思うこと・作者の思うことを気ままに綴ります。-02 (2003年)



日本から離れ、南米で生活し、ふと色々な事を考えてしまします。頭に想い浮かんだ事を書き綴ってみることにしました。テーマは様々で宇宙から人生、歴史、経済多岐にわたっています。

思うこと・作者の思うことを気ままに綴ります-01 (98-2002年)




25・宗教 (2003年12月27日)

このサイトを書いていて、幾つか触れないように注意している事があり、その中でも「宗教」は最たるものです。ご存知の通りパラグアイはカトリック国、生活の中にカトリックが入り込み、カトリックを抜きにパラグアイについては語れないのが本当のところでしょう。「宗教」を語らない理由としては
(1)よく理解していない
(2)特定の宗教の教徒では無く今まで宗教に余り関心が無かった。
(3)人の内部、精神生活に踏み込みたく無い
:等の理由が挙げられます。

カトリックは当然キリスト教ですが、この宗教に関しては勉強不足で軽々しくは語れない事が挙げられます。2千年前に誕生したこの宗教、ユダヤ教の異端として最初は出発して、イエスが「神の国は近いは近い」とし、ユダヤ教で言う救世主は自分であると説き、ある程度の信者を集めますがユダヤ教徒から異端とされて十字架に架けられて死んでしまいます。「イエスは死んだのか?」と戸惑う信者の中、これを引き継いだパウロが「復活とイエスの再来」の教義を説き、「イエスは神の子であり、人間の悪行を一身に背負い一度死して3日後に復活し、神の国となる時に再来する」とし、キリスト教として発展して来ました。外面的な規律・約束事は無く、ただ心の中で「イエス・キリストの復活と神の国が地上に現れる事を信じよ」この秘儀を信じれば救われるというもので、また全ての人間の定めは予め神様によって決められているという予定説を信じる事が基本という事は分かりますが、そこからがよく理解出来ません。現在、カトリックの他、主なものでもアフリカのコプト教、東ローマ帝国の流れをくむ東方正教会(ロシア・ギリシア・セビリア等)、アルメニア教会、プロテスタント諸派、そして米国生まれのモルモン教、韓国に発する統一教会など非常に大きな広がりを持っています。それぞれの教義と違いに関して説明など到底出来ず、キリスト教、そしてカトリックに関して論じる事は差し控えております。

パラグアイ人の大多数はカトリックで周辺の国も皆そうです。この地に居ますとそれ以外の世界というはなかなか想像が出来ないようです。「日本はクリスマスである12月25日は祝日では無い」と言いますとかなり驚きます。「それではクリスマスのパーティーは無いのか?」という質問に「盛大にやるが宗教抜きである」と答えますと大体皆さん一層驚きます。「日本に住んでいた時には聖週間・セマナサンタはお休みどころか存在も知らずに居た」と言いますと信じられないという表情になります。世界の先進国の一つである日本がキリスト教国では無い事が不思議なのでしょう。

つい最近までユダヤ、キリスト、イスラムが同じセムハム系の一神教であり、神様は同じであるという事を知りませんでした。イスラムというのはユダヤ、キリストの両宗教に対する一種の宗教改革であり、イスラムの人達から見ますと「キリスト教徒は争いの絶えない戦争の家に居る救われない連中」と思っている事もようやく最近になって想像する事が出来るようになって来ました。それでもまだまだ理解は全く不十分で、一度はイスラムの国に滞在してみたいと思っています。それが難しいのであればイスラム教徒の友人を作り、その根底に流れている考え方を理解する努力が必要であると考えております。ユダヤ教の教義は最後に大逆転が起き、選ばれた民であるユダヤ人が世界の支配者になるというもので、それ故に迫害も受け、誤解を招いて来たのでしょう。しかしながら旧約聖書に基づき、カナンの土地であるパレスチナにそこに住んでいた人達を強引に排除して実際にユダヤの国を建設した事が現在の西アジアの問題の出発点になっている事実を見ますと世界を理解するには宗教に対する一定の知識と理解は不可欠なものなのでしょう。

世界の主な宗教を乱暴に分類しますと、この3つの一神教とヒンドゥー、仏教の多神教の系列に大別されるように見えます。前者は啓典宗教で神は威厳に満ち、怒りの神であるように見えます。神の存在は絶対であり、人間が文句を付ける余地などは全く無いようです。常に怖れおののき、緊張感を持って生きて行く事を余儀無くされるように思います。「宗教は皆が仲良くする事が目的」等と思っていたらとんでも無い間違いでしょう。モーセの十戒の中に「神の名を唱えるな」とありますが、呪文や神頼みを禁止しているのでしょう。また非常に直線的で鋭角的であり、全ては最後の審判の時に向かって突き進んでいる感覚なのでしょう。

