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 東京の地名の由来
 東京知ったかぶり!

 平成17年2月11日発信   リンクフリー
 地名の由来東京23区辞典  引用自由

  品川区の地名の由来
     現在進行形の調査であれば、逐次、誤謬訂正・新規追加あり。御用心御用心
 
          
ご意見とご教示メール
★各区夫々の主な記事 
 Home   【巻末特集】 江戸・東京名数一覧   江戸東京   東京は首都ではない  皇室典範・女系天皇  
 足 立 区   ビートたけし 関原不動 赤門寺 千住 都立舎人公園
 下山事件 西新井大師 大鷲神社 伊興寺町
 六阿弥陀 木余り阿弥陀 荒川バラバラ事件 炎天寺
 尾崎豊終焉の地 尾崎の部屋
 女子高生コンクリート詰め殺人事件 
 荒 川 区   あらかわ遊園 北島康介 諏訪台寺町 三河島事故
 
開成中学校・高等学校 尾久の原公園 大関横丁
 素盞雄神社 天王祭 大橋 谷中延命院一件
 「あしたのジョー」「巨人の星」 【巻末特集】 江戸しぐさ
 【巻末特集】
 小股の切れ上がったいい女
  
 板 橋 区  自殺願望女性救助駅前交番警察官殉職事故 松月院
 東京大仏 縁切榎 大東文化大学 帝京大学 板橋宿
 東京家政大学 中山道 板橋宿 国立極地研究所
 板橋事件 加賀藩前田家下屋敷
 
 江戸川区   葛西臨海公園 インド人 小松川女子高生殺人事件 
 都県境未定地 おくまんだし 妙見島 影向の松
 目黄不動 平井聖天 食用蛙供養塔 紅葉川高校
 江戸風鈴 立木観音 タワーホール船堀 雷不動
 
 大 田 区   池上本門寺 光明寺 大森海苔 磐井神社 松竹キネマ
 御菜八ヶ浦 羽田空港 大鳥居 八景坂 六郷神社
 大森ふるさとの海辺公園 馬込文士村 万福寺 梅屋敷
 洗足池 
 葛 飾 区   式部薬師秘話 お花茶屋 金町浄水場 「こち亀」銅像群
 香取神社 東京拘置所 柴又女子大生殺人放火事件 
 男はつらいよ 柴又帝釈天 郷土と天文博物館 立石祠
 かつしかシンフォニーヒルズ 新宿の問屋場跡 葛西神社
 葛西囃子 美弥子ちゃん誘拐殺人事件 半田稲荷
 水元公園 しばられ地蔵 木下川薬師 堀切菖蒲園
 
 北  区   静勝寺 小山酒造 新河岸川 飛鳥山公園 金剛寺
 装束稲荷 王子神社 王子稲荷 名主の滝 近藤勇墓
 医心方 亀の子束子 旧古河庭園 田端文士芸術村
 【巻末特集】 隅田川 (渡しと橋)
 
 江 東 区   外郎売  永代橋落橋事件 亀戸天神 カトレア7
 ヒストリーガレージ キッザニア 戦災資料センター
 深川江戸資料館 富岡八幡 元八幡 砂町商店街
 東京海洋大学 東西線転倒事故 有明コロシアム 萩寺 
 品 川 区   品川トランク詰め殺人事件 星薬科 船の科学館
 品川海苔 鈴ヶ森 立正大学 香蘭女子 杉野ドレメ
 品川神社 荏原神社 光福寺 大崎新都心 
 清泉女子大 品川寺 東海寺 鯨塚 
 品川宿 昭和大学 戸越銀座 第一京浜 ところてん
 
 渋 谷 区   明治神宮 慶応幼稚舎 尾崎豊の碑  忠犬ハチ公
 ライフル乱射事件 渋谷川  夫バラバラ殺人事件
 妹バラバラ殺人事件 モリブデン 文化女子大 NHK
 広尾病院事件 文化村 尾崎豊の碑 ワシントンハイツ
 聖心女子大 東京女学館 日本共産党 女子大生誘拐
 アメリカ橋 安藤組 国学院 金王神社 青山学院
  
 新 宿 区   浄瑠璃坂の仇討 新宿胴体遺棄事件 新宿騒乱事件
 八幡様  陸軍士官学校 赤線地帯 防衛省・市谷駐屯地
 岡田有希子飛び降り自殺 オリンピック東京大会
 東海道四谷怪談 追分交番爆破事件 鉄腕アトム
 731部隊 学習院女子 早稲田大学 抜弁天
 歌舞伎町歌声喫茶 名曲喫茶 どん底 新宿高野 中村屋 闇市
 杉 並 区   青梅・甲州・五日市街道 観泉寺 永福寺 高円寺
 不美人=ブスとは?  大宮八幡 ガンダム 妙法寺
 立教女学院 スチュワーデス殺人事件 東京女子大
 一家皆殺し放火 「疑惑の銃弾」 三浦和義 
 天保新水堀用水
  
 墨 田 区   東京スカイツリー 相撲は国技ではない 大相撲事件 
 隅田川七福神 妊婦たらい回し死亡事件 回向院
 握りずし発祥 震災慰霊堂 鬼平・遠山の金さん
 王貞治生誕地 玉の井バラバラ事件 江戸東京博物館
 吾嬬神社 本所七不思議 もゝんじや 法恩寺 蓮華寺
  
 世田谷区   バンク・約束手形  花形敬  ウルトラマン 民家園 
 静嘉堂文庫 ボロ市 鷺草 西福寺 軍都池尻 東名
 羽根木公園 砧公園 駒沢公園 祖師谷一家殺人事件
 九品仏 多摩美 国学院 東農大 NHK技研 豪徳寺
 世田谷美術館 馬事公苑 烏山寺町 次大夫堀 仙川 
 台 東 区   浅草寺 仲見世 浅草神社 三社祭 花やしき 上野公園
 鬼灯市 酉の市 待乳山聖天 佃煮元祖 旧岩崎邸
 八百善 今戸神社 アメ横 寛永寺 不忍池 花の吉原
 上野動物園 東京国立博物館 駒形どぜう 鬼子母神
 東京本願寺 東京芸大 谷中墓地 笹の雪 吉展ちゃん
 
 中 央 区   「銀ブラ」って、ブラブラ歩くことじゃないよ。 パウリスタ
 東京大空襲 アメリカの占領 蘭学事始 ティファニー 
 エルメス シャネル コーチ パリー セリーヌ プラダ
 カルティエ ディオール ルイ・ヴィトン 不二家不祥事
 三越・松屋・松坂屋・大丸・高島屋 築地本願寺 日本橋
 H&M 歌舞伎座 白木屋火事 日本銀行 金春芸者
 日本海軍発祥地 新橋演舞場 明治座 ハヤシライス
 
 千代田区   靖国問題・A級戦犯 女子学院 暁星 将門塚 消防庁
 警視庁 ていぱーく 桜田門外の変 ニコライ堂 武道館
 九段会館 楠公像 ホテルニュージャパン火災 近衛師団
 秋葉原無差別殺傷事件 神田明神 FM東京 丸ビル
 新丸ビル 丸の内物語 三菱重工ビル爆破事件 国会
 雙葉 専修大 日大 法大 明大、電機大 大妻 番町小
 東郷平八郎 日比谷公園 国際フォーラム 北辰一刀流
 
 豊 島 区   池袋の女 染井吉野 女子栄養学園 染井霊園 中山道
 おばあちゃんの原宿 とげぬき地蔵 庚申塚 本妙寺
 雑司が谷墓地 鬼子母神 土田邸爆破事件 山吹伝説
 目白不動 帝銀事件 立教 学習院 豊島岡女子学園
 【巻末特集】 
東京の暴力団
  
 中 野 区   新井薬師 上高田寺町 童謡「たき火」 中野サンプラザ
 近隣騒音殺人事件 福蔵院 八幡神社(鷺ノ宮) 成願寺
 宝仙院 堀越学園 桃園川 丸井本店 中野ブロードウェイ
 東中野電車追突事故 光倶楽部事件 哲学堂公園 桃園
 【巻末特集】 江戸城 城門と橋
  
 練 馬 区   いろはかるた 練馬バラバラ殺人事件 としまえん 
 ちひろ美術館 三宝寺 石神井公園 長命寺 清戸道
 良弁塚 武蔵大学 金乗院 練馬寺町 武蔵音大 
 グランドハイツ 練馬少年鑑別所 首継ぎ地蔵 円明院
 妙福寺 春日神社 増島家薬医門 練馬大根 愛染院
 
 文 京 区   狛江 振袖火事 東京大学 拓殖大学 御茶ノ水女子大
 東京高等師範 教育大学 護国寺 弥生式土器 伝通院
 聖マリア大聖堂 高津教授殺人事件 東京ドーム 六義園
 小石川植物園 元町公園 桜蔭学園 順天堂大 かねやす
 日本女子大 湯島聖堂 湯島天神 東洋大 共同印刷争議
 
 港  区   増上寺 フリーメイスン 永坂更科 麻布学園 氷川神社
 乃木大将 ミッドタウン 六本木ヒルズ 善福寺 霊南坂
 東洋英和 ケネディ暗殺宇宙中継 愛宕山 小便小僧
 レインボウブリッジ 東京タワー 慶応義塾 自然教育園
 明治学院 虎ノ門事件 東宮御所 日本経緯度原点
 9・11(アメリカ同時多発テロ) 首謀者はチェイニー
 
 目 黒 区   滝坂道 目黒不動 法華騒動 円融寺 五百羅漢 東工大
 目黒ショック 日比谷線脱線事故 駒場野一揆 旧制一高
 駒場東大 駒場学園 滝坂道 行人坂大火 雅叙園 騎兵
 目切坂 権之助坂 太鼓橋 茶屋坂 槍ヶ崎事件 祐天寺
 酸素魚雷 音羽ゆりかご会 八雲学園 目黒のさん
 
   



品川区の地形
 品川区は、武蔵野台地の東端部に位置している。JR品川駅・京急鮫洲駅・JR大森駅を結ぶライ
ンを境として、西側に台地が分布しており、目黒川や小水路などによって谷地が複雑に刻まれている。
また同ラインから東側は、東京湾を由来とする海岸の低地と埋立地が広がっている。


■地形・地質と住宅地盤
 台地面
 比較的海抜高度が高く起伏の少ない平坦面で、関東ローム層と呼ばれる火山灰土で覆われている。
関東ローム層は、上部のローム土(赤土)と下部の凝灰質粘土に大別されるが、自然堆積したローム
土は、安定しており比較的大きな強度が期待できるため、表土部分に注意すれば住宅地盤として良好
な場合が多い。区の西半を締める。

 
谷底低地
 台地部が小さい河川などによって削られて形成された低地で、台地部の間に樹枝状に分布している。
台地を形成していた土砂が再堆積した土や有機質土(腐植土)などが分布しており、非常に軟弱な地
盤となっている。したがって、長期的な沈下(圧密沈下)を防止するような基礎補強策が必要となる
ことが多い。目黒川・呑川の流域。

 
台地と低地の境
 
台地の側面が低地側へと下っている傾斜面で、台地面と同様に安定した地盤となっている場所もあ
るが、後背地から浸透してくる雨水や地下水の影響で地盤が軟弱化したり、雨洗によって台地側から
運ばれて再堆積した軟弱土が分布していることも多い。また人為的に造成されているため、場所によっ
て盛土の厚さが異なるように地盤のバランスが悪くなっていることがある。従って不同沈下を防止す
るような基礎補強策が必要となることも多い。南品川・東大井・南大井に見られる。

 
海岸低地
 東京湾沿岸に広く分布する標高の低い平坦面である。地下水位が高く、上部には緩い砂や軟弱なシ
ルトなどが分布しているため、標準的な基礎では、十分な耐力を確保することが困難であり、適切な
基礎補強策が必要となる。区の東半を占め、東海道も東海道線もここを通る。かつては海だったとこ
ろで漁業資源の宝庫だった。。

 
砂堆・砂丘
 周囲の海岸低地と比べ海抜高度が僅かに高く、海岸線に平行に分布している(京浜急行本線の東側
に沿う地域)。海波や潮流によって形成された砂浜が成長した微高地で、更に堆積した砂が風によっ
て運ばれ小高い丘になったものが砂丘だ。浅い深度から砂が堆積し、深度を増す毎に締っていく傾向
にあり、住宅地盤としては、比較的良好な場合が多い。しかし表層に緩い砂が厚く被覆する場合には、
基礎補強対策が必要となることがある。



川区の変遷 
 奈良時代から平安時代の頃には、品川区付近には既に都(京都)と国府を結ぶ古代の東海道(奥州
路)が通っていたと考えられ、大井には中継点としての駅家(うまや)があったと推定されることか
ら、この当時から交通の要地となっていたことが窺える。当時の「東海道(あずまのうみつみち)」
は、読んで字の如く、「つ」は格助詞「の」で「東方の海の道」の意だ。つまり全線陸路ではなく、
静岡と三重で一部海路に頼らざるを得なかった街道だ。
 当時の東方幹線は「東山道(あずまのやまつみち)」で、ほぼ中山道に相当する。また当時東山道、
東海道は街道名ではなく行政区域であり、その繋がりで明治政府により「蝦夷地」が「北海道」と命
名されたのだ。
 また鎌倉街道というのは本来鎌倉と東山道を結んだ街道で、鎌倉街道と命名したのは江戸時代で、
当時どう呼んでいたのかは定かではない。ただコースによって「上つ道」、「下つ道」と呼んでいた
ことは確かだ。現在、関東地方のあちこちに鎌倉街道の表示が見られるのは、鎌倉街道の枝道や鎌倉
に通じる道は総て「鎌倉道」といった名残で、そこいら中に鎌倉街道があっても嘘偽りではないのだ。
現代のように道路・街道そのものに道路名をつけるようになったのは、江戸時代に入ってからで、江
戸時代でも多くは「行き着くところ」で呼んだから、1つの道に上り下りで別の呼び方となった。つ
まり「奥州道」「鎌倉道」とは北上する時は「奥州道」であり、南下する時は「鎌倉道」だったのだ。
 さらに鎌倉幕府の御家人大井氏(清和源氏武田氏族)・品河氏(桓武平氏三浦氏族)が大井・品川
に地頭として定住すると開発が進められ、南北朝時代には伊勢を始め各地から商船が入港する品川湊
が賑わった。室町時代に入ると武士や商人が寄進した寺院が軒を連ねる街が作られ、人と物資が行き
交う武蔵国の表玄関としての地位を獲得した。大田道灌が江戸に狙いを据えて品川北の山に拠り、虎
視眈々其欲逐々と息を潜めたところが「御殿山」だ。やがて江戸氏の江戸城に入城して、北関東を窺
わんとした時、主扇谷(おおぎがやつ)上杉定正に謀殺されたのは有名な話。その理由は諸説あって
一定しない。
 さて江戸時代の品川は、五街道で最も交通量が多い東海道の最初の宿場として栄えていった。品川
宿は、「江戸四宿」のうち、唯一海に面した宿場であり、名所や魚介類の名物が多く、風光明媚な地
として四季折々に江戸市中から多くの人々が訪れた。また男共にとっては淫乱の天国であり、何かと
理由をつけては足繁く通ったところでもある。幕末になると、品川台場の築造をはじめ英国公使館焼
き討ち事件など歴史の舞台ともなった。
 明治になり品川は、いち早く鉄道が敷設され、官営品川硝子製造所が設立されるなど近代工業の先
駆けとなり、京浜工業地帯の発祥地として発展していった一方で、品川宿は文明を拒絶したため凋落
していき、今では地方の一商店街に過ぎなくなった。
 区は、関東大震災以降は一層開発が進み、田畑が宅地や工場へとかわり、私鉄が次々と開業し、区
域全体が都市化していった。大東亜戦争において愚かなアメリカ軍の無差別空爆で区域の多くが焼け
野原となりながらも、早々と戦後の復興を遂げ、近年では工場跡地などの再開発により新しい街が作
られ、産業や文化の伝統を守るとともに情報発信都市として世界に大きく羽ばたいている。
                       *
 
 現在の品川区に入る江戸時代の町村は慶応四年(1868)6月29日松村武蔵知県事に属し、明
治2年2月9日武蔵知県事を廃して品川県となり、同4年7月14日の廃藩置県により同年11月1
3日品川県を廃して東京府へ編入した。同7年3月8日大区小区制の強化により自治権を奪われて第
7大区に編入されたが。国家主義者大久保利通らの専制強圧政治に国民が猛反発、不平武士の義挙、
自由民権運動に発展した。大久保はなおも弾圧を強め、その最たるものが西南戦争で僚友西郷隆盛さ
えも屠って権力にしがみついた。しかし同11年5月14日悪運尽きた大久保が天誅を受けて正義の
刃に斃れると、内務官僚は慌てふためいて「大区小区制」を廃し、7月22日「郡区町村編制法」に
より荏原郡に復し自治権を少し回復した。同22年5月1日には郡区町村編制法を廃して「市制町村
制」を施行、品川町・大崎村・平塚村・大井村の1町3ヶ村となった。同41年8月1日大崎・大井
両村が町制移行、大正15年4月1日平塚町が成立して区域の町制を完了した。昭和2年7月1日平
塚町を荏原町に改称。同7年10月1日東京市は近郊郡部を編入し20区を増設。品川町・大崎町・
大井町で「品川区」が成立、荏原は単独で「荏原区」となった。
 同22年3月15日戦災復興のため都心区の品川区39町と荏原区5町が合併して、新しい「品川
区」44町が成立した。この新区誕生の時、東京新聞が募集した区名案には大井・東海・城南・八つ
山・港などがあったが、結局品川区が繁栄しており、力に差があったので区名は「品川区」に落ち着
いた。最も妥当な選択だったろう。
 平成21年現在27町。区役所は広町の高台にある。図書館は10館、地域資料は充実しており、
『しながわの地名』は区の誠意を感じる労作だ。文化施設は国立文学資料館・品川歴史館・しながわ
水族館・船の科学館・久米美術館・杉野学園服飾博物館・潮風公園・林試の森公園・大井ふ頭公園・
戸越公園がある。
 友好・姉妹都市はアメリカのメーン州ポートランド市・ジュネーブ市(スイス)・オークランド市
(ニュージランド)。不思議なことに品川駅は品川区にはない。港区の最南端にある。だから品川グ
ランドコスモスもそっちにある。寂しい! でも目黒駅は品川区にあるんだよ。
 

 教育施設

 小学校39(区立38 私立1)
 浅間台・伊藤・後地・延山・大井第一・大原・大間窪・上神明・京陽・源氏前・小山・小山台・御
 殿山・鮫浜・品川・清水台・城南・鈴ヶ森・立会・第一日野・城南第二・第二延山・第三日野・第
 四日野・台場・戸越・杜松・中延・旗台・浜川・平塚・芳水・三木・宮前・山中
 ※第二日野は小中一貫校「日野学園」、原は小中一貫校「伊藤学園」、八潮・八潮北・八潮南は小
 中一貫校「八潮学園」となった。
 
小野学園

 中学校23(区立16 私立7)
 東海・城南・大崎・浜川・鈴ヶ森・冨士見台・荏原第一・荏原第三・荏原第四・荏原第五・荏原第
 六・戸越台・荏原平塚(荏原第二+平塚)
 日野・伊藤・八潮はそれぞれ小中一貫校の「日野学園・伊藤学園・八潮学園」となった。
 
小野学園女子・香蘭女学校・攻玉社・品川女学院・青稜・文教大学附属・立正

 高等学校3(都立3 私立10)
 小山台・大崎・八潮
 小野学園女子・品川エトワール女子・香蘭女学校・攻玉社・品川女子学院・青稜・日本音楽・文教
 大学附属・朋優学院・立正

 高等専門学校1(都立1)
 都立工業

 
短期大学3(私立3)
 杉野女子短大・攻玉社工科短大・文教大女子短大


 大学5(私立5)
 立正・昭和(医学・薬学・歯学)・清泉女子・星薬科(薬学)・杉野女子 


しながわ百景
 昭和62年に区が区政40周年・区民憲章制定5周年を記念して設定したものだ。つまり、区民が
勝手に選んだものではない。ところで「東京百景」ってご知ってた? 品川区の風光明媚な景色を1
00景選んだものだ。これは結構有名で道路マップなどにも載っている。「品川百景」は、多分「東
京百景」の亜流なのかな。併し、その存在を知る人は先ずいないだろう。無理があるのも当然で、こ
んな地方的な自己満足に足を運んで見ることはまあないだろうし、その必要もない。だけれども、区
内百景を提示している区は他にもある。
 ▼は失われたり、整理された12件。平成28年70周年記念して新たに12件が追加された。

 
品川地区
 001 北品川古い民家の家並み  ▼古い民家が減ってしまった。
 002 稲荷堂
 003 旧東海道のにぎわい
 004 品川浦とつり船
 005 虚空蔵尊(養願寺)の縁日
 006 聖蹟公園(本陣跡)
 007 鎮守橋から新緑の荏原神社を望む
 008 荏原神社のかっぱ祭り(6月)
 009 品川神社
 010 北の天王祭(6月)
 011 太太神楽
 012 東海道七福神めぐり
 013 板垣退助の墓
 014 権現山公園
 015 桜の中での入学式
 016 子供の森公園
 017 八ツ山橋
 018 新八ツ山橋から品川教会方向を望む
 019 原美術館
 020 桜の名所御殿山
 021 東海寺大山墓地
 022 清水稲荷神社
 023 利田神社と鯨塚
 024 寄木神社
 025 天王洲球場とナイター
 026 日産スポーツプラザ
 027 妙蓮寺高木正年の墓
 028 海徳寺境内  ▼サクラが減ってしまった。
 029 天妙国寺と無縁仏
 030 天妙国寺の墓地
 031 品川寺
 032 品川寺の六地蔵
 033 品川寺の梵鐘
 034 海雲寺の千躰荒神
 035 目黒川両岸の緑と赤レンガ工場  ▼赤レンガ工場はなくなった。
 036 清光院と奥平墓地
 037 路地裏と駄菓子屋  ▼駄菓子屋はなくになってしまった。
 038 エンジュの並木とジェームズ坂
 039 二日市公園
 040 赤レンガ造りのボイラー工場
 101 しながわ宿場まつり(9月)
 102 天王洲エリアの水辺の風景
 
大崎地区
 041 花房山の桜並木
 042 清泉女子大学
 043 池田山公園
 044 五反田公園の桜並木
 045 目黒川の柳  ▼柳は桜に植え変わりました。
 046 かむろ坂
 047 氷川神社とわき水
 048 日本酸素記念館と庭園  ▼記念館は山梨県に移転した・
 049 TOCとゆうぽうとのある街並み  ▼ゆうぽうとは閉館した。
 050 大崎駅前再開発ビル
 051 居木神社と居木橋遺跡
 103 目黒川の桜
 104 ねむの木の庭
 105 五反田ふれあい水辺広場
 
大井地区
 052 鮫洲八幡神社
 053 立会川河口堤防船だまり
 054 来福寺の境内
 055 鈴ヶ森刑場と大経寺
 056 しながわ区民公園
 057 大井の水神社
 058 大井水神公園
 059 大井競馬場とトゥインクルレース
 060 大井競馬場駅前と運河、モノレール
 061 「平和の誓い」像
 062 大井どんたく祭り(8月)
 063 時代屋  ▼時代屋はなくなてしまった。
 064 品川歴史館
 065 鹿島神社
 066 大森貝塚
 067 西大井駅とその周辺
 068 養玉院(来迎寺)
 069 大仏の千体供養
 070 伊藤博文公墓所
 071 JR東日本山手電車区
 106 しながわ水族館
 107 桜新道の桜並木
 108 立会川の坂本龍馬像
 
荏原地区
 072 林試の森
 073 武蔵小山商店街とモニュメント  ▼モニュメントは撤去した。
 074 武蔵小山商店街のにぎわい
 075 小山神輿連合会の夜間渡御
 076 星薬科大学
 077 西小山桜並木通り
 078 小山八幡神社
 079 戸越銀座商店街のにぎわい
 080 旗岡八幡神社と鎌倉道
 081 法蓮寺
 082 旗の台伏見稲荷神社
 083 カナリア坂
 084 中延中学校の大楠と中延の森
 085 中延商店街のにぎわい
 086 戸越八幡神社
 087 戸越公園
 088 上神明天祖神社
 109 文庫の森
 110 旗岡連合神輿渡御(9月)
 
八潮地区
 089 東京タワー、モノレールと海の風景
 090 みなとが丘ふ頭公園
 091 八潮橋
 092 八潮団地から見える夕焼け
 093 かもめ橋+094 かもめ橋から京浜運河を望む  ▼統合した
 095 東京モノレールと八潮団地
 096 八潮団地と緑道公園
 097 スポーツの森(中央海浜公園)
 098 なぎさの森(中央海浜公園)
 099 船の科学館
 100 船の科学館からの眺め ▼本館展示を休止したため見ることができなくなった。
 111 神明児童遊園
 112 新幹線車両基地

 区政70周年を記念して追加された12件は以下の通り。
 101 しながわ宿場まつり(9月)
 102 天王洲エリアの水辺の風景
 103 目黒川の桜
 104 ねむの木の庭
 105 五反田ふれあい水辺広場
 106 しながわ水族館
 107 桜新道の桜並木
 108 立会川の坂本龍馬像
 109 文庫の森
 110 旗岡連合神輿渡御(9月)
 111 神明児童遊園
 112 新幹線車両基地


品川の由来
 ①、目黒川のこの辺りの呼び名で、その川口に町が開けたところからその名がある(品川区史)と
   いう。しかしこれでは「品」が何を表すのかは判らない。
 ②、下無川(しながわ)説、これは上無川(かながわ=神奈川)説との対比だ。
 他に③、砂川説と④、尻無川説とがあるが。②・③・④は同じ事実の視点の違いだろう。これは、
②~③説とも下流で水量が減る水無川を意味しているのではないか。旧本流は川口付近で直角に北上
していた。今も名残りはある。さらに、⑤品ヶ輪説(高輪との関連)と、⑥品革説(鎧に使う羊歯革
の産地という)、⑦しなる川(川口付近でほぼ直角にしなったように北上する)説がある。
 つまり品川にはこれだと断定できる説は今のところないのだ。しかし砂川・下無川・尻無川という
のが妥当ではなかろうか。川口付近が砂地で流水が伏流していたのだろう。目黒川の上流、北沢川・
烏山川・蛇崩川などは水量が豊富じゃない。目黒川はそういう状況の川で、いずれもが「しながわ」
に転訛して発音され「品川」の字を当てたものだろう。江戸では「しながわ」とは発音しなくって、
「しながぁ」ってえから、俄か東京人の方ぁ、東京人をお気取りなさるときゃあ、そこんとこぉヨロ
シク! 
 ついでに深沢、下北沢なんざぁ「ふかさぁ」「しもきたざぁ」、芝白金は「白金台」を除いて「し
ろかね」と濁らねえよ。駒形、豪徳寺も「こまかた」「こうとくじ」でい。前原、中原は「まえっぱ
ら」「なかっぱら」、四面道は「しめんと」だよ。
 

   海苔舟を松の木の間に海晏寺(松本たかし)
   遊女屋の使はぬ部屋の秋の暮(松本たかし)
   汐干つづけ今日品川をこゆる人(素堂)
   品川へ二里の休みや花すすき(嵐雪)
   品川過ぎいとど舞ひ込む終電車(松崎鉄之介)
   品川に台場の音の時雨かな(飯田蛇笏)
   石垣をにじむ水なり初氷(平井照敏)
   薺(なずな)うつ江戸品川は軒つゞく(成美)

 品川は古くから開けた川湊で、元暦元年(1184)に初見する。品川御殿山(谷山→やつやま)
は江戸城に拠る前に太田道灌が館を構えた所で、江戸に城を築いたのと同じ理由つまり経済立地に目
をつけて館を置いた。戦国時代から目黒川(品川)を境に、村は南北に分かれて開けていたようで、
元禄のころ川を境に明確に北品川宿・南品川宿となった。
 「お江戸日本橋七つ立ち 初上り」の東海道中の初駅(第一宿)に指定され、江戸からの取っ付き
が『め組の喧嘩』の舞台「土蔵相模」だ、現在は「ニックハイム北品川」というマンションに姿を変
え、一階はファミリーマートだ。復元模型は「品川歴史館」にある。

   白壁のやうに化粧も品川や土蔵相模の見世の遊び女(上野霞庵)

 京都からは東海道の五十三次目の駅で、江戸の玄関口として送迎の場だった。芝高輪から大井村ま
で約2kmに亘り、海に沿った細長い宿場町で、宿場でありながら、御殿山、品川の浜、東海寺、海
晏寺、妙国寺、品川寺、荏原神社、品川神社など神社仏閣が甍を競い、春は桜、夏は潮干狩り、秋の
紅葉と、季節ごとの行楽地でもあった。というのもどういう理由によるものか判らないが、江戸から
2里の距離ながら飯盛女(売春婦)を置くことが許されていた。本来は旅人のために特別に許可され
ていたのだが、

   品川へ来てながながの口直し(川柳)

 
近辺に寺と武家屋敷が多かったことから、これらの関係の客筋が多く、特に芝増上寺の僧侶、薩摩
屋敷の侍たちが
目立ち、

   品川の客、人偏のあるとなし(川柳)
   品川はころもころものわかれなり(川柳)


 だから遊郭とまで格式は高くないが、江戸の男の手近な遊興の場でもあったのだ。侍と坊さんが多
かった。高輪に大名屋敷と寺院が密集していたから。
 南北両品川宿には、飯売旅篭屋・平旅籠屋・水茶屋・煮売渡世・餅菓子屋・蕎麦屋・煙草屋・酒屋
・寿司屋・小間物屋など当時の宿内を物語る商店が約1600店舗も立ち並び、そこに住んでいた人
7000人という非常に活気のあった町だった。
 八ツ山から一心寺辺までが「歩行新宿(かちしんしゅく)」、一心寺辺から目黒川までが本陣のあっ
た「北品川宿」川から天妙国寺前辺りまでが「南品川宿」だった。

   品川宿は東海道の五十三次の首駅にて、東都江戸の喉口なる故に、平常賑々しき事他駅
   に異なりき(加賀藩『東海道通行記』)


 品川は農村で特産品の「品川蕪」「品川葱」「品川人参」があったことは忘れまい。特産品の外に
も大根・牛蒡・漬菜・小松菜・キャベツ・菠薐草(ほうれんそう)・甘藷(かんしょ)・馬鈴薯(ばれい
しょ=ジャガイモ)・胡瓜(きゅうり)・白瓜・冬瓜(とうがん)・西瓜・南瓜(かぼちゃ)・茄子(なす)
・独活(うど)などが栽培され、また大豆・小豆・黍(きび)・玉蜀黍(とうもろこし)・隠元豆・豌豆
(えんどう)・蚕豆(そらまめ)などの穀類も栽培されていた。


■品川葱

 品川に伝わったネギは関西系らしく、冬場は寒さに弱いため地上部の葉は枯れてしまった。ところ
が土中に埋まっていた葉鞘が美味しかったことから、白い部分の長いネギに改良され「根深ネギ」と
して好まれるようになった。おそらく砂村系だろう。
 


■品川蕪
(ダイコンじゃあないよ。長蕪)
 この蕪は根がやや長く、江戸時代には冬を越して春まで食べる漬物の材料として、品川から荏原に
かけ大量に作られていた。長蕪は学術的には北方(シベリア)系で、来歴などは不明だ。縄文人が作っ
ていたか、元々自生していたものを、古い時代に改良したのかもしれない。見た目は大根だが大根で
はござんせん。
 さて、品川蕪を復活させた北品川2‐2‐9のマルダイ大塚好雄商店の大塚が音頭を取って、江戸
野菜の仲間が集まって『品川宿なすびの花』って団体を発足させっちまった。正月には品川神社の境
内で、〝開運かぶ〟と銘打って初詣の人々に紹介している。また南品川1‐3‐9和菓子店伊勢屋の
岸誠太郎が「品川蕪饅頭」、北品川2‐30‐27品川菓匠孝庵の田中孝典がスイーツ「蕪」とチー
ズスフレ「蕪チーズ」、南品川5‐11‐40しおのや本店夢工房の塩野夫妻が「品川蕪餃子」、中
央区の東京シティ青果が「品川蕪漬」をそれぞれ開発して売り出した。
 


■御菜肴八ヶ浦

 おさいさかなはちかうら、と読む。もともと品川浦は、古くは品川湊と呼ばれ、海上交通の要地と
して船舶の繋留地だったため、漁村としての形を留めてなかった。猟師町の寄木神社境内に建ってい
る「江戸漁業根元之碑」には、

   品川浦の漁業は、豊臣の遺臣本田九八郎の一族がここに定住して漁師になり、瀬戸内海
   の漁法を伝えた


 と記されているが、御菜肴八ヶ浦の一つの漁場として発展したのは、江戸時代以降だ。
 御菜肴浦は、漁撈した鮮魚を、江戸城の御膳所に献上する義務を持たされた漁場で、江戸湾44ヶ
浦の漁業上の元締めとなって、漁撈の優先的な特権を持っていた。初めは本芝・芝金浦の両浦だった
が、後から品川浦が加えられて三ヶ浦となり「元浦」と称えたが、後に御林・羽田・生麦・神奈川・
新宿の5浦が追加され八ヶ浦となった。19世紀初頭の記録によると品川猟師町は二人乗り18艘、
三人乗り35艘、計53艘、大井御林町では、三人乗り20艘、四人乗り25艘、計45艘の魚舟が
在船していた。これらの舟によって水揚げされた日々の漁獲物は、江戸小田原町、芝金杉、本芝町の
魚問屋に直接送り、外売りは一切行わなかった。
 ではどんな魚介類が水揚げされていたのかを、天保十四年(1843)の『宿方明細書上帳』で拾
うと、「四ツ手網」「手繰り」「地引」「釣り」などの漁法により、鯒(こち)、鮃(ひらめ)、芝えび、
鯊(はぜ)、白魚、鮎魚女(あいなめ)、烏賊(いか)、小鯛、鱚(きす)、石持、鰻、鯔(ぼら)、細魚(さ
より)、鰈(かれい)、魴(ほうぼう)・あかえい・鰆(さわら)、穴子(あなご)など、今日では想像もつ
かないほどの多種多様な魚が漁獲されてたんだよ。当然〝袖ヶ浦の潮干狩り〟といわれたほど、赤貝
・蛤(はまぐり)、馬鹿貝、浅蜊(あさり)、牡蠣なども多く取れていたんだな。昔の人は随分幸せな生
活してたもんさ。明治維新さえなければ、永遠の平和国家だったろうなぁ。やくざ者の孫が首相にな
ることもなかったさ。
 袖ヶ浦とは品川浦の別称、一名「竹柴の浦」ともいう。

   浦の形、衣の袖に似たる故に、土俗に称するなり。往古は芝・金杉辺より南の方大井村
   境迄総て竹柴の浦と呼ぶ
 


■品川海苔

 江戸名産のひとつとして浅草海苔が有名だが、海苔の主産地は品川浦だった。ひび麁朶で知られる
海苔の養殖は、品川が発生地とされ、次第に日比谷、大井、大森、羽田へと広がったとされる。元来
浅草海苔の名称は、天慶年間(938~947)に、観音様の霊験によって海苔が生えたとされ、川
柳にも、

   海苔の庭 とは浅草でいい始め

 とあるように、海苔の発生地として浅草の名が冠せられて「浅草海苔」が普及した。観音参りの土
産物として「品川海苔」じゃあ具合悪かんべえ。また品川・大森の海苔は将軍への献上品なのでそれ
らの地名の使用を憚ったということもあるだろう。

 
●海苔を消化できるのは日本人だけ
 平成27年3月21日のMNSニュース。
 フランスの研究グループは、平成22年、海苔の成分であるポルフィランを分解する新しい酵素を
海に住む細菌から発見した。この酵素は寒天を分解する酵素と似ていたが、寒天は分解できず、海苔
のポルフィランだけを分解するためだけに発達した特別な酵素であることが分かった。彼らがその酵
素を作り出す遺伝子をもつ生物が他にもいないか探してみたところ、海に住む細菌だけでなく、人の
お腹から採取した腸内細菌の遺伝情報の中に、その遺伝子が存在していることが分かった。しかも、
その特別な腸内細菌は日本人にのみ見つかったとのこと。彼らは比較のために北米人の腸内細菌を調
べてみたが、発見できなかったという。
 人間は栄養分を吸収するために、食べた物を酵素により分解消化する必要がある。「腸内細菌」と
は、私たち人間の腸の中に住んでいる細菌のことだ。「細菌なんて汚い!」といっているお前さん、
腸内細菌は我々が健康に生きていくために非常に大切なものだ。そんな腸内細菌が我々日本人に海苔
を消化する力を与えてくれたことが、遺伝子の研究から明らかになったということだ。
 では、なぜ日本人の腸内に住む細菌だけが海の生物の遺伝子を持つことができたのだろうか? 研
究グループは、「生の海苔を食べることによって付着した菌が体に入り、腸の中で遺伝子の受け渡し
があったのではないか」と考えている。海に囲まれた土地で暮らし、昔から海藻を食べてきた日本人
だからこそ得られた機能なのかもしれない。日本人にとって、海苔などの海藻をうまく消化して栄養
分にすることができる腸内細菌をお腹に持っていることは、生きていくために有利だったと考えられ
る。
 


■東海道 → 第一京浜国道

 江戸日本橋から京都三条大橋に至る江戸時代の幹線道路で、成立した年代は明らかではないが、こ
の街道より西側の山際を通っていた中世の古東海道、鎌倉道、奥州街道が、海側に移動して東海道に
なったと推定されている。品川宿の宿駅指定は慶長六年(1601)と考えられている。高輪から区
内に入り、海岸沿いに北品川・南品川を通って大井地区へ、さらに鮫洲・浜川を通って大森に入って
いく。維新後、東海道が第一京浜国道(国道1号線→現在15号線)として拡幅されたが、区内では
東海道の道筋は人家が多いため旧道として残され、それで東海道の両側街は震災・戦災ともに受けな
かったことから古い佇まいが今なお残っている。国道は東海道に平行して西側の田園地帯に新設され
た。大正10年6月に着工して昭和3年7月竣工している。
 


■東海道乗合馬車

 明治2年横浜弁天通2丁目の喜八ら8名は、乗合馬車営業を出願して許可され、東海道に乗合馬車
を走らせたが、これが鉄道に先行した東海道筋における大量輸送の始まりだった。同5年の鉄道開通
後は、品川駅前から池上と六郷までの乗合馬車が主体となって運行されたが、この営業は同31年の
京浜電気鉄道の開通まで続けられた。
 


■東海道線/京浜東北線

 明治5年東海道線竣工、大森駅開業(品川駅は港区)。同11年品川~大森間の複線化完了。大正
3年東京~横浜高島町間が開通、電車運転が開始され、京浜線がスタートした。大井町駅はその時に
開業した。大正14年上野と東京が繋がって山手線が環状線になると、同じ線路を走る京浜線も東京
駅から上野駅まで延伸され、東北線田端駅~赤羽駅間が電化された昭和3年には、京浜線が東北線に
乗り入れて赤羽駅まで延伸され「京浜東北線」と呼ばれるようになった。同31年には山手線と京浜
東北線が線路上分離された。京浜東北線は、東海道本線と東北本線の電車区を連絡したもので、正式
名称ではないのだ。また俗称の意は、東京駅以南横浜までが京浜線、以北大宮までが東北線である。
 


■山手線
 やまのてせん 
「やまてせん」じゃないぞ。オイ田舎者。日本鉄道東北線上野駅と官営鉄道東海
道線新橋駅間が未通で、上野駅~新橋駅間を結べば距離は短いのだが、既にその区間は住宅密集地域
だったので建設を断念し、遠回りになるが山手経由で連絡線を建設をすることになった。当時山の手
は民家がほとんどなく、林と草原が広がっていたのだ。そして品川~赤羽間の工事が明治18年に完
了し、当初は日本鉄道「品川線」と命名された。また日本鉄道海岸線(現常磐線)は田端駅に乗り入
れていたので、新たに田端駅と目白駅を結ぶことにし、同36年池袋~田端間の「豊島線」が開通し、
上野~新宿~品川間が直通運転して「山手線」に改称した。豊島線当初予定の巣鴨~目白間は住民の
反対で買収できず、巣鴨の湿地帯(大塚駅)から池袋の森林地帯を迂回した。それで山手線の形が、
環状ではなくハート形になっているのだ。
 兵員輸送のための鉄道国有化後、同45年上野~新宿~品川が電化したので、品川~烏森間を東海
道京浜線に乗り入れて、C字形の山手線となった。大正3年新橋停車場が貨物駅に変更となり、東海
道線の中央駅は東京駅となって、中央本線も乗り入れてきたので、山手線は新橋(旧烏森駅)駅から
東京駅経由で中央本線を中野駅まで乗り入れることになり、同8年いわゆる〝の字運転〟が開始さ
れた。大正14年上野~神田間が完成すると、山手線の中央線への乗り入れは廃止され、山手線は初
めて環状線となった。
 


■変則駅名
 品川駅は港区にあり、目黒駅は品川区上大崎にある。大崎駅は居木橋村に設置されて、本来大崎
となるべき駅は、五反田駅を名乗っている
 


■京浜電気鉄道 → 京浜急行電鉄
 東京都内と川崎・横浜、さらには三浦半島を結ぶ鉄道路線を運営している。近年は羽田空港へのア
クセス鉄道としても利用されている。また泉岳寺駅より都営地下鉄浅草線→京成電鉄路線との相互乗
り入れを実施。本社所在地は港区高輪2丁目。交通事業の他に流通事業・サービス事業・不動産事業
なども経営する。目立たないが西武などと違って最優良企業だ。
 歴史的には、明治維新によって切って落とされたわが国の近代化の道は、日清戦争を経て一層激し
く進み、人と物の往来も増加の一途をたどり、新しい交通機関の必要性が次第に高まってきた。この
機運に応え、横浜から川崎町を経て大師河原町に至る「横浜電車鉄道」と縁日で賑わう川崎大師と川
崎町を結ぶ「川崎電気鉄道」の建設がそれぞれ計画された。明治31年2月これら2社を合同して設
立した「大師電気軌道」に遡り、翌年1月の川崎大師の縁日に合わせて六郷川土手上を旧東海道から
川崎大師まで標準軌で営業を開始したが、これはわが国で京都市電、名古屋電気鉄道ついで三番目、
関東では最初の電鉄会社となった。当時の営業路線は六郷橋から大師を結ぶ僅か2km、車両数5両、
最高時速13キロ、従業員数17人、営業時間は午前7時から午後8時まで、運賃は六郷橋~-大師
間並等5銭、上等10銭という極めて小規模なものだった。その後同年4月「京浜電気鉄道株式会社」
に社名変更、11月に複線運転を開始、明治37年5月8日八幡(大森海岸駅)~品川間開業、翌3
8年12月24日に川崎~神奈川間を全通、同39年10月1日学校裏(平和島)~梅屋敷間、雑色
~川崎間の専用軌道開通。さらに昭和4年神奈川~月見橋間、同5年月見橋~横浜間、同6横浜-日
ノ出町間開通、湘南電気鉄道との連絡が完成して、昭和8品川-浦賀間の直通運転を開始し。同16
年京浜電気鉄道と湘南電気鉄道の両社が合併し、この時にほぼ現在の路線が完成した。翌年国策によ
る企業合同で小田急電鉄らとともに東京横浜電鉄に吸収合併させされるも、戦後の23年大東急から
分離、資本金1億円の「京浜急行電鉄株式会社」として新たに発足し、今日に至っている。
 鉄道事業は、都心から川崎・横浜・横須賀を経て三浦半島に至る本線・空港線・大師線・逗子線・
久里浜線の5路線からなり、87kmの営業路線と760両の列車により、1日延べ約28万kmを
走行し、約113万人に利用され、通勤・通学や沿線行楽地への足となっているほか、羽田空港への
アクセスとしても重要な役割を果たしている。また公共交通機関としての社会的使命達成および沿線
地域発展のために安全で快適な輸送サービスを提供。
 


■品川区の木・花・鳥
 品川区にふさわしいと思われる区の「木・花・鳥」の候補を、選定委員会(区民代表・区議会議員、
学識経験者、区の職員、ごく一部の区民)の総投票数671名による投票により区議会に答申され、
昭和53年9月12日決定した。

 
椎の木
 シイノキ(ブナ科) 昔から、シイの実で親しまれている木で、公害に強く丈夫。東海寺をはじめ
古木が多い。常緑広葉樹で耐潮性、防水力がある。生長は早く30mにもなる。

 楓の木
 秋の紅葉は大変美しく、もみじ狩りなどといい一般によく知られている。江戸時代、品川は紅葉の
名所として近郷に知られていた。落葉広葉樹で公害にも比較的強い。生長は早く高さは20m位にな
る。

 皐月の花
 サツキ(ツツジ科) 躑躅(つつじ)の変種。皐月躑躅(サツキツツジ)のこと。ツツジより早く、
旧暦の五月に咲くことからその名がある。五月晴の空の下に咲く花は美しく、地植えや盆栽としてよ
く親しまれ、愛好されている。ツツジとの違いは、葉が小さく固い。常緑広葉樹で栽培の容易な高さ
0.7cm~1mの低木だ。

 
ユリカモメ
 都鳥。海辺を群をなして飛ぶ姿は優雅であり、白い翼は日に映えて美しい。海にのびる区として、
これからの発展にも繋がる。ハト位の大きさで、冬羽は白っぽく、夏は頭部が黒く
なる。『伊勢物語』九段 東下りに

   なほゆきゆきて、武蔵の国と下つ総の国との中に、いと大きなる河あり。それをすみだ
   河といふ。(中略)さるをりしも、白き鳥の嘴と脚と赤き、しぎの大きさなる、水の上
   に遊びつつ魚を食ふ。京には見えぬ鳥なれば、みな人見知らず。渡しもりに問ひければ、
   「これなむ都鳥。」と言ふを聞きて、
      名にし負はばいざこと問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと
   とよめりければ、舟こぞりて泣きにけり。


 なお和名「ミヤコドリ」という別種の鳥とは無関係だぞ。
 


■品川甚句 昭和53年3月1日制定
 品川甚句歌詞審査委員会・選詞(藤間哲郎・補)  細川潤一・作/編曲
  1.ハァー 朝日舞うかや 品川沖に
    船の汽笛の エー 船の汽笛の
    賑やかさ アリャ 賑やかさ
  2.ハァー 姉はサツキで 妹はカエデ
    甚句踊りの エー 甚句踊りの
    科のよさ、アリャ 科のよさ
 


■品川音頭 昭和53年9月1日制定
 小磯清明・作詞 石本美由紀・補作  服部良一・作曲
  1.品川よいとこ その昔
    五十三次 一の宿
    いまも住みよい 暮らしよい
    ひとつこころの町づくり
     品川音頭は みんなの音頭
     唄って 踊って 晴れやかに
     ぱっと笑顔の 花が咲く

  2.明日へ伸びる品川は
    広い埋立 工業地
    二つ並んだ埠頭から
    夢は世界を駆け巡る
     
(繰り返し)
  3.品川自慢は何がある
    花と緑と海がある
    戸越公園 真ん中に
    若さ一杯 葉も繁る
     (繰り返し)
  4.景気を呼ぶのは品川と
    大井・荏原に大崎よ
    何処の町でも手拍子で
    躍る人の輪 気も揃う
     (繰り返し)

  5.昔も今も東京の
    表玄関誇る町
    何時も明るく新しく
    伸びて広がる頼もしさ
     (繰り返し)
 


■品川区民の歌 
昭和53年9月12日制定
 作詞・橋本伽耶 補作・岩佐東一郎  作曲・服部良一
  1.明るい海の風受けて
    歴史の花も咲き誇る
    大東京の文化区と
    一際目立つ自治の街
    誇れわれら 品川区民
    誇れわれら 品川区民
  2.産業地区の朝ぼらけ
    若人達の意気高し
    日毎に伸びる生産に
    栄える街の朗らかさ
    励め我等 品川区民
    励め我等 品川区民
  3.埠頭に築く富の山
    平和の国のプレゼント
    港に光る灯台は
    理想の前途 指し示す
    誓え我等 品川区民
    誓え我等 品川区民
 
 



○品川区の町名の由来についてさあ始めるよ 


【荏原】(えばら)1~7丁目                     昭和40年9月1日
 平塚町→荏原町(荏原区の成立で消滅)。昭和16年荏原区中延町・戸越町・小山町の各一部を
あわせて荏原1~7丁目とし、同40年新住居表示により平塚1~5丁目・西大崎2丁目の各一部
を加えて現行の「荏原」となる。南北に長い町で中原街道を挟んで東は平塚と西中延。交点は平塚
橋。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『品川区史』『品川の歴史』など。

 荏原の由来
文献の初出は『万葉集』の防人の歌。

   白玉を手に取り持(も)して見るのすも
         家なる妹(いも)をまた見てもやも(荏原郡物部歳徳--としとこ)

ぞっこん惚れてる妻を置いて遠い遥かな地へ防衛のために駆り出された男の悲哀だ。

   草枕旅行く夫(せな)が丸寝せば
         家なる吾は紐解かず寝む(掠椅部刀自売--
くらはしべのとじめ

 防人(さきもり)に旅立つ夫を恋う荏原女性の歌として「浮気はしない」と健気さで有名な歌だ。
武蔵国荏原郡は江原・縁原・永原とも書いた。その由来を、

 ①、吉田東伍は「荏胡麻の原」にちなむ『新編武蔵風土記』の説が有力だと説く。荏胡麻は紫蘇
科の一年草。東南アジア原産で紫蘇に似る。種から荏油(じんゆ)を採り油紙や雨傘に塗った。
 ②、中島利一郎はアイヌ語「エッポロ」の転訛だという。大崎を「Etu-poro」といい、大崎村
が荏原の中心地と主張する。要は判らんというこっちゃ。
 古代の荏原郡には蒲田・田本・満田・荏原・覚志(かがし)・御田(みた)・木田・桜田・駅家
(えきか)の9郷があり、世田谷・目黒・大田・品川の四区に港区・千代田区の大部分をあわせた範
囲に及んだ。江戸時代は六郷・馬込・世田谷・品川・麻布の5領79~98ヶ村、明治初期で三田
・上高輪町・下高輪町・北品川宿・南品川宿を含む102ヶ町村だった。それが明治11~19年
三田・高輪・白金を芝区に編入したのち、同22年「市制町村制」により品川・大森・羽田・大井
・大崎の5町、平塚・目黒・碑衾・世田谷・駒沢・池上・馬込・入新井・蒲田・矢口・六郷・調布
・玉川・松沢の14ヶ村となり、昭和7年東京市周辺五郡が市に編入され、20区が増設されるこ
とになり、荏原郡は品川・荏原・目黒・大森・蒲田・世田谷の6区に編制された。さらに戦後の配
置分合で品川区と荏原区、大森区と蒲田区がそれぞれ合併し、品川・目黒・大田・世田谷の4区に
纏まって今日に至っている。
 


諸宗山無常院霊源寺
 荏原1丁目1番2号にある浄土宗の寺。
三田長松寺末です。開基は宝蓮社林誉霊源(寛文六年寂)
中興開山は貫蓮社法誉鉄哉だ。江戸時代より近郷の火葬寺として供養を行っていたが、火葬場を博善
株式会社(現東京博善桐ヶ谷斎場)へ譲渡した。
 


■専修寺墓地 →
一行山弘願院専修寺
 荏原1丁目1番3号にある浄土宗の寺。永禄二年(1559)寂蓮社曇誉直達和尚が開山となり青
山に創建、天正十九年(1591)赤坂堀端へ移転。寛永二年(1625)赤坂一ツ木へ移転したと
いう。さらに明治40年桐ケ谷(西五反田6-11-5)へ移転、平成23年頃現在地に移転した。
ここは元々墓地のみがあったところだ。目にも鮮やかな白木の本格建築で、古式に則って建ててある
美しい寺だ。

 
庚申塔
 墓地にある。かつては広いところにポツンとあった。角柱型。
日月・青面金剛(剣人六臂)像・邪
鬼・三猿。右面に「寶暦十庚辰年九月庚申日」「當寺十二世常譽代」銘。左面に「信心施主松平□□
真□」


■浄土寺稲荷 ◇

 荏原1丁目1番15号墓地入口にある小祠。


■麻布浄土寺墓地

 荏原1丁目1番19号、小山長応寺の前にあり、墓地だけが移転してきた。こちらには、奥殿藩大
給松平家の墓所がある。初代藩主乗次は、寛永九年(1632)、7000石の旗本である松平真次
の長男として生まれた。乗次が誕生する前に養子として乗真を迎えています。そのため正保三年(1
646)に真次が死去すると、その領地と家督をめぐって両者が争うことになり、3代将軍徳川家光
の裁定により、乗次が家督と4000石、乗真が3000石を相続することになったが、その後乗次
が加増されて奥殿藩が立藩された。墓域の一番奥が真次の墓碑。

 柳亭種彦の墓
 種彦は江戸時代後期の戯作者で、代表作として『偐紫田舎源氏』があり、日本文学史上にその名を
留める。天保三年(1832)没す。墓標の側面に刻す一句。

   品川区認定文化財
   
柳亭種彦墓
   江戸時代末期に戯作者として日本文学史上其名をたかめた人である。本名高屋彦四郎知久
   天明三年(1783)五百石取りの旗本の家に生まれる。幼時  がつよく、父親が、「風
   に天空はれて る柳かな」の一句を教訓として与えた。以後、身をつつしんで天明風狂歌
   を作る。柳の風成、後、柳亭種彦と改めた。長じて唐衣橘洲の門に入り、後、宿屋飯盛の
   門に入り国学を学ぶ。晩年、田舎源氏が社会風俗を乱す理由で罪を得、病たかえて卒す。
   年六十才。
   辞世「散るものと定る秋の柳かな
   昭和45年10月1日認定                    品川区教育委員会


 唐衣橘州の墓
 橘州は江戸時代後期の狂歌師として名が高く、享和二年(1802)没。

   
橘州小島君之墓

 達磨屋伍一の墓
 
伍一は江戸後期の狂歌師で、花屋蛙麻呂と号している。本業は本屋。

 
霊現稲荷大明神
 墓地にある。
 


■荏原一丁目ふれあい広場

 荏原1丁目2番12号にある区立公園。


■わくわく広場

 荏原1丁目4番13号にある区立公園。


■ザンビア共和国大使館

 荏原1丁目10番2号にある。アフリカ南部の国。コンゴ民主共和国、タンザニア、マラウイ、モ
ザンビーク、ジンバブエ、ナンビア、アンゴラの7つの国に接している。この国と南隣のジンバブエ
との国境に流れるザンベジ川には、世界三大瀑布の一つと言われる「ヴイクトリアの滝」がある。日
本はこの国の援助に力を入れており、経済協力は平成13年で5200万ドル(約57億円)で、こ
の額は日本の対アフリカ援助で3番目となっている。アフリカを代表する動物ゾウ、カバ、キリン、
シマウマ、ヌーも多く住み、大自然が大変良く残されている最もアフリカらしい国。

 
国名

 正式名称は英語表記で「ザンビア」、日本語表記も「ザンビア」。由来は国の西部から南部を流れ
るザンベシ川によるらしい。ザンベシの意味は判らない。

 歴史
 寛政十年(1788)ポルトガルが侵略。明治22年イギリスが南アフリカ会社の設立により統治
権を確立。大正13年直轄植民地化。昭和39年自治政府の首相ケネス・カウンダと統一民族独立党
により独立、第一共和制。昭和48年第2共和制(一党制)、平成2年クーデター未遂事件惹起、酒
に酔った兵士がラジオ放送局を占拠したもの、半日で終了。第三共和制(複数政党制)に移行。政情
は安定している。

 外交
 世界で一番最初に中華人民共和国を承認した国だ。そのため中華人民共和国とは友好関係にあり、
ザンビア中部からタンザニアのダルエスサラームまでの鉄道を敷設したのも中国だ。しかし平成10
年に起きた銅鉱山を買い取った中国人による労働組合設立の弾圧や、同18年の賃金未払いによる労
働者デモで中国人監督が労働者に発砲、46人が射殺される事件などで国民の対中感情は悪くなって
きている。その年12月の大統領選に出馬した野党「愛国戦線」のマイケル・サタ党首は、選挙期間
中「中国追放論」を展開した。結果は敗れたものの、28%の支持を得、首都のルサカでは選挙を争っ
た現大統領レヴィー・ムワナワサの3倍の票を得たものだ。

 経済
 世界的な銅の産地(コッパーベルト)で、10円硬貨にもこのザンビアから輸入した銅が含まれて
いる。他にも鉛、亜鉛などを産出。小規模ながら繊維工業などもある。
 


■旧中原街道供養塔群(一) ◇
 
 荏原1丁目15番10号の旧仲原街道沿いにある小堂。元文元年(1736)造立の舟型半肉彫り
の馬頭観音菩薩立像、延享三年(1746)造立の地蔵菩薩立像、それとほぼ同時期に造立と思われ
る地蔵菩薩立像、貞享年間(1684~88)に造立の聖観世音菩薩立像など4基がある。桐ヶ谷地
蔵尊の管理。
 


■荏原金刀比羅神社
 
 荏原1丁目16番4号にある中社。
 


■中原東公園

 荏原1丁目21番9号にある区立公園。


■国藏五柱稲荷大明神 ◇

 荏原1丁目24番1号にある小祠。


■荏原第一中学校
 
 荏原1丁目24番13号にある区立校。昭和22年5月1日後地小学校の職員室を間借りして開校
した。階段の踊り場に臨時の部屋を作って職員室にしたので、教室への生徒の出入りは仮職員室を通
るしかなく、水道の栓も1つだけという窮状からのスタートだった。平成9年創立50周年。
 


■荏原児童遊園

 荏原1丁目25番18号にある区立公園。


■星薬科大学
 荏原2丁目4番41号にある私立薬学専門大学。「クスリはホシ」の標語を知る人も少なくなって
しまった。明治44年、FS作家星新一の父星一が興した星製薬の教育部門で、全人教育を開始した
のがそもそもの始まりだ(本学の創立)。大正10年「星薬業講習会」を開講し、翌11年「星製薬
商業学校」を設立した。昭和16年「星薬学専門学校」設立。初代理事長は星一、初代校長は山口誠
太郎だった。同18年本館の大壁画「薬狩・鹿茸狩」が完成。同20年愚かなアメリカ軍の無差別空
爆により校舎の一部を焼失。敗戦によりアメリカ軍に接収され、仮校舎で授業開始。同21年から男
女共学にした。同24年接収解除によりアメリカ軍が撤退。同25年「星薬学大学(薬学科)」を設
立。同33年卒業論文制度開始し、同37年指導教授制度を始める。同38年衛生薬学科新設。同4
4年大学院修士課程設置。同50年大学院博士課程設置。同54年日本建築学会より本館が「近代日
本の名建築」に指定される。同北京医科大学薬学院と姉妹校となる。平成7年大学発祥の地モニュメ
ント完成。同8年21世紀創造シンポジウム、公開講座開始。同9年ハイテク・リサーチセンター竣
工。同12年大学院修士・博士課程に医療薬科学専攻設置。同14年本館大改修完了。同15年米国
テキサス大学オースチン校と姉妹校締結。(薬学大学から薬科大学に改称した時期は不明、ウィキペ
ディアにも、大学自体のHPの沿革にもそのことは記していない)。

 薬用植物園
 敷地内にある。約3000平方メートルの広さに薬用を中心とした有用植物約800種が栽培され
ており、ここのような施設が都心部に見られないところから、学外の人々にも広く利用されているの
という。園内は大まかに樹木園、水生植物園、標本園、野草園、温室などに区分けされ、よく知られ
た民間薬や漢方薬、あるいは医薬品の原料となる重要な植物を見学できる。
 

 
星一像
 構内にある胸像。星は明治6年福島県に生まれ、21歳の時、少年時代から熱烈に憧れた自由の国
アメリカに留学、苦学の末にコロンビア大学を卒業した。帰国後の明治37年、31歳で始めた湿布
薬の製造で莫大な富を築き、明治44年星製薬会社を設立した。従業員3000人という巨大工場は
当時の東京名物だった。現在のTOCビルのところだ。星は、鎮痛・麻酔薬としての重要なモルヒネ
の国産化に成功した他、日本初の全国的なチェーンストア組織を作り上げ、さらには大正9年には社
員や加盟店の子弟を教育する星製薬商業学校(現星薬科大学)を設立するなど、星はまさに製薬事業
界のパイオニアだった。一方36歳で衆議院議員に当選し、政界への進出も果たしたが、ここに大き
な落とし穴が待ち受けていた。政党間の争いに巻き込まれた星は、大正13年、モルヒネの原料であ
る阿片の取り扱いをめぐって犯罪者の汚名を着せられたのだ。これがいわゆる「阿片事件」で、2年
に及ぶ裁判の末、無罪を勝ち取ったものの、星の信用は失墜した。だが陸軍の扱う麻薬を一手に引き
受けて隠密裏に製造していたようだ。その後も星は実業家として奮闘したが、黄金時代は二度と訪れ
ることはなく、昭和26年77歳で黄泉の国へ旅立った。ペルーでのコカイン栽培計画のためにロス
アンゼルス滞在中の出来事だった。
 「阿片事件」については、長男である星新一の小説『人民は弱し、官吏は強し』に詳しい。
 麻薬を暴力団が扱うやに思われがちだが、麻薬という代物は金の成る木で、ヤクザ組織に扱わせる
訳がない。ロックフェラーやモルガンは麻薬で伸し上がったのであり、ユダヤの根源でもある。明治
維新のきっかけを作ったジャーディン・マセソン商会はロスチャイルドの麻薬部門だ。その系列が吉
田茂で、吉田は麻生太賀吉を使って麻薬を扱い天皇家の資産形成の一翼を担った。麻薬を扱うのは軍
であり、現在はアメリカ軍・中国軍がその中枢にある。当然、戦前は日本軍もモンゴルの麻薬を一手
販売していた。その親玉が東条英機で昭和天皇と確執した。麻薬撲滅なんてほざいているが、撲滅何
ぞするはずもない。
 


■荏原高等小学校跡

 荏原2丁目9番6号、荏原保健所のところだ。明治33年「小学校令」三たび改正され、その目的
は義務教育制度の整備確立にあり、尋常小学校の修業年限を全国的に4年に統一し、さらに将来の義
務教育年限の延長に備えて、修業年限2年の高等小学校の設置を奨励した。当時荏原郡には京陽・延
山・杜松の3小学校があったが、郡の財政状況では3小学校を維持するだけでも困難なところに、高
等科を併置するのは、なお経費が嵩むため、郡の中央部に高等小学校を設け、3小学校の卒業生を迎
えた。
 同41年義務年限は6年、高等小学校2年となった。なお義務教育が9年になるのは戦後の学制改
革からで、昭和22年4月以降のことだ。戦前の上級教育は5年制の中学校・高等女学校、3年制の
高等学校、4年制の大学がだった。この外に商業学校・工業学校などの専門学校、高等女学校の専科
(専門科)、高等学校に相当する大学予科があった。大学院は戦後に設置されるようになったもので、
旧制大学相当する。戦後の大学は旧制高等学校レベルであって、大学卒といっても、戦前の高卒でし
かないのだ。学生よ、大学院へ行け!
 


■旧中原街道供養塔群(二)
品川区指定文化財・民俗第20号
) ◇
 荏原2丁目9番18号、旧中原街道沿いの戸越地蔵尊にある。中原街道は、東海道よりも距離が短
かいため、急ぎの旅に利用されたので「江戸間道」と呼ばれた 旧中原街道沿いの6基の供養塔が収
められ、江戸期の戸越村・桐ヶ谷村の民間信仰を今に伝えている。
 向かって右側手前から、次のように並んでいる。
 1.右手前 石造地蔵菩薩供養堵・製作年代不明、江戸中期と推定。桐ケ谷、戸越両村の村民が
   施主となって造立したもの。「子育て地蔵」として信仰されている。
 2.奥右手 石造供養塔。江戸中期の造立と推定されるが、全体に風化が著しく、詳細ほ不明。
 3.奥中央 石造庚申供養塔・「寳暦四年甲戌十月 日」(1754)に、戸越村の村民によっ
   て
   造立された板状駒型。正面に日月・青面金剛像・邪鬼・三猿を浮き彫りにしている。
 4.3の左側 石造庚申供養塔・板碑型、「于時延寳元年(1673)癸丑」「施主等」。「十
   月吉祥日」「敬白」。施主として権助以下6名の名を記す。正面中央部は空白で、下部に三
   猿を配す。
 5.奥左手、石造庚申供養塔。唐破風角柱型。寛文六年(1666)に、戸越村の村民によって
   造立されたもの。正面に長文の銘文
    
三界長途蓄功徳為自是生死曠浄慎善□為良材妥一結朋友累□得庚申展供養白業建立此石
    塔汝等所行是菩薩道漸漸修学悉当成仏尓則現保福祐□感大果将又郷内安全五穀成熟于時
    寛文六丙子年十一月吉辰武刕荏原郡戸越邑
   
を刻み、下部に三猿を配す。
 6.左手前 石造墓碑。下方が欠失しているため戒名等の詳細は不明。没年月と思われる記年が
   あるため、寛文二年(1662)ころのものと考えられる。髭題目が記されており、日蓮宗
   系の墓碑か。
 池波正太郎は、昭和30年にこの近くの旧中原街道脇に居を定め、『鬼平犯科帳』『剣客商売』な
どを著作を残した。

   品川区指定有形民俗文化財
   
旧中原街道供養塔群(二)      所在 荏原2丁目9番18号
                        指定 昭和63年3月22日(第20号)
   旧中原街道は、江戸虎ノ門より相模国平塚に至る道路で、かつては東海道に並行した脇街
   道として旅行者や物資の輸送に利用された。
   本供養塔軍は旧戸越村地内の旧中原街道に沿ったところに6基存在する。寛文六年(16
   66)延宝元年(1673)宝暦四年(1754)造立の庚申塔、古来子育地蔵と呼んで
   信仰される造立年不明の大きな地蔵、風化甚だしく銘文不明の供養塔、髭題目が刻まれた
   寛文二年銘(1662)の石造墓碑がある。これらの供養塔群は旧街道時代の状態がよく
   遺され、江戸期の街道の面影を伝えるものとして、また戸越村・桐ヶ谷村の民間信仰を今
   に伝える民俗資料としてその価値が高い。
   平成13年3月30日                      品川区教育委員会
 


■庚申塔 ◇

 荏原2丁目15番12号吉川ハイツ前の駐車スペース左側の左塀際にある。縦長の自然石中央に、
大きく「庚申」と刻み、下部を抉って三猿を彫ってある。


■荏原二丁目児童遊園

 荏原2丁目16番4号にある区立公園。


■荏三公園

 荏原3丁目3番10号にある区立公園。


■正一位稲荷大明神

 荏原4丁目3番12号にある小祠。
 


■平塚公園

 荏原4丁目5番2号にある区立公園。


■平塚小学校 →
小中一貫校平塚学園

 荏原4丁目5番31号、平塚橋交差点の近くにあった区立校。昭和9年東京市立平塚尋常小学校と
して開校。同16年東京市平塚国民学校と改称。同18年東京都平塚国民学校と改称。同20年5月
に空襲により全校舎焼失。同21年3月を以て廃校。校区は小山小学校に。
 昭和26年4月「品川区立平塚小学校」として復興。7月30日、現在地に校舎完成。校章制定。
同33年校歌制定。同48年鉄筋校舎改築落成。同49年校庭新土舗装完成。区内唯一の電動スプリ
ンクラー設置。同58年体育館改築落成。同60年・機械警備工事完成。
 平成元年・校舎外壁工事完成。同10年コンピュータ導入。同12年・コンピュータ室完成。同1
3年創立50周年。同22年平塚中学校と統合して小中一貫校「平塚学園」となった。
 


■平塚之碑 ◇

 荏原4丁目6番4号にある。ファミリーレストラン「バーミアン」を右手に路地を入ると、すぐ左
手にさらに細い路地がある。その突き当たり、横町の奥にひっそり建っている自然石の碑だ。民家に
挟まれた中にあって分かりにくいが、「平塚之碑」と刻まれた一見墓石のような碑の前には木の鳥居
が建ててあって、由来を記した区教委の説明板がある。

   平塚の碑                      所在地 荏原4丁目6番4号
   古くは鎌倉に通じる古道で、江戸時代には東海道の脇街道として往来の盛んであった中原
   往還(中原街道・相州道)沿いに「平塚」と呼ばれる大きな塚があった。
   伝承によると、後三年の役(1083~87)において八幡太郎源義家を助けた弟の新羅
   三郎源義光は奥州からの帰途、この地において夜盗に襲われ多数の配下を失った。その霊
   を祀ったのがこの塚の由来とされている。
   時の流れとともに、この塚は取り壊されたが、地域の人たちによって昭和27年3月「平
   塚の碑」が建立され、伝承は受け継がれている。
   昭和59年4月30日                      品川区教育委員会


 平安時代後期に起きた奥羽の豪族清原氏の内乱「後三年の役」(1083~87)では、源氏の武
将八幡太郎源義家が鎮圧に当たった。義家は初戦をかなり苦戦したが、これを都で知った弟の新羅三
郎源義光が役職を投げ打って応援に駆けつけ、無事に乱を治めることができたと伝えられている。
 義光は新羅明神の社前で元服したので新羅三郎と称したのだが優れた戦術家で、弓が得意な一方、
楽器の笙にも長じた風流人だったといわれる。また武田信玄が出た甲斐武田氏の祖先に当たる人とし
ても知られている。その義光が戦役が終わって京都へ引き揚げる途中、荏原郡平塚村で野営していた
時、盗賊の急襲を受けて多くの兵を失った。これを哀れんだ村人は死者を懇ろに葬り、10坪ほどの
塚を築いた。これが平塚の由来だが、長い年月幾星霜、塚はいつしかなくなってしまった。ところが
太平洋戦争後、現在の碑の辺りを整地した時、多数の鎧や兜、刀剣が発掘された。同時に付近の人た
ちがたびたび不吉なことに遭い、伝説を知る人の間に塚が失われた祟りではないかとの声が出て、昭
和27年地元有志がこの碑を建てた。荏原の人の人情の厚さは、大昔と変わらない。同33年からは
毎年5月に慰霊祭が行われている。


■荏原四丁目児童遊園

 荏原4丁目10番10号にある区立公園。


■荏原中央公園

 荏原5丁目1番2号にある区立公園。


■8歳児轢死事故

 荏原5丁目2番1号三英社製作所横の栄通りの辻で起きた交通事故。平成29年6月1日15時4
5分頃、小型トラックが小学生を跳ね、車の下に巻き込んだ。トラックを運転していた佐伯吉彦(7
3歳)が「小学生くらいの男児をトラックでひいてしまった」などと、119番通報したことで、救
急隊や警察官らが現場に駆けつけたところ、男児がトラックの下に挟まれ身動きがとれない状態だっ
た。児童は直ぐ救出されたが頭を強打しており意識不明の重体、直ちに病院に搬送されたが、病院で
死亡が確認された。事故現場は一車線の狭い道路で、車がやっと擦れ違うことのできる道幅、速度は
時速30km。トラックがスピードを出し過ぎていたのか、または脇見運転をしていたのかなどの詳
しい情報はわからないが、運転手は「安全確認を怠った」といっている。


■しいのき公園

 荏原5丁目5番12号にある区立公園。


■葛原神社

 荏原6丁目2番13号にある中規模の神社。「かつはら」と読む。天文七年(1538)十月千葉
一族の鏑木四郎胤憲(下総国塞川に住。寒川か?)、国府台にて戦死。子孫である鏑木外史(外記か
?)入道親次、荏原に移住。親次の子である守憲により、
弘治二年(1556)一月一日社殿を建て
て平氏の祖葛原親王(かつはらしんのう)を祀り、さらに妙見菩薩(北斗七星の神格化で葛原親王の
守護神)を勧請。←妙見信仰は葛原親王の代まで遡ることに。鏑木は、北条氏より当地開墾の免状を
賜り、一族諸共中延村に定住した。

 
菩提樹
 葛原神社は元妙見社といい、妙見菩薩を本尊としたことから、仏教に関係のある本樹が植えられた
と推定される。

   品川区認定天然記念物
   
葛原神社のボダイジュ         所在 荏原6丁目2番13号 葛原神社
                         指定 昭和53年2月14日(第9号)
   葛原神社は、北辰妙見菩薩を奉ずる葛原親王を祭神とし、中延村の旧家鏑木家の守護神で
   あった。
   ボダイジュは、シイノキ科の落葉高木で原産は中国である。古く日本に渡来し、寺院の庭
   などに植えられることが多い。
   本樹の樹齢は約150年と推定され、根元から幹が4本に分かれているが樹勢は旺盛であ
   る。
   昭和39年3月30日                      品川区教育委員会
 


■荏原西公園

 荏原6丁目5番5号にある区立公園。


■中延公園 → 荏原南公園

 荏原6丁目16番4号にある区立公園。面積は中規模だが地域の核となる公園で、徒渉池から大型
複合遊具、多目的広場、キャッチボール場など、幅広い年齢層の人が利用できるような様々な施設を備
えている。かつては「中延公園」と呼ばれていた。
 


■荏原警察署

 荏原6丁目19番10号、中原街道に面してある。昭和3年9月1日に大崎警察署より分離して開
設。昭和60年現庁舎完成。
 


■小山八幡神社

 荏原7丁目5番14号にある大社。西小山八幡神社とも、池ノ谷八幡神社とも呼ばれる。鎮守の森
に椎の古木2本が立っている。小山の名の通り、区内随一の高台(標高35m)にて遠望良好、品川
百景に選ばれている。
 三谷八幡神社との例大祭で、両社祭と呼ばれている。祭のクライマックスは、小山神輿連合会の夜
間連合渡御。日曜日に7町会の7基の神輿が隊列を組んで武蔵小山商店街パルム広場を出発し、町内
を練り歩き、西小山桜並木通りまで連合渡御をする。毎年大勢の観衆の熱気でわきかえる名物行事だ。
知らなかった?

