内、最低2人とされている当直態勢を確保できていなかっ
。他の8ヶ所の産婦人科医の待機体制は、杏林大学病院(2~3人と呼出1人)・東京女子医大病
院(2~3人)・昭和大学病院(2人)・愛育病院(2人と呼出1人)・東邦大学大森病院(3~4
人)・日大板橋病院(4人と呼出1人)・帝京大学病院(2人と呼出1人)・日赤医療センター(3
人)と発表している。

 
桝添要一厚生労働大臣VS石原慎太郎東京都知事
 事件の発覚した10月24日舛添厚労相が「東京都に任せられない」といえば、石原都知事は「医
者が足りないのは国の責任」と反発。妊婦が8病院に受け入れを断られて死亡した問題で、大臣と知
事が責任のなすりつけ合いを演じた。舛添厚労相は閣議後の会見で、「週末に1人しか当直医がいな
くて総合周産期母子医療センターといえるのか」と批判。「事故の情報も都から上がってこない。と
てもじゃないけど任せられない」と声を張り上げた。
 これに対し、石原都知事は定例会見で、年金問題への舛添厚労相の対応を踏まえて「あの人は大見
えきったつもりでいつも空振りする」とし、「医師不足にしたのは誰だ。東京に任せられないじゃな
く、国に任せられない。厚労省の医療行政が間違って、こういう体たらくになった」といい返した。
どっちでもいいが2人とももっとしっかりしろい!


■LIVIN前の和時計

 江東橋4丁目27番14号にある。錦糸町が服部セイコーの「城下町」だった昭和36年に服部セ
イコーが和時計を寄贈して、この地に設置した。通行の邪魔にならないように台に乗せている。この
町がかつては「汗水たらして働く職人さん」の活気ある町だったことを印す記念碑だ。 LIVIN
とは西友の名前隠しで、西武色を薄めよう魂胆だ。堤一族は異常だったからねえ。またここはかつて
は錦糸町の中心地で、本所映画、江東劇場、名画座、リッツ、キンゲキ、めばえ座、江東東映などの
映画館が建ち並んでいた。

 
田螺稲荷神社
 建物と総武線の隙間にある小祠。
 


■日本福音ルーテルパウロ教会

 江東橋5丁目3番1号にある小祠。
 


■御嶽神社 ✔

 江東橋5丁目8番18号路地の奥にある小祠。未確認。
 


■稲荷神社 ◇

 江東橋5丁目9番8号丸正マンションの建物の南西角にある。


■屋敷稲荷
 江東橋5丁目13番1号にある小祠。
 


■牡丹橋親柱

 旧牡丹橋の南西の橋詰に残してある。

   牡丹橋親柱モニュメント
   ここにあった社丹橋は長さ35.29m、幅員11.00mの鋼橋(3径間鋼板ゲルバー指
   橋)で、関東大震災の復興事業により、昭和4年に架けられました。橋名の由来は橋の南
   側にあった「社丹園」を由来としています。社丹園は明治になって開かれ、季節になると
   多くの見物で賑わいましたが、関東大震災で焼失し今はその名だけを橋名にとどめていま
   す。社丹橋は江東内部河川整備に伴い、平成2年にその役目を終えて撤去し、新たに道路
   として整備されました。
   永い間、親しまれた旧橋の面影を慕い、名板と親柱の一部を残してその歩みを記します。
   平成25年3月
 
 



【墨田】(すみだ)1~5丁目                     昭和40年3月1日
 墨田村→須田村→隅田村。南北朝の頃に見える須田川(隅田川)の左岸の地名。貞和二年(13
46=正平元年)九月八日付「鎌倉府執事奉書」に「江戸次郎太郎重通申す。武蔵国石浜・墨田波
・鳥越三ヶ村の事」の記述が初出。江戸時代は須田村、天保の頃から隅田(すだ)に書き換え、明
治11年「郡区町村編制法」により南葛飾郡に所属。同22年「市制町村制」により隅田村・寺島
村・南綾瀬村に分かれてそれぞれの大字。大正3年隅田村の一部を本田村に編入。同12年隅田・
寺島両村が、昭和3年南綾瀬村が町制移行。同7年隅田町隅田は向島隅田町1~4丁目となり、本
田村隅田は若宮町の一部となる。また寺島町隅田は寺島7丁目、南綾瀬町隅田は葛飾区堀切の一部
となった。同22年墨田区所属、向島隅田町は新住居表示を実施し同39年堤通2~3丁目を割き、
同40年一部を東向島5丁目・八広6丁目に譲り、同時に隅田町の大部分に寺島町3・7丁目・吾
嬬町西9丁目の各一部をあわせた町域を現行の「墨田」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『墨田区史』『墨田の歴史』など。

 
墨田の由来
 
墨田区の墨田は一応造語だが、地名の墨田・隅田の由来は判らない。隅田は正しくは「すだ」で、
州田・砂田・須田から来ている。「すみだ」と発音するようになったのは、関西系の人々がやって
きてからで、雰囲気が和歌山の「角田川」に似ることで名づけられたとか。向島区隅田町は「すだ
ちょう」だった。とにかく遠い昔においてはマンモスを追って関東地方への人口流入はあったが、
その後は黒潮に乗って相模や安房に辿り着いた人々が北上したようだ。潮岬→館山→木更津→江戸
というのは自然の移動コースだ。江戸の古い地名には和歌山県と共通するものが幾つかある。八代
将軍吉宗が紀州人であったのも偶然ではないのかも知れない。おそらく東京は地殻的に浮き沈みが
激しく、人間が住みにくい土地柄だったのだろう。だから地名なども付いていないところが多かっ
たに違いない。そこへ中央政府から派遣されてきた役人・旅僧・渡り(移民)などが故郷を懐かし
んで、景色の似た場所に関西系の名前をつけたのではなかったか。
 「すみだ」をインドネシア・マオリ語で解すると「ツ・ミ・タ」、「襲ってくる(氾濫する)水
の帯(のような川)」。または「ツム・タ」で「湿地を襲う(川)」だという。なるほど理には適っ
ている。


■岐雲園跡
 墨田1丁目4番(寺島七丁目二百七番地)にあって、広さ約500坪(1650㎡)、隅田川の水
を引き入れた汐入の池のある別荘風の構えで、岩瀬忠震(鴎所)が自分の所有する画巻の筆者、明の
魯岐雲に因んで名づけたもの。
 彼は職を免ぜられた後、憂憤の退隠生活をここ岐雲園で送り、再び世に出ることもなく、風雅な生
活を送った。「鴎所」の号も、隅田川にとぶ都鳥に因んでつけたといいます。この地にあること2年
にして、44歳の若さで生涯を閉じました。忠震没後、同僚でもあった永井介堂(尚志)も晩年を岐
雲園で送り、ここで没している。また幸田露伴の父成延、長兄成常もここに住み、露伴自身も一時期
住んでいた。そして次兄の郡司成忠が北千島探検に出発の前夜、明治26年3月19日別離の宴を催
したのも、ここ岐雲園だった。
 跡地はトミンハイム墨田一丁目となっている。

   岐雲園跡                       所在 墨田区墨田1丁目4番
   岐雲園は、広さ約500坪(1650㎡)河水を引いた汐入り池のある別荘風の構えで、
   岩瀬忠震(ただなり)が、自分の所有する画巻の筆者、明の魯岐雲に因んで名付けました。
   忠震は、目付・外国奉行として幕末の外交に尽くした人で、海外事情に精通して早くから
   各国との交渉に多くの業績を挙げましたが、将軍継嗣問題で大老井伊直弼と意見を異にし
   て職を免ぜられました。憂憤の彼はここ岐雲園で退隠生活を送り、再び世に出ることもな
   く、風雅な生活を楽しみました。忠震の号である「鷗所」は隅田川に翔ぶ都鳥に因んでつ
   けたといい、文久元年(1861)44年の生涯を閉じました。近くの白鬚神社には彼の
   顕彰碑「岩瀬鷗所君之墓碑」が永井介堂の碑文で建てられています。この介堂は、永井尚
   志(なおゆき)といい忠震とともに幕政、外交に力を尽くした人で、晩年を岐雲園で送り
   この地で没しています。
   幸田露伴の長兄成常(しげつね)も岐雲園に住み、露伴自身が居住した時期もあります。
   また北千島開拓で有名な海軍大尉郡司成忠(しげただ)は露伴の次兄で、千島に出発の前
   夜である明治26年3月19日の夜別離の宴を催したのもここでした。
   昭和59年3月                              墨田区

 現在のものは、以下の時期に建て替えらたものとなっている。銘文は同じ。

   平成15年3月                         墨田区教育委員会


■下の道
 墨田1丁目4番1号のトミンハイム墨田一丁目1号棟の墨堤通りの歩道寄りの敷地の端にステンレ
ス製の説明板が建ててある。

   下の道
   承和二年(835)の太政官符に「武蔵国下総両国堺、住田河四艘・・・」の記載がみら
   れます。住田渡(隅田渡)は現在の白鬚橋辺と考えられ、大正3年の架橋頃まで、永々と
   続く隅田渡がありました。古代東海道の官道であり、鎌倉街道、奥羽、水戸街道などの道
   筋にもなったいました。
    この墨堤通りを下る道も古道で、古くから「下の道」と呼ばれ、鎌倉街道の「下の道」
   とも想定させます。源頼朝が敵対する常陸国佐竹氏討伐に、また奥州征伐にも使用された
   道とも考えられます(吾妻鏡)
    さらに時代が下がり、戦国時代には国府台合戦の小田原北條軍の使用路でもあり、郷土
   の歴史を知る上からも貴重な道筋です。 
                              平成12年3月
                               監修 墨田区教育委員会
                               施主 東京都住宅供給公社


 ※古代において東海道とは行政単位であり、ところどころ海の浅瀬を歩くか、舟で行く道の意だ。
全線道路としたのは徳川家康で、古代の主要官道は東山道で、東海道は「あずまのうみつみち」、東
山道は「あずまのやまつみち」と読む。鎌倉街道という言葉は明治以後の用語で、鎌倉幕府が開幕し
て鎌倉に向かう道を総て「鎌倉道(かまくらみち かまくらどう)」といったが、その数ある鎌倉道
の中で主要幹線とされたものが「上の道」「中の道」「下の道」の3本で、上の道は秩父を通る山沿
いの道、中の道は世田谷・杉並を通る平原の道、下の道は海沿いに江戸を通り奥州へ向かった。
 


■スポーツプラザ梅若
 墨田1丁目4番4号にある区の健康施設。


■白鬚児童遊園

 墨田1丁目4番9号にある区立公園。


■境児童遊園

 墨田1丁目13番3号にある区立公園。


■宝守稲荷社 ◇

 墨田1丁目16番19号の駐車場の角にある小祠。
 


■下稲荷神社(下茂稲荷神社) ◇

 墨田2丁目3番8号にある小社。創建年代は不詳だが、隅田村にあった稲荷社二社の内の一社。
 「新編武蔵風土記稿」に


   稲荷社二宇。
   一は三才稲荷、一は下稲荷と称す。ともに同寺(多聞寺)の持

 と記載されている。三才稲荷は荒川放水路の開鑿で隅田川神社に遷したという

 
庚申塔
 境内に2基ある。
 ➀.笠付角柱型 三猿。正面に、

   享保七歳 下墨田村
   
奉納庚申供養 
   寅九月吉祥日 講中

 とある。②.笠付角柱型 日月 青面金剛像 邪鬼 三猿 二鶏。右面に、

   
享保九甲辰年 講中
   
奉供養庚申
   十月吉日 下須田村

 
とある。 


月光山薬王院
正福寺
 墨田2丁目6番20号にある新義真言宗智山派の寺。こぶし児童遊園の前だ。創建は慶長七年(1
602)宥盛法印が開山で、本尊は薬師如来だ。寛文7年(1667)銘の手洗水盤、大師堂など文
化財・史跡が多く残されてる。上流から土砂とともに押し流されてきたものかも知れない。荒川辺八
十八ヶ所霊場66番札所。荒綾八十八ヶ所霊場66番札所。「新編武蔵風土記稿」に、

   正福寺
   寺嶋村蓮華寺末、月光山薬王院と号す。慶長七年起立し本尊薬師別に両大師を安す。


 とある。

 阿弥陀如来立像
 万治四年(1661)に建てられた総高176cmの石像。舟形光背がある。像の左右に刻まれて
いる70m近い人名の内、殆どが女性の名前という特徴のあるもので、女性中心の念仏講中が供養の
ために正福寺の勧めで建立したもののようだ。嘗ては成林庵門前の路肩に建てられていたといわれ、
一時は成林庵の参道に安置されていたこともあった。
 区内には石造の阿弥陀如来像の数が少ない上、女性が中心の講中が建立していること、台座の水盤
が扇形に彫られていることなどは、この像をより特徴ずけているといえる。

 
大師堂
 小さな堂で、大師の坐像が安置されている。


 都内最古の板碑
 本堂前の左に建つ。宝治二年(1248)と都内最古の銘を持つ。上の大きい文字は梵字でキリー
クといい阿弥陀如来を表わす。鎌倉初期の内乱の多い頃の戦死者を祀ったものだろう。この板碑はも
と梅若児童遊園付近の御前菜畑(御前栽畑)から出土したものと伝わってる。

   宝治二年銘板碑          所在 墨田区墨田2丁目6番20号 正福寺内
   板碑は青石塔婆ともいわれ、塔婆の一種です。秩父は長瀞上流に産する緑泥片岩で、頭部
   は三角形状にそぎ、その■■にあたる所に二条線をほり、碑身正面に種字・年号・銘等を
   薬研彫に刻みます。
   板碑の起源は碑伝や五輪塔とも言われていますが、はっきりしません。その  は埼玉県
   の荒川流域が一番多く、関東一円に拡がっています。こうしたことから板碑は中世の武蔵
   武士達が創始したもので、■■の信仰形態・■■■・■■■等を知るひとつの手がかりと
   なっています。
   当板碑は、阿弥陀一尊を梵字で刻み「宝治二年戊辰三月三日(1248)」の銘がありま
   す。江戸時代に付近の御前栽畑から発掘され、のち当寺に移されたといいます。都内最古
   のものであり、量感のある点でも貴重です。なお区内には約30基の板碑があります
   昭和56年2月           
                   墨田区

   宝治二年銘板碑          所在 墨田区墨田2丁目6番20号 正福寺内
   板碑は青石塔婆とも呼ばれる塔婆の一種です。材質は緑泥片岩(青石)で、頭部・碑身・
   脚部に区分されます。頭部は三角形状にそぎ、碑身との境に二条線を刻み、碑身の正面に
   は種字(仏や菩薩を表す梵字)年号・銘等を薬研彫りで刻みます。
   板碑の起源は碑伝や五輪塔とも言われていますが、はっきりしません。中世の武士達が供
   養のために建てたものが、のちに庶民にも広がっていったものです。正福寺には三基の板
   碑があります(登録は二基)
   宝治二年(1248)銘の板碑は高さ116cm、幅46cm、厚さ10cmで、区内で
   は随一の大きさを持っています。在銘の板碑としては都内最古です。阿弥陀一尊を種字で
   刻み「宝治二年戊辰三月三日」の銘があり、量感のある点でも貴重です。
   登録されているもう一基は、碑身のみが現存し、三尊種字が刻まれています。これらの板
   碑は江戸時代に付近の御前栽畑から発掘され、のち当寺に移されたといわれます。なお区
   内には約30基の板碑があります
   平成14年3月                         墨田区教育委員会

 和みの像
 天保四年隅田川工事の際、沢山の頭蓋骨の入った樽が発見され祀ったものだ。 


■首塚地蔵尊
 墨田2丁目6番20号、正福寺の外にある。天保四年(1833)隅田川の洪水を防ぐための浚渫
工事で沢山の骨が出たので塚を築いて葬った。それを首塚といい、その塚上に建てられた。今は塚
はないく地蔵尊だけが祀られているが、「首から上の病」にご利益があるという信仰で人気がある。
流石に年寄りの参詣者が多く、指で地蔵尊を撫でるので黒くなってしまっている。自分の患部に当た
るところに触れると治るという寸法だ。

   
首塚地蔵尊
   地蔵菩薩 ご縁日 毎月四日
   ご真言
   オン カカカ ビサンマエイ ソワカ
   天保四年(1833)洪水の危険をふせぐための隅田川橋場付近の川浚い工事の際に、川
   床より多くの頭骨が発掘された。
   関係者は当山第十六世住僧宥照和尚とはかり、ここに合葬、碑をたてて「首塚」といった
   と伝えられる。
   この頭骨の由縁については諸説あるが、爾来、歴代住僧並びに信者により護持され、今日
   にいたる。
   この縁で、首から上の病いに功験があるからと参詣の香華がたえない。
   このお堂は、真言宗中興の祖興教(こうきょう)大師(覚鑁上人八百五十年御遠忌(平成
   4年12月12日)記念事業の一環として、平成2年8月檀信徒一同により再建、奉納さ
   れたものである。                          月光山正福寺
 


須陀山
成林庵
 墨田2丁目11番12号にある臨済宗妙心寺派の寺。湯島麟祥院末。創建は貞享二年(1685)
磐城平藩安藤家に仕えた老女千代が開基という。主君夫妻の菩提の為に建てたと伝える。「葛西志」
に尾張徳川家では2世常林尼に帰依していたとある。本尊は釈迦如来。境内は極小さくまとまってお
り、正面に新しい観世音菩薩が建っている。

   朝念観世音 暮念観世音 念念従心起 念念不離心

 と深い信仰を刻んでいる。「新編武蔵風土記稿」に、

   成林庵
   尼庵なり。禅宗臨済派。元は湯島麟祥院の住僧山堂が隠栖の庵にて、山道寂後常林と云尼、
   住せしより今の如く尼の庵となり。則麟祥院の配下に属す。其後安藤対馬守、縁渓宗因と
   称して爰に住し、寛永四年十二月晦日死す。此尼専ら祈願の檀縁など動化して功ありしゆ
   へ開基と称す。中興知貞は享和元年七月五日死す。本尊華厳釈迦。


 とある。
 


■こぶし児童遊園

 墨田2丁目14番4号にある区立公園。向かいは正福寺だ。

 
モザイク画
 入口直ぐにある。かぐや姫をモチーフにしているのか?


■墨田第三児童遊園

 墨田2丁目17番6号にある区立公園。


■墨田第六児童遊園

 墨田2丁目20番15号にある区立公園。


■梅若小学校 統合閉校
 墨田2丁目25番1号にあった区立校。昭和10年6月8日「東京市向島梅若尋常小学校」として
設立認可。同11年隅田尋常小学校と第二寺島尋常小学校の2校から児童が移籍し、1322名24
学級で開校した。校名は、昔から有名な「梅若塚」が近くにあることから選ばれた。校地は、根津嘉
一郎という東武鉄道社長の別荘があったところで、四方は竹とケヤキの木で囲まれた大きな池や築山
があり、四季とりどりの花が咲き、沢山の鳥が囀り、まるで公園のようだった。当時の様子を伝える
ものは、正門前の大きなケヤキの木で、樹齢150年以上といわれている。学校前の通りは今より狭
く、舗装もされておらず、たまに牛車や馬車が通る程度で頗る長閑だった。そして学校側には、道に
沿って細い用水が流れていた。その頃は、幼い弟や妹をおんぶして学校に来る子がいた。給食などは
なく毎日弁当を持参していた。俗にいう、日の丸弁当でおかずも粗末なもので、「たまご焼き」など
が入っていると「贅沢だ」と先生に叱られることもあった。
 平成17年創立70年。同23年3月末を以て堤小学校と統合のため閉校。

 校歌「文花の香り」 作詞・佐原正三郎  作曲・富田みさ
  1.文花の香り床しくも
    尽きせぬ名残梅若の
    誉れを負いし健児らが
    学びの園に光あれ
  2.若き世代ぞ 吾等こそ
    正しき心受け継ぎて
    自治と文花の咲き匂う 
    新しき園に打ち立てん
  3.実(まこと)の真理は一つなり
    世界平和の大道に
    愛もて結ぶ梅若の
    文花の園に栄あれ


 ※「文花」とあるのは「文化」の誤植もしくは変換ミスと思われる。


■梅若小学校(統合新設)
 墨田2丁目25番1号にある区立校。平成23年4月1日堤小学校と統合し、新しい「墨田区立梅
若小学校」として開校。

 校歌「梅咲き誇る」 作詩・校歌制作委員会 補作 作曲・菊池慶太
  1.梅咲き誇る学び舎に
    昔の伝え語り継ぎ
    明るく元気 大空へ
    あふれる笑顔 広げよう
    ああ 僕と私の
    梅若小学校
  2.若葉の萌える隅田川
    平和の光 降り注ぐ
    信じる心 輝かせ
    強い絆を 育てよう
     ああ 僕と私の
    梅若小学校
  3.薄紅薫る墨堤の
    未来に続く道標
    夢と希望の翼持ち
    友情の和を繋げよう
    ああ 僕と私の
    梅若小学校



■本隅分教会
 墨田2丁目27番24号にある天理教の布教所。。


フレンドリープラザ墨田児童会館
 墨田2丁目30番15号にある区の教育施設。

■軟式野球資料室(墨田区小さな博物館)
 墨田2丁目36番10号にある。軟式野球、ソフトテニス、ソフトボールなどのボール製造で知ら
れるナガセケンコー(株)の博物館。軟式野球ボールの変遷やバット・グローブをはじめ、軟式野球ボ
ールができるまでの製造工程を展示している。また大変貴重な第1回軟式野球大会プログラムをはじ
め、軟式野球大会役員章・記念品など軟式野球に関する品々や、元全日本軟式野球連盟理事長・船津
氏が東京オリンピック副村長、札幌冬季オリンピック村長時代に収集した各国選手記念バッチなどオ
リンピック関係の展示品も多数ある。開館は、祝祭日を除く月曜日から金曜日まで、第1・第3・第
5土曜日の午前10時から午後4時まで。 03-3614-3501
 