これに対してヒンドゥー、仏教の多神教系は経典が次々に生まれて非常にフレキシビリティーのあるものですが、いささかだらしの無さを感じます。インドで生まれた仏教と日本の仏教ではかなりの違いがあるように見えます。これは丁度インド生まれのカレーが英国に渡り欧州風のカレーシチューとなり、それが日本に来て日本風にアレンジされて現在に至っているのと似ているように見えます。欧州化され、更にそれが和風になった事で調理法も中身も味もかなり変化していますが、やはり両者は「カレー」である事は疑いようがありません。仏教も中国に入り中国風に変化して、それが日本にもたらされたので初期の頃のものと比較しますとかなり違ったものに変化しているように見えます。教義は広がり発展を遂げ、元々の教えでは全ての煩悩を払い悟りの境地を目指すのが仏教であり、それ故に欲望を絶ち、修行に励むものであったはずですが、仏法の明るい面をより追及して来た日本では自然体で仏教を捉えるようになっています。

中世には密教の一派で「真言立川流」なる宗教がはやり、後醍醐天皇も熱心な信者であったそうです。これは髑髏が本尊で、修行は激しくセックスに励む事で、その時の恍惚感で得られたものであり、その際の性液をご本尊の髑髏に塗ったくるというようなものであったそうです。ちょっと興味をそそりますが、これはその後江戸期まで存在していたようですが、邪教として徹底的に弾圧され、歴史の舞台からは抹殺されてしまったようです。これに類した事はモンゴルなどで広がった同じ密教系のラマ教の一派でもあり、結婚する女性はまずラマ僧と一夜を共にするというようなもので、これで梅毒が蔓延して人口の減少に繋がったそうです。またヒンドゥー、仏教共に輪廻の思想があり、時間は回転するものという感覚、神は怖いものでは無く慈悲に満ちているものという感覚があると思います。

パラグアイには多くのカトリック教徒の他に多種多様な人々が住んでいます。友人・知人やお客様でユダヤ人、インド人、中国人、韓国人、アラブ人色々な方とお付き合いしています。パラグアイは実際には大多数のカトリックの中に多くの宗教が混在する社会になっています。アラブ人のお客様の事務所に行きますと何やら大きな看板みたいなものがあり、これは何かと聞きますと「アラーは唯一の神」と書かれてとの説明でした。日本人・日系人の中には日本発祥の宗教を信じ布教に努めている方が居ます。創価学会、天理教、PL教団、金光教など様々な宗教が来ています。若い青年を送り込む教団も多く、普及活動ばかりでは無く、学校の教師などのボランティア活動を通じて日系社会に活力を与えています。当方はどの教徒でも無いのでその良さを語る事は出来ません。これから勉強して行く事が必要と痛感しています。それぞれの宗教には長年培われた知恵が詰まっているように思います。

さて、無宗教というのはどうも怪しい存在に見えるようで、「宗教は?」と聞かれた時には「田中教」と答えるようにしています。勿論教祖一人、教徒兼任の宗教ですが、「無い」と答えて「無神論者」と思われるよりは良いようです。神様は?という問いには「宇宙を作り、自分たちを創った誰かか力か」と答えています。神様を信じるかどうかという問いには「この世を作った存在を神と呼ぶ」、また「救われるかどうかはその人次第、仲良くしましょう」というのが教義としています。どうですか?皆さんの中で田中教の最初の教徒を希望する方が居ればご連絡下さいね。

※ 真言立川流:何人もの美女と性交し、その際に溢れ出た双方の愛液・精液を髑髏に120回塗りつづける。道場内に食物を準備し、愛の囁きを絶やさずに強壮の漢方薬を飲みながら、可能な限り濃厚なセックスを続けなければならない。性液と香の入り混じった強烈な臭いの髑髏の頂部に金箔を3枚張り、そこに諸仏の(交合)曼荼羅を描く。この時の絵具は男女の性液を混入したものを使う。・・・(すごい!)



24・社会科 (2003年12月14日)

学校で学ぶ教科というのは英数国理社の5教科が基本となっていますね、江戸の昔から「読み書きそろばん」と言われており、計算と読み書きに当たる数学と国語の基本は生活する上で不可欠でしょう。最近はグローバル化が進み外国語の知識も必要であり、英語教育の内容に関しては若干の疑問があるものの、外国語を学ぶ事も必要でしょう。この3教科が特に主要3教科等と言われて、これだけを勉強すれば良いという風潮も一部にはあるようです。当方も高校入試の際、入試科目はこの3教科だけでした。そして理科と社会、この二つの科目はそれに準ずるものとされており、大学入試でも選択して試験をする事が一般的に行われています。

大学では最近ではその垣根は多少は低くなって来ているとは言えども、文科系、理科系に大別されています。文科系の場合、高校で学ぶ科目で言いますと、文学科並びに外国語学部はそれぞれ国語と英語の延長の勉強ですが、それ以外は社会科の科目と延長と言えると思います。文学部でも大半は歴史と哲学を学ぶ学生が多く、こちらも社会科の延長です。経済、政治、経営、法律、社会学などは社会科の延長そのものであると思います。大学でこれだけ社会科の延長を勉強しているにも関わらず高校までの社会科の扱いはそれ程重きを置いているとは思えません。大学であれだけ勉強をさせる、専門的な知識を身に付ける必要があるのであれば、高校時代までに一般教養として十分に教育する必要があるように思うのです。

