Home 江戸・東京・武蔵 足立区 荒川区 板橋区 江戸川区 大田区 葛飾区 北区 江東区 品川区 渋谷区
新宿区 墨田区
 世田谷区 台東区 中央区 千代田区 豊島区 中野区 練馬区 文京区 港区 目黒区 女性 


Yahoo! JAPAN
 東京の地名の由来
 東京知ったかぶり!

 平成17年2月11日発信    リンクフリー
 地名の由来東京23区辞典 引用自由
 
杉並区の地名の由来
 現在進行形の調査なれば、逐次、誤謬訂正・新規追加あり。御用心 御用心!
 

ご意見とご教示メール     
★各区夫々の主な記事 
 Home   【巻末特集】 江戸・東京名数一覧   江戸東京   東京は首都ではない  皇室典範・女系天皇  
 足 立 区   ビートたけし 関原不動 赤門寺 千住 都立舎人公園
 下山事件 西新井大師 大鷲神社 伊興寺町
 六阿弥陀 木余り阿弥陀 荒川バラバラ事件 炎天寺
 尾崎豊終焉の地 尾崎の部屋
 女子高生コンクリート詰め殺人事件
 
 荒 川 区   あらかわ遊園 北島康介 諏訪台寺町 三河島事故
 開成中学校・高等学校 尾久の原公園 大関横丁
 素盞雄神社 天王祭 大橋 谷中延命院一件
 「あしたのジョー」「巨人の星」 
【巻末特集】 江戸しぐさ
 【巻末特集】 小股の切れ上がったいい女
 板 橋 区   自殺願望女性救助駅前交番警察官殉職事故 松月院
 東京大仏 縁切榎 大東文化大学 帝京大学 板橋宿
 東京家政大学 中山道 板橋宿 国立極地研究所
 板橋事件 加賀藩前田家下屋敷
 
 江戸川区   葛西臨海公園 インド人 小松川女子高生殺人事件 
 都県境未定地 おくまんだし 妙見島 影向の松
 目黄不動 平井聖天 食用蛙供養塔 紅葉川高校
 江戸風鈴 立木観音 タワーホール船堀 雷不動
 
 大 田 区   池上本門寺 光明寺 大森海苔 磐井神社 松竹キネマ
 御菜八ヶ浦 羽田空港 大鳥居 八景坂 六郷神社
 大森ふるさとの海辺公園 馬込文士村 万福寺 梅屋敷
 洗足池
 
 葛 飾 区   式部薬師秘話 お花茶屋 金町浄水場 「こち亀」銅像群
 香取神社 東京拘置所 柴又女子大生殺人放火事件 
 男はつらいよ 柴又帝釈天 郷土と天文博物館 立石祠
 かつしかシンフォニーヒルズ 新宿の問屋場跡 葛西神社
 葛西囃子 美弥子ちゃん誘拐殺人事件 半田稲荷
 水元公園 しばられ地蔵 木下川薬師 堀切菖蒲園 
 北  区   静勝寺 小山酒造 新河岸川 飛鳥山公園 金剛寺
 装束稲荷 王子神社 王子稲荷 名主の滝 近藤勇墓
 医心方 亀の子束子 旧古河庭園 田端文士芸術村
 【巻末特集】 隅田川 (渡しと橋)
 
 江 東 区   外郎売  永代橋落橋事件 亀戸天神 カトレア
 ヒストリーガレージ キッザニア 戦災資料センター
 深川江戸資料館 富岡八幡 元八幡 砂町商店街
 東京海洋大学 東西線転倒事故 有明コロシアム 萩寺
 
 品 川 区   品川トランク詰め殺人事件 星薬科 船の科学館
 鈴ヶ森 立正大学 香蘭女子 杉野ドレメ 品川神社
 荏原神社 光福寺 大崎新都心 清泉女子大 品川寺
 品川宿 昭和大学 戸越銀座 第一京浜 ところてん
 
 渋 谷 区   明治神宮 慶応幼稚舎 尾崎豊の碑  忠犬ハチ公
 ライフル乱射事件 渋谷川  夫バラバラ殺人事件
 妹バラバラ殺人事件 モリブデン 文化女子大 NHK
 広尾病院事件 文化村 尾崎豊の碑 ワシントンハイツ
 聖心女子大 東京女学館 日本共産党 女子大生誘拐
 アメリカ橋 安藤組 国学院 金王神社 青山学院
  
 新 宿 区   浄瑠璃坂の仇討 新宿胴体遺棄事件 新宿騒乱事件
 八幡様  陸軍士官学校 赤線地帯 防衛省・市谷駐屯地
 岡田有希子飛び降り自殺 オリンピック東京大会
 東海道四谷怪談 追分交番爆破事件 鉄腕アトム 
 731部隊 学習院女子 早稲田大学 抜弁天 歌舞伎町
 歌声喫茶 名曲喫茶 どん底 新宿高野 中村屋 闇市
 
 杉 並 区   青梅・甲州・五日市街道 観泉寺 永福寺 高円寺
 不美人=ブスとは?  大宮八幡 ガンダム 妙法寺
 立教女学院 スチュワーデス殺人事件 東京女子大
 一家皆殺し放火 「疑惑の銃弾」 三浦和義 
 天保新水堀用水
 
 墨 田 区   東京スカイツリー 相撲は国技ではない 大相撲事件
 隅田川七福神 妊婦たらい回し死亡事件 回向院
 握りずし発祥 震災慰霊堂 鬼平・遠山の金さん
 王貞治生誕地 玉の井バラバラ事件 江戸東京博物館
 吾嬬神社 本所七不思議 もゝんじや 法恩寺 蓮華寺
  
 世田谷区   バンク・約束手形  花形敬  ウルトラマン 民家園 
 静嘉堂文庫 ボロ市 鷺草 西福寺 軍都池尻 東名
 羽根木公園 砧公園 駒沢公園 祖師谷一家殺人事件
 九品仏 多摩美 国学院 東農大 NHK技研 豪徳寺
 世田谷美術館 馬事公苑 烏山寺町 次大夫堀 仙川
 
 台 東 区   浅草寺 仲見世 浅草神社 三社祭 花やしき 上野公園
 鬼灯市 酉の市 待乳山聖天 佃煮元祖 旧岩崎邸
 八百善 今戸神社 アメ横 寛永寺 不忍池 花の吉原
 上野動物園 東京国立博物館 駒形どぜう 鬼子母神
 東京本願寺 東京芸大 谷中墓地 笹の雪 吉展ちゃん
 
 中 央 区   「銀ブラ」って、ブラブラ歩くことじゃないよ。 パウリスタ
 東京大空襲 アメリカの占領 蘭学事始 ティファニー 
 エルメス シャネル コーチ パリー セリーヌ プラダ
 カルティエ ディオール ルイ・ヴィトン 不二家不祥事
 三越・松屋・松坂屋・大丸・高島屋 築地本願寺 日本橋
 H&M 歌舞伎座 白木屋火事 日本銀行 金春芸者
 日本海軍発祥地 新橋演舞場 明治座 ハヤシライス
 
 千代田区   靖国問題・A級戦犯 女子学院 暁星 将門塚 消防庁
 警視庁 ていぱーく 桜田門外の変 ニコライ堂 武道館
 九段会館 楠公像 ホテルニュージャパン火災 近衛師団
 秋葉原無差別殺傷事件 神田明神 FM東京 丸ビル
 新丸ビル 丸の内物語 三菱重工ビル爆破事件 国会
 雙葉 専修大 日大 法大 明大、電機大 大妻 番町小
 東郷平八郎 日比谷公園 国際フォーラム 北辰一刀流
 
 豊 島 区   池袋の女 染井吉野 女子栄養学園 染井霊園 中山道
 おばあちゃんの原宿 とげぬき地蔵 庚申塚 本妙寺
 雑司が谷墓地 鬼子母神 土田邸爆破事件 山吹伝説
 目白不動 帝銀事件 立教 学習院 豊島岡女子学園
 【巻末特集】 東京の暴力団
 
 中 野 区   新井薬師 上高田寺町 童謡「たき火」 中野サンプラザ
 近隣騒音殺人事件 福蔵院 八幡神社(鷺ノ宮) 成願寺
 宝仙院 堀越学園 桃園川 丸井本店 中野ブロードウェイ
 東中野電車追突事故 光倶楽部事件 哲学堂公園 桃園
 【巻末特集】 江戸城 城門と橋  
 練 馬 区   いろはかるた 練馬バラバラ殺人事件 としまえん 
 ちひろ美術館 三宝寺 石神井公園 長命寺 清戸道
 良弁塚 武蔵大学 金乗院 練馬寺町 武蔵音大 
 グランドハイツ 練馬少年鑑別所 首継ぎ地蔵 円明院
 妙福寺 春日神社 増島家薬医門 練馬大根 愛染院 
 
 文 京 区   狛江 振袖火事 東京大学 拓殖大学 御茶ノ水女子大
 東京高等師範 教育大学 護国寺 弥生式土器 伝通院
 聖マリア大聖堂 高津教授殺人事件 東京ドーム 六義園
 小石川植物園 元町公園 桜蔭学園 順天堂大 かねやす
 日本女子大 湯島聖堂 湯島天神 東洋大 共同印刷争議
 
 港  区    増上寺 フリーメイスン 永坂更科 麻布学園 氷川神社
 乃木大将 ミッドタウン 六本木ヒルズ 善福寺 霊南坂
 東洋英和 ケネディ暗殺宇宙中継 愛宕山 小便小僧
 レインボウブリッジ 東京タワー 慶応義塾 自然教育園
 明治学院 虎ノ門事件 東宮御所 日本経緯度原点
 9・11(アメリカ同時多発テロ) 首謀者はチェイニー
 
 目 黒 区   滝坂道 目黒不動 法華騒動 円融寺 五百羅漢 東工大
 目黒ショック 日比谷線脱線事故 駒場野一揆 旧制一高
 駒場東大 駒場学園 滝坂道 行人坂大火 雅叙園 騎兵
 目切坂 権之助坂 太鼓橋 茶屋坂 槍ヶ崎事件 祐天寺
 酸素魚雷 音羽ゆりかご会 八雲学園 目黒のさんま
 



杉並区の地形
 杉並区は、武蔵野台地中央部に位置しており、区の大半は台地面で占められている。それら台地面
には、北部の妙正寺川、中部の桃園川・善福寺川、南部の神田川に沿って発達した大小の谷地が樹枝
状に分布している。台地なのに洪水に見舞われ易い不思議な土地柄で、対策として妙正寺川、神田川
の地下に巨大な貯水池を掘っている。また環七通りの地下にも巨大な貯水池を造ったが、将来は大田
区まで伸ばし海に排水する予定で地下河川となる。
 

■地形・地質と住宅地盤
 

 
台地面
 比較的海抜高度が高く起伏の少ない平坦面で、関東ローム層と呼ばれる火山灰土で覆われている。
関東ローム層は、上部のローム土(赤土)と下部の凝灰質粘土に大別されるが、自然堆積したローム
土は、安定しており比較的大きな強度が期待できるため、表土部分に注意すれば住宅地盤として良好
な場合が多い。河川の流域を除けば全体的に環境のよい住宅地を提供しているが、高級住宅地と呼ば
れる区域はない。
 

 
谷底低地
 台地部が小さい河川(妙正寺川・善福寺川・神田川)や水路などによって削られて形成された低地
で、台地部の間に樹枝状に分布している。台地を形成していた土砂が再堆積した土や有機質土(腐植
土)などが分布しており、非常に軟弱な地盤となっている。したがって長期的な沈下(圧密沈下)を
防止するような基礎補強策が必要となることが多い。江戸時代は人々は概ね高台に住んだので、水害
の被害は少なかったが、東京のドーナツ化現象で、杉並区にも地方人が殺到し、初めは高台を選んで
住宅を建てたが、次第に河川流域の低地が分譲されて、危険地帯にも人が住むようになった。昭和5
0年代の後半、河川の改修が行われると、雨量が多い場合には氾濫するようになった。堤防はないの
で切れるということはないが、溢れるということはある。
 
 



杉並区の変遷 


■東京府

 現在の杉並区の区域に入る江戸時代の20ヶ村(阿佐ヶ谷・馬橋・田端・成宗・高円寺・和泉・永
福寺・和田・堀之内・上荻窪・下荻窪・天沼・上井草・下井草・上高井戸・中高井戸・下高井戸・久
我山・大宮前新田・松庵)は、慶応四年(1868)6月29日松村武蔵知県事に属したのち、9月
8日の明治改元を経て、同2年2月9日武蔵知県事を廃して新たに設置された品川県に所属、同4年
7月14日の廃藩置県により、11月5日品川県が廃されて東京府に編入。同5年5月神奈川県に編
入替え。同9月10日東京府に再編入。同7年3月8日大区小区制により多摩郡が消滅し自治権を奪
われ第八大区に編入となる。この国家主義者大久保利通らの独善的強圧専制政治に国民が猛反発し、
不平武士の義挙・自由民権運動に発展した。同11年5月14日大久保が正義の刃を受けて斃される
と、新政府は慌てふためいて専制を緩め、大区小区制を廃し、7月22日「郡区町村編制法」を施行
して多摩郡に復すとともに自治権を回復した。11月2日多摩郡は4分割され当区は東京府東多摩郡
に編入された。同22年4月1日明治政府が初めて国民の自治を認めた「市制町村制」により前記2
0ヶ村を統合し、高井戸(上高井戸・中高井戸・下高井戸・久我山・松庵・大宮前新田)、井荻(上
井草・下井草・上荻窪・下荻窪)、杉並(阿佐ヶ谷・天沼・成宗・田端・高圓寺・馬橋)・和田堀之
内(和田・堀之内・和泉・永福町)の4ヶ村に集約、自治権をさらに拡大した。同29年4月1日東
多摩郡と南豊島郡が合併して豊多摩郡となり4ヶ村はその郡下となる。しかし大正12年4月1日郡
制は廃され、郡は単なる住居表示となった。同13年6月1日杉並村が、同15年7月1日高井戸村
・井荻村・和田堀之内村がそれぞれ町制に移行、このとき和田堀之内は和田堀と短縮した。昭和7年
10月1日豊多摩郡が東京市に編入され、20区増設のとき4ヶ村が合併して1区となり、高円寺・
阿佐ヶ谷を中心に発展し他に先んじていた杉並町の町名を区名にスライドさせて杉並区が成立した。
この時の町名数は81だ。
 


■東京都
 昭和18年7月1日内務省が東京市の自治拡大に恐れを抱き、東京市を廃して東京府と合体させ、
直轄管理の都制を施行、自治権を剥奪した。しかしアメリカに挑んだ日米戦争で叩きのめされ、明治
政府は敗北、内務省は解体されここにアメリカの属国となった。
 アメリカは、都政については都知事を公選制とし、その実施を命じたが、旧内務官僚はこれに抵抗
したが、情けないことにアメリカ人に人の道を諄々と説かれ、私利私欲独裁専制の非を悟らしめられ
て、すごすごと引き下がった。かくて公選制は確定し、都民が都知事を選挙で選ぶこととなった。だ
から国家権力は47都道府県の知事候補者に官僚出身者を一般国民に見せかけて押し出すのだ。三権
分立の基本からいえば、国家官僚は首長や議員になってはならないのだが、国民はそこんところが無
知で、権力が官僚を候補者に押し出してくると仕事が出来るなどと判断して当選させてしまう。官僚
首長は、力関係からどうしても国家権力との癒着、間接管理が行なわれてしまうから、国会議員、知
事に官僚出身者が多いのは、民主主義を悪用した中央集権のためなんだよ。官僚が国会議員や知事に
なっては、物理的に民主主義も、地方分権も行なわれえないぞ。
 昭和22年5月3日地方自治法により都の行政区から特別区となり、区長公選制となったが、旧内
務官僚は、GHQ(占領軍最高司令部)の撤退を見るや、公選制を廃し、選任制に改めた。しかし昭
和50年悪徳政治の打破を目指した区民の抵抗が実り、再び区長を公選にする権利を取り戻した。内
務官僚は自治官僚と名を変え、現在では総務官僚と名を改めて国民を権力の息の下に置こうと目論ん
でいるんだ。流血革命を起こして悪徳官僚を殺してしまわない限り、天下りがなくなる訳が無いだろ
う。
 昭和30年代になると、郊外に建設された団地などからの通勤者が急増した結果、中央線の混雑度
は300%になり、パンク寸前に。オレンジ色の車両が登場したのは同32年だ。
 混雑を緩和させるために投入された新型車両だが、その後も団地などの建設が続けられたために混
雑度が緩和されたのは一時的だった。一方、国鉄のターミナル駅は、国鉄が山手線の内側への私鉄乗
り入れを拒絶し続けたためにさらに酷い混雑となった。そこで、中野駅-三鷹駅間の高架複々線化と
山手線内側を通る地下鉄の建設が始まった。高円寺、阿佐ヶ谷、西荻窪は同じ様式の高架駅になった
が、荻窪駅は同30年代まで荻窪駅にあった貨物線の跡地にホームを増設して地上のままで複々線化
され、残りの土地には駅ビルが建設された。
 平成12年4月から特別区制度改革と地方分権改革が行なわれ、清掃事業など区民に身近な仕事を
区が行うことになったのをはじめ、財政面でも自主性は強化されることになり、杉並区は「基礎的な
地方公共団体」として新しい時代を迎えた。

 新住居表示が完了した昭和52年の町数は36、そのまま現在に至っている。高級といわれる住宅
地は特にないが全体が落ち着いた純住宅区。中でも善福寺地区の静寂で上品に落ち着いたたたずまい
は田園調布や成城の一等地に勝る。
 友好・姉妹都市は、ウィロビー(オーストラリア)・ソウル市ソッチョー区(京城市瑞草区)・北
海道風連町・群馬県吾妻町。
 区役所は南阿佐ヶ谷にあり、行政資料コーナー・図書館・郷土資料館は安定し地域資料は豊富だ。


■区歌「杉の木立に」 作詞・作曲?  唄・橋幸夫
  1.杉の木立に姫椿
    光り輝く文化の町よ
    心触れ合う人がいる
    笑顔を見交わす人がいる
    手を取り合って和を広げ
    共に栄える杉並区
  2.恵み豊かに水清く
    夢を浮かべて流れる川よ
    心明るい人がいる
    幸せ育てる人がいる
    緑の町に愛の花
    薫る我が町杉並区
  3.遠い歴史を礎に
    明日に羽ばたく若さと力
    心優しい人がいる
    喜び分け合う人がいる
    希望の歌を肩組んで
    共に歌おう杉並区
 


■区の木
 昭和48年11月1日スギ・メタセコイヤ・サザンカを区の木と制定した。区の鳥・区の花の制定
はない。但し

 
スギ

 メタセコ

 
アケボノスギ(メタセコイヤ)

 メタセコ
イア(学名:Metasequoia glyptostroboides)は、スギ科メタセコイア属の針葉樹。一属
一種。アケボノスギ(曙杉)は和名、イチイヒノキ(一位檜)。英名dawn redwood。但し化石種と現
生種を別種とする学説もある。昭和14年に日本でセコイアに似た化石が発見された。化石発見者の
三木茂博士により『メタセコイア』と命名され、同16年に学会へ発表された。初め化石として発見
されたために絶滅種とされていたが、同20年に中国四川省磨刀渓村(現在は湖北省利川市)の「水
杉(スイサ)」が同種とされ、現存することが確認されたことから「生きている化石」と呼ばれるこ
とも多い。その後、同24年に国と皇室がそれぞれメタセコイアの挿し木と種子を譲り受け、葛飾水
元公園、埼玉・別所沼公園など全国各地に植えられている。区内では区役所前にある。

 山茶花

 「山の茶の花」という名前よりは遥かに豪華な花だ。特に冬の色気のない景色の中で赤や白の山茶
花の花は目立つ。山茶花と椿は似ているが、椿の花は落ちる時にボテッと全部一遍に緒に落ちてしま
う。このことが斬首刑を連想するので武士は椿の花を庭に植えなかった。蓋し黒沢明の「椿三十郎」
は話自体がありえないということだ。山茶花は花びらが一枚一枚ばらばらに散る。唱歌「焚き火」で
「さざんか」は知っていても、漢字で書かれているのが読めなかったろ。昔「山茶花究」という俳優
がいたが、この命名の由来は、さざんがきゅう(3×3=9)を芸名にしたんだよ。
 


■教育施設
 小学校 公立43・私立3
 
杉並第一~第四・杉並第六~第十・西田・東田・馬橋・桃井第一~第五・四宮・荻窪・井荻・沓掛
 ・高井戸・高井戸第二~第四・松庵・浜田山・富士見・大宮・神泉・堀之内・和田・方南・永福・
 永福南・済美・八成・三谷・松ノ木・和泉・高井戸東・久我山・天沼(杉並第五+若杉)
 
光塩女子学院初等科・東京文化・立教女学院

 
中学校 公立23・私立9

 高円寺・高南・杉森・阿佐ヶ谷・東田・松渓・天沼・東原・中瀬・井荻・井草・荻窪・神明・宮前
 ・富士見丘・高井戸・向陽・松ノ木・大宮・泉南・和田・和泉・西宮。
 
杉並学院・光塩女子学院・佼成学園・國學院大學久我山・女子美術大学附属・東京立正・日本大学
 第二・文化女子大学附属杉並・立教女学院

 
高等学校 公立6・私立12

 荻窪・杉並・杉並綜合(永福・桜水商業)・杉並工業・農芸・豊多摩
 杉並学院・光塩女子学院・佼成学園・國學院大學久我山・女子美術大学附属・東京立正・日本大学
 第二・文化女子大学附属杉並・立教女学院・専修大学附属・中央大学杉並・日本大学鶴ヶ丘

 
大学 私立3

 東京女子・高千穂商科・明治(和泉校舎)

 短期大学 私立3
 女子美術大学短期大学部・東京立正女子・立教女学院


文化施設
 和田堀公園、善福寺公園・緑地、観泉寺・妙法寺・井草八幡などの憩いのがある。内陸区なので天
変地異でもない限り発展の見込みはないが悲観的未来が待ち受けている訳ではない。


■外国公館
 なし
 


杉並の由来
 明治22年上・下荻窪村と上・下井草村の4ヶ村が統合したとき村名に困り、江戸時代に田端・成
宗両村を領していた岡部氏が、境界の目印に並べて植えた杉の木が成長して杉並木となったことによ
り、旅人や市場に通う百姓が、「杉並に行ったら一服しよう」など、道中の目印として語る内に俗称
となっていたことにから、4ヶ村に当たり障りのない名前ということで各村とも妥協承知した。その
杉並木は明治時代には取り払われてしまった。なお区役所西脇から阿佐ヶ谷駅に向かう並木は、戦後
復興の一環として植えたもので杉並の起こりとは関係がない。
 

 杉並病

 1996年頃から都清掃局杉並中継所井草森周辺の住民が、化学物質過敏症に類似した健康被害を
訴え続けている問題。詳細は「上井草」を参照されたい。
 


■青梅街道
 この街道は慶長十一年(1605)に大久保石見守長安が、青梅の成木・小曾木の石灰を江戸城の
白壁材料にとして運ぶために成木街道を整備して開設した経済道路で、道幅はほぼ四間(7.2m )
で、新宿3丁目交差点(新宿追分)と青梅を結んだ。街道としては更に大菩薩峠を経由して甲府市山
崎交差点(甲州酒折宮)で甲州街道に合流した。但し現在は大菩薩峠は越えていない。軍用道路とし
ての甲州街道とは性格が異なるが、甲州街道より2里短く、関所がなくて歩くに易いことから「甲州
裏街道」とも呼ばれて利用度は高かった。青梅街道と呼ばれるようになったのが何時頃なのか判らな
いが、江戸中期には紀行文や絵図に見られ、俗称としてあったが、青梅街道に統一されるのはとなる
のは明治以後のことだ。成木街道は牛込城に通じていた道で、淀橋と新宿3丁目間は大久保長安が新
設したもので、宝永四年(1707)石灰の輸送が川越からの水運に移されてからは、材木・薪炭・
織物・沿道の農作物の、逆方向には江戸の下肥の輸送路となり、いつしか〝肥担桶街道〟と悪口で呼
ばれるようになった。宿場は中野・田無・小川・箱根ヶ崎・青梅・氷川・丹波山村。
 明治2年新宿~田無間に乗合馬車が開通し、多摩地区と都心を繋ぐ生活道路として定着していく。
明治11年には最大の難所だった大菩薩峠を迂回するルートとして柳沢峠が開削され、大菩薩峠を通
るルートを変更した。大正10年には、新宿・荻窪間に路面電車(西武軌道)が開通。この電車は昭
和17年都電杉並線(17系統)となったが、青梅街道の地下に営団地下鉄荻窪線(現丸ノ内線)が
同37年に開通したことに伴い翌年廃止された。
 現在の起点は、新宿大ガード西交差点で、新宿追分から新都心歩道橋下交差点までの青梅街道は忘
れ去られている。正式には都道5号線→国道411号線→県道218号線→県道205号線→国道1
40号線→県道6号線を繋いだ道路で、現在では都道5号線の通称となっている。
 


■甲州街道
 江戸幕府によって整備された五街道の1つ。詰の城としての甲府城へ、将軍が逃避する必要のある
場合を考慮して造られた。四谷見附~調布滝坂は新設道路で、それ以前は、青山通り~滝坂道が甲州
路だった。その道路は現存する。目黒区の滝坂道を参照されたい。なお江戸時代の甲州街道は、中央
高速道路の敷設で破壊され、全線は残っておらず、辿ることはできない。
 起点の日本橋から内藤新宿、甲府を経て下諏訪宿で中山道と合流するまで、38の宿場が置かれ、
「甲州海道」「甲州道中」とも呼ばれた。江戸の町において陰陽道の四神相応でいうところの白虎が
いる街道で、「中馬」による陸上運送が行われた。中馬とは、江戸時代中頃から明治初年にかけて、
信州で物資輸送のために用いられた馬。またその馬を用いて行われた輸送のこと。伊那地方の農民が
副業として始め、信州全域に及んだもので、宿馬などとたびたび抗争した。

 宿場は、日本橋→内藤新宿→高井戸(上・下で半月交代)→布田(国領・下布田・上布田・下石原
・上石原の5宿)→府中(新宿・番場町・本宿)→日野→八王子(新町十王堂・横山・八日市・本・
八幡・八木・子安・馬乗・小門・本郷・上野・横町・寺町・久保・嶋坊の15宿)→駒木野→小仏→
小原→与瀬→吉野→関野→上野原→鶴川→野田尻→犬目→鳥沢→猿橋→駒橋→大月→花咲→下初狩→
中初狩→白野→阿弥陀海道→黒野田→駒飼→鶴瀬→勝沼→栗原→石和→甲府→韮崎→台ヶ原→教来石
→蔦木→金沢→上諏訪→下諏訪。
 現在我々がいう甲州街道は、江戸時代の道筋にほぼ沿うように作られた国道20号線で、特に四谷
4丁目交差点より西の区間が、昭和37年に東京都通称道路名として指定されている。四谷4丁目交
差点より東の区間では、四谷見附までは「新宿通り」、四谷見附から半蔵門までは「麹町大通り」と
呼ばれている。新宿から西では渋谷区本町、世田谷区烏山、調布市、府中市、日野市、八王子市で、
新・旧に道が分かれている。
 


■五日市街道
 江戸時代の脇往還。戦後横田基地との連絡のためにアメリカ軍が改修した道路。梅里で青梅街道と
分かれると、松ノ木を過ぎて善福寺川を尾崎橋で渡り、大宮前、松庵を経て武蔵野市に入り、小金井
の桜堤を通り、砂川、福生を通って五日市に達する総長57kmの最も長い都道だ。かつて青梅街道
から南、高井戸村境までの間は一面に茅の生えた原野で、幕府の屋根材料としての「御用茅場」に指
定されていた。それで「無断刈り取り禁止」の制札が立てられていたことから、人々は「御札茅場千
町野」略して「御札」「千町野」と呼んだ。しかし明暦の大火から4年連続で江戸に大火がおきたた
め、幕府は江戸市中の茅葺きを禁止し、千町野の刈り取りの禁を解き、焼け出された町人や、農民の
次、三男対策として開墾を奨励した。大宮前・松庵、吉祥寺にかけて五日市街道、井の頭通りの両側
の区画が、細長い短冊状をしているのはこのときの開発農地の名残りなのだ。五日市街道は、明治以
降の俗称で、正式には「東京都道7号/杉並あきる野線」という。それ以前は目的地に向かって「伊
奈道」「砂川道」「江戸道」「五日市道」などと呼び、街道の名前としては「長新田道」「青梅街道
脇道」「青梅街道裏道」と呼ばれた。
 


■鎌倉古道
 世尊院観音堂の西側の松山通りだ。これは旧中杉通りでもある。昔は「権現道」といい練馬区貫井
の清戸道に通じている〝子の権現(円光寺)〟東の須賀神社の正面(旧目白通り)に突き当たる。逆
方向は、阿佐ヶ谷村に至るので「阿佐ヶ谷道」といった。因みに「鎌倉街道」という言葉は、文政年
間に発行された「新編武蔵風土記稿」に記載されたのを初めとするが、「鎌倉道」というのが一般的
だった。現在「街道」と名の付く道路の多くは明治以後のものだ。鎌倉に向う道、鎌倉に向う道に通
じている道は総て鎌倉道といったから、関東地方には幾つもの鎌倉道・鎌倉街道があったし、現在も
ある。鎌倉時代に公式に鎌倉道として認定されていた街道でも上・中・下の3ルートがあった。
 


神田川
 井の頭池(狛江)に源を発して江戸城外濠に流れる川。天正十八年(1590)徳川家康が江戸転
封を決意して最初にやらせたことが飲料水の確保で、大久保藤五郎忠行は江戸川の高田に堰を築いて
「小石川上水」を引いた。高田の堰までは新規に人工の川を掘ったのではなく元々あった流れを整理
したものだ。それ以前、この川は白鳥池という湿地に流れ込み、さらに大沼に落ち、そこから平川と
なって日比谷入江、一流は森木(のち日本橋)に流れ江戸湾に落ちていた。この川を当時なんと呼ん
でいたのか正確なところは判らないが、江戸に向かって流れていくので「江戸川」と呼ばれていたよ
うだ。上水の開鑿後は、上水が「新川」であるのに対して「古川」とも呼んだ。伝説の面影橋、駒止
橋(駒塚橋)、姿不見橋(淀橋)など架かっていたのだから間違いなく水の流れはあった訳で、上流
は現在のような1条の流れではなく、幾条かに分かれて蛇行していた。当時は本流も分流も川幅に差
はなく、中野区の和田見橋上流で善福寺川を合わせ、さらに桃園川を拾い、新宿区の滝沢橋下流で妙
正寺川水系を受けた。幕府は後年更なる整備改修を行って、井の頭池からの流れを「神田上水」と命
名し、直轄管理した。日本に全線が自然流という川はない。水は低きに流れるものでその方向は替え
られないが、流路は人間の都合でどうにでもした。井の頭池一帯の森林は、自然林ではなく保水のた
めに幕府が植林したものだ。江戸の周辺に数多くの鷹場を御留山として農民の立入禁止にしたのも、
人間の得手勝手な乱開発を防ぐためである。戦後の拝金主義的経済政策が国を滅ぼそうとしている現
況を見れば、江戸時代の人間の賢さが見えてくる。
 現在分流の跡は概ね道路や遊歩道として残っており、これらを尋ねて歩くのもまた結構楽しい散策
だ。耕地整理・河川改修が行われたのは昭和50年代で、その時から現在の流路・川幅・深さ・コン
クリート護岸となった。
 
 



じゃあ杉並区を始めるよぉ~


【阿佐谷北】(あさがやきた)1~6丁目                昭和40年1月1日
 阿佐ヶ谷村。明治11年「郡区町村編制法」により東多摩郡に所属、同22年「市制町村制」に
より杉並村大字阿佐ヶ谷、大正13年杉並町大字阿佐ヶ谷、昭和7年東京市編入20区増設により
杉並区阿佐ヶ谷1~6丁目。昭和40年新住居表示により阿佐ヶ谷3・5~6丁目の全部・4丁目
の大部分に、阿佐ヶ谷1~2丁目・天沼2丁目・馬橋3~4丁目の各一部をあわせた町域を現行の
「阿佐ヶ谷北」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『杉並区史』『杉並の歴史』など。


 阿佐ヶ谷の由来
「浅ヶ谷」ではないかいわれている。「麻ヶ谷」だろうという説もある。港区の麻布を「阿佐布と
も書いたので故なきにあらずだ。多摩は麻布を沢山生産したので「多麻」だそうだ。どっちにしろ
阿佐ヶ谷は谷(低湿地)であることに相違はなく、現在の阿佐ヶ谷で低地といえば桃園川流域だ。
昔は二本も三本も川が流れていた。元伊勢と呼ばれる天祖神社の旧地が阿佐ヶ谷北5丁目にあるこ
とからして、浅い谷は1・5丁目の間の桃園川流域だ。

 阿佐ヶ谷北について
 中央線以北の阿佐ヶ谷地区の意。
 


■阿佐ヶ谷けやき公園

 阿佐谷北1丁目1番1号にある区立公園。


■阿佐ヶ谷けやき公園プール

 阿佐谷北1丁目1番22号の阿佐ヶ谷けやき公園にある。
 


■杉並第一小学校(区内最古の公立学校)

 阿佐谷北1丁目5番27号にある区立校。明治8年中野宝仙寺に六小区22ヶ村の児童を吸収すべ
く「第一大学区東京府管内第三中学区第九番公立小学桃園学校」が開校したが、六小区は範囲が広く、
馬橋・高円寺・阿佐ヶ谷・天沼・田端・成宗6ヶ村の児童を通学させるために「第一分校」として東
多摩郡馬橋村の清見寺を仮校舎として開校、児童数は72名だった。同9年独立し「二十五番小学桃
野(とうや)学校」と改称。同12年教育令発布により学区番号が廃され「東京府東多摩郡桃野小学
校」と改称。制定年は不明だが校歌がある。

 桃野小学校校歌「天空高く」 作詞・安西庫司  作曲・不明
  1.天空高く亭々と
    万古不易の色見せて
    林の王と謳わるる
    地名を帯ぶと知らざるか
  2.ここ武蔵野の平原に
    杉の名負へるこの村は
    自治の模範と仰がるる
    使命を帯ふと知らざるか

 同17年東多摩郡阿佐ヶ谷村(現在地)に新校舎が落成して移転。同19年「小学校令」の発布に
より尋常科4年の義務教育となり、「東京府東多摩郡桃野尋常小学校」と改称。同35年「東京府豊
多摩郡杉並第一尋常小学校」と改称。同41年小学校令改正により義務教育年限が6年となる。大正
14年高等科を併置し「東京府東京市杉並第一尋常高等小学校」と改称。昭和6年校歌制定。

 
杉並第一尋常小学校校歌 歌詞・職員共同制作 補作・葛原滋  作曲・福井直秋
  1.紫匂ふ武蔵野に
    古き創立の学舎と
    聳ゆる杉の語るなる
    誉れある我が校
    杉並第一 杉並第一
  2.真面目の校訓胸にしめ
    永久に栄ゆる杉並の
    伸び行く杉の示すなる
    矜持つ我が校
    杉並第一 杉並第一


 同7年周辺郡部が東京市に併呑され杉並区が成立。「東京府東京市杉並第一尋常高等小学校」と改
称。同16年勅令第148号国民学校令により「東京府東京市杉並第一国民学校」と改称。12月日
米開戦。同18年都制施行により「東京都杉並第一国民学校」と改称。同19年8月長野県小県郡西
内村鹿教場に学童集団疎開。同20年3月愚かなアメリカ軍の非人道的無差別空爆により校舎の一部
に延焼するも当直職員の機転で消し止める。これを受けて長野県北佐久郡岩村田町に第二次学童集団
疎開。8月日本は、ならず者国家アメリカの軍門に降り敗戦。以後属国となり、唯々諾々として言い
成りになる保守傀儡の政権を保持せざるを得ない今日的不幸を背負い込む。売れない国債を買わされ
るやら、思いやり予算やらでもう200兆円がとこ持って行きゃあがったよ。女の子がレイプされて
も地位協定とやらで泣き寝入りさせられるし、これからの若い者は、傀儡政権の掲げる国際協力の名
の下、アメリカが仕掛ける戦争で、アメリカ軍の尖兵として、最前線の激戦地に送り込まれることに
なるぜ。ったく酷えもんだ。

 同22年アメリカの強制による学制改革により、「東京都杉並区立杉並第一小学校」と改称。それ
までの父兄会を廃止して、アメリカ式PTA設立。同27年新校歌制定。

 校歌「昇る朝日」 作詞・藤原みゆき  作曲・平井康三郎
  1.昇る朝日は阿佐谷の
    杉の木立に色映えて
    文化の国の礎を
    築く我らの学校に
    おお日は昇る
    希望は燃え立つ
  2.強く明るく真っ直ぐに
    長い歴史を輝かに
    喜び学ぶこの校舎
    行く手遥かに栄えあれ
    おお花開く
    杉並第一
 

 同33年5月西校舎(鉄筋コンクリート造り3階建て9教室)落成。同35年北校舎西部分(鉄筋
コンクリート造り4階建て6教室)落成。同36年北校舎東部分(鉄筋コンクリート造り4階建て9
教室)落成・体育館完成。同40年3月プール完成。同44年ことばの教室開設。同50年開校10
0周年記念式典・記念碑建立・記念誌発行。同52年体育館増築(舞台完成)。同55年屋上舗装・
屋上教材園改修。開校105周年記念として校舎壁面に校章取付。同61年ことばの教室を杉並第十
小学校に移転。家庭科室・図工室改修。校舎外壁塗装。同62年ことばの教室跡を視聴覚室に改修。
 平成4年校庭改修。同5年給食室改修。図書室をパソコン教室に改修。同12年地方自治法改正に
伴なう学校教育法改正により、校名から東京都の冠称が取れ「杉並区立杉並第一小学校」と改称。開
校125周年記念式典。同16年防犯カメラ設置。民間警備員配置。同20年教室用パソコン設置。
 


■相沢喜兵衛家 欅屋敷
 
 阿佐谷北1丁目6番3号にある、JR中央線阿佐ヶ谷駅の東北、杉並第一小学校の東隣の広大なお
屋敷だ。その昔、冬の砂混じりの強風や台風から家を守るため、家の周りにケヤキやカシの木が植え
られた防風林を〝屋敷林〟といった。今でもその面影をとどめているのが、通称『欅屋敷』と呼ばれ
る相沢邸だ。鬱蒼と茂るこの森は、阿佐ヶ谷村の名主の私有地。当時の建物は昭和20年のアメリカ
軍の無差別空爆という愚行で、樹齢400年以上、高さ40mという大樹40本が燃やされてしまっ
たが、南側の門周辺には十数本の欅が今も残っている。樹齢400年といわれる欅の林は、大正8年
に東京府指定史跡に、昭和39年には都の保存林に指定されている。相沢喜兵衛は世襲名、区内で高
井戸の内藤庄右衛門とともに認められている由緒正しいというか、珍しいというか大層なお家柄なの
だ。その上でこの屋敷林を維持しているとはおっ魂消た。
 


■阿佐ヶ谷北児童遊園

 阿佐谷北1丁目11番3号にある区立公園。


■神明宮 → 阿佐谷天祖神社 → 阿佐谷神明宮
 阿佐谷北1丁目25番5号、相沢邸欅屋敷の北にある阿佐ヶ谷村の鎮守。祭神は天照大神。維新以
来阿佐ヶ谷天祖神社と称えていたが、平成14年に大改装をしたのを機に江戸時代の呼称に戻した。
境内地は約3000坪の森をなしており、シイ、カシ、クス、ケヤキ、イチョウ等の巨木も多く、東
京都内最大の伊勢神宮勧請の神社だ。一方JR阿佐ヶ谷駅から徒歩2分の交通至便の地にあるため、
年間を通し数十万人の参拝者で賑わう。『江戸名所図会』に、

   景行天皇の四十四年に、日本武尊御東征の帰途、ここに休まれたので、のちに里人が尊の
   武功を慕って神明社を建立した。建久の頃(1190~26)横井兵部が伊勢五十鈴川か
   ら持ち帰った霊石を御神体とし、僧祇海が社を今の地へ移した。


 「ここ」とは、5丁目35番の「お伊勢の森児童遊園」から杉森中学校の一円をいう。戦後宅地化
されるまでその辺りには広大にして鬱蒼たる森があった。
 建久年間(1190~98)には土豪横井兵部(一説には横川)が伊勢神宮に参拝した折、神の霊
示を受け、宮川の霊石を持ち帰り神明宮に安置したと伝えられている。その後江戸時代中頃に至り、
祇海という僧が神告により社を現地に移し、世尊院が別当職を勤めたといわれる。
 江戸時代から、御神体が石棒であることから庶民の信仰が篤く、その一端を示す「内藤新宿仲下旅
籠屋中 仲下茶屋中」の文字が刻まれた、文政十一年(1828)の銅製の三本御幣が奉納されてい
る。

   阿佐谷神明宮
   この神社は、旧阿佐谷村の鎮守で、主祭神は天照大御神です。
   天保七年(1836)に刊行された『江戸名所図会』巻四によると、日本武尊が東征の帰
   途阿佐谷の地で休息し、のちに尊の武功を慕った村人が旧社地(現阿佐谷北5‐35付近
   同周辺一帯をお伊勢の森と称した)に一社を建て、神明宮を勧請したのが当宮の始まりと
   いわれます。
   建久年間(1190~1198)には土豪横井兵部(一説には横川)が伊勢神宮に参拝し
   た折、神の霊示をうけ、宮川の霊石を持ち帰り神明宮に安置したと伝えられています。そ
   の後江戸時代中頃に至り、祇海という僧が神告により社を現在地に移し、世尊院が別当職
   を勤めたといわれます。
   当宮は、村をこえた地域の信仰も篤く、その一端を示す「内藤新宿仲下旅籠屋中 仲下茶
   屋中」の文字が刻まれた文政十一年(1828)の銅製の3本御幣が奉納されています。
   秋の例大祭に能楽殿で奉納される「阿佐ヶ谷囃子」(杉並区登録無形民俗文化財)は、江
   戸時代末期からの伝統があり、区内では早くに伝えられた囃子です。ここから井草囃子を
   はじめ、鷺宮(中野区)、戸塚(新宿区)などに流布していったといわれます。
   平成23年7月                         杉並区教育委員会


 なお社殿は神楽殿と共に、昭和天皇御在位60年の記念事業の一環として、昭和61年より3年の
歳月を費して整備したものを、平成21年秋に「平成の大改修」が無事竣工し、神明作りの御殿・神
門、新しい祈祷殿・能楽殿などが誕生致した。
 秋の例大祭に神楽殿で奉納される「阿佐ヶ谷囃子」は、江戸時代末期からの伝統があり、豊年万作
を祝い神に感謝するための奉納囃子として有名。

 大鳥居・表参道
 正面入口にある。

 手水舎
 大鳥居の先、右手にある。

 力石
 手水舎の奥にある。

 能楽殿
 本格的な能・狂言の上演、祭りの際の阿佐ヶ谷囃子(杉並区無形文化財指定)や神楽など、様々な
伝統芸能の奉納に使用している。鏡板の松の絵は、狩野宗家系列の能画家・作面家の手になるものな
ので、伝統的な狩野派の構図を踏まえながら現代感覚を採り入れ、モダンな印象に仕上げた作品だ。
この能楽殿では今後も和の伝統文化の発信基地として、様々な芸術活動にも使用されるよう企画して
いく予定だとか。意欲的だね。

 神明殿(参集殿)
 神社の総合案内の窓口である社務所と、各種祭典後の〝お清めのお食事〟会場として、また年祭の
直会会場としても利用される。神明殿2階大広間「金の間」は、椅子席で定員70名までの直会を行
うことができる。

 北野神社
 菅原道真を祀るが、「合格」を意識した「五角」形の鳥居が面白い。

   学問の神様菅原道真公をお祀りしております。珍しい五角形の鳥居は〝合格〟にちなんで
   おり、受験シーズンには、受験生がこの鳥居を潜って〝合格祈願〟のお参りをしています


 
天の岩舟
 神楽殿の奥右手にある。

 夫婦欅
 日本に夫婦欅は数々あるが、ここのものはその佇まいの美しさで日本随一だ。根を併せてぴったり
と寄り添って天高く聳えている。巨樹・古木に神が宿るという考え方は日本古来のものだ。それを神
木として祀るのは、万物への感謝を意図した。元々あった神木の大欅が枯死したため、昭和初期に地
元の青年団で若木を別々に植えたものだが、90年経った今日、斯様に寄り添うところとなった。そ
の後夫婦欅と呼ばれるようになったが、最初から意図したものではない。微笑ましい光景ではある。

 猿田彦神社
 神門に入る手前にある。

   天孫降臨の際、高天原から地上まで天津神を案内したといわれる猿田彦大神をお祀りして
   おります。この故事より道開き・開運の神様といわれております。


 というからは、猿田彦は原住日本人つまり縄文人か? ユダヤ人の伝承に「ユダヤ12支族の一支
族(レビ族)が東方に行って日本人になった」というのがあり、原住日本人が逃げて来たユダヤ人を
受け入れたということか。長野に姥捨山がある。ここは「田毎の月」て有名な月の名所だ。中東にウ
バシュチという月の名所がある。「ゾウリ」というのはヘブライ語で「履物」だ。青森県の戸来には
キリストの弟の墓と称する石造物がある。この祝詞はチンプンカンプンだが、ヘブライ語で理解する
と意味が通じるらしい。古式神道の儀式とユダヤの儀式に共通するところが多い。

 瑞祥門
 神域に入る神門だ。「つ」の字形に曲げられた参道にある。

 元宮
 拝殿の右手にある3連小祠。伊弉諾・伊弉冉・日本武尊を祀る。

 拝殿
 かつて本殿の前に繋がっていたものを切り離し、壁などを取り払い参拝に来る人々が、この拝殿を
通して本殿、摂社をお参りすることが出来るようにした。また例大祭などの重要な祭事を執行する場
として新たに整備し、より荘厳な儀礼を行えるようになっている。

   八難除祈祷(すえひろ祈願)
   八難除とは、年齢からくる厄年の災い(厄除)、方位や地相・家相を犯したことに起因す
   る災い(八方除)火や水、人の災い、因縁からくる災いなど現世に数多ある災難厄事を全
   て古来より伝承された儀式と祝詞により取り除くご祈祷です。更に当宮では、ご祭神であ
   る八百万萬の神々の中心天照皇大御神のご加護をいただいて、皆様の人生が素晴らしいも
   のになるように、それぞれの願い事を八十八種の招福祈願からお選びいただき、神様にお
   伝え致します(すえひろ祈願)
   また八灘除は古くより正五九(しょうごく)参りと呼ばれ、四ヶ月毎に祈願するのが正し
   いとされています。特に年三回のご祈願を三年間繰り返すことは九重参りともいわれ、最
   も丁寧なご祈願の方法です。
   〈八灘除〉
   厄年・方位・地相・家相・火の災い・水の災い・人の災い、因縁など、神羅万象全ての災
   い除け
   〈すえひろ祈願〉
   ・お体の健康に関するご祈願・お仕事や商売に関するご祈願
   ・ご家庭の中に関するご祈願・良縁や結婚に関するご祈願
   ・学業や合格に関するご祈願・車の交通安全に関するご祈願
   ・様々な悩み事を解決するご祈願
   詳しくは受付でお尋ねください。

 本殿(御垣内三殿)
 中央の本殿には阿佐谷神明宮祭神天照大御神を祀り、左右の摂社には、右に月読命、左に須佐之男
命を祀っている。古事記に於けるこの三貴士(みはしらのうずのみこ)を祀ることは珍しい。
 本殿は昔から鎮座していしたものを、拝殿と切り離して曳家によって移し、摂社には嘗ての天祖神
社の木材を用い、足りないところは米ヒバを以て建立されている。本殿と摂社にはそれぞれの祭神の
象徴を象った装飾が施されており、天照大御神は太陽、月読命は月、須佐之男命は海をあしらってい
る。社を分散した結果、広々とした清々しさを覚え息苦しくなくなった。
 ・三貴士
 伊弉諾(伊邪那岐 イザナギ)の左目から生まれた天照大御神、伊弉諾の右目から生まれた月読命
伊弉諾の鼻から生まれた須佐之男(素戔嗚 スサノオ)、伊弉諾から生まれた神の中で最も尊い神で
あるため三貴士または三貴神という。

 伊勢神宮別宮鳥居
 平成25年10月に行われた20年に一度の伊勢神宮の式年遷宮。その建て直しに伴い、杉並区で
は初めて伊勢神宮別宮の鳥居が『阿佐ヶ谷神明宮』に下賜された。これを記念して平成26年12月
30日~同27年1月15日まで境内にて展示、同年初夏には「お木曳き」を行った。同年9月例大
祭に併せ神職、巫女一同が衣冠束帯、本装束で時代絵巻さながらに「くぐり初め」。

 降臨殿(祈祷殿)
 社殿の左手にある。旧社殿の木材で使用できるものを出来る限り活用し、主要木材としてヒバ、ヒ
ノキを使用した木造平屋神明造りの建物。大屋根には新しい銅板を約3000枚使用し、外壁は漆喰
で仕上げた。祈祷の受付並びに授与所も拡張し、祈祷待合所は冬でも暖かい床暖房となっている。奥
には天照大御神の荒魂(伊勢神宮の別宮の神)と、豊受大神(伊勢神宮の外宮の神)が同時に祀られ
ている。神の御魂の穏やかな姿を「和御魂(にぎみたま)」といい、時に臨んで格別に顕著な神威を
現す魂の働きを、「荒御魂(あらみたま)」と称える。荒御魂は神の荒々しい側面、荒ぶる魂でもあ
る。阿佐ヶ谷神明宮では降臨殿(祈祷殿)にて、天照大御神の荒御魂を祀っている。

 長久門
 拝殿と降臨殿の間にある門。

 儀式殿
 主に、春分・秋分の日に祖先の霊をに畏まる合同祖霊祭を執行する場所。祖霊祭は命日などに神職
が祭詞を奏上し、御霊に畏まり、その遺徳を永く称えると共に、「子孫が栄えて欲しい」という祖先
の願いに対し、親族を招き、子孫の姿を奉告するものだ。祖先の御霊は常に守護神として子孫を守っ
り、残された子孫による霊祭が繰り返されることで、次第に霊が浄化し、より高い神々の列に加わっ
ていくと考えられてきた。

 西参道・西大鳥居
 西の入口。
 


阿谷山世尊院正覚寺
 阿佐谷北1丁目26番2号、神明宮の西隣にある真言宗豊山派の寺。永享元年(1429)阿佐ヶ
谷南3丁目9番にあった宝仙寺が中野坂上に移った頃に創建されたといわれる。宝仙寺の移転を惜し
む村人のために子寺として建てられたようだ。本尊は不動明王だ。境内は中杉通り新道(都道133
号線)の敷設で境内を東西に真っ二つにされ、本堂を移転、観音堂(大悲殿)を境外仏堂とした。観
音堂に祀られている聖観音は、南北朝時代(1336~92)の作で、寺の草創の古さを物語ってい
る。北側から東側は桃園川の低地で、古代から人の住める環境。太古から暮らしの営みがあったのだ
ろう。甲州街道下高井戸橋から、永福、大宮、松ノ木を通って北上してきた街道が、山門に突き当たっ
て左に折れ北にカーブしていく権現道(旧中杉通り)となった。現在の中杉通りは戦後に敷設された
新道で、何度もいうが寺の境内のど真ん中をぶち抜いたのだ。明治22年~大正11年の間、村役場
が置かれていた。やたらめったら石仏がある。

   世尊院
   世尊院は阿谷山正覚寺ともいい、真言宗豊山派の寺で本尊は不動明王です。創立は、現在
   中野区にある宝仙寺が阿佐谷から移転した頃と伝えられ、武蔵名勝図会には、その時代を
   永享元年(1429)頃と記されています。この移転以前の宝仙寺は、現在の阿佐谷南三
   丁目9番付近に山門を構え、当時の寺領は、中央線の阿佐谷駅付近にまで至る大寺であっ
   たといわれています。この宝仙寺が移転した後に、宝仙寺の子寺で、地元村民の寺として
   残されたのが世尊院です。本尊の不動明王立像、観音堂の聖観世音菩薩立像や阿弥陀如来
   坐像は、室町様式のうかがえるりっぱな仏像であります。なお明治22年から大正11年
   まで、旧杉並村の村役場がこの寺の本堂におかれていました。
    現在の本堂は、昭和10年に再建されたものですが、都道133号線建設のため、昭和
   48年現在地に移築し、今日に至っております。
   昭和54年2月1日                      杉並区教育委員会


 なお都道133号線とあるのは間違いか、当時はそう呼んでいたのか? 現在は都道427号線、
中杉通りと通称されている。これは嘗ての鎌倉道の一本だ。
 現在都道133号線は小川山府中線(小平~府中)となっている。
 


■中杉通り(権現道)
 都道427号瀬田貫井線の一部で、ほぼかつての権現通り(旧道部分は松山通り)だ。中野区と杉
並区を南北に通るのでその名がある。環七通りと環八通りのちょうど中間で、青梅街道杉並区役所前
交差点を起点に目白通り貫井2丁目交差点を終点とする。杉並区役所前交差点から阿佐ヶ谷駅までの
ケヤキ並木は、戦後の植林だ。そういえば北口から先は昭和40年ごろ工事してた。お寺の真ん中を
ぶち割って6丁目の交差点まで。今の松山通りが旧中杉通りで、かつての権現道(鎌倉道)だ。「中
杉通りは裏道」なんていわれてんだけどネ。混む道路だから嫌だね。おいらは埼玉の大宮バイパス美
女木から世田谷まで、スムーズに行き来出来る裏道を知ってるよ。
 因みに権現道は甲州街道高井戸橋~永福町駅前~大宮八幡前~宮下橋~松ノ木住宅西~梅里中央公
園西~成田東4丁目(青梅街道)~阿佐ヶ谷すずらん通り~世尊院前~松山通り
 


■東京朝鮮第九初級学校

 阿佐谷北1丁目39番3号にあるチョンソンハッキョ。在日本朝鮮人総連合会や朝鮮民主主義人民
共和国(北朝鮮)から支援を受けている。初級学校(幼稚班を含む)・中級学校・高級学校・大学校
があるが、教育課程は、日本の6・3・3・4制に合わせたもので、北朝鮮のものと異なる。これら
の教育施設の大半は、日本の私立学校法(昭和24年法律第270号)に基づく学校法人が設置して
いるものであるが、学校教育法(昭和22年法律第26号)の第1条に基づく「1条学校」ではなく、
総て「各種学校」だ。
 第九についての詳細は不明。創立以来60年は越えている。
 拉致問題で北朝鮮と絶好状態にあるやに見えるが、朝鮮人は日本に深く浸透し、日本人名を名乗っ
て日本のトップクラスに位置する人々は多い。政治家・官僚・財界人・芸能人・学者・スポーツマン
ありとあらゆる分野に入り込んでいる。明治天皇でさえその出自は北朝鮮だろうといわれているし、
雅子妃も5代前は北朝鮮からの漂流者ではと考えられている。
 


■阿佐谷中央公園

 阿佐谷北1丁目39番24号にある区立公園。


■入江一子シルクロード記念館

 阿佐谷北2丁目8番19号にある。画家入江一子が50年間住んだアトリエ兼自宅を建て直し、自
分の代表作を展示している小さな美術館。長年に亘り、毎年シルクロードの僻地までスケッチ旅行に
出かけ、作品制作に取り組んできた。エキゾチックな異国の風景を描いた色彩豊かな作品のほか、ス
ケッチ旅行の際に収集した珍しい品物なども展示されている。阿佐ヶ谷駅北口から徒歩5分。11時
~17時 休館日不明。有料。03-3338-0239
 


■ラピュタ

 阿佐谷北2丁目12番21号にある。地下1階・小劇場「ザムザ阿佐谷」、2階・映画館「ラピュ
タ阿佐ヶ谷」、3階・レストラン「山猫軒」を備えた文化複合施設。人と地球に優しい空間をモット
ーに、館内には様々な工夫やこだわりを見ることができる。横町にあるからちょっと判らない。
 


■阿佐谷聖ペトロ教会

 阿佐谷北2丁目16番11号にある聖公会東京教区のキリスト教会。


■小野忠重版画館
 阿佐谷北2丁目25番16号にある。木版画家で版画研究家として戦前から戦後にかけて活躍した
小野忠重の息子夫婦が、自宅1階をミニ美術館として開放し、貴重な作品や資料、収蔵品を展示して
いる。昭和初期の庶民生活や、下町風景を描いた作風には社会主義的な主張が感じられるが、その思
想性を超え、どこか詩的な雰囲気を超えて、どこか詩的な雰囲気も漂わせているところが、いいのか
な。年に4回、テーマ別の企画展が開催されている。阿佐ヶ谷駅北口から徒歩10分。
 10時分~17時、有料。月~水休館 03-3338-9282
 


■久遠キリスト教会本部 
聖書・キリスト・愛
 阿佐谷北2丁目25番8号にあるチャーチ。昭和15年無教会主義の流れを汲む丹羽鋹之の家庭集
会から始まった。その集いは専ら聖書の講義を中心としたものだった。同26年丹羽鋹之が聖霊(キ
リストの霊)の具体的体験したとのことで、以来生きたキリストを身を持って証とする伝道へと変化
した。それにより信者が増え、同42年宗教法人となり、教会を持たない主義の教会が誕生した。建
物はコンクリートの打ち抜き。
 


■阿佐谷西公園

 阿佐谷北2丁目32番21号にある区立公園。


■法仙庵

 阿佐谷北2丁目38番22号、松山通り(旧中杉通り)沿いにある、本尊は、昔、北海道小樽の漁
師が波の上に浮いて流れてきたのを奉納したという。どういう理由で小樽の猟師が持ってきたのかは
判らない。本堂には諸病を治す力のある金比羅神、不動明王、観音菩薩の画像がかけられている。境
内に馬頭観音の碑もある。


   法仙庵
   当庵は、釈迦如来坐像を本尊とする曹洞宗の尼寺です。その初めは文久年間(1861~
   1863)阿佐谷村名主第10代目相沢喜兵衛(弥五郎)と玉野惣七が発起人となり、散
   在していた家墓を集め、村の共有地に地割を平等にして造った共同墓地だ。そして墓地管
   理のため、相沢家の土地に本堂を建立し、慶応年間(1865~68)江戸浅草の海運寺
   (杉並区成田東4‐18‐9)の末寺観音庵(新宿区新宿7‐3‐1)より実山見道尼を
   初代庵主として請じて開創したのが当庵です。
   本堂は戦災で焼失した為、昭和31年に再建されたものです。
   東側の塀に沿った松山通りは、権現道と呼ばれた古道で、練馬円光院子の権現(貫井5‐
   7‐3)にお参りに行く参詣道でした。今でこそ賑わっているパールセンターの通りも権
   現道で、大正の初め頃は雑木林や畑の中の道でした。また当庵墓地の北側は茅山で、狐が
   棲んでいたということです。これらの昔の姿は全く失われましたが、僅かにその狭い道幅
   や曲がりぐあいが、古道の面影を残しています。
   文化財としては、文保二年(1318)・元徳三年(1331)・宝徳元年(1449)
   銘及び年代不明2基の、板碑5基がある。この板碑については『新編武蔵風土記稿』阿佐
   谷村小名小山の項に、
    此所ニ古碑五基アリ三基ハ文字摩滅シテ見ヘス二基ハ文保二年元徳三年トシルセリ
   とあり、また『武蔵名勝図会』にも同様の記述があることから、これらの板碑は、この地
   域を知る上から極めて貴重な史料といえます。
   平成2年3月                          杉並区教育委員会


■慈恩寺

 
阿佐谷北3丁目4番11号にある真宗大谷派の寺。
 


■日本スポーツ振興センター 健康安全部 衛生管理室

 阿佐谷北3丁目29番12号にある独立行政法人の検査研修施設。この法人の本部は新宿区霞ヶ丘
町にあり、国立霞ヶ丘競技場(国立競技場)、秩父宮記念スポーツ博物館・図書館、秩父宮ラグビー
場・国立代々木競技場、国立スポーツ科学センター・ナショナルトレーニングセンター(西が丘)、
戸田艇庫を運営している。これほどスポーツの盛んな国で、まだ振興をする必要があるのか? これ
も文部官僚が税金を食うためのシンジケートなのだろう。韓国、中国はそれなりの結果を出している
が、日本はオリンピックで金メダルが柔道を含めてさえ10個を越えることがない。
 


■松山児童遊園

 阿佐谷北3丁目35番2号にある区立公園。


■阿佐谷こぶし緑地

 阿佐谷北3丁目36番2号にある区立公園。


■阿佐谷かりん公園

 阿佐谷北4丁目20番13号にある区立公園。


■裸婦像

 阿佐谷北4丁目22番7号ワタベ理容室の前にある。


■北原白秋終焉の地
 阿佐谷北5丁目1番4号にあった。建物は建て替えられている。


■阿佐谷東教会

 阿佐谷北5丁目13番2号にある日本基督教団の教会。


■阿佐谷教会・牧師館

 阿佐谷北5丁目18番10号にある日本キリスト教団の教会。


■お伊勢の森児童遊園

 阿佐谷北5丁目35番5号にある区立公園。


■阿佐ヶ谷庚申堂

 
阿佐谷北5丁目42番11号に、庚申塔・地蔵塔2基・阿弥陀塔がある。石塔前の道はかつての所
沢道、左側の道は天沼から青梅街道に通じる旧道で、この附近は村の中心地だった。今でも10月2
3日には地元の人が祭礼を行っている。


   
民間信仰石塔
   ここに建立されている石塔は、元禄十年(1697)銘の庚申塔、宝永七年(1710)
   ・享保七年(1722)銘の地蔵塔並びに、正徳五年(1715)銘の阿弥陀塔計4基が
   あります。
   庚申信仰は、「長生きするためには庚申の夜は身を慎しみ、諸善を行い、徹夜をすべきで
   ある」という中国の道教説から始まったようです。それが日本に伝わってからは、中世以
   降仏教や神道の信仰と習合して庶民の間にひろまりました。江戸時代には、本尊を青面金
   剛とし、不見、不聞、不言の三猿が彫られるようになり、ここに見られるような庚申塔の
   建立が盛んになりました。
   地蔵菩薩の信仰は、仏教の民衆化とともに宗派を超えてひろまりました。地蔵菩薩は、冥
   界と現実界の境に立って人々を守護するということから、村や道の境や村の安全を守護す
   る菩薩とされ、村の路傍又は辻に多くの建立されています。
   阿弥陀如来は西方極楽世界の本尊とされ、他力往生の誓願をたて、この仏を信じる者は、
   ただ念仏さえ唱えれば難行苦行を積むまでもなく、仏が大慈の光明を照らし、お迎えくだ
   さるとされています。
   これらの石塔は、この辺りが武州多摩郡阿佐谷村字東原と称された頃、この地域の講中の
   人々によって悪病退散、村民安全などを祈願して建立されたものといわれてます。現在で
   も10月23日には、旧阿佐谷村の人々が中心になって祭礼が行われています。
   なお、石塔の前の道は、かつての所沢道、左側の道は天沼から青梅街道に通じる旧道で、
   この附近は村の中心地でした。
   私たちもこのような文化財を、一層大切に守りつづけたいものです。
   昭和55年2月21日                      杉並区教育委員会
 


■杉森中学校

 阿佐谷北5丁目45番24号にある区立校。「すぎのもり」と読む。昭和22年5月杉並第一小学
校内に「東京都杉並区立杉森中学校」として開校。杉並第一・第九の卒業生194名が入学。校名は
お伊勢の〟の意。校地がお伊勢の森跡なのでそのように命名された。同27年校歌制定。

 校歌「縁の木立
  1.縁
(ゆかり)の木立 朝晴れ
    羽ばたき高く 光集まる
    仰げば踊る 心の春よ
    ああ夢多き 友寄る処
    我が杉の森中学校
  2.自立の気風 溌剌と
    大東京に我等伸び行く
    我等は清く輝く若葉
    今新しき時代を作る
    純情の子に誇りあり
  3.想いは走る幾山河
    東西の空 総て親しく
    文化の理想 高鳴る胸よ
    ああ感激の 虹立つ処
    我が杉の森中学校


 同29年モルタル校舎4教室落成。同31年モルタル造り2教室増築落成。同33年モルタル造り
4教室増築。プール完成。同36年体育館完成。同37年第1期鉄筋コンクリート造り校舎落成。同
38年ミルク給食室完成。同41年第2期鉄筋コンクリート造り校舎落成。同42年開校20周年記
念式典。同44年完全給食室完成。同50年第3期鉄筋コンクリート造り校舎・給食室落成。同51
年体育館附属倉庫設置。同54年体育館にステージと附属室増築。同55年鉄筋コンクリート造り倉
庫完成。同62年創立40周年記念式典。同63年建替えのため仮校舎完成・生徒移転。
 平成元年新校舎落成。仮校舎から移転。同2年校庭整備。同5年校庭緑化。正門脇に「友愛の礎」
設置。同9年創立50周年記念式典。同12年地方自治法の改正に伴う学校教育法改正により、校名
から東京都の冠称が取れ、「杉並区立杉森中学校」と改称。
同19年校舎外面塗装。創立60周年記
念式典。
 


■お伊勢の森(元伊勢)
 阿佐谷北5丁目45番25号号杉森中学校の早稲田通り側の塀際に説明板が建ててある。阿佐谷北
5丁目の北部一帯に広大な森林があった。戦前は陸軍の通信隊が駐屯していたので、その当時は「ラ
ッパの森」と呼ばれていた。戦後の宅地化で一木一草を残さず再開発されてしまった。お伊勢とは、
現在地に移された阿佐ヶ谷神明宮のことだ。杉森中学校にある説明板には天祖神社と書いてあるが、
これは明治政府に強制された名称で、平成14年に江戸時代までの呼称に戻した。玉石と角柱型記念
碑は神明宮に移してある。

   お伊勢の森
   区立杉森中学校からお伊勢の森児童遊園にかけての一帯です。阿佐谷北1‐25(JR中
   央線、阿佐ヶ谷駅北側)にある阿佐ヶ谷天祖神社(神明宮)の旧社地です。
   『江戸名所図会』には、12代景行天皇四十四年に日本武尊が蝦夷を征伐して凱旋の時、
   ここで休まれたので土地の人が、尊の武功を慕って社を造り、神明宮としたと書かれてい
   ます。また、その後、建久年間(1190~98)この土地に住んでいた横井兵部という
   人が伊勢神宮の参拝に出かけ、伊勢(三重県)能保野に泊った夜、大神宮のお告げがあり、
   伊勢の宮川から持ち帰った霊石を社に安置してご神体にしたとも書かれています。祭神が
   「天照大御神」で伊勢神宮と同じところから、土地の人は旧社地を「元伊勢」と、呼んで
   いました。その後も、「お伊勢の森」といって親しまれています。
   また近くにあった電信隊の兵士が、ラッパの練習にきていたりしたので、「ラッパの森」
   ともいわれました。
   「天祖神社旧地」と彫られた玉石と角柱形記念碑は、現在は、阿佐谷天祖神社(神明宮)に
   安置されています。記念碑の裏面には、
    老松や青く茂りてお伊勢山朱鷺の巣造る神徳の松
   と、刻まれています。今では、貴重な存在となった特別天然記念物の「トキ」がすむほど
   に、静かな森であったようです。
   平成3年3月                          杉並区教育委員会
 


■阿佐谷北第二遊園

 阿佐谷北6丁目7番8号にある区立公園。


■小七山公園

 阿佐谷北6丁目7番8号にある区立公園。
 



【阿佐谷南】(あさがやみなみ)1~3丁目               昭和40年4月1日
 阿佐ヶ谷村。昭和40年阿佐ヶ谷1~2丁目のほぼ全部に4丁目のごく一部、天沼1丁目・馬橋
2~4丁目の各一部をあわせた町域を現行の「阿佐谷南」とした。町名は阿佐ヶ谷の南部地区の意
だ。青梅街道の北、JR中央線の南、区役所があり区の中心地、区で最も騒がしいところでもある。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『杉並区史』『杉並の歴史』など。