■墨田二丁目児童遊園

 墨田2丁目42番4号にある区立公園。


■啓運閣教会
 墨田3丁目6番13号にある日蓮宗の布教所。関東大震災での死者をいち早く弔った。その縁で開
創した。入口はスーパーマーケットに占領されており、賑やかだ。建物の壁に「濹東綺譚《寺しまの
記》」の一節と「濹東綺譚」の中で永井荷風の描いたという旧玉の井の地図が貼り付けてある。

   永井荷風「寺じま記」の一節
   車は「オーライス」とよぶ女車掌の声と共に動き出したかと思う間もなく、また駐って、
   「玉ノ井車庫前」と呼びながら、車掌はわたくしに目で知らせてくれた。わたくしは初め
   の行先を聞かれて賃銭を払う時、玉ノ井の一番賑やかなところで降ろしてくれるように、
   人前も憚らず頼んでおいたのである。
   道は相変わらずうねうねしてゐて、行先はわからない。矢張食料品、雑貨店などの中で、
   薬屋が多く、次は下駄屋、水菓子屋が目につく。
   左側に玉ノ井館と云う寄席があって、浪花節語りの名を染めた幡が二、三流立ってゐる。
   その隣りに常夜燈と書いた灯(あかり)を両側に立て連ね、斜に路地の奥深く、南無妙法
   蓮華経の赤い提灯をつるした堂と願満稲荷と書いた祠があって、法華堂の方からカチカチ
   カチと木魚を叩く音がする。(昭和四十一年四月)

   玉ノ井 濹東綺譚地図      (手書きの地図)
   永井荷風が
   昭和八年に八ヶ月がかりで実地くまなく歩き回り作ったちずである。
   石州半紙一枚に毛筆で丹念に書かれている。
   東武電車玉ノ井駅附近略図


 寄席「玉ノ井館」は、スーパーマーケットのところにあった。

 地蔵尊と観音像
 本堂に上る階段の脇に寺を示す表札があり、その前にある。「観音妙智力」と刻してある。

 願満稲荷神社 ◇
 境内にある小社。病死した玉ノ井の娼婦や水子の供養をする。

 板碑
 板碑は、文明元年(1469)銘の題目板碑で、総高53cm、題目の下に蓮華座の代わりに「法
華」の文字を充てている珍しい例のものだ。
 


神向山東清寺
 墨田3丁目10番2号にある曹洞宗の寺。通称は「玉の井稲荷」「豊川稲荷尊天」「身代わり不動
尊」などという。創建は寛保元年(1741)で、開山は東清海本大和尚だ。大正道路開発の時に山
梨県塩山からここに移った。南葛弘法大師八十八ヶ所霊場の72番札所になっている。
 当寺の由来は大正時代に始まる。大正のはじめ頃、玉ノ井は東京府南葛飾郡寺島村に属し、当時は
まだ田園地帯であり、付近は至る所田んぼ道ばかりで、広い道が一本も無かった。そこで、「これで
は当地の発展は望めない」として、地元の有志が相談して、大正天皇御大典記念事業ということで向
島土手通りから水戸街道へ通ずる道路を作ることになり、関係の地主が土地を出しあって、大正2年
頃、白鬚橋から北玉ノ井までの道路工事を始めた。ところがこの工事に当り、先祖伝来の土地に鍬入
れをして、何か祟りがあっては困るということで、着工前に関係者が寺島村法泉寺十九世中川白龍和
尚に懇願して、豊川稲荷の分霊を勧請して小さな祠を作り、工事の無事を懇願したのが現在の「玉ノ
井稲荷」の起こりである。この道路は大正4年頃に完成し、「大正街道」「大正道路」と名づけられ
(現在は「大正通り」と「いろは通り」)、その完成記念碑が境内に現存している。
 その後、玉ノ井は関東大震災後に遊郭が出来るなど急激に発展してきたので、大正13年に地元有
志の懇願により、寺島法泉寺に出入りしていた山梨県方外院二十世武田信雄和尚が玉の井稲荷に「玉
井閣」という布教所を設けて信者の教導に当り、さらに昭和2年には、山梨県三富村に在った東清寺
を現在地に移した。昭和5年には、山梨県下部町(現身延町)所在の瀬戸観音方外院に合祀されてい
た脇本尊の十一面 観世音菩薩を勧請し、これを東清寺の本尊とした。
 従来の稲荷は当寺の鎮守として合祀。このため、参拝者は日増しに多くなり、毎月二日、二十日の
縁日には、向島で一番の人出で賑わった。昭和20年3月10日の大空襲で総ての建物を焼失してし
まったため、戦後は取り敢えず仮堂を建て、従前通り観音と稲荷をお祀りしていた。昭和29年に向
島広小路にあった「身代り不動尊」を当寺へ合祀することになり、その不動様を奉安してあったお堂
も当寺へ移築した。この移築した建物を当寺の本堂とし、これに観音、稲荷、不動を合祀していた。
(この不動尊は、田村七蔵が生前執心に信仰していたもので、田村が失明していた時、この不動様の
お陰で目が見えるようになったところから「身代り不動尊」と称されていたもので、元々は成田山の
不動を勧請したものだ。

 
玉の井稲荷神社
 寺の建物に附属している。昔は京成バス通り(いろは通り)に面してあったようだ。貧乏稲荷の仇
名があった。鳥居が無かったのかも知れない。

 
大正道路開創記念碑
 大正4年大正天皇御大典記念で作られた新道開設を記念して建てられた。大正道路は現在の大正通
りと玉ノ井いろは通りだ。
 


■路地尊(手押しポンプ)
 京島2丁目11番6号シティハイムにある防火装置。平成7年4月設置。


■墨田聖書教会

 墨田3丁目19番4号にある日本オープンバイブル教団のキリスト教布教所。


■隅田西児童遊園

 墨田3丁目31番2号にある区立公園。


■かつら児童遊園

 墨田3丁目36番13号にある区立公園。


■隅田第二小学校 閉校
 墨田4丁目6番5号にあった区立校。昭和2年11月隅田尋常小学校の分校創設。同6年校舎落成。
「東京府南葛飾郡隅田町隅田第二尋常小学校」として開校。普通教室21・特別教室1・児童数14
62名でスタート。同7年10月南葛飾郡が東京市に併呑され「東京府東京市隅田第二尋常小学校」
と改称同16年第148号国民学校令公布により「東京府東京市隅田第二国民学校」と改称。12月
真珠湾奇襲により日米開戦。同18年都制施行にり「東京都隅田第二国民学校」と改称。同19年戦
禍が予測されたため集団疎開開始。その後3度に亘って疎開。同20年日本は愚かなアメリカ軍の軍
門に降り敗戦。結果属国となり、唯々諾々としていいなりになる傀儡政権を保持せざるを得ない今日
的不幸を背負い込む。
 同22年アメリカの強制による学校教育法施行により「東京都墨田区立隅田第二小学校」と改称。
同26年開校20周年記念式典。児童数1440名・教職員36名・教室数30。同31年開校25
周年記念式典。同34年1月給食室完成。4月校歌制定。

 校歌「大東京の誇り」 作詞・西条八十  作曲・古関裕而
  1.大東京の誇りなる
    隅田の桜を心に咲かせ 
    清く正しく逞しく
    学びつ鍛うる楽しき吾等  
    隅田第二 隅田第二
    吾等は元気な小学生
  2.親しき流れ荒川に
    肩組む姿映して誓う
    永久に栄ゆる日本を
    この手に築かん燃えたつ理想  
    隅田第二 隅田第二
    吾等は元気な 小学生
  3.嵐も吼えよ 雨も降れ
    心は大きく 体は強く
    常に伸びゆく我が行手
    輝き照らすは真白き富士よ  
    隅田第二 隅田第二
    吾等は元気な小学生


 同35年校舎改築完了(普通教室24・特別教室5・管理室7)。同36年開校30周年記念式典。
児童数1191名 教職員32名。プール完成。同46年開校40周年記念式典。同51年開校45
周年記念式典。同56年鐘渕伸鉄跡地(都市災地)を区で買収、本校グランドとなる。開校50周年
記念式典。同61年開校55周年記念式典。同63年アスレチック忍者渡り設置。
 平成3年開校60周年記念式典。同5年体育館・新プール完成。同6年中国北京市石景山区友好代
表団来校。同7年北京市石景山区古城第二小学校と作品交流開始。同8年開校65周年記念式典。同
9年隅田第二小学校同窓会設立。同10年陶芸窯設置。同11年コンピュータルーム設置。同12年
インターネット。同13年ランチルーム完成。開校70周年記念式典。
 同
17年隅田小学校に統合されて閉校となった。なお跡地は統合後の隅田小学校となった
 


■隅田小学校 統廃合新設校
 墨田4丁目6番5号にある区立校。平成17年旧5丁目49番にあった隅田小学校と隅田第二小学
校が合併してできた新設校。初め校舎は旧隅田小学校の校舎を利用していたが、平成21年隅田第二
小学校跡地に新校舎が新築された新校舎に移転してきた。旧隅田小と旧隅二小の距離は京成電車の線
路を挟んで100mと離れていない。

 校歌「すみだの桜」 校歌原案・隅田小学校校歌制作委員会、歌詞補作と作曲・高橋誠
  1.墨田の桜 陽に映えて
    夢が溢れる学び舎に
    今日も集うよ 隅田の子
    みんな仲よく 力を合わせ
    明るく元気に 明日を語る姿
    みんなの誇り 手を繋ごう

  2.荒川堤清らかに
    歴史育む その流れ
    川面に光る友の顔
    智恵と勇気で希望の橋を
    優しく強く平和を作る心
    みんなの理想 隅田小
 


■隅田第二児童遊園

 墨田4丁目8番14号にある区立公園。


森田家庚申塔
 墨田4丁目18番11号の森田家の塀外にある小祠。ここは向島弘福寺の旧地で高森山と呼ばれた
ところで、都内最古の不動像の庚申塔が残っている。
 


■隅田児童遊園

 墨田4丁目23番12号にある区立公園。


■隅田東第二児童遊園

 墨田4丁目34番20号にある区立公園。


■隅田稲荷神社(八僧稲荷)

 墨田4丁目38番10号にある神社。「善左衛門稲荷」とも呼ばれ、荒川放水路開削で消えた善左衛
門村にあった社。善左衛門村を開拓した江川善左衛門が天文年間(1532~53)に創建したと考
えられている。5代目善左衛門が、伊勢参詣の折り、種々の厄災を8人の僧によって救われたことに
より当社を創建したことから、「八僧稲荷」とも呼ばれ、昭和7年には村社に列格していた。8僧の
縁起を万灯に仕立てた神輿「万燈神輿」が近年復活、外国のカーニバルにも参加するほどの人気を集
め、6月中旬の大祭には、町神輿も加わっての賑やかな行列となる。「新編武蔵風土記稿」に、

   稲荷社二宇。一は村の鎮守なり、須崎村弘福寺持。


 とある。二宇のもう1つは下稲荷神社。境内の石碑に


   当社の創祀は葛西誌及新編武蔵風土記稿等ニ依リ天文年間ト相定セラル。天文年間伊豆ノ
   堀越公方政知亡ビ其ノ臣江川善左衛門郎党ト此ノ地ニ逃レ信仰屡キ京都伏見稲荷大明神ヲ
   勧請シテ氏神トシテ祀リ尓来土地開ケ南葛飾郡善左衛門村ノ起源ヲナス。
   後慶長年間社殿ノ改築アリ又文政十三年庚寅正月社殿ヲ改築シ尚重ネテ関東総鎮守守護神
   田妻恋稲荷神社ノ神官斎部宿禰守儁ガ仲取持チテ京都伏見稲荷神社ノ神璽ヲ守護テ氏子ノ
   人等御田地ヲ奉納シ境内ヲ整備ス。此ノ神璽奉斎ノ路次美濃ノ国ニテ山賊ニ逢ヒシ時八僧
   現レ危難ヲ救ヒシ奇蹟アリシヨリ八僧稲荷神社ト称ヘタル事鳥居ノ額ニ依リテ知ルベシ。
   此ノ御神徳ヲ称ヘ災難除ノ信仰深シ、又郷人ハ隅田稲荷神社と称ヘ奉ル。当社ハ実ニ南葛
   飾郡善左衛門村三百六十六番地ニ鎮座セラレ大正二年大務省起業荒川改修ニ事業地ニ該当
   シ現地ニ移転シタルモノニシテ松楠等周囲丈余ノ巨木アリシ事新編武蔵風土記稿ニ見ユ。
   昭和七年十二月二十七日村社ニ昇格、昭和十年九月公爵一條実孝公、靖国神社宮司関矢司
   樹公ヨリ御神号ノ額ニ揮毫ヲ乞ヒ受ク。昭和十八年四月御社殿改築・・・

 とある。

 弘化四年銘水鉢
 手水舎に安置された、かなり大型のものだ。銘に「奉献 氏子中」「弘化四未年(1847)九月
吉日」「弘福二十七代 尭隣 納」とあり、弘福寺開山鉄牛和尚ゆかりの稲荷社であることを窺わせ
ている。

 津久井安太郎の歌碑
 村社昇格を記念しての社司津久井安太郎の和歌碑で、

   
生みの子の代々つきつきにみやしろの まつりの手振り忘るなよゆめ

 昭和7年の建碑。

 
万燈神輿発祥之地
 境内コンクリート柵の内側に黒御影石製の石碑が建っている。
 「万燈神輿」とは、弓張提灯を四面に掲げた神輿のことをいう。提灯の数は数十から百個を超える
ものもあり、特に夜間、提灯に灯が入り闇夜に揺れ動く姿は幻影的ですばらしい。万灯神輿は隅田開
拓の祖といわれる江川善左衛門雅門の徳を称えて、万灯に善左衛門の開拓由来の錦絵を描き神輿とし
て担いだのが始まりとされる。元治年間(1864~65)に始まったという。大正時代から中止さ
れていたが、昭和50年に復活し、毎年の例大祭の宵宮を賑わしている。万燈神輿は、茅ヶ崎、木更
津、つくばなど関東各地でも見ることができる。


   
万燈神輿発祥之地
   万燈神輿の起源は元治年間(1864)と伝えられ、隅田開拓の祖江川善左衛門雅門公の
   徳をたゝえた里人が、万燈に善左衛門の開拓由来の錦絵を描き神輿として担いだのが始ま
   りと云はれる。大正4年に中止となり、昭和50年に約60年振りに復活し、毎年の例大
   祭の宵宮を賑わす行事として知られる。1977年及び1979年2月フランスはニース
   のカーニバルに参加し国際親善に寄与す。

   
拾周年記念
   昭和六十年五月吉日                        万燈神輿保存会
 


■隅田東児童遊園

 墨田4丁目52番12号にある区立公園。


■荒川四ツ木橋緑地

 墨田4・5丁目、八広6丁目、東隅田2・3丁目に亘る荒川右岸沿いの区立公園。


■稲荷社 ✔

 墨田5丁目11番3号にあるらしい。未確認。


■鐘紡記念公園 移転 カネボウ物流公園
 墨田5丁目17番4号のネボウ化粧品の系列会社「KCロジスティクス」構内にある私設公園。昔
この辺りは灰色の工場街だったよ。右も左も「鐘紡」で、その内、軽工業が左前に、糸偏が駄目になっ
て、チューインガムなんか作って、化粧品に転換して、もう糸屋は止めちゃったよ。それで略称の「カ
ネボウ」が正式名称になって、今の人は「カネボウ」が「鐘紡」だなんて知る由もない。鐘紡が華や
かなりし頃は、この周辺の区から、娘という娘が女工として勤めに来たたもんだ。女工ってえ言葉も
もう死語だわさ。おいらなんざ鐘紡(糸屋)が化粧品作ってることが、三菱が自動車を作ってる以上
に「大丈夫かいな?」と思っちまうんだなぁ。
 平成7年頃からの経営不振を粉飾決算で糊塗することを繰り返し、逐に同16年から産業再生機構
の下で再建がはかられた。その結果、同19年に、カネボウは子会社の「カネボウ化粧品」を花王に
売却し、同時に「カネボウ」の商標は「カネボウ化粧品」に譲渡され,カネボウ自体は解散してクラ
シエ・グループになった。
 この過程で 旧カネボウグループは大幅に整理され、この地にあった「カネボウ物流」は カネボウ
化粧品の系列会社「KCロジスティクス」と名称を変更した。同時にカネボウ物流の会社構内にあっ
た「鐘紡記念公園」は会社の東側の一角に移され.「鐘淵紡績発祥の地」の石碑や同じ場所にあった
「震災記念観世音菩薩」や「大震災復興記念碑」などがここに移設された。「鐘紡記念公園」は現在
「カネボウ物流公園」という名前で 近隣に公開されている。
 碑が移設されたのはいつのことか不明。


 
鐘淵紡績発祥の地
 
公園内にある。また区の説明板が、正門から100m程南に進んだ所に墨堤通りに面して建ってい
る。構内の
石碑は明治22年に据えたもので、裏面に、昭和40年に工場の移転・操業停止したこと
を記念するプレートが嵌められている。


   鐘淵紡績株式会社
   
発祥の地
     明治22年5月6日


  (碑裏面)

   
祥碑由来記
   此の地は古くから沈鐘の伝説があり、江戸時代に入って将軍徳川吉宗公が之の引揚げを下
   命しましたが成功せず鐘は毎夕月の出と共に燦然として光を放ったといわれます。周辺の
   風光明媚を愛でて徳川氏はこゝを将軍家専用の野菜畑とし御前栽と称しました。明治20
   年近代工業の先覚としてこの地に東京綿商社が設立せられ、紡績機械29000錘を英国
   より輸入して東洋第一の紡績工場を建設。明治22年社名を鐘淵紡績株式会社と改称しま
   した。爾来近代日本の進展と共に工場は拡大し、その技術は全国津々浦々に結実し製品は
   カネボウの名声と共に遠く欧米各国を席巻しました。また過ぐる関東大震災、東京大空襲
   当時その職に殉じて斃れた者は50余柱に及びました。いまこゝに時代の進運と共に工場
   の移転を実施するに当って鐘紡稲荷神社並びに慰霊観音像を奉安し、80余年に亘ってう
   けたこの地域社会の御かげを感謝すると共に、老人と児童の憩いの場を設けて記念庭園と
   し永く先人の偉業を偲ぶよすがとなることを切願するものであります。
   昭和40年10月20日                 鐘淵紡績株式会社社中一同

 
説明板

   
鐘淵紡績発祥の地               所在 墨田区隅田5丁目19番ほか
   明治19年に綿問屋の三越、大丸、白木屋、荒尾、奥田の5軒が集り、三越得右衛門を頭
   取として東京綿商店が設立されました。 翌年資本金を10倍に増加 させ隅田川河畔鐘ヶ
   淵の宏大な土地に紡績工場を建設して、明治22年に操業を開始名称も有限責任鐘淵紡績
   会社と変更しました。これが。現在のカネボウ株式会社です。鐘淵紡績は、設立当初こそ
   経営難に見舞われたものの、他社を吸収合併する中に日清戦争を機に大発展を遂げ、世界
   有数の紡績会社となりました。
   平成13年3月                         墨田区教育委員会

 カネボウ → クラシエ
 平成19年6月28日の第90回株主総会において「カネボウ株式会社」の解散承認。カネボウ・
トリニティ・ホールディングスは、7月1日からクラシエ・ホールディングスと改名し、平成18年
から花王傘下に入っている「カネボウ化粧品」を除いて「カネボウ」の名は消滅した。なおカネボウ
の商標権は「カネボウ化粧品」が所有している。
 


■隅田川七福神 隅田山吉祥院多聞寺
 墨田5丁目31番13号にある新義真言宗智山派の寺。創建年代は不詳だが、天徳年間(957~
960)には今の隅田川神社付近にあり、「大鏡山明王院隅田寺」と称していたとか。天正年間(1
573~91)に鑁海上人が本尊を毘沙門天として「隅田山吉祥院多聞寺」と改称したと伝わる。本
尊は、隅田川七福神の一つにもなっている毘沙門天だ。山門、狸塚や、東京大空襲で被災した浅草国
際劇場の鉄骨など多くの文化財を有している。南葛八十八ヶ所霊場79番札所、荒川辺八十八ヶ所霊
場65番札所、荒綾八十八ヶ所霊場5番札所だ。毘沙門天像は弘法大師作というものの、文政時代の
「寺社書上」では、作者年代等不詳となっている。「新編武蔵風土記稿」に、

   多聞寺
   新義真言宗、寺嶋村蓮華寺末、隅田山吉祥院と号す。慶長十一年起立す。法流開山円実宝
   暦五年正月二日寂す。本尊毘沙門は弘法大師の作にて長一尺二寸、脇士十一面観音及不動
   を置。
   五智堂。
   鐘楼、延享三年造立の鐘を掛。
   香取社、稲荷社


 とある。

 毘沙門天(多聞天)
 
本尊の毘沙門天像は、弘法大師作と伝えられる鎌倉時代の特徴を示す高さ50cmの木造立像だ。多
聞天とも呼ばれ、ヒンドゥー教の財宝神クベーラの別名でもあり、持国天、増上天、広目天とともに
四天王の一体に数えられる。この勇ましい姿はほんとうのことを見抜く智慧とほんとうのことを守る
勇気を現す。

   隅田川七福神コース案内板
   SUMIDAGAWA SHICHIFUKUJIN COURSE INFORCE
   
多聞寺 毘沙門天
   多聞寺はその昔、墨田堤の外側、水神森近くにあったが、四百年ほど前、徳川氏が江戸に
   移った直後、今の場所に移された。本尊の毘沙門天は、弘法大師の作と伝えられる。
   毘沙門天は佛法の守護神のひとりで、世界の中心に聳える須弥山の北方を厳然として守っ
   ていたとされる。またの名を多聞天とも申し上げる。しかし、その反面、三界に余るほど
   の財宝を保有していて、善行を施した人びとには、それを分け与えたといわれる。強い威
   力を持つ一方で富裕でもあるという神格が、福徳の理想として、七福神に含められ、信仰
   された理由である。