高校までの社会科は歴史(日本史、世界史)、地理、その他(倫理哲学、社会学、政治経済)に大別されます。この中で一番時間が割かれるのは歴史で、高校で社会と言いますと歴史という感すらあります。大学入試に関しましては、多くは文科系の場合には社会科が2科目か1科目、理科が一科目もしくは無し、理科系の場合には社会科は1科目もしくは無しというのが一般的になっています。大学入試を突破する為には文科系の入試を目指す学生は社会科の1ないし2科目を重箱の隅を突くような勉強し、他は全く何も勉強しないということになります。その中でも私学を目指す多くの学生は「日本史」を選択し、他の社会科は何も勉強しないという事になります。ある有名私立大学に入学した学生と話をしましたが、「日本史を選択したので世界史は分からない」とかで、世界史の簡単な事、例えば中国の王朝の基本的な事項すら知らないという事に驚いてしまいました。世界史よりも日本史を選択する理由は「扱いのが日本だけで、簡単そうだから」というのがその理由の大半のようです。

当方は地理と政治経済を入試科目に選択したので、歴史についてはほとんど勉強しませんでした。特に日本史の知識は非常に乏しく、社会人になってから意識して勉強するようにし、特に近現代史に関しては色々な書物を読んで来ました。学生時代の歴史の勉強と言いますとほとんどが古い時代のもので、近現代史は特急で進行したような気がし、歴史教育の内容にも疑問を持ってしまいます。出来事だけを追うのでは無く、その時代の社会情勢、経済状態を意識しながらもっと流れを掴む訓練が必要なのではないかと思います。

日本の外交のアジア・欧米偏重、サッカーでも欧州偏重が際立っていますが、これらの事も社会科教育の欠陥と関係しているのではと疑っています。多くの一般の日本人ばかりでは無く、日本の方向性を決定するような政治家や官僚を含めて一般教養としての世界地理、歴史の知識が欠如しているのはないかと。自由貿易協定が世界中で話題となり、南米に居住する日本人・日本人は日本と南米特にブラジルを中心とするメルコスールとの自由貿易協定の必要性を思うのですが、南米に関してはどうも多くの日本人の知識の外にあるように思えてなりません。地理を受験科目として選択する人は非常に少なく、多くの日本人の世界地理に対する知識が中学レベルでストップしているのではないでしょうか?必要性を訴えるにしても知らないのであれば対策の立てようがありません。また最近文明の衝突、宗教的な対立がクローズアップされていますが、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は同根の一神教であり神様は同じであるというような基本的な事柄も知らない人が多いようで、パレスチナ、イスラエル、イラクなど西アジアの紛争に正しい判断が出来ていないように見えます。イスラム教徒の視点をイメージを持って語られる人がほとんど居ないのが現状でしょう。

最近、年金の問題がクローズアップされていますが、高校時代までに本来の「社会」に関する勉強をする時間が極端に少ないような気がします。選挙制度、憲法などに関しても学びはしますが、表面的な概論までに留まっています。実社会に出ますと訴訟などの問題が生じた時には自分である程度はその問題に立ち向かわなければならないと思うのですが、ほとんどの人は民法、民事訴訟法の基本も教えない、知らないというのが実情であると思います。多くの日本人が社会保障をはじめとする福祉制度、年金、税金の制度、国と地方の財政など生きて行く上で大切な知識が十分に教育されず知らないまま社会人になっているように思います。また株式、会社制度に対してももう少し説明を行い、簡単な簿記を行い「決算」そして財務諸表の見方等も基本的な知識を叩き込む必要があるように思います。政治経済に関しても本当に入門的な事項が教えられるだけです。受験勉強で一所懸命に古代日本史を勉強し、「大宝律令」とか「屯倉とは何ぞや」というような質問にはすらすらと説明が出来ても全く意味を成さないと思います。このような実用に役立つ社会に関する知識を十分に教育し、現在の様々な社会制度に関して討議討論を通じ問題点を学生自身が洗い出し見つけて行くような教育が必要なのではないかと思います。

一方、理科については、数学と並べて理数等と称されますが、中身はかなり多様です。地学、生物、物理、化学に分けて勉強しますが、かなり勉強する内容は広く例えば地学も地質学から気象と天文まで幅広い分野を勉強します。社会科では受験生の多くは日本史と世界史を選択しますが理工系を目指す学生はまず受験科目に物理、化学を選択します。多くの場合にはこの2科目を指定しているケースが多いようです。当方は理科系の大学で勉強した関係上、理科とのお付き合いは大学まで続き、物理、化学、生物等の応用分野の勉強ににかなりの時間を費やしました。技術者となり社会で仕事をする上にはこのような知識は不可欠であると思います。理科教育が十分に為されて今日の技術大国日本を築いたと言えるでしょう。