 以前の説明板

   品川区認定文化財
   
西小山八幡神社のシイノキ                   (天17号)
   本樹は、幹周り(目の高さ)2.76m、樹高約20mの直幹、整然とした樹姿で、他のケ
   ヤキ、イチョウ、サワラ等の樹木とともに、豊かな境内林を構成し、その主木となってい
   る。シイは、我国中部以南の暖地に生じ、よく繁茂する常緑喬木であり、庭木としてよく
   使われる。東京でも多く見られたが、今はない。
   昭和44年2月14日                       品川教育委員会


 現在の説明板

   
品川区指定天然記念物第13号・14号
   
小山八幡神社のシイ               所在 荏原7丁目5番14号
                              指定 昭和53年2月14日
   俗に西小山八幡と称されている当社の境内には、常緑樹のシイの十数本のほか、サクラ、
   ケヤキ、イチョウ、サワラ、ソロなど数多くの樹木があり、豊かな鎮守の森をなしている。
   本樹は、当社では最も大きいシイの木で、樹容も立派であるが、頂部に枯れ損じがある。
   本殿と摂社の中間にある(13号)は、目通りの廻り2.85m、高さ13m  境内の北
   西部にある(14号)は、幹囲2.60m、樹高16m、樹齢はいずれも推定200年で、
   区内でも貴重な樹木である。
   平成12年3月31日                      品川区教育委員会


 大国様
 左手奥に荏原七福神の大国天(大黒天)が祀ってある。

 
稲荷大明神
 


■仏母山
摩耶寺
 
荏原7丁目6番9号にある日蓮宗の寺。寛文七年(1667)の創建と伝えられている。延宝五年
(1677)に祖師像が、翌六年摩耶夫人像が造られる。多くの像は不受不施派の弾圧の際、法華寺
(目黒の円融寺)から移されたものだ。摩耶夫人が祀られている摩耶堂は天保年間(1830~18
43)に造られたものである。その後関東大震災や第2次世界大戦などからの災害からは免れた。本
堂は昭和53年に完成したもの。また荏原七福神の一つとして寿老人を祀っている。摩耶は摩耶夫人
(まやぶにん))で、お釈迦様の奥様だ。摩耶夫人を本尊としている寺も珍しい。境内右側に摩耶夫
人堂があり、両手を胸に合掌し、誕生仏を脇に置き、飛雲の台座に乗る変った形式、金を基調とした
極彩色で美しい仏像。境内に碑文谷円融寺から移した板碑3枚がある。池ノ谷八幡の別当寺だった。

 ※と書いたら、益子仁志さんから「生母」だとお叱りを受けました。訂正します。で、摩耶夫人に
ついて簡単に紹介しときます。

 摩耶夫人
 
岩波書店『哲学思想辞典』によれば、パーリ語またはサンスクリットで、Māyā マーヤーは、ゴー
タマ・シッダッタ(ガウタマ・シッダールタ 釈迦)の生母だ。但しマーヤーは一般に、この人物の
名前だとされているものの、近年の学説では、母を意味する「mātā」の俗語形であって「本名ではな
い」ともされている。
 というのは、本名というものは「公開すると悪魔に知られて取り憑かれる」という思想があり、人
の名は通り名(通称)で呼ぶのが常識だった。八幡太郎(源義家)・悪源太(源義平)・遮那王(源
義経)・佐殿(源頼朝)・秋田城介(織田信長)・太閤(豊臣秀吉)・右府殿(徳川家康)や、○兵
衛・○右衛門・○左衛門・○姫・○氏、源太、平太、藤太なども通り名だ。だから、マーヤーが本名
でない可能性は首肯できる。
 マーヤーの生没年は共に不詳。コーリヤ族の出身とされ、釈迦族の王シュッドーダナ(浄飯王)に
嫁して、前586年(前624年、前463年とする説もある)にシッダッタを生み、シッダッタの
生後7日後に没した。また没後は忉利天に転生したという。シッダッタはその後、マーヤーの妹であ
るマハー・プラジャパティー(摩訶波闍波提)が後妻となって養育した。

 『ラリタ・ヴィスタラ』(『普曜経』『方広大荘厳経』)などによれば、マーヤーはヴァイシャー
カ月に六本の牙を持つ白い象が胎内に入る夢を見てシッダッタを懐妊したとされており、その出産の
様は、郷里に帰る途中に立寄ったルンビニーの園で花(北方伝ではアショーカ樹(無憂樹)、南方伝
ではサール(沙羅双樹)を手折ろうと手を伸ばしたところ、右脇から釈迦が生まれたと伝える。これ
は『リグ・ヴェーダ』プルシャの歌でプルシャ(原人と訳されることもある)を解体した際、両腕か
らラージャニアが生まれたことから、ラージャニア、乃ちクシャトリア階級の出産は脇から生まれた
と表現されることによる。
 出産日は、北方伝では4月8日、南方伝ではヴァイシャーカ月(グレゴリオ歴4月~5月)の満月
の日とされる。『摩訶摩耶経』や『華厳経』入法界品などの仏典では天上の摩耶夫人はしばしば登場
し、ことに『摩訶摩耶経』に収められている、釈迦が悟りを得て後、忉利天の天上に上って摩耶夫人
に報告したとされる説話は有名で、その帰途の様子は「三道宝階」として仏教美術の好題材の1つと
なっている。
 如上のインドにおける信仰が、中国・日本に伝播し、ことに日本においては日蓮宗の寺院で摩耶夫
人を尊崇することが多い。一般には安産・子育て・婦人病などの利益をもたらすとされているが明恵
上人や泉鏡花のように幼時に母を亡くした「母恋い」の心から信仰を行う人も少なくない。

 
庚申塔
 境内にある。角柱型。日月・青面金剛像・2邪鬼・三猿。「小山庚申講」「大崎本町 石銀刻」。
「昭和三十四年五月吉日建」
と刻む。
 
 



【大井】(おおい)1~7丁目                     昭和39年9月15日
 大井郷。大井村。明治22年の「市制町村制」では一村独立、同41年大井町、昭和7年品川区
となり、大井鮫洲町・大井林町・大井立会町・大井元芝町・大井北浜川町・大井南浜川町・大井寺
下町・大井関ヶ原町・大井水神町・大井鈴ヶ森町・大井海岸町・大井坂下町・大井権現町・大井森
下町・大井山中町・大井倉田町・大井鎧町・大井鹿島町・大井滝王子町・大井庚塚町(かのえづか
まち)・大井出石町(いずるいしまち)・大井原町・大井森前町・大井伊藤町・大井金子町とに分か
れた。同39年新住居表示により、大井鎧町・大井森下町・大井山中町・大井倉田町・大井鹿島町
・大井滝王子町・大井庚塚町の各全部に大井出石町の東三分の一・二葉町1丁目の極一部・大井町
線以南の大井権現町をあわせた町域を現行の「大井」とした。
 名産品に「大井大根」「大井節成胡瓜」のあったことを忘れないように・・・
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『品川区史』『品川の歴史』など。

 大井の由来
①、麻布善福寺の中興開山の了海上人は大井6丁目の光福寺で生まれたが、そのとき産湯に使うた
 めに掘った井戸だという説。しかしこれは時間的にはそぐわない。
②、この辺りには藺草(いぐさ)が生い茂っていて「大藺」の名が起こり後に大井に転じたとする
 『大井町史』の説、しかし今のところ藺田があったという記録も痕跡も発見されていない。
③、袖ヶ浦の深い入江を「大江」と呼び、それが訛ったとする説、
④、大化の改新の井田法に遡り、よく肥えた土地で大なる収穫があったため「大井田(だいせいで
 ん)」となり、それを「おおいだ」と読んで「大井」となったという説の4説がある。
 


■大井駅前公園

 大井1丁目1番2号にある区立公園。


■大井町駅

 大井1丁目2番にあるJR・京急電鉄・りんかい線の停車場。明治34年3月15日大井聯絡所開
設。大正3年12月20日京浜線運行開始により大井聯絡所を格上げして大井町駅開業。昭和2年7
月6日目黒蒲田鉄道大井町線(大井町~大岡山)間開通により大井町駅開業。
 平成5年駅ビル(アトレ大井町)完成。同14年東口新駅舎使用開始。12月1日東京臨海高速鉄
道りんかい線の大井町駅開業。同23年
東口新駅舎に駅ビル(アトレ大井町2)オープン。同29年
京浜東北線ホームにホームドア設置予定
 JR東日本プラットホーム
 島式1面2線を有する地上駅。京浜東北線に並行して東側には東海道線の線路があるが、ホームは
ない。ホーム中央付近に中央口(アトレ口)、品川寄りに東口と西口が存在する。品川寄りの東口と
西口は線路を挟んで直ぐ側にある。緑の窓口・びゅうプラザ・自動改札機・指定席券売機設置駅。
 東急大井町線プラットホーム
 頭端式1面2線を有する高架駅。新玉川線(田園都市線渋谷~二子玉川間)が開通する前は田園都
市線の起点駅だった。平成11年から同18年2月まで改良工事を実施し、駅舎とホームが大きく変
わり、連絡改札口がなくなった。基本的に各停が1番線、急行が2番線から発着することが多い。
 りんかい線プラットホーム
 
単式1面1線が二層構造となっている地下駅。駅部トンネルのうち線路・ホーム部分は2本の単線
シールド工法(挿入式拡径親子シールド)で、改札等の駅施設部分は開削工法で構築され、シールド
部と開削部がホーム中央部分で連結されている。
 JRとは品川寄りと大森寄りのそれぞれの駅舎(JR中央口)で、東急とは品川寄りの駅舎のみで
連絡している。改札口から品川寄り駅舎へ向かう途中にイトーヨーカドー大井町店の地下1階フロア
に直結する出入口がある。JR中央口改札階とりんかい線改札階を連絡するエスカレーターは44m
の長さがある。西隣の大崎駅と異なり、JRとの改札内での乗り換えはできない。ホーム番号や自動
券売機も完全に別のものとなっている。当駅から渋谷・新宿・池袋方面へは、りんかい線は大崎駅か
らJR埼京線に直通することから利便性は高い。但し運賃はりんかい線とJR線の合算となるため割
高となる。

 
時計塔
 東口タベストリアナンデッキ上にある。12個の鐘が突いている、

 「平和の誓い」像
 非核平和都市品川宣言1周年を記念して建立された浅賀正治の作のブロンズ像で、広島市の「平和
の灯」と長崎市の「誓いの火」を合わせて点火した「誓いの灯」とともに駅前広場のシンボルとして
親しまれている。ミニチュア判が西大井と大崎にもあり、品川区の平和のシンボルになってるよ。

   非核平和都市宣言
   今、この地球に、
   人類は自らを滅ぼして余りある
   核兵器を蓄えた。
   いまだかつて、
   開発された兵器で
   使われなかったものはない。
   これは、
   歴史の恐るべき証明である。
   一刻も早く、核兵器をなくさなければならない。
   頭上に核の閃光がひらめく前に。
   遅すぎたとき、それを悔やむだけの未来すら、
   我われには残されていない。
   品川区は、核兵器廃絶と恒久平和確立の悲願を込めて、
   ここに非核平和都市を宣言し、全世界に訴える。
   我われは、いかなる国であれ、いかなる理由であれ、
   核兵器の製造、配備、持込みを認めない。
   持てる国は、即時に核兵器を捨てよと。

   このかけがえのない美しい地球と、
   そこに住む生きとし生けるものを、守り伝えるために。
   
昭和60年3月26日

 
りんかい線の風「トンボ」
 改札口正面にあるレリーフ。作者不明。

   りんかい線の風「トンボ」
   小枝にとまり情報を、単眼と複眼とで
   ゆったりと施行する。
   品川区の発展を願い、未来を明るく導くように。
             題字 品川区長 高橋久二

   臨副線・埼京線延伸協議会
   東京商工会議所
   品川区 2002年12月1日 東工調


■大井町線→田園都市線→大井町線

 目黒蒲田電鉄は、目蒲線の敷設に引き続いて大井町線の建設を計画し、昭和2年大井町~大岡山間
を開通させ、計画通り「大井町線」と命名された。同4年11月自由が丘~二子玉川間が開業して二
子玉川線とし、間もない同12月に大岡山~自由が丘間が結ばれると、二子玉川線は大井町線に統合
された。同14年目蒲電鉄は東京横浜電鉄に吸収され、同18年玉川線(溝ノ口線)二子読売園駅~
溝ノ口駅間の軌間を1372mmから1067mmに改軌し、大井町線に編入した。さらに同38年
長津田・すずかけ台・つくし野方面に延伸して「田園都市線」と改称、大井町線は消滅する。同54
年田園都市線の電車が二子玉川園駅から新玉川線を経由して渋谷駅・営団地下鉄半蔵門線方面へ直通
運転を行うようになり、同時に大井町駅~二子玉川駅間が大井町線として分離され、16年ぶりに名
称が復活した。
 大井町線は全線各駅停車のみの運転だが、平成18年3月から土・日と祝祭日に限って田園都市線
に乗り入れ、急行となるサービスを始めた。また同20年3月から大井町線内にも急行を走らせるこ
とになっており、二子玉川 - 自由が丘 - 大岡山 - 旗の台 - 大井町に停車する予定。その場合は溝
の口まで延伸されることになる。
 


■大井町緑地児童遊園(猫公園)

 大井1丁目7番6号にある区立公園。

 
「太郎と花子」
 取っ付きにある猫2匹の像。大井町に住んでいた詩人萩原朔太郎に因んで建てられた。昭和48年
に立会川を暗渠にし、上部を児童遊園として整備した時、朔太郎の代表的な詩集「青猫」をモチーフ
として制作し建立した。平成24年12月18日説明碑を建立した。

   「花子と太郎」像
   この「花子と太郎」像は、大正14年頃、大井町に住んでいた詩人・萩原朔太郎(188
   6~1942)にちなんで建てられました。
   朔太郎は大正から昭和期にかけて活躍し、口語自由詩を完成し、日本における近代詩の確
   立に大きな足跡を残しました。
   大正14年2月、38歳の時に妻子と共に郷里の群馬県(現在の前橋市)から上京、この
   大井町で初めての都会生活をはじめました。この地での生活はわずか2ヶ月ほどでしたが
   その経験から、「大井町」という詩を発表しています。
   昭和48年に立会川を蓋がけし、上部を児童遊園として整備する際、朔太郎の代表的な詩
   集「青猫」をモチーフとしてこの像を作成し、この場所に場所に設置しました。
 


■伏見玉光稲荷大明神 ◇

 大井1丁目13番、タイムズ大井第9駐車場の西端にある小祠。
 


■大井蔵王権現神社 ◇

 大井1丁目14番7号にある小社。
 


■妙昇堂出世稲荷神社 ✔

 大井1丁目20番25号にあったが、再開発で・・・


■大井町緑地児童遊園

 大井1丁目21番にある区立公園。


■大井どんたく

 大井1丁目22番と23番にある駅前中央通りで、毎年8月下旬に町おこしのために行われる商店
街の祭。地元の踊りの会や企業の協賛を得て開かれる。日本一の動員数を誇る博多どんたく(福岡市
民の祭り・博多どんたく港まつり)の繁栄に肖ろうと始められた。

 どんたく
 オランダ語で「日曜日」を表す語「Zontag(ゾンターク)」が訛った言葉だとか。この言葉
は、博多の人間が西洋かぶれして探し出してきた言葉ではなく、明治政府が制定した祝日を指す言葉
として明治4年から政府が広めた言葉であるといわれ、主として元旦、紀元節、天長節、地久節の四
大節を指していた。博多で正月15日の松囃子と通りもんが禁止されてのち、明治政府公認の祝日を
祝って繰り出すようになり、その過程で松囃子や通りもんによる祝いの行事を「どんたく」と呼ぶよ
うになったと考えられている。
 


■妙昇堂

 大井1丁目20番25号、路地の奥にある。一本橋商店街の出世稲荷だが、お堂とその表札だけが
ある。
 


■清護稲荷神社
(きよもりいなりじんじゃ)
 大井1丁目24番10号、大井町阪急の西側にある小さな社。

 題目供養道標
 境内に据えられている。元はゼームス坂(ジェームズの転訛)からの池上道と稲毛道の追分に建て
られていたが、その後この地区の改造がけたたましく、あっちへこっちへ盥回しされた挙句に、昭和
50年ごろ元の位置に近い現在地に落ち着いたという訳。正面に「南無妙法蓮華経」と刻み、左側面
に「左池上道本門寺マテ一里」「右稲毛道中延マテ十八町千束マテ廿五町」、裏面に「天保九年戊戌
二月十一日」と刻む。三河屋利兵衛ら8名のほか北品川講中、日本橋講中の名も見え、本門寺の講中
が道中功徳のため建立したものだ。
 


■妙竜寺

 大井1丁目38番5号にある日蓮宗の寺。民家を寺としており、休止中かも
 


■伝納経塚跡 → 庚申堂(来福寺境外仏堂) 
撤去
 大井1丁目44番5号の池上道に面してある。ここに4基の庚申供養塔が安置されている。延宝8
年(1680)の宝塔型、享保元年(1716)と同六年(1721)の駒型2基、年未詳の宝塔型
の都合4基だ。戦後、地元の人が堂を建立し。現在も来福寺所管の境外仏堂で縁日は、毎月1・10
・20日。①.舟形光背型。日月・青面金剛像・三猿・二鶏。「享保元丙申□ □」「□月四日」。
➁.板状駒型。日月・青面金剛像・三猿・二鶏。「奉供養庚申」「享保六辛丑十月三日」。➂.笠欠
角柱型。三猿。「奉□・・・□佛」「延宝八□‥‥□」)「十一月□‥‥□」。④.笠欠角柱型。三
猿。
 ※現在、堂毎見当たらない。

   
庚申塚
   この庚申堂は昔庚申塚と呼ばれ、さらに古くは、右大将頼朝卿が、戦死諸兵供養の為に写
   経を埋められたので、その当時は納経塚といわれていた。
   後柏原帝の文亀元年(1501)梅巌というお坊さんが、この塚の傍を通られると、土中
   より読経の声を聞かれて、仏体を掘出された。当時内乱で行方知れずであった、
   來福寺(東大井3丁目)の本尊延命地蔵尊であることがわかり、寺に迎えて再び安置され
   た。その為にこのご本尊は、別名経読地蔵尊といわれるようになった。
   戦後地元有志の方々が、堂を建立された。
   現在も來福寺所管の境外仏堂で、縁日は毎月一日・十日・二十日。
   尚毎年「かのえさる」の日に、庚申祭りの修法をいたします。


■大井中央公園

 大井1丁目46番8号にある区立公園。

 
雲の子像
 幼児像。田端優子の作品。幼児が大空に向かって両手を広げている。


■みつまたの時計塔

 
大井1丁目53番3号先歩道角にある。


■三ツ又身代り地蔵(三ツ又地蔵) ◇

 
大井1丁目55番7号、大井三ツ又交差点の北の角にある。現在は五差路になっているが、池上通
りの新道と中通り商店街の道は江戸時代にはなかったから、地蔵のところが追分になってた訳さ。右
も左も池上道で、右は青物横丁から旧東海道へ、左はゼームス坂を通って旧東海道へ通じる。三ツ又
のお地蔵さんはその道標だった。何の身代りなのかは調べてないのよ。そのうち調べとくわ。何せ2
3区だから・・・


■森下児童遊園

 大井2丁目1番13号にある区立公園。


■宮下公園

 大井2丁目7番16号にある区立公園。


■品川宿道しるべ 北浜川

 東大井2丁目9番10号にある石標。

   左面 
左 なみだ橋

   正面 
十九番 北浜川 後 勝島運河 花海道

   右面 
右 鮫洲

   裏面 旧東海道品川宿周辺まちづくり協議会 


高詳山嶺雲寺

 大井2丁目15番10号にある曹洞宗の寺。慶長九年(1604)厳育和尚が創建、吉田半左衛門
重房が中興開基。「新編武蔵風土記稿」に、

   嶺雲寺
   境内除地五畝七歩。小名濱川町にあり。曹洞宗にて同郡南品川宿天龍寺の末なり。高祥山
   と号す。慶長九年開山厳育和尚の草創といへり。中興を不聞實伝和尚と云。萬冶三年11
   月15日示寂す。中興の開基は吉田半左衛門重房と称して境内に墳墓もあり、その碑蔭に
   記せし大略に云、重房は越前の人なり。故ありて相州粕谷に来りて住居せしに、後当村へ
   移りて村民となり、当寺を開基し萬冶三年五月21日享年六十五にして死せりと。今此子
   孫をしらず。客殿五間に四間本尊釈迦如来を安置す。


 とある。吉田家は、安政三年(1856)鮫洲で営業していたそうで、鮫洲八幡神社の石灯籠の台
座にその名が刻まれ、現在も東大井2‐15‐13で蕎麦会席「立会川吉田家」として健在だ。

 
寺号塔
 旧東海道に面してある。

   
嶺雲禅寺

 
閻魔堂・稲荷
 境内にある。


■東関森稲荷神社

 大井2丁目16番14号にある小社。鳥居は石明神。「とうかんもり」と読むが、元は「稲荷森」
で、稲荷(倉稲魂命)を祀った鎮守の森だった。稲荷森と書く稲荷神社も各地にある。
 


■浜川橋(涙橋)

 大井2丁目27番7号先の立会川に架かる橋。
 大井を流れる立会川は、旧東海道に架かる浜川橋を最後に海に出る。源流は碑文谷池に発するが、
宅地化により橋が多く架かけられるようになると、自分勝手な居住者が、川にゴミを不法投棄するた
めに、大雨になるとそれらのゴミが橋に引っかかり、しばしば洪水を引き起こした。そのため農業用
水としての意味も失われたので、川は暗渠となって下水化した訳さ。それで地上に降った雨はアスファ
ルトの上を滑るように一気に流れていくんだよ。現代人は、そこに住むに、どうして土地の条件を考
えないのか、おいらには不思議だ。「赤坂」は山土で滑るってこと、「三年坂」も滑って転んで怪我
をして三年したら死ぬよって警告、「地獄谷」ってえのは亜硫酸ガスが出るところだってこと、沢、
窪、袋、谷が付けば湿地帯だし、荻、菅、葦などは湿地に生育する草木だ。大雨が降って床下浸水し
て「まさか水がくるなんてねえ」なんてほざいてないで、土地を見ろよ。毎日洪水が来るようなとこ
ろなら、家が建たないだろう。
 浜川というのは立会川の下流部の名前、橋は家康の時代に架けられたというから慶長8年頃かな。
江戸からこの橋を渡ると間もなく鈴ヶ森の処刑場、囚人たちは死を恐れてどうしても涙をこぼすので
「泪橋」の異名がある。立会の由来は、①鎌倉時代朝比奈義秀らが剣術の稽古の太刀合いをしたとこ
ろ。②上杉・北条のころ合戦があった。③ここに野菜市が立って人々が集まりあったので立会の名が
起こったという。親柱の側に立札が立ててある。

   浜川橋
   立会川が海にそそぐこのあたりの地名の浜川から名付けられたこの橋は、またの名を「泪
   橋」ともいいます。
   この橋が架けられたのは、徳川家康が江戸入府後の1600年頃と思われます。現在の橋
   は昭和9年に架け替えられたものです。
   
涙橋の由来
   慶安四年(1651)品川にお仕置場(鈴ヶ森刑場)が設けられました。ここで処刑され
   る罪人は、裸馬に乗せられて江戸府内から刑場に護送されてきました。この時親族らか秘
   かに見送りにきて、この橋で共に涙を流しながら別れたということから「泪橋」と呼ばれ
   るようになりました。
   平成15年3月10日                      品川区教育委員会


■地権稲荷大明神 ◇

 大井3丁目3番7号、細~い路地の奥にある小祠。
 


■山中小学校

 大井3丁目7番19号にある区立校。大正5年9月1日「東京府荏原郡大井第二尋常小学校」とし
て開校し、同12年「東京府荏原郡山中尋常小学校」と改称。昭和7年市郡合併により「東京府東京
市山中尋常小学校」となり、同16年勅令148号国民学校令公布により「東京府東京市山中国民学
校」と改称。12月日米開戦。同18年都制施行により「東京都山中国民学校」と改称。
 同22年戦勝国アメリカの強制による学校教育法の施行により「東京都品川区立山中小学校」と改
称。同41年創立50周年記念式典。平成18年創立90周年記念式典。
 


■聖母訪問会大井修道院 ◇

 大井3丁目21番8号にある中社。


■やまなか公園

 大井3丁目22番3号にある区立公園。


■『時代屋の女房』の時代屋のモデル

 太井4丁目1番1号、身代わり地蔵の道路を挟んで東側の角地、歩道橋の螺旋階段のところの猫の
額ほどの空地(駐車場)が村松友視の小説『時代屋の女房』の時代屋のモデルの〝時代屋〟があった
ところだ。本の書き出しもJR京浜東北線の大井町駅から始まる。

   国電大井町駅を降り、阪急百貨店を右に見て歩いてゆくと、道幅が急に広くなり風がかわ
   る。その広い道は坂になっていて大きく右へまがっているが、のぼりきったところが大井
   三つ又と呼ばれる三叉路、信号の標示には大井四丁目と記されている。ここを左へゆけば
   大森から池上本門寺へとつづく地上通り、右へゆけば京浜第二国道へぬける商店街だ。

   三つ又に架かった長い歩道橋の一方の階段が螺旋状になっていて、降りきったところに不
   思議な店がある。猫の額ほどの土地に作った小さな建物は、「時代屋」という看板がなけ
   れば物置小屋といった趣きだ。粗末なサッシのガラス戸を通して中をのぞいても、どたど
   たとした道具の形があいまいに見えるだけ、店の中の照明にも無頓着といったふうで、道
   ゆく人に商売気をつたえようとするけはいがない


 
と書かれている。


■作守児童遊園

 大井4丁目12番14号にある区立公園。

 
作守稲荷神社 ◇
 境内は作守児童遊園になっている。わざわざ銘を打たなくても、昔から神社の境内は子供の遊び場
だよ。


■稲荷神社 ◇

 大井4丁目14番16号


松栄山西光寺
 大井4丁目22番16号、池上道からちょっと東に入ったところにある浄土真宗本願寺派の寺。弘
安九年(1286)栄順律師が開創したもので、当時は天台宗だった。本堂の左に建ててある「石造
地蔵菩薩供養塔」は、寺のちょっと東にある倉田町会館のところにあった「倉田地蔵堂」の本尊だっ
た。明暦元年(1655)のもので、おたつ・おこちよ・およめなど16名のご婦人が建立したもの
で、また寛文九年(1669)紀年の阿弥陀如来を刻んだ念仏供養塔もおいな・おむつ・おはななど
12名の女性によって建立されたもの。もう1基は、寛文十三年(1673)大井村講中によって造
立された阿弥陀如来立像を彫った「笠塔姿型庚申塔」がある。どれも江戸時代初期に属する良好な石
造物だそうだが、おいらにゃ判んねえ。

   品川区指定有形民俗文化財
   
西光寺石造供養塔           所在 大井4丁目22番16号
                        指定 昭和53年11月22日(第5号)
   無縁塔最前列の供養塔3基で、向かって左の延命地蔵菩薩を彫った舟形の塔は、大型で身
   長よりはるかに長い錫杖を右手に、宝珠を左手に持っている。おりつ等16名の女性が、
   明暦元年(1655)に造立したものである。
   中央の塔は、阿弥陀如来像を刻んだ笠塔婆型の庚申供養塔で、寛文十三年(1673)に
   大井村の人々によって造立されたもの。
   右の阿弥陀如来像を彫った舟形の塔は、寛文九年(1669)に、おいな等女性12名の
   念仏講の人々が造立したたものである。
   この3基の供養塔とも もとは鎌倉道に面した倉田地蔵堂に安置されていた。いずれも江
   戸初期に造立されたもので、石造美術の面でも優れ、保存状態もよく、特に明暦元年の供
   養塔は、原型に近い状態で残っており帰朝である。
   平成21年1月10日                      品川区教育委員会
 


■大井倉田児童遊園

 大井4丁目22番30号にある区立公園。


■三社宮 ◇

 大井4丁目25番25号の路地の奥まったところにある。
 


■隣家主婦刺殺事件

 大井4丁目27番3号の池末宅玄関先で、平成19年5月23日午前11頃、この家に住む主婦池
末かおる(53)が背中を包丁で刺されて倒れており、約2時間半後、運ばれた病院で死亡した。事
件直後主婦は夫(63)に「隣の家の男に刺された」と話したことなどから、大井署で殺人事件とし
て、隣家に住む無職の男(53)の行方を追っていたところ、近くの東芝病院で、この男が首をつっ
て死んでいるのが見つかった。同署では男が自殺を図ったとみて事件との関連を捜査した。調べによ
ると、自宅にいた息子が悲鳴を聞きつけて表に出ると、玄関前の路上で、母親が背中に包丁が刺さっ
たまま倒れていたという。病院に搬送される際、池末さんが「隣の家の男に刺された」と話した外、
夫も同署に「以前から隣の住民とトラブルを抱えていた」と説明。このため同署では、目撃者の証言
から自転車で逃走した男を捜していたところ、同日午後6時過ぎ、約400m離れた同区東大井の東
芝病院1号棟2階の非常階段踊り場で、この男がズボンのベルトを手すりに巻き付け、首を吊って死
んでいるのを発見した。同署によると、この男は統合失調症で、都内の病院に通院中だとか。担当医
師の話では、今月に入り被害妄想が激しくなったため、入院を検討していたという。同署では、男と
池末家とのトラブルの詳細について、家族らから事情を聴取した。
 


■高札場

 大井4丁目28・29番、6丁目1・2番の接する十字路。西光寺を出て南に光福寺へ向かうと滝
王子通りの辻に出る。ここは江戸時代には大井村の行政的中心地でお触れや規則を書いた高札の建て
られたところなのだ。
 


■倉田公園

 大井4丁目29番23号にある区立公園。


■伊藤中学校
閉校 → 伊藤学園

 大井5丁目1番にあった区立校。平成19年3月閉校。少子化対策として原小学校と統合して小中
一貫教育校の「伊藤学園」となった。伊藤は伊藤博文が住んでいたことによる伊藤町に因む。
 


■伊藤学園

 大井5丁目1番37号にある区内2番目の公立の小中一貫教育校。平成19年に原小学校を吸収す
る形で開校した。

 

 伊藤中学校の旧正門は、昭和25年に伊藤博文公宅から譲り受けた門柱と門扉であり、他の公立学
校ではあまり見ることのできない由緒ある歴史的なモニュメントだ。当初、正門として使用されてい
たこの門は、その後、卒業式直後に卒業生を送り出す時だけに開かれる威厳のある門として敬愛され
まさに学校や地域のシンボルとして永年に亘り光り輝く存在だった。ところが、昭和51年のプール
移設に伴って、位置的に校門としての機能が失われしまい、以後「開かずの門」となってその存在感
は薄らいでしまった。しかし地域の人々や2万人を越す卒業生たちのこの門に対する思いは深く、旧
正門の復活を願う声は恒常的に存在していた。そこで小中一貫校「伊藤学園」開校に当たって、下記
の点を踏まえて、旧正門を新しく建設された正門に移設して、地域に新たに誕生した小中一貫校の象
徴として明確に位置づけ、教育の質的な向上・発展のために効果的な活用を図っていくことにした。
 1.歴史的なモニュメントを生かした教育活動を展開する
   近代的な設備の整った新校舎の中に歴史的に価値の高い旧正門を据え、新たな小中一貫校
   「伊藤学園」の象徴を創ることによって、これまでの公立学校には見られない威厳に満ち
   た崇高な情操を醸成し、これに教育目標や校訓等と関わらせた特色ある教育活動を積極的
   に展開して、教育効果の一層の高まりをめざしていく。
 2.新たな小中一貫校を地域の誇りとする
   これまで地域の誇りであった原小学校と伊藤中学校が新たに小中一貫校「伊藤学園」へと
   生まれ変わることについて、地域の方々には大きな期待を抱いて温かく見守っていただい
   ている。しかしながら、一方ではこれまでの伝統と実績に終止符を打つことへ耐え難い寂
   しさと不安を生み出したことも事実である。そこで、永年に亘って「開かずの門」として
   存在した由緒ある旧正門を移設し、小中一貫校「伊藤学園」開設と同時にその扉を改めて
   開けることによって、多くの地域の方々や卒業生の心情をひきつけ、これまでの両校への
   熱い思いを新たな学校へ引き継ぐなど、地域の教育力を最大限に生かしていくことにした。
 3.「伊藤学園」の門に掲げられている校訓
   艱難辛苦に挑む 気魄あふれる少年少女だけか この門をくぐるこができる
   小中一貫校「伊藤学園」のめざす子ども像を実現していくため、忍耐力を培うことなどを
   狙って創られた校訓が門の脇に掲げられている。この門は校訓とのかかわりを重視し、入
   学式と卒業式だけに開門し、本校の特色ある教育活動を象徴している。

 ●自殺学園
 いじめで小六の女子生徒と中一の男子生徒が自殺、この他にも自殺を隠蔽しているという噂が立っ
ている。校長・教師の評判は最悪。いじめを報告しても担任はへらへらして取り合わず、校長は全く
知らされていなかった。大井地区は難しい問題がある。ある人種が集住していて、彼らは民族性から
強暴凶悪だ。敗戦国ニッポンはこの問題を克服できない。大津皇子山中学校も同様だ。
 いじめを0にすることは簡単だ。まずいじめの加害者は少年院送りすることを法制化する。そして
そのことを入学式で保護者と生徒にとことん説明しておく。次にいじめが原因で生徒が自殺したり、
負傷した場合は、担任と校長は実刑とすることを法制化、さらに市区町村の教育長・同委員、都道府
県の教育長・同委員を罰金刑とする。こうすると、都道府県の教育長は、市区町村の教育長に「いじ
めを」なくせ」と徹底する。市区町村の教育長は校長を必死で管理する。校長は担任を徹底に指導す
る。担任はいじめに眼を光らせる。こうしていじめはなくなるという寸法だ。隠蔽が酷くなるってか
? 隠蔽が発覚した場合は刑を倍にすると決めとくんだよ。
 いじめは民族問題だから、国が腹を据えることだ。教育関係者がいじめに責任のないシステムこそ
がいじめを生む土壌なのだ。日教組を日本人の手に取り戻すことが問題解決の早道だ。教育長のなり
手がなくなるって? そんな奴は名前を公表して追放すればいいのだ。もっと厳しくやれ。
 


■大井警察署

 大井5丁目10番2号にある。明治8年12月に品川警察署が誕生した当時、大井地区はその管轄
下にあったが、年々増加する犯罪に対処するため、昭和3年年9月1日大井警察署が東京府荏原郡大
井町565番地2(現大井町駅東口)に開設された。同10年3月28日東京府大井滝王子町458
0番地(現在地)の庁舎完成に伴い移転。同60年現庁舎に改築、業務開始。管内は、品川区の東南
部に位置しており、東は大井埠頭埋立地の東京水上署、南は大森署、西は池上署、荏原署、北は品川
署に隣接している。
 


■大井バプテスト教会

 大井5丁目10番12号にある日本バブテスト連盟のキリスト教会。昭和6年初代牧師である大谷
賢二牧師が大井町に伝道を開始したことに始まった。当時は「福音宣教会」と呼んでいたが、その後
日本基督教団に合流して「大井滝王子教会」となり、そして戦後、昭和24年日本バプテスト連盟に
加入し、「大井バプテスト教会」となった。昭和40年には大谷恵護師を副牧師に招聘、その後同4
7年に主任牧師として就任した。そして平成4年に菊地るみ子師を音楽主事に、同8年に佐藤伸人師
を牧師に招聘するに至っている。

 バブテスト
 よく知られている「洗礼=浸礼」を意味するギリシア語に由来する。バプテスト教会は、聖書が信
仰と生活の唯一の基準と信じるキリスト教のグループだ。自分の意志でイェスを救世主=キリストと
表明する、信仰の応答を大事に、互いの違いを大切にする聖書の教えを、自立と協力の中で実現した
いと努めている。会衆(集う者)による教会運営を行い、良心と信教の自由、政治と教会や宗教の分
離を主張している。
 


■滝王子稲荷神社

 大井5丁目12番8号にある。昔、この付近に滝氏という一族が住んでいて、稲荷社とあわせて王
子権現(北区)を祀っていたところから、「滝王子稲荷」の名が起こったという。樹齢300年はあ
るといわれるタブの大木が遠くからも見渡せる。『新編武蔵風土記稿』には、

   滝王子権現社 除地五畝五歩 村の中程にあり 相殿に稲荷を配す。土人滝氏の稲荷と称
   するよしなれども その来由を詳にせず。是も滝王子稲荷とよびしを誤り来れるにや


 と見え、『大井町史』では、

   この社は旧記に『滝王子権現社地森之内滝氏王子権現相殿稲荷』とあり、俗に滝王子稲荷
   と称し、滝王子四五ニ六番地にある無格社である。昔この地は滝氏と称したが、王子権現
   を相殿として奉祀せし為滝王子と称えるに至ったものであろう。宇迦御魂命を祀ってある。
   境内には、欅、椎、松等の大木多く、遠くより之を望めば、鬱蒼たる森林の観
   あり


 と見えている。タブの木のすぐ脇は湧水地になっていて、もと農家の野菜洗場として利用されてい
た。現在も貯水池になっている。

 (タブノキ)
 池畔に区の天然記念物に指定された椨の巨木が聳えている。推定樹齢は250~300年という。
タブノキは温暖な地方に分布する常緑広葉樹で、関東では海岸部に多く見られる。

   品川区指定天然記念物
   
滝王子稲荷神社のタブノキ   
                   所在 品川区大井5丁目12番8号 滝王子稲荷神社

                   
指定 昭和53年2月14日(天然記念物第19号)
   本樹は、幹周り3m、樹高15㍍におよび推定樹齢250~300年の常緑広葉樹である。
   タブノキは別名イヌグスまたはタマグスともいい、クス科に属する高木で、熱帯から暖帯
   に自生し、我が国では沖縄・九州・四国に多い。
   東京ではかつては海岸沿いの随所に見られたが、災害や都市化のためその数も少なくなっ
   た。大井地区内にはこの木の大木が残り、貴重な存在となっている。
   平成15年3月31日                      品川区教育委員会
 


■滝王子公園

 大井5丁目19番5号にある区立公園。


■滝王子児童センター

 大井5丁目19番14号にある区の施設。

 
壁画
 横面の壁に動物が型抜きされている。

 
大井図書館
 小規模な区立図書館。区立滝王子児童センターとの併設。大井警察署の傍らにあるので、それが目
印。入口を入ると、すぐに書架が広がる。左へ行くと机席。カウンター・AV資料・雑誌コーナーは
図書館の中央付近にある。カウンターの正面には、検索機とパソコン。カウンターから右が児童コー
ナーだ。児童コーナーとヤングアダルトコーナーが続いているので児童コーナーが広く感じられる。
この図書館は漫画の冊数が多い。子供が熱心に読みふけっている。児童コーナーの奥には靴を脱いで
上がれるスペースがあって、児童優先席とあるので大人も利用できるってこった。遠慮しながらね。

 外国語児童書
 児童優先席の向かって右側の棚には外国語の絵本と児童書が並んでいる。外国語の絵本を置いてあ
る図書館は割とあるが、『赤毛のアン』のような児童向けの小説も置いてくれているのは港区と品川
区の一部の図書館だけ。品川区では大井のほか、大崎と五反田に置いてある。大井図書館は外国語絵
本(英語のみ)が270冊ほど、外国語児童書が100冊ほど。スヌーピーの漫画も含んでね。
 これって結構多い。

 
「若い力」
 南須賀桂の作品。
二人の若い男の激突、技と技の応酬、臨場感あふれる像だ。 


■大井第一小学校

 大井6丁目1番32号にある区立校。明治7年大井村の先覚者平林九兵衛は、近代教育の必要を説
きその努力によって、同8年大井村全域を1学区とする第二中学区十九番公立小学大井学校として鹿
島谷来迎院に簡易普通小学校を開校した。しかし村全域を1学区とした期間は短く同じ8年村内に鮫
洲・浜川の2小学が設立され、それが翌年合併して鮫浜小学校になったものの、そっちに転校する者
もあって生徒は減少した。しかし住民の流入で就学児童が増え、同12年寺が手狭になったため大野
邸に移転。さらに同17年現在地に新校舎を新築して移転した。昭和7年郡区合併により東京市大井
第一尋常小学校と改称。同16年国民学校法により東京市品川区大井第一国民学校と改称。同18年
都制施行により東京都大井第一国民学校と改称。同19年集団疎開。同20年愚かなアメリカ軍の無
差別空爆ため校舎全焼。同10月敗戦による疎開解除で学童帰校。同22年新しい品川区立大井第一
小学校と改称。同25年校歌制定。PTAの校舎復興募金により平屋校舎落成。

 校歌
「陽がのぼる」 作詞・北条誠(卒業生)  作曲・服部正
  1.陽が昇る 陽が昇る
    希望の丘に陽が昇る
    紫匂う武蔵野の 
    南大井の鹿島の町に
    ああ 吾等の大井第一
  2.轟くよ 轟くよ
    東京湾の波の音
    果ては遥々太平洋 
    海の子僕ら 血も湧き踊る
    ああ 僕らの大井第一
  3.輝くよ 輝くよ
    遠くに仰ぐ富士の山
    千古不滅の白雪の
    清き姿は私の心
    ああ 私の大井第一
  4.湧き起こる 湧き起こる
    希望の歌が湧き起こる
    汲めど尽きせぬ師の教え
    知識の泉 漲る力
    ああ 吾等の大井第

 同55年開校100周年記念 鉄筋校舎落成記念式典挙行。同60年USAメイン州ポートランド
のジャック小学校と姉妹校になる。大森貝塚発見のモース博士の生誕地に因んで、品川区とポートラ
ンドが姉妹都市となり、貝塚を学区域に持つ本校が国際交流の一役を担うことになった。平成7年開
校120周年記念式典。「杜の哲学者」(モニュメント像)・記念池建立。同17年開校130周年記
念式典。

 
校歌5番の謎

  5.誇らかに 誇らかに
    語り継ごうよ この歴史
    ○○○年 歳毎に
    人は変われど変わらぬ光
    ああ、讃えよ大井第一


 この歌詞は校歌の5番だ。5番は、北篠誠の作詞ではなく「後で周年行事のために、何者かによっ
て付け加えられたもの」と考えられてきた。しかし「いや、北條が初めから周年のために作っておい
たもので、その証拠もある」との説もあり、その文書を探してきたがなかなか見つからず、はっきり
していなかった。ところが郷土資料室を整理していて「5番の歌詞が初めから存在していた」との説
を裏付ける証拠の文書が見つかった。
その文書の内容は以下の通りだ。

   記念祭のために 「大井第一小學校々歌」


 この後に校歌が三番まで書いてあり、その後に次のように記されている。

  (四)誇らかに 誇らかに
     語りつごうよ この歴史

     ○○○年 歳ごとに     以後歳毎に数字を増すか、若しくは七十余年・
     人は変われど 変わらぬ   八十余年というふうにする。
     ああ、たたえよ 大井第一 


 この後、校歌五番として、現在4番として歌っている歌詞が書いてある。
 この文書が見つかったことにより、5番の歌詞論争?は、新たな段階を迎えた。果たしてこの文書
は本当に北條誠によるものなのかどうかということだ。
 本物だと考えられる根拠はいくつかある。
 1.この文書の歌詞の75周年の表記が、校歌のできた年と一致する。
 2.この資料は、「北條誠」と記された原稿用紙に万年筆で書かれている。
 ことだ。敢えて偽物の原稿用紙を作ってまで書く意味はないと思える。それ故に学校では「これは
本物と思いたい」と考えているそうだ。わざわざ周年のことを考えて、歌詞を作っておいたとしたら、
何と素晴らしいことであることか!
 


■大井鹿島公園

 大井6丁目8番2号にある区立公園。


「大井」の名の由来の寺 大井山光福寺
 大井6丁目9番17号にある浄土真宗の寺。延暦元年(782)に顕教房栄順律師の開創と伝える。
判んないのは栄順律師だよ。西光寺の開山も栄順律師で、年代差500年。偶然かいな・・ま、いい
や。栄順が創建した天台宗大井山薬王院神宮寺の後身で、文永二年(1265)了海上人が中興して
浄土真宗とした。『江戸名所図会』に、

   この地は麻布山善福寺の中興了海上人の旧跡なり。当寺に桜の老樹ありて春時奇観たり。
   了海上人産湯の井、寺の後園にあり

 と見え、『新編武蔵風土記稿』にも、

   大井跡、客殿の北の方山腹に在り。横に深き穴なり。或書に云。この井は大なる穴にて臨
   むもの目くるめくとあり。今はうずもれて穴の径六七尺もあるべし


 と記述している。寺があったということは近くに人が住んでいたということであり、人が住むから
は水場があったということでもある。人跡未踏の地に寺を建てたならいざ知らず、産湯のためにわざ
わざ井戸を掘る必要はあるまいよ。往時庵であろうが寺であろうが必ず水のあるとこに建てている。
大いなる湧き水があったからこそ、神宮寺はこの地に建てられたと考えるべきだ。さていわゆる「大
井」は光福寺本堂裏の墓地の中の洞穴にある。墓は明治以後のものだから墓地に井戸が噴出した訳で
はない。井といっても竪穴ではなく横穴だ。今は御影石で整備してあるから湧水の趣はないが、大井
はある。「新編武蔵風土記稿」に、

   光福寺
   除地三段一畝十五歩、村の中程にあり。浄土真宗にて東本願寺の末なり。大井山と号す。
   当寺も古は天台宗にて此村開けし頃よりの梵刹なり。後故ありて浄土真宗となれり。其後
   文永二年了海上人再興ありしにより、今も此人を中興の開山となせり。寺伝に云了海の父
   は鳥羽院の皇胤信光の嫡男にて、頭中将光政といへり。和泉の刺史に任ず。母は滋野井宰
   相の女なり。光政故ありて東国へ配流せられて民間に下れり。されど常に一子の無を歎き
   ける故、或時斎して蔵王権現へ誓願せしが、或る夜の夢に天より星下りて母の胎に入れり。
   夢覚し後了海を孕みたれば、これ蔵王の奇特なれりとて宮社を造りて是を鎮座す。今品川
   原にある権現(蔵王権現神社?)の祠是なり。又其頃当時の住持覚円律師の夢に、聖徳太
   子枕上に現して曰、光政の子は即ち蔵王の化身なり。汝宣く新に井を穿ち産湯の水にすす
   むべしと、由て境内松樹の下に井を掘るに、人力を借ずして清泉湧出して井となる。時に
   建仁元年六月十五日男子誕生あり。彼水を汲で産湯となし童名を松丸と名付く。此井霊井
   なるによりて大井山と号し、村をも大井村と名付く。松丸八歳の時覚円に従て剃髪し了海
   と号す。又叡山に登りて浄栄僧都を師とせしが、其後故ありて親鸞の弟子となり、再び故
   郷へ帰りて寺を中興せしが、此頃父光政も剃染して空範と改めしにより、此れを当寺に止
   め置、己は更に麻布の善福寺を草創して其地へ移り、徳治元年十一月六日示寂せり。
   客殿七間四方。本尊阿弥陀如来を安ず。
   寺宝。
   六字名号一幅。
   鞍一具。
   鎧一双。右の武器は光政所持のよし傳ふれどもおぼつかなし。
   太子堂。客殿の北の方山腹にあり。横に深き穴なり。或書に云この井は大なる穴にて、臨
   むもの目くるめくるとあり、今はうづもれて穴の径六七尺もあるべし。土人の傳にこの穴
   より湧出る水は大早といへどもつくることなしといへり。


 とある。

   品川区指定史跡
   
大井の井               所在 品川区大井6丁目9番17号 光福寺
                       指定 昭和53年2月14日(第12号)
   縁起によれば、名僧了海上人誕生の際の産湯のの井戸で、大井の地名はこれより起こった
   という。今なお水をたたえた横穴式の井戸は、古い型を示したものである。
   大井の地名は延喜七年(907)の延喜式の中で駅家としてあらわれており、この地は当
   時から武蔵国の郷として伝えられていたことがわかる。
   昭和56年3月20日建設                 東京都品川区教育委員会


 
イチョウ(大銀杏)
 境内にある古木。港区の善福寺の「逆さ銀杏」と兄弟木とされる銀杏の巨樹。関取の丁髷じゃない
よ。訪ねてみるとその夥しい乳根の数と大きさに圧倒され、なるほど逆さ銀杏に酷似してると思うわ
いな。なんとも荒々しく、目が引きつけられる迫力がある。逆さ銀杏との違いはその高さだ。40m
とも30mとも資料は語るが、環境庁の調査では30mはあるということだ。周辺は低層住宅地だか
ら際立って目立つ。明治時代までは海が近く、この樹が航路目標とされていた。光福寺そのものが海
岸線より若干高いところにあるので、並大抵の高さではないということだ
 

   品川区指定天然記念物
   
光福寺のイチョウ          所在 品川区大井6丁目9番17号 光福寺
                       指定 昭和53年2月14日(第一号})
   区内の最大樹で、幹周り6.4m、高さ30m、推定樹齢は約800年、麻布善福寺の「さ
   かさイチョウ」と兄弟といわれ、整った樹姿は壮観である。幹と大枝からは古木であるこ
   とを示す乳根を垂らしている。明治時代まで沖合の漁師達は、陸上の目標としたという、
   昭和56年3月20日建設                 東京都品川区教育委員会
 


■区立品川歴史館
 大井6丁目11番1号にある区の文化と歴史を紹介する歴史博物館であり、郷土資料館でもある。
原始・古代から近現代までを「大森貝塚とモース博士」と「東海道と品川宿」の二つのテーマのもと
に展示解説する。品川宿のパノラマ、土蔵相模と細川家戸越屋敷の復元模型は必見だ。また芝生の広
がる美しい庭園では、江戸の風雅を感じさせる「水琴窟」の水音を楽しめる。そのほか、歴史講座や
故書入門講座を開催するなど、地域史をはじめ歴史を幅広く学ぶ学習の場として広く公開している。
昭和60年の開館で、近年リニューアルしたらしい。私が見たのはリニューアルの物ということにな
る。ここの庭や茶室も一見の価値がある。
 ここは昭和初期に建てられた安田財閥の初代安田善次郎の甥善助氏の邸宅だった。その後吉田秀雄
電通社長邸から財団法人吉田記念館となり電通が管理していた。電通が手放し品川区の所有になって
からも茶室の松滴庵と庭は昔のもので、庭の一角には水琴窟が復元されている。これは池中に埋めた
瓶に水滴を落として琴のような音を楽しむ日本庭園独特の優雅な装置である。昭和40年代には珍し
かったが、最近では各所にありありふれた物になった。

   区政40周年区民憲章制定5周年記念
   しながわ百景
   One Hundred Scenic Spots Shinagawa
   
品川歴史館
   Shinagawa Historical Museum
   昭和62年 品川区 64
 

 水琴窟復元
 歴史館の水琴窟は復元当時、大きな話題を呼んだ。同館発行の『品川歴史館紀要』第一号に、復元
の経緯が詳しく記されている。それによると、歴史館建設関係者に水琴窟存在の情報がもたらされたの
は、吉田記念館を利用したことのある人からだった。「庭園内に水の音を楽しむものがあったはず」
というもので、それではと庭を調べたところ、二つの流れの一方の片隅に、落ち葉や土に埋もれてい
たものの周りに玉石で囲まれた小さな穴が発見され、「これは水琴窟に違いない」ということで文献
を調べた。すると、昭和55年10月号の造園誌『庭』に、平山勝蔵東京農大教授のそれに関する論
文があって、その中で吉田記念館の水琴窟が紹介されていた。しかも当時、吉田記念館以外で水琴窟
の存在が確認されていたのは、国の名勝に指定されている鳥取県東伯郡羽合町の尾崎氏庭園だけだっ
た。発見されたとき水源になるつくばいもなく瓶の中も落ち葉や砂が溜まって機能しなくなっていた
が、貴重なものであることが分かった。このため同56年から調査研究と共に復元が図られた。鳥取
県のものの音を録音して、それが復元されたものと極めて似ていることも確認された。歴史館の水琴
窟復元は、こうして全国の同様の装置の発見、復元の先駆けとなった。ただ残念なのは、歴史館が道
路に囲まれているため、微かな音が騒音でかき消されがちなことだ。このためロビーに水琴窟の音の
録音テープを内臓した模型が設置されている。
 


■来迎院石造念仏供養塔群

 大井6丁目15番22号、来迎院の目の前の三角地帯にある。もともとは来迎院の境内にあったそ
うだが、道路が拡張されたために、今は境内の外へ出る形となっている。石造物は3つ堂に納められ
ており、念仏講供養塔とされるのは、一番右側の堂内にある地蔵菩薩像2基と、堂の外にある笠塔婆
で、堂内の2基は共に舟型で地蔵菩薩を半肉彫り(陽刻=エンボス)したもので、明暦二年(165
6)と万治二年(1659)それぞれの銘がある。堂外の物は宝塔型で、阿弥陀三尊の種子と「南無
阿弥陀仏 大井村念仏講中 寛文七丁未年(1667)壬二月三日」と見える。万治以前の供養塔は
数少ないそうだよ。地蔵菩薩像と念仏講というと、何となく結び付かないが、その隣の笠塔婆を見る
と「南無阿弥陀仏」と大きく書かれており、一見して念仏講のものと判る。何れも大井村の念仏講が
建立したものだという。
 念仏講供養塔の他にも、ここには2つの堂がある。一番左側の堂には石仏3体と石塔1基が納めら
れ、また中央の堂には庚申塔2基と、不動明王像1体が納められている。庚申塔は何れも、延宝(1
673-1681)の年号を持つ。念仏講供養塔より少し時代が下るものだが、当時の信仰を伝える
ものとしてまた貴重なものだ。
 ①.唐破風笠付角柱型。日月・青面金剛像・邪鬼・三猿。
「延寳八庚申年」「十一月五日」。➁.
駒型。日月・青面金剛像・三猿。「延寳辛酉歳」「信心 施主」「三月六日」「高野 敬白」。➂.
燈籠。「出石庚申講中」「寛政八年丙□・・・□」。④.手水石。「奉納」・三猿。「昭和十五年」
「□井□前」「増山きん」。


   品川区指定有形民俗文化財
   
来迎院石造念仏講供養塔        所在 大井6丁目15番22号、来迎院前
                        指定 昭和53年11月22日(第4号)
   近世に盛行した念仏講の供養塔である。堂内の舟型の2基は、明暦二年(1656)と万
   治二年(1659)の造立であり、堂外にあるものは寛文七年(1667)の造立である。
   この場所はもともと来迎院の境内の一部であったが、道路によって分離された。万治以前
   の供養塔は数少なく、大井村の念仏講の存在を示した民俗資料として貴重である。
   昭和54年8月31日                   東京都品川区教育委員会

   品川区指定有形民俗文化財
   
来迎院念仏講供養塔 3基       所在 大井6丁目15番22号、来迎院前
                        指定 昭和53年11月22日
                                  (有形民俗第4号)
   江戸時代に盛んに行われた念仏講の供養塔で、右側の堂内に2基、真ん中の堂との間に1
   基が建てられている。
   堂内の地蔵菩薩像を彫った舟型の2基の塔は、明暦二年(1656)と万治二年(165
   9)の造立で、堂外にある六字名号(南無阿弥陀佛)を彫った笠塔婆型の塔は、寛文七年
   (1667)の造立である。いずれも江戸時代の初期に、大井村に念仏講が存在していた
   ことを示す資料として貴重である。
   この場所は、もともと来迎院の境内であったが、道路建設のために現在のようになってい
   る。
   平成9年3月31日                       品川区教育委員会
 
 


お茶屋寺
鹿島山来迎院常林寺 
 大井6丁目18番8号にある天台宗の寺。
神仏混淆の時代には社寺は一心同体の関係にあった。安
和二年(969)南品川常行三昧寺の尊栄住職が、常陸鹿島神宮から勧請し、慈覚大師円仁作の薬師
如来像を本地仏として、「鹿島爾現山常住鶴林寺観音来迎院」という長ったらしい名の寺を、大井関
が原(東大井6丁目)に建立したことに始まる。鎌倉時代になって衰え無住になっていたのを、貞和
三年(1347)了覚法印が再興し現在地に移した。その時に示現山常林寺観音院と改称した。江戸
時代になって3代将軍家光が、正保二年(1645)境内に大井御殿を新造し、鷹狩の時の休息所に
したので、俗に「茶屋御殿」と呼ばれ、寺も「お茶屋寺」と呼ばれたたという。境内は桜樹が多く植
えられていたので桜の名所として賑わい、たびたび将軍の来迎も得て、その尊崇を受けてきたと伝え
ている。家光は薬師如来を厚く敬い、日光・月光両菩薩像、十二神将像を奉納している。
 天保四年(1833)には上野寛永寺の塔頭涼泉院が兼務することになり、鹿島山来迎院常林寺と
改称、明治新政府の神仏分離令により無理やり別れさせられ今日に至っている。
 明治8年から4年間「大井第一小学校」が置かれていたことは余り知られていない。来迎院の本堂
は寛文七年(1667)の建築で東京最古と伝わるが、浅草寺六角堂は、元和四年(1618)と5
0年ばか古い。「新編武蔵風土記稿」に、

   鹿島社別当常林寺
   除地二段十六歩。社地の北に続けり。天台宗にて郡中南品川宿常行寺末、爾現山来迎院と
   号す。寺伝に云当寺の本尊薬師は慈覚大師の彫刻なり。開山法印尊栄大師の命を受て此所
   に鹿島社を創立し、又精舎をも建立し此像を安置せり。後星霜をへて貞和三年了覚法印と
   云沙門当寺を中興して堂舎も壮麗なりしとぞ。天正の末年より此邊にて御放鷹などありし
   時は、屡当寺へ渡らせたまひしが、正保二十二年年別に境内の地へ御茶屋を建らる。大猷
   院殿の時本尊薬師の伝来を尋ねさせられしかば、時の住僧其由来を申上しより後は永く御
   祈祷所となれり。御歳四十二の御厄歳に、当山の御殿は恵方なればとて節分の日渡御まし
   まして御祈を命ぜらる。又一年此御茶屋にて堀田加賀守御茶を點じ奉りし事有しと云。其
   後何の頃にや御茶屋破損に及びしかば、其儘廃せられしなり。今は其跡に鹿島の本地十一
   面観音の堂を建置り。又云貞享の頃連年旱魃ありしが、時の住僧栄往法印村内九頭竜権現
   の社地なる柳の清水と云を加持水となし、当社に於いて祈雨の神事を行ひしに、忽好雨降
   て其年豊なりしとなり。今もこの遺例によりて毎年6月中旬法楽の神事あり。
   客殿七間に六間半南にむかふ。
   寺宝
   不動尊台像一幅。智證大師の筆と云。
   古鰐口一口。其圖上の如し。
   観音堂。此所は即御茶屋のありなりし処なり。本尊十一面観世音を安置す。


 とある。境内には延宝八年(1680)宝塔型と、同九年将棋の駒型の青面金剛立像の庚申供養塔
2基がある(→来迎院前の石造念仏供養塔群と同じ所にある/平塚さんのご指摘)。

 
来迎院文書
 寺が所有する歴史資料。

   品川区指定有形民俗文化財
   
来迎院文書 31点 腑 来迎院棟札
                          所在 大井6丁目18番8号 来迎院
                          指定 平成21年7月14日
                                  (古文書第13号)
   来迎院は、安和二年(969)尊栄法印が建立した寺院で。のち一時荒廃したが、貞和三
   年(1347)に再興され、寺の名を常林寺と改称した。
3代将軍と徳川家光のときに 
   鷹狩りのの際の休息所(大井御殿)が境内に設けられたため「お茶屋寺」とも呼ばれた。
   天保四年(1833)上野寛永寺の塔頭涼泉院の住職が兼住することになり、旧称の来迎
   院とした。
   来迎院文書は近世から近代のもので、その内容は来迎院の縁起など寺史の解明につながる
   史料のほか、大井村の検地帳や同村名主で俳人でもあった杜格齋景山に係わるものも含ま
   れ、大井地域の歴史を明らかにするうえで、重要な史料である。
   また、来迎院棟札は、その建物だけてなく、地域の歴史や文化に関する歴史資料であり、
   腑(つけたち)指定して保存を図るものである。
   平成21年11月10日                     品川区教育委員会

 ※「3代将軍と徳川家光の時に」の「と」は不要ではないのか。誤記だろう。
 


■大井鹿島神社
 大井6丁目18番36号にある。
神社の旧本殿は文久二年(1862)の建造で
1m30cm四
方のこじんまりとした造りだが、唐破風が付き、四面に唐獅子が、柱にも精巧な彫刻が施されたなか
なかの逸物だ。この旧社殿は、現社殿造営の際に南に移され、覆屋の内に納められて「奥殿」となっ
ている。新社殿は昭和6年佐々木岩次郎、伊藤平右衛門により神明造りで新造され、都内に稀な名建
築と謳われている。縁起は、奥殿の傍らにある江戸時代後期の俳人で大井村の名主だった大野杜格齋
景山の句碑、

   爐の友にめくり逢ひたるさくらかな

 の陰碑に詳しく、安和二年(969)南品川常行三昧寺の尊栄住職が、常陸鹿島神宮から勧請した
と伝える。境内は樹齢150年以上樹木生い茂り、中でも椨(タブ)の木、赤樫、椎の大木が見られ
る。この他にも江戸時代の石造物が少なくない。鳥居・狛犬・随神像などで、どれも味わいがある。
特に天明七年(1787)に大井村伊勢太々講の人たちが奉納した一対の随神像は、珍しい石像だ。
また「惠澤潤洽碑」というのは、明治の初めまでこの付近の農業用水路として利用された品川用水路
を記念したものだ。「新編武蔵風土記稿」に、

   鹿島社
   除地一段四畝、村の南方にあり、当村の鎮守なり。相傳ふ安和二年の頃常陸国鹿島明神を
   勧請せりと。
   本社九尺四方 拝殿七間に六間半。前に石の鳥居あり、柱間九尺許、拝殿の西北に二間に
   二間半の神楽堂あり。豊歳を祈んがため毎年六月仲村民こぞりて神楽を奏す。九月十五日
   にも神事ありといふ。
   末社。
   稲荷社、弁天社。共に本社の側にあり。

 とある。鹿島の祭礼と共に伝承された「大井囃子」は超有名だ。

 
タブノキ(椨の木)

   品川区認定文化財
   
鹿島神社のタブノキ
   目通り幹周り2.84m、高さ20m。タブノクは別名「イヌグス」ともいい、くす科に属
   する常緑の大喬木で、内陸より海岸に多いもので、熱帯及び温帯の終わりに生じ、四国、
   九州、琉球に多く、坊風樹として家屋の周囲や針葉樹林の林の縁に植えられる。東京湾に
   臨む品川区、殊に大井地区内には、まだこの木の大木が残り、貴重な存在となっている。
   昭和44年2月14日                      品川区教育委員会

 恵澤潤洽碑
 昭和7年、用水の廃止にあたって水利組合が建てた石碑。碑は、高さ5m以上ある巨大なものだ。
この碑は、品川用水が人々に多大な恩恵を与えたことを記念して、後世に伝えるために地元の人が建
てた。品川用水は、多摩川用水を水源とし、開墾や稲苗の生育に貢献したことなどが書かれている。
 地元にとって誇れるもの。「恵澤潤洽」という書と印が彫られている。「水に恵まれた」という意
味だ。

   正二位勲一等伯爵清浦奎吾閣下篆額
   品川用水ノ水源ハ古来江戸八百八街ノ誇リトスル水道ト同シク多摩川ノ上流ニ属シ品川住
   民生命ノ源一ニ此ニ存ス灌漑用水路ノ管理其宜キヲ得バ農民ノ生活安定スベク其宜キヲ得
   サレバ農民一日モ其堵ニ安ンズルコト能ハズ是レ實ニ大井町内堀普通水利組合ガ其ノ所在
   用地七十八町餘ニ灌漑スル所ノ用水路ヲ管理スベク組織セラレタル所以ニシテ其ノ目的農
   民ノ生活安定ヲ圖ルニ他ナラズ品川用水ハ武蔵國多摩郡境村地内ノ玉川上水ヨリ分水シ數
   ヶ村ヲ過ギ船橋村ヨリ荏原郡世田谷村ニ入リ弦巻世田谷新町上下馬引澤碑文谷ノ各村ヲ経
   戸越村地蔵ノ辻ニ至リテ二派ニ分レ一ハ桐ヶ谷大崎ヲ経品川ニ至リ一ハ戸越村境ニテ南品
   川用水ヲ分チ上蛇窪村ヲ経立會川ヲ渡リテ大井村ニ入リ數分シテ田ニ沃グ延長七里餘南品
   川宿二日五日市大井上蛇窪戸越桐ヶ谷居木橋ノ諸村百三十九町九反餘ノ用水タリ之ヲ大堀
   又ハ外堀ト云ヒ大堀ヨリ小分シテ各村内ノ田地ニ引用スルモノヲ内堀ト云フ由来品川領ハ
   天水場ニシテ各村里魃ニ苦シミ領内村々名主年寄ヨリ其筋ニ歎願スルコト四十餘年ノ久シ
   キニ反ベリ然ルニ今ヲ距ルコト二百六十五年前寛文七年ニ至リ初メテ用水引入方允許セラ
   レ同九年六月官費ヲ以テ開■スルコトト為レリ更ニ元禄四年ノ交ニ至リ従来ノ堀敷ニテハ
   用水ノ疎通不完■ヲ免レザルニ由リ幕府ノ當局者亦此ニ鑑ミル所アリ旱損場救■ノ為メ巨
   資ヲ投シ再ビ工ヲ起シ幅員ヲ■メタルモ流域七里餘ニ亘リ居ルガ為メ土中ニ浸潤スルコト
   夥シク下流ノ品川領殊ニ大井村ノ如キハ絶エズ用水ノ缺乏ヲ感ジ年年旱損ニ遭箸シ年貢上
   納モ困難ヲ極メ農民ノ死活ニ關スル問題ト為リ幾多ノ葛藤ヲ惹キ起シタリ元禄二年名主年
   寄歎願ノ結果勘定奉行ヨリ出役シテ用水路ヲ検査スルコトト為リ同四年勘定普請方立會ニ
   テ堀割ならび竝築堤ニ著手シ竣功ノ後用水ノ疎通ニ由リテ旱魃ノ虞ナク荒蕪ノ地一變シテ
   沃野ト為リ農民始メテ蘇甦ノ思アリシト云フ其後明治十年品川地方旱魃ニ際シ字篠谷耕地
   三町餘ノ田地ハ天水場ニシテ用水灌漑ノ便ナク満目ノ苗稲将ニ人盡ク枯死セントス平林九
   兵衛君深ク之ヲ憂ヒ自ラ私財ヲ擲テ人夫ヲ督シ晝夜奔走席暖マルニ遑アラズ終ニ内堀用水
   路日リ隧道ヲ穿チ三日ヲ出デズシテ通水スルコトヲ得農民為メニ旱害ヲ免ルルコトヲ得タ
   リ其功亦偉ナリト謂フベシ大井町内堀普通水利組合ハ組織以来農村ノ情勢ニ應ジテ管理ノ
   方■ヲ講ジ専ラ灌漑用水路ノ保護ニ任ジ以テ今日アルヲ致シタリ而シテ時代ノ進歩ハ東京
   市域擴大ノ機運ヲ促ガシ今ヤ市郡併合ノ實現セラルルニ至リタルモノ寔ニ偶然ニアラズ組
   合員同志爰ニ胥謀リ之ヲ記念トシテ碑ヲ建テ以テ不朽ニ傳ヘントス乃チ品川領用水路變遷
   ノ梗■ヲ叙シ之ヲ後人ニ諗グ            品川用水大井町内堀普通水利組合
                                   記念碑建設委員撰
                                鹿島神社神職大野義雄書

 鎮座一千年祭記念碑
 境内にある。

   
鎮座
   
壹千年祭記念碑

   鹿嶋神社は平安朝の頃、人皇第62代冷泉天皇の御代、安和二年(西暦969年)に、南
   品川常行寺の僧尊栄法印が、常陸の国鹿嶋神宮の御分霊を勧請し奉り、同年九月十九日遷
   宮し奉ったのが創りで、爾来この地を鹿嶋谷と呼ぶようになった。僧尊栄法印は御分霊の
   鎮座と同時に、境内の隣地に一寺を建立し、鹿嶋爾現山来迎院と号して、鹿嶋神社の別当
   寺となり、その祭祀を司った。
   祭神の武甕槌大神は、天祖天照大御神の御依頼を受けられて、経津主大神と共に、出雲の
   国に下り賜い、大国主命と御談合の結果、円満の裡に話を纏められ国土を、天孫瓊瓊岐尊
   に捧げしめられて、日本建国の基を、お築きになった神様である。明治に至って維新の大
   変革により、神佛分離令が発せられ、来迎院は寺の部に入り、鹿嶋神社には、新宮の大野
   氏が配せられて、大井村の総鎮守となり、多くの氏子の尊信を集め、今日に至っておる。
   本年(西暦1969年)は、鎮座壹千年の記念すべき年に当たり、連綿として伝承せられ
   悠久鎮座壹千年の歴史を保った鹿嶋神社の、千載一遇の光輝ある姿に直面した。氏子は、
   此処に盛大なる式典を行い、記念の樹を植え、此の由緒と此の荘厳さを、永く後世に伝え
   んとする。                昭和44年10月19日 宮司 大野弘道

 大野影山句碑
 境内にある。江戸末期の俳人。「影山」とあるが「景山」のことか?

   炉のともにめぐり逢ひたるさくらかな
              三世杜格斎影山


■大井囃子

 享保年間(1716~36)に、江戸川区葛西の香取明神の神主能勢環(のせたまき)が「葛西囃
子」を始め、この神楽囃子が神田明神の祭礼で演奏されて江戸市中や近郊の農漁村に流行し、葛西付
近で「松江囃子」が生まれ、ついで「深川囃子・本所囃子」などになり、やがて「神田囃子」が生ま
れた。この流行は江戸の西郊に広がり「渋谷囃子・目黒囃子・馬込囃子」などが編み出されていった。
大井囃子は、文政三年(1820)土地の豪農倉本彦五郎の発起によって始められ、目黒囃子系の師
匠倉本三五郎を迎えて誕生、三五郎が村の有志に教え、囃子連中が作られた。天保八年(1837)
になると7人の師匠が出て、大井村のあちこちで太鼓や笛の音が聞こえるようになった。同じ大井村
でも東海道に沿った浜川町(立会川河口辺)では文政七年(1824)に始められ、御林町(鮫洲)
では、明治3年に始まったと記録にはある。
 戦後途絶えていた大井囃子は、昭和36年に高林平八郎を中心に大井囃子保存会が結成され、伝統
の保存・普及が進められ、同60年に品川区無形民俗文化財に指定された。現在の大井囃子の編成は、
オオドと呼ぶ大太鼓が1人、シラベと呼ぶ小太鼓がカミとシモの2人、ヨスケと呼ぶ鉦が1人、トン
ビと呼ぶ笛1人の5人編成。曲目は、まず笛の吹き込みがあって、これに続いて「打込・破矢・乱拍
子・宮昇殿・鎌倉・国堅(くにがため)・鎌倉四(し)丁目・玉入の上(かみ)と下(しも)・納め」の10
曲。
 


■児島惟謙屋敷跡

 大井6丁目21番5号の浅野医院の右手植栽に説明板がある。

   土地の由来
   この辺りは、旧幕時代、天領で、「大井村鹿島谷」と呼ばれ、幕府代官の支配地だった。
   この一廓の両側に、今は暗渠となっているか、小川が流れ、これが大井と山王の境界をな
   していた。これは現在も変わらない。
   この流れの水源は、大井・原(今、西大井4丁目)の水源池の湧水、途中鹿島・庚塚遊園
   地の中程で品川用水と合流、この団地の下を流れて海に注いでいるもので、昔は当地を流
   れるときは渓谷をなし、岸には樹木が茂り、清冽な流れが滔々と音を立てる様は正に「鹿
   島谷」の名の所以を思わせるものであった。
   小川の南側は山王地区で、江戸時代は旗本木原氏の所領地。
   前のバス通りは、律令時代の東海道で、江戸期には平間街道ともいった。
   明治9年に「大森駅」が設けられると、翌10年には貝塚が発見発掘され、農地が宅地に
   造成され始め、華族や高級軍人、政商等の別荘が建ちはじめた。
   この一廓(旧大井村鹿島谷2950‐51番地)に、児島惟謙の広大な屋敷を建てたのは
   明治36年ころのことである。
   児島(1837~1908)は大津事件のとき大審院院長として名をあげる。
   大津事件とは、明治24年、当時の「ロシヤ」皇太子ニコライ二世が日本を訪問された際
   5月11日滋賀県大津で護衛の巡査津田三蔵に切りつけられた。時の松方首相や西郷従道
   内相らは、皇室に対する犯罪と同質であり、極刑に処することを主張したが、児島は司法
   権の独立と裁判の神聖のため、あくまでも法律の明文によるべきであると主張し、その結
   果津田は謀殺未遂罪として無期刑に処せられた。以上が「大津事件」の概要である。児島
   はその後、大審院長を退任、貴族院議員などを歴任、退官後、大井村鹿島谷に居を定め、
   地元との交流につとめ、大森倶楽部の創立にさいしては、発起人39人の首班として努め
   これが実現するや初代委員長として、在住名士・財界人等と親交を深めた。
   明治41年71歳で亡くなるまでここに居を構えていた。
   因みに電話番号は、「大森局 壱番」であった。      歴史研究家 ■■■■■書


■大森貝塚遺跡庭園

 大井6丁目21番6号にある区立公園。ここは明治10年日本初の官立大学「東京大学」で教鞭を
執るため、アメリカから来日した動物学者エドワード・シルヴェスター・モースが、横浜から東京に
向かう途中東海道線の車窓の景色を眺めていて偶然に発見、わが国先史考古学研究の端緒を開いた記
念すべき遺跡であり、国の史跡になっている。この貝塚は縄文後期・晩期に属するもので、遺跡周辺
一帯から東京湾産貝類の殻・人骨・骨器・土器・獣骨など多数が発掘され、出土品は主に東京大学人
類学教室に保管されている。公園はバルセロナのグエル公園を意識した造りで、金を掛けて整備され
ている。つまり、子供向け怪獣動画やウルトラマンのオープンセットのような、変った雰囲気の公園
なのだ。大井にあって大森貝塚とはこりゃ不思議だが、そのためか少し南の大田区山王1丁目3番J
R大森駅近くのNTTのショールーム脇を階段で降りたところに「大森貝墟」の記念碑が建てられ、
ビルの壁面に由来が貼り付けてある。これは「モースが見た貝塚は何処か?」の争いで、どっちでも
いいと思うがまあ二つある訳さ。品川区は本家争いのため、昭和58年と平成5年の2回掘り返して
学術調査を行い、重層なる貝殻層を確認、本家だと胸を撫で下ろした。だからといってモースが見た
ものかどうかは不明だ。両者の距離は2、300m、一つのものと考えても不思議はない。鉄道敷設
した時に削り取ってしまったのだろう。工事関係者は貝殻なんぞ何とも思わなかったろうからね。モ
ースが発掘調査した直後に碑を建てたようだが失われてしまったので悶着となっっている。現在の碑
は品川区のが昭和4年、大田区側のが同5年、発掘調査に加わったモースの門下生石川千代松が゜両
方の碑に名を連ねているので余計にややこしくなった。そんなことはともかくこの公園は面白いよ。

   区政40周年区民憲章制定5周年記念
   しながわ百景
   One Hundred Scenic Spots Shinagawa
   
大森貝塚
   Omori-kaizuka Shell Mounds
   昭和62年 品川区


   大森貝塚遺跡庭園
   (国指定史跡 大森貝塚)
   大森貝塚は明治10年、アメリカ人の動物学者エドワード・S・モース博士によって発見
   され、日本の考古学発祥の地として広く知られています。
   品川区昭和59年に遺跡の調査を実施し、いまなお縄文時代後期から晩期の貝層が残って
   いることを確認しました。
   ここに品川区は大森貝塚遺跡庭園として永く後世に残します。貝塚から出土した土器、獣
   骨、貝などは品川歴史観に展示されています。
   昭和60年5月                         品川区教育委員会


 
モース博士像
 E・S・モース博士の半身像。盛岡公夫(立体写真像株式会社会長)の作品。


 
考古学発祥の地の碑
 庭園には〝モース博士像〟と〝品川区・ポートランド市姉妹都市提携記念のレリーフ〟がある。モ
ース博士(エドワード・S・モース)は、明治初期にいわゆる〝お雇い外国人〟として来日し、東京
大学で生物学を教えた。大森貝塚の発見で知られるが、日本初の臨海研究施設である〝江ノ島臨海実
験所〟を開設した人物でもあり、これによって江の島は「日本近代動物学発祥の地」と呼ばれる。ま
た日本の風俗・陶磁器などにも興味を持ち、収集した多くの品は現在もボストン美術館に「モース・
コレクション」として保存されている。

   品川区・ポートランド市
   姉妹都市提携記念

   日本考古学発祥の地
   国指定史跡大森貝塚大森貝塚

   国指定史跡大森貝塚大森貝塚は 明治10年(1877) アメリカ人エドワード・S・モ
   ース博士によって発見され、日本で初めて学術調査が行われた縄文時代後期から晩期の貝
   塚遺跡で日本考古学発祥の地である
   品川区はモース博士生誕の地であるアメリカ合衆国メイン州ポートランド市との姉妹都市
   提携を記念してこの碑を建立する
   昭和60年5月                     品川区・品川区教育委員会
 


■三峯神社 ◇

 大井7丁目3番4号にある小祠。


■聖母訪問会大井修道院

 大井7丁目4番18号、品川歴史館前の交番の路地を西に入ったところにある尼僧の園だ。詳細は
公表していないので不明。尼僧の花園だもの、ヒミツ、ヒミツ!
 