 
阿佐谷南について
 中央線以南の阿佐ヶ谷地区の意。
 


■猿田彦神社

 阿佐谷南1丁目1番38号にある太道教本部。

 
猿田彦(塞の神・道祖神・日本最古の神)
 邇邇芸尊(神武天皇の曽祖父、天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命:あめにきし くににき
し あまつひこ ひこほの ににぎのみこと)が天降りしようとした時、天の八衢(やちまた)に立って
高天原(たかまがはら)から葦原中国(あしわらのなかつくに)までを照らす神がいた。その神の鼻
長は七咫、背長は七尺、目が八咫鏡のように、また鬼灯(ほおずき)のように照り輝いているという
姿だった。そこで天照大神(あまてらすおおみかみ)と高木神は天宇受売生命(あめのうずめ)に、
その神の元へ行って誰であるか尋ねるよう命じた。その神が国津神の猿田彦で、邇邇芸尊らの先導を
しようと迎えに来た。邇邇芸尊らが無事に葦原中国に着くと、邇邇芸尊は天宇受売神に、その名を明
らかにしたのだから、猿田彦を送り届けて、その名前をつけて仕えるようにといった(日本書紀では
猿田彦が天鈿女命(あめのうずめ)に自分を送り届けるように頼んでいる。そこで天宇受売神は「猿
女君」と呼ばれるようになったという。猿田彦は故郷である伊勢の五十鈴川の川上へ帰った。
 猿田彦は伊勢の阿邪訶(あざか。旧一志郡阿坂村(松阪市)の海で漁をしていた時、比良夫貝(ひ
らふがい)に手を挟まれて溺れ死ぬ。この際、海に沈んでいる最中に「底どく御魂」、猿田彦が吐い
た息の泡が昇る時に「つぶたつ御魂」、泡が水面で弾ける時に「あわさく御魂」という三柱の神が生
まれた。倭姫命世記(神道五部書の一)によれば、倭姫命が天照大神を祀るのに相応しい地を求めて
諸国を巡っていた時、猿田彦の子孫である大田命(おおたのみこと)が倭姫命を先導して五十鈴川の
川上一帯を献上したとされている。大田命の子孫は、宇治土公(うじのつちぎみ)と称し、代々伊勢
神宮の玉串大内人に任じられた。
 日本書紀には、天宇受売神は胸乳を露わにし裳帯(もひも)を臍の下に垂らしたとあるので、性的
な所作をもって相対したことになる。平たくいうと、先住民を後から来た人々が色仕掛けで誑し込ん
だということだ。神話には書かれていないが、二神が結婚したと民間伝承で伝えられているのは、こ
の記述によるものと考えられる。また「鼻長七咫、背長七尺」という記述から天狗の原形とされる。
「天地を照らす神」ということからは、天照大神以前に伊勢で信仰されていた太陽神であったとする
説もある。三重県鈴鹿市の椿大神社、三重県伊勢市宇治浦田の猿田彦神社がサルタヒコを祀る神社と
して名高い。天孫降臨の際に道案内をしたということから、道の神、旅人の神とされるようになり、
道祖神と同一視された。そのため全国各地で塞の神・道祖神が「猿田彦神」として祀られている。こ
の場合、妻とされる天宇受売神とともに祀られるのが普通だ。また祭礼の神輿渡御の際に、天狗面を
被った猿田彦役の者が先導をすることがある。他にも滋賀県高島市の白鬚神社の祭神とされたことか
ら白鬚明神の名でも全国各地に祀られている。また子孫である大田命、内宮の興玉神とも同一視され
る。さらに江戸時代に入って「サル」の音から庚申講と結び付けられたほか、垂加神道では「導きの
神」として神道の「教祖」とされるなど複雑な神格を持つ。こうしたことから、近年、「謎の神」と
して鎌田東二などの学者にクローズアップされている。常陸国に猿田氏があるが、猿田彦の末裔であ
るとされる。前述の椿大神社・猿田彦神社の宮司もともに古くから猿田彦の神孫として名高い。手塚
治虫の火の鳥シリーズには、「猿田」もしくは「サルタヒコ」という人物が多く登場する。それらの
多くが、鼻が大きいという身体的特徴を持っている。
 


■南阿佐谷すずらん緑地
 阿佐谷南1丁目11番5号にある区立公園。


■馬橋児童遊園
 阿佐谷南1丁目13番33号にある区立公園。


■杉並区役所
 阿佐谷南1丁目15番1号にある。

 お誕生日おめでとう
 庁舎東南角前にあるブロンズ像男女2体、津田裕子の作品。青年の持っているのはリンゴ。

 地の芽
 男女像のちょっと離れた隣にある速水史朗の黒い石の作品。都庁にも似たのがある。

 ジーンズ(平和都市宣言記念碑)
 正面入口にある佐藤忠良の作品。
スリムなジーンズを履いた半裸の女性像。無駄のないフォルムと
洗練された感覚で、日本人の体質感を表現している。背筋を伸ばし、前を見据えた姿は、健康的で生
き生きとしており、通り過ぎる人に優しく語りかけ、まさに〝平和〟を象徴するブロンズ像だ。

   杉並区平和都市宣言
   世界の恒久平和は、
   人類の共通の願いである。
   いま、私たちの手にある、
   平和ゆえの幸せを永遠に希求し、
   次の世代に伝えよう。
   ここに杉並区は、
   核兵器のなくなることを願い、
   平和都市を宣言する。
   昭和63年3月30日 杉並区

 戦争と革命はユダヤの仕掛け。清教徒革命も、名誉革命も、フランス革命も、アメリカ南北戦争も
明治維新も、ロシア革命も、ナチスドイツも、南北朝鮮も、共産党中国も、総てユダヤの金儲けのた
めの仕掛けで、これら総てのことが単発に起きたことではなく、総て繋がっている。第一次世界大戦
も、第二次欧州大戦も、太平洋戦争も総てユダヤのシナリオ通りだ。ノストラダムスの大予言、当た
る訳だ。予言ではなくて予定書だから当たるのだ。因みにノストラダムスはユダヤ人だ。
 だからユダヤ人が戦争する気になれば、何時でも、何処でも起きる。アルカイダも、イスラム国も
ボコハラムも、総てユダヤの作品だ。幾ら平和都市宣言したって、ユダヤがその気になれば日本も戦
争に引き摺り込まれるさ。幾らいつても憲法改正・再軍備しないから、業を煮やしたユダヤが、安倍
に集団的自衛権を押し付けてきた。自民党に限らす政治家はユダヤの傀儡だから、どうしようもない
よ。アメリカは最前線を日本に任せたい。

 

 1階ロビーにある笹戸千津子のブロンズ像。ロダンの「考える人」に似たポーズ。

 
「ときわ」 EVERGREEN
 1階ロビーにあるオブジェ。多田美波の作品。

 
「飛翔する街」
 2階にある。

 この他、雨宮敬子のブロンズ「穆念(ぼくねん)」、木内禮智の木彫「石橋(しゃっきょう)」、
柴村純一の木製レリーフ「古木道」がある。

 
がらぎっちょ(さいかち)の木

 玄関先にある。昔、里程指標として植栽されたと伝えられる〝さいかち〟の巨木があったが、昭和
9年の台風で折れ、5年後には枯れてしまった。2代目も病気になり、現在のものはこの由来を残す
べく新たに植えられたものだ。土地の人は「さいかち」をどういう訳か「がらぎっちょ」と呼び、実
を風呂に入れると神経痛によく効くといって、初冬に実を拾いに来る人がいるとか。なおこのさいか
ちの木は「一里塚」ともいわれるが、蚕糸試験場と、四面道の一里塚のちょうど中間に当たるので、
公的な里程指標ではなく、半里(はんみち)の目安に村人が植えたものと区では推定している。その
場所の歩道に面して、今は「杉並区役所」の標識が埋め込まれ、すぐ背後に杉並区の木「曙杉(メタ
セコイア)」が植えられて大きく育っている。

 皂莢(さいかち)
 
角とも書く。日本の固有種で、本州の関東、中部地方以南から四国・九州に分布している。日当
りの良い山野や河原に生え、高さは15mほどになる。幹にも枝にも目立つ鋭い棘がある。葉は1~
2回偶数羽状複葉で互生し、小葉は長楕円形。5月から6月ごろ、枝先に総状花序を出し、淡黄緑色
の花を咲かせる。果実は豆果で、長さは20~30cm。種子にはサポニンが含まれるため、古くか
ら洗剤として利用されてきた。千代田区の神田川沿いに皂角坂があり、目黒川には皂莢橋が架かって
いる。
 


■阿佐ヶ谷中学校

 阿佐谷南1丁目17番3号にある区立校。昭和22年杉並区役所仮庁舎内に「東京都杉並区立阿佐ヶ
谷中学校」として開校。5月杉並第六小学校内に移転。同23年2月仮庁舎内に戻る。8月現在地に
木造新校舎(6普通教室)落成して移転。同24年教室不足のため東田中学校に3教室間借りし、分
教場として1年生の授業を開始。校歌制定。
 同25年校舎2教室増築。同30年鉄筋コンクリート造り校舎落成。同33年落成式・創立10周
年記念式典。同38年豊多摩高等学校内阿佐ヶ谷分校廃止。同40年給食室完成。完全給食開始。同
42年創立20周年記念式典。同52年創立30周年記念式典。同62年校舎建替えのためプレハブ
の仮校舎に移転。旧校舎解体。創立40周年記念式典。
 平成元年新校舎落成。仮校舎から移転。同2年校庭整備。同9年創立50周年記念式典。同11年
阿佐谷七夕祭り出品参加開始。同12年地方自治法の改正に伴う学校教育法改正により、校名から東
京都の冠称が取れ「杉並区阿佐ヶ谷中学校」と改称。同15年給食調理業務民間委託。同19年創立
60周年記念式典。
 


■阿佐谷にしはら公園
 阿佐谷南1丁目21番28号にある区立公園。


■南阿佐谷すずらん緑地
 阿佐谷南1丁目11番5号にある区立公園。


■杉並第六小学校

 阿佐谷南1丁目24番21号にある区立校。大正15年「東京府豊多摩郡杉並第六尋常小学校」と
して開校。12学級499名。昭和3年17学級877名、2部授業。同4年児童が増え続け増築に
次ぐ増築。21学級1034名。同6年24学級1250名。校歌制定。

 校歌「教えの庭に」 作詞・松平芳樹  作曲・春日嘉藤治
  1.教への庭に 萠ゆる撫子
    眞實
(まこと)を欣求めて倶(とも)に勵(はげ)まん
    聖き陽光
(ひかり)の射す処
    その名は恒
(つね)に輝やかし
    杉並第六 我等が母校
  2.心一つに 萠ゆる撫子
    悪しきを撓(た)めて善きに進まん

    聖き陽光の射す処
    その名は恒に輝やかし
    杉並第六 我等が母校
  3.希望を胸に 萠ゆる撫子
    色麗はしく永久に榮えん

   
 聖き陽光の射す処
    その名は恒に輝やかし
    杉並第六 我等が母校


 昭和7年周辺郡部の東京市編入により杉並区成立、「東京府東京市杉並第六尋常小学校」と改称。
24学級1439名。200名を杉並第八尋常小学校に移籍。同10年創立10周年24学級142
1名。同11年27学級1485年名。同14年増築が続く。86名を杉並第八尋常小学校に移籍。
同16年勅令第148号国民学校令により「東京府東京市杉並第六国民学校」と改称。25学級15
03名。12月日米開戦。同18年都制施行により「東京都杉並第六国民学校」と改称。同19年宮
城県名取郡高館村・栗原郡築館村に学童集団疎開。同20年愚かなアメリカ軍の非人道的無差別空爆
により校舎全焼。焼けながらも樫の木は生き残る。8月日本はならず者国家アメリカの軍門に降って
敗戦。以降その属国となり、唯々諾々として言い成りになる保守傀儡の政権を保持せざるを得ない今
日的不幸を背負い込む。11月疎開解除により疎開児童帰校。
 同21年杉並第一小学校に間借り、とりあえずの急造校舎完成して帰校。同22年アメリカの強制
による学制改革により、「東京都杉並区立杉並第六小学校」と改称。19学級894名。2部授業。
同23年校舎新築第1期工事によりモルタル校舎落成。4年生以下移転。2部授業続く。同24年校
舎新築第2期工事によりモルタル校舎落成。5・6年生移転。児童数再び1000人突破。同25年
校舎新築第3期工事によりモルタル校舎落成。23学級1135名。2部授業解消。同26年創立5
0周年記念式典。同27年校舎新築第4期工事によりモルタル校舎落成。同28年校歌制定。

 校歌「明るい朝の校庭に」 作詞・加藤省吾作詞  作曲・武石とも子
  1.明るい朝の校庭に
    お早う お早う
    今日も元気よく
    学んで伸びよと呼んでいる
    光り輝く時計台
    杉並第六 わが母校
  2.緑の丘に見えている
    すがた すがた
    気高き富士の山
    心も清らに進みゆく
    教えの道は 一すじよ
    杉並第六 わが母校


 同30年樫の木の南側に校地拡張。同32年創立30周年記念式典。校舎新築第5期工事によりモ
ルタル校舎落成。同34年プール完成。同36年児童数1000人を切る。同37年給食室施設設備
の充実。家庭科教室の改築・校庭整備。同38年鉄筋コンクリート造り3階建て第1期校舎落成。同
40年鉄筋コンクリート造り3階建て第2期校舎落成。同43年鉄筋コンクリート造り3階建て第3
期校舎落成。同49年鉄筋コンクリート造り3階建て第4期校舎・屋上プール落成。同50年鉄筋コ
ンクリート造り3階建て第54期校舎。同51年創立50周年記念式典。同54年外周ブロック塀に
改修。同58年FF暖房設備。同60年屋上フェンス工事・校舎窓枠・扉アルミサッシ強化ガラス取
換え。
 平成元年児童数500名を切る。同5年コンピュータ室開設。平成8年創立70周年記念式典。同
12年地方自治法改正に伴う学校教育法の改正により東京都の冠称が取れ「杉並区立第六小学校」と
改称。コンピュータ新機種に交換。児童数400名を切る。同17年創立80周年記念式典。同18
年校庭全面芝生化。
 


■庚申塔と地蔵

 阿佐谷南1丁目34番11号(ZAKKA土の記憶)の角、阿佐谷パールセンターに面してある。
凄く違和感があるのだが、溶け込んでいる。現在北に向いているが、以前は東向きだった。

   青面金剛像
   供養庚申二世安楽修
   元禄四年(1691)
   (庚申を供養したてまつる。二世にわたって安楽であることを願う)という意。
   
地蔵菩薩像
   奉造立念佛講石塔一基二世安楽所
   元禄四年 阿佐谷村
   吉祥祈願
   (念仏の講のものたちで、二世にわたって安楽のた石橙一基を造り奉る)という意。 
   参百弐年前に、村の人々の発願で建てられたお地蔵様とお庚申様です。時代の流れをずっ
   と見てこられました。このパールセンターは、昔、権現道と呼ばれ、北は子の権現様へ、
   南は堀之内妙法寺へと大勢の人がお参りする道であり、大宮八幡宮大鳥居前で鎌倉街道に
   接続する鎌倉古道であるといわれています。現在も多くの方々がお参りしています。末永
   く大切に守り伝えられますよう心より願い上げます。              合掌
                          施主 大正拾參年創業 故長尾堅太郎
                                     故  ス ヱ
   平成5年11月                              長尾家

 長尾家はビルのオーナー家。 


■阿佐谷東公園
 阿佐谷南1丁目42番6号にある区立公園。


■杉並NPO・ボランティア活動推進センター

 阿佐谷南1丁目47番17番阿佐谷地域区民センター4階にある。
 


■馬橋稲荷神社

 阿佐谷南2丁目4番4号にある旧馬橋村の鎮守。祭神は宇迦之魂命。天保三年(1832)に村民
が金7両2分を、京都の白川神祇伯家へ奉納して、正一位稲荷の神位を受けたとの記録がある。社頭
の石の竜鳥居は、村の関口林之助が奉納したもので、竜の彫刻が見事なことから「東京3竜鳥居」に
数えられる。

   馬橋稲荷神社
   この神社は、旧馬橋村の鎮守で、祭神は宇迦之御魂神と大麻等能豆神です。
   神社の由緒書によると、鎌倉末期の創立といわれます。当社近くの墓地に「文安四年丁卯
   閑二月五日」と刻んだ板碑が現存することから、室町期にはこの地域に人々が住んでいた
   ことがわかります。
   また、江戸初期延宝二年(1674)『武州多摩郡馬橋村寅御縄打帳』の中に「いなり明
   神社内福仙寺」の記があることから、既に稲荷社が祀られていたことがうかがわれます。
   天保二年(183)、拝殿改築に際して氏子53人が拠金して、京都白川神祇伯家御役所
   (神社を司どる役所)に上申し、翌年「正一位足穂稲荷大明神」の御神号を拝受したとい
   うことです。
   明治40年本殿改築後、村内の御嶽神社・白山神社・天神社・水神社を相殿として合祀し
   ました。
   昭和40年10月住居標示の改正に伴ない、馬橋の地名を保つため神社名を「馬橋稲荷神
   社」と改めました。
   現在の拝殿は昭和13年の改築ですが、本殿前の朱塗りの随神門は、昭和50年鎮座70
   0年記念事業の建立で、左右に随神像を祀り、中央天井に都内最大といわれる開運の大鈴
   (直径75cm)が吊るされています。当社の神輿は大正11年の東京博覧会に出品され
   たもので高さ2.5m、台幅1m、重さ1.5tの白木造りの大神輿で区内でも一、二の大
   きさといわれています。
   正面の石造大鳥居は、高さ8mで昇龍・降龍が刻されてあり、東京三鳥居の一つといわれ
   ています。また、江戸末期から力くらべに使われたという力石や、多くの絵馬・奉納額も
   保存されています。
   初午祭は、餅つき唄を歌いながらついた餅を神前に供える神事で、毎年たいへん賑わって
   います。
   昭和57年2月10日                      杉並区教育委員会


 
馬橋の由来
 判っていない。説は2つある。

  ①、青梅街道南側、梅里2丁目の梅田ビルと志村ビルとの間にあった泉から流れた小川が
    街道を横断して桃園川へ流れ、そこに架けてあった橋が、馬で一跨ぎするくらいの幅
    だったので、馬橋と呼ばれ、これが村名になったという説。
    ※桃園川にも馬橋という橋は架かっていた。現在橋が架かっていたことを示す標柱が
    建ててある)
  ②、阿佐ケ谷南2丁目の馬橋稲荷神社裏手の桃園川の湿地帯を軍勢が通った時、馬を橋代
    わりにして渡ったので、馬橋の地名が生まれたという説だ。


 按ずるに、①には無理が有る。馬が一跨ぎする小川を理由に「馬の橋」という地名を名付けること
はあり得ない。②の説は、文明十一年(1479)に杉並区・中野区近辺で太田道灌と豊島氏の間で
激しい合戦があったこと。当時合戦の戦法で馬を橋代わりに湿地を渡ることがあり、戦略的に意表を
突く方法でもあった。馬橋村中央部「桃園川流域」はかなりの湿地帯であり、馬の背を橋代わりにし
たことは 充分頷ける。 この理由により②の説を有力と考えるとは、神社の解説。
 しかし一般に馬橋という場合は、馬が一跨ぎするほどの小橋をいうのではなく、人ばかりか、馬ま
たは馬車も通れる丈夫な本格的な橋に名付けられる。その道が公道であり、路地や横丁(目的地で行
き止まる道)ではなく本街道であることを通行者に知らせるものだ。我々は橋と聞いて丸木橋を想像
する人はいないが、当時は、橋といっても丸太橋、石の一本橋が殆どだったのだ。だから馬橋は花園
川に架かる馬橋からきたもので、現在馬橋通りと呼ばれている南北の通りは、南へ大宮八幡に通じ、
北へ清戸道(目白通り)に通じている古い道なのだ。
 


■仏像彫刻教室
 微笑庵(みしょうあん)

 阿佐谷南2丁目11番32号にある。所謂「カルチャー教室」ではなく専門教室。人数を限定し、
仏師自らプライベート感覚でご指導する。03‐3391‐8914
 


■菊華中学校・高等学校 →
杉並学院中学高等学校
 阿佐谷南2丁目30番17号にある私立校。大正12年奥田艶子
「奥田裁縫女学校」を創立。初代
校長。同15年豊多摩郡杉並町馬橋(現在地)に校舎を新築し移転。昭和15年11月前田蓬、奥田
裁縫女学校を継承して「前田高等家政女学校」を設立。同21年「前田高等女学校」と改称。同22
年新学制により「菊華中学校・菊華高等学校」となる。同26年私学法により学校法人「菊華学園」
設立。同30年中学校募集停止。平成7年中学校募集再開。同12年「杉並学院中学高等学校」と改
称し、男女共学。理事長はジャリタレで鳴らし、参議院議員もやった山東昭子。卒業生にタカラジェ
ンヌからタレントに転向した天海祐希がいる。
 
特別有名な学園ではなかったが、ハニカミ王子石川遼の入学で一気に超人気校に、お決まりの女子
高校生から小母さんまでがヒート、校門前で待ち構えることに。
 「ゴルフ三昧で何時勉強してんの?」と疑う勿れ、学校は格好の看板息子であり、それこそ遼が恥
をかかないように特別のカリキュラムが組んであって、個人指導体制は万全だ。

 部活
 
合唱部は、前身の菊華高等学校時代から全日本合唱コンクール全国大会でたびたび上位入賞を果た
すなど活躍をみせている。しかし平成19年第74回NHK全国学校音楽コンクールで金賞を受賞し
たが、その審査については疑問の声が多数上がった。またアマチュアゴルファーの石川遼選手が所属
するゴルフ部も一躍有名になった。屋上に練習場がある。部としても強く、全国大会で優勝・準優勝
するレベルだ。


 制服
 
男女ともに上着は黒色のブレザーで、シャツは白色と黄色と水色から、ネクタイは水色と赤色から
自由に選べる。また、男子はグレーのスラックス、女子はチェック地のスカートにチャコールグレー
のハイソックス。中学・高校ともに同じ制服でエンブレムの色で識別。生徒にはとても好評とのこと。
男女共学になってからの数年間、夏用の式服としてチノパン、チノスカートが着用されていたが、生
徒には著しく不評であったので廃止された。
 


プロゴルファー石川遼
■ハニカミ王子「1年1組石川遼です」
 平成3年生まれ。埼玉県松伏町出身。高校一年生。JGAジュニア会員。ゴルフを始めたのは6歳
の時で、金融関係のサラリーマンの父に連れられてゴルフ練習場にいったことが動機。飛距離は29
0ヤード。ベストスコア66(那須野が原CC)。目標はタイガー・ウッズで、彼を抜いてマスター
ズで優勝すること。中学時代に頭角を現した。
 平成22年3月8日卒業。中学校講師となった。

 マンシングウェアオープンKSBカップ[初優勝①]

、平成19年5月20日、岡山県玉野市の東児が丘マリンヒルズゴルフクラブで行われた男子プロゴ
ルフツアーの「マンシングウェアオープンKSBカップ」最終日、ツアー初出場15歳8か月のアマ
チュア石川が、通算12アンダー、276のベストスコアで、国内男女ツアーを通じて史上最年少で
優勝を果たした。石川は、4月2日に行われた大会予選会で10位に終わり、出場権が与えられる上
位4人には入れなかったが、アマチュアの32選手中トップの成績が認められて主催者推薦で出場。
この日、首位と7打差の23位でスタートした石川は、300ヤードを超えるドライバーショットを
武器に追い上げ、最終ラウンド17番ホール(パー3)でバンカーからチップインバーディーを奪う
など、有力プロ選手が犇く混戦を抜け出し逆転優勝した。石川はアマチュアのため賞金はなく、規定
により2位の宮本勝昌プロが2000万円を持っていった。プロ優勝すればプロ宣言できるが、学業
との両立を図るため、石川はすぐにプロ転向はしない。
 アマチュアのツアー優勝は、1980年の中四国オープンを制した倉本昌弘以来史上2人目。過去
の日本ツアーの最年少優勝記録はセベ・バレステロス(スペイン)の20歳7か月で、日本人では中
嶋常幸の22歳4日だった。女子ツアーの宮里藍が宮城・東北高時代に記録した18歳より若く、男
子の米ツアー(19歳10か月)、欧州ツアー(18歳9か月)を通じても最年少となる。このため
人気が一気に爆発してメジャー級に、アマチュアのためCМには出られないが、経済界では手薬煉(て
ぐすね)引いて今か今かと待ち構える体制。この優勝は、世界最年少優勝記録(15歳245日)と
して、ギネスに認定され登録された。
 5月23日安倍首相を表敬訪問、「真実一路」の色紙を受け取る。

 日本ジュニアゴルフ選手権[15歳~17歳の部 優勝]
 同年7月に行われた、世界ジュニア選手権に出場したものの個人23位。8月17日霞ヶ関CCで
行われた日本ジュニアゴルフ選手権男子15歳~17歳の部で、大会史上最年少の15歳11ヶ月で
初優勝。スコアは、大会レコードタイとなる3日間通算9アンダーで204。

 
プロ転向宣言

 平成20年1月10日記者会見を行いプロ転向を宣言、アマチュア資格を喪失した。16歳3ヶ月
と24日の史上最年少のJGTO(日本ゴルフツアー機構)ツアープロとなる。また同21年末まで
シード権を保有していることから、同時に史上最年少のシード選手となった。なおプロ宣言は、資格
の有る無しに関わらず誰でもできるが、その時点でアマチュア資格を失う。
 さあこれで火が付いたのが、一流企業の大人たちの悪心だ。経済効果と唱えて争奪戦に躍起、目を
血走らせて私利私欲の悪心を研ぐ。スポンサー料金・CМ出演料の札びらをちらつかせて金儲けを企
てる。名門大学を出て、一流企業に入って、ぽっと出のタレントを食い物するだけの浅ましい人生。
哀れなことよ。
 
1月25日には早速ヨネックスと5年間総額10億円の用具総合使用契約(ボール以外のクラブ、
ウェアなど)を結んだ。ヨネックスと契約をしたのは、石川が10歳の時、父とヨネックス本社に赴
き、用具提供の支援の依頼をし、それをヨネックスが快諾したという関係からとされる。ヨネックス
の他に、所属契約をパナソニックと、移動サポートを全日空、サングラスを山本光学などとも契約し
た。その他、4月1日からトヨタと2年契約、コカ・コーラと5年契約、NTTドコモと3年契約、
新学社と1年契約(現在継続中)を交わした。


 プロデビュー
 
デビュー戦は、平成20年2月5日にオーストラリアのシドニーで行われた全英オープンの予選会
で、4オーバー(1日制、36ホール)の41位に終わり、ほろ苦いスタートとなった。国内ツアー
デビューは4月の東建ホームメイトカップで2日目、3日目と首位に立ったが、最終的に5位に終っ
た。

 プロ資格獲得

 平成20年4月1日JPGA(日本プロゴルファー協会)のプロゴルファー資格を取得し、名実と
もにプロゴルファーとなった。

 
マイナビABCチャンピオンシップ[優勝②]涙・涙・涙のプロ転向後 初優勝
 平成20年10月30~11月2日兵庫県加東市ABCゴルフクラブで開かれた男子プロゴルフの
「マイナビABCチャンピオンシップ」で、プロとしてのツアー初優勝を飾った。ウイニングパット
を決めた直後にあふれ出た涙は、表彰式から記者会見まで30分以上に亘って流れ続けた。昨年5月
高校1年生のアマチュアとして初めて出場したプロの大会で優勝したために、「男子ゴルフ界の救世
主」に祭り上げられた。自分を目当てにしたファンて埋め尽くされる中でラウンドする日々。プロ宣
言をして臨んだ今季も、その環境は変わらなかった。初戦こそ5位で終えたものの、10月のコカ・
コーラ東海クラシックまでは出場15戦で予選落ち8回。プロの壁にはね返され続けた。

   みんなが期待するほど、僕は上手くない

 そういいたくなる時さえあった。その一方で、期待に応えようと懸命に練習を続ける自分がいた。

   ファンに愛される選手になる

 1年半前の優勝時に語った思いは、今も変わらない。「応援をプレッシャーだと思いたくない」か
らこそ頑張れた。一方、コーチも務める父勝美(51)は、

   力が、一流プロに及ばないのは判っていたけど、逃げずに頑張ったから、神様がご褒美
   をくれた


 と、独特の言い回しで、息子の頑張りを褒めた(毎日新聞の記事より)。

 
国内最年少100000000円突破

 男子「カシオワールドオープン」最終日は1バーディ、2ボギーの「73」。スコアを1つ落とし、
通算3アンダーの13位タイで大会を終えた。
 なおこ石川の今季獲得賞金は106318166円(5位)で、17歳での100000000円
超えは、ゴルフ界だけでなく日本スポーツ界でも最年少記録の達成となった。また史上最年少での賞
金シードとなった。この活躍により、史上最年少での内閣総理大臣杯日本プロスポーツ大賞を受賞。
平成20年シーズン終了後に行われたジャパンゴルフツアー選手会(JGTPO)において、同会理
事に選出された。
 余談だが、これで見ると東大法学部を卒業して役人になって、晩年は天下って渡りを繰り返しての
生涯賃金が3、400000000円、さほど多いとも思えない。イチローの半年分だ。お笑い芸人
のタケシ、所、さんま、紳助あたりの年収より少ない。国会議員の歳費の6~8年分だぜ、悪徳官僚
も割に合う仕事じゃねえわな。

 
いよいよマスターズ特別招待

 平成21年1月23日今季メジャー初戦マスターズ(平成20年4月9日開幕、米ジョージア州オ
ーガスタ・ナショナルGC)に特別招待での出場が決まった。平成20年シーズン終了時の世界ラン
クが60位だったため、自動的に出場権を得ることはできなかったものの、17歳での日本ツアーで
の活躍が認められ、特別招待された。17歳6ヶ月でのマスターズ出場はアマチュア枠で出場したト
ミー・ジェイコブスの17歳1ヶ月に次ぐ史上2番目の年少記録。プロゴルファーとしては史上最年
少、日本人では戸田藤一郎の21歳を抜き史上最年少での出場。
 この日都内で会見、約160人の報道関係者が詰め掛ける中、グレーのスーツと勝負色の赤のネク
タイで登場した石川は、

   マスターズは夢の舞台。信じられない気持ちでいっぱい

 と喜んだ。今後は2月19日開幕のノーザントラスト・オープン(米カリフォルニア州)で米ツア
ーデビュー。マスターズ前哨戦で推薦出場の決まったトランジションズ選手権(3月19日開幕・米
フロリダ州)、アーノルド・パーマー招待(3月26日開幕・米フロリダ州)を経て、マスターズに
挑む。

 
パーマー、ウッヅが進学の勧め

 3月26日マスターズ前哨戦「アーノルド・パーマー招待」に出場する石川だが、大会ホストのパ
ーマーは、公式記者会見で石川のことを聞かれ、

   石川は『ヤング・タイガー』だ。ただ、彼の年代にふさわしい普通の生活を送ってほし
   い。タイガーもゴルフだけではなく、大学に進んだ。ゴルフだけをしていたのではない

 来春卒業する石川に、幅広い経験を積むよう大学進学を勧めた。パーマー自身もウェーク・フォレ
スト大卒業後の25歳でプロに転向している。
 またタイガー・ウッズも、

   10代のころはいろんな体験をするべき。ゴルフがすべてではない。それ以外のことに
   も関心を持つことが重要で、自分も大学にいったのはよかった


 ウッズは名門スタンフォード大へ進学。2年で休学したものの、視野が広がったと強調。 石川は
進学かゴルフ一本か悩んでいるが、早稲田大学が触手を伸ばしている。

 ★マスターズ
   米国の風、芝生に思い切りぶつかって、マスターズにつなげたい。でもそんなに甘くな
   いかな


 と表情を引き締めたが、結果は73位と予選落ち。しかしここでの経験は彼の人生を一変させるほ
ど貴重なものとなり、今後に生きてくる。

 全英オープンへの道 ミズノオープン・よみうりクラシック[優勝③ 今期①]
 平成21年6月25~28日兵庫県西宮市のよみうりCCで開かれた国内男子ツアー第7戦「全英
への道~ミズノオープンよみうりクラシック」の最終日、単独首位からスタート。逃げ切って今季初
優勝、ツアー3勝目を達成し、同時に来月行われる「全英オープン」の出場権も手に入れた。日本人
としては史上最年少。

 ★全英オープン
   これだけレベルの高い日本ツアーで自分の力で掴めたのは良い経験になる

 と、誇りを胸に初めてのリンクスコースに挑戦したが、結果は6オーバー85位で、一緒に回った
タイガー・ウッズと肩を並べて予選落ち

 サン・クロレラ・クラシック[完全優勝④ 今期②]
 平成21年7月31日~8月2日北海道の小樽カントリー(パー72)で行われたサン・クロレラ
・クラシックで初日から3日間トップを維持し、通算17アンダーの271で制し、今季2勝目、通
算4勝目をあげた。賞金3000万円を獲得し、獲得賞金を約6176万円とし、賞金ランキングで
トップに立った。昨年は史上最年少の17歳で賞金1億円突破を果たし、プロ2年目で賞金王に挑む。

 全米プロゴルフ選手権(予選通過 +8 56位)
 平成21年8月13~16日ミネソタ州チャスカのヘーゼルティン・ナショナルGC(パー72)
で行われ、石川は海外の試合で初めて予選を通過、最年少のプロゴルファーとしてはまずまずの通算
+8で終了、56位に終わった。ほろ苦い経験。

 フジサンケイ・クラシック[完全優勝⑤ 今期③]
 平成21年9月3~6日富士桜カントリークラブで開かれたフジサンケイ・クラシックで、単独首
位スタートの石川遼が通算12アンダーで今季3勝目を飾った。石川は4バーディー、3ボギーの7
0にまとめ、2位に5打差をつける独走で優勝を決めた。アマチュア時代の1勝を含め、ツアー通算
5勝目。また、石川は今季の獲得賞金額を約9300万円に伸ばし、賞金ランクで首位に立った。

 世界ランク50位以内最年少
 平成21年9月7日発表された最新の世界ランキングで史上最年少でのトップ50入り。フジサン
ケイ・クラシックの優勝で、62位から自己最高の47位に浮上した。17歳11カ月でのトップ5
0入りは昨年19歳6ヶ月最年少記録したロリー・マキロイ(20 英国)を上回り、片山晋吾が5
0位に落ちたため、日本人トップに立った。石川が最も喜んだのは、50位以内に入ったことで来年
のマスターズの出場権が見えてきたことだ。

   このままいけばオーガスタの舞台に立っていられる。

 マスターズの出場資格には、今年12月31日時点の世界ランキング上位50人というカテゴリー
がある。4月は特別招待だっただけに、年末までランク維持の条件付きとはいえ、自力での出場権獲
得が夢ではなくなってきた。

 ノーマンの世界選抜に選ばれる
 平成21年9月9日、米国と世界選抜との対抗戦「プレジデンツ・カップ」(10月8~11日、
米サンフランシスコ・ハーディングパークGC)のメンバーが発表され、石川遼(17=パナソニッ
ク)が史上最年少で出場することが決まった。世界選抜主将のグレグ・ノーマン(54=オーストラ
リア)の推薦を受けたもので、日本選手では平成12年の丸山茂樹以来5人目の出場。石川は10日
からの韓国オープン(天安市・牛汀ヒルズ)に招待されたが、パッとしなかった。

 来年の全英オープン招待決定
 平成21年9月11日、日本ゴルフツアー機構が、全英の主催者でルール決定機関でもあるロイヤ
ル・アンド・エンシェント・クラブ(R&A)などに確認したところ、世界選抜に選ばれたことで来
年の全英オープン選手権(7月15日から4日間、英・セントアンドリュース)への出場を確実にし
たと発表した。米国:世界選抜対抗戦のプレジデンツカップ出場者には、慣例として翌年の全英への
出場資格が与えられ。石川は同カップ出場が決定した。石川は、

   プレジデンツカップに選ばれるのはそれだけ名誉なこと。朗報が届いて光栄に思う

 と話した。

 世界選抜「プレジデンツ・カップ」
 平成21年10月8~11日最終日には当時世界6位のケニー・ペリーに勝つなど、3勝2敗と世
界選抜ではアニー・エルスと並ぶ最多の3ポイントを挙げる大活躍を見せた。

 コカコーラ東海クラシック[優勝⑥ 今期④]
 平成21年10月4日愛知県三好町の三好カントリークラブ西コースで開かれた男子プロゴルフツ
アー「コカ・コーラ東海クラシック」は最終日の4日、単独首位スタートの石川遼がスコアを3つ伸
ばして通算14アンダーとし今季4勝目を挙げた。優勝賞金2400万円を獲得し、現在ランキング
首位の賞金総額を約1億2000万円に伸ばして2年連続1億円を突破した。昨年の自身の賞金総額
約1億600万円を、国内ツアー9大会残して早くも上回った。石川はツアー通算6勝目。

 最年少賞金王
 平成21年12月6日東京よみうりカントリークラブで行われた国内最終戦ゴルフ「日本シリーズ
JTカップ」最終日、それまで初日、2日と出遅れたが、3日目に復調のきっかけを掴むとその勢い
のまま5バーディ・1ボギーで4つスコアを伸ばしてホールアウト。優勝争いには遠く及ばなかった
ものの、豪快なドライバーショットと切れ味抜群のアイアンで今季の締めくくりにふさわしいラウン
ドを展開し、トータル3オーバー19位タイで終了した。賞金王になるには優勝が絶対条件だった池
田勇太は序盤の連続ボギーで躓くとスコアを伸ばせず、トータル7オーバーでフィニッシュ。この瞬
間、石川遼の史上最年少賞金王(183524051円)が決定、世界ランクも29位から20位に
躍進し、全英オープンの出場を確定した。
 なおこの大会は丸山茂樹(40)が優勝、10年振りという。

 9冠
 平成21年12月7日日本ゴルフツアー機構(JGTO)は、都内ホテルで「平成21年度ジャパ
ンゴルフツアー表彰式」を行った。今季4勝を挙げ、史上最年少賞金王に輝いた18歳の石川遼が、
最優秀選手賞、Unisysポイントランキング賞、平均ストローク賞、平均パット賞、バーディ率
賞、ゴルフ記者賞、MIP賞、特別賞の9冠に輝き、同じく4勝を飾った23歳の池田勇太が最優秀
新人賞島田トロフィを獲得した。
 
同21月20日男子ゴルフの本年度最終の世界ランキングが発表され、石川は30位となり、来年
のマスターズ・トーナメント招待条件を満たした。

 選手会副会長
 平成22年1月4日男子の日本ゴルフツアー選手会は理事会を開き、石川を副会長に選出した。昨
年最年少で理事を務めた遼は「微力ながら会長を支えていきたい。副会長の責任も重大。もっと勉強
していきたいし、年が明けてすぐに身の引き締まる思いができ、いいスタートになった」と話した。

 新会長には深堀圭一郎を平成19年以来3年ぶりに再任。昨年は副会長は8人だったが、今年は石
川の外、宮本勝昌、横尾要、近藤共弘、宮里優作の5人が選ばれた。任期はいずれも1年。副会長は
会長の補佐役で、ゴルフ普及のための小学校訪問や各所での挨拶などの仕事を通して、社会貢献に一
役買う。昨年は最年少賞金王に輝き、いわば日本ツアーの〝顔〟となった石川について、深堀新会長
は「遼クンに負担をかけるつもりはない。彼は海外に行ったり、ゴルフを優先してやっていただきた
い。これからのゴルフ界を背負っていく人材なので、力を借りたい」と語った。

 平成22年度マスターズ招待
 平成22年1月5日石川は、マスターズ(4月8日開幕、オーガスタ・ナショナルGC)の主催者
から届いた招待状を披露した。4日に届いたもので、アジア選抜対欧州選抜の対抗戦、ロイヤル・ト
ロフィー(8日開幕、タイ・アマタスプリングスCC)出発前に、成田空港で記者会見して公開。気
合満点で、今季初戦へ臨む。
 マスターズは1打差で予選落ち。

 中日クラウンズ(優勝⑦ 今季①)
 平成22年5月2日史上最年少記録を次々に更新している石川遼が、またゴルフの歴史を塗り替え
た。男子プロゴルフツアー中日クラウンズ(名古屋ゴルフ倶楽部和合コース)最終日、6打差から今
季初優勝。ツアー史上最少スコアの58を記録した。18ホールの3分の2に当たる12ホールでバ
ーディー。この記録はギネスブックに登録された。

   あきらめない気持ちで臨んだら、いつの間にかこんなにバーディーが出た

 と本人もびっくり。驚異的な勢いにベテラン選手も頭が上がらない。前日18位タイ。前日トップ
の最終組より約1時間早くコースに出た石川選手。アマチュアだった15歳で初優勝した07年マン
シングウェアオープンKSBカップ最終日と同じ白のポロシャツ、赤のパンツの「勝負服」だ。1、
2番で連続バーディー。前日トップで最終組の丸山茂樹(40)がコースに出た頃に3打差に詰める
と、この日7個目のバーディーを取った9番でトップに。バーディー量産態勢に同組の山下和宏(3
6)は「何をやってもうまくいったようだ。歴史の一ページを見させて貰った」と呆れるばかり。2
位の藤田寛之(40)も、

   自分は我慢が大事だと思ってプレーするが、全く違う攻撃的スタイル。我々の世代の常
   識が通用しない


 と異次元のゴルフに驚く。03年に59をマークしたこれまでの記録保持者で、ツアー30勝を誇
る倉本昌弘(54)は、このコースのパーが70だったことを挙げ、

   僕の時はパー71。(バーディーを取るのは)打数に余裕がない分はるかに難しい

 石川選手のコース脇には父勝美(53)が付き添い、今でも厳しい指導をするが、

   こんなスコアが出ることもあるんだ

 と喜んだ。昨年18歳で賞金王になったが、米国ツアーのメジャー大会マスターズでは2年連続予
選敗退。国内開幕2戦もトップ10入りすらできなかった中での離れ業。「これから数字の重みを感
じるんですね」。石川選手は、笑顔の中にも記録を打ち立てた責任をひしひしと感じていた。
 この結果、通算獲得賞金が300000000円を越え、これも最年少記録を達成。

 サンケイクラシック(優勝⑧ 今季②)
 9月5日富士桜カントリー倶楽部で行われたフジサンケイクラシックで、薗田峻輔とのプレーオフ
を制し中日クラウンズに続く今季2勝目を挙げるとともに、自身初の大会連覇を果たした。

 ホールインワン
 9月25日石川が所属するパナソニック協賛(ホストプロ)の大会「アジアパシフィック・パナソ
ニックオープン」第3ラウンド(会場・六甲国際ゴルフ倶楽部)・6番ホールで自らツアー競技で初
のホールインワンを達成した。

 太平洋マスターズ(優勝⑨ 今季③)
 11月14日太平洋C御殿場コースで、前日首位のまま逃げ切り、通算14アンダーで優勝した。

 平成22年度の賞金王争いでは3位に甘んじた。トップは韓国のキム・キョンテ。

 東日本大震災(東北太平洋岸沖地震津波)義捐金
 平成23年3月31日東日本大震災の被災地に向けた義援金として、今季の獲得賞金を全額寄付す
ることを決めた。4月7日からの「マスターズ」を含む海外メジャー及び翌週の4月14日の「東建
ホームメイトカップ」から開幕する今季の国内男子ツアー全試合が対象。またバーディ(イーグル他
を含む)を1つ獲得するごとに10万円を義援金に充てる。「トータルで2億円を目指したい」とし
ている。イチローが1億円、松坂大輔が8000万円、松井秀喜5000万円・・・に比べると、石
川は器が違う。イチローは成績からすると結構カツコワリー!

 マスターズ予選通過‐20位タイ
 4月7~10日、3回目のマスターズ・トーナメントに出場。初の予選通過を果たし、トータル2
85(‐3)‐20位タイの成績を残して帰国した。

 ●無免許運転騒動
 7月20日埼玉県警は道路交通法違反(無免許運転)の疑いでさいたま地検に書類送検した。この
年2月アメリカにおいて車の運転免許証と国外運転免許証を取得したが、石川は日本では「3ヶ月ア
メリカに滞在しなければ無効で、無免許運転になる」ことを知らずに5月下旬まで日本国内で運転し
ていたことが6月9日発売の「週刊文春」で報じられ、父は「米国で確認したつもりだったが不十分
だった」と述べている。6月9日埼玉県警から任意で事情聴取を受けたとされ、翌10日石川は記者
会見で「自分の不注意、不手際でご迷惑をお掛けして本当に申し訳ない」と謝罪した。
 日本ゴルフツアー機構(JGTO)の小泉直会長は「警察が行政処分を下した場合には、JGTO
としてもどういった処分にすべきか協議する」とコメントしていたが、14日に開かれた日本プロゴ
ルフ協会の理事会では処分を科さないことを決めていた。

 太平洋マスターズ(優勝⑩ 今季①)
 平成24年11月11日松村道央に一打差をつけて、2年ぶりに優勝。21歳2ヶ月で優勝10回
に到達したのは史上最年少。

 平成25年度は年初に、米クラブメーカー・キャロウェイゴルフと3年18億の用具総合で正式契
約するも、成績は精彩を欠く。

 長嶋茂雄インターナショナル・セガサミーカップゴルフトーナメント(優勝⑪ 今季①)
 平成26年7月6日小田孔明とのプレーオフを制して2年振り優勝。この年は、米国ツアー24試
合に加えて国内ツアー10試合に参戦し、やっと1勝した。

 ANAオープンゴルフトーナメント(優勝⑫ 今季①)
 平成27年9月20日宮里優作に2打差をつけて逃げ切る。

 ゴルフ日本シリーズJTカップ(優勝⑬ 今季② メジャー初制覇)
 平成27年12月6日2位に5打差をつけて初めてメジャー制覇、この大会の3年のシード権を手
にすると共に、「日本プロゴルフ選手権」「日本ゴルフツアー選手権」「日本オープンゴルフ選手権
競技」の3大大会の5年のシード権も獲得した。低迷期はあったが共に名実ともに超一流プレーヤー
となった。

 
●結婚
 平成28年3月2日ホームページにおいて結婚を発表した。お相手は中学時代からの同級生で、同
24年3月に婚約した一般女性(24歳)。米男子プロゴルフツアー本格参戦4年目を迎えた石川は
2月のフェニックス・オープンで腰を痛め、現在は一時帰国して静養中。最速で、3月10日開幕の
バルスパー選手権(米フロリダ州)での復帰を目指している。人生の伴侶を得て、悲願の米ツアー初
優勝へ向けて二人三脚で再スタートを切る。
 



■インターフェロン治療発祥の地

 阿佐谷南2丁目31番12号清川病院の玄関前に〝肝臓病研究センター〟という金属プレートの看
板が出ていて、そこに「インターフェロン治療発祥の地」と書かれている。
 長期間に亘って、ここ清川病院の院長をしていた飯野四郎博士は、インターフェロンによるC型肝
炎の治療を推進して大きな業績をあげ「ウィルス性肝炎治療の父」と呼ばれている。このため清川病
院は「インターフェロン治療発祥の地」とされ、碑が建てられたという訳。

   肝臓病研究センター
   Research enter for Liver Diseases
   since 1991
   1981~ 
肝炎ウイルスキャリアクリニック
   
インターフェロン治療発祥の地

 
インターフェロン
 動物の体内でウイルスなどの異物が進入した時に細胞が分泌するタンパク質の一種。昭和29年に
東大の長野泰一教授らによって発見された。平成4年から治療薬として認可され、肝炎や腫瘍の治療
に用いられている。
 


花籠部屋

 阿佐谷南3丁目の青梅街道に近いところにあった。現在墨田区にある花籠部屋は直系ではない。

 9代目
 昭和4年3月場所限りで引退した伊勢ノ海部屋(小結4代柏戸宗五郎)所属の元関脇三杉磯は、年
寄9代目花籠を継承すると幕内開月などの内弟子を連れて、伊勢ノ海部屋から分家独立し、花籠部屋
を創設した。9代目は、幕内富ノ山、藤田山などを育てたが、同22年11月に弟子の藤田山たちを
高砂部屋(横綱前田山)に預けて、花籠部屋を閉じた。

 11代目
 同27年5月場所限りで引退した二所ノ関部屋(大関佐賀ノ花)所属の幕内力士大ノ海は年寄芝田
山を襲名して幕内初代若ノ花など数名の内弟子を連れて分家独立して芝田山部屋を創設したが、同2
8年9月に11代目花籠に名跡変更し花籠部屋に改めた。11代目は、横綱初代若乃花、横綱輪島、
大関魁傑、関脇若秩父、関脇荒瀬(荒勢)など数10名にも及ぶ関取を一代で育て上げ、花籠部屋を
大部屋にした。因みに11代目の花籠部屋は所属力士の充実ぶりで知られたが、それと同時にチャン
コについても、当時各界でも指折りの美味さとの定評があった。いわゆる試食リポーターのパイオニ
ア的存在であるタレントの龍虎も、11代目花籠門下の元小結だ。

 12代目
 同56年3月場所限りで引退した先代娘婿の54人目横綱輪島は、12代目花籠を襲名して花籠部
屋を継承したが、この12代目は金銭問題のトラブルが多く、同60年2月年寄名跡を担保に入れて
借金をしていたという前代未聞の事実が表面化した。このことを苦にして当時の夫人は自殺未遂、義
母の11代目花籠の未亡人は部屋消滅後に首吊り自殺、自身も同年12月に廃業して花籠部屋は消滅
した。放駒親方(魁傑)や常盤山親方(若秩父)に名跡と部屋継承を打診したが断られ、結局弟子は
放駒に預けられた。角界を追放された形の輪島だが、平成21年1月場所NHKの解説者に呼ばれて
初めて協会と接触、和解?した

 13代目
 平成元年7月場所限りで引退した元小結花乃湖は 11代目の遺族の希望により、13代目を襲名
するが、資金難から花籠の年寄株を維持できず、翌年廃業した。

 14代目
 平成2年若獅子が名跡借りで継承するも、翌年株主の大寿山が引退したため竹縄に変更。

 15代目
 平成3年5月場所限りで引退した二子山部屋(横綱若乃花)の関脇大寿山は、同4年10月新しい
花籠部屋を山梨県上野原創設。同8年両国に移転した。
 


■杉並消防署
 阿佐谷南3丁目4番3号にある。03‐3393‐0119 


■阿佐谷ことり公園
 阿佐谷南3丁目4番16号にある区立公園。


■放駒部屋
 阿佐谷南3丁目12番7号にある。昭和54年1月場所限りで引退した花籠部屋(前3大の海)所
属の元大関魁傑が年寄放駒を襲名して花籠部屋の部屋付親方として後進の指導にあたっていたが、同
56年2月1日付で大ノ国ら数名の内弟子を連れて分家独立して部屋を創設。同60年2月、当時の
花籠(横綱輪島)が角界では前代未聞の年寄名跡を借金の担保にしていたことが表面化した。これに
より花籠親方は廃業して花籠部屋は消滅、残った力士は放駒部屋に全員移籍した。弟子の花乃湖が花
籠を継承したが廃業した。大ノ国が大乃国と改名後に横綱に昇進したが、近年はこれといった力士が
育っていない。なお、師匠放駒は平成22年のゴタゴタで日本相撲協会理事長に就任した。二所ノ関
一門では兄弟子の初代若乃花に続いて2人目だ。就任早々八百長問題がリークされ、理事長として初
めて八百長相撲の存在を認め、それに関与したと見做した25名の力士に引退を迫り、承服しない3
名を解雇した。
 


■阿佐谷南児童遊園
 阿佐谷南3丁目12番16号にある区立公園。


■阿佐谷南公園
 阿佐谷南3丁目16番18号にある区立公園。


■杉並第七小学校

 阿佐谷南3丁目19番2号にある区立校。昭和4年4月杉並第一尋常小学校から分校、「東京府豊
多摩郡杉並第七尋常小学校」として開校。昭和7年9月4教室増築。10月周辺郡部の東京市編入に
より杉並区が成立し、「東京府東京市杉並第七尋常小学校」と改称。同9年校歌制定。

 校歌「空に連なる」 作詞・倉林香三  作曲・不詳
  1.空に連なる武蔵の原に
    玉の宮居を東に仰ぎ
    富士の高値を真西に望み
    栄え行く御代の御幸を受けて
    和親の光 耀く処
    我が母校 杉並第七
  2.明治の帝の勅語
(みこと)を守り
    学びの師
(おや)の御諭し励み
    身体を鍛え 智徳を磨き
    耀く御国の光と共に
    伸び行く杉の香りぞ高し
    我等が母校 杉並第七


 同16年勅令第148号国民学校令により「東京府東京市杉並第七国民学校」と改称。12月日米
開戦。同17年プール(15m×7m)設置。同18年都制施行により「東京都杉並第七国民学校」
と改称。同19年長野県名取郡西内村鹿教場に学童集団疎開。同20年愚かなアメリカ軍の非人道的
無差別空爆により校舎全焼。8月日本はならず者国家アメリカの軍門に降り敗戦。以降その属国とな
り、唯々諾々として言い成りになる保守傀儡の政権を保持せざるを得ない今日的不幸を背負い込む。
売れない国債を買わされるやら、思いやり予算やらで、もう200兆円以上がとこ持って行かれた。
女の子がレイプされても地位協定とやらで泣き寝入りさせられるし、これからの若い者は、傀儡政権
の掲げる国際協力の名目の下、アメリカが仕掛ける戦争で、アメリカ軍の尖兵として、最前線の激戦
地に送り込まれることにになるぜ。ったく酷えもんだ。11月疎開解除により疎開児童帰校。
 同22年アメリカの強制による学制改革により、「東京都杉並区立杉並第七小学校」と改称。同2
4年戦災校舎復旧。同26年6教室増築。同30年4教室増築。新校歌制定。

 校歌「紫匂う」 作詞・明本京静  作曲・安西愛子
  1.紫匂う武蔵野の
    名残もゆかし阿佐谷に
     若木の杉は溌剌と
     希望の泉 汲みかわす
     杉並第七 わが母校
  2.智徳を磨き 身を鍛え
    正しく清き人たれと
    導き給う師の君の
    熱き心に抱かれて
    杉並第七 わが母校
  3.園の公孫樹は語らねど
    幾春秋の思い出は
    学びの庭に満ち満ちて
    夢にも通う懐かしの
    杉並第七 わが母校
  4.遙かに望む富士の山
     気高き姿 そのままに
     学び励みて日本の
     明日の栄を担うもの
     杉並第七 わが母校


 作曲の安西愛子は第1回の卒業生。NHKの幼児向けラジオ番組「歌のおばさん」で、松田トシと
共に歌のおばさんとして全国的に親しまれていた歌手。東京音楽学校(現東京芸術大学)の本科を卒
業した声楽家。童謡「お山の杉の子」、ラジオ歌謡「朝はどこから」が、今でいう大ヒットをした。
晩年は自民党で参議院議員を務めた。
 同39年体育館完成。同41年第1期鉄筋コンクリート造り校舎9教室落成。同42年第2期鉄筋
コンクリート造り校舎3教室落成。同44年第3期鉄筋コンクリート造り校舎6教室落成。プール完
成。同46年第4期鉄筋コンクリート造り校舎8教室落成。同47年学区変更があり、杉並第二小学
校から2~4年生が転入。校地整備。同49年第5期鉄筋コンクリート造り校舎3教室落成。同53
年第6期鉄筋コンクリート造り校舎5教室落成。同54年創立50周年記念式典。同56年外塀改修。
同57年学校緑化。同60年屋上改修、新旧建物の屋上連絡。FF暖房。同61年校舎窓枠アルミサッ
シュに取替え。同63年体育館改修。
 平成元年プール改修。創立60周年記念式典。同6年コンピュータルーム完成。同8年給食室増改
築。同11年創立70周年記念式典。同12年地方自治法改正に伴う学校教育法の改正により、東京
都の冠称が取れ、「杉並区立第七小学校」と改称。同14年スプリンクラー設置。同17年屋上緑化
・校庭芝生化完成。同18年ビオトープ・接道緑化完成。
 


法寿山西蓮寺
 阿佐谷南3丁目37番4号にある浄土真宗本願寺派の寺。


金魚の釣堀 寿々木園
 阿佐谷南3丁目38番33号にある。阿佐ヶ谷駅南口から徒歩3分のところにある。大正13年の
創業で現社長は3代目。以前は現在の3倍程の広さ、8面の生簀(プール)が在ったが、平成4年に
大改造して西3分の2をマンションに、東3分の1を3面の生簀に大改造した。
 1時間550円で、時間と、鯉か金魚かを決めたら、エサを貰って、竿を借りて、場所を決める。
椅子はビールケース。そのまま座るとお尻が痛くなるから、隅に積んであるザブトンを忘れずに借り
ること。それで、鯉の時は網、金魚の時はバケツも揃え、いざやいざ。金魚は3匹までお持ち帰りで
きる。何故魅力かというと金魚は金魚でも、金魚すくいの安物の和金ばかりじゃない。リュウキンや
キャリコ、オランダシシガシラ、アズマニシキ、一匹1万円もするランチュウもいるので当たれば損
はない。だから人気が高く、雨さえ降らなければ満員の盛況だ。朝の8時から日暮れまでだから夏の
営業は長い。夕涼みがてらどうだい! ジュースでもビールでも持ち込みOKだ。
 


■城右高等女学校 →
文化女子大学附属杉並中学校高等学校
         → 文化学園大学杉並中学・高等学校
 3丁目48番16号にあった私立校。大正11年水谷弓夫が大久保町東大久保(東新宿)51番地
の浅貝寛所有の家屋を購入して校舎に改造。細川潤次郎・芳賀矢一・下田歌子・棚橋洵子らの賛同を
得て、裁縫を主とする3年制の「水谷実科女学校」を開校。同12月「水谷女学校」と改称。ために
同13年生徒が増え、天沼8番地(現在地)を購入、翌年移転した。しかし田舎に越したため生徒が
激減、新校舎の設備投資に出費が嵩み、経営不振に陥った。そこで学校を作ろうとしていた河野通彌
太に声を掛け買って貰った。河野は高等女学校だと信じて買ったのだが、まだ認可が下りておらず大
騒ぎとなった。しかし波風は立ったものの何とか軌道に乗り、同15年水谷が考えていた校名「城右
高等女学校」として開校。定員160名4学級でスタート。昭和3年には定員360名8学級、同1
5年定員400名と次第に増加していった。

 校歌「秩父颪も」 作詞・河野通彌太  作曲・大宮健太郎
  1.秩父颪も物かはと
    富士ヶ嶺高く仰ぎつつ
    孔子の教えの礎に
    三綱五常の旗翻し
    吾が学び舎は聳えて建てリ
  2.日々に新たに日に進む
    世の慣わしに棹刺して
    後れ泥
(なず)まず身を魂を
    正しく雄々しく はた健やけく
    磨きて行かな吾が学び舎に
  3.武蔵野原の一角に
    久遠の光 慕いつつ
    位を内に正しうし
    内剛外柔兼ね備えたる
    女
(をみな)の誉れ いざ疾(と)く挙げん

 この校歌が男子校の校歌のようだというので、東大独文教授桜田常久に改詞して貰った。曲はその
まま引き継がれたが、後に音楽教師山田まつよが改曲した。
  1.芙蓉の嶺を仰ぎ見る
    学びの庭に集い来て
    三千年のその上の
    久遠の光 慕ふ哉
  2.泗水の流れ変わらねど
    変わらぬ道を伝へてし
    古人
(いにしえびと)の心こそ
    直き女
(をみな)の道ならめ
  3.日出ずる国の少女
(おとめ)らは
    薔薇
(しょうび)如く頬笑めど
    聖
(ひじり)の教え胸に染(し)
    真実
(まこと)の誉れ上げ行かん

 同22年新制中学校設立。同23年新制高等学校設立。「城右中学校・高等学校」となった。同2
6年学校法人城右高等学校に組織替え。同49年文化学園に買収され、その系列校となり「文化女子
大学附属杉並中学校高等学校」と改称した。
 平成11年新館(地上6階・地下1階建延 9772㎡)落成。同23年文化学園大学杉並中学・
高等学校と改称。

 校歌「
富士の気高さ」  作詞作曲・不明
  1.富士の気高さ仰いで集う
    乙女ら此処に都西の園に
    嗚呼胸に咲く象徴の薔薇
    外に優しく 内に強くと
    教え床しき 教え床しき
    吾等が母校
  2.星を額に未来をかけて
    勤しむ四季に黒髪香れ
    嗚呼直向
(ひたむき)に価値あるものに
    燃えて進めば 師あり友あり
    若さ忘れじ 若さ忘れじ
    吾等が母校
  3.学び修めて楠跡に
    去り行く人よ やがては吾も
    嗚呼感動の時代を惜しみ
    心触れ合う日々の生き甲斐
    いつも新たに いつも新たに
    吾らが母校


 女学校
 「おんながっこう」「じょがっこう」という言葉は江戸時代からあり、一般的には、明治に入って
ミッション系女学校ができてから頻りに使われるようになった。明治24年高等女学校は男子の尋常
中学校と同等とされ、「高等」とは「女子教育はここが最高だ」という女性蔑視に基づいている。こ
の頃女性で大学に行くことは稀だったが、高等女学校の専科(2~3年)が男子の高等学校・大学予
科に準じ、そこを経て大学に進学した。
 


■阿佐ケ谷駅

 阿佐谷南3丁目58番にあるJRの停車場。大正11年に追加開業した駅。同日に、高円寺駅と西
荻窪駅も開業した。ホームは高架島式2面4線構造。平日は快速電車が停車するが土休日は停車しな
いため、3・4番線ホームは土休日には閉鎖されてしまう。ホームと改札階を結ぶエレベーターは設
置済み。改札口は1ヶ所のみで1階にある。出口は北口と南口の2ヶ所。
 駅改札外には、平成15年にオープンしたJR系の商業施設「ディラ阿佐ヶ谷」がある。またダイ
ヤ街という商店街も併設している。

 
遊ぶ子たち
 南口の駅前広場にある3体の子供像。
 
 



【天沼】(あまぬま)1~3丁目                    昭和40年1月1日
 天沼村。明治11年「郡区町村編制法」により東多摩郡に所属、同22年「市制町村制」により
杉並村大字天沼、大正13年杉並町大字天沼、昭和7年東京市編入20区増設により杉並区天沼1
~3丁目。同38年新住居表示により一部を下井草に、同39年一部を上荻1丁目に、同40年一
部を清水1丁目・阿佐ヶ谷北3丁目・阿佐谷南3丁目に譲り、残った天沼は1~2丁目と3丁目を
別々の町域とすることになった。ところが天沼をどっちが名乗るかで揉め、その本家争いは南北戦
争の様相を呈した。膠着状態となるかと思われた或る日、紛争は呆気なく収束した。北(3丁目)
が「本天沼」を名乗って申請したのだ。区は却下する理由が南はないので受理した。南は間の抜け
た勝利で天沼を頂戴したが何か清新たらざるあり、誰もが本天沼こそが本村と思うだろう。結局1
丁目の一部を残した1~2丁目あわせた町域を現行の「天沼」とした。同44年残した一丁目の一
部を荻窪4丁目に譲り新住居表示は完了した。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『杉並区史』『杉並の歴史』など。

 天沼の由来
 天沼は3丁目23番にあった弁天池で、今は埋め立てられて西武の敷地だったが、平成18年4
月から区立天沼弁天池公園となっており、敷地内に郷土博物館分館がある。
 『続日本紀』に武蔵国「乗潴駅」ついて記述があり、これをどう読みどこに比定するかで学者連
中は侃々諤々の論を飛ばしあっている。
 ①、吉田東伍は、「アマヌマ」と読んでこの付近だといい、
 ②、村山良弼は、北埼玉郡小瀬村小松だという。
 ③、柴田常恵は、さいたま市大宮の天沼を主張、
 ④、菊池山哉は、「ノリヌマ」と読み練馬だと説く。

 
天沼・弁天池・瓢箪池

 それはともかく 「天沼」は「雨沼」で、雨が降ると水が増して流れ出たか、または雨の後に湧
水となる水溜りだったのだろう。元々桃園川の水は細く、江戸時代に嘆願に嘆願を重ねて千川上水
からの養水を受けた。用水跡・流路跡は現在も残っている。天沼はかつては桃園川の水源で、3丁
目23番の天沼弁天池公園のところに瓢箪型の池があった。西武が買い取る以前は「天沼池畔亭」
という料理屋の庭園で、池畔に祀られていた弁天様は、昭和50年に150mほど東の八幡神社の
境内に移し、跡地を売却したという。現在敷地の西南角に1m四方の弁天の小祠があり、事務を八
幡神社で取り扱っている旨の案内板とともにあったが、今は園内に移されている。
 


■天沼地蔵前公園
 天沼1丁目1番4号にある区立公園。


■天沼一丁目児童遊園
 天沼1丁目2番11号にある区立公園。


■民間信仰石塔群
 天沼1丁目5番1号にある。

   民間信仰石塔
   ここに建立されている石塔は、向って右から元禄十一年(1698)銘駒型庚申塔、宝永
   二年(1705)銘舟型地蔵塔、享保十二年(1727)銘角柱型庚申塔で、天沼村の古
   道に面して建てられています。いずれも天沼村の講中によって造立されたもので当時の講
   員の名も刻まれていますが、駒型庚申塔と地蔵塔は台石部の人名を判読することが困難に
   なっています。
   庚申信仰は、長寿のためには庚申の夜は身を慎しんで徹夜をすべきである、という道教説
   に始まるといわれ、中世以降には庶民の間に広まりました。江戸時代には各地で講が結成
   され、庚申塔を造立するようになりました。庚申塔は青面金剛を本尊とし、三猿を配する
   のが一般的ですが、角柱型庚申塔は、元は笠付文字塔であったものが軸部のみ残されたも
   のと思われます。
   地蔵菩薩は、人間の苦を除き楽を与え六道衆生を救済する仏として信仰を集めた。また冥
   界と現実界の境に立って人々を守護するということから、村の安全を守護する菩薩とされ
   村の路傍または辻に多く建立されています。
   これらの石塔は、杉並区内では比較的古いもので、江戸時代中期の典型的型式のもの。ま
   た天沼村の民間信仰を知ることができることから杉並区登録有形民俗文化財に指定されて
   います。
   平成13年3月                         杉並区教育委員会
 


■天沼東公園

 天沼1丁目32番11号にある区立公園。


■区画整理碑・民間信仰石塔群

 天沼1丁目37番8号にある。松の木の根元に2mばかりの大きな平石でできた区画整理碑だ。昭
和13年の建立なので、その当時は水田の中にポツンと建っていたのだろう。
                       *
 平成20年6月15日のこのこ出かけて行ったさ。桃園川の北側にちょっとしたスペースがあり、
黒松と柏だか何だかの巨木が立っていて、その傍らに覆屋が2つ建ててある。その中に庚申塔2基、
百番観世音供養塔2基、地蔵塔1基が据えてある。天沼村の村人が現世での幸運と、来世での往生安
楽を願って造立したもので、当時の人々の信仰心の一端を窺い知ることができる。

   民間信仰石塔
   ここに建立されている石塔は、宝永元年(1704)銘・元文五年(1704)銘の庚申
   塔、享保十五年(1730)銘の地蔵塔、宝暦九年(1759)銘・享和三年(1803)
   銘の百番観音供養塔です。いずれも天沼村の村民が現世での幸運と来世井での往生安楽を
   願って造立したもので、当時の人々の信仰心の一端をよく伝えています。
   庚申信仰は、長寿のためには庚申の夜は身を慎んで徹夜をすべきである、という道教説に
   始まるといわれ、中世以降庶民の間に広まりました。江戸時代には、各地に講が作られ、
   庚申塔の造立も盛んとなりました。この2基の庚申塔は青面金剛・三猿等を浮彫りにした
   標準型の塔で、講中による造立です。
   「お地蔵様」と呼ばれて人々に親しまれている地蔵菩薩は、人間の苦を除き楽を与え六道
   衆生を救済する仏として信仰を集めました。また境の守護と村の安全の守護を行う仏とも
   され、村境や辻に多く造立されています。
   百番観音信仰も江戸時代には庶民の間に浸透しました。特に関東地方では西国・板東・秩
   父の100ヶ所霊場巡拝が盛行し、巡拝記念あるいは巡拝と同じ功徳を得るための百番観
   音供養塔が造立されました。ここの享和3年銘の供養塔は百番観音信仰と光明真言信仰と
   を一体にしたもので、区内では数少ない作例です。
   これらの石塔は地域の区画整理の際に集められたもので、庚申塔は南方の桃園川辺の路傍
   地蔵塔と供養塔は西方の熊野神社際の路傍からの移転です。
   なお石塔隣の区画整理記念碑は、整理の完了した昭和13年に建てられたものです。
   平成2年3月                          杉並区教育委員会


日本大学第二中学校・第二高等学校
 天沼1丁目45番33号にある私立校。本校は日本大学の特別付属校であり、一般の付属校とは異
なる。だから学校法人は学校法人日本大学とは異なる。日本大学第二学園が日本大学と契約して付属
校となっている。日大付属校の中では進学校としての意識が強く、およそ7割の生徒が意欲的に他大
学への進学を目指している。伝統的に自由な校風で、体育大会・文化祭など生徒が中心となって行う
行事も多い。
 現在の制服は男女ともに夏・冬で多少異なるブレザーだ。閑静な住宅街にあり、構内にある銀杏並
木は杉並区の保護樹林に指定されている。
 
大正15年校舎建築開始。同2年日本大学第二中学校開校。同3年日本大学第二商業学校(夜間4
年制)開校。銀杏並木を植樹。同7年日大第二商業学校(昼間5年制)開校。
 同21年日本大学からの経営を離れ、学校法人日本第二学園設立。日本大学第二中学校および日本
大学第二商業学校(昼間5年制)を閉校。日本大学第二商業(夜間4年制)は新制高校夜間4年制と
して存続。同22年戦勝国アメリカの強制による学制改革(学校教育法施行)により新制の日本大学
第二中学校開校。同23年新学制により新制の日本大学第二高等学校開校。同24年中学、高校に女
子部併設。学園歌発表。校訓三則、色別学年章制定。

 日本大学第二学園歌 
  1.輝く雲路 風冴えて
    新しき日は明け染めぬ
    希望果て無き若人我ら
    今ぞ勤しむ日本第二学園
  2.光溢るる青春の
    英知と愛と熱情の
    尽くす誠の心一筋
    強く結びし日本第二学園
  3.挙れる若き力持て
    築く未来に栄えあれ
    地上の楽土 おおし立つべく
    いざや進まん日本第二学園