文科系を目指す学生は多くの場合、理科は余り得意では無く、勉強もしないので疎遠になっているように見えます。社会に出てこのような人達が不自由を感じるかと言いますとそれ程では無い様に見えます。実社会で社会科とは違い、理科の知識・常識が無くてもそれほど社会に与える影響は大きくないように見えます、数学と同様に中学までの知識があれば実社会で生活するには差し支えは無い様に思います。天文の知識が無く、太陽系の構成や宇宙の大きさについての知識が無くても通常の生活をして行く上では何の支障もありません。高校時点では理科よりも社会科に力点を置いて教育する必要があるように思っています。



23・デジタル (2003年10月17日)

近年の技術の進展で全ての分野でデジタル化が進行しているように感じます。デジタルという言葉で最初に思い浮かぶのがカメラです。デジタル・カメラというのをカシオが開発したというニュースを見て直ぐに飛び付き、以来デジタルカメラの愛用者となり、一昨年買った現在使用しているもので3代目、フィルムを使うカメラを使う事は無くなりました。写真を撮影するスタイルもすっかり変化し、「取り合えず撮影し、後で取捨選択する」という事になり、目に付くものは何でも撮影する習慣になっています。毎月相当の枚数を撮影しています。欠点は普通のプリントに出来ない事でプリンターで印刷すると紙もインクも高く、普通の写真と比較して割高になってしまいます。普通のプリントが必要な時には普通のカメラを使用するという何ともめんどくさい状況になっていました。

今年日本に行って驚いたのはカメラ屋に行くとデジタルカメラのメモリーを差し込むだけでプリントの注文が出来る機械が設置されていた事です。会社によってデジカメのメモリーの様式は異なるのですが、どれでも使える万能型の機械で、差し込むと撮影した写真が画面に表示され、クリックをするだけでプリントの注文が出来ると言う優れものでした。すっかり感心して見ていますと、店員が飛んで来て「ご自宅からも注文が出来ます」と言って一枚のCD−ROMを手渡されました。このソフトをインストールすると自宅から注文が出来、プ数時間後にはリントが出来るという話でした。「これは便利ですね、これならどこからでも注文出来る、地球の反対側からでもプリントを注文出来る訳ですね」と言いますと、きっぱりと「ハイ」という返事でした。まさか本当にその通り実行するとは思っていなかったでしょうが、アスンシオンの自宅に戻りこのソフトをインストールし、注文しますと確かに数時間後には実家の近くのカメラ店でプリントが受け取れました。郵便事情が悪いパラグアイ、今まで実家に写真を送っても着かない事が多々ありましたが、この方法であれば確実に実家に送る事が出来ます。数年前には考えられなかったような便利さです。デジタルで将来何が出来るのか、可能になるのか楽しみです。



22・知的所有権(2003年 6月24日)

最近、知的所有権という言葉をよく耳にします。書いたもの、写真、ソフト、映像などに関して作者に所有権があり、それを使用する際には一定のルールに従う必要がある、お金を出さなければならない、という論理のようです。最近のインターネットの普及でこれが揺らいで来ている様に見えます。ホームページは何か特別な理由か特典があるページを除きほぼ全部が無料で閲覧出来ます。その全体の量はどれほどになるのか分かりませんが、多くの情報の中から選択して見ることが出来る時代になり、紙に印刷しているものをわざわざ買う必要があるのか疑問なケースも出ています。例えば新聞、ほぼ全ての新聞社がページを持っており、最新のニュースをリアルタイムで読む事が出来ます。当地でもインターネット以前の時代においては、日本からのクーリエ会社のサービスで新聞を取り寄せている方が多かったのですが、最近はほとんど居なくなってしまいました。

音楽そして映像も無料でダウンロード出来る方法が確立しており、CD、DVDを買わなくてもインターネットでクオリティの高いものを得る事が出来るようになっています。勿論現行法ではこれは違法なのですが、余りにも簡単に出来るため多くの方が利用しているのが実態のようです。DVDも最近は簡単にコピーが出来る状況になっているようです。このまま進行しますと全てのコンテンツは無料化して行く様に見えます。

個人的にはコンテンツは全てただになるという傾向はもう止められないように感じます。映画にしろ音楽にしろ書かれた文章にしろ、幾ら法律違反であると叫んでもコンテンツは基本的には無料とせざるを得ない時代に突入しているように見えます。色々な手段を講じて阻止しようとしても相手は国境の無いインターネットの世界ですので、簡単には行かないように思います。このような状況でも映画館という事業は成り立ち、お金を払って映画館に行く人が居ます。例え家庭で無料で見る事が出来ても映画館という日常から離れたわくわくするような場所でポップコーンをほうばりながら巨大スクリーンで見るという価値は大きく、それに対価を支払い事に躊躇しないように見えます。同じことで、当ホームページは無料で見る事が出来るのですが、それでも当方の著書「パラグアイに住む」が売れる、これは本という体裁で読み易く、持ち運びが楽であるので、その対価として1400円也を支払っても手に入れるのであると思います。