■永守稲荷

 大井7丁目22番8号にある小祠。


■稲荷社 ◇

 大井7丁目27番8号藍屋の上り口にある立派な小祠。


■鹿島庚塚児童遊園

 大井7丁目29番11号にある区立公園。
 



【大崎】(おおさき)1~5丁目                   昭和42年2月1日
 居留木村(いるきむら)。居木橋村。明治22年「市制町村制」により大崎村大字居木橋。同41
年大崎町大字居木橋。昭和7年品川区東大崎1~3・5丁目。同42年東大崎1~3・5丁目の全
部に西品川1丁目・北品川3丁目・東大崎4丁目・西大崎1丁目の各一部をあわせた町域を現行の
「大崎」とした。居木橋は目黒川に架り山手通りを通している。
 この大崎の名は大崎駅があることによる。江戸時代の大崎村は目黒駅のある上大崎の方なので駅
名によって大いに歴史をひん曲げている。明治政府の横暴は無茶苦茶だったのだ。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『品川区史』『品川の歴史』など。

 大崎の由来
 『南浦地名考』に

   秩父より続きて尾崎なる故に名とす。後に大崎と書き改めしといふ

 とあるのを踏まえると高輪の岬(御殿山)ということになるが、高輪が港区のせいか品川区では
そぐわないとあっさり否定する。尾崎は〝出っ張ったところ〟の意で、杉並区にもその意味での尾
崎があり現在も地形的にそのような形をしている。品川区では「大崎地区には大崎に当たるような
台地の出っ張りはない」としているが、品川の海が湾入していた時代には目黒川の北の台地つまり
高輪台の入り組んだ尾崎に七つの岬があり、現在も千代ヶ崎・森ケ崎・平岡・霞ヶ崎・袖ヶ崎など
の地名が残っている。池田山の舌状台地(平岡)が一番大きいので大崎と呼んだものであろう(大
崎町総覧)。この平岡に岡山藩池田家下屋敷があったことで「池田山」と呼ばれ、大名家の別荘が
あったということはその地を選択したことからして風光明媚な優良地だということだ。池田家でな
くとも選択しただろう。それがため高級住宅地となった訳で、だからこそ「品川区立ねむの木公園」
がある。また東の島津山は仙台藩伊達家の下屋敷の跡で寿昌寺は正宗夫人が開いた寺だ。伊達屋敷
は明治になって薩摩津家の邸宅となったので島津山の名があり、現在はお嬢様学校の清泉女子大学
となっている。
 大崎村は元禄のころ上大崎村・下大崎村に分かれ、その範囲は現在の上大崎・大崎・東五反田・
西五反田に亘る。だから大崎は「東五反田5丁目」つまり池田山だ!


 
居木橋の由来
 居木橋の「居木」の由来は今のところ不明だ。「ゆるぎの松」によるという説がある。この辺り
の山手通り(都道環状6号線)は、室町時代から品川と多摩方面を結ぶ主要街道だった。居木橋は
品川宿から約1キロほどの距離で、川辺に風が吹くとゆらゆら揺れる1本の松が生えていた。多摩
の方からの旅人は、この松が見えると「品川宿はもうすぐだ」と元気付いたという。旅人たちはこ
の松を「ゆるぎの松」と呼んでいたが、それがいつの間にか「いるぎの松」に転訛し、橋を居木橋、
近くの村を居木村と称するようになった。松は安政年間(1854~59)の暴風雨で倒れ、枯死
してしまったが、その場所は現在の橋より1つ上流に架かる森永橋付近だったと伝えられるものの、
実際何処にあったのかは判らない。ゆるぎの松は枝先を揺すっても木全体が揺れる松をいう。有磯
松・磯馴松で、震松ともいう。居木橋は目黒川に架かる橋で、現在は山手通りを通してる。

大崎駅のある大崎というところ
 この大崎という土地は、江戸時代にはのどかな田園地帯だった。元禄時代は幕府の直轄地(天領)
で、東海道品川宿に人馬を提供したり、享保年間には御鷹場に指定されて、鷹狩りに関わる様々な
夫役をこなし、鷹の生き餌を上納していたという。

 ところが明治時代になり目黒川沿いに、日本で最初の洋式ガラス工業の端緒となった「興業社」
が設立されると、これを皮切りに相次いで工場が新設され、大崎は近代工業のメッカとなる。明治
34年には大崎駅が開業。これに目黒川の水利も加わり、五反田から大崎、さらに臨海地帯へと至
る目黒川沿岸地域は、第一次世界大戦後の好景気に沸いた大正時代に工場創設のラッシュを迎え、
京浜工業地帯を形成する。こうした町の発展に伴い、明治45年に約1万人だった大崎の人口も、
大正13年には約48000人にまで膨れ上がった。
 昭和になり、太平洋戦争の大空襲で東京は大きな被害を受け大半が焦土と化したが、30年代重
化学工業を中心とした高度経済成長期に突入すると、大崎、目黒川沿いには工場が増え続け、最先
端の家庭電化製品が生み出されるようになる。世界のソニーもその一環として成長していった。そ
の一方で40年代には、交通騒音や大気汚染など、生活環境の悪化が取り沙汰されるようになり、
目黒川でも悪臭が問題化する。同48年のオイルショック以降の低成長期、街づくりは、「人にや
さしい」「環境にやさしい」方向へとシフトし、大崎のある品川区でも目黒川の浄化に取り組み始
めた。さらに同51年には、大崎地区の工業の再編成を図る「品川区長期基本構想」が打ち出され、
工場群の直接生産部門を移転し、代わりにかわりに研究、情報、営業などの部門を拡張した都市型
の工業地化を推進した。
 しかし工場移転跡地が個別に開発されれば乱開発につながる危険性もある。ことに住工混在の大
崎駅東口周辺は、オープンスペースの不足や道路の未整備などの問題も抱えており、都市作りの総
合的な視野に立っての再開発が望まれていた。
 昭和53年品川区では「住宅と産業の調和のとれた緑豊かな近代都市」を実現するため、「品川
区長期基本計画」を策定し、都市作りの主要事業として大井町・大崎再開発を掲げ、「住民参加の
都市づくり」を基本方針として進めた。再開発の対象となった大崎駅東口地区の内、駅寄りの第一
ブロックは地権者に法人が多いこともあって合意形成が順調に進み、同56年に準備組合が設立さ
れ、同62年に「大崎ニューシティ」としてオープンした。
 


■居木橋南瓜
(東京初のかぼちゃ)
 南瓜は「南からきた瓜」で、天文年間(1532~55)にカンボジアからやってきた。荏原郡で
栽培する南瓜はほぼこの品種で、その起源は古く、寛永十五年(1638)に初めて作られた。徳川
家光が沢庵禅師を手放したくなくて、沢庵に東海寺を開山するように依頼し、居木橋村の名主松原庄
左衛門が普請御用掛下役を仰せつかった。寺が建立され沢庵が入山した時、偶々寺の井戸端に一本の
蔓草が生えた。庄左衛門がそれを抜いて持ち帰り、畑に植えておいたところ、蔓が伸び繁茂して黄金
色の大きな花を咲かせると結実した。江戸で初めての南瓜の誕生だ。食べてみると甚だ美味だった。
この種子が周辺にもたらされて荏原郡一円で栽培され、居木橋南瓜と呼ばれた。このカボチャの特徴
は早生で、果実は小型扁円形、外皮に15~16条の溝があり、一面に瘤状の小隆起かある。最初は
黒色だが成熟すると褐色となり白い粉で覆われる。果肉は鮮やかな黄色で品質はよく収量も多い。こ
の品種と菊座の交雑から出来たと考えられる「黒皮早生」ができてから、これに取って代わられた。
さらに今日では皮のすべすべした丸型で、肉質がほっこりとしたパンプキンが一般化し、日本南瓜の
品種は淘汰されつつある。悲しいことだが。
 


■大崎光の滝公園

 大崎1丁目1番2号、


■アートヴィレッジ大崎(大崎駅東口第3地区第一種市街地再開発)

 大崎1丁目1~3番、大崎駅東口駅前から五反田駅寄りの地域の再開発計画。副都心の冠があるも
のだから、無理にでもそれに見合うようにしなくっちゃぁと必死だ。22階のオフィス棟、27階の
分譲住宅棟、28階の賃貸住宅棟の3つのビルが完成する予定。
 シンボルタワーとなる地上22階地下1階の「セントラルタワー」の他、地上27階建ての賃貸住
宅棟「ビュータワー」、地上28階建ての分譲住宅棟「ル・サンク大崎シティタワー」の計3棟から
構成されており、「大崎駅」からはJR山手線沿いに設けられたペデストリアンデッキにより、駅から
のスムーズなアプローチが可能となっている。また隣接する目黒川との調和を活かした一体的なラン
ドスケープデザインが施されており、水と緑に溢れた自然豊かな街並みは、ゆとりあるオフィスライ
フを提供してくれるだろう。

 
「グローイング・ガーデナー‐Growing Gardener」
 セントラルタワーの外構にあるインゲス・イデーのオブジェ。白雪姫に出てくるような小人、その
帽子が上に伸びて曲がりくねった柱のようになっている。アルミニューム・スチール作品。平成19
年INGES・IDEE(ドイツ)の作品。

 
「スパイラルリング」
 平成26年木戸修の作品。

 
「SAKURA SAKURA」
 
オープンスペースにある。平成18年大林組コーポレーションの作品。

 
「STREET PEPPERS」
 西側角にある。大林組+ATELIER・G&Gの作品。ピーマン型の大きな鉄骨作品。


■大崎ニューシティ
(大崎駅東口第1地区第一種市街地再開発) 
 大崎1丁目6番4号にある。副都心として大きく変わりつつある大崎のシンボル。昭和62年に出
現した。オフィス、ホテルのほか、O美術館やコミュニティ広場などを配した複合ビルだ。

 
「水の器 噴水のために」
 中央広場にある直角三角形の池。噴水が出る。

 O美術館
 大崎ニューシティー2号館2階にある区立美術館。区が全額出捐して設立した財団法人品川文化振
興事業団が運営する。美術鑑賞や作品発表の場に、多目的な利用のできる現代的なスペースだ。「О」
は、OOSAKIの頭文字と山手線の環状の輪を表現し、現代感覚溢れた新しいタイプの美術館を目
指して名付けられた。03-3495-4040

 
「三重奏‐Trio」
 大崎ニューシティー5号館1階にある山口勝弘のオブジェ。

   三重奏
   1986
   
山口勝弘

 
「ねじられた柱」
 大崎ニューシティOパティオ喫煙スペースにある脇田愛二郎のオブジェ。螺施、ねじれ、過巻をテ
ーマにした作品を製作してきた作家の小品。まっすぐにねじれながら起立する黄色の柱は光が当たる
と凜々しい。

 
「海‐SEA」
 大崎ニューシティOパティオの植栽にある伊東傀のオブジェ。

   
   品川は、古来、陸回路の要衝として、海と共に栄え、景勝の地であった。
   昭和初期の埋立てにより、海はいま此処から遠く離れたが、嘗ては目黒川沿いに飛翔する
   鴎たちが運ぶ磯の香がこの辺りに漂っていたものである。
   今日、品川のこの地の近代的再開発に当って、往時を偲び、郷土への愛着を篭めながら、
   その表徴たるモニウメントとして「海」をテーマとした所以である。
   なお、このモニウメントは、水着の女、波、日輪、鴎、魚たちを以て構成したものであり
   既設の品川区立区民公園のモニウメント「海」との姉妹作である。
   1986年                            作者 伊東 傀


 「TRANSFORMASION」
 大崎ニューシティOパティオニューオータニイン東京前にある脇田愛二郎のオブジェ。ねじれをテ
ーマに抽象彫刻を多く制作してきた作家の作品。幾何学的な面がリング状に造形されている。

 
「平和の誓い」
 西(山手通り)側のオープンスペースにある銅像。非核平和都市品川宣言1周年を記念して建立さ
れた浅賀正治の作のブロンズ像で、広島市の「平和の灯」と長崎市の「誓いの火」を合わせて点火し
た「誓いの灯」とともに大井駅前広場のシンボルとして親しまれている。ここと西大井駅前にあるの
はそのミニチュア判。

   非核平和都市宣言
   今、この地球に、
   人類は自らを滅ぼして余りある
   核兵器を蓄えた。
   いまだかつて、
   開発された兵器で
   使われなかったものはない。
   これは、
   歴史の恐るべき証明である。
   一刻も早く、核兵器をなくさなければならない。
   頭上に核の閃光がひらめく前に。
   遅すぎたとき、それを悔やむだけの未来すら、
   我われには残されていない。
   品川区は、核兵器廃絶と恒久平和確立の悲願を込めて、
   ここに非核平和都市を宣言し、全世界に訴える。
   我われは、いかなる国であれ、いかなる理由であれ、
   核兵器の製造、配備、持込みを認めない。
   持てる国は、即時に核兵器を捨てよと。

   このかけがえのない美しい地球と、
   そこに住む生きとし生けるものを、守り伝えるために。
   
昭和60年3月26日



■「七つの回転」7基

 大崎1丁目6番4号、大崎駅と大崎ニューシティを結ぶ連絡橋内両側に設置された7つの球体オブ
ジェ。回転する7つの球体夫々の違いが面白いい。伊藤隆道の作品。


■伏見稲荷大明神 ✓

 大崎1丁目10番3号にある?、今はもうないのかも。


■ゲートシティ大崎(
大崎駅東口第2地区第一種市街地再開発) 
 大崎1丁目11番(7~9番欠番)にある。現「ゲートシティ大崎」のある地区は建設がやや難航
した。昭和56~58年にかけ、企業権利者7社による協議会が会合を重ねる一方で、地元権利者に
よる自主的な集まり「大崎再開発を考える会」が発足。同59年に両者を合わせた準備組合が設立さ
れ、地価高騰による事業計画の見直し等を経て、平成4年「大崎駅東口第二地区市街地再開発組合」
として正式に発足し、平成6年に東京都の認可を受け、準備工事に着手。それから4年以上が経過し
た平成11年、やっと完成の日を見た。
 開発面積5.9ha、述べ床面積31.9万㎡の巨大複合機能都市だ。その際立った特徴としては、
まず、四角形、八角形、十字形を組み合わせたユニークな建物デザインが挙げられる。規模の大きい
ゲートシティでは、高さを低くする(最高部約98m)ことで平面的な広がりが生まれた。基準階の
面積も大きくなり、四角形でなくても使いやすいオフィスをデザインすることが可能になったのだ。
都市の中心を成すのは、地上24階、地下4階、日本最大級の基準床面積(4088㎡)を有する2
棟のオフィスビル、ツインタワー。ワンフロア当たりの面積が広いため、入居企業にとっては複数階
を使う不便さがなくなる。業務効率の高いオフィススペースの実現だ。またこの2棟をリンクする低
層部は、商業施設を備えた5層吹き抜けのアトリウム(中庭)となっており、美しいカスケード(階
段水路)を備えた南欧風のサンクンガーデンなどとともに、採光性豊かなパブリックスペースを提供
している。
 
このゲートシティ大崎の誕生で、実現に向けて大きく歩を進めたのが、大崎副都心構想。大崎は、
技術先進国を支えてきた高度で多様な技術の集積や、インフラを含めた総合的な開発が可能な地域と
しての発展性、首都圏や全国主要都市へのアクセスの良さなどが評価されて、平成2年第三次東京都
長期計画において7つの副都心の1つとして位置づけられた。
 大崎副都心構想は、ゲートシティ周辺だけでなく、駅の周辺、東五反田、北品川の一部を含んだ広
い地域に亘る。大崎では今後、西口地区でも、旧来の工場用地からの脱皮を図る再開発が計画されて
おり、将来的には東西を結ぶ歩行者デッキによって駅周辺を一体化する構想もある。さらに、東五反
田・北品川地区でもインフラを含めた高次複合地区としての開発が構想されている。

 
木立‐GLOVE
 ウエストタワー1階山手通り側エントランスプラザにある
山手通りに面したオープンスペースに設
置された樹木を模した作品。10本の木々が各々の角度で立っている。設計はニューヨークを拠点に
ランドスケープを手がけるトーマス・ボルズリー・アソシエイツ。館内にも多数のアート作品が設置
されている。ANTHONY・BALSLEY・ASSOCIATESの作品。

 
無題のオブジェ
 ウエストタワー1階山手通り側エントランスプラザにある山手通りに面したオープンスペースに設
置された枡目のある方形の板9枚を並べた作品。

 
ノースガーデン‐Northgarden
 ゲートシティ北側に設けられ庭園。植物の「すげ」「あし」「ゆり」をモチーフにデザインされた
トーマス・ボルズリーのオブジェが設置されている。

 
「CALLA」
 ノースガーデンの北側にあるオブジェ。ANTHONY・BALSLEY・ASSOCIATES
の作品。

 
「CAREX」
 ノースガーデンの北側にあるオブジェ。ANTHONY・BALSLEY・ASSOCIATES
の作品。

 
「PHRAGMITES」
 ノースガーデンの北側にあるオブジェ。ANTHONY・BALSLEY・ASSOCIATES
の作品。

 
「ショーの女」
 ホール&ルームにある黄金色の裸婦像。伊東傀の作品。

 
「CITY LIGHT」
 ロビーホールの壁面に施されたパブリックアート。

   CITY LIGHT
   1998
   Sheila Hicks


 
TANGLIN DREAM
 江上計太平成10年の作品。黄金分割を用いた幾何学的箱状の物体の組み合わせ、それに彩色した
鮮烈な色彩の対比で立体を構成している。全体の形はTの字。

 
「GOLDEN DAWN」
 江上計太平成10年の作品。上記と同じような作品。

 
「傘蓋の下で」
 アトリウム(1階)の公開広場にある高田洋一の作品。


■大崎副都心

 大崎が「副都心」とは露知らなかった。品川区内の山手線三駅の中で大崎は一番地味な存在だ。と
いうより山手線29駅の内でも目立たない方の最右翼だったかもしれない。
 駅の周囲が盛り場になっている訳ではなく、目立つのは会社の建物や工場ばかりだった。だから最
寄り駅として利用するサラリーマンや住民以外にはまず用のない駅という印象が強かった。ところが、
ここ10年余りで大崎が変わってきた。特に駅の東側に、昭和62年大崎ニューシティが完成してか
ら大崎が賑わいだしたのだ。駅からO歩道橋を渡れば、5つのビルに囲まれたコミュニティ広場のO
パティオに出る。ここは3階部分で噴水もある。Oは大崎の頭文字と山手線の環状の輪を表すものだ
という。ビルの3階の一部と2階は商店街になっている。和洋中の飲食店を主に書籍、文具、花店な
どその数は30を超える。1階はコンビニエンスフロアで、食品、衣料、日用雑貨を扱ってる。昼食
時の混雑は、都心のオフィス街と変わらない。2階にはまた、品川区が全額出捐して設立した財団法
人品川文化振興事業団が運営するO美術館がある。現代美術を中心に、コンピューターアート、テク
ノロジーアートなど最新の映像作品の紹介も行っている。このニューシティのキャッチフレーズは、
「おおさき・駅さき・夢咲きまち」だそうだが、駅の東側に関する限り、大崎は地味なイメージを一
変した。しかし副都心となりうるのは100年先か?
 今後、天王洲アイルや品川駅東口地区、恵比寿ガーデンプレイスなどから成る、東京城南地区の中
核としても、大いに発展が期待されるところである

 因みに他の副都心は渋谷・新宿・池袋・上野浅草・亀戸錦糸町・臨海だ
 


■居木橋公園

 大崎1丁目14番4号にある区立公園。

 
「くじら」
 北の道路に面した入口付近にあるオブジェ。半身を出している。


■大崎警察署(仮庁舎) 
平成21年4月5日まで
 大崎1丁目16番、山手通り居木橋南にあった。 


■大崎駅

 大崎1丁目21番にあるJR山手線、りんかい線、湘南新宿ラインの停車場。明治34年2月25
日大崎町の工業地帯化により追加開業した。以来ずっと山手線の駅の中でも1、2を争う地味な駅と
いわれてきたが、平成14年にりんかい線が開業すると一変し、湘南新宿ラインも停車するターミナ
ル駅となった。何てったって東京に7つしかない副都心駅だかンね。
 ホームは地上島式4面8線。元々は島式2面4線の駅だったが、りんかい線開業によって増設され
た。全てのホームに改札階とを結ぶエレベーターが完備されている。
 改札口はJR・りんかい線共通で、北改札口と南改札口の2ヶ所がある。いずれも橋上でコンコー
スは共用している。出口は北改札口からつながる東口・西口と、南改札口から繋がる新東口・新西口
の4ヶ所。東口は大崎ニューシティと、新東口はゲートシティ大崎と歩道橋で結ばれている。地上に
下りるエレベーターは、新東口を除く3ヶ所の出口に設置されている。
 この駅には、山手線の車両基地である東京総合車両センター(旧山手電車区と旧大井工場を統合し
て平成16年6月1日に発足)への分岐線があるため、大崎駅を始発・終着とする列車が結構ある。
乗務員の交替も必ず行われるので、他の駅よりも停車時間がやや長めだ。
 


■大崎駅西口E東地区再開発

 大崎2丁目1番の明電舎跡地が平成19年完成を目処に、住宅、オフィス、商業施設、憩いのスペ
ースに生まれ変わる。今のところ地上30階建てのビルが建つ予定。他にE西地区・E南地区はE東
地区と一体化した公園になる予定。A・B・C地区は計画が具他的ではない。東口地区再開発は山手
通りの南部分を除いて完了。シンクパークタワー、ダイワロイネット・ホテル東京大崎、ウェストレ
ジデンス大崎が建てられた。


 
ThinkPark(シンクタワーパーク)
 東京7副都心の1つとして進化し続ける大崎エリアに位置し、「アイデアが成長する街 where id
eas grow」をコンセプトにデザインされた創造の街だ。地上30階地下2階の Think Park Tow
erを中心に、ショップ&レストランが連なる真紅シンクパークプラザ、屋外多目的スペースのシン
クパーク・アリーナ、そしてホテル、フィットネスクラブ、メディカルセンター等により構成され、
JR大崎駅前に広がるシンクパークファレストの中に有機的に配置されている。緑に囲まれたこの場
所は、新たなアイデアが日々創造される街として、着実にその軌跡を歩んでる。


■大崎図書館

 大崎2丁目4番8号にある区立の小規模図書館が。最寄駅は大崎。駅から見て明電舎跡地(平成1
9年秋まで再開発中)の向こう側の坂を上がったところにある。1階が通常の図書館、2階がビジネ
ス支援図書館という、ちょっと変わった図書館だ。貸出手続きはそれぞれでやらないと駄目なのだが
同じ図書館カードで借りれるし、返却はどちらでも可能。
 1階は入って左にカウンター。カウンターから左が児童コーナー。カウンター正面から奥に向かっ
て、CD・カセット、雑誌コーナー、閲覧席。右に書架が広がっている。児童コーナーの窓際の棚に
は漫画が並んでるぞ。それと外国語図書が児童書のみあって、赤毛のアンシリーズや大草原の小さな
家のシリーズ、メアリーポピンズシリーズなどが60冊ほど。外国語の絵本はないが、児童向けの辞
書や事典は30冊ほど置いてある。
 第1・第3月曜日、第2木曜日が休館。開館時間9時~20時。03-3495-0660

 ビジネス支援図書館
 産業振興課と品川図書館が連携して、区内中小企業のものづくりをサポートするナレッジセンター
であり、また企業交流の場として、大崎図書館2階に設置した。建物全体の雰囲気に比して凄く新し
い。図書・新聞・雑誌だけでなく、データベースCD-ROMの閲覧もできる。普段は閲覧室だが、
講習会を開いたりもするエリアや、経営・起業の相談室もある。
 
ものづくりという産業情報を中心にした新聞・雑誌・データベース・インターネット内の情報と接
する環境を整備。図書は、平成18年夏までに参考図書約900冊、その他の図書約4500冊を揃
えた。参考図書はJISハンドブック他、一般図書は機械・電気・金属関係で約2200冊、ビジネ
ス書で2000冊。その後もどんどん増やしている。
 


■東雉稲荷社 ◇

 大崎2丁目6番1号パインフィールド大崎に嵌め込んである小祠。
 


明力稲荷大明神 ◇
 大崎2丁目7番19号、メゾン清水に入っていく道の途中左手にある小祠。
 


■大崎西口公園

 大崎2丁目11番8号にある区立公園。


金剛山円通院観音寺

 大崎3丁目8番12号にある天台宗の寺。
弘治年間(1555~58)の創建といわれ、開山は光
海和尚。当初は目黒川居木橋の南に在ったが、幾度か水害を被り、元禄元年(1688)に現在の高
台の地に移転した。 本尊は釈迦如来。像高51.6cm、木造・漆箔。玉眼嵌入、肉髻珠と白毫・水
晶製。大衣を通肩に纏う定印の像だ。胸前部の裏面に記された墨書銘により江戸時代前期の元禄七年
(1864)の作と知られている。
 入口左は鉄筋コンクリート3階建ての観音寺会館、荒谷写真事務所、檀信徒会館と続く。右は墓地。
15mばかり参道を行くと石段30段を登って山門、これが白木で近年の新築。左右に墓地。正面本
堂前にくると左は駐車場。西隣の居木神社との間の道から乗り入れられるようになっている。本堂は
現代的和風の鉄筋コンクリート造り。右に鉄筋コンクリート造り3階建ての庫裏。傾斜面を利用した
立派な寺だ。

 
庚申塔
 山門を潜って直ぐ右、塀に囲まれた場所、数基の石仏が集めてある。唐破風笠付角柱型。日月・青
面金剛像・邪鬼・三猿・二鶏。「延宝五年」「二月吉日」と刻む。


■居木神社

 大崎3丁目8番20号にある。大崎ニューシティの建設で面目を一新したJR山手線大崎駅の東側
に比べ、反対の西口一帯は昔の大崎の面影を残している所が少なくない。それも時間の問題ではある
が・・・ でもしかし東西の対照の妙が副都心大崎の魅力といえるかもしれない。その西口駅前にあ
るニュー大崎ビルの裏に回ると、別当寺だった観音寺の西に居木神社の参道が小高い丘上に伸びてい
る。丘上の居木神社は、今は大崎の鎮守だが、元々は旧居木橋村の鎮守だった。創建年代は不詳。神
社は、別当寺と共に目黒川右岸にあった。しかし神仏とても水難には勝てぬものらしく、洪水を避け
て寛文年間(1661~73)に西方の台地(現在地)に移った。創建年代は不明だが、居木橋村に
あった当時は「雉子明神」 または「雉子ノ宮」 といわれていた。移転の際、村内に別に祀られてい
た貴船・春日・稲荷の各明神と子ノ権現の4社が合祀されて「五社明神」と改称され、明治5年明治
新政府の干渉により現名にされた。昭和5年に立建てられた社殿は、愚かなアメリカ軍の無差別空爆
で焼かれ、現在の社殿は同53年に復興したものだが、境内には江戸時代の石像物が幾つか残ってい
る。正面参道の鳥居と御手洗の鉢は、いずれも寛政四年(1792)に奉納されたものだ。
 「新編武蔵風土記稿」に、

   五社明神社
   除地三段六畝、村の東南にあり。古は村の西北にありしが水溢の憂を避て今の地へ移れり。
   旧蹟には松の大樹残れり。これ前にいへるゆるぎの松と称するものなり。今の社地は土地
   高くして喬木茂りあへり。本社三間半に三間。祭神は雉子大明神なり。当所遷座のとき村
   内に祀りし貴船明神春日明神子権現稲荷明神の四座を勧請して一社とす。故に五社明神と
   号す。本社の前に拝殿あり。二間四方石階十五級を下りて石の鳥居を立。祭礼毎年九月二
   十三日、村民神楽を執行す。当所鎮座の年代は詳ならず。当所へ遷座ありしは百七十年前
   の事也。観音寺持。

 とある。

 居木稲荷大明神

 
富士塚
 正面石段左手の斜面はごつごつした黒っぽい石(富士山の溶岩)で覆われている。品川神社の富士
塚「品川富士」のような目立った存在ではないが、昭和8年に築かれた富士塚で、東京の富士山信仰
には根強いものがある。居木橋遺跡と記した標柱が立っている。


 
居木橋遺跡

 大崎2・3丁目、西品川3丁目の一部、居木神社の南方に位置する目黒川を眼下に見る台地上にあ
り、縄文時代前期の貝塚を伴う遺跡で、竪穴住居跡も多数確認されている。
 貝塚は、食用にした貝の殻や魚・獣の骨のほか、土器片などが堆積したもので、当時の生活を知る
重要な手がかりを提供してくれている。これまでの調査から、多くの縄文土器、石器などが出土して
いるが、貝類では、海で採れるものの他に、陸で採れるヒダリマキマイイマイ(かたつむり)も発見
され注目された。

   居木橋遺跡              所在 大崎2、3丁目、西品川3町目の一部
   居木橋遺跡は、居木神社の南方に位置する台地上にあり、縄文時代前期(約六千年~五千
   年前)の貝塚を伴う遺跡で、竪穴住居跡も多数確認されています。

   貝塚は、食用にした貝の絵や鳥・魚・獣の骨のほか、土器片などが堆積したもので、当時
   の生活を知る貴重な手がかりを現在の私たちに提供してくれています。
   これまでの調査から、多くの縄文土器、石器などが出土していますが、貝類では海でとれ
   るものの他に、陸でとれるヒダリマキマイマイ(かたつむり)も発見され、注目されまし
   た。(居木橋遺跡の出土品の一部は、品川歴史館で展示しています)
   平成21年3月11日                      品川区教育委員会

 二宮金次郎像・犬像・ミッキー像・猫像・石燈籠
 境内の一角に脈絡なく存在する。    
  


■芳水小学校
(ほうすい)
 大崎3丁目12番22号にある区立校。大正7年株式会社明電舎社長だった故重宗芳水の夫人たけ
子が学校設立のため私財を投じて工事を開始。同年12月吉水尋常小学校として開校。同12年袖校
舎落成。重宗家より大崎町へ寄贈。昭和7年荏原郡の東京市編入により同市芳水尋常小学校と改称。
昭和16年国民学校令により東京市芳水国民学校と改称。同18年都制施行により東京都芳水国民学
校と改称。校歌制定

 校歌「
常盤なる」 作詞・大木惇夫  作曲・山田耕筰
 1.常盤なる居木の森や
   富士が嶺の諭し高し
   よく鍛え 心磨きて
   芳水の恵みの泉
   慈しみ汲みて励まん
   慈しみ汲みて励まん
 2.桜木に朝日照り添う
   清々し学びの庭ぞ
   健やかに強く生い立ち
   国民の教えの道を
   ひた守り師をぞ仰がん
   ひた守り師をぞ仰がん


 同21年10月1日品川区立芳水小学校と改称。同29年校舎落成。重宗家より講堂寄贈。同33
年プール完成。同43年創立50周年記念式典。同48年鉄筋コンクリート造りの校舎落成。同53
年創立60周年記念式典。同63年創立70周年記念式典。
 平成5年創立75周年。同10年創立80周年記念式典。同11年学習センター(図書室・視聴覚
室)設置。同13年災害対策用井戸掘削。
 


■桐ヶ谷駅跡

 大崎3丁目13番と西五反田8丁目12番の接する辺りにあった池上電気鉄道の停車場。現在の東
急池上線の大崎広小路~戸越銀座間にあった駅だ。昭和2年8月28日に雪が谷~桐ヶ谷間の部分開
通に合わせて開業したが、同20年5月25日愚かなアメリカ軍の非人道的無差別空爆により被災、
一面が焼野ヶ原になった。同年7月25日営業から休止し、同28年8月11日廃駅となった。
 ブログ「桐ヶ谷駅を探ってみる」その1~4に、以下の記述があった(抜粋)。

   『東急の駅 今昔・昭和の面影 80余年に存在した120駅を徹底紹介』(著者 宮田道
   一、発JTBパブリッシング)の記述についてである。本書111ページにある桐ヶ谷駅
   に関する記載を一部引用すると

     島式ホームが、第二京浜国道の北側に接して掘割の中に設けられ、北側の踏切側
     下り線側に本屋があった。さらに南側には橋上駅舎があって国道の跨線橋際であっ
     た。桐ヶ谷火葬場への最寄り駅ともなっていた。


    とある。これは本文中に問題記述があるというよりも、単純に内容についての疑問であ
   る。それは、駅ホームの両端に改札を設けるのか? というものである。本文中には改札
   について全く触れていないが、本屋(「ほんや」ではなく「ほんおく」と読む)があると
   いうことは当然ここに駅員を配置し、本屋側に乗降客を誘導、つまりは改札があることを
   意味する(駅員配置に余裕があれば別だが、そんなはずはない)。無論、もう一方の橋上
   駅舎も同様に改札があることを意味するので、北(踏切)側と南(橋上駅舎)側の両方に
   あるように書かれているのだ。だが現在の池上線の駅も総てそうなっているが、ホームの
   両端に改札がある駅は一つとしてない(旗の台駅は戦後に乗換え駅として新造されたので
   例外)。これは単に営業コストを減らすのに都合がいいだけでなく、乗降客の安全管理等
   にも有効だからである。もちろん、電車編成数の少ない路線であれば、改札が一つにまと
   まっていた方がいい(今でも3両編成だが、戦前はさらに短かった)。もちろん両側に改
   札があってもそれはそれで例外的なものであるし、本屋を設けた場所が改札から離れてい
   たとしても、それ相応の理由があるはずだ。

   桐ヶ谷駅北側の「踏切側下り線側に本屋があった」とすれば工事が必要となる。よって斜
   面を削り取る工事が施工され、それは短期間の間に元に戻された? つまりはもう一度盛
   土して直線状の私道に造り直す必要があるが、そのような手間を桐ヶ谷駅~大崎広小路駅
   間、あるいは大崎広小路駅~五反田駅間の建設工事まっただ中にかけるだろうか?

   まっただ中だからこそ、その序でにできるというのもあるが、だとしても改札口が同時に
   存在していた期間は僅かか、或いは踏切側下り線側の機能が失われた後に南側の橋上駅舎
   ができたという流れとなるだろう。なぜなら、池上電気鉄道の各駅いずれもが駅ホーム二
   方向への改札口は存在しないからである。

   つまり「踏切側下り線側に本屋があった」可能性は極めて低く、あったとしても南側の橋
   上駅舎と同時に存在していた可能性はさらに低い、と結論づけられる。よって『東急の駅
   今昔・昭和の面影 80余年に存在した120駅を徹底紹介」の111ページにある桐ヶ
   谷駅に関する記載は、内容に疑問点があるというよりも内容が誤っているといえる。ただ
   私も探してみたのだが、桐ヶ谷駅の写真さえあれば、この問題により明快な答えが出るは
   ずだが、残念ながら見つけることができなかった。唯一と言っていいのは、戦後に米軍が
   撮影した航空写真(goo古地図)で既に廃墟同然となったもののみで、これも島式ホー
   ムだったことと、東側私道が直線状になっていることを確認できるのみである。

   さて、ここまで桐ヶ谷駅について調べてきたが、解決できていない問題を列挙して本稿を
   終えるとしよう。
   1.駅開設時に「桐ヶ谷停車場之図」に記載されたような、斜面を削り取り駅ホームと私
     道をつないだ構造は実在したのか。
   2.実在したとしたら、それはいつまで存在したか。南側駅舎と同時に存在していたのか。
   3.南側駅舎は、桐ヶ谷駅開設時から存在したのか。
   これら3つの問題は、本稿で一定の見解は示したが、決定的な証拠はない。よって解決で
   きていない問題とした。このほかには、

     ●桐ヶ谷駅廃止の理由。おそらく、単純構造の駅でなかったのが原因か。駅ホームから駅
   本屋までのアプローチが焼け落ちてしまったことで、高架構造物を再建するという手間が
   発生し、すぐに駅の営業を再開することができず休止扱いとなったまま、周囲の人たちか
   らもないものとして扱われてしまい、そのまま廃止となった・・・みたいな流れを予想す
   るが、果たしてそんな単純な話か?
   ●桐ヶ谷駅付近の線路をいつ直線化したのか。これは、東急50年史あたりに載っている
   かと思っていたが、載っていなかった(探し漏れの可能性有)。もしこれが駅廃止(昭和
   28年8月11日)より前に実行されていたとしたら、そりゃ駅復活はなくなるだろう。
   何となく既成事実先行で、戦後それほどの時を経ないで行われたのでは、と勝手な想像を
   しておく(少なくとも米軍航空写真では駅ホーム跡が見えるので、昭和22年以降なのは
   確実。
   の2点を挙げて、一応終わりとする。
 



■峰原公園

 大崎3丁目17番27号にある区立公園。


■峰原坂

 大崎3丁目1番と4丁目2番の間の峰原通りを南に上がって行く坂道。西側は大崎警察署と立正大
学だ。

   峰原坂
   峰原とは谷山村(ややまむら)時代からこのあたり一帯の地名で、現在の大崎三・四丁目
   付近にあたり、坂の名はこれをとったものである。当時、峰原は畑地帯であった。


■大崎広小路駅

 大崎4丁目1番1号、山手通りに面してある東急池上線の停車場。昭和2年10月9日蒲田側から
延伸してきた池上電気鉄道が桐ヶ谷(廃駅)~大崎広小路間を開業させた時にできた駅。同年6月1
7日に五反田まで全通した。
 ホームは高架島式1面2線構造。ホームと改札を結ぶエレベーターは設置済み。改札口・出口は1ヶ
所のみで、山手通りに面している。五反田駅からはわずか300mの距離にあるが、線路がカーブし
ているために双方の駅とも見えない。また遠隔管理を行っているため、駅員は常駐しない。文句があっ
たら五反田駅へ行っていえ!
 開業当時の趣きを残す古い駅だが、近年リニューアル工事が施され、エレベーターや多機能トイレ
などを設けてバリアフリー化もなされた。昔はきったない駅だった。電車の床は木製で、ゴトゴトと
うるさいんだ。
 


■大崎警察署

 大崎4丁目2番10号にある。現在の庁舎は地上3階建てで、平成17年に仮設された仮庁舎だ。
平成21年には地上9階・地下2階の新庁舎が完成する予定。署員数は200名以上、管内に5つの
交番を配置する。管轄区域は品川区の大崎副都心一帯及び周辺の高級住宅街、商業街、ビジネス街を
主要管轄地としている。また都内でも有数の歓楽街五反田有楽街地区も管轄することから警備面では
非常に強化されており、職務尋問なども盛んだ。
 明治26年西五反田1丁目18番のところに品川警察署大崎分署から昇格し開署。昭和26年現在
地に木造モルタル造り庁舎完成移転。同43年地上4階・地下1階建ての鉄筋コンクリート造りの庁
舎に改築。平成7年管内上大崎にて目黒公証人役場拉致監禁致死事件(上大崎に詳述)が発生。一連
のオウム真理教事件の発端となり特別捜査本部が大崎警察署内に設置された。
 同17年大崎1丁目16番6号地上3階建ての仮庁舎へ移転。
 同21年3月18日地下2階・地上9階建ての近代的な庁舎が落成し、4月6日午後1時から業務
を開始した。
 


■立正大学(大崎キャンパス)

 大崎4丁目2番16号にある仏教系ユニバーシティ。立正精神に学ぶことを建学の理念とし、それ
は次の三つの誓いに現される。

   1.真実を求め至誠を奉げよう
   2.正義を尊び邪悪を除こう
   3.和平を願い人類に尽くそう

 名称は日蓮聖人の『立正安国論』から頂戴した。日蓮聖人が真の仏教者として社会に貢献する生き
方を実践できたのは、日本の柱・日本の眼目・日本の大船になるという若き日の誓願に基づく、この
『三つの誓い』であったと、流罪地の佐渡で著した『開目抄』に表現している。この言葉をもとに第
16代学長石橋湛山が、現代風に言い換えたものが建学の精神だ。本学に学ぶ者は、この立正精神を
体得し、時代に適応した知識と技術を修め、人類社会に寄与することを目標としている。天正八年(1
580)日蓮宗の教育機関として千葉県に檀林を創立。立正大学の源流は、教蔵院日生が学徒の教育
と日蓮宗学・仏教学の研究を目的として、下総国飯高郷(千葉県八日市場市飯高)に開設した飯高壇
林(いいだかだんりん)に求めることができる。明治時代まで教育・研究機関としての重要な役割を
果たしてきた。現在でも講堂などの建物が飯高寺として残されているそうだ。

 学園歌
「意気高し」 作詞・大木惇夫  作曲・乗松昭博
  1.意気高し谷山ヶ丘の
    立正ぞ 我等の誇り
    橘の清けき花を
    諸共に香らさんかな
     明日の春 明日の春
     額
(ぬか)に汗して待つを知る
     清若き者に幸よあれ
  2.不二ヶ嶺の東雲
(しののめ)映ゆる
    安国ぞ我等の願い
    蒼空の明るき智恵を
    諸共に汲み取らんかな
     明日の春 明日の春
     額に汗して待つを知る
     清若き者に幸よあれ
  3.夕星に御諭
(みさとし)光る
    行学ぞ我等の標
    風戦ぐ緑の園を
    諸共に培わんかな
     明日の春 明日の春
     額に汗して待つを知る
     清若き者に幸よあれ

 明治5年檀林を廃し、東京芝二本榎に宗教院を設立。宗教院は立正大学開校の起点となるものであ
り、その後大正13年の大学令による立正大学設立を経て、近代的な教育機関としてより一層の充実
を図っていくことになった。同37年専門学校令による「日蓮宗大学林」設置、大崎キャンパス設置。
同40年「日蓮宗大学」と改称。大正13年大学令による「立正大学」設立。文学部(宗教学科、哲
学科、社会学科、史学科、文学科)予科、及び研究科を設置。同14年日蓮宗大学を「立正大学専門
部」と改称し、宗教科、国語漢文科、歴史地理学科を設置。同20年愚かなアメリカ軍の非人道的無
差別空爆により一部を除いて校舎は全焼したが、戦後すぐ復旧。
 同22年文学部に地理学科を設置。学校教育法により新制大学となる。仏教学部(宗学科・仏教学
科)設置。同24年文学部(哲学科・史学科・国文科・社会学科)を設置。同25年文学部に英文学
科を設置。新たに経済学部、短期大学部設置。同26年私立学校法により財団法人立正大学を改め、
学校法人立正大学学園(立正大学、短期大学部、立正高等学校、立正中学校)となる。大学院文学研
究科設置制大学として再発足後、仏教学部・文学部・経済学部の3学部に、それぞれ第Ⅰ部(昼)・
第II部(夜)を設け、総合大学として歩み始めた。同27年後に総理大臣となる石橋湛山が第16代
学長に就任。同42年経営学部経営学科を設置。同56年法学部設置。平成4年開校120周年を機
会に大崎キャンパスは最新鋭のハイテク機器を導入したインテリジェントキャンパスとして生まれ変
わった。同8年社会福祉学部(社会福祉学科、人間福祉学科)設置。同10年大学院経営学研究科、
地球環境科学部(環境システム学科、地理学科)設置。同12年大学院社会福祉学研究科、大学院地
球環境科学研究科設置。同14年心理学部(臨床心理学科)設置。同16年大学院心理学研究科を設
置して今日に至っている。現在では仏教学部はあるものの宗教学校のイメージはなく、普通の総合大
学(ユニバーシティ)と化している。

 
校歌
「見よ東海の」 作詞作曲不明 
  1.見よ東海の芙蓉峰
    茜射す陽に映ゆる時
    無明の眠 覚ますべく
    暁鐘響く谷山丘
  2.前聖
(ぜんしょう)既に範を垂れ
    後世起つに遅れんや
    同胞
(はらから)のため世のために
    生命を身をも捧げなむ
  3.翳す立正破邪の剣
    樹つる理想の旗風に
    四海を靡け久遠
(とこしえ)
    本時の春を讃えなむ
 

 
大学院

 心理学研究科・地球環境学科・社会福祉学研究科・経営学研究科・法学研究科・経済学研究科・文
学研究科の7修士課程がある。

 
石橋湛山胸像
 石橋湛山記念講堂にある。石橋は昭和27年~43年学長を務めた。平成8年設置。
 


■立正大学附属 立正中学校・高等学校

 大崎4丁目2番16号にある私立校。明治5年文部省の新学制にならい、港区高輪の承教寺に「日
蓮宗宗教院」を設立。同37年現在地に新校舎が落成し、専門学校令による「日蓮宗大学林中等科」
(5年制)を開設。同40年「日蓮宗大学中等科」に改称。大正9年「日蓮宗大学中等部」に改称。
大正9年大学令による「立正大学」設立により「立正大学中等部」と改称。同14年「立正中学」と
改称し、初めて一般子弟の教育機関として開放する。昭和13年「立正中学校」と改称。
 同22年「学校教育法」の実施により、立正中学校の1~3年生を新制中学校に改編、翌23年旧
中学の4、5年制修了の者と新一年生で、新制「立正高等学校」に改変、3・3年制による「立正中
学校・高等学校」確立。
 平成6年少子化対策として中学校の男女共学化実施、平成9年高等学校の男女共学化実施。平成1
6年創立100周年。平成25年「馬込キャンパス」開設予定。

 西馬込移転計画
 立正大学学園では、平成20年9月初旬、交通局馬込車両工場跡地開発事業-大田区西馬込一丁目
地区プロジェクト-の公募プロポーザルに応募したところ、交通局の選定委員会などを経て、10月
下旬に事業予定者に指名された。その後の交通局との本契約交渉の下、この度2月27日付で東京都
交通局と土地売買契約及び定期借地権設定契約(50年間)を締結した。
 1 事業名称 : 立正大学付属中学校・高等学校「馬込キャンパス」建設事業
 2 事業対象地: 大田区西馬込1丁目5番(敷地面積19959㎡)
 立正大学付属立正中学・高等学校は、100余年に及ぶ歴史と伝統の下、永く大崎の地で中等教育
機関としてその重責を担い、個性豊かで、優秀な多くの生徒を輩出してきた。しかしながら都心にあ
るが故の狭隘な校舎ということもあり、発育途上の中・高生徒に対して必ずしも十分なグランドやク
ラブ施設等を提供できない状況を余儀なくされ、特に課外活動の面において多くの問題を抱え、生徒
・保護者・教職員に迷惑をかけながら今日に至っている。そこで東京都交通局馬込車両工場跡地を取
得したことに伴い、より一層高い教育水準を確保し、平成25年4月を目標に、その跡地に立正中学
・高等学校を移転し、開校することになった。今後4年間余りの時間を得て学園関係者の叡智を結集
し、豊かな学びの環境整備に努めつつ、魅力ある立正中学校・高等学校の構築に邁進する。
 基本構想はもとより、これに基づく「立正中高馬込キャンパス建設計画」の策定については、地元
大田区の人々の声を尊重しつつ地域に貢献できる施設作りを進める。なお建設計画については、進捗
状況に応じて段階的にホームページなどで公開して行くと発表。そうしている。
 


■目黒撮影所跡

 大崎4丁目5番~目黒区下目黒1丁目8番の一帯にあった。映画は明治29年に日本に初めて紹介
された。これに注目した貿易会社吉沢商店店主河浦謙一は、同41年に日本初の映画撮影所を開設
した。この目黒撮影所は、天井・屋根、壁面の上部をガラス張りにして自然光を取り入れたグラスス
テージが有名だった。大正元年吉沢商店を含む国内映画会社4社が合併し、日本活動写真株式会社、
通称「日活が設立された。墨田区向島に新たに撮影所が開設され、目黒撮影所は次第に使用されな
くなり、やがて閉鎖された。現在では当時を偲ぶものは何も残っていない。
 


■稲荷社

 大崎4丁目9番14号、峰原通りに面してある小祠。戸倉宅の屋敷稲荷の感がしないでもない。
 


■大崎五丁目公園

 大崎5丁目2番2号にある区立公園。


■おはらス

 大崎5丁目4番18号のヤクモビル地下1階にあるフランス料理の名店。JR五反田駅の西口を出
て左手に進み、大きな道路を右に行く。川を渡り、少く歩くと角にコンビニの「ampm」があるの
で、そこを左に曲がる。JOMOのガソリンスタンドの手前を右へ曲がるとそれらしき入り口が見え
る。「このレストランに来るんだ」という目的意識を持っていなければ判らないだろうと思われるよ
うな場所にある。オーナーシェフの小原敬は、10年間パリの数々の名店で修行し、帰国後、札幌で
「メゾン・ド・サヴォア」という店を23年間営み、平成13年に現在名に改めて東京に進出した。
マダムの温かい接客が、店内の雰囲気をより和やかなものにしてる。
 定休日は月曜・第3火曜・年末~1月中旬
 11時半~15時半・18時~23時  03‐5436‐3255

 
ミシュランガイド東京 
 『2008』から『2014』まで7年連続で星1つを取っている。
 


■大崎公園

 大崎5丁目5番17号にある区立公園。


■大崎五丁目児童遊園

 大崎5丁目8番5号にある区立公園。
 



【勝島】(かつしま)1~3丁目                     昭和39年1月1日
 京浜1区埋立地。海軍省によって埋め立てられ、昭和18年勝島町となり、同39年の新住居表
示で現行の「勝島」となった。勝島運河の南半が埋め立てられたので南大井と陸続きとなり島では
なくなった。1丁目は国鉄被服工場があったところで現在は倉庫街など、2丁目は全域「大井競馬
場」、3丁目は運河跡地で「しながわ水族館」のある「しながわ区民公園」となっており、住宅地
はない。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『品川区史』『品川の歴史』など。

 勝島の由来
 大東亜戦争の勝利を祈念して命名された。いくら大井競馬場を擁し、勝利を願う親父どもが犇い
ているとしても「勝馬」じゃない。
 


■しながわ花街道

 勝島1丁目1番西と東大井1・2丁目東の勝島運河の土手の花壇。平成14年に「勝島運河の土手
に花畑を作ろう」を合言葉に立会川商店街と鮫洲商店街が中心になって「しながわ花海道プロジェク
ト」を設立。品川区が勝島運河の土手の使用を許可し、運河の土手にある1.5m四方の区画約120
0枚に、学校や個人が種を蒔き、花を咲かせて楽しんでいるもので、土手沿いの凡そ2kmに春に菜
の花、秋にはコスモスの花が一面に咲く。この「しながわ花海道プロジェクト」の活動は、勝島運河
を菜の花やコスモスの花が咲く水辺として再生したことにより、今年度から始まった「しながわ環境
大賞」を平成19年2月17日に受賞した。


■警視庁第二方面本部・

 勝島1丁目3番12号にある。2方面とは警視庁の10ある方面本部の1つ。品川区(品川・大崎
・荏原・大井の4警察署)大田区(池上・大森・蒲田・田園調布・東京空港の5警察署)と港区水上
警察署を管轄する。なお水上署は、平成20年映画のお株を奪って「湾岸警察」に改称する。

 交通機動隊
 
交通機動隊は都道府県の警察本部の交通部に設置されている部署の1つで、交通部の執行部隊で交
通を専門に取り締まる。略して「交機」。2方面は前述。その管内の取り締まりに従事する。主な活
動内容は、白バイとパトカーによる幹線道路の交通取り締まりだ。
交通機動隊長の階級は警視で、副
隊長は本部によるが警視か警部。署長格でキャリア組の要職。
 


■警視庁 第六機動隊

 勝島1丁目3番18号にある警視庁警備部の執行部隊。警備部は、各都道府県警察本部に存在する
部署。主に思想的背景のある犯罪者やテロリストへの対処、暴動鎮圧や災害対策、要人警護、各種情
報・調査活動等を担当する。道府県警察の警備部には機動隊の他、各種情報、諜報活動を行う公安課、
外事課が設置されているが、東京を管轄する警視庁だけは例外的に、警備部とは別に公安部が設置さ
れている。このため警視庁の公安、外事は機動隊とは別の所属となっている。警備部は任務の性質上、
一般的な警察とは異なり、むしろ軍事組織や情報機関に近いといえ、欧州では、日本の機動隊が担当
しているような任務は、軍警察(憲兵隊)が行う場合がある。
 機動隊は、警察予備隊を発展的に吸収したもの。銃器対策部隊を保有。SATの前身部隊であるS
APもここに所属していた。臨港地帯からコードネームは「潮」と呼ばれる。通称「六機」。隊本部
(庶務係、会計係、教務係、警備係、通信係、特務係、広報係、騒音取締係、技術係、特殊技能係、
操車係、整備係)と基幹隊常設5個中隊・特別機動隊(通常は警察署勤務)2個中隊の計7個中隊で
編成される。全学連との抗争ではあまり聞いたことがない。羽田を控えているので、重要なポジショ
ンだろうに・・・
 


■わかくさ公園

 勝島1丁目6番1号にある区立公園。

 
天守閣滑り台 撤去
 幅の広いコンクリート滑り台の天辺左に天守閣(三階櫓)様の建物がある。中に階段があって登る
ことはできるが、子供仕様なので狭い。


■大井競馬場

 勝島2丁目1番2号にある特別区競馬組合が運営する地方競馬場。2番は厩舎地区なので、2丁目
全体がそうだ。春から秋に行われるトゥインクルレースは、日本初のナイター競馬として人気。美し
いカクテル光線と疾走する馬。ファンファーレと蹄の音。夕涼みには絶好の場所。低迷が続く地方競
馬においては唯一の希望の星。因みに3連単で1300万390円(100円馬券がこの金額になっ
た)という史上最高配当(平成17年8月現在)をマークしたのは、この競馬場での出来事だ。

 ハイセイコー像
 正面門にある。昭和47年当時の社会現象ともいわれるほど人気を誇ったアイドルホースで、第一
次競馬ブームの立役者「ハイセイコー」のデビュー地であり、大井競馬では重賞青雲賞を含む6戦6
勝。死後、青雲賞はハイセイコー記念と改称し、あわせて馬像が作成され設置された。他には中山競
馬場、新冠町にも銅像がある。全成績22戦13勝。重賞は皐月賞のみ。誰のために 走るのか

  「
さらばハイセイコー」 作詞:小坂巌/山田孝夫  作曲:猪俣公章
  1.何のために走るのか
    何を求めて走るのか
    恋に別れがあるように
    この日が来るのが恐かった
    ありがとう 友よさらばハイセイコー
  2.栄光目指しまっしぐら
    逃げろよ逃げろよ掴まるな
    愛の右ムチ 打ちつけた
    恨んでないかいこの俺を
    ありがとう 友よさらばハイセイコー
  3.幾十万の観衆に
    真ごころ見せた その姿
    哀しいだろう 辛かろう
    斗い終って 馬場を去る
    ありがとう 友よさらばハイセイコー

 
ターフィー君
 大井競馬場のゆるキャラ。
   名 前 - ターフィー(Turfy 50)
   性 別 - 牡
   年 齢 - 永遠の3歳馬
   誕生日 - 9月16日生まれ
   血液型 - ヴィクトリーのV
   毛 色 - 栃栗毛
   脚 質 - 追い込み
   好きな音楽 - GⅠファンファーレ
   好きな食べ物 - ニンジンとりんごのポワレ
   趣 味 - ガーデニング
   特 技 - 早寝早起き
   父は「ターフィーパパ」、母は「ターフィーママ」。
   また「ポニータ」という名のガールフレンドがいる。
  
 


■大井競馬場前駅

 勝島2丁目2番35号にある東京モノレールの停車場。開業翌年の昭和40年に、初の中間駅とし
て開業した。それまではモノレールと羽田(旧駅)の2駅のみで、中間駅は一切なかった。ホームは
高架相対式2面2線構造。ホームと改札を結ぶエレベーターも完備されている。。改札口は1ヶ所だ
けで、浜松町寄りにある駅舎の1階にある。出口は駅舎正面と駅舎側面、そして歩道橋に直結する出
口の計3ヶ所あり、エレベーターは設置済み。開業が古いこともあり、駅舎デザインは風変わりで、
山奥のみたいだ。喫茶店もあるよ。
 


■しながわ水族館
 勝島3丁目2番1号にある区の施設。まあ普通の水族館で取り立てていうことはない。平成3年の
開館。区民の強い要望により“海や川とのふれあい”をテーマにオープンした。区民って誰だ? い
つどういう形で要望したんだ?
 よく区〝区民の要望〟というのを見かけるが、どこの区でもそうだが、アンケートとか、要望した
という区民の話なんて聞いたことがない。おいらも長いこと23区内に住んできたが、そんな経験は
一度もない。箱物行政の反対運動を封殺すために、要望があったことにしてんだ。採算が合うほど見
にくるのかねえ。何故かイルカショーをやっている。元々反対しない区民を与党議員のお声掛かりで
集めてシャンシャンとやる。とこの権力もがやるお座成りの民主主義的義務の履行だ。君は何故公園
があちこちにあるのか知ってるか?


■しながわ区民公園
 勝島3丁目2番2号にある区立公園。1番は僅かの面積なので、3丁目全域といってもよい。勝島
運河を埋め立てたところに作った。桜の広場・スポーツ広場・テニスコート・プール・噴水広場・藤
の回廊壇・子どもの遊び場・潮の広場・しながわ水族館で成り立っている。遊戯施設に加えて、運動
施設(少年野球場、テニスコート、プール)や、デイキャンプ場、クジラの噴水、流れ、および海水
を利用した10000㎡の人口池「勝島の海」がある。
高速道路を挟んで東隣は「大井競馬場」だ。
 昭和62年4月「花とひろばと水の緑の公園」をテーマとして、
  1. 大規模なレクリェーションの場の確保
  2. 緑化を進め自然を回復する。
  3. 防災機能の強化
 の3つの目的を柱として整備され、区立としては最大規模の総合公園としてから全面オープンした。
以来、この公園は、花や広い空間、きれいな水辺や緑とのふれあい、自然の中に活動できる潤いある
場所として、広く親しまれている。
 また「しながわ水族館」が併設されている。
 300本の松並木があり、花見の季節には130本の梅や400本の桜が咲き、休日ともなれば、
水族館に向かう家族連れや公園で寛ぐ人々で賑わっている。
 園内にあるトンネルを明るいイメージに変えるため、品川区立鈴ヶ森中学校の生徒の協力による壁
画が描かれている。

  海

   品川区民憲章                   制定 昭和57年10月1日
   品川区は、東に東京湾を擁し、西にはるか富士を望み、国際都市東京の表玄関に位して、
   江戸の昔から交易の拠点となり、我が国文化と産業の発祥地として、あまねく都民の心の
   ふるさとであります。
   わたくしたちは、この輝かしい歴史と伝統を誇りとし、文化の香り豊かな近代都市への発
   展を目指して、ここに区民憲章を制定いたします。
   一、わたくしたちは、自由と平等を基本理念として、住民自治を確立し、進んで区政に参
     加します。
   一、わたくしたちは、心の触れ合いを大切にして、互いに人権を尊重し、人間性豊かな環
     境をつくります。
   一、わたくしたちは、古きよき歴史と伝統を守り、さらに生活文化を発展させ、これを後
     世に伝えます。
   一、わたくしたちは、自然を大切にして、生活との調和をはかり、健康で豊かな区民生活
     を目指します。
   一、わたくしたちは、自立と連帯の精神に支えられた、思いやりと生きがいのある地域社
     会をつくります。

 列柱のオブジェ
 北の入口から入った正面にある。


 
ちょっとゴミ箱が変?
 形は四角だが、一つ一つが子供漫画の主人公になっている。例えばドラえもんだったり、アンパン
マンだったり、クレヨンしんちゃん、セーラームーンもある。 


 
「海」
 昭和56年伊東傀の作品。水着の女・船・鴎。波を表している。この辺りは昭和初年まで海の真ん
中だった。

 
イルカの夢
 園内にある川越三郎の彫刻作品。

   イルカの夢
   川越三郎
   東京大井ロータリークラブ
   東京京浜ロータリークラブ
   平成7年8月寄贈


■小平義雄連続強姦殺人事件
 昭和20年5月25日海軍第一衣糧廠女子寮で、挺身隊員の宮崎光子(21)がレイプされ殺され
た。犯人小平義雄(41)は同廠勤務のボイラーマンで、別の男が容疑者とされたのを機に退職、こ
の後9人もの女性を殺し、30人の女性をレイプする。6月22日東武鉄道新栃木駅で今市市に疎開
中の主婦石井ヨリ(30)を「米が安く手に入る」と誘い出し、栃木県真名子村の山中で、7月12
日渋谷駅で横浜の事務員中村光子(22)を同様手口で誘い出し、栃木県清州村山中で、7月15日
西武鉄道池袋駅で出版社員紺藤和子(22)を同様手口で誘い出し、東京都清瀬村で、9月28日東
京駅で出版社経理事務員の松下ヨシ江(21)を同様手口で誘い出し清瀬村で、12月30日東武鉄
道浅草駅で馬場寛子(19)を同様手口で誘い出し、栃木県西方村で、それぞれレイプした上で殺害
した。逮捕のきっかけは、翌年8月6日1ヶ月前に就職の斡旋を依頼してきていた大相撲立行司式守
伊之助(緑川義一郎)の三女柳子(17)を芝公園の裏山でレイプした上で殺害したが、この遺体を
草刈りの作業員が発見、柳子が小平に会いに行ったことが判っていたので、即日逮捕、連続強姦殺人
事件が明るみに出た。検察は10件の殺人で起訴したが、昭和20年10月31日東横デパート別館
地下の篠川達江(17)、翌年6月9日芝高浜町の廃車置場の阿部よし(15)、同7月22日芝公
園2号地の17、8歳の身元不明の女性の殺害については否定した。しかし小平の仕業だと見做され
ている。昭和22年6月18日死刑判決、同23年11月16上告棄却により死刑確定。

  亡き御霊赦し給へし過去の罪 今日の死を待ち深く果てなん(辞世)

 同24年10月5日死刑執行。44歳だった。
 
 



【上大崎】(かみおおさき)1~4丁目                昭和42年2月1日
 上大崎村。明治22年大崎村大字上大崎、同41年大崎町大字上大崎、昭和7年品川区上大崎1
~5丁目、同41年上大崎1~2丁目・5丁目・上大崎長者丸の全部に、上大崎3丁目のほぼ全部
と上大崎中丸の大部分をあわせた町域を現行の「上大崎」とし、旧4丁目の一部と3丁目のごく一
部を西五反田3丁目へ、上大崎中丸の一部を東五反田五丁目に移して新住居表示を完了した。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『品川区史』『品川の歴史』など。

 大崎の由来
 『南浦地名考』に

   秩父より続きて尾崎なる故に名とす。後に大崎と書き改めしといふ

 とあるのを踏まえると高輪の岬(御殿山)ということになるが、高輪が港区のせいか品川区では
そぐわないとあっさり否定する。尾崎は〝出っ張ったところ〟の意で、杉並区にもその意味での尾
崎があり現在も地形的にそのような形をしている。品川区では「大崎地区には大崎に当たるような
台地の出っ張りはない」としているが、品川の海が湾入していた時代には目黒川の北の台地つまり
高輪台の入り組んだ尾崎に七つの岬があり、現在も千代ヶ崎・森ケ崎・平岡・霞ヶ崎・袖ヶ崎など
の地名が残っている。池田山の舌状台地(平岡)が一番大きいので大崎と呼んだものであろう(大
崎町総覧)。この平岡に岡山藩池田家下屋敷があったことで「池田山」と呼ばれ、大名家の別荘が
あったということはその地を選択したことからして風光明媚な優良地だということだ。池田家でな
くとも選択しただろう。それがため高級住宅地となった訳で、だからこそ「品川区立ねむの木公園」
がある。また東の島津山は仙台藩伊達家の下屋敷の跡で寿昌寺は正宗夫人が開いた寺だ。伊達屋敷
は明治になって薩摩津家の邸宅となったので島津山の名があり、現在はお嬢様学校の清泉女子大学
となっている。
 大崎村は元禄のころ上大崎村・下大崎村に分かれ、その範囲は現在の上大崎・大崎・東五反田・
西五反田に亘る。だから大崎は「東五反田5丁目」つまり池田山だ!
 


■上大崎公園

 上大崎1丁目3番13号にある区立公園。


■浄土宗鎮西派増上寺下屋敷子院八ヶ寺

 三縁山増上寺は、いうまでもなく港区芝公園にあるというより、芝公園全体が元々同寺の境内だっ
た名刹である。家康が江戸入り以来同寺の源誉上人に深く帰依し、麹町貝塚(現在の紀尾井町)から
現在地に移して浄土宗の関東の大本山とした。上野の東叡山寛永寺と並ぶ徳川将軍家の菩提寺でもあ
り2代秀忠ら6人の将軍の霊廟がある。当然歴代将軍の参詣も行われ、寛永寺とともに大きな権威を
持ち、子院の数も寛永寺の三十六坊に匹敵するほどだった。上大崎の子院群は初め芝にあったが、江
戸市街の大改造のきっかけにもなった明暦三年(1657)の大火(振袖火事)後、現在の麻布狸穴
に移された。その後さらに狸穴の地が3代将軍家光の次男で時の将軍4代家綱の弟、後の甲府宰相綱
重の屋敷地になるため、子院はそれぞれ現在地に移転させられた。寛文元年(1661一六六一)の
ことで、当時はこの子院群を「増上寺下屋敷」といった。移転した寺は戒法寺、本願寺、最上寺、光
取寺、清岸寺、正福寺、善長寺、了福寺の八か寺だった。しかし明治の後年、正福寺はここに移って
きた常光寺と合併して常光寺に、善長寺も同じように隆崇院と合併して隆崇院となった。さらに了福
寺は江戸時代後期に廃寺となったが、明治24年その跡に、増上寺の子院ではない宝蔵寺が芝高輪か
ら移ってきた。これで増上寺の子院群は7か寺になったが、昭和6年増上寺山内にあった子院の月窓
院が移転してきて現在に至っている。
 


宝蓮山摂現院光取寺
 上大崎1丁目5番10号にある浄土宗の寺。
増上寺屋敷内子院8ヶ寺の一。寛永元年(1624)
に江戸の芝西久保に慶安寺という名で起立、寛永十一年(1634)に麻布魅穴(狸穴)への移転を
経て、天和三年(1633)に現在地に移って光取寺と改称した。その寺門を入ると、右手に石仏や
石塔がずらっと並んでる。「光取寺の石仏・石塔群」と呼ばれるもので、いずれも江戸時代初期の寛
文年間(1661~73)に作られたという。舟型の石塔には釈迦、阿弥陀などの像が刻まれてる。
元白金台町の直揮庵という寺にあったものだが、同寺が廃寺になったため移されたという。褐色の鉄
筋コンクリート造りの本堂は和風。その左が庫裏。その奥と本堂の奥まで墓地。墓地には、幕末の名
力士横綱陣幕久五郎が眠っている。

 陣幕久五郎土師通高墓
 本名石倉槙太郎。文政十二年(1829)出雲に生まれ阿波、出雲、薩摩藩などの抱え力士となり、
慶応三年(1867)第12人目の横綱に推挙された。明治維新後は専ら親方として活躍する一方、
明治28年(1895)、当時の政財界人から寄付を募って江戸大相撲の発祥地といわれる深川の富
岡八幡宮境内に巨大な「横綱力士碑」を建てた人でもある。

 
田能村竹田先生碑
 東京に所縁の人が大正13年に建てたものという。田能村は豊後竹田藩の儒官で画家でもあったが、
職を辞した後は遊歴を繰り返し、文人画家として大きな足跡を残した。以前は豊後竹田の方に向いて
建てられていたが、寺の改修と共に現在地に移設された。隣に菩薩像などを刻した供養塔群があり、
如意輪観音には安らぎを覚える。不動明王像には欠損があり、前の大戦で愚かなアメリカ軍が無鉄砲
に落とした焼夷弾によるものだという。
 


■月窓院

 上大崎1丁目5番13号にある浄土宗の寺。光取寺と清岸寺の間にある。寛永十四年(1637)
に増上寺子院として開創。昭和6年増上寺山内から移転してきた。清岸寺との境界に石柱あり、狭い
参道を行くとこのお寺がある。本堂は鉄筋コンクリートの打ちっぱなし。墓地に歌舞伎俳優坂東三津
五郎代々の墓がある。
 伊藤博文一家の過去帳を所蔵し、葬儀当日のことが詳記されており、戒名も記載されている。博文
の墓は、西大井6丁目10番の伊藤家墓所に神式で祀られている。
 


法性山浄国院
清岸寺
 上大崎1丁目5番15号にある浄土宗の寺。増上寺下屋敷内子院8ヶ寺の一つ。寛永元年(162
4)江戸の八丁堀に創建された。寛永十二年(1635)にこの地は幕府の御用地となったため召上
げられ、芝金杉に移転した。三世伝長和尚の代、明暦三年(1657)正月十八日の江戸の大火で類
焼し、明暦四年(1658)麻布魅穴(狸穴)に移転した。寛文元年(1661)にこの地は甲府公
の御用地となったので召上げられ、天和三年(1633)に現在地に移った。現在の本堂は11世善
海上人の代、天保八年(1837)に再建されたもので、この辺りでは当寺のみが第二次世界大戦の
戦禍を免れた。和風の本堂の左が庫裏、境内は左右とも墓地になっている。

 

 山門を入るとすぐ目に付く古木。樹齢300年。祐天上人お手植えだとか、根元に小さな碑が建っ
ている。地上1m余のところで二股に分かれ、根元の幹周りは3m余。

   品川区認定文化財
   
清岸寺のサクラ
   本樹は祐天上人手植えの桜といわれ、根元にその碑を建つ。幹周り3m余。高さ10m程
   の大樹で、樹齢も300年以上と推定される。開花は4月上旬。東京の原産といわれる染
   井吉野桜系統のものと思われる。
   品川区内では珍しい桜の老樹として保存されるべきものである。
   昭和45年10月1日指定                    品川区教育委員会


   品川区認定文化財
   
清岸寺のサクラ                   昭和53年2月14日指定
   サクラはバラ科の落葉高木で、特に花を愛でる。日本には約30種のサクラがあるが、本
   樹の種類は不明である。
   寺伝によると、芝増上寺36世の祐天上人(1637~1718)のお手植えと伝えられ、
   樹勢はややつかれているようであるが、今でも多くの美しい花をつける。
   幹の回りは約3m、高さ約7m、推定の樹齢は250年~300年というサクラとしては
   珍しい古木である。
   平成9年3月31日                       品川区教育委員会

 
履堂松平君墓碑銘
 明治22年に「天野性書 井亀泉刻」で建てられた。松平履堂については不明。

 
庚申塔
 山門を入った右手にある。角柱型。日月・青面金剛像・邪鬼・三猿。

 稲荷社
 境内にある。
 


朱珠山宝蔵寺

 上大崎1丁目5番24号にある無宗派単立寺院。元暦元年(1184)に開創。のち芝高輪から現
在地に移転し、現在に至る。廃寺となった了福寺跡に移転してきたが、増上寺の子院ではない。浄土
宗系ではある。

 
了福寺
 下屋敷内子院8ヶ寺の一つである。当寺は当初芝赤羽に開創された寺であるが、後この地が御用地
となったので上大崎村の増上寺の下屋敷内に移ってきたのである。新編武蔵風土記稿には「今堂宇頽
廃す」とあり風土記編纂当時既に衰微していたようだ。廃寺となった年代は不明。当院の寺地は現在
の宝蔵寺の位置がそれであるといわれている。
 


東照山栄願院戒法寺
 上大崎1丁目9番11号にある浄土宗の寺。増上寺
下屋敷内子院8ヶ寺の一つ。元和八年(162
2)に本芝に起立、寛永九年(1632)に麻布魅穴(狸穴)への移転を経て、延宝二年(1674)
に現在地に移転した。入ると左手に鉄筋コンクリート造り3階建ての庫裏、石畳を行くと正面に本堂。
 「新編武蔵風土記稿」に、

   戒法寺
   東照山栄願院と号す。開山傳誉良呑元和八年江戸本芝に起立す。寛永九年麻布狸穴に移り
   寛文元年御用地となり、延宝二年ここに移れりと云。良呑は承応元年五月四日寂す。


 とある。

 
木食心誉一道の石標
 境内にある木食上人の石造物。心誉一道は般若心経、約3000巻を写し、延享三年(1746)
に、この地の平安を祈願して目黒の行人坂の中腹に埋め、塚を築いたといわれる。この石標は、一道
上人が立ち寄った跡を示す道標とも、上人が三田用水に架けた橋の一部とも伝えられる。

 
高井蘭山の墓
 江戸時代の戯作者。
 


善長山隆崇院

 上大崎1丁目9番24号にある浄土宗の寺。寛文九年(1669)に創建され、明治37年現在地
に移転、翌明治38年隣接していた善長寺と合併、善長寺の号は山号に残した。昭和2年に山谷専念
寺と合併して現在に至っている。本堂は鉄筋コンクリート造りの和風。正面が唐破風になっていて、
青瓦の屋根が異彩を放つ佇まいを見せており妙に美しい。明るい落ち着いた寺だ。

 
善長寺
 増上寺下屋敷内子院8ヶ寺の一つである。現在の隆崇院の隣がこ当寺の寺地のあったところだ。寛
永年間に芝新銭座町に創建され、寛永十一年(1634)に飯倉五丁目に移り、さらに寛文八年(1
668)にこの上大崎村に地を賜って移転したといわれている。開山信誉良阿は当寺を開創する前に
芝増上寺内に宝樹庵を開創している。当寺ははじめは大運寺と称したが、慶安三年(1649)に時
の増上寺の住職業誉上人から現在の山号寺号を賜ったといわれている。明治に入って無住となり、寺
務は同じ8ヶ寺の一つである最上寺の住職が之を兼ねて務めていたが、明治38年1月に前年隣接の
場所に移転してきた隆崇院に合併された。
 境内にストゥーバ(仏塔)、数基の石仏像がある。

 
専念寺
 御府内寺社備考に、

   駒込願行寺末 浅草山谷町 荘厳山一心院専念寺、境内御年貢地三百六十四坪。
   草創引地等之儀相分不申候。
   開山荘厳社厳誉上人諦順和尚、寛文六年三月七日遷化。
   本堂、本尊阿弥陀恵心作、千手観音安阿弥作坐像、以上乙酉書上。


 「備考」には浅草山谷町(清川1丁目17番)の辺りの地にあったとあり。大正5年「大日本寺院
総覧」にみえるが、以後は不明。

 
天井絵
 本堂の天井に伊東深水(女優朝丘雪路の親父)とその弟子たちによる天井絵がある。好子夫人の七
回忌追善供養のため、深水自らも筆を取り、息子以下48人が描いた作品だ。永久保存のため、紙・
絵具は香煙にも耐えられるように特に工夫したとか。中央の「牡丹に唐獅子」が深水の作だ。

 
伊東深水の墓
 大正・昭和の浮世絵師、日本画家、版画家。本名一(はじめ)。歌川派浮世絵の正統を継承し、日
本画独特の軟らかな表現による美人画が有名。人気の「美人画」以外の画題を描きたくとも、それ以
外の注文が来ず、画家として困惑する時期もあったという。妻好子をモデルに大作を数多く発表し、
評価を高めた。戦後は美人画とも並行し、個人的に独自の題材で日本画を制作することが多かった。
人気のあまり、戦後には多くの作品が複製版画として頒布されるようになった。
 実娘の朝丘雪路は日本舞踊のお師匠さんでもあり、その流儀を深水流と名づけている。雪路の旦那
は津川雅彦、津川の兄貴が長門裕之、長門の嫁が南田洋子、父親は沢村国太郎、母はマキノ智子、叔
父が加東大介、叔母が沢村貞子、祖父はマキノ省三と芸能人一家なのだ。

 
玉乗り江川氏の墓
 浅草で玉乗り芸を披露した江川作蔵一座の墓標。

 
延命地蔵
 境内にある大きな石造地蔵坐像。

   延命地蔵大菩薩縁起
   浅草の山谷にあった莊嚴山一心院専念寺の七世の照蓮社常誉観夢念瑞上人は、たいへん話
   術に優れ、「説法弘道沙門」と称せられていましたが、享保十八年(1733)十月24
   日に、一万回の説法を勤めたのを記念し、「説法一万座供養」として、地蔵菩薩の造立を
   願って
、数ヶ寺の寺院と大勢の人々の協力と寄進によって、延享四年(1747)三月十
   九日に延命地蔵大菩薩像に魂を入れ、以来人々の信仰を集めてきました。
昭和2年隆崇院
   と合併するに当たり、菩薩像を当地にご転座致し、今日にいたっています。

   なお、この地蔵菩薩像の台座の中に、当院にゆかりの方で、今は無縁となられた人々のご
   遺骨を納め、永代供養しております。
   
延命地蔵とは
   おしゃかさまがこの世を去って、次に弥勒菩薩が仏になられて、この世に現れるまでの間
   人々を教化し救うために遣わされましたのが、お地蔵さま(地蔵菩薩)です。お地蔵様は
   あらゆる処へいろいろに変化して姿を表すので、千体地蔵といわれますが、そのなかで延
   命地蔵とは、人々の命を永らえんことと、充実した生活を送ることを願いとし、また、新
   しく生まれる子の命を守り、短命や不幸の魔の手からふせいで下さる菩薩さまです。 


正福山常光寺

 上大崎1丁目10番30号にある浄土宗の寺。元和元年(1615)芝金杉に大誉上人が開山。高
輪北町への移転を経て、明治42年6月に当地にあった正福寺と合併、翌年移転し、現在に至ってい
る。正福寺は安政三年(1856)八月二十五日暴風のため本堂庫裡が倒壊してから再興できず、仏
具、什器等を同じ8ヶ寺の一つである清岸寺に寄託し、同寺住職が寺務を管理した。後には同じ8ヶ
寺の本願寺や戒法寺らども寺務管理に当たっていた。本堂に通じる。鉄筋コンクリート造り2階建て
の本堂。石段で2階へ上って参詣。本堂の前も墓所。本堂右に鉄筋コンクリート造りの庫裏。「福沢
諭吉永眠之地」という碑がある。

 
和田義郎墓 移転
 多摩墓地に移転した。


 和田義郎の碑
 門を入って右手にある。漢字かな交じりの碑文の最後に「福沢諭吉涙を揮て之を記す」とあるから
諭吉の撰文だ。賜硯堂成瀬温書とあり成瀬大域が書しているが、白いペンキが入れられ些か風情が殺
がれる。成瀬の賜硯堂の号は、「集字聖教序」を書いて、明治天皇から硯を賜ったことに由来すると
か。碑主の、和田義郎は慶応幼稚舎の創始者だ。
墓は青山墓地に移された。

   幼稚舎創始者 和田義郎君碑

   この記念碑は和田義郎氏の功績をたたえ、この地に埋葬せられていたことを記念するため
   常光寺と慶應義塾幼稚舎にて之を建つ
   平成十五年四月十日

   和田義郎君ハ■和歌山乃士族少小■■善とし又文■好む幕府の末年に江戸鉄砲洲の慶應義
   塾に入学し■美書を読み■得少学の■■明治七年の頃より三田の義塾邸内に幼稚舎なるも
   のを設け特小塾生中の童子のみを集めて・・・・・・・・・

 ※達筆過ぎて読めない。悔しい!