 校訓三則(教育理念)は「信頼敬愛」「自主共同」「熱誠努力」。
 同28年
木造2階建て女子部校舎完成(現在の武道館の場所)。同30年から体育祭での「二高音
頭」始まる。現在も高3の最後の締めくくりとして行われている。同31年西館鉄筋コンクリート造
り校舎落成。陸上競技部高校総体全国優勝。同34年野球部が甲子園に春・夏連続出場。また秋の国
体で初優勝。同36年本館鉄筋コンクリート造り校舎落成。同38年新制高校夜間4年制閉校。立川
にグラウンド造成。主に、野球部、ラグビー部が使用。同39年女子部鉄筋コンクリート校舎落成。
庭園を造成。荻窪の都電が廃止になり、線路の敷石が銀杏並木の並木道に移設された。この敷石は現
在も南門側に現存している。同41年水泳プール(25m・9コース)、図書館棟(食堂1階・図書
室2階・視聴覚室3階)・講堂兼体育館・地下体育館完成。同44年長野県志賀高原寮完成。同51
年芸術校舎落成。同58年中学校舎落成。同60年理科校舎(1階が生物・2階が物理・3階が化学
それぞれの実験室となっている)落成。同61年武道館(剣道場・トレーニングルーム1階、柔道場
2階)完成。
 平成8年中学部共学化に伴い、中学女子募集再開。創立70周年記念式典。同9年本館新校舎落成。
高校一斉に共学化。同13年21年振りに「21世紀初めの同窓生の集い」として全体同窓会開催。
卒業生総数36266名に。同19年夏休みを利用して中学校舎・体育館・図書館棟などを耐震補強
化。その間、周辺の小学校などの協力を得て部活動などを行った。

 
卒業生にはこんな人が

 荒俣宏(小説家)、ねじめ正一(小説家)、桐山襲(小説家)、亀島雄策(グラフィックデザイナ
ー)、大平貴之(プラネタリウム設計者)、沢渡朔(写真家)、ショー・ホンダ(写真家)・一色一
成(写真家)、ホナマタカシ(写真家)、井上清司(写真家)、大村政男(日大名誉教授)、高山忠
利(日大医学部教授)、柴田勝治(JOC委員長 日大理事長)・佐々木周二(國學院大學理事長)
世耕政隆(衆院議員 近大総長)、山口泰明(衆院議員)、大島九州男(衆院議員)、越智正典(N
TVアナウンサー)、畠山智之(NHKアナウンサー)、山崎正(テレ朝アナウンサー)、松坂慶子
(女優)、
伊藤蘭(キャンディーズ)、姿美千子(中退 大映女優)、篠田三郎(中退 俳優)・三
波伸介(コメディアン)、吉田真希子(女優)、田中千代(元女優)、中田博久(俳優)、塩沢兼人
(声優)、近石真介(声優)、水島裕(声優、タレント)、赤羽健一(お笑い芸人、ジューシーズ)
小森まなみ(歌手・声優・作家)、鈴木忠、(プロ野球選手)、妻島芳郎(プロ野球選手)、井上善
夫(プロ野球選手)、神山修(元プロ野球選手)、五十嵐信一(元プロ野球選手)、相馬勝也(元プ
ロ野球選手)、渡辺英昭(元プロ野球選手)、川尻哲郎(元プロ野球選手)、川口泰直(元プロ野球
選手)、大田哲也(カーレーサー)、村田達哉(プロサッカー選手・DF)、古屋信哉(プロサッカー
選手 映像作プロデューサー)、キーラン裕人(プロサッカー選手)雨宮一大(教師、作家)次原悦
子(サニーサイドアップ社長)、若林正恭・春日俊影(お笑いタレント、オードリー)青樹泉(タカ
ラジェンヌ) など多数。
 


庚申堂

 天沼2丁目17番2号にある。笠付と山形の2基。作りは鮮明。


天沼八幡神社

 天沼2丁目18番5号、桃園川の水源「天沼」の東、約100mのところにある。天正年間(15
73~92)の創建といわれるが、池が広大だったころに池畔に建てられたのだろう。天沼村中谷戸
(なかがいと)の鎮守。誉田別命(応神天皇)を祀る。現在の社殿の建築費用を捻出するため、弁天
池(天沼)を売却して作った。それで弁天池は埋め立てられることになり、天沼は地上から消え去っ
た。料亭があったほど美しい池だったという。弁天池の弁天様は現在境内に遷座したが、旧地にも道
路に面してささやかな小祠があるが、魂はない旨の添え書きがしてある。
 境内末社に大鳥神社(1殿)・稲荷神社(2殿)・須賀神社・金山彦神社・日枝神社(以上合殿)
があります。その他稲荷社と思われる小祠が3つある。『新編武蔵風土記稿』多摩郡天沼村の条に八
幡社とあって、

   除地、百五十坪、コレモ中谷戸ニアリ此所ノ鎮守ナリ本社ハ三尺四方ニテ覆屋二間二三間
   南向例祭九月ニテ下ノ稲荷十二所権現ト交ル々々行ヘリト云ウ


 と記されているように、旧天沼村字中谷戸の鎮守で天正年間(1573~91)の創建と伝えられ
ている。祭神は応神天皇。明治40年9月に字四面道の鎮守厳嶋神社(祭神市杵嶋比売命)を合祀。
昭和2年4月に村社となった。
 なお、日枝神社はその昔、天沼村が江戸時代に赤坂の日枝神社の社領であったため、旧村から末社
としてこの地に奉斎された。相殿の祭神市杵嶋比売命は、合祀以来水神・安産の神として深く信仰さ
れ、雨乞いの行事なども古くから伝えられていた。大鳥神社(祭神日本武尊)は、商売繁昌の神社と
して信仰され、毎年11月の酉の日を祭日として熊手市が立ち、大いに賑わう。社務所では開運熊手
守・福桝などを授与してい。現在の社殿は、昭和52年に改築した。

   天沼八幡神社
   この神社は、『新編武蔵風土記稿』多摩郡天沼村の条に八幡社とあって、
    除地、百五十坪、コレモ中谷戸ニアリ此所ノ鎮守ナリ本社ハ三尺四方ニテ覆屋二間二
    三間南向例祭九月ニテ下ノ稲荷十二所権現ト交ル々々行ヘリト云ウ
   と記されているように、旧天沼村字中谷戸の鎮守で天正年間(1573~1591)の創
   建と伝えられています。
   祭神は応神天皇です。
   明治40年9月に字四面道の鎮守厳嶋神社(祭神市杵嶋比売命)を合祀しました。昭和2
   年4月に村社となりました。
   境内末社に大鳥神社(1殿)・稲荷神社(2殿)・須賀神社・金山彦神社・日枝神社(以
   上合殿)があります。
   なお、日枝神社はその昔、天沼村が江戸時代に赤坂の日枝神社の社領であったため、旧村
   から末社としてこの地に奉斎されました。
   相殿の祭神市杵嶋比売命は、合祀以来水神・安産の神として深く信仰され、雨乞いの行事
   なども古くから伝えられていました。
   大鳥神社(祭神日本武尊)は、商売繁昌の神社として信仰され、毎年11月の酉の日を祭
   日として熊手市がたちます。当社では開運熊手守・福桝等を授与しています。
   現在の社殿は、昭和52年に改築されました。
   昭和58年3月                         杉並区教育委員会
 


■日本キリスト教会荻窪北伝道教会

 天沼2丁目25番23号にある。


天沼熊野神社

 天沼2丁目40番2号にある。天沼村の鎮守。祭神は伊邪那美命。創建年代は不明だが、社伝によ
ると「神護景雲ニ年(768)東海道巡察使が武蔵国に来た時に氏神を勧請し別当を置いたのが始ま
り」と伝えている。また一説には「元弘三年(1333)に新田義貞が鎌倉攻めの途次、ここに宿陣
し、社殿を修め、戦勝を祈って2本の杉苗を献植した」といわれている。その後、応永ニ年(139
5)朝倉三河守という武将がこの地に帰農した際、社殿を修理し、十二社権現と称するようになった
といわれている。熊野神社と名称を改めたのは明治維新以後のことだ。この辺りからは室町時代の板
碑が出土していることから、その頃既に開発が進み、また蓮華寺の過去帳によれば、天沼村は遅くと
も慶長年間(1596~1615)には成立していたものと考えられる。境内には、直径2mにも及
ぶ大杉の切株があるが、社伝によれば、この杉は新田義貞がこの地に陣をしいた際、戦勝を祈願して
手植えしたものと伝えられている。惜しいことに昭和10年に枯死したため、同17年伐採され、今
では切株で昔を偲ぶだけとなっている。傍らに陸地測量部の海抜45m30cmと彫った三等三角点
の石柱が立つ。その他に境内には、文化十四年(1817)九月奉納の石造鳥居と文久ニ年(186
2)九月奉納の石造手水盤がある。

   天沼熊野神社
   この神社は、旧天沼村の鎮守で、伊邪那美命を祭神としています。
   創立については詳らかではありませんが、社伝によれば、神護景雲二年(768)東海道
   巡察使が武蔵国に来た折に、氏神を勧請し、別当を置いたのが始まりと伝わります。
   また一説には、元弘三年(1333)新田義貞が鎌倉幕府執権の北条高時を討つため、鎌
   倉へ軍を進める途中で、この地へ陣を敷き、社殿を創設したとも伝えられています。その
   後、応永二年(1395)朝倉三河守という武将がこの地に帰農した際、社殿を修理し、
   十二所権現と称するようになったといわれています。熊野神社と名称を改めたのは、明治
   維新以後のことです。
   天沼は古くからの名称で、奈良時代末期の武蔵国の「乗瀦駅」から起こったといわれてい
   ますが、諸説あって定かではありません。周辺の地域からは中世の板碑が出土しており、
   その頃すでに開発が進んでいた地域であったと考えられます。蓮華寺の過去帳によれば、
   天沼村は慶長年間(1596~1615)には成立していたものとみられます。
   境内には、直径2mにも達する幹をもつ大杉の切株が保存されています。社伝によれば、
   新田義貞がこの地を訪れた際、戦勝を祈願して手植えした杉と伝えられています。惜しい
   ことに枯死したため、昭和17年に伐採され、今では切株で昔を偲ぶだけとなっています。
   また、この大杉の手前には、文久二年(1862)九月奉納の石造手水盤があります。
   平成26年2月                         杉並区教育委員会

 新田杉株・三角点
 社伝によると「元弘三年(1333)に新田義貞が鎌倉攻めの途次、ここに宿陣し、社殿を修め、
戦勝を祈って2本の杉苗を献植した」といわれている。伝承の杉は昭和10年に枯れ、今も伐り株が
残っている。傍らに陸地測量部の海抜45m30cmと彫った三等三角点の石柱が立っている。
 


■杉並第五小学校 
廃校

 天沼2丁目46番10号にあった区立校。大正6年6月1日蓮華寺に桃野高等小学校分教場として
開校。同15年4月1日天沼2丁目576番地に「杉並第五尋常小学校」として開校。当時1年生か
ら4年生までが男組・女組に分かれ、492名10学級編成だったが、低学年は二部授業を強いられ
た。校歌はそんな時に作られた。昭和2年校歌制定。

 校歌「伸びよ」 作詞・大輝秀穂  作曲・小松耕輔
  1.伸びよ伸び伸び 我が学び舎の
    庭の若杉 すくすく伸びて
    天にも届け 星をも拾え
    霜にも雪にも撓まず折れず
  2.伸びて伸び伸び 此の学び舎の
    我等若杉 只管
(ひたすら)伸びて
    霜をも払い 月をも取らむ
    幹は真っ直ぐに 緑は永久に
  3.我が大君の都(宮居)に近く
    生まれし民草 思へば彼処
    御世の誉れと 此の学び舎に
    育てよ育たむ 出で出で出でや


 作詞者大輝は父兄で、府立四中の国漢の教師だった。この校歌は新校歌が出来るまで、戦前・戦中
・戦後を通して本校に学んだ1000人の人々の胸に今も歌い続けられている。
 3番の歌詞の「都」は、昭和16年から「宮居」に改められた。按ずるに天沼が東京市に組み込ま
れたのに「都に近く」では実情にあわなくなったためだろうと校歌集に説明がある。敗戦までは2番
を省略し、戦後は3番を省略して歌ったという。

 同7年周辺郡部の東京市編入により杉並区成立、「東京府東京市杉並第五尋常小学校」と改称。同
10年4月天沼3丁目に分教場を開き5学級を移す。12月分教場を独立させ杉並第九尋常小学校と
して分校。同16年1月8日若杉小学校を分校し、453名移籍。4月勅令第148号国民学校令に
より「東京府東京市杉並第五国民学校」と改称。12月日米開戦。同18年都制施行により「東京都
杉並第三国民学校」と改称。同19年長野県小県郡別所村に学童集団疎開。同20年8月日本は、な
らず者国家アメリカの軍門に降り敗戦。以後属国となり、唯々諾々として言い成りになる保守傀儡の
政権を保持せざるを得ない今日的不幸を背負い込む。売れない国債を買わされるやら思いやり予算や
らで、もう200兆円以上がとこ持って行かれたよ。女の子がレイプされても地位協定とやらで泣き
寝入りさせられるし、これからの若い者は、傀儡政権がぶち上げる国際協力の名目の下、アメリカが
仕掛ける戦争で、アメリカ軍の尖兵として、最前線の激戦地に送り込まれることにになるぜ。ったく
酷えもんだ。

 同22年アメリカの強制による学制改革により、「東京都杉並区立杉並第五小学校」と改称。同2
8年沓掛小学校の開校により97名移籍。同33~35年鉄筋コンクリート造り3階建17教室、理科
室、管理室等改築。同40年11月創立40周年記念音楽会が催され、天沼在住の児童文学者石森延
男に詞を書いてもらった新校歌発表。

 校歌「ここルーフから」 作詞・石森延男  作曲・中田喜直
  1.このルーフから見える富士
    耀くばかり美しく
    望みは高く大らかに
    翼豊かに羽ばたこう
     幸せ一杯の学び舎は
     日本の都 東京の
     杉並第五小学校
  2.ここ教室の窓辺には
    武蔵野渡る朝の風
    真理の世界 戦
(そよ)がせて
    深く学べと呼びかける
     幸せ一杯の学び舎は
     日本の都 東京の
     杉並第五小学校
  3.さあ逞しく伸び伸びと
    鍛えて行こう この体
    嵐が来ても恐れずに
    光溢れる毎日を
     幸せ一杯の学び舎は
     日本の都 東京の
     杉並第五小学校


 同47年鉄筋コンクリート造り3階建て校舎を増改築。同51年開校50周年記念式典。同56年
郷土資料室完成。同57~58年施設設備等(防球網・万年塀・FF暖房・防火水槽・窓枠アルミサ
ッシ化・強化ガラス取付)改修。同59年学校開放指導員詰所・屋外便所・兎小屋・小鳥小屋移設。
飼育池新設。同61年創立60周年記念式典。
 平成6年コンピュータ-室完成。同13年創立75周年。8月インターネット接続工事。同12年
地方自治法改正に伴う学校教育法改正により、校名から東京都の冠称が取れ「杉並区立杉並第四小学
校」と改称。同13年インターネット接続。
 
同20年3月31日を以て廃校。若杉小学校と統合し「杉並区立天沼小学校」となった。校地は
杉並第五小学校に設けられることになり、同22年完成予定で新校舎を建てる。それまでの間は旧
若杉小学校の校舎を使用する。


■天沼小学校 
杉並区初の統合新設校

 天沼2丁目46番3号、平成22年末杉並第五小学校跡地に校舎新築。平成23年元旦。旧若杉
小学校の仮校舎から移転。13学級379名でスタート。
 


■若杉小学校 
廃校

 天沼3丁目15番20号にあった区立校。昭和16年1月杉並第五尋常小学校から分校し、「東
京府東京市若杉尋常小学校」として開校。15学級633名でスタート。校歌制定。4月勅令第1
48号国民学校令により「東京府東京市若杉国民学校」と改称。12月海軍の真珠湾奇襲攻撃によ
り日米戦争勃発。同18年都制施行により「東京都若杉国民学校」と改称。同19年長野県小県郡
別所村に学童集団疎開。同20年8月日本はならず者国家アメリカの軍門に降り敗戦。以降その属
国となり、唯々諾々として言い成りになる保守傀儡の政権を保持せざるを得ない今日的不幸を背負
い込む。売れない国債やら思いやり予算とやらで、もう200兆円がとこ持って行かれたよ。女の
子がレイプされても地位協定とやらで泣き寝入り。11月疎開解除により疎開児童帰校。
 同22年アメリカの強制による学制改革により、「東京都杉並区立若杉小学校」と改称。同33
年体育館完成。同40年創立40周年記念式典・校歌制定。

 新校歌「朝日を浴びた杉の木の」 作詞・大山康晴名人 作曲・三善晃
  1.朝日を浴びた杉の木の
    まっすぐ伸びて何処までも
    
まっすぐ伸びて何処までも
    天まで届けと元気良く
    微笑交わす教室で

    
微笑交わす教室で
    明るく楽しい
 明るく楽しい
    若杉小学校
  2.大地に根を張る杉の木の
    激しい風にも何のその
    
激しい風にも何のその
    やがては耐えるの逞しく
    頼もし姿仰ぎつつ
    
頼もし姿仰ぎつつ
    明るく楽しい 
明るく楽しい
    若杉小学校
  3.歴史の古い天沼や
    荻窪 井荻の村々の
    尊い伝統 尊い伝統 守りつつ
    伸びる杉の木 行かないで
    
伸びる杉の木 行かないで
    明るく楽しい 
明るく楽しい
    
若杉 若杉 若杉 若杉 
    若杉小学校


 太字部分が名人作詞の歌詞。青字部分は合唱曲としての繰り返し部分。開校40周年の節目に作ら
れた。児童合唱で業者を呼んで本格的にレコーディング。学校としてはレコードを記念として父兄に
買わせ、経費を浮かそうと考えたようだが、何と大山名人がレコード全部を買い取って全校生徒に無
償でプレゼントした。学校の浅ましさと名人の度量の大きさとの落差が滑稽だ。

 同43年第1期鉄筋コンクリート造り校舎(普通5・給食室・用務員室)落成。同44年第2期鉄
筋コンクリート造り校舎(普通5・図工室・理科室・職員室・保健室・音楽室)落成。45年第3期
鉄筋コンクリート造り校舎(普通6・校長室・職員室・事務室・放送室)落成。同46年プール完成。
同50年第4期鉄筋コンクリート造り校舎(普通2・第二音楽室・視聴覚室・図書室・家庭科室・特
殊2・弱視)。同56年体育館・ブール完成。同57校庭開放指導員詰所設置。同59年学校緑化「若
杉の森」完成。
 平成2年校舎窓枠アルミサッシに取替え。同3年創立50周年記念式典・郷土資料室「杉杉ルーム」
完成。同5年コンピュータルーム開設。同8年校庭改修。同12年2月杉並区模範校賞受賞。4月地
方自治法の改正に伴う学校教育法改正により、校名から東京都の冠称を取り、「杉並区立杉並第四小
学校」と改称。創立60周年記念式典。
 
同20年3月31日を以て廃校となり、杉並第五小学校と統合して「杉並区立天沼小学校」となっ
た。校地は杉並第五小学校に設けられることになり、同22年新校舎落成までの間、旧若杉小学校の
校舎を使用。
 


■天沼小学校(仮校舎)

 天沼3丁目15番20号の旧若杉小学校の校舎を使用して、平成20年に「杉並区立天沼小学校」
として開校。杉並区で初の統合校となった。平成22年旧杉並第五小学校跡地に新校舎落成し、同2
3年元旦移転した。跡地利用未定。
 


■セブンスデー・アドベンチスト天沼教会

 天沼3丁目17番3号にあるキリスト教会。第7安息日再臨派は、19世紀末にアメリカで起こっ
たプロテスタント(新教)の一派。名称のセブンスデーは、週の第7日の安息日を、アドベンチスト
はキリストの再臨を待ち望む者を意味する。略字でSDA(エス・ディー・エィ:Seventh-day Adve
ntist Churchの略)とも呼ばれている。
 この派の教義は、
キリストの十字架による贖罪死を信じることによって救われるという立場をとり
十戒を現在も守るべきものと解釈する。らしい。
 


■東京衛生病院
(東京アドベンチストホスピタル)

 天沼3丁目17番3号にあるSDAが運営する総合病院。昭和4年設立以来、キリストの愛に根ざ
した医の奉仕を理念として、杉並において地域医療の一端を担ってきた。病気の治療のみならず、心
と体の全人的回復を目指し、人間ドックや子宮がん、乳がんなどの各種区の検診の他、予防医学、健
康教育への積極的な取り組みも行っている。病気の方々に充実した信頼できる急性期医療を提供。ま
た無痛分娩で長年の実績のある産婦人科と、人間としての尊厳を保ちながら貴重な日々を過ごす緩和
ケア病棟(ホスピス)を持ち、社会に貢献している。診療科目:内科・外科・小児科・産婦人科・整
形外科・緩和ケア科・リハビリテーション科・人間ドック・健診・渡航健診(VISA)・地域医療
連携室。
 


■三育学院短期大学
看護学科東京実習場

 天沼3丁目17番3号東京衛生病院内にある。大学・短期大学の本部は千葉県大多喜町だ。
 


■天沼西公園

 天沼3丁目17番27号にある区立公園。


■荻窪税務署

 天沼3丁目19番14号にある国の施設。
 


■碧雲荘・太宰治旧居跡

 天沼3丁目19番22号に住んでいた。本名は津島修治。青森県出身の小説家。坂口安吾などと共
に無頼派、戯作派と称される。東京帝国大学文学部文学科除籍。在籍時、人妻と心中を図って海に身
投げするが未遂に終わる(相手は死亡)。その後作家を目指して井伏鱒二(『黒い雨』の作者)に師
事。雑誌、同人誌などへの作品発表をを経て第1回芥川賞候補にあがるが落選。相当なショックだっ
た様で選考委員の川端康成を批判する文章を書いている。続いて第3回芥川賞にも候補に挙がったが
またも落選。この時の禍根で選考委員の佐藤春夫に暴露話で絡む。対する佐藤は井伏鱒二と相談して
薬物中毒と言う口実で太宰を精神病院送りにする。この間就職に失敗するなど他の不運が続き、自殺
未遂を2度起こしている。また、処女短編集として『晩年』という題名の本を出版。戦時中は『富嶽
百景』や『お伽草紙』『走れメロス』等比較的穏やかな内容の作品を書いている。戦後、頽廃的な作
風へと変化し、『斜陽』『人間失格』といった没後に太宰文学の象徴と見なされる作品を書く。
 昭和23年女性と心中。死亡。


■天沼弁天池 
埋立

 天沼3丁目23番1号、かつてこの地に天沼弁天社があり、約三百坪の広さの湧き水池があった。
その池は「弁天沼」「天沼(雨沼)」などと呼ばれ、それが後の天沼と言う地名になったという説が
有力だ。当時付近には「天沼池畔亭」という料亭が建ち、天沼弁天社には付近の人々のみならず遠方
からも参拝人がやって来る、いわばリゾート地だあった。西新宿の十二社池のような所だったのだろ
う。しかし昭和50年にこの天沼弁天社の土地そのものが売却されるという事態となる。
 この年、天沼八幡神社が西武鉄道に天沼弁天社の土地を売却し、跡地には「ゴルフ研修所」が建設
されるが、実際には当時の堤康次郎と関係の深い女性の邸宅が建てられた。このゴルフ研修所は何故
か鬱蒼と茂った木々と高い壁に囲まれ、まるで付近一帯から隔離されたかのような場所だった。そし
てそれは誰の目にも「隠すべきもの」の存在を匂わせ、マスコミにさえ〝暗黙の了解〟が罷り通って
いた。巨額蠢くバブル日本らしい事情により、由緒ある天沼弁天池は埋め立てられてしまった。そし
て30年後、総会屋との癒着/証券取引法違反など罪状により西武鉄道の総帥堤康明が逮捕される。
会社そのものも経営が揺らぎ、最終的にこの「研修所」は取り壊され、会社再建のために国・東京都
・杉並区に20億億円で売却されることなった。そして平成19年何故か正面玄関をそのまま残した
形で天沼弁天公園が完成。そしてそこには、埋め立てられた天沼弁天池とは縁も所縁もない、邸宅に
似合う人工池があった。池を埋め立ててまで作ったこの人工池は桃園川とは何の関係もない。


■天沼弁天池公園

 天沼3丁目23番1号にある区民公園。平成19年4月7日の開園。かつてこの公園の南側広場辺
りには滾々と水の湧き出る「天沼弁天池」と呼ばれる池があった。池は広さ約300坪(直径約35
m)の円形で、約5坪(直径4、5m)の中ノ島には弁財天が祀られていて、大正の半ば頃までは、
日照りが続くと大勢の農民が集まって雨乞いも行なわれていた。昭和35年頃までは、睡蓮などが咲
き魚も泳いでいたが、その後の都市化で農地が減少して地下水が枯れ、荒廃した池は埋め立てられ、
昭和50年八幡神社から民間企業(西武鉄道)に売却され、その後平成16年12月に区が取得、同
18年11月から工事が行われてきた。こうした由緒ある土地の由来を将来に伝承するために、この
新しい公園に「天沼弁天池公園」と命名した。
 不思議なのは「門」だ。西武鉄道会長愛人宅の門だったものそのものだが、見栄え、デザインが良
い訳ではなく、保存しなければならないほどの建築的価値もない建造物だ。解体したからといって惜
しい、勿体ないという代物でもない。しかも門は施錠され通行はできず、却って出入りの障害となっ
ているのだ。区の意図が解らない。これが古式豊かな長屋門、薬医門というならまだしも・・・

 郷土博物館分館
 この館では身近で親しまれる博物館をめざし、新しい博物館活動を展開する。

 防災機能
 この公園は、災害時の一時的な避難場所となるように夜間も開放する。地域の防災機能を担う場と
して、園内に災害備蓄倉庫・軽可搬(消火用)ポンプ格納庫・地下貯水槽(10t×2基)・井戸を
設けている。


■弁財天記念祠
 公園の外に小祠があるが、『杉並の小祠』によれば、弁天社が、明治44年(神社明細帳では40
年)に天沼八幡神社に合祀され、昭和50年社地が西武鉄道に売却されたため、名残の記念として建
立された祠であるそうで、つまり神社のようで神社でない、たんなる記念物? なのだ。といっても
なぁ・・・ 
  

 ●桃園川

 俗称で「用水堀」とか「新堀」といった。桃園川は天沼弁天池を水源を持つ小流で、本来水量が少
なく、宝永四年(1707)、青梅街道に沿ってあった「多摩郡六ヶ村用水」つまり千川分水から養
水を引く許可を得た。仲谷戸の分水口跡は、天沼3丁目5番2号・3号の間の遊歩道が青梅街道に接
するとこで、りそな銀行(旧朝日銀行)の東側の遊歩道が用水跡だ。この遊歩道は杉並では珍しくイ
ンターロックが敷き詰めてある。この区は川とか橋によほど関心がないようで、調査もしていないし、
記録もないという。中央図書館で川の資料を求めたら一生懸命探してくれたのはいいのだが、4頁の
パンフレットを手渡された。それが「杉並区の川」の全てだった。区史にも橋は「見るべきものがな
い」とばっさり切り捨ててある。天沼は天沼3丁目23番の西武の敷地が跡地だ。ここ水源として南
下し千川からの養水を合わせて東流、阿佐ヶ谷北1丁目30番の辺りで東南に向きを変え、阿佐ヶ谷
駅と高円寺駅の間で中央線を越し、やがて東に流れて環七通りも越え、中野区に入り、北にうねって
すぐまた東に向きを変えてそのまま東流して神田上水に流れ込んだ。現在の遊歩道は、大正12~1
4年の改修による流路跡であって、江戸時代の河道は部分的に残っているのみで失われている。往時
は2条3条と乱流し、中野区では川というより湿地状態だった。したがって南北の通りに連続して橋
が架かっていた。耕地整理後は実り豊かな田園地帯となったが、押し寄せる都市化の波に呑まれて、
豊穣の農地は次第に住宅地に変わっていった。しかし土地に馴染まない新参の住民たちは、「流せば
清し」とばかり川に不要になったものを捨てるので、大雨が降ると川が詰まり、水量が少ない割には
しばしば洪水に呑まれた。土地の人間は高台に屋敷を構えているので被害には遭わないが、桃園川低
地に住むようになった新住民は自業自得の被害を蒙った。そのため昭和36年に全線暗渠化されて現
在川面は見られない。
 


■天沼もえぎ公園

 天沼3丁目31番5号にある区立公園。


■天沼三丁目公園

 天沼3丁目36番3号にある区立公園。


  井荻の由来
 いおぎ 元からあった地名ではない。明治22年「市制町村制」による合併で上・下井草村、上
・下荻窪村の4ヶ村が1村となり、その村名に井草の「井」、荻窪の「荻」を取って組み合わせた
合成村名。初案には「井野荻村」があった。大正15年から井荻町。昭和7年東京市編入20区増
設により杉並区が成立したとき上井草村の一部を井荻として一町名になる。この町域は現在の善福
寺1~2丁目・西荻4~5丁目に跨る地域だ。西武線の駅に「井荻駅」があるが、当時駅と井荻の
間は4キロも離れており、井荻を訪ねる人は降りた駅頭で戸惑うばかりだった。はっきりとした案
内板もなかったという。しかし中央線西荻窪駅からは1キロも満たないというのにだ。

   大いなる炉の間のごとく冬暖かに暮るる一日(与謝野寛)
   
井荻村一人歩みて蓬生に断たるる路の夕月夜かな(晶子)
 
 



【井草】(いぐさ)1~5丁目                    昭和38年9月1日
 遅野井村。井草村。少なくとも鎌倉時代には集落はあったようだ。文政年間に上下2村に分村。
明治11年「郡区町村編制法」により東多摩郡に所属、同22年「市制町村制」により井荻村の大
字、大正15年井荻町の大字、昭和7年東京市編入20区増設により杉並区が成立して上井草は上
井草町・善福寺町・新町・宿町・谷頭町(矢頭町)・三谷町・今川町・中通町に分散し、下井草は
下井草町・四宮町・向井町・柿ノ木町・神戸町・中瀬町・清水町・八成町・正保町・住吉町に分町
した。同38年9月1日区内最初の新住居表示により西武新宿線以北の八成町・正保町・矢頭町・
住吉町・上井草町をあわせた町域を現行の「井草」とした。「井草の森公園」は災害時の避難場所
として意図的に作られた公園だ。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『杉並区史』『杉並の歴史』など。

 
井草の由来
 ①.後北条氏に滅ぼされた三浦氏の一族口長左衛門が分けの土地なので井草と命名したとい
われるが、『杉並の地名』では「違うだろう」としている。井草川(現在暗渠)の流域は葦草(い
ぐさ)が群生していたのでこの平原を「葦草」と呼んでいた。井口氏は横須賀市走水にあった井口
郷が本貫地。この葦草へやってきて「井口が草分けの村」と洒落たのが発端か? 確かにこの辺り
から練馬区関町、三鷹にかけては井口姓は多い。井草は井草川流域の湿地帯をいったものだ。井草
=葦草にしてもこの辺りが妥当だろう。郷土史家森泰樹は、井草は井ノ草、池の草で、「池に草が
生えて覆っているところ」だという。
 他に②.遅野井(善福寺池)の葦草説、③.遅野井と妙正寺池の間の草原(遅野井の草野)から
井草とした説、④.「細い川の湿地」という地形説などなどの由来(こじつけ)がある。どのみち葦
草にちなむことに変わりはない。 またこの地は豊島合戦当時の太田道灌軍の陣地となったところ
で、道灌山・道灌橋・道灌堀・道灌坂・道灌槙・幕陣・おこり塚などの当時を偲ばせる地名が残っ
ている。道灌軍が敵将豊島泰経を待ち伏せして討ち取ったのもこの切通しで、このとき道灌軍は善
福寺を焼いて石神井城(石神井公園)にいた泰経を誘き寄せたと言われている。

 【葦(藺)草】
 
茎がなく肌触りが良いところから花筵や畳表に使用され、髄を灯心にしたので「灯心草」とも呼
ばれ重宝された。現代でいえば電球に相当した訳だ。

 平成18年8月9日「ツチヤ」さんからメールがありました。
   ※Tuchiya さんのコメント
   藺は葉が退化した茎のみの植物だ。茎である証拠は髄があること。草本の髄は、維管
   束や導管束という根で吸収した水と光合成で作った栄養を運ぶ細い管の集まったもの。
   それでに油を吸い上げる灯心として使うことができた。また退化した葉は地下茎と分
   岐周辺に見られる茶色の鞘状のもの。なお江戸時代においては皮革製品と同様に浅草
   新鳥越(現在の今戸)の矢野弾左衛門支配の人々の専売品とされていたので、自家消
   費以外に販売することはできなかった。
 


■井草観音堂

 井草1丁目3番14号、旧早稲田通りの西武新宿線踏切の近くにある。堂の中には、寛文七年(1
667)の如意輪観音と地蔵菩薩の2石像が納められ、区の登録文化財となっている。「久保の観音
様」と呼ばれて人々に信仰された。それぞれ高さが1mの舟形をした石塔に浮彫りにされている。区
内に現存する石塔の中ではかなり古い年代のものだ。
 その当時、この辺りは今川氏の所領となっており、下井草村字久保と称されていた。この堂や石塔
は、この辺りを開墾した農民によって造立されたものと思われる。

   井草観音堂
   井草観音堂は「久保の観音様」とも呼ばれ、江戸初期に建立されたといわれています。お
   堂の中には如意輪観音と地蔵菩薩が納められ、それぞれ高さが1mの舟形をした石塔に浮
   彫りにされています。2基とも、造立年号が寛文七年(1667)と刻まれており、区内
   に現存する石塔の中ではかなり古い年代のものです。
   その当時、この辺りは今川氏の所領となっており、下井草村字久保と称されていました。
   このお堂や石塔は、此治を開墾した農民によって造立されたものと思われます。
   観音塔には、「おくに」「おたつ」など女性の名前と思われる文字がかすかに見られるの
   で、これらの女性を供養するために造立されたものと思われます。また左下には「榎本半
   内」と願主名が刻まれています。
   地蔵塔には、同行16人と刻まれていますが、これは下井草村久保と向井草地区の16軒
   の農家が講中をつくり造立したものといわれています。この地蔵菩薩は地元では「子育地
   蔵」と呼ばれ、観音様と共に幼児の虫封じ・歯痛・夜泣きにご利益があるとして親しまれ
   てきました。
   明治37、8年の日露戦争の頃、付近一帯に疫病が大流行したので、村中で「観音様」と
   「お地蔵様」の供養をしたところ、次第に病気が直って一層進行が盛んになったという話
   が伝えられています。
   また、昭和初期まで、「念仏講」が伝えられ、双盤と呼ばれる大きな鉦を叩き講中の家々
   を供養して回った後、このお堂で「百万遍のお数珠」と呼ばれる大きな数珠を廻しながら
   念仏供養するのが習わしだったといわれています。
   現在のお堂は、昭和56年に改築されたものです。
   昭和57年2月10日                      杉並区教育委員会
 
 


■井草教会

 井草1丁目42番6号にあるキリスト教会。、


■平和キリスト教会

 井草2丁目2番8号ハイム井荻102にある。


■地蔵尊

 井草2丁目16番14号、旧早稲田通りに面してあり、地蔵尊が2体、両脇に小さな馬頭観音石像
が2基が祀ってある。周辺は随分変わったがここだけは昔のままだ。
 


■井草庚申堂/猿田彦神社(八成所在道標付石造物)

 井草2丁目24番6号、旧早稲田通りに面してある。寛保元年(1741)銘の庚申塔と寛政五年
(1793)銘の念仏供養塔だ。庚申信仰は、「長生きするためには、庚申の夜は身を慎しみ、諸善
を行い、徹夜をすべきである」という中国の道教説から始まった。それが日本に伝わってからは、中
世以降仏教や神道の信仰と習合して庶民の間に広まった。江戸時代には本尊を青面金剛とし、不見、
不聞、不言の三猿・二鶏等が彫られるようになり、ここに見られるような庚申塔の建立が盛んになっ
た。
 念仏信仰は「南無阿弥陀仏」と唱え、阿弥陀仏を信じれば浄土に導かれるという信仰で、念仏供養
塔も各所に多く建立されている。前の道は、かつて所沢道で、練馬区の花嫁寺長命寺への巡礼道の交
差点で、往来の人も多く、近くには茶屋もあった。庚申塔の側面に「右たなか道」「左志やくじ道」
念仏供養塔の側面に「右新高野への道」「左中野への道みち」と彫られており、石塔は道標も兼ねて
いた。
 これらの石塔は、この辺りが武州多摩郡下井草村字八成といわれた頃、地域の人々によって悪疫退
散・村内安全等を祈願して建立されたものだ。なお、ほかに「弘法大師」の名号と、両面に「道しる
べ」を刻んだ石塔等が4基あるが、これらは周辺の道路整備等により邪魔物扱いされて当所に移され
たものだ。
捨てるに捨てられずということだろう。
 また堂外に生垣の一部のように、倒れないように鉄パイプに針金で縛り付けられている石塔がある
が、文字が摩滅して読めないので正体不明だ。

   民間信仰石塔
   ここに建立されている石塔は、寛保元年(1241)銘の庚申塔と寛政五年(1793)
   銘の念仏供養塔です。
   庚申信仰は、「長生きするためには、庚申の夜は身を慎しみ、諸善を行い、徹夜をすべき
   である」という中国の道教説から始まったようです。それが日本に伝わってからは、中世
   以降仏教や神道の信仰と習合して庶民の間にひろまりました。江戸時代には本尊を青面金
   剛とし、不見、不聞、不言の三猿・二鶏等が彫られるようになり、ここに見られるような
   庚申塔の建立が盛んになりました。
   念仏信仰は「南無阿弥陀仏」と唱え、阿弥陀仏を信じれば浄土に導かれるという信仰で、
   念仏供養塔も各所に多く建立されています。
   この石塔が建立されている場所は、かつての所沢道と府内17番札所長命寺(現練馬区)
   への巡礼道の交差点で、往来の人も多く、近くには茶屋もありました。 石塔には側面に
   「右新高野への道」「これより左中野のみち」等彫られており、石塔は道標でもありまし
   た。これらの石塔は、この辺りが武州多摩郡下井草村字八成といわれた頃、地域の人々に
   よって悪疫退散・村内安全等を祈願して建立されたものといわれてます。
   なお、右の石塔のほかに「弘法大師」の名号と、両面に「道しるべ」を刻んだ石塔等あり
   ますがこれらは周辺の道路整備等により当所に移されたものです。
   私たちもこのような文化財を、一層大切に守りつづけたいものです。
   昭和56年2月15日                      杉並区教育委員会


■八成小学校

 井草2丁目25番4号にある区立校。「はちなり」と読む。昭和30年桃井第五小学校から分校。
「東京都杉並区立八成小学校」として開校。八成町133番地(現在地)に校舎建設。開校時校舎未
完成のため桃井第五小学校6教室を借用して授業開始。4月19日木造モルタル造り2階建て校舎9
教室落成して移転。同33年校歌制定。

 校歌「縁も深き武蔵野の」 作詞・みんな  作曲・北爪利世(地元の人)
  1.縁(ゆかり)も深き武蔵野の
    自然を友に良く学ぶ
    双葉の若木すくすくと
    雄雄しく強く健やかに
    共に歌わん ああ八成
  2.流れも久し千川の
    辺
(ほとり)に高く照り映える
    我が八成の学びやは
    行く手遥かに栄えあれ
    共に励まん わが友よ


 同36年5期工事を以て木造校舎完成。同38年体育館完成。同39年プール完成。同45年鉄筋
コンクリート造り3階建て校舎12教室・給食調理室落成。岩石園完成。同44年第1回餅つき大会
開催。以後毎年恒例行事となる。同47年第二期鉄筋コンクリート造り3階建て校舎(普通教室12
・校長室・放送室・スタジオ・保健室・主事室)落成。同48年プールスタンド(20m)完成。校
庭スプリンクラー8基設置。同58年第3期鉄筋コンクリート造り校舎(普通教室・特別教室5)落
成。創立20周年記念式典。同52年第4期鉄筋コンクリート造り校舎(普通教室1、特別教室2)
落成。同55年創立25周年記念式典・第5期鉄筋コンクリート造り校舎落成、西校舎の特別教室4
教室(理科室2・家庭教室1・特別教室1)屋上プールに改築(25m)。文部省基準の施設完成校
となる。北校舎改築(理科、家庭教室を普通教室4教室に改築)。同57年外周ブロック塀をフェン
スに改修。FF暖房機全室設置。同58~59年学校緑化推進として342本植樹。同60年八成音
頭完成。創立30周年記念式典。同62年なかよし広場完成。同63年第20回餅つき大会盛大に開
催。
 平成3年校庭大改修。同5年コンピュータルーム完成。同7年創立40周年記念式典。同12年地
方自治法改正に伴う学校教育法改正により、校名から東京都の冠称が取れ「杉並区立八成小学校」と
改称。同13年インターネット接続。同14年校庭周囲芝生化。ビオトープ(ミニ生物園)完成。同
15年校舎耐震化。同17年八成音頭パート2完成。
 


■下井草教会

 井荻2丁目31番25号にあるカトリック東京大司教区の教会。昭和23年、時の東京教区長土井
大司教は下井草の地に教会建設を依頼され、サレジオ会に対し$3000を寄贈した。そこでサレジ
オ会はマンテガッツア神父を主任司祭に任命し、新聖堂の建設に着手する。育英学院付属の小さな聖
堂を使用していた経緯もあって、同24年4月17日の復活祭には、東京教区第18番目の教会とし
て認可されたため、下井草教会ではこの日をもって創立の日としている。マンテガッツア師が夢に抱
いていた願い通り、新聖堂は「扶助者聖母マリア」に捧げられ、師は募金のため一路母国イタリアへ
と向かった。その建設資金の大部分は師の働きとサレジオ会によるもので、7年余の歳月をかけて同
31年10月21日、再び土井大司教を迎えての新聖堂祝別式となって花開いた。主日ごとに高い鐘
楼から鳴り響く3個の鐘と、パイプオルガン、聖堂前の無原罪の聖母像、大理石の正面祭壇等はマン
テガッツア師の出身地カルダノ教会からの寄贈によるもので、同44年にはカルダノ教会との間に姉
妹教会としての締結がなされた。マンテガッツア師の宣教者としての功績は偉大で、主任司祭として
の任期も通算34年に及び、創立当初72名だった信者は今や2300人余を数えるに至った。最近
の主日のミサの参加者は平均600人だ。
 慈父として慕われてきたマンテガッツア師は、第一線を退き、平成9年5月に帰天したが、歴代の
主任司祭ロカーティ師、シモンチェリー師、尻枝毅師、コンプリ師、そしてマッサ師へと引き継がれ
ドンボスコの教えは今も大切にされている。
 昭和46年には共助組合が設立され、日本共助組合連合会に加盟。非営利の生活支援型小口金融機
関として需要に応え、カトリック司教協議会の公認活動団体として認められている。平成18年には
設立35周年を記念する「共助の集い」が開かれた。
 同53年にはシモンチェリー師の下で、ボーイスカウト東京杉並第11団が誕生した。同63年聖
ヨハネ・ボスコ帰天100周年に当たって、故教皇ヨハネ・パウロ2世はドンボスコ縁の地トリノ大
聖堂に巡礼されたが、下井草教会はこの「恵みの年」に全免償を戴く指定巡礼教会として、世界8教
会の中の1つに選ばれた。平成9年12月府中墓地に長年待望の納骨堂が完成し、同11年月30日
には下井草教会創立50周年の記念ミサ・祝賀会が白柳枢機卿臨席の許執行された。大聖年を目前に
教会は、「信徒使徒職に関する教令」に従って、12の活動部門を設け、大勢の信者が参加できるよ
う、その門戸を開いて今日に至っている。広報部はHPを立ち上げ、宣教を視野に入れた活動を展開
しつつあるが、旅する教会下井草は、同18年献堂50周年の年を迎え、新聖堂建立からの50年を
振り返り、次の50年への「次世代につなぐ架け橋」の年として、新しい一歩を踏み出そうとしてい
る。若いお母さんたちも多く、赤ちゃんや幼子の声が聞こえる教会だ。
 ※住宅地図にある碑マークは露天のマリア像だった。
 


■稲荷社

 井草2丁目33番11号にある小祠。畑地の角にあるのだが、アパートティファコート篠Ⅱにある
ように見える。
 


■育英中学校・育英工業高等学校 廃校
 育英高等専門学校
 → サレジオ高等工業専門学校 町田市に移転
 2丁目35番にあるカトリック修道会の「サレジオ会」を母体とするミッション・スクール。昭和
8年「東京育英工芸学校(印刷科)」として創立。設立代表者はウィンセンシオ・チマッティ。同1
3年木材工芸科を新設。同15年財団法人「帝都育英学院」となり、同17年甲種工業学校昇格して
「帝都育英工業学校」と改称。
 同22年戦勝国アメリカの強制による新学制(学校教育法施行)により「帝都育英学院中学校」を
併設。同23年「帝都育英学校」を改組して「帝都育英工業高等学校」と改称。同24年電気科を新
設。同26年学校法人法施行により財団法人を学校法人に改組。同35年「育英中学校・育英工業高
等学校」と改称。同38年帝都育英学院を「育英学院」に改称。育英高等専門学校を開設。印刷工学
科・電気工学科・工業意匠科を設置。サレジオ高等学校(普通科)を開校。同40年育英工業高等学
校を廃校とする。同42年「育英工業高等専門学校」と改称。工業意匠学科を工業デザイン学科と改
称。同50年印刷工学科をグラフィック工学科と改称。同51年体育館落成。本館ロビー落成。同5
2年学生食堂(フロイデハウス)落成。クラブハウス落成。同53年グラフィック工学科印刷研究館
落成。同55年課外活動センター(カーサ・ポンテビアンカ)落成。同60年基礎教育館(プレテッ
ク)、ライブラリ落成。2年遅れで創立50周記念式典。同63年情報教育センター設置。男女共学
化。
 平成2年電子工学科・情報工学科設置。育英中学校廃校。同9年グラフィック工学科をビジュアル
情報工学科に、工業デザイン学科をデザイン工学科に改称。同10年サレジアン文化技術交流センタ
ー(SITEC)落成。同11年サレジアンレジデンス落成。同13年専攻科(生産システム工学専
攻)開設同17年学校のみ町田市に移転。杉並キャンパスは交流センターとなる。
 尚、工業系ミッションスクールは日本唯一無二だ。
 


■蕎麦 みわ
 井草3丁目15番3号にある蕎麦屋。複数の作家が手がけた内装や器が個性的。丸抜きの蕎麦を仕
入れ、石臼で挽いて生粉で手打ちする。「せいろ」「手碾き」「田舎せいろ」が基本で、せいろ以外
は15食限定。昆布と鰹節で出汁を引く辛口のつゆとの相性も良い。春は長野や東北から天然の山菜
が届く。この季節の「天せいろ」や夏の「冷かけそば」は一品。酒肴も充実していてリーズナブル。
狩猟の季節には国産青首鴨を使う治郎煮や鍋のコースも人気。蕎麦三昧は予約がいる。
 11時半~14時半・17時半~21時(日祝:17時半~20時半)
 定休日:月曜(祝日の場合は火曜) 03‐3394‐3837

 ミシュランガイド東京 
 『2012』~『2014』と、3年連続で星1つを取っている。
 


■機械技術研究所
つくば市へ移転
■井草森公園

 井草4丁目12~15番にある区立公園。かつての柿の木山。昭和56年につくば市に移転してい
った機械技術研究所の跡地は、長い間放置されて幽霊屋敷の様相を呈していた。跡地利用について揉
めていたからだ。ゴミ処理場にすることに周辺住民は真っ向から反対した。そこで区が処理施設を地
下化し、地上は公園とすることで話し合いがつき、平成8年3月31日に開園した区内最大の「防災
機能とスポーツ機能を備えた花の豊かな公園」だ。周囲を防火樹林帯・防火用防火銃に囲まれ、入口全
てに「ゲートシャワー」が配置されている。原っぱ・木製遊具のコーナー、多目的広場、運動場、樹
木草花、池がある。公園事務所の地下は、区の災害備蓄倉庫、貯水槽、駐車場などの施設だ。その他
消防水利が2ヶ所、池の水が防火用水にもなる。

 原っぱゾーン
 公園のほぼ中央に位置し、疎林の中の草地を走り回り伸び伸びと憩える空間であり、本公園のメイ
ン広場だ。一画には子供たちが遊べる遊具があり、その他ゲートボールなど軽スポーツが可能な広場
を設けている。夏休みにはグループでデイキャンプもできる(日曜・祝日を除くけどね)。

 森と水のゾーン
 流れ、池そして築山を配し、四季折々に花を楽しめる。この公園で最も自然に親しめる空間だ。流
れは二流あり、一流は滝から落水し渓流の感じを醸している。その下流は浅い溜まりとなり、子供た
ちの水遊び場だ。もう一流は水生植物や水辺植物を植え自然観察を楽しむように設計されている。池
は中の島を配し、池畔の四阿(あずまや)からの眺めは最高で、カルガモなど水鳥が飛来して來る。

 多目的運動場ゾーン
 サッカー・ラグビーなどに利用ができ、全面天然芝で覆われている。災害時には避難広場としても
利用する段取りができている。

 
清掃局中継所 廃止
 今、世間を騒がせている〝半地下式の都清掃局中継所〟が併設されており、上部を公園と一体化し
て開放しているのだが、周辺で大気汚染などの環境問題〝杉並病〟が起きている。
 平成21年3月31日を以て中継所は廃止された。

 
「For Sky」
 南中央入口の正面にある、上に伸びる塔に三羽の鳥のオブジェ。有賀典子の作品。
 


杉並病
 平成8年頃から都清掃局杉並中継所井草森公園周辺の住民が、視神経異常などの化学物質過敏症
類似した健康被害を訴え続けていた問題、つまり

   杉並不燃ごみ中継所が原因物質の発生源ではないか?

 という住民運動が起きていた。杉並区はこの問題を「井草森公園周辺環境問題」と表現し、東京都
は「杉並中継所周辺環境問題」と表現しているというように、用語は統一されていなかつた。また医
学的にも杉並病という病気がある訳ではない。「化学物質過敏症」の患者の大半はいわゆるシックハ
ウス病症群と呼ばれる室内空気の汚染によるものだが、杉並の患者のように大気汚染が引き金となっ
て集団発症したと疑われる例は珍しい。大気分析では、アルデヒド類などが多く、クレゾールなどの
ような異臭が発生し、一般の都市の空気と異なり通常なら多くみられる石油系の成分が比較的少なく
杉並の空気の異様さを指摘している。同12年になり、硫化水素が原因物質であるとの都の見解が出
されたが詳細は解明されなかった。しかし中継所には焼却施設はなく、硫化水素の発生源は特定され
なかった。それに高井戸や世田谷区千歳、大蔵の清掃工場付近では公害問題は起きていない。戦時中
に陸軍が何らかの秘密の研究を行った形跡はあるものの、それが50年経って突然亡霊のように現れ
るのかという悩ましい問題でもあった。
 この問題は拡大することなく尻切れトンボで収束したかのようだ。周辺住民の総てに被害が及んで
いる訳ではなく、限られた人々にだけ症状が出る。おいらは月1度この中継所脇を通るが、一度も悪
臭を感じたこともないし、眼がチカチカするといった経験はない。
 平成20度を以て中継所が廃止されたため、杉並病が終息したのかどうかは不明。何故なら、中継
所がないのだから、何かが発症したしたとしても、中継所が原因だろうと疑えなくなったからだ。
 


宗教法人カトリックカリタス修道会東京修学志願会

 井草4丁目19番28号にあるキリスト教の施設。


■宮崎カリタス修道女会管区本部

 井草4丁目20番5号にあるキリスト教の施設。


■日本新エルサレム教会 静思社
 井草5丁目6番12号にあるキリスト教会。
 


■稲荷社
 井草5丁目14番12号オートセンターイグチの駐車場の奥にある小祠。井口家の屋敷稲荷だろう
か? 井草は井口家の草分けだから井口姓は多い。
 


■井口の森・稲荷社 
 井草5丁目17番22号にある小祠。境内は広く鬱蒼とした木々の中にある。境内というよりは井
口家の屋敷稲荷だろう。井草は井口家の草分けだから井口姓は多い。
 
 



【和泉】(いずみ)1~4丁目                    昭和41年7月1日
 和泉村。明治11年「郡区町村編制法」により東多摩郡に所属、同22年「市制町村制」により
和田堀之内大字和泉、大正15年和田堀町大字和泉、昭和7年東京市編入20区増設により杉並区
和泉町。昭和41年新住居表示により一部を大宮1~2丁目・永福1~4丁目に譲り、方南町の一
部・永福町のごく一部をあわせた町域を現行の「和泉」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『杉並区史』『杉並の歴史』など。

 和泉の由来
 室町・戦国時代は泉村。江戸時代から和泉村。和泉・清水・弦巻・鶴巻・釣鐘・水流・貫井・井
頭・谷頭などは概ね湧水にちなむ地名だ。ここの泉(湧水)は古く中野郷泉村と村名になっている。
ではその泉はどこにあるのか? 3丁目の22番20号に社だけのちっちゃな神社がある。かつて
この神社の境内には涸れることのない御手洗池があり、社前を流れていた神田上水の北流(暗渠)
に落ちていた。だから和泉は貴船神社だ!
 


■オブジェ

 和泉1丁目1番の玉川上水遊歩道というか駐輪場というか、そこにある造形物。


■釣船神社

 和泉1丁目34番10号にある小社。


■新泉小学校

 和泉1丁目44番26号にある区立校。「しんいずみ」でも「にいずみ」でもなく「しんせん」と
読む。大正14年「東京府豊多摩郡大宮尋常小学校和泉分教場」として授業開始。同15年独立して
「東京府豊多摩郡和泉尋常小学校」として開校。
 旧校歌については不明。
 昭和7年周辺郡部の東京市併呑により杉並区成立。「東京府東京市新泉尋常小学校」と改称。同1
0年創立10周年記念式典。同16年勅令148号国民学校令により「東京府東京市新泉国民学校」
と改称。12月日米開戦。同18年講堂を3教室に改造。都制施行により「東京都新泉国民学校」と
改称。同19年動員される。8月3年生以上の児童長野県北佐久郡小諸町・大里村・小沼村・南佐久
郡野沢村に学童集団疎開。
同20年4~5月長野県北佐久郡小諸町・大里村・小沼村・伍賀村・志賀
村・南佐久郡野沢村・岸野村に集団疎開。5月愚かなアメリカ軍の非人道的無差別空爆により焼夷弾
直撃して校舎全壊焼失。8月日本はならず者国家アメリカの軍門に降り敗戦。以降その属国となり、
唯々諾々として言い成りになる保守傀儡政権を保持せざるを得ない今日的不幸を背負い込む。売れな
い国債を買わされるやら、思いやり予算やらでもう200兆円がとこ持って行かれたよ。女の子がレ
イプされても「地位協定」で泣き寝入り。ったく酷えもんだ。
 11月疎開解除により疎開児童帰校。京王商業学校(京王商業高等学校)に間借り授業。
 同22年学校教育法(アメリカの強制による学制改革)により、「東京都杉並区立新泉小学校」と
改称。同23年仮校舎完成して京王商業高等学校から全児童帰校。同26年木造2階建て中央校舎落
成。同29年校地拡張。木造2階建て西校舎落成。同32年校歌改定。

 新校歌「武蔵野の空」 作詞・宮川信彦  作曲・今村まさる
  1.武蔵野の空 澄み渡り
    朝日に光る富士の雪
    正しく強い若人の
    希望の雲の湧くところ
    我等の新泉小学校
  2.手を取り 友と諸共に
    知識を磨き身を鍛え
    文化の理想 宗深く
    抱いて学ぶこの誉れ
    我等の新泉小学校
  3.師のまた父母の導きに
    恵みの愛の尊さよ
    教えの道は末永く
    社会を照らす灯とならん
    我等の新泉小学校


 同40年体育館完成。同41年創立40周年記念式典。同45年鉄筋コンクリート造り3階建て校
舎落成。同46年プール完成。同49年鉄筋コンクリート造り校舎落成。同51年創立50周年記念
式典・記念の池造成・緑化計画植樹。同55年スプリンクラー4基と、雲梯、砂場設置。同61年校
庭開放指導員詰所設置。窓枠をアルミサッシ・ガラスを強化ガラスに取換。
 平成3年FF暖房設置。6年コンピュータ室落成。同8年創立70周年記念式典。同12年地方自
治法改正に伴う学校教育法の改正により東京都の冠称が取れ、「杉並区立大宮小学校」と改称。同1
2~17年逐次校舎改修。同13年創立75周年記念式典。


■和泉福音協会

 和泉1丁目55番4号にあるキリスト教会。
 


■井の頭街道碑
 和泉2丁目5番23号にある東京都水道局和泉給水所の井ノ頭通り側のフェンスの外、給水タンク
と給水タンク間辺りにある。

   
井の頭街道
        
文麿□□

 □□は落款。碑陰銘文は以下の通り。

   首相近衛文麿公本區に來住せられてより臺閣への往復には毎に本路に據らる 偶々同車の
   農相有馬頼寧伯に其名を訊し無名なるを知り井の頭街道と命名して揮毫して本區に貽らる
   乃刻して以て記念とす 
   昭和十三年十月                        杉並區長 廣田傳蔵
                          碑は府會議員吉野豊次郎君の寄贈なり

 大政翼賛会を作った元総理大臣近衛文麿の筆になるものだ。昭和13年10月に府会議員吉野豊次
郎の寄付により杉並区が建てた。武蔵野市の境浄水場からまっすぐ都心に延びる道は拡幅工事が行わ
れ、買収の進まない区間もあり走り難かったが改良された。沿道の景色からすれば「街道」より今の
呼び名の「通り」の方が似合っている。
 「井ノ頭通り」は通称名で、正式名称は「赤坂杉並線」だ。水道道路とも水道横丁ともいうが、地
下に水道管が埋められており、元々は上水(川)だった。


■玉川上水公園
 和泉2丁目7番9号。昭和43年12月7日開園。玉川上水は、江戸時代に江戸の町に飲料水を供
給するために作られた上水路で、現在は一部が暗渠となって杉並区内を通っている。その暗渠の上に
東京都水道局から借地して作られた3つの公園と1つの緑地がある。下流から玉川上水公園、玉川上
水永泉寺緑地、玉川上水第三公園、玉川上水第二公園の順に並んでおり、その全長は約2000mに
も及ぶ。玉川上水公園は、井の頭線の明大前駅付近にあり、道路を挟んで3つの区画に分かれている。
東端にあるのがコンクリートと土の広場で、そこには砂場と擬木の登はん木がある。真ん中の広場に
は大きな滑り台とクジラ・カニ・カメの遊具がおいてあり、特にクジラの造りは立派。ステンレスパ
イプのモニュメントと色鮮やかな花壇が目をひくのが3番目の広場。広場の前は明治大学和泉校舎で
徳川幕府から明治政府まで続いた塩硝蔵のあったところ。第二公園にある説明碑。

   玉川上水の変遷
   ここは玉川上水の跡地です。玉川上水は、江戸の人びとに飲み水を供給するため、今から
   三百年前、当時で六千五百両の経費と一年間の歳月をかけて承応三年に完成したもので、
   西多摩郡羽村で多摩川の水を分流し、四谷大木戸の水門まで十里三十町(約42km)を
   はこぶ上水路でした。
   その流れは清く、水に映す桜の花の姿は美しく、長いあいだ江戸の人びとに親しまれ愛さ
   れてきましたが、昭和41年水不足の東京へ利根川から水を引く送水管管を埋設するため
   区内ではその姿を消しました。
   杉並区では、往時を偲び、園内に小さな流れを造り、しだれ桜を植えて、上水の面影をこ
   こに残しました。
   昭和49年5月                              杉並区

 無題
 手を繋いで踊っている2人の幼児像。


■庚申塔
 和泉2丁目8番4号中央三井信託銀行証券代行事務センターの東端の塀を切り込んである。
 


■和泉中学校

 和泉2丁目17番14号にある区立校。昭和33年4月同区方南547番地の泉南中学校内に分校
設置。7月方南453番地(現在地)に鉄筋コンクリート造り3階建て分校舎完成し移転。11月第
1期鉄筋コンクリート造り校舎増築。同34年2月第2期増築(鉄筋コンクリート造り4階建て西校
舎)。4月独立し「東京都杉並区立和泉中学校」として開校。同35年高圧線新鉄塔が完成し、校庭
中央の高圧線木柱撤去。校歌制定。

 校歌「湧き出でる学びの泉」 作詞・矢野寿男  作曲・古関裕而
  1.湧き出でる学びの泉 自ら汲みて
    育て 明るく健やかに
    己の道を切り開く
    歩みは常に緩みなし
    ああ我等若人 次代を担う
    幸あれ 和泉中学校
  2.湧き上がる希望の和泉 若き胸にも
    抱け 豊かに誇らかに
    理想の国を 築き行く
    歩みは共に手を組みて
    ああ我等若人 未来を目指す
    栄あれ 和泉中学校


 同36年第3期増築(鉄筋コンクリート造り3階建て南校舎)。同37年体育館完成。同38年台
風11号のため神田川が溢れ床上浸水。ミルク給食開始。同39年オリンピック観戦。同40年台風
6号のため神田川が溢れ床上浸水10cm。豪雨のため神田川が溢れ床上浸水5cm。台風のため床
上浸水5cm。同41年6月台風4号のため床上浸水40cm。9月台風26号のため床上浸水10
cm。同43年全校強歩大会(調布市深大寺まで往復26km)全員完歩。プール落成。同44年創
立10周年記念式典。同46年避難訓練中、光化学スモッグによる多数の生徒が倒れる。校庭スプリ
ンクラー設置。同47年初の新幹線利用による修学旅行。金持ちになったもんだね。おいら達の頃は
修学旅行列車だぜ。同51年日本学校歯科医師会より全日本よい歯の学校として表彰(~同57年ま
で連続)。同53年窓枠アルミサッシ化完了。同54年創立20周年記念式典。同59年鉄筋コンク
リート造り新校舎落成。創立25周年記念式典。
 平成元年創立30周年記念式典。同3年コンピュータルーム開設。同7年校庭整地。同11年創立
40周年記念式典。同12年地方自治法改正に伴う学校教育法改正により、校名より東京都の冠称が
取れ、「杉並区立和泉中学校」となる。同15年パソコン新機種に入替。
 


 ■和泉小学校
 和泉2丁目17番21号にある区立校。昭和33年新泉小学校内に同校の分校として開設。新泉小
学校350名・大宮小学校19名・永福小学校11名が移籍。1~4年生は新泉小学校の9教室で授
業。大宮・永福の児童はそのまま委託授業。同34年和泉町447番地(現在地)に鉄筋コンクリー
ト造り3階建て校舎落成。4月独立して全児童集結、「東京都杉並区立和泉小学校」として開校。P
TA発足。同36年校歌制定。プール完成。

 校歌「秩父の山々」 作詞・山田勝則  作曲・安西愛子(NHK歌のおばさん)
  1.秩父の山々 輝いて
    皆の泉に朝が来る
    誇りを胸に希望を持って
    明るく元気な泉の子
    我等の和泉小学校
  2.富士が光るよ虹色に
    僕らの泉は澄んでいる
    誇りを胸に希望を持って
    仲良く伸びる泉の子
    我等の和泉小学校


 同39年体育館完成。図工室・家庭科室・3普通教室増築。同53年窓枠をアルミサッシに取換。
同54年創立20周年記念式典。同60年校庭開放指導員詰所設置。同62年陶芸窯設置。
 平成元年創立30周年記念式典。同4年図書室完成。同6年コンピュータルーム設置。同12年地
方自治法改正に伴う学校教育法の改正により、校名から東京都の冠称が取れ「杉並区立和泉小学校」
と改称。同13年校庭芝生化。同15年ブール改修。同18年新潟県小千谷市立和泉小学校の児童来
校し交流。
 


 ■和泉二丁目緑地
 和泉2丁目17番38号にある区立公園。


■庚申塔 撤去
 和泉2丁目21番38号ミニストップの角にあった。ミニストップのあるKENZOハイツが建つ
前のことだ。


日本大学鶴ヶ丘高等学校

 和泉2丁目26番12号にある私立校。昭和10年世田谷区下馬町に実業学校令に基づいて「東京
畜産工芸学校」として開校。同22年「東京獣医畜産大学附属高等学校」と改称。日本大学に買収さ
れ「日本大学鶴ヶ丘高等学校」と改称。同29年和泉町320番地(現在地)に移転。同38年光生
学園を買収吸収。校舎1号館竣工。同39年舎2号館竣工。校庭取得。同40年隣接地取得。同41
年校舎3号館落成・体育館完成。同43年芸術課程(美術科、音楽科)新設。同46年芸術課程音楽
科校舎落成(5号館)。創設20周年記念式典挙行・校歌制定。
 同49年20周年記念館(温水プール・武道館)落成。同51年研修館竣工。同54年研修寮(至
誠寮)改築。同56年創設30周年記念式典。同60年芸術課程募集停止。
 平成元年図書館(鉄骨造地上2階)竣工。同2年隣接地を取得。同11年3月隣接地を取得。7月
鉄筋コンクリート造り3階建て地下1階建物を含む隣接地取得。同13年創立50周年記念式典。同
14年図書館改修(AV機器設置・マルチメディア対応)。同16年正門等防犯カメラ設置。同17
年物理室・談話室・記念館屋内プール第2期改修工事竣工。同18年化学室改修。
 
 

 ■和泉二丁目公園
 和泉2丁目45番10号にある区立


■聖マリア修道女会

 和泉4丁目41番23にあるキリスト教会。


泉涌山医王院龍光寺
 和泉3丁目8番39号にある真言宗の寺。入口を入ると右に鉄筋コンクリート造りの大師堂があり
30段の石段を上がって山門を潜ると、右に鐘楼。左に如意輪観音を安置する観音堂。正面に本堂、
掲額は「瑠璃殿」とある。本堂の右は庫裏。裏に墓地。境内に庚申塔、宝篋印塔がある。境内は高台
の縁にあり眼下に神田川を見る絶景の地だった。現在はせせこましく建ち並ぶ住宅街の只中で、凡そ
景観とはいいがたい。寺の創建年代は判らないが、過去帳に「開山龍観和尚明応二年入寂」とあり、
創立は15世紀以前ということになる。創立については、

   むかし旅の僧がこの地を通りかかった時、井の頭池に住んでいた巨大な龍が神田川を下っ
   てきて、僧の覿面で雷鳴を轟かせ稲妻とともに昇天した。奇瑞を目の当たり見た僧は、神
   田川北の高台に寺を創立して「龍光寺」と名付け、自らも龍観と改めた。


 という伝承がある。明治10年の書上げによると承安二年(1172)とされ、開山は寺伝によれ
ば龍観和尚ととている。本尊は平安時代末期の薬師如来像で、区内寺院にある仏像では最古といわれ
江戸時代には難病に利益があると護摩の煙が絶えなかったとか。

   龍光寺
   当寺は泉涌山医王院と号する真言宗室生寺派の寺院です。本尊は薬師如来立像で、杉並区
   内では珍しい平安時代末期(12世紀前半)に造立されたものです。開創は、明治十年の
   書上げによると承安二年(1172)とされ、開山は寺伝によれば龍観和尚(明応二年:
   1493寂)と伝えられています。
   山号の「泉涌」は、和泉の地名の由来ともなった貴船神社(和泉3‐22)の涌泉に、院
   号の「医王」は、本尊の薬師如来に因むものといわれている。また寺号の「龍光」は当寺
   のすぐ下を流れる神田川の源、井之頭池に棲んでいた巨大な竜が川を下ってきて、この付
   近で雷鳴を轟かせ、光を放って昇天したことに由来すると伝えられています。
   江戸時代、当寺の本尊は難病に御利益がある薬師如来として信仰篤く、護摩の煙が絶えな
   かったといわれています。戦時中の供出で今はなくなってしまった寛保二年(1742)
   銘の梵鐘にも、「医王之宝殿」「衆病悉除抜苦」と記されていた。なお現在の梵鐘は、昭
   和29年に造られたもので、区内では最も大きいものです。
   当寺に伝わる文化財としては、室町期に作られたといわれる興教大師像、文明二年(14
   70)銘・明応五年(1496)銘の板碑の外、江戸時代の庚申塔・供養塔など多数あり
   ます。また、当寺は明治初年に廃寺となった慈冠山日照寺の法灯を合併しています。
   平成3年3月                          杉並区教育委員会
 


■和泉熊野神社

 和泉3丁目21番29号、龍光寺の北隣にある旧和泉村の鎮守。社伝によれば、文永四年(126
7)に紀州熊野神社の分霊を祀ったのが創建で、弘安七年(1284)に社殿を修造し、その後北条
氏綱が上杉朝興と戦い江戸城を攻略した際にも、大いに社殿を修めたと伝えられている。
 文永・弘安といえば「元寇」のこの頃の話だよ。江戸時代には寛永十六年年(1639)と元禄九
年(1696)の両度に亘って社殿の改修を行ったことが棟札によって判った。現在の社殿は文久三
年(1863)の造営で、明治4年に修覆したもの。『新編武蔵風土記稿』には、