 
隅田川七福神の碑(榎本武揚書)
 門前右に建つ自然石のこの碑は、元幕府の海軍奉行を勤め、戊辰の役には五稜郭で戦った榎本武揚
の書を自然石に刻したものだ。生粋の江戸っ子である榎本武揚は、隅田川辺りの散策をことのほか好
み、当寺を訪れた折、筆を執ったという。碑面には、

   隅田川
   
七福神之内 毘沙門天 
       
正二位子爵榎本武揚

 と記されている。明治41年の建立で、碑と案内碑がある。

 
山門
(墨田区登録文化財)
 茅葺が実にいい。周りに住宅がなかったらどれほどよかったろう。慶安二年(1649)良賢法印
建造したが、この門はその後焼却したらしい。過去帳には、

   享和三亥年二月酉ノ上刻出火、本堂、鐘楼、五智堂、庫裡、焼失四棟也、表門は不焼

 とあり、この火災で焼失を免れたことから、遅くとも享和三年(1803)には再建されていたこ
とになる。木造茅葺き切妻の四脚門で、全体的には簡素な和様の造りで、控柱などに禅宗様の手法も
見られる。虹梁・木鼻に刻まれた線の太さや深さ、素朴な文様は18世紀を下らない建造を感じさせ
る。区内では最古の建造物。鄙びた中に気品が漂う。
 墨田区は震災や戦災で多くの木造建築が失われてきた。こうした中で、多聞寺山門が現存すること
は貴重であり、周囲の意匠との関連や相違を検討するうえでも重要な建造物といえる。

   多聞寺の山門
   山門中央の「墨田山)」と記された山号額の裏に「明和九年」(1772)と彫られてお
   り、現存する墨田区内最古の建造物として区登録有形文化財とされています。
   屋根を支える本柱の前後に二本ずつの控柱をもつところから四足門または四脚門と呼ばれ
   る形式の門です。一部には朱と思われる痕跡があり、建立当初は朱塗り瓦葺きであったこ
   とが察せられます。その後、享和三年(1803)の火災、安政二年(1855)の大地
   震などの被害を受け、後に茅葺にされたものと思われます。その後もこの門は、廃仏毀釈
   、関東大震災、十五年戦争などの天災と人災の歴史をくぐり抜け、娑婆(人間自身が作り
   出した苦しみの世界)の人々の営みを見据えてきました。
   これからも、安楽を願う人々を見守ってくれるでしょう。       墨田山 多聞寺

 区の説明板は以下の通り。

   山門と狸塚                       墨田区墨田5丁目31番
   この寺の山門は江戸中期のもので、墨田区最古の建造物です。屋根を支える
本柱の前後に
   二本ずつの控柱をもつところから、四足門または四脚門と呼ばれる形式の門です。茅葺屋
   根であることから今では23区内で珍しいことでしょう。
   この境内には有名な狸塚があります。寺伝によると、この寺がこの地に建立された頃、あ
   たり一帯は古池 森林がひろがり、中に五抱えもある松の大木があり、里人がこれを切り
   倒したところ、さまざまのたたりが起りましたので、寺僧がご本尊の毘沙門天を拝んだと
   ころ、ある夜その使者の禅膩師童子が現れて妖怪を懲らしめました。翌日、松の根元に 
   ■■の老狸が死んでいるのを見つけ、これをあわれんで弔ったのが狸塚での起こりだとい
   われています。
   昭和56年3月                         墨田区教育委員会


 ※■■は読めない。「二匹」ではない。この説明板はもう撤去されているので確認もできない。

   (墨田区指定文化財)
   
多聞寺山門              所在地 墨田区墨田5丁目31番 多聞寺内
   多聞寺の山門は江戸中期に造られた区内最古の建造物です。
   切妻造の四脚門で、現在では珍しくなった茅葺の屋根を持ちます。全体的には簡素な和様
   の造りで、控柱などに禅宗様の手法も見られます。虹梁・小鼻に刻まれた線の太さや深さ
   素朴な文様は十八世紀を降らない建造を感じさせます。
   慶安二年(1649)に建立された山門ですがその後焼失しました。過去帳には「享和亥
   年、一月西ノ上刻出火、本堂、鐘楼、五智堂、庫裏、焼失四棟也、表門ハ不焼」とあり、
   この火災で焼失を免れたことから、遅くとも享和三年(1803)までには再建されてい
   たことになります。
   墨田区は震災や戦災で多くの木造建築が失われてきました。こうした中で、多聞寺山門が
   現存することは、貴重であり、周辺の意匠との関連や相違を検討するうえでも重要な建造
   物といえます。
   平成17年3月                         墨田区教育委員会


 
狸塚
 山門内左に石碑がある。この寺は別名「狸寺」ともいわれ、伝説が残る。

   狸塚のいわれ
   昔、江戸幕府が開かれる少し前、今の多門寺のあたりは隅田川の河原の中で、草木が生い
   茂るとても寂しいところでした。おおきな池があり、そこにはひとたび見るだけで気を失
   い、何ヶ月も寝込んでしまうという毒蛇がひそんでいました。また、「牛松」と呼ばれる
   おとなが五人でかかえるほどの松の大木がありました。この松の根元には大きな穴があり
   妖怪狸がすみつき人々をたぶらかしていたのです。そこで、鑁海和尚と村人たちは、人も
   寄りつくことができないような恐ろしいこの場所に、お堂を建てて妖怪たちを追いはらう
   ことにしました。まず、「牛松」を切り倒し、穴をふさぎ、池をうめてしまいました。す
   るとどうでしょう、大地がとどろき、空から土が降ってきたり、いたずらはひどくなるば
   かりです。ある晩のことでした。和尚さんの夢の中に、天までとどくような大入道があら
   われて、「おい、ここはわしのものじゃ、さっさと出て行け、さもないと、村人を食って
   しまうぞ」と、おどかすのでした。和尚さんはびっくりして、一心にご本尊さまを拝みま
   した。やがて、ご本尊毘沙門天のお使いが現れて妖怪狸に話しました。「おまえの悪行は
   いつかおまえをほろぼすことになるぞ」次の朝、二匹の狸がお堂の前で死んでいました。
   これを見つけた和尚さんと村人たちは、狸がかわいそうになりました。そして、切り倒し
   てしまった松や、埋めてしまった池への供養のためにもと塚を築いたのでした。この塚は
   いつしか「狸塚」と呼ばれるようになりました。


 
石仏群
 六地蔵や小堂に安置した地蔵尊があるが、延宝8年(1680)の造立で庚申供養のものだ。この
ころの庚申信仰は本尊も色々で、この期特有の優美な舟型の塔に地蔵が浮き彫りにされている。これ
が江戸中期に進むと、角柱や青面金剛の怖い顔に変って行くのだ。

 六地蔵(墨田区登録文化財)
 「坐姿六態地蔵」と呼ばれる都内でも珍しい形態の尊像だ。仏教における地獄・餓鬼・畜生・修羅
・人間・天上の六道の何処にいても救いの手を差し伸べてくれるという地蔵尊だ。この六地蔵像は総
高150cmで、いずれも安山岩の四石からなっており、地面から1、2段目の石は方形、3段目は
蓮台、その上に、それぞれ60cmの丸彫り地蔵坐像が乗っている。像容は向かって右から持ち物不
明の坐像が2体、両手で幡を持つ半跏像、両手で宝蓋を持つ坐像、持ち物不明の半跏像、合掌してい
る坐像の順に並んでいる。欠損や修復の跡が見られるが、僧覚誉理慶(利慶)が領主となり、7年間
に亘って隅田村内の地蔵講結衆の二世安楽を願って造立されたことが刻銘から読める。隅田村地蔵講
中の数年に亘る作業行為を知り得る貴重な資料だ。製作年代は、右から正徳三年(1713)二月吉
祥日、同四年八月吉祥日、同三年八月吉祥日、同二年八月吉祥日、享保元年(1716)九月吉祥日
同三年十月日と刻まれている。

 
村田銀蔵水兵碑
 茂みの中にある。村田は隅田村出身の海軍兵。明治32年に建立した。軍艦「筑波」の射手という。
何もない当時、村の誇りだったのだろう。小泉選挙でひょんなことから国会議員になっちゃった杉村
太蔵、翌日から先生に祭り上げられてしまっちゃった。海軍兵は数が少ないから村で一人出るか出な
いか。だから村の大変な名誉なのだ。私の知る小父さんは海軍の通信学校に入学しただけで、村人が
紋付袴でお出迎え、その夜は提灯行列、翌日は小学校の講堂で講演会だったとか。海軍兵学校に行こ
うものならイチロー・松井級の大歓迎会だ。防衛大学に入るのとはちょと訳が違った。

 
映画人の碑
 多門寺の境内にある。坂斎小一郎(共同映画株式会社創立者)の夫人ハツが墓地資金を提供し、日
本映画の民主的発展のために尽された映画の仲間の生涯を顕彰し、追悼する共同の墓碑建立に役立て
てほしいとの申し出がり、その意志を尊重し、映画を愛する人々と団体によって映画人の墓碑の会が
組織され、この墓碑が建立された。平成4年のことだ。揮毫は映画監督新藤兼人。

 
多聞寺コンサート

 釈尊が悟りを開いた日=世道会(じょうどうえ)を記念して、毎年暮(12月最初の日曜日)に法
要とコンサートが行われます。

 
東京大空襲で被災した浅草国際劇場の鉄骨
 昭和20年3月10日未明、アメリカ軍B29爆撃機330機による無差別絨毯爆撃を受け、下町
一帯は〝火の海〟と化した。この東京大空襲による下町は壊滅状態に陥り、死者
10万人(30万人
とも)
、重傷者11万人、100万人が家を失った。犠牲者の氏名、正確な人数は現在も不明だ。

 と書いたら、安藤さんから怒りのメールを頂戴しました。

   違うぞ
   三月十日の大空襲の時、私は隅田公園の墨田区側にゐた。あそこは元水戸家の下屋敷だっ
   た。現在、池の真ん中に石橋が架かり、いい場所だ。当時は本所區と言ってゐた。言問橋
   が炎上したのを目の前で見た。青光りのする龍がのたくる様に、兎に角すごかった。当時
   私は中学三年生だった。都立第七中学校、現墨田川高校(都立第七高校とも言う)
    あの当時の事を思いだすと水に浮かぶ死体の山が眼にちらつく。公園の芝生の空き地が
   死体の假り埋葬所になり、今も、やり場の無い怒りがこみ上げてくる。当時、被害が三十
   万と言われてゐた。間違いない。たしかに三十万だ。何時の間にか十万になってしまった。


 この元浅草国際劇場の鉄骨(大部分は江戸東京博物館に展示)は、東京大空襲を語り継ぐ数少ない
歴史的〝証人〟だ。風船爆弾の工場となっていた浅草国際劇場も直撃弾を受け、屋根を支えていた鉄
骨は曲がり、ちぎれ、天井の大部分が抜け落ち、多くの人が焼死した。眼前の痛ましくひきちぎられ
た鉄骨に向かって目を閉じると、炎の夜の恐怖が甦る。
 にもかかわらず安倍晋三は防衛省に昇格して戦争への道を開き、パンドラの箱の蓋を取ってしまっ
た。何だかだ屁理屈捏ねているが、憲法を変えて国防省に名前を以て、自衛隊は陸海空軍に・・・自
民党の1人勝ち。好戦国民日本人の面目躍如、さぁこれからアメリカの尖兵として世界中で大活躍、
アメリカの汚名を雪いでやり、悪名を一手に引き受ける。アメリカに逆らうものは、日本軍が叩き潰
す。自民党はアメリカの覚えめでたく、売国奴小泉は名誉のアメリカ殿堂入りだ。
 その横には、空襲によって焼けた木の一部も展示されている。

   旧淺草国際劇場 東京大空襲被災鉄骨
   昭和20年3月10日未明、アメリカ軍B‐29、330機による無差別空襲を受け、下
   町一帯は〝炎の夜と化した。この東京大空襲により、下町は壊滅状態に陥り、死者10万
   人、不詳者11万人〟100万人が家を失った。(幸いにもこの多門寺は戦火を免れた)
   この旧淺草国際劇場の鉄骨は、東京大空襲を語りつぐ歴史的資料である。風船爆弾の工場
   となっていた浅草国際劇場も直撃弾数発を受け、屋根を支えていた鉄骨は曲がり、ちぎれ、
   天井の大部分が抜け落ち、たくさんの人が爆死した。目の前の痛ましくひきちぎられた鉄
   骨に向かって目を閉じてみると、炎の夜の恐怖がよみがえる。
   私たちは再び戦争をくり返してはならない。戦争を知らない世代に空襲の惨状「東京平和
   資料館」の建設  に働きかけて、一日も早く実現しましょう。
                               1986年12月 多聞寺

 現在のものは以下の通り。

   
旧淺草国際劇場
   
  東京大空襲被災鉄骨
   昭和20年3月10日未明、アメリカ軍B‐29爆撃機330機による無差別絨毯空襲を
   受け、下町一帯は〝炎の夜と化した。この東京大空襲により、下町は壊滅状態に陥り、死
   者10万人、不詳者11万人〟100万人が家を失った。(犠牲者の氏名、正確な人数は
   現在も不明)
   この元淺草国際劇場の鉄骨は、東京大空襲を語り継ぐ歴史的〝証人〟である。風船爆弾の
   工場となっていた浅草国際劇場も直撃弾を受け、屋根を支えていた鉄骨は曲がり、ちぎれ、
   天井の大部分が抜け落ち、たくさんの人々が焼死した。目の前の痛ましくひきちぎられた
   鉄骨に向かって目を閉じてみると、炎の夜の恐怖がよみがえる。
    戦争の実態を伝える〝証人たち〟に静かに心を傾け、
    不殺生の誓いを新たにしましょう。                隅田山 多聞寺

   戦災の証言者
   パールハーバーから半世紀、終戦から46年目の平成3年8月12日、この木は荒川区西
   日暮里1丁目2番7号(三河島4丁目3420~21番地)に新しくビルを建てるための
   堀削により発見されました。東京地域では昭和17年4月18日のどーリットルの空襲か
   ら同20年8月15日に至るまでに71回の空襲がありました。ここに展示されている木
   は、43回目の同20年4月13日の23時から14日の2時22分にかけての空襲で焼
   かれた木です。
    当日の投下爆弾は高性能弾81.9t、焼夷弾2037.7tで、罹災地域は、西日暮里
   を含め139ヶ所に及びました。戦火で焼け爛れたこの木は、生命の尊さを訴えるととも
   に、今、平和憲法のもと、再び戦火にまみれる事のない国を作ることを、私たちに求めて
   います
   平成4年10月18日                    戦災の木を保存する会


 
平和観音像
 本堂に向かって左手にある。これは、東京大空襲の犠牲者と「全人類が核戦争による破壊の危機に
直面しているが・・・殺し殺されもしないという釈尊や大師の願いを成就すべく・・・」と建立の趣
旨が説明されている。昭和59年建立。

■て゛
本土空襲の指揮を取っていたカーチス・E・ルメイ将軍の理屈

 「明かに非戦闘員を狙った」とする批判に対してルメイは、戦後の回想記の中で次の様に居直って
いる。

   俺は日本の民間人を殺したんじゃねえ。日本の軍需工場を破壊したんだよ。日本の都市の
   民家は全て軍需工場だっただろうが。ある家がボルトを作り、隣の家がナットを作り、向か
   いの家がワッシャーを作っていたんだ。木と紙でできた民家の一軒一軒が全て世界正義の
   アメリカを攻撃する武器工場になっていたんだよ。こんな野郎どもを皆殺しにして何が悪
   い?
 

 カーチス・E・ルメイは、グアム島在米爆撃隊司令として、広島・長崎に投下された原子爆弾にも
深く係っていた。ところがだ、

   昭和39年、日本政府は「日本の航空自衛隊の育成に協力した」との理由から、
   この悪魔のようなルメイに対して昭和天皇は
勲一等旭日大綬章を贈っている。

 
時の総理大臣は、後にノーベル平和賞を受賞した佐藤栄作だ。国家主義者安倍晋三の大叔父だ。
 平成20年12月、佐藤がアメリカに対して「中国が日本に攻めてきたら、原爆を中国に投下して
くれ」と依願していたことが判明、平和賞が聞いて呆れるぜ。政治家なんてこんなものよ。陰で何し
てるか判ったもんじゃない。日本は確実に軍国化してる。しかしアメリカは日本の右傾化、軍国化、
戦前回帰は危惧するところ、だから憲法改正を叫ぶ安倍は潰されたんだ。「在日米軍は第七艦隊だけ
でいい」と発言した小沢一郎を潰しにかかったのだ(西松問題)。アメリカにとって日本は属国尖兵
が一番良い状態なのだ。復讐はされたかないからネ。国民はそこが読めてない。小泉、麻生がアメリ
カに御追従いってるのを聞き取れよ。

 宝篋印塔
 大きな石造物だ。

 橘千蔭の碑
 詳細不明。未見。
 


■香取神社 ◇
 墨田5丁目31番14号多門寺の南、駐車場の端にある小祠。


■つばき公園

 墨田5丁目33番9号にある区立公園。


■稲荷社 ✔

 墨田5丁目36番2号にあるらしい。未確認。


醍醐山円徳寺
 墨田5丁目42番17号にある曹洞宗の寺。駒込吉祥寺の末。慶長十八年(1613)の創建。吉
祥寺13代離比良重和和尚の開山で「赤門寺」とも呼ばれている。現在地に移ってきたのは寛永の頃
だという。「葛西志」に正慶元年(1332)と、嘉吉四年(1444)銘の碑があったとされるも
のの、現存していない。その頃は寺もまだない頃だから、どうだかなぁ! 
本尊は瑠璃光薬師如来。
 三猿を彫り出した台座に舟形光背を持つ庚申阿弥陀立像は墨田区の指定文化財。
 また水戸徳川家出府の折には、ここで最後の身支度を整える屯所に充てられた。「新編武蔵風土記
稿」に、

   円徳寺
   禅宗曹洞派駒込吉祥寺末、醍醐山と号す。開山僧離北良重、慶長十八年起立し、天和三年
   七月二十日化す。本尊薬師、弘法大師の作と云。
   天神社。


 とある。

 
釈迦如来像庚申塔
 舟形光背型浮彫の大きな石像。

   〈墨田区登録文化財〉
   
庚申塔(寛文十二年十一月一日銘)
                    所在 墨田区墨田五丁目四十二番十七号 圓徳寺内
   十干十二支で庚申は60日に一度めぐってくる。この日の夕に斎戒沐浴して供養し、一夜
   を寝ずに明かす行事を「庚申待」という。人の身中に潜む三尸という虫がこの夜の眠って
   いる間に抜け出し、人界での諸悪を天帝に告げるため、人は寿命を縮めるとされている。
   近隣の者たちが供物(馳走)を持ち寄り、庚申の掛物を礼拝し、日ごろの話題に談笑した
   りして夜明けを待つ。また、この夜は、村人にとっては数少ない楽しみのひとつでもあっ
   た。
   この庚申塔は区内でもかなり大きなものであり、舟形光背・蓮華座に阿弥陀尊を配し、台
   座にも三猿を彫出していて、優品に属する。銘を「寛文十二壬子歳十一月一日 奉造立庚
   申待供養現当二世安楽所 敬白」とし、主尊の両側には旧隅田村の有力者名が27名も彫
   られており、多数の村人たちが結集し、信心の話として造立したことがわかる。
   平成6年3月                          墨田区教育委員会

 鳩魂碑
 詳細不明。
 


■隅田小学校 閉校
 墨田5丁目49番5号にあった区立校。明治6年多聞寺内に「墨陀学校」設置。同13年廃校。寺
島小学校に吸収された。同16年6月1日に中川音蔵所有地を借りて「東京府南葛飾郡隅田村立隅田
小学校」として開校。同21年小学校令により「南葛飾郡隅田村隅田尋常小学校」と改称。同22年
隅田村梅若耕地1548番地に新校舎落成。しかし9月の風台風のため全倒壊。直ぐに再築。同26
年校舎増築。同31年増築。同33年義務教育4年に統一。同36年現在地に校地移転。同40年義
務年限6年となる。
 大正6年木造2階2教室増築。同11年木造2階10教室。同12年働く児童のため夜学校設置。
関東大震災。同13年2階校舎。雨天体操場完成。同15年鉄筋コンクリート造り3階建て校舎が落
成。
 昭和6年隅田第二尋常小学校を分校。同7年南葛飾郡が東京市に併呑され「東京市隅田尋常高等小
学校」と改称。同8年校舎2棟16教室火災焼失。直ぐに復旧。同8年創立50周年記念式典。

 旧校歌
「都を分けて」
    都を分けて洋々と
    流れ行くなる隅田川
    その名を負うて五十年
    文化の波に打ち乗りて
    日々に栄え行く学び舎に
    励む吾等の楽しさよ


 同10年夜学校を隅田第二小学校に移す。同16年勅令第148号国民学校令「東京府東京市隅田
国民学校」と改称。12月真珠湾攻撃により日米開戦。同18年都制施行により「東京都隅田国民学
校」と改称。夜学校、商工補習学校併設、同19年茨城県稲敷郡龍ヶ崎町・沼里村に集団疎開。同2
0年愚かなアメリカ軍の非人道的無差別空爆により学校周辺壊滅。8月日本はアメリカの軍門に降っ
て敗戦。以後傀儡政権を保持せざるを得ない今日的不幸を背負い込む。
 昭和22年ララ物資(アメリカで廃棄処分となった粉ミルク)による学校給食開始。墨田区成立。
アメリカの強制による学校教育法により「東京都墨田区立隅田小学校」と改称。同28年創立70周
年記念式典。同32年給食室完成。同36年プール完成。同38年創立80周年記念式典。同42年
校庭舗装。同46年ローラースケート場設置。同48年給食調理室改修。同48年創立90周年記念
式典。同53年新校舎に建替え、新体育館完成。同54年新プール完成。同58年創立100周年記
念式典。
 図書館など巡ったが既に廃校となっているため資料を見つけることはなかった、従って以後の沿革
は不明だ。墨田区の図書館は絶対数が少なく、図書文花に対する意識の薄さが見て取れる。図書館自
体多区のそれに比べて汚いしお粗末だ。