 小泉信吉墓 移転
 当初は横浜市にあったが、福澤諭吉歿後、常光寺に移転し、戦後、多磨墓地に移すまで、この寺に
あった。
信吉と和田義郎は、共に紀州和歌山藩の留学生として入塾しており、福澤塾の「姓名録」で
も、慶應二年十一月二十八日の頁に二人の名を見出すことができる。
 信吉は、義塾で学んだ後に英国に留学。帰国後は、横浜正金銀行創立等の活躍を経て、義塾が近代
的学塾への転換を図ろうとしていた時期の、明治20年から23年にかけて塾長を務めた。その後は
横浜正金銀行支配人を務めていたが、和田の逝去から2年後の同27年、腹膜炎で急逝した。
 信吉が急逝した時、福澤先生は悲しみ、早速に、長文の弔詞を認めた。 その中には、小泉の人柄
が良く描かれている一節がある。

   その心事剛毅にして寡慾(かよく)、品行方正にして能く物を容れ、言行温和にして自ら
   他を敬畏せしむるは、正しく日本士流の本色にして、蓋し君の少小より家訓の然らしめた
   る所ならん。その学問を近時の洋学者にしてその心を元禄武士にする者は唯君に於て見る
   べきのみ。我慶應義塾の就学生、前後一万に近きその中に、能く本塾の精神を代表して一
   般の模範たるべき人物は、君を措て他に甚だ多からず。

 また末尾には、「福澤諭吉涙を払て誌す」とある。常光寺への移転は、信吉夫人の「恩師のおそば
にいつまでもという気持ち」からだったという。

 
鎌田栄吉墓
 福澤諭吉、和田義郎、小泉信吉、いずれの墓所も移転してしまったが、今なおこの地に眠るのが鎌
田栄吉だ。鎌田も和歌山の出身で、福澤最晩年の明治31年から大正11年まで、25年に亘って塾
長を務めた。その間、一貫教育の充実、図書館の建設、医学部の開設をはじめ義塾の拡充に多くの功
績を遺した人であるが、特に大切なのは、自前の優秀な教員を育成するために、海外派遣留学生の制
度を設け、その後の義塾を支える教授陣の輩出に至ったことだろう。また、独立自尊の精神を、年少
の塾生にも解り易い表現で繰り返し説き、福澤歿後の義塾の気風を確かにした人でもある。
 鎌田は、入塾以来、小泉信吉に公私とも一番世話になったと自ら述懐していた。また、孫で塾監局
長を務めた鎌田義郎は、栄吉が和田を非常に尊敬していたことから、「義郎」と名付けられたと語っ
たことがある。 

 ●
阿弥陀経供養塔
 本堂前の植込にある。「仏説阿弥陀経」を刻した壮麗な江戸時代の石塔だ。

 
福沢諭吉墓 移転
 諭吉が亡くなった日の5日後となる明治34年2月8日、福沢家の菩提寺でもある善福寺において
葬儀が執り行われた。慶応義塾の塾生をはじめなんと15000人もの会葬者が葬列に加わった。
 併し、その葬儀の後、諭吉の柩は善福寺に埋葬されることはなく、白金大崎村(現在の品川区上大
崎)にある本願寺に運ばれ、本願寺が管理する廃寺(正福寺)の墓地に埋葬された。諭吉が生前、周
辺の眺望が良かったことから気に入ったとも、慶応幼稚舎を創立した諭吉門下生和田義郎の墓があっ
たからともいわれるが、生前にこの墓地を手に入れていたという。場所は現在の慶応大学三田キャン
パス内にあった諭吉邸から約3km、山手線目黒駅からは歩いて15分ほど、高級住宅街として有名
な池田山の近くに位置する。明治43年に常光寺が廃寺の寺跡を譲り受けて移転してからは常光寺の
墓地となった。
 さてそうなったことで、この諭吉の選んだ墓所が、数十年の時を経て福澤家に一騒動を巻き起こす
こととなった。常光寺周辺は、嘗ては美智子皇后の実家があったほどの高級住宅街だが、寺近辺には
隣地の本願寺を含めて9つの寺が集まる寺町になっている。これらの寺々は、元々芝公園の増上寺の
子院が集団移転してできたもので、本願寺、常光寺を含めて総て浄土宗を宗派とする。
 一方、福沢家の菩提寺である善福寺は浄土真宗。
 常光寺は本堂の建て替えに際して、墓の所有者は浄土宗信徒であることを条件としてしまったため
浄土真宗の福沢家は常光寺にお墓を持てなくなってしまったのだ。
 結果、福澤家は昭和52年、墓をを改葬することを決定、改葬先は菩提寺の善福寺となった。
 現在も善福寺には諭吉の墓があり、毎年2月3日の諭吉の命日・雪池忌(ゆきちき)には、慶応の
塾生やOBなど、相当な数の人が墓参りに訪れるという。

 
福沢諭吉永眠の地標柱
 永眠の地碑の右前に建つ。

   史蹟 福澤諭吉先生永眠の地

 福澤諭吉先生永眠之地(墓所跡)
 昭和52年まで福沢諭吉夫妻の墓があったが、菩提寺である麻布善福寺に改葬された。改葬の際発
掘したところ、生けるがままの姿で白蝋化遺体が現われたんだと。ミイラじゃん。心残りがあったん
かなぁ。一万円札に載りたくなかったんじゃないの? 福沢家が浄土真宗だったため、真宗の善福寺
に移したという訳。そんなの最初から分かってんじゃん。その墓所跡には、よっぽど家族の墓所移転
が悔しかったのか慶応義塾大学の手によって記念碑(谷口吉郎設計)が建てられた。

   明治三十四年二月福澤諭吉先生永眠のとき此處に
   埋葬せらる 先生の生前自ら選定し置かれし墓地
   なり 昭和五十二年五月福澤家の意向により同家
   の菩提寺麻布山善福寺に改葬せらる よって最初
   の塋域を記念するため之を建つ
   昭和五十三年五月十四日

     天保五年十二月十二日生
   
福澤諭吉先生永眠之地
     明治三十四年二月三日死

                     慶應義塾

 
福沢諭吉胸像
 永眠の地碑の傍らにある。


   この福澤諭吉先生の胸像ブロンズは三田山上慶應義塾大学図書館正面入口に建っている胸
   像の原型を復元したものである。
   当山浄境の福澤諭吉先生永眠の地に之を建て永く先生の遺徳を顕彰する。
    2006年2月3日
                              常光寺 第18世 光譽壽雄
                                  梅田石材 梅田武久



撰澤山
念仏院本願寺
 上大崎1丁目10番32号にある浄土宗の寺。
増上寺下屋敷内子院8ヶ寺の一つ。昭和20年5月
25日の戦災で全て焼失したため、縁起は不詳ながら、開基の称誉光幽が、寛永十一年(1634)
に寂していることから、この頃の創建と推定される。 門を入った正面に鉄筋コンクリート造りの和
風の本堂があり、寺号額は総理大臣をやった三木武夫の揮毫だ。左に庫裏これも鉄筋コンクリート。
その左と道路の向かいとに墓地がある。

 
阿弥陀経十万巻の石塔
 墓地にある。

 
月夕窓調和先生遺髪碑(歌碑)
 山門を入ったところの植え込みにある歌碑。碑陰に、

   
月夕窻調龢先生遺湏冢碑陰

   春田永年静甫撰 寛政十一年巳未秋八月七日 牛込箕騰岳書并隷額 松鶴年刻

 とある。銘文は後ろ直ぐに生垣があるので読み得ない。
 


極善山
即相院最上寺
 上大崎1丁目10番37号にある浄土宗の寺。増上寺
下屋敷内子院8ヶ寺の一つ。赤坂溜池にあっ
たが、麻布魅穴(狸穴)への移転を経て、寛文元年(1661)に現在地へ移転した。ブロック塀に
石積み門柱。正面に鉄筋コンクリート造り2階建ての本堂、石段で2階へ詣るシステム。右に庫裏。
入口右と本堂左が墓地。

 播磨守蓮庵戸川安清の墓
 小祠のような覆屋の中に祀られている。墓表は自書したものといわれるがそれ以外は刻されていな
い。谷中墓地には自書による寿蔵碑がある。生前の文久二年(1862)に着手されたが、紆余曲折
を経て実際に建ったのは明治12年だそうだ。没して10余年を経て建てられた珍しい寿蔵碑だ。因
みに蓮庵は、西日暮里の本行寺にある師匠の市川米庵の「寿蔵之碑」も書している。
 戸川は江戸の人で、名は安清、号を蓮仙・蓮庵などと称し、500石の旗本中島戸川家の第5代当
主で、目付・勘定奉行・長崎奉行等の要職を歴任した幕臣だが、篆書・隷書の名手としても、良く名
の知られた人物だ。

 
戸川安宅の墓
 旧幕臣、詩人、宣教師。名は、隼人のち達若、安宅。雅号は残花(殘花)。別号として百合園主人
を名乗る。
 安政二年(1885)早島戸川家12代安行の子として江戸牛込原町に生まれる。慶応元年(18
65)2月の長州征伐は、病気がちだった兄安道の名代として出陣した。明治元年(1868)3月
12日兄の名代として品川港から上洛の途につく。アメリカの蒸気船で神戸を経、3月18太政官へ
の懇願書と岡山藩主の添書を提出した。同年5月彰義隊に参加。同年6月一族と共に早島へ帰国。同
年8月兄の養子となり家督相続。早島戸川家は表高3000石に対し、実高は5233石であった。
しかし借金は嘉永年間の時点では約3万両(内訳江戸1万2000両余・知行所1万両余・大坂の御
用達(加島屋など)6500両・その他2000両余)利子数千両、加えて幕末維新の動乱で軍費が
嵩んだため財政は事実上破綻していたが、同2年6月版籍奉還により借金地獄からは解放された。し
かし所領を失ったため、同3年2月に江戸へ戻ったが、既に江戸屋敷は接収されて大隈重信の屋敷と
なっていたため、以後は新政府から与えられた代替屋敷に居住した。その後大学南校、慶応義塾、築
地学校などで勉学に励んだ。同7年洗礼を受けてキリスト教徒徒となる。同16年以降宣教師として
関西方面で布教に従事した後、帰京して糀町教会の牧師となる。同23年「伝道師」「童蒙賛美歌」
(共編)、同25年5月「新撰讃美歌のてびき」などキリスト教関係の雑誌を刊行。同26年星野天
知主宰の「文学界」創刊時、客員として詩を発表。中でも七五調と五七調を混用した哀れにして上品
で美しい詩「桂川(情死を吊う歌)」は北村透谷から激賞されたという。この年は毎日新聞に入社し
て小説も書いた。同30年から3年間、勝海舟旧幕臣の手を借りて雑誌「旧幕府」を刊行し、古老た
ちの旧幕府時代の回想や論考、文芸作品などを掲載した。同34年日本女子大学の創立に成瀬仁蔵と
共に参画し国文学の教授となった。この間明治34年に旧紀州藩邸跡(赤坂御所・迎賓館)に作られ
た紀州徳川家の南葵文庫の主任学芸員を務める。大正12年関東大震災で大井町(品川区)の家が倒
壊したため大阪天王寺で長男宅に同居する。大正13年没。

 畑六郎左衛門君碑
 門を入って本堂寄りの通路の右から二つ目にある。市河米庵の書。「天保九年歳次戊戌冬十月 安
積信撰 河三亥書 広羣鶴富川吉住合刻」とある。信は艮斎(ごんさい)、三亥は米庵の諱(本名)。
 畑六郎左右衛門という人は、新田義貞の勇将の時能のことで、15世子孫の秀重がこの顕彰碑を建
立した。秀重は、戸川家の家臣という。
 畑六郎左衛門時能は、篠塚伊賀守・粟生左衛門・亘理新左衛門と並んで新田義貞四天王の一人に数
えられる武将だ。義貞に従って各地を転戦し、延元二年(1337)七月、義貞が藤島の戦いで戦死
した後は、脇屋義助に従って坂井郡黒丸城、千手寺城、鷹栖城を転戦、足利方の斯波高経と激戦を繰
り返した。しかし南風は振るわず南朝方の諸城は次々と攻略され、暦応四年(1341)六月には大
滝城が陥落した。残るは時能が拠る鷹巣(高栖)城だけとなり、翌七月斯波高経・吉見氏らの大軍が
鷹巣城を包囲した。時能は屈せず籠城を続け、十月鷹巣城から伊地知山(鷲ヶ岳)へ移動してなお抵
抗姿勢を崩さなかった。しかし多勢に無勢、ついに斯波勢に突撃して奮闘のすえに戦死したと伝えら
れる。『太平記』には、この間の畑六郎左衛門の勇戦ぶりが面白おかしく記されている。
 時能が戦死したのち、遺児六郎時速は母に連れられて丹波にいた新田一族の江田行義を頼った。そ
して、丹波の中村に落ち着き、成長したのちは江田氏の幕下に属したという。これが、丹波畑氏の始
めだと伝えられている。

 
人間国宝 芹沢銈介の墓
 静岡市生まれで、静岡市名誉市民。文化功労者。重用文化財「型絵染」の保持者(人間国宝)。2
0世紀日本の代表的な工芸家として内外から高く評価されており、民芸運動の主要な参加者でもあっ
た。オリジナリティあふれる作品群を生み出したほか、本の装丁など商業デザインも手がけ、また、
その選美眼で世界各地の民芸品を蒐集した。東北地方、ことに仙台の街や鳴子温泉を愛したことでも
知られる。息子の長介は考古学者として活躍したが、晩年は東北福祉大学芹沢銈介美術工芸館の館長
を務めた。
 芹沢は確かなデッサン力と紅型(びんがた)、江戸小紋や伊勢和紙などの各地の伝統工芸の技法を
もとに、模様、植物、動物、人物、風景をモチーフとした、オリジナリティあふれる、和風でシック
な作品を次々と生み出していった。「型絵染」は芹沢が創始した技法で、布の代わりに、紙を型紙で
染めたもの。「型絵染(かたえぞめ)」という呼び名は、人間国宝に認定された折に案出された。そ
の仕事は、着物、帯、夜具、暖簾、屏風、壁掛け、本の装丁、カレンダー、ガラス絵、書、建築内外
の装飾設計(大原美術館工芸館)など、多岐に亘る。

   人間国宝(型絵染)芹沢銈介先生の略歴
   明治28年5月15日 静岡市に生れる
   大正 5年  21才 東京高等工業学校図案科卒業
   昭和16年  46才 浄土宗祖「法然上人絵伝」完成
   昭和31年  61才 人間国宝に認定
   昭和42年  72才 静岡市名誉市民となる
   昭和43年  73才 新皇居「連翠の間」の横額二面の謹作
   昭和51年  81才 最上寺の■■■■となる。・・・・
   昭和57年  87才 釈迦十大弟子尊像を謹作
   昭和58年  88才 4月19日 84才で妻逝(たよ夫人)
   昭和59年  89才 4月5日■■■■
   正四位勲二等 壽型院殿染誉一進銈介大居士
   昭和59年4月7日納骨の日に
               極善山最上寺第三十五世良誉・・・誌


■第三日野小学校

 上大崎1丁目19番19号にある区立校。通称「三日野」。第二日野小学校の飽和状態に鑑み、大
正11年「東京府荏原郡第三日野尋常小学校」として開校。同15年荏原郡唯一のプール設置。
 昭和4年校地拡張。同7年市郡合併により「東京府東京市第三日野尋常小学校」と改称、同16年
勅令148号国民学校令公布により「東京府東京市第三日野国民学校」と改称。紀元2600年事業
として講堂落成。12月日米開戦。同18年都制施行により「東京都第三日野国民学校」と改称。同
20年愚かなアメリカ軍の非人道的無差別空爆により校舎全焼。8月日本は、ならず者国家アメリカ
の軍門に降り敗戦。以後属国とされ、唯々諾々といいなりになる保守的傀儡政権を保持せざるを得な
い今日的不幸を背負い込む。もう200兆円以上がとこ持っていかれっちまったよ。女の子がレイプ
されても泣き寝入り、これからの若者はアメリカの尖兵として最前線の激戦地に送りこまれるぞ。ご
愁傷様なこってい。武運長久にな!
 同22年アメリカの強制による「学校教育法」施行により「東京都品川区立第三日野小学校」と改
称。同22~27年順次木造校舎を整備。同27年創立30周年を記念して校歌制定。

 校歌
「名さえ朝日に」 作詞・西条八十  作曲・下総暁一
  1.名さえ朝日に輝く緑
    日野は吾等の楽しい学校
    磨く心に鍛える体
    笑顔明るく伸び行く吾等
    楽し 楽し 吾等
    ああ第三の小学生 吾等
  2.月の桂の徽章は照らす
    清く正しい理想の道を
    優しい恩師の恵みの光
    受けて元気に伸び行く吾等
    楽し 楽し 吾等
    ああ第三の小学生 吾等
  3.空の日の丸 世界が仰ぐ
    文化栄える誉れの日本
    育て作るは未来の吾等
    燃える希望に伸び行く吾等
    楽し 楽し 吾等
    ああ第三の小学生 吾等


 同29年校舎新築。同35年NHK唱歌ラジオコンクール全国優勝。同35~49年4工期に分け
て鉄筋校舎に改築。同52年校地整備、組立プール完成。同56年日中親善教育交流の一環としてハ
ルピン市の継紅小学校と姉妹校となる。同58年第1回中国教育視察団来校。同59年第2グラウン
ド・歩道橋完成。
同60年第2回中国教育視察団来校。同62年第3回中国教育視察団来校。同63
年新体育館完成。
 平成元年埋込式プール新設及び校庭サーファス舗装。第4回中国教育視察団来校。同9月ハルピン
市長公式来校。同2年第5回中国教育視察団来校。同3年優良小学校PTA警視総監賞受賞。第6回
中国教育視察団来校。生徒代
表が中国訪問。同4年創立70周年記念式典。同5年第7回中国教育視察団来校。同6年和室・視聴
覚室・小会議室改修。同7年パソコンルーム開設。栽培園整備。同10年世界児童画展・文部大臣表
彰。同14年
三日野カーペンターズ読売教育賞受賞。TBS子ども音楽コンクール優秀賞受賞。創立
80周年記念式典。同15年NHK全国音楽コンクール東京大会銅賞受賞。同16年
ドキュメンタリ
ー映画「トン
トンギコギコ図工の時間」完成試写会。正門オートロック取付。同17年学習室完成。
韓国麻北初等学校来校。すまいるスクール開校。タイ王国教育視察団来校。同18年タイ王国教育視
察団来校。
同19年ウィンフィルハーモニー来校演奏。創立85周年記念式典。同20年校舎改築着
工。同22年新校舎落成。同24年創立90周年記念式典。
 


■三州郷土館

 上大崎1丁目20番27号にある民間施設。
 1階:ロビー・会議室(洋室、和室)・談話室、図書・資料室
 2階:大ホール、配膳室・図書室
 ※図書室には郷土関係の出版物、鹿児島県、宮崎県及び県下96市町村の郷土誌、広報誌等が揃っ
ており、ロビーではコーヒー、お茶の用意がしてある。いつでもご自由にどうぞとのこと。
 大ホールは200名まで、講演会、郷土会、同窓会、セミナー、研修会等に利用可。なおホールは
半分の利用も可能だよ。お好きなスタイルで自由にセットできる。

 
社団法人「三州倶楽部」
 郷土子弟の育英に寄与する事業を行っている。目的は、南九州薩摩・大隅・日向三州古来の伝統・
文化、先人の事業・史実、その他公益に関する事項などを調査研究するとともに、郷土の進歩発展に
資し、併せて国家社会の進運に寄与するために。育英の事業を行っている。まあいわば旧島津藩の領
民会のようなものだ。大正7年の創立、初代会長は樺山資紀海軍大将というから豪勢だ。上野の西郷
像を建てたり、東郷神社を復興したりしている。03‐3477‐6776 以下は会長挨拶。

   社団法人三州倶楽部は、大正3年桜島の大噴火に衝撃を受けた三州(鹿児島県・宮崎県)
   出身、在京の30歳代前後の若い方々が、復興義損金の募金活動を開始したことが契機と
   なり、郷土出身大先輩方の協力を得て、公益事業を行う法人として大正7年に設立しまし
   た。以来、戦前、戦中、戦後と時代は変わり、我国の社会構造も大きく変化しましたが、
   三州倶楽部は一貫して、郷土・社会の発展に寄与することを目的に運営して参りました。
   この間、時代の変遷と共に多くの事業を行うようになり、現在では文化活動、地域社会貢
   献、人材育成など広い範囲の公益事業を行い、会員の交流・親睦の事業も行っています。
   またその資金に充てるため貸駐車場、貸室業などの収益事業があります。
   三州倶楽部には次のような特色があります。

   1.
伝統行事や各種行事を通じて、明治維新を成し遂げ、わが国の近代化を主導した三
     州先人の精神や事績などを学び、自己の充実、啓発の機会を得ることができる。
   2.会員の年齢層が広く,職業や経験の異なる会員が在籍しているので,若年層の会員に
     とっては多彩な人脈の形成が可能で、その助言を受けることができる。
   3.歴史が古く、三州諸団体の幹部を勤める会員が多く、交流が盛んで、自然に三州に
     係わる情報や人脈のセンター的存在となっている。
   4.個人としては行い難い郷土に対する貢献を、三州倶楽部を通じて行うことができる。

   三州倶楽部は民法に準拠する公益法人として93年前に発足しましたが、平成20年12
   月、公益法人三法の施行に伴い、特例民法法人となっています。現在、新しい法律による
   公益事業の一層の拡大、充実に努めております。
   会員の資格は、鹿児島県、宮崎県出身者並びに縁故者となっており、会員2名以上の紹介
   が必要です。
   三州倶楽部には幅広い年齢層の会員がおられ、倶楽部の行事、講演会や同好会に参加され、
   交流・親睦を深め、郷土の発展に寄与し、充実した人生を過ごしたいという方々の集まり
   です。ちなみに同好会には囲碁、ゴルフ、踊り、詩吟、料理、国際交流などがあり、楽し
   い集いが開かれ、魅力ある倶楽部づくりにも心掛けておりますので、趣旨に賛同される皆
   様のご入会を心から歓迎しております。
 


■東儀秀樹接触事故

 上大崎1丁目22番17号付近の首都高速道路で、平成29年2月28日18時25分頃に起きた
事故にある。雅楽師東儀秀樹(59歳)が右側車線に移ろうとして接触事故を起こした。双方に怪我
はなかった。


■長者丸

 上大崎2丁目の辺り、白金長者の出丸のあったところという。大崎長者丸は高級住宅地の代名詞の
ようなものだったが、田園調布にお株を奪われてしまった。なお白金長者の子孫は横浜に健在だそう
な。


■海軍大学校 
廃校
 上大崎2丁目10番34号にあった旧日本海軍の上級将校教育機関。略語として「海大」とも呼称
される。現在の海上自衛隊では、指揮幕僚課程に相当する。海軍兵学校が築地から広島県江田島に移
転した明治21年跡地に開校。初代校長には井上良馨が着任した。一高(東大教養学部)と並び称さ
れるエリート集団、海軍兵学校の卒業生からさらに選び抜かれた人材の教育機関であり、日本最高の
エリートだった。海軍の高級幹部を養成する機関で、受験資格は兵学校での教育を受けた中堅将校で
ある大尉・少佐であることが基本。受験資格の付与順において兵学校時代のハンモッグナンバーは在
学時に引き続いて効力を有しており、とりもなおさず兵学校の上席の卒業生がエスカレーター式にそ
のまま入学する形となり卒業後、海軍の要職を占めることになった。将官への昇進は海大出身である
ことが必須だった。ただし海大を2度不合格になりながら中将にまで昇進した大西瀧治郎(特攻の生
みの親)ように例外も存在する。
 大正12年関東大震災で罹災し、昭和7年上大崎長者丸に移転。新しい海大は庁舎と呼ばれた校舎
を中心に兵棋演習場、科学実験場などを備えた大規模な施設だった。敗戦と共に廃校となり、跡地は
国立予防衛生研究所になり、海軍学は同29年開校の防衛大学校に引き継がれている。
 


■国立予防衛生研究所 → 国立感染症研究所 
移転

 上大崎2丁目10番34号にあった厚生省(厚労省)の附属研究機関。第二次大戦戦後の我が国の
衛生状態は極度に悪く、結核、腸チフス、赤痢、ジフテリア、日本脳炎、寄生虫病等多数の感染症が
蔓延していた。そのため「感染症対策」が緊急の課題となり、それに関わる基礎、応用研究に力を注
ぎ、抗生物質やワクチン等の開発とそれらの品質管理に指導的役割を果たす厚生省の附属試験研究機
関として、昭和22年に国立予防衛生研究所(国立感染症研究所)は設立され、当初 東京大学附属伝
染病研究所(東京大学医科学研究所)の庁舎内に設置された。3部と庶務課で業務を開始。同25年
以降厚生省組織規程の下に、細菌、ウイルス・リケッチア、結核等12研究部に拡大された。同30年
には東京大学附属伝染病研究所から上大崎長者丸の旧海軍大学校の跡地(現在のシティコート目黒)
に移転、品川庁舎とした。
 同33年に発生したポリオの大流行に対処するため、試験製造及び検定業務の施設が緊急に必要と
なり、同36年武蔵村山市にワクチン検定庁舎(村山分室)が新築され、さらに同分室には、同38
年にウイルス中央検査部が、同40年に麻疹ウイルス部が新設された。同53年には検定・研究に必
要な品質の一定したサルの供給を目的として、茨城県つくば市に筑波医学実験用霊長類センターが支
所として設置された。
 同59年の「国立予防衛生研究所のあり方に対する答申」等に基づき、平成4年研究部門と品質管
理部門の分離等を考慮の上、組織の全面的見直しが行われ、秋に品川庁舎から現在の新宿区戸山(戸
山研究庁舎) に移転、品質管理部門 (ワクチン、 血液製剤等)は村山分室に集約された。
 


■シティコート目黒

 上大崎2丁目10番34号の国立感染症研究所の跡地に建てられた都市基盤整備公団の賃貸住宅。
平成14年仕事をする空間を住宅に併設した公団初の賃貸住宅〝SOHOd住宅〟(施設付き賃貸住
宅)を公開。目黒駅から東北に徒歩2分、信号にかからなければ歩いて1分の近距離にある。この広
大な土地は、元研究所ということで周囲に緑が豊富にあり、その緑を残しながらシティコート目黒を
建設したという。建物正面にある立派な樹木は、国立感染症研究所時代からのものだとか。


■誕生八幡神社

 上大崎2丁目13番36号にある。駅名は目黒でも所在地は品川区のJR山手線目黒駅前の目黒通
りを東へ行くと、左手にビルの間に挟まれるように神社が肩をすぼめて鎮座している。よく見ると石
段上の社殿は鉄筋コンクリート造りの社務所の屋上に建っているではないか。大都会の中では神様も
なかなかゆったりとはできないらしい。「誕生八幡宮」として『江戸名所図会』にも

   文明の頃、筑前宇美の地より勧請す

 と紹介されている。文明年間(1469~87)、太田道灌が夫人の安産を祈願してこの地に宇美
八幡宮を勧請し、無事男子をもうけることができたので、その名が付いたといわれる。もちろん昔は
境内も広かったが、度重なる目黒通りの拡張で現在のような姿になった。
 3代将軍家光がこの辺りに鷹狩りにきた時、放った鷹が獲物も取らずに何処か飛び去ってしまった。
困った家光がふと道端を見ると小さなお稲荷さんがあった。家光は弁当が入った重箱を社前に供え、
鷹が戻るようにと祈った。すると間もなく鷹が戻り、家光は狩りを続けることができた。それで「重
箱稲荷」の名を頂戴した。元はここより東の地にあったが明治42年、誕生八幡に合祀されたってこ
とだ。 社殿があるテラスには、お稲荷さんも祀ってある。

 
大銀杏(区指定天然記念物第21号 
 入口の左右に2本あり、右側が目通り3.45m、樹高14.5m、推定樹齢200~300年とさ
れ、左側が目通り2.71m、樹高11.5m、推定樹齢200~300年だ。幹全体が筵(むしろ)
で覆われ、下部はさらに竹でぐるぐる巻かれて養生されている。道路拡幅で3度も移植にもめげず、
双樹とも目黒通りに面し、ビルに囲まれた中で旺盛な樹勢を誇り、樹姿もに良いく貴重だ。都会の巨
樹も苦労が絶えないねぇ。

   品川区認定文化財(第20号)
   
誕生八幡神社の双樹イチョウ
   このイチョウ2本は誕生八幡神社の入口、目黒通りに向って■■■■に立つ。今までに三
   度移植されたが、よく耐えてきたのである。社殿に向って右側のものは、幹周り3.25m。
   高さ14m。左側のものは、幹周り2.7m。高さ22m、相比の美しさを見せている。
   誕生八幡は古くこの地に祀られた神社で、この地は江戸時代、江戸と郊外を結ぶ重要且つ
   ■■な地であった。この双樹イチョウもその■■■されたものと思われる。
   昭和50年3月21日認定                    品川区教育委員会

   品川区指定天然記念物
   
誕生八幡神社の大イチョウ(1)(2)     所在 上大崎2丁目13番36号
                            指定 昭和53年2月14日
                                     (第21号
   本樹は、昭和45年に移転改築された八幡神社の本殿入口に向って両側に位置している。
   これまで道路拡張により三度も移植されたが、よく耐えて旺盛な樹勢を見せている。
   本社は文明年間(1469~1487)筑前(福岡県)宇美八幡より勧請された。
   (1)は本殿に向って右側に位置し、幹周り3.25m。樹高1.45m。
   (2)は左側に位置し、幹周り2.71m。樹高11.5m。ともに推定樹齢250~30
   0年である。
   双樹とも、目黒通りに面し、ビルに囲まれた中で、樹姿・樹勢ともに良く貴重である。
   昭和63年3月15日設置                    品川区教育委員会

 ※古い説明板の左側の樹高が高すぎる。誤記だろう。  


■重箱稲荷

 上大崎2丁目13番36号にある誕生八幡神社の急な石段を登ると、社殿のテラスの左側に小祠が
祀られている。江戸時代は、西五反田にある徳蔵寺が別当を兼ねていた、「重箱稲荷」は、延宝年間
(1673~80)の地図によると六軒茶屋町(上大崎交差点付近)に位置している。

   稲荷社 境内88坪総べて除地なり、神体は十一面観世音にして木製立像長八寸、社殿
   は間口一間奥行九尺


 寛永元年(1624)、家光公が荏原郡品川村辺に放鷹に訪れたおり、家光最愛の鷹が飛び去って
しまい、道端に小さな稲荷社を見付け、持ってきた弁当の入った重箱をこのお宮に供えて「鷹がもどっ
てきますように。」と一心に祈ったという。すると不思議なことに、どこからともなく鷹が戻ってき
たので、家光は大いに喜んで狩りを続けた。そして家光が供えた重箱はそのまま稲荷社の宝となり、
ために重箱稲荷と呼ばれ、霊験顕かなことで人びとの厚い信仰が寄せられた、家光の供えた重箱は寺
宝として別当である德藏寺に所蔵されていたが、嘉永三年(1850)の火災によって焼失したため
現存していないとか。
 


■高福院

 上大崎2丁目13番36号にある高野山真言宗の寺。高野山無量寿院末。慶安元年(1648)に
阿闍梨頼順が開山した。隣接している誕生八幡神社の旧別当寺、御府内八十八ヶ霊場4番札所。本堂
の前のやたらとでっかい灯籠が1基、気になるほど目立つ。周囲は総て墓地、そこに版画家恩地孝四
郎、作家長谷川伸の墓がある。

 
恩地孝四郎の墓
 
おんちこうしろう 版画のほかに、装丁、写真、詩もやった。主たる活動は版画・装丁。版画に関
しては、大正3年に田中恭吉・藤森静雄とともに、同人誌『月映』(つくはえ)を創刊。最初期の抽
象的な版画作品を制作している。写真については、フォトグラムやフォトモンタージュの作品、ロシア
構成主義的な作品集『飛行官能』(昭和9年)新即物主義的な植物の写真を多く掲載した作品集『博
物誌』(昭和17年)など、前衛的な表現方法を好んで用いた。後者の2つの作品集については、自
身の詩や版画との組み合わせで、独自の世界を形作った。

 
長谷川伸の墓
 はせがわしん、小説家、劇作家。本名伸二郎。横浜市日ノ出町生まれ。他の筆名に、山野芋作、長
谷川芋生、春風楼、浜の里人、漫々亭、冷々亭、冷々亭主人などある。明治44年から都新聞(東京
新聞)の演芸欄担当の記者。大正3年前後に『講談倶楽部』や『都新聞』に山野芋作のペンネームで
小説を発表し始め、大正11年以降、長谷川伸のペンネームで作品を発表するようになった。大正1
4年には大衆文芸を振興する「二十一日会」の結成に参加し、翌年都新聞を退社後、作家活動へ専念
した。昭和2年江戸川乱歩、土師清二、小酒井不木、国枝四郎らと「耽綺社」を設立、同8年の「二
十六日会」結成など、大衆文芸や演劇の向上を目的とした活動においても知られるようになる。また
主宰していた文学学校(勉強会)の門下生には、村上元三、山手樹一郎、山岡荘八、戸川幸夫、平岩
弓枝、池波正太郎がおり、後世への大衆文芸活動を支えた。また各地方における地方史の研究に関し
ても、彼の門下生は多大の貢献をしているが、今日では逆にその在野史家の研究内容を中央の出版会
が無断で簒奪する行為(大学教授が「新書」としてアリバイを作り、流行作家に書かせるケースが多
い。俗にいうパクリだ)が繰り返されておりこの「長谷川山脈」の遺産を食い潰している惨状は目を
覆わんばかりだ(「要出典」)
 昭和38年死去。享年79。昭和41年に長谷川伸賞が設立された。

 
石井宗謙の墓
 江戸後期の蘭方医。美作国真嶋郡旦土村(岡山県落合町旦土)の医師石井信綱(一説に信正)の長
男。27歳の頃長崎に遊学、蘭館医シーボルトに西欧の医学を学び、『日本産昆虫図説』などをオラ
ンダ語に訳し、シーボルトに提出するほどの語学力に達した。文政十二年(1829)シーボルトが
国禁事件で離日後、間もなく帰郷、天保三年(1832)美作勝山藩医に任ぜられた。一時期岡山で
開業。この時シーボルトの子楠本イネに産科を教えると共に、イネとの間に娘たか子を設けた。のち
江戸に出て蕃書調所に出仕したが、地方小藩出身のため才能を十分発揮できなかった。
 


■鳥しき

 上大崎2丁目14番12号にある焼鳥屋。
 様々な部位をバランス良く組み合わせたおまかせが主流。頃合を見てストップをかけよう。野菜は
瑞々しく、淡白な肉質で皮に甘みのある伊達鶏は、丸で仕入れるので内臓も取り分け新鮮。串打ちは
中心部に強く当たる火力を考慮して刺す。
 18時~23時 休みは毎週月曜・祝日・8月中旬・年末年始。 03‐3440‐7656

 ミシュランガイド東京 
 『2011』から『2014』まで4年連続で星1つを取っている。
 


■目黒駅

 上大崎2丁目16番にあるJR山手線の停車場。明治18年3月1日に日本鉄道が品川~赤羽間を
開業させた半月後に、品川の次の駅として開業した。渋谷、新宿、板橋、赤羽は3月1日に開業して
いるが、なぜか目黒と目白の2駅が仲良く半月遅れで開業している。因みにこの時点では池袋駅はま
だなく、その開業は明治36年4月1日だ。
 JRのホームは島式1面2線構造で、掘割内地下1階(しかし地下ホームではない)にある。真上
に駅ビルがかぶさっているため、昼間でも暗い。ホームと改札階(1階)を結ぶエレベーターは設置
済み。駅ビルができる前は可愛らしい駅舎ととんかつ屋「とんき」があった。揚げたてのとんかつに
キャベツとご飯が食べ放題なのが人気で大繁盛していた。木造なので歩くと床がゴトゴト音を立てる
のだ。駅ビルの建設で向かいのビル1階に移転したが、おいらも一回行ったきりでそれなりになった
が、何時しかなくなってしまった。噂では、裏の小さいビルに移ったんだとか。やっぱり繁盛してる
らしいよ。
 JRの改札口は1階にある中央改札口と、地下3階にある東急連絡改札口の2ヶ所。中央改札口か
らは、東口と西口の2ヶ所の出口に通じている。
 品川駅が品川区でなく港区にあるのと同様、目黒駅も目黒区でなく品川区にある。目黒区役所があ
るのは、東急東横線・東京メトロ日比谷線の中目黒駅付近である。

 ●安室奈美恵の元旦那接触事故
 平成27年11月18日13時半頃、駅前交差点で、TRFのSAM(丸山忠温 53歳)が右折
しようとして、同じく右折しようとしていた原付バイクを運転していた50代男性に接触した。SA
M自身が110番連絡して公式事故となった。接触しただけで転倒した訳でもなく、軽傷と発表され
たもののほぼ無傷。SAMにも怪我はなかった。SAMは、歌手安室奈美恵の元旦那で、最近一般女
性と再婚している。
 同時刻頃、区内東山の山手通りでウルフルズのトータス松本(松本敦 48歳)が停車中の車に接
触事故を惹起している。今年1年、芸能タレントの軽い接触事故が多発しているのはどういうことや
ねん。
 TRFは、DJ COO(コー 高瀬浩一)、SAM(丸山正温)、ETSU(西岡悦子)、YU‐
KI(北村夕起)、CHIHARU(村木千春)のダンスグループ。リーダーのコーは単独活動もし
ている。
 


■目黒公証役場

 上大崎2丁目17番5号デルダンビル5階にある。何をやるところかというと、公正証書の作成、
私文書の認証、確定日付の付与等を行う官公庁だ。各法務局・地方法務局が所管し、公証人が執務す
る。官公庁だが、公証人独立採算制がとられている点が一般の官公庁と異なる。目黒公証役場は、平
成7年オウム真理教によって事務長が拉致監禁されて殺されてしまったことで有名になった。もし間
違ってたら今頃はオウムの道場だったかも知れない。
 


■目黒公証人役場事務長拉致監禁致死事件(オウム事件)
 事件名は「公証人役場」となっていおり、マスコミもそう報道しているが「公証役場」が公式の官
庁名。間違いではないか、公証人役場は通称だ。
 被害者仮谷清志の妹が、平成5年10月頃にオウム真理教に入信し、これまでに数千万円を教団に
騙し取られていた。ところが教団は、清志の妹の所有物となっている「目黒公証役場」の土地・建物
(当時の時価で2億7000万円)も布施するように強要したため、オウムから逃げ出し、目黒公証
役場事務長である兄清志に匿まわれることになった。
 平成7年2月28午後4時半ごろ上大崎2丁目17番先の路上で、公証役場から出てきた清志を信
徒ら(松本剛、林武、井上嘉浩、平田信)がワゴン車に連れ込んで拉致、上九一色村の教団施設に連
れ込んだ。教祖麻原彰晃こと松本智津夫は、被害者の「拉致された記憶」を科学的に消去することが
技術的に不可能であったこと、また警視庁が捜査を開始したという情報を聞き、解放せず殺害するよ
うに命じた。その間、被害者は麻酔薬を過剰に投与されたため、3月1日午前中に死亡した。遺体は
中川智正がマイクロウェーブを応用した焼却炉で焼却し、灰は河口湖に流したという。
 3月4日この事件が明るみに出た。教団は名誉毀損で最初に報道した朝日新聞社を訴えたが、他の
マスコミも朝日に追随し大々的に報道した。3月18日には「オウム真理教から仮谷清志さんを救出
する会」主催による10000人集会が開かれている。警視庁は、3月22日にこれら拉致監禁の容
疑で教団に強制捜査に入った。地下鉄サリン事件の2日後だ。
 これをきっかけとして警視庁は松本智津夫とその取り巻きの犯罪を弾劾すべく、敢然と悪に立ち向
かっていった。松本が地獄に墜ちていく端緒になった事件だ。

 井上嘉浩 死刑
 オウム真理教幹部。京都市出身。ホーリーネームはアーナンダ。教団内でのステージは正悟師。高
校1年時に阿含宗に入信し、昭和61年にオウム神仙の会に転宗。同63年京都の私立洛南高等学校
卒業後、日本文化大学法学部に入学するも直後に出家し、夏休みに同大学を中退した。
 地下鉄サリン事件の3日前、尊師通達で正悟師に昇格した。また省庁制採用後は諜報省次官に抜擢
され、教団の非合法活動を裏から取り仕切った。その背景には教団代表麻原彰晃の寵愛があったとい
う。5月15日目黒公証人役場事務長逮捕監禁致死事件で特別指名手配されていたが、逮捕される。
乗っていた車の中から爆発物の原料となる物質が発見された。
 駐車場経営者、会社員VX殺害事件、被害者の会々長VX襲撃事件、目黒公証人役場事務長逮捕監
禁致死事件、地下鉄サリン事件など一連のオウム真理教事件に関与したとして起訴。地下鉄サリン
事件を起こすことを決定したリムジン謀議では、教団への捜査の攪乱のために毒ガスを使用すること
を最初に提言した人物であった(謀議の途中で硫酸に変更する提言をしたが、最終的にサリン散布が
決定された)。第一審では死刑の求刑だったが、目黒公証役場事務長事件では監禁罪を認めたが致死
罪を認めず、地下鉄サリン事件では連絡役に留まるとして無期懲役の判決が下った。オウム真理教事
において死刑求刑に対して無期懲役判決が下ったのは初めてだった。判決を不服として検察側が
控訴し、控訴審では目黒公証役場事務長事件の監禁致死罪を認め、地下鉄サリン事件の現場指揮者で
はないが総合調整役として無差別大量殺人に重要な役割を担ったことを認定して死刑判決を受けた。
平成21年12月10日上告棄却、同22年1月12日に上告審判決に対する訂正申し立てが棄却さ
れ死刑が確定した。
 


三条実美低邸跡

 上大崎2丁目23番7号ホテルプリンセスガーデンのところにあった。三条実美は、日本の公卿・
政治家。公卿・内大臣三条実万の三男として生まれた。次兄の早世により家を継目。安政の大獄で処
分された三条実万と同様、尊皇攘夷派の公家として徳川家茂を督促し、国事御用掛となった。幕末か
ら明治の公家で、右大臣や太政大臣、内大臣、内閣総理大臣兼任、貴族院議員などを歴任した、明治
政府の最高首脳の一人。実美は京都で生まれたが、八月十八日の政変により朝廷を追われ、長州藩と
一緒に京都から追い出されてしまった。これを「七卿落ち」といい、7人の公家が京都から追放され
た。長州の朝鮮系下級武士とつるんだ罪だ。その後は太宰府に移された。55歳でインフルエンザに
き罹って死亡くした。死の直前に、正一位を授与され、墓所は東京都文京区大塚の護国寺墓地。


大蔵映画目黒シネマ

 上大崎2丁目24番15号にある映画館。2本立て上映に合わせて独自の館内演出やトークイベン
トにもこだわる。上映作品は知名度も大事だが、時には名画座でなければ一生出会うことがないよう
な作品も組み合わせる。ある選定では主作品の監督に併映作品も推薦頂き、戦前のフィルムを探しだ
した。これは苦労したが妙案だった。
 また、不定期で行うトークイベントやサイン会は、映画監督や俳優たちの、〝今を生きる私たちの
幸せ〟と〝映画の未来〟のために作品を届けたいという思いの表れでもある。ゲスト陣らの大変な映
画好きも重なり、ある時は終電後まで話は続き、みんなが嬉しい特別な時間になる。
 一方、裏方である劇場スタッフは、毎週または隔週毎に切り替わる上映に合わせ、準備と時間との
競争の中で、観客に作品の良さが伝わるきっかけを作り込んでいく。ロビーに作品や監督の紹介のポ
スターを飾り、作品によって、手作りの本格的な映画ハンコや登場人物になりきったコスプレ接客で
映画の世界観を伝え、開演の合図はハンドベルを鳴らしカランカランという優しい音が場内に響く。
上映だけでなく、「映画館を作る」仕事をして、シネコンの迫力ともお茶の間のテレビの娯楽とも違
う、音楽や文学と同じようにもっと「映画っていいな」っていう余韻に浸ってもらい、映画館で観た
映画としていつか思い出してもらえたら嬉しい、とは館主の弁。


■久米美術館

 上大崎2丁目25番5号、久米ビル8階にある。近代歴史学の祖久米邦武と、その長男で近代洋画
の先駆者久米桂一郎を記念して設立されたもので、邦武の原稿、著書や、桂一郎の作品、遺品などを
展示しており、ラファエル・コランや黒田清輝、東京美術学校(東京芸術大学)の教え子たちの作品展
なども行っている。岩倉使節団に随行し、『米欧回覧実記』を編修したことで知られる歴史家久米邦
武。フランスで美術を学び、帰国後は西洋画の普及に大きく貢献した桂一郎。父子にゆかりの資料と
作品を見ることができる。 03-3491-1510
 


■自転車文化センター(BCC)

 上大崎3丁目3番1号自転車総合ビル1階にある資料館。平成26年4月赤坂から移転し、リニュ
ーアルオープンした。自転車に関する書籍約9000冊をはじめ、希少な歴史的自転車約450台、
自転車に関する資料約15000点を所蔵している。国内外の自転車専門誌や新刊図書など、自転車
に関する沢山の書籍が閲覧できる。また、自転車の魅力を感じる展示がある。北の丸公園の科学技術
館2階に自転車広場として展示を行っている。Bicycle Culture Center(BCC)


■上大崎児童遊園

 上大崎3丁目3番15号にある区立公園。


■「創価教育学会」発祥の地

 上大崎
3丁目10番10号
裁判所共済組合東京宿泊所「みやこ荘の東に創価学会の施設 (寮)
「時習学館」の建物がある。この入口壁面に発祥の地を示すプレートが貼り付けられている。
 創価学会の戸田城聖2代目会長は、大正12年この場所に学習塾「時習学館」を作った。小学校教
師だった牧口常三郎初代会長の独創的な教育理論をもとにした時習学館での授業は大変好評で、多く
の生徒がここで学んだ。昭和5年には時習学館で使ってきた算数のプリントをまとめて『推理式指導
算術』を出版し、中学受験参考書として100万部を超えるベストセラーとなったという。同年牧口
が教育理論をまとめた『創価教育学体系』を発刊。これをもって「創価教育学会」の創立とする。
 「創価教育学会」が「創価学会」と名称を変更したのは戦後のことだ。それからあの拡張拡大路線
が始まった。

   「創価教育学会」発祥の地
    Birthplace of the Soka Kyoiku Gakkai
    (Value-Creating education Society)
    Founded 1930/11/18


 大日本皇道立教会
 明治44年「南朝を正統とし、その皇道に沿った教育を行う」という趣旨の下に設立された。中山
忠尹の子忠英が初代会長に就任し、大隈重信、一木喜徳郎、牧口常三郎、戸田城聖と数名の華族によ
り構成されていた。後には児玉誉士夫も加入している。この大日本皇道立教会の組織を母体として創
価教育学会が作られ、さらに創価学会へと発展していった。創立メンバーを見ると大室寅之祐(明治
天皇)の田布施コネクション。であれば会員に池田大作をはじめ同和在日の人が多いのが理解できる
 つまり長州薩摩に多い朝鮮系日本人、それ故にユダヤは、薩長を狙いを付け、明治維新を起こさせ
た。主役はトーマス・グラバーだ。靖国神社の根本は「招魂場」で、これは朝鮮式儒教を採り入れた
もので、薩長に全国の60%がある。山口県熊毛郡田布施の招魂場を持って行ったものが東京招魂社
で、明治11年に靖国神社となった。つまり国家神道だ。それが大日本皇道立教会という訳で、言い
換えるなら朝鮮教だ。だから創価学会なのだ。また統一教会はユダヤ人が拵えたものだが、岸信介が
当寺大成建設にいた文鮮明にやらせたものだ。岸信介は田布施システムの一つの歯車で、先祖はガン
という朝鮮人だ。何もそれは不思議なことはない。山口県・福岡県は地政学的に朝鮮系が多い。戦国
の群雄大内義隆はまるまる朝鮮の武将だ。毛利元就の登場で朝鮮に逃げ帰ったが、その時逃げそびれ
て取り残された朝鮮兵が毛利家の下級武士団に組み込まれた。それらの子孫がユダヤに目を付けられ
明治維新をやらされたという訳だ。安倍晋三が日本的でないのは先祖の所為だ。
 蓋し、国家神道・統一教会・創価学会・オウム真理教が朝鮮的なのはそのためだ。
 麻原彰晃(松本智津夫)は西郷隆盛と同じ菊池族だ。鹿児島県も朝鮮人の多いところだ。
 明治維新は、ロシア革命がロシア人がやったものではないように、日本人のやった革命じゃないん
だよ。日本の最も長い日の阿南惟幾陸軍大臣だって・・・
 

 
●在日朝鮮人の凶暴犯罪(全体の79% 警察庁発表)
 大正10年「都電運転手等連続7人殺人10人傷害事件」 朝鮮人R無期懲役。
 大正12年「朴烈事件(皇族殺害計画未遂)」朴準植(戦後北朝鮮で処刑)・金文子(自殺)
 昭和 6年「荏原警察署巡査殺害事件」A→無期懲役 B→懲役6年
 昭和 7年「桜田門事件」の李奉昌(イボンチャン)死刑執行、
 昭和17年「多摩川流域軍需品窃盗団事件」朝鮮人104人逮捕
 昭和20年「名古屋少年匕首殺害事件」犯人逮捕後韓国へ逃亡 平成13年免訴
      「直江津駅リンチ殺害事件」犯人3人逮捕後韓国に逃亡
 昭和21年「東京・冨坂警察署襲撃事件」(朝鮮人暴動)
      「神戸・生田警察署襲撃事件」(朝鮮人暴動)
      「京都・七條警察署襲撃事件」(朝鮮人暴動)
      「日光中宮祠六人殺害放火事件」朴烈根(死刑執行)崔基業(死刑執行)
      「長崎警察署襲撃事件」(朝鮮人暴動)」
      「京都・七條警察署巡査殺害事件」 朝鮮人5人逮捕
      「長野・東條村強盗・警察官殺害事件」 朝鮮人4人逃亡
      「名古屋・中京私設警察リンチ事件」(日本人を監禁拷問)
      「富山駅前派出所襲撃事件」(朝鮮人暴動)
      「熊本・一勝地村農家六人殺害事件」 2人死刑執行・1人無期懲役
      「新潟・坂町事件」(警察官を集団暴行)12人検挙
      「新潟日報襲撃事件」(朝鮮人暴動)9人起訴
 昭和22年「山梨・百田駐在所巡査射殺事件」 北朝鮮人死刑執行 
      「神奈川税務署員殺害事件」(集団暴行)
      「北海道津別事件」(朝鮮人暴動)
      「秋田・尾花沢派出所襲撃事件」(朝鮮人暴動)
      「関東朝鮮人強盗団事件・池袋診療所強盗殺人事件」朝鮮人10人逮捕
 昭和23年「会津破蔵事件」(集団強盗)犯人3人逃亡中
      「浜松事件」(朝鮮人暴動)17人に懲役刑 『ヤクザの勲章』として有名。
      「阪神教育事件(朝鮮人学校事件:朝鮮人暴動)」
      「青森・五所川原抗争事件」(朝鮮人暴動)
      「仙台・評定河原事件」(朝鮮人暴動)
      「山口・宇部事件」(朝鮮人暴動)
      「東北・ワ号(涌谷)事件・朝鮮人窃盗団連続窃盗事件」40人に懲役刑
 昭和24年「島根・益田事件」(益田警察署襲撃事件:朝鮮人暴動)
      「新潟・高田濁酒事件」(朝鮮人暴動)
      「福井・本郷事件」(派出所襲撃集団暴行)
      「福島・平事件」(朝鮮人集団暴行)
      「岩手・塩釜事件」(総連・民団抗争)
      「山口・下関事件」(総連・民団抗争)
      「関東・朝鮮人強盗団事件」(260人検挙)
      「福井・武生事件」(朝鮮人集団暴行・放火)
 昭和25年「東京・台東会館事件」(朝鮮人暴動120人検挙)
      「岡山・連島町事件」(朝鮮人暴動8人検挙)
      「神戸・長田区役所襲撃事件」(朝鮮人暴動26人逮捕)
      「滋賀・大津地方検察庁襲撃事件」(朝鮮人暴動43人逮捕)
 昭和26年「三重・四日市事件」(朝鮮人暴動15人検挙)
      「東京王子朝鮮人学校事件」(朝鮮人暴動)
      「神奈川朝鮮人学校事件」(朝鮮人暴動28人検挙)
      「東京・日野事件」(朝鮮人暴動20人検挙)
      「兵庫・下里村役場集団恐喝事件」(朝鮮人暴動15人を検挙)
      「大阪・東成警察署襲撃事件」(朝鮮人暴動15人逮捕)
      「親子爆弾事件」(クラスター爆弾工場襲撃集団暴行)、
 昭和27年「青森・木造地区警察署襲撃事件」(朝鮮人暴動)
      「大阪・多奈川町事件」(朝鮮人暴動27人逮捕)
      「血のメーデー事件(朝鮮人デモ隊警察と衝突)」
      「広島地裁被疑者強奪事件」(朝鮮人暴動放火犯強奪)
      「名古屋・高田派出所襲撃事件」(朝鮮人暴動)
      「仙台・大梶南事件」(朝鮮人抗争)
      「奈良警察署官舎襲撃事件」(警察官の親に集団暴行:重体)」
      「山口・万来町事件」(朝鮮人集団暴行)
      「京都・島津三条工場事件」(朝鮮人が集団で押し寄せて警察に火炎瓶投擲)
      「滋賀・醒井事件」(朝鮮人暴動)

      「大阪・吹田事件」(朝鮮人集団凶暴化111人逮捕)
      「大阪・枚方事件」旧陸軍工廠→小松製作所枚方工場爆破放火98人検挙
      「名古屋・大須事件」(朝鮮人暴動)
      「群馬・警察予備隊相馬ヶ原駐屯地爆破未遂事件(5人逮捕)
      「長崎・大村収容所事件」(朝鮮人暴動)
      「青森・五所川原税務署襲撃事件(密造朝鮮人暴動)」
 昭和28年「別府市警察署襲撃事件」(朝鮮人暴動)、
 昭和30年「東京・上十条二丁目交番爆破事件」ダイナマイトを投げ込んで爆破、警察官重傷

 ※戦後の10年の暴徒化は、朝鮮人特有の民族病である火病(ファビョン)や、戦勝国民気取り
  もあるが、昭和30年を境に尻ぼそりになっていくのは、在日朝鮮人の自覚や反省によるので
  はなく、ユダヤの使嗾(そそのかし)がなくなったからだ。つまりユダヤがシフト替えして学
  生運動に転化していった。しかしその学生運動も、その手先は朝鮮人青年だった。また、こう
  してつらつら眺めてみると、朝鮮人の分布が津々浦々にまで及んでいるか判るというものだ。
  彼らは何も大阪にだけ集中している訳ではない。国会議員の七分の一近くに喃々とするという
  ことは、いかにユダヤの意思が、最早抵抗できぬところまでに至っているということだ。
   今、ISIS(イスラム国)なるテロ集団があるが、アルカイーダ同様、これもユダヤが組
  織したもので、ウサマ・ビンラーディンの母親はユダヤ系オマン人だ。同様、アブ・アクバル
  ・アル・バクダディは、本名はサイモン・エリオットというイスラエル人で、モサドのメンバ
  ーだ。アラブ人に成りすまして、アラブの若者を唆している。因みに「バクダディ」ってえの
  は、江戸っ子同様、「バクダッドの人」というコードネームだ。
  朝鮮人に日本名(通名)を名乗らせ、本名を隠させたのはユダヤ人で、ユダヤ人自身が、その
  国の名前を名乗って成りすましてきた。ロスチャイルドも、ロックフェラーも本名じゃない。
  フランスのオランド大統領も、ドイツのメルケル首相もユダヤ人、どうせパリ襲撃事件もその
  元はユダヤだ。何しろ平和を追求しすぎて国と国との戦争がなくなったから、武器が売れなく
  て、売れなく、生産過剰になっちゃうから、何としても償却しなくっちゃあ、というので、テ
  ロ組織を拵えて、騒ぎを起こし武器を売り捌いて帳尻を合わしてる。尖閣問題を引き起こした
  石原慎太郎もその手合いだよ。武器類償却のための日中戦争が企てられているのかも。戦争と
  革命はユダヤの金儲けの手段だからね、未来永劫なくならないよ。

 昭和33年「東京・小松川高等学校女子生徒殺人事件」(李珍宇)、死刑執行
 昭和34年「新潟・韓国工作員日赤センター爆破未遂事件」
 昭和42年「銀座女王殺人バラバラ死体遺棄事件」伊東和義(韓和義) 無期懲役
 昭和43年「静岡・金嬉老事件(人質立て籠もり事件)」、無期懲役
 昭和53~54年「東京埼玉連続幼女誘拐殺人事件」 宮崎勉(帰化)死刑執行
 平成 5年「埼玉愛犬家連続殺人事件」関根元(獄中死)・風間博子(死刑確定)
 平成 9年「神戸連続児童殺傷事件」の酒鬼薔薇こと東真一郎また西岡真とも。出所。
      「奈良月ヶ瀬村女子中学生撲殺事件」の丘崎誠人(混血)無期懲役 獄中自殺。
 平成10年「和歌山毒物カレー殺人事件」の林真須美(帰化)、死刑判決
      「目白通り19人強姦強盗事件」の宋治悦(ソンチヨル)無期懲役 
 平成10~18年「大阪19人監禁強姦事件」の山元平和(金平和)無期懲役。
 平成11年「光市母子殺害事件」の大月(福田)孝行、死刑確定
      「新潟少女強姦事件」の崔智栄・金乗實
      「桶川ストーカー殺人事件」の小松和人(逃亡自殺)
 平成12年「ルーシー・ブラックマン殺人死体遺棄事件」の織原城二(金聖鐘)無期懲役。
 平成13年「大阪教育大学付属池田小学校」の宅間守(兄は朝鮮名のまま)。死刑執行
 平成14年「大分老夫婦刺殺事件」金玟秀(キムミンス 留学生)無期懲役→懲役15年
 平成14~21年「鳥取連続6人不審死事件の上田(李)美由紀 死刑判決
 平成15年「スーパーフリー事件(連続輪姦)」の和田真一郎(保釈後、和田耀平に改名)
 平成16年「山梨県二少女強姦事件」の高直幸、懲役15年
      「大牟田連続殺人死体遺棄事件」北村一家4人全員死刑確定
      「元千葉ロッテ投手強盗殺人死体遺棄事件」の小川博 無期懲役
 平成16~17年「大阪17人強姦事件」の松岡寿明(金寿明)、無期懲役
 平成17年「聖神中央教会事件」の永田保(金保)信者の娘22人を強姦。懲役20年
      「大阪・自殺サイト殺人事件」の前上博 死刑執行
      「千葉少女スーツケース詰め殺人事件」の長谷部泰輔(創価大)無期懲役
 平成18年「秋田児童連続殺人事件」の畠山鈴香 無期懲役
 平成19年「渋谷女子大生誘拐事件」伊金男・李勇(無期懲役)・崔基浩(懲役10年)
      「市川・英国人女性殺害・死体遺棄事件」市橋達也、無期懲役
      「長崎市長射殺事件」の城尾哲弥(白正哲) 無期懲役
      「佐賀入院患者人違い射殺事件」の今田文雄 無期懲役 死亡
 平成20年「秋葉原通り魔17人刺傷事件」加藤智大 死刑 弟優次自殺
 平成21年「首都圏連続不審死事件」の木嶋佳苗 死刑判決
      「新橋ストーカー耳かき店員殺害事件」林貢二(朴貢二)無期懲役。
      「千葉・松戸女子大生強姦殺人放火事件」の竪山辰美 無期懲役
 平成22年「大阪ミナミ女子高生連続16人強姦事件」の徐一(ソ・イル)懲役25年
      「マツダ本社工場車暴走連続殺人事件」の引寺利明 無期懲役
      「長岡京市義父母殺害事件」佐野敏男(李敏男)無期懲役
      「下関市6歳女児殺害事件」湖山忠志(許忠志)懲役30年
 平成23年「大津いじめ中学生自殺事件」通名山田晃也(事件後佐田に改称)
      「目黒夫婦殺傷事件」木村義昭 無期懲役
      「岡山命乞い同僚女性バラバラ殺人事件」の住田紘一(死刑確定)
      「福井・九頭竜湖殺人事件」 林圭二(無期懲役) 渡辺智由(懲役14年)
 平成24年「尼崎連続虐待殺人」の角田美代子(獄中自殺)、李正則(無期懲役)
 平成26年「朝霞女子中学生誘拐監禁事件」の寺内樺風(懲役9年)
      「佐世保同級生殺人解剖事件」の徳勝もなみ 精神病院送り、父親自殺。
      「兵庫・政務費詐取号泣釈明会見事件」の野々村竜太郎(懲役3年猶予4年)
      「神戸小1女児遺体バラバラ遺棄事件」の君野康弘(死刑→無期懲役)
 平成27年「川崎中学一年生リンチ殺人事件」の船橋龍一(懲役9~13年の不定期刑)
      「大阪・高槻中一少年少女殺害事件」の山田浩二 懲役12年
      「虎ノ門男性器チョン切り事件」の小番一騎 懲役4年6月
      「小岩女子高校生強盗殺人」の青木正裕(無期懲役)
      「西麻布路上強盗傷害事件」の添田大地
 平成28年「福岡女子予備校生刺殺事件」の甲斐敬英(19歳) 未公判
      「小金井アイドル刺傷事件」の岩崎友宏(金友宏) 懲役16年6月
      「渋谷バレエ教師鏨指切断事件」の岩崎浩明 懲役4月6月
      「碑文谷池老女バラバラ遺体遺棄事件」の池田徳信 無期懲役
      「六本木21歳女性暴行事件」の蒲池英貴

      「津久井やまゆり園60人殺傷事件」の植松聖(韓英一:ハンヨンイル)

      「文京区講談社編集次長妻殺人事件」の朴鐘顕(パクチョンヒョン)
      「福島県石仏100体損壊事件」のチョン・スンホ(韓国人) 懲役2年
 平成29年「大阪新今宮駅突き落とし事件」の中川晃大(裴晃大 28歳)
      「7年前重文仏像盗難事件」の陳宗哲(68歳)・朴昌奎(68歳)
      「東名夫婦死亡事故」の石橋和歩(25歳)
      「座間9人殺害事件」の白石隆浩「27歳」
 平成30年「神戸三ノ宮駅突き落とし事件」の朴洸賢(27歳)


 その他、強盗殺人、婦女暴行、幼児殺害100件ほどの凶悪犯罪が、在日若しくは帰化人の仕業と
なっている。中には態々韓国から出張してきて犯行を犯している奴がいる。おいらはガキの頃、朝鮮
人の凶悪残虐を目の辺りにしてるよ。
 外国人犯罪で窃盗は圧倒的に中国人だが、殺人・放火・強盗・暴行・障害・脅迫・恐喝は総て韓国
人・朝鮮人だ。これはおいらの想像じゃないよ。警察庁の発表だ。


 
何故朝鮮人・韓国人は凶暴事件を起こすのか?
 それには悲しい歴史事実がある。歴史始まって以来、朝鮮半島は中国の属国とされた。それはそれ
は悲惨な歴史だった。虐げられること3000年というからおっとろしい。朝鮮には、両班(リャン
パン・ヤンパン)と白丁(ぺクチョン)という身分関係があった。両班は、李氏朝鮮における支配階
級・貴族階級で、普通の人、良民をさした。両班とは、元々2つの班、文官(東班)、武官(西班)
の官僚組織のことだった。
 白丁とは、白い着物しか着れない哀れな身分の人、つまり賎民、奴隷階級の人をいった。韓国人の
殆どはこの奴隷身分だが、韓国人に「先祖は?」と訊くと、100人が100人、「両班だ」と答え
る。えーっ! 白丁の子孫は皆殺しにしちゃったっていうのかい? で、韓国では、人を罵倒する時
に「白丁野郎!(ペッチョンノム)」と使う。最大の侮辱語だ。日本にこれに匹敵する言葉はない。
だから、韓国で「私の先祖は白丁だ」といおうものなら、人間的扱いは受けない。
 朝鮮半島では「北鮮南韓」といいって、北鮮(高句麗)が支配階級で、南韓(三韓)は差別階級と
いう思いがある。経済的に優位に立つ現在でも、韓国は北朝鮮の風下に置かれている。横田めぐみが
拉致されたことになっているが、母親の早紀江は、梨本宮方子(朝鮮王国皇太子妃)の娘だ、つまり
お姫様だ。ということはめぐみもお姫様ということだ。そんじょそこいらの娘が学校帰りに拉致され
るかい。めぐみは朝鮮王女として金正日に嫁いだのだ。金正恩、恩は日本では「めぐみ」と読むんだ
よ。白丁は元々は身分で、中国の律令制度だ。当然それを模倣した日本にもあった。やがて日本では
「白徒」つまり「博徒」となった。やはり非差別階級だ。明治以後はヤクザとなった。そのため在日
の荒くれ者で、凶悪犯罪を犯さない者はみんなヤクザ・右翼になる。
 李氏朝鮮の時代に、身分制度が複雑化し、国王・両班・中人・常人・賎民に大別され、白丁は「ペ
クチョン/ベッチョン」と呼び。七般公賎(官奴婢・妓生・官女・駅卒・獄卒・犯罪逃亡者)、八般
私賎〔巫女・皮革業者・使令(宮中奏楽者)・僧侶・才人(芸人)・社堂(男の旅芸人)・挙史(女
の旅芸人)・白丁〕といわれた賎民階級の最下位に位置付けられた非差別民をさすこととなった。
 朝鮮半島において白丁は以下の差別を受けた。
  1.族譜(系図家譜)を持つことの禁止
  2.屠畜・食肉商・皮革業・骨細工・柳細工以外の職に就くことの禁止
  3.常民との通婚禁止
  4.日当たりのよい場所、高地に住むことの禁止
  5.瓦屋根の建物に住むことの禁止。
  6.文字を知ること、通学の禁止
  7.他身分の者に敬語以外の言葉を使うことの禁止
  8.名前に「仁・義・礼・智・信・忠・君」の文字の使用禁止
  9.姓を持つことの禁止
 10.公共の場への出入り禁止。
 11.葬式で棺桶使用禁止
 12.結婚式で桶の使用禁止
 13.墓を常民より高い位置・日当たりのよい場所作ることの禁止
 14.墓碑を建てることの禁止
 15.一般民の前で胸を張って歩くことの禁止
 これらの禁を破れば厳罰を受け、時にはリンチを受けて殺害された。その場合、殺害犯はなんの罰
も受けなかった。白丁は人間ではないとされていたためである。こういった差別は、上位身分になれ
ば逓減していったが、韓国民は概ね、中国人によって虐げられていた。

 で、この地獄の身分差別を打破したのは日本で、戸籍制度を取り入れて、身分制度を撤廃、総ての
朝鮮人を平等とし、身分を縛る禁止項目を廃止、総ての朝鮮人に学校教育を施した。これに両班は猛
反対したが、日本政府は断固として押し通した。朝鮮人らはこれに抵抗して、戸籍に旧身分を記入し
たり、履歴書に書かせるなどしそれが現在までも残っていおり、第二次世界大戦終結により、日本統
治の平穏な時代が過ぎると、ユダヤが隠れ宗主国となり、韓国民を苦しめている。韓国は世界で売春
と自殺とが最も多い国である。
 韓国が、世界遺産に「宮廷料理」なるものを申請した。和食は世界遺産に登録されたが、この宮廷
料理なるもの、「誰が食べたんだ!」といって拒絶された。奴隷国家に宮廷料理何ぞあるはずもなく
戦後の創作では図々しすぎるわな。韓国の歴史ドラマなるものが数々あるが、みんな柄物の衣裳を着
込んでいる。明治時代の日本統治以前の数々の写真を見ると、柄物を着ている民衆は一人もいない。
つまり中国の抑圧によって染織技術が発展しなかったため染物がなかったのだ。蓋し白丁なのだ。
 この欝々とした歴史を背負った朝鮮民族は、永い抑圧の中で民族病、国民病ともいうべき精神病を
患っていった。「火病(ファピョン)」という。