数年後には通信の料金が一層下がり、通信速度は今以上に速くなり、瞬時に大きな映画でもダウンロード出来るようになると想像します。ホームページも現在のような文章と画像のものから映像を交えた双方向のものに進化して行くことになるのかも知れません。何でもコンテンツが無料となれば、色々な知恵を絞りお金を得る工夫をすると思いますし、むしろ柔軟な発想で新たなビジネスチャンスが出て来るように思います。制度や法律が対応出来ない事態が出現している現代、現行の制度で新しい流れを拘束するのでは無く、制度や法律を新しい時代の流れに合わせて行くべきであると思っています。 

 



21・ドルとユーロ(2003年 6月23日)

世界は冷戦の終了以来、米国があたかも他の国々を睥睨するように世界唯一の超大国として君臨する状況になっています。金融、知的所有権など自国にとり都合の良いルールを世界基準として他国に認めさせ座っていてもお寺銭が入って来るシステムを構築し、世界の富を独占する勢いとなっています。しかしながら実態は財政も貿易収支も大幅な赤字であり、世界中から物を買って使い果たすという超消費大国というものです。そして豊かな消費生活が成り立つもう一つ大きな要因として考えられるのが世界通貨としてドルが流通しているという事です。一国の通貨が世界通貨として利用されているメリットは極めて大きく、財政が巨大な赤字であっても他の国がありがたがってドルを求める為、お金が足りなければ印刷すれば良いという特権的な状況が続いています。

そしてこれに対抗する形で生まれたのが欧州のユーロです。世界通貨としての地位は米ドルの前は英国ポンドでした。その栄光の歴史の為なのか英国は現在までユーロ導入には消極的であり、欧州連合の中では異端的な存在となっています。それでも独仏を中心にユーロは次第に力を付けており、欧州大陸の西側から次第にその流通範囲を広げており、東欧州をもその圏内になる勢いです。全ての東ヨーロッパ諸国がEUの加盟国となるのは確実のように見えます。

アジアと南米は伝統的に米国の勢力圏であり、ドル圏でした。外貨と言えばドルを指すという状況が相当長期間続いています。その中で最近、パラグアイを始め南米でも変化が出ています。今まで全て外貨建てと言えばドル建てでしたが、例えば金細工等の値段はユーロで表示されるようになっています。外貨を買う際にもドルでは無くユーロを買うという話を耳にするようになっています。パラグアイ、ブラジル、アルゼンチン、ウルグアイのメルコスール4ヶ国では共通通貨導入の可能性について検討を始めていますが、例え当初は南米独自の共通通貨が出来るにしても、個人的には最終的にはユーロに落ち着くのではないかと想像しています。ユーロの特徴は1つの国の通貨では無い画期的な通貨であり、自国の通貨を廃してユーロに切り替える際にもそのグループに属するだけでどこかの支配を受ける訳ではないので、ユーロ導入には比較的抵抗は少ないのでしょう。将来、メルコスールがユーロを導入するとなっても比較的スムーズに受け入れられると思います。

さて、日本ですが、世界経済の一割を担う割には日本円の存在は余りにも小さいように思います。決済通貨として利用される事はほとんど無く、アジアではむしろ中国人民元にその地位を取られそうな気配になっています。また、日本においては世界の政治経済情勢に関する情報はどうも米国のフィルターを通して入って来るように見えます。米国の意図に従って政策を決定するという事が惰性で行われており、結果的には米国の為に働いている状況に陥っているように見え、円を国際通貨にするという意図も無いように見えます。

本来であれば、日本を中心にアジアで独自の経済圏を作る事が上策なのでしょうが、戦前の大東亜共栄圏構想の失敗により、アジア諸国で強い抵抗に遭う事は間違いなく、受け入れない状況である以上、何か他の方策を探る必要があるように思います。この際、思い切ってEUと自由貿易協定を締結し、されに一歩進んでEUの一員となり、ユーロを導入する事を検討してみてはどうでしょうか?日欧が結べば経済的にも米国を凌駕する事が可能であり、欧州に対して米国よりも有利な条件で貿易が出来るようになれば有利な点が大きいように思います。ユーロと米国ドルの覇権争いとなっている事を認識し、ドル圏に留まるにしてもユーロと連帯を組むにしても如何に相手から良い条件を引き出すのか世界を視野に入れた金融政策が必要な時代になったように思います。しかしながら現在の日本の財政状況ではとてもEUへの加盟条件をクリアー出来ないでしょうね。



20・語学(2003年 6月14日)
日本も戦前では英語オンリーばかりではなかったと思います。旧制高校では文科であれば、文甲:英語、文乙:ドイツ語、文丙:フランス語となっており、第一外国語にドイツ語やフランス語を選択する人も多かったように聞いています。医学部ではドイツ語が重要視され、カルテもドイツ語でで書かれていたように聞きます。戦争で米英に負け、日本は生活習慣の中に米国式を取り入れ、教育も英語重視となっていったようです。古文・漢文のように日本の伝統的な思想を勉強する時間はどんどんと削られて行き、英語の時間が増えて行きました。