 校歌
「朝に芙蓉を仰ぎつつ」 作詞・伊藤平八郎  作曲・小堤貞治
  1.朝(あした)に芙蓉を仰ぎつつ
    昇る朝日の影射せば
    隅田の堤 霧晴れて
    おとし影澄む
    ああこれ清き学び舎よ
    育む我らの姿なり
  2.文化の都大東京
    平和の使命 尚思き
    学び舎隅田の名の下に
    薫る心とこの体
    ああこれ清き学び舎よ
    育む我らの姿なり


 平成17年就学児童減少のため隅田第二小学校と統合し、新しい「墨田区立隅田小学校」となり、
同21年3月まで当校舎を使用し、その間第二小学校跡地に新しい校舎を新設して移転予定。 


■隅田小学校 統廃合新設校 移転
 墨田5丁目49番5号にある区立校。平成17年旧隅田小学校と隅田第二小学校が合併してできた
新設校。平成21年隅田第二小学校跡地に新築された校舎に移転。
 


■鐘ヶ淵駅
 墨田5丁目50番2号にある東武伊勢崎線の停車場。明治35年4月1日の吾妻橋(業平橋)~北
千住間開業時にできた駅。ホームは地上相対式2面2線構造。ホームごとに改札を持ち、上下ホーム
を結ぶ連絡通路はない。ホームの内側に2本の通過線を持つが、駅自体が急カーブの途中にあるため
通過列車もかなりの減速を強いられる。改札口・出口はホームごとにあり、いずれも浅草寄りのホー
ム先端部に直結している。
 鐘ヶ淵は、明治中期に紡績業が盛んになった街。現在は化粧品メーカーになったカネボウもこの地
が発祥であり、元の社名は鐘淵紡績といった。それが略されて鐘紡となり、現社名のカネボウへと変
遷している。

 
古代東海道
 駅前の東西に走る道は古代の東海道道筋の現在に残るものだそうだ。駅から東へ進むと大きな土手
へぶつかり道が消えている。明治まではなかった荒川(放水路)だ。中の道の赤羽岩淵から水門で分
けている、現在では旧荒川を隅田川、放水路を荒川と名付けている。
 
 



【太平】(たいへい)1~4丁目                   昭和44年5月1日
 俗に法恩寺門前(平河山山内寺町)といったところ。明治2年太平の世を願って本所太平町1~
2丁目と命名された。柳島出村・南本所出村町・南本所出村御用屋敷・北本所出村町と中ノ郷代地
町・深川元町の全部または一部をあわせた町域を
1丁目とし、俗に南割下水錦糸堀という北本所代
地・四ノ橋小梅代地と中ノ郷代地町・深川元町代地の各一部をあわせた町域を
二丁目とした明治
44年本所の冠称を外し太平町しなり、昭和42年新住居表示により現行の「太平」とした。4丁
目にあった精工舎(セイコー)はいつの間にかなくなっちゃった。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『墨田区史』『墨田の歴史』など。

 太平の由来
 太平の世を願ってのものだが・・・町内の法恩寺は田道灌の菩提寺。山号は河山でちょっと
ひねりを加えてある。法恩寺は「局沢16ヶ寺」の一つ、元は皇居の中にあった。
 


■高杉銀平道場跡

 太平1丁目17番の法恩寺橋の橋詰、法恩寺橋児童遊園のところにあった、長谷川平蔵が剣術の練
習をした道場跡。平蔵は若い頃、無頼の徒であり、近辺の鼻つまみものだったが、剣術の練習は熱心
で、その道場は現在の法恩寺橋の袂にあった。記念の碑はない。
 


■タハナミグラス博物館
 廃館
 太平1丁目18番19号にあった。現在タキナミグラスは廃業し、建物はなく、地域再開発でマン
ションに建て変わっている。19号も消滅している。


■コズモラマ(メリヤス生地)
 太平1丁目20番7号太平町ビル6階に本社がある小野莫大小工業の世界中の一流ブランドに認め
られたメリヤス生地だ。糸を極細に開発した薄くて軽い生地は世界中の一流デザイナーが賞賛、今や
糸の生産が追いつかない状況だ。常設のショールームがあるので覘いてみるがいい、工場は松戸市紙
敷1577番地にある。
 


平河山千栄院
 太平1丁目24番2号にある日蓮宗の寺。明和七年(1770)法恩寺第3世日喜上人が創建。祖
師像及び大曼荼羅を本尊とし、また痰病守護道晴尊の木座像を安置して、「たんぼとけ霊場」の名に
よって知られている。庫裏は3階建てのビル。

 
小祠
 境内にある。

 たんぼとけの案内碑
 入口の右脇にある。たんぼとけとは「痰仏」だ。昔は痰を喉に詰まらせて窒息死することが多かっ
た。おいらの父親も死因は癌なんだけれども、直接には痰詰まりなんだ。治療技術の拙かった時代に
は、神仏に縋るしかなかった。痰仏や痰切地蔵などはあちこちにあった。

   たんぜんそく千日咳守護
   
たんぼとけ 


■鬼平情景 法恩寺

 太平1丁目24番4号の法恩寺参道に面して建ててある区の説明板。


   鬼平情景 ⑫
   
法恩寺
   長禄二年(1458)太田道灌が江戸城築城にあたり、丑寅の方角である江戸平河に城内
   鎮護の祈願所を設けたことに始まるとされます。開山は本住院日住上人です。大永四年(1
   524)道灌の孫の資高が父資康追善のために堂塔を再建、資康の法名をもって本住院か
   ら法恩寺と改めました。家康入府後は、数回の移転を重ね、元禄元年(1688)に現在
   の地に定められました。
   鬼平犯科帳では数作品に登場します。「本所・桜屋敷」には平蔵と左馬之助が門前の茶店
   (ひしや)で湯豆腐と熱燗で二十余年振りに旧交を暖める場面が登場します。「尻毛の長
   右衛門」では、冒頭に寺裏手の木立の中で布目の半太郎と引き込みのおすみが逢引する様
   子が描かれています。                           墨田区


平河山善行院
 太平1丁目24番11号にある日蓮宗の寺。報恩寺の塔頭。鉄筋コンクリート4階建てのビル
 


鬼平情景 高杉銀平道場
 太平1丁目25番4号豊島(製)の北面の壁際に説明板が建ててある。

   鬼平情景 ⑪
   
高杉銀平道場
   義母の苛めに反発、土地のごろつきと放蕩無頼の日々を送っていた平蔵ですが、十九才の
   折、ここから道を隔てた横川沿いの出村町にあった道場の門を叩きます。入門後は世間へ
   の鬱憤を晴らすかのように休むこともなく猛烈な稽古に打ち込みました。当然、腕はめき
   めきと上達、肉体だけでなく精神も鍛えられ、その後の人格形成に大きな力となりました。
   道場で技量が伯仲し、気も合ったのが、岸井左馬之助です。高杉先生から同時に目録を授
   けられ、竜虎と呼ばれ、酒食の場にも肩を並べて出かける間柄になりました。平蔵一家が
   京都に赴任して一時、疎遠になりましたが、再開後は、剣友の付き合いを復活、遊軍とし
   火付盗賊改方を支えていきます。
   後に道場の食客であった小野田治平の娘、お静と夫婦になり、春慶寺から下谷の金杉下町
   へ移り住みます。                             墨田区


平河山法泉院
 太平1丁目25番11号にある日蓮宗の寺。法恩寺の塔頭。
  


平河山陽運院

 太平1丁目25番12号にある日蓮宗の寺。法恩寺の塔頭。大永元年(1521)日新の開山。こ
こは日朝上人秘伝という眼病の護符を出す寺で「めぼし霊場」として知られている。表に「日朝上人
めぼし護符所」の札が出ている。
 墓地には哥沢芝派の祖哥沢芝金初代及び2代の墓、江戸中期の俳人水間沾徳の墓などがある。


 初代・2代の哥沢芝金の墓
 初代は、高砂町に住む御家人柴田弥三郎の3男で金吾といった、端唄を好み、歌沢笹丸と共に歌沢
芝金(うたざわしばきん)の名で行動するようになる。笹丸没後の文久二年(1862)哥沢芝金と
改称し一派を立てた。文久元年(1861)哥沢土佐太夫(哥沢土佐大掾)、明治3年には哥沢芝右
衛門を名乗った。3代目芝金は養女。明治になって歌舞伎座にも出、明治7年鬼籍に名を連ねた。
 柴田貞之助、3代哥沢芝金を母とし、志村和兵衛は義父にあたる。初代が明治7年に没すると家元
を継ぎ2代哥沢芝金となる。しかし哥沢に馴染めず、明治21年7月より砂糖会社に転職、従って母
勢以が3世哥澤芝金を襲名した。貞之助は、同31年古河鉱業所に移った。また多くの百科辞典など
で早逝したとあり、明治10年没とされるが、明治10年ではなく、明治40年9月14日に逝去し
た。生年は不明だ。

 水間沾徳(合歓堂沾徳)の墓
 江戸初期の俳人。はじめ門田氏、のち水間氏。名は友兼。通称治郎左衛門。号に沾葉、合歓堂があ
る。江戸の人。初め岸本調和門下の福田調也(のちの露言)に師事し、随伴して内藤風虎の江戸藩邸
に出入りしたらしく、延宝期には風虎嫡男の露沾から1字を貰い沾葉と号した。以後、露言と共に調
和系の俳書に入集していく。この頃、同藩邸の常連であった山口素堂の手引きで林家に入門、かつ山
本春正、清水宗川に歌学を学び、原安適とも親交を結んだ。やがて内藤家の内紛を経て風虎が他界す
るにおよび退いて法体になる。貞享四年(1687)頃、沾徳と改めて立机。以後、調和から離れ、
素堂を介して蕉門に親しみ、榎本其角と末長く提携する。元禄五年(1692)には露沾の委嘱によ
り、処女選集『俳林一字幽蘭集』を刊行した。やがて宗匠として内藤家の禄を食み、諏訪闡幽、大村
蘭台らの大名を顧客とした。松尾芭蕉他界後、其角・沾徳両門の交流しげく、江戸俳壇の主流を形成
した。両点者の俳風は洒落風と称されて時流をリードしたが、前句付には殆ど関与していない。ここ
が他点者と一線を画した点だ。其角没後は、江戸俳壇の諸派を糾合して、大宗匠と仰がれるに至る。
 
 

■平河山本住院 法恩寺
 太平1丁目26番16号にある日蓮宗の中本寺。蔵前橋通りに山門があり、参道が100m続く。
正面が本堂、左の
ちょっと異様な三重塔は昭和7年に建てたコンクリート造りの鐘楼。さらに左は道
路を隔てて墓所。右の鉄筋コンクリート3階建ての建物は、催し場と寺務所。境内は整備されており、
なかなかのものだ。長禄二年(1456)開山日住上人、開基大田道灌、江戸城平河門のところに鬼
門除けの祈願所として建立し、当時は本住院といっていた。 大永四年(1524)道灌の孫の太田
大和守資高が亡父六郎左衛門資康の十三回忌に備えて造営を加えた。また武州三田郷の田畑50貫文
を寄進し、資康の法名「法恩斎道源日恵大居士」から寺号を取って法恩寺と改めた。山号は下平河村
から得ている。その後神田柳原、谷中清水町を経て、元禄元年(1688)現在地に移転。本堂・鐘
楼堂・北面堂・番神堂・経蔵・常題目堂などの伽藍が揃い、谷中宗林寺、浅草幸龍寺と共に京本国寺
末触頭を勤め、20の塔頭、11の末寺を擁していた。本堂はアメリカ軍の無差別の東京大空襲によ
り焼失してしまったが、住職と檀家の努力で、昭和29に再建したものだ。参道の左右にある寺はか
つての支院で、現在は4ヶ寺(陽運院・善行院・千栄院・法泉院)が残っている。境内にはサクラ、
ボタン、クチナシなどの花木があるが、華やかに咲くソメイヨシノが花の本命だ。


   
日蓮宗平河山法恩寺縁起
   開山は本住院日住上人、開基は太田道灌公である。太田道灌公長禄二年(1458)江戸
   城築城に当り丑虎の方に城内鎮護の祈願所として本住院を建立、次いで資康、資高城主と
   なり資高の代、本住院を法恩寺と改称したのである。山号を平河山と称するのは、当時こ
   の附近を平河村と称したによるものである。当山には秀吉家康共に小憩され、又、朱印地
   も与えられた。家康江戸城に入り、城内拡大に当って当山は神田柳原、谷中清水町にと移
   され、元禄八年(1695)現在の地に移されたのである。当時塔中20ヶ寺、末寺11ヶ
   寺、関東の触頭として威勢を誇った。当地を太平町と称するのは開基太田道灌公の太と山
   号平河山の頭文字をとって名付けられた。当山は関東大震災、昭和20年3月の戦災に遭
   遇するも檀信徒並地元の外護により再建され、昭和29年10月現在の本堂落成をみたの
   である。経石塔(三重塔)は昭和7年宗祖650年遠忌記念として建立、天平風鉄筋造当
   時新様式鐘楼として名高いものである。
                                奉納 横川二 岩田鉄工

   日蓮宗 平河山 山内寺院案内
   法恩寺 千栄院 陽運院 法泉院 善行院
   〔沿革〕
   法恩寺 開山本住院日住上人 開基太田道灌公
   太田道灌公は
長禄二年(1458)凡そ540年前、江戸城(現在の皇居)築城の折、城
   内鎮護の祈願所として、当山を平川村(現在の皇居・平川門付近)に建立、京より日住上
   人を迎え、開山とする。建立の地をとって、山号を平河山(平川)と号す。
   時移り、徳川家康公江戸幕府を開くにあたり、慶長十年(1605)神田柳原へ移転。そ
   の後、慶安二年(1649)谷中清水町へ移り、元禄八年(1695)幕府の命により、
   現在地に移された。現在塔中は四ヶ寺であるが、元禄当時は、20ヶ寺を擁したと伝えら
   れる。
   当地を太平町と称するのは、太田道灌公の太及び平河山の平を合わせたものである。大正
   大震災、昭和20年3月10日の戦災に遭遇、ニ度焼失、昭和29年10月現在の堂宇が
   建立された。
   維時平成10年3月彼岸の佳日

   Hoonji Temple
   The history of Hoonji Temple started when Ota Dokan,who constructed Edo Castle,
   built it in Edo Hirakawa (Chiyoda Ward) in 1458.The temple was opened by Saint N
   ichiju under the name of Honju-in.It was Dokan's grandson Sukeaka who changed th
   e name to the current Hoonji.After several relocations,the temple was finally tr
   ansferred to the current site in 1688.


 新しい木製の大案内板が凄い。『江戸名所図会』の法恩寺の絵が写されている。


   
日蓮宗 平河山法恩寺
   寺伝によれば、古来法恩寺は、平河村(後の江戸城平河口付近にあった村)にあった小さ
   な草庵で、長禄元年(1459)に太田道灌の助成により、一寺造営を果たしました。当
   初は道灌が帰依した学徳兼備の日住上人の院号をとって本住院と号しましたが、大永四年
   (1524)に法恩寺に改めたと伝えられております。寺号は道灌の子資康の法号「法恩
   斎日恵」に因んだもので、資康の子資高が父の追善供養のため堂塔を再建したのが改号の
   機縁になったとされています。そして慶長十年(1605)頃に神田柳原へ移転し、慶安
   二年(1649)頃には再び所在を替えて谷中の清水坂に落ち着きました。また元禄二年
   (1689)閏正月二日には幕府の命により当地へ移転し、以後は寺内に二十もの塔頭を
   擁する寺院として栄えることになりました。天保七年(1836)に出版された『江戸名
   所図会』にはそうした景観が見え、往時の盛栄が偲ばれます。
   平成24年8月                      墨 田 区 教 育 委 員 会
                                法恩寺 第56世 日元代


 池波正太郎 鬼平犯科帳「尻毛の長右衛門」の舞台となっている


   引き込みのおすみは橋本屋の勝手口からぬけ出し、横川へかかる法恩寺橋へ向かった。彼
   方に法恩寺の大屋根がのぞまれる。法恩寺は花落本圀寺の触頭で、江戸三箇寺の一であり、
   表門を入った両側には塔中が押しならび、境内の稲荷の小祠を中心にした庭園の桜花が、
   いまや咲きひらこうとしている。(略)
   いつものように、布目の半太郎は法恩寺橋の欄干にもたれて、おすみをまっていた。

 
太田道灌記念碑
 
三門を潜った右手にある。昭和31年開都500年を記念して建てられた。「七重八重・・・・」
の山吹の古歌と、道灌の像が彫られている。

 鐘楼三重塔 経石塔
 三門を潜った左手にある。下部に梵鐘を提げています。経石塔と呼ばれ、昭和7年に鉄筋コンクリ
ートで建立された。手っ取り早く三重塔と鐘楼を合体させたものだ。境内が狭いからねぇ・・・・

 ●一乗法灯
 
法華経の一乗精神である世界平和を願う灯火を遍く照らすべく建立されている。

 
平河清水稲荷社
 これも江戸城の平河門と清水門の間にあったもので、法恩寺の移転とともに付き合ってきたのだろ
う。


   平川清水稲荷縁起
   当山開基太田道灌公築城の江戸城内に平川と言はるゝ清流あって人呼んで小川の清水と云
   い太田道灌公も是を愛でゝ

    武蔵野の小川の清水絶えやらで 岸のねせりを洗いことすれ

   と詠まれている 当時のその小川の畔本住院(当時の旧称)の側に稲荷の詞が祭られてい
   て 平川清水稲荷を称えられていた 現在法恩寺境内に其の碑柱が伝わって由緒を物語っ
   ている。


 と説明しているが、歌末の「洗いことすれ」は、「洗いこそすれ」の誤りだ。また、小川の清水と
は、神田小川町にあった池、また小流だという。


 
法恩寺橋開橋祝賀記念碑
 橋は江戸時代から横川に架かっていたが関東大震災で焼け落ち、大正14年、長さ18間×幅12
間のラーメン橋台コンクリート橋が完成したことを喜び、記念する碑だ。隅田川以東では初の近代橋
だから喜びも一入だったろう。 

 太田道灌供養塔
 境内左奥の墓地にある。五輪塔になっているが、追善供養碑だろうといわれている。道灌の墓は、
伊豆玉沢の妙法蓮寺、鎌倉扇谷英勝寺裏の源氏山、日暮里の本行寺、埼玉県越生市の龍穏寺など数ヶ
所あるが、伊勢原には2ヶ所ある。その一つは下糟屋の大慈寺の墓で「首塚」と呼ばれており、もう
一つは上粕屋の洞昌院の墓で「道灌さんの墓」と呼ばれている。上杉館で謀殺された道灌の遺骸は、
同昌院の裏山に於いて荼毘に付されている。
 

   
先祖自得軒道真大居士

   

   當山
   蓮乘院殿道灌日恩大居士
   開基

 墓前の水差しの石鉢に「太田家 御代々」と刻んである。

   この供養塔は、法恩寺墓地の中央奥に石組で囲まれた歴代住職の供養塔と並び、一段高く
   安置されています。五輪塔形式で各輪に妙法蓮華経の文字、地輪正面に道灌と父・資清の
   戒名、両側面に道灌以降五代の当主の戒名、裏面にはそれぞれの没年月日が刻まれていま
   すが、現在は肉眼で判読するのは困難です。総高は201cmです。空輪と風輪は後補と
   思われ、火輪の軒が厚く水輪、地輪とほぼ同じ幅であることから17世紀後半の製作と考
   えられます。法恩寺は、太田道灌が江戸平河に創建した寺院で、当時は本住院と号しまし
   たが、大永四年(1524)に平河山法恩寺と寺号を改めました。後、元禄元年(168
   8)に本所の現在地に寺地が定まりました。
   『新撰東京名所図絵』(明治40年刊)には、寺僧が記念のために、この供養塔を建てた
   ことが記されています。

   
太田道灌家供養塔          所在 墨田区1丁目26番16号 法恩寺内
   太田道灌公
は室町時代の武将で、永享四年(1432)関東官領扇ヶ谷上杉氏の執事資清
   の子として相模に生まれました。歌人として、万里集九との交遊も知られています。幼名
   を鶴千代麿、源六郎と称し、成人してからは、持資(もちすけ)、資長(つけなが)と改
   め、備中守正五位下までのぼり、剃髪して道灌と号しました。道灌は、扇ヶ谷上杉定正に
   仕え、文武両道を修め、康正二年(1456)江戸城を築きここを居城としました。彼は
   築城にかけても名手で、河越、岩槻の二城も築きました。また足軽の用い方にも優れてい
   たといわれます。文明十八年(1486)主君定正は、太田道灌の名声を妬んだ他の家臣
   たちに唆されて、相模糟屋の定正自邸に誘い出され、謀殺されました。享年55歳でした。
   この法恩寺はもと江戸平河町にあり、太田道灌が江戸築城のとき建立したものといわれ、
   太田道灌とゆかりが深く、子孫によって供養塔が築かれました。
   平成18年3月                         墨田区教育委員会


 
太田道灌の歌碑
 戦災殉難者供養之碑の前にある。達筆過ぎて読めないだろう。道灌の名歌だ。

   
露おかぬかたもありけり夕立の 空より広き武蔵野の原

 
戦災殉難者供養之碑
 
昭和20年3月10日の真夜中の空襲によって殉死した人々を供養するために、太平町一丁目町会
の人々によって、昭和20年9月法恩寺橋際の児童遊園内に建てたが、同34年9月現在地に移設し
た。