 
火病または鬱火病(ウラッピョン)
 これは、怒りの抑制を繰り返すことで、ストレス障害を起こす精神疾患を指す。ヒステリーと類似
した症状を発症する。アメリカ精神医学会は、火病を「朝鮮民族特有の文化依存症候群の1つ」とし
ている。症候として、疲労、不眠、パニック、切迫した死への恐怖、不快感、食欲不振、消化不良、
動悸息切れ、呼吸困難、全身の疼痛、心窩部に塊がある感覚などを呈する。英語では「anger syndro
me(憤怒症候群)」と訳され、原因は怒りの抑制によるとされている。本来、朝鮮民族が中国に立ち
向かって自立し、自分たちで勝ち取るべき権利を、日本が取り除いて上意下達で与えてしまったので
自由と平等を手に入れたものの、中途半端な精神状態に陥ってしまったのだ。本来、女性に多い病気
だが、時に男性において発症すると、発狂、奇声、自傷、自殺、泡口、忿怒、激情、暴行等凶暴化す
る。朝鮮人による婦女暴行、いじめ虐待、暴力行使、殺人、リンチ事件が多いのはこのためだ。天国
だった日本統治が終わると、経験の無い自尊自立に戸惑い、そしてユダヤの支配。朝鮮人は、平和を
謳歌する日本人に少なからぬ嫉妬心がある。彼らが悪魔だという日本に移住して日本人になりたがる
のは嫉妬の裏返しだ。日本、日本人が嫌いなら、韓国に帰ればいいのだが、日本人に成りすまして日
本定住を心から希望する。朝鮮人にとって日本は天国なのだ。どう抗っても日本を越えることはでき
ない。ユダヤの属国といいながら、日本は欧米先進国に伍して劣る所がない一流国家だ。これからも
朝鮮人韓国人による凶暴犯罪はなくなることはない。
 在日朝鮮人有力者らの希望で、韓国人犯罪者は本名を知られることがない。通名で通せるから、刑
期を終えた後、また別の通名に変えれば善良な日本人に成りすませる。こんなことでは在日の犯罪は
なくなることはあるまい。もし朝鮮名で立候補したら1人として国会議員なることはない。国会議員
の七分の一は朝鮮人なのだ。安部君もそうなんだぞ。


■旧・播磨三日月藩森家上屋敷跡

 上大崎3丁目10番25号(株)イリスの前の歩道端に説明板がある。

   旧・播磨三日月藩森家上屋敷跡
   
    上大崎3丁目
   播磨国(現・兵庫県)森家上屋敷は品川区内の大名屋敷の中で唯一の上屋敷である。三日
   月藩は1万5千石の大名で、上屋敷と地続きの抱屋敷を含めて約1万坪余の広さがあった。
   屋敷一帯の字は「森ヶ崎」と呼ばれているが、森家の「森」と舌状台地の先端を示す「崎」
   から名付けられたとされている。
   ※安政3年(1856)頃の三日月藩主は森伊豆守俊滋。
                                   品川区教育委員会 


■希望ヶ丘公園

 上大崎3丁目10番25号にある区立公園。


■コロンビア共和国大使館

 上大崎3丁目10番53号にある。南アメリカ北部の国。首都はボゴタ。ベネズエラ、ブラジル、
ペルー、エクアドル、パナマと国境を接している。コーヒーおよびエメラルド、そしてコカインの産
地としても有名だ。

 国名
 
正式名称は「コロンビア」。英語表記、日本語表記も「コロンビア」。国名はアメリカ大陸の「発
見者クリストファー・コロンブス」に由来する。

 歴史
 紀元前10450年頃に、ボゴタ近郊のエル・アブラ(EL Abra) の遺跡で先史文化の萌芽が
見られる。紀元前1000年、アメリカ・インディアンのグループは南アメリカでインカに次いで最
も優れていたといわれる行政システムであったカシケと呼ばれる首長による一種の首長制国家群(cac
icazgos)を発展させた。その好例をムイスカ、カリマ、シヌー、キンバヤ、タイロナなどの部族とそ
の文化に見ることができる。
 明応九年(1500)に、ロドリゴとバスティダスに率いられたスペイン人探検家がカリブ沿岸を
訪れるとそれに続いて文亀二年(1502)くりすとふぁー・コロンブスはカリブ海とチョコの西岸
を航行する。永正五年(1508)バスコ・バルボアはウラバを征服し始める。同十年(1513)
ヨーロッパ人は太平洋を初めて発見し「南の海」と名付けると、続いてペルーとチリに到達する。大
永五年(1525)にアメリカ大陸最初のヨーロッパ人の町サンタ・マリア・ラ・アンティグア・デ
ル・ダリエンを今のチョコ県に建設する。その地域の先住民族は、チブチャとカリブ族が多数を占め、
スペイン人の武力での征服の結果、病気、搾取、殺戮などによりの著しい人口減少が起こった。16
世紀になるとヨーロッパ人はアフリカから奴隷を送り込み始める。スペイン人はアメリカ征服後、ボ
ゴタにヌエバグラナダ副王領を置いた。
 19世紀に入ると独立戦争が始まり、スペイン軍と独立派の死闘が繰り広げられた。独立運動は1
0年余に及び、文化七年(1810)にコロンビアはスペインからの独立を宣言した。南米解放の英
雄シモン・ボリバルを大統領として作られたコロンビア共和国(大コロンビア)が、ヌエバグラナダ
を最終的に解放した。このコロンビアは南米北部を占める大国家だったが、天保元年(1830)に
エクアドルとベネズエラが分離し、残存部がヌエバグラナダとなった。
 明治18年現在のコロンビア共和国成立。保守党と自由党が結成され、2大政党制とされるが、政
情が不安定な時期が長期に及んでいる。建国当初から政党間の対立が続いた末、同22年には自由党
急進派による蜂起「千日戦争」が勃発。およそ10万人の犠牲者を出したといわれる。その後政党間
の対立が小康状態になるも、両党ともに支持基盤を富裕層(保守党はローマ・カトリック教会および
大地主、自由党は新興企業家)のため、農民などに対する圧政が続き、政党間の争いと複雑に絡み合
い、不安定な社会情勢が続いた。
 昭和21年以降の10数年間はビオレンシア(暴力)の時代と謂われ、争いが頂点に達した。同2
3年ボゴタ騒動発生。同28年軍事クーデターによりゴメス大統領を追放。ロハス将軍が政権を握る
軍部独裁政権成立。同30年ロハスが人民弾圧をおこなった地主達に恩赦をかけたために農民蜂起。
これに対し武力で弾圧するビジャリカ戦争が勃発したため、コロンビア革命軍の母体が出来上がる。
同31年ロハスに敬意を示さなかったという理由で多数の市民が虐殺された。「牛の首輪虐殺事件」
という。同32年反ロハス勢力の高まりによりロハスは大統領を辞任。
 同33年自由党と保守党による「国民戦線」体制が成立。これは両党間で4年毎に政権を交替する
という「盥回し」連立策だった。この事に反対する自由党農民の蜂起が相次ぎ、同41年コロンビア
革命軍(FARC)発足。同49年「国民戦線」体制終了。通常選挙が執行される。同61年に就任
したバルコ大統領により、麻薬取締り作戦が実行。平成元年麻薬カルテルとの大規模ゲリラ戦闘「麻
薬カルテル戦争」勃発。同2年大統領に就任したカビリアは野党を含む挙国一致内閣を組閣、翌年新
憲法が公布された。同10年に就任したパストラーナ大統領は、対米関係重視の政策をとり、翌11
年1月にはコロンビア革命軍との和平対話を開始するも、同14年初頭の革命軍によるテロを受け、
和平プロセスを中止。同夏就任したウリベ大統領は治安回復を重点課題とし、左翼ゲリラや右翼の「コ
ロンビア自警軍連合」などの準軍組織対策に力を注ぐ。同18年5月ウリベは大統領に再選した。

 
経済

 エメラルドの産出量は世界市場の約80%を占める。平成2年時点では300万カラットに達した。
コーヒー豆の産出量は世界で2番目だ。最近では大規模な油田も発見されるなど産業は豊かだが、貧
富の差が激しく治安は悪い。またコカインなどの麻薬産業が問題となっている。コロンビアは同3年
制定の憲法により、すべての地下資源を国家が所有している。コロンビアの鉱物資源は埋蔵量に対し
て生産量が少なく、未発達状態である。しかしながら石炭、石油、天然ガスを産し、全輸出額に占め
る原油と石炭の割合は30%に達する。コロンビアの石炭産出量は西半球に限定すれば3位に達する。
品位の高い瀝青炭の比率も高い。油田はベネズエラ国境に近いマグダレナ川流域に分布する。最も重
要な金属資源は世界シェア7位(5.1%)を占めるニッケル鉱(7.1万トン、平成15年度)だ。
その他鉄、銅、鉛、金、白金、銀、マグネシウムを産する。金と白金の産出量は南米では2位、1位
を占める。すべての金属鉱床はアンデス山脈に沿って点在する。この外、リン鉱と塩も産出する。


 
国民

 住民は、メスティーソが58%、ヨーロッパ系が20%、ムラートが14%、アフリカ系が4%、
アフリカ系とインディオの混血が3%、インディオが1%だ。言語はスペイン語が公用語であり、日
常生活でも使われている。宗教はローマン・カトリックが90%だ。


 
あほんだら! 駐日大使のバカ息子

 日本では、平成18年9月に元コロンビア駐日大使の長男グティエレス・ロマノ・リカルド・アン
ドレス・(31歳)が、日本に滞在中の同17年4月12日に渋谷区の代々木公園内トイレで麻薬の
縺れからアメリカ人男性を殺害したとして国際指名手配されている。それに伴い、元大使の次男が大
麻取締法違反の現行犯で逮捕された。詳細は渋谷区に記載。

 シモン・ボリバール像
 入口前にある。シモン・ボリバル (Simón Bolívar)として知られる シモン・ホセ・アントニオ
・デ・ラ・サンティシマ・トリニダード・ボリバル・イ・パラシオス(Simón José Antonio de
la Santísima 丁rinidad Bolívar y Palacios、1783・7・24~1830・12・17)
は、南米大陸のアンデス5ヶ国をスペインから独立に導き、統一したコロンビア共和国を打ちたてよ
うとした革命家・軍人・政治家・思想家。日本語ではボリバール、ボリーバルと表記される。
 ベネズエラのカラカスにアメリカ大陸屈指の名家の男子として生まれたが、早いうちに妻を亡くし
たことがきっかけとなって、その後の生涯をラテンアメリカの解放と統一に捧げた。このため、ラテ
ンアメリカでは「解放者」 (El Libertador)とも呼ばれる。多くの武将を配下にして使いこなし
特にアントニオ・ホセ・デ・スクレ将軍との親交は有名だ。 


■花房山桜並木

 上大崎3丁目10番にある。この辺りは住宅街で集合住宅が多い住宅密集地だ。昔から桜の名所と
して知られ、山手線からの眺めも良い。花房山は池田山の西側の高みをいう。山手線に沿う北側の坂道
は「花房山通り」と命名されている。
 


■パラグアイ共和国大使館 
移転

 上大崎3丁目12番にあった。西五反田3丁目6番に移転し、さらに千代田区一番町2番2号一番
町第2TGビル7階に移転した。


■タイ王国大使館
 仮移転
 上大崎3丁目14番6号にある。東南アジアにある王国。東にカンボジア、北にラオス、西にミャ
ンマーとアンダマン海があり、南はタイランド湾とマレーシアである。国土はインドシナ半島の中央
部とマレー半島の北部に位置する。
 ※建て替えのため、平成22年7月27日から2年間「千代田区九段南2丁目2番1号」に移転。

 国名
 正式名称は、タイ語で「ラート・チャ・アーナーチャック・タイ。現地での通称はムアンタイ」
公式の英語表記は「タイランド」。日本語表記は「タイ王国」、漢字表記は泰(タイ)と表記される。
かつては諸外国から、Siam(シャム、サイアム)と呼ばれており、公式名称としても使われていた。
しかし昭和24年5月11日タイ人の民族名であり、タイ語で「自由」を意味する「Thai(タイ)」
に改めた。但し「タイ」という言葉が「自由」という意味として使われることは一般的ではなく、タ
イ国民も「タイ」をこの意味で使うことは稀だ。ただこの名称は、東南アジア諸国が、オランダ、イ
ギリス、フランス、スペインやアメリカなどの列強の植民地となる中、独立を保ったことを示してい
る。

 歴史
 タイの民族国家成立以前、中国華南に住んでいたタイ民族は、インドシナ半島を南下して現在のタ
イの位置に定住するようになった。当時、タイには、モン族、クメール人が先住していた。タイ民族
の初めての統一国家であスコタイ王朝 (13~14世紀) は、インタラーティット王がモン族やアン
コール王朝の支配を退け成立した。タイ語のアルファベットである「タイ文字」が完成したのは、3
代目ラームカムヘーン大王の時代だ。
 その後アユタヤ王朝 (14~18世紀)、トンブリー王朝(18世紀)を経て、現在の王朝チャクリ
ー王朝へと変遷した。現王朝の初代王ラーマ1世(チュラーローク将軍)は、天明二年(1782)
に首都をトンブリーからバンコクに移したため、バンコク王朝とも呼ばれる。またバンコクの非常に
長い正式名称にも含まれているタイの守護仏の名から、ラッタナーコーシン王朝とも呼ばれる。
 ラーマ4世(モンクット)は、自由貿易の推進、仏教改革などを行った。ミュージカル映画『王様
と私』にも登場する。ラーマ5世(チュラーロンコーン)は、国王が立法、行政、司法の三権を掌握
する絶対王政システムを確立し、教育制度や官僚機関の整備、奴隷解放など、タイの近代化を進める
チャックリー改革を行った。ラーマ6世(ワチラーウット)が王位を継承すると絶対王制への批判が
生じ始め、ラーマ7世(プラーチャーティポック)が即位した後、プリーディー・パノムヨンやプレ
ーク・ピブーンソンクラームら官吏よって結成された人民党によって昭和7年にクーデタが勃発し、
絶対君主制から立憲君主制へと移行した(民主革命、立憲革命)と呼ばれる。
 タイは日本と同盟を結び枢軸国として戦ったが、一方で連合国とも通じていた。こうした二重外交
により、戦後の敗戦国処理を逃れた上、国連の敵国条項に名を連ねることもなかった。第二次世界大
戦後の冷戦期は、ベトナムやカンボジア、ラオスのような近隣諸国の共産主義化に脅かされたものの、
「共産主義の防波堤」としてアメリカの大々的な支援を受けて東南アジア条約機構の一翼を担い共産
主義化は免れた。

 立憲君主制
 平時は国王は象徴的な存在である。しかし政治過程においては「東南アジアで最も民主主義が成熟
している」ともいわれていたが、実際には「選挙で倒せない政権はクーデタで追い払って当然」など
と考える国民は多く、民主主義の尊重が徹底している訳ではない。そのため政治的な危機にあたって
はしばしば国王の直接的、または間接的な介入が見られる。近年においても平成4年に発生した5月
流血革命の際にプミンポン国王が仲裁に入った他、同18年の政治危機でもタクシン首相の進退問題
に直接介入して混乱を収束させるなど、国民からの高い支持を背景にした、危機における国王の政治
や国軍への影響力は極めて大きい。

 日本との関係
 シャム時代から繋がりがあり、山田長政の活躍は有名だ。当時は日本人町もあった。江戸時代は日
本の鎖国で関係は途切れるが、明治以後は友好国関係にあり、太平洋戦争中は同盟国でもあった。な
お王室は古くから天皇家との親交が深いことでも有名であり、「親タイ」で知られる秋篠宮文仁親王
など、両国の皇室、王室メンバー同士の公的、私的を問わない相互訪問が常に行われているほどだ。

 
観光
 
大きな外貨獲得手段の一つだ。タイは観光地として世界的に人気が高く、特に北半球が冬となる1
2月から2月にかけては世界中の国々からの観光客で賑わいを見せる。タイは、その旅の楽しみ方が、
寺院や遺跡巡りなどの文化的な側面だけでなく、マリンスポーツやグルメ、タイ式マッサージなど楽
しんだり、温泉などの施設が整っているホテル等を中心としたリゾート地が開発されていること、温
暖な気候やタイ人の穏やかな国民性、また物価が安くショッピングも楽しめ、また世界主要都市から
の直行便が首都やリゾート地に就航していることなどから、観光に訪れる人は多くなっている。宿泊
施設にしてもザ・オリエンタル・バンコクやザ・ペニンショラ・バンコク、ザ・スコータイ・バンコ
ク、ディシュタニ・バンコクのような最高級ホテルから、バックパッカー向けの1泊数百円の安宿ま
で、様々な価格帯のものが充実しているために、富裕層から学生まで様々な層の需要を満たすことが
可能だ。
 バンコク、チェンマイ、プーケット、パタヤ、カンチャナブリ、チャアム、アユタヤなどなど観光
地は全国的に散らばっており、バンコクだけでも観光ポイントは枚挙に暇がない。
 料理
 トムヤンクンやパッタイなどのタイ料理は世界的にポピュラーであり、そのスパイシーかつバラエ
ティに富む味と健康的な素材が日本を始めとする多くの国で高い人気を誇る。日本ではブームになっ
た平成以降、人気外国料理の定番となっており、都市部を中心にタイ料理レストランが多く存在する
他、多くのスーパーマーケットでタイ料理の素材が販売されている。その一方西欧諸国などにおいて
近年知られるようになってきた日本料理は健康によいというイメージがタイにおいても普及してきて
おり、タイ国内にも和食のレストランや寿司屋が開かれるようになってきた。平成19年現在、クー
ラーなどの普及により、食文化も変わり、今最も人気なのは日本食に移ってきている。バンコクでは、
すき焼き、たこ焼き、しゃぶしゃぶなどなどの日本食店が非常に人気なんだよ。
 タイ王国政府観光庁東京事務所は、千代田区有楽町1丁目7番有楽町電気ビル南館2階にある。
 03‐3218‐0355
 


東急・地下鉄目黒駅

 上大崎4丁目2番1号にある東急目黒線の停車場・東京メトロ南北線・都営三田線の停車場。東急
目黒線の元となる目黒蒲田電鉄は大正12年3月11日に開業。その後幾つかの変遷を経て東急目蒲
線となり、平成12年9月26日の地下鉄南北線・三田線全通と同時に目黒線と改名した。それまで
は目蒲線の名の通り目黒と蒲田を結んでいたが、相互乗り入れ開始後は、目黒~武蔵小杉(戸籍上は
田園調布まで)に改められた。
 ホームは島式1面2線構造で、地下4階にある。たった1面のホームに3社が乗り入れる駅は珍し
い。ホームと改札階を結ぶエレベーターも設置済み。
 改札は1ヶ所のみで地下3階にある。出口はJR東急目黒ビルにある中央口とJR駅西口と一体化
した西口の2ヶ所だ。アトレのエレベーターを使って地上に上がることができる。
 


■金の鳥像

 上大崎4丁目4番2号三井住友銀行新目黒ビルの東北角にある、複数の金属板を組み合わせて造っ
た金の鳥のオブジェ。NISHIDAの作品。


■亀の甲緑地

 上大崎4丁目5番37号にある区立公園。


14世喜多六平太記念喜多能楽堂

 上大崎4丁目6番9号にある。明治25年喜多流能楽会(のち喜多会と改称)結成後、大山巌邸舞
台の払い下げを受け、同26年飯田町に喜多舞台(鏡板揮毫川辺御楯画伯)を建設したのが始まり。
大正12年の関東大震災により舞台は焼失したが、昭和2年侯爵浅野家別邸能舞台の寄贈を受け、四
谷に新たに喜多舞台(鏡板揮毫熊谷直彦画伯)を建設。その後同20年の東京大空襲で再び焼失はし
たものの、昭和30年には現在地に喜多能楽堂(鏡板揮毫江崎孝坪画伯、前田青邨画伯監修)を再建
した。同46年絢爛にして変幻な芸風で大衆を魅了し、退潮の兆しを見せていた能楽界の復興に大き
く貢献した故14世六平太の功績を記念し、舞台の維持と後継者の養成・公演事業等の展開を目的と
して財団を設立。これを契機に同48年には能楽堂を改築し、平成8年に一部改修を行い現在に至っ
ている。

 
喜多六平太
 
きたろっぺいた 喜多流能楽師で喜多流14世宗家。東京生まれ。初名は宇都野千代造。旧幕臣宇
都野鶴五郎と12世喜多六平太(能静)の三女まつの間の次男。明治27年喜多家に入り、同17年
10歳で14代目宗家を継承し、同27年六平太を襲名する。新しい技法は取り入れず、伝統的な芸
風を維持し、昭和を代表する名人となった。昭和18年能楽協会の設立委員を務める。同22年日本
芸術院会員。同28年文化勲章受賞。同30年重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定。主著は「六
平太芸談」など。妻は囲碁の女流棋士である喜多文子(旧姓林)。実子はなく、後藤家より実(喜多
流15世宗家)を養子に迎えた。
 


■杉野服飾大学
 上大崎4丁目6番19号にあるカレッジ。所謂「ドレメ」。大正15年4月杉野芳子ドレスメーカ
ースクールを芝に開校。同11月現在地に移転、ドレスメーカー女学院に改称。昭和10年創立10
周年記念ファッションショーを日比谷公園で開催した。日本初の日本人による本格的なファッション
ショーだ。同14年修業年限1年のデザイナー養成科設置。時代に先駆けてデザイナー・スタイル画
家の養成機関を開設。同25年杉野学園女子短期大学被服科開設。翌年教職課程を置く。同33年ド
レスメーカー女学院はデザイナー科の上級クラスとして修業年限1年のデザイナーアート科を置く。
同38年文部省・東京都の後援を得て、学園主催の全国洋裁デザインコンテスト(現在の全国ファッ
ションデザインコンテスト)を開催(第1回)。同39年杉野学園女子大学家政学部被服学科を設置。
同40年杉野学園女子大学を杉野女子大学に、杉野女子短期大学を杉野女子大学短期大学部に改称。
大学に教職課程を置く。同43年ドレスメーカー女学院は既製服産業の発展に伴い、本格的な量産指
導者の養成を目的として修業年限3年の職業科(現アパレル技術科)を設置。同48年大学に学芸員
課程を置く。同51年学校教育法の改正により、「専門学校設置基準」が施行され、ドレスメーカー
女学院は服飾専門課程「専門学校」として認可。同53年杉野芳子逝去。同56年短期大学部に学芸
員基礎過程を置く。同63年ドレスメーカー女学院を、「ドレスメーカー学院」と改称。平成14年
杉野女子大学を「杉野服飾大学」と改称し男女共学とする。

 杉野記念館
 戦災での焼失を免れた、創立者杉野繁一・芳子夫妻の旧宅(木造2階建て 昭和13年完成)を公
開し、常設展として杉野芳子遺作展を開催している外、様々な学校行事にも利用している。

 ギャラリーU
 ジャンルを問わず様々な作品を展示するアートスペースだ。学生の作品を展示するだけでなく、一
般にも開放され、常に刺激ある作品展を開催しているよ。

 
杉野繁一胸像・杉野芳子胸像 ✔
 学園の創設者夫妻。共に学長。
 


■杉野学園衣装博物館

 上大崎4丁目6番19号にある。JR目黒駅西側の行人坂上から南に延びる道を「ドレメ通り」と
いう。沿道にドレスメーカー学院の名で知られる杉野学園の校舎などが並んでいるからで、どこか普
通の横町とは違う雰囲気だよ。その中にちょっと古びた洋館といった様相の建物が建っている。これ
が昭和32年日本初の服飾博物館として開館した転じ施設。学院の創立者でもあった当時の杉野芳子
院長と夫の繁一理事長が集めた資料を中心に、約250点の国内外の衣装と小物が「目で見る西洋服
飾史」を中心テーマとして展示されている。1階は、19世紀中ごろから20世紀初めにかけての西
洋衣装が中心ダ。スカートの下に腰当てを付けてヒップを強調した、所謂「鹿鳴館スタイル」の衣装
などを見ることができる。16世紀に制作されたというゴブラン織りの壁掛けも見逃せない。2階は
ロビーで、ミシンの歴史のパネルなどがあるほか、昔懐かしい足踏み式のシンガーミシンが置いてあ
る。日本橋の洋服仕立て業者から寄贈されたもので、昭和29年に16万円で購入したとの表示があ
る。3階は、腰の左右にスカートを大きく広げるための枠を入れた華やかなロココ・スタイルなど18
世紀以前の男女の洋装が集められており、他にオランダ、スイス、タイ、カンボジア、インドネシア
など様々な民族衣装も展示されている。4階は日本の衣装の展示場である。女房装束の十二単や男の
衣冠束帯、和紙でできている着物、アイヌの衣装などに目が引かれる。ファッションに興味のある人
にお薦めの博物館だ。

 
宝篋印塔
 門を入った右側にあり、大きなもので金網の覆屋の中にある。
 


■カトリック目黒教会

 上大崎4丁目6番22号にあるキリスト教会。

 
聖母像
 内庭にある。
 


【北品川】(きたしながわ)1~6丁目                昭和42年2月1日
 品川村。品川は昔から目黒川を境に南北に分けて区別していた。江戸時代に明確に目黒川以北を
北品川宿とした。明治11年「郡区町村編制法」により荏原郡に復し、同22年「市制町村制」に
より品川町大字北品川となった。昭和7年品川区北品川1~6丁目・西品川1・5丁目に分かれ、
同42年新住居表示により北品川1~6丁目に南品川1・4丁目・東大崎1丁目の各一部をあわせ
た町域を現行の「北品川」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『品川区史』『品川の歴史』など。

 北品川の由来
 目黒川以北の品川の意。かつての北品川宿は旧東海道の一心寺から品川橋まで。歩行新宿(かち
しんしゅく)は八ツ山から一心寺辺りで、宿場が負担する伝馬と歩行人足の内、歩行人足だけを負
担していたが、次第に茶屋や旅籠が出来て宿場免許が下り、新しい宿場となったのでその名がある。
宿場だけで成り立っているのではなく殆どは農村だった。「新宿」を「しんじゅく」と読ませるの
は「内藤新宿」だけで、ほとんどは「しんしゅく」と濁らない。「しゅくば」であっても「じゅく
ば」じゃないからね。でも川越では「あらじゅく」と読む。品川の由来は、区の由来を参照された
し。
 


■品川区にない品川駅

 品川駅は港区なので品川区では一番品川駅に近い町だ。駅が高輪にあるのは「陸蒸気なんかの停車
場が出来たら旅客は通り過ぎてしまって商売にならねえ」と文明開化を拒絶した頑迷さの結果だが、
平成15年から新幹線も停車するようになった品川駅の東側周辺は、石炭を搬入するための圦堀と貯
炭場だった。再開発で「グランドコスモス」とやらにになって六本木ヒルズ・汐留シティ・お台場を
凌ぐ勢いだ。今はその余禄に与る寂しい立場の北品川、ナムアミダブツ、ナムアミダブツ。京浜急行
の始発駅は当時は品川駅といっていた北品川駅だった。大正14年現名に改称、昭和8年国鉄品川駅
に乗り入れ、同43年泉岳寺に延伸して都営浅草線(地下鉄1号線)と接続相互乗り入れをした。


■島倉千代子 
故人

 北品川生まれ未熟児。本名同じ。警察官の父壽雄(としお)、母ナカの二男四女の四女。長女敏子
長男征夫、二男義孝(後不明)。昭和20年7歳、太平洋戦争のため長野へ疎開。井戸から水を運ぶ
途中に転倒、水の入ったビンを割り、左手首から肘までを損傷。母ナカが「女の子だから(腕を)残
して欲しい」と医師に懇願し、切断は免れたが、感覚も無く、動かすことも出来なくなる(後に不自
由ながらも動かすことができる様になる)。気持ちの沈んだ千代子のために母ナカは「リンゴの唄」
を聞かせるようになる。後に「この世の花」で歌手デビューを遂げた千代子だが、「この世の花」の
作曲は「リンゴの唄」の作曲と同じく万城目正によるもの。同22年9歳、終戦。東京に戻る。姉敏
子は歌唱力があったが小児麻痺を患っていたために歌手にはなれなかった。大好きな姉のために自分
が歌手になると決意。姉敏子により声楽を学び、近所の「若旦那楽団」に入学。左手に負担の無いア
コーディオンを担当。歌唱力があったためボーカルにも起用されていた。
 同25年12歳、童謡「お山のお猿」がテイチクレコードから発売される。ただし誤植により「戸
倉千代子」名義となってしまったため、「島倉千代子」のデビュー作とはならなかった。同35年1
6歳、本名「島倉千代子」で歌手デビュー。デビュー曲「この世の花」(同名の映画の主題歌)は半
年後に200万枚達成、人気歌手になる。同30年23曲、同31年34曲、同32年37曲、同3
3年33曲と驚異的な速さで新曲を発表。

 「
この世の花」 作詞:西条八十  作曲:万城目正
  1.あかく咲く花 青い花
    この世に咲く花 数々あれど
    涙にぬれて 蕾のままに
    散るは乙女の 初恋の花
  2.想うひとには 嫁がれず
    想わぬひとの 言うまま気まま
    悲しさこらえ 笑顔を見せて
    散るもいじらし 初恋の花
  3.君のみ胸に 黒髪を
    うずめたたのしい 想い出月夜
    よろこび去りて 涙はのこる
    夢は返らぬ 初恋の花

 同32年19歳、「東京だョおっ母さん」が150万枚の大ヒット。映画化もされ、自ら主演する。
この年初めてNHK紅白歌合戦に初出場(曲目は「逢いたいなァあの人に」。その後、同51年、同
54年にも歌唱)、同じ年で憧れの美空ひばりと競演して生涯に渡り実妹のように可愛がられるよう
になる。当時大卒サラリーマンの給料が10000円だった当寺、千代子の財布には2000円入っ
ていた。母ナカはステージママ化する。

 「
りんどう峠」 作詞:西条八十  作曲:古賀政男
  1.りんりん りんどうの花咲くころサ
    姉サは馬コで お嫁に行った
    りんりん りんどうは 濃むらさき
    姉サの小袖も濃むらさき濃むらさき
    ハイノ ハイノ ハイ
  2.りんりん りんどうの花咲く峠
    姉サは馬コで あとふりかえる
    姉サに行かれて なんとしよう
    一諸に柴刈るひとも無いひとも無い
    ハイノ ハイノ ハイ
  3.りんりん りんどうは小雨にぬれる
    わたしゃ別れの 涙でぬれる
    りんりん鳴るのは 馬の鈴
    姉サは峠に 消えてゆく 消えてゆく
    ハイノ ハイノ ハイ


 「
逢いたいなァあの人に」 作詞:石本美由起  作曲:上原げんと
  1.島の日暮れの 段々畑
    紺のモンペに 涙がホロリ ホロホロリ
    逢いたいなァ あの人に
    子供の昔に 二人して
    一番星を エー 探したね
  2.風が泣いてる 夕風夜風
    姉さんかむりに 花びらホロリ ホロホロリ
    逢いたいなァ あの人に
    つばめは今年も 来たけれど
    私は一人 エー 待ちぼうけ
  3.たばこ畑の 石ころ小道
    はいた草履に 夜露がホロリ ホロホロリ
    逢いたいなァ あの人に
    今夜もこっそり 裏山に
    出てみりゃ淋し エー おぼろ月


 
東京だよおっかさん」 作詞:野村俊夫  作曲:船村徹
  1.久しぶりに 手をひいて
    親子で歩ける うれしさに
    小さい頃が 浮かんで来ますよ おっ母さん
    ここが ここが 二重橋
    記念の写真を とりましょね
  2.やさしかった 兄さんが
    田舎の話を 聞きたいと
    桜の下で さぞかし待つだろ おっ母さん
    あれが あれが 九段坂
    逢ったら泣くでしょ 兄さんも
  3。さあさ着いた 着きました
    達者で永生き するように
    お参りしましょよ 観音様です おっ母さん
    ここが ここが 浅草よ
    お祭りみたいに 賑かね

からたち日記

作詞:西沢爽
作曲:遠藤実

 「
からたち日記」 作詞:西沢爽  作詞:遠藤実
  1.こころで好きと 叫んでも
    口では言えず たゞあの人と
    小さな傘を かたむけた
    あゝ あの日は雨
    雨の小径に 白い仄かな
    からたち からたち からたちの花

    (台詞)
      幸せになろうね あの人は言いました
      わたしは 小さくうなずいただけで
      胸がいっぱいでした
  2.くちづけすらの 想い出も
    のこしてくれず 去りゆく影よ
    単衣(ひとえ)の袖を かみしめた
    あゝ あの夜は霧
    霧の小径に 泣いて散る散る
    からたち からたち からたちの花

    (台詞)
      このまま 別れてしまってもいいの
      でもあの人は さみしそうに目をふせて
      それから 思いきるように
      霧の中へ消えてゆきました
      さよなら初恋 からたちの花が散る夜でした
  3.からたちの実が みのっても
    別れた人は もう帰らない
    乙女の胸の 奥ふかく
    あゝ 過ぎゆく風
    風の小径に いまは遥かな
    からたち からたち からたちの花

    (台詞)
      いつか秋になり
      からたちには黄色の実が
      たくさんみのりました
      今日もまた 私はひとりこの道を歩くのです
      きっとあの人が帰ってきそうなそんな気がして

 大スターでありながら人生は波乱万丈。堕胎3回、離婚、他人の借金を背負う(16~30億円と
も)。乳がん。人柄と才能で、周りの人々に助けられて、借金返済。降りかかる災難を跳ね返し、平
成25年11月6日に「体調が悪いので来てほしい」と自宅からスタッフに電話して再入院。同年1
1月8日朝に容体が急変、午後、所属事務所の女性スタッフに看取られ、眠るように75年の生涯を
閉じた。死期を覚悟していたようで、通夜は密葬とし、香典は断るようスタッフに伝えていた。島倉
の訃報を受けて内閣官房長官・菅義偉を初め、北島三郎、五木ひろし、大月みやこ、都はるみ、八代
亜紀、小林幸子、石川さゆり、森昌子など島倉を敬愛していた後輩の演歌歌手達、またコロッケ、山
田邦子らものまねタレントも追悼のコメントをそれぞれ発表した。
 墓地は東海禅寺大山墓地(北品川)にある。生前慕だった。

 「愛のさざなみ」 作詞:なかにし礼  作曲:浜口庫之助
  1.この世に神様が 本当にいるなら
    あなたに抱かれて 私は死にたい
    ああ湖に 小舟がただひとつ
    やさしくやさしく くちづけしてね
    くり返すくり返す さざ波のように
  2.あなたが私を きらいになったら
    静かに静かに いなくなってほしい
    ああ湖に 小舟がただひとつ
    別れを思うと 涙があふれる
    くり返すくり返す さざ波のように
  3.どんなに遠くに 離れていたって
    あなたのふるさとは 私ひとりなの
    ああ湖に 小舟がただひとつ
    いつでもいつでも 思い出してね
    くり返すくり返す さざ波のように
    さざ波のように


 「
人生いろいろ」 作詞:中山大三郎  作曲:浜口庫之助
  1.死んでしまおうなんて 悩んだりしたわ
    バラもコスモスたちも 枯れておしまいと
    髪をみじかくしたり つよく小指をかんだり
    自分ばかりを責めて 泣いてすごしたわ
    ねぇおかしいでしょ若いころ
    ねぇ滑稽でしょ若いころ
    笑いばなしに涙がいっぱい
    涙の中に若さがいっぱい
    人生いろいろ 男もいろいろ
    女だっていろいろ 咲き乱れるの
  2.恋は突然くるわ 別れもそうね
    そしてこころを乱し 神に祈るのよ
    どんな大事な恋も 軽いあそびでも
    一度なくしてわかる 胸のときめきよ
    いまかがやくのよ私たち
    いまとびたつのよ私たち
    笑いばなしに希望がいっぱい
    希望の中に若さがいっぱい
    人生いろいろ 男もいろいろ
    女だっていろいろ 咲き乱れるの
    
    人生いろいろ 男もいろいろ
    女だっていろいろ 咲き乱れるの

    人生いろいろ 男もいろいろ
    女だっていろいろ 咲き乱れるの


■北品川駅(最初の始発駅)

 北品川1丁目1番4号にある京急電鉄の停車場。明治37年5月8日開業。当初はここが品川駅を
名乗り始発駅だった。初代品川駅として荏原郡品川町北端の品川鉄橋際に開業し、「八ッ山停留場」
と通称され京浜電気鉄道のターミナルとして大正の末年まで機能した。この開業に備えてボギー車が
用意されたが、発電所の出力増強用に手配した機器類が、日露戦争の影響を受けて納期に間に合わな
かったため、当面は在来の四輪車両を使用することになり、わが国初のボギー車の就役は同年9月と
なった。大正時代の後半、国道(東海道)改修の計画が持ち上がり、品川停留場付近の軌道敷が収用
されることになった。これにより大正13年4月品川停留場は横浜寄りに移設されることになり、明
治以来のターミナル建造物は撤去され、翌3月の高輪までの延長に伴い駅名を北品川に改称した。以
降この延長線の一部は本線最後の道路併用軌道として昭和31年まで残ることになった。同57年構
内通路の除去、こ線橋を新設するとともにホーム長を上下共80mから115mに延長、6両編成列
車の停車を可能にする等の改良工事を実施し、現在の姿になっている
 ホームは地上相対式2面2線構造。各ホームは跨線橋で結ばれている。平成19年3月既存の跨線
橋とは別にエレベーター専用跨線橋が新設された。
 改札口・出口は1ヶ所のみで2番線側にある駅舎内にある。

 品川駅より南にあるのに何故北品川?
 品川駅より南にあるのになぜ北品川? と思う人が多いが、それは品川駅が港区にあるため。北品
川駅は品川区の最北部にあり、しかも北品川にあるので、こちらの駅名こそ正しいといえる。しかし
港区に品川駅を追いやったのは北品川宿の人たちなのだ

 
●車掌が走った!
 平成27年10月14日未明の普通列車で、北品川駅のホームに車掌を残したまま発車するトラブ
ルがあった。置き去りにされた車掌は約700m先の次の新馬場駅(同区)まで沿線の道路を走って
追いついた。京急によると、14日午前0時10分ごろ、車掌は品川発川崎行きの最終列車に乗務。
北品川駅で車両のドアを閉め、出発のブザーを押した後、ホームにマイクを落としたことに気く。運
転士は車掌がホームにいるのに気づかず、列車を発車させてしまった。次の新馬場駅でドアが開かな
かったため、先頭車両にいた運転士が、最後尾まで行って車掌が乗っていないことに気付き、ドアを
開けたという。車内には約500人が乗っていた。電車は約8分遅れで同駅を出発した。まあ何事も
なく。目出度し、目出度し、車掌は焦っていろいろ考えながら走ったろうね!
 


■あぶりや連

 北品川1丁目2番6号フローラルハイツ1階にある、
平成16年9月にオープンした海鮮焙り焼き
の店。旧東海道に入った右手にあり、「しながわ観光協会 観光案内所」の紺地白抜き文字の幔幕が
かけてあるのですぐ判る。新鮮な活貝、魚を炭火で炙ってくれる。地元の漁師が取った江戸前の穴子
や、築地でマグロ問屋を営むメンバーが仕入れに協力している。開店のきっかけは北品川地区の商店
街の店主たちが商店街の空き店舗をなんとか活性化させたいと立ち上げたものだ。店に足を運んだ客
には品川をより知ってほしいと、品川各地の名物土産を取り揃え、夜は鹿児島の蔵元直送の本格焼酎
が飲めるスタンディング・バーとして楽しめる店になっている。


■枡翁軒

 北品川1丁目2番8号、問答河岸跡の碑の斜め向かい、嘉永二年(1849)創業以来同じ場所で
店を構え続ける和菓子屋。秘伝の甘辛の醤油だれを絡めた焼き団子は品川宿の味として続いており、
午前中で売切れてしまう場合が多い。4個1串350円。この辺りが北品川本通り商店街。今でも江
戸時代と同じ道幅で、北から南への一方通行となっている。旧東海道の通りは連続して、北品川商店
街、品川宿場通り南会商店街、青物横丁商店街と続いていく。


■品川宿アプローチ

 北品川1丁目3番の北端部(1~3号)、八ッ山橋(東海道線跨線橋)の南側にある広々としたス
ペース。  昭和31年京浜急行の線路敷だったところだ。
 平成19年八ッ山橋にアンダーパスが完成し、品川宿の入口が整備された。同時に緑地が新設され
て、品川から東海道53次目の大津の宿まで53個の石の道標が、京急線の北品川駅へ向かって、歩
道の縁に沿って並べられている。

 ●海鼠壁の蔵をイメージしたアンダーパス入口
 ●品川宿場散歩案内碑
 ●海鼠壁の蔵をイメージした公衆トイレ

 
品川宿標柱

   
従是南 御代官築山茂左衛門支配所

             
弘化二年乙巳 月

 
歌川広重「東海道五十三次・品川宿」は2バージョン
 浮世絵の品川宿はもう1枚あった。我々がよく目にする絵は、往来の旅人が少ないが、別パーショ
ンのは人数が多い。広重が最初に描いたのは人数の少ない方だが、版元が駄目出しして書き直させら
れたのだ。当時、広重はまだ無名だったので、「日本橋」も書き直させられている。


■品川宿道しるべ 東海道八ツ山口

 北品川1丁目3番6号、踏切際のレディシア北品川の前にある標柱。この道標は新しく建てられた
もので、一番八ツ山口から二十五番鈴ケ森口までと番外の計26本ある。
 

   左面 左 品川駅 

   正面 一番 東海道八ツ山口

   右面 右 品川宿

   裏面 旧東海道品川宿周辺まちづくり協議会


■福光稲荷川崎神社

 北品川1丁目3番24号にある。


■杜の公園

 北品川1丁目6番10号にある区立公園。


■豊川荼枳尼真天(豊川稲荷堂)

 北品川1丁目14番6号の、区立八ツ山公園内にある。区の「しながわ百景」では「稲荷堂」と紹
介されている。昭和7年八ツ山埋立地に区の鬼門除けとして創建され、今も多くの人々が安全を祈願
に訪れるとか。江戸百稲荷に「品川坂稲荷」というのがあって、その場所が判らない。
これがそうな
のか?


■八ツ山公園

 北品川1丁目14番7号にある区立公園。

 
稲荷堂
 園内にある。

   区政40周年・区民憲章制定5周年記念
   しながわ百景
   One Hundred Scenic Spots in Shinagawa
   
稲荷堂
   Inarido Shrine
   昭和62年 品川区 


■東八ツ山公園

 北品川1丁目15番11号にある区立公園。八ツ山公園の向かいがある。


■居残り連

 北品川1丁目22番4号の、旧東海道から舟溜りの方に入った、落語『居残り佐平次』にも登場す
る老舗「うなぎ荒井家」が平成16年に閉店したため、その跡に入ったイタリアン・レストラン。2
階外観が銅版貼りのレトロな木造建築。音のなりそうな階段を上がり、2階へ上ると街路樹が見え、
居心地の良いスペース。店主は、すぐ近くの『天婦羅うえじま』の長男植島誠。若いながら一流の料
理人を目指して、もう10年料理の修業をしてきた。何とかこの風情ある建物を残すべく、地元商店
街の主人らが協力し店をリニューアル。洋風レストランにしたのは近くにあまりなかったことから、
同17年2月のオープンに当たり、料理人は地元の植島に白羽の矢が立ったとか。
 ランチの種類は日替わりでハンバーグ系・揚げ物系・魚系の3種類。プレートに4種の前菜が盛り
付けられ1000円程度。特に八丁味噌仕立てのビーフシチューは大好評の一品。日本人が食べ慣れ
ているものを一味加えようと考え、入れると味がまろやかになる。他にも『メカジキの香草パン粉焼
き』『ジャンボ・メンチカツ』といった日替わりランチがある。
 夜は甲州産のワインにこだわり、コース料理もあるよ。土、日は品川の地元の老若男女が集い、賑
やかなこと夥しい。

 落語「居残り佐平次」
 
右を向いても左を向いても貧乏人が集まったとある長屋。その輪にいた佐平次という男が、「品川
の遊郭に繰り出そう」と提案して、「金もないのにどうやって?」と訝るのを、「いいから、いいか
ら」と説き伏せて、一同は品川へ。どんちゃん騒ぎして一泊の後、佐平次は、「実は結核に罹って医
者から転地療養を勧められていた。だからここに残る」と説明して、他の仲間を帰してしまう。その
後店の衆に、「勘定はさっきの仲間が持ってくる」といい居続け。翌日も「勘定勘定って、実に感情
に悪いよ」とごまかし、その翌日も居続け、痺れを切らした店の衆に「あいつらなんて知らないよ。
金? 持ってないよ」と宣言。店の帳場は騒然となるが。佐平次は少しも応えず、自ら店の布団部屋
に篭城した。やがて夜が来て店は忙しくなり、店は居残りどころではなくなった。佐平次は頃合を見
計らい、勝手に客の座敷に上がりこむと、

   どうも居残りです。醤油持ってまいりました。

   居残りがなんで接待してんだよ・・・ やけに甘いな、このしたじ(醤油)

   そりゃあ、蕎麦のつゆですから


 などと自分から客をあしらい始め、謡、幇間踊りなど客の接待を始めた。それが玄人裸足であり、
しかも若い衆より上手かったから客から「居残りはまだか」と指名がくる始末。これでは彼らの立場
がない。店では「もう勘定はいらない。あいつに出て行ってもらおう」ということになった。佐平次
は店の店主に呼び出され、「勘定はもういいから帰れ」といわれ追い出された。しかもその折に店主
から金や煙草をせびり、貰っていく始末。 心配で尾いて若い衆に、

   てめえんとこの店主はいい奴だがばかだ。覚えておけ、俺の名は遊郭の居残りを職業に
   してる佐平次ってんだ


 と捨て台詞を残して去っていった。若い衆これを店主に報告して、店主は一言。

   酷い奴だ。あたしの事をおこわにかけやがった

   へへ、あなたの頭がごま塩ですから・・・ お後が宜しいようで。
 


■土蔵相模跡

 北品川1丁目22番17号、旧東海道に面してあった。現在では一階にファミリーマートが入った
「ニックハイム北品川」というマンションになっている。飯売旅籠屋「相模屋」の外装が海鼠塀の土
蔵造りだったことで、通称「土蔵相模」といった。明治23年に『神明恵和合取組(め組の喧嘩)』
として新富座で初演された芝居で有名になったが、それは飽く迄フィクションで、実際に喧嘩の伏線
があった訳ではない。歴史的に土蔵相模が有名になったのは、文久二年(1862)11月11日高
杉晋作、志道聞多(後の井上馨)など長州藩「御楯組」の面々が、ここで外国人襲撃の謀議をこらし
たからだ。また同年12月12日品川御殿山に建築された英国公使館の焼き討ちの時にも、ここ土蔵
相模から出発したという。また安政七年(1860)3月3日の桜田門外の変の襲撃組の主体をなし
た水戸浪士17名が訣別の宴を催したのもここだという。建物は昭和初期まであった。その後「さが
みホテル」となり、現在のマンションに至っている。
 品川区立品川歴史館に土蔵相模の復元模型があるぞ。
 新しい道標「三番 土蔵相模」も立てられた。

   土蔵相模跡
   旅籠屋を営む相模屋は外壁が土蔵のような海鼠壁だったので、「土蔵相模」と呼ばれてい
   ました。文久二年(1862)品川御殿山への英国公使館建設に際して、攘夷論者の高杉
   晋作や久坂玄瑞らは、この土蔵相模で密儀をこらし、同年12月12日夜半に焼き討ちを
   行いました。幕末の歴史の舞台となったところです。


■品川宿道しるべ 歩行新宿

 北品川1丁目22番18号ロイヤルガーデン品川の旧東海道側の角にある。

   左面 左 

   正面 二十三番 歩行新宿 
土屋相模跡

   右面 右 本

   裏面 旧東海道品川宿周辺まちづくり協議会


■問答河岸の跡の碑

 北品川1丁目22番21号の、旧東海道に面した「菊すし総本店」の角に建てられている。3代将
軍家光の頃、沢庵禅師の屋敷が、3丁目の山手通りの北側辺りにあり、家光が訪問して楽しいひと時
を過ごした後、船で帰る家光を見送ったのが、碑のある辺りだという。

 家光の、

   海近くして如何、是東海寺(遠海寺)」


 に対し沢庵は、

   大軍を指揮して将軍(小軍)というが如し

 と返したのだとか。いったい誰が聞いていたのか、誰ぞ数寄者が語呂あわせで拵えたものだろう。
歴史上のエピソードは殆ど嘘だよ。

 
問答河岸由来記
 後ろに衆議院議員だった宇都宮徳馬の筆になる木製の説明版があるが、何分昭和43年に書いたも
のなので、幾星霜に耐えてきたとはいえ、老朽には勝てず、罅割れもあり、読み辛くなっている。

   問答河岸由来記
   寛永の昔 徳川三代家光将軍 勇壮活達の明君也。宗彭沢庵禅師に帰依して 品川に萬松
   山東海寺を建つ 寺域五萬坪寺領五百石 殿閣僧房相連って輪奐美を極む 将軍枉駕年間
   十数度法を聴き政治を問う 厚遇思う可し 将軍一日天地丸に座乗し品海を渡り目黒河口
   に繋船して東海寺に詣し 喫茶法話 薄暮に至って江戸城に還らんとす 禅師河畔に立っ
   て是れを送る 将軍乗船に臨んで禅師に参問して曰ク 海近くして如何が是れ東海寺と 
   禅師答而曰ク 大軍を指揮して将軍と言が如しと 将軍一笑 纜を解いて而て還る 時移
   りて三百年地勢亦変じ河海遠し然れ共 市人傳えて問答河岸と称す 一世の英主 一代の
   名僧 諧謔談笑の蹟 菊鮨總本店主其煙滅を惜み石に録して永世芳を傳えんとす 亦可し
   からすや
   昭和四十三年仲秋                衆議院議員 宇都宮徳馬書
 


■大横町

 北品川1丁目24と29番の道。御殿山通りの入口部分。旧東海道から御殿山への横町に付けられ
た名称で、他の横町に比べて広かったことからつけられたといわれているが、正確なところは不明。
御殿山通りの起点がこの横町だ。道幅は旧東海道と同じぐらいある。

   大横町
   東海道から御殿山の横町に付けられた名称で、他の横町に比べて広かったことからつけら
   れたといわれているが正確なことは判っていません。かっての御殿山通りの起点がこの横
   町です。
 


品川宿道しるべ 東海道品川宿入口

 北品川1丁目26番10号京急保健サービスの角にある石標。踏切の近くだ。

   正面 
二番 東海道品川宿入り口

   裏面 
旧東海道品川宿周辺まちづくり協議会


音響山相伝院善福寺

 北品川1丁目28番9号にある時宗の寺。永仁二年(1294)創建の古刹。藤沢の遊行寺こと藤
沢山無量光院清浄光寺を総本山とする。山門を入ると境内は駐車場。正面に本堂があるが少し草臥れ
てる。伊豆長八の鏝(こて)絵が伝わっているが、大部分剥落している。修復したかなぁ・・・・ 右
隅に堂がある。何だろう? 本堂の右は庫裏、催場など。

 
石造念仏講供養塔
 万治元年(1658)に造立されたもので、この頃の造立になる念仏講供養塔はその数も少なく、
また銘文によって、既にこの頃、時宗の当寺の檀家によって構成される念仏講が、当地域に存在した
こと事実を示す資料として唯一のものであって、刻んである銘文や人名などから念仏講の人々が死後
の往生菩提を生前に祈り、読経や供養などの善行を積むことを意図して造立したものだ。江戸初期の
民間信仰資料として貴重ものだよ。

   品川区認定文化財
   
石造念仏講供養塔
   万治元年(1658)に造立されたもので、その頃の造立になる念仏講供養塔はその数も
   少なく、また銘文によって既にこの頃時宗の当寺の檀家によって構成される念仏講が当地
   域に存在した事実を示す資料として唯一のものであって、江戸初期の民間信仰資料として
   貴重である。
   昭和39年12月1日                      品川区教育委員会


 
歩行新宿字裏町
 北品川1丁目28番に、かつてあった善福寺門前とその境内をいった。裏町という字名は明治8年
の地租改正の時に役人が決めたものだ。北品川宿字裏町とは異なり、その由来は、東海道に面した歩
行新宿の裏町
 


■台場横町

 北品川1丁目29番と30番の間の道。説明版に、

   台場横町
   1853年(嘉永6)ペリー率いる四艘のアメリカ艦隊が浦賀に来航した後、幕府は江戸
   防備のために、江川太郎左衛門の指揮で品川沖に品川台場の築造に着手しました。当初計
   画は11基でしたが、完成したのは5基で、他に陸続きの御殿山下台場(現在の品川区立
   台場小学校)を完成させました。この御殿山下台場へ下っていく横町を台場横町と呼んで
   います。


 とある。但し「横丁」はその目的物に向かう一本道のことだ。つまり「大関横丁」「法善寺横丁」
などで、「横町」は大通りや街道、往来から脇に入った路地だ。奥の防火地に長屋を建て。表店(お
もてだな)の隠居が大家をしてたりする。これが「横町の御隠居」だ。
 


■藤沢宿の兄弟松

 北品川1丁目29番15号ドーミー品川の角、共有空地(積水ハウス管理)にある。平成26年4
月9日(水)、旧東海道品川宿周辺まちづくり協議会(会長堀江新三)が、神奈川県藤沢市の街道松
(クロマツ)を植樹した。この植樹は、同協議会が「街道松をつなぐ」事業として、旧東海道周辺に
街道を往来する旅人のための道標だった「街道松」を植えて歴史を感じるまちなみを整備し、また、
各宿場まちとの交流を深めることを目的として、平成5年から行っている。これまでにも11ヶ所の
宿場(浜松宿、三島宿、土山宿、保土ヶ谷宿、袋井宿、大磯宿、御油宿、枚方宿、坂之下宿、関宿、
亀山宿)から街道松を譲り受け、植樹した。


■品海公園

 北品川1丁目30番9号にある区立公園。

 
品川宿の松
 公園の入口にある。「日本橋から二里」の道標は品川宿のシンボルとして建てられた。松は、平成
12年の改修記念に浜松宿内から寄贈されたもの。公園手前の坂道の民家には、江戸時代の護岸用の
石垣が今も残っている。

   「品川宿の松」
   この松は、旧東海道品川宿のシンボルとなる「街道松」として東海道が取り持つ縁で、二
   十九番目の宿場であった静岡県浜松市の有賀慶吉氏より品川区に寄贈された樹齢八十年の
   黒松です。
   斜めに傾いた幹は、風雨に耐えながら旅人を見守った当時の松並木を忍ばせる見事な枝ぶ
   りです。
   松の名称は、寄贈されたら有賀氏より「品川宿の松」と命名されました。
   また約百五十メートル南の「南品川二丁目児童遊園」には、三島市より同じ趣旨で寄贈さ
   れた「街道松」があります。                平成五年三月吉日 寄贈

 ※文中の「忍ばせる」は「偲ばせる」の誤記。

 
園名標石
 いりぐちにある。

   品海公園

 
品川宿の標柱
 公園入口右にある品川宿道しるべ番外の標柱。側に説明板が建ててある。


   品川宿 日本橋より二里
         川崎宿へ二里半

   
「東海道品川宿」
   「東海道五十三次」といわれる江戸から京都間の五十三宿の中で、品川宿は諸街道の最初
   の宿場町である。
   旅人は、品川宿を経由して西を目指し、また家路についた事から「東海道の玄関口」とし
   て栄え、宿内の家屋は一六〇〇軒、人工七〇〇〇人規模で賑わっていた。
   今でも品川宿周辺は、江戸時代と同じ道幅を保ち、かつての宿場町として活気が息づいて
   いる。
  


■品川宿道しるべ 新宿御休み処

 北品川2丁目2番8号にある標石。

   左面 左 本宿

   正面 
四番 新宿御休み處

   右面 
右 北品川駅 品川駅

   裏面 
旧東海道品川宿周辺まちづくり協議会


臨海山遍照院法禅寺

 北品川2丁目2番14号にある浄土宗の寺。芝増上寺の末寺で、開創は至徳(元中)元年(138
4)。 本尊は木造阿弥陀如来坐像(約1m)、江戸中期の作。
 『新編武蔵風土記稿』の北品川宿の項に、

   法禅寺
   除地七段八畝二十七歩、養願寺の北隣歩行新宿一町目の西側にあり、浄土宗芝増上寺末隣
   海山遍照院と號す、明徳元年言譽定賢起立し、茲年九月十三日寂す、本尊阿弥陀坐像長七
   尺、又圓光大師自作の坐像あり、長二尺、昔は表通海道に傍て二段四畝の地に門前町屋あ
   りしが、享保七年歩行新宿に収入して其名廃し、境内に古碑四基あり、文保二年六月二十
   九日、建武五年、暦應三年、暦應四年四月二十一日の年月を彫刻せり。寺寳
   弥陀名號一軸。圓光大師筆、厨子戸帳の類は元禄十五年桂昌院殿の御寄附にて葵の御紋付。
   観音堂。観音は桂昌院殿の賜物なり、當時尼公の仰に依て本尊圓光大師彫像を御覧に入、
   返し給ふ、時に此賜ありしと、立像長二尺。
   塔頭貞樹院。門を入て左にあり、本尊弥陀長二尺。


 とある。

 品川小学校発祥之地の碑
 門前にある。明治6年都築幾三郎が歩行新宿(かちしんしゅく)の善福寺に間借りして数学を主体
とする寺子屋を始めるが、都合で直ぐに法禅寺にところを替え、門弟60数名に教えていた。当時こ
の地の戸長下村利忠は、これを公立学校に転用すべく東京府に願い出たが、同7年2月20日に認可
となり、区内で最も古い小学校は、第一大学区第二中学区第6番公立小学品川学として、ここ法禅寺
に開かれた。現在の品川小学校はここから西500m先、JR東海道線に面したところにある。

   正 面
  品川小学校発祥之地
   左側面  題字 品川区長 島本正一
   右側面  開校 明治6年3月吉日
   裏 面  品川小学校校長三宅光夫 PTA 同窓会

 
観音堂
 境内にある。扁額は「光明」。

 
子育地蔵堂
 境内にある。


 流民叢塚碑
 
本堂手前左側の納骨堂上にある碑のうち左側のもの。天保の大飢饉の際、天保七年(1836)長
雨が続き、悪疫・餓死などで892人もの行き倒れがあり、法禅寺とこの先の海蔵寺に葬られた。法
禅寺では515人の遺体を埋め、2m余の塚上に建てた碑を昭和9年ごろ現在のように納骨堂の上に
移した。この碑によって幕府が品川宿に御救小屋を設けたことが判り、その悲惨さを実証する史料で
もある。建立者は代官中村八太夫。撰文と書はのちの代官木村董平とある。
 コンクリート塚の前に六地蔵が祀られている。

   品川区文化財
   
流民叢塚碑
   天保の幾饉は、凶作つぎ物 は年々上昇し、人々は苦しんだ。同七年三月から四月にかけ
   て雨が降りつづき、江戸では夏土用壮年者も衣類を重ね、老人はあんかをだいてねる程で
   あった。品川附近でもそのため餓死する者が515人におよんだ。これらの人を此処に葬
   り建立したのが本碑である。特に品川に御救小屋を設けたことを実証する唯一の史料であ
   る。
   昭和44年2月14日                      品川区教育委員会

   
流民叢塚碑
   天保四年(1833)にはじまった全国的飢饉は、同七年その頂点に達し、食を求める難
   民は諸国に流浪した。幕府はその救済のため、各所に御救い小屋をもうけることを命じ、
   品川宿内においても代官中村八太夫は宿役人を指揮して救済に当たった。
   しかし品川附近で病や飢餓にたおれる人々は89人に及び これらの人は法禅寺、海蔵寺
   に葬られた。
   この碑は天保飢饉の悲惨さを伝える史料として、名もない庶民の存在を伝えるものである。
   明治4年回向のためこの碑が建てられた。
   昭和59年3月30日                      品川区教育委員会

 ※文中「幾饉」は「飢饉」は誤記。

   品川区指定史跡
   
流民叢塚碑                所在 北品川二丁目二番十四号 法禅寺
                         指定 61年3月14日(第21号)
   この碑は、天保の大飢饉でなくなった人たちを祀る供養塔である。
   天保四年(1833)に始まった天候不順は、その複数年におよび、多数の餓死者を出し
   た。
   品川宿には、農村などから流浪してくる者が多く、この付近で病や飢餓でたお人が891
   人を数えるに至った。これらの死者は、法禅寺と海蔵寺に葬られた。本寺には五百余人が
   埋葬されたという。
   初めは円墳状の塚で、この塚の上に、明治4年に造立の流民叢塚碑が立てられていた。昭
   和9年に境内が整備されたが、同じ場所にコンクリート製の納骨堂が建てられ、上にこの
   碑が置かれた。
   碑の正面には、当時の惨状が刻まれており、天保の飢饉の悲惨さを伝えるとともに、名も
   ない庶民の存在を伝えている。
   平成23年3月31日                      品川区教育委員会


 御殿山出土板碑群

 覆堂の中にある。安政元年(1854)台場築造のため御殿山の土取り作業中に、人骨・武具とと
もに板碑・五輪塔・宝篋印塔が多数出土し、積出し経路の途中に当るこの寺に納めたもので、120
枚余所蔵され、由縁については「法禅寺遺墳碑」に記されている。

   品川区認定文化財
   
御殿山出土板碑
   安政元年に品川台場築造のため付近の台地から赤土を採掘中御殿山の土中から武具や人骨
   と共に発掘したもので、正嘉二年から文明十一年に至る67基が残っている。
   板碑は南関東では緑泥片岩が主に使用され供養のために造立される塔婆で当時の信仰生活
   を知る資料である。
   昭和38年7月10日                      品川区教育委員会

   品川区指定有形文化財(考古)
   
法禅寺板碑 腑 遺墳碑          所在 北品川2丁目2番14号 法禅寺
                         指定 昭和58年3月12日(第一号)

   板碑は鎌倉中期から桃山時代頃までにつくられた石造供養塔である。全国的に広く分布し
   ているが、関東では秩父産の緑泥片岩を使っていることが多い。
   法禅寺の板碑は、このあたりでは珍しく一ヶ所から大量に出土した事例で、安政元年(1
   854)品川台場築造の際に御殿山から。遺墳群はその時の由縁を記したものである。
   昭和59年3月30日                      品川区教育委員会

   
品川区指定有形文化財(考古)
   
法禅寺板碑 腑 法禅寺遺墳碑   所在 北品川2丁目2番14号 法禅寺
                     指定 昭和58年3月12日(考古資料第一号)
   板碑は鎌倉中期から桃山時代頃までにつくられた石造供養塔で、関東を中心に広く分布し
   ている。石材は、関東では主として秩父産の緑泥片岩(青石)が使われている。
   当寺の板碑は、品川御殿山から出土したものの一部で、破片を含めて総数121基ある。
   最も古いのは徳治三年(1308)、最も新しいのは延徳二年(1490)の銘が確認さ
   れる。これらは、幕末の品川台場の築造の折りに、御殿山の土取場から宝篋印塔・五輪塔
   とともに出土したもので、遺墳碑はその時の由来を記している。
   一ヶ所からこれほど大量に出土して保管されている例は、大田区の鵜の木光明寺とともに
   珍しく大変貴重である。
   法禅寺板碑のうち、宝徳四年(1452)銘の阿弥陀三尊種子を刻んだ板碑を品川区立歴
   史館で常設展示しています。
   平成10年3月31日                      品川区教育委員会

   品川区指定有形文化財
   
法禅寺板碑・宝篋印塔・五輪塔  附 遺墳碑・舊霊塔・枯骨の墳
                     所在 北品川2丁目2番14号 法禅寺
                     指定 昭和58年3月12日(考古資料第一号)
                     追加指定 平成27年3月22日
   板碑は、鎌倉時代から戦国時代にかけて作られた石の供養塔で、この板碑の石材は多くの
   関東の板碑同様、秩父産の緑泥片岩が使われています。宝篋印塔・五輪塔とも、中世を代
   表する供養塔・墓塔です。
   板碑は総数116点で、最古の銘は徳治三年(1308)です。宝篋印塔は52点、五輪
   塔は104点の部材を数え、最古の銘は、宝篋印塔が応永十六年(1409)、五輪塔が
   応永十三年(1406)となっています。これほど大量の板碑などが一ヶ所から出土し保
   管されている例は珍しく、大変貴重なものです。
   萬霊塔と枯骨の墳は同時に出土した人骨を弔うために建立されたものです。遺墳碑はその
   経緯を記し、明治2年に建てられました。
   板碑のうち、宝徳四年(1452)銘の阿弥陀三尊種子を刻んだものは、品川区立品川歴
   史館に常設展示されています。
   平成27年3月31日                      品川区教育委員会

 観音堂
 本堂前方右にある。東海三十三観音第三十一番 本尊正観音。

 
杉森稲荷神社 ◇

 観音堂の右に鳥居があり、参道を行くと観音堂の裏にある小祠。

 
布袋尊像
 本堂右前にある。


 ●
阿弥陀如来坐像・法然上人坐像・紙本着色釈尊誕生変相図・4紙本着色地款変相国
 本堂前にある寺宝の説明板。このほかに「仏涅槃図」や「十六羅漢図」などがある。

   品川区指定有形文化財          所在 北品川2丁目2番14号 法禅寺
   
阿弥陀如来坐像           指定 昭和56年2月12日(彫刻第1号)
   当寺の本尊で、木造等身大の坐像である。右手を胸前に挙げ、左手を膝の上に置いて来迎
   の印を結ぶ。宝永二年(1704)安阿弥末流の大仏師、大部の作によるもので、鎌倉時
   代の古様式を持つ江戸期造仏の代表作といえる。
   
法然上人坐像            指定 昭和56年2月12日(彫刻第2号)
   木造で、像高29cmの小型の像である。右手を上にして胸前で数珠を持つ。作者は不明
   であるが、室町時代あるいは鎌倉時代にさかのぼる彫刻である。
   
紙本着色釈尊誕生変相図      指定 昭和56年2月12日(絵画第2号)

   縦180、横157.5cm及ぶ軸仕立の釈迦誕生の絵で、作者は神田宗庭貞信(1765
   ~1800
)である。神田家は江戸期を通じ、上野寛永寺の絵画役を務めた絵所で、貞信
   はその七世である。

   紙本着色地獄変相図       指定 昭和56年2月12日(有形民俗第12号)
   品川宿で旅籠屋を営んでいた田村屋清七の筆になるもので、縦228.5cm、横127.
   5cmの軸仕立。地獄での亡者の様相と阿弥陀如来の救済の情景を描いたえである。文政
   十一年(1828)、品川宿の商人と思われる人たちが寄進したものである。
   平成14年3月28日                      品川区教育委員会

 
本堂
 両側の壁は煉瓦貼り。

 
名号塔
 本堂の左前にある。

   
南無阿弥陀佛

   文化七庚午秋七月
   施主 鴻野三良兵衛信■

   光明遍照十方世界
   念仏衆生摂取不捨


 大イチョウ
 
墓地入り口に立っている。幹周り3.
4m、高さ25m、推定樹齢400年。樹姿の整った古木。

   品川区指定天然記念物
   
法禅寺のイチョウ            指定 昭和53年2月14日(第七号)
   イチョウはイチョウ科に属する洛陽の高木で、高さ30mにもなり、葉は扇形で秋に黄葉
   する。雌雄それぞれ別の木となる。
   本樹は雌樹で、幹の囲りは3、4m、高さは25mで、推定の樹齢は約400年である。木
   の勢いも盛んで、姿も整い、周囲にひときわ目立つ大木である。
   本樹は古くから知られ、昭和10年の「東京市史跡名勝天然記念物概要」にも紹介されて
   いる名木である。
   平成6年3月31日                       品川区教育委員会


 板木・銅版の説明板
 本堂左手、大イチョウの横にある。

   品川区指定有形民俗文化財
   
法禅寺板木・銅版           所在 北品川2丁目2番14号
                        指定 平成20年7月22日(第29号)
   寺院などに残る板木は、近世から近代にかけて各種各様のものが作られ、参詣者に木版摺
   りの神仏の御影や御札を配布していた。板木は摩耗してしまうと廃棄され、残ることは稀
   である。法禅寺板木は、正徳三年(1713)~明治時代にかけて制作されたもので、6
   9枚が残存している。板木の内容は百万遍御礼板木、法然上人御遠忌仏納板木、金光明最
   勝王経の板木など、多種類に及んでいる。
   銅版は、明治前期に制作されたもので、上部平面に細密な「阿弥陀浄土図」が描かれ、下
   部には「十万人日課講緒言」が記されている。版も大きく、現在区内で確認されている唯
   一の銅版である。
   法禅寺のこれらの板木・銅版は、民間信仰の一形態を示す民俗資料として貴重である。
   平成21年1月10日                      品川区教育委員会
    


■虚空蔵横丁

 
東海道から養願寺へ入る横町をいう。養願寺の本尊はかつては阿弥陀如来だったが、現在は虚空蔵
菩薩で、品川の虚空蔵さまとして親しまれている。江戸時代には、毎月13日にお参りをしていた。
今は毎年4月7日と11月7日の大祭に開帳され七の付く日が縁日で新馬場北口の通りには露店が出
店している。横丁は目的地へ向かう一本道、横町は通りから入った路地。
 


明鏡山善行院養願寺
 北品川2丁目3番12号にある天台宗の寺。
正安元年(1299)の創立で、元南品川常行寺末。
東海七福神の布袋尊毎月7の日の縁日は北馬場通り(新馬場北口通り)に露店が出て家族連れで賑わ
う。養願寺の本尊は阿弥陀如来。虚空蔵菩薩は本堂内にある。

   銅造阿弥陀如来立像
   この阿弥陀如来立像は、木造の観音・勢至像を脇侍とし、本尊の脇に安置されている。身
   に衲衣を通肩にまとい、右手を屈して五指を伸ばし、掌を正面に向けている。左手は垂下
   して第二指と第三指を伸ばし、他の指を捻じた刀印を結ぶ。頭部体躯を一鋳に吹いている。
   この像は、長野市にある善光寺の本尊の模作の一つであるが、鎌倉時代(1192~13
   32)の製作と推定され、大変貴重なものである。
   
木造不動三尊像 三躯
   三尊像は、中尊が不動明王像、脇侍が制た迦童子像・矜羯羅童子像の三躯である。銘文か
   ら、甲州(山梨県)の出身で、武州豊島郡金杉村(台東区)世尊寺に住む法印大僧都玄雄
   が、二世安楽のため、万治元年(1658)に初願造立した造であることが判る。仏師は、
   春達であると推定される。三尊像とも彩色が施されているが、彩色は後世のものと思われ
   る。
   平成元年12月15日                      品川区教育委員会
 


■品川宿道しるべ 虚空藏横丁

 北品川2丁目3番8号田口オートグガラスの角にある標石。

   左面 左 品川橋を経て南品川宿

   正面 
五番 虚空蔵横丁 本宿 後 新馬場駅北口

   右面 
右 歩行新宿

   裏面 
旧東海道品川宿周辺まちづくり協議会


■虚空藏横町

 北品川2丁目3番8号南の路地。壁に説明板がある。

   虚空藏横町
   東海道から養願寺へ入る横町をいいます。養願寺の本尊はかつては阿弥陀如来でしたが、
   現在は虚空蔵菩薩で、品川の虚空蔵さまとして親しまれています。江戸時代には、毎月1
   3日にお参りをしていました。今は毎年4月7日と11月7日の大祭に開帳され7の付く
   日が縁日で、新馬場北口の通りには露店が出店しています。

 「横町」と「横丁」は別物で、「横町」は表通りから入ったところ、「横丁」は目的への一本道。
荒川区の「大関横丁」は大関屋敷へ至る道。「よこちょうの御隠居」は「横町」。従って、このよこ
ちょうは「虚空蔵横丁」の方が正しい。


溜屋横町

 北品川2丁目4番2号トーモンハウスの横の路地。横壁に説明板がある。

   溜屋横町
   法禅寺の前から海岸へ出る横町で利田新地へ渡る島海橋(後の品海橋)に海岸線で通じる
   横町です。


豊盛山延命院一心寺

 北品川2丁目4番18号にある真言宗の寺。安政二年(1854)大老井伊直弼の開山、昭和の中
興弘道大和尚により成田不動尊を勧請して寺格を得る。成田山の品川別院。

   
一心寺の由来
   安政二年(1854)日本開国之機運高まり国運の境目に接面し時、大老職にある井伊直
   弼公が縁起に依り江戸台場の沿革東海道第一の品川宿にて鎮護日本、開国条約、宿場町民
   の繁栄安泰の願へとの霊験を悟り開山され、時の町民代表一同に依って建立されたと伝え
   られております。当山は昭和の御代になり中興の祖とも云うべき僧正弘道大和尚に依り、
   豊盛山延命院一心寺と云う寺格を拝受し、成田山分身の不動明王を本尊とし延命、商売の
   護りとして今日に続いております。昭和61年より東海七福神の寿老人(寿命)の指定寺
   院に認定されしことは誠に意義深く、又、本堂の造りは京都本願寺の宮大工伊藤氏に依る
   ものと称せられており、内陣には両大師、中国渡来之二仏、無指定の飛鳥仏と称する仏像、
   光雲作観音像、寿老人等が祀られております。
   昭和60年12月                          一心寺
                                      僧正照幸代

 成田山不動堂再建碑
 入口に建ててある。


■竹屋横町
 北品川2丁目6番と7番の間の道。今は暗渠となった目黒川本流(八ツ山通り)へ向かう路地。説明
板に、

   
竹屋横町
   東海道から目黒川本流(なぎさ通り)に至る横町で、1800年頃品川宿を描いた「東海
   道分間延絵図」に記載があります。「地記御調書上」に「相分り不申候」とあり、地名の
   由来については不明です。