   除地三百坪、村の北の方にあり、上屋二間四方、本社も五尺四方、拝殿二間半に二間、
   社前に木の鳥居を立

 と述べている。拝殿内に文久三年の社殿造営の模様を描いた珍しい絵馬が掲げられている。昭和5
0年代の神田川改修まで、神田川の一流が社前を流れていた。現在も鳥居前に神橋が残っている。旧
和泉村の鎮守で、現在も「和泉の鎮守さま」として、人々に親しまれている。祭神は天御中主命・伊
弉諾命・伊弉冉命で、明治7年には村社となっている。
 境内からは、かつて縄文時代の土器・石斧・石棒、古墳時代の土師式土器なども出土しており、古
い時代から人々が、この地で生活していたことが判る。また境内には徳川家光が鷹狩りの途中に休息
し、その時に手植えしたと伝えられる松の大木が今もなお聳えている。

   和泉熊野神社
   当社は旧和泉村の鎮守で、現在も「和泉の鎮守さま」として、人々に親しまれています。
   祭神は天御中主命・伊弉諾命・伊弉冉命で、明治7年には村社となっています。
   社伝によれば、文永四年(1267)に紀州(現在の和歌山県)の熊野神社の分霊を祀っ
   たのが当社の創建で、弘安七年(1284)に社殿を修造し、その後北条氏綱が上杉朝興
   と戦い江戸城を攻略した際にも、大いに社殿を修めたと伝えられています。
   江戸時代には寛永十六年(1639)と元禄九年(1696)の両度に亘って社殿の改修
   を行ったことが、棟札によってわかります。現在の社殿は文久三年(1863)の造営で
   明治4年に修覆したものです。『新編武蔵風土記稿』は、江戸時代の当社について「除地
   三百坪、村の北の方にあり、上屋二間四方、本社も五尺四方、拝殿二間半に二間、社前に
   木の鳥居を立」と述べています。
   当社の境内からは、かつて縄文時代の土器・石斧・石棒、古墳時代の土師式土器なども出
   土しており、古い時代から人々が、この地で生活していたことがわかります。また境内に
   は徳川家光が鷹狩りの途中に休息し、その時に手植えしたと伝えられる松の大木もそびえ
   ています。例祭日は9月第2日曜日です。
   昭和58年3月                         杉並区教育委員会
 


■貴船神社
(和泉の地名発祥の地)

 和泉3丁目22番22号、熊野神社のすぐ北にある同社の境外末社。社伝では創建は文永年間(1
264~75)ともいわれるが、詳細は不明。古代人がここに湧水を発見した時から何らかの祭祀は
あったんじゃないか。
 社殿前の涸れた池は、昭和40年頃まで滾々と水が湧いていた。住宅が増えて水脈が変わったらし
く涸れてしまったのだ。昔は酒が噴き出していたといわれるくらい良質の水だったそうだよ。和泉の
地名はこの豊富な湧水に由来する。〝御手洗の小池〟と呼ばれ、かつてはいかなる干天にも涸渇する
ことがなく、村民の雨乞を行う場所だった。

   貴船神社
   当社は和泉熊野神社の境外末社です。『『新編武蔵風土記稿』は江戸時代の当社の姿を、

    
除地一段、村の北の方にあり、小祠を東向に立つ
   と記しています。創建は社伝では文永年間(1264~75)ともいわれますが、詳細は
   明らかではありません。祭神は雨と雪を司る高龗神(タカオオカミ)。この神は、山・谷
   あるいは川に棲む雨水を司る龍神で、雨乞・止雨に霊力があるといわれいます。当社はこ
   の水を支配し豊饒を約束する神として信仰されていた、山城国(京都府)の貴船神社の祭
   神を勧請したものと伝えられています。
   境内の池は〝御手洗の小池〟と呼ばれ、かつてはいかなる干天にも涸渇することがなく、
   村民の雨乞を行う場所であり、その豊富な湧水から“和泉”の地名は、この池に由来する
   ともいわれています。また水質も大変良かったようで『豊多摩郡神社誌』は
    里人は往昔此井より清酒を湧出せしなど云伝ふ
   との伝説を伝えています。この伝説は今日も語り継がれています。併しこの湧水も神田川
   の改修工事や周辺の住宅化に伴い、昭和40年頃以後は水が涸れてしまいました。
   当社は大正時代においても「木造萱葺、間口4尺、奥行3尺」という小祠に過ぎませんで
   したが、古くから和泉地域の人々の厚い信仰に支えられて今日に至っています。なお現在
   の神明造りの本殿は昭和36年の造営で、落成を記念した石碑も建てられている。
   祭礼は5月5日。
   平成3年3月                          杉並区教育委員会
 


■和泉教会

 和泉3丁目27番5号にある日本キリスト教団の教会。


 ■和泉西公園
 和泉3丁目47番17号にある区立公園。


泉谷山大円寺(薩摩島津家の江戸菩提寺)

 和泉3丁目52番18号、永福寺駅の北方600mにある曹洞宗の寺院。目黒行人坂にも薩摩家と
縁のある大円寺がある。江戸3大火の1つである行人坂の大火の火元だ。

   大円寺
   当寺は泉谷山と号する曹洞宗(禅宗)の寺院で、本尊は釈迦如来坐像です。
   寺伝によれば、慶長八年(1603)江戸赤坂溜池の辺りに徳川家康が開基となって建立
   され、開山は諦巌和尚(武田信玄の弟)といわれています。その後、寛永十八年(164
   1)正月、江戸の大火によって諸堂を類焼し、跡地は御用地として召し上げられ、その代
   地として伊皿子に寺地を拝領して移転しました。そのころから大渕寺の寺名を大圓寺に改
   めました。延宝元年(1673)薩摩藩主島津光久の嫡子綱久が江戸で死去した際、当寺
   で葬儀を行って以来、島津家の江戸における菩提寺となり、寺内に薩摩家代々の位牌堂が
   設けられてあります。この頃、当寺に塔頭として福寿院(本尊:釈迦如来)、門能院(本
   尊:阿弥陀如来)の2院が建立され、それぞれ大名保科・旗本五井・松平・本多・土方の
   諸家中、町人衆を檀徒として隆盛を極めました。
   明治41年寺院の発展を計り、この2院の塔頭を併合して現在地に移転し、今日に至って
   います。
   境内には、石像の仁王尊や寛永二年(1625)芝浦の海中から出現したといわれる塩見
   地蔵尊石像、また島津家寄進の宝筐印塔、六地蔵尊があり、墓地には益満休之助他75名
   が刻されている「明治元年戊辰の役戦死者の墓」並びに横山安武・八田知紀等の墓があり
   ます。なお、当寺近辺から出土した板碑が所蔵されています。
   昭和59年3月                         杉並区教育委員会

 仁王像一対
 門前左右のオープンスペースにある。

 
禁牌
 門前左手オープンスペースにある。碑陰記あり。

   
不許葷酒入山門

 
地蔵堂
 門内左手にある。堂内に丸彫り地蔵尊と舟形光背不動尊坐像がある。扁額は、

   
地蔵願王尊
   應赤地氏需 八十二翁 是山謹書

 
僊家水獺供羪碑
 門内左手塀際に並ぶ石造物6基の内の1番左にある。三面に銘文あり。

   僊家水獺供羪碑

 画仏碑
 門内左手塀際に並ぶ石造物6基の内の左から2番目にある仏を描いた碑。台座に銘文あり。

 
石仏群
 門内左手塀際に6基ある内の右側4基。地蔵2基、青面金剛2基ある。


 長元院五輪塔
 保科正貞(飯野藩祖)の生母多劫(たけ)姫の墓塔。父は久松佐渡守俊勝、母は徳川家康の生母で
もある伝通院(於大の方)で、家康養女となる。

   長元院殿清信授法大禅定尼
   元和四戌午年六月七日

 飯野藩保科家墓所
 墓地にある。藩祖正貞と3~9代の墓がある。2代正景の墓は富津市の淨信寺にある。

 横山正太郎墓
 森有礼の実兄で、新政府批判を建白して屠腹(切腹自裁)した。

   鹿児島藩 横山正太郎藤原安武
    明治三年庚午七月二十七日

   横山君之墓碑


 四面に銘文がある。明治3年の建立。

 
國分友諒顕彰碑
 墓地にある。谷中天王寺から移された。

 佐土原城主島津氏臣戦死之墓
 墓地にある。

 
三士墓碣銘
 墓地にある。

 
武蔵艦水火夫燒死之墓
 墓地にある。

   明治二年己巳歳
   
武蔵艦水火夫燒死之墓
   二月廿八日


 
旧藩戦死者墓
 墓地にある。

   戊辰 舊藩戦死者之墓
      大勲位公爵 松方正義書


 
爲戰亡烈士之墓
 墓地にある。   


■庚申塔 ✓

 和泉3丁目60番に3基あるらしい。


■稲荷社

 和泉4丁目1番2号にある。路地の奥にある。
 


■稲荷社

 和泉4丁目2番2号の民家の庭にあるのだが、屋敷神とも思えない。屋敷神の名残りというのなら
理解はできる。小さいながら立派な祠だ。
 


■専修大学附属高等学校
 和泉4丁目4番1号にある。昭和4年早稲田商業学校の姉妹校として実業学校令による財団法人京
王商業学校を新設。同7年早稲田商業学校、財団法人努力学園帝国商業学校に改組改名。同19年戦
時特令により、京王・帝国両校とも工業学校に転換、京王工業学校・帝国工業学校と改称。同21年
京王・帝国両校とも商業学校に再転換、京王商業学校・帝国商業学校と改称。同23年学校改革によ
り京王・帝国両校を合併して、財団法人京王学園を設置、京王中学校・京王高等学校(普通科・商業
科)を開設。同26年私立学校法の施行により、財団法人を学校法人に改組。同33年専修大学の付
属校となり、専修大学附属京王中学校・京王高等学校と改称。同44年専修大学附属京王中学校を廃
校。法人名を現行の学校法人専修大学附属高等学校に、また校名も専修大学附属高等学校に改称。同
54年創立50周年記念式典。同55年創立50周年記念事業「梅田記念館(図書館・食堂完備)」
竣工。
 平成元年創立60周年記念事業として全館冷暖房を完備。同6年
男女共学を開始。同16年新校舎
完成。

 
誠実努力の碑

 正面右のスペースにある。昭和38年京王中学校卒業生の寄贈。文部大臣灘尾弘吉の揮毫になるも
のだ。
 


■和泉児童遊園
 和泉4丁目16番23号にある区立公園。


■和泉緑地
 和泉4丁目17番1号にある区立公園。


■和泉四丁目緑地
 和泉4丁目17番26号にある区立公園。


■べんてんばし公園
 和泉4丁目17番29号にある区立公園。


■和泉がけ公園
 和泉4丁目18番5号にある区立公園。


遍照山高野寺 文殊院
 和泉4丁目18番17号にある真言宗の寺。

   文殊院
   当寺は、遍照山と号する高野山真言宗の寺院で、本尊は弘法大師坐像です。寺伝では、開
   山は高野山興山寺の木食応其上人とされていますが、「文政寺社書上」によれば、興山寺
   勢誉師が、慶長五年(1600)徳川家康の帰依を受けて駿府に寺地を拝領し、開創した
   と伝えています。開創時当時は寺号を興山寺と称していました。
   徳川氏の江戸開府に及び、寛永四年(1627)に興山寺応昌師が、江戸浅草に寺地を賜
   り、駿府城北の丸の建物を拝領して移築しました。その際、寺号を高野寺文殊院と改めま
   した。その後、元禄九年(1696)麻布白金台町(港区白金台)に移りました。その当
   時のようすが『江戸名所図会』に「白金 高野寺」として描かれています。そして、大正
   9年に区画整理のため現在地に移転してきました。
   江戸期の当寺は、高野山在番所行人方触頭として真言宗では重要なお寺でした。また宝暦
   年間(1751~64)に御府内八十八ヶ所(大師信仰)打留の札所となりました。境内
   には、この大師信仰を示す八十八ヶ寺大師石像や「お砂踏の石」があります。
   本尊の弘法大師坐像は、室町末期の作といわれ、「難産の女人を救い給う安産守護のご本
   尊」として信仰されており、多くの女性が安産祈願に参詣しました。弘法大師像は、区内
   においては大変めずらしいものです。
   文化財としては、弁財天像・付近出土の板碑・百度石・文殊院文書などがあります。
   平成20年                           杉並区教育委員会


■一本橋公園
 和泉4丁目18番28号にある区立公園。
 


■泉南緑地
 和泉4丁目41番1号にある区立公園。


■弁天橋東緑地
 和泉4丁目44番1号にある区立公園。

 
かんがえる
 園内にある。腕組みして考えるマンガチックな蛙像。
 



【今川】(いまがわ)1~4丁目                   昭和39年6月1日
 上井草村の内。明治11年「郡区町村編制法」により東多摩郡に所属、同22年「市制町村制」
により井荻村大字上井草字中通道北・遅野井、大正12年井荻町大字上井草字中通道北・遅野井、
昭和7年東京市編入20区増設により杉並区今川町。同39年新住居表示により神戸町・沓掛町・
柿ノ木町・中通町・四宮町・今川町・三谷町・新町の各一部をあわせた町域を現行の「今川」とし
た。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『杉並区史』『杉並の歴史』など。

 
今川の由来
 今川という川も村もなかった。桶狭間の合戦で織田信長に滅ぼされた今川義元の子孫は後に徳川
幕府の高家となり井上正就の後を受けて井草村・鷺宮村・中村3ヶ村500石を知行とした。しか
し陣屋や事務所を置いた訳ではなく菩提寺観泉寺内で事務を取り扱い、裁判などもそこで行った。
実は正保二年(1645)大名の格式ゆえ陣屋を青梅街道沿いに盛大に開いたものの実禄2500
石ではそれを維持すること能わず、宝永四年(1707)破却して農地とした。その面積が8町歩
あったので「八町」の名が残り、現在も「八丁・八丁南」として交差点に名を残している。だから
今川は宝珠山観泉寺だ!
 


■今川一丁目公園

 今川1丁目19番8号にある区立公園。


■観泉寺児童遊園・碑

 今川2丁目6番12号にある区立公園。ここも観泉寺境内の一部だ。住宅地図などにある碑マーク
は、観泉寺の寺号塔で、巨大な自然石に「観泉寺」と彫られている。
 


■三谷子育地蔵・原地蔵

 今川2丁目6番にある。ここも観泉寺の一部なのだろう。覆屋が4つあり、石碑・石仏は16基あ
る。入口を入って右手覆屋に馬頭観世音や庚申塔など6基、正面右の覆屋に原地蔵尊、正面左の覆屋
に馬頭観世音・日本廻国供養塔・地蔵尊、左手奥の覆屋に三谷子育地蔵尊と庚申塔(?)。左手手前
に野晒しで供養塔が4基並んでいる。いづれも立派なもので、時の流れで勿体無くも不要とされ各所
から集められたものだ。左手手前から説明すると、昭和50年7月に羽生たきが建てたもの。「子育
地蔵供養」と刻んである。女として水子などで苦しんだのだろう。裏面に、

   すこやかに生まれし子らの幸せを祈り続けて老いにけるかな
   さまよいる水子の霊をあたたかく救いたまへと手を合わせつつ


 と詠んである。
 次の供養塔は、碑上に猫一匹が彫刻されている。裏面に高橋溶子(もしくは澄子)とある。
 次は舟型地蔵尊だが、平成4年とある。昭和62年に観泉寺幼稚園を卒園した土屋恵理が11歳で
夭逝したのを悲しんだ家族が建てたものだ。土屋繁・佳子、本橋勇治・礼子の連名が刻んである。
 4番目は、舟型の30cmばかりのものだが、2人の像が並んでいるが、相当古いもので明確でな
い。爺婆か? 道祖神か?。
 三谷地蔵尊と筆書きの板が打ちつけてある覆屋には地蔵尊の他、同じ大きさの笠付供養塔、小さな
馬頭観世音碑が2基ある。笠付供養塔の文字はまるで読めない。三谷地蔵はかつては「村中地蔵」と
いい、西荻区民センターの近くにあったという。
 正面左側の覆屋の左から、明治22年8月12日建立の馬頭観音。「南無馬頭観世音」と彫ってあ
る。日本廻国供養塔は日本一周の行脚を無事終えて感謝の気持ちを込めて建てた記念碑。ちょっぴり
自慢したいなってとこか。1番右の地蔵尊の謂れは判らない。
 正面右側の原地蔵尊、覆屋にそう墨書してある。原地蔵は、地蔵坂の途中にあったというあの地蔵
だとか。右手の覆屋の6基、左から「至心膽礼地蔵像一切悪事皆消滅」と「地蔵菩薩本願経見聞利益
偈」の経文が彫られてあって、「石壇寄附連名表」と横書きした下に古谷傳右衛門外25人の名前が
刻してある。次の2つは庚申塔で、右のものは2段の笠付で豪華なものだ。笠無しは正徳六年(17
16)、左のは貞享二年(1685)の建立。柱を挟んで右側3基。左から馬頭観音と庚申塔2基。
馬頭観音は道標も兼ねていたようで、「東江戸」「西ふちう(府中)」と刻んである。庚申塔は、左
が2段笠付、馬頭観音は近代になってからは、東多摩郡井荻村・豊島郡石神井村・北多摩郡吉祥寺村
の三郡の接点に建てられていたため「三郡境の馬頭様」と呼ばれていた。


■石仏と堂

 今川2丁目8番の区画にある。ここも観泉寺の寺域の内だ。原地蔵などがある区画の参道を挟んだ
向かいに6基の石仏が並んでいる。左から立観音、如意輪観音、地蔵尊、立観音、如意輪観音が2基
だ。揃ってないので、これも区画整理などの時に集められたものだろう。銅板葺きの堂は山門前の道
に面してあるが、覆屋の下にあり、名称は何とも記載がない。
 


■今川二丁目公園

 今川2丁目12番7号にある区立公園。


■井荻中学校

 今川2丁目13番24号にある区立校。昭和23年桃井第一小学校内にて「東京都杉並区立井荻中
学校」として開校。8月今川町4番地(現在地)に新校舎落成し移転。同26年校庭にプール完成。
同27年校歌制定。
 
 校歌「
武蔵野の空」 作詞・藤浦洸  作曲・山田耕筰
  1.武蔵野の空はひろいよ
    光が溢れているよ
    緑の森の上には何時も
    富士山が見えているよ
    おおこの校庭
(にわ)
    行こう走ろう飛び跳ねよう
    ああ われらの井荻中学校
  2.新らしき風はそ戦ぐよ
    陽ざしが揺れているよ
    一人一人の胸には何時も
    憧れが萌えているよ
    おおこの校舎
(いえ)
    立とう凝視めよう学び取ろう
    ああ われらの井荻中学校

  3.喜びの胸が躍るよ
    希望の花が薫るよ
    清く楽しい想いを抱いて
    遠い道をみんなで行こうよ
    おおこの友と語ろう謳おう高らかに
    ああ われらの井荻中学校


 同36年体育館落成。同42年第1期鉄筋コンクリート造り校舎7教室落成。同43年第2期鉄筋
コンクリート造り校舎4教室落成。同44年第3期鉄筋コンクリート造り校舎8教室落成。同50年
第4期鉄筋コンクリート造り校舎8教室落成。同54年第5期鉄筋コンクリート造り校舎5教室落成。
同57年体育館舞台増築。同60年FF暖房設置。同62年体育館改修。
 平成5年窓枠アルミサッシ化完了。同9年プレハブ仮校舎に移転。校舎解体。同11年鉄筋コンク
リート造り4階建て新校舎落成。仮校舎から移転。同創立50周年記念式典。同12年地方自治法改
正に伴う学校教育法により校名から東京都の冠称が取れ、「杉並区立井荻中学校」と改称。
 


■今川稲荷大明神

 今川2丁目14番25号、路地を入った奥、駐車場への曲がり口にある小社。ツツジに囲まれて、
温かく見守られている感じがいい。
 


■屋敷稲荷

 今川2丁目15番3号、観泉寺の東側にある清水家の屋敷林の西北端に社と石仏群があるという。
しかしグーグルで見ると見当たらない?
 で、平成22年3月20日に行って見た。するとあった。何故グーグルになかったのかというと、
清水家で塀を新築するために一時的に撤去し、完成後元の位置に戻したのだ。石仏群も綺麗に並べて
据えてあった。そこだけ別区画となり、外からお参りできるようにしてある
 


宝珠山 観泉寺
 今川2丁目16番1号にある曹洞宗の寺。寺伝によれば、

   慶長二年(1597)に中野成願寺の鉄叟和尚が、下井草2‐25に観音寺を創立し、正
   保二年(1645)に領主となった今川範英(のち直房)が、観音寺をここに移し、観泉
   寺と改号させ、寺領10石を寄進して菩提所とした。宝暦十三年(1763)に火災に遭
   い、寺宝・寺伝を失い、翌年現在の本堂が再建された


 とある。観音寺を移した時、善福寺・万福寺・東福寺が幕府から移転を要求されており、この4寺
を合わせて一つの寺とし、善福寺は観音寺と合体して観泉寺とし、万福寺は境外仏堂として薬王院と
なり、東福寺は福寿院になったのだろう。
 さてこの寺は凄いぞ。一見・・・いや一参の価値がある。信心抜きで必見だ。巨刹ではないが大寺
だ。境内が凄い。縦横に一般道が走っていながら本堂のある寺域が樹林を擁して穏やかだ。ごく普通
の住宅地にある寺とはとても思えない。手入れの行き届いた境内には、鐘楼・石組みの井戸・写経塔
・七観音・六地蔵などがあり、春は枝垂桜、秋は紅葉の名所でもある。本堂・庫裡は江戸時代のもの
で、区内最古の大型木造建築物だそうだ。

   当寺は、宝珠山観泉寺といい、本尊は釈迦如来で、戦国時代の名門今川氏ゆかりの寺とし
   て広く知られています。寺伝によれば、慶長二年(1597)今の下井草二丁目付近に開
   山鉄叟雄鷟(てっそうゆうさく)大和尚により創建され、観音寺といわれました。
    正保二年(1645)今川17代直房は、将軍家光の命をうけて京に上り、東照大権現
   の宮号宣下の使者を勤めました。その功により井草村など三か村500石の加増をうけま
   したので当寺を菩提寺と定め、現在地に移して寺号を観泉寺と改め、祖父氏真を開基とし、
   信仰厚く伽藍建立に寄与した姉(観泉寺殿簾室慶公大姉)を中興としました。その後万昌
   院(現中野区)から祖父氏真の墓所を当寺に改葬しました。ここに眠る開基氏真は、23
   歳の永禄三年(1565)5月19日「桶狭間の戦」で織田信長によって父義元を失い、
   その後出家しましたが歌人としても多くの歌を残しています。当寺にはこの氏真の百首和
   歌や短冊類をはじめ上下井草村の古文書、板碑などが数多く保存されています。墓地には
   都指定旧跡の今川氏累代の墓があります。
   昭和54年2月1日                       杉並区教育委員会
 

 今川氏累代墓地
 今川氏は清和源氏の流れで、治部太夫義元の代には、駿河・遠江・三河を統一し、天下に号令しよ
うとしたが、永禄三年(1560)桶狭間の戦いで織田信長の奇襲を受けて討死した。その後義元の
子は3ヶ国を維持できず、同十二年(1569)領国を武田・徳川・北条らに奪われて滅亡した。子
孫は代々高家として江戸幕府に仕え、上・下井草・鷺宮などを所領に持ったが、維新後最後の当主は
子孫を残さぬまま行方不明となり絶家した。現在墓域は都の旧跡であり、維持管理は都が受け持って
いる。数えると20基あった。墓の形は様々で、宝篋印塔のようなもの、茄子を引っ繰り返したよう
なものと、格式の高さを伺わせる。石を3段積んだ明治以後のものとは訳が違う。
 


■農芸高等学校

 今川2丁目25番1号にある都立校。明治33年4月中野町ほか「13ヶ村組合立農業補修学校」
として中野駅前に開校。6月豊多摩郡に移管。「豊多摩郡立農業補修学校」と改称。同42年豊多摩
郡立農業学校と改称。同45年附設実業女学校として現在の都立鷺宮高校を創立。
 大正12年゛東京府立中野農業学校」と改称。
 昭和3年「東京府立農芸学校」と改称。12月現在地に新校舎が建ち移転。同18年都制施行によ
り「東京都立農芸学校」と改称。同22年新制中学校併設。同23年戦勝国アメリカの強制による学
制改革により「東京都立農芸高等学校」と改称。
 


■中央大学杉並高等学校 
移転

 今川2丁目7番1号にあった私立校。昭和10年
「目白中学校」が東京府北多摩郡練馬村(練馬区
高松町)から転入。「杉並中学校」と改称。定員500名。
 同23年戦勝国アメリカの強制による学制改革(学校教育法施行)により、新制の杉並中学校・杉
並高等学校へ改組。同27年学法人杉並高等学校と学校法人中央大学が合併。中学校廃止し、校名を
「中央大学杉並高等学校」と改称。同38年中央大学杉並高等学校を母体として「中央大学附属高等
学校」を設立。小金井市貫井北町へ移転。
 跡地には、同じ名前を受け継いだ中大杉並高校が新設された。
 


中央大学杉並高等学校 新設

 今川2丁目7番1号にある私立校。本校は、中央大学付属の高等学校として、昭和38年に旧中央
大学杉並高等学校(現中央大学附属高等学校)が新しく小金井市に移転した後、その名称と校舎とを
継承して新規に男子部と女子部併設の、全日制普通科の高校として設立。
 平成4年、創立30周年を機に、現在の校舎(1、3、4、5号館)を新築し、男女共学制に移行
した。
 1学年340名ほど、全校生徒は約1000人。毎年中央大学には95%ばかりの生徒が進学。文
系・理系の振り分けは3年時に行なわれ、文系の生徒は理工学部に推薦されない。また3年次の自由
選択科目(6単位)を履修しないと放棄と看做され、中央大学へ推薦されない。法学部には毎年10
0人弱が推薦される。また、国公立大学と私立大学の中央大学にない学部・学科・コースは中央大学
と併願して受験できるが、入学金は前納であり、また他大学受験に失敗した場合は必ず中央大学に進
学しなければならない。内部推薦を放棄した生徒が早・慶など他の私大に合格するケースは毎年ある
。姉妹校として、中央大学附属高等学校(小金井市)と中央大学高等学校(文京区)がある。またオ
ーストラリアのユニティ・カレッジと姉妹校協定を結んでいる。
 作家の浅田次郎は卒業生の1人だ。他にはそれほどの人は見当たらない。

 
テミス像
 正面玄関の上にある。大きなものではない。平成19年堤直美の制作。
テミスは、法と正義を守る
女神。
右手に天秤、右手に剣を持っている、天秤は「公正」を、剣は正義を実現する「力」を表して
いる。
 


■悪水堀

 妙正寺川の支流井草川の支流。源流は今川4丁目8・20番の間で千川分水(多摩六ヶ村用水)か
ら養水する「今川分水」と、桃井4丁目5番4号・5号の間から養水する「桃井分水」があった。二
つの用水は今川3丁目10番地内で合流、中大杉並高校のグランド部分だけは用水跡は消滅するが、
あとは遊歩道また道路として完全に残り、下井草4丁目26番で井草川に合流した。
 


■今川三丁目公園

 今川3丁目3番7号にある区立公園。


■三谷南公園

 今川3丁目6番14号にある区立公園。


■今川児童遊園

 今川4丁目6番1号にある区立公園。


■三谷西緑地

 今川4丁目18番10号にある区立公園。


■道灌公園

 今川4丁目27番7号にある区立公園。


■小美野邸

 今川4丁目28番17号今川3丁目交差点の西南角にある。
 



【梅里】(うめざと)1~2丁目                   昭和43年7月1日
 馬橋村・高円寺村。明治11年「郡区町村編制法」により東多摩郡に所属、同22年「市制町村
制」により杉並村大字馬橋・高円寺、大正13年杉並町大字馬橋・高円寺。昭和7年東京市編入2
0区増設により杉並区馬橋1丁目・高円寺2~3丁目。同43年新居表示により馬橋1丁目に高円
寺の2~3丁目の各一部、堀之内町1丁目・松ノ木町・東田町の各ごく一部をあわせた町域を現行
の「梅里」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『杉並区史』『杉並の歴史』など。

 
梅里の由来
 かつては〝青梅街道沿いの里〟だからというので創作した地名だ。町域に梅園や梅林がある訳で
も、あった訳でもない。新住民の得手勝手で「馬橋では田舎臭い」というので、何となく口から出
た名前だったが、水戸出身の議員が「梅里先生水戸黄門に肖って大変結構」といったことで衆議一
決、すぐに決まったという。青梅街道の南へ、五日市街道が分かれる辺り、現在の五日市街道追分
は最近の新道で、その百メートル先の路地が五日市街道の起点だ(今でも)! 五日市街道は明治
以後の呼称で、古くは伊奈道、砂川道、青梅街道裏道、同脇道、五日市道、新長田道、小金井道、
東に向かう時は江戸道などいろいろに呼ばれた。
 


不美人をなぜ「ブス」と呼ぶのか
 
突然ですが、ブスを漢字で書くと「附子」と書く。附子とは何ぞやということになるが、毒草トリ
カブトの塊根だ。アコチニンほかのアルカイドを含んで劇薬、量によっては人も殺す。身体諸機能の
衰弱・失調の回復・興奮、また沈痛に用いる。烏頭(うず)ともいう。筆記用インクに入っている。
紙に色素を定着させる機能があるからだ。附子は異常に苦く服用すると必ずしかめっ面をするので、
「附子を噛んだような顔」から不美人の代名詞となったんだよ。また「大根足」とは「太いあし」を
嘲ったのではない。「白い脚」を褒める言葉だった。だから荒川静香の脚は大根脚だ。「大根役者」
は、大根の味は安定していることから、「(演技が)代わり映えしない役者」の意だ。

 平成18年8月9日 化学者の「ツチヤ」さんからメールがありました。

   ※Tuchiya さんのコメント:
   附子を「ぶし」あるいは「ぶす」と読む場合と「ふし」と読む場合では全く別のものにな
   る。漢字が同じなので混同されやすい。「ぶす」はトリカブトの根を乾燥させたもので、そ
   の色と形から「烏頭」ともいう。その薬用成分はアルカロイドのアコニチンだ。「ふし」
   はヌルデの若芽にアブラムシの一種がつくと生じる虫営を乾燥させたもので、読みを間違
   えると大事(おおごと)になる。トリカブトの根は、その昔アイヌの人たちが狩猟の際に
   鏃(やじり)に塗って毒として使ったもので、羆(ひぐま)さえ殺す猛毒だ。何年か前に
   人に飲ませて殺した事件があったが、アルカロイドは一般に大変苦い味がする。たばこの
   ニコチンもアルカロイドで、苦味はご案内の通りだ。そのままで飲み込ませるのは非常に
   難しい。子供が苦いものを嫌うのは、アルカロイドの誤飲を避けるための天与の配剤なの
   だ。一方タンニンは「柿渋」の渋の元でもあり、舐めると渋い。タンニンは単一の化学物
   質ではなく混合物。皮鞣(なめ)しに使われたほか、タンニン酸で分解すると没食子酸は
   第二鉄イオンと反応して不溶性の濃青色沈殿物を作る。これがインクとして使われる。

 毒は何処にでもある。毒キノコはもとより、夾竹桃や福寿草だって毒だ。庭に咲く草花の根を食わ
せれば死ぬことはある。
 


■梅里・堀ノ内の寺町
 梅里1丁目・堀ノ内3丁目・松ノ木3丁目が接する辺りに寺が固まってある。梅里1丁目には真盛
寺をはじめとして本仏寺・妙祝寺・西方寺・心月院・慶安寺・清徳寺、2丁目に清見寺の8ヶ寺、堀
ノ内には〝お祖師様〟の妙法寺をはじめ宗延寺・福相寺・修行寺・の4ヶ寺、松ノ木に大法寺・華徳
院・智光院の3ヶ寺がある。
 


 お檀家以外の方は山門内へはいらぬようご遠慮下さい
 の注意書きがある。この寺は門を閉ざした心の狭いところだから行かない方がいい。何のために寺
を開いてんだろうね。がっちり門を閉ざしとけばいいのに。仏教の精神に欠ける寺だね。行ってもご利益はないよ。坊主丸儲けって奴だ。だから矢鱈金かけてる。

天羅山善養院真盛寺
 梅里1丁目1番1号の環七通りに面してある真盛上人の興した天台宗真盛派の東京別院。震災、戦
災ともに受けなかったために、美術品・書画・古文書が多く所蔵されている。入口から参道70m、
壮大な山門を入ると区内第3位の広大な境内が広がる。左に文政三年(1820)造の元三大師堂。
その奥は墓所で広い。左側に寺務所・庫裏・客殿など並ぶが、これは肥後熊本の細川侯爵が明治天皇
をお迎えするために新築した建物を移築したもので見事な建物だ。こんな立派なものを寄進できると
いうことは・・・もっとすっごいとこに住んでんだろうね。
 正面に安永五年(1776)建築の本堂。右手に鐘楼がある。鏡池のある広い境内には、本所横川
から移した地蔵尊や庚申塔などの石仏が配置してある。
 高円寺村は、家光命名以前には小沢村といい、ここの池(湧水)から桃園川へ流れる小川の湿地帯
があり、それを小沢といったことでその名があった。小川の跡は現在も路地として残っている。また
環七通りを越えて神田川に流れる流路跡もあり、これが用水堀なのか自然流なのかは判らない。
 文化財は、元三大師堂・書院・客殿庫裡・紙本著色真観上人画像・紙本著色四季耕作図屏風(以上
杉並区指定文化財)、宝永元年銘石造青面金剛立像等・山岡鉄舟筆山号額・狩野芳崖作不動尊碑・真
盛寺文書・呉服商越後屋(三井家)歴代墓・旧所在地よりの移転石仏多数。
 入口左に寺号塔、文化財標柱3基、区の説明板がある。

   天台宗真盛派
   
真盛寺

   平成16年3月24日 指定
   杉並区指定
   有形文化財 
紙本著色四季耕作図屏風
               杉並区教育委員会

   平成7年11月29日 指定
   杉並区指定
   有形文化財 
真盛寺客殿・書院及び庫裡
               杉並区教育委員会

   昭和61年3月31日 指定
   杉並区指定
   有形文化財 
紙本著色真観上人画像
               杉並区教育委員会


   
真盛寺
   当寺は、天羅山養善院真盛寺と称し、真盛上人の興した天台真盛宗の東京別院で、本山は
   滋賀県大津市坂本の西教寺です。本尊は阿弥陀三尊立像です。「江戸本所真盛寺之記」に
   よれば伊賀国出身の真観上人によって寛永八年(1631)に湯島天神前樹木谷(文京区
   湯島)に開創されました。その後、寺域が御用地となって天和三年(1683)谷中清水
   町に、更に東叡山拡張のため元禄元年(1688)本所小梅寺町(墨田区横川)に移り、
   のち煤煙と浸水を避けて大正11年に現在地に移転しました。
   当寺は延宝元年(1673)に三井高利が江戸日本橋に越後屋を創業して以来の菩提寺で
   俗に三井寺とも称され、三井家一門の香華院として知られています。
   本所から移築した本堂は安永五年(1776)、元三大師堂は文政三年(1820)、中
   玄関書院は慶応元年(1865)と、何れも区内では数少ない江戸時代の建物です。また
   客殿・庫裡は明治天皇の行幸を仰ぐため明治29年に建てられた細川公爵邸を譲り受け、
   目白高田老松町から移築したものです。
   境内右手の「新鏡ヶ池」は旧高円寺村字中小沢の地名の由来となった古池で、中島に弁才
   天を祀り放生池となっています。門前の木遣塚は元禄年間、江戸城普請のときに唄い始め
   た木遣節を後世に伝えるために建てたもので、毎年5月3日に鳶職和泉会の有志によって
   唄い継がれています。
   なお当寺には「真観上人像」、雪舟銘「商山四皓」図をはじめ数多くの文化財が所蔵され
   ています。
   昭和62年3月                         杉並区教育委員会

 元三大師塔
 入口右にある。

 
句碑
 参道左手にある。

   
往く還も かはらぬ春のそら つきと花 六々・・・

 辞世句碑
 参道右手にある。初の盲目衆議院議員高木正年の句という。

   辞世 行年八十四 □山居士
   月雪も 花も夢なり けふの秋

 句碑
 山門前左にある。

   
小ろゝゝと 夕日の移 寺の萩  千童

 木遣塚
 山門に向かって左側の木遣塚は元禄年間、江戸城普請の時唄い始めた木遣節を後世に伝えるために
建てたもの。毎年五月三日に鳶職和泉会の有志によって唄い継がれている。

 塚は円柱。側に「木遣塚記念碑」が2基ある。

 
本堂伽藍境内整備之記碑
 山門前右にある。

   真盛寺本堂伽藍境内整備之記
   當山ハ天台眞盛宗ニ属シ総本山ハ滋賀県大津市坂本ノ西敎寺ナリ 寛永八年宗祖眞盛上人
   ノ戒称ニ門即チ円成ト念佛ノ徳風ヲ関東ニ弘メルタメト三井十一家菩提寺ノタメニ真観上
   人ニヨツテ湯島天神前樹木谷ニ創建サル 後元禄元年押上小梅村ニ永代拜領ノ地ヲ得テ移
   轉ス
   大正十一年水害ノ禍イト環境悪化ノタメ第二十世敎圓上人ノ英断ニ依リ本堂元三大師堂書
   院墓地ヲ杉並村ニ移轉ス
   大正十四年小石川高田老松町細川邸ヨリ明治天皇ノ行幸ヲ目途トシテ造營サレシ御成御殿
   大玄関客殿大庫裡ヲ當地ニ移轉ス 總テ名棟梁名古屋伊藤平左衛門ノ施工ナリ 昭和十年
   立教開宗四百五十年ヲ記念シ昭和十二年山門ヲ建立
   昭和五十二年當山開創三百五十年ヲ記念シ第二十一世敎順上人鐘楼堂ヲ建立 史ニ方丈
   ノ改築築地塀ノ構築ヲ完成シ寺観正ニ整イ法燈ヲ第二十二世敎幹上人ニ継承ス
   然レドモ安永五年第十二世英道上人ノ建立サレシ本堂位牌堂ハ二百三十年ノ経年風雪ノタ
   メ ソノ腐朽甚ダシク特ニ明治期ノ屋根瓦ハ既ニソノ耐用年数ヲ超ユ
   爰ニ於イテ平成十一年綿密ナル調査ト修復設計ノモト伽藍整備ヲ計画シ平成十二年八月先
   ノ本堂位牌堂ノ本格的大修理ニ着工平成十三年外陣天井ノニ新タニ天井画ヲ施シ爰ニ見事
   ニ本堂竣工ス 引キ続キ元三大師堂山門奥殿大玄関客殿大庫裡中玄関書院鐘楼堂ノ屋根瓦
   方丈ノ屋根瓦ノ葺キ替エヲ修理ス。
   偶々平成十三年東海大学稲葉教授ノ縁ニテ三井不動産ニ依ル世田谷区玉川幽篁堂庭園ノ解
   体ニ伴イ茶室暁雲庵腰掛待合江戸時代ノ四脚門石造諸塔赤松等ヲ譲リ受ク コノ機ニ平成
   十四ヨリ墓所入口ノ池ヲ幽篁ヶ池ト命名整備 中島ニ四脚門ヲ建立 平成十五年唐破風手
   水舎ヲ新築ス 同時ニ山門ヨリ本堂大玄関ニ至ル参道ヲ石敷キニテ新設 新鏡ヶ池弁天堂
   整備 ソノ側辺ニ祖信徒ノ控所ヲ兼ネタ茶室暁雲庵外腰掛ヲ数寄屋庭園ノ中ニ建立シ更ニ
   山門カラ本堂ニ至ル表境内ニ庭園ヲ完成ス
   平成十六年ヨリ奥殿ノ庭園ヲ作庭シ武者小路千宗由来ノ茶席一方庵移築修復泥于関寂庵路
   地門中門ノ屋根替エ等ヲ併セテ施工ス
   平成十一年ヨリ實ニ八ヶ年ノ歳月ヲ費ヤシ爰ニ伽藍境内ノ整備ヲ落成ス
   當山開創以来星霜ヲ経ルコト平成十八年ヲ以テ三百七十五年境内静寂林泉ノ中ニ輪奐美天
   空ニ聳立シ東都ニ於ケル本宗唯一ノ不断念佛ノ道場トシテ顕密ノ法要ヲ厳修シ法燈マタ新
   タニソノ輝キヲ増威ス 爰ニコノ大事業ニ携ワリソノ伝統的技術ヲ遺感ナク発揮シ當山ニ
   多大ナル貢献ヲ恵與セル工事関係者ノ芳名ヲ甚深ノ謝意ヲ込メテ左ニ列擧ス
   平成18年春季彼岸                   天羅山真盛寺第二十二世
                                    岩 田 教 幹
    設計監理 望月敬生建築設計室    庭園設計 日本庭園協會望月敬生
    木工事  英 社寺建築       天井画  竹内邦夫
    瓦工事  天理石野瓦工業      石工事  木下石材店
    左官工事 阿嶋左官工業       銅板工事 本田板金工業
    建具工事 今井木工所        漆工事  斎藤漆工芸
    鳶土木工 田村土木         蹲踞設計 吉田省吾
    造園工事 柴田造園         造園設計 砧農園
    電気工事 山田電設         水道工事 丸柴設備
    仏具工事 京都若林仏具店      表具工事 東京表具

 ※誤記
 文中の「遺感ナク」は「遺憾なく」の誤記と思われる。弘法も筆を誤ったからね。そこら辺の坊主
じゃあ、これくらいの間違いは大目に見てやってよ。

 
常夜灯一対
 山門前にある。

 

 三越百貨店社員墓所
 三井家の菩提寺なので、身寄りのない社員や店員を親心で受け入れている。こういうことは当然の
ように行なわれ、伊勢丹や白木屋も社員墓地を持っている。併し戦後に成り上がった西武などの鉄道
デパートにはこんな人間味はない。私利私欲に走って利益を追究するのみだ。明治維新以来のユダヤ
支配になって、日本人のユダヤ化、朝鮮化は著しい。レベルは下がるばかりだ。

 三野村利左衛門清為之墓
 細長く高い石柱。文政四年(1821)の生まれ。出身地については、信州と出羽庄内の二説があ
る。初め伊丹の酒造家に雇われ、天保十年(1839)19歳の時江戸に出て、油商紀国屋利八に雇
われたが、その実直さを小栗上野介忠順に認められ、その口利きで紀国屋の婿養子に入った(一説に
は小栗家の中間から紀国屋を継いだともいわれる)。養子となって菓子の行商をしていたが、嘉永五
年(1852)32歳で両替商の株を買って独立した。本両替商である三井の下請けとして安政開港
後、洋銀売買で成功した。慶応二年(1866)に三井家の番頭となり、慶応四年(1868)新政
府軍東征の軍資金調達に尽力した。同年九月東京府会計官付属商法司知事補となり、以来三野村と称
した。ついで外国貿易商社が組織されると、その中心人物となった。明治6年の第一銀行創設にも尽
力し、その頃、三井為替座を三井銀行と改めた。後の台湾出兵、西南戦争にも軍資金のため奔走。明
治10年没。57歳だった。
 小栗は徳川家の金塊を赤城山埋めたとされる人物で、新政府に殺されたことになっているが、実は
三井財閥の黒幕で、三井が成功し現在に生き残っているのは、小栗が運営したからで、三井は名前を
貸しただけといわれる。徳川埋蔵金は、埋めなかったか、埋めても直ぐに彫りだしたかで、その金塊
は今も皇居にあり、一応天皇家の財産としてカウントされているという。天皇家の財産は、三井と三
菱が預かり運用しているとのこと。因みに日本銀行は三井の銀行だからね。三井の後にはロスチャイ
ルド、三菱の後にはロックフェラーが付く。

 辻元崧庵(すうあん)の墓
 為春陰殿法印葺翁大居士。幕府の医官。安永六年(1777)林田藩医の子に生まれ、医学館で講
書した功を認められ、将軍拝謁を許され、お目見え医師となった。さらに幕府奥詰医師、奥医師に昇
進して、安政元年(1854)には法印に進んで為春院と称した。この頃軍艦建造を進言している。
同四年(1857)没。同じ年に多紀元堅も亡くなっており、これを境に医学館考証派が凋落し、蘭
方が抬頭し、蘭方医によるお玉が池種痘所が開設されることになったといわれている。


安楽山本仏寺

 梅里1丁目1番12号にある日蓮宗の寺。入口の正面に鉄筋コンクリート造りの現代風の本堂。左
に墓所、右に庫裏。

   本仏寺
   当寺は、案楽山と号する日蓮宗の寺院です。本尊は十界勧請の大曼荼羅と釈尊像および仏
   使の四菩薩像です。また江戸時代作の日蓮上人像が安置されています。
   寛永八年(1631)に江戸の谷中三崎(台東区谷中)に創建され、修行院日通上人によ
   り開山されました。元禄二年(1689)寺院焼失後、翌3年に本所出村(墨田区太平)
   に寺地を拝領して移転し、同十一年には身延山久遠寺の末寺となりました。享保二十年(1
   735)に第8世日現上人は津軽家の帰依をも受けて鬼子母神堂を創建し、第13世日盛
   上人(後の身延山第52世)は天明の大火(1784)で類焼した諸堂を復興し、寛政三
   年(1791)には鬼子母神堂を再建しました。
   当寺に安置されている鬼子母神像は、子授け・開運鬼子母神といわれ、関東三鬼子母神の
   一つとして参詣や縁日で賑わい、江戸庶民の信仰を集めました。
   縁起によると、この鬼子母神像は、延宝五年(1677)四月八日、本所小網町の三股川
   から出現した霊像で、由来は、下谷池之端に住む横田七郎右衛門という熱心な法華信者が
   男女5人の子をもうけましたが次々と失ったため、子授け・子育てを雑司ヶ谷鬼子母神に
   祈願したところ、満願の日に舅が鬼子母神像を持ってくる夢を見ました。また舅の木村伊
   左衛門は若夫婦のために三股川で水垢離を取っていた時、髪の毛にこの像がかかったので
   所願成就のしるしと喜び娘夫婦の所へ持参しました。それから間もなくして横田氏の妻は
   丈夫な男子を生んだということです。横田氏は、この霊像を在家に安置することは恐れが
   あるとして当寺に奉納し、それからこの像は、水中出現の子授け・開運鬼子母神と崇めら
   れるようになったということです。
   大正12年に関東大震災で堂宇を罹災し、現在地には昭和17年に移転してきました。
   昭和63年3月                         杉並区教育委員会


 
本所の子授け鬼子母神
 
中山・雑司ヶ谷とともに関東3鬼子母神の一つで、江戸時代は庶民から大変に信仰され、縁日には
広い境内は善男善女で埋まり、本堂前の浄行菩薩の石仏へ水をかけ、束子で洗って祈願しようと、長
い列が終日絶えなかったとか。今の巣鴨の刺抜き地蔵みたいだったんだ。
 縁起によると、この鬼子母神像は、延宝五年(1677)4月8日、本所小網町の三股川から出現
した霊像で、由来は、下谷池之端に住む横田七郎右衛門という熱心な法華信者が男女5人の子を設け
たたが次々と失ったため、子授け・子育てを雑司ヶ谷鬼子母神に祈願したところ、満願の日に舅が鬼
子母神像を持ってくる夢を見た。また舅の木村伊左衛門は若夫婦のために三股川で水垢離を取ってい
た時、髪の毛にこの像がかかったので、所願成就の験(しるし)と喜び娘夫婦の所へ持参。それから
間もなくして横田氏の妻は丈夫な男子を生んだということ。横田氏は、この霊像を在家に安置するこ
とは恐れがあるとして当寺に奉納し、それからこの像は、水中出現の子授け・開運鬼子母神と崇めら
れるようになったということだ。
 


日栄山妙祝寺
 梅里1丁目1番19号にある日蓮宗の寺。伊予西条藩主一柳直盛(寛永十三年(1636)没)の
室が深く不動尊を信仰し、寛永五年(1628)江戸麻布桜田町(港区六本木)の屋敷内に創建した
ものを、大正3年当地へ移した。参道の右は墓地、入口正面左に本堂、本堂の右に庫裏。

   妙祝寺
   当寺は、日栄山と号する日蓮宗の寺院で、本尊は十界曼荼羅並びに日蓮上人像です。開創
   は「文政寺社書上」によると、寛永五年(1628)、江戸麻布桜田町(現港区六本木)
   とされていますが、度々の類焼により古記録を焼失したため詳細については不明です。開
   山は興善院日為聖人、開基は、常法院殿妙祝日栄大姉といいます。
   開山日為は、千葉の生まれで、所々に寺院を起立していますが、当寺を開創の後は寺を弟
   子に譲り、寛永十年に港区元麻布の妙善寺を起立し、本山小湊(千葉県安房郡)の誕生寺
   の20世となりました。
   開基日栄大姉は、伊予(愛媛県)西条藩主一柳監物直盛の室で、家伝の開運不動尊の諸霊
   験に感銘し、桜田町の邸内に御堂を開創したのが当寺の始まりといわれ、生前、開山の日
   為と親子の縁を結び、大姉の死後、日為がその恩に感じ、菩提のため大姉の法名に因んで
   山号を日栄山、寺号を妙祝寺としました。以来、一柳家一族の菩提寺となり、墓地には累
   代の立派な墓があります。
   大正3年寺院の発展をはかるため現在地へ移転してきましたが、大正12年9月の関東大
   震災で堂宇が倒壊し、大正14年に再建され、さらに昭和11年に現在のような伽藍を再
   興しました。
   文化財としては、江戸初期に作られたといわれる不動明王像などがあります。
   昭和61年1月                         杉並区教育委員会


梅里公園

 梅里1丁目1番55号にある区立公園。

 
環状七号線地下調節池点字案内板
 公園環七通り側入口前左にある丸椅子状のコンクリート塊の上に銅板が貼り付けてある。。

 
梅里公園点字案内板
 公園環七通り側入口前にある太め四角状のコンクリート塊の上に銅板が貼り付けてある。

 花名所づくり碑
 公園環七通り側入口前にある太め半円角状のコンクリート塊の上に銅板が貼り付けてある。

   花名所づくり
   ~杉並区を花いっぱいに~
   地域のみなさんが、花とみどりを身近に感じ、親しむことができるように、みなさんとと
   もに「花の名所」をつくり育てていきます。                 杉並区


白登山清徳寺(赤門寺)

 梅里1丁目4番23号にある日蓮宗の寺。当初不受不施派の池上本門寺末となったが、本門寺が受
派の身延山久遠寺末になると、不受不施派法華寺(天台宗円融寺)末となり、不受不施派禁止令によ
り小湊誕生寺末となり、身延山派となった。入口正面に鉄筋コンクリート製の本堂。その地下は催場
で、左に庫裏。裏は墓所。拝む人によって顔が代わるという「変顔の祖師」像を祀ってある。
 

   清徳寺(赤門寺)
   当寺は、日登山と号する日蓮宗の寺院で、本尊は十界曼荼羅です。寺伝によると、寛永六
   年(1629)麻布北日ヶ久保町(港区六本木6丁目)に、開山最上院日任、開基陽証院
   日乗により開かれました。寺地は年貢地で742坪、麻布本村の名主又左衛門の所有地を
   赤坂の住人久保屋三右衛門が買取り、寄進したものといわれています。
   開山最上院日任は、池上本門寺の触頭承教寺の住僧であったことから、当寺は本門寺の末
   寺として開創されたと考えられています。その後一時碑文谷法華寺(現目黒区円融寺)末
   となり、元禄六年(1693)には小湊(千葉県安房郡)誕生寺末として、身延山久遠寺
   の指揮下に入りました。
   元禄八年二月八日四谷伝馬町で出火した大火で類焼、その後も宝暦六年(1756)、同
   十年(1760)、弘化二年(1845)と度々の火災に堂宇と寺宝を焼き尽くしました。
   住持は、その度毎に再興に努めましたが、弘化の火災では伽藍の整備には至らず、大正2
   年(1913)寺院の発展を図って、現在地に移転してきました。
   しかしここでも関東大震災、太平洋戦争と2度に亘る被災により堂宇に損傷を受け、昭和
   40年以降寺内を整備し、現在に至っています。
   また当寺には、当初朱塗りの山門があったことから赤門寺とも呼ばれていました。
   文化財としては、承応二年(1653)銘の一塔両尊像、寛文年間(1661~73)造
   立の日蓮上人像、享保十七年(1732)造立の日蓮大菩薩五輪塔などがあります。
   平成23年3月                         杉並区教育委員会

 荼枳尼天祠
 境内にある石祠。荼枳尼天は仏教の鬼神で、密教では、胎蔵界曼荼羅外院にあって、大黒天に所属
する夜叉神。自在の通力を以て6ヶ月前に人の死を知り、その心臓を食うといわれる。日本では狐の
精とされ、稲荷信仰と混同されている。   


■月高山
慶安寺
 梅里1丁目4番24号にある曹洞宗の寺。寛永四年観音堂として池之端に開創。大名、旗本の寺菩
提寺だった。というのは老中阿部豊後守忠秋が、若かりし頃、将軍家光の勘気を蒙り、無視されてい
た。家光が家来を引き連れて遠出し、蔵前の辺りに来た時、家光が、
   誰かこの大河を渡る者やある?
 と戯れに問うたところ、忠秋が乗馬のままざんぶと飛び込んで見事対岸へ泳ぎ切り、家光の勘気を
解いたという伝説がある。その水馬渡河の前に「無事に渡らせ給え」と祈願したのが、この観音堂と
いわれ、後日忠秋は本尊の虚空蔵菩薩を寄進して阿部家の江戸寺としたからだ。ちょっと変なのは、
藏前から池之端は随分な距離だ、祈願してくる間、家光を待たせたのかねぇ?
 大震災は辛くも免れたものの、昭和20年愚かなアメリカ軍の無差別空爆で焼かれ、同41年近代
的な伽藍で復興された。説明板は以下の通り。

   慶安寺
   当寺は、月高山と号する曹洞宗の寺院で、本尊は昭和41年に開眼した転法輪釈迦如来で
   す。『御府内備考続編』によれば、寛永四年(1627)江戸下谷池ノ端七軒町(台東区
   池ノ端)に高山全得(本寺・白泉寺五世)を開山、然通堯廓を開基とし、観音堂として開
   創されました。当寺には大名旗本が多く帰依し、殊に江戸初期の老中阿部豊後守忠秋は、
   当初の本尊虚空蔵菩薩や秋葉権現を寄進するなど、信仰が厚く、その後も阿部家による信
   心は明治維新まで続いたといわれています。その後秋葉権現は、霊験新たかなことから、
   人々は当寺を秋葉寺と呼び、参詣人が多いことから秋葉横丁ともいわれました。また上野
   山の紅葉が不忍池に映える絶景な場所にあったことから紅葉寺とも称されました。しかし
   池ノ端の地は湿気が多く、伽藍の腐食も激しく、また墓地にも適さなかったことから、大
   正2年の区画整理の際、現在地に移転してきました。昭和20年5月25日戦火を蒙り、
   伽藍は全焼し、古記録・什宝も烏有に帰しましたが、昭和41年に近代的な伽藍が復興さ
   れました。
   墓地には、杉田玄白と共に『解体新書』を訳した江戸の蘭学者前野良沢の墓があります。
   なお、かつては良沢の遺品なども伝わっていましたが、戦災により残念ながら焼失してし
   まいました。その他に文化財としては、寛保2年(1742)銘地蔵石像などがあります。
   昭和61年1月                         杉並区教育委員会

 新しい説明板は以下の通り。

   慶安寺
   当寺は、月高山と号する曹洞宗の寺院で、本尊は昭和41年に開眼した転法輪釈迦如来で
   す。『御府内備考続編』によれば、江戸下谷池ノ端(台東区池ノ端)に高山全得(本寺・
   白泉寺五世)を開山、然通堯廓を開基として、寛永四年(1627)に開創されました。
   (『御府内備考』は「谷中池之端七軒町」の項に記載)。上野山の紅葉が不忍池に映る景
   色を望むことができる場所に位置していたことから、紅葉寺とも称されたと伝わります。
   当寺には、大名旗本が多く帰依し、殊に江戸初期の老中阿部豊後守忠秋は、当初の本尊虚
   空蔵菩薩や秋葉権現を寄進するなど信仰が厚く、その後も阿部家による信心は明治維新ま
   で続いたと伝わります。
   霊験新たかな秋葉権現にちなみ、人々は当寺を秋葉寺と呼び、参詣人が多いことから門前
   秋葉横丁ともいわれました。しかし池ノ端の地は湿気が多いため、伽藍の腐食も激しく、
   墓地にも適さなかったことから、大正2年現在地に移転しました。
   その後、昭和20年5月25日の大規模な空襲により伽藍は全焼し、古記録・什宝も焼失
   しましたが、昭和41年に近代的な伽藍が復興されています。
   墓地には、杉田玄白ら4名と共に『解体新書』の翻訳にあたった江戸中期の蘭学者前野良
   沢の墓があり、昭和62年に杉並区登録史跡(墓・碑)となりました。かつては良沢の遺
   品なども伝わっていましたが、戦災により残念ながら焼失してしまいました。
   その他に文化財としては、寛保2年(1742)銘地蔵石像などがあります。
   平成27年6月                         杉並区教育委員会

 「解体新書」を作った前野良沢の墓
 江戸中期の蘭学者・蘭方医。姓名は谷口熹(よみす)、字は子悦、楽山、蘭化と号した。良沢は通
称。中津藩医前野東元の養嗣子となる。古方派の淀藩医で伯父の宮田全沢に感化を受けた。明和六年
(1769)青木昆陽からオランダ語を学び、翌年長崎へ遊学、阿蘭陀通詞に学び,オランダ語の字
書や解剖書を買って江戸に帰ってきた。明和八年(1771)の春、江戸の小塚原における死刑囚の
腑分けを杉田玄白・中川淳庵らと参観し、オランダの解剖書『ターヘル・アナトミア』の正確さに驚
嘆、同志とともに同書の解読に従事した。その成果は、安永三年(1774)に刊行された『解体新
書』に結実した。ただし同書には良沢の名は記載されていないのだ、何らかのトラブルがあって拒絶
しためである。杉田玄白が功名を独り占めしたということがそれを物語っている。その後会読同志と
は疎遠になり、オランダ語学書・世界地理書などの著訳に従事した。門人に大槻玄沢・江馬蘭斎らが
いる。

 慶安寺略誌
 歴代卵塔の前にある。

   月高山慶安寺略誌
   當寺は寛永四年(1627)三月二十一日巣鴨白泉寺五世高山全得大和尚を開山として上
   野池之端七軒町に開創された。虚空蔵菩薩を本尊とし、他に観音堂、秋葉社が祀られ、紅
   葉寺の通称で呼ばれていたと伝えられている。
   大正二年十月、現在地に移転。
   昭和二十年五月二十五日東京大空襲の為に伽藍什物総てを焼失する。
   昭和三十七年、三十世大獄弘明大和尚再建復興を発願し、檀信徒の協力を得、昭和四十一
   年十月、本尊にインド・サルナートより転法輪の釈迦牟尼佛を勧請し、本堂落慶をなし、
   逐次整備して今日に至る。
   昭和56年7月吉辰                    當寺卅一世智學信善謹誌


 
石仏群
 五輪塔の側にごしゃまんとある。あちゃらこちゃらにあったのが開発のために持ってこられたのだ
ろう。

 
地蔵像など
 少し離れて4基ある。

 
名号
 霊堂。壁に嵌め込まれている。

   
南無釋迦牟尼佛 □ ■

 □は「楢一光」の印章、■は「大玄」の印章。

 
坂村真民の碑
 本堂前にある。

   み佛は風の如し花の如し
   随時随所にその
   み声を み姿を
   現わし給う  真民 
 


陽光山心月院
 梅里1丁目4番28号にある曹洞宗の寺。

   心月院
   当院は、陽光山と号する曹洞宗の寺院で、本尊は金銅釈迦如来像です。開創は『文政寺社
   書上』によると、慶長十六年(1611)江戸南八丁堀(中央区八丁堀)に寺地を拝領し
   て創建され、その後、寛永十二年(1635)浅草新堀端(台東区元浅草)の替地へ移転
   したとなっています。
   開山は出羽国庄内総穏寺の2世雲外嶺暾(慶安三年:1650年寂)で、開基は古溪宗心
   記室禅師、中興開基は九鬼大隅守隆寛です。
   元禄四年(1691)隆寛の祖父、丹波綾部藩主九鬼家の家筋の隆幸が葬られて以来、心
   月院は当家の菩提寺となり、九鬼隆寛が寺容を整えました。
   大正2年、浅草区の区画整理によって現在地に移転する際、九鬼家は出自の和歌山県に転
   居し、同時に墓所も移転しました。
   なお当院は嘉永四年(1851)類焼し、古記録を焼失し、当地においても、昭和20年
   5月に戦災を蒙り全焼しており、詳細は明らかではありません。
   また名前の謂れについては、寛永十一年(1634)九鬼良隆が、摂津国三田の曹洞宗梅
   林寺を心月院と改めたことから、江戸の心月院の院号も九鬼氏によって命名されたものと
   思われます。
   平成16年3月                         杉並区教育委員会

 動物慰霊塔
 境内にある。犬、猫、子犬、子猫、子兎の像が台座の上にある。

 ベイマツの由来碑
 入口を入った右手にある。米松はアメリカトガサワラのことだ。

   ベイマツの由来
   大正12年関東大震災の折 当局から金四円の見舞金が交付されました。それを記念する
   ためベイマツの苗木を植えました 昭和20年不幸にも戦災に遭い 本堂庫裡等凡て焼失
   しましたが 唯一本この木だけが生き残り成長を続けた結果 今日の偉容を見るに至った
   のです。今後も心月院と共に一層の成長を遂げるよう念じてやみません。
   昭和54年3月吉日
  

 
九重石塔
 境内にある。

 
石仏7基
 境内にある。

 
銅像地蔵坐像
 本堂の左の方にある。            
 


松苔山峯巌院
西方寺
 梅里1丁目4番56号にある浄土真宗の寺。山門を入ると左に併設の松苔幼稚園。右に鐘楼、参道
を行くと正面に鉄筋コンクリート造りの本堂。左に庫裏。広い境内といっても墓地が広大なのだが、
その境内に承応二年(1653)銘の六観音石幢、延宝七年(1679)銘の如意輪観音像など多数
の石仏や、食鳥を供養した明治38年建立の鳥塚、マリア観音と呼ばれる石仏、キリシタン灯籠、太
平洋戦争の外南洋機動舟艇部隊殉難烈士供養塔などがあり、そのお祖師様の妙法寺と同じくらい広い
墓地には、江戸中期の狂歌師扇堂常持(ゆうおうどうじょうじ)、明治の政商山城屋山口和助の墓あ
り、中央の供養塔には、区政施行以来の区内身元不明行旅死亡人の遺骨が安置されている。
 門前に文化財標柱2基と区の説明板がある。

   平成6年11月9日指定
   杉並区指定
   有形文化財
 
石造観音六面幢
           杉並区教育委員会

   
西方寺
   当寺は、松苔山峯巌院と号する浄土真宗の寺院で、本尊は阿弥陀如来坐像です。「文政寺
   社書上」によると、元和三年(1617)四谷追分(新宿3丁目23番新宿駅北側附近)
   に開山である本蓮社心誉利通により開創されました。一説には慶長二年(1597)開創
   ともいわれています。開基は、徳川3代将軍家光の弟、駿河大納言忠長といわれ、その由
   緒を称え、忠長の法号「峯巌院」を寺号とし、忠長の豊臣家との縁により、寺紋は「五三
   の桐」にしたと伝えられています。その後も寺地を替えることなく四谷追分にありました
   が、文政十二年(1829)、明治31年と2度の火災に罹い、大正9年中央線の拡幅と
   道路の拡張のため現在地へ移転して来ました。
   昭和20年5月戦災により堂宇の悉くを焼失しました。現在の伽藍は、昭和56年5月に
   再興されたものです。
   当寺の所蔵する「絹本着色 阿弥陀三尊来迎図」は、14世紀仏画の白眉といわれていま
   す。その他、境内には承応二年(1653)銘の六観音石幢、延宝七年(1679)銘の
   如意輪観音像など多数の石仏や、明治の豪商山城屋和助の墓、あるいは食鳥を供養する鳥
   塚(明治38年造立)や外南洋機動舟艇部隊殉難烈士供養塔などがあります。また墓地中
   央の供養塔には、区政施行以来の区内身元不明行旅死亡人の遺骨が安置されています。
   昭和62年3月                         杉並区教育委員会


 
絹本着色阿弥陀三尊来迎図
 室町時代の仏画の白眉といわれている。

   昭和60年3月30日指定
   杉並区指定
   有形文化財 
絹本著色 阿弥陀三尊来迎図
                  杉並区教育委員会

 石碑
 山門を入った右手にある。劣化して読み取れない。明治43年の建立。「縁起」「奉納」・・・

 
鳥塚碑
 参道右手にある。食鳥に対する供養碑。明治38年の建立。碑裏に由来を記載。

 西芳寺再建記碑
 参道右手にある。

 
観音像
 参道右手にある。標柱が建ててある。

   
観世音菩薩像

 
九重石塔
 参道右手にある。

 浄土宗西芳寺参道標柱
 参道右手にある。

   浄土宗西芳寺参道

 
殺身成仁碑・邦彰門標柱
 参道右手に並んである。

 
石仏群
 ごしゃまんとある。

 
野村保「濤々」碑
 墓地にある。野村保が何者か不明。

   
濤々 □ ■

 □は「保印」なる印章、■は「圓滿井道人」の印章

 
楠家累代之墓
 墓地にある。あの楠正成の一族だろうか、台石の上に亀の台座があってその上に墓標がある凄く立
派な墓なんだ。

 
白井甕男の功徳碑
 墓地にある。臼井甕男は民間療法臼井霊気療法の草案者。

   霊法肇祖臼井先生功徳之碑
   修養練磨ノ実ヲ積ミテ中ニ得ル所アルヲ之ヲ徳ト謂ヒ開導拯済ノ道ヲ弘メテ外ニ施ス所ア
   ルヲ之ヲ功ト謂フ功高ク徳大ニシテ始メテ一大宗師タルコトヲ得ヘシ古来ノ賢哲俊偉ノ士
   カ学統ヲ垂レ宗旨ヲ創メシ者ハ皆然ラサルナシ臼井先生ノ如キモ亦其ノ人ナルカ先生新ニ
   宇宙ノ霊氣ニ本ツキテ心身ヲ善クスル法ヲ肇ム四方伝ヘ聞キ教ヲ乞ヒ療ヲ願フ者翕然トシ
   テ之ニ帰ス嗚呼亦盛ンナルカナ先生通称甕男号ハ暁帆岐阜県山県郡谷合村ノ人其ノ先ハ千
   葉常胤ニ出ツ父諱ハ胤氏通称宇左衛門母ハ河合氏先生慶応元年八月十五日ヲ以テ生ル幼ヨ
   リ苦学力行儕輩ニ超ユ長スルニ及ヒ欧米ニ航シ支那ニ游フ既ニシテ世ニ立ツ事志ト違ヒ轗
   軻不遇屡窮約ニ処リシモ毫モ屈撓セス鍛練益至レリ一日鞍馬山ニ登リ食ヲ断チテ苦修辛練
   スルコト二十有一日倏チ一大霊氣ノ頭上ニ感シ豁然トシテ霊氣療法ヲ得タリ是ヨリ之ヲ身
   ニ試ミ家人ニ験スルニ功効立チトコロニ見ハル先生以為ヘラク独リ其ノ家人ヲ善クスルヨ