   戰災殉難者供養之碑

   昭和20年9月
   大平町一丁目町会建立

 花塚
 花の供養塚。檀徒だった華道の古流静昇会宗家中村理運の発願で建立された。

   花塚の記
   花を愛する心は 人生をいつくしむ心と同じである
   四季おりおりの花は 社会や時代を選ばず自然を美しくいろどっているが けがれたとこ
   ろに其の花は咲かない 日本人は花にさまざまな思いを託してきた 神を祭り仏に供える
   ことから装飾にいたるまで清らかな花はうるわしい豊かな心を象徴するものである 
   古人も花塚を築き 花供養を営んだが昭和37年9月中村理運氏の発願により花の道につ
   ながる人々百名の志を集めてここに花塚を築かれた そして安芸の彼岸には花供養が営ま
   れている 敬虔な人々の心は また美しい日本の花である
   昭和46年9月                              銭■書


 はさみ塚
 花はさみの供養塚。

 永代供養墓妙元廟
 近年の墓事情を踏まえ、妙元廟(永代供養墓)では遺骨を永代供養してくれる。入廟者には寺から
の戒名が授与され、遺骨は骨壷で20年間安置し、以降合祀するが、以後も永代に亘り法恩寺で供養
される(一般壇、特別壇)。また墓が地方にあり、なかなか墓参できない人には、先祖の遺骨を妙元
廟に分骨し参拝する事もできる。 詳細は寺に問合わせられたい。

 日蓮上人銅像
 納骨堂「妙元廟」の上に建ててある大きな銅像。平成19年10月14日に開眼法要が行われた。
法恩寺の祖師はいつも合掌の姿で私たちを見守っている。

 水間沾徳の墓
 江戸初期の俳人。はじめ門田のち水間氏。名は友兼。別号に沾葉、合歓堂がある。江戸の人。はじ
め岸本調和門の福田調也(のちの露言)に師事し、随伴して内藤風虎の江戸藩邸に出入りしたらしく
延宝期には風虎の長男の露沾から1字を貰い沾葉と号した。以後露言と共に調和系の俳書に入集して
いく。その頃、同藩邸の常連だった山口素堂の手引きで林家に入門、かつ山本春正、清水宗川に歌学
を学び、原安適とも親交を結んだ。やがて内藤家の内紛を経て、貞享二年(1685)風虎他界に及
び、退いて法体になる。貞享四年(1687)頃、沾徳と改めて立机。以後調和から離れて、素堂を
介して蕉門に親しみ、榎本其角と末長く提携する。元禄五年(1692)には露沾の委嘱により、処
女選集『俳林一字幽蘭集』を刊行した。
 やがて宗匠として内藤家の禄を食み、諏訪闡幽、大村蘭台らの大名を顧客とした。芭蕉他界後、其
角・沾徳両門の交流繁く、江戸俳壇の主流を成した。
 両点者の俳風は洒落風と称されて時流をリードしたが、前句にはほとんど関与していない。ここが
他点者と一線を画した点だ。其角没後は、江戸俳壇の諸派を糾合して、大宗匠と仰がれるに至る。
 参考文献 潁原退蔵「享保の三中心」(『潁原退蔵著作』4巻)、白石悌三「水間沾徳問題」(『連
歌俳諧研究』19号)


■本明寺
 太平2丁目7番1号にある浄土真宗大谷派の寺。明治時代後期に説教所として開設、戦災で本堂、
庫裡を全焼したが、昭和28年に本明寺を設立。同36年には本堂再建落慶法要を行った。建物は和
風の拵えのビルディング。
 


学校法人立志舎(りっししゃ)

 太平2丁目9番6号にある私立校。高等学校と、IT、会計、法律、公務員を目指す専門学校の総
称だ。昭和54年設立。〝どこま~でも〟のフレーズでお馴染みのCМソングが有名。本部は墨田区
錦糸。全国に専門学校を23校、東京に高等学校を1校を運営する。専門学校には、日本スクール・
オブ・ビジネス、東京法律専門学校、日本動物専門学校、東京IT会計専門学校などがある。専門学校
の愛称は「ベストカレッジーズ」。専門学校は民間企業就職率や公務員試験合格率、各種資格の取得
率が高いことで有名。
 平成6年に最難関の国家試験である司法試験に、専門学校として初の現役合格者を輩出、同15年
には、過去最低合格率2.58%でありながら2人目の合格者を出した。
 高等学校は平成10年に創立した。
 尚名称は、土佐の板垣退助をはじめとする人たちが志を達することを期して設立した立志社に肖っ
て名づけられた。関連はない。学校であれば学びやの「舎」とした。
 関東本部は1丁目2番にある。

 立志社
 明治6年板垣退助、後藤象二郎、副島種臣、江藤新平らの参議は、国の力を高めるためには公議世
論制度の確立が急務であるとして、同志8名の名の下に翌7年1月17日政府に対し「民選議員設立
建白書」を提出し、これが「自由民権運動」の始まりとなった。建言を行った板垣らは、それぞれの地
方において政治結社を作り運動を進めるため帰郷。3月高知に帰った板垣は、片岡健吉、林有造らの
協力を得て、4月に「立志社」を創立し運動に乗り出した。立志社の「創立趣意書」では、「人民は
すべて平等」であり「天から与えられた誰にも奪うことができない権利」を持っていること、そして
この権利を伸ばし確かなものとしていくためには「民会が必要である」こと、更にこの民会が十分な
効果を発揮するためには「人民の自修、自治の努力」が必要であることなどが述べられている。
 

 
立志舎高等学校

 平成10年11月20日、東京マリオットホテルにおいて創立記念式典が開催された。都内の私立
高校としては11年振りの開校とあって官公庁、中・高校教師、報道関係者など、520名の来賓が
出席し盛大に催された。式典は、理事長による創立の挨拶に始まり、来賓のご祝辞、鏡開きと続き、
乾杯により祝宴に入った。
 


■すみだ江戸切子館

 太平2丁目10番9号にある株式会社。江戸切子の販売のほかに、切子の歴史紹介や職人の作品展
示も行っている。簡単な体験もできるよ。伝統の技と技術を堪能してみてはどうだい?
 
 

■TOKYOリ・デザインプロジェクト

 太平4丁目1番1~5号、精工舎跡地の再開発。45階建て超高層のレジデンシャルタワーと31
階建てのオフィスタワー、ショッピングモール(仮称:錦糸町エンターテイメントモール)、コアか
らなる。コアには屋上に森ができるかも。

 
オリナス
 都市再生の動きが活発化する中、東京の東の副都心錦糸町に、新しいスタイルを持つ複合都市が誕
生した。これは錦糸町駅の北口、日本の高度経済成長を支えた旧精工舎厚情土地を再生する敷地面積
27300㎡、延べ床面積265000㎡の大規模都市開発によるもので、オリナスタワー・オリナ
スモール・ブリリアタワー・オリナスコアの4つの建物群をいう。

 
「Stream String」
 伊藤隆道のオブジェ。赤いポールに細いバイプの流れる作品。平成18年制作。

 
子供の作ったオブジェ群
 空の町(佐藤遥香)・みらいの町1(中野裕華)・何でもできる未来1(隠岐安利沙)・みんなが
くらし緑の町(斉藤紗季)・みらいの町2(中野裕華)・浮く町(田口大貴)・空飛ぶワンワンのい
え(森岡夏央)・うみの町(吉野夏帆)・何でもできる未来2(隠岐安利沙)・広い空をとびたいな
(田中里樺)。
 とは別だがマンガチックな河童像が2体ある。


■本所郵便局

 太平4丁目21番2号にある普通局。 


■あかしや児童遊園

 太平4丁目23番3号にある区立公園。 
 



【立花】(たちばな)1~6丁目                   昭和41年5月1日
 葛西川村+亀戸村。明治22年「市制町村制」により南葛飾郡請地村・小村井村・葛西川村・寺
島村・大畑村・亀戸村・須崎村が統合して吾嬬村成立。村名についてどの村の名を採る訳にも行か
ず、悩みに悩んだ末「東村」で申し出たところ、時の東京府知事高崎五六男爵から「折角吾嬬神社
があるんだから〝吾嬬〟を頂戴してはどうだ」と勧告されそうすることにした。吾嬬神社は北条泰
時が正治元年(1199)この地方の領主遠山丹波守(遠山の金さんの先祖)に命じて造営させた
とか。祭神は弟橘媛(おとたちばなひめと呼んで日本武尊の妻)。浮洲の森と呼ばれて繁盛した神
社で、隅田川の大川橋はその参詣の便のために架けられたといわれ「吾妻橋」に改められた。大正
元年町制移行。昭和7年向島区が成立して吾嬬町東1~8丁目・吾嬬町西1~9丁目。同22年墨
田区所属。同41年新住居表示により吾嬬町東1~6丁目の全部または一部をあわせた町域を現行
の「立花」とした。

 立花の由来
 吾嬬の「嬬」の字が当用漢字にないので「吾嬬」とすることができなかった。そこで町名の起こ
りとなった吾嬬神社の祭神弟橘媛から「橘」を頂戴しようと思ったが、これまた当用漢字にないの
で「たちばな」の韻だけを借り「立花」の字を当ててこじつけた。だから立花は吾嬬神社だ! 何
といっても昔ながらの中川がいい。
 


■吾嬬の森・浮洲の森 吾嬬神社 
 立花1丁目1番15号にある。創建は古く景行天皇のころと伝え、弟橘媛命を主神とし、正治二年
(1200)に日本武尊大神を合祀した「吾嬬権現社(あづまごんげんのやしろ)」。伝説では『日
本書紀』に見える日本武尊の東征において、武尊が下総に渡ろうとしたとき海が荒れ、妻の弟橘媛が
投身入水したところ海は静まり忽ち浮洲が現われて無事渡ることができた。そこに媛の遺品が流れ着
いたので、武尊は「吾嬬者耶(あづまはや=My wife love)」といって、遺品を集めて埋め
塚(築山)を築いて祀り、樟の箸を2本立てた。「連理の樟」といい、アメリカ軍の無差別空爆で焼
けたが、今は2代目が対をなしている。塚は社殿の真後ろに今もある。
 下って正治元年北条泰時が葛西領主らに社領300貫を寄進させて社殿を造営した。嘉元元年(1
303)別当寺として鎌倉から真言宗宝蓮寺を亀戸に移している。安永三年(1774)隅田川に架
けられた大川橋は、吾嬬神社参道に当るところから「吾妻橋」となったという。入口に社号塔があり
その裏に「産業報告塔」とある。左手に有栖川宮幟仁殿下歌碑、埋もれた神橋を渡ると、社前に一戸
兵衛大将揮毫の「吾嬬神社」の石塔。その隣「縁起」の石碑。社横に山県大弐の「吾嬬森碑」、境内
西隅に「山県大弐先生遺徳顕彰碑」がある。右脇は福神稲荷社で、境内は南北の通り抜けになってい
る。向背の吾嬬の森は既になく、境内は住宅に侵食され続けて僅かの面積だ。昔が嘘のような寂れぶ
りだ。また、大正時代によると、全く違う趣だ、「新編武蔵風土記稿」に、

   吾妻権現社
   吾妻森と号す。村内寶蓮寺の持。社傳に云、当社は人皇十三代景行天皇の皇子日本武尊の
   妾橘姫命の旧蹟なり。此姫は物部連等祖大水口宿禰の孫、東夷謀叛しければ日本武尊を大
   将軍とし、吉備の武彦大伴武日連等を追て是を討しむ。同八月尊相模国より上総国へ行ま
   さんとするに、海中暴風起りて御船を漂蕩して渡すべからず。因て姫尊に啓て云、是必海
   神の祟りならん。我身を捨て御身にかはり奉らんとて浪間に飛入り逆まく水の泡と消たま
   ひぬ。既にして風浪静まりかれば御船恙なく着岸あり。故に其所の海上を走水と云。それ
   より尊夷を平げ武蔵上野を巡り、西の方碓日の坂を上り東南を望み、姫をしたひて嗚呼吾
   妻こひしと宣ひしより、東国の惣名とは成ぬ。姫入水の砌御身に添給ひしゆつり葉の鏡海
   中に沈み入しを、尊白狐神に命じて取得て、後穂積家に傳ふ。人皇八十三代後土御門院御
   宇穂積臣の末葉、鈴木・遠山・井出の三家、姫の御跡をしたひ奉り、正治二年庚申八月十
   五日彼ゆつり葉の鏡を以て神体とし、行基菩薩の十一面観音を本地とし、此吾妻森に旧蹟
   を写し、則吾妻権現と崇め祭れり。此森昔は浮洲森といへり。其後承久の頃北条泰時関東
   管領の時、鈴木隼人・遠山采女・井出大学など領主太田某へ請て社頭を造営云々と載たり。
   按に当所旧蹟のこと他の所見なき処なれば、もとより造ならされと、海植え守護の為とし
   て勧請せしは宣なり。又承久の頃鈴木遠山井出等が太田へ請て再造すと云も、未だ他に傳
   へざる説なり。殊に太田某に請しなと云は持実入道道灌などに混したる傳にや、又江戸砂
   子には、天文の頃遠山鈴木井出三氏社を造営すと見えたり。
   神体唐ノ頭一。北条泰時寄附せし獅子の頭骨なりと云。
   驛路ノ鈴一。古色の物なり図上に載す、長九寸。
   古書一幅。日本武尊東征の日船中にて薙風に逢たまひし時の図なり。頼朝筆といひ傳ふ。
   末社稲荷。真羅稲荷と号す。則本社縁起にのせる白狐神なり。金比羅を合祀す。
   神木楠。傍に藤原傳古か撰へる碑あり。


 とある。入口に縁起板がある。

   吾嬬神社
   御祭神 弟橘媛ノ命
       日本武尊ノ尊
   縁起
   往時は吾嬬の森八丁四方といわれ亦は浮洲の森とも呼ばれこんもりと茂った森林の神域に
   あった名社である草創は遠く景行天皇(十二代)の頃にさかのぼり祭神は弟橘媛命を主神
   として日本武尊ノ命を御合祀奉斎してあります正治元年(1199)北條泰時が幕下の葛
   西領主遠山丹波守らに命じて神領(三百貫)を寄進し社殿を造営した嘉元元年(1303)
   開創の眞言宗宝連寺現亀戸4丁目を別当寺とし吾嬬大権現と稱した以後武家の尊崇があっ
   て篤く安永3年(1774)大川橋の新設にあたり江戸から当社えの参道にあたる所から
   橋名を吾嬬橋と稱したとも云う明治21年数村を合せて吾嬬村と稱したのは時の府知事高
   崎五大の発案で社名をとったのである明治21年数村を合せて吾嬬村と稱したのは時の府
   知事高崎五大の発案で社名をとったのである
   抑当社御神木楠は昔時日本武ノ尊東夷征伐の御時相模の国に御進向上総の國に到り給わん
   と御船に召されたるに海中にて暴風しきりに起り来て御船すでに危ふかりし時御后橘媛ノ
   命海神の心を知りて御身を海底に沈め給ひしかば海上忽おだやかに鎮りたり時一つの島忽
   然と現れ到る心を知りて御船をば浮洲に着けさせ嶋にあがらせ給ひてあゝ吾妻恋しと宜び
   しに俄かに東風吹き来りて橘媛ノ命の御召物海上に浮び磯部にたじ寄らせ給ひしかば尊大
   いに喜ばせ給ひ橘媛の御召物を則此浮洲に納め築山をきづき御廟となしたりこれ現在の御
   本殿の位置なり此時尊は食し給ひし楠の御箸を以て末代天下平安ならんには此箸忽ち根枝
   を生じし処葉茂り連理の男木女木なれり香美より二千有余年の星霜おし移ると云へ共梢え
   の色変らず栄えし処名樹を第二次大戦の災禍を被り焼け落ちて化石の如き姿で残った其一
   部を以て賽銭箱を造り御神前に保在される事となった以後御神徳による数々の奇瑞を現し
   諸人の助けとなりたる神樹を惜しみて明治維新百年祭を記念して元樹に優る名樹に成長を
   祈念しつつ二本の若木が植えられた爾来十年余念願成就の兆し現れ日毎に葉茂り枝栄えた
   りこれこそ御神木の再生ならんと此由来を御世に伝えんと略してしるす也
   平成24年10月           江都西葛飾 亀戸郡 七十八歳老書 樰澤信博

   
当社主な御祭事
   元旦祭  1月1日
   末社   福神稲荷祭  2月
        吾嬬神社例祭 8月
   有栖川宮親王御歌
   橘のむかしのゆかり志のばるる
    あずまの社の神さびにけり

   拝殿正面ノ角石吾嬬森碑は
   国学者山県大弐先生の作詞あり
   境内西隅社務所前の巨大な石碑は
   山県大弐先生遺徳顕彰碑である。
   平成24年10月  78歳老書
              樰澤信博


 
社号碑
 社殿前にある、一戸兵衛大将(弘前藩士一戸範貞の長男)揮毫の石碑。

   
吾嬬神社

 
狛犬
 社殿(拝殿)の裏の築山(古墳?)上にある本殿(石祠)の前にある。

   墨田区登録文化財
   
狛犬 安永二年五月銘
                         所在 墨田区立花1丁目1番 吾嬬神社
   狛犬は比較的小型の一対ですが、世話人10名と奉納者22名もの名前が刻まれています

   そのほとんどが築地小田原町(中央区築地6・7丁目)や本船町地引河岸(中央区日本橋
   本町)など日本橋の商人であることから、海運・漁業関係者とのつながりをよく表してい
   るといってよいでしょう。このことは吾嬬神社の由来に起因しています。
   日本の神話に、日本武尊命が現在の東京湾を舟で渡っている時に、海神の怒りに触れ、往
   生していた時に、妻の弟橘媛が海に身を投げて海神の怒りを鎮めたという話があります。
   この媛の品が流れ着いたところがこの地だということです。以来、海や川で働く人々の守
   護神として信仰されてきた訳です。
   また、昔は地盤沈下してなかったため、この社の裏の「吾嬬の森」と呼ばれた森が小山の
   ように広がり、海上からの好目標だったことも崇敬を集めた理由の1つでしょう。現在鉄
   柵の奥にあるため近づくことはできませんが、かえって台座に刻まれた人名など、よい状
   態で保存されています。
   平成9年3月                          墨田区教育委員会

 
本殿
 社殿(拝殿)の後ろにある日本武尊が築いたとされる塚の上にある石祠。


 鹿都部真顔歌碑(再建)
 しかつべまがお  鹿津部とも書く。入口の石柱の左にある。

         俳諧歌場、紀真顔
   
高麗剣わざ古曽歌の一風流を
   我たましひと人強く磨けり
       文政十二年六月六日

 とし、裏に、

   
昭和40年9月破損に付き再建之

 としている。真顔は、江戸数寄屋橋外の大家(差配人)の子。江戸後期の狂歌師・黄表紙作者。本
名北川嘉兵衛。鹿杖山人・狂歌堂など号し、狂歌を蜀山人に学んで鹿津部真顔と称えて宗匠となった
人だが、俳諧歌とも称え一派を作ったりした。また戯文を恋川春町に師事して恋川好町と名乗った。
作品に『元利安売鋸商内(がんりやすりのこぎりあきない)』などがある。

 連理の樟
 
社殿東側にある神木。1つの根から2つの幹が出たもので、明治時代末期までその威容を誇ったが
大正年間には枯れてしまった。現在2代目が植えられている。
 吾嬬神社は、『葛西志』の中で吾嬬の森の神社としてすでに旧跡として認知されていました。『江
戸名所図絵』や歌川広重の『江戸名所百景』には、連理の楠が描かれており、人々によく知られてい
たことがうかがえる。また『本所雨やどり』には、この木の枝葉を煎じて飲むと諸病が癒えると信じ
られていたことが記されている。
 枯れた根と一部の幹が垣根の中にあり、直径は2mを超える。昭和38年に建てられた神樟の碑と
共に保存されている。

   
神樟

 吾嬬神社縁起碑 
 社前下にある。天明三年(1783)のもので神木「連理の樟」ついて記してる。合わせて吾嬬神
社の縁起、日本武尊の東征の事跡などを述べている。樟は現在は枯れて、その幹根だけが境内に保存
されてい。裏面には、「天下泰平国家安全」と大書きし、天明三年の年紀を掲げて、田所町(日本橋
堀留町)の住吉屋庄兵衛の母そゑの発願で建立されたとある。

   吾嬬神社
   御祭神 弟橘媛命合殿日本武命
   縁起
   抑当社御神木楠は昔時日本武命尊東夷征伐の御時、相模の國に御進向上の國に到り給はん
   と御船に召されたる海中にて暴風しきりに起り来て、御船危ふかしりて、御后橘媛命、海
   神の心を知りて、御身を海底に沈め給ひしかば忽海上おだやかに成りぬれ共御船を着くべ
   き方も見えざれば尊甚だ愁わせ給ひしに不思儀にも西の方に一つの嶋忽然と現到る御船を
   ば浮洲に着けさせ嶋にあがらせ給ひて、あー吾妻戀しと宣ひしに俄かに東風吹来りて橘媛
   命の御召物海上に浮び、磯辺にただ寄らせ給ひしかば尊大きに喜ばせ給ひ、橘媛命の御召
   物を則此浮洲に納め、築山をきづき瑞離を結び御廟となし、此時浮洲吾嬬大権現と崇め給
   ふ。海上船中の守護神たり尊神ここに食し給ひし楠の御箸を以て末代天下平安ならんには
   此箸二本ともに栄ふべしと宣ひて御手自ら御廟の東の方にささせ給ひしに、此御箸忽ち根
   枝を生じし処葉茂り相生の男木女木となれり神代より今に至りて梢えの色変らぬ萬代をこ
   めし事宛然神業なり。其後民家の人々疫にあたり死する者多かりしに時の宮僧此御神木の
   葉を与えしに病苦を払ひ平癒せしより、諸人挙って貴び敬ひぬ。今こそ此御神木楠の葉を
   以って護符となして裁服するに如何なる難病にても奇瑞現れぬと云ふ事なし。凡二千有余
   年の星霜おし移ると云へ共神徳の変らざる事を伝ふべし共猶諸人の助けとならんと略して
   しるす也