 とある。竹屋があったんじゃないの。なぎさ通りはイコール八ツ山通り。


■品川本陣跡聖蹟公園
 北品川2丁目7番21号の聖蹟公園がそれだ。品川宿は日本橋を出て初めての宿であり、東海道の
親宿として栄えていた。宿内にはこの外に脇本陣2軒があった。本陣とは勅使・大名・外国使節など
が泊る旅館で、明治5年(1872)に宿駅制度が廃止されるまで存続した。当本陣は明治元年天皇
が東幸の際、行在所となったことから、昭和13年聖蹟公園になった。園内に当時の東京市長の撰文
になる「聖蹟公園由来の碑」「聖徳の碑」「御聖蹟の碑」「石井鉄太郎胸像」などの記念碑が建つ。
同43年に建てた「夜明けの像」という新聞配達の少年の像は、石井の提案により昭和24年に建て
た二宮尊徳像を取っ払って据え代えたものだ。

   品川宿本陣跡(聖跡公園)
   江戸時代の本陣は、宿場で大名や旗本、公家などが休息や宿泊するところで、品川宿には
   初め南北品川に一軒づつありましたが、江戸中期には北品川宿のみとなりました。
   大名などが宿泊すると本陣には大名の名を記した関札をたて、紋の入った幕をめぐらしま
   した。
   明治維新後、京都から江戸へ向かった明治天皇の宿舎(行在所)にもなったところです。


   品川区指定史跡
   
東海道品川宿本陣跡            所在 品川区北品川2丁目7番21号
                             聖蹟公園

                          
指定 昭和52年11月22日
   品川は江戸四宿の一つで、東海道53次の親宿として発達した。ここはその本陣跡であり、
   品川三宿のほぼ中央にある。寛永十三年(1636)に主要街道の宿駅の旧家を、諸侯・
   公家・幕府役人・外国使節等が宿泊できるよう指定したのが本陣であり、この制度は明治
   3年の宿駅制度の廃止まで続いた。
   昭和54年8月31日建設                    品川区教育委員会

   品川区指定史跡
   
東海道品川宿本陣跡        所在 品川区北品川2丁目7番21号(聖蹟公園)
                      
指定 昭和52年11月22日
   品川宿は江戸四宿の一つで、東海道53次の第1番目の宿駅として発達した。ここはその
   本陣跡であり、本陣は品川三宿の中央に位置していた。東海道を行き来する参勤交代の諸
   大名や公家、問跡などの宿泊、休憩所として大いに賑わったところである。明治5年の宿
   駅制度廃止後は警視庁病院などに利用された。
    現在跡地は公園となり、明治元年(1868)に明治天皇の行幸の際の行在所となった
   ことに因み、聖跡公園と命名されている。
   平成10年2月28日                     
品川教育委員会

 現在のものは「平成14年3月28日」に建て替えている。

 
品川宿道しるべ 品川宿本陣跡
 旧東海道側の入口にある標柱。

   左面 
 

   正面 
八番 品川宿本陣跡

   右面 
右後 北番場を経て新馬場駅北口

   裏面 
旧東海道品川宿周辺まちづくり協議会

 
しながわ百景
 園内にある

   区政40周年区民憲章制定5周年記念
   しながわ百景
   One Hundred Scenic Spots Shinagawa
   
聖蹟公園(本陣跡)
   Seiseki Park(the site of a historical teudal lord inn)
   昭和62年 品川区  6


 
本陣の井戸
 園内に残っている。

 
公園の石碑案内
 園内にある。

   公園の石碑案内
   
聖蹟公園由来の碑
    昭和13年聖蹟公園として整備開園するに
    当たり、その由来を記して東京市が建てたものである。
   
聖徳の碑
    東京市品川聖蹟公園開設までの明治天皇品川聖蹟保存会の
    活動について記録した碑。
   
御聖蹟の碑
    明治天皇の行在所となった品川宿本陣跡が昭和13年に
    東京市の公園になったのを機に設置された日である。
   
鈴木鐡太郎氏胸像
    常に住民の福祉増進と社会福祉の向上に尽し、昭和五十年
    に社会福祉功労を顕彰し名誉区民となった。
   
夜明けの像
    昭和24年に二宮尊徳像が建てられたが、昭和42年に
    石井鐡太郎によって現在の子ども達が親しみやすい像
    ということで改めて新聞少年の像が建てられた。
                           品川区


 
聖蹟公園由来の碑
 園内にある。
「景仰聖蹟」の碑ともいう。昭和13年建立。

   
景仰聖蹟

 
石燈籠
 園内にある。

 
聖徳の碑
 園内にある公園開設までの明治天皇品川聖蹟保存会の活動記録を記す。


 
御聖蹟の碑
 行在所跡を記念して昭和13年に建立された。

 
石井鉄太郎胸像
 社会福祉家。北品川2丁目31番に住んでいた。昭和54年、小金井幾久の作品。東京産業信用金
庫理事長、会長を務めた。品川区名誉区民第1号。平成15年没。

   昭和四十六季七月十九日建立
   寄贈者
   卒業生 
石井鐡太郎
   世田谷区立八幡小學校長天木俉市書
 印

 
二宮金次郎像
 昭和24年建立された。

 
「夜明け」
 石井鉄太郎が寄贈した新聞少年の銅像。元々昭和24年に二宮金次郎像が建てられていたが、同4
2年に子供たちに親しみ易いように新聞少年像が建てられた。彼は母校の世田谷区立八幡小学校にも
新聞少年像を寄贈している。こちらも二宮金次郎像があるのに建てられただ。鉄ちゃんは金ちゃんが
嫌いなのだ。二宮像は「寸暇を惜しんで勉学に励め」という教訓。

 土山宿の松
 中央通り側の入口脇にある。
 


日夜山善水院正徳寺

 北品川2丁目9番26号にある浄土真宗大谷派の寺。新馬場駅前で山手通りに面している。永仁六
年(1294)の創立で、東本願寺末。山門をはいると本堂が目に付くが、前に大きなイチョウの木
がある。右に庫裏、左と裏は墓地。「新編武蔵風土記稿」北品川宿の項に、

   正徳寺
   除地二段五畝四歩、年貢地三畝廿二歩北馬場町の北側にあり、浄土真宗東本願寺末日夜山
   善永院と號す、永仁六年僧春應開基す、政題録に初は善永寺と稱し、延寳三年の頃今名に
   改むと云、本尊阿弥陀立像定朝の作。
   寺寳
   親鸞旅立像影一幅、定禅法橋の筆
   光明石一顆。
   門前町屋、貞享四年回禄の後寺社奉行大久保安藝守忠能に願ひ、舊に依て町屋を立、寳暦
   十一年二月町奉行支配となる、境内南東北の三方を續りてあり、小間三十九間半歩数四百
   五十三坪餘


 とある。


 
平松南園日記(五十五巻)
 昭和53年3月31日指定の文化財。寛政八年美濃国生まれ。本名理準。天保十一年当寺23世住
職。江戸後期~明治時代の僧で詩人。高倉学寮で宗学を修める傍ら、頼山陽らに漢詩を学ぶ。江戸で
大窪詩仏らに師事。幕末の動乱期、尊王派しても知られ、土佐藩主山内容堂や太田垣蓮月尼と交わっ
た。15歳から日記をつけ始め、慶応二年(1866)には100巻を超えたが、この年の暮れの北
品川の大火で総て焼失した。この日記は、その直後から86歳で没する直前(明治14年)までつけ
られたものだ。維新前後の殺伐とした世情や品川宿の様子、南園の幅広い交友関係を記している。

   品川区指定文化財(文13)
   
平松南園日記 55巻
   平松南園(1797~1881)は正徳寺の23世住職で、漢学に通じ、和歌をよくした
   学僧であり、幕末の動乱期に勤王派の人たちと交わってこれを庇護し、土佐藩主山内容堂
   や太田垣蓮月尼らとも親交があった。
   南園は15歳から日記をつけ始め、慶応二年(1866)には数百巻に及んだが、この年
   十二月北品川の大火で総て焼失した。この日記はその直後から明治14年死去寸前まで、
   つけられたものである。
   維新前後の騒然とした世情や品川宿の様子、そして南園の幅広い交友状況を記している。
   地域の史料として価値がある。
   昭和50年3月31日認定                    品川区教育委員会


 
難破供養碑
 境内にある。

 
鈴川権藤先生墓
 墓地にある。「信濃■■惟常撰、武蔵大嶋信書」とあり、びっしりと墓誌銘を刻むが剥落が多い。
大嶋信は、巻菱湖に師事した大嶋堯田(文化二年~明治18年)の名だ。堯田の書は、菱湖の門人ら
しい温和で清々しい楷書。銘文に、「■■優遇為侍医」「傷寒論」などの語句が見られるので、権藤
鈴川は医者なんだろう。因みに京都大学図書館に「傷寒論」の写本があり、「権藤鈴川抄」と記され
ているというよ。



■品川宿道しるべ 北馬場

 北品川2丁目9番27号の角にある。左側面に「左 新馬場駅北口」とある…が、そう行かせよう
と思ったら建っている位置と向きが90度ずれている。

   左面 
左 新番場駅北口

   正面 
六番 虚空蔵横丁 北馬場

   右面 
右 東海道 品川宿本陣跡

   裏面 
旧東海道品川宿周辺まちづくり協議会   


■母親殺害無理心中未遂事件

 北品川2丁目10番7号の関宅で起きた殺人事件。平成29年5月31日朝関久徳(57歳)が、
母親リヱ(86歳)を首を絞めて殺害、自らも左手首を切って自殺しようとしたが果たせず、7時頃
警察に通報した。品川警察署の警察官が事件現場となった民家に駆け付けたところ、1階の居間で女
性が仰向けで倒れているのを発見、女性は既に死亡しており、家の中の浴室で久徳が左手首を切って
倒れていた。警察の調べに対して久徳は「お母さんの首を絞めて殺し、自殺しようとした」と話して
いることから、久徳が母親を殺害後に自殺を図った無理心中の可能性も視野に捜査を進めた。
 殺害された母親は体調が悪かったということで、近所の人によると久徳が病院に連れて行ったりす
るなど、日常的に世話をしていたという。現場は北品川公園の近くの一軒家。


■小泉長屋

 北品川2丁目10・11番(一部)12~14番の辺りをいう。丁度東海道から虚空蔵横町を入っ
た養願寺の奥の一帯だ。かつては北品川宿の字名で、現在も俗称でそう呼ぶ面積五反(4984㎡)
の地域。寛文四年(1664)に板倉主税の抱地になった土地で、その後、祐心という人物の所有と
なって百姓地となり、寛延年間(1748~50)に小泉屋金左衛門が買い取って貸し長屋を建てた
ことでそう呼ばれることとなった。昔の風情が今も色濃く残っていて、今も3ヶ所で井戸が使われて
いる。マスコミに取り上げられて有名になり、日テレ「途中下車の旅」、NHK『ブラタモリ』まで
が駆けつけてタレントがおおはしゃぎ。懐かしい家並みではあるが、ここだけというものでもない。

   小泉長屋                    北品川2丁目12番から14番附近
   北品川宿の字名で面積五反八歩(4984平方メートル)の地域です。寛文四年(166
   4)に板倉主税の抱地になった地で、その後、祐心という人物の所持となって百姓地とな
   り、寛延のころ(1848~50)に祐心が小泉金左衛門に譲り、同地に貸長屋を建てた
   ため小泉長屋と呼ばれました。


■於春稲荷大明神

 北品川2丁目11番3号にある小社。

   於春稲荷と旧小泉長屋
   
旧小泉長屋の由来(北品川公園を中心とした約600坪の土地)
   「三町目の西裏五反十八歩の地を云 寛文四年(1664)旗本板倉主税抱地となり 元
   禄検地の後、祐心と云るもの譲受しより村民の持地となり、寛延の頃(1748~50)
   小泉金左衛門と云るもの買得し始めて貸長屋を建り」
   〈参考文献 文政八年(1825)『新編武蔵風土記稿』より
   
於春稲荷の由来
   創建はいつ?
   一、武家屋敷の守り神であれば、寛文四年(1664)旗本板倉主悦の抱地となった時か
     ら長屋のできた寛延年間(1748~1750)以前に創建されたと推定できる。
   二、庶民信仰であれば、長屋ができた後の寛延年間以後で稲荷境内に現存する歌碑の文久
     四年(1864)作、以前の創建が考えられます。
   於春の名称について
   於春が姑にいびられて、この付近にあった池に身を投げた説。品川大火の時に防火に活躍
   した娘が於春であったなど諸説があり、名称の由来は定かではない。
   《地域の火防稲荷として、例大祭を毎年11月3日に行っています。》
   泉友会《於春稲荷の管理と継承の会》
 


■北品川公園

 北品川2丁目12番25号にある区立公園。


■北番場駅跡

 北品川2丁目18番1号あたりにあった。新馬場駅の北側辺り。


■新馬場駅

 北品川2丁目18番1号にある京急電鉄の停車場。昭和51年にこの付近が高架化された際、それ
まであった北馬場駅と南馬場駅を統合して設けられた駅。
 ホームは相対式2面2線構造で3階にある。全長200mの非常に長いホームを持つが、4両か6
両の普通列車しか停まらない(しかも京急の車両は18m車)ために持て余している。しかもホーム
の中央部に停まるため、どちらの階段から行っても停車位置までは結構歩かされる。エレベーターは
未設置。
 改札口・出口は北口と南口の2ヶ所。北口改札は2階にあり、南口改札は地上にある。南口改札か
らホームへ上がる階段までは、これまた遠い。これらの改札は夫々旧北馬場駅と南馬場駅があった場
所にある。
 駅は南側で目黒川を跨いでいる。同様に川を跨いでいる駅は、都内では他に東大島駅と北赤羽駅が
ある。

 
南馬場駅跡
 南口のところにあった。北馬場駅と合体して新馬場駅となった。

 
品川宿 新馬場駅
 駅南口の歩道端にある。平成18年道標を整備した。

   左面 


   正面 
九番 新馬場駅南口

   右面 
右 セームス坂を経て大井町駅

   裏面 
旧東海道品川宿周辺まちづくり協議会 


長福山本照寺

 北品川2丁目20番14号にある日蓮宗の寺。


■天神湯

 北品川2丁目23番9号にある銭湯。お湯が真っ黒いことで有名。


■北浜三社稲荷 ◇

 北品川2丁目28番9号の北浜公園の東隅にある小祠


■北浜公園(北浜こども冒険広場)

 北品川2丁目28番12号にある区立公園。

 
北浜公園の由来碑
 園内にある、


■旅籠「朝日楼」跡と冠木門

 北品川2丁目29番25号の駐車場の旧東海道に面した側に冠木門のある木製の壁様の物が建って
いる。ここはかつて朝日楼という旅籠(はたご=旅館)のあったところで、現在は所有者である大塚
製作所の厚意で地域の祭りなどの際にイベント広場として開放して貰い、冠木門と壁も町並み景観整
備の一環として協力して戴いているとか。
 


■品川橋

 北品川2丁目と南品川1丁目の境、目黒川に架かっている旧東海道を渡した橋。創架年代は不明だ
が、粗末なものにせよ、丸木橋にせよ、家康の入国以前には既に何らかの橋が架けられていたと思わ
れる。延宝(17世紀末)以後は、代々長さ10間×幅3~5間の木橋が架けらてきたが、明治15
年に府費を以て石橋に替え、同35年に改架、昭和3年の目黒川大改修により、川幅が広げられて、
橋は長さ14間×幅4間の鋼鈑橋に代わった。川に対して斜めに架かっているのは旧流路に対して直
角に架かっていたためだ。「南北品川境橋」ともいったのは、品川宿を南北に分ける橋だったから。
別には「行合橋」とも「中の橋」ともいった。行き合いとは天王神輿祭のとき、南北の神輿が行き合
うからであり、中の橋は、南北の中間にあるからだ。正式に「品川橋」と命名されたのは昭和3年の
改架から、現在の橋は同43年に竣工した長さ27m×幅6m50cmの鋼鈑橋だが、平成3年に整
備し、歩道などが追加され、幅広に直された。親柱は石積様でその上に屋形を模した橋灯が乗せてあ
る。下流側の歩道は、植栽と四阿(あずまや)のある小公園を外側に併置し、北詰の一角に「品川橋
の今と昔」と題した説明板が立っている。歩道面は複雑な模様の石版貼り、高欄は葡萄茶色で海鼠塀
をアレンジしたデザイン。上流側にはバルコニーがある。橋桁はベージュ色だ。

   品川橋の今昔
   この辺りは江戸の昔、「東海道五十三次 一の宿」として、上り下りの旅人で大変にぎわ
   いました。また、海が近く漁業もさかんなところでした。今でも神社仏閣が多く、当時の
   面影がしのばれます。
   〔品川橋〕は、旧東海道の北品川宿と南品川宿の境を流れる目黒川に架けられ、江戸時代
   には〔境橋〕と呼ばれていました。また別に〔行合橋〕・〔中の橋〕とも呼ばれていたよ
   うです。最初は木の橋でしたが、その後石橋となり、そしてコンクリード橋から現在の鋼
   橋へと、時代の移り変わりとともに、その姿を川面に映してきました。
   〔品川橋〕がこれからも、品川神社や荏原神社のお祭りである、「天王祭」の賑わいととも
   に北品川・南品川の交流と発展を深める「かけ橋」として、皆様に親しまれることを願っ
   ています。
   平成3年4月1日                             品川区


■子育地蔵堂

 北品川2丁目20番8号にある小堂。道路に背を向けている。大正10年7月の建立。当時の目黒
川はこの地蔵のすぐ裏を流れていた。現在の流路に改修される前は頻繁に氾濫していたが、その際、
この場所で子供が溺れて亡くなってしまった。その子供を哀れんだ北馬場町会の有志が建立した。


■荏原神社

 北品川2丁目30番28号にある大社。「南の天王さん」と俗称される。神社は目黒川に面してい
るが、これは昭和3年に目黒川の改修工事があり、流れをスムーズにするために直線水路に改造され
たためで、江戸時代には川筋は神社の後ろを迂回していた。現在の住所は北品川になっているが、昔
は南品川宿の内にあった。草創は、縁起によると和銅二年(709)藤原伊勢人が丹生川上神社から
高おかみの神(龍神)を、現在の西品川3丁目16番の貴船神社の地に勧請した。その後海退によっ
て村の中心地が東に移り、天長年間(824~834)に現在地に遷座したようだ。長元ニ年(103
0)には京都八坂神社より疫病退散の守護神・牛頭天王を勧請。その後康平年間(1058~65)
に源頼義・義家親子が、東北地方で勢力を振るっていた安倍氏を討つ「前九年の役」に向かう途中、
当社領の海岸で身を清めた後、府中の武蔵惣社・大国魂神社で戦勝の祈願を行ってから出陣したとい
い、勝運、商売繁盛などの祈願に効果があるとしている、
天正19年徳川家康より神領5石を寄進さ
れるなど幕府の庇護を受け、明治天皇東京行幸の際には、当社を内侍所御行宮とされ4度の行幸があ
り、菊花御紋章を下賜された。本殿に恵比須、末社に大国主を祀る。荏原神社となったのは明治8年
からで、それまでは天王社、貴布禰大明神、品川大明神と呼称した。そもそも「神社」という言葉は
明治政府の新造語で、国家神道で自分たちの権力を守り固めようとしたことによる。境内の緋寒桜は
見ものだぞ。

   荏原神社文書 八点(文五号)
   
利田家文書 十八点(文六号)
   将軍家朱印状写を含む本社に関する文書および延宝から明治まで旧南品川宿名主の利田家
   より寄進された文書で、本社の沿革や南品川宿を知るための貴重な史料とされている。
   昭和39年12月1日指定
   
荏原神社神輿渡御
   毎年6月7日に行われる祭禮の一行事で、神輿を海中に入れもみあうものである。江戸時
   代に海中から出現した神面を年一回神輿につけて海中に入れ、ノリの豊作と魚介類の豊漁
   を祈願したことに始まる。
   現在は、海岸が埋め立てられたため神輿を船にのせて海上に出て、浅瀬の水のきれいなと
   ころで海中渡御を行っている。
   昭和47年3月15日指定                    品川区教育委員会


 かっぱ祭り・御神面神輿海上渡御

 さらにこの神社の名を一際有名にしているのが毎年6月初旬に行われる「南の天王祭・かっぱ祭
り」だ。3日間のうち最終日に行われるのが、神輿がダイナミックに海を渡る海上渡御。氏子が担ぐ
神輿には、牛頭天王のご神面とともに鳳凰が稲穂をくわえた姿があり、五穀豊穣・無病息災・天下泰
平の願いが込められている。海上渡御が始まったといわれる約250年前には海岸にも近く浅瀬だっ
たが、今は埋め立てられたため神輿は船に乗せて対岸にあるお台場海浜公園前の海に運び、浅瀬を選
んで練る。形は変わってもその勇壮な姿と祭りの意気は、時代を超えて受け継がれている。

 明治天皇東幸内待所奉安所の石柱
 境内にある。

   明治天皇東幸内待所奉安所
        海軍大将 有馬良橘 敬書


 
明治天皇と荏原神社 内待所奉安所史跡碑
 境内にある黒御影の立派な石碑だ。

   明治天皇と荏原神社
     内待所奉安所史跡
   明治元年七月二十七日明治天皇江戸を東
   京と改め帝都を東京に移すと詔す。この
   年九月二十日天皇内待所
(今の宮中賢所)
   相具し奉り京都を御発輦諸官三千三百人
   を從えて陸路東海道を東京へ向かわれた。
   下って十月十二日朝神奈川駅御発輦川崎
   梅屋敷にて御小憩の後午後三時頃当荏原
   神社に御着輦本社幣殿に内待所を拝殿に
   御羽車を御奉安遊ばされた。翌明治二年
   三月二十七日明治天皇御再幸の節も内待
   所を当社に御奉安せらる。この両度の内
   待所御奉安所に使用せられた建札はじめ
   菊花御紋章の高張提灯その他調度品を当
   社に御下賜せられ今日に至るまで用いら
   れている次第である。明治五年京都に在
   せし英照皇太后東京へ行啓の際明治天皇
   は御出迎えのため御通輦の途次当社をも
   って御休殿に充てられし事は重なる光栄
   とするところである。
             荏原神社社史より



 
恵比寿石像
 境内にある。

 
稲荷社

 境内にある。

 
皇紀二千六百年 目黒川改修埋立工事竣工記念碑
 境内にある石碑。

   
皇紀二千六百年 目黒川改修埋立工事竣工記念碑

 ●サクラの名所

 境内で目立つ花は2月半ばから末にかけて咲く台湾緋桜、このサクラ赤い花が下向きに咲くのが特
徴だが、木の下に安置されている大黒様もご機嫌だい! 寒さの厳しい早春に咲くためにソメイヨシ
ノなどに比べて花期がずっと長いのも魅力だ。4月初めになるとソメイヨシノが趣の異なる花景色で
あるのも魅力だわいな。


■品川図書館

 北品川2丁目32番3号、荏原神社の西、山手通りに面してある。幕末は有馬の殿様の別荘地の一
部に当たる。図書館は建物の2階~4階。2階は新聞・雑誌、CD・ビデオ・DVD、児童コーナー
に文学を中心とした書架。3階が社会科学・自然科学を中心とした書架に地域資料・参考資料。4階
が視覚障害者用の資料と休憩室となっていまる。3階にある地域資料室は、東京一といっていい豊富
な郷土資料を保存してる。一度行ってみなよ。お前さんの欲しがってる知識があるかもしれんぞ。

 
「平和の誓い」
 品川区の平和のシンボル。大井町駅前にある銅像の縮小版。

 隣峨斎松江稿「南浦地名考」

 
写本。隣峨斎松江が誰か? 長い間判らなかったが、昭和50年ころ、区内の某家で発見された古
文書の中に草稿が発見され、大井村名主大野景山の著作であることが判明した。内容は大井・品川・
大崎・荏原・新井宿に及ぶ地誌。

 正徳四年浦高札
 
正徳四年(1714)抜荷買禁制の制札。寄木神社に保存されているものとで区内に2枚の高札が
残っている。

 海苔生産用具コレクション
 昭和37年に廃止された品川浦の海苔養殖関係の用具160点余が寄贈・保管されてる。

 一石五輪塔
 五輪塔を小型にしたもので、地輪から空輪まで45cm、文亀三年(1530)の銘がある。旧中
原道平塚橋の辺りに立っていたものらしい。見た目可愛らしいよ


■稼穡稲荷
 北品川2丁目32番3号、品川図書館/六行会ビルと目黒川の間に祀られ、小ぶりだが手入れの行
き届いた美しい稲荷社。近所の人たちの篤い信仰を集めている。かつてこのあたりは薩摩藩島津家の
抱屋敷で、その屋敷内に祀られていた。

 大銀杏(区指定文化財天然記念物第4号)
 品川図書館の裏に公孫樹の大木が聳えている。目通り4.1m、高さ23m、樹齢5、600年、こ
れは見事な木だぞ。樹皮が垂れて、上の方が太い。図書館と住宅に挟まれた猫の額ほどの敷地で窮屈
かと思いきや、結構伸び伸びと枝を伸ばして豊かに葉を茂らせている。多くの気根が蝋燭に垂れる蝋
のようだ。傍らの小祠は「かしょく」と読む。稼穡とは農作物のことで、そもそも稲荷神社が農業の
神様だから稲荷稲荷(とうかいなり)みたいな名前になっていてちょっと変。品川と言えば海。ある
いは東海道の賑わいがクローズアップされがちだが、普通に田畑のある農村だった。

   品川区指定天然記念物
   
稼穡稲荷のイチョウ    所在 品川区北品川2丁目32番16号 稼穡稲荷内
                   指定 昭和53年2月14日(第4号)
   本樹は、目黒川対岸から見たとき、最も美しい樹姿を見せてくれる。目通り幹囲4.1m、
   高さ約23m、最近枝 が切り込まれたが、  枝が生じて樹勢は旺盛である。稼穡稲荷
   の神木として保護されてきた古木で、本区内のイチョウとしては屈指の巨木である。
   昭和53年8月30日建設                    品川区教育委員会


   品川区指定天然記念物
   
稼穡稲荷のイチョウ     所在 品川区北品川2丁目32番3号 稼穡稲荷社
                     指定 昭和53年2月14日(第4号)
   イチョウはイチョウ科に属する落葉の高木で、高さ30mにもなり、葉は扇形で秋に黄葉
   する。雌雄それぞれ別の木となる。
   本樹は雄樹で、幹の囲りは4.1m、高さは23mあり、推定の樹齢は500年から600
   年である。木の勢いも盛んで、姿も整っており、本区内のイチョウの中でも屈指の巨木で
   ある。本樹は、長い間稼穡稲荷神社の神木として保護されてきた古木で、遠くからの景観
   も大変美しい木である。
   平成7年3月31日                       品川区教育委員会
 


八ツ山橋親柱
 北品川3丁目3番1号、八ツ山橋近くの植栽にある。2代目(コンクリート柱4本)と3代目(鉄
柱)。2代目には「屋つやまはし」と刻んである。

 
しながわ百景 八ツ山橋
 親柱の前にある。

   区政40周年・区民憲章制定5周年記念
   しながわ百景
   One hundred cenic Spots in Shinagawa
   
八ツ山橋
   Yatsuyama Bridge
   
新八ツ山橋から品川教会方向を望む
   View of Shinagawa Church from Shin Yatsuyama Bridge
   昭和62年 品川区  17 18


■品川女子学院中等部・高等部
 北品川3丁目3番12号にある私立校。大正14年権現山公園(品川区立城南中学校校庭)に荏原
女子技芸伝習所を開設。同所に荏原女学校を開校。昭和4年財団法人品川高等女学校設立。現校地(旧
品川小学校)に品川高等女学校開校。同22年学制改革により品川中学校設置。同23年学制改革に
より品川高等学校設置。同26年学校法人品川高等学校に組織変更。同60年創立60周年。平成3
年「品川女子学院」に改称。中高一貫教育スタート。オーストラリア・ブリスベンのイプウィッチ・
ガールズ・グラマースクールと姉妹校提携。同10年イギリス・リックマンズワースのロイヤルマソ
ニックスクールと姉妹校提携。同16年中高完全一貫制スタート。同17年創立80周年記念式典。

 校歌
「薔薇の花は香る」 作詞・与謝野晶子  作曲・下総晥一
 1.薔薇の花は香る
   まして此處に学べる少女
   清く明るき徳と知識の
   花つねに香る
   我等品川高女生
 2.薔薇の花は香る
   まして我等 平和の使
   ともに優しきこころ行い
   ゆかしくも香る
   人の中なる薔薇の花


 校歌誕生余話
 前理事長漆光が、昭和10年与謝野晶子に校歌の歌詞を依頼しに荻窪の与謝野邸を訪れたとき、初
対面だったが、晶子の長男の名前が、漆と同じ「光」だったことから「私にもあなたと同じ名前の息
子がいるんですよ」と親しく迎えられ、作詞を快諾してもらったという。
 全国に三つしかないという与謝野晶子作詞の校歌はこうして生れた。当時を振り返り漆は晶子の印
象を「優しいおばさん」と語っている。同年3月6日この歌詞は与謝野本人から学校に届けられた。
5月12日校歌発表会が開かれ、作曲者である下聡皖一が指揮した。


■品川神社

 北品川3丁目7番15番にある「北の天王さん」と親しまれている北品川の氏神稲荷明神。文治三
年(1187)源頼朝が安房の洲崎明神を勧請したことに始まる(江戸砂子など)。鎌倉末期武蔵国
守護道蘊入道二階堂貞藤が稲荷神を勧請して再建、永享四年(1432)には道蘊の末裔という品川
湊の豪族幸純入道鈴木正清も社殿を寄進している。文明十年(1478)大田道灌が祇園社を勧請、
牛頭天王を祭ったことで「北の山王祭」が始まった。北条時代にも保護され、神職は北条氏の家臣宇
田川氏が兼ねていた。家康の江戸お討ち入りのとき宇田川勝定の弟定正が道案内をしたので名主に任
命された。勝定の養子勝重の代に実家の姓を名乗ったので、代々小泉氏の世襲となり、現在の宮司も
小泉だ。

   品川神社御由緒
   ●御祭神
   天比理乃咩命 天太玉命(天岩戸の神話に登場する神様)の后神
          祈願成就・航海安全の神 源頼朝公御勧請
   宇賀之売命  お稲荷様。農業・商業・産業繁栄の神。二階堂道蘊公御勧請。
   素盞雄尊   天王様。風水害除け・疫病(病気)除けの神。太田道灌公御勧請
   ●御由緒
   今からおよそ八百年程前の平安時代末期の文治三年(1187)に、源頼朝公が安房国の
   洲崎明神(現千葉県館山市鎮座洲崎神社)の天比理乃咩命を当地にお迎えして海上交通安
   全と祈願成就を祈られたのを創始とします。
   やがて、鎌倉時代末期の元応元年(1319)に二階堂道蘊公が、「宇賀之売命(お稲荷
   様)」を、さらに室町時代中期の文明十年(1487)に、太田道灌公が「素盞鳴尊(天
   王様)」をそれぞれお祀りしました。
   慶長五年(一六〇〇)、徳川家康公が関ヶ原の戦いへ出陣の際に当社へ参拝し戦勝を祈願
   され、その後、祈願成就の御礼として仮面(天下一嘗の面)・神輿(葵神輿)などを奉納
   されました。
   また、寛永十四年(1637)三代将軍徳川家光公により東海寺が建立され当社がその鎮
   守と定められ、「御修覆所(神社の建物の再建・修復などは全て幕府が賄う)となり、元
   禄七年(1694)・嘉永三年(1850)の二度の社殿の焼失の際には、時の将軍の命
   により再建が行われる等、徳川将軍家の庇護を受けました。
   時代は明治に移り、同元年11月には明治天皇様が、新都・東京の安寧と国家の繁栄を御
   祈願されるために当社を含んだ都内の十の神社を「准勅祭神社」と定められ、御勅使が御
   参拝になられ御祈願をされました。
   大東亜戦争の折は、当社は幸いにして戦火を免れましたが、社殿の老朽化が進み、昭和3
   9年氏子各位のご協力により現在の社殿が再建されました。
   ●年間祭事
   一月一日 歳旦祭 今年一年の幸福と弥栄を祈願します(太太神楽一座奉納)。
   二月三日 節分祭 立春を迎え豆まきを行います。
   春分の日 七つ鳥居めぐり 境内にある七つの石の鳥居をくぐり、中風除け(無病息災)
   を祈ります。
   四月十四・十五日 阿那稲荷社春祭 末社・阿那稲荷社の春の祭典。
   四月十五日直後の日曜日 春祭(春の大祭) 万物の生成する春を迎え、諸々の産業の発
   展を祈願します(太太神楽六座奉納)。
   六月七日に近い日曜を含む金・土・日曜日 例大祭(北の天王祭) 一年の内で最も大き
   な祭典。氏子の繁栄と国家・皇室の弥栄を祈願します(太太神楽二座奉納)。
   六月三十日 大祓祭 上半期の罪や穢を形代に託し祓い清め、健康で無事に過ごせるよう
   に祈願します。
   七月上旬 富士塚開き 境内にある富士塚の山開きの行事(品川区指定無形民俗文化財)。
   七月十五日 祖霊社・忠魂碑慰霊祭 祖国日本の国の為に尊い命を捧げた英霊の御霊を慰
   め永遠の平和を祈り、祖先に感謝をします。
   秋分の日 七つ鳥居めぐり 境内にある七つの石の鳥居をくぐり、中風除け(無病息災)
   を祈ります。
   十月四・五日 阿那稲荷社秋祭 末社・阿那稲荷社の秋の祭典。
   十一月二十三日 新嘗祭 今年とれた新穀をお供えして豊かな実りに感謝し、更なる努力
   を誓い、益々の産業の発展を祈願します(太太神楽三座奉納)。
   十二月三十一日 大祓祭 下半期の罪穢を祓い清め、心身共に清々しい気持ちで新年を迎
   えられるように祈願します。

   由緒
   品川神社の由来は、後鳥羽天皇の御世、文治三年(1187)に、源頼朝が海上交通安全
   と、祈願成就の守護神として、安房国の洲崎明神である、天比理乃咩命を勧請して、品川
   大明神と称した。後醍醐天皇の御世(1319)に、当国の守護職二階堂出羽入道道蘊が、
   宇賀之売命を勧請し社殿等を再建し社地を吉端岡と名付けた。永享四年正清入道幸純社殿
   等を再建する。(幸純は道蘊の子孫なること南品川海晏寺に詳かなり)文明十年六月太田
   道灌、素盞雄尊を勧請する。慶長五年徳川家康関ヶ原の戦いに出陣の折神前にて祈願し太
   太神楽を奏し、後に神輿、面等奉納する。寛永十四年将軍家光の命により東海寺鎮守と定
   められてから幕府の御修復所となり、元禄七年将軍綱吉社殿等再建、焼失した後、嘉永四
   年将軍家慶社殿再建した。明治元年准勅祭神社に定められた。大正十三年京浜国道開通に
   ともない境内地の一部用地となる。昭和七年九月新東京八名勝選定の折第三位となる。現
   社殿は昭和39年10月社務所と共に島本正一氏他氏子の協力により再建され、北品川、
   東五反田、南品川の一部の鎮守として敬われ親しまれている。
   鎮座地は、品川区北品川三丁目七番十五号。 


 北の天王祭
 6月の例大祭。千貫神輿を力自慢の若い衆が「品川拍子」の独特なテンポに合せてねり歩く勇壮な
ものだ。

 
太太神楽

 例大祭と4月15日に奉納される都の無形文化財。楽師の奏でる音に合わせて、江戸時代から伝わ
る古い面をつけた舞人が12座の舞を演じる。

 鳥居
 一号線に面して建つ石造りの明神鳥居の上り竜下り竜の彫り物は見事。大正14年維新のごたごた
で目黒の農家に放置されていたのを、終日営業の料理屋「三徳家」の主赤村徳太郎が買い取って奉納
したもの。

   品川区指定有形文化財           所在 北品川三丁目七番十五号 品川神社
   
品川神社石造鳥居並水盤
                     指定 昭和53年11月22日(建造物第一号)
   石造鳥居と水盤(水船)は、下総(千葉県)佐倉城主で三代将軍徳川家光の側近堀田正俊
   が、慶安元年(1648)に寄進したもので、ともに貴重な石造遺物である。鳥居に、寄
   進銘と宝暦十二年(1762)の修理銘が刻まれている。
   
品川神社石造灯籠 一対
                     指定 昭和53年11月22日(建造物第二号)
   慶安元年に、亀岡政重(石工)と後藤光利(装剣具彫刻工)が寄進したもので、浅間神社
   の参道に置かれているが、もとは拝殿前に設置されていた。都内に残っている石造灯籠の
   中でも早い時期に製作されたもので、江戸時代初期の石造遺物として価値が高い。
   
神輿一基(宝物殿安置)
                       指定 平成元年3月14日(工芸品第三号)
   屋上に鳳凰を置く鳳輦型の神輿である。台上に円柱を方形に立てて屋根を支え、胴の前部
   を唐戸にし、他の三面を牡丹唐草文毛彫の金銅板で飾っている。屋根には立花文を型押し
   した金銅板で覆い、三葉葵の紋を四方に打ち出している。屋根に比べて胴部が大きく、そ
   の上彫刻が少なく、簡素で重厚な作風であり、江戸時代前期に製作されたものと考えられ
   る。
   平成11年3月31日                      品川区教育委員会


 
品川神社文書
 指定文化財。

   品川区指定有形文化財
   
品川神社文書           所在 北品川3丁目7番15号 品川神社
                      指定 平成11年2月23日(古文書第七号)
   品川神社文書は、北品川地域の鎮守として親しまれている品川神社に所蔵される文書であ
   る。古いものは天正十一年(1583)にさかのぼり、現在に至る膨大な文書が伝来して
   いる。とくに、明治5年までの文書415点は、神社の由緒や境内絵図、神社と地域の人々
   との関わり、幕府や明治政府とのさまざまな応答、天王祭や太大神楽のことなど、品川地
   域の歴史の解明や、江戸時代から明治初年の神社史を知る上でも貴重な古文書である。
   平成11年3月31日                      品川区教育委員会

 従六位林交周之碑(故東京府荏原郡長林君碑)
 明治時代、長きに亘って荏原郡(現在の品川区、大田区、目黒区、世田谷区)の郡長を務めた林交
周(はやしともちか)の業績を顕彰したものだ。この碑は、参謀総長陸軍大将大勲位彰仁親王(東伏
見宮)題額、内閣総理大臣正二位大勲位侯爵伊藤博文撰書とある。碑文の末尾で、博文は、林交周と
「知り合いだった」と書いているが、内閣総理大臣をも務めた明治政府の要人と、一介の郡長とが、
いつ、どのように知り合ったのかは不明。
 ただ、2人の人生が交わったとすれば、それは明治維新に先立つ文久二年十二月、20歳を過ぎた
ばかりの伊藤博文が、高杉晋作たちとつるんで、品川は御殿山に建設中だった英国公使館を焼き討ち
した時だったのかも。碑文によれば、林交周は腕力が強く、「重厚にして気節有り」というから、志
士としての風格は十分。御殿山から然程遠くはない村の庄屋として、博文たちに手を貸したのかとも
想像される。碑文そのものは、林交周の経歴だけを羅列したような淡々とした文章だ。なお彖額を書
いた小松宮彰仁親王は、鳥羽伏見の戦いでは征討大将軍を務め、明治政府でも陸軍大将や参謀総長な
どを歴任した。碑陰には、びっしりと建碑寄附者名が記されている。総勢2015名というから凄い
ものだ。

   従六位林交周之碑               参謀総長陸軍大将大勲位彰仁親王題額
   故東京府荏原郡長林君碑 参謀総長陸軍大将大勲位彰仁親王題額吏之昵于民者莫郡長若焉
   郡長得其人則上意下達政挙民安如故東京府荏原郡長林君蓋其選也君諱交周称字右衛門武蔵
   荏原郡桐谷村人家世為里正君幼而有膂力隻手能扛棋枰及長軀幹魁偉重厚有気節弘化乙巳承
   父職隣里郷党化其徳行鮮為不善者矣明治元年官軍東征屯品川駅糧食告竭兵気為阻官召君詢
   調発君奔走諭民民争輸粟尋為品川駅伝長更為戸長為区長十一年任荏原郡長頗有政声数受賚
   賞十九年八月為非職郡民切請留任官命復職郡民謡曰置吏為民好個郡長扶我植我是民之杖二
   十年叙従七位進班奏任二十二年紀元節詔発布憲法君蒙允参観賜記念章二十五年叙正七位翌
   年叙勲六等賜瑞宝章二十八年八月廿六日病没距生文政七年四月四日享年七十二病革特賜従
   六位越日葬其郷里安楽寺塋域君前配石井氏先亡継室相沢氏五男二女長英太郎嗣祀君為吏五
   十年民之思君経久愈切頃者郷党相謀将勒石以伝不朽来謁余文余与君相識乃詮次其状係以銘
   詞銘曰忠以奉上誠以蒞民為吏如君徳必有隣茲叙事績鐫斯貞珉他年史氏伝其良循
   明治二十九年五月            内閣総理大臣正二位大勲位侯爵伊藤博文撰書
                                      岸田清幸鐫

   (読み下し)
   故東京府荏原郡長林君の碑           参謀総長陸軍大将大勲位彰仁親王題額
   吏の民に昵(なず)むは郡長に若
し)くは莫し。郡長に其の人を得れば則ち上意下
   達し、政(まつりごと)、民を挙げて安如(あんじょ)たり。故東京府荏原郡長林君は、
   蓋(けだ)し其の選なり。
   君、諱(いみな)は交周、字(あざな)を右衛門と称す。武蔵荏原郡桐谷村の人、家は世
   々里正たり。君、幼くして膂力(りょりょく)有り
隻手(せきしゅ)にて能く棋枰(
   へい
を扛(あ)ぐ。長ずるに及び、軀幹魁偉(くかんかいい)、重厚にして気節有り。弘
   化乙巳(きのとみ)、父の職を承く。隣里郷党、其の徳行に化し
不善を為す者鮮(
   くな
し。
   明治元年、官軍、東征して品川駅に屯す。糧食告竭(こくけつ)し、兵気為に阻(はば)
   
まる。官、君を召して調発を詢(はか)る。君、奔走して民を諭(さと)し、民、争いて
   粟(ぞく)を輸(いた)す。尋(つ)いで品川駅の伝長と為り
更に戸長と為り、区長と
   為り、十一年、荏原郡長に任ぜらる。頗(すこぶ)る政声有り、数々(しばしば)賚賞(
   いしょう)
を受く。
   十九年八月、非職と為るも、郡民切(しき)りに留任を請い、官、命じて復職せしむ。郡
   民謡(うた)いて曰く、吏を置くは民の為なり、好個の郡長
我を扶(たす)け我を植(つ)
   是れ民の杖なり、と。二十年
従七位に叙(じょ)せらる、進められて奏任を班(わか)
   
つ。二十二年、紀元節に詔(みことのり)して憲法を発布す
君、允いんを蒙こうむり参
   観して記念章を賜る。二十五年、正七位に叙せらる。翌年、勲六等に叙せられ瑞宝章を賜る。
   二十八年八月廿六日、病にて没す。文政七年四月四日に生まるるを距(へだ)てて、年七
   十二を享く。病革(あら)たまりて特に従六位を賜る。日を越して其の郷里安楽寺の塋
   域(えいいき)に葬る。君の前配(ぜんぱい)石井氏先に亡
な)し、継室相沢氏に五男
   二女あり。長の英太郎、祀(し)を嗣(つ)ぐ。

 石段
 鳥居を潜ると急な53の石段。昔は家光が奉納した千貫神輿を村の若者が担ぎ上げて下したが、今
の若者は力がないので上げられない。今は480貫の神輿を担ぎ上げる。この時の「品川拍子」は区
の無形文化財だ。

   品川区指定無形民俗文化財
   
品川拍子             保持団体 品川拍子保存笛睦会
                     実施場所 品川神社を中心とする北品川地域
                     指定 昭和62年3月24日(風俗慣習第二号)
   品川拍子は祭礼時に神輿が巡幸する際の囃子となる音楽で、大拍子と呼ばれる締め太鼓と、
   俗称トンビといわれる篠笛によって演奏される。その由来は定かではないが、品川神社太々
   神楽の系統に属するもので、三代将軍徳川家光が品川神社に神輿を奉納された頃に始まっ
   たとつたえられ、品川宿で成立し、当宿とその周辺地域にのみ伝承されている。
   現在伝えられている品川拍子は、明治初年に嶋田長太郎が集大成したものとされ、初代家
   元と考えられている。
   千貫神輿の渡御で有名な「北の天王祭」は毎年六月七日に近い日曜日を中心とする三日間
   行われるが、このとき神輿の上げ下ろしや、揉んだり差したり納めたりの動作を品川拍子
   で指示するなど、他に類例を見ない特色をもっている。
   平成16年3月31日                      品川区教育委員会

 品川富士
 石段中程左手にある「品川富士」は、近世初頭長谷川角行より始められた丸嘉講が、明治2年大橋
多久実をを発起人として築いたものを、大正11年に現在地に移した。毎年7月1日に山開きには白
装束で登山する。これは区の有形文化財。

   品川区指定有形民俗文化財
   
品川神社富士塚        所在 品川区北品川3丁目7番15号 品川神社内
                       指定 昭和52年11番22日(民俗1号)
   富士塚ぱ、富士信仰の集団、富士講の人々が、富士山の参拝場所として、あるいは実際の
   登山に代わる山として造った築山である。
   品川神社の富士塚は、明治2年北品川の丸嘉講講中三百人によって造られた。神仏分離政
   策で一時破壊されたが、明治5年に再築し、大正11年第一京浜国道建設の時、現在地に
   移築された。
   江戸後期に盛んだった浅間信仰を知る上で、たいせつな文化財である。
   品川区指定有形民俗文化財
   
品川神社富士塚山開き  実施団体 品川区北品川3丁目7番15号 嘉品川神社
                  指  定 昭和61年3月14日(風俗習慣第1号
   毎年7月1日の富士開きの日に、講員一同が白装束で浅間神社神前で「拝み」を行う。
   その後、はだしで富士塚に登り、山頂の遥拝所や小御嶽の祠でも「拝み」ょして下山し、
   社殿にもどってから平服に着替える。
   かつて盛んだった行事であるが現在も行っている富士講は大変少ない。
   昭和62年3月31日建設                    品川区教育委員会


 
寒緑松本先生碑
 品川富士の表面にはいくつかの石碑が埋め込まれているが、その1つが、「寒緑松本先生碑」だ。
寒緑は、幕末会津藩の漢学者。但しその性格は豪放磊落、北海道から九州までを踏破し、最後は伊豆
諸島を巡り、船が難破して水歿した。この石碑は、その悲劇的な死から16年後に、彼を偲ぶ友人た
ちが建てたものだ。
 碑文を起草したのは、塩谷宕陰(しおのやとういん)。幕末を代表する漢学者の1人。文章はやや
凝っていて読み難いが、寒緑のユニークな人柄を窺わせるエピソードを幾つもうまく挟み込んでいる
のは流石。末尾の「辞」はさらに難解だが、金の鎧を身に纏って黒い馬に跨った寒緑の霊が空を飛ん
で来るという描写は、この碑の味わいどころとなっている。
 清書した石井士勱は北海道松前の人、題額を描いた平尾忠告は会津の人。2人とも、それ以上のこ
とは不明だが、寒緑の幅広い交友関係に繋がる人物と思われる。亡くなって16年経っても忘れ去ら
れることがなかった寒緑という人の魅力を察するに余りある。
 なお、この碑および寒緑の生涯については、黒川桃子「松本寒緑伝」(『江戸風雅』4号、平成2
3年6月)に詳しい記述がありという。参考までに。

   寒緑松本先生碑
                宕陰塩谷世弘製文  松前石井士勱書  会津平尾忠告題額
   先生諱重信字実甫一字来蔵寒緑其号也会津松本一之丞諱重堅第三子母木本氏少游江都入精
   里古賀博士門篤治宋学讜正嫉邪如弁薫蕕為人戇直有忠孝大節邸報告兄病方飯吐哺即起昼夜
   兼行三日走七十里年四十余為副教論学君大夫前能言人所難言旁人至汗泚腋議者謂国家設科
   第取士必居直言極諫之首矣旁好兵善槍一日攤夷書見一母乳五子図戟手大罵曰婪哉虜也独不
   知羶乳之不可衊男児国乎於是留心辺務単剣孑行北入蝦夷西南極肥筑豊薩以縦観天下形勢又
   謂豆相房総者江都之咽喉也跋渉沿海察防堵利害間従為西洋学者問夷情及其国治講求籌略擘
   画事宜将有所論著以建策会簡堂羽倉君奉 命巡視伊豆諸島募儒士以従行多以風濤絶険憚之
   先生奮以行将赴三倉島颶俄起舟覆而没天保九年閏四月四日也年五十聞者莫不悼怛先生天資
   寡欲胸次如白日陋室無帚敝衣数歳不換客至咬菜根対酌聞人之窮至典所衣衣以周之然好気使
   酒視奇衺陰陂者大声罵之而於一伎一行少異于衆者奇愛激奬不復問学術同異及他過失人亦以
   是親之水竹尾藤君交最善与諸友謀建石於吉端岡埋遺墨為霊吉端岡在品川俗呼為天王山地枕
   海土厚水深有古松数株鬱蒼参天前与砲台対東南控房相与豆洋近一葦耳故相攸于此令世弘銘
   之固辞弗獲辞曰
   国家可使数十年無才智之士不可一日無気節之臣察諸当世先生殆其人歟如何俾之死飫魚蟹孰
   謂天道非紛綸雖然翯翯之操浩浩之気吾知其不沈為沙虫而陟為明神矣脱有臊胡犯順腥風捲海
   之時乎豆山之木南島之雲燦然為干戈旌旗先生披金甲跨鉄驪咤飛行駆使百鬼以鏖賊或如新田
   少公之為也哉
   安政元年甲寅冬十二月有五日己酉建                    窪世升刻


   (読み下し)
   先生
諱(いみな)は重信字(あざな)は実甫(さねもと)。一に字は来蔵。寒緑は其
   の号なり。会津の松本一之丞重堅の第三子。母は木本氏なり。少(わか)くして江都に游
   (あそ)び、精里古賀博士の門に入る。篤く宋学を治め、讜正(とうせい)にして邪を嫉
   (にく)むこと
薫蕕(くんゆう)を弁(わか)つが如し。人為(ひととなり)戇直(
   うちょく)
、忠孝大節有り。邸(てい)報じて兄の病みたるを告ぐるに、飯するに方(
   
た)る。吐哺(とほ)して即ち起ち、昼夜兼行、三日に七十里を走る。
   年四十余にして副教と為る。学を君大夫の前にて論ずるに、能く人の言い難き所を言う。
   旁(かたわら)の人
汗、腋(わき)を泚(うるお)すに至る。議する者謂う、国家、科
   第(かだい)を設けて士を取れば、必ず直言極諫の首に居らん、と。旁、兵を好み槍を
   善くす。
   一日、夷書を攤(ひら)きて、一母の五子に乳する図を見る。戟手(げきしゅ)して大い
   に罵(ののし)りて曰く
婪(らん)なるかな虜(りょ)や。独り羶乳(せんにゅう)
   男児の国を衊(けが)すべからざるを知らざるか、と。是ここに於いて心を辺務に留め、
   単剣孑行(けっこう)、北のかた蝦夷に入り、西南は肥・筑・豊・薩を極め、以て天下の
   形勢を縦観(しょうかん)す。又、謂(おも)えらく、豆・相・房・総は、江都の咽喉
   りと。沿海を跋渉(ばっしょう)し防堵(ぼうと)の利害を察す。間(まま)、西洋の学
   を為す者に従い
夷情及び其の国治を問う籌略(ちゅうりゃく)を講求(こうきゅう)
   
し事宜(じぎ)を擘画(はっかく)して、将(まさ)に論著し以て建策する所有らんとす。
   会(たま)たま、簡堂羽倉君、命を奉じて伊豆諸島を巡視するに、儒士を募りて以て従え
   行かんとす。多くは風濤絶険(ふうとうぜっけん)を以て之これを憚(はば)かる。先生
   奮いて以て行く。将に三倉島に赴かんとするに、颶(ぐ)俄(にわか)に起こりて舟覆
   
りて没す。天保九年閏四月四日なり。年五十。聞く者、悼怛(とうたん)せざる莫し。
   先生、天資寡欲、胸次(きょうじ)は白日の如し。陋室(ろうしつ)に帚(ほうき)無く
   敝衣(へいい)は数歳換えず。客至れば菜根を咬みて対酌す。人の窮するを聞けば
る所
   の衣を典し以て之を周
すく)うに至る。然れども気を好み酒を使い、奇衺陰陂(きじゃい
   んぱ)
の者を視れば大声にて之を罵る。而るに一伎一行(いちぎいっこう)に於いて衆に少
   しく異なる者に於けるや
奇愛し激奨すた学術の同異及び他の過失を問わず人亦た是
   を以て之に親しむ。
   水竹尾藤君、交わり最も善し。 諸友と謀りて石を吉端岡に建て、遺墨を埋めて霊と為す。
   吉端岡は品川に在り、 俗に呼びて天王山と為す。地は海を枕とし土厚く水深く、古松数株
   (こしょうすうしゅ)有りて鬱蒼として天に参ず。前は砲台と対し、東南は房・相を控え豆
   洋(とうよう)と近きこと一葦(いちい)のみ。故に此に相攸(そうゆう)し、世弘
せい
   こう
に令して之に銘せしむ。固辞すれども獲ず。
   辞に曰わく、
   国家、数十年も才智の士無からしむべきも、一日も気節の臣無からしむべからず。諸(これ

   を当世に察すれば、先生殆ど其の人か。如何ぞ之の死をして魚蟹(ぎょかい)を飫(

   しめんや。孰(たれ)か天道の紛綸(ふんりん)に非(あら)ずと謂わん。然りと雖も、
   翯翯
こくこく)の操、浩浩の気吾は其の沈みて沙虫(さちゅう)と為らずして、陟
   ぼ)
りて明神と為るを知れり。脱(も)し臊胡(そうこ)の順を犯し腥風(せいふう)
   を捲くの時有らば、豆山(とうざん)の木、南島の雲、燦然(さんぜん)として干戈旌旗
   (かんかせいきと為り、先生、金甲を被て鉄驪てつりに跨またがり、咤しったし飛行し
   て百鬼を駆使し以て賊を鏖(みなごろし)にすること、或いは新田少公(にったしょうこう)
   
の為すが如くなるかな。

 石鳥居
 境内に立つ。佐倉藩主堀田加賀守正盛が慶安元年(1648)奉納したもの。

 「天地開闢 大日本大社廻」碑
 参道右手、風格のある書を刻した碑。側面にも「神社佛閣四國四拝」などと刻されている。正面に
刻された落款に「応需 勝安芳書」とある。背面に刻された何人かの祈願者に頼まれたのだろう、碑
は明治26年に建てられているが、宝物館に海舟揮毫の刻字額「葵神輿」があるのを見ると、海舟と
この神社と関わりは相当深かったようだ。

   天 地 開 闢
   
大日本大社廻

 
先達保川翁勒行碑
 海舟書碑の周りには、社殿改修の奉納碑や、御嶽神社、三笠神社を崇敬する講元の記念碑が建ち並
んでいる。鉄骨とボルトで補修がされた大きな碑には、八海山・御嶽山・三笠山の大神が勢いのある
草書で刻されている。「正四位山岡鐵太郎謹書」とあるが、崩しがやや抑えめなのは神々へ畏敬の念
を籠めてのことであろうか、独特な雰囲気を醸す。碑陰に碑題があり桂潜太郎の撰文が楷書で刻まれ
ているが、書者の名は無い。この碑は、三笠山元講が明治18年(又は17年。補修の継ぎ目で数字
がはっきりしない)に建てた。山岡鐵太郎は明治15年に宮内省を辞し、春風館道場を開き、翌年谷
中に全生庵を建立している。維新の志士たちを慰霊し、仏教を復興することに情熱を傾けた鐵太郎は
揮毫によってこの資金を調達したという。

 
阿那稲荷神社 上社・下社
 社前に
「一粒万倍の泉」がある。
 万物、天地水の恵により生成発展する。一粒の種より万倍の稲穂となる。それ人の努力も必要であ
るとされ、阿那稲荷社上社は「天の恵の霊」、下社は「地の恵の霊」と霊水ありとされている、下社
に湧く霊水は商売人はお金や印鑑に霊水をそそぐと良いとされ、また霊水を持ち帰って店の四角入口
に注ぐと良いとされている。また金の一部を門前商店街で使用すると良いともされている。


 摂社

 浅間神社と御嶽神社。

 末社
 猿田彦神社・道祖神社・八百万神社・大国主恵比寿神社・天主白龍弁戝神社

 東海七福神巡り発祥の地
 海舟碑の隣にある円盤状の珍しい形の発祥碑が建つ。昭和26年の建立。碑の表面には七福神が彫
刻されている。


   立春初詣 東海七福神巡り発祥の地

 「七福神巡り」とは、七福神(大黒・恵比寿・毘沙門・寿老人・福禄寿・布袋・弁財天)を祀る寺
社を巡拝することで、多くは初詣の形で正月に行われている。 ただ単に寺社を巡り歩くだけを楽しむ
人もいるし、各寺社で御朱印を貰って集めるのを楽しむ人も多い。現在も日本全国各地で盛んに行わ
れており、例えば東京では、ここ東海のほかに、谷中、隅田川、深川、日本橋、山の手、柴又・・・
など20を超える「七福神巡り」が行われている。

 
東海七福神
 区内の、旧東海道沿いの 以下の7つの寺社をいう。 品川神社(大黒天)・一心寺(寿老人)・養願寺
(布袋尊)・荏原神社(恵比寿)・品川寺(毘沙門天)・天祖諏訪神社(福禄寿)・磐井神社(弁財天)

   立春 初詣 東海七福神めぐり発祥の碑
   昭和26年 西暦1951年
   大いなる希望に歩め春立つ日


 東海道品川宿を歩く「東海七福神めぐり」は、品川が東京に編入されてからのことのようだ。隣接
郡町村を合併して世界第二位(497万人)の「大東京」が生まれた昭和7年にこの行事はスタート
したという。岩本素白は「ここは昔から宿場町で、江戸でもなく田舎でもなく、いわば三分の意気と
七分の野暮とがこぐらかったような土地である」と『東海道品川宿』で述べている。そうした品川大
都会の仲間入りを果たし、お祭りムードの余勢を駆って大いに人を呼ぼうということなのだう。品川
神社の大黒天、養願寺の布袋尊、一心寺の寿老人、荏原神社の恵比須、品川寺の毘沙門天、天祖諏訪
神社の福禄寿、磐井神社の弁財天と続く。京浜急行の北品川駅から大森海岸駅の先まで続く長丁場、
只管歩くだけで一時間強の道程。品川北本宿から目黒川を渡り南本宿の外れは荒神を祭る海雲寺の辺
りだったらしいから、ここまでが品川宿だろう。鈴が森の刑場を過ぎて磐井神社に至るともう外れの
外れなのだが、大森海岸は、昔は行楽地でもあったので、東京市民の観光スポットとして誘客を狙っ
たのだろう。この七福神めぐりの行く先々は、品川の訪碑行でもある。

 その他
 
右手の一角に大日本大社廻り、七福神廻りやら、包丁塚、敬老碑などの記念碑が幾つか建っている。
本参道の狛犬一対は珍しい備前焼だが、金網がかけてある。文政十二年(1829)品川新宿の吉野
家万蔵が備前の木村長十郎友直にお願いして焼いて貰ったものだとか。例の千貫神輿は宝物殿に納め
られている。本殿右手斜面の横穴に阿那稲荷がある。
 


■取り残された板垣退助の墓

 本殿裏に家族の墓とともにある。板垣は、維新の激動期から大正まで力一杯活躍した人物だった。
先祖は信州板垣村の出だ。山内一豊に召されて高知県に渡ってきた。甲州武田家の板垣一門なら凄い
ぞ。旧姓乾。本名は正形。退助は通り名。土佐藩馬廻役乾正成の長男。城下の餓鬼大将で、13歳で
母を失い、また学問嫌いでもあった。青年期は藩士の身分で討幕派として行動。慶応三年(1867)
薩摩の西郷隆盛と薩土密約を結び、討幕運動を推進、徳川征伐の折には、東山道鋒総督岩倉具視の参
謀として活躍、歴史の表舞台へ飛び出した。しかし征韓論に破れると政治的活躍は藩閥政治に対して
の対抗に始まり、自由民権運動へと変身していったのだが、その毒舌は時の政府を揺るがすほどだっ
た。岐阜で刺客に襲われた退助は外遊へ旅立ち、それから政府攻撃の手を緩め。晩年は伯爵の拝受を
再度辞退したが、最終的に拝受した。しかし彼はあくまでも市井の人として生活し、馬好きで知られ
る彼の唯一の名誉職、京浜競馬クラブ会頭として余生を送っている。
 墓所地は広い。デンと退助本人の巨石の墓があるが、周辺の妻や子供たちの墓は、大きさや型など、
すべてが気ままに建立されている。いっとくがこれは神式の墓ではない。世田谷の烏山寺町に移った
高源院の寺伝によると、寺が品川の品川神社裏にあり、開基は久留米21万石4代藩主有馬頼元で、
京都の大徳寺法主を退いた越前浅井氏の子孫を招いて開祖としたという。ところが明治2年無住とな
り、昭和11年に復興計画を立て、品川湊に流れ出す目黒川の水源に位置する烏山の地を求めて移転
し再建されたという。板垣の墓は移転に際して置いてけぼりになったらしい。なお銅像は国会と青梅
市釜ヶ淵公園にある。

   
邦光院殿賢徳道圓居士

   区政40周年・区民憲章制定5周年記念
   しながわ百景
   One Hundred Scenic Spots in Shinagawa
   
板垣退助の墓
   丁omb of Taisuke Itagaki
   昭和62年 品川区 13

   品川区指定史跡
   
板垣退助墓
   所在 北品川3丁目7番15号 品川神社裏
   指定 昭和53年11月22日(第4号)
   板垣退助は、天保八年(1837)に土佐(高知県)で生まれた。幕末に藩主山内豊信の
   側用人となるが、討幕運動や戊辰戦争(1868)に参加して功績をあげた。明治7年に
   愛国公党を結成し、自由民権運動をおこした。明治14年には自由党を結成して総裁とな
   り、近代日本の政党の基礎を築いた。翌年、岐阜遊説中に刺客に襲われたとき、「板垣死
   すとも自由は死なず」と叫んだことばは、当時の若者達を感激させ沸かせた。明治29年
   から伊藤内閣や大隈内閣の内相をつとめたが、明治33年に政界を引退した。大正8年に
   亡くなり、この地に葬られた。
   平成7年3月31日                       品川区教育委員会

 板垣死すとも自由は死せずの碑
 板垣家墓所の右横にある。自由民主党/総裁佐藤栄作書と刻まれている。この言葉は本人が実際に
死の間際にいったのではなく、小室案外堂の演題『板垣死ストモ自由ハ亡ビズ』から、板垣の言葉と
して誤り広まったものだ。栄作が書いていることが面白い。佐藤栄作は山口県の朝鮮系日本人。所謂
田布施一味だ。板垣を襲撃したのは田布施一味。ユダヤ人がよくやる被害者面して、責任逃れをする
という手口。統一教会も創価学会も共産党も田布施発だよ。よくやるよね。

   板垣死すとも自由は死せず
   自由民主党 総裁佐藤栄作書
 


■北品川三丁目児童遊園

 北品川3丁目7番15号にある区立公園。


福聚山清徳寺
 北品川3丁目7番22号にある臨済宗建長寺派の寺。
元徳二年(1332)真照大定禅師の創建。
天正十九年(1591)徳川家康より朱印十石を賜った御朱印寺。旧東海寺域内にある。寛永十四年
(1637)東海寺建立の時にも多くの寺院は移動させられたが、沢庵和尚の宿寺となっていたため
その儘になった。臨済宗建長寺の末で、本山30世仏寿禅師を以って開山とする。仏国禅師に師事し
文和三年二月十八日82歳にて寂す。大定禅師は貞治二年(1363)十二月八日壬化する。其後兵
乱のため衰え、天文年中(1532~55)梅江和尚が中興して旧観に復した。時に小田原北条氏の
家人遠山隼人佐は制札を与え、島津右衛門尉源忠貞は寺領を寄附する。忠貞は永禄二年(1559)
八月十二日に卒する。「諸家系図」には八月廿日日戦死すとある。法字長徳軒竜道泉公と云い、位牌
は当寺にある。之を中興の開祖と云う。現在歴代将軍の朱印状を蔵している。

 無外坊胡麿仁者蕉禅創業之地
 本堂前に高さ2mほどの茶色の石碑が建っている。柳下胡麿という人物は明治時代の俳人。俳号は
「無外坊」。〝蕉禅派〟”という流派を起し、蕉禅新聞を発行した。著書に『蕉禅道句大鑑』等があ
るという。それ以上の詳しいことは不明だが、この石碑は胡麿がここ清徳寺において蕉禅派を創業し
たことを記念して建てられたものと推定される。

   無外坊胡麿仁者蕉禅創業之地
   正三位本荘寿巨書
   (裏面)
   蕉禅派俳壇社中惣代
     正四位 川端玉章
   法友 当山廿一世 森巌山
   派祖小傳 
   明治八年十二月七日小田原市京徳■■誕生
   藤原鎌足三十七世通称柳下大叶
   法号兼俳号 無外坊胡麿
   大正元年十二月七日建之


 なお鎌倉の建長寺には、『蕉禅俳諧五哲記念碑』という碑がある。

   蕉禅俳諧五哲記念碑
    大正五年八月 建立
       柳川堂璋翁
       世外居世外
       無童爵庵呑海
       風見坊玉龍
       山陰坊機外
         無外坊湖麿

   蕉禅風祖の柳下湖麿師は、菅原時保禅師の室に参ず。後に川上道済師に師事して、通俗佛
   教を主唱し、並びに道化俳諧を鼓吹す。その風に従う者、明治・大正にわたり二万七千を
   超ゆ。師俳界退隠の紀念として、五哲を互選して名を録したり


■品川消防署

 北品川3丁目7番31号にある。
 


■権現山公園

 北品川3丁目9番5号にある区立公園。城南中学校の北にある、八ツ山公園と共に最も古い公園。
南半を城南中学校の校地に譲ったので小さくなってしまった。


■品川小学校
(区内最初の学校)
 閉校 → 品川学園
 北品川3丁目9番30号にある区立校。明治6年都築幾三郎が歩行新宿(かちしんしゅく)の禅福
寺に間借りして数学を主体とする寺子屋を始めるが、都合で直ぐに法禅寺に所を替え、門弟60数名
に教えていた。当時この地の戸長下村利忠は、これを公立学校に転用すべく東京府に願い出たが、同
7年2月20日に認可となり、区内で最も古い小学校は、「第一大学区第二中学区第6番公立小学品
川学校」として法禅寺内に開校した。同10年御殿山耕地196番地の4畝4歩(124坪)の土地
(私立品川高校のところ)に校舎を建てて移転。しかし100坪ちょっとでは手狭なため、隣接の松
平子爵の土地を無償で借りて使用した。同37年小松宮彰仁親王殿下の御真筆による「品川小学校」
の木額を掲げる。大正13年北品川宿権現山224番地(現在地)に新校舎竣工。昭和4年御殿山小
学校を分校。同7年品川区が成立して東京市品川尋常小学校となる。同11年プール完成。
同16年
国民学校法により東京市品川国民学校と改称、同18年都制施行により東京都品川国民学校と改称。
同19年学童集団疎開。都下西多摩郡青梅町、調布村。同20年10月疎開解除により帰校。同22
年新しい品川区立品川小学校と改称。同28年創立80周年。同37~39年鉄筋校舎に改築。同4
0年プール改築。同43年創立95周年。
同49年創立100周年。
 平成16年創立130周年。同23年品川中学校と統合して小中一貫校「品川学園」となった。 


 校歌
「東の海の夜は明けて」 作詞・加藤因  作曲・田村虎蔵
  1.東の海の夜は明けて
    台場に燃ゆる若草の
    若い命を永久
(とこしえ)
    守り育てん学び舎ぞ
    楽し楽し吾等の学舎
  2.流も遠き品川の
    栄えある歴史訪ねては
    上げし誉れを汚さじと
    日々に勤むる学舎ぞ
    楽し楽し吾等の学舎

 桜並木
 校門から続く桜並木は、終戦の年の卒業生たちが基金を集めて植えたもの。


■城南中学校 
閉校 → 品川学園

 北品川3丁目9番30号にある区立校。悲惨な終戦から日も浅い昭和23年、新しい学制にり、品
川区立城南小学校の一部を借りて生徒165名、教職員6名で開校。同24年権現山公園だった現在
地に校舎を新築し移転。校庭は大きな池を埋却し、その記念として植えた椋の木が大木となり伸び伸
びと緑をたたえている。創立当時、学校の周辺は品川区役所や官公庁が集まる品川区の中心だった。
当校もまたそんな区の中心校としての誇りと教育実践があった。校舎の辺りは東海禅寺のあったとこ
ろで、沢庵和尚が学問に励み、成仏した聖地であることから「ゆかりも古きこの丘の」と校歌に謳わ
れている。また校章はこの地にあった樫の葉3枚をデザインし、生徒・学校・PTAと地域が一体と
なって良き伝統を築き、生徒が樫のように強く逞しく世の中に役立つ人材に育つよう願って制定され
た。その後用地の拡張と増改築を重ね、現在の立派な学校に成長した。卒業生の総数は13000を
越え、各界で活躍している。平成23年品川小学校と統合し焼酎一貫校「品川学園」となった。

 校歌
「東に開く品川の」 作詞・片桐顕智  作曲・平井康三郎
 1.東に開く品川の
   八重の潮路のひらくとき
   希望は胸にあふれきて
   わが窓つねに風きよし
   うれし わが学舎うれし
 2.ゆかりも古きこの丘の
   ときわの緑 映ゆるとき
   理想は高く燃えてきて
   わが庭つねに光満つ 
   きよし わが学舎きよし

 ●修学旅行中交通事故3名死亡(米山公子・古川久美子・矢田敬)
 事故発生
 昭和41年9月22日(木)小雨まじりの空模様の中、修学旅行第2日目の日程は、何の支障もな
く当然計画通りに行なわれた。6時起床、7時30分に石長旅館出発して、8時50分宇治平等院を
見学した総勢320名(校長・3年職員9名・養護教諭・校医・写真屋・生徒1組~7組307名)
は、木津川の沿って南北に走る国道24号線をバスを連ねて一路奈良へと向かった。学校は違うがお
いらの修学旅行も同じコースだ。国道24号線は、かつては〝ワンマン道路〟と呼ばれた国道だ。当
時の総理大臣吉田茂が通った時、まだ未舗装だったので凸凹道だ。車のバウンドで強か頭を打った。
激怒した吉田君は「俺の帰るまでに舗装しろ!」と叫んだとか。それを真に受けた京都府・奈良県は
恐れ入って突貫工事で道路を仮舗装したという。バスガイドがそう説明していた。
 さて小雨も止んで晴間が見え出し、雨上りの山や畑の緑が目に沁みて眩い位だ。見通しもよく、交
通事情も普通で、さして混雑しているとは思われない状況。全車とも制限速度の50Km/hで走っ
ていたが、前方に砂を満載した大型ダンプが40Km/h程度で走っており、非常に遅く感じられた
ので、先頭車(7号車)、6号車が次々に追い越していった。

 魔の時間はやってきた。9時25分、4組の丹治教諭の引率する男24名、女20名計44名を乗
せた4号車も、大型ダンプを追い越しにかかった。その時右前方から対向して走ってきた竹田組の大
型ダンプカーをかわすことができず、京都観光バスの運転手席右側面から接触しながら中央部安全扉
のところから後部にかけて大きくえぐり取られた。最右列に着席していた生徒は、真正面からその衝
撃を受けて道路に放り出されたり、椅子の間に挟みこまれたりした。その他の生徒も急激なショック
により、通路に押し倒されたり、前の座席に強く顔を打ったりしてその被害は悲惨を極めた。
 咄嗟に運転手席の後の金棒を摑まえ難を逃れた丹治教諭は、大丈夫な生徒全員を車外に避難させ、
椅子に挟まれて身動きの取れない中村隆治の救出に当たる。その内後続車の落合、竹島、高橋教諭、
新井養護教諭、鈴木校医が駆け付けて処理に当たる。最後尾にいた金野学校長は、約300mを駆け
付けて処理の指揮を取った。不幸中の幸いとはこのことだろうか、偶々事故現場が近鉄バス上狛営業
所の真前だったので、職員全員が救助に駆け付け、近鉄バス3台を出し、負傷者を病院へ運んでくれ
た。1台目には米山公子他8名と新井養護教諭、鈴木校医、2台目には矢田敬、古川久美子他7名を
乗せて山城病院へ、3台めには蜘手秀男他25名と学校長、丹治教諭が乗り桜井病院へと向かった。
 1台目のバスが約2~3Km離れた山城病院へ到着したのが9時32分、その間7分で、如何に迅
速な処置が取られたかが判る。先行していたバスは、約700m前方で停車し、後続車を待っていた
が、大事故との田熊教諭の連絡を受け、木津警察署の第一手配車に三森引率主任、渡辺、原、河本教
諭が同乗し、4分~6分後現場に到着した時は、負傷者を乗せたバスは発車した直後であった。
 現場検証に三森教諭が立合い、他の教諭は乱れ飛んだ荷物を集めて2号車に乗せた。その内、やっ
と交通が解除されたので、他の生徒は、修学旅行を取り止めて京都の旅館に担任引率の下に引上げて
行った。その頃になって漸く新聞社の車が駆け付けてきて、主のいない破壊されたバスの周りに次第
に人垣ができていった。アスファルトに点々と血痕が滲み込み地図を描いていた。

 学校では

 その日1、2年生は平常授業で、いつも通り静かに勉強していた。9時55分渡辺教頭は近畿日本
ツーリストから、「修学旅行バスがダンプと衝突、重傷者多数、詳細不明」との電話連絡を受けた。
4号車とのことで3年4組であることは確認できたが、全く詳細不明であり、情報を受けるために山
城病院へ急報を頼んだものの、40分はかかるとの返事に心は焦る。直ちに区教委へ連絡すると同時
に、3年4組事故者の家庭に電話、或いは職員が走ってゆき連絡して来校を求めた。品川区栗原教育
長から電話があり、京都へは教育長室長を行かせるので、教員を派遣するようにとの指示を受ける。
また都教育庁大森指導部長から細かい事故処理の指示を受けた。10時30分やっとのこと現地から
学校長、原教諭の電話が入ってきた。米山公子死亡、瀕死の重傷2名、あとは軽傷の模様。緊急協議
の上、1・2年の授業を午前中で打ち切り、事故対策本部を設けること、現地に飯崎、伊藤始両教諭
を派遣することを決める。ラジオやテレビのニュースで事故を知った父母多数が心配して電話で問い
合わせたり、続々と学校に集まり始める。また報道関係者がどっと押し寄せ、学校内は大混雑大混乱
に陥った。職員は手分けして説明して回わり、整理するのに汗だくの状態だった。その内10時20
分警視庁少年課より木津警察からの連絡として事故状況を詳細に伝えてきた。三森教諭の依頼による
ものだったので正式情報として扱う。古川久美子、矢田敬の死亡を確認。渡辺教頭は、応接室にて3
年4組の父母に対し、第二次公式発表。死亡者3名、重傷者7名の父母は、直ちに現地へ赴いて欲し
い、軽傷者の父母の方でも希望者は行って貰いたい旨伝える。11時35分臨時職員会議を開く。授
業は四校時で打切り、明日秋分の日も平常出勤と決める。会議中も報道関係者のフラッシュで喧噪を
極めた。12時30分飯崎、伊藤教諭は、父母17名を案内して京都に出発し、学校では1・2年生
徒を校庭に集めて事故の概況を説明して下校させた。