大学入試でも英語は重要視されていましたが、それでも必修では無く選択科目でした。多くの大学ではドイツ語、フランス語、英語の中から選ぶ事が出来、英語を選ばなくても入試を受ける事が可能でした。東京ですと暁星高校のフランス語、独協高校のドイツ語がというのは有名で第一外国語にフランス語やドイツ語を学ばせる学校もあります。それでも英語はどんどんとその存在を大きくし、入試科目が削減されても必ず英語は残り、そして配点における割合を増やして行きました。英語が苦手の当方は全国の大学で英語の配点が少ない学校を探したものです。当時は長崎大学と新潟大学が700満点中100点で、これが一番比重が少なく、本気でこの大学を受験する事を検討した記憶あります。当時受験の際に勉強と言えば「英語」、勉強時間の大半を受験英語に費やした思い出があります。それも読解だけでは無く、「穴埋め問題」「書き換え公式」などというのを毎日やっていたように思います。今考えますとあれは何であったのだとう本当に英語力向上に役に立ったのであろうかと考え込んでしまいます。ある私立の経済学部を受験する事にして配点をみますと英語200点、現在国語100点、数学100点、社会(世界史、日本史、地理から1科目)100点でした。合格ラインは7割要するにこれで350点取らないと合格出来ないというものです。英語の配点が4割を占める、このような試験が一般的でした。 日本の大学に合格するには受験英語が出来れば良いという訳です。

日本でワールドカップが行われて、一番良かったと思っているのは国際化が進んだという事です。語学の学習に関しても以前であれば、語学、即英語という風潮が主流でしたが、この大会でその意識が大きく変化したように思います。世界で唯一の超大国米国は、何事自分のやり方が世界のルール、米国流をグロバリゼ−ションと呼び変えて世界を米国流に変えようとしていますが、英語もその道具の一つであるように感じます。「英語は国際言語」というのも米国の考え方に基づいているものだと思います。日本でも英語が全て的な考えが強かったのですが、それがサッカーで変化したように思うのです。サッカーでも英米は出場しましたが、その他の国が多く参加した、特に強豪揃いの南米はスペイン語とポルトガル語、来日する選手もサポーターもほとんど英語は理解出来ないという現実に直面して日本人の意識が変化したのだと思います。案内などは以前ですと英語だけの説明だったのですが、多国語で表示するのが当たり前という雰囲気になり、日本でスペイン語を見掛けるのに違和感が無くなったように思います。

その為なのでしょうか、日本でスペイン語を学習する方が増えて来た様に感じます。世界の公用語は6つ、ロシア語と中国語は基本的にそれぞれに国で用いられているだけであり、方言もあり、国際言語とは言い難いように思います。戦後社会党の全盛期の頃にはマルクス・レーニン主義崇拝が流行し、それに伴いロシア語を勉学する人が多かった時期もありましたが、現在ではむしろ実務上の理由で中国語の方が人気があるようです。フランス語は公用語として認知されているのはアフリカで多く使われているという事なのでしょうが、アフリカでも他に地場の言葉があり、教養語としてフランス語を学ぶ場合が多いようです。アラビア語はバリエーションが多く、使用人口としてはそれほどではない。その点スペイン語は非常に特異であると思います。メキシコからアルゼンチンまでの広大な地球を半周以上する地域で全く同じ言語が使用されている。多少、使い方に差異はありますが、ほぼ同一の言語なのです。英語を第一言語として使用しているのは英国と米国、カナダの一部、オーストラリアくらいでしょうが、多くの国が連なって使用しているスペイン語とは状況が異なります。ここに住んでいますと国際公用語を英語からスペイン語に代えれば良いのにと思ってしまいます。

日本人にスペイン語が受け入れられているもう一つの理由はその易しさにあると思っています。幾つかの例外はありますが、ローマ字読みで読む事が出来る。文字と発音が一致している、発音が日本語と似ているということです。英語と日本語の共通点は文字とは別に発音を覚える必要があるという事です。日本語の漢字は訓読み音読みがあり、それも多数在る場合がある。おまけにそれが複数あり、多分外国人にとっては難解極まりないと思います。英語も綴りと発音が一致しない事が多く、単語一つ一つ綴りと発音を覚えて行く必要があります。英国、日本ともユーラシア大陸の端に在る島国、文化の吹き溜まり場所で同じような現象が起きたのでしょう。世界の悲劇はこの最果ての島国の言語が世界標準になってしまったことだと思っています。実用語として英語を学ぶ人が増えている一方、米国においてもスペイン語がかなり浸透して来ており、世界でスペイン語の地位は確実に上がっているように感じます。将来、英語から再び世界言語の地位を奪い取る時が来るかも知れませんね。