 吾嬬森碑
 
社殿左側にある。明和三年(1766)夏の建碑。神話時代からの吾嬬の森の由来を記している。
藤原博古(山県大弐)の撰文になるもので、柱状の三面に「下総国葛飾郡吾嬬森碑」として日本武尊
の東征と弟橘媛命の入水のこと、碓日嶺(碓氷峠)に登って「吾嬬はや」と歎かれたこと、吾嬬の森
が命の墓であることなどを述べて、命の貞烈を顕彰している。なお、碑文中には敬意を示した五字分
もの闕字の手法が見られる。
 山県大弐で知られる藤原博古は、江戸中期の兵学者・勤皇家で柳荘と号し、『柳子新論』を著すな
どして、幕政を批判して忌諱に触れ、明和事件で捕らわれて処刑された。

   吾嬬森碑            所在地 墨田区立花1丁目1番15号 吾嬬神社内
   この碑は、明和三年(1766)に山県大貮が建てました。
   碑文に日本武尊の東征と、尊の妃・弟橘姫が入水して海神を鎮めたことなどを記して、姫
   の事蹟を顕彰しています。
   このあたりは江戸時代から吾嬬の森とか、浮洲の森とも呼ばれて有名でした。ここには、
   連理の樟と呼ばれた樟の巨木が茂っていて、広重の江戸名所百景にも描かれたほどです。
   今は枯れた樹幹だけが残っています。
   また、この地から加曽利BⅡ式と称する縄文式土器が発掘され、この地の発展の古さを示
   しています。
   なお、この碑を建てた山県大貮は、医を業とし、地理・数学・兵法にも通じていました。
   尊皇の志篤く、幕政を批判するなどのことがあり、ついに捕らえられて、明和四年死罪に
   処せられました。
   昭和55年3月                              墨田区


 現在のものは。

   墨田区登録文化財
   
吾嬬森碑            所在地 墨田区立花1丁目1番15号 吾嬬神社内
   この碑は、明和三年(1766)に儒学者山県大弐により建立されたと伝わります。「吾
   嬬の森」とは、吾嬬神社の代表的な呼び名で、江戸を代表する神社の森の一つとして「葛
   西志」や「江戸名所図会」にも紹介されています。碑の内容は、地元に伝わる神社の来歴
   となっており、日本武尊の東征、尊の妃・弟橘媛の入水により海神の怒りを鎮めたこと、
   人々がこの神社の地を媛の墓所として伝承し、大切に残してきたことなどが刻まれていま
   す。「新編武蔵風土記稿」には、碑は神木の傍らに建てられていたと記されています。
   神木とは、墨田区登録文化財である「連理の樟」のことです。一つの根から二つの幹を見
   せる姿は、歌川広重の「江戸名所百景」にも描かれています。左の絵は広重の作品「江戸
   名所道化盡 吾嬬の森梅見」で、中央にひときわ高くそびえるのが「連理の樟」です。
   明治43年の大水や関東大震災、東京大空襲などにより森は失われましたが、長く地域に
   根ざした伝承は、この碑を通じても垣間見ることができます。
   平成21年3月                         墨田区教育委員会


 櫪而不隣の碑
 社務所の前にある巨碑。「ますれどもうすろがず」と読む。
 昭和9年の建碑。「吾嬬森碑」の撰
文者藤原博古乃ち山県大弐遺徳顕彰碑ともいえるもので、高さ4m50cmの大碑で、一部に欠ける
ところがあるものの、読み下すのに不便はない。昭和7年徳富猪一郎(蘇峰)の撰文になる。吾嬬森
碑と共に、国粋・国家主義の高揚期を背景にした建碑であることが判る。なお篆額の「櫪而不隣」は
『論語』からの出典で、「本当に硬いものは削っても薄くならない」という意味で、「他の悪い感化
を受けない」喩えにしている。大弐の忠節を形容したものだろう。

 大弐は、幕末の尊皇攘夷の口火を切った人。家柄は武田信玄24将の一人山縣三郎兵衛尉昌景(や
まがたさぶろうひょうえのじょうまさかげ)の裔だという。八丁堀は与力・同心の屋敷拝領地で、敷
地内家屋を儒者や医者に貸していた。山県も長沢町(現八丁堀3丁目東)の外科医栗崎道有の家を借
りた。和漢洋学や兵学を教え、門人は2000人ともいわれる。兵法は各地の城の特徴を調べて論評
した。そうしたことからか、明和4年倒幕の疑いで捕まり、のんびりしていた幕府に刺激を与えた。
維新後の明治24年に正四位が贈られ、大正10年に山県神社(山梨県中巨摩郡竜王町)に祀られた。
墓は四谷全勝寺、故郷の篠原金剛寺にある。青木昆陽や加藤千蔭などとともに八丁堀では忘れられな
い人物だ。
 なお彦根24万石井伊家が「赤備え」といって軍装を赤色で統一したのは、武田軍団の山縣昌景の
赤備えを引き継いだことによる。

 ●文化十四年銘水鉢

   奉納  文化十四年(1817)丑十月吉日  白木屋清兵衛


 大柄に属するものであり、正福寺・天祥寺、とくに香取神社のものと共通している。脚部の造り出
しと、その曲線は萎縮することなく、刻字も太く伸びやか。また現に使用されている点でも極めて数
少ない例といえる。

 源延平歌碑
 社前下左にある。自然石に円を隈どりして、

   
皇国はかみ代のままの道しあれことなる文のをしへ何せむ 源延平

 と刻むが、年紀は特に見当たらない。

 天保九年銘鳥居
 社殿右、福神稲荷社前に建つ鳥居で、銘を

  
 天保九戌戌歳(1838)2月初午  願主 信濃屋筆女

 と刻んでいる。女性によって奉納された点、区内でもこの一点かと思われ大変貴重。「初午」は2
月の初の午の日で、京都の伏見稲荷神社の神が降りた日とされ、全国的にはこの日蚕や牛馬の祭日と
する風習の中で、この信濃屋のお筆さんは何を願かけたものかねぇ。

 
力石
 境内に幾つかある。「元木場材木町金七擔之 正目四拾六貫四百目 深川親和書」(約174kg)
「元木場材木町金七擔之 正目五拾貫貮百目 深川親和書」(188kg)と刻まれる。江戸の有名書
家である三井親和の書であり、力石としては大変珍しく貴重なものだ。
 その他は、阿波国の75歳の美辰が詠んだ歌石「もののふの鏡なりけり世々までもなを照らします
大和ことの葉」、「さし石 下平井村西 亀吉」を刻むもの、無銘1基がある。

 福神稲荷社
 社殿右にある。祭神は、宇賀之魂之命、大国主之命、金山彦之命。以前は亀戸4丁目の地蔵川岸の
畔に鎮座していたが、大正11年吾嬬神社旧社務所の位置に有縁の地とし遷座した。その後第二次世
界大戦の災禍を受け、周囲家屋他草木に到る迄焼け尽きた中この社殿全く無被害の不思議な現象に奇
跡なりと御神徳に人々は驚異の目を見張った。昭和21年吾嬬神社復興事業執行の時、社殿を現在の
場所へ再遷し、ここに吾嬬神社と共に庶民の守護神とて奉祭している。

   福神稲荷神社
   御祭神  宇賀之魂之命
        大国主神
        金山彦之命
   当社は元亀戸4丁目地蔵川岸のほとりに鎮座ましましたが(1922)吾嬬神社旧社務所
   の位置に有縁の地とし御遷座もうしあげました。その後第二次世界大戦の災禍をうけ周囲
   家屋他草木に到る迄焼け尽きた中この社殿全く無被害の不思議な現象に奇跡なりと御神徳
   に人々は驚異の目を見張りました。吾嬬神社復興事業(1946)執行の折社殿を現在の
   場所へ再び御遷座申し上げ此処に吾嬬神社と共に庶民の守護神とて奉祭申し上げて居りま
   す。尚この奇跡の社殿を出来る限り永く保存して次世代に伝え様と略して印す次第であり
   ます。
   平成9年6月                                以上


■あづま児童遊園

 立花1丁目2番3号にある区立公園。


■立花一丁目こども広場

 立花1丁目10番2号にある区立公園。


万年山明源寺
 立花1丁目13番3号にある曹洞宗の寺。創建は天文九年(1540)。開山は文京区本駒込吉祥
寺の第二世大州安元和尚で、開基は梅厳桂林だ。なお大州安元については大州安充と書いたものあり
どちらかが間違っている。
吉祥寺の末。本山は永平寺。本尊は延命地蔵菩薩。本堂は鉄筋コンクリー
ト造りのなかなか立派な純和風のお堂だ。左が墓地。右は駐車場と庫裏になっている。南葛八十八ヶ
所霊場71番札所。「新編武蔵風土記稿」に、

   明源寺
   禅宗曹洞派、江戸駒込吉祥寺末、萬年山と号す。本尊地蔵。天文9年の起立にて、開山大州
   安充は永禄十二年五月七日寂し、開基梅巌桂林、弘治三年八月十一日死す。
   白山社。


 とある。


 
小山孫左衛門の墓
 小村井村名主。文化十四年(1817)に没した。晩年の文化九年に貯金の30両を代官大貫次右
衛門に預け、凶作の時に備えてもらったという義挙が墓碑に刻まれている。
なお小山家の住宅は大正
民家園として公開されている。

 
戦災殉難者慰霊之塔
 4つ並んで建っている


   
戦災殉難者慰霊之塔

   時に昭和20年3月10日未明の空襲
   における戦災殉難者及び地区内百二十
   余命の霊を慰めるものなり
           昭和四十年三月建立


 とあり、地元の有志が昭和40年3月に建立した。

 
戦災精霊五十回忌供養塔
 その右ににある。平成6年3月10日50回忌法要と共に戦災供養会一同によって建てられた。そ
の側面には漢詩が刻まれている。

   
戦災精霊五十回忌供養塔


   爆音鳴響米機来 一意護都偶戦災
   君死我存今日到 叩頭僅獻慰霊杯
   追憶献杯  二十五世 巨宗萬年

   爆音鳴り響かせて米機来る 一意町を守って戦災に遭う
   君は死し我は在りて今日に至る。叩頭
(こうとう)僅かに献ず慰霊の杯

 戦災懐古の碑
 右端にある。昭和42年の建立で、当時の凄惨な状況を詠んだ漢詩が刻まれてる。

   
暗雲低覆我家偕 満目荒涼累積骸
   来襲米機焚萬物 敗兵涙見墨東街
    戦災懐古 
昭和四十二年三月
           まん つくり
                かく

   暗雲低く覆う我が家の階(きざはし) 満目荒涼として累積の骸(かばね)
   来襲米機万物を焚く 敗兵涙して見る墨東の街
 

 
栄魂塔
 左端にある九重石塔。日本陸軍の鉄兜を模った香炉と、砲弾を模った花立が目をひく。日中戦争に
関係する供養塔と思われるが、特に説明はない。語ることの出来ない国粋主義礼賛のものなのだろう
か。立派なものだし珍しいので説明が欲しいところ。

 
六面地蔵塔
 栄魂塔の左にある。

 
大師堂
 本堂と明源会館の間にある小堂。弘法大師石像が祀ってあり南葛八十八ヶ所霊場。

 
六地蔵
 大師堂前脇にある銅像。

 
石像地蔵菩薩坐像
 境内にある大きな露仏。
 


■橘国民学校 廃校 → 第一吾嬬小学校 → 立花吾嬬の森小学校
 立花1丁目18番6号にあった区立校。
 


■第一吾嬬小学校 統合閉校
 立花1丁目18番6号にある区立校。明治20年城所景定が吾妻村大字小村井に「吾嬬学館」とい
う塾を開いたのが本校の始まり。同24年4月8日「吾嬬学館」を「東京府南葛飾郡吾嬬村立尋常小
学校」として開設。4年生までの尋常科として発足。同26年「第二吾嬬尋常小学校」ができたため
「東京府南葛飾郡吾嬬村立第一吾嬬尋常小学校」と改称。同35年香取神社に校舎を増築。二年制の
高等科が併設され、尋常科2学級、高等科1学級となり「東京府南葛飾郡吾嬬村立第一吾嬬尋常高等
小学校」と改称。同36年尋常科は6年制となり、2学級となる。同37年亀戸線開通。高等科が修
業年4ヶ年程度に改められ、尋常科2学級、高等科2学級となる。同41年校舎745坪が建て増し
され、教室数は5となる。同42年尋常科の修業年限を6か年、高等科を2か年と改め、尋常科4学
級、高等科1学級とする。同45年第一吾嬬実業補習学校を付設。
 大正2年大字葛西川(現在の東吾嬬小学校の場所)に、3年計画で移転開始。教室数7となる。同
4年移転完了。同6年風雨により、西側平屋建て校舎が倒壊、2階建て校舎も傾く。同7年第一吾嬬
尋常夜学級を付設。校舎の復旧および増築工事落成、移転。同12年関東大地震のため、校舎東西の
棟が傾斜。3本の支柱で起こし修復。同14年児童数急増3倍に。19教室、体操場を増築。
 昭和2年吾嬬第四尋常小学校を分校。同5年高等科を第一吾嬬高等小学校として分離「東京府南葛
飾郡吾嬬町第一吾嬬尋常小学校」と改称。荒川放水路完成。同7年南葛飾郡が東京市に併呑され向島
区となり「東京市第一吾嬬尋常小学校」に改称。同8年在籍児童数が本校史上最大の2904名とな
る。同9年中川尋常小学校を分校。同10年1クラス66人体制。同11年北側校舎を改築、普通教
室5、理科室、裁縫室、教員室、応接室、使丁室各1、以後、本校舎を本館と呼ぶ。同14年橘尋常
小学校を分校。同15年開校50周年記念式典。同16年勅令148号国民学校令により「東京府東
京市第一吾嬬国民学校」に改称。校旗ならびに校歌(作詞・薄井晴雄 作曲・保田正)を制定。
 校歌、歌詞調査中。墨田区に資料が見つからないんで教えてくらはれ。
 同18年都制施行により「東京都第一吾嬬国民学校」に改称。同19年児童500名、派遣教員1
5名が、茨城県久慈郡大子町及び宮川村に集団疎開。大子町は7学寮、児童357名、宮川町は3学
寮、児童52名。同20年愚かなアメリカ軍の無差別空爆(大空襲)により、校舎全焼。残留児童2
12名は、第四吾嬬国民学校で授業を受ける。秋田県秋田郡五城目町に再疎開。3学寮に児童136
名、教職員10名。立花国民学校・請地国民学校・中川国民学校が廃校となったため学区が拡大。
 同22年現在地(橘小学校跡地)に平屋建て6教室ができ、第四吾嬬小学校より移転する。アメリ
カの強制による学校教育法施行により「東京都墨田区立第一吾嬬小学校」に改称。全学年に亘り二部
授業。同23年追って平屋建て2教室ができ、普通教室が8教室となる。5年生以下は二部授業。同
24年平屋建て3教室ができ、普通教室が10教室となる。学級数19。同25年平屋建て4教室が
できる。4年生以下二部授業。24学級。東京都が、アメリカの廃棄処分の粉ミルク(ララ物資)に
よるパン・ミルクなどの完全給食開始。同26年中川小学校が再設され、児童548名と職員6名が
移籍。1・2年生は二部授業。18学級。開校60周年記念式典。新しい校歌ができる。

 校歌「朝」 作詞・小川浩  作曲・細川一郎
  1.朝
(あした)真澄の 空遠く
    希望
(のぞみ)溢れて 佳き教え
    花咲く庭よ 吾嬬森
    伝えゆかしき森影に
    真
(まこと)の光 身に享けん
  2.
調査中(とにかく墨田区の図書館は資料がないのよ)

 と書いたら、卒業生の韮塚様からメールを頂戴、2、3番を教えて頂きました。

  2.夕
(ゆうべ)耀(かがよ)う雲の果て
    倶
に仰ぎて良き友と
    勤しむ窓よ 隅田川
    薫る豊けき一筋の
    文化の流れ とめゆかん
  3.日々を新たに生涯の
    汽笛親しき学び舎に
    挙
(こぞ)る翼よ 向島
    若き鷗と天翔ける
    平和の道に栄えあれ


 昭和27年2階建て4教室ができる。本校後援会は解散、新たに第一吾嬬小学校父母と先生の会が
発足。学級数18。同28年1~3年生は二部授業を行う。学級数20。同29年木造校舎4教室を
取り壊し2階建て8教室竣工。同30年木造平屋建て校舎2教室を取り壊し、2階建て4教室ができ
る。1・2年生は二部授業を行う。初めての夏季林間学校開設(山梨県昇仙峡)。学級数28。同3
1年東吾嬬小学校と西吾嬬小学校を分校。322名が東吾嬬小学校へ、73名が西吾嬬小学校へ転校
する。二部授業が戦後初めて解消される。21学級。開校65周年記念式典。 同32年鉄筋3階建
(1期分6教室)の工事が始まる。学級数20。同33年東側旧校舎を鉄筋3階建てに改築(第2期
工事)するため、2・3年は二部授業。1期・2期工事完成。12教室の落成式。同36年給食室改
築、屋内運動場(体育館)の建設開始。同37年体育館完成。体育施設(すべり台・低鉄棒・ジャン
グルジム・雲梯・肋木・砂場)設置。開校70周年記念式典。学級数22。昭和33年全教室にテレ
ビ設置。同33年プール完成。同42年鉄筋新校舎ができる。普通教室6、特別教室5。開校75周
年記念式典。同44年鉄筋校舎3階建て11教室の改築工事が始まる。このため教室としてプレハブ
校舎が作られる。同45年鉄筋3階建て新校舎落成。同46年創立80周年記念式典。同49年南隣
に立花団地ができ、それに伴い立花小学校を分校。同51年拡張校地に花壇新設。開校85周年記念
式典。丸八通り開通。学級数14。同52年昭和20年3月は戦災で卒業式ができなかったため、3
月27日32年ぶりに53期生の卒業式が行われる。校庭岩石園が作られる。同53年校庭舗装(ア
スコン舗装)完了。あわの移動教室実施。学級数14。同56年開校90周年記念式典・記念運動会
・記念学芸会が行われる。学級数16。同61年開校95周年記念式典を行う。池の補修・理科室の
改修が行われる。学級数12。同63年戦災のためできなかった橘国民学校の昭和19・20年の卒
業式が43年ぶりに行われる。学級数11。
 平成3年創立100周年。体育館・プール解体。同5年体育館・プール新築。3年遅れの創立10
0周年記念式典・体育館落成式。同11年コンピュータルーム解説。同14年墨田区出身、巨人の高
橋尚成投手と水野雄仁元コーチによる「夢の課外授業」が行われる。同18年立花小学校との合併策
定。創立115周年記念式典。同19年閉校式。同20年立花小学校と統合。新校名「立花吾嬬の森
小学校」。校地は立花小学校を仮校舎として使用し、第一吾嬬小学校の校舎を建替えた後、本校舎と
した。
 


■立花吾嬬の森小学校
 立花1丁目18番6号にある区立校。平成20年立花小学校と第一吾嬬小学校を統合して新設され
た。校舎建設中、立花小学校の校舎を使用していたが、同21年4月新校舎落成して移転。

 校歌「墨田の東」 作詞原案・校歌製作委員会  作詞補作・作曲・中郡利彦
  1.墨田の東 吾嬬の森に
    元気な声が木霊する
    学びの庭に吹く風は
    優しい心 運びくる
  2.広がる空と隅田川
    綺麗な花に包まれて
    感謝の心 この胸に
    故郷想い 育ち行く
  3.輝く未来 夢を持ち
    平和を願い進む道
    心と心 一筋に
    求めて励む 私たち
        *
    創ろう みんなの
    立花吾嬬の森小学校
  


■立花帝釈天・帝釈堂

 墨田区のHPによると1丁目22番にあるというが未確認。『墨田区の歴史』には「東あずま駅か
ら南へ北十間川沿いの高層住宅、公団立花1丁目団地へ曲がる園芸店の左に、小屋がけした帝釈堂(立
花1‐22)がある。帝釈天王と書いてある。中はすっかり風化した石塔が3基と地蔵がある。石塔
の台座には3つのコブがあり、三猿の跡だろう。これは庚申塔で、この形は板碑型といい、文字は全
く摩滅しているが、各地の庚申塔の形式から推定すると寛文年間(1661~73)前後の年代とみ
てよい。この形の下限でいえば、元禄以後に例は少ないのである。区内に残る庚申塔では、おそらく
最も古い年代と私は考えている」とあるのだが、?
 立花には19~22番は欠番で存在しないのだ。また文花の当番地は文化中学校でそれらしきは見
当たらない。ただ立花の23番に鳥居マークがあるので、今一度現地調査して報告する。

 とぐずぐずしてたら、以下のメールをいただきました。

    中に紹介されていた墨田区立花1-22にあるという帝釈堂のことです。そこは30年
   前に再開発されて、今は大きなサンタウン立花という公団分譲のマンションになっていま
   す。帝釈堂と思われるのは、今はマンションのちょうどまん中に移築されています。同マ
   ンションは建物の中央に通路が作ってあり、通路の両側が商店街になっています。その通
   路のまん中当たりの右側に小さな社があります。提灯に「帝釈天」と書かれています。番
   地は「立花1-23」です。
帝釈堂は再開発の工事中、線路脇に仮安置していたのですが、
   工事関係者に事故が続き、きちんと祀っていないからだとて、マンションの中央へ丁寧に、
   割合立派なお堂を作って安置したのだそうです。


 それで平成18年3月チェックに行ってきた。マンションの一階に大きい通路があって、その両側
に店が並んでいる西側の真ん中に鉄筋コンクリート造りの小社があって、本に書いてある通りの状態
だった。メールの案内の通り、丁寧にお祀りしてあった。2mばかりの、参道というか石畳に打ち水
してあったのには感動した。