 現場は

 最も困ったことは旅行団が分散したということだった。一般生徒は京都の旅館へ、重傷者は山城病
院、軽傷者は桜井病院と山城病院とに分散されていた。この分散させられた生徒に12名の職員がど
う配置するかだった。次に連絡網の不備で、学校まで急報で40分、京都でさえも30分を要した。
その上、報道関係者に割り込まれるから迅速適切な連絡が思うに任せなかった。さて初めの内は、負
傷した生徒がどこの病院へ何名行ったのやら、その病院の場所も解らないままに探して歩き、確認す
るのは大変なことだった。
 学校長は専用車で、三森教諭はパトカーで走り回わった。遠く奈良市内の松倉病院(警察で手配し
たといったが、実際にはいなかった)までも探しに行った。学校長は奈良市内の救急病院を全部探し
てもらったりした。やっと全員確認でき たのは10時40分頃だ。

 重傷者のいる山城病院では、新井養護教諭と鈴木校医が看病に当たり、原教諭は9名の軽傷者に付
添うと同時に学校への連絡に当たった。米山公子の死亡がまず告げられ、ついで古川久美子と矢田敬
の死亡が伝えられた。生きていてくれと願うみんなの胸は張り裂けんばかりだ。怒りとも悲しみとも
つかぬ、叩き付けたいような気持ちが込み上げてくる。中村隆治、小林栄子は危険な状態にある。秋
山茂は足の骨折、名倉康恵は顔面真赤でかなりの傷、広瀬治美は鎖骨骨折、池田弥生は右膝蓋骨折梅
田吉男は右頭部打撲、皆、大変な重傷だった。
 一方、桜井病院での負傷者には丹治教諭が付添い、全員診察治療をして貰う。頭、首、胸、足に真
白い包帯が巻きつけられていく。怒りと恐れで生徒たちは顔面蒼白。休養をとらせるということで、
木津警察署の道場に移動した。4号車のバスガイドが必死に世話をしてくれていたが、彼女も鞭打ち
症で2月に退院したばかりで、まだ療養中だ。木津警察署では、暫く休憩した後に、調書の作成に取
りかかった。三森教諭がかけつけて激励して回ったが、ここも報道関係者が一杯でごったがえした。

 旅館に引き上げた一行は、直ちに部屋に入って静かに待機するように指導された。引率した6名の
職員の内、渡辺教諭と田熊教諭は病院の加勢に引返す。残った高橋、河本、落合、竹島教諭は各部屋
を巡回して生徒を落着けるのに心を砕いた。ここでも報道関係者の追究は激しかった。生徒たちは、
静かに部屋の中で囁き合っていたが、実に整然とした立派な態度だった。
 一段落したところで、山城病院では学校長、三森教諭を中心に、死亡者の安置、遺品整理、明日帰
校の新幹線の手配、重傷者の看病と激励、軽傷者の治療、学校、旅館への連絡、見舞客の応接、死亡
者の処置について仕事は進められていった。
 16時50分栗原教育長、山下室長、向出庶務係長、都教育庁指導部柏主査到着、学校長は事故の
概況を報告、今後の指示を受ける。17時20分渡辺教諭は、軽傷者を連れて旅館に引き上げる。旅
館では、本部の部屋に布団を敷き、軽傷者の受入れ体制を完了していた。

 重傷者の病室の方では、京都府立医大の医師が2名応援にかけつけ、再診査の結果、中村、秋山、
小林の3名を京都医大に移すことになった。17時55分田熊教諭が付添って出発。途中小林栄子は
嘔吐激しく、緊張の連続だった。

 18時父母のー行が山城病院に到着。病院内の空気が張りつめ、報道陣がまたもや殺到し、雨嵐と
フラッシュを浴びせかける。怒りと嗚咽の坩堝は最高潮に達した。その時学校長は、激務と緊張の連
続で脳出血のため遺族を前にして崩れるように倒れた。直ちに病室に運ばれたが重態だった。
 その後、教育長を中心に飯崎、伊藤、三森、原教諭は、事後処理の仕事を続けていった。遺体輸送
の件、父母の輸送、宿舎の手配、食事、死亡届、遺体輸送許可願、納棺、霊柩車の手配等に忙殺され
た。遺体は陸路輸送に決定、河本教諭が付添って22時京都を出発した。その間学校では、父母と教
師の会(PTA)役員、品川区議会議員、教育委員長一行の見舞を受けた。見知らぬ土地での事故は
困惑そのものだったが、現地の病院、役場、警察署、石長旅館の苦労も並大抵のことではなかった。

 深夜まで
 学校で最も困難な問題は、やはり現地との連絡だった。そのもどかしさは関係者を苛立たせた。渡
辺教頭は、区総務課から「学校葬を明後日24日に行ないたい」旨を連絡され、関係各方面に手配す
ると共に学校葬委員会を組織しその計画準備に入る。学校へは応援に区教委から広瀬、小林、横溝、
難波の各指導主事、都教委から酒井指導主事が、また区内中学校の校長、教頭多数が見え、また都教
育庁から大森指導部長、山地第二課長、三枝指導主事が見舞いに来た。現地からの負傷者の状況も学
校長をはじめ各関係方面から次々と連絡があり、15時30分には第一次事故者名簿を作成して関係
方面に配布した。14時30分には修学旅行団が明日帰京することも判明、直ちに玄関に掲示する。
 18時30分現地の教育長から遺族との相談の結果なるべく早く遺体は家族に届けるとのことで、
お別れ式は短時間で済ませるようにとの指示があり、待機していた職員6名で準備計画に入る。一応
学校葬は見合わせ、後程合同慰霊祭をすることになる。21時3家庭に23日遺体の到着、時刻その
後の予定、葬儀の準備等連絡して回わる。21時30分品川葬祭株式会社へ連絡、寝台車、乗用車、
生花等の注文手配を依頼。23時30分渡辺教頭は、京都の三森教諭と連絡をとり、明日の手筈の打
合わせをする。受入れ準備は着々と進められていったが、最大の関心は深夜陸送してくる遺体と、新
幹線で帰校する修学旅行団とが果たしてうまく合流してくれるであろうかということだった。この場
合をA案としお互いが少しずつずれて到着した時の場合をB案、C案とし、どのような事態になって
も対処できるように計画は進められた。最終点検をし、仮眠に入ったのは午前1時だったった。京都
の旅館でも生徒の乗車準備などで学年会が終わったのが午前1時30分、職員が就寝したのは午前3
時だった。また山城病院でも漸く静かになり、飯崎教諭は午前2時に待合室で仮寝、京都医大では、
伊藤、新井両教諭が徹夜の看病。全力を尽くした。

 そして帰校
 9月23日(金)は好天に恵まれた。旅行日程では京都市内を巡ることになっていたが・・・・・

京都石長旅館では、5時30分起床、6時30分朝食、三森教諭は全生徒に放送にて事故の概況、死
亡者負傷者の名前と状況を話し、全員冷静に行動し、無事に帰校するように諭す。初めて知らされた
死亡事故内容に生徒たちは驚き、ざわめきが啜り泣きに変わる。併し泣いてばかりもおれない。「さ
あ元気をだそう」の教師の声で、7時30分旅館を出発、8時10分京都駅ホームに整列、生徒たち
は静粛に行動。関係者多数見送りの中を9時03分発車のひかりで一路東京へと向った。車中3年4
組生徒の病状を詳細に調べる。2名が気分が悪いと訴える。直ちに学校の渡辺教頭と連絡、ハイヤー
を準備する。

 一、学校では祭日を返上して全職員出勤。お別れ式の打ち合わせが続けられる。会場の設営、受付
接待、東京駅の出迎え、遺体添乗護送準備等、9時10分各職員は別れてその準備にとりかかった。
11時50分新幹線ひかり東京駅着、品川区長以下多数の出迎えの中をバスに分乗学校へ向かう。品
川区役所の曲り角で、遺体を乗せた車と合流、悲しみに包まれた旅行団は、棺を先頭に学校の校門を
潜った。楽しかるべき修学旅行が、笑顔に包まれて出て行った子供たちが、こんな無残な姿で帰って
こようとは、誰も想像だにしなかったことだ。校庭に並んだ黒山の人々は異様な雰囲気の中、眼だけ
が遺体を追っていた。

 すぐさま体育館に設けられた祭壇に遺体を安置、お別れ式が始められる。開会の言葉、全員黙祷、
お別れ言葉(学校長代理教頭・生徒代表蜘手秀男)、生徒たちの啜り泣きは、嗚咽に変わり、呻き声
ともつかぬ異様な泣き声は烈しさを増し、参列者の胸中を掻き毟っていった。
 式は20分程で済ませた。全員直ちに校庭整列して遺体を見送った。興奮覚めやらぬ3年生をバス
に待機させ、気持ちを沈めた後で校庭整列、無事に家まで帰りつくよう訓示して解散させた。3年4
組生徒は全員高梨病院の診療を受けるために病院へ直行、診断を受けさせた。

 その後
 遺体が到着した9月23日の夜、米山、古川両家で通夜が行なわれた。職員は分散して焼香に参列
したが、未だ半信半疑の囁ききがあちこちで聞かれた。翌24日(土)米山、古川両家の告別式は、
雨の降りしさる中で行なわれた。遣らずの雨だった。1、2年生の代表4学級の生徒は、校旗を先頭
に参列した。その夜、矢田家では父親の帰国を待って通夜が行なわれた。全職員は焼香に参列したが
偶々台風の接近で戸外は吹き荒れていたのが、神の怒りにも似て印象的だった。翌25日(日)14
時矢田家の告別式に全職員と1、2年生徒代表4学級が校旗を先頭に整然と参列した。3家とも参列
者は数百人に及び、盛大な告別式になった。遺影が今にも話しかけるような感じで、参会者は交通事
故死のあっけなさに唇を噛んだ。山城病院に入院中の4名の現状は、順調な経過をたどり、26日に
帰京、転医する旨が報ぜられた。が、ー方京都医大に入院中の中村、小林の両名は依然として危篤状
態であり、付添いの両親をはじめ、伊藤始、田中、新井教諭は不眠不休で手を拱いた。その中でも秋
山の朗報が伝えられたのがせめてもの慰めだった。学校では緊急態勢のままで待機していた。
 その頃、一部では中村死亡の誤報が流れ、それを打ち消すのに大童だった。罪なデマゴーグではあ
るが、全家族が神経を尖らせて見守っていたことが伺い知れる。若い生命は、生死の苦闘を続けてい
た。3年生は、24日代休、25日2日の連休を家庭で休養を取っていたが、一部の近くの生徒は、
雨の中を告別式に参列していた。軽傷者の内、杉下、神、鈴木の3名は状態が優れず高梨病院へ入院
した。また伊藤善朗は、古川家にて焼香中、脳貧血で倒れ、救急車を出動させる騒ぎとなった。この
3日間、職員も父母も関係者も、苦闘と悲しみの連続であった。特に3年生職員の疲労は極限に達し
た。
 平成23年、当時の3年生は還暦を越し、教師や父母は故人となった。


 
バラの碑
 昭和41年修学旅行中に京都府山城町を移動中の生徒を乗せたバスと、大型ダンプカーが衝突する
交通事故があり3名の生徒が亡くなった。33回忌慰霊式の後、供養と偲ぶ会にて遺族や同窓生、当
時の教師から「記念になるものを寄贈したい。」と提案があり、石碑が寄贈された。石碑の近くに、
以前、美しいバラのアーチが事故を想い寄贈されていたが、バラのアーチを復活させたい想いと併せ
て「バラの碑」と命名された。

 また事故現場付近には、地元の人々の好意により建てられた交通安全碑と石地蔵がある。



■品川学園

 北品川3丁目9番30号にある区立小中一貫校。平成23年品川小学校と品川中学校が統合して新
設された9年制の公立学校。


■子供の森公園(怪獣公園)

 北品川3丁目10番13号にある区立公園。区内の子供たちのアンケートが実を結んだ「彫刻と怪
獣と冒険の森」公園。7頭の恐竜の遊具があることから、怪獣公園として人気を集めている。

 
「中学生」
 中村晋也昭和46年の作品。親子で背中合わせに腰掛け、女の子が右手を挙げている。

   
君よ なやみかんがえよう そこから希望と明日への力が生まれてくる

 東海高等小学校跡碑
 公園の東面中央にある。碑陽には「東海高等小学校跡」、碑陰の説明プレートには「東海尋常高等
小学校沿革」としてある。

   明治41年9月8日北品川宿280~328番地の東海寺境内の一部を卜して、
    品川町立東海尋常高等小学校創立。
   大正15年7月1日品川町立青年訓練所を併設。
   昭和12年10月28日品川区東品川4丁目123番地に移転。
   昭和13年4月4日単独校となり、東海高等小学校と改称。
   昭和16年東海国民学校に改称。
   昭和22年3月31日廃校。


■東海禅寺(東海寺)
 北品川3丁目11番9号にあるが、
江戸時代の東海寺ではない。本来の東海禅寺は、3代将軍家光
が沢庵宗彭禅師に与えた47000坪の屋敷跡に、沢庵の死後、沢庵の志に反して建てられた荘厳華
麗な寺。現在の北品川3丁目7、9、10番に跨る地域だ。その他、塔頭も寺領の内だから、寺域は
膨大になる。沢庵が住んでいた頃は住居であって寺らしい構えは一切なかったという。また登城の折
も下僕1人を連れるのみだったとか。
 
現在の東海禅寺
 維新後明治政府に寺領を奪われ、あわや廃寺の憂き目に遭うところだったが、堀田正盛が創建した
塔頭(子院)の臨川院(玄性院)に移って漸く法灯を継いだ。昔を思えば20分1の寺域もない。境
内に「原爆慰霊碑」が建ち、堀田正盛の殉死墓・仏殿・世尊殿がある。

 
世尊殿(仏殿)
 昭和5年の建築。小規模だが本格的な禅宗建築だ。正面入口の上に「世尊殿」と記した木額を掲げ
ている。本尊は木造の釈迦三尊。中尊の釈迦如来坐像は等身大の立派な像で、東海寺の開創に当たり
根来寺(和歌山県、新義真言宗)から移されたものと伝えられている。

 
古学殿
 参道の奥、砂利を敷いただけの境内中央にがある。随分趣のあるたてものだ。

 
梵鐘
 椎名伊予守良寛の作で、天倫宗忽の撰文、形もすばらしい名鐘。

   品川区認定文化財
   
梵鐘
   東海寺は寛永十四年三代将軍家光が寄地を沢庵禅師に賜わり、翌年四月籾建にかかり十一
   月落成し、つゞいて入山式が行われ、寺領として百石の寄進があった。沢庵は正保二年十
   一年(1643)73才を以て寂し、當山に葬られる。
   銘によると、本鐘は、元禄五年時の住職宗忽撰文し、名工椎名良寛によって作られたもの
   である。
   昭和42年3月15日                      品川区教育委員会

   品川区指定有形文化財
   
東海寺の梵鐘           所在 北品川3丁目11番9号 東海寺
                     指定 昭和53年11月22日(工芸品第1号)
   東海寺は寛永十五年(1638)に3代将軍徳川家光の信任を受けていた沢庵禅師のため
   に建立されたものである。
   本鐘は元禄五年(1692)住持天倫宗忽が撰文し、名工といわれた幕府の鋳物師である。
   椎名伊予守良寛によって造られたものである。総高198cm、口径106cm。撞座は
   竜頭の側面方向に2ヶ所、乳は乳の間ごとに5個づつ配されている。
   平成12年3月31日                      品川区教育委員会


 沢庵禅師
 天正元年(1573)兵庫県出石町に生まれた。父は出石城主山名祐豊の重臣秋庭能登守綱典(あ
きばのとのかみつなのり)。10歳で出家し、14歳で出石藩主菩提寺宗鏡寺(すきょうじ)に入門。
20歳の時、藩主前野長泰の招きで京都の大徳寺から薫甫宗忠(とうほそうちゅう)が住職に。宗忠
は大徳寺住持の春屋宗園(しゅんおくそうえん)の弟子で、この時に沢庵と大徳寺の関係が生まれた。
22歳の時宗忠が大徳寺の住持となるのに従って上京し大徳三弦院で春屋宗園に仕えた。29歳の時
勅令によって大徳寺の住持に出世したが、立身出世を求めない沢庵は、3日間で野僧に徹すべしとし
て退山してしまった。31歳の時、堺の南宗寺陽春院の一凍紹滴(いっとうじょうてき)に師事し、
沢庵の称号を受け、やがて住持を兼ねるようになる。48歳の時「富貴を求め人に諂い、仏法を売る
より野僧たるべし」と故郷の宗鏡寺の裏に庵を建て、「投淵軒」と名づけて世間と離れた静かな暮ら
しに戻った。「投淵軒」という名は、中国の憂国の詩人屈原が汨羅の淵に身を投げた故事によってい
る。沢庵は研ぎ澄まされた感覚から漢文・歌道にも通じ、但馬に多くの歌を残している。

   めぐりきて入佐の山の月も日もはるやむかしに我身ひとつは

 紫衣事件で出羽上ノ山流されるも、藩主土岐頼行の待遇は丁寧を極め、父親に接する如くであった
という。3年後将軍秀忠の死による大赦があり、許されて帰府。家光は柳生但馬守宗矩の言を聞き入
れ、品川に土地を与え万松山東海寺を建ててその開山に沢庵を迎えた。これを受け入れた時から、野
僧に徹すべしの生き方を捨て、己を権力者にこびる「つなぎ猿」と自分で自分を軽蔑し嘲う晩年だっ
た。
 家光が東海寺を訪れたときのエピソードがある。家光が帰り際、船に乗ろうとして見送ってきた沢
庵に、
   海近くして如何
(いかん)か東海寺(遠海寺)
 と謎掛けをすると、沢庵すかさず答えて曰く
   大軍を擁するも将軍
(小軍)というが如し
 と。
 正保ニ年(1645)12月沢庵は万松山東海寺で没した。73歳だった。死ぬ前に残す言葉を弟
子が求めると自分で筆を取り、「夢」の一字を書いて筆を投げ捨てるようにして息を引き取ったとい
う。墓は大山墓地にある。
 遺言は「葬式はしてくれるな。香典は一切貰うな。死骸は夜密かに担ぎ出し後山に埋めて二度と参
るな。墓を作るな。朝廷から禅師号を受けるな。位牌を作るな。法事をするな。年譜を誌すな」だっ
たという。
 沢庵を世に有名にしたのは、吉川英二の小説『宮本武蔵』だが、これはあくまで創作で沢庵と武蔵
が接触したという記録は何処にも残されていない。

   心こそ心迷わす心なれ 心に心、心許すな(沢庵)
   心こそ心惑わす心なれ 心の駒の心許すな(良寛)

 
紫衣事件
 しえじけん 大徳寺・妙心寺の住持は天皇の詔(みことのり)で決まっていたが、寛永四年(16
27)天皇の権威をそぐため、今後は幕府が許可を与え、命令に服さない者の紫衣の着用を禁止する
と発表した。同六年朝廷が大徳寺・妙心寺の僧に紫衣を与えると幕府が介入したので、後水尾天皇は
怒りを以て退位された。沢庵は出石の庵から怒って上京し、大徳寺の反対派をまとめて抵抗運動の先
頭に立ち、幕府に対する抗弁書を自ら書いて提出した。幕府は中心人物である沢庵を羽州(山形県)
上ノ山に流罪にした。

 
沢庵番(東海寺夜番人足)
 定住を嫌う沢庵が逃げ出すのを防ぐ為に「沢庵番」と呼ばれる夜警を付けたという俗説が罷り通っ
てるが、夜警はそのために農民に負荷したのではなく、東海寺が建立されたために、品川宿周辺の品
川・六郷・馬込・世田谷領の村々に、他の地域にはない労役負担が掛けられたのだ。それが「東海寺
夜番人足」で、寺の普請用の材木を警護するための人足として毎夜9人づつ集められ、境内4ヶ所の
番屋に詰めることが義務づけられた。これが沢庵番と誤解されたのだ。このほかに東海寺近辺で火事
があった時には近郷の22ヶ村から合計500人が駆けつけることになっていた。

 
原爆犠牲者慰霊碑
 本堂前左手奥にある。広島の被爆石などを配して、昭和46年8月に建てられた、「建立趣意碑」
によると、東京都原爆被害者団体協議会(東友会)によるもので、同会は昭和33年に東京在住の広
島・長崎被爆者によって創立され、被爆者への政府支援と核戦争反対を訴えてきた。同40年に木碑
が建てられ、同42年に千羽鶴の羽を象った石碑に変えられた。

   
われら生命もて ここに記す 原爆許すまじ

   原 爆
   犠牲者 
慰霊碑


■細川宗家墓地
(旧妙解院内)

 北品川3丁目11番17号にある熊本藩細川家の墓所で、東海禅寺の横にある。
墓域は、2900
㎡(888坪)ある広大なもの。2代目藩主細川光尚が藩祖忠利のために東海寺の塔頭妙解院内に設
けられたが、明治維新後妙解院が廃寺となり、墓地と墓塔が残った。
ここには4代宣紀より13代護
立までの墓碑があり、その内の8基は基壇の上に3m余の五輪塔が建っている。以前は5基の墓前に
は唐破風の拝殿があったそうだ。墓前の石灯籠の数も多く形は様々だ。奥まったところに一族の墓が
雑然と並んでいる。典型的な近世大名の墓地だ。

   東京都指定史跡
   
熊本藩主細川家墓所
   所在地 北品川3丁目11番17号
   指 定 平 成 9 年 3 月 14日
   肥後熊本藩主細川家の墓所であるこの地は、東海寺塔頭の一つであった妙解院の寺域の一
   部にあたります。東海寺は、寛永十六年(1639)三代将軍徳川家光によって創建され
   た臨済宗大徳寺派の寺院です。
   妙解院は寛永二十年(1643)、細川家四代藩主光尚が、父忠利の菩提を弔うために沢
   庵宗彭を開祖として建立した寺院で、江戸における細川家の菩提寺でした。明治4年に廃
   寺になりましたが、墓所の部分は細川家の所有となり、現在に至っています。
   墓所は、上の壇と下の壇の二墓所からなります。下の壇には六代宜紀、七代宗孝、八代重
   賢、十一代斎樹、十二代斎護、十三代韶邦、十四代護久の7人の藩主をはじめ、細川家一
   族の墓があります。安山岩製の五輪塔で統一され、水輪は法号と没年月日が刻まれていま
   す。
   上の壇には熊本新田支藩(高瀬藩 現在の玉名市)初代細川利重から九代利用までの歴代
   藩主の墓が現存しています。なお、十一代斎樹や子女の墓は明治時代に改装されたもので
   す。
   都内では広大な墓域を有する大名家墓所がほとんど壊滅してしまった現在、近世大名家墓
   所の墓制を知る上で重要な文化財といえます。
   平成23年3月 建設                      東京都教育委員会
  


■翡翠原石館

 北品川4丁目5番12号にある私立の展示館。新潟、ミャンマー産の翡翠を展示するため、未来に
残すため、糸魚川小滝物産の伊藤尚治をはじめ、大勢の人々の尽力により鶴見信行館長が30年間収
集してきた翡翠原石を公開するため、平成14年5月に開館した日本で唯一の翡翠専門の展示館だ。
 収蔵品の中から数十点を常設展示する。糸魚川現在5tからの大原石、現地でも見られないほどの
数々の美しい石が展示されており、また展示に最もふさわしい光と空間作りを実現し、片栗、雪割り
草、つるにんじん、などの野草や、桜などの樹木、室内を流れる小川の水草により、四季折々の自然
を楽しめる工夫をしている。有料。 03-6408-0313
 


■御殿山

 北品川4丁目7番の一円、八ツ山の峰続きにあって、その昔、太田道灌の館があったことからその
名がある。現在西品川の三ツ木に城山という小名があり、古道に面した台地で、太田道灌の館跡とも
品川氏又は宇田川氏の館跡とも伝え、地形上から見ても御殿山よりその名にふさわしいが、御殿山と
は呼ばれていない(品川区の歴史)。
 しかし御殿山は、品川湊、江戸湊、木更津の動向を見てとれる。太田道灌は江戸を見ていたのだ。
御殿山の名は、近世初期にここに将軍家の御殿が造られたための呼称。8代将軍吉宗が桜の木が多く
植えてから、花見時には特に開放され、多くの人々で賑わったことは、浮世絵や錦絵などに描かれて
いる。日暮れともなれば眼下の品川宿さんざめきが聞こえ、そのまま遊んで帰る人も多くあった。江
戸の文学作品にあらわれている。
 複合ビル「御殿山ヒルズ」の庭園は自由に散策することができるよ。


■八ツ山橋(日本最初の跨線橋)

 北品川4丁目7番にある。JRの線路の谷は切り通しで、鉄道を通すために八ツ山、御殿山を切り
通したものだ。八ツ山は峰が8つあったことからその名がある。今は高くはあるが、山の雰囲気はな
い。削平してしまったからだ。何故か京橋の親柱(鉄製)が保存してある。昭和29年ゴジラが上陸、
最初に踏み潰した構築物だ。現在の橋は同60年の架橋だ。
 


■セルビア・モンテネグロ大使館

 北品川4丁目7番にあった。セルビアとモンテネグロは分離してセルビア共和国とモンテネグロ共
和国となったため、セルビア・モンテネグロ大使館はセルビア共和国大使館となった。なおモンテネ
グロ共和国大使館は未設置のため、領事及び査証業務はセルビア大使館が当面代行している。


■セルビア共和国大使館(モンテネグロ大使館業務代行)

 北品川4丁目7番24号にある。南東ヨーロッパ、バルカン半島西部の国。西側でモンテネグロ、
ボスニア・ヘルツェゴビナ、南西部のコソボでアルバニア、南部国境でマケドニア、南東部でブルガ
リア、東部でルーマニア、北部でハンガリー、北西部でクロアチアと接している。北部のヴォイヴォ
ディナは第一次大戦後にオーストリア・ハンガリー帝国からセルビア王国が奪取した領土であるため
ハンガリー系やスロバキア系などセルビア人以外の住民が多い。またコソボではアルバニア人の方が
多数だ。首都ベオグラードは、これまでも旧ユーゴスラビア連邦および旧セルビアモンテネグロの首
都であり、セルビアはユーゴスラビア連邦の中心となる共和国だった。それなのに、それなのに、平
成18年6月3日モンテネグロが分離独立したためセルビアも独立を余儀なくされた。

 国名
 正式国名はセルビア語で「Srbija(スルビャ)」。英語表記は「Serbia」、日本語表
記は「セルビア」

 歴史
 大正7年 サン・ジェルマン条約により「セルビア・クロアチア・スロヴェニア人国」が建国され
た。ところが建国当初から内紛が頻発、昭和4年にクロアチア王アレクサンダル1世がクーデターを
起こし「ユーゴスラビア王国」とした。第二次世界大戦ではナチス・ドイツ侵攻され、王国政府はロ
ンドンに亡命政権を樹立し、ユーゴスラビア王国軍で主流だったセルビア人将校を中心としたチェト
ニックを組織してナチス・ドイツ軍に対抗した。が、チェトニックは士気が弱く、代わってナチス・
ドイツに対しての抵抗運動を展開したヨシップ・チトー率いるパルチザンがドイツ軍に対して粘り強
く抵抗し、ソ連軍が侵攻してくる前にユーゴスラビアが自力でナチス・ドイツ軍を駆逐した。ユーゴ
スラビアを自力で解放することに成功したチトーは、王の帰国とロンドンの亡命政権を否定し、従来
のユーゴスラビアの枠組みの中で、戦後の再建を始めた。戦後の政権党となったユーゴスラビア共産
党(その後昭和27年にユーゴスラビア共産主義者同盟に改称)は、同23年にコミンフォルムを追
放されて以降、ソ連のコントロールから外れ、マーシャル・プランを受け入れる姿勢を取り、ソ連と
対立して、その後断交と国交回復を繰り返した。同28年にチトーが大統領となり、ソ連と一線を画
した社会主義政策を展開し、第3世界の主要国としての地位を確立した。しかし同55年にチトーが
死ぬと地域格差や民族対立が一気に顕在化し、平成2年にはクロアチア、スロベニアが連邦を外れて
独立。同4年にはボスニア・ヘルツェゴビナが独立、この結果ユーゴスラビア連邦は崩壊した。
 その後、セルビアとモンテネグロの2つの共和国で新たなユーゴスラビア連邦を形成。コソボでは
セルビアが内戦の起きていたクロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナからのセルビア人難民のコソボ
殖民を強力に推し進めたため、コソボにおける民族バランスが大きく崩れる結果となった。これに危
機を抱いたコソボ民族派によりコソボ紛争が引き起こされ、同1
1年のNATO(北大西洋条約機構)軍による爆撃に至った。
 同9年以降モンテネグロの独立要求が強まったため、同13年から連合形式を変更しセルビア・モ
ンテネグロとして緩やかな連合国家を形成した。しかし以前から独立を志望していたモンテネグロ市
民は、同18年5月21日の独立についての住民投票の結果、賛成55%以上でモンテネグロ共和国
の独立を決定した。これによってモンテネグロは同年6月3日独立を宣言し、大正7年のセルビアと
の併合以来、88振りに独立を回復することとなった。これにより、第2次世界大戦後のスベロニア、
クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、モンテネグロ、マケドニアの6共和国で誕生し
たユーゴスラビア連邦は完全に解体した。同年6月5日モンテネグロの独立に伴い、セルビアも独立
を宣言した。

 
資源

 セルビアの鉱業を特徴付けるのは豊富な有機鉱物資源だ。品質は低いが燃料に向く褐炭を大量に産
出する。 平成14年時点の採掘量は、世界シェアの3.8%に達する3450tで世界10位だ。こ
のため輸入に占める燃料の割合は数%以下であり、総発電量に占める火力発電の比率が64.5%と高
い。つまりエネルギー自給に関してはセルビアには問題がないということだ。品位の高い石炭の採掘
量は10万トン、原油は88万トン、天然ガスは28000兆ジュールである。無機鉱物資源は種類
が多いものの採掘量は少ない。金、銀、銅、鉛、アルミニウムの原料となるボーキサイト、マグネシ
ウムを産出する。火力発電に加え、水力発(総発電量の36.5%)にも適した地形であるため、セル
ビアは電力には恵まれている。その結果輸出に占めるアルミの割合は8.4%に達し、最大の輸出品目
となっている。


■原美術館

 北品川4丁目7番25号にある私設の美術館。昭和13年に建てられたモダンな原邦造邸を改装し
て、同59年から美術館にした。収蔵作品は絵画や写真、ビデオなど様々な手法で表現された同25
年以降の現代美術が中心。欧米の巨匠の作品から現在第一線で活躍する新進作家の作品までを網羅。
ジャン=ピエール・レイノーなどの常設作品は必見。邦造の養父六郎は銀行家として明治・大正に活
躍。古美術に造詣が深く多くの優れた作品を集めた。なかでも三井寺日光院客殿を自邸内に移して慶
長館と称した。建物はのち護国寺に寄贈され月光殿として知られている。邦造は昭和16年に設立さ
れた帝都高速度交通営団(東京メトロ)の初代総裁をやった人だよ。この邦造の邸宅として建てられ
た洋館は、日劇や東京国立博物館などを手掛けた渡辺仁の設計で、昭和初期の建築物として大変に貴
重。ヨーロッパ・モダニズムを取り入れたデザインは、柔らかいカーブの曲線とシャープな直線、水
平に広がる底層階と垂直な塔屋、初期のモダニズムの象徴である屋上空間の利用にも見られる。美術
館の方はトイレの中までも現代芸術になっててよ、作品を見るよりは建物や庭の鑑賞の方がよっぽど
面白いと思うだろうよ。まあともかくは行ってござんなれ。
 榛名山麓伊香保グリーン牧場(渋川市)の敷地に別館として「ハラミュージアムアーク」があるっ
てさ。


■グローリアチャペル・キリスト品川教会

 北品川4丁目7番40号にある教会。

 昭和38年第一京浜国道の渋滞を避けるため架けられた跨線橋「新八ツ山橋」から教会方向を望む
と、新しい都市の風景が広がっており、区の「しながわ百景」に数えられている。


■ミャンマー連邦大使館

 北品川4丁目8番26号にある。アジアの国。首都は公表はしていないがネーピードー。旧首都は
ヤンゴン。東南アジアのインドシナ半に位置し、国境を中国、ラオス、タイ、バングラディッシュ、
インドと接する。

 
国名

 ビルマ語による正式名称は「ピダウンズ・ミャンマー・ナインガンドー」。通称は「ミャンマー・
ナインガン」。平成元年以降の公式英語表記は、「ユニオン・オブ・ミャンマー」日本語表記は「ミャ
ンマー連邦」。なお昭和23年から同49年までは「ビルマ連邦」、以後同63年までは「ビルマ連
邦社会主義共和国」、翌年1年は「ビルマ連邦」、通称は独立以前から一貫して「ビルマ」、漢字で
「緬甸」と表記され、読みは「ビルマ」。緬と略された。例えば「泰緬鉄道」がそれだ。日本軍統治
(太平洋戦争の間)通称にされた。緬甸は、中国語表記からのそのまま採用したもの。ビルマは、江
戸時代末期に蘭学者によってオランダ語(ポルトガル語説もある)からもたらされた。
 平成元年6月18日軍事政権は、国名の英語表記を「ユニオン・オブ・バーマ」から「ユニオン・
オブ・ミャンマー」に改称した。軍事政権が代表権を持つため国連と関係国際機関は「ミャンマー」
に改めた。また日本政府は軍政をいち早く承認し、日本語の呼称を「ミャンマー」と改めた。日本の
多くのマスコミ各社が外務省の決定に従ったが、軍事政権を認めない立場から括弧付きで「ビルマ」
を使い続ける社・媒体(朝日新聞社や『習慣金曜日』など)もある。アウンサンスーチーやアメリカ
に亡命している「ビルマ連邦国民連合政府」など軍事政権の正当性を否定する側は、改名が軍事政権
による一方的なものだとし、英語国名の変更を認めていない。タイの英字紙、英BBC、「ワシント
ンポスト」などの有力英語メディアの一部、および主要な人権団体は「Burma」の呼称を続けて
いる。アメリカ、イギリス、オーストラリアなどは「Burma(バーマ)」のままだし、EUは「バ
ーマ」と「ミャンマー」を併記している。ビルマ語では、「ミャンマー」も英語の「バーマ」の由来
となった「バマー」も同じ語源の言葉であり、前者が文語的、後者が口語的に使用されることが多い
という違いがあるだけで、国民は特に意識することなく併用している。いわば「ヤマト」と「にっぽ
ん」「にほん」の違いのようなもので、共産主義に由来するものではないよ。正式名称としては、独
立以来ずっと文語的な「ミャンマー」の方を使用してきており、平成元年の英語表記変更によって内
外の呼称が統一化されたことになる。

 
歴史
 ミャンマー南部の地は、古くからモン族が住み、都市国家を形成して海上交易も行っていた。北部
では7世紀にビューが驃国を建国したが、9世紀に南詔に滅ぼされ、南詔支配下にあったチベット・
ビルマ語系のビルマ人がミャンマーに侵入してバガン王朝を樹立した。パガン王朝は、13世紀にモ
ンゴルの侵攻を受けて滅び、ミャンマー東北部に住んだタイ系のシャンシャン族が強盛になったが、
やがてビルマ人によるタウングー王朝が建国され、一時はアユタヤ王朝やラーンナータイ王朝、雲南
辺境のタイ族小邦を支配した。17世紀にタウングー王朝は衰亡し、南部のモン族が強盛となるが、
18世紀中葉アラウン・バヤー王が出てビルマを再統一した。これがコンバウン王朝だ。


■御殿山の坂

 北品川4丁目10番5号、山手通りから御殿山に上る狭い坂道(中原街道,旧鎌倉街道)。山手線
は品川駅から大崎駅に向かってU字型に大きくカーブしている。その内側の高台が〝御殿山〟と呼ば
れる。将軍家の品川御殿があった。

   御殿山の坂    gotenyama-no slope
   このあたりは,江戸時代に将軍が鷹狩の折りに休んだ品川御殿があった場所で,御殿山と
   呼ばれている。もとは急な坂であったが,何回かの修理でゆるやかになった。
                                  品川区教育委員会光


■大型トレーラー横転事故

 北品川4丁目10番5号光村プロセス前の山手通りで起きた大型トレーラーの横転事故。平成26
年3月25日午前7時55分頃、山手通り居木橋のカーブをスピードの出し過ぎで曲がり切れなかっ
た大型トレーラー(10トン)が横転し、道路左の電柱と信号柱をなぎ倒した。品川警察署によると
倒れた信号柱で電線が引っ張られ、反対車線の信号柱も倒れて乗用車に接触。運転していた調布市の
男性(60)が顔などに軽傷を負った。トレーラーを運転していた横浜市の男性(41)にけがはな
く、「スピードを出し過ぎてカーブを曲がりきれなかった」と話している。山手通りは現場付近で上
下線とも通行止めとなり、大渋滞の大混乱となり、付近の約1800ヶ所が一時停電した。


■東海禅寺大山墓地

 北品川4丁目11番の三共の裏手、三角地帯の先端にある大山(だいせん)墓地。かつては東海寺
の境内続きの裏山で、江戸時代までは沢庵禅師だけの墓所だったが、明治になって各塔頭が明治政府
の横暴によって取り潰され、それらの墓地がここに集められたために墓地となったものだ。
 入口角に案内板がある。

   東海寺大山墓地
   沢庵和尚墓(国指定史跡)
   賀茂真淵墓(国指定史跡)
   渋川春海墓 (品川区指定史跡)
   西村勝三墓
   井上 勝墓
       ←      


 案内に従って狭い通路を進むと、石段と左に進む道がある。石段の脇に標柱がある。

   
史蹟 澤庵墓

 開山澤庵和尚塔銘序
 石段を登り広場に出ると、亀を象った台座の亀趺碑がある。四面にびっしりと文字が刻されてる。
沢庵没後百八年の宝暦三年に建てられた碑だ。序は南禅寺住持元良和尚、書は当時の住職閑田義門。


 沢庵宗彭の墓

 
墓は、自然の丸石を置いただけの無字の墓石で、人柄を窺わせる。小堀遠州の設計といわれ、台石
の上に直径1m、高さ50cmほどの大石を置き、周りに高さ約50cmの玉垣を巡らせただけの、
凡そ正規の墓制にはない形だ。これは本人の遺言だそうで、まさに沢庵漬けの漬物石だ。沢庵最後の
洒落なのかもな。国指定の有形文化財。
 たくあん漬けの名の元になった沢庵だが、そう命名したのは徳川家光だ。沢庵が出した漬物があま
りに美味だったので、そう名付けたという。

   国指定史跡
   
沢庵墓            種   別 史跡
                   指定年月日 大正15年10月20日
                   指定 区域 127.5㎡〔48坪5)
                   所 在 地 品川区北品川3丁目389番地 東海寺
    沿 革
   江戸時代初期の禅僧で名は宗彭、沢庵は号。
   沢庵(1573~1645)は、江戸時代初期に活躍した禅僧で、名は宗彭、沢庵は道号。
   但馬国出石(現兵庫県豊岡市)に生まれ、幼少のころ出家して禅を学び、各地を修行して
   信望を集め、慶長十四年(1609)大徳寺の153世住持となった。
   寛永六年(1629)紫衣事件で流罪となり、出羽国上山(現山形県上山市)藩主土岐頼
   行に御預けとなる。3年後許され、その後は3代将軍家光に重用される。寛永十六年(1
   639)家光によって創建された品川東海寺の開山に迎えられ、晩年を送った。正保二年
   (1645)12月没、73歳。
   沢庵は禅僧として大成しただけでなく、兵法、儒学に通じ、書画、詩歌にもすぐれ、茶道
   に造詣が深かった。
   その創業といわれる大根の香づけは沢庵の名で知られている。
   昭和40年3月1日                       品川区教育委員会

 ※文中「127.5㎡(48坪)」としているが「127.5㎡」は「38坪」だ。

   国指定史跡
   
沢庵の墓                  指定年月日 大正15年10月20日
                
           指定 面積 127.5平方メートル
               
            所 在 地 品川区北品川4-11-8
   沢庵(1573~1645)は、江戸時代初期に活躍した禅僧で、名は宗彭、沢庵は道号。
   但馬国出石(現兵庫県豊岡市)に生まれ、幼少のころ出家して禅を学び、各地を修行して
   信望を集め、慶長十四年(1609)大徳寺の153世住持となった。
   寛永六年(1629)紫衣事件で流罪となり、出羽国上山(現山形県上山市)藩主土岐頼
   行に御預けとなる。3年後許され、その後は3代将軍家光に重用される。寛永十六年(1
   639)家光によって創建された品川東海寺の開山に迎えられ、晩年を送った。正保二年
   (1645)12月没、73歳。
   沢庵は禅僧として大成しただけでなく、兵法、儒学に通じ、書画、詩歌にもすぐれ、茶道
   に造詣が深かった。
   平成22年3月15日                      品川区教育委員会

 利休居士追遠塔
 墓碑は自然石で、裏面に塔銘が刻まれ「天明三年 河保壽書 石工中開雲」とある。天明三年は利
休の二百回忌法要が行われた年だという。河は河原だろうか。

   
利休居士追遠塔

   夫従事於茶者、遠自利休居士始也、猶竟陵氏於唐矣、盖居士勝國之臣、以茶近昵、以天正
   十九年辛卯二月廿八日卒也、享年七十、雖先有一二嚆矢、于斯者然體裁不具不可得而従、
   於是居士秡萃集成而為之、則器則好古不固鑄陶錯用事、則體質尚文簡便易、就以故自王侯
   大夫立士庶方外之徒莫不翕、然遊藝於斯者豈不盛乎、居士嗣少菴、其子宗旦、疉興世濟其
   美加遭大統之化、恭蒙 官命世以為寵矣、遊旦之門者既居多然特宗盒涵泳有年克遡其流業
   成将歸授以不審菴之儲今猶藏焉、盒之弟子宗伯、伯之子松恕不墜家聲、深聽松者遊於恕下
   殆五十年、宗子一方已七十餘、偶感自来之久先于居士二百之忌辰之七年、今茲天明癸卯六
   月将豫祭、遂請東海禪林聊修齋會具建塔、擬以報祖恩之萬一、使余為之銘、銘曰、
   茶時義遠矣于茲二百年者挌而致知千氏子為千緬迪竟陵轍傍入趙州禪既荷創功久遂卜萬松巓
   安之以追遠同志永奉旃
   天明三癸卯六月淨業杜多耆山誌                   東都 河保壽書
                                      石工中開雲


 賀茂真淵の墓
 墓碑は自然石で、国指定の有形文化財。彼は元禄十年(1697)遠江国岡部新宮の禰宜(ねぎ=
神主に次ぐ地位)の家に生まれる。享保八年(1733)京都に上り荷田春満(かだのあずままろ)
の門に入って神道国学を学び、国学を復興する。のち江戸に下り、御三卿の田安家に召し出され優遇
を受けた。その教えを受けた者300人を超えるそうだ。俺、顔と名前覚えられるかなぁ? 
 後世荷田春満・本居宣長・平田篤胤とともに〝国学の4大人(うし)〟と称される。明和六年(1
769)に没し、東海禅寺塔頭少林院に神式で葬られた。
 墓前に追悼碑が建っている。見事な行書碑で「享和元季 橘千蔭文作氏自書」とある。村田春海、
本居宣長と並ぶ真淵の高弟加藤千蔭のものだ。墓前にある標石の書「賀茂縣主大人墓」も千蔭のもの
と伝えられる。
 墓所入口右手の、横長二山型自然石の「賀茂翁墳墓改修碑」は、明治21年に建てられたもので、
「徳川達孝題辞、小杉褞邨書、井亀泉刻とあり流麗な漢字かな交じり文が刻されている。小杉褞邨は
難波津会の創設に尽力した人で上代仮名の研究で功績を残した人。

 
「頭上是天脚下是地」碑
 台座部分に銘文があるが掘りが浅く磨滅して読みづらい。明治17年の鉄道工事の際に辺りから出
土した白骨を慰霊して、明治19年に建立した碑のようだ。

 西村勝三の墓
 
天保七年(1836)佐倉藩邸で生まれた。若い頃から成績抜群で、藩校授読となる。またオラン
ダ式砲術や洋学を学び、その後下野国佐野の豪商正田利右衛門に招かれて、手塚律蔵について化学を
学んだ。慶応元年(1865)江戸神田西村銃砲店を開業し、明治3年3月15日築地入船町に大村
益次郎の依頼により、日本人の足にあった大きさの靴を作るため「伊勢勝造靴場」を開いたが、この
日は昭和7年が日本靴組合により〝靴の記念日〟としている。明治8年芝浦に民間人として初めて耐
火煉瓦製造を開始。明治17年深川芝浦の工場を併合し「伊勢勝白煉瓦製造所」を設立。同年工部省
品川硝子製造所を10ヶ年契約で借用して事業を継続し、翌年払い下げを受けた。同20年伊勢勝白
煉瓦製造所を品川町に移し、「品川白煉瓦製造所」と改称する。現在の品川白煉瓦株式会社(本社千
代田区九段北)だ。品川硝子は会社組織にしたものの上手くいかず同26年解散し、土地は三共合資
会社(三共
製薬→三共)に売却した。

 井上勝の墓(鉄道記念物)
 墓域の北端に、東海道新幹線に面して、自然石に「正一位勲一等子爵井上勝」と刻んである。初代
の国鉄総裁で、鉄道の父ともいうべき人。東京駅前に銅像が建っている。詳細は千代田区【丸の内】
東京駅に記述してある。墓の傍らに記念碑がある。

   鉄道記念物 井上 勝 墓
   昭和三十九年十月十四日 指定
   日本国有鉄道
    鉄道友の会

   初代鉄道頭
   
井上勝                   天保十四年(1843)~明治43年
   〝鉄道の父〟と称される井上勝は、萩藩士の三男として生まれた。15才から長崎、江戸
   で学び、文久三年(1863)井上馨、伊藤博文らとともにイギリスに密航し、鉄道と鉱
   山技術を学ぶ、日本の鉄道建設に最初から関わり、明治4年には初代鉄道頭となり、明治
   5年、新橋‐横浜間の鉄道を完成させた。その後、鉄道局長、鉄道長官を歴任して、東海
   道線をはじめとする主要路線の建設に努めるなど生涯を鉄道に捧げた。外国から導入した
   鉄道を、日本の鉄道として発展させた功績は多大である。生前、自らの墓所として東海道本
   線と山手線(現在は新幹線も並走)に挟まれたこの地を選んだのは、死後も鉄道を見守っ
   ていたいという意向からであったと伝えられている。

 
島倉千代子の墓
 演歌歌手。戦後日本の歌謡界に美空ひばりとともに燦然と輝く2つの巨星。NHKの年末恒例番組
「紅白歌合戦」に35回出場した。しかし人生は波乱万丈で、お人よしが祟り、堕胎、離婚、病苦、
だまされた借金苦など、苦しみの連続だった。
 墓は生前墓で、奥の方、崖下にJR線路が走るところにある。流雅之のデザインで、日本的な墓ら
しさはなくモニュメントのようだ。正面に「こころ」と刻み、その左脇に「寶婕院千代歌愛大姉」な
る戒名が記されている。背面に「島倉千代子 島倉忍」とあるが、忍は彼女が堕胎した3人の子供た
ちの総称で、水子に対する供養の言葉だ。墓の様式を取らずモニュメント的デザインとしたのは、彼
女を慕うファンや関係者が、自己の苦しみや悩みを吐露して、少しでも苦しみから逃れられたらとの
意図がある。島倉の優しさだ。

 渋川春海=安井算哲の墓
 新幹線側に沿って一列に並んでいるのが渋川家の墓所。左端の「太虚院透雲紹徹居士」とあるのが
春海の墓だ。春海は囲碁の家元初代安井算哲の嫡男で、初め2代目算哲を襲名したが、後渋川に改姓
した。父の跡を継いで幕府の碁方を務めたが、8段の時に名人本因坊道策と対局して敗れ、それで囲
碁を打つことを止め、天文学・暦法で仕えた。中国の授時歴を入手して、貞享元年(1684)に貞
享歴を作り、800年来使われてきた宣明歴を廃した。天文方となり、日本暦学の祖といわれている。
 右端の「大機院仁翁滄洲大居士」とあるのは、江戸後期の天文方渋川景佑(高橋至時の次男で景保
の弟)の墓だ。春海は、小説・映画「天地明察」の主人公だ。

 日本の初の天文台
 日本では中世を通じて約800年間、中国で作られた「宣明暦」が使われてきた。併し江戸時代に
入るとその誤差が指摘され、貞享元年(1684)十月の改暦宣下を受け、翌年より新たな暦「貞享
暦」が使われるようになった。貞享暦は、宣明暦と実際の天体の運行との誤差を正すことにより、初
めて日本人の手によって作られた暦だった。作製したのは、幕府碁所の長子に生まれた安井算哲で、
後に渋川春海を名乗った。貞享二年暦作製の功を認められ、春海は初代の幕府天文方に就任、その後
麻布(港区)の私邸で天文観測を続けたが、元禄二年(1689)十一月二十二日本所(墨田区)二
つ目先に土地を与えられたことから、居宅をそちらへ移すと共に敷地内に司天台(天文台)を開設し
た。ただ、与えられた本所の土地が低地だったことから、しばしば水害に悩まされ、観測が中断され
ることも少なくなかった。そこで同十四年幕府に願い出て、駿河台(千代田区)に317坪の替地を
拝領すると、再び司天台と居宅を移転した。
 春海の死後、司天台は神田佐久間町(千代田区)、牛込(新宿区)、浅草福富町(台東区)へと移
転し、牛込と浅草福富町では、高橋至時らが、寛政の改暦のため観測を行った。この他、江戸時代の
司天台として京都梅小路の陰陽頭土御門家の司天台がある。ここは貞享の改暦に際して、渋川春海が
土御門泰福と一緒に天体観測したことで知られている。

   品川区認定文化財
   
渋川春海墓
   江戸時代の初代天文職で、我国八百年来、用いられてきた「宣明歴」の誤りを正し、「貞
   享暦」を作り、我国暦学の基をきずいた人で、神道国学にも精通している。正徳元年(1
   711)十月六日、七十七歳をもって没し、明治四十年従四位を贈られる。
   昭和39年12月1日認定                    品川区教育委員会


 
服部南郭の墓
 新幹線の線路沿いに南郭の一族の墓が20基ほど並んでいる。南郭の墓に銘文はないが一族の墓に
は銘文を刻したものが多い。南郭の女婿である仲英(白賁)の墓に、門人河保壽書とある。利休塔と
同じ書者だ。
 南郭は、江戸中期の漢詩人。名は元喬、字は子遷。南郭は号。京都の町家に生まれ、幼少の頃から
和歌を嗜んだ。早くに江戸に出て、5代将軍徳川綱吉の寵臣柳沢吉保に歌人として抱えられた。正徳
元年(1711)頃、柳沢家の儒臣荻生徂徠に入門して、漢詩文に転じた。享保三年(1718)に
柳沢家を退いてからは、終生、野にあって詩文を専らとする生涯を送った。それまで儒学の支配下に
あった漢詩を文学として解放するのに功績があり、またその生き方は、江戸中期の知識人たちの、現
実を離れて芸術・趣味の世界に遊ぼうとする、所謂文人意識の典型をなすものだった。


■近代硝子工業発祥之地

 北品川4丁目11番の三共の発送センター前に赤茶色の石碑と品川区が建てた木製の説明板などが
建っている。 碑のある場所は、かつては東海寺の境内で、ここに明治6年日本最初のガラス工場であ
る「興業社」が創設された。 その後官営の「品川硝子製造所」となったが、紆余曲折を経たのち、結
局明治25年解散となった。敷地の多くと設備は製薬会社「三共」に引き継がれ、また技術者などは
「品川白煉瓦」「日本光学(ニコン)」「東京電気(東芝)」などに引き継がれていった。品川硝子のレ
ンガ造りの工場の一部は、現在愛知県の明治村に移築され保存されているよ。


   近代硝子工業発祥之地
   此ノ地ハ本邦最初ノ洋式硝子工場興業社ノ跡デアル。同社ハ明治六年時ノ太政大臣三条実
   美ノ家令丹羽正庸等ノ発起ニヨリ、我国ニ始メテ英国ノ最新技術機械施設等ヲ導入シ外人
   指導ノ下ニ広大ナ規模ト組織ニ依テ創立サレタモノデアル。
    然ルニ最初ハ技術至難ノタメ経営困難ニ陥リ同九年政府ノ買上ゲル所トナリ官営ノ品川
   硝子製作所トシテ事業ヲ再開シタ 同十七年ニハ再ビ民営ニ移サレ、西村勝三其ノ衝ニ膺
   リ、同廿一年品川硝子会社トシテ再興ノ機運ヲ迎ヘタガ、収支償ハズ、同二十六年マタマ
   タ解散ノ已ムナキニ至ッタ。其ノ間育成サレタ技術者ハ東西ニ分布シテ夫々業ヲ拓キ、斯
   業ノ開発ニ貢献シ、本邦硝子興業今日ノ基礎原動力トナリ、我国産業ノ興隆ニ寄与スル所
   頗ル大ナルモノガアッタ。
    吾等ハ其ノ業績ノ偉大ナルヲ偲ビ、遺跡ノ保存ヲ図ッタガ、會々此ノ挙ニ賛シタ三共株
   式会社ハ進ンデ建設地ヲ無償提供サレタ 斯クテ有志ノ協賛ト相俟ッテ今茲ニ由緒アル発
   祥地ニ建碑先人ノ功ヲ不朽ニ伝フルヲ得タノデアル。
    昭和四十年十二月
 


■官営品川硝子製造所跡

 北品川4丁目11番、東海道線・東海道新幹線・目黒川が作る三角地帯がそれだ。今三共の流通セ
ンターになっている。跡地を示す碑が建っている。明治6年村井三四之助が東海寺境内に洋式ガラス
工場の興行社を設立し、同9年工部省が買い上げて品川硝子製造所となり、英国人技師を指導者に迎
えて工員を養成した。同18年西村勝三に払い下げられて民営化した。その後電球→内燃機関→薬品
工場と変り、昭和36年に官営時代の建物は取り壊され、その一部は愛知県犬山の明治村に移築され
た。同年日本ガラス工業会が所有者の三共製薬から土地の提供を受けて「近代硝子工業発祥之地」の
記念碑を建て、傍らにガラスの原石を据えている。

   史跡 官營品川硝子製作所跡

   品川区指定史跡
   
官営品川硝子製作所跡        所在 北品川4丁目11番5号 三共株式会社
                       指定 昭和五十三年十一月二十二日(第八号)
   日本における近代硝子工業発展のもとになったのは、明治6年に東海寺境内に創設された
   興業社である。興業社は、明治9年に工部省に買収されて官営品川硝子製造所となり、全
   国のガラス工業の発展に貢献した。 明治18年には西村勝三らに払い下げられて民間経営
   となったが経営不振のため、明治25年に解散した。昭和36年に官営時代の建物は取り
   片づけられたが、煉瓦造りの工場の一部は、明治初期の貴重な建築物として愛知県犬山市
   の明治村に移築保存されている。
   平成6年3月31日                       品川区教育委員会



■御殿山の坂

 北品川4・5丁目の間御殿山通りを北に上がって行く坂道。

   御殿山の坂
   このあたりは、江戸時代に将軍が鷹狩の折りに休んだ品川御殿があった場所で、御殿山と
   呼ばれている。坂の名称もそこからつけられたものである。もとは急な坂であったが、何
   回かの修理でゆるやかになった。


 
御殿山
 『新編武蔵風土記稿』によれば、太田道灌が江戸城に入る前の長禄年間(1457~1460)に
御殿山城を構えて居住していたが、夢のお告げがあったため江戸城に入り、御殿山城には宇田川和泉
守長清を配したという(『道灌日記』)。当時は眼下に、浅草湊と並んで栄えた品川湊を見下ろす高
台だった。徳川家康が江戸城に入ってからは、御殿山城は「品川御殿」と呼ばれ、歴代将軍鷹狩の休
息所として、また幕府重臣を招いての茶会の場として利用されていたほか、桜の名所として有名だっ
た。併し元禄十五年(1702)2月11日四ツ谷太宗寺付近の出火で青山から麻布御殿へ至り、品
川宿で漸く鎮火、御殿は焼失し8月14日に廃された。寛文年間(1661~73)からが移植さ
れ、文政七年(1842)の『宿差出明細帳写』(品川町史)によると、御殿山の面積は11500
坪(38016㎡)、600本に及ぶ桜の名所として整備された。
 幕末には、国防のための台場建設用土砂採取場となり、山の北側(現在の北品川3丁目3番、4番
付近~同4丁目7番東側付近)がえぐられて窪地となった。開国後の文久元年(1861)、幕府は
英国をはじめ諸外国の公使館を御殿山に建設することを計画した。しかし、翌年12月12日、完成
間近の英国公使館を、長州(山口県)の高杉晋作・志道聞多(井上馨)・伊藤俊輔(伊藤博文)ら朝
鮮系日本人グルーブ13名が襲撃し全焼させた。明治維新はユダヤに唆されたほぼ朝鮮人たちによっ
て惹起された国盗り物語なのだ。特に伊藤は孝明天皇を弑逆した国賊だ。
 維新後はも鉄道建設のために東西に分断された。付近には益田孝など富裕者の屋敷が多くあった。
 昭和22年1月には、前年に創業した東京電気通信工業(ソニー)が本社を御殿山地区に移転。御
殿山はソニーの「創業の地」とされ、ソニー本社一帯は「ソニー村」とも呼ばれた。併し、平成19
年本社を港区に移し、その後、御殿山地区の施設の売却が進められた結果、同26年にはソニー歴史
資料館等が残るのみとなり、ソニー村は雲散霧消した


■御殿山小学校

 北品川5丁目2番6号にある区立校。体育館やグランドは東向かいの10番にある。昭和4年「東
京府荏原郡御殿山尋常小学校」として開校。同7年「東京市御殿山尋常小学校」と改称。同14年校
歌制定。

 校歌
「大和心の」 作詞・木住野亀之介  作曲・橋本国彦
 1.大和心の桜花
   輝き匂う御殿山
   この学び舎に幸受けて
   日々に励まん我が務め
 2.緑色濃き丘の辺の
   木蔭に結ぶ真清水や
   清く明るく潔く
   いよよ磨かん我が誠


 同16年勅令148号国民学校令公布により「東京府東京市御殿山国民学校」と改称。12月日米
開戦。同18年都制施行により「東京都御殿山国民学校」と改称。同19年学童集団疎開。同20年
愚かなアメリカ軍の非人道的無差別空爆により校舎焼失。8月日本敗戦。10月疎開解除により生徒
帰校。同22年区立御殿山小学校と改称。同54年創立50周年記念式典。
 平成20年創立80周年記念式典。
 


■小関橋公園

 北品川5丁目7番18号にある区立公園。再開発事業により、大崎駅から再開発地区への玄関口と
して、地域や訪れる方へ緑の憩いの広場を整備した。ボトルツリーやオリーブの木が、公園のシンボ
ルツリーとなっている。

 
ボトルツリー
 園内中央にある。オーストラリアのクイーンズランドが原産。成長が速く、高さは10~20mに
なる。普通は常緑だが、旱魃になると落葉する。初夏にベル型の黄色い花を咲かせる。名前は幹の下
部がボトル状に肥大することから付けられた。


■カナディアン・インターナショナルスクール(CIS)

 北品川5丁目8番20号にあるカナダ式教育を施す共学の私立校。平成11年開校。プリスクール
(3、4歳児対象)、キンダーガーテン(5歳児対象)、小学部(グレード1~グレード5)、中学
部(グレード6~グレード8)、高校部(グレード9~グレード12)となっている。
 真子内親王の相方小室圭が卒業したことで一躍有名になった。カナダのカリキュラムに沿って教育
を行っており、Western Association of Schools and Colleges(WASC:米国認証機関)の認
証を受ける。高校部は文部省認定で、大学受験可能。
 入学金30万円、教育充実費(初年度のみ)45万円、管理運営費15万円
 授業料180万円(月学15万円)
 


■小関公園

 北品川5丁目8番21号にある区立公園。


■清水稲荷大明神(清水稲荷神社)

 北品川5丁目9番18にある小社。清水が湧き出ていたので祀った稲荷。隣接する高層ビルとの新
旧が対照的だ。

   区政40周年・区民憲章制定5周年記念
   しながわ百景
   One Hundred Scenic Spots in Shinagawa
   
清水稲荷神社
   Shimizu Inarido Shrine
   昭和62年 品川区 22

 
小関通り

 神社前の、目黒川に架かる居木橋から、川の北側を東五反田2丁目に抜ける通りは、かつての鎌倉
道の一つで、関所があったことから「古関」という小名があり、そこから小関の名が起きた。


■モーリタニア
イスラミック共和国大使館

 北品川5丁目17番5番にある。アフリカ北西部の国。首都はヌアクショット。アルジェリア、西
サハラ、マリ、セネガルと国境を接し、大西洋に面している。大西洋沖にはカーベベルデがある。

 
国名

 アフリカの地中海岸に位置したベルベル人の古代国家マウレータニアからとられている。正式国名
は、アラビア語で「モーリターニャ」。フランス語表記で「モーリタニー」。英語表記「モーリタニ
ア」、日本語表記「モーリタニア」。

 
歴史
 8世紀(一説によると4世紀)頃から、国土の南東部に残されたクンビ=サレーを首都として、ガ
ーナ王国が繁栄した。ガーナ王国は、セネガル川上流のバンブク周辺から産出される金とサハラ砂漠
の岩塩から採取される塩、北方からの銅製品や衣服、装身具などの各種手工業製品の交易路を押さえ、
その中継貿易の利益で繁栄した。このようなサハラ越えの隊商交易の利益を押さえようとしたムラー
ビト朝に承暦元年(1077)に滅ぼされるまで、その繁栄は続いた。世界遺産にもなっているシン
ゲッティ、ウワダン、ウワラタ、ティシットの隊商都市は、ガーナ王国と並行して発展し、ガーナが
滅亡した11~12世紀にも繁栄を続けた。シンゲッティは、モーリタニア北西部に位置し、古くか
らシンゲッティ王国の首都であったが、12世紀にメッカの巡礼地の出発点となり、イスラム学者、
学生、修道士などが集まる文化都市となった。シンゲッティ北東約100kmに位置するウワダンは、
マリ帝国で産出する金や北西約200km位置するイジルの岩塩から採取される塩の取り引きのため
の中継地に当たるため、その交易の利で12世紀ころから数百年にわたって繁栄した。内陸部のティ
シットもムラービト朝やムワッヒド朝の外周都市としてやはりイジルの岩塩によって繁栄したが、1
6世紀にオウド=ベラ族に要塞都市に造り替えられ、その後、交易路が変わったために衰退した。ガ
ーナ王国滅亡後、500年以上にわたってベルベル人の支配が続き、黒人からなる地元勢力が抵抗し
たが打倒にはいたらなかった。最後の大規模な抵抗は正保元年(1644)から延宝二年(1674)
に亘って行われた戦争だが、これも地元勢力の敗北に終わった。20世紀初めにフランスによって植
民地化され、フランス領西アフリカの一部となったが、昭和35年11月28日に独立した。ベルベ
ル人の子孫であるイスラム系のムーア人住民が社会の上層を占める。ムーア人と黒人が対立する構図
は独立後も続いている。奴隷制が続いていたが、同45年世界奴隷制消滅宣言が発せられ公式に奴隷
制が廃止された。しかしその後も実態として虐待を伴う奴隷制は続き、若干の賃金が与えられている
だけとの指摘もある。平成15年には再び人身売買を禁止する法律が公布された。近年国土の砂漠化
が著しく、首都周辺の住宅地も砂漠に飲み込まれ放棄されている。

 政治
 昭和59年クーデタで政権を掌握したタヤ大統領は、平成4年、同9年の大統領選挙で勝利を収め
た。しかし同17年8月タヤ大統領不在時に軍部が無血のクーデターにより政権を掌握、その結果「正
義と民主主義のための軍事評議会」が設置され、現在民主化プロセスを進展中だ。同18年6月25
日憲法改正のための国民投票が実施され、有効投票の約97%が改正を承認、政権交代の原則が公認
されたため、11月から12月にかけて国民議会・地方議会、同19年1月には上院議会のそれぞれ
の議員選挙が行われた。さらに同3月11日に大統領選挙予備投票、同25日に決選投票が行われた
結果、シディ・モハメド・ウルド・シェイク・アブダライ元財務相が大統領に選出された。
 モーリタニアは、外交面では非同盟を軸として穏健中立を貫くとともに、フランス始めとする先進
諸国との関係強化を進めている。アラブ・マグレブ連盟のメンバーとしてイスラム諸国との域内協力
に積極姿勢を示す一方で、平成11年10月にはイスラエルとの外交関係を樹立した。アラブ系(ム
ーア人)が社会上層部に位置するアラブ系国家として、アラブ連盟加盟国だ。アラブ諸国内ではモロッ
コおよびリビアと外交的に対立し、チュニジアおよびイラクと友好関係を保っている。しかしその一
方で、親米姿勢を取り、イスラエルを承認している。スペインが旧スペイン領サハラを放棄すると、
モロッコ同様に領土権を主張し、南部を占領した。しかしボリサリオ戦線の抵抗に遭い放棄している。

 
経済

 昭和35年の独立以降、天然資源(鉱業、農業、漁業、牧畜)の開発と有効利用を中心に経済・社
会の発展が図られてきた。同55年代に入ると中小規模の産業も生まれ、今日のグローバル化の厳し
い競争環境の中で生き延びている。現在外貨収入は水産物(タコ、イカ)及び鉄鉱石の輸出に依存。
平成18年2月から原油の生産を開始したので、モーリタニアの経済・社会発展は強化される模様。
収入源となる新しい経済部門を得たことは、今後経済の再活性化、多様化に繋がると見られている。
同17年9月に「探掘産業の透明性イニシアチブ」に参加し、「原油収入国家基金」を法により設立
し、原油から得た収入を全額基金に振り込むことを決定した。基金は国外の銀行に設けられ、国際監
査を受ける。政府は、モーリタニア原油資源管理に大きな特権を有する国営原油会社「モーリタニア
炭化水素会社」も設立、OECD(経済協力開発機構)の最新報告によると、モーリタニアの同18
年の成長率は26.9%となると予想されている。日本のODAは食糧援助、学校建設など。


■八ツ山の坂

 北品川5・6丁目の間の坂道。国道15号線新八ツ山橋交差点から五反田駅に向かう道の途中にあ
る。所謂ソニー村を横断する坂道だ。

   八ツ山の坂
   このあたりは武蔵野台地の突端に当たる丘陵で、海岸に突き出た州が8つあったところか
   ら八ツ山と呼ばれた。この地にある坂のために、いつしか八ツ山の坂という名がつけられ
   た。この道は、この道は元は三間道路と呼ばれ、道幅は三間(約6m)で、あたりには人
   家も少なく、夜はさびしい通りであった。


■ブルネイ・ダルサラーム国大使館

 北品川6丁目5番3号にある。東南アジアのイスラム教国。カリマンタン島(ボルネオ島)北部に
位置し、北側を南シナ海に面するほかは陸地ではマレーシアに取り囲まれている。首都はバンダルス
リブガワン。元首はハサナル・ボルキア国王(スルタン)。石油や天然ガスなどの資源を多く埋蔵し
ており、経済的には豊かな方で、ASEANの一員になっている。

 
国名
 正式名称は、マレー語で、「ヌガラ・ブルネイ・ダルッサラーム」。公式の英語表記は、「ブルネ
イ・ダルッサラーム」。日本語表記も「ブルネイ・ダルッサラーム国」。通称ブルネイ。ヌガラa は、
マレー語で「国」を意味する。ダルッサラームは、アラビア語の darus(土地)と salam(平和)で、
「平和な土地」の意。ブルネイについては諸説あり。マレー語の buni (亜麻)や buah nyiur (コ
コナッツ)から転じたとかいわれる。

 歴史
 明治22年イギリスの保護領。昭和16年の太平洋戦争勃発に伴う日本軍の侵攻により、同20年
まで日本の統治下となる。同34年イギリスの自治領となる。同59年イギリスより独立する。

 
経済

 石油、天然ガス
の輸出により、非常に経済は潤っている。石油天然ガス部門がGDPのほぼ半分を
占めており、それらに依存した経済構造となっている。物価は他のアジア諸国と比べて高い。経済は
非常に豊かで、所得税が無い。


品川トランク詰め殺人事件(青酸寿司毒殺事件)
 北品川6丁目6番にあったアパートで起きた殺人事件。
 昭和31年7月17日大井立会町の広井運送店の従業員大橋淳一(20)が、大井警察署に「死体
らしきものが入ったトランクを、北品川のアパートから杉並区神戸町76番地(下井草5丁目の井荻
駅前)のアパートに配送した」と届け出た。警察が同アパートに行ったが覗いただけで何もなかった
ので帰った。警視庁は翌18日所有者が遠方のためその部屋の鍵を抉じ開けて侵入、そこで床下から
ジュラルミン・ケース詰めにされた死体を発見した。捜査の結果死体は東京都北区西ヶ原4丁目18
番地の、大田区馬込町西1丁目太田機械工業製作所会計係小松左惣次(60歳)であることが判明し
た。配送した運転手の証言から、荷物の依頼人は以前小松の会社に会計係として勤務し、27万円を
横領し解雇されていた元同僚の西谷郁太郎(31歳)と愛人の大川君子(喜美 23歳)であること
が判明し、警視庁は重要参考人として2人を全国に指名手配した。
 西谷は千葉県旭町生まれ。昭和21年復員後結婚し3児を設けている。一方大川は千葉県五井町生
まれで中学卒業後、東京の大田区で工場勤務。その後飲食店の女給をしていた。2人が知り合ったの
は同29年頃で、大川が働いていた飲食店に西谷が客として寄った時からだった。その後2人に子供
ができ夫婦同然の関係となった。
 犯行当時の同31年6月28日西谷と大川は、顔見知りの小松が会社の金を引き出しに銀行に行っ
たことを察知。その帰りを待ち伏せして小松を品川区北品川1丁目130番地の小料理屋「千登世」
へ連れて行き、牛乳に睡眠薬を入れて飲ませ、北品川2丁目の大橋の姉(38歳)の家へ運んで寝か
せた。この際に西谷は小松の鞄から5万円を奪っていた。そして8850円を中央郵便局から、自分
の給料だと偽って電報為替で家に送り、西銀座でトランクを買った。大橋の姉の家で小松はまだ寝て
おり、西谷は芳寿荘1階の部屋を32000円で北馬場住宅公社で借り、夕方、タクシーで小松を芳
寿荘に運んで1泊した。さらに西谷と大橋は、小松を連れて熱海に出かけ、この時の車中で残りの8
15000円を奪った。6月29日は熱海に宿泊、6月30日15時に東京に戻っていた。西谷は小
松に青酸カリ入りの寿司を食わせて殺害、この時、大橋は西谷を止めずに見ていたという。西谷は芳
寿荘にそのまま宿泊した。西谷は7月2日に杉並区神戸町の貸家を契約し、死体は芳寿荘に放置、大
橋と大阪、別府、京都、名古屋と見物して、7月16日に東京へ戻り、7月17日にトランクに死体
を入れ、ベビー箪笥や冷蔵庫もダミーで揃えて杉並の新居へ運ばせたのだった。
 と「事件史探求」にはあるが、当時の新聞では一行は熱海に行っており、小松本人は「小田原駅で
買って貰った寿司に当たった」といい、旅館に上るとき顔色が悪かったとの証言がある。翌日アパー
トに戻ってきた時には歩行は困難で2人に抱えられていたそうだが、このアパートは北品川6丁目3
51番地の芳寿荘だ。当時の西谷の住所は中野区江古田町4丁目1747番地で、名前も幾太郎。大
川の方は北品川2丁目131番地富川きくい方となっている。

 さて指名手配されたことを知った西谷と大川は東京から逃走。秋葉原を起点にして大阪、九州、広
島、岡山から山陰方面、近畿方面を経て北陸へ。北陸から東北を経て8月末に再び大阪に戻り落ち着
いた。この逃走の1ヵ月半、寝泊りは全て列車内であった。逃走も北海道を除きほぼ全国に亘った。
そのため、奪った80万円は全て運賃で使い果たし、持っていてたカメラを出雲の商人に売りつけて
現金にしていた。この出雲の商人の届け出で出雲署が大阪府警に連絡。10月2日西谷と大橋に似た
2人が大阪市北区小松原町のスタンド「酔月」に出入りしていると通報があり、13時大橋が曽根崎
署に連行され、17時に自供、10月3日0時に西谷は北区高垣町の新梅田旅館で逮捕された。逃走
から77日目だった。2人は熱海、小田原、新潟、関西、鹿児島、広島と逃げ歩き、8月に大阪に着
いた時には1万円しか残っていなかった。大橋は川口洋子の名前で、酔月の女中として働いていた。
 何か唐突な殺人事件で、初めからバレバレの犯行は一体なんなんだろう。殺人は衝動的で行き当た
りばったりだし、切羽詰まった上での行動でもない。逃走は無計画、破滅的だが心中するでもなく、
恋の逃避行とも思えない。お互い只なんとなくやっちゃった?
 同32年6月18日東京地裁は西谷に死刑、大川に懲役15年をいい渡した。同34年9月18日
東京高裁は控訴を棄却。2人の刑は確定した。大川は満期でも昭和59年には出獄しており、生きて
いれば70歳を超えている。


■ソニー歴史資料館(見学要予約)

 北品川6丁目6番39号にある。
ソニーは戦後間もない昭和21年5月資本金19万円、従業員数
約20名の小さな会社東京通信工業株式会社(東通工)としてスタートした。創業者の井深大は、会
社設立の目的を「技術者がその技能を最大限に発揮することのできる〝自由闊達にして愉快なる理想
工場〟を建設し、技術を通じて日本の文化に貢献すること」と、記している。そして「人のやらない
ことをやる」というチャレンジ精神の下、数々の日本初、世界初の商品を打ちだしてきた。ソニーと
改称したのは昭和33年のことだ。SONYとは、音を意味する英語の「Sonic」、ラテン語の
「Son(us)」と、男子の子供の英語の「坊や」を意味する「Soony」から名付けられた。
 ソニー歴史資料館は、ソニーがこれまで世に送りだしてきた代表的な商品と、様々な資料を中心に
展示している。それらの展示を通して、ソニーのモノづくりの精神を感じとってくれれば幸いに存じ
るとのこと。
 完全予約制で、アポ無しで行っても門前払いされる。電話は、03‐5448‐4455。FAX
は、03‐5448‐2560。自由見学で、説明員の案内は無い。入場は無料。普通に見学して約
1時間くらいかかる。
 

ところてん
心太
 「ところてん」は天草(テングサ=紅藻類テングサ科の総称)をメインに、イギス、オゴノリ、エ
ゴノリなどの海藻を煮出し、煮汁を濾過して抽出した寒天質を冷やして凝固させたもので、「寒天」
はその「ところてん」を凍らせて寒天(さむぞら)に曝し乾燥させたものだ。江戸時代の初期に京都
伏見の「美濃屋」という旅館の主人が、島津藩主に出した「ところてん」の残りを寒い戸外に出して
おいたところ、自然に凍って偶然にできた。フリーズドライのインスタント食品の走りだ。寒天と命
名したのは、黄檗宗と隠元豆を持ってきた隠元禅師。寒天は今でも工場生産はできず、手作りで作ら
れる。長野県の茅野市が主な産地で、天屋衆(てんやしゅう)と呼ばれる専門の職人が12月から2
月までの厳冬期にトコロテンを戸外に並べて凍結乾燥させて作る。10日間、夜間の凍結と日中の乾
燥を繰り返すのだが、雨や雪にあたらないように全く気が抜けない作業のようだ。
 さて「ところてん」は、おそらく奈良時代には食べられていたろうと想像され、煮出すと汁が煮凝
(にこご)るところから、凝る藻葉 → 「凝海藻(こるもは)」と呼んだ。それがいつの頃からか「心
太(こころこぶ → こころぶと)」に変わり、やがて「こころた → こころてい → こころてん →
ところてん」に転訛したという。「こころ」は「凝り凝り」が「ここり → こころ」に転じたものだ。
また「凝る凝る天草」が「心天草」となり、「天」の字が草書では似る「太」の字と読み誤られて「心
太」を「ところてん」と読むようになったという説もある。江戸では、食事的に捕らえて二杯酢醤油
に辛子を混ぜ込んでで食べるのが普通だが、関西では菓子の一種と理解していて黒蜜味が常識だ。関
西からきた人は東京の甘味処に入って「ところてん」を注文し酢辛い味に飛び上がることになる。
 
 



【小山】(こやま)1~7丁目                     昭和40年9月1日
 小山村(おやまむら)。明治22年平塚村大字小山、大正15年平塚町大字小山。昭和7年荏原
区小山。同16年小山3~8丁目となり一部を荏原3~5・7丁目に譲る。同40年新住居表示に
より8丁目を旗の台6丁目に譲り、1丁目に西大崎3丁目の一部を、4丁目に小山3丁目の一部を
あわせた町域を現行の「小山」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『品川区史』『品川の歴史』など。

 小山の由来
 正確なことは判っていない。①小山八幡神社の建つ品川区で一番高い小丘から起こったのではな
いかという説と、②金沢市の尾山のように舌状台地の先端部からきたという説とがある。小山の地
形は悪水堀(立会川)を挟んで両岸が2、30メートル高く、南北に細長い町だ。とくに南岸は大
正時代までは放任地で一面草原と雑木林、幕末まで小山6、7丁目は幕府の御用林「小山御林」だっ
た。読みは「おやま」が正しいが、明治11年「郡区町村編制令」により荏原郡に復した時、世田
谷にも小山村があって紛らわしいので「こやま」と改め、世田谷の小山は「尾山」と字を変えた。
だから小山は、今は荏原7丁目になってしまった小山八幡神社だ! 
 町域に目蒲線の「武蔵小山駅」と「西小山駅」がある。
 


■「四季譜」
 小山1丁目3番7号パレソレイユ目黒不動前の前にある竹田光幸の手と鳥と花の作品。


■中原公園
 小山1丁目4番4号にある区立公園。


門良山桐ヶ谷寺
 小山1丁目4番8号にある曹洞宗の寺。ビルディング寺院。大田原光真寺三十六世が建立。当地は
高輪泉岳寺塔頭の門良院跡地だ。
 


芳荷山長応寺
 小山1丁目4番15号にある法華宗陣門流の寺。文明十一年(1479)三河国(愛知県)に建て
られた歴史のある寺で、その後各地を移転し、明治39年芝伊皿子から移転してきた。山門は昭和1
2年に建てられたもので、区内屈指の大きさと優美さを誇っている。墓地には大名家の墓所が多い。

 西郡の局の墓
 徳川家康の側室。宝塔型で慶長十一年の銘があり、区内で最古の墓標だという。その隣は局の実家
鵜殿家歴代の墓所だ。

 
鵜殿士寧の墓
 
士寧は旗本の家に生まれた儒者で、名を孟一といい、号は桃花園とも本荘ともいった。はじめ京都
に出て朱子学の石川正恒に学び、その後江戸に戻り、詩文を高野蘭亭に学んだ。多くの詩文をつくり、
その著作に『桃花園遺稿』などがある。

 
金子禁漁の墓
 誰だ?
 