19・文字 (2003年03月05日)
パラグアイに住んでいて時々中国人と筆談する事があります、当地でのお互いの共通言語であるスペイン語では伝わらない意味やニュアンス等を共通の文字である漢字で意思疎通するというわけで、非常に便利なものです。英語やスペイン語等の表意文字だけの欧州語文化圏の人達には出来ない芸当ですね。さて、これを数回繰り返して気が付いたのですが、中国人の書く漢字と日本人の書く漢字というのは少々違うのです。勿論個人差があって当然なのですが、それでも何か中国風、日本風という別な感覚があるように思います。日本人の書くものと比較しますと中国人の漢字は流れるような感じで、細長いように見えます。何が差なのか色々と要因はあるのでしょうが、個人的には日本語のひらがな・カタカナの影響のように思うのです。要するに日本人は日本固有の文字を書く癖で漢字を書いているのではないかと思うのです。先にひらがなカタカナを勉強してそれから漢字を勉強するのでこのようになるのだと推測しています。

当地に住んでいてパラグアイ人が走り書きしている文字が読み取れない事がよくあります。癖が強く何と書いてあるのか分からないのです。それに対して日本人の書く「筆記体」というのは非常に似ていて、まず判読で困る事はありません。日本人の多くはある程度大きくなり、日本語の読み書きを習得した後にアルファベットの文字を習い、その際にドリルみたいなので皆「筆記体」の書き方を習字のように練習します。その時の意識はあくまでも外国の文字であり、日常生活の為に学ぶものではありません。これに対して当地では日常言語の文字として必要に迫られて文字を覚えます。その為に非常に個性的で日本人から見ますと悪筆になるという訳なのでしょう。

日本では文盲がほとんど居ないのに対して南米では多い所では半数近くにも上ると言います。英語と違い、スペイン語、ポルトガル語共に発音と文字がほとんど対応していますので、外国人の我々にとりまして、ある程度話せるようになりますと細かい間違いはありますが、書くのは比較的楽に感じます。完璧に話す事が出来るのに全く文字が読めない、書けないというのは逆に不思議にさえ見えます。 

日本では電車等に乗りますと多くの人が本を読んでおり、どこにも大型の書店があり、図書館があります。本が山積みになっており、活字依存症の人も多いと思います。それに対してパラグアイでは余り本を読んでいる姿を見かけません。本の値段が高い、またライフスタイル、習慣の違いという事もあるでしょうが、どうもそれだけでは無い様に思うのです。アルファベットは表意文字、日本語と比較しますと長時間続けて読むのに我慢とある種の訓練が必要なのではないかと想像しています。当地で日本語とスペイン語と同じくらい出来る日系人を眺めていますと、本は日本語を読んでいるケースが多いのです。尋ねてみますと「日本語の方が早く読む事が出来る」と言うのです。かな混じりの日本語というのは一目で漢字を拾い読みすれば大体の意味が分かりますし、斜め読みも可能なわけです。これに対して欧州言語は全て表意文字を使っているので、意味を理解するには文字の羅列から意味への変換作業が必要となります。当方などは当地に長年住んでいてもアルファベットだけの文章を見ますとひいてしまいます。電化製品のマニュアル等には大体「英語・スペイン語・中国語」が付いて来ますが、中国語のを見てしまう事がよくあります。横文字に対する苦手意識はもう直らないようです。



18・歴史 (2003年02月28日)
学校教育の中で歴史の占める割合は大きいと思います。大学受験でも選択になっている理科・社会に関して理系の定番は物理と化学、文系の定番は日本史と世界史だと思います。社会は選択の場合が多いのですが、学生が最も選択していたのが日本史であったように思います。私立文系の受験生の多数派は英語、国語、日本史ではないでしょうか。当方は歴史の勉強は大変そうなのでパスし、社会は地理を第一にし、二つ必要な時には政治経済を選択し、歴史は高校以降はほとんど勉強せずにいました。

歴史の勉強などほとんどせずに大人となり、改めて歴史を意識するようになったのは社会人になってからです。ある時期、結構興味を持って歴史関係の書物や司馬遼太郎や陳舜臣等が書いた歴史小説を読むようになりました。見る人によってまた書く人の考え方によって同じ歴史でも全く違ったものになるのは面白い限りです。例えば「世界史」という科目に関し、日本では欧州を中心としての歴史と中国を中心とした東洋史を勉強しますが、勿論その他の例えば南米に関してはほとんど触れられないのが実情です。パラグアイの歴史に触れる事があるとすればブラジルなどを相手に戦った3国戦争くらいでしょう。パラグアイでは欧州と南米を中心とした世界が「世界史」の対象となり、東洋史はほとんど取り上げられず、ましてや日本の歴史などは全く触れられていないのが実情です。このように自分の生きている世界に関わる「世界」の歴史を教えているのが世界史の実際のところなのでしょう。そしてどのような歴史を教えているのかはその国の物の考え方に大きく影響しているように思います。韓国・中国から日本が指摘を受けているのはまさにその点なのでしょう。