   リハ広ク世人ニ授ケテ共ニ其ノ慶ニ頼ルニ若カスト大正十一年四月居ヲ東京青山原宿ニ定
   メ学会ヲ設ケ霊氣ノ療法ヲ授ケ治療ヲ行フ遠近来リ乞フ者履戸外ニ満ツ十二年九月大震火
   災起リ創傷病苦到ル処ニ呻吟ス先生深ク之ヲ痛ミ日ニ出テテ市ヲ巡リ救療スルコト幾何ナ
   ルヲ知ルヘカラス其ノ急ニ赴キ患ヲ済フコト大率此ノ如シ後道場ノ狭隘ナリシヲ以テ十四
   年二月市外中野ニ卜築ス声誉彌著ハレ地方ヨリ招聘スル者少カラス先生其ノ需ニ応シ呉ニ
   之キ広島ニ向ヒ佐賀ニ入リ尋テ福山ニ抵ル偶疾作リ遂ニ客舎ニ歿ス時ニ大正十五年三月九
   日ナリ享年六十二配鈴木氏名ハ貞子一男二女ヲ生ム男ヲ不二ト曰ヒ家ヲ嗣ク先生人ト為リ
   温厚恭謙ニシテ辺幅ヲ飾ラス躯幹豊偉常ニ莞爾トシテ笑ヲ含ム其ノ事ニ当ルヤ剛毅ニシテ
   善ク忍ヒ用意尤モ深シ素トヨリ才芸多ク読書ヲ好ミ史伝ニ渉リ医書及ヒ仏耶ノ経典ニ出入
   シ心理ノ学神仙ノ方禁呪占筮相人ノ術ニ至ルマテ通セサルナシ蓋シ先生ノ学芸経歴ハ修養
   練磨ノ資料トナリ修養練磨ハ霊法開創ノ管鍵トナリシコトハ彰彰乎トシテ昭ラカナリ顧フ
   ニ霊法ノ主トスル所ハ独リ疾病ヲ療スルニ止マラス要ハ天賦ノ霊能ニ因リテ心ヲ正シクシ
   身ヲ健ニシテ人生ノ福祉ヲ享ケシムルニ在リ故ニ其ノ人ヲ教フルヤ先ツ明治天皇ノ遺訓ヲ
   奉体シ朝夕五戒ヲ唱ヘテ心ニ念セシム一ニ曰ク今日怒ル勿レ二ニ曰ク憂フル勿レ三ニ曰ク
   感謝セヨ四ニ曰ク業ヲ励メ五ニ曰ク人ニ親切ナレト是レ実ニ修養ノ一大訓ニシテ古聖賢ノ
   警戒スル者ト其ノ揆ヲ一ニセリ先生之ヲ以テ招福ノ秘法萬病ノ霊薬トナセハ其ノ本領ノ在
   ル所知ラルヘシ而カモ開導ノ道ニ至リテハ力メテ卑近ヲ旨トシ何等高遠ノ事ナク静坐合掌
   朝夕念誦ノ際ニ醇健ノ心ヲ養ヒ平正ノ行ニ復セシムルニ在リ是レ霊法ノ何人モ企及シ易キ
   所以ナリ輓近世運推移シ思想ノ変動寡カラス幸ニ此ノ霊法ヲ普及セシムルアラハ其ノ世道
   人心ニ裨補スル者鮮少ナラサルヘシ豈啻ニ沈痾痼疾ヲ療スル益ノミナランヤ先生ノ門ニ入
   ル者二千余人高弟ノ都下ニ居ル者ハ道場ニ会シテ遺業ヲ継キ地方ニ在ル者モ亦各其ノ法ヲ
   伝フ先生逝クト雖モ霊法ハ永ク世ニ宣播スヘシ嗚呼先生ノ中ニ得テ外ニ施ス者豈ニ偉且大
   ナラスヤ頃者門下ノ諸士相議シ石ヲ豊多摩郡西方寺ノ墓域ニ建テ其ノ功徳ヲ頌シ以テ不朽
   ヲ図ラントシ文ヲ予ニ属ス予深ク先生ノ偉蹟ニ服シ諸士カ師弟ノ誼ニ篤キヲ嘉ミシ敢テ辞
   セスシテ其ノ梗概ヲ叙シ後人ヲシテ観感瞻仰諠ル能ハサラシメンコトヲ庶幾フ
   昭和二年二月             従三位勲三等文学博士    岡田 正之 撰
                      海軍少将従四位動三等功四級 牛田従三郎 書


 
山口和助(山城屋和助)の墓
 明治維新に長州奇兵隊士として活躍後、山県有朋の推挙で兵部省の御用商人となり、公金を利用し
て生糸貿易を行い、一時は巨万の富を得たが、生糸の暴落で公金が返せなくなり、陸軍省内で切腹し
た。今の天下り役人や社保庁の役人とは違う。横浜の久保山墓地にもはかがある。

 
石造観音六面幢
 奥の非公開地にある。塀の外から見ることができる。
  


■新高円寺駅

 梅里1丁目7番にある東京メトロ丸ノ内線の停車場。昭和36年11月1日の荻窪線(丸ノ内線)
新中野~南阿佐ヶ谷間延伸時に開業した駅。ホームは相対式2面2線構造で地下1階にある。各ホー
ムは地下2階の連絡通路で結ばれている。改札口は各ホームに1ヶ所づつの2ヶ所。出口も2ヶ所。

 ●地下鉄サリン事件(池袋発→荻窪行電車)
 平成7年3月20日は月曜日で、事件はラッシュアワーのピーク時に発生した。霞ヶ関の官公庁の
公務員は、通常は午前9時30分頃に出勤することが多い。しかし月曜日だけは朝早くに朝礼がある
ところが多く、8時という早い時間を狙ったのはそういう官公庁の内部を知っている者が犯人の中に
いたからではないかと推測できる。
 丸ノ内線の池袋発は散布役の広瀬健一と送迎役の北村浩一が担当した
広瀬は池袋から7時47
分発(列車番号A777)の第3車両に乗車し、御茶ノ水駅でサリンを散布した。中野坂上駅で乗客
から通報を受けた駅員が重症者を搬出し、サリンを回収したが、列車はそのまま運行を継続した。終
点荻窪駅に到着。新しい乗客が乗り込みそのまま折り返したため、新高円寺駅で運行が停止されるま
で被害者が出ることとなった。また広瀬自身もサリンの被害を受け、林郁夫によって治療を受けた。
同線では1人が死亡し、358人が重症を負った。

 広瀬健一 死刑
 オウム真理教元幹部。東京都出身。ホーリーネームは「サンジャヤ」。教団内でのステージは師長
だったが、地下鉄サリン事件3日前の尊師通達で正悟師に昇格した。教団が省庁制を採用した後は、
科学技術省次官の一人となる。昭和58年3月早大学院卒業。同62年3月早稲田大学理工学部応用
物理学科を首席で卒業。早稲田大学大学院理工学研究科応用物理学専攻修士課程修了。修士課程では
学会に『高温超伝導の二次元』という論文を出し、当時の世界のトップサイエンスであるとされた。
大学院在学中の同63年3月オウム真理教に入信。企業での研究職が内定していたが辞退し、大学院
の指導教授からも「空中浮揚は慣性の法則に反する。学問を積んだ者がそんな馬鹿なことをなぜ信じ
るのか」と引き止められたが、それを振り切って平成元年3月に出家信者となった。オウムに入信し
た動機について広瀬は「好きで理工系に入ったが、現実をみるとせっかく開発した製品は新商品が発
表されるたびに廃れてしまうことに無情を感じたため」と証言している。勉強だけが生きがいで生き
てきた者が嵌る心理的陥穽(おとしあな)だ。結局は役立たずということ。己を頭がいいと自惚れて
いる者は必ず馬鹿に騙される。
 地下鉄サリン事件には、林郁夫、林泰男、豊田亨、横山真人と共に実行犯としてサリン散布に関与
した。犯行直後にサリンの中毒症状が出たため、硫酸アトロピンを注射した。他にも自動小銃密造事
件にも関与し、以上2つの事件で起訴された。
 同12年7月17日の第一審、同16年7月28日の控訴審共に死刑判決を受け、弁護側が東京高
裁での判決を不服として上告していたが、同21年11月6日に上告棄却が決定し、死刑確定。

 北村浩一 無期懲役
 オウム真理教の信者。愛知県出身。ホーリーネームはカッサバ。省庁制が採用された後は、「自治
省次官」となった。愛知県内の私立高校を2年生で中退後、無職生活を送っていたが、麻原彰晃の著
作に触れ、オウム神仙の会に入信、平成元年に出家した。地下鉄サリン事件の散布役の広瀬健一の送
迎を担当した。指名手配を受け1年半余り潜伏した後、同8年11月に所沢市のマンションに潜んで
いたことが判明し、同月14日逮捕される。同9年年2月に脱会届を教団に提出したが、同11年年
3月自身の公判中に麻原への帰依を宣言した。裁判では、検察より無期懲役が求刑され、一・二審共
求刑通りの判決が下った。同15年10月14日に最高裁で上告が棄却され無期懲役が確定した。地
下鉄サリン事件に関与した人間の判決が確定したのは林郁夫に次いで2番目で、最高裁判決として確
定したのは初めて。現在、岐阜刑務所に服役中。
 


梅里児童遊園

 梅里1丁目14番1号にある区立公園。


■杉並第十小学校 
移転

 梅里1丁目22番32号、環七通り高円寺陸橋西側、セシオン杉並のところにあった区立校。昭和
12年高円寺2丁目122番地に「東京市杉並第十尋常小学校」として開校。同15年校歌制定。

 校歌「鉾杉並の」 作詞・浅川乙松  作曲・加納フミ
  1.鉾杉並の下萌ゆる
    春の若草秋の花
    咲きて麗し年々に
    我等の学舎第十校
  2.我は日本の民なるぞ
    教えの詔
(みこと)(かしこ)みて
    心を磨き 身を鍛え
    忠と考との道踏まん
  3.我が学び舎の誇りなる
    堅き心の楯として
    強き体を鉾として
    出でや進まん国のため


 同16年勅令第148号国民学校令により「東京府東京市杉並第十国民学校」と改称。12月日米
開戦。同18年都制施行により「東京都杉並第十国民学校」と改称。同19年長野県小県郡青木村に
学童集団疎開。同20年愚かなアメリカ軍の非人道的無差別空爆により校舎は全焼。8月日本はなら
ず者国家アメリカの軍門に降り敗戦。以降その属国となり、唯々諾々として言い成りになる保守傀儡
の政権を保持せざるを得ない今日的不幸を背負い込む。売れない国債やら思いやり予算やらで、国民
の財産からもう200兆円以上がとこ持って行かれたよ。女の子がレイプされても地位協定とやらで
泣き寝入りさせられるし、傀儡政権の掲げる国際協力の名目の下で、これからの若い者はアメリカ軍
の尖兵として、アメリカが仕掛ける戦争の最前線の激戦地に送り込まれることにになるぜ。ったく酷
えもんだ。11月疎開解除により疎開児童帰校。
 同22年アメリカの強制による学制改革により、「東京都杉並区立杉並第十小学校」と改称。同2
3年新校舎落成。同26年開校15周年記念式典・校歌制定。

 校歌「武蔵野の空」 作詞・安江信  作曲・佐瀬?
  1.武蔵野の空 陽に映えて
    清新の気に満る時
    育ち伸び行く杉十に
    学ぶ我等は皆共に
    良き師の教え身にしめて
    新しき世を築かなん
  2.富士の高嶺を望みつつ
    誇り栄えある歴史持て
    育ち伸び行く杉十に
    学ぶ我等は朝夕に
    共に手を取り励みつつ
    美しき世を築かなん


 同31年開校20周年記念式典。同48年全校舎の鉄筋コンクリート校舎への建て替え完了。同5
9蚕糸試験場跡地に移転が決まり校舎建築始まる。同61年新校舎落成して旧校地を去って移転。
 


■社会教育センター(セシオン杉並)

 梅里1丁目22番32号の杉並第十小学校跡地に、平成元年に立てられ社会教育センターと高円寺
地域区民センターの複合施設。区の社会教育の総合的なセンターだ。各種の講座・イベントを行って
いる。学習、文化活動、地域の皆様の交流やふれあいの場として、気軽に利用してくれとのこと。集会
室10、舞台付和室2、和室2、茶室・水屋各2、工芸室2、料理室2、音楽室2、体育室2、トレ
ーニング室1がある。

 ホール
 キャパ587人。

 

 館内にある。橋本堅太郎の作品。
 


瑞雲山清見寺

 梅里2丁目11番17号にある曹洞宗の寺。。馬橋の灸寺として知られ、本尊は千手観音。梅里に
多い引越寺と違って、寛永十二年(1635)に中野成願寺の鉄叟和尚により現在地に開創された土
地の寺だ。過疎地のために檀家が少なく、元禄の頃火災に遭ったこともあり、しばしば無住になった
とか。現在の本堂は昭和11年に建てたもの。
 明治8年に杉並第一小学校の前身中野桃園学校第一番分校が置かれ
同17年まで校舎として使用
された
杉並近代教育発祥の地の一つ。因みに第二番分校は桃井小学校だ。
寺前の青梅街道は、江戸初期に開かれた杉並地域の幹線道路で近世のみならず現代でも生活上・産業
上、重要な役割を担っている。

   清見寺
   「馬橋の灸寺」で知られる瑞雲山清見寺は曹洞宗の寺です。本尊は千手観音像で、中野区
   の成願寺の末寺です。
   寺伝によれば開創は寛永初年(1624~35)で、開山は成願寺六世鉄叟雄鷟(さく)
   和尚と伝えます。当寺は開山後しばらくの間、檀家の数も多くはなく、しばしば無住の時
   もあったといわれ、その詳細はあきらかではありません。
   当寺は元禄年間(1688~1703)火災にあい、現本堂は昭和11年に改築されたも
   のです。
   文化財としては、馬橋村・阿佐谷村の村民の奉納した地蔵石像があり、ほかに江戸期に造
   られた風鐸(青銅鐘形の風鈴)が保存されています。
   寺前の青梅街道は、江戸初期に開かれた杉並地域の幹線道路で、近世のみならず現代でも
   生活上・産業上、重要な役割を担っています。
   なお、当寺には明治8年から同17年まで、現在の杉並区立第一小学校の前身である桃園
   小学校第一番分校(同9年桃野学校として独立)が置かれており、杉並近代教育発祥の地
   の一つです。
   昭和56年2月15日                      杉並区教育委員会
 


■地蔵堂

 梅里2丁目11番17号、清見寺の北、青梅街道に面してある。
 


かっぱ公園

 梅里2丁目12番2号にある区立公園。


梅里中央公園

 梅里2丁目34番20号にある区立公園。

 
風の扉
 園内にある五味謙二のオブジェ。
 



【永福】(えいふく)1~4丁目                   昭和44年7月1日
 永福寺村。明治11年「郡区町村編制法」により東多摩郡所属、同22年「市制町村制」により
和田堀之内村大字永福寺、大正15年和田堀大字永福寺、昭和7年東京市編入20区増設により杉
並区永福町。同41年新住居表示により一部を和泉3丁目・大宮2丁目・下高井戸2丁目・浜田山
1丁目に譲り、同44年残った永福町のほぼ全部に下高井戸1~2・4丁目・大宮町・和泉町の各
一部をあわせた町域を現行の「永福」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『杉並区史』『杉並の歴史』など。

  永福の由来
 甲州街道の永福交差点から北に向かい神田川を渡り坂を上がったとこに永福稲荷があり、その東
に万歳山永福寺はある。永福寺のある村の意から起きた。大永二年(1522)の創建だからそれ
以前の村名は判らない。井の頭線永福町駅もあり、だから永福は永福寺だ!
 


■パイプのオブジェ

 永福1丁目1番玉川上水公園にある。明治大学和泉キャンパスの隣にあるのだが、番地の都合上離
れてしまっている。


玉川上水栄泉寺緑地

 永福1丁目4番1号にある区立公園。昭和54年9月15日開園。玉川上水は、江戸時代に江戸の
町に飲料水を供給するために造られ上水路で、現在は殆どが暗渠となって杉並区内を通っている。そ
の暗渠の上に都の水道局から借地して造られた3つの公園と1つの緑地がある。下流から玉川上水公
園、玉川上水永泉寺緑地、玉川上水第三公園、玉川上水第二公園の順に並んでおり、その全長は約2
000mにも及ぶ。緑地は、玉川上水公園と玉川上水第三公園の間に位置する。


■寺町
 永福1丁目6番に龍泉寺・永昌寺・栖岸院・法照寺・浄見寺・善照寺・詫法寺・真教寺の8ヶ寺
が固まってある(龍泉寺のみ下高井戸)。昭和20年アメリカ軍の無差別空爆で全部を燃やされた
が、現在は総て再建している。


光栄山詫法寺

 永福1丁目6番6号にある浄土真宗大谷派の寺。山門を潜ると正面に本堂、本尊は寄木造り、高さ
90cm阿弥陀如来立像、彫眼で江戸末期の作。右に庫裏。本堂裏が墓地。
 

   託法寺
   当寺は、光栄山と号する真宗大谷派の寺院です。本尊は阿弥陀如来立像で像高90cm、
   寄木作り、彫眼で江戸末期の作といわれてます。寺伝によれば、開山は浄円で寛永十一年
   (1634)江戸四ツ谷永住町(新宿区四ツ谷4丁目)に開創しました。浄円は俗姓を本
   多と称したと伝えられています。開山当寺の様子は詳らかではありませんが、江戸時代の
   「御府内沿革図書」の四ツ谷大木戸附近の部を見ますと、東長寺(現存)の説明に嘉永元
   年(1848)境内の西方を託法寺に貸した旨の記載があります。また文久二年(186
   2)の江戸切絵図には、東長寺境内の一部が当寺借地分として区画されています。明治1
   3年の「寺院明細帳」には罹災の為か本堂の記載がなく仮庫裡33坪(約108.9㎡)と
   なっています。また神田の町人幸助という人が寄附した6坪(約20㎡)の門があり、檀
   家は31戸でした。
   その後、都市計画事業により移転を命ぜられ、大正11年、現在地に栖岸院所有地100
   0余坪(約3300㎡)を得て移転しました。これは区内浄土真宗移転中最も早い移転と
   いえます。併し昭和20年5月25日に空襲を受け全焼してしまいました。同28年8月
   漸く復興をし今日に至っています。
   昭和62年3月                         杉並区教育委員会


本光山善照寺
 永福1丁目6番8号にある浄土真宗本願寺派の寺。昭和45年コンクリート造りにて和風の本堂・
庫裏を再建。石柱門の入口を入ると正面に本堂。右に庫裏。本堂の裏に墓所だ。

   善照寺
   当寺は本光山と号する浄土真宗本願寺派の寺院で、本尊は江戸期の作といわれる阿弥陀如
   来立像です。『府内誌残編』に、元は小田原にあり、天正十八年(1590)豊臣秀吉の
   小田原城攻略の際に罹災し堂宇を消失しました。その後、江戸に移り再興されましたが、
   その場所は詳かではありません。慶長年間(1596~1614)より、木挽町(中央区
   銀座東辺り)、神田金沢町(千代田区外神田3丁目)、下谷七軒町(台東区元浅草1丁目)
   新堀端(港区南麻布2、3丁目)等へ移転し現在の築地本願寺の前身である浜町御坊(江
   戸浜町:中央区東日本橋3丁目)の子院となりました。併しここでもまたいわゆる「振り
   袖火事」(明暦3年:1657)にあい、浜町御坊と共に消失しました。
   万治年中(1658~60)八丁堀先の海辺を埋め立てた代地(中央区築地3丁目)に浜
   町御坊が移転するのに伴って、当寺もその寺中に移りました。
   大正12年9月関東大震災で築地本願寺やその子院とともに全焼し、昭和3年8月9日、
   区画整理のため現在地へ移転して来ましたが、昭和20年5月20日夜、焼夷弾の集中投
   下により、またしても堂宇ことごとく烏有に帰しました。その後、昭和45年2月本堂を
   落慶し、ここに伽藍を再建しました。
   昭和63年3月                         杉並区教育委員会


柳水山浄見寺
 永福1丁目6番9号にある浄土真宗の寺。石柱の入口を入ると正面に本堂。左に庫裏。本堂裏に墓
地。境内に「海禅老師之碑」が建っている。

   浄見寺
   当寺は、柳水山と号し浄土真宗本願寺派の寺院です。開山は、釋教心で慶長十五年(16
   10)二月京都伏見区深草の地に創建されました。その後、元和七年(1621)三月、
   築地本願寺の前身である江戸浜町御坊が創建されると、その寺中に移転しました。御坊中
   門の左手に、間口18間(約32.4m)×奥行20間(約36.0m)の敷地を持ち、寺
   中28ヶ寺中かなりの寺容でした。ところが明暦三年(1657)のいわゆる明暦の大火
   で御坊諸共焼失してしまいました。築地本願寺が新たに現在地に建立されるのに伴い、当
   寺も同寺の西門前に移りました。明暦の大火後は3度も火災に見舞われ、さらに大正12
   年関東大震災に罹災し、震災後の区画整理事業のため、昭和3年8月に現在地に移転しま
   した。昭和20年5月25日の空襲で焼夷弾を受けて再び全焼しました。現在の本堂は昭
   和35年に、庫裏は同54年に完成しました。
   本尊は阿弥陀如来立像で、明和五年(1768)五月十日西本願寺17世法如上人が当寺
   に下げ渡したもので、その署判入りの下附状が当寺に保存されています。像高64cm玉
   眼作りの美しい仏像です。
   なお墓地には、書家・狂歌師として当寺有名であった中井薫堂(文政4年:1821没)
   の墓があります。
   平成16年3月                         杉並区教育委員会

 中井董堂の墓
 墓地にある。江戸時代後期の書家・狂歌師・戯作者。宝暦八年生まれ。書は、明の董其昌(とうき
しょう)に傾倒。太田南畝門下として狂詩集「本丁文酔(もんずい)」を著す。狂歌は大屋裏住(お
おやのうらずみ)門下で本町連に属した。洒落本「狂訓彙軌本紀(いきほんぎ)」がある。文政四年
七月月二十六日死去。64歳。江戸出身。名は敬義。狂号は腹唐秋人(はらからのあきんど)。戯作
名は島田金谷(かなや)。
 


寂静山潮音閣
法照寺
 永福1丁目6番11号にある浄土真宗東本願寺派の寺。

   法照寺
   当寺は寂静山潮音閣と号する浄土真宗本願寺派の寺院で、本尊は阿弥陀如来立像です。開
   基は明教(寛永五年:1628 九月四日寂)といわれるが詳細は不明です。寺伝によれ
   ば、当寺は相州鎌倉に開創され、天正十八年(1590)武州豊島郡湯島(文京区本郷)
   へ移転し、元和七年(1621)浅草浜町(中央区東日本橋3丁目)に浜町御坊(築地本
   願寺)が創立されると、その寺中に移りました。
   明暦三年(1657)いわゆる「振り袖火事」で浜町御坊とともに全焼し、浜町御坊が八
   丁堀先の海辺を埋め立て代地(中央区築地3丁目)に移ると、当寺も寛永年間(1662
   ~1672)その寺中に移りました。
   浜町御坊の時代、本願寺第20代法主・広如上人が当寺に寄られた折、寄せる波の音を聞
   かれて、その記念に「潮音閣」という閣号とそれを認めた掛軸を授けられ、以来、「潮音
   閣」と号し、その掛軸も今に伝えられています。
   大正12年9月、関東大震災により築地本願寺やその子院と共に当寺も全焼し、その後、
   昭和3年5月区画整理のため現在地へ移転して来ましたが、昭和20年5月25日夜、焼
   夷弾の集中投下により、堂宇ことごとく灰塵に帰しました。
   昭和39年本堂を新築し、ここに伽藍を再興しました。
   なお当寺の墓地には荒事を能くした歌舞伎の名優、初代市川団蔵や囃子方で鼓の名手とい
   われた寶山左衛門(2代目、3代目)などが眠っています。
   平成17年8月                         杉並区教育委員会
   


村高山栖岸院

 永福1丁目6番12号にある浄土宗の寺。昭和20年アメリカ軍の無差別空爆で総て焼失。山門を
入ると正面に本堂があり、右に庫裏、裏が墓地になっている。本尊は焼失した阿弥陀如来像の代わり
に仮の本尊になっているのは鎌倉後期(南北朝時代)の聖観音菩薩立像だ。高さ47cm、杉並区有
形文化財に指定され、通称「火伏観音」という。『江戸名所図会』に、安置する観音像は楠正成が尊
信していた霊像だと書いてある。墓地には大名の高木家の墓所がある。安藤家の墓所が見当たらない
のは引き墓したのだろうか・・・案内板にある観音堂はどこじゃ? 山門も本堂も、和風と現代風の
折衷、ちょっと変わってるが日本風かなぁ? というところ。
 門左横の塀に区の説明板。

   栖岸院
   当寺は村高山と号する浄土宗の寺院で、本寺は京都の知恩院です。寺伝によれば、元は三
   河国村高庄(愛知県安城市)に開創した浄土真宗本願寺派の長福寺で、天正十九年(15
   91)麹町八丁目に寺地を拝領して江戸に移りました。
   元和七年(1621)老中安藤重信が葬られて以来同家の菩提寺となり、寛永十六年(1
   639)重信の子重長が中興開基となって、父を重信を開基とし、妙誉秀慧を開山に招聘
   浄土宗の寺として改めて開創されたといわれています、現寺号〝栖岸院〟(重信の法名に
   由来)も、この時から用いられたと考えられています。
   江戸時代の当寺は、住職が将軍に単独で拝謁できる「独礼の寺格」を許され、安藤家・高
   木家(丹南藩主)をはじめ多くの旗本諸家の香華寺として市中に知られていました。
   当時の寺の様子を『江戸名所図会』(天保初年刊)は、
    当寺に頼朝の念持仏と称する聖観音の霊像を安置す(龕前に安置する所の観音の像は
    楠正成尊信の霊像なりといふ。)七月十日は千日参と唱へて参詣頗る多し
   と記しています。明治維新以後は、武家の凋落、市街の変化などの影響を受けざるをえず
   寺院の発展を図る為、大正9年現在地に移転しました。
   観音堂に安置する聖観世音菩薩は、「火伏観音」と呼ばれる鎌倉時代後期の作の端正な仏
   像で、区の指定文化財となっています。
   平成7年3月                          杉並区教育委員会

 
文化財標柱
 門前左にある。


   
平成二年十一月十四日指定
   
杉並区指定
   
有形文化財 木造 聖観音菩薩坐像一躯
                
杉並区教育委員会

   木造聖観音菩薩坐像一躯
   本像は、像高47cmの小像ですが、眼鼻立ちの整った、たいへん気品のある仏像で、宝
   冠、胸飾り(瓔珞)をつけた菩薩形をとり禅定印を結んでいます。衲衣は両袖が膝の横か
   ら垂下しており、ここに、この仏像の特徴が見られます。これは宋朝の仏像彫刻の影響を
   うけたもので、鎌倉時代後半の特徴を残すものです。像容は、宝冠釈迦如来坐像と呼ぶの
   が、ふさわしいかもしれませんが、宋文化を取り入れた当時は、根強い観音信仰があり、
   聖観音として造立されたものと思われます。            杉並区教育委員会

 山門
 デザインは現代的だが、木造で妙にフィットしてるから不思議だ。

 
石造五重塔2基
 門を入った右手前方

 
観世音安置碑
 門を入った右手前方に大小ある。

   火
   防 
正観世音菩薩安置

 
安藤直次の墓
 左手壁際にある。天明四年建立。裏面に銘文。安藤彦四郎源直之撰 外臣杵築藤山惟熊書。


   
藤嚴院殿從五位下帯刀長崇贒大居士冢

 
宝篋印塔
 左手壁際にある。

   承應三甲午
   
覺譽壽貞信女
   二月廿八日


 
栖岸院中興碑
 左手壁際にある。

   栖岸院中興碑
   當山往昔在于三河國號村高山長福寺後移于駿府天正
   十九年更移于江戸麹町八丁目拜領寺地妙譽秀慧爲開
   山安藤對島守重信公爲開基享保元年改穪栖岸院伽藍
   宏壮寺運隆昌以寺格獨禮爲幕府之所遇然當明治維新
   之改變檀徒武家零落離散殆喪寺門經營之外護風損雨
   毀蠧腐朽敗堂宇漸癈頽甚極慘状焉明治四十二年計其
   整理復興移墓地于北千住勝專寺改築堂宇而佛用新古
   之村唯不過應急而非永久之計也大正六年信譽明道普
   董當山深悲寺門之窮状奮然立恢興之志得官許更移于
   此地大正九年一月起工堂宇新成輪奐相備伽藍完美正
   卜本月本日修入佛癈讃之式冀三寳興隆寺門清寧法輪
   常轉佛日増輝聊誌來由以傳後代焉
             東京府豊多摩郡下高井戸
             栖岸院第二十世信譽明道謹書
   大正九年九月十二日       安 藤 金五郎
             檀徒總代  林   七兵衛
                   春 日 友 吉



天長山永昌寺
 永福1丁目6番15号にある曹洞宗の寺。本尊は釈迦如来座像。開創は不明。『続御府内備考』と
寺伝によると、寛永元年(1624)四谷塩町3丁目(愛住町)に開設されたという。開山は、同所
の龍昌寺(中野区中野6‐3‐7に移転)5世明秀舜洞で、明治43年寺院維持のため、高井戸2丁
目にあった同じ宗旨の永泉寺と合併し現在地に移った。入口から入って左に鉄筋コンクリート造りの
玉石薬師堂。右に鐘楼。正面にこれまた鉄筋コンクリート造りの本堂。その右に庫裏、本堂裏に墓地
がある。幕末の兵学者で『海防問答』を著した平山行蔵の墓があり、門前と境内に庚申塔・地蔵尊な
どの多くの石仏がある。
 玉石の由来は、玉川上水永泉寺付近工事の際に光沢ある丸石が掘り出され、その光沢の中に薬師像
が浮出たことによるといわれる。また、同寺では、工事の無事竣工を念じてこの玉石を供養したこと
から、近隣の信仰を集め、それ因んで丸薬も作られたと伝えられます。昭和20年5月愚かなアメリ
カ軍の空爆によりこの玉石は、本堂とともに焼かれて光沢を失ったものの、今なお、大切に安置され
ている。

   永昌寺
   当寺は、曹洞宗天長山永昌寺といい、本尊は釈迦如来座像です。開創年代は、はっきりし
   ませんが、『続御府内備考』及び寺伝によると、寛永元年(1624)四月、江戸四ッ谷
   塩町三丁目(現新宿区愛住町)に建立したとされています。
   開山は、同町の龍昌寺(現在中野区中野6‐3‐7に移転)の五世明岩舜洞で、寛永十二
   年七月に入寂しています。
   明治43年寺院の維持発展のため、現下高井戸二丁目にあった同宗永泉寺を合併し、当所
   へ移転してきました。
   合併される以前の永泉寺には、玉石薬師と呼ばれる玉石があり、そのいわれは、この玉石
   が玉川上水永泉寺付近工事の際に、光沢ある玉石として掘り出され、その光沢の中に薬師
   像が浮出たことによるといわれます。
   また、同寺では、工事の無事竣工を念じてこの玉石を供養したことから、近隣の信仰を集
   め、因んで丸薬も作られたと伝えられます。
   昭和20年5月戦災に会い、この玉石は、本堂とともに焼かれて光沢を失ったものの、今
   なお、大切に安置されています。
   このほか、門前と境内には4基の庚申塔と2基の地蔵塔があります。
   昭和60年3月                         杉並区教育委員会


 玉石薬師堂

 
合併される以前の永泉寺には、「玉石薬師」と呼ばれる玉石があり、その謂れは、承応二年(16
53)に玉川兄弟が、羽村の多摩川岸から上水路をここまで掘り進めてきて資金を使い果たし、江戸
の商人から資金を調達しようとしたが断られ、工事を断念しようとした夜、地中から光沢のある玉石
が掘り出され、その光沢の中に薬師像が浮き出たという。これが江戸中の評判となり、これを納めた
永泉寺に善男善女が押し寄せ、玉石に因んで丸薬が作られたが、これも馬鹿当たりしたという。融資
を断った商人はこの噂を聞いて融資を申し出、終に工事を完了したという伝説があり、江戸時代には
甲州街道の名所の一つになっていた。昭和20年愚かなアメリカ軍の無差別空爆により戦災焼失。玉
石も焼けて艶を失ったという。

 
石仏5基と句碑
 入口前左手塀際にある。句碑は寛政八年建立。

   
(あす)は又あすの風ふく柳かな 秀國

 平山行蔵の墓
 江戸期の幕臣で兵法家。剣術流派として講武実用流を称した。間宮林蔵、近藤重蔵と共に「文政の
三蔵」と呼ばれる。名は潜。字は子龍。号は兵原、兵庵、潜軒、練武堂、運籌真人。幕府御家人平山
勝籌(甚五左衛門)の子。行蔵は伊賀組同心として30俵2人扶持の微禄でありながら、四谷北伊賀
町(新宿区三栄町)稲荷横丁の自宅に道場「兵聖閣武道塾」を構えていた。真貫流の山田松斎(茂兵
衛)に学び、一流を起こして忠孝真貫流と称し、後に講武実用流と改めた。軍学を斎藤三太夫(長沼
流)、槍術を松下清九郎(大島流)、柔術と居合を渋川時英(伴五郎、渋川流。柔術については竹内
流「腰之廻」も)、砲術を井上貫流左衛門に夫々学んだ。このほか水泳、馬術、弓術、棒術などいわ
ゆる「武芸百般」に通じ、学問についても昌平黌で古賀精里に学んだ儒学を基礎に、農政・土木学に
至るまで習得したという。行蔵は背丈が低かったにもかかわらず、3尺8寸(約115cmという長
い刀を差していた。毎朝起きると7尺の棒を振ること500回、長さ4尺・幅3寸の居合刀を抜くこ
と2~300回、読書をしながら欅の板を両拳で叩いて拳骨を鍛え、書に倦むと水風呂に入って惰気
を払うといった生活で、61歳になるまでは土間に寝、夜具を用いなかった。居間には長刀、木刀、
長竹刀、槍など数十本に始まり、大砲、抱え筒、鉄砲、鉄棒、薙刀などの武具、具足櫃、木箱が乱雑
に詰め込まれ、庭は草ボウボウという有様だった。扶持米を俵のまま玄関に起き、玄米をそのまま炊
いて食べた。居間の押し入れに酒の入った4斗樽を据え付けて冷や酒を呑むことは、晩年、中風のた
めに起居が不自由になってもやめなかった。「べらぼうめ」が口癖で、世の文弱な風潮に憤激しなが
ら没したという。事理一体観に基盤を置いた近世稀に見る兵法家であり、総数2980巻、1085
部の莫大な和漢の兵書名、362種の戦地兵器類を収集していた。文政十一年十二月十四日没。享年
70歳。
 門人のうち、別格筆頭が相馬大作(下斗米秀之進)だ。このほか、吉里信武(呑敵斎、呑敵流)、
妻木弁之進、小田武右衛門、松村伊三郎を「平山門の四天王」という。勝海舟の父、勝小吉が行蔵に
学んでおり、『平子龍先生遺事』という著作がある。


嶺玉山龍泉寺

 この寺だけ高井戸2丁目21番にある。詳細は下高井戸に記載。
 


ひまわり公園
 永福1丁目7番6号にある区立公園。


■永福南小学校

 永福1丁目7番6号にある区立校。同62年現在地に校舎落成。機械警備開始。都立杉並ろう学校
との交流開始。校歌校章制定。

 校歌「永福南の 作詞・藤田伸二校長  作曲・中田喜直
  1.永福南の木立に光る
    僕の、私の小学校
    未来を夢見て 心を合わせ
    皆 仲良く集いましょう
  2.昔の流れに姿を映す
    僕の、私の小学校
    未来を目指して智慧を磨き
    みんな仲良く学びましょう
  3.文化に生きる町並みに
    僕の、私の小学校
    未来を望んで体を鍛え
    みんな元気に進みましょう


 同63年PTAを「永南会」として発足。
 平成元年校庭全面改修工事完了。同4年開校5周年記念式典。同6年コンピュータルーム開設。同
7年学校防災用備蓄倉庫設置。同10年1年遅れで開校10周年記念式典。学校防災用備蓄倉庫1階
東に移動。同13年3階の教室、特別教室に扇風機取付け。同14年1、2階教室扇風機取付。ウォ
タークーラー設置。開校15周年記念式典・航空写真撮影。同16年学校給食民間委託業務開始。同
17年防犯モニター設置。同18年正門電気錠化。数学検定:実用数学技能検定グランプリでグラン
プリ(団体金賞)、佐藤啓子教諭が生涯学習功労賞数学部門を受賞
同19年創立20周年記念。 


■永福高等学校 閉校

 永福1丁目7番28号にあった都立高。平成16年閉校。都立桜水高等学校と統合して進学型専門
校の「杉並総合高等学校」となった。


■どんぐり緑地

 永福1丁目7番28号にある区立公園。


三宝山真教寺
 永福1丁目7番79号にある浄土真宗の寺。表札にまだ旧住所和泉町506番地と書いてあるのが
何ともいい。参道の右に庫裏、正面に本堂、その裏は墓所。細長い敷地だ。
北向地蔵、六角地蔵、宝
篋印塔がある。

   真教寺
   当寺は三宝山と号する浄土真宗本願寺派の寺院です。寺伝によれば開基は黒田甲斐守の嫡
   子で、出家して真了法師と名乗り、江戸麻布宮村(港区元麻布)に文禄三年(1594)
   に創建しました。寛永五年(1628)頃も麻布にあり、その後浜町(央区東日本橋3丁
   目)本願寺の寺内に移転しましたが、いわゆる明暦の大火(明暦三年:1647)で焼失。
   万治年中(1658~60)に本願寺と共に築地へ移転しました。明治13年の文書によ
   れば、本願寺内末寺の一寺で境内80坪余檀家36戸の寺容でした。ところが、大正12
   9月1日の年関東震災で全焼。仮本堂を建てて引き続き築地に寺を構えていましたが、区
   画整理事業のため、昭和3年に現在地に移転しました。同年本堂や庫裡の落成を見ました
   が、又もや昭和20年5月25日の空襲により焼失してしまいました。現在の本堂は、昭
   和35年に建立されたものです。
   本尊は阿弥陀如来立像、寛永七年(1630)西本願寺より真了に下付されたもので江戸
   期の作。木造玉眼、上品下生の印を結んでいます。なお光背と台座は後補です。また当寺
   には、宗祖親鸞聖人80歳の時の自作と伝えられる親鸞坐像。九条摂関家家司田村釆女正
   作といわれる親鸞上人室玉目姫君坐像、関白九条道家が作らせた玉目姫父九条兼実坐像の
   3体が安置されている。当初は京都嵯峨野の寺にありましたが、昭和10年頃那須家より
   当寺に奉納されました。
   昭和63年3月                         杉並区教育委員会


■塩硝蔵跡

 永福1丁目8番・9番にあり、大正末年に廃止となり、跡地は、昭和4年に築地本願寺と明治大学
に払い下げられた。さて京王線「明大前駅」は初めは「火薬庫前駅」だった。

   塩硝蔵地跡
   現在、明治大学泉校舎および本願寺派築地別院和田堀廟所となっているこの附近は、江戸
   幕府の塩硝蔵(鉄砲弾薬等の貯蔵庫)として使用された跡です。
   当初は多摩郡上石原宿(調布市)にあったと伝えられ、宝暦年中(1750年代)に「和
   泉新田御塩硝蔵」としてこの地に設置され、敷地はおよそ18896坪(約62000㎡)
   あり、御蔵地(貯蔵庫)は5棟・2町2反9畝5歩(約23000㎡)の規模であったと
   いわれます。当時塩硝蔵は、御鉄砲玉薬方同心3人が年番で交代居住し、警備や雑用には
   付近の16ヶ村に対して、昼夜交代で3人づつの課役が徴せられました。
   明治維新の際、塩硝蔵は官軍に接収され、その弾薬は上野彰義隊や奥州諸藩の平定に使用
   され、その威力を発揮したといわれます。その後兵部省管理を経て、陸軍省和泉新田火薬
   庫として再開され、中に当番官舎、衛兵所等が設けられ、麻布の歩兵連隊が警備を任され
   ておりましたが、大正12年の軍縮で廃止されました。明治の末頃までの火薬庫周辺は、
   雑木林や欅が生い茂り、鬱蒼とした森となっていて、多くの狐や狸が棲息し、余談に人を
   化かした話なとも面白可笑しく伝えられています。
   昭和59年3月                         杉並区教育委員会


■築地本願寺和田堀廟所

 永福1丁目8番1号にある浄土真宗築地本願寺の墓地。分院に阿弥陀如来が本尊として安置されて
いる。大蔵省から払い下げを受けた12000坪の陸軍火薬庫跡地に京橋区内にあった檀家墓地を移
し、富士が望める閑静な我国初の近代的公園式墓地(霊園)を作って一般から墓地の分譲
を募集し霊園経営の新形式を作り、昭和11年に真宗寺を置いた。
 入口直ぐの建物は光寿閣といい信徒会館。正面極楽橋を渡った先の建物は本堂。

 三島海雲の墓
 入口の建物(光寿閣)の左手にある。乳酸菌飲料カルピスの発明、大量生産の創始者。基壇が高く
大きく中央がトンネルになっている。万里の長城は居庸関の雲台を模して作ったそうだ。基壇の上に
中央アジアにありそうな三重の塔が建ててある。トンネル内に銘板が3枚あり、数ヶ語で何やら書い
てある。右の壁に、

   三島海雲翁顕彰碑            日本学士院会員文学博士 新村出 撰文
   君大阪府豊能群萱野村に生る幼にして佛門に入り長じて儒教を納め篤信周達気宇還大或は
   華厳哲学を深玄し或は周易原理を研究し各その要諦を得大海雲を観じ天行健を信じて解脱
   を志せり性英悟創意に富む明治末年壮にして蒙古に入るや土民の常用せる酸乳を賞味し鋭
   意改善を盡しし結果遂に現今のカルピス飲料に達するの成功を收むるに至る偉なりと稱す
   べし即ち功を以て勲三等に叙せらる斯くて技術益ゝ進み経営亦宜しきを得衆員協力社雲の
   隆昌中外の認むる所たり惟ふに君人文学に親しみ東洋学者に交友多く相依り相輔けて彼此
   資益少からざるものあるを覚ゆ善財採薬の美談天行健の信念その因縁甚だ深きものなしと
   せむや乃ち社員諸彦深く翁の人格と徳望とを敬慕するの餘り北京城西大道蒙古に通ぜる居
   庸關の名蹟に則り翁が顕彰の碑を立つるに方りて其文詞を予に嘱せり予敢て辭せず所懐を
   叙すること然り
   昭和40年4月

 左の壁に、

   
顕彰碑の基壇について
   この顕彰碑の基壇は萬里の長城に依る居庸関の過街塔の雲台(塔墓)を象ったものである。
   居庸関は中国河北省にあって、北京の北西60kmに当り、古来天下九関の一といわれ、
   華北から蒙古に通ずる交通の要衝で元の時代には諸民族が頻繁に往来した関門である。そ
   の過街塔は下の皇帝が、旅行者の安全息災、福寿を祈るため、至正三年(1343)に関
   内に建立した仏塔であった。今は雲台を残すのみであるが、石灰岩で組み上げ、高さ7.2
   m幅7.3m、奥行15.2mの通路をあけ、入口には護法の霊獣、内壁には四天王、千仏、
   曼荼羅および六体文字(梵、漢、蒙古、西夏、チベット、ウイグル)の陀羅尼が彫刻され
   元代唯一の世界文化史上貴重な遺跡となっている。

 
側に石の由来碑が建ててある。

   顕彰碑由来
   カルピスの発明者三島海雲翁を社長に戴くカルピス食品工業株式会社の役員及従業員一同
   は 置きなの人格と徳望とを深く敬慕しその偉業を永遠に顕彰するため 此の地を卜して
   この碑を建立した
   上段の塔は百済様式に倣い基壇は翁がカルピス発想の地蒙古に通ずる居庸関の名跡に則っ
   た。基壇洞門の内壁の刻文は居庸関過街塔の如来心陀羅尼の一句を梵語西蔵・蒙古・ウイ
   グル・西夏・漢字の六体そのまゝの書体で写し、これに和・英ニ体を加えて八体の文字で
   あらわしたものである。


 レオナルド熊(井上家)の墓
 光寿閣の裏手の墓地にある。常楽院釈智徳。井上千蔵。お笑い芸人。一世を風靡した。


 
極楽橋
 正面通路突き当りにある石橋。

 
文明堂宮崎甚左衛門の書丹碑 ①
 極楽橋親柱の向こうにある。

   (数珠をかけた合掌の手の図) 
   手を洗い 口濯ぎ 心を清めて参りましよう
   聞きましょう 帰りましよう 弥陀の浄土に
   南無阿弥陀佛 文明堂主 宮崎甚左衛門建立
                      □


 □は「宮崎之印」の印章。

 
正木龍眠書丹の水盤
 極楽橋の右手にある。元々は筑地本願寺塔頭源正寺に奉納されたものだ。関東大震災後の区画整理
で寺院が移転を余儀なくされた時に、鋳物だったので焼け残り、とりあえずここに持ち込まれたのだ
ろう。その後、源正寺は世田谷区北烏山4丁目に移転したが、引き取らなかったものらしい。

   正面 
盥漱
   右面 
源正寺門徒 太田近江大掾藤原正次 手鑄寄附之
   裏面 
盤水銘
      是惟漱盤 水満湜湜 豈汲勺哉 澄心滌憶 去六欲塵 距清涼域
                               正木龍眠

   左面 
天保七年九月

 漢詩の意味は、「清々しい水が満ちているではないか、この水盤を見て思うに、あに図らんかな、
勺で汲むと、心が澄み洗われる思いがする欲も汚れも消え去り、清涼な心持ちになれるではないか」
ということらしい。なるほど水盤というものはそういうものなんだ。

 
区の説明板
 極楽橋の左の親柱の向こうにある。

   築地本願寺和田堀廟所
   当廟所は、浄土真宗本願寺派(西本願寺)に所属する築地本願寺の分院で、阿弥陀如来立
   像が本尊として安置されています。
   大正12年9月1日の関東大震災によって、築地本願寺は、地中57の子院と共に、焼失
   しました。その再建については、他に移転の議もありましたが、結局現地復興となり昭和
   10年インド様式の大本堂の完成を見ました。墓地については、他に移転することにして
   いたところ、陸軍省火薬庫跡であった当地が払下げられることになり、昭和4年出願が許
   可され翌5年当地を所有し、地名にちなんで和田堀廟所と名付けました。
   12000坪(39600㎡)の広さを有し、富士が望める閑静な近代的公園式墓地とし
   て注目されました。ところが昭和20年5月25日、空襲により建物はことごとく焼失し
   ました。しかし幾多の困難の中バラック建の仮本堂を建てて宗教活動を続けました。漸く
   にして同28年本堂が再建され、更に門信会館等が建てられ今日に至っています。
   墓地には樋口一葉・九条武子・海音寺潮五郎・古賀政男・初代水谷八重子・服部良一等有
   名人の墓があります。また、明暦三年(1657)明暦の大火で焼失した築地本願寺(当
   時は浜町御坊)の再建に力を尽した佃島の人々の墓地があり、その佃島の祖先33名の由
   来が書かれた石碑も建てられています。
   平成22年3月                         杉並区教育委員会

 大谷光照門主御手植の標石
 参道左手にある。

   和田堀廟所 所 所 五 十 周 年
   
      本堂復興 三十周年 御親修
   
大谷光照門主御手植

     昭和五十九年五月二十五日

 親鸞上人行脚像
 本堂前左手にある。

 
文明堂宮崎甚左衛門の書丹碑 ②
 親鸞像の左手にある。

   慈悲の手に 抱かれて帰る 嬉しさよ
   親の在します 極楽の里  無月道人
      施主文明堂社長 宮崎甚左衛門
   昭和45年6月吉日


 九条武子の墓
 女流歌人。21大谷光尊(明如上人)の次女として京都西本願寺に生れる。男爵九条良致に嫁ぎ、
夫に同伴して渡欧、翌年1人帰国して十余年夫の帰朝を待つ。和歌を佐々木信綱に、絵を上村松園に
学ぶ。夫の帰国後東京築地本願寺内に移り住み、関東大震災に自らも罹災しながら被災者の救済に挺
身、慈善事業に務め、また、東山女子専門学校(京都女子大学)を創設するなど女子教育にも尽力し
た。『金鈴』『無憂華』『白孔雀』等の歌集がある。昭和3年歿、42歳。

   九条武子夫人
   武子様は、明治20年10月20日本願寺第21代明如上人の第六子としてお生れになり
   ました。兄光瑞氏が第22代ご門主になられてから積極的に婦人会活動、社会福祉活動に
   従事されましたが、昭和3年2月7日お念仏を唱えながら42歳の生涯を終られました、
   毎年2月7日には、如月忌と称して全国の仏教婦人会々員による婦人を偲ぶ法要が勤まり
   ます。また歌人としても有名で、主著「無憂華」は、多くの人に読まれています。

    
おほいなるものゝちかくにひかれゆくわかあしあとのおほつかなしや

 この歌は歌碑となって築地本願寺にある。

 久野俊子歌碑
 本堂裏東端の方にある。

   み佛に抱かれて
   煩悩は 果てなきながら称名を
   となえて心 ひとりいそしむ
            辞世 俊子

 
久乃井碑
 歌碑の傍らにある。

   此の井は亡久野寛子嬢の十七回忌に當り母堂久野俊子氏が捐資開鑿せるものである 因っ
   て久乃井と名付ける 冀くは此の水が普く人を利し久野氏の芳志が永く世に世に傳はらん
   ことを 
   昭和32年12月27日                        多田宗雄誌

 海沼實の墓
 長野松代で菓子舗を営む海沼万吉の長男として誕生。資産家であった叔父の支援を受けて上京し、
同郷の作曲家草川信や、その音楽学校時代の同級生である成田為三らに師事。東洋音楽学校(東京音
大)在学中の昭和8年に音羽ゆりかご会を創設し、川田正子(後に継子)、川田孝子(後に継子)、
川田美智子(実子)の川田三姉妹をはじめとする数多くの童謡歌手を育てた。同13年「お猿のかご
や」で初めてのヒットを記録すると以後「あの子はたあれ」「ちんから峠」「めだかの幼稚園」「花
やさん」「つばめの旅」「からすの赤ちゃん」「やさしいおかあさま」など、数多くの国民的ヒット
作品を生みだした。同16年には関東児童唱歌コンクールにも出場して入賞。翌年には2位、さらに
翌年には1位と2位を独占して完全優勝した。戦争中、多くの歌手や作詞家、作曲家らが東京を離れ
疎開する中、毎日のように内幸町のNHKスタジオに通い、童謡を放送し続けた。終戦直後の混乱期
には、戦災に苦しんだ子ども達を励まそうと「見てござる」「里の秋」「みかんの花咲く丘」「夢の
お馬車」などを発表し、再び国民的な大ヒットを記録した。同22年以降はコロムビアと専属契約を
結んで活動し、日本音楽著作権協会、日本作曲家協会、日本同様協会などの役職を歴任。
 昭和戦後期の童謡作曲家としては最も多く愛唱された作品を持つことから「最後の童謡作曲家」と
も呼ばれ、川田三姉妹の発掘や、結成した音羽ゆりかご会を通して、戦後の童謡黄金期を形成した作
曲家として、その功績は日本童謡界において屈指のものと評価されている。
 近年、正統派の童謡評論家として活動している3代目海沼実は海沼の孫に当たる。

   「
お猿のかごや           「ちんから峠
     詞:山上武夫               詞:細川雄太郎
   えっさ えっさ えっさほいさっさ    ちんからほい ちんからほい
   お猿のかごやだ ほいさっさ       ちんから峠の おうまはほい
   日暮れの山道 細い道          やさしい おめめで
   小田原提灯ぶら下げて それ       ちんからほいほい ちんからほい
   やっとこ どっこい ほいさっさ     おすずをならして とおります
   ほーい ほいほい ほいさっさ      はるかぜ そよかぜ うれしいね


   「
あの子はたあれ」          「からすの赤ちゃん
     詞:細川雄太郎              詞:海沼實
   あのこはたあれたれでしょね       からすの赤ちゃん なぜなくの
   なんなんなつめのはなのした       こけこっこの おばさんに
   おにんぎょさんとあそんでる       あかいお帽子(ぼうし) ほしいよ
   かわいいみよちゃんじゃ         あかいお靴(くつ)も ほしいよと
   ないでしょか              かあかあ なくのね

   「
里の秋               「みかんの花咲く丘
     詞:斉藤信夫               詞:加藤省吾
   静かな静かな 里の秋          みかんの花が咲いている
   お背戸に木の実の 落ちる夜は      思い出の道 丘の道
   ああ 母さんとただ二人         はるかに見える 青い海
   栗の実 煮てます いろりばた      お船がとおく かすんでる

 
前田慧雲無縫塔
 まえだえうん。明治~大正期の浄土真宗本願寺派の学僧。伊勢桑名の西福寺の子。号は含潤道人・
止舟。藩校で学び、西本願寺の西山教授校に進み、比叡山で天台を学ぶ。大内青巒らと尊皇奉仏大同
団で活躍。東大講師、東洋大と龍谷大の学長。文学博士、『大日本続蔵経』編集長。全集あり。昭和
5年歿。74歳。

   
勧學慧雲墓

 
宇野円空無縫塔
 宗教学者・民族学者。京都生。東京帝大卒。学士院恩賜賞受賞。仏教大学、龍谷大学、東京帝大教授となる。『宗教民俗学』『宗教学』他著あり。昭和24年歿。64歳。

   
南無阿弥陀佛

 脇に墓誌がある。

   墓誌
   文学博士宇野円空先生は明治18年京都に生まれ、東京帝國大学宗敎学科を卒業後、龍谷
   大学教授、東京帝國大学を歴任、また同大学東洋文化研究所長等の任にあった。先生はわ
   が國における宗教学の権威で、その実証的研究の分野を拓いた第一人者であった。とくに
   大正14年現地調査及び資料蒐集のため東南アジア諸地域に出張し、後にその成果、「マ
   レイシヤに於ける稲米儀礼」の業績によって帝國学士院恩賜賞を受けられた。
   先生は躬を持するに嚴、他に接しては大度、寛容で人の世話をされた。始終にわたる研究
   生活はまさに鏤骨の精神で、その学殖と学風と人徳とは人々に瞻仰され学界に大きな影響
   をあたえられた。
   先生は浄土真宗本願寺派京都専徳寺第十三世として生涯を報謝の行に捧げられ、昭和24
   年1月1日大往生を遂げられた。その後さえ夫人は和光院をひらき、同行とともに称名報
   恩の日々を送っておられる。
   先生の親友で同学の水月文英師の発願によってこの碑が建立された。
   昭和43年6月                       末学 石津照璽撰


 
嶋中雄作の墓
 中央公論社を発展させた出版経営者。奈良生まれ。早稲田大学を卒業して中央公論社に入り、雑誌
「婦人公論」を創刊。のち、中央公論社社長となった。

 
横綱吉葉山の墓
 大相撲宮城野部屋の力士。43人目横綱。千代の山・鏡里・栃錦と4横綱時代を築いた。引退後宮
城野部屋を継承。昭和52年腎不全のため没。孫弟子が名横綱白鵬翔だ。

   
池田潤之輔之墓

   墓誌
   角界に君臨した第43代横綱吉葉山は、大正9年4月3日北海道石狩国厚田村で生れた。
   昭和13年1月青雲の志を抱き上京、相撲志願の青年と人違いされ、高島部屋に入門、爾
   来この道一途に歩む。昭和17年幕下優勝を遂げ、十両昇進が決まったが応召、伸び盛り
   の6年間を戦野で過ごす。復員後60Kgまで落ちた体を不撓不屈の闘魂と激しい稽古に
   よって鍛え直し、昭和22年秋場所入幕、昭和26年夏場所大関、昭和29年初場所全勝
   優勝を成し遂げ、横綱に昇進した。
   数々の不運をいつも笑顔で克服した横綱吉葉山。179cm、143Kg、力と剛の堂々
   たる体躯は、相撲人形のように美しくもあった。あの美男横綱の華麗な不知火型の土俵入
   りは、今も多くの人々の眼にやきついている。
   昭和33年初場所引退。宮城野を襲名し、宮城野部屋親方として後進の指導育成に当り、
   幾多の幕内力士を育て上げると俱に、日本相撲協会理事として初代審判部長、また巡業部
   長を歴任、大相撲の発展に力を尽くし、昭和52年11月26日、57歳の相撲人生を終
   える。諡は
至德院釈崇潤

 
佐藤栄作の墓
 総理大臣。山口県熊毛郡田布施町の人。岸信介は兄。東大卒業後鉄道省に入り、運輸次官を務めた
が退官。民主自由党に入党し、第二次吉田内閣の官房長官をはじめとして大臣を歴任した。昭和39
年に自民党総裁に就任、以後7年8ヶ月間政権を担当した。その間、日韓基本条約の締結・日米安保
条約自動延長・沖縄返還を実現、非核三原則などの政策によってノーベル平和賞も受賞した。昭和5
0年歿、74歳。朝鮮系の人だから山口に墓がないだねぇ・・・

 
麻田駒之助の墓
 明治~昭和時代前期の出版経営者。明治2年生まれ。西本願寺内局に勤務し、明治25年反省会庶
務係となり上京、「反省雑誌(同32年「中央公論」と改称)」の刊行に当たる。同37年反省会社
長となり、滝田樗陰と協力して売り上げを拡大。大正3年社名を中央公論社と改めた。昭和23年死
去。80歳。京都出身。京都府立中学卒。

 
古賀政男の墓
 作曲家。韓国人。京城善隣商業学校を出て大阪の商店に勤めた後、大正12年に明治大学予科に入
学し、明治大学マンドリン倶楽部の創設に参画した。当時の明大マンドリン倶楽部は、ボッタキアー
リ、ラウダス、バッチなどのマンドリンの大曲が演奏されていたが、古賀も「幻想的狂想曲」(ロマ
ーノ)の難曲を独奏するなどの活動が見られている。昭和3年夏には自殺を図るが未遂に終わる。蔵
王の夕暮れを見て「影を慕いて」の詩が浮かんだと言われている。その年の秋の定期演奏会は明治記
念館講堂で開催されたが、このとき佐藤千夜子の知遇を得た。また、このとき「音楽は和也」の理念
が生れた。昭和4年6月、明大マンドリン倶楽部の定期演奏会で『影を慕いて』(ワルツ・ギター合
奏)を発表。その年の暮れには、佐藤千夜子の歌唱とマンドリンオーケストラを率いて、「文のかお
り」など自作品をビクターで吹込んだ。同5年秋には『影を慕いて』をビクターで佐藤千夜子の歌唱
によって吹込む。この時は、まだマンドリン・ギター演奏家「古賀正男」だった。また、この歌は宮
城県川崎町の風景をモチーフにしたといわれている。当時、死の淵に追われた古賀が川崎町の森林を
歩いている内に我に返りこの歌を書いたという。同6年1月、新譜でレコードは発売されたが、売れ
行きは芳しくなかった。
 同年明治大学商学部卒業後、日本コロムビア専属となる。当初作曲に自信が無く文芸部の社員を希
望したが、結局作曲家として契約した。この時、東京音楽学校在籍時の藤山一郎と出会ったことが古
賀政男の人生を大きく変えることになった。藤山一郎の歌唱表現が古賀政男の才能を開花させた。
 『酒は涙か溜息か』『丘を越えて』『影を慕いて』の3曲がSPレコードで発売され、以降多くの
ヒット曲を世に出した(なお、藤山は東京音楽学校卒業後、ビクター専属となった)。同8年には松
平晃が歌唱した『サーカスの唄』がヒットしたが、直後離婚騒動などもあり、体を壊し、その年の晩
秋から翌年にかけて伊東で静養した。同9年、コロムビアからテイチクに移籍したが、ビクターから
迎えた藤山一郎、ディック・ミネ、楠木繁夫、美ち奴などを擁し、『緑の地平線』『二人は若い』『東
京ラプソディ』『あゝそれなのに』『青い背広で』『人生の並木路』などの作品は大ヒット曲となっ
た。同13年秋、外務省の音楽文化親善使節として渡米。渡米直前にコロムビアに復帰した。同14
秋、アメリカNBC放送で古賀の作品が取り上げられた。帰国後は『誰か故郷を想わざる』『目ン無い千鳥』『新妻鏡』『懐かしの歌声』などが大ヒットした。
 戦後
 同23年近江俊郎が吹込んだ『湯の街エレジー』がヒット。同年には「古賀ギター歌謡協会」(後
の古賀ギター学院)を設立した。30年代後半からは過去に自らの前で「悲しき竹笛」を歌った美空
ひばりの歌の作曲を手がけた。同39年発表の『柔』は190万枚を売り上げて、同40年の第7回
日本レコード大賞を受賞。同41年発表の『悲しい酒』も145万枚を売り上げるミリオンセラーと
なった。作曲活動の傍らで昭和34年には日本作曲家協会を創設し、初代会長となる。この時に服部
良一らと共に創設したのが日本レコード大賞だ。昭和53年7月25日没。直後の8月4日前年の王貞治に次ぎ史上2人目となる国民栄誉賞を贈られた。

   「
影を慕いて           「酒は涙か溜息か
     詞:古賀政男
」             詞:高橋掬太郎
   まぼろしの              酒は涙か溜息か
   影を慕いて雨に日に          心の憂さの捨てどころ
   月にやるせぬ我が思い
   包めば燃ゆる胸の火に
   身は焦(こが)れつつ忍び泣く


   「
丘を越えて           「緑の地平線
     詞:島田芳文              詞:佐藤惣之助
   丘を越えて行こうよ          何故か忘れぬ人故に 
   真澄の空は 朗らかに晴れて      涙隠して踊る夜は
   楽しい心               濡れし瞳にすすり泣く
   鳴るは胸の血潮よ           リラの花さえなつかしや
   讃えよ わが青春(はる)
   いざゆけ 遙か希望の丘を越えて


   「
二人は若い」           東京ラプソディ
     詞:サトー・ハチロー          詞:門田ゆたか
   あなたと呼べば あなたと答える    花咲き花散る宵も
   山のこだまの 嬉しさよ        銀座の柳の下で
   あなた なんだい           待つは君ひとり 君ひとり
   空は青空 二人は若い         逢えば行くティールーム
                      楽し都 恋の都
                      夢のパラダイスよ 花の東京

   「
ああそれなのに」         青い背広
     詞:佐藤惣之助             詞:佐藤惣之助
   空にゃ今日もアドバルーン       青い背広で心も軽く
   さぞかし会社で今頃は         まちへあの娘と行こうじゃないか
   おいそがしいと思うたに        紅い椿に瞳も濡れる
   あゝ それなのに それなのに     若い僕らの生命の春よ
   ねえ おこるのは おこるのは
   あたりまえでしょう

   「人生の並木道」          誰か故郷を想わざる
     詞:佐藤惣之助             詞:西条八十
   泣くな妹よ 妹よ泣くな        花摘む野辺に日は落ちて
   泣けば幼い 二人して         みんなで肩を組みながら
   故郷を捨てた 甲斐がない       唄をうたった帰りみち
                      幼馴染みの あの友この友
                      あゝ誰か故郷を想わざる



   「
目ン無い千鳥」          新妻鏡
     詞:サトー・ハチロー          詞:佐藤惣之助
   目ン無い千鳥の高島田         僕が心の良人なら
   見えぬ鏡にいたわしや         君は心の花の妻
   曇る今宵の金屏風           遠く寂しく離れても
   誰の科やら罪じゃやら         泣くな相模の鴎鳥


   「
湯の街エレジー」         「悲しい酒
     詞:野村俊夫              詞:石本美由紀
   伊豆の山々 月淡く          ひとり酒場で飲む酒は
   灯りにむせぶ湯の煙          別れ涙の味がする
   ああ 初恋の             飲んで棄てたい 面影が
   君を尋ねて今宵また          飲めばグラスに また浮かぶ
   ギターつまびく旅の鳥

 佃島祖先参拾参名の墓
 佃島漁業協同組合共同墓地にある。明暦大火で焼失した本願寺の再建に尽力した人々の墓所。

 正面

   南無阿弥陀佛

 
台石正面

   佃 祖 参 参 之
   島 先 拾 名 墓

 向かって右面

   正保三年六月

 向かって右面台石

   金子卯之助 溝口民五郎 小澤松之助 山田寅吉 金子佐吉 高橋重助 細川増治郎
   野口重吉  内山善八郎 水口六之助 森六之助 浦井磯吉 神戸初五郎 青木寅吉

 向かって左面

   明治卅九年六月建之

 向かって左面台石

   世話人
   白井興太郎 三浦吉兵衛 吉田半次郎 飯田榮吉 伊東銀治郎 山本勝太郎 浦井嘉七
   魚可し佃政

 墓所の前に標柱が2基ある。

   昭和七壬申年三月 佃政 金子政吉建立

   佃島漁業協同組合之碑


 
佃島漁業協同組合解散之碑
 墓石の右手前にある。

   佃島漁業協同組合解散之碑
   佃島の漁業は、遠く江戸時代から今日に至るまで東京湾の漁業の先駆をなし都人士に新鮮
   な魚介を供給する使命をもって古くからの伝統に生きてきたのである。
   しかし近年東京都の急激な膨張に伴って都市改造の要請は港湾等の拡張計画の推進を余儀
   なくし、佃島の漁業はついにこれにその座を譲り、伝統の強みと特異の存在としての誇り
   の上に受け継がれてきた権益を漁業補償を受けることにより止むなく放棄するにいたった
   のである。
   思えば慶長十八年以来栄枯盛衰を重ね、実に三百五十年の長歳月に亘り培われてきた漁業
   に終止符を打ったことは誠に哀惜の情に堪えないものがある。
   ここに佃島漁業者の母体たる佃島漁業協同組合がその使命を終え、解散するにあたり、懐
   旧の情を述べ永く記念するものである。
   昭和38年12月25日                        多田 稔誌

 
佃島祖先由来の碑
 墓石の左脇にある。

   佃島祖先由来之碑
    東都佃島祖先ハ往昔攝州西成郡佃村ニ住シ漁獵ヲ業トセリ 天正以來家康公
   ニ忠勤ヲ擢テ寵淺カラズ靈業成リテ江戸ニ幕府ヲ開カルルヤ命ニ依リ佃村名主
   孫右衛門ヲ始メ漁夫三十三名江戸ニ下シ濱町安藤對島守屋敷其他ニ居住シ專ラ
   漁撈ヲ以テ御成先御獵御膳御用白魚御用等相勤メ慶長十八年海川漁撈勝手タル
   可シメ御墨附ヲ賜リ茲ニ幕府直参ノ漁夫タル權式を持シタリ 蓋シ彼等ガ漁業
   ニ對スル功タルヤ或ハ後世江戸名産タル白魚ヲ三州ヨリ移殖シ或ハ幕府御用殘
   餘ノ魚類ヲ日本橋ノ傍ニ鬻ギテ魚市場ノ濫觴ヲ爲スガ如シ極メテ大ナルモノ有
   リキ 寛永年中町人武家屋敷居住不許可ノ令ニ依リ鐡砲州ノ東干潟百間四方ノ
   地ヲ賜リ漁民等之ヲ築造ヲ營ミ正保元年貮月完成シ本國佃村ノ名ヲ採リテ佃島
   ト號セリ 斯クテ日夜漁業ニ努ムルノ傍濱町假寓ノ時ヨり該所ニ在リシ本願寺
   ニ歸依篤カリシガ偶々明暦三年祝融ノ厄ニ會フヤ幕府ニ請フテ佃島ニ近キ民生
   地ニ寺建ヲ築キ土工ヲ起シ晝夜之ガ築造ニ努力シ延寳年中完成セリ依テ築地本
   願寺ト穪シ以來佃島・本願寺ハ此是ニ不離ノ關係ト成ル
    大正十二年大震火災ニ際シ筑地本願寺帰有ニ歸シ爲ニ昭和六年佃築地番地新
   ニ府下和田堀ニ移サルルヤ祖先ハ墳瑩タル佃島墓地モ亦俱ニ移轉セラル茲ニ祖
   先ノ由來ヲ誌シテ後日ニ傳フト云爾
    昭和七壬申年三月                 佃政 金子政吉謹記

 
土生玄碩の墓
 江戸時代後期の眼科医。国禁を侵して開瞳術を施した西洋眼科の始祖。名を義寿、幼名は久馬、は
じめ玄道と称し、のち玄碩、号は桑翁、字は九如。

   東京都指定史跡
   
土生玄碩墓       所在地 東京都中央区築地3丁目1番地 本願寺筑地別院内
                指 定 大正十三年一月
   江戸時代後期の眼科医で、宝暦十二年(1762)安芸国吉田(広島県高田郡吉田町)で
   生まれた。名を義寿といい、桑翁と号した。文化七年(1810)奥医師を拝命し、同十
   三年法眼に叙せられた。文政五年(1822)には12代将軍家慶の眼疾を治療した。同
   十二年シーボルトから眼病治療法を教授された謝礼に将軍拝領の紋服を贈ったことで、シ
   -ボルト事件に連座、改易となり、江戸を追放された。嘉永元年(1848)八月十七日
   八十七歳で死去し、土生家の菩提寺である筑地本願寺中眞龍寺に葬られたが、昭和3年1
   2月区画整理のため改葬された。墓標には「桑翁土生君之墓」とある。
   著書には「銀海波抄」「師談録」「獺祭録」などがある。
   平成11年3月31日 建設                   東京都教育委員会

 この説明板は築地の本願寺境内にあるものだが、玄碩の墓は確かに昭和40年代まではあったよう
だが、現在は築地本願寺にはなく 和田堀廟所の土生家の墓に合葬されている。築地にあるのは、顕
彰碑で、表題も「土生玄碩先生之碑」となっている。東京都が間違えている。

 
五世・六世川柳の墓
 水谷金蔵。天明七年南茅場町生まれ。幼児に父母を失い、佃島の漁師太平次に養われる。努力によ
り財をなした立志伝の人。佃島の御用漁師、魚問屋。二世川柳の門に入り、誹風柳多留六十六篇に初
出。二世没後は四世の門下となる。長男誕生(後の六世川柳)。五世となり、安政五年歿71歳。築
地本願寺に葬る。
 6世は水谷金蔵のち謹。佃島生まれ、五世川柳の子。魚問屋を継ぐ。父の死により六世川柳。明治
を迎えて最初の宗家で、柳風狂句を組織して「柳風会」を創設。名望があり、渡し舟の船頭は、6世
を訪ねる客からは渡船料を取らなかったという。
 明治15年没。安楽院釈祐正信士。築地本願寺に葬られる。

 
樋口一葉墓所案内標柱
 中央通り左にある。

   樋口一葉女史墓所
   樋口一葉女史墓所入口 
最初の通りを右に折れて右側六番目

 樋口一葉の墓
 作家。東京生。名は夏子。明治19年萩の舎に入門し正式に歌文を習う。同25年3月雑誌『武蔵
野』初号に「闇桜」を発表、「にごり江」「十三夜」「たけくらべ」などの作品は、森鴎外・幸田露
伴・高山樗牛ら文壇の辛辣なる批評家といわれた人々が筆を揃えて賞讃し、女流作家の第一人者とな
った。明治29年歿、25歳。