   墨田区登録有形民俗文化財
   
旧小村井村の庚申塔群 附関連資料
                            所在地 墨田区立花1丁目23番
   このお堂は、帝釈堂と呼ばれています。中には古い石塔が3基あり、お堂の右側にも三猿
   を彫刻した石塔が置かれています。これらは全て公団住宅の建設を機に右手の通りに面し
   た場所から移設したものです。銘文はほぼ失われていますが、中にはかすかに「奉庚申」
   の三文字が読めるものもあり、これらが庚申供養塔として建立されたものであることを推
   察させます。
   それぞれ建立年・建立者とも不明ですが、享和元年(1801)の葛飾郡小村井村の絵図
   にはもとの所在地が「庚申塚」の名で載り、十八世紀以前の建立物を含む可能性がありま
   す。また、敷地の中に置かれた文化九年(1812)銘の石燈籠の台石には「庚申」の二
   文字とともに小村井村の住人の名前が刻まれ、管理者の家に伝わる庚申講の祭祀具(墨田
   区登録文化財)を収める箱にも同村住人の名前が墨書されています。これらのことから、
   ここに祀られた庚申塔群は、江戸時代の小村井村の人々が組織した庚申講によって建立さ
   れたものと推定されます。
   かつてこの付近に暮らした人々が何を祈念していたのかは分かりませんが、道教の三尸説
   に由来すると言われる庚申信仰がこの地に根をおろし、後に帝釈堂の名がついたように、
   次第に帝釈天信仰と結びついていったことがうかがわれます。
   これら庚申塔群をはじめとする石造物は、関東大震災の後、当地で植木屋を営んでいた野
   村徳次郎が管理を任され、その縁で今でもご子孫によって大切にかんりされています。
   平成26年10月                        墨田区教育委員会

 石燈籠
 左端にある。
竿石正面に「奉納」、竿石左面に「文化九申年十月吉日」、台石正面に「□・・□村
中」
、台石左面に「庚申講□」と刻む。


■香取児童遊園
・香取神社御旅所
 立花1丁目25番6号にある区立公園。


■立花小学校 統合のため閉校
 立花1丁目25番27号にある区立校。昭和49年立花団地の造成により、7月1日立花小学校を
設置。9月1日開校。同50年体育館完成。校歌制定。

 校歌「さわやかな」 作詞・松井由利夫  作曲・渡辺茂
  1.爽やか緑の若木
    梢は伸びるどこまでも
    この明るい学びの庭で
    橘の花のように
    優しく そして逞しい
    心と体を育てよう
    ルルルルルルルル 立花小学校
  2.ふりそそぐ豊かな光
    吾嬬の森にいつまでも
    この楽しい学びの庭で
    澄み通る空のように
    大きな そしてしい
    明日の望みを育てよう
    ルルルルルルルル 立花小学校


 同54年創立5周年記念式典。同57年校舎増築。同59年創立10周年記念式典。
 平成6年校庭改修。創立20周年記念式典。同7年創立20周年記念タイムカプセル埋設。同8年
ほのぼのルーム開設。同11年創立25周年記念式典。同16年創立30周年。同20年本校吾嬬第
一小学校と統合。新校名「立花吾嬬の森小学校」。立花小学校を仮校舎として使用し、同21年第一
吾嬬小学校の校舎を取り壊し新校舎を建設し移転。
 


■立花公園

 立花1丁目27番5号にある区立公園。


亀命寺慈光院

 立花1丁目29番3号にある曹洞宗の寺。板橋区に移った橋場総泉寺末寺。『江戸名所図会』に永
正十一年(1514)創建とあり、開基を葛西出雲守とする。これは葛西武胤と考える説もあり、そ
の妻慈光院孝顔知舜大姉と子の亀命丸との菩提のために建てられたと
伝え、山号は亀命山を用いてい
る。しかし武胤とすると年代的にあわないとされており、おそらくこの年代以降に葛西氏の末裔が建
てたのだろう。開山とされる嵐巌和尚も永正年代の人ではなく『新編武蔵風土記稿』では没年を万治
二年(1659)としているなど創建年に合わない点がある。
 弁天堂には「吾妻弁財天」があり、『江戸砂子』では智証大師作とし、貧しい人や家のない人のた
めに一刀ごとに三礼して彫刻したとしている。この弁財天も慈光院の守護神だったとされ、どっちに
しろ葛西氏との結びつきの深い史跡ではある。
 本堂は鉄筋コンクリート造りの現代風な堂宇だが、色が浅黄色というか薄い黄緑色で美しい。
 「新編武蔵風土記稿」亀戸村の項に、

   慈光院
   同宗同末(禅宗曹洞派豊島郡橋場村総泉寺末)、亀命山と号す。本尊観音を安す。当寺は
   葛西三郎清重四代之孫出雲守武常、其妻女及び一子亀命丸菩提のため、永正11年開基せり
   と云。されど諸家大系図等に拠れば、武常は秩父将常[一作常]の三男にして、清重より四
   代以前の祖なり。然れば其年代最古かるべきを、永正十一年の開基とするもの年暦符号せ
   ず。恐くは当寺後年葛西氏庶流の者の開基せるを、古寺なる事を證せんとて妄に付会し、
   年代をも失ひしにあらずや。位牌に慈光院考額知舜大姉永正十一年十月月五日、亀命院黄
   琳梅金童永正二乙丑二月十日とあり、是武常の妻及ひ一子亀命丸の法号とす。また当寺開
   基心翁傳公元和三丁巳年二月十五日としるせし位牌あり。是中興の開基なるにや。もし武
   常が法号とせんには年代たがえり。開山嶺巌は萬冶二年八月九日寂すと云。是も中興の僧
   なるべし。

 とある。

 戦災殉難諸精霊供養塔
 地元の空襲犠牲者を追悼する。昭和48年有志によって建立された。毎年3月10日には法要と立
花南町会(旧吾嬬東二丁目)が中心になって集会所に集まり、すいとんを食べながら当時を偲び、慰
霊の行事をしているという。終戦後に中国から帰った住職によれば、「寺の前の北十間川から、建物
がすっかりなくなってしまった焼野原の向こうに、上野の松坂屋と富士山が間近に見えた」とのこと
だ。

   
戦災殉難諸精霊供養塔

   昭和48年11月25日
       地元有志建立 


■立花通り(平井街道)

 立花1・3丁目と2・4丁目を分ける道。旧中川に架かる平井橋西詰から東南に走り、立花団地の
北を通り、文化2丁目の五差路で、曳舟たから通りに繋がる古い道。
 


■豊栄稲荷神社 ◇
 立花2丁目8番7号にある小祠。 


■東あづま公園

 立花2丁目32番12号にある区立公園。


■六軒児童遊園

 立花3丁目18番12号にある区立公園。
 


■大井戸稲荷神社 ◇
 立花3丁目20番10号、
立花通りに面してある。俗称〝人助け稲荷〟 大正の頃一帯が田園だっ
た。その時分、清水の湧出地にあったものとされており、ここで弁当を使う人が多かったとか。市街
地化した中で新住民がよく残したものだわい。
 


■たちばな児童遊園

 立花3丁目21番16号にある区立公園。


■福寿公園

 立花3丁目24番3号にある区立公園。


■19‐手押しポンプ
 立花4丁目8番10号シティハイム立花にある雨水利用貯水装置。平成11年8月に設置された。


■立花第一児童遊園

 立花4丁目9番6号にある区立公園。


■東吾嬬小学校(平成29年度中川小学校と統合予定 見送り
 立花4丁目22番11号にある区立校。昭和31年4月6日第一吾嬬小学校から分離して開校。校
旗樹立。同36年創立5周年記念式典、校歌制定。

 校歌「この空のもと」 作詞・西沢実  作曲・富永三郎
  1.この空の下
(もと)
    先生と一緒に
    清らかな心を育み
    強いからだをきたえる
    ああ工場に囲まれた
    東京の朝日 東吾嬬
    ぼくのみんなの小学校
  2.この土の上
    友だちといっしょに
    進みゆく道を考え
    国の力をのばそう
    ああ 荒川の岸近い
    たちばなのかおり 東吾嬬
    わたしのみんなの小学校


 同39年講堂兼体育館完成。同41年創立10周年記念式典。同43~46年第1~4期鉄筋コン
クリート造り校舎落成。同45年創立15周年記念式典。同51年創立20周年記念式典。同56年
創立25周年記念式典。同60年校庭緑化。同61年創立30周年記念式典。
 平成元年プール完成。同2年プール校舎落成。同3年創立35周年記念式典。同4年新体育館完成
同7年あずまの部屋完成。同8年創立40周年記念式典。同13年パソコンルーム完成。創立45周
年記念式典。同16年エアコン設置。ランチルーム完成。同18年創立50周年記念式典。同21年
プール改修。立花小学校へ移転。耐震化、屋上防水、トイレ改修。同22年本校に戻る。


■東あづま駅
 立花4丁目23番8号にある東武亀戸線の停車場。東武亀戸線は明治37年に全通しているが、中
間の3駅は総て、昭和3年4月15日に同時開業した。ホームは相対式2面2線構造。駅舎のある2
番線から1番線へは構内踏切で連絡しているため、エレベーターは不要。改札口・出口は1ヶ所のみ
で2番線側にある。


■向島工業高等学校 →橘高等学校
 立花4丁目29番7号にあった都立高。昭和12年暮吾嬬製鋼所社長清岡栄之助が当時の金額で5
0万を東京市(現在の東京都)に寄付。同13年3月29日当該寄付金を基金として本校設立の件を
東京市議会で議決。同5月1日東京市立向島工業学校として開校。東京市向島請地小学校にて第1本
科第1回入学式挙行(5年制工業高校、機械・電気・応用化学科設置)。同18年東京都制施行によ
り東京都立向島工業学校と改称。同20年愚かなアメリカ軍の無差別空爆により全校焼失。
 同22年新校舎建築竣工。学制改革により新制中学校併設し、東京都立向島工業高等学校に組織変
更。同24年3月31日を以て併設新制中学校廃校。平成10年創立50周年。
 60年の歴史と伝統に輝く工業高校だ。卒業生は、既に1万人を超え、産業界の様々な方面で活躍
している。この学校の生徒たちは、こうした先輩の功績を見習い、自分たちも日本の産業界を背負っ
て立つ人間になろうと、誇りを持って勉学にスポーツに励んでいる。
 しかし平成19年3月31日を以て全日制は閉課、向島商業高等学校と統廃合して都立橘高等学校
に生まれ変わった。


■橘高等学校
 立花4丁目29番7号にある都立高。平成19年4月向島商業高等学校と向島工業高等学校が統廃
合して開校。向島工業高校の跡地にてスタート。

 校歌「橘の若葉のように」 作詞・石原武  作曲・田村徹
  1.橘の若葉のように 友よ
    たくましく 起業をこころざし
    新しい時代の扉を開けよう
    隅田川の霧はれて
    いま自立のとき
  2.ものつくる匠のように 友よ
    誇らしく 技芸の道究め
    新しい文明の舵を握ろう
    東京の朝かがやき
    いま挑戦のとき
  3.つばめらの飛翔のように 友よ
    しなやかに 流通の知恵学び
    新しい賑わいを街に起こそう
    世界の朝が聞こえる
    いま貢献のとき
 


■立花中学校 統合廃校
 立花4丁目30番18号にある区立校。昭和57年設立決定。同58~59年校舎建築。同59年
4月吾嬬第一中学校から分校して「東京都墨田区立立花中学校」として開校。9月グラウンド整備完
了。10月校歌制定。

 校歌「若い緑が」 作詞・中村千栄子  作曲・平吉毅州
  1.若い緑が陽をうけて
    澄んだ瞳に映えるとき
    豊かな力ぐんぐんと
    創造の空へ伸びていく
  2.香る橘 遠い日の
    歴史の重みふつふつと
    誠の誓い語るとき
    愛郷心を掻き立てる
  3.光る川面に遥かなる
    人の世の海 思いつつ
    理想の船をたくましく
    世界の海へ漕ぎだそう
        *
    ああ立花 立花中学校
    友情の花 咲きかおる


 平成元年開校5周年記念式典。同2年給食民間委託。同4年コンピュータルーム開設。同5年図書
室開設。同6年多目的室開設。開校10周年記念式典。同9年ランチルーム開設。同11年創立15
周年記念式典。同16年開校20周年記念式典。同21年
経済産業省主催「省エネコンテスト・学校
資源エネルギー庁長官賞受賞。創立25周年記念式典。
 平成26年吾嬬第一中学校と統合して「吾嬬立花中学校」となり廃校。
 


■吾嬬立花中学校 統合新設
 立花4丁目30番18号にある区立校。平成26年吾嬬第一中学校と立花中学校が統合して「墨田
区立吾嬬立花中学校」として開校。吾嬬第一中学校跡地に新校舎が完成すると移転する。

 校歌「
桜 立花」 作詞・作曲:中郡利彦
  1.桜 立花 気高く薫る
    はるかな想い学びの庭に
    真理の心 訪ねて行こう
    正義の絆 結ぶとき
    友愛の鐘 鳴り渡る
    永久に花咲け 吾嬬立花中学校
  2.由緒豊かな吾嬬の杜は
    ゆかしい生活 称えるところ
    平和の祈り忘れず行こう
    郷土の絆 揺ぎなく
    感謝の誓い伝えよう
    永久に輝け 吾嬬立花中学校
  3.天空つらぬく 勇姿燦然
    世界を照らす希望の光
    英知の未来 夢見て行こう
    希望の絆 高らかに
    栄光の道 限りなく
    永久に翔け 吾嬬立花中学校


■17‐手押しポンプ
 立花5丁目1番14号立花5丁目コミュニティ住宅にある雨水利用貯水装置。平成11年1月に設
置された。


■立花五丁目こども広場

 立花5丁目12番13号にある区立公園。


■たちばな仲よし公園

 立花5丁目19番2号にある区立公園。


■立花五丁目第二こども広場

 立花5丁目24番3号にある区立公園。


■中川公園

 立花5丁目38番3号にある区立公園。


■向島東部国民学校 廃校
 立花5丁目48番9号にあった区立校。昭和20年愚かなアメリカ軍の非人道的無差別空爆により
校舎が全焼して再開の目処が立たぬまま廃校。跡地は吾嬬第一中学校となった。


■吾嬬第一中学校 統合廃校
 立花5丁目48番9号にある区立校。昭和22年4月1日開校。5月10日第四吾嬬小学校にて開
校式・入学式、以後授業を行う。同23年7月向島東部国民学校跡地(現在地)に新校舎成り生徒の
一部が移転。同27年校舎増築。全生徒揃う。同29年特殊学級設置。同32年創立10周年記念式
典。同35年体育館完成。鉄筋4階建校舎落成(16普通教室・3特別教室)。同37年4教室増築。
創立15同周年記念式典。同45年西側4階鉄筋校舎落成(教室6、特別教室4)。同46年プール
完成。
同47年心障学級校舎落成。創立25周年記念式典。同50年庭園造成「友愛の庭」完成。同
52年創立30周年記念式典。同58年新体育館・心障学級校舎完成。同59年校舎校庭改修。同6
2年創立40周年記念式典。
 平成元年ガイダンスルーム開設。同3年給食民間委託。ランチルーム完成。同5年コンピュータル
ーム開設。同8年校庭改修。同9年機械警備導入。1階部分耐震化。創立50周年記念式典。同10
年パソコン機種交換。同13年心障学級閉鎖。同14年今年から校舎ボランティア塗装始まる。墨田
区学校選抜制導入。同15年第二回校舎ボランティア塗装。今年から「友愛まつり」始める。同16
年墨田区2学期制導入。第三回校舎ボランティア塗装。同18年第四回校舎ボランティア塗装。

 校歌「花薫る」 作詞・中部節二  作曲・細谷一郎
  1.花薫る墨田の畔
    天そそるゆかし学舎
    挙りたつ若き眉根に
    澄み映えん 真理の光
    ああ吾等
    かがやかに求めゆくなり
  2.香しき吾嬬の伝え
    尋ぬれば 嬉しきこの窓
    潮なす望み抱きて
    育まん平和の双葉
    ああ清
(さや)
    友愛の鐘も鳴るなり
  3.富士筑波かがようところ
    秀麗の気は漲りて
    興国の希
(ねが)いたゆけく
    勤しまん無窮の道に
    ああ遥か
    旗雲は冴え渡るなり
 


■吾嬬立花中学校 新校舎工事中
 立花5丁目48番9号にある区立校。


■中川小学校(平成29年東吾嬬小学校と統合予定 見送り
 立花5丁目49番4号にある区立校。
 [戦前] 廃校
 昭和9年「東京市向島中川尋常小学校」開校。同16年勅令148号国民学校令により「東京府東
京市向島中川国民学校」に改称。12月真珠湾奇襲により日米開戦。同18年都制施行により「東京
都向島中川国民学校」と改称。同19年集団疎開。同20年3月愚かなアメリカ軍の非人道的無差別
空爆により校舎全焼。同21年3月31日校舎喪失のため廃校。

 [戦後] 復興
 同26年「東京都墨田区立中川小学校」として再開校・学級数15。同36年プール新設。同40
年校庭舗装。同45年鉄筋コンクリート造り校舎竣工。同46年開校20周年記念式典。同55年校
庭全面舗装。同57年図書室及び普通教室落成。同61年校庭側窓枠サッシュ化。校舎壁面塗装。同
62年校舎内壁改修。
 平成2年プール新設。同3年開校40周年記念式典。同12年コンピュータ室開設。同13年開校
50周年記念式典。

 校歌「都の東」 作詞作曲・松尾孝輔
  1.都の東 中川の
    古き流れの岸沿いに
    同じ名を負い新しき
    時代の華と咲く母校
  2.学びの道に勤しみつ
    清く正しき 歩みをぞ
    ただ真心に貫けと 
    母校の教え尊しや
  3.稚
(いと)けなき身を温かき 
    守りの中に包まれて
    送る六年の思い出よ
    心の糧と匂うらん
 


立花図書館
 立花6丁目8番1号の高齢者福祉センター「立花ゆうゆう館」の中にある。

 
みのり
 収穫物を神に捧げる幼い少女像。宇多歌識の作品平成8年の制作。小さい像だが身体の反り具合
など良く表現されている。


■立花いこい公園

 立花6丁目8番34号にある区立公園。


■平井橋第二公園

 立花6丁目8番44号にある区立公園。
 


■平井橋第一公園

 立花6丁目8番55号にある区立公園。


■北向地蔵堂 ◇
 立花6丁目10番1号、旧平井街道から東漸寺あるいは、立花白髭神社に向かう途中にある。新道
である宮田通り沿い、アルフィーの坂崎幸之助の実家からは、徒歩3分ぐらいだ。堂内には地蔵立像
のほか塩地蔵も安置されている。中川から引き上げられた多くの水死者が葬られた場所といわれてい
る。小さな祠が2つ。祠の1つには、石造立像が2体。祠の右手には、承応三年(1654)建立の
板碑の念仏供養塔がある。古くは平井街道から平井聖天に向かうか、木下川薬師に向かうかの追分が
あり、その追分から木下川薬師に向かう道の途中に当たり、平井聖天の開基の時期とも一致するので
その参拝に向かう途中であったものと思われる。石造立像の横には、墓碑が置かれている。どれも明
暦、寛文、延宝など江戸時代の銘が刻まれている。

 大師堂
 堂横にある東向きの堂。四国八十八ヶ所霊場に倣って作られた「新四国南葛八十八ヶ所霊場」の8
5番札所と明記してある。
 


■立花大正民家園公園(小山家住宅)

 立花6丁目13番17号の中川沿いにある小村井村の名主の住宅跡。細い木割りをもつ格子戸やし
し窓(動物が入らぬように格子をつけた窓)と黒漆喰壁(くろしっくいかべ)から構成される正面、
別々に設けられた玄関と土間口、奥座敷上手の縁側-これらはこの地域の住宅の特徴を受け継ぐとと
もに、変わりゆく町並みに江戸時代からの農家と町屋の雰囲気を今に伝えている。当時の常識として
玄関を出入りするのは当主と正式客のみ、家族、女子供、使用人などは土間口を利用する。この民家
の貴重さは墨田区という場所柄、よくもまあ、震災も戦災も潜り抜けて生き延びたことである。名主
小山孫左衛門の墓は明源寺(立花2‐13‐3)にある。
 旧小山家住宅(指定有形文化財『建造物』立花6丁目13番17号、立花大正民家園内)は、大正
6年に建てられた住宅。桁行八間、梁間四間半で整形四間取寄棟造瓦葺の母屋の四面に下屋庇を廻し
ている。
 創建当初の素材・意匠が充実している上、保存状態は極めて良好といえる。昭和10年代に土間の
一部が座敷として改造され、新しい玄関が設けられて、萱葺きから瓦葺になった。同32年には水害
対策として建物全体を50cm程嵩上げした。町屋づくり部分と農家づくり部分を一軒の家の中に残
していることや、土間が狭いこと、接客空間が充実している点は近代以降の都市近郊住宅の特徴を現
すものとなってい。この住宅は、平井・吾嬬を中心に大正・昭和初期に住宅大工として活躍した田口
鉄五郎の手により建てられた。
  


■立花六丁目児童遊園

 立花6丁目14番5号にある区立公園。


金林山明了院東漸寺
 立花6丁目17番4号にある天台宗の寺。白鬚神社の南に当たる。浅草寺末寺。創建は室町時代の
文安元年(1444)秀尊法印によるもので、円覚が中興開山とされるが、明治中期まで無住の時期
があり、記録類は伝わらない。また、後年同じく浅草寺末の東昌寺を合併し、幾つかの石造物を移設
させてもいる。本尊は阿弥陀如来。また葛西三十三観音第8番札所としての十一面観世音菩薩像があ
る。本堂は、中興の祖、圓覺上人によって建立された茅葺き木造の建物だったが、昭和38年9月現在
の鉄筋コンクリート造りに改築された。区内では早い出現で、廂のラインが柔らかい。
 本尊阿弥陀三尊来迎仏のほか、薬師如来、金勝不動明王、釈迦如来、地蔵菩薩、千手観世音菩薩(2
躰、葛西7・8番札所)、如意輪観音、金勝稲荷大明神、閻魔大王の諸尊を奉安している。境内には
元文元年建立の六地蔵尊、安永九年建立の法華経読誦塔、昭和55年建立の水子地蔵尊があり、また
徳川家康の待医板坂如春(卜斉)先生の墓碑(延寳八年庚申仲冬十二日)と道標を兼ねる庚申塔(宝
暦十三年癸未)がある(共に墨田区登録文化財)。「新編武蔵風土記稿」に、