そして次に大きな転機になったのは本を書いた時です。「パラグアイ」に関する一般的な解説書としては初めての書籍となる・・当然の事ながら歴史を取り上げなくてはなりませんでした。原稿には締め切りがあり、時間的にそれほどの余裕はありませんでしたが、ページ数では全体の一割も占めていない「パラグアイの歴史」の章に対して実は時間・労力の半分以上を使いました。歴史を読む経験はありましたが、歴史を記すということは全く別のことで、この経験は非常に貴重なものでした。今まで書かれた色々な文章を読み、自分なりの流れを掴むのに苦労しました。歴史を書くのに必要なのは知識の多寡では無く「流れ」だと思っています。自分の中でイメージを描けるようになってからほとんど一気に書き下しました。実はあの本の中で一番本人が読んで欲しいと思っている部分です。日本人の読者に問題意識を持ちながら歴史を眺めてもらえれば・・と考えています。それにしも高校時代歴史の授業をさぼっていた者が歴史に関して本に記載するなどとは・・

なお、当ホームページに本の歴史の章の全文を転記していますので興味のある方はご覧下さい。

パラグアイの歴史(本と同じ内容)




17・第三次世界大戦の危機 (2003年01月04日)
2003年になり、なんとなく不穏かつ不安な年明けとなっています。経済も政治も微妙なバランスの上で何とか均衡を保っている、という印象を受けます。このバランスは何時壊れてもおかしくは無く、今年のキーワードは「戦争」になるという予測もあるように思います。イスラムテロの問題はパレスチナ情勢は悪化の一途を辿っており、イラクそして朝鮮情勢はいつ戦争になってもおかしくないほどの危機的な状況であると思います。半世紀ほど前にあった世界大戦の時には当時の世界の大国同士の覇権争いであったのですが、この半世紀の間に世界の様子は一変し、イラク、朝鮮という見える相手だけでは無く、世界的なテロ組織という相手が見えないのも特徴であると思います。戦争が何時起きてもおかしくない、先が見えない状態に陥っているのではないでしょうか?

ことの始まりは冷戦終結後、米国による安全そして経済に対して世界を主導する方法に異議を唱える勢力が多くなった事にあると思います。安全に関しては核拡散防止が中心ですが、米国の核に対しての基本原則は「自分は持つが他の国は持ってはいけない、持てば攻撃する」であり、ある意味かなり自分勝手な理論を展開しており、これに対する反発があるのでしょう。要するに米国は自身は世界の警察のように考えているように見えます。日本でも拳銃を所有するだけで犯罪になりますが、警官は堂々と帯同している、これと同じ感覚を自身は持っているのでしょう。しかし世界の多くの人達はしぶしぶそれを黙認し、また一部の人は猛烈に反発しているのであると思います。

そして経済、冷戦の終結で世界の多くの人は最大の懸案が解決した事で世界全体が大いなる経済発展に向かうと期待していました。現状を見ますとこの期待は完全に裏切られたと思います。冷戦後の経済の基本原則は米国主導で打ち出された「グローバリゼーション」ですが、これは単に米国ルールを世界に適用しようというものです。ルールを考えた国が独占的に優位に立つのは当然であり、この米国の押し付けにより世界の多くの人が困窮層に転落したと思います。米国は自国の利益を追求する際に多くの場合には故意に、そして時々無意識に世界に様々なルールを押し付けて来た様に思います。これに対する反発は非常に大きくほとんど世界中に広がっているように思います。中南米でも各地で政情不安やデモ・ストライキが起きていますが原因は経済的に食べられなくなっている事にあると思っています。米国も自国の利益の追求だけでは無く、世界の警察を自認するのであれば、世界の貧困層の為の対策を充分に行う事が何よりも大切であるように思います。

第一次世界大戦の終結後にも同じような現象が生じていたように思います。米国の力が抜きに出て強くなり、米国主導の論理で世界をまとようとした。それに対して追い込まれて行ったドイツと日本が結び第二次世界大戦になったと考えられます。見える二つの相手、イラクと朝鮮は第二次世界大戦で言えばドイツと日本でしょう。役者がかなり小粒になっていることもあり、世界のほとんどの人は危機感を持っては居ませんが、この半世紀の技術の進歩で兵器がかなり進化している事を計算に入れますと事態は非常に深刻であると思います。

イラクに関しては、米国に取り自国の属する欧州文化圏内の出来事であり、米国に居住する多くのユダヤ系の後押しもあり、戦争への道を歩んでいるように見えます。イラクの場合には外国の放送も見る事が出来るようで情報がある程度国民にも伝わっているようであり、圧力をかければイラク内部でクルド勢力もあり、政府に反発する勢力が多数出て来るというのが米国の読みでしょう。

熱い戦争になった場合にはイラク、朝鮮そしてテロ組織が結ぶ可能性があると思います。テロは世界どこでも一気に戦場になってしまいます。この点が今までの戦争と一番違うところではないでしょうか?イラクと朝鮮は米国が両面攻撃に出る事が出来ないとしてどちらかが攻撃された場合にはもう一方が攻撃に出るという可能性があるように思います。

悪夢を取り除く為には根気良く解決に向けて話し合う事が何よりも大切であると思います。かたくなにならず、何とか平和に向けて、そして世界経済を発展させる方策を考える方向に持って行って欲しいものですね。



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