ソマリア内戦


    アフリカ大陸北東部の通称「アフリカの角」にあ るソマリアは、氏族と呼ばれる血縁集団を核にした 多数の武装勢力が全土に割拠し、事実上の無政府状態にあ ります。議会や行政機能、経済活動や学校教育の一切が停止 した極めて異常な事態が、すでに8年余りも続いているのです。

    バーレ大統領が1991年1月、反政府勢力「統一ソマリア 会議」(USC)に追われた後、国内が混乱に陥り、全人 口の半数に当たる420万人が飢餓状態にさらされました。 そのUSCはモハメド暫定大統領派と最大勢カァィディー ド将軍(→`0)派に分裂して、内戦が激化します。1992年か ら2次にわたって派遣された「国連ソマリア活動」(UN OSOM)多国籍軍が、多数の犠牲者を出して1995年3月 までに撤退。1997年12月には武装28派が無条件停戦の和平 協定に調印したものの、戦闘は止んでいません。この問の 犠牲者は50万人以上、周辺国などに流出した難民は1OO万 人以上に上るとみられます。

    内戦の直接の引き金は、反バーレ政権武装闘争で す。バーレ大統領は1969年10月にクーデターで実権を握り、 翌年10月、社会主義国家建設を宣言。1980年代に入ると北 部など地方で反政府闘争が活発化し、USCが1991年1月、 首都モガディシオを制圧して大統領を追放しました。US Cはモハメド暫定大統領を指名しますが、最大の軍事カを 誇るアイディード将軍派がこれに反発して、新たにソマリ ア国民同盟(SNA)を緒成、モハメド派との戦闘が激化 します。この際、北部のソマリア国民運動(SNM)は暫 定政権白体を認めず、「ソマリランド共和国」の分 離独立を宣言、南北が分断された形になりました。

    国連は1992年12月、「国連ソマリア活動」(UNOSOM) として米海兵隊など多国籍軍を派遣。国連仲介で「ソマリ ア和平会議」が開かれますが、アイディード派は強硬姿勢 を崩さず武装解除を拒否しました。SNAは1993年に内部 分裂し、アリ・アトSNA新議長は逆にモハメド派と連携 します。同年3月、国連憲章に基づいて武力行使を認めた 平和執行部隊(UNOSOM1)が展開され、圧力をかけ ます。しかし「希望回復作戦」と名付けられたこの軍事介 入では、6月に多国籍軍のパキスタン兵24人がアイディード 派民兵に殺害されたのをきっかけに、同派との戦闘が多発。 国連側は結局130人以上の犠牲者を出して、1995年3月ま でに完全撤収しました。

    UNOSOM撤退後の6月、アイディード将軍は白らの大統領 就任を一方的に宣言した後、1996年8月に戦死します。 最強硬派の死で新たな展開が期待されましたが、三男フ セイン・アイディードが後維者となって戦闘継続を表明・ 国民和解会議開催の試みはあるものの、統一政府樹立の見 通しは立っていません。

    ソマリアには、「氏族」と呼ばれる伝統的な集団の存在 があります。氏族とは政治的・経済的に緒束した血縁グル ープのことですが、ソマリアの社会は6つの大集団「氏族」、 その下の「小氏族」または「支族」、最小単位の「ディヤ 集団」というピラミッド型の構造になっています。歴史的 に中央政権がなかったソマリアでは、氏族を軸にした白 衡・相互扶助機能が、重要な役割を果たしてきたのです。 めぼしい産業もなく、財政的・物質的に国際援助に頼って きたソマリアでは、権力を持つことは直接、そうした援助 物資の確保、関連する利権の獲得につながります。各氏族 は集団で武装して、それらを奪い合っているのです。

    もう1つの背景として、植民地支配の「負の遺産」があ ります。ソマリ族社会は19世紀後半まで、今のエチオピァ 東部やケニアの一部、ジブチに広がっていました。それが 1880年代に現ジブチ周辺がフランス領、北部がイギリス領・ 南部がイタリア保護領などに分断されます。こうした歴史 的経緯から、ソマリ族居住地域ソマリランドを統…しよう という民族主義「大ツマリア主義」が生まれ、後にエチオ ピアとのオガデン紛争など周辺国との衝突を引き起 こします。1960年に刺ヒが狼立・併合されてソマリア共和 国が成立、1969年のバーレ政権成立時に現国名「ソマリア 民主共和国」になりましたが、バーレ政権は白らの出身氏 族を優遇する半面で、他の勢カを分断支配しました。 植民地支配で分断された氏族が、大ソマリア主義の下で再 び統合された国家ソマリアの歪みが、内戦を招いたと説明 されています。

    アイディード派は1996年1月、モハメド暫定大統領派、 アリ・アト派との停戦に合意します。これら有力3派を含 む28派は1997年12月、無条件停戦などをうたった和平協定 に調印しました。これに基づいて統一政府復活に向けた和 平会議開催が予定されていましたが、一部の勢力が応じず、 再三延期されました。1998年4月には有力4派が、モガデ ィシオに共通の行政府設澄を協議したものの、事態は依然 として極めて流動的です。

    国連は平和維持活動で手痛い失敗を味わっただけでな く、UNOSOMπの参加各国兵士による市民への残虐行 為が明るみに出るなど思わぬ後遺症に苦しみ、その後の世 界各地の紛争への対応に微妙な影響を与えています。また、 スーダンはイスラム法を受け入れた暫定大統領派、リビア はアイディード派をそれぞれ支持しているほか、エチオピ アが全氏族の参加を主張して1997年和平協定に否定的な立 場を示すなど、周辺国の思惑も複雑に絡んでいます。



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