 東久世通禧・巖谷一六題書墓碑
 一葉の墓の先にある松井家の墓

   松雲堂 通禧書

   松井家祖先累代墓
    一六居士題

 
服部良一の墓
 作曲家・編曲家。作詞家として村雨まさをの名がある。大阪府出身。大阪市立実践商業に通いなが
ら少年音楽隊に入隊。卒業後、後のNHK大阪放送局が結成した大阪フィルハーモニック・オーケス
トラに入団、傍ら、ウクライナ人指揮者のエマヌエル・メッテルの指導を受ける。ジャズ喫茶でピア
ノを弾くアルバイトで音楽感性を磨いた和製ポップス史における重要な音楽家の一人。
 昭和に入るとレコード会社の仕事をするようになる。その後、いろいろやって昭和11年コロムビ
アの専属作曲家。「軍歌を作らなかった作曲家」といわれているが、苦手で、作るには作ったがヒッ
トしなかったというのが本当のところだ
 戦後は一転、服部に持って来いの世の中となり、「東京ブギウギ」をヒットさせる。戦後の息吹を
伝えた『青い山脈』を作曲、六甲山の山並みを見ている時に浮かんだという。日本レコード大賞発足
に貢献。紫綬褒章受章。平成5年1月呼吸不全のため没。85歳。死後、国民栄誉賞を贈られた。
 息子は克久(作曲家)と良次(俳優)、孫に隆之(作曲家)と有吉(バレエ)、曾孫に百音(バイ
オリニスト)がいる。宝塚出身の歌手富子は妹だった。

   
服部家之墓

   昭和廿五年庚寅正月上浣
   
服部良一建之

 映画主題歌「
青い山脈」 作詞:西条八十
  1.若くあかるい歌声に
    雪崩は消える 花も咲く
    青い山脈 雪割桜
    空のはて
    今日もわれらの夢を呼ぶ
  2.古い上衣よ さようなら
    さみしい夢よ さようなら
    青い山脈 バラ色雲へ
    あこがれの
    旅の乙女に鳥も啼く
  3.雨にぬれてる焼けあとの
    名も無い花もふり仰ぐ
    青い山脈 かがやく嶺の
    なつかしさ
    見れば涙がまたにじむ
  4.父も夢見た 母も見た
    旅路のはてのその涯の
    青い山脈 みどりの谷へ
    旅をゆく
    若いわれらに鐘が鳴る


 
高楠順次郎の墓
 仏教学者。インド学者。号雪頂。旧姓沢井。幼名海太郎のち洵。イギリス、ドイツ、フランスに留
学し、オックスフォードでマックス・ミューラに師事、厳密な文献研究に基くインド学を学ぶ。帰国
して南条文雄の後を受けて東大で梵語学を講じる。逓相秘書官・東京外語校長・東大講師~教授・東
洋大学々長を歴任。学士院会員となり文化勲章受章。著書に『大正大蔵経』『南伝大蔵経』『大正新
修大蔵経』『高楠順次郎全集』等がある。昭和20年歿、80歳だった。


 花井卓蔵の墓
 明治・大正・昭和期の弁護士,法学者,政治家。広島藩士立原四郎右衛門の四男として生まれ,の
ち花井家を継いだ。英吉利法律学校(中央大学)を卒業後,代言人試験に合格,終生弁護士として活
躍した。中央大学教授。昭和6年自宅にてガス中毒で死去。63歳

 
内田吐夢の夢
 映画監督。本名常次郎。大正9年大活に俳優として入社、後に日活へ移り監督となって数本の喜劇物を撮った。昭和4年資本主義社会のからくりを暴露した傾向映画『生ける人形』が出世作で,以後
『仇討選手』『裸の町』『土』などの力作を発表。戦後は『大菩薩峠』3部作、『飢餓海峡』『宮本
武蔵』5部作を撮った。昭和45年『真剣勝負』撮影中に衰弱死した。

 
笠置シズ子の墓
 歌謡曲歌手。香川県生まれ。亀井静子。大阪の米屋に養女に出される。宝塚に不合格となり、OS
K日本歌劇団で「三笠静子」の名でデビュー。三笠宮家の成立により「笠置シズ子」と改名。同じ頃
に作曲家の服部良一と出会い、数多の名曲を生み出す。当時の歌手は直立不動で歌うのが一般的だっ
たが、笠置は舞台上で激しく踊り歌うスタイルで人気を博した。しかし当時は今ほど自由ではなかっ
たので権力から睨まれることもあった。
 戦後、「東京ブギウギ」や「買物ブギ」などのブギがヒットし「ブギの女王」と評される。美空ひ
ばりは笠置の物真似で有名になった。有名になりすぎて、寧ろ笠置がひばりの持ち歌を歌っているの
ではないかと誤解され、慌てた笠置は楽曲を歌わせないようにした。当時は「物真似」という行為自
体が安っぽいことと評価され、物真似されることすら嫌悪に感じる時代だったことも影響している。
 私生活では、吉本興業の創業者吉本せいの息子穎右と交際し妊娠に至ったが、せいに結婚を認めて
貰えなかった。出産前に元々病弱だった穎右が亡くなり、その後子供を出産した。昭和32年歌手引
退を機に「笠置シヅ子」に改名。楽曲の録り直しもしなければ、懐かしの~系の歌番組にも出演しな
かった。その代わりCMやテレビ番組には積極的に出演した。同60年卵巣ガンで死亡した。

 歌謡曲「
東京ブギウギ」 作詞:鈴木勝  作曲:服部良一
    東京ブギウギ リズムうきうき
    心ずきずき わくわく
    海を渡り響くは 東京ブギウギ
    ブギのおどりは 世界の踊り
    二人の夢の あの歌
    口笛吹こう 恋とブギのメロディー
    燃ゆる心の歌 甘い恋の歌声に
    君と踊ろよ 今宵も月の下で
    東京ブギウギ リズムうきうき
    心ずきずき わくわく
    世紀の歌心の歌 東京ブギウギ
    (ヘイ)
    さあさブギウギ 太鼓たたいて
    派手に踊ろよ 歌およ
    君も僕も愉快な 東京ブギウギ
    ブギを踊れば 世界は一つ
    おなじリズムと メロディーよ
    手拍子取って歌おう ブギのメロディー
    燃ゆる心の歌 甘い恋の歌声に
    君と踊ろよ 今宵も星を浴びて
    東京ブギウギ リズムうきうき
    心ずきずき わくわく

    世界の歌楽しい歌 東京ブギウギ
     ブギウギー陽気な歌 東京ブギウギ
     ブギウギー世紀の歌
     歌え踊れよ ブギウギー


 
初代水谷八重子の碑・水谷竹紫墓
 大正から昭和にかけての新派女優。新劇から新派に入り、戦後は新派の屋台骨を支える大黒柱とし
て日本の演劇界に重きをなした。本名松野八重子。演出家の水谷竹紫は義兄。子役で初舞台、帝劇の
「アンナ・カレーニナ」のセンジー役で水谷八重子を名乗る。当り芸を選び「八重子十種」「大尉の
娘」「十三夜」「皇女和の宮」「鹿鳴館」等で有名。昭和54年歿、74歳。
 2代目は娘の良重。東宝3人娘。

   水谷竹紫之墓
    昭和十六年九月
    水谷八重子建之

   
松野家之墓

   
水谷八重子之碑
    昭和五十六年十月一日
      水谷良重建之
      川口松太郎書


 
伊馬春部の墓
 放送作家・劇作家。本名高崎英雄。國學院大學卒業後、昭和7年ムーラン・ルージュの文芸部員と
なり、伊馬鵜平の名で脚本を書く。後、P・C・L(東宝の前身)脚本部に移籍。同15年NHKの
テレビ実験放送で、日本初のテレビドラマ台本『夕餉前』を執筆した。
 戦後、伊馬春部に改名し、同22年NHKのラジオドラマ「向う三軒両隣り」が人気を博し、翌年
東宝で映画化された。同31年第7回放送文化賞受賞。同36年「国の東」で芸術祭奨励賞受賞。同
40年「鉄炮祭前夜」で毎日芸術賞受賞。同51年歌会始召人(お題「坂」)
   詠進歌 ふりかへりふりかえり見る坂の上吾子はしきりに手を振りてをり
 同59年療養中の都立広尾病院にて没。実家の建物は「高崎家住宅」として北九州市の有形文化財
に指定され、春部の遺品と共に保存され一般公開ている。

   
玄感院釋實信證理居士

 歌碑があるが、引き墓記念碑でもある

         春部
   とざしつゝ
   ねむることあり
   はろはろの
   まらうとならバ鈴
   ふりたまへ


 碑裏

   コノ瑩域ハ高崎家累代ノ
   墳タルベキ処此度家祖玄感院
   ノ碑ヲ生地筑前木屋瀬ヨリ
   移シ畢リタルヲ機トシ識
       昭和四十一年秋
         四郎八五代
         高崎英雄


 
相撲の神様 幡瀨川邦七郎の墓
 秋田県出身の大相撲力士。最高位関脇。子供の頃から運動神経抜群、大正11年同郷の清瀬川のい
る楯山部屋に入門。出身地幡野村と清瀬川から「幡瀨川」を名乗った。173cm、68Kgの小兵
ながら肩幅が広く柔軟な肉体、持前の運動神経で、負け越しの無いまま3年6場所で十両に上がり、
1年半6場所優勝2回で新入幕、清瀬川と同時幕内を果した。清瀬川が引退して伊勢ヶ濱襲名したた
め伊勢ヶ濱部屋所属となる。平蜘蛛仕切りで立ち、変幻自在の技を駆使し、特に出し投げからの小股
掬いは抜群の切れ味を見せ、十二分に警戒していても倉ってしまうほどだった。双葉山の70連勝を
阻んだ男女ノ川に大関時代に3連勝、対戦成績は3勝3敗だった。「相撲の神様」と呼ばれるように
なったきっかけは、当時「相撲の神様」といわれていた大ノ里萬助に勝ったことで、対戦成績は6勝
3敗だった。稽古熱心だったが心臓を患い、以降は四股さえ踏めず、本場所の一番にだけ懸けていた
が、それでも勝利したことで「神様」の名を一層高めた。同15年初場所を以て引退。年寄千賀ノ浦
のち楯山を襲名、後進の指導に当った。照国萬蔵を育てたことは有名で、同17年大関になった時に
養子縁組した。しかし照国は清瀬川の親戚だったために清瀬川は激怒したという。そんなこんなで、
定年前の同43年廃業し、相撲評論家「魚雷亭主人」というペンネームで辛口の批評をした。当時大
人気だった大鵬幸喜の横綱手数入りの形に注文を付けて前傾姿勢を批判したが、それが大鵬の相撲の
強さに繋がっていることも同時に指摘した。同49年没。68歳だった。

 
中村汀女の墓
 俳人。熊本県生まれ。本名破魔子。県立熊本女学校(熊本第一高等学校)卆。高濱虚子に師事。星
野立子・橋本多佳子・三橋鷹女と共に「4T=四丁」と呼ばれた。昭和9年「ホトトギス」の同人と
なり、同15年第一句集「春雪」を出版。同22年「風花」創刊し主宰。「春暁」「半生」「花影」
「都鳥」がある。昭和63年没。88歳。歌碑がある。

   雪しずか 愁なしとは いへざるも 汀女

   中村汀女
   淳風院釈尼汀華
   汀女(破魔)昭和六十三年九月二十日歿
                 行年八十八歳
   明治三十三年 熊本市に生る
   大正九年   「ホトトギス」初入選
   昭和九年   「ホトトギス」同人
   昭和二十二年 俳誌「風花」創刊
   昭和五十三年 NHK放送文化賞

   昭和五十四年 熊本市名誉市民
   昭和五十五年 文化功労章
   昭和五十九年 日本藝術院賞
   昭和六十ニ年 世田谷区名誉区民
   昭和六十二年 東京都名誉都民
   昭和六十三年 正四位勲二等
             平成元年四月

 古今塚
 立派な石塔だが詳細不明

   古今塚

   天保八丁酉年五月


 
海音寺潮五郎
 作家。鹿児島県伊佐郡大口村(伊佐市)生れ。国学院大学卒。中学の国漢教師を勤めた後、創作に
専念。昭和4年「うたかた草紙」が「サンデー毎日」大衆文芸賞に入選。同7年長編「風雲」も同賞
を受賞。同11年『天正女合戦』で直木賞を受賞。同32年に完結した『平将門』は新時代の歴史小
説の先駆となった記念碑的大作だ。日本史の造詣の豊かさは比類がない。他に『武将列伝』『列藩騒
動録』『孫子』『天と地と』『西郷隆盛』『西郷と大久保』『幕末動乱の男たち』『江戸開城』など
著書多数。

 一万田尚登の墓
 いちまだひさと。明治26年大分県生まれ、というからは朝鮮系人脈の一人。銀行家・政治家。大
正7年東京大学を卒業して日銀に入る。昭和19年理事、同21年18代総裁となり、同29年鳩山
内閣の蔵相となるまで、8年6ヶ月の長期間在任。第二次世界大戦後の経済再建期の金融界に君臨し
「一万田法王」と呼ばれた日本悪人列伝の悪党の一人。同44年引退。同59年歿。90歳。

 藤原銀次郎の墓
 実業家。明治2年長野県生まれ。慶大卆。戦前の三井財閥の中心人物の一人で、富岡製糸場支配人
から王子製紙(初代)の社長を務め「製紙王」といわれた。その後貴族院議員に勅選され、貴族院廃
止まで在任。米内内閣の商工大臣、東條内閣の国務大臣、小磯内閣の軍需大臣を歴任した。昭和34
年、数え90歳を記念として藤原科学財団を設立し、同財団に1億円を寄付し藤原賞を設けた。当時
の1億円は、平成の100億円にも相当。昭和35年没。91歳。叙正三位、叙勲一等旭日大綬章。
戦前、日本人の篤志家は多くいたが、戦後、権力が朝鮮人の手に移ると、私利私欲の徒が増えた。

 
山脇家和泉流宗家(和泉元彌家)墓所
 一番奥の方にある。



■明治大学和泉校舎

 永福1丁目9番1号にある。昭和9年武蔵野の面影が残る和泉ヶ丘焔硝蔵跡に開かれ、明大の名が
付いた京王線「明大前駅」の間近に位置する。都心へのアクセスは抜群の立地条件でありながら、正
門を一歩入ると閑静で緑豊かな環境にあり、開放的なキャンパスが広がる。平成17年完成の「和泉
メディア棟」では、最先端のマルチメディア機器を使用した新しい情報教育も始まり、小教室でのコ
ミュニケーション型教育が実現した。文科系6学部の1・2年生が通うこのキャンパスは若さと活気
が溢れ、勉強、スポーツ、サークル活動と、伸び伸びとした環境の中で学生生活を送っている。

 校歌「
白雲なびく」 作詞:児玉花外  作曲:山田耕筰
  1.白雲なびく駿河台
    眉秀でたる若人が
    撞くや時代の暁の鐘
    文化の潮みちびきて
    遂げし維新の栄になふ
    明治その名ぞ吾等が母校
    明治その名ぞ吾等が母校
  2.権利自由の揺籃の
    歴史は古く今もなほ
    強き光に輝けり
    独立自治の旗翳し
    高き理想の道を行く
    我等が健児の意気をば知るや
    我等が健児の意気をば知るや
  3.霊峰不二を仰ぎつつ
    刻苦研鑚他念なき
    我等に燃ゆる希望あり
    いでや東亜の一角に
    時代の夢を破るべく
    正義の鐘を打ちて鳴らさむ
    正義の鐘を打ちて鳴らさむ


 ※なお、明大前駅は世田谷区にある。

 正門・守衛所
 守衛所で大学ガイドなどのパンフレットを入手できるので、見学の際は立ち寄った方がいい。また
入試要項も販売してい。販売時期については明治大学HPなどで確認して。

 
メディア棟
 各教室にマルチメディア機器を備えた校舎。太陽光発電や雨水再利用、エコアイスなど環境にも配
慮している。上層階からは都心を一望でき、見事な眺望が開ける。和泉メディア棟は、〝環境と共生
する建築〟をテーマに計画された。“環境と共生する建築”とは、「地球環境の保全」「周辺環境と
の調和」「居住環境の健康・快適性」に配慮された建築であり、外壁サッシを二重にするなど、多く
の工夫がされている。また、展示鋲、多目的トイレ、車椅子対応のエレベーターなどの設置や建物内
段差の解消はじめ、各教室に1ヶ所づつ車椅子対応席を設置するなど〝ユニバーサルデザイン〟を採
用し、障害の有無に関係無く、誰もが使える施設となっている。

 
創立者の像
 正門を入った正面の第一校舎前の植栽にある。明治大学を創立した3人の青年法律家、岸本辰雄・
宮城浩蔵・矢代操の肖像と、建学の精神「権利自由・独立自治」が刻印されたレリーフ。平成23年
の設置。創立130周年を記念して建立した。

 
第一校舎
 大小様々な教室がある。1階には学部の窓口など各事務室が配置されている。校舎の内部は吹き抜けになっており、開放感に溢れている。また学生による企画展示等を行うこともある。

 
明大橋
 玉川上水に架けられていた橋。コンクリート製の橋の遺構がそまのまま保存されている。


■少年像

 永福1丁目16番1号先永福橋際、神田川遊歩道にある腰掛けている少年の銅像。


■子育地蔵堂

 永福1丁目23番6号、永福寺駅南口商店街通りから永福寺に向かう角地に建っている。


■永福稲荷神社

 永福1丁目24番6号、永福寺駅南口商店街通りに面してある。北の参道にカエルのような石造り
のキツネの置物が這っている。一匹だけなので・・・狛犬の心算かなぁ。

   永福稲荷神社
   当社は、『新編武蔵風土記稿』多摩郡永福寺村の条に稲荷社(永福寺境内)とあって、

    
上屋二間に一間半、内に小祠を置、拝殿三間に二間、社前に鳥居を立、村内の鎮守な
    り

   とあるように、旧永福寺の鎮守で祭神は宇迦之御魂命です。社伝によれば享禄三年(15
   30)に永福寺の開山秀天和尚が、永福寺境内の鎮守として、伊勢外宮より豊受大神を勧
   請創建し、寛永十六年(1639)の検地の際に、永福寺村持ちの鎮守になったといわれ
   ます。明治維新後、永福寺から分離して今日に至っています。
   境内末社として、天王社・白山神社(以上合殿)、白鳥神社(1殿)、及び明治40年1
   0月に同村字水久保にあった北野神社(祭神・菅原道真公)が合祀されています。
   境外末社に御嶽神社(永福1‐39‐17)があります。
   昭和59年3月                         杉並区教育委員会
 


永福寺
 永福1丁目25番2号にある曹洞宗の寺。大永二年(1522)八月に秀天慶実和尚が開山した古
寺で、本尊は十一面観音立像、脇仏は不動明王と毘沙門天だ。鎌倉初期の安阿弥快慶の作だそうだ。
天正十六年(1588)この村を検地した北条家の奉行安藤式部(兵部之丞と書いたものもある)主
従7騎が同十八年の小田原落城後、相模国大角からこの寺を頼って落ち延び、檀家となり村を開発し
たと『新編武蔵風土記』にあり、旧家に安藤姓がある。その後一時衰えたが、寛文の頃この辺りを領
した幕府の御馬預役加藤重勝が再興し菩提寺とした。文禄二年(1593)、元文三年(1738)
昭和20年の3度祝融(火の神)に呪われている。昭和20年気の狂ったアメリカ軍の無差別空爆の
際、アメリカ軍機の直撃弾で全焼したのだが、このとき住職が出征中で不在の寺、住職の母親が、燃
え盛る炎の中、命懸けで本尊と古文書も運び出した。それで北条氏の検地書上をはじめ、貴重な古文
書が数多く残っているのだ。本堂は昭和36年、鐘楼堂は同38年再建された。
 境内には、明治33年の北清事変で大活躍した安藤大尉の彰功碑、正徳五年(1715)銘の子授
け地蔵がある。稲荷神社の裏側に当たる西門の傍には、天和元年(1681)銘の庚申塔・元禄四年
(1691)銘の地蔵尊があり、

   奉供養庚申 今月本日衆生旦那三世成就門 正保三丙戌天吉辰 武州多東郡養福寺村

 と彫ってある五輪塔は、現在のところ区内最古の庚申塔だってよ。

   永福寺
   万歳山永福寺は曹洞宗の寺です。本尊は十一面観音像で、脇侍の不動・毘沙門両像ととも
   に、鎌倉期の仏師快慶の手になるものと伝えられています。
   寺伝によれば、開創は大永二年(1522)で、開山は秀天慶実と伝え、村名もこの寺名
   によっています。
   永福寺の名は、永禄二年(1599)に北条氏康が作成した「小田原衆所領役帳」にも見
   え、開創は寺伝の伝える頃に近いものと思われます。小田原落城後、北条氏の家臣であっ
   た安藤兵部丞が、当寺の住職をたよってこの地に帰農し、永福寺の檀家となり、村の開発
   につとめたといわれます。
   中興開基は幕府御馬預役加藤重勝で、下高井戸村に拝領地を持ち、当寺を菩提寺としまし
   た。
   当寺は文禄二年(1593)・元文三年(1738)・昭和20年と3度災害をうけまし
   たが、天正十六年(1588)の「検地書出」をはじめ20数点の文書が無事保存されて
   おり、永福寺村を知る貴重な資料となっています。
   なお、この他の文化財も多く、境内には「子授け地蔵」の名で村人に信仰された正徳五年
   (1715)銘の地蔵菩薩石像等があり、また寺の西門脇には正保三年(1646)・天
   和元年(1681)銘の庚申塔、元禄四年(1691)銘の地蔵石像が安置されています。
   昭和56年2月15日                      杉並区教育委員会
 


■永福御嶽神社

 永福1丁目39番17号、永福町駅前通りに面してある小社。永福稲荷の境外社だ。
 


■永福中央公園
 永福2丁目1番12号にある区立公園。

 
無題
 蓮の葉を頭に雨宿りしている子供のマンガチックな銅像。


■永福南公園
 永福2丁目6番23号にある区立公園。


■「川は」像
 永福2丁目7番の神田橋近くにある。


■永福小学校

 永福2丁目16番33号にある区立校。昭和26年4月大宮小学校から分校して同校内に「東京都
杉並区立永福小学校」として開校。児童509名移籍。アメリカの強制によるPTA発足。7月永福
町435番地(現在地)に校舎落成して全児童移転。前年に校歌を制定するに当たって父兄から歌詞
を募集し、坂梨作品が選ばれれ、引き続きその詞の曲付けも公募に付され、村上作品が選定された。
同29年の卒業式で校歌として制定。

 校歌「春は野原に」 作詞・坂梨文代  作曲・村上淑子 編曲・中田一次
  1.春は野原にげんげ摘み
    夏は小川に魚獲り
    小鳥と共に歌いつつ
    ああ若草は伸びて行く
  2.胸に飾れる矢車は
    清く賢く励む子を
    幸
(さき)くと祈る愛の花
    我が永福の合言葉
  3.富士の高嶺の弥(いや)高く
    望み遥かに遠くとも
    我が師 我が友 手を取りて
    ただ一筋に今日も行く


 同33年和泉小学校の開校に伴い和泉町の学区総てを割譲。同36年創立10周年記念式典。同3
8年2月体育館落成。8月プール完成。同41年創立15周年記念式典。同45年第1期鉄筋コンク
リート造り校舎落成。同46年創立20周年記念式典。同49年第2期鉄筋コンクリート造り校舎落
成。同50年第3期鉄筋コンクリート造り校舎落成。同55年緑化植樹。同56年開校30周年記念
式典・校歌を完全なものとするために作曲家中田一次に編曲を依頼し、正式な楽譜として完成。同6
1年創立35周年記念式典。
 平成3年創立40周年記念式典・けやき資料室開設。窓枠アルミサッシ化完成。同5年コンピュー
タルーム設置。同12年地方自治法改正に伴う学校教育法かいせいにより、校名より東京都の冠称が
取れ「杉並区立永福小学校」と改称。同13年創立50周年記念式典。同15年校舎耐震化。同17
年ビオトープ(ミニ生物園)完成。同19年屋上緑化。
 


■永福町駅

 永福2丁目30番にある京王井の頭線の停車場。昭和8年8月1日の帝都電鉄渋谷~井の頭公園間
開業と同時にできた。昭和45年までは車両基地を併設していた。現在バスプール。
 ホームは地上島式2面4線構造。井の頭線で唯一、急行列車が、先行する各駅停車を追い抜く駅。
駅舎とホームは地下道で結ばれているが、エレベーター・エスカレーターは設けられていない。改札
口・出口は1ヶ所のみで、渋谷寄り線路北側にある駅舎内にある。
 バリアフリー化が未達成の永福町駅だが、平成21年までに橋上駅舎化。
 駅ビルは3階建てで、1階に駅ホームと京王ストアが、2階にコンコースと店舗、3階に店舗や保
育所が入居する他、屋上広場や太陽光発電システム、ドライミスト防暑装置、雨水利用システムも導
入し、環境に優しい駅を目指すとしている。


 車輌搬出入
 かつては小田急線との間に連絡線(新代田駅~世田谷代田駅間)を持っていたが、現在では連絡線
がなくなったため、他路線とまったく線路が繋がっていない。そのため新車を搬入
する際には、吉祥寺寄りにある京王バスのバスプールから入線させることができるようにした。

 
冬の像
 駅改修に伴い、二階コンコース改札向いに設置された。区が滋賀県守山市水俣町の佐川美術館の水
上に建っていたものを購入した。永福町在住の佐藤忠良の作品で、価格は3千数百万円!!! 
 「冬の像」は優佳良織のマントを着て、手を胸の前で交差させて立っているブロンズ像で、娘の佐
藤オリエ(女優)がモデルといわれている。同じものが、札幌芸術の森美術館、旭川の優佳良織工芸
館、宮城県丸森町役場、三重県総合文化センターにあるとのこと。平成23年3月設置。

 ●女性引き連れ飛び込み事件
 平成21年5月31日午前9時25分上りホームで男が電車を待っていた女性の腕を掴んで線路上
に飛び降りる事件があった。男は杉並区在住の川満康成、20歳の私大生で、殺人未遂の疑いで現行
犯逮捕された。川満は突然、電車を待っていた59歳の女性の後ろから腕を掴んで発車直前の電車の
前に飛び降りた。女性は腰の骨を折る全治2ヶ月の重傷。
 高井戸署の調べによると川満容疑者は女性とは面識がなく、午前4時ごろまで渋谷で酒を飲んでい
たということで、線路上に飛び降りたことについては「よく覚えていない」と供述している。こうい
うご時勢じゃあ変なのはまだまだ出るよ。
 


■聖イエス会神の川教会

 永福3丁目31番10号にあるキリスト教会。


■西永福駅

 永福3丁目36番にある京王井の頭線の停車場。昭和8年8月1日帝都電鉄渋谷~井の頭公園間開
業と同時にできた。ホームは地上島式1面2線構造。ホームと改札階を結ぶエレベーターは完備。改
札口は橋上駅舎内にあり、出口は、北口と南口の2ヶ所。双方の出口にエレベーターが設置されてい
る。
 かつては線路の南側に地上駅舎があり、ホームと駅舎が地下道で結ばれていたが、平成19年12
月に橋上駅舎化された。

 
ステンドグラス
 2階にある。

 
石のモザイク2面
 南口駅前オープンスペースの路面にある。

 神田川川辺の散歩道
 駅南にある案内標識。

   永福と井の頭線
   永福という名の由来は大永二年(1522)開創の古刹曹洞宗永福寺によるといわれてい
   ます。天正十八年(1590)小田原城落城により、北條家の家臣安藤式部丞、倅兵部丞
   ら主従7人が寺の住職を頼ってこの寺に来て帰農し、村の開発に尽力したといわれていま
   す。
   井の頭線は、昭和8年に渋谷~井の頭公園間約12kmが開通しました。翌年には、井の
   頭公園から吉祥寺まで0.6kmが延長され、全長12.8kmとなりました。
 


■西永福公園
 永福3丁目40番6号にある区立公園。


■布袋尊立像
 永福3丁目40番14号斉藤整骨院の入口前左隅にある。
 

法真山理性寺
 永福3丁目56番29号、西永福駅の北約50mにある法華宗陣門流の寺。西永福商店街にある入
口から30mで赤塗りの山門、正面に本堂。本尊は十界諸尊の曼荼羅。本堂左手前に大黒殿、その並
びに庫裏、寺務所。本堂裏は墓所。
 浜田山の地名の起源となった新宿の米問屋浜田屋弥兵衛の墓、杵屋三五郎の三味線塚、初代杵屋三
五郎夫妻の墓、芝居作者伊庭可笑の墓、徳川家康の側室で紀伊頼宣・水戸頼房を生んだお万の方(養
珠院)の墓がある。

 題目塔と説明版
 入口前右にある。説明板は右の壁に取り付けてある。

   日蓮大聖人御直作
   開運火伏 經の字大黒尊天                    法真山理性寺安置
   当寺に安置し奉る大黒尊天御像は日蓮大聖人自ら御枕木を以って「經」の字をかたどり、
   遊ばされた尊き御像であります。
   この大黒尊天には「貧しきものには福を、病人には薬をあたえ、無知の者は知者に、短命
   の者は長命に、悪心の者は善心となす」という御誓願があり、深く信ずる者は「現世安穏
   福裕自在 来世成仏 得脱疑無し」と教えられております。
   昔、四谷大木戸にあった当寺も大黒尊天安置以後は一度も火災にかかることなく世の人は
   開運火伏の大黒天として尊崇したのであります。当寺におきましては毎甲子(キノエネ)
   の日に大祭を修行しております。
   是非御参詣の上、福徳開運をお祈り下さい。                    
   著名廟墓
   当山開基三州大久保家、法真院、殿理性院殿並びに累代の墓、家康公側室お萬の方の生家
   房州里見八勇士の一つ正木家累代の墓(お萬の方の法名刻記あり)
   大黒天尊像寄進者御殿医木村検校の墓、幕府医官林恒斎の墓
   近世長唄の巨匠初代杵屋三五郎の墓並びに線塚 戯作者伊庭可笑
   種痘の創始者安藤文卓の墓                       理性院執事

 「御殿医」とあるのは「御典医」の誤記か?  

 大黒尊天石標
 入口前左にある。

         法真山
   祖師御作 
大黒尊天
         理性寺

 題目塔と説明板
 山門前右隅にある。

   理性寺
   当寺は法華宗法真山理性寺といい、本尊は十界諸尊の曼荼羅です。『御府内備考続編』に
   よれば、当寺は承応三年(1654)大久保越中守忠辰、忠陰兄弟が両親の忠当夫妻を開
   基として、その菩提のために創立したものです。寺名は、夫妻の法名、法真院殿・理性院
   殿に因んで法真山理性寺としました。
   創立にあたっては、内藤新宿四谷大木戸(新宿区新宿1丁目付近)に、大久保家下屋敷の
   名義をもって草創し、後に老中久世大和守広之の許可により、境内地として使用すること
   になったと伝えられています。現在地に移転したのは大正3年です。
   境内の左手には大黒殿があり、中には「火伏せの大黒天」と呼ばれる高さ約12cmの木
   彫りの小さな大黒天が安置されています。この大黒天は、高祖日蓮の作と伝えられ、お経
   の「経」の字を形取っており、寛政六年(1794)御殿医木村検校によって奉納された
   ものといわれています。「火伏せ」の由来については、当寺が新宿に在った頃、近隣火災
   の折、大黒天が大団扇を持って現れ、類焼から守ったことによるといわれています。
   以後、火伏せの守り神として今も、甲子の日に「大黒天甲子祭」が行われています。
   墓地には、戯作者伊庭可笑・幕府医官林恒斎・初代杵屋三五郎の墓等があります。
   平成23年3月                         杉並区教育委員会

 三十番神・大黒天神・辨財天
 参道左に並んでいる。

 
淨行菩薩堂
 参道右にある。

 
未敷菩薩
 参道右にある露仏。

 火伏せの大黒天
 参道左の大黒寳殿に、高さ約12cmの木彫りの小さな大黒天が安置されている。この大黒天は、
高祖日蓮聖人の作と伝えられ、お経の「経」の字を形取っており、寛政六年(1794)御殿医木村
検校によって奉納されたものといわれている。「火伏せ」の由来は、寺が四谷三丁目に在ったころ、
近隣火災の折、大黒天が大団扇を持って現れ、類焼から守ったことによるといわれている。以後、火
伏せの守り神して今も、甲子の日に「大黒天甲子祭」が行われる。

 浜田屋彌兵衛の墓
 浜田山の地名の由来となった新宿浜田屋彌兵衛の墓所。

 双体道祖神
 境内にある。道祖神は民間信仰で、何処ぞの路傍(道端)に祀ってあったものを、区画整理か何か
で邪魔者扱いされ運んでこられたのだろう。罰当たりな奴らだ。

 大震災記念修繕供養塔
 境内にある。

 南山壽 稲澤家を祷る碑
 境内にある。

   南山壽不鶱不崩
   此語をその庭中の 假山にかりもちひて 稲澤家を祷
   文政二年 石工松鶴年


 
南無日蓮大聖人塔
 境内にある。

   南無日蓮大聖人

   弘安五壬午歳
   十月十三日入滅

   一天四海
   皆歸妙法

 
域山児玉先生頌徳之碑
 墓地にある。

 線塚(三味線塚)
 「いとづか」と読む。天保年間の江戸長唄の名手初代杵屋三五郎の碑。「花の友」「屋敷娘」「お
しゅん」などを作曲した。2基並んでいて、右側に『線塚』と刻む。左側の碑文は以下の通り。

   その昔の初音の人を 埋木に花咲きかえる 春と成りけり
   歌風 友の詫住居して 幾年か思い夢見し武蔵野糸塚


■永福北公園
 永福4丁目26番4号にある区立公園。


■村井かるた資料館

 永福4丁目32番22号の村井省三という人が個人で運営。日本初、世界3番目という資料館。日
本のかるた3000種 ごきぶりの描かれた「虫尽くしかるた」もある。何分個人なのでしばしば休
館もあり、要予約。 03-3322-1408 有料400円(200円)
 
 



【大宮】(おおみや)1~2丁目                   昭和43年7月1日
 和田村。明治11年「郡区町村編制法」により東多摩郡に所属、同22年「市制町村制」により
和田堀之内村大字和田字大宮、大正15年和田堀町大字大字和田字大宮、昭和7年東京市編入20
区増設により杉並区大宮町。同43年新住居表示により大宮町のほぼ全部に和泉町・松ノ木町・永
福町・成宗2~3丁目・堀之内2丁目の各ごく一部をあわせた町域を現行の「大宮」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『杉並区史』『杉並の歴史』など。

 
大宮の由来
 町名は大宮八幡宮による。源頼義が奥州征伐の尾崎山下の善福寺川へきて大空の白雲が八つ幡に
の棚引くようであるのを見て戦に臨み勝利した。康平六年(1063)その報賽(祈願成就のお礼)
のため源氏の氏神である石清水の八幡神を勧請した(天正十八年奥付の神社縁起)。善福寺川の沿
岸高台は住み着いたところであり住居跡などが出土している。この神社でも首長の方形周溝墓3基
が発見されている。元々神域だったところに八幡神という形で表したのだろう。頼義のことは何処
にもある話で嘘とも本当とも言い難い。八幡神は日本の原住系の神様、住吉神は渡来人の神様だる
から頼義でなくとも勧請できる。また頼義が布教者だったのかも知れない。この神社は社域が広大
であるところから「大宮」と呼ばれた。だから大宮は大宮八幡宮だ!
  


■鞍懸の松(和田の曲がり松)

 大宮1丁目2番11号の東北角にある。永福町駅北口商店街が方南通りにぶつかるところ大宮八幡
宮入口交差点から八幡通り(参道=鎌倉道)を入った中ほど左にある。『江戸名所図会』に、

   鞍懸の松は、大宮八幡宮の馬場先の大路、民家構えの外にあり、鬱蒼として繁茂せり。
   根より一丈ばかりに至りて屈曲せる故、土人和田の曲り松と称し或いは鞍懸の松共呼べ
   り。相伝う、八幡太郎義家朝臣奥州逆徒征伐の折、この松に鞍をかけられしより、しか
   と言うと。


 とある。この松が、松ノ木の地名の起こりだということになっている。私は違うと思う。松ノ木は
広大な松林があったことによるだろう。

   鞍掛けの松
   この前の道は、大宮八幡宮の参道です。参道に面して「鞍掛けの松」があります。この松
   の名称は、平安時代の武将源義家が、奥州遠征の折、この松の枝に馬の鞍を掛けた、とい
   う伝承に由来します。この伝承は、『江戸名所図会』(江戸時代の地誌)にも紹介されて
   います。松そのものは代替りしていますが、こうした伝承が地元に長く語り伝えられてき
   たことは、この地の歴史の古さを物語るものといえます。
   平成14年3月                         杉並区教育委員会
 


■水道局用地標柱

 大宮1丁目3番15号の水道道路に建っている。40cmばかりの石柱だ。

   水道局用地


■祭馬塔

 大宮1丁目4番12号の東北角、荒玉水道通りと大宮参道の交差点にある。しかしこれが一体全体
何を祀ってあるのかよく判らない。他所にはないらしく、HPなどを探しても、写真が1件紹介ある
のみ。杉並区の説明もない。馬捨場なのか? それにしては上水際とは不思議。
 後ろに「馬塔観音賽銭報告」とある、馬頭観音の心算か?


■郷土博物館(嵯峨公爵邸跡)
 
大宮1丁目20番8号、善福寺川を背にしてある。まず江戸時代の名主井口宅長屋門が移築され、
館の正門となっているのが面白い。残念なのは金をかけまいとして銅板葺きにしていることだ。世田
谷区が茅葺にして保存していることを考えれば、ここの区教委は横着だ。近代建築の本館には、郷土
の歴史が解る常設展示室と、企画展用の特別展示室、2階にビデオブースがある。裏手にある築20
0年ほどの古民家では、各種年中行事や講座が行われる他、毎週末午後囲炉裏でお茶が振舞われる。
この屋根も銅板葺きだ。何を考えてんのかねえ・・・敷地内にある庭石、白雲木はかつてここが愛新
覚羅浩の祖父宅だった故の縁の品。落着いた雰囲気に、隠れた見所の多い博物館だ。区営なのに珍し
く有料だ。杉並区は貧乏で余程困っているんだねぇ!
 平成14年頃から、北部の住宅を次々と立ち退かせている。もう2、30戸も立ち退いたろうか。
和田堀公園に組み込む予定らしい。昭和30年代だったら住宅はなかったよ。

 嵯峨浩(さがひろ)
 嵯峨公爵邸跡で満州皇帝愛親覚羅傳儀の弟傳傑に嫁いだ悲劇の王女浩(ひろ)はここで育った。戦後
夫は中共政府に捕らえられ、浩は二人の娘を連れて帰国、親子3人で暮らしていたが、自殺を仄めか
した青森県出身の男子学生(大久保武道)を伊豆まで説得に行った長女慧生(えいせい)は、大久保に
撃ち殺され、学生が自殺したため「天城心中」「天国に結ぶ恋」などと面白おかしく書きたてて悲恋
物語に仕立て上げたが、慧生にそんな気持ちは鵜の毛もなかった。その後浩は釈放された夫の許に戻
り、二人仲良く北京で寂滅為楽した。

 旧嵯峨侯爵邸庭石
 入口の長屋門を入った右手、巨木の下にある。

   郷土博物館の敷地は、嵯峨公勝侯爵の邸宅でした。公勝の孫娘浩は、「満州国皇帝」溥儀
   の弟溥傑に嫁ぐことになり、昭和12年4月31日この祖父の住まいから、沿道の住民に
   見送られ、結婚式場へと出立いたしました。当時を偲ぶものはもう何ものこっていません
   が、唯一、この庭石だけが、ほぼ元位置を保って往時を伝えています。


 二宮金次郎像
 この像は昭和12年杉並第八尋常小学校の創立5周年を記念して建てられたが、同40年代の校舎
改築の際に邪魔扱いされ、校外に出されたものが、平成5年に博物館に寄贈されたという。

 石仏群
 庚申供養塔 元禄六年(久我山3-14)
 不動尊 正徳元年(久我山3‐14)
 小御嶽石尊大權現・大天狗・小天狗(冨士信仰) 嘉永五年 久我山3‐14)
 (冨士信仰碑) 安政三年 久我山3‐14)
 庚申供養塔 寛政四年(伝上高井戸、環八・甲州街道交差点北)
 五輪塔 寛永十八年(伝上高井戸、環八・甲州街道交差点付近)
 地蔵尊台座道標 寛政十二年(高井戸東1丁目旧道)「南 上高井戸宿道 東 四ツ谷道 西 井
 之頭道」
 馬頭観音 明治4年4(高井戸東1丁目旧道)
 石橋供養塔 文化三年 念仏女講中(永福寺村)
 川中投身亡者供養塔 明治26年(高井戸西1-1 玉川上水で死んだ人を弔うために、環八中の
 橋側に建てられていたものとか。

 旧井口家住宅長屋門
 元、宮前5丁目の井口桂策家の表門で、昭和49年に杉並区へ寄贈されたもの。中央を通路、右手
を土間の納屋とし、左手の蔵屋には年貢米を収納した。長屋門は格式や権威を示す象徴的な建物で、
大宮前新田を開発し、代々名主を勤めた井口家の格式の高さが窺える。建築年代は江戸時代の文化・
文政年間(1804~1829)と推定されている。杉並区指定有形文化財(建造物)。

   杉並区指定有形文化財(建造物)旧井口家住宅長屋門
   この建物は、もと宮前五丁目、井口桂策家の表門でしたが、昭和49年に杉並区に寄贈さ
   れたものです。
   この門は長屋門といい、中央を通路、右手を土間の納屋とし、左手の蔵屋には年貢米を収
   納していました。長屋門は格式や権威を示す象徴的な建物で、大宮前新田を開発し、代々
   名主を務めた井口家の格式の高さがうかがえます。
   建築年代は江戸時代の文化・文政年間(1804~1829)頃推定されています。なお
   屋根は元茅葺でしたが、防火上、茅葺屋根の形に銅版で葺かれています。

 旧篠崎家住宅主屋
 区内にあった古民家。

   杉並区指定有形文化財(建造物)旧篠崎家住宅主屋
   この建物は、下井草5丁目篠崎義治家の住まいで、昭和48年に杉並区へ寄贈されたもの
   です。間取りは、三間取り広間型と呼ばれ、江戸時代の中頃までは一般的な間取り形式で
   した。特徴としては、区内に多く植林されていた杉が大黒柱に用いられていることです。
   建築年代は江戸時代の寛政年間(1789~1800)と推定されています。屋根はもと
   茅葺でしたが、防火のために茅葺屋根の形に銅板で葺かれています。

 杉並文学館 井伏鱒二と阿佐谷文士
 開館10年目に開館した。井伏鱒二は昭和2年に荻窪へ移り住み、平成5年に同地で95歳の生涯
を閉じた。井伏鱒二は、この激しいうねりの中で共に悩み、苦しみ、支え合った往時の文学青年仲間
のことや、親交を結んだ地元の人々とのこと、荻窪界隈の変貌ぶりなどに想いを馳せ、そこに自らの
半生を重ねて「豊多摩郡井荻村」全17編を綴り「荻窪風土記」と題した。

 常設展示室
 杉並の地形や遺跡の分布を示した模型や。やや右手奥にある大きな絵。大正時代に描かれた高橋松
亭による「高井戸の夕立」という作品が展示してある。これは実在の風景というよりも、昔を偲んで
描かれた、杉並・高井戸のイメージ画です。当館のシンボルとなっている。
 


■「空を」像

 大宮1丁目21番24号の善福寺川遊歩道にある空を見上げている子供像。


■和田堀公園

 大宮1・2丁目、成田東1・2丁目、成田西1丁目・堀ノ内1・2丁目、松ノ木1丁目に跨る善福
寺川沿線の都立公園。昭和39年開園。23区内では数少ない閑静かつ広大な緑地帯により形成され
た公園だ。住民の憩いの場としては勿論、遠方からの来訪者も多い。春には桜の名所として多くの来
訪者が訪れる。しかし近年の水害対策で桜の伐採が予定されており、川沿いの桜並木は大半が失われ
るようだ。
 12の橋が渡される川伝いの公園。当地は地盤が低く、住宅地の低層を蛇行する善福寺川は氾濫を
繰り返す歴史がある。氾濫により自然に溜池が作られ、古くから水はけの悪い土地だ。戦後の宅地化
が進む中、河川を改修して周囲に池を作り、遊具や広場を整備し公園として開園した。現在では武蔵
野の自然が調和した公園となっているが、都市化とその治水整備のために、その自然も次第に危ぶま
れている。
 白山前橋(和田堀公園西端の小山広場近く)を境に、上流には善福寺川緑地が広がる。名称は異な
るものの、緑地帯として連続性ある空間を構成している。周辺一帯は杉並区内で最も緑が多い地域で
ある。公園内の樹林は東京都保護樹林に指定されている。希少鳥類の観測地として知られカワセミ、
ジョウビタキ、ウグイスの姿も観測される。公園内では野鳥観察を楽しむ来訪者も多い。
 公園内は野球場、陸上競技場、テニスコート、バーベキュー広場、サイクリング広場など、公園施
設とスポーツ施設が整備されている。野球場は善福寺川との間に高低差を設け善福寺川増水時の調整
池として使用される外、災害時の避難場所としての機能を持つ。公園内全域が東京都の防災公園(大
規模救出活動拠点)に指定されており、陸上競技場は大型ヘリコプターが発着できるヘリポートとし
て設計されている。公園内には応急急水槽、防火水槽、災害対応トイレ、ソーラー発電街灯、かまど
が設置されている。

 自然環境と治水対策
 現在では治水工事によりかつてほど善福寺川の氾濫は見られないが、長雨や集中豪雨により川が氾
濫することがある。増水時の対策として橋周囲に観測カメラや水量計、防災警報が設置され土嚢が常
時準備されている。平成17年9月4日に発生した集中豪雨により浸水被害が発生している。この治
水対策は段階的に進められているが、その一方で、様々な問題点が指摘されている。その主なものと
して、川沿いの桜並木の剪定と伐採、カワセミの生存危機、和田堀池の水質悪化がある。今後、河川
整備工事が上流へ進み、希少鳥類のカワセミが営巣するエリアに到達するため、その生存維持が危惧
されている。自然や環境保護と両立させながら、慎重に治水対策を行うことが、今後の課題となって
いる。


大宮八幡宮
 大宮2丁目3番1号に或る区内屈指の大社で、応神天皇・仲哀天王・神功皇后を祀った和田村の鎮
守。『大宮八幡宮史』に、

   第70代後冷泉天皇の天喜年中(1053~57)のこと。奥州に乱が起き、この乱を鎮
   めよとの勅命をうけた鎮守府将軍源頼義の軍がこの大宮の地に差しかかると、大空に白雲
   が八条に棚引いて、恰も源氏の白旗が翻えるような光景となった。頼義は「これは八幡大神
   の御守護の験である」と喜ばれ、乱を鎮めた暁には必ずこの地に神社を構えることを誓っ
   て、武運を祈り出陣した。そして康平六年(1063)頼義が奥州の豪族阿倍氏を征伐し
   て凱旋の折、京の石清水八幡宮の分神を勧請したのが創建の縁起だ。またその子八幡太郎
   義家も後三年の役の後、寛治六年(1092)源義家が社殿を修復し、1000本の若松
   の苗を植えた」と伝えている。またかつては武蔵国3大宮の一つ「多摩の大宮」と称され
   ていたが、昭和44年に境内の北端に続く旧境内地から弥生時代の祭祀遺跡が発掘され、
   この辺りは太古の昔から聖域であったことが判明した。今や大東京の重心「東京のへそ」
   として、神々の記憶と数々の日本の歴史へと誘う胎内回帰の出来る神秘的な場所とされて
   いる。鎌倉時代には幕府より毎年奉幣使が派遣された。天正十九年(1591)に徳川氏
   より30石の朱印状が寄進され、幕末には将軍・御三家が社参した。


 と記してある。紀州熊野那智神社の『米良文書』に、

   貞治元年(1362)に大宮住僧三人が那智神社に参拝

 と記してあり、当時から大社だったことが判る。広大な境内地を持つ大社なので、大宮八幡と名付
けられ、さいたま市の氷川神社、秩父市の秩父神社とともに〝武蔵国の3大社〟に数えられた。江戸
時代社域は60000坪、明治維新で暴力団のような明治政府に30000坪を強奪され、現在は公
園や道路に切り取られ13000坪ばかりになってしまったが、明治神宮・靖国神社に次いで都内第
3位の広さだ。
 戦前の社格は府社だったが、昭和41年に旧官国幣社に準ずる別表神社に昇格し、同56年明治以
来の大宮八幡神社を改めて「大宮八幡宮」となった。旧社名標柱は北門の前に移されている。境内に
は菩提樹・黒樫をはじめ樹木が多く、社叢全体が都の天然記念物に指定されている。宝物殿には太閤
秀吉の制札・伝由井正雪の絵馬・弓道の献額・山岡鉄舟筆の幟・古文書などが収蔵してある。

 庚申塔
 入口前左手傾斜面にある。

 
由緒書き
 入口を入った第一鳥居前左手にある。

   神社本庁別表神社
   
多摩乃大宮・武蔵国八幡一宮
   
大 宮 八 幡 宮
   御祭神
   応神天皇(品陀和氣命  第十五代の天皇)
   仲哀天皇(帯中津日子命 応神天皇の父君)
   神功皇后(息長帯日賣命 応神天皇の母君)
   御由緒と御神徳
   大宮遺跡の存在でも明らかなように、この大宮台地は古代より神霊の坐す聖域でありまし
   た。社伝によれば第70代後冷泉天皇の時、天喜年中(1053~1057)鎮守府将軍
   源頼義公が奥州兵乱平定の途次、この地で長男の八幡八郎義家等と倶に白雲八ツ幡の瑞祥
   を見て戦勝を祈願され、平定後の康平六年(1063)源氏の祖神である京都石清水八幡
   宮の八幡大神を勧請、当宮が創建されました。以来多くの人々の崇敬が篤く神域も殊の外
   宏大でありましたので武蔵国の三大宮の一つ、「多摩の大宮」と呼ばれていました。
   
源氏一位門の徳川家康公も江戸開府にあたり当宮にも参詣、以降歴代の将軍より崇敬され
   朱印三十石を賜りました。御祭神親子三神の御神威により子育(安産)守護、家庭円満、
   厄難除け、諸願成就の神として信仰が篤く、近年は、神々の記憶とわが国の歴史へ誘う、
   東京の重心「東京のへそ」・「子育厄除八幡さま」と讃えられています。
   なお大宮、方南、和田、松ノ木の各氏子地域の氏神様であります。
   大祭
   春の大祭(尚武祭・つつじ祭)  五月五日
   例大祭(大宮八幡祭・秋の大祭) 九月十五日
   新嘗祭             十一月二十三日
   中祭
   歳旦祭(一月一日)元始祭(一月三日)紀元祭(二月十一日)天長祭(十二月二十三日)
   小祭・遥拝等
   朔旦祭(毎月一日) 月次祭(毎月十五日) 節分祭(二月節分)
   子供祭(五月三日) 除夜祭(十二月三十一日)
   大祓い(六月三十日及び十二月三十一日)武蔵野陵、畝傍山東北陵、本宮遥拝他
   七夕、気巧輿飾り(七月一日~十五日) 菊被綿飾り(九月九日より大宮八幡祭り)


 表参道 第一鳥居
 昭和29年に再建されたもので、柱の径90cm・高さ8mの大鳥居。昭和61年と平成13年に
改修された。ここから社殿に向かって250m程の石畳の参道が続く。頭上には桜木が枝を伸ばし、
4月には満開の桜が参拝者の目を楽しませている。

 
石灯籠一対①
 第一鳥居の後にある。

 
表参道 第二鳥居
 表参道の中程にある。

 表参道のつつじ
 表参道の両脇には沢山のつつじが植わっている。社叢につつじが多いのは、徳川3代将軍家光の発
願で1000株の山つつじが植えられ、満開時には境内が紅に輝いて「山照らし」と称賛されたもの
だ。その後もつつじは植えられ、現在は16種6000株ある。ゴールデンウィークは春の大祭(つ
つじ祭)として、5月1日の朔旦祭に合わせつつじ育木祭を、2日には全国植樹祭に合わせ植樹祭を
斎行しつつじを植樹している。3日にはお稚児さんが稚児衣装に着飾って色とりどりのつつじの咲き
乱れる中を練り歩く。
 つつじを「躑躅」と書くのは、この語が「てきちょく」と読み、逡巡と同じで、行きつ戻りつする
こと。あまりの花の美しさに見とれて佇んでしまう義から当て字された。

   山照らしつつじ
   このつつじは、社伝によりますと3代将軍家光公の命により植樹されたものと伝えられて
   おります。江戸時代の境内の様子を新井白石はその書簡の中で「私宅(新宿)より一里余
   西北の方に大宮と申し候て此辺の名社有之候是は衆人群集し候て花を賞し候処に候故春某
   罷越し見候・・・」と述べております。
   このつつじの満開の頃様が、さながら山を照らす様な壮観さから、何時しか「山照らしつ
   つじ」と称されるようになったと云われております。
   この由緒からつつじの見頃の5月1日から5日まで執り行われる春の大祭をつつじ祭りと
   もいいます。                             大宮八幡宮


 
石灯籠一対➁
 神門前にある。

 境内末社
 大宮天満宮・大宮稲荷神社・若宮八幡神社・御嶽榛名神社・三宝荒神社・白幡宮・多摩清水の社。 
 「桜樹木千本」の碑
 参道、神門前辺りの左手にある。大正5年の建立、

   大宮八幡神社
   
桜樹木千本境内植附
   大正五年
     三月吉日 東京水天宮前  行者
          松島多喜蔵   砂塚寛■
          松 ノ 木   彫刻
          松島嘉■蔵   小林菊水■

 句碑
 その隣にある。裏に大場美夜子とあるが、永福2丁目の大場家の奥方か娘かな。碑陰、「若葉同人
雪解川誌友建之」 昭和61年建碑。

   
神木にはた献木に風薫る 美夜子

 
新東京名勝選外十六景の碑
 8名勝に漏れた十六景の13番目だとか。昭和7年に建てたもので、揮毫は東京市長永田秀次郎。
 
区の説明板・標柱
 神門向かいにある。

   大宮八幡宮
   当宮は古く、江戸八箇所八幡のうちに数えられた大社です。大宮とよばれるのは、往古か
   ら広大な境内をもつ社であったことから、社名とも、また鎮座地の地名にもなったといわ
   れています。
   祭神は応神天皇(誉田別尊)、仲哀天皇(帯仲彦尊)、神功皇后(息長足比売尊)の3神
   で、創立については、当宮の縁起(天正十九年奥付)に「平安時代末、源頼義が奥州へ出
   陣の際、当地で白雲が八つ幡のように棚引く瑞祥をみて、八幡大神の霊威を感じ勝利を得
   ることができた。この報賽のため康平六年(1063)、この地に源氏の氏神である八幡
   神を祀ったのが、当宮の起源である」と記されています。
   南北朝時代の貞治元年(1362)十二月、大宮の社僧が紀伊国(和歌山県)熊野那智大
   社に納めた願文の写し(米良文書)があり、これによると、その頃から当宮に奉仕する社
   僧のいたことがわかります。徳川時代には代々朱印地30石を与えられて、大名や武士た
   ちからも武勇の神として崇敬されてきました。
   昭和44年には、善福寺川に面する旧境内地から、首長の墓とみられる方形周溝墓三基が
   発掘されました。また対岸の松ノ木台地からも竪穴住居あと群や、縄文・弥生・古墳時代
   の各期に亘る遺物が数多く出土しているので、当宮の周辺は、古くから集落がいとなまれ
   その中心地として重要な地域であったことがうかがわれます。
   社宝には、豊臣秀吉の制札・由比正雪の絵額・山岡鉄舟筆の幟・武術練達祈願の額などが
   あります。
   昭和55年2月20日                      杉並区教育委員会


 木村日立介・前田孫四郎 制札一枚 杉並区指定有形文化財
 杉並区指定有形文化財 木造随身坐像 
 杉並区指定有形文化財 (和田堀公園大宮遺跡)方形周講墓出土遺物

 句碑
 多摩清水社前にある。

   
広き野に霊の清水のあるところ 青畝

 茶室入口にこの句碑があるが、この多摩の清水は「多摩の大宮」といわれた武蔵野の昔を想望して
作られ、今なお、神水が湧き出ている。また別途に調整し、祈祷した延命祈祷水を「多摩の大宮水」
として授与している。


   広き野に霊の清水のあるところ 青畝
   当大宮八幡宮は附近から祭祀遺跡が発掘されるなど神代より聖地に相応しいところで、古
   くは多摩の大宮と称されました。この武蔵野の昔を想望して作られた句。平成元年作。阿
   波野青畝(あわのせいほ)明治32年生。俳誌「かつらぎ」主催者。

 御神水標柱と亀像
 多摩清水社の前にある。 


 
多摩清水社
 参道の終わるところの右手にある境内末社。小さな祠。

   多摩清水乃社(水神様)        例祭(多摩清水祭)8月1日(水の日)
   延命長寿・厄除開運の泉
   
御神水(波動水)
   水は生きる者にとって大切なもの。常に敬神し感謝の念をもって御神水をお受けになり、
   ご神徳を得られますようお祈り致します
   給水時間 夏期 午前6時~午後6時
        冬期 午前6時~午後3時
   初穂料はお賽銭箱にお納め下さい                    大宮八幡宮

   

 通仙庵・神泉亭
 多摩清水社の奥にある茶室。

 
南参道入口(社号石塔と鳥居)
 自動車社会に対応する為昭和58年の御鎮座920年記念事業で南参道が整備され、この大鳥居は
日本初のステンレス製の鳥居として建立された。更に平成15年の御鎮座940年記念事業に際し、
南参道入口の三角地を石玉垣で囲い、内に財団法人日本さくらの会会長衆議院議長綿貫民輔氏揮毫の
「大宮八幡宮」の社号碑と大平燈籠を建立し、南参道入口に相応しい佇まいとなった。

   この社号標はもと表参道にあったものですが、神社名が「大宮八幡神社」から「大宮八幡
   宮」と変りましたので新社号標の建立を機(昭和56年9月)に、ここに移設し記念のた
   め保存するものです。                         大宮八幡宮


 
幸福撫でカエル岩
 神門前左手にある蝦蟇蛙のように見える神岩。

■神域

 神門
 神域正面にある。

 男銀杏女銀杏(夫婦銀杏)
 神門を入った参道左右にあるイチョウの木。夫婦はかくのごとく仲むつまじくあるべし。見上げて
びっくり。夫婦和合のシンボル。11月ともなると秋風に色づいて、七五三詣に賑わう境内に彩りを
添えてくれる。 男銀杏の高さは約26m。

 なんじゃもんじゃ
 神門を入った右手にあるヒトツパタゴの木。これは明治神宮外苑にあったものを、平成11年に神
宮より頂戴して移植した。道理でいくら探してもない訳だ。外苑を探し回ったもんなぁ。いろんな人
の植樹がある。ミスさくらの枝垂桜もある。

 伝松平秀康側室清涼院お手植えの菩提樹
 清楚な気品漂う夏の風物詩。社殿前で大空をさして幾重にも枝を茂らせる。松平秀康の夫人で当宮
を篤く崇敬された清涼院のお手植えと伝えられている。6月の中旬には、淡黄色の小花を一面につけ
清楚な気品のある香りを漂わせる。花が散ると樹下は一面、黄色の絨毯を敷いたようになる。

   菩提樹
   松平秀康(1574~1607)は、徳川家康の次男として生まれ、初め豊臣秀吉の養子
   となり結城の姓を授かる。慶長五年(1600)関ケ原の戦功により越前藩主に封ぜられ
   松平秀康と名乗る時に清涼院を側室に迎える。
   清涼院は当宮を崇敬し、ご参拝の折に、この菩提樹を植樹されたと伝えている。
                                        社務所
   杉並区貴重木 平成14年4月18日


 
神楽殿
 神門の右手方向にある。正面に大宮天満宮がある。

 大賀蓮
 
神楽殿の横にある。昭和26年に大賀一郎博士が、千葉県検見川の泥炭層から発見し栽培したとこ
ろ開化した。開創940年祭記念として、大賀博士の甥の神門長良が寄進した。

   大賀蓮(縄文蓮)
   昭和26年故大賀一郎博士が千葉県検見川の泥炭層の中より2000年前の古ハスの実を
   発掘、発芽に成功され世界的に有名になった大賀蓮、御鎮座940年奉祝記念として神奈
   川県在住の博士の神門長良氏より奉納されたもの
   平成16年3月3日                          大宮八幡宮


 
三笠宮御手植え松
 拝殿右手にある。

   三笠宮同妃両殿下御手植
   御参拝 平成二十年十月三十一日

 赤門標柱
 北神門前にある。

    赤門 神社北門として由緒あり
    御鎮座九百二十年記念 

 北神門(赤門)
 北参道から神域に入る門。元々正門で御鎮座九百年に現在の位置に移築された。今回改修工事に当
たり朱を塗り直す際、釘で書いたような209年前の「寛政七卯年 五月三日 中山□□ 中根□□」と
いう書き込みが扉板より発見され、区の文化委員会の鑑定で江戸中期以前のものと認められた。

 大宮八幡神社沿革碑
 篆額は徳川家16代徳川家達。大正8年建立。

   大宮八幡神社沿革碑         公爵徳川家達篆額(徳川家16代当主)
   武蔵の國豊多摩郡和田堀内村に祠あり、曰く大宮八幡。流域は廣間に而て、老杉の森は、
   雲霄を列勢す。相傳るは、源頼義が東征の次、武蔵阿佐谷に雲氣起ち、其の上に白幡の如
   きが揺れ曳けり。頼義謂く、是れ八幡の神の示す吉兆也と。進軍を遂げ、賊を平し、乃に
   祠を創る。此の時、康平六年(1063)也。後に義家、祠を更修し、封戸を定め、寳仙
   寺を建つる。別當と為し、僧坊十二を置き、鹿島より松の笛、千株を移植す。
   鎌倉幕府の賽を以て、建増し之を修す。輪奐を窮むを以て、永享元年(1492)に寳仙
   寺を中野郷に移し、一宇を営む。祠の旁に大宮寺と名し、以て別當に充てる。
   永禄中に、上杉・北條の二氏、干戈を交え、此祠・僧坊盡く兵燹に罹る。天正二年(15
   74)有た、大石信濃守は、重ねてこれを建つる。 

   徳川氏は、初たに、社領30石と定め、朱印状を付す。且つ躑躅を御手洗川の上に多く栽
   す。是より歴世尊崇し、大将軍は必ず親しく参拝す。頃者、村の有志の者、胥に謀りて、
   社殿の繕ひ、歩道を修し、櫻樹・数百章を列楦す。老杉と相錯りて、幽遂浄潔にして、人
   に益々崇敬の心を起さしむ。
   因て碑を樹て、以って沿革を記せんと欲して、人を介し余文余謂を請うは、此の擧なり。
   以って人心を淳し、流俗を振し、国家に崇神の旨を深め合いて、其れ、世に教ふるに功有
   ること、大なる矣。乃ち喜びて、詞を繋ぎて曰く。
   斯に屹す古河は 源氏が創に自る 鎌倉江戸と 世に歴り禋祀す
   廟貌は茲す新にして 神威は顯に赫く 碑は樹て銘を勒み 以って因革を記す
   大正8年9月                           池田四郎次郎撰
                                    齋 藤 政 徳 書


 力石石庭
 北神門を入った右手にある。御鎮座940年奉祝記念。この力石は明治・大正時代に近村の若者が
力を競ったもの。力石は一つに「担ぎ石」とも「盤持石(いわもちいし)」とも呼ばれ、最大のもの
は50貫(187Kg)もの重さがある。

   力石
   炎天を躱す力や力石(しずく)
   力石は、江戸時代の頃より氏子や近村の若者達が当社集い力競べの神事をする為に奉納さ
   れるもので「担ぎ石」又は「盤持石」とも呼ばれています。この力石は明治・大正時代に
   奉納されたもので、現在重さ27貫(101Kg)から最大50貫(187Kg)までの
   力石14個があります。                        大宮八幡宮

 大野とくよ句碑・副碑
 天満宮前にある。

   さまよえる こゝろ何を欲す 天上界に咲く 桃の花   とくよ

   桃の歌人
   大野とくよ卆寿記念第三歌碑
   平成二十五年十一月九日建立
   発起人
   及川隆彦 酒井佐恵 篠弘
   西岡充秋 本阿弥秀雄
   黒沢信男 山下雅人 大野かおる
   和田西町会長 藤枝宏友
   氏子総代   飯高今朝資
   石材店主   池亀正之
   大宮八幡宮 宮司 鎌田紀彦
   御鎮座九百五十年式年奉祝


 大宮天満宮
 宝物殿の右にある菅原道真を祀る神社。菅原道真といえば学問の神様として知られている。京都の
北野天満宮、福岡の太宰府天満宮、大阪の天満宮などが有名だが、当宮でも合格祈願のお詣りが盛ん
だ。平成14年は菅公ご神忌1100年祭が全国の天満宮で斎行された。毎月25日には、大宮天神
月次祭、7月24・25日には大宮天神こどもまつりを斎行している。

   大宮天満宮は菅原道真公をお祀りし、受験合格・学業成就の神として信仰が篤く、1月2
   5日は初天神。特に7月25日は納涼天神祭には、凡そ200基の書画行燈が点灯され、
   「時間をはずした日の祭事」として和太鼓の奉納演奏もあり、近年多くの参拝者で賑わう
   夏の風物詩となっています。
   東照神君徳川家康公を祀る東照宮は徳川幕府や武門の崇敬篤く別格の末社とされてきまし
   た。
   天祖神社は、〝お伊勢さま〟をお祀りし、室町時代に以降の当宮と伊勢の神宮とのつなが
   りを示す神社です。また三崎神社と山神社はこの大宮台地の地主神をお祀りする神社で境
   内社の中では最も古いやしろです。                   大宮八幡宮

 天満宮奉納刻字書
 天満宮社殿にある。

   
明徳

   


 宝物殿
 社殿右にある。

 ・随身像
 
 当宮旧拝殿に安置(現在は宝物殿に所蔵)されていた木造著色随身像一対は杉並区指定有形文
  化財に指定されている。この像は、神社関係の彫刻としては全国的にも珍しいもので、2体一
  対の像がほぼ完全な姿で保存され、しかも、体内の銘板によって明和3年(1766)の製作
  で、作者が大仏師「左近」、名主梅田武右衛門他12名の願主の名前が明らかで、木彫りの技
  術からも「左近」は一流の仏師と考えられる。いずれにせよ、江戸時代の随身像として美術的
  にも優れた作品で、銘板による制作当時の状況を知る上で極めて価値が高い。

   杉並区指定有形文化財
   
造随身坐像一対
   平成8年12月25日指定
   江戸時代中期の大仏師「左近」の作である、この木造随身坐像は、もともと拝殿の階段脇
   に安置されていましたが、現在は当宮の宝物殿に保管されています。本像は若者像と老人
   像とで対をなし、共に全体的に厚く着色が施され、白色の顔料に朱の唇を描く顔面や衣服
   の絵柄文様もよく残り、保存も良好といえます。
   また、若者像の体内からは製作年、作者・願主を記した銘板が発見され、本像を製作した
   背景もよくわかります。美術・技術的にも優れ神社関係の彫像としても貴重な資料です。
                                   杉並区教育委員会


 ・秀吉の制札
  小田原征伐の折、太閤秀吉が木村常陸介重茲(しげよし、しげとし)と前田孫四郎利長を派遣
  し、大宮八幡での殺生、人馬の通行、竹木の伐採を禁じた。自然保護、乱開発防止を前面に押
  し出して大宮を守った。この制札は、杉板に墨で書かれているが、現在は墨色が掠れ漸く判読
  できる程度だが、戦国時代の貴重な資料として杉並区の登録有形文化財に指定されている。

   杉並区指定有形文化財
   木村常陸介・前田孫四郎制札一枚
   昭和59年3月31日指定 
   
豊臣秀吉は天下統一に際し、小田原北条氏を包囲中、その支配下にあった八王子城を攻撃
   し、天正十八年(1590)六月二十三日に落城させました。当宮の宝物殿に納められて
   いる制札は、その天正十八年六月二十四日豊臣家臣木村常陸介・前田孫四郎利長の両部将
   名で当宮に発給されたもので、境内での殺生、人馬の通行、竹木伐採を堅く禁じています。
   本制札は、豊臣軍によって当宮の保安がはかられたことを示すものとして、又区内に残る
   江戸時代以前の唯一の制札として、貴重なものです。        杉並区教育委員会


 ・中世瓦
  
当宮の「旧社殿」跡より出土した瓦(3点)が杉並区の登録有形文化財に指定されている。こ
  の瓦は、戦前既にに出土していたが、平成7年の杉並区教育委員会による調査の結果、鎌倉編
  年第三期の様式を持ち、年代は13世紀後半から14世紀中葉のものと推定される。この年代
  の瓦の出土は東京都内でも数例を数えるのみで、当時の大宮八幡宮の宮勢の一端を物語る遺物
  として貴重なものだ。