   東漸寺
   天台宗 江戸浅草寺末。金林山明了院と号す。当寺は文安元年秀尊といふ僧開基すと云。
   本尊弥陀。中興円覚、寛永七年十一月十八日示寂す。
   観音堂。


 とあり、併合した東昌寺について

   東昌寺
   同宗同末(天台宗江戸浅草寺末)、医王山と号す。当寺は宝徳二年の起立と云。
   本尊薬師。


 と記している。

 板坂如春先生墓と追悼碑
 明暦三年(1657)の建碑。江戸時代初期に徳川将軍家に仕えた名医の墓と、その弟子が建立し
た追悼碑。元々は浅草寺塔頭医王院にあったが、東昌寺に移され、昭和34年に東昌寺に併合された
時に、この寺に移されたという。

   
板坂如春先生

   (墨田区登録文化財)
   
板坂如春の墓碑           所在地 墨田区立花6丁目17番 東漸寺内
   板坂如春は、江戸初期の名医で、一代卜斎と号しました。板坂家は室町期ごろから朝廷に
   仕えた医家で、父の初代卜斎は武田信玄に見出され、後に徳川家康に用いられました。
   如春は家康の命で二代将軍秀忠の小姓として仕えていましたが、後に医術を学んだことか
   ら家康にも仕え、戦場にも従いました。
   家康から医術の才を認められた如春は、その意を受けて徳川頼宜の侍医として紀州に行き、
   後に江戸に帰り、四代将軍徳川家綱の診察にあたったこともありました。
   晩年、浅草に閑居し、邸内に薬草を栽培したり、多くの和漢の書、医書を集めて浅草文庫
   と称して縦覧を許しました。
   明暦元年(1655)78歳で病没し、墓碑は浅草寺の塔頭医王院にありました。後に浅
   草寺末東昌寺に移されましたが、さらに東漸寺に移されました。
   平成17年3月                         墨田区教育委員会

 石造庚申道標
 正面に青面金剛像が彫られた典型的な庚申塔で、総高は91cm。青面金剛像の顔の部分に一部欠
損が見られるが、各部の彫りははっきりしており、保存状態は良好。さらに左右の側面には

   左 やくし道 右 市川道

 とあり、庚申塔でありながら道標を兼ねている区内では珍しい例だ。近世における庚申信仰と道祖
神、道標との関係、また同地域の交通路の存在形態を考える上では重要な資料だ。宝暦十三年(17
63)十一月に七左衛門、作左衛門をはじめとした21名により建立された。
 「やくし道」とは将軍の篤い信仰を受けた木下川薬師浄光寺へ抜ける道、「市川道」とは平井の渡
しから市川へ抜ける道のことで、庚申道標はこの分岐点にあったと考えられまるが、原位置は確定で
きないとのこと。

   石造庚申道標             所在 墨田区立花6丁目17番 東漸寺内
   正面に青面金剛像が彫られた典型的な庚申塔で、総高は91cmあります。青面金剛像の
   顔の部分に一部欠損が見られますが、各部の彫りははっきりしており、保存状態は良好で
   す。さらに、左右の側面には「左 やくし道 右 市川道」とあり、庚申塔でありながら
   道標を兼ねている区内では珍しい例です。近世における庚申信仰と道祖神、道標との関係、
   また同地域の交通路の存在形態を考える上で重要な資料といえます。宝暦十三年(176
   3)十一月に七左衛門、作左衛門をはじめとした21名により建立されました。
   「やくし道」とは将軍の篤い信仰を受けた木下川薬師浄光寺へ抜ける道、「市川道」とは
   平井の渡しから市川へ抜ける道のことで、庚申道標はこの分岐点にあったと考えられます
   が、原位置は確定できません。
   昭和57年3月                         墨田区教育委員会

   
庚申塔(道標付)           所在 墨田区立花6丁目17番 東漸寺内
   この庚申塔は宝暦十三年(1763)十一月銘を持つ駒形のもので、正面には青面金剛像
   を半肉彫りし、一鬼、二鶏、三猿を配した典型的な庚申塔ですが、左側面には「左 やく
   し道」、右側面には「右 市川道」と刻まれており、木下川薬師(元は荒川放水路の中程
   にあった)へ抜ける道と市川へ抜ける道の分岐点に立てられ道標の役割を兼ねていました。
   このことから、元は当寺より南を通る平井街道(平井の渡しから東は市川道と呼ばれた)
   沿いにあったものが、当寺に保管されたものと思われます。
   かつて区内にも、いくつもの街道が交差し、多くの道標が立てられていたものと思われま
   すが数々の災害に見舞われ、区画が整備されたため、現存する道標は少なく、庚申塔を兼
   ねているものはこれ1基のみで、貴重な存在となっています。
   平成4年3月                               墨田区
  


■白髭神社
(ここは「髭」が正しい)
 立花6丁目19番17号にある。区内にある3つの白髭神社・白鬚神社の内では、創建が最も新し
い。天和二年(1682)庄屋鹿倉吉兵衛らが幕府の許可を得て建立した。
 末社として三峰神社・水神社があり、境内左手に合祀されている。記録を欠いているが恐らく水神
社としての性格は古かったろう。水神社は石祠、三峰は木造で、秩父の狼を主神とし、家内鎮護の信
仰により、関東一円に広まった山岳信仰の1つの変形だ。合祀年代は新しい。というのは業平の天祖
神社の三峰は、昭和37年の建立だからである。
 境内の左奥に元禄四年(1691)将棋駒型庚申塔があるが、その台石の方は全く別物であって、
寛延四年(宝暦元年 1691)念仏講碑の残欠だ。右奥は社殿再建碑で昭和46年に建てた。区内
社寺の例に洩れず、社殿は鉄筋コンクリート(RC)造り。同52年区との緑化協定を5番目に締結
した。「新編武蔵風土記稿」に、

   白髭社
   村の鎮守とす。東漸寺持。


 とあり、「すみだの史跡文化財」に、

   旧葛西村の鎮守として、天和二年(1862)に創建したといわれていますが、文安元年
   (1444)創建という伝えもあってはっきりしません。
   祭神は猿田彦命で、俗に葛西川の白髭神社と呼ばれていました。


 とある。
 
 




【立川】(たてかわ)1~4丁目                   昭和42年7月1日
 本所林町・本所菊川町・本所徳右衛門町。明治11年東京府本所区所属。同44年本所の冠称を
外す。昭和8年林町・菊川町1丁目・徳右衛門町の各一部をあわせて竪川1~4丁目とし、同18
年東京都本所区に所属。同22年東京都墨田区に所属。同42年新住居表示実施の時「竪」の字が
当用漢字にないので平易な「立」の字に変えて現行の「立川」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『墨田区史』『墨田の歴史』など。

 
立川の由来
 町の北面を流れる、江戸城に対して縦方向に開鑿した子とによる堀川の名前から拝借した。区内
の竪川はまだ生きている。
 


万徳山徳上院
 立川1丁目1番にある新義真言宗の小寺。旧本寺弥勒寺の一子院として創建したが、昭和18年に
旧本寺弥勒寺を離れ、新義真言宗総本山根来寺の末寺となった。安置されている不動明王像は、根来
寺に安置されていた尊像だ。鉄筋コンクリート造りの・・・まっいいか。


満徳山龍光院
 立川1丁目2番にある新義真言宗の寺。門柱はコンクリート。旧本寺弥勒寺の一子院として創建し
たが、後年弥勒寺を離れ、大伝法院根来寺の末寺となった。
 


万徳山法樹院
 立川1丁目2番4号にある新義真言宗の寺。本堂も塀も鉄筋コンクリート造り。旧本寺弥勒寺の一
子院として創建したが、昭和18年に弥勒寺を離れ、本山長谷寺末となった。


■折箱博物館「木具輪」(墨田区小さな博物館)
 立川1丁目3番5号のスドウにある。エゾ松やシナの木を薄くスライスして作られた折箱、杉や桐
を使用した木箱など、100点あまりの天然素材を展示している。これらは、森林育成に必要な間伐
採や他に用途のない端材を有効活用して作られたもので、地球環境に優しい、食品の鮮度保持能力に優
れた品々だ。是非とも日本の伝統的な天然素材の美しさ、温もり、優しさに触れてみてみい! 
 開館は、祝祭日を除く月曜日から金曜日までの午前9時から午後5時まで。
 03-3631-7785
 


万徳山聖宝院弥勒寺

 立川1丁目4番13号にある新義真言宗の触頭寺。京都醍醐寺三宝院の末寺で、慶長十五年(16
10)小石川鷹匠町に建てられてから、元禄二年(1689)本所に移ってきた。寺格は高く、新義
真言宗の常法談林所であると共に、幕府の命を伝える同宗の触頭で、関東四ヶ寺の1つだった。また
「江戸市内十二薬師」の第6番で、「江戸七薬師」でもある。また成田山新勝寺や西新井大師の本寺
となっている。安政大地震まで塔頭6ヶ寺、及び多数の末寺を擁し、御府内八十八ヶ所霊場の46番
札所。「すみだの史跡文化財めぐり」に、

   万徳山聖宝院と号し、新義真言宗で京都醍醐寺三宝院末だった。慶長十五年(1610)
   宥鎫によって小石川鷹匠町に創建されました。幾度かの移転の後、元禄二年(1689)
   二月、新開地である本所の現在地に移ったもので、現在は根来寺の末寺となっています。
   江戸時代は新義真言宗の触頭で、寺領百石の朱印状を下付され、関東四ヶ寺中の一寺とし
   て格式がありました。また、江戸十二薬師のひとつとしても有名でした。かつて縁日も本
   所では、元徳稲荷・徳ノ山稲荷と並んで盛んでした。
   この薬師像は、川上薬師といわれ、「文政寺社書上」によれば、かつて水戸領常陸の寺院
   にあったころ、故あって寺地が水戸光圀によって没収され、像も那珂川に流された処、川
   上に流れたため、以後光圀の信仰も得て、川上薬師として祀られてきたと伝えています。
   また、塔頭として徳上院・法樹院・正福院・正福院・宝珠院・正覚院・龍光院がありまし
   たが、現在、徳上院・法樹院・龍光院は寺院として独立しています。
   現在もユニークな法話の聴ける寺院として知られ、書家相沢春洋をしのぶ筆塚も建ってい
   ます。

 とある。

 本尊 薬師如来
 弥勒菩薩から、
後に徳川光圀から寄進された薬師如来を本尊とした。この薬師如来は別名を「川上
薬師」ともいう。「文政寺社書上」には、この薬師像はもと常陸国にあった時に水戸黄門光圀が寺地
を没収した上、像も川に流させると、川上に向かって流れたので、以後黄門の信仰を得たという伝説
がある。、

 杉山和一の墓
 弥勒寺の墓地にある。江戸時代前期の盲目の鍼医。検校。慶長十五年(1610)伊勢津藩藤堂家
の家臣杉山重政の子として生まれ、幼児に失明し、江戸へ出て山瀬宅琢一に鍼術を学んだ。貞享二年
(1685)将軍綱吉の病を治療して、500石を賜り元禄元年(1692)初代の関東総検校とな
り、後300石を加増された。綱吉の命で本所一つ目に鍼治講習所を興した。同七年(1694)8
4歳で歿した。著書に、杉山流の三部書『療治之大概』『選鍼三要集』『医学節用集』がある。千歳
に江島杉山神社があるよ。

   明治四年十一月維新政府は盲人の生活協同体として古き傳統を有する盲官制度を廃止した
   ので 天下の盲人は頼るべき柱を失った。十八年初めて鍼術取締法の公布あり 曾て鍼治講
   習所に学んだ関澄伯理・榊原学道・藤岡宮戸・小泉荘三・河井貞曻・吉見英受・吉田弘道
   等は 温知舎を起して管鍼術の復興に努め 二十三年四月惣録屋敷即明庵の故地に官許を得
   て杉山神社を創立し、総検校杉山和一を祀った。三十五年五月吉田弘道・馬場美静・千葉
   勝太郎・大貫伊太郎・千野良泉・桜井幾太郎・森田蒿英・金塚元貞・阿波能夜仙信・松本
   修顕・高田権太郎・石井寶作等は 杉山報恩講を結び 社殿塋域を管修した。大正十三年二
   月十一日東宮御成婚に当り、杉山検校に正五位を追贈し、墓を東京府史蹟に指定せらる。
   仍て 役員に秦野貞斉・谷村玄教・金原直太郎・勝又傳一郎を加え 検校二百五十年祭を厳
   修して 惣録屋敷跡に記念碑を建設し 十五年六月國井栄太郎・井上喜重郎・芹沢八五郎を
   役員に追加して 関東大震災に焼失せる杉山神社を再興した。昭和四年九月十六日 堀越久
   三郎氏の特志により吉田・大貫・金原・谷村及び医学博士三宅秀司・富士川游を設立代表
   者として杉山報恩講を財団法人杉山検校遺徳顕彰会に改めた。今次大戦の敵襲に社殿塋域
   悉く灰燼に帰したので、役員協戮して資を四方に募り、二十六年先つ杉山神社の造営成り
   今茲五月 漸く墳塋修理の工を修むるに至つた。
   昭和三十四年五月                     顕彰会理事 河越恭二撰
                                弥勒寺貫主 岩堀生道書

   都旧跡
   
杉山和一墓             所在 墨田区立川1丁目41番3号 弥勒寺内
                      指定 昭和18年5月
   江戸時代の鍼医(はりい)。伊勢に生まれ、名を和一といい、幼くして失明した。江戸に
   出て鍼術を検校山瀬琢一に学んだ。
   はじめ和一は性格が鈍重で、しばしば逐われたため京都に行こうとして江の島弁財天に到
   り、ここで断食祈願し、神のおつげにより管と鍼とを用い、創意工夫した新しい方法を編
   み出したという。
   のち五代将軍綱吉の病に侍して厚く賞され、本所一目里に邸と禄五百石を与えられ関東総
   録検校に任ぜられ、さらに三百石を加増されたという。
   和一はここを講習所として多くの門人をかかえ、さらに江戸近郊四所をはじめ諸州四十五
   箇所に講堂を建て杉山流管鍼法を完成した。
   著書には杉山流三部書といわれる「療治大概集」「遺選鍼三要集」「節要集」がある。
   元禄七年(1694)五月十八日、八十二才で歿した。
   昭和43年3月1日 建設                    東京都教育委員会

 聖観音像(戦災殉難者慰霊塔)
 境内にある露仏だ。像下には、東京空襲の戦災者3500柱の遺骨を埋却する慰霊顕彰塔。
 副碑(墓誌)は以下の通り。

   昭和廿年三月九日夜間大空襲により本所深川は全滅廃墟となり死傷する者亦多く、劫火の
   中に血縁を求めて呼べども自らも倒れ死屍累々と山をなす。
   終戦と共に平和への悲願をこめて茲に観音像をつくり、遺骨3千余体を安置し歳々年々供養
   の赤心を捧ぐ。願わくば後人の争うことなく福祉の途を開かれんことを
   昭和42年3月10日                     弥勒寺住職 至道識


 寺の説明板は以下の通り。

   音聖像建立由来記
   父を求め母を尋ね子を探し妻を呼ぶ声よりも凄さまじい火炎と爆撃の中で、昭和20年3
   月10日の朝を迎へました。町は焦土と化し人は黒焦げの死体となって数限りなく広がっ
   て居りました。
   戦争は恐ろしい大地震火災よりも怖ろしく、被害はその何層倍にも及びました。1時間に
   十萬の屍体と言ふ、人間の起こした争いの惨酷さ、而してこれを超克して愛と安らぎを求
   めるには、大慈悲心にすがり佛の叡智を借りること以外にありません。
   この聖像のもとに三千五百体の遺骨を収納し、永代にお慰めすることは生き永らへた人間
   の務めでもあり仕事でもありましょう。
   多くの記録、悲惨なエピソードは他の戦災記にゆずり、この下町の一角に所在する聖像を
   仰ぐとき、之は戦災の最も端的な記念碑でもあり、亦人間の心の基準を示すきびしい御姿
   でもありましょう。
   茲に戦災殉難の御魂をお慰め申上げ、併せて関東大震災に依り倒れた地元の人々の過去霊
   に対し、恭々しく合掌し冥福を祈るものであります。
   昭和52年3月10日丗回忌            弥勒寺五十六世 岩堀至道 敬白
                              弥勒寺奉賛会々長 田中牛造
   平成24年3月10日               株式会社ペルストーン工房 寄贈


■木瀬部屋
 立川1丁目16番8号にある出羽海一門の相撲部屋。
昭和17年5月場所限りで引退した伊勢ヶ浜
部屋(関脇清瀬川)所属の元前頭筆頭桂川が年寄北陣を襲名、その後、9代目木瀬(木村瀬平)に名
跡変更して伊勢ヶ濱部屋の部屋付き親方として後進の指導に当たる傍ら、一般人に相撲を指導する相
撲練成道場を開いていた。その後相撲錬成道場の門人が大相撲入門を志願したため、昭和31年9月
に伊勢ヶ濱部屋から分家独立して木瀬部屋を創設した。伊勢ヶ濱部屋の後輩で娘婿の前頭9枚目清の
盛が、同42年5月場所限りで引退した時、年寄名跡を清の盛に譲渡するとともに部屋経営を任せて
本人は廃業して相撲練成道場の運営に戻りつつ、さらに居合道の道場を興した。
 10代目(清の盛)は、小結青葉山、十両天剛山を育てた。しかし平成12年4月停年退職を迎え
るため、同年2月に部屋を閉じるとともに、所属力士は桐山部屋(小結黒瀬川)へ移籍させた。
                     *
 現在の部屋は、平成14年11月場所限りで引退した三保ヶ関(大関増位山)所属の元前頭筆頭肥
後ノ海が11代目木村瀬平を襲名して三保ヶ関部屋の部屋付き親方として後進の指導にあたっていた
が、同15年7人の内弟子を連れて三保ヶ関部屋から分家独立して部屋を創設した。
 


■たてかわばし児童遊園

 立川2丁目14番7号にある区立公園。


■立川第二児童遊園(安兵衛公園)

 立川3丁目15番6号にある区立公園。

   忠臣蔵
   
堀部安兵衛道場跡  52
   安兵衛は越後国新発田藩(現新潟県新発田市)家臣溝口家家臣中山弥次右衛門の嫡子とし
   て生を受ける。
   高田馬場での決闘での助太刀の大立ち回りで一躍有名になり、赤穂藩浅野家家臣堀部弥兵
   衛に見込まれ婿養子となる。そして家督を継ぎ堀部安兵衛武庸と名乗る。
   此の地、林町五丁目に紀伊国屋店の二軒を借り、長江長左衛門と称して剣術撞鐘を開き、
   江戸急進派の中心人物として吉良邸討ち入りの機会を探っていた。
   討ち入り当夜の同志集結場所の三ヶ所のひとつであり、行装を整え出撃していった場所で
   ある。
   また道路を挟み東の徳右衛門町一丁目には杉野十平次が杉野九一右衛門と称して、長十郎
   一軒を借りて住んでいた。                         墨田区

   


■元徳稲荷神社 ◇
 立川3丁目18番2号にある小社。河村徳右衛門がまだ三河岡崎にあった頃、氏神として名匠に彫
刻させ、伏見稲荷から正一位稲荷大明神の神霊を遷したのが祀りの始まりといわれる。徳川家康の江
戸討ち入りの時に河村家も江戸出府を命じられ、神田川沿いに土地を与えられた。その際稲荷も江戸
邸内に遷され、屋敷の周辺の町人町は徳右衛門町と称えた。
 2代目の妻女が悪性の腫れ物を患った時、この稲荷に祈願して平癒した。それを聞いた町の人々が
腫れ物を患うと参拝するようになり、平癒すると土地の産物の里芋を供えてお礼参りした。
 明暦三年(1657)の大火(振袖火事)があって、幕府は火に強い町造りを進め、このニュータ
ウン計画に則って、河村家は本所(3丁目内)に移され、稲荷も遷した。しかしその後も参拝する人
は絶えず、河村家では人々の便を考えて、稲荷を三の橋詰に移祀した。この時に「元は徳右衛門町に
あった」ということで「元徳稲荷」と改称した。腫れ物に効くという評判で、明治時代に腫れ物で苦
しんだ9代目(市川団十郎)も平癒を祈願して、治癒したという。鰯の頭も信心から・・・

   元徳稲荷神社は、河村徳右衛門氏が未だ三河岡崎に在った時、河村家の氏神様として、名
   匠に依頼して彫刻させ、伏見稲荷社より神璽を遷してお祀りしたのが始まりである。徳川
   家康が江戸城を開いた折、河村氏も江戸に出府を命ぜられ、神田川沿岸に土地を賜り、町
   名を徳右衛門町と称した。その際、稲荷神社も江戸の邸内に移された。そして二代目徳右
   衛門の妻女が、難性の腫物を患い稲荷神社に祈願して平癒した。それを聞いた町の人々が
   三々五々お参りし、平癒すると土地の産物である里芋を供えてお礼をした。明暦三年(1
   657)江戸に大火(振り袖火事)があり、幕府は火災に強い町づくりを進め、このニュ
   ータウン計画により河村家は本所(立川3丁目付近)に移封され、この処を徳右衛門町と
   称して、稲荷神社も移祀した。しかしその後も参拝する人が絶えず、多くの参拝の便を考
   え、屋敷内から三ノ橋畔に移祀した。
   邸内にあった時は正一位稲荷大明神と称していたが、三ノ橋畔に移祀したのを機に元徳稲
   荷神社(元徳右衛門邸内にあった稲荷の意)と改称した。近在に飛火という腫物の病が大
   流行した折、里芋を供えて平癒祈願したと伝えられている。後に明治の中期に活躍した九
   代目市川団十郎も腫物に苦しめられた時、当神社に参拝したと記録されている。