■目黒の筍・たけのこの碑

 小山1丁目5番14号にある孟宗筍栽培記念碑。長応寺の裏手にあるが、人家に挟まれてるから見
落としちゃうなよ。目黒の筍は人口に膾炙して有名だったが、実は筍が最初に栽培されたのはこの町
なのだ。孟宗竹は清国→琉球→九州と伝播し、江戸に持ち込んだのは寛永元年(1624)のこと、
幕府回漕御用を務めていた廻船問屋山路治郎兵衛勝孝がもたらした。味の淡白さが江戸の人々に喜ば
れ、近くの目黒不動前の料亭で喧伝したため、何時しか「目黒の筍」と呼ばれるようになり、山路は
それがよっぽど悔しかったのか、文化2年(1805)その記念碑である辞世の句碑を最初の栽培地
に立てるように遺言して死んだ。その碑は一年後子息によって遺言通りに歯骨を埋めた上に建てられ
た。

   
櫓も楫(かじ)も弥陀に任せて雪見かな 釈筍翁

 「目黒が騒いでるがその発祥はここなんだよ」の意。弥陀は目黒三田の隠し言葉だ。
 


■後地小学校
(うしろじしょうがっこう)
 小山2丁目4番6号にある区立校。沿革は未公表。

 校歌
「光があつまる」 作詞・勝承夫  作曲・平井康三郎
  1.光が集まる 光が溜まる
    この窓 この庭 子供の広場
    元氣な後地 伸び行く吾等は
    明日の日本の明るい力

  2.希望が弾むよ 希望が燃える
    藤咲く花蔭 夢見る世界
    みんなで考え やりぬく吾等は
    いつも仲良し 弛まず進む
  3.清水が湧き立つ 清水が歌う
    心の泉は何時でも清い
    平和な後地 楽しい吾等は
    明日の平和を受け継ぐ力
 


■後地クマさん広場

 小山2丁目4番15号にある区立公園。平成22年5月30日開園。後地はこの辺りの地名。クマ
さんは、後地小学校の生徒たちが命名した。

 
クマさん像
 園内にあるシンボル。クマの消防士が消火活動をしている銅像。


■地蔵の辻・朝日地蔵
 小山2丁目7番14号。スーパーマーケット「ライフ」武蔵小山の右脇、後地交差点のところに超
現代的なポリカーボネイトの屋根に覆われた朝日地蔵のお堂がある。ここは品川用水(暗渠)の分岐
路でもある。地蔵堂は罰当たりにもあちらこちらに移動させられた後の現在地で、その前は、少し東
の8番の品川用水沿いにあったという。祀られている石地蔵は、江戸時代初期の、寛文七年(166
7)戸越村の念仏講の人たち16人によって造立されたもの。安産・子育て・厄除けのご利益がある
とされている。
 朝日の名は、世田谷区奥沢の九品仏浄真寺の開山珂磧上人が仏道修行のため毎日浄真寺から芝の増
上寺に通う途中、この地蔵堂付近にさしかかると朝日が昇るので、いつしかそう呼ばれるようになっ
たという。

 
道標
 その前に立つ石造道標は、当時の流行仏を知る上で超貴重だ。オタクは一遍行って見てみい。正面
に「右不動尊 左仁王尊」と併記してその下に「道」、左側面に「寛政元己酉年」とあり、右面には
後から朗惺寺道と彫ってある。仁王尊は碑文谷円融寺のことで両寺の参詣が盛んだったことは黄表紙
本などにも書かれてるよ。この道標は元道路を挟んで反対側にあったが、道路の改修で現在地に移さ
れたため、右左を示す方向が逆になっている。もう一つ上部欠損のため年代不明となっている「まや
夫人尊道(ぶにんそんみち)」の道標がある。人名などから江戸後期のものと判るらしい。西小山駅
近くの摩耶寺を案内したものだ。

   品川区指定文化財
   
石造道標 
   当地蔵堂内には、2基の道標がある。右手の大きい方は、寛政元年(1789)目黒道と
   碑文谷仁王尊の参詣人のために造立されたもので、左側の小さなものは明治年間に摩耶寺
   への道しるべとして建てられたものである。
   前者は江戸市民が造立したものであってこれより江戸市民が当時の信仰を知ることができ
   る
   昭和38年7月10日                      品川区教育委員会


   品川区指定史跡
   
寛政元年銘石造道標          所在 品川区小山2丁目7番14号
                        指定 昭和61年3月14日(第23号)
   寛政元年(1789)目黒道と碑文谷道との交差点に建てられた高さ1mの道標で、江戸
   時代多数の参詣人を集めた目黒不動尊と、碑文谷仁王尊への行先を示したものである。造
   立者は江戸の商人や職人たちで、願主は即応である。
   昭和31年道路改修のためわずかながら移動され、左右方向が逆になった。
   なお堂内左奥にある小さな道標は、明治34年に建てられた摩耶寺への案内である。
   昭和62年3月31日                      品川区教育委員会

   品川区指定史跡
   
寛政元年銘石造道標          所在 小山2丁目7番14号
                        指定 昭和61年3月14日(第23号)
   寛政元年(1789)目黒道と碑文谷道との交差点に建てられた高さ約1mの道標で、江
   戸時代多数の参詣人を集めた目黒不動と、碑文谷仁王尊への行先を示したものである。造
   立者は江戸の商人や職人たちで、願主は即應である。昭和31年道路改修のため僅かなが
   ら移動され、左右方向が反対になった。なお堂内左奥にある小さな道標は、明治34年に
   建てられた摩耶寺への案内である。
   平成25年1月31日                      品川区教育委員会


 
(すす)団子 → 寿々団子
 朝日地蔵堂の前、小山2丁目6番13号の林家は、その昔「すず団子」という名の茶屋を営んでい
た。この茶屋は、目黒不動尊(瀧泉寺)と碑文谷仁王尊(円融寺)への追分「地蔵の辻」と呼ばれる
交差点近くにあったので多くの参詣客が立ち寄り賑わっていた。当時の茶屋の面影を残す資料として
林家に「すずだんご」と書かれた徳利と盃が伝わっており、店名の由来を伝える昔ばなしも残ってい
る。
 ある何処かの殿様が狩りに出た時のこと、お腹が空いてきたので、地蔵の辻にある茶屋に立ち寄り
店先の縁台で団子を食べることにした。この茶屋では、団子は串に刺さず、葛餅のように皿に盛って
いた。美味そうに団子を頬張った殿様、ふと見ると、団子に黒い「くもの巣」のようなすす(煤)が
ついているのに気がつきました。「こりゃなんじゃ?」。殿様の言葉を聞いて周りにいた家来たちは
真っ青に。「これはえらいことになったぞ」と困り果て、返事もできずにいたところ、殿様が気を利
かせてこういったわいな。「これは煤ではない。すず団子じゃ。これからは鈴団子(寿々団子)と命
名せよ」。昔は、火を焚くのに家の中で藁などを燃やしたので、天井に煤が沢山こびりついていたも
んさ。こうして「すず団子」は茶屋の名物となり、店の屋号になるほど評判を呼んだということだわ
さ。しかしこれはキャンペーンの作り話だろう。目黒の爺ヶ茶屋の話をヒントにしたものか? 爺ヶ
茶屋から直線距離で2Km半、なくもない話ではある。殿様は将軍家治だったりして・・・
 煤といえば、弓矢の弓は、天井で煤に燻された竹で作るのを最上級とする。弓師によると撓りの強
度が違うんだそうな。田舎も現代化が進んで、屋根を藁や茅で葺いた農家がなくなり、囲炉裏や竈も
なくなって、この燻竹が出てこなくなり、弓師が困ってるんだ。
 


■後地公園
 小山2丁目9番16号にある区立公園。


■京極稲荷社

 小山2丁目15番4号にある小社。荏原郡戸越村、現在の品川区小山2丁目14番から17番の地
には、かつて讃岐国 (香川県)丸亀藩主京極家の下屋敷があった。丸亀藩の所領は、51500石余
で、京極高和以降、明治維新まで京極家が治めていた。なお支藩の多度津藩10000石は、元禄七
年(1694)に丸亀藩2代目京極高豊の子高通に遺領を分けたことに始まる。さて京極家の江戸屋
敷だが、上屋敷は虎ノ門外(港区虎ノ門1丁目)に、中屋敷は芝新堀端(港区東麻布2丁目)に、下
屋敷は、「今里屋敷(白金屋敷)」(港区白金台4丁目)と戸越村の「戸越屋敷」の2ヵ所あった。
この「戸越屋敷」の広さは、8395坪で、寛文六年(1666)2代目藩主高豊の時に手に入れた
ものだ。この付近を地図で見ると敷地の形は三角形。屋敷内では、とれた野菜や薪を上屋敷に納めた
り、後には鉄炮場(射撃場)としても使われた。この屋敷の東には中原街道が南北に通り、江戸時代
では交通上、軍事上重要なところにあった屋敷といえる。現在京極家の「戸越屋敷」をうかがい知る
唯一のものが京極稲荷社だ。この稲荷は、屋敷の鬼門除け(守護神)として「戸越屋敷」内の北東部
にあったものといわれ、今は地域の人々によって守られている。

   京極稲荷神社 御由緒
   京極稲荷神社の草創は、約360年前の寛永十二年(1635)に始まります。四国の讃
   岐丸亀52000石の城主京極家は、上屋敷は虎ノ門、下屋敷は2ヶ所に所有し、白金三
   光町と当地にありました。当地の屋敷は、敷地面積4800坪に及ぶ広大なものでした。
   当稲荷神社のご神体は、豊受大神と申され、京都、伏見稲荷の分神とも伝えられています。
   京極家の守護神として、現在の小山2丁目16番地辺りの茶畑の一隅に十二坪の神殿を構
   えていました。明治4年の廃藩置県で藩地奉還の世となり、京極家は当神社の管理を地域
   住民に委ねて帰国しました。大正7年2月に地域の有志がこの境内地を譲り受け、神社を
   移して奉祀しました。以来、毎年2月の「二ノ午の日」には、在住各位の奉賛により、祭
   祀をたつことなく今日に至っております。境内には、地域の後地大神輿が、大正14年か
   ら大切に保管されております。昭和20年5月23日の大空襲で、この周辺は、後地交差
   点から星講堂の基礎が見える程に、悉く焦土と化しました。しかし、大神輿は、不思議に
   も焼失を免れ、往時の雄姿を今に残しています。この事は、当稲荷神社の紛れもない加護
   によるものと、語り継がれております。なお此のたびの再建にあたり、御影石の社号表、
   祠の土台等は、後地小学校旧正門の石柱を加工し、使用したものです。
   平成9年11月30日(遷座祭の日)                 世話人一同」

 仇討一件
 『新修丸亀市史』によると、江戸で丸亀藩に関わる事件が起きた。それは当時では珍しい、女性が
父の仇討ちを成し遂げた事件だった。京極家の弓組足軽だった尼崎幸右衛門は妻と2歳になる娘里也
(りや)と暮らしてた。ある夜、幸右衛門が帰宅すると、同僚の岩淵伝内が妻に言い寄ろうとしてい
た。怒った幸右衛門は、伝内に斬りかかったものの逆に斬り殺されてしまった。13歳の時、この話
を聞いた里也は、仇討を決意し18歳になるのを待ちかねて江戸に出た。当時剣客として知られた永
井家に奉公しながら剣術修行に励み、腕を上達させていった。そして江戸の武家屋敷を転々としなが
ら敵伝内を捜しだし、京極藩の下屋敷で親の仇討ちを立派に果たしたというものだ、宝永二年(17
05)3代目藩主高或 (たかもち)の時だった。仇討ちの行われた下屋敷の場所は、史料からは判明
しないが、当時女性の仇討ちは珍らしいことだったので、江戸市中はもとより全国に知れ渡ったと伝
えてられている。丸亀城内の丸亀市立資料館横には「烈女尼崎里也宅跡」の石柱が生家の丸亀市風袋
町より移設されて現存している。
 


■あさひ公園
 小山2丁目17番27号にある区立公園。

 
水車のモニュメント
 園内にある石造物。

   水車のモニュメントについて
   あさひ公園の前の道路には、かつて「品川用水」が流れていました。この用水は、玉川上
   水から分水して荏原付近の農業用水として利用されていました。その「品川用水」をイメ
   ージするものとして、この水車のモニュメントを作りました。
   水車に登るのは危険ですからやめましょう。         品川区土木部公園緑地課


■小山台高等学校

 小山3丁目3番32号にある都立校。大正11年4月東京府荏原郡平塚村小山に「東京府立第八中
学校」として開校。同18年都制施行により「東京都立第八中学校」と改称。同23年学制改革によ
り「東京都立第八新制高等学校」と改称。同25年「東京都立小山台高等学校」に改称して男女共学
校となる。同42年学校間学力平均化(事実は当時抜きん出て東大合格者の多かった日比谷高潰し)
のため学校群制度が導入され、小山台高校は田園調布高校と14群を構成した。同57年弊害多く学
校群制度を廃してグループ選抜制度に移行。同60周年記念式典。
 平成6年グループ選抜制度も弊害(公立校の偏差値低下)多く、グループ選抜制を廃止して単独選
抜制に戻した。地方から来た都職員は嫉妬するから困ったもんだ。同14年創立80周年。同16年
進学重点支援高指定。グランド改修。同20年全教室エアコン設置。同23年班室棟改修。

 校歌
「富士見晴かす窓晴れて」 作詞・栗原源七  作曲・平井康三郎
  1.富士見晴かす窓晴れて
    銀杏の緑 濃きところ
    語らい集う若人の
    心の琴に響きあり
    敬愛の花ここに咲く〝小山台〟
    おお此処ぞ平和の花園

  2.象る菊の香も清く

    純情燃ゆる青春の

    我等に自主の意気高く自由の翼 明日を待ち

    自由の翼 明日を待ち
    明るき誇り ここに満つ〝小山台〟
    おお此処ぞ 文化のみな
  3.朝雲流れ 中空に

    八角塔のそそり立つ

    揺がぬ力 礎に

    高き理想へ進む時

    希望の光 ここに射す〝小山台〟
    おお此処ぞ精神の府



■武蔵小山駅

 小山3丁目4番8号にある東急目蒲線の停車場。大正12年3月11日、目黒蒲田電鉄が目黒~丸
子(沼部駅)間を開業させた時にできた。平成18年7月2日に地下化した。目黒~武蔵小杉間で運
転されていた東急目黒線は、同20年3月に日吉駅まで延長された。
 ホームは島式2面4線構造で地下2階にある。
平成18年9月25日から急行運転を開始。この時
点では下りで終日、上りで朝夕ラッシュ時、それぞれの時間帯において当駅で緩急接続を実施してい
た。日中の上り列車については当駅での緩急接続はなく、目黒駅において急行の前を走る各駅停車目
黒行に急行が追い付く形で接続を取っていた。その後、同20年6月22日に目黒線が日吉まで延伸
された際、急行の増発とともに日中の目黒折り返し各駅停車の設定は消滅したため、上下線とも終日
緩急接続が実施されるようになった。
ホームと改札階を結ぶエレベーターは設置してある。改札口は
地下1階の1ヶ所のみで、出口も西口の1ヶ所のみ。この後仮駅舎の撤去と
駅前の再整備
が行われる予定。改札階と地上を結ぶエレベーターも設置済み。
 駅の南側から平塚橋へ伸びる武蔵小山商店街(パルム)は、かつて「東洋一のアーケード街」と謳
われた。駅地下化完了から長きに亘って駅前の再整備工事が行われていたが、平成21年5月にロー
タリーなどが完成して工事が終了した。
 地下化する前の旧線跡は、平成21年5月1日不動前~武蔵小山間が「品川区立不動前緑道公園」
武蔵小山~西小山間が「品川区立武蔵小山緑道公園」として開放されている。公園には、東急目黒線
(目蒲線)の歴史などを紹介する看板などもある
 


■武蔵小山児童遊園
 小山3丁目12番6号にある区立公園。


興栄山朗惺寺
 小山3丁目21番6号にある日蓮宗の寺。池上本門寺末。江戸時代に入る少し前の文禄二年(15
93)当時の本門寺住職日惺上人によって現在の丸の内に建立された。日惺は江戸に入って間もない
徳川家康の信任が厚く、家康から江戸市内に五箇所の土地を下付けされて朗惺寺などの五つの寺を建
てた。朗惺寺はその後御徒町(台東区)、芝二本榎(港区)と移転、明治42、3年頃現在地に移っ
てきた。本尊の木造日蓮坐像は彩色されており、胎内から発見された木札の墨書銘によって、文禄二
年に開眼したことが判る。本門寺系日蓮宗の江戸府内進出を知る上で貴重な仏教史的史料だあな。本
堂右前に貞享元年(1684)在銘の梵鐘がある。区内でも少ない江戸時代鋳造の一つなのだ。墓地
の入口や本堂横の池辺にある庚申塔4基と燈籠1基は、元々は小山村のあちこちに安置されたのを、
信仰心もなくなったことから、道路整理などで邪魔にされ持ち込まれたものだ。罰当たりめ!
 庚申塔には、それぞれ宝永元年(1704)・享保四年(1789)・安永元年(1779)・文
化十一年(1817)の紀年銘がある。今の同寺の本堂は戦災復興したものだが、本堂右の梵鐘は貞
享二年(1685)に鋳造されたものである。墓地に俳人旬樹庵五陵、東八拳の東川舎旭齋の墓があ
るが、しかしそれよりもなお本堂前で眼を引くのは、左手に建っている「第十三次満洲興安東京荏原
郷開拓團殉難者慰霊碑」と刻まれた石碑だ。武蔵小山商店街には悲しい悲しい物語があるのだ。

 
荏原郡満州開拓団殉難者慰霊碑
 昭和19年にに、武蔵小山商店街商業組合有志による満蒙開拓団が結成され、1039人が満州に
入った。併し翌年8月戦況の悪化によって開拓団の人々は南へ逃れ、その途中、匪賊の襲撃を受けて
800名余りが死亡。生き残って帰国した僅かの人々が、昭和32年の13回忌に建立した。

 
日蓮聖人坐像
 これはもうないのかもしれない。

   品川区認定文化財
   
木造日蓮聖人坐像  (美一)
   当寺は、徳川家康の寄進を受けて文禄二年(1593)に池上本門寺十二世日惺によって
   創建された日惺五箇寺の一である。木像は彩色された小像であるが、胎裏に武州江戸興栄
   山朗惺寺・・・両山十一代日惺上人御閑■也。文禄二年癸巳十月十三日の墨書銘があり、
   又像内木札に、奉閑■・・・朗惺寺■尊、日惺の花押もある。文禄二年(1593)製作
   の確証をもち、本門寺系日蓮宗の江戸市内進出の年代を知り得る文化史的史料である。
   昭和38年3月1日認定                  東京都品川区教育委員会


 
庚申塔
 ①.駒型。日月・青面金剛像・邪鬼・三猿・二鶏。
「文化十四丁丑九月吉日」
 ➁.本堂の左側にある板状駒型。日月・青面金剛像・三猿。
「宝永元甲申天」「十一月廾四日」
 ➂.➁の隣にある板状駒型。日月・青面金剛像・邪鬼・三猿・二鶏。「奉供養庚申講中八人敬白」
   「享保四己亥年十一月十六日」
 ④.駒型。日月・青面金剛像(ショケラ)・邪鬼・三猿・二鶏。「安永八己亥十月吉日」
 ⑤.燈籠竿石。
中央 「奉納」 「庚申講中」 右 「天明八戌年」(1788) 左 「十一月
   日」 


■武蔵小山商店街(パルム=友だち武蔵小山

 現在は「パルム」といい、小山3丁目から荏原3丁目の平塚橋までの700mを1から4のブロッ
クに分けた本通りと、線路に並行するGとがある。
 門前町でも宿場町でもないこの町に商店街が出来たのは、昭和12年、その後戦争で駅前一帯が強
制疎開の憂き目にあい、同18年第13次満蒙開拓団を編成して、ソ満国境の辺地興安に渡ったもの
の、同20年のソ連参戦を見越した関東軍の敵前逃亡ためソ連軍に蹂躙され、戦死・自決で多数が死
に、生きて帰って来れたのは800名中たったの13名だった。一方帰国して見た武蔵小山駅前はな
らず者国家アメリカの非人道的無差別空爆で灰燼に帰し、何もなくなっていた。
 同21年から復興が始まり、第一次アーケード委員会が発足、組合員に「日掛け」を呼びかけたの
が宝石店の大久保理事長で、同31年に大アーケードを完成させた。おいらも昭和40年代に何度か
行ったことがあるが、当時の東京では何か特別キラキラ輝いていた。フランス座の所為じゃないぞ。
その頃の銀座・新宿・池袋といったらアンタ・・・42系統全部の都電も、3系統のトロリーバスも
走ってて、東京全体がくすんで、汚かったよぉー!
 因みに「パルム」は「パル・ムサシコヤマ」の略、「パル」は「友だち、仲間」。
 武蔵小山商店街振興組合は小山3丁目23番5号 電話03‐3786‐1001

 
モニュメント
 商店街入口の時計のモニュメントは、待ち合わせ場所としても人気がある。現代的なデザインの巨
大なもので、6~7mはあろうか!


■火防稲荷大明神 ◇

 小山4丁目4番15号にあるとメールがありました。路地の中にある小社。鳥居も社も社の建物も
常夜電灯の柱も真赤っか。
 


■小山四丁目児童遊園
 小山4丁目6番2号にある区立公園。


■唯称寺
 小山4丁目9番15号にある浄土真宗本願寺派の寺。堂宇はビルディング。 


■矢の川弁財天

 小山4丁目11番9号にある中社。社も境内も歴史を感じさせ、たたずまいも美しい。その昔、こ
の辺り(現在の東急目黒線)には、矢の川という川が流れていた。その川の畔にあった弁財天だ。矢
の川の川沿いは「東天地」と呼ばれ、歓楽街として大いに賑わった。
 


■不動前緑道公園

 小山4丁目10番・12番、同5丁目4番・3番に亘る旧東急目黒線の線路敷300mが、同線の
地下化により空地となったため、平成21年5月から区立公園として解放された。線路敷のため只管
細長い緑道(遊歩道)公園となっている。当然自転車の乗り入れは禁止されてるよ。
 


■三谷八幡神社

 小山5丁目8番7号にある大社。境内に稲荷大明神がある。隣接の小山八幡と深く係わっているよ
うだ。長元三年(1030)源信公霊威を感得したものが、西小山の高地に誉田別命(応神天皇)を
祀り、小山村字本村の氏神として崇敬したのがはじまり。文明年間には、太田道潅が江戸城を築いた
頃、小山村一帯を鷹匠地と定め、八幡宮を尊崇し、「妙見八幡」とも、「池の谷八幡」とも称して、
八幡神像ならびに妙見菩薩像を祀った。この頃は摩耶寺が別当となっていたが、延宝のはじめ、この
地で起った宗教上の争いから字滝原(三谷の地)の名主石井助太夫が、八幡神像を自宅屋敷内に遷祀
し、その後、滝原の山林に祀ってあった出世稲荷の宮地に八幡神像を遷座鎮祭し、三谷八幡と称し、
三谷地区(現武蔵小山一帯)の氏神として栄えた。明治18年無格社、昭和7年村社に昇格。旧社殿
太平洋戦争の戦禍で焼失。現在の社殿は昭和32年に再建した。
 宝物は天明5年紀他の古文書5遍、刀剣は則光銘の小太刀1口、忠孝の文字板額1面(天保年紀当
所覚助十三歳書)、江戸時代錑(もじり)1、天保頃の鋳物師粉川市正作で玉川囃子連中の銘入り江
戸時代鉦1銘他となっている。

 
両社祭

 小山八幡神社との例大祭で、両社祭と呼ばれている。祭のクライマックスは、小山神輿連合会の夜
間連合渡御。日曜日に7町会の7基の神輿が隊列を組んで武蔵小山商店街パルム広場を出発し、町内
を練り歩き、西小山桜並木通りまで連合渡御をする。毎年大勢の観衆の熱気で沸き返る名物行事だ。
知らなかった?


 
出世稲荷
 境内にある稲荷大明神。文明年間(1469~87)に伏見稲荷を勧請して創祀されたもので、出
世稲荷の宮地に三谷八幡が遷座したのだ。


■金山地蔵尊

 小山5丁目8番7号、三谷八幡神社入口に向かって左端にある。元来地蔵尊は、火を司り、鍛冶を
司るところに祭られてきたという。森鴎外の作品に「安寿と厨子王」という物語があるが、古い浄瑠
璃では、この話は「金山神社縁起」として語られてきた。明治初期の廃仏毀釈で、地蔵は神社に、愛
宕さまとして吸収された。まさに今見ている情景が地蔵尊と神社のある形なのだ。
 お堂の手前左側に4基の石塔がある。奥から庚申塔・庚申塔・馬頭観音・庚申塔で、一番手前のが
妙に新しいのは、再建されたものだからだ。本来は江戸時代のものらしい。
 ①.舟形光背型。青面金剛像・邪鬼・三猿。
「享保四乙亥天」「十月吉日」
 ➁.舟形光背型。青面金剛像・三猿。「□供養庚申塔」「正徳二壬辰天八月九日」
 ➂.駒型。青面金剛像・邪鬼・三猿。
「元禄年間建立」「再建昭和三十二年七月二十四日」


   舌代
   一、御本尊地蔵尊菩薩は、所願円満悉皆成就の御徳高く往昔にり諸人の信仰篤く御発祥の
     年月日は不詳なれど約五百年前には既に稲荷社と共にこの地に祭られしと言ふ。一口
     に金山地蔵尊と称え奉る。
     当時台石に金山の二字刻とありしに依る又同じく台座は蓮華台の代わりに波頭を表し
     ありし由にて海中より出現と給える御佛なりとも伝へうる故に、現尊像にも波頭の上
     には蓮華台を現し奉る、
     昭和29年8月27日目黒不動尊泰叡山龍泉寺大僧正青木道晃師導師の下に次の3基
     と共に堂宇新築御再建開眼供養を執行す。
   一、馬頭観世音菩薩は往昔より地蔵尊と共に鎮り給ひ諸人の篤き信仰を受く佛徳円満広く
     恩澤を垂れ給ふ昭和29年8月27日地蔵尊菩薩と共に御再建開眼供養を執行す。
   一、庚申尊は道祖神とも称し奉り方位の兇災を攘ひ護身菩薩は守護神にして凡て元禄年間
     より小山村の各所に祀られ御尊像を數多くありしが、この度現在の2基を残し、他の
     御霊を新に合祭し奉れり。昭和36年7月24日目黒安養院浦田師導師の下に開眼供
     養を執行す。
   一、右御三尊5基は当地耕地整理に依り鎮守八幡神社境内に合祭鎮めまつる佛恩塢大佛前
     亦大に賑はふ。不幸大東亜戰爭の戰災を蒙りしが、今般篤信の士熟議協力の結果前記
     の如く御再建す。依って一文を草して右事歴を誌す。
     昭和32年7月24日

   
金山地蔵尊の由緒                  (所在 小山5‐8‐7)
   この堂に安置されている金山地蔵尊は、造立年代は不詳ですが、江戸時代初期には、すで
   に小山村に建っていたと伝えられています。長い間、村内の主要道であった現在の八幡通
   りと碑文谷道が交差する四辻(現在の小山5‐15‐8)に祀られていましたが、大正末
   期に実施された三谷耕地整理事業に伴い、三谷八幡神社境内に移設されました。
   口伝によると、小山村の旧家である石井、伊藤両家の当主が、ある日、奥沢の浄真寺(九
   品仏)に参拝し願いを掛けたところ、その願いが叶ったので、この不思議な力を称え敬い
   この地に地蔵菩薩を祀ったのが始まりといわれます。
   地蔵尊は造立以来、長年風雨にさらされて摩耗が激しい上に、戦災による損傷を受けてい
   たため、昭和29年8月27日、当所にお堂と石像を再建し、開眼供養が営まれました。
   ところで、「金山」の名称の由来について詳細は不明ですが、造立当初から台石には「金
   山」の二文字が刻まれていたといわれます。したがって再建にあたっても、そのまま踏襲
   し「金山地蔵尊」として今日に至っております。
   また、台座に注目してみると、蓮華座の下に、さらに、波頭をあしらった台座がしつらえ
   られています。これも造立時の意匠をそのまま受け継いでいるのですが、この波頭がいっ
   たい何を意味しているのか、は謎です。一説によれば、海あるいは海辺にまつわる大願が
   成就したことに因んだものではないか、と推察されています。
   金山地蔵尊は現在もなお、町内をはじめ近隣の住民から(わが町のお地蔵さん)として親
   しまれ崇敬されています。毎月24日が縁日ですが、とくに7月には金山地蔵尊奉賛会の
   皆さんが中心になって祭礼が執り行われます。この日、普段からのの願い事である商売繁
   昌、子育て安泰、家内安全、病気平癒などの成就に感謝の念をこめ、あるいは、将来に望
   みを託す善男善女で大いに賑わいます。
   平成23年7月吉日                       小山五丁目 町会
                                   金山地蔵尊奉賛会

   石造物群の略歴
   お堂に向か左側には4基の石仏群が建ち並んでいます。これらも、かっては小山村のあち
   こちの道端に安置されていたものですが、金山地蔵と同様、大正末期の耕地整理事業の際
   に当所に合わせ祀られたものです。
   庚申供養塔
   右寄り2基は、それぞれ正徳二年(1712)造立と享保四年(1719)造立の庚申供
   養塔と呼ばれる石塔です。左端の1基は元禄年間(1688~1703)に造立されたも
   のですが、昭和32年7月24日に再建されました。庚申供養塔は、悪霊を追い払うと伝
   えられ、村の入口などの要所に祀られていました。
   造立年代が示しているように、この時代は多くの村々で、「庚申待」と呼ばれる習俗が盛
   んに行われていました。60日に1回廻って来る庚申の夜、交代で決められた宿に庚申講
   の講員たちが集まってきます。一同は部屋に用意された掛軸に描かれた帝釈天や青面金剛
   を拝み、その後、夜を徹して飲食を共にしながら世間話に興じます。村に伝わる民間信仰
   の1つですが、この夜は情報交換の場になったり、農作業の合間のリクレーション的な役
   割も兼ねていました。
   講員たちは、節目の年など何かの折に触れて庚申供養塔を新造して気持ちを改め、信仰の
   証にしていたのではないでしょうか。
   馬頭観世音菩薩供養塔
   庚申供養塔に挟まれて建つ石碑は馬頭観世音菩薩供養塔と呼ばれます。小山村では、昔か
   ら農耕や運搬の手段として馬は欠かせないかちくであり、村人たちにとって家族と同じよ
   うに大事に扱われてきました。このため、時代を越えて、いつも金山地蔵尊の傍らに寄り
   添うようにして祀られ、馬の守護神として信仰されてきたのです。
   その後、近年に至っては庶民の一般的な願い事にまで霊験が及ぶものと信じられ、最近で
   は競馬愛好家にも崇敬されているそうです。
   この供養塔は、やはり損傷が激しだったので、金山地蔵尊と同じ昭和29年8月27日に
   再建され、開眼供養が営まれました。
   平成23年7月吉日                       小山五丁目 町会
                                   金山地蔵尊奉賛会


■小山小学校

 小山5丁目10番6号にある区立校。大正15年「東京府荏原郡小山尋常小学校」として開校。昭
和7年東京市編入により「東京府東京市小山尋常小学校」と改称。同16年勅令148号国民学校令
公布により「東京府東京市小山国民学校」と改称。12月日米開戦。同18年都制施行により「東京
都小山国民学校」と改称。同19年静岡県伊東町へ学童集団疎開。同20年愚かなアメリカ軍の無差
別空爆により校舎全焼。

 旧校歌「朝風清らに」 作詞・作曲不詳
  1.朝風清らに夕風澄める
    八幡宮に誓ひては
    行く手照らさむ 輝きを
    とはに増さむとひたすらに
    心の鏡をみがかむ我等
  2.
朝日は照りはえ夕日に笑みて
    聳ゆる富士はとこしへに
    我が師 我が友 我が誇り
    日毎仰ぎていそしむや
    望みも気高く 楽しき母校


 同22年戦勝国アメリカの強制による学校教育法の施行により「東京都品川区立小山小学校」と改
称。同26年創立25周年記念式典・校舎落成式。同31年創立30周年記念式典。新校歌制定。

 新校歌「輝く青空」 作詞・大木惇夫  作曲・乗松明広
  1.輝く青空 小山に仰ぐ
    我が学び舎の愉しさよ
    春の日高き望みあり
    勉めて励み勤しみて
    明るく直く健やかに
    若竹の如 伸びんかな
  2.柏の緑に 桜の花に
    立ち寄り睦むやすけさよ
    秋の日 聖き実りあり
    自ら進み貫きて
    正しく強く爽やかに
    若鮎の如 跳ねんかな
  3.優しき夕星 心に映す
    我が友どちの床しさよ
    桂に幸の徴(
しるし)あり
    力を協せ 愛しみ
    清
(すが)しく清く和やかに
    栄えある虹を懸けんかな


 同32年プール完成。同51年創立50周年記念式典。平成8年創立70周年記念式典。同18年
校舎改築工事。
 


■小山五丁目児童遊園
 小山5丁目13番4号にある区立公園。


■荏原第六中学校

 小山5丁目20番19号にある区立校。昭和29年品川区立荏原第六中学校開校。品川区立中延小
学校を仮校舎として始業式を行う。12月小山5丁目88番地の新校舎へ移転。同40~41年鉄筋
校舎完成。同41年完全給食開始。校舎改築落成式。同49年鉄筋校舎第3期工事完成。開校20周
年。同59年校舎アルミサッシ化工事完成。
 平成16年創立50周年。

 校歌
「新しい光」 荏原第六中学校・詞制定  佐藤源承・作曲
  1.新しい光 漲る
    この丘よ 荏原六中
    美しい心にえがく
    生活の未来をかたり
    共々に励まし合って
    ひたすらに学んで行こう
    ああ吾等 吾等の六中
  2.緑葉の柏輝く
    この土よ 荏原六中
    逞しい体に籠る
    団結の力も
    共々手を取り合って
    健やかに育って行こう
    ああ吾等 吾等の六中
  3.高らかに歌声響く
    この空よ 荏原六中
    喜びを働くことに
    共々に呼びかけ合って

    明け行く明日を担おう
    ああ吾等 吾等の六中
 


■動物のオブジェ

 小山5丁目23番9号野本歯科医院の正面庇の上に3体の擬人化した動物とフクロウのオブジェが
ある。


■西小山桜並木通り

 小山5、6丁目の間の立会道路(旧立会川)に桜の木が100本植えられている。さくら祭りも開
かれてるよ
 


■西小山駅
(平成21年完成)
 小山6丁目3番10号にある東急目黒線の停車場。昭和3年8月1日に追加開業した。この区間の
開業から5年後のことだった。平成18年7月2日ホームが地下に切り替わった。
 ホームは地下2階にあり、島式1面2線構造。ホームと改札階を結ぶエレベーターは設置済み。駅
の洗足寄りはかなり急な上り勾配になっている関係で、ホームにも緩やかな勾配がついている。ほん
の僅かなので普通は気付かないが、ホーム壁面のパネルに段差がついていることで分かるんだよ。

 改札口・出口は1ヶ所のみで1階にある。

 工事中当時の書き込み
 平成18年7月現在では仮駅の改札口・駅舎をそのまま使用している。ホームの地下化は完了し
たが仮駅の撤去や駅前の再整備はこれから。今の駅前にはクルマも入れないほどの細い道しかない
が、完成後はロータリーも設けられるとか。現在は駅が大規模な改修工事中で少々不便かもしれな
いが、しばらくご辛抱を。駅を降り、どこの出口から出ても、商店街天国。東京にもこんなところ
があったのかと懐かしさを感じるほど、昔ながらの商店街が今も活気に満ちているのだ。駅周辺に
商店街が集中しており、商店街から少し離れると並木道や閑静な住宅街がある。かつて西小山駅の
下を流れていた立会川は現在埋め立てられており、立会川緑道として親しまれている。春には桜並
木が大変美しく、道行く人の心を和ませてくれる優しい街なのだ。
 

 平成20年4月10日に「西小山駅ビル」がオープンした。3階建ての建物で、東急ストアフード
ステーションを中核にサイゼリアやローソン、美容室、女性専用フィットネスなどが入居しており、
ローソンは改札内にある。駅前広場およびロータリーは、平成21年5月に完成した。
 平成18年4月28日にテレビ朝日で放送された「タモリ倶楽部」では、地下化開業直前の当駅が
紹介された。この際、ホームにある待合室の駅名表記シールの一部を、タモリが自ら貼った。
 武蔵小山までの旧線跡の大部分は、「品川区立武蔵小山緑道公園」として開放されている。平成2
1年4月完成。

 


■江戸見坂
 小山6丁目18番と19番の間を南に上がって行く坂道。坂上を八幡坂と共有する。

   江戸見坂
   大正はじめ頃には、まだこのあたりは一面の耕地であったが、この坂から東京市中がよく
   見え、東南方には大井・大森の海まで見わたせた。
 


■伏見稲荷大明神 ✔

 小山6丁目19番14号にある?


■江戸見坂公園
 小山6丁目23番8号にある区立公園。


■八幡坂
 小山6丁目22番と7丁目5番の間を西に上がって行く坂道。標識はない。南方近くに小山八幡神
社がある。坂上を江戸見坂と共有している。


■小山厳島神社
 小山7丁目5番13号にある小社。
 



【小山台】(こやまだい)1~2丁目                 昭和40年9月1日
 戸越村。昭和16年戸越村字槍ケ崎と道栄窪の一部で起立。同40年に西大崎4丁目のごく一部
をあわせて現行の「小山台」とし新住居表示を完了した。2丁目の過半は「林試の森公園」で目黒
区との共有。林試は農水省林業試験場の略。1丁目に小山台小学校がある。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『品川区史』『品川の歴史』など。

 小山台の由来
 小山村の北にある台地の意。昔は鬱蒼たる森林の中。武蔵小山駅周辺が繁栄しているので肖った
のだろう。荏原郡に小山村(おやまむら)が2つあり、世田谷区の小山村は「尾山」と字を替え、
品川区は「こやま」と読みを替えた。
 


■小山台小学校

 小山台1丁目18番24号にある区立校。昭和29年「東京都品川区立小山台小学校」として開校。
6教室増築、校舎落成。校章制定。
同30年給食室一部改造、A型給食とした。6教室増築、二部授
業解消。同31年4教室増築完成。同32年校地拡張。同昭和34年校歌制定。
 同36年校地買収拡張。プール完成。同38年ニューヨーク市第112中学校との姉妹校締結。体
育館完成。開校10周年記念式典。同44年創立15周年記念式典。校庭舗装。同47年第1期鉄筋
コンクリート造り校舎落成。同48年第2期鉄筋コンクリート造り校舎落成。同49創立20周年記
念式典。同50年第3期屋上プール付き鉄筋コンクリート造り校舎落成。校庭アスファルト舗装。同
54年創立25周年記念式典。同57年校庭ダスト舗装。同59年創立30周年記念式典。同60年
体育館電動舞台設置。同61年11月運動場表層改修。同62年フェンス及び緑化。
 平成元年創立35周年記念式典。同2年音楽室エアコン設置。同5年~7年東京都ボランティア事
業普及推進協力校。同6年創立40周年記念式典。同8避難道路拡張に伴う校門等の整備。同11年
児童用パソコン20台設置。同13年品川区プラン21国際理解教育推進校指定。同15年全教室エ
アコン設置。同16年すまいるスクール小山台開設。創立50周年記念式典。


■小山台一丁目石造庚申供養塔 ◇

 小山台1丁目21番17号にある。延宝二年(1674)に旧戸越村槍ヶ先(戸越1丁目)の集落
の人々が、品川用水に沿ったお猿橋付近に建てたもの。戦後東側の現在地に移され、木造の小さな祠
の中に祀られている。町会が管理している。「
如等所行是菩薩道漸々修学子孫悉當成仏」「施主等敬
白」「延寳弐年甲寅二月吉日」。下部に三猿。

   品川区指定有形民俗文化財
   小山台一丁目
   
石造庚申供養塔             所在 品川区小山台1丁目21番17号
                         指定 平成元年3月14日(第22号)
   この庚申塔は延宝二年(1674)、旧戸越村槍ヶ先の集落の人々によって建てられたも
   ので、旧村民十数戸により結成されていた庚申講らよって維持されていた。戦後庚申講は
   廃絶し、現在は町内の有志によって維持されている。
   もとは品川用水に沿って北上する碑文谷道りほとり、お猿橋付近に建てられていたもので
   あるが、戦後旧位置の東側、目黒方面に通じる道に移され、現在に至っている。
   塔の中央に。
如等所行是菩薩道漸々修学子孫悉當成仏」とあるが、法華経薬草喩品の一節
   で、冒頭の「如等」は「汝等」の誤記と思われる。
   平成25年1月31日                      品川区教育委員会
 


■小山台東公園
 小山台1丁目26番12号にある区立公園。


■小山台公園
 小山台2丁目2番1号にある区立公園。

 
「風の塔」
 須藤博志の石の抽象彫刻作品。


■林試の森公園

 小山台2丁目6番11号にある都立公園。2丁目の過半は目黒区に跨る「林試の森公園」で、住宅
は少ない。公園は国の林業試験場の跡地で自然の宝庫だ。すずかけの木に囲まれた森は、森林浴に最
適。草花、野鳥、昆虫などの自然に親しめる。
 
 



【戸越】(とごし)1~6丁目                   昭和40年9月1日
 戸越村は戦国時代からある古村。明治11年「郡区町村編制法」により荏原郡に復し、同22年
平塚村大字戸越。昭和七年荏原区戸越町。同16年西戸越・東戸越・平塚・荏原・小山台・豊町に
分解。昭和40年東戸越1~5丁目の全部に西戸越1~2丁目・東中延1~3丁目・西品川3丁目
の各一部をあわせた町域を現行の「戸越」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『品川区史』『品川の歴史』など。

 戸越の由来
 『八幡宮出現由来起』の中の古歌に、

  江戸越えて清水の上の成就庵 願いの糸の解けぬ日はなし

 〝江戸から来て越える〟つまり戸越の地名が生まれたとする。馬込が〝狭越え〟だとする説と似
てる。品川用水に架けられたほんの一跨ぎの橋(現存)に「古戸越橋」があり、かな文字で「こと
ごえはし」と記してある。八幡神社の隣にかつて別当寺だった八幡山成就院行慶寺があり、大永年
間(1520年代)清水から噴出した八幡大菩薩像を草庵を組んで安置したところ、参拝者の間で
願いが叶うと口コミで広まって評判となり成就庵と呼ばれたという(行慶寺縁起)。
 別には地形からきた谷戸越説(中島利一郎)がある。どっちが正しかろ。古くは「とごえ」であ
り、「とごし」と呼ぶようになったのは近代になってだという。峠は日本で拵えた国字で、人が山
越えしようとする時、人の常として山と山の間の低いところを選ぶ。つまり「乢(たわ)」だ。乢
越えするところで、「たわごえ」→「たわげ」→「とうげ」と転訛した。ここも「たわごし」が転
訛して「とごし」になったのではなかろうか?
 


■戸越ひだまり広場
 戸越1丁目4番11号にある区立公園。


■戸越台公園
 戸越1丁目7番17号にある区立公園。


■戸越台中学校
京陽小学校と施設分離型小中一貫教育校

 戸越1丁目15番23号にある区立校。昭和33年荏原第二中学校分校として授業開始。同34年
品川区立戸越台中学校開校。同35年4階鉄筋校舎落成。同40体育館・プール竣工。同52年東側
校地(運動場600㎡)拡張。同62年開校30周年。
 平成4年校舎全面改装のため西品川校舎に移転。同5年改装完了して新校舎に戻る。同8年西品川
校舎より新校舎に移転完了。開校40周年。同23年京陽小学校と小中一貫教育校となる。

 校歌
「戸越の丘に」 板倉三郎・作詞  城勇・作曲

  1.戸越の丘にそそりたつ

    我が学び舎 誇りあり
    希望に燃えていざ進まん
    ああ 逞しの戸越台
  2.戸越の丘は水清く
    行き交う車は絶え間なし
    清く弛まず励まなむ
    ああ 理想の戸越台
  3.東に海原 西に富士
    心は広く智は高く
    文化の花を咲かせなむ
    ああ 希望の戸越台
  4.光り輝く三日月
    七難八苦絶え凌ぎ
    高き教養 身につけむ
    ああ 協力の和 戸越台



■戸越一番のウメ
 戸越1丁目22番16号、坂の上ハイツ(伊藤家)にある。日当たりが良い所為か、毎年戸越で一
番早く満開になり、春が近いことを教えてくれる。
 


■周防稲荷大明神 ◇

 戸越1丁目23番4号にある。この辺りは大名屋敷で、その当時からあるとの噂を聞いた。最近堂
を新築したよ。
 


■戸越一丁目緑地
 戸越1丁目27番32号にある区立公園。


■わかば児童遊園
 戸越1丁目29番21号にある区立公園。


■戸越銀座
商店街
 戸越1丁目と2丁目の境界線にある東西に長い商店街だ。平塚に東急池上線の「戸越銀座駅」があ
る。この商店街は日本で最初に銀座を名乗った商店街だ。だからそんじょそこいらの「○○銀座」と
は訳が違うのだ。この一帯は窪地で水捌けが悪く、洪水時の床下浸水を防ぐため関東大震災後焼野ヶ
原となった銀座から、瓦礫(壊れた煉瓦屑)を貰ってきて敷き詰め、土を盛って嵩上げし水捌けを改
良した。これが銀座を名乗るヒントになり、銀座を名乗って大成功したことから全国各地の商店街が
真似するようになり、今日では日本に5~600もあるらしい。銀座の煉瓦は小菅で焼いたもので小
菅→銀座→戸越銀座が直線状にあるのも偶然とはいえ面白い。
 今、戸越銀座駅から商店街を西へ少し行った先の百円ショップの脇に、こうした由来を記した碑が
建っていて、ローマ字で 「SHINAGAWA」 と刻まれた往時のレンガも展示されている。平成
7年戸越銀座誕生70周年を記念して商店街組合が建てたものである。

 ●戸越銀座コロッケ
 戸越銀座のイメージといえば「下町情緒あふれる商店街」。コロッケを食べながら商店街を歩いて
いる人を多く見かける。もともと戸越銀座は総菜の食べ歩きで有名な商店街だったが、戸越銀座の肉
屋が作るコロッケは評価が高く、「関ジャニ∞」がテレビ番組のロケで戸越銀座のコロッケを食べ歩
くという企画の後、ファンの女の子たちが訪れるようになった。それに気づいた商店街の店主たちが

   折角、美味しいコロッケがあるのだから、これを活用して戸越銀座に来る客にもっと楽し
   んで貰えないか


 と考えたことから、商店街ならではの手法でコロッケを売りだそうと企画。近所の立正大学経営学
部の学生と産学連携で開発を始めた。しかし最初に学生が作ったコロッケを試食した商店街関係者は
「これでは売り物にならない」と駄目出し。悔しさのあまり涙を流した学生たちは一念発起し、かつ
て肉屋でコロッケを作っていたという品川区商店街連合会の事務局長の元へ弟子入り、苦心の末に作
り上げたのが「戸越銀座コロッケ(現在の立正コロッケ)」だった。
 かくて「戸越銀座コロッケ」のプロモーション活動が始まった。「戸越銀座コロッケ」には、特に
決まったレシピや決まりごとは無い。戸越銀座商店街のそれぞれの店が、それぞれの個性を生かした
「コロッケ」を作って作っている。気軽に誰もが参加できるので、初めは肉屋や惣菜屋の7店舗から
始まったが、少しずつ参加店も増えて、今では飲食店も含めた20以上の店舗が独自の個性溢れるコ
ロッケを販売している。今後もどんどん参加店が増えていくだろう。この長い戸越銀座商店街を、端
から端まで食べ歩きをしながら楽しめる、そんな商店街って魅力的だろう?
 おでんコロッケ、フォワグラコロッケ、ギョロッケ、コロッケカレー、戸越銀座コロッケ、おばあ
ちゃんの大きなコロッケ、豆腐コロッケ、手仕立てチーズコロッケ、男爵コロッケ、梅コロッケ、餃
子コロッケ、コロッケパン、マグロの頬肉コロッケ、立正コロッケなどなど。最もユニークなのが、
チョコレートコロッケだ。
 


■少年通り魔事件
 平成20年1月5日午後3時20分ごろ、東京都品川区平塚の「戸越銀座」商店街、踏切附近で両
手に刃物を持った若い男が通行人5人に次々に切り付け、内女性2人が軽傷を負った。駆けつけた警
視庁荏原署員が男を取り押さえ、殺人未遂の現行犯で逮捕したが、男は区内の高校2年の少年(16)
で「誰でもいいから皆殺しにしたかった」と供述しているといい、同署が詳しい動機などを調べた。
調べによると、少年は、商店街を200~300mに亘って走りながら大声で「ふざけんな」「殺し
てやる」などと叫び、少なくとも4ヶ所で買い物客らに切り付けた。刃渡り30cm弱の包丁を両手
に1本ずつ持ち、靴にも1本を隠し持っていた。襲われた5人の内、30歳の女性会社員は左胸を切
られ、42歳の女性会社員は背中を刺されて救急車で病院に運ばれたがいずれも軽傷だった。女子高
校生(18)や男性(61)ら3人は着衣を切られたが、怪我はなかったという。理由は塾の先生に
文句をいわれたことと、母親と口論した結果だとか・・・母親を困らせてやろうと思ったのさ。こう
いうのは突然出るもんだよ。十分目的は達したよ。ガキだよ。病気さ。苛められていたとか、学校に
通っていなかったとか・・・精神病院に閉じ込めておくのか? 
 何時の時代もこの手の人間は現われるもので、驚くには当たらない。よく「近頃の若者は変わって
る」とか「おかしくなっている」というが、時代で人間が変わる訳もない。時に狂い凶器を振り回す
のは、江戸時代にもいたし、明治時代にもいた。「今の若者が」という言葉で一括りにするが、おい
らから見て、周りの一般の若者に変なのは一人もいない。おいらたちの若い頃とちっとも変わらない
さ。もし昭和時代の若者が素晴らしかったのなら、戦争はしなかったろうし、戦後のでたらめな官僚
政治は無いんじゃないの? 戦後を拵えたのは修身の教育を受けてきた連中だぜ。明治・大正生まれ
の人間は立派だったといえるのかい?
 


■戸越二丁目広場
 戸越2丁目1番8号にある区立公園。


■末広稲荷大明神

 戸越2丁目1番22号、清水坂を登る左手にある小祠。 


■清水坂

 戸越2丁目1番と3丁目1番の間の坂道。戸越五坂の1つ。もともと「戸越」の地名は、この辺り
が江戸越えの村だったことを由来としており、

   江戸越えて清水の上の成就庵ねがひの糸のとけぬ日はなし

 という古歌も残っている。この歌の「清水」をとって、坂の名が付けられたと考えられている。
 


■宮前坂

 戸越2丁目5番と6番の間の坂道。戸越五坂の1つ。戸越銀座通りから、戸越公園駅に通じるこの
通りは、付近に行慶寺、 戸越八幡神社があるため、宮前通りと称され、 坂の名もそこから付けられ
た。

   宮前坂
   この通りは、付近にある行徳寺や戸越八幡神社に向かう道で、宮前通りと呼ばれている。
   坂の名称もそこからつけられたものである 
 


■戸越八幡神社

 戸越2丁目6番23号にある。神社は、国文学研究資料館アーカイブスのちょい北にある。戸越村
の鎮守で、人皇104代後柏原天皇の大永六年(1526)八月十五日、村内藪清水水源地から御神
体が出現し、行永法師が草俺に奉安して、それから数十年後の文禄元年に八幡山行慶寺の開山念誉上
人が、山城国(京都府)石清水男山八幡宮の御分霊を勧請して建立し、御神体を奉安し本地阿弥陀仏
と倶に祀ったのが、創立の起源であると伝える。
 祭神は応神天皇で、天皇は深く内外の政治に意を用い、文学を奨励し殖産興業を盛にし多くの池溝
を開き灌漑の便を計り、大船を作って交通の道を開き、百済から縫衣工女真毛津を呼び、弓月君が1
27県の民を連れて帰化し、養蚕絹織を始め、阿直岐が良馬を引いて来、博士王仁が論語千字文を携
えて来た。 その他縫工造船の技術を盛んにした。天皇は厄除開運の神徳と共に、我国文教の祖、殖
産の守護神として崇められる。『八幡宮出現由来記』寛永廿末年九月行慶寺刊行の木版本によれば、
この成就庵は、昔俗称一本杉の字名のある所の庵寺で藪清水の池を控えて一般の信仰を集め、遠近か
ら参詣するもの引もきらず、大永年間に行永法師が諸国行脚の折この庵に立寄り、折からの十五夜の
月を眺めて、時を移しうたた寝して、夢に輝く光を藪清水の池から放っているのを見て、池の中を探
して、誉田別命(応神天皇・八幡大神)の御神体の出現を見たので、謹しみ戴いてここに小祠を建て
て祀った。今の一本杉元八幡宮はその跡と云う。御神体奉安の御厨子は、明和七年十一年十五日讚州
丸亀の京極家家中吉田喜助清享の奉納寄進によるもので現存する。また御神座の御褥二枚がある。そ
の一枚は天明五年に、他の一枚は寛政元年九月に、いずれも吉田一族の寄進にかゝるもので、これも
現存する。社殿の構成は、『新編武蔵風土記稿』の記事と比べて、その大きさに大差のないことから、
社殿建立はニ百数十年前のもので、安政ニ年(1855)八月十五日改築し、つまり現在の欅造入母屋
造りの社殿で、以来百十余年を経過している。
 本殿前の石造の狛犬は、延享三年(1746)に戸越村の庚申講中207名によって寄進されたも
ので、当時の農村の民間信仰の様相と住民構成を見て取ることができる。願主が安清とあるが、誰な
のか特定できない。本殿は江戸末期のもので、拝殿の長押(なげし)には24面の絵馬が掛けられて
いる。時代的には安政二年(1855)から大正5年に渡っている。絵馬は良好な状態で保存され、
いずれも紀年と奉納者(氏子)が判明することは貴重な存在で、絵柄も本社上棟式・天岩戸開き・社
前参詣・神馬・武者絵などとっても多彩だ。
 境内に稲荷大明神が、本殿左手民家寄りにケンポナシの大木がある。

 けんぽなし
 
玄圃梨 クロウメモドキ科の落葉高木。山野に生える。葉は広卵形。夏、小枝の先に多数の淡緑色
の小花を散房花序につけ、球形の核果を結ぶ。果軸は肥厚して多肉となり食べられる。テンポナシ。
(三省堂『大辞林』)
 八幡神社の別当寺である行慶寺の本尊の阿弥陀如来坐像には、貞享元年(1684)の墨書銘があ
り、江戸時代の作品としては随分良作だそうだ。

 狛犬
 社前にある。阿形像。
台石正面 「願主安清」「本村庚申講中拾三人」「平塚庚申講中八人」、台石
裏面「延享三丙寅歳九月吉日」「戸越村」「敬白」。吽形像。
台石正面 「願主安清」「本村庚申講
中十三人」「平塚庚申講中八人」、台石裏面 「延享三丙寅歳九月吉日」「戸越村」「敬白」。

   品川区認定文化財
   
石造狛犬 一対
     延享三年の銘がある
   この狛犬は延享三年(1740)に戸越村の村民が資金を拠出して当社に奉納したもので
   ある。願主の安清については明らかではない。この頃、戸越村の各村落には庚申講が結成
   していたらしく、この狛犬も本村、平塚、原の庚申講が中心となって造立が進められたこ
   とが銘文によって判る。ここに刻された207名のは、当時の戸越村全村の戸主の名前と
   考えられ、旧戸越村の民間信仰の様相や住民構成を知る上で貴重な資料である。
   昭和47年3月15日                      品川区教育委員会

   
品川区指定有形民俗文化財
   戸越八幡神社 
石造狛犬
     延享三年の銘がある
   この狛犬は延享三年(1740)に、戸越村の村民がお金を出し合って当社に奉納したも
   ので、区内では最も古いものである。
   この頃、戸越村の各村落には庚申講が結成されていたらしく、本村や平塚の庚申講が中心
   となって狛犬の造立が進められたことが銘文によって判る。また、左右の台石の各三面に
   刻まれた207名の人名によって、当時の戸越村を構成していた村人のほとんどの氏名が
   把握でき、大変貴重なものである。
   平成8年3月31日                       品川区教育委員会

 絵馬
 拝殿内にある社宝。24面ある文化財。

   品川区指定有形文化財
   
戸越八幡神社奉納絵馬     所在 戸越2丁目6番23号 戸越八幡神社
                    指定 昭和58年3月12日(有形民俗第15号)
   絵馬は、人々の願いや感謝のしるしとして寺や神社に奉納されるものであるが、民間信仰
   の広がりや人々の知恵を知る上で貴重な資料でもある。
   当神社には、社殿内の長押に多くの絵馬が懸け並べられている。年代のはっきりしている
   ものが二十一個あり、最も古いのは安政四年(1857)、最も新しいのは大正5年のも
   のである。奉納者のほとんどは戸越村の村民で、描かれた図柄は当神社の祭神である神功
   皇后を題材とするものが多い。最も大きなものは安政五年(1858)の「社殿上棟図」
   で、社殿の建築年代を明確にするものとして史料価値が高い。当神社の絵馬は、大型。中
   型のものが数多く、しかも良好な状態で残っている例は少なく、大変貴重である。
   平成10年3月31日                      品川区教育委員会
 


八幡山成就院行慶寺
 戸越2丁目6番31号にある浄土宗の寺。もと戸越八幡神社の別当。大永年中(1521~152
7)の創建とされている。右に行慶寺ルンビニ幼稚園がある。入口の石柱門から参道を入ると山門を
兼ねる鉄筋コンクリート造り2階建ての庫裏。本堂も鉄筋コンクリート造りで、裏が墓地。本尊は区
の文化財の阿弥陀如来坐像、貞享元年(1684)寄木造りで像高46cm。「新編武蔵風土記稿」
に、

   行慶寺
   除地五百五十六坪余、八幡社(戸越八幡神社)の西にあり。浄土宗南品川宿願行寺末、八
   幡山成就院と号す。開山は円蓮社方誉西源大徳寛文十一年七月十五日示寂す。本堂六間四
   方。本尊三尊阿弥陀如来を安置す。坐像にて一尺二寸余。
   観音堂。本堂の坤にあり。二間四方準胝観世音を安ず。


 とあり、『品川区の文化財』に、

   大永年中僧行永が今の平塚橋北2丁ほどの処に成就庵を結んだのがその始まりである。当
   寺は室町末期にあたり、北条氏綱が上杉朝興と戦い江戸城を取ったのが大永四年四月のこ
   とであり、奥州街道は矢口から池上を経て此地を通り草加へと走っているため、庵の近く
   を通る人の往還が少なくなかった。行永法師は漁業を修するかたわら、之等旅の為に種々
   施行を行い、里人の崇敬も大変厚いものがあった。或いは古歌に。

    江戸越えて清水の丘の成就院願ひの糸のとけぬ日はなし

   と詠まれてその教化は広く近辺の人々にも及んだ。戸越八幡神社の神像はこの行永法師の
   すぐれた功績に感応して庵の傍らにある清水から自然に湧き出したものと伝え、はじめは
   成就庵に安置したものを後に戸越八幡神社に奉安したものである。その後寛永十一年幕府
   より地を賜り、7世覚誉上人は元禄元年十二月に宮居ならびに寺を今の地に建立した。而
   も寛政年中には堂宇を再建して寺運の興隆をしたと伝えている


 とある。

 
「旅立ちの法然さま」
 幼少期勢至丸の姿を刻んだ銅像。

 
木造阿弥陀如来立像

   品川区認定文化財
   
木造阿弥陀如来立像 一基
   江戸時代初期に草創された本寺の本尊でもあるが、銘文によると、貞享元年(1684)
   に彫像されたことが判る。彫容頗る整い、江戸期彫刻の一つの様式を示すと共に、同系諸
   像の指標とすることができる。なお戦災で両脇侍を失ったことは惜しい。
   昭和39年12月1日認定                     品川教育委員会

 庚申塔
 境内にある。角柱型。青面金剛像(ショケラ)・邪鬼・三猿。
 


■宮前坂広場
 戸越2丁目6番36号にある区立公園。


■八幡坂

 戸越2丁目6番と7番の間の坂道。戸越五坂の1つ。戸越銀座通りから戸越八幡神社脇を抜ける坂
を称している。

   八幡坂
   この坂は、戸越銀座通りから戸越八幡神社脇を抜ける坂である。そのために八幡神社にち
   なんでこの名称がつけられたものである。 
 


■三井坂

 戸越2丁目7番と豊町1丁目5・6番の間の坂道。戸越五坂の1つ。戸越五坂の今1つは西品川2
丁目にある平和坂(六道坂)だ。戸越銀座通りから戸越小学校に向かう坂を呼んでいます。戸越公園
・戸越小学校・国文学資料館がある一帯は、かつて三井農園・三井文庫があったところであり、この
名称はそのためだ。
 現在坂の途中(戸越2‐8-11)の長田家の塀の角に、昭和2年11月に建てられたという「三
井坂」の小石標が残されている。
 


■笠森稲荷神社

 戸越2丁目9番22号にあるとメールがありました。調べるとあった。
 


■戸越駅

 戸越3丁目4番17号にある地下鉄都営浅草線の停車場。昭和43年の都営1号線(浅草線)西馬
込~泉岳寺間開業時に設けられた駅。この区間の開業によって浅草線は全通した。ホームは島式1面
2線構造で、地下2階にある。ホームと改札階を結ぶエレベーターは未設置。改札口は2ヶ所で、い
ずれも地下1階にある。出口はA1~A3の3ヶ所だが、地上へ出られるエレベーターは設けられて
いない。駅北側に、全国の「○○銀座」の草分けの戸越銀座商店街がある。東西に長い活気ある商店
街。
 


大東山還来寺
 戸越3丁目5番3号にある浄土真宗本願寺派の寺。詳細不明。 


■戸越児童遊園
 戸越3丁目9番20号にある区立公園。


■法福栄力稲荷大明神 ◇

 戸越3丁目10番4号、アパート(ベルハイム)の敷地の角にある小祠。
 


■宮前小学校

 戸越4丁目5番10号にある区立校。大正15年「東京府荏原郡宮前尋常小学校」として開校。こ
の時児童数が1237人、24学級ってえから、1クラス50人平均。それで昭和3年大間窪小学校
へ300人強を移籍したが、それでも昭和6年には2230人・40学級、1クラス55人平均だ。
同7年「東京府東京市宮前尋常小学校」と改称。戸越尋常小学校へ700人強移籍。同16年勅令1
48号国民学校令公布により「東京府東京市宮前国民学校」と改称。12月日米開戦。国民学校法に
より「東京市宮前国民学校」と改称。同18年都制施行により「東京都宮前国民学校」と改称。同1
9年静岡県引佐郡奥山町へ学童集団疎開。同20年愚かなアメリカ軍の無差別空爆により校舎焼失。
8月日本敗戦。10月疎開解除により学童帰校。中延国民学校に間借りして授業再開。
 同22年仮校舎落成。4月戦勝国アメリカの強制による学校教育法施行により「東京都品川区立宮
前小学校」と改称。同41年プール新築。同51年創立50周年。
 平成13年創立75周年記念式典。同14年「すまいるスクール宮前」開校。同16年国土交通大
臣賞受賞(地域清掃)。同18年開校80周年記念式典。同19年校舎耐震化。
 


■蛇窪駅 → 戸越公園駅

 戸越5丁目10番15号にある東急大井町線の停車場。昭和2年7月6日目黒蒲田電鉄が大井町~
大岡山間を開業させたのと同時にできた駅。当時の駅名は村名から「蛇窪」といったが、昭和11年
1月1日に現在の駅名に改称した。
 ホームは地上相対式2面2線構造。上り・下りホームは完全分離されていて行き来ができないが、
トイレは1番線にしかない。また駅長事務室も1番線側の駅舎にある。
 5両編成の大井町線電車に対して戸越公園駅のホームは3両分しかなく、大井町寄り2両ははみ出
して停車する。およそ30メートル(1両半くらい)ほどはみ出して停まるので、大井町行き電車か
ら前面展望していると、まるでオーバーランしたように感じられる。
 改札口・出口はホームごとに設けられており、いずれも二子玉川寄り先端部にある。農村で畑の真
ん中にあった当時のままなのだ。長閑だったよ。
 戸越公園駅周辺の商店街はTBS系で平成15年夏に放映されたドラマ『STAND UP!!
の舞台にもなった。
 


■伏見稲荷大明神 ◇

 戸越5丁目10番22号にある小祠。
 


成等山覚証寺
 戸越6丁目2番3号にある浄土真宗高田派の寺。 


■戸越南公園
 戸越6丁目8番8号にある区立公園。


■戸越六丁目児童遊園
 戸越6丁目11番6号にある区立公園。


太子山照明寺
 戸越6丁目13番11号にある浄土真宗仏光寺派の寺。詳細不明。
 


■大原公園
 戸越6丁目14番1号にある区立公園。


■大原小学校

 戸越6丁目17番3号にある区立校。大正15年杜松小学校から独立して開校。25学級・120
0人強。昭和3年約500人を源氏前小学校へ編入。同7年東京市大原尋常小学校となる。同9年約
420人を源氏前小学校に編入。同15年約550人を上神明小学校に編入。同16年東京市大原国
民学校と改称。同18年東京都大原国民学校と改称。同19年静岡県に学童集団疎開。同20年5月
富山県にも学童集団疎開。愚かなアメリカ軍の無差別空爆により校舎焼失。6月静岡県下の疎開児童
を青森県に再疎開。8月敗戦。10月疎開解除により青森県下の疎開児童帰校。11月富山県下の疎
開児童帰校。22年仮校舎落成。区立大原小学校と改称。同26年創立25周年・校歌制定。同31
年校舎落成。同41~42年鉄筋校舎に建て替え。同48~50年第二期鉄筋校舎建て替え。同51
年創立50周年記念式典。平成18年創立80周年記念式典。
 



【中延】(なかのぶ)1~6丁目                    昭和40年9月1日
 中延村。明治22年平塚村大字中延、大正15年平塚町大字中延、昭和2年荏原町大字中延、同
七年荏原区中延町となるも同16年中延1~5丁目・東中延1~4丁目・西中延1~5丁目・荏原
6丁目・平塚7~8丁目・小山4~5・8丁目に分かれる。同40年中延1~5丁目と東中延4丁
目の全部に東中延2~3丁目の各一部をあわせた町域を現行の「中延」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『品川区史』『品川の歴史』など。

 中延の由来
 平安末期には開けていたようで、「八幡所蔵縁起」によると鎌倉時代の文永のころ(1264~
74)には江原左衛門義宗が支配していたという。中延の由来は定かではないが〝荏原郡の中心に
延べる(広がる)ほどの意味か? 相州中原道(ほぼ現在の中原街道)と池上道が通り、中心地だっ
たとしてもおかしくはない。江戸時代は荏原郡馬込領。
 と書いたら、中延の松本さんから由来についてメールを頂戴しました。

   初めまして。貴サイト、とても楽しく拝見しました。さて品川区中延の地名の由来に
   ついてですが、中延小学校在籍時、藤原時代に「上(かみ)の部、中の部、下の部」
   と分かれる広い土地区分があり、その内、中の部だけ残って、漢字が中延に変わった
   と先生から教わりました。中の部だけが中延になったのか、すべてを広げて(延べて)
   中延になったのかは不明ですが、延べという字をのぶと読む語源はここにあります。
   以上地元のことなので加えて頂けたらと思い、メールいたします。

 これだと「何の上の部・中の部・下の部」かが判らない。先生はおっしゃられたのかは知れない
けれど、お忘れか? 荏原郡は広大なので「荏原郡の」ということはありえない。とすると「平塚
郷の」ということだろうか? これが究明できれば面白い発見だ。区では採用していない。


■荏原税務署

 中延1丁目1番5号にある国の機関。
 


■岡田家の椎の木
 中延1丁目4番8号の岡田家は「椎の木屋敷」「じょうだい屋敷」と呼ばれたほど広大な椎の木の
屋敷林(里山)に囲まれていたが、地域の発展で切り倒したし、昭和20年愚かなアメリカ軍の無差
別空爆で焼かれもした。今残る巨木は樹齢400年だとか。多田公稲荷社の神木。樹高約8m、幹周
り約5m、

 多田公稲荷社 ◇
 岡田家の敷地にある屋敷稲荷。椎の木は神木。落雷などの被害にあって幹の下は空洞状になって樹
勢は少し弱っているようだが、椎の木としては区内で最も古いもので大変貴重な木。種類はツブラジ
イだ。
 


■荏原図書館

 中延1丁目9番15号にある中規模の図書館。荏原中延駅から歩いて5分位のところにある。駅を
出て北に伸びる商店街を進んで行き、暫く行って最初の信号を曲がったところに荏原文化センターが
ある。図書
館はその3階にある。
 入口を入ると、右に児童コーナー、左に暮