 ・由井正雪の絵馬
  
慶安四年、由井正雪が兵を挙げる際に当宮に祈願奉納したと云われている絵馬。黒塗地に金泥
  で枯松に鷹が描かれているのだが、今は黒く古色蒼然として判読が難しくなっている。文化十
  年の『十方庵遊歴雑記』には「有徳尊君(吉宗)当社に御成りあらせたまひし時、此絵馬を上
  覧ありて、是ぞ正雪が自筆なりとのたまふ」とあり、八代将軍吉宗が自ら鑑定を行い、正雪自
  筆の絵馬であると断定した云わば将軍お墨付きの絵馬であるとの記事がある。

 ・大宮遺跡より出土した縄文・弥生期の土器

  
昭和44年の調査で当宮北側の善福寺川沿いの大宮遺跡より、弥生時代末の「方形周溝墓」3
  基が見つかり、石器や土器・勾玉等が出土した。この遺跡は族長の祭祀跡で、対岸の松の木遺
  跡との関連からもこの杜が当宮御鎮座以前からの聖域であったことが窺われる。

   杉並区指定有形文化財
   
和田堀公園大宮遺跡方形周溝墓出土遺物
   昭和57年11月1日指定
   現在、大宮八幡宮清涼殿並びに杉並区立郷土博物館に保管・展示されている遺物は、方形
   周溝墓(弥生時代の首長クラスの人の墓)内から出土したもので、壺形土器5点、台付土
   器1点、勾玉1点、ガラス小玉12点にのぼります。土器類は弥生時代後期のもので彩色
   ・精緻な文様が施文され、区内唯一の出土例である玉類は、墓の主体部付近で発見された
   こともあり、被葬者が生前装着したまま埋葬されたことを物語っています。
                                   杉並区教育委員会


 拝殿本殿
 神門正面にある主殿。現在の御社殿は、御鎮座900年を記念の御造営で、昭和40年落成。鎮座
地の「大宮」という地名は、当宮の神域が広大であったことから名づけられた。現在の境内も150
00坪になる。いってみれば「大宮八幡宮」は「大宮にある大きな八幡宮」の意だ。

 
明和八年銘石造狛犬 ✓
 稲荷社の前にある。この狛犬は、安山岩で造られ、阿形像・吽形像とも顔の表情の他は殆ど同じ寸
法で造られているものの、僅かに吽形像の顔幅と体躯幅が大きめである。両像とも高さ40cm、幅
22cm、阿形(向かって右)全高144.8cm、高さ(台座含む)53cm、幅頭部13cm。 阿・吽両像・台石(後補あり)ともに比較的保存状態が良く、狛犬像底部台座に一部欠損が見られ
る他は、建造当初の姿を残しているといえよう。両像台座の欠損箇所は、台座後方の2箇所であり、
狛犬像尾部を頂点として斜位に打ち欠かれ、五角形を呈している。なお、今日、狛犬像は淡緑色を帯
びているが、これは石材の色ではなく、植物性のものである。

   平成二十五年二月十三日 指定
   
杉並区指定
   
有形文化財 明和八年銘石造狛犬
                   杉並区教育委員会

 大宮稲荷神社・三宝荒神社・白山神社
 社殿左にある。赤い鳥居をいくつも潜って参拝。大宮稲荷神社は衣食住の神として信仰され、特に
当宮と姉妹友好神社の宮城県・竹駒神社が合祀されている。初午(2月の初めの午の日)。この日は
稲荷大神が京都伏見の峰に天下りした日だが、当宮でも大宮稲荷神社で初午祭が行われる。大宮八幡
宮御鎮座940年記念事業で再建された稲荷鳥居6基の朱が映える中、社殿前両側には、崇敬者より
奉納された朱幟が立ち並び、毎年2月初めの午の日、午後1時より斎行される。また大宮三宝荒神社
は竈の神、私どもの生活守護の神として崇敬も篤い。

   大宮稲荷神社は衣食住の神として信仰され、特に当宮と姉妹友好神社の宮城県・竹駒神社
   が合祀されています。毎年、初午祭に氏子・崇敬者より朱幟が奉納されます。
   大宮三宝荒神社は竃の神、私どもの生活守護の神として崇敬も篤く、歳末には「大宮三宝
   荒神」様の神札を多くの方々にお受け頂いております。
   白山神社の御祭神は白山比咩神(菊理媛)で、五穀豊穣、生業繁盛、開運招福の御神徳が
   あります。                              大宮八幡宮


 若宮八幡神社・白旗社・御嶽榛名神社
 稲荷社の左隣にある。境内末社として「武州御嶽神社」「上州榛名神社」のご分霊を戴き、「御嶽
・榛名神社」として祀っている。江戸時代より農業・養蚕の神として講中を作り信仰されてきた。現
在でも、5月16日に御嶽・榛名講大松支部の講員が参列し、例祭を斎行致している。若宮八幡神社
は八幡大神(応神天皇)の御子神の仁徳天皇が祀っているが、若宮は別宮(わけみや)でもあり、八
幡大神の荒御魂を祀っているとも伝えられている。また白幡宮は当宮を創建された源頼義とその子の
八幡太郎源義家の霊が祀ってあり、若宮八幡・白幡宮はとりわけ本社と縁の深い祭神を祀る社だ。秋
には大宮八幡祭りに合わせ若宮八幡神社・白幡宮の例祭を斎行している。

   若宮八幡神社は八幡神(応神天皇)の御子神の仁徳天皇がお祀りされていますが若宮は別
   宮でもあり、八幡大神の荒神魂をお祀りしているとも云われます。白幡宮は当宮を創建さ
   れた源頼義公とその子の八幡太郎義家公の御神霊がお祀りされております。御嶽榛名神社
   は、当宮氏子内の御嶽榛名講の人々によって崇敬されてきたお社です。   大宮八幡宮

 共生の木(ともいきのき)
 境内摂社前にある。ともに生きる!共生の木。栢の木に犬桜が寄生している。古代よりの武蔵野の
社叢の中で、2つの異なる木が、1本の幹で結ばれ、助け合いながら生き続けている姿は、まさに共
生(国際協調、宗教協力、相互扶助、夫婦和合など)を示唆している神木だ。

   古代よりの武蔵野の社叢(都指定天然記念物)の中で異なる二つの木が一本の幹で結ばれ
   扶け合い生きづいている姿は、将に共生(国際協調、宗教協力、相互扶助、夫婦和合等)
   を示唆しているご神木です。                        社務所

 大宮桜
 社殿左の広場にある。

 義家御手植えの松跡
 社殿左の広場にあった。義家が手植えした千本の松。往昔のロマンを偲ぶ「由緒」のコーナーにあ
るように、当宮は源頼義によって創建されたが、その子の八幡太郎義家も後三年の役の後、父に倣っ
て当宮の社殿を修築し、境内に千本の若松の苗を植えたといわれている。時代が下って、享保年間に
は新井白石が「大宮の松の如くに長大に見事なるものにて、しかも数多きは見及ばぬ事」と感嘆して
いるが、当時の巨松は残念ながら枯損して、今はその遺株に2代目の松が植えられている。

   源義家公お手植松跡
   ここは、八幡太郎源義家公お手植松の遺跡であります。寛治元年(1087)後三年の役
   にて、奥州平定の帰途、義家公は奥州征伐のため当宮に参拝され、千本の若松を神蜮に植
   樹されました。
   享保年間(1716~1736)新井白石は「大宮の松の如くに長大に見事なるものにて
   しかも数多きは見及ばぬ事」と感嘆しておりますが、往時の巨松(目通り周囲5.45m)
   も今は枯損して面影もなく、その遺株に植られた松に往昔が偲ばれます。尚義家公縁の「鞍
   掛の松」が表参道門前町商店街の中程(旧参道入口)に在ります。     大宮八幡宮

 神輿庫
 長~い庫。立派な神輿がガラス障子越しに眺めることができる。

   神輿庫
   ここに陳列されている神輿は当宮の秋の例祭(9月15日)の折に氏子内14ヶ所の神幸
   所に奉安されて町を巡行する町内神輿です。子供神輿も含めてその数29基をこの中本地
   区を代表する神輿7基は例祭当日夜壮観な合同宮入を行います。        社務所
 


■神域外境内

 
大宮遺跡

 大宮2丁目3番1号、善福寺川右岸台地上(比高11m)の際に立地し、大宮八幡宮の北門前に位
置する。縄文時代草創期、早期、前期などを中心に古墳時代にかけての遺物が出土しているが昭和4
4年区教育委員会が実施した調査では、弥生時代終末期の方形周溝墓が3基検出された。第一号周溝
墓の主体部からは勾玉1個とガラス小玉12個、周溝中からは底部穿孔の壷形土器9個体分と小型壷
形土器1個が出土した。なおその後の調査で、これらの西隣にもさらに1基の方形周溝墓のあること
が確認された。方形周溝墓は当時のムラの首長墓と考えられており、善福寺川を挟んだ対岸には弥生
時代後期の大集落遺跡の「松ノ木遺跡」が確認されており、その関連で興味がある。遺跡は埋戻され
て見ることはできない。「東京都指定遺跡 大宮遺跡」の石標と説明板が立っている。

   東京都指定遺跡 大宮遺跡              指定 昭和54年3月31日
   昭和44年7月から8月にかけて杉並区教育委員会が実施した発掘調査によって、弥生時
   代終末期の方形周溝墓3基が近接して発見されました。西側から第一号基、第三号基、第
   二号基と名付けられました。第一号基の主体部から軟玉製の勾玉1個とガラス小玉12個
   周溝中から底部穿孔の弥生式土器10個体、第三号基の周溝中からは弥生式土器2個体が
   それぞれ出土しました。
   本遺跡で発掘調査された方形周溝墓群は、都区内で初めての発見の事例であり、方形周溝
   墓の主体部から豊富な玉類が出土したこと、主体部上に封土が認められてことは、同時代
   の墓制を研究する上でも極めて学術的価値が高いものとして注目されています。
   平成18年3月1日                       東京都教育委員会

   
大宮遺跡
   
善福寺川の南崖上に位置するこの地は、大宮遺跡の発掘地です。大宮遺跡は、都内で初の
   方形周溝墓が発掘されたことで有名です。方形周溝墓は「方形の四方を溝で囲んだ土器時
   代の古代人の墓」で弥生時代末期のものとされます。昭和四十四年(一九六九)の発掘作
   業では三基の周溝墓が発見され、そこから土器や勾玉、ガラス玉等が見つかりました。特
   に壺形土器の配列や底に穴をあけた形状(穿孔土器)からこの遺跡が住居跡でなく、尊貴
   な者(族長=祖神)の墓域、祭祀遺跡であることが判明しました。
   当時、善福寺川沿いの低地では水田工作が行われていた模様です。そして対岸の松ノ木遺
   跡には、多くの竪穴式住居跡が発見されています。つまり川や田んぼを挟んで住居と祭り
   の場を厳密に区分するという観念が当時から存在していたことを示しています。この遺跡
   は、大宮八幡宮の旧社殿地ともほとんど重なり、この一帯が聖域とされていた古代からの
   信仰がのち大宮八幡宮の創建につながったと思われます。大宮遺跡は、発掘後埋め戻され
   ましたが、出土品の一部は当宮清涼殿に展示してあります。        大宮八幡宮


 
・方形周溝墓
 大宮八幡の北門を出ると、眼下に善福寺川と和田堀公園が見え、昭和40年夏、ここで弥生時代
 末期の墓3基が発見された。中央に墓穴を設け、周囲に溝が廻らされていた。形が四角なので方
 形周溝墓と名付けられ、墓から壺形土器5個・勾玉1個・ガラス玉12個出土した。出土品は境
 内の結婚式場清涼殿ロビーに陳列してある。

 
記念碑群
 北参道左手にある。

   和田堀消防組 第二部解散記念 昭和2年

   
町制施行記念碑

   
登山十五度大願成就
   中道八湖大峯山上  松嶋八十八

 
社叢
 大宮の森。境内の森。説明板は第二灯籠の側にある。

   東京都指定天然記念物
   
大宮八幡宮社叢           所在地 杉並区大宮2‐3‐1大宮八幡宮内
                       指 定 昭和8年10月
   「大宮」と言う地名は、神域が広大であったことに由来する。
   現在の境内は14000坪。樹齢を重ねた大樹が点在し、周囲も緑が多く、今も武蔵野の
   面影を残している。
   ことに社叢につつじが多いのは、徳川三代将軍家光の発願により、1000本の山つつじ
   が植えられたからである。満開示の華やかさから、いつしか「山照らしつつじ」と称され
   るようになったと伝えられている。現在も境内には16種6000本のつつじが植えられ
   ている。
   数々の老木の中でも、御社殿左側にある菩提樹は、結城秀康(徳川家康の次男・越前松平
   家)の側室で、当社を篤く崇敬した清涼院のお手植えと伝えられ、樹齢は350年以上で
   ある。6月は黄金色の清楚な花をつけ、夏には青々とした葉で日かげをつくり、秋には種
   を落とす。
   また神門の両袖には、梢高く茂り合う御神木の夫婦銀杏があり、特に右の「男銀杏」は、
   杉並区内で一番の巨木である。「女銀杏」は秋には実をつけ、色づいた葉は秋空の境内に
   彩をそえている。
   平成2年3月31日建設                     東京都教育委員会


 
スカウトの森
 表参道の右手の森。当宮は青少年育成の趣旨から、ボーイスカウト杉並13団・ガールスカウト東
京62団の育成母体(活動本部・活動支援団体)となっている。そして境内北側の森の一区域を「ス
カウトの森」と命名し、当団スカウトたちの野外活動拠点として提供している。ボーイスカウト、ガ
ールスカウトの野外活動拠点としては、都内有数の規模・環境だ。

 竹林
 当宮に古くより残る神苑の竹林。大祓の茅の輪や七夕の竹・十五夜の神遊びの竹燈など、様々な行
事に使用している。

 弓道場
 熱心な弓友が稽古に励んでいる。北参道の赤門を出たところの左手杜の中に「振武殿」という名の
弓道場がある。5名射ちができる広さで、矢道84坪、都内でも有数の道場だ。小笠原流大宮支教場
でもあり、振武会が中心になって、春秋には射会が奉納される。

 旧社号標
 北参道にある。

   大宮八幡神社

   この社号標はもと表参道にあったものですが神社名が
   「大宮八幡神社」から「大宮八幡宮」と変わりましたので
   新社号標の建立を機(昭和五十八年九月)に、
   ここに移設し記念のため保存するものです。


スチュワーデス殺人(ベルギー人神父逃亡)事件 

 
水死体
 大宮1丁目7番20号西の善福寺川。ジラード事件とともに外国との厚い壁にぶちあたった何とも
やりきれない事件が発生した。昭和34年3月10日大宮町1159番地先の善福寺川、宮下橋の下
流、大宮橋までの3分の2の辺りで、川の中に若い女性の死体があるのが発見された。この辺りの善
福寺川は改修前で、幅10mほどあったが、子供が川の中に入って魚捕りが出来るくらい浅い田舎の
川で、今の川様からは想像できない。遺体はその川の中央部で、仰向けになって顔や手、胸部、大腿
部を水面から出して浮かんでいた。被害者は、緑色のツーピースに人絹のブラウス、総て白い、人絹
のシュミーズ、ブラジャー、コルセット、メリヤスのパンティ、足底の擦り切れた靴下を穿き、靴下
はコルセットのガーターでキチンと止められており、服装には乱暴されたような乱れは全くなかった。
今の善福寺川なら死体が浮かんでも有り得ることだが、当時はまだまだ農村の用水だ。それはそれは
大騒動となった。
 捜査の結果、女性は英国BOAC航空のスチュワーデス(フライトアテンダント、客室乗務員)、
世田谷区松原町4丁目384番地上保方(松原5丁目)武川知子(27歳)だということが判った。
検死の結果、死因は溺死で自殺と思われたため、行政解剖の予定で東京観察医務院に送られたが、他
殺の疑いが浮上して、急遽司法解剖に切り替えられた。死体を慶応病院附属病院に移して解剖の結果
「絞殺」と判明した。膣内からO型または非分泌型、パンティの局部付着部分からAまたはAB型の
それぞれ別人の精液反応が検出された。また胃の内容物から「マツタケ」が出てきた。戦後から14
年を経てはいるものの、マツタケは最高級の食材であり、これを材料とする東京及び近郊の料理店は
限られている。捜査班はマツタケをメニューに入れているホテルや高級レストランを調査し45店が
該当していることをつきとめた。が、この捜査では決め手は無かったものの犯人は相当地位の高い者
と推定された。知子は関西のゴム会社々長の娘で、前年12月にBOACのコメット旅客機航路の開
始に際して、初めてスチュワーデスに採用した8人の日本人の1人だった。ロンドンの本社で現地教
育を受け、昭和34年2月27日に帰国したばかりで、3月13日には初搭乗する予定だった。彼女
は遺体で発見される2日前の3月8日午後3時ころ、世田谷の下宿から

   駒込にいる高橋五郎宅の誕生会に行く

 と告げて外出したまま行方不明になっていた。しかし高橋宅にその予定はなく、知子は訪問もして
いなかった。
 

 
最重要参考人ベルメルシュ・ルイズ
 捜査本部は、やがて彼女と交友関係のある15人の男を調べた。外出してから知子の行方は、捜査
では判明しなかったが、最終的に参考人としてベルギー人のカトリック神父で杉並ドン・ボスコ修道
院のベルメルシュ・ルイズ(38歳)が急浮上した。カトリックは世界の宗教の中で最も保守的で、
戒律の厳しい宗教として知られている。その神父が殺人事件の参考人となったことで、世間の注目を
一斉に浴びることとなった。
 神父が、彼女とホテルへ入ったところを目撃されていることと、事件後に自家用車(ルノー)のタ
イヤ全てを交換していること(当時現場近くに犯人の車と思われるタイヤ痕が発見されたとの記事が
新聞掲載されていた)、また5回の任意出頭における取り調べで神父のアリバイが完全に崩れたこと
などでいよいよ逮捕間近と思われた。
 ベルメルシュは農家の長男に生まれたが、カトリックの司祭になるため、昭和23年5月8日神学
生として来日し、目黒区碑文谷の有名なサレジオ修道会に所属し、同会の神学校にも神学生として学
び、同28年司祭の資格を得た。その後、同じ敷地内にある「帝都育英学院」の英語の教師になった
が、6、7ヶ月勤めて、サレジオ会の布教事業をしている杉並区八成町(井草2丁目)のドン・ボス
コ社に転属して、事件当時はその福社長として会計を担当していた。
 サレジオ会は世界各国に教会・修道会・学校・記念事業団体を持つカトリックの一派でイタリアの
トリノに本部があり、イエズス会やマリア会など他のカトリック各派のように日本での長い宣教の歴
史はなかったが、戦後積極的な布教活動で急速に台頭してきた宗派として知られていた。それだけに
過激な神父が多かった。ドン・ボスコ社は、ボスコという聖人に因んだサレジオ会の社会事業団体の
一つだった。日本での布教活動の拠点を拡大するため、イタリア本部から資金、海外援助物資、寄附
などが送られ、これらを基金として布教のための図書の出版・販売を主な事業として活動を続けてい
た。
 神父は聖職者としては性欲を抑制する能力に欠け、平たくいうとスケベで、以前から修道会の保母
や看護婦に手当たり次第ちょっかいをかけ、次々に肉体関係を結んでいるとの噂はあった。知子はス
チュワーデスになる前、カトリック信者だったこともあって、中野区鷺宮にあるサレジオ会の経営す
る聖オデリア・ホーム乳児院の看護婦として住み込んで働いており、ここでベルメッシュと知り合っ
て愛人にされた。
 2人は、原宿駅前の連れ込み旅館「菊富士ホテル」に入ったことを目撃されている。また死体の発
見された3月10日の午前5時頃、内職をして起きていた現場近くの主婦は、車のエンジン音がする
ので覗いてみると、白っぽい小型乗用車が善福寺川の脇の道を走っていったという。当時は車が今の
ようには普及していなかったので気になるものなのだ。この主婦は車に精通している訳ではないが、
警察官にいろんな車の写真を見せられて、躊躇なく「ルノー」を選び出した。神父の所有している車
はグレーのルノーだ。
 ベルメッシュ神父の取調べが行われた。教会との約束で、弁護士とバチカン市国大使館の一等書記
官が立ち会った。担当した刑事はあの平塚八兵衛だ。
 5月13~15日、20日、21日の5日、都合30時間に亘って行われ、その間、取調室にはお
茶、コーヒーやジュースが運び込まれた。ベルメッシュが口にした茶碗やコップから付着した唾液か
ら血液型を割り出す手筈になっていた。ところが入れ知恵されたのか、ベルメッシュは警戒して一口
も飲まなかった。トイレにも仕掛けして、尿を採取する準備をしていたのだが、彼はトイレに一度も
行かなかった。ところが警察の報告書には、

   被害者の膣内に精液が認められ、膣内容の血液型は「O型または非分泌型」と判断された
   が、神父の唾液から血液型を調べたところ、やはり「O型または非分泌型」で矛盾がない。


 と記され、何時の時点、如何なる方法によるのかは不明だが、警察はベルメッシュの唾液を採取し
ていたのだ。〝鬼の八兵衛〟だからな。
 しかし神父は警察の追及に対して、最後まで武川知子との肉体関係を否認し、事件当時の完全なア
リバイを主張したが、状況証拠は揃っていた。知子の男関係は、以前からかなり乱れていたが、事件
当時は神父以外の男性との関係がないことが判っていた。
 

 
圧力
 捜査本部は、6回目の任意出頭を要請する矢先に突然、神父の直属の上司から、

   ベルメルシュ神父は、持病の胃潰瘍が悪化したので故国ベルギーに帰国させた

 と連絡があった。神父は6月11日正式な出国手続きをとってエール・フランス航空で本国へ帰国
してしまったのだ。このため多くの謎を残して捜査は打ち切られた。この事件は、容疑者が外国人で
あることと、カソリックの神父であったことが厚い壁となった。カソリック団体から「神父が罪を犯
すはずがない」として猛烈な圧力を捜査当局にかけたり、またカソリックの信者である某高官からは
「取り調べに手心を加えるよう」に申し入れがあったといわれている。まさに厚い壁と圧力がかかっ
た事件だった。この事件はよく覚えている。悔しいというか、腹立たしいというか、当時はテレビも
なかったから、新聞に神父がタラップを登っていく写真が載ってたような記憶がある。キリスト教も
この様じゃあなぁ・・・知れたものよ。ベルメッシュももう死んだろう。神を欺いたんだから地獄に
堕ちたさ。ベルギーの女たちに日本人の子を産ませてやれ。数限りなく。
 待てよ・・・ベルメッシュはアシュケナジーユダヤか?

 
キリスト教の聖職者が犯罪を犯すのは何故か?
 それはキリスト教は実際には宗教ではないからだ。キリスト教は一神教だ。何故一神教か? 日本
の様にたしんきょうじゃあ、ユダヤにとって都合が悪いからだ。キリスト教というのは多人種宣撫の
道具として拵えたもので、人の道、正義を説くものではないからだ。蓋しユダヤにとって都合のよい
ユダヤ教と、宣撫用のキリスト教を拵えたのだ。キリスト教は修行というものを行わない。厳しく禁
じている。ユダヤは一つの神の声をのみ聞け! とのみ口説く。修行するということは悟りを開くた
めの行為だ。つまり信者個人個人が悟りを開いたら、ユダヤの隠蔽された指示に従わなくなる恐れが
ある。つまりユダヤの意志が通らなくなる。ユダヤが人類として間違っていることが晴れてしまう。
ユダヤが秘かに君臨することができなくなってしまう。だから、「何も考えずに、神の(上位聖職者
つまりユダヤ)のいう事だけを聞いて「アーメン」とさえいってりゃいいんだ。財産を教会へ、修道
院へ持って来い」となる。
 ヨーロッパ人たちの哀れを見ろ。西欧諸国の総てがユダヤ人に乗っ取られてしまっているではない
か。王室という王室は全てオレンジ公ウィリアムの末裔だぞ。ウィリアムはユダヤ人だ、ピューリタ
ン革命、名誉革命、フランス革命、ロシア革命、総てユダヤが国を乗っ取るために引き起こした。明
治維新だって、ユダヤの仕業なんだぞ。かくて物事を考えない馬鹿が聖職者に成りすます。精神が鍛
えられてなく、悟りを開かない普通の人間だから犯罪を犯すのだ。日本でも悟りの開けないくそ坊主
は犯罪を犯すだろ。かくて西洋人は(白人は)、日本人よりレベルが低いのだ。さらにレベルが低い
のがユダヤ人だ。ロスチャイルド(バウワー)とローマ法王に千日行をやらせてみろ。3年で世界は
平和になる。彼らから欲望というルシファーを取り除いてやることだ。
 


■大宮児童公園
 大宮2丁目4番10号にある区立公園。


■宮元公園
 永福2丁目13番13号にある区立公園。


■高千穂大学(高千穂商科大学)
 大宮2丁目19番1号にある私立大学。
明治36年川田鐡彌が、大久保に高千穂学園の起源となる
「高千穂小学校」を開校。同40年「幼稚園」を設置。同42年「中学校・高等商業学校」を併置、
私学としては我が国最初の高等商業学校だ(但しHPでは大正3年現在地に設立したとある。しかし
幼稚園のHPには、昭和21年に現在地に移転したと記載してある)。同19年「高千穂経済専門学
校」と改称。
 同21年現在地に幼稚園と共に移転。小・中学校はこの時廃校としたものと思われる。同25年ア
メリカの強制による学制改革により「高千穂商科大学」としてスタート(商学部商学科)。同62年
総合研究所設置。平成2年経営学科を新設。同8年大学院(経営学研究科:修士課程)開設。同10
年大学院経営学研究科に博士後期課程を設置。学園創立95周年記念式典。同13年「高千穂大学」
に改称。経営学部設置。同15年学園創立100周年記念式典。

 校歌「
紫込むる」 作詞作曲不明
  1.紫込むる黎明(あけ)の雲
    世界の極
(はて)も照らすべく
    希望
(のぞみ)に満てる空の色
    我が行く末をさながらに
    起てよ 起てよ いざ友よ
  2.吹くや嵐の一頻り
    過ぎて我が世ぞ 永劫
(とわ)の春
    平和の花の薫らずば
    彼の剣戟も何かせん
    起てよ 起てよ いざ友よ
  3.ああヒマラヤよ ミシシッピよ
    自然の覇王 山と河
    商神
(たくみ)の誉れ尽きずして
    人生の幸も 斯くぞあれ
    起
てよ 起てよ いざ友よ
 



【荻窪】(おおくぼ)1~5丁目                  昭和44年11年1日
 下荻窪村。明治11年「郡区町村編制法」により東多摩郡所属、同22年「市制町村制」により
井荻村大字下荻窪、大正15年井荻町大字下荻窪、昭和7年東京市編入20区増設により杉並区下
荻窪・荻窪1~3丁目・東荻町に分かれる。同10年下荻窪町は荻窪と東荻町に吸収されて消滅、
同44年新住居表示により荻窪1~2丁目の環八通り以西を南荻窪に移し、荻窪4丁目を上荻に譲
り、同時にJR中央線から南、環八通りから東の荻窪1~3丁目と西田町1丁目の全部に西田町2
丁目と天沼2丁目の各一部をあわせた町域を現行の「荻窪」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『杉並区史』『杉並の歴史』など。

 
荻窪の由来
 〝荻の群生する窪地の意で、和銅元年(708)旅の僧が笈(おい=箱状のリュックサック)を
背負ってこの地(善福寺川の荻野)まで来たところ、あまりの重さで足が止まり、荻を刈って草庵
を作り仏像を祀ったのが慈雲山萩寺光明院の縁起。荻を結い上げれるほどの荻野だったってこと。
その光明院は中央線と環八通りが交差する交点の西北角(上荻2丁目)にある。以前は広大な境内
を擁していたが鉄道と道路の敷設で削り取られ、墓地は線路で切り離されてしまった。現在荻のつ
く名の町は荻窪のほか上荻・西荻北・西荻南・南荻窪の4町である。だから荻窪は光明院だ!
 荻窪駅は明治24年開業、翌年正岡子規が内藤鳴雪を誘って一日旅行をしたときの歌。

   荻窪や野は枯れ果てて牛の声(鳴雪)
   汽車道のひとすじ長し冬木立(子規)

【荻】
 イネ科の多年草。原野の水辺に群生する。高さは2メートル前後、茎の下部は露出する。花穂は
ススキに似るが大形で小穂に芒(のぎ)がない。目覚まし草・寝覚め草。杉並区では絶滅を危惧し
西荻北1丁目9番の児童公園にある40坪ほどの柵の中に植えてある。


【萩】
 
マメ科ハギ属の総称。落葉低木または半草体で山谷の日当りの良い乾燥地に多い。葉は互生し3
小葉からなる複葉。夏から秋にかけ紅紫色(ときに白色)の花を総状につけるヤマハギ・ノハギ・
マルバハギ・ミヤギノハギ・キハギなど。秋の七草の一。花札の一。
 


■JR中央線は直線
 今高架化で多大の迷惑をかけているが・・・ さて地図を見ると東中野から立川まで中央線は直線
であることに・・・お気づきだろうか? 最初甲州街道方面における鉄道の敷設は甲武鉄道(私鉄)が
甲州街道沿いに敷設する計画を立てたが、沿線となる住民から「宿場の客が減り、桑が枯れる」とい
う理由で強く反対され、青梅街道沿いに計画を変更した。しかしこの計画も同じ理由で反対され、畢
竟中野~立川間24キロにも及ぶ長い直線区間とする現在の路線に落ち着いたという訳だ。当時鉄道
は黒い煙を吐く化け物のように毛嫌いされ、全国的に町外れに敷設を余儀なくされている。日本最初
の鉄道新橋~横浜間ですら海の中に土手を築いて敷設した。だから品川駅は港区にあるのだ。日本国
中の都市の、江戸時代の中心市街と駅の関係を見るとよい、必ず大いなる懸隔がある。
 そんな理由で甲武鉄道は明治22年4月1日新宿~立川間が開通し、新宿・中野・境(今の武蔵境
駅)・立川の4駅が開業。 4ヶ月後の8月11日立川~八王子間が開通し国分寺・八王子の2駅が開
業した。中野駅と境駅の中間にある下荻窪村に「荻窪駅」が開業したのは2年後の明治24年12月
だった。当時甲州・青梅両街道から懸け離れ離れていた中野~立川間は広い武蔵野の原野と林と畑ば
かりが続く村はずれを走り、荻窪駅の一日の乗降客は、それでも300人もあったとか。畑の中の住
宅はまばらで、人通りない道には草が生い茂っていた。街路灯はなく月明りが頼りだったという嘘の
ような次第。今は路線誘致で血みどろの争い。
 人間ちゅものは全く得手勝手な生き物で、いやはや・・・


■豊多摩早生
 この辺りは江戸時代から戦前まで畑作中心の純農村で、栽培作物は麦・粟・稗・黍などの雑穀と芋
類が主たる産物だったが、幕末頃から野菜も作られ、明治・大正時分にはその生産量も多くなって、
青梅街道を利用して神田市場へ出荷していた。武藏野の一部で深い黒土から出来ているので、殆どの
野菜に適し、西山の野菜として高く評価されていた。地域の風景は、点在する農家が欅・樫の屋敷林
に囲まれ、里山に薪炭用の楢(なら)・椚(くぬぎ)の雑木林を控えていた。土地が楢・椚の闊葉樹に適
しているということは当然栗にも適しており、多くの農家が栗林を持っていた。栗は秋の味覚の代表
で、太古の昔から生産され、収穫は9月と決まっていた。明治20年八幡神社近くの市川喜兵衛が8
月に穫れる早生種を発見、苦労の末品種として育成し、同41年「豊多摩早生」と命名した。早生ク
リであることに加え
栗の大害虫である栗多摩蜂に強いという特性が判った抵抗性品種の親として
「伊吹」を生み出した(荻窪神社境内の農協の説明版より)。

 と書いたら、平成18年8月9日「ツチヤ」さんからメールがありました。
  ※Tuchiya さんのコメント:栗多摩蜂の多摩は「タマ」と仮名を使うのがよい。「タマ」
   を漢字で書くと「病垂れに嬰」と書くのだが、かなり大きな漢和辞典にも載っていない
   珍しい漢字で、一種の郷土愛からだが、このような病気に多摩の字を使って欲しくない。


 と、激怒されている。


■西田なかよし広場緑地
 荻窪1丁目17番1号にある区立公園。


清水山西福寺

 荻窪1丁目21番7号にある無宗派の寺。 


■西田小学校

 荻窪1丁目38番15号にある区立校。昭和17年西田町1丁目472番地(現在地)に「東京府
東京市西田国民学校」として開校。同18年都制施行により「東京都西田国民学校」と改称。同19
年長野県小県郡別所村に学童集団疎開。同20年小県郡塩川村に二次疎開。愚かなアメリカ軍の非人
道的無差別空爆により校舎全焼。8月日本はならず者国家アメリカの軍門に降り敗戦。以降その属国
となる。11月疎開解除により疎開児童帰校。桃井第二国民学校に間借りして授業再開。
 同22年アメリカの強制による学制改革により、「東京都杉並区立杉並第七小学校」と改称。戦災
校舎(第一次仮校舎8教室)復旧。同23年第二次仮校舎(3教室)落成。同26年校舎増築(東校
舎)。給食調理室完成。校庭拡張。同27年校歌制定。校舎増築。

 校歌「
都の西よ」 作詞・恩地孝四朗  作曲・芝祐久
  1.都の西よ 森は繁り
    風さえ匂いて爽やかに
    何処かで鳥の声もする
    我らは学ぶ西田の丘の
    緑色濃き窓辺にて
  2 昨日も今日もこの学舎に
    机を並べて知恵を積み
    その身も強く健やかに
    我らは学ぶ西田の丘の
    空澄み渡る園に立ち
  3.心は清く 望みは高く
    日毎に励みて人の世の
    楽しき姿 作らんと
    我らは学ぶ西田の丘の
    輝く望み 広々と

 同29年第一次仮校舎を改築して北校舎とし、同30年校舎増築。同33年第二次仮校舎を改築。
校舎増築。校地拡張。校舎増築(西校舎)。同39年水草園増設。同45年北校舎に増築。プール完
成。同46年校舎増築。VTRスタジオ開設。同47年鉄筋コンクリート造り校舎落成。ニューヨー
ク市クィーンズ・サーティスリー小学校と姉妹校となる。同50年鉄筋コンクリート造り南校舎(8
普通教室・校長室・職員室・事務室・放送室・2資料室)落成。同55年増築校舎(2普通教室・視
聴覚室・図工室・図書室・主事室)落成。同57年創立40周年記念式典。同58年校地緑地の植樹
(610本)。同61年給食室増改築。米飯給食開始。同62年陶芸小屋完成。同63年アスレチッ
ク遊具完成。アルミサッシ窓枠に取換。
 平成3年生活科用飼育舎完成。同4年体育館改修。創立50周年記念式典。同5年パソコンルーム
開設。同10年機械警備導入。同12年地方自治法改正に伴う学校教育法の改正により東京都の冠称
が取れ、「杉並区立西田小学校」と改称。同13年インターネット接続。同20年創立70周年記念
式典。


 
郷土資料展示室

 昭和20~30年代の「まちの子どもの一日」を、「まなび」「あそび」「くらし」というテーマ
に沿って展示している。展示室では、昭和30年代の町の生活を描き好評の漫画家西岸良平の『三丁
目の夕日』(小学館)のイラストを使って当時の生活を解説している。また体験コーナーでは、けん
玉で遊んだり、当時の子どもが読んでいた人気のマンガを読んだりすることができるよ。
 土・日・祝日を除く普通日の9時~17時 入室無料。 
 問い合わせは郷土博物館(03‐3317‐0841)まで。
 

 
南伊豆健康学園

 静岡県賀茂郡南伊豆町湊781番地にある健康に問題のある虚弱児童の全寮制教育施設。名目上の
所属が西田小学校となっているが、区直轄の学校だ。昭和46年に起工して同49年に落成、「東京
都杉並区立養護学校」として開校。第1期生は63名だった。同52年緑化計画により果樹20本植
樹、花壇、芝生造成。同53年警備員詰所整備。校庭整備。同54年自転車置き場設置。同56年タ
イヤトレーニング場完成。一輪車初歩訓練施設設置。同57年学園歌制定。

 校歌「松風戦ぐ」 作詞・石森延男  作曲・中田喜直
  1.松風戦ぐ学び舎で
    共に体を鍛えよう
    体は心の礎だ
    弓が浜辺の私達 私達
  2.海岸近く美しく
    皆
(みんな)仲良く元気良く
    学んで遊んで伸び伸びと
    弓が浜辺の私達 私達
  3.朝夕静か 落ち着いて
    希望大きくこの胸に
    互いに幸せ 願いつつ
    弓が浜辺の私達 私達


 同59年「東京都杉並区立健康学園」と改称。同60年開園10周年記念式典。
 平成2年体育館・浴場改修。観察池完成。同4年年間を通して水泳指導(温水プール)。音楽室防
音化。同5年図書室改修。同6年コンピュータ室完成。開園20周年記念式典。同8年総合的な学習
時間「弓ヶ浜タイム」を取り入れる。

 ・地域の中の学校
 弓ヶ浜清掃・地引網・海開き・地元の竹麻小学校との合同運動会・南伊豆町音楽発表会・南伊豆町
サッカー大会・下田ハーフマラソン・青野川マラソン・漁師の学校・南伊豆町文化祭に学園として参
加している。
 


■松渓遺跡公園
(しょうけいいせきこうえん)

 荻窪1丁目39番1号にある。昭和49年プールを作るため発掘調査したところ、約4500年前
の縄文中期の住居跡3基が発見された。当時の発掘調査で土器、石器が出土し、「西田町大ケ谷戸遺
跡」と名付けられた。この遺跡を地下にそのまま保存するため、同51年公園が作られたもので、道
路より一段高い敷地に、大ケヤキに囲まれ静かなたたずまいをみせている。公園は中央の塚とその両
側に展開する2つの広場からなり、塚はコナラの木立で覆われ武蔵野の風情を漂わせている。塚の下
に遺跡の一部が埋蔵されている。木漏れ陽のさす塚の上には、四阿と水口があり、水は流れとなって
塚の麓を巻くように流れ、東側の広場に達する。この広場は平らな土の地面で、開けていてよく日光
が当たる。片隅に根元を切り石で囲まれた大ケヤキが立ち、またフジ棚もある。
 なお『杉並区の歴史』では、「松湲遺跡公園」と書いて「しょうかん」とルビがふってある。

   松渓公園の遺跡案内
   この公園の土の下には、今から約4500年ほど前の縄文時代中期(勝坂期)の土器や石
   器等を出土する遺跡があり、西田町大ヶ谷戸遺跡の一部になっています。
   この遺跡について、杉並区教育委員会と杉並区古代文化研究会が、昭和49年8月20日
   から約40日間に亘って発掘予備調査をしました。
   この結果、縄文時代早期(子母口期)の生活跡と縄文時代中期の竪穴住居址3基が確認さ
   れました。
   中期の時代の特徴としては、台地の上に大きな集落を営み、遺跡の数も急激に増加し、使
   用する土器は立体感のある力強い紋様のものが作られたことであります。
   この公園にある遺跡は、杉並区に住んでいた遠い祖先の生活を知るための重要なものです。
   この度この埋蔵文化財を守ろうとする願いから、遺跡を地下にそのまま保存するために、
   東京都内では最初の公園をつくりました。
   大事に保存しましょう。
   昭和51年4月                              杉並区
 


■天神橋公園
 荻窪1丁目50番33号にある区立公園。開発行為による提供地と水路用地を利用して作られた。
住宅地の中を南北に走る幅8~9m、長さ約150mの細長い公園。2ヶ所で一般の道路と交差して
いる。左右には、マテバシイ、トウカエデ、ケヤキなどの高木が、その下にはツツジ、アベリア、ク
チナシといった背の低い樹木が植えられ、緑の廊下のような感じがする。所々にブランコ、滑り台、
砂場なども設置され子供たちの遊び場としても親しまれている。東端には、キンモクセイやアケボノ
スギなどのこんもりとした木立に囲まれた一段高い敷地がある。


■田端神社
 
荻窪1丁目56番10号にある。菅原道真を祭神とした旧田端村の鎮守で、且ては北野神社(天満
宮)とも或いは社の場所が田の端にあったことから田端天神とも呼ばれ、村の産土神として崇められ
るようになったといわれている。創建は応永年間(1394~1428)といわれ、社伝によれば足
利持氏と上杉禅秀が戦った時、品川右京という者がこの地に土着し、京都の北野神社の分霊を祀った
ことに始まると伝えられている。また村名も社名に由来するといわれていることから、古い社に属す
ることが窺われる。明治42年に村内4社(天祖社・稲荷社・子ノ権現社・山神社)を合祀し各社の
祭神が祀られ、現在の祭神は菅原道真公・天照皇大神・豊受比売神・大国主命・大山祇神の5柱。こ
れに伴ない同44年田端神社に改称した。境内は古墳だったととの伝承があり、参道は桜の名所だ。
 大国主命は足痛・腰痛に霊験有りとして知られ、足の悪い人が神社から木の小槌を借りて撫でると
痛みが取れ、何回かお参りする内に全快するといわれ、全快した人々が奉納した小槌を沢山収蔵して
いる。神社前の道は鎌倉古道の一部。北に上がると須賀神社前に至る。
 文化財としては延宝五年(1677)銘・享保三年(1718)銘の庚申塔、江戸時代に造られた
といわれる木造鳥居、江戸末期から大正期にかけて奉納された力石、稲荷社などがある。

   田端神社
   当社は菅原道真公を祭神とした旧田端村の鎮守で、かつては北野神社(天満宮)とも、あ
   るいは社の場所が田の端にあったことから田端天神とも呼ばれ、村の産土神として崇めら
   れるようになったといわれています。
   創建は応永年間(1394~1427)といわれ、社伝によれば、足利持氏と上杉禅秀が
   戦った時、品川左京の家臣良影という者がこの地に土着し、京都の北野神社の分霊を祀っ
   たことにはじまると伝えられています。また、村名も社名に由来するといわれていること
   から、当社が古い社に属することがうかがわれます。
   明治42年、当社は村内に鎮座してあった天祖社・稲荷社・子ノ権現社・山神社を合祀し
   ました。これにともなって各社の祭神が当社に祀られ、現在の祭神は菅原道真公・天照皇
   大神・豊受比売神・大国主命・大山祇神の5柱です。なお、田端神社の社号は明治44年
   に改めたものです。
   当社祭神大国主命は足痛・腰痛に霊験有りとして知られ、社蔵の木槌のご利益への返礼と
   して奉納された小槌が多数残っています。
   文化財としては延宝五年(1677)銘・享保三年(1718)銘の庚申塔、江戸時代に
   造られたといわれる木造鳥居、江戸末期から大正期にかけて奉納された力石などがありま
   す。
   昭和57年2月10日                      杉並区教育委員会
 


■西田第二児童遊園
 荻窪1丁目57番33号にある区立公園。


■松渓中学校

 荻窪2丁目3番1号にある区立校。「まつたに」ではなく「しょうけい」と読む。昭和23年
杉並
第二小学校内の仮校舎で「東京都杉並区立下荻第二中学校」として開校設置。生徒数144名でスタ
ート。同24年6月「東京都杉並区立松渓中学校」と改称、現在地に新校舎が落成して移転。同33
年開校10周年記念式典。同34年プール完成。同37年体育館完成。同42年第1期鉄筋コンクリ
ート造り校舎7普通教室落成。同44年第2期鉄筋コンクリート造り校舎4教室・給食室落成。同4
7年第3期鉄筋コンクリート造り校舎8教室落成。同49年第4期鉄筋コンクリート造り校舎落成を
以て新校舎完成。同53年開校30周年記念式典。同59年体育館舞台完成。同61年松渓園完成。
同63年給食室増築。開校40周年記念式典
 平成3年教育相談室完成。同5校舎内外塗装。同10創立50周年記念式典。同12年地方自治法
改正に伴う学校教育法の改正により、校名から東京都の冠称が取れ「杉並区立松渓中学校」と改称。
同15年「土曜講座in松溪中」実施。同17年校地に田んぼ整備。同19年読書活動に対して文部
科学大臣表彰。同20年校舎改築のための仮設校舎建設。読書活動文部科学大臣表彰。創立60周年
記念式典。

 校歌「
大気新たに」 作詞・勝承夫  作曲・堀内敬三
  1.大気新たに青空晴れて
    富士も微笑む希望の朝
(あした)
    力漲り 花温かに
    松渓 松渓 我が学び舎は
    心の故郷 意気の故郷
  2.松の木立の清きに集う
    知恵の若鳥 英気の翼
    常に変わらぬ友情込めて
    松渓 松渓 我が行く処
    世界に開く道は遥かに
  3.明日は栄えある文化を築く
    夢と純情 我等が胸に
    自治の校風 平和の理想
    松渓 松渓 その名ぞ永遠
(とわ)
    輝く誇り 我等が母校
 


■西田公園
 荻窪2丁目15番11号にある区立公園。


大光山千葉院中道寺

 荻窪2丁目25番1号にある日蓮宗の寺で、区内でも古い寺の1つ。3世日治が記した「中道寺由
来記」によれば、天正十年(1582)に日道上人が荻窪の地に草庵を営み、元和二年(1616)
2世の日法上人が中道寺と称え、寛永十三年(1636)に下総の豪族千葉氏の家臣でこの地に土着
した檀徒宇田川茂右衛門が寄付した土地に、本堂などの建物を建て三宝を安置した。安房誕生寺の末
寺となったのもこの頃と考えられている。
 正面本堂、右に庫裏。山門左と本堂裏に墓所。本堂の左に西門がある。境内に馬頭観音。

   中道寺
   当寺は大光山千葉院と号し、日蓮宗の寺院としては区内でも古い寺院の一つです。
   本尊は「願成の祖師」と呼ばれる黒目の日蓮上人像で、その名のごとく玉眼作りの目が特
   徴的です。また、伝教大師の作と伝える鬼子母神像も祀られています。
   当寺所蔵の、3世日治が記した「中道寺由来記」によれば、天正十年(1582)大光院
   日道がこの地に草庵を建てたのが開創で、弟子日法が、元和二年(1616)に大光山中
   道寺を称したといわれます。そして、寛永十三年(1636)下総(千葉県)の豪族千葉
   氏の家臣でこの地に土着した宇田川氏が旧主の菩提のために土地を寄進し、それによって
   堂舎を整えたと伝えられています。安房誕生寺の末寺となったのも、この頃と考えられて
   います。
   境内の鐘楼と山門を兼ねた鐘楼門は、安永二年(1773)に建てられたもので、区内で
   は珍しい建物です。
   境内北側に祀られている宝暦六年(1756)の銘のある不動尊石碑は、当時流行した熱
   病を鎮めるために造られたといわれ、現在も地元の人々の厚い信仰を集めています。
   なお境内の鎮守(妙王)稲荷はかつて関東管領上杉顕定の家臣中田加賀守の守護神であっ
   たといわれ、大正時代当寺に奉安されたものです。
   昭和55年2月20日                      杉並区教育委員会


 本尊
 〝黒目のお祖師さま〟または〝願成りの祖師〟と呼ばれる日蓮像で、その名の如く玉眼作りの目が特徴的だ。

 鬼子母神堂
 伝教大師(最澄)作という鬼子母神像を祀っている。

 不動尊石像
 境内北側に祀られている。宝暦六年(1756)の銘があり、当時流行した熱病を鎮めるために造
られたといわれ、現在も地元の人々の厚い信仰を集めている。

 
稲荷神社
 境内の鎮守(妙王)稲荷は、かつて関東管領上杉顕定の家臣中田加賀守の守護神であったといわれ
大正時代にこの寺に奉安された。

 鐘楼門
 2階建ての立派な門は、安永二年(1773)の建築、階上に梵鐘が吊ってあり鐘楼を兼ねる。 


区内初の公園 荻窪公園

 荻窪2丁目27月8番にある区最初の区立公園。

   荻窪公園
   荻窪公園は、昭和12年8月に区内最初の公園として開園しました。この隣にある石碑は
  、井荻町土地区画整理組合第二工区の関係者が建立した公園開園の記念碑です。この碑文に
   は右のように刻まれています。

    帝都ノ西郊ナル杉竝區舊井荻町ノ大部分八ヶ工區面積貮百六拾六萬八千餘坪ノ地域ヲ
    占メタル井荻町土地區劃整理組合ハ大正十四年九月設立以來關係各員鋭意努力セラレ
    タル結果昭和十年三月全地域區劃整理完成ノ實ヲ擧ルニ至レリ茲ニ第二工區關係者ハ
    昭和六年三月本工區事業ノ完成ヲ記念セムカ爲メ曩ニ築造シタル當公園ヲ昭和十年九
    月東京市ニ寄附市民ノ楽園トシテ貽ル仍而其ノ經始ノ大要ヲ碑ニ刻シ以テ後世ニ傳フ
    昭和十二年八月建之              井荻町土地區劃整理組合第二工區

   井荻町土地区画整理事業は、内田秀五郎を組合長として、井荻町全域を八工区に分けて進
   められ、昭和10年3月に完了しました。10年間に及んだこの事業は、単一町村独自で
   行った土地区画整理事業としては、全国屈指の大規模なものでした。
   この石碑の碑文によれば、第二工区は、昭和6年3月に事業を完成させ、その記念として
   公園を築造し、昭和10年9月に「市民の楽園」として東京市へ寄附したとあります。た
   だし『事業報告書』では、土地の寄付をうけた東京市が公園として整備したとされていま
   す。いずれにしても区内の公園は、すべて戦後の開設ですので、この公園は戦前にあった
   区内唯一の公園です。
   平成24年11月                        杉並区教育委員会
 


■不動堂

 荻窪2丁目28番6号、中道寺の北西側の四辻にある中道寺の境外仏堂。


   
不動堂
   この不動堂の中には宝暦六年(1756)に造立された「南無妙法蓮華経不動明王 上荻
   久保村別当仲道寺」と刻まれた高さ6尺(1.8m)の石碑が納められています。
   不動堂が現在地に移されたのは大正末年の区画整理の時で、かつては荻窪高校付近にあっ
   たといわれています。『新編武蔵風土記稿』にある
    除地百六十八坪村ノ東北ノ方ニアリ不動ト云文字を梵字モ(ママ)テエ(ママ)リシ
    石標アリ今ハ堂ヲ廃セリ
   という不動堂が現在のものと同一のものと考えもありますが、詳らかではありません。
   不動明王は法華経の守護神として信仰され、現世利益信仰を代表する明王で、人々は治病
   や安産・災害の除去、財福を得る、死の苦しみを除く等種々の願事に応じる仏として修験
   者や祈祷師を通じ、広く信仰しました。この不動明王も下荻窪村に熱病が流行して多くの
   村人が亡くなった時、村人達が浄財を出しあって石碑を造りお祈りしたところ、熱病の流
   行がピタリとやんだという話が今も残っており、別名を「護施不動明王」と名づけられて
   います。それ以後、下荻窪村はもちろん近在の村でも熱病がはやると、このお不動様へ願
   をかけてお祈りしたそうです。
   なお、境内にある記念碑は昭和53年に不動堂の再建を記念して建立されました。
   昭和58年3月                         杉並区教育委員会

 こんな注意書きが貼り付けてある。

   清浄なる仏前ですので猫に食事を与えないでください。近隣で困っております  中道寺
  


■東方万民教会

 荻窪2丁目29番13号にあるキリスト教会。


■川南遺跡

 荻窪2丁目34番、区内のほぼ中央部を流れる善福寺川の右岸に形成された、緩やかな台地の東側
斜面の地域区民センターの地下に眠ってる。先土器時代の遺跡としては区内最初の発掘。
 昭和49年、荻窪地域区民センター建設に伴なう発掘調査を行なったところ、地表下約1mのロー
ム層(赤土とも呼ばれる)内から多数の石器が発見された。本地域の字名が川南と呼ばれていたこと
から本遺跡は川南遺跡と名づけられた。本遺跡は、ここを中心として、南北に広がりを持ち、今から
約12000年前の先土器時代(旧石器時代)の遺跡だ。
 先土器時代は、まだ土器を使用しておらず石器を主要な生活用具としていた時代。本遺跡において
もナイフ形石器(物を切る)、掻器(木や物を削る)、石核(石器を作るために石を剥がした残石)
などが発見されている。
 また礫群(集石)といって、こぶし大ほどの石を数十個集め、その上で物を焼いた炉跡も発見され
ており、これらの石には煤やタールが付着していることから、バーベーキューの跡と考えられる。
 区内では縄文時代以前の遺跡は発見例も少なく、まだ数箇所しか発見されていない。その中で川南
遺跡は区内で最初に発掘調査された遺跡として重要な遺跡であるといえよう。

   川南遺跡
   川南遺跡は、区内のほぼ中央部を流れる善福寺川の右岸に形成された、緩やかな台地の東
   側斜面に位置しています。
   昭和49年荻窪地域区民センター建設に伴なう発掘調査を行なったところ、地表下約1m
   のローム層(赤土とも呼ばれる)内から多数の石器が発見されました。本地域の字名が川
   南と呼ばれていたことから本遺跡は川南遺跡と名づけられました。
   本遺跡は、杉並区荻窪二丁目34番を中心として、南北に広がりをもち、今から約1200
   0年前の先土器時代(旧石器時代)の遺跡です。
   先土器時代は、まだ土器を使用しておらず石器を主要な生活用具としていた時代です。本
   遺跡においてもナイフ形石器(物を切る)、掻器(木や物を削る)、石核(石器を作るた
   めに石を剥がした残石)などが発見されています。
   また、礫群(集石)といって、こぶし大ほどの石を数十個集め、その上で物を焼いた炉跡
   も発見されています。これらの石には煤やタールが付着していることから、バーベーキュ
   ーの跡と考えられています。
   区内では縄文時代以前の遺跡は発見例も少なく、まだ数箇所しか発見されていません。そ
   の中で川南遺跡は区内で最初に発掘調査された遺跡として重要な遺跡であるといえます。
   平成8年3月                          杉並区教育委員会


■荻窪第二児童遊園
 荻窪2丁目38番9号にある区立公園。


■荻外荘

 荻窪2丁目43番20号の近衛文麿邸のことだ。「てきがいそう」と読んで、元々は別荘だった。
この名は西園寺公望が命名したもので、「荻外荘」は額面通りの「荻窪の外」で、特に故事成句に因
むような深遠な意味はないといわれる。しかし近衛に頼まれてまれてこれを撰名したのは有職故実の
奥義に通じた西園寺なので、実のところはわからない。
 南斜面の高台にあって、善福寺川河谷を一望に収め、遥かに富士の霊峰を眺める景勝地にあり、大
正天皇の侍医であった入沢博士が、大正初年に地主中田村右衛門より、松林一町歩を反当り700円
で買い求めて建てた別荘だった。同年6月に、近衛公が第一次近衛内閣を組織して総理大臣になって
から、荻外荘の名が、毎日のように新聞紙上に現れ、荻窪の地名が一躍世に知られることとなった。
それと共に荻窪が高級住宅地であるというイメージが拡がった。北に上ると大田黒公園がある。
 文麿が、昭和12年6月に第一次近衛内閣を組閣後から服毒自殺した同20年12月16日まで住
んだところで、同16年10月の対米和戦会議、同20年2月の戦争終結方針等、我が国の歴史を左
右した重大会議が行われた。
 荻窪一帯は空襲を免れたため、荻外荘も戦災を免れた。近衛の死後、主なき荻外荘を一時近衛家か
ら借りて私邸代わりにしていたのが強か者の吉田茂である。近衛とは個人的に親しかった吉田だが、
「なぜ荻外荘に住むことに決めたのか?」をある日来客から尋ねられた吉田は、平然と「ここにぼく
が寝ていたらそのうち近衛が出てくるだろうと思ってね」といったという。
 昭和35年に応接室を含む建物の約半分が、東京都豊島区巣鴨にある天理教東京教務支庁の敷地内
へ移築された。現在は布教の家「東京寮」として寮生宿舎となっており、一般の見学はできない。
 現在も家族は住んでいるが、周辺を駐車場にしたりマンションにしたりして、嘗ての厳かな〝森の
中の別荘〟の雰囲気は今はなく、住宅地の真っ只中だ。なお近衛家は、中大兄皇子を唆して蘇我入鹿
を殺させた藤原鎌足の直系の子孫ということになっている。


■荻外荘公園
 平成24年永らく荻外荘に居住していた所有者で近衛の次男通隆が逝去すると、地元の町会長の連
名で要望書が区に提出され、同26年2月杉並区は荻外荘を買い取ることを明らかにした。2年後の
同27年3月に敷地の一部が公園として整備、公開された邸宅の建物の無い部分が芝生広場、遊歩
道、水飲み場、手押しポンプ式井戸のみが整備された簡易な公園として整備されている。邸宅跡地等
は別途整備予定となっている。芝生は邸宅にあったものではなく、整地の上移植されたものである。
全体整備の杉並区の基本方針としては、「屋敷林としての形態を残し、住宅都市・杉並の歴史を代表
する良質な邸宅として後世に引き継ぐ」、「歴史的・文化的価値を最大限活用するため、巣鴨に移築
されている部分も含め荻窪会談の行われた時期を基本に当時の状態に復元するとともに、国の重要文
化財指定を目指す」などとされており、荻窪会談が行われた客間などを展示スペースとして利用する
構想がある。開園時間9~17時。無料。


■角川庭園・幻戯作山房(すぎなみ詩歌館)

 荻窪3丁目14番22号にある区立公園。俳人で、角川書店の創設者角川源義の邸宅が、杉並区に
遺族から寄贈され、「角川庭園・幻戯山房(すぎなみ詩歌館)」として公開している。建物は加倉井
昭夫の設計により、昭和30年竣工。一部48年竣工。木造2階建ての近代数奇屋造りである。建物
は国の登録有形文化財。住宅地の奥だが、小高い処にあり、気持ち良い空間が広がる住宅だ。
 旧角川源義宅。旧書斎が展示室とされて、角川源義にゆかりのある品や俳句などが展示されている
他、詩歌室、茶室が設けられている。平成21年11月に、国の登録有形文化財に登録されている。


■大田黒公園

 荻窪3丁目33番12号にある区立公園。昭和56年10月1日回区初唯一の遊式庭園として開園
した。音楽家大田黒元雄の旧居跡の1つで、園内には記念館があり、愛用のピアノ等が展示されてい
る。往時は家の脇を用水が流れ、周辺は純然たる農村で、それはそれは長閑だった。南に道を下ると
荻外荘もある。下記は、区のホームページから抜粋加工した。

 檜の門
 この公園が日本庭園であることは、正門の造りにも表わされている。総檜、切妻の屋根で、棧瓦葺
き。左右に築地塀のあるどっしりした構えになっている。

 石畳
 門を入ると白い御影石を敷いた園路が真っ直ぐに伸びている。その長さは70m、左右は樹齢10
0年を経た大銀杏の並木だ。木漏れ日が園路に明暗の模様を描く。園路を進むと、植込みの中の低い
階段に行き着き、そこを登ったところが檜造りの管理棟だ。

 休憩室と茶室
 管理棟は茶室、休憩所と事務室とを渡り廊下で結んだ一棟になっている。休憩室の内部には大きな
松の梁があり、昔の民家の土間を偲ばせる。隣が京間8畳の茶室で、内部は秋田杉で造られている。
有料だが使用できる。15人まで大丈夫だ。

 大木と芝生の庭園
 茶室の縁側から庭園が一望でき、目の前は広々とした緑の芝生で、前方の池までなだらかに傾斜し
ている。芝生には数本の赤松が高々と聳え、根元笹で覆われ、芝生の左手は、楢や欅などの木立。大
きな樹木は以前からあったものを保存している。

 流れと池
 茶室・休憩所の裏の中庭に井筒があり、そこから細い流れがある。流れは茶室の周りを一周して、
次第に幅を広げながら、木立の中を流れてこの庭園の中心的な施設である池に注ぐ。流れは鬱蒼と繁
る樹木と一体になって辺りに深山幽谷の佇まいを漂わせている。
 池は筑波石と植込みで飾られ、畔には四阿(あずまや)が建ててある。そこから、芝生と松と茶室
が織りなす絵のような景色が眺められる。

 記念館(大田黒元雄邸)
 芝生の広場の西寄りに、NHKラジオのクイズ番組「話の泉」の解答者で、文化功労者でもある、
音楽評論家大田黒の仕事場であったレンガ色の記念館が保存されている。記念館は昭和8年に建てら
れたもので、当時としては珍しい西洋風の建築物だ。中には愛用のピアノや蓄音機などが展示されて
いる。 ピアノはスタインウェイ(Steinway & Son)社のもので、明治33年にドイツのハンブル
グ工場で製造されったものだという。

 催物広場
 敷地の南西に庭園とは区別されて築地塀と生垣に囲まれた広場がある。野草展やさつき展など催物
に利用する。

   大田黒公園について
   この公園は、大田黒元雄氏の屋敷跡を杉並区が日本庭園として整備し、昭和56年10月
   1日に開園したものです。面積は8972.31㎡で、その内2679.63㎡は大田黒家
   から寄附されたものです。園内には氏の仕事部屋であった記念館や蔵が保存されています。
   この記念館は、昭和8年に建築されたもので、当時のものとしては珍しい構造と意匠を持っ
   た西洋風の建築物です。大田黒氏は、47年有余にわたりこの部屋で音楽活動を続けられ
   ました。園内には、生前氏が使用されていたピアノや蓄音機などが残されています。
   ○大田黒元雄 (音楽評論家 1893~1979)
   NHKラジオの人気番組「話の泉」(昭和21年~39年)の解答者としてとして活躍、
   19歳の時、イギリスのロンドン大学に留学、「バッハよりシェーンベルヒ」の中で日本
   に初めてドビッシーやストラビンスキーの名を日本に紹介したほか、60有余年にわたっ
   て日本の音楽の育成に貢献した。
    昭和39年 紫綬褒章   昭和42年 勲三等瑞宝章   昭和52年 文化功労者
    主な著作 歌劇大観・歌劇大事典・バッハよりシェーンベルヒ・はいから紳士録・西洋
    音楽物語

 話の泉
 昭和21年12月3日から同39年3月31日まで約18年に亘りNHKラジオ第一放送で放送さ
れたクイズ・バラエティ番組。日本の放送界にとって初めてのクイズ番組となった。アメリカのバラ
エティ番組「インフォメーション・プリーズ」をヒントに生まれた。内幸町にあった東京放送会館第
1スタジオから公開で放送された。番組はその時々の時事の話題からクイズを出題(今日のような最
多正解者を表彰する制度ではない)し、そこを発端として司会者のアナウンサーやゲストを交えたト
ークセッションを繰り広げるというものだった。聴取者から寄せられた問題やテーマに対し、解答者
が、自らの持っている薀蓄や雑学の知識を出し合って、答えていく。司会は、和田信賢が務め、昭和
27年和田が死去した後は高橋圭三らが担当した。回答者には堀内敬三・サトウ・ハチロー・渡辺紳
一郎・徳川夢声・山本嘉次郎などが名を連ねた。現代の○×形式のクイズとは違い、トーク番組形式
で回答者が経験・薀蓄を語る懐かしい番組だった。思い出のラジオ番組の一つだ!
 


■西郊ロッヂング

 荻窪3丁目38番9号にある老舗旅館。アジア風の独特の外観、壁には西郊ロッヂングと金メッキ
の文字が光っている。偶には古い建物に触れて、その時代に想いを馳せてみるも一考。その時代を駆
け抜けてきた人は勿論、そうでない若い人だって妙に懐かしい思いをするかもしれないぞ。昭和6年
築の和風の本館と、昭和13年築のドーム屋根を持つ洋室の新館が繋がった造り。本館は、当初、下
宿として建てられたが、新館ができると旅館「西郊」として営業している。木造2階建、スレート一
部鉄板及び桟瓦葺き。新館はL字形の木造2階建、13部屋の賃貸アパートとして利用されている。
銅板葺きのドーム屋根が特徴的。
 


■衎芸館
(かんげいかん)

 荻窪3丁目38番14号にある貸しホール&ギャラリー。衎という文字はふだん見慣れない文字だ
が「喜び楽しむ」「和らぐ」「ゆっくりと落ち着く」「満足する」という意味があり、ゆっくりと芸
術を楽しんで貰う願いを込めている。お茶を飲んだり、お喋りしながら、ゆったり芸術を楽しめるア
ートサロン。音響に配慮した「ホール」は約50席。館長自慢のプレイエル (P‐190) とヤマハ
G3が2台のグランドピアノを常設し、サロンコンサートや発表会、音楽朗読会、教室、立食パーテ
ィなど、さまざまな用途に対応。自然光が差しこむ明るいギャラリーを併設。平成12年1月開館。


■読書の森公園

 荻窪3丁目39番16号にある図書館と一体となった全国でも珍しい区立公園。面積1800㎡の
中には読書を親しむための四阿(あずまや)やベンチ、杉並所縁の作家に因んだ6つのモニュメント
などが配されている。4丁目在住の中田和夫が相続した土地を「区民のために使って欲しい」と区に
寄贈した土地を整備したものだ。区は緑に触れながら読書に親しめる公園として中央図書館の敷地と
一体的に整備すべく、平成15年度に区民17名が参加するワークショップ(合意形成の手法)を開
催して公園の基本計画を策定、16年度に計画、17年度に整備工事と図書館敷地整備と合わせて8
000万円の事業として行われ、同18年3月25日に開園した。区立公園としては298番目とな
るこの公園は、全体として荻窪の原風景を偲ばせるような傾斜の付いた芝生公園と水の流れからなっ
ている。そして図書館に隣接という最大の特徴を生かし、シンボル樹であるケヤキ(欅)の周囲のベ
ンチや、日差しを避けて本を読むことのできる四阿、腰を下してゆっくり寛げる傾斜の付いた芝生広
場があり、誰もが読書に親しめる造りとなっている。公園と図書館を結ぶ道があり、天気のよい日に
園内で読書を楽しむ人々が増えている。園内には杉並区に所縁のある作家、井伏鱒二、石井桃子、谷
川俊太郎、北原白秋に因んだ、本を開いた形をしたモニュメントというか、文学碑というか、それが
6つ配されており、文学の香りのする公園に仕上がっている。開園時間があり、6時~20時。

 マハトマ・ガンジー像
 園内にある。この像は、平成20年にガンジー修養所再建トラスト(ガンジー主義=非暴力・不服
従主義に基づく社会的弱者や貧民の救済を掲げて国際社会の平和を目指す団体)から贈られたもので
杉並区日印交流協会により銅21年年5月24日に建立除幕された。約2mの台座付き立像で、杖を
手に、民衆の先頭に立って歩く姿がデザインされている。シンプルな像だが、理想を胸に前に進もう
とする躍動感に溢れ、ほぼ等身大であることもあって非常にライブ感のある見応えある像となってい
る。像の左右には、ガンジー座右の「七つの大罪」の銘文と、銅像贈呈の銘文がそれぞれ置かれてい
る。
   7つの大罪
   1.汗なしに得た財産     
(労働なき富)
   2.良心を忘れた快楽     
(良心なき快楽)
   3.人格が不在の知識     
(人格なき教育)
   4.道徳心を欠いた商売    
(道徳なき商業)
   5.人間性を尊ばない科学   
(人間性なき科学)
   6.自己犠牲を伴わない信心  
(犠牲なき宗教)
   7.原則なき政治       
(原則なき政治)

 括弧内は一般的訳文。割愛したが碑文にはヒンズー語、英語が併記されている。

 マハトマ・ガンジー
 日本で「マハトマ・ガンジー」として知られているモハンダス・カラムチャンド・ガンジー(ガン
ディー)は、インドの宗教・思想家、独立運動家。明治3年10月にイギリス領インドの北西部、ク
ジャラートのポールバンダル藩王国(内政権を認められている諸侯領の一種)の宰相の子として生ま
れた。若い頃はヒンドゥー教の禁忌を破ったりすることもあったが、イギリス留学を機に法律の勉強
に精進するようになり、学校卒業後にイギリス領南アフリカ連邦で弁護士として開業。しかし同地で
白人による人種差別の現状を強く認識し、被差別民の権利回復運動に手を染めるようになる。
 大正4年にインドに帰国して以降は、一時期、戦争(第一次大戦)協力の代償に自治を認めたイギ
リスに協力したものの、戦後約束を反故にされると反英運動を呼び掛け、武力闘争の失敗を経て不服
従の独立運動へと転換。民衆の支持を得て運動は大きく広がっていった。しかしインド国内にはヒン
ドゥー以外にもイスラム、仏教などの教徒が多数おり、ガンジーは他教との連携を志すものの成功し
なかった。またヒンドゥー教にも原理主義者のグループがあり、「ガンジーはイスラムに妥協してい
る」と考えたヒンドゥー原理主義者により昭和23年1月自宅にて暗殺される。享年79歳。悲願の
独立(自治権獲得)は、存命中は昭和22年にインド連邦として自治権を得たものの、その国家元首
はイギリス国王で、事実上の独立となる共和制に移行したのは死後の昭和25年のことだった。なお
通称として使われる「マハトマ」は、「偉大なる魂」という意味の尊称だが、インドでは「父親」を
意味する「バープー」の名でも親しまれている。



■中央図書館

 荻窪3丁目40番23号の閑静な住宅街にある。区立図書館の中心としての機能を持っており。昭
和57年に区政50周年記念施設として開設。杉並資料室には多くの行政資料を揃えてある。CDな
どの視聴覚資料もある。1階には、インドとの友好交流協定を記念して開設したガンディー展が常設
してある。

 
こころ
 前庭にある裸婦像。作者不詳。

 フードの竜
 1階フロアにある佐藤忠良の作品。。

 ●「アンネの日記」破損事件  犯人はユダヤ人?
 昨年豊島区の図書館で始まった「アンネの日記」とその関連本を30ページほどを破り捨てる事件
が続いており、平成26年2月末現在で5区3市38図書館で300冊以上の被害が続出した。犯人
は判らない。識者も含めて多くの人は、犯人は反ユダヤ主義者、ネオナチだという。そうだろうか?
 今頃、忘れ去られたような本を破る意味が判らない。そんなことで反ユダヤの主張ができようか?
 この結果として、忘れ去られた本を世界中の人々に思い起こさせたし、「アンネの日記」を知らな
い若い世代には興味を喚起させた。この事件で利益を得るのはユダヤだ。とすれば、犯人は自ずと知
れよう。あのサイモン・ヴィーゼンタールが動いた。イスラエル大使館は破損されたと同じ数量を寄
贈するといい、実際に2月27日イスラエルの公使が杉並区役所を訪れ3冊の本の寄贈式を行った。
手回しが良すぎやしないか? このことで「アンネの日記」は再び劇的に読破されるだろう。ユダヤ
人への虐待や虐殺のことが人々の記憶の中に侵入する。ユダヤにとって思う壺だ。利益を得る者が犯
人だという定説からすると、犯人はユダヤ人か、その手先、実行犯は、日本人か、朝鮮人かもしれな
いが、その後ろには必ずユダヤがいる。さらにいうなら別のことへの布石か、脅迫か?
 実は「アンネの日記」を涙を流して読むのは日本人だけだという。

 ホロコースト(ユダヤ人大虐殺)は有り得ない嘘なのだ
 序でにいおうなら、ホロコースト(ユダヤ人大虐殺)はなかった。「なかった」というとサイモン
・ヴィーゼンタールが激怒して脅しにやってくるから、おっかないが、単純な話、ナチス・ドイツ時
代にドイツにいたユダヤ人は400万人、戦後の統計でも400万人、ヨーロッパ全体では1600
万人。で、戦後は1470万人、-130万人、ロシアで100万人死亡した公式記録があるから、
不足分は30万人だ。移動途中に老衰、病死、逃亡したことをを勘案すると、シオニストがナチスの
名前で殺害した数は93000人と考えられる。で、ヴィーゼンタールのいう、ガス室で殺された6
00万人とも2000万人もいわれるユダヤ人は一体全体何処から連れて来たというのか? 3年半
で600万人を殺すとなると、毎日4000人強をガス室に送り込んで、虐殺後、遺体を運び出し、
穴を掘って埋めなければならない。果たして毎日毎日そんなことが可能だというのか? そして40
00人を埋める大きな穴が1460個も必要だ。アウシュビッツのガス室が仮に殺人工場として、リ
ミットは300人が精一杯という。とすると殺人工場は11ヶ所以上必要となる。300人づつ埋め
る巨大な穴も13000以上必要となる。当時ショベルローダーはまだないから、穴掘りは人海戦術
となり、穴掘り人夫だけでも最低軽く10万人は必要だ。本当に穴は掘られたのか。然も、戦後、こ
れらの穴から遺体を掘り出して墓地に埋葬したという話は全く聞かない。とすると600万人の供養
はしていないことになる。ユダヤ人は仲間にそんなに冷徹なのか? 
 遺骨はベルトコンベアーで川に捨てたという説がある。骨は川を流れて海の藻屑と消えたというの
か? 骨は流れない。そこに止まり堆く積もって山となり川を塞き止めてしまう。ユダヤ人は川底の
遺骨を採集して供養をしないのか? ユダヤ人は面白い。よくもまあありもしない出鱈目をいけしゃ
あと主張するもんだ。ヒットラーが東方に送ったユダヤ人は、クリミヤに集められ、戦後に建国した
イスラエル国民となっている。アウシュビッツに収容されたユダヤ人で、ガス室の存在を知らず、ガ
ス室で仲間が殺されたことを知らないという人が何人もいる。
 だから「アンネの日記」は作り話、つまり小説だ。蓋しアンネ・フランクの悲劇はなかったのだ。
では何故か?
 ヒトラーはユダヤ人ロスチャイルドの孫だという。つまりユダヤ人だ。そしてゲッペルスも、ヘス
も、ヒムラーも、ゲーリングもみんなユダヤ人で、ゲルマンではない。つまりナチスドイツはユダヤ
人によるユダヤ人のための国家だったのだ。ホロコーストを創成するために必要なシステムだったの
だ。軍資金を出したのはアメリカのユダヤ資本家ブッシュとハリマン。その後ろにロスチャイルド、
さらにその後ろにベネチアの黒い貴族が北叟笑んでいる。
 つまりもしホロコーストがあったとすれば、ユダヤ人がユダヤ人を大量虐殺したことになる。だか
らこそドイツ人が涼しい顔をしているのだ。ドイツ人は何の罪も犯していないからだ。さらにいうな
ら日本軍の慰安婦問題も物理的にあり得ない無いのだ。拉致監禁したとすれば、20万人もの食費は
何処から捻出したのか。貧乏陸軍にそんな予算はない。韓国人は歴史認識をしっかり持て!

 「アンネの日記」のゴーストライターは作家メイヤー・レビン
 「アンネの日記」はアンネ・フランクという13歳で亡くなった子供が自ら書いた「日記」ではな
い。アシュケナジー・ユダヤ人であるメイヤー・レビンが、アンネの父オットーから頼まれて書いた
小説なのである。アンネはオランダで生れたアシュケナジー・ユダヤ人だ。彼女が古典的ドイツ語で
しかも大人の様な筆致で書くのは不自然だ。彼女はオランダ語は堪能だったろうが、オランダ語とド
イツ語は根本的に違う。『アンネの日記』がプロパガンダとして利用されているならば、日本人はそ
れに乗せられているということだ。
 「アンネの日記」の真偽を問うニューヨーク最高裁判所の判決では作家メイヤー・レビンが、アン
ネ・フランクの父オットーから、日記作成に対する謝礼金として5万ドルを受取ったと認めている。
オットーはこのレビンに5万ドルを払い、昭和26年にこの偽日記を自分の娘の作品にしてしまった
のだ。出版後、この出版物は最も売れる本になった。しかし何故アンネの父を巻き込み、本の真実性
を追ったこの裁判が、報告される事がないのか? オットー・フランクがその娘の死、及びその悲劇
から莫大なカネを儲けたというのにだ。この最高裁の判決の書類2241ー1956はニューヨーク
の地方事務所にある筈なのだが、このファイルは今や何処かに隠されたか、処分されてしまった。証
拠隠滅するのが彼等アシュケナジーユダヤの得意技だ。スウェーデンの記者、ディトリィェブ・フェ
ルデュラーは『アンネの日記』について次の様に述べている。

   1959年、映画『アンネの日記』が作られた時、アンネが住んでいたというアムステル
   ダムの建物を、日記に書いてある様に改装しても良いといわれたという。日記に対する疑
   問が湧いて来るではないか。この日記は自己矛盾と文学的表現に満ちており、とうてい1
   3歳の少女が日記として書いたとは思えない。しかもどうして13歳の少女が、その日記
   の初めでフランク家の歴史についてまず語り、すぐ後にドイツにおける反ユダヤについて
   語っているのか? 本文の中で彼女は『オランダ風の梯子階段』と書いているが、彼女は
   オランダで育ったのに、どうしてその梯子階段がオランダ独特の物と分るのだろうか? 
   彼女はどこの国にも行った事はないのに・・・


 昭和55年10月9日付ニューヨーク・ポストには、エルンスト・ロエマーが『アンネの日記』は
真実ではなく、小説である事を追及し続け裁判に持込んだ事が書かれ、二度目の裁判でロエマーの申
出は正当と認められた。
 独逸連邦犯罪調査事務局の調査結果によると『アンネの日記』の原本は全巻が発表されていなかっ
た。しかし裁判の結果、遂に第4冊目が調査され、その4冊目はボールペンで書かれていた。ボール
ペンが世に出て一般に使われている様になったのは1951年以降だし、アンネはそれよりも遥か以
前に死んでいた。第4冊目のボールペンの筆跡は第一冊目、第二冊目、第三冊目に書かれている筆跡
と全く同じ物。この日記はアンネ自身の手で書かれた物ではないという動かし難い証拠である。
 昭和63年アンネがアメリカの友人に送った昭和17年10月10日付の手紙が発見され、「アン
ネの日記」の原稿と比較したところ、全くの別人の筆跡であることが判明した。
 昭和64年9月16日、一人のフランス人が犬を連れて公園を散歩中、三人の若者に襲われて全治
数ケ月にも及ぶ重傷を負わされた。事件後、直ちに犯行声明が出された。

   ロバート・フォアリスンは、一人目であって、これで終りではない。SHOAH(ホロコ
   ースト、即ち虐殺を意味するヘブライ語)を否定する者達は用心せよ。

 差出人はユダヤ歴史継承団とあった。被害者ロバート・フォアリスンは、この3人の若者達と出逢
い頭に催眠ガスを掛けられた。彼が倒れ気を失った時、頭や顔、胸等を数10回に亙って蹴り上げら
れ、瀕死の重傷を負わされた。フォアリスンはリヨン第二大学の教授として有名な人物であり『アン
ネの日記は本物か』等数冊の本を書き、一貫して第二次世界大戦中にナチス・ドイツがユダヤ絶滅計
画を出してもいないし、実行もしていないと云う事を主張し証明していたのだった。

 もっと面白い話をするなら連合軍司令官アイゼンハワーもユダヤ人だ。ソ連もユダヤだから、第二
次世界大戦というのはユダヤ人同士の戦争ということになる。ということは打ち合わせ戦争だという
ことだ。アイゼンハワーが連合軍司令官になる前の階級は大佐だ。しかも赫々たる戦歴もない、只の
事務屋だ。それがどうして連合軍司令官なんだ。で、彼が何をしたのか。参戦したアメリカはドイツ
を攻撃することもなく北アフリカ戦線で3年半を過ごす。つまり〝砂漠のキツネ〟ことロンメル軍団
に手こずるという訳だ。しかしロンメルの手勢は10000人、55万の兵力を擁してこれに手こず
るか? 最初からやる気はないのだ。戦争そのものが武器売買のパフォーマンス、騙されちゃいけま
せんぜ。もっと面白い話、ギリシャ人オナシスは船舶王で110隻の船を持っていた。戦争で、ギリ
シャ船籍480隻の内350隻が連合軍によって撃沈されたが、オナシスの船は1隻もやられなかっ
た。そのタンカーはドイツ軍にガソリンを供給しているというのにだ。実はオナシスはユダヤ人だっ
た。だからアメリカ軍は攻撃しなかった。
 スターリングラードの独ソ戦では、双方がアメリカ製のマシンガンで撃ち合っていた。かくてヒト
ラーはアルゼンチンに逃れてそこで天寿を全うした。現在ヒトラーの子孫はアメリカに60家ほどあ
るという。アンゲラ・メルケルドイツ首相はヒトラーの試験官ベイビーだ。目がそっくりだ。
 因みに、バーナンキも、TPPのフロマンもユダヤ人だ。
 


■庚申塔・地蔵尊

 荻窪3丁目44番にあるらしいが見当たらない。


■荻窪体育館

 荻窪3丁目47番2号にある区の施設。


 
オーロラの碑(原水爆禁止運動発祥の地)
 体育館の前庭に、足を開いた大根のような、横から見ると薄い板の下に鋏を入れてひねったような
不思議なモニュメントが建っている。 「オーロラの碑」と名前がつけてある。この場所には以前「杉
並区公民館」があった。昭和29年ビキニ環礁で行われたアメリカの水爆実験で発生した〝死の灰〟
が静岡のマグロ漁船「第五福竜丸」に降り注ぎ、〝死の灰〟を浴びた乗組員は、強度の放射線被曝を
受け、無線長の久保山愛吉が死亡した事件があった。実際はもっと被爆した漁船はあったし、被爆し
た漁師も数多くいたのだが、アメリカにキンタマを握られた政府は第五福竜丸以外の被爆を認めず、
アメリカのいいなりになった。アメリカの属国の総理大臣が靖国参拝はねえだろう。英霊は浮かばれ
ねえやな。
 この事件をきっかけに、杉並区公民館を拠点に主婦たちが始めた原水爆実験禁止を求める署名活動
は全国に広がり、2000万人を超える署名を集め、空前の平和運動となった。昭和30年には第1
回の原水爆禁止世界大会が広島で開催され、被爆者の救済を求め核廃絶を訴える運動に発展していっ
た。核装備すべく考えていた自民党政府はこの盛り上がりに政権を失うことを恐れ、俄かに「非核三
原則」を持ち出して、平和主義者を装わざるを得なくなり、俄かに衣を羽織って鎧を隠すこととなっ
た。ヒロシマ原爆は日猶合作。何のために? 原発を世界に蔓延らせるため。ウランを売って金儲け
するため。ロスチャイルドはウハウハだ!
 

   
オーロラ 原水爆禁止運動の発祥の地
   杉並区立公民館跡地の碑
   平成3年3月        制作者 瀧徹


   記念碑の由来
   昭和28年11月に開設した杉並区公民館においては、区民の教養向上や文化振興を図る
   ため、各種の教養講座が開かれ、また、社会教育の拠点として、区民の自主的活動が行わ
   れてきました。これらの活動のなかでも、特筆されるものは、昭和29年3月ビキニ環礁
   水爆実験をきっかけとして、杉並区議会において水爆禁止の決議が議決されるとともに、
   同館を拠点として広範な区民の間で始まった原水爆禁止署名運動であり、世界的な原水爆
   禁止運動の発祥の地と言われております。その公民館も老朽化により平成元年3月末日を
   もって廃館されましたが、その役割は杉並区社会教育センター(セシオン杉並)に発展的
   に継承されております。ここに公民館の歴史をとどめるとともに、人類普遍の願いである
   永遠の平和を希求して記念碑を建立したものであります。
   平成3年3月                            東京都杉並区

 すぎなみ倶楽部に瀧徹のインタヴュー記事があった。

   「オーロラ」の碑の原石はポルトガル産のとても美しいピンクの大理石です。杉並に住ん
   だ時期もあり、公民館が水爆禁止運動発祥の地であると知っていたが、まさか、その記念
   碑を自分がつくるとは想像もしていませんでした。制作期間は半年ぐらいでした。制作の
   依頼は、平成2年に杉並区平和都市宣言の記念像「ジーンズ」を制作された佐藤忠良先生
   の御推薦だったと、後で知ったのです。「オーロラ」制作以前の5~6年間は「石の空」
   と言うタイトルで作品をつくっており、長野県美ヶ原高原に、殆ど大きさも同じ姉妹作品
   が現在も展示されています。大理石は、軟らかく長い年月の間に風化するが、また磨けば
   光沢が戻る。オーロラは、自然現象で美しい!美しいものが壊されていく、美しいものが
   原子爆弾で破壊されていく・・・と言う意味を込め「オーロラ」と名付けたのです。
   (インタビュー実施日:平成26年8月18日 アトリエにて)
 


■立教寺

 荻窪3丁目47番12号にある天台宗の寺。こじんまりとした佇まいは一般住宅と見紛うが、寺っ
ぽい屋根が、寺といえば寺か。
 


■杉並教会

 荻窪4丁目2番10号にある日本基督教団の教会。


■東京メソヂスト杉並中部教会教会

 荻窪4丁目15番27号にあるキリスト教会。昭和23年に木造で建てられた。教会敷地には附属
の幼稚園もあったが、昭和64年に40年の歴史に幕を降ろし閉園したそうだ。遊戯が寂しそうに錆
びている。
 日本人は不思議な民族で、人口におけるクリスチャンの比率は世界の七不思議といわれるほど少な
く1%に過ぎないろ。つまり120万人足らずで、自称クリスチャンを含めても倍にはならないとい
う。日本人はキリスト教を宗教とは考えていず、メルヘン、ファションと捉えているようで教会の困
難は信者を教会に運ばせることだという。結婚式をキリスト教会で挙げるのに、式を終えると見向き
もしない。カトリックとプロテスタントの区別さえつかないのだ。
 何故か? 多神教と一神教、自力本願と他力本願の違いだ。キリスト教はユダヤが世界支配の道具
として拵えたもので政治性が強い。一方通行で支配せんとするため、一つの教えに盲目的に信じさせ
なくてはならない。他力本願だ。だから自覚自悟を許せない。千日行なんてもってのほかだ。そうす
ると、悟りを開いたものに比べて人間の内面に於いて劣ってしまう。ローマ法王は修行を積んだ聖人
ではない。年取ったキリスト教徒に過ぎない。それが日本で流行らない理由だ。元旦、明治神宮の前
でキリスト教の連中が大きなブラカードを掲げて勧誘しているが、誰も怒らない。
 何故か? 神道にいわせれば「キリスト教は神道から派生したものだ」という。最近になって白人
が日本にやってきて、座禅修行や山岳仏教の荒行に参加して心を磨いて満足している。世界を本当の
平和に導こうとするなら、ユダヤ教徒、特にシオニストに日本で修行させることだ。、
 


■明治天皇荻窪御小休所
 荻窪4丁目30番16号藤沢ビル(藤沢邸)にある。ここはかつて下荻窪村の名主を務めた中田村
右衛門の屋敷跡で、その敷地内にあった。明治16年4月16日と23日の両日天皇が多摩巡幸の途
次、同家の離れ座敷で御休息された。離れ座敷は木造茅葺き平屋建て、建坪11.75坪、6畳二間の
茶室風の質素な建物だ。かつて将軍の御休息所で、東側の入口には、11代将軍家斉が鷹狩りの際に
休憩するときに出入した御成門(武家長屋門)ある。昭和9年文部省の史跡に指定されたが、戦後ア
メリカの指示により解除。昭和62年ビル建設により、現位置にずらされた。
 長屋門も小休所も旧下荻窪の名主、中川家の建物で、明治天皇よりも前に第11代将軍徳川家斉が
鷹狩の際に休憩に寄った場所でもある。併しいくら名主と雖も、百姓は百姓。将軍が農家の家に立ち
寄るのは宜しくないということで、威光を保つために御成門を作らせたという。家斉が休憩の場とし
て利用した小休所は、明治天皇が明治16年4月16日に、埼玉県飯能の近衛師団の演習の統監に向
かう道すがらと、同年4月23日に、小金井の桜を見行く途中に立ち寄って休憩した屋敷跡で、以来
明治末まで毎年、小金井に花見に行く際に、必ず訪れたという。
 


■NTT荻窪ビル
 荻窪4丁目31番1号にある3階建てのビル。コーナー部分を丸く仕上げてある。1階はコンビニ
「まいばすけっと」という。右外壁面の縦長の窓など、設計した逓信省技師山田守の特徴が表れてい
る。旧千住郵便局電話事務室と同じようなデザインだ。昭和39年竣工の京都タワーの設計では、山
田守は古都の景観を乱すということで、世間の喧々囂々の批判も受けた。そのタワーも今では京都の
シンボルだ!


■おしかわ公園
 荻窪5丁目2番13号にある区立公園。


■忍川橋
 荻窪5丁目4番の東角の善福寺川に架かっている。今は一般に「おしかわはし」と読むけれども、
正しくは「しのびがわはし」なのだ。「忍び」とは忍者のことで、下荻窪村は服部半蔵の、上荻窪村
は忍び同心8人の領地だった。忍びの者の住む谷戸で、忍びヶ谷戸(しのびがやと→しのびがや→し
のびがわ)が転じて「忍び川」となったものだ。昭和に入って余所者が多数住むようになって勝手に
「おしかわ」と読んだ。それが多数で制して、バス停、橋名まで誤読してしまっている(杉並の通称
地名)。
 ところが『杉並の伝説』の伝説によると、服部半蔵は諸国の情報を得るために、この地に博打場を
開き、各地のならず者が集まってきて、村人は大いに迷惑をした。それで「しのびがや」と呼ぶこと
を嫌い「おしがや→おしがわ」と敢えて誤読したとある。
 
 

■イエス之御霊教会

 荻窪5丁目19番2号にあるキリスト教会。


■荻窪高等学校 
廃校

 荻窪5丁目7番20号にあった全日制都立校。昭和10年「東京府東京市杉並高等家政女学校」と
して開校。同18年都立校となる。同23年戦勝国アメリカの強制による新学制(学校教育法施行)
により男女共学の「東京都立荻窪高等学校」と改称。
 平成17年「杉並地区昼夜間定時制高等学校(仮称)」開設準備室を荻窪高等学校内に設置。新1
年生の募集停止。5月仮設校舎建設移転。同19年3月31日東京都立荻窪高等学校全日制普通科課
程廃止。


■荻窪高等学校 
新設
 
 荻窪5丁目7番20号にある都立校。平成17年4月杉並地区昼夜間定時制高等学校(仮称)開設
準備室を旧荻窪高校内に設置。9月校舎の大規模改修工事開始。同19年4月1日廃校となった荻窪
高校の名前を引き継ぎ「東京都立荻窪高等学校」三部制普通科課程として開校。校歌制定。

 校歌「この空に」 作詞・志賀大介  作曲・池田八声
  1.この空に この町に
    緑の風が吹いている
    武蔵野の大らかな
    季節の歩みと共にある
    おお荻窪 荻窪高校
  2.この町に この庭に
    光の花が咲いている
    校章の梅と杉
    心は友への思いやり
    おお荻窪 荻窪高校
  3.この庭に この窓に
    絆の歌が響いてる
    青春の語らいは
    輝く未来の道標
(みちしるべ)
    おお荻窪 荻窪高校


 12月改装した校舎での授業開始。同20年都立武蔵高校定時制が本校内に移転。平成22年学年
制の定時制課程を閉課。
 


■荻窪高年齢者就業相談所

 荻窪5丁目27番8号第一荻窪ビルにある都の施設。
 
 



【上井草】(かみいぐさ)1~4丁目                昭和38年12月1日
 上井草村。明治11年「郡区町村編制法」により東多摩郡所属、同22年「市制町村制」により
井荻村大字上井草、大正15年井荻町大字上井草、昭和7年東京市編入20区増設により杉並区上
井草町・善福寺町・宿町・今川町・三谷町・中通町・新町・谷頭町→矢頭町に分立した。同38年
新住居表示により新町・上井草町・四宮町・柿ノ木町の各大部分に神戸町・今川町・三谷町の各一
部、住吉町・矢頭町の各ごく一部をあわせた町域を現行の「上井草」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『杉並区史』『杉並の歴史』など。

 
上井草について
 井草の由来については井草に記述。上は京都に近いことによる。
 


■屋敷稲荷

 上井草1丁目24番17号の、環八通りに面した1階がスーパーボンマルシェビルであるビルの屋
上にある。
 
 


■柿木公園

 上井草1丁目26番18号にある区立公園。


■井草福音キリスト教会

 上井草1丁目28番13号にある。


■湖明寺

 上井草1丁目30番5号にある日蓮宗の寺。高級住宅風の佇まい。寺の雰囲気はない。


■柿木北公園

 上井草1丁目33番3号にある区立公園。

 
なまず
 マンガっぽいナマズの石像。



■「飛翔」像

 上井草1丁目33番5号㈱ニチリョク前左脇にある若い女性の立像。日体大の「エッサッサ」の銅
像をつくった井上久照の作品。


■四宮南公園

 上井草2丁目3番11号にある区立公園。


■四宮稲荷社

 上井草2丁目6番1号にある浅賀家の屋敷稲荷。


■杉並聖真ルーテル教会

 上井草2丁目9番17号にあるキリスト教会。


■四宮小学校

 上井草2丁目12番26号にある区立校。昭和26年桃井第一小学校・桃井第五小学校の分校とし
て、四宮町46番地(現在地)に「杉並区立四宮小学校」として開校。校舎が間に合わないためそれ
ぞれの学校に委託授業。同28年校歌制定。

 校歌「
肩を並べて」 作詞・サトウハチロー  作曲・渡辺浦人
  1.肩を並べて語りつ通う
    楽しき学び舎 その名は四宮
    知識を磨きて体を鍛え
    徳を身に付け日毎に励む
    四宮 四宮 輝くその名
    四宮 四宮 我等が母校
  2.優しき師の君 正しき訓え
    麗し学び舎 その名は四宮
    栄えと希望の湧き立つ胸に
    幸と誇りの四つ葉のクローバー
    四宮 四宮 輝くその名
    四宮 四宮 我等が母校
  3.晴れたる朝には気高き富士を
    眺むる学び舎 その名は四宮
    立木の梢に小道の草に
    偲ぶ武蔵野 仄かな名残り
    四宮 四宮 輝くその名
    四宮 四宮 我等が母校
  4.強く明るく大きく伸ばす
    自由の学び舎 その名は四宮
    喜び溢れる思い出重ね
    清く日に日に澄み行く心
    四宮 四宮 輝くその名
    四宮 四宮 我等が母校

 同33年体育館完成。同36年プール完成。同40年理科園設置。同46年創立20周年記念式典。
同47年第1期鉄筋コンクリート造り校舎落成。同48年鉄筋コンクリート造り東校舎落成(第2期)。
同49年芝生480㎡緑化・雑木林造林。同50年創立25周年記念式典。同52年校地60㎡を備
蓄倉庫へ移管。同54年鉄筋コンクリート造り西校舎(第3期)。同55年創立30周年記念式典。
同57年FF暖房設置。同60年雑木林追加造林2350本植樹。同61年エアコン取付。同62年
緑化園完成。平成2年創立40周年記念式典。同6年コンピュータルーム開設。同7年窓枠アルミサッ
シに取換。防災井戸設置。同12年3月ビオトープ「トンボ池」完成。4月地方自治法改正に伴う学
校教育法の改正により、校名から
東京都の冠称が取れ、「杉並区立桃井四宮小学校」と改称。8月校
舎耐震化。10月創立50周年記念式典。12月ブロンズ像「流氷」序幕。同13年タイムカプセル
埋却。インターネット接続。同14年体育館床改修。同16年プール改修。同17年外壁全塗装。同
18年屋上緑化。
 


■瀬戸原緑地

 上井草2丁目17番14号にある区立公園。


■民間信仰石塔
 上井草2丁目17番19号の上井草グリーンハイツの入口左、バス通りに面してある。

   民間信仰石塔
   ここに建立されている石塔は聖観音塔と庚申塔。いずれもかっては現在地よりやや西方の
   道沿いにありましたが、区画整理のため大正14年この場所に移したものです。向って右
   側の聖観音は「富士向観音」の名で親しまれたもので、寛延二年(1749)十一月十五
   日の造立です。観音様は現世利益を本願とし、種々の相に身を変えて衆生の悩みを救済し
   てくれるといわれ、広く信仰されました。観音のなかでも聖観音は最もポピュラーなもの
   で、この塔もそうした信仰を持った観音講か念仏講と思われる講中によって造立されたも
   のです。
   左側の庚申塔は、享保七年(1722)10月吉日の造立です。庚申信仰は庚申の夜に眠
   ると体内の三尸の虫が罪を上帝に告げ、人の寿命を短かくするので、この夜は徹夜をすべ
   きであるという道教説に由来するといわれています。信仰活動の中心は庚申の夜に、所謂
   庚申侍をすることで、そのために各地に庚信講が作られました。庚申塔は講の成立とか行
   事の成就などの時に供養として作られことが多かったといわれて、この塔も講中の人々に
   よって、そうした折に造立されたものと思われます。
   なお2つの塔の銘文にある「遅野井村」は上井草村の別称です。また「同行22人」「講
   中に11人」という数字は、区内でも比較的大きな講の存在を示すものといえます。
   この石塔はかっての上井草村の民間信仰を伝える貴重な文化財です。大切に守りつづけた
   いものです。
   昭和63年3月                         杉並区教育委員会



■またまた医師・医学生の集団婦女暴行事件

 上井草2丁目25番18号柁原医院の理事長・東邦大学医学部OB・東邦大学医学部外科学講師柁
原宏久のバカ息子龍祐(25歳)が、大田区大森西3丁目の上西が借りているマンションで、先輩の
東京慈恵会医科大学附属病院皮膚科医師松岡芳春(31歳)、千葉県船橋中央病院研修医で船橋在住
の上西崇(31歳)と一緒に、平成28年4月30日に引き起こした集団強姦事件で、同29年6月
14日警視庁に逮捕された。上西は強姦のために大田区にマンションを借りていたのか?
 手口は昨年4月30日、上西が借りていた大田区のマンションの一室に合コンを理由に10代女性
を誘い込み、山手線ゲームで負けたことを理由に、強い酒を一気飲みさせて昏睡させた上、女性を裸
にして、3人で性的暴行を加えたというもの。上西は埼玉県で起こした別の強姦事件で公判中でもあ
り、これまで同じ罪で4回逮捕されている強姦魔。上西と松岡は東邦大学医学部を卒業しており、同
じイベントサークルに在籍。医学部生の柁原は松岡と知り合いで、3人で10代から20代の女性に
酒を飲ませ、集団強姦を繰り返していたとみられている。
 早稲田・東大・慶応・千葉大・東邦大・慈恵医大と続いた集団強姦。医者になってこの様じゃあ。
またまた韓国人か。いい加減にしろよ。


■四宮公園

 上井草2丁目27番12号にある区立公園。


■上井草向山公園

 上井草2丁目39番19号にある区立公園。


■四宮森公園

 上井草2丁目41番25号にある区立公園

 
井草川
 園内に説明板がある。切通公園(井草八幡の道路向かい)にあった湧水を水源とし妙正寺池に注ぐ
小河川。

   井草川
   足元の遊歩道は、昔は井草川と呼ばれる川の流路となっていました。井草川は、上井草4
   丁目付近を谷頭とし、流路の北限となる井草4丁目の矢頭公園付近まで北東へ向かい、そ
   こから東南へと流れを変え、清水3丁目で妙正寺川に注いでいました。水源から妙正寺川
   との合流地点まで、約3.5kmの小河川でしたが、地域の生活を支える河川でもあありま
   した。宝永4年(1707)下井草村名主半兵衛らの尽力により、千川上水(用水)を分
   水して青梅街道沿いに用水が開削されました。その水を谷頭口から取り入れた井草川は田
   方用水として積極的に利用されるようになり、明治期まで両岸には水田が広がっていまし
   た。昭和30年代、井草川は魚を捕るなど子どもたちの恰好の遊び場となっていました。
   このような井草川ですが、周辺の宅地化に伴い、暗渠化が進み、昭和56年には総ての流
   路が暗渠となりました。
   井草川には更に古い歴史もあります。井草川流域には旧石器時代や縄文時代など、26か
   所もの遺跡があり、往時から人びとに利用されていたことがわかっています。この中で、
   井草川上流から中流部にかけては、これまでに7遺跡で発掘調査が実施されています。調
   査では、旧石器時代(15000年前頃~32000年前頃)から縄文時代草創期・早期
   (8000年前頃~15000年前頃)の資料が多く発見され、特に古い時代の遺跡が集
   中していることは、この地域の特色といえます。
   このように、井草川は先史時代から現代に至るまで、生活の舞台となっており、地域に恵
   みをもたらす川として多くの人びとに受け継がれてきました。台地に刻まれた井草川の流
   れは、地域に刻んだ歴史とともに、現在は公園や遊歩道として親しまれています。
   平成25年3月                         杉並区教育委員会


■機動戦士ガンダムのサンライズ本社

 上井草2丁目44番10号第二KIビルにあるアニメ制作会社。昭和47年有限会社サンライズス
タジオとして発足し、同51年に株式会社とする。同62年アニメーションの製作会社として株式会
社サンライズに継承。平成6年バンダイグループの一員となる。平成8年本社移転。
 主にテレビアニメーション映画の製作、テレビ劇映画・テレビ特撮映画の製作、劇場用アニメーショ
ン映画の製作、コマーシャルフィルムの製作などを行なっている。
 作品は多数あるが、「機動戦士ガンダム」だけで食える会社だ。平成20年上井草駅南口にガンダ
ムの銅像ができた。ガンダムを製作する第二スタジオは上井草3‐37‐11布沢ビル3階にある。
 


機動戦士ガンダム
 サンライズが制作し名古屋テレビをキー局として放送されたロボットアニメ「ガンダムシリーズ」
の第一作。テレビ朝日系系で毎週土曜日17:30~18:00、昭和54年4月7日~昭和55年
1月26日にかけて、全43話が放送された。
 これは3機合体のロボットが主役の『無敵超人ザンボット3』、3段変形のロボットが主役の『無
敵鋼人ダイターン3』に続くサンライズのオリジナル作品第3作として、富野喜幸(富野由悠季)を
監督に据え、玩具メーカーのクローバーをメインスポンサーとして企画・制作された作品だ。従来ア
ニメは、子供向けとされてきたのに対して、『海のトリトン』や『勇者ライディーン』の監督経験を
持つ富野喜幸が、明確に青年層をターゲットにして作られた最初のシュブナイルアニメーションでも
ある。このためスポンサーの絶対条件としてのロボットアクション以上に、主人公の社会的成長が物
語の主軸に据えられてる。また戦争を舞台としたリアリティに富んだ人間ドラマと、ロボットを「モ
ビルスーツ」と呼ばれる兵器の一種として扱う設定を導入したことで、後に「リアルロボット」と称
されることになる80年代初頭~半ばにかけてのロボットアニメ変革の先駆けとなった。それらの要
素が放映当時の10代半ば以上の視聴者を中心に人気を博し、本放送終了後の昭和56年から57年
にかけて劇場版3部作の大ヒットに結びついた昭和末年を代表する作品であり、昭和40年代の『宇
宙戦艦ヤマト』、平成初期の『新世紀エヴァンゲリオン』と並び、後々のアニメへ影響を与えた作品
となった。なお本作は後に続々と制作されていく「ガンダムシリーズ」と呼ばれる一連の作品群の第
1作目であることから、ファンからは「ファーストガンダム」の異名でも呼ばれることが多い。人口
が増えすぎた地球を離れて宇宙に移住した人々と、地球を食い物にする特権階級との戦いの物語。

 企画
 当初の企画『フリーダムファイター』ではロボットを登場させるつもりはなかったとか。『宇宙戦
艦ヤマト』とジュール・ヴェルヌの『十五少年漂流記』にヒントを得て、宇宙戦艦に乗り込んだ少年
少女が宇宙戦争の中で協力しながら生き延び成長するという構成で、この点は『ガンダム』と共通し
ているが、ここでは主人公たちは宇宙戦闘機に乗り込み、異星人と戦うという設定だったのだ。しか
しクローバーはあくまで巨大ロボット物、それも「変形・合体」といったおもちゃとして楽しめる仕
掛けを備えたものを要望した。企画に詰まったスタッフは、SF作家でスタジオぬえの一員でもある
高千穂遥に悩みを打ち明けたところ、高千穂は、ロバート・A・ハインラインのSF小説『宇宙の戦
士』の一読を薦めた。
 そしてこれに登場する「パワードスーツ」、スタジオぬえによる装甲強化服の挿絵を元に考案され
たのが、全高18mの「MS(モビルスーツ)」だった。この時点でのエムエスの名前は『ガンボー
イ』だった。これにアメリカでトラック軍団を指す「コンボイ」と掛け合わせて『ガンボイ』となり、
さらにチャールス・ブロンソンのTV‐CMで大流行した「う~んマンダム」のイメージから、「フ
リーダム」のダムとかけて「ガンダム」という名前が生み出されたのだ。
 最終的に、主役MS「ガンダム」は上半身と下半身の間に小型戦闘機を変形させて組み込むという
形を採り、前出のパワードスーツに着想を得たデザインの「ガンキャノン」と、戦車風の「ガンタン
ク」もこのシステムを取り入れることとした。
 これら3機はそれぞれ1機種1体の試作機であるものの、「ザグ」をはじめとしたジオン軍のMS
は多数の同形機が存在する量産兵器とされた。そしてMSは主役機といえども一体で戦局が一変する
ことは殆んどない。ザクに続く新型機として登場する「グフ」や「ドム」などや、ガンダムを元に量
産された連邦軍の「ジム」もまた数多く登場する。一方MSの存在意義に説得力を持たせるために、
ミシノフスキー粒子という架空の粒子が設定された。これはレーダーや電波誘導兵器を攪乱・無効化
することでMS同士の白兵戦に説得力を持たせる。アニメとしての制約の中で無重力状態の描写など
にも注意が払われ、細かい設定によって作品世界に奥行きと現実感を持たせた作品となった。
 もう1つ、『機動戦士ガンダム』において重要なキーワードが、「人類の革新『ニュータイプ』」
だ。超能力にも似た特別な感覚を得た人々として設定されたこのニュータイプは、当初は主人公アム
ロに超人的活躍をさせるためのアイデアだったのだが、やがて宿敵シャアもまたニュータイプである
ことが明かされ、そして同じくニュータイプである少女ララァ・スンとの出会い、そして3人の間で
起こる悲劇を通じて、「人類の革新」とは何なのかと問いかけるに至っている。
 

 
物語
 スペースコロニー(宇宙殖民島)への移民開始を紀元とした未来世界の宇宙世紀0079年が舞台。
人類は増え続ける人口のため、半数が月軌道周辺にあるラグランジェポイントに浮かぶサイドと呼ば
れるスペースコロニー群に居住していた。その中で地球に最も遠いコロニー群サイド3は「ジオン公
国」を名乗り、宇宙移民であるスペースノイド(宇宙居住者)の独立を求め、人型機動兵器「MS(モ
ビルスーツ)」の開発成功を機に地球連邦に戦いを挑んだ。しかし開戦後僅か1週間あまりで双方の
陣営は人口の半分を死に至らしめた。そんな中、サイド7に住む少年アムロ・レイは、地球連邦軍が
進めていた「V作戦」に対する調査のため、サイド7に侵入したジオン軍MSザグの攻撃に巻き込ま
れ、偶然が重なって連邦軍の新型MSガンダムのパイロットになってしまう。ガンダムの高性能のお
陰て敵MSザグを撃退したものの、ガンダムの母艦である最新強襲揚陸艦ホワイトベース(W.B.)
は正規乗組員の殆んどを失い、アムロをはじめこれに避難した少年少女たちは、生き残った乗組員達
と協力しながらサイド7を脱出する。しかし宇宙には、赤く塗装した専用のザクを駆使して数々の戦
果を挙げたことから「赤い彗星」と呼ばれるジオン軍パイロットシャア・アズナブルが待ち構えてい
た。この物語は、アムロ達が長年の宿敵となるシャアを初め、様々な人々との出会いや戦い、そして
別れを経て、数々の困難を乗り越え、閉鎖的な極限状態に悩み傷つき、一時的には逃避しながらも一
歩ずつ成長していく姿を描いている。
 


■どんぐり山公園

 上井草3丁目4番17号にある区立公園。昭和52年6月1日開園。崖線斜面林は、南岸の方がよ
く残っている。北向き斜面は日当りが悪く、しかも北風を受け使い辛かったからだ。これに対して北
岸は、早くから開墾され、また宅地化も早かった。石神井川、黒目川など、皆同じ。どんぐり山もそ
の一例。クヌギが何本もまとまって生えているのは、「たきぎ畑」として使われた名残りだと考えら
れる。


■道灌坂

 上井草3丁目7番先、早稲田通り今川3丁目交差点から北に井草川道灌橋に向かって下る坂道。太
田道灌が豊島氏との抗争で、石神井城を攻めた時、豊島泰経を欺いて殺した場所。この道の北上先に
石神井城がある。


■三谷公園

 上井草3丁目12番10号にある区立公園。


■三谷小学校

 上井草3丁目14番12号にある区立校。昭和31年3月現在地に校舎11教室落成。4月「東京
都杉並区立三谷小学校」として開校。桃井第四・四宮・井荻の3小学校から12学級560名が移籍
してスタート。同32年2月4教室増築。5月校歌制定。

 校歌「匂う黒土」 作詞・五井昌久  作曲・根守四郎
  1.匂う黒土 樫の木林
    澄んだ空気の武蔵野に
    理想あらたに建てられて
    僕の私の良い心
    育てて下さる三谷校
  2.烏は森に 小鳥は軒に
    明るいコーラス青空に
    みんな良い友 想いを揃え
    学ぶ学問 伸びゆく心
    強く正しく 大らかに
  3.変わる景色は春夏秋冬
    広い校庭 広い棟
    学ぶ希望で美しく
    人の世を見る 国を見る
    仲よし嬉しく 道を行く


 10月2教室増築。33年2教室増築。同34年第二次校舎増築。同35年プール完成。同41年
3月鉄筋コンクリート造り3階建て校舎5教室落成。創立10周年記念式典。10月鉄筋コンクリー
ト造り3階建て校舎(職員室・図書室・保健室・家庭科室)落成。同46年体育館完成。同47年蘇
鉄碑建立。同48年鉄筋コンクリート造り3階建て校舎6教室落成。同51年創立20周年記念式典。
同61年創立30周年記念式典。
 平成5年コンピュータルーム開設。同7年創立40周年記念式典。同12年地方自治法改正に伴う
学校教育法により校名から東京都の冠称が取れ、「杉並区立三谷小学校」と改称。同13年体育館改
修。同14年4月毎週火・木・土曜日の朝読会(三谷タイム)開始。9月土曜日曜学校開始。同15
年早稲田大学ラグビー優勝パレードに鼓笛隊参加。北京光明小学校に児童9名・教師4名参加。都立
農芸高等学校でキウイ受粉授業。同18年創立50周年記念式典。

 三谷小学校の唄「きっと!」 作詞作曲・福島邦子
  1.君のその笑顔に風が吹き抜けた
    緑の広場で僕達は笑った
    砂埃のように 通り雨のように
    舞い上がる夢に僕達は走り出す
     トンボになってきたライオン池のヤゴが
     降り注ぐ光は僕達を知っている
     このまま大人になって何が出来るかな・・・
    素敵な僕達の未来に会えるはず
    何時かは夢見てたヒーローに会えるかな・・・
    何時かはあの空の天辺に行けるよ
    僕達はきっと!
  2.仲良くしたいけど 喧嘩だってしちゃう
    校庭と空の間にみんな生きている
    君は何時か遠くへ行ってしまうんだろう
    放課後の校舎で君は大きく見えた
     夕陽に輝く大きな銀杏の木
     優しい光の中 いつまでも いつまでも
    このまま大人になって何が判るかな・・・
    素敵な僕達の未来に会えるはず
    何時かは夢見てたヒーローに会えるかな・・・
    何時かは風になって何処までも行けるさ
    僕達はきっと! 僕達はきっと!
 


■道灌橋之碑

 上井草3丁目14番16号先の井草川緑道にある石碑。橋は直ぐ西の井草通りに架かっていた。近
近くに道灌坂、道灌公園がある。この辺りには道灌に関わる伝説が残されている。石神井城主の豊島
泰経はしばしば切り通しの近くにある井草八幡社に馬で遠出したという。文明九年(1477)の春
数人の家臣を伴って上井草の切り通し付近に差し掛かったところ道普請をしている農民に会った。泰
経は感心して声を掛けようとしたところ、矢庭に農民の一人が槍で突き掛かり、脇腹を串刺されて落
馬、瀕死の重傷を負った。道灌軍の兵が農民に化けていた。泰経は助けられて石神井城帰還するも間
もなく死亡。驚いた平塚城を守備する弟の泰明は急遽石神井城に入る。直ちに道灌は一千の軍を率い
て石神井城を攻略する。この時道灌軍は陣幕に本陣を置き、道灌坂を下って道灌橋を渡り、道灌山に
軍勢を配した。泰明は劣勢の中よく城を守備したが、戦巧者の道灌に抗しきれず遂に落城。泰明は娘
の照姫とともに三宝寺池に飛び込み落命したと伝える。 


■道灌堀公園

 上井草3丁目14番23号にある区立公園。


■上瀬戸公園

 上井草3丁目16番23号にある区立公園。


■井草中学校

 上井草3丁目20番11号にある区立校。昭和23年桃井第一小学校内に「杉並区立井荻第二中学
校」として開校。同24年「東京都杉並区立井草中学校」と改称。木造新校舎落成して移転。同25
年2教室落成。同29年校歌制定。木造2教室落成。

 校歌「武蔵野遠く」 作詞・森脇一夫  作曲・渡辺浦人
  1.武蔵野遠く かぎろいて
    欅の梢 煙
(けぶ)る時
    躑躅
(ツツジ)の花の咲き匂ひ
    燃ゆる希望は時めきぬ
    真理極めむ我が学び舎
    井草中学 栄えあれ
  2.富士 紅に夕映えて
    豊旗雲の靡く時
    彼方の森も打ち戦ぎ
    久遠の理想 芽ぐみ来ぬ
    道義高めん 我が学び舎
    井草中学 誇りあれ
  3.学びの庭に木霊する
    歓喜の声の満つる時
    紅き血潮も高鳴りて
    描く未来の新日本
    勤労楽し 我が学び舎
    井草中学 永遠
(とわ)にあれ

 同33年6教室増築。同34年創立10周年記念式典。同35年体育館完成。同6年木造4教室落
成。同37年第1期鉄筋コンクリート造り校舎8教室落成。コンクリート万年塀完成。同39年プー
ル完成。同40年第2期鉄筋コンクリート造り校舎8教室落成。同43年鉄筋コンクリート造り校舎
3教室落成。創立20周年記念式典。同44年鉄筋コンクリート造り校舎4教室落成。同50年鉄筋
コンクリート造り校舎特別教室落成。同52年体育館舞台完成。同54年鉄筋コンクリート造り校舎
特別教室落成。同59年窓枠アルミサッシ化完了。同62年内装改修。同63年外装改修。創立40
周年記念式典。同8年機械警備委託。同10年創立50周年記念式典。同12年地方自治法改正に伴
う学校教育法により、校名から東京都の冠称が取れ、「杉並区立井草中学校」と改称。同18年給食
調理民間委託。同20年創立60周年記念式典。
 


■井草球場 
撤去
 上井草3丁目27・28・34・36番にあった。昭和11年8月西武鉄道が建設し完成させた。
当時は「東京球場」という名称だった。大東京軍の本拠地須崎球場や戸塚球場と共に、東京でのプロ
野球開催球場の一つとなった。綺麗だが、小じんまりした箱庭のような球場で、収容人員は2590
0人、西武鉄道の沿線にあるため都心からも比較的行きやすいという売り込みだったが、翌年9月後
楽園球場が都心の小石川区(文京区)に開設されると開催試合数は次第に減っていった。それで同1
5年西武鉄道は上井草に総合運動場を計画していた東京府にこの球場を寄付した。
 戦後は同20年にいち早く復興。同21年から27年まで神宮球場が米軍に接収されていた関係で
この球場でも東京六大学の試合が行われた。戦後にもプロ野球の公式戦が開催されることはあったが
学生野球などのアマチュアの試合が中心だった。同34年東京都は水道の貯水池を建設するため球場
を廃止、その姿を消した。都は貯水池の上に野球場や体育館、テニスコートなどを整備し、同42年
上井草総合運動場が完成。現在は杉並区に移管され、区営上井草スポーツセンターとなっている。
 


■上井草スポーツセンター
 上井草3丁目27番・28・34・36番にある。球場の跡地は上井草体育館、テニスコート、野
球のグランド4面とそれに重なってサッカーグラウンド1面になっている。

 
「生命」太陽と地球と
 東面の階段を上ったところにあるオブジェ。田村俊明の作品
 


■上井草駅

 上井草3丁目32番にある京王井の頭線の停車場。昭和2年4月16日西武村山線(西武新宿線の
前身)高田馬場(仮)~東村山間の開業と同時にできた。地上相対式2面2線構造。それぞれのホー
ムは完全に独立していて、双方の行き来はできない。ホーム間の移動ができない駅のため、改札口・
出口は各ホームに1ヶ所づつ2ヶ所ある。1番線側が南口、2番線側が北口で、駅事務室も双方にあ
る。上下ホームが完全分離されている構造の駅は、東急池上線や京急本線に多く見られるが、西武鉄
道ではこの上井草駅が唯一の存在だ。上下ホームを行き来するには駅東側の踏切を通るしかないのだ
が、朝夕のラッシュ時になると開かずの踏切となるため利用客は不便を強いられている。しかし今の
ところ改善の予定はないとか。

 機動戦士ガンダム銅像「大地より」
 平成20年3月23日、ガンダムのアニメ制作会社である株式会社サンライズが駅の傍にあること
から、南口を出たところに「機動戦士ガンダム」(ファーストガンダム)の銅像が設置された。同時
に発車メロディーも、主題歌の「翔べ! ガンダム」に変更された。売店のシャッターにまで、ガン
ダムの絵が描かれている。その内上井草商店街も「ガンダム商店街」に変身するか?
 『鉄腕アトム』の高田馬場駅、『ウルトラマン』の祖師谷大蔵駅、『こち亀』両津勘吉の亀有駅、
『フーテンの寅』の柴又駅が有名だ。
 


■早稲田大学上井草グラウンド
 上井草3丁目35番と練馬区下石神井4丁目29番に跨ってある。 


■切通し公園
 上井草4丁目3番10号にある区立公園。井草川の水源地だった。今は涸れて湧水は止まっている。
斜面でつい最近まで鬱蒼たる森で沢水が流れていた。水流は崖下で二手に別れ、井草川となったもの
と沓掛川となったものがある。井草川の流路跡は残っているが、流路改修後のもので、昔の流れは尋
ぬるべくもない。沓掛川も下流部分は遊歩道として残るものの、上流部は杉並工高のグランド整備で
埋め立てられてしまった。
 


■西山商店
 上井草4丁目4番3号にある銅看板建築の家。丁度井草八幡北参道の大灯籠の青梅街道を挟んだ真
向いだ。何時解体されるやら風前の灯だ。小金井のたてもの園にでも移築されるんだろうか。


■井草遺跡

 上井草4丁目12番17号の松林で発見された。現在出土地は住宅地となっており、遺跡などを見
ることはできない。


   井草遺跡
   この遺跡は杉並区上井草4丁目13番を中心に広がる縄文時代草創期(約9000年前)
   の遺跡です。この草創期の頃は、河川流域の湧水周辺の緩やかな斜面などに、小規模な集
   落を構成する例が多く見られます。井草遺跡もその一つで、現在は暗渠となっている井草
   川の西側斜面に位置してい益す。昭和15年に行われた発掘調査の際に出土した土器は、
   「井草式」といわれ、日本最古の縄文式土器の一つとして知られています。
   土器の文様は、コイル状に縄を巻いた原体を土器に転がして作った、いわゆる「撚糸文土
   器」と呼ばれるもので、形は底がやや丸みをおびた砲弾形です。普通は直径30cm、高
   さ40cm前後のものが多いようです。
   この「井草式土器」は、関東地方で約50ある土器形式名の中で、草創期の形式名になっ
   ている本区唯一の標式土器でもあります。
   昭和54年2月1日                       杉並区教育委員会


 
井草式土器
 昭和17年考古学者矢島清作が、4丁目12番にあった松林の中で発見した。この土器は古代人が
土器を作り始めた頃、約10000年前の作品で、土器の文様は、全表面にコイル状に縄を巻いた原
体を土器に転がして作った、所謂「撚糸文土器」と呼ばれるもので、形は底がやや丸みをおびた砲弾
形だ。普通は直径30cm、高さ40cm前後のものが多いようだ。この「井草式土器」は、関東地
方で約50ある土器形式名の中で、草創期の形式名になっている本区唯一の標式土器でもある。
 


■上井草西公園

 上井草4丁目8番9号にある区立公園。


■杉並工業高等学校

 上井草4丁目13番にある都立高校。同37年都立農芸工高内に「東京都立杉並工業高等学校」開
設事務所開設。同38年機械科4学級・電子科2学級・工業化学科2学級の生徒募集。校舎の一部完
成、開設事務所を新校舎に移転。4月開校。校舎棟・実習棟落成。8月実習棟追加落成。同40年管
理棟落成。同43年実習棟落成。同44年体育館完成。同47年クラブハウス完成。プール完成。選
択講座開始(12講座)同53年テニスコート造成。同54年校庭ダスト舗装・環境整備。同57年
創立20周年記念式典。同60年校舎改築のためプレハブ校舎建設移転。旧校舎を解体。同61年第
1期改築校舎落成。同62年第2期改築校舎落成。同63年校庭改修。

 校歌「白雲の」 作詞・佐伯仁三郎  作曲・西山竜平
  1.白雲の空の窮み
    大き地
(つち) 明けたり今
    山遠き杉並の野
    水楽し千川春を
  2.四方の道 朝
(あした)通い
    若人ら此処に集う
    秋来
(さ)らば踏むに爽(さや)
    若ければ時惜しみつつ
  3.往
(い)にし世の武将が跡
    上井草 水辺来れば
    遥かなり日月の行
(ゆき)
    静けさよ 物皆命
  4.技磨き手握る槌
    天地の工
(たくみ)究め
    恒
(つね)進む世にぞ及(し)かん
    眉上げて 専
(もは)ら行く伴(どち)
  5.高らかに若き生命
    徳こそは切に楽
(ねが)
    青くもの退辺
(のきへ)の空
    変らじと日々に仰がむ
     杉並 杉並 杉並 工高我ら


 平成4年創立30周年記念式典。同6年校舎増築(家庭科調理教室)完成。同9年機械科実習棟落
成。同10年グラウンド整備。同15年創立40周年記念式典。同18年理工環境科1学級開設(工
業化学科を改編)。
 


■西山の森
 上井草4丁目15番12号の西山家の屋敷林。

 穀櫃 
 西山家内にある。区指定文化財。西山家の先祖の建造で、内部板壁に「天保十五甲辰年十月作之、
谷頭助右衛門」の墨書がある。
 


井草川
 妙正寺川の上流で、切通し公園のところにあった湧水が水源、農業用水には水が細いので井草八幡
の前(新町)千川分水(多摩六ヶ村用水)から養水を受けた。一丈(3m)の滝となって落ちてきた
流れは、切通し公園の下で北に向かうものと、東に向かうものの二手に分かれた。切通し公園の滝は
涸れて今はないが、公園は斜面にあり、コンクリートで水路が作られ、かつての名残とし、夏場子供
の親水施設となっている。北へ流れ出たものは蛇行しながら杉並工業高校の中を通り、東に向かうも
のは同校の南裾に沿って東に流れ、三谷小学校の西で合流して一つの流れとなり、上井草の通りにぶ
つかって北上、東、北、東、北と折れ曲がって西武新宿線を越す、少く東流してまた南に折れて線路
を越し、また東流して環八通りを渡り、下井草に入って東南に流れ、桃井第五小学校の東を廻って妙
正寺池の東で妙正寺川に合流した。杉並工高東の三谷公園からの河道跡は完全に残っていて、現在も
辿ることができる。これは戦前に整備統合された暗渠前の状況であり、耕地整理前の自然流当時の様
相は相当に違っており、その跡は残っていない。
 

 
道灌の切通し
 太田道灌と豊島泰経が対決していたころ、泰経が供を連れて遠乗りに出かけて切通しの辺りに差し
掛かると、早朝なのに農民たちが道普請(道路補修)をしている。領民のこととて褒めてやろうと馬
の歩様を緩めると、農民たちは豹変、隠し持った槍を突き出して泰経を刺した。道灌軍の伏兵だった
のだ。それで泰経暗殺の場を後世に伝えるため切通しに道灌の名を被せた。決して太田道灌が開鑿し
た切通しの意味ではない。切通しは、向こう側に行くために山や崖を削り取って谷状にし、人工的に
作った狭間。
 

 
道灌橋
 
上井草3丁目13番・14番の間に架けられていた。すぐ東北に道灌橋公園がある。橋名は太田道
灌と豊島泰経が争った豊島合戦の時、道灌が通ったといわれることから付けられた。しかし千川分水
は江戸時代の上水堀で、そのころ井草川はあったのか? 善福寺川の落水があったのかも知れない。
この辺りには道灌に関わる物が多い。井草川には「道灌堀」の別称があるし、橋の南に「道灌坂」、
橋の西北の台地は「道灌山」、荻窪八幡神社に「道灌槇」、今川4丁目27・28番の道灌公園の一
帯は道灌軍の本陣が置かれたので「幕陣」の小名があり、桃井1丁目23番12号には戦死者を埋め
た「おこり塚」があった。この橋の通りは大泉と松庵を結ぶ重要な幹線道路(井草通り)で甚だ交通
量が多い。北へ行けば千川通り・上石神井・蛍橋・三宝寺池・富士街道・大泉街道に通じ、南に辿る
と青梅街道・関根橋・西荻窪駅・五日市街道に通じている。
 

 
瀬戸原橋
 上井草2丁目18・25番の間に架けられていた。当時馬や大八車の通れる橋だった。橋名は江戸
時代の小名に因む。妙正寺が村の中心だったころ、後背地は未開の原野だったので〝背戸の原〟〝背
戸原〟呼ばれており、開発されてから「瀬戸原」と書き換えられた。明治22年以後の字〝遅ノ井〟
だ。
 

 ●四宮橋
 
上井草2丁目40・41番の間に架けられていた。四宮は身井草村の字。府中大国魂神社の5月5
日の例大祭で、本社・御霊・一~六宮の8基の神輿の渡御が行われるが、近郷近在の村々で担ぐこと
になっており、井草村は四宮を担ぐことになっており、この地名が生まれた。後に担ぐ神輿は五宮に
変わった。
 

 
矢頭橋
 矢頭は谷頭で水源地、湧水点をいう。元の字〝柿ノ木〟の一部。道灌軍が矢を放った場所という説
もある。
 

 
柿ノ木橋
 上井草1丁目29・30番の間に架けられていた。橋名は下井草村の字名。詳細は不明、秋には目
立つ柿の木があったとする説と、その柿の木のあった柿の木山が幕府の御狩場になり、そこの住民が
川南に立ち退かされたので生まれたとする説とがある。柿の木山は元の機械技術研究所のところ、今
は公害問題で揉めている井草森公園だ。
 

 
柿の木山橋
 西武新宿線の井荻駅南、今の環八通りのところに架かっていた。柿の木山に近いのでその名となっ
た。馬車・大八車の通れる橋だった。駅が開業してからは駅前橋と呼ばれるようになって改称した。
 

 
藤兵衛堰
 下井草4丁目辺りの橋は耕地整理後に架けられたもので、それ以前には稲荷山の北側に堰があって、
水澄み魚泳ぐ清流、夏には子供たちの水泳場だった
 

 
学校西橋
 
改修後に井草4丁目25・26番の間に架けられていた。橋名は桃井第五小学校によるが、橋は学
校が建てられる前からある。
 

 
又兵衛堰
 この堰は学校西橋の辺りにあった。区画整理により川も改修されたから、昔の流路は修正されてい
る。
 

 
学校北橋
 
耕地整理以前にも学校北橋の辺りに架かっていた。当時の道路位置が判らないので正確な位置も判
らない。改修後下井草4丁目24・25番の間に架けられていた。橋名は桃井第五小学校によるが、
橋は学校が建てられる以前からある。
 

 
赤ッチャリ堰
 赤砂利。学校北橋のすぐ東にあった。田圃の畦に2体の不動尊が建っていたが、井草八幡の資料館
前に移されている。「清めの不動」とも「赤ッチャリの垢離取り不動」とも呼ばれた。
 旧流路は下井草3丁目に張り出し、南にカーブを切って中瀬中学校の体育館の辺りへ南西に流れ中
瀬西交差点のところでクランクし、天祖橋の手前で東南に向きを変えて妙正寺橋の辺りで妙正寺川に
合流した。
 

 
学校下橋
 
改修後下井草4丁目9・15番の間に架けられていた。写真によると鉄筋コンクリート橋だ。親柱
・中柱ともに2本づつ、高さ90cmばかりで笠木は鉄パイプ。当時は大根の洗い場だった。この辺
りも練馬大根の産地で、干し大根を江戸に出荷していた。明治以後は値の張る沢庵漬けにして大いに
利益を上げたが、収穫は冬場で大根洗いは冬の風物詩だったが、寒々しいものがあった。

 
神戸橋
 
ごうどばし 改修前の旧流路、中瀬中西交差点と中瀬橋の中間辺りに架かっていた。神戸は下井草
村の字名。由来はよく判っていない。国造(くにのみやつこ)が置かれた頃に大国魂神社に奉納した
神領(神戸)によるとも、妙正寺体育館のところにあった「じゅだつ様」の祠に川北組と川南組が集
まって合同集会を開いていることによるともいわれており、それで妙正寺体育館、天祖神社の前の坂
道を「神戸坂」という。
 

 ●
中瀬橋
 
改修後の清水3丁目27番、中瀬中西交差点の西40mのところに架けられ早稲田通りを通してい
た。中瀬は明治22年以後の下井草村の字。古文書に中州と書いてあり、突出部が島状に見えたこと
から起こった地名。州を改めて瀬としたものだが、因みに〝瀬〟は水流の速い曲がり、〝淀〟は水流
の遅い曲がり部分をいう。
 
 



【上荻】(かみおぎ)1~4丁目                   昭和39年9月1日
 上荻窪村。明治11年「郡区町村編制法」により東多摩郡所属、同22年「市制町村制」により
井荻村大字上荻窪、大正15年井荻大字、昭和7年東京市編入20区増設により杉並区上荻窪町、
同8~9年上荻窪1~2丁目・宿町(南半)・西荻窪1~3丁目・神明町・関根町に分散。同39年
新住居表示により荻窪4丁目・上荻窪2丁目の全部に、西荻窪2~3丁目・関根町の各大部分・宿
町の青梅街道以南・天沼1丁目のごく一部をあわせた町域を現行の「上荻」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『杉並区史』『杉並の歴史』など。

 上荻について
 町名は上荻窪の意。町会としては旧村名「上荻窪」としたかったのだが宿町と関根町が渋い顔を
したので臆し、当用漢字にないからという口上で〝窪〟の字を消して認めてもらった次第。荻窪の
鎮守荻窪神社を擁する。
 


■荻窪駅

 上荻1丁目7番にあるJR中央線と東京メトロ丸ノ内線の停車場。甲武鉄道(中央本線)の新宿~
立川間開業から2年後の明治24年12月21日に追加開業した。地下鉄丸ノ内線の駅は昭和37年
1月23日に開業した。JRのホームは地上島式2面4線構造。快速と各駅停車は別々のホームに発
着するため、乗換には階段の上り下りが必要。ホームと改札階を結ぶエレベーターは、緩行線のもの
が平成19年2月に、快速線のものが3月に設置された。
 丸ノ内線のホームは島式1面2線構造で、JR駅南側の地下2階にある。ホームと改札階を結ぶエ
レベーターは設置済みである。なお地下鉄の新宿~荻窪は廃止となった都電荻窪線の代替に建設され
た。
 JRの改札口は東口と西口の2ヶ所。東口は地下1階、西口は橋上にある。丸ノ内線の改札は3ヶ
所で、全て地下1階。出口はJR西口以外はJRと東京メトロで共用になってる。改札階と地上を結
ぶエレベーターは3ヶ所ある。荻窪駅の北口にはルミネが入居する駅ビルがあるが、このビル内には
全く駅施設は入っていない。駅の入口は駅ビルの隣にあり、駅施設は地下に集約されている。JRの
改札と丸ノ内線の改札が隣り合っているので、乗換には便利だ。南口(2番出口)にある駅看板には、
丸ノ内線だけでなく東西線の表示もある。東西線が三鷹までの直通運転を行っているためだが、あく
までもJR線であるのでパスネットや東京メトロの一日券で乗ることはできない。

 
出世大黒天像・恵比寿像
 荻窪駅ビル「タウンセブン」の、1階中央広場に大黒天像が、「ルミネ」の2階入口付近に恵比寿
像が祀られている。恵比寿像は元々地下通路にあったものだが、何故か現在の位置に移されてしまっ
た。元の場所は店になっている。
 


■カルガモ騒動

 上荻1丁目11番15号先歩道であった微笑ましい騒ぎ。平成29年5月24日白山神社の西南の
歩道上をカルガモの親子11羽が交通量のおおい環八通りに向かっているのを見て心配した人が、警
察に連絡、お巡りさんと周辺の人が逮捕するに大童となった。最後は網を持ってきた人が親ガモを取
り押さえ、逃げ回るコガモも無事段ボールに収監、近所の人が近くの神田川に開放して、めでためで
たし。東京にカルガモは多く、神田川にも何組もの親子ガモが見られる。


■荻窪白山神社

 上荻1丁目21番7号にある。下荻窪村の鎮守。祭神は伊邪那美命。社伝によれば文明年間(14
69~87)に関東管領上杉顕定の地頭中田加賀守が、屋敷内に五社権現社を奉齋したのに始まり、
中田一族が栄えたため、ここに社殿を建て加賀の白山比咩神社から分神したという。
 この神社に〝お宮参り〟すると、男児に白い箸、女児に赤い箸が授与されるが、この由緒は、むか
し加賀守の弟兵庫が、あるとき激しい歯痛に悩まされた夜、「汝、わが社前に生える荻を以て箸を作
り、食事をなせば歯痛忽ち癒えん」との神告を受けた。翌朝兵庫は荻の箸で食事を取ると、歯痛が嘘
のように治った。この噂が広まって、歯痛の神様となり、昭和の初めまで歯痛に悩む多くの人々のお
参りがあり、治った人はお礼に萩の箸を奉納する慣わしが残っていた。今は歯の治療技術が進んで、
神参りよりは医者参りが主だ。この神社は旧下荻窪村の鎮守で、祭神は伊邪那美命です。
 下荻窪村が中世に村をつくっていたことは、宝徳三年(1451)の上杉家文書や、昭和54年に
荻窪3丁目33番から宝徳前後の年号をもつ板碑が発見されていることからも知られる。
 当社はかつて歯の神様として知られていました。伝えられるところによると中田加賀守の弟兵庫が
激しい歯痛に悩んでいたある夜、御神託により境内の萩を箸として食事をすると不思議に歯の痛みが
止ったという。この事情を聞いた近隣の人々は、歯痛もなおる神様として信仰厚く参拝者も多くなっ
た。その萩もかつては境内に多く繁っていましたが、今では社殿北側の老松の根元に1株残っている
だけになった。昭和43年の社殿改築の折には、古い社殿の長押から納められた萩の箸が、沢山発見
されたそうだす。
 社屋や数多い奉納品の中、昭和3年に奉納された御輿は150貫余(約563kg)もあり、また
大太鼓(直径149cm)は、府中の大国魂神社の太鼓につぐ都内第2の大きさであるといわれる。
 昭和42年環状8号線の拡張に伴って本殿、拝殿、社務所、玉垣などの増・改・修築や多くの奉納
がなされ、今日の姿を得るに至った。

   荻窪白山神社
   この神社は旧下荻窪村の鎮守で、祭神は伊邪那美命です。
   下荻窪村が中世に村をつくっていたことは、宝徳三年(1451)の上杉家文書や、昭和
   54年に荻窪3丁目33番から宝徳前後の年号をもつ板碑が発見されていることからも知
   られます。
   当社の起源は、社伝によると文明年間(1469~86)関東管領上杉顕定の家来中田加
   賀守が、屋敷内に五社権現社を奉齋したのにはじまり、後に中田一族が栄え、ここに社殿
   を建てたといわれます。
   当社はかつて歯の神様として知られていました。伝えられるところによると中田加賀守の
   弟兵庫が、激しい歯痛に悩んでいたある夜、御神託により境内の萩を箸として食事をする
   と不思議に歯の痛みが止ったという。この事情を聞いた近隣の人々は、歯痛もなおる神様
   として信仰厚く参拝者も多くなったといわれます。
   その萩もかつては境内に多く繁っていましたが、今では社殿北側の老松の根元に1株残っ
   ているだけになりました。昭和43年の社殿改築の折には、古い社殿の長押から納められ
   た萩の箸が、たくさん出てきたといわれます。
   社屋や数多い奉納品の中、昭和3年に奉納された御輿は150貫余(約563Kg)もあ
   り、また大太鼓(直径149cm)は、府中の大国魂神社の太鼓につぐ都内第2の大きさ
   であるといわれます。
   昭和42年環状8号線拡張にともなって本殿、拝殿、社務所、玉垣などの増・改・修築や
   多くの奉納がなされ、今日の姿を得るに至りました。
   昭和56年2月15日                      杉並区教育委員会

 ネコ像
 境内にあるのんびり寝そべっている石造りの猫ちゃん。
 


■杉並公会堂
 上荻1丁目23番15号にある。平成18年6月1日リニューアルオープンした。杉並区と友好提
携を結んでいる日本フィルハーモニー交響楽団のフランチャイズホールでもあり、多種多様な文化・
芸術活動に利用できるこの公会堂は、杉並区にかかわる人のみならず多くの人々の文化拠点となり得
る。

 
大ホール
 2階、日本有数の音響効果を誇る本格派。シューボックス型のホール形状を採用。本格的クラシッ
クコンサートがメインのハイクオリティな劇場空間だ。大編成の演奏会はもとより、集会や式典・講
演会・舞踏など様々な芸術イベントに利用出来る。
 シューボックスとは「靴箱」のことで、長方形の形状であるためにそのように呼ばれる訳。音の響き
の良さが大きな特長のホールだわさ。客席数1190
。楽屋は大小2つある。

 
小ホール
 
地下2階 演劇や発表会など多目的に活躍する空間。平土間状態をベースとしている。演劇や演奏
会は勿論、音楽発表会や講演会、パーティなど多目的な利用が可能だ。また客席は段床形式に切り替
えが可能で、容易に劇